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第35号 - 名古屋工芸会

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第35号 - 名古屋工芸会
工芸高校勤務
十一年間を
振り返って
業務士
がとうございました。
謝の念で一杯です。本当にあり
れ る の は、皆 様 方 の お か げ と 感
敗もなくこうして定年を迎えら
ることができました。大きな失
日 々 成 長 し1 人 前 の 業 務 士 と な
本校での素晴らしい思い出と
経験を胸にこれからの人生を生
ればなりません。
月末日をもって本校を去らなけ
で 居 れ ば い い ん で す が ・・・後
ろ髪を引かれる思いですが、3
癒されました。何処かで、元気
覚えるのに一年近くかかりまし
先 生 方 の 数 の 多 さ︵顔 と 名 前 を
です。
たことは今になるといい思い出
り、事 務 所 に 戻 れ な く て 苦 労 し
の 校 舎 が あ り、校 内 で 迷 子 に な
時は、学校の敷地の広く、多く
学 校 が 初 め て で し た の で、赴 任
て、業 務 士 と し て の 仕 事 は こ の
私 は、 こ の 学 校 に 来 る 前 は 小
学校で給食の調理員をやってい
いう間の 十 一 年 間 で し た 。
で、振り返ってみると、あっと
月日の経つのは本当に早いもの
になりました。光陰矢のごとし、
二〇〇 九 年 三 月 末 日 に て 、 六
〇歳 定 年 で 工 芸 高 校 を 去 る こ と
声、登 下 校 時 元 気 に 挨 拶 し て く
広いグラウンドから聞こえる
生徒の体育や部活時の元気な
することができました。
を体で感じながら楽しく作業を
然に恵まれた中で季節の移ろい
作業は大変でしたが、環境や自
や 草 刈 り、落 ち 葉 の 片 付 け 等 の
まれた環境でしょう。草むしり
なんというすばらしい自然に恵
ジロ、ヒヨドリ、雀等︶の囀り、
秋から冬にかけては、樹木の
紅 葉、林 檎 や 銀 杏 の 木 が 実 を つ
ます。
き、枇 杷 の 木 が 黄 色 い 実 を つ け
初夏になると花壇に紫陽花が咲
緑、桜 や 藤 棚 の 花 が 咲 き ま す。
す。
多幸とご健勝をお祈りいたしま
長先生はじめすべての皆様のご
そして十一年間私が携わった校
最後になりましたが、工芸高
校の今後ますますの発展、繁栄、
きていきます。
た︶等で、右も左も分からず右
れ た 生 徒、十 一 年 間 本 当 に 多 く
思い出に残ることはたくさん
あ り ま す が、ま ず 学 校 を 取 り 巻
往 左 往 す る 毎 日、不 安 な 気 持 ち
の生徒との出会いがあり、懐か
山﨑 千惠子
で 一 杯 で し た が、校 長 先 生 は じ
しい思い出です。
− 3 −
く環境の良さです。春は樹木の
め 他 の 先 生 方、事 務 所 の 方 々、
スキースクール
乗鞍高原修学旅行
けます。一年を通しての小鳥
︵メ
他の業務士さんに親切にご指
今はもう居なくなりました
が、学 校 に 居 着 い た 猫 に も 大 変
導、ご 鞭 撻 頂 き 業 務 士 と し て
落ち葉集め
E棟からC棟を眺める
﹁今思うこと﹂
したものです。
は、レ ン ガ 造 り で 四 角 柱 の 型 を
す。窯は、登り窯や穴窯で煙突
器を焼く窯や煙突を見る事で
えば陶磁器の事ですがその陶磁
わっています。
以上も名古屋の地下鉄建設に携
そんな私ですが、昭和四七年
に土木科を卒業後、既に三五年
の端にも残っていません。
然のことながら、私自身の記憶
の昭和三二年のことでした。当
る路線です。
線は通勤・通学の新しい足とな
が行われているなど人口増加の
まり、多くの土地区画整理事業
の沿線は、大規模住宅団地が集
私 は、最 近 自 分 自 身 の 長 所 や
短所がよくわかるようになって
道局を定年退職しました。
〇八 年 三 月 末 で 名 古 屋 市 上 下 水
て名古屋市役所に就職し、二〇
一〇六六年三月に、名古屋市
立工芸高等学校土木科を卒業し
す。
もどって行く姿もいいもので
むなしく見えますが自然の中に
また、他の登り窯は、ところ
ど こ ろ 朽 ち て い て、は か な く、
つ姿に見ほれます。
草に包まれ空に向かって凛と立
を 経 て 無 く な り 、登 り 窯 だ け が
の一つは窯を覆う建屋が幾年月
りません。この文章も中途半端
ですので、どこまで続くかわか
私は、何事にも中途半端な性格
くわくしてきます。
います。
人を超えるお客様に利用されて
営 業 と な り、一 日 平 均 一 一 五 万
路線、総延長八十九.一キロの
六キロの開業により、現在、6
長し、平成十六年十月六日の4
を開始し、その後順次路線を延
古屋・栄間の二.四キロで営業
名古屋市の地下鉄は、昭和三
二年十一月十五日に、東山線名
常滑のレンガ造りの煙突のそ
ばに私がのんびりと座っていた
今 は、土 木 工 事 の 最 盛 期 と
いった状況です。開削工事区間
目標に努力しています。
地元からも﹁一日も早く開業
﹂と い っ た 声 を い
してほしい …
ただき、平成二二年度の開業を
著しい地域となっており、桜通
こ の 地 方 に は 、焼 き 物 の 里 が
多くあります。信楽には、登り
きました。特に、多くの短所は、
に終わる事になりました。
窯 が い く つ も あ り ま す。そ の 中
日々の生活の中で確かめる事が
常滑にも多くの大窯がありま
す。昔は、大きな壺や陶管を焼
昭和四一年 土木科卒
で き る よ う に な り ま し た。そ の
い て い ま し た。今 は そ の 役 目 が
今は、再就職して働いていま
す。これからも、いろいろな人
糟谷桝孝
短所の中でも、私は、何事にも
なくなりギャラリーとして開放
と一緒に生きて行きたいと思い
中途半端で終わってしまうこと
し て い ま す。窯 の 中 は 赤 茶 け て
り、技 を 上 達 す る た め の 努 力 が
ら、近所のお年寄りが﹁昔はこ
工事区間のトンネルも順次掘削
の進捗を追うように、シールド
現在は、緑区内では初となる
地 下 鉄 建 設 が 6 号 線︵桜 通 線︶
工事を管理する工事事務所で
へと続きます。
められています。野並・徳重間
野並・徳重間の四.一キロで進
号 線 名 古 屋 大 学・新 瑞 橋 間 五.
