...

「ギーキー展」の図録 - 京都ノートルダム女子大学

by user

on
Category: Documents
5

views

Report

Comments

Transcript

「ギーキー展」の図録 - 京都ノートルダム女子大学
ギーキー展
科学研究費 (平成22年度~24年度)
「スコットランド啓蒙の時代の古都エディンバラにおける版画肖像画」
ギーキー銅版画展 図録 展示企画 服部昭郎
京都ノートルダム女子大学図書館
2011/3/29 ~ 4/12
目次
第一章
古都エディンバラの版画肖像画 --------------------------------------------------
1
第二章
ウォルター・ギーキーについて --------------------------------------------------
5
第三章
出展作品
--------------------------------------------------
18
エディンバラの版画肖像画
古都エディンバラの版画肖像画
スコットランドの古都エディンバラにお
ケイの銅版画が優れた芸術作品かどうか
ける版画肖像画の伝統に関する研究では、
については種々の意見のあるところである。
その成果公開の一環として、ジョン・ケイ
しかし中世の面影を残す 18 世紀エディン
(John Kay 1742~1826)およびベンジャミ
バラのオールドタウンの目抜き通りで理髪
ン・クロンビー(Benjamin Crombie 1803
店を営みながら道行く人たちを注意深く観
~1847)の版画作品展をそれぞれ平成 20 年
察し、その姿を銅版画として描いた彼の作
3 月と平成 21 年 6 月に行った。従って今回
品はいわゆるスコットランド啓蒙の時代の
のウォルター・ギーキー(Walter Geikie
古都エディンバラに暮した人々に関する興
1795~1837)展は通算で3回
味深い歴史資料
目の成果公開となり、これを
であることに違
以て本研究テーマに関わる展
いない。もちろん
示の一応の区切りとする考え
他に類を見ない
である。
その独特の銅版
ケイ展およびクロンビー展
画作風も今後高
は科学研究費補助金「ジョ
く評価されるで
ン・ケイの研究:カリカチュ
あろう。
アとして描かれた古都エディ
ケイは生涯に
ンバラの文人墨客たち」
(平成
約 900 点ほどの
19 年 度 ~ 20 年 度
萌芽研
究・19652030)の研究成果の
一端を紹介するものであった。
ケイは 18 世紀後半から
作品を残したと
ケイ自画像
指差している書物は自身の(未
来)の作品集。同時期に描かれた油
絵自画像も存在している。1786 年
の制作なので、40 代半ばの像。
考えられている
が、そのうちの
330 点あまりの銅
19 世紀前半にかけて、エディンバラのオー
版画が四折二巻本『故ジョン・ケイ銅版画
ルドタウンに暮らした様々な人たちの銅版
集 -- 肖像とカリカチュア--』として 1837
画ポートレイトを多数残した画家である。
年から 1838 年にかけて出版された。出版
今日のエディンバラではケイの作品を知る
は同郷のヒュー・パットンによって行われ
人は決して多くないが、近年一部の研究者
たが、その時パットンはケイの描いた人た
をはじめとして次第に人々の関心を集める
ちそれぞれにまつわる逸話の執筆をジェー
ようになっている。言うまでもなく日本に
ムズ・パタソンなる人物に依頼した。この
おいてはこれまでケイの銅版画は知られて
ような経緯によって今日に残されている四
おらず、平成 20 年のケイ展は少なくとも展
折二巻本『銅版画集』はケイの銅版画とパ
覧会としては最初ではないかと思われる。
タソンが執筆した人物紹介テキストから成
1
エディンバラの版画肖像画
立しているのであるが、このパタソンが残
である。1839 年から、クロンビーが他界し
した夥しい数の逸話もケイの銅版画同様当
た 1847 年にかけて断続的に刷られていた
時のエディンバラの人たちやその暮らしを
ようだが、48 作品が集大成されて 1882 年、
知る上で貴重な歴史資料であることは言を
横長二折本『現代のアテネ人―スコットラ
またない。
ンドの古都エディンバラの著名人肖像画―』
としてエディンバラのアダム・アンド・チ
ャールズ・ブラック社より出版された。
このクロンビーのリトグラフ肖像画集は
『現代のアテネ人』と名付けられているが、
これは言うまでもなく、古都エディンバラ
がいつのころからか「北のアテネ」と呼ば
れるようになったことに因んでいる。いわ
ゆるスコットランド啓蒙と呼ばれる 18 世
ケイ展 平成20年3月~4月
紀後半、エディンバラはヨーロッパを代表
京都ノートルダム女子大学図書館
する文化都市となっていた。そのエディン
バラのめざましい発展ぶりを古代のアテネ
今日のイングランドやスコットランドで
はケイの四折二巻本『銅版画集』の多くが
になぞらえ、その異名が広く使われるよう
になったのである。
解体され、銅版画だけが古書市場に出回っ
展示した 10 作品は、1839 年に初めて世
ているのが現状である。ケイ展ではそれら
に出された 16 作品のうちに含まれ、1882
の銅版画をご紹介したが、京都ノートルダ
年版『現代のアテネ人』の冒頭に配置され
ム女子大学図書館が所蔵している四折二巻
本も参考のため展示した。
先述の科研費研究はケイとほ
ぼ同時代人と考えてよいベンジ
ャミン・クロンビーも考察の対象
となっていた。クロンビーも、ケ
イより少し後になるが、19 世紀
前半にスコットランドの古都エ
ディンバラを拠点として活動し
た画家である。展示した二名一組
の人物肖像画はクロンビーの代
表的な作品とされる。三十代より
手がけられ、発売当初から評判と
なり、エディンバラの法律家の事務所や、
牧師の執務室などの壁をかざっていたよう
2
クロンビー『現代のアテネ人』(1882 年)より
「デーヴィッド・ディクソン師と
ロバート・キャンドリッシュ師」
エディンバラの版画肖像画
ているものである。それぞれの作品に描か
れている二名の紳士については、1882 年の
『現代のアテネ人』にウイリアム・スコッ
ト・ダグラスなる人物が簡単な人物伝を書
いている。人物画と逸話テキストとを合わ
せるこの形式は、恐らく、1837 年に出版さ
れたジョン・ケイの『銅版画集』に倣った
ものと思われる。
例えば前頁の肖像画のふたりはともに聖
職者である。左側に位置している人物はデ
ーヴィッド・ディクソン師。右側はロバー
ト・キャンドリッシュ師。一見して違いの
わかる年恰好や体つき以外に、ふたりは牧
師としての立場を大きく異にしていた。
1843 年のスコットランド教会分裂の中でデ
ィクソンは守旧派に属し、そしてキャンド
クロンビー「ウェイヴァリーの著者」(1831 年)
リッシュは改革派の指導者であった。
ディクソンは 1832 年に死去した文豪ウ
アッカーマンによって 1831 年に刷られた
ォルター・スコットのスコットランド教会
この全身肖像画は、スコットが 1832 年にこ
葬をスコットゆかりの地アボッツフォード
の世を去っているので、スコット最晩年の
で司式したことで有名である。
貴重な肖像画であると言われている。肖像
キャンドリッシュはスコットランド教会
画のタイトル「ウェイヴァリーの著者」は
を脱会した後、トーマス・チャーマーズと
1814 年に発表されたスコットの代表的物語
ともにスコットランド自由教会を創始した。
『ウェイヴァリー』に因んでスコットに与
その自由教会によって設立され、後にエデ
えられた名である。
ィンバラ大学神学部となるニュー・カレッ
ジの学長も務めた。
さて、18 世紀後半のスコットランド啓蒙
の時代を中心に、19 世紀に至るおよそ 150
ふたりの聖職者の言わば正反対の足跡を
年間の古都エディンバラにおける版画肖像
考えると、お互いをしっかり見つめ握手さ
画の伝統を担った3人目の画家はウォルタ
せて描いているクロンビーの意図はどこに
ー・ギーキーである。ケイ、クロンビーそ
あったのかと考えさせる構図と言える。
してギーキーへと至る版画肖像画の研究に
この 10 作品に加えて展示した 1 点の肖像
