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九州工業大学学術機関リポジトリ
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プラトン : 『国家』における哲学知と行為について
塩出, 彰
1975-03-30T00:00:00Z
http://hdl.handle.net/10228/3384
Rights
Kyushu Institute of Technology Academic Repository
ユ7
プ ラ ト ン:『国家』に お け る
哲学知と行為について
(昭和49年10月31日 原稿受理)
塩 出 彰
人文教室(倫理学担当)
§1.序 説
プラトンは,『国家』1)第五巻において有名な哲人王の思想を述べている。この哲人王の
思想において,プラトンのイデア論の持つ倫理的側面は最もよく表現されている。哲人王
の思想とは次のような主張である。
「哲学者たちが国々において王となるか,現在王と呼ばれ権力者と呼ばれている人々が
真に,かつ十分に哲学するのでないかぎり,つまり政治的権力(πoλごτζκらδ5ραμζζ)と哲
学知(ψ’λoσoφ∫α)2)とが一体化して,現在はこの二つのどちらか一方に別々にすすんでい
る多くの人々が,強制的にこのようなことを禁止されるのでないかぎり,国々にとって
も,また人類にとっても,不幸のやむことはないのだ。3)」
1)使用のテキストは,‘‘Respublicaう, in Plato黛is Oρera, v◎1.3(ed. by∫oぬBumet,
O・C・T・)である。他に注釈書として,J. Adam, The Republic of Ploto,2vols.(Cambridg¢
U磁v.Press,幻65)を参考にした。
2) ソクラテス的対話編と呼ばれる初期対話編に:おいては,‘‘p‘λ・σ・〆α”とは字義通り愛知的探
究を意味し,無知と知の中間の,知恵を愛求しながら未だ知恵を獲得するに至らない人間精神の
あり方を示していた。これに対して,『国家』においては,本稿で後に明らかになるように,勝
義の“叫・σθ碑”は,愛知的探究の結果渥得された知恵(σ・ρ∼のを意味している。初期対話
編における規定(e・9・Apologia Socratis・23a−b)からすれば,『国家』における哲学者
(pζλ6σo卿めは神的存在である。事実,『国家』において入が支配者となるに足る哲学者となる
ことは神の摂理によることとして語られている。(cf Respublica 492e−493a,497c.以下,
Rp.と略す。)
3) Rp. V.473cユ1−d6.
この哲人王制は,プラトンが『国家』においてそれまで語ってきた正しい国制をもった
国家の実現を可能にする最少限の変革として,大きなちゅうちょとともに語ったものであ
る。正しい国家とは,「正義とは一体何か」という問題をより明確に考えるために,個人
における正義のマクロ的モデルとして選ばれたものである1)。それ故,国家の正義が哲学
知と政治的権力の一体化にあるというプラトンの主張は,個人においても哲学知と実践的
能力が一体化することにその正義があるという主張に他ならない。更に,ギリシア人一
般に共通する目的論的倫理観における最高善である「幸福」一一εδδα6μ励α,τδεδζ獅,
τδεδπρ命τε〃一一とは,プラトンの主張によれば,国家にとっても,個人にとっても,こ
の正義においてこそ,そしてここにおいてのみ,完全に実現されるものである2)。従って,
プラトンの哲人王の思想は,哲学知に導かれて行為する場合にのみ,国家も個人もその倫
理的目標である幸福を実現しうるという主張,換言すれば,哲学知に導かれて行為する場
ユ8 一塩 出 彰一
合にのみ,当の行為は倫理的に正しい行為一i.e.目標たる幸福の実現に対する有効性を
持った行為一であるという主張として理解される。哲学知こそが,そしてそれのみが,
人間の行為を公私いずれの場においても最もよく導くことができる。このような主張とし
て哲人王制が理解された時,一般大衆にとってこの主張がきわめて常識はずれな主張であ
って,哲学者というものは実際には役立たずの笑うべき存在ではないか,といった多くの
手ごわい批判をあびるであろうことをプラトン自身よく知っていた3)。そこで,プラトソ
はこのような批判に答えるために,真の哲学者と哲学知とはいかなるものかを規定し,こ
の真の哲学者と哲学知が“τ∂εδπρ4ττε’〆’における‘‘εδ”に対して積極的な意味を持っ
た不可欠のものであることを示そうとする。これが以下第7巻末まで続く,有名な三つの
ひゆを含む『国家』の中心部分である。このプラトンの真の哲学者と哲学知の規定がいか
なるものかを明らかにし,この規定によって哲学者と哲学知は多くの手ごわい批判に十分
に応えうるものであるか否か,即ち哲学者と哲学知が行為の“ε∂”ということに積極的な
意味を持つ不可欠のものであるか否かを検討するのが,本稿の意図である。
1) Rp. II.368c−369a.
2)『国家』における主要テーマは,(1)正義とは一体何であるかということの究明と,(2)正義
においてこそ幸福があることの証明の二つである。
3)Rp. V.473e−474a.一般大衆の側からの哲学者および哲学に対する批判については, Rp. VI.
487c−d,489 d,495 c−496c;Phaed.64b;Gorg.484c−486 d;Theaet.173c475bを参照のこ
と。これらの批判は全て似而非哲学者によってひきおこされたものであって,真の哲学者には当
てはまるものではない。真の哲学者が国家にとって無用無益であるとすれば,その原因と責任は
一般大衆と大衆扇動家にある,とプラトンは考えている。(cf. Rp. VI.488a−497a)
§2. 哲学者の定義における臆見とその対象
プラトンはRp・V・475e以下で,臆見(δ6ξα)と知識(γレψμη,γレ∼0σ‘ζ,ξπ‘στ加η,
仰んησ句,σo〆α1))の相違という観点から真正の哲学者とそうでない者とを区別する。こ
の議論は(1)475e9−476d7と(II)476d8−480a13の二つの部分に分けることが出来る。
(1)においては,イデア論が予め前提され,これに基づいて真の哲学者とそうでない者と
が区別される。これに対して,(II)の議論は(1)のイデア論に基づく議論に腹をたてて,
その妥当性を認めようとしない人々に対して行われるものである。そのため,ここではよ
り一般的な前提から出発して,知識と臆見をその働きの成果と対象の相違において区別し
た上で,イデア論と結びつけられ,愛知者(哲学者)と愛臆見者とが区別される。我々の
問題にとって示唆に富んでいるのは,イデア論の持つ含みがより一般的なコンテクストの
中で語られている(II)の議論である。
1) これらの用語はプラトンにおいて同義的に用いられている。本稿においては,「知識」もしく
は「知恵」と訳す。
(II)の議論は更に(i)476e7−477b13,(ii)477c1−478d12,(iii)478e1−−480a13の
三つの部分に分けられる。
(II)一(i):ここでプラトンは次のような論を展開する。ものを知っている人(δγζγレ泣
σκωのは「何か(τ’)」を知っているのであって,「何でもないもの(oδδξの」を知ってい
るのではない。「在りもしないもの(μカ6の」を知ることができない以上,この「何か」と
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 ヨ9
は「在るもの(6の」でなければならない。ここから,次の命題が導かれる。
「完全に在るものは,完全に知られ得るものであり,他方,全く在らぬものは,全く知ら
れ得ないものである。」1)
この命題から,プラトンは更に次のように推論する。もし在りかつ在らぬような性格のも
む
のが何かあるとすれば,この「完全に在るもの」と「全く在らぬもの」の中間的存在但
μεWξ6)に対しても,当然知識と無知との中間的な魂のあり方が何かなければならない。
一般に臆見(δ6ξα)と呼ばれているものは,正にこの中間的存在を対象とする魂のあり方
に他ならない2)。ところで,知識と臆見とは各々別の能力(δ‘〃αμζぐ)であり,その能力
としての差違に応じて,別々の対象に配されている。以上の議論をうけて,(ii)において
は,この能力の差違という観点から,知識と臆見と無知のそれぞれが別の能力として区別
され,そこから臆見の対象たる「何か同時に在りかつ在らぬようなもの(πo膓oジ晦α勧
τεκα∼幼6め」の存在が更に強く推測されることになる。
1)Rp. V.477a3−4.この命題はRp、 V 478c3−5で必然的な(ξξ∂滅7κηζ)命題として語られ
ている。この言葉は,プラトンが,この命題を,人が言論(λ6γoζ)に従って真実を探究しよう
とする限り,それを認めて従わねばならない命題と考えていることを示している。
このプラトンの命題は,タレス以来のイオニア自然哲学に対する,パルメニデスの言論の立場
からの根本要請をうけたものである。パルメニデス{こよれば,ものは在るか,在らぬかのいずれ
かであり,在るものはどこまでも在り,在らぬものはどこまでも在らぬ。ここからパルメニデス
は,我々に事物の生成消滅一即ち在るものが在らぬものになったり,在らぬものが在るものに
なること一を示してみせる一切の感覚的認識は死すべき人間の虚妄であり,世界の真実相では
なく,世界の真実相は思惟によってのみとらえられるとする◇即ち,在るものは思惟によっての
みとらえることが出来る。他方,人間が感覚によってとらえる経験的世界は虚妄の世界であり,
在らぬものである。パルメニデス以後のギジシアの自然哲学においては,このパルメニデスの要
請を十分に生かした上で,いかにして眼前の事実としてある生成消滅の現象界を説明するかとい
うことが最大の問題となる。プラトンは,パルメニデスの「在るもの一思惟,在らぬもの一一
感覚的虚妄」という己とを基本的な棒組みとして認めた上で,パルメニデスの要請における根
本的な一点に修正を加える。即ち,ものは在るか在らぬかのいずれか一つではなく,その中間に
「同時に在りかつ在らぬもの」の存在を認め,これが感覚によってとらえられるところの経験的・
現象的世界であるとすることによって,この世界を全くの無となることから救うのである。プラ
トンが「同時に在りかつ在らぬもの」という,「完全に在るもの」と「全く在らぬもの」との中
