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『マンチュリ アの社会変容 と地域秩序
-明代から中 華人民共和国 の成立まで- 』
塚瀬
1
進
-目
次-
表紙
1
目次
pp.2-5
はじめに
pp.6-9
第1章
「満洲」に関する諸見解
pp.10-20
1.日本での研究
2.中国での研究
3.地名への転化
4.矢野仁一の「満洲は中国の領土ではない」という見解について
第2章
戦前、戦後におけるマンチュリア史研究の成果と問題点
pp.21-58
はじめに
1.戦前における満洲史研究-東洋史研究の一分野として-
①日露戦争後における歴史研究のはじまり
(1)白 鳥 庫 吉 に よ る 研 究
(2)内 藤 湖 南 に よ る 研 究
②満洲国建国を契機とする歴史研究の興隆
(1)日 本 国 内 で の 研 究
(2)満 洲 国 で の 研 究
③小結
2.戦前におけるマンチュリアの調査研究
①陸軍、満鉄、関東都督府、農商務省、外務省などによる調査報告、調査研究
②満鉄調査部、満洲国政府機関による調査報告、調査研究
③小結
3.敗戦後におけるマンチュリア史研究
①マンチュリア史研究の低調と戦前の研究に対する批判
②日本史研究者による満洲史研究
③概説書から見たマンチュリア史の位置
4.中国におけるマンチュリア史研究
①戦前の研究
② 概 説 書 か ら 見 た 1980 年 代 以 降 の 研 究
おわりに
2
第3章
元末・明朝前期におけるマンチュリアの社会変容と地域秩序
pp.59-85
はじめに
1.元朝治下のマンチュリア
2.紅巾の乱から洪武末年までのマンチュリア
① ナ ガ チ ュ (納 哈 出 )の 降 伏 ま で
②ナガチュの降伏以後
3.永楽帝によるマンチュリア政策
①女真の招撫
②朝鮮との関係調整
③モンゴル情勢の影響
おわりに
第4章
明代中期・後期におけるマンチュリアの社会変容と地域秩序
pp.86-100
はじめに
1.正統~成化年間の社会変容
①人間の移動による社会変容
②朝貢、馬市の変化
③遼東での軍屯
2.弘治~嘉靖年間の社会変容
①授官規定の変更
②貂皮交易の伸張
③朝貢定額化による影響
3.ヌルハチ台頭前後のマンチュリア
①女真の変容
②遼東の状況
③ヌルハチの台頭
おわりに
第5章
旗民制による清朝のマンチュリア統治
はじめに
1.盛京における旗民制の形成
2.吉林、黒龍江における旗人統治機構の形成
3.旗民関係の調整の試み
4.ロシアの動向について
5 . 19 世 紀 中 ご ろ に お け る マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容
6.ロシア、朝鮮との関係変化
7.旗民制の崩壊と東三省の設置
おわりに
3
pp.101-144
第6章
鉄道敷設によるマンチュリアの社会変容
pp.145-189
はじめに
1.中東鉄道沿線地域の変化
①地域概略
②通商ルートの変化
③農業生産の変化
④金融状況の変化
2.満鉄沿線地域の変化
①地域概略
②通商ルートの変化
③農業生産の変化
④金融状況の変化
3.京奉鉄道沿線地域の変化
①地域概略
②通商ルートの変化
③農業生産の変化
④金融状況の変化
4.奉吉・吉敦鉄道沿線地域の変化
①地域概略
②通商ルートの変化
③農業生産の変化
④金融状況の変化
5.四洮・洮昻・打通鉄道沿線地域の変化
①地域概略
②通商ルートの変化
③農業生産の変化
④金融状況の変化
6.間島地域の変化
①地域概略
②通商ルートの変化
③農業生産の変化
④金融状況の変化
7.鴨緑江・松花江・黒龍江流域地域の変化
①鴨緑江流域地域
(1)地 域 概 略
(2)経 済 状 況 の 変 化
②松花江流域地域
(1)地 域 概 略
(2)経 済 状 況 の 変 化
③黒龍江流域
(1)地 域 概 略
(2)経 済 状 況 の 変 化
おわりに
第7章
満洲国による工業化政策とマンチュリアの社会変容
はじめに
1.工業政策の推移
① 第 1 期 1932~ 36 年
② 第 2 期 1937~ 39 年 、 第 3 期 1940~ 45 年
2.工業化による社会変容
おわりに
4
pp.190-198
第8章
満洲国政府が実施した統治政策のマンチュリア社会への浸透
pp.199-214
はじめに
1.地方での行政力の浸透
2.農業政策の浸透
3.商業統制政策の浸透
4.徴税政策の推進
おわりに
第9章
1940 年 代 に お け る 統 治 政 策 の マ ン チ ュ リ ア 社 会 へ の 浸 透
pp.215-235
はじめに
1.統治機構の特徴
2.統制経済の実施と拡大
3.支配政策に対するマンチュリア社会の反応
おわりに
第 10 章
「 検 閲 月 報 」 か ら 見 た 満 洲 国 の 「 中 国 人 」 - 1940 年 代 の 状 況 を 中 心 に -
pp.236-249
はじめに
1.生活に対する不満
2.労働者の状況
3.商業取引の状況
4.農村部の状況
5.満洲国統治に対する反発
おわりに
第 11 章
国 共 内 戦 期 、東 北 解 放 区 に お け る 中 国 共 産 党 の 財 政 経 済 政 策
pp.250-266
はじめに
1.東北解放区の形成と財政経済政策の変遷
2.対外貿易の動向
3.農業政策の特徴
4.商工業者への政策
おわりに
終章
pp.267-269
5
はじめに
本 論 文 の テ ー マ は 、 14 世 紀 の 明 代 か ら 1949 年 の 中 華 人 民 共 和 国 成 立 ま で の 約 600 年 間
におよぶ期間、
「 マ ン チ ュ リ ア 」で は い か な る 社 会 変 容 が 生 じ 、ど の よ う な 地 域 秩 序 が 形 成
されていたのかを検証することである。
本 論 文 は「 満 洲 」(以 下 、括 弧 は 略 )で は な く 、
「 マ ン チ ュ リ ア 」(以 下 、括 弧 は 略 )と 表 記
す る (1)。そ の 理 由 は 、マ ン チ ュ リ ア は 地 名 に 限 定 し て 使 い 、民 族 名 や 国 号 と し て 使 わ れ た
満洲と混同されることを避けるためである。マンチュリアの範囲は、概ね北辺はスタノヴ
ォイ山脈、南辺は長城、西辺は大興安嶺、東辺は鴨緑江・豆満江の内側を想定している。
しかしながら、この地理上の範囲が、常に一体的なまとまりを持ちながら歴史的に推移し
てきたわけではない。清代の東三省の範囲、満洲国の領域、中華人民共和国の東三省の領
域は、それぞれ異なり、完全には重ならない。本書は、マンチュリアの範囲は歴史的に生
成されたものであり、歴史的変化に伴い、その範囲も伸縮していたという観点に立ってい
る (2)。あ る 時 期 の マ ン チ ュ リ ア の 範 囲 と い う 示 し 方 は で き る が 、不 変 的 な マ ン チ ュ リ ア の
範 囲 を 確 定 す る こ と は で き な い (3)。
マンチュリアの特徴として、その内部は均質的ではなく、三つの地帯に分けられる点を
指摘したい。第一に、農耕がおこなわれ、主に漢人が活動した南部の平野地帯。第二に、
各種の狩猟民、主にツングース系の人々が活動した東部から朝鮮半島北部に連なる森林地
帯。第三に、遊牧民、主にモンゴル系の人々が活動した西部の大興安嶺近隣に広がる草原
地帯、という地理的特徴を持つ。
平野地帯の漢人は3世紀に漢王朝が崩壊した以後、中華王朝と結びつくことはな く、独
自 に 強 力 な 政 治 権 力 を 樹 立 す る こ と は な か っ た 。そ の た め 、マ ン チ ュ リ ア の 覇 権 は 、
「森林
地 帯 の 民 」と「 草 原 地 帯 の 民 」で 争 わ れ た 。と は い え 、
「 森 林 地 帯 の 民 」が 草 原 地 帯 に 勢 力
をのばすことは困難であり、同様に「草原地帯の民」が森林地帯を制圧することも難しか
っ た 。 そ れ ゆ え 、 三 つ の 地 帯 全 域 を 包 摂 す る 政 治 権 力 は 誕 生 し な か っ た (4)。
し か し な が ら 、14 世 紀 の 明 朝 成 立 か ら 現 在 ま で 、マ ン チ ュ リ ア は あ る 程 度 の ま と ま り を
持 っ て 歴 史 的 に 推 移 し て き た 。中 国 の 強 い 影 響 を 受 け る と と も に 、北 は ア ム ー ル 川 (黒 龍 江 )、
シ ベ リ ア 、東 は 朝 鮮 半 島 、西 は モ ン ゴ ル 高 原 と 接 し て い た の で 、周 辺 (モ ン ゴ ル 、朝 鮮 、ロ
シ ア )か ら の 影 響 も 受 け て い た 。し た が っ て マ ン チ ュ リ ア 史 の 考 察 に は 、ロ シ ア・シ ベ リ ア
史、中国史、朝鮮史、モンゴル史の知識が不可欠である。
周 辺 と の ゆ る や か な 関 係 性 の な か に あ っ た マ ン チ ュ リ ア は 、19 世 紀 後 半 に 国 境 と い う 概
念が外側から持ち込まれ、新たな歴史的段階に入った。アイグン条約、ペキン条約により
アムール川以北、ウスリー川以東はロシア領となった。これ以降、マンチュリアは中華王
朝の統治空間を示す「版図」ではなく、近代主権国家が標榜する「領土」になっ たと考え
ら れ る (5)。清 朝 は 帝 国 統 治 に あ た っ て 、異 質 な 内 容 を 持 つ 各 地 域 を 均 質 化 す る 政 策 は お こ
な わ ず 、そ れ ぞ れ の 独 自 性 を 皇 帝 一 元 統 治 に よ り 保 持 し て き た 。し か し な が ら 、19 世 紀 後
半の西欧列強による勢力拡大を受けて、清朝は統治政策を修正して近代主権国家的な方式
を 導 入 し よ う と し て い た (6)。そ し て 清 末 以 降 、中 華 民 国 、満 洲 国 も「 領 土 」の 確 定 、保 持
6
を標榜し、国境にまでおよぶ領域支配を推進した。
本論文はかかる経緯をふまえ、近代主権国家が標榜する「領土」の概念を無批判に前近
代に遡らせて、マンチュリアの属性を考える方向性 はとっていない。近代主権国家が形成
される以前と以後とを、連続して検討することにより、現代国家が描く「物語」の相対化
を企図している。言い換えるならば、前近代と近代を別々に考察するのではなく、近代に
現出した様相は、前近代に形成されたものを土台としながら、近代的なものがあらわれて
いく過程の検証をおこないたいと考えている。
「 満 洲 が 中 国 の 領 土 な の か 」、
「領土ではない
のか」という設問は、近代主権国家の論理がつくりだしたものであり、近代主権国家の誕
生 以 前 に ま で さ か の ぼ り 、こ う し た 設 問 を つ く り 、解 答 し て も 無 意 味 な こ と を 示 し た い (7)。
清朝による帝国統治が崩壊した後、
「 領 土 」、国 境 線 の 確 定 が 重 視 さ れ た だ け で な く 、
「民
族 」を 単 位 と し た 国 民 国 家 の 形 成 が め ざ さ れ た 。し か し 、
「 民 族 」の 活 動 領 域 と 国 家 の 統 治
領域は必ずしも重ならず、ズレが存在した。例えば朝鮮人、モンゴル人はそれぞれの「民
族」を主体とする国家をつくったが、国家成立以後でも依然としてマンチュリアに暮らす
人 々 が い た 。マ ン チ ュ リ ア で 活 動 し た 人 々 は 、
「 民 族 」を 単 位 と す る 国 家 形 成 の 流 れ に 沿 う
部分もあったが、そうではない部分もあったのである。一つの「民族」や、均質的な「国
民」の形成につながる流れだけではなかった点を指摘したい。そうであったからこそ、満
洲国は「五族協和」というスローガンを強調する必要があったと言えよう。
マ ン チ ュ リ ア は 漢 人 、ツ ン グ ー ス 系 、モ ン ゴ ル 系 の 人 々 を 抱 え 、中 国 中 央 の 影 響 、周 辺 (モ
ン ゴ ル 、 朝 鮮 、 ロ シ ア 、 日 本 )の 影 響 を 受 け な が ら 、 そ の 歴 史 を 歩 ん で き た (8)。 つ ま り 単
一ではなく多様であり、均質的ではなく重層的な特徴を持つ地域だと指摘できる。本稿で
は 、「 領 土 」 や 「 民 族 」 を 単 位 と し た 歴 史 把 握 で は な く 、「 地 域 」 と い う 空 間 を 中 心 に す え
た歴史像の構築を目指している。また、近代以前の マンチュリアが、近代に至りどのよう
に変容したのか、近代以降にも継承された部分、断絶した部分を明らかにし、地域が持つ
固有の特徴を歴史的文脈のなかで解釈することを企図している。つまり、マンチュリアを
多様性、重層性を持つ空間として、さらには前近代から近代までの期間を連続して考察す
る こ と に よ り 、 そ の 地 域 性 を 立 体 的 、 総 合 的 に 理 解 す る 試 み だ と ま と め ら れ る (9)。
地域的特徴の考察は、社会変容と地域秩序に焦点をあてている。社会変容は周辺集団の
攻撃や中国関内からの移民増加などの外的要因から生じる一方で、衛所制度や旗民制の変
容、鉄道敷設の影響、工業化政策の推進などの内的要因からも生じていた。本論文では、
衛 所 制 度 と 羈 縻 衛 所 制 度 の 成 立 と 変 容 (第 3 章 、 第 4 章 )、 旗 民 制 の 成 立 と 変 容 (第 5 章 )、
鉄 道 敷 設 に よ る 社 会 変 容 (第 6 章 )、 工 業 化 政 策 に よ る 社 会 変 容 (第 7 章 )、 統 治 政 策 の 浸 透
に よ る 社 会 変 容 (第 8 章 、第 9 章 )、財 政 経 済 政 策 に よ る 社 会 変 容 (第 11 章 )を 考 察 す る こ と
により、外的要因と内的要因から生じた社会変容の様相、その結果として生じた地域秩序
の 変 化 を 、 マ ン チ ュ リ ア の 地 域 性 に そ く し て 考 察 す る (10)。
本論文が明朝以降をあつかう理由は、以下の三点からである。第一には、明朝以降のマ
ンチュリアは現在にもつながるまとまりを保ちつつ、歴史的に推移していた。第二に、漢
人が大多数を占める以前のマンチュリアは清朝が採用した旗民制により統治されていた。
旗民制を考察するためには清朝興起にまで遡る必要があり、清朝興起を考察するためには
明 代 の 検 討 が 求 め ら れ る 。明 代 以 前 の 状 況 は 、20 世 紀 に ま で 通 じ る 理 解 の 材 料 と し て は 距
7
離 が 遠 い (11)。 第 三 に 、 明 朝 よ り 以 前 の 時 代 (元 朝 、 遼 ・ 金 、 渤 海 な ど )に 関 す る 史 料 は 乏
しく、社会変容や地域秩序の具体的な諸相を検討することは難しいか らである。
後編では研究史の整理をおこない、現在の研究の到達点について確認する
(1)満 洲 で は な く 、マ ン チ ュ リ ア を 地 名 と し て 研 究 論 文 に 使 っ て い る 論 者 は す で に い る 。上
田裕之、杉山清彦、中島楽章、古市大輔は論文で使っている。いずれも前近代史を専攻
する研究者である点が興味深い。
(2)吉 田 光 男 [2009、11 頁 ]は 、
「歴史舞台の範囲は国境線のように明確な線引きができるわ
け で は 」 な く 、「 境 界 は 曖 昧 模 糊 と し て お り 、 し か も 状 況 に よ っ て そ れ す ら も 揺 れ 動 く 。
地域区分はあくまでも空間の中において歴史を把握するための便法の一 つにすぎない」
と述べている。
(3)筆 者 は こ う し た 考 え 方 を 持 つ た め 、現 在 マ ス コ ミ の 報 道 が 使 っ て い る 、
「 旧 満 州 」=「 現
中国東北部」という説明はまったく理解できない。
(4) 外 山 軍 治 [1964、 2 頁 ]。 満 洲 人 ・ 漢 人 ・ モ ン ゴ ル 人 が 勢 力 交 錯 し た 点 を 、 マ ン チ ュ リ
ア の 特 徴 だ と す る 見 解 は 戦 前 か ら 存 在 し て い る (例 え ば 、 松 井 等 [1931、 36-38 頁 ])。 鴛
淵 一 [1940、 1 頁 ]は 、 マ ン チ ュ リ ア は 「 農 夫 た る 漢 人 」、「 森 林 の 猟 人 に て 農 を も 営 ん だ
満 洲 族 」、
「 草 原 遊 牧 の 蒙 古 族 」の 三 者 の 争 奪 地 で あ り 、
「 満 洲 史 は 三 者 の 争 闘 史 」で あ っ
たとしている。
(5)上 野 稔 弘 [2002、42-44 頁 ]は 、中 華 人 民 共 和 国 が 考 え る 領 域 国 家 の 範 囲 と 、歴 史 的 に 中
国を考える場合の空間範囲とは異なることを指摘している。
(6)村 田 雄 二 郎 [1996、 6-8 頁 ]
(7)
現 在 マ ン チ ュ リ ア を 領 域 下 に お く 国 家 は 、自 ら の 国 家 形 成 と の か か わ り か ら マ ン チ ュ
リアの歴史を語り、その「物語」を作っている。しかしながら、一国史的観点から語ら
れる「物語」には無理がある。近代主権国家の枠組みから過去をながめた「物語」をつ
く る こ と は 、 本 書 の 目 的 で は な い 。 こ う し た 考 え 方 は 、 矢 木 毅 [2008]か ら 大 き な 示 唆 を
得ている。
(8)マ ン チ ュ リ ア に 暮 ら し た 漢 人 、朝 鮮 人 、満 洲 人 、モ ン ゴ ル 人 が「 中 国 人 」と し て の 意 識
を、中華人民共和国成立以前に確固として持っていたとは考えられない。したがって、
本論文では「中国人」と表記する。
(9)こ う し た 考 え 方 は 、 羽 田 正 [2005]か ら 大 き な 示 唆 を 得 て い る 。
(10)マ ン チ ュ リ ア は 日 本 と は 異 質 な 「 歴 史 的 リ ア リ テ ィ 」 を 持 つ 場 所 で あ る こ と を 、 本 書
は強調している。日本の帝国主義的な政策と関わった部分だけを取り出して、マンチュ
リアの特性を論じる方向性はとっていない。日露戦争から満洲国崩壊まで、マンチュリ
アに対する日本の影響力は強かったが、マンチュリアのすべての動向を日本が規定して
い た わ け で は な い 。本 書 で は 日 本 の 影 響 力 に 目 を く ば り つ つ も 、よ り 基 底 的 な 地 域 の「 木
目」を描き出すことを目的にしている。
(11)明 代 の 女 真 の 系 譜 を 検 討 し た 三 田 村 泰 助 [1965、 70-73 頁 ]は 、 建 州 女 真 や 海 西 女 真 の
系譜の上限は元末明初より以前には遡らないことを確認し、マンチュリアでは元末に人
間集団の移動に伴う大きな社会的変容が生じ、女真社会には断層が生じたと指摘する。
8
参考文献
上野稔弘
2002「 地 域 概 念 と し て の 〈 中 国 〉 と 東 北 ア ジ ア 」『 東 北 ア ジ ア 地 域 論 の 可 能 性 』
東北アジア研究センター
pp.41-49
鴛淵一
1940『 奉 天 と 遼 陽 』 富 山 房
151p
外山軍治
1964『 金 朝 史 研 究 』 同 朋 舎
679p
羽田正
2005『 イ ス ラ ー ム 世 界 の 創 造 』 東 京 大 学 出 版 会
316p
松井等
1931「 満 洲 史 要 領 」『 東 亜 』 4-8
pp.35-44
三田村泰助
1965『 清 朝 前 史 の 研 究 』 同 朋 舎
492p
村田雄二郎
1986「 中 華 帝 国 と 国 民 国 家 」『 呴 沫 集 』 9
pp.6-14
矢木毅
2008「 朝 鮮 前 近 代 に お け る 民 族 意 識 の 展 開 - 三 韓 か ら 大 韓 帝 国 ま で 」 夫 馬 進 編 『 中 国 東 ア
ジア外交交流史の研究』京都大学学術出版会
吉田光男
2009『 北 東 ア ジ ア の 歴 史 と 朝 鮮 半 島 』 放 送
9
pp.86-117
第1章
「満洲」に関する諸見解
満 洲 は 満 洲 語 の「 マ ン ジ ュ (Manju)」の 漢 語 音 写 で あ る 。ど の よ う な 語 源 で あ り 、い つ か
ら使用されたのか、長年にわたって研究がおこなわれてきた。しかしながら不明な点が多
い。以下では満洲の語源、用例に関する研究史について述べてみたい。
1.日本での研究
満洲がいつから使われたのか、その語源は何に由来するのか、最初に検討 を加えたのは
内 藤 湖 南 [1969]で あ っ た 。 内 藤 湖 南 は 日 露 戦 争 の 時 に 奉 天 の 崇 謨 閣 で 清 朝 史 に 関 す る 档 案
の調査をおこない、その成果をもとに満洲の用例、語源について自己の見解を述べた。明
朝や朝鮮の史料には満洲は使われてなく、朝鮮に出した手紙ではヌルハチは「金国汗」と
称していたこと、ヌルハチが建てた東京城の天佑門には「アイシングルン」とあること、
ホ ン タ イ ジ が 遼 陽 城 外 に 1630 年 (天 聰 4 年 )に 建 て た 碑 に は「 ア イ シ ン 」国 と あ る こ と を 根
拠 に 、 ヌ ル ハ チ 、 ホ ン タ イ ジ の 時 に は 「ア イ シ ン 国 (金 国 )」と 称 し て い た と 主 張 し た 。 し か
し、
『 太 祖 実 録 』が 出 来 た こ ろ に は 、「ア イ シ ン 国 (金 国 )」と い う 名 称 は か つ て の 金 朝 を 彷 彿
させるので使わないことにし、
「 満 洲 国 」に し た と 説 明 し て い る 。満 洲 の 語 源 は 偉 い 酋 長 に
対 す る 尊 称 に 由 来 し 、 仏 教 の 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 (manjusri)」 の 転 音 で あ る 指 摘 し た 。
次 い で 市 村 瓚 次 郎 [1909]は 、 い つ か ら 満 洲 が 使 わ れ る よ う に な っ た の か 、 関 係 史 料 の 分
析 を お こ な っ た 。市 村 瓚 次 郎 も 内 藤 湖 南 と 一 緒 に 、奉 天 の 崇 謨 閣 で 清 朝 の 档 案 を 調 査 し た 。
ま た 明 朝 や 朝 鮮 の 史 料 を も 検 討 し 、 天 聰 年 間 (1627-35 年 )で は 後 金 や 金 の 国 号 は 見 え る が
満洲の国号はないことから、満洲は大清の国号を称した後に初めて現れたと主張した。そ
して満洲の語源として、①仏教用語に由来する、②モンゴル語、女真語で勇猛を意味する
「 Mang」に 由 来 す る 、③ 粛 慎 の 転 音 、④ 勿 吉 靺 鞨 の 転 音 、⑥「 満 節 」(論 語 の 註 疏 に あ る 九
夷 の 一 つ )の 転 訛 な ど を 指 摘 し た 。市 村 瓚 次 郎 は 、ホ ン タ イ ジ は 大 清 に 改 元 し た 時 、そ れ 以
前の国号「後金」を消し去り、これまでの国号はずっと満洲であったかのような操作をし
た と 主 張 し た 。市 村 説 は 後 年 で は 、ホ ン タ イ ジ が 国 号 を 偽 作 し た と 理 解 さ れ 、
「ホンタイジ
偽 作 説 」 な ど と 称 さ れ る よ う に な っ た (市 村 瓚 次 郎 は 論 文 の 中 で 「 ホ ン タ イ ジ に よ る 偽 作 」
と い う 表 現 は 使 っ て い な い )。
内藤湖南、市村瓚次郎に続いて、満洲について論じたのは稲葉岩吉であった。稲葉岩吉
[1915、 409-416 頁 ]は 、 金 国 や 女 真 の 名 称 は 漢 人 か ら は 忌 み 嫌 わ れ て い る の で 、 漢 人 の 居
住地に勢力を拡大しようとしたホンタイジにとって都合の悪いものになったと解釈した。
それゆえ市村瓚次郎と同様に、ホンタイジは大清に国号を改めたことを契機に、一切の記
録から金国、女真を消し去り、満洲に書き換えたと主張した。満洲の由来については、一
つはヌルハチの尊称が「満住」であり、それが転化して満洲になったという由来と、もう
一 つ は 内 藤 湖 南 と 同 様 に 仏 教 の 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 」 に 由 来 す る と い う 二 つ を 指 摘 し た 。 そ
の 後 に 書 か れ た 、 稲 葉 岩 吉 [1934]で も ほ ぼ 同 様 の 内 容 を 述 べ て い る 。
三 田 村 泰 助 [1936]は 『 満 文 老 档 』 の 分 析 を 通 じ て 、 新 た な 見 解 を 発 表 し た 。『 満 文 老 档 』
に は ヌ ル ハ チ の 時 に 、 す で に マ ン ジ ュ = グ ル ン (マ ン ジ ュ 国 、 満 洲 国 )の 名 称 が 記 述 さ れ て
おり、ホンタイジ以前にも満洲の記述は存在したことが判明した。そこで三田村泰助は、
10
新 た に マ ン ジ ュ = グ ル ン (マ ン ジ ュ 国 、 満 洲 国 )は ヌ ル ハ チ が 建 州 女 真 の 統 合 後 に つ け た 国
号だと主張した。しかし、明や朝鮮からの疑念・干渉は避けるため、対外的には「建州」
を 称 し た 。女 真 諸 部 の 統 一 後 (1616 年 )、ヌ ル ハ チ は 外 に は 後 金 国 を 称 し 、内 に は ジ ュ セ ン
国と称して、マンジュ国はやめたと解釈した。つまり、満洲はヌルハチにより国号として
使 わ れ 、 そ の 期 間 は 1600 年 前 後 か ら 1616 年 ま で と 短 く 、 ヌ ル ハ チ 政 権 の 変 化 に 伴 い 、 そ
の 使 わ れ 方 も 変 わ っ た と 主 張 し た 。語 源 に つ い て は 、満 洲 は 偉 い 酋 長 に 対 す る 尊 称 で あ り 、
「 曼 殊 (文 珠 )室 利 」 の 転 音 で あ る と す る 内 藤 湖 南 説 を 踏 襲 し て い る 。
戦後になり、
『 満 文 老 档 』の 原 本 で あ る『 満 洲 原 档 』が 台 湾 で 発 見 さ れ 、満 洲 の 用 例 に つ
い て 新 た な 分 析 が 可 能 と な っ た 。 神 田 信 夫 [1972]は 『 満 文 老 档 』 と 『 満 洲 原 档 』 の 記 述 を
比 較 し て 、満 洲 の 用 例 に つ い て 検 討 し た 。
「 マ ン ジ ュ 」の 語 句 が『 満 文 老 档 』に 初 出 す る の
は 1613 年 (万 暦 41 年 )で あ り 、 こ の 記 述 は 『 満 洲 原 档 』 で も 最 初 か ら 書 か れ て い た と 指 摘
し た 。こ れ に よ り 、
「 マ ン ジ ュ 」は ヌ ル ハ チ 期 に 存 在 し た こ と が 確 認 さ れ た 。そ し て 、三 田
村泰助が主張した、
「 マ ン ジ ュ 国 」と は ヌ ル ハ チ が 建 州 女 真 を 統 合 し て つ く っ た 国 だ と い う
見 解 を 支 持 し た 。 し か し 、「 女 真 諸 部 の 統 一 後 (1616 年 )、 外 に は 後 金 国 を 称 し 、 内 に は ジ
ュセン国と称してマンジュ国はやめた」という三田村泰助の見解には反対し、明や朝鮮に
は「アイシン」を使っていたが、モンゴルには「マンジュ国」と称し、国内的には天命か
ら 天 聡 に か け て「 マ ン ジ ュ 国 」、「 ア イ シ ン 」が 使 わ れ て い た と し た 。つ ま り 、 1616 年 の 女
真統一後も「マンジュ国」と称していたと主張した。こうした混用、曖昧な状況をホンタ
イ ジ は 整 理 し 、 1635 年 (天 聡 9 年 )に 「 民 族 」 名 を 「 マ ン ジ ュ 」 と し 、 翌 36 年 (崇 徳 元 年 )
に 「 大 清 」 を 国 号 と し た 。 こ こ に 「 マ ン ジ ュ 」 は 国 号 で は な く 「 民 族 」 名 と な り 、「 民 族 」
名として以後も使われたと主張した。神田信夫の研究は満洲の用例についてであり、満洲
の語源については検討していない。
以 上 の 神 田 信 夫 説 は 、 通 説 的 な 理 解 と し て 受 け 入 れ ら れ て い る 。 し か し 、 敦 冰 河 [2001]
は神田説の根拠となっている『原档』の記述は、後代の加筆・書き込みであり、ヌルハチ
は「 マ ン ジ ュ 」と い う 国 号 を 称 し て い な く 、
「 建 州 」、
「 ジ ュ シ ェ ン 」と 称 し て い た と 主 張 し
た 。 そ し て 、 女 真 諸 部 の 統 一 後 に 「 マ ン ジ ュ 国 」、「 ア イ シ ン 」 と い う 国 号 を 定 め た の で 、
「 建 州 」、「 ジ ュ シ ェ ン 」 は 消 滅 し た と い う 見 解 を 発 表 し て い る 。
満 洲 の 語 源 に つ い て 、今 西 春 秋 [1961]は 部 族 や 地 名 で は な く 、
「 マ ン ジ ュ 」の 尊 称 を 持 つ
人の治める国だから「マンジュ国」と称されたと解釈している。
ツ ン グ ー ス 諸 語 の 研 究 を お こ な っ た 池 上 二 良 [1987]は 、 満 洲 は 「 川 」 の 意 味 に 由 来 す る
と主張した。池上二良は、ツィンツィウスが『ツングース・満洲諸語比較音韻論』のなか
で 、「 manju」 の 語 句 は ア ム ー ル 川 流 域 の 住 民 は 「 川 」 の 意 味 で 使 っ て い た と い う 指 摘 を 重
視 し 、 さ ら に ナ ナ イ 語 な ど と の 比 定 を 試 み 、「 川 」 の 意 味 が 語 源 だ と 主 張 し た 。
石 橋 秀 雄 [1995]は『 満 洲 源 流 考 』が 述 べ る 満 洲 の 語 義 に つ い て 考 察 を 加 え た 。満 洲 が「 民
族 」 名 と な る の は 、 ホ ン タ イ ジ が 1635 年 (天 聡 9 年 )に 「 ジ ュ セ ン 」 を 禁 じ て 「 マ ン ジ ュ 」
としたことに始まり、それ以前に満洲が「民族」名として使われたことはなかった。しか
し 『 満 洲 源 流 考 』 で は 、 肅 慎 に ま で 遡 る 部 族 (民 族 )名 と し て 記 述 し て い る 。 清 朝 の 官 選 で
ある『満洲源流考』がこうした記述をしている理由について、以下のように解釈した。ま
ず 、ホ ン タ イ ジ が 1635 年 (天 聡 9 年 )に「 ジ ュ セ ン 」を 禁 じ て「 マ ン ジ ュ 」と し た の は 、以
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前の後金や女真との関係性を断ち切り、新たな「多部族統合国家」となったことを鮮明に
する意図を持っていたからだと指摘した。ところが、乾隆年間の状況はホンタイジの時代
とは異なり、旗人は没落したり、漢化が進み、かつての満洲人意識が失われようとしてい
た 。そ れ ゆ え 乾 隆 帝 は 、
『 満 洲 源 流 考 』に お い て 満 洲 の 語 源 を 肅 慎 に ま で 遡 ら せ 、伝 統 あ る
部族として位置づけようと考え、満洲を部族名にしたと解釈している。満洲の語義は、そ
れを解釈、説明する人々の状況により相違したのであり、解釈、説明された時代状況をも
勘案する必要性を石橋秀雄は指摘している。
満 洲 の 語 源 に つ い て は 、 日 本 で は 内 藤 湖 南 以 来 の 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 」 に 由 来 し 、 ヌ ル ハ
チらが仏教を信仰していたことも手伝い、
「 文 殊 」→「 文 珠 」→「 満 洲 」と 転 化 し た と い う
見 解 が 広 く 受 け 入 れ ら れ て い る 。松 浦 茂 [1995、58 頁 ]は 、「 マ ン ジ ュ 」の 語 源 は「 曼 殊 (文
殊 )室 利 (マ ン ジ ュ シ ュ リ ー )」(サ ン ス ク リ ッ ト 語 で は「 目 出 度 い 」の 意 味 )で あ り 、ヌ ル ハ
チ ら は 仏 教 を 信 仰 し て い た の で 「 文 殊 (曼 殊 )」 を 崇 め て お り 、 こ の 点 に 由 来 す る と 述 べ て
い る 。平 野 聡 [2007、104 頁 ]は 、「 マ ン ジ ュ と い う 名 称 は 、一 般 的 に 、彼 ら (満 洲 人 )が 信 仰
する文殊菩薩にちなんでいるとされる」と述べている。
こ う し た 見 解 に 岡 田 英 弘 は 反 論 し て い る 。 岡 田 英 弘 [2009]は 、 日 本 人 は 「 文 殊 (曼 殊 )師
利菩薩」を「文殊」と略称するが、満洲人は略称せずに「マンジュシュリー」と呼ぶ。ま
た 、「 満 洲 人 は 、 自 分 の 種 族 名 が こ の 菩 薩 か ら 来 て い る と は 、 夢 に も 思 わ な か っ た 」 と し 、
満洲の語源を「文殊師利菩薩」に比定する見解を否定した。そして、満洲の語源は不明だ
と主張した。
以上の日本での研究状況をまとめると、満洲はヌルハチの時から国号として使われ、ホ
ンタイジの時に「民族」名になったという見解が定説的であり、その語源については見解
が分かれていると整理できよう。
2.中国での研究
中 国 で は 孟 森 [1930、 1986]が 先 駆 的 に 検 討 を し 、 満 洲 は 「 満 住 」 と も 書 き 、 建 州 女 真 の
首長であった李満住も名前に取り入れていた、女真の間で用いられた尊称であったと主張
し た 。 馮 家 昇 [1933]は 、 満 洲 が 使 わ れ 始 め た 時 と 、 そ の 語 源 に 関 す る 諸 説 の 整 理 を お こ な
っ た 。満 洲 が い つ か ら 使 わ れ た の か 、① 国 初 以 来 、国 号 と し て い た 、② 1616 年 に ヌ ル ハ チ
が即位した時に国号とした、③ホンタイジの時に大清と改称す る以前は満洲を国号として
い た が 、「 文 字 の 獄 」 に よ り 満 洲 は 抹 殺 さ れ た 、 と ま と め て い る 。 満 洲 の 語 源 に つ い て は 、
①「 清 涼 」の 漢 語 、② 満 洲 語 の「 mong」(勇 猛 )、③ 名 珠 が 取 れ る「 満 珠 の 地 」、④ 戦 敗 し た
有力者が逃げ込んできて「満豬」という国を作ったことに由来、⑤日本の源氏の源満仲に
由来、⑥肅慎の転音、⑦勿吉靺鞨の転音、⑧『論語註疏』に記述のある九夷の一つである
「満節」に由来、⑨靺鞨の有力者の「満咄」に由来、⑩「文殊師利」に由来、⑪建州女真
の有力者であった李満住の「満住」に由来、の十一種類をあげている。満洲の語源につ い
ては、戦前にすでに多数の見解が存在したのである。馮家昇は諸説のなかで、否定できる
見解については否定した。しかし、自己の見解については確定的な主張はしていない。
台 湾 で は 陳 捷 先 [1963]が 満 洲 の 語 源 に つ い て 考 察 し 、 明 末 の 女 真 各 部 は 名 称 と し て 居 住
地の近くを流れる河川の名称を使っていたと指摘し、
「 婆 豬 河 」が 転 音 し て 満 洲 に な っ た と
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主 張 し た 。 黄 彰 健 [1967]は 、 朝 鮮 の 史 書 で あ る 『 東 国 史 略 事 大 文 軌 』 に ヌ ル ハ チ の 居 住 地
は「萬朱」だとする記述があることをもとに、満洲は地名に由来したと主張した。
乾隆年間に作成された『満洲源流考』には、満洲は地名でなく部族名として、その由来
について記述している。満洲は以前は「満珠」と書き、チベットの来書に清朝皇帝は「曼
殊 師 利 大 皇 帝 」と 書 か れ て い た こ と に 由 来 し 、
「 珠 」と「 殊 」は 同 音 な の で「 満 殊 」と な り 、
さらに「殊」は地名をあらわす「洲」に変えて、満洲という語句が誕生したと『満洲源流
考』は述べている。かかる『満洲源流考』の記述内容を、他の史料で事実だと論証できる
の か 、 王 俊 中 [1997]は チ ベ ッ ト 語 史 料 を 分 析 し て 確 認 を 試 み た 。 そ の 結 果 、 現 在 見 る こ と
のできるチベット語史料において、チベットからの来書が清朝皇帝を「曼殊師利大皇帝」
と記述したことは、順治年間においてはその記述が確認できた。しかし、ヌルハチ、ホン
タイジの時代については確認できないので、
『 満 洲 源 流 考 』の 信 憑 性 は 低 い と 指 摘 し た 。そ
して、
『 満 洲 源 流 考 』が チ ベ ッ ト と の 関 係 か ら 満 洲 の 語 源 を 説 明 し よ う と し た の は 、乾 隆 時
代はチベット仏教が興隆したので、それが背景となっているではないかと主張している。
王俊中の研究により、チベットの来書にある「曼殊師利」に由来するという見解は、大き
く揺らいだと言えよう。
戦 後 の 中 国 に お い て も 、 満 洲 の 語 源 、 用 例 に 関 す る 研 究 は す す め ら れ た 。 滕 紹 箴 [1981、
1995、1996]は 満 洲 の 語 源 、用 例 に つ い て 広 範 囲 に お よ ぶ 史 料 を 検 討 し 、満 洲 は 朝 鮮 の 人 が
鴨緑江上流の女真を呼ぶ際に使った部族名であり、その居住地を示す地名であったと主張
す る 。 姚 斌 [1990]は 、 建 州 女 真 の 有 力 者 で あ っ た 李 満 住 の 名 前 に 由 来 す る と 主 張 し 、 王 昊
[1996]は 、ホ ン タ イ ジ は 自 分 た ち の 部 族 が 栄 え あ る 名 称 を 冠 す る こ と を 目 的 に 、
「 満 珠 」で
はなく満洲にしたと主張した。
言 語 学 的 な 観 点 か ら は 、 長 山 [2009]は 、「 manju」 の 詞 義 を 言 語 学 的 な 観 点 か ら 分 析 し 、
「 manju」は 満 洲 人 が 生 業 と し た 狩 猟 経 済 に 由 来 し て つ く ら れ た 主 張 し た 。烏 拉 康 春 [1990]
と 張 璇 如 [2009]は 、「 勇 猛 な 人 」、 英 雄 と い う 意 味 で は な い か と 主 張 し た 。
邸 永 君 [2005]、 王 鍾 翰 [2004]は 、 満 洲 の 語 源 、 用 例 に 関 す る 諸 説 を 整 理 し て い る 。 劉 厚
生 [2007]、陳 鵬 [2011]は 、
「 満 洲 」の 語 源 に つ い て 、① 人 名 に 由 来 、② 満 洲 語 が 転 音 、③ 地
名に由来、④部落名に由来、という四点から整理している。そして、確定的な結論を出す
ことは難しいと述べている。
Giovanni Stary Venezia[1988、 1990]は 欧 米 で の 満 洲 の 語 源 に 関 す る 諸 見 解 に つ い て 整
理をおこない、言語学的な観点から満洲の語源について検討を加えた。そして、満洲の語
源 は ツ ン グ ー ス 語 の 「 強 い 」「 猛 烈 」 と い う 語 句 と 関 係 が あ る と 主 張 し て い る 。
3.地名への転化
民族名、国名であった満洲は、いつごろ地名に転化したのであろうか。この問題につい
て 矢 野 仁 一 [1941、 4-7 頁 ]は 、 ヨ ー ロ ッ パ の 人 々 が 地 名 と し て 使 う よ う に な っ た と 指 摘 し
た 。矢 野 仁 一 は 、19 世 紀 初 ま で ヨ ー ロ ッ パ 人 も 日 本 人 も 満 洲 は 部 族 名 と 考 え て お り 、マ ン
チ ュ リ ア は「 韃 靼 、満 洲 人 の 国 土 」な ど と 称 さ れ 、満 洲 は 地 名 で は な か っ た 。し か し 、1830
年代以降ドイツやイギリスなどヨーロッパで、満洲は地名として使われるようになったと
主張した。
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中 見 立 夫 [1993、 278 頁 ]は 、 矢 野 仁 一 が 検 討 し て い な い 日 本 人 作 成 の 地 図 を と り あ げ 、
満 洲 が 地 名 と し て 使 わ れ た 起 源 に つ い て 考 証 し た 。桂 川 甫 周 が 大 黒 屋 光 太 夫 (駿 河 沖 で 難 破
し、アリューシャン列島に漂着した後、シベリアを経由してペテルブルクに行き、ラクス
マ ン と と も に 1792 年 に 帰 国 し た )か ら の 聞 き 取 り を も と に 編 纂 し た 地 誌『 北 槎 聞 略 』(1794
年 )の 地 図 に は 満 洲 の 表 記 が 存 在 す る こ と 、高 橋 景 保 が 作 成 し た「 日 本 辺 界 略 図 」(1809 年 )、
「 新 訂 万 国 全 図 」(1810 年 )に も 満 洲 の 表 記 が あ る こ と を 指 摘 し た 。そ し て こ れ ら の 事 実 か
ら 、日 本 で 地 名 と し て の 満 洲 が 成 立 し た の は 、ヨ ー ロ ッ パ よ り も 少 し は や く 、18 世 紀 末 か
ら 19 世 紀 初 だ と 主 張 し た 。
中見立夫は、満洲という地名はマンチュリアの外の人々によりつくられたものであり、
マンチュリアに暮らす人々の意向とは無関係であったことを強調する。そして、地域概念
とは政治権力がその地域をどのように考えていたかを反映しており、政治権力の意向に沿
って地域名称も案出されていたとし、かかる点への考慮を欠くならば、地域理解は外側か
らの一面的なものに陥り、地域の内在的な理解はないがしろになってしまう危険性がある
と指摘している。
松 浦 茂 [2009]は 満 洲 と い う 語 句 が 、 日 本 へ ど の よ う に 入 っ て き た の か 検 討 を 加 え た 。 松
浦 茂 は 間 宮 林 蔵 な ど が 残 し た 北 辺 調 査 を 分 析 し 、江 戸 時 代 に は「 マ ン チ ウ 」
「 満 州 」の 二 つ
が使われており、
「 マ ン チ ウ 」は ア ム ー ル 川 沿 岸 の 住 民 を 経 て 、サ ハ リ ン の ア イ ヌ の 話 し 言
葉 を 通 し て 伝 え ら れ 、「 満 州 」 は 清 朝 の 文 献 を 通 じ て 日 本 に 広 ま っ た と 指 摘 し た 。 そ し て 、
「 マ ン チ ウ 」、「 満 州 」 が 清 朝 と 結 び 付 け て 認 識 さ れ て い た わ け で は な か っ た と 主 張 し た 。
満洲を地名として使ったのは日本人やヨーロッパ人であった。では、中国の人々はマン
チュリアをどのような地名で呼んでいたのであろうか。
明朝の人々は、マンチュリア全体をあらわす地名は使っていなかったと考えられる。遼
東 辺 牆 の 内 側 に つ い て は 「 遼 東 」、「 遼 左 」 な ど の 地 名 を 使 っ て い た 。 ヌ ル ガ ン 地 区 を 総 称
的 に あ ら わ す 地 名 は な か っ た よ う で あ る 。『 大 明 一 統 志 』 [巻 89]は 「 外 夷 」 の 部 分 に 、 朝
鮮や日本と並べて「女直」という項目を設け、ヌルガン地区の状況を記述 している。女直
の居住地は、
「 東 は 海 に 、西 は ウ リ ャ - ン ハ ン (兀 良 哈 )に 、南 は 朝 鮮 に 、北 は ヌ ル ガ ン 」に
接 し て い る と 述 べ 、特 別 な 地 名 は 記 述 し て い な い 。
『 明 実 録 』は 来 朝 す る 女 真 た ち を「 東 北
諸 胡 来 朝 者 」と 記 述 し て い る [『 太 宗 実 録 』巻 78
永 楽 6 年 4 月 乙 酉 ]。明 朝 は 遼 東 と ヌ ル
ガン地区ではその統治方法も異なっており、両者を合わせて呼ぶ地名、つまりマンチュリ
アに相当する地名は存在しなかったようである。
満 洲 人 も 地 名 と し て は 、 満 洲 を 使 っ て は い な か っ た 。 中 見 立 夫 [2002、 19 頁 ]は 、「 満 洲
語の語彙のなかには、のちに日本人や欧米人が地名として使う『満洲』に相当する地域名
称は存在していな」かったと述べている。それゆえ、マンチュリアをあらわす地名を、満
洲人は持っていなかったと推測される。
清 代 で は 盛 京 、吉 林 、黒 龍 江 と い う 名 称 が 使 わ れ 、
「 東 三 省 」と い う 語 句 が 登 場 し た 。も
っ と も 吉 林 や 黒 龍 江 が 省 と な る の は 1907 年 (光 緒 33 年 )で あ り 、17-19 世 紀 に は「 東 三 省 」
は厳密には存在しなかった。しかし清朝は「東三省」という語句を使っていた。古市大輔
[2012]は 『 清 実 録 』 か ら 乾 隆 年 間 ま で の 「 東 三 省 」 の 用 例 を 網 羅 的 に 抽 出 し て 、 そ の 用 例
に つ い て 検 討 し た 。「 東 三 省 」が『 清 実 録 』に 登 場 す る の は 遅 く 、 1733 年 (雍 正 11 年 )で あ
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った。意味的には地名ではなく、盛京・吉林・黒龍江の三将軍が統率する兵士を総称する
意 味 で 使 わ れ て い た 。 そ し て 、「 東 三 省 」 の 語 句 は 、 18 世 紀 ま で は 領 域 的 な 意 味 合 い は 希
薄であり、盛京・吉林・黒龍江の各駐防八旗や各行政機構を便宜的に総称する際に使われ
ていたと主張している。
乾 隆 年 間 の 状 況 を 記 述 し て い る 『 盛 京 通 志 (乾 隆 版 )』 は 、「 今 按 全 省 輿 地 、 西 抵 山 海 関 、
東抵海濱、南至圖們江接朝鮮界、北至外興安嶺俄羅斯界、皆属奉天、吉林、黒龍江将軍所
統 」と 記 述 し て い る [巻 23 建 置 沿 革 ]。と く に 場 所 を 示 す 地 名 は な く 、奉 天・吉 林・黒 龍 江
将軍の管轄地を一つのまとまりとみなしている。
19 世 紀 に な る と 、『 清 実 録 』 に は 「 東 三 省 為 根 本 重 地 」 な ど の 記 述 が 頻 出 し 、「 東 三 省 」
は 地 名 と し て 用 い ら れ て い た 。し か し 、
『 清 実 録 』に は「 満 洲 為 本 朝 発 祥 之 地 」な ど の 表 現
で、
「 満 洲 」を 地 名 と し て 使 っ た 用 例 は 存 在 し な い 。筆 者 の 知 る 範 囲 で 清 朝 が「 満 洲 」を 地
名 的 に 使 っ た の は 、1898 年 7 月 締 結 の「 東 省 鉄 路 公 司 続 訂 合 同 」の な か で 、旅 順 ・ 大 連 に
至 る 路 線 を 「 東 省 鉄 路 南 満 洲 枝 路 」 と 述 べ て い る の が 最 初 で あ る [王 鉄 崖 1957、 783-784
頁] 。
20 世 紀 の 中 国 で は 、マ ン チ ュ リ ア を 示 す 場 合 に は「 東 北 」、
「 東 三 省 」が 一 般 的 だ が 、
「満
洲 」 も 地 名 と し て 使 わ れ て い た 。 1911 年 に 編 纂 さ れ た 『 東 三 省 政 略 』 に は 、「 満 洲 而 有 南
北 之 名 。旅 大 已 為 租 借 之 地 。日 之 鉄 道 貫 奉 天 而 達 於 長 春 」[巻 四 軍 事 、述 要 ]と あ り 、
「満洲」
を 地 名 と し て 使 っ て い る 。と こ ろ が 、1932 年 に 満 洲 国 が 建 国 さ れ る と 、満 洲 と い う 語 句 そ
のものの使用が忌み嫌われた。満洲という語句は特別なニュアンスを持つものとなり、敢
えて使用する「中国人」に対しては「満洲国の存在を肯定、是認している」などの憶測さ
えささやかれた。
「 マ ン ジ ュ (満 洲 )」を 民 族 (部 族 )名 と 決 め た ホ ン タ イ ジ は 、満 洲 が こ の よ
うな意味で使われるようになるとは、まったく想像もしなかったであろう。
戦後ではマンチュリアに相当する場所は、東北アジア、北東アジアという名称でも表記
さ れ て い る 。菊 池 俊 彦 [2010、ⅲ -ⅳ 頁 ]は 、東 北 ア ジ ア と い う 名 称 は 日 露 戦 争 以 降 に お こ な
われた満洲史研究のイメージを払拭するために用いられたものだとし、これに対して北東
ア ジ ア は 欧 米 の 諸 言 語 (英 語 で は Northeast Asia)に 由 来 し て お り 、 欧 米 の 学 問 的 影 響 が 強
かった民族学、人類学の分野で戦後に用いられたと説明している。そして、東北アジア、
北東アジアの用語は、それぞれ歴史的に異なった背景から用いられるようになったので、
いずれに統一するかは容易ではないと述べている。
以上の諸見解を検討した結果、本書ではマンチュリアという表記を地名として使うこと
にした。
4.矢野仁一の「満洲は中国の領土ではない」という見解について
満洲を論じるにあたっては、戦前に矢野仁一が主張した「満洲は中国の領土ではない」
という見解について避けることはできない。
矢 野 仁 一 (経 歴 、 研 究 業 績 は 第 2 章 第 1 節 を 参 照 )は 、 ま ず 中 国 の 国 境 は 西 欧 近 代 国 家 の
国境とは異なることを指摘する。
「 近 代 の 国 家 、即 ち『 ナ シ ョ ナ ル・ス テ ー ト 』の 間 に 普 通
に 見 る 所 の 国 境 は 」、「 二 つ の 国 の 領 土 が 次 第 に 膨 張 し て 、 終 に 或 る 地 点 に 到 っ て 接 触 」 し
たものだが、中国の国境は「皇帝の徳治」がおよぶ範囲だとする。そして、このような国
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境は国境とみなすことはできないので、中国には国境は存在せず、国境が存在しない国家
と は「 真 の 国 家 」で は な い と 論 断 す る [矢 野 仁 一 1923]。こ う し た 主 張 を さ ら に 推 し 進 め る
ならば、中国には国境線はないのだから、満洲が中国の領土だという主張にも根拠はない
という見解が出てくる。また、矢野仁一は満洲事変後に発表した論説のなかで、満洲は満
洲人の領土であり、満洲と中国とは別物だと主張した。さらに満洲に漢人が移住したのは
19 世 紀 以 降 な の で 、満 洲 を 漢 人 固 有 の 領 土 と み な す こ と は で き な い 、と も 主 張 し て い る [矢
野 仁 一 1932]。
以 上 の 矢 野 の 見 解 は 、① 「中 国 無 国 境 説 」、②「 満 洲 と 中 国 は 別 物 説 」、③「 満 洲 は 漢 人 固
有の領土ではない説」とでもまとめられよう。では、これらに適切な論拠はあるのか、な
いのか検討してみたい。
「中国無国境説」は満洲国の建国を正当化する牽強付会とは必ずしも言えず、中華王朝
の持つ特徴をついている。中華王朝の支配領域についての認識は、西欧近代国家のような
国 家 主 権 の お よ ぶ 範 囲 の 排 他 的 支 配 な ど は 意 識 さ れ ず 、「 皇 帝 の 徳 治 」 が お よ ぶ 範 囲 、「 皇
帝の王化」がおよぶ領域というものであった。それゆえ国境線が不明確であるという矢野
仁 一 の 指 摘 は 妥 当 な も の だ と い え る 。し か し な が ら 、
「 皇 帝 の 徳 治 」、
「 皇 帝 の 王 化 」の 範 囲
と い う 認 識 は 19 世 紀 後 半 以 降 、西 欧 と の 接 触 の な か 変 容 し 、中 国 で も 西 欧 近 代 国 家 的 な 国
境 認 識 、領 土 意 識 が 拡 大 し て い た 。矢 野 仁 一 は 19 世 紀 後 半 以 降 の 中 国 の 変 化 に は 言 及 せ ず 、
19 世 紀 後 半 以 前 の 状 況 を 基 準 に 、20 世 紀 の 状 況 を 解 釈 し た 点 が 問 題 だ と 主 張 し た い 。第 5
章 第 6 節 で 19 世 紀 後 半 に マ ン チ ュ リ ア で は 国 境 が 可 視 化 さ れ て い く 過 程 に つ い て 述 べ る
が 、 あ る 地 域 の 状 況 を 固 定 的 に 理 解 す る 方 向 性 は 問 題 だ と 指 摘 し た い 。 19 世 紀 後 半 以 降 、
マンチュリアは以前とは異なる状況となり、これまで認識されていなかった国境の可視化
に よ り 、「 皇 帝 の 徳 治 」 が お よ ぶ 範 囲 が 領 域 だ と い う 認 識 は 薄 れ て い っ た と 考 え る 。
次に「満洲と中国は別物説」について見てみたい。矢野は清朝発祥の地である満洲は満
洲人しか居住していなく、入関以前の清朝は満洲人のみで構成された王朝のように理解し
て い る 。だ が 、清 朝 は 満 洲 人 だ け を 構 成 員 に し た わ け で は な い 。1616 年 に 後 金 を 建 国 し た
ヌルハチは、建国以前からモンゴル人や漢人の支援を受けていた。このため、清朝の前身
である後金は満洲族による単一政権ではなく複数の民族集団を基盤にしていた。また清朝
は帝国であり、満洲人の民族国家などではなかった。皇帝は満洲人に限られたが、満洲人
の民族的利害を第一にした王朝ではなかった。矢野仁一は西欧近代国家を基準に中華王朝
の性質を測定しているが、こうした測定の結論は測定以前に出ており、測定自体が無意味
だと主張したい。
最後に、
「 満 洲 は 漢 人 固 有 の 領 土 で は な い 説 」に つ い て 考 え て み た い 。確 か に 矢 野 仁 一 が
主 張 す る よ う に 、満 洲 に 住 む 漢 人 が 増 え る の は 19 世 紀 後 半 以 降 で あ る 。漢 人 が 住 む よ う に
なった年代の浅さをもって、矢野は「満洲は中国の領土ではない」と主張しているが、あ
る土地を領有する際の根拠は、その土地に移住した古さにより決まるのであろうか。一つ
の民族が一つの場所にずっと住み続けていることは、世界史的に見るならば少ない。たと
えば、中央アジアはイラン系やトルコ系の民族が興亡を繰り返した場所であり、現在では
カザフスタン、キルギス、中華人民共和国などの領有になっている。だが、これらの国家
が古代以来現在まで、中央アジアを領有していたと主張するのは無理のように思われる。
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以 上 、や や 詳 し く 矢 野 仁 一 の 見 解 に 対 す る 反 論 を 展 開 し た が 、
「満洲は歴史的に中国固有
の 領 土 で あ る 」 と い う 見 解 に も 賛 同 し か ね る 。 た と え ば 岡 部 牧 夫 [2000]は 「 清 朝 も 東 北 を
実行支配しており、だからこそ南下するロシアも、日清戦争期の日本も、清朝を相手に条
約を締結して領土や権益を獲得し、その枠組に第三国から異論はなかった。これは国際社
会で、東北が中国固有の領土とみとめられたことを意味するのではないか」と指摘してい
る。この文章から考えるに、岡部牧夫は清朝による満洲統治を西欧国家の統治と同様のも
のと考えているように思われる。また国際社会が「固有の領土」と認めていたことと、清
朝自身がどのように考えていたかはまったく別の事柄である。当時の国際社会の主流を構
成した欧米列強は、自分たちの領土認識を満洲にもあてはめて清朝と条約を締結していた
の で あ り 、そ う し た 19 世 紀 後 半 の 状 況 を そ れ 以 前 に も 遡 及 し て 、満 洲 の 帰 属 を 論 じ る こ と
は無意味だと主張したい。
矢 野 仁 一 と 岡 部 牧 夫 の 見 解 は 底 流 で は 同 じ で あ り 、 19 世 紀 後 半 に 生 じ て い た 国 境 認 識 、
領 域 認 識 の 変 化 を よ く 理 解 せ ず に「 満 洲 」の 帰 属 を 決 め て い る 。矢 野 仁 一 は 古 代 以 来 の「 皇
帝 の 徳 治 」 の 範 囲 だ と い う 認 識 を 19 世 紀 後 半 以 降 に も 延 長 し て 、「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は
な い 」と し た 。岡 部 牧 夫 は 西 欧 近 代 国 家 の 領 土 認 識 を 19 世 紀 後 半 以 前 に も 遡 及 さ せ て 、
「満
洲は中国固有の領土である」とした。
本論文では、マンチュリアを固定的に捉えるのではなく、歴史的過程を歩む可変的な存
在 と し て 考 え て い る 。 そ れ ゆ え 、「 中 国 の 領 土 で あ っ た の か 」、 は た ま た 「 中 国 の 領 土 で は
なかったのか」という観点からではなく、その歴史的過程にそくした観点からマンチュリ
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20
第2章
戦前、戦後におけるマンチュリア史研究の成果と問題点
はじめに
本章の目的は、戦前から戦後にかけてのマンチュリア史研究の動向について検証し、こ
れまでのマンチュリア史研究が、どのような人たちにより、何を目的におこなわれ、何を
明らかにしてきたのかを確認することにある。
まず、日露戦争を契機としてマンチュリア史研究が勃興し、満洲国建国により大きく研
究は進展した軌跡をたどる。その一方で、各種機関によるマンチュリアの調査研究がはじ
まり、満洲国期には大規模におこなわれた経緯について述べる。ついで、敗戦後のマンチ
ュリア史研究の停滞、日本史研究者によるマンチュリア史研究の興隆、中国における研究
状況などについて考察する。
1.戦前における満洲史研究-東洋史研究の一分野として-
①日露戦争後における研究のはじまり
(1)白 鳥 庫 吉 に よ る 研 究
日 本 は 日 露 戦 争 の 結 果 、 関 東 州 の 租 借 権 や 南 満 洲 鉄 道 (以 下 、 満 鉄 )の 経 営 権 を 得 る と と
もに、朝鮮半島に対する地位をより堅固にした。そうした状況を見た東京帝国大学教授の
白 鳥 庫 吉 (1)は 、満 洲・朝 鮮 に 関 す る 研 究 の 必 要 性 を 主 張 し た 。白 鳥 庫 吉 は 満 鉄 総 裁 の 後 藤
新 平 に か け あ い 、歴 史 研 究 の 重 要 性 を 訴 え た 。こ れ は 満 鉄 に 認 め ら れ 、 1908 年 に「 南 満 洲
鉄 道 株 式 会 社 歴 史 調 査 室 」 (東 京 )が 発 足 し た [中 見 立 夫 2006、 37 頁 ]。
白鳥庫吉がこうした研究組織を立ち上げた理由は、以下の3点にまとめられる。第一に
は、満洲・朝鮮経営に資するための歴史研究であった。具体的には「歴史の基礎は地理」
に あ る の で 、 地 名 、 領 域 の 確 定 を 主 た る 研 究 目 的 と し た [満 鉄 1913、 6 頁 ]。
第 二 に 、欧 米 へ の 対 抗 心 で あ っ た 。1901~ 03 年 に か け て ヨ ー ロ ッ パ に 留 学 し た 白 鳥 庫 吉
は、日本における歴史研究の遅れを痛感し、西欧のことを西欧人から教わるのはまだ許容
できるが、
「 東 洋 の こ と 、西 人 の 教 を 俟 っ て 始 め て 知 る 」と い う の は 遺 憾 だ と 考 え た 。そ れ
