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2008年12月

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2008年12月
ISSN 13490281
拓 殖 大 学
第
84
号
2008 年 12 月
論
文
顧客対応型量産方式の生成と発展 (下)
戦間期綿織物業の量産方式と
井
幹
雄 ( 1 )
…………………………建
部
宏
明 ( 55 )
……………………………小
原
………………………松
トヨタ生産方式の関連を中心に
原価計算制度における費目別計算思考の生成
原価計算制度の初期的胎動 2
グローバル比較マーケティング史考
縫製機械の事例をめぐって
博 ( 95 )
新製品の普及過程における消費者行動
類推研究の再考と
新製品普及のマーケティング戦略
……………………田
嶋
規
雄 (119)
拓殖大学経営経理研究・執筆要領 ………………………………………………… (143)
拓殖大学経営経理研究所
拓殖大学
第 84 号
拓殖大学経営経理研究所
経営経理研究 第 84 号
2008 年 12 月 pp. 153
論
文〉
顧客対応型量産方式の生成と発展 (下)
戦間期綿織物業の量産方式と
トヨタ生産方式の関連を中心に
松
井
幹
雄
5. 日本における産業合理化と 「科学的管理」 運動
「科学的管理」 活動の登場
1910 年代から 20 年代にかけて, 日本産業をめぐる内外環境は激動とい
う表現が相応しかった。 第一次大戦中の急激な輸出拡大と, 外国製品の輸
入途絶がもたらした未曾有のブームが終わると, 不況の 1920 年代がはじ
まった。 戦争直後に訪れた恐慌, 1923 年の関東大震災から, 金解禁, 緊
縮財政と難題が続く一方で, 世界経済も大戦後の好況の時代からやがて
1929 年の世界大恐慌, そして 1930 年代の貿易規制, ブロック経済化に向
かっていたのである。 この時期はまた, 日本綿織物が, 輸出商品のトップ
の座についただけでなく, 長い間世界市場に君臨したイギリス綿織物を急
速に追い上げ追い越した時期でもあった。 さらに日本産業の重化学工業化
が重要政策目標となり, 併せて産業合理化の必要が指摘されていた。
そして日本企業の 「管理の不在」 が指摘され, 工場経営の合理化と能率
増進が課題となっていたが, そのモデルとなったのは 19101920 年代のア
メリカで進展した標準化製品の大量生産方式ではなく, 第一次大戦後のド
―1―
イツ経済の復興を実現した産業合理化運動 (Industrielle Rationalisierung) であった。 1927 年に政府は 「産業立国」 のスローガンを掲げ, 技
術, 企業組織と経営管理, 能率などの項目について日本産業の基礎的調査
をはじめている。 改正工場法の実施による深夜作業の撤廃や, 金解禁など
厳しい環境に直面していた紡績, 織物業でも, スパー・ハイドラフト技術
の導入や, 標準作業の徹底など, 改めて能率向上による合理化が目標となっ
ていた。 そしてこの産業合理化への取り組みでも, 日本近代産業で唯一,
国際市場で競争優位を構築しつつあった綿織物業の量産方式に関心が向け
られていたのである。
さて既述のように, 1920 年代後半には, 日本と先進工業国の工業力,
即ち生産性の格差が大きいことに政府や産業界のリーダーは危機感を抱い
ていた。 例えば, 呉の海軍工廠で科学的管理法の導入に指導的役割を果た
した伍堂卓雄もその一人であった。 彼は当時の基礎産業, 鉄鋼の労働生産
性について, アメリカ 7, イギリス 5, 日本 1 という比率を推定していた。
鉄鋼に限らずどの産業でも日米の生産性較差は, 5∼10 倍に相当するとい
う認識がリーダー達の共通の認識だったのである85)。
さらに伍堂は, ドイツの産業合理化運動とアメリカの科学的管理法の違
いについて次のように述べている。 「亜米利加の科学的管理法のねらい所
は, 安く沢山に容易に良いものを拵えるにありまして, 之が為に種々の科
学的手段が取り扱はれて居る。 併しながら市場に対する心配は大いしてな
いのであります。 其点が此独逸と違って居ると思ふのであります」。 彼は
また, アメリカ流の能率増進手法の直輸入ではなく, 成功している日本産
業の中で形成された手法でなければ実効性がない, という考え方も併せて
指摘している86)。
ともあれ 1930 年に商工省に臨時産業合理局が設置され, ドイツを参考
にした生産性向上の取り組みが実行されることになった。 具体的には, 工
業製品の規格統一, 作業工程の改善, 時間研究, そして経営組織の改革な
―2―
どが取り組みテーマとなったが, さらにドイツが成果をあげた産業のトラ
スト化とカルテル化の推進など産業全体の協調的な発展も課題となってい
た。 こうして政府主導の, 「科学的管理」 と呼ばれたドイツ型の産業合理
化運動が展開されることになり, 1920 年代の 「科学的管理法」 による工
場能率の増進政策に代わって, 戦中期に向けて工場改善活動の基本的な枠
組みが形成されていったのである87)。
臨時産業合理局の中に設置された生産管理委員会が, 産業合理化の推進
主体として位置づけられ, 1920 年代に国鉄で科学的管理法の導入を推進
した山下興家工作局長が委員長に就任した。 この委員会の目的は, 「わが
国産業に於いて能率を増進せしめる為には, 如何なる手段を構ずべきかの
方策」 を考究することであった88)。
そして 「机上の空論にあらずして, 既に之を実地に試みて充分に効果の
著しいことを確かめ得たるもの, あるいは海外に於いて実際に行われつつ
あって, 其の成績に顕著なものの中から我が国情に照らして, 企業の大小
に拘らず之を採用することによって, 少なからざる効果ありと信じたる事
項」 を調査・審議し決定することであった。
この委員会の決定事項の普及機関として, 1931 年に日本工業協会が設
立された89)。 同協会は, 観念論を廃し, 実際に効果をあげることを目標と
し, 実地指導, 工場診断のできる技術陣を擁していた。 そして, 商工省の
補助金と一般会員の会費を財源として, 産業合理化に関連した課題の解決
や, 生産管理技術者養成のため講習会を開催するなど, 実践的な生産管理
の手段の発展に尽力することになる。
堀米建一と 「科学的管理」
堀米建一は, 1923 年に早稲田大学理工学部機械工学科を卒業後国鉄に
入社し, 1925 年ごろから工場現場の作業合理化に取り組んでいた。 彼は,
当時国鉄の工作局長を務めていた山下興家の下で, 大井修理工場の作業標
―3―
準化と職務給の導入など賃金制度改革に貢献している。 そして 1933 年末
に日本工業協会の技術部長にスカウトされ, 同協会の 「科学的管理」 推進
運動のリーダーとして, 工場能率増進に関する実地指導や技術者の教育訓
練に当たることになったのである。
因みにこの 「科学的管理」 を, 「日本的生産管理」 と呼んだ中岡哲郎は,
「この工場を一貫して指導したのは, 日本におけるインダストリアル・エ
ンジニアの草分けとも言うべき堀米建一と小野常雄であり, 日本能率協会
に結集された
日本的生産管理
の水準を代表していたと見てよい」 と述
90)
べている 。
日本工業協会に移った堀米は, 国鉄修理工場時代の知識と経験だけでは
民間工場の能率改善は難しいと考え, 日本企業向けの分析手法と原則を研
究することになった。
そして彼は, 「現在に一番いい方法があることが分かった。 しかし, そ
れをどうこなしていくかということは 1 つも書いてないし, 何も指導して
いない。 われわれはこのこなし方をやらなければならなかったのです」 と
述べている。 「現場作業の改善に努力しその能率の増進を計り, 欧米の水
準に伍してごうも引けをとらない工場も沢山見ることができる」 とも述べ
ているが, 具体的にどの産業, 分野の工場だったのかその名を挙げていな
い。 しかし, 「欧米の水準に伍してごうも引けをとらない工場」 が多数あっ
た分野を, 消去法で探っていくと輸出綿織物に突きあたる。 繰り返すが当
時の綿織物は日本最大の輸出商品であり, 日本産業の中でいち早く工場の
生産管理の近代化に取り組み, 成果を挙げていたのである。 その量産工場
の作業方法や工程管理に, 堀米が強い関心を抱くのは当然のことであった。
また 1920 年代に農商務省が, 「科学的管理法」 の普及に努め織物工場の能
率増進に関与していたことも承知していた筈である。 しかし当時の紡績,
織物工場は, 「すべての紡織会社が秘密の鍵を堅く閉ざし, 工場の鉄壁は
牢として開かれざる」 状態だったのである91)。
―4―
ともあれ工業協会の技術部長として堀米のやるべきことは, 日本産業で
「之を実地に試見て充分に効果の著しいことを確かめ得たる」 手法を研究
し, 普及することだった92)。
そして彼は, 工業協会に移って 3 年経った頃には, 織物業者を対象にし
た講演会で, 専門家の 1 人として 「織物工場の作業改善」 について講演す
るだけの知見を習得していたのである。
堀米は, 「科学的管理」, つまり当時の日本における工場能率増進の基本
手法を, 工程管理と作業研究にまとめることができると考えていた93)。
即ち工程管理は, 「材料を準備して製作から完成に至るまで, 工場内の
作業の流れが何等の停滞なく順調に進んで, 予定期間中に完成される所謂
作業の流れに対する計画を立て, 具体的方法を明示し実行に移すことであ
り, 現場の計画的指導に重きを置く方法である」。
そして作業研究は, 「作業中に含まれる無駄を省き余力を生ぜ出し能率
を増進せしめる方法」 であり, 工程管理と作業研究を 「並列進展せしめて
こそ真の工場作業の能率増進は得られる」 と述べている。
彼は, 日本企業が 1920 年代に導入したテイラーの作業標準化と時間研
究は, 「時間的観念にのみ支配されすぎてその他の条件, 例えばいかなる
作業動作で如何なる工具や機具を用いて作業を完成したか, という作業方
法を主体とした観察方法に関心を持たな過ぎた」 ために, これを実施した
工場が十分な効果を示していないと述べている。
この反省に基づいて, 彼は上に述べた工程管理と作業研究の組み合わせ
た工場能率増進の手法を編み出したのである。 そして堀米と日本工業協会
の技師たちは, 金属・機械部門を中心にして工場診断や作業研究講習会を
通じて科学的管理の推進運動を展開した。 しかし 1940 年代に入ると, 航
空機など兵器関連産業の生産能率増進に目標が絞られるようになり, とり
わけ流れ作業を前提にした多量生産が課題となっていくのである。 このよ
うに 「科学的管理」 は, テイラーの科学的管理法より広い概念であり, 工
―5―
場管理全般の効率化をめざす日本独自の科学的方法として普及することに
なったのである94)。
表 51
対
日本能率協会長期工場診断実績 (1942 年度)
象
1. 日本鋼管株式会社
期
間
診断員班長
1942 年 11 月 25 日∼12 月 24 日
森川覚三
2. ㈱渡辺鉄工所航空機製作所
43 年 1 月 18 日∼ 2 月 12 日
堀米建一
3. 日本製鉄株式会社
八幡製鉄所
釜石製鉄所
輪西製鉄所
43 年 2 月 10 日∼ 3 月 20 日
42 年 6 月 23 日∼ 7 月 6 日
42 年 7 月 16 日∼ 7 月 22 日
森川覚三
森川覚三
森川覚三
4. 愛知時計電機株式会社永徳工場
42 年 11 月 12 日∼12 月 18 日
堀米建一
5. 豊川海軍工廠
43 年 2 月 25 日∼ 3 月 19 日
福田
6. 東京書籍株式会社
42 年 9 月 21 日∼10 月 5 日
田中親良
7. 中島飛行機株式会社太田製作所
42 年 9 月 26 日
堀米建一
8. 中島飛行機株式会社武蔵野製作所
(技術者養成と併催)
42 年 2 月 1 日∼ 4 月 30 日
(41 年度より継続)
堀米建一
9. 三菱重工㈱名古屋航空機製作所
(技術者養成と併催)
42 年 11 月 11 日∼
43 年 1 月 14 日
堀米建一
資料:佐々木聡, 前出, 218 頁。
原資料:日本能率協会 日本能率協会創立初年度の記録
勇
(同会, 1962 年) 2628 頁。
堀米たちは, 民間工場の工場診断と作業研究の指導を行い, また各地を
まわり精力的に講演した。 しかし, やがて戦時下の物資不足と徴兵で熟練
工のいなくなった工場診断に限界を感じるようになり, 生産管理技術者の
養成に重点を移していった。 彼等の計画した研究講習会は, 仕事の分析の
仕方・実験, 工程研究, 工場診断など実践的な教育を行い, 民間企業から
延べ 600 人を越える若手技術者が参加している95)。
そして参加者の中から, 戦後に生産管理技術者として活躍した人材が輩
出したが, 戦後大野耐一に外部コンサルタントとして協力し, トヨタ生産
方式の形成に大きな役割を果たした新郷重夫もその一人だった。 彼は研究
―6―
講習会の第 1 回の受講者だったが, 当時台北鉄道工場の鍛造職場の技術員
として能率増進に強い関心をもち, この研究会に自費で参加していた。 ま
た三菱重工業名古屋航空機製作所の守屋学治 (後に三菱重工業社長となる),
土井守人も, 堀米の講習会で得た工程管理手法をもとにして, 機体生産工
場の新しいレイアウトと作業組織を考案するなどの, 成果に繋がる下地を
つくり出していたのである96)。
織物工場の作業改善
①
織物工場の作業工程
堀米は, 1937 年 6 月に日本工業協会の織物業者を対象とした 「織物工
場の合理化」 に関する講演会で, 「織物工場の作業改善」 と題して講演し
た。 彼は, 講演の中で 「人絹及び木綿を経糸とする力織機作業の工場診断
を数工場について行ったのでその結果の主要なることのみを説明する」 と
述べ, 量産織物工場の作業研究の着眼点と改善手法について, 改善事例を
中心に話している。 以下彼の講演録から, 1930 年代半ばの織物工場にお
ける作業改善と工程管理の概要を見ることにする97)。
表 52
講演会の講演テーマと講師
講演テーマ
氏
名
所
属
準備工程の合理化
鈴木
徳戴
東洋紡績株式会社
力織機の標準取扱方法に就いて
三枝
秀春
東洋モスリン株式会社
技師
工場整頓と無駄排除
小林
国雄
栃木県足利工業試験場
技師
織物工場の作業改善
堀米
建一
日本工業協会
織物工場の電気設備
城崎
久平
東邦電力株式会社
中小織物工場の会計
笠原
千鶴
商工簿記研究所
工手訓練の実際
古川信次郎
資料:日本工業協会編, 織物羊場の合理化, 目次。
―7―
技師
技師
技師
鐘淵紡績株式会社
計理士
絹紡課長
講演の目次内容は以下の通りである。
「織物工場の作業改善」
Ⅰ
緒言
Ⅱ
繰り返し作業
Ⅲ
力織機作業
力織機による織物作業の要点
A
B 力織機取扱い作業に含まれる作業の種類
Ⅳ
各種作業に対する改善の実例
Ⅴ
力織機による織物作業改善の実例
A
絹紡を経糸とせる力織機作業の改善
B 人絹及び綿糸を経糸とせる力織機作業の改善
付録
第1表
軸線測定用紙
第2表
力織機による織物作業の現状
織物の条件
作業順序と其の所要時間
調査結果の綜合
第3表
力織機による織物作業の現状
作業順序と其の所要時間
第4表
経糸 (絹紡) 節取作業の時間間隔 (3 台持ち作業)
第5表
経糸 (絹紡) 節取作業の所要間隔 (2 台持ち作業)
第6表
力織機による織物作業における作業分析の綜合
第7表
経糸 (絹紡) 節取作業の内容 (3 台持ち作業の内の C 機)
第8表
経糸 (絹紡) 節取作業の内容 (2 台持ち作業)
第9表
力織機による織物作業分析
第 10 表
力織機作業に於ける作業者の移動状況
―8―
事例として取り上げられた工場は, 講演が行われた足利地区の織物業界
の事情が配慮され, 自動織機ではなく力織機の量産織物工場である。 まず
当時の織物工場の生産工程を簡単にまとめると以下のようになる98)。
①
準備工程
準備工程は, 巻返し, 整経, 糊付, 機上げの 4 作業からなっている。
) 巻返し
経糸巻返しは, 経糸用の糸をボビン巻または綛より整経用のボビ
ンに巻返す作業である。 この巻返し作業で原糸の状態を調べ, 汚れ
や節糸など欠陥を除くと共に, 原糸に一様の張力を与えて扱いやす
くする。 スピンドル巻返機あるいはドラム巻返機など動力機械が使
用される。
緯糸巻返しは, 原料糸の綛あるいはコップから一様の張力を持た
せて緯管に巻き取る作業であり, この間に糸の欠点を除き, 同時に
杼に入れやすいようにする。 カップ管巻機或いはデスク管巻機など
が使用される。
) 整経
巻返しを終えた経糸は次に整経機にかける。 これは織物の経糸の
本数と長さを定め, 数百個の整経用ボビンから糸を引き集めてこれ
を巻軸に捲き上げる作業である。 荒巻整経機, あるいは部分整経機
を使用する。
整経を終えると, 直ちに織機の経糸巻軸即ち千切に捲き移される。
これを経巻といいこの時に使用するのが経巻台であり, 荒筬及び綾
竹等が付属する場合がある。
) 経糸糊付
整経した経糸は糊付機にかける。 糊付の目的は, 糸の強さを増し,
毛羽を伏せて表面を滑らかにし, 製織時の歪みや摩擦に耐えさせる
ことである。 糊付で自然に糸の重量と容積が増し, 織布としての外
―9―
観や触感を良くすることにもなる。 糊料はその目的によっていろい
ろの種類があるが, 綿織物には主として小麦粉, 生麩, 蕨粉, コー
ンスターチ, セーゴ等を使用する。 糊付の方法には, 綛に糊付ける
もの, 千切に巻き付ける時糊液中を通過乾燥して糊付する場合があ
るが, スラッシャサイジングマシンを使った後者の方法が多い。
) 機上げ (経直し)
糊付を終わって巻軸に捲かれた経糸の長さは番手や糸数によって
異なるが, 大抵 500 ヤードから 1,000 ヤードあり, これを綜絖と筬
に通し製織の準備をする。 この作業が機上げである。 経糸を綜絖や
筬の目に通すには, 経糸の巻軸を引込台もしくは機上台と称する台
に載せ, 大抵職工の手で行う。 大工場ではすでに織った織物の末端
の経糸に新しく整経したものの先端を機械的に継ぐ経継機を用いる
ことが多い。
②
製織工程
製織は 3 つの基本運動から成り立っている。 綜絖によって経糸を上下
に引分け杼道を作り (開口運動), そこへ杼を以て緯糸を通し (杼投運
動), その緯糸を筬で打込む (筬打運動) であり, これらの操作を繰り
返し反復する機械が即ち織機である。 織機は逐年進歩改良され, 最近で
は以上の基本運動のほかに経糸送出し, 布巻取, 換杼の補助運動から緯
糸停止装置まで機械的にやれるようになっている。
) 織機
織機は手織機, 力織機, 自動織機に大別される。 力織機は, 製織
の三つの基本運動を全部自動的に働かす機構であり, 手織機に比べ
て生産能率が高く, 均斉な織物をつくり, 労力を著しく節減する特
徴を持っている。 最近は一層精巧な自動織機が普及して著しく効率
をあげている。 この装置は 1895 年米国のドレーパー社で開発され
たもので, 前記の機構のほかに経糸停止装置及び緯糸補充装置を備
― 10 ―
えている。 製織中に経糸が切れれば自動的に停止し, また緯糸が織
り尽くされ切れたりすると自動的に杼が取替えられる。 普通の力織
機では大抵 1 人で 28 台受持であるが, 自動織機では 4050 台を受
持つことも可能で省力効果が大きい。
一般的に, 製織工程では, 「織機の運転を止める」 ことは, 生産
高を減少させるだけでなく織むらなど織り傷の発生原因になる。
) 製織後の処理
織り上げた綿布は検反機にかける。 検査台に広げて布面の傷の有
無を調べ, 同時に節取りと疵直しをし, 付着した塵埃や綿屑を取除
く。 次に適当な寸法に折り畳み荷造りをする。
②
織物生産工程の作業改善
①
織物工場の作業内容と順序
図 51 は, 「機織作業における作業順序と内容を現在のまま分析し示し
た」 ものである。 作業を大きく分けると, 経糸整経作業, 緯糸管巻き作業,
製織作業, 検査作業の 4 つである。
②
準備作業の作業順序
) 作業順序:「後工程からの引取り」 と 「手持ち在庫」 のコントロール
図 51 でわかるように, 準備工程の 「経糸のボビン巻作業」, 「整
経作業」, 「緯糸の管巻き作業」 が作業の順序に従って記述されてい
る。 各作業の運搬係が, 各作業で使用する原糸 (材料, 仕掛品) を,
前作業が終わり整頓されている倉庫, 棚まで引き取りにいく。 運搬
する対象によって男女の別や運搬方法が指定され, さらに一回に運
ぶ量が決められた原糸 (材料, 仕掛品) を作業場所の棚, 糸箱に運
ぶ。 作業が完了した原糸 (材料, 仕掛品) は運搬係が整頓棚に運ぶ。
整頓棚の在庫量 (日数) は最大と最小の基準が決めてある。
最初の 「ボビン巻き」 作業で具体的に確かめてみよう。 女工運搬
― 11 ―
図 51
機織作業における作業順序
経糸 (無地糸)
準備係
△倉
倉へ行く
(25 間)
①設計係から糸を受ける
繰返し
運搬する
(7 間)
準備係に行く
(6∼12 間)
棚に整頓する
(2∼7 日)
②準備係から糸を受ける
(2 括=280 總位)
箱へ入れる
ボビン入れ箱に行く
(3∼9 間)
運搬する
糸箱に入れる
ボビン
繰返し
③ボビンを小箱に入れる
(本日の后 6 : 30, 翌日の
前 10 : 00 までの分)
運搬する
(3∼9 間)
△
▽
④ボビン巻き
⑤再繰り
箱に入れる (2∼12 コ)
運搬する
(2∼9 間)
棚に整頓する (1 日)
整経助手
棚に行く
(3 間)
運搬する
(1 間)
⑥ボビンの巻き方向を揃える
△
▽ 膝の上に置き (10 本位)
⑦ボビンに心棒を挿す
箱に入れる (1∼2 時間)
運搬する
(2∼9 間)
⑧ボビンをボビン台にかける
⑨糸の口出し
整経機
△
⑫整型機に
長さを定める
⑩綾取筬通し
⑪前筬通し
△
▽
― 12 ―
心棒
△
図 51
機織作業における作業順序 (続き)
緯糸
⑬整経する
⑭ビームに巻き取り
△ 倉に貯蔵
(25 間) 倉に行く
無地及
色無地
その他
①倉から出す
⑮巻き替える
棚に整頓する(1∼15 日)
運搬する
②管巻き
ビーム置き場に整頓する(2∼3 日)
③ 目方かけ
◇
筬通し(外注する)
(4 間) 木管に立てて整頓する
(52 本立に 40 本さして渡す)(0∼3 時間)
玉台にて職場へ
整頓する (1∼2 日)
(12∼43 間)
織布
現場に配布
織場の棚に整頓する
力織機
(1∼15 間)
玉台を
力織機に運ぶ
△
(1∼15 間) 織工が棚から持ってくる
①掃除する
③木管立てを力織機に持って来ておく
△
棚に
②経糸を機械に
取り付ける(機上げ)
④杼に木管を挿し
糸口を出す
⑤織る
⑥製品を外す
(3∼20 間) ヤールかけ係に運ぶ
― 13 ―
空
木
管
図 51
機織作業における作業順序 (続き)
整頓する
ヤール掛け機
ヤール掛け機に運ぶ
△
⑦ ヤールたたみにする
□
(3 間) 台え運搬する
(20 間) 倉から運ぶ
⑧記帳する
整頓する
2 検査する
◇
(35 間) 検査係へ運搬する
整頓する
③精錬外注
検査
整頓する
①受付ける
4 検査する
◇
(20 間) 倉へ運ぶ
運ぶ
整頓する
⑤荷造りする
▽
資料:日本工業協会編, 織物工業の合理化, 223224 頁。
工程分析の記号
区分
意
味
細
別
加工
物が変形, 変質組立分解されてい
る過程
⑤
第 5 工程作業
検査
物が標準と比較されている過程
□
量の検査
運搬
物の移動位置が変化している過程
男工による運搬
女工による運搬
停滞
物が何等の変化なく停滞している
過程
△
▽
素材や材料の貯蔵
完成部品や製品の貯蔵
工程間に於ける手待 (工程待)
加工中に於ける手待 (一時待)
素材や製品の整頓
― 14 ―
係が, 612 間 (1 間は約 1.8 メートル) の距離を移動して, 準備係
の倉庫からボビンに巻き取る綛糸 (1 回の運搬量は 280 綛) を引き
取り, 作業場の糸箱に整頓する。 糸箱の綛糸在庫量は, 本日の午後
6 時から翌日午前 10 時までの巻返し作業に必要な量である。
ボビン巻き作業が終わると, 女工運搬係が 212 個ずつ箱に入れ
て整頓棚に運び保管する。 棚のボビン在庫は一日分の作業量に相当
する数量であり, 整頓棚までの距離は 29 間である (そして次の製
経作業の女工運搬係りがこの整理棚にボビンを引き取りに来る)。
) 準備作業と改善要領
準備作業は, 経糸をふわりにかけてボビンに巻き取る, 緯糸の管
巻き, などの 「繰返し作業」 である。 この繰り返し作業の改善要領
は以下のようになる。
「ボビンの心棒の頭側を示す印をつける」
ボビンを色分けすることで, 糸の種類を区別する際の躊躇がなく
なり, 作業が簡単になる。 またボビンに心棒を挿し替える誤動作が
絶対に無くなり, これによって作業の調子の乱れを無くすことがで
きる。
「繰り返しの終わった
ボビン
を入れる木枠乗せ台をつくる」
再繰りの終わったボビンは機械枠の上に置かず, 直ちに最も手近
かの木枠に入れて積み重ねる。 機械枠の上にボビンを置き溜まると,
ボビン入れ箱に運ぶのは疲れやすい動作であり, 無為な時間は極力
省かなければならない。
「空ボビンの運搬はボビン上げ巻き替え作業者が行う」
空ボビンを箱に入れて運ぶ動作は, 繰り返し工が取りに行かず,
軽易な作業に従事しているボビン上げ巻き替え工が運搬するように
する。 これによって繰り返し作業に少しでも多くの時間を振り向け
ることができる。
― 15 ―
さらに 「ボビン取替え作業」, 「繰り返し作業の途中手空きの場合
に行う作業」, 「緯糸管巻き作業」 と続き, 図入りで作業と其の手順
の改善方法が解説されているが, ここでは省略する。
このように作業者に 「作業改善を訓練すると, 現在のような無駄なる作
業によって費やされている作業時間が非常に節約され, 従って作業者に時
間的な余裕が生じてくる」 のであり, さらに 「徒に歩き回ったり, 焦心が
なくなるから疲れが大いに軽減される」。
以上述べたのはボビン巻き作業である。 作業の流れをつくり, 無駄なく
効率的に管理するために, 個別作業毎に詳細な作業研究にもとづいて必要
な熟練や技能の内容が分析され, 作業の標準化が行われていたことがわか
る。 さらに作業毎に作業能力 (所要時間) が計算され, 各作業に必要な加
工原料を前工程の整頓棚から引き取る, 作業が終わった材料ないし半製品
は整頓棚に整理し, その工程持ちの基準 (量, 日数) も決められた。
③
力織機作業
99)
) 力織機による織物作業の要点
1 つは 「機械が製品を織り出してくれる」 こと, その 2 つは 「力
織機の運転取扱いは作業者が行うこと」 である。 何時も均一なよい
製品を織り出し, かつ織り上がり出来高を一定に保とうとすれば,
まず機械各部が正確な基準により整備されること, そして作業者の
機械の取扱い方法が適切有効でなければならない。
織機作業をその内容から見ると, 「主として機械が製品を作り出
し作業者はその世話をすればよい作業」 と, 「機械よりもその操作
や経糸手入れに十分注意し努力をしなければよい製品をつくること
も, 沢山の製品をつくることもできない作業」 の二つに分けられる。
「機械の取扱いの巧拙」 を言い換えると 「織機作業の熟練の相違」
である。 この熟練の相違で製品の品質に上下が生じ, また一人の作
業者が受け持つことができる力織機の台数が決まる。
― 16 ―
) 力織機の運転取扱い作業に含まれる作業の種類
力織機取扱い作業を改善する場合には, 機械作業とその条件を研
究すると同時に, 作業者が現在行っている動作や, 仕事の順序その
他等主として仕事の内容を詳細に調べることが大切である。 こうし
て 「例えば操作方法に苦心の点や, 難易の判別を明らかにすること
が出来, また操作に対する熟練, 技量を必要とする所があるや否や,
また余分の力を必要とし或いは疲れの多い作業があるか否か, 或い
は作業の調子を乱し従って作業を遅延させる原因等, その他機械に
関する研究ばかりでは, 到底見出すことの出来難い種種の内容を探
し出すことが出来るのであって, かくして織機作業に対する重点と,
その方法を見出すことが出来るのである」100)。 こうして織機作業と
その順序を整理すると表 53 のようになる。
) 力織機取扱い作業の分析
作業は機械作業と綾向うの経糸整理作業および移動作業である。
このように三つの動作に分類された作業は, さらに織機の 「2 台持
ち」 と 「3 台持ち」 のそれぞれについて, その作業と移動とにかか
る時間が記録され分析された。 その詳細はここでは立ち入らないが,
結果だけを示すと表 54 のようになる101)。
) 各作業に対する改善策
以上の作業研究をもとに堀米は, A, B, C, D の 4 工場につい
て作業改善のための診断を行ったが, その結果を表 55 にまとめ,
以下のような説明を行っている。
「A 工場:織物の種類に応じて持ち台数を変える」
予備杼も各機 3 個であり, 作業者の作業方法も極めて妥当であり無駄が
ない。 機前で 「休む」 が全作業時間の 69%を占めている。 これは, 作業
者がさらに多くの機台を持てる可能性を示している。
「一般に機械の受持ち台数は織物の種類によって, 換言すれば経糸及び
― 17 ―
表 53
ア
イ
ウ
エ
オ
カ
キ
ク
業
力織機の
運転をや
め生産高
を少なく
する作業
力織機の運転中
気にかかる作業
にして之がため
に余分の疲れを
起こすもの
必要にし
て軽い作
業
全く無駄な作業
にして出来栄え
の向上と生産高
の増加に向け得
るもの
製品の種
類により
必要の程
度を異に
する作業
度を越す
と無駄と
なり疲れ
を増す作
業
大
作
名
別
機
前
作
業
杼を取替える
①
経糸の切れを継ぐ
②
緯糸の切れを継ぐ
③
予備杼の木管を取り替
える
④
①②③作業後暫くその
動きを見守る
⑤
杼箱内の木管を見て緯
糸取替えを判断する
綾
向
う
経
糸
整
理
作
業
力織機における作業の種類一覧表
⑥
機前で休む
⑦
織布にキズあり戻す作
業
⑧
節取り糸継ぎ
⑨
経糸の間に指先を入れ
て縦にコキ節を調べる
⑩
鋏の柄元で経糸を横に
しごいて経糸の節, 塵
その他を見出す
⑪
経糸の塵を取る
⑫
綾棒を前後にコキ或は
位置を直す
移
動
作
業
⑬
機前から後ろへ行く及
び此反対―此の間に筬
及び綜の状況を調べ
る
⑭
経糸整理作業の際の機
械の左右両側へ移動す
る
⑮
織機からほかの織機へ
移行する
⑯
資料:日本工業協会編, 前出, 208 頁より作成。
― 18 ―
表 54
3台
受持台数
時間 合計時間
機前にて休む
節を取る
左側へ, 右側へ
機前へ, 後ろへ
織物作業における作業分析
2台
回
合計回
%
合計%
0
0
0
0
0
0 .2966
.2966
16
16
30
30
.3143
.3143
14
14
54
54 .3414
.3414
18
18
34
34
.0048 .0195
.0147 回
合計回
%
4 4 8
合計%
1 3 時間 合計時間
.0487 4
.0910
.0423 14 28
14 5 4 9
.0128 .0516 .0644
0 5 12 17
0 予備杼の木管を入れ替
.0735 える
.1000
機械の調子を見守る
.0265 11 19
8 13 .0612 17
.0798
4 .0186
12 19
7 6 2 8
杼の中の木管の緯糸の
.0780
有無を見て判断する
.0780
18
18
13
13 .0674
.0674