が 大 き な 位 置 を 占 め て い ま す。
ます。
途 中 で 面 倒 に な り、投 げ だ し て
の煙突の煙が家の中を通って
土木科卒
名古屋で初めて地下鉄が開業
したのは、私が四歳となった年
加藤富治
昭和四七年
名古屋市の地下鉄
建設について
美しい光沢を放っています。
しまうのです。私は、このこと
行った。
﹂と話していました。
いろいろな物事に興味を持ち
ますが一つの事を深く追求した
で落ち込んで立ち直れなかった
これからも日本各地の焼き物
の里を訪ねてみたいと思ってい
事 は あ り ま せ ん で し た。こ れ も
短所の一つだと思います。
の煙突に会えると思うと胸がわ
ま す。ど こ か で 窯 や レ ン ガ 造 り
さ て、今 一 番 興 味 を 持 っ て い
る 事 は 焼 き 物 で す。焼 き 物 と 言
− 6 −
は、多 く の 市 工 芸 出 身 の 監 督 さ
んが頑張っています。
今 年 度 は、都 市 シ ス テ ム 科 の
在 校 生 の 皆 様 に も、徳 重 の 現 場
見学にお越しいただきました。
振り返れば、私自身も、当時、
市工芸在校生として地下鉄黒川
駅∼大曽根駅の建設工事現場を
見 学 さ せ て も ら い、大 規 模 プ ロ
ジ ェ ク ト を 目 の 前 に し、妙 に ワ
クワクしたことを思い出しまし
た。
今 後、地 下 鉄 に 乗 車 さ れ る 際
には、地下鉄建設は、実に多く
と
…
の市工芸卒業生の足跡によるも
のだと感じていただければ
思います。
− 7 −
鮮明に思い出すことができま
卒業してもう三八年になりま
すが、今でも学生時代のことを
稲垣徳正
時、国道十九号線の篠原の鳥居
みに長野県の松本まで陸送した
このバイトがとても危険だと
いうことを実感したのは、冬休
バイト料は距離にもよります
が松本まで三千円位でした。
ら電車で名古屋へ帰りました。
着し引き渡し後、もよりの駅か
の車を直接運転し朝には現地到
ディーラーへ届けるのです。そ
のモータープールから各地の
ま し た。金 城 埠 頭 に あ る マ ツ ダ
休みは車を陸送するバイトをし
な気がします。
想がおざなりになっているよう
に手間をとられ、本来の設計構
コンピュータCADシステム
で図面を作成するのですが操作
当に助かっています。
もなかなか覚え切れません、本
んだ内容を今勉強しようとして
なぜなら私は機械設計会社に
勤めているからです、学校で学
と思います。
げで、現在の仕事の基礎がある
ウインチ、軸強度計算等のおか
じ て い ま す。 新 鮮 な 気 持 ち を 持
三〇年経った今でも勉強は続
い て お り ま す が、 新 鮮 な 気 持 ち
かと思います。
で三〇年も働くことができたの
勉強との思いでやってきたこと
仕事をさせていただき、毎日が
先輩方のおかげで、さまざまな
気持ちで一杯でしたが、会社の
わからない状況で、大変不安な
すが、会社に入って何をやるか
を卒業と同時に就職したわけで
く感じているこの頃です。高校
つの会社で頑張れたなとつくづ
んな目標でもいいと思います。
目標は、仕事に対する目標で
も個人的な趣味の目標でも、ど
大事だと思います。
向かって何をしなくてはいけな
何か目標を持って、その目標に
と思います。そんな時、自分に
ドキドキしているのではないか
等 で、
﹁こ こ ろ﹂が わ く わ く・
今年も新たな卒業生が誕生し
ますが、みなさんも就職や進学
と思います。
確にして行動することが大事だ
掛けおり、毎日何をやるかを明
毎日楽しく仕事をすることを心
鉄は
熱いうちに打て
す、たとえば機械科で学んだ専
峠トンネルを出ると道路が左に
若いときであれば簡単に覚え
ら れ、
CAD操 作 は ド ラ フ タ 感
ち続けることは難しいことです
目標をもって過ごすことは、自
門用語、トースカン台、キュー
カ ー ブ し て い る こ と を 知 ら ず、
覚ででき、本来の設計に集中で
が、何事も前向きに考えること
分の毎日の生活にすこしでもや
車の免許を取りに平針自動車運
路が凍結しており、運転に自信
昭和四六年 機械科卒
ポラe tc 、そして私は自動車
かなりのスピードが出ていまし
きると思います。鉄は熱いうち
と私は思います。
転試験場に行きました。
かず、スピンした時はもうこれ
まで引きずるかどうかで次の行
の思いから、その気持ちをどこ
る場合があると思いますが、そ
誰しもネガティブな気持ちにな
い か な ど と 考 え る こ と が あ り、
やっても何もならないのではな
う!