ゆえ、まだ欧米人が着手していない満洲・朝鮮の研究は、日本人が開拓できる独自分野の
た め 、 そ の 研 究 に よ り 「 世 界 の 学 術 に 貢 献 」 で き る と し た [満 鉄 1913、 4-5 頁 ]。
第三に、日本の東洋史研究はいまだ黎明期であり、研究者の数は少なく、人材の育成が
急務となっていた。東京帝国大学教授の白鳥庫吉は、若手研究者を 育成、プールする研究
組織の立ち上げが必要だと考えていた。
「 南 満 洲 鉄 道 株 式 会 社 歴 史 調 査 室 」(以 下「 歴 史 調 査 室 」)が 発 足 し た 1908 年 の 時 点 で の
日本の東洋史研究はさかんではなく、その研究体制の整備も遅れていた。東京帝国大学は
リ ー ス を 招 聘 (1887 年 )し て 、ラ ン ケ を 開 祖 と す る 実 証 的 歴 史 研 究 の 導 入 に 努 め 、江 戸 時 代
以来の漢学的な研究から脱却して、科学的な史料批判による歴史研究への転換をすすめた
[青 木 富 太 郎 1940、 146 頁 ]。 そ う し た 状 況 下 で 育 成 さ れ た の が 白 鳥 庫 吉 で あ っ た (1890 年
卒 業 )。白 鳥 庫 吉 は ヨ ー ロ ッ パ 留 学 か ら の 帰 国 後 、1904 年 に 東 京 帝 国 大 学 教 授 に 就 任 し た 。
こ の 1904 年 は 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 が そ の 組 織 を 大 き く 改 変 し て 年 で も あ り 、 哲 学 、 史 学 、
文学の三大学科が設けられ、史学科は国史学科、支那史学科、西洋史学科から構成される
21
こ と に な っ た [東 京 大 学 百 年 史 編 集 委 員 会 編 1986、624 頁 ]。す で に リ ー ス は 帰 国 (1902 年 )
しており、日本人スタッフだけで史学科を立ち上げたのである。支那史学科は市村瓚次郎
が中国史を、白鳥庫吉が塞外諸民族史を担当した。しかしながら、個別分野での研究蓄積
はまだ少なく、研究の推進と人材育成が求められた時期であった。
白鳥庫吉は東京帝国大学卒業生の箭内亙、松井等、池内宏、東京帝国大学とは関係のな
い 稲 葉 岩 吉 、 津 田 左 右 吉 を メ ン バ ー と し て 、「 歴 史 調 査 室 」 で の 研 究 を 開 始 し た 。 箭 内 亙 、
松井等、稲葉岩吉が満洲を担当し、津田左右吉、池内宏が朝鮮を担当した。白鳥庫吉は彼
らを、
「 当 時 こ れ ら の 人 々 は 未 だ 世 間 に は 名 も 余 り し ら れ て い な か っ た が 、今 日 で は い ず れ
も博士として、或いは大学教授として、斯界に重要な位置を占め、社会的にもみな有名な
人 々 で あ る 」と 評 価 し て い る [白 鳥 庫 吉 1969-71、10 巻 、405 頁 ]。後 に 箭 内 亙 (2)と 池 内 宏
(3)は 東 京 帝 国 大 学 教 授 に な り 、津 田 左 右 吉 (4)は 早 稲 田 大 学 教 授 、松 井 等 (5)は 国 学 院 大 学
教 授 、稲 葉 岩 吉 (6)は 朝 鮮 総 督 府 修 史 官 、建 国 大 学 教 授 に な り 、日 本 の 東 洋 史 研 究 を 支 え る
人材となった。
「 歴 史 調 査 室 」を 設 け て 若 手 研 究 者 を 育 成 す る と い う 、白 鳥 庫 吉 の 目 論 見 は
達 成 さ れ た と 言 え よ う (7)。
1913 年 に 『 満 洲 歴 史 地 理 』 第 1 巻 、 第 2 巻 (8)と 、 津 田 左 右 吉 執 筆 に よ る 『 朝 鮮 歴 史 地
理 』1 巻 、2 巻 が 刊 行 さ れ た (9)。内 容 の 特 徴 と し て は 、漢 代 か ら 清 初 ま で の マ ン チ ュ リ ア
の疆域に関する考証論文が多い点である。
「 歴 史 調 査 室 」の 研 究 関 心 は 、マ ン チ ュ リ ア を 統
治した政治権力の勢力範囲の確定に力点があったと指摘できる。後に東京帝国大学教授と
な る 和 田 清 は『 満 洲 歴 史 地 理 』の 諸 論 文 を 評 価 し て 、
「ほぼ満鮮東蒙の歴史上の難問を解決
し て 、元 代 ま で の 文 献 学 的 研 究 は 完 成 に 近 く 、あ と に は 明 清 両 代 の 調 査 が 稍 々 未 了 な の と 、
他 に 現 地 考 古 学 的 土 俗 学 的 調 査 が 欠 け て い る だ け で あ る 」と 述 べ て い る [和 田 清 1933、537
頁 ]。だ が 、マ ン チ ュ リ ア 社 会 の 内 部 状 況 に つ い て は 、ま だ 十 分 な 考 察 は お こ な わ れ て い な
い と 指 摘 し た い 。と は い え 、
『 満 洲 歴 史 地 理 』は 漢 学 的 な 手 法 か ら 離 れ て 、実 証 的 な 歴 史 研
究の方法によりマンチュリアの歴史について考察した、日本で最初の研究成果である点は
揺るがない。
「歴史調査室」は研究成果を刊行するに至ったが、満鉄社内では現在と距離のある歴史
研 究 を 継 続 す る こ と に 疑 問 が 出 さ れ 、1915 年 に「 歴 史 調 査 室 」は 廃 止 さ れ た [中 見 立 夫 2006、
38 頁 ]。 し か し 白 鳥 庫 吉 は 研 究 の 継 続 を は か り 、 研 究 室 を 東 京 帝 国 大 学 内 に 移 し 、 東 京 帝
国大学の教員を中心に研究を続けた。その成果は『満鮮地理歴史研究報告』という名称で
1915 年 に 第 1 冊 が 出 さ れ 、 以 後 1941 年 ま で 合 計 16 冊 が 刊 行 さ れ た 。
執筆者は津田左右吉、松井等、箭内亙、池内宏などの「歴史調査室」のメンバーであっ
た が 、 第 12 冊 (1930 年 刊 )に 和 田 清 (10)が 「 兀 良 哈 三 衛 に 関 す る 研 究 (上 )」 を 掲 載 し 、 メ
ン バ ー に 加 わ っ た 。 和 田 清 は 1912 年 に 東 京 帝 国 大 学 に 入 学 、 1915 年 に 東 洋 史 学 科 を 卒 業
と い う 経 歴 で あ り 、 そ の 入 学 時 に 東 洋 史 学 科 は 設 け ら れ て い た (支 那 史 学 科 は 1910 年 に 廃
止 さ れ 東 洋 史 学 科 に 改 め ら れ た )(11)。白 鳥 庫 吉 、池 内 宏 ら の 教 育・指 導 を 受 け て 東 洋 史 研
究者となった和田清は、新たな教育システムが生み出した人材であった。和田清は、元 か
ら清初にかけての中国、モンゴル、マンチュリアの歴史研究に取り組んでいた。これまで
マンチュリアと朝鮮との関係については池内宏が考察をおこない、いわゆる「満鮮史」研
究に取り組んでいた。だが、マンチュリアとモンゴルとの関係を取り上げた論文が『満鮮
22
地理歴史研究報告』に掲載されたことはなかった。和田清の参加により、いわゆる「満蒙
史 」研 究 に 関 す る 論 文 が 掲 載 さ れ る こ と に な っ た 。和 田 清 は 1933 年 に 東 京 帝 国 大 学 教 授 に
就任し、日本を代表する「満蒙史」研究者となる。
「歴史調査室」の参加者のなかで、稲葉岩吉は特異な存在であった。稲葉岩吉は白鳥庫
吉の誘いに応じて「歴史調査室」に加わったが、新聞記者時代の内藤湖南の教えを受けた
経 歴 を 持 ち 、自 身 で は 内 藤 湖 南 を 師 だ と 称 し て い た [稲 葉 岩 吉 1934]。稲 葉 岩 吉 は と く に 大
学史学科で教育を受けた経歴はなかったが、高い史料の分析力と優れた叙述力を持ってい
た 。「 歴 史 調 査 室 」に 参 画 し た 約 七 年 間 の 成 果 は 、『 清 朝 全 史 』上 下 [稲 葉 岩 吉 1914])、『 満
洲 発 達 史 』[稲 葉 岩 吉 1915] と し て 刊 行 し て い る 。
『 満 洲 発 達 史 』は 明 代 か ら 清 末 ま で の マ
ンチュリア史について叙述しており、概説的な著作としては現在もその価 値は失っていな
い (12)。 満 洲 国 建 国 後 に は 建 国 大 学 教 授 に 就 任 し 、 満 洲 国 で 研 究 教 育 活 動 を し て い た 。 最
後 の 著 作 と な っ た『 満 洲 国 史 通 論 』[稲 葉 岩 吉 1940]は 満 洲 国 建 国 の 前 史 を 述 べ 、満 洲 国 に
対する日本人の認識深化を目的に執筆された。古代の粛慎からはじまり、日露戦争までの
「満洲通史」は、その時点での学界の諸成果を取り入れた優れた内容となっている。しか
しながら、考察の方向性として主張したいことは満洲国建国の必然性であり、現代日本人
にはこうした方向性を受け止めることは難しい。歴史研究と歴史認識の関係について考え
させられてしまう事例である。
(2)内 藤 湖 南 に よ る 研 究
1907 年 に 京 都 帝 国 大 学 の 講 師 に 就 任 す る 内 藤 湖 南 (13)も 、日 露 戦 争 を 契 機 と し て マ ン チ
ュリアの歴史研究をはじめた。その経緯、研究内容は、さきに見た白鳥庫吉の軌跡とは異
な っ て い た 。 内 藤 湖 南 [1900]は マ ン チ ュ リ ア 史 に 対 し て は や く か ら 関 心 を 持 っ て い た よ う
で 、京 都 帝 国 大 学 に 就 任 す る 以 前 の 1900 年 に 、す で に 明 代 マ ン チ ュ リ ア の 疆 域 に 関 す る 論
文を書いていた。だが、この論文は初歩的な考察の域を出ていない、試論的なものにすぎ
ない。本格的に内藤湖南がマンチュリア史の研究をはじめた契機は、史料との出会いが大
きくかかわっていた。白鳥庫吉は日本の満洲・朝鮮経営に資することや、西欧への対抗か
らマンチュリアの歴史研究に着手したが、内藤湖南は日露戦争によりマンチュリアでの史
料調査が可能となったことを契機に研究をはじめた。
内 藤 湖 南 は 日 露 戦 争 が ま だ 終 結 し て い な い 1905 年 7 月 に 奉 天 を 訪 れ 、奉 天 文 溯 閣 な ど に
保 存 さ れ た 史 料 の 調 査 を お こ な っ た (14)。こ の 調 査 を 皮 切 り に 、1906 年 に は 外 務 省 よ り 間
島問題調査の嘱託を受けて渡満し、奉天では『満文老档』などの満洲語史料を収集した。
つ い で 1908 年 に は 間 島 、 吉 林 方 面 を 踏 査 し 、 1912 年 に は 羽 田 亨 ら と と も に 『 満 文 老 档 』
の 写 真 撮 影 も お こ な っ た (15)。
数回におよぶ史料調査により内藤湖南は、これまで外国人が見たことのない清朝初期に
書かれた満洲語の史料などを入手した。そして、それらの史料を分析して論文を発表した
が、考察の重点は清朝政権の問題についてであり、マンチュリアという地域の特徴につい
て は 考 察 し て い な い (16)。
内 藤 湖 南 の 関 心 は 史 料 の 収 集 と 刊 行 に あ っ た よ う で 、1919 年 か ら 史 料 復 刻 を 目 的 と し た
『 満 蒙 叢 書 の 』刊 行 を は じ め た 。そ の「 序 」に よ る と 3 年 を 1 期 と し て 毎 年 8 冊 、合 計 24
23
冊 を 刊 行 す る 予 定 だ と 述 べ て い る 。し か し 実 際 に は 、1 ~ 5 巻 、9 巻 、17 巻 の 計 7 冊 が 1919
年 か ら 1923 年 に か け て 刊 行 さ れ た だ け で あ り 、他 は 未 刊 で あ る (17)。内 藤 湖 南 は 史 料 刊 行
の 目 的 を 、白 鳥 庫 吉 ら の 研 究 と 対 比 さ せ て 、
「 (白 鳥 ら の 研 究 は )其 研 究 の 成 績 を 著 し て 創 見
を 以 て 学 界 を 提 醒 し 、此 は 其 研 究 の 資 料 を 供 給 し て 学 者 、経 世 者 の 随 意 取 用 に 縦 せ ん と す 」
と し て い る (18)。 白 鳥 庫 吉 ら と の 研 究 と は 異 な る 方 向 を 内 藤 湖 南 は 志 向 し て い た 点 を 、 明
瞭に述べている。
内藤湖南が勤務した京都帝国大学では、白鳥庫吉や内藤湖南とはかなり異なった経歴、
見 解 を 持 つ 矢 野 仁 一 (19)が 東 洋 近 世 史 ・ 近 代 史 を 講 じ 、 マ ン チ ュ リ ア 史 に つ い て も 研 究 し
ていた。矢野仁一は東京帝国大学西洋史学科で学び、卒論の題目は「露清関係殊にネルチ
ン ス ク 条 約 」で あ っ た 。そ の 後 北 京 の 法 政 学 堂 で 教 鞭 を と り 、1912 年 に 京 都 帝 国 大 学 の 助
教授に就任した。とくに外交史研究に関してすぐれた業績を残しており、日清戦争から日
露戦争までのマンチュリアをめぐるロシアの動向についての研究は、現在でも価値を失っ
て い な い [矢 野 仁 一 1941]。
矢野仁一は周知のように、
「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は な い 」と い う 見 解 を 発 表 し て 、歴 史 的
背 景 を も と に 満 洲 国 建 国 の 正 当 性 を 主 張 し て い た (20)。 矢 野 仁 一 は 自 ら の 東 洋 史 研 究 の 成
果をもとに、
「 満 洲 と 中 国 は 異 な る 」と い う 持 論 を 展 開 し た の で あ る 。あ ま り 知 ら れ て い な
い が 、 白 鳥 庫 吉 が 主 催 し た 「 歴 史 調 査 室 」 に 参 加 し た 松 井 等 [1930]は 、 矢 野 仁 一 の 主 張 に
反対する論説を書いていた。松井等は、その変化の過程を明らかにして、現在を理解する
ことが重要だと主張し、過去のある時点の固定的な状況を、現在の理解に持ち込むことに
は疑問を唱えた。すなわち、日露戦争以前のマンチュリアの状況を以って、日露戦争以後
のマンチュリアの状況を考えることは問題だという見解を展開した。中国の領土に対する
考え方が西欧とは相違することにも言及し、日露戦争以後に満洲が置かれた状況をふまえ
る と 、 中 国 と 満 洲 を 分 け て 考 え る 主 張 は 、「 あ ま り に 過 去 の 事 象 に 拘 泥 」 し 過 ぎ て い る と 、
矢野仁一を批判した。筆者は松井等の見解に賛意を示すが、ここで言いたいことは、矢野
仁一が主張した「満洲は中国の領土ではない」という見解は、創生期のマンチュリア史研
究者に共通するものではなかった点である。
日本では明治年間になると、江戸時代の漢学とは異なる東洋史研究という枠組みが、西
欧 で 確 立 し た 実 証 的 歴 史 学 の 手 法 を 土 台 に 形 成 さ れ た 。そ の 形 成 途 上 で 日 露 戦 争 が 起 こ り 、
マンチュリア・朝鮮の研究が求められ、マンチュリア史は東洋史研究の一部門となった。
そして、創生期のマンチュリア史研究は東京帝国大学と京都帝国大学を拠点にして、その
研究はすすめられたとまとめられる。
②満洲国建国を契機とする歴史研究の興隆
(1)日 本 国 内 で の 研 究
満 洲 国 の 建 国 (1932 年 )を 受 け て 、マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 強 化 が 国 策 的 に 行 わ れ た 。1933
年に外務省の文化事業部は満蒙文化研究事業という名目で助成金を出すことを決め、東京
帝国大学と京都帝国大学にその遂行を委託した。東京帝国大学は池内宏が中心となり、三
上 次 男 (21)、 旗 田 巍 (22)が 研 究 に 従 事 し た 。 京 都 帝 国 大 学 で は 羽 田 亨 (23)が 中 心 と な り 、
田 村 実 造 (24)、 若 城 久 治 郎 、 外 山 軍 治 、 小 川 裕 人 ら が 研 究 に た ず さ わ っ た 。
24
京 都 帝 国 大 学 は 1938 年 か ら 『 満 蒙 史 論 叢 』 を 刊 行 し て 、 そ の 成 果 を 公 に し た (25)。『 満
蒙 史 論 叢 』 1 (1938 年 )の 「 序 」 は 羽 田 亨 の 執 筆 に か か り 、「 日 露 戦 役 の 後 に 画 期 的 の 進 歩
を遂げた我が国の満蒙史研究は、満洲国の成立後更に一段 の発達を示し、精緻透徹の論述
が相次いで公にせられつつあるのは学界の慶事である」という文章で始まる。日露戦争を
契機に着手されたマンチュリア史研究は、満洲国建国を契機として、さらなる研究の進展
が国家的要請によりすすめられた。
満蒙文化研究事業の一環として、明代満蒙史料の編纂という大規模な史料編纂が企図さ
れ た 。具 体 的 に は 、東 京 帝 国 大 学 で は 旗 田 巍 が「 李 朝 実 録 」か ら 満 洲 関 係 の 記 事 を 採 録 し 、
京 都 帝 国 大 学 で は 三 田 村 泰 助 (26)と 今 西 春 秋 (27)が 「 明 実 録 」 か ら 満 洲 ・ 蒙 古 関 係 の 記 事
を採録するという内容であった。明代より以前のマンチュリア史に関する史料の量はそれ
ほど多くはなく、日露戦争後の研究の進展により、そのほとんどは分析・考察された。し
か し な が ら 、 明 代 の 関 係 史 料 は 「 李 朝 実 録 」、「 明 実 録 」 が 存 在 す る こ と か ら 、 膨 大 な 量 に
達し、研究の進展を困難にしていた。そのため明代満蒙史料を編纂し、史料利用にあたっ
て の 困 難 克 服 が 企 図 さ れ た の で あ る [田 村 実 造 1959、外 山 軍 治 1960]。明 代 満 蒙 史 料 は 、戦
前には『明代満蒙史料
蒙 古 篇 』 1 (1943)だ け し か 刊 行 さ れ な か っ た が 、 戦 後 に す べ て 刊
行 さ れ 、 研 究 者 の 活 動 を 支 え て い る (28)。
マンチュリア史研究をおこなう若手研究者が増えたこともあり、雑誌『歴史学研究』は
1935 年 に 「 満 洲 史 特 輯 号 」 を 刊 行 し た 。 こ の 特 輯 号 は 若 手 研 究 者 に よ る 論 文 が 14 本 掲 載
さ れ (29)、 さ ら に こ の 時 点 で の 研 究 成 果 を 網 羅 し た 「 満 洲 史 参 考 文 献 目 録 」 を 付 録 と す る
充実した内容であった。執筆者は東京帝国大学出身者が多数を占めているが、後述する大
上末広が入っている点は注目される。
特輯号刊行にあたっての主旨などはとくにないが、巻頭論文である三島一「満洲史研究
序 説 」 (30)は 矢 野 仁 一 の 「 満 洲 は 中 国 に 非 ず 」 論 に 対 す る 反 論 で あ り 、 マ ン チ ュ リ ア は 漢
民 族 、 満 洲 族 ・ ツ ン グ ー ス 族 、 モ ン ゴ ル 族 の 居 住 地 帯 で あ り 、「 こ の 事 実 を 歪 曲 す る と き 、
それは為にする曲学阿世の史家」であると述べている。
掲載論文の内容を見ると、
「 ツ ン グ ゥ ス 族 の 土 地 所 有 関 係 」、
「 吾 都 里 族 の 部 落 構 成 」、
「清
末 に 於 け る 吉 林 省 西 北 部 の 開 発 」、「 近 代 に 於 け る 満 洲 農 業 社 会 の 変 革 過 程 」 な ど の 、 マ ン
チュリアの社会内部の状況やその変化を考察した論文、
「 高 麗 と 契 丹・女 真 と の 貿 易 関 係 」、
「 清 代 に 於 け る 満 支 の 経 済 的 融 合 」、「 ツ ァ ー リ と 満 洲 問 題 」 な ど の 、 マ ン チ ュ リ ア と 周 辺
との関係を考察した論文が目につく。白鳥庫吉、池内宏、和田清らがおこなってきた地理
的考証とは異なる問題を考察対象にしていると指摘できよう。
研 究 者 の 数 は 増 え 、 広 島 文 理 科 大 学 (現 広 島 大 学 )で は 鴛 淵 一 、 そ の 弟 子 の 戸 田 茂 喜 、 お
よ び 浦 廉 一 が 、マ ン チ ュ リ ア 史 に 関 す る 研 究 を お こ な っ て い た 。鴛 淵 一 (31)は 1920 年 に 京
都帝国大学東洋史専攻を卒業し、マンチュリア史、満洲語史料の研究に従事した。鴛淵一
は 三 田 村 泰 助 、今 西 春 秋 ら の 満 洲 語 の 教 師 で も あ っ た 。鴛 淵 一 は 1932 年 に 広 島 文 理 科 大 学
助教授に就任し、広島を拠点にマンチュリア史研究をすすめた。鴛淵一の指導のもとで 研
究 を は じ め た の が 戸 田 茂 喜 (32)で あ っ た 。 戸 田 茂 喜 は 広 島 文 理 科 大 学 卒 業 、 東 洋 史 研 究 室
の 助 手 と な り「 満 文 老 档 の 研 究 」を お こ な い 、そ の 成 果 は い く つ か の 論 文 と し て 発 表 し た 。
1943 年 に 満 洲 国 に 渡 り 、奉 天 図 書 館 の 司 書 官 と な っ た 。敗 戦 後 、シ ベ リ ア に 抑 留 さ れ 、1947
25
年 8 月 に 帰 国 を 果 た し た が 、 2 ヵ 月 後 の 10 月 に 死 去 し た 。 ま た 、 1928 年 に 京 都 帝 国 大 学
東 洋 史 専 攻 を 卒 業 し 、1929 年 に 広 島 高 等 師 範 教 授 と な っ た 浦 廉 一 (33)も マ ン チ ュ リ ア 史 に
関する研究をしていた。
以 上 の 他 に 、 京 都 帝 国 大 学 で 桑 原 隲 蔵 の 指 導 を 受 け た 有 高 巖 (34)は 、 元 代 史 を 中 心 に 研
究していたが、マンチュリア史に関する論文も発表している。また、東京帝国大学を卒業
し た 周 藤 吉 之 (35)は 、 東 洋 文 庫 や 東 方 文 化 学 院 で マ ン チ ュ リ ア 史 の 研 究 を お こ な い 、 そ の
成 果 を 『 清 代 満 洲 土 地 政 策 の 研 究 』 (河 出 書 房 、 1944)と し て 刊 行 し た 。 基 本 史 料 を 読 み 込
んで構築された土地政策に関する大枠は、研究の進んだ現在でも通用する水準の高いもの
で あ る 。 唐 宋 時 代 の 税 制 、 財 政 史 研 究 の 泰 斗 と し て 知 ら れ る 日 野 開 三 郎 (36)は 、 戦 前 で は
渤 海 、 靺 鞨 、 遼 金 朝 な ど の 研 究 を し て い た (37)。
研究者の供給源は、東京帝国大学と京都帝国大学で東洋史を専攻した人がほとんどであ
ったが、研究者の人数は国策的なテコ入れがおこなわれたこともあり増加した。そして研
究テーマもマンチュリアの社会構造や周辺地域とのかかわりなど、深まりと広がりを示し
ていた。しかしながら、日中戦争の勃発、とくに太平洋戦争開戦後には学術研究は難しく
な り 、『 歴 史 学 研 究
満 洲 史 特 輯 号 』 を 頂 点 と し て 先 細 り 、 敗 戦 を 迎 え た (38)。
(2)満 洲 国 で の 研 究
満 洲 国 で も マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 は お こ な わ れ た 。 1931 年 9 月 に 満 鉄 社 員 が 中 心 と な り
満 洲 学 会 が 組 織 さ れ 、 1932 年 か ら『 満 洲 学 報 』が 刊 行 さ れ た (39)。『 満 洲 学 報 』は 1944 年
までに合計8冊が刊行され、その内容は現地に住むがゆえに研究できる考古学に関する論
文が多い点が特徴である。
執筆者のなかで注目したいのは、明末清初の研究をしている園田一亀である。満洲国以
前 は『 怪 傑 張 作 霖 』[1922]、
『 東 北 四 省 政 局 の 現 状 』[1929]な ど の 現 状 紹 介 の 論 説 を 執 筆 し
て い た が 、満 洲 国 期 に は『 韃 靼 漂 流 記 の 研 究 』[1939]、
『 清 朝 皇 帝 東 巡 の 研 究 』[1944]な ど
の歴史研究をおこなった。
『 満 洲 学 報 』に 掲 載 し て い た 明 末 清 初 の 女 真 に 関 す る 論 文 は 、戦
後 に 増 補 さ れ 、『 明 代 建 州 女 直 史 研 究 』 [1948]、『 明 代 建 州 女 直 史 研 究 (続 編 )』 [1953]と し
て刊行された。
奉 天 で は 満 洲 史 学 会 と い う 組 織 が 立 ち 上 げ ら れ 、1937 年 8 月 か ら『 満 洲 史 学 』と い う 雑
誌 を 刊 行 し た 。『 満 洲 史 学 』 は 1940 年 刊 の 第 3 巻 2 号 ま で 確 認 さ れ て い る 。 掲 載 論 文 で 多
いのは、
『 満 洲 学 報 』と 同 様 に 考 古 学 関 係 の 論 文 で あ る 。現 地 調 査 が 不 可 欠 な 考 古 学 は 、満
洲国期に大きな進展をみせていた。本稿では考察の対象外のため、以上の指摘に止める。
文 献 史 料 の 収 集 も す す め ら れ 、満 鉄 奉 天 図 書 館 館 長 の 衛 藤 利 夫 [1938]は 、そ の 成 果 を『 韃
靼
東北アジアの歴史と文献』として刊行した。
③小結
日本におけるマンチュリア史研究は、日露戦争を契機として始まり、満洲国建国を契機
にさらなる進展を示した。日本の大陸政策と歩調を合わせてマンチュリア史研究は大きな
成果をあげたが、批判も存在した。とくに白鳥庫吉の流れを受けた、歴史地理の考証に重
点を置く研究はその意義を問われた。自らも白鳥庫吉の「歴史調査室」に参加した稲葉岩
26
吉 は 、満 洲 国 期 に 次 の よ う に コ メ ン ト し て い る (40)。
「 前 述 満 洲 の 歴 史 調 査 が 、一 旦 閉 鎖 さ
れて、その継続とも見るべきものが、東京帝国大学の教授を主とし、外一二の人々の手に
遷されるや、それらの人々の書斎から累年公表されるものは、内容といい、叙述といい、
申分なき研究ではあるが、実は、あまりに専門的であって、一般社会の歩調に順応するも
のではなかったから、何人もその力作に感服しつつも、亦た一般は之に熱意をもつに至ら
なんだ。而もその研究には、明代以前のもの多きを占め、現代満洲に副うものは見出され
な い の で あ っ て 、 悪 口 を た た く も の は 、 学 者 の 遊 戯 三 昧 だ 、 な ど と い う も の す ら あ っ た 」。
稲葉岩吉は、あまりに専門すぎて、現代満洲の理解につながら ない点を問題視していた。
また戦前に靺鞨や渤海の研究をしていた日野開三郎は、戦後に戦前の研究状況を振り返
り 、次 の よ う に 述 べ て い る (41)。
「 我 が 満 蒙 史 の 研 究 は 、満 鉄 会 社 の 大 き な 財 的 支 援 を 受 け 、
当時の逸材を集めて出発し、先ずここに興亡した民族や部族の住域やその移動、交通路や
その変遷等に結びついて史籍に出てくる重要な地名の現位置への比定に重点を置いた、い
わゆる歴史地理に主力を注がれた。これは歴史研究の基礎作業として当然の出発であり、
それなりの大きな成果をあげたのであるが、何分にも遺された史料の極端に少ない満蒙 の
事とて、異論分立のことが多く、…そうした議論の華やかさの中で研究そのものは歴史地
理の段階に停滞して終わった観があった。私が満蒙史への踏み込みを思いついた当時、即
ち昭和もすでに十五年頃になった当時においてさえ、このマンネリズムは続いたままで、
ただ日本の領土的進出の下での現地調査、特に発掘調査の成果が資料的な新味を添えてい
た に す ぎ ず 、満 洲 史 家 の 間 か ら さ え『 満 洲 史 は 行 き 詰 ま っ た 』と の 囁 き が 洩 ら さ れ て い た 」。
考古学における成果が新たに加わっただけで、マンチュリア史研究は行き詰まっていたと
指摘している。
歴史地理の考証をこえて、マンチュリアという地域の構造的特徴、周辺地域との関連を
も含みながら地域の社会変容を動態的に明らかにする試みなどは、戦後の課題として残さ
れた。
日露戦争以後に勃興したマンチュリア史研究の進展、推移について見てきたが、研究の
背後にある世界観が現代とは非常に異なる点を指摘したい。例えば白鳥庫吉をとりあげる
と 、 日 露 戦 争 後 の 1907 年 に 「 唐 時 代 の 樺 太 島 に 就 い て 」 と い う 論 文 を 発 表 し て い る (42)。
この論文の執筆意図を白鳥庫吉は、日露戦争により南カラフトが日本の領土になったこと
を慶賀し、カラフトの歴史を解明して戦勝に貢献することだと述べている。かかる問題意
識は堂々と研究論文で述べることなどは、現代の歴史研究者にはおよそ思いも及ばないこ
とである。
白 鳥 庫 吉 は 晩 年 の 1936 年 に は 、
「 な ぜ 、満 洲 に は 匪 賊 が 跋 扈 す る の か 」、そ の 理 由 は 歴 史
的に究明するという問題意識から、
「 極 東 史 上 に 於 け る 満 洲 の 歴 史 地 理 」と い う 論 説 を 書 い
て い る (43)。 ま ず マ ン チ ュ リ ア を 「 砂 漠 の 蒙 古 、 森 林 地 帯 の ツ ン グ ー ス 、 農 耕 を す る 中 国
人 」の 3 つ に 分 け 、
「 満 洲 と 云 う 処 は 、農 耕 民・遊 牧 民・狩 猟 民 と 各 生 活 態 度 を 異 に す る 三
人 種 が 、三 方 か ら 入 り 込 ん で 来 て 顔 を 突 き 合 せ て い る 処 」で あ り 、
「 チ ャ イ ニ ー ズ 、モ ン ゴ
ー ル 、ツ ン グ ー ス と 、三 様 に 異 っ た 人 種 を 載 せ て 、古 く か ら 三 つ に 分 裂 し て い た 」と す る 。
こ う し た 状 態 が 久 し く 続 い た が 、19 世 紀 後 半 に ロ シ ア が 勢 力 拡 大 を は じ め た 。こ れ に 日 本
は奮起して、日本人、朝鮮人の来住が増え、ついに「今日の如く支那人を主とする住民の
27
上に、満洲人が君臨し、日本人が之に力を添えるという特別の複雑な状態」となったとす
る。かかる複雑さが不安定さを生じさせ、匪賊が跋扈しているのであり、そうした不安定
性を除去するためにも満洲国の建国は必要であったという論証を展開した。
言い換えるならば、漢、モンゴル、ツングースの三者が競合するため、満洲は不安定な
こ と が 多 く 、さ ら に 19 世 紀 後 半 以 降 ロ シ ア の 圧 力 が 加 わ り 、そ の 不 安 定 さ は 加 速 し た 。そ
こ で 日 本 が 「 加 勢 」、「 助 力 」 し て 安 定 を 保 つ 必 要 性 が 生 じ 、 満 洲 国 の 建 国 に 至 っ た と 説 明
したのである。
マンチュリアが「チャイニーズ、モンゴール、ツングース」の混住する場所であったと
いう指摘は理解できる。だが、こうした白鳥庫吉による満洲国建国の説明に賛意を示す歴
史研究者は、現代ではいないであろう。現実の理解、解釈の仕方があまりに不用意だと批
判 す る こ と は 簡 単 で あ る 。吉 沢 誠 一 郎 [2006、56 頁 ]が「 戦 前 の 学 問 と 日 本 の 対 外 侵 略 と の
『 共 犯 関 係 』を 指 摘 す る の は 容 易 」で あ り 、
「 何 も 考 え な く て も 誰 に で も 可 能 な 作 業 」で あ
ると指摘するように、敗戦、満洲国の崩壊という事実を知っている現代から遡及した評価
は慎みたい。歴史研究者も生きた時代の世界観の影響を受けるものであり、そうしたその
時 代 の 世 界 観 を も 究 明 し つ つ 、彼 ら の 研 究 成 果 を 消 化 す る こ と が 求 め ら れ て い る と 考 え る 。
(1)白 鳥 庫 吉 (1865~ 1942 年 )。 1890 年 東 京 帝 国 大 学 卒 業 (リ ー ス の 教 え を 受 け る )。 同 年 学
習 院 教 授 就 任 。 1901 年 ~ 1903 年 欧 米 留 学 。 1904 年 東 京 帝 国 大 学 教 授 。 1906 年 満 洲 、 朝
鮮 を 旅 行 。 1908 年 「 歴 史 調 査 室 」 を 組 織 。 1909 年 満 洲 で 調 査 。 1925 年 東 京 帝 国 大 学 退
職 。 1942 年 死 去 [津 田 左 右 吉 1944]。
(2)箭 内 亙 (1875~ 1926 年 )。 1901 年 東 京 帝 国 大 学 卒 業 。 1908 年 白 鳥 庫 吉 の 「 歴 史 調 査 室 」
に 参 加 。1919 年 東 京 帝 国 大 学 助 教 授 。1925 年 白 鳥 庫 吉 、市 村 瓚 次 郎 の 退 職 を う け て 教 授
に 昇 進 (池 内 宏 も 同 時 に 教 授 昇 進 )。 1926 年 死 去 (52 歳 )(箭 内 亙 1930)。
(3)池 内 宏 (1878~ 1952 年 )。 1904 年 東 京 帝 国 大 学 卒 業 。 1909 年 白 鳥 庫 吉 の 「 歴 史 調 査 室 」
に 参 加 。「 文 禄 ・ 慶 長 の 役 」 の 研 究 に 従 事 。 1913 年 東 京 帝 国 大 学 講 師 。 1916 年 東 京 帝 国
大 学 に 朝 鮮 史 講 座 が 設 置 さ れ る に 伴 い 、講 座 担 当 者 と し て 助 教 授 に 就 任 。1925 年 東 京 帝
国 大 学 教 授 。 1939 年 東 京 帝 国 大 学 退 職 。 1952 年 死 去 [三 上 次 男 1970]。
(4)津 田 左 右 吉 (1873~ 1961 年 )。1891 年 東 京 専 門 学 校 卒 業 。1908 年 白 鳥 庫 吉 の「 歴 史 調 査
室 」に 参 加 。1920 年 早 稲 田 大 学 教 授 。1940 年 早 稲 田 大 学 辞 職 。1961 年 死 去 (自 伝 は「 学
究 生 活 五 十 年 」『 津 田 左 右 吉 全 集 』 24 巻 所 収 )。
(5)松 井 等 (1877~ 1937 年 )。1901 年 東 京 帝 国 大 学 卒 業 。1904 年 日 露 戦 争 に 従 軍 。1907 年 国
学 院 大 学 講 師 。1908 年 白 鳥 庫 吉 の「 歴 史 調 査 室 」に 参 加 。1920 年 國 學 院 大 學 教 授 。1921
年『 満 鮮 地 理 歴 史 研 究 報 告 』の 研 究 担 当 か ら 勇 退 。1937 年 死 去 (61 歳 )。市 村 瓚 次 郎 を 師
と仰ぎ、満洲史に限定されない領域での研究をおこなった。和田清は松井等を称して、
「多能なる松井氏は独り歴史地理の研究に止まらず、また満蒙の範囲」だけではない研
究 を お こ な っ た と 述 べ て い る [和 田 清 1933、 531 頁 ]。 伝 記 は 高 橋 政 清 [1937]を 参 照 。
(6)稲 葉 岩 吉 (1876~ 1940 年 )。1900 年 中 国 へ 留 学 。1904 年 日 露 戦 争 に 従 軍 。1908 年 白 鳥 庫
吉 の 「 歴 史 調 査 室 」 に 参 加 。 1915 年 陸 軍 大 学 教 官 。 1919-22 年 内 藤 湖 南 の も と で 『 満 蒙
叢 書 』の 復 刻 に 従 事 。1922 年 朝 鮮 総 督 府 修 史 官 。1937 年 建 国 大 学 教 授 。1940 年 死 去 [稲
28
葉 岩 吉 1938a]。稲 葉 岩 吉 に 関 す る 研 究 に つ い て は 、瀧 澤 規 起 [2003]、寺 内 威 太 郎 [2004]、
桜 沢 亜 伊 [2007]が あ る 。 そ の 著 作 一 覧 に つ い て は 松 原 孝 俊 [2005]を 参 照 。
(7)津 田 左 右 吉 は 回 想 で 、「 学 問 上 の 論 文 ら し き も の を 書 い た の は 明 治 時 代 の 末 か ら で あ る
が 、書 物 の 形 で そ れ を 公 に し た の は 、
『 朝 鮮 歴 史 地 理 』と『 神 代 史 の 新 し い 研 究 』と が 始
め で あ っ て 、何 れ も 大 正 二 年 の 出 版 で あ る 」と し 、
「 歴 史 調 査 室 」で の 研 究 を 通 じ て「 は
じめて特殊の問題についての学問的研究、特に原典批評の方法をさとるようになった」
と 述 べ て い る (「 学 究 生 活 五 十 年 」『 津 田 左 右 吉 全 集 』 24 巻 、 89 頁 、 97 頁 )。
(8)以 下 の 論 文 が 掲 載 さ れ た 。『 満 洲 歴 史 地 理 』 第 1 巻 - 白 鳥 庫 吉 ・ 箭 内 亙 「 漢 代 の 朝 鮮 」、
稲 葉 岩 吉「 漢 代 の 満 洲 」、箭 内 亙「 三 国 時 代 の 満 洲 」、箭 内 亙「 晋 代 の 満 洲 」、箭 内 亙「 南
北 朝 時 代 の 満 洲 」、 松 井 等 「 隋 唐 二 朝 高 句 麗 遠 征 の 地 理 」、 松 井 等 「 渤 海 国 の 疆 域 」。
『 満 洲 歴 史 地 理 』第 2 巻 - 松 井 等「 満 洲 に 於 け る 遼 の 疆 域 」、松 井 等「 遼・金 時 代 の 満 洲
交 通 路 」、松 井 等「 満 洲 に 於 け る 金 の 疆 域 」、箭 内 亙「 東 真 国 の 疆 域 」、箭 内 亙「 満 洲 に 於
け る 元 の 疆 域 」、箭 内 亙「 元 明 時 代 の 満 洲 交 通 路 」、稲 葉 岩 吉「 明 代 遼 東 の 辺 牆 」、稲 葉 岩
吉 「 建 州 女 真 の 原 地 及 び 遷 住 地 」、 稲 葉 岩 吉 「 清 初 の 疆 域 」。
(9)『 朝 鮮 歴 史 地 理 』 1 巻 、 2 巻 は 『 津 田 左 右 吉 全 集 』 11 巻 、 岩 波 書 店 、 1964 に 収 録 さ れ
ている。
(10)
和 田 清 (1890~ 1963 年 )。 1909 年 第 一 高 等 学 校 入 学 (東 洋 史 の 講 師 は 箭 内 亙 )。 1915
年 東 京 帝 国 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業 (卒 業 論 文 は「 清 初 の 蒙 古 経 略 」)。1922 年 東 京 帝 国 大 学
講 師 。 1927 年 東 京 帝 国 大 学 助 教 授 。 1933 年 東 京 帝 国 大 学 教 授 。 1951 年 東 京 大 学 退 職 。
1963 年 死 去 (自 伝 は 「 学 究 生 活 の 想 出 」 和 田 清 1955)。
(11)『 官 報 』 7973 号 、 明 治 43 年 1 月 24 日 、 444 頁 。
(12)『 満 洲 発 達 史 』 は 中 国 語 に も 翻 訳 さ れ 、 楊 成 能 訳 『 東 北 開 発 史 』 (辛 未 編 訳 社 、 1935)
と し て 刊 行 さ れ た 。こ の 翻 訳 書 は そ の 後 、
『 満 洲 発 達 史 』(萃 文 斎 書 店 、奉 天 、1940)、
『満
洲 発 達 史 』 清 史 資 料 第 二 輯 - 開 国 史 料 二 第 十 冊 (台 聯 国 風 出 版 社 、 1969)と し て も 刊 行 さ
れた。
(13)内 藤 湖 南 (1866~ 1934 年 )。 1885 年 秋 田 師 範 学 校 を 卒 業 し て 小 学 校 の 主 席 訓 導 (校 長 )
に な る 。 1887 年 上 京 し て 新 聞 記 者 と な る 。 1907 年 京 都 帝 国 大 学 講 師 。 1909 年 京 都 帝 国
大 学 教 授 。 1926 年 京 都 帝 国 大 学 退 職 。 1934 年 死 去 。
(14)「 游 清 第 三 記 」
『 内 藤 湖 南 全 集 』7 巻 。こ の 調 査 に は 東 京 帝 国 大 学 の 市 村 瓚 次 郎 も 同 行
し た [市 村 瓚 次 郎 1934]。
(15)『 内 藤 湖 南 全 集 』 7 巻 所 収 の 旅 行 記 、 日 記 を 参 照 。 こ う し た 内 藤 湖 南 の 調 査 に つ い て
は 、 中 見 立 夫 [1992]、 名 和 悦 子 [1998-99、 2000]、 陶 徳 民 [2006]を 参 照 。
(16)主 な 論 文 と し て は 以 下 が あ る 。
「 日 本 満 洲 交 通 略 説 」1907 年 講 演 (『 内 藤 湖 南 全 集 』8
巻 )、「 清 朝 姓 氏 考 」『 芸 文 』 3-3、 3-4、 1912(『 内 藤 湖 南 全 集 』 7 巻 )、「 清 朝 開 国 期 の 史
料」
『 芸 文 』3-11、3-12、1912(『 内 藤 湖 南 全 集 』7 巻 )、
「都爾鼻考」
『 史 林 』5-4、1920(『 内
藤 湖 南 全 集 』 7 巻 )、「 女 真 種 族 の 同 源 伝 説 」『 民 族 と 歴 史 』 6-1、 1921(『 内 藤 湖 南 全 集 』
8 )、「 清 朝 初 期 の 継 嗣 問 題 」『 史 林 』 7-1、 1922(『 内 藤 湖 南 全 集 』 7 巻 )。
(17)『 満 蒙 叢 書 』 の 各 巻 の 内 訳 は 以 下 で あ る 。 1 巻 「 口 北 三 廰 志 」。 2 巻 「 口 北 三 廰 志 」、
「 北 征 録 」、「 伏 戎 紀 事 」、「 松 亭 行 紀 」、「 塞 北 小 鈔 」、「 奉 使 俄 羅 斯 行 程 録 」、「 出 塞 紀 略 」、
29
「 西 征 紀 略 」、
「 従 西 紀 略 」な ど 。3 巻「 盛 京 通 鑑 」、「 盛 京 典 制 備 考 」。 4 巻「 蒙 務 公 牘 彙
編」
、
「庫倫蒙俄卡倫」
。5 巻「 龍 沙 紀 略 」
、
「黒龍江外記」
、
「黒龍江述略」
、
「卜魁城賦」
、
「籌
蒙 芻 議 」。 9 巻 「 瀋 陽 日 記 」。 17 巻 「 籌 遼 碩 畫 」。
(18)「 序 」『 満 蒙 叢 書 』 1 巻 、 1919 年 。
(19)矢 野 仁 一 (1872~ 1970 年 )。1899 年 東 京 帝 国 大 学 西 洋 史 学 科 卒 業 。卒 論 の 題 目 は「 露 清
関 係 殊 に ネ ル チ ン ス ク 条 約 」。 1905 年 北 京 の 法 政 学 堂 に 勤 務 。 1912 年 京 都 帝 国 大 学 助 教
授 。 1920 年 京 都 帝 国 大 学 教 授 。 1932 年 京 都 帝 国 大 学 退 職 。 満 洲 国 建 国 の 正 当 化 を 主 張 。
戦 後 、こ う し た 言 動 が 問 わ れ 公 職 追 放 と な る 。1970 年 死 去 (小 野 信 爾 1974。
「学問の思い
出 - 矢 野 仁 一 博 士 」『 東 方 学 回 想 』 Ⅲ 、 刀 水 書 房 、 2000 年 )。
(20)矢 野 仁 一 の 見 解 に つ い て は
第1章第4節を参照。
(21)三 上 次 男 (1907~ 1987 年 )。1932 年 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 東 洋 史 学 科 卒 業 。東 亜 考 古 学 会
留 学 生 と し て 中 国 留 学 。1933 年 満 蒙 文 化 研 究 事 業 研 究 員 (金 史 の 研 究 に 従 事 )。1939 年 東
方 文 化 学 院 東 京 研 究 所 研 究 員 。 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 講 師 。 1949 年 東 京 大 学 教 授 。 1953
年 東 京 大 学 大 学 院 人 文 科 学 研 究 科 考 古 学 課 程 担 当 。1967 年 東 京 大 学 退 職 。青 山 学 院 大 学
教 授 (~ 1977 年 )。1987 年 死 去 (「 先 学 を 語 る - 三 上 次 男 博 士 」
『 東 方 学 回 想 』Ⅸ 、刀 水 書
房 、 2000 年 )。
(22)旗 田 巍 (1908~ 1994 年 )。 1931 年 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 東 洋 史 学 科 卒 業 。 1932 年 東 京 帝
国 大 学 東 洋 史 研 究 室 副 手。1933 年 満 蒙 文 化 研 究 所 研 究 員。1939 年 満 蒙 文 化 研 究 所 の 事 業
終 了 。東 方 文 化 学 院 東 京 研 究 所 研 究 員 。1940 年 満 鉄 調 査 部 北 支 経 済 調 査 所 調 査 員 と な り
北 京 へ 行 く 。 1945 年 北 京 で 敗 戦 を 迎 え 、 留 用 さ れ る 。 1948 年 帰 国 。 1950 年 東 京 都 立 大
学 人 文 学 部 教 授 。 1972 年 東 京 都 立 大 学 退 職 。 1974 年 専 修 大 学 教 授 (~ 1979 年 )。 1994 年
死 去 (「 旗 田 巍 先 生 略 歴 」『 朝 鮮 歴 史 論 集 』 下 、 龍 溪 書 舎 、1979 年 )。
(23)羽 田 亨 (1882~ 1955 年 )。 1907 年 東 京 帝 国 大 学 卒 業 ( 指 導 教 授 白 鳥 庫 吉 )。 内 藤 湖 南 の
招 き に よ り 京 都 帝 国 大 学 大 学 院 入 学 。1909 年 京 都 帝 国 大 学 講 師 。1913 年 京 都 帝 国 大 学 助
教 授 。 1924 年 京 都 帝 国 大 学 教 授 。 1938 年 京 都 帝 国 大 学 総 長 (~ 1945 年 )。 1955 年 死 去 。
(24)田 村 実 造 (1904~ 1999 年 )。1929 年 京 都 帝 国 大 学 史 学 科 東 洋 史 専 攻 卒 業 。大 学 院 へ 進 学 。
1940 年 京 都 帝 国 大 学 助 教 授 。 1947 年 京 都 帝 国 大 学 教 授 。 1968 年 京 都 大 学 退 職 。 1999 年
死去。
(25)掲 載 さ れ た 論 文 は 以 下 の と お り で あ る 。
『 満 蒙 史 論 叢 』 1 (1938 年 )。 田 村 実 造 「 唐 代 に 於 け る 契 丹 族 の 研 究 」、 若 城 久 治 郎 「 遼
代 に 於 け る 漢 人 と 刑 法 に 関 す る 一 考 察 」、 小 川 裕 人 「 生 女 真 勃 興 過 程 に 関 す る 一 考 察 」、
外 山 軍 治 「 劉 豫 の 斉 国 を 中 心 と し て 観 た る 金 宋 交 渉 」。
『 満 蒙 史 論 叢 』 2 (1939 年 )。 田 村 実 造 「 遼 宋 の 交 通 と 遼 国 内 に 於 け る 経 済 的 発 達 」、 若
城 久 治 郎 「 遼 の 枢 密 院 に 就 い て 」、 外 山 軍 治 「 金 煕 宗 皇 統 年 間 に 於 け る 宋 と の 講 和 」、 小
川 裕 人 「 満 洲 民 族 の 所 謂 『 還 元 性 』 と そ の 発 展 に 就 い て 」。
『 満 蒙 史 論 叢 』3 (1940 年 )。田 村 実 造「 遼 代 に 於 け る 徙 民 政 策 と 都 市・州 県 制 の 成 立 」、
小 川 裕 人「 遙 輦 氏 伝 説 成 立 に 関 す る 史 的 考 察 」、外 山 軍 治「 金 章 宗 時 代 に 於 け る 北 方 経 略
と 宋 と の 交 戦 」。
『 満 蒙 史 論 叢 』4 (1943 年 )。 内 田 吟 風「 烏 桓 族 に 関 す る 研 究 」、 愛 宕 松 男「 天 妃 考 」、小
30
野 川 秀 美 「 突 厥 碑 文 訳 註 」。
(26)三 田 村 泰 助 (1909~ 1989 年 )。1933 年 京 都 帝 国 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業 。外 務 省 対 支 文 化 事
業 部 満 蒙 文 化 研 究 班。1949 年 立 命 館 大 学 教 授 。1970 年 立 命 館 大 学 退 職 。1989 年 死 去 (「 三
田 村 泰 助 博 士 略 年 譜 ・ 著 作 目 録 」『 立 命 館 文 学 』 418・419・420・421、 1980 年 )。
(27)今 西 春 秋 (1908~ 1979 年 )。1933 年 京 都 帝 国 大 学 卒 業 。羽 田 亨 教 授 の 指 導 下 で 満 洲 語 の
研 究 に 従 事 。1938 年 北 京 故 宮 文 献 館 で『 満 文 老 档 』の 研 究 に 従 事 。1943 年 北 京 大 学 教 授 。
1945 年 敗 戦 後 も 中 国 滞 在 を 継 続 (北 京 大 学 教 授 は 解 任 )。1947 年 瀋 陽 博 物 館 研 究 員 。1948
年 北 京 大 学 講 師 に 復 職 。 1950 年 北 京 大 学 副 教 授 。 1954 年 帰 国 。 1956 年 天 理 大 学 お や さ
と 研 究 所 教 授 。 1979 年 死 去 [河 内 良 弘 1980]。
(28)『 明 代 満 蒙 史 料
李 朝 実 録 抄 』第 1 冊 ~ 第 14 冊、総 索 引、 計 15 冊 (東 京 大 学 文 学 部 、
1954~ 1958 年 )。『 明 代 満 蒙 史 料
明実録抄
満 洲 篇 』第 1 冊 ~ 第 6 冊 、 項 目 総 索 引 、 計
7 冊 (京 都 大 学 文 学 部 、 1954~ 1959 年 )。『 明 代 満 蒙 史 料
明実録抄
蒙古篇』第1冊~
第 10 冊 (附 西 蔵 史 料 )、 項 目 総 索 引 、 計 11 冊 (京 都 大 学 文 学 部 、 1943~ 1959)。
(29)掲 載 論 文 は 以 下 の と お り で あ る 。三 島 一 (実 際 は 柴 三 九 男 執 筆 )「 満 洲 史 研 究 序 説 」、柴
三 九 男 「 ツ ン グ ゥ ス 族 の 土 地 所 有 関 係 」、 丸 亀 金 作 「 高 麗 と 契 丹 ・ 女 真 と の 貿 易 関 係 」、
旗 田 巍 「 吾 都 里 族 の 部 落 構 成 」、 中 山 八 郎 「 明 末 女 直 と 八 旗 的 統 制 に 関 す る 素 描 」、 川 久
保 悌 郎「 清 末 に 於 け る 吉 林 省 西 北 部 の 開 発 」、大 上 末 広「 近 代 に 於 け る 満 洲 農 業 社 会 の 変
革 過 程 」、江 口 朴 郎「 ツ ァ ー リ と 満 洲 問 題 」、野 原 四 郎「 清 代 に 於 け る 満 支 の 経 済 的 融 合 」、
青 木 富 太 郎 「 満 洲 考 古 学 よ り 東 亜 考 古 学 へ 」、 三 上 次 男 「『 満 鮮 地 理 歴 史 研 究 報 告 』 を 中
心 と し て 見 た る 満 洲 中 世 史 研 究 」、 百 瀬 弘 「 我 国 に 於 け る 満 洲 近 世 史 研 究 の 動 向 」、 藤 野
彪 「 欧 洲 人 の 満 洲 語 研 究 」、 鈴 木 俊 「 満 洲 事 件 と 支 那 人 の 満 洲 研 究 」。
(30)三 島 一 の 執 筆 者 名 で 発 表 さ れ た が 、 実 際 は 柴 三 九 男 が 執 筆 し た 論 文 で あ っ た (「 月 報 」
『歴史学研究
戦 前 期 復 刻 版 』 5 、 青 木 書 店 、 1974 年 )。
(31)鴛 淵 一 (1896~ 1983 年 )。 1920 年 京 都 帝 国 大 学 史 学 科 東 洋 史 専 攻 卒 業 。 大 学 院 へ 進 学 。
1923 年 大 阪 外 国 語 学 校 教 授 。 1932 年 広 島 文 理 科 大 学 助 教 授 。 1941 年 広 島 文 理 科 大 学 教
授 。1947 年「 清 初 八 旗 制 度 考 」で 京 都 大 学 よ り 文 学 博 士 授 与 。1951 年 大 阪 市 立 大 学 教 授 。
1983 年 死 去 。内 藤 湖 南 の 女 婿 で あ っ た (「 鴛 淵 一 博 士 略 歴 及 主 要 著 作 目 録 」
『 人 文 研 究 (大
阪 市 立 大 学 )』 7-8、 1956 年 )。
(32)戸 田 茂 喜 (1910~ 1947 年 )。1933 年 広 島 文 理 科 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業。大 学 研 究 科 に 進 み
「 満 文 老 档 の 研 究 」 を テ ー マ と す る 。 1934 年 広 島 文 理 科 大 学 東 洋 史 研 究 室 助 手 。 1943
年 奉 天 図 書 館 司 書 官 。 1945 年 シ ベ リ ア 抑 留 。 1947 年 8 月 帰 国 。 同 年 10 月 死 去 [鴛 淵 一
1950]。
(33)浦 廉 一 (1895~ 1957 年 )。 1920 年 広 島 高 等 師 範 学 校 卒 業 。 1928 年 京 都 帝 国 大 学 史 学 科
東 洋 史 専 攻 卒 業 。大 学 院 に 進 学 。1929 年 広 島 高 等 師 範 教 授 。1950 年 広 島 大 学 文 学 部 教 授 。
1957 年 死 去 [杉 本 直 治 郎 1959]。
(34)有 高 巖 (1884~ 1968 年 )。1911 年 京 都 帝 国 大 学 史 学 科 卒 業 。大 学 院 へ 進 学( 桑 原 隲 蔵 の
指 導 を 受 け る )。1917 年 京 都 帝 国 大 学 助 手 。1929 年 東 京 文 理 科 大 学 助 教 授 。1933 年 東 京
文 理 科 大 学 教 授 。1951 年 立 正 大 学 教 授 。1968 年 死 去 (「 有 高 巖 先 生 略 歴 」
『 立 正 史 学 』32、
1968 年 )。
31
(35)周 藤 吉 之 (1907~ 1990 年 )。1933 年 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 東 洋 史 学 科 卒 業 。朝 鮮 総 督 府 ・
朝 鮮 史 編 修 会 嘱 託 (~ 1936 年 )。1938 年 東 洋 文 庫 に て「 満 洲 農 民 史 の 研 究 」に 従 事 。1941
年 日 本 学 術 振 興 会 の 助 成 を 受 け「 清 朝 に 於 け る 八 旗 制 度 の 研 究 」に 従 事 。1943 年 東 方 文
化 学 院 研 究 員。1949 年 東 方 文 化 学 院 解 散。東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 所 助 教 授。1957 年 東 京
大 学 東 洋 史 学 第 二 講 座 教 授 。 1967 年 東 京 大 学 教 授 退 職 。 1990 年 死 去 (「 先 学 を 語 る - 周
藤 吉 之 博 士 」『 東 方 学 回 想 』 Ⅸ 、 刀 水 書 房 、 2000 年 )。
(36)日 野 開 三 郎 (1908~ 1989 年 )。 1931 年 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 東 洋 史 学 科 卒 業 。 1935 年 九
州 帝 国 大 学 助 教 授 。 1946 年 九 州 帝 国 大 学 教 授 。 1989 年 死 去 。
(37)そ の 研 究 成 果 は 『 日 野 開 三 郎 東 洋 史 学 論 集 - 北 東 ア ジ ア 国 際 交 流 史 の 研 究 (上 、 下 )』
9 巻 、 10 巻 、『 日 野 開 三 郎 東 洋 史 学 論 集 - 東 北 ア ジ ア 民 族 史 (上 、 中 、 下 )』 14~ 16 巻 に
収録されている。
(38)北 海 道 大 学 や 高 等 商 業 学 校 で の マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 は 、 歴 史 研 究 と い う よ り は 現 状 理
解 の た め の 考 察 が ほ と ん ど で あ っ た [長 岡 新 吉 1982、 松 重 充 浩 2006]。
(39)「 満 洲 学 会 の 創 立 並 に 現 況 」『 満 洲 学 報 』 1 、 1932。
(40)稲 葉 岩 吉 [1938b、 383 頁 ]。
(41)日 野 開 三 郎 「 解 説 」『 日 野 開 三 郎 東 洋 史 学 論 集 』 8 巻 、 三 一 書 房 、 1984、 584 頁 。
(42)「 唐 時 代 の 樺 太 島 に 就 い て 」『 白 鳥 庫 吉 全 集 』 5 巻 、 79 頁 。
(43)「 極 東 史 上 に 於 け る 満 洲 の 歴 史 地 理 」『 白 鳥 庫 吉 全 集 』 9 巻 。
2.戦前におけるマンチュリアの調査研究
①陸軍、満鉄、関東都督府、農商務省、外務省などによる調査報告、調査研究
陸軍は兵要地誌的な調査のため、日清戦争以前からマンチュリアへ軍人を送り込んでい
た 。 1883 年 に は 牛 荘 を 拠 点 に し て 、「 当 港 (牛 荘 )ヨ リ 東 北 柵 外 ナ ル 諸 新 開 ノ 地 方 則 チ 清 韓
両国界ナル鴨緑江筋ヨリ満洲内部ノ諸要港地ニ達スル大小道路ハ勿論河川山形等逐一実
査 」 し て い た (1)。 こ う し た 調 査 の 結 果 は 、 参 謀 本 部 編 『 支 那 地 誌 』 巻 15 上 (満 洲 之 部 )と
し て 1889 年 に 刊 行 さ れ た (2)。自 然 地 理( 山 脈 、河 川 、海 岸 、気 候 )、物 産 、風 俗 、各 地 の
状況などが述べられている。参謀本部の調査だけあって、各地の陸軍兵力については詳し
く記している。
日露戦争以前では陸軍以外の調査はほとんどおこなわれなかったが、日露戦争後に日本
が 「 満 洲 経 営 」 に 乗 り 出 す と 、 さ ま ざ ま な 機 関 が 調 査 を お こ な い は じ め た (3)。
満鉄は鉄道運営だけでなく、マンチュリアの状況を調査する調査部も設けていた。日露
戦争後に満鉄調査部におこなった調査研究のなかでも、土地に関する旧慣調査は注目され
る。
『 満 洲 旧 慣 調 査 報 告 』は 1913 年 か ら 刊 行 さ れ 、1915 年 ま で に 合 計 9 冊 が 刊 行 さ れ た (4)。
『満洲旧慣調査報告』は清朝から調査時点までのマンチュリアの土地の状況について、
文献だけでなく実地調査もおこない、まとめたものである。この調査報告の作成には、東
亜同文書院の卒業生が多くかかわっていた。天海謙三郎、亀淵龍長は東亜同文書院の卒業
後 に 、満 鉄 調 査 部 で 働 き は じ め た 人 で あ っ た (5)。天 海 謙 三 郎 ら は 、最 初 は 文 献 に よ り 官 荘
や王公荘園について調べたが、その実際の所在地、管理人氏名、佃戸の状況などは文献で
32
は わ か ら な い の で 、1909 年 か ら 復 州 、蓋 平 な ど で 実 地 調 査 を 始 め た と 戦 後 に 語 っ て い る [天
海 謙 三 郎 1958]。 実 地 調 査 を は じ め る と 、 先 入 観 的 に 思 っ て い た マ ン チ ュ リ ア の 土 地 状 況
と 、 実 際 の 状 況 と が 、 か な り 違 う こ と に 驚 い た と 述 べ て い る 。 例 え ば 、「 我 々 の 想 像 で は 、
荘 園 官 荘 と い う 以 上 、一 地 方 に 集 団 的 に 広 大 な 面 積 の 土 地 が 塊 在 し て い る も の と 思 っ て い 」
た が 、現 地 調 査 し て み る と 、
「 荘 園 の 地 段 が バ ラ バ ラ に あ っ ち こ っ ち に 散 在 し て い て 、荘 園