ついては、
「スコットランド啓蒙の時代の古
画は、
『現代のアテネ人』の口絵となってい
都エディンバラにおける銅版画肖像画」の
るスコットランドの文豪ウォルター・スコ
研究として新たな科学研究費補助金(平成
ット像である。ロンドンの版画店ルドルフ・
22 年~24 年)の対象となっている。
3
エディンバラの版画肖像画
ケイおよびクロンビーと同様、ギーキー
という画家はこれまで日本で知られておら
ウォルター・ギーキー
ず、その作品も紹介されることはなかった
『スコットランドの人と風景』(1885 年版)
と思われる。ただ、ケイやクロンビーそし
ローダーの編集となっている。エディンバラのウィリア
てギーキーたちの名前や作品は、本国スコ
ム・パタソンの出版。
ットランドでも一部の専
門家や好事家たちを除く
と、それほど人々に知られ
ているわけではない。
ギ ー キ ー なる 名 がも し
日本で知られているとす
ると、19 世紀から 20 世紀
前半に活躍したスコット
ランド出身の地質学者ギ
ーキー兄弟ではなかろう
か。兄がアーチボルド、弟
はジェームスで、当時の英
国の地質学会を代表する
学者であり、その業績は世
界的に知られているとこ
ろである。我々の画家ウォ
ルターはこの兄弟と縁戚
関係にある人物であるが、
アーチボルド誕生からお
よそ2年後にウォルター
は死去している。
ウォルター・ギーキー
の伝記的情報については、
その死後(1841 年)に出版
された銅版画集のために
スコットランドの作家ト
ーマス・ディック・ローダ
ー(1784~1848)が寄せた文章を参考にして
以下に記す。
4
ウォルター・ギーキーについて
ウォルター・ギーキーについて
画家ウォルター・ギーキーは、スコット
ラで聾唖学校を再建している。ウォルター
ランド啓蒙の時代の古都エディンバラに誕
の父は、四半期 9 ギニーの授業料を負担し
生した。1795 年 11 月 9 日であった。彼は
て早速息子をその学校へ入学させたのであ
エディンバラのジョージ・スクェア近くの
った。
チャールズ・ストリートに生まれたのであ
ローダーは「伝記」の中でその頃のウォ
るが、ジョージ・スクェアは今日でもエデ
ルターの学習熱心さに触れ、ブレードウッ
ィンバラ大学医学部がある場所で、ウォル
ドの教育を受けた彼が学校で早速頭角を現
ターはその大学医学部近くで開業していた
し、助手に抜擢されるまでになったと記し
香料商アーチボルド・ギーキーの長男とし
ている。しかし、先にも触れたように、ブ
て生まれた。
レードウッドが 1798 年にロンドンで死去
2 歳の頃、その後のウォルターの生涯に
したことははっきりした事実であるため、
大きな影響を及ぼすことになる病気が彼を
ウォルターがブレードウッドから直接教育
襲うことになる。大変重篤な熱病により、
を受けたかのようなローダーの記述、ある
最悪の事態は免れたものの、ウォルターは
いは助手に採用されたということなどは実
聴覚を失い、言葉の不自由な一生を余儀な
際には可能性は低いのではないかと思われ
くされることになったのである。しかしこ
る。ただこのブレードウッド聾唖学校での
の不運な息子に対して父アーチボルド・ギ
教育によってウォルターが高い言語能力を
ーキーは熱心に教育をほどこし、9歳にな
身に着けたことは確かなようで、これが後
るころにはアルファベットを認識できるよ
に彼が熱心にキリスト教会活動を行う素地
うになり、次に文字を読むことも出来るよ
となっているのである。このことについて
うになったのである。読みの次は書くこと、
は後ほど触れることにする。ちなみに障害
そして簡単な算数と、ウォルター少年と父
を持つウォルターへ文字の読み書きや算数
の挑戦は続いた。
などを教える父アーチボルドの努力は献身
英国での聴覚障害者に対する教育は、
的であったと言うべきであるが、彼のこの
1760 年に有名な教育者トーマス・ブレード
努力は、先述したように、彼がエディンバ
ウッドがエディンバラで聾唖教育を開始し
ラ大学医学部キャンパスのごく近くで香料
たことに始まるとされているが、ブレード
商を営んでいたため、障害児教育について
ウッドは後にこの聾唖学校を閉じてエディ
比較的情報を入手しやすかったこととも大
ンバラを去り、ロンドンで新たな聾唖学校
いに関係していると考えてよいだろう。
を 1783 年に設立することになる。
ブレード
さてウォルター・ギーキーの絵の才能は
ウッドは 1798 年にロンドンで死去するが、
幼少の頃から発揮されたようで、父親も息
晩年にロンドンから招聘されてエディンバ
子の才能に早くから気づき、その道を進む
5
ウォルター・ギーキーについて
ための様々な援助を惜しまなかった。そし
画肖像画の伝統の中にあって、やはり町を
て 14 歳となった頃、パトリック・ギブスン
往来する人々の素描にもっともよく発揮さ
なる人物から初めて専門的な絵の手ほどき
れているからではないだろうか。銅版画肖
を受ける機会を持つことになった。1812 年
には、当時エディンバラで幾多の芸術家を
輩出していたスコットランド産業振興会立
美術学校へ入学を許される。当時この美術
学校は才能ある若者が多数通う学校であっ
たが、そこへ入学を許されたウォルターの
才能もすでに多くの専門家によって認めら
れていたに違いないであろう。この頃から
すでに彼の才能は町行く人々のスケッチに
大いに発揮されることになる。
ローダーは、ウォルターが美術学校に通
う傍ら町で見かける人々をいかに熱心に写
①
「グラスマーケット 白鹿イン」
グラント『エディンバラ今昔』(1882 年) より
生していたかを如実に窺わせるエピソード
をひとつ紹介している。このエピソードは
像画家ウォルター・ギーキーは、スコット
画家ウォルター・ギーキーの本質をよく表
ランド啓蒙の時期に古都エディンバラに暮
しているように思えるのであるが、それは
らしていた人々、特に彼の場合はケイやク
彼の才能が、ケイやクロンビーたちの銅版
ロンビーとはいささか異なり、もっぱら当
時のエディンバ
ラに暮らす下層
階級の人々の姿
だけを独特のタ
ッチで描いてお
り、その銅版画
はスコットラン
ド啓蒙という輝
かしい歴史の底
辺に暮らしたエ
ディンバラの庶
民の姿を知る上
での貴重な歴史
資料となってい
②
ギーキー「グラスマーケットのハロ・フェア」
るのである。ス
コットランド啓蒙の時期の華やかで進取の
6
ウォルター・ギーキーについて
気風盛んなエディンバラにあって、画家ギ
ある日画家ギーキーはこのグラスマーケ
ーキーの視線はごくありふれた市井の人々
ットでかつぎ屋に遭遇する。そして彼の絵
に注がれ、彼らの日常の何気ない一コマ一
心が激しく刺激されることになった。腹は
コマを生き生きと描いているのである。
はちきれんばかりの太鼓腹、下唇をキッと
さてローダーが紹介しているエピソード
結び、上に反り返った鼻を持つこの男は、
の中の画家ギーキーのモデルは、オールド
「俺をかつぎ屋だと思って馬鹿にするな」
タウンのグラスマーケットで働いていた名
といわんばかりの立派な恰幅であった。こ
もなきかつぎ屋である。ギーキーは人物を
のかつぎ屋をどうしてもスケッチしたい画
描くことに関しては奇抜とも思える行動を
家なのだが、来る日も来る日もよいチャン
取る人であったようで、ひとたび興味をい
スがない。ここぞと思うこともあったが、
だく人物に町で遭遇するやもうクレヨンを
スケッチブックを抱えるギーキーが目に入
持つ手の動きを止めることが出来なくなり、
るや否や、このかつぎ屋はスーッと人々の
一心不乱にその人物をスケッチしたようで
間に姿をくらましてしまうのであった。こ
ある。
のかつぎ屋の後を追うギーキーの姿は、ロ
グラスマーケットはエディンバラ城の南
ーダーによると、
「獲物のキツネの後を追う
東に位置する広場で、中世からずっと馬市
スコットランド高地の狩人のようだった」
や穀物市などが立ってきた場所である。
そうである。ある日のこと、とうとうかつ
前頁の銅版画(①)は有名なグラントの
ぎ屋の一瞬の隙を盗んでギーキーはクレヨ
『エディンバラ今昔』
(1882 年)に掲載さ
ンを走らせ、何とかスケッチをものにする
れた銅版画によるグラスマーケット風景で