これからのみつば会をもっと
もっと盛り上げていきましょ
えるとありがたいです。
少しでもそうかなと思ってもら
何か生意気なことばかり書き
ましたが、これを読まれた方に
る気をもたしてくれるのではな
でとまっていました。
名古屋市立工芸高校を卒業し
て三〇年が過ぎてしまい、今振
動が変わってしまうのではない
やっているのかとか、この仕事
いのかを考え、行動することが
が大好きで一年生の春十六才の
たので、あわててブレーキをか
に打てと言うことはそう言うこ
いでしょうか。
自由になるお金がなくとても
自動車学校に行けませんでした
で人生終わったと思いました。
で一回千円?だったと思うが教
今でもトンネル内走行と、左
カーブは自然に身構え、腕に力
り返ってみると、いろいろなこ
でしょうか。
澤 田 伊左男
それに、よく三〇年間もひと
− 8−
を持ち続けることが大切だと感
誕生日が過ぎたら、すぐ軽自動
けました。ところが最悪にも道
とかもしれません。
毎日いろいろなことがありま
す が、何 の た め に こ の 仕 事 を
ので、休日に平針試験場にいき
習を三回ほど受け、実施試験に
が入り、とてもいやな気分にな
とが思い出されるが、あっとい
市
工芸卒業 年
のぞみ、合格しました。
りますが、そのときの教訓を活
う間の三〇年だったように感じ
﹁こ こ ろ﹂の 持 ち 方 ひ と つ で
人間の行動も変えることができ
昭和五三年 機械科卒
その後二年生には自動二輪、
三年生には普通自動免許を同じ
かし安全運転に勤めています。
ている。
き頭と体で覚え、そのあとそこ
要領で取りました。
話が変わりますが学校で学ん
だ機械設計、応用力学の手巻き
ると私は感じています。私自身、
とにかく車が好きで趣味と実
益を兼ね、三年生の夏休みと冬
のある私でもコントロールが利
コースをAからCまで何回も歩
しかし奇跡的にも半回転した
車はガードレール数センチ手前
30
技能五輪
稲熊秀俊
平成十七年 電子機械科卒
コーチと悩みながら訓練内容を
どんな訓練をしてよいのかも
分 か ら ず 手 探 り の 状 態 で す。
となり色々と苦労しました。
め、すべてが0 からのスタート
てきた事を思い出し、自分も悔
何もない状態からコーチとやっ
かった﹄と涙ながらに言われ、
グ時にコーチが﹃最後に賞を取
かったです。最後のミーティン
盤やメカトロニクス、料理、美
部で四〇種目あります。汎用旋
技能競技大会で、競技種目は全
技能五輪とは若き技能者が、
技能レベルの日本一を競う全国
た。
さなんだと痛感させられまし
でした。これが当日課題の難し
たく対応することができません
のない電気回路が出され、まっ
果は惨敗でした。練習したこと
目の全国大会を向えましたが結
一年間訓練を続け、なんとか
大会出場レベルまでいき、一度
いけるということを学びまし
自分で限界線を決めないこ
と、そうすればもう一段階上へ
的に大きく成長しました。
た。技術技能だけでなく、人間
い経験をすることができまし
大会で入賞することは出来ま
せんでしたが、この二年間でよ
らせる事ができなくて申し訳な
考えました。
容など様々な分野の職種があ
た。
私が参加したメカトロニクス
職種は実際の生産現場と同じよ
兼ねています。
二年に一度開催される技能五
輪国際大会の派遣選手選考会も
た。
め日々の訓練にも力が入りまし
までと言われていたため、次が
ていきました。会社からは二年
す。
この二年間の経験を生かし今
後の社会生活を頑張っていきま
た。
し涙が出ました。
り、全国大会は年に一度開催さ
私は技能五輪の﹁メカトロニ
クス﹂という競技に参加しまし
れます。
二年目からは前回の大会の反
省をふまえ訓練内容の幅を広げ
う なFA︵生 産 自 動 化︶モ デ ル
能力を競います。
トラブルシューティングなどの
りがうまくいかず審査に合格出
るところまでいきました。しか
大会が始まり順調に課題をこ
なしていき、ワークを流動させ
最後のチャンスでした。そのた
を使って競技します。装置の設
そして二年目の大会を迎えま
した。今回は自信がありました。
計、組立、調整能力や、プログ
この競技は当日課題のため幅
広い知識と応用力が必要とされ
来ませんでした。
ラミング、ネットワーク運転、
ます。
一年目以上に練習し苦しい思
いもしてきたのでとても悔し
し最後の最後までワークの乗移
私の会社からメカトロニクス
に参加するのは初めてだったた
− 9 −
印刷科卒
印刷技術の伝承
プレス会会長
昭和四三年
高木茂男
印刷技術とは何だろう
す。
なぜなら、
マニュアルに載っ
めて人々に貢献できるのです。
法︵ノウハウ︶が確立されて初
どのような画期的な発明︵発
見︶でもその発明を使用する方
する技術です。
術を組み合わせ、それらを運用
ウの集成技術であり、既存の技
現在の印刷工学は運用技術と
いわれています。つまりノウハ
今も発展しています。
デジタル化を推進する過程で
アナログ技術がないがしろにさ
感じるのは私だけでしょうか。
技術といえるのか、末恐ろしく
もいい、と考える経営者が多数
できれば技術はメーカー任せで
なんとか製品ができる。製品が
の指導通りに機器を操作すれば
基礎を教えていない。メーカー
環境はお世辞にも良いとは言え
はその数少ない機関の一つです。 は作りようがないのでは。
なっています。グラフィック科
べてを製造販売しているメー
なぜなら、印刷に必要な機器す
メーカー任せは印刷技術全般
を 網 羅 し た 指 導 は で き ま せ ん。
いるから、人間ができないこと
す。人間がプログラムを作って
一部の機器のみの指導になり、 きることを目的に作られたもの
だから、手作業でできないこと
印刷物製造全般の指導ができな
カーは、現在ありません。
ません。
た だ し、と ん で も な く 早 く、
ただ残念ながら設備の老朽化、
正確にできることは間違いあり
最新設備の導入遅れなど、教育