全体が一ヵ村否少くも数ヵ村に跨って連亙するというふうに一団となり、その地方一帯を
包容していないばかりでなく、一般の私有地すなわち旗地、民地はもちろん、他の官荘や
王公荘園などと入り乱れて、いわば犬牙錯綜とでも形容すべき状態で存在」していたと述
べている。
『満洲旧慣調査報告』は清朝下のマンチュリアの土地状況について、日本人が調査研究
をおこなった成果の最初であり、他に類書がないことから、現在でも参照されることが多
い。しかしながら、清朝下のマンチュリアの土地制度を、西欧的な範疇で理解しようとし
たため、実体の説明としては適当ではない部分もある。例えば、土地制度を官有地、公有
地、私有地の三区分で説明しようとしているが、そもそも清朝にはこうした概念はなかっ
た 。 と く に 私 有 地 の 区 分 け に は 無 理 が あ り 、 王 公 荘 田 、 旗 地 、 一 般 民 地 を 入 れ て い る (6)。
これらの土地は私有地的な側面はあったが、西欧的な私有地の範疇ではくくりきれないも
の で あ る 。し た が っ て 、
『 満 洲 旧 慣 調 査 報 告 』の 考 察 を 無 批 判 に 受 け 入 れ る の で は な く 、戦
前 の 研 究 成 果 と 同 様 に 、そ れ が 作 成 さ れ た 時 点 で の 世 界 観 を 考 慮 し て 読 み 解 く 必 要 が あ る 。
日露戦争後、日本のマンチュリアへの関心は高まり、調査報告書の数は大きく増えた。
主 な 調 査 主 体 は 、 陸 軍 ( 軍 政 署 )、 関 東 都 督 府 、 農 商 務 省 、 外 務 省 、 満 鉄 な ど で あ っ た 。
日 露 戦 争 後 す ぐ に 、 軍 政 署 に よ る 調 査 が お こ な わ れ た 。 遼 東 兵 站 監 部 『 満 洲 要 覧 』 1905
年 は 、政 治 、産 業( 農 業 、林 業 、漁 業 、鉱 業 、商 業 な ど )、交 通 、教 育 、風 俗 な ど に 関 す る
調査結果を述べている。軍政署の調査なので奉天だけであり、吉林、黒龍江については言
及されていない。軍政にあたって管轄地域の状況をまとめたものとして、陸軍省『明治三
十 七 八 年 戦 役 満 洲 軍 政 史 』 全 19 冊 (7)が あ る 。 こ れ は 大 部 な 調 査 報 告 で あ り 、 軍 政 署 下 の
状況について詳細に記述しているものもある。
陸 軍 軍 人 に よ る 調 査 も 行 わ れ 、 守 田 利 遠 (陸 軍 中 佐 )『 満 洲 地 誌 』 [1906]は 個 人 が 調 査 し
たものだが、マンチュリアをほぼカバーしている。実地調査と「満洲、蒙古、西伯利亜地
方 に 多 年 定 住 せ し 幾 多 の 清 国 人 」か ら 聞 い た も の を 材 料 と し て お り(「 例 言 」)、地 理 、政 体 、
殖 産 興 業 (各 種 産 業 )、 運 輸 交 通
風俗など総合的な把握を試みている。
農商務省による調査も日露戦後におこなわれた。農商務省鉱山局『清国奉天府鳳凰庁及
興 京 庁 管 内 金 鉱 調 査 報 告 』 1905(実 際 に は 炭 鉱 の 調 査 )、 農 商 務 省 鉱 山 局 『 清 国 遼 東 半 島 金
鉱 調 査 報 告 』1905、農 商 務 省 山 林 局『 鴨 緑 江 流 域 森 林 作 業 調 査 復 命 書 』1905(8)、農 商 務 省
山 林 局 『 満 洲 森 林 調 査 書 』 1906(9)、 農 商 務 省 商 工 局 『 満 洲 商 工 業 調 査 報 告 書 』 1906 年 な
どがおこなわれた。
関 東 都 督 府 に よ る 調 査 で は 、 関 東 州 民 政 署 『 満 洲 産 業 調 査 資 料 』 (10)と 関 東 都 督 府 陸 軍
経理部『満洲誌草稿
一 般 誌 』、 同 『 満 洲 誌 草 稿
地 方 誌 』 (11)が 注 目 さ れ る 。『 満 洲 誌 草
稿 』 は 1906~ 1911 年 に お こ な っ た 実 地 調 査 に も と づ き 、「 従 来 ノ 刊 行 書 ハ 勿 論 陸 軍 海 軍 外
務ノ各省及各領事館、関東都督府、朝鮮総督府等ノ報告書、南満鉄鉄道会社、三井物産会
33
社等ノ調査資料及各旅行者ノ報告等ヲ参酌シテ編成」
( 凡 例 1 頁 )し て 書 い た と い う 、実 地
調査と関係文献により作成された、膨大な情報を含む調査報告書である。
外 務 省 に よ る 調 査 報 告 も 多 く 作 成 さ れ た 。 外 務 省 通 商 局 『 満 洲 事 情 』 (12)は 各 地 領 事 館
からの報告をまとめたものであり、市場、貿易動向については有用である。各領事館がま
と め た 外 務 省 通 商 局『 鉄 嶺 事 情 』1908、外 務 省 通 商 局『 吉 林 経 済 事 情 』1908 な ど も 刊 行 さ
れた。また領事報告である『通商彙纂』にも、通商状況について重要な報告が掲載されて
いる。
満 鉄 が 作 成 し た 調 査 報 告 書 も 多 い 。『 錦 州 府 管 内 経 済 調 査 資 料 』 1909、『 南 満 洲 経 済 調 査
資 料 』 1909、『 南 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 1 -6 、 1910-12、『 満 蒙 交 界 地 方 経 済 調 査 資 料 』 1 3 、 1909-15、『 北 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 上 、 下 、 1910、『 続 北 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 1911、『 吉
林 東 南 部 経 済 調 査 資 料 』1911、
『 松 花 江 黒 龍 江 及 両 江 沿 岸 経 済 調 査 資 料 』1912、は 実 地 調 査
の 結 果 に も と づ き 作 成 さ れ た 、マ ン チ ュ リ ア 全 域 を カ バ ー す る 大 規 模 な 調 査 報 告 書 で あ る 。
周知のように満鉄は鉄道運行のためにマンチュリアの実情を精力的に調査していた。その
目的は今日的な研究の目的とは距離はあるが、地域経済の状況を考察する際にこれらの調
査報告書は有用である。
陸 軍 、満 鉄 、関 東 都 督 府 、農 商 務 省 、外 務 省 な ど の 機 関 に よ り 、 1910 年 代 後 半 以 降 も 調
査報告の刊行は続けられたが、調査研究は低調となった。調査研究を唯一おこなっていた
満 鉄 調 査 部 の『 満 洲 旧 慣 調 査 報 告 』の メ ン バ ー は 、1910 年 代 後 半 に 大 半 が 異 動 し て し ま い 、
そ の 後 補 充 も な く 、 ほ と ん ど 研 究 で き な い 状 態 と な っ て し ま っ た ( 13)。
そ う し た な か で 、 満 鉄 調 査 部 が 編 集 し た 『 満 蒙 全 書 』 全 7 巻 (14)は 注 目 さ れ る 。 こ れ は
「我国が満蒙の開発に着手して以来、既に十有七年の星霜を閲したるに拘わらず、未だ満
蒙全般の事象に関する統一的調査を欠き、為に政府及び一般国民に対し満蒙に関する正確
な る 体 系 的 智 識 を 提 供 し 得 ざ り し は 頗 る 遺 憾 で あ る 」 と い う 観 点 か ら 編 集 さ れ た (15)。 完
成した『満蒙全書』は大部のものであり、マンチュリアについて百科全書的に記述してい
る 。 と は い え 、 そ の 中 味 に つ い て 、 編 集 に 参 加 し て い た 伊 藤 武 雄 (東 京 帝 国 大 学 卒 )は 「 わ
れわれ帝大卒業生はまったく語学ができない、経験もない。調査歴もないという状態でし
た 。そ う い う 人 間 に 、同 文 書 院 出 身 で 調 査 経 験 も あ る エ キ ス パ ー ト の 人 た ち と 同 じ よ う に 、
項目を分担させてあの全書を作らせたのだから、その成果たるやまことに不揃いでした」
と 戦 後 に 回 想 し て い る (16)。
1910 年 代 後 半 以 降 も ス ポ ッ ト 的 に 場 所 を 特 定 し た 調 査 は 継 続 し 、調 査 報 告 書 も 刊 行 さ れ
た 。調 査 報 告 書 の 傾 向 と し て 指 摘 し た い 点 は 、東 部 内 モ ン ゴ ル に 関 す る 調 査 が 1910 年 代 後
半以降に増えた点である。
1914 年 4 -8 月 に か け て 、 参 謀 本 部 、 農 商 務 省 、 奉 天 総 領 事 館 、 満 鉄 か ら の 派 遣 員 で 編
成された調査チームは東部内モンゴルを踏査し、その報告は『東部内蒙古調査報告』全7
巻 、 1914 年 と し て 刊 行 さ れ た 。 参 謀 本 部 は こ れ と は 別 に 『 東 蒙 事 情 』 1 ~ 3 号 、 特 別 号 、
1915-16 年 を 刊 行 し 、 東 部 内 モ ン ゴ ル の 状 況 に つ い て 報 告 し て い る 。
関 東 都 督 府 の 陸 軍 部 は 1908 年 に『 東 部 蒙 古 誌 』上 、中 、下 (17)を 刊 行 し て お り 、こ れ に
続 い て 『 東 部 蒙 古 誌 補 修 草 稿 』 上 、 下 、 1914(18)、『 東 蒙 古 』 1915 を 刊 行 し て い た 。 関 東
都 督 府 の 民 政 部 は 東 部 内 モ ン ゴ ル 方 面 を 調 査 し て『 満 蒙 調 査 復 命 書 』全 11 巻 、1915-18(19)
34
農 商 務 省 も 東 部 内 モ ン ゴ ル の 調 査 を お こ な い 、そ の 成 果 を 調 査 報 告 書 と し て だ し て い た 。
農 商 務 省 商 工 局『 東 部 内 蒙 古 事 情 』1915、農 商 務 省『 東 部 内 蒙 古 産 業 調 査 』全 5 冊 、1916、
農 商 務 省 『 東 部 内 蒙 古 畜 産 事 情 』 1916 が あ げ ら れ る 。
陸軍、満鉄、関東都督府、農商務省、外務省は現状調査を主目的としており、歴史研究
と は 異 な る 方 向 か ら マ ン チ ュ リ ア の 調 査 を お こ な っ て い た 。歴 史 的 な 追 究 は 、
『満洲旧慣調
査報告』ではおこなわれたが、その後は立ち枯れとなった。以上の調査には白鳥庫吉や内
藤湖南などの大学で歴史研究をしていた人たちは関わっていなく、まったく別々におこな
われていた。つまり歴史研究者と調査担当者とは没交渉であり、それぞれがそれぞれの関
心、手法でマンチュリアという場所の特徴を考察していたとまとめら れる。
②満鉄調査部、満洲国政府機関による調査報告、調査研究
満洲国の建国は、日本人によるマンチュリアに対する調査研究の性格を変える影響をお
よぼした。その理由は、満洲国をどのように統治すべきなのかという、現実の国家的要請
に答えることが調査研究の主目的になったからである。満洲国統治という現実に対応する
ため、調査機構は拡充され、多数の日本人がマンチュリアの調査研究にかかわることにな
った。また、満洲国建国により、日本人の調査が妨害を受ける可能性は低下し、容易に調
査できる状況が生まれた。調査人員の拡充、調査領域の拡大、調査内容の深化が、満洲国
建国を契機に可能となった。
1932 年 に 関 東 軍 は 満 洲 国 で の 経 済 建 設 を 立 案 す る 組 織 と し て 、経 済 調 査 会 の 設 立 を 決 定
した。こうした立案をおこなえる人材を抱えていたのは満鉄だけであったので、経済調査
会 の 構 成 員 は す べ て 満 鉄 社 員 で あ っ た 。経 済 調 査 会 は 、組 織 上 は 満 鉄 の 一 部 所 で あ っ た が 、
実 質 的 に は 関 東 軍 所 属 の 機 関 と い う 存 在 で あ っ た (1937 年 3 月 に 経 済 調 査 会 は 解 散 )[野 間
清 1975]。
経済調査会は膨大な「立案調査書類」を残しており、計画立案にあたって収集した関係
文書も収録されている。そうした文書のなかには、中華民国期のマンチュリアの状況につ
い て 貴 重 な 事 実 を 記 述 す る も の も 含 ま れ て い る 。例 え ば 、立 案 調 査 書 類 25 編 第 一 巻 第 一 号
『 満 洲 通 貨 金 融 方 策 』1936 に 収 録 さ れ て い る 、東 三 省 官 銀 号 な ど の 経 営 状 況 に 関 す る 史 料
は興味深いものである。
経 済 調 査 会 で マ ン チ ュ リ ア 経 済 史 に つ い て 考 察 し た 代 表 者 と し て 、 大 上 末 広 (20)を あ げ
たい。周知のように、大上末広はマルクス主義的な分析枠組みを用いて、マンチュリアに
おける資本主義の発展状況を考察した人物である。大上末広と同じく、満鉄で活動した中
西 功 (21)と の 間 に お こ な わ れ た 「 満 洲 経 済 論 争 」 は 有 名 で あ る 。 そ の 内 容 に つ い て は 先 行
研 究 も あ り (22)、 両 者 の 論 点 と な っ た 「 半 植 民 地 半 封 建 社 会 」 に お け る 資 本 主 義 発 達 を ど
う評価するのかについて、筆者はコメントする準備はないので触れないことにする。
ここでは、大上末広のマンチュリア経済の歴史的推移に関する理解について検証してみ
た い 。大 上 末 広 [1933a]は 、清 朝 期 の マ ン チ ュ リ ア の 土 地 所 有 は「 封 建 的 、身 分 制 的 大 土 地
所 有 」 (旗 地 、 官 荘 な ど )と 「 自 由 農 民 に よ る 近 代 的 零 細 土 地 所 有 」 (一 般 民 地 )と の 二 つ か
ら成るという理解を打ち出し、この状況は漢人移民による開拓などにより清末に崩壊した
指 摘 し て い る 。そ し て 大 上 末 広 [1933b]で は 中 華 民 国 期 の 状 況 を 考 察 し 、資 本 主 義 形 成 の 出
35
発点は「封建的農業諸関係の意識的・計画的打破」にあるとし、そのためには土地整理が
必要だと主張した。それゆえ、中華民国以降におこなわれた土地整理について考察し、土
地整理により封建制は解消されて近代的な資本主義的生産様式に変革されるはずであった
が 、実 際 に は そ う は な ら な か っ た と い う 見 解 に 達 し た 。
「 旧 封 建 的 諸 土 地 は 、そ の 身 分 制 的
性格を失って、民地に解消されはしたが、我らの分析に従えば、か かる封建制から近代性
への推移は、ただ単に封建的身分なる旧地主に代わって、荘頭なる新地主が出現したと云
うことにしか過ぎなかった」とし、結論的には「国有荒地の払下・蒙地の出放の過程は、
… 封 建 的 大 地 主 の 創 出 過 程 で あ っ た 」と 述 べ て い る (31 頁 )。そ し て 、土 地 整 理 が 農 業 の 資
本主義発展に結びつかないことを、東三省政権の封建的性格から説明する。大上末広は東
三 省 政 権 を 、「 末 期 封 建 社 会 の 必 然 的 産 物 た つ 農 業 ル ム ペ ン の 成 り 上 が り 者 」、「 緑 林 出 身 」
者を構成員とし、
「 封 建 的 絶 対 主 義 を そ の 構 造 的 本 質 」に す る と 規 定 し 、近 代 国 家 が そ の 形
成 過 程 で お こ な う こ と は 何 一 つ し な か っ た と 指 摘 す る (32 頁 )。
清朝後半期、中華民国期のマンチュリア史に関する研究は、各帝国大学で活動した歴史
研究者はまだ着手していない分野であった。大上末広は少ない研究蓄積を利用して、独自
に清朝後半期から中華民国期までのマンチュリア史の再構成を試みたと評価したい。むろ
ん、現在の研究水準に照らすならば、大上末広の見解は史実的にも、解釈的にも多くの問
題が存在する。しかしながら大上末広の意図は、満洲国政府が適切な経済政策をおこなう
ための歴史研究であり、現代の歴史研究者の問題意識とは まったく異なる立場からの研究
であった。そうした点を考慮せずに、その問題点のみをあげつらうことは慎みたい。大上
末広は東三省政権がおこなった土地整理、地租改正は、マンチュリアの農業資本主義の発
展に何の貢献もしなかったので、満洲国政府は東三省政権とは違った土地政策をおこなう
必要性を叫んでいた、とまで解釈することは読み込み過ぎであろうか。
経済調査会や満鉄調査部は講座派理論にもとづき研究する人たち、いわゆる「満鉄マル
クス主義」の拠点のように考えられているが、こうした傾向とはまったく対蹠的な方法、
立 場 の 人 も 所 属 し て い た 。 天 野 元 之 助 (23)は 調 査 結 果 を 復 元 、 紹 介 す る こ と 、 文 献 史 料 の
徹底した読み込みなど、事実の解明に重点を置いた研究をすすめていた。そして戦後は中
国農業史研究の大家となり、日本の東洋史研究に大きな足跡を残す。
石 田 精 一 (24)は 『 北 満 に 於 け る 雇 農 の 研 究 』 の 著 者 と し て 、 雇 農 の 階 級 的 性 格 に つ い て
論じたことが知られている。しかしながら、筆者が注目したいのは雇農についての研究で
は な く 、1941 年 に 発 表 さ れ た「 南 満 の 村 落 構 成 - 特 に 旧 官 荘 所 在 地 を 中 心 と し て - 」と い
う 論 文 で あ る [石 田 精 一 1941]。こ れ は 遼 陽 県 夾 河 村 小 営 盤 屯 (盛 京 戸 部 官 荘 )と 同 県 綉 江 村
西 干 河 子 村 (内 務 府 官 荘 )を 調 査 し 、 そ の 村 落 結 合 に つ い て 述 べ て い る 。 小 営 盤 屯 の 耕 作 状
況 に つ い て は 、 1843 年 (道 光 23 年 )、 1922 年 (民 国 11 年 )、 1940 年 (康 徳 7 年 )の デ ー タ ー
を 検 討 し 、1843 年 で は 開 拓 者 一 族 で あ る 張 氏 が 優 勢 を 占 め た が 、そ の 後 、マ ン チ ュ リ ア 北
部に移住する人、他所から流入してきた人などがいたため、村落結合の単位は同族ではな
く、異姓を含む人々に変わったとする。つまり、血縁的関係から地縁的関係が重要になっ
たと指摘したのである。さらに、地縁的関係が強くなったことから、地縁的結合としての
「会」の重要性が高まり、荘頭も困窮した時には同族ではなく「会衆」の助けを受けてい
たことを、調査の過程で収集した文書史料にもとづき指摘している。こうした清朝から満
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洲国にかけての長期のスパンを、現地調査と文書史料により論証するという手法、村落結
合を社会的関係の観点から論じる方法に、筆者は大きく引き寄せられた。
満洲国政府はマンチュリアの農村についての理解を深め、どのような政策が適切なのか
を 考 え る 一 助 と し て 、 大 規 模 な 農 村 調 査 を 1935~ 1936 年 に お こ な っ た [長 岡 新 吉 1991]。
しかし、実際の調査は必ずしも政策立案のためではなく、学術的な内容でおこなわれた。
農 村 調 査 に 参 加 し た 野 間 清 [1976、35 頁 ]は 、調 査 の 特 徴 と し て「 農 村 の 経 済 的 基 礎 構 造 を
究明しようとする社会的、経済的な諸関係、諸事象についての総合的な調査であり、集落
のなかのモデル農家についてのサンプリング調査ではなく、一つの集落の全農家について
おこなわれる悉皆調査」であったと述べている。
調査結果はまとめられ、刊行されたものも多く、マンチュリアの農村に関する重要な史
料 と な っ て い る (25)。 調 査 員 が 見 せ て も ら っ た 族 譜 や 聞 き 取 っ た 内 容 は 、 刊 行 さ れ た 史 料
か ら で は 知 る こ と の で き な い 事 実 が 含 ま れ て い る 。例 え ば 、
『康徳元年農村実態調査
調査之部
戸別
浜江省』第一分冊に記述されている、綏化県蔡家窩堡の開拓の経緯などに関す
る 記 述 は 貴 重 で あ る (26)。 農 村 調 査 に よ る 、 マ ン チ ュ リ ア 史 に 関 す る 事 実 の 豊 富 化 は 達 成
されたが、満洲国政府はその内容に不満を持っていた。というのは、農村調査は日本人が
新しく向き合ったマンチュリア農村の現実を、学術的に認識したいという観点からおこな
わ れ た の で 、政 策 的 視 角 が 稀 薄 で あ っ た か で あ る 。そ れ ゆ え 満 洲 国 政 府 は 不 要 だ と 判 断 し 、
やがて中止となった。
満 洲 国 政 府 は 商 業 、 土 着 資 本 の 調 査 も し て い た 。 糧 桟 (穀 物 問 屋 )、 雑 貨 商 な ど の 土 着 資
本についての調査は、満洲国以前では不可能であり、商店数やだいたいの取引額など表面
的な調査が限界であった。ところが建国以後、満洲国政府は公権力を使い、土着資本の資
金 運 用 や 利 潤 に つ い て の 調 査 を お こ な っ た 。こ の 調 査 は 1939~ 1943 年 に お こ な わ れ 、調 査
結 果 の 一 部 は 、満 鉄 新 京 支 社 調 査 室『 満 洲 土 着 資 本 実 態 調 査 報 告 書 (統 計 篇 )』1942 年 な ど
で 刊 行 さ れ た [江 夏 美 千 穂 1996]。
土着資本の実態を明らかにすることは、満洲国権力を使っても難しかった。まして、そ
の動向を規制することは満洲国政府にもできなかった。満洲国政府は土着資本を掌握した
い と 考 え た が 、1942 年 に 新 京 商 工 公 会 が お こ な っ た 調 査 結 果 は 、そ の 掌 握 は 無 理 と い う も
の で あ っ た (27)。 満 洲 国 政 府 は 土 着 資 本 を 掌 握 は で き な か っ た が 、 満 洲 国 の 規 制 を す り ぬ
ける土着資本の活動の一端をとらえることには成功した。そうした調査報告は、今後の分
析 を 待 っ て い る と 言 え よ う (28)。
満鉄や満洲国政府の刊行物は、
『旧植民地関係機関刊行物総合目録-南満州鉄道株式会社
編 - 』、『 旧 植 民 地 関 係 機 関 刊 行 物 総 合 目 録 - 満 州 国 ・ 関 東 州 編 - 』 (29)が ほ ぼ 網 羅 し て お
り 、そ の 数 は 非 常 に 多 い 。な か に は 杜 撰 な も の も あ る が 、1940 年 に お こ な わ れ た 国 勢 調 査
の 報 告 書 や 、 財 政 部 が 編 纂 し た 貨 幣 に 関 す る 史 料 集 な ど は 、 そ の 史 料 的 価 値 は 高 い (30)。
これらの調査報告書は、満洲国期には十分に分析されることはなく、敗戦を迎えた。現在
の研究者には、これら調査報告の史料的性格、限界に注意を払い、マンチュリア史の究明
に利用することが求められている。
37
③小結
満洲国期には、東京帝国大学や京都帝国大学などでマンチュリアの歴史研究に従事する
研究者は増えていた。また満洲国でもマンチュリアに関する調査、歴史研究はおこなわれ
ていた。それゆえ個別研究ではすぐれたものも出されたが、総合化という点では不十分で
あった。
1942 年 に『 満 洲 評 論 』に 掲 載 さ れ た 文 章 は 、マ ン チ ュ リ ア に 関 す る 研 究 上 の 問 題 点 を 以
下 の よ う に 述 べ て い る (31)。
「 研 究 者 の 中 の 、一 つ の 流 れ は 、東 洋 史 の 専 攻 者 達 の 歴 史 的 研
究である。この人達の特徴を一口に言ふと、現在の満洲経済と何等のつながりも感じられ
な い 。こ の 流 れ に 加 は る た め に は 必 ず 漢 文 が 読 め な く て は な ら な い こ と 」で あ る 。
「第二の
流れは、所謂満鉄の旧満洲経済年報以後の社会経済史研究、この方面は今日までかなり立
遅 れ て い る 。 満 洲 経 済 年 報 以 後 、 目 だ っ た 労 作 は 一 つ も 出 て い な い 」。「 第 三 は 、 産 調 調 査
に始まる農村の実態調査である。この方面は、多額の経費と多くの人材を動員して、その
後も個々的には相当実行されていながら、いまだに満洲農業全体に亘る纏まった研究成果
が 出 て い な い 」。「 第 四 は 、 満 洲 戦 時 経 済 の 研 究 で あ る 。 こ れ は 公 的 乃 至 半 公 的 な 機 関 で 相
当つっこんでなされて居り、その成果の片鱗は時々公衆の目にふれる所へも現はれてくる
が 、 今 の 所 で は 総 合 的 な 成 書 と し て は 公 刊 さ れ て い な い 」。「 こ れ ら 研 究 の 色 々 の 流 れ を 見
ると、東洋史派は社会経済を知らず、社会経済史派は資料をこなしきるだけの語学力がな
く、農業専門家は農業だけの数字を克明に蒐集することで終わり、現段階派は忙しくて過
去 と の つ な が り な ど を 見 て お ら れ る か と い ふ 調 子 で 、 各 個 ば ら ば ら で あ る 」。「 個 々 の 研 究
としては、たとへば、旧慣調査にしても、産調資料にしても、満洲経済年報にしても、そ
れぞれ立派なものである。しかしそれらは要するに資料であって、研究としては半端者で
あ る 。問 題 の 領 域 か ら 言 っ て も 、理 論 の 高 さ か ら 言 っ て も 、何 と か 現 状 打 破 の 工 夫 な き や 」。
それぞれの研究者のディシプリンに規定され、総合的な理解につながっていないことを嘆
いている。
問題点はあったとはいえ、満洲国期にマンチュリアに対する認識が拡大、深化したこと
は疑いない事実である。今後は満洲国期に調査された史料をどのように利用するのかが問
われている。筆者は満洲国期に出された農村調査報告書を読み、村落沿革の記述は清朝初
期からはじまるものがほとんどであることを知った。農耕の歴史が長い遼東でも、明末の
混乱、清朝統治の開始により、以前から続いていた村落は断絶したか、大きな再編を余儀
なくされたと推測される。こう考えると、満洲国期の農村の状況を理解するには清朝期の
理解が不可欠であり、清朝期の理解にはヌルハチが勃興した明朝期の理解が必要だという
認識に至る。
(1)井 上 清 他 (編 )1973、 198-200 頁 。
(2)同 書 は 1894 年 に 参 謀 本 部 編 纂 課 編 輯 『 満 洲 地 誌 』 博 聞 社 と し て も 刊 行 さ れ た 。 戦 後 に
出 さ れ た 復 刻 に は 、 参 謀 本 部 編 『 満 洲 地 誌 』 国 書 刊 行 会 、 1976 が あ る 。『 明 治 後 期 産 業
発 達 史 資 料 』653 巻 、龍 溪 書 舎 、2003 所 収 の『 満 洲 地 誌 』は 、原 本 の 1889 年 版 で は な く 、
博 聞 社 が 出 し た 1894 年 版 を 復 刻 し て い る 。
(3)1912 年 ま で に 刊 行 さ れ た 調 査 報 告 書 に つ い て は 、 塚 瀬 進 [2008]を 参 照 。
(4)宮 内 季 子『 典 ノ 慣 習 』1913。宮 内 季 子『 押 ノ 慣 習 』1913。眇 田 熊 右 衛 門『 租 権 』1914。
38
亀 淵 龍 長 『 蒙 地 』 1914。 天 海 謙 三 郎 『 内 務 府 官 荘 』 1914。 天 海 謙 三 郎 『 皇 産 』 1915。 亀
淵 龍 長 『 一 般 民 地 』 上 、 中 、 下 、 1914、 1915。 ま た 関 東 都 督 府 臨 時 土 地 調 査 部 『 関 東 州
土 地 旧 慣 一 斑 』 1914 も 、 満 鉄 調 査 部 の 人 た ち に よ り ま と め ら れ た も の で あ る 。
(5)経 歴 、 著 作 に つ い て は 井 村 哲 郎 他 (編 )[1996、 717-718 頁 、 745 頁 ]。
(6)亀 淵 龍 長 『 一 般 民 地 』 上 、 4-6 頁 。
(7)陸 軍 省 『 明 治 三 十 七 八 年 戦 役 満 洲 軍 政 史 』 全 19 冊 、 1915-1917。 ゆ ま に 書 房 よ り
1999-2002 復 刻 。
(8)『 明 治 後 期 産 業 発 達 史 資 料 』 247 巻 、 龍 溪 書 舎 、 1996 に 所 収 。
(9)『 明 治 後 期 産 業 発 達 史 資 料 』 298 巻 、 龍 溪 書 舎 、 1996 に 所 収 。
(10)関 東 州 民 政 署『 満 洲 産 業 調 査 資 料 』全 8 冊、1906。内 訳 は 1 農 業 、2 醸 造 業 、3 林 業 、
4商業、5水産業、6鉱産、7棉布及棉糸、8蚕糸業・畜産業であり、平野健一郎によ
り 考 察 さ れ て い る [平 野 健 一 郎 1981]。
(11)関 東 都 督 府 陸 軍 経 理 部 『 満 洲 誌 草 稿
一 般 誌 』 全 4 冊 、 1911。 同 『 満 洲 誌 草 稿
地方
誌 』 全 7 冊 、 1911。 ク レ ス 出 版 よ り 2000 復 刻 。
(12)外 務 省 通 商 局 『 満 洲 事 情 』 1 -4 輯 、 1911。 大 空 社 よ り 1991 復 刻 。
(13)井 村 哲 郎 他 (編 )[1996、 3 頁 ]。
(14)1 巻 (1922)- 地 理 及 戸 口 、 気 象 、 満 蒙 の 歴 史 、 現 代 満 蒙 の 諸 民 族 、 満 蒙 風 俗 略 誌 、 年
中 行 事 、 言 語 、 宗 教 、 教 育 。 2 巻 (1922)- 行 政 、 国 際 関 係 、 財 政 、 軍 事 。 3 巻 (1923)-
農 業 、 林 業 、 畜 産 業 、 水 産 業 。 4 巻 (1922)- 工 業 、 鉱 業 。 5 巻 (1922)- 商 業 、 交 通 、 貨
幣 及 金 融 。 6 巻 (1923)- 法 制 、 移 民 及 殖 民 。 7 巻 (1923)- 都 市 、 索 引 。
(15)『 満 蒙 全 書 』 1 巻 、 序 、 3 頁 。
(16)井 村 哲 郎 他 (編 )[1996、 4 頁 ]。
(17)『 ア ジ ア 学 叢 書 』 155、 156、 157、 大 空 社 、 2006。
(18)『 ア ジ ア 学 叢 書 』 158、 大 空 社 、 2006。
(19)1 巻 - 洮 南 方 面 。 2 巻 - 鄭 家 屯 、 開 魯 、 林 西 、 赤 峰 方 面 。 3 巻 - 哲 里 木 盟 北 部 一 帯 。
4巻-赤峰県。5巻-農安、扶余、斉斉哈爾方面。6巻-西豊、海龍、柳河方面。7巻
- 吉 林 省 中 部 方 面。 8 巻 - 林 西、経 棚 方 面 。 9 巻 - 扶 余 県 。 10 巻 - 赤 峰 。 11 巻 - 開 魯 、
通遼鎮方面。
(20)経 歴 、 著 作 は 井 村 哲 郎 他 (編 )[1996、 776-778 頁 ]を 参 照 。
(21)経 歴 、 著 作 は 井 村 哲 郎 他 (編 )[1996、 768-769 頁 ]を 参 照 。
(22)浅 田 喬 二 [1982]。
(23)天 野 元 之 助 (1901~ 1980 年 )。 1923 年 京 都 帝 国 大 学 経 済 学 部 入 学 。 1926 年 3 月 学 士 試
験 合 格 。同 年 4 月 満 鉄 入 社 。1932 年 満 鉄 経 済 調 査 会 へ 異 動 。1935 年 北 京 で 研 究 活 動 。1945
年 中 国 に 残 る 。 1948 年 帰 国 。 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 入 所 。 1955 年 大 阪 市 立 大 学 教 授 。
1964 年 大 阪 市 立 大 学 退 職 。1980 年 死 去 。自 伝 的 記 述 は 天 野 元 之 助 [1961]を 参 照 。ま た 井
村 哲 郎 他 (編 )[1996、 718~ 719 頁 ]も 参 照 。
(24)経 歴 、 著 作 は [井 村 哲 郎 他 (編 )1996、 737 頁 ]を 参 照 。
(25)調 査 報 告 書 の 内 訳 に つ い て は 中 兼 和 津 次 [1981]を 参 照 。
(26)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局 編『 康 徳 元 年 農 村 実 態 調 査
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戸別調査之部
浜 江 省 』第 一 分 冊、
1937、 183 頁 。
(27)「 満 系 遊 資 動 員 策 (二 )」『 新 京 経 済 季 報 』 3-3、 1942
104-105 頁 。
(28)門 馬 驍 [1941]。 守 随 一 [1941]。
(29)『 旧 植 民 地 関 係 機 関 刊 行 物 総 合 目 録 - 南 満 州 鉄 道 株 式 会 社 編 - 』 ア ジ ア 経 済 研 究 所 、
1979。
『 旧 植 民 地 関 係 機 関 刊 行 物 総 合 目 録 - 満 州 国・関 東 州 編 - 』ア ジ ア 経 済 研 究 所 、1975。
(30)国 務 院 総 務 庁 臨 時 国 勢 調 査 事 務 局 編『 康 徳 七 年 臨 時 国 勢 調 査 報 告 』1941-1943。文 生 書
院 よ り 2000 復 刻 。財 政 部 資 料 科『 満 洲 幣 制 史 料 - 硬 幣 篇 』1936。財 政 部 資 料 科『 満 洲 幣
制 史 料 - 紙 幣 篇 』 1936。
(31)「 満 洲 経 済 研 究 者 の 態 度 」『 満 洲 評 論 』 22-24、 1942。
40
3.敗戦後におけるマンチュリア史研究
①マンチュリア史研究の低調と戦前の研究に対する批判
敗戦により日本人はマンチュリアから引き揚げ、日本とマンチュリアの関係性は変化し
た こ と か ら 、 国 策 的 に マ ン チ ュ リ ア 史 の 研 究 者 を 養 成 す る 必 要 性 は 低 下 し た 。 ま た 1949
年に中華人民共和国が成立したため、中国史研究者の関心は中国革命の軌跡やその社会基
盤などに移行したことも手伝い、マンチュリア史研究は低迷した。
1951 年 の 研 究 成 果 を ま と め た 「 回 顧 と 展 望 」 の な か で 、 三 上 次 男 [史 学 会 編 1988、 7-8
頁 ]は 次 の よ う に 述 べ て い る 。「 満 洲 方 面 の 研 究 は い か に も 淋 し い 。 こ れ は ア ジ ア 史 上 に お
ける満洲の地位およびこの地方に対する日本の政治的関心の現実と歴史研究との関係を如
実に物語るものとして興味深い」とし、戦後の日本人はマンチュリアへの関心を失ったこ
と が 、マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 に も 影 響 を お よ ぼ し て い る と 指 摘 す る 。ま た 、
「満鮮史を動体と
し て 捕 え よ う と す る 歴 史 意 識 が 、あ ま り に も 論 文 に 反 映 す る と こ ろ が 少 な い よ う に 見 え る 」
と述べ、研究方法のあり方にも疑問を投げかけている。
1952 年 の 「 回 顧 と 展 望 」 に お い て 朝 鮮 史 研 究 の 大 家 で あ る 末 松 保 和 [史 学 会 編 1988、 10
頁 ]は 、 戦 前 と は 異 な る 新 た な 人 材 の 登 場 に 期 待 し 、 次 の よ う に 書 い て い る 。「 最 近 ま で 約
五十年間の満鮮史研究の隆成の、より広大な基盤が、時勢にあり時代に在ったことは否み
得べくもなく、軍事力・政治力・そして経済力のあとを追った満洲史の研究、朝鮮史の研
究であったことは、是非の論はしばらく措いて、事実とせねばならぬ」とする。そして時
代は変わったことを率直に受け止め、
「 嘗 て の 朝 鮮 に 住 み 、嘗 て の 満 洲 に 生 れ 、ま た 嘗 て の
朝 鮮・満 洲 を 見 知 し た 人 々 に よ っ て な さ れ る 朝 鮮 史・満 洲 史 の 研 究 が 一 応 終 止 符 を 打 た れ 」
たとし、これからは「全くの新人が新しい感覚、新しい意識をもって、新しい基盤の上に
立って研究を開始する日の到来を確信し且つ期待する」と記している。
1956 年 の「 回 顧 と 展 望 」で 旗 田 巍 [史 学 会 編 1988、 14~ 15 頁 ]は 、「 満 洲 史 の 研 究 は 余 り
に も 不 振 で あ り 」、「 か つ て 盛 ん で あ っ た 満 洲 史 研 究 が こ れ ほ ど ま で に 不 振 に な っ た の に は
驚かざるを得ない。満洲史という言葉や概念が、すでに時代にあわなくなったためであろ
う か 」と 、そ の 不 振 を 嘆 い て い る 。そ し て 、
「日本が植民地として支配していた時代には研
究 者 が 輩 出 し 、そ の 時 代 が 終 わ る と 研 究 が な く な る と い う 傾 向 は 、喜 ぶ べ き こ と で は な い 。
歴史研究の対象は、もっと学問的検討を経た上でえらばれねばならないと思う」と述べて
いる。
1958 年 の「 回 顧 と 展 望 」[史 学 会 編 1988、17 頁 ]に は 、
「満洲史学の研究成果を顧みるに、
依然その多くは戦前以来の諸家に占められ、後継者は皆無に近い。それが時勢の反映とは
いえ、往昔の盛況を思う時、寂寞の念を禁じ得ぬ」とある。戦後になって人材育成が断絶
し、戦前に研究者となった人が細々と成果を出している状況を憂いている。
1950 年 代 は 新 た な 研 究 者 の 養 成 は す す ま ず 、研 究 も 低 調 で は あ っ た が 、ま っ た く 研 究 成
果 が な か っ た わ け で は な い (1)。 東 京 方 面 で は 、 神 田 信 夫 (2)、 松 村 潤 (3)、 石 橋 秀 雄 (4)、
岡 田 英 弘 (5)ら に よ り 、満 洲 語 史 料 を 使 っ た 入 関 前 後 の 時 期 の 研 究 が お こ な わ れ た 。こ れ ら
の 研 究 者 は『 満 文 老 档 』の 翻 訳 を お こ な い 、そ の 研 究 水 準 の 向 上 に 貢 献 し た (6)。京 都 方 面
では、三田村泰助、今西春秋、河内良弘、外山軍治が明清期の女真の動向について研究し
て い た 。ま た 江 嶋 寿 雄 、田 中 克 己 、鴛 淵 一 ら も 研 究 成 果 を 出 し て い た (7)。こ れ ら の 研 究 に
41
よ り 、 明 代 、 清 代 初 期 (入 関 前 後 )の 時 期 に 、 女 真 、 ヌ ル ハ チ ・ ホ ン タ イ ジ ら が ど の よ う な
状況であったのかの解明はすすんだ。
戦前の昭和期に育成され、戦後も研究を続けた人たちは、史料的には満洲語史料に依拠
し 、 清 朝 史 の 文 脈 か ら マ ン チ ュ リ ア 史 に つ い て も 考 察 し た 。 杉 山 清 彦 [2008、 356 頁 ]は そ
うした研究を、
「 満 洲 語 史 料 を 補 助 で な く 基 軸 に 据 え 、マ ン チ ュ リ ア で は な く 大 清 王 朝 の 興
亡に沿って論題を選択」する、満洲史と清朝史を合わせた「清朝・満洲史研究」と表現し
ている。
マンチュリア史研究の低迷が続くなかで、中国史研究、なかでも明清史研究の進展は戦
後において著しいものがあった。また、モンゴル、シベリアなどを含む北アジア史研究が
1960 年 代 に は 盛 ん に な っ た 。マ ン チ ュ リ ア 史 は 中 国 史 の 一 部 な の か 、北 ア ジ ア 史 の 一 部 な
の か 、そ の 存 在 意 義 は 揺 さ ぶ ら れ 、し だ い に 北 ア ジ ア 史 研 究 の な か へ 飲 み 込 ま れ て い っ た 。
『 史 学 雑 誌 』「 回 顧 と 展 望 」 の 分 類 も 、 1967 年 か ら は 「 北 ア ジ ア 」 の な か で マ ン チ ュ リ ア
史 に 関 す る 研 究 は 取 り 上 げ ら れ て い る (8)。
戦後において東洋史研究の立場から書かれたマンチュリア史研究の整理をした論文は、
外 山 軍 治 [1967]が 唯 一 で あ る 。 以 後 、 マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 整 理 は お こ な わ れ て い な い 。
その理由は、研究者の怠慢ではなく、もはや整理するに足る研究成果が出されなくなった
ので、研究整理の必要性もなかったからだと考える。
1960 年 代 に は 敗 戦 、満 洲 国 の 崩 壊 に 至 っ た 歴 史 事 実 と 、戦 前 の マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 は ど
の よ う な 関 係 に あ っ た の か が 問 わ れ た 。 な か で も 旗 田 巍 [1964、 1966]の 批 判 は よ く 知 ら れ
ており、またその批判はとても鋭い。繁雑を厭わず、筆者なりの理解を述べたい。
旗田巍は、戦前の日本におけるアジア研究は日本の大陸政策と強く結びついて、その研
究体制は育成、整備された点を確認する。多くの論者は、このことがただちに侵略的な研
究内容や、日本の国策に従属した研究に結びついたわけではなく、当時の研究者が学問の
純粋性の擁護に努めていた点を忘れてはならないとしているが、旗田巍はそうした点にこ
そ問題があったとして議論を展開する。学問を現実からひきはなし、現実にかかわりのな
い態度で、現実に関係ないことを研究するのが正しい研究であり、現実とはなれて学問そ
れ自体のために研究することが、戦前の東洋史家の伝統的態度であったと指摘する。
旗 田 巍 は 白 鳥 庫 吉 ら が 執 筆 し た『 満 洲 歴 史 地 理 』を 評 し て 、
「地名や年代の非常に綿密な
考証である。そこには民衆や社会の悩みは全くない。精巧な研究で はあるが、現実とは縁
の遠いものである」とする。そして「人間不在の考証的研究」からは、侵略を積極的に支
えるものも、また侵略に反対するものもでてこない。東洋史学は現実の問題からはなれる
ことによって、その純粋性を守ったが、その結果として「思想に乏しい」研究になってし
まったとする。また、個々の事実に対する考証の水準は高かったが、体系的把握は不十分
であったとする。その理由は、体系的把握をする段階にまで個別研究がすすんでいなかっ
たからではなく、体系的把握を軽視する傾向があったとし、その結果、アジアの展望につ
いての見通しも誤ったと述べている。
さらに旗田巍は白鳥庫吉の世界観、歴史認識をも批判する。白鳥庫吉がランケ史学をも
とに東洋史という領域を開拓した功績は認めながらも、西欧的な価値観、近代主義をもの
さしに中国の諸事実を理解したことは、中国の遅れや欠点をあげつらうことにつながり、
42
その結果として中国・中国人に対する蔑視感・優越感を育んでしまったとしている。
そして、
「 か つ て 日 本 の ア ジ ア 研 究 は 侵 略 的 研 究 体 制 の な か で お こ な わ れ た 。研 究 者 は 現
実から目をそらし思想をすてることによって、学問の自主性・純粋性を守ろうとした。そ
れはそれなりに相当の成果をあげた。しかし、そういう方向は、研究を個々の事実の考証
に限定し、歴史の体系的認識を放棄させただけでなく、権力との無責任な結合をもたらし
た。しかも思想をすてることは実際には不可能であって、何ものにもとらわれぬと思って
いたものが、実は近代主義の立場にたち、そこからアジアを眺めていた。そのためアジア
の 変 革・ア ジ ア 諸 民 族 の 解 放 と い う 重 大 な 歴 史 的 事 実 を 認 識 す る こ と が で き な か っ た 」[旗
田 巍 1966、 223-224 頁 ]と 総 括 し て い る 。 こ う し た 批 判 が 出 さ れ た こ と も あ り 、 1960 年 代
にはマンチュリアの歴史研究を志す研究者は生まれず、新たに興隆した北アジア史、中央
アジア史の研究へと若手研究者は流れていった。
②日本史研究者によるマンチュリア史研究
東 洋 史 研 究 者 に よ る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 低 迷 が 続 く な か で 、1970 年 代 に は 日 本 史 研 究
者による日本のマンチュリアへの勢力拡大、満洲国に関する研究が盛んになった。日露戦
争以後のマンチュリア史に日本は深く関与していたので、日本の対外関係史や植民地研究
をテーマにする研究者が、マンチュリア史研究をおこなうようになったのである。
日露戦争以後のマンチュリアへの日本の勢力拡大に関する研究を、どのように位置付け
る か は 東 洋 史 研 究 者 の 間 で も 懸 案 と な っ て い た 。例 え ば 、1964 年 の「 北 ア ジ ア - 回 顧 と 展
望 」 [史 学 会 編 1988、 42 頁 ]で は 、『 現 代 史 資 料 七
満州事変』や満洲国期を対象とする論
文 を 紹 介 し て い る 。そ の 理 由 と し て 、
「 旧 満 州 国 を 中 心 と し た 研 究 は 、研 究 の 対 象 を 満 州 に
求めながら、実は主として日本の満州進出の歴史であり、日本の満州開発であって、満州
側に立った研究ではない。そこで、例年本誌のこの部で、こうした研究が回顧され展望さ
れたことは殆どない。これは現在の日本の満州史研究の大きな、しかも余り にも明瞭な限
界である。満州史研究は、清朝初期で終わるものでは決してない。戦後すでに二〇年、満
州側に立った満州の近代化と日本の支配というものを、もう一度見直してみなければなら
ない」と主張している。
か か る 指 摘 が さ れ た 1964 年 の 時 点 で は 、日 本 史 研 究 者 に よ る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 成 果
は 少 な く 、そ の 発 信 力 も 低 か っ た 。し か し な が ら 、1970 年 代 に な る と 注 目 す べ き 研 究 が 出
さ れ る よ う に な っ た (9)。
満 州 史 研 究 会 [1972]は 、 複 数 の 研 究 者 に よ る 論 文 集 で は あ る が 、 ど の 論 文 も 「 日 本 帝 国
主義による『満州』支配の経済的特質の解明」を意図している。なぜ「満州」を取り上げ
るのか、その理由として、第一に、いわゆる「満州もの」の出版が盛行し、日本帝国主義
の「満州」支配を肯定、美化する傾向が生じていることに対抗するため。第二に、日本の
植 民 地 で あ っ た 台 湾 、朝 鮮 、
「 満 州 」の う ち 、研 究 の 遅 れ て い る「 満 州 」の 解 明 が 必 要 だ か
らだとしている。その後も同様の観点からの研究は継続し、執筆者と検討テーマを増やし
て 、浅 田 喬 二 、小 林 英 夫 編 [1986]が 出 さ れ た 。ま た 日 本 近 現 代 史 研 究 で あ る 岡 部 牧 夫 [1978]
は、戦後はじめてとなる満洲国の概説書を出版した。
「満州」支配についての研究がおこなわれる一方で、日本が植民地支配をした台湾、朝
43
鮮、東南アジアの動向と関連付けてマンチュリアの動向を考察する研究がおこなわれた。
こ う し た 観 点 か ら の 研 究 と し て は 、 小 林 英 夫 [1975]や 波 形 昭 一 [1985]が あ げ ら れ る 。
以 上 の よ う な 研 究 成 果 は 、『 史 学 雑 誌 』 の 「 回 顧 と 展 望 」 で は 日 本 史 の 部 分 で 言 及 さ れ 、
北 ア ジ ア 史 や 内 陸 ア ジ ア 史 の 部 分 で は 言 及 さ れ て い な い 。1988 年 の「 回 顧 と 展 望
内陸ア
ジ ア 」で は 、
「 近 現 代 の 東 北 地 方 は 、満 鉄 、満 洲 事 変 、満 洲 国 等 日 本 史 の 論 考 の 中 に 扱 わ れ
る の で 、 日 本 史 部 門 近 現 代 史 を 参 照 」 と し て い る (10)。 マ ン チ ュ リ ア 史 は 、 前 近 代 史 は 内
陸アジア史に含まれ、近現代史は日本史に含まれるという認識がうかがえる。日本史研究
の側でのマンチュリア史研究の進展により、近現代のマンチュリア史は日本史研究者の領
域だという、戦前のマンチュリア史研究者には想像も出来ない認識が生み出された。
総じて日本史研究者によるマンチュリア史研究には、戦前の大上末広などの研究成果が
参照され、大上末広らの研究の多角化、豊富化という側面がうかがえる。日本帝国主義と
の関わりからマンチュリアを分析した大上末広らの「満鉄マルクス主義」は、戦後には日
本 史 研 究 者 に よ る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 に 受 け 継 が れ た こ と を 指 摘 し た い (11)。
日本史研究者による研究は、マンチュリアにおよぼした日本の影響を検出することには
大きな成果をあげた。とはいえ、マンチュリアの社会変容は日本の影響だけから生じてい
たわけではない。マンチュリアの社会変容が、いかなる要因から生じ、どのような状況を
生み出していたのかは、日本の影響も含めて、総合的な観点から考察する必要がある。
③概説書から見たマンチュリア史の位置
本章では、日本語で書かれたマンチュリア史に関する概説書が、どのような構成なのか
を検証し、東洋史研究史上のマンチュリア史の位置について考えてみたい。
日本で最初に書かれたマンチュリア史の概説書は、稲葉岩吉が執筆した『満洲発達史』
[1915]だ と 指 摘 し た い 。 だ が 、 概 説 書 を 目 的 に 書 か れ た 著 作 で は な い の で 、 そ の 内 容 は 明
清期については詳しいが、明代より以前のことは簡単な記述に止まっている。
満洲国の建国後、マンチュリア史に関する概説書はいくつか刊行された。大原利武『概
説 満 洲 史 』[1933]は 、
「 満 洲 は 此 の 如 く 古 来 我 国 と 密 接 の 関 係 が あ り 、現 今 我 生 命 線 で あ る
が、その歴史はあまり知られて居らぬ」という問題意識から執筆された。著者は朝鮮総督
府古蹟調査委員とあり、歴史研究者ではあったが、それぞれの時期の叙述は簡単なレベル
に止まっている。
及 川 儀 右 衛 門 『 満 洲 通 史 』 [1935]は 粛 慎 ・ 勿 吉 、 高 句 麗 、 渤 海 、 遼 、 金 、 元 、 明 、 清 、
満洲国という順序で叙述された概説書である。著者は広島高等師範学校の助教授であり、
鴛淵一の弟子であった。きちんとした考証をもとに書いているが、政治史、制度史、日本
との関係、文化史など多岐にわたる内容を盛り込んでいるため、マンチュリアという地域
の歴史経過が不鮮明な叙述となっている。
稲 葉 岩 吉 他 (編 )[1935]に 所 収 さ れ た 「 満 洲 史 」 は 、 古 代 満 洲 、 高 句 麗 、 渤 海 、 遼 、 金 、
元、明、清という構成をとっている。執筆者は矢野仁一、鴛淵一、外山軍治らであり、当
時のマンチュリア史研究の第一人者たちが書いている。
矢 野 仁 一 他 (編 )『 満 洲 の 今 昔 』 [1941]も 、 マ ン チ ュ リ ア 史 の 概 説 的 な 流 れ を 記 述 し て い
る。その構成は、黎明期、高句麗、渤海、遼、金、元、明、清である。
44
豊 田 要 三 [1943]は 、「 序 」 に よ る と 、 満 洲 国 建 国 11 周 年 を 祝 し 、 満 洲 の 特 色 を 歴 史 的 に
明らかにする動機から刊行したと述べている。粛慎、扶余、高句麗、渤海、遼、金、元、
明 、清 と い う 順 序 で 記 述 し て い る 。著 者 は 歴 史 研 究 者 で は な い よ う だ が 、1943 年 時 点 ま で
に 刊 行 さ れ た 研 究 成 果 を よ く 消 化 し て 記 述 し て い る 。と く に イ デ オ ロ ギ ー 的 な 叙 述 は な く 、
マンチュリアの歴史推移を淡々と述べている点に特徴があると指摘したい。
戦前の概説書は、満洲国に刊行されたものがほとんどであった。それゆえマンチュリア
史は満洲国につらなる歴史を叙述することであり、満洲国の領域において過去に何があっ
たのかを整理して述べることに目的があったと指摘したい。あたかも現代の国民国家の歴
史 教 科 書 が 、そ の 領 有 範 囲 の 歴 史 を 古 代 か ら 現 代 ま で 並 べ て 、
「 我 国 の 歴 史 」と 主 張 し て い
るのと軌を一つにしている。
戦 後 に 書 か れ た 概 説 書 と し て 、 第 一 に 、 江 上 波 夫 編 [1956]を あ げ た い 。 江 上 波 夫 は 「 序
説」において、これまでの北アジア史の叙述は、中国史に従属的な傾向があったことを批
判し、中国周辺民族の歴史は「より広い世界史の立場から、また彼ら民族自体を中心に書
か れ ね ば な ら な い 」 と 主 張 し た 。 そ の 構 成 は 「 第 一 編 先 史 時 代 」 (16 頁 )、「 第 二 編 モ ン ゴ
リ ア 」 (158 頁 )、「 第 三 編 満 洲 」 (72 頁 )、「 第 四 編 朝 鮮 」 (72 頁 )、「 付 編 チ ベ ッ ト 」 (34 頁 )
で あ り 、 総 頁 数 は 352 頁 で あ る 。 各 編 の 頁 数 の 割 合 は 、 だ い た い 先 史 時 代 0.5、 モ ン ゴ ル
4.5、満 洲 2 、朝 鮮 2 、チ ベ ッ ト 1 と い う 数 値 で あ ら わ せ る 。つ ま り モ ン ゴ ル 史 を 重 視 し て
いると指摘できる。また北アジア史はモンゴル、満洲、朝鮮、チベットから構成されると
い う 認 識 を 知 る こ と が で き る (12)。
三 上 次 男 他 (編 )[1959]は 、 古 代 か ら 現 代 ま で を カ バ ー し た 概 説 書 と し て の 内 容 を 持 っ て
いる。書名には「朝鮮・東北アジア」とあるが、東北アジアの範囲については、とくに説
明 は な い 。「 満 鮮 史 の あ け ぼ の 」 と い う 章 が あ る 一 方 、「 モ ン ゴ ル 治 下 の 東 北 ア ジ ア 」、「 明
の満州支配」という章もあり、地域名称に混乱が見られる。
山 川 出 版 社 は 「 世 界 各 国 史 」 を 新 版 に 改 め 、 護 雅 夫 他 (編 )[1981]が 刊 行 さ れ た 。 そ の 構
成は、
「 第 一 章 シ ベ リ ア・モ ン ゴ ル の 古 代 文 化 」、
「 第 二 章 遊 牧 国 家 の 成 立 と 発 展 」、
「第三章
遊 牧 国 家 の 文 明 化 」、「 第 四 章 モ ン ゴ ル の 統 一 」、「 第 五 章 モ ン ゴ ル の 分 裂 」、「 第 六 章 現 代 の
モ ン ゴ ル 」、「 第 七 章 満 洲 に お け る 国 家 の 成 立 」、「 第 八 章 女 直 民 族 の 発 展 」、「 第 九 章 ロ シ ア
進出以前のシベリア諸民族」である。第二章から第六章まではモンゴル史と考えられ、モ
ンゴル史を重視している点は旧版と同様である。北アジア史の範囲は、シベリア、モンゴ
ル 高 原 、満 洲 (現 在 の 中 国 東 北 地 区 )と し て お り 、旧 版 の 朝 鮮 と チ ベ ッ ト は 除 外 さ れ て い る 。
新版も旧版と同様に、マンチュリア史を北アジア史の一部としてあつかい、中国やモン
ゴルの動向をも視野に入れた叙述をしている。しかしながら、あつかう時期が変更されて
い る 。旧 版 で は 満 洲 国 期 や 戦 後 の 状 況 に つ い て も 記 述 さ れ た が 、新 版 で は 清 末 ま で で あ る 。
その理由として、
「 清 朝 の 滅 亡 と と も に 、ほ と ん ど の 満 洲 人 は 漢 人 の 中 に 実 質 的 に 吸 収 さ れ
てしまったといってよい。ここに『満洲史』は終幕となるのである。かつて満洲人やその
先祖の活躍した舞台は、中国の東北地区として、以後『中国史』の中で取り扱われるべき
で あ ろ う 」 と 述 べ て い る [護 雅 夫 他 (編 )1981、 350 頁 ]。 こ の 記 述 に は 二 つ の 疑 問 が 残 る 。
第一には、
「 満 洲 史 」を「 満 洲 人 の 歴 史 」と 考 え て い る 点 で あ る 。第 二 に は 、中 華 民 国 期 に
は も は や 「 満 洲 史 」 は 存 在 せ ず 、「 中 国 史 」 の み が 存 在 す る と い う 考 え 方 で あ る 。
45
東北アジアという地理的概念を設定し、そのなかでマンチュリア史について述べた概説
書 と し て 、 神 田 信 夫 他 (編 )[1989]が 出 さ れ た 。 シ ベ リ ア 、 沿 海 州 、 中 国 東 北 、 朝 鮮 半 島 を
東北アジアの範囲だとし、
「 第 1 部 多 様 な る 民 族 文 化 」、
「 第 2 部 諸 民 族 の 歴 史 世 界 」、
「第3
部近代化の衝撃をこえて」からなっている。東北アジアの特徴として、民族構成が複雑、
多様なため、住民の生業も狩猟、漁労、農耕などさまざまである点、歴史的にひとつの大
きな政治勢力により統合されたことはない点をあげている。歴史に関する第2部は中国東
北、朝鮮、シベリアに分けて叙述している。全体を通して東北アジアを一つの歴史世界と
して把握しようとはしているが、中国東北、朝鮮、シベリアが並列的に述べられており、
その関係性が不鮮明である。また第3部は広範な問題を限られた紙数で記述したため、概
括的な記述に止まっている点が惜しまれる。
若 松 寛 他 (編 )[1999]は モ ン ゴ リ ア 、 東 北 平 原 、 チ ベ ッ ト を 対 象 と し て い る 。 モ ン ゴ リ ア
については時期別の構成をとっているが、マンチュリアについては「東北アジアの歴史と
文化」という章を設け、古代から清朝成立期まで叙述している。そのため、個々の記述に
つ い て は 簡 単 に 止 ま り 、な に よ り 19 世 紀 以 降 に つ い て の 記 述 は 存 在 せ ず 、中 華 民 国 期 や 満
洲国期について知ることができない点は、概説書としては不十分さを感じる。
明 清 時 代 の 社 会 経 済 状 況 の 変 化 に つ い て 、 概 説 的 に ま と め た 著 作 と し て 小 峰 和 夫 [1991]
が 出 さ れ た 。類 書 が な い 状 況 に 不 満 を 持 ち 執 筆 さ れ た と あ る が 、一 次 史 料 の 読 解 は せ ず に 、
二次文献だけに依拠して書いている。新たな歴史事実を発掘して叙述した著作ではないの
で、戦前の研究の焼き直しの域を出ていない。
山 川 出 版 社 は さ ら に 改 訂 を 加 え た「 世 界 各 国 史 」の 編 集 を お こ な い 、1998 年 か ら 刊 行 を
は じ め た 。こ の シ リ ー ズ で は 、
「 北 ア ジ ア 史 」と い う 独 自 の 巻 は 存 在 し な い 。以 前 の「 北 ア
ジ ア 史 」と「 中 央 ア ジ ア 史 」と を 合 わ せ て 、『「 中 央 ユ ー ラ シ ア 史 』 [小 松 久 男 他 (編 ) 2000]