14
14
7
7
.0038
.0038
1
1
1
1 .0122
.0122
3
3
1
1
.5800
.5800
77
77
100
100 .9947
.9947
116
116
100
100
経糸を継ぐ
予備杼と取り替える
緯糸を継ぐ
雑
合
計
2 .0560 9 11 .0142 .1063
0 .0361
7 7 18
4 6 1 11
4 原備考:時間=1/10,000 時間
資料:日本工業会編, 前出, 237 頁。
緯糸に対する作業方法の内容によって変化するのであるから, 織布の種類
に応じて受持ち台数をその都度適当に組み合わせることが出来れば非常に
よい」。
「B 工場:機械配置換えにより無駄な移動作業を無くす」
機械の配列が 「カギの手」 ではなく横に並んでいる。 作業者の移動に相
当の無駄を含んでおり, これらは疲れの多い無駄な作業である。
図 52 は, 織機 3 台持ちの作業者が, 20 分間に力織機の周囲を歩行移
動する状況を, 実際の工場現場で実測した記録である。 移動距離は 401 尺
に及び, また或る場所に立って作業して次の場所に移動する際の歩行運動
の回数は 47 回, さらに歩行中に方向変化を起す回数は 67 回であった。 一
般に歩行運動は, ただ作業者の疲れを増す以外に何等の利益が無いし, 歩
行中に方向を変える動作は疲れを増すことが多い。
― 19 ―
表 55
作
力織機による織物作業作業分析表
業
工
内
種
類
容
機械の運転 準備作業に 多分に改善の
を止める
当る
要あるもの
B
業 使用中の杼を緯糸
の有無を見て廻る
D
0
5
○
5
10
0
11
○
0
0
12
15
10
10
6
8
○
4
0
10
18
○
0
3
0
0
○
0
27
26
8
床にある木管を木
管立てに立て直す
0
5
0
0
オサ枠のボルトを
締める
0
0
0
0
○
16
25
45
8
○
4
0
0
21
0
1
0
0
0
2
0
0
0
1
1
6
経糸の節を取り手
綾 入れする
向
う 経糸を整理する
作
業
重錘を調節する
○
管巻きまで木管を
取りに行く
○
○
雑
合
使
108
100
数
各機 3 ヶ
各機 2 ヶ
2.2.4 ヶ
各機 2 ヶ
杼
各機 3 ヶ
各機 2 ヶ
なし
各機 1 ヶ
3台
3台
3台
6台
計
用
杼
予
作
C
16
○
使用中の杼の木管
機 を取り替える
予備杼と木管を取
り替える
前
経糸を継ぐ
作
緯糸を継ぐ
雑
A
69
休む
予備杼と取り替え
る
場
全作業時間に対する割合 (%)
備
受持機械台数
100
業 織
布
種
類
小幅人絹織物 小幅人絹織物 大幅人絹織物
条 使
用
機
械
初谷式力織機
―
100
木綿織物
イモカワ式
平野製作所
絹織物
件
機械の配列と受持方法
受持機
通路
機前
注1:全作業時間に対する割合で A の合計を再計算した結果 100 にならなかったためその
まま表示している。
注2:受持機械台数で B については原表では 2 台となっているが誤植であるため 3 台に修
正した。
資料:日本工業協会編, 前出, 240 頁。
― 20 ―
図 52
力織機作業における作業者の移動状況
資料:日本工業協会編, 前出, 241 頁。
「不必要な移動動作は減少することにつとめねばならない。 B 工場の作
業者は, 機械配列と機械受持ち方法に原因して受ける時間的また疲れかの
上からの無駄が必要以上に多いのである」。
こうして作業者に楽な機械の配列と機械受け持ち方法の工夫がおこなわ
― 21 ―
れ, 材料の運搬距離についてもおおよその目途が決められた。 さらに重量
物運搬車両用レールが敷かれた。
「C 工場:停台原因の作業研究」
杼の木管を取り替える作業, 経糸切れを継ぐ作業による織機の停台が目
立つ。 この理由は, 予備杼を備えていないことと, 経糸の手入れが不十分
なためである。 経糸の手入れに大きな時間を割いていることからも明らか
である。
「D 工場:予備杼と木管の取替え」
「力織機の運転を止めることは……織上げ高を減少させるばかりでなく,
その都度作業者の作業者の調子を乱し, かつこれを正常に戻すために力織
機の周囲を飛び回るため, 余分に疲れを生じせしめ, 従って力織機の運転
を円滑に行い得ない等不利な原因を起す」。 その対策としては, 「既に木管
を入れ替えてある予備杼を用意しておき」, 機械の運転を止めないように
することである。
そして 「予備杼の木管の入れ替えは, 機械を運転し始めてその調子を見
守り終えたならば, その直後に行うことを忘れてはならない。 ……さらに
積極的に運転中止の時間を減少せんとするならば, 杼の中に入れる木管を
大きくして杼の取り替え回数を少なくする」 ことが考えられるが, 木管の
取替え費用と織り上げ高増加分との比較検討が必要である。
③
まとめ
無駄の排除と整理整頓
以上が堀米の織物業者向け講演記録の概要である。 事例に即した実践的
な内容が具体的に語られているが, この資料を本稿の目的に即して, 以下
のようにまとめることができる。
織物工場は, 作業機械を運転し監視する繰り返し作業で構成されている。
作業研究の目的は, 均一なよい製品を安定して織り出すための作業速度を
生じさせる作業方法を発見することである。 この視点から, 無駄な作業や
― 22 ―
動きを排除するために, 個別作業について詳細な分析が行われている。 作
業者の移動は無駄であり疲れの原因になるとして, 機械の配置が合理的な
作業順序に従って改善が工夫された。 さらに原糸が作業の工程を移動する
状態, つまり 「作業流」 について, 無理や無駄を省く工夫が行われている。
具体的にいえば, 原糸ないし仕掛品を一回に運ぶ数量と距離, 整頓棚に
保管する数量を設定し, 原糸及び仕掛かり品は, 無駄を省くために後工程
からの引取りであった。 また機械のレイアウトや取り付け位置についても,
無駄を排除するという視点から, 作業研究が行われ標準化が実行された。
木管やボビンの心棒は, 糸の種類や製品毎に色分けし管理することによっ
て混同による不良品の発生を未然に防いだ。
作業の過程で風綿やごみの混入からはじまり, 汚れ, 温湿度の変化によ
る糸の張力むらなどさまざまな原因により, 不良品が発生し停台により機
械効率が低下する可能性があった。 また機械はねじの緩み, 摩滅などが発
生するため, 各部品の保繕が正確に標準作業に従って調整された。 整頓も
重視された。 整頓とは, すぐ取り出せるような形で保管するという意味で
あった。 そしてこの整頓のために経営者から現場の作業者まで, 常に作業
改善に努力し続けることが強調されている。
6. トヨタ生産方式と輸出綿織物量産方式
輸出綿織物業からのスタート
大野耐一は, トヨタ生産方式の基本思想は, 「徹底した無駄の排除」 で
あり, それを貫く二本の柱が 「ジャスト・イン・タイム」 と 「自働化」 で
ある, と述べている102)。 そしてジャスト・イン・タイムは, 「組付けに必
要な部品が, 必要な時にそのつど, 必要なだけ, 生産ラインのわきに到着
するということ」 であり, 「自働化」 は, 「生産現場におけるつくり過ぎの
無駄や不良品の生産を防止すること」 である。
― 23 ―
大野はこうも述べている。 「もともとトヨタ生産方式は, 多種少量生産
というきわめて日本的な風土から発想し, それを基本に踏まえて展開し,
生産システムとして構築してきたものである。 したがって, 本来 多様化
に強いシステムなのである」103)。
門田安弘は, この基本思想と二本の柱の関係を次のように解説してい
る104)。
トヨタ生産方式の主目標は, コスト低減, つまり生産性の向上であり,
この主目標を達成するためには, 次の 3 つの副次目標が同時に達成されな
ければならない。 即ち,
①
量と種類の両面にわたる日次ならびに月次の需要変動に適応しうる
ような数量管理。
②
各工程が後工程に良品だけを供給しうるような品質保証。
③
コスト低減目標を達成するために人的資源を利用する限りは, 同時
に人間性の尊重が高められなければならないこと。
さらに門田は, 「主目標は副次目標の実現なしには達成できないし, 副
次目標は主目標の実現なしには達成できないというのがトヨタ生産方式の
特異な性格である」 ことを強調している。 そして, 「ジャスト・イン・タ
イム」 と 「自働化」 は, 「生産の継続的な流れ, あるいは市場での量と種
類の両面にわたる需要変化への弾力的な適応」 を実現するための, 「二つ
の枢要な概念」 なのである。
この, 規模によらず無駄を排除し, 需要の変動に合わせて作業の流れを
管理することによって, 生産性を高めるというトヨタ生産方式の発想は,
大野が指摘するように 「終始, つくり過ぎを押さえる, 常に市場ニーズに
対応できるつくり方をする」 ことであった。 「量とスピードを追求するあ
まり, いたずらにロスを生み出してしまう」 アメリカ型の大量生産方式に
対するアンチ・テーゼでもあったのである。
そして, その起源は以下のように 「紡績方式」 にさかのぼることがで
― 24 ―
きる。
先ず, 「生産規模に依存しない」 コスト低減, つまり 「無駄の排除」 と
は何か。 大野は, 生産現場におけるムダとは, 「原価のみを高める」 生産
の諸要素であり, 「多すぎる人・過剰な在庫・過剰な設備である」 と述べ
ている105)。
この無駄な労働を排除するという考え方は, 戦前の紡績, 織物工場で実
践されていた作業工程管理の基本思想であり, 1913 年に鐘紡の武藤山治
が制定した 「科学的操業法」 にたどり着く。 既述のように同法は, 「目に
見えぬ労力の消費の無駄」 を仕事の上より取り去り, 「労力に対する最操
縦法」 の確立をめざしていたのである。 この鐘紡をはじめ大手紡績会社で
1910 年代に体系化された作業工程管理の思想と手法は, 量産綿織物の分
野でも展開された。 そして 1920 年代半ば以降に, 本格的な自動織機の導
入と輸出市場の拡大の中で, 汎用輸出綿織物の量産方式として一段と高度
化したのである。
因みに, トヨタ自動車の母体となった豊田紡織は 1918 年に設立された
が, 紡績 3 万 4 千錘, 織機 1,000 台, 従業員 1,000 人, 紡織統合の適正規
模の試験工場としての役割を兼ね備えていた。 しかし, 1920 年代後半か
ら輸出の拡大で急成長を遂げ, 1930 年代初めの同社は織機台数 1,000 台を
超える量産織物工場を 3 工場所有し, 東洋紡, 鐘紡, 日紡など大手紡績会
社の兼営織布部門に次いで綿織物輸出トップ企業グループの一角を占めて
いた。 豊田紡織の工場は, モデル工場的な役割を担いながら, 紡績と織布
部門を統合し綿織物を効率的に生産することをめざしたのであり, 金巾,
粗布, 天竺など標準的織物を量産し, その約 80%を, 東南アジア中近東,
アフリカに輸出していたのである106)。
そして, 同社取締役として技術生産部門に係わりながら, トヨタ自動車
を創業した豊田喜一郎は, 「私はどちらかと云えば織機の方でなら, 先ず
右に出る者も無いと自負して居るが自動車の方については素人である」 と
― 25 ―
表 61
摘
要
豊田紡織の工場概要 (1934 年)
敷地坪数
建物坪数
紡績錘数
織機台数
工 員 数
(坪)
(坪)
(錘)
(台)
(人)
本社工場
21,667
10,340
46,200
1,080
1,115
刈谷工場
36,670
16,677
55,040
1,488
1,450
南 工 場
24,563
13,838
69,628
1,662
1,653
摘
要
年間原綿
使用高(貫)
年間生産高
左価格
(千碼)
(千円)注
1 錘当り原綿 織機 1 台当り
使用高(貫) 生産高(千碼)
本社工場
713,778
27,879
4,138
15.45
25.81
刈谷工場
967,692
32,802
4,968
17.58
22.04
南 工 場
1,416,388
45,354
6,984
20.34
27.29
注1:本表の位置関係において原表, 右価格を本表では左価格とした。
資料:岡藤次郎編, 豊田紡織株式会社史, 100, 106 頁より作成。
述べていた107)。 実際に, 1924 年に彼が中心になって完成した杼換式自動
織機 (G 型自動織機) は, 19 世紀末に発明され世界第一といわれていた,
米国ドレーパー社製の木管換式自動織機に対抗する画期的な発明であった。
同社のノースロップ機は, アメリカの織物工場用に開発された機械であり,
米綿で紡出した良質の糸から同一織物を連続大量生産する精巧な機械であっ
た。 しかし, 製作するとなると甚だ難しく高価で, 日本の織物工場の実情
に必ずしも合わなかったのである。 喜一郎はこう述べている。 「わが国で
は織物の種類多く, 従って何番手の糸にても, 又如何なる薄物でも厚物で
も織り得る事が必要である。 米国の如く 40’s 以上は杼替式を, それ以下
は木管替式を, と言うが如きはわが国では不向きである」108)。
実際に G 型自動織機は, 機構が簡単でアローワンスが大きく, さまざ
まな織物や糸番手に対応できる汎用性のある機械だった。 織機の扱いに熟
練を要しない, 調節が容易で狂いが生じにくいなど日本織物工場の状況に
合うような工夫も施されており, 安価で回転速度が速かったのである。 喜
一郎はまた, この G 型織機の生産について, 「自動車の如く一定のものを
― 26 ―
多量に作る工場組織」 を試行してみたが, 織機の生産量が少ないうえに発
注先の仕様変更や改造等があって失敗したとも述べている109)。
当時世界有数の総合繊維機械会社だったイギリスのプラット社が, この
G 型自動織機を評価し, 1929 年に豊田自動織機から特許実施権を 10 万ポ
ンドで買い取ることになった。 喜一郎はこの特許権譲渡交渉に立会い,
1930 年にプラット社から得た資金を元手にして自動車の研究に着手した
とされている110)。
そして, 彼は, 1933 年に自動車事業への進出をめざす調査研究の段階
で, 「規模に依存しない生産性の向上によってアメリカ自動車産業に対抗
する」 という, 独自の自動車生産構想を練り上げていたのである。 藤本隆
宏が指摘するように, まさに 「企業者的構想」 であり, 日本市場向けに独
自の自動織機を開発した設計技術者ならではの自動車生産のイノベーショ
ン, 新しい挑戦だった。 しかも, この当初の構想は, その後のトヨタ生産
方式の歴史が物語るように, トヨタの自動車生産の基本構想となったので
あり, 「自己実現的予言効果」 を発揮したのである111)。
また, トヨタ生産方式の事実上の創始者となった大野は, 1932 年に名
古屋高等工業機械工学科を卒業し, 豊田紡織に入社すると生産管理技術者
の道を歩んだ。 そして 1943 年豊田紡織がトヨタ自動車に吸収された時に,
自動車に移動したのである。 こうして彼は, 紡織生産と自動車生産の 「製
造技術」 の双方に精通するという, 稀有な経験の持つ生産管理の専門家と
なった。 大野は終戦直後, 喜一郎が 「3 年でアメリカの生産性に追いつけ」
という大胆な目標を出した時, 「紡績方式でやればよい」, 「生産性の差は
機械のせいではないと思った。 そこで, 生産の平準化や標準作業化, レイ
アウトの変更など, 生産システムの変更に力を入れた」 と述べたのであ
る112)。
彼はまた, 「トヨタ生産方式」 が確立した 1970 年代後半になって, 「自
動車であろうが, 紡績であろうが, 生産現場における人間と機械の関係は
― 27 ―
基本的に共通している。
物をつくる
ことを根幹となす二次産業に属す
る企業にとって, 原価低減が経営の最大課題であることは, 洋の東西, そ
して今も昔も変わるところがない。 ……日本の紡績業は, すでに戦前, 世
界的な視野をもって, 生産現場の合理化に取り組んでいた。 それに比べる
と, 日本の自動車産業は歴史の浅い産業だった」 とも述べている113)。
豊田喜一郎, そして大野耐一は, 自動車の生産管理技術者が思いつかな
かった, さらにイギリス, アメリカの 「紡績」 にもなかった, 日本の 「紡
績」 アイデア, 手法を自動車の生産現場に持ち込み, 現場で改良を重ねな
がら独自の製造技術を創り出したのである。
「自働化」 と 「ジャスト・イン・タイム」 というトヨタ生産方式の 「二
本の柱」 は, 門田が指摘したように, 「生産の継続的な流れ, あるいは市
場での量と種類の両面にわたる需要変化への弾力的な対応」 を実現するた
めの 「枢要な概念」 であった。 そしてまた, 別途述べたように, 綿織物量
産工場の, 「作業流をムリとムダなく」 管理する中核的な製造技術だった
のである。
さて, トヨタ生産方式と 「紡績」 の関係を述べてきたが, 藤本も指摘す
るように, 同方式は 「紡績からの技術移転」 が全てでなく, 「ハイブリッ
ド生産システム」 である114)。
例えばトヨタ生産方式が, 「紡績」 よりも戦中期の機械加工組立型産業,
とりわけ航空機組立工場の生産方式の影響を受けた, という和田一夫の指
摘がある115)。
和田は, 自動車の大量生産方式を, 「工場内部に多数の専用工作機械を
配置し, 互換性部品を用いて標準化された商品を, 流れ作業によって多量
に生産する方式」, つまり 「フォード生産方式と呼ばれるもの」 として捉
えている。 そして, この自動車生産における 「流れ作業方式」 の確立過程
に注目し, トヨタ生産方式以前の日本の機械加工組立型産業の生産方式と
「流れ作業」 について調べている。
― 28 ―
既述のように戦中期の航空機増産は, 戦争遂行のための最優先課題となっ
ていたが, その生産工場の機体組立工程では, 「分割組立方式」, 「前進作
業方式」 などの手法が試行され成果をあげていた。 当時の日本最大級の航
空機組立工場だった中島飛行機の太田製作所では, 「主翼を 1 枚構造とし,
胴体を前後部に分割し, 別々の組立ラインで製作する」 という, 「分割組
立方式」 を採用して工数を大幅に短縮している。 また三菱重工業名古屋航
空機製作所では, 「工程を流れ作業的に組織し効率化する」 ことをめざし,
「一定の時間内に一工程の作業を終え, 合図により一斉に次工程に機体を
移動させる前進作業方式」 を, 1941 年から試験的に実施していた。 しか
し生産数量が少ないことと, 部品の遅延が障害となっていた116) 。 さらに
「部品は組立ての方から逆に引張る」 というアイデアも三菱の組立工場で
試行されたが, 実施から 2 年を経ても 「未だ流れに入っていない部分」 が
ある状態だった。
ともあれ和田は, この 「部品は組立ての方から逆に引っ張る」 という飛
行機組立工場で行われた試行に注目し, トヨタの 「後工程引取りの運搬管
理方法」 と似通ったアイデアが, 「前進作業方式」 にあったと指摘してい
る。 ただ, 三菱重工業の前進作業方式の導入には堀米も係わっていたので,
堀米から部品の後工程からの引取りのアイデアが出たとしても何等不自然
ではない117)。 既述のように, 堀米は戦中期の 「科学的管理」 運動のリーダー
であり, 航空機をはじめ関連産業の能率増進に尽力していた。 実際に彼は,
三菱重工だけでなく中島飛行機の工場診断も手掛けており, 当時の航空機
生産方式に関係していた生産管理の第一人者であった。 そしてその堀米が,
日本紡織業の量産方式についても専門的な知識を持っていた。 このように
見てくると, 豊田喜一郎, そして大野耐一の 「紡績方式」 以外に, 「科学
的管理」 運動の堀米建一を媒介にして, 輸出織物工場の生産方式とそのア
イデアが, 金属機械加工工場や航空機組立工場の能率増進の手法に繋がる
経路があったと推測する根拠があることを否定できないのである。
― 29 ―
機械の多台持ちと自働化
終戦直後トヨタでは, トラックは民需物資として生産を認められたが,
乗用車の生産は許可されなかった。 1947 年 6 月に漸く GHQ の生産制限
が解除されたが, 排気量 1,500 cc 以下の小型乗用車で年間 300 台と枠がは
められていた。 1949 年に乗用車の許可台数は 10,000 台に増加したが, 物
資の不足や労働争議が頻発した混乱の時代でありきびしい状況は変らなかっ
た。 トヨタ生産方式は, このような環境の中で, 「3 年でアメリカの生産性に
表 62
戦後日本自動車生産台数の推移
(単位:台数)
年
別
乗用車 トラック バ ス
1945 昭和 (20・9 月以降)
合計
三輪車
二輪車
1,461
―
1,461
99
14,914
7
14,921
2,692
219
1946
(21)
1947
(22)
110
11,106
104
11,320
7,432
2,010
1948
(23)
381
19,211
775
20,367
16,852
7,757
1949
(24)
1,070
25,560
2,070
28,700
26,727
9,189
1950
(25)
1,594
26,501
3,502
31,597
35,498
7,491
1951
(26)
3,611
30,817
4,062
38,490
43,802
24,153
1952
(27)
4,837
29,960
4,169
38,966
62,224
79,245
1953
(28)
8,789
36,147
4,842
49,778
97,484
166,429
1954
(29)
14,472
49,852
5,749
70,073
98,081
164,473
1955
(30)
20,268
43,857
4,807
68,932
87,904
259,395
1956
(31)
32,056
72,958
6,052 111,066 105,409
332,760
1957
(32)
47,121 126,820
8,036 181,977 114,937
410,064
1958
(33)
50,643 130,066
7,594 188,303
98,877
510,332
1959
(34)
78,598 177,485
6,731 262,814 158,042
880,629
1960
(35)
165,094 308,020
8,437 481,551 278,032 1,473,084
資料:日本自動車工業会, 日本の自動車工業, 昭和 42 年版より作成。
― 30 ―
追いつけ」 という喜一郎の大胆な目標の下で試行がはじまったのである。
さて自働化のアイデアは, 1947 年に本社機械工場エンジン部品組立工
程の, 「機械の 2 台持ち」 の試みからはじまり, 生産の流れに沿った多台
数持ち, すなわち 「多工程持ち」 に発展したといわれている118)。
当時の部品生産現場は, 機種別レイアウト, つまり工作機械の機種群毎
に, そして旋盤工・フライス工・ボール盤工など職人群 (職種) 毎に組織
が編成されていた。 職人は自ら所属する職種の仕事しかしない, そして加
工作業は機械毎にまとめて行い, 作業が終わると次の仕事が回ってくるま
で手空きの状態になっていた。 歯車を切る作業は, 「取り付け・取り外し
が約 30 秒で, 自動送りが約 15 分かかり, 職人は, 取り付け・取り外しの
とき以外は自動送りをかけた後は, 腰をかけて悠然と新聞を読む」 ことも
できたのである。 機械の数も職人の数も多く, コストを下げるためには高
性能の機械を使い量産する以外に方法はない, と考えられていた。 しかも
加工対象の運搬距離が長くかつ複雑であり, 在庫が山積みすることも少な
くなかったのである。
大野は, 1947 年に, この機械工場の作業慣行を変えるために, 機械を
「二の字」 または 「L 字型」 に並べて, 一人の職人の 2 台持ちを試みてい
る。 そして 1949 年に彼が第一機械工場長に昇進すると, 1950 年には 「コ
の字型」, 「ロの字型」 とし, 作業工程順の 3 台持ち, 4 台持ちへと挑戦が
エスカレートしたのである。 既に述べたように, 機械の配置方法と多台持
ちは織物工場の初歩的な作業管理の手法であった。 豊田紡織では, 「若い
女性が 1 人で 40 台も持っているのに, なぜトヨタ自工では機械を一人で
1 台しかもてないのか。 この問を発することによって, たとえば機械が加
工完了で止まるような仕組みになっていないから, という答えが得られ,
ここから自働化の発想を導き出すことができる」 と大野は指摘している119)。
しかし, 作業方法の変更は機械職人たちの強い抵抗に出会い, 大野はま
ず彼等の意識改革が必要だということを痛感する。 しかも多台持ち (或い
― 31 ―
は多工程持ち) には, 意識改革以外に解決しなければならない問題があっ
た。 十分な仕事量があることがまず前提となる。 さらに作業工程の個別作
業量 (工数) の把握と, そのための標準作業の設定, サイクルタイムと作
業順序など作業間のアンバランスの解消が必要である。 そして作業の流れ
をコーディネートできなければ, 多台持ちを実行しても生産性の向上には
つながらない。 ここでも経糸が切れたり, 緯糸がなくなるとすぐに織機が
止まる仕組みになっていた, 織物工場の作業工程が貴重なヒントになった。
このような一連の問題を, 現場作業の中で試行しながら解決する能力と
体験的な知識, さらに構想力を持っていたのが, たまたま機械加工現場の
課長ポストについていた大野であった。 既述のように 「多台持ち」 は, 作
業中に不具合が発生したり, 仕事が終わったら機械が自動的に停止するこ
と, つまり 「自動停止装置」 や 「自動送り装置」 の仕組みが必要である。
それによってはじめて, 一人で数台の機械の監視を受け持つことができる。
大野は, 「(自働化は) 管理という意味も大きく変えるのである。 すなわち
人は正常に機械が動いているときはいらず, 異常でストップしたときに初
めてそこへ行けばよいからである。 だから一人何台もの機械が持てるよう
になり, 工数低減が進み, 生産効率は飛躍的に向上する」 と述べている。
彼はさらに 「私はこの考え方を発展させて, 人手作業による生産ライン
でも異常があれば, 作業者自身がストップボタンを押してラインを止める
ようにした」 と述べているが, このアイデアも織物工場にある。 何等かの
原因で織機が停台すると, その合図として 「旗揚げ」 をしたこと, また女
工の標準動作に予備杼の導入や糸切れ予防の節取りなどを取り入れて, 停
台の原因をあらかじめ取り除くことも工夫されていた120)。
このように 「自働化」 は, 作業遂行という任務に加えて, 製造品質の維
持・管理の責任と権限を現場作業者に与えることになる。 作業遂行と品質
管理業務を峻別する, テイラー, そしてアメリカ自動車生産工場の標準作
業概念との違いは明確である。 さらに 「自働化」 は多能工化を導き出した
― 32 ―
が, この多能工化もテイラーの標準作業には存在しない織物工場の慣行で
あった121)。
ともあれ大野の多台持ちのアイデアは, 生産性向上という当時のトヨタ
が直面していた最重要課題の解決に対し大きな成果を挙げた。 エンジン加
工と組付けの作業者数は大幅に減少し, 改善前に 60 人いたクランクシャ
フト切削加工班の人数は, 一時にではないが 10 人以下へと, 約 6 分の 1
に減少したのである122)。
繰り返すが自働化や多台持ちは, 技術部や工務部など自動車生産技術の
専門家の中から生まれたアイデア, 構想ではなく, 問題解決のために外部
から持ち込まれた生産現場からの 「逆転の発想」 であった。 そして, この
紡績から自動車への製造技術, アイデアの展開は, 豊田紡織からトヨタ自
動車への, 豊田喜一郎, 大野耐一という個人を介しての企業グループ内
「技術の拡散」 であった。 しかも, 後にトヨタ生産方式と云われるように
なった完成した製造技術となるまでに約 20 年の時間がかかっている。 大
野は, 「昭和 30 年代の前半まで, 私の打ち込んできた製造技術をトヨタ式
とはとても呼ぶ勇気がなかった。 大野式と自称して静かに潜航していた」
と述べている123)。
後工程からの引き取りとジャスト・イン・タイム
1933 年に豊田自動織機製作所の刈谷工場に自動車部が設置され, 月産
200 台をめざす生産技術の研究, 部品の試作が開始された。 喜一郎の自動
車構想は, 次の内容からわかるように極めてユニークなものだった124)。
当時全盛のフォード, シボレーとの競合を回避することなく, むし
ろ両車の長所をとった車 (3,000 cc クラスの大衆車) を開発し, これ
を量産 (月産数百台規模) することによって, 価格と性能の両面で外
車と対抗できるようにする。
生産方法は米国の大量生産方式に学ぶが, そのまま真似するのでは
― 33 ―
なく国情 (月産数百台規模を製造) に合った生産方式を考案する。
この構想に沿って 1934 年に試作工場 2 棟の建設がはじまり, 夏には相
次いで稼動を開始した。 しかし, 「自動車の設計, 製造に必要な技術につ
いては, 紡織機で育った当社の技術陣は全くの素人で, 最も自信のあった
鋳物でさえ, その製作は予定より大幅に遅れ, かつ大量の不良品を出すあ
りさまであった。 ……つぎつぎと発生する困難な問題については, 喜一郎
の学生時代の先輩, 友人達が, その熱心な頼みに動かされて, 解決にあた
ることがしばしばであった」125)。
喜一郎が述べているように, 自動車の生産技術習得の苦労は当初の予想
を超えていたのである。 G 型自動織機は, 最盛期には月産 1,000 台規模に
達したこともあり, 互換性部品と組立ライン生産方式を採用していた。 鋳
鍛造, 塗装, 機械加工などの生産技術も揃っていたが, 自動車生産に必要
な素形材の品質, 工作機械とその機械加工の精度, 公差など生産技術の内
容には大きな格差があったのである。
そして苦労の挙句, 何とか自動車をつくり出す生産技術の目途を付けた
のが 1935 年から 36 年であった。 しかし, もう一つの難関は, 「規模に依
存しないでアメリカ並みの生産性」 を達成する, 「国情にあった生産方式」
の考案, つまり製造技術だった。
1938 年末に, 喜一郎は 「刈谷工場で自動車の製作について色々と研究
して参りました。 ……一番の難関と思われて居りましたのは大衆車を我が
国の様な小市場で作って, 工業的に成立するかと云う点でございました。
この点は, ……吾々経営者としては最も慎重に考えなくてはならない問題
でありまして, 過去五ヶ年間の経験により如何にして安く作るかと云ふ問
題は大体解決がついて参りました」 と述べているとおり, 1933 年に掲げ
た独自の構想の実現に向けて, 自信を覗かせるところまで辿りついたので
ある126)。
喜一郎は, 雑誌 「モーター」 の 1938 年 12 月号に寄稿した, 「挙母工場
― 34 ―
の完成に際して」 という文章の中で次のように述べている。 「自動車工業
の場合に於いては, ……部分品の種別だけでも二, 三千種に及びますが,
之について其等の材料や部分品の準備やストックはよく考えてやらないと,
徒に資本を要し, 完成車の数が少なくなります。 私は之を 過不足なき様
換言すれば所定の製産に対して余分の労力と時間の過剰を出さない様にす
る事を第一と考えております。 無駄と過剰のない事。 部分品が移動し循環
してゆくに就て
待たせたり
しない事。
ジャスト・イン・タイム
に
各部分品が整えられる事が大切です」。
1938 年 12 月というのは, 挙母に建設中だった本格的な自動車生産工場
