...

2009.3.8

by user

on
Category: Documents
12

views

Report

Comments

Description

Transcript

2009.3.8
ピリピ 3 章 10∼21
「国籍が天にある喜び」
石原俊久
パウロはキリストを知っていることの素晴らしさ、のゆえに一切すべて
のことを損と思うようになった、一切のことが「ちりあくたである」と語
りました。そしてこれが律法による割礼ではなくて、信仰による心の割礼
に基づくものであったことを私たちは学ぶことができたと思います。そし
てパウロはキリストの義、神から与えられる正しさを持つことができる望
みのすばらしさを語りました。
1.パウロを支えている動機
パウロがこの望みをいつまでも保つことができた動機とは、何でしょうか。
パウロを支えてきたものは何でしょうか。
10節から見てみたいと思います。
「3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかるこ
とも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
「死者の中からの復活に達したい。」
この思いは人間の持つ根源的な願望です。人は必ず死ぬことが定まってい
ます。できれば死にたくない。もし死んだとしても、その中からよみがえ
りたいという気持ちを多くの人が持っています。たとえ今、自ら命を落と
したとしても、次に生まれるときには違う人生を歩みたいと願って遺書を
書く人もいます。
人間は地上に創造されたとき死ぬということは定められていませんで
した。永遠に生きることもできたのです。しかしいったん罪が入った人間
は死ぬことが定められました。人間が死ぬということは神の創造の時の神
の思いとは違ったことなのです。私たちが死を恐れ遠ざけたいと願う気持
ちの中には、神に似た者として造られながら、死という相反するものを抱
え込んでしまった事の悩みがあるようにおものです。
しかしキリストの救いの御わざは死ぬべき私たちに永遠の命の約束を
1
与えてくださったのです。
ヨハネの福音書3章16はそのことを明確にあらわしています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを
持つためである。」
この信仰による「永遠の命」は私たちが一度死んで、キリストが再び来
られた時に肉体も、よみがえってキリストとともに永遠に生きるという
「復活の命」であると同時に、神から離れてしまい死んだ状態であった私
たちの歩みが再び神の御心に近づいて、幸いな歩みとなるという「今の命
のよみがえり」という二つの面があります。
私たちクリスチャンにはこの確信が与えられています。そしてパウロに
もこの確信が与えられていました。
しかしパウロの言葉の中に気になる一言があります。それは「どうにか
して」という言葉です。この言葉を使ったパウロの心境はどのようなもの
なのでしょうか。パウロほどの人が「どうにかして」というのはなぜでし
ょうか。
神の大きな恵みをパウロは知っていました。そして人を変える力を神が
持っておられることもよくわかっていました。しかしパウロはこの恵みか
らもれてしまう人がいることも知っていました。
2.滅びにいたる人々をかなしむ
18節に飛びますが
「3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言
うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼
ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」
これが、パウロが伝道旅行をし、キリストをのべ伝え、教会を建て上げ
ていったときに出会った現実です。信じ救われたはずの魂が、元の滅びの
状態に、いやそれ以上に悪くなってしまう現実をパウロは目にしてきまし
た。伝道の現場の中で人間の弱さを人一倍知っているのもパウロでありま
2
した。
「しばしばあなたがたに言ってきた」「今も涙を持って言う」とあります
が、その現実を知ってほしいとパウロは涙ながらに訴えているのです。従
順であったピリピの教会の中にもそのようなことがあったのかもしれま
せん。一度は信仰をもって救われたけれども離れていった魂があったのか
もしれません。「多くの人々がキリストを敵として歩んでいる」というと
ころから異邦人社会の中でつきあたる宣教の困難の中でたくさんの滅ん
でゆく魂にふれたのかもしれません。
神を信じ、キリストの十字架と罪のあがないを信じて喜びの生活を送っ
ていたはずなのに、いつの間にか、その恵みを恵みと思わず、喜びを喜び
と思えなくなってくる。はじめの救われた感動がなくなり元の自分に戻っ
てゆこうとする。罪は私たちを誘惑します。サタンはクリスチャンが信仰
を捨て神から離れることを喜びます。
旧約聖書のヨブ記のはじめにサタンが神と駆け引きをする場面があり
ます。サタンが神に持ちかけたのは、信仰深いヨブが災難に逢った時には
たして神を信じ続けるだろうか、というものでした。神は試してみよとサ
タンがヨブに災難を加えることを許しました。
ヨブは家族と財産すべてを失いましたが信仰を捨てることはありませ
んでした。
神はサタンが私たちを誘惑することを許しておられます。その中で私たち
が信仰を保ってゆけるかをじっと見ておられる。「意地悪な神様・・」と
思えますが、神の義を与えられるにはこのような試練の中で信仰が練られ
て、本物にならなければならないのです。
かくいう私も教会に行き始めてからしばらくして、不信仰になって一時
期教会から離れるということがありました。信仰の本当の意味がわかって
いなかったのです。しかし祈りによって、それからしばらくして自分は教
会に戻ることができました。
戻ってこれたからよかったものの、もし戻っていなかったら今頃どうな
っていたか考えただけでもぞっとします。
パウロは本当の信仰を保ち続けることの難しさ、困難さを知っていまし