間に位置する半実在を認める一一この点については後述する一一ことの積極的意義はここにある。
もしこの「同時に在りかつ在らぬもの」が,プラトンにおいて半実在であることを認めないとす
れば,プラトンにおいても経験的世界は全く在らぬ虚妄の世界であるか,それともプラトンはパ
ルメニデスの要請を全く無視して,経験的世界の実在性を主張したと結論せざるを得なくなる。
2)知識とか臆見は,能力を意味するとともに各々の能力がそれぞれの対象に向けられた結果とし
て生じる魂のあり方をも意味する。
(II)《ii):「同じ対象に配されて,同じことを成しとげる能力を同じ能力と呼び,異な
った対象に配されて,異なったことを成しとげる能力を別の能力と呼ぶ。」1)諸々の能力は,
(のその対象(τθ5τθξψ’φξσ⇒と(b)その成しとげる事柄(τθ∂mδ6περ傾ζεταζ)
の二つの観点から区別される。
1) Rp. V.477d2−d5、
知識も臆見も共に能力であるが,臆見とは「それによって我々が臆見することのできる
ところのもの」であり,それが成しとげることは臆見すること(δoξ4ζε‘のである。他方,
20 一塩 出 彰一
知識の成しとげることは知識すること (γζγレψσκεのである。前者がその働きにおいて
「誤らなくはないもの(τδ功んαμ鋤τητ0の」であるのに対して,後者は「誤ることの
ないもの(τδdレαμ鋤τητoレ)」であるから,両者は観点(b)から,別の能力であることが
結論される。このように別の能力として働く以上,知識と臆見は本性上それぞれ別の対象
にかかわることは,必然的なこと(ク ノαレαγκη)である。知識の対象(γレωστの)は,既に見
たように,「在るもの(τδ6レ)」である。従って,臆見の対象(δoξαστδのは「在るもの」
とは別のものでなければならない。また臆見する者は「何か(τり」を臆見するのである
から,「在らぬもの(τら助6レ)」もまた臆見の対象たり得ない。先に述べたように,「在ら
ぬもの」に対しては無知(∂γレo∼α)しか存在し得ない。このようにして,臆見とは知識と
も無知とも異なる別の能力であって,明瞭さ(σα助レεζα)と不明瞭さ(砧α助レε’α)の点
で両者の中間にあるとすれば,この能力の対象も当然知識と無知の対象の中間的性格のも
の,即ち「何か同時に(晦α)在りかつ在らぬようなもの」でなければならないことにな
る。
以上見たように,(i)においては存在と認識の対応関係から,「完全に在るもの」と「全
く在らぬもの」との中間に仮定された存在に対応する認識として臆見が考えられ,(ii)に
おいてはこれとは逆に能力の区別から,知識と無知との中間にある臆見に対するものとし
て「何か同時に在りかつ在らぬようなもの」の存在が仮定された①。従って,プラトンに
とって残された問題は,このようにして仮定された「何か同時に在りかつ在らぬようなも
の」が単なる仮定ではなく,何等かの意味で存在するものであることを示すことである。
プラトンは(II)一(iii)において,このような中間的存在は・fデア論の枠組みにおいての
み,はじめて有意味な存在となることを示すのである21。
1)臆見の存在することは,単なる仮定ではなく,事実として認められる。
2)換言すれば,もし(II)一(i),(ii)の議論の正当性を人が認めるならば,その必然的帰結たる
「同時に在りかつ在らぬもの」を有意味たらしめる唯一の仮設であるイデア論の正当性もまた認
めねばならないことになる。プラトンのねらいは一つにはここにあると思われる。
(II)一(iii):プラトンは「美そのもの(αoτδτδκαλ6レ)」と「多くの美しいもの(τδ
πoλ妃καλの」を例にとって説明をする。「美そのもの」とは,「恒常不変に同一のあり方
を保つイデア(ξδξα∂ε↓κατδταδτδδσα6τωζ㍍のσα)」にならない。他方,「多くの美
しいもの」は,その中のどれ一つとってみても,反対の醜いもの@σzρ6のとして現わ
れないものはない。このことは,「多くの美しいもの」にとって必然的なこと(ん4γκη)
である。この事態は,美しいもの以外の,多くの正しいものや敬度なものにおいも同様で
ある。このように,「多くの美しいもの」やその他のものは「どちらにでもとれるような
ものであって,その内のどれ一つとして,在る(ε}レαりとも在らぬ(助ε7レα‘)とも,そ
の両方である(∂μψ6τερα)とも,そのどちらでもない(06δξτερoめとも,しっかりと固
定的に(παγ↓ωζ)考えることはできない」。このようなものを存在論的に位置づけるとす
れば,「在ると在らぬとの中間(μεταξδoδσ↓αζτεκα∼τo∂μカεんα‘)」より以上に適切な
位置づけはないのである。とすれば,この「多くの美しいもの」とか「多くの敬度なも
の」等々と語られるものこそが(II)一(i),(ii)で仮定されてきた「同時に在りかつ在ら
ぬようなもの」に他ならないことになる。
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 21
このようにして,知識とその対象たる「完全に在るもの」(i.e.「恒常不変に同一のあり
方を保つイデア」)に対する,臆見の対象たる「同時に在りかつ在らぬようなもの」は,
「多なるもの」1)として,イデア論の枠組みの中でその存在を保証される。
ユ) cf. Rp. V.476a4−7.
以上の議論からプラトソは最後に結論として,次のような真の哲学者とそうでない者と
の の の の ひ ロ ゆ の の の の ほ を
の本質的な区別を導く1)。即ち,r多くの美しいものは見るけれども,美そのものは観取す
ることもないし,他の人がそこへ導いていっても,ついて行けない人々」は臆見している
の の の の (δoξ4ζεののであり,愛臆見者④λδδoξoりである。他方,「それぞれのもの自体,即ち
恒常不変に同一のあり方を保つものを観取する人々」こそが知識している (γζγ垣σκε‘μ)
り のであって,このような人々のみが真に愛知者@磁σ碑⇒の名に値するのである。
1) Rp. V.479e11−48◎a1&
以上,哲学者の規定の議論(IDを順を追って見たが,この議論から理解する限り,プ
ラトンは知識(愛知的探究の究極において得られる哲学知)と臆見とを,それぞれの対象
とする存在の相違に基づいて,明確に区別をしている。ことに(i),(ii)の議論の進め方
の や
は,ここでプラトソが,対象の相違は必然的にそれに対応する成果,即ち知識しているの
の
か,臆見しているのかの相違を含意し,逆に成果の相違は必然的に対象の相違を含意する
と考えていることを明らかに示している。従って,以上の規定に従う限り,知識するとい
うことは院全に在るもの」たるイデアに対しては成り立つが,別の対象即ち「同時に
在りかつ在らぬようなもの」たる「多なるもの」に対しては決して成り立ち得ない。この
ようなものに対しては,臆見する(δ0ξ4ζεζのということ以外には不可能である。ここで
は(a)「知識←→イデア」,(b)r臆見←→多なるもの」という二つの対応関係のみが可能
であり,多なるものの知識,イデアに対する臆見の可能性は否定されている。知識と臆見
との間には対象による断絶が存しており,臆見から知識への連続的な発展は不可能であ
る1)。従って,真の哲学者とといえども,「多なるもの」に対しては,少くともそれ自体に
関する限り,臆見以上のいかなる認識も哲学者として持ち得ないことになる。これが(U)
の議論の意味するところである。
1)後に見るように,「洞窟のひゆ」において囚人が臆見している状態から知識の状態へと発展す
るためには,先ず身体全体を今までとは正反対の方向に18◎度回転させることが必要である。し
かも,そこには大きな苦痛がともなっている。
哲人王の思想の骨子は,このような知識を持った哲学者こそが,王として最もよく国家
を治めることができる唯一の者であるという主張にある。即ち,「完全に在るもの」たる
イデアの知識こそが,公私いずれにおいても,人間の行為(πρδξκ)を真に正しく導く唯
一のものであって,「多なるもの」についての臆見ではないという主張である1)。「多なる
もの」に対しては誤ることのない,確固とした知識を持っことが不可能である以上,人は
真の哲学者といえども,「多なるもの」それ自体に対しては正しい導き手ではあり得ない
であろう。「多なるもの」が,哲学的思推によってのみとらえることのできるイデアに対
して,我々が日常感覚的にとらえている経験的事象に関する言及であることは明らかであ
22 一塩 出 彰一
る。また哲人王が支配すべき国家とそこにおける諸々の行為もこの経験的なものの領域に
あると思われる2)。従って,哲人王制の正当性,有効性を検討するためには,(1)イデァ
論において,一にして「恒常不変に同一のあり方を保つもの」であるイデアに対して,経
験的事象が「多なるもの」であって,「同時に在りかつ在らぬようなもの」であるという
のは,具体的には一体どのような事態が意味されているのか,(2)イデア論において,人
間の行為はどのように位置づけられ,評価されているのか,という二点が明らかにされな
ければならない。このことによって,行為の正しい導き手としての知識と臆見の適・不適
が明らかになるであろう。
1) cf. Rp. VI.484c6−d10, VI.506c6−10.
2) この点については「洞窟のひゆ」において更に明らかになる。
§5 イデアと「多なるもの」
イデアと経験的事象との関係については,哲学者規定の議論 (1)の中でプラトンは次
のように語っている。
「各々のイデアは,それ自体としては一(9レ)であるが,諸々の行為や物体との結合や相
互の結合1)によって(楊τ鋤πρ∂ξεωレκα1σωμ4τωレκαldλλ》λωレκo〃ωレ幼,あらゆる
ところに現れて多(πoλλのとして現れるのだ。2)」
この一なるイデアとその行為・物体との結合によって多として現れるものとの関係は,こ
れに続く個所で(a)「実物一似像」関係3)と(b)「それ自体(i.e.イデア)一それを
分けもっているもの(τδξκε↓レのμετξZOレτα)」関係4)の二つの関係で説明されている。
この二つの関係が語られているコンテクストから理解する限り,(a)と(b)は共に同じ
事態の違った表現である。「多なるもの」がイデアを分けもっているということは,似像
の実物に対する関係に他ならない。
1)イデア相互の結合についてはcf. Adam, op. cit., vo1.1, P.336(Com. adαδτδμ釦κ.