の竣工式を終えた直後の時期であった127)。
この 「ジャスト・イン・タイム」 の生産構想は, 織物生産方式に詳しかっ
た喜一郎ならではの発想である。 成約済みの織物を, 効率的に量産するこ
とを目標としていた織物工場では, コスト低減のために無駄な労働を徹底
的に排除すること, そしてそのために 「後工程からの材料引き取り」 が,
各工程の原料・仕掛在庫を減らし, 作りすぎの無駄を省き, 作業の流れを
効率化する手法として定着していたからである。
彼は, 同じ 1938 年末に 「自動車の如く一定のものを大量に作る工場組
織は一般の鉄工所と違ひ, ずっと連絡よく行く筈のもので, その組織をよ
くすれば非常に経費も安く済むものでございますから, 実に豊田自動織機
製作所の設立された当初に於いて, その組織で紡織機の製造をしたならば
相当安く出来るだろうと思ってやってみたことがありますが, 紡織機位の
程度の数量と又改造変更が, 注文先によりて相当変化のある機械の製造に
はどうしても採用出来ず失敗いたしました。 それで今回の自動車製造には
その専門組織が採用出来るものと思ひ種々骨を折って見ましたが, 悲しい
ことには一般従業員が従来の組織に慣れていて, この組織を知らない事と,
矢張その組織にする為にはそれに相当する設備が必要である事と, 毎月 5
百台製作程度では無理であるという事がわかりました」 と述べている128)。
― 35 ―
ともあれ彼は, 「ジャスト・イン・タイム」 と, この構想を実行する
「専門組織」 についても具体的なイメージを持っていたことがわかる。
既述のように 1930 年代の日本の工業水準の低さについて, 喜一郎も日
本産業界のリーダー達の認識を共有し, 産業合理化と科学的管理運動の意
味も十分に理解していた筈である。 「ジャスト・イン・タイム」 の自動車
生産構想は, このような環境の下で練り上げられたのである。 彼は, 既に
機械設計技術者として自動織機の開発に成功していたが, ただ単に優れた
性能を持つ機械の設計だけでなく, 安くつくる日本独自の方法の考案が重
要であること, そしてその可能性を確信していた。 彼がつくりあげた
1933 年の自動車生産構想に, このことを読みとることが出来る。 機械設
計技術者として喜一郎の中では, 自動車と織機という商品形態の違いでは
なく, 如何につくるかという点では両者は同じ問題だったのである。 彼は,
5 年の年月をかけて 「いかに安くつくるか」 を考え, 実現可能な確かな方
法のアイデアが綿織物量産工場にあることに気付いたのかもしれない。 そ
れを当時の流行語であった 「流線形」 をヒントにした和製英語, 「ジャス
ト・イン・タイム」 と表現したのである。
既述のようにアメリカの大量生産方式の生成は, 1820 年代の小火器工
場の量産方式であり, そこから産業間の技術移転のプロセスを経ながら進
化を遂げ, 1910 年代にフォード自動車工場の大量生産方式として結実し
た。 この技術移転について研究した N. ローゼンバーグは, 「大抵の機械
プロセスで生じる問題は広い意味で同質であり, その解決方法は共通のス
キル, 知識が用いられる」 と述べ, 19 世紀後半から 20 世紀はじめにかけ
てアメリカ製造業に生じた産業間の 「技術の収斂」 が, 工作機械メーカー
の仲介機能によって実現したと指摘している。 さらに彼は, 企業内におけ
る 「技術の収斂」 ないし 「技術の連続性」 が, 企業間移転よりもより容易
だったことについてもふれている129)。
さて, 「ジャスト・イン・タイム」 の構想を, 直接に 「かんばん」 など
― 36 ―
の具体的な手法に結びつけることはできない。 実際の推移をみると, トヨ
タの工場で最初に試行された手法は, 「後工程からの引取り」 によって必
要な数量だけ生産するというアイデアであった。 ただこの 「後工程引取り」
が, トヨタの生産現場でいつごろからはじまったのかについてトヨタの資
料でも確定できないようである。 1948 年にはじまったという説 (トヨタ
生産方式の変遷), 1953 年に機械工場で行われていた呼出し方式説など見
方は分かれている。
佐武によれば, トヨタ生産方式を特徴づける表現として, 「ジャスト・
イン・タイム」 が使われるようになったのは, 少なくとも 1967 年以降の
ことである130)。
「従来のやり方では前工程が後工程の生産状況におかまいなしにどんど
んできた品物を送り込んでくるために, 後工程では部品の山ができてしま
う。 ……何とかこのムダを除かなければ, そのために前工程の送り込みを
押さえなければ, という強いニーズを感じて従来とは逆の発想を思いつい
たのである」。
表 63
年
次
1947 年
トヨタ生産方式の変遷
内
容
機械の 2 台持ち
48 年
後工程引取り
49 年
機械の 3, 4 台持ち (人の仕事と機械の仕事との分離)
50 年
機械加工工程の流れ化
機械加工と組付けラインの同期化
目で見る管理, アンドン方式の採用 (エンジン組付けライン)
53 年
標準作業の設定
機械工場で呼出方式
機械工程でかんばん方式導入
平準化生産
資料:トヨタ 50 年史より作成。
― 37 ―
大野がはじめた 「後工程からの引き取り」 は, 一躍経営陣の関心を集め
ることになり, 彼の活躍の場はどんどん広がっていく。 1953 年に機械組
立工場の製造部長, 翌年の 1954 には取締役に就任するなど, 彼の担当範
囲と責任が大きくなり, それに従って挑戦の分野も拡大していくのである。
7. ま と め
輸出綿織物業の顧客対応型量産方式
近代的な機械化産業として最初に登場するのが紡績業であり, このこと
は世界各地で生起した産業革命の歴史の中に記録されている。 先行したイ
ギリス紡績業, そして後発のアメリカ紡績業からも 50 年以上遅れてスター
トした日本は, これら先行国のいずれとも異なる紡績業の量産方式を短期
間に構築した。 そして 1930 年頃に綿織物は, 日本の輸出製品のトップに
ランクされると共に, 約 1 世紀の間, 世界綿製品貿易を支配していた多品
種少量生産方式のイギリス綿織物に, 追いつき追い越すことになった。
A. D. チャンドラーが, アメリカの大量生産方式に関する歴史分析で実
証したように, 「工場管理の体系的手法や手続き」 としての大量生産方式
の形成には, 製品市場, そして生産技術をはじめ熟練労働のあり方などさ
まざまな要因が絡んでいた。 そして先発 2 カ国の紡績工場は, 「内部請負
制」 によって工場の作業工程管理と組織体制を確立し, 以降時期や競争環
境などによって若干の差異はあったが, 1930 年代まで基本的に変らなかっ
たのである。
一方, 生産技術が成熟期にさしかかっていた段階で参入した日本紡績業
は, いきなり品質と生産性をめぐる内外の激しい競争に直面していた。 す
ばやく競争力を構築する, 独自の方途を探し当てる必要に迫られていたの
である。 さらに, 職工の移動率が高く熟練工が不足するといった環境の中
で, 経営主導による科学的な現場作業工程管理と組織革新が進められた。
― 38 ―
その中から, 紡績工場の全工程を連動した一つのシステムとしてとらえ,
顧客ニーズに対応する科学的な作業標準化や工程管理手法を確立する企業
が現われ, 日本独自の量産方式が形成されていったのである。 顧客対応型
量産方式である。 そしてこの量産方式は, すぐに日本紡績業を世界トップ
の座に押し上げていく。 しかし, 若年女子労働者の低賃金長時間労働が,
その競争力の内実であったとする通説が, 長い間影響力を保ち, この日本
独自の量産方式がこれまで研究者の注目を浴びることは殆どなかった。 紡
績工場の量産方式は, テイラーの 「科学的管理法」 の導入によって形成さ
れたという理解が, 通念として受け入れられてきたのである。
この紡績の生産方式で先行したのが鐘紡であり, その采配をとったのが
武藤山治である。 同社は 1900 年から 1910 年代にかけて, 品質不良やトラ
ブルの原因を工場現場で科学的に追究し, 無駄の排除, 作業の標準化と作
業者の主体性の重視, 混綿による糸質の安定と工程での品質つくり込み,
全工程をシステムとしてとらえ効率化を図るなどの革新的な手法をつくり
だしていた。 そしてこのような革新を促したのは, 機業家への細かい対応
をめぐって展開されていた同業者間の激しい競争であった。 さらにこの競
争で脱落した企業が有力企業に次々と合併されると, 新たに多数工場の作
業工程管理の標準化や効率的な生産管理体制づくりの必要が生ずることに
なった。 また日本紡績業が編み出した操業短縮も生産合理化の契機となっ
ていたのである。
鐘紡は 1913 年に 「科学的操業法」 を制定し, 作業と工程管理の標準化,
体系化を進めるが, テイラーの 「科学的管理法」 が日本に紹介された時期
と重なっていたために, 両者の混同が生じていた。 しかし鐘紡が 「科学的
操業法」 でめざしたのは, 時間研究による 「課業」 の決定と最高能率の追
求ではなく, 顧客に対応し作業そして全工程の無駄を排除し連動する工程
を効率化することであり, そのためには現場作業者の技能と意欲を高める
ことであった。
― 39 ―
このように鐘紡からはじまり, 大手紡績会社に普及した科学的な作業工
程管理の手法は, 「科学的管理法」 と基本的に異なっていたが, 1920 年代
には共に 「科学的管理法」 と称されることが多かった。 これには農商務省
が, 工場法制定に伴う合理化対策や有望な輸出商品の競争力増強の手段と
して 「科学的管理法」 に注目し, 同法の織物工場への導入政策を推進した
ことも一因であった。
表 64
日本の主要輸出商品
(単位:百万ドル)
1936∼38 年
順位
1950 年
1955 年
1
綿織物
182
綿織物
綿織物
252
2
生糸
123
鉄鋼
72
鉄鋼
167
3
魚介類
人絹織物
38
魚介類
83
207
74
4
人絹織物
48
銅
36
衣類
56
5
鉄鋼
43
衣類
30
スフ織物
53
6
絹織物
25
船舶
26
船舶
52
7
毛織物
17
絹織物
22
人絹織物
50
8
陶磁器
14
玩具
12
化学肥料
37
9
綿糸
12
スフ織物
11
陶磁器
35
10
玩具
10
繊維機械
10
合板
26
932
輸出総計
820
1960 年
順位
1965 年
1
鉄鋼
388
鉄鋼
1,290
2
綿織物
352
船舶
713
3
船舶
288
綿織物
303
4
衣類
218
衣類
287
5
ラジオ
145
自動車
237
6
スフ織物
118
魚介類
231
7
自動車
96
ラジオ
216
8
玩具
90
合成繊維織物
186
9
はきもの
73
光学機器
179
10
陶磁器
68
玩具
輸出総計
資料:通商産業省,
4,055
98
8,452
戦後日本の貿易 20 年史 , 36 頁。
― 40 ―
2,011
ともあれ綿織物は 1930 年代初めには, 日本の工業製品の中で最大の輸
出商品となり, 自動織機を導入した量産綿織物工場は, 需要の変動に量質
の両面で対応し, 作業の流れを効率的に管理する製造技術を創り出したの
である。 そして約一世紀にわたり世界市場を支配してきた, イギリス綿製
品を生産と貿易量で凌駕したのである。
この顧客対応型量産方式を確立した輸出綿織物業は, しかし, ほとんど
時を同じくしてその存立条件が根底から揺らぐことになる。 海外では世界
各地で日本製品の排斥や貿易制限の動きが強まり, 日本国内でも戦時経済
体制への移行で, 兵器など軍需産業に政策の重点が移行したのである。 そ
の中で綿織物業は, 政府の統制下におかれ設備の新増設や原料入手が許可
制となるなど, 次々と規制が強まった。
そして戦争がはじまると, 兵器の部品生産工場などへ転換する綿織物工
場が続出し, 生産は激減し, 再び元の姿に戻ることはなかったのである。
しかし, 戦後の経済復興の過程で綿織物業はいち早く復活し, 輸出商品トッ
プの座を 1960 年に鉄鋼製品にゆずるまで, 長い期間にわたって維持して
いた。 戦前に, イギリス綿業を乗り越えた量産方式に基づく競争力は, 簡
単に崩れることはなかったのである。 そしてその製造技術は, さまざまな
ルートを通じて他産業に拡散し, 戦後のものづくりの強みに貢献したとい
える。
「科学的管理」 運動とトヨタ生産方式
1920 年代の不況と金解禁問題をめぐる経済的混乱, さらには世界大恐
慌の暗雲が垂れ込める中で, 重化学工業政策の推進にかかわる政府当局及
び産業界のリーダー達は, 日本の工業水準の低さに強い危機感を抱いてい
た。 当時日本の工業は 「管理の不在」 のために, 生産性はアメリカに比べ
て 8∼9 分の 1, ドイツに比べて 3 分の 1 程度と考えられていたのであ
る131)。 また生産工場の能率増進の議論が高まる中で, 日本はアメリカの標
― 41 ―
準化製品の大量生産方式ではなく, ドイツが 1920 年代に進めた, 産業合
理化運動を学ぶべきであるという気運が強まっていた。 こうして工場の能
率増進が国の重要施策として登場し, 商工省の臨時産業合理化局が中心に
なって, 「科学的管理」 の普及が全国的な運動として展開されたのである。
その推進組織として設立された半官半民の日本工業協会で, 「科学的管理」
運動のリーダー的存在だったのが, 国鉄の生産管理技術者であった堀米建
一である。
彼は, 1920 年代半ばから国鉄の修理工場で科学的管理法を研究し, 時間
研究による作業標準化と賃金制度の改革で成果を上げていた。 しかし, 日
本企業が導入していた科学的管理法は, 時間的観念に捉われて作業方法に
関心を持たないために, 十分な効果が出なかったという反省があった。 そこ
で堀米は, 当時の国際市場で活躍していた日本産業の事例研究から, 現実
に立脚した民間企業の工場改善の実践的な手法と原則を体系化していく。
彼がまとめた工場能率増進の手法は工程管理と作業研究からなっていた。
工程管理は, 材料を準備して製作に着手してから完成に至るまで, 工場内
の作業の流れが何等の停滞なく順調に進んで, 予定期間中に完成される所
謂作業の流れに対する計画を立て実行に移すことであった。
作業研究は, 作業中に含まれる無駄を省き余力をつくり出し, 能率を増
進せしめる方法であった。
彼は, 織物工場の生産方式についても研究し, 作業改善指導ができる専
門知識をもっていたのである132)。
商工省臨時産業合理化局と日本工業協会が推進した 「科学的管理」 運動
は, 戦争経済への移行に従って, 航空機生産や関連機械産業など特定産業
に集中するようになり, 作業研究実習など講習による, 生産管理技術者の
養成などの努力も行われた。 終戦までに延べ 600 人の研修を行ったが, そ
の中からトヨタ生産方式にも関連の深かった新郷重夫をはじめ, 戦後の日
本産業の工場生産管理の高度化に貢献した, 多くの人材が輩出したのであ
― 42 ―
る。
堀米は, 航空機生産の能率増進に関しても専門家として大きな貢献をし
ていた。 流れ作業方式によって, 航空機の増産を図ろうとした航空機組立
工場では, 素形材, 部品の品質問題, 機械加工技術の未発達など, 量産方
式を可能にするためのさまざまな隘路が露呈していた。 三菱重工業名古屋
航空機製作所では, 前進作業方式, つまり 「工程全体を流れ作業的に組織
する試み」 が実行され, 堀米もこの試みに関与していたが, 部品供給など
に隘路があった。 「部品の後工程からの引き取り」 も試行されていた。
戦後になって改めて, 輸出綿織物の顧客対応型量産方式のアイデアと手
法が, 大野によってトヨタ自動車の生産工場に導入されることになる。 彼
は, トヨタ生産方式に対する評価が高まっていた 1984 年に, 1950 年前後
のことを回想しながら, 「紡績方式でやれば何をやっても生産性はすぐに
3∼5 倍になると思った」 と述べている。 紡績の 「生産管理の専門家」 と
して評価されていた大野が, トヨタに移って実践したことは, 「生産規模
ではなく無駄の徹底的な排除による生産性の向上」, そして 「作業の流れ
を需要に合わせて弾力的に適応する」 ための 「自働化」 と 「ジャスト・イ
ン・タイム」 という枢要の概念のどれをとっても, 豊田紡織時代の中核的
な手法のアイデア・手法に原点があった。 もちろん工程全体が, 単一ライ
ン工程という単純で管理し易い織物工場の手法を, 複雑な機械加工技術と
金属材料を使い, 多数の部品からなる自動車工場の現場で実施することは
容易ではなかった。 時間だけでもトヨタ生産方式として完成するまでに,
20 年以上の年月を費やしている。 しかし, 「成約済の製品だけをつくる」,
「全体の作業流をつくり, 後工程からの引き取りによって無駄を排除する」,
「工程で品質をつくりこみ, 不良品が前工程から後工程に流れない」 とい
う, 生産性向上の中核的な製造技術に関する限り, 大野の云う 「紡績方式」
がアイデアとなりヒントを提供したのである。
紡績と自動車の双方の生産現場に精通していた大野の取り組みは, 「逆
― 43 ―
転の発想」 といわれながら, 確実に成果をあげ経営者の関心を集めること
になった。 そして大野は, 1953 年に機械組立工場の製造部長, 翌年には
取締役に就任し担当範囲と責任が拡大していった。 こうして, 1970 年代
にはトヨタ生産方式として日本のみならず, 世界から注目される自動車の
製造技術として体系化されていったのである。
最後に, 日本の輸出綿織物業で確立された量産方式, つまり需要の変動
に対応しながら, 無駄を省き工場全体の作業の流れを管理する, 科学的な
作業工程管理と組織の革新は, イギリス, アメリカの紡織業の内部請負制
と異なる, 日本独自の発展とその結果であった。 生産方式の形成過程を規
定していた社会的経済的諸条件の違いによって, 各国紡織業の 「共同に仕
事をする人間の組織の原理」 としての製造技術の在り方は, 全く異なる方
向に展開したのである。
そして 3 カ国共に紡織業は, いずれもそれぞれの国における産業革命の
最初に登場した機械化産業として, その工場現場の管理と組織の方法がそ
の後の各国の産業の生産方式に, 少なからぬ影響を及ぼした点では変わら
なかったのである。
《注》
中岡, 前出, pp. 1415。 伍堂は, 海軍造兵中将で退役した後 1942 年に日
85)
本能率協会会長に就任している。 因みに大野耐一も, 1937 年頃に日本とアメ
リカの工業の生産性は 1 対 9 であると聞いていた (大野耐一, 前出 (トヨタ
生産方式), p. 8.)。
86)
日本経済連盟会 「独逸に於ける産業の合理化について
鋼社長伍堂卓雄君講演
株式会社昭和製
」 1930 年。 市場要因から日本の参考モデルがアメ
リカではなくドイツにあるとする伍堂の指摘が注目される。
87)
ドイツの産業合理化運動の影響を受けて, この 「科学的管理」 は時間動作
研究による生産現場の合理化にとどまらず, 販売・流通部門のそれをも含む
幅広い領域を対象としていた。 また繊維から, その対象も日本産業全体に広
がっていたのである。 詳しくは, 佐々木聡, 科学的管理法の日本的展開, p.
134。
― 44 ―
88)
奥田健二・佐々木聡編, 日本科学的管理史資料集, 第二集, 図書編第 5 巻,
生産管理委員会提案の根本趣旨。 尚, 堀米建一は, 「本当に正しく日本の工業
の指導をすること, ……本当の今までやってきた無駄のない作業方法を日本
の産業界に伝えてくれ」 と, 直接に山下から言われたと述べている。 インダ
ストリアル・エンジニアリング, 1967 年 6 月号, pp. 560561。
89)
日本工業協会の初代会長は伍堂卓雄, 副会長は山下興家であった。 会報の
発行, 研究会, 講演会, 生産管理委員会の運営, 日本標準規格の印刷配付,
各種産業, 工場鉱山事業等の改善指導を任務としていた (日本能率協会, 10
年間の足跡, 日本能率協会, 1952)。
90)
中岡, 前出 (上), p. 17。 日本工業協会は 1942 年 3 月に日本能率連盟と合
併して日本能率協会となったが, 主力メンバーは工業協会出身者だった。 尚,
中岡の議論では, 「日本的生産管理」 とテイラーの 「科学的管理法」 の関係が
必ずしも明確ではない。
91)
豊田紡刈谷工場見学記, 紡織界, 1927 年 3 月号, p. 10。 堀米は, 「村岸メ
リヤスほか, 六つの工場をきめ, 専らそのことを研究しました」 と述べてい
る。 村岸メリヤスが選ばれたのは, 社長が堀米の講演を聞いて熱心な協力者
になったからである。 尚, 豊田喜一郎も大学を卒業後 1921 年に豊田紡織に入
社したが, 紡績工場の現場への立ち入りが思うように行かなかった。 技術者
が 「秘伝」 のようにしていたと述べている (和田一夫・由井常彦, 豊田喜一
郎伝, 名古屋大学出版会, 2002, pp. 150151)。
92)
テイラーの 「標準動作」 について, 堀米は, 「原則は間違いないが, 方法論
としてはまずい」 とのべている。 だから標準動作ではなく, 作業改善を重視
した 「作業研究」 という概念を使った。 詳しくは, 座談会:日本工業協会の
頃を語る (第一回), インダストリアル・エンジニアリング, 1972 年, 6 月号,
p. 560。 尚, 佐々木は 1930 年代の産業合理化運動の展開に際して, 1920 年代
に政府が積極的に推進した織物工場への科学的管理法導入が効果を挙げなかっ
たという反省があったことを指摘している (佐々木, 前出, pp. 128129)。
93)
堀米建一, 作業研究の意味とその体験, 前出。 この堀米の工程管理と作業
研究の概念は, テイラーの 「科学的管理法」 よりも, 武藤の 「科学的操業法」
の 「仕事の段取り」 と 「仕事の上の規律」 に近い。
94)
佐々木, 前出, p. 219。
95)
日本能率協会, 前出, pp. 45。 この生産管理技術者養成教育の中心人物は,
理事の堀米建一と職員の小野常雄だった。
96)
佐々木, 前出, pp. 244246, および和田一夫, 日本における 「流れ作業」
方式の展開 (2 完), 経済学論集題 61 巻 4 号 (1996 年 1 月), p. 98。 尚, 和
― 45 ―
田が, この論文の中で, 機械組立工場の 「流れ作業」 の事例として取り上げ
た愛知時計電機は, 堀米の工場診断を受けていただけでなく, 日本工業協会
の研究講習会に 3 名の技師を派遣しており, 最も熱心に 「科学的管理」 を実
践した会社の一つであった。
97)
日本工業協会編, 織物工場の合理化, 日本工業協会, 1940, pp. 199241。
98)
斉藤俊吉編著, 織物, 現代日本工業全集 (第 7 巻), 日本評論社, 1935, pp.
167171。
99)
織布作業の時間研究については, 大石岩雄, 織布作業の時間研究 (増地庸
次郎博士記念論文集第 3 巻, pp. 143184) も参照のこと。 経営学的視点から
時間研究がおこなわれている。
100)
日本工業協会編, 前出, p. 207。 このような作業の分析の仕方, 捉え方は,
別途のべた 「作業研究」 であり, 「時間研究」 とか 「標準作業」 より広い視点
から作業を分析対象にしている。
101)
織機取扱い作業の時間動作研究に関しては, 大石岩雄, 織布作業の時間研
究
経営学的立場よりする時間研究の実証的一考察, 増地庸治郎博士記念
論文集, 第三巻, 巌松堂, 1948 などがある。 尚, 大石も論文の中で, 「堀米
の織物工場の作業改善」 を参考にして工程の分析を行っている。
102)
大野耐一, 前出 (トヨタ生産方式), p. 9。
103)
大野耐一, 前出, pp. 6869。
104)
門田安弘, トヨタシステム, 講談社文庫, 1989, pp. 2931。
105)
大野, 前出, pp. 9799。 「過剰な在庫」 は無駄の代表的な例であり, その
背後には 「人の過剰」 がある。
106)
豊田紡織は 1911 年に豊田佐吉が設立した豊田自働織布工場を引き継ぎ, さ
らに紡績部門は, 鐘紡などから移籍した技術者によって運営されていた。 ま
た中国の上海, 青島に同様の紡織統合工場を所有し, 中国市場向けの製品を
生産していた。
107)
豊田喜一郎, 今後の技術者の立場 (1946 年 9 月, 社内技術者の集まりで行っ
た講演録, 和田一夫, 豊田喜一郎文書集成, 名古屋大学出版会, 1999, p.
509。
108)
豊田喜一郎, 豊田自動織機に杼替式を採用したる理由, 紡織界第 18 巻 9 号
(1927 年 9 月)。 喜一郎は, 当初ノースロップ機と同じ木管替式の自動織機開
発を考えていたが, 日本の国情に合わないこと, 安価に生産することが難し
いことなどから, 杼替式に開発を変更し汎用性のある作業機械をつくりだし
た。 この論文で彼は, 実に詳細にその理由を説明しているが, 自動車の調査
研究でもこのような詳細な検討が行われたことは想像に難くない。
― 46 ―
109)
豊田喜一郎, 挙母工場へ移転と新製品に就いて皆様へ御願い (和田, 豊田
喜一郎文集集成, pp. 264265)。
110)
喜一郎は 1921 年に豊田紡織に入社するが, 翌 1922 年 1 月から 1 ヶ月間程,
オールダムのプラット社で繊維機械の製作作業の実習や自動織機について勉
強をしていた。 そのプラット社が, 喜一郎が開発した自動織機の特許を購入
したのである。 詳しくは, 和田・由井, 前出 (豊田喜一郎伝), pp. 108139。
111)
藤本隆宏, 生産システムの進化論, 有斐閣, 1997, pp. 6567。 また喜一郎
は, アメリカ自動車産業が大恐慌によって如何に深刻な打撃を蒙ったのかも
理解していたはずである。 実際にアメリカの自動車生産は 1929 年から 1933
年にかけて 65%落ち込み, 雇用者の 50%がレイオフされていた。
下川浩一・藤本隆宏, トヨタシステムの原点, 文真堂, 2001, pp. 910。
112)
尚, 大野の 「紡績」 には, 「織布兼営の紡績工場」 という意味があることに注
意しなければならない。
113)
大野, 前出, pp. 130140。
114)
藤本隆宏, 生産システムの進化論, 前出, pp. 120125。 例えば, 流れ作業
組立て方式, コンベアー・ライン, トランスファー・マシンなどはフォード
からの導入だった。 また重量級 PM は航空機産業から移転された製品開発の
企画手法だったのである。
115)
和田一夫, 日本における 「流れ作業」 方式の展開 (1・2), 経済学論集, 第
61 巻 3 号, 第 62 巻 1 号, 19951996。 和田は, この論文の中で 「流れ作業」
の先進的事例として愛知時計電機を取り上げているが, 既述のように同社は,
1942 年に堀米建一の 「長期工場診断」 を受けていた。
116)
例えば戦闘機について, 当時の 1 組立てラインの生産機数は 1 日 2 台が標
準だったが, 生産数量は安定していなかった。 部品では, 流れ生産に必要な
生産数量は月産 3,000 個以上と考えられていたが, この条件を充たす部品は
限られていた。 和田一夫, 前出( 2 ), pp. 9799。
和田一夫, 前出( 2 ), pp. 9798。 「前進作業方式」 の導入に中心的な役割
117)
を果たした土井守人は, 日本工業協会の 「生産技術者講習会」 の受講者であ
り, 工程分析の実践的な訓練を受けていた。 また, 「前進方式」 の導入でも堀
米の指導を受けた。 因みに土井は, 「前進作業は流れ作業を初めから実施する
為に行ったのではなく, 現在より少しでも作業を容易にして生産を上げる為
と, 部品を合理的に, 容易に集める為」 だったと述べている。
118)
佐武弘章, トヨタ生産方式の生成・変容, 東洋経済新報社, 1998, p. 38。
尚, 以下のトヨタ自動車の生産工場における自働化とジャスト・イン・タイ
ム構想導入の経緯については, 同書第一章トヨタ生産方式の萌芽, を参考に
― 47 ―
している。
119)
大野耐一, 前出, pp. 3435。 この 1 人 40 台持ちは, 経糸切れ自動停止装
置付きの自動織機であることはいうまでもない。
120)
大野耐一, 前出, pp. 1516。 この大野の発言は, 1920 年代から日本の紡織
工場で実践されてきた当たり前のことを繰り返し述べているに過ぎない。 尚,
トヨタ自動車元専務山本恵明は, 「多工程持ちなどということは, 現場の中か
らアイデアが出てこなければ出来るものではない」 と述べている (佐武, 前
出, pp. 42)。
野村正實, トヨティズム, ミネルヴァ書房, 1993, pp. 204217。 生産性向
121)
上が目的なのか, 賃金決定の合理的な基礎が目的なのかという, 「標準作業」
の目的の違いが, このような 「標準作業概念」 の違いの基礎にある。
122)
佐武, 前出, p. 62。
123)
大野, 前出, p. 132。
124)
トヨタ自動車, 創造限りなく (トヨタ自動車 50 年史), 1987, pp. 6567。
当時豊田自動織機は, 金輸出が再禁止され紡織業界が活況を呈しており, 新
しくはじめた紡績機製作事業が軌道に乗りはじめていた時期であった。 そし
て豊田紡織の業績も順調だった。
125)
豊田自動織機四十年史, pp. 188190。 1934 年 10 月に最初のエンジン (A
型) が完成し, 35 年 5 月には, 大型乗用車試作第一号 (A1 型) が完成した
が, 社内でつくったものは, シリンダーヘッド, シリンダーブロック, ハウ
ジング, トランスミッションくらいのもので, その他はほとんどシボレーの
純正部品を使用した。 またボディーは, プレス型の設計・製作が間に合わな
いため, すべて手たたきによるものであった。 自動車の 「生産技術」 に難渋
していた様子が窺える。
126)
豊田喜一郎, 挙母工場へ移転と新製品に就いて皆様へ御願い (豊田喜一郎
文書集成, p. 264)。
127)
この 「モーター」 とほぼ同内容の記事が, 雑誌 「流線型」 の 11 月号の巻頭
言に載っている。 「流線型」 は 1930 年代の世界的な工業デザインの流行語で
あり, 1934 年に発売されたクライスラー社の 「エアフロー」 で, 無駄のない
経済的な自動車に関心が集まっていた。 さらに 「ムダのない合理的な生産工
程」 をイメージする流行語ともなっていた。 喜一郎の生産構想は, このよう
な視点から雑誌編集者の関心を惹いていたのである (原克, 流線形シンドロー
ム, 紀伊国屋書店, 2008, 第 2 章)。
128)
豊田喜一郎 「挙母工場へ移転と新製品に就いて皆様へお願い」, 1938 (豊田
喜一郎文集集成, pp. 264265)。 この副社長
― 48 ―
豊田喜一郎名で作成された冊
子は, 「本冊子はトヨタ自動車株式会社関係者にのみ御必読願うものでありま
す故此の旨御諒承下さい」 と見返しに印刷されており, 発行年月日は記載さ
れていない。 ただ文意から 1938 年 12 月に発行されたと推定される。
129)
N. Rosenberg, Technological Change in the Machine Tool Industry,
18401910, Journal of Economic History, Vol. 23, No. 4 (1965), pp. 442443.
