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Page 1 論 説 フランスにおける公教育法制の成立Q 成 嶋隆 jt口次
40 ’.電ζ’巳−ζ︷−篭ごD亀’鴨−監︷一・亀ご 説 もまナきもほヨちロコくゴクへこロくごヨ 論 フランスにおける公教育法制の成立⇔ 成 嶋 第一節時期区分について 1目次1 はじめに 第二節 革命期︵以上第一一巻第二号︶ むすび 第二節 ﹁公教育三原則﹂の定式化 第一節成立の諸要因 第三章 第三共和政における公教育法制の成立 第四節 復古王政∼第二帝政 隆 第三節 執政政府期︵本号︶および第一帝政期︵以下次号︶ 第繭章現代日本における教育と法をめぐる問題状況 第一節 ﹁憲法・教育基本法制﹂・戦後教育行政・﹁教 育裁判﹂ 第二節 教育目的の法定と教育の﹁法律主義﹂ 第三節 ﹁公教育﹂の本質をめぐって 第二章革命期から第二帝政までのフラソス公教育の理論 と法制 第三節 執政政府期および第一帝政期︵一七九九∼一八一四︶ ︿革命の終結と公教育﹀ 一 フラソス革命は、共和暦八年霧月一八日︵一七九九年一一月九日︶のクー・デタによってその終焉を告げら プリユノロル れた。前節における革命期の意欲的な公教育組織作業についての考察に引き続き、本節においては、ある意味で し、教育問題についてのフラソス革命の”貸借対照表”を整理しておこう。 バランス シロト に考察がすすめられるであろう。その作業に移る前に、革命の終結した段階におけるフラソス教育界の状況を瞥見 ヘ へ ㈲ 載 現代フラソス公教育法制の中央集権的特徴を規定するナポレオソ・ボナパルトの教育独占体制の樹立の問題を中心 ⇔ 立 成 Oo韓舞畠︶によれば、ドヌー法の施行過程は、まさに”公立学校の崩壊”と”私立学校の勝利”の過程として把握 決して平和的なものではなかった。シャルル・フールリエ︵Oゲmユ①ω閃o¢巳巽︶やモーリス.ゴソタール︵ζ岱霞甘o って営まれる私教育︵ロロoロω9σqづo日〇三冒碧膏ロぽ目︶が存在した﹂のである。公教育と私教育の共存は、しかし、 ︵4︶ 教育︵巨o房。一σq”o日〇三や口匡凶。誌宅げ訂巴昌︶が存在し、︹他方には︺私費とりわけ生徒の両親が支払う授業料によ けていたこ亀を意味する・すなわち・この段階において﹁︹芳には︺公共体の費用で賄われる共和主義的公 は、とりもなおさず、﹁公教育の世界とはまったく別に、もう一つの広大な世界−私教育の世界が、現実には開 ヘ ヘ へ 力を保っていた。ただし、同法の適用対象はあくまでも公教育11公立学校教育に限定されるものであり、このこと 二五日︶の﹁公教育の組織に関するデクレ﹂︵Uひ自。3ロニ、。お巴ω巴8α2、ぎ゜。巨鼠8ヌげ言器︶が引き続き効 ︵2︶ 、、、 、、、、・、 作業および法案の総括︵°。旨鼻艶として制定されたドヌー法つまり共和暦四勉霧.嬰百︵一七九五年一〇月 留ゆ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 一七九九年の時点で、法制的には、革命期最後の実定公教育法として、また﹁公教育に関するそれまでの全ての 法 育 教 公 る け ソ ス お に ラ フ 覗 ρ ≒ ︵5︶ 42 されるのである。そのことを、初等・中等・高等の各教育階梯に即して、また時期的にも少しく遡って瞥見してみ よう。 公立初等学校︵①。9窃嘗巨ρ貯2℃ロげ嵩O偏3︶は、総裁政府期の最初の二年間で早くも困難に遭遇していた。その 主要な原因としてしばしば指摘されるのは以下の三点である。 ヘ ヘ ヘ へ 第一は、学校設備︵一︾一昌㎝陣曽口僧二〇昌 ユO 一り①60一〇︶そのものの貧困である。ドヌー法第一篇第一条は、各カソトソ ︵6︶ ︵O櫛ロけO昌︶に一校以上の公立初等学校が設立されるべきことを規定したが、総裁政府はこれを実現すぺき財政的基 盤を持たなかった。しかも学校の組織・整備義務が行財政的に一層脆弱である市町村行政庁︵蕾巴日ぎ韓冨件ご昌ω ︵7︶ 日ロ巳。首巴窃︶に委ねられたため、﹁︹学校を︺新しく建設することなどは問題となりえなかった。﹂学校用の建物と ブリユメロル して、旧司祭館︵♀畠o奉三胃。°。げ携8°・︶が充てられるべきことが共和暦三年霧月二七日法︵ラカナル法︶によ ︵8︶ り規定されていたが、同法は適用されず、旧司祭館は国有財産として売却されるか、復帰するカトリックの司祭 ︵9︶ ︵もδ茸oω︶のために留保されるという有様であった。こうして、例えぽジユラ︵甘量︶県では四つのカソトソに学 校が殆んどないとか、パーーラン︵一W帥ω゜]刃ゲ一昌︶県では三六六初等学校区︵聾旨o巳尻8日o昌富畠.評08°。肩巨騨o°・︶に対 ︵10︶ して一一五の学校しかない、といった状況が現出した。 ヘ ヘ ヘ へ 場所︵一〇8ロ図︶の問題に勝るとも劣らない重大な阻害要因として、第二に、人員︵窟話o目包︶つまり教師︵目巴。 訂oω﹂房けぎ冨繧゜。︶の問題があった。この問題は、建物の場合と同じく財政難に起因する教師の募集︵﹁OO﹁口齢①旨PO口轡︶ の困難さと、教師の質1その専門的能力︵8日忌8琴①肩ohom°。δヨ巴一〇︶および道徳的資質︵ρロ聾審目自巴o︶ 1あ問題との両面を含んでいる。前者についてさらにその原因を追究すると、ドヌ:法の下での公立初等学校教 師に対する著しい冷遇措置が浮かびあがる。彼等は、公務員でありながら、現実には国から固定給︵§茸魯o目o巨 ヘ ヘ ヘ へ ︷算。︶を与えられず、専ら、生徒の両親から支払われる年給︵8。誌三げ三凶oロき謹①一写︶つまり授業料︵.蜂門旨ロ齢ご” W芭Hρひoo鼠σQo︶ないし謝礼金︵同ひ8自口α門暫再一〇口︶によって生計を支えざるを得なかった。このことは、ドヌー法 °・ ヘ へ が義務性︵o霞σq巴o昌︶原則も無償性︵σq冨言ま︶原則も採用しなかったことと関連している。有償教育は国の教育 、、 ︵12︶ 条件藷霧の免除を意味強︶就学霧の不存在は・教師の収入が生徒の通学︵昼9・鼠爵゜・8腎︶の度合し 生 徒 の 瀞 o 象 ︷ o 口 と な る る 。 後述のように、両親はその子弟を次第 た が って 実 数 ︵ o︷ ︶ の 関 数︵ 。 け ご 旨︶ こ と を 意 味す となった。もとより、アソシヤソ・レジ!ムの下で活動していた元教師達は、革命の世俗化政策によって︵公︶教 ︵葺゜墓臼響聖を前に・教師候補者の辞退、現駿師の辞撃相次ぎ、公立初等学校の馨は極めて困難 謝 絨 に公立学校から引き揚げつつあったから、教師の収入は比例的に減少することになる。こうした﹁貧乏の恐怖﹂ ⇔ 立 成 恕αqぎo量嵩審゜。︶、後述の宣誓派司祭︵も椿言$8霧鼻慕ごロロ⑦芭のうち革命と妥協した部分、教育によって共和国 ︵15︶ に奉仕しようとする愛国者︵喝卑ロ08。。︶そして他に職業を持たない貧乏人︵巨ω卑o舞︶ぐらいのものであった。こ ニヴオ ズ うした絶対的・量的な教師不足に加えて、教師の質的不足が重大な問題としてあった。共和暦六年雪月二五日︵一 局、公立学校教師として残されたのは、共和政に賛成したアンシヤン・レジームの教師︵﹃ψ目鞍円。。。畠.﹀昌。一。ロ の尊重とを要求する共和国に敵意を持ち続けてい龍ので、公立学校の教師不足は雇深刻なものとなっ粍結 唱ロげ葛㎝︶を強要し、学校から宗教教育︵一.貯旨ロa8琶喧。口゜・o︶を追放し、共和主義道徳教育と旬日節︵念。9岳︶ 寄ゆ 育界から追放されていたし、また彼等は、この時点でも依然として、﹁公務員宣誓︵ロ昌器目目。韓自。ωhoロ。ユ。馨鋤騨。°。 法 育 教 公 る ソ ス け お に ラ フ 七九八年一月一四日︶、ドゥーーセーヴル︵一︶O口区.留くHOoり︶県当局は、内務大臣︵日ぎ尻茸o血o一、冒$﹃ぼロ噌︶にあてて次 ︵O口HOoo︶であるが、主任司祭が教師となっていない多くの所では、貧しさ故にやむを得ずこの職業につかなけれ ヘ へ のように報告している。﹁教師達は殆んど全員が無知︵ 鵯o犀ロ房︶である。その大部分はコ、、、ユーソの旧主任司祭 43 ー法制において公立学校教師の資質は、県行政庁の任命する教育委員会︵冒翅ω自、一霧言ロ9凶oロ︶が行なう試験によ 44 ばならない人間が教師となっており、彼らはその大部分が馨か蓉知案、教育の触かか奪でいかい雌ドヌ って担保される建前となっている。しかし、いずれの県においても、事実上、選択︵oゲo園︶行為はなく、例えぽ、 コミ†ソの発行する﹁公民心証明書乙・§弊註:凶書゜︶さえあれば許可さ輪とか・﹁普通以上の知識 があれば誰でも任命される﹂という状況であった。加えて、﹁かかる専門性の欠如が道徳性︵ド︿巴。昌日自巴o︶に ︵18︶ よって補われるというわけでもなかった。﹂僧侶のグレゴワール︵=°O審αqo冨︶は、﹁教師の大部分は、不敬崖、 ︵19︶ 飲んだくれ、背徳的であり、人類のかすである﹂と酷評し、また、ドゥエ︵Uo口巴︶市当局は、﹁初等学校は、大 、、 ︵20︶ 体において、その不道徳ぶりが無知ぶりに匹敵するような者に委ねられてい亀と報告している・当然のことなが ら、これらの公立初等学校教師は、住民の尊敬をえられず、しばしば迫害の対象とさえなったのであ碗∼ ヘ ヘ ヘ へ 阻害要因の第三は、公立初等学校の教育内容に対する親の反対である。ドヌー法第一篇第五条は、初等学校の教 育内容として、﹁読み﹂.﹁書き﹂.﹁計算﹂および﹁共和主義道徳の基礎﹂︵奮色ひヨ〇三゜。自。ド日自巴o詠やロ匡甘巴昌o︶ を規定した。この教育プログラムのうち、まず、読・書・算については、その平ル㌫︵H口$一〇〇吋凶酔①︶と﹁あまりに も狭い﹂︵け.oや器゜。け器葺︶という点が親の不評を買ったが、それ以上に、初等教育全体が”共和主義道徳”という 、、 ︵23︶ ﹁世俗性﹂︵蟹。竃︶原則を確立するためのものであり、共和主義教育とは﹁全ゆる啓示宗教︵器凝凶8誌誌一診︶ 縦糸で貫かれていることが大きな抵抗にあった。言うまでもなく、かかる教育プログラムの提起は公教育における に敵対する観念﹂を培養するものであった。それは宗教思想をたんに排除するばかりでなく、明確にこれに敵淋師 ︵24︶ 、、 ︵肪︶ 、、、、 、、、、、、 ︵26︶ ︵ゲ 。 邑o な 教 育な で あ る。 o ° ︶ の そして、その反宗教性は、実のところ、反カトリック︵m葺・8臣08ロ。︶性以外の 何物でもなかった。公教育のこの性格は、カトリックを信仰する多くの親たちとの間に非常な軋櫟をもたらすこと 謝 絨 となった。既に本稿e︵本誌第一一巻第二号︶において指摘したように、非キリスト教化の嵐が吹きまくった革命 のさ中にあって、民間のカトリック信仰は厳然として継承されていた。しかも、﹁テルミドールの反動﹂以降、旧カ トリック教会勢力は復興の途につき、彼らによる宗教教育が再開される中で、ドヌー法の標榜する共和主義教育は、 カトリック信者である親の教育意思に全くそぐわないものとなっていた。﹁実際、公立学校の多くの家父︵冨器。・ ヘ ヘ ヘ ヘヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ 畠oh§り已o︶は、教理問答︵Om一ひOゲ一〇陰営PO︶と福音書︵ひ毒ロσq出oω︶が憲法︵8昌ω鼻暮δ5︶と人権︵時o房自巴.ゴo目ヨo︶ ︵27︶ に置き換えられたようなところへ彼らの子弟を通わすことには反対だった。﹂彼らは、﹁ある所では、当局推薦の教 ⇔ 科書を購入することを拒否し、またある所では、それらが使われないことを希望し、また、こうした彼らの苦情が 立 ︵28︶ 成 受け入れられない場合には、むしろ子ども達が登校しない方を選び、学校から子どもを引き揚げさせた﹂のであ 定が、客観的にみてカトリック主義の復活に有利に作用したことは、本稿eにおいて既述したところである。一 自、 純漉吹w血。ωひ8蕾喝翼客ロ密H80二子器ω︶保障規定が存在していた。私教育の自由は、次いで、一七九五年憲法 ︵30︶ によって憲法的保障を獲得し、その教育面での施行法たるドヌー法によってその精神が受け継がれた。これらの規 私教育復活のための法制的足がかりとして、既に、ラカナル法第四章第一五条の﹁私立学校開設の権利﹂︵砕o旨 う新たな情勢をもたらすことになる。 程であった。﹁テルミドールの反動﹂以来の私教育復活の傾向は、ここに至って、私教育による公教育の駆逐とい ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 公立学校教育の衰退の過程は、他方では、カトリック僧侶を中心とする教会関係者による私立学校教育の復活の過 ヘ ヘ ヘ へ 陥れた。﹁総裁政府下の学校は、⋮⋮殆んど無人となり、全ゆる点で悲惨な光景を呈した﹂のである。このような 告ゆ る。 法 育 教 以上のような複数の阻害要因は、ドヌー法のめざした共和主義的・革命的な公立初等学校教育を絶望的な状態に 公 、、 ︵29︶ る け ソ ス お に ラ フ 45 る。その後半期、つまり共和暦五年実月一八日︵一七八七年九月四日︶のクー・デタ以降は、カトリシスムに 4煎 6 ︶復活しつつあるカトリック勢力瓢蔦難政府の対応は、主として政治情勢の推楚従・三転三転してい 対する厳しい抑圧措置がとられた。カトリシスム抑圧はそのまま私教育の自由に対する挑戦を意味する。かくし て、﹁この時点︹ク⋮.デタ︺以後、教育・学習の権利︵島o冨ユ.o口8凝昌臼oけ畠.9。や窯魯酔o︶は、︽共和国防衛V という・実の下に極めて厳しく制限され、学校は宗教的・政治的闘争の場とな験︶﹂この闘争において・もともと 指導性を発揮しえない脆弱な統治機関である総裁政府は、教育界へのカトリック勢力の侵攻を最終的には許してし まうことになる。 カトリック勢力による共和主義的公教育への攻撃の矛先は、主として、反宗教的・反カトリック的色彩が濃厚な 初等学校教科書に象徴される公立学校の教育内容に向けられた。神を無視し、安息日に労働することによって精神 ヘ ヘヘ へ を堕落させるものとみなされた公立学校教育に対抗して、カトリックの司祭達は、例えば﹁国立学校︹ま。巳o ロ⇔鼠。昌鋤一。11公立学校のこと︺が開かれている時間帯に教理問答を行ない、また、︹公立︺学校に通う生徒は最初の 聖体拝領︵冨国o目膨800目目億巳o昌︶から締め出されるであろうことを宣言す編︶套の戦術をとった・さらに 教会側は、こうしたいわぽ消極的な抵抗から一歩進んで、憲法によって保障された﹁教育の自由﹂の名の下に .︹公立︺学校の近くに攣訟︵信・魯3落目・島8葺§・・⋮三︶を開設す飽・つまり私立学校を積極的 に開設することによって公立学校に対抗するという攻勢的な戦術をとりはじめた。前述の司祭館が市町村当局の配 慮で復職する司祭のために留保され、多くの司祭がそこで兼職教師つまり﹁司祭教師﹂︵°誌器費゜塾として 活動しえたことが、この方法を一層効果的なものとした。私立学校を設立して宗教教育を再開したのは、司祭をは じめとして、男女の修道会員、アソシャソ.レジ:ム下の元コレ:ジュの教師︵o図・腕ooqo三〇陰︶、亡命司教︵ひ旛ρ器肋 ㈲ 械 ⇔ 立 成 ゆ ひ巨σq泳ω︶、﹁第三団﹂︵膏﹁ω6巳Ho︶と呼ぼれる世俗修道会のメソバ:等々であったが、それらは大部分がローマ. カトリック︵$匪o忌g°。Ho日m貯oω︶系に属するものであった。ところで、この時期のカトリック僧侶は、ローマ ﹁宣誓拒否派﹂︵誌坤碧鼠貯o°・㌦冨Ω目゜昌↓ひ゜・︶と、ガリカソ主義︵σq聾田$ロ尻日o︶のもとに﹁フラソス教会﹂︵いαQ房。 教皇庁に忠実で、一七九〇年に全ての聖職者に課せられた﹁公民宣誓﹂︵ωO昌口O口け O く ρ口O︶を忌避したいわゆる 派﹂︵90oo陰OH目PO口酔Oの︶ないし﹁立憲派﹂︵8房鼻ロま謬口色゜・︶との二つのグル!プに分かれていた。共和主義的公教育 ユo一9蜀話昌8︶つまり一つの国家教会︵ひoq房oぎまロ巴o︶を構築することを標榜し宣誓に応じたいわゆる﹁宣誓 ︵36︶ に対する攻撃は前者においてより激しかったが、宣誓派僧侶たちも同じくキリスト教徒として公立学校批判の戦列 に加わり・例えば﹁キリスト教学校﹂︵け8冨゜。O冨ひ9昌5。ω︶という宗派学校−﹁立憲学校﹂︵け8﹃切8房幹ぎ亭 邑琶とも呼ぼれるーを創設して独自の宗教警運動を展開し禰こうして・殆んど全てのカトリック勢力 灘8 ヂヵヂイ ことになった。私立学校では、朝夕の祈りが繰り返され、旬日節が無視され 鮪 が 私 学 設 置 者 と し て 公 教 育 に 対 抗 す る ︵銘︶ 訟 て日曜日が祝われ、アソシヤソ・レジーム下で使用された宗教的な教科書が再び使用された。これだけでも、公立 紺 学校の非宗教的な教育内容に不満足であった親たちにとっては大きな魅力であったが、さらに私立学校側は、出版 ︵39︶ 服 の手段などに訴えて豊伝を行ない、失った顧容︵O一一〇昌一Φ一〇︶を再び集める努力を怠らなかった。このため、公立 フ ” 学校生徒の親たちは次第にその子弟を私立学校に振り替えるようになり、私立学校は校数の上でも就学生徒数の上 でも公立学校を凌駕するようになった。政府委員が作成したある報告書によれぽ、 セ!ヌ︵ω①ぽo︶県一県だけで ︵ω︶ も、五六校の公立初等学校に対して私立学校の数は二〇〇〇以上にものぼったという。 次に、中等教育階梯の実態はどうであったか。革命期の教育改革により、アソシヤン・レジ!ムの中等教育機関 ︵41︶ であったコレージュ︵8幕σqo㎝︶は、﹁中央学校﹂︵診o巨89H巴o°・︶という新しい教育機関に置き換えられたが、 47 おける教育内容の特徴は、宗教教育︵ひ魯$けδロ邑喧o口8︶の排除と徹底した実学主義にあり、とくに﹁精密科 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 48 これを受け継いだドヌー法はその第二篇として中央学校の組織に関する一ニケ条の規定を置いている。中央学校に 学と観察科学の価値を明らかにする﹂という重要な役割を果たした。それはそれで﹁近代的な中等教育機関の指標 ︵銘︶ を、先どりしていた﹂のであり、﹁初等および高等段階に緊密に結びつく教育段階の絶対的必要性を提起し、将来 ︵43︶ のリセ︵一饗ひ。㎝︶における教育課程と方法を予告する﹂ものであった。しかし、﹁そうした特色が、そっくりそのま ︵“︶ 、 、 、 、 、、、 、 、 、 、 、 、 、 訟獄像寒、当時の人びとのあいだに、中央学校にたいする反感をよびおこさずにはおかなかつ幅∵ま り、第一に、その警の蕪宗教的・物質主義的性格﹂︵一゜§轟゜塾督轟゜け墨ひ琶跳姻そのものによっ て、第二に、寄宿制度︵同口8円昌”仲︶の不備によって、中央学校の評判は次第に低下していくのである。そして、中 等段階においてもまた公立校の衰退、私立校の隆盛という事態が生ずる。私立の中等教育施設として登場してくる のは、アソシャン.レジーム下の私立コレージュ︵8濠σq。°・やユ菰゜・︶の後身であり、﹁寄宿学校﹂︵需房凶oロ゜・博℃露珍 8塁畠︶と呼ぼれるものである。寄宿学校には﹁立憲派﹂系とローマ・カトリック系︵窟房δ房Sチo一一ρロ88日・ 巴9。・︶とがあったが、いずれにおいても宗教教育が重視され、﹁哲学者︵や巨08旨8︶ではなくキリスト教徒 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ︵47︶ ︵。訂$o房︶を形成することが目的﹂とされた。また、﹁伝統的・古典的教養﹂が重んじられ、アソシャソ・レジ ームの大学︵一讐dH臥く0円ω一けひ︶に匹敵する教育水準が維持された。これらの私立中等教育施設は、﹁フラソスの全ての 地方に﹂見うけられ、至る所で成功を収めた。パリでは、中央学校が三校しか設立されていなかったときに、こう ︵48︶ した施設が約二〇ほども存在したといわれる。 ︵ 4 9 ︶ 最後に高等教育であるが、この階梯に該当する公的機関は、ドヌー法第三篇に規定され、かつての大学学部 ・6一日一け伽ω︶に対応する﹁専門学校﹂︵ひ8匪。。忌9巴$︶である。