τ.λ.),p.362−364;D. Ross, Plato’s Theory of Ideas, p.37;Cross&Woozley, Plato’s
Republic, p.141−142.本稿の問題とはかかわらないのでここでは触れない。
2) Rp. V.476a4−7.
3) Rp. V.476c5−7.
4) Rp. V.476c9−d4.
ところで・『国家』においてはこのV・476a−dにおいてはじめてイデア論が明言され
る。しかも,ソクラテスと対話の相手であるグラウコンにとってイデア論は既にお互いに
よく知っていて,お互いの間で十分に吟味が尽されて,既にその正当性が確かめられたも
のとして語られているll。 r国家』において以後・fデア論が言及される他の個所(e.g. VI.
505a−b)においても同様である。このようにr国家』においては,イデア論が予め前提さ
れ・その枠組みの中で議論が行われており,イデア論の枠組みに関する議論・説明はきわ
めて少い。その為,『国家』におけるイデア論において「実物一似像」関係の具体的意
味を知るためには,同じ枠組みのイデア論が語られている別の対話編『パイドン』(esp.
74a−75b,100c−101c.)にその説明を求めねばならない。
1) cf. Rp, V.475e6−7.
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 23
『パイドン』において,プラトンは「等しさ(τδ2σoレ)」を例にとる1)。我々’は日常,あ
る木材が他のある木材と等しいとか,ある石が他のある石と等しいとか,その他のものに
ついても同じことを言っている。ところが,等しい大きさの木材とか石一一「感覚の内に
とらえられるもの(τ凌ξレτα∼ζα∼σθカσεσ‘μ)」2)一の場合は,同一の対象でありながら,
ある人には等しく見え,ある人には等しく見えないというようなことがしばしばある3)。
他方,「等しさそのもの(αδτδ減ンσα,αδτδτδ7σoレ,がσ6τηζ)」が等しくないように見
えたりすることは決してない。何故なら,「等しさそのもの」こそが完全に等しい唯一の
ものであるから。この「等しさそのもの」を分け持つこと(μετξzεめによって,木材と
か石とかその他諸々の「感覚のうちにとらえられるもの」は等しいのである㌧ このよう
に「等しさそのもの」が他の何ものにも依存することなく,自体的・自立的に等しいもの
で在るのに対して,「感覚のうちにとらえられるもの」の等しさは自体的に在るものでは
なく,「等しさそのもの」に依存してのみ在るという点において不完全な在り方をしてい
る。この在り方の不完全さが,「感覚のうちにとらえられるもの」の我如こ対する現れの
不完全さを結果する㍉我々は,木材とか石とかその他の諸々の等しい事物を目にする時,
それらのものは「等しさそのもの」にできる限り似ることを望んではいるが,しかしどこ
か欠ける点があると感じざるを得ないのである6)。先に見たような,等しい大きさの木材
とか石とかが同一の対象であるにもかかわらず,しばしばある人には等しく見え,ある人
には等しく見えないことがあるというのは,この事態の一側面にすぎない。
D Phaed.74a sqq.テキストは∫. Bumet校訂のαC.肥版である◇
例に用いられている「等しさ」ということは,一つの事物が単独で持ちうるものではなく,二
つ,もしくはそれ以上の事物においてのみはじめて有意味なものとなるところの,相対概念であ
る。プラトンは,『パイドン』においても,『国家』においても,しばしばこのような相対概念を
例に用いてイデア論における「感覚の内にとらえられるもの」のあり方を説明する。(たとえば,
Rp. VII.523a−524dにおける指の大・小の例。)しかし,これはあくまでも例としてのわかり
やすさの為に選ばれたものであって,プラトンはその他の絶対概念にも同じことが妥当すると考
えている。cf. Phaed.75c10−d3.
2) P]{1aed.75|〉ヱ.
3) Phaed.74b.
4) Phaed.1◎◎c−1◎1c.
5)Phaed.74bで語られた等しい大きさの木材とかその他のものが,同一の対象でありながら,
ある入には等しく見え,ある入には等しく見えないというようなことがしばしばあるという事態
は,対象を見る人間の観点の相違によるものではなく,対象の本質そのものに原因がある。
Phaed.78eによれば,このような事物は「自分自身に対してもお互いに対しても,一瞬といえ
ども決して恒常のあり方を保つことはないのである。更にcf. Ross, op. cit., p.23.および
Rossに対するBluck, Plato’s Phaedo, P.−178−181の反論。
6) Phaed.74a−75b.
更にもう一つ留意すべきことは,『パイドン』において,(1)イデア,(2)個物がイデ
アを分け持つことによって持つところの個物のうちにある特性,(3)イデアを分け持つと
ころの個物の三つがはっきりと区別されていることである1)。「大」を例にとれば,「大そ
のもの」が同時に(晦の大でも小でもあることは決してない。また個物の内にある「大」
も,そのまま前と同じものでありながら,同時に反対のもの(i.e.「小」)になったり,反
対のものであったりするようなことはなく,そのような状況になれば立ち去るか,滅びる
24 −一塩 出 章多一
かのいずれかである。同じものでありながら,同時に大でも小でもありうるのは,「大」
や「小」のイデアを分け持つことによって,その内に大を持ったり,小を持ったりすると
ころの個物2)のみである。
1) Phaed.102b−103c.
2) このような同じものでありながら同時に反対のものでありうるものの例としてあげられている
のは,明らかに個物である。即ち,ソクラテスよりも大きく,パイドンよりは小さいシミテ三は
同一の人間でありながら,大きくもあり,小さくもある。
以上から明らかなように,同一のものでありながら,同時に在りかつ在らぬようなもの
であるのは,イデアを分け持つことによってある特性を持つところの個物であり,イデァ
およびこの個物が持つところの特性自体には,同時に在りかつ在らぬといった事態は存在
し得ない。イデアとこの特性の関係は,イデアが自立的・自体的な,完全に在るものであ
るのに対して,個物における特性はイデアという原像の個物による不完全な写しであっ
て,その在り方をイデアに依存していることにあった。と同時に,この特性は,個物によ
って写されたものであるという点で,個物の様態・種類によってイデアの写り方は種々様
々に異なり,きわめて多種多様な現れをすることになると考えられる1>。かつ,イデアに
こそが「完全に在る」ところの唯一のものである以上,個物が「在る」と言えるのは,不
完全かつ多種多様にではあれ,イデアを写すこと,即ちイデアの似像たる「特性」を内に
写し持つことによるのである。従って,個物はイデアの似像たる特性を持つことなしに
は,いかなる意味においても在ることは不可能であると言わねばならない。それ故,プラ
トンにおける個物は,たとえば単なるこの木であったり,この人間であったりするのでは
なく,この大きい木であり,この美しい人間である。これを,「この木は大きい」とか
「この人間は美しい」というように実体と属性に分けるのは,イデア論の枠組みにおいて
は,一つの抽象であって,個物の真相を示すものではないのである。このように,様々な
個物は,一なるイデアを各々不完全かつ多種多様に写す。「多なるもの」とは,一なる・f
デアに対するこのような個物のあり方の表現であって,「多なるもの」とは「感覚の内に
とらえられるもの」たる個々の個物を意味している。
1)プラトンにおける個別化の原理が何かということはきわめて難問であるように思われ,筆者自
身十分に確信のある見解を現在もっていない。イデアが一なるものである以上,行為や物体との
結合による「多なるもの」の現れの原因はイデアにあるのではなく,イデアを分け持つところの
行為や物体の側に,即ちイデアに与ることによってある特性を持つところの個物の側にあると考
えざるを得ない。このような個物が何らかの意味で在ると言われうるのは,イデアを分け持つこ
とによってある特性をそれが持つことによるとすれば,個物はそれとしては非存在(助∼のとい
うことにならざるを得ない。この非存在性がイデアの個別化・多様化の原理と言えるかも知れな
い。
但し,ここでは「多なるもの」とか「同時に在りかつ在らぬようなもの」とか言わるものが,
我々が感覚によってとらえるところの経験的個物を指し示しており,この表現によってこのよう
な個物が存在としてイデアに依存していること,不完全な存在であることを意味していることが
理解されれば十分である。
最後に付言すれすば,『パイドン』において,個物は感覚によってとらえられるもので
あり,そこでは事物の真相は決して明らかにされることがなく,魂をあざむくものであ
る。これに対して,イデアは感覚を用いることなく,純粋に思惟のみを用いて考察を進め
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一一 25
た時にのみ明らかになるところの真実(鋤θεζα)である1)。
1) cf. Phaed.65a−67d,79a−8◎|),83a−b,99d一ヱ◎◎a.
以上の『パイドン』の考察からも明らかなように,『パイドン』におけるイデア論と『国
家』におけるイデア論は,その基本的枠組みを一にしている。従って,このイデア論の基
本的枠組を構成している個々の要素についての『パイドソ』の記述は,当然『国家』にお
けるそれにも当てはまると考えられる。即ち『国家』においても『パイドソ』と同様に,
「多なるもの」とか「同時に在りかつ在らぬようなもの」と言われるものは,我々が感覚
によってとらえるところの経験的な個物(行為をも含めて)を指し示しており,それはこ
のような個物がその在り方を完全な実在であるイデアに依存し,それによってのみ不安全
の ながら実在すると言えるものであること,即ち個物の半実在性を意味していると考えられ
る。プラトンがこのような存在の程度の差を考えていることは,「洞密のひゆ」におい
て束縛から解放され向きかえさせられた囚人について「彼は今や以前よりもより一層実在
の の や
(袖6のに近いところにいて,より一層在るもの(μ餓λ助拓侃)に向わせられているの
で,以前よりもずっと正しくながめている」1)と語られていることからもうかがえよう。
同じことが,先に見た哲学者の規定の議論(II)からも明らかであると思われる。にもか
かわらず,多くの論者はここからプラトンにおいて経験的個物がイデアに比して半実在で
あるということを結論することに一種のちゅうちょ,もしくは異論を述ぺている2)。その
根本的理由は,ものは存在するか,それとも全く存在しないかのいずれかであって,その
間の状態,つまり半分の程度だけ存在するとか,1/3だけ存在するとか,2/3だけ存在す
るということは全くのナンセンスでしかなく,プラトンのイデア論はこのようなナンセン
スな存在論上の主張を含むものではないという一種の先入観にある2)。このような先入観
は,イデア論が存在論と認識論と価値論が緊密に相互に連関した有機的体系であることを
全く無視してしまっていることに由来している、
1) VII.515d2W.