大野耐一, 前出, pp. 2627, 5660。 しかし, この 「後工程からの引き取
130)
り」 の実行は, 在来の生産・運搬・納入の流れを逆転させることであり, 「下
手をすると企業全体を根底から揺るがしかねない」 問題だった。 すべて初め
ての試みでどこにも手本がない, やってみないとわからないことが多かった。
中岡, 前出, pp. 1415。 尚, この認識は当然ながら豊田喜一郎も共有して
131)
いた。
132)
当時このような工場は, 輸出綿織物量産工場以外には考えられないが, 堀
米は 「現在に一番いい方法があることがわかった」 というだけで, 具体的な
名前については言及した資料は見つかっていない。
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(原稿受付
― 53 ―
2008 年 3 月 21 日)
経営経理研究 第 84 号
2008 年 12 月 pp. 5593
論
文〉
原価計算制度における費目別
計算思考の生成
原価計算制度の初期的胎動 2
建
要
部
宏
明
約
本稿では官営事業 (とくに, 政府経営の作業場) の独立採算を実現する
ために制定された 「作業費区分及受払例則」 (明治 9 年), これを精緻化し
た 「作業費出納條例」 (明治 10 年), さらにこの条例の矛盾点を解決した
「(改正) 作業費出納條例」 (明治 12 年) についてそれぞれ検討し, これら
3 つの作業費に関する規程の中で形成された作業費概念の視点から, いか
に原価計算制度における費目別計算思考が生成したかを論じていきたい。
すなわち, 明治維新後の社会経済的展開と国家会計の展開を基礎とし, わ
が国原価計算制度誕生へ至る先行要件の整備過程を原価計算制度の初期的
胎動として論じる。 なお, 本稿は本誌第 82 巻 (平成 20 年 3 月) の続編で
ある。
キーワード:会計史, 原価計算, 原価計算史, 原価計算制度史, 費目別計
算, 原価計算基準, 作業費区分及受払例則, 作業費出納條例,
作業費, 興業費, 営業費
Ⅰ
はじめに
前稿 ( 経営経理研究
計算思考の萌芽
第 82 巻) では, 「原価計算制度における費目別
原価計算制度の初期的胎動 1
― 55 ―
」 と題して, 国家出納
に関する一連の諸規程, すなわち 「出納司規則書」 (明治 2 年), 「金穀出
納順序」 (明治 6 年), 「各支庁経費渡方并勘定帳差出方規則」 (明治 7 年),
「経費概計表及内訳明細簿ヲ製スルノ順序」 (明治 8 年), 「大蔵省出納條例」
(明治 9 年) を検討した1)。 これらの一連の諸規程はもちろん原価計算制度
と呼べる要件を満たしていなかったが, これらには費目別計算思考の萌芽
が見られた。 当初, 国家経費は各省へ概算渡しが行われたが, 費目の整理,
報告義務の強化を通じて事前・事後経費概計表が作成されるようになった。
特筆すべき点は, 制度の中で費目の精緻化, 概算化によって支出統制の強
化が図られたことである。 やがて, これが予算統制の仕組みへと進化して
いく。 一連の諸規程に提示されている事後経費概計表は, 生じた経費の認
識, 記録, 集計, 報告からなる支出記録であり, 支出対象は製品の製造で
はないが, 費目別計算思考を含んでいる。 ここには, 原価計算の原初的形
態が存在する。 また, 一連の諸規程に提示されている事前経費概計表は,
支出科目をもとにあらかじめ支出額が費目別に概計されたもの (予算) で
ある。 これによって, 実際に支出され (予算の執行), 概計実績差異が分
析され (予算実績差異分析), 概計による支出の統制いわば予算統制が実
施されるような仕組みが整えられた。 ここには, 原価計算の有している管
理思考の嚆矢的形態が存在する。 これらは明らかに以後, 原価計算制度へ
進展していく 「芽」 であると考えられる。 こうした意味合いから, 前稿に
おける一連の諸規程の展開は, 原価計算制度の 「誕生」 とか 「確立」 とい
う側面からではなく, 原価計算制度の初期的胎動として論じた。 したがっ
て, 原価計算制度誕生のためには, まだいくつかの要件が整備される必要
がある。 すなわち, 前稿での一連の諸規程が費目別計算の対象としたのは
何らかの目的のための支出であるが, それは製造目的に限定されてはいな
い。 これは経費の集計であり, 原価それ自体の集計ではない。 ここで計算
される支出が製造目的だけに限定され, しかもそれが製品別に計算されな
い限り, ひいては単位原価の概念ができあがらない限りは原価計算制度と
― 56 ―
はなりえない。
本稿では 「作業費区分及受払例則」 (明治 9 年), 「作業費出納條例」 (明
治 10 年), 「(改正) 作業費出納條例」 (明治 12 年) について検討し, 原価
計算制度誕生への先行要件がいかに整えられていったかを作業費概念の形
成を通じた費目別計算思考の生成という視点で論じていきたい。 この際,
本稿の主旨からは 3 つの作業費に関する規程の全条項 (とくに 「作業費区
分及受払例則」, 「作業費出納條例」) を提示してこれを説明する必要は必
ずしもないが, 損益計算構造を明示するために, さらに今後検討する原価
計算制度との比較を容易にするために, あえて各規程の全条項を構成どお
りに検討していく。 また, 本稿で提示する作業費に関する規程の原史料や
これに関連する文書は国立公文書館, アジア歴史資料センターから取得し,
それらの基本的な概念は明治財政史編纂会編纂
史発行所, 大正 15 年), 大蔵省編纂
明治財政史
明治大正財政史
(明治財政
(財政経済学会,
昭和 11 年) における記述をおもに参考とした。
Ⅱ
作業費概念の形成
1. 背
景
前稿では 「出納司規則書」, 「金穀出納順序」, 「各支庁経費渡方并勘定帳
差出方規則」, 「経費概計表及内訳明細簿ヲ製スルノ順序」, 「大蔵省出納條
例」 から国家出納のうちの 「出」 がいかに概計 (予算化) され, 執行され,
記帳され, 報告されるかを検討した。 明治 9 年に 「作業費区分及受払例則」
が公布されるまで, 政府経営の作業場に対する金銭出納は一般経費と同様
な取り扱いがなされており, 特別な規程があるわけはなかった。
明治維新後, 新政府は統一国家建設への経済基盤づくりのための施策の
ひとつとして, 旧幕営の軍事部門, 鉱山部門の作業場を国営化した。 すな
わち, 軍事部門としては東京, 大阪の両砲兵工廠, 長崎, 兵庫, 横須賀,
― 57 ―
横浜, 石川島, 鹿児島の各造船所, 鉱山部門としては生野, 小坂, 院内,
阿仁の各銀山, 佐渡, 大葛の各金山, 釜石, 中小坂の各鉄山, 三池の炭鉱
をそれぞれ接収した。 さらに, 政府は官業による生産基盤の建設に力点を
置き, 早くから紙幣, 硬貨の製造のための工場を経営していた。 くわえて,
鉄道, 電信, 灯台などの社会的基盤の整備も急務であった2)。 当時, 殖産
興業の中心的役割を果たしたのは官営模範工場であり, 政府経営の近代的
な工場の設立が相次いで行われた。
わが国初の作業費に関する規程が公布された明治 9 年頃, 政府が経営す
る事業は, 大蔵省関係では造幣寮や紙幣寮, 内務省関係では富岡製糸所,
堺製糸場, 新町屑糸紡績場, 鹿児島紡績所など, 海軍省関係では横須賀造
船所, 唐津兵庫出張所, 鹿児島造船所など, 工部省関係では鉱山―佐渡,
生野, 小坂, 大葛, 釜石, 三池, 秋田など, 鉄道―東京横浜間, 大阪神戸
間, 大阪京都間, 京都大津間, そのほかでは赤羽製作所, 深川セメント工
場, 兵庫製作所, 長崎製作所, 品川硝子製造所などがあった3)。 これらの
事業, おもに作業場の経営は多額の資金を要するので, 膨れ上がる支出に
歯止めをかけて効率的な経営を進めるために, 官営事業の独立採算を行う
必要性が生じた。 そのために, 政府は作業場で生じた収益と費用を正確に
把握し, 各作業場の損益を明らかにしなければならなかった。 そこで, 一
般経費から作業場に要する経費を分離し, これを作業費として処理する施
策がとられた。
明治大正財政史
では, 作業費処理へ至った経緯を次の
4)
ように論じている 。
「各種の官営事業の漸次発達するに従ひ, 之に関する諸般の収支を
一般の会計中に混同して整理することは, 事業の経営上障碍少からざ
るを認めしを以て, 官業上の収支は一般会計と区分し, 別途に会計を
立て, 別金櫃を設けて之を整理するの方法を設くることと為し, 明治
九年九月太政官達を以て作業費区分及受払例則を制定したり。 之れ即
― 58 ―
ち別途会計設置の嚆矢にして, 他日特別会計制度制定の淵源を為すも
のなり。」
上記のとおり, 官営事業の発展に伴い官業の収支を一般会計と区分し,
その損益を明確にするために作業費の規定が必要であった。 そこで, 作業
場への支出である作業費が明治 9 年 9 月に公布された 「作業費区分及受払
例則」 の中で初めて規定された。 これは 「大蔵省出納條例」 が公表される
数ヶ月前であった。
明治財政史
では 「明治九年九月六日各庁作業費区
分及受払例則ヲ定メ本年七月以後始メテ各庁一般ノ経費中作業ニ属スルモ
ノヲ区分シテ作業費トナシ通常ノ経費ト混同セサルコトヲ要スルモノト
ス」5) と紹介されている。 その後, 明治 10 年 7 月に 「作業費出納條例」 が
公布され,
同史
では 「十年度以降之ヲ施行セシム其規程タルヤ凡ソ作
業ニ属スル支費ハ一切作業費ト称シ開業ニ際シ其資本金額ヲ定メ営業百般
ノ事ヲ弁理シ而シテ其収入ヲ以テ資本ニ償還シ其剰余額ヲ益金トシ嚮ニ消
費セシ所ノ金額ヲ漸次償却スルモノトス」6) とその概要が説明されている。
また, 明治 12 年 5 月には 「開拓使作業費出納條例」, 明治 12 年 10 月には
「(改正) 作業費出納條例」 がそれぞれ公布された。
2. 作業費に関する規程
作業費区分及受払例則
最初に, 一般経費から作業場への支出を分離することによって, わが国
で初めて作業費を規定した 「作業費区分及受払例則」 における作業費概念
と損益計算構造を明らかにしていきたい。 これは原価計算における費目別
計算内で製造関係費用を集計する思考を形成したと考えられる。 くわえて,
以後, 直接費と間接費区分の基本思考となる興業費と営業費の区分が行わ
れた。
各庁の経費中作業に属する費途区分を改正するために, 明治 9 年 9 月 6
― 59 ―
日付の太政官達第 85 号で 「各庁作業費区分及受払例則」 (以後, 「例則」
と略称する) が作業費に関する規程として公布され, 同年 7 月に遡って施
行された。
「例則」 は内務省, 海軍省, 工部省へ通達され, その通達文は次のとお
りであった7)。
「本年七月以降各庁一般ノ経費中作業ニ属スル費途ヲ区分シ別冊ノ
通程規改正候條此旨相達候事 (別冊ハ下ノ大蔵省ヘノ達ニ同シ)
但本文ノ通改正候ニ付テハ右ニ基キ本年予算内訳簿再調ノ上金員区
分可相達筈ノ処季節既ニ経過候ニ付本年経費決定高ノ内ヲ以テ右費途
区分ノ儀大蔵省ヘ協議可致尤営業費ハ数回運換候上ハ費額減省可致筈
ニ付詳細取調大蔵省ヘ可申出事」
「本年七月以降各庁一般ノ経費中作業ニ属スル費途ヲ区分シ別冊ノ
通程規改正候條此旨相達候事」
この通達文における重要なポイントは 「経費中作業ニ属スル費途ヲ区分」
したうえで, 作業費の集計, 作業収入の運用を行うことであり, その 「例
則」 の概要は図表 1 のとおりの構成である。 なお, 図表中の条ごとの見出
し (カッコ書き) は内容が概観できるように筆者が付した。
図表 1
第一條
第二條
第三條
第四條
第五條
第六條
「作業費区分及受払例則」 の構成
(概要)
(作業費の区分)
(適用範囲)
(作業費と一般経費の区分)
(収入の計上)
(作業費の受け払い)
第七條
第八條
第九條
第十條
第十一條
第十二條
(営業収入金の残金の処理)
(不用品の処分)
(営業需用の物品評価)
(物品の現金評価の対象)
(作業費に関する報告書の作成)
(書式)
出典:「各庁作業費区分及受払例則」 明治財政史編纂会編纂
史発行所, 大正 15 年, 918923 頁の条文から作成。
― 60 ―
明治財政史第一巻
明治財政
それでは 「例則」 の各規定を構成に従って考察していきたい。
第 1 条では 「各庁経費中作業ニ属スル費途ヲ概別シ其受払ノ順序等ヲ確
定シ次條以下ニ掲ク」 と規定され, 「例則」 の目的が示されている8)。
第 2 条では作業費の区分が提示されており, 「造幣紙幣造船礦山鉄道電
信其他諸製作等一般作業ニ属スルモノハ渾テ該費 (作業費−筆者) ニ編入
支弁シ通常ノ経費ト混同セサルヲ要ス」 と定義され, それは興業費と営業
費とに区分されている9)。 前者は 「創始ニ付器械等ノ購入或ハ据付家屋建
築等其他総テ創起ニ属スル費途ヲ類集ス」10) とされ, 開業に準備した建物,
設備などへの初期投資にかかわる費目である。 後者は 「開業以後ノ費用ニ
シテ平常ノ事業ニ属スル諸費ヲ類集ス」11) とされ, 材料費, 労務費などの
運転資本にかかわる費目であり, くわえて営業費は開業後の事業拡大に伴
う建設費, 設備費などを含む。 これが 「例側」 に示された興業費と営業費
の概念である。
第 3 条では 「例則」 の適用範囲が明示され, それは内務省 (富岡製糸場,
各所牧畜場, 堺製糸場, 新町および上州屑糸紡績所), 大蔵省 (造幣寮,
紙幣寮), 海軍省 (横須賀製作所, 唐津兵庫出張所, 鹿児島製造所), 工部
省 (鉱山寮各所支庁, 鉄道, 各所電信局, 各所製造所) に及ぶ12)。
第 4 条では作業費と一般経費との区分が示され, 「作業場専務ノ官員月
給ヲ始メ外国人雇給其他該所ニ属スル経費ハ悉皆作業費中ニ編入スヘシ尤
之ヲ管理スル其本庁内務省ノ勧業寮工部省ノ鉱山鉄道寮等ヲ指スノ経費ハ従前ノ通
通常経費中ヲ以テ支弁スルコトヽス」13) とされている。 すなわち, 作業場
固有の労務費 (官員の月給, 外国人の雇給など) や経費は作業費に含める
が, 本庁の経費は今までとおりに一般経費として区分される。
第 5 条では収入の計上が規定されており, 本庁が必要とする物品を所属
の作業場へ製作依頼した場合, その製作代価は 「総テ本庁通常経費中ヲ以
テ仕払ヒ製作所等ニ於テハ人民一般ノ注文ニ異ナルコトナク之カ代価ヲ領
収シ毎月収入ノ部分ニ編入スヘシ」14) と定めている。 例えば, 海軍省所属
― 61 ―
の艦船を新造した, あるいはそれを修理した場合, それを外部で行なった
と同じ対価が当該作業場に対して支払われる。 すなわち, 事業の独立採算
を可能にするためには収入と費用を対応させなければならないので, 収入
を生じさせて期間損益比較に役立てようとしている。
第 6 条では作業費の受け払いに関する具体的な説明が行われている。 作
業費のうち興業費は年々払切りであり, 生じた益金で償却を行う。 ただし,
償却については 「漸次実験ヲ経テ齊備スルニ随ヒ益金ノ幾分ヲ以テ興業ノ
費用ヲ償却スル」15) という一文しかなく, 具体的な方法も示されていない。
他方, 作業費のうち営業費は毎月の収支を大蔵省に報告し, 年度末には一
旦返納し, 年度初めには再び交付を受ける仕組みであった。 ただし, 納付
の際には次のものを 「総テ現金ト看做シ」, 「金員事由ヲ詳記」 して納受し
なければならなかった16)。
1
貯蓄セル処ノ物品 (購入セシ時時ノ原価)
2
既ニ製作シタル部品ノ現存シテ翌年ヘ越スヘキモノ (製作ニ支用
セシ諸品ノ原価ト其製作ニ付テ費ス所ノ金員トヲ併セ之レニ幾分カ
ノ益ヲ加算シ該製作物ノ価格トシ尚時価ヲ参酌シテ見積タル代価)
3
翌年度支出ニ属スルモノヲ本年度ニ於テ假ニ払出セシ分
すなわち, 収支は収入高 (貯蔵品は購入原価で, 製作品は原価+利益な
いし売価で現金評価のうえ収入金に加算) から作業費を引いて計算する。
なお, 仮払分も現金評価を行う。
第 7 条では営業収入金の残金の処理と補填を規定している。 以前は生じ
た収入を毎月大蔵省に上納していたが, 「毎月納付ニ及ハス幾回モ運換支
用スルヲ許ス尤歳尾ニ至リ営業ノ消費ト収入トヲ計較シ残余ノ益金ハ税外
収入ヘ編入シテ之ヲ大蔵省ヘ納付スルコヽトス」17) というように資金の運
用と残金の納付を規定している。 期中の収入は運用し, もし期末に収入>
支出であった場合に生じる益金は税外収入となり, もし期末に収入<支出
であった場合に生じる損金は補填される。 具体的には, 「該年営業費ノ内
― 62 ―
支出ノ額六萬圓其収入金七萬圓ナルトキ差引壱萬圓ノ羸余ハ即チ益金ト
ス」18), 「之レニ反シテ消費金七萬圓収入金六萬圓ナルトキ差引一萬圓ノ損
金」19) となり, 損金が生じた場合には 「第六條ノ例ニ準ス」20) と補填を規定
している。
第 8 条では不用品の処分を規定している。 すなわち, 不要になった購入
物品の処理について, もし営業費より購入した物品を処分した場合, この
売却額は収入に繰り入れて運用してよい旨を示している21)。
第 9 条では営業需用物品の評価が規定されている。 「物品ハ購買セシ時
時ノ原価ヲ付スルヲ例トス」22) とされ, 代金の支払いが未決済であり, 購
入原価が不明な場合には 「見込ノ代価或ハ其時価」23) が用いられる。 この
場合には, 時価と実際価格の間に差が生じるので, この処理は次のように
規定されている24)。
「最前見積ヲ以代価ヲ計出セシ高假令ハ某品千斤此代価一萬圓十斤ニ
付百圓 実際仕払ノ高七百斤此代価七千圓ト計出シ既ニ其製造セシモ
ノヽ総額ヘ加算シテ徴収シ爾後確定ノ代価六千三百圓十斤ニ付九十圓差
引七百圓ノ差違ヲ生スルモノヽ類ハ之ヲ益金ト看做シ又差引不足スル
モノハ之ヲ損金トシ作業費中ヨリ仕払ニ立ツヘキコトヽス」
すなわち, 時価 (700 斤 7,000 円) と実際価格 (700 斤 6,300 円) の間に
差 (700 円) が生じたとき, 有利差異である 700 円は益金とする。 なお,
逆に不利差異が生じた場合は, 損金として処理する。 これは予定価格の使
用とその際の処理に関する規定である。
第 10 条では物品の現金評価が規定されている。 すなわち, 作業に使用
する物品は貯蔵しているときは現金評価であるが, 使用によって初めて支
払いとして処理する25)。
第 11 条では作業費を一般経費とは分類して報告書を作成および報告す
― 63 ―
ることが規定されている。 これは作業費を独立した報告書の提出に関する
規定である。
第 12 条では 「損益ノ比較出納ノ順序其他簿記計表等別冊書式ノ外」26) は
各庁の自由裁量であることが規定され, 以下の 3 つの提出書類が 「例則」
の別冊として添付されていた27)。
第 1 書式
興業費受払勘定帳
第 2 書式
営業費請払報告
第 3 書式
諸作業収入精算報告
「例則」 では, 作業費の定義, 分類, 適用範囲, (不明確であるが) 興業
費の償却, 益金および損金の処理, 貯蔵品, 未完成品 (仕掛品), 製作品
の評価法, 時価と実際価格の差の処理, 報告書の提出, 提出書類の書式な
どが規定されている。 「例則」 における作業費概念と損益計算構造は, 図
表 2 のとおりである。
図表 2
「作業費区分及受払例則」 における作業費概念と損益計算構造
出典:「各庁作業費区分及受払例則」 明治財政史編纂会編纂 明治財政史第一巻
明治財政史発行所, 大正 15 年, 条文から作成, 918 頁923 頁。
前稿における一連の諸規程では国家支出を概算による概念で統制したが,
「例則」 ではこれに加えて経費をたんに節約させるだけではなく, これを
― 64 ―
運用させるという別の観点での統制が試みられている。 そこで, 一般経費
から作業費を分離し, 「例則」 によって各作業場を管理したとみられる。
「例則」 では年度中の収入の運用 (第 7 条) を認めているが, 年度末には
収入高 (第 5 条) と未使用品, 仕掛品 (第 6 条, 第 7 条, 第 10 条) など
の評価額は一旦大蔵省へ全額納付 (第 7 条) することになる。 この規程に
よって, 官営作業場における損益のある程度の明確化が図られると思われ
る。 反面, 興業費の償却法などは明確ではなく, 一定額 (定額) を経費と
して支給していたそれまでの方式と大きくは異ならない。 「例則」 は文字
通り, 作業費区分と興業費および営業費の受け払いを規定していたに過ぎ
ない。
作業費出納條例
次に, 「例則」 で規定された作業費概念が 「作業費出納條例」 において,
いかに精緻化されたかを明らかにしていきたい。 ここでは, 興業費や営業
費の償却が明確化される。 現在の費目別計算では間接費と直接費の区分が
中心であり, とくに間接費計算は固定資産 (資本) の減価とそれの製品へ
の価値移転の認識が前提となるが, 興業費, 営業費の償却思考はその礎を
築いたと考えられる。
先に論じた 「例則」 における大きなポイントは, 一般経費からの作業費
の分離であり, 作業費を興業費と営業費に二分し, 前者は払切り, 後者は
運用が規定されていたことであった。 しかしながら, 「例側」 では第 6 条
第 1 項に 「興業ノ費用ヲ償却スル等ノ方法ヲ設立スヘシト雖モ順序創設ノ
際ナレハ姑ク各庁ノ便宜ニ任ス」28), 第 12 条第 1 項に 「損益ノ比較出納ノ
順序其他簿記計表等別冊書式ノ外ハ姑ク各庁ノ便宜ニ任ス」29) というよう
な箇所があり, 興業費などの償却や提出書類には不十分なところがあった。
そこで, 明治 10 年 1 月付で大蔵省に検査局が設置されたのを機会に, 「例
則」 を改定するために内務省, 大蔵省, 海軍省, 工部省に対して 「作業費
― 65 ―
区分ノ義ニ付明治九年九月中相達候趣モ有之候処右條例更ニ別紙之通相定
候條明治十年度以降右ニ照準施行可致此旨相達候事」30) との前文と 「但営
業資本ヲ交付候ニ付テハ本年一月十日相達候十年度経費額ノ内右ニ属スル
金員減額ノ義モ予算一仝可申出事」31) との但し書きがつけられ, 「作業費出
納條例」 (以後, 「条例」 と略称する) が明治 10 年 7 月 6 日に公布された。
「条例」 は, 図表 3 のような構成であった。
図表 3
第一條
第二條
第三條
第四條
第五條
第六條
第七條
「作業費出納條例」 の構成
作業費用概旨ノ事
作業費区分ノ事
興業費営業費区分ノ事
予算申牒ノ事
興業費受払制限ノ事
営業費受払制限ノ事
収入金運用及ヒ工費償却損益
比較等ノ事
第一号書式
第二号書式
第三号書式
第四号書式
第五号書式
第六号書式
第七号書式
第八号書式
諸作業損益比較報告
興業費償却高報告
営業費償却高報告
興業費予算内訳明細簿
作業収入額予算内訳帳
興業費請払勘定帳
営業資本請払精算報告
作業収入精算勘定帳
出典:JA, Ref.2 A00900・太00508100, MF005900-1594 「作業費出納條例」 第 1 条から
第 7 条の条文および巻末の書式より作成。
「条例」 は全 7 条から構成されており, 「例則」 と比べると, 条項それ自
体は減少したが, 形式的には各条の見出し, 前文, 節が設けられ, 内容的
には各規定が整理, 明確化された。 くわえて, 3 書式から 8 書式へ提出書
類が拡充された。 それでは 「条例」 の性格を明らかにするために, 第 1 条
から第 7 条までを 「条例」 の構成に従って瞥見していきたい。
第 1 条では 「作業費用概旨ノ事」 の標題で, 作業費は 「凡ソ作業ニ属ス
ル費途ハ一切」 と定義され, その処理法として 「開業ニ際シ其資本金額ヲ
定メ以テ営業上百般ノ事款ヲ弁理シ而シテ該業ノ収入ヲ以テ資本ヘ償還シ
剰ル金額ヲ益金トシ以テ嚮ニ消費スル処ノ金額ヲ漸次償却スヘキモノトス」
と規定され, 「条例」 の基本概念が提示されている32)。
第 2 条では 「作業費区分ノ事」 の標題で, 諸作業に属す費項は 「一切該
部ニ彙集シ予算精算トモ通常経費ト判然之レヲ区分スヘキモノトス」 と規
― 66 ―
定され, 一般経費との区分が明示されている33)。 この 「条例」 が対象とな
る作業場は第 2 条第 1 節において, 図表 4 のとおり指定されている。
図表 4
「作業費出納條例」 の適用範囲
内務省:富岡製糸場, 堺製糸場, 新町屑糸紡績場, 第一綿糸紡績場, 第二綿糸
紡績場, 羅紗織場, 築地製茶場, 各所牧畜場
大蔵省:造幣局, 紙幣局
海軍省:横須賀製造所, 唐津兵庫出張所, 鹿児島製造所
工部省:
鉱 山:佐渡, 生野, 小阪, 大葛, 釜石, 三池, 秋田
鉄 道:東京横浜間, 大阪神戸間, 大阪京都間, 京都大津間
その他:各所電信, 赤羽製作所, 深川セメント製造所, 兵庫製作所, 長崎
製作所, 品川硝子製造所
出典:JA, Ref.2 A00900・太00508100, MF005900-1594 「作業費出納條例」 第 2 条
第 1 節より作成。
図表 4 のような各省が運営する作業場における作業は, 官の依頼である
か民の依頼であるかを問わず, すべて作業費の明示が求められた34)。 作業
費への算入費目は, 第 3 条第 3 節で具体例が列挙されているが, 第 2 条第
3 節では作業費へ編入する費目の 3 つの大枠として 「作業専務ノ官員俸給」,
「外国人傭給」, 「其他該所ニ属スル経費」 が挙げられており, 「管理スル其
本庁 (内務省ノ勧業局工部省ノ鉱山鉄道局等ヲ云フ) ノ経費ハ通常経費中
ヲ以テ支弁スヘキモノトス」 と処理の原則が示されている35)。
第 3 条では 「興業費営業費区分」 が 「作業上ノ費項開業前後ヲ以テ一旦
之レヲ区分ス其分界ヲ立ル第一節以下ニ掲ル如シ」36) と規定され, 興業費
と営業費が説明されている。 すなわち, 興業費は 「全ク開業前ニ係ル費項」
であり, 「工場ヲ始メ一切附属ノ諸営築或ハ器械ノ購入等渾テ開業以前創
始ニ係ル費途」37), 営業費は 「開業後ニ係ル費項」 であり, 「営業上必需ノ
諸物品ヲ始メ工場其他一切附属ノ諸営繕諸器械購入及ヒ修繕等其他渾テ開
業後ノ費途」 である38)。
― 67 ―
以上, 興業費と営業費の規定を整理すると, 作業費の概要は図表 5 のと
おりである。
図表 5
興業費
作業費 営業費
「作業費出納條例」 の構成
該費ハ全ク開業前ニ係ル費項ニシテ即チ工場ヲ始メ一切附属
ノ諸営築或ハ器械ノ購入等渾テ開業以前創始ニ係ル費途ヲ類
集スル
該費ハ開業後ニ係ル費項ニシテ即チ営業上必需ノ諸物品ヲ始
メ工場其他一切附属ノ諸営築或ハ器械ノ購入及ヒ修繕等其他
渾テ開業後ノ費途ヲ類集スル
出典:JA, Ref.2 A00900・太00508100, MF005900-1594 「作業費出納條例」 第三條
第二節より作成。
第 2 条第 3 節では作業費へ編入する費目として 「作業専務ノ官員俸給」,
「外国人傭給」, 「其他該所ニ属スル経費」 の 3 つの大枠が提示されたが,
第 3 条第 3 節では 「作業専務ノ官員俸給」 の例としては俸給, 給与, 旅費,
庁中費, 職工給, 「外国人傭給」 の例としては外国人諸費, 「其他該所ニ属
スル経費」 の例としては建設費, 器械費, 作業需用費, 生徒費がそれぞれ
次のとおりに列挙されている (順不同)39)。
1
俸
給−「諸官員等外技術俸給其他傭給」
2
給
与−「諸官員満年賜金或ハ勉励衆ニ超ルモノ等ヘ賞賜及ヒ
三大節賜饌料諸賄料写字生給仕等ヲ始メ定用傭人足賃
其他臨時諸工ヘ賞与等ノ類」
3
旅
4
庁
中
費−「官庁日用要需諸物品ノ類」
5
建
築
費−「工場ヲ始メ一切附属ノ諸建物等新規営築及ヒ修繕共」
6
器
械
費−「工場据付諸器械ノ購入并毀損ノ修理及ヒ諸職工ニ貸
費−「諸官員其他内外派遣ノ旅費」
与スル一切ノ器具其他右ニ属スル需用諸物品共」
7
作業需用費−「営業ニ供用スル一切必需ノ物品」
8
職
工
給−「工事ニ使用スル諸職工人足賃」
― 68 ―
9
外国人諸費−「該務ニ従事スルモノヽ傭給其他ノ諸費」
10
生
徒
費−「仝 (同上−筆者)」
「例則」 では営業費の範囲は明確ではなかったが, 「条例」 では費目が明
確に整理されている40)。 これは費目別計算規定としては大きな進歩である。
第 4 条では予算申牒が 「作業費及ヒ収入額共前途一週歳ノ予算ヲ確定シ
之レニ基キ実際施行スヘキモノトス」41) と規定され, 興業費・営業費予算,
収入予算の編成が説明されている。
興業費・営業費予算について, 興業費は 「前途一週歳ノ目途ヲ詳悉シ第
四号雛形 (興業費予算内訳明細簿―筆者) ニ照準之レヲ精調シ毎歳二月二
日ヲ限リ大蔵省ヘ送致スヘシ」42), 営業費は 「明治十年度ニ於テ其員額ヲ
詳悉シ以テ資本額ヲ予定シ大蔵省ヘ申牒スヘシ而シテ該額ヲ確定シ年々据
置クヲ例トス」43) とされている。 この場合, 「工事ヲ拡張シ或ハ短縮スルニ
因リ資本原額ニ増減ヲ生スル等ノコトアラハ内訳ヲ詳悉シテ伺出ヘシ」44)
と規定されている。 また, 「営業資本ノ弁給ニ出ルモノニシテ年期ヲ定メ
償却スヘキ類及ヒ作業充分ナラス為メニ損失ヲ生スル向ハ資本欠額ノ補填
トシテ更ニ大蔵省ヨリ交付スヘシ」45) とされ, 営業費で購入した建物, 器
械などは当該収入で賄い, それが可能でない場合には年期を決めて償却す
ることになる。 もし, 資本に欠額が出た場合には, 大蔵省から補填を受け
る旨が示されている。
収入予算について, 作業場における収入額については 「第五号雛形 (作
業収入額予算内訳帳―筆者) ニ照準予算ヲ精調シ毎歳大蔵省ヘ送致スヘ
シ」46) と規定されている。 第 4 条の最後では, 「前各節ニ掲ル申牒ニ基キ目
途ヲ確定スルニ於テハ実際ニ臨ミ之レヲ沙汰変更セサルヘシ故ニ該歳中非
常ノ変故ナクシテ俄爾伸縮スルコトナシ」 と規定され, 予算申牒どおりの
執行が求められている47)。
第 5 条では興業費の受け払いに関して規定されており, 全 4 節から構成
されている。 興業費については 「一旦払切リ精算ヲ立テ営業益金ヲ以テ漸
― 69 ―
次償却スヘキモノトス」 と定義されている48)。 したがって, 興業費は起業
の許可を受けた後, 詳細を大蔵省に提出し, その金額を請求する49)。 次に,
興業費の年額が決定した後, 毎月報告書 (金額勘定仕上第六号雛形−興業
費請払勘定帳) を作成し, 実際支払額を (「翌月廿日ヲ限リ」) 大蔵省に報
告する。 また, 残額が生じた場合には明細表 (「通常経費ノ成規ニ傚フ」)
を作成し, それを返納する50)。 このとき, 当初計画の費目の変更は大科目
については大蔵省と折衝し, 小科目については流用できる51)。 第 5 条の最
後には, 「該費ニ属スル諸物品ノ出納ハ明治九年九月第八十五号達シ (「例
則」−筆者) ニ照準別表ニ調成シ成規ニ従ヒ大蔵省ヘ送付スヘシ」52) と報告
義務が規定されている。
第 6 条では営業費の受け払いに関して規定されており, 全 6 節から構成
されている。 営業費は 「資本金額ヲ確定シ明治十年度以降之ヲ据置クモノ
トス」53) と原則が示されている。 すなわち, 営業費は 「十年度予算申牒ニ
基キ営業資本ヲ決定」 し, 「歳首ニ於テ該額ヲ交付」 され, 「年々之レヲ据
置キ数回運換スヘキモノトス」 と規定されている54)。 また, 「該年中営業
資本受払ノ実況第七号雛形 (営業資本精算報告―筆者) ニ照準精算報告ヲ
調成シ毎三月大蔵省ヘ送致スヘシ」55) とされていた。 くわえて, 「営業需用
ノ物品」 については 「其出納ヲ担務スルノ一課ヲ設ケ須ク之ヲ管保ナサシ
メ」 と管理の一元化を明確にし, 「購入ニ従ヒ該課ニ受入レ漸次各製作場
ノ需メニ応シ之レヲ交付」 する56)。 このとき, 受け払いは 「トモニ渾テ購
入セシ時々ノ代価ヲ付シテ出納スルコトヽス」57) と規定されている。 さら
に, 倉庫課などより各製作場へ交付する物品は 「実際其事業ニ支用セシ時々
ヲ以テ本払ニ立ツヘキモノトス」58) とされている。 なお, 作業場で製作し
た物品は実費で倉庫課へ送致し, 倉庫課において必要な経費を加算し, 損
益比較などができるようにする59)。 もし, 海外や遠隔地に注文した物品で
すでに使用に供されているが, 未だ精算に至っていないときは, 事由を記
して 「最前見込概略ノ代価或ハ時価等」 で評価する60)。
― 70 ―
第 7 条では 「収入金運用及ヒ工費償却損益比較等ノ事」 の標題で, 生じ
た収入および欠損の処理を 「凡ソ作業上ノ収入ハ営業資本エ償還シ剰ル員
額ヲ益金トシ以テ損益ヲ計較ス而シテ益金ハ曩ニ消費スル興業費及ヒ営業
資本欠額補填ノ分償却ニ充ツヘキコトトス」61) と規定している。 この部分
は 「例則」 になかった償却に関する詳細規定である。
まず, 興業費は 「各償却ノ年期ヲ定メ益金ヲ以テ償却」 し, その方法は
「各其事業ニ応シ適宜ノ見込ヲ詳悉シ大蔵省ヘ協議ノ上申出ヘシ」 と規定
されている62)。 もし, 「事業最大ニシテ当初ニ於テ償却ノ年期ヲ確定シ難
キモノ」 は, 開業月から起算して 3 年間で確定しなければならない63)。
次に, 営業資本は 「該年度ノ収入ヲ以テ償還」 を原則とするが, 「営築
或ハ器械購入等ノ費用」 で 「該年度中償還シ得サルモノ」 は年期を定めて
償却する64)。 しかしながら, 「作業充分ナラスシテ資本ヲモ償還スル能ハ
サル」 場合には, 「其欠額ノ補填ヲ要セル金額ハ翌年度ノ益金ヲ以償却ス
ヘシ」65) と定められている。 また, 作業費中で, 年期で償却する金額は製
作物品の実費に上乗せし, 償還を行う66)。
収入金は営業資本中営築などの償却, 最終的には興業費の償却に充て,
その作業収入精算勘定帳 (第八号雛形―筆者) を作成し, 毎 3 月に大蔵省
へ送付する67)。 もし, 「収額中営業資本ヘ償還スヘキ員額」 が生じた場合
には, すぐにそれを営業資本に戻し, 直ちに運用できるようにする68)。 他
方, 「処口ノ高ヲ償還シ剰ル」 場合には, 「益金トシ大蔵省ヘ納付」 するこ
とになる69)。 また, 実際の使用に適さなくなった諸建物, 器械などを売却
した場合, 「興業費ノ弁給ニ出ルモノハ該費」 に繰り込み, 「営業費ノ弁給
ニ出ルモノハ其資本ヘ受入レ一般ノ収額ト併セテ運用」 する70)。 この具体
例については, 次のとおりに説明されている71)。
「嚮ニ某工場ヲ新築スルハ開業前ニ於テシ之ニ属スル建足等ハ開業
後ニ於テ弁給セシ類後年ニ至リ実際ニ適セサルニ因リ販売スルノ類ハ
― 71 ―
齊シク興業費ヘ償却スヘキモノトス其他製作器具ノ類開業前後ノ区分
シ難キモノハ営業資本ヘ受入レ運用スヘシ」
すなわち, 作業費中より購入した設備などの売却から生じた金額は, 興
業費から支出したならば興業費の償却へ, 営業費から支出したならば収入
に組入れて運用することになる。
最後に, 「前年度中作業損益比較及ヒ費額償却濟ノ高」 は第一号雛型
(諸作業損益比較報告), 第二号雛型 (興業費償却高報告), 第三号雛型
(営業費償却高報告) に準拠して 「毎歳九月中ヲ限リ大蔵省ヘ報告」 しな
ければならない旨が規定されている72)。