専門学校は、天文学・政治学・薬学・音楽など科 ︵︷ 学芸術の諸分野にわたる研究のために各個に設立されるものであり、その数や組織は﹁公教育委員会の報告に基づ ︵50︶ いて、個別法︵ζ゜・思翼ざ巳毎。ω︶によって﹂具体化されるものと規定された。革命期に設立されたいくつかの専 ︵51︶ 、 門学校が﹁全て同一の運命を辿ったわけではな﹂く、例えば﹁教師師範学校﹂︵一、国8げ昌oB日巴o飢、貯ω窪ロ8ロ屋︶や ﹁軍学校﹂︵一”両。9。ユ。ζ胃゜・︶が束の間の存在でしかなかったのに対し、﹁総合技術学校﹂︵一、国8﹃眉o望o。ゲ巳ρ信o︶ ヘ へ ︵52︶ をはじめとする他の専門学校はその優秀性を発揮し、長く維持されることとなった。ところで、これらの専門学校 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 。奮器ω︶は依然として非宗教的︵凶舞魯αq貯器o°。︶であった。それ故、大体において革命の諸原理︵奮肩ぎ9窟゜・ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ にも拘らず、キリスト教精神は総裁政府期においてもまた大衆の間に浸透した。しかし、上流諸階級︵冨冨ロ8ω ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ るものであったろう。ルイ“グリモー︵いo巳ω−OH巨9。巳︶はこの点につき次のように言う。﹁恐怖政治の暗黒の日々 ㈲ 絨 と私的な高等教育施設との関係、視点を変えれば、公教育としての高等教育に対するカトリシスムの関係はいかな ⇔ 立 成 希ゆ 法 育 チドール一八日丁ク:・デタ︺までは、つつがなく機能した﹂という。 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵肘︶ ヘ ヘ へ りルイーーグリモーの指摘によれば、﹁将来の司祭のための文化の中心﹂として創設された神学校なども、﹁プリユク 総裁政府の前半期においては、高等段階における公教育と私教育の関係は概して平和的であったようである。やは ヘ ヘ へ 的であった。ただ、このことはカトリック勢力の私的高等教育経営が抑圧されていたことを意味せず、少なくとも ヘ へ をなすものである。﹂このように、高等教育においては、カトリシスムよりも革命的・共和主義的精神の方が支配 ︵ 5 3 ︶ ラ・アルプ︵H帥=碧窟︶は、カトリック精神のリセを創設したが、これは、いわば一つの破格︵嘗昌o勢ロo目櫛団o︶ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ 冨巴昌︶および︽美術リセV︵ξ。ひ。ユ①゜。≧侍゜。︶はその最も重要で著名なものである。カトゾシスムに改宗した後、 降、たいてい︽リセ︾の名を与えられた若干数の教育施設によって発展させられた。︽共和リセV︵目饗ひo幻魯ロゲ 教 誌く巳9δロ昌巴器㎝︶が私的高等教育︵一、。器。凶αq昌。目。三霊葱H♂目一凶ぴ器︶に影響を与えていた。後者は、共和暦四年以 公 ヘ ヘ ヘ へ る け ス ソ に ラ フ 49 は、とくに初等・中等段階において、カトリック勢力による私的宗教教育の圧倒的な成功の前に衰退の危機に瀕し 50 以上みてきたように、総裁政府の前半期︵一七九五∼九七年︶において、ドヌー法のめざした共和主義的公教育 ていた。一方、議会政治の場面では、共和暦五年芽月︵一七九七年三∼四月︶の両立法府の選挙において、王党 ジニルこナロル 派︵8旨房け。ω︶1より正確にはカトリック派1が新しい多数派を形成した。彼らは議会において、それまでに を攻撃し始めるが、このことは共和派︵誌陰げ崔Sげ8︶の間に﹁王党主義の危険﹂︵暮巳No饗房8︶ないし﹁教権 ● なされてきた﹁聖職者を対象とする迫害的立法﹂︵ξ竃αq一゜・一薗ユoロ需屋脅暮H一8島o口二霧08冨゜。一器且信o°・8昌二、oぽ糞︶ ︵55︶ の危険﹂︵暮議9ひ旨巴に対する危機感を惹起し、遂に、左翼からのクー・デタとして共和暦五年実月一八日 ︵㎎W︶ プリユクチドール ︵一七九七年九月四日︶のクー・デタが敢行される。このクー・デタの後、総裁政府は﹁反教権独裁ム︵象9讐臼。 ︵駆︶ 碧二9鈴甘巴。︶の機能を呈することになり、教育の領域にもこれが及ぶことになる。この過程を、まず、議会とり わけ﹁五百人院﹂︵088鵠αo°。Oぎρ・O①見゜。︶における新しい教育立法の試みに即してフォローしてみよう。 プリユクチドじル 実 月 のクー・デタの翌日、﹁抑圧法﹂︵8αo山、o唱Ho吻゜・ご昌︶と呼ばれる一つの法律が制定され、﹁教権の危険﹂ に打ち勝つための強力な権限が政府に付与された。とくに、﹁王権と無政府に対する憎悪、共和国と共和暦三年憲 法への愛着と忠誠﹂︵ゲ巴ロo艶冨Ho饗ロ悉雲餅一.曽昌自6窪ρ凶§oゲo目o昌仲簿︷置ひ澤σ曽﹃幻曾ロ匪ρロooけ呼ドOo㌣ ωけぎま昌山o一.o昌目︶を内容とする新しい宣誓を聖職者に課すことによって、私教育活動に対する間接的な圧迫を 加えたことが注目される。次いで、共和暦六年葡萄月一二日︵一七九七年一〇月三日︶、五百人院議員︵共和派︶ ︵甜︶ ヴフンヂこエール のシャザル︵Oげ鶴巴は、子ども達を﹁共和国に対する敵意﹂の中で教育している寄宿学校や教育舎︵日僧凶゜・o昌 ウ曾$翫oロ︶を告発し、こうした害悪︵旨巴︶が全て、当局が私立学校教師を監督せず、また敵対的な教師に対し 幽. て何らの制裁も課していないことから生ずるとして、私教育監督のための決議案︵嘆o寅告o泳。・oぎ偉一〇昌︶を提出 ﹁ ︸ した。この決議案は、﹁共和制度委員会﹂︵Oo昌ヨ一㎝゜・一〇口山o°。ぎω葺ロけ一〇ロ吻H曾ロぴ一繭8ぼo°・︶という特別委員会に付託 ︵95︶ ブリユノロル された。共和暦六年霧月六日︵一七九七年一〇月二七日︶には、やはり共和派議員のロジェ・マルタン︵幻oαq臼 ︵60︶ ζm昌貯︶が公教育委員会の名で公立学校教育振興のための法案を上程した。この中でマルタソは、﹁初等学校と中 フリノロル 央学校とを隔てている溝を埋める﹂ために﹁中等学校﹂︵伽。9。吻器8昌畠冨゜。︶を創設することを提案している。マ ルタン提案についての討議は霧月二七、二八日および霜月一一日に行なわれたが、結局﹁採決延期﹂︵一、ao霞昌甲 ブリユノ ル ㈲ プ リ メ セ ル 載 B。三︶が宣された。共和暦六年霜月九日︵一七九七年=月二九日︶、ガルニエ・ドゥ・サソト︵O跨巳巽幽o ⇔ ?oレ8°。︶はシャザルの意見を再びとりあげ、﹁私立の教育舎を政府の直接的監督の下に置く法律﹂の制定を要求す Q 立 ︵61︶ 成 る動議︵ヨoけ繭8畠.o巳器︶を提出した。これは議事進行上の理由から採択されなかった。さきにシャザルの提出し る。それによれば、教職に就こうとする者は、まず市町村当局にその旨を意思表示し、前述の﹁公民宣誓﹂よりも ︵︼ 希ゆ ムヴオセズ 法 た決議案を付託された共和制度委員会の報告は、共和暦六年雪月二八日︵一七九八年一月一八日︶にリュミネ 育 ︵62︶ 教 t口B一昌9尻︶によってなされた。この報告には、私立学校に対する厳しい規制を内容とする決議案が付されてい 公 ︵63︶ る 讐盆ω鼠畝8亀o言o曾目8ロ湯︶を提示し、さらに、教育委員会に出頭して試験を受けなければならない。これらの ック聖職者の教育界からの排除を企図したものであり、同条項を中心として、リュミネ案は激しい論議を巻き起こ ︵硯︶ すこととなった。そして、結論が出ないまま採決延期となり流産した。この後、ロジェ・マルタソが二度にわたっ 日賃篠︶、道徳を教えることも私的教育施設の長となることもできない﹂と規定している。 これは明らかにカトリ らに、第九条において﹁いかなる市民も、結婚しているか、もしくは寡夫であるかでなければ︵°・、出口、8汁く°氏oロ 形式要件を全て満たした上で初めて県当局が教育免許を与えるか否かの最終的決定を下すのである。同決議案はさ 内容的には一層厳しい宣誓を行ない、﹁清廉でしかも地位のある五名の市民﹂による﹁素行・品性証明書﹂︵巨o ス ン け お に ラ フ 51 なく葬り去られる。その代わりに五百人院は、共和暦六年草月一七日︵一七九八年六月五日︶に、ポルティエ ︵65︶ 52 て公教育振興のための報告・動議を提出するが、これらは政治情勢の急変などもあって討議さえ行なわれること プレリフル ︵知o誹帥o凶︶の提案に基づいて、﹁フラソスにおける教育の状況と、その進展をおくらせている障害︵oげω富90。。︶に ついて﹂の情報を提供するよう政府に要求した。 ヘ ヘ へ 五百人院における以上のような作業は全体として実りの少ないものであった。﹁議会は不毛の議論に精根尽き果 て、結局、教育再建の試みにおいて挫折してしまった﹂のである。一方、執行府つまり総裁政府の側では、立法府 、 、 ︵66︶ の挫折をいわば予見していたかのように、公教育再建・私教育規制の政策を独自に遂行していた。最初の重要な措 ヘ ヘ へ プリユノなル 置は、共和暦六年霧月二七日︵一七九七年一一月一七日︶の総裁政府アレテ︵一.慧$告H88ユ巴︶の公布であ る。﹁公教育繁栄令﹂とも呼ばれるこのアレテは、とくに中央学校の生徒数を増加させることを目ざしたものであ り、例えば、何らかの政府機関に就職することを望む市民は﹁共和国の中央学校に通学したことの証明書﹂を願書 ︵67︶ に添付しなければならないこと等を規定する。﹁繁栄令﹂の目的をルイーーグリモーは次のように要約している。1 ﹁公立学校の無人化を阻止すること、これは家長︵oゲo︷吻畠oドB邑o︶に道徳的強制︵8三冨ぎ8目自巴①︶を行使 ︵68︶ することによってなされる。同じく、将来の公職候補者に明確な共和主義精神を形成させること。﹂政府サイドで プリノロル は次に、内務大臣ルトゥルヌー︵Hし①酔O自H昌O目囲︶が、共和暦六年霜月二九日︵一七九七年一二月一九日︶付で県 行政当局に通達︵O一HOロ一”陣﹃O︶を発し、﹁私人によって経営されている学校および教育舎を取締まる﹂ことを要求し ウらに、第二の重要な措置として、共和暦六年プ魂ヴ、層ズ一七日︵一七九八年二月五日︶には、﹁私立学校監督 輪︶ 勘o蕾冨瞥凶。巳δH。μ目薗δo口ω畠びユ鐸$けδロ象鷺器ご昌昌讐¢︶が公布された。同アレテは、各カソトソの市町村当局 令﹂つまり﹁私立学校、教育舎および寄宿学校の監督に関するアレテ﹂︵>Hみま8昌8旨魯二⇔°・ロH話崔8。oユo㎝ ︵70︶ が私的教育施設を﹁不意に﹂︵呼ユo°。魯oρ口窃巨冥ひく器。・︶訪問し、そこで人権宣言・憲法および共和主義的な教 デヵヂイ 科書が教材として使用されているかどうか、旬日節など共和国の祝祭日が遵守されているかどうかを査察すべきこ となどを規定している。一ヶ月後の共和暦六年風月一七日︵一七九八年三月七日︶付で、県当局および県駐在政 ヴアント ズ 府派遣委員にあてて内務大臣ルトゥルヌーボ発した通達は、同アレテの本質を知る上で重要である。−ー﹁公立学 校の傍らに大胆にもたくさんの私立学校が建てられている。そこでは、憲法と政府に真向から対立する主義主張 展開した。とくに、私立学校に対しては、政府は単に﹁教育の自由﹂の行使を制限してその教育活動をコソトロー このように総裁政府は、公立学校の衰退を防止し私立学校に対する監督を強化する政策を、独自の方針に従って 鵬 ︵目帥図旨口Oゆ︶が提起されており、若者達が受け取る主義主張の邪悪さに比例してこれら私立学校の正義にもとる繁 似 栄が増大しているように思われる。それゆえ、これら王党的・迷信的な狂信の巣窟︵NO唱9旨Oqo︶に対して諸君の全 ︵71︶ 戴 ゆる警戒、全ゆる活動が向けられることを総裁政府は要請する。⋮⋮﹂ ゆ 法 育 教 て、これを侵害することなくその適用の諸条件を法定することが問題となるであろうからである。しかるに政府 ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘヘ の所管に属する。何故なら、︹その場合には︺教育の自由という憲法上の原則︵も耳昌。一究。。昌゜。二けロユ。昌ロ。一︶につい o弓︶を打ち砕かなければならないであろうからである。⋮⋮教育・学習の権利の行使に対する規制もまた立法府 によってしか達成されえない筈のものであった。何故なら、︹そのためには︺現行学校法︵互ω。・8貯貯oω魯iσq午 ヘ ヘ ヘ ヘ へ レテ﹂という行政立法形式によって遂行されたことである。そもそも﹁公教育改革は、立法権︵団o仁くo貯ピひαq邑讐5 ヘ ヘ ヘ ヘ ある。ところで、この時期における総裁政府の教育政策には特徴的な事柄が二つある。一つは、主要な政策が﹁ア 運動と結合した﹁教権の危険﹂を打破し、﹁カトリック教を少しずつ破壊する︵念言巳器︶﹂ことを狙っていたので 、、、、 ︵73︶ ルするのみならず、あわよくばこれを閉鎖する︵︷臼日oH︶ことさえ企図していた。そうすることによって、私教育 公 、 、 、 、 ︵72︶ る け ン ス お に ラ フ 53 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 意に介することなく、単なるアレテの手段によって教育政策を遂行したのである。﹂特徴の第二は、第一点と関連 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵47︶ 54 は、︹立法府において︺こうした考え方についての法案が採択される前に、また自らの権限を逸脱することを全く しているが、こうした﹁合法性について議論の余地のあるアレテ﹂︵胃NO菰゜。畠、80叡αq聾審岳8ロ9匡o︶が、とくに 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵75︶ 共和暦三年憲法第三〇〇条の﹁教育の自由﹂保障規定に反するという批判に対して、政府が同じ憲法の第三五六条 を引き合いに出してその合憲性・合法性を主張したことである。第三五六条とは、﹁法律は、良俗︵蕾ヨ8霞゜。 ︵76︶ 覚げ言ロ窃︶、市民の安全および衛生に関する職業を特別に監視︵oo口HぐO凶=ON︶する.⋮⋮﹂という規定であるが、政 府は教師職がまさに﹁良俗に関係のある職業﹂にあたるとし、これを監督する義務が自らに課せられていることを 主張したのである。 ︵77︶ ︵78︶ いずれにせよ、総裁政府のこうした”勇み足”的な施策の推進によって、私立学校に対する監督が﹁効果的に﹂ ︵O ︷︷ 〇鋤 O① 目日 ]口 け︶ なさ 、 多くの私立学校を消滅させた﹂ことは確かである。しかしながら、﹁総裁政府によっ 一 O れ﹁ て共和暦五年の間に遂行された教育政策は、持続的な成果を生み出さず、キリスト教家庭の子弟達を公立学校の方 ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 、 、 ︵97︶ に向けさせることには成功しなかった。確かに、私教育は最初のうち幾分後退したが、しかし、すぐに失地を回復 したのである。﹂ した。この時点における﹁民衆教育︵一、ぎ鴇コ。齢一〇ロ唱oや巳m貯。︶への関心の再燃﹂の直接的な契機となったのは、さ 共和暦七年に至り、﹁ジャコパソ主義の熱狂﹂の中で、議会と政府は再び﹁新教育立法に向けて﹂の努力を開始 ︵80︶ ︵81︶ きに五百人院より要請されていた公教育状況調査に対する政府の回答である。この、いわば﹁公教育白書﹂ともい うぺき﹁教書﹂︵ζ。°・°・◎﹃qo︶の中で総裁政府は、まず﹁共和暦四年法﹂つまりドヌー法の﹁失敗﹂︵ま。ゴ8︶を次の ように指摘している。﹁︹同法は︺初等学校の地位を永久に不動のものとし、その存在を確かなものとするはずのよ うに思われた。⋮⋮しかし、いざ施行してみると、そうした期待に応えるどころではなかった。実際、ごく少数の ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 県を別とすれば、初等学校は、存在していないか、または不安定な存在でしかなかった。教師の大部分は、貧乏の 恐怖に苦悩しており、いたずらに偏見・狂信・迷信の奔流と闘っているのである。﹂次に教書は、この失敗の原因 として、﹁秩序破壊分子﹂による共和制度への攻撃、これを支持した多くの県中央当局および市町村当局の﹁無頓 へ 着﹂と﹁悪意﹂、学校用施設の不足、反共和主義的学校への﹁好意﹂と愛国的教師に対する﹁迫害﹂、これらの悪弊 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ の不備、共和主義的教科書に対する﹁偏見と無知﹂、そして何よりも﹁教師たちの不幸な状態﹂ 鵬 を 抑 制 す べ き 法 律 ヘ ヘ へ 叙 ︵冨$梓日巴ゲo霞①口図ユo°・B臥qo°。︶等々を指摘した。最後に教書は、立法府がこれらの障害を除去するために﹁よ 戯 り有効な方策﹂をとるべきこと、およびその基本的な方向について意見を述べている。この教書を受けて五百人院 物 で は 、 ロ ジ ェ ・ マ ル タ︵ソ8、2ウ︶ル ト ー 1 ー ラ メ ル ヴ ィ ル ︵ = O 目 H 鈴 凶 口 酔 ﹂ U § O 円 く︵一8一3一︶〇 ︶ 、 ボ ネ ー ル ︵ ︼ W o ロ︵昌艦巴︶同 o ︶ 、 ブ リ オ ︵︵じ8d5同︶凶oけ︶ ︵86︶ 龍 そ し て ジ“ア・デュロール︵﹄㌔﹀° H︶ロ一90口噌O︶らが相次いで公教育の再編あるいは私教育の監督に関する報告と決議 鰭案を提出し、教育論議が俄然活発化した。その経過を詳述することは避けるが、﹁報告﹂←﹁修正﹂←﹁採決延期﹂ 肪 の循環の果てに、一連の公教育再建計画は、結局どれ一つとして実現されるには至らなかった。そして、﹁教育立 臨 、 、、、、、、 、、 ︵解︶ の新しい政治舞台の特徴を概観することから次の考察を開始しよう。 によって樹立される新しい政治体制の下で、この問題は新たな展開を遂げることになる。そこで我々は、まず、そ の発展という事態は、立法府・行政府の努力にも拘らず、依然として解決されないまま、舞台は回り、ク1.デタ 以上が、総裁政府期つまりフラソス革命の最終期におけるフラソス教育界の状況である。公教育の衰退.私教育 甥 法改革が達成される前に、共和暦八年ブリュメールのクー・デタが、総裁政府の存在に終止符を打ってしまった﹂ ” のである。 55 56 ︿執政政府期﹀ ニ 共和暦八年霧月一八日︵一七九九年一一月九日︶のクー・デタの翌日、︽臨時憲法︾として﹁政府を執政委 プリユメロル 員会に委ねる両院決議﹂︵︾90岱o。。Ooロのo一﹃ρ巳。o島。げσqoロ器諺o目〇三呼巨。8日日一。・・。一〇昌8ロω巳葺o︶が採択 された。同決議は、﹁総裁政府﹂に代わる新しい執行機関として﹁執政委員会﹂︵Oo昌巳゜・切画88昌ω巳舞。。益2ユ掃︶ ︵Z巷o示8切o諺窓昌o︶の一一一名を指名した。以後、ボナパルトが﹁皇帝﹂︵国日需器弓︶となるまでの短い期間を を設置し、委員としてシエイエス︵国日ヨ碧ロoこ80嘗ω凶o器゜・︶、デュコス︵幻oσq臼Uロ8ω︶およびボナパルト ︵88︶ ﹁執政︵又は統領︶政府﹂︵Oo冨巳讐︶期と呼ぶ。 執政政府期︵一七九九・一一・一〇∼一八〇四・五・一七︶の政治過程の概略は以下のとおりである。まず、一 七九九年一二月二二日に﹁共和暦八年霜月二二日のフランス共和国憲法﹂︵Oo房捧黒δ昌匹。鼠菊曾ロ霞ρロo ブ リ メ ロ ル 守⇔ロ饗密曾B壁巨m貯。壁≦︶が制定された。この憲法の起草はボナパルト、シエイエス、ドヌー︵国。議。・ Ωm民o萄尽昌o尻∪象口o醒︶らの主導の下に行なわれたが、とりわけボナパルトの政治思想が色濃く投影されてい 騙︶望ぽ・制定手続における﹁プレピζ﹂︵萎ω量の採用がその端的な表われである・﹁プレビシト﹂と は、同憲法第九麹の規定する憲法萎の人民による批准の手続であ久一七九三年憲法の採用した﹁レフニレンダム人民投票﹂ ︵MO瀞噌O昌α¢5P︶の手続と形式上類似している。