とする構成をとっている。中央ユーラシアの東端は大興安嶺までとされたため、大興安嶺
以 東 の マ ン チ ュ リ ア に つ い て の 記 述 は 存 在 し な い 。 こ う し た 状 況 に つ い て 杉 山 清 彦 [2001、
117-118 頁 ]は 、概 説 書 に お い て マ ン チ ュ リ ア の あ つ か い が 低 下 を し て い る と 警 鐘 を 鳴 ら し
ている。
戦前の概説書は、満洲国へと至る筋道を古代に遡って叙述するという考え方が底流にあ
った。この考え方は、マンチュリア史の縦の流れについてはうまく叙述できたが、周辺の
中華王朝、モンゴル、朝鮮との関係性が十分に取り込まれない内容となってしまった。戦
後においては、北アジア史のなかの一部として、中国周辺史からの脱却が企図された。し
かし、北アジア史という枠組みが「中央ユーラシア史」の一部となり、その過程でマンチ
ュリアは切り捨てられてしまった。総合的なマンチュリア史をどのように描くのかについ
て は 、 現 在 で も 十 分 な 解 答 は 出 さ れ て い な い (13)。
(1)以 下 で は 、古 代 か ら 元 朝 ま で の 研 究 成 果 に つ い て は 検 討 対 象 か ら は ず し 、明 朝 以 後 を 対
象としている。
(2)神 田 信 夫 (1921~ 2003 年 )。1943 年 東 京 帝 国 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業 。1949 年 明 治 大 学 助 教
授 。1956 年 明 治 大 学 教 授 。1992 年 明 治 大 学 退 職 。2003 年 死 去 。主 要 論 文 は 神 田 信 夫 [2005]
を参照。
(3)松 村 潤 (1924~
)。1953 年 東 京 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業 。1958 年 東 京 大 学 大 学 院 退 学 。1962
46
年 日 本 大 学 助 教 授 。1970 年 日 本 大 学 教 授 。1995 年 日 本 大 学 退 職 。主 要 論 文 は 松 村 潤 [2008]
を参照。
(4)石 橋 秀 雄 (1923~ 2002 年 )。1949 年 東 京 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業。 大 学 院 に 進 学 。1954 年 東
京 大 学 文 学 部 助 手 。 1957 年 日 本 女 子 大 学 助 教 授 。 1967 年 立 教 大 学 助 教 授 。 1968 年 立 教
大 学 教 授 。 1989 年 立 教 大 学 退 職 。 2002 年 死 去 。 主 要 論 文 は 石 橋 秀 雄 [1989]を 参 照 。
(5)岡 田 英 弘 (1931~
)。 1953 年 東 京 大 学 東 洋 史 学 科 卒 業 。 1958 年 東 京 大 学 大 学 院 退 学 。
1966 年 東 京 外 国 語 大 学 助 教 授 。 1973 年 東 京 外 国 語 大 学 教 授 。 1993 年 東 京 外 国 語 大 学 退
職 。 主 要 論 文 は 岡 田 英 弘 [2010]を 参 照 。
(6)満 文 老 档 研 究 会 『 満 文 老 档 』 Ⅰ -Ⅶ 、 東 洋 文 庫 、 1955-1963。
(7)こ れ ら の 研 究 者 の 個 々 の 論 文 に つ い て は 、 河 内 良 弘 他 (編 )[1972]を 参 照 。
(8)こ こ ま で の 記 述 は 、 古 畑 徹 [2003]を 参 考 に す る と こ ろ が 大 き か っ た 。
(9)日 本 史 研 究 者 に よ る 研 究 成 果 の 整 理 に つ い て は 、鈴 木 隆 史 [1971]、金 子 文 夫 [1979、1988]、
浅 田 喬 二 [1984]、 村 上 勝 彦 [1984]、 山 本 裕 [2008]を 参 照 。
(10)「 回 顧 と 展 望
内 陸 ア ジ ア 」『 史 学 雑 誌 』 97-5、 1988、 284 頁 。
(11)日 本 史 研 究 者 に よ る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の す べ て が 、 講 座 派 的 な 分 析 手 法 に も と づ い
て い る わ け で は な い 。 お も に 経 済 理 論 を 研 究 し て い た 石 田 興 平 [1964]も 参 考 に さ れ て い
る。
「 上 か ら の 帝 国 主 義 的 な 投 資 植 民 地 化 は 、下 か ら の 民 族 的 な 中 国 移 住 植 民 地 化 を 促 進
し、また逆に後者が前者を可能ならしめるという関係を通じて、満洲経済は、移住植民
地と投資植民地との相互媒介的な二重構造をもつ特殊な植民地経済となっていった」と
い う 石 田 興 平 の 見 解 を 山 本 有 造 は 重 視 し て い る [山 本 有 造 2003、 107 頁 ]。 ま た 筆 者 も 石
田 興 平 の 見 解 を 重 視 し て お り 、清 末 か ら 満 洲 国 ま で の 考 察 に 際 し て は 念 頭 に 置 い て い る 。
(12)田 村 実 造 他 (編 )[1956]の 構 成 は 「 先 史 時 代 の 北 ア ジ ア 」、「 古 代 遊 牧 国 家 の 時 代 」、「 征
服 王 朝 の 時 代 」、「 元 朝 崩
壊 後 の 北 ア ジ ア 」、「 清 代 の 北 ア ジ ア 」 で あ り 、 モ ン ゴ ル の 歴
史を中心としている。マンチュリアに関する記述もあるが、体系的記述ではないので、
本文では取りあげなかった。
(13)概 説 書 で は な い が 、『 史 学 雑 誌 』「 回 顧 と 展 望 」 の 地 域 区 分 で も 、 マ ン チ ュ リ ア の 位 置
は 迷 走 し て い る 。1966 年 ま で は「 満 洲 」と い う 分 類 が 設 け ら れ て い た が 、1967 年 か ら「 北
アジア」という分類を設け、その範囲は「満洲、モンゴル、シベリア」だとした。そし
て 1986 年 か ら「 北 ア ジ ア 」と「 中 央 ア ジ ア 」を 合 わ せ て「 内 陸 ア ジ ア 」と し て い る 。こ
こ に マ ン チ ュ リ ア に 関 す る 研 究 は 「 内 陸 ア ジ ア 」 に 分 類 さ れ る こ と に な っ た [史 学 会 編
1988、 ま え が き ]。
4.中国におけるマンチュリア史研究
①戦前の研究
中国人研究者によりマンチュリア史研究がおこなわれたのは、満洲事変、満洲国建国を
契 機 に し て い た [彭 明 輝 1995]。満 洲 事 変 以 前 で は 、と り あ げ る に 足 る 研 究 成 果 は 存 在 し な
い。満洲国建国により、中国人はマンチュリアの重要性を認識して、その歴史研究を開始
した。研究の方向性は、日本による満洲国建国に反対することにあり、矢野仁一の主張す
47
る「満洲は支那に非ず」という見解に反証する点にあった。
中 国 人 研 究 者 に よ る 最 初 の 「 東 北 史 」 は 傅 斯 年 ら に よ る 『 東 北 史 綱 』 [1932]で あ っ た 。
し か し 、ほ と ん ど 研 究 蓄 積 が 無 い な か で 書 か れ た こ と も あ り 、そ の 水 準 は 高 く は な か っ た 。
『 東 北 史 綱 』は 日 本 人 の 研 究 に 対 抗 す る た め 、急 い で ま と め ら れ た 側 面 が 強 か っ た こ と は 、
す で に 清 水 美 紀 [2003、 44~ 45 頁 ]が 指 摘 し て い る 。
中国人研究者の間では「東北史」研究の蓄積がほとんどないことが嘆かれており、研究
が す す ん で い な い こ と を よ く 認 識 し て い た 。日 本 で は「 満 鮮 史 」研 究 、
「 満 蒙 史 」研 究 に 関
する論文が多数出されているにもかかわらず、なぜ中国では「東北史」研究は興隆しない
の か と い う 焦 燥 感 さ え 存 在 し た [馮 家 昇 1934]。
中国人研究者は「東北史」研究の立ち遅れを取り戻す試みをおこない、その成果は『禹
貢 半 月 刊 』に「 東 北 研 究 専 号 」と し て 刊 行 さ れ た (1)。掲 載 さ れ た 論 文 の な か に は 、潘 承 彬
「明代之遼東辺牆」や劉選民「東三省京旗屯墾始末」などの水準の高いものもある。とは
いえ、研究蓄積の不足から、通史的な見通しを得られる内容にはなっていない。そして日
本人の研究に依存している点は、既述した『歴史学研究
満洲史特輯号』に掲載された論
文や文献目録を翻訳していることから見てとれる。
こ う し た 状 況 下 で「 東 北 史 」研 究 に 力 を 尽 く し た の は 金 毓 黻 (2)で あ っ た 。遼 陽 で 生 ま れ
た金毓黻は北京大学を卒業した後、黒龍江省などの官庁に勤めていた。そうしたなか満洲
事変が勃発し、満洲国が建国されるという事態に直面した。金毓黻は満洲国に残り、官庁
での勤務をしながら「東北史」研究に取り組んだ。関係史料を求めて朝鮮、日本を訪問も
し た [梁 啓 政 2008]。 日 本 人 主 催 の 満 洲 学 会 に 参 加 し て 『 満 洲 学 報 』 に 論 文 を 掲 載 し た り 、
渤 海 に 関 す る『 渤 海 国 志 長 編 』の 執 筆 や 、「 東 北 史 」に 関 す る 史 料 を 集 め た『 遼 海 叢 書 』の
編 纂 、 刊 行 を お こ な っ た [孫 玉 良 1988。 王 慶 豊 1986]。
金 毓 黻 は 1936 年 に 満 洲 国 を 脱 出 し て 国 民 党 統 治 区 へ 移 り 、
「 東 北 史 」研 究 を 続 け た 。1941
年 に 古 代 か ら 元 末 ま で の 期 間 を あ つ か っ た 『 東 北 通 史 』 [1941]を 刊 行 し た 。 こ れ は 、 そ れ
までの研究成果を取り入れ、基本史料にもとづいて叙述をした中国人研究者の手による最
初 の 著 作 と 考 え ら れ る 。金 毓 黻 は「 引 言 」に お い て 、
「 今 日 の 奇 異 な 現 象 の 一 つ と し て 、東
北史の研究は我国ではなく日本が中心となっている」とし、さらに日本人の研 究は「牽強
付会」なので、そうした点を正すためにも『東北通史』を書いたと述べている。
戦 前 の 中 国 に お い て 、マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 は 振 る わ ず 、そ の 研 究 水 準 は 高 く は な か っ た 。
満洲国建国を契機としておこなわれた「東北史」研究は、中国とマンチュリアが不可分な
存在であることの論証に力点が置かれていた。それゆえマンチュリアという地域の特質を
検証するという、いわば中国とマンチュリアの相違を明らかにするような研究がおこなわ
れることはなかった。
② 概 説 書 か ら 見 た 1980 年 代 以 降 の 研 究
中 国 で の マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 は 、1980 年 代 に な る と 注 目 す べ き 研 究 が 出 さ れ る よ う に な
っ た 。 こ こ で は 概 説 書 を 取 り あ げ 、 中 国 の 研 究 状 況 に つ い て 考 察 し た い (3)。
古 代 か ら 清 代 ま で の 概 説 書 と し て は 、張 博 泉 [1985]が 刊 行 さ れ た 。そ の 構 成 は 、
「第一章
秦 以 前 の 東 北 」、「 第 二 章 漢 代 の 東 北 」、「 第 三 章 晋 代 の 東 北 」、「 第 四 章 南 北 朝 時 代 の 東 北 」、
48
「 第 五 章 隋 ・ 唐 代 の 東 北 」、「 第 六 章 遼 代 の 東 北 」、「 第 七 章 金 代 の 東 北 」、「 第 八 章 元 代 の 東
北 」、
「 第 九 章 明 代 の 東 北 」、
「 第 十 章 清 代 の 東 北 」と な っ て い る 。中 華 王 朝 と の 対 応 か ら「 東
北史」について叙述している。言い換えるならば、中華王朝の一地方史として「東北史」
を位置づけていると指摘できる。
同 様 の 主 旨 と 内 容 を 持 つ 概 説 書 と し て 、 董 万 侖 [1987]が 刊 行 さ れ た 。 中 華 王 朝 と 東 北 諸
政権とは、密接な政治的、経済的、文化的な関係を持っていたことが記述されている。東
北 諸 政 権 は 中 華 王 朝 の 地 方 政 権 と し て の 評 価 を 前 提 と し て 、こ の 概 説 書 も 構 成 さ れ て い る 。
1980 年 代 に は 近 現 代 史 を あ つ か っ た 概 説 書 も 刊 行 さ れ た 。 王 魁 喜 他 (編 ) [1984]は 、 ア
ヘ ン 戦 争 か ら 第 一 次 世 界 大 戦 ま で を 記 述 し て い る 。 常 城 (他 編 )[1986]は 、 五 四 運 動 か ら 中
華 人 民 共 和 国 成 立 ま で を 記 述 し て い る 。ま た 常 城 他 (編 ) [1987]は 、ア ヘ ン 戦 争 か ら 中 華 人
民共和国の成立までを記述している。これら近現代史の通史は、人民闘争史観を重視した
観点から叙述されている。
長 い 期 間 を あ つ か う 概 説 書 だ け で な く 、特 定 の 観 点 か ら や 時 期 を 区 切 っ た 概 説 書 も 1980
年 代 に は 出 さ れ た 。経 済 史 の 観 点 か ら 清 朝 期 よ り 満 洲 国 期 ま で を 記 述 し た 概 説 書 と し て は 、
孔 経 緯 [1986]が 刊 行 さ れ た 。 ま た 日 本 の 侵 略 に 重 点 を お き 、 日 清 戦 争 か ら 満 洲 国 崩 壊 ま で
を 記 述 し た 陳 善 本 他 (編 )[1989]や 、 満 洲 国 期 の 概 説 書 で あ る 姜 念 東 他 (編 )[1980]も 刊 行 さ
れた。
中 国 に お け る 研 究 で 指 摘 し た い 点 は 、1980 年 代 以 降 、各 地 の 档 案 館 に 所 蔵 さ れ て い る 档
案を分析して書かれた論文が出されるようになった点である。こうした傾向は清代に顕著
であり、これまで公開されることなく、档案館に眠っていた満洲語、漢文の史料を活用し
た 研 究 が お こ な わ れ た 。各 地 の 档 案 館 に は 大 量 の 档 案 が 所 蔵 さ れ て い る こ と が 判 明 し 、1980
年代に「東北史」研究は档案を基本史料とする段階に入った。
1990 年 代 に な る と 、こ う し た 研 究 成 果 を 受 け て 、多 数 の 研 究 書 が 出 さ れ た 。古 代 か ら 現
代 ま で の 概 説 書 と し て は 、 佟 冬 他 (編 )全 6 巻 [1998]が 出 さ れ た 。 現 時 点 で は 、 こ れ よ り 詳
細な概説書は存在しない。第1巻は旧石器時代から高句麗まで、第2巻は渤海から金代ま
で、第3巻は元代から明末まで、第4巻は明末から清代前期まで、第5巻はアヘン戦争か
ら 第 一 次 世 界 大 戦 ま で 、第 6 巻 は 五 四 運 動 か ら 中 華 人 民 共 和 国 の 誕 生 ま で を 記 述 し て い る 。
基本的な観点は、中国の一地方史として「東北史」を叙述するという点である。
薛 虹 他 (編 )[1991]は 、 他 の 概 説 書 に は な い 構 成 を と っ て い る 部 分 が あ る 。 注 目 し た い の
は、
「 第 二 編 東 北 各 族 の 競 合 時 代 」の 構 成 で あ る 。こ の 第 二 編 は 五 章 の 記 述 か ら な り 、第 一
章は漢族による東北西南部の開発について、燕の時期から晋代までを記述する。第二章で
は東北中部に暮らした穢貊系の民族として扶余と高句麗をとりあげ、高句麗の滅亡までを
記述する。第三章は東北西部で遊牧をしていた鮮卑など、第四章では東北東部の挹婁、勿
吉を取りあげ、第五章では渤海について述べ、その滅亡までを記述する。渤海までは複数
の民族が東北各地に興亡したことを、こうした構成で叙述する書き方は、他の概説書には
ない特徴である。また中華人民共和国以後についても簡単ではあるが述べ、文化 大革命の
終 結 し た 1970 年 代 末 ま で 叙 述 し て い る 。
寧 夢 辰 [1999]は 、 中 華 王 朝 と の 関 係 性 か ら 東 北 諸 政 権 を 考 察 す る 構 成 を と っ て い る 。 中
華 王 朝 の 一 地 域 と し て「 東 北 史 」を 考 え る 方 向 性 は 、中 国 辺 疆 史 研 究 と も 連 動 し 、
「東北史」
49
を 中 国 辺 疆 史 の 一 分 野 と す る 研 究 が 出 さ れ て い る 。李 治 亭 他 (編 )[2003]は 、
「 東 北 史 」を 中
国辺疆史の一つとして叙述している。中国では中国辺疆史の一部として「東北史」を位置
付ける研究がおこなわれており、新疆、チベット、モンゴルなどと並列して東北を取りあ
げ て い る [馬 汝 珩 他 (編 )1998]。 さ ら に は 東 北 を 辺 疆 と し て 位 置 づ け る こ と を 強 調 し た 、 馬
大 正 主 編 『 中 国 東 北 辺 疆 研 究 』 [2003]と い う 書 名 の 論 文 集 も 刊 行 さ れ て い る 。
東北アジア史という設定をおこない、その古代から現代までを叙述する概説書も出され
た 。劉 徳 斌 他 (編 )[2006]は 、古 代 か ら 2005 年 ま で を 第 1 期 10 世 紀 以 前 、第 2 期 10 世 紀 ~
1840 年 、 第 3 期 1840~ 1945 年 、 第 4 期 1945~ 1991 年 、
第 5 期 1992~ 2005 年 に 分 け て
述べている。東北アジアの範囲については漠然としているが、マンチュウリアを中心とす
る周辺地区を指していると考えられる。
中国での「東北史」研究の特徴は、中華王朝の一地域として、中国辺疆の一地域として
「 東 北 史 」を 位 置 付 け る 点 に あ る (4)。そ し て 現 在 の 東 北 三 省 の 領 域 に お い て 、古 代 か ら 現
代にかけて生じていたことが、中華王朝とどのような関係を持っていたのか、中国の辺疆
と し て い か な る 役 割 を 果 た し た の か の 検 証 を 目 的 に し て い る と 指 摘 し た い (5)。
(1)「 東 北 研 究 専 号 」『 禹 貢 半 月 刊 』 6-3・4、 1936。
(2)金 毓 黻 (1887~ 1962 年 )。1916 年 北 京 大 学 卒 業。 1920 年 黒 龍 江 省 教 育 庁 科 長。 そ の 後 い
く つ か の 東 三 省 で の 官 職 を 勤 め る 。満 洲 国 下 で も 営 口 塩 務 署 長 な ど の 官 職 を 勤 め る 。1936
年 満 洲 国 か ら 国 民 党 統 治 地 区 へ 脱 出 。教 職 に つ く 。1949 年 北 京 大 学 教 授 。1962 年 死 去 [(金
景 芳 1986]。 業 績 に つ い て は 栄 文 庫 [1994]を 参 照 。
(3)近 年 の 中 国 で の 東 北 地 方 史 研 究 に つ い て は 、 李 治 亭 [2009]が 参 考 に な る 。
(4)中 国 に お け る 研 究 は 、「 東 北 史 」 を 中 華 王 朝 の 一 地 域 史 と 考 え る こ と か ら 、 高 句 麗 を 朝
鮮の王朝とはみなしていない。このため韓国の学会とは論争になっている。中国と韓国
と の 間 の 「 高 句 麗 論 争 」 に つ い て は 金 光 林 [2004]、 澤 喜 司 郎 [2004]、 李 鎔 賢 [2005]、 井
上 直 樹 [2005]、 古 畑 徹 [2008]を 参 照 。
(5)近 年 で は 中 華 王 朝 が 東 北 統 治 を お こ な っ た 理 念 を「 華 夷 一 統 」、
「 華 夷 之 辨 」、
「覊縻而治」
と い う 概 念 を 使 っ て 説 明 し よ う と す る 研 究 も 出 さ れ て い る [劉 信 君 他 (編 )2008]。
おわりに
戦前のマンチュリア史に関する研究は、日露戦争を契機に勃興し、満洲国の建国により
大 き く 発 展 し た 。し か し 戦 後 は 衰 退 し て し ま い 、1970 年 代 以 降 に 日 本 史 研 究 者 に よ る 成 果
が 出 さ れ る よ う に な っ た 。そ し て 1990 年 代 以 降 は 新 た な 興 隆 を 示 し て い る と 、巨 視 的 に は
まとめられよう。
それぞれの時期の研究の方向性は、マンチュリアに対する日本人の向き合いかたにより
規定されていたことが確認できる。日露戦争後に研究に着手した白鳥庫吉らは、誰も明ら
かにしていない歴史事実を究明し、日本の東洋史研究の成果が欧米より高い水準にあるこ
とを示そうとした。各種の史料において、記述の混乱する地名を考証して、その場所をつ
きとめるなどの研究は、日本以外ではおこなわれていないものであった。白鳥庫吉らは未
開 拓 な 領 域 の 、未 確 定 な 事 実 を 考 証 す る こ と で 、欧 米 の 研 究 を こ え る 試 み を お こ な っ た が 、
50
マンチュリア史の総合化、地域史像の構築には消極的であった。
満洲国期には現地調査、現地体験が可能となったことから、マンチュリア内部の地域的
特質に関する研究が進められるようになった。関係史料の収集、整理、若手研究者の養成
などがおこなわれたが、総合的なマンチュリア史の構築は十分には達成されなかった。
戦後はマンチュリアとの関係性が消滅したため、研究は停滞状態に陥った。しかし、満
洲 国 建 国 の 正 当 性 を 主 張 す る 意 見 の 台 頭 に 危 惧 を 抱 い た 日 本 史 研 究 者 が 、1970 年 代 以 降 に
マンチュリア史研究をおこなうようになった。この時点までのマンチュリア史研究は、マ
ンチュリアと日本との政治的な関係性が、研究の背景にあったと指摘できる。
と こ ろ が 、1990 年 代 以 降 に 勃 興 し た 研 究 は 、マ ン チ ュ リ ア と い う 多 様 な 特 徴 を も つ 地 域
を よ り 深 く 理 解 し た い と い う 、学 術 的 な 目 的 を 背 景 に し て い る 。ま た 、新 た な 史 料 の 登 場 (各
地 档 案 館 所 蔵 の 档 案 )に よ り 、マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 を め ぐ る 状 況 は 大 き く 変 化 し た 。筆 者 は 、
日 露 戦 争 以 来 100 年 あ ま り に 渡 っ て お こ な わ れ て き た マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 成 果 を 、 研 究
内容を規定した時代背景を考慮しつつ、可能な限り吸収、消化し、マンチュリア史研究の
総合化をすすめたいと考えている。
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第3章
元末・明朝前期におけるマンチュリアの社会変容と地域秩序
はじめに
本 章 で は 、元 末 か ら 明 朝 に よ る 統 治 が 整 っ た 15 世 紀 半 ば ま で の 期 間 、マ ン チ ュ リ ア で は
いかなる社会変容が生じ、どのような地域秩序が形成されていたのか検証する。
この期間に関する研究は、これまで以下のような方向性で行われてきた。第一には、元
朝が滅亡して明朝が成立するという中国王朝の交替が、マンチュリア統治に如何なる影響
をおよぼしたのかという、中国史の推移からマンチュリア統治の特徴を考察する方向性が
あ げ ら れ る [和 田 清 1934-37]。
第二には、朝鮮史との関わりから考察されてきた。元朝が衰亡したことから、その服属
下にあった高麗は自立化をはじめる。高麗の自立化は元朝という後ろ盾を失うことにつな
が り 、王 権 は 不 安 定 化 し て し ま い 、や が て 有 力 武 将 (李 成 桂 )に よ る 簒 奪 を 余 儀 な く さ れ た 。
こうした一連の歴史経過のなかで、マンチュリアをめぐり元朝・明朝と高麗・朝鮮王朝と
が ど う 動 い た の か を 考 察 す る 研 究 が 行 わ れ て い る [末 松 保 和 1941]。
第三には、マンチュリアに住む女真の動向に焦点をあて、元朝の衰亡による女真の自立
化、明朝統治下での女真の動向を考察するという、女真史の推移を重視した研究があげら
れ る [園 田 一 亀 1948、 河 内 良 弘 1992]。
第四に、モンゴリアの動向と関連させて、元明交替の動乱期にモンゴル人がマンチュリ
ア に お よ ぼ し た 影 響 を 考 察 す る 研 究 が 行 わ れ て い る [和 田 清 1932]。
近年出された新しい観点としては、明朝によるマンチュリア政策だけを取り上げるので
はなく、明帝国全体の推移のなかからマンチュリア政策を理解する方向性が提唱されてい
る [杉 山 清 彦 2008]。
本章は新たな一次史料を解読して新事実を提供するものではなく、これまでは明朝-マ
ンチュリア、朝鮮-マンチュリア、女真-マンチュリア、モンゴル-マンチュリアとそれ
ぞれに考察されてきた研究成果を統合し、元朝末から明朝前期にかけてマンチュリアに生
じていた社会変容と地域秩序について考察する試みである。
1.元朝統治下のマンチュリア
モ ン ゴ ル 帝 国 の 建 国 者 で あ る テ ム ジ ン は 、1206 年 に 即 位 し て チ ン ギ ス・カ ン と 称 し 、勢
力拡大のための軍事行動を継続した。チンギス・カンは金朝統治下のマンチュリアにも攻
め 入 っ た が 、金 朝 を 滅 ぼ す こ と は な く 1227 年 に 死 去 し た 。そ の 後 も モ ン ゴ ル 帝 国 は 膨 張 を
続 け 、1234 年 に は 金 朝 を 滅 ぼ し 、1259 年 に は 高 麗 を も 服 属 下 に 置 い た 。以 下 で は 、元 朝 (1271
年 成 立 )の も と で の マ ン チ ュ リ ア 統 治 の 様 相 と 特 徴 に つ い て 述 べ て み た い 。
『 元 史 』 地 理 志 に は 、 1287 年 (至 元 24 年 )に 遼 陽 等 處 行 中 書 省 (以 下 、 遼 陽 行 省 )を 設 置
し、その下に遼陽路、広寧府路、大寧路、瀋陽路、東寧路、開元路、合蘭府水達達等路の
七 路 を 置 い た と あ る [『 元 史 』 巻 59 地 理 志 2 ](1)。 遼 陽 行 省 の 北 部 に 置 か れ た 開 元 路 と 合
蘭府水達達等路については史料が乏しく、治府の所在地や範囲管轄については諸説が乱立
し て い る (2)。遼 陽 等 處 行 中 書 省 の 北 辺 は 、ア ム ー ル 川 河 口 に ま で お よ ん で い た と 推 測 で き
59
る 。 そ の 理 由 は 、 元 朝 は ア ム ー ル 川 下 流 域 を 統 治 す る た め 、 テ ィ ル (ア ム ー ル 川 下 流 右 岸 )
に 東 征 元 帥 府 (設 置 、廃 止 の 年 次 不 明 )を 置 い て い た か ら で あ る [中 村 和 之 2006]。中 村 和 之
[2008、48 頁 ]は『 遼 東 志 略 』の 記 述 を も と に 、元 朝 の 管 轄 領 域 は サ ハ リ ン に ま で 達 し て い
たと主張している。
遼陽行省の南辺には大寧路が置かれ、長城までを範囲とした。遼陽行省の西辺には瀋陽
路、遼陽路が置かれ、その領域はおおむね遼河以東であった。遼河以西はモンゴル諸王に
分 け 与 え ら れ た 場 所 で あ っ た [叢 佩 遠 1998、 50-94 頁 ]。
遼 陽 行 省 の 東 辺 は 高 麗 と 接 し て お り 、 東 辺 の 状 況 を 理 解 す る に は 、 モ ン ゴ ル 帝 国 (元 朝 )
と 高 麗 の 関 係 を ふ り 返 ら な け れ ば な ら な い 。 モ ン ゴ ル 軍 は 1231 年 (高 宗 18 年 )に 高 麗 へ の
侵 攻 を は じ め 、 1259 年 (高 宗 46 年 )に 服 属 下 に 置 い た 。 こ の た め 、 高 麗 の 領 域 は 南 に 引 き
下げられ、元朝の領域が拡大した。元朝と高麗の境界は、西側はピョンヤンの南にある慈
悲 嶺 よ り 北 、東 側 は 和 州 (雙 城 、永 興 )よ り 北 と な っ た [津 田 左 右 吉 1964a、1964b]。元 朝 は
1276 年 (至 元 13 年 )に 東 寧 路 を 置 き 、 高 麗 と 接 す る 場 所 を 管 轄 し た 。
以上をまとめると、遼陽行省の管轄範囲は、北辺はアムール川河口、南辺は長城、西辺
は 遼 河 付 近 、東 辺 は 朝 鮮 半 島 北 部 (北 緯 39 度 ぐ ら い )で あ っ た と 推 定 で き る 。当 然 の こ と で
あるが、後の東三省や満洲国の領域と重なる場所もあるが、重ならない場所もある。この
領 域 を 往 来 す る 使 臣 の た め 、 元 朝 は 交 通 路 の 整 備 に も 力 を 入 れ て い た [園 田 一 亀 1949、 叢
佩 遠 1990、 郭 毅 生 1980]。
元代のマンチュリアにはさまざまな人間集団が暮らしていたが、その詳細については史
料 が 少 な く 、判 明 す る 事 実 は 限 ら れ て い る [楊 茂 盛 1989、叢 佩 遠 1993]。な か で も 女 真 は 多
か っ た と 推 測 さ れ る 。邱 樹 森 [2003]は 元 代 の マ ン チ ュ リ ア に 暮 ら し た 女 真 を 、① 熟 女 真 (遼
陽 以 南 に 住 む )、② 生 女 真 、③ 水 達 達 女 真 の 3 つ に 分 類 し て い る 。元 朝 は 女 真 を 兵 士 の 補 充
源 に あ て た り 、 毛 皮 を 税 と し て 徴 収 し た り し て い た [楊 保 隆 1984、 蒋 秀 松 1994]。
漢人の状況についてはよくわからないが、元代にマンチュリアは流刑地となっており、
関内からの流刑者が暮らしていた。アムール川下流のヌルガンに流された流刑者は、厳し
い気候風土のため自活は難しかった。それゆえ流刑地で消費する衣食の輸送費がかさみ問
題 と な っ て い た こ と が 明 ら か に さ れ て い る [徳 永 洋 介 1996、 301-306 頁 ]。
元朝は屯田政策を行い、農業生産を増やそうとしていた。屯田には軍士がおこなった軍
屯 と 、 農 民 が お こ な っ た 民 屯 の 二 種 類 が あ っ た [叢 佩 遠 1998、 297-319 頁 ]。 な か に は 関 内
から送られた人もおり、例えば張成という湖北生まれの軍人は「黒龍江之東北極」で屯田
に 従 事 し て い た [岩 間 徳 也 1925、王 綿 厚 1981]。一 般 田 地 の 状 況 に つ い て は 史 料 不 足 の た め
よ く わ か ら な い が 、 叢 佩 遠 [1993]は 遼 陽 行 省 で の 漢 人 に よ る 農 業 生 産 は 、 金 代 や 明 代 と 比
べて、それほど劣っていなかったと主張している。
北 部 の 合 蘭 府 水 達 達 等 路 は「 土 地 曠 闊 、人 民 散 居 」
「 逐 水 草 為 居 、以 射 猟 為 業 」[『 元 史 』
巻 59 地 理 志 2 ]と い う 状 況 で あ り 、 女 真 、 ク イ (骨 嵬 )、 ギ レ ミ (吉 里 迷 )、 ウ ジ ェ (吾 者 )な
ど が 暮 ら し て い た [王 頲 1982、増 井 寛 也 1982]。元 朝 に よ る 統 治 を『 元 史
地 理 志 』は「 故
設官牧民、随俗而治」と述べ、現地の状況に合わせた間接的な統治であったと解釈できる
記 述 を し て い る 。 し か し な が ら 程 尼 娜 [2005]は 、 元 朝 が 合 蘭 府 水 達 達 等 路 に 設 置 し た 万 戸
府、千戸所の長官は、部落の酋長などが世襲的に就任していた例もあるが、元朝が任命し
60
た地方官もいた可能性を指摘している。そして元朝統治の内容を、①徴税活動の実施、②
災害や飢饉に際しての救荒、③屯田政策の実施、④交通機関の整備、⑤監察のための官吏
派遣とまとめ、間接的な覊縻統治ではなく、地方行政的な側面を持っていたと主張してい
る (3)。
元 朝 に よ る マ ン チ ュ リ ア 統 治 は 、 諸 部 族 集 団 の 動 向 (北 辺 )、 モ ン ゴ ル 人 の 動 向 (西 辺 )、
高 麗 の 動 向 (東 辺 )、 中 原 、 関 内 の 動 向 ( 南 辺 ) に よ る 影 響 を 受 け て い た 。 北 辺 で は 部 族 間
同 士 の 抗 争 に 元 朝 は 介 入 し た 。 ア ム ー ル 川 下 流 域 か ら サ ハ リ ン に か け て 暮 ら す ク イ (骨 嵬 )
が ギ レ ミ (吉 里 迷 )を 攻 撃 し た 事 件 に 対 し て 、 元 朝 は ギ レ ミ を 援 助 す る 政 策 を と っ た 。 元 朝
は ク イ へ の 攻 撃 を 1264 年 (至 元 元 年 )以 降 繰 り 返 し お こ な い 、元 軍 は ク イ と ア ム ー ル 川 下 流
域 、サ ハ リ ン で 戦 闘 を 交 え た 。こ の 紛 争 は 、1308 年 (至 大 元 年 )に ク イ が 毎 年 元 朝 に 毛 皮 を
献 じ る 条 件 で 終 息 し た [大 葉 昇 一 1998]。こ の 時 の ア ム ー ル 川 下 流 域 、サ ハ リ ン で の 元 朝 の
軍 事 行 動 を 、日 本 へ の 侵 攻 (元 寇 )と 連 動 さ せ て 、
「 も う 一 つ の 蒙 古 襲 来 」と も 呼 ぶ べ き だ と
解 釈 す る 見 解 が あ る [遠 藤 巌 1988、榎 森 進 1990]。こ れ に 対 し て 中 村 和 之 [1992]は 、元 軍 出
兵はギレミを脅かすクイを討伐するという防御的色彩が強く、北海道への侵攻まで意図し
て い な か っ た と 反 論 し て い る (4)。
西 辺 で は モ ン ゴ ル 王 侯 同 士 の 抗 争 に 介 入 し た 。興 安 嶺 方 面 に 勢 力 を 持 つ ナ ヤ ン (乃 顔 )は 、
ク ビ ラ イ の 支 配 に 不 満 を 持 ち 、 1287 年 (至 元 24 年 )に カ イ ド ゥ の 乱 と 呼 応 し て 、 打 倒 ク ビ
ライを掲げて挙兵した。ナヤンの反乱は元軍によりほどなく鎮圧されたが、同時に挙兵し
た カ ダ ア ン の 抵 抗 は し ば ら く 続 き 、1292 年 (至 元 29 年 )に 鎮 圧 さ れ た [張 泰 湘 1986、堀 江 雅
明 1990、 吉 野 正 史 2008、 2009]。
東辺での高麗との関係は、少しく複雑であった。高麗はモンゴル帝国に服属したため、
そ の 王 位 は 元 朝 と の 関 係 を 深 め 、 元 朝 の 意 向 に よ る 影 響 を 受 け て い た (5) 。 忠 烈 王
(1274-1308 年 在 位 )か ら 恭 愍 王 (1351-74 年 在 位 )ま で の 歴 代 国 王 の ほ と ん ど は 、元 朝 の 大 カ
ガ ン 家 の 公 主 を 娶 っ て い た [森 平 雅 彦 1998a、 厳 聖 欽 1995]。 元 朝 は 高 麗 国 王 と 姻 戚 関 係 を
結 ぶ だ け で な く 、 1287 年 (至 元 24 年 )に 征 東 行 省 と い う 高 麗 統 治 の 出 先 機 関 を 設 け 、 高 麗
へ の 影 響 力 を 確 保 し た [北 村 秀 人 1964、程 尼 娜 2006]。ま た 14 世 紀 初 め か ら 後 半 に か け て 、
高麗王や高麗王族に瀋王という称号を与えていた。
瀋王の評価については論争となっている。まず、瀋王は高麗帰順民が多数暮らす瀋陽地
方 の 統 治 者 と し て の 役 割 を 持 っ て い た と し 、14 世 紀 初 以 降 、高 麗 と マ ン チ ュ リ ア 南 部 の 一
体 化 が 進 め ら れ た と い う 見 解 が 主 張 さ れ た [丸 亀 金 作 1934、岡 田 英 弘 1959]。こ れ に 対 し て
北 村 秀 人 [1972]は 、 瀋 王 は 高 麗 王 や 高 麗 の 王 族 に 対 す る 元 朝 の 優 遇 措 置 と し て 与 え ら れ た
称号であること、並びに瀋王は高麗帰順民が多数暮らす瀋陽地方の統治者ではなかったこ
とを主張した。北村秀人は、瀋王は名目的称号の性格が強い存在だと指摘したのだが、森
平 雅 彦 [1998b]は 瀋 王 が 瀋 陽 路 の 統 治 に 具 体 的 に ど う 関 わ っ た か は 不 明 と し な が ら も 、瀋 陽
路に所領を有していた可能性を指摘している。
モンゴル軍の高麗侵攻後、元朝に投降した朝鮮人や、流浪を余儀なくされた朝鮮人のな
か に は 遼 東 で 暮 ら す 人 も い た [方 学 風 1989、 王 崇 時 1991、 呉 松 弟 1996、 楊 暁 春 2007]。 瀋
陽や遼陽で生活する朝鮮人は多く、元朝はそうした朝鮮人を統治する機関として、瀋陽等
路 安 撫 高 麗 軍 民 総 管 府 を 設 け て い た [北 村 秀 人 1972、 112-117 頁 ]。
61
元 朝 は ク ビ ラ イ の 死 後 、皇 位 継 承 を め ぐ り 混 乱 が 続 い た 。と く に「 天 暦 の 内 乱 」(1328 年 )
による紛糾はひどく、その勢力は低下した。マンチュリア北部に暮らした人々は、元朝の
衰 退 に 乗 じ て 1343 年 (至 正 3 年 )に 反 乱 を 起 こ し た 。元 朝 は 衰 え て い た と い え 、こ の 反 乱 を
鎮 圧 し 、 1355 年 (至 正 15 年 )に は 乞 列 迷 等 處 諸 軍 萬 戸 府 を 置 い て 、 北 部 の 統 治 を 強 め よ う
と し て い た [和 田 清 1934、 261-263 頁 、 大 葉 昇 一 1998、 137-138 頁 ]。 そ う し た な か 、 紅 巾
軍 は 1359 年 (至 正 19 年 )に 遼 東 へ も 侵 攻 し 、 マ ン チ ュ リ ア は 混 乱 に 陥 っ た 。
元朝下のマンチュリアには女真、クイ、ギレミ、漢人、朝鮮人、モンゴル人などの多様
な人々が暮らしていた。元朝の統治も、そうした多様性に対応する方向でおこなわれてお
り、さらにはそうした多様な人々の動向により、マンチュリアの状況が変動していたと指
摘できる。
(1)チ ン ギ ス・カ ン に よ る 侵 攻 か ら 元 朝 滅 亡 ま で の マ ン チ ュ リ ア の 状 況 に つ い て は 、叢 佩 遠
[1998、元 代 東 北 編 」を 参 照 。遼 陽 行 省 に つ い て は 薛 磊 [2008]、都 興 智 [2009]を 参 照 。瀋 陽
路 に つ い て は 薛 磊 [2006]を 参 照 。
(2)開 元 路 の 治 府 で あ っ た 開 元 城 の 場 所 に つ い て は 、 戦 前 以 来 論 争 が 続 い て い る 。 箭 内 亙
[1913、 1923]は 、 元 初 は 黄 龍 府 (農 安 付 近 )に あ り 、 後 に 咸 平 ( 開 原 付 近 ) に 移 動 し た と
主 張 し た 。 景 愛 [1979]、 薛 磊 [2005]も ほ ぼ 同 じ 見 解 を 述 べ て い る 。 池 内 宏 [1922]は 、 元
初 は 三 姓 付 近 に あ り 、 元 末 に 開 原 に 移 動 し た と 主 張 し た 。 和 田 清 [1928、 1944]は 池 内 の
三 姓 説 を 批 判 し て 、 綏 芬 河 流 域 の 東 寧 付 近 に 比 定 し た 。 李 学 智 [1959]は 元 初 か ら 現 在 の
開 原 に 開 元 城 は あ っ た と 主 張 す る 。岡 田 英 弘 [1961]は 寧 古 塔 付 近 を 主 張 し 、張 秦 湘 [1982]
はロシア領ニコリスクに開元城はあったと主張する。
合 蘭 府 水 達 達 等 路 の 問 題 点 に つ い て は 、譚 其 驤 [1981]、蒋 秀 松 [1997a]、董 万 侖 [1990]
を参照。
(3)程 尼 娜 が 研 究 史 上 に 新 た な 論 点 を 主 張 し た 点 は 評 価 し た い 。し か し 筆 者 は 、元 代 に お い
てもマンチュリア北部は中華王朝の直接統治下にあったことを主張したいかのような、
やや「ナショナル」な史料解釈をしている点が気にかかる。
(4)ま た こ の 時 の 元 軍 の 出 兵 を オ ホ ー ツ ク 文 化 の 消 滅 と 結 び 付 け 、元 軍 の 出 兵 に よ り オ ホ ー
ツク文化の担い手は大陸から金属器の入手ができなくなり、その欠乏状態のなか擦文文
化に吸収されたという、
「 元 軍 出 兵 に よ る 金 属 器 の 欠 乏 」→「 オ ホ ー ツ ク 文 化 の 滅 亡 」と
い う 見 解 を 海 保 嶺 夫 [1987、133 頁 ]は 主 張 し て い る 。し か し 大 葉 昇 一 [1998、138-141 頁 ]
は、実際にそうした金属器の欠乏が元軍出兵を原因として生じていたかは疑問だとして
いる。オホーツク文化の消滅と元軍出兵の間に、因果関係があったかどうかについては
見解が分かれているが、元朝のマンチュリア統治がオホーツク文化圏の動向に何らかの
影響を与えていたと考えられる。それゆえ、日本の北方史の理解のためには、 東北アジ
ア 、 中 国 の 情 勢 ま で 視 野 に 入 れ て 考 察 す る 必 要 性 が 主 張 さ れ て い る [佐 々 木 史 郎 1994、
338 頁 ]。
(5)元 朝 に よ る 高 麗 統 治 の 特 徴 と し て は 森 平 雅 彦 の 指 摘 に 注 目 し た い 。森 平 雅 彦 [2008、161
頁 ]は「 元 に お け る 高 麗 在 来 王 朝 体 制 の 保 全 と は 、中 国 伝 統 の 華 夷 秩 序 や 冊 封 体 制 の 再 現
というより、相手国に対し一定の実質的影響力を保ちつつ、比較的高度な自律性と独自
性を認めるというモンゴルの征服地支配の一般的方式が、冊封・賜印・頒暦など一部の
62
形式において中国風の外皮をまとって表れたものとみるのが、実態に近いのではないだ
ろうか」と主張している。
2
紅巾の乱から洪武末年までのマンチュリア
本 章 で は 、紅 巾 の 乱 勃 発 (1351 年 )か ら 洪 武 帝 死 去 (1398 年 )ま で の 期 間 、マ ン チ ュ リ ア が
どのような社会変動を経て、いかなる地域秩序を形成したのか検証してみたい。その際、
明 朝 に よ る マ ン チ ュ リ ア 支 配 と い う 明 朝 に よ る 統 治 拡 大 の 方 向 性 か ら だ け で は な く 、明 朝 、
高 麗・朝 鮮 、故 元 勢 力 、北 元( モ ン ゴ ル 人 )の 相 互 関 係 を 重 視 し た 考 察 を お こ な い た い (1)。
① ナ ガ チ ュ (納 哈 出 )の 降 伏 ま で
1351 年 (至 正 11 年 )に 勃 発 し た 紅 巾 の 乱 は 中 国 各 地 に 拡 大 し 、 紅 巾 軍 は 1359 年 (至 正 19
年 )に 遼 東 へ も 侵 攻 し た 。紅 巾 軍 は 高 麗 北 部 に も 侵 攻 し 、首 都 ケ ソ ン が 紅 巾 軍 に 一 時 占 拠 さ
れ る 事 態 も 生 じ た 。遼 東 、高 麗 に 侵 攻 し た 紅 巾 軍 は 1362 年 に は 撃 退 さ れ た が 、元 朝 の 衰 退
は 著 し く 、1368 年 (洪 武 元 年 )に ト ゴ ン テ ム ル (順 帝 )は 大 都 を 放 棄 し て 、モ ン ゴ リ ア へ と 逃
亡 し た 。 元 朝 滅 亡 後 、 マ ン チ ュ リ ア は 明 朝 、 北 元 (モ ン ゴ ル 人 )、 故 元 勢 力 (ナ ガ チ ュ ら )、
高麗の四つどもえ状態となり、その帰趨は混沌としていた。以下ではそれぞれの状況につ
いて見てみたい。
洪武帝は北元勢力の駆逐を第一にしたので、洪武初年の明軍の進撃先はマンチュリアで
は な く 、大 同 、モ ン ゴ リ ア 方 面 で あ っ た 。1370 年 (洪 武 3 年 )の 北 征 に よ り 明 軍 は モ ン ゴ ル
軍 に 打 撃 を 与 え 、 ト ゴ ン テ ム ル (順 帝 )が 死 去 し た こ と を 知 っ た (2)。 北 元 の 凋 落 を う け て 、
1371 年 (洪 武 4 年 )に か つ て は 遼 陽 行 省 平 章 の 任 に あ っ た 劉 益 が 降 伏 し て き た 。洪 武 帝 は こ
れ を 契 機 に 遼 東 衛 指 揮 使 司 を 置 き 、劉 益 は 指 揮 同 知 に 任 命 し た (3)。こ れ は 明 朝 が マ ン チ ュ
リ ア に 設 置 し た 最 初 の 衛 所 で あ っ た 。同 年 洪 武 帝 は 馬 雲 、葉 旺 ら の 率 い る 明 軍 を 送 り 込 み 、
遼 陽 に 定 遼 都 衛 指 揮 使 司 (1375 年 に 遼 東 都 指 揮 使 司 と な る 。以 下 、遼 東 都 司 )を 置 き 、遼 東
経 営 に 着 手 し た (4)。 明 朝 が 遼 東 経 営 を 始 め た 1371 年 (洪 武 4 年 )時 点 で は 、 マ ン チ ュ リ ア
には依然として故元勢力が割拠していた。遼陽には高家奴、瀋陽には哈剌張、開原には也
先 不 花 が 、 そ し て 金 山 (懐 徳 付 近 )を 拠 点 と す る ナ ガ チ ュ は 大 き な 勢 力 を 有 し て い た (5)。
1372 年 (洪 武 5 年 )は 明 朝 に よ る マ ン チ ュ リ ア 制 圧 が 頓 挫 し 、方 針 転 換 を 余 儀 な く さ れ た
年であった。その理由は、第一には、モンゴリア方面に出撃した明軍が北元に敗北したか
らである。これまで明軍による北征は順調に進んでいたが、この時の敗 北をもって明軍の
進 撃 は ス ト ッ プ し 、 し ば ら く 北 征 は 控 え ら れ た [谷 井 陽 子 2009、 30-33 頁 ]。 第 二 に は 、 11
月 に ナ ガ チ ュ が 牛 家 荘 を 襲 撃 し て 明 軍 を 撃 破 し 、そ の 勢 力 の 強 大 さ を 示 し た か ら で あ る (6)。
このため明朝はマンチュリアで故元勢力と武力対決し、その駆逐をおこなうという方向は
とらず、遼東経営を固める方向をとった。
当初明朝は遼東に衛所と州県を置き、統治機構をつくろうとした。しかし、ナガチュの
侵攻など緊迫した軍事情勢から、州県を廃止して衛所を中心とした軍事機構に重点を置く
統 治 機 構 の 形 成 に つ と め た (7)。衛 所 と は 明 朝 が 各 地 に 置 い た 軍 事 組 織 で あ っ た 。衛 所 に は
兵士が駐留するとともに、兵士は農業もおこない、兵農一致を原則とした。衛所のトップ
63
の武官は世襲であり、明朝はその家系が途切れないようさまざまな優遇措置を講じていた
[川 越 泰 博 2001]。衛 所 の 形 態 に は い く つ か あ り 、徐 仁 範 [1999]は 内 地 衛 所 、沿 辺 衛 所 、沿
海衛所にわけている。遼東のような州県が存在しない場所の衛所は、地方行政的な職務も
お こ な っ た 。管 轄 領 域 を 持 つ こ と か ら 、譚 其 驤 [1935]、解 毓 才 [1940]は こ の 種 の 衛 所 を「 実
土衛所」と呼んでいる。遼東都司および各衛所が軍事活動以外におこなった内容として、
李 三 謀 [1989、 1996]は ① 観 農 、 ② 徴 税 、 ③ 教 育 、 ④ 商 業 の 管 理 、 ⑤ 裁 判 の 五 点 を 指 摘 し て
い る (8)。
明朝は衛所の軍士に屯田をおこなわせ、食糧を確保しようとした。しかし、屯田だけで
は 不 十 分 で あ り 、海 運 に よ り 食 糧 を 運 ん で い た (9)。洪 武 前 半 で は 、遼 東 へ の 食 糧 供 給 は 屯
田 と 海 運 の 併 用 で ま か な っ て い た [清 水 泰 次 1937a、 25-28 頁 ]。
明 朝 を 衛 所 制 度 に よ り 遼 東 経 営 を す す め る 一 方 で 、 軍 事 行 動 も 展 開 し た 。 1376 年 (洪 武
9 年 )ご ろ に は 、ナ ガ チ ュ の 攻 撃 を 撃 退 し た だ け で な く 、鴨 緑 江 付 近 ま で 軍 隊 を 進 め て い た
(10)。 ま た 、 1381 年 (洪 武 14 年 )に は 内 モ ン ゴ ル 東 部 の 掃 討 を お こ な っ た (11)。 明 朝 の 制
圧 領 域 が 拡 大 し た こ と 、 衛 所 制 度 に よ る 遼 東 経 営 が 進 ん だ こ と か ら 、 1381 年 (洪 武 14 年 )
以 降 、 故 元 勢 力 は 明 朝 へ の 投 降 を は じ め た (12)。 1382 年 (洪 武 15 年 )に は ナ ガ チ ュ の 勢 力
圏 を こ え た 、黒 龍 江 流 域 に 住 む と 推 測 さ れ る 故 元 鯨 海 千 戸 の 速 哥 帖 木 兒 ら が 来 帰 し た (13)。
その後もマンチュリア北部の故元勢力の投降は相継いだ。こうした状況を踏まえ、洪武帝
は 1387 年 (洪 武 20 年 )に ナ ガ チ ュ 掃 討 の 軍 事 行 動 を お こ し た 。
以 上 、明 朝 の 遼 東 経 営 に つ い て 、北 元( モ ン ゴ ル 人 )、故 元 勢 力 の 動 向 と 関 連 さ せ て 述 べ
てみた。以下では、高麗とのかかわりからマンチュリアの動向を考察したい。
元 朝 の 衰 退 を 見 た 高 麗 の 恭 愍 王 は 、 1356 年 (至 正 16 年 、 恭 愍 王 5 年 )に 北 辺 に 出 兵 し 、
元 朝 が 統 治 す る 双 城 総 管 府 を 奪 還 し た (北 進 政 策 )。 恭 愍 王 は 元 朝 へ の 武 力 抵 抗 に 踏 み 切 っ
た が 、元 朝 が 反 撃 に 出 る や 恭 順 の 意 を 表 し 、そ の 許 し を 願 っ た [池 内 宏 1917]。し か し 、翌
1357 年 (至 正 17 年 、 恭 愍 王 6 年 )に は 伊 板 嶺 ( 磨 天 嶺 、 咸 鏡 南 道 の 北 境 ) を 境 界 に す る こ
と を 元 朝 に 通 告 し 、 北 進 政 策 の 継 続 を 表 明 し た (14)。
高 麗 が 元 朝 統 治 か ら の 離 脱 を は じ め る な か 、 1359 年 (至 正 19 年 、 恭 愍 王 8 年 )に 紅 巾 軍
は 高 麗 を 侵 攻 し 、1361 年 (至 正 21 年 、恭 愍 王 10 年 )に 都 ケ ソ ン は 紅 巾 軍 に 占 拠 さ れ た 。恭
愍 王 は 紅 巾 軍 を 撃 破 し て 1363 年 (至 正 23 年 、 恭 愍 王 12 年 )に ケ ソ ン へ の 帰 還 を 果 た す が 、
紅巾軍侵攻後、高麗には二つの変化が生じていた。
第一には、戦乱の影響を受けて、高麗王権が不安定化したことである。恭愍王は反元政
策を志向したが、紅巾軍侵攻後に王権が不安定化したため、元朝の後ろ盾は国王 権力の維
持に必要であった。それゆえ、元朝から自由になろうとする政策の実施は難しく、露骨な
反 元 政 策 は で き な か っ た (15)。
第二には、高麗各地で有力武将の自立化が進んだ点である。なかでも東北境を地盤とし
た 李 成 桂 (朝 鮮 王 朝 の 太 祖 )は 、そ の 勢 力 を 拡 大 し て い た [池 内 宏 1915a、引 用 は 池 内 宏 1972、
29-34 頁 、 浜 中 昇 1986]。 李 成 桂 は 紅 巾 軍 の 侵 攻 に よ り 高 麗 が 混 乱 し て い た さ な か の 1360
年 (至 正 20 年 、恭 愍 王 9 年 )に 、亡 父 を 継 ぎ 咸 興 付 近 (東 北 境 )の 万 戸 と な っ た 。咸 興 近 隣 は
おもに女真人が散居する区域であった。李成桂は女真人との混住地を地盤にしたので、そ
の配下には女真人も多かった。
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高麗にとっては、女真人は生活に窮すれば高麗への侵攻を繰り返したので、女真人は悩
み の 種 で あ っ た [西 野 幸 雄 1988、蒋 秀 松 1994b])。高 麗 は 女 真 人 を 高 麗 軍 に 編 入 す る と と も
に、その村落を郡県制により把握しようとしていた。つまり、女真人を軍隊と郡県制に取
り 込 む こ と で 、 北 辺 の 安 定 化 を は か ろ う と し た の で あ る [江 原 正 昭 1963 年 ]。
明朝が故元勢力の残るマンチュリアへ侵攻するためには、高麗を味方につけておく必要
が あ っ た 。 明 朝 の 動 き は す ば や く 、 建 国 翌 年 の 1369 年 (洪 武 2 年 、 恭 愍 王 18 年 )に 、 洪 武
帝 は 恭 愍 王 を 高 麗 王 と し て 冊 封 し た (16)。洪 武 帝 は 帰 還 す る 高 麗 の 使 者 と の 問 答 の な か で 、
い ま だ 遼 東 を 平 定 し て い な い 不 安 を 述 べ て い た (17)。
恭愍王にとっても、明朝と冊封関係を結ぶことにはメリットがあった。北進政策をとる
恭愍王は、親明政策をとりつつ北方へ領域を拡大することが、高麗復興につながると考え
て い た と 思 わ れ る 。 1370 年 (洪 武 3 年 、 恭 愍 王 19 年 )、 恭 愍 王 は 鴨 緑 江 以 北 に 出 兵 し 、 遼
東 に 残 る 故 元 勢 力 に 打 撃 を 与 え 、 北 辺 の 安 定 を は か る 行 動 に で た [池 内 宏 1918b、 孫 衛 国
1997、 李 新 峰 1998]。 故 元 勢 力 で は 最 大 の ナ ガ チ ュ は 、 1362 年 (至 正 22 年 、 恭 愍 王 11 年 )
に高麗を侵攻しており、ナガチュをたたくことは恭愍王にとっても必要な措置であった
(18)。し か し 政 権 内 部 に は 親 明 派 と 親 元 派 の 対 立 が あ り 、恭 愍 王 の 王 権 は 不 安 定 で あ っ た 。
明 朝 と 高 麗 の 友 好 的 な 関 係 は 、 1372 年 (洪 武 5 年 、 恭 愍 王 21 年 )の ナ ガ チ ュ に よ る 牛 家
荘 の 攻 撃 以 後 に 崩 れ た 。 1373 年 (洪 武 6 年 、 恭 愍 王 22 年 )に 明 朝 か ら 帰 国 し た 高 麗 の 使 者
は、洪武帝の意向を伝える書簡を持ち帰った。その内容は厳しく高麗の行動を 譴責するも
の で あ り 、 以 後 遼 東 経 由 に よ る 朝 貢 は 禁 止 さ れ た (19)。 明 朝 の 高 麗 に 対 す る 態 度 変 更 を 末
松 保 和 [1941、153~ 167 頁 ]は 、洪 武 帝 は ナ ガ チ ュ に よ る 牛 家 荘 攻 撃 の 背 後 に は 高 麗 の 手 引
きがあったのではないかと疑い、高麗の使者が遼東を通過し、その状況をナガチュが知る
のを回避するためであったと解釈している。
明 朝 と 高 麗 の 関 係 が 険 悪 化 し た 翌 1374 年 (洪 武 7 年 、 恭 愍 王 23 年 )9 月 に 、 恭 愍 王 は 親
元 派 に よ り 殺 害 さ れ た 。そ し て 同 年 11 月 に は 、帰 国 す る 明 使 を 護 送 す る 高 麗 の 官 吏 が 、明
使を殺害して北元に投降するという事件が起きた。ここに洪武帝の高麗に対する不信はさ
ら に 高 ま っ た (20)。
恭愍王の後を継いだ禑王は、北元との関係改善にも注意を払った。禑王はナガチュや北
元 と も 使 者 の 往 来 を お こ な い 、1377 年 (洪 武 10 年 、禑 王 3 年 )2 月 に は 、北 元 の 年 号 (宣 光 )
を 使 う 決 定 ま で し て い た (翌 1378 年 9 月 に 再 び 洪 武 を 使 う こ と に し た )(21)。辛 禑 政 権 は 即
位 か ら 1380 年 (洪 武 13 年 、禑 王 6 年 )ご ろ ま で 、北 元 と 明 朝 と の 間 を さ ま よ っ て い た [池 内
宏 1918c、 王 剣 2006]。
そうしたなか故元勢力の明朝への投降・帰順がはじまった。大勢は故元の 後退、明朝の
拡 大 と い う 方 向 に 傾 き 、 高 麗 と 北 元 と の 往 来 も 1380 年 (洪 武 13 年 、 禑 王 6 年 )を 最 後 と し
た。禑王は北元との連携はあきらめ、明朝との関係改善を選択した。そこで明朝に新国王
としての冊封と、刺殺された恭愍王の諡号を賜ることを求めた。しかし洪武帝の不信感は
強く、逆に馬匹や金銀などの歳貢を要求して高麗の誠意を問うてきた。最終的に禑王は
1384 年 (洪 武 17 年 、禑 王 10 年 )に こ れ ま で の 歳 貢 す べ て を 進 献 し 、よ う や く 高 麗 王 と し て
の 冊 封 を 許 さ れ た 。1385 年 (洪 武 18 年 、禑 王 11 年 )、洪 武 帝 は 禑 王 を 冊 封 し 、恭 愍 王 の 死
以 来 10 年 あ ま り を 経 て 、 明 朝 と 高 麗 の 関 係 は 落 ち 着 い た (22)。
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②ナガチュの降伏以後
故元勢力の帰順が増えたこと、高麗との関係に一段落がついたことを受けて、洪武帝は
1387 年 (洪 武 20 年 、禑 王 13 年 )に ナ ガ チ ュ 掃 討 の 軍 事 行 動 を お こ し た (23)。洪 武 帝 は ナ ガ
チ ュ 掃 討 に そ な え 、軍 馬 の 供 出 を 高 麗 や 琉 球 に 要 求 し 、軍 隊 の 増 強 に 力 を 注 い で い た [金 渭
顕 1998、 蔭 木 原 洋 2008]。 明 軍 の 進 撃 に 対 し て ナ ガ チ ュ は 抵 抗 を 試 み た が 、 勝 利 は で き な
い と 判 断 し 、降 伏 し た (24)。翌 1388 年 (洪 武 21 年 、禑 王 14 年 )に は 、明 軍 は マ ン チ ュ リ ア
北 西 の ベ イ ル 湖 付 近 ま で 進 撃 し 、 北 元 勢 力 を 敗 走 さ せ た (25)。 こ の 後 、 北 元 の ト グ ス = テ
ム ル は モ ン ゴ ル 人 に 殺 さ れ 、 ク ビ ラ イ の 皇 統 は 途 切 れ た (26)。 こ こ に マ ン チ ュ リ ア に 残 っ