2) プラトンは(II×iii)の478e7−479c5で「美一醜」,「正一一不正」,「敬度一一不敬」,「二
倍一半分」,「大一一小」,「軽一一重」を例にして,イデアを分け持つことによって各々多様な
現れ方をする,臆見の対象である個物の内で,反対のものとしても現れないものは一つとしてな
い,たとえばある個物は美しくもあり,美しくもないことを述べている。ここから,このような
ものはr在ると在らぬとの両方を分けもつもの」(V.478e1−2)に他ならぬことが結論される。
これと同様の議論がVII.523e−524aで指の「大一小」,「硬一軟」に関して行われている。
『パイドン』においても同様の議論が行われていた。これらの議論の仕方は全てきわめて形式的
なものであり,十分に説得力を持っているとは言いがたい。殊に「二倍一半分」,「大一小」,
「軽一重」,「硬一一軟」という相対概念を,「美一醜」,「正一一不正」,「敬度一一不敬」とい
った絶対概念と同じものとして論じていることは,プラトンはこの二つの概念を混同することに
よって,個物が半実在であるという誤った結論を導いたのではないか,また混同はしなかったに
せよ,個々の場合の比較対象の相違や観点の相違によってのみ成り立つ事態を一般化して,それ
を全ての個物に適用したのではないかという疑いをひきおこす。Ross, Cross&Woozleyは,
ここでプラトンが経験的個物の半実在性(sem輌一総ality)を主張しようとしていることは認める
が,この結論を導く推論には誤りがあると考える。Cmss&Woozleyによれば,この推論の
誤りは,(1)“Plat◇’s failure t・disti薮guish between tw◎d遊ero泣s◇rts◇f eoncepts,
relational and non−relationaP,(op. cit. p.157)と(2) ‘‘a¢onfusion between the use
O㍗輌S’as古o eO似1a oパ◎輌ning WO∫d, and the use o《‘輌S’in頭existe頭al sense”
(oP. cit. P、162)の二点に基づいている。(Cross&Woozley, op. cip., ch.7, esp. P.
26 一塩 出 彰一
151−164)Rossもまた,ここでプラトンが比較の対象の相違や観点の相違によってのみ個物につ
いて成り立つ事態を,そういった相違を全て捨象して,個物の在り方それ自身に当てはめたと考
え・これがプラトンをして “afalse and dangerous disparagement of all particulars・・
(oP・cit・P・39)を犯させたとする。(Ross, oP. cit., P.37−39.)
既に述べたことから明らかなように,イデア論においては,コブラの‘is’は存在の‘is’から
派生するものであって,コブラの‘is’は存在の‘is’に対して独立的にそれとして区別さるべき
ものではない。またCross&Woozleyの(1)の論点およびRossの論については次の二点
を指摘すれば十分であろう。
(1)V.523a−524dにおいて「感覚の内にとらえられるもの」の内に,(a)その感覚が同時
に(ひαμα)正反対になることがなく,感覚だけで十分に判別され,更に思惟を必要としないもの
と,(b)同時にその感覚が正反対になるため,感覚だけでは不十分で,更に思惟による考察を必
要とするもの一この例として指の大・小が挙げられている一の二つを1ま二きらと区別してい
る。既に見たように,プラトンはこの(a),(b)をともに含む「感覚の内にとらえられるもの」
が全体として「何か同時に在りかつ在らぬようなもの」だとするのである。従って,この「同時
に在りかつ在らぬようなもの」は,いかなる意味に解するにせよ,その感覚(i.e.我々に対する
現れ)が同時に正反対になる,ならないにかかわりなく,即ち観点や比較対象の相違にかかわり
なく成立する事態であると言わねばならない。
(2) プラトンは『国家』第十巻初において,哲人王の支配する国々における詩および詩人の
模倣の問題を検討する。そこにおいて,寝台を例にとって次のような三つの存在をプラトンは区
別している。
(a)寝台のイデア:自然の制作者@・τのρr6ζ)たる神が唯一だけつくったもの(597d)。
「まさにそれであるところのもの」(597a),「真に存在するもの」(597a),「完全に存在するもの」
(597a),「真実の世界に存在するもの」(597b)。
(b)我々の周囲の,我々が使用している様々な寝台:職人・寝台つくりが「イデアに注目し,
それを見ながら(πρδζτ加∼δξ伽βλξπωの」つくったもの。「存在するもののようではあるが,
存在してはいないもの」(597a),「真の存在にくらべれば何かぼんやりしたもの」(597a)。
(c)画家や詩人が描写する寝台:「真実の世界から三段階はなれた生産物(τδτρ∼τ卯γξレημα
∂πδτ6ζ9)《σεωζ)」(598e)o
(b)が,先の「何か同時に在りかつ在らぬようなもの」である感覚的個物を意味しているこ
とは,(b)についての記述から明らかである。この(b)についてプラトンは次のようなことを
語っている。寝台を,横からであれ,正面からであれ,どんな方向から見るにしても,そのたび
に寝台自体がどこか違ってくるなどということはないのであって,ただその見かけが違ってくる
だけである。(cf. Rp. X.598b.)このことからも,(b)に相当する感覚的個物の「同時に在り
かつ在らぬ」ということが,観点の相違による見かけの相違とは別の事態の表現であることが理
解されよう。
Murphy(“The Interpretation of Plato’s Republic,,, ch. VI., esp. p.108−116, p.124−
129.)は,Ross, Cross&Woozleyと異なり,「同時に在りかつ在らぬようなもの」は個物を
意味するものではないとする。彼によれば,この在るものと在らぬものの中間におかれているも
のは‘‘quasi−speci6c type’,である‘‘τ凌πoλλ4”の属性(predicate)の・・relativity・・もしく
は“imperfectness”であって,“empirical fact”である個物の実在性は疑われていないとす
る。「同時に在りかつ在らぬもの」とか「多なるもの」が個物を意味することは既に述べた通り
である。
3) cf. G. Vlastos, Degrees of Reality in Plato(“New Essays on Plato and Aristotle”
ed・by R・Bambrough,所収), P.8−9.彼はプラトンにおける「完全に在るもの」,「同時に在
りかつ在らぬようなもの」,「全く在らぬもの」という表現は‘degrees of reality’を意味する
ものではなく,認識論上の相違,即ち‘10gical necessity’の有無を意味しているとする。
第六巻において語られる「太陽のひゆ」によれば,・fデアのイデアとも言うべき善のイ
デア@τo∂dγαθ訪ξδξα)は「認識されるもの(τdγ6γレωσκ6μεンα)には真実性@
∂局θεζα)を与え,認識する者(δγ‘γレψσκωレ)にはその能力を与えるもの」であって,
「知識と真実性の原因(α絃αξπζστ加ηζκα∼成ηθε↓αζ)」である1ノとともに,認識される
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 27
ものの在るということ(τ∂ε1レαζ)一実在性(oδσ∼α)一もまた善のイデアによって与え
られ,それに帰属するものである2)。即ち,善の・イデアは,認識されるものである諸々の
イデアにとって,その知識と真実性の原因であるのみならず,存在の原因でもある。これ
は善のイデアとその他の諸々のイデアとの関係についての記述であるが,経験的な個物は
この善のイデアを頂点とする諸々のイデアに与ることによってのみ,ある特性を持った個
物として存在しうるのであり,またイデアを分け持ってある特質を持つことによって何等
かの認識(臆見)の対象となりうるのである。更に,善のイデアとは「全ての魂がそれを
追いもとめ,そのためにあらゆることを行うところのもの」であり,それを十分に把握し
ていなければ「他に何か有用なものがあっても,それをうまく得そこねることになる」よ
うなもの3>,即ち全てのものの価値の源となるものである。このように,プラトンのイデ
ア論は,善のイデアを究極原因として,認識と存在と価値の全てがその下に密接な相互関
係を持って統一体をなす,きわめて包括的な体系である4)。従って,イデアが「完全に在
るもの」であるに対して,個物が「同時に在りかつ在らぬようなもの」であるという表現
や,「より一層在るもの(μ∂λλoレ6レτα)」という表現を認識論上のみの区別としてとらえ
ることは,イデア論の一面的な理解に基づく,誤った解釈であると言わねばならない。
1) Rp. VI.508e1−6.
2) Rp. VI.509b6−11.
3) Rp. VI.505d11−e4.
4) それ故,認識論上の区別は同時に存在論上の区別を含むと当然考えられる。従って,479dに
おける「美やその他の事柄について大衆のいだく様々な考え(τδτ⑳加λλ⑳π・温δレみzζμα
κ翻・στεπξρ6κα∼τ伽顧λωのというものは純粋に在るものと純粋に在らぬものとの中間を
転げまわっている」ということは,単に大衆の様々な考えのみが中間的存在であることを意味す
るものでもないし,そこからこのような在るものの程度の区別が,認識論上のみの区別であるこ
とを意味するものでもない。このような考えの対象の存在も在ると在らぬとの中間をころげまわ
っている半実在であり,大衆の様々な考えの中間性の原因はここにあると考えられる。
以上の考察から,真の哲学者とそうでないものとの規定の根底には,次の図のような存
在と認識との相関性についての主張があることが結論される。
イデア レ6ησκ 知識
:「完全に在るもの」 :「誤ることのないもの」
存 在
認 識
按存関係1)μ・τξκ…
i 2)「実物一似象」
個物 α∼σθησ‘ζ 臆見
:「同時に在りかつ在らぬもの」 :「誤らなくはないもの」
i.e.