しかし、フラソス憲法学においては両者は厳密に区別されており、 レ ピ の 、 権 当 者 民 の 委 任 ” & ぴ ド ヘ ヘを け ヘ、 個 ヘ ﹁ プ シ ト ﹂ 本 質 は 力 担 へ の 人 白 紙 ︵ 目 日 舞 8 ロ 。 ︶ とヘ り つ 権ヘ 力 の 人 集へ中 ︵91︶ ︵需おo暮餌房巴8山$もoロ︿9Hω︶を媒介するものと理解されている。この手続は、権力の正当性︵叡αq律B繭ま︶の 淵源を人民に求めつつ独裁を敢行せんとするボナパルトの思想に極めて適合的であった。シエイエスの﹁権力は上 囎 城 ⇔ 立 成 ゆ から生じ、信任のみが下から生じなければならない﹂︽日o℃o薯o貯匹o一けく自貯瓢.oロゴ碧計一m8珪碧8。。。目一〇亀o騨 ︿o巳目住、。口び器Vという言葉が、この思想を簡潔に定式化している。﹁プレピシト的代表﹂︵鼠器箕診o口婁ご口 ︵92︶ 営ひぼ゜。9巴掃︶によるこの権威主義的な政治体制は、 フランス憲法史上、﹁カエサル的民主主義﹂︵匹ひヨo自⇔二〇 ︵93︶ ︵艦︶ ︵95︶ o詮巴o昌昌o︶、﹁民主的カエサル主義﹂︵oひ゜・胃貯日o念日oo冨且口o︶あるいは広く﹁権威制﹂︵泳お§oO口σqO信奉旨o・ ︵96︶ って具体的に確保されている。立法権は﹁多院制﹂︵8娼oζ$B恥尻Bo︶の形態をとり、﹁国事院﹂︵﹃Oo話。昌 日。巨き8碁9眸o︶と呼称されている。共和暦八年憲法において、﹁権威制﹂の内実は統治機構に関する諸規定によ ︵併︶ c 讐︶・﹁護民院﹂︵一〇 ]りH一げ口口㊤件︶・﹁立法院﹂︵げOoぢ゜。叡σq邑9薮︶および﹁護憲元老院﹂︵﹃忽昌讐。o器o辱讐o葺︶ 血、 へ の四機関に分辱しめられ聡こうし薩限分散の結果・統治騰内部における立法権の地位讐しく低下し・逆 である。人権に関する規定は、第七六条の住居の不可侵、第七七∼八二条の刑事手続における人身の自由そして として重要なことは、これまでの革命期諸憲法とは異なって、人権宣言も権利保障の章も置いていないということ 中﹂︵8口8三旨二8伽窃も2︿9誘αqoロ<o昌。目。口鼠舞︶の機構として完成するのである。このほか、同憲法の特徴 、 ︵301︶ されているということである。かくして共和暦八年憲法の統治機構は、名実ともにボナパルトへの﹁統治権の集 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ うな規定も異例のものであるが、更に注目すべきは、統治の実質的権限が全て第一統領に集中すべく諸規定が配列 執行権を担当する統領について、同憲法第三九条は具体的な人物を指定しており、第一統領としてボナパルト、第 ︵201︶ 二統領としてカソバセレス︵AU露ぴOO①抽㎝︶そして第三統領としてルブラソ︵ぴoび昌昌︶が指名されている。このよ という言葉で表現されている。﹁復讐﹂とは、革命期の諸政府とりわけ総裁政府の弱体性に対する反動を意味する。 法 に、三名の統領︵Oo蕊巳︶によって構成される執行権の地位が相対的に高められることになる。かかる統治機構 育 ︵99︶ ︵㎜︶ 教 の特徴は、﹁執行府の全能﹂︵一.o日巳喝20昌8αo一”。器。ロ藻︶あるいは﹁執行府の復讐﹂︵冨Ho毒口魯o山o一.。巻。三猷︶ 公 ︵101︶ け る ソ ス お に ラ フ 57 銘 第八三条の請願権など、ごく僅かであり、体系的な人権保障の構造を備えていない。教育についても、権利条項は ︵㏄1︶ なく、第八八条で﹁国立研究所︵謬゜。鼻9昌巴o昌&は、発見を奨励し、科学および芸術を完成する任務を有する﹂ ︵1︶ と規定されるのみである。総じて、この憲法は﹁革命の理想、原理および制度に対する徹底的な反動﹂を基調とし 義的・個人的な政府︵巨02奉旨o目o暮窪8昌巴30件需冨o目巴︶の覇権に基づく権力を樹立した﹂のである。 ている。﹁革命期の諸憲法は、権力の分立と緩和とによって自由を確立した。︹しかし︺共和暦八年憲法は、権威主 ︵061︶ ボナパルトの権力への接近はその後も執拗に追求される。いわゆる﹁共和暦一〇年の粛清﹂︵σ嵩日ぎ隅ま5貸o一”雪 ×︶によって反抗的な立法院の議員を追放し、また、護民院に対して﹁国民的感謝の明白な証拠﹂︵§$ヨo黄poαq。 ひ。一9。冨韓甑08。o昌昌巴㎝器昌ooロ潜け一〇昌巴o︶を示すことを強要した。ボナパルトの意向を察した元老院は、共和暦一〇 フロレフル 年花月一八日︵一八〇二年五月八日︶の元老院令︵﹃絵ロ讐島60諺巳帯︶に、よってこの要求に応え、更に、ボナ パルトの任期を十年間延長することを定めた。しかし、ボナパルトはこれらに満足せず、再び“人民への訴え” ︵一、巷窟一①口窟口覧o︶つまり﹁プレビシト﹂を要求した。こうして、﹁ナポレオソ・ボナパルトは終身統領︵﹃ Oo諺巳曽く凶o︶であるか?﹂という人民諮問が行なわれ、フラソス人民は圧倒的多数の︽o巳Vをもってこれに答 えた。この結果をうけて、共和歴一〇年熱月一四日︵一八〇二年八月二日︶の元老院令は、その第一条をもっ ラルこドール ︵70ー︶ てナポレオン・ボナパルトを終身統領に任命した。人民の信任を得たボナパルトは、直ちに共和歴八年憲法の改 正に着手し、共和歴一〇年熱月一六日︵一八〇二年八月四日︶の元老院令1いわゆる﹁共和歴一〇年憲法﹂ テルこドール ︵08且︶ ︵ドOo易捧暮凶8住o一.m5×︶1としてこれを実現した。この憲法は、共和歴八年憲法の選挙制度と統治機構の 一部を改正するものであり、当然のことながら権利条項を備えていない。 以上が執政政府期の政治過程の概略である。この時期は、一八〇四年に始まる帝政に向けての過渡的な歴史過程 ㈲ 載 であり、ナポレオソ・ボナパルトへの国家権力の集中的帰属が着実に達成されていく道程である。ボナパルトはこ の道程を“人民への訴え”を援用しながら歩んでいくが、それは、前述したように彼が自己の権力の正当性の起源 を人民に求めたからに他ならない。この時期、権力の正当性の根拠には二つのものがあった。一つは﹁王朝的︵君 主政的︶正当性﹂︵ド菰αq達巨ま日oロ胃。窪ρロ。︶、そしてもう一つは﹁革命的正当性﹂︵ド示αq三日ま泳く99一〇目昏o︶ である。前者の場合、国家権力とくに政府︵αqoロ<。諺o日o巨︶は、﹁王朝的世襲性﹂︵一.ゲ鈴巴まヨoμ胃。霞ρロo︶に依 存することによってその正当性を獲得し、後者の場合は、権力の正当性が﹁市民による選挙﹂︵一軽o。けδロ℃畦﹃。・ ︵091︶ ⇔ 98鴇o匿︶ないし﹁人民主権﹂︵寅゜。oロ︿o冨言o$喝o唱三櫛一器︶によって基礎づけられる。ボナパルトは後者の正当性 立 ︵O11︶ 成 に依拠したが、これを﹁プレビシトの方向に⋮⋮巧みにそらせる﹂ことによって、本来の﹁革命的正当性﹂から逸 三 本節冒頭に述べたように、ブリェメール一八日のクー・デタおよびそれに引き続く執政政府の樹立は、公教育 ことを示すであろう。 帝ゆ 脱することになる。帝政の樹立は、ボナパルトの権力が、更に、第一の正当性つまり﹁王朝的正当性﹂に接近する 法 育 教 公 法制とりわけ﹁初等教育の法的地位﹂︵一僧ω一ε蝉齢一8甘ほ繕ρ目。α。一.o昌紹凶σq器日o韓唱巨巴器︶を直接変更するもの る ス け お に ヘ へ 事実の進行とも宗教法制とも齪蠕をきたすようになり、執政政府に新教育立法の課題を提起することとなった。こ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 状況の中で、後者の活動についての新しい条件が法制的にも整備されるようになった。教育法制は、したがって、 ヘ ヘ ヘ へ ていた。そしてまた、教育と関係の深い宗教の領域においては、政治権力とカトリック教会との接近という新しい ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ は、ドヌー法の規範内容にそぐわない事態1つまり、公立学校の衰退と私立学校の繁栄1が相変わらず進行し ではなかった。共和暦四年のドヌー法は依然として効力を失っていない。しかしながら、事実の世界において 、 、 、 、 、 、 ︵m︶ ン ラ フ 59 60 のいきさつを、まず宗教界における変化から追ってみよう。 ヘ ヘ ゴソタールによれぽ、﹁総裁政府末期に示されたカトリック主義に対する激烈で攻撃的な敵意は、︹執政政府と︺ ヘ へ 教会との接近︵δ§℃窟o島o目〇三︶が明確になってくるにつれて、まず︹カトリックに対する︺中立︵昌。三旨冨ひ︶ となり、次いで好意︵ぴδ昌話凶=聲8︶ へと変化していく。﹂執政政府の﹁宗教的寛容の政策﹂︵ロ器や島9器山o 、、 ︵2韮1︶ 件⊆陣睾8N。一喧窪器︶を具体的に示すものとして、例えば、共和暦八年霜月八日︵一七九九年一一月二九日︶の ︵⋮⋮︶ プリメール ニゥオ ズ プリユクチドロル 執政政府アレテ、同じく雪月七日︵同年一二月二八日︶の三つの執政政府アレテなどがある。前者は、共和暦五 年実 月一九日の﹁抑圧法﹂︹50頁参照︺の適用によって国外追放処分を受けていた聖職者の祖国復帰に関する ヂカヂイ ものである。また、後者のうち、第一番目のアレテは、旬日節以外に教会を開くことを禁止した市町村当局の措置 を撤回し、日曜日を祝うことを命令したもの、第ニアレテは、譲渡されていない教会の処分を元の所有者に委ねる ことによって司祭の教会使用を保障したもの、そして第三アレテは、やはり﹁抑圧法﹂に規定された﹁公民宣誓﹂ 1“王権と無政府への憎悪、共和国と共和暦三年憲法への愛着と忠誠”−を廃止し、これを単なる﹁憲法への 忠誠﹂︵鵠ユひ臨けひ呼一餌轟QO昌ooa酔口件一〇昌︶の宣言に置き換えたものである。これらは、それぞれ重要なものであるが、こ ︵4−1︶ の時期における宗教政策の中で最も重要なものとして特記されねばならないのは、執政政府とローマ・カトリック コンコルサ 教会、より具体的には、第一統領ナポレオソとロ!マ教皇ピオ七世︵一〇男僧唱①℃凶O<目︶との間の﹁和親条約﹂の締 結とこれに基づく﹁コソコルダ体制﹂︵Hひσq巨o。8。自α魯巴屋︶の成立である。 ︵5且且︶ ︵描︶ もともと宗教政策はナポレオンの国内政治においても主要な位置を占めるものであった。彼によれば、﹁宗教の ﹁全ゆる宗教思想は一つの力︵巨o♂H8︶であり、これを使うすべを心得ることが肝要﹂なのである。こうした ない社会は羅針盤のない船のようなもの﹂であり、また、﹁道徳なくして社会はなく、宗教なくして道徳はない。﹂ ︵71聾︶ 謝 械 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 公 る ソ ス け お に ラ フ ヘ へ 、 、 、、 、 、 、 ︵81i︶ 宗教観に立ってナポレオソは、﹁長い間その力量をさぐってきた教会と緊密に同盟すること、自らの独裁について 教会の承認をとりつけること、そして教会を自らの政策の従順な補佐︵9◎口×一財僧一HO 血◎0昌O︶に変えること﹂などを 自己の政策課題として設定した。その具体化が﹁コソコルダ体制﹂の樹立にほかならない。﹁コソコルダ体制﹂と は、共和暦九年収穫月二五日︵一八〇一年七月一五日︶に、いわぽ﹁外交上の協約﹂︵自oooロ︿o巨δづ島覧o目國亭 ノシド ル ゜㊥として締結された﹁馨藩﹂本体と・共和暦一〇年.窺,域天日︵一八〇二年四月八日︶に、﹁フラソス 政府の一方的行為︵鐸]POgOけO信]ロ一一凶一①同凶一︶﹂によって国内法として公布された﹁協約付属条項﹂︵諺註幕。。9αq暫巳ρ器吻 ︵021︶ 自o冨Oo弓oロま昌︶とを中核とする法制をさす。この体制の基本精神を、レナソ・デュギー︵いひ8UロσQ巨︶は次 ︵旦21︶ のように要約している。lI①カトリック教は国教である。︵目鋤H9σqδロ8岳島ρロ。。°・け苞喧§犠.寒瓠゜︶②フラ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ を付与することにより﹁聖職者の教育の自由﹂︵ドま臼菰α。一、魯゜。o凶σq昌o日o韓山窃908ω︶を確立するものであっ を持つことができ露と規定しているが・これは司整﹁神学校開設の権利﹂︵匡三け窪。。憂量ω①巨邑・ψ︶ ることが注目ざれる。すなわち、−﹁コソコルダ﹂第一一条は、﹁司教は、⋮⋮司教区︵甑o$器︶内に一校の神学校 存在し、革命期教育立法によって非合法的存在とされていた﹁神学校﹂︵総日ぼ岱貯o°。︶について言及がなされてい ﹁ガリカソ主義﹂︹註︵36︶参照︺の法制化にほかならない。教育に関わるところでは、アンシヤン.レジ!ム下に わりに政府に対する忠誠宣言を課すなど、教会を国家管理の下に置く諸規定を配備した。それは、まさしくかの ヘ ヘ ヘへ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘヘ ヘ えぽ、司教の任命権をフラソス政府に認め、聖職者を公務員︵︷O口OユO口口”冒Ooo︶とみなして俸給を支給し、その代 °§盲゜呈§箋§慧論−以上の三点を基本原理として・﹁コンコルダ﹂および﹁付属条項﹂は、例 ソス教会は、普遍教会に結びついているが、それは一つの国家教会を構成する。︵い.国σq房oαo蜀壁昌80鴇話茸9。・ へ ヘ ヘ ヘ 島ひ。位一、国αq﹃8巨貯臼絶飼目鋤尻巴一。♂§o黛ミ骨諄偽ミミ§ミ郵︶③ヵトリック教は公役務である。︵犀。島o 61 ︵42豊︶ 62 た。また他方では、﹁神学校﹂に﹁合法的性格﹂︵巨8冨o盛Ho冨箒︶を付与したことを意味する。しかし、ここ で注意しなけれぽならないことは、こうした認証が、ほかならぬ﹁コソコルダ体制﹂の下で、 つまり宗教事項を ﹁公役務﹂として位置づける法制の下でなされたということである。この場合、神学校の組織は、﹁公務員﹂として の﹁司教の管轄に属する﹂︵o鴇畠ロ器。・。・o誹αo一、国$ρロo︶わけであるが、﹁まさにその事実によって﹂︵曽魯ミo︶、 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 神学校は、従来の﹁私的施設としての性格﹂を失い、﹁公的施設﹂︵ひ冨げ房8日。三吻唱ロ臣8︶に転化せざるを得な オかも・﹁芳的行為﹂に基づく﹁付属条項﹂においては・望ば・神学校の開設については﹁政府の認可に 幅︶ よって﹂︵碧8一、窪8ユ゜・讐ご5鳥ロOo5δ303gけ︶という条件が付され、神学校の学則制定には第一統領の裁可 ︵一、 香視 ひ。凶帥ま昌︶が必要とされ、あるいはまた、神学校生徒の名簿が国事院に送付されねばならない、などと規 コンセイユロヂタ 定されている。これらのことは、神学校開設の権利の行使が﹁中央権力の厳格な監督﹂︵一.ひ言oぎ。。自墓旨§60戯口 ︵621︶ ︵Nひoq巨O自O 一餌嵩げO巨ひ︶ではない﹂と指摘している。 ℃o薯o貯8韓H笛一︶の下に置かれていることを意味しよう。ルイーーグリモーは、こうした法制が、﹁もはや自由の体制 ︵7聰︶ 神学校問題に象徴されるように、﹁コソコルダ体制﹂は、一方でローマ・カトリック教会のフラソスにおける活 動を﹁合法的なもの﹂として認めつつ、他方ではこれを世俗的国家法の枠内に押し込めることによって、ナポレオ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ンの権力基盤の強化に役立てるという、いわば“両刃の剣”の性格を有していた。こうした性格は、教育の領域に ︵821︶ も変則的な影響を及ぼさずにはおかないが、それ以上に、﹁少なくともその成立直後においては﹂、﹁コソコルダ体 ︵921︶ 、、、、 制﹂が﹁フラソスにおける民衆教育︵一.o昌8凶σq昌o目〇三もo娼巳単ぱo︶の展開﹂に対して阻止的に機能したということ を指摘しておかねぽならない。即ち、こうである。1まず、私立学校についていえぼ、総裁政府期以来、私立学 ヘ ヘ ヘ へ 校を設立して教育活動を営んできた聖職者教師の多くが、﹁コンコルダ﹂の成立とともに、﹁聖壇︵一、〇三巴︶のために 鳳 ︵031︶ ヘ ヘ ヘ へ 教壇︵一箇 Oゲm凶吋O︶を放棄﹂し、聖職者としての正規の職務に戻ることになった。そして、スタッフを奪われた私立 学校は当面閉鎖のやむなきに至った。 一方、これまで何とか命脈を保ってきた公立学校は、その教場︵兼教師宿 ︵131︶ 舎︶に充当されていた司祭館︹42頁参照︺を、﹁付属条項﹂第七二条の規定によって奪われることとなった。司祭 館を明け渡した公立学校教師のために別の教場を用意する財力は、当時の市町村には蓄えられていなかった。ー このように﹁コソコルダ﹂は、その初期においては、私教育についても公教育についても﹁破壊的な効果﹂︵§ °蜜自゜ω膏8距しか与えず・﹁逆説的にも︵山゜碧゜ε9・民゜図巴゜︶・学校の再建を導くどころか、国家にとって 城 ︵畳︶ ︵捌︶ タ ー ル が こ の 事 態 鮎 ひ o o ロ ︿ 0 ゴン を ﹁ 意 外 な 失 敗 ﹂︵ 2と 。評 ︶する所以である。 の 新 た な 困 難 ﹂ と な っ て し ま っ た 。 ⇔ 立 成 いずれにせよ、﹁コソコルダ﹂を中心とする執政政府の宗教政策の変換・宗教法制の再編に伴い、私教育.公教 オ七世は、同年五月一五日付の廻状において、教育問題に対する信者達の注意を喚起し、宗教に敵対的な教師に抗 と を 指 示 し た 。 し か し 、 ﹂ 一方、一八〇〇年三月一四日に教皇の座についたピ す るこ ﹁ 事 実 は 法 律 よ り も 強 か っ た。 ︵璽︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵㎜︶ シアソ・ボナパルト︵ピロ9雪切8巷畠巨。︶は、共和暦八年実月八日の通達において旬日節を唯一の休校日と フリユクチドユル ヂカヂイ との区別は徐々に薄れていく方向にあった。﹂こうした中で、教会に敵意を抱いていた内務大臣ラプラス︵冒巷冨8︶ ︵1︶ は、義憤に燃えて﹁共和制度に関する法律はどれ一つとして取消されていない﹂と宣言し、また、次期内務大臣ル ︵631︶ 譲歩して、祈疇文や教理問答を自己の教育実践に導入し、日曜日を尊重するようになった。﹁公立学校と私立学校 前述の﹁公民宣誓﹂の廃止により、教育内容についての自由の枠が拡大し、公立学校教師の多くが、家父の要請に 時間的に若干前後するが、﹁コソコルダ﹂成立の少し前からの教育界の状況−事実の進行1をみてみよう。 より一層緊急の課題となった﹂といわねばならない。 淘ゆ 育双方をめぐる法状況が変化したことは確かである。﹁新しい法律において、教師と学校の地位を法定することが 法 ︵531︶ 育 教 公 る ソ ス け お に ラ フ 63 ︵041︶ 64 議して起ち上がるとともに、キリスト教学校を支持する行動を起こすことを呼びかけた。かかる状況の下で、総裁 ﹁立憲派﹂・系に属するものでは﹁キリスト教学校﹂が引き続き校数を増加させた。ローマ・カトリック系では、男 政府期に抑圧・閉鎖されていた私立学校が次々に再開され、新しい私立学校も続々と創設されるようになった。 子教育修道会︵︼需85αq誌σq巴o霧目島。ロ盲o°。。昌器凶σq琶三〇ω︶および女子教育修道会︵蕾8昌αQ誌αq巴o房oロωo幣 高 轟ゥ窃亀oまB目。切︶が共に復活し顧客を集めた。これらのうち、﹁キリスト教学校修士会﹂︵♂ω団抽同霧鮎$国。巳8 御q 。穿①齢帥o自。°。︶の教育活動と、﹁慈善学校﹂︵一鴇国OO一〇〇〇 畠O Oゲ鑓N搾ひ︶と呼ばれる救貧事務所︵証げ臼$轟α。獣。巳繊・ へ ︵141︶ ¢oロ8︶の教育・救貧活動がとくに目立っている。﹁結局、法制上の変更はなにもなかったにもかかわらず、︹とりわ け︺初等教育界は、フラソスの再カトリック化という一般的な趨勢︵8日2≦w日o暮oqひ昌ΦH巴ρ三〇ユo巨巴二9。 周壁ロ8︿o誘鼠男。口巴゜・°・帥昌88夢o言ロ。︶の中に押し流されていった。かかる状況の下では、共和暦四年のデクレ ︹1ードヌー法︺や、とりわけ共和暦六年の抑圧的なアレテ︹“﹁公教育繁栄令﹂・﹁私立学校監督令﹂︺が、もはや 時代錯誤に陥ってしまったことは誰の目にも明らかであった。法律の変更は、ごく近い将来において不可避のもの ︵241︶ となるであろう。L コンセイユ デタ 執政政府による公教育再編の立法作業が開始された。