「条例」 では, 作業費の定義, 分類, 適用範囲, 予算化, 興業費・営業
費の受け払い, 興業費・営業費の償却, 益金および損金の処理, 貯蔵品・
未完成品 (仕掛品)・製作品の評価法, 報告書の提出, 提出書類の書式な
どが規定されている。 「条例」 における作業費概念と損益計算構造は, 図
表 6 のとおりである。
図表 6
「作業費出納條例」 における作業費概念と損益計算構造
出典:JA, Ref.2 A00900・太00508100, MF005900-1594 「作業費出納條例」 第 2 条
第 1 節より作成。
― 72 ―
「条例」 の注目するべき点は, 営業費, すなわち開業以後に支出した費
目のうち, 建物や設備は当該期の収入から支弁されるべきこと, もしこれ
が可能でない場合には年限を定め償却することである。 「例則」 に比べて,
償却概念が明確化されたことにより, 損益の期間平準化が図られた。 この
ように, 各作業場ごとの独立採算が企図され, 益金の計算により業績評価
が可能になった。 よしんば欠額が生じて補填が必要になっても, 合理的な
基準でこれを実施できる。 したがって, 「条例」 は資金の節約と共にその
有効活用を促進する効果があったものと思われる。
一般経費から作業費がどのように分割されたかを示す資料によって,
「条例」 の規定がいかに運用されていたかを数値例で見ていきたい。 大蔵
省上申 (明治 11 年 12 月 28 日閣裁) に依れば, 「明治十年度内務大蔵工部
三省経費ノ儀通常経費ト作業費トヲ分割シ尚作業費中興業費及営業資本決
額補填金営業運用額ヲ区分シ夫々計査セシニ別紙仕訳書ノ如クニ有之」73)
として, 3 省の一般経費, 作業費分割のデータをあげている。 このうち,
内務省のそれを見ていきたい74)。
内務省の分割前定額 (明治 10 年度決算額) は 2,651,100 円 (内訳:本省
経費 1,602,100 円, 駅逓経費 1,049,000 円) であったが, 一般経費と作業費
分割後は通常経費 2,297,400 円 (内訳:本省および各局経費 1,248,400 円,
駅逓局経費 1,049,000 円) と作業費 598,900 円 (内訳:興業費 258,600 円,
資本欠額補填 50,900 円, 資本原額 289,400 円) で合計 2,896,300 円となり,
分割前と比較して 245,200 円分増加する。 しかし, 「資本原額ナルモノハ
運換支用スヘキ経費ノ原金ニシテ年々之ヲ据置キ」 とされ, 資本原額は消
費せず運用するので, 分割後 2,896,300 円から資本原額 289,400 円をひく
と 2,606,900 円であり, さらに運用収入 44,200 円が見込めるので, 実質
2,651,100 円となり, 分割前と変わらない。 さらに, 次のとおりに営業運
用額を加えた計算が示されている75)。
(甲)
一
金貳百六拾五萬千百圓 (前) 定額
― 73 ―
(乙)
一
金貳百六拾五萬千百圓 (今) 通常経費作業費
ママ
内
金貳百貳拾六 (九−筆者訂正) 萬七千四百圓
金三拾五萬三千七百圓
内
作業費
金貳拾五萬八千六百圓
興業費
△金五萬九百圓
資本欠額補填
○高金九萬五千百圓
通常経費
営業運用額
□金四萬四千貳百圓
外
金五萬九百円
資本欠額補填
分割後の一般経費は 2,297,400 円, 作業費は 353,700 円 (内訳:興業費
258,600 円, 営業費 95,100 円) である。 また, 営業費 95,100 円は営業資本
原額 85,900 円 (下総牧羊場 20,200 円, 千住製絨所 20,000 円, 新町紡績所
40,000 円, 堺紡績所 5,000 円, 嶺岡種畜場 700 円) の運用経費である。 こ
れに対応する作業収入は 44,200 円であったので, 結局 50,900 円の欠損が
生じたことになる。 なお, 先に提示した資本原額は 289,400 円であったが,
これは 85,900 円にくわえて, 富岡製糸場資本原額 200,000 円, 石炭酸製造
所資本原額 3,500 円の合計額 203,500 円を加算して算定したものである。
しかし, 富岡製糸場および石炭酸製造所の資本原額 203,500 円分についての
運用は示されていない。 各数値関係のイメージは, 図表 7 のとおりである。
図表 7
大蔵省上申における内務省の作業費概念と損益計算
出典:JACAR, Ref. A07061496800 「記録材料・営業費・各省」 より作成。
― 74 ―
この例では作業収入が営業費を下回り, 欠損が生じているので, 収入か
らの営業費の償却や益金からの興業費の償却は明示されていない。 また,
諸資産の評価も行われていない。 このために, 数値例で 「条例」 の全容は
つかめないが, 提示例によって興業費, 営業資本, 営業費の関係が明確に
なる。
「条例」 が公布された後, 海軍省は明治 10 年 9 月 28 日付で海軍大輔川
村純義代理海軍少将中島憲之助の名で, 「作業費区分之義ニ付本年七月六
日御達之趣謹承仕候然ル処該費出納條例中当省之部ニ庁名之異称且ツ実際
差支之條々左ニ」76) と太政大臣三條實美に 8 項目からなる 「作業費区分之
義ニ付上請」 (以後, 海軍上請と略称する) を提出している。 その回答は
明治 10 年 11 月 17 日付で海軍省に行われた。 海軍上請から 「条例」 を適
用するに当たって生じた諸問題を考察したい。
海軍上請の第 1 項から第 4 項までは, 以下のとおりである (原文を現代
文で意訳し, かつ横書きとした−原文は一つ書きであるが, 便宜上番号を
付した)77)。
1
作業費出納條例第 2 条第 1 節, 当省の部における横須賀製造所は横
須賀造船所に変えてほしい。
2
唐津兵庫出張所は出張所ではなく, 用所の名称を用いている (唐津
は唐津海軍石炭用所であり, 兵庫は兵庫海軍用所である)。 なお,
唐津 (海軍) 石炭用所は今春に生じた戦乱の戦地に接近しており,
多忙なために作業費出納條例は実施可能ではない。 そこで, 当年度
は従前の通りの処理としてほしい。
3
兵庫 (海軍) 用所は作業費を生じる事業がない。 なぜならば, 諸艦
船回航の際に, 需用の諸物品および石炭などの受渡しを取扱うだけ
だからである。 そこで, 当用所は條例から削除してほしい。
4
鹿児島製造所は造船所である。 しかしながら, 同所は暴徒に襲われ
― 75 ―
たために, 廃業状態にある。 そこで, 当所名は條例から削除してほ
しい。
これらについては当然の主張とされ, 第 1 項と第 2 項に対しては, 「伺
ノ趣聞届候條庁名ノ儀ハ更正候儀ト可心得事」, 第 4 項に対しては, 「鹿児
島造船所ノ儀ハ廃存ノ見込申出候節何分ノ可及指令事」 とされ, それぞれ
受け入れの回答がされた (第 3 項は 「伺ノ通」)78)。 以上, 4 項目の海軍上
請については名称の違いなどであり, 大きな意味を持たない。 しかし, こ
うした各作業場の個別事情は汎用的な規程ではカバーしきれないので, や
がて独自規程の制定へと向かいうる 1 つの要因として看過すべきではな
い。
海軍上請の第 5 項は下記のとおりである (原文を現代文で意訳し, かつ
横書きとした)79)。
5
横須賀造船所の運営は幕府が始め, 維新後, 神奈川県, 民部省, 工
部省と所管が次々に変わり, 現在当省が所管している。 去る明治 6
年に横浜製造所が大蔵省所管になるまでは横浜製造所の運営費も負
担しており, また灯台建築費も加わり, さらに横須賀造船所首長ウ
エルニーが決裁した費額もあるので, いまさら過去に遡って条例に
従い興業費と営業費に区分することはできない。 まして, 同所は専
ら艦船に関わる事業に従事しており, 国難や不測の事態は予見でき
ない。 造船事業はわが国で始まって日が浅く, 職人を得ることがで
きず, 職人育成のために徴兵を免除する等の措置を講じている。 ま
た, 民間でドックなどを持っているところもない。 したがって, 国
内ないし外国の艦船の修理を請け負っている。 内務省, 工部省のよ
うに利益が生じる製造所とは性格が異なり, 特別扱いするべきであ
る。 そこで, 明治 9 年までは従前通り興業費, 営業費とも据置き,
― 76 ―
現在の貯蔵品の代価と営業に差し支えのない金額に, 天城山の伐木
が終了するまでそれにかかる金額を年々加えた金額を資本原額とし,
益金は条例に従い納付し, 以後の興業費も規則に基づき年賦納付す
る。 従来の費額を負債とし, その償却のためにもっぱら益金を得る
ことだけを目的とするならば, 国難等の非常時を考えず, 目先の損
益だけを追い, 事業の繁閑に伴い人員を増減することによって急場
をしのいだりすることになり, 本来の目的を見誤ってしまうと考え
る。 この願い調査の上許可されたし。
海軍上請の第 5 項に対しては, 「伺ノ趣難聞届尤基業ノ経費ハ興業営業
費ヲ区分ニ不及條例第二号興業費償却高報告書式ニ照準精理可致事」 と拒
絶回答している80)。 第 5 項目は興業費と営業費をどのように区分するかに
大きな困難点があることを示唆している。 とくに, 横須賀造船所のように
所管が変わったり, 特殊事情がある場合にはもはや興業費と営業費との区
分は可能ではないし, 支出時点で作業費を分類することにどのような意味
があるのかを疑問視させる。
海軍上請の第 6 項は以下のとおりである (原文を現代文で意訳し, かつ
横書きとした)81)。
6
営業資本の件は前に述べたとおりであり, 現在貯蔵品代と運用すべ
き現金を資本額とするのは規則どおりであり, 不都合もないが, 天
城山の伐木費を資本額に加えるのは以後 3−4 年で終了する予定で
ある。 それまで, その費額を年々増額給付してほしい。 これまで艦
伐の用意なく, 今後貯材代価を運用することは事実上できない。 そ
れは伐木後約 3 ヶ年以上しないと使用できないからであり, この願
い出を許容していただきたい。
― 77 ―
第 6 項に対しては, 「天城山伐木費ノ儀ハ本年度ニ於テ支出スヘキ員額
ヲ資中ニ加算シ其事由ヲ掲ケ成規ノ通リ大蔵省ヘ可申出爾後ノ分ハ條例第
四條第二節ニ照準可致事」 と回答されている82)。 海軍の要求は当面生じる
伐採費の増額であるが, これは事業にかかわり資本額を自ら届出によって
伸張する部分であろう。
海軍上請の第 7 項と第 8 項は, 以下のとおりである (原文を現代文で意
訳し, かつ横書きとした)83)。
7
同条例第 5 条第 2 節の但書にある明細書の作成は, 通常経費の成規
に倣うとなっているけれども, 興業費における通常経費の明細表は
作成できない。 建築課などにおける営業, 興業の両方の事務を行う
官員の給与は区分できない。 これをいかに処理するのか。 興業と営
業に費やすその金高の割を持って官員の月給を割り振るような通常
経費明細表と格別性格が違うので, どう取り扱えばよいか。
8
同条例第 5 条第 2 節の但書中に営業費および収入の部も云々とある
が, 収入の部の明細表を作成する規定はないので, 何らかの指示が
いただきたい。
第 7 項と第 8 項に対しては, 「明細表調成方ノ儀ハ大蔵省ヘ可致協議事」
と受入回答されている84)。 これらは様式の不備であり, これを海軍が指摘
している。
上記は海軍省が 「条例」 の運用で直面した問題の一例であったが, 大な
り小なり他の省でも同じような問題に直面したに違いない。 また, これは
積極的に 「条例」 を適用しようと試行した結果であったとも言える。 結局,
大蔵卿から太政官に稟議され, 「条例」 は改正されることになった。
― 78 ―
(改正) 作業費出納條例
最後に, 「例則」, 「条例」 において規定された作業費概念が 「(改正) 作
業費出納條例」 でいかに転換が図られたかを考察していきたい。 それまで
の作業費は支出時点区分であったが, 本規程の作業費は支出性格別区分に
改められた。
上述したように, 「条例」 の実施に際してはいくつかの問題点があった。
それについて,
明治財政史
では 「右ノ條例ハ実施ニ臨ミ困難ナル事情
アリシト條文ノ不備ナルヨリシテ往往支障ヲ生シタルヲ以テ更ニ其ノ実施
上支障アル点ヲ更訂セラレンコトヲ大蔵卿ヨリ太政官ニ稟議シタリ今其要
旨ヲ採録シテ参考ニ資スヘシ」 と 「条例」 の改訂案を次のように述べてい
る (原文を現代文で意訳し, かつ横書きとした)85)。
1
条例第 3 条における興業費, 営業費の区分は開業前後で行われ, 開
業後の支出は開業前から継続しているものを除いて, すべて営業費
中に算入される。 思うに, 興業費, 営業費は相互関連しており, こ
れを明別することはとても難しい。 その最も分かちやすい簡単な例
を想定して定めたのであろう。 しかしながら, 諸事業のうち開業の
際には未だ小規模であったが, やがて事業が軌道に乗るに従って,
これを拡張したために, あるいは諸建物を増築したり, 器械の不足
を補充したために, 多額の支出を要する場合がある。 今, この性質
を鑑みたとき, 開業以前の興業費となんら異なるところはない。 た
だし, これらのために多額の支出を要し, 収入金からこれを償還で
きないときは, 第 4 條第 3 節に基づいてこれを補填しても実際あえ
て支障ないが, やはり興業費に属すべきものである。 これを営業費
へ編入しために, 資本の定額補填を要するときは, 損益共に適切な
比較をする利便性を失う。 したがって, その精理上においてもまた
幾分の障碍を免れない。 よって, 事後は開業後といえども, その事
― 79 ―
業拡張のために諸建物を増築する, あるいは器械の不足を補充する
などに係る費用は, その時々裁可を経てこれを興業費へ編入したい。
1
第 1 号雛形である諸作業損益比較報告書のなかに営業資本金の表示
欄がない。 損益を比較するときは, 運用する営業費とこれを併せて
表示するべきではない。 また, 物品の製作済および製作中の物品の
未収入高はこの報告書においてのみ加算し, 他の収入精算帳にはこ
れを算入しないほうがよい。 全体の物品代価については未だ収入の
場合に至らないものも併せて実収入とすると, それは重複の計算に
なってしまう。 完成済ないし未完成の物品は, 甲年の製作中の製品
は乙年の収入, 乙年の未製品は丙年の既製品となり, 甲乙相償い結
局均等の計算となり, 大きな違いはないと推考される。 ついてはこ
の物品欄は削除し, さらに営業資本金を表示する欄を設け, そのた
めの書式をそれぞれ更訂してほしい。
1
営業資本欠損補填金について, その償却法などは興業費と同一であ
るので, 第 2 号雛形である興業償却高報告へ記載すれば, 第 3 号雛
形は必要ではない。 補填金については諸払勘定を作らないと, 不鮮
明である。 そこで, これについては更訂してほしい。
1
作業収入精算勘定帳の仕払高の内, 益金と不用物払代と区分して 2
項目とするが, その合計欄がなく, この決算の金額記載に支障が出
るので, これを更訂してほしい。
このような問題点を打開するために, 明治 10 年に公布された 「条例」
は明治 12 年に 「(改正) 作業費出納條例」 (以後, 「(改正) 条例」 と略称
する) に更訂された。 「(改正) 条例」 は大蔵省検査局がこれを書物として
出版し, この印刷緒言には検査局名で次のように記されていた86)。
「明治十二年十月改正ノ令達ニ拠リ十年七月更定ノ條例ヲ點竄加削
― 80 ―
シ以テ印刷ニ付ス而テ第二條第一節中ニ掲記セシ工場ノ名称及ヒ第三
條第三節ノ部中ナル経費概目ノ如キハ随時変換スルコトアルヲ以テ今
之ヲ略ス但書式等ハ改正添削スルニ随テ号数ノ秩序ヲ変スルカ故ニ令
達中明文ナシト雖トモ其序ヲ逐テ一々之ヲ更訂シ以テ覧閲ニ便ス」
かくして, 「(改正) 条例」 は 「明治十二年十月十六日」 の日付と 「太政
大臣三條實美」 の名で内務省, 大蔵省, 陸軍省, 海軍省, 工部省, 開拓使
宛に 「明治十年七月相定候作業費出納條例中別紙之通改正候條十二年度ヨ
リ施行可致此旨相達候事」 とされて公布された87)。 「(改正) 条例」 の概要
は, 図表 8 のとおりである。
図表 8
第一條
第二條
第三條
第四條
第五條
第六條
第七條
「(改正) 改正作業費出納條例」 の構成
作業費用概旨ノ事
作業費区分ノ事
興業費営業費区分ノ事
予算申牒ノ事
興業費受払制限ノ事
営業費受払制限ノ事
収入金運用及工費消却損益比
較等ノ事
出典:大蔵省検査局編
作業費出納條例
第一号書式
第二号書式
第三号書式
第四号書式
第五号書式
第六号書式
第七号書式
第八号書式
諸作業損益比較報告
興業費 (営業資本欠額補
填金) 償却高報告
興業費予算内訳明細簿
作業収入額予算内訳帳
興業費請払勘定帳
営業資本請払精算報告
作業収入精算帳
営業資本欠額補填金請払
勘定帳
大蔵省検査局, 明治 12 年 12 月, 34 頁より。
明治 12 年の改正では陸軍省などへも適用が拡大された。 「条例」 と
「(改正) 条例」 を比較すると, 以下の点が修正, 追加, 削除された88)。
1
第 3 条前文 (初項), 第 1 節, 第 2 節の改正
初項
旧
「作業上ノ費項開業前後ヲ以テ一旦之レヲ区分ス其分界ヲ立
ル第一節以下ニ掲ル如シ」
― 81 ―
新
「作業上ノ費項分ツテ興業営業ノ二トス其分界ハ第一節以下
ニ掲ル如シ」
第一節
旧
「該費 (興業費―筆者) ハ全ク開業前ニ係ル費項ニシテ即チ
工場ヲ始メ一切附属ノ諸営築或ハ器械ノ購入等渾テ開業以前
創始ニ係ル費途ヲ類集ス」
新
「該費 (興業費―筆者) ハ全ク開業前ニ係ル費項即チ工場其
他附属舎ノ諸営築及ヒ器械購入等ノ費途并ニ開業後事業拡張
ノ為メ諸建物ヲ増築シ或ハ器械購入ノ費用ヲ類集ス」
第二節
旧
「該費 (営業費―筆者) ハ開業後ニ係ル費項ニシテ即チ営業
上必要ノ諸物品ヲ始メ工場其他一切附属ノ諸営繕諸器械購入
及ヒ修繕等其他渾テ開業後ノ費途ヲ類集ス」
「諸建物不足ナルヲ以テ新タニ之ヲ増築シ或ハ器械ノ欠乏等
ヲ補足スルノ類ニシテ為メニ資本中欠額ヲ生スルトキ之レヲ
補填スルハ第四條第三節ニ掲クルカ如シ」
新
「該費 (営業費―筆者) ハ開業後ニ係ル営業必需物品の購入
官吏俸給諸職工雇給及ヒ諸器械ノ修繕并不足補充毀損新調其
他工場并附属舎ノ営繕等本業ニ属スル諸般ノ費途ヲ類集ス」
「作業充分等ニシテ損失ヲ為シ為メニ資本中欠額ヲ生スルト
キ之ヲ補填スルハ第四條第三節ニ掲クルカ如シ」
2
第 4 条第 3 節の改正
第三節
旧 「営業資本ノ弁給ニ出ルモノニシテ年期ヲ定メ償却スヘキ類
及ヒ作業充分ナラス為ニ損失ヲ生スル向ハ資本欠額ノ補填ト
シテ更ニ大蔵省ヨリ交付スヘシ」
新 「作業充分等ノ為メ損失ヲ生スルトキハ其員額ハ営業資本ノ
― 82 ―
欠額ノ補填トシテ更ニ大蔵省ヨリ交付スヘシ」
3
第 6 条第 1 節但書の新規追加
第一節
加
「但毎年度分界ノ際ニ於テハ末期ノ現金物品代価其他製作済
及ヒ製作中未収金トヲ併セテ之ヲ其資本原額ニ填充スルモノ
トス」
4
第 7 条第 3 節の改正, 第 4 節の削除 (以下順次繰上げる), 旧第 6
節 (新第 5 節) の改正
第三節
旧
「営業資本ハ該年度ノ収入ヲ以テ償還スル勿論ト雖モ営築或
ハ器械購入等ノ費用ニシテ該年度中償還シ得サルモノハ第一
節ノ例ニ仝シ」
新
「営業資本ハ該年度ノ収入ヲ以テ償還スル勿論ト雖モ作業不
十分等ニテ之ヲ償還シ得サルモノハ第一節ノ例ニ仝シ」
第四節
除
「作業充分ナラスシテ資本ヲモ償還スル能ハサルトキ其欠額
ノ補填ヲ要セル金額ハ翌年度ノ益金ヲ以テ償却スヘシ」
旧第六節 (新第五節)
5
旧
「精算勘定帳」
新
「精算帳」
書式の改正, 削除, 新規追加
第一書式
諸作業損益比較報告
改正
第二書式
興業費 (営業資本欠額補填金) 償却高報告
第三書式
営業費償却高報告
削除 (以下順次繰上げる)
旧第七書式営業資本精算報告 (新第六書式
営業資本請払精算報
告) 部分改正及追加
旧第八書式 (新第七書式
改正
作業収入精算帳) 部分改正
― 83 ―
新第八書式
営業資本欠額補填請払金勘定帳
新規追加
上記のような改定が行われたが, これらは海軍上請で指摘された内容の
一部や大蔵卿から太政官に稟議された内容であり, 「(改正) 条例」 の要点
はとくに第 3 条前文 (初項), 第 1 節, 第 2 節の改正で興業費と営業費の
区分が改められたことにある。 すなわち, 興業費が 「開業以前創始ニ係ル
費途」 から 「開業前ニ係ル費項并ニ開業後事業拡張ノ為メ諸建物ヲ増築シ
或ハ器械購入ノ費用」, 営業費が 「開業後ニ係ル費項ニシテ即チ営業上必
要ノ諸物品ヲ始メ工場其他一切附属ノ諸営繕諸器械購入及ヒ修繕等其他渾
テ開業後ノ費途」 から 「営業必需物品ノ購入官吏俸給諸職工雇給及ヒ諸器
械ノ修繕并不足補充毀損新調其他工場并附属舎ノ営繕等本業ニ属スル諸般
ノ費途」 に変わった点である。 これについては,
明治財政史
において
89)
次のように概略されていた 。
「此ニ於テ明治十二年十月十六日太政官達ヲ以テ内務, 大蔵, 陸軍,
海軍, 工部ノ各省及開拓使ニ令シテ同條例中第三條及第四條, 第六條
ノ中ヲ改正シ十二年度ヨリ施行セシム従テ右省使作業條例中興業費営
業費ノ分界改正セラレ興業費ハ全ク開業前ニ係ル費途即チ工場其他付
属屋舎ノ営造及器械購入等ノ費用竝開業後事業拡張ノ為メ諸建造物ヲ
増築シ或ハ器械ヲ購入スル支費ヲ概括シ営業費ハ開業後ニ係ル営業必
需諸物品ノ購入官吏ノ俸給諸職工ノ雇銭及諸器械ノ修繕竝ニ不足補充
毀損新調其他工場竝ニ付属舎ノ営繕等本業ニ属スル諸般ノ費途ヲ類集
スルモノトセラレタリ」
すなわち, 「(改正) 条例」 における作業費の概念と損益計算構造は, 図
表 9 のとおりである。
― 84 ―
図表 9
「(改正) 作業費出納條例」 における作業費概念と損益計算構造
出典:大蔵省検査局編
作業費出納條例
大蔵省検査局, 明治 12 年 12 月, 114 頁より。
「条例」 では開業後の建物や設備の購入を営業費から支出し, 収入金で
年々償却することになっていたが, 「(改正) 条例」 では事業拡張のために
生じた開業後の建物の建設費や設備の購入費も興業費で処理し, 営業費に
は含めない。 したがって, 「条例」 の作業費は開業前と開業後, すなわち
支出した時点の違いによって興業費と営業費を区分したが, 「(改正) 条例」
の作業費は支出の性格の違いから興業費と営業費に区分している。 これに
より, 作業費は初期投下資本と運転資本の区分から固定資本と営業資本の
区分に変更され, 費目別計算思考はより完成形に近づく。 さらに, 作業収
入と対応される費用は日常業務から生じる支出, すなわち営業費のみとな
り, 期間損益計算が精緻化され, 期間損益の比較が 「例則」 や 「条例」 と
比して可能になった。
Ⅲ
おわりに
冒頭で述べたように, 必ずしも作業費に関する規程の全条項を提示する
ことはなかったのであるが, これにより各規程が有する費目別計算思考と
― 85 ―
ともに, 損益計算構造が明らかになったと考える。
本稿で考察した 3 つの作業費に関する規程は, 原価計算制度である形式
要件と内容要件からすると, 形式要件としては必要条件である文章化およ
び十分条件である条文化を満たしているものの, 前稿と同様に原価計算で
あるとみなすための内容要件 (必要条件と十分条件) は満たしていない。
したがって, 依然, 費目別計算としては不完全なままであるが, そこには
大きな成長がみられる。 図表 10 は 3 つの作業費に関する規程における興
業費, 営業費の各規定の比較である。
図表 10
「例則」, 「条例」, 「(改正) 条例」 における興業費と
営業費の各規定の比較
作業費区分及受払例則
作業費出納條例
(改正) 作業費出納條例
創始ニ付器械等ノ購
入或ハ据付家屋建築
等其他総テ創起ニ属
スル費途ヲ類集ス
該費ハ全ク開業前ニ係ル
費項ニシテ即チ工場ヲ始
メ一切附属ノ諸営築或ハ
器械ノ購入等渾テ開業以
前創始ニ係ル費途ヲ類集
ス
該費ハ全ク開業前ニ係ル
費項即チ工場其他附属舎
ノ諸営築及ヒ器械購入等
ノ費途并ニ開業後事業拡
張ノ為メ諸建物ヲ増築シ
或ハ器械購入ノ費用ヲ類
集ス
開業以後ノ費用ニシ
テ平常ノ事業ニ属ス
ル諸費ヲ類集ス
該費ハ開業後ニ係ル費項
ニシテ即チ営業上必需ノ
諸物品ヲ始メ工場其他一
切附属ノ諸営築或ハ器械
ノ購入及ヒ修繕等其ノ他
渾テ開業後ノ費途ヲ類集
ス
該費ハ開業後ニ係ル営業
必需物品ノ購入官吏俸給
諸職工雇給及ヒ諸器械の
修繕并不足補充毀損新調
其他工場并附属舎ノ営繕
等本業ニ属スル諸般ノ費
途ヲ類集ス
興
業
費
営
業
費
※
「(改正) 条例」 の下線部は 「条例」 からの大きな変更箇所である。
「例則」 より 「条例」 の興業費, 営業費の規定のほうがより精密になり,
「条例」 から 「(改正) 条例」 へは作業費区分自体に大きな転換が図られた
(下線のとおりである)。 これにより, 本稿における作業費の集計は前稿で
考察した一連の諸規程における経費の集計よりは, はるかに現在の費目別
― 86 ―
計算思考に近接している。 すなわち, 作業費に関する規程内で, 次のよう
な作業費概念の進化が生じた。
1
「例則」:一般経費と作業費とに分化が行われ, 作業場への支出は作
業費として製造目的に限定された。 合わせて, 作業費は支出時点で分
類が行われ, 興業費と営業費が集計された。 これにより, 初期投下資
本と運転資本の区分が明確化した。
2
「条例」:償却規定が明確化し, 損益計算の精緻化が図られた。
3
「(改正) 条例」:一定期間内の支出 (作業費) が支出性格別区分に
変更され, 興業費と営業費が分類集計された。 これにより, 固定資本
と営業資本の区別が明確化した。
このように, 最終的に作業費は製造原価の意味合いに近接し, さらに固
定資本と営業資本に分化されたことで, 以後形成される直接費と間接費区
分の基礎が作り上げられた。 本稿は, こうした一連の過程が費目別計算思
考の生成であると考える。
こう見てくると, 前稿の一連の諸規程と本稿の作業費に関する規程が,
原価計算制度誕生のための先行要件を形成し, 原価計算制度の誕生に寄与
した。 この概略については, 図表 11 のとおりである。
図表 11
原価計算制度への先行要件の形成 (原価計算制度の初期的胎動)
当初は国庫収支のうち歳出に明確なルールがなく, 濫費がめだった。 こ
れを抑制するために出納に関する一連の諸規程の中で 「出の統制」 として
― 87 ―
歳出の明確化が図られ, 支出項目の明示と効果的な運用, 経費としての認
識, 経費の概算が行われた。 次いで, 殖産興業政策のもとに, その資金需
要は増加の一途をたどり, これを統制するために各作業場の独立採算を目
指して, 経費のうち官営の作業場に関連するものはすべて作業費として処
理し, 出の統制を進化させた。 各作業場の管理統制のためには, 作業場別
の損益状態の把握が不可欠であった。 同時に, 不採算部門の除去のために
も, また改善のためにも, 損益計算は必要であった。 適正な損益計算は獲
得した作業収入と支出した費用の正確な対応によって初めて可能になる。
そこで, 作業場に投じた資金を作業費とし, それを興業費と営業費に分け
た。 前者は初期投資した建物・設備費などに投下した費用であり, これは
益金から償却によって回収した。 後者は事業開始後に要した費用であり,
その規模を決め, それを運転資本として循環させ, 会計期間中に生じた収
入を次の製作に運用し, 会計期末に生じた収入からこれを償還し, 最終的
に生じた益金として還付した。 もし, 不足金が生じた場合には事業継続の
ために補填された。 こうした思考は明治 9 年の 「例則」 から始まり, 明治
10 年の 「条例」 によって精緻化された。 しかしながら, 「条例」 規定によ
ると, 営業費に事業規模拡大のための設備投資資金が混入してしまい, そ
の結果, 損益計算がゆがめられてしまう。 そこで, 明治 12 年の 「(改正)
条例」 によって, 作業費の分類は支出時点から支出性格別に改められた。
これにより, 興業費は投下した固定資産に対する費用, 営業費は事業継続
のための費用に純化された。 損益計算のためには事業収入と基本的に営業
費と対応させるので, 以前よりは期間損益計算に改善が見られたと思われ
る。
明治財政史
ではこれを別途会計と呼び, 「例則」 が特別会計の嚆矢
であると紹介している。 特別会計は明治 22 年の会計法に始まり, 明治 23
年の作業会計法, 陸軍作業会計法などにより本格化する。
これまで, 前稿と本稿を通して原価計算制度誕生のための先行要件を考
察してきた。 当初はこうした原初的形態や嚆矢的形態が国家会計の精緻化
― 88 ―
の進展とともに, 原価計算制度の先行要件として前稿で論じた出納に関す
る一連の諸規程や本稿で論じる 3 つの作業に関する規程の中で (支出統制
の手段として) 潜在的に形成されていったが, さらなる支出統制の強化と
いう社会的要請から, ついにはこれが表面化して原価計算制度と言い得る
形態に至る。 要するに, 制度は突如出現するわけではなく, 必ず社会経済
的なバックボーンに支えられている。 すなわち, 財政逼迫による支出統制
の強化という社会的要請がその先行要件を形成し, その成熟形態として制
度が誕生したと考えられる。 本研究では原価計算の原初的形態と原価計算
が有している管理思考の嚆矢的形態が制度に内包されている基本因子であ
るととらえ, これらが支出統制の高度化に応えるべく進化した過程を考察
した。 したがって, 原価計算の原初的形態として見られた費目別計算思考
の萌芽は, 作業費の概念を伴って費目別計算思考の生成を促進した。 原価
計算の原初的形態の考察から得られた費目別計算思考の萌芽と生成, 管理
的思考の嚆矢形態の出現は損益計算の精緻化をもたらし, さらなる支出統
制の強化を目指すがゆえに, その帰結として作業別・製品別損益の明確化
が不可欠になる。 これによって, 早晩, 単位原価思考の形成が誘引され,
次の段階には原価計算制度が誕生することであろう。
(未完)
《注》
1)
拙稿 「原価計算制度における費目別計算思考の萌芽―原価計算制度の初期的
胎動 1―」
経営経理研究
第 82 巻, 平成 20 年 3 月, 2961 頁。
日本産業史 1
日本経済新聞社, 平成 6 年, 2122 頁。
2)
有沢広巳監修
3)
太政官達第 85 号 「各庁作業費区分及受払例則」 明治 9 年 9 月 6 日, 第 3 条,
明治財政史編纂会編纂
明治財政史
第一巻
明治財政史発行所, 大正 15 年,
920921 頁。
4)
大蔵省編纂
明治大正財政史
第二巻
財政経済学会, 昭和 11 年, 485486
頁。
5)
明治財政史編纂会編纂
前掲書
916 頁。
― 89 ―
6)
上掲書
916 頁。
7)
「各庁作業費区分及受払例則」 通達文,
8)
「上掲資料」 第一條,
上掲書
919 頁。
上掲書
919 頁。
9)
「上掲資料」 第二條,
上掲書
920 頁。
10)
「上掲資料」 第二條,
上掲書
920 頁。
11)
「上掲資料」 第二條,
上掲書
920 頁。
12)
「上掲資料」 第三條,
上掲書
920921 頁。
13)
「上掲資料」 第四條,
上掲書
921 頁。
14)
「上掲資料」 第五條,
上掲書
921 頁。
15)
「上掲資料」 第六條,
上掲書
921 頁。
16)
「上掲資料」 第六條,
上掲書
921922 頁。
17)
「上掲資料」 第七條,
上掲書
922 頁。
18)
「上掲資料」 第七條,
上掲書
922 頁。
19)
「上掲資料」 第七條,
上掲書
922 頁。
20)
「上掲資料」 第七條,
上掲書
922 頁。
21)
「上掲資料」 第八條,
上掲書
922 頁。
22)
「上掲資料」 第九條,
上掲書
923 頁。
23)
「上掲資料」 第九條,
上掲書
923 頁。
24)
「上掲資料」 第九條,
上掲書
923 頁。
25)
「上掲資料」 第十條,
上掲書
923 頁。
26)
「上掲資料」 第十一條,
27)
「太政官各庁作業費区分及ヒ受払例則ノ義御達」, JACAR (アジア歴史資料
上掲書
923 頁。
センター) Ref. C06090066300, 太政官, 明治 9 年 9 月 6 日, MF0918。
「上掲資料」 には別冊書式が省略されていたので, 上記資料を参照した。
28)
「前掲資料」 第六條, 明治財政史編纂会編纂
29)
「上掲資料」 第十二條,
30)
「作業費出納條例」 前文, JA (国立公文書館), Ref. 2A00900・太00508100,
上掲書
上掲書
921 頁。
923 頁。
太政類典・第二編・明治 4 年∼10 年・第二百八十五巻, 明治 10 年 7 月 6 日,
MF005900-1594, 前文。
31)
「上掲資料」 前文但書。
32)
「上掲資料」 第一條。
33)
「上掲資料」 第二條前文。
34)
「上掲資料」 第二條第二節。
35)
「上掲資料」 第二條第三節。
36)
「上掲資料」 第三條前文。
― 90 ―
37)
「上掲資料」 第三條第一節。
38)
「上掲資料」 第三條第二節。
39)
「上掲資料」 第三條第三節。
40)
条文では順不同であるが, 材料費, 労務費, 経費に区分ができる。
41)
JA, Ref. 2A00900, 「作業費出納條例」 第四條前文。
42)
「上掲資料」 第四條第一節。
43)
「上掲資料」 第四條第二節。
44)
「上掲資料」 第四條第二節。
45)
「上掲資料」 第四條第三節。
46)
「上掲資料」 第四條第四節。
47)
「上掲資料」 第四條第五節。
48)
「上掲資料」 第五條前文。
49)
「上掲資料」 第五條第一節。
50)
「上掲資料」 第五條第二節。
51)
「上掲資料」 第五條第三節。
52)
「上掲資料」 第五條第四節。
53)
「上掲資料」 第六條前文。
54)
「上掲資料」 第六條第一節。
55)
「上掲資料」 第六條第二節。
56)
「上掲資料」 第六條第三節。
57)
「上掲資料」 第六條第三節。
58)
「上掲資料」 第六條第四節。
59)
「上掲資料」 第六條第五節。
60)
「上掲資料」 第六條第六節。
61)
「上掲資料」 第七條前文。
62)
「上掲資料」 第七條第一節。
63)
「上掲資料」 第七條第二節。
64)
「上掲資料」 第七條第三節。
65)
「上掲資料」 第七條第四節。
66)
「上掲資料」 第七條第五節。
67)
「上掲資料」 第七條第六節。
68)
「上掲資料」 第七條第七節。
69)
「上掲資料」 第七條第八節。
70)
「上掲資料」 第七條第九節。
71)
「上掲資料」 第七條第十節。
― 91 ―
72)
「上掲資料」 第七條第十一節。
73)
「 記 録 材 料 ・ 営 業 費 ・ 各 省 」 JACAR ( ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー ) Ref.