た北元、故元勢力は掃討された。
ナ ガ チ ュ の 降 伏 後 、 明 朝 は 領 域 の 確 定 に 乗 り 出 し 、 北 辺 に は 三 万 衛 を 置 い た 。『 明 実 録 』
に よ る と 、三 万 衛 は 1387 年 (洪 武 20 年 )12 月 に 置 か れ 、翌 1388 年 (洪 武 21 年 )3 月 に 開 原
に 移 さ れ た と あ る (27)。 最 初 の 設 置 場 所 に つ い て 『 明 実 録 』 に は 明 確 な 記 述 が な い こ と か
ら 、 そ の 場 所 が ど こ な の か 、 見 解 が わ か れ て い る (28)。
ま た 明 朝 は 高 麗 に 対 し て 、 明 朝 の 領 域 は 鉄 嶺 よ り 北 側 に す る と い う 通 達 を 出 し た (29)。
鉄嶺は咸鏡道と江原道の境あたりであり、かつて元朝が統治した範囲の南界であった。北
進政策を推進し、北辺の領域を拡大していた高麗は明朝の要求に驚いた。高麗の受け止め
方 は 、 明 朝 は 元 朝 と 同 じ 範 囲 を 要 求 し て き た と い う 理 解 で あ っ た (鉄 嶺 問 題 )[津 田 左 右 吉
1964c、1964d]。し か し 、こ の 時 の 明 朝 に 鴨 緑 江 以 南 に ま で お よ ぶ 領 域 を 確 保 す る 力 は な か
った。明朝がしたことは、鴨緑江沿岸の黄城付近で立衛の施策をしたにとどまり、そして
黄 城 で さ え も 遠 す ぎ た た め 、 鉄 嶺 衛 は 翌 1388 年 (洪 武 21 年 、 禑 王 14 年 )に 奉 集 に 移 さ れ 、
さ ら に 1393 年 (洪 武 26 年 、 太 祖 2 年 )に 鉄 嶺 へ と 移 っ た (30)。
モ ン ゴ ル 人 へ の 備 え と し て は 、 1387 年 (洪 武 20 年 )に 大 寧 都 指 揮 使 司 (大 寧 都 司 )を 設 置
し た (31)。も っ と も 大 寧 都 司 は 1401 年 (建 文 3 年 )に 保 定 へ 移 転 し た の で 、対 モ ン ゴ ル 防 衛
拠 点 と し て の 意 義 は 低 下 し た [清 水 泰 次 1918、郭 紅 2000]。と は い え 、ナ ガ チ ュ が 降 伏 し た
1387 年 (洪 武 20 年 )に 設 け ら れ た 点 を 重 視 し た い 。ま た モ ン ゴ ル 系 の ウ リ ャ ー ン ハ ン (兀 良
哈 )に 対 し て は 、 1389 年 (洪 武 22 年 )に 朶 顔 衛 (興 安 嶺 東 方 の 洮 児 河 上 流 付 近 )、 福 余 衛 (チ
チ ハ ル 付 近 )、 泰 寧 衛 (洮 南 付 近 )と い う 三 つ の 覊 縻 衛 所 (後 述 )を 設 け て 対 応 し た (32)。
以上のように明朝の統治機構が設けられるなか、高麗の政権は大きく揺れ動いていた。
禑王は明朝の冊封を受けたとはいえ、その政権内部には明朝に不満を持つ人々もいた。鉄
嶺問題が高麗に伝わると、禑王は不当な決定であると考え、高麗軍に遼東攻撃を命じた。
李 成 桂 (朝 鮮 王 朝 の 太 祖 )は 遼 東 攻 撃 を 無 謀 な 試 み だ と 考 え 、 1388 年 (洪 武 21 年 、 禑 王 14
年 )5 月 に ク ー デ タ ー を 起 こ し 、都 ケ ソ ン を 占 拠 し た 。李 成 桂 は 禑 王 を 廃 し 、高 麗 政 権 の 実
権を握った。
末 松 保 和 [1941、 192-194 頁 ]は 、 明 朝 に よ る 高 麗 圧 迫 政 策 が 鉄 嶺 問 題 に よ り 爆 発 し 、 遼
東攻撃という挙をとらせたという理解はしりぞけている。高麗政権のなかには、かねてか
ら対明屈従を続ける政権に不満を持ち、高麗再興のためには対明屈従からの脱却、遼東攻
撃 が 必 要 だ と 考 え る 人 が い た( た と え ば 崔 瑩 )。そ う し た 高 麗 政 権 内 部 の 対 立 の 延 長 上 に 遼
東 攻 撃 が 決 断 さ れ た と 考 え て い る (33)。 遼 東 攻 撃 を 決 め た 原 因 に つ い て は 見 解 が わ か れ て
いるが、ナガチュ降伏後のマンチュリア情勢が、高麗政権の動向に影響をおよぼしたこと
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は指摘できよう。
1392 年 (洪 武 25 年 )に 李 成 桂 は 朝 鮮 王 朝 を 創 設 し た が 、 洪 武 帝 は 李 成 桂 を 朝 鮮 国 王 に 冊
封することは保留し、
「 権 知 国 事 」に 任 命 す る に と ど め た 。洪 武 帝 は 高 麗 に 対 し て さ ま ざ ま
な要求をおこない、高麗を圧迫していたが、朝鮮に対してはやや突き放した対応をとった
(34)。 ナ ガ チ ュ が 降 伏 し 、 遼 東 占 領 を は た し た 後 で は 、 洪 武 帝 に と っ て 朝 鮮 の 重 要 性 は 低
下 し た か ら で あ る [末 松 保 和 1941、 209-210 頁 ]。
明朝はナガチュの降伏後、遼東各地に衛所を設置し、州県制の導入ではなく衛所による
統 治 と い う 方 法 を と っ た 。 遼 東 都 司 が 管 轄 し た 25 衛 の う ち 、 24 衛 は 洪 武 年 間 に 設 置 さ れ
た [張 勝 彦 1976](35)。 洪 武 年 間 の 北 限 は 、 三 万 衛 が 置 か れ た 開 原 で あ っ た 。 明 朝 は 1392
年 (洪 武 25 年 )と 1395 年 (洪 武 28 年 )に 開 原 以 北 へ の 出 兵 を し て い る が 、こ の 際 に は 立 衛 は
し て い な い (36)。 北 辺 の 安 全 の た め 出 兵 は し た が 、 作 戦 終 了 後 は 全 軍 す べ て 引 き 揚 げ 、 駐
屯はしなかった。
洪武帝は衛所による統治機構をつくりあげる一方、衛所に駐屯する軍士の食糧確保にも
尽 力 し た 。曹 樹 基 [1996]は 、洪 武 年 間 の 遼 東 に は 約 13 万 人 の 軍 士 が い た と し 、そ の 内 訳 は
故元勢力の軍士約3万人、謫戌による軍士約2万人、女真人や高麗人1万人、遼東土着人
の軍士2万人、関内から移動した軍士5万人と推計している。こうした軍士の食糧を、洪
武前半では屯田と海運の併用でまかなっていたことは既述したが、洪武後半になると明朝
は 海 運 へ の 依 存 を 低 め よ う と し た 。 1394 年 (洪 武 27 年 )に 洪 武 帝 は 屯 田 に よ る 自 給 に つ と
め 、 海 運 は 縮 小 す る よ う 命 令 し た (37)。 と は い え 、 遼 東 で の 農 業 生 産 は す ぐ に は 増 加 し な
か っ た の で 、 海 運 を 止 め る こ と は で き な か っ た 。 だ が 、 1397 年 (洪 武 30 年 )に は 自 給 で き
る 水 準 に ま で 農 業 生 産 は 増 え た の で 、 海 運 は お こ な わ な い こ と に し た (38)。
洪武末年になると、洪武帝は明軍出撃により北辺の安定化をはかるのではなく、防御を
固める方針をとった。その理由は、北辺に展開する明軍の状況を考えると、モンゴルと正
面 か ら 戦 っ て も 勝 算 は な い と 判 断 し て い た か ら で あ る (39)。 北 辺 防 御 の 主 体 に な っ た の は
親 王 で あ っ た 。北 辺 へ の 親 王 の 配 置 は 1397 年 (洪 武 30 年 )前 後 に は ほ ぼ 完 了 し 、
「分封親王
を 軸 と し た 分 鎮 体 制 」 と も 表 現 さ れ る 防 御 体 制 が 形 成 さ れ た [佐 藤 文 俊 1999、 38-58 頁 ]。
洪 武 帝 は マ ン チ ュ リ ア に お け る 北 元 (モ ン ゴ ル 人 )、 故 元 勢 力 の 軍 事 的 掃 討 と い う 目 的 を
はたした。その一方で、衛所設置による統治機構の形成、屯田の奨励をおこない遼東経営
の 土 台 を 固 め た (40)。 ナ ガ チ ュ の 降 伏 後 、 広 大 な 範 囲 を 統 治 下 に お さ め よ う と し た が 、 す
ぐにその不可能が明らかになり、三万衛、鉄嶺衛は当初の設置場所から撤退を余儀なくさ
れ た 。 洪 武 年 間 の 統 治 範 囲 は 、 北 は 三 万 衛 (開 原 )、 東 は 連 山 関 (41)、 西 は 大 寧 都 司 ま で で
あり、マンチュリア北部にはまだおよんでいなかった。北部にまで統 治がおよぶのは、永
楽帝が即位し、女真の招撫をはじめるまで待たなければならなかった。
(1)全 般 的 な 明 朝 に よ る 北 辺 政 策 (主 に 洪 武 期 )に つ い て は [萩 原 淳 平 1960、陳 文 石 1967、趙
立 人 1994、 胡 凡 1998、 2006]を 参 照 。
(2)『 太 祖 実 録 』 巻 52
洪 武 3 年 5 月 辛 丑 (『 明 代 満 蒙 史 料
蒙 古 篇 』 1 、 39-40 頁 。 以 下
『 史 料 蒙 古 』 と 略 す )。
(3)『 太 祖 実 録 』 巻 61
洪 武 4 年 2 月 壬 午 (『 明 代 満 蒙 史 料
『 史 料 満 洲 』 と 略 す )。
67
満 洲 篇 』 1 、 9 -10 頁 。 以 下
(4)『 太 祖 実 録 』 巻 67
洪 武 4 年 7 月 辛 亥 (『 史 料 満 洲 』 1 、 16 頁 )。
(5)『 太 祖 実 録 』 巻 66
洪 武 4 年 6 月 壬 寅 (『 史 料 満 洲 』 1 、 12-13 頁 )。
(6)『 太 祖 実 録 』 巻 76
洪 武 5 年 11 月 壬 申 (『 史 料 満 洲 』 1 、 25 頁 )。
(7)州 県 制 を 廃 し た 理 由 に つ い て 『 遼 東 志 』 は 「 控 制 諸 夷 、 非 兵 不 能 守 国 、 非 食 無 以 養 兵 、
罷 郡 県 専 置 軍 衛 」と 記 し て い る(「 遼 海 東 寧 道 題 名 記 」
『 遼 東 志 』巻 2 )。遼 東 の 州 県 廃 止
の年次については史料により記述が異なる。
『 遼 東 志 』地 理 志 は「 十 年 革 所 属 州 県 、置 衛 」
と し て 、1377 年 (洪 武 10 年 )だ と し て い る 。『 太 祖 実 録 』巻 238 洪 武 28 年 4 月 乙 亥 (『 史
料 満 洲 』 1 、 135 頁 )と 『 明 史 』 巻 41 地 理 志 2 は 、 金 州 な ど の 州 撤 廃 は 1395 年 (洪 武 28
年 )だ と し て い る [清 水 泰 次 1935、 131-133 頁 。 和 田 清 1934、 330 頁 注 26 も 参 照 ]。
(8)近 年 の 研 究 で は 、内 地 に 置 か れ た 衛 所 も 軍 事 組 織 で あ る と 同 時 に 、州 県 と 同 様 に 管 轄 領
域 を 持 ち 、 地 方 行 政 的 な こ と を し た こ と が 指 摘 さ れ て い る [顧 誠 1989、 鄭 慶 平 2007、 于
志 嘉 2009]。
(9)『 太 祖 実 録 』 巻 87
洪 武 7 年 正 月 乙 亥 (『 史 料 満 洲 』 1 、 34 頁 )。
(10)『 遼 東 志 』巻 5 、 官 師 志 、 名 宦「 周 鶚 」。 こ の 時 の 出 兵 に 関 す る 記 事 は『 明 実 録 』に は
ない。
(11)『 太 祖 実 録 』 巻 135
洪 武 14 年 正 月 辛 亥 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 149 頁 )。
(12)『 太 祖 実 録 』巻 137
洪 武 14 年 4 月 壬 午 。同 巻 138
洪 武 14 年 7 月 甲 午 (『 史 料 満 洲 』
1 、 58-59 頁 )。
(13)『 太 祖 実 録 』 巻 142
(14)『 高 麗 史 』 巻 39
洪 武 15 年 2 月 壬 戌 (『 史 料 満 洲 』 1 、 61 頁 )。
恭愍王 6 年8月。
(15)デ イ ビ ッ ト ゙・ ロ ビ ン ソ ン [2007、 167、 171 頁 ]は 恭 愍 王 の 対 外 政 策 を 改 め て 考 察 し 、
反元という方針一辺倒ではなく、
「 国 内 的 に も 対 外 的 に も 柔 軟 な 、あ る 意 味 で は 日 和 見 主
義 的 な 態 度 で 臨 み 」、「 で き る だ け 多 く の 選 択 肢 を 持 と う と 努 力 」 し て い た と 解 釈 し て い
る 。 し か し 、 恭 愍 王 の 政 策 が 反 元 の み で は 解 釈 で き な い こ と は 、 す で に 北 村 秀 人 [1964、
52-55 頁 ]が 征 東 行 省 (元 朝 の 高 麗 統 治 機 関 )を 廃 止 し な か っ た 点 を 論 拠 に 指 摘 し て い る 。
(16)『 太 祖 実 録 』 巻 44
洪武2年8月丙子。
(17)『 太 祖 実 録 』 巻 46
洪 武 2 年 10 月 壬 戌 。
(18)『 高 麗 史 』 巻 40
恭 愍 王 11 年 2 月 己 卯 。
(19)『 高 麗 史 』 巻 44
恭 愍 王 22 年 7 月 壬 午 。
(20)『 太 祖 実 録 』 巻 116
(21)『 高 麗 史 』 巻 133
洪 武 10 年 12 月 。 同 巻 145
洪 武 15 年 5 月 丁 巳 。
辛禑3年2月。
(22)『 太 祖 実 録 』 巻 174
洪 武 18 年 7 月 甲 戌 。
(23)『 太 祖 実 録 』 巻 180
洪 武 20 年 正 月 癸 丑 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 162-163 頁 )。
(24)『 太 祖 実 録 』 巻 182
洪 武 20 年 6 月 丁 未 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 167-168 頁 )。
(25)『 太 祖 実 録 』 巻 189
洪 武 21 年 3 月 甲 辰 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 191 頁 )。
(26)『 太 祖 実 録 』 巻 194
洪 武 21 年 10 月 丙 午 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 204 頁 )。
(27)『 太 祖 実 録 』 巻 187 洪 武 20 年 12 月 庚 午 、 同 巻 189 洪 武 21 年 3 月 辛 丑 (『 史 料 満 洲 』
1 、 94、 97-98 頁 )。
(28)池 内 宏 [1915b]は 三 姓 (依 蘭 )付 近 を 主 張 し て い る 。 董 万 侖 [1995]は 池 内 説 を 批 判 し て 、
68
会 寧 に 設 置 さ れ た と 主 張 す る 。 李 学 智 [1956]、 楊 暘 [1980]は 琿 春 付 近 に 置 か れ た 主 張 し
ている。
(29)『 太 祖 実 録 』巻 187
洪 武 20 年 12 月 壬 申 (『 史 料 満 洲 』1、 94-95 頁 )。鉄 嶺 の 位 置 に
つ い て は 諸 説 が あ り 、池 内 宏 [1918a]は 鴨 緑 江 岸 の 黄 城 、稲 葉 岩 吉 [1934]は 平 安 北 道 の 江
界 で は な い か と し て い る 。和 田 清 [1934、315-320 頁 ]、末 松 保 和 [1941、190 頁 ]、張 杰 [2003]
は咸鏡道と江原道の境あたりだとしている。本稿では和田清らの主張する、咸鏡道と江
原道の境あたりであったという見解をとりたい。
(30)『 太 祖 実 録 』 巻 189
洪 武 21 年 3 月 辛 丑 、 同 巻 227
洪 武 26 年 4 月 壬 午 (『 史 料 満 洲
篇 』 1 、 97、 122 頁 )。
(31)『 太 祖 実 録 』 巻 184
洪 武 20 年 8 月 辛 未 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 178 頁 )。
(32)『 太 祖 実 録 』 巻 196
洪 武 22 年 5 月 辛 卯 (『 史 料 蒙 古 篇 』 1 、 208 頁 )。
(33)張 輝 [2003]も 高 麗 政 権 内 部 の 対 立 が 出 兵 を 決 め た 点 を 主 張 し て い る 。 姜 陽 [2006]、 張
杰 [2004]は 、 明 朝 に よ る 鉄 嶺 以 北 の 要 求 に 高 麗 が 反 発 し た た め だ と 述 べ て い る 。
(34)例 え ば 1398 年 (洪 武 31 年 )に 、 五 軍 都 督 府 と 兵 部 が 朝 鮮 の 討 伐 を 主 張 し た こ と に 対 し
て、まず礼部を通じてその改悛をうながし、それから討伐を考えてもおそくないと答え
て い る (『 太 祖 実 録 』 巻 257
洪 武 31 年 4 月 庚 辰 )。
(35)各 衛 の 設 置 年 代 は 史 料 に よ り 異 な る こ と も あ る 。
『 明 実 録 』、
『 明 史 』な ど の 各 種 史 料 を
考 証 し 、設 置 年 度 を 検 討 し た 研 究 に は 以 下 が あ る [朱 誠 如 1980、楊 暘 1980、徐 桂 榮 1992、
馮 季 昌 1998]。
(36)『 太 祖 実 録 』巻 220
洪 武 25 年 8 月 庚 申。同 巻 236
洪 武 28 年 正 月 甲 子。同 巻 239
洪
武 28 年 6 月 辛 巳 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 228 頁 、『 史 料 満 洲 』 1 、 132 頁 、 137 頁 )。
(37)『 太 祖 実 録 』 巻 233
洪 武 27 年 6 月 戊 寅 (『 史 料 満 洲 』 1 、 129 頁 )。
(38)『 太 祖 実 録 』巻 255
洪 武 30 年 10 月 戊 子 (『 史 料 満 洲 』1、 157 頁 )。 洪 武 年 間 の 水 運
に つ い て は 、[清 水 泰 次 1928、219-226 頁 。星 斌 夫 1963、1-15 頁 。樊 金 華、2008]を 参 照 。
(39)『 太 祖 実 録 』 巻 253
洪 武 30 年 6 月 庚 寅 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 251-254 頁 )。
(40)和 田 清 [1934、 321 頁 ]が 「 洪 武 一 朝 の 満 洲 経 略 は 此 の 地 に 於 け る 元 朝 の 勢 力 を 覆 へ す
ことをのみ目的としたと云ひ得る」と述べているのは、やや言いすぎだと考える。
(41)張 士 尊 [2002、59 頁 ]は『 太 祖 実 録 』巻 229
洪 武 26 年 7 月 辛 亥 と『 太 祖 実 録 』巻 230
洪 武 26 年 11 月 丙 辰 の 記 事 に 着 目 し 、 こ の 時 に 連 山 関 が 設 け ら れ 、 こ れ よ り 内 側 へ の 朝
鮮人の入境は禁止されたと解釈した。つまり、洪武帝は連山関を遼東の東端とみなして
いたという見解を主張している。筆者もこの見解に同意したい。
3
永楽帝によるマンチュリア政策
永楽帝は洪武帝が末年にとっていた防御重視の方針を転換し、マンチュリアに明朝の統
治力を拡大する試みをおこなった。永楽帝は洪武年間に統治力がおよんだ遼東をこえて、
マ ン チ ュ リ ア 北 部 、東 部 、西 部 に 明 朝 の 勢 力 を の ば し た [黄 文 沁 1981]。以 下 で は 、女 真 の
招 撫 (北 部 )、 朝 鮮 と の 関 係 調 整 (東 部 )、 モ ン ゴ ル 情 勢 の 影 響 (西 部 )に 分 け て 、 永 楽 年 間 の
特徴について考察したい。
69
① 女真の招撫
永楽帝は即位後すぐに女真の招撫をおこなった。
『 明 実 録 』に は 記 載 さ れ て い な い が 、
『殊
域 周 咨 録 』 [中 華 書 局 、 1993、 733 頁 (原 本 は 1583 年 刊 行 )]に は 1403 年 (永 楽 元 年 )に 邢 枢
が黒龍江下流域に派遣され、女真の招撫をしたとある。女真の反応もはやく、同年5月に
は 女 真 の 首 長 が 来 朝 し た (1)。 同 年 11 月 に は ア ハ チ ュ (阿 哈 出 )が 来 朝 し 、 建 州 衛 指 揮 使 に
任 命 さ れ 、女 真 の 首 長 が 初 め て 衛 所 の 長 と な っ た (2)。以 後 、来 朝 す る 女 真 は 絶 え ず 、マ ン
チ ュ リ ア 北 部 に は 続 々 と 衛 所 が 設 け ら れ た [楊 暘 1982、 榎 森 進 2008]。
明代の史書に記述される「女真」という語句には、広義と狭義との区別がある 。明朝は
建 州 女 真 、海 西 女 真 、野 人 女 真 の 区 分 を 使 っ た が [増 井 寛 也 1996]、朝 鮮 の 史 書 は 女 真 、兀
良哈、兀狄哈などと記述している。これらは狭義の女真を指す。広義には、マンチュリア
に暮らすツングース系諸民族の総称とも解釈でき、後の満洲族の祖先だけを指す語句では
な か っ た [愛 新 覚 羅 烏 拉 煕 春 2009、 4 、 28 頁 ]。
永楽帝による招撫以前において、マンチュリア北部に暮らした女真がいかなる状況であ
ったかについては、史料不足のためよくわからない。しかしながら、 元末から明初にかけ
てマンチュリア北部では、ナガチュなどの故元勢力 が衰退し、その圧迫下にあった諸集団
が 自 立 化 す る 社 会 変 動 が 生 じ て い た と 推 測 さ れ る [河 内 良 弘 1992、 36-37 頁 ]。
建州衛の長のアハチュや建州左衛の長のモンケテムルらは、元末には三姓近隣の馬大屯
と い う 場 所 に い た と 考 証 さ れ て い る (3)。と こ ろ が 、元 末 明 初 の 社 会 変 動 を 受 け 、彼 ら は 南
下 を 余 儀 な く さ れ た 。 モ ン ケ テ ム ル は 兀 狄 哈 (兀 者 野 人 ? )の 圧 迫 を 受 け 、 1385 年 (洪 武 18
年 )ご ろ 朝 鮮 東 北 境 の 吾 音 会 (会 寧 )へ 移 動 し た ら し い (4)。 ア ハ チ ュ の 移 動 経 路 に つ い て は
不 明 だ が 、1403 年 (永 楽 元 年 )に は 輝 発 河 上 流 の 鳳 州( 山 城 鎮 付 近 )に 移 動 し て い た [(河 内
良 弘 1992、 142-143 頁 ]。
永楽帝は来朝した女真の首長に武職を授け、明朝の軍制組織である衛所の長に任じた。
しかし女真により組織された衛所は、遼東に設置された衛所とは異なる点があった。第一
に、明朝は首長が持つ特権を承認して衛所の運営をまかせ、その女真集団の統治に直接関
与することはなかった。第二に、衛所の構成員に軍事的義務はなかった。第三に、首長は
衛 所 官 と し て の 職 官 を 与 え ら れ た が 、俸 禄 は 支 給 さ れ な か っ た [江 嶋 壽 雄 1950、17 頁 ]。こ
うした特徴を持つ衛所は覊縻衛所と呼ばれており、明朝軍制の基本組織である衛所とは区
別 さ れ て い る [蒋 秀 松 1992、彭 建 英 2004]。明 朝 は 基 本 的 に は 来 朝 す れ ば 官 職 を 授 け 、衛 所
の 長 に 任 命 す る 方 針 を と っ て い た (5)。
女真の首長にとって、覊縻衛所に組織されることは大きな意味を持っていた。首長は明
朝から勅書、印璽を与えられ、衛所の長に任命された。この勅書は朝貢する際に、衛所の
長であることを証明するものであり、勅書がなければ朝貢は認められなかった。つまり勅
書は、衛所の長に任命された辞令であるとともに、朝貢する資格の証明書とも表現できる
ものであった。勅書を得た女真の首長は、朝貢により、さらには馬市での取引により、大
きな経済的利益を獲得した。
以上、①明朝が直接統治するではなく、女真の首長を衛所の長に任命して統治する、②
衛所の長には勅書を与えて朝貢、馬市での取引を認めるという、明朝が実施していた措置
を覊縻衛所制度と呼ぶことにする。
70
永楽年間におこなわれた女真の覊縻衛所制度への組み込みは、洪武年間において元朝に
従っていた女真が明朝に投降、帰服したこととは、政治的、経済的な意義が異なる点を主
張したい。
覊 縻 衛 所 の 設 立 が す す め ら れ る な か 、 明 朝 は 1409 年 (永 楽 7 年 )に 奴 児 干 都 指 揮 使 司 (以
下 、ヌ ル ガ ン 都 司 )の 設 置 を 決 定 し た (6)。そ し て 1411 年 (永 楽 9 年 )に イ シ ハ (亦 失 哈 )の 率
いる兵団が、松花江、黒龍江を下りながら女真を招撫し、黒龍江右岸のティルにヌルガン
都司を開設した。
ヌルガン都司の機能は遼東都司とは大きく相違した。その設置目的は招撫であり、ヌル
ガン一帯の直接統治をおこなう機関ではなかった。イシハらが派遣され、ヌルガン都司に
滞在した期間は統治的機能を果たしていたが、その撤収後は常駐的な官吏はいなかったと
考えられる。それゆえ、統治機能を維持するためには派遣活動を続 ける必要があり、派遣
中 止 は 機 能 停 止 、 名 目 化 を 意 味 し た [杉 山 清 彦 2008、 114-115 頁 ]。
ヌルガン都司の特徴として、恒常的な統治をおこなう行政機構ではなかった点と、その
運営に携わった人たちにも特徴があった点を指摘したい。第一に、明朝に出仕した女真や
モ ン ゴ ル 人 と い う 非 漢 人 が そ の 運 営 に 携 わ っ た こ と 、 第 二 に 、 内 廷 (宦 官 )と 武 官 が 主 体 と
な り 運 営 さ れ た 、 と い う 点 で あ る [杉 山 清 彦 2008、 128-129 頁 ]。
永楽帝はヌルガン都司の設置とともに、その近接地に永寧寺を建設した。これは、おそ
らく明朝の権威がヌルガンにまでおよんでいることを示すためであったと考えられる。永
楽 帝 は か か る 寺 院 建 設 を 、 マ ン チ ュ リ ア 東 部 の 長 白 山 方 面 で も し て い た 。 1417 年 (永 楽 15
年 ) に 永 楽 帝 は 張 信 を 長 白 山 方 面 に 派 遣 し 、 寺 院 の 建 設 を お こ な わ せ た [ 和 田 清 1937 、
421-424 頁 。池 内 宏 1916-20、引 用 は 1972、140-147 頁 。楊 暘 1995]。永 楽 帝 は マ ン チ ュ リ
アの北辺と東辺に寺院を建設して、女真を慰撫する拠点にしていただけでなく、明朝の勢
力 が お よ ぶ 範 囲 を 示 し て い た と 指 摘 し た い [杉 山 清 彦 2008、 121-127 頁 ]。
② 朝鮮との関係調整
洪 武 帝 は 朝 鮮 の 太 祖 (李 成 桂 )を 朝 鮮 国 王 に 冊 封 す る こ と は 保 留 し て い た が 、 永 楽 帝 は 即
位 後 す ぐ に 、朝 鮮 へ 金 印・誥 命 を 渡 し 、太 祖 を 朝 鮮 国 王 に 封 じ た (7)。こ こ に 、明 朝 は 朝 鮮
を冊封し、朝鮮は明朝に事大を尽くすという関係性が正式に出来上がった。朝鮮朝廷は明
朝との関係が「正常化」したことに安心したが、女真をめぐる問題が持ち上がり、難しい
状況下に置かれた。
永楽帝は即位後すぐに女真の招撫をはじめたことは既述したが、朝鮮に対してもそのこ
と を 通 知 し て い た (8)。永 楽 帝 か ら 女 真 招 撫 の 勅 諭 を 受 け た 朝 鮮 は 、対 応 に 苦 慮 し た 。そ の
理由は、元朝崩壊後、鴨緑江周辺の明朝と朝鮮の境域は政治的空白地となっており、そう
した状況を高麗・朝鮮は利用して、北進政策をすすめるとともに女真の覊縻、懐柔をして
い た か ら で あ る 。 と く に 李 成 桂 の 権 力 掌 握 後 (1388 年 、 洪 武 21 年 )、 北 辺 の 女 真 の な か に
は 李 成 桂 を 慕 い 、 方 物 の 献 上 に 来 く る も の が い た (9)。 来 朝 し た 女 真 に 対 し て 、 太 祖 (李 成
桂 )は 万 戸 、千 戸 の 職 を 与 え る な ど の 覊 縻 政 策 を お こ な っ て い た (10)。朝 鮮 に と っ て 女 真 へ
の覊縻政策は、北辺の安定を保つために必要な政策であったが、永楽帝の女真招撫とは並
存できない政策でもあった。
71
また領域問題も再度浮上した。洪武年間に明朝は鴨緑江までの確保を試みたが、それは
できず、鉄嶺衛は撤退を余儀なくされたことは既述したが、永楽帝の女真招撫により、鴨
緑江周辺にも明朝の影響力がおよぶことになった。朝鮮は「公嶮鎮」以南の領有を永楽帝
に 対 し て 主 張 し た (11)。 永 楽 帝 は 朝 鮮 の 主 張 を 認 め 、 朝 鮮 と 領 域 確 定 で 争 う 選 択 は し な か
っ た (12)。
永楽帝は金印・誥命の授与、領域の確定という案件では朝鮮に寛大であったが、他方で
は 朝 鮮 に 要 求 も し て い た 。そ の 内 容 は 、対 モ ン ゴ ル 戦 に 必 要 な 馬 匹 の 献 上 [北 島 万 次 1995、
荷 見 守 義 2002]、マ ン チ ュ リ ア で の 農 業 振 興 に 必 要 な 耕 牛 の 献 上 [(川 越 泰 博 1986]、遼 東 か
ら 朝 鮮 に 流 入 し た 人 々 の 返 還(「 漫 散 軍 」と 呼 ば れ た )[末 松 保 和 1941、249-264 頁 ]な ど が
あげられる。こうした要求に、朝鮮もできるだけ応じる姿勢を示していた。
永楽帝が女真の招撫をおこなったことから、それまで朝鮮に入朝していた女真のなかに
は 、明 朝 に 入 朝 す る も の が 出 て い た 。1405 年 (永 楽 3 年 、太 宗 5 年 )以 降 、朝 鮮 東 北 境 の 女
真 は 明 朝 へ の 入 朝 を は じ め 、 モ ン ケ テ ム ル も 1405 年 (永 楽 3 年 )か 1406 年 (永 楽 4 年 )に 明
朝 へ 入 朝 し 、建 州 衛 都 指 揮 使 に 任 命 さ れ た [河 内 良 弘 1992、49~ 50 頁 ]。こ こ に モ ン ケ テ ム
ルは明朝の官職を得て、その臣となったので、朝鮮との関係を続けることはできなくなっ
た。明朝から見て、女真のモンケテムルも朝鮮も同じ朝貢者であり、明朝は朝貢するもの
同士が互いに通交することは認めていなかった。明朝-女真、明朝-朝鮮という関係性は
存在したが、女真-朝鮮という関係性は、明朝の冊封関係には存在しなかった。
永楽帝が推進したマンチュリアでの冊封関係の形成により、朝鮮は女真に対する方針の
変 更 を 余 儀 な く さ れ 、 女 真 と の 通 交 を 縮 小 す る 方 向 性 を と っ た 。 1406 年 (永 楽 4 年 、 太 宗
6 年 )に は 女 真 と の 交 易 の 場 で あ っ た 慶 源 市 を 閉 鎖 し た (13)。ま た こ の 年 に は 、明 朝 に 派 遣
さ れ る 使 臣 が 、遼 東 で 私 交 す る こ と も 禁 止 し た (14)。翌 1407 年 (永 楽 5 年 、太 宗 7 年 )に は 、
青 州 以 北 を 往 来 す る 人 物 に は 印 信 の 取 得 を 義 務 づ け て 、 そ の 往 来 を 制 限 し た (15)。 朝 鮮 北
辺 と 遼 東 と の 交 易 は 洪 武 年 間 に は お こ な わ れ て い た が [須 川 英 徳 2000、 76-77 頁 ]、 永 楽 年
間には明朝による女真招撫、女真と朝鮮の私交禁止という新たな事態を受けて、相互の交
易は縮小していたと指摘できよう。
交易縮小は、朝鮮との交易に依存することが深かった女真の生計を脅かした。女真のな
か に は 交 易 の 縮 小 を 、掠 奪 に よ り 補 う も の も あ ら わ れ た 。女 真 の 掠 奪 に 手 を 焼 い た 朝 鮮 は 、
1410 年 (永 楽 8 年 、 太 宗 10 年 )に 軍 隊 を 東 北 境 に 派 遣 し 、 モ ン ケ テ ム ル ら 女 真 を 攻 撃 、 懲
罰 す る 行 動 に で た [河 内 良 弘 1992、 54-57 頁 ]。 攻 撃 を 受 け た モ ン ケ テ ム ル は 、 朝 鮮 と の 関
係 改 善 は 難 し い と 判 断 し 、 1411 年 (永 楽 9 年 、 太 宗 11 年 )に 鳳 州 ( 山 城 子 付 近 ) へ と 移 動
し、朝鮮との軋轢を回避する行動を選択した。
朝鮮は軍事行動により女真の脅威を除くことに成功したが、朝鮮が攻撃したモンケテム
ルは明朝の官職を持つ臣でもあったので、明朝への説明が必要であった。朝鮮は明朝に対
して、この攻撃は「国家之命」ではなく「辺将」がしたものと説明し、朝鮮朝廷の決定で
は な か っ た こ と を 主 張 し た (16)。
明 朝 と 朝 鮮 は 冊 封 関 係 を 取 り 結 ん で い た た め 、国 家 レ ベ ル で の 対 応 (例 え ば 、馬 匹 や 耕 牛
の 献 上 な ど )で は 、朝 鮮 は 明 朝 の 要 求 に 応 じ る 姿 勢 を 示 し て い た 。し か し な が ら 北 辺 の 安 定
確保という地域レベルの問題では、朝鮮は明朝が冊封する女真への攻撃を敢えておこなう
72
選 択 を し て い た 。 む ろ ん 、 明 朝 へ は 周 到 に 練 ら れ た 弁 明 を し て は い た が 、「 明 朝 へ の 事 大 」
よりも北辺安定を優先していたのである。太宗以後も女真の北辺での跳梁はやまず、朝鮮
は北辺の安定化をはかるために、
「 明 朝 へ の 事 大 」と「 女 真 の 覊 縻 」と い う 両 立 が 難 し い 問
題に悩まされた。かかる問題が生じた震源は、永楽帝によるマンチュリア政策にもとめら
れる。
③モンゴル情勢の影響
永楽帝のモンゴルへの対応は、即位後すぐに対応した女真や朝鮮にくらべて、迅速では
な か っ た (17)。
1408 年 (永 楽 6 年 )に 永 楽 帝 は 、モ ン ゴ ル 高 原 で 勢 力 を 伸 張 し て い た オ ル ジ ェ イ・テ ム ル
(本 雅 失 里 )に 朝 貢 を う な が し た (18)。そ し て 翌 1409 年 (永 楽 7 年 )に 使 者 を 派 遣 し た が 、オ
ル ジ ェ イ ・ テ ム ル は そ の 使 者 を 殺 害 し 、 明 朝 へ の 敵 対 姿 勢 を 示 し た (19)。 こ こ に 永 楽 帝 は
モンゴル遠征軍の派遣を決め、丘福を征虜大将軍に任命した。ところが丘福の率いる明軍
は 大 敗 し て し ま っ た 。こ の た め 永 楽 帝 は 親 征 の 決 断 を 下 し 、1410 年 (永 楽 8 年 )に モ ン ゴ ル
高原に出撃した。
永楽帝によるモンゴル攻撃はマンチュリア情勢にも影響を与え、女真や朝鮮の動向を左
右 し た 。朝 鮮 は 1409 年 (永 楽 7 年 、太 宗 9 年 )に 丘 福 が お こ な っ た モ ン ゴ ル 攻 撃 に つ い て 探
知しており、明朝が敗れればモンゴルが朝鮮北辺にまで侵攻してくることを警戒していた
(20)。 そ し て 、 丘 福 が 敗 れ て 永 楽 帝 が 親 征 に 乗 り 出 し 、 明 朝 の 関 心 が モ ン ゴ ル 情 勢 に 傾 く
なか、既述したが、朝鮮は女真への攻撃をおこない、軍事行動により北辺の安定化をはか
った。朝鮮が女真攻撃に踏み切るにあたって、どれだけモンゴル情勢を勘案したのか、詳
細を記述する史料はない。とはいえ、モンゴル遠征による明朝の圧力低下に、朝鮮が乗じ
て 出 兵 し た の で は な い か と い う 、そ の 関 係 性 の 指 摘 は こ れ ま で も さ れ て き た [和 田 清 1937、
409 頁 。 末 永 保 和 1941、 263-264 頁 ]。
永 楽 帝 は 1410 年 (永 楽 8 年 )の 第 一 次 モ ン ゴ ル 親 征 か ら 、 死 去 す る 1424 年 (永 楽 22 年 )
ま で 、五 回 に お よ ぶ モ ン ゴ ル 親 征 を お こ な っ て お り 、1410 年 (永 楽 8 年 )以 降 の 関 心 は モ ン
ゴル政策にあったと考えられる。
表1は、楊暘らが明らかにしたヌルガン都司管轄下における覊縻衛所を、設置年次ごと
に カ ウ ン ト し た も の で あ る (21)。こ れ に よ る と 永 楽 4 年 は 35 箇 所 と 最 も 多 く 、永 楽 7 年 ま
で 多 数 の 覊 縻 衛 所 が 設 置 さ れ た こ と を 示 し て い る 。永 楽 16 年 -22 年 の 間 は 、覊 縻 衛 所 は 設
置されていない。こうしたヌルガン都司管轄下の覊縻衛所の設置年代から、永楽7年には
女真の有力集団の覊縻衛所制への編入、女真の招撫は一段落ついたので、以後はモンゴル
政策に力点を移したという解釈はできないだろうか。もとより、永楽帝によるモンゴル政
策は明帝国の推移全体のなかから、その位置づけを解釈する必要はあるが、筆者はヌルガ
ン都司管轄下の覊縻衛所設置とのかかわりから、以上のような仮説を主張したい。
1421 年 (永 楽 19 年 )か ら 翌 1422 年 (永 楽 20 年 )に か け て 、 モ ン ゴ ル の タ タ ル 部 は 遼 東 を
侵 攻 し 、 遼 東 は 混 乱 に 陥 っ た [河 内 良 弘 1992、 59-60 頁 ]。 モ ン ゴ ル の 脅 威 が 遼 東 に お よ ん
だことに、女真は不安を感じた。鳳州(山城子付近)に移動していたモンケテムルはモン
ゴ ル の 侵 攻 を 警 戒 し 、 1423 年 (永 楽 21 年 )に 再 び 朝 鮮 東 北 境 の 会 寧 に 移 動 し た 。 建 州 衛 の
73
李 満 住 (ア ハ チ ュ の 孫 )も 、 1424 年 (永 楽 22 年 )に 鳳 州 か ら 鴨 緑 江 支 流 の 婆 猪 江 流 域 へ 移 動
した。こうした女真の有力集団の朝鮮北辺への移動により、再び女真と朝鮮との間には紛
糾 が 生 じ て し ま っ た [河 内 良 弘 1992、 60-62 頁 、 143-144 頁 ]。
(1)『 太 宗 実 録 』 巻 19 下
(2)『 太 宗 実 録 』 巻 24
永 楽 元 年 5 月 乙 未 (『 史 料 満 洲 』 1 、 175 頁 )。
永 楽 元 年 11 月 辛 丑 (『 史 料 満 洲 』 1 、 181 頁 )。
(3)箭 内 亙 [1913、 414 頁 ]。 池 内 宏 [1916-20、 引 用 は 1972、 87-89 頁 ]。 和 田 清 [1937、 380
頁 ]。河 内 良 弘 [1992、34 頁 ] (馬 大 屯 を 支 持 し な が ら も 、疑 問 点 に つ い て も 述 べ て い る )。
考 古 学 的 に 「 馬 大 屯 説 」 が 確 認 さ れ た と い う 報 告 が 出 さ れ て い る [実 瑋 2002]。 し か し 、
滕 紹 箴 [2010、 2011]は 「 馬 大 屯 説 」 へ の 批 判 を 展 開 し て い る 。
(4)『 朝 鮮 実 録
太宗実録』巻9
太 宗 5 年 5 月 庚 戌 (『 明 代 満 蒙 史 料
李朝実録抄』1、
166-167 頁 。 以 下 『 史 料 李 朝 』 と 略 )。
(5)『 宣 宗 実 録 』 巻 58
宣 徳 4 年 9 月 丙 午 (『 史 料 満 洲 』 1 、 424 頁 )。
(6)『 太 宗 実 録 』 巻 62
永 楽 7 年 閏 4 月 己 酉 (『 史 料 満 洲 』 1 、 235 頁 )。
(7)『 太 宗 実 録 』 巻 16
永楽元年2月甲寅。
(8)『 朝 鮮 太 宗 実 録 』 巻 5
太 宗 3 年 6 月 己 酉 (『 史 料 李 朝 』 1 、 139 頁 )。
(9)例 え ば 、後 に 明 朝 か ら 建 州 左 衛 の 長 に 任 じ ら れ る モ ン ケ = テ ム ル は 1395 年 (洪 武 28 年 、
太 祖 4 年 )に 朝 鮮 に 来 朝 し て い た (『 朝 鮮 太 祖 実 録 』巻 8
太祖4年9月己巳。
『史料李朝』
1 、 66 頁 )。
(10)
『 朝 鮮 太 祖 実 録 』巻 8
太 祖 4 年 12 月 癸 卯 (『 史 料 李 朝 』 1 、 67-70 頁 )。 北 島 万 次
[1996、 166~ 168 頁 ]。
(11)
『 朝 鮮 太 宗 実 録 』巻 7
太 宗 4 年 5 月 己 未 (『 史 料 李 朝 』1、149-151 頁 )。「 公 嶮 鎮 」
という地名は、朝鮮がその領域を広大に示すために作った虚構の地名であったことは、
戦 前 以 来 指 摘 さ れ て い る [津 田 左 右 吉 1964e、池 内 宏 1919、蒋 秀 松 1997b、劉 子 敏 2003]。
(12)『 朝 鮮 太 宗 実 録 』 巻 8
太 宗 4 年 10 月 己 巳 (『 史 料 李 朝 』 1 、 154 頁 )。
(13)閉 鎖 に 対 す る 女 真 の 反 対 は 強 く 、鉄 製 品 の 取 引 は 禁 止 と い う 条 件 で 再 開 さ れ た [河 内 良
弘 1992、 52 頁 ]。
(14)『 朝 鮮 太 宗 実 録 』 巻 11
太 宗 6 年 正 月 己 未 (『 史 料 李 朝 』 1 、 184 頁 )。
(15)『 朝 鮮 太 宗 実 録 』 巻 14
太 宗 7 年 9 月 丁 丑 (『 史 料 李 朝 』 1 、 217-218 頁 )。
(16)『 朝 鮮 太 宗 実 録 』 巻 19
太 宗 10 年 3 月 壬 辰 (『 史 料 李 朝 』 1 、 264-265 頁 )。
(17)永 楽 帝 に よ る モ ン ゴ ル 政 策 に つ い て は 、[和 田 清 1932、松 本 隆 晴 2001、谷 井 陽 子 2009]
を参照。
(18)『 太 宗 実 録 』 巻 55
永 楽 6 年 3 月 辛 酉 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 335-337 頁 )。
(19)『 太 宗 実 録 』 巻 64
永 楽 7 年 6 月 辛 亥 (『 史 料 蒙 古 』 1 、 347 頁 )。
(20)『 朝 鮮 太 宗 実 録 』 巻 18 8 月 壬 戌 (『 史 料 李 朝 』 1 、 241 頁 )。
(21)ヌ ル ガ ン 都 司 管 轄 下 の 覊 縻 衛 所 の 設 置 年 次 は 、
『 大 明 会 典 (万 暦 )』巻 125 や『 明 史 』巻
90 兵 志 2 に も 記 述 は あ る が 、 楊 暘 [1982]ら の 研 究 に 依 拠 し た 。
74
おわりに
洪武帝は北元・故元勢力をマンチュリアから駆逐し、遼東都司を設けて衛所制度による
統治をおこなった。しかしながら、衛所が設けられた場所は開原ぐらいまであ り、開原以
北にまで統治機構を拡大することはできなかった。永楽帝は女真の招撫を積極的におこな
い、来朝した女真は羈縻衛所制度に組み入れた。そして、ヌルガン都司を設けて朝貢に来
る女真を管轄した。
ここに明朝は、遼東都司管轄地は衛所制度により、ヌルガン都司管轄地は覊縻衛所制度
による統治機構を樹立した。明朝はマンチュリアを均質的には統治していなかったことを
強 調 し た い 。ま た 、明 朝 は 遼 東 で は 屯 田 を お こ な い 、人 を 常 住 さ せ る 政 策 を お こ な っ た が 、
ヌルガン地区へは元朝がしたような屯田政策や犯罪者の流刑など、人を長期的に定住させ
よ う と す る 試 み は し な か っ た [中 村 和 之 2008、 54-55 頁 ]。 む し ろ 明 朝 は 、 遼 東 か ら の 出 境
は 禁 止 す る 政 策 を と っ て い た (1)。こ の 点 か ら も 、明 朝 は 遼 東 と ヌ ル ガ ン 地 区 を 同 一 視 し て
いなかったことが見てとれる。
紅巾軍の侵攻、元朝の崩壊によりマンチュリアは混乱に陥ったが、洪武帝、永楽帝によ
り新たな地域秩序がつくられ、遼東は衛所制度による統治し、ヌルガン地区の女真とは覊
縻 衛 所 制 度 に よ り 管 轄 し 、朝 鮮 、モ ン ゴ ル と は 冊 封 関 係 で 対 応 し て い た と ま と め ら れ よ う 。
永楽帝の死去、洪煕帝の短命な治世を経て、宣徳帝が即位した。宣徳帝は 、マンチュリ
ア政策については祖父永楽帝の方針を延長していた。女真の朝貢は無制限に受け入れると
と も に 、ヌ ル ガ ン 都 司 維 持 の た め に イ シ ハ を 二 回 派 遣 し た [江 嶋 壽 雄 1953]。し か し な が ら 、
永楽帝の方針遵守は財政的に難しくなった。宣徳帝についで即位した正統帝は、即位後す
ぐ に 遼 東 総 兵 官 、遼 東 都 司 ら に 造 船 や 運 糧 の 停 止 を 命 令 し た (2)。こ れ に よ り 、正 統 帝 は ヌ
ルガン都司の維持を放棄したと解釈できる。さらに女真らの朝貢を制限する政策をおこな
い 、 永 楽 年 間 に つ く ら れ た 覊 縻 衛 所 制 度 は 変 容 し て い っ た (3)。 そ の 変 容 過 程 に つ い て は 、
次章で考察したい。
(1)『 太 宗 実 録 』巻 143
巻 204
1413 年 永 楽 11 年 9 月 丙 申 (『 史 料 満 洲 』1、267 頁 )、『 太 宗 実 録 』
1418 年 永 楽 16 年 9 月 戊 申 (『 史 料 満 洲 』 1 、 298 頁 )。
(2)『 英 宗 実 録 』 巻 1
宣 徳 十 年 正 月 甲 戌 (『 史 料 満 洲 』 1 、 529 頁 )
(3)正 統 年 間 以 降 も ヌ ル ガ ン 都 司 は 存 続 し 、マ ン チ ュ リ ア 北 部 は 明 朝 に よ り 実 行 支 配 さ れ て
いたという見解は、現在の領土問題との関係から主張されている部分が大きく、歴史の
実体認識とは距離のある見解だと筆者は考える。ヌルガン都司は女真などの朝貢をうな
がす目的から設けられた。それゆえ正統年間に朝貢を制限するようになると、その存在
意義は大きく低下したと考えられる。
「 朝 貢 制 限 を お こ な う 時 代 に 、ヌ ル ガ ン 都 司 を 維 持
す る 政 策 を 明 朝 が と る と は 考 え に く い 」と い う 杉 山 清 彦 の 見 解 に 筆 者 も 同 意 し た い [杉 山
清 彦 2008、118 頁 ]。ま た 中 国 に お け る 研 究 で も 、正 統 年 間 以 降 ヌ ル ガ ン 都 司 は 機 能 喪 失
し て い た と い う 見 解 が 主 張 さ れ て い る [張 士 尊 2003]。
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84
表1
ヌルガン都司管轄下の
衛所の設置年次
年
次
設置数
洪武年間
3
永楽元年
2
2年
6
3年
10
4年
35
5年
23
6年
21
7年
14
8年
7
9年
1
10年
10
11年
2
12年
6
13年
3
14年
1
15年
3
合
計
147
出 典 ; 楊 暘 1982、
301-311 頁 よ り 作 成 。
85
第4章
明代中期・後期におけるマンチュリアの社会変容と地域秩序
はじめに
本 章 で は 、 正 統 年 間 (1436-1449 年 )か ら 明 末 ま で の 期 間 、 マ ン チ ュ リ ア で は い か な る 社
会変容が生じ、どのような地域秩序が形成されていたのか検証する。
明 朝 は 永 楽 年 間 ま で に 、遼 東 と ヌ ル ガ ン 地 区 と で は 異 な っ た 統 治 政 策 を お こ な っ て い た 。
遼東では衛所制度を実施した。衛所制度とは、衛所を設置して軍士を配属し、軍士が屯田
をおこない、食料は自給を原則とするものであった。他方、ヌルガン地区では羈縻衛所制
度を実施した。縻衛所制度とは、①明朝が直接統治するのではなく、女真の首長を衛所の
長に任命して統治する、②衛所の長には勅書を与えて朝貢、馬市での交易を認めるもので
あ っ た 。ヌ ル ガ ン 地 区 に 暮 ら し た 女 真 に 対 し て 明 朝 は 、①「 分 而 治 之 」(分 割 し て 統 治 し て
強 大 化 を 防 ぐ )、 ② 「 以 夷 治 夷 」 (女 真 の な か の 有 力 者 を 擁 護 し 、 そ の 有 力 者 に 他 の 女 真 の
統 制 を ま か せ る )を 基 本 に 対 応 し て い た [欒 凡 2004、 王 冬 芳 2005]。 こ う し た 方 針 の 具 体 的
な措置として、羈縻衛所制度がおこなわれていたと理解したい。
明朝は遼東では衛所制度により領域的な統治をしていた。しかし、ヌルガン地区での羈
縻衛所制度は領域統治を目的にはしていなかった。つまり、明朝がマンチュリアで実施し
た統治政策は、遼東とヌルガン地区では質的に異なっていた点を指摘したい。
かかる明朝によるマンチュリア統治は、正統年間以降変容するとともに、機能しなくな
っ た 。そ し て ヌ ル ハ チ の 勢 力 拡 大 に よ り 、こ れ ら は 17 世 紀 初 に は 消 滅 し た 。明 朝 に よ る マ
ンチュリア統治はいかなる要因から変容したのか、ヌルハチはどのように勢力を拡大した
の か 考 察 し て み た い 。 研 究 史 の 詳 細 に つ い て は 塚 瀬 進 [ 2012] に ゆ ず り 、 本 章 で は 最 小 限
の言及にとどめる。
1.正統~成化年間の社会変容
① 人間の移動による社会変容
14 世 紀 後 半 以 降 、マ ン チ ュ リ ア で は 女 真 が 北 か ら 南 へ 、モ ン ゴ ル 人 が 西 か ら 東 へ 、漢 人
が南から北へと移動していた。なかでも、モンゴル人はマンチュリアへの 侵攻を繰り返し
て い た 。 1421 年 (永 楽 19 年 )に モ ン ゴ ル の タ タ ル が 遼 東 に 侵 攻 し 、 翌 22 年 (永 楽 20 年 )も
その侵攻は続いた。モンゴルの侵攻から逃れるため、女真の有力首長のモンケテムルは
1423 年 (永 楽 21 年 )に 会 寧 へ 移 動 し 、李 満 住 も 1424 年 (永 楽 22 年 )に 婆 豬 江 へ 移 動 し た [河
内 良 弘 1992、59-61 頁 、143-145 頁 ]。女 真 が 朝 鮮 に 近 い 場 所 へ 移 動 し た 結 果 、女 真 と 朝 鮮
との間ではトラブルが増えた。
宣徳~正統年間になると、マンチュリアの状況はより複雑化した。モンゴルではオイラ
トとタタルが争っていたが、タタルは永楽帝の親征を受けて弱体化し、オイラトとの抗争
に も 敗 れ た 。こ の た め 1432 年 (宣 徳 7 年 )に タ タ ル は 、オ イ ラ ト か ら 離 れ る た め 東 方 へ 移 動
した。その結果、タタルはウリャーンハン三衛の居住地に踏み込んでしまい、ウリャーン
ハンとの対立が生じた。ウリャーンハンのなかにはタタルとのトラブルを避けるため、東
方へ移動して、海西女真の居住地に踏み込むものもいた。また、タタルの一部も海西女真
86
を 攻 撃 し た こ と か ら 、 海 西 女 真 は そ の 難 を 避 け て 移 動 を 始 め た [和 田 清 1930、 引 用 は 『 東
亜 史 研 究 (蒙 古 篇 )』273-301 頁 ]。ウ リ ャ ー ン ハ ン 、タ タ ル の 圧 迫 を 受 け た 海 西 女 真 の な か
に は 、朝 鮮 の 近 く ま で 移 動 し 、朝 鮮 へ の 略 奪 を お こ な う も の も い た [河 内 良 弘 1992、291-293
頁 ]。 女 真 に よ る 略 奪 に 苦 し ん だ 朝 鮮 の 世 宗 は 、 女 真 を 討 伐 す る た め 、 1433 年 (宣 徳 8 年 、
世 宗 15 年 )と 1437 年 (正 統 2 年 、世 宗 19 年 )に 軍 事 行 動 に で た [王 兆 蘭 1990、蒋 秀 松 1997]。
つまり、タタルの移動がウリャーンハンの移動をうながし、その影響を受けた女真も移
動 し て い た の で あ っ た 。朝 鮮 近 隣 に ま で 移 動 し た 女 真 は 、朝 鮮 へ の 略 奪 を お こ な っ た の で 、
朝鮮は軍事行動により女真を鎮圧するという対応をしていた。マンチュリアで生じた社会
変動は、中華王朝との関係からだけではなく、マンチュリアをめぐる状況が複合して生じ
ていた点についても指摘したい。
正統年間おいてもモンゴル人の侵攻は止まず、ウリャーンハン、海西女真への侵攻を繰
り 返 し て い た 。 そ し て 1449 年 (正 統 14 年 )に 「 土 木 の 変 」 が 起 こ り 、 モ ン ゴ ル 人 の 侵 攻 は
頂 点 に 達 し た [荷 見 守 義 1995、1999]。こ の 時 、マ ン チ ュ リ ア へ は ト ク ト ブ ハ (脱 脱 不 花 )が
侵 攻 し た [園 田 一 亀 1948、 184-194 頁 。 川 越 泰 博 1972]。
モ ン ゴ ル 人 に よ る マ ン チ ュ リ ア 侵 攻 に 対 し て 、明 朝 が 示 し た 対 応 と し て 二 つ 指 摘 し た い 。
第 一 に 、 遼 東 辺 牆 を 建 築 し た [稲 葉 岩 吉 1913、 劉 謙 1989]。 明 朝 は 1443 年 (正 統 8 年 )ご ろ
に 山 海 関 か ら 開 原 に 至 る 辺 牆 を 築 い て 、 モ ン ゴ ル 人 の 侵 攻 を 防 ご う と し た (そ の 後 、「 成 化
三 年 の 役 」 (1467 年 )を 契 機 に 靉 陽 堡 ま で の 東 部 辺 牆 が つ く ら れ た )。 第 二 に 、 モ ン ゴ ル 人
と 女 真 が 結 び つ き 、 両 者 が 協 同 し て 明 朝 に 反 抗 し な い よ う に 配 慮 し て い た (1)。
女 真 は こ れ ま で の よ う に 移 動 し て 、モ ン ゴ ル の 脅 威 か ら 逃 れ よ う と し た 。李 満 住 は 1451
年 (景 泰 2 年 )に 蘇 子 河 上 流 か ら 東 方 の 富 爾 江 上 流 へ 移 動 し た (2)。移 動 の 結 果 、李 満 住 の 集
団と朝鮮との距離は近くなり、女真による朝鮮への略奪は頻発した。朝鮮の世祖は女真を
懐柔することで、その略奪を防ごうと考えたが、明朝の反対を受けてしまい、その試みは
挫 折 し た [河 内 良 弘 1974]。略 奪 は 女 真 の 経 済 生 活 の 一 部 と も な っ て い た の で 、そ れ を 止 め
る こ と は 難 し か っ た [欒 凡 1999、 30-34、 64-65 頁 ]。
女 真 は 略 奪 を 繰 り 返 し た こ と か ら 、明 朝 や 朝 鮮 は 武 力 制 圧 を お こ な う こ と も あ っ た 。1433
年 (宣 徳 8 年 )か ら 1479 年 (成 化 15 年 )の 45 年 間 に 、明 朝 、朝 鮮 は 女 真 に 対 す る 大 規 模 な 武
力 制 圧 を 5 回 お こ な っ た (3)。こ の た め 、と く に 建 州 女 真 は 衰 え を 示 し 、女 真 の 有 力 者 を 羈
縻して、その有力者を軸にして女真統治をするという、明朝の女真統治の根幹が揺らぐと
いう事態も生じてしまった。以後、明朝は女真のなかに有力な提携者を見出すことができ
ずに苦しんだ。この点について後述する。
② 朝貢、馬市の変化
正統年間以降、朝貢の条件、朝貢と馬市との関係も変化した。永楽帝が女真を招撫した
ことから、女真は次々に朝貢するようになった。永楽、宣徳年間は「無制限な自由朝貢」
[ 江 嶋 壽 雄 1952
引 用 は 『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』 136 頁 ] と も 称 さ れ る 状 況 で あ り 、 女
真は朝貢をあたかも有利な商行為とみなして盛んに朝貢した。このため、女真にとって朝
貢に伴う回賜や交易は不可欠なものとなった。かかる頻繁な女真の朝貢に対して、明朝は
その負担に耐えることが難しくなった。正統年間から朝貢の制限をはじめ、各羈縻衛所が
87
派 遣 で き る 人 数 、 回 数 、 時 期 の 制 限 を し た 。 宣 徳 年 間 で は 年 間 3000-4000 人 の 女 真 が 朝 貢
し た が 、正 統 年 間 に は 年 間 1500 人 に 制 限 さ れ た [江 嶋 壽 雄 1952
引 用 は『 明 代 清 初 の 女 直
史 研 究 』 141-142 頁 ]。 1464 年 (天 順 8 年 )、 1466 年 (成 化 2 年 )に も 明 朝 は 女 真 の 朝 貢 に 対
す る 制 限 を 設 け た [河 内 良 弘 1992、 478-480 頁 ]。
こうした明朝による朝貢制限に、女真は反発、抵抗した。女真は、①朝貢人数を増やす
増 貢 を 要 求 、② 新 衛 設 置 に よ り 朝 貢 回 数 を 増 や す 、③ 勅 書 の 書 き 換 え (上 級 勅 書 の 内 容 に 書
き 換 え て 朝 貢 条 件 を 有 利 に す る 。 名 義 を 書 き 換 え て 再 度 朝 貢 す る )な ど の 抵 抗 を 示 し た [江
嶋 壽 雄 1958、 引 用 は 『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』 170-177 頁 ]。
朝貢の制限は馬市の状況にも影響をおよぼした。馬市の起源は、永楽帝が馬 不足を憂慮
し、開原と広寧に馬市を開設して馬の購入に努めたことにあった。その結果、永楽末年に
は 畜 馬 数 は 100 万 匹 を こ え 、 馬 市 開 設 の 目 的 は 達 成 さ れ た 。 し か し 、 女 真 や ウ リ ャ ー ン ハ
ンとの馬市を終了することは、羈縻の観点から好ましくないと判断され、馬市は継続され
た [江 嶋 壽 雄 1954、 引 用 は 『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』 241-242 頁 ]。 こ こ に 馬 市 は 、 馬 の 購
入が目的ではなく、モンゴルや女真の羈縻が目的となった。他方、明朝は朝貢の制限に踏
み切り、馬市の許可を朝貢制限の見返りとする政策をおこなった。
明 朝 は 1439 年 (正 統 4 年 )に 朝 貢 の 制 限 を お こ な っ た が 、制 限 だ け で は 女 真 は 不 満 を 持 つ
と考え、同時に、女真がこれまで北京でしていた交易を開原で行わせることに変更し、開
原 馬 市 で の 私 市 を 公 認 し た (4)。こ こ に 馬 市 は 朝 貢 制 限 の 対 価 と し て 提 供 さ れ た 公 認 の 交 易
場 と な り 、開 原 に 二 か 所 (城 東 、南 関 )、広 寧 に 一 か 所 の 計 三 か 所 と な っ た [江 嶋 壽 雄 1957、