半実在
このように,プラトンのイデア論においては,知識と臆見とは,存在としての層を異に
する対象の相違によってはっきりと区別されている。知識とは諸々のイデアの知識であっ
て,我々の周囲の経験的個物の知識ではない。これに関しては臆見しか成り立たない。と
ころが,我々の行為もまたこのような経験的世界における行為であり,哲人王の支配すべ
28 一塩 出 彰一
き国家は人々がこのような行為を通して様々な関係を持つことによって成り立っている社
会である1)。とすると,「哲人王」の主張は,現在我々が理解した限りにおいては,イデ
アの知識こそが,それに対しては知識は不可能で臆見しか可能でない経験的世界の国家に
おいても,人間の行為を最もよく,正しく導くものであるという主張として理解できる。
果して,哲学的知識は,その本性上知識の光が十分に及ばない事柄に関して人間の行為を
最もよく導くことができるのであろうか。また,できるとすれば,それはいかなる意味に
おいてであろうか。それとも,哲学的知識を得ることによって,哲人王には経験的事物に
関して臆見以上のものが可能となるのであろうか。この点について,我々は更に太陽・線
分・洞窟の三つのひゆにおける哲人王の知識と支配に関する記述を手がかりにして,明ら
かにせねばならない。
1) cf. Rp. V.476a5−7, X.599b9−e6.
§4 哲人王と「洞窟のひゆ」
『国家』におけるソクラテスの対話の相手の一人アデイマントスは,上のように規定さ
れた哲学者が王として最もふさわしい人間であるというソクラテスの議論の言論(λ6γoζ)
の上での説得力は認めながらも,現実(8ργoレ)に目を向けた時,哲学者は国家にとって
有害とまでは言わなくとも,無用・無益な人間ではないかという当然の疑問を呈せざる
を得なかった1’。第六巻の大部分(487e−502c.)はこの疑問に対するプラトンの答であ
り,哲人王制の現実的有効性の再確認をするものである。これに次いで,王たるぺき真正
の哲学者となるために必要な教育一同時に国家にとって真に有用なものとなるための教
育でもある一一を問題とする。ここにおいて哲学者となるにふさわしい本性がそこにおい
て鍛錬されねばならない最大の学問(μξγζστoレμ4θημα)として,既に触れた「善の・fデ
ア@τoδ∂γαθo川δξα)」一存在と認識と価値の全てがそこに収飲されるところの究極
的実在であった一が語られる2)。
1) Rp. VI.487b−d.
2) Rp. VI.505a−b;cf.505d−506a.
かなめ
「善のイデア」はイデア論の全体系の要であるにもかかわらず,プラトンは「善のイデ
ア」が何であるかを直接的に語ることは現在不可能であるとして.ひゆをもって語ろうと
する1)。これが「太陽のひゆ」,「線分のひゆ」,「洞窟のひゆ」と呼ばれる三つのひゆであ
る。このように,三つのひゆが語られる直接的な目的は「善そのもの(αδτδτ∂γαθん)」
(「善のイデア」)とは何であるのかという問に答えることにあった。それ故,「太陽のひ
ゆ」では,可視界(δδρατδζτδπoζ)における太陽とのアナロジーによって,可思推界
(δ助ητδζτ6πoζ)における善のイデアの位置と機能が語られ,その「驚くべき超越性」
が明らかにされる2)。このことによって一応当初の目的は達せられたのであるが,グラウ
コンはなおもソクラテスを促して,この「太陽との比較@περ1τル》λωレδμoζ6τηζ)」を
遺漏なく語ることを求める。この要求に対して,多くのことが語り残されざるを得ないこ
とを認めながら語られるが,「線分のひゆ」と「洞窟のひゆ」である3>。ところが,「線分
のひゆ」においては,グラウコンの明らかな要求にもかかわらず,太陽と善のイデアとの
一一
vラトン:『国家』における哲学知と行為について一 29
類比は全く姿を消し,善のイデアに関してさえ直接的な言及はない。再び「太陽」が語ら
れるのは,次の「洞窟のひゆ」においてである。しかも「線分のひゆ」はひゆとしての性
格をあまり持ってもいない4)。「線分のひゆ」が語られた順序を不適当なものと考えない
ならば,上の事実は「線分のひゆ」と「洞窟のひゆ」が一体となって・一つのひゆを形成
していることを示唆するものであろう5)。二つのひゆの関係をどう解釈するにもせよ,
「線分のひゆ」と「洞窟のひゆ」においては,「善のイデアとは何か」という当初の問に対
する単なる答を出すことにとどまらず,r国家』第五,六,七巻を貫く哲人王のための高
等教育というより大きい問題連関の中で,善のイデアおよびその他の諸々のイデアが問題
にされている。この問題連関において三つのひゆを見るならば,これらのひゆの中心をな
すのは,無教育な状態から教育ある状態への魂の進歩と哲人王による国家の支配をひゆ的
に語っている「洞窟のひゆ」である。517b以下および532a以下において・三つのひゆは
相互に関係づけられ,一体として理解さるべきものとして語られているが6),ここにおい
ても「洞窟のひゆ」が関係づけの根幹を成していることが認められる。善のイデアおよび
その他の諸イデアに対してのみ成立するところの(哲学的)知識が我々の行為に対して持
つ意味を問題としている我々にとっても,哲人王の支配の問題を扱っている「洞窟のひ
ゆ」は三つのひゆの内で最も重要なものである。以下,「洞窟のひゆ」を中心に考察を進
めたい。
1) Rp. VI.506d−e.
2) Rp. VI.507a−509c.
3) Rp. VI.509c.
4) cf. Murphy. op. cit., p.157458.
5)cf. Murphy, op. cit., p.155−156. Robinsonはひゆの語られる順序が不適切であると考え
ている。cf. R. Robinson, Plato’s Earlier Dialectic・P・196・
6)三つのひゆを矛盾なく,統一的に理解することはきわめて困難な課題であるが,本稿の問題に
触れるものではないので,ここでは論じない。
「洞窟のひゆ」は,(1)我々の魂が善のイデアを見,それによって知識を獲得するに至
る教育過程と,(2)このようにして知識を得た魂即ち哲学者の国家における様子1)の二
つを語っている。我々にとって最終的に問題となるのは(2)の点であるが,その理解の
ためには先ず(1)について明らかにしておかねばならない。
1)(2)については,「洞窟のひゆ」が一応語りおえられ,三つのひゆが相互に関係づけられた後,
517a以下で再び「洞窟のひゆ」を用いて語られる。
縛られた囚人,即ち洞窟の前方だげしか見ることができず,そこに写る事物の影と声の
反響のみを見聞きして,それらを「真実のもの(τδ翻ηθξめ」に他ならぬと考え,それら
以上のものの存在することに無知な状態にある囚人を,プラトンは「我々に似た者だ。」
と語っている1)。この解放前の囚人の状態は「無教育(∂παζδεひσ↓α)」とか「無思慮
(Wρoσんη)」とか言われる2)。更に,この囚人は束縛から解放され,洞窟の中の火を見る
ことを強制されると苦痛を感じ,今まで見ていた影の本体(ξκε∼レαδレτ6τετ如σκζδζ
錨ρα)をまぶしさのために見ることが出来ず,実際には在るもの(τδ6レ)により一層近
づき,より一層在るもの(τdμ凌λλoレ6レτα)へと向けられているのに,「困惑して,あの
30 一塩 出 彰一
時見られていたもの(τdτδτεδρψμεレα)の方が今示されているもの(τdレ砂δε6κレ‘μεレα)
よりもより真実なもの(翻ηθξστερα)であると考え」3),「はっきりと見ることのできるあ
のものの方へと向きをかえて逃げ出すのである。」4’このような,囚人についての叙述は,
この囚人が,先に見た「多くの美しいものは見るけれども,美そのものは観取すること
もないし,他の人がそこへ導いていっても,ついて行けない人々」,即ち「臆見はする
(δoξ4ζε‘μ)が,知識を得る(γ‘γレψσκε〃)ことはない」人々5)に他ならないことを示し
ている。縛られた囚人が表わしている精神状態(π∂θημαξレ楊ψひ肪)は臆見(δ6ξα)一
般である。
1) Rp. VII.515a5.
2) Rp. VII.515a2, c5.
3) Rp. VII.515c−d.
4) Rp. VII.515e.
5) Rp. V.476c−d,479e−480a.
このことは,これに続く囚人の解放と洞窟の内から外への上昇の意味するところからも
明らかである。先に述べたように,この「洞窟のひゆ」の意図の一つは,教育と無教育と
いう点に関して我々の本性を囚人にたとえ,この本性がいかにして哲人王にふさわしく十
分に教育されるかという高等教育の過程を明らかにすることにある。従って,このひゆは
521c以下の高等教育論と一体をなしているのである。それによれば,真の意味での教育
とは,転向の術知(τξzレητラζπεμαγωγラζ)である。即ち,ものを学ぶための能力と器官
は各々の人間に最初から内在しており,ものを学ぶためには,それらのものは魂全体とと
もに,生成するもの(τδγζγレ∂μεレoの一i.e.「同時に在りかつ在らぬようなもの」であ
る経験的個物一から転向して,在るもの (τδ6の と在るものの最も明るいもの (τδ
ψαレ6τατoレτo∂6レτoの一i.e.善の・fデアーを観照して,それに耐えうるようにならね
ばならない。このような転向の璽知として522e以下の数学的諸学一計算術,平面幾何
ハルモ ヤ
学,立体幾何学,天文学,和声学一一は語られており,これらの諸学における魂のあり方
が「線分のひゆ」における悟性(δWoζα)に相当することは, VII.533b6−c5から明ら
かである。しかも,これらの数学的諸学は「洞窟のひゆ」と関係つげられて,次のように
語られている。
「束縛からの解放と影から模像と火の光への転向(μεταστρo助),そして地下から太陽の
もとへの上昇(ξπ㊨oδoζ),そしてそこではまだ動物や植物や太陽の光を見ることはでき
ないが,水に写った神的な影像や諸々の在るものの影は見ることができること,こうした
力を我々が語った諸々の術知に専念することは総体として持っているのだ。」1)
従って,束縛から解放された後の囚人の状態は,「線分のひゆ」における可知界を表わ
す線分@τ0σン0ητ0∂τ0功)にかかわる精神状態,つまり悟性(δζ動0ζα)および思惟
( クレ0ησζζ)を表わしている。とすれば,未解放の囚人の状態が,悟性以下の精神状態,即
ち臆見(δ6ξα)を表わしていることは明白である2)。また,悟性の「洞窟のひゆ」におけ
る対応領域もここから明らかであり,更に思惟の対応領域もこの直前の個所(532a1−b5)
から明らかになる。
1) Rp. VII.532b6−c4.