A07061496800, 国立公文書館, 内閣, 記録材料, 記録材料・営業費・各省。
この文書によれば, 「条例」 の公布にしたがって明治 10 年度に作業費を一般
経費から分離したと読み取れる。 とすると, 明治 9 年に公布された 「例則」 に
は準拠しなかったことになる。 工部省は再三に渡り, 下記の文書で太政大臣に
「例則」 の適用延期を求めている。 内務省のそれは発見できなかったが, 内務
省も 「例則」 を適用しなかったと考えられる。
(「作業区分調成延期伺」 JA (国立公文書館) Ref.2 A00900・公01791100,
34, 太政官, 明治 9 年 12 月, MF022100-0775。)
74)
「上掲資料」 第 12 画像目。
75)
「上掲資料」 第 1320 画像目。
76)
「作業区分上請」 JA (国立公文書館) Ref.2 A01000・公02105100, 011, 太
政官, 明治 10 年 11 月, MF026800-0090。
77)
「上掲資料」 第 12 画像目。
78)
「上掲資料」 第 5 画像目。
79)
「上掲資料」 第 23 画像目。
80)
「上掲資料」 第 5 画像目。
81)
「上掲資料」 第 4 画像目。
82)
「上掲資料」 第 6 画像目。
83)
「上掲資料」 第 45 画像目。
84)
「上掲資料」 第 6 画像目。
85)
大蔵省編纂
86)
「(改正) 条例」 には下記の 2 つの史料があるが, 本稿では大蔵省検査局編
明治大正財政史
作業費出納條例
財政経済学会, 昭和 11 年, 485486 頁。
を使用した。 なお, JA の史料は改正箇所のみが明記され
ている。
「(改正) 作業費出納條例」 JA, Ref.2 A00900・太00632100, 太政類典・第
三編・明治 11 年∼12 年・第二十八巻, 明治 12 年 5 月 27 日, MF 007500-0453
(国立公文書館)。
大蔵省検査局編
作業費出納條例
大蔵省検査局, 明治 12 年 12 月, (一橋
大学附属図書館西川文庫蔵, Nishikawa 354), 序文 1 頁。
87)
「上掲書」 序文 5 頁。
88)
「上掲書」 本文 114 頁。
89)
明治財政史編纂会編纂
前掲書
918 頁。
― 92 ―
《付記》
JA (国立公文書館), JACAR (アジア歴史資料センター) の資料は, アジア
歴史資料センターの HP 内の推奨引用例に概ね準拠している。
http://www.jacar.go.jp/inyo/suisyou.html (2008 年 10 月 20 日閲覧)
また, JA や JACAR 所蔵のマイクロフィルムの文章については, ページか付
されていないために, 引用の際にはページを付さずに資料名のみがわかるように
した。
参考文献 (注に提示したものは除く)
池田浩太郎 「官金出納の展開過程」
第 16 号, 昭和 37 年
経済研究 (成城大学)
11 月。
池田浩太郎 「官金出納の整理過程」
第 17 号, 昭和 38 年 3 月。
経済研究
池田憲隆 「1883 年海軍軍拡前後期の艦船整備と横須賀造船所」
人文社会論叢
(社会科学篇) 第 7 号, 平成 14 年。
金丸平八 「官業払下に関する試論」 青山経済論集 第 19 巻第 1 号, 昭和 42 年 6
月。
斉藤
正 「明治初期の官業と民業」
斉藤
正 「明治初期の官業と民業」
第 14 号, 昭和 36 年 11 月。
経済研究
経済研究
第 16 号, 昭和 37 年 11 月。
小林正彬 [ほか] 編
明治経営史 (日本経営史を学ぶ 1)
小林正彬 [ほか] 編
大正・昭和経営史 (日本経営史を学ぶ 2)
有斐閣, 昭和 51 年。
有斐閣, 昭和
51 年。
小林正彬
日本の工業化と官業払下げ : 政府と企業
東洋経済新報社, 昭和 52
年。
小林正彬
近代日本経済史:西欧化の系譜
小林正彬
政府と企業:経営史的接近
室山義正
近代日本の軍事と財政
世界書院, 昭和 58 年。
白桃書房, 平成 7 年。
東京大学出版, 昭和 54 年。
(原稿受付
― 93 ―
2008 年 10 月 23 日)
経営経理研究 第 84 号
2008 年 12 月 pp. 95118
論
文〉
グローバル比較マーケティング史考
縫製機械の事例をめぐって
小
要
原
博
約
縫製機械 (ミシン) 企業のアメリカ・シンガー社は, 19 世紀後半から
20 世紀前半に至るまで, 世界で知名度かつ売上げナンバーワンを誇る企
業であった。 また第 2 次世界大戦前まで日本でもナンバーワン企業として
君臨した。 同社が日本市場でどのような活動をしたのかを検討すると, 異
なる市場にも関わらず, グローバル市場戦略の一環として全世界で同様な
マーケティングを展開したことである。 とはいえ第 2 次世界大戦後, この
巨人・シンガー社に, JUKI, ブラザー, 蛇の目等の日本企業が対抗して
覇をとなえ, さらにグローバル市場で追い落としてきた経緯とともに, そ
の要因が明らかにされている。
キーワード:グローバル・マーケティング, 多国籍企業, 縫製機械, ミシ
ン, 家庭用ミシン, 工業用ミシン, シンガー社, JUKI, ブ
ラザー, 蛇の目ミシン
はじめに
多くの日本企業は, 第 2 次世界大戦後に灰燼の中から不死鳥のように蘇っ
たり, あるいは徒手空拳新たに創業したりして発展してきた。 その 1 つに
縫製機械 (いわゆるミシン) 企業がある。 この製品そのものは 19 世紀後
― 95 ―
半以降, アメリカのシンガー社が世界を席捲してきたのであり, 日本でも
明治時代以降 1950 年頃まで 「ミシンといえばシンガー, シンガーといえ
ばミシン」 と称されてきた。
世界的に多国籍企業, グローバル企業の嚆矢とも位置づけられ, 一世を
風靡したシンガー社であったが, 現在ではそのブランド名を一応残しては
いるものの, ミシンといえば日本企業の JUKI, ブラザー等が著名である。
日本のミシン産業は, 戦後まもなくの時期には 100 社を超えるほどの中小・
零細企業の乱立状態にあったが, 次第に淘汰されて現在は数社を残す寡占
市場となり, 企業存立の戦いはほぼ終焉してきている。
このように, 当初の乱立状態, その後の競争激化を経て, 数社に収斂す
るという軌跡を描くミシン産業の系譜は, モーターサイクル (いわゆるオー
トバイ), 自転車, カメラ, 時計など, これ以外の他産業でも同様なプロ
セスを辿る傾向があった。 本稿では, ミシン産業を事例に, グローバル企
業の経営戦略を通して, ひとつの産業・企業の盛衰過程を考察・整理する
ものである。
1. 縫製機械の特性
縫製機械ないしは裁縫機械は, 英語では sewing machine (ソーイング
マシン) で, 日本においては普通名詞ミシンで通用する。 これは英語表現
のうち sewing が省略されての machine が, マシンからミシンに相似発
音されたものである (以下, ミシンという)。
ミシンは, 家庭用と工業用とに分けられる。 家庭用ミシンは, 家庭内で
のさまざまな衣類等を裁縫するために使われる機械で, 手動そして電動,
さらにコンピュータミシンに発展し, あるいは直線縫い・ジグザグ縫いな
ど多くの縫い方ができるといった, 用途に応じて縫うことが可能である。
これに対して, 工業用ミシンは縫製工場での, 高速にして機能特化の縫い
― 96 ―
中心の機械であるが, 家庭用との根本的な機械的特性に違いがあるわけで
はない。
便利この上ない機械であるものの, 今日, 家庭内で裁縫はすでに死語に
なるほど, ほぼ行なわれなくなっている。 必要なものは既製の衣類を買え
ばすむし, 手っ取り早いと考えている。 家庭の主婦が, 多くの場合いわば
裁縫の素人で苦労して作る (出来上がりも万全といえないこともある) よ
りも, 既製のすぐ着ることができる衣類を買ってしまう生活が当たり前に
なっている。 また日々の生活に忙しく, 十分とはいえない時間の中で裁縫
に苦労するより, 買うことで時間浪費がなくて良いのも理由として挙げら
れる。 このように家庭用ミシンは家庭内で裁縫をする状況でなくなってい
ることもあって, これを生産する (家庭用ミシンの) 専業メーカーとして
の存続もかなり難しくなっている。 逆に工業用ミシンが今後も存在し続け
る理由となっている。
なお, 裁縫とは字の通りに, さまざまな布生地を裁ち (断ち), それを
糸で縫い合わせて服などに仕立て上げることである。 布生地を裁つという
ことが家庭で行なわれなくなって, 現在では裁縫ではなくして, 縫うこと
のみの縫製の字があてられる。 ここに縫うというのは, 布といったソフト
なものだけではなく, 革靴など硬いものを縫うといったかなりハードな材
質のものもある。 1992 (平成 4) 年に, 日本家庭用ミシン工業会, 日本工
業ミシン協会, 日本ミシン部品工業会, 日本ミシン輸出組合の当該業界 4
団体が合同し, 日本縫製機械工業会となったのは, そうした背景があると
思われる。
ミシンという縫製機械としての特性であるが, およそ 18 世紀後半に発
明されてから, その基本動作の仕組み (メカニズム) に大きな代わりはな
い。 欧米におけるミシンの発展史については紙幅の関係で省略する1)。 な
お, 開発初期のミシンの技術的特徴は, 広範な産業で使われることを考え,
以下の 10 箇所持つものとされたという2)。
― 97 ―
①
二重縫い (本縫いといわれる)
②
尖端に糸目の穴を開けた針
③
舟形の下糸入れ (シャトル)
④
糸巻から途切れなく繰り出す糸
⑤
水平テーブル
⑥
上部張り出しアーム
⑦
針の動きと同時に, 途切れなく布を給送する装置
⑧
針に通した糸をゆるめる張力コントロール
⑨
押え金 (ミシンで縫っている間, 布がずれないように押さえてお
くための先端が二股に分かれた金具)
⑩
直線縫い以外にも縫うことができる能力
もちろん, 長年の間の技術の向上・進歩とともに, さまざまな機械的進
展があったことは否定し得ない事実であるし, それぞれの発明・発見で,
これを生産するメーカー各社が実用新案特許を引き続きしてきたことも当
然のことである。
2. 外資系企業の日本市場マーケティング
シンガー社の事例 (多国籍企業の嚆矢)
アメリカのシンガー社は, 世界のミシン産業において長らく牽引車となっ
てきた。 とりわけ, マーケティング活動面でのさまざまなその諸方策は,
ミシン産業のみならず他産業全体を見渡しても, まさに先駆的な活動をし
た企業と歴史的に位置づけられる。 活動の詳細の全体を記述する紙幅はな
いので3), ここでは割賦販売制度についてのみ検討しておこう。
シンガー社のミシンは, 当初工業用ミシンからスタートしているが, 最
初の家庭用ミシンとしては, 1856 年の 「タートルバック」 モデルをあげ
ることができる。 非常に軽く簡単に縫えるとされたこのモデルの場合, 価
― 98 ―
格は, 鉄製スタンド・テーブル付きで 100 ドル, マホガニーケース付きで
110 ドル, さらにマホガニーケース・スタンド付きでは 125 ドルに設定さ
れた4)。
当時の一般家庭の平均所得が年間 500 ドル以下ということを考えれば,
ミシンがいかに高価なものであったかが判る。 便利な家庭用機械ではあっ
たが, 一般的には高嶺の花であり, 価格が最大の障害になることは, シン
ガー社などミシンの生産・販売にあたる側も十分理解していた。 そこでシ
ンガー社は, 誰でも購入できるような方法, 割賦販売方式によって, この
高価格な新製品を一般家庭に身近なものとする。 もちろん, 割賦販売は,
シンガー社が初めてうち出した需要創造策というわけではない。 アメリカ
では, 歴史的にはすでに 1807 年というかなり早い時期に, 家具販売に導
入されたのを端緒とする5)。
いうまでもなく割賦販売の目的は, 「即時現金払いを困難とする賃金労
働者または俸給生活者を目標とし, 支払の延期によって販路の拡張, 販売
数量の増大を企図する」 6) ところにある。 このことは他方で, 代金徴収が
確実に行われがたい事態, すなわち滞納というケースも生ずることにもな
る。 先行した高級家具の場合は, かなりの収入を得て支払い能力を十分に
持つ顧客を選別するという方策を当初とったが, このミシン販売の場合は,
割賦販売本来の, あらゆる顧客に適用していく方法をとった。 そのために
貸し倒れ, 滞納のケースが多かったと見られる。
とくにミシンの場合, 巡回セールスマンからの不当な勧誘 (undue persuasion), 購入者の多くが高級家具のそれよりも裕福な生活をしていな
かったこと, もっぱら家庭の主婦に買われたこと, などから滞納が少なか
らず存在した。 そこで, この販売方式を発展させるためには, 「売り手の
割賦販売債権に対する法的な保護の確立と, 賦払信用を担当する金融機関
の整備」 7) とが前提とされねばならない。 ところが, シンガー社がミシン
を割賦販売で売ろうとした 19 世紀半ばには残念ながら時期尚早で, そう
― 99 ―
した保護やこれに関わる金融機関も, ともに未だ形成されていない。 それ
では, シンガー社はこれらの前提をどのような形で克服したのか, である。
一般的には, 割賦販売に際しては, 当然のことながら契約書が顧客との間
に取り交わされるが, その割賦債権については, 当時一般化したリース
(lease), あるいは動産譲渡抵当 (chattel mortgage) の方法をとって克
服した。 すなわち, 支払い不能といった貸し倒れの危険を考慮して, 契約
者との間にもし代金が全額支払えなければ, その商品を回収することが約
定されていたのである。 また, ニューヨークの以前の法律では, 体罰
(bodily execution) を科することもできたという8) 。 しかしながら, シ
ンガー社は, こうした債権担保の方策を一応とりながらも, 割賦販売のマ
イナス面=滞納について考えること以上に, より積極的にそのプラス面を
重視して克服する。 ミシンが持つ利便性をようやく認識しだした一般顧客
にまず使ってもらうという, 需要の掘り起こしにかけたのである。 これに
よって大量生産が現実のものとなり, 割賦販売のマイナス面を埋めて余り
あるほどの大量購入・消費につながっていった。 まさに 「危険を冒すだけ
の値打ちは十分にあった」9) のである。
このようにして, シンガー社によって遂行された割賦販売政策は, 「近
代的な賦払販売組織の確立に大きな効果をもたらしたものとして注目され
る」10) のみならず, その後のアメリカ・ミシン産業全体が追随していった。
当初, 高価格であったミシンは, 割賦販売という金融上の便宜を与えるこ
とで, 一般の人びとに高嶺の花ではないものと理解させて成功を収めたの
であり, いわば消費者の需要創造・喚起の一手段として有効なもの足りえ
たのである。
いずれにせよ, シンガー社によるミシンは大きく世界的な飛躍を遂げて
いった。 またアメリカ国内で永遠のライバルと思われたウィラー・アンド・
ウィルソン社は, シンガー社との競合の中で業績不振に陥り, 1907 年に
シンガー社に合併を余儀なくされた。 これによってシンガー社はアメリカ
― 100 ―
国内で独占状況を得ることになる。 さらに, 生産面ではアメリカ国外に工
場進出して多国籍企業の嚆矢として位置づけられるとともに11), 販売面で
は赤い S 字マークのブランドを付与して 「シンガーのミシン, ミシンの
シンガー」 として全地球的に知られ, 揺るぎのないものとなった。
シンガー社の日本市場マーケティング
ミシンについて日本固有の市場特性があるのか, ということであるが,
家庭用ミシンにせよ工業用ミシンにせよ, そのアウトプットである衣料品
の必要性について, 欧米諸国との間に取り立てて差があるとは思われない。
経済発展段階の差により需要量の多寡があるに過ぎない。 特殊性というこ
とからいえば, 日本固有の和装 (着物) の場合は, 手縫いでなければなら
ず, 洋装化とともにミシンが必要となって家庭に入っていったと見てよい。
したがって, ミシンの必要性を女性に強くアピール, 需要を掘り起こすこ
とこそが重要といえる。 なお, 洋装の社会・文化史的な視点から言えば,
明治時代の文明開化の影響, 軍隊・学校等を初めとした近代的制服の必需
化, 大正時代のサラリーマン層の形成=男性スーツ上下の普及, 第 2 次世
界大戦後の和装から洋装への大衆一般化などの変遷と, ミシンは大きく係
わる。
シンガー社にとっての日本市場は, 1900 (明治 33) 年に日本へ輸出し
て以降, 1907 (明治 40) 年にはシンガー裁縫女学院を東京・有楽町にス
タートさせ, 販売増進や普及の糸口とした。 またシンガー社は, 当初, 先
行するヨーロッパ諸国企業の後塵を拝していたが, 強力な 「下取り販売」
方式で大きくその存在感を高め, それまで首位を占めていたドイツ製ミシ
ンに代わり, シンガー製品は 1903 (明治 36) 年に輸入が急激な増加を示
した12)。 さらに前項のようにミシン普及のため割賦販売制度の導入を重要
な要因の 1 つとしている。 たとえば, 125 ドルのミシンを頭金 5 ドル, 月
割り 3 ドルといった思い切った条件で行うなど種々の分割方法を提示した
― 101 ―
のである。 シンガー社は, アメリカのみならず日本においても市場を席捲
し, またその販売方法も割賦販売制度も本国でとった方法をそのまま導入
したのである。
1908 (明治 41) 年にはホワイトミシンなどとともに外国ミシンの輸入
が盛んとなって, ミシン普及の素地ができたのであるが, その数年内
(1914=大正 3 年頃) にしてシンガー社は, 日本での発展の基盤を固めた。
こうして大正時代から, 1935 (昭和 10) 年頃までには, 世界市場同様に
シンガー社は日本市場を独占することとなり, まさに世界最大のメーカー
として君臨するに至った13)。
シンガー社の日本国内販売体制については, 横浜, 神戸の 2 ヶ所が中央
店で, 大津以東が横浜中央店, 京都以西が神戸中央店の所管とした。 下部
組織は 12 府県に支配部を置き, 支配部の下に監督部を置いた。 さらにそ
の下には, 全国主要都市に分店を設置した。 中央店の首脳部は本社直属の
外国人であるものの, 支配部の総監督, 監督部の監督, 分店主任などは日
本人が座った。 分店には数千人のセールスマンが所属して販売に当った。
これらはアメリカ流の販売で, 中央店の統制下に, 販売活動をしたとされ
る14)。
ところが, 1932 (昭和 7) に国内販売店に雇用されていた日本人従業員
が, 歩合制による報酬・待遇改善を要求するというトラブルを起こす事件
が頻発した。 これを契機として多くのベテランが同業他社へ移籍するなど
人材が散らばることとなった。 1935 (昭和 10) 年の資料によれば, 日本
国内のミシン販売業者は, 886 軒, これに対して, シンガーの直営支店は
219 店であったが, 1937 (昭和 12) 年の日中戦争を境にシンガー・ミシン
対日本製 (国産) ミシンの新旧勢力が交代をみるのである。 このため日本
の 「国産ミシン発展史は, ある意味では, シンガーとの戦いであった。 シ
ンガーの長期にわたる日本市場の独占は, すでに終わっていた」 という15)。
他の製品同様, 日本メーカーはプロトタイプの製品についてさまざまに
― 102 ―
模倣・改良を施すことが一般的であった。 外資系企業および国産企業同士
の競争の中で, (シンガー社製ミシンの) 模倣により漸次高品質化・高機
能化していったこと, のみならず高品質の割には安価といったことを特徴
とした。 こうしたことで第 2 次世界大戦後以降, 次第に世界トップメーカー
を圧倒, これを凌駕していき, ついには日本製 (国産) ミシンが世界に覇
を唱えるところとなった。
なお, 日本でのシンガーは, 2000 年に工業用ミシンより撤退のため,
子会社であるシンガー日鋼㈱を解散し, 家庭用ミシンの日本国内で営業業
務を継承する㈱シンガーハッピージャパンを設立している。
3. 日本企業のグローバル市場マーケティング
日本ミシン・メーカー戦後のテイク・オフ
第 2 次世界大戦後, 戦前からのミシン・メーカーの他, 多くの機械工業
を中心に軍需工場がミシン生産に陸続と転換を果たした。 ミシン産業は,
戦時の軍需産業経済体制から, 連合国軍最高司令官総司令部 (いわゆる
GHQ) 統制下にあって, 家庭へのミシン提供という平和産業振興策の波
に乗って (そのことは便利な家庭内での裁縫機器, また当時花嫁道具の必
需品の一つとして需要も急拡大し) 大きく飛躍の時を迎えたのである。
とはいえ, 廃墟の中からの自立のためには多くの困難が待ち受けており,
資材の確保, 公定価格の改正, 高率物品税の軽減など解決図るべき重大な
問題が山積していた。 当時のこうした事情の中で 2 つの方策が発展の大き
な飛躍要因となったとみることができる。 1 つに, 規格統一製品作り, 2
つに, 月掛け予約販売 (割賦販売) 方式がそれである。
①
規格統一製品作り
上記の山積する諸問題の解決のため, 業界として, 1946 (昭和 21) 年
― 103 ―
「ミシン製造会」 (1948 年には日本ミシン工業会に改称) を結成している。
この組織は, 生産に関わる 「部品の規格統一」 と, 販売に関わる 「公定価
格と物品税の撤廃」 という, 日本のミシン産業のその後の発展に寄与する
大きな事業を達成することになる。 とくに, 前者の規格統一は重要である。
第 2 次世界大戦後, 経済復興過程でミシンが興隆期を迎えたとはいえ, 当
初は知名度抜群にして世界的に優れたシンガー製品はあまりにも強大であ
り, 日本企業は巨人相手に四苦八苦していた。 とくに弱小にして乱立して
いた有象無象な日本企業は, シンガーの型式番号の使用や類似的商標など
を横行させてきた。 このため 1948 (昭和 23) 年には, GHQ 16) から日本政
府宛の覚書によって外国製品名称の使用禁止の措置がとられた。 こうした
背景を持ちながら, シンガー製品を標準モデルとして統一的規格づくりが
商工省 (現・経済産業省) の協力のもと業界 (ミシン技術協議会) の積極
的な推進で行なわれた。
その意味するところは, 輸出を含めた業界全体の競争力強化のための部
品の互換性, ならびに第 2 次世界大戦により中断されていたシンガーの日
本再進出に備えての機種の互換性にあった。 家庭用ミシンの規格寸法の統
一によって, 標準規格 「HA1 型」 が制定される (シンガー製品の引き写
しともいえる) が, これにより部品メーカー側にとっては単一部品の大量
生産, コスト低減が可能となるなど, ミシン産業全体が効率的なアセンブ
リー産業化の基礎を確立し, より対外的に競争力を増すところとなった。
こうして 1950 年代後半以降, 生産量も増し, 内需, 輸出とも活発なもの
となり, 日本のミシン産業は発展・繁栄の時代を迎えたのである17)。
②
月掛け予約販売 (割賦販売) 方式
通常の割賦販売は, 商品先渡し・代金後払いという方式を一般的なもの
としている。 しかしながら, 第 2 次世界大戦前の日本ミシン・メーカーは
これに対抗するだけの力を, 生産, 販売, 財務等のあらゆる面で持ち得な
― 104 ―
かった。 では日本企業はどのような戦略を行ったのであろうか。
第 2 次世界大戦前から, 日本企業はこの割賦販売制度を試みているが,
その本格的な展開は戦後のことで, とくにリッカーミシン, 蛇の目ミシン
などがシンガー社対抗策として大々的に展開する。 しかしその制度はかな
り異質な日本的な特徴を持っていたことが見て取れる。 すなわち, 財政基
盤の堅固なシンガー社による商品先渡し・代金後払い方式は, 当時の脆弱
な日本企業にあっては取りえる方策ではなく, その対抗上, いわば苦肉の
策としてやむなく, いわゆる月掛け予約販売方式 (前払い式割賦販売) を
考案, 導入する。 いわば商品後渡し・代金前払い方式である。
む じんこう
この月掛け予約販売方式は, 日本で古くからあった 「無尽講」 などを応
用したもので, 代金を月掛けで消費者から前受けする。 これによって, 消
費者側からすれば, たとえば親が娘の嫁入り前の数年間に少額の積み立て
をしていき, いつの間にかミシンを手に入れられるという, いわば月賦の
負担感よりも, 期待感を持って受け入れられたことである。 他方, 企業側
からすれば, 生産資金にさえ事欠く戦後の厳しい経済情勢の中で支払利息
無しに借入金的性格を持つ, この方式は日本ミシン・メーカーの躍進の原
動力となったのである。 また, これによって, 需要創造を果たすという一
面とともに, 予約のゆえに計画生産, 計画販売を可能とし, 在庫負担から
の圧迫もないという良いこと尽くめの販売方法であった。 日本独自の前払
い式割賦販売は, 先に分割金を集め, その満期時に商品を渡すということ
で, 顧客保護のためには問題がある (当時の割賦販売法で, ある程度規制
はされていた)。 企業側の苦肉の策, そして顧客側も一家に一台の必需品
的な家庭器具, また当時結婚に際しての花嫁道具の一つでもあって, 両者
の思惑が合致して普及したのである。
事実, この方式は戦後ミシン生産を始めたリッカーミシンがまず取り入
れたことにより, 戦前からのミシン・メーカーを差し置いて一躍トップ企
業になりえたし, またこれに続いた蛇の目ミシンも失地回復している18)。
― 105 ―
その後, 日本メーカー各社がこの方式を取り入れ, ミシンといえば月掛け
予約といわれるほど著名なものとなり, 内需拡大の先兵となった。 かつま
た, これを基盤として輸出にも振り向ける力をもつようにもなっていった。
JUKI の事例 (対抗企業のグローバル展開)
第 2 次世界大戦後の廃墟の中でスタートを同じくした各メーカーは, そ
の後, 幾星霜を重ねたが, 今日までに伸びる会社, 停滞や倒産する会社が
あるなど, その違いはどこに由来するのか, いわば企業成長, 戦略の跡を
みることは興味の募るところである。 現在日本のミシン・メーカーのうち
で, JUKI, 蛇の目ミシン工業, ブラザー工業が大手メーカーといえる19)
(一時期有力大手であったリッカー㈱は 1984 年に倒産)。 次にシンガー社
に対抗するこれら代表的な企業についてみよう。
JUKI は, 今日では世界屈指の工業用ミシン・メーカーとして, その地
位を確保している20)。 後に触れる蛇の目 (家庭用ミシン専業) とは逆に,
現在に至るまで工業用ミシン専業メーカーとして技術を蓄積してきたし,
その成長性が持続してきた。
日本企業にとってのグローバル市場への特別のマーケティングは存在し
たのであろうか。 JUKIの場合は工業用ミシンが主体であり, より専門知
識を持つ繊維工場等が需要先であり, その点では日本国内市場と大きな変
わりはない。
前身の社名は, 東京重機工業と称し, 重機は銃器に通じているように,
もともと発足が陸軍の肝いりによって 1938 (昭和 13) 年に設立された銃
器製造企業 (軍需工場) であって, 第 2 次世界大戦後はその技術の応用を
目指してミシン生産に転換した。 このように平和産業としてのミシン, 家
庭用にと入っていくが, 内需, 輸出ともに家庭用ミシンが成長の途上にお
いて, 工業用ミシンの将来性に着目し, 開発に傾斜して行った (1988 年
に JUKI に社名変更)。
― 106 ―
機電一体 (メカトロニクス) を古くからモットーに掲げ, 技術開発を重
視してきた JUKI は, ロータリックス (車軸回転天秤機構) の発明で工業
用ミシンに活路を開いたといえる。 他社同様に多角化の方向を持っている
が, 「トータルアパレル機器メーカー」 「21 世紀への複合技術の JUKI」 を
コンセプトとして, アパレルに工業用ミシン必需との信念の中で, 世界的
な工業用ミシンのリード役としてトップレベルの地位を得たのである。 日
本の, また世界の縫製機械メーカーとして, 輸出を中心に, 華々しい活躍
によって, ナンバー・ワン, オンリー・ワンとして, アパレル・ファッショ
ン衣料になくてはならない縫製機械メーカーとして存続している。
以上のように, 日本企業としての JUKI は, 工業用ミシンをメイン商品
として特化し, 縫製工場にとって無くてはならない機械として, 日本国内
市場はもちろんのこと, 次第に多くの外国市場に進出し, グローバル市場
でマーケティングを展開した。 なお, シンガー社の場合は, 家庭用ミシン
が先行したグローバル・マーケティングで, すなわち対消費者への販売活
動という B to C (business to consumer) が基本であって, 通常の (最
終消費財マーケティングという) マス・マーケティングが行われた。 これ
に対し, JUKI のそれは工業用ミシンがメインで, 対縫製工場等への販売
活動を中心とする, 購入顧客とは B to B (business to business) 関係に
あることである。 いわゆるインダストリアル・マーケティング (産業財な
いし工業財マーケティング) と称され, 個別の顧客対応のマーケティング
を特徴とするのである。
現在の JUKI は, 売上高 1,300 億円, 売上事業別構成では, 工業用ミシ
ン事業 59%, 産業機器事業 23%, 電子・精密機器事業 7 %, 家庭用ミシ
ン事業 5 %, その他 6 %と, 工業用ミシンがやはり群を抜いており, 世界
トップシェアを得ている。 また世界地域別の売上高は, 日本 32%, アジ
ア 49%, ヨーロッパ 10%, アメリカ 9 %で, 世界 170 カ国に輸出されて
いる (2008 年 3 月期)21)。
― 107 ―
競合他企業の動向 (蛇の目, ブラザー, リッカー等)
世界的レベルで見ても, いまやミシン, とくに家庭用は成熟化し, 生産
量のみならずメーカー数も減少させている。 とはいえ, われわれ人間は原
始時代に戻って衣類をまとわずして生活することはできない。 糸で布を縫
い合わすという方法が, まったく将来的に他のものに取って代わられる事
態が現出するならばまだしも, 縫製機械としてのミシンはなくてはならぬ
ものであることは自明である。 家庭用ミシンが今後不要とされていったと
しても, 縫製というジャンルに工業用ミシンは不可欠である。 しかしここ
でもメーカー数は減少傾向にあり, 世界的に寡占化されつつある。 日本メー
カーの JUKI, ブラザー工業がそれを担っている。 前項 JUKI に続き, 本
項では蛇の目ミシン, ブラザー工業および他の企業について触れておこう。
あらゆる産業, 企業が今日成熟化の波に洗われているが, このことはそ
の前段階としてそれぞれの企業が規模の経済性を推し進めた結果, 商品の
氾濫とともに各家庭に普及度を増し, 物質的に豊かな社会を作り出したこ
とが上げられるであろう。 この結果, 企業にとり主力製品の成長鈍化につ
ながっているのであり, こうした経営圧迫要因をじかに取り除くか, ある
いは, 新たな成長を望めるような方策をとりうるかが, 今日多くの企業で
問われているといってよい。
蛇の目ミシン
蛇の目メミシンは, 1921 (大正 10) 年創業で, 前項の JUKI が工業用
ミシンで専業的色彩の強い方向であるのに対して, 家庭用ミシンで専業特
化政策をとってきた22)。 専業化の最大の強みは, 専業のゆえに経営資源の
散漫を防ぎ, その意味で他企業に対して競争力をより発揮できる可能性が
強いところもある。 戦後から高度成長に至るまで, 蛇の目は従来広告キャッ
チフレーズにもしてきたように, 「(家庭用) ミシンの専業メーカー」 とし
― 108 ―
て自他共に老舗意識を強くもってきた。 のみならず成長期には 「技術のブ
ラザー, 販売の蛇の目」 と業界で称されてきたごとく, 販売網の強さには
もともと定評があった。 さらに無借金による堅実経営をモットーにしてき
た (逆にこのことが後に株式買占め騒ぎに発展する)。 販売の蛇の目とは
いえ, その家庭用における技術はブラザーに勝るとも劣らず, ジグザグミ
シン, 電子ミシン, さらにマイコン内蔵ミシンと, 過去に開発競争を牽引
し, 需要の掘り起こしをしてきたことも確かである。
とはいえ, 家庭用ミシンの盟主であった蛇の目も市場の成熟化の波に勝
てず, 需要も頭打ちになって, 家庭用だけに特化してきたことが裏目とな
り, 業績も低迷状態を続けている。 後述するように一時期トップメーカー