機械は人間が使う技術のはず、 いのです。同時に印刷技術一般
機械に操られ、人任せの技術は
を網羅した教育機関は数少なく
みられます。
ません。ですが、アナログ技術
ならうまく利用することを考
えることが、われわれ技術者の
やく、きれいに、より正確にで
アプリケーションとは手作業
でできることをパソコンですば
ていないような状況時に、アナ
おりしも今年のノーベル賞を
名古屋にゆかりのある四人の日
れてる現状が見えています。
を習得する設備はあります。ア
本懐ではないでしょうか。
成した物ではなく、機器の改良
基礎は解っていないが印刷機、 いるのです。
とノウハウの蓄積は欠かせずず、 製版機器の操作はできる。誰も
本人が受賞しました。特に下村
印刷業会は極度に分業化が進
み ま し た。各 業 種︵デ ザ イ ン、
ナログ技術の延長線上にデジタ
技術から、版を用いない無版印
して使われている従来型の印刷
技術は、情報の大量複製技術と
現在はデジタルの時代だと言
われています。私は四〇年印刷
アナログとデジタル
いでしょうか。
りの様相を呈しつつ、大きく変
分業化から内製化へと先祖がえ
のみなさんのほうが、パソコン
作成をしている若いオペレータ
リケーションを使って、データ
に見えるようです。
は機能として持っていないので
ログの知識が役立つのです。
脩さんはクラゲの発光蛋白を三
版 下、製 版、印 刷、製 本 な ど︶
ル技術は存在します。
〇年も前に発見し、近年利用方
ごとに。それにより業種間の技
周りでは私のことをデジタル
人間のように見ている方が多く
刷や、可変情報を高速にプリン
に従事しています。三〇年印刷
貌しています。
法が作られたことによる受賞
印 刷 工 学︵
G
r
a
p
h
i
c
だったとのこと、これこそ運用
︶と い う 分 野 が あ
Technology
技術があってこその実例ではな
ります。現在のプリンティング
トするオンデマンド印刷。更に
と製版に従事し、この一〇年ほ
ケールの印刷へと大きく進化し
ていただいています。残念なこ
数多くの印刷会社で指導をさせ
となっています。
いますが、一本ずつの指しか使
今この原稿をパソコンで作成
していますが、両手を使っては
の操作自体は上手でしょう。
以上の指導先があります。ここ
トラブル情報の多さがありま
す。東海三県と静岡で200社
ただ、パソコンを扱えるから
︵修 理 も し ま す︶デ ジ タ ル 人 間
事なアナログ人間です。
います。まったくの誤解で、見
はディスプレイをはじめとする
指導ができる理由がもう一つ
あります。
術のやり取りがうまくいかなく
アナログ印刷技術の伝承
なっている現状があります。
私は今、パソコンからのCT
現在の印刷会社は、コスト減、 Pへの刷版出力の技術指導をし
短納期化などの時代の要求から、 ているのですが、実は毎日アプ
電 子 部 品 や、ナ ノ メ ー ト ル ス
どは印刷のアドバイザーとして、
現在、印刷会社は自社内にす
べての印刷に関わる技術が必須
続けています。それら各種新し
とに多くの印刷企業で、印刷技
から入ってくるいろいろなトラ
いプリンティング技術に変化し
えません。
術一般の基礎を学んだ人の少な
ところが技術をメーカー、外
注まかせにしていたため、社内
ています。
に技術のわかる人材が払拭して
ブルの件数は半端ではありませ
さに驚いています。
でも、堂々と指導をしていま
しかし在来型の印刷技術も完
− 10 −
これらのトラブルの95%く
らいは解決できています。残り
況を作っているわけです。
毎日勉強しなければならない状
ト ラ ブ ル が あ る わ け で す か ら、
ています。同時に毎日のように
ん。この情報は私の財産になっ
のみ管理できる機械です。網点
インキの濃度を測る計器です。
印刷はインキのベタ部の濃度で
●反射濃度計
列挙してみます。
ここで必要な道具なのに、印
刷会社にないことが多い道具を
ことを指導しています。
る必要があります。
うか常に監視す
定しているかど
刷版の網点が安
網点が必要です。
印 刷 刷 版 は 常 に 安 定 し た、
データにそった
網点測定器
皆さんが知っていることは、教
いきます。でも私が知らなくて
てる知識をできる限り教授して
もたくさんあります。私の持っ
います。でも私が知らないこと
皆さんより知識を豊富に持って
﹁私 は 皆 さ ん の 先 生 と し て こ
れから教えていきますが、私は
の5 % は ど う に も 解 決 で き な
先生が知らないことがあると
白状しているのですから、何か
えてください。﹂
これは、たいていの印刷会社
に常備されています。25倍か
おかしいかもしれません。でも
マイクロスコープ
ゴム硬度計
ら、一〇〇倍 ま で あ り ま す が、
教えてもらうこと以上のことを
部も小さなべた部分でできてい
ことの情報として活用できます。 ます。この濃度をオペレータの
インキを版に転移させるため
に ゴ ム ロ ー ラ を 使 っ て い ま す。
網点を見るのに使います。
かったのですが、解決できない
このように四〇年間のアナロ ﹁目﹂に 頼 っ て き ま し た。つ ま
グ技術の蓄積が大いに役立って、 り熟練が必要です。これを濃度
ゴムは使用回数と時間により硬
期に交換しなければなりません。
くなってしまいます。適当な時
です。
教えていきますから、私が先生
という数値で管理します。
ているわけです。
この交換時期を視るために、硬
なお新たな知識の集成がなされ
これらのアナログ技術をでき
る限り若い皆さんに伝承してい
これらの機器は全て、現在私
が利用している機器です。揃え
ができるタイプも出ています。
MYKの色を選別してみること
現 在 は フ ィ ル タ を 使 用 し て、
C
トラブル解消のための聞く先
を作っておいてください。先生
んにお願いがあります。
ん。経験する時間があまりにも