ことに成功しそうになるのだが、あいにく
あるが、中央に位置するインは「白鹿イン」
このかつぎ屋にそれを見つかってしまう。
で、エディンバラにあるパブのうちでもっ
かつぎ屋はこれまでのようにギーキーの執
とも古くからあるもののひとつである。も
拗な追跡から逃げるだけではなく、今回は
ちろん現在も営業している。
「白鹿」と名の
猛然とギーキーにたち向かって来るのだっ
つくパブはイングランドにも数多くあるこ
た。先ほども書いたように、このかつぎ屋
とはよく知られているが、エディンバラの
は仕事柄体格が大変よく、追っかけてくる
「白鹿イン」は 16 世紀に起源を持つ伝統あ
その圧力たるやさすがのギーキーも恐れを
るパブ兼ホテルで、詩人のバーンズやワー
なして一目散に逃げた。しかしギーキーの
ズワースも投宿したことが記録に残ってい
並外れた執念がここでも発揮されるのであ
るそうである。またこの「白鹿イン」はい
る。彼はフーフー言いながら追っかけてく
わゆる乗合馬車の発着場でもあったことで
るかつぎ屋から逃れながらも、後ろを振り
もその名を知られている。グラントの『エ
向き振り向きスケッチし続けたというので
ディンバラ今昔』は、
「1788 年には一週間
ある。そしてギーキーは大きな共同住宅(エ
で 46 便もの馬車がグラスマーケットに到
ディンバラ特有と言ってよい高層の共同住
着した」と記している。さぞかしにぎやか
宅で、地元ではランド(land)と呼ばれて
な場所であったろうことは想像に難くない。
いた)の小さい玄関にやっともぐりこんで
7
ウォルター・ギーキーについて
姿を隠すことに成功する。しかし画家の姿
うことである。この銅版画を見ていると、
を見失ってもさして落胆する様子でもなく、
題名は「立ち売り商人」となっているもの
かつぎ屋はやおら道端に腰かけて長期戦へ
の、ギーキーの描きたかったのは実際はこ
と移る。若い画家はいづれ隠れることに耐
のかつぎ屋ではなかったかと思えてくる。
えられなくなって白旗を振って出てくるだ
立ち売りに群がる大勢の人々の中で、じっ
ろう、というところか。勿論長期戦に移ら
と自分の時計を覗き込んでいるこの人物こ
れたギーキーにとって状況は厳しいものの、
そギーキーのお目当ての人物だったのでは
そこは天才肌の奇行の持ち主、この時間を
ないだろうか。そしてもしかしたら、この
利用して、狭い窓からかつぎ屋のスケッチ
人物が周りの喧騒そっちのけで見入ってい
を完成させたのである。
る品物はこの立ち売り商人から買い求めた
ものかもしれない。
③
ギーキー「立ち売り商人」
ところでギーキーがエディンバラの庶民
の姿をさかんに描
いていた頃は、こ
のような町の立ち
売りはあちこちで
行われていたよう
だが、その黄金時
代はすでに終わろ
うとしていた時代
でもあった。馬車
から始まり、次い
で汽車が英国中を
走り回るようにな
り、人と物を大量
このかつぎ屋はギーキー作品のいくつか
に運ぶ新たな流通の時代の波がそこまで押
に登場するのであるが、上(③)はそのう
し寄せて来ていたのであった。立ち売り商
ちのひとつである。
人たちが商売道具であるエル・ワンド(主
この銅版画には立ち売り商人の周りに集
に布地を計るのに用いられた物差し。1 エ
まるたくさんの人々が描かれている。ギー
ルはスコットランドではだいたい 90 セン
キーが描くことに執着したかつぎ屋は左か
チ)と呼ばれた物差しや商品を入れた入れ
ら5人目、右手に何やら大切なものを握っ
物を持って町々を歩きまわり、小銭を稼ぐ
ているように描かれている。筆者の手元に
時代は終わろうとしていたのである。
ある 1885 年版の『銅版画集』に収められて
ギーキーより少し前の世代の銅版画家
いる銅版画についての解説テキストではこ
たちもエディンバラのいろいろな行商人た
の人物が手にしているのは古い時計だとい
ちをさかんに描いている。いわゆるチャッ
8
ウォルター・ギーキーについて
プブックなどで、町の行商人を銅版画で描
いたものが残されている。
例えば下の銅版画(④)はケイの描いた
牡蠣りの女性行商人である。
19 世紀初めのチャップブック
『エディンバラの呼び売り声』
例えば上のチャップブック『エディンバラ
の呼び売りの声』に挿入されている行商人
は次のような姿である。
④
ケイ「エディランバラの牡蠣売り」
(1812 年)
銅版画下部の言葉は
WHA’L O CALLER OYSTERS !
と書かれている。「新鮮な牡蠣はいらんか
ね!」と言ったところであろう。ケイ作品
に解説を寄せたパタソンは「牡蠣売りの美
しい声はニュータウンの大通りに響き渡る
のだが、残念ながらイングランドの人々に
左が魚売りで、鱈を売っている。右は塩の
は言葉の意味はいささかわかりにくいであ
行商人。図像の下にそれぞれの売り声が記
ろう」と書いている。このわかりにくい言
されてある。
葉というのはもちろんスコットランド訙り
ケイもさかんに描いており、当時の行商
人の姿が垣間見られて興味深いものがある。
9
を言うのであって、特にこの牡蠣売りの売
り声は
ウォルター・ギーキーについて
WHA’L O’ CALLER OU !
の口から飛び出す様々な情報を聞きに集ま
ってくるのであった。1885 年版のギーキー
となってさらにわかりにくい発音だったよ
『銅版画集』逸話テキストの著者は、こう
うである。しかしその売り声の響きは他の
いう行商人の姿を「口伝えのタイムズ」と
商品の売り声を遥かに凌ぐ美しさを持って
呼んでいる。
いたとパタソンは言う。
町を歩く牡蠣売りの女性の売り声と違っ
その衣装も独特で、頭から木綿のスカー
て、ここに描かれている商人は大勢を集め
フ状の布をすっぽりとかぶり、黄色い縦縞
ての「立ち売り」であるが、彼らも独特の
のスカートを纏っていた。背中に背負って
呼び売りを行っていたようで、ここにその
いるのが牡蠣入れで、クリールと呼ばれて
ひとつをご紹介しよう。彼の地の呼び売り
いた籠である。
もやはり「さあさ、寄ってらっしゃい」で
牡蠣売りたちは、当時上流階級の人々の
始まるようである。
間で盛んに行われていた牡蠣パーティーを
目当てに夜遅くまで牡蠣を売り歩いたよう
さあさ、寄ってらっしゃい、善良なる町の皆さん
である。また特定の場所で、例えばにぎや
ひと儲けのよい話、
かな劇場の傍などで牡蠣を売る女性たちも
こちらの品をよくごらん、さあ持ってお行き、
いたようである。
このショール、2 ポンド 3 シリングだ
かつていろいろな物売りが町を往来して
俺はほら吹きではないよ、
いた時代背景から先のギーキーの「立ち売
これはペルシャはたまたインドからの到来物、
り商人」を見ると、銅版画家ギーキーは近
よし半クラウンでどうだい、さあ、どうだい、
代化の波に洗われ激しく変化しつつあるス
決まった?どのみちこっちは破産だが、
コットランド社会の片隅にかすかに残るな
えい、持ってけ!
つかしい人々の姿を描いていることがよく
わかるのではないか。ギーキーの作品の特
町の立ち売りでは絵の類も販売していた
徴のひとつとしてよく指摘されるのは画家
ようで、どうもこうなると実はあまり信用
のやさしく心温まる視線であるが、実はそ
のおけない物も売っていたようである。こ
れは近代化という時代の変化の波に洗われ
ちらはこんな「売り声」であった。
ながらも連綿と続いてきた庶民の生活の名
残を描こうとした画家の視線であったので
「ファウスト博士と悪魔」の絵だ。
ある。
きれいに保存されたいい絵だよ。
町の通りのあちこちに立って客を呼び商
イタリアの画家の作品だが
売をするこのような商人たちはチャップマ
たしかティッチアーニとか言ったな。
ンと呼ばれていたが、彼らはただ品物を売
きのうあるフランス人が俺にこう言ってた、
り歩くだけではなく、まさしく噂の運び手、
「これは傑作だよ」とね。
いわば金棒引きであった。だから彼らが町
一説によるとこの絵は20年もの間
で客を呼び集めにかかると人々はその商人
ルーブルに架かっていたそうだ。
10
ウォルター・ギーキーについて
さあこの絵、5ポンドと6ペンス、
さてギーキーはもっぱら銅版画で人物を
さあ買った買った、大儲けだよ。
描いたのであるが、数としては少ないが、
決まったかい?よし、持ってけ!