引 用 は 『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』 327-329 頁 ]。
土木の変後、ウリャーンハンはモンゴルと共同したとの嫌疑から、懲罰として開原城東
と広寧の馬市は閉鎖された。そのため、女直が交易する開原南関だけが存続した。明朝に
従順でないものには、馬市の停止が懲罰手段として用いられた。つまり、馬市は政治的な
意味を持って存在していたのであった。
馬 市 の 政 治 性 は 、1464 年 (天 順 8 年 )の 撫 順 馬 市 の 開 設 に も 見 て と れ る 。明 朝 は 同 年 7 月
に 撫 順 で の 交 易 を 認 め た 。そ の 三 か 月 後 の 10 月 に 、女 真 の 朝 貢 制 限 を お こ な っ た 。朝 貢 の
制限は女真の反発を招くので、開原馬市での先例にならい、馬市交易を認める代わりに朝
貢 を 制 限 す る と い う や り 方 を し た の で あ っ た [江 嶋 壽 雄 1958、 引 用 は 『 明 代 清 初 の 女 直 史
研 究 』167-170 頁 ]。こ こ に 馬 市 は 、海 西 女 真 が 交 易 す る 開 原 南 関 と 建 州 女 真 が 交 易 す る 撫
順の二か所になった。
明 朝 は 1478 年 (成 化 14 年 )に ウ リ ャ ー ン ハ ン の 馬 市 復 開 要 請 を 認 め 、開 原 古 城 堡 南 (嘉 靖
3 年 に 慶 雲 堡 北 に 移 動 )と 広 寧 に 馬 市 を 置 い た 。そ の 理 由 は 、馬 市 を 認 め な い と ウ リ ャ ー ン
ハンは海西女真と結託する恐れがあるので、ウリャーンハンの歓心を得るためという、辺
境 安 定 を は か る 政 治 的 な も の で あ っ た (5)。 こ れ に よ り 馬 市 は 開 原 南 関 、 開 原 古 城 堡 南 (慶
雲 堡 北 )、 撫 順 、 広 寧 の 合 計 四 か 所 と な り 、 こ の 状 態 が 嘉 靖 末 年 ま で 約 90 年 間 継 続 し た 。
1478 年 (成 化 14 年 )に は 馬 市 禁 約 を 発 布 し て 、 馬 市 の 秩 序 化 を は か っ た (6)。
遼東辺牆の北側に広がるヌルガン地区に住む女真に対して、明朝は朝貢制限や馬市の開
設をおこない、両者の関係は洪武・永楽年間とは異なる状況となっていた。他方、遼東の
状況も変化していた。
88
③遼東での軍屯
遼東では衛所が設けられ、軍士が軍務を果たすとともに屯田をおこない、軍糧の自給を
はかっていた。しかし、宣徳年間から逃亡する軍士が増え、屯田は崩壊していった。軍士
の 逃 亡 が 増 え た こ と を 、 兵 部 は 1429 年 (宣 徳 4 年 )に は 問 題 視 し て い た (7)。 1434 年 (宣 徳
8 年 )の 報 告 で は 、衛 所 の 上 官 が 公 務 に か こ つ け て 軍 士 を 私 役 す る こ と が 軍 士 逃 亡 の 原 因 で
あり、軍士が定数に達していない状況が常態化しているので、改める必要があると述べて
い る (8)。上 官 の 私 役 に 苦 し み 、逃 亡 す る 軍 士 が 多 か っ た 状 況 は そ の 後 も 続 き 、屯 田 に 従 事
す る 軍 士 の 減 少 は 屯 田 の 崩 壊 を 導 い た 。 1445 年 (正 統 10 年 )に は 屯 田 は 有 名 無 実 化 し て い
る と の 報 告 が さ れ て い た (9)。
衛所の上官は軍士を私役しただけでなく、屯田のなかでも肥沃な土地を占拠していた
(10)。 衛 所 が 本 来 果 た す べ き 役 割 で あ っ た 軍 糧 の 自 給 は 、 衛 所 の 上 官 が 腐 敗 し た こ と に よ
り不可能になった。それでも明朝は屯田の立て直しをはかるため、いくつかの対応策を講
じていた。屯田を売却し、購入者には租糧の代納をさせた。売却された屯田の租糧は、一
般 の 屯 田 の 規 定 よ り も 低 く 設 定 さ れ た [衣 保 中 1993]。こ の 他 に 、招 民 を お こ な い 、軍 士 に
代わって農業生産をおこなわせた。招民が耕作した民田の租糧も、一般の屯田の規定より
も 低 く か っ た [周 遠 廉 1980]。ま た 、軍 士 の 姓 名 や 耕 作 面 積 を 記 し た 簿 籍 の 整 備 を お こ な い 、
屯 田 の 回 復 を は か る 案 を 上 奏 す る 官 僚 も い た (11)。
軍士の逃亡により荒廃した屯田の立て直しを明朝は模索したが、屯田の 減少を食い止め
る こ と は で き な か っ た 。明 朝 は 開 中 法 に よ り 遼 東 へ の 軍 糧 補 給 を は か る と と も に 、1444 年
(正 統 9 年 )か ら は 京 運 年 例 銀 の 運 用 を 始 め た 。 そ の 後 、 京 運 年 例 銀 の 支 給 額 は 増 加 の 一 途
を た ど り 、遼 東 の 軍 糧 が 銀 で 払 わ れ る 範 囲 は 拡 大 し た [諸 星 健 児 1990]。明 朝 の 対 応 は 、銀
を遼東へ供給して軍士を養う方向へと傾斜していったのである。
以 上 の 考 察 か ら 、14 世 紀 後 半 -15 世 紀 中 頃 に か け て 、モ ン ゴ ル 系 諸 集 団 が 東 方 へ 移 動 し 、
その結果として女真も移動し、朝鮮や明朝との間でトラブルが生じていたこと、明朝は朝
貢 の 負 担 に 耐 え 切 れ ず 、そ の 制 限 を す る と と も に 馬 市 を 開 設 し て 女 真 を 羈 縻 し て い た こ と 、
遼東防衛の根幹であった衛所制は軍士の逃亡が続き、屯田での農業は振るわず、本来の役
割を果たせなくなっていた点を指摘したい。
(1)『 英 宗 実 録 』 巻 162
正 統 13 年 正 月 乙 巳 (『 明 代 満 蒙 史 料
満 洲 篇 』 2 、 220 頁 。 以 下
『 史 料 満 洲 』 と 略 す )。
(2)『 文 宗 実 録 』 巻 9
元 年 8 月 辛 未 (『 明 代 満 蒙 史 料
李 朝 実 録 抄 』 5 、 191-193 頁 。 以
下 『 史 料 李 朝 』 と 略 す )。
(3)① 1433 年 (宣 徳 8 年 、世 宗 15 年 )朝 鮮 が 建 州 女 真 を 攻 撃 。② 1437 年 (正 統 2 年 、世 宗 19
年 )朝 鮮 が 建 州 女 真 を 攻 撃 。 ③ 1460 年 (天 順 4 年 、 世 祖 6 年 )朝 鮮 が 女 真 を 攻 撃 。 ④ 1467
年 (成 化 3 年 、 世 祖 13 年 )明 朝 ・ 朝 鮮 が 建 州 女 真 を 攻 撃 。 ⑤ 1479 年 (成 化 15 年 、 成 宗 10
年) 明朝・朝鮮が建州女真を攻撃。
(4) 『 英 宗 実 録 』 巻 58
正 統 4 年 8 月 乙 未 (『 史 料 満 洲 』 2 、 63-64 頁 )。
(5)『 憲 宗 実 録 』 巻 176
成 化 14 年 3 月 丙 戌 (『 史 料 満 洲 』 2 、 574-575 頁 )。
(6) 『 全 遼 志 』 巻 一 、 山 川 ・ 関 梁
89
(7)『 宣 宗 実 録 』 巻 59
宣 徳 4 年 11 月 乙 卯 。
(8)『 宣 宗 実 録 』 巻 107
宣 徳 8 年 12 月 庚 午 (『 史 料 満 洲 』 1 、 504-505 頁 )。
(9)『 英 宗 実 録 』 巻 127
正 統 10 年 3 月 甲 申 (『 史 料 満 洲 』 2 、 174 頁 )。
(10)『 憲 宗 実 録 』 巻 161
成 化 13 年 正 月 丁 未 (『 史 料 満 洲 』 2 、 554-555 頁 )。
(11)『 憲 宗 実 録 』 巻 244
成 化 19 年 9 月 戊 申 (『 史 料 満 洲 』 2 、 651-654 頁 )。
2.弘治~嘉靖の社会変容
①授官規定の変更
成 化 年 間 に 明 朝・朝 鮮 に よ る 武 力 侵 攻 を 受 け た 建 州 三 衛 は 、1500 年 代 初 め に は 衰 弱 し て
い た 。建 州 三 衛 の 首 長 の 影 響 力 が 低 下 し た た め 、明 朝 は 1493 年 (弘 治 6 年 )に 羈 縻 衛 所 の 首
長 に 与 え る 授 官 規 定 を 改 変 し 、女 真 を 統 御 で き る 能 力 を 持 つ 人 物 を 首 長 に す る こ と に し た 。
改正の発端は大通事の王英の上奏であった。王英は最近の首長は部下による辺患を統御で
きないので、今後は部下に辺患をしたものがいない首長に限り、授官すべきだと主張した
(1)。こ れ に 対 し て 兵 部 が 覆 奏 し 、① 部 下 に 辺 患 を し た 人 物 が い な い こ と 、② 子 孫 も よ く 志
を継承する者、③被虜者や略奪品の返還など明朝に功労した者、という首長に限り授官を
認 め る 新 方 針 を 打 ち 出 し た (2)。
明朝は部下の統率ができない首長は授官せず、辺患を生じさせない力量を持つ首長 に授
官する政策に転換した。以前は首長の家系に連なる人物が首長の地位を世襲しており、明
朝もとくに審議はせずにそれを認めていた。しかし、この方針転換により、明朝の期待に
応じることのできる人物が、首長の地位を継承することになった。ここに家系ではなく、
羈縻衛所の長としての力量が問われることになり、都督の地位は不安定化した。
建 州 三 衛 は 弘 治 年 間 以 降 、そ の 勢 力 は 衰 え て い た 。衰 弱 の 兆 候 と し て 、三 つ 指 摘 し た い 。
第 一 に は 、 首 長 の 系 譜 が 不 明 確 に な っ た 。 首 長 が 交 代 (襲 職 )す る 際 に は 、 必 ず 明 朝 に 申 し
出てその承認を得ることが必要であった。そのため首長襲職の際には、ほぼ『明実録』に
その記事が掲載される。しかし、嘉靖初期以降では、建州三衛の首長の系譜を『明実録』
の 記 述 か ら は た ど る こ と が で き な く な る [園 田 一 亀 1953、215-220 頁 ](3)。第 二 に 、正 徳 年
間末ごろから建州三衛の首長と家系上の関係が不明な人物が、都督を称して朝貢する事例
が 増 え た 点 が 指 摘 で き る [河 内 1992、 716 頁 ]。 経 歴 不 明 な 都 督 が 誕 生 し た 理 由 は 、 既 述 し
た 1493 年 (弘 治 6 年 )の 都 督 授 官 の 方 針 変 更 に 起 因 し た と 考 え ら れ る 。家 系 上 の 理 由 か ら で
はなく、人物の力量が問われたことから、出自が卑賎な人物でも都督に昇任できたからだ
と考えられる。第三に、建州三衛の朝貢は振るわず、不定期になっていた。もはや定期的
な 朝 貢 が 難 し く な っ て い た 点 に も 、 そ の 衰 弱 を 見 て と る こ と が で き る [ 園 田 一 亀 1953 、
215-225 頁 、 312-319 頁 ]。
明朝は羈縻衛所のトップとしての力量を持つ人物に授官することで、女真を羈縻する方
針に変えた結果として、衛所長のポストは流動化し、とくに都督の地位は低下した。もと
もと都督は規模の大きい羈縻衛所の首長に与えられる、重い官職であった。しかし、弘治
年間以降は小さな羈縻衛所の首長も都督に任命される一方、嘉靖年間には一衛一都督とい
う 原 則 は 崩 れ 、建 州 衛 の よ う な 大 き な 羈 縻 衛 所 に は 複 数 の 都 督 が 任 命 さ れ て い た [河 内 良 弘
90
1992、 716-718 頁 ]。 明 朝 は 授 官 規 定 の 基 本 方 針 は 変 更 せ ず 、 1533 年 (嘉 靖 12 年 )に は さ ら
な る 詳 細 な 明 文 化 を お こ な っ た (4)。
明朝の方針転換の結果、羈縻衛所の首長は有力者が世襲的に交替してきた状況から、出
自は卑賎であっても実力を持つ人物が任命される道が開かれた。その一方で、首長のポス
トをめぐる争いが生じ、女真社会は不安定になった。こうした状況に、後述する貂皮 交易
の伸張、朝貢の定額化が絡み合い、女真社会の不安定さをより深くしていた。
②貂皮交易の伸張
15 世 紀 後 半 (明 は 成 化 年 間 、朝 鮮 は 成 宗 年 間 )に な る と 、女 真 と 明 朝・朝 鮮 の 間 で の 貂 皮
交易が盛んとなった。これ以前では、女真は有力な交易品を持つことができず、交易では
受動的な立場にあった。しかし、明朝・朝鮮での旺盛な貂皮の需要を背景に、女真による
貂 皮 交 易 は 急 成 長 し た 。貂 皮 交 易 の 伸 張 は 、女 真 社 会 に 大 き な 影 響 を お よ ぼ し た [河 内 良 弘
1971、 欒 凡 2000]。
第一に、貂皮交易、商品交易への依存が高まり、明朝・朝鮮との経済関係が増大した。
い か に 貂 皮 を 獲 得 し て 、明 朝・朝 鮮 に 販 売 す る か が 、女 真 に と っ て 重 要 と な っ た 。第 二 に 、
女真は貂皮の販売後、農業に必要な鉄製農具や耕牛を購入した。このため女真による農業
は改善され、農業生産は増加した。その結果女真の人口は増え、その居住地も拡大し、遼
東や朝鮮の隣接地区に女真の生活領域がおよぶようになった。第三に、貂皮の主産地はア
ムール川以北のシベリアの森林地帯であった。そのため、シベリアからマンチュリアに至
る交易ルートが成立した。この交易ルートを運営する商人が女真のなかから生まれ、蓄財
し 、 富 豪 と な る 人 も 出 た 。 第 四 に 、 女 真 は 軍 事 力 も 増 大 さ せ て い た 。 1474 年 (成 化 10 年 、
成 宗 5 年 )に 、 朝 鮮 人 は 女 真 の 鏃 が 骨 か ら 鉄 に 変 化 し て い る こ と を 観 察 し て い る 。
貂 皮 交 易 の 伸 張 に よ り 女 真 は 富 裕 化 し 、そ の 行 動 は 活 発 化 し た 。16 世 紀 前 後 に は 朝 鮮 と
隣接した鴨緑江岸では、女真による狩猟の活発化や女真部落の拡大が見られ、朝鮮とのト
ラ ブ ル が 頻 発 し た [河 内 良 弘 1976]。ま た 、16 世 紀 前 半 に は 貂 皮 貿 易 に よ り 富 裕 化 し た 女 真
が朝鮮国境付近に登場する一方で、朝鮮側の咸鏡道は国境警備の重い負担と自然災害のた
め疲弊していた。このため貧窮化した朝鮮人のなかには、課税や賦役から逃れて、富裕な
女 真 の も と に 流 入 す る と い う 、 以 前 で は 考 え ら れ な い 状 況 が 生 じ て い た [河 内 良 弘 1977]。
女真は貂皮という有力商品を得たことから、交易により富を増加させていた。貂皮交易
により財を蓄えた女真のなかには、その出自は卑賎であっても、明朝からの勅書を所持し
て 、 羈 縻 衛 所 の 首 長 に 任 命 さ れ た と 称 し て い た 人 物 も い た (例 え ば 王 杲 )。 他 方 、 こ れ ま で
有力であった建州三衛は衰退したため、嘉靖年間に女真は混乱状況に陥ってしまった。
③ 朝貢定額化による影響
1541 年 (嘉 靖 20 年 )前 後 に 、明 朝 は 新 た な 朝 貢 制 限 を 設 け た 。海 西 女 真 は 1000 名 、建 州
女 真 は 500 名 と 、そ の 朝 貢 人 数 を 定 め 、定 額 に 達 し た な ら ば 終 了 に す る こ と に し た [江 嶋 壽
雄 1962、引 用 は『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』186-189 頁 ]。こ れ ま で 女 真 は 朝 貢 制 限 に 対 し て 、
衛所の新設を求めたり、他衛の名義を使ったり、勅書を借用するなど、朝貢の機会、回数
を増やす方向で対応していた。そうした方向を遮断するため、明朝は朝貢の定額化をおこ
91
な っ た 。言 い 換 え る な ら ば 、正 統 年 間 以 降 の 朝 貢 制 限 は 各 衛 所 の 入 貢 者 の 人 数 制 限 で あ り 、
朝貢者の総数制限ではなかった。しかし、嘉靖年間の制限は朝貢者の総数を制限した。こ
のため女真は従前のやり方では対応できなくなった。
朝貢定額化後に生じていた女真の状況変化として、二つ指摘したい。第一に、羈縻衛所
間の勅書の争奪に勝利して朝貢の権利を勝ち取り、他の羈縻衛所には朝貢させず、自らの
朝貢を増やす必要があった。このため女真同士の抗争は、以前に比べて激化した。弱小な
羈縻衛所は淘汰され、勝ち残った羈縻衛所はその勢力を拡大して、政治集団としての凝集
力を高めた。第二に、馬市から遠い女真は入貢しても、定額に達しているならば朝貢でき
な い 事 態 が 発 生 し た 。 そ れ ゆ え 、 馬 市 の 近 く に 居 を 構 え る 女 真 が 出 現 し た (5)。
こうした女真の状況変化により、次のような現象が生じていた。一つには、勅書を持つ
意義は経済的な意味合いが強くなり、明朝から勅書を授与され、羈縻衛所の首長として政
治的権威を示す意義は低下した。勅書の争奪が激しくなったことから、勅書に記載された
人名と所持者は一致しなくなった。勅書を所持することが重要となり、明朝の権威により
羈縻衛所の首長に任命された事実はどうでもよくなった。二つ目として、女真はこれまで
移動を繰り返してきたが、馬市の近くに住む必要性が高まったので、居城を構えて定住す
るようになった。
以 上 の 考 察 か ら 、 15 世 紀 後 半 ~ 16 世 紀 前 半 に か け て 明 朝 が お こ な っ た 授 官 規 定 の 変 更 、
朝貢の定額化により、マンチュリアをめぐる貂皮交易の伸張により、女真社会は変化し、
そ の 流 動 化 が す す ん で い た こ と を 指 摘 し た い 。こ う し た な か 、16 世 紀 後 半 に ヌ ル ハ チ は 台
頭し、女真の統一をはかったのである。
(1)河 内 良 弘 は 建 州 女 真 と 朝 鮮 と の 関 係 を 考 察 す る な か で 、 1490 年 代 (弘 治 初 年 )に は 建 州
衛の首長は朝鮮への部下の侵攻を制御できなかったので、その統制力は弱体化したと推
測 し て い る (河 内 良 弘 1992、 529-535 頁 )。
(2)『 孝 宗 実 録 』 巻 75
弘 治 6 年 5 月 乙 亥 (『 史 料 満 洲 』 3 、 35-36 頁 )。
(3)『 李 朝 実 録 』 で は 、 1497 年 (弘 治 10 年 )以 後 、 建 州 衛 の 記 述 は 少 な く な る 。
(4)『 世 宗 実 録 』 巻 148
嘉 靖 12 年 3 月 壬 子 (『 史 料 満 洲 』 3 、 364-365 頁 )
(5)『 世 宗 実 録 』 巻 273
嘉 靖 22 年 4 月 癸 未 (『 史 料 満 洲 』 3 、 412 頁 )。
3.ヌルハチ台頭前後のマンチュリア
①女真の変容
16 世 紀 前 半 に 海 西 女 真 は 南 へ と 移 動 し 、清 朝 の 史 籍 が「 扈 倫 四 部 」と 呼 ぶ 、イ ェ へ 、ハ
ダ 、ウ ラ 、ホ イ フ ァ の 諸 部 を 形 成 し た [叢 佩 遠 1984a、1984b]。イ ェ ヘ は 塔 魯 木 衛 か ら 発 展
し 、 そ の 開 祖 は チ ュ ク ン ゲ (祝 孔 革 、 竹 孔 革 )で あ っ た 。 チ ュ ク ン ゲ は 弘 治 末 年 ~ 正 徳 初 年
ご ろ に 、開 原 北 関 外 の イ ェ ヘ 河 付 近 に 移 動 し た 。し か し 、ハ ダ の ワ ン ジ ュ (王 忠 )に 殺 さ れ 、
そ の 勅 書 は 奪 わ れ た 。 ハ ダ は 塔 山 前 衛 左 都 督 で あ っ た ス ヘ テ (速 黒 忒 )を 開 祖 に し て い る 。
ス ヘ テ は 『 満 洲 実 録 』 に 出 て く る ケ シ ネ に あ た る と 考 証 さ れ て い る [松 浦 茂 1995、 39 頁 ]。
ス ヘ テ は 抗 争 の な か で 殺 さ れ た が 、 そ の 子 供 の ワ ン ジ ュ (王 忠 、 王 中 )は 難 を 逃 れ て 、 開 原
付 近 の 清 河 (ハ ダ 川 )流 域 に 落 ち 着 き 、 ハ ダ と 称 し た 。 ワ ン ジ ュ は 明 朝 の 歓 心 を 得 る こ と に
92
努 め 、1551 年 (嘉 靖 30 年 )に は 都 督 へ 昇 任 し た (1)。ワ ン ジ ュ は 、イ ェ ヘ の チ ュ ク ン ゲ を 殺
し て そ の 勅 書 を 奪 う こ と も し た が 、1553 年 (嘉 靖 32 年 )ご ろ に 内 紛 の な か で 殺 さ れ た [江 嶋
壽 雄 1962
引 用 は 『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』 191-193 頁 ]。
海西女真同士の抗争は激化していた。その原因は、嘉靖年間の朝貢定額化により勅書の
争奪が激しくなったことと、貂皮交易と銀流通の拡大が抗争激化をうながしたことにあっ
た 。明 朝 下 で の 銀 流 通 は 15 世 紀 以 降 拡 大 し 、そ の 影 響 は マ ン チ ュ リ ア に も お よ ん だ 。嘉 靖
年 間 に は 、女 真 の 朝 貢 に 対 す る 回 賜 に は 折 銀 が 認 め ら れ 、銀 が 女 真 社 会 へ 流 入 し た [江 嶋 壽
雄 1962。 蒋 秀 松 1984]。 遼 東 馬 市 で の 徴 税 は 、 嘉 靖 初 年 ぐ ら い に は 銀 納 化 さ れ た の で は な
い か と の 見 解 も 出 さ れ て い る [荷 見 守 義 2002]。貂 皮 と い う 有 力 商 品 を 手 に し た 女 真 は 、明
朝との朝貢、交易において銀を獲得する確実な方法を見出した。それゆえ、女真の朝貢、
交易に対する欲求は熾烈なものとなり、女真間の抗争を激しいものとしていた。
貂皮交易により銀を蓄財した女真集団が、征服可能な集団に狙いを定めて移動して、 そ
の征服、統合をおこない、新たな集団を形成することが、遼東辺牆の外側では起きていた
と推測される。そのため、出自が不明瞭な、または承襲関係が不明な人物が突如として首
長 に 任 命 さ れ る こ と も あ っ た [今 西 春 秋 1967、119-120 頁 、後 藤 智 子 1993、102 頁 ]。16 世
紀の前・中期は建州女真、海西女真ともに混乱した状況にあり、弱小な勢力が分立して抗
争を繰り返していた。
『 満 洲 実 録 』は ヌ ル ハ チ が 挙 兵 す る 直 前 の 状 況 を 、み な 王 を 僭 称 し て
殺 し 合 い 、 骨 肉 の 間 で も 殺 し 合 っ て い た と 述 べ て い る (2)。
抗 争 の な か で 台 頭 し た の は 王 杲 (1529-75 年 )で あ っ た 。 王 杲 は 撫 順 関 と 建 州 三 衛 の 間 に
勢力をはり、その連絡を遮断して交易の利益を吸い上げていたと思われる。王杲の台頭以
後 、建 州 三 衛 は 衰 亡 し 、明 朝 へ の 朝 貢 も 激 減 し て い た 。ま た 、 1560 年 代 か ら 1582 年 (万 暦
10 年 )ご ろ ま で 、 モ ン ゴ ル の ト メ ン ジ ャ サ ク ト ハ ー ン が 遼 東 へ の 侵 攻 を 繰 り 返 し 、 混 乱 に
拍 車 を か け て い た [園 田 一 亀 1953、 256-259 頁 ]。
こ う し た な か 、 ワ ン ジ ュ の 甥 で あ る ワ ン ハ ン (王 台 )が 台 頭 し 、 ハ ダ の 勢 力 は 拡 大 し た 。
ワ ン ハ ン は 勅 書 の 争 奪 戦 を 有 利 に 進 め る と と も に 、 明 朝 へ は 従 順 さ を 示 し た 。 1575 年 (万
暦 3 年 )に は 侵 攻 を 繰 り 返 す 王 杲 を 捕 え て 明 朝 に さ し だ し 、明 朝 へ の 恭 順 さ を 表 明 し た 。明
朝は恭順なハダを擁護してイェヘと建州女真を抑える、
「 夷 を 以 て 、夷 を 制 す る 」方 針 で 対
応 し た (3)。ハ ダ は ワ ン ハ ン の も と で 強 大 化 し た が 、1582 年 (万 暦 10 年 )に ワ ン ハ ン が 死 去
すると、後継者をめぐり混乱した。すると、イェヘが勢力拡大をはじめた。明朝はハダ擁
護 の 方 針 は 変 更 せ ず 、 イ ェ ヘ を 攻 撃 し て そ の 弱 体 化 を は か っ た [園 田 一 亀 1953、 321-380
頁 ]。
建州三衛の衰退、海西女真の抗争激化という事態に対して、明朝 はハダを擁護して、女
真 を 羈 縻 す る 方 針 を と っ て い た 。 か か る 状 況 下 で 、 1583 年 (万 暦 11 年 )に ヌ ル ハ チ は 女 真
の統一を目指して挙兵した。
②遼東の状況
万 暦 帝 (在 位 1573-1619 年 )は 長 い 治 世 の 後 半 は 政 務 へ の 熱 意 を 失 い 、 国 内 の 弊 害 の 是 正
に対応していなかった。欠員となった官僚ポストの補充をおこなわなかったので、統治機
構 は 機 能 不 全 に 陥 っ て い た 。『 明 史 』 方 従 哲 の 列 伝 に は 、「 六 部 堂 上 官 僅 四 五 人 、 都 御 史 数
93
年空署、督撫監司亦屡缺不補」とあり、重要官僚の補充がおろそかにされていた状況が述
べ ら れ て い る (4)。こ の た め 飢 饉 が 起 き 、そ れ へ の 対 応 を 求 め る 上 疏 が 出 さ れ て い る に も か
か わ ら ず 、 放 置 さ れ て い た 。 重 要 な 政 務 で あ っ た 視 朝 は 1590 年 (万 暦 18 年 )以 降 お こ な わ
れ ず 、 1615 年 (万 暦 43 年 )に 25 年 ぶ り に 再 開 さ れ る と い う 状 況 で あ っ た [和 田 正 広 1975]。
1592 年 (万 暦 20 年 )と 1597 年 (万 暦 25 年 )に お こ な わ れ た 豊 臣 秀 吉 に よ る 「 朝 鮮 出 兵 」
の 影 響 、 1599 年 (万 暦 27 年 )に は 高 淮 が 派 遣 さ れ て 過 酷 な 徴 税 を お こ な っ た こ と か ら 、 遼
東 を め ぐ る 状 況 は 混 迷 し て い た 。こ の た め 、衛 所 制 は 16 世 紀 に お い て も 混 乱 し て お り 、軍
士の逃亡は止まなかった。軍士が逃亡するため屯田は荒廃し、軍糧を自給するという衛所
制本来の機能は、依然として回復していなかった。
衛 所 の 軍 士 は 、上 級 武 官 か ら さ ま ざ ま な 名 目 (例 え ば 武 器 の 使 用 )で 金 銭 を 徴 収 さ れ た り 、
上 級 武 官 の 私 田 の 耕 作 に 使 わ れ こ と な ど か ら 、 多 く が 逃 亡 し て い た [周 遠 廉 1980a]。 1558
年 (嘉 靖 37 年 )に お け る 開 原 城 管 轄 下 の 10 城 堡 の 原 額 軍 丁 は 5215 名 で あ っ た が 、実 在 し た
軍 丁 は 4218 名 に 過 ぎ な か っ た 。逃 亡 し た 軍 丁 は 1097 名 で あ り 、約 20% が 逃 亡 し て い た [楊
暘 1991、263-264 頁 ]。軍 士 の な か に は 逃 亡 で は な く 、官 僚 や 上 級 武 官 へ の 反 乱 を 選 択 し た
人 た ち も い た 。 1509 年 (正 徳 4 年 )の 反 乱 を 皮 切 り と し て 、 1535 年 (嘉 靖 14 年 )の 反 乱 は 大
規 模 な も の で あ っ た [叢 佩 遠 1985b。 岡 野 昌 子 1989。 諸 星 健 児 1992]。
軍士の逃亡により、遼東の軍事力は低下していた。このため衛所の軍士ではなく、有力
者 の 家 丁 が 軍 事 力 の 中 心 と な っ た [王 廷 元 1981]。家 丁 と は 、有 力 者 が 私 的 に 養 っ た 兵 士 で
あ っ た [鈴 木 正 1952。 馬 楚 堅 1985。 肖 許 1984。 趙 中 男 1991]。 有 力 者 は 家 丁 を 兵 士 と す る
一 方 、自 己 の 私 田 を 家 丁 に 耕 作 さ せ て い た [姜 守 鵬 1987]。家 丁 を 養 っ て 軍 功 を 挙 げ 、権 勢
を 拡 大 し た 代 表 人 物 は 李 成 梁 で あ っ た [和 田 正 広 1995]。
屯 田 で の 農 業 生 産 は 振 る わ な か っ た が 、民 田 は 増 加 し て い た [叢 佩 遠 1985a]。1582 年 (万
暦 10 年 )の 報 告 で は 、民 田 は 屯 田 の 約 3 倍 の 面 積 に な っ て い た (5)。遼 東 で の 軍 糧 は 屯 田 か
らだけでは賄いきれなくなり、食料の不足や価格上昇が問題となった。遼東での食糧価格
は 16 世 紀 以 降 上 昇 を 続 け て お り 、他 地 域 か ら 食 料 を 輸 送 す る 必 要 性 が あ っ た [全 漢 昇 1970。
欒 凡 2010]。 し か し 、 大 量 の 穀 物 を 陸 路 で 輸 送 す る こ と は 経 費 的 に も 、 時 間 的 に も 難 し か
った。また、山東から穀物を輸送するため海禁の緩和が主張されたが、明朝は伝統的な海
禁政策を順守したこと、海運の活発化は軍士の逃亡を助長するなどの理由から、嘉靖年間
では見送っていた。万暦年間に海運はおこなわれたが、十分な輸送力を発揮はしなかった
[陳 暁 珊 2010]。
そこで明朝は、京運年例銀などの銀を供給することで対応した。穀物を現物で確保する
方法から、銀を送り、その銀を使って穀物を購入するか、銀を直接軍士に支給する方法へ
と 変 更 し た [諸 星 健 児 1990、 張 士 尊 1994]。 そ の た め 大 量 の 銀 が 遼 東 に 流 入 し た 。 し か し 、
銀 を 支 給 さ れ て も 穀 物 が な け れ ば 、そ の 購 入 は で き な か っ た 。17 世 紀 初 頭 で は 、銀 が あ っ
て も 買 う 穀 物 が な い の で 、 兵 士 は 銀 を 抱 い て 死 ぬ し か な い 状 況 だ と 報 告 さ れ て い た (6)。
1602(万 暦 30 年 )か ら 1603 年 (万 暦 31 年 )に 巡 按 遼 東 を 務 め た 何 爾 健 は 、遼 東 の 状 況 を 次
の よ う に 述 べ て い る [何 爾 健 1982、 6 頁 、 35-36 頁 ]。 遼 東 の 兵 士 の 糧 銀 は 、 月 四 銭 で 薊 州
に比べて三分の一安い。そのうえ、三、四ヶ月も遅配したり、上官にピンハネされ、実際
に は 1 -2 銭 で あ っ た 。こ れ で は 生 活 で き な い の で 、10 人 中 8 -9 人 は 逃 亡 し て し ま う 。そ
94
のため台堡はあるが、兵士はいない。台堡の多くは損傷しており、軍馬は弱っていたり、
武器も壊れたり、古くなっている。これでは軍備はないのと同然である。沿道で哀願する
人がいるので、その言葉を聞いてみると、税が重く、富める者は貧しくなり、貧しい者は
逃亡しているという状況を述べていた。
③ ヌルハチの台頭
女真諸部が互いに抗争を繰り返すなか、明朝はハダ擁護により情勢の安定化をはかって
いた。こうした状況下でヌルハチは台頭した。ヌルハチの世系は建州左衛に連なると称さ
れ て い る が 、そ の 確 証 は な い 。ヌ ル ハ チ の 祖 父 で あ っ た 覚 昌 安 は 、明 朝 の 史 料 に は「 叫 場 」、
「 教 場 」 な ど と 表 記 さ れ [河 内 良 弘 1992、 733-736 頁 ]、 撫 順 馬 市 で 商 業 活 動 に 従 事 し て い
た こ と を 档 案 は 記 述 し て い る [遼 寧 省 档 案 館 1985、 808-815 頁 ]。 ヌ ル ハ チ の 一 族 は 、 家 系
が 貴 顕 で あ る こ と で は な く 、商 業 活 動 を 背 景 に 銀 を 獲 得 し 、勢 力 を 拡 大 し た と 考 え ら れ る 。
女 真 社 会 へ の 銀 流 入 は 、16 世 紀 後 半 に 中 国 へ の 銀 流 通 が 変 化 し た こ と か ら 、よ り 大 規 模
に な っ た 。1570 年 代 に ス ペ イ ン が マ ニ ラ を 建 設 し て 、ア カ プ ル コ ~ マ ニ ラ 間 の 貿 易 を 始 め
たことにより、新大陸銀が中国へ流入するようになった。また、ポルトガルが長崎貿易を
開始したことにより、日本銀も中国へ流入し、膨大な銀が中国に流れ込むようになった。
流入した銀の多くは北辺に運ばれて軍事費として使われ、北辺では「辺疆の経済ブーム」
が 生 じ て い た [岩 井 茂 樹 1996]。多 額 の 銀 の 流 入 は 、女 真 の 商 業 活 動 を 活 発 化 さ せ た 。既 存
の馬市での交易だけでは満足せず、新たな交易場の設置を求めるようになった。明朝は女
真 を 羈 縻 す る 観 点 か ら 交 易 場 の 設 置 を 認 め 、16 世 紀 後 半 に は 馬 市 以 外 に 木 市 や 互 市 が 設 け
られた。これらの交易場では、朝貢とは無関係に交易が許可された ので、羈縻衛所制は変
容 し て し ま っ た [江 嶋 壽 雄 1963、 1968、 中 島 楽 章 2011]。
ヌ ル ハ チ も 明 朝 と の 交 易 に は 力 を 注 い で い た 。1588 年 (万 暦 16 年 )に ヌ ル ハ チ は 、撫 順 、
清 河 、寛 奠 、靉 陽 で の 交 易 は 国 を 富 ま せ る も の で あ る と 述 べ て い る (7)。対 明 断 行 ま で の ヌ
ルハチの目的は、他の女真が持つ勅書を獲得して、より多くの朝貢をおこなうとともに、
対明交易により利益を得て国富を増やすことにあった。ヌルハチは珍重されていた人参を
売 却 し て 、多 額 の 銀 を 入 手 し て い た [上 田 裕 之 2002]。対 明 断 行 に 踏 み 切 る 以 前 の ヌ ル ハ チ
は、明朝との関係性を最大限に活用し、羈縻衛所制を通じて自己の勢力拡大をしていたの
であり、明朝の打倒などは念頭になかった。
ヌ ル ハ チ は 1587 年 (万 暦 15 年 )に 、二 道 河 子 旧 老 城 (フ ェ ア ラ )に 築 城 し 、城 居 を 始 め た [和
田 清 1951]。女 真 は 15 世 紀 で は 少 数 の 戸 数 で 散 居 し て 、酋 長 の 意 に 従 っ て 移 動 を 繰 り 返 す
暮 ら し を し て い た (8)。 16 世 紀 前 半 で も 、 城 郭 が な い 集 落 に 住 ん で い た (9)。 し か し 、 16
世 紀 後 半 に な る と 城 居 を は じ め た 。16 世 紀 後 半 に は 城 居 を 可 能 と す る 、ま た 必 要 と す る 状
況が女真の間では生じていたと考えられる。城塞を建築、 維持できる経済力を保持したこ
と、女真諸部との抗争に勝つためには指導者を中心に勢力結集が求められた点を指摘した
い。
ヌ ル ハ チ は 周 辺 勢 力 の 征 服 を す す め 、 1599 年 (万 暦 27 年 )に は ハ ダ を 、 1607 年 (万 暦 35
年 )に は ホ イ フ ァ を 、 1613 年 (万 暦 41 年 )に は ウ ラ を 、 1619 年 (万 暦 47 年 )に は イ ェ ヘ を 滅
ぼした。征服した異質な集団を取り込む制度として、ヌルハチは八旗制を創出した。ヌル
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ハチは征服した諸集団を八旗に編入し、新たな勢力集団を作り上げていった。ヌルハチの
台頭により、ハダを擁護して女真を羈縻するという明朝の政策は破たんに追い込まれた。
1618 年 (万 暦 46 年 )に ヌ ル ハ チ は 対 明 断 行 を 宣 言 し 、 明 朝 と の 戦 争 に 突 入 し た 。 明 朝 と
の関係を絶ったことにより、ヌルハチ政権は自給自足的な経済運営を強いられた。安定し
た農業生産を基盤にすることはできず、略奪に依存する部分も大きかった。ホンタイジの
治世においても安定的な経済基盤を築くことはできず、依然として明朝からの略奪は重要
で あ っ た [谷 井 陽 子 2006]。ヌ ル ハ チ ・ ホ ン タ イ ジ は 、明 朝 と の 朝 貢 、撫 順 で の 馬 市 交 易 に
代わる銀の獲得手段を、創出できていなかったと指摘できよう。
1621 年 (天 啓 元 年 )に ヌ ル ハ チ は 遼 東 を 占 領 し 、明 朝 の 勢 力 を 遼 河 以 西 に 駆 逐 し た 。も は
や 明 朝 へ 朝 貢 す る 女 真 は い な く な り 、 馬 市 も 消 滅 し た 。 女 真 の 朝 貢 は 、 1618 年 ( 万 暦 46
年 )の イ ェ ヘ に よ る 朝 貢 が 最 後 で あ っ た [江 嶋 壽 雄 1962
引 用 は『 明 代 清 初 の 女 直 史 研 究 』
188 頁 ]。こ こ に 、永 楽 帝 以 来 、明 朝 が 女 真 を 羈 縻 す る た め に 用 い て き た 羈 縻 衛 所 制 は 消 滅
し た 。明 朝 が 授 与 し た 勅 書 も 無 意 味 な も の と な り 、ホ ン タ イ ジ は 1639 年 (崇 徳 4 年 )に 勅 書
の 処 分 を 命 令 し た (10)。 ま た 、 遼 東 の 衛 所 制 も 崩 壊 し 、 明 朝 が マ ン チ ュ リ ア で 構 築 し た 統
治制度は消滅した。
(1)『 世 宗 実 録 』 巻 375
嘉 靖 30 年 7 月 辛 卯 (『 史 料 満 洲 』 3 、 454 頁 )。
(2)『 満 洲 実 録 』 巻 一 。
(3)『 神 宗 実 録 』 巻 190
万 暦 15 年 9 月 癸 丑 (『 史 料 満 洲 』 4 、 104-106 頁 )。
(4)『 明 史 』 巻 218 方 従 哲
(5)『 神 宗 実 録 』 巻 122
(6)『 光 宗 実 録 』 巻 7
万 暦 10 年 3 月 甲 子 (『 史 料 満 洲 』 4 、 47 頁 )。
泰昌元年8月庚午。
(7)『 太 祖 高 皇 帝 実 録 』 巻 二 戊 子 。
(8)『 世 宗 実 録 』 巻 94
世 宗 23 年 12 月 己 未 (『 史 料 李 朝 』 4 冊 、 279 頁 )。
(9)『 中 宗 実 録 』 巻 61
中 宗 23 年 4 月 壬 戌 (『 史 料 李 朝 』 12 冊 、 13 頁 )。
(10)『 太 宗 実 録 』 巻 47
崇徳四年六月辛亥。
おわりに
明朝はマンチュリアの統治にあたって、遼東では衛所制を、ヌルガン地区では羈縻衛所
制を実施し、両者の境界には遼東辺牆をつくり区分するという地域秩序をつくっていた。
こうした状況を言い換えるならば、明朝は遼東では領域的な統治をしていたが、遼東辺牆
の 外 側 に あ る ヌ ル ガ ン 地 区 で は 有 力 者 を 羈 縻 す る 統 治 で あ り 、領 域 的 な も の で は な か っ た 。
それゆえ、ヌルガン地区を明朝の「領土」であったと主張することには配慮が必要だと指
摘したい。中華王朝の版図は近代主権国家の「領土」とは異なるので、歴史的状況を無視
して版図を「領土」であったと主張することはできない。
明 朝 に よ る マ ン チ ュ リ ア 統 治 は 16 世 紀 以 降 う ま く 機 能 し な く な り 、そ う し た な か で ヌ ル
ハチは羈縻衛所制を活用して、明朝が北辺に投じた銀の獲得に努めるとともに、征服した
集 団 を 八 旗 制 に よ り ま と め あ げ て い っ た 。1635 年 に ホ ン タ イ ジ は「 満 洲 」と い う 称 号 を 採
用 し 、ヌ ル ハ チ 以 来 拡 大 し て き た 集 団 の 名 称 と し た (1)。し た が っ て「 満 洲 」と は 、純 血 的
96
な人間集団ではなく、多様な集団が中に入った「容器」の新たな名称とも理解でき る。
1621 年 (天 啓 元 年 )の ヌ ル ハ チ に よ る 遼 東 占 領 に よ り 、 衛 所 制 と 羈 縻 衛 所 制 は 消 滅 し た 。
そ し て 1644 年 に 清 朝 が 入 関 す る と 、多 数 の 満 洲 人 は 関 内 へ と 移 動 し た 。入 関 後 も 清 朝 は マ
ンチュリア統治にあたって、ヌルハチが羈縻衛所制を突き破る過程で創出、形成した八旗
制を基軸にすえた統治をおこなった。マンチュリアに残った人々を旗人と民人とに分け、
それぞれを別々に統治する「旗民制」を実施した。清朝は明朝とはまったく異なる統治政
策 に よ り マ ン チ ュ リ ア を 統 治 し た の で あ っ た 。そ の 一 方 で 、入 関 し た 1644 年 に は ロ シ ア 人
が ア ム ー ル 川 (黒 龍 江 )流 域 に あ ら わ れ た 。 清 朝 は ロ シ ア へ の 対 抗 に 配 慮 を し な が ら 、 旗 民
制による統治政策を推進した過程については、次章で述べたい。
(1)『 太 宗 実 録 』 巻 25
天聰九年十月庚寅。
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100
第5章
旗民制による清朝のマンチュリア統治
はじめに
戦前以来、
「 満 洲 は 清 朝 発 祥 の 地 の た め 、清 朝 は 祖 先 の 生 ま れ 育 っ た 土 地 が 荒 ら さ れ な い
よう封禁政策をおこなったが、中国人の流入は止まず、満洲は中国人の土地になった」と
い う 見 解 が 存 在 す る (1)。し か し 、こ う し た 見 解 は 通 俗 的 な レ ベ ル で あ り 、研 究 が 進 展 し た
現在では不正確な内容として退けられている。
他方、歴史研究においては、戦前から清朝によるマンチュリア統治の特徴として、旗人
と民人との区別を重視した「旗民分治」であったという見解が主張されていた。歴史研究
者 と し て 最 初 に 「 旗 民 分 治 」 を 指 摘 し た の は 、 金 毓 黻 [1941]で あ っ た 。 金 毓 黻 は 清 朝 に よ
る マ ン チ ュ リ ア 統 治 は 「 旗 系 」 と 「 民 系 」 の 二 重 体 系 で あ っ た と 解 釈 し 、 1907 年 (光 緒 33
年 )の 東 三 省 の 設 置 に よ り 終 了 し た と 主 張 し た 。日 本 で は 天 海 謙 三 郎 [1943、751 頁 ]が 、清
朝はマンチュリアの被治者を旗籍、民籍に分けた「二元的属人主義」を採用し、それに基
づいた軍・民両系統の官庁を設けていたと主張した。
戦後の日本では、
「 旗 民 分 治 」を 主 張 す る 見 解 は 唱 え ら れ て い な い 。し か し 中 国 で は 、こ
の観点から清朝によるマンチュリア統治の特徴を解釈しようとする研究が出されている。
張 博 泉 [1985、 418-420 頁 ]は 、 金 朝 の 猛 安 謀 克 に 震 源 を 持 つ 、 征 服 者 と 被 征 服 者 を 分 け て
統 治 す る「 旗 民 二 重 体 系 」を 清 朝 は マ ン チ ュ リ ア 統 治 に 採 用 し た と し て い る 。田 志 和 [1987]
は 、清 初 に つ く ら れ た 制 度 を「 旗 民 二 重 行 政 体 制 」と み な し 、こ れ が 19 世 紀 後 半 の 帝 国 主
義 勢 力 の 侵 入 と 漢 人 移 民 の 増 加 に よ り 変 容 を 余 儀 な く さ れ 、 1907 年 (光 緒 33 年 )の 東 三 省
の設置に至ったと主張した。以後、表現は論者によりやや違うが、旗人と民人とに分けて
統治していた点を、清朝によるマンチュリア統治の特徴だとする見解が出されている。 華
立 [1988]は「 旗 民 分 治 政 策 」で あ っ た と し 、刁 書 仁 [1994a]は「 旗 民 二 重 行 政 体 制 」の 変 容
を 吉 林 を 事 例 に 検 証 し て い る 。 康 沛 竹 [1989]は 、 清 代 マ ン チ ュ リ ア 史 を 「 旗 民 並 治 的 行 政
体 制 」 の 変 容 過 程 と し て 、 暴 景 昇 [2009]は 「 旗 民 分 治 体 制 」 の 形 成 、 変 容 と し て 理 解 し て
いる。
任 玉 雪 [2010]は 清 朝 に よ る マ ン チ ュ リ ア 統 治 を 詳 細 に 考 察 し 、 新 た な 論 点 を 主 張 し た 。
任 玉 雪 は 盛 京 で は「 旗 民 分 治 体 制 」、吉 林 で は 雍 正 、乾 隆 年 間 に「 旗 民 分 治 体 制 」の 萌 芽 が
出現したが「軍府体制」を基調とした、黒龍江では一貫して「軍府体制」であったと、マ
ンチュリアのなかでも盛京、吉林、黒龍江により旗人と民人の関係性は相違していた点を
指摘した。
日本での研究は、清代マンチュリア史を満洲人と漢人との対立から解釈しようとする傾
向が強く、旗人、民人の区別に着目した研究は存在しない。清朝が重視したのは旗人と民
人の区別であり、今日的な区分ともみなせる満洲人、漢人という民族の相違ではなかった
(2)。 そ も そ も 清 朝 が 重 視 し た 旗 人 は 満 洲 人 、 モ ン ゴ ル 人 、 漢 人 か ら 構 成 さ れ て い た の で 、
民 族 と み な す こ と は で き な い 人 間 集 団 で あ っ た 。民 族 の 区 別 が 登 場 す る の は 19 世 紀 後 半 以
降であり、それ以前にも民族が実態として存在したとする論法は、歴史の実態把握として
適切ではない。本章では旗民制の成立、変容、消滅過程について考察し、清代マンチュリ
アの社会変容と地域秩序の変化について検証してみたい。
101
(1)例 え ば 小 峰 和 夫 [1991、63 頁 ]は 、
「清朝は先祖発祥の地である満洲には封禁政策をおこ
な い 、漢 民 族 の 出 入 り を 禁 止 し て い た 」と か 、
「満州はけっして満州族以外の異民族に冒
されてはならないと清朝は考えていた」と述べている。
(2)清 朝 の 統 治 方 針 の 基 本 は 、旗 人 と 民 人 と に 分 け た 統 治 で あ り 、満 洲 人 と 漢 人 と い う 区 別
で は な か っ た と い う 見 解 が 主 張 さ れ て い る [頼 惠 敏 2007] 。 本 章 の 内 容 も こ う し た 清 朝
史研究の動向を意識している
1.盛京における旗民制の形成
清 朝 は 入 関 し た 1644 年 (順 治 元 年 )に 、盛 京 に は 旗 人 を 管 轄 す る 機 関 の ト ッ プ と し て 盛 京
将 軍 (1)を 置 い た (2)。盛 京 将 軍 の 下 に は 副 都 統 (3)が 置 か れ 、副 都 統 の 下 に は 城 守 尉 、協 領
などが置かれた。城守尉の設置年代、場所については史料により異動があり、その確定は
難 し い (4)。 城 守 尉 は 順 治 か ら 康 熙 年 間 に か け て 、 開 原 、 遼 陽 、 興 京 、 牛 荘 、 蓋 平 、 金 州 、
復州、岫巖、鳳凰城などに設置され、その場所の旗人の統轄、旗租の徴収、旗人の犯罪案
件 の 処 理 な ど を お こ な っ た (5)。旗 人 に 直 接 か か わ る 案 件 に 携 わ っ た の で 、城 守 尉 は「 旗 人
の 父 母 官 」 と も 称 さ れ た [張 其 卓 2005]。
入関により大多数の旗人は関内に移動したため、清朝は盛京の旗人を増やす施策をおこ
な っ た 。 第 一 に 、 移 住 し て き た 民 人 を 旗 籍 に 編 入 し た 。 張 士 尊 [2003、 147-150 頁 ]は 族 譜
の考察を通じて、順治~乾隆年間に移住してきた民人のなかには、旗籍に編入された民人
がいたことを明らかにしている。しかし、順治以降に旗籍へ入った民人の多くは軍事力と
し て で は な く 、 内 務 府 官 荘 や 陵 寝 の 壮 丁 と な っ て い た 。 定 宜 荘 [2004、 198-205 頁 ]は 、 こ
うした旗人は「随旗人」とも称され、正身旗人ではないが民人とも違うという中間的な存
在として、盛京では独特の位置を占めたと指摘している。第二に、康熙年間には入関時と
は 逆 に 、北 京 の 旗 人 を 盛 京 に 移 動 さ せ て い た 。遼 寧 大 学 の 研 究 班 [李 林 1992、64 頁 ]は 、収
集 し た 満 洲 人 の 族 譜 の な か で 、 46 の 宗 族 が 康 煕 年 間 に 関 内 か ら 盛 京 に 移 動 し て 来 て お り 、
そ の 内 17 宗 族 が 1687 年 (康 煕 26 年 )に 集 中 し て い る こ と を 指 摘 し て い る 。康 熙 年 間 に は 岫
巖、鳳凰城に移駐した京師八旗もおり、移駐した旗人を統轄するため岫巖城守尉、鳳凰城
城 守 尉 が 1687 年 (康 熙 26 年 )に 設 け ら れ て い た [張 其 卓 2005、 2006](6)。
清朝は盛京各地や駐防拠点に官荘や旗地を設け、農業生産の増加をはかっていた。盛京
内 務 府 の 糧 荘 は 、 1665 年 (康 煕 4 年 )で は 27 か 所 で あ っ た が 、 1700 年 (康 煕 39 年 )に は 91
か 所 に 増 え て い た [関 嘉 録 1984、93 頁 ]。と く に 、三 藩 の 乱 平 定 以 降 に そ の 増 設 は す す め ら
れ 、 農 業 労 働 者 と し て 広 東 や 福 建 の 人 も 送 り 込 ま れ て い た [佟 永 功 1995、 90 頁 ]。
盛 京 で の 旗 人 を 管 轄 す る 機 関 は 、1727 年 (雍 正 5 年 )に 錦 州 と 熊 岳 城 に 副 都 統 が 設 け ら れ
て 以 後 、し ば ら く 設 置 さ れ な か っ た (7)。次 に 旗 人 を 管 轄 す る 機 関 が 設 け ら れ た の は 、ア ヘ
ン 戦 争 後 に 海 防 を 重 視 す る 意 見 が 強 ま り 、 1843 年 (道 光 23 年 )に 金 州 副 都 統 が 設 置 さ れ た
時であった。
清 朝 は 入 関 後 す ぐ に 盛 京 将 軍 な ど の 旗 人 の 管 轄 機 関 は 設 け た が 、民 人 は 少 な か っ た の で 、
民人の管轄機関は設けていなかった。明末の戦乱で荒廃した盛京の農業をたて直すため、
清 朝 は 1653 年 (順 治 10 年 )に 「 遼 東 招 民 開 墾 例 」 を 出 し 、 遼 東 で の 開 墾 を 積 極 的 に す す め
102
ることにした。そして同年に、民人を管轄する州県衙門を遼陽府、遼陽県、海城県に設け
た。
「 遼 東 招 民 開 墾 令 」を 出 す と と も に 、初 め て 州 県 衙 門 を 設 置 し た こ と と に 関 係 性 が あ っ
たのか、なかったのか、直接的に述べる史料は現在のところない。しかし、両者には因果
関係があったと推測したい。
遼東招民開墾令は2つの内容からなっていた。1つは農民を連れてきた人には、その人
数により、文官を希望するならば知県などの官職を、武官を希望するならば守備などの役
職を授けることであり、もう1つは盛京までやってきた農民に特典として食糧や種子を与
え る 内 容 で あ っ た (8)。清 朝 は こ れ ら の 特 典 を 与 え て 盛 京 の 農 業 生 産 回 復 を し よ う と し た が 、
14 年 後 の 1667 年 (康 煕 6 年 )に 廃 止 し た (9)。そ の 廃 止 に つ い て 述 べ た 記 事 に は 、以 下 の よ
うにある。
工科給事中李宗孔疏言、各官選補、倶按年分輪授、独招民百家送盛京者選授知県、超
于各項之前。臣思此輩、驟得七品正印職銜、光栄已極、豈在急於受任。請以後招民応
授之官、照各項年分、循次録用。上是之、随諭吏部、罷招民授官之例。
遼東招民開墾例の廃止をめぐっては、開墾が進展したのか、進展しなかったのかという観
点から考察されてきたが、
『 聖 祖 実 録 』の 記 事 は 開 墾 に つ い て は 触 れ て い な い 。こ の 記 事 は 、
特典であった官職授与が官僚の序列を乱しているので廃止したと理解できる。
官職授与にともなう問題の是正が遼東招民開墾例廃止の理由だと考え、他の史料でこの
点 を 補 強 す る 見 解 が 出 さ れ て い る 。 刁 書 仁 [1994、 9-10 頁 ]は 、『 郎 潜 紀 聞 』 初 集 の 記 事 に
着目して、遼東招民開墾例により知県に任じられた人は「招民知県」と呼ばれ、問題とな
っ て い た こ と を 指 摘 し た (10)。ま た 張 杰 [2005、38 頁 ]は『 碑 伝 集 』の「 王 煕 伝 」に 着 目 し 、
や は り 遼 東 招 民 開 墾 例 に よ り 知 県 に な っ た 人 が 問 題 に な っ て い た こ と を 指 摘 し た (11)。
以上から、遼東招民開墾例廃止の理由は、官職授与により官僚の序列が乱される事例が
増えたので、康煕帝はさらなる問題発生を回避しようと考えたからだと指摘したい。遼東
招 民 開 墾 例 の 廃 止 は 官 職 授 与 の 特 典 廃 止 で あ り 、 移 民 の 禁 止 で は な か っ た (12)。 そ の 後 も
手 続 き を 行 え ば 山 海 関 を 出 る こ と は 可 能 で あ っ た (13)。
入関前では、旗人に旗地を支給し、その旗人から税糧を徴収しており、課税は人を基礎
にしていた。土地ではなく人を課税対象としたやり方は、入関後もすぐには変化しなかっ
た と 思 わ れ る 。だ が 、開 墾 に よ り 耕 作 地 が 増 え る と 、人 を 対 象 と し た 課 税 は 難 し く な っ た 。
支 給 地 (圏 地 )以 外 の 耕 地 が 増 え た こ と か ら 、 民 地 で は 1658 年 (順 治 15 年 )か ら 、 旗 地 で は
1693 年 (康 煕 32 年 )か ら 課 税 を は じ め た [周 藤 吉 之 1944、149、198 頁 ]。こ こ に 人 で は な く 、
土地を課税対象にすることがはじまった。
州 県 衙 門 の 拡 充 も お こ な わ れ 、1664 年 (康 煕 3 年 )に は 開 原 県 、鉄 嶺 県 、蓋 平 県 、承 徳 県
な ど が 設 け ら れ た (14)。 1653 年 (順 治 10 年 )か ら 1665 年 (康 熙 4 年 )の 10 数 年 間 は 「 第 一
次 州 県 設 置 ブ ー ム 」 と も 例 え ら れ る 時 期 で あ っ た (表 1 参 照 )。 1657 年 (順 治 14 年 )に は 、
盛 京 の 各 州 県 を 統 轄 す る 奉 天 府 府 尹 が 設 け ら れ た (15)。 こ こ に 盛 京 に は 、 旗 人 の 統 轄 は 盛
京将軍をトップとし、民人の統轄には奉天府府尹をトップとする機構がつくられた。
そ の 後 も 州 県 衙 門 の 設 置 は 続 け ら れ 、 1733 年 (雍 正 11 年 )に は 復 州 、 義 州 、 寧 海 県 が 設
置された。しかしながら、これ以後盛京では州県衙門の設置はおこなわれず、民人を管轄
す る 機 構 の 拡 大 は 停 止 し た 。 次 に 新 た な 州 県 衙 門 が 設 け ら れ る の は 、 約 130 年 後 の 1876
103
年 (光 緒 2 年 )に 岫 巖 州 、 安 東 県 が 設 置 さ れ た 時 で あ っ た 。
盛京は清朝の陪都であったころから、盛京将軍、奉天府府尹以外に、清朝中央に直属し
た 機 関 も 設 け ら れ た 。 1658 年 (順 治 15 年 )に 盛 京 戸 部 、 盛 京 礼 部 、 盛 京 工 部 が 設 置 さ れ 、
次 い で 1662 年 (康 熙 元 年 )に 盛 京 刑 部 が 、 1691 年 (康 熙 30 年 )に 盛 京 兵 部 が 設 け ら れ (16)、
こ れ ら は 盛 京 五 部 と 呼 ば れ た 。吏 部 は 設 け ら れ な か っ た 。そ の 理 由 を『 嘯 亭 雑 録 』は 、盛
京出身の官吏は少ないので、北京で選出すれば用は足りるので設けなかったと述べている
(17)。 盛 京 五 部 は 陪 都 盛 京 の 運 営 を 担 当 す る 中 央 直 轄 機 関 で あ り 、 盛 京 将 軍 や 奉 天 府 尹 と
の間に上下関係はなかった。
清朝は開墾を奨励したが、無制限、無原則な開墾は認めなかった。清朝が盛京統治にあ
たって固執した原則は、旗人は旗界を、民人は民界を耕作するという「旗民分治」であっ
た 。 1679 年 (康 煕 18 年 )に 清 朝 は 丈 量 を お こ な い 、 旗 地 と 民 地 の 区 分 け を 設 定 し た 。 次 い
で 1689 年 (康 煕 28 年 )に は 旗 人 が 民 界 を 、 民 人 が 旗 界 を 開 墾 す る こ と を 禁 止 し た [刁 書 仁
1991]。康 熙 帝 は 1715 年 (康 熙 54 年 )に も 、旗 界 と 民 界 の 区 別 を 命 じ て お り 、旗 人 と 民 人 が
雑 居 す る こ と を 問 題 視 し て い た (18)。
また、清朝は柳条辺牆をつくり、マンチュリアの区分をおこなった。柳条辺牆には山海
関 ~ 開 原 ~ 鳳 凰 城 を 結 ぶ「 老 辺 」と 、開 原 ~ 舒 蘭 を 結 ぶ 新 辺 の 二 つ が あ っ た 。老 辺 は 1654
年 (順 治 11 年 )~ 1678(康 熙 17 年 )の 間 に 、 新 辺 は 1682 年 (康 熙 21 年 )前 後 に つ く ら れ た と
考 証 さ れ て い る [吉 田 金 一 1977、川 久 保 悌 郎 1990]。柳 条 辺 牆 は マ ン チ ュ リ ア を 、① 辺 牆 内
側の旗民が分居する農耕地区、②新辺東側の旗人、辺民が暮す狩猟地区、③新辺西側のモ
ンゴル人の遊牧地区の3地区に分けていた。
開墾地の増加は、人を対象とした課税から、土地を把握して税糧を得る方向への転換を
う な が し た 。 1726-27 年 (雍 正 4 -5 年 )に 盛 京 で は 土 地 の 丈 量 が お こ な わ れ 、 紅 冊 (旗 地 の
旗 租 、民 地 の 税 糧 を 徴 収 す る 際 の 基 礎 と な る 台 帳 )が 作 成 さ れ た 。紅 冊 に 記 載 さ れ た 旗 地 は
旗紅冊地、民地は民紅冊地と呼ばれ、また以後の土地政策の基礎になったため「原額地」
と も 呼 ば れ た 。こ こ に 清 朝 は 、盛 京 で は 土 地 を 課 税 対 象 に す る こ と を 明 確 化 し た [周 藤 吉 之
1944、 153-175 頁 ] 。
民人を管轄した州県衙門の機能は、清朝が関内に設けた州県衙門と同じであった。これ
に対して旗人を管轄した城守尉などの機能は、盛京だけの独特なものであった。盛京将軍
をトップとした旗人の統治機構は、旗人の軍事鍛錬だけでなく、旗人の訴訟、旗地からの