共和暦九年、第一統領は国事院内務部会︵一鋤8。件一〇ロ畠。 コンセイユ ヂタ が内務部会に提示されたのは、クー・デタからちょうど一年後、共和暦九年霧月一八日︵一八〇〇年=月八 一. 齦髏w凶¢霞山目Oo霧。昌鮎”国件讐︶に公教育法案の作成を委託した。起草作業を直接的に担当したのは、国事院評議 ︵3‘1︶ 官︵OO口吻O鵠一〇同︶のシャプタル︵9>6冨冥巴︶であった。シャプタルの手になる﹁公教育についての報告と法案﹂ ブリユメロル 日︶のことである。 シャプタル案の第一の特徴は、基礎教育︵ぎω茸ロ〇二〇昌肩o巳穿①︶が﹁万人の必要物﹂︵♂げo°。oぎ自08葛︶であ ㈲ 載 るとの認識に立って、﹁これを普及し、全ての人の手の届くところに置くべきこと﹂、そのために﹁公立学校を建設 すべきこと﹂を政府の義務として承認していることである。こうした観点から、法案においては、初等教育を担当 、 、 、 、 、 ︵44且︶ する﹁市町村立小学校﹂︵鐙oげψ日ロ巳。首巴窃︶および中等教育を担当する﹁市町村立中学校﹂︵ひ。9。ω8目目目巨巴。ω︶ 、、、 ︵54璽︶ ヘ ヘ ヘ ヘ へ については無償性原則が採用されている。この点を評してオ:ラール︵﹀°\rロ一角目島︶は、シャプタル案が﹁若干の メ ロ ル ︵641︶ ブ リユ 部分については共和暦四年霧月三日法︹ドヌー法︺よりも民主的︵αひ日o臼m件5億o︶であった﹂と述べている。し かし、シヤプタルが容認したのは無償性原則までであり、義務性原則を採用するには至っていない。たしかに、シ ︵741︶ ⇔ ヤプタルは﹁革命の継承者﹂であり﹁公民教育﹂︵一”ぼ゜。酔昌。ま昌9︿δ口o︶の必要性を強調していたが、義務教育を 立 ︵341︶ 成 媒介として﹁公民教育﹂を国家的規制の下に組織しようとした﹁国民公会に対しては激しい敵意﹂を表明してい 糊ゆ ︵941︶ た。その﹁本質的に穏健な性格﹂が、義務性という﹁いきすぎ﹂︵o図ooqひ鑓まロ︶を排斥したのであろう。 シャプタ 法 育 ル案の第二の特徴は、﹁個人の教える権利、教育方法の自由および学ぶ権利の承認﹂︵鼠器8目巴器⇔ロ89脅o詳 教 公 ︵051︶ ぎ岳ぐ達口巴ユ.oロωo凶αqロoひ餅鼠躍冨#ひ鎚o°・日傘ゲo畠。ω卑潜ロ脅o即α、巷鷺o巳器︶である。﹁教育の自由﹂1上述の 権利・自由は、この観念に置き換えられよう11の根拠は、まずもって、教育が﹁万人の必要物﹂であるという原 る け お に られるべきである。教育が公共道徳︵ド日oH巴。℃ロぴ一む営o︶に関係する職業であるだけに積極的な監督が必要であ 入することは許されない。中央権力つまり政府の権限は、良俗と国家の平穏・安全という二重の観点からのみ決せ ︵35重︶ ここから、教師と家父との間の信頼︵O◎口h一鋤]POO︶の関係が要請され、権力が両者の間に審判者︵甘oqo︶として介 ﹁家庭教育の補完物﹂︵♂曽℃営ひヨ〇三畠o⋮:・9縄o象δ昌畠o目oωユρロo︶であるというテーゼからも根拠づけられる。 ︵251︶ 脅o即畠08昌8昌貯位冨誌冨ロ脅o︶というコロラリーが生ずるのである。教育の自由は、次に、教師の活動が ︵151︶ 則から導出される。すなわち、 ここから﹁各人はその ︹教育の︺普及に協力する権利を有する﹂︵島92口m8 ン ス ラ フ 65 66 ろうが、教師がフラソス市民であるとか、憲法に対する忠誠の宣誓を行なつたとかの要件が満たされれば、政府が 畠。一、ぎ。。仲コ。件δ目︶については、完全に教師の自由︵柱o冒050艮碧島o園鎚。一”ぎω葺三〇自︶である。1こうした 行使できるのは警察的な監督︵巨。°。ロ署o已帥ロ8ユo憎包凶8︶に限定されねぽならない。教育のあり方︵冨慧言器 ︵⋮⋮︶ ﹁教育の自由﹂の原則に照応して、法案第一篇第六条は次のように規定される。﹁フラソスにおいて公教育は自由 “出o°・一究H巨゜・位8三〇ぎ団o昌坤き鼠゜。畠.8♂旨μ臼ユo吻禽9呂。・器日9件¢︶ である。あらゆるフラソス市民は教育施設を創設することができる。﹂︵H、ぎω酔疑9ご昌陰導ρ億oo°・け亭器o口団♂500 ︵551︶ ﹁教育の自由﹂を重視するシャプタル案は、ゴソタールの指摘によれば﹁一般的には、世論によって十分歓迎さ れた。﹂しかし、ルイーーグリモーは、﹁教育の自由に関してシャプタルによって表明された観念を世論が好意をもっ ︵651︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 て歓迎したとは思われない﹂としており、﹁シャプタル案の自由主義的側面︵8ま自ま邑︶﹂が概して無視された ことを明らかにしてい葡そして・﹁恐らくは・こうした自由主義的な孝劣が第一統領の気に入らなかったので ︵351︶ ︵951︶ ︵励︶ あろう。﹂ナポレ牙ソ・ボナパルトは、﹁我々が望んでいたのはこのようなものではない、シヤプタルは勘違いをし た﹂として、シャブタル案を最終的に放棄するのである。 コンセイユ ヂタ シャプタルに代わって公教育組織に関する法案の作成を委託されたのは、やはり国事院評議官で内務部会に属 ノニドロル するフゥルクロワ︵﹀°・周局o葺。3鴇︶である。フゥルクロワは、まず共和暦九年収穫月一九日︵一八〇一年七月 コンセイユロデタ 八日︶に、﹁法案大綱﹂︵げ霧o畠o唱9糞︶を国事院に付託した。この第一次草案︵ド℃器目ゆ掃隆蓉酔ざロ︶は、 ︵16量︶ ゴソタールにょれば、﹁まだ革命の精神が滲み込んでいる﹂ものであり、﹁全ての市民に必要な教育は、共和国の全 ︵砿1︶ ての地点︵弓o旨齢。。︶において提供されるべきである﹂との主張を含んでいた。しかし、この第一次案は支持され ず、これを“たたき台”とした公教育法案の起草作業が、以後八ヶ月間にわたって続けられることとなった。この 謝 載 ⇔ 立 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 起草過程には第一統領ナポレオソ・ボナパルトが自ら参加し、幾度となく﹁新しい指示﹂︵8①ロo薯巴。告器9δ昌︶ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ を与えた。そして最終的には、作業の遅延に業を煮やしたナポレオソが、彼の考えに従って最終案を起草すること をフゥルクロワに命ずることになる。こうして、第一二次案にあたる公教育最終法案は、一八〇二年三月一五日に ジヱルこナル コンセイユ ヂタ ︵36塁︶ 完成し、立法院︵Oo弓。。ピひαq邑牌ま︶に送付されることとなった。 フゥルクロワ公教育法案は、共和暦十年芽月三〇日︵一八〇二年四月二〇日︶に立法院に上程された。国事院 ︵56ー︶ ︵‘61︶ からの三名の派遣演説員︵O同勢けO億H㎝︶が紹介された後、フゥルクロワが提案理由︵。図やo監ユ霧日o臣゜。︶を朗読す る。提案理由の中でフゥルクロワは、まずドヌ!法に規定された公立諸学校lI初等学校・中央学校・専門学校 ゜。 Q凶8︶が緊急の課題であることを指摘した。フゥルクロワにおける﹁公教育の再組織化構想の基礎にある考え方 成ーが、いずれも失敗に帰し、幾多の困難に遭遇している現状を明らかにし、これらの学校の再編成︵冨誌9σq雪聴 御ゆ 法 育 能事である。﹂初等教育は国の歳出項目から削除されねばならない。今後、初等学校の組織は、これに直接的な関 ようとした立法者の意思﹂である。しかし、﹁公金︵貼o巳ω喝ロ霞8︶から教師に︹給与を︺支払うのは全くの不可 質的な障害となったのは、﹁︹初等学校の組織を︺殴家欝掛︵直ロω臼三〇〇ユ、酔讐︶とみなして、教師に俸給を支給し ヘ へ ない。つまり、こうである。1政府の観察にょれぽ、これまで初等学校の組織を妨げてきた諸原因の中で最も本 務放棄︵口昌O 鋤げα一〇鋤餓O昌︶、教育事項における国家の不介入宣言︵ロづo山ひ9日鋤鼠8山oロoロぎ盆辱o口鵡oロ︶﹂でしか かった。初等教育改革についてのフゥルクロワ案の基調は、まさしくゴソタールの指摘するように﹁中央権力の任 ︵τ61︶ フゥルクロワが提起する改革の方向性は、とくに初等教育段階においては、およそこの重要性に見合うものではな ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ 非常に重要な位置を占めている﹄という、教育が国家の繁栄に必要であるという考え方である。﹂しかしながら、 教 は、公教育が﹃国の維持および国の繁栄がその上に基礎を置く知識を国の中に永続させるので、国の経済において 公 ︵661︶ る け ソ ス お に ラ フ 67 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ の問題︵口昌o瞳ρ騨oαoh§崖o︶とすることになろう。財政計画についていえぽ、今後は慈善的行為︵症ぼ〇三群 ヘ ヘ へ 68 わりのある地方行政当局に委ねられなければならない。地方当局は、それぞれの市町村において、この配慮を家庭 器昌8︶つまり寄付行為を復活させる必要があろう。−提案理由におけるこのような発想は、聴く者に﹁惨めな印 、、、、 ︵861︶ 象﹂︵一.巨嘆。°・°。δ昌やひ巳匡。︶を与えずにはおかないが、この印象は﹁法案﹂においてより一層強められる。以下、 ︵961︶ − 審議の結果無修正で採択されるフゥルクロワ公教育法案の概略を追いながら、そのことを確認していこう。 法案は全九章、四四ケ条より成る。初等教育は、市町村︵。9β日言①゜。︶によって設立される﹁初等学校﹂︵ひ。巳$ 窟巨蹄。ω︶によって担当され、中等教育は、市町村によって設立されるかまたは私人としての教師︵目既旨oω 唱mほ凶。慈。屋︶によって維持される﹁中等学校﹂︵ひ。巳oの紹8巳9貯oω︶、および国庫︵↓急゜・臼娼口げ豪︶の支出によっ 門学校﹂︵ひ8す肋魯凶巴o°・︶が担当する︵第一篇︶。 て維持される﹁リセ﹂︵落。診。・︶において行なわれる。最後に、高等教育は、やはり国庫によって維持される﹁専 ︵m︶ ﹁初等学校﹂に関する規定︵第二篇︶は、わずか四ケ条しかない。そのうち重要なのは第三条の教師の報酬 ︵旨碧けOH口O昌梓︶に関する規定である。同条によれぽ、教師の報酬は﹁市町村によって供与される住居︵ざ鴨口o韓︶﹂ と﹁両親によって支払われ、市町村議会によって︹その額が︺定められる授業料︵誌鼠げ三δ口︶﹂とから成る。つ まり、初等教育については有償︵喝9。巻三︶の原則がここに採用されているのである。義務性はおろか、シヤプタル 案が提起した無償性原則さえ放棄したこの法案は、この点に関する限り、遙かドヌー法の線にまで後退し、そこか ︵m︶ ら一歩も出ていないわけである。﹁シヤプタル案が期待を持たせてくれた後、共和暦一〇年の法案は著しい後退を 示した。⋮⋮同法案は、学校の設立と教師の選任を地方行政当局に任せ、教師を授業料以外には何の収入もないと いう状態に置いた。 このことは、﹃組織する﹄︵O﹃αq⇔ロ 吻①円︶という偽善的な見せかけの下で、初等学校の破滅 ︵Hロ一昌O︶をもたらすこと以外の何物でもない。市町村の倹約︵ド℃舞。巨oロ貯︶と家庭の吝畜︵一.m奉ユ8︶に身を 委ねる教師達は、兼職をしたり乞食同然の生活をしたりしなければならないが、そのことでいつまでも非難をこう むるだろう。こういう条件では、教師の募集は相変わらず不安定で困難なものとなるだろう。このように度量の狭 い立法︵凝邑鎚二8σ件且‘醗︶は、事実上、一七八九年以前の学校の状況に逆戻りすることを許すものである。も っとも、かつては教会の精神的・物質的な保護と支持によって、学校には莫大な収入がもたらされ、それが学校の 謝 ︵1︶ 載 主たる力量を構成していたものだが、この立法のもたらす状況はそれ以下のものである。⋮...L ⇔ 第三篇に規定される﹁中等学校﹂は、市町村の設立にかかる場合は”市町村立コレージュ”︵8鵠σq。°。8ヨ目穿 立 ︵1︶ 成 嵩莫︶、私人の経営によるものは”私立コレージュ”︵8膨oq。ω嘗急゜・︶としての性格を持つ。この教育段階では、学 ︵喝§弓゜駒が置かれる︵第=一奉。上記三役職は第一統領によって任命され、学校管理委員会︵匿8邑 の管理は校長︵℃目O︿お①ロ目︶に委ねられ、その直属下に教務担当の副校長︵8昌紹自︶および学校事務担当の会計官 所管轄区︵曽8ロら゜・8目〇三畠o。ゴ9ρロo酔ユげ茸巴島.巷需一︶に少なくとも一校のリセが設置される︵第九条︶。リセ ﹁中等学校﹂との関係ではより上級の機関であり︵第一二条︶、いわば”後期中等教育”を担当する。各控訴裁判 ︵671︶ 執政政府は教育の自由を認めていない﹂と評している。 ︵童︶ やはり中等教育を担当する﹁リセ﹂︵第四篇︶は、従来の﹁中央学校﹂に代わるものである︵第二二条後段︶。 8げ。男8°。仲︶は、この点をとらえて﹁私教育︵一、o昌8貫50目o巨眉ユ誌︶は自由ではない。⋮⋮総裁政府と異なり、 ︵471︶ 察﹂︵冨の碍語崖磐80二、貯聲09δ昌宕三。巳序3畠oω娼㌫冷け。・︶が及ぶ︵第八条︶。 アントワーヌ・プロスト︵﹀ロ・ 桐ゆ 校に対する公権力の介入が強められているのが一つの特徴である。例えば、中等学校の開設については﹁政府の認 法 育 可﹂︵一、拶90吋尻巴o口畠ロOo¢<臼昌oBo三︶が必要とされ、また、その教育活動に対しては﹁知事の監督と特別な視 教 公 る け ソ ス お に ラ フ 69 ︵び自$ロ血、巴日巨。。q巴o口︶が設けられ︵第一五条︶、リセの会計監査および一般的監督の任にあたる︵第一六条︶。 ︵3了1︶ 巨巳ω訂巴o昌山o一、爾o﹃︶を構成する︵第一四条︶。また、リセが設置された各都市には、リセの管理事務局 山、 70 b さらに、第一統領によって任命される三人の総視学官︵ぎ。。需90ロ屋職昌ひ量轟α。。。働巳霧︶が、一年に最低一回リ セを訪問し、経理の最終的決算を行ない、教育および管理の全部分を審査し、それを政府に報告することが規定さ れている︵第一七 条 ︶ 。 ︵971︶ 、 以上のように、中等教育機関である﹁中等学校﹂および﹁リセ﹂、とりわけ後者において、その設立維持・管理 、、 ︵08董︶ 運営に対する公権力の規制はかなり強化されている。シャルル・フールリエが指摘するように、﹁執政政府は、早 特徴は、第一に、第一統領に直結する中央集権主義、第二に、ナポレオソの行政制度改革によって再編された地方 くも強固に構成された行政組織︵巨o災ぼ巨゜・け轟貯δ昌“ミ昏8臣o日o巨゜。け昌9ロ羅︶を打ち立てた﹂のである。その ︵ー81︶ 行政組織の動員、そして第三に、﹁総視学官﹂の設置に象徴される本来的な﹁学校行政の萌芽﹂︵巨§き§織、喬“ ︵2呂1︶ §ぎ§ミ馬§恥8§蕊︶の三点に要約されよう。かかる構想が、後に検討する﹁帝国大学﹂の中央集権的教育行政 組織を先取りしていたことは明らかである。 高等教育についても事情は同じである。﹁専門学校﹂︵第五篇︶は﹁完成度の高い、深遠な研究﹂・﹁有用な科学 .芸術の完成﹂をその任務とし︵第二三条︶、これが設立される学問分野とその校数が具体的に規定されている ︵第二五条︶。従来から存在している専門学校は維持されるが、政府が経営上の理由から改革を加えることを妨げ るものではない︵第二四条︶。専門学校の教授︵唱o密㎝8霞︶の選考は次のような方法で行なわれる。まず、国立 ヘ ヘ ヘ ヘ へ 研究所−共和暦八年憲法第八八条によって設置︹58頁参照︺ーの当該研究部門に属する教室︵。奮器。。︶と、三 名の総視学官が、それぞれ一名ずつの候補者を推薦し、次に、第一統領がこの二名の中から一名を選んで教授とし て任命する︵第二六条︶。ここでも中央集権主義が貫徹している。専門学校についてリアル︵=弩α︶は次のように 言う。﹁それ︹専門学校︺は国家に従属し、そして国家のみに従属する。⋮⋮それは国家からその存在︵o惹゜・8昌8︶ と本質︵°・鐸ぴ゜。$ロ8︶とをうけとる。したがって、また、その任務︵邸島①︶と規則︵盛σqεをも国家からうけとる はずである。﹂また、ルイーーグリモーは、高等教育の自由︵嵩冨暮①畠o一、oロ巴唱o日〇三。・⊆駄H♂自︶との関連で次のよ ︵38董︶ 、 、 、 、 、 、 、 うな見解を提出している。﹁専門学校は、何らの疑いの余地なく、高等教育の排他的独占権︵げ目oぎ喝900ぎぎ゜・5 謝 載 を有する。この法律は、誰かが科学を教授することを公行政当局︵碧8藁詮窟匡置直o㎝︶が認可することの可能性 ︵481︶ ⇔ すら規定していない。団体であれ、個人であれ、これらの科学を学校の教育課程の中に含めることはできない。い 立 成 ずれにせよ、政府に私的︹教育︺施設の認可の自由︵甘o隻伽ユ”m暮oユ8吋︶を留保しているような体制は、自由の ひとまず、一八〇二年四月八日の立法院に戻ることとする。 竃ゆ 体制ではなく恣意の体制︵誌σq巨。山、舞げ詐巴お︶でしかないということを重ねて言うほかはない。﹂ 法 育 フゥルクロワ法の特徴の提示を急ぐあまり、法案提出以後、成立に至る経過の説明が後回しになってしまった。 教 公 る ソ ス ︵冒β器§o風︶を代弁者として、法案の採択に好意的な見解を花月四日︵四月二四日︶に提出している。護民 フロレフル け取った護民院は、ひとまず、これを内務部︵一勢 ω㊦Oけ一〇”畠O 一”一昌件①婦一〇錫目︶に付託した。内務部は、ジャクモソ 民院︵日イ凶ぴ口昌Pけ︶に送達︵8目ロロ艮ρ鱈臼︶した。共和暦一〇年花月一日︵一八〇二年四月二一日︶に法案を受 け ︵1︶ お フゥルクロワによる提案理由開陳の演説の後、立法院は、共和暦八年憲法の立法手続関連規定に従い、法案を護 に フロレアル ラ フ ヤクモソ、シメオソ︵ω一目ひo昌︶、ジャールーーパソヴィリエ︵匂鶏阜影5︿崇o旨︶の一一一名が指名された。立法院での審 投票が行なわれた。その結果、賛成八〇・反対九で法案が可決された。同時に、立法院への派遣演説員として、ジ 院での法案審議は花月六日︵四月二六日︶から花月八日︵四月二八日︶にかけて行なわれ、審議終了とともに フロレフル フ ロ レ アル 71 フロレアル 成演説の後、︽白票V︵げo巳o°・げぐ50﹃8賛成票︶二五一・︽黒票V︵げoロげ゜・口o冨゜。反対票︶二七で法案は可決 72議は花月一〇.一一日︵四月三〇日・五月一日︶の両日行なわれ、政府および護民院それぞれの派遣演説員の賛 採択された。これが﹁共和暦一〇年花月一一日︵一八〇二年五月一日︶の公教育法﹂︵ピo一ユロ=皆脹巴碧属 ︵681︶ ツロレフル ゜・ ゥ一.Hロ雪歪o諏o昌も二げ言自o︶である。 既にいくつかの特徴点を指摘したが、ここで、護民院・立法院における主だった発言を援用しながら、この法律 に一体何が期待されていたのかを改めて検討してみたい。論点を明確にするために、まず、法案に対する噛↓か反 対者であった護民院議員ル・ドウロモワ・デユシェ!ヌ︵一〇 一︶Hひ口P◎一〇ゆ H︶口O﹃Ooo︼PO︶の主張を紹介しよう。 革命の教育思想︵♂のoo口oo営ご冨ω8冨ぽo°。ユo鼠幻ひくoぎ菖o口︶の擁護者であるデユシェーヌは、フゥルクロワ 法案が基礎教育︵ξ・。巨。§藷”§巳つまり初等学校教育を軽視する﹁非民主的﹂︵鋤昌酔§馨§且。e諭︶な 法案であることを批判する。彼によれば、国民の自由、独立、安寧︵NO喝O㎝︶および繁栄はこの初等教育に依存し ている。したがって、初等教育の恩恵は国民の全ての部分に平等にもたらされなければならない。﹁もし、共和主 ︵⋮⋮︶ 義フランスのような国において、科学芸術の領域丁“中・高等教育︺をそれが最高度に開花しうるように拡大する ことが必要であるとするならば、職人や耕作者といった多数者階級︵ドoド゜。°・o口o日げ8鶴8︶に緊急に必要なもの ︵981︶ T・初等教育︺を供給することはなおさら必要である。﹂﹁フランス革命は社会のある階級のみのためになされたの ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ではない。それは、市民的・政治的権利に関し絶対的に平等な大勢の人間の共通の利益を目的として有していた。 