いわゆる絵も残している。しかし今日それ
らの絵を見ることはほとんどないようであ
ギーキーも「魚売りの女」(⑤)などの他、
る。一般には、ギーキーは素描に才能を発
いろいろな物売りを描いている。この「魚
揮した人であり、絵の具使いはあまり上手
売りの女」はケイなどにも描かれているの
くなかったと言われている。先のローダー
と同様、エディンバラの小漁村ニューヘイ
も、
「色使いの点で画学生ギーキーの訓練は
ヴンからの行商人であろうか。それとも7
あまりよい結果ではなかった」とはっきり
マイルほど東のマッセルバラからの行商人
と言っている。
だろうか。装束などは先の「牡蠣売り」と
同じに描かれている。
⑤
ギーキー「魚売りの女たち」
そういう経緯もあってか、彼は生涯にわ
たって銅版画に集中するようになったと考
えられ、今日まで残された作品もこの銅版
画が圧倒的に多いとされている。
ギーキーの描く人物の背景には古都エデ
ィンバラの町の風景もいくつか描かれてい
る。中には風景そのものを描いた銅版画も
残されている。その代表的なものとして、
エディンバラ城へ至るいわゆるキャッス
ル・ヒル、多くの庶民が居住していたカウ
ゲイト、馬市などが立ったグラスマーケッ
ト、路上に売り台を設置して布を売ってい
たローンマーケットなどが描かれている。
⑥
ギーキー
「カウゲイト」
かつてカウゲイトは富
裕層の住む地域であった
が、ニュータウンが完成
後は急速にその品位が変
化したようだ。このギー
キーの絵を見る限りで
は、すでに庶民的な街並
みとなっている。
西端がグタスマーケッ
トにつながる。その西端
近くにギーキーの墓があ
るグレイフライヤーズ教
会墓地が位置する。
11
ウォルター・ギーキーについて
ギーキーは 1831 年スコティッシュ・ア
いては現在までのところ未見であるが、
カデミーの准会員(Associate)そして3年
1984 年にエディンバラ大学タルボット・ラ
後には正会員(Fellow)に選出され名実と
イス・センターで開催された『ギーキー銅
もスコットランドのすぐれた画家として認
版画展』の図録(スコットランド国立図書
められることになる。
館蔵)によると、これらの銅版画は 1841
ギーキーが最初に制作した銅版画は、ロ
年版には収められていないようである。他
ーダーによると「ジョン・バーリーコーン」
の 1831 年版、1841 年(初版)1885 年(再
という作品だった。これはデーヴィッド・
版)はスコットランド国立図書館に所蔵さ
レインによって当時出版されたスコットラ
れていることを確認している。
ンドのバラッド集の挿絵(tail-piece)とし
現在筆者の手元にある 1885 年版には
て描かれたものであった。その後彼は夥し
1831 年の Studies from Nature 所収の 18
い数の銅版画を制作することなる。
作品を含む 92 作品が収められている。
最初の作品が書物の挿絵であったことか
ところで 1885 年版の口絵はギーキーの
らも窺い知ることができるように、生前か
銅版画の中で最も有名な作品のひとつ「シ
らウォルター・ギーキーの銅版画作品は
ョー・ジェイミー」
(⑦)である。
様々な出版物として世に出ている。1996 年
に書かれた画家ギーキー伝であるレイモン
ド・リー『ウォルター・ギーキー 1795 年
~1837 年』
(British Deaf History Society
刊 1996 年)によると、1826 年から 29 年
にかけての 3 年間に 87 作品を出版、その後
1831 年にエディンバラの H. パットン(H.
Paton) によって 18 作品が
Studies from
Nature というタイトルで出版されている。
それ以降の主なる出版としては、本図録で
も た び た び 言 及 し て い る ロ ー ダ ー (Sir
Thomas Lauder) による「ギーキー伝記」
を掲載する 1841 年版がこれもエディンバ
ラの J. スチュアート(J. Stewart) によっ
て出版され、この版は 1885 年にローダー
編集として 1841 年版にさらにいくつかの
銅版画とそれぞれの銅版画についての解説
を加えてエディンバラのウイリアム・パタ
ソン(W. Paterson)によって再版されている。
⑦ギーキー「ショー・ジェイミー」
1885 年版は 366 部の限定出版であった。
リーの言及している最初の 87 作品につ
12
この銅版画に描かれた人物の名はジェー
ウォルター・ギーキーについて
ムズ・ビートスン。生年不詳のこの人物に
たエディンバラのオールドタウンに住まう
ショーというあだ名がついたのは、この銅
人たちであろう。
版画に描かれている「のぞき箱」による。
そしてまたこの絵はギーキー本人のスケ
箱の中にある幾枚かの絵をレンズを通して
ッチ行をも彷彿させるのではないだろうか。
見る装置であり、ジェイミーはこの箱をぶ
ギーキー自身も人々を描くためにスケッチ
ら下げて町を歩きまわり、人に見せては小
ブックと鉛筆を携えて毎日のように町を徘
銭を稼いで糊口を凌いでいたとされる。そ
徊したとされているが、その時恐らく多く
の他にも、彼は小さいビンに昆虫を入れて
の町の子供たちに付きまとわれたに違いな
子供たちに見せたりもしたようで、二枚目
い。先に言及した親戚筋にあたる地質学者
のジェイミ―像はそんな一場面を描いてい
アーチボルド・ギーキーの妻となった女性
るものである。
(⑧)
が、夫の従弟が町中で不潔な少年少女たち
と連れ立って歩いていた放浪の画家であっ
たことを良家の恥さらしとしてひどく嫌っ
ていたとわざわざローダーは言及している。
さてこの「ショー・ジェイミ―」に最も
よくあらわれている銅版画家ギーキーのエ
ディンバラ市民を見つめる温かい眼差には
様々な人間性を垣間見ることができるであ
ろうが、その中で特に人間ギーキーの精神
的支柱としての敬虔なキリスト教信仰を忘
れてはならないであろう。
これもローダーの伝えるところによると、
ギーキーは成人してのち、同じような聴覚
障害を持つ友人たちと共に聾唖者だけの祈
りの会を定期的に持ったようである。そし
てその祈りの会では手話による聖書講話な
どをギーキー自ら行ったということである。
⑧
ギーキー 「ショー・ジェイミー」
聾唖教育がまだ歴史上緒に就いたばかりの
時代にあって、ギーキーのこのような宗教
ギーキーの作品には多くの町の子供たち
活動は彼の人となりの基底を見ることがで
が描かれているが、この絵でもジェイミー
きることとして特筆すべきであろう。ギー
の周りに集まる子供たちの姿が生き生きと
キーの銅版画を観るすべての者が印象深く
描かれているのがまことに印象的である。
感じる画家のエディンバラの貧しい人々へ
ここに描かれている子供たちとその母親ら
の温かな眼差しは、実は彼の信仰に支えら
しき女性はその身なりから明らかに下層階
れていたと考えられるのである。
級の人々であり、ギーキーが生涯描き続け
13
このような市井の人々の日常への温か
ウォルター・ギーキーについて
な視線は、時としてこれも人間ギーキー持
には町の「酔っ払い」を描いた銅版画がい
ち前のユーモア精神と相まって、さらに親
くつか残されているが、左の作品は中でも
しみに溢れる人物像を描くことになったの
有名である。真ん中の男性は泥酔状態のよ
であるが、その代表作品のひとつが次の「酔
うである。この男の介添えをする男ふたり
っ払い男」
(⑨)であろう。
のうちひとりの若者は息子であろうか。酔
っ払いの後ろに女房らしき女性が目頭を布
で抑えて立っている。夫のあまりの泥酔ぶ
りにとうとう涙をこらえることが出来なか
ったようだ。涙を流す女房や、酔っ払った
男を支える二人の男たちの姿には当時の貧
しい人々の日常の一端がストップモーショ
ンのように描かれている。しかし当の酔っ
払い本人の顔つきや、介添えのふたりの男
の顔つきなど、どれを見てもみなごく自然
で屈託がない。この絵のどこにも「暗さ」
がない。
さて、スコットランドの人々、特に男た
ちは、酒飲みとして夙に名高い。そしてこ
の酒にまつわる様々なストーリーの中でも
⑨
ギーキー
14
ギーキー「酔っ払い男」
特に有名なものがバーンズの詩物語「シャ
⑩
ギーキー
「シャンタのタム」
ウォルター・ギーキーについて
ンタのタム」であろう。ギーキーもこのタ
ムを描いている。前頁の絵がその一枚であ
る。
(⑩)
のである。
銅版画中で帽子に手を添えているのは、
あわてて逃げる途中に風に飛ばされないよ
アロウェイ教会から逃げ去ろうとう打跨
うにしているのか。いや、絵を見る者たち
る愛馬メグの尻尾を若くて魅力的な魔女ナ
の方に向けられた視線とともに何か曰くあ
ニーがつかんで離さない有名な場面である。
りげな会釈でもしているようにも見える。
もちろん泡を食って逃げようとするタムも
なぜなら魔女ナニーは「ぞっとするような
先の酔っ払い男に务らずほぼ酩酊状態であ
叫び声」をあげてタムに襲いかかる恐ろし
る。ただタムの女房ケイトは先の銅版画「酔
い追手である反面、2ポンドもする魅力的
っ払い男」の女房のように涙を浮かべて夫
な下着姿でタムの後ろを飛んでいるのだか
の後ろからついて歩くようなタイプではな
ら。バーンズの詩心に共鳴するように、ギ
い。そのガミガミぶりはタムの魔女との遭
ーキーのユーモアが絵いっぱいに漂ってい
遇の大切な伏線である。ケイトは毎日のよ
る。
うに酒に酔って帰るタムを
タムは毎晩のように酒盛りをするが、ア
ロウェイ教会で魔女たちに遭遇することに
Where sits our sulky, sullen dame,
なるその日も直前まで酒場で仲間といっし
Gathering her brows like gathering storm,
ょに酒をあおっていた。その場面もギーキ
Nursing her wrath to keep it warm.