徴税などもおこなっていた。それゆえ純然たる軍政機関ではなく、民政的な事柄も管轄し
た (19)。 盛 京 各 地 に 置 か れ た 城 守 尉 は 、 駐 防 拠 点 を 防 衛 す る 役 割 も 担 っ た が 、 駐 防 拠 点 の
周 囲 に 設 け ら れ た 旗 界 の 管 理 も お こ な う と い う 独 特 な 職 務 を 果 た し て い た [任 玉 雪 2007]。
18 世 紀 前 半 に な る と 盛 京 で は 二 つ の 変 化 が 生 じ て い た 。 第 一 に は 、 民 人 の 流 入 が 増 え 、
民 人 は 旗 地 を 私 墾 し た た め 、旗 界 が 脅 か さ れ た 。第 二 に は 、民 人 に 租 佃 さ れ る 旗 地 が 増 え 、
旗人の中には旗地を喪失して没落する人が出ていた。
乾隆帝は基本理念である「旗民分治」が崩れることを懸念して、民人の流入に制限を加
え る こ と に し た 。 1740 年 (乾 隆 5 年 )に 乾 隆 帝 は 兵 部 左 侍 郎 の 舒 赫 徳 に 「 盛 京 は 満 洲 ( 人 )
の根本の場所であるが、最近民人の流入が多く、多くの土地を耕している。奉天地方は糧
米も已に充足したから、民人に耕作させるよりも、旗人に耕作させ、旗人が耕作しなけれ
104
ば、土地は空けておき、旗人の訓練に備えよ」という上諭を出した。舒赫徳はこれを受け
て、
「 奉 天 は 満 洲( 人 )の 根 本 の 場 所 で あ る か ら 、民 人 と の 雑 居 は 認 め ず 、旗 人 の 利 益 を 第
一 に 考 え る 必 要 が あ る 」。「 し か し 、 今 い る 民 人 を 追 い 返 す の は 問 題 な の で 方 法 を 考 え る 」
とし、舒赫徳は八か条の提案を上奏した。①単身で山海関を出て商売や 傭工に従事する者
を除き、その出関は禁止する。とくに家族を伴っての移住は厳禁する。②船で盛京にやっ
てくる民人の流入を禁止する。③民人は保甲に編入し、編入を拒む民人は原籍地に帰らせ
る。④未耕地は旗人が耕作し、民人による開墾は禁止する。⑤盛京で勝手に 鉱山を採掘す
るのは禁止する。⑥人参を勝手にとる者は処罰する。⑦皇族関係者は民人と訴訟になるよ
うなことはしない。⑧盛京を離れる旗人は届出をだすこと。以上の舒赫徳の上奏に、乾隆
帝 は 従 う よ う 指 示 を 出 し た (20)。
乾隆帝は民人が多くの土地を耕していることを問題とし、旗人に耕作させ、旗人が耕作
しないならば空き地とし、旗人が鍛錬する場所にしろと述べている点に注意したい。舒赫
徳 の 提 案 の 内 、① 、② が 移 民 の 流 入 禁 止 に 関 す る も の で 、
「 封 禁 政 策 」の 根 拠 と な っ て い る 。
しかし、①は家族を伴っての移住は禁止しているが、旗人の生活に必 要な商人や工匠が単
身で流入することは認めている。つまり絶対的な移民禁止ではなく、条件付きの禁止であ
った点は指摘したい。次に④が未耕地の耕作は旗人だけに限り、民人の開墾を禁止してい
た点から、旗人の生計維持が目的の一つになっていたと解釈できる。
この記事の内容をもとに歴史研究者は「封禁政策」という用語を案出し、清朝によるマ
ンチュリア統治の特徴として使っている。乾隆帝は封禁政策という語句は使っていない
(21)。 乾 隆 帝 の 上 諭 は 、 盛 京 統 治 の 方 針 を 明 確 化 し た も の で あ り 、 旗 人 が 民 人 の 影 響 を 受
けて、経済的に没落、精神的に漢化されていくことを押し止める目的、つまりは 旗人と民
人との関係調整にあったと理解したい。
「 封 禁 政 策 」と い う 表 現 は 、マ ン チ ュ リ ア を 外 部 か
ら閉ざした空間のままにしておくという意味合いが強く、その実態の理解に誤解が生じる
可 能 性 が あ る (22)。
民人の流入増加だけでなく、民人が旗地の実質的な所有権を手に入れ、旗人から旗地が
失 わ れ て い く こ と も 問 題 で あ っ た 。清 朝 は 民 人 へ の 旗 地 の 売 却 は 、
「 旗 民 不 交 産 」の 規 定 に
より禁止していた。しかしながら、民人は押、典などの租佃慣行を利用して、旗地の実質
的 な 所 有 権 を 得 て い た 。 こ の た め 旗 地 を 失 っ た 旗 人 は 多 く 、 刁 書 仁 [1994b、 55 頁 ]は 1747
年 (乾 隆 12 年 )12 月 の 盛 京 将 軍 富 俊 に よ る 上 奏 に 依 拠 し て 、 盛 京 で 旗 地 を 持 た な い 官 吏 は
360 人 、 兵 丁 は 1 万 5331 人 で あ り 、 持 っ て い る 官 吏 は 143 人 、 兵 丁 は 2140 人 に 過 ぎ な か
ったと述べている。清朝はこうした状況の進展を食い止めるため、乾隆年間にはマンチュ
リアの農業生産を増加させる意図は捨てて、民人の流入を制限して旗人の生計保護を優先
する方針に転換した。
以上の検討から、清朝は盛京では、旗人は盛京将軍をトップとした、民人は奉天府府尹
をトップとした統治機構により管轄する「旗民分治」をおこなっていたこと、旗人と民人
の雑居を禁止し、さらには「旗民不交産」により民人が旗地の所有権を入手することは禁
止して、旗人の生計に変化が生じないよう配慮していたと指摘できる。
(1)厳 密 に は 盛 京 将 軍 と い う 官 職 名 は な い が 、以 下 で は 盛 京 将 軍 と す る 。そ の 名 称 は 何 回 も
変 わ っ て い た 。1644 年 (順 治 元 年 )内 大 臣 、1645 年 (順 治 2 年 )阿 立 哈 大 、1646 年 (順 治 3
105
年 )盛 京 昻 邦 章 京 、 1662 年 (康 煕 元 年 )鎮 守 遼 東 等 処 将 軍 、 1665 年 (康 煕 4 年 )鎮 守 奉 天 等
処 将 軍 、 1747 年 (乾 隆 12 年 )鎮 守 盛 京 等 処 将 軍 。
(2)『 世 祖 実 録 』 巻 7
順治元年8月丁巳。
(3)1727 年 (雍 正 5 年 )に 副 都 統 は 三 名 と な っ た 。 盛 京 副 都 統 は 牛 荘 か ら 開 原 を 、 錦 州 副 都
統 は 遼 西 地 区 を 、熊 岳 副 都 統 は 遼 東 半 島、鴨 緑 江 方 面 を 管 轄 し た (『 世 祖 実 録 』巻 58
雍
正 5 年 6 月 庚 子 )。
(4)『 世 祖 実 録 』巻 7 (順 治 元 年 8 月 丁 巳 )は 1644 年 (順 治 元 年 )8 月 に 、雄 耀 城( 熊 岳 )、錦
州 、 寧 遠 、 鳳 凰 城 、 興 京 、 義 州 、 新 城 (不 詳 )、 牛 荘 、 岫 岩 、 東 京 、 蓋 州 、 耀 州 、 海 州 、
鞍 山、広 寧 の 15 か 所 に 満 洲 章 京、漢 軍 章 京 、城 守 官 を 設 け た と 記 述 し て い る 。と こ ろ が 、
『 清 会 典 事 例 』巻 544 兵 部 3 官 制「 盛 京 等 處 駐 防 」に は 、1644 年 (順 治 元 年 )に 満 洲 章 京 、
漢軍章京、城守官を設けた場所は、熊岳、錦州、鳳凰城、寧遠、興京、遼陽、牛荘、岫
岩 、義 州 、蓋 州 、海 州 、耀 州 の 12 か 所 と し て い る 。鞍 山 、広 寧 、新 城 (不 詳 )は 挙 げ ら れ
て い な く 、『 清 会 典 事 例 』 と 『 世 祖 実 録 』 の 記 述 は 一 致 し な い 。
(5)『 八 旗 通 志 初 集 』 巻 18 土 田 志 1 。
(6)1950 年 代 の 中 華 人 民 共 和 国 下 で お こ な わ れ た 調 査 で は 、 遼 寧 省 興 城 県 の 旗 人 の 来 歴 形
態には二つあり、一つは明末に清軍が錦州を攻略した以後居住するようになった「満洲
旗 人 」、も う 一 つ は 順 治 、康 煕 年 間 に 錦 州 に 荘 園 が 作 ら れ 、関 内 か ら や っ て き て 旗 籍 に 編
入 さ れ た「 漢 軍 旗 人 」で あ っ た と し て い る 。
「 満 洲 旗 人 」と「 漢 軍 旗 人 」の 両 者 に よ り 現
在 の 満 族 は 形 成 さ れ て お り 、1953 年 時 点 で「 満 洲 旗 人 」の 割 合 は 約 10% 、90% は 漢 軍 旗
人 だ と 述 べ て い る 。 し か し 、 約 300 年 前 の 状 況 に 関 す る 聞 き 取 り 調 査 で あ り 、 そ の 信 憑
性 に は 疑 問 が 残 る [民 族 問 題 五 種 叢 書 遼 寧 省 編 輯 委 員 会 編 1985、 205 頁 ]。
(7)『 世 宗 実 録 』 巻 58
雍正5年6月庚子。
(8)『 盛 京 通 志 』 巻 23 戸 口 志 。
(9)『 聖 祖 実 録 』 巻 23
康煕6年7月丁未。
(10)『 郎 潜 紀 聞 』 初 集 巻 1 、 13 丁 に は 次 の よ う に あ る 。「 康 煕 初 年 、 例 凡 招 民 百 家 送 至 盛
京 、優 敍 知 県 。謂 之 招 民 知 県 。後 経 王 文 靖 公 疏 言 、恐 有 不 肖 奸 民 、借 貲 為 市 、貽 害 地 方 、
宜 改 授 散 秩 、 以 絶 徼 倖 、 従 之 」。
(11)『 碑 伝 集 』 巻 12「 王 煕 伝 」 の 康 煕 5 年 か ら 康 煕 7 年 以 前 の 部 分 に は 次 の よ う に あ る 。
「疏請改招民授官之例。近例、招民百家、優授知県。夫県令宰治百里、撫綏衆民、関係
匪軽、倘有不肖之輩授以此職、則百姓之累無窮。況招民百家、送至盛京、往来之貲非数
千金不足、不惜数千金而得一県令、則借資為市、其心可知。既希圖謀利、其一邑之民安
危又可知。臣愚、以為嗣後招民百家之人、応給与閑散官名色、頂帯、牌匾、族奨、勿授
以 理 民 之 職 任 」。
(12)吉 田 金 一 [1984、 68-69 頁 ]も 、 筆 者 と ほ ぼ 同 じ 見 解 を 述 べ て い る 。
(13)『 高 宗 実 録 』 巻 102 乾 隆 4 年 10 月 丙 戌 。
(14)『 聖 祖 実 録 』 巻 12
(15) 『 世 祖 実 録 』 巻 109
(16)『 世 祖 実 録 』 巻 120
康煕3年5月甲午。
順 治 14 年 4 月 戊 戌 。
順 治 15 年 9 月 庚 子 。『 聖 祖 実 録 』 巻 150
(17) 昭 謰 『 嘯 亭 雑 録 』 巻 4 「 盛 京 五 部 」。
106
康 煕 30 年 3 月 庚 子 。
(18)『 聖 祖 実 録 』 巻 266
康 煕 54 年 11 月 丁 未 。
(19)筆 者 は 、 旧 稿 [塚 瀬 進 2008、 271 頁 ]で は 民 政 機 関 と し て 州 県 衙 門 が 、 軍 政 機 関 と し て
将軍、副都統、城守尉が置かれたと表現した。民政機関、軍政機関という用語は史料上
にはなく、筆者がその機能を解釈して論文中で使用したものである。軍政機関という用
語は、軍事、軍隊に関する案件だけを管轄する機関を指す場合に使われる。旗人を管轄
し た 副 都 統 、城 守 尉 は 旗 人 の 管 理 、旗 地 か ら の 徴 税 な ど 民 政 的 な こ と も お こ な っ て い た 。
それゆえ本書では軍政機関という用語は使わないことにした。清代マンチュリアの行政
機構は現代国家のそれとは似ている点もあるが、異なる点も多い。現代国家の在り方か
ら類推した用語を不用意に使うならば、現代国家の状況にひっぱられたイメージを持っ
てしまい、その実態を誤解することにつながってしまう。
(20)『 高 宗 実 録 』 巻 115 乾 隆 5 年 4 月 甲 午 。
(21)誤 解 の 無 い よ う に 付 け 加 え る が 、 清 朝 は マ ン チ ュ リ ア を 「 封 禁 の 地 」 に し て は い な か
った、などと主張しているのではない。清朝は先祖の墳墓や人参、東珠の産地は封禁し
て お り 、自 由 な 立 ち 入 り を 禁 止 し て い た 。こ う し た 封 禁 と 、1740 年 (乾 隆 5 年 )に 出 さ れ
た乾隆帝の上諭の内容とを混同するのは問題だと主張している。かかる内容の指摘は、
す で に 戦 前 に お い て 柴 三 九 男 [1941]が し て い る 。
(22) 筆 者 は 、 清 朝 は マ ン チ ュ リ ア で 「 封 禁 政 策 」 を 実 施 す る と い う 命 令 は 発 布 し て は い
なかったので、その廃止を表明することもなかったと考えている。清朝皇帝が「封禁政
策 」を 廃 止 し た と い う 上 諭 を 、筆 者 は 見 た こ と は な い 。清 朝 が 19 世 紀 末 以 降 お こ な っ た
土地政策は、個別の場所の土地払い下げの許可であり、マンチュリア全域の開墾許可な
どは出していなかった。
2.吉林、黒龍江における旗人統治機構の形成
順治年間において、盛京では盛京将軍をトップとする旗人の管轄機構が形成されたが、
吉林、黒龍江には少数の駐防八旗が寧古塔に駐屯するだけであった。吉林、黒龍江方面へ
の清朝勢力の拡大は、ヌルハチ・ホンタイジ期にもすすめられたが、人間を移住させて開
発 す る こ と や 、領 域 支 配 を お こ な う こ と は な か っ た 。ヌ ル ハ チ 、ホ ン タ イ ジ は 服 属 し た 人 々
を 盛 京 周 辺 に 移 住 さ せ (徙 民 )、 八 旗 に 編 入 し て 軍 事 力 の 強 化 に あ て た 。 清 朝 の 目 的 は 兵 士
の 確 保 で あ り 、土 地 で は な か っ た 。し か し 服 属 し た 住 民 の す べ て が 移 動 し た わ け で は な く 、
アムール川中流域などの原住地に残った人もいた。ホンタイジは残留した人々には貂皮の
貢 納 を 義 務 付 け 、そ の 見 返 り に 衣 服 、帽 子 な ど を 支 給 し た 。こ れ が 辺 民 制 の 原 型 で あ っ た [松
浦 茂 2006、 第 7 章 ]。
入関により旗人のほとんどは関内に移動したため、マンチュリアの人口は激減した。ヌ
ルハチの台頭以来、戦火の絶えなかったマンチュリアは、人口稀薄な、平穏な場所になっ
た か に 思 え た 。と こ ろ が 、入 関 し た ま さ に そ の 年 の 1644 年 (順 治 元 年 )に 、ロ シ ア 人 が ア ム
ール川流域にあらわれ、清朝は新たな対応を迫られた。ポヤルコフがアムール川流域にあ
ら わ れ た 1644 年 (順 治 元 年 )か ら 、ネ ル チ ン ス ク 条 約 が 締 結 さ れ る 1689 年 (康 熙 28 年 )ま で 、
アムール川流域は清朝とロシアとの衝突する場所となった。
107
清朝はアムール川流域の住民をロシア人の略奪から守るため、他所に住民を強制的に移
住 さ せ た [松 浦 茂 2006、283-284 頁 ] 。ま た 、寧 古 塔 を 拠 点 に 軍 事 力 の 増 強 を お こ な い 、1653
年 (順 治 10 年 )に 吉 林 将 軍 (1)を 寧 古 塔 に 置 い た 。 し か し 兵 力 不 足 は 否 め ず 、 朝 鮮 に 援 軍 派
遣を要請し、順治末年にはロシア人の撃退に成功した。
ロ シ ア 人 の 侵 攻 は 小 康 状 態 と な っ た が 、 1673 年 (康 熙 12 年 )に 三 藩 の 乱 が 勃 発 し 、 マ ン
チ ュ リ ア の 八 旗 兵 の 多 く が 関 内 に 移 動 し た 。寧 古 塔 で 流 刑 者 と し て 暮 ら し て い た 呉 振 臣 は 、
三藩の乱後に寧古塔の兵士は移動したため、城内に空き地が増え、城内にも漢人が住むよ
う に な っ た と 述 べ て い る (2)。朝 鮮 の『 李 朝 実 録 』も 寧 古 塔 の 状 況 を 記 述 し て 、1675 年 (康
熙 14 年 )に 合 計 1500 名 の 兵 士 が 寧 古 塔 か ら 移 動 し 、残 留 し て 寧 古 塔 警 備 に あ た っ て い る 兵
士 は 「 老 弱 僅 三 百 余 人 」 だ と 述 べ て い る (3)。
寧古塔方面の八旗兵が北京や盛京に移動したことから、マンチュリアの兵力不足が問題
となった。そこで、清朝はマンチュリアの先住民を八旗に編成し、兵力として動員するこ
と に し た 。 1674 年 (康 煕 13 年 )に ア ム ー ル 川 中 流 の 住 民 を 中 心 に 新 満 洲 四 十 佐 領 を 組 織 し
て 、 寧 古 塔 、 吉 林 、 盛 京 に 移 駐 さ せ た 。 さ ら に 、 1675 年 (康 熙 14 年 )に チ ャ ハ ル で ブ ル ニ
の 乱 が 起 こ り 、清 朝 は 兵 力 の 増 員 を 必 要 と す る 状 況 に 追 い 込 ま れ た [森 川 哲 雄 1983]。そ の
た め 新 満 洲 の 八 旗 へ の 編 入 は 継 続 し て お こ な わ れ 、 1676 年 (康 熙 15 年 )、 1677 年 (康 熙 16
年 )、 1678 年 (康 熙 17 年 )に も 実 施 さ れ た [松 浦 茂 2006、 第 8 章 ]。
ブ ル ニ の 乱 は 短 期 間 で 終 息 し 、 三 藩 の 乱 も 1681 年 (康 熙 20 年 )に は 平 定 し た こ と か ら 、
康熙帝はマンチュリアの兵力を増強して、ロシア人との抗争に決着をつけることにした。
1683 年 (康 熙 22 年 )に 黒 龍 江 将 軍 (4)を ア イ グ ン に 設 け 、こ れ ま で は 兵 力 を 置 い て い な か っ
たアムール川上流の軍事力の増強をはじめた。黒龍江将軍の設置により三将軍体制が成立
し、清末まで継続した。
黒龍江方面でも先住民を八旗に編入し、兵士として動員する方法がとられた。シボ、ダ
グ ー ル 、バ ル ガ な ど の 先 住 民 族 が 八 旗 に 編 入 さ れ 、駐 防 八 旗 と し て 各 地 に 移 駐 し た (5)。新
満洲、シボ、バルガなどの先住民は、元来は狩猟、漁労、遊牧に依存して生活していた。
ところが、八旗編入後は旗地を支給され、農耕に依存した生活へと変わった。八旗に編入
された先住民は生活の「旗人化」を余儀なくされ、以前の生活を継続することは難しい状
況に置かれた。
ネルチンスク条約の締結によりロシアとの抗争はひとまず終息したが、ガルダンによる
ハルハ侵攻、ジュンガル討伐などマンチュリア近隣での軍事行動は止まなかった。こうし
た軍事情勢に対応するために、清朝は防衛線として黒龍江方面を重視して、卡倫の建設、
国 境 付 近 の 巡 察 な ど の 防 衛 体 制 を 構 築 し た [栗 振 復 1983]。雍 正 帝 は ジ ュ ン ガ ル と の 抗 争 を
継 続 し た の で 、フ ル ン ブ イ ル に も 駐 防 八 旗 を 移 駐 さ せ て 、ジ ュ ン ガ ル へ の 備 え と し て い た 。
吉林、黒龍江の旗人を管轄する機構は、康熙、雍正年間には拡大を続けた。将軍の下で
旗 人 を 統 轄 し た 副 都 統 は 、 吉 林 で は 五 か 所 、 黒 龍 江 で は 三 か 所 に 設 け ら れ た (表 2 参 照 )。
だ が 、 乾 隆 年 間 に ジ ュ ン ガ ル は 滅 亡 し た た め 、 そ の 拡 大 は 停 止 し た 。 1756 年 (乾 隆 21 年 )
に 阿 勒 楚 喀 副 都 統 が 置 か れ た こ と を 最 後 に 、し ば ら く 旗 人 の 管 轄 機 構 は 設 け ら れ な か っ た 。
清朝には吉林、黒龍江を均質的に統治しようとする指向はなかった。要所には卡倫が設
置されたが、ロシアとの境界は巡察をおこなうにとどまり、軍隊を常駐させてはいなかっ
108
た [宝 音 朝 克 圖 2003]。 吉 林 で は 人 口 希 薄 な 場 所 の 警 備 は 、 年 二 回 ( 1849 年 以 後 は 年 四 回 )
の 巡 察 で 対 応 し て い た に 過 ぎ な か っ た (6)。清 朝 は 領 域 を 確 保 す る の で は な く 、人 間 を 把 握
す る 選 択 を し て い た 。高 い 組 織 化 で 把 握 さ れ た の は 八 旗 制 に 組 織 、編 入 さ れ た 人 々 で あ り 、
貢 納 の 義 務 だ け の 辺 民 は 低 い 組 織 化 だ と み な せ る 。19 世 紀 前 半 ま で の 吉 林 、黒 龍 江 は 、い
くつかの軍事拠点以外は人跡のまれな場所であり、清朝の統治力は軍事拠点を中心 として
放 射 状 的 に 拡 散 し て い く 特 徴 を 持 っ て い た と ま と め ら れ よ う 。こ う し た 状 況 は 、19 世 紀 後
半以降、民人の増加、ロシアの勢力拡大、朝鮮人の流入、治安の悪化などにより変化を迫
られた。
清朝は駐防拠点の周囲に官荘を設けて、食料の確保をおこなっていた。清初において黒
龍江方面では農業はほとんどおこなわれていなかったので、食料は盛京方面からの輸送に
依存していた。しかし、康熙末年になると官荘を中心として、黒龍江、吉林での農業生産
は 増 え た 。そ の た め 盛 京 方 面 か ら の 輸 送 は 不 要 に な り 、運 糧 船 は 打 ち 捨 て ら れ て い た [周 藤
吉 之 1940]。 清 朝 に よ る 黒 龍 江 、 吉 林 の 「 開 発 」 は 、 清 朝 が 抱 く マ ン チ ュ リ ア 統 治 の 理 念
から推進されたわけではなく、対ロシア政策の一環として実施された点を指摘したい。
乾 隆 年 間 に な る と 吉 林 に 流 入 す る 民 人 が 増 え て い た 。1776 年 (乾 隆 41 年 )の 上 諭 に は 、
「盛
京は山東、直隷と接しているため流民が流入している。これをもし駆逐するならば、その
生計がなくなるので州県を設立して管理する。しかし吉林は漢地と接していなく、流民が
居住するには都合が悪い。いま流民が多くなったと聞くが、今後はその流入を禁止する」
と あ り 、吉 林 へ の 民 人 の 流 入 を 禁 止 し て い る (7)。吉 林 へ の 民 人 流 入 を 禁 止 し た 理 由 と し て 、
清朝は没落した北京在住の旗人を吉林に入植させ、その生計を立ち直らせようとしていた
点 も 指 摘 し た い [魏 影 2010]。北 京 の 旗 人 が 入 植 す る 土 地 を 確 保 し て お く た め に も 、民 人 の
開墾は禁止する必要があり、民人流入の禁止令が出されたと考えたい。
嘉 慶 年 間 以 降 も 繰 り 返 し 吉 林 へ の 民 人 流 入 を 禁 止 し て お り 、 1806 年 (嘉 慶 11 年 )に は 現
在居住する民人以外の流入は禁止し、以後は一戸たりとも増加は認めないという上諭を出
し て い た (8)。 同 様 の 内 容 の 上 諭 は 1808 年 (嘉 慶 13 年 )、 1810 年 (嘉 慶 15 年 )、 1824 年 (道
光 4 年 )に も 出 さ れ て お り 、 清 朝 は 再 三 に わ た り 吉 林 へ の 民 人 の 流 入 禁 止 を 表 明 し て い た
(9)。し か し な が ら 、流 入 し た 民 人 を 追 い 返 す こ と は せ ず 、戸 籍 に 編 入 し て 課 税 す る こ と で
そ の 居 住 を 認 め て い た (10)。 こ う し た 清 朝 統 治 者 の 対 応 が 、 い か な る 論 理 か ら 導 き 出 さ れ
たものであったのかは、今後の研究を待ちたい。
他 方 、旗 人 の 状 況 も 変 化 し て い た 。19 世 紀 初 め に は 、戦 乱 が な く な っ た こ と か ら 武 芸 の
鍛 錬 に 励 ま な い 旗 人 が 増 え 、 軍 事 力 の 低 下 が 心 配 さ れ て い た (11)。
順治~乾隆年間の黒龍江、吉林では、先住民の八旗への編入、駐防拠点周辺での農業生
産の増加など、大きな社会変容が生じていた。清朝は軍事力の増強を第一にして、旗人の
駐防拠点の増設、旗人の管轄機構の拡充をおこなった。そして、吉林、黒龍江への民人流
入は禁止して、旗人の生計に影響がおよばないようにしていた。吉林、黒龍江では盛京の
ような「旗民分治」ではなく、民人の流入禁止を基調にしていたと指摘したい。
(1) 厳 密 に は 吉 林 将 軍 と い う 官 職 名 は な い が 、以 下 で は 吉 林 将 軍 と す る 。名 称 は 、1653 年
(順 治 10 年 )寧 古 塔 昻 邦 章 京 、 1662 年 (康 煕 元 年 )鎮 守 寧 古 塔 等 処 将 軍 、 1757 年 (乾 隆 22
年 )鎮 守 吉 林 等 処 将 軍 と 変 わ っ た 。 1676 年 (康 煕 15 年 )に 寧 古 塔 か ら 吉 林 へ 移 駐 。
109
(2) 呉 振 臣 『 寧 古 塔 紀 略 』。
(3)『 粛 宗 実 録 』 巻 3
粛宗元年5月甲戌。
(4)厳 密 に は 黒 龍 江 将 軍 と い う 官 職 名 は な い が 、以 下 で は 黒 龍 江 将 軍 と す る 。正 式 な 名 称 は 、
鎮 守 黒 龍 江 等 処 将 軍 (1683 年 康 煕 22 年 )で あ る 。1685 年 (康 煕 24 年 )に 璦 琿 か ら 墨 爾 根 へ 、
1699 年 (康 煕 38 年 )に 斉 斉 哈 爾 へ 移 駐 し た 。
(5)後 篇 第 5 章 で 取 り 上 げ て い る 、 柳 沢 明 、 楠 木 賢 道 ら の 研 究 を 参 照 。
(6)「 吉 林 将 軍 為 派 員 巡 輯 輝 法、土 門 江 事 的 奏 折 」
( 同 治 12 年 11 月 )
『琿春副都統衙門档案
選 編 』 上 、 112-113 頁 。
(7)『 高 宗 実 録 』 巻 1023 乾 隆 41 年 12 月 丁 巳 。
(8)『 仁 宗 実 録 』 巻 164
嘉 慶 11 年 7 月 乙 丑 。
(9)『 仁 宗 実 録 』巻 196
『 宣 宗 実 録 』 巻 65
嘉 慶 13 年 閏 5 月 壬 午、
『 仁 宗 実 録 』巻 236
嘉 慶 15 年 11 月 壬 子 、
道光4年2月丙午。
(10)『 仁 宗 実 録 』 巻 190
(11)『 宣 宗 実 録 』 巻 30
嘉 慶 12 年 12 月 丙 戌 、『 宣 宗 実 録 』 巻 100
道光6年7月丙戌。
道光2年2月壬辰。
3.旗民間の調整の試み
マ ン チ ュ リ ア に 置 か れ た 統 治 機 関 は 以 下 の よ う に ま と め ら れ る 。盛 京 で は 、盛 京 将 軍 (旗
人 を 管 轄 )、 奉 天 府 尹 (民 人 を 管 轄 )、 盛 京 五 部 (旗 人 、 民 人 と い う 基 準 で は な く 陪 都 盛 京 の
運 営 )の 三 機 関 が 設 置 さ れ 、そ れ ぞ れ 独 立 、併 存 し て 職 務 を 担 当 し た 。吉 林 で は 吉 林 将 軍 が 、
黒 龍 江 で は 黒 龍 江 将 軍 が 旗 人 を 管 轄 し た 。吉 林 に も 1726 年 (雍 正 4 年 )に 民 人 を 管 轄 す る 州
県衙門として、永吉州、泰寧県、長寧県が設けられた。しかし、吉林将軍の管轄下ではな
く 奉 天 府 尹 が 管 轄 し た (1)。設 置 後 ほ ど な く 、民 人 は 少 数 で あ る こ と を 理 由 と し て 、泰 寧 県
は 1729 年 (雍 正 7 年 )に 、長 寧 県 は 1736 年 (乾 隆 元 年 )に 廃 止 さ れ た (2)。永 吉 州 は 1747 年 (乾
隆 12 年 )に 廃 止 さ れ 、理 事 同 知 が 設 け ら れ て 、吉 林 将 軍 の 管 轄 下 に 置 か れ た (3)。つ ま り 吉
林には、吉林将軍が管轄する州県衙門は存在しなかったのである。
以上からマンチュリアでの旗民制とは、盛京では旗人の管轄機関と民人の管轄機関が併
存し、吉林と黒龍江は旗人の管轄機関だけが設けられ、盛京では「旗民分治」により、吉
林、黒龍江では民人の流入禁止により、清朝統治の根幹を担った旗人の生計を保護する制
度であったとまとめたい。
清朝は無原則な民人の流入を禁止していたため、マンチュリアでの農業や商業は振るわ
なかった。それゆえ税収は限られており、経費の大半は他省からの協餉に依存していた。
盛京、吉林、黒龍江の収支は赤字であったが、清朝はこうした状況を改善しようとはしな
かった。農業生産を振興して税糧を増やすことや、商品に課税して税収を増やす方向を、
19 世 紀 ま で 清 朝 は と ら な か っ た 。例 え ば 、1724 年 (雍 正 2 年 )に 税 収 を 増 や す た め 、マ ン チ
ュリアに流通する貨物への徴税を建議した上奏に対して、雍正帝はその必要はないと裁可
し て い た (4)。こ の 点 か ら 、清 朝 は マ ン チ ュ リ ア の 状 況 が 変 化 し 、旗 人 の 生 計 に 影 響 や 変 化
がおよぶことの回避を第一にしていたと指摘できる。
乾隆年間以降、無原則な民人の流入を禁止したとはいえ、民人の流入は止まなかった。
110
そのため、旗人と民人との間でのトラブルが増えるとともに、民人により旗人が圧迫され
る状況が生じた。乾隆年間以降、清朝は旗民間の調整をおこない、マンチュリアの社会的
動揺を防ぐための改善策をいくつかおこなった。
清朝は官吏の人選を改めることで旗民間の調整をおこなった。盛京での州県衙門の官吏
の 任 用 は 満 漢 併 用 で お こ な っ て き た が 、民 人 に 通 じ た 官 吏 の 人 選 を お こ な う 必 要 性 が 1776
年 (乾 隆 41 年 )に は 指 摘 さ れ た (5)。 民 人 を 管 轄 す る 州 県 衙 門 の 官 吏 に は 漢 人 を 任 用 す る 必
要 性 が 認 識 さ れ 、 1805 年 (嘉 慶 10 年 )に 遼 陽 、 寧 遠 、 復 州 、 海 城 、 蓋 平 、 寧 海 の 知 県 に は
漢 人 を 任 用 す る 上 諭 が だ さ れ た (6)。
また、明代には存在しなかった官職である理事同知、理事通判を設けることで対応した
[定 宜 庄 1993]。 理 事 同 知 、 理 事 通 判 は 旗 民 間 の 係 争 処 理 を 職 務 と し 、 1733 年 (雍 正 11 年 )
に 理 事 通 判 が 奉 天 府 に 置 か れ た (7)。翌 1734 年 (雍 正 12 年 )に は 増 員 さ れ 、一 人 は 蓋 平 県 に
駐在して海城、蓋平、復州、金州を統轄し、一人は錦県に駐在して錦県、寧遠、広寧、義
州 を 統 轄 し た (8)。
乾 隆 年 間 に な る と 、1747 年 (乾 隆 12 年 )に 吉 林 に 理 事 同 知 が 置 か れ た (9)。興 京 近 隣 で は
民 人 が 増 え 、 民 人 に 関 わ る 案 件 が 増 え た の で 、 1764 年 (乾 隆 29 年 )に 錦 州 か ら 理 事 通 判 が
移 駐 し て 対 応 し た (10)。 岫 巖 で も 民 人 の 案 件 は 城 守 尉 が 処 理 し て い た が 、 対 応 が 難 し く な
り 、 1772 年 (乾 隆 37 年 )に 熊 岳 の 理 事 通 判 が 岫 巖 に 移 駐 す る こ と に な っ た (11)。 嘉 慶 年 間
の 1800 年 (嘉 慶 5 年 )に は 長 春〈 郭 爾 羅 斯 〉に 理 事 通 判 が 、1810 年 (嘉 慶 15 年 )に は 伯 都 納
に 理 事 同 知 が 置 か れ た (12)(前 掲 表 1 参 照 )。 清 朝 は 民 人 が 増 え 、 旗 民 間 の 係 争 が 多 く な っ
た 場 所 に は 、州 県 制 を 施 行 す る の で は な く 、理 事 同 知 (理 事 通 判 )を 設 け て 対 応 し て い た (13)。
さらに、旗人を没落から救済するため、清朝は新たな政策を打ち出した。旗人の没落は
軍事力の低下を意味するので、旗人の生計を改善する必要性は雍正年間から主張されてい
た [姜 念 思 1999]。乾 隆 年 間 に な る と 旗 人 の 生 計 を 支 え た 旗 地 制 度 は 崩 れ 、も は や 旗 人 の 生
計 を 維 持 す る だ け の 水 準 に 立 て 直 す こ と は 難 し く な っ た 。 そ こ で 清 朝 は 、 紅 冊 地 (原 額 地 )
以外の土地を丈量し、丈量した土地はすべて官地に入れて租銀を徴収し、その租銀を旗人
に 与 え 、旗 人 の 生 計 を 支 え る 政 策 を 1766 年 (乾 隆 31 年 )か ら 始 め た [周 藤 吉 之 253-254 頁 ]。
ま た 、民 人 へ 典 売 さ れ た 旗 地 は 買 い 戻 し て 再 び 旗 人 に 戻 す こ と や 、随 缺 地 (乾 隆 年 間 設 置 )、
伍 田 (嘉 慶 年 間 設 置 )を 旗 人 に 支 給 し て 、生 計 の 維 持 に あ て さ せ る こ と も お こ な っ た [周 藤 吉
之 263-277 頁 ]。
清朝は官吏の人選の見直し、理事同知、理事通判の設置、旗人の生計保護をおこない、
旗民間の調整を試みていたとまとめられる。
盛京では旗民間の調整の他に、盛京将軍、奉天府尹、盛京五部の三機関の調整が求めら
れた。これら三機関はそれぞれ独立、併存して職務を担当したとはいえ、三機関のセクシ
ョナリズムから支障が生じることもあった。
「 旗 民 分 治 」が き ち ん と お こ な わ れ 、三 機 関 が
協議する案件が発生しなければ、三機関併存による混乱も生じなかった。しかし盛京では
流 入 し て 来 る 民 人 が 増 え 、 旗 人 と 民 人 と の 間 で の 係 争 が 多 く な っ た 。 清 朝 は 、 1762 年 (乾
隆 27 年 )に 盛 京 将 軍 が 奉 天 府 府 尹 の 職 務 を 兼 轄 す る こ と で 問 題 の 解 決 を 試 み た (14)。 し か
し 、こ れ は す ぐ に 変 更 さ れ 、1765 年 (乾 隆 30 年 )に 盛 京 五 部 の 侍 郎 (代 表 格 は 戸 部 侍 郎 )が 、
盛 京 将 軍 に 代 わ っ て 奉 天 府 府 尹 を 兼 轄 す る こ と に 改 め ら れ た (15)。 つ ま り 盛 京 五 部 の 権 限
111
が強化され、盛京将軍の権限は弱化したのであった。この状況が光緒初年の崇實による改
革 ま で 100 年 余 り 続 い た 。
嘉 慶 、道 光 、咸 豊 、同 治 年 間 (1796-1874 年 )に お い て 、州 県 は 一 つ も 新 設 さ れ て い な く 、
乾 隆 年 間 ま で に 設 置 さ れ た 州 県 衙 門 で 対 応 し て い た (前 掲 表 1 参 照 )。 州 県 以 外 に 「 庁 」 も
設置されたが、庁は州の下部単位である民人の管轄機関とみなせるかは不明確であり、今
後 の 研 究 が 待 た れ て い る (16)。ま た 旗 人 を 統 轄 す る 機 関 と し て は 、金 州 副 都 統 が 1843 年 (道
光 23 年 )に 設 置 さ れ た 点 が 唯 一 の 変 化 で あ っ た 。 金 州 副 都 統 の 設 置 は ア ヘ ン 戦 争 後 に 海 防
体制の強化が叫ばれたため、熊岳城副都統は撤廃して金州に副都統を置いて対応するとい
う 、 マ ン チ ュ リ ア 外 部 の 状 況 変 化 か ら 設 置 さ れ た (17)。
清朝はマンチュリアの統治機構を大きく変えない方向で対応していたが、マンチュリア
の状況は内外ともに変化していた。民人の流入により盛京の人口は増え、乾隆年間にはそ
の 収 容 力 は 飽 和 状 態 に 達 し 、人 口 収 容 地 か ら 送 出 地 に 変 わ り つ つ あ っ た [張 士 尊 2010]。そ
し て 乾 隆 末 年 (18 世 紀 末 )に な る と 、 民 人 の 流 入 は 吉 林 に も お よ ぶ よ う に な っ た [川 久 保 悌
郎 1935]。 柳 条 辺 牆 の 東 側 に あ る 東 辺 で は 、 乾 隆 末 年 か ら 木 匪 の 跳 梁 が 問 題 と な っ て い た
(18)。 民 人 の な か に は 「 不 貞 の 徒 」 も お り 、 治 安 の 悪 化 が 憂 慮 さ れ た 。
清朝は民人をどのように管轄するのか、
「 旗 民 分 治 」を い か に 維 持 す る の か 、新 た な 対 応
が 求 め ら れ る 状 況 と な っ た 。こ う し た な か で 19 世 紀 後 半 以 降 、ロ シ ア が 再 び マ ン チ ュ リ ア
への圧力を強める行動に出た。以下では、ロシアの動向について考察し、マンチュリアの
外側で生じていた変化について見てみたい。
(1)『 世 宗 実 録 』 巻 51
雍 正 4 年 12 月 戊 寅 。
(2)『 世 宗 実 録 』 巻 80 雍 正 7 年 4 月 己 亥 。『 高 宗 実 録 』 巻 22 乾 隆 元 年 7 月 丁 酉 。
(3)『 高 宗 実 録 』 巻 284
乾 隆 12 年 2 月 壬 戌 。
(4)『 雍 正 朝 満 文 朱 批 奏 折 全 訳 』 上 、 黄 山 書 社 、 1998
(5)『 高 宗 実 録 』 巻 1013
乾 隆 41 年 7 月 己 亥 。
(6)『 仁 宗 実 録 』 巻 149
嘉 慶 10 年 8 月 己 亥 。
(7)『 世 宗 実 録 』 巻 133
雍 正 11 年 7 月 甲 午 。
(8)『 世 宗 実 録 』 巻 144
雍 正 12 年 6 月 壬 申 。
(9)『 高 宗 実 録 』 巻 284
乾 隆 12 年 2 月 壬 戌 。
(10)『 高 宗 実 録 』 巻 720
乾 隆 29 年 10 月 癸 巳 。
(11)『 高 宗 実 録 』 巻 905
乾 隆 37 年 3 月 辛 亥 。
(12)『 仁 宗 実 録 』 巻 68
614-615 頁 。
嘉慶5年5月戊戌。
(13)理 事 同 知 (理 事 通 判 )と 似 た 官 職 名 と し て 撫 民 同 知 、 撫 民 通 判 が あ っ た 。 撫 民 同 知 、 撫
民通判は民人を管轄する官職であり「漢缺」であった。
(14)『 高 宗 実 録 』 676
乾 隆 27 年 12 月 己 亥 。
(15)『 高 宗 実 録 』 巻 748
乾 隆 30 年 11 月 戊 寅 。
(16) 1747 年 (乾 隆 12 年 )に 永 吉 州 が 廃 止 さ れ 、 理 事 同 事 が 置 か れ た こ と を 吉 林 庁 の 設 置 だ
と考える見解が多い。しかし理事同事の職務は旗民間の紛争解決であり、一定の領域を
管轄するものではなかった。そのため吉林庁という行政区画を管轄していたわけではな
か っ た と い う 見 解 が 出 さ れ て い る [任 玉 雪 2011、84 頁 ]。任 玉 雪 [2011]は「 庁 」の 機 能 に
112
ついて考察を加え、当初は旗民間の紛争解決を職務としたが、しだいに行政区域を持つ
ようになり、清末になると民人の統治に重点を置いた撫民庁、直隷庁が設けられたと主
張 し て い る 。『 大 清 実 録 』 で の 吉 林 庁 の 初 出 は 1810 年 で あ り 、 こ の こ ろ 吉 林 庁 と し て 認
識 さ れ る よ う に な っ た と 考 え ら れ る (『 仁 宗 実 録 』 巻 236
嘉 慶 15 年 11 月 壬 午 )。 長 春
庁 の 初 出 は 1806 年 、 伯 都 訥 庁 の 初 出 は 1826 年 で あ る (『 仁 宗 実 録 』 巻 164
7 月 乙 丑 、『 宣 宗 実 録 』 巻 110
嘉 慶 11 年
道 光 6 年 11 月 丙 戌 )。
(17)『 宣 宗 実 録 』 巻 389 道 光 23 年 2 月 庚 辰 。
(18) 高 宗 実 録 』巻 1433
乾 隆 58 年 7 月 庚 申 。嘉 慶 年 間 の『 仁 宗 実 録 』に は 多 数 の 木 匪 が
東辺で活動していた記事がいくつも載っている。
4.ロシアの動向について
ネルチンスク条約により、ロシアはアムール川以南に向かうことはできなくなり、カム
チ ャ ッ カ 、 ア ラ ス カ 方 面 へ と そ の 勢 力 伸 張 を は か っ た 。 ア タ ラ ー ソ フ は 1697-98 年 に カ ム
チャッカへ遠征し、カムチャッカ半島までをロシアの勢力下におさめた。ロシア人はシベ
リ ア で は ク ロ テ ン の 毛 皮 を 追 い 求 め て い た が 、 カ ム チ ャ ッ カ で ラ ッ コ と 遭 遇 し た [渡 辺 裕
2003]。ラ ッ コ の 毛 皮 は ク ロ テ ン よ り 品 質 的 に 優 れ て い た が 、こ の 時 点 で は ラ ッ コ の 生 態 や
生息地については不明点が多く、捕獲方法も確立していなかった。
ラ ッ コ が ア ル ー シ ャ ン 、ア ラ ス カ 方 面 に 多 数 生 息 し て い る こ と が 判 明 し た の は 、1741 年
に ベ ー リ ン グ が ア ラ ス カ に 到 達 し た 時 で あ っ た 。ベ ー リ ン グ 隊 (ベ ー リ ン グ は 帰 還 す る こ と
な く ア ル ー シ ャ ン 列 島 で 1741 年 に 死 去 し た )は ラ ッ コ の 毛 皮 を 持 ち 帰 り 、 キ ャ フ タ 経 由 で
清朝に販売された。
18 世 紀 中 ご ろ に は 、シ ベ リ ア に 生 息 す る ク ロ テ ン は ロ シ ア 人 の 捕 獲 に よ り 減 少 し て い た
の で 、ラ ッ コ は ク ロ テ ン に 代 わ る 毛 皮 商 品 と し て ロ シ ア 人 の 関 心 を 集 め た [森 永 貴 子 2008、
78-79 頁 ]。ラ ッ コ は ク ロ テ ン よ り 高 く 売 れ た の で 、ロ シ ア 商 人 は ラ ッ コ を 求 め て 、ア ル ー
シ ャ ン 列 島 、ア ラ ス カ へ と 、そ の 活 動 範 囲 を 拡 大 し た 。し か し 、ラ ッ コ は 海 洋 生 物 な の で 、
シベリアの原生林に生息するクロテンの捕獲とは違った手段を必要とした。船舶、乗員の
手配には多額の資本を投入する必要があり、さらにはこうしたリスクを負いながら出港し
ても、毛皮を入手して帰還できる確実な保証はなかった。北太平洋での毛皮交易は、個人
商人には無理であることが明らかになり、ロシア政府の支援の必要性が叫ばれるようにな
った。ロシア政府に強く支援を要望したのは、グレゴリー・シェリホフであった。シェリ
ホフは現地に定住地を設け、安定的に毛皮を入手し、値崩れが起きないように販売する流
通過程の構築をめざして、ロシア政府への請願を繰り返した。この請願はシェ リホフの存
命 中 (1795 年 死 去 )に は 実 現 し な か っ た が 、 1799 年 に 露 米 会 社 が 設 立 さ れ て 実 現 化 し た [岡
野 恵 美 子 1994、 1997、 1999]。
北太平洋のアリューシャン列島、アラスカに生息したラッコに着目したのはロシア人だ
け で は な か っ た 。イ ギ リ ス 商 人 は 1780 年 代 に 北 太 平 洋 で 活 動 を 始 め た 。し か し 、イ ギ リ ス
人が北太平洋で毛皮交易をするには特許会社である南海会社に、広東で毛皮を売却するに
は東インド会社に高額のコミッションを払う必要があった。このため、アメリカ人を前面
113
に 立 て た 取 引 や 密 貿 易 に よ り 毛 皮 を 獲 得 、販 売 し た [木 村 和 男 2004、116-120 頁 。木 村 和 男
2007、83-95 頁 ]。ま た メ キ シ コ を 拠 点 に 北 米 北 西 岸 を 北 上 す る ス ペ イ ン と の 抗 争 に も 悩 ま
さ れ た 。ス ペ イ ン と の 対 立 は 1789 年 に ヌ ー ト カ 湾 事 件 を 引 き 起 こ し 、こ れ を 機 会 に イ ギ リ
ス は ア メ リ カ 北 西 岸 に 対 す る ス ペ イ ン の 領 有 権 を 否 定 す る こ と に 成 功 し た [木 村 和 男 2007、
157-181 頁 ]。イ ギ リ ス は 外 交 的 に は 勝 利 を お さ め た が 、イ ギ リ ス 船 に よ る 毛 皮 交 易 は 振 る
わ な か っ た 。イ ギ リ ス 船 に よ る 北 太 平 洋 沿 岸 で の 毛 皮 交 易 の ピ ー ク は 1792 年 で あ り 、1800
年 に は 数 隻 に ま で 減 少 し た [森 永 貴 子 2008、 144-145 頁 ]。 東 イ ン ド 会 社 の 中 国 貿 易 独 占 権
は 1834 年 に 廃 止 さ れ た が 、こ の 時 す で に ラ ッ コ は 激 減 し 、か つ て の よ う な 高 利 潤 が 得 ら れ
る商品ではなくなっていた。
ア メ リ カ も ラ ッ コ の 毛 皮 交 易 に 参 入 し た 。ア メ リ カ 商 人 は イ ギ リ ス 船 の 姿 が 1800 年 ご ろ
に見せなくなったことを受けて、広東での毛皮交易に参入した。アメリカ商人は、ボスト
ンを出発→北太平洋岸で毛皮入手→広東で毛皮を売却して茶を購入→インド洋、喜望峰を
経てボストンに帰還して茶を売却するという、世界一周の交易ルートを作り出した。この
交 易 は 高 利 潤 を 生 む が ゆ え に「 ゴ ー ル デ ン ・ ラ ウ ン ド 」と も 呼 ば れ た 。し か し 、 1810 年 代
にラッコが激減し、中国向けの毛皮を1シーズンでは確保できなくなった。また、アメリ
カ 工 業 の 発 展 に よ り 綿 製 品 な ど の 工 業 製 品 の 輸 出 が 増 え た た め 、19 世 紀 初 頭 に は「 ゴ ー ル
デ ン ・ ラ ウ ン ド 」は 消 滅 し た 。「 ゴ ー ル デ ン ・ ラ ウ ン ド 」は 約 40 年 間 (1790~ 1830 年 )ほ ど
続 い た 、当 時 の 世 界 史 的 状 況 が 生 じ さ せ て い た 特 異 な 交 易 ル ー ト で あ っ た [木 村 和 男 2004、
121-149 頁 ]。「 ゴ ー ル デ ン ・ ラ ウ ン ド 」 の 衰 退 と 入 れ 替 わ り 、 ア メ リ カ 船 は 北 太 平 洋 で は
捕鯨をおこないはじめた。
1800 年 前 後 の 北 太 平 洋 で は 、ロ シ ア 、イ ギ リ ス 、ア メ リ カ が ラ ッ コ を め ぐ っ て 競 合 を 繰
り広げていた。ロシアの問題点は、清朝との交易はキャフタでしか認められていなかった
点 で あ っ た 。 こ の 点 を 是 正 す る た め 、 1803 年 2 月 に 商 務 大 臣 ニ コ ラ イ ・ ペ ト ロ ヴ ィ ッ チ ・
ルミャンツェフは皇帝アレクサンドル1世に文書を提出して、広東ルートの開拓を主張し
た [森 永 貴 子 2008、156 頁 ]。1805 年 に ロ シ ア 船 は 初 め て 広 東 に 入 り 、清 朝 官 吏 の 許 可 を 得
て毛皮交易をおこなった。しかしロシアとの交易はキャフタ以外では認められていなかっ
た の で 、 こ の 時 の 交 易 は そ の 後 に 問 題 と な り 、 関 係 し た 清 朝 官 吏 は 処 罰 さ れ た (1)。 以 後 、
ロ シ ア 船 は 1858 年 に 天 津 条 約 が 締 結 さ れ る ま で 、 広 東 で の 交 易 は し な か っ た [森 永 貴 子
2008、 158-160 頁 ]。
ロ シ ア が 清 朝 と の 毛 皮 交 易 を 拡 大 で き な い で い る な か 、1820 年 代 以 降 ラ ッ コ の 枯 渇 が 目
立ちはじめた。ロシアの関心はラッコの捕獲や毛皮交易の拡大から、極東での政治外交面
でのプレゼンスの確保へと移行していった。それゆえアムール川方面への関心が高まり、
と く に ニ コ ラ イ 1 世( 在 位 1825~ 1855 年 )は 極 東 問 題 に 積 極 的 な 関 心 を 示 し て い た 。し か
し、ネルチンスク条約によりアムール川流域は清朝の領域だと決められており、またアム
ー ル 川 河 口 の 調 査 は 1805 年 に ク ル ー ゼ ン シ ュ タ イ ン が 、 1846 年 に は ガ ブ リ ー ロ フ が お こ
な っ た が 、 両 者 と も に 船 舶 の 出 入 り は で き な い と 報 告 し て い た [真 鍋 重 忠 1978、 174-179
頁 ]。そ の う え 、外 相 の ネ ッ セ リ ロ ー デ (外 相 在 職 1816-1856 年 )は 、清 朝 と の 関 係 悪 化 、そ
れに伴うキャフタ貿易の中断をもっとも懸念しており、アムール川河口へのロシア船の接
近 を 禁 止 し て い た [秋 月 俊 幸 1994、 64-65 頁 ]。 ア ム ー ル 川 方 面 へ の 対 応 に つ い て ロ シ ア 政
114
府 内 部 で は 足 並 み が そ ろ わ な い な か 、1847 年 に ム ラ ヴ ィ ヨ フ が 東 シ ベ リ ア 総 督 に 就 任 し た 。
ムラヴィヨフはロシアが安定的な極東統治をおこなうには、①アムール河口を制してザ
バイカル以東の安定化をはかること、②黒龍江左岸を領有してカムチャッカとの連絡路を
確 保 す る こ と が 必 要 だ と 考 え て い た [佟 冬 主 編 1985、 114-115 頁 ]。 ム ラ ヴ ィ ヨ フ は イ ギ リ
ス な ど が ア ム ー ル 川 河 口 を 占 拠 し 、極 東 へ の 影 響 力 を 増 大 さ せ る こ と を 懸 念 し て い た [山 本
俊 朗 1989、67-68 頁 。ア ニ シ モ フ 1993、185 頁 ]。も は や ム ラ ヴ ィ ヨ フ の 関 心 の な か に は 毛
皮 交 易 の 拡 大 は な く 、19 世 紀 後 半 の 極 東 国 際 情 勢 の な か で の ロ シ ア の 影 響 力 の 確 保 を 第 一
に し て い た 。こ う し た ム ラ ヴ ィ ヨ フ の 意 向 を 受 け て 、1849 年 に ネ ヴ ェ リ ス コ イ は ア ム ー ル
川 河 口 が 航 行 可 能 で あ る こ と を 確 認 し た 。そ し て 翌 1850 年 に は ア ム ー ル 川 河 口 付 近 に ニ コ
ラエフスク哨所を設置した。
ロシアが容易にアムール川下流に勢力を扶植できた要因として、清朝の影響力が低下し
て い た 点 を 指 摘 し た い 。1850 年 代 以 降 に ロ シ ア 人 が ア ム ー ル 川 流 域 に あ ら わ れ た 時 、辺 民
の貢納は減少し、清朝が設けた貢納場所もアムール川上流へと後退していた。清朝の影響
力はアムール川中流域にとどまり、河口付近にはおよんでいなかった。こうした辺民の貢
納減少、それに伴うアムール川下流での清朝の影響力の低下には、江戸幕府の動向が関係
していた。
1792 年 の ラ ス ク マ ン の 根 室 来 航 に 代 表 さ れ る よ う に 、ロ シ ア は 18 世 紀 末 に は 千 島 列 島 、
北 海 道 方 面 に そ の 勢 力 を 拡 大 し て い た 。江 戸 幕 府 は ロ シ ア に 対 抗 す る た め 、1799 年 に 千 島
列 島 を 含 む 東 蝦 夷 地 を 直 轄 地 と し 、1807 年 に は 松 前 藩 を 他 へ 移 封 し て 蝦 夷 地 の す べ て を 直
轄地とした。これにより、江戸幕府の影響力はサハリン南部にまでおよび、幕府はサハリ
ン ・ ア イ ヌ へ の 実 効 支 配 を す す め た 。 1808 年 に は 間 宮 林 蔵 と 松 田 伝 十 郎 を 調 査 に 派 遣 し 、
サハリン北部やアムール川下流の状況を幕府は認識した。江戸幕府は以前におこなわれて
い た サ ハ リ ン・ア イ ヌ と サ ン タ ン 人 (2)と の 交 易 を 禁 止 し 、シ ラ ヌ シ (サ ハ リ ン 南 端 )の 会 所
で 幕 府 が 直 接 お こ な う こ と に し た [秋 月 俊 幸 1994、49 頁 ]。こ う し た 江 戸 幕 府 の 政 策 を 榎 森
進 [2007、 346-347 頁 ]は 、 サ ハ リ ン ・ ア イ ヌ を 清 朝 の 辺 民 制 か ら 離 脱 さ せ 、 幕 藩 体 制 に 組
み込む試みであったと指摘している。
カラフトへの江戸幕府の影響力拡大により、サハリン・アイヌのなかにはアムール川に
設 け ら れ た 清 朝 の 貢 納 地 点 に 行 く こ と を 止 め る 人 が 出 て い た 。 1818 年 (嘉 慶 23 年 )の 日 付
があるカラフトナヨロ文書には、
「 西 散 大 国 」(日 本 )と 関 係 が 生 じ た こ と に よ り 、貢 納 に こ
な く な っ た ト ー 族 に 対 し て 、 そ の 貢 納 を う な が す 内 容 が 書 か れ て い る [池 上 二 良 1968。 松
浦 茂 2006
208-209 頁 、 365 頁 ]。
1853 年 に ヨ ー ロ ッ パ で ク リ ミ ア 戦 争 が 始 ま る と 、そ の 影 響 は 北 太 平 洋 に も お よ ん だ 。翌
1854 年 3 月 に は イ ギ リ ス 、フ ラ ン ス も ロ シ ア へ 宣 戦 布 告 し た た め 、ロ シ ア は 北 太 平 洋 方 面
の防衛強化、とくにペトロパブロフスクの防衛をする必要性が生じた。ペトロパブロフス
クへの補給ルートとして、ムラヴィヨフはアムール川を利用する以外に方法はないと考え
た 。ム ラ ヴ ィ ヨ フ は 1854 年 5 月 に ロ シ ア 船 団 を 率 い て 、清 朝 の 許 可 を 得 る こ と な く 、ア ム
ール川を上流から河口に向けて航行した。
イギリス海軍は中国近海の海上ルートの保全、および北太平洋方面を航行するイギリス
商 船 の 安 全 確 保 を 目 的 に 活 動 し た [奥 平 武 彦 1936、 John j. Stephan1969]。 そ の た め 1854
115
年9月に英仏連合軍はペトロパブロフスクを攻撃し、ロシア軍と交戦した。この時ロシア
は か ろ う じ て 、ペ ト ロ パ ブ ロ フ ス ク の 防 衛 に 成 功 し た [John D.Grainger2008]。そ の 後 、カ
ム チ ャ ッ カ 方 面 の 防 衛 を ど う す る の か 、 ロ シ ア 政 府 内 で は 問 題 と な っ た 。 1854 年 12 月 に
海軍大臣コンスタンチン大公はムラヴィヨフに対して、海軍が防衛できるのはカムチャッ
カ方面ではなくアムール方面なので、ロシア艦隊はアムール方面に移動するのが上策だと
述 べ た [オ ー ク ニ 1943、207 頁 ]。こ れ を 受 け て ム ラ ヴ ィ ヨ フ は 、翌 1855 年 3 月 に ロ シ ア 艦
隊をペトロパブロフスクからニコラエフスクに撤退させ、英仏連合軍との再度の交戦を避
けることにした。
1856 年 に ク リ ミ ア 戦 争 は 終 結 し 、さ ら に は ア ム ー ル 川 方 面 へ の 勢 力 拡 大 に 慎 重 な 姿 勢 を
示 し て い た ネ ッ セ ル ロ ー デ は 外 相 を 辞 任 し た 。ロ シ ア 政 府 、ム ラ ヴ ィ ヨ フ は 積 極 策 に 出 て 、
1858 年 に ア イ グ ン 条 約 を 、1860 年 に ペ キ ン 条 約 を 清 朝 と 締 結 し 、ア ム ー ル 川 以 北 、ウ ス リ
ー川以東の領域を獲得した。しかしながら、アムール川を経由するロシアと中国との貿易
は 大 き く は お こ な わ れ な か っ た 。そ の 理 由 は 、第 一 に は 1858 年 に 天 津 条 約 が 締 結 さ れ 、ロ
シアは開港場を経由する海上貿易に参入できることになったこと、第二には毛皮資源の枯
渇 と 流 行 の 変 化 に よ る 毛 皮 需 要 の 減 退 に よ り 、 毛 皮 交 易 が 縮 小 し た 点 に あ っ た [James
R.Gibson1968]。そ し て ロ シ ア は 1867 年 に ア ラ ス カ を ア メ リ カ に 売 却 し 、1871 年 に は 極 東
での主港をニコラエフスクからウラジオストクへ移動して、北太平洋での交易から撤退し
た。
(1)『 仁 宗 実 録 』 巻 156
嘉 慶 11 年 (1806 年 )正 月 戊 辰 。
(2)ア ム ー ル 川 下 流 域 で ツ ン グ ー ス 系 の 言 語 や ニ ブ ヒ 語 を 話 す 人 々 は 、ア イ ヌ や 日 本 人 か ら
「 サ ン タ ン 人 (山 丹 、 山 靼 、 山 亘 )」 な ど と 呼 ば れ た 。
5 . 19 世 紀 中 ご ろ に お け る マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容
太平天国の乱はマンチュリアの動向にも影響をおよぼした。第一に、八旗兵の多くが関
内 に 派 遣 さ れ 、マ ン チ ュ リ ア の 軍 事 力 が 低 下 し た こ と が 指 摘 で き る 。1857 年 (咸 豊 7 年 )に
出 さ れ た 上 諭 に は 、太 平 天 国 の 乱 が 始 ま っ て 以 来 、吉 林 、黒 龍 江 か ら は 約 1 万 3000 人 が 遠
征 し 、今 で も 吉 林 兵 は 約 6000、黒 龍 江 兵 は 約 2000 が 出 兵 し て い る と あ る (1)。
『吉林通志』
は「 咸 豊 二 年 (1852 年 )以 来 、兵 隊 の 派 遣 が 頻 繁 に お こ な わ れ 、兵 士 十 人 の う ち 七 、八 名 は
命を落とし、故郷に生還する兵士は二、三人にすぎない」と、生きて帰還した八旗兵は少
な か っ た こ と を 記 述 し て い る (2)。 第 二 に 、 軍 事 力 が 低 下 し た こ と か ら 治 安 が 悪 化 し 、「 馬
賊 」の 跳 梁 が 激 し く な っ た [川 久 保 悌 郎 1968]。吉 林 に は 軍 隊 約 1 万 人 が 駐 屯 し た が 、太 平
天 国 の 乱 に 出 兵 し た 後 で は 4000 名 ほ ど に な っ て し ま い 、 治 安 の 悪 化 を 招 い て い た (3)。 第
三 に 、関 内 か ら マ ン チ ュ リ ア に 送 ら れ て い た 協 餉 が 滞 り 、黒 龍 江 、吉 林 の 財 政 は 逼 迫 し た 。
関内の各省は太平天国の乱鎮圧のために多大な支出を余儀なくされ、黒龍江などに送る協
餉 の 捻 出 は 難 し く な っ て い た (4)。
清朝はロシアの勢力拡大に対応して、マンチュリアの軍事力増強を志向したが、財政状
況がその実現を難しくしていた。関内各省からの協餉には期待はできないので、マンチュ
リアで独自に財源を確保し、それを使って軍隊の増強をはかることが求められた。以下で
116
は、黒龍江将軍の特普欽、盛京将軍の崇實・崇厚、吉林将軍の銘安らの試みを取り上げ、
どのように対応したのか検討してみたい。
黒龍江や吉林に在職した官僚のなかには、土地の開放をおこない、財源の補填にあてる
ことを主張する人が出ていた。黒龍江将軍特普欽は呼蘭近隣の土地を開放する必要性につ
いて、以下の4点を挙げた。①開墾地から徴租をおこない不足している経費に充当する、
