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「移民」から見るフランス
le Ciel フランス文化講座
le 28 février 2016
中條健志(CHUJO Takeshi)
大阪市立大学都市文化研究センター研究員
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フランスには約580万人の移民(2013年):人口の8.8%
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移民(immigré)とは何か?(国立統計経済研究所による定義)
→ 「外国で外国籍をもって生まれ、フランスに居住している人」
※外国人(étranger)=「フランス国籍を持たず、フランスに居住している人」
※移民=外国人 移民≠外国人 移民=フランス人 移民≠フランス人 etc.
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移民の”歴史”?
→ 19世紀~
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「国家」成立以降
歴史をふりかえりながら考えたいこと
①なぜ「移民の国」とよばれるのか?
②「移民」という言葉を捉えなおす。
1939年2月15日@セルベール(Cerbère)スペイン内戦から逃れるスペイン人難民
19世紀~1914年
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19世紀、フランスはヨーロッパで主要な移民受入国に。
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1830年以降、政治的理由でポーランド、イタリア、スペイン、ドイツから移住。
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その後、経済的理由での移住が増える。
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1851年、外国人数が国勢調査の対象となる。
→ 378,560人(総人口36,472,000人)
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1881年に外国人数が100万人を超える。(1,001,000人)
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近隣諸国からの移住者が中心(+ベルギー、イギリス、ドイツ、スイス)
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帝政ロシアからのユダヤ人亡命者も。
ワディントン社:1792年設立の紡績・織物工場
創設者は、産業革命によってイギリスから移住したトーマス・ワディントン
「フランスにやって来たベルギー人の刈入れ労働者」
1908年6月28日付『Le Petit Journal』紙
1883年10月14日付
『Le Monde Pittoresque』紙
ロシアでのユダヤ人虐殺
ポーランド人虐殺を描いた版画
ロシアの支配を受けるポーランドを支持する世論が高まる
cf.ショパン
イタリア人移民の通行証明書
1901年からイタリア人移民の数がベルギー人移民を超えトップに
経済的理由での移住者が大半
1914年~1944年
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以前は民間企業を通じてリクルートしていた。
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以後、国家間協定が結ばれるようになる。(ポーランド、イタリア、チェコスロヴァキア)
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ヨーロッパにおける主要な亡命者受入国となる。
→ アルメニア、イタリア、ロシア、ドイツ、スペインから。
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1931年、外国人数が全人口の7%に。
→ 2,715,000人(総人口36,472,000人)
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ヴィシー政権下(1940~1944年)、移民の入国は厳しく制限される。
第一次大戦中(1914~1918年)
労働者のリクルートは中国でもおこなわれる。
フランスに約14万人の中国人が入国
10万人がイギリス軍(同盟国)に配属
4万人がフランス国内の工場労働者となる
← 1920年証印の居住届。
(1917年に入国したTang Jou Hien氏のもの)
第一次大戦前、約42万人
移民受入協定によって、
1920年代にもイタリアからの
移住者が増加する
主な移住先
国境を接する南東部、
ロレーヌ(鉄鉱・石炭業)
アキテーヌ(農業)
リヨン、パリ
一部の農村やパリでは、
反ファシズム運動も展開
1931年、イタリア人が80万人
1920年頃のイタリア人移民、場所不明(フランス国内) を上回る。
オスマン帝国内でのアルメニア人の虐殺
(19世紀末~20世紀初頭)による移住者
※近隣のギリシャ、シリア、レバノンに逃れ、
その後フランスに。
マルセイユから入国→パリへ
1931年、全国に36000人のアルメニア人
1915年12月11日付『Le Petit Journal』紙→
1918年、ポーランド独立
経済的な停滞を背景に
農村部を中心に移民が始まる
1919年9月3日
政府間協定が結ばれる
(ドイツ経由の列車が運行)
1931年、86県に約50万人
農業・工業に従事
そのうち約5万人のユダヤ人
→ 東部やパリに居住
← ワニー(Oignies)駅
に到着したポーランド人
スペイン内戦
(1936~1939年)による移住
2回の波
・1937年のバスク制圧
・1939年(1月~2月)の
バルセロナ陥落
→ 2週間で約50万人が
国境を越える
1937年5月8日 →
ラ・ロシェルに到着する
子どもたち
1945年~1975年
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1946年、外国人数が減少傾向に転じる(帰国や帰化による)
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労働力不足による移民労働者の需要の高まり
→ 「栄光の三十年」(Trente Glorieuses)※高度経済成長期
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東西冷戦を背景とした、亡命者の受入国ともなる。
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移住者の状況の多様化:合法、非合法 etc.
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1962年の独立まで、アルジェリア人には移動の自由が認められていた。
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1946年:174万人 1975年:344万人
1946年、イタリアとの新たな移民受入協定が結ばれる
1962年まで、イタリア人移民が最も多かった
↑ピエモンテに到着した
イタリア人(1946年)
マグレブ、アフリカ移民
→ 植民地期
→ 独立後
第一次大戦中
→ 労働者や兵士として
1920年代
→ アルジェリア人が中心
(仏領土からの移住)
戦後(1960年代~)
モロッコ、チュニジア移民
西アフリカ諸国からも
↑ 船上のアルジェリア人(アルジェ⇔マルセイユ間
、1972年)
アルジェリア移民
1954年:21万人
1962年:35万人
1975年:71万人
→ ポルトガル人に次いで
2番目に多い
← マルセイユ港に到着
する船上のアルジェリア人
(1972年9月)
ハンガリー難民
1956年、ハンガリー動乱による移住
国外に逃れた約20万人の反体制派のうち、
1万人がフランスに入国
→ 難民(régugié)として認定される
オルセー(Orsay)駅に着いたハンガリー人→
(1956年11月8日)
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