ーは絵として残しており、それが今回展示
の作品のひとつである。
(⑪)
しかめた眉は嵐のまえぶれ
タムはあくまで物語の中の登場人物であ
怒りを爆発させようと不機嫌に
るのだが、ギーキーによって描かれるとタ
家で待ち構える
ムやその飲み友達がまるでスコットランド
のどこかの片田舎で実際に出会うかもしれ
ないような親しみ溢れる人物
像となる。
画家の心温まる視線の中で
描かれた子供、酔っ払いある
いは町の物売りたちは、いわ
ゆるスコットランド啓蒙とし
て歴史に語り伝えられるスコ
ットランド国民意識の大いな
る高揚期に、実はエディンバ
ラのオールドタウンの片隅あ
⑪
ギーキー「シャンタのタムと
靴屋のジョニー」
15
ウォルター・ギーキーについて
るいは片田舎の酒場でつましく暮らす人々
逸話テキスト作者は、子供の思案の一瞬
の姿なのである。例えば次の銅版画もその
をごく自然に描写しているこの銅版画の出
ような画家ギーキーの人物画の神髄を最も
来映えを高く評価し、シェイクスピアの「ト
よくあらわしている作品のひとつではない
ロイラスとクレシダ」
(三幕三場)からユリ
だろうか。
(⑫)
シーズの言葉を引用、
半ペニーは原題では
bawbee となって
おり、スコットランドのかつての少額銀貨
世の人々すべてに親しみを感じさせる
である。銅版画に添えられた逸話では、こ
こで女性が売っているのはベリーではなく
と絶賛している。
実は貝である、とする。女性が持っている
ところでこのふたりの少年の恰好に注
ふたつ重ねの籠はクリールと呼ばれるもの
目してみたい。もしふたりが兄弟だとする
で主に海の幸を売り歩く女性の道具であっ
と、向かって右側の子供が恐らく兄であろ
たことがそう推測されると言うのだ。
う。そのズボンはダブダブで裾も上げてあ
る。そして
昔は毛足の長い靑いビロードズボンも
(バーンズ「シャンタのタム」より)
今じゃテカテカ光っている。見るからに
お父さんのお下がりのようだ。
もうひとりの男の子は当時の庶民の
子供の多くが着せられていた上からか
ぶるようなワンピース。恐らく一番簡素
で便利な子供服だったのだろう。
ポケットに入れた兄の左手はコイン
を握っているのだろうか。女性もはかり
用の小さい器を手にして注文を待つ素
振りである。さて子供の手には本当にコ
インが握られているのだろうか、それと
もこの子達はほしくてたまらない食物
を前にただ佇んでいるだけなのだろう
か。町の片隅で偶然見かけた光景を画家
の愛情深い視線がすばやくスケッチに
⑫
ギーキー「もし半ペニーあったらベリー
が買えるのに」
仕立てているのである。
ローダーはギーキーについての短い「伝
記」の中で自分自身に関わる思い出として
16
ウォルター・ギーキーについて
ひとつのエピソードを紹介している。エデ
はその壮健な肉体がうみだしたものとも言
ィンバラにあった芸術家たちのあるクラブ
えそうである。しかしその壮健さは一方で
でのことである。
肉体への過信を生み、1837 年の夏、急な発
ローダーもギーキーもともにそのクラブ
熱にも無頓着にいつものようにスケッチに
の会員だったようである。そしてそのクラ
出かける日々を送っていたが、その熱は一
ブでのギーキーの様子が語られている。ギ
向に下がることがなく、急速にギーキーを
ーキーはクラブ会員を前に町で見かける
弱らせ、発熱から5日後、とうとう戻らぬ
様々な人たちの素振りを真似てみせること
人となったのである。8 月 1 日のことであ
がよくあったと言う。クラブの会員がギー
った。ギーキーはエディンバラのオールド
キーをたきつけると、靴屋の仕草、千鳥足
タウンの中心に位置するグレイフライヤー
の酔っ払いたち、船酔いの男など次々と「演
ズ教会墓地に埋葬されている。
じ」て見せてはまわりの人々を笑いの渦に
巻き込んだと言う。これなどは、ギーキー
の陽気な人柄を語るエピソードであること
に加えて、画家ギーキーの観察眼の鋭さを
も証明しているものではないだろうか。
ギーキーは聴覚の不自由さを除ききわめ
て壮健な身体に恵まれた人物だったようで
ある。彼の夥しい数の町の人々のスケッチ
グレイフライヤーズ教会と墓地
1820 年に刊行されたストアラの『エディ
ンバラ風景』に掲載された銅版画。この教
会墓地にはジョン・ケイも眠る。
17
出展作品
出展作品
図版上部のタイトルに付随する情報は順番に
1985 年刊行のギーキー銅版画集
『エディンバラの人と風景』の
図版番号
タテ X ヨコの図版サイズ(cm)
18
出展作品
シャンタのタムと靴屋のジョニー
19
(1885 年版 No. 40 12.7 X 16.5)
出展作品
ロバート・バーンズの「シャンタのタム」からの一場面である。
When chapman billies leave the street,
And drouthy neibors neibors, meet;
As market days are wearing late,
An’ folk begin to tak the gate;
While we sit bousing at the nappy,
An' getting fou and unco happy,
立ち売り商人が通りから去ると、
飲み友達が集まる。
町の人々は市のたつ日は遅く
家路につくが、
おれたちはここに座って
ほっこりしよう。
(「シャンタのタム」1~6 行)
絵の真ん中に陣取っているのがタム。頭につけているのが後に人々から「シャンタのタム」
という名をもらうことになる帽子。隣に座るのが「幼馴染でタムの親友」靴屋のジョニー。
彼らは兄弟のような間柄。タムの左側に座るのが酒場のおかみさん。実はタムはおかみさ
んに色目を使っている。タムの後ろにひかえているのが酒場の亭主だろう。
As bees flee hame wi' lades o' treasure,
The minutes wing'd their way wi' pleasure:
Kings may be blest, but Tam was glorious,
O'er a' the ills o' life victorious!