となったリッカーと同様に, 専業化, 多角化の道はいずれも険しい。 蛇の
目にとって 「多角化の道は, 進むも地獄, 進まぬも地獄」 といった様相を
呈してきた。
蛇の目の家庭用ミシンの日本国内生産高累計として, 2002 年には 4,000
万台を, また台湾ジャノメミシンでは 2004 年に累計 2,000 万台を達成し
ている。 現在の売上高 (グループの総売上高 474 億円・2008 年 3 月期)
のうち (連結セグメントで), ミシン関連事業が 75%, 産業機器事業が 11
%, 24 時間風呂・情報処理他サービス事業が 14%と, 全体として (家庭
用) ミシン専業の色合いが濃いままである。
ブラザー工業
ブラザー工業は, その前身を 1925 (大正 14) 年 「安井兄弟ミシン商会」
の創業時代からミシン一筋で長年経営されて, 後に 「日本ミシン製造」
(1934 年) と称するように, 第 2 次世界大戦前からの専門ミシン・メーカー
であった23)。 そのミシンも家庭用から工業用まで製品多様化を果たしてき
た。 しかしながら, 現在の事業別売上高でみれば, ①P & S (プリンティ
ング・アンド・ソリューションズ) 事業は 72.8%, ②P & H (パーソナル・
― 109 ―
アンド・ホーム) 事業は 6.0%, ③M & S (マシーナリー・アンド・ソリュー
ション) 事業は 12.0%, ④その他事業が 9.2%となっている。 ①はプリン
タ, ファックス, デジタル複合機, 電子文具, タイプライターなど, ②は
家庭用ミシン, ③は工業用ミシン, 産業機器で, ②と③のいわゆるミシン
事業よりも, ①の非ミシン事業の売上げが大きく, 情報機器メーカー的特
徴となっている。 世界の地域別売上高は, 欧州 34.7%, 米州 31.2%, 日本
17.3%, アジアほか 16.8%で, まさにグローバルである (2007 年度)。
このように今日に至っては, ミシン・メーカーというよりもプリンタ,
さらに OA 情報機器メーカーとして顕著な活動を続けており, 製品売上
構成的に見ればバランスの取れた割合を示している。 なお, 伝統的にブラ
あぜ
ザーでは, 「畦マメ商法」 と称した社内方針によって, 編み機, タイプラ
イター, 家庭電気製品, 工作機械, さらに OA・情報機器と, 純粋な機械
から電気, 電子へと幅を増し進んできたのである。 メインの製品作りの傍
ら, あぜ道に当初は期待しないでタネなどまき, 適当に収穫ができればもっ
けの幸いと言う考え方があるという。 それぞれの製品が連鎖し, 関連しな
がら事業を拡大したと見られる (このことは理論的にはペンローズ理論に
よって説明が可能である24))。
リッカー
ついで, 最後にリッカーの場合はどうか。 「ミシン・メーカーの老舗」
のイメージを持って活躍したが, 実際は第 2 次世界大戦後の 1947 (昭和
22) 年から生産を始めた企業である。 とはいえ, 1965 年頃の (家庭用)
ミシン・ブーム時には国内市場の 45%を占める最大手で, 「月 500 円のア
メリカ式イージーペイメント」 のキャッチフレーズにより, 戦前からの伝
統あるミシン・メーカー, 蛇の目, ブラザーを抜いて一時期トップに躍り
出たこともある。 しかし, 1984 年 7 月に事実上の倒産をした。
リッカーの倒産は, 一家に一台のミシン, 家庭での必需品提供企業とし
― 110 ―
て知られていただけに, 大きくメディアに取り上げられ, その原因はさま
ざまに追求された。 リッカーは, 当初から家庭用ミシンを軸に, 戦後他社
に抜きん出ていち早く生産, 販売に活動し, トップ企業に飛躍した。 第 2
次世界大戦後の家庭電気製品ブームを目の当たりにしてこれに手をつける
が, さらにサービス業たるホテル部門 (リッチホテル) への進出など, そ
の多角化に脈絡はない。 その意味で有効な多角化の経済性ないしは範囲の
経済性を発揮できなかった, と結果分析できる。
リッカーは, 結局, 本格的な多角化にも, ミシン専業にも徹し切れなかっ
たことである。 その背景には, ブラザーとの対比からすれば, 技術力の差
(コンピュータ制御技術をはじめとする) が新製品開発に影響したこと,
産業構造・市場動向変化に対する対応に遅れたこと, そして最大の原因は
経営陣の経営能力, 管理能力の欠如にあったことはいうまでもない。 なお,
1984 年事実上の倒産時の全国支店網は, ブラザー・586 店, 蛇の目・511
店, そしてリッカー・430 店と, 量的に決して弱体であったわけではなく,
要はその販売力管理に問題があったといえる。 さらに本稿との関連でいえ
ば, グローバル化の競争状況とは無縁で, 日本国内市場重視の対応であっ
たこともあろう。
トヨタミシンほか
その他, トヨタミシン (株式会社アイシン・リビングプランナー) はそ
の第 1 号機を 1946 年に完成しており, 自動車のトヨタグループに属し,
2000 年に世界累計 1,000 万台の販売を達成している。
また関西のペガサスミシン (ペガサスミシン製造株式会社, 旧・美馬ミ
シン) は, 1914 (大正 3) 年創業で美馬・板東の経営陣が引継ぎ, グルー
プ売上高 166 億円, 工業用環縫いミシン, オーバーロックミシンで存在感
を持っている。
ほかにジャガーミシンは, 1949 (昭和 24) 年に丸善ミシンを創業し,
― 111 ―
OEM 生産で成長し, その後, 1973 (昭和 48) 年に輸出数量累計 500 万台
突破, 1978 年に輸出累計が 700 万台を突破, また国内販売部門として
「株式会社ジャガーミシン」 を設立した。 その後 「丸善ミシン株式会社」
と 「株式会社ジャガーミシン」 を合併し, 1989 (平成元) 年 「ジャガー株
式会社」 として発足, 現在は㈱ジャガーインターナショナルコーポレーショ
ンとして, ミシンの製造販売を担当している。 成熟化の中で, それぞれ独
自の領域に生き残りをかけ, まい進している。
4. むすびに代えて
多くの日本産業, 企業の系譜は, 当初の乱立状態, その後の競争激化を
経て, 数社に収斂するという軌跡を描く。 経済学の標準的テキストを繙く
までもなく, それは資本主義経済発展の道筋とも捉えることができる。 自
由競争発展段階から, 弱きものが破れ強きものが生き残る, 弱肉強食, 結
果的に寡占経済段階を迎えるのである。
とくに, 第 2 次世界大戦後の混乱した経済状況では如実にそれが現れた
と理解できる。 ミシン, モーターサイクル (いわゆるオートバイ), 自転
車, カメラ, 時計など, 戦後まもなくの時期, 大資本が必要な重機械工業
ではなく, 当初に資本のそれほど必要としないこれら軽機械類の産業で顕
著であった。 いずれの軽機械も当初は 100 社を超えるほどの中小零細企業
が跋扈していたが, 徐々にさまざまな経営資源の不適合から倒産や合併な
どを余儀なくされて, 数社に収斂していったのである。
結果的に, オートバイではホンダ, スズキ, カワサキ, ヤマハが, アメ
リカのハーレーダビッドソンやヨーロッパ各国のモペットを蹴散らしたし,
カメラでは, ニコン, キャノン, ペンタックスなどが, 著名なドイツのカ
メラ・メーカーを市場の隅に追いやり, あるいは, 時計では, セイコー,
シチズンなどが, 時計王国だったスイスのメーカーを量的に圧倒していっ
― 112 ―
た。 このことは, 世界市場の視点からすれば, 戦後経済において日本企業
の躍進が特徴的に捉えられ, 高度経済成長を果たすのであり, 結果として
世界第 2 の経済大国となったことは周知の通りである。
本稿では, これら軽機械のうちミシン産業を事例に, 日米企業がどのよ
うにして, それぞれの市場で活動したかを中心に考察・整理した。 アメリ
カ・シンガー社が日本市場でどのようにマーケティングし, 席捲したか,
これに対して日本企業が世界市場でどう対抗し, 他産業と同様に日本ミシ
ン・メーカーが世界に覇をとなえたかを見てきた。 以下, 本稿での検討内
容を要約してむすびに代える。
縫製機械 (ミシン) 企業が, 経営戦略を通してどう盛衰を経験して
きたのかを考察すると, グローバル企業成立の跡を辿ることができる。
ミシンという商品は, 世界的には 19 世紀後半以降, アメリカのシン
ガー社がさまざまな生産やマーケティング技法等を駆使しながら成功
し, 世界を席捲してきたからである。 まさに同社は, 多国籍企業, グ
ローバル企業の嚆矢と位置づけられる。 日本でも明治時代以降 1950
年頃まで, ミシン=シンガーとして一時代を築いた。 シンガー社は,
今日的マーケティングで言えば, シンガー・ブランドの構築と, 信用
付与の割賦販売をかみ合わせている。
ミシンという商品について, グローバル・マーケティングの視点か
らは各国の市場で固有の特性があるのか。 家庭用ミシンにせよ工業用
にせよ, これを使って出来上がる衣料品の必要性については取り立て
て差はなく, 経済発展段階の差により需要量の多寡があるに過ぎない。
外資系企業にとっての日本市場の特殊性としては, 和装 (着物) の場
合に, ミシンを使うのではなく手縫いということである。 洋装化とと
もに, ミシンの必要性を女性に強くアピール, 需要を掘り起こすこと
こそが重要で, シンガー社はそうした点から近代化する日本市場に,
欧米諸国で展開したマーケティングを行った。
― 113 ―
世界的にはシンガー社の先行から始まったミシンであるが, 第 2 次
世界大戦後の日本企業は, 家庭用ミシンという平和産業への政策的後
押しを背景に, 雨後の筍のような乱立・混沌状態の中から, 生産面で
は, シンガー製品に対抗する標準規格 HA1 型の制定, その互換性
部品化を基盤としたこと, 販売面での月掛け予約販売方法による内需
拡大を果たしたこと, の両輪で産業として大きく飛躍した。 蛇の目ミ
シン, リッカーミシン, ブラザーなど家庭用ミシン企業は大手メーカー
として存在した。
JUKI, ブラザー, 蛇の目ミシンの大手日本企業の対応策は, 巨人
シンガー社相手に独自の戦略がそれぞれ展開された。 とくに, その後
に JUKI, ブラザーが発展を遂げたのは, 家庭用ミシンの時代から工
業用ミシンへの必需化がもたらしたものでもある。 他方, 家庭用ミシ
ンの専業化を固守してきた蛇の目ミシンは, 家庭内で裁縫をしないと
いう環境変化によって苦境に陥るところとなった (一方の雄リッカー
ミシンは倒産した)。 いずれにせよ, 今日ミシンそのものは成熟商品
であって, 世界で 1 位ないし 2 位でなければ生き残りえないような難
しい状況にある。
日本企業にとってのグローバル市場への特別のマーケティングは存
在したのか。 JUKI あるいはブラザーの場合は工業用ミシンをメイン
商品として特化し, 需要先はより専門知識を持つ繊維工場等であった。
縫製工場にとって無くてはならない機械として, 対縫製工場等専門家
への販売活動を中心とする。 これは個別の顧客対応のマーケティング
を特徴とする, いわゆるインダストリアル・マーケティング (産業財
ないし工業財マーケティング) と称されものである。 日本国内市場は
もちろんのこと, 次第に多くの外国市場に進出し, グローバル市場で
マーケティングを展開した。
― 114 ―
《注》
1)
世界的なミシンの発明, そしてその後の発展の沿革については以下を参照さ
れたい。
G. R. Cooper 1976 , The Sewing Machine: Its Invention and Development,
Smithsonian Institution Press.;小原博
1991
マーケティング生成史論
税務経理協会, 3443 頁。 小原
1991
はシンガー社の沿革ととも
(増補版)
に, その初期的なマーケティングの展開過程を明らかにしている。
2)
Andrew B. Jack
1957 , “The Channels of Distribution for an Innova-
tion: The Sewing Machine Industry in America, 18601865,” Exploration in
Entrepreneurial History, Vol. 9, No. 3 (Feb.), p. 114.
3)
シンガー社の詳細は, 小原博
1991
前掲書
1994 「シンガー・ミシンのマーケティング
稲葉元吉編著
現代経営学の構築
シンガー・ミシン
4)
参照。 その他, 大東英祐
1880 年代前後の展開過程
同文舘出版;ダイヤモンド社編
」
1969
ダイヤモンド社, 参照。
シンガー社内部資料による (Singer Manufacturing Co.
1951 , Singer’s
First 100 Years, p. 104。 非売品)。 なお, 同社の貴重にして大量なアーカイヴ
スは, ウィスコンシン州歴史協会 (州都・マディソン) に所蔵されている。 ま
たシンガー本社 (コネチカット州スタンフォード) から順次資料も寄贈される
という。 小原博
5)
1991
はそれぞれから資料提供を受けて, 著わされている。
E. R. A. Seligman 1927 , The Economics of Installment Selling, Harper &
Row, pp. 1454.;Cf., James Cornell, Jr.
1964 , The People Get the Credit,
Spiegel, Inc.
6)
林久吉
1964
割賦販売
同文舘出版, 37 頁。
なお, 割賦販売の目的について, 同様に矢島保男は以下のように指摘してい
る。 「文化生活を可能にし, 生活を享受させる機会を与えるものであって, こ
れは消費者が割賦販売によって与えられる一大恩恵である。 ことに俸給生活者,
筋肉労働者のごとき, 定期収入者または比較的低収入者等文化生活を営む機会
に乏しい者にとっては極めて望ましい販売方法であり, これによって, 彼らの
文化生活の意欲とその収入とのくいちがいを調整し, その希望にそって生活水
準の引き上げを可能ならしめる」 (矢島保男
1963
消費者金融
東洋経済新
報社, 35 頁)。
7)
桑原幹夫
1962
8)
Seligman
9)
H. E. Kross and C. Gilbert
割賦販売の会計
ミネルヴァ書房, 6 頁。
1927 , op. cit., pp. 1516.
1972 , American Business History, Prentice― 115 ―
Hall, p. 151. (鳥羽欽一郎他訳
1974
アメリカ経営史
東洋経済新報社, 上
217 頁)
10)
矢島保男
11)
シンガー社は, 1861 年に英国ロンドンに販売本部を, 1863 年にドイツ・ハ
1963
前掲書
153 頁。
ンブルクに営業支店を, さらに 1867 年には英国グラスゴーに最初の海外工場
をもった。 多国籍企業としてのシンガー社の活動については, Mira Wilkins
1970 , The Emergence of Multinational Enterprise, Harvard University
Press. (江夏健一・米倉昭夫訳
1973
多国籍企業の史的展開
ミネルヴァ
書房);Fred V. Carstensen 1984 , American Enterprise in Foreign Markets:
Studies of Singer and International Harvester in Imperial Russia, University
of North Carolina Press を参照されたい。
12)
このことから 「日本におけるシンガーの本格的活動は明治 36 年からはじまっ
た」 という (蛇の目ミシン社史編纂委員会編
年史
1971
蛇の目ミシン創業五十
同社, 141 頁参照)。
13)
日本ミシン産業史
1961
前掲書
第 7 章, 年表による。
14)
日本ミシン産業史
1961
前掲書
34 頁。
15)
日本ミシン産業史
1961
前掲書
3435 頁。
16)
GHQ すなわち GHQ/SCAP とは, General Headquarters Supreme Com-
mander for the Allied Powers の略で, 日本のポツダム宣言受諾を受けてト
ルーマン米大統領は, 1945 年 8 月 14 日付けで米太平洋陸軍司令官マッカーサー
元帥を連合国軍最高司令官 (Supreme Commander for the Allied Powers,
SCAP) に任命した。 同年 9 月 2 日に調印された降伏文書により日本政府及び
日本軍は, 連合国軍最高司令官の管理下に置かれ, 10 月 2 日連合国軍最高司
令官総司令部 (GHQ/SCAP) が, マッカーサーの命令 (一般命令第 1 号) に
より設置された。
GHQ/SCAP の組織は, 最高司令官, 参謀長のもとに参謀部と専門部に分か
れ, 参謀部には通常の軍司令部の参謀業務を担当する参謀第 1 部から第 4 部,
専門部には, 占領を実施するために行政, 経済, 公衆衛生, 教育, 運輸, 通信,
資源といった専門分野ごとに部局が置かれた。 GHQ/SCAP は, 講和条約が発
効した 1952 年 4 月 28 日をもって廃止された。
17)
ミシンのほか, 自転車, カメラ, ラジオ, 双眼鏡, 時計など軽機械の戦後の
発展については, 林信太郎・柴田章平
2008
戦後から高度成長期の産業創造への挑戦
産業政策立案者の体験記録
国際商業出版において, 通
産省 (現・経済産業省) 官僚であった林信太郎の赤裸々な体験談記録が詳しい。
なお, ミシンの業界団体史を振り返ると, ミシン需要の浮沈と関連して推移
― 116 ―
していることである。 とくに日本製ミシンが世界において高成長を遂げたこと
により, 昭和 30 年代 (高度経済成長期) に多くの業界団体が簇生することに
なった。 日本輸出ミシン組合連合会, 日本ミシン協会, 日本ミシン輸出振興事
業協会, 日本家庭用ミシン工業会, 日本工業ミシン協会, 日本ミシン部品工業
会等がそれである。
しかしながら, その後の経済発展を背景に家庭内裁縫の不要化により (家庭
用ミシンの衰退から工業用ミシンの進展への道程でもある), ミシン需要の高
原状態, さらに激減を経て, 業界団体は前述の通り, 1992 年に日本縫製機械
工業会 (日本機械工業連合会傘下) に大同団結, 今日に至っている。
18)
リッカーミシン (理化学工業株式会社を母体とする) の躍進は, 蛇の目ミシ
ンにおける経営上の内紛等との関係を抜きにして語れず, その成立の際にも,
蛇の目の有力なリーダーたちのリッカーへの移籍があってのこととされている
1971
(蛇の目ミシン編
19)
前掲書
336 頁)。
大手メーカー 3 社, ブラザー工業, JUKI, 蛇の目ミシン工業は, 今日も同
産業の担い手であり, 小原はこれら企業のトップ社長インタビューを過去行っ
たことがある。 ①ブラザー工業∼河嶋勝二社長, 1987 年 11 月 10 日実施。 ②
蛇の目ミシン工業∼小宮山宇一社長, 1987 年 11 月 16 日実施。 ③JUKI∼山岡
建夫社長, 1987 年 12 月 23 日実施。 このうちブラザー工業については 「経営
多角化と企業安定への道
営経理研究
せて, 本節は小原
グ史序説
経営対談:ブラザー工業㈱社長に聞く
」
経
第 39 号, 1987 年 11 月, を参照。 その他は公刊していない。 併
1988
」 拓殖大学
「日米ミシン企業の経営戦略
経営経理研究
比較マーケティン
第 41 号, 9 月, に詳しい。
また, 小原を委員長とした報告書, 社団法人・日本機械工業連合会, 社団法
1989
人・日本家庭用ミシン工業会編
向調査
20)
東京重機工業編
1968
東京重機 30 年史
東京重機工業株式会社 40 年史
50, 19381988
21)
家庭用ミシン業界の在り方と需要動
(日機連 63 高度化―13) 両社団法人刊, も参照されたい。
同社;東京重機工業編
同社;JUKI 編
1989
1979
JUKI グローバル
同社。
ミシンに限らないが, 家庭への訪問販売等は, 今日ますます社会的に難しい
状況となっている。 そうした中で, ミシン等訪問販売の子会社である JUKI 家
庭製品㈱ (旧・ジューキジュエリー㈱) は, 経済産業省から, 悪質な訪問販売
を繰り返したとして, 2008 年 3 月 20 日付で特定商取引法違反により 6 ヶ月間
の業務停止命令を受けた。 JUKIは同社を 4 月末日に解散した。 工業用ミシン
の世界トップ企業としてのJUKIにとっては, 連結子会社とはいえ負の側面で
ある。
― 117 ―
その後, 2008 年 9 月末をもって家庭用ミシン事業部を廃止, 赤字の事業体
制を縮少している。
22)
ジャノメミシン社史編集委員会編
1967
ジャノメミシン
ダイヤモンド
社。
23)
ブラザー工業
無言の信念
1971
世界に挑むブラザーの歩み
ダイヤモンド社;安井義博
2003
同社;安井正義
1965
ブラザーの再生と進化
生
産性出版。
24)
ペンローズの多角化論については以下を参照されたい。 E. Penrose
1980 , The Theory of the Growth of the Firm. 末松玄六訳
成長の理論 (第 2 版)
1980
1959,
会社
ダイヤモンド社。
〈付記 本稿は, 拓殖大学経営経理研究所・平成 20 年度個人研究(A)助成を
受けており, 記して感謝する。
(原稿受付
― 118 ―
2008 年 9 月 30 日)
経営経理研究 第 84 号
2008 年 12 月 pp. 119141
論
文〉
新製品の普及過程における消費者行動
類推研究の再考と新製品普及の
マーケティング戦略
田
要
嶋
規
雄
約
新製品が普及する過程における消費者行動の多様性を捉える研究は, 伝
統的に社会学や社会心理学的の影響を強く受けてきたが, 今日のデジタル
家電と呼ばれる製品群の普及過程における消費者行動を捉えるためには,
認知心理学の視点から, 消費者が記憶の中に保持する内部情報の多様性に
注目する必要がある。 そこで本研究では, 分析枠組みとして類推プロセス
を用いて, 新製品に対する消費者行動の理論枠組みの構築を試みた。 認知
心理学における類推研究をレビューしたのち, その問題点を指摘し, カテ
ゴリー化という観点から新たな類推のプロセスの提案を行った。 この新た
な類推プロセスに基づいて新製品普及のマーケティング戦略へのインプリ
ケーションを提示し, 企業が新製品を広く市場に普及させていくためには,
消費者が保持する内部情報の態様の多様性に柔軟に対応したマーケティン
グ戦略が必要であることを示唆した。
キーワード:新製品, 普及, 消費者行動, マーケティング戦略, 情報処理,
類推, アナロジー, デジタル家電
はじめに
企業にとって新製品を市場に導入しこれを広く普及させていくことは,
安定した成長をはかり長期的な利益を確保する上で非常に重要である。 特
― 119 ―
に革新的な新製品であればあるほど, 成功したあかつきには多くの収益を
企業にもたらすことになるであろう。
今日, デジタル家電と呼ばれる, デジタル技術を応用した製品群の普及
が著しい。 薄型テレビ, DVD レコーダー, デジタルカメラなどがこれに
当たるが, 市場に大きなインパクトをもたらしている。 薄型テレビはブラ
ウン管テレビからの代替を, デジタルカメラは銀塩 (フィルム) カメラか
らの代替を, そして DVD レコーダーは VHS ビデオデッキからの代替を
促すことで, 市場の活性化に寄与している1)。
一般に新製品は企業に収益をもたらす反面, 失敗するリスクも抱えてい
る。 とりわけ革新的な新製品で, 従来提供されてきた製品とは大きく異な
る場合には, 消費者は馴染みのない製品の購買に対する意思決定に直面す
ることになり, 消費者自身も購買に対するリスクを感じることになる。 も
し消費者がリスクを回避する傾向にあるのならば, 企業にとっての失敗の
リスクも高くなる。
したがって, 企業が新製品を成功させるために, すなわち新製品を市場
に広く普及させていくために注力すべきことは, 消費者が新製品の採用に
際して感じるリスクをいかに低減させるかということである。 また, 消費
者のリスクの感じ方は人それぞれであるため, 消費者の多様性をも考慮に
入れる必要がある。 消費者の中には自分自身の判断で新製品の採用を意思
決定できる人もいれば, 新製品に興味は持ちつつも十分に理解できないこ
とで購買に対するリスクを感じてしまい, 採用をためらう消費者もいるだ
ろう。 そこで本稿では, 新製品の普及過程における消費者行動の多様性,
とりわけ, 新製品の理解の仕方についての消費者間の差異と, その差異が
生じる心理的メカニズムに焦点を当てる。
― 120 ―
1. 問題の所在
1 1
消費者の内部情報への注目
今日の新製品の普及と消費者行動
今日急速に普及が進むデジタル家電の大きな特徴は, 従来の家電製品に
パソコンなどデジタル機器で使われているような部品や機能が内包されて
いる点である。 例えば, デジタルカメラは, 画像を撮影するという基本的
な使い方は従来の銀塩カメラと変わらないものの, 画像の保存方法, 出力
方法, 編集方法, 閲覧方法などについては, 銀塩カメラとは大きく異なり,
パソコンの持つ機能と密接に関わってくる。 同様に, HD・DVD レコー
ダーについても, テレビの番組を録画・再生するという基本的な機能は,
従来のビデオデッキと変わらないものの, 録画方法については, それまで
パソコンで使われてきた各種メディアへの保存方法と類似したものになる。
このように, デジタル家電に代表されるような, 今後さらに普及が見込ま
れる製品の中には, 複数の既存製品を横断するものが少なくない。
このような既存製品を横断した製品を消費者が初めて購買する場合, 消
費者はどのようなことを考えながら採用の意思決定を行っているのであろ
うか。 通常, 新製品を購買する場合は, 既存製品を反復購買する場合と比
べて, 消費者にとって利用可能な外部情報は限定されているものと考えら
れている。 新製品の購買に直面した消費者は, 限られた外部情報の中で採
用の意思決定を行う必要があり, 特に早期に新製品を採用する消費者は,
ある程度, 購買に関わるリスクを負いながら, 自分自身の判断で採用意思
決定を行わなければならない。 したがって, 新製品を早期に購入できる消
費者については, 購買のリスクを負うことができるかどうかということが
相対的に重要な特性として考えられてきた。
ところが, デジタル家電に代表されるような, 製品を横断した新製品を
購買する場合には, 新製品の採用意思決定に強く影響を与える消費者特性
― 121 ―
として, リスクに対する態度もさることながら, 消費者が自らの記憶の中
に蓄積している内部情報, とりわけ, 新製品と関わりのある既存製品に関
する情報に注目する必要があるだろう。 すなわち, 消費者は, 仮に利用可
能な外部情報が限られていたとしても, 新製品が何らかの既存製品の特徴
を内包しているような場合には, 消費者が既に記憶の中に蓄積している既
存製品に関する内部情報を加工することによって, 採用意思決定を行うこ
とが可能になると考えられるのである。
特に今日の日本人は, 日常生活において様々な製品に関する購買経験や
使用経験を積んでいるため, 既存製品に関する内部情報の利用可能性は高
いものと考えられる。 例えば, デジタルカメラの初めての購買に直面した
消費者にとっては, 一眼レフカメラ, コンパクトカメラ, インスタントカ
メラなどのカメラに関する内部情報や, カメラ機能付き携帯電話, デジタ
ルビデオカメラ, パソコンなどのデジタル機器に関する内部情報も利用可
能となる。
1 2
問題の所在
新製品採用の消費者行動に関する研究は, 伝統的に普及研究という領域
において行われてきた。 マーケティングおよび消費者行動の領域における
普及研究に対して最も大きな影響を与えたのは, 主として農村社会学にお
いて展開されたイノベーション普及理論, 特に, Rogers によって行われ
た一連の経験的発見物である。 Rogers (1982) によれば, イノベーショ
ンの普及は, 「イノベーションが, コミュニケーション・チャネルを通し
て, 社会システムの成員間において, 時間的経過の中でコミュニケートさ
れる過程」 であると定義される。 この定義のもと, イノベーションの普及
研究は様々な学問領域に適用されてきた。
とりわけ, イノベーションの普及過程における消費者は図表 1 のように,
5 つのカテゴリーに分類され, それぞれの消費者について詳細なプロフィー
― 122 ―
図表 1
新製品普及過程と採用者カテゴリー
採
用
者
数
革
新
的
採
用
者
初
期
少
数
採
用
者
前
期
多
数
採
用
者
後
期
多
数
採
用
者
採
用
遅
滞
者
時間
出所:Rogers [1982].
図表 2
採用者カテゴリーの特性
革新的採用者
はじめて遭遇する新製品の採用に伴うリスクを恐れずに, 冒険
的に採用を試みる人達である。 地域社会の内より外のことに関
心を持ち, 地域外の情報に多く接触することを心がける
初期少数採用者
革新的採用者が新製品を採用した後, その新製品が良さそうで
あることを見通した上で採用する人達で, その地域社会内での
社会的地位は高く, 地域内の人達から尊敬されている人達
前期多数採用者
新製品を採用することに慎重な人達である。 彼らは初期少数採
用者をリーダーとして, その指導下に置かれているフォロワー
(追随者) 達
後期多数採用者
時代を革新していく新製品に対しては懐疑的で, その採用には
用心深い人達である。 地域社会内の多数が採用し, その社会の
社会規範的圧力や経済的事情が迫ってきた時, 初めて採用する
人達
採 用 遅 滞 者
その地域社会の伝統を固守している人達であって, 社会を革新
していくことには少しも関心を持たない。 彼らが新製品を採用
する頃には, 革新的採用者が次の新製品を採用している
出所:Rogers, [1982] より作成。
ルが記述されている (図表 2 参照)。
図表 2 の採用者カテゴリーの特性からわかることは, これら 5 つのカテ
― 123 ―
ゴリーのなかで早期にイノベーションを採用する 「革新的採用者」 や 「初
期少数採用者」 の重要な特性として, リスクに対する態度や社会的地位が
記述されていることである。 一方で, これらの特性のなかに消費者の内部
情報, すなわち知識に関する言及がない点にも注目すべきである。 先述し
たように, 今日のデジタル家電の普及を想定した場合には, 消費者がもつ
内部情報の多様性によって, 新製品の普及過程における消費者行動の多様
性を捉える必要があると考えられる。 そこで本稿では, 従来の普及研究が
十分に触れてこなかった, 消費者がもつ内部情報による消費者間の差異に
注目し, その差異を捉えるべく分析枠組みの提案を行っていく。
2. 基本的視座
情報処理アプローチ
前節では, 本稿において, 消費者の内部情報に基づいて消費者の多様性
を捉えていくことが確認された。 それでは消費者の内部情報や, それに基
づいて新製品の採用意思決定を行う消費者を分析するためにはどのような
視座から消費者行動を捉えたらよいのだろうか。
先述したように, 新製品の普及とその過程における消費者行動に関する
研究は, 伝統的に農村社会学や社会心理学の影響を強く受けてきた。 その
結果として, 新製品の普及過程における消費者間の差異を説明する際には,
リスクに対する態度の度合いやオピニオン・リーダーシップといった基準
が重要性を持っていたのに対し, 消費者がもつ内部情報には言及されてこ
なかった。
また, 消費者が新製品を採用する心理的プロセスは, 図表 3 のような
「効果の階層モデル」 と呼ばれるものが用いられてきたが, このモデルは,
消費者が新製品を採用するまでの心理的段階を記述することはできるもの
の, 非常に抽象化されているため, 新製品に関する内部情報を消費者がど
のように処理しているのかということを分析する枠組みを提供してくれる
― 124 ―
図表 3
意識
知識
効果の階層モデル
好意
選好
確信
購買
出所:Lavidge, Robert, and Steiner [1961].