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 31
2)ひゆ的表現を離れて,最大の学のための予備教育(πρoπα‘δε!α)として数学的諸学が語ら
れる時には,「魂を生成するものから在るものへとひきつけるもの(ψ曙病はκわδπδτ・δ
γζ”・μ‥ひξπ∼τδ∂の」(VII.521d3−4)と語られている。このことからも,「洞窟のひゆ」に
おいて縛られている囚人が見聞しているものは「生成するもの」,即ち「同時に在りかつ在らぬ
ようなもの」であり,このようなものに対しては臆見しか成り立たぬ以上,囚人によって表わさ
れている精神状態が臆見であることが理解される。
以上のことをまとめれば,「洞窟のひゆ」は(1)縛られた囚人の状態,(2)解放された
囚人が転向によって洞窟の外の動・植物その他の神的な影像・影を見るに至る上昇過程,
(3)動・植物とか天体とか,最後には太陽をもそれ自体において見ることのできる状態の
三つに分けられ,各々は「線分のひゆ」における(1)臆見,(2)悟性,(3)思惟の三つ
の精神状態を表わしているのである1)。
1) ここから明らかなように,「洞窟のひゆ」と「線分のゆひ」との間に一対一の対応関係は存し
ない。cf. Murphy, oP. cit., P.159一ユ64;Robinson, oP. cit., P.180−196.一対一の対応説
についてはcf. Adam, oP. cit., vol. II, P.77.88,95.156−163;Cross&Woozley, op.
cit., p.208−230.
臆見からの魂の転向と上昇に他ならぬ悟性および思惟の領域こそが,愛知者(哲学者)
本来の知識の領域であり,イデアの世界であるが,悟性と思惟とではイデアに対する態度
が異なっている。
「線分のひゆ」において悟性は次のようなものとして語られている。
「魂は(1)あの時模倣されたもの@τ6τεμ’μηθ』α)1>を似像として用いて,(2)仮
設Gπ6θεσζζ)から出発して始源(ク クαρzη)へとではなく終局(τελεひτカ)へと進んで行き
ながら,考察をすることを強いられる。」2)
この二つの点は,続く510c以下で数学を用いて更に説明されている。即ち,510c1−d3,
511c4−d2で(2)の点が,510d5−511a1で(1)の点が,また511a3−b2では(1),(2)
が総括的に語られている。
1)「あの時模倣されたもの」とは可視界における信念(π膓στ‘めの対象であるが,この個所の直
前の510」9で可視的なもの(・ρατ6のが可臆見的なもの(δ・ξαστ・レ)に拡大されていること
から,単に510d5で言われている「見られる形態(破∂ρψμε踊ε・δη)」のみならず,臆見され
るもの(δoξαστ加)一般を指すと考えられる。
2) Rp. VI.510b4−6.
(1):「四角形そのもの (τδτετρ4γωレoレαδτの」 とか,「対角線そのもの(δ酩μετρoζ
αδτカ)」が悟性の対象とされている1)こと,511a3, d2で悟性の対象が可思惟的なもの
(四ητ6のであると言われていることから,悟性が感覚的似像を用いて考察するものはイ
デアに他ならぬと考えられる2)。しかし,それらは「始源をともなってこそ可思惟的なも
のである」3’のであって,始源へとではなく,終局へと向ってイデアを考察する悟性にと
っては,その対象は未だ十分な意味で可思惟的なものであるとは言えない。「在るもので
可思惟的なもの(τδんτεκα1レoητん)について対話の知識@τoδδζαλξγεσθαζξπζστ・
加η)によって観られるものは,所謂術知(αξτεzレα∼καλo以εレαζ)によって見られるも
のよりもより明瞭(σαψξστερoレ)である。4)」思推の行うディアレクティケーによっての
み,魂は始源たる善のイデアをとらえることができ,その時はじめて一切の存在は真に可
32 一塩 出 彰一
思惟的なものとなるのである。
1) Rp. VI.510d7−8, cf. VII.524e6,525d6,527b5−8.
2)「線分のひゆ」510b以下で悟性と思惟が区別される時,両者の方法の相違のみが語られ,そ
の対象の相違に関しては何等言及されていないことも,両者の対象が同じものであることを示唆
している。
3) Rp. VI.511d1−2.
4) Rp. VI.511c4−6.
(2):511b5−6で思惟もしくはディアレクティケーが,「仮設(α}δπoθ6σεζζ)を始源と
はせず,真に仮設として用いて」,無仮設なもの(τδんひπ6θετoのに至るまで万有の始源
@τo∂π助τ∂ζ∂ρzう)へと向って行くと言われていることから明らかなように,悟性にお
いては仮設は真に仮設として用いられるのではなく,それ自体で成り立つ不動のものとし
て用いられ1㌦これらの仮設より上へは(τ⑳δπoθξσεωレ励ωτξρω)行くことができない
かのように考えられる2)。ここに思惟に対する悟性の限界がある。プラトンは,これを次
のような例を用いて説明をする。数学者達は「奇数とか偶数とか三種類の角とか,各々の
研究においてこれに類する事柄を仮設としてたてるのであるが,これらを彼等は自分達は
知っていると考え,これらを仮設とし,万人に明白なこととして,これらの仮設について
自分達にも他の人達にもその説明を与えること(λ6γoレδ’δんαりをもはや要求せず,これ
らの仮設から出発して,その他の残りの事柄を調べて,その考察へと彼等が向っていった
ものに整合的に(δμ0λ0γのμんωζ)3’達して考察を終るのだ。」4・しかし,既に述べたよう
に,最初の無仮設なもの・始源をとらえて,その他の仮設に説明を与え,十分に根拠づけ
ることができない限り,彼等は依然としていわば在るものについて夢見ているに過ぎない
のである。
1) Rp. VII.533c1−2.
2) Rp. VII.511a5−6.
3) この点についてはcf. Rp. VII.533c3−5;Cornford, Mathematics and Dialectic in the
Republic, p.66.(“Studies in Plato’s Metaphysics”ed. by R. E. Allen.所収);Cornford,
The Republic of Plato, p.22;Adam, op. cit. vo1. II, p.68.
4) Rp. VII.510c3−d3.
『国家』における悟性とは以上のようなものであり,ここでは専ら数学的対象(i.e.数
学的イデア)に関してのみ語られており,道徳的価値に関しては何も語られていない。し
かしながら・哲学者の洞窟の内での様子が語られているVII.517d4−e6の記述は,洞窟
内の影とか,その実物たる諸々の人工物一これは,転向後,囚人が最初に目にするもの
である一には正義に関するものが含まれていることを示している。また,上記の悟性の
考察方法と同様の方法が「理論的考察(ζかησζζわτ0∼ζλ6γ0ζめ」としての仮設的方法1)
の一部として語られている『パ・fドン』99d以下の記述も,悟性が単に数学的な事柄にの
み限定されぬことを示している。
1) Phaed.99d4−100a7.;101d3−e1.;cf. Robinson, op. cit., p.ユ23−145.
以上から,悟性に関して次のことが結論できよう。魂を「生成するもの」,「臆見される
もの」から「在るもの」へとひきつけるプロパィディアとしてプラトンが語っているもの
は数学的諸学のみであるが,それはあくまでもプロパィディアとしての効果の故であっ
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 33
て,その根底にある悟性の対象は数学的イデアに限定されることを意味しない。思惟に対
して悟性が持っている積極的価値は,それが感覚的似像を介してにもせよ,在るもの(τ∂
∂のについて考察することにあり,道徳的価値もまた当然このような考察を許すものでな
ければならない1)。この悟性の限界は,このような諸イデアをそれ以上の理由づけや吟味
の必要のないものとして,この諸・fデアをその他の様々な考察の出発点として無批判に用
いることにある。この限界に気づいた時,魂の上昇の最後の段階である思惟( クレω7σκ)も
しくはディアレクティケーの第一歩が踏み出されることになる。
悟性との関連において,思惟がいかなるものであるを既にいくらか見てきた。「線分の
ひゆ」において,思惟は次のように語られている。
「可思惟的なもののもう一一方の線分だと私が言っているものは,言論そのものが,ディア
レクティケーを行う能力@τoδδ‘αλξγεσθαζδのαμκ)によって,それに触れるところ
のものだと理解してくれ。言論は仮設を始源とはせず,いわば踏台とか発端のようにし
て,真に仮設としてたてるのであるが,それは言論が無仮設のもの(τδんひπ6θετoレ)に
至るまで,万有の始源@τoδπαレτδζ4ρzカ)へと向って行き,それに触れると,今度
は再びそれに依存しているもの(τdξκε物ζξz6μεレα)をたどり,このようにして終局
(τελεひτカへと降りてくる(καταβα栃ζレ)ためであり,その際感覚されるもの(α∼σθητ∂の
は一切用いないで,エイドスそのものを用いて,エイドスを通してエ・fドスに至り,エイ
ドスに達して終るのだ。1)」
1) Rp. VI.511b3−c2.
この万有の始源である「無仮設のもの」とは,「洞窟のひゆ」における太陽に相当する
ものであり,「善のイデア」に他ならない1)。善のイデアとは,既に見たように,「知識と
真理の原因」であった。ディアレクティケーによって思惟がこのような「善のイデア」に
触れることが可能になる21ことによって,プラトンの初期対話編においては人間には許さ
れなかった知識・知恵は,人間に許されることになる。問題は,この善のイデアの把握に
よって可能となる知識がどこまで及ぶかである。
1) Rp. VII.517b8−c1,532a2−b5.
2)善のイデアへの上昇過程についての具体的記述はきわめて少い。cf. VII.533c7−d1,534b3−
535a2.