ミツバチが宝を巣に運んでいるかのように
楽しい時間が過ぎて行く。
王様が幸せなようにタムも上機嫌
人生の苦労も吹っ飛ぶというものだ。 (「シャンタのタム」55~58 行)
彼らの飲んでいるのはビール、またの名をジョン・バーレイコーン。酒宴は深夜まで続
く。
20
出展作品
この「シャンタのタム」はバーンズゆかりのエアシャのアロウェイを舞台としているの
だが、このことについて、詩人バーンズの兄ギルバート・バーンズは次のように書き残し
ている。「父がアロウェイ教会近くで小作地を得た時、教会はほとんど廃墟と化していて
牛が自由に行き来していた。父は二、三の近隣に住む人々と連れ立ってエアシャの行政に
掛け合い、再建を申し出たのだった。人々の先祖の墓地を思う気持ちが強く、なんとか寄
付で墓地を壁で囲うことが出来たのだ。後になって、考古学研究家フランシス・グロウス
がスコットランドで発掘調査の折に弟(ロバート)に出会い、エアシャ訪問となったので
ある。弟はアロウェイ教会に伝わる魔女の物語のことをグロウスに話したところ、グロウ
スはその話をぜひ詩にしてほしいと助言、「シャンタのタム」誕生と相成ったのである。」
左は『スコットランドの文化遺産』
(1789-1791)
などの著者として有名な考古学研究家フランシ
ス・グロウスを描いたジョン・ケイの銅版画であ
る。彼はスコットランドでの発掘調査の折、1780
年にエディンバラを訪れ、遺跡に残った碑文の拓
本作りなどを行った。この銅版画はその時の様子
を描いたものである。スコットランドを遍歴する
このフィールドワーカーに実際に出会い、心から
感服した詩人ロバート・バーンズは次のような有
名な詩句を残している。
フクロウが棲家としている古い建物でもあったら
屋根も朽ちてなくなった教会でもあったら
そこにグロウスが潜んでいること間違いなし
(
「故グロウス大尉のスコットランド遍歴」より)
グロウスも『スコットランドの文化遺産』の中で次のようにバーンズのことを述べて
いる。
我が真の友ロバート・バーンズに感謝。彼は生まれ故郷エアシャにおいて注目すべき遺跡について
語ったばかりか、素晴らしい作品の舞台として廃墟となっていたアロウェイ教会を用いたのだ。
ここでグロウスが言及しているアロウェイ教会を舞台としたバーンズの素晴らしい作品」
が「シャンタのタム」である。グロウスは 1791 年ダブリン滞在中に客死。享年 52 歳であ
った。
21
出展作品
ちなみにバーンズは 1759 年 1 月 25 日にスコットランドの
西海岸のエア近郊の小村アロウェイに生まれた。いわゆるス
コッツ語(Scots)による詩でスコットランドの国民詩人と称
される。スコットランドの自然を背景に、そこに暮らす農民
の姿を描くとともに、持ち前のするどい批判精神から当時の
急激な社会の変化に対する風刺に満ちた詩を多数残した。こ
のバーンズの風刺精神は、スコットランド啓蒙の時代のエデ
ィンバラにおける版画肖像画家たちのエスプリに一脈通じる
ところがあるのではないか。
今日のアロウェイ教会墓地。
バーンズのアロウェイの生家か
らほんの1キロほどしか離れていな
い。バーンズの父ウィリアムはこの地
に眠る。家族の墓とすることがウィリ
アムの願いであったが、現実はそうな
っていない。
バーンズがその代表的作品「シャン
タのタム」を書いたのは、1788 年に
移り住んだエリスランドにおいてで
あった。
メグよ走れ 力尽きるまで走れ
あの橋越えて
そこで魔女に尻を振ってやるんだ。(「シャンタのトム」より)
ドゥーン川にかかる
石橋。スコット語で「ブ
リガドゥーン」である。
バーンズの生家から 100
メートルほどの距離。ド
ゥーン川はアロウェイ
の南部を流れる。
22
出展作品
牛の売買
23
(1885 年版 No. 25 16.0 X 13.5)
出展作品
スコットランドは家畜の国である。ギーキーの生きた時代でもそうであった。これはそ
のような家畜の国の一情景である。原題は Settling for Crummie となっているがこの
crummie とはスコットランドの方言で牛を指す。別に hawkie という語もある。
この絵にはふたりの男が描かれているが、いったいどちらの男が牛を買ったのであろ
うか。ギーキーの絵では判然としない。一見財布の中を探している向かって左側の男が買
い手のように見受けられるが、逸話テキストの作者は断固右側の男だと主張する。その証
拠には左の男の顔に浮かぶかすかな笑い、牛が売れたことへの安堵感が漂っていると判断
させられるのだそうだ。一方右の男の視線は払ったばかりの金をじっと見ているのだ、と。
さていったいこの判断をどう思えばよいのだろうか。いずれにしても、売り手も買い手も
どちらも牛を育てることを生業としているスコットランドの農民なのである。
バーンズの詩「ナニーよ」の一節にこうある。
Our auld Guidman delights to view
His sheep an' kye thrive bonie O;
But I'm as blythe that hands his pleugh,
An' has nae care but Nanie O.
老人は羊や牛が立派に育つのを見ると
うれしくてたまらない。
しかし僕は畑を耕すのが楽しい、
いつもナニーのことばかり頭に浮かべているからさ。
ギーキーはまさに牛が立派に育ったことに満足げな男ふたりを描いているのである。
24
出展作品
老夫婦
25
(1885 年版 No. 19
17.8 X 12.1)
出展作品
“ John Anderson, My Jo”
by Robert Burns
ロバート・バーンズ
「私の最愛の人、ジョン・アンダーソン 」
John Anderson, My Jo, John
私の最愛の人、ジョン・アンダーソン
When we were first acquent,
私たちが初めて出会った頃
Your locks were like the raven,
あなたの髪はカラスのような黒い色
Your bonnie brow was brent;
額はつやつや。
But now your brow is beld, John,
でも今はその額も禿げ上がっているね、ジョン
Your locks are like the snow;
髪も雪のよう
But blessings on your frosty pow,
でもあなたの白い髪は美しい
John Anderson, my jo.
私の最愛の人、ジョン・アンダーソン
John Anderson, my jo, John,
私の最愛の人、ジョン・アンダーソン
We clamb the hill thegither;
私たちは一緒に丘に登った
And mony a canty day, John,
そして毎日がほんとうに楽しかったね、ジョン
We've had wi' ane anither:
いつも一緒だった。
Now we maun totter down, John,
でも今はゆっくり坂道を下っている
And hand in hand we'll go,
手をはなさないで
And sleep thegither at the foot,
坂の麓で一緒に眠りましょう
John Anderson, my jo.
私の最愛の人、ジョン・アンダーソン
私の最愛の人、ジョン・アンダーソン
26
出展作品
リンゴはいかが、五つで半ペニーだ
27
(1885 年版 No. 18 22.6 X 17.4)
出展作品
この行商人の左手には五つほど実がのっている。そして確かに安い。しかしそんなはず
はない、リンゴが「五つ半ペニー」なんて。
この商人は町では結構顔が知れているようで、それもそのはず、リンゴ売りはその季節だ
け、他にはニシンなども手広く扱っている商人なのである。たまにはこの荷車に「キャン
ディー」を載せていることもある。しかし、どことなくうさんくさいのだ。
まず、この商人の売っているリンゴは見るからにリンゴらしくない。ジャガイモといっ
た方がよい形ではないか。おいしそうな果物の感じがしない。多分これは正真正銘のリン
ゴではないのだ。でも何をリンゴと言って売ろうとしているのだろうか。1885 年版の版画
集のテキスト作者も端からこれをリンゴとは認めておらず、
「固くて、緑色の、酸っぱく苦
く、そして果汁などほとんどない何かの野菜の『こぶ』状」のもの、と言っている。そし
て生のジャガイモでももっとうまいはずだ、と切り捨てている。
しかしとにかく安い。
「五つ半ペニー」は確かに手が出そうなのだ。その証拠に商人を取
り囲む客のうちで画面左側に位置しているカゴを頭に載せている少年は買いそうではない
か。ポケットに入れた右手にはなけなしの半ペニー貨が握られているはずである。
この少年の姿も実は町でよく見かけるようだ。腕白そうだが、肉屋で働いている。多分
配達の帰り道にリンゴ売りにつかまっているのだ。でも行商人をじっと見つめるその目は、
確かにお客の目をしており、右手の半ペニー貨がやっぱり物を言っているのだろう。もし
かしたら「昨日他の立ち売りで半ペニー六つだったぜ」と冷やかしも口から飛び出してき
そうな面持ちである。そうなのだ、ここに集まっている客たちには五つか六つか、と数が
誘惑なのだ。味は二の次、腹の足しになればよいのだから。
右手に半ペニー貨を握っていそうな面持ちのこの少年に比べると、その左側に立つもう
ひとりの少年はただじっとみつめるだけだ。その視線は「半ペニー五つ」にくぎ付けなの
だが、どうやらこの子は一文無しのようだ。そしてもうひとり、肉屋の少年の右側に立つ
女の子は、よほどお腹がすいているのか、「五つで半ペニー」を見ながら右手を口に持って
行っている。このふたりは多分「五つで半ペニー」を口にすることはないだろう。
28
出展作品
いささか飲み過ぎた男
29
(1885 年版 No.87 19.2 X 7.6)
出展作品
From “Willie Brew'd a Peck o' Maut” by Robert Burns (1788)
ロバート・バーンズ「ウィリーがモルトを一樽作った」(1788 年) より一部
O Willie brew'd a peck o' maut,
And Rob and Allan cam to see;
Three blyther hearts, that lee-lang night,
ウィリーがモルトを一樽作った
ロブとアランが見物に来た
三兄弟で朗らかに夜を過ごそう
Ye wad na found in Christendie.