のことを学ばなければなりませ
です。でも今はあまりにも多く
さ を 調 べ な け れ ば な り ま せ ん。
知識とは経験に裏打ちされた
ことが一番身に付いていること
くのが、私の仕事だと考えてい
レーザー温度計
ます。ほとんどは一生ものの道
でも、先輩でも、講演会に参加
者になることを願っています。
ではありません。知らなくて恥
うに言っています。
硬度を測る機器です。
り印刷します。
レーザーで場所を指定しピン
ポイントで温度を測る測定器で
具と言えます。シリンダパッキ
した時の講師の先生でも、でき
●シリンダパッキングゲージ
こ の イ ン キ の 転 移 を 正 確 に、
スムースにするために、常に同
す。平版印刷機は水と油の反発
ングゲージなどは三〇年前のも
る限り多くの教授を作ってくだ
ます。
確になってきます。すし職人は
じ胴径にしておかないといけま
を利用して印刷しています。イ
のです。
さい。人に聞くということは恥
●トルクレンチ
ネタ、ご飯の重さを毎回ほとん
せ ん。そ の た め に 胴 径 を 測 る
ンキと水の温度によって印刷は
最後に
道具の巧い利用
ど同じになると聞きました。か
パッキングゲージ、ブランケッ
大きく変わってきます。
はかきます。貪欲に知識を吸収
少ない状況です。そこで、皆さ
なりの修業を積まなければこの
ト︵ゴムと布でできた柔らかい
常に一定の温度で印刷
専門学校の講師を十数年務め
させていただいていますが、講
して、一日も早く一人前の技術
印刷はシリンダ︵胴︶間の圧
でインキを転移させることによ
ようなことはできないと思いま
シ ー ト で 胴 に 巻 き つ け て 使 用︶
すること
義の最初にいつも生徒にこのよ
体で覚えた技術は一朝一夕に
伝授することはできません。
す。現在の社会の状況はそのよ
をいつもおなじ力で引っ張るた
を求めら
れます。
るとするとかなりな金額になり
うな悠長な修行の時間を作って
めに必要なとトルクレンチ。
そこで便利な道具を巧く使う
長く同一の仕事をしてきた
﹁職 人﹂の 感 は と ん で も な く 正
くれません。
− 11 −
平成十九年度
愛知県芸術文化選奨
文化賞を受賞して
を考案した。
り、再生する﹁割り戻し﹂技法
は原形を残したまま複数に割
い、昭 和 五 三 年 に、素 材 の 原 石
による創作活動を精力的に行
文化の影響を受け、帰国後石彫
﹁昭 和 四 五 年 ∼ 五〇年、渡 米
中、中央アメリカにて古代石造
当時産業美術科には、大変個
性的な先生がみえ、中でも久野
切っ掛けだった。
産業美術科に入学したことが
私が四十数年美術家として活
動してこられたのも、市工芸の
献﹂。
県芸術文化の振興と向上に貢
進の指導、育成に尽くす等、本
次の通りである。
又、国内外において多数の個
展、グループ展を開催するほか
眞先生の影響は特に大きかっ
平成十二年度からは、名古屋
芸術大学非常勤講師として、後
パブリックアートの分野で作品
た。先生は授業後、密かに校内
構え、創作活動を開始し、一年
人賞三名で、計七名の受賞者に
そして今年度から新設の文化新
彫刻、声楽、日舞、作曲の四名、
粛に行われた。文化賞受賞者は、
今年度の文化選奨授賞式が二
月二十日、愛知県庁において厳
的は、世界一周だったたが、最
昭和四三年、長い間温めてき
た海外研修に出発した。渡航目
加し多彩な学生時代であった。
安保やベトナム反戦運動にも参
く、当時学園にも飛び火した、
う大都会の魅力のほうが大き
多摩美大の油絵科に入学した
が、大学の授業よりも東京とい
ジュムで作品を各地に設置。
ル、パブリックアート、シンポ
岡崎市にスタジオを設け、石
彫制作を始めるが、数々のチャ
ることとなった。
帰国後、木彫から石彫に移行す
古 代 遺 跡 か ら 強 い 影 響 を 受 け、
産業美術科卒
を創作し、評価された。
伝いも含めて立ち会っているう
後に永住権も獲得した。
神田愛知県知事より、賞状他が
初の渡航先のロサンゼルスで日
海外においてはオーストラリ
アに縁がありゴールドコース市
昭和三一年
特にオーストラリアでは、日
本人としては始めて石の彫刻を
ちに次第に大きな刺激を受け、
授与された。
本から父の急死と実家の鉄鋳造
美術館、シャーマンギャラリー
和泉俊昭
四回に渡って発表し、国際文化
美大へ進むこととなった。
光栄にも私が受賞賜わること
が出来たのも、
ずっとこれまで、
所の倒産の通知を受ける。
で作品制作を始められ、私は手
協力にも協力している。
七 年 後、中 米、ガ テ マ ラ、メ
キシコの旅でマヤ、アステカの
陰、日向となって支援してくだ
至る。 石
( 彫作家
)
で合計四回、名古屋市、シドニー
ンスにも恵まれ、各種コンクー
さった方々のお陰であり、ただ
市の協賛で個展を開催。現在に
本へ帰ることもなくロスに居を
思いがけない人生の転機に途
方にくれ旅行は断念したが、日
感謝あるのみである。
私の受賞対象となった概要は
− 12 −
していた。ティンガティンガの
会期中デモンストレーションを
愛知万博のタンザニアブースで
なっているようだ。
人 の 親 切 が、こ の 道 の 原 点 に
市工芸高時代学費のため、看
板屋でアルバイトの時に受けた
イカの翼プロジェクト﹂
を設立。
の支援をする﹁NPO法人マラ
という翼を育てる人的資源育成
教育に行けない孤児達に、教育
二〇〇六 年 十 二 月 に タ ン ザ ニ
ア連合共和国の、貧困等で義務
動物を見る事ができた。
にいるようで途中キリン など
た景色は数時間走っても同じ所
支援品を届けに行く車窓から見
ベア市キエラ村へ、第1回教育
端の隣国マラウィに隣接するム
〇〇〇㌔、十五時間の行程で西
とができた。
ン会と名芸会総会で披露するこ
に取り組み六月十七日のデザイ
記 念 事 業 の ビ デ オ・DVD制 作
り掛かりDVDを完成、続いて
ンザニア旅行のビデオ編集に取
一区切りになったが、続いてタ