ヘ へ すべての者が自由の貴重な征服に協力し、自由を維持していくことに利害を有する。いかなる特権への復帰も自由 の勝利を弱めるべきではない。そして最も危険な特権は、フランス人民の大部分からその第一段階における公教育 丁”初等教育︺の計り知れない利益を奪い、最も多数の市民の近づくことのできない私立学校に国民的な財産のす べてを戻してしまう特権である。Lこうした見地からデユシェーヌは、法案において﹁国家が初等教育に関与して ︵091︶ へ いない︵ooO 自ひooぼPけひHOo駐¢①N︶﹂こと、つまり、初等教育がもっぱら市町村議会︵8昌8凶尻ヨ賃巳。首碧図︶の配慮に委ね ︵藍9蓬︶ られ、財政については生徒の両親が支払う授業料のみが予定されていることを厳しく批判した。そして初等教育の 、 ︵醜︶ 具体的には初等教育段階の無償性を提起した。このような﹁大胆な﹂意見に対しては、多数の初等学校を維持する 組織とその条件整備について﹁国家の積極的で強力な関与﹂︵一.ぎ帯署〇三δ5碧け寄oo酔噂巳゜・°。僧暮o畠o一.国け讐︶を求め、 ︵391︶ ㈲ り国家に巨大な財政的負担がかかるという反論が当然にも提起されうる。この予想される反論に対しデユ 載 こ と に よ ︵491︶ ⇔ シェーヌは、まず、﹁初等教育は⋮⋮国民的債務︵8。自o件8津けごロ巴。︶である﹂こと、したがって、初等教育の 立 ︵塒︶ 成 ために公金を使用することは﹁神聖﹂︵器o誌o︶でかつ﹁絶対的に要請されている﹂︵巨忌ユo鎚8日〇三〇邑σq魯︶事 弱なものである﹂との前提に立って次のような見解を述べた。1﹁たとえ全ての耕作者や職人が書くことも読む ︵呂9ー ︶ デュシェーヌの意見に真向から反対したのはシメオンである。彼は、﹁民衆︵﹃罵ξ♂︶における教育の要求は微 う。そしてこの論点は、さしあたり初等教育における無償性原則の適用の問題に収敏している。この点について、 ヘ ヘ へ 分に平等に供給されねばならないか、国民の側からすれば初等教育に権利性が認められるのか、ということになろ ヘ ヘ ヘ へ ここでデュシェーヌが提起した論点は、公教育とくに初等教育は社会の債務であるのか、それは国民の全ての部 と陰謀︵5け目oq信o︶の根源﹂であるという、明確な見解をもっている。 ヘ へ ︵ー61︶ ︵9ε1︶ を必要としないブルジョワジーの子弟に与えられるがゆえに無用な︵一]口9け出O㎝︶もの﹂であり、﹁特権︵窟三冨σqo°。︶ ことにょり、国家の負担を軽減することが可能であると主張した。とくに、奨学金についてデュシェーヌは、﹁それ 御ゆ 柄であるという原則的立場を維持する。そして、例えば、総視学官の旅費や手当、リセ・専門学校の国家給費生 法 育 シくo°・口9。ユo昌窪×︶に支給される奨学金︵ぴoロ誘o︶の額を引き下げるなど、他の部門における出費を切り詰める 教 ︵ひ 公 る ソ ス け お に ラ フ 73 74 こともできないとしても、それは、彼らの両親がこの基礎的な教育にかかる僅かな費用さえ負担できなかったから ではないし、また、革命前において⋮⋮子ども達に安い費用で読み書きを教えることのできる人間が殆んどの村に ︵991︶ 存在しなかったからというわけでもない。そうではなく、両親の好み︵σqo葺︶がそちらの方丁・基礎教育︺に向か わなかったからである。﹂﹁農民の藁ぶき家で初歩の教育を行ない、余暇を楽しみ、必要なものを確かめ、そして田 ︵002︶ 園と作業場を豊かにするといった想像に魅力を感じるような人間を博愛家︵旨出薗三訂o窟︶という。﹂ 一〇年間の 不幸な試練の後で、新たな立法が、間違ってもこのような空想に再び陥ることは許されない。ところで、教育は全 ヘ へ ての人間の権利︵§砕o陣け︶であると言われる。﹁たしかにそうである。しかし、それは社会がただ単に保護し奨 励すべき権利なのか、つまり、社会が教育の費用を全て負担すべきなのか、教育は社会の債務であるのか、といっ ︵102︶ たことを知ることが依然として必要である。﹂﹁︹教育を︺無償で供給する必要があるということは、一般的には必 いものだから、各人がそれを手に入れることは可能なのである。⋮⋮﹂ーシメオソの主張は、要するに、民衆に ずしも第一義的に必要とされる事柄ではない。そこに要求があれば、教育というものは通常あまり費用のかからな ︵蹴︶ と仏て初等教育は必要でない、したがって教育の無償化は必要でない、無償教育の主張は理想論でしかない、とい うものである。護民院においても立法院においても、有償教育を採用するフゥルクロワ案に賛成する論者は、大方 ヘ へ このような考え方にくみしている。ただ、シメオンの場合は、“教育をあえて無償化しなくとも民衆は必要とあら ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ へ ば教育を受けるだろう”という一種の楽観論があり、国家財政的見地からの発想が稀薄であるのに対し、他の論者 においては、無償教育が国家の財政負担を増大させるという認識が維持されており、“だからこそ無償性には反対 である”という論法がとられているのが特徴的である。例えば、ジャールーーパソヴィリエがそうである。彼は、革 命期のコソドルセ︵Oo己032︶の教育改革案−本稿eで検討したように徹底した無償教育を提起しているー に触れ、それが﹁文化が発達した将来において理想的なものであっても、現状においては財政上の理由から実現不 可能であ錐ことを指摘している・また・法案起草者であるフ・ルク・ワも、無償性原則の採用を拒否して次のよ うに発言している。1領土の狭い国を別とすれぽ、﹁文明化した国民﹂︵醇究ξ蕾。凶註瓢㎝︶のうちで無償性を 採用しているところはどこもない。﹁それ︹n無償教育制度︺がどこにも存在しないのは、存在すること自体が事 物の本性に反するからであり、大きな国においてこのようなしくみ︵巨o喝母。邑。8αQ9。巳。。鋤酔δロ︶を確立すること で、初等段階の教育が軽視されているということは、裏を返せぽ、中・高等段階の教育に相対的重点が置かれてい 以上が、フゥルクロワ法案における初等教育の軽視とりわけ無償性の否定の問題をめぐる議論である。ところ 謝 ︵402︶ 載 が可能性の限界の外にあるからである。﹂1 ⇔ 立 成 り精神を啓蒙する基礎教育︵ロロo鷲o日響o鐙ロ8件凶oロ︶を与えながら、しかし、より財産に恵まれた階級︵。駐給㎝ カ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ぎ岳σQ。三$︶には、公益︵げδ昌σq曾①邑︶と彼らの個人的幸福のために必要な限りにおいて、彼らの心情をかたち作 に関心を抱いたとしたら、政府は次のようなやり方でこの任務を果たすだろう。すなわち、貧困階級︵9器8。。 ヘ ヘ ヘ へ ︹他の︺人々に対して命令する人々︵戯o。。ゲo日日窃弓o舞8ヨ日9。巳臼ロ昌Uo仁H位ユo。・ゴoB目霧︶を形成すること 拠に基づくものであろうか。解明の手がかりをカレ ︵O薗匿⑦け︶の発言に求めてみよう。1﹁もし政府が、将来 御ゆ るということを意味する。フゥルクロワ法案、したがって共和暦一〇年公教育法におけるこの特徴は、いわゆるナ 法 ︵052︶ 育 ポレオソ学制にも共通するものであるが、一体、この﹁学校の不平等﹂ ︵、”帖曇ミ鳳恕oミ㌣恥︶はいかなる思想的根 教 公 る ソ ス け お に ラ フ 覧ロωh磐自尻ひ窃αoド♂慧目o︶にこそ、公権力︵一.碧8聾ひ陰げ言ロo︶の後見的配慮を促進し、彼らの子弟のため の懸応慶伽高い教郁︵一、ひ晋8ま昌究臥。ao言ひ。︶に充てられた施設の費用と維持を援助する、というやり方であ 、、、 、、、、、、、、、、 、、、、、、、 ︵麗2︶ に か な 8 α q 噌 巴 ミ 辱 恥 ゜ ︶ け は 理 ︵ 8↓ 巴 8 § 魯 ま 執、 ﹂1このように、 カレ る 。 こ う し た 階 級 分 っ た も の で あ る 。 75 ゴンタールは、こうした発想こそ、いわゆる﹁ナポレオソ的観念﹂︵包魯昌巷o示o昌貯目話︶本来のものであるとし、 ヘ ヘ ヘ ヘ へ 76 は、教育制度の複線的配備、初等教育と中・高等教育との峻別の構想を、明確な階級的見地から描き出している。 その鍬をデステユト・ド・・トラ亨︵U。吻εま。ぎ巳−元公教育委員会書記官゜当時。殴郭晦評議官 ︹註︵蜘︶参照︺1の教育思想に求めている。議会の場面から再び離れるが、この点は重要なので、ゴンタール の説明を聞こう。1﹁ボナパルトは、アソシャソ・レジーム期の貴族およびブルジョワの社会観と偏見を共有し へ ていた。彼の眼から見れば、一つの国家には常に二種類の人間が存在していた。つまり、,いいい︵ま一一酔o︶とヵ 衆︵一。喝①ロ且。︶である。⋮⋮⋮哲学者デステユト・ドゥ・トラシーが共和暦一〇年に﹃公教育に関する考察﹄ ︵Oぴ弩く巴§°・切昌二.冨菖。ま昌蜜窪ρ器︶の中で記したように、﹃文明化された社会にはすべて、二つの階級の 人間︵自O鐸×O一暫ooo︻①ロo ユ︾ゲOヨ昌POω︶が必然的に存在する。一つは、労働者階級︵貯99。の器oロ自ゆ器︶であり、もう一 つは、私が知識階級︵一⇔O一鋤ω¢Oq◎勉く僧昌酔O︶と呼ぶ階級である。﹄この公準からトラシーは、﹃十分に管理された国家 にはすべて、互いに何の関わりももたない二つの完全な教育システム︵畠o舞亀ω$日o°。8目噂♂8畠、凶房酔昌98︶が ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 存在すべきである﹄という教育上の結論を引き出す。これこそまさにナポレオソの観念そのものである。真に教育 鳶勲融引bト、憲な訟歌訟い雰か。彼らエートの中からのみ・国家は・その霧鼻︵︷寧 gご旨巴話。。︶や士官︵o塗90誘︶をリクルートするであろう。執政政府︵♂審oqぎ08房三①富︶が、極めて重大な ヘ へ ヘ ヘ ヘ へ 犠 牲を払うことを覚悟の上で、リセを創設し、奨学金を増やそうとするのは、このエリートを従順で有能な人材と して形成せんがためである。︹しかし︺下層階級すなわち都会や農村の労働者たちは、もともと教育されるべく生 ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ へ まれついていない︵ロoのo韓喝器謬弓o霞曾器貯。。齢昌一房︶。彼ら民衆にとって、教育は、無用で、しかも危険なぜ い沢品︵ロロぽ港ぎ唱巳P︿o冨α導σqo器員︶であろう。何故なら、知識︵一口目審器肋︶は民衆を理屈っぼく、批判好 ヘ へ きにさせ、作業場や田畑から彼らを離反させるからである。そんな恐ろしいものと化す可能性のある教育に、国家 蓼掛鉾ぞ象禁必融於・だから・祢義葱・疎慧会ど認綜鷺参伽爲寒象馨 レ吻窪信oユO口℃ユB麟貯o戯9けHo曾o同一.藻巴Hoα800ロ゜・o凶尻日ロロざぢ餌ロ図o酔自oq。訂日旨oo駐︶。 国家の役割は、 こ、れ ︵一. ただコソトロールするだけでよい。そうしておけば、万一何らかの弊害が突発した場合でも、知事や副知事が⋮⋮ その弊害を根絶すべくのりだしていくことができる・:陣1もはや多くの説明を要しないだろう。ナポレオソ 謝 械 の実質的指導の下に起草されたフゥルクロワ公教育法が、何故に初等教育を放棄し、中・高等教育に重きを置いた の ⇔ のか、この引用文の中にその理由が如実に示されている。 立 成 立法過程における議論の中で、初等教育︵とくにその無償性︶の問題とともに主要な論点を構成するものとし て、次に、とりわけ中等段階の教育における国家的統制の強化をめぐる問題がある。国家的統制の諸契機について し へ は、先に法案分析のかたちで論じたので繰返さない。いずれにせよ、教育に対する権力的規制は、本来、教育の自 法 育 由・公教育の独立性を侵害するかたちでしかなされえない。そして、かかる趣旨において批判が提起された。これ 教 公 閉鎖されることがあり得るのであるから、許可なしに一の学校を開設する権能を市民に与えることは空虚である。 なっている。1﹁事物の本性が政府に与えている監督権行使の結果として、中学校が開設後直ちに命令によって って中等学校の開設が政府の許認可事項とされたことが公教育の独立性を侵害しないか、という点が具体的争点と に対する反論としては、例えば、デエヴィダル︵∪ロ︿乙&の次のような発言がある。ここでは、法案第八条にょ る け ソ ス お に ラ フ ︵802︶ 悪を事後に償うより事前に予防することの方が一層よいのである。﹂ るが、省略する。 その他、議会における法案審議過程で提起された論点としては、農業教育.女子教育.宗教教育などの問題があ 77 的宗教教育の前進、シャプタル案とその放棄、共和暦一〇年法の成立とその特徴、というプロセスで論じてきた。 78 以上、執政政府期における教育問題を、﹁コソコルダ﹂を中心とする宗教政策・法制の変化、教育界における私 ここで、小括として、執政政府期教育政策のフラソス公教育法制史における位置付けを行なっておこう。 もともと﹁執政政府﹂という政体は、大革命をクー・デタという手段で終結させたナポレオン。ボナパルトが、 その個人独裁の終局的完成11帝政の樹立に向けて、予備的に構築した過渡期の体制であった。この政治体制上の特 ヘ ヘ ヘ ヘ へ も 色は、そのままこの時期の教育政策と法制を規定するものであった。この点に関して、フラソス教育史家の見解は 一致している。すなわち、 ルイ“グリモーは、共和暦一〇年法制が、﹁執政政府が大革命と帝政との間の一段階 ︵巷。陣巷①︶であったと同様、一つの中間的な体制︵巨゜・馨目ユ昌8ヨ&箒︶であつ栖とし・また・シャ ルル.フールリエは、﹁執政政府は、帝国大学の教育独占︵げ日oロo尉δ♂ロ巳毒Hωぎ冨︶を樹立したわけではない が、将来の国家的独占の基礎を投じた︵出§穿゜・響゜・畠ゴ。ー§一゜価葺。°︷g馳﹂とし・執政政府の教 育政策を﹁独占の予備作業﹂︵宮昼巨訂冨ψ臼日8§58として総括している・ 執政政府期の﹁予備作業﹂が帝政の樹立にともなう﹁ナポレオソ学制﹂の構築にどのように生かされていくか、 その過程で﹁予備作業﹂につきものの不完全さがどのように補われていくか、そして、教育独占の完成によって ヘ ヘ ヘ へ ﹁予備作業﹂自体が改めてどのような理論的照射をうけるかーこれらの問題の解明は全て次号に委ね、ひとまず 本号の叙述を終えたい。 ︵未 完︶ 嶋 ︵成 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 公 註 ︵1︶ ピo巳m・Oユヨ国鼠輸田曾o貯oユo冨まo詳ひユ.窪詔侭9目o昇窪周﹃巴8︾昌ε器昌oひaユo昌“国︾H”閑い︿o言二〇P憎僧ユ。。・ 切゜﹀旨ゴ”ロα鳩一〇鮮心.噂゜N曽゜ ﹂ ︵2︶ 冨窪ユ80§富a讐ピ、国昌紹骨昌o§㊦韓℃ユ日巴δoロ孚碧89冨閑曾oピユ8帥冨互O巳No什︵ミ。。91μQ。も。ω︶・﹀昌ロ巴8 号一.口巳く自゜・ま9H団8︵HO洋﹃Oω︶“學ωω噛男◎。ユρ冨ωヒ6巴一8ピoけ言o。。り O$駒噂゜ O一⋮﹀ロε写oド9炉聾鴇o凶﹃o畠o鴨魯, 沼凶oq器目o導o口午碧8uω。ひ自‘8旨゜︵Oロo紹凶切−冨噌V昌9ωOω”℃mユρ牢oω器ωq昌貯o琶冨凶﹁①。。9宰碧8噂Hミ8唱・φω・ ︵アソトワーヌ・レオン、池端次郎訳﹃フラソス教育史﹄文庫クセジュ、白水社、一九六九年、六八頁︶ ︵3︶ 梅根悟監修・世界教育史研究会編﹃世界教育史大系9・フラソス教育史1﹄講談社、一九七四年、第四章﹁ナポレオソ時 代の教育﹂︵執筆・志村鏡一郎︶、二三〇頁、傍点引用者。 ︵4︶9巴。ω周窪ヨ。﹁レ.国馨督§舞h﹁碧曾巴。μ刈。。o鐘霧㌔善置ユ.ぼ§冨9巴鼻ぎ晋昌。・§転奮㌔暫量ぎ舞・け ℃①α四ひqooq凶ρロ020二〇§一︾一¢①970,フ﹂ルリエによれば、革命期の教育事業の﹁貸借対照表﹂︵げ一一”ロ︶は以下のように書 ヘ ヘ へ き表わされる。一つの見解として、ま抱革命期の復習の意味でここにその要約を紹介したい。ー革命期の作業は、短期的 る にみれば建設的であるより破壊的であった。しかし長期的にみれば積極的であり、まさしく奇蹟的であった。つまり、教育 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ け に関するあらゆる思想︵崔曾◎隔︶がこの時期に定式化され、爾後、あらゆる角度から検討されることになるのである。また、 自由は公教育と私教育の共存︵6Q①畿一険O昌OO︶として理解される。また、教える自由と学ぶ自由という二つの主要な観念が相 を開設することができ、公金によって報酬を得るのである。ここにナポレオンの教育独占の根源がみられる。次いで、この された。この自由は、まずもって国家の枠内︵島9。諺慧$脅o§ユo目巴︶におけるものである。 つまり、各人は自由に学校 た。①教育は教会の独占から切り離され、国家によって公役務︵紹署一8喝ロ呂o︶として確立された。②教育の自由が確立 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ン こうした理論的利益︵凶暮曾押昏60ユ直自o︶のほかに、革命は次のようないくつかの具体的事実︵融凶冨8昌o器冨︶を導出し ス お に ラ フ 79 80 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 次いで引き出された。③平等への配慮が現われた。すなわち、学校の地理的配置の平等、教育の世俗性、両性の平等などで ある。④百科全書的および科学的な精神に基づく︽近代V教育が学校に導入された。中央学校は、それ自体、旧コレージュ よりも︽実利的Vである。﹁全体として、また長期的にみた場合、革命期の教育事業は極めて重要であった。しー︵旨凶画゜り 噂U°&ーミ゜︶ ︵5︶登ロ゜客゜ホム①⋮08け碧ユ”ピ.国昌鼠oq9日。暮午喜巴﹁90も゜鼻‘も゜ヨ09ω巳く゜ ︵6︶ ﹁共和国の各カントソに哺または複数の初等学校が設置される。その学区は県行政庁により決定される。し︵U舎3貯の霞 一矯o菌四三器菖o昌ユo一.一昌ω窪ロ9ざロ唱ロσ=ρロoユロω耳ロヨg。凶﹃o帥昌宅讐窪曾H”餌溝゜ピ︸°切bロ掃おげびOo昌ooユo昌8日且偉o 畠8ぎジu曾§90a8昌塁89頴ひq冠日゜韓ω暢︾丘ω旨08紹鵠α.津夢℃巴9>°Oξg簿ω。喜゜﹂°。卜。心゜け冒ま゜ω o。巳く”韓ooo噛﹃d目讐唱゜心器゜︶ ︵7︶頴薗勺o算巴℃震鴇o一δユo一.8鼠oq9ヨo暮窪宰嘗8層冨切oq轟&8ひ冨冨o嵩゜。㌣H8ら”ぎユ゜・”Oo凶器ざ 89弓゜ミ ︵8︶ コ教員の宿舎︵一〇〇qo日。暮︶ならびに授業期間中の生徒の受け入れに供するために、共和国のすべての市町村において、 共和国のために売却されていない旧司祭館が市町村行政庁の自由に委ねられる。し︵第一篇第五条︶︵︼︶伽臼9含ミぴ歪日四冨 卯昌国器冨舞窪x曾9窃弓ユ目巴器゜・”葺゜H℃卿誹゜9U目くo楯げさOo濠o鉱o昌8B艮偉90唱゜9け゜L°自り層゜自9︶ ︵9︶ いわゆる司祭館問題︵冨ρロo段o口α窃蜜。ωσ旨Φ話ω︶の経過は以下のとおりである。ラカナル法の規定︹前註︺にもか ヴアソリロズ フロレアル かわらず、総裁政府は、財政危機を打開するために、学校用に割吻当てられていない司祭館を国有財産︵げ繭O昌oo昌”け凶O口m口X︶ として売却することを、共和暦四年風月二八日および花月六日に決定した。これに対し市町村行政庁は、民衆教育 ︵一.8器碍昌o目o簿℃8巳臼。蹄o︶を発展させるために市町村毎に公立学校が必要であること、そのためには司祭館の売却を避 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ け、あるいはこれを取り消すべきことを県行政庁に申し入れた。もっとも、この言い分は表向きのものであり、市町村当局 の真意は、来たるべき司祭の復帰に備え、あるいは教育とは無関係の業務に供するために司祭館を確保しようとするところ 嶋 ︵成 立 ⇔ 成 の 公 制 法 育 教 る フ ス ソ け お に ラ 81 にあった。