キリスト教の国ではあり得ない。
We are na fou’, we're nae that fou,
まだ酔っ払ってない、まだまだ
But just a drappie in our ee!
でも眼だけは赤い
The cock may craw, the day may daw,
雄鶏が啼いて夜が明けても
And aye we'll taste the barley bree!
俺達三人はウイスキーを飲み続ける。
Here are we met, three merry boys,
ここに集う陽気な野郎
Three merry boys I trow, are we;
陽気な三人組
And mony a night we've merry been,
毎晩陽気に
And mony mae we hope to be!
いつまでも陽気に。
ギーキーの銅版画の中の三人も固い友情で結ばれているようだ。彼らも、バーンズの
詩の中の三人組のように、
「雄鶏が啼いて」もいつまでも付き合うのだ。ただ詩のこの部分
がペテロを風刺しているとするのはいささか深読みではないか。三人ともただただ酒を飲
んで陽気に騒ぎたいだけ、それで何が悪いかと詩人は言うのである。勿論敬虔なキリスト
者であったギーキーもこの三人組をそんな風に描いているのだ。
30
出展作品
面倒くさそうなにわか靴屋
31
(1885 年版 No. 21 8.0 X 6.0)
出展作品
靴を修繕しているこの男性は、恐らく、靴職人ではないはずだ。街角であるいは自分の
家の前で、いたんだ靴を修繕しているところなのだ。靴底に打つ頭の大きな鋲のことを英
語で tacket と言うが、この男は具合の悪い tacket をハンマーで調節しているのだ。具合
の悪い左足が痛々しい。ギーキーの残した小作品のひとつである。
ところで次のギーキーの銅版画は本職の靴屋を描いている。
この銅版画のタイトルは「音楽の
好きな靴屋」である。職人の何気な
い動作を描いているのだが、スケッ
チの名手ギーキーの面目躍如たる
ものがある。
そしてこの靴屋の絵にはもうひ
とつおもしろい「しかけ」が潜んで
いる。靴屋の右手におかれているバ
イオリン(スコットランドでは古い
言葉でフィドルと言う)や笛である。
スコットランドの人々の音楽好き
は自他ともに認めるところ。しかし
もし「音楽の好きな靴屋」となると
その含意はいささか皮肉っぽくな
る。
男の名前でクリスピン(Crispin)
は靴屋のこと。靴職人の守護聖徒ク
リスピヌスに因む。ところでローマ
の故事にこういうのがある。アレク
ザンダー大王のお気に入りの画家
であったギリシアの画家アペレス
はある時、肖像の中の靴の描き方が間違っていると靴職人から指摘された。アペレスはそ
の助言に感謝して早速修正したのであった。ところが、この靴屋はいささかつけあがり、
脚の描き方もおかしい、と言う。これに対してアペレスは「靴から上は口だし無用」と切
り返したそうである。これが英語の beyond the sole となって残ったのである。別に
ultra-crepidarian とは、素人の「生兵法」のことである。
32
出展作品
おさななじみ
33
(1885 年版 No. 30
8.0 X 6.0)
出展作品
「蛍の光」として誰知らぬ者のないバーンズの詩の原題は「遠い昔日」で、友情の永遠を
賛美するものである。この銅版画にぴったりの内容である。
From “Auld Lang Syne by Robert Burns
ロバート・バーンズ 「遠い昔日」より
Should auld acquaintance be forgot,
遠い昔の友人を忘れてしまうなんて
And never brought to min’?
決してありはしない。
Should auld acquaintance be forgot,
友もそして遠い昔日も
And auld lang syne!
忘れることはない。
For auld lang syne, my dear,
君とは長い付き合いだ
For auld lang syne.
遠い昔日。
We'll tak a cup o' kindness yet,
永い友情に乾杯
For auld lang syne.
遠い昔日のために。
We twa hae run about the braes,
ふたりで丘をかけ
And pu'd the gowans fine;
かわいいヒナギクを摘んだ日々。
But we've wander'd mony a weary foot,
足元がふらつくまで歩いた
Sin' auld lang syne.
ああ、遠い昔日。
We twa hae paidl'd i’ the burn,
ふたりで小川を駈けた
Frae morning sun till dine;
朝から夕まで。
But seas between us braid hae roar'd
海がうなっていた
Sin' auld lang syne.
ああ、遠い昔日。
And there's a hand, my trusty fiere!
さあ僕の手を取ってくれ、友よ
And gie's a hand o' thine!
握手だ。
And we'll tak a right gude-willie waught,
そして乾杯しよう
For auld lang syne.
遠い昔日のために。
34
出展作品
孫の読書
35
(1885 年版 No.46 13.6 X 11.0)
出展作品
ギーキーにとって子供の絵は彼の得意とするところであるが、この炉辺の読書風景もま
た逸品である。勿論孫が読んで聞かせている書物は絵本や童話ではないだろう。聖書であ
ろう。老夫婦は孫の読み聞かせを心穏やかに楽しんでいる。ここでもまたバーンズの一節
に耳を傾けよう。貧しい小作農の家庭の炉辺の読者風景である。
From “The Cotter’s Saturday Night” by Robert Burns
ロバート・バーンズ 「小作農の土曜の夜」より
The chearfu’ supper done, wi’ serious face,
They round the ingle, form a circle wide;
The sire turns o'er, wi’ patriarchal grace,
The big ha'-Bible, ance his father's pride.
His bonnet rev'rently is laid aside,
His lyart haffets wearing thin an’ bare;
Those strains that once did sweet in Zion glide,
He wales a portion with judicious care;
And 'Let us worship God!' he says with solemn air.
楽しい夕食の後
家の者は炉の周りをまるく囲み
一家の長の父親が
その父親からゆずり受けた自慢の大きな聖書に向かう。
帽子を脱いで傍らにおくと
白く薄くなったこめかみが現れる
かつてシオンの山に響いた調べのひとつを
おごそかな面持ちで選び
「さあお祈りしよう」と言う。
このギーキーの銅版画では聖書を読むのは孫(娘だろうか、それとも息子だろうか)の役
目のようだ。ごく幼い頃に病気から聴覚を失った画家ギーキーがスケッチのためのクレヨ
ンを動かす一方で、この銅版画の中の老夫婦と一緒になって子供の読む聖書の一節に耳を
傾けている光景が目に浮かぶようである。
36
出展作品
スコットランドのバクパイプ吹き
37
(1885 年版 No. 20 11.2 X 12.6)
出展作品
親子連れの大道芸パイパーであろう。父親はもうかなりパイプを吹いているのだろうか。
子供の差し出す帽子に誰も小銭を入れようとしていない。それにしても、聴覚の不自由な
ギーキーの描くこの絵からバグパイプの音がしてくるという不思議な経験は決して私ひと
りではないだろう。
さてこちらはジョン・ケイの描いた
いわゆる軍楽隊のパイパーである。パ
イパーの名前はアーチボルド・マッカ
ーサー氏。キルトを身に着け、楽隊メ
ンバーとして正装している像である。
マッカーサー氏はマル島出身。その
腕前は評判であった. ところが 1810
年、この銅版画が制作された年にエデ
ィンバラで開催されたバグパイプ奏者
コンテストで惜しくも優勝を逃し、2
位に甘んじてしまった。マッカーサー
氏はこの成績を深く恥じ(それとも怒
ったか)
、その後はこのようなコンテス
トには一切参加しない決心をしたそう
である。
1822 年ジョージ4世がスコットラ
ンドを訪問した折、エディンバラでの
歓迎式典にパイパーとして参加。
晩年はフィンガルの洞窟で有名なヘ
ブリディーズ諸島の小島スタッファで
暮らし、1834 年に死去。
このパイパーに比べると、ギーキー
の描くパイパーはいわゆる大道芸人と