四月二日記念誌を脱稿、毎日
新聞名古屋開発にデータを渡し
作業が続いた。
の過酷さでゴルフの日も帰宅後
で、半年余は一日二〇時間労働
編集・レイアウト等独力の作業
れ、広告の制作・寄稿文の入力・
定外の修正調整作業に忙殺さ
小さくなった感があった。
温めるハプニングがあり地球が
ラ 氏 と バ ッ タ リ 出 会 い、旧 交 を
愛知万博で知り合った画家ムク
ンガティンガ村へ出かけた時、
︻余 談︼訪 タ ン 中、首 都 の テ ィ
で今後も頑張っていきたい。
と、趣味のゴルフ等、生涯現役
五〇年来病欠の無い身体に産
んでくれた九五歳の母の介護
御礼申し上げます。
終わった。ご協力頂いた皆様に
作業をして記念事業の全作業を
五月二三日名芸会委員が市工
芸に参集して記念誌の発送準備
人生最多忙期を
乗り切って
創 始 者 の 甥、画 家 マ イ ケ ル・レ
一月八日に十八日の旅を終え
帰国、自営の文蔵デザインの仕
色鮮やかな、タンザニアの民
族絵画﹁ティンガティンガ﹂は、
吉田文亮
産業美術科卒
へム氏︵姫路在住︶の作品。
芸会の﹁名古屋市工芸創立九〇
昭和三三年
タンザニアブースへのボラン
テ ィ ア サ ポ ー ト で 知 己 を 得 て、
周年記念事業﹂
記念誌の作業と、
結婚披露宴に呼ばれ、名古屋の
デ ザ イ ン 会、名 芸 会・記 念 誌 委
事と昨秋から取り組んでいた名
お爺さんにされている。
集落には十五時間の行程で、電
ある十戸位の﹁草、
トタン葺き﹂
と樹木が立つ草原に、ポツンと
のビデオ撮影に追われた。
ニングや記念展、八日の祝賀会
展搬入・飾り付け、翌朝オープ
届かない原稿に半ば諦めなが
ら、一月二八日早朝からの記念
員会会議等も待ち構えていた。
柱のある所は僅かしかなく、僻
猛スピードで驀進する大型バ
スの車窓から飛び去るパラパラ
地は今も太陽と共存しているよ
写 り こ み、作 品 三〇〇点 余 の 想
十三日に展覧会の写真CDが
届いたが照明や背景がガラスに
うだ。
首都ダルエスサラームから一
− 13 −
しかそんな皆を引っ張っていく
断力に非常に富んだ方で、いつ
その先生は生徒会の担当であ
りながらデザイン科の先生でも
る喜びと責任感、裏で頑張って
いる人は大勢いるんだなってこ
かったんです。
つまり、自分にとって身にな
るものは労力が必要だし、苦労
僕は室長はやっても、生徒会
の役員になるなどこれっぽっち
後期生徒会では全校生徒の意
見をしっかり取り入れるという
事の出来る会長に尊敬の念を抱
楽しければ、めんどくさいな
んて思えないんじゃないです
した分だけ自分に返ってくる。
い ろ い ろ と 悩 み、考 え ま し た
事を第一にして活動していま
あり、その時僕が室長を務めて
か。さらにアルバイトをしてい
ステキな生活を送るためにそ
れだけの努力が必要なんだなっ
が、最終的に前期書記に立候補
す。後期生徒会長をやって気づ
とを学ぶことができました。少
る私にとって、残って作業をす
て思えます。まだまだ若いんだ
することになりました。
きました。
ることに関して後悔は多かった
から、この経験を生かして努力
で退屈なのでは?と思っていた
いた事を知っていたので声をか
で す。な ん せ、や っ ぱ り め ん ど
し て、た く さ ん 辛 い 思 い も し
僕は自分で言うのは変ですが
少し﹁変わった感覚﹂を持って
後期生徒会も真剣に学校の事や
し成長できたと思っています。
くさがりだから。
て、成長してステキな女性にな
いるのだと思う。それは﹁人前
学校外の事まで考えたらそんな
けてくださったのだと思う。
けど、生徒会のみんなも協力
して、1個1個問題を話し合っ
りたいです。
で話すのが苦手、しかし注目さ
事はないという事です。この忙
そしてこの事が僕の後期会長
となった最大のきっかけとなっ
たり、生徒のみんなが喜んでく
れるのは嫌いではない、むしろ
前期生徒会長
れるところを想像したらだんだ
会長で一番嬉しかったのは廊
下 で す れ 違 う と み ん な が﹁会
しさは辛いです。しかし今では
建築システム科3年
になり、会長に立候補したわけ
生徒会を変えてみたくて、3 年
存在さえあまり知られていない
生徒会をやったのもノリでし
た。2年の後期ですね。そこで、
遅刻は多いし、頭もそこまで
良くないし、授業はサボるし。
な、と学びました。
な ん だ な、苦 労 も 必 要 な ん だ
しいことをするには努力も必要
前夜祭が終わった後、本当に楽
て、
本当に幸せでした。文化祭、
祭、前 夜 祭 の と き に み ん な が
山内寛子
です。
よく、
﹁生徒会長らしくしろ﹂
と か 言 わ れ て﹁正 直、人 種 差
きっかけ、
そしてこれから
一つのモノを皆で企画する﹂と
まぁ、立候補する一番のきっ
かけとなったのは昔から﹁何か
してもらい一団となってより良
また全校生徒にもこの事を理解
これからも﹁全校生徒も生徒
会の一員﹂という事を忘れず、
いたのは、大きな行事が無いの
いうことが大好きだからに違い
す。
い工芸高校にしていきたいで
ないと思うけど。
前期は工芸祭という大きな行
事の企画が待っていた。とって
もわくわくしました。他の役員
の皆さんも、とっても楽しい方
ある生徒会でした。
そんな中、僕はある人に興味
を持ちました。それは前期生徒
デザイン科2年
生徒会執行部に入ったきっか
けは生徒会の先生に誘われたこ
会長でした。会長は実行力と決
ばかりで、とってもやりがいの
とが始まりでした。
大西正敏
たのです。
生徒会長とは模範となる生
徒。私は模範なんかほど遠い、
ん楽しくなっていった。
好 き な の か も し れ な い。﹂と い
楽しみでもあります。
それでも私はやっぱり楽しけ
ればそれでいい。めんどくさい
別!﹂とか思ってたけど、生徒
も考えていませんでした。僕は
型破りな生徒だったと思いま
長!﹂って呼んでくれたことで
うものです。
人生は楽しむものだ!