いずれにせよ、この時期、司祭館を維持しようとする下級行政庁︵一〇ω 曽虐けOユけσω 島O げ”onO︶︵市町村︶と、政治的 フサユクチドコル ヘ へ ・財政的理由によりこれを売却しようとする上級行政庁︵一〇ω9。暮o﹃一まωω弓①ユoロ掃。。︶︵県・中央政府︶との間に激しい矛盾 が生じたのである。関係者の抗議により、共和暦五年実月二六日には司祭館売却を延期する法律が出されたが、殆んど 効果がなく、売却ないし入札︵一.巴冒象8識8︶により教師用の司祭館は次々に失われた。 ︵局oロ三〇がい、国昌沼凶ひq昌oBo暮 ヰ碧3凶。・りo,o凶∼,畠脚08冨a℃F.国昌沼膏器日o馨ロユB9﹃90,6凶け‘弓,一宅山0°。⋮卜8すOユヨ碧色矯田08ぼo傷o 躍げo旨ひユ.o目8蒔器日㊦耳︾8°9け‘け゜同噛弓唱゜卜⊃ωb。山ω戯゜︶ ︵10︶ ℃o暮o一一噂震曾o貯oユo一.o旨紹茜昌oヨo暮℃o”°9け゜”眉”°↓Q。1お゜ ︵11︶ わずかに住宅兼教室用の建物とそれに付属する庭園︵U費岳ロ︶もしくはそれらに代わる手当︵凶巳o目巳9︶が支給される のみであった。︵ドヌー法第一篇第六条︶︵U直くo嶺凶0500濠9ざ昌8ヨ巨偉ρo,o凶f﹃自”,劇呂︶しかも、この手当は任 国噂賢卜Ωωq°︶ 意︵h9ρO‘一梓騨oけ凶くO︶のものであり、﹁つねに支払われるというものでさえなかった﹂のである。︵ピo鼠ω・〇二日遷畠”8°o凶酔゜りけ゜ ︵12︶ 08富a讐o,9‘,50⋮,09毒≡oび甲08ω冨罎一昌9一゜冨9。竃①rピ、国昌沼赫昌㊦日8什h冨鍔巴ωαo冨国曾o 帥昌o¢一〇口鴎ρ℃①ユωL≦090P一〇①Qo鳩噂゜器゜ ︵13︶ Ho巳ω・〇二日9口鼻8°o律゜翼゜ピ弓゜漣一゜ ゲカヂイ ︵14︶Oo算輿αりo,o一£,5。。・なお、引用文中コ旬日節Lとは、共和暦の十日目のことである。いわゆる﹁非キリスト教化﹂ ︵ユσOゴ﹃一曾一坦昌凶器け一〇”︶政策がとられた国民公会の時代に、ロベスピエール︵切oげo。・且o旨o︶らは、カトリック教にかわる新し い国家宗教︵邑゜q喜畠.け§︶ないし公認宗教︵吋島oqδ昌o塗。一。一冨︶を樹立しようとした。これをうけて共和暦二年福.那 レ 一八日︵一七九四年五月七日︶のデクレは、﹁至高存在崇拝﹂︵。鼻o畠。一.国茸o。・愚㌫ヨo︶を提唱するとともに、キリスト教 の安息日である日曜日のかわりに共和暦の毎月十日にーしたがって年に三六回1、﹁至高存在﹂や﹁共和国﹂や﹁祖国 82 愛Lを祝う祭祀 ‘﹁旬日祭﹂︵2ぎ畠曾9。ユ臥墨h陣oω象o”畠巴﹁$︶ を置いた。︵﹀昌8巳昌⇔oげ置o葺噂震鴇o胃o島o・。 暑宕話幽巴・樹冨゜乱巴・い§。昌孚目8畠。器。箪゜。刈90。巳くρω巨昏。自。°q°。旨け凶㎝し§も・ま。;§‘。けε ︵51︶ OO昌什帥﹁ユ糟︼U鳩国昌望Ψ一〇q昌O目印O昌け℃ユヨ99凶﹁O噂O℃。O津・︾O・H鵠・ ︵16︶ ︼︶帥ロ偉ゴ目出O℃O津σ娼”﹃ドOロ一ω・Oユ目9ロ畠讐国一曾O蹄O島O一偵◎嵩げ①詳ひユ噛O昌㎝①一〇q昌O旨O茸鳩O℃・O淳・讐侍・国煽弓唱。卜o膳ωー悼蔭劇・ ︵17︶ ︾﹃Oゴ鴎くOω]Z99二〇昌9冠ρ6凶けひ”僧﹁セOロ一〇〇・OユB餌ロユ讐O弓・6凶けごけ・ 固噂唱・卜∂劇心・ ︵18︶﹀﹁o寓くOω一︶99°昌O目O韓m一$自O冨ω僧詳7ρO濠冨﹁ピO巳ω。Oユ目9ロ畠噂O℃°鼻゜訴゜い◎﹄駐゜P.シエヴアリエらも次 のように言う。﹁ついに学校教育は、幾分誰彼かまわず、とにかく青少年と共和国に仕えることを望む者 その中には好意 Iな︵サソ“キュロットVも含まれていた によって行なわれることとなった。しかし、彼らは全く準備︵冒99。轟酔一〇口︶ ェなく、時として教育を欠いていたし、教育というものがやはり一つの技術職︵巨目豊o﹁90﹃昌昼ロo︶であることを忘れ、 熱意︵げo目o︿90昌$︶さえあれば十分であると信じ込んでいた。﹂︵℃°Oゴo毒ま窺曾鉾”H.国昌紹骨昌o目o暮h冨旨醤す8° ド〇三の・Oユ目99&り8°鼻゜”脅゜辱眉゜卜。ホ゜ O津6冒゜ωO°︶ ︵19︶ ︵20︶ ﹀昌昌99一〇ω“O一①国O一剛包O昌燭O律σ弓僧槽︼UO口凶u摩−O臥目一曽口畠噂O”。O凶け・り曾・ 国層唱・悼劇0・ ︵21︶ ﹀﹁Oゴ凶くOω目口昌一〇一℃帥一〇〇〇畠OUO口9一層O響①唱的﹃HO躍一甲Q﹁凶目”直α燭O唱・O客・℃け。 印唱噂・卜Ω劇①。 ︵22︶ ピOロ一ロo・︵Ψユ目”口昏噛O噂゜O凶再゜り伶゜ 国ゼ眉゜N心刈゜ ︵24︶ 目∪凶α゜響 ︼y 嵩α゜ 一げ凶畠゜噛喝゜謡一゜ ︵23︶守準”も゜悼お゜ ︵25︶ ︵26︶量α・鳩唱・卜。窃り・反宗教的共和主義教育の内実は、公立初等学校で義務的に使用される教科書︵嵩謹$ひ示ヨo艮9﹁oρ目9。昌響 鵬 叙 戯 物 龍 鰍 肪 噛 以 万 83 教育法であるブキエ法︵共和暦二年霜月二九日の初等学校および公教育の組織に関するデクレ︶によってその作成が指示 o一ω90一巴器。。︶によって具体的に担保された。共和主義的な教科書︵冒﹁o°・誌智窪8宣oω︶は、既に革命期最初の実定公 フ メロル されていた。これをうけて、共和暦二年雨月九日︵一七九四年一月二八日︶のデクレは、教科書執筆者の競争試験 プリュヴイオロズ ︵OO”OO口﹁qo︶を設定し、教科書の選定を審査委員会︵甘鑓︶に委ねた。この時期、例えば、ラ・シャボスィエール ︵冨 Oげ鉢δ⇔島ω一曾o︶執筆の﹃共和主義入門・共和主義の哲学・道徳・政治の原理﹄︵一〇〇9曾圧の日o﹃曾ロげ嵩o巴昌Oロ勺ユ昌o甘oω 二〇讐凶δ8噂ぼPαo日o冨一①9画o弓o澤5‘o﹃曾ロげ躍o巴昌o︶といったタイトルの教科書が好評を博し、議会においても賞賛 されたことが記録されている。総裁政府は、モソタニャール国民公会期のこの手続を継承したが、とくに共和暦四年芽月 ジニルモナコル =日︵一七九六年三月三一日︶には、元老院が教科書に関するデクレを可決し、既に何度も版を重ねてきたシヤボスィエ ね ールの前掲書及びピュラール︵切巳⇔a︶の﹃初歩道徳教本﹄︵ぎ曾歪6酔凶o房σ憲ヨo昌9凶﹃oωω彗置ヨo﹁巴o︶を共和国の費用 で印刷に付することを決定した。︵一げ一伽6 恩”。 H刈昌ーH刈α℃ 卜0朝bOlb∂朝戯u 餌口 什O図骨O O什 O昌 昌OけO°︶しかし、モンタニヤール国民公会期 ユ尻b母ま︶を惹き起こさざるをえなかった。カトリック教会の共和主義公教育攻撃はこの弱点をついて展開されることに に準備されたこれらの教科書の精神は、政治状況の変化によって生じた民衆の精神状況と﹁ある種の不釣合﹂︵慨ロ060暮巴ロo なる。︵OO簿母皇H噂国旨紹凶oq昌O目O暑℃ユヨ巴﹁ρOも・6津‘やδ⑩Oけω9タ⋮聞Oロ﹁ユ05ピ.国昌器凶oq昌O日O暮h鑓昌n蝕ω℃O,O凶∼ 戸島゜︶ ︵幻︶ 男゜O冨爵≡o﹁99rド.国昌紹蒔昌oヨ09ヰ”鍔巴゜・噛o弓゜o凶什‘”°ω㊤゜ ︵28︶ い〇三ω6ユ旨⇔億匹℃国一ω8蹄o畠o一”居9昇0伽.o昌紹茜昌o日o暮唖8°9什゜℃け゜ピ唱゜トニ罐゜ ︵29︶ 一び凶ユ゜眉゜N8° ︵30︶ ラカナル法の規定では、学校開設の権利の行使について、コ憲法によって構成された機関の監督の下に﹂︵。・〇二ω一9。。・ロ署①一・ =器ooユoω暫鐸8簿6ω08巴εひ。ω︶という条件が付されていたが、一七九五年憲法の当該規定︵第三〇〇条︶は、こうした 84 ヘ ヘ へ 条件を一切解除し、﹁私立学校設立の自由﹂を市民に無条件で保障した。さらに、ドヌー報告は、教育の自由の内包を拡大 し、﹁家庭教育の自由﹂︵一一げO冨い⊆O 一.伽畠口O帥一凶O昌αO円口①ooけ凶ρ口O︶、﹁私立教育施設の自由﹂︵まo誹伽αoω卑m葺ω8目o暮ω冨冨凶、 o巳一曾ωα.一諺茸蓉け凶oロ︶に加えて、﹁教育方法の自由﹂︵一凶げ6﹃e6 ユOω 昌口ひけげO島Oω 凶口o陰けコ﹄Oけ凶くOω︶をこれに付与した。こうして、 ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ °私立学校は、その開設について事前許可等の手続を何ら必要とせず、又、何をどんな方法で教えるかについても完全な自由 に委ねられることとなった。§U口くo﹃αq§・Oo=09凶o昌ooヨ巨①けo・o,鼻‘鉾自・,出ビrU轟三8国・竃o昌鼠oき国・ 切o昌昌9。a魯ρ切o﹁嵩PHoωOo旨巴言低o昌゜o曾冨゜・噂ユ昌o昼巴oω冒凶ω宕澤昼昼窃畠o一麟男冨昌8ユ8乱o。ミ◎。O讐刈。2°糟勺”ユ。oり =耳9。三〇〇6ロ曾巴09U3搾魯9甘ユ呂歪9昌8噛 O認燭噂゜ Q。⋮︼≦﹂°〇三=9。ロ日o層勺89ω・<臼げ薗鐸握ユロOo目凶$島.冒斡旨o・ 二8”ロげ旨ρ器9冨Oo昌︿窪ユo旨Z9。二〇昌巴o”梓゜卓℃9ユωL目”ユヨoユoき二〇昌巴ρH8S℃°刈8⋮ピo巳。。・Oユ目窪α”8・o淳・” け゜国﹁戸§噂O梓9 ︵31︶ ルイ“グリモーは、オーラール︵﹀°﹀巳胃α︶の﹃フランス革命政治史﹄︵国韓9話噂o洋凶ρロoユo一①幻曾o一9一〇口坤餌需9, 紹︶やマティエ ︵﹀°リh”侍冒一〇N︶の﹃総裁政府﹄︵訂U貯090貯o︶、コ総裁政府の宗教政策﹂︵P①”O澤言ロo話嵩Oq一〇ロ器畠ロ U凶﹃oo8圃お︶等の文献に依拠して、総裁政府の宗教政策の変遷を次のように把握する。−まず、同政府発足後最初の六ケ の ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 月間︵一七九五年一〇月∼一七九六年四月︶は、﹁恐怖政治下の︹カトリックに対して︺抑圧的な立法﹂︵蘇巴。。算凶8﹃曾器, ヘ へヘ ヘ ヘ 器署oαo一帥↓oq①ロ﹁︶の復活が企図される。︵この時期は、右翼王党派による反乱が起こった時期にあたる。︶ところが、一七 九六年に﹁.ハブーフの陰謀﹂が発覚するや、それまでの政府の態度は豹変︵︿O一けOIh帥OO︶する。政府は、バブーフ主義運動を抑 ヘ へ ヘ ヘ 圧し、民主派︵畠伽5PO10﹃①けOω︶の脅威に対抗するため、従来の反教権政策︵冨冒o一凶謡ρロo”鼻凶o辰ユ。四一〇︶を緩和して旧敵カト リックと妥協する政策をとった。例えば、ローマ教皇︵寄冨ロま︶と関係を結んで、立憲議会期の宗教政策を非難した教皇 ヘ ヘ ヘ ヘ へ の教書や書簡の取消しを求め、また、後述の﹁宣誓拒否僧侶しに有利な諸法律を制定した。しかし、この政策は長続きせず、 一七九七年の王党派の再度の進出の頃から、いわゆる﹁教権の危険﹂︵忌邑o憲ユo包︶が叫ばれるようになり、この危機を一 ら的 ︵成 ⇔ 立 成 の 制 法 育 教 公 る ス ソ け お に ラ フ 85 フロユクチドロル 挙に打開するものとして、 実月 一八日のクー・デタ︵一七九七年九月四日︶が起こった。このクー・デタを契機として、 ﹁宣誓拒否僧侶に対して独裁的権力を備えた総裁政府は、司祭に対してのみならず、宗教思想︵一.匡⑱﹃o一一鳳oロ器︶それ自体、 従って、私立学校1それは合法的なものなのだがーに対してもまた、冷淡で執念深く、系統的かつ激烈な迫害を始めた﹂ のである。§ドo巳ω・Oユ日”呂”8°o蹄゜”﹃同”署゜圏゜。山 即鍵8図9卑oコロ9ρ ︵32︶ 一σ達毒弓゜b◎8° ︵33︶ Oo昌訂a℃ピ.国昌沼侭昌oヨo算勺ユ日巴﹃90眉゜oF層”°H8° ︵34︶ いoロ一ω−Oユ∋窪α℃oや゜o津゜’﹃い噂O°b。ω下NωQ。° ︵35︶ 一ぴ置こb ° b ⊇ ω O ° ︵36︶ ガリカン主義とは、一四三八年のブールージュ宗教会議において確立された原則であり、フランス教会がローマ教皇庁と の関係において﹁ガリアの諸自由﹂︵嵩げo耳①ωoq蝉まon。ロo㎝︶と呼ばれる特権をもつことに依拠し、フラソス教会の総会議 ︵8昌昆80q曾曾”轟︶が教皇権に対して優越すること、フランス国王の認可なくしてはローマ教皇の教勅が無効であること ︵いわゆるサソクシオン・プラグマティク︶などを主張するものである。﹁普遍教会﹂︵一.いoq=8二巳く霞沼一一〇︶ないし﹁原初 教会﹂︵訂胃凶巨二掃けoq一凶詔︶の思想とも結合するこの原則は、一七九一年四月のフランス政府とローマ教皇との断絶まで宗 教界を支配することになる。このガリカン主義をいわば法制的に定着させる措置が革命期第一段階においてとられている。 別名﹁聖職者基本法﹂︵冨Ooロω捧暮δ昌。三冨畠⊆Ω霞σq①︶とも呼ばれる一七九〇年七月一二日のデクレがそれである。こ ヘ へ ヘ ヘ へ のデクレは、教区組織︵o躍8ロ9二博ざ昌。・ooo一診冨ω二ρロ①ω、例えば司教区αδo①器ω︶を行政区画︵島≦ω一〇諺巴日一三2﹃無一・ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ くoω︶に合わせて再編し、司教︵曾①ρ口oω︶や司祭の選任を能動市民による公職選挙にかからしめ、あるいはまた聖職者に俸 給︵什﹃釦繭けO岱PO昌け︶を支給するなどして、総じて教会を世俗的国家組織の中に組み入れ、一つの国家教会を樹立することを企 図したものである。﹁公民宣誓﹂とは、同デクレ第二篇第一四条の規定する手続である。同条によって、﹁選挙された司教は、 86 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 叙階式が開始される前に、コ、ミューソの公吏、住民および僧侶の前で、⋮⋮国民︵昌舞一〇5︶、法律︵巨︶および国王︵国9︶に ヘ ヘ へ 忠誠であり、議会によって制定され国王によって裁可された基本法︵一即 OO口堕鼠件口梓凶O昌︶を全力をあげて守ることを厳粛に宣 誓するLことを義務づけられた。ローマ教皇庁は、当初この﹁基本法﹂に対する態度を保留していたが、一七九一年四月に ヘ ヘ ヘ ヘ へ 至って、これが異端的︵7①融け凶O億O︶かつ離教的︵9匡。。日薗二ρロ㊦︶であることを非難し、僧侶達に宣誓を忌避するよう促し た。その結果、議会の宣誓命令にも拘らず、忌避者あるいは宣誓撤回者が続出することとなった。この﹁基本法﹂の制定は、 後年、﹁国民議会の立法的エラー﹂と評されるところとなった。弦U曾冨砕α二這甘竃卑皿卜。幽巴津嵩8ω霞一900器藻葺凶o口 o圃芭o含90﹃αqひ①け置自諮けざ昌9ω8茸mぎ80算9ロ話﹁笹909。。二〇目8ヨ冨簿o糟07昌゜翼゜H””や憶お1卜。心゜。 u。げ§章国巨。冨α。吻δ署。蕊畠巴・け。q嵩器gg一.い§りε§噂,①卑峯①゜。あ刈⋮尿。三︶嶺鼻噛↓邑まα゜費゜律 8ロ巴言ユo目o一、憶ひ“噛ρ<Poω踏冨旨σω讐げ言琴。・セ℃mユρ輿ユo国8。舞9一㊤卜。9弓,ミ一ム蕊⋮桑原武夫編﹃フラソス 革命の研究﹄岩波書店、一九五九年、第六章﹁キリスト教と国家﹂︵執筆・森口美都男︶、宮沢俊義﹁ライシテ︵蟹oま︶の 成立iフランス憲法史におけるl﹂﹃立教法学﹄第一〇号、一九六八年、後に、宮沢﹃憲法論集﹄右斐閣、一九七八年所 収。 ︵37︶共和暦四年霜月二二日︵一七九五年一二月一三日︶、宣誓派司教達は、﹁ガリカン教会規律再確立のための規則﹂︵幻Φαq・ ブリメロル 冨§o昇娼oβ﹁8コ﹁蹄”ロは富げ嵩馨Bo昇昏o冨島9圃弓嵩昌o臣o一.㊥oq嵩紹oq巴嵩8昌o︶を定める廻状︵巨茸oo昌o饗旨ρロo︶を公 表した。その中の﹁キリスト教学校規則﹂︵O呂o畠o。・け8冠のO﹃鼠二〇目窃︶と呼ばれる部分で彼らは、各聖堂区︵冨3凶ω紹︶ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ に一ないし二校のキリスト教学校を開設する必要を説き、また、その教育内容として読・書・算および礼儀︵O凶二一一$︶の初 歩的な教育のほか、キリスト教に関する基礎知識︵一。ω傘σヨ。鼻。・⊆o置﹁o一一〇q一8︶を導入することを指示した。教材として は、﹁新・旧約聖書じ・﹁イエス・キリストのまねび﹂・﹁教区教理問答﹂などが指定された。宣誓派僧侶達はまた、一七九八年 八月、えートル・ダムで開かれた全国宗教会議︵OO昌O=O 昌卯け凶O口①一〇︶の報告書において、公立学校を非難し、世俗的道徳に 嶋 ︵成 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 公 る 宗教道徳を対置させた。弦ドo巳ω・Oユヨm巳”国一ω8凶﹃o畠o冨ぎo#いユ.o口沼凶αq口。305計o,o凶∼“国℃b,B㌣も98⋮Ooロ富a いり国昌ω①凶oq昌OヨO昌け℃ユ9m凶﹁ρOU°O津゜層P一①一゜ ︵38︶ Oo算9﹁90b°o凶け゜︾℃°♂卜⊃° ︵39︶ 嵜達゜噂唱゜一①一゜ ︵45︶ Oo日算o・器民ロ碧護凶巳゜摩$﹃09置”980q9鈴9。5も胃冨Oo目目δ紹凶﹁oαロU胃090胃o雰08農寓①。。﹃島ひ ヨ09阜o置ωo言o噛αo冨ω凶けロ”銘oロUo躍銘ρロoα08ユひ唱霞8ヨo暮尉δ口島”馨一.9旨雨層o律ひ眉帥鴫ド〇三¢・Oユヨ聾‘α”oロ・o凶r 併゜肖リロ゜邸刈QQ° ︵41︶ ラカナル法︵初等学校の組織に関するデクレ︶の制定後、共和暦三年風月七日︵一七九五年二月二五日︶に、同じくラ ヴアソトロズ カナルの提案になる﹁科学、文学および芸術教育のための中央学校の設置を内容とするデクレ﹂︵ロ曾﹁9唱o冨雪け一.ひ富σ嵩ωω, oヨo暮ユo切曾o一〇ωooロ胃巴oωα窃謡息窃飾一.o昌沼一〇q昌o日o韓08巴o昌ooω矯ユo¢一〇け訂oω曾住窃帥旨ω︶が制定された。これに より、それまで何ら法的措置がとられず旧態依然たるまま放置されていた中等段階の教育施設として、パリに五校、その他 の県に九六校の中央学校が設立されることになり、同時に、従来のコレージュは全て廃止された。︵一ぎくo嶺凶0500昌8二〇口 ︵42︶ 即Oゴo︿巴嵩舞9笹゜℃H.国口沼凶oqロo巳o暮蹄僧昌の9ρo唱・9梓・り唱・蔭O・ oOB艮碑o”o弓゜9けξけ゜︷罫噂゜80eω鼠く゜︶ ン ︵43︶ 梅根監修・前掲﹃世界教育史大系9・フランス教育史1﹄、第四章、二四〇∼二四一頁。 目o耳巴﹃。畠oヨo邑o︶という教科書に、﹁精神とは五感の集合以外の何物でもないといえそうである﹂といった一節がある。 ︵46︶ピoロすOユヨ碧90,9fけ゜ド,b。卜。ω・その﹁物質主義的性格﹂を示すものとして、例えば﹃初歩道徳論﹄︵↓邑ま坐6, ︵45︶ 梅根監修・前掲書、二四一頁、傍点引用者。 ︵44︶ 男゜Oげoく巴嵩霞9巴゜℃ob°o登噛O°自・ フ ス け お に ラ 留 ゜盾 。 また﹁無宗教性﹂については、教育行政庁間の通達に次のようなくだりがある。﹁︹中央学校において︺追放されているのは宗 教的教義︵匹ooqBo︶だけではない。公認の無神論︵一.讐ま貯ヨoo諏汐一&は、精神哲学と宗教とに共通の基礎を形成する諸観 念をもまた攻撃している。﹂︵][O口凶¢昌Oユ昌日m口昏℃OO°O一け召け゜ 国ゼ”°ON幽゜︶ ︵47︶ 一ぴ達︷P卜σ醤゜ ︵48︶ 一げ凶ら‘娼゜bQ謡゜ ︵49︶ 一げ置←℃°ミ一゜ ︵50︶ U曾﹃oけb拶§8ユ縄ωげ議日巴3昌罫け凶﹃罫9昌ω℃U葛雪咀oび090a88B且簿90,0凶fけ゜自︾,直8 ︵51︶ ,O冨話ま興卑国 ℃ピ.国昌8剛磐0309守8の9。凶ω℃,心μ゜ ︵52︶ 目σ一α4目⑪旨o冨σqo° ・ ︵53︶ いo巳の・Oユ日器畠層o噂゜9什゜”け゜♂唱゜卜ΩOO° ︵54︶ 冒凶ユ゜Uロ゜ミ︵Y卜。コい プレリアル ︵55︶ 例えば、王党派のデュモラール︵Uロ目o一国a︶は、共和暦五年草月一二日︵一七九七年五月三一日︶、五百人院︵08器躍 委員会Vの設置を要求した。︵Oo口冨旦ド.国昌沼一〇q昌o目o暮℃ユB9。冨”o,o一r,δ刈゜︶ ユoωΩ昌ρ−Oo昇ε において教育立法を︽鋳直すV︵﹃OhO︼口畠﹃O︶ことの必要を説き、︽公教育に関する全般的作業に専念する ︵56︶ 共和主義者たちは、公教育問題について早くから警告を発しており、内務大臣や総裁︵冒誘暮oロ誘︶に対し、︵共和国の 未来Vである子ども達が王党的狂信の中で︽反革命の毒素V︵唱O一〇〇◎口 αO 一①OO昌け﹁O・﹃σくO一口け一〇昌︶を注入されていることを 告発していた。