してのパイパーで、これなどもギーキ
ーの作品の特徴をよく物語っているの
ではないか。
38
出展作品
穏やかな政治談議
39
(1885 年版 No. 28
11.4 X 12.6)
出展作品
向かって左側の人物は羊飼い。真ん中の人物はその恰好から農民のようであるが、新聞
らしきものを読んで聞かせているからきちんと教育を受けた人物なのであろう。その左に
立って聞いている男はその外見からにわかに職業などを推察することができないのだが、
職人であろうか。
ギーキーの生きた時代はいわゆるスコットランド啓蒙の時期であり、科学技術の進展や
優れた芸術家の輩出など、社会全体に高揚感あふれる時代であった。一方では外交的には
フランスとの政治的緊張の時代でもあった。
言うまでもなく 18 世紀後半のヨーロッパはナポレオンの時代の始まりであった。その中
で、1793 年のトゥーロン港の戦いでナ
ポレオン率いるフランス軍に無残な敗
退を喫した英国は新たな実効力ある国
防政策を確立することを急がねばなら
なかった。また、フランスを中心とし
てヨーロッパ各地に急速に広がる革命
機運への自国民の呼応も英国政府の頭
痛の種であった。このような内憂外患
こもごも至る英国の政治あるいは社会
情勢こそスコットランドにおける民兵
組織反対騒動の社会的背景であった。
実はスコットランドに民兵組織を作る
話が 18 世紀後半の政治の大きな焦点
のひとつであった。スコットランドの
町や村では民兵組織反対の民衆の過激
な運動が広がり社会問題化していたの
である。
左の書簡は民兵組織論者の中心人物
であったモントローズ公よりウィリア
ム・フォーブスへ宛てた 1797 年 8 月
26 日付けの書簡(フォーカーク資料室 所蔵 書簡カタログ No. 171/626/7)であるが、そ
の中でモントローズ公は「反対する民衆に民兵法をよく理解させるには時間が必要」と言
っている。そして民衆に対して様々な情報を提供したとされている。このギーキーの銅版
画の中で読まれているものもそういう新聞の一節かもしれないが、とりあえずこの場面の
政治談議は母親に連れられた子供たちも交えた「穏やかな」ものなのである。この「穏や
か」さこそギーキーの画風である。
40
出展作品
古都エディンバラ ウエストボー北端
41
(1885 年版 No. 24 23.6 X 13.6)
出展作品
人物の背景として古都エディンバラが描かれることはギーキーの多くの作品に見られる
のであるが、風景そのものを描いた作品はそれほど多くない。この「ウエストボー」はそ
のような作品のひとつである。
古都エディンバラは 18 世紀の後半、ちょうどギーキーの生きた時代、大きくその姿を変
えたのであった。いわゆるニュータウンの建設である。それまで暮らしていた旧市街地か
ら多くの富裕層が北のニュータウンへ移住した時代であった。勿論ギーキーが描いた多く
は旧市街に残った人々であったので、言わばギーキーは啓蒙の時代の社会にあってその変
化に取り残された人々を主に描いた画家であったのである。この点でジョン・ケイと画家
として同じ立ち位置にある画家であった。
ここに描かれたウエストボーも旧市街の繁華なスポットのひとつである。ボーは本来ア
ーチ型の門のこと。ここは城壁に囲まれた古いエディンバラの西側の門があった場所なの
である。下の地図は 18 世紀前半の古都エディンバラの地図(1742 年 エドガーによる地
図)であるが、左辺よりにアルファベットのZをひっくり返したような道路が見える。こ
れがウエストボー
である。その道路は
左右(実は東西)に
一直線にのびる言
わばメインストリ
ート(今日では通称
ロイヤル・マイルと
呼ばれる)と北端で
接しているが、そこ
がウエストボー北
端で、ボーヘッドと
も呼ばれる。南はグラスマーケットに接する。その接点はボーフットであった。ヘッドと
フットを結ぶ道は「狭いボー」
(strait bow)と呼ばれた。グラスマーケットの左端(西端)
は現在ウエストポートと呼ばれるが、このポートも門の意味で、これはウエストボーより
新しい門の跡(16 世紀のごく初めに築かれたと言われる)にちなんだ名前である。この付
近は今日でもだいたいの構造は古いエディンバラのままで残り、地名も現存している。
ギーキーの銅版画はちょうどメインストリートに立ってまっすぐ東(上の地図では右向
き)を向いているアングルでウエストボーが描かれている。東に約1スコットランド・マ
イル、急な坂を下ったところが地図の右辺、ホリルード宮である。銅版画はその坂を下る
方向で描かれているのである。
この高低の構造から、ウエストボーは別名「高い門」とも呼ばれた。ちなみにペアと
なる低い門(ネザーボー)は、地図の中央あたりで目抜き通りともう一本の南北の道が交
差する地点にあった。かつてはこのネザーボー門を出た東の地域はエディンバラでななく
42
出展作品
キャンノンゲイトとよばれる別の行政区(バラ)であった。
現在の町の構造からは、エディンバラからキャノンゲイトへはハイストリートをただ一
筋に下って行くばかりの印象であるが、繰り返すが、両地域は元来異なるバラであった。
それを一番よく表しているのが両地域を分ける門ネザボー・ポートの存在である。もちろ
ん現在はその門は存在していないが、かつて門が立っていた場所は道路上に埋め込まれた
真鍮のプレートによって示されている。上の地図でどのあたりにその門があったかを見て
みると、東西に走る目抜き通りのちょうど真ん中あたり、辻となっているところに門があ
る。ここでは先の地図よりおよそ 100 年ほど前のゴードンによる俯瞰図を拡大して見てみ
よう。
地図左辺道の真ん中に聖ジャイルズ教会、真ん中南側のトロン教会の塔を見ながら進む
とネザーボーに至る。その門を出るとキャノンゲイトである。
右はジェームズ・スキーンの銅版画で、グラントの
『エディンバラ今昔』に掲載されたものである。エデ
ィンバラの外側、つまり東にのびるキャノンゲイトか
ら見た門である。先述したが、この門はポートとも呼
ばれ、城壁都市であったエディンバラの旧市街には現
在もポートという地名が幾箇所かに残っている。
元来古い地図ではこの門はただネザーボーと記
載されているだけで、ポートがいつごろから付加され
た呼び名になったか不明である。例えば 18 世紀後半
のさまざまな地図ではおおむねネザーボーと記載さ
れており、一部の例外を除いて 19 世紀の地図では、
43
出展作品
すでに門自体が取り壊された 1764 年から 50 年ほど経過したからだろうか、ネザーボーと
いう記載すらなくなっているようだ。
この門をくぐるとキャノンゲイトへと至る。このキャノンは修道会を意味しており、12
世紀ごろからこの地にあったようだ。従ってキャンノンゲイトと言う地名はもともと道路
の名で、後になってエディンバラとは異なるバラとしてその名が併用されたようである。
左は 1829 年のシェパード
の『現代のアテネ』所収の銅
版画によるキャノンゲイトで
ある。これは東から西を向い
たアングルで描かれている。
現在でもこの光景とほぼ変わ
らぬ佇まいを見せる。
絵の向きと反対方向に少し
進むとホリルード宮へ至る。
途中、スコットランド啓蒙の
時代を代表する経済学者アダム・スミスの眠るキャノンゲイ教会がある。このキャンノン
ゲイト教会について、18 世紀の終わり頃発刊された『エディンバラ観光案内』は、
「正面の
屋根に鹿の頭と角のオーナメントがある教会」と紹介している。この頃より観光名所であ
ったことが窺える。
さて、ギーキー描くところのウエストボー付
近は古都エディンバラの歴史に残る様々な人
物が足跡を残す場所である。例えばそのひとつ
が、詩人バーンズがエディンバラに滞在した建
物などで、今日でも外見構造はそのまま残され
ている。少し西に行き、ちょうどエディンバラ
城の入り口に向かうところにボズウエルの旧
居がある。
『エディンバラ観光案内』。1794 年にエディンバラのアレク
サンダー・キンケイドから出版されたもの。前半はエディン
バラの歴史、後半は観光スポット案内となっている。旅行案
内としてはごく初期のものであろう。
44
出展作品
ローンマーケット
45
(1885 年版 No. 75
17.6X23.0)
出展作品
ローンマーケットとは布地の市のこと。ギーキーの銅版画にもその一部をうかがうこと
ができる。今日でもローンマーケットという地名は残っているが、市が立つことはない。
銅版画右辺がウエストボーである。
この銅版画では少々わかりにくいが、建物群の中にひときわ高く聳える尖塔が見えるが、
これは聖ジャイルズ教会である。
次の写真は銅版画とほぼ同じアングルからの今日のローンマーケットである。
46
ギーキー銅版画展
図録
平成 23 年 3 月 29 日~4 月 12 日
京都ノートルダム女子大学
図書館
主催 京都ノートルダム女子大学
大学院人間文化専攻
本展は平成 22 年度「科学研究費補助金」研究の成果公開のひとつです。
Fly UP