上昇して善のイデアに触れた魂の下降過程についての具体的な説明はr国家』の他の個
所に見出すことが出来ない。しかし,善のイデアが「知識と真理の原因」であること,悟
性は在るもの(τδ6レ)を仮設としてたて,そこから出発して,それらに説明を与えるこ
とができないため,それらの事柄についていわば夢見ているようなものであるが,それら
の事柄は始源(i.e.善のイデア)を伴えば可思惟的なもの(レoητん)一“γレωστ6レ”と同義
である一となると語られていたこと,およびVII.537b8−c8において「事物を総観でき
る者(ぐ ク0σひレ0πτζκ0ζ)こそがディアレクティケーの能力を持っている」と語られているこ
と1),これらのことから考えれば,魂の下降の過程は,善のイデアのもとに諸々のイデ
アー善のイデアに依存しているもの(τdξκε↓レηζξx6μεレα)一を総観し,秩序づけ,
説明を与え,根拠づけてゆく過程として把えることができる。このことによって,これま
34 一塩 出 彰一
では魂にとつて単なる仮設にすぎなかった諸々のイデアはその仮設性を完全に廃棄して,
十全な意味でのイデア,即ち「完全に在るもの」一従って,これに対しては完全な知識
が対応する一となるのである。しかし,511b7−c2の下降の過程の叙述から明らかなよ
うに,この下降の過程においても,「感覚されるもの(αξσθητ6レ)」はそこから完全に排除
されており,「エイドスそのものを用いて,エイドスを通してエ・fドスに至り,エイドス
に達して終る」と明言されているように,ディアレクティケーの下降の範囲一従って知
識の及ぶ範囲一は,あくまでも非感覚的なイデアの世界の内のみである。即ち,善のイ
デアに触れることによって知識が可能となるのは,この善のイデアに依存する諸々のイデ
アに対してのみであり,ここでも「生成消滅するもの」,「感覚されるもの」に対する知識
は認められていない。哲人王の最高の知識は,かつては臆見的なものにすぎなかったもの
に対する知識を可能にするのではないかという期待に反して,依然として先の「在るもの
一知識」,「同時に在りかつ在らぬようなもの 臆見」という存在論的・認識論的枠組
みは維示されているのである。「洞窟のひゆ」において,太陽が輝き照しているのは洞窟
の外の世界であり,洞窟の内側は太陽ではなく火の光によって照された世界であり,そこ
における事物は「闇と混じりあったもの(τδゆσκ6τ甲κεκραμξレoの2)」であった。
1) cf. Rp. VII.531c9−d4.
2) Rp. VI、508d7.
ディアレクティケーこそが『国家』における哲学知(ψ‘λoσo〆α)の核心をなすもので
ある。哲学本来の世界は洞窟の外の在るものの世界であって,洞窟の内の世界は人が哲学
者となるためにはそこから転向し,上昇してゆかねばならない世界にすぎない。それにも
かかわらず,善のイデアに触れた哲学者は,支配者として洞窟の内の「生成消滅するも
の」の世界に降りてゆかねばならない。哲学者を王とするために強制(∂滋γκη)が必要で
ある1)理由はここにある。そして,強制してでも哲学者を王とせねばならないのは,国家
全体の内に「幸福@εδδαζμo吻,τδεδπρ4ττε6の」が生ずるためである2’。ここから次
のことが帰結される。(1)哲学者にとって洞窟の国家の支配は決して本来的かつ最善のも
のではない。支配が自発的にではなく,強制によってしか行われぬものであることは,哲
学者をまさに哲学者たらしめている哲学知はその本性において洞窟の国家の支配とは相容
れぬものであり,哲学知は本来的にはもっと別の「行為のよさ(τδεδπρ4ττεζの」にか
かわるものであることを示している3)。(2)それにもかかわらず,哲学者に対して洞窟の支
配が強制されるということは,国家全体の「行為のよさ」(幸福)ということには哲学知
が不可欠であるとプラトンが考えていることを示している。我々が問題にしているのは,
この(2)の点である。
D Rp. VII.519b−521b,540a−b. Rp.1.347a−dにおいてすぐれた人間に支配者となることを
承知させるには,拒絶する者には罰を課するということによって,強制する他はないことが語ら
れる。この罰の最大のものは,「もし彼が支配者となることを自ら承知しなければ,自らよりも
劣った者に支配されるということ」(347c3−5)である。
2) Rp. VII.519e. cf. IV.420b−421c, V.473b−c.
3)プラトンは「幸福者の島における生(τδξレμακ4ρωン助σ・κ句レ)」を哲学者本来の“τδεδ
ζガ〆,と考えている。cf. Rp. VII.519c4−6,520d6−521c11.更にcf. III.387d11−e2.
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 35
プラトソは哲学者に向って次のように言う。「各々が順番に他の人々との共同住居@
τ砂∂λλωレσひレo鋤σζζ)セこ降りて行き,暗いもの(τdσκoτε〃めを観ることに慣れねば
ならない。何故なら,慣れれば,君達は諸々の美しい事柄や正しい事柄や善い事柄につい
ての真実(τ飢η砺καλ鋤τεκα1δ6κα↓ωレκαξ∂γαθ鋤πξρりを既に観たのであるから,
そこにいる人々とは比較にならぬほど,よりよく見て,各々の影像(τ∂ε2δωλα)が何で
あるのか,またそれが何の影像であるのかを知ることになるだろう(γぬ)σεσθε)から。1)」
このことは,この少し前の個所では次のようにも語られている。「再びあの囚人達のとこ
ろへ降りて行き,彼等のところの労苦と栄誉とを,それがとるに足りぬものにせよ,価値
あるものにせよ,共にすること2)」を哲学者は強制される。
1) Rp. VII.520c1−6.
2) Rp. VII.519d5−7.
この哲学者がそれを共にすることを強制される,囚人達のところの労苦と栄誉とは,洞窟
の前壁に写し出された「通りすぎるものどもを最ももはっきりと見,それらの内のどれだ
けのものがより先に進み,どれだけのものがより後に進み,またどれだけのものが同時に
進むのを常にしているかを最もよく覚えていて,それらのことから将来やってくるであろ
うこと(τδμξλλoレηξεのを最もよく予言できる」ということに対するものである1)。
1) Rp. VII.516c8−d7. cf.5ユ6e8−9,517d8−e2.
この限りにおいては,洞窟の内の哲人王に要求されているのは,明らかに,生成消滅す
る個々の事物の間の生成変化についての一種の法則1)を経験的に得て,将来の予測をする
ことである。従って,この場合,哲学者に洞窟の支配者として求められているのは,純粋
に経験的知識(ξμπε’ρξα)に他ならない。「諸々の美しい事柄や正しい事柄や善い事柄に
ついての真実を既に観たこと」,即ちイデアの知識が,こういった経験的知識をよりよく,
より正確なものとして得さしめるとは,既に見てきたイデアとそれを分け持つ個物との関
係からして,考えることができない。またプラトン自身,哲学的知識と経験的知識の両方
を同一人がいかにして兼ねそなえうるかということを問題として設定しており2),プラト
ンが哲学的知識と経験的知識を別のものと考えていることを明らかに示している。プラト
ンにおいては,その本性においてこの二つを兼備しうる素質の者が,支配者となるべく哲
学教育を与えられるのである。
1) cf. Rp. VII.516c10−d1:‘‘…6σα τε πρ6τερααδτ(9レκα∼δστερα εノ∠θε‘κα∼凌μα
πoρε6εσθα‘κ.τ.λ.,,
2) Rp. VI.484c6−485a3.
第七巻の哲人王のためのカリキュラムにおいても35才∼50才の間の実に15年間もの期間が,
経験的知識においても他に遅れをとらぬために,洞窟の内に降りて,軍務その他の役職につくこ
とに割かれている。プラトンは経験的知識の重要性を決して忘れてはいないのである。
哲学者がいかなる本性のものでなければならないかは,V.474d1−480a13, VI.485a10−
487a8, VII.503a1−504c3等で語られている。哲学者が,その本性において「真実を観る
ことを愛する者(δτ氷dληθε↓αζψζλoθε4μωレ)」でなければならないことは言うまでもな
い。更に哲学者は,聰明で記憶力にすぐれ,機転がきき鋭敏で,その他それに類する本性
を持ち,気力旺盛で度量が広く,しかも確固として容易に物事に動じない性格でなければ
36 一塩 出 彰一
ならない。こういった本性を欠けるところなく備えた,きわめて少数の者が選ばれて,哲
人王候補者として様々な学問と経験によって訓練され,試験されて,更に選別されるので
ある。こういった様々の選別と試練を乗りこえてきた者が最後に試されるのが,最大の学
問であり,哲学的知識の核心をなすところの善のイデアに他ならなかった。哲学者という
ものがこういった本性のものであるとすれば,彼が他とくらべて優れて国家における種々
の経験的知識を備えた支配者でありうるのは,何よりも先ず彼がこのような人並みはずれ
た優秀な資質の持主であることにあると言えよう。換言すれば,経験的知識と哲学的知識
の両者を兼ね備えうるような資質・本性の持主が,哲人王の候補者として選ばれ,教育を
受けるのである。
第二に,「そこにおいて支配すぺき者が最も支配することを熱望しないような国が,最
も善く,一番内紛も少く,治められることは必然的である」ということが理由として挙げ
られよう。既に触れたように,哲学者は,政治的生活よりもはるかにすぐれた「真の哲学
的生活(δτラζ∂ληθ〃ηζψ‘λoσoψ∠αζβζ6ζ)」を知っているから,他の人々のように国家の
支配をめぐって内紛を起すこともないし,支配によって私利をこやそうとすることもない
のである1)。
1) Rp. VII.520d−521b;cf. VI.486a8−10,496b3−5, VII.540d1−e3.