そして政府が、私立学校に乗り込んでいって司祭を放逐すること、教師に公務員同様の宣誓を行なわせるこ していた。﹃人民の友﹄︵い噛﹀目嵩畠口℃①犀噂一〇︶や﹃自由人新聞﹄︵﹄oロ旨巴ユoω出o日日$一一げ掃εといったジヤコバン主義的 と、両親を公立学校の維持に参加させること、あるいは公立学校の生徒数を増やすためにこれを義務化すること等々を要求 勅 ︵劇 公 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 る フ ソ ス け お に ラ 89 プリメロル ヘ ヘ へ な出版物においては、例えば﹁教育協会﹂︵ω8一σまω匹.宣曾歪9凶8︶といった結社を設立して︽王党的・カトリック的ならず へ 者Vに対する闘いを組織することなどが訴えられた。一方、議会においては、共和派議員のロジェ・マルタソ︵国oσq霞竃費, け冒︶が共和暦五年霜月二九日︵一七九六年一二月一九日︶にドヌー法の︽欠陥︾︵≦8ω︶を指摘し、とくに教師に対して 報酬が与えられていないことを批判して具体的な固定給の額を提案していた。︵一げ凶ユ゜噂噂゜ H①①゜︶ ︵57︶ 以上の経緯につき、参照、い09。・・Oユ日窪90,0剛∼齢゜閏℃署・認㌣ωミ罰08冨a’o,鼻‘噂,一零山①O° ︵58︶ ﹁宣誓﹂の問題は既に革命期第一段階において重要な問題となっていた。﹁聖職者基本法﹂における﹁公民宣誓﹂につい ては既に述べたが︹註︵36︶﹁参照︺、この後、一七九一年三月二二日および四月一五、一七日のデクレは公立学校の教師にこ ツサあタチドロル の宣誓を課した︹本稿e参照︺。更にこの措置は私立学校教師にも拡大適用されたが、テルミドール九日︵クー・デタ︶以降 は廃止されていた。 実月 一九日の法律は、﹁宣誓﹂の効力を回復させ、またその内容を一段と厳しくしたものである。も ︵略O昌O什凶O昌on 噂口σ一節ρβOω︶を委託された市民そして全ての司祭︵8ロω一$B凶三曾掃ω阜.毒o巳けo︶に限定されており、︵﹁司祭 っとも、﹁宣誓﹂対象者は、当面、第一次集会および選挙人会︵器器Bげ竃oω恩二B9。帥器。。oけ座oo8﹁巴。ω︶のメソバー、公務 兼教師﹂は別として︶公・私立の学校教師はとくに対象となっていなかった。︵[〇三。。,Oユヨμ嘗阜o,鐸蓉゜閏も,8Ψωざ⋮ 08冨a矯o,且∼ロ゜一ざ二︶慧o﹃oq冨﹃噛O亀09凶o昌8彗宮偉90,9‘e°図’,鮮ド︶ ︵59︶ 罎o凱8自.o﹁脅09勺﹁o一曾αo﹁ひ8一‘ユoロω霞一①ωOo昌忽8§富oけ碧言o。・目9。・o器ユ.忠ロ8二8ユoωユo長器xo 宿学校および他の男女教育舎に関する動議と決議案﹂︶決議案は、教育舎等が市町村当局の監督の下に置かれること、﹁共和 国とその法律に対する敵意﹂を表明した教師は訴追官︵一.鍔oロ紹8ξOロ匪o︶によって告発され永久追放に処せられること などを規定している。︵][O偉一〇ゆ・︵︸一目帥‘α℃O噂゜O一け6梓゜ 閲曽℃唱゜ω劇QIω轟一゜︶尚、﹁決議案﹂とは、五百人院で採択され元老院 ︵∩︸O口ω①凶一αOの㌧ノロO凶O昌の︶に送付される︽寓o一9︾を指す。後者はこれを可決ないし否決するが、修正するを得ない。 ︵60︶ ﹁中等学校﹂の提案のほか、住民三、○○○人について一校の初等学校を建設すること、四〇〇リーヴルの俸給を教師に 90 支給することなどを内容とする。︵︵甲O昌仲99﹁ユ噛O℃°O一け召◎° μ刈N°︶ ︵61︶ UO三〇 ロ ー O ユ ヨ 国 ⊆ 阜 O 唱 ゜ O 津 ゜ り け ゜ ・ 印 讐 唱 ゜ ω 鮮 μ ゜ ︵62︶ 幻9℃層o詳貯凶け噂m﹃H些3凶昌巴09⊆ロoヨαり離5000ヨ日凶器凶o昌㎝得凶包ooO目噂◎泓①qoの﹁o唱﹁ひ紹簿m三匂〇二口冨ロ巨o匂 ︼︾Oげ﹁ざり肖O冨繭①5︼︶自勺帥﹁ゆ肉Ooq6﹃︼≦99﹁ユPOP等くO﹁昌O昌Oけいロ瞬ロ帥昌9凶900口OO﹃ロ9昌け冨己O畠Oα㊦ωロ﹁くO凶昌m昌OO勢ひ枠9 oo蝿﹃げω6ずohωα鳩陣mげ嵩§日0900冨昌貯巳凶o﹃㎝α.凶ロ鴇謹9ざロoけ⊆燭①島ロ09自o口、o梓ω口﹁8ロ㎝一〇切宣&︿置ロωやユ︿①ωβロ凶o目紹凶αq− コo簿゜・o津9ΦNoロメ.8答o冒㊦N一$①暮器ω゜︵﹁人民代表ジヤン・ドゥブリュ、モルチェ、デュ・パルク、ロジェ・マルタン、 ゲイ“ヴェルノンおよびリュミネによって構成される特別委員会の名で、リュミネによってなされた、私的教育施設の長 および、脚自分のところあるいは他人のところで教育する全ての私人に対して定められる監督様式に関する報告﹂︶︵い〇三゜・・ OユB餌鐸α”O噂゜o律゜”e印鳩弓゜ωoo↑O昌昌OけO°︶ ︵63︶ 〃王権.無政府への憎悪、共和国・共和暦三年憲法への愛着と忠誠”に続いて、﹁これらに反することを生徒達に教えな いこと、生徒達に、共和国政府を愛させ、その諸法律をいつくしませ、彼らの魂に自由への熱烈なる愛を生ぜしめ、そして 全ゆる美徳の萌芽を蒔くために全力を尽くすこと﹂を誓うものとされた。︵Oo具餌巳℃8°o凶£,一謡゜︶ ⇔鐸≦胃讐O﹁噂OO=OO二〇昌OO目巨偉O、Oロ゜o胃゜噂併゜図り噂゜一ω刈゜ 一げ一昏゜℃”°H刈ω゜ ︵一 オ九八年六月五日︶の公教育の全般的な再編成に関する動議である。︵Oo5富﹁斜8°6凶f噂゜μ刈悼゜︶ 一うは、共和暦六年げ即削メ八日︵一七九八年二月二六日︶の初等学校に関する報告、もう一つは、共和暦六年彰,蹴一七 ︵64︶ 以上の経緯につき、参照、ピo巳。。−Oユヨ9&嘘oロ・o凶ρ︾け・﹃暑゜お㌣§噂自心9。・巳く・⋮Oo口冨a℃o噂・o凶2署・ミ〒一謡゜ ︵65︶ 日 ︵66︶ ︵76︶ ︵68︶ いO昌凶ω・Oユヨ帥鎚ユ噛Oロ゜O凶貯゜りけ゜同嚇噂゜ωω①゜ ︵69︶ OOロけ帥﹁ユ層070律゜噛弓゜μ刈ω゜ 嶋 ︵成 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 公 る け ︵07︶ U口︿O超冨びOロ・O蹄・uけ・図︾噂・卜⊃にω・ ω潜 ゜ ︵17︶ 0搾ひ唱凶﹃ピO鎧一ω・Oユ目”信α噛O噂・O搾・燭θ・国讐 ”①・ ︵27︶ 一ぴ一ユごb°ωω◎° 口 ︵37︶ ︾°﹀ロ一騨﹃ユ℃Z”℃O振Oロ 一。吋①θ 竃 凶昌O昌O℃ ◎曰 5くO屋腎鈴﹃ρOユoQ凶昌Oω・9ho昌9ざ昌けΩβo昌貯ユO一燭¢昌ぞO﹁oo圃審り日冨ユ99冨u 勺m﹃凶ρ﹀願O O = 口 ℃ 目 O 目 目 鳩 ℃ 唱 ゜ Φ ー ﹃ ° ︵47︶ いO口剛o摩−︵︸ユ目曽口昏鳩O”°O搾・℃﹃ 嗣噂U・.ωN㊤・ ︵57︶ 一げ凶二゜℃℃°ω66bΩ゜ ・ ︵67︶ ︼︶錫瞭β謬O什m一゜層ピ①ωOO口暮蹄ロニO昌oo噛O娼・O津6噂・HOS ︵77︶ い09甲Oユ日mロ自゜oロ゜o凶﹁梓゜肖嘘す﹁Qσ刈0° ︵87︶ 一げ一島゜ .. . , ︵97︶ 一げ剛ユ゜唖b口゜ω刈のーω刈①゜ ︵80︶ OO昌け⇔ ﹁ ◎ ﹁ O 矯 ゜ O 凶 け 4 唱 ゜ H ◎ ◎ N ° ︵81︶ 一≦089◎oqO唱﹃ひ紹昌θσOP吋冨⇔貯O曾O帥﹁OO図伽Oロユ隔即口60昌器一一αOのO凶昌ρ・OOロBooロ﹃貯αレ凶け信P二〇5傷O一.一昌鴇﹁信9凶O昌”ロ ρ⊆ρ冨ω耳ロ巳9器目貞︵N海 OOけOげ﹁O H刈O◎o︶︵﹁共和暦七年霧月三日に執行総裁政府より五百人院に提出された公教育 プリユメコル ン の状況に関する教書﹂yO99。くoO﹃σ胃阜ピ偵。辰讐ω巨一8自o﹁.冒。。言直oユoロロユ§9﹁oo昌聞鑓ロ8島㊦噂巳ω嵩゜。O甘沼ロ.仲ロoω @︵﹁公教育の組織についてロジェ・マルタンによってなされた一般報告・共和暦七年霧月一九日﹂︶︵・一七九八年一一月九日︶ プリユメコル ︵82︶ 閑””噂O冥懸ロ伽冨一h99津唱僧﹃,閑OoqO﹃7一曽昌凶Poo自﹁鴨O﹃o司”目瞳609ユO昌匹O一.一ロ曾﹁90自O昌噂口げ嵩ρ目ρ蒙9昌OO血ロ一〇σ﹃喧日9﹁O”昌・﹂ ︼︶O一P一餌一昌℃ Q◎Oω℃什゜一 ︵ユO 一刈QoO陣同QQωω︶層噂゜目ωωOけωβ凶く° 一〇ロ﹃匂o℃閑OOロO凶一αO¢一9qo︾低ひO儲eon噛O﹁昏O昌昌鋤口OO匂o脚僧轟①けσρ ﹁ひoQ︼O目δロけω糟傷ひ9忽O昌ρ 勢く凶ρ唱﹃O﹂O貯ooαO加一〇す矯邸。仙F噂℃曽ユoo糟 フ ス お に ラ 91 92 ︵83︶ 幻鋤眉”o昌h巴3塑蝿昌O日自OgoOO目ヨ富oゆざ昌ωα.ぎω窪露9凶O昌噂ロげ嵩ρロO魯二〇〇〇旨9津彗凶O昌ω﹁心O直三凶o餌凶ロ①ω﹁ひロ三〇ρ冒99﹃ 禔Bロ昌m昌,い9。ヨ。﹃<竃ρα曾葺辱象070ひ建﹁一窃仙8一①ωロユB臥3ω・蒙9、昌8含卜。卜。げ﹃ロヨ臥﹁o碧囹・︵﹁公教育・共和制度 ∮ッ委員会の名において、シエール県選出議員ウルトーuラメルヴィルによってなされた初等学校に関する報告・共和暦七 プリユメロル 年霧月二二日﹂︶︵一七九八年一一月一二日︶ ︵84︶ 国鋤噂bO旨h巴け も帥﹁ 切O昌ロm凶﹃O ︵ユロOげO﹁︶℃”鐸 昌O目μユOω OOヨヨ凶恩O目ωα.剛ロ曾﹃ロ〇二〇昌”ロ巨凶β錫OOけ伽Oqo 一昌魯律二二〇昌ω ヘ弓魯一一〇9昌$は自三8噛ω脊ぽ゜・停O一〇ω8暮壁一$°絵聲oo鮎ロ器ぴ﹃口日巴﹁o帥昌薗゜︵﹁公教育・共和制度合同委員会の名に ィいて、ボネール︵シェール県︶によってなされた中央学校に関する報告・共和暦七年プ魏.別ルニ三日﹂︶︵一七九八年二月 =二日︶ ︵85︶ 犀⇔b層o詳戯O国ユ9℃”口昌09畠OωOO目ヨ一器剛0500α殖一昌o摩P遷9一〇ロ唱億ケ嵩ρ口Ooけ島Oω一昌の菖け口鉱O昌ω﹁仙噂ロげ]凶o騨o一昌Ooo﹃ひロ プリユメロル 鍔二.o凝国三ω豊o目画oωξo鐙。・・累嘗8含ミげ歪ヨ巴﹃o雪固゜︵﹁公教育・共和制度合同委員会の名において、ブリオに よってなされたリセの組織に関する報告・共和暦七年霧月二七日﹂︶︵一七九八年一一月一七日︶ ︵86︶ 幻9ロ弓◎昌簿O﹃OU9畠oま8一ロユOロ”泳紹目まω噂帥﹁旨゜・﹀°b巳帥ロ希嚇ユσ弓ロまO曽﹃﹃岱ひ弓9誹6日09αロ剛唱団ムO−∪ゆ日O噛.僧ロ 昌OHロ畠O訂OO日目一器凶Ω日鳥輸一昌暮﹁ロ9凶O昌弓口げ嵩ρロ09ユOω一昌鴇律躍二〇ロω﹃①噂自げ一一〇9昌09㎝償﹁一帥ω‘署O凶昌曽昌OOOけ一僧”O嵩OOユOの 曾o一〇°・智ぴ一一ρロo°陰9冨昌凶o巳凶0掃㎝゜釈壁8曾O隷日9凶3①ロ薗゜︵﹁公教育・共和制度委員会の名において、ピュイ”ドゥ フリメロル “ドーム県選出議員ジ“ア.デュロールによって提出された、公・私立学校の監督・取締に関する報告と決議案・共和暦七 年霜月二日﹂︶︵一七九八年一一月二二日︶尚、上記註︵82︶︵83︶および︵86︶の各報告に付帯する決議案ないしデクレ案 は、O脹舞α℃、日o唱。o凶∼侍゜H℃唱O°冥Y戸自、置μ1竃9Hミ9切9<゜に収録されている。 ︵78︶ ︵︸O口けm﹃αりO冒゜O一貯゜℃娼゜μ◎oω゜ ︵88︶ 同決議は、執行府の交替とともに、総裁政府期の立法府であった﹁元老院﹂︵08紹一一島oω>9凶o昌ω︶および﹁五百人院﹂ 嶋 ︵成 立 ⇔ の 成 制 法 育 教 公 る け ス ン お に ラ フ 93 ︵Oo昌8富ユ①ωΩ后・Oo韓。・︶の休会と、その間両院を代表する二つの立法委員会︵ユ。曳Ooヨ豆⑳ω一。目ω示αq一。。一”二<。ω︶の設置等 定めた。これらの措置は﹁全く反憲法的﹂︵冨鳳9。凶9Bo暮麟三凶−8昌舞算暮ざ目o一冨εなものであり、﹁クー.デタの正当化﹂ g蕊゜豊゜。刈9酔゜H︵U°置h冒9一.﹀ロ6凶g家゜q百。︾冨9暮。畠。一.国B”冨︶㌔巴。。ト芽帥三。臣。琵昏u・。冨巨戸 ︵三β逢冨紳百含8毛o・蜜け︶とみなされている。§蜜m信ユooU①ω冨ロ脅09国一曾9﹁08口ω捧ロニ8ロ巴oαo冨団﹃雪oo §刈も゜目凸ご§巨8匂巴百り口ぎ凶・。。。藁律・§邑9。冨司§8讐け゜H㌔器﹄。・墨け凶。・ω巳ω§唱貫ま9 冒゜b∂卜oQ◎° ︵89︶ ﹁共和暦八年憲法の起草の仕方は、これまでの革命期諸憲法のそれとは全く異なっていた。ここで起草作業を担当したの ヘ講会ではなく、根本的に立場の異なる二人の人間であった。つまり、︽哲学者Vのシエイエスと︽軍人Vのボナバルトで ?驕Bし起草過程では、この二人の問にも軋礫が生じ、シエイエス草案が廃棄された後、ボナパルトの要求に基づいて作成さ 黷スドヌー草案が採用された。§智昌・冒8ロoω070爵一一凶㊦さ碧鴇9おユoω冨曾凶言け一〇湯糞ユoωま巴旨湘ω唱o一凶紳一β器。。ユ。一蝉 局§8ユ゜μ刈゜。°雪8喜量α。①ユ゜”けε昏。㎝勺。まρ・㊦島88邑ρ・。σ。けω&賠。・㌔①・すu国ぎ旦§・三8。;§・⋮ §§昭造゜二量凶§凶8ω旦葺・。㎝舞u・鼻8鼻冒け百邑層①。ひユ・㍉。歪:酔三8帥喜こmこ8昌国。巳9。,・8F ︽℃憂凶゜・∪”=8V㌔巴ρu”一貢§・。も゜ωo。。;昏・も。器巳・8ヒ馨。凶38韓津・二。目。量睾gけ・け・H・ロ・“・。① ㊦けo陰遣一く゜ ︵90︶ ﹁本憲法は、直ちにフランス人民の承認︵一.曽80冨o謡8曾冨¢営o蹄僧鍔帥一㎝︶に付せられるものである。﹂︵O⊆澱仁律。貯 巴‘い。ω9藁ぎけ凶§°。噂。”°鼻・も・崔。。・︶ ︵19︶ヲラソスにおいてこ2。葉審翼・︺は、笙および第二帝政の特殊な製を呼ぶために艮られる。この製に ト人民は二重の決定を行なう・つまり・一人の人間への信任の肯定およびこの人間の行為の承認である。・︵富讐− よっ リ畳峯゜罎9霊巳⇔§℃↓邑幕ユ。含謬8邑茸百鼻§・。ロ。忠菩・㌔・ユ。・・u・ぎN・蕊ωも・§・︶ヲランス 94 セ では歴史上の理由から、プレビシトという言葉は特有の意味を与えられている。二人のボナパルトは、プレビシトによって・ 選挙人団に彼らが実行したクー・デタを暗黙に承認させた。理論的には、いずれの場合も憲法草案を承認するためのもので あったブレビシトは、一人の人間のための示威運動の外観を呈することとなった。°こうしたフラソスの経験が、歯鏑につい ての人民諮問︵§08昌ω巳9二8宕や巳巴﹃oω口﹁躍昌冒o㎞9ユoけo鐸o︶である鳥既撮粟と、唱人のハ跡についての︵。。霞巨 ゴo日30︶人民諮問であるプレビシトを区別するようになった。﹂︵Ooo﹃鷺ω<o島o㌍寓p。旨9⑩一ひヨo暑⇔搾o畠o臼o津8昌舛凶ε− 鐵o目or℃9。ユ。。”国。o信o凶一睦﹁oざ Oお””,一。。?一ω。。・︶尚、参照、野村敬造﹃フラソス憲法・行政法概論﹄有信堂、一九六一 一九七三年所収、二一頁、︸巴ζ℃国凶舞9﹁08諺葎暮頃o嘗o昌ρo,o凶け︷﹃H噛署゜b。お−醗一゜ 年、六六∼六七頁、樋口陽一−現代の﹃代表民主制﹄における直接民主制的諸傾向﹂樋口﹃議会制の構造と動態﹄木鐸社、 ︵92︶ω一。器ωり。ま恩9。噌切”昌げ画o目団oサUロΦN”日旨律Φりo,畠‘,8μ゜ジャック・エリュルも同様にこの言葉を引いた後、次 のように言う。コ権力は人民の信任を得ているものによってしか行使されえない。しかし、人民は権力を行使するものを直接 に指名するには及ばない。層なぜなら、政府は、もし権力︵9。暮o吋ま︶をそれが行使される相手から受け取る場合には、決し てそれを保持することができないからである。﹂︵甘oρロoω国昌巳騨出翼93畠o°・宣昌ε銘oロ゜。翼゜9いo°×臭。匹曾﹃8=° ︵93︶ 団﹁坐9簿⇔ロo巳o忌ω噂ぎ㎝ユ件暮凶oロω尉δ澤首器ρo噂゜o凶∼”°ω零゜ ︽↓ま量⑫・℃母凶。・”写oω紹ωG昌貯o﹃。。剛富蹄oω9宰嘗8” Oq9,置9︶ ︵94︶ 切僧再=坐o日網無U‘o㌍oも゜o凶8切゜8一゜ ︵95︶ ℃﹁ 艶 9 0 け ヒ ロ o 巳 o 島 ρ o や ゜ 息 ∼ も ゜ § ° ︵96︶ ⇔o。・冨巳器。・”毎ψ8凶話08緯一εユo目昌亀Pε゜o凶け゜吟け゜H’や゜幽お鳩畠O卑畠 ° ︵97︶ヒロ。8胃一。国昌昌。9。ξ一︶﹃。謬8昌豊言晋嘗。一。ニロ巴εけ6謬も畠99ω﹂。魯‘8F︵§B88ωU9ぎNyぽユ9u 0N讐一〇刈9U°目Hω゜ 嶋 ︵成 ⇔ 立 成 公 淘ゆ 法 育 教 ︵98︶ ︵99︶ U9西ロ搾9n。rピ窃Oo昌斡搾耳ざ話”o噂・ユ∼唱”・二︵T一這・ 一〇蝉昌昌OmξOPO一け←唱゜H一〇・ ”ρ↓百げ鉾出算oマo自゜°。宣巴け暮凶8°・99ωミ日ω8す轟り0。巴‘8F︿零曾尻口註oNV・℃胃凶。。・口9ぎ国・一ミ合 ︵ool︶ 娼゜嵩幽゜ ︵皿︶ ﹁それ︹共和暦八年憲法︺は、権限の複数性、分散性および不安定性によって麻痺させられた総裁政府の脆弱性と弊害に 対する激しい反動であった。﹂︵一︶°°・冨巳﹁。ω燭出糞o冨8昌曾ぎけざ旨。ロ。燭名・。凶け・トHも・濠切・︶ ︵201︶ U麟σq三曽9巴・りO”・o凶2冒・二ω・ ︵301︶ ↓冒げ斜虫鴇o凶﹃o島oω冒豊け三ざ器噂o,o凶f,ホ“コ共和暦八年憲法は根底的な変化をもたらした。なぜなら、それは 決定と執行︹の権限︺を同一の人物に集めたからである。﹂︵冒ぎr震㎝8凶器8ロ魯津ロ謡。ロロ。目。”。,。凶frH層,卜。劇↑︶ ︵401︶ Uロoq三け9巴・鰯o”・o頃f噂・=◎。・ ︵501︶ 閑ω訂巳﹁8噂田雪o凶日08昌珍ε二8ロ亀P8・9け‘rH・℃・ホO・ ︵061︶ 一げ算鴨,&一゜ミシエル日アソリ・ファーブルは共和暦八年憲法について次のように一言う。﹁この憲法は、ともかくも共和 る 主義的︵ま窟藍8冒o︶であるが、しかし、もはや自由主義的︵ぎ曾巴o︶ではない。それは、国家権力の大部分を執行機関 チルモドロル ︵TO亘︶ 正式名称はーナポレオン・ボナパルトを終身第一統領と宣する共和暦一〇年熱月一四日︵一八〇二年八月二日︶の元老 二〇〇伽ロ曾巴oユoU3津oけαo一ロ﹁富℃﹃鐸ユO昌8︾ ミ8”°刈O・︶ なおさらのことである。し︵竃ざ70甲出o昌ユ司”訂9℃ユ昌o昼oω﹁魯ロ三胃巴昌ωユo脅o搾o。昌曾津⊆二〇昌昌①ど㌣$4℃薗ユω”い管噌m一, ちらかといえば理論的なものであり、現実には﹃第一統領﹄が他の二者に優越する。それは第一統領がボナパルトであれば 関は三人の統領によって構成されているから、依然として合議制的︵8ま臨巴︶である。しかし、この合議制的性格はど の手中に集中していることからして、一つの独裁憲法︵錫ロ08口ω二言二α昌島990ユ巴o︶である。たしかに、この︹執行︺機 け ン ス お に ラ フ 95 . % 院令L︵累昌僧梓舘go・OO目ωロ一けO 色ロ 一幽紳70§一αO﹃薗昌︼︻︵b。8津嵐δNyO9冒8一暫BoZ農δ示oロ切o§冨誹o冨oヨ凶霧 妙く凶ρ︶ ︵一︶口oq‘律Oけ9δ一゜噛OO°O謬゜讐”° Nα゜︶ ︵801︶ 正式にはコ共和暦一〇年熱月一六日︵一八〇二年八月四日︶の憲法付属元老院令L︵ま口簿ロω・8諺巳80﹃oq緕。昆oロo畠o冨 テルモドロル OO昌暮凶貯ロニO口αロ一①けずO﹁ヨ崔O﹃”昌図 ︵劇mOゆけ一QoObo︶︶︵一げ箆゜︶ ︵901︶ 6ゴoく巴嵩Oび国一馨O貯oαooゆ凶昌段律9δ口ρo弓゜9∼”°H◎り二≦僧鐸ユoo口僧くO﹁曽が一ロ吟津9凶O昌ω”O嵩二ρ口O㎝9α﹁o凶けOO昌露 ”° ωS 鑑Oロロo一・け・N日①oo団oo呂ヨO唱O澤δロoh話ロの巴ρ=。い塵・”oOF︿↓げ6ヨ凶号燭℃”﹁一ρ勺﹁Oω零ω¢且くOお凶雷貯oo陰αo岡鑓ロOρ一㊤刈 ︵011︶ Oゴ①︿僧一一凶0500°6一梓゜噂”°一◎り゜ ︵m︶ OO昌再暫﹁αり目讐国ロω9σq昌OBO目け℃ユヨ僧貯ρO唱゜O津゜鳩や゜ ㊤一゜ ︵3量1︶ Uロくo﹃αq一。﹃℃Oo一言9一88B二偉o︾。冒゜9‘ρ圏噂7旨魯矧゜変更された宣誓内客についてドゥピドゥールは、﹁共和暦 局坐冒勺o算o一一・Z9◎弓O竃O昌一。噌9一りO﹁oq”風器二〇ロ”口8ユ酔巴掃ユO宣周﹃鱒昌oρ℃僧ユoo燭﹀﹃ヨ餌昌αOO嵩炉一〇α9”°⑰9 ︵211︶ 一σ一α゜層”°HON° ︵411︶ 八年 憲 法 が宗教に関するいかなる条項も含んでいないだけに、受け入れやすい︵国OO㊦唱け”げ一〇︶文句である﹂と評している。 ︵Ooぴ置o詔5=♂8凶﹁o畠①ω噌帥冒”o嵩亀oユo一讐けσq嵩器魯ユo一.けけ舞噂o弓゜o凶け゜℃や゜一留゜︶ ︵511︶ 宮沢.