す。
すけどね︵笑︶
ものはめんどくさいっていう考
会長だから、ちゃんとみんなが
生徒会長を経験して、苦労す
認 め て く れ る 人 に な ら な き ゃ、
後期生徒会長
確かに大変だし苦労すること
は た く さ ん あ り ま し た。 文 化
え方のままでした。
て思えるようになりました。
笑ってくれているところを見
でも、学校なんてつまんない
ものって思っている生徒でも楽
しめるような文化祭にしてみた
− 16 −
夢と目標
インテリア科3年
し て い た だ き、夢 の よ う で し
き。新聞3 社の方からも取材を
も史上最年少というオマケ付
も喜んでくださりました。しか
完成させられなかったらどうし
い箇所がいくつもありました。
く、知らない用語や理解できな
は思っていたよりもずっと難し
全国大会ものづくり
コンテスト
建築システム科2年
申し訳ないというか、期待に応
えられなかったことが悔しいと
思いました。練習ではかなりレ
ベルの高い作品ができていたの
安でいっぱいになりました。そ
て、ギリギリまで感覚を研ぎ澄
で、前日までは余裕をつくりつ
すれば良い結果が得られること
んな私を前向きな気持ちにさせ
僕 は、今 年﹁全 国 大 会 も の づ
く り コ ン テ ス ト・木 材 加 工 競 技
ますべきだったかと少し後悔し
よう・・・と急に恐くなり、不
が わ か り、ま た 次 の 目 標 に 向
てくれたのは、友人たちからの
の部﹂に参加し、愛知県大会、
ています。
た。気の弱いこんな私でも努力
かって頑張れそうな気がしま
暖 か い 応 援 メ ー ル で し た。
﹁仁
東海大会ともに一位通過して、
片岡映子
私 が3 年 間 で 一 番 努 力 し た 事
はやはりインテリアコーディ
す。これからも努力しつづけた
美ちゃんなら絶対大丈夫﹂とい
のか結構楽しく取り組めて、勉
始めてみると自分に合っている
取 り 寄 せ て 勉 強 を 始 め ま し た。
くことができました。卒業して
の支えもあり、私は敢闘賞を頂
加した先輩方や付き添いの先生
した。そして、一緒に大会に参
てみよう﹂と思うことができま
の心を晴らし、
﹁やれるだけやっ
う友人の言葉は魔法のように私
会 に 出 よ う と 思 っ た 理 由 も、木
考えていました。正直、この大
上手くはいかないもんだなあと
受 け 入 れ る だ け と い う か、そ う
を 聞 い た と き に は、た だ 結 果 を
結果は、優勝はおろか入賞す
らできませんでした。結果発表
冬の全国大会に出場しました。
ことをしてやりたいと思ってい
してくれるので、できる限りの
す。来年は、後輩がきっと活躍
なった方々には感謝していま
した。本当に、今までお世話に
他にもたくさんのことを学びま
大 工 の 技 術 は も ち ろ ん の こ と、
今回、この大会に参加して本
当 に 良 か っ た と 思 っ て い ま す。
し、今 思 え ば も っ と 根 を 詰 め
つ、調整をしていました。しか
ネーターの資格取得です。
いと思います。
川添健人
1 年生の秋にこの資格の存在
を知り、早速通信教育の資料を
強 は 順 調 に 進 ん で い き ま し た。
社会に出ても、この時の想いを
を 切 っ た り、削 っ た り す る こ と
ます。そして、自分も、まだま
つつも喜んでくださり、二次試
た。先 生 方 に 伝 え る と、 驚 か れ
た。結果は予想外にも合格でし
1年近くの勉強を経て、2年
生の秋に一次試験を受けまし
忘れずに頑張っていこうと思っ
が 昔 か ら 好 き で、そ う い う の が
験までの指導をしてくださるこ
技能五輪全国大会
に参加して
ています。本当にありがとうご
だ上を目指して頑張ります。
情報科3年
上 手 く な り た い と 思 い、始 め た
に過ぎ、二次試験の日がやって
た。そんな日々もあっという間
て、ウェブサイトをデザインし
のはウェブデザイン職種といっ
と向かいました。私が参加した
国大会に参加するため千葉県へ
平成二〇年二月二九日、学期
末考査最終日。私は技能五輪全
ただ、後々いろんな方の励ま
しの言葉をもらっているうち
原動力でもありました。
められることの方が嬉しいし、
り も、先 輩 や 現 役 大 工 さ ん に 褒
と だ と 思 っ て い ま し た。そ れ よ
浅井仁美
ざいました。
とになりました。それから毎日
き て、緊 張 し な が ら 臨 み ま し
構築する種目です。他の参加者
に、本当にたくさんの人に応援
ものだったので賞がとれなかっ
た。
は社会人や専門学校生ばかり
されていたんだなと実感しまし
先生と授業後に製図の練習をし
そ の 翌 年 の2 月 に 結 果 が き た
ときはドキドキしながら封を開
で、高校生は私を含め工芸から
た。それと同時に、だんだんと
た の は 残 念 だ け ど、仕 方 な い こ
けました。結果は合格。
参加した4人だけでした。課題
て、着実に力をつけていきまし
嬉しくてすぐに先生方に報告
に行くと、またもや驚かれつつ
− 17 −
会計報告
平成19年度
(平成19年4月1日∼平成20年3月31日)
[一般会計]
〈収入の部〉
科 目
前
年
度
繰
越
金
新 入 会 員 入 会 金
会
報
広
告
代
総 会 及び 懇 親 会々費
そ の 他
合
7 , 0 3 0 , 5 6 1 円 現金及び預金
7 7 1 , 0 0 0 257名×3,000円
×10,000円
2 0 , 0 0 0 会報33号(2社)
2 9 0 , 0 0 0 58名×5,000円