以上の二つの理由に関する限り,哲学者と国家支配の関係,即ち哲学知と行為(πρ4ττε〃)
のよさ(εδ)一幸福一との関係は間接的・偶有的なものにすぎない。では哲学知の行為に
対する積極的な意味はどこに求められるであろうか。
§5.「典型(παρ4δεζγμα)」としてのイデア
既に見たように,善のイデアこそがその他の一切の善の究極的根拠であり,即自的・本
来的に善と言いうる唯一のものであったが,正にこの故に,善のイデアは「私的にも,公
的にも,人々が行為する全ての事柄はそれを目ざして行為されねばならないところの標的
(σκoπ∂ζ)1’」である。哲学的知識が行為に対して積極的な意味を持つのは,それを目ざし
ただ
て行為を秩序づけ,正すべき,この標的の知識としてである。この知識を欠いた行為は,
無秩序な盲目的行為でしかない。
1)Rp. VII.519c2−4.;VI.500c−501cにおいて哲人王は「神的な典型を用いる絵かき」にたとえ
られている。
哲学者は「秩序だっていて,常に同じままであるもの(τεταγμ6レα勧τακα〉κα泣ταδτ∂
∂εほzoレτα)」一お互いに不正を犯すことなく,全て秩序正しく,ことわりに従っている
もの一一即ち善の・fデアの下に正しく秩序づけられたイデア界を観知ることを通して,
自らも人間に可能な限り,神的で秩序正しい者となる。即ち,「神のまねび(δμo↓ωσκ嘩
θ嘩)」を通して自らの魂の内にいわば神的な典型を得る1)。(IX.591c−592bで語られる
「自己の内なる国制⑦わαδゆπoルτεξα)」とは哲学者にとっては,この典型のことであ
る。)哲人王は,この典型に照して,市民的徳(δημoτ6助dρετη,πoルτ’κ力如ετカ)を市民
の内につくりこみ,また国家を正しく導くのである。それは具体的には,立法によって,教
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 37
育を通して行われる。そこで教えこまれる徳は,知識ではなく,正しい臆見に基づく徳であ
る。その正しさは,市民的徳が哲学者によってつくりこまれたものである限りにおいて,そ
れが哲学者の知識に与っているということに依っている。そして間接的にではあれ,哲学
的知識に与っている限りにおいて,このような市民的徳に基づく行為も,何ほどかは‘‘τδεδ
πρ命τεζ〆’と言いうるし,国家全体も“τδεδπρ4ττεz〆’であると言い得よう2)。このよ
うな国家支配は思慮をともなった経験(ξμπεζρ毎μετ∂ψρoレ加εωの を持つ哲学者のみに
可能であり,ここに哲学的知識の我々の行為に対する積極的な係りがあると一応考えられ
る。
ユ) Rp. VI.484b2−d10, X.613a7−b1.
2) Rp. IX.590c−d.
だがここでも,イデア論の認識論的・存在論的枠組みが問題となる。哲学者が国家を支
配するに当って,神的な典型に照して定める法は,VI.484c−dから明らかなように,「美しい
事柄とか正しい事柄とか善き事柄についてのこの世の掟(τ∂ξレ磁δεレ6μμακαλ砺τεπξρZ
κα∼δζκαξωレκα∼dγαθ鋤)」である。この世とは経験的・現象的世界である。従って,哲
学者の定める掟と言えども,それが「何か同時に在りかつ在らぬようなもの」であるこの
世の事柄に関するものである以上,臆見以上のものではなく,このような掟に基づく行為
も真の“τδεδπρ4ττε’〆,ではあり得ないことになる。
本来,イデアが典型となるということは,経験的・現象的存在の不完全性に対するイデ
アの完全性を前提としている。経験的・現象的存在に対してイデアを典型として用いるこ
とは,この不完全な存在を完全な存在に出来る限り似せようとすることである。現象的世
界とそこにおける行為は,それとしては,何等積極的価値を与えられない。洞密の内の世界
一一 痩ニ一は,哲学者が典型に照してより完全なものにしようとする限り,そこに住む
市民大衆の魂を転向せしめ,そこから洞窟の外へと上昇させねばらぬ世界である。しかし,
この真実在への上昇は,限られた哲学的本性の者にのみ可能なことであり,市民大衆には
本性上不可能なことであった1)。ここに哲人王による典型使用の限界がある。哲人王によ
ってもたらされる国家全体の“τδεδπρdττεζ〆’も,市民のそれも,結局のところ「何か
同時に在りかつ在らぬようなもの」以上のもの,真の“τδεδπρ命τε’〆’ではあり得ない
のである。真の“τδεδπρ4ττεζレ”は,真実への魂の転向と上昇の可能な者,即ち哲学者
自身にとってのみ可能なことである。
1) Rp. V.474c1−3.
VI 500b−cによれば,哲学者とは「本当に真実在について思惟している人 (δ(あζ
∂ληθ政πρδζτ0な0δσζ吋レδζ伽0ζαレ㍍ωの」であり,これは同時に「神的で秩序正しい
もの(θε∼oレκα∼κδσμωレ)と交わって,人間に可能な限り(ε行τδδ助ατ加∂レθρψπψ)
秩序正しい神的なものとなる」ということを意味する㌧ たとえ哲学者でも,人間に可能
な限りにおいてのみである。『国家』においては,哲学者は,ディアレクティケーによっ
て,一切の存在と認識と価値の究極的根拠である善の・fデアに触れ,その知識を得ること
が出来たが,その完全な知識は人間である限り得られない,神のみに許されたものである。
38 一塩 出 彰一
人間はそれに無限に近ずきうるだけである。完全な知識への愛求である哲学(ψ’λoσo〆α)
は,無限の「神のまねび」である。それは,魂の「神的で思慮のある部分(τ∂θε∼のκα1
ψρ6レζμoの」が魂を支配すること,「内に神的な支配者を持つ人(δ敬ωレ釦αδτΦτδθε∼oレ
勧zoの」となることである2)。魂の各々の部分がそれぞれ「自らのことを為すこと(τδ泣
αδτめπρ缶τε’の」に魂の正義@δζκαωσのη)があるとすれば,「神的で思慮のある部
分」が魂を支配することが魂の正義であり,まさにこの正義という一点に行為の真のよさ
一τδεδπρdττεルーはかかっていた。
1) Rp. X.613a−b.
2) Rp. IX.590d.
哲学者とは何よりもこのような「自己の内なる国制」に注意を払い,自己を正しく治め
ることに努める者である。第9巻末でプラトンは次のように言っている。何か神的な偶然
(θε∼ατ6zη)でもなければ,哲学者が祖国において政治的行為(泣πoλζτ’磁πρ4ττε’レ)
を行うことはないだろうが,自分自身の国家@ξωτo∂π6λκ)においては大いに行うだ
ろう。理想国である正しい国家は,この地上にはどこにも建設されていないとしても,
「それを見ようと願望し,それを見て自己自身の内にそれを建設しようと願望する者にと
っては,おそらくその国家は天(oδραレ∂ζ)に典型(παρ6δεζγμα)として奉納されている
だろう。だが,それがどこかに現に存在するのか,将来存在するようになるのかは全く問
題ではない。何故なら,彼の行う行為はひとえにその国家に属する行為であって,他の国
家には属さぬものであろうから。」
以上のことから考えれば,哲学者が本来行う行為,哲学的知識と本来的に係る行為一
「神のまねび」としての行為一は,この「自己の内なる国制」,「自分自身の国家」におけ
る政治的行為(τδτaπoルτζκdπρ4ττεめであり,その究極的な拠りどころは「自己の
内なる国制」の典型であるイデア界にある。従って,この行為こそが,真に正しい行為で
あり,「よく(εδ)」ということを本来的に帰しうる行為,即ち本来的・即自的に「善き行
為(τδεδπρ4ττε川」である。哲学者自身の「自己の内なる国制」においてはじめて,
哲学的知識と「善き行為(τδεδπρ4ττεの」は積極的な不可分の関係を持つのである。
§& 結 論
臆見しか成り立たない「何か同時に在りかつ在らぬようなもの」の世界と,(哲学的)
知識の成り立つ「在るもの」の世界という二つの世界の存在論的・認識論的区別を持つイ
デア論において,我々の行為,特に「よく(εδ)」ということを真に帰しうる行為一倫
理的行為一がどこに位置づけられ,いかなる意味を与えられるのか,これが私の疑問で
あった。以上見たことから結論すれば,次のようになる。
善のイデアは公私にかかわらず思慮深く,正しく行為しようとする者がそれを見,それ
を目ざして行為すべき“σκoπ6ζ”であり,善のイデアをはじめとする諸イデアの知識は正
しい行為,善き行為の導き手である。これらのイデアは離在的・超越的であって,人間
によって行為されうるものでもなく,獲得されうるものでもない正)。しかし,まさにこ
の離在性・超越性の故に,経験的・現象的事象に左右されることのない絶対的な「典型
(παρ4δε’γμα)」となり,それに照して自己の魂をより神的な秩序あるものへと無限に形成
一プラトン:『国家』における哲学知と行為について一 39
してゆくこと,即ち「自己の内なる国制」において優れて政治的行為を行うことが可能と
なるのである。端的に正しい行為・善き行為(τδεδπρ4ττε〃)と言いうるのは,このよ
うな典型を持った魂,即ち正しい魂が典型に照して行う行為である。魂の正しさの根拠は
哲学的知識の魂の支配にあり,哲学的知識の究極の根拠は善のイデアにあるが,行為の
「よさ(εδ)」の根拠は,行為主体である人間に即していえば,魂の正しさにある。このよう
に行為とは,プラトンにとって,それとしては「何か同時に在りかつ在らぬようなもの」
の世界にも,「在るもの」の世界にも端的に属するものではなく,魂がいずれの世界を志向
しているか,またいずれの世界にあるかという魂のあり方に応じて,いずれの世界のもの
でもある。それに応じて,行為に「善く」が帰せられたり,「悪しく」が帰せられるのであ
る。要するに,魂のあり方にこそ行為の善悪の根拠はある。と同時に,二つの世界の間を
行き来する魂のあり方を可能にするのは行為であり,行為は二つの世界を結ぶ,魂にとっ
て哲学的生活に不可欠のものであり,プラトソにおいては,行為と愛知は不可分の関係に
あると言わねばならない。
1) Aristoteles, Ethica Nicomachea I.1096b32−35.
一了一
(付記)本稿は修士論文“プラトン:『ポリテイア』における知識と「よき行為(τδεδ
πρdττεの」について”(S.44.3.)を,全体(特に前半部)にわたって手を加えたもので
ある。但し基本的な論点には変更を加えなかった。
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