前掲’﹁ライツテ︵一臥oま︶・の成立﹂﹃立教法学﹄第一〇号、哺二頁に引用つ j O一件伽弓帥﹃]︶Oげ一αO口がO冒゜O律゜℃”°昌Q◎◎◎° ︵⋮c⋮ ︵711︶ 量畠゜次のような言葉もナポレオソの宗教観を如実に示す。﹁社会は財産の不平等︵一.宣いoq国一一鼠畠①ω8昌鐸ロ霧︶なしには存 ァしえないが、財産の不平等は宗教なしには存在しえないものだ。飽食した人間の傍らで飢えで死ぬ人間が、こうした差別 ︵α帥hhO﹁0500︶を納得できるためには、彼に対して次のように言ってくれる権威︵§09。ロ8ユ9︶の存在が必要だ。﹃神がそ 嶋 ︵成 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 公 る フ ン ス け お に ラ 97 う望み給うのだ。世の中には貧乏人と金持がいなくてはならないのだ。だが、長い間にはやがて貧冨の配分︵冨昌”oqo︶はち がったものになろう﹄と。L︵Ω$唱費Ooo﹁oqoωピohoσ︿﹁o噛2昌o示oP︽男oロ巨窃卑Ωくま紹二〇昌V田曾o胃ooq曾曾巴9︿ ×圃く”℃麟二ρ淳$沼の口巳ぎ﹁ω一富冨。。ユo国δ誇ρ這①㊤燭7目8°︶ナポレオン個人としては宗教に関して﹁全く無頓着﹂︵ho詳 言9hh曾o耳︶であり、全ての宗教に対して﹁同様の軽蔑と同様の敬意とをもって﹂接していた。彼は言う。﹁余は、エジプト ゜では回教徒であったし、ここではカトリック教徒であるだろう。それは人民の幸福︵一〇げ一〇昌畠昌b6⊆U一〇︶のためである。余 ・は宗教を信じない。﹂︵︼︶Oげ凶畠O口﹃,Ob°O凶け゜噂︾° 一Q◎O O仲 HOO°︶ ︵811︶ 一げ繭ユ召弓゜一◎◎◎◎° ︵911︶ U口αqロ律噂↓﹃99津価.畠Oα﹃O蹄OOロωユけ鐸二〇昌昌O一脚Ob°O搾6梓゜く旧”°ら刈㊤゜ ︵m︶ 一げ凶伽゜ ︵121︶ 後者は前者の補完規程︵ロ昌幕oq一〇ヨo算8目営①ヨo算巴冷︶ないし付属立法︵辰oq凶ω巨一〇昌骨冨昌90ロ一9﹁o︶であり、また、 国内における﹁宗教の編成に関する法律﹂︵互﹁o算貯o聾一.o﹃αq曽三゜。畳89ωo鼻oω︶.として一種の﹁聖職者法典﹂︵§8ユo ユ。臼9eo8冨。・凶器ユρロo︶を構成する。﹁カトリック教に関する付属条項﹂︵﹀三90ωo嶺帥三書窃含oロ冨890萱ロo︶ ︵七七ケ条︶、﹁フランスにおける新規の大司教区および司教区一覧﹂︵↓帥げ一8口αo一m6蹄8昌9二噂ユo昌α$昌o口く8員︾器ゴ・ ジユルミナル o︿曾ま゜。魯国︿辞ま亀・αo訂串曽昌oo︶、﹁プロテスタント教に関する付属条項﹂︵>agoωo﹁oq帥巳ρ器ωαoσo巳8ω胃90降m暮ω︶ ︵四四ケ条︶よりなる。 コンコルダ本体︵一七ケ条︶とともに﹁共和暦一〇年芽月一八日法﹂︵日9曾一。。oq臼ヨぎ巴雲 図︶として公布された。︵O‘︿巽αq一〇500昌o魯凶88ヨ昆酵o”・o℃°o凶け゜℃﹃網一一押冒゜ω一りoけ゜・巳く゜⋮いo巳ω゜㊦ユ目p億P震゜。8胃o 昌O一” 躍げO昌ひ α矯O昌oo①一〇q昌OヨO昌計 Oづ゜O津4ρ 目讐ピO OO昌の二一餌ρ℃°一ω◎Oけωロ凶く°⋮℃O昌一〇一一り ZgbO一ΦO昌一窪Oけ 一矯O﹁oq餌昌凶ω四二〇ロ 9⊆齢Oユけ9マρO℃°O凶け゜℃”°刈O⋮Uロoqβ津層O弓゜O津゜り﹃ く脚唱゜ら刈QoOθ¢二一く°︶ ︵1︶ U舘讐豊8°o駒fけ゜<噂窄ミリ゜イタリック体・引用者。 田 ︵321︶ OO昌OO﹁自99計m﹃﹃ ピ一︶口︿O﹁舷O﹁℃O”°O搾゜℃け゜×一一一・唱゜ω一〇° ︵421︶ いO口凶ωムリ﹃一昌μ曽口匹嘘O喝゜O淳こけ゜ ]︾噂冒゜一ωHI昌ωO° ︵521︶ 一げ一ユ゜℃b噂゜一ωq−Hω窃゜ ︵ε21︶ ︾詳一〇一〇ωO﹁oq9◎昌凶ρ口Oωα口O口胃OO国け﹃O謡ρ口O層9ρ冨゜昌 ︾BOけNα燭U⊆<O﹁09一〇きOO°6胃゜りr×目一讐娼◎°ω8ーω悼一゜ ︵721︶ い〇二一ω−Oユ旨薗口α℃O口゜O搾゜”け゜咀ピ弓弓゜一ω刈1HωO・ ︵82︸︶ OO昌什塑﹁山u︼U鴇国口ω①凶oq目OM口O昌梓℃ユ日帥一﹁O”O弓。O律・噛O・悼○○・ ︵⋮⋮⋮︶ 聞O口﹃ユOさい噛国昌ω①一αq昌Oq口O口けh﹁帥昌の帥一ω鴇O娼゜O搾゜︾や゜O悼゜ ︵031︶ OO口侍⇔﹁ユ”O唱゜O律゜℃”°NQO° ︵131︶ ﹁譲渡されていない司祭館および隣接の庭園は、主任司祭︵。霞①ω︶および支聖堂付司祭︵ユo馨ミ9。ロ富血。ωωロoε羅冠。・︶ に返還されるものとする。し︵﹀三巳oωo﹁oq巴凶盤oω曾oロぽ8昏o言器℃鋤昌謡噛U口く①﹁巴o﹁り8°9‘属日”も゜ω卜。悼゜︶ ︵231︶ 団O口﹁ユ050唱゜O響゜曽噂゜ON・ ︵1︶ OO昌け①﹁α噛O唱゜O凶曽゜讐冒・悼○○・ ︵1︶ 一げ一鳥゜ ︵⋮⋮⋮︶ 目げ一α6も゜煙9同・ ︵1︶ 一げ凶鳥8弓゜ ON° “ ︵731︶ 一窪島゜ . 隔 ︵831︶ ドOロ一㎝・Oユ旨9◎⊆鳥”O弓゜O響己ρ ]℃や﹂心劇゜ 9 ︵1︶ OO昌け帥﹃畠噛O弓゜O凶け゜︾戸,μOい゜ 、 , ﹂ ’ ︵⋮⋮⋮︶ ピO‘凶ω・Oユヨ9◎⊆α噂O噂゜O律・℃曾・ 國噂”唱・鵠﹂㎝O。 嶋 ︵成 ⇔ 立 成 の 公 制 法 育 教 る フ ン ス け お に ラ 99 、 ︵川⋮︶ 一げ凶ユ゜噂冒噂゜ONー刈Q◎旧﹀ロ一9ρ吋ユ讐︺Z曽UO一伽O鵠窄哺Oけ一〇旨O昌O℃◎一〇ロ昌一くO﹃ω搾”蹄O噂σ噂゜O津゜℃喝U°0心ー窃O° ︵241︶ OOロ 什 9 吋 ユ 鳩 O U ° O 凶 け ゜ ︾ 唱 ゜ H O ω ゜ ︵341︶ 幻帥窯δ昌9”﹁ε9αO一9㎝自﹁一、一昌曾﹃煽o謡O昌噂賃げ=0,ロρ層融器算ひ帥口OO昌器出ユ.け冨f紹〇二〇ロαo一.一9俸ユOβ5唱餌﹁旨゜﹀° Oゴ9。降巴℃HQ。げ﹁⊆39。貯o曽昌国゜法案のテキストは、O盆碧9H四示oq巨⇔二〇ロαo一矯貯ω茸⊆n二〇昌℃ユ日餌騨o・o噂・9け・け・H・廿噂・ .一①Q。1嵩α、報告については、Ho巳ω・〇二旨麟。⊆斜o宰o津゜ン゜自””O・寓α山αα旧Oo艮9。﹁斜σ娼・o凶∼O噂・ O刈−目OO⋮℃o鼻o鐸出凶ω・ ε貯oユo一.oロ器茜ロo目o鼻噛8・聾‘ロPOω占①その他の解説による。 ︵1︶ 幻⇔℃唱O旨℃O律①O⇔﹃HOロ一ω・〇二昌四ロニ噛Oや゜O搾己鉾目℃弓゜一心曾℃吋OUOθ画O一〇一噂ユけ゜H噂帥昌゜悼Oけ陣蹄゜国讐n㊤博゜ピO﹃σp畠﹃畠覧OU° 6凶侍゜噂け゜ H︾”°H①O° ︵541︶午99昏o互︾捧・・押↓邑8ヨo韓α窃日m博窪o。・ユo一.冒ω窪口〇二8智げ言口ρ︵第四篇﹁公教育教師の給与﹂︶教師の給与 ︵即﹁O一〇け山O一〇一噛 は、例えば小学校の場合、半分は郡︵拶噌﹃O昌ユ一ω¢O目PO昌け︶の付加税︵8暮一日oω巴ユ窪o嘗o一ω︶によって支払われ、残りの半分 は市町村当局によって用意される。︵第二条︶︵O菰母α矯8°9°蓉゜H噂u°ミω・︶ ︵1︶ ︾‘一国﹃ユ℃]Zm喝O一ひO昌 H㊦吋Oけ一〇目一〇昌ObO一〇口昌凶くO吋ω一け”貯O層OU°O凶け゜鳩娼゜らco° 一び置゜ ピO¢一〇〇・OユB9◎¢畠℃O冒。6一﹃℃け゜国︾冒゜ 幽o◎° ︵741︶ OO昌仲9﹃α脚O口゜O津4冒゜ドOQ◎° ︵841︶ ︵941︶ 一げ一畠゜℃唱゜μ窃一゜ 国僧”冒O黙騨O律ひ”㊤﹃HO¢凶ω・Oユ日9鐸ユ﹁O弓゜O津4e 国噂口゜H鮮O° ︵051︶ 守崖゜ ︵互51︶ ︵1︶ 量q°こうした観点から、法案においては小学校教師の選任に家父が参与する仕組みが採用されている。 ︵351︶ o o 1 け凶け゜目燭㈲H・﹂9。罫H。嶋噛O﹁鼠a”o”°6凶け4梓゜H︾眉゜昌刈卜o°︶ ︵1︶ 幻n。弓”o旨”6津ひ弓母いo巳oo6ユ日m⊆ユ螂o”°9梓弓け゜国”娼弓・μお山8・ ︵1︶ 勺﹃O一〇什αO一〇一︾ユけ゜H︾帥﹁ρ¢O﹁ひmF﹃傷りO℃°O一け6け・H.冒・︼60・ ︵561︶Oo三9。aも写鼻‘,H8°例えば共和暦九年霧月二八日付の政府新聞﹃モニトゥール﹄は、ある予約購読者の熱狂的 プリユメロル な賛成論を掲載した。この論者は、﹁明確な思想、深遠な見解、鮮やかな論理展開、確固とした原理、適切な結論﹂といった 最高級の讃辞をシヤプタル案に贈っている。いくつかの地方議会も、﹁教育に活力と便宜を与えるもの﹂として法案への賛意 を表明している 。 ︵ 一 げ 冠 ゜ ︶ ︵751︶ い〇三ω・Oユヨ”ロ90噂゜9け弓け゜國矯弓℃・嶺㌣嶺q・ ︵851︶ 勺o昌けo出’出一90貯oユo一噂o昌器茜昌o目o茸h冨鍔巴ω噂o”・6凶け6唱・8・ ︵951︶ ド09ω6ユ目”ロユ℃o唱゜息け゜℃紳゜劇︾戸H9・ プ リ ユ メ ロ ル ︵061︶ この間、共和歴九年霧月一六日︵一八〇〇年一一月六日︶のデクレによって、シヤプタルは、ルシアソ・ボナパルトの ヴアソレロズ 後任として内務大臣に就任した。内務大臣シャプタルは、共和暦九年風月二五日︵一八〇一年三月一六日︶付・各県知事 ︵冒母9ε宛の通達において﹁公教育状況調査﹂を依頼した。この通達では、各県知事が郡議会︵oo5沼濠畠.四旨o昌島馨, 餌口閑℃﹁禽魯9冒ogユ︿櫛韓‘器05ρ億陣oω霞冨゜摩岸ロ讐ざ昌ユo一.ぎ曾建9凶o昌弓ロげ嵩ρg層謡くo昌38”昌目℃Oま調。巳’o憎・島£ 日o具︶の協力を得て九項目の質問に回答することが要請されている。6蹄o巳巴﹃o畠偉寓巨鴇器ユo一.ぎ鴇﹁9ユ8智げヨロo PH噂,嵩9︶︵通達が︽竃凶三雪﹃oユo一.ぎ雪歪6け凶o昌智窪ρロoVの名で発せられているが、これは、当時の﹁内務大臣﹂, ︽竃巨曾冨自o一、一三ひユoβ﹃︾が、﹁実際には公教育大臣﹂︽o旨鴎巴f自o一.ぎ舞歪9凶8弓ロげ言口oVないしコ事実上の国民教育 も 大臣L︽竃凶三費o自oh9。搾αo一.臣信8該oロ昌豊o昌巴①︾であったことを意味する。ーいo鼠。・,Oユ目髭阜o,o凶∼梓゜]鳩唱, δ下嵩゜。°︶このアンケートに対する知事の回答は、一八〇一年四月∼五月、遅くとも九月までには送付されてくる。これより 嶋 ︵成 ヨソセイユコデタ 先、一八〇一年の二月から三月にかけて、ナポレオンは、地方教育の実態を把握させるべく、国事院評議官を地方に派遣し、 プリュヴイオ ズ 公教育をはじめとする公役務全般の実態調査を行なわせている。公教育についての情報は、このほか、共和暦八年雨 月 二八日︵一八〇〇年二月一七日︶の地方制度改革に関するデクレによって設置された県議会︵8目8誇oq9曾窪×︶によって ももたらされた。すなわち、﹁各県の状況と必要な事項についての意見を内務大臣に伝達することを特別に委託された﹂県議 コソセイユ デタ ‘ 会が、公教育についての情報を政府に供給していたのである。ナポレオソは、これらの情報をもとにして公教育についての 新しい法案を作成することを国事院評議官に依頼した。それらは、一八〇一年六月から翌年三月にかけて︵つまり、フゥ ルクロワ法案の審議と並行して︶次々と提出されてくる。ここでは、法案作成者の名前だけを紹介しておこう。ーラクル ー︵H︸Ooりe⊆け梓 αO 日﹂﹁聾O団︶、アルノー︵﹀﹃昌9。口犀︶、メロー︵︼≦巴ぎOω︶、トウサン︵日Oqω路ぎけ︶。§ドO鼠ω・Oユ目餌¢ユ鳩O掌O胃゜ テル︵︼﹁mO﹃Oけ〇一一〇︶、シヤンパーニュ︵Oげm日唱帥σq昌①︶、ワソドゥランクール︵≦げ昌岱o冨凶ロ60億詳︶、デステユト・ドゥ・トラシ の け゜国︾冒噂゜嶺刈山9⋮Oo算母ユ’o唱゜oF’喝O°H㊤㊤−碧6⋮℃o暮o算o℃噛9fロ゜090言゜ ︵66産︶ 中村睦男﹁フランスにおける教育の自由法理の形成⇔1﹃帝国大学﹄による教育の国家独占体制の成立l﹂﹃北大法 キストは、Uロ︿O茜貯き09げOユO冒8ヨ覧辞90戸O凶け‘戸×一拝署゜嵩α山刈Q◎による。 宕げ嵩ρロ。・ω$ロ8含8σqo﹃Bぢ巴動昌図・この演説の内容分析は、主にゴンタールの解説による。尚、一八〇二年法のテ ︵561︶U§o自ω胃§8a冨﹁鋭・司゜岡o霞。3ざo量8霞含Ooロ︿。ヨ。ヨ。9ω霞毒胃9。け畠。互﹃。巨罵陣一.宣ωけ歪a 昏o希﹃︶およびサン”ジヤン・ダンジェリ︵ω巴曇山om昌傷.﹀昌なSの三名。 ︵盛61︶ フゥルクロワ、国事院内務部会長で後に公教育庁長官︵U凶﹃069ξユo一.一ロ曾歪〇一凶8冒げ一一ρロo︶となるレーデレ︵閃o? ロソセイユロヲタ ︵1︶ い09甲Oユ目霊9呂゜o津゜.け゜目悔℃娼゜δc。∴δ馴Oo鼻9a℃8°o凶∼冒゜8N° ︵261︶ ↓o尊o畠o胃90ro凶9娼帥﹃Oo韓母98°息£噂゜8b。° ︵161︶ Oo簿”a矯o℃°o凶け゜矯噂゜8ド 法 ⇔ 立 成 制 育 教 公 る フ ス ソ け お に ラ 0 1 1 10 学論集﹄第二四巻第一号、一九七三年六月、七五頁、引用は,フゥルクロワ﹁提案理由﹂。 ︵τ61︶ OO昌け9﹃阜O◎°O津ごb。8ω゜ ︵861︶ 一げ置゜層””°b⊃ON−boOω゜ 、 ’ ︵961︶ 一σ置6弓゜bΩ◎ω゜ ︵m︶ HO凶αロ=巨O﹁ひ亀9昌図oo口﹁一u一昌鴇﹁ロO鼠O昌Uロげ嵩ρロ9け一け゜H。軸℃U署凶臥O口昏O=昌㎝言ロ〇二〇P餌二゜Ho﹃℃一︶口くO噌豊OJO噂゜O詳゜︾ 貯゜×一=℃唱゜ 刈9 、︵ 香j﹁初等学校に関する章は、事実上、一七九五年法を再制定したものである。⋮⋮国家は初等学校の維持に対して何物も与 ﹁えない。﹂︵田署o&℃°O口耳茜ユo∼↓げoぼω8員oho含09。島oジ国α二8ユoロ旺蜜9。o謡oom巳胃ooq﹃o器8昌ω箆霞 讐餌器ohgo自o︿匹oO日o韓①昌自呂﹃s住oh≦w曾oヨ9≦蔚9。自op国o。・8p口o口oq﹃8昌竃凶窪凶昌鳩お8脚噂゜$一。︶﹁初等 ついては、ナポレオソは、ドヌー法を踏襲し、教師達に教育が初歩以上に出ないよう命ずる以外は殆んど何もしなかった。 国家は初等教育をサポートしなかった。そして、一八〇一年のコソコルダ これによってナポレオソ・はカトリック教会と 和解したのだが の後は、﹃キリスト教学校修士会﹄が初等学校の教師として再登場することになる。﹂︵串O°Ooo自噛﹀ 冨20姥oh覇o斡o∋oα⊆o鉾一〇Pbo呂oα‘20毛吋o﹁ぎ竃9。o日旨9・戸おミ”弓゜B刈゜︶﹁初等教育に関しては、 フルクロワはド ヌー法の諸規定、とくに無償と義務の廃止規定を温存した。﹂︵寂oP田鴇o一﹁oαo一.o昌器一〇Qロoヨo昌roU・o凶∼噂・Oω、池端訳 ・前掲、六八頁︶ ︵1︶ OOロ骨9﹁ユ矯O弓゜O津゜噛弓゜卜oOω゜ ︵1︶ 局Oロ﹁ユ05ドリ国昌ω鉱αq昌OH口O昌けh﹁”昌の9ω噂O弓゜O凶併゜℃ヤ①ω゜ ・︵471︶﹀昌8冨午8計田鴇O冨9一”9鼠゜q昌O§段O昌津弩8H°。8∴8メ8一一〇鼠89恕ユ㊦、.田弩冨8韓oヨ宮邑ロo. ℃鼠ρ﹀﹃目りm昌畠OO嵩昌︾HOのQ◎”℃°鱒躰゜ 謝 載 ⇔ 立 成 笥ゆ 法 育 教 公 る け お ︵5τ1︶ ﹁リセが組織されるに従って、政府は、その活動を停止すべき中央学校を指定するであろう。﹂︵ロロ器嶺圃oさo,o凶r﹃ ×一一一層唱゜蜀①゜︶ ︵671︶ ーリセLの教育対象として列挙されている四種類の生徒の中に﹁試験によって入学を認められた中等学校生徒﹂が入って いる。︵一げ幽匹゜︾”. μ刈α゜︶ ︵771︶︵蜜8舞o霞ωVは、現在︵一九四五年以降︶の︵言9民雪8V︵主計官︶の前身である。︵閃oロ鼠oびo,o一∼,①↑︶ ︵⋮⋮︶ 事務局は、通常、県知事、控訴裁判所長︵b泳ω窪o鳥qβ鼠げ§巴α.昌冨一︶、同裁判所付政府委員 ︵8ヨ三羅一3αロ .Oo慧①∋。ヨ。簿實雰oo鼠げ口冨一︶、刑事裁判所付政府委員︵8日旦゜・ω臥B含08︿oヨoヨo昌貯智$ぽ三ぴ暮巴oユ旨凶9一︶、 市長︵目口99旨㊦︶および校長によって構成される︵第一五条︶。︵U些くo﹁ひq冨きo,o凶fθ゜区一戸,一刈9︶ ︵971︶ コ初等学校﹂にういてもこの趣旨に沿う規定がある。第二篇第五条によれば、﹁副知事︵ωo⊆ω亡詠臣9εは初等学校の組織 化を特別に担当し、一月に最低一回、初等学校の状況を知事に報告する﹂ことになっている。︵コリ凶06弓゜ H刈窃゜︶ ︵1︶ 団o霞翫050,鼻‘,宝゜イタリック体は引用者。 ︵181︶ 共和暦八年雨 月二八日︵一八〇〇年二月一七日︶法︹註︵m︶参照︺による地方行政制度改革は、ナポレオソの国内政 プリュザイオロズ 書房、一九五三年、九三∼九四頁。︶その概要については、さしあたり、日一巳’国犀9﹃o住$冒段け三δ拐燭oやo量ρ9, 治の重要な一環をなしている。︵冨h㊦げ謹鋭Z昌o一αoPoP。一f,。。α卑。・忌タ罰西海太郎﹃フランス現代政治社会史﹄一一= ン 嵩刈oけ゜・⊆ぎ参照。 ︵581︶ 法律案は、①政府による発議、②護民院への送達、③護民院での審議・票決、④立法院での票決、という手続を経て法律 ︵1︶ 冒凶畠゜ ︵認童︶ 9$冨﹁いo鼠甲Oユヨ僧&層oやo津‘け゜騨,μ。。一・ . ︵肌1︶ 閑o霞﹃凶oひo,9f狽①↑イタリック体は原著者。 フ ス に ラ 0 3 1 0 4 1 となり、第輔統領により公布される、④の段階では、政府が国事゜院評議官の中から選出する派遣演説員および護民院が自 コソセイユ ヂタ らの採決理由を表明し擁護するために選出する三名の派遣演説員が発言をするが、︵立法院︶議員の側から審議を提起するこ となく、秘密投票により採決が行なわれる。︵08ω鼻口二8含Nb。鼠日餌貯o巴≦員捧゜騨餌昌゜Nα”b。°。卑撃”捧゜宅りΩ。昏゜ 以上の経過については、参照、ド09。・・〇二3騨。&℃o,o凶け・”け・国・署・旨O山§o昌昌08︵旨︶・ 自9密りUロ9q9什9帥r訂゜陰60房聾ロけざ諺矯oや゜o凶∼冒”°H目ー二群゜︶ ︵⋮⋮︶ 喝05﹃ ユ 0 5 0 や 息 ∼ 弓 ゜ ① 凸 ゜ U凶80霞ωαΦ︼︶琴﹃oω昌。層中村・前掲﹁フラソスにおける教育の自由法理の形成⇔﹂、七八頁に引用。傍点・中村、︹︺ ︼︶凶零o霞。9胃o昌oヨ6冨﹃Uロ9窃昌90凶ま冨円﹀巨四a矯2m冒99昌H。暁簿冠目o昌80δロ邑くo門蝕け”凶器.oロ゜o帥叶゜鳩U°望 Oo韓90a”o℃°9け゜℃鳴゜悼09 ︵731︶ ︵88ー︶ ︵㎜︶ ︵駒1︶ 内註記・成嶋。 ︵191︶ ﹀巳母斜o眉゜9∼喝゜望゜ ︵291︶ Oo昌冨a”8↑o凶齢゜燭U°8①゜ ︵39i︶ 提案内客は、各治安裁判所管轄区︵費3邑凶馨目o昇畠o一口除凶8幽。冨買︶において二人ないし六人の教師に給料を支払 うこと、つまり彼らに授業料︵非強制で手ごろな額︶および住居のほかに三〇〇フランの給料を支給すること、というもの であった。︵﹀ロ一帥噌α℃O”°O一梓8尉胃゜0一゜︶ ︵‘91︶ Ω$冨噌Oo韓僧a℃8°9∼唱゜8㊥゜ ︵59ー︶ 冒置゜噂P89 ° , 、、, ︵691︶ 周o信コ減oぴ8°9∼℃噂゜①幽よ9 ︵791︶ Oo5冨a’o”°9け‘弓゜8◎° 嶋 ︵成 の ⇔ 立 成 制 法 育 教 公 る け フ ン ス お に ラ 5 0 1 ︵991︶ ︵89亘︶ ∪凶器O口﹃ooαOω一昌日ひO昌讐O穽ひ弓9﹃聞O鉱﹃ユ①さOO°O帥戸℃冒゜①切゜ 岡O‘﹁ユ⑦さO℃°6蹄8弓゜6α゜ 一σ置゜ U凶m60‘﹁¢血Oω凶ヨひO昌”6津①℃餌﹃OO昌梓9◎﹃α讐O℃°O剛﹃℃O魯bこ◎刈゜ ︵102︶ 一げ置゜ ︵002︶ ︵202︶ 中村・前掲論文、七九頁。 ︵30Z︶ ︵702︶ ︵602︶ ︵502︶ いO¢一ω−Oユ巳曽ロユ噛Oづ’O搾゜噛け゜ 自噂U°N㎝㊤゜ U§oロ﹁ω含∪鐸く荏巴’中村・前掲論文、七八頁に引用。 OO口樽僧﹃α矯OO°O搾←冒゜boO心゜ U凶80霞ωユoO鴛﹁①30ま”9﹁聞O霞ユ。﹂δ90搾イタリック体。原文。 男Oロ鼠oび8°o凶∼戸①窃゜イタリック体・原文。 ︵402︶ ∪一〇〇〇=﹃oロ自O闘Oロ﹃O﹁O団矯O津ひや餌﹃OOコ臼凶﹃二噂O唱゜O算畠噂唱゜卜δ◎㊤゜ ︵802︶ 聞O口﹃ユOびO℃°O騨゜讐層゜①心゜ ︵902︶ ︵0−2︶ ︵池端訳、六九頁︶などに同様の指摘 ︵112︶冒達・︾b・①一゜このほか、℃°Oずo<四=凶o﹃o併巴゜℃ob°o凶件召b°幽騨いひoPo弓゜9侍←U°①α がある。