ものではなかった。 普及研究における採用プロセスの考え方は, 永くこの
モデルに基づくものとなり, 新製品採用の消費者行動はブラックボックス・
モデルとして放置されてきた。
そこで本稿では, 消費者の内部情報やその処理のされ方に注目していく
ために, 情報処理アプローチという視座から分析を進めていく。 情報処理
アプローチとは, 情報処理行動として消費者行動を捉える視点である。 情
報処理アプローチでは以下のことが仮定されている。 ①人間 (=消費者)
の能力には限界があり, 適応すべき環境について不完全な形でしか情報を
もち得ない, ②このため, 目的達成のための環境適応行動 (問題解決行動)
の結果には常に不確実性がつきまとう, ③そこで, このような不確実性を
少しでも削減し目的達成を図るための能動的環境適応として, 環境につい
ての追加的情報の 「探索」 と 「取得」, その内容の 「解釈」, および既存の
内部情報との 「統合」 と 「貯蔵」 とを内容とする一連の 「情報処理」 を消
費者は行う。
このように, 情報処理アプローチにおいては, 消費者の内部情報がどの
ように処理されるのかという認知プロセスに焦点を当てているため, 本稿
が依拠する基本的視座として妥当であると考えられる。
3. 新製品採用の消費者行動に対する情報処理アプローチの
展開とその問題点
3 1
ブラックボックス・モデルとしての新製品採用の消費者行動
では, 新製品に対する消費者行動を捉える上で, 情報処理アプローチか
― 125 ―
らどのように分析を進めればよいのだろうか。 この問題に関しては田嶋
(2003) に詳しいが, 前節で述べたように, 新製品採用の消費者行動に関
する従来の研究においては, 新製品に対する消費者の行動は抽象的な記述
にとどまり, 新製品に関する情報がどのように解釈・統合されるのかとい
うことについては十分に吟味されてこなかった経緯がある。 1979 年に発
表された Bettman の概念モデルを端緒として, 消費者行動研究へ情報処
理アプローチが導入されたことによって, 消費者行動研究は大きな発展を
遂げることになる。 ところが, この情報処理アプローチの導入によって特
に多くの関心が払われたのは, 消費者によるブランド選択行動であり, 新
製品を採用するか否かの消費者行動についてはあまり多くの関心は払われ
てこなかった。 関心が払われてこなかった理由としては以下のようなもの
が考えられる。
かつての日本の戦後から高度経済成長期のように, 三種の神器や 3 C2)
といった耐久消費財が各世帯に急速に普及していく時代においては, 新製
品の採用に対する消費者, 企業, そして研究者の関心は高かったと考えら
れる。 ところが, 耐久消費財が各世帯にひと通り揃い, 反復購買の割合が
増加してくると, 製品カテゴリー自体の購買よりも, どのブランドを選択
し購買するのかということのほうが消費者にとっても, 企業にとっても相
対的に重要な関心事となった。 これに応えるように消費者行動研究におい
ても, ブランド選択行動に関心の重点が置かれるようになり, さらに情報
処理アプローチの導入にともなって, 消費者がブランド間の差異をどのよ
うに知覚・評価・購買するのかということに関する理論化が進んでいった。
その一方で, 新製品の普及または新製品の採用という製品カテゴリー・レ
ベルでの研究に対する関心は次第に低下していったものと考えられる。 そ
の結果, 新製品採用の消費者行動は, その心理メカニズムを分析するため
の十分な分析枠組みが十分に提供されず, 依然としてブラックボックス・
モデルのままとなっていた。
― 126 ―
3 2
新製品採用の消費者行動に対する情報処理アプローチの展開
1990 年代の後半に入ると, 「知識転移」 という認知心理学における類推
研究を基礎とした考え方を用いて, 新製品の採用プロセスに関する詳細な
研 究 を 行 え る 可 能 性 が 見 出 さ れ 始 め た (Gregan-Paxton and John
[1997]; Moreau, Lehmann, and Markman [2001])。 そこで主張されて
いることは, 消費者が新製品の採用意思決定問題に直面したときに, 記憶
の中に蓄積されている既存の製品カテゴリーに関する知識を援用して, 問
題解決にあたるというものである。 異なる製品カテゴリーを横断した情報
処理のされ方は, 消費者行動の新たな側面を浮き彫りにすることができる。
すなわち, これまで新製品の普及研究においてブラックボックスとされて
きた, 新製品の採用プロセスについての詳細な記述が可能となったのであ
る。 特に, イノベータと呼ばれる, 新製品を革新的に採用する消費者が,
新製品に関する情報をどのように処理しているのかということを理解する
ための理論的枠組みが提供されることになった3)。
3 3
新製品採用の消費者行動研究における情報処理アプローチの
問題点
ところが, 認知心理学の成果を消費者行動研究に適応する際にはいくつ
かの問題点が存在する。 まず一つ目は, 消費者が知識転移を行う上での問
題設定の差異に関する問題点である。 認知心理学の分野においては人間が
直面する典型的な問題は文章理解であることが多いのに対して, マーケティ
ングの領域においては, 人間 (消費者) が直面する問題の対象は新製品,
特に本研究においては革新的新製品の理解や評価であるということである。
二つ目は, 近年のマーケティングの分野で展開された知識転移の考え方
を用いた研究に対する問題点である。 知識転移の考え方は, 消費者行動研
究の領域においてはそれだけを取り出して考えられるものではなく, 消費
― 127 ―
者の一連の問題解決行動の中に位置づける必要がある。 すなわち, 知識転
移が消費者のもつ問題とどのようにかかわり, そして知識転移の結果とし
てどのような行動が起こるのかということである。 特に, 問題の対象とな
る新製品を理解・評価する際の知識転移については, 消費者自身のニーズ
との適合を考慮に入れる必要があるだろう。
さらに重要な問題点として考えられるのが, 内部情報の活用のされ方に
ついてである。 確かに知識転移という考え方は, 消費者の内部情報をうま
く活用するしくみを説明したものであるが, 従来の消費者行動研究におい
て蓄積されてきた消費者の知識構造に関する研究成果とのつながりがほと
んど考慮されていないところに大きな問題点がある。
消費者行動研究においては, 「手段―目的連鎖モデル」 と呼ばれる消費
者の知識構造が仮定されている (Reynolds and Olson 2001)。 手段―目
的連鎖モデルとは, 製品と消費者との結びつきを捉えるモデルであり, 製
品は消費者の価値となる目的を達成するための手段として捉えられ, それ
らの関係が 1 つの階層構造からなる連鎖的媒体として概念化されている。
このモデルは, 消費者のもつ製品知識に基づいており, 製品知識にある抽
象化水準から連鎖の階層構造を捉えているのが特徴的である。 すなわち,
消費者は抽象化水準において異なる内容の製品知識を有すると想定して,
その製品知識を階層構造から捉えるのである (新倉, 2005, p. 23)。
このように, 我々が記憶の中に蓄積している知識は, バラバラに保持さ
れているのではなく, 何らかの構造を持って保持していると考えられてい
るが, 知識転移の考え方では, あたかも平面上に無秩序に散らばったかの
ような知識の状態を仮定し, その中から消費者は何らかのアルゴリズムに
よって転移元となる知識を決め, 知識の転移を行うプロセスを記述してい
る。 では, なぜこのような問題が生じるのか。 次節ではこの問題の源泉を
認知心理学の領域における類推研究にまで遡って考察することにする。
― 128 ―
4. 類推概念の再考
本節では, 新製品の消費者行動研究へ類推研究が適用される際の問題点
を解決していくために, 認知心理学における類推研究のメインストリーム
をレビューした上でその問題点を指摘し, 新製品採用の消費者行動を分析
するための新たな視点の提供を行っていく。
4 1
類推とは
類推 (アナロジー) とは, 過去の類似した経験を現在の場面に適用する
ための心理メカニズムである (鈴木, 1996, p. 11)。 日々われわれが直面
する環境や問題は必ずしも馴染みのあるものではなく, 十分に対処できる
だけの知識を持っているとは限らない。 このように知識が不十分な場合に
おいて, 柔軟な思考を行いながら現在直面している問題の解決に当たろう
するときに類推は行われる。 すなわち, 類推においては, 現在の問題状況
とは全く異なった領域で経験されたことであるにもかかわらず, 現在の状
況と本質的な意味で類似しており, その問題を解決するのに役立つ知識が
利用されるのである。 類推という認知プロセスにおいては, 過去に経験し
た既知の領域から現在直面している問題領域へと知識が領域間を飛び越え
るというダイナミズムに大きな特徴がある。
例えば, 電気回路のしくみを理解する際には水流システムを用いて類推
を行うとわかりやすい。 「電線の太さが 2 倍になれば電流の量は増えるの
か」 という問いがなされた場合には, 水流システムを用いて類推すれば,
「パイプが太くなれば水の流れも多くなるのだから, 電線も太くなれば電
流も多く流れる」 と考えることができる。 この場合, 電気回路は理解すべ
き新たな問題領域である一方, 水流システムについては我々が豊かな経験
をもつ既知の領域である。 そして, 「管の太さと流れるものの量との関係」
― 129 ―
が水流システムという領域から電気回路の領域へ適用されることによって,
電線の太さと電流の量との関係を理解することができるのである。
4 2
類推のプロセス
類推においては, 直面する問題領域は 「ターゲット」 と呼ばれ, 既知の
領域は 「ベース」 と呼ばれる。 そして, ベースからターゲットへ知識を適
用するということは, 「写像する」 という表現を用いる。 この写像によっ
て, われわれは新奇なものについて何とか理解しようと試みることができ
るのである。 この類推のプロセスは, 一般に, 図表 4 のように①ターゲッ
トの表現, ②ベースの検索, ③写像, ④正当化, ⑤学習という 5 つの段階
で表現される (鈴木, 1996, p. 32)。
「ターゲットの表現」 段階は, 与えられたターゲット問題を理解するプ
ロセスであり, 何が目的なのか, 何が初期条件なのかなどを認識するプロ
セスである。 「ベースの検索」 段階は, われわれの記憶の中にある膨大な
知識の中からターゲットの問題を解決するのに役立ちそうな既存知識, す
なわちベースを検索するためのプロセスである。 適切なベースが検索され
図表 4
類推のプロセス
ターゲットの表現
ベースの検索
写
像
正当化
学
習
出所:鈴木, 1996, p. 32
― 130 ―
た後, 「写像」 段階においてベースとターゲットの要素を対応づける作業
が行われる。 一般にこの写像は妥当なものであるという保証はないため,
次の 「正当化」 段階において, 写像の結果が妥当なものであるかどうかを
判断する必要性が生じる。 類推の結果ターゲットに関する何らかの新しい
理解が得られたのでれば, それが知識として記憶に保存されることになる。
これが 「学習」 段階である。
4 3
類推研究のメインストリーム
このような類推のプロセスの中でとりわけ多くの研究の関心が払われて
きたのが, 「ベースの検索」 段階と 「写像」 段階である。 まず, 「ベースの
検索」 段階においては, われわれは記憶の中にある膨大な知識の中から,
ターゲットとなる問題に関連のありそうなベースを選び取る必要があり,
このとき, どのような条件の下でどのようなベースが選ばれるのかという
ことについて精力的に理論化が行われてきた。 その代表的な研究が,
Thagard ら (1990) による ARCS (Analog Retrieval by Constraint
Satisfaction) と呼ばれる理論である。
そこで主張されていることは, ターゲットとベース間の類似性の判断に
おいて, 以下であげる 3 つの条件がベース検索の制約になるということで
ある。 一つ目は対象レベルの類似性である。 これは見た目であるとか, カ
テゴリー・ラベルといった意味的な部分でベースとターゲットが多くの特
徴を共有している場合を指す類似性である。 二つ目は関係レベルの類似性
である。 これはベースとターゲットがそれぞれ内包する関係, 例えば因果
関係などを共有する場合を指す類似性である。 先にあげた電気回路と流水
システム間の 「管の太さと流れるものの量との関係」 はこれに該当する。
さらに三つ目はプラグマティックな類似性である。 これはベースとターゲッ
トが類似のゴールを共有している場合を指す類似性である。 例えば, CD
で音楽を再生したことのある人ならば, 仮に DVD プレーヤーで音楽を再
― 131 ―
生したことがなくても, 大体何を行えばよいかは推測できる。 これら 2 つ
の間には 「音楽を再生する」 というゴールが共有されているからである。
以上のように, ARCS ではベースの検索においては, 記憶の中に存在す
る膨大なベースの候補の中から, これら 3 つの条件, すなわち対象レベル
の類似性, 関係レベルの類似性, そしてプラグマティックな類似性の全て
を満たすようなベースを適切な候補として選び出すプロセスが記述されて
いる。
次に, 「写像」 段階である。 「写像」 段階は, 検索されたベースの中のど
の要素がターゲットのどの要素と関係するかを決定するプロセスである。
この段階では, ベースがもつ様々な要素の中から, ターゲット問題を解決
するのに重要な要素を選ぶための認知プロセスが必要である。 この問題に
ついての代表的な研究が Gentner (1983) による構造写像理論である。
構造写像理論は次の 3 つの原理を満たす写像を適切な写像としている。
①
属性の非写像 (対象の属性は写像されない)
②
構造的一致 (構造的に整合しているものが 1 対 1 に写像される)
③
システム性原理 (高次の関係が優先的に写像される)
この 3 つの原理から言えることは, 類推は個別の対象の類似に基づくも
のではなく, 構造=関係のシステム, における類似, あるいは一致に基づ
いているということである。 写像が構造に基づくという定式化によって,
類推の過程で生じる不要な仮説を大幅に削減する認知プロセスを説明する
ことができるのである。 先述の電気回路と水流システムの例であれば, 水
といった個別の対象が写像されるのではなく, あくまで写像されるのは
「管の太さと流れるものの量との
関係 」 であり, それ以外の情報に関し
ては写像されないのである。
4 4
類推研究の問題点とカテゴリー化の導入
以上, 類推に関する 2 つの重要な理論を紹介してきたが, では実際これ
― 132 ―
らの理論が, 本稿の問題意識である, 新製品に対する消費者行動の多様性
を説明する際にどのような問題点を持っているのであろうか。 二つの理論
から共通して言えることは, この二つの理論が, 様々なベースの候補や,
ベースがもつ様々な要素の中からいかに不要な情報を捨てるのかという視
点に立っており, そこでは何と何が似ているのかということについては,
程度の差はあれ, 暗黙のうちに決められてしまっている。
しかしながら, われわれの認知活動を振り返ってみた場合, 何かと何か
が似ているとアプリオリに決められるものではなく, 似ていると判断する
その同一化のプロセスにこそ, 消費者行動の多様性を捉える鍵が隠されて
いると考えられる。
これに関して, 鈴木 (1996) は以下の二点のコメントによって既存の理
論に対する問題点を指摘している。
①
ベース, ターゲットの表現が記憶の階層性を無視したものとなって
いる。
②
観点の設定に基づく意味, 同一性をまったく考慮していないため,
類推が当てはめのようになっている。
鈴木はとりわけ第二の問題に焦点を当て, 本来異なるものを同一化する
心的メカニズムに関する理論化の提案を行っている。 鈴木は, 「カテゴリー
化」 という概念を用いて, 同一化のメカニズムを説明した。 従来の類推研
究がベースとターゲットとの二項関係で捉えられてきたのに対して, 「カ
テゴリー化」 という視点においては, ベース, ターゲット, カテゴリーの
三項関係であることが主張されている (図表 5 を参照)。
カテゴリーとはベースとターゲットをその事例として持つような抽象的
な意味内容である。 これによって, ベースとターゲットはそのカテゴリー
の事例という意味において同一であることが保証され, ターゲットをベー
― 133 ―
図表 5
類推の図式
カテゴリー
写像
ターゲット
ベース
ターゲット
従来の図
ベース
抽象化を媒介とする類推
4)
出所:鈴木 [1996] p. 86 を加筆修正 。
スで置き換えて思考することが可能になる。 例えば, 電気回路と水流シス
テムの事例において考えられるカテゴリーは 「流れる系」 であろう。 この
カテゴリーには対象や関係が抽象的なレベルで記述されている一方, 水流
や電流という領域はこの 「流れる系」 というカテゴリーの具体例と見なさ
れ, 相互に置き換えが可能となる。
このカテゴリー化理論においては, 人間の知識が抽象度の高いものから
具体的なものまで階層構造をなしていると仮定する。 例えば, 図表 6 のよ
うに, パソコンと HD・DVD レコーダーは 「ハードディスクに情報を長
期保存する機能を持つもの」 としてカテゴリー化され, 「ハードディスク
に情報を長期保存する機能を持つもの」 は, 「紙に情報を長期保存する機
能を持つものもの」 などと一緒に 「情報を長期保存する機能をもつもの」
としてカテゴリー化される。 さらに 「情報を長期保存する機能をもつもの」
というカテゴリーは, さらにより抽象的なカテゴリーへとカテゴリー化さ
れていくことになる。
ただし, どのようなカテゴリーを形成するのかは, 目標や文脈といった
観点によって異なってくるため, 図表 6 の例であっても, パソコンと HD・
DVD レコーダーは 「DVD に情報を長期保存する機能を持つもの」 とし
― 134 ―
図表 6
知識の階層構造
情報を長期保存する機能を持つもの
ハードディスクに情報を
長期保存する機能を持つもの
パソコン
紙に情報を長期保存する機能を持つもの
HD・DVD レコーダー
ノート
てカテゴリー化されることもありうる。
このような階層構造を想定することによって, 非常に効率的かつ創造的
な人間の類推のプロセスを捉えることができると考えられる。 従来の類推
プロセスにおけるベース選択では, 似ているベースの膨大な候補の中から
選ぶプロセスを理論化してきた。 一方, 階層構造を仮定するカテゴリー化
理論においては, あるカテゴリーが把握されれば, それ以外のカテゴリー
に属する個別事例は全く考慮する必要はなくなり, 非常に効率的なベース
検索が可能となる。
また, 写像段階においてもカテゴリー化を仮定することにより, より効
率的な写像のプロセスを捉えることができる。 従来の理論においては, ベー
スの中のどの要素が類推に関係するのかを判断しなければならない。 ベー
スがもつ特徴の中には必要のある特徴や関係だけでなく, 必要のない個別
的な特徴も多く含んでおり, 最適な特徴を選び出す上で複雑な計算が必要
であることがわかる。 一方, カテゴリー化理論においては, カテゴリーの
持つ特徴や関係は定義上すべて具体例となるベースやターゲットに含まれ
るため, カテゴリーが形成された時点で, カテゴリーに関係したことのみ
が写像の対象となり, 写像のプロセスのかなりの部分は必要なくなること
― 135 ―
になる。
4 5
新たな類推プロセスのモデル
そこで本稿では, 以上の考察を踏まえて, 図表 7 のような類推プロセス
の仮説的なモデルを提案する。 このモデルの大きな特徴は, 先の図表 4 で
示された類推プロセスの 「ターゲットの表現」 段階と 「ベースの検索」 段
階との間に 「カテゴリー化」 段階を挿入した点である。 さらに, カテゴリー
化を経たベースの検索の段階では非常に妥当性の高いベースが検索される
ものと考えられるため, 「正当化」 段階の役割はそれほど大きくないと考
えられるため, このモデルにおいては 「正当化」 段階を省略した。
図表 7
類推プロセスの仮説的モデル
ターゲットの表現
カテゴリー化
ベースの検索
写
像
学
習
このようなモデルを仮定すると, 新製品の消費者行動はどのように説明
できるのであろうか。 消費者が新製品の採用意思決定に直面した際には,
「カテゴリー化」 段階において, その新製品が消費者のニーズや想定され
る使用状況の中でどのようなカテゴリーに属するものであるのかという抽
象化の認知処理が行われる。 次に, 新製品のカテゴリー化が行われた後に
は, そのカテゴリーに属する具体例の中からベースの候補が検索される。
― 136 ―
そして適切なベースが見つかったのであれば, 写像が行われ, 「学習」 段
階において, 新製品の新たな理解が獲得されるのである。
例えば, 消費者による HD・DVD レコーダーの採用を例に考えると,
HD・DVD レコーダーは従来のビデオデッキを代替する新製品であり,
テレビ番組を録画するという基本的な機能は変わらないものの, 本体その
ものにも録画したものを保存できるという機能をもつ点で従来のビデオデッ
キとは大きく異なる。 この, 録画したものを本体に保存するという新たな
機能を理解する際には何らかの類推を行う必要がある。 もしパソコンの使
用経験のある消費者であれば, ハードディスクという観点から HD・
DVD レコーダーとパソコンを同一視することができ, 「ハードディスク
に情報を保存できるもの」 として両者をカテゴリー化することができるで
あろう。 その結果, パソコンの使用経験で獲得したハードディスクに関す
る知識が HD・DVD レコーダーに写像され, HD・DVD レコーダーにお
けるハードディスクの機能が消費者にどのような便益をもたらしうるのか
という意味での理解を促進することになるのである。
一方, パソコンの使用経験のない消費者は HD・DVD レコーダーのハー
ドディスク機能をどのように理解するのであろうか。 当然のことながらパ
ソコンをベースとして用いることは不可能である。 したがって, 理解を促
進するためにはパソコンとは別のベースが必要になる。 この場合, 「ハー
ドディスクに情報を保存できるもの」 というカテゴリー化よりもさらに抽
象度の高いレベルでのカテゴリー化が達成できれば, そのレベルでのカテ
ゴリーに含まれる何らかのベースが役に立つかもしれない。 例えば, 「情
報を長期保存する機能をもつもの」 として, 人間の脳がベースの候補とな
るかもしれない。 すなわち, 「人間の脳と同じように HD・DVD レコーダー
本体の中に録画した番組の情報を記憶させておくことができるのです」 と
いう言明が HD・DVD レコーダーの特徴的な機能を理解する上で役に立
つかもしれない。
― 137 ―
以上のように, 従来の類推プロセスにカテゴリー化という消費者の知識
構造を考慮した認知プロセスを組み込むことで, 消費者の内部情報という
観点から, 新製品の普及過程における消費者行動の多様性を捉えるための
枠組みを提案することができるのである。
5. 新製品普及のマーケティング戦略
前節で提案された類推プロセスの仮説的モデルを想定することによって,
新製品を普及させる上でのマーケティング戦略に何らかの示唆を与えるこ
とができる。 基本的には, 企業による消費者の働きかけによって, 類推プ
ロセスの各段階を前進させていくことが必要である。 まず 「カテゴリー化」
段階においては, 新製品がどのようなカテゴリーに属するのかを企業側が
提示することによって, 消費者はベースを検索することが容易になるであ
ろう。 先の例を用いれば, HD・DVD レコーダー本体内部の記録媒体を
「ハードディスク」 とあえて呼ぶことによって, HD・DVD レコーダーが
ハードディスクという観点からカテゴリー化されやすくなり, 結果として,
ハードディスクを含む製品をベースとして選択できるようになるであろう。
次に 「ベースの検索」 段階においては, 企業自らが消費者に対して類推
に用いるべきベースを指定することも可能である。 基本的にどのベースを
検索するかは消費者自身の判断にゆだねられるものであるが, 広告や店頭
での接客場面において, 適切なベースを提案することによって消費者の類
推プロセスに影響を与えることは可能であろう。 HD・DVD レコーダー
の例では, 「パソコンのハードディスクと同じ」 といった言明が消費者の
理解を促進するであろう。
一方で, パソコンの使用経験のない消費者に HD・DVD レコーダーの
ハードディスク機能を理解してもらうためにはどうしたらよいのだろうか。
HD・DVD レコーダーを広く市場に普及させていくためには, このよう
― 138 ―
な消費者も取り込んでいく必要があるだろう。 パソコンという, ハードディ
スクを理解するうえで最適なベースが使えない場合には, パソコンの使用
経験のない消費者にとってもわかるベースが使えるレベルにまでカテゴリー
化の抽象度を上げる必要がある。 先述したように, 「情報を長期保存する
機能をもつもの」 というカテゴリー化のレベルで, 人間の脳をベースとし
て提示することも可能であろう。
このように, 新製品が普及していく過程において様々な消費者を取り込
んでいくためには, それぞれの消費者が持つ知識構造の多様性に柔軟に対
応してマーケティング戦略を考案する必要がある。 本稿で提案された類推
プロセスのモデルは, 新製品普及のマーケティング戦略に対して幾ばくか
の有用な示唆を与えるものと考えられる。
おわりに
本稿では, 今日のデジタル家電の普及を想定し, 消費者が内部情報を有
効に活用しながら新製品の採用意思決定を行う姿にアプローチしてきた。
消費者がその記憶の中に保持している内部情報は消費者によって異なるた
め, 新製品を広く市場に普及させていくためには, 企業はその多様性を考
慮に入れながら新製品のマーケティング戦略を組む必要がある。
消費者の新製品に対する情報処理の多様性を捉えるために, 本稿では類
推という人間の認知活動に焦点を当ててきた。 認知心理学における類推研
究のメインストリームにおいてはこの消費者の多様性を捉えるべく十分な
分析枠組みを持ち合わせていなかったことを問題意識として, 本稿ではカ
テゴリー化という観点から新たな類推のプロセスを提案することを試みた。
類推に関する研究は今後さらに発展が望まれる分野であり, 今後の研究
においてもその研究成果を取り入れていく必要がある。 また, 今回提示さ
れた類推プロセスが消費者の新製品の採用意思決定過程において実際に生
― 139 ―
起しているのか実証していく必要がある。
《註》
1)
内閣府ホームページによると, 平成 20 年 3 月時点の薄型テレビの世帯普及
率は 43.9%, デジタルカメラ同 66%, DVD レコーダー同 48.7%である。
2)
三種の神器とは, 白黒テレビ, 電気冷蔵庫, 電気洗濯機を指す。 3 Cとは,
車 (Car), クーラー (Cooler), カラーテレビ (Color TV) を指す。
3)
この点に関しては, 田嶋 (2003) において詳述されている。
4)
鈴木 (1996) では, 「カテゴリー」 という用語がすでに存在している自然種
や人工物などを指すことが多いとして 「抽象化」 という用語を代替的に用いて
いるが, 本稿では前後のつながりから 「カテゴリー」 という用語を使用する。
参考文献
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, 千倉書房。
〈付記 本稿は拓殖大学経営経理研究所の平成 18 年度個人研究[A]の助成を
受けている。 記して感謝する。
(原稿受付
― 141 ―
2008 年 9 月 30 日)
拓殖大学経営経理研究所
拓殖大学経営経理研究
執筆要領
1 . 発行回数
本誌は, 原則として年 3 回発行とする。 その発行のため, 以下の原稿締切日を
厳守すること。
5 月 10 日締切 (8 月発行)
9 月末日締切 (12 月発行)
1 月末日締切 (3 月発行)
2 . 執筆資格
執筆者 (連名の場合には少なくとも 1 名) は, 拓殖大学 (拓殖大学北海道短期
大学を含む) の専任教員とする。
この他, 経営経理研究所客員研究員, 拓殖大学大学院生 (博士後期課程), 拓
殖大学講師は, 当研究所の研究会において報告後, 投稿することができる。
3. 原
稿
原稿の区分
原稿は論文, 研究ノート, その他 (資料・調査報告・書評・文献紹介および
学会展望) のいずれかとし, 論文以外は, 原稿の 1 枚目左上に明記する。
この区分の指定は執筆者によるが, 経営経理研究所編集委員会は, 執筆者と
協議の上, これを変更することができる。
原稿の分量
原則として以下のとおりとする。
①
論
文
24,000 字 (400 字詰=60 枚) 以内
②
研究ノート
24,000 字 (400 字詰=60 枚) 以内
③
そ
20,000 字 (400 字詰=50 枚) 以内
の
〃
他 (資料・調査報告)
(書評・文献紹介・学会展望)
6,000 字 (400 字詰=15 枚) 以内
なお, 日本語以外の原稿の場合もこれに準じる。
様式等
原則としてワープロ原稿 (A 4 用紙を使用し, 1 行 33 字×27 行でプリント)
とし, 機種名ないし, ソフト名を明記したフロッピーディスクを添付する。
体
裁
原稿の 1 枚目は, テーマ, 著者名に続いて, 要約 (アブストラクト) 300 字
以内, キーワード 10 項目以内を掲げ, その後に本文に入る (目次は省略する)。
図・表
図・表の使用は必要最小限にし, それぞれに通し番号と図・表名を付けて本
― 143 ―
文中に挿入位置を指定する。 図・表も分量に含める。
注・参考文献
注は本文中に (右肩に片パーレンで) 通し番号を付し, 後注方式により本文
の最後に一括して記載する。 また参考文献も同様とする。
原稿は完成原稿とし, 2 部を編集委員会宛に提出する。 その際, 事務局備え
付けの所定の 「投稿カード」 (原稿の区分, テーマ, 著者名, 英文タイトル,
ローマ字著者名, 所属と職位, 専攻領域, 原稿枚数, 提出日, 必要な場合には
別刷超過印刷依頼部数) を添付する。
経営経理研究所からの研究助成を受けた成果の発表に係わる原稿は, 論文ま
たは研究ノートに限る。
原稿の受理日は, 当研究所に到着した日とする。
4 . 原稿掲載採否の決定
掲載に関する採否は, 編集委員会の指名した査読者 (原則として複数) の査
読結果に基づいて, 編集委員会が決定する。
編集委員会は, 執筆者に若干の書き直し等を要請することがある。
編集委員会は, 掲載しないことに決定した場合, 理由を付した文書でその旨
を執筆者に通知する。
既発表原稿については, 用語を変更した場合であっても, 原則として掲載し
ない。
5. 校
正
校正は, 最小限の字句を正確に, また迅速に行う。 執筆者が初校および再校を
行い, 編集委員会が三校を行う。
6 . 著作権
掲載された記事の著作権は経営経理研究所に所属する。 なお, 編集委員会が必
要と認めたときは, これを転載し, また外部から引用の要請があったときは, 検
討のうえ許可することがある。
7. 別
刷
別刷は 50 部までを無料贈呈する。 それを超えて希望する場合には有料とする。
8 . その他
執筆要領に規定されていない事柄については, その都度編集委員会で決定する
ものとする。
― 144 ―
(1999 年 10 月 29 日
改正)
(2006 年 2 月 18 日
改正)
(2008 年 2 月 1 日
改正)
執筆者紹介 (目次順)
松
井
幹
雄
元商学部教授 (経営学)
建
部
宏
明
商学部教授 (原価計算論)
小
原
博
商学部教授 (マーケティング論)
田
嶋
雄
商学部准教授 (情報科学)
規
編集委員
三代川正秀
芦田
誠
小原
拓殖大学 経営経理研究
2008 (平成20) 年 12 月 20 日
2008 (平成20) 年 12 月 25 日
編 集
発行者
発行所
印刷所
博
小林幹雄
第 84 号
建部宏明
松岡公二
ISSN 13490281
印刷
発行
拓殖大学経営経理研究所編集委員会
拓殖大学経営経理研究所長 三代川 正秀
拓殖大学経営経理研究所
〒 1128585 東京都文京区小日向 3 丁目 4 番 14 号
Tel. 0339477595 Fax. 0339472397 (研究支援課)
株式会社 外為印刷
TAKUSHOKU UNIVERSITY
THE RESEARCHES
IN
MANAGEMENT AND
ACCOUNTING
No. 84
December 2008
CONTENTS
Articles
The Development of Flexible Mass Production
System of Japan :
A Study of the Historical Relationship
between TOYOTA Production System
and Cotton Weaving Method of Interwar Period ……MATSUI Mikio ( 1 )
The Formation of Costs Accumulation Thought
in Japanese Cost Accounting System:
Indication of Japanese Cost Accounting System 2 …TATEBE Hiroaki ( 55 )
A Historical & Comparative Study on
the Global Marketing:
A Case Study Sewing Machine ………………………KOHARA Hiroshi ( 95 )
Consumer Behavior in New Product
Diffusion Process:
A Reconsideration in the Analogy Study
and the New Product Marketing …………………………TAJIMA Norio (119)
Edited and Published by
THE BUSINESS RESEARCH INSTITUTE
TAKUSHOKU UNIVERSITY
Kohinata, Bunkyo-ku, Tokyo, Japan
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