1 1 , 9 7 9 利息(名銀・UFJ)
計 8 , 1 2 3 , 5 40 科 目
〈支出の部〉
摘 要
決 算 額
摘 要
決 算 額
9 0 周 年 記 念 事 業出資 金
250,000円
会
3 8 2 , 7 7 6 総会費・理事会合費
合
費
退 職 者 記 念 品 代
通
雑
次
合
信
年
費
度
120,000 繰
越
0 費
金
1 , 5 4 4 振込手数料含
7,369,220 計 8 , 1 2 3 , 5 40 [一般会計]
収入決算額
8,123,540円
支出決算額
−7 5 4 , 3 20円
次年度繰越金
7,
369,
220円
次年度繰越金内訳
普通預金 名古屋銀行
3,058,453円
三菱東京UFJ銀行 4 , 3 0 6 , 6 8 2 円
現 金
4,085円
合 計
7,369,220円
この決算報告の収入、
支出について、
関係帳簿及び証拠
書類を監査した結果、
その内容は適正なものと認めます。
平成20年5月1日
上記の通りご報告致します。
平成20年5月1日
名古屋工芸会 会 長( 土 睦 会 ) 服 部 辰 美
会 計
( 土 睦 会 ) 小 栗 千 明
− 20 −
監 査
(プレス会) 山 田 稔 七月四日
百楽
九月一日
三建会
四六名
ものづくり大会協賛
十二月九日
第一回理事会
市工芸
八名
第一回評議員会
三月十六日
プレス会
七月十六日
評議会
市工芸
一〇月五日
総
会
アイリス愛知
デザイン会
七月二六日
交流会
市工芸
五月二四日
第一回代表幹事会
市工芸
六月十七日
第二回代表幹事会
ひらのや
情報会
九月二七日
ものづくり大会協賛
︵応援旗寄付︶
20
桜は新たな出会いの季節。ず
転任
いぶんと暖かくなり、もうすぐ
百合草 信 夫︵校長︶
薄ピンクに染まります。ご存じ
石 川 利 紀︵国語︶
のように学校の西側は桜が並木
村 田 聡 子︵数学︶
となり、通る人々の目に美しく
田 口 真 樹︵デザイン︶
見えていることと思います。毎
村 山 晴 奈 ︵建築システム︶ 年、入学式に合わせるかのよう
転出
に咲き、辺りを和やかにしてく
朝 倉 隆 司 ︵校長・西陵︶ れます。きれいな時ばかりでは
伊 藤 伸 治 ︵国語・若宮商業︶ なく、毛虫が落ちたり枯れ葉が
落ちたりと、面倒な季節もあり
退職
ます。でも一番相応しい季節に
鈴 木 清 徳︵数学︶
咲
き
、優しく包んでくれます。
山 田 敏 夫︵情報︶
み
な
さんはどう感じているので
石 原 則 義︵ 都市システム︶
し
ょ
うね。
さて、昨年は九〇周年事業も
あり、卒業生や在校生のパワー
を見ることができ、大変嬉しく
思い、感謝の気持ちでいっぱい
です。同窓生の一人として誇り
昭和一三年 建築科卒
に感じています。またこの 号
菊 田 圭 二 顧問
の編集に携わることで、力をい
平
成二
十年
五月
死去
ただいたようです。一つ一つの
八七歳
文には思いがあり、感動と再発
勲五等瑞宝章叙勲
見
の
連続です。ご投稿いただい
平成十一年四月二九日
た
方
々には感謝いたします。ま
名芸会会長
た
、
ご協力いただいた広告にも
昭和五六年∼昭和六一年
大
変
感謝いたします。ありがと
昭和一五年 建築科卒
う
ご
ざいました。
佐 藤 佐太郎 氏
来年も素晴らしい会報が出来
平
成二
〇年九月
一日死去
上がることを願い、後記とさせ
八五歳
ていただきます。
名芸会会長
加 藤
司
昭和六一年∼平成十年
昭和二三年 金工科卒
西 谷 明 高
日 置 恵美子
竹 島 金 次 氏
平
成二
一年
一月
二一日死去
表紙・校内風景
西 谷 明 高
八一歳
表紙 二〇〇八年一〇月一日
みつば会会長
体育祭
八〇周年事業展示実行委員長
− 21 −
20
工芸会 会長 小木曽
誠
柴
田
明
雄
副
会
長
良
伊
藤
一
副
会
長
会
分会長 保
築
浦 文 夫
理事
山 田 寿 秋
理事 志 水 義 裕
理事 横 井 辰 幸
土睦会 分会長 服 部 辰 美
理事
小 栗 千 明
理事 谷 口 圭 司
理事 佐久間 周 平
みつば会
分会長 小木曽
誠
理事 服 部
誠
理事 橋 本 久 之
理事 澤 田 伊佐雄
理事 西 谷 明 高
木葉会 分会長 伊 藤 良 一
理事 富 田
孝
理事 浅 井
清
理事 吉 田 好 孝
理事 丹 羽 佳 代
プレス会
分会長 高 木 茂 男
事 粥
理
川 正 富
理事 佐 橋 信 治
理事 石 田 正 文
理事 岩 本 聖 子
デザイン
会 分会長 森 本
健
理事
波多野 裕 治
理事 松 原 雅 人
理事 岡 本 佳 代
理事 加 藤
司
情報会 分会長 柴 田 明 雄
理事
菅 原 和 敏
理事 樋 口 貴 子
理事 大 塚 健二郎
理事 神 谷 友 恵
校 内 理事 加 藤
司
理事 西
谷 明 高
理事 日 置 恵美子
監 事 理事 服 部 辰 美
35
名芸会
四月五日
入学式
五月十二日 第一回理事会
市工芸
第二回理事会
六月二日
市工芸
六月二十日 名芸会総会
厚生年金会館
五月十二日 第三回理事会
市工芸
十月三十日 第四回理事会
市工芸
十一月二七日 第五回理事会
市工芸
十二月十五日 第六回理事会
市工芸
一月二一日 第七回理事会
市工芸
三月十三日 第八回理事会
市工芸
三月十二日 卒業式
築 会
三月二八日 第五回理事会
市工芸
十名
四月十四日 第六回理事会
市工芸
十四名
五月十九日 第一回評議員会
市工芸
十二名
五月二七日 第四二回総会
メルパルク 八七名
編集担当
20
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