3
た。ですから自ら謙遜して「どうにかして」というのです。「パウロだか
ら絶対大丈夫」と思われたくなかった、パウロ自身も罪人でありサタンの
攻撃を受けているものなのだと言いたいのです。
私たちも罪の恐ろしさを知ってその誘惑から守られるよう祈り続けたい
と思います。
3.信仰生活の秘訣
12節に戻ります。
「 3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・
イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、
この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のもの
に向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標
を目ざして一心に走っているのです。」
これが「どうにかして」死者の中からの復活に達したいパウロの心境で
す。また信仰生活の秘訣でもあります。「得たのでもない。」「完全にさ
れているのでもない。」「ないないずくし」ですがここに信仰の秘訣があ
ります。
パウロ研究に情熱を燃やしたアウグスティヌスという4世紀の神学者
は「キリスト者の完全」についてこう言っています。「「キリスト者の完
全」には「謙虚さ」という徳の完全も含まれていなければならない。「謙
虚さ」とは「自分は完全だ、などとは言えないという自覚」であってキリ
スト者が完全であるためには「自分は完全なものになってしまったという
思い」が少しでもあればその瞬間に不完全になってしまう」というもので
す。
あの方は非の打ちどころのないクリスチャンだ、あんなクリスチャンに
なれたらいいなという方に限って「私なんかクリスチャンとしてどうだ
か・・」ということをおっしゃいます。謙遜過ぎてそれが自己卑下になっ
4
てしまっても困りますが、しかしキリスト者の立つべきところは、その中
間ではないかと思うのです。今だ完全を手に入れることはできない、そし
てそれを得たわけでもない。けれどもそれを得ることができるものへと変
えられているのだ、ということではないでしょうか。
目標を目指して後ろのものを忘れ一心に前に向って走る。神の栄冠、キ
リストが再び来られて滅びない肉体を与えられる時まで後ろを振り向か
ない。
皆、このような考えをするべきであるとパウロは言います。
そして私たちはいつも今達しているところを基準とすべきであるといい
ます。ですからパウロは、パウロの今あるところから信仰の努力をしなけ
ればならないし、ピリピの教会の信徒は、やはり今の状態から、私たちは
私たちの今あるところから前に向ってゆかなければならないのです。
聖書を読む時間が少ないと感じればさらにその時間をとる努力をする、
祈りが足りないならば祈りの時間をさらにとる。奉仕できることを探す。
集会に出席する。愛が足りないと思ったら愛せるように祈る。今あるとこ
ろを基準としてさらに前に進む。それは人それぞれ違う基準があります。
その達しているところを基準として前に進むことがパウロの示す信仰生
活の秘訣なのです。そしてこの秘訣こそサタンの誘惑から、罪の誘惑から
私たちを守り私たちがキリストにある新しい体を着せられ永遠に生きる
ために、キリストが私たちをとらえてくださった恵みなのです。
4.国籍が天にあるよろこび
パウロは信仰には到達するゴールがあり神の栄冠を受ける、そのゴール
目指して走り続ける必要を丁寧に書きました。
そして私たちがさらに励むことができるように励ましの言葉を加えま
す。
「3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリスト
が救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
「私たちの国籍は天にある。」この言葉が今までどれだけ多くの信徒を励
ましてきたことでしょうか。
5
国籍が天にある。私たちは日本に生まれて登録すれば日本国籍がありま
す。ドイツならドイツ、イギリスならイギリス、アメリカならアメリカの
国籍をもちます。そして国籍のある国の市民として、それぞれの国の法律、
ルールに従って生きています。またその国によって保護され、福祉の恩恵
を受ける、ということもあります。しかしすべての国が完全に国民に必要
な福祉を与えているかというと、そうでない場合の方が多いようにも思え
ます。そしてこの地上の国は永遠に存在するわけではありません。現実的
に冷戦後の世界は大きく国境が変わりました。一地域から独立した国があ
ったり、なくなった国もあります。あまりにも国が変わったので地球儀の
メーカーが大変だったということも話題になりました。そのようにしてこ
の世の国は揺れ動きます。時に消滅したり、独裁者が支配する国が誕生し
たりします。私たちはそのような国の国策によって振り回されることがあ
ります。
しかしクリスチャンの希望は朽ちることのない天の御国に国籍がある
ことです。キリストがおられる天の御国の国民として登録されているので
す。キリストを信じ告白し洗礼を受けたとき新生した私たちの出生は御国
の台帳にしっかりと記入されたのです。そしてこの台帳に名前があるもの
はこの地上のすべてが造りかえられ、地上の国が消滅した時にキリストの
栄光の霊的な姿に変えられるのです。そしてキリストとともに新しい天と
地を治める者に変えられるのです。私たちはさまざまな困難の中でくじけ
そうになります。また、罪の誘惑を受けることがあります。しかしキリス
トが来られる日まで、パウロの言ったように、この戦いに勝利しながら、
その再臨の時を待ち望むものとされたいと思います。まだその時は来てい
ませんがキリストは「すぐ来る」といわれました。それから2000年の
時がたちました。少なくともキリストが来られる時まで2000年の時が
近づいたということです。天の御国に国籍があるものとしていつも天を見
上げ御国にふさわしく歩みたいと思います。
6
Fly UP