②増加した移民を安住させる、③ロシアの脅威に備えるため辺疆を充実させる、④少なく
なった人参などの採取のために封禁しておくよりも、土地を開放したほうが民生に利益が
あ る 。こ の 主 張 は 皇 帝 に 認 め ら れ 、1862 年 (同 治 元 年 )12 月 に 裁 可 さ れ た [有 高 巌 1926。柴
三 九 男 1934、 1937。 張 志 強 1988。 張 風 鳴 1989] 。 ま た 、 吉 林 で も 1861 年 (咸 豊 10 年 )12
月に舒蘭近隣の招民開墾が許可され、そこからの租税は吉林の兵士の俸餉にあてることに
な っ た (5)。こ こ に 土 地 の 払 い 下 げ と 、民 人 を 誘 致 し て 開 墾 を お こ な わ せ て 税 収 を 得 る 試 み
が具体化した。
しかし、土地の払い下げ、民人の誘致は、旗人の生計を動揺させるとの意見も強く、全
面的に推進されたわけではなかった。呼蘭での土地開放は、特普欽の次に黒龍江将軍に就
任した徳英が、①土地の受領者が減った、②吉林からの逃亡者が隠れる、③農耕地の増加
により旗人が修練する場が減り、旗人の軍事力が弱体する、の3点を問題として主張し、
以 後 は 停 止 さ れ た [ 張 風 鳴 1989、145 頁 ] 。そ の 後 、黒 龍 江 で は 土 地 の 開 放 は ほ と ん ど お こ
な わ れ ず 、 盛 京 や 吉 林 と 同 様 に 州 県 制 が 導 入 さ れ る の は 20 世 紀 に な っ て か ら で あ っ た 。
19 世 紀 後 半 、 盛 京 で は 民 人 の 増 加 、「 馬 賊 」 の 横 行 に よ る 治 安 の 悪 化 が 生 じ 、 こ れ ま で
の行政では対応が難しくなっていた。にもかかわらず、盛京行政は盛京将軍、盛京五部侍
郎、奉天府府尹の三者が協調して行う「一職掌に対する複数権限の介入状況」が続いてお
り、行政の滞りは深刻化していた。また人選面での問題も抱えていた。盛京将軍は官制上
では軍事面のトップであったとはいえ、実際には行政ポストを歴任した軍事とは無関係な
人物が就任していた。他方、盛京五部には京官ポストを歴任した官僚層が多かったため、
盛 京 行 政 に 強 い 権 限 を 行 使 し て 、 し ば し ば 盛 京 将 軍 の 職 務 を 規 制 し た [古 市 大 輔 1996a]。
行政面だけでなく、財政面でも問題を抱えていた。盛京の財源は限られており、他省か
ら 送 ら れ て く る 協 餉 に 依 存 し て い た 。19 世 紀 後 半 に は 税 収 増 加 の 試 み と し て 港 湾 税 、船 税 、
塩税、商業税などが導入されたが、財政状況を好転させるまでには至らなかった。そうし
たなか、他省の財政も苦しくなり、協餉は滞るようになった。また、盛京将軍の養廉銀は
2000 両 で あ り 、両 江 総 督 は 1 万 8000 両 、他 の 総 督 は 1 万 5000-2 万 両 の 養 廉 銀 を 支 給 さ れ
て い た の と 比 べ る と 非 常 に 少 な く 、盛 京 将 軍 は 費 用 の か か る 改 革 は で き な い 状 況 に あ っ た 。
軍隊の増強や行政改革を実施しようとしても財源がないため、財政改革が不可欠であった
[古 市 大 輔 1997]。
1875 年 (光 緒 元 年 )か ら 翌 1876 年 (光 緒 2 年 )に か け て 盛 京 将 軍 に 就 任 し た 崇 實 は 、 命 令
系統が統一されていない点が盛京行政の混乱原因だと認識し、盛京将軍の権限強化と盛京
五 部 の 権 限 縮 小 を お こ な っ た [古 市 大 輔 1996b]。 崇 實 が こ う し た 方 向 性 で 盛 京 行 政 の 改 革
を し た 背 景 に は 、1860 年 (咸 豊 10 年 )-1871 年 (同 治 10 年 )に か け て 四 川 に お い て 成 都 将 軍 、
四川総督として、馬賊鎮圧などの諸案件の処理に携わった時の経験があった。四川での職
務のなかで崇實は、トップの指揮によりすべての文官、武官が動き、トップの意向に沿っ
117
て案件を処理する指揮、命令系統をつくることが重要だと認識した。盛京将軍に就任した
際には、四川での経験を生かし、盛京将軍が一元的に指揮、命令できる機構が必要だと考
え 、 そ の 構 築 に 尽 力 し た と 古 市 大 輔 は 指 摘 し て い る [古 市 大 輔 2004]。
崇 實 は 1876 年 (光 緒 2 年 )10 月 に 死 去 す る が 、 弟 の 崇 厚 が 盛 京 将 軍 に 就 任 し て 改 革 を 継
続した。崇實・崇厚は民人が増えたにもかかわらず、雍正年間以来州県衙門の増設がおこ
な わ れ て い な い こ と を 問 題 視 し て い た 。19 世 紀 後 半 以 降 、鴨 緑 江 右 岸 や 昌 図 近 隣 に 移 住 す
る 民 人 が 増 え て い た 。崇 實・崇 厚 は 1876 年 (光 緒 2 年 )に 岫 巖 州 、安 東 県、鳳 凰 直 隷 庁 を 設
け 、翌 1877 年 (光 緒 3 年 )に は 寛 甸 県 、通 化 県 、懐 仁 県 を 設 け て 、鴨 緑 江 右 岸 か ら 柳 条 辺 牆
の 東 側 に お よ ぶ 場 所 に 州 県 衙 門 を 置 い た (6)。 ま た 、 同 じ 1877 年 (光 緒 3 年 )に は 昌 図 府 、
奉 化 県 、懐 徳 県 を 設 け た (7)(表 3 参 照 )。盛 京 で は 崇 實・崇 厚 の 時 に 、民 人 の 移 住 増 加 に は
州県制の導入で対応する方向性を明確にした。
吉 林 で は 銘 安 が 改 革 に 尽 力 し た 。吉 林 で は 以 下 の 三 点 が 問 題 と な っ て い た 。第 一 に 、
「馬
賊 」や 金 匪( 金 鉱 を 採 掘 す る 匪 賊 )の 跳 梁 に よ る 治 安 の 悪 化 で あ っ た (8)。第 二 に 、民 人 が
増え、以前の旗人を主にした状況ではなくなったにもかかわらず、州県衙門の新設が行わ
れ て い な い 点 で あ っ た (9)。第 三 に 、ロ シ ア や 朝 鮮 と の 交 渉 案 件 が 増 え た た め 、対 外 交 渉 や
国境防衛への対応が求められた。こうした問題の山積した吉林の状況を改めるため、銘安
は 1876 年 (光 緒 2 年 )に「 剿 馬 賊 、禁 賭 博 、設 民 官 、稽 荒 地 」が 必 要 だ と す る 意 見 を 述 べ た
(10)。こ れ が 皇 帝 に 認 め ら れ 、1877 年 (光 緒 3 年 )に 署 吉 林 将 軍 に 任 命 さ れ た 。銘 安 は 吉 林
で の 改 革 に あ た っ て 、盛 京 で の 崇 実 の 改 革 に 倣 う 必 要 が あ る と い う 認 識 に 立 っ て い た (11)。
銘安は、まず「馬賊」の討伐をすすめ、討伐に尽力しない官吏は辞めさせる措置もとっ
た (12)。 ま た 、 匪 賊 が 隠 れ る こ と の で き な い よ う 、 土 地 の 開 放 を お こ な い 開 墾 を す す め た
(13)。 銘 安 は 招 墾 を 目 的 と し た 土 地 開 放 を も お こ な っ た と は い え 、 移 民 実 辺 的 ( 辺 疆 に 移
民 を 送 り 、人 口 を 充 実 さ せ る 政 策 )な 土 地 開 放 は 限 定 的 で あ っ た 。三 姓 近 隣 の 土 地 開 放 を 、
銘 安 は 願 い 出 て 許 可 を 得 て い た が 、 そ の 目 的 は 駐 屯 軍 隊 の 軍 餉 確 保 に あ っ た (14)。
銘安は州県衙門が増設されないことから、民人の管理はうまくいっていないと考えてい
た 。1878 年 (光 緒 4 年 )の 上 奏 文 で は 、も と も と 寧 古 塔 な ど の 各 城 は 旗 人 が 暮 ら す 場 所 で あ
ったが、道光初年より開放がはじまり、民人が増えた。だが、殺人窃盗、戸籍婚姻などの
案 件 は 協 佐 (旗 人 )が お こ な っ て い る 。 協 佐 ら は 、 騎 射 を 練 習 す る だ け で 吏 治 に う と く 、 多
くは漢文に通じていない。今後は徴税や訴訟は州県衙門が行い、協佐らは旗務だけをする
必 要 が あ る と 述 べ て い る (15)。州 県 衙 門 が 増 設 さ れ な い の は 問 題 だ と 銘 安 は 考 え 、1881 年
(光 緒 7 年 )に 敦 化 県 、賓 州 直 隷 庁 、五 常 直 隷 庁 を 新 設 し た (16)。翌 1882(光 緒 8 年 )に は 吉
林 府 、 伊 通 州 、 双 城 直 隷 庁 を 設 け た (17)(表 3 参 照 )。 ま た 、 州 県 衙 門 に 配 置 す る 官 吏 に も
注 意 を は ら い 、 武 芸 に 長 じ た 旗 人 で は な く 、 民 政 に 適 し た 人 材 の 登 用 を 訴 え て い た (18)。
銘 安 と と も に 吉 林 の 積 弊 改 善 に 取 り 組 ん だ 人 物 と し て 、呉 大 澂 が あ げ ら れ る [賀 飛 2009]。
呉 大 澂 は 金 匪 韓 效 忠 の 招 撫 を お こ な い 、治 安 の 回 復 に 尽 力 し た (19)。ま た 軍 隊 を 増 強 し て 、、
治安の回復と対ロシア防衛の強化をおこなった。具体的には、辺疆防衛を専門に行う靖辺
軍 を 新 た に 編 成 し た り (20)、 琿 春 や 寧 古 塔 の 要 所 に 小 砲 台 を つ く っ て い た (21)。 さ ら に 、
砲弾や弾丸は吉林で製造することの重要性を唱え、吉林機器局の設立をおこなった。
治 安 の 回 復 、軍 隊 の 増 強 に 続 い て 呉 大 澂 は 、三 姓 、寧 古 塔 、琿 春 で の 招 墾 を 推 進 し た (22)。
118
呉 大 澂 の も と で 招 墾 に 尽 力 し た の は 李 金 鏞 で あ っ た 。李 金 鏞 は 1882(光 緒 8 年 )に 招 墾 局 を
琿 春 な ど に 設 立 し 、 移 民 を 増 や し て ロ シ ア の 勢 力 拡 大 に 対 抗 し よ う と し た [王 革 生 1993]。
呉大澂は移民を誘致するため、山東で農民の招致を行ったりしたが、実辺政策に清朝中央
は必ずしも賛成していなかった。呉大澂の上奏文への硃批には、吉林は武芸鍛錬の場所な
ので、まずは狩猟、次に放牧であり、農耕は末である。開墾の弊害は二つある。一つは遊
民が集まり、罪を逃れる者は奥地に隠れる。もう一つは農業にばかり力を尽くし、武芸に
励 む 旧 習 が 失 わ れ る と あ り 、 吉 林 の 開 墾 が 進 む こ と に 懸 念 を 述 べ て い た (23)。
銘安は吉林に山積した諸問題の解決、調整に取り組んだが、改革を 断行したため他の官
吏 か ら 恨 ま れ た の か 、 汚 職 を し て い る と の 告 発 を 1882(光 緒 8 年 )に 受 け て し ま っ た (24)。
そ し て 、翌 1883 年 (光 緒 9 年 )に 病 気 を 理 由 に 吉 林 将 軍 を 辞 し た (25)。銘 安 の 打 ち 出 し た 主
張も継続はされなかった。次に吉林将軍に就任した希元は、①移民は多くない、②州県衙
門を維持する財源がない、③ロシアに備えるための軍官が赴任して案件を処理している現
状 を 変 え る 必 要 は な い と し 、州 県 衙 門 の 設 置 は 不 要 だ と 1885 年 (光 緒 11 年 )に 上 奏 し た (26)。
特 普 欽 、崇 實・崇 厚 、銘 安 は 19 世 紀 後 半 の 新 た な 状 況 に 対 応 し 、土 地 を 開 放 し て 財 源 に
すること、州県制を導入して民人の管理をおこなう方向性を推進した。しかし、こうした
政策は必ずしも継続せず、部分的に止まった。とはいえ、土地の開放、州県制の導入はこ
れ ま で 曖 昧 で あ っ た 土 地 の 境 界 へ の 意 識 を 高 め て い た 。盛 京 と 吉 林 の 境 界 に つ い て は 、1878
年 (光 緒 4 年 )以 降 境 界 の 画 定 が お こ な わ れ 、1881 年 (光 緒 7 年 )に 一 応 の 了 解 に 達 し た 。柳
条辺牆による区分とは異なる境界が必要とされ、近代的な行政区画につながる境界が設定
さ れ た [鞠 殿 義 1986]。ま た 、民 人 の 開 墾 地 に 対 す る 民 人 の 権 利 も 変 化 し て い た 。清 朝 は 丈
量 し た 私 墾 地 は 民 地 と は せ ず 、官 地 と し て 税 糧 を 徴 収 し て 、そ の 税 糧 を 旗 人 に 与 え て い た 。
し か し 東 辺 外 の 開 墾 地 に つ い て は 、1878 年 (光 緒 4 年 )に 民 人 に よ る 売 買 を 認 め た 。開 墾 地
の 売 買 を 認 め た と い う こ と は 、そ の 所 有 権 を 認 め た と 解 釈 で き る [満 鉄 総 務 部 事 務 局 調 査 課
1915、 131-132 頁 ] 。
州県制の導入がおこなわれる一方で、治安維持や防衛力を強化する目的から、旗人を管
轄 す る 副 都 統 も 19 世 紀 後 半 に は 増 設 さ れ た (表 4 参 照 )。ア ヘ ン 戦 争 後 に は 盛 京 沿 岸 の 防 備
を 強 化 す る 目 的 か ら 、 1843 年 (道 光 23 年 )に 金 州 副 都 統 が 設 け ら れ た (27)。 興 京 近 隣 は 清
朝の墳墓に近い重要地でありながら、馬賊の出没があいついで治安が混乱していた。そこ
で 治 安 維 持 の 目 的 か ら 副 都 統 の 設 置 が 求 め ら れ 、1875 年 (光 緒 元 年 )に 興 京 副 都 統 が 設 置 さ
れ た (28)。対 ロ シ ア 防 衛 を 強 化 す る た め 、呼 蘭 副 都 統 (1878 年 )、琿 春 副 都 統 (1881 年 )、呼
倫 貝 副 都 統 (1881 年 )が 設 け ら れ た (29)。 ま た 旗 人 の 管 理 を 強 め る 目 的 か ら 、 1894 年 (光 緖
20 年 )に は 布 特 哈 副 都 統 が 、 1899 年 (光 緒 25 年 )に は 通 肯 副 都 統 が 設 け ら れ た (30)。
軍隊の再建もすすめられた。盛京では同治年間に西洋式の編成、装備を持つ練軍が編成
された。練軍には旧来の八旗兵により編成されたものと、新たに編成されたものとがあっ
た。また、光緒年間以降、関内の軍隊が「客軍」として盛京に移動し、配置されており、
盛 京 の 軍 隊 は 以 前 に 比 べ て 不 統 一 な も の と な っ た 。こ う し た 不 統 一 を 是 正 に す る た め 、1885
年 (光 緒 11 年 )に 穆 図 善 が 辦 理 東 三 省 練 兵 事 宜 に 着 任 し た (31)。辦 理 東 三 省 練 兵 事 宜 は 盛 京 、
吉林、黒龍江の重要駐防拠点に駐在した副都統を管轄下に置き、各将軍の軍隊への権限は
後退した。辦理東三省練兵事宜が持っていた権限で画期的であったのは、盛京、吉林、黒
119
龍江の軍隊を統一的に動かす権限を持っていた点である。清朝はマンチュリア全体を考え
て軍事行動をおこなう必要性を認識したので、辦理東三省練兵事宜は設置されたと古市大
輔 [2008]は 指 摘 し て い る 。
軍隊の指揮系統として、李鴻章の権限がおよぶようになった点も新たな動向として指摘
し た い 。1880 年 (光 緒 6 年 )に 、李 鴻 章 に は 盛 京 沿 岸 部 の 防 衛 も 担 当 す る よ う に と の 上 諭 が
出 さ れ た (32)。 こ れ を 受 け て 李 鴻 章 は 、 一 例 と し て は 1885 年 (光 緒 11 年 )に 鳳 凰 辺 門 付 近
に 配 下 の 軍 隊 を 配 置 し て 、 朝 鮮 情 勢 へ の 対 応 を お こ な っ て い た (33)。
軍隊の構成や指揮命令系統が複数化するなかで、旗人は軍事力の中軸ではなくなった。
旗人が修練していた弓矢は兵器の発達により、もはや使われなくなったので、旗人が伝統
的な武芸の向上に励む必要性はなくなった。練軍の兵士には旗人もいたが、民人もなるこ
と が で き た 。そ れ ゆ え 、兵 士 = 旗 人 と い う 関 係 性 は 19 世 紀 末 に は 薄 く な っ て い た 。旗 人 が
持 つ 軍 事 的 役 割 は 後 退 し た の で 、旗 人 を 保 護 す る 必 要 性 も 低 下 し た 。旗 人 の 管 轄 機 関 は 20
世紀になると廃止または縮小され、マンチュリア統治の中心ではなくなっていく 。
1895 年 (光 緒 21 年 )に 辦 理 東 三 省 練 兵 事 宜 は 廃 止 さ れ 、 再 び 各 将 軍 が 軍 隊 の 統 轄 を お こ
な う こ と に な っ た 。し か し 、1907 年 に 各 将 軍 が 廃 止 さ れ る と 、東 三 省 総 督 が 兼 任 す る 東 三
省 督 弁 が 置 か れ て 、 東 三 省 の 兵 事 を 管 轄 し た (34)。 マ ン チ ュ リ ア 全 体 の 軍 事 権 を 統 括 す る
役職の必要性は、消滅したわけではなかったことを示している。
1860 年 代 以 降 、マ ン チ ュ リ ア で は 土 地 の 払 い 下 げ 、民 人 を 誘 致 し た 農 業 振 興 、州 県 制 の
導入がおこなわれた。また軍事力の担い手として旗人の役割は低下してはいたが、副都統
を 増 設 し て 防 衛 力 の 強 化 を お こ な っ て い た 。土 地 の 払 い 下 げ は 旗 人 の へ の 生 計 を 配 慮 し て 、
限定的におこなわれたに過ぎなかった。清朝はロシアの勢力拡大、民人の増加に対応した
政策をおこなってはいたが、これまでの統治機関を維持、活用してマンチュリア統治を継
続 し て い た 。旗 人 の 管 轄 機 関 が 縮 小 さ れ 、州 県 制 が 大 規 模 に 拡 大 す る の は 、20 世 紀 ま で 待
たなければならなかった。
(1)『 文 宗 実 録 』 巻 228
咸豊7年閏5月辛丑。
(2)『 吉 林 通 志 』 巻 30、 食 貨 志 3 、 田 賦 下 。
(3)『 吉 林 通 志 』 巻 52、 武 備 志 3 、 兵 制 3 。
(4)『 黒 龍 江 述 略 』 巻 5 兵 防 。
(5)『 文 宗 実 録 』 巻 339
咸 豊 10 年 12 月 壬 午
(6)『 光 緒 朝 東 華 録 』 巻 14
光緖3年2月戊申。
(7)『 光 緒 朝 東 華 録 』 巻 15
光緖3年3月戊午。
(8)『 光 緖 朝 東 華 録 』 巻 1
同 治 13 年 12 月 戊 子 。
(9)銘 安 は 吉 林 の 様 子 を 、 次 の よ う に 述 べ て い た 。「 在 昔 時 、 全 省 惟 我 旗 人 並 無 民 戸 、 原 易
治 理。溯 自 咸 豊 初 軍 興 以 後、旗 戸 日 見 凋 落。 道 光 間 招 墾 以 来 、民 戸 日 益 稠 密 」
(昔の吉林
は旗人だけで民戸はなかったので、その統治は易しかった。咸豊年間に太平天国の乱が
起きて以後、旗戸が凋落するようになった。道光年間に招墾がはじまって以後、民戸が
増 え る よ う に な っ た )。『 光 緖 朝 硃 批 奏 摺 』 第 85 輯 、 光 緖 8 年 8 月 6 日 、 911 頁 。
(10)『 清 史 稿 』 巻 453、 列 伝 240
(11)『 光 緖 朝 東 華 録 』 巻 24
光 緖 4 年 10 月 庚 寅 。
120
(12)『 徳 宗 実 録 』 巻 54
光緖3年7月丁丑。
(13)『 徳 宗 実 録 』 巻 69
光 緖 4 年 3 月 壬 子 、『 徳 宗 実 録 』 巻 77
(14)『 光 緖 朝 硃 批 奏 摺 』 第 92 輯
(15)『 光 緖 朝 東 華 録 』 巻 24
光 緖 6 年 10 月 20 日
光緖4年8月戊戌。
515-516 頁 。
光 緖 4 年 10 月 庚 寅 。
(16)『 徳 宗 実 録 』 巻 133
光緖7年閏7月丙午。
(17)『 徳 宗 実 録 』巻 140
光 緖 7 年 12 月 丁 卯 。ま た『 光 緖 朝 東 華 録 』巻 46
光緖8年正月
乙卯も参照。
(18)『 光 緖 朝 東 華 録 』 巻 42
(19)『 徳 宗 実 録 』 巻 123
光緖7年閏7月。
光 緖 6 年 11 月 丁 丑 。
(20)靖 辺 軍 の 沿 革 、 編 成 に つ い て は 『 吉 林 通 志 』 巻 52
(21)『 徳 宗 実 録 』 巻 131
光緖7年6月辛卯。
(22)『 徳 宗 実 録 』 巻 134
光緖7年8月庚申。
(23)『 光 緖 朝 硃 批 奏 摺 』 第 92 輯
光緖8年5月2日
(24)『 徳 宗 実 録 』 巻 155
光 緖 8 年 11 月 辛 丑 。
(25)『 徳 宗 実 録 』 巻 160
光緖9年2月乙亥。
武備志4、兵制4を参照。
554-555 頁 。
(26)「 吉 林 将 軍 希 元 奏 寧 姓 琿 等 処 不 宜 添 設 道 府 庁 県 等 官 折 」 光 緒 11 年 10 月 13 日 。
『清代吉林档案史料選編
(27)『 宣 宗 実 録 』 巻 389
上 諭 奏 折 』 9-11 頁 。
道 光 23 年 2 月 庚 辰 。『 宣 宗 実 録 』 巻 392
道 光 23 年 5 月 己 未 。
(28)『 穆 宗 実 録 』 巻 371 同 治 13 年 9 月 己 酉 、『 徳 宗 実 録 』 巻 8 光 緖 元 年 4 月 甲 午 。
(29)『 徳 宗 実 録 』 巻 82
『 徳 宗 実 録 』 巻 130
光 緒 4 年 11 月 丙 寅 。『 徳 宗 実 録 』 巻 129
光緒7年4月己未。
光緒7年5月丁卯。
(30)『 徳 宗 実 録 』 巻 341
光 緒 20 年 5 月 乙 巳 。『 徳 宗 実 録 』 巻 431
(31)『 徳 宗 実 録 』 巻 218
光 緖 11 年 10 月 丁 亥 。
(32)『 徳 宗 実 録 』 巻 108
光緒6年6月己丑。
(33)「 甘 軍 移 駐 鳳 凰 辺 門 摺 」『 李 文 忠 公 全 集 』 奏 稿 55
光 緒 24 年 10 月 癸 未 。
光 緒 11 年 10 月 26 日
(34)『 東 三 省 政 略 』 巻 四 軍 事 「 紀 東 三 省 督 練 処 」。
6.ロシア、朝鮮との関係変化
①ロシアとの関係変化
ロ シ ア 政 府 は 沿 海 州 へ の 移 民 を 増 や す た め に 、 1861 年 に 沿 海 州 の 移 民 に 対 し て は 20 年
間 人 頭 税 免 除 、 20 年 間 無 料 で 土 地 を 貸 与 と い う 好 条 件 を 出 し て 移 民 を 奨 励 し た 。 し か し
1860-71 年 に か け て は 約 4000 人 、 1872-82 年 の 間 で は 約 700 人 の 移 住 者 し か 来 な か っ た
[ユ ・ ヒ ョ ヂ ョ ン 2002、 203 頁 ]。 ま た 軍 事 力 も 微 弱 で あ り 、 ロ シ ア の 圧 力 は 軽 微 で あ っ た
と考えられる。しかしながら、アムール川流域や沿海州で活動していた「中国人」は、以
前と同じ活動ができなくなりトラブルも生じていた。
ロシア領となったハバロフスクより下流に暮らした辺民は大きな影響を受けた。ゴリド
などからなる辺民は、毎年毛皮の貢納のためアムール川に設けられた交易場に赴き、毛皮
貢納の代償として清朝から綿製品などを受け取っていた。こうした行為は純粋な商業取引
121
ではなく、政治的な上下関係の承認を含むものであった。ロシア側は、通商は認めるが、
政治的な意味を含む貢納は認められないとした。ロシア側は国家主権の保持をかかげ、ロ
シアに住む人はロシアの主権下にあり、他の国の政治的影響は認めないという論理を主張
し た [葉 高 樹 1993]。 こ の た め 辺 民 の 清 朝 へ の 貢 納 は 大 き く 減 少 し た (1)。
狩猟により生活していたオロチョンも影響を受けていた。オロチョンはアムール川左岸
で狩猟をおこない、右岸にもどる生活をしていた。アムール川左岸がロシア領となったた
め 、狩 猟 地 は 右 岸 に 限 定 さ れ て し ま い 、狩 猟 数 は 減 少 し て し ま っ た (2)。ま た 、ロ シ ア 人 の
影響を受け、ロシア人の衣服を着たり、ロシア風の名前を名乗るなど、ロシア式の生活を
取 り 入 れ た オ ロ チ ョ ン も い た (3)。
沿海州で砂金を採取していた「中国人」は、国境や領土を意識することなく、ペキン条
約 締 結 後 も 同 じ よ う に 活 動 し た た め 、ロ シ ア 側 と 衝 突 し て い た 。ウ ラ ジ オ ス ト ク の 東 南 50
キ ロ の 海 上 に あ る ア ス コ リ ド 島( 漢 名;青 島 )で は 砂 金 が と れ 、
「 中 国 人 」人 夫 が そ の 採 取
を し て い た 。し か し 、 1867 に ロ シ ア 側 は 武 力 で「 中 国 人 」人 夫 を 追 い 出 し 、砂 金 の 採 取 か
ら 排 除 し た 。翌 68 年 に「 中 国 人 」は 再 び ア ス コ リ ド 島 で 砂 金 を と ろ う と し た こ と か ら ロ シ
ア 側 と 衝 突 が 生 じ 、こ れ を 契 機 に 沿 海 州 の ロ シ ア 人 集 落 が 焼 き 討 ち さ れ る な ど の「 中 国 人 」
と ロ シ ア 人 の 紛 争 が 勃 発 し た 。 こ の 事 件 を ロ シ ア 側 は 「 蛮 子 戦 争 」 と 呼 ん で い る ( 4)。 吉
林 将 軍 富 明 阿 は 紛 争 に 加 わ る「 中 国 人 」が 2-3000 人 に 増 え た こ と か ら 事 態 を 重 視 し 、こ れ
が清朝内にも波及することを懸念して、琿春への軍隊派遣を要請した。この要請は清朝皇
帝 に 認 め ら れ 、 戦 争 勃 発 の 口 実 に な ら な い よ う 対 処 す べ し 、 と い う 上 諭 が 出 さ れ た (5)。
ロシアによるアムール川以北、沿海州の領有以後、それ以前では問題にならなかった行
動が国境を越境する不法行為になってしまい、これまでのような自由な往来はできない時
代に移行したと指摘できよう。
ロシアとの間には、越界した「中国人」の騒乱や、国境をめぐる見解の相違なども問題
で あ っ た が 、清 朝 が 最 も 憂 慮 し た の は ロ シ ア の 軍 事 力 に ど う 対 抗 す る か で あ っ た 。1880 年
(光 緒 8 年 )の 蔭 霖 復 の 上 奏 に は 次 の よ う に あ り 、 清 朝 は 沿 海 州 に お け る ロ シ ア の 軍 事 力 に
つ い て 情 報 を 収 集 し て い た (6)。
吉林はロシア人と国境を接している。東辺には琿春、寧古塔、三姓の三城がある。今
日 の ロ シ ア の 患 い に 琿 春 が 最 も 近 く 、 三 姓 が 最 も 危 う い 。 … 咸 豊 一 一 年 (一 八 六 一 年 )
の分界以後、我の広大なあき地数千里をみすみす失った。綏芬、興凱のような満洲旧
部の場所もまた敵人に帰した。吉林全省の一〇分の五、六が奪い去られた。なお無傷
な の は 東 辺 の 三 城 に す ぎ ず 、そ の 三 城 所 属 の 土 地 に は 、ま だ 土 着 の 居 民 は い な い の で 、
これを失ってもそれを少なくないと感じない。…目下琿春の東の近くにある海山崴地
方(ウラジオストク)には、ロシア商が大きな街をつくり、陸海から人があつまり、
西洋船や戦艦が停泊している。また海山崴(ウラジオストク)付近は綏芬河や興凱湖
(を航行する船舶)の停泊地である。ロシア人は木城、兵舎をつくり、多数の兵士が
駐屯する場所とし、その防衛状況ははなはだ秘密である。しかし、数十里はなれた場
所で演習の時の砲声が聞こえ、現地の人が伝えるには約二万人の兵士がいるという。
清 朝 は さ ら に 1885 年 に は 曹 廷 傑 を 派 遣 し て 、沿 海 州 の ロ シ ア 軍 の 状 況 に つ い て 調 査 さ せ
た 。曹 廷 傑 は 帰 国 後 に『 西 伯 利 東 偏 紀 要 』を 著 し 、そ の な か で 、
「 与 吉 省 寧 、琿 、姓 三 城 接
122
壌 、 共 実 数 兵 八 千 五 百 八 十 名 」( 吉 林 の 寧 古 塔 、 琿 春 、 三 姓 の 三 城 と 接 す る 地 に は 、 合 計
8580 名 の 兵 隊 が い る ) と 述 べ て い る (7)。
清 朝 は ロ シ ア に 備 え る た め 、三 姓 、寧 古 塔 、琿 春 を 防 衛 拠 点 と し て い た 。 1880 年 代 の 三
姓、寧古塔、琿春にどれだけの兵士が駐屯していたのか、その人数を確定することはでき
ないが、
『吉林通志』
( 1890 年 代 に 編 纂 )と『 満 洲 地 誌 』
( 日 本 の 参 謀 本 部 が 1889 年 に 刊 行 )
に 掲 載 さ れ て い る 人 数 を ま と め た の が 表 5 で あ る (8)。人 数 は そ れ ぞ れ 一 致 し な い が 、琿 春
に最も多数の兵士を駐屯させていた点は一致している。清朝は琿春を軍事的に重視してい
た と 考 え ら れ る (9)。
しかしながら、ロシア政府は極東ロシアの軍事力は弱く、清朝や朝鮮に侵攻する能力は
ないと考えていた。それゆえ、日清戦争前のロシアの対極東ロシア政策は現状維持を方針
と し て お り 、国 境 を 越 え る こ と は 想 定 し て は い な か っ た [佐 々 木 揚 1980、佐 々 木 揚 1987] 。
清朝とロシアの間での懸案は東部国境の確定であった。ハバロフスクから興凱湖までは
河川が国境のため、その境は明確であったが、興凱湖から図們江までは河川や湖などの自
然 地 理 に よ り 画 さ れ た 国 境 で は な か っ た 。 1861 年 (咸 豊 11 年 )に 興 凱 湖 界 約 が 締 結 さ れ 、
興 凱 湖 か ら 図 們 江 の 間 に 八 個 の 碑 を 建 て て 国 境 と し た (10)。 陸 上 を 少 数 の 界 碑 で 画 し た 国
境 で あ っ た こ と か ら 、 国 境 侵 犯 を め ぐ る ト ラ ブ ル が 頻 発 し た 。 そ こ で 1886 年 (光 緒 12 年 )
に 琿 春 界 約 が 結 ば れ 、よ り 国 境 は 明 確 に さ れ た (11)。こ う し た 過 程 の な か で 、1860 年 以 前
には存在しなかった国境線がこの地域に暮らす人々の意識の中に形成され、国境というも
のを可視化させていたと考えられる。
極 東 ロ シ ア の 状 況 も 変 化 し て い た 。ロ シ ア 政 府 の 移 民 政 策 は 、1860-83 年 で は「 中 国 人 」
と 朝 鮮 人 に は 自 由 な 入 植 を 認 め て い た 。 し か し 、 1884 年 の 沿 ア ム ー ル 総 督 管 区 の 成 立 後 、
ロ シ ア 政 府 は 移 民 に 対 す る 法 律 を 整 備 し て 、そ の 管 理 を 強 化 し た 。そ の た め「 中 国 人 」、朝
鮮人は、ロシア政府がつくった管理網に把握され、ロシア臣民として生きる方向性をとら
さ れ た [イ ゴ リ R.サ ヴ ェ リ エ フ 2005、 130-141 頁 ]。
また、極東ロシアの開発がすすみ、人口が増えたことはマンチュリアにも影響をおよぼ
した。極東ロシアの農業生産だけでは、食料を自給することはできなかった。そのためマ
ン チ ュ リ ア か ら 輸 入 さ れ る 食 料 に 極 東 ロ シ ア は 依 存 す る 必 要 が あ っ た 。1870 年 以 降 、ロ シ
ア極東の経済成長にマンチュリア北部は刺激を受け、農産物価格は上昇傾向にあった。そ
の 結 果 、 マ ン チ ュ リ ア 北 部 へ の 移 民 の 流 入 を う な が し 、 耕 地 の 開 拓 が す す ん だ [荒 武 達 朗
2008、 139-178 頁 ]。
1871 年 (同 治 10 年 )に 寧 古 塔 ま で 旅 行 し た イ ギ リ ス 人 の Adkins は 、吉 林 東 部 の 寧 古 塔 は
商業的には繁栄していなく、イギリス製品は営口から運ばれていると報告していた。総じ
て Adkins は 、 寧 古 塔 近 隣 の 未 開 発 さ を 述 べ て い る (12)。 こ れ に 対 し て 、 1886 年 (光 緒 12
年 )に マ ン チ ュ リ ア を 旅 行 し 、寧 古 塔 や 琿 春 も 訪 れ た Fulford は 、こ れ ら の 都 市 の 商 業 的 発
展 に つ い て 述 べ て い る 。 Fulford は 寧 古 塔 や 琿 春 で は 、 ウ ラ ジ オ ス ト ク 経 由 で 運 ば れ て く
る ロ シ ア 製 品 が 売 ら れ て お り 、 ロ シ ア と の 交 易 が 盛 ん に な っ た こ と を 指 摘 し て い る (13)。
極東ロシアとマンチュリアの経済関係での依存は深まっていたが、ロシア政府はこうし
た状況に賛成してはいなかった。ロシア政府はロシア人以外に依存して極東ロシアを運営
することには難色を示していた。他方でロシア政府は、極東ロシアがロシア欧州部からの
123
物資・資金供給に頼らずに、自力で運営していくことを求めた。つまりロシア政府は極東
ロ シ ア に 対 し て 、「 中 国 人 」、 朝 鮮 人 に も 、 ロ シ ア 欧 州 部 に も 依 存 す る こ と な く 、 独 力 で 運
営することを望んだのであった。しかしながら、それは実現不可能な要求であった。ロシ
ア 欧 州 部 に 依 存 し な い の で あ れ ば 、「 中 国 人 」、 朝 鮮 人 の 協 力 が 不 可 欠 で あ っ た 。 そ の 逆 に
「 中 国 人 」、朝 鮮 人 に 依 存 し な い な ら ば 、ロ シ ア 欧 州 部 か ら の 援 助 が 必 要 で あ っ た 。現 在 ま
で 続 く 極 東 ロ シ ア の ジ レ ン マ は 、 す で に 19 世 紀 後 半 に は 顕 在 化 し て い た [松 里 公 孝 2008、
325 頁 ]。
②朝鮮との関係変化
康熙年間に清朝と朝鮮は領域交渉をおこない、両者の境は図們江と鴨緑江になった。図
們 江 、鴨 緑 江 を 許 可 な く 越 え る こ と は 禁 止 さ れ (辺 禁 )、両 江 付 近 は 無 人 地 帯 と な っ て い た 。
17~ 18 世 紀 に 図 們 江 を 越 え る 朝 鮮 人 は い た が 、そ の 目 的 は 開 墾 、移 住 で は な く 、人 参 採 取
や 狩 猟 で あ っ た の で 、 問 題 に は な っ て い な か っ た 。 [李 花 子 2006、 第 2 章 、 第 3 章 、 第 5
章 ]。 し か し 1860 年 代 以 降 状 況 は 変 わ り 、 図 們 江 北 岸 や ロ シ ア 領 の 沿 海 州 で 農 業 を お こ な
う朝鮮人が増えた。
朝 鮮 は 1861 年 (咸 豊 11 年 )に ロ シ ア と 清 朝 が 共 同 で 行 っ た 界 碑 の 設 置 を 目 撃 し て 、 は じ
めてロシアと国境が生じたことを知った。しかし、清朝に対してそうした事実の確認はし
なかった。その理由は、藩属国の疆域は宗主国が封じるものであり、藩属国が関与するこ
とではないので、照会する必要はないと考えていたからである。またロシアに越境した朝
鮮人についても、清朝の責任において刷還する態度をみせており、外交に属することに朝
鮮 は 関 与 せ ず 、清 朝 の 指 示 に よ り お こ な う と い う 対 応 を 示 し た [秋 月 望 1991]。朝 鮮 が 重 視
したのは藩属国としての立場であり、ロシアに越境した朝鮮人を自国民として保護すると
いう西洋近代的な国家意識は存在しなかった。
清 朝 は ロ シ ア 領 へ の 朝 鮮 人 流 入 を 禁 止 す る 方 針 を と っ た 。 吉 林 将 軍 富 明 阿 は 1867 年 (同
治 6 年 )の 上 奏 文 の な か で 、ロ シ ア 領 へ 向 か う 朝 鮮 人 200 名 を 清 朝 官 憲 が 見 つ け た こ と を 報
告し、今後も朝鮮人の流入が続くならば、ロシアと朝鮮の結びつきが強くなる恐れがある
の で 、以 後 は 流 入 を 阻 止 し た い と 述 べ て い る (14)。さ ら に 1869 年 (同 治 8 年 )に も 朝 鮮 人 の
刷 還 、 流 出 禁 止 の 必 要 性 を 上 奏 し 、 皇 帝 の 許 可 も 得 た (15)。
清朝はロシア官憲にも、ロシア領への朝鮮人流入を禁止する方針を伝えた。しかし、ロ
シ ア は こ の 件 は 朝 鮮 と 交 渉 す る 事 柄 で あ り 、清 朝 の 関 与 す る こ と で は な い と 返 答 し た (16)。
ロシアは清朝と朝鮮が藩属関係にあることを無視したのである。こうした事態に、清朝が
ど の よ う に 対 応 し た の か は 不 明 で あ る (17)。 ロ シ ア 側 は 農 業 労 働 者 と し て 朝 鮮 人 を 必 要 と
し た た め 、 そ の 移 住 を 奨 励 し た 。 そ れ ゆ え 、 越 境 す る 朝 鮮 人 は 止 ま な か っ た 。 [田 川 孝 三
1944、 550-551 頁 。 イ ゴ リ R.サ ヴ ェ リ エ フ 2005、 234-239 頁 ] 。
朝 鮮 は 1876 年 (光 緖 2 年 )に 図 們 江 中 の 古 珥 島 の 開 墾 を 是 認 し 、事 実 上 、辺 禁 政 策 を 放 棄
した。朝鮮人による図們江北岸の開墾は拡大し、やがて清朝の知るところとなった。清朝
は 1881 年 (光 緒 7 年 )に 琿 春 近 隣 を 調 査 し た 李 金 鏞 の 報 告 に よ り 、図 們 江 北 岸 を 朝 鮮 人 が 耕
作し、さらには朝鮮側の咸鏡道官憲の発行する執照を持っていることを知った。吉林将軍
銘安は朝鮮人が図們江北岸を耕作し、朝鮮官憲が執照を与えていることは禁止行為である
124
が、朝鮮人も「天朝赤子」なので、耕作の継続は認めるが、徴税には応じさせ、これ以上
人 数 は 増 え な い よ う に す る と い う 方 針 を 上 奏 し た (18)。
1882 年 (光 緒 8 年 )に 清 朝 は 、越 境 朝 鮮 人 は 清 朝 の 民 籍 に 入 れ る こ と を 朝 鮮 側 に 通 告 し た 。
すると朝鮮は方針を転換し、以後は辺禁を厳守し、越境朝鮮人は朝鮮側に刷還する ことを
清朝側に回答した。しかし、越境朝鮮人は朝鮮への刷還に強く反対した。そして朝鮮と清
朝 の 境 界 は「 土 門 江 」で あ り 、そ の 南 を 流 れ る 図 們 江 で は な い の で 、
「 土 門 江 」以 南 、図 們
江以北の場所を朝鮮人が耕作しても問題はないという主張を、朝鮮官憲を巻き込んで唱え
始めた。そうしたなか、図們江流域では清朝の住民と朝鮮人との対立、衝突も増え、図們
江 近 隣 で の 清 朝 と 朝 鮮 の 緊 張 は 高 ま っ た [田 川 孝 三 1944、1981]。1885 年 (光 緒 11 年 )と 1887
年 (光 緒 13 年 )の 2 回 に わ た り 、清 朝 と 朝 鮮 は 境 界 の 交 渉 を お こ な っ た が 、両 者 の 隔 た り を
埋 め る こ と は で き ず 、話 し 合 い は 決 着 し な か っ た [秋 月 望 1999]。こ う し た 清 朝 と 朝 鮮 の 動
向 を 秋 月 望 [1989、 2002]は 、 宗 主 国 と 藩 属 国 と の 境 界 と い う 意 識 か ら 、 国 際 法 的 な 国 境 観
へと両者ともに変化はしていたが、中華的な理念と国際法の論理が混在する状態であった
と指摘している。
鴨緑江方面では、清朝は柳条辺牆の東側から鴨緑江右岸までは封禁地帯として民人の流
入 を 禁 止 し て 、清 朝 と 朝 鮮 と の 緩 衝 地 帯 と し て い た [山 本 進 2011]。封 禁 さ れ た 鴨 緑 江 右 岸
で 民 人 が 活 動 し た こ と を 、最 初 に 確 認 し た の は 朝 鮮 側 で あ っ た 。朝 鮮 側 は 1841 年 (道 光 21
年 )に 鴨 緑 江 右 岸 で 耕 作 を お こ な う 民 人 を 確 認 し た 。 そ の 後 も 民 人 は 増 加 し た の で 、 1846
年 (道 光 26 年 )に 清 朝 は 朝 鮮 と 協 力 し て 、鴨 緑 江 右 岸 の 家 屋 を 焼 却 し て 、犯 禁 入 植 者 を 捕 え
た 。以 後 、清 朝 は 柳 条 辺 牆 以 東 の 管 理 を 強 化 し 、民 人 の 流 入 を 防 ぐ 対 策 を お こ な っ た [秋 月
望 1983]。 し か し 民 人 の 流 入 を 防 ぐ こ と は で き ず 、 1867 年 (同 治 6 年 )に は 柳 条 辺 牆 の 東 側
には十万余人が居住していた。鴨緑江右岸での開墾が進展したことから、朝鮮人が農業労
働 者 と し て 移 住 、定 住 す る よ う に な っ た [山 本 進 2010]。柳 条 辺 牆 の 東 側 か ら 鴨 緑 江 右 岸 ま
での状況は、定住者を追い払うという従前の政策では対応できないものとなっていた。
清 朝 は 1876 年 (光 緒 2 年 )か ら 1877 年 (光 緒 3 年 )に か け て 、 安 東 県 、 寛 甸 県 、 通 化 県 、
懐 仁 県 を 設 置 し て 、 柳 条 辺 牆 の 東 側 へ の 州 県 衙 門 の 設 置 を お こ な っ た (19)。 ま た 、 越 境 朝
鮮 人 に は 「 剃 髪 易 服 」 (頭 を 弁 髪 に し て 中 国 の 衣 服 を 着 る こ と )と 清 朝 の 民 籍 に 入 る こ と を
推 進 し た [秋 月 望 2002]。封 禁 地 帯 が 消 滅 す る な か で 、清 朝 が と っ た 政 策 は 州 県 制 の 導 入 と
朝 鮮 人 へ の 管 理 強 化 で あ っ た 。1870 年 代 以 降 、清 朝 と 朝 鮮 と の 間 に 設 定 さ れ て い た 緩 衝 地
帯は縮小し、図們江と鴨緑江が国境線として機能するようになったと指摘できよう。
境 域 地 帯 の 状 況 が 変 わ る 一 方 で 、1880 年 代 に は 朝 鮮 を め ぐ る 国 際 状 況 も 変 化 し た 。1882
年に朝鮮はアメリカと条約を結び、以後イギリス、ロシア、フランスなどとも条約を締結
し た 。西 洋 諸 国 と の 条 約 締 結 は 、清 朝 と の 藩 属 関 係 に も 影 響 を お よ ぼ し た 。1880 年 代 の 変
化 を 岡 本 隆 司 [2004]に 依 拠 し て 筆 者 な り に ま と め る と 、 清 朝 は 朝 鮮 に 西 洋 諸 国 と 条 約 を 結
ばせ、朝鮮は清朝の属国であることを西洋諸国に認めさせようとした。清朝は朝鮮との関
係 を「 属 国 自 主 」だ と 主 張 し た が 、清 朝 は「 自 主 」を 名 目 化 す る 解 釈 で あ っ た の に 対 し て 、
朝鮮は「自主」が公然と保障されたと考えた。こうした清朝と朝鮮の間に生じた「自主」
の解釈をめぐる齟齬は、西洋諸国との対応にも影響をおよぼした。西洋諸国は清朝と朝鮮
の 主 張 が 違 う こ と か ら 、両 者 の 関 係 理 解 に 苦 し ん だ 。 1880 年 代 で は「 属 国 自 主 」が 曖 昧 に
125
解 釈 さ れ た こ と で 関 係 諸 国 の 均 衡 は 保 た れ た が 、 1890 年 代 に 日 本 が 清 朝 に 対 し て 朝 鮮 は
「自主」だと主張して開戦したことを契機に、曖昧な「属国自主」理解は消滅し、東アジ
アの国際関係は大きく変容した。
こ う し た 状 況 下 の 1880 年 代 に お い て 、清 朝 は 朝 鮮 を 属 国 だ と 唱 え 、朝 鮮 と の 条 約 の な か
に そ れ を 盛 り 込 ん だ 。清 朝 と 朝 鮮 は 1882 年 (光 緒 8 年 )に 中 朝 商 民 水 陸 貿 易 章 程 を 、翌 1883
年 (光 緒 9 年 )に は 「 奉 天 与 朝 鮮 辺 民 交 易 章 程 」、「 吉 林 朝 鮮 商 民 貿 易 地 方 章 程 」 を 締 結 し た
(20)。 こ れ ら 三 つ の 章 程 に は い ず れ も 「 中 国 優 待 属 邦 之 意 」 と い う 条 文 が 存 在 し 、 朝 鮮 と
清朝の藩属関係は明文化された。藩属関係の明文化は、近代的な対外関係のあり方に移行
し た と も 評 価 で き る が 、 清 朝 の 目 的 は 藩 属 関 係 の 明 確 化 に あ っ た [秋 月 望 1984、 1985] 。
藩 属 関 係 は 維 持 さ れ た が 、交 易 面 で 藩 属 関 係 を 象 徴 し た 辺 市 は 、
「吉林朝鮮商民貿易地方
章 程 」の 締 結 に よ り 終 焉 し た 。辺 市 と は 17 世 紀 中 頃 以 来 、会 寧 で は 毎 年 、慶 源 で は 隔 年 に
行われた期間限定の交易である。この交易は等価地交換ではなく、藩属たる朝鮮の義務で
もあったが、儀礼的な側面だけではなく経済的な必要性も高かったため長期間存続してい
た 。だ が 、1880 年 代 に 辺 市 は 廃 止 さ れ 、以 後 は 随 時 、規 定 を 遵 守 す れ ば 自 由 に 交 易 で き る
状況に変化した。
藩属関係は変化してはいたが、朝鮮人の意識下に存在した清朝との藩属関係は、すぐに
は 無 く な ら な か っ た 。時 期 は や や 下 る が 、1903 年 に 日 本 陸 軍 の 中 尉 が 行 っ た 咸 鏡 道 西 北 部
の 偵 察 報 告 書 は 、朝 鮮 人 の 状 況 に つ い て 、
「 茂 山 以 西 雲 龍 以 西 ノ 住 民 ハ 自 ラ 小 国 人 ト 称 シ( 清
国ヲ大国ト呼フ)韓国人タルヲ知ラサルモノ十中ノ八九、殊ニ甚タシキハ自国カ独立国タ
ルヲ知ラサルモノ多シ」と述べており、依然として清朝との藩属関係を意識する朝鮮人が
多 数 い た (21)。
清 朝 は 流 入 す る 朝 鮮 人 を 追 い 返 す こ と は し な か っ た が 、「 剃 髪 易 服 」( 辮 髪 に し て 、 朝 鮮
服 を 脱 ぐ こ と )に は こ だ わ っ た 。
「 剃 髪 易 服 」を 受 け 入 れ た 朝 鮮 人 に は 土 地 執 照 を 与 え て 納
税 を 義 務 付 け 、清 朝 内 で 生 活 で き る よ う に し た [姜 龍 範 2000]。清 朝 の 統 治 理 念 か ら 類 推 す
る と 、「 剃 髪 易 服 」 を 承 諾 し た 朝 鮮 人 は 民 人 に 属 し た と み な さ れ る 。 19 世 紀 後 半 以 降 、 民
人のなかにも漢人、朝鮮人という区別が生じ、以前の状況とは変化が生じていた。
1890 年 代 以 降 も 、 清 朝 と 朝 鮮 の 関 係 調 整 は 続 け ら れ た 。 1899 年 (光 緒 25 年 )に は 中 朝 通
商 条 約 が 締 結 さ れ 、 そ の 第 12 条 に は 、 こ れ ま で 国 境 を 越 え て き た 人 の 安 全 は 保 障 す る が 、
以 後 越 界 は 禁 止 す る と 決 め ら れ た (22)。 次 い で 、 1904 年 (光 緒 30 年 )に は 「 新 定 画 界 防 辺
条 約 」( 中 韓 辺 界 前 後 章 程 ) が 締 結 さ れ 、 国 境 の 再 調 整 を 行 っ た (23)。
以 上 の 考 察 か ら 、19 世 紀 後 半 に マ ン チ ュ リ ア と 朝 鮮 と の 関 係 は 変 化 し 、図 們 江 、鴨 緑 江
流 域 に 流 入 す る 民 人 と 朝 鮮 人 が 増 え て い た 。清 朝 は 州 県 制 を 導 入 し て 統 治 の 強 化 を は か り 、
越境朝鮮人には清朝の統治に服することを求めていた。この結果、清朝統治は図們江、鴨
緑江岸まで拡大し、国境線が可視化される時代となった。
(1)佐 々 木 史 郎 [1991]は レ ニ ン グ ラ ー ド の 人 類 学 民 族 学 博 物 館 に 所 蔵 さ れ て い る 満 洲 語 の
公文書を発見し、その内容はアニュイ川(ドンドン川)流域で暮らした辺民の郷長を任
命した光緒年間の文書だと考証した。そして、清朝の辺民への影響力はロシア領となっ
た 19 世 紀 後 半 で も 残 っ て い た と 主 張 し た 。し か し 松 浦 茂 [2006、374 頁 注 39]は 、光 緒 年
間に辺民に公文書を出すことが一般的におこなわれていたかは疑問だとし、今後の課題
126
だと述べている。
(2)『 黒 龍 江 述 略 』 巻 4 貢 賦 。
(3)『 東 三 省 政 略 』 巻 1
辺務
呼倫貝爾篇。
(4)「 蛮 子 戦 争 」 に つ い て は 、 ユ ・ ヒ ョ ヂ ョ ン [2002、 271-219 頁 ]、 イ ゴ リ R.サ ヴ ェ リ エ
フ [2005、 123 頁 ]を 参 照 。
(5)『 籌 辦 夷 務 始 末
同 治 朝 』 巻 58、 同 治 7 年 4 月 甲 子 。
(6)「 吉 林 與 俄 人 接 境 、 在 東 辺 三 城 、 曰 琿 春 、 曰 寧 古 塔 、 曰 三 姓 、 今 日 俄 患 、 惟 琿 春 最 近 、
惟三姓最危。…自咸豊十一年分界後、不但我之空曠間地坐失数千里、若綏芬、興凱、満
洲旧部処所亦帰敵人、吉林全省削去十之五六。其猶為無傷者、不過以東辺三城尚在、其
三城所属之地、尚無土着居民、故失之不覚其不少耳。…刻下琿春東距近之海山崴地方、
為俄商巨鎮、其地陸海輻輳、洋舶、戦艘萃聚於中。又附近海山崴即綏芬、興凱泊地、該
夷築有木城、兵房、為屯聚重兵之所在、捍禦甚秘。但於数十里外、時聞演習槍砲之声、
土 人 相 伝 屯 兵 有 二 万 余 人 之 衆 」(荘 吉 発 [1978、 96-97 頁 ]。 出 典 は「 月 摺 档 」光 緖 6 年 正
月 )。
(7)『 曹 廷 傑 集 』 上 、 中 華 書 局 、 1985、 79 頁 。
(8)『 満 洲 地 誌 』 は 国 書 刊 行 会 が 1976 年 に 復 刻 し た も の を 参 照 し た 。
(9)『 籌 辦 夷 務 始 末
同 治 朝 』巻 68、同 治 8 年 9 月 丁 亥。琿 春 に は 協 領 が 置 か れ て い た が 、
1870 年 に は 副 都 統 銜 が 置 か れ た (『 穆 宗 実 録 』 巻 286
同 治 9 年 7 月 戊 辰 )。
(10)『 中 外 旧 約 章 彙 編 』 第 1 冊 、 160-163 頁 。
(11)同 右 、 488-498 頁 。
(12)Note by Consul Adkins on North-Eastern Manchuria, and Memorandum on Journey to
Ninguta. Commercial Reports from Her Majesty ’s Consuls in China.1871. Irish
University Press, Area Studies Series, British Parliamentary Papers,China ,Vol.10.
(13)Despatch from Her Majesty ’s Minister at Peking, forwarding a Report by
Mr.H.E.Fulford, Student Interpreter in the China Consular Service, of a Journey
in Manchuria. ibid,Vol.22.
(14)『 清 季 中 日 韓 関 係 史 料 』 同 治 6 年 2 月 14 日 。
(15)『 清 季 中 日 韓 関 係 史 料 』 同 治 8 年 10 月 27 日 。『 穆 宗 実 録 』 巻 292
同 治 9 年 10 月 癸
巳。
(16)『 籌 辦 夷 務 始 末
同 治 朝 』 巻 77、 同 治 9 年 9 月 丙 子 。
(17)戦 前 に 書 か れ た 田 川 孝 三 [1944、 587 頁 ]は 、 こ れ 以 上 清 朝 は こ の 問 題 に 関 与 す る こ と
を欲しなかったので、対応を打ち切ったのであろうと述べている。しかしなぜ関与を欲
しなかったのか、その理由については述べていない。戦後になり様々な史料が刊行され
たが、筆者の見た範囲では、清朝のこの案件に関するその後の対応につ いて記述した史
料を探すことはできなかった。
(18)『 光 緒 朝 東 華 録 』 光 緖 7 年 10 月 辛 巳 。
(19)『 光 緒 朝 東 華 録 』 光 緖 3 年 2 月 戊 申 。
(20)『 中 外 旧 約 章 彙 編 』 1 、 404-407 頁 、 418-422 頁 、 444-447 頁 。
(21)「 咸 鏡 道 西 北 部 偵 察 報 告 書 」 陸 軍 省 編 纂 『 明 治 卅 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 』 第 1 巻 、 湘 南
127
堂 書 店 、 1983、 369 頁 。
(22)『 中 外 旧 約 章 彙 編 』 1 、 909-913 頁 。
(23)『 中 外 旧 約 章 彙 編 』 2 、 281-282 頁 。
7.旗民制の崩壊と東三省の設置
1894 年 (光 緒 20 年 )の 日 清 戦 争 以 後 、 マ ン チ ュ リ ア を め ぐ る 状 況 は 大 き く 変 化 し た 。 日
清戦争、義和団事件、日露戦争の三度におよぶ戦乱をマンチュリアは経験し、地域社会は
甚大な打撃を受けた。日清戦争の時には盛京南部で日本軍との戦闘がおこなわれ、戦場と
なった場所の住民は被害を受けた。義和団事件の時にはロシア軍の侵攻を受け、マンチュ
リア全土が大きな被害を受けた。日露戦争の時、清朝は局外中立を宣言したとはいえ、マ
ンチュリアは日本軍とロシア軍の主戦場となり、多数の住民が戦争に巻き込まれた。
戦乱により治安が混乱したにもかかわらず、清朝の軍隊は住民の安全保障に は尽力しな
かったので、住民は自衛のため郷団を結成した。例えば義和団事件の際、匪賊の横行に憤
っ た 盛 京 各 地 の 紳 士 、民 人 は 郷 団 を 設 立 し て 、匪 賊 か ら の 攻 撃 を 防 衛 し た (1)。後 に 有 力 者
と な り 、満 洲 国 政 府 に も か か わ る 袁 金 鎧 も 義 和 団 事 件 の 時 に 郷 団 を 結 成 し て い た [江 夏 由 樹
1988]。遼 西 で は「 保 険 隊 」と 呼 ば れ た 自 衛 団 が 組 織 さ れ 、経 費 を 払 っ た 地 域 の 人 々 の 安 全
を 確 保 し て い た 。 張 作 霖 は 保 険 隊 に 参 加 し 、 以 後 頭 角 を あ ら わ し た [隋 国 旗 1992]。 郷 団 、
保険隊は公権力とつながるのか、それとも対抗するのか、公権力との関係性がその後のあ
り方を規定した。公権力との協力を選択した郷団、保険隊は巡警などに再編成され、官の
一翼を担う存在へとなっていく。他方、清朝の統治や徴税に不満を持つ郷団、保険隊は反
清運動の担い手となり、清朝官憲からは匪賊、馬賊と呼ばれる存在になっていた。
三度の戦乱の被害を受けるなかで、中東鉄道が敷設され、マンチュリアは鉄道の時代に
突入した。日清戦争後に清朝内では、日本に対抗するにはロシアと結び、マンチュリアの
安全を確保すべきだという意見が主張され、
「 ロ シ ア を 覊 縻 し つ つ 日 本 の 侵 略 に 備 え る 」と
いう政策が採用された。清朝はロシア政府が露清同盟締結とマンチュリア横断鉄道の建設
を 不 可 分 だ と 考 え て い る こ と を 知 り 、対 日 軍 事 同 盟 で あ る 露 清 密 約 (1896 年 締 結 )を 結 ぶ た
め に 敢 え て マ ン チ ュ リ ア の 鉄 道 利 権 を ロ シ ア に 与 え た [佐 々 木 揚 1977]。
中東鉄道の敷設に伴い、マンチュリア北部に流入する移民は増加した。最新の研究であ
る 趙 英 蘭 [2011、42-43 頁 ]の 見 解 で は 、マ ン チ ュ リ ア の 人 口 は 1898 年 で は 約 760 万 人 で あ
っ た が 、1900 年 に は 1,200 万 人 に 増 え た と し て い る 。1900 年 以 降 人 口 増 加 の ス ピ ー ド は 速
まり、マンチュリアは急速に関内から流入する漢人の活動空間となっていった。黒龍江将
軍 の 恩 沢 は 1899 年 (光 緒 25 年 )に 、 黒 龍 江 で は 移 民 が 増 え 各 地 に 村 落 が で き て い る の で 、
州 県 衙 門 の 設 置 や 治 安 維 持 の た め に 保 甲 や 団 練 が 必 要 だ と 上 奏 し た (2)。黒 龍 江 の 呼 蘭 で は 、
1780 年 (乾 隆 45 年 )の 時 点 で は 人 口 の 半 分 以 上 は 旗 人 が 占 め て い た (表 6 参 照 )。と こ ろ が 、
1909 年 (宣 統 元 年 )に な る と 漢 人 の 人 口 は 急 激 に 増 え 、旗 人 の 人 口 は 全 体 の 1 % ほ ど に な っ
て し ま っ た 。呼 蘭 は 20 世 紀 初 め に は 漢 人 の 居 住 空 間 に な り 、旗 人 は 圧 倒 的 な 少 数 者 に 転 落
するという社会変容が生じていた。鉄道敷設により移民が急激に増え、これまで清朝が方
針としてきた旗民制では対応できない段階に至ったと指摘できよう。
128
清朝は大量の移民が流入して来る状況に、①州県制の拡大、②郷約、保甲の設置、③警
察 機 構 の 導 入 な ど に よ り 対 応 し た 。 清 朝 は 1888 年 (光 緒 14 年 )以 降 州 県 制 の 導 入 を 中 断 し
て き た が 、1902 年 (光 緒 28 年 )に 再 び は じ め 、吉 林 に 盤 石 県 、長 寿 県 な ど を 設 置 し た (表 7
参 照 )。 1904 年 (光 緒 30 年 )か ら 10 年 (宣 統 2 年 )に か け て 、 次 々 に 州 県 の 設 置 、 撫 民 庁 の
府 へ の 昇 格 が お こ な わ れ 、マ ン チ ュ リ ア で の 州 県 制 は 拡 大 し た 。1910 年 (宣 統 2 年 )時 点 で
は 26 府 、 10 州 、 59 県 が 置 か れ た (表 8 参 照 )。
この時期の州県制の拡大で注目したい点は、柳条辺牆の外側にあった「蒙地」に州県制
が 導 入 さ れ た こ と で あ る 。 1904 年 (光 緒 30 年 )に 洮 南 府 、 靖 安 県 、 開 通 県 が 置 か れ た (3)。
「蒙地」と盛京は柳条辺牆により画されていたが、柳条辺牆を越えて「蒙地」に州県制が
拡 大 し た の で 「 蒙 地 」 の 範 囲 は 流 動 化 し た 。「 蒙 地 」 へ の 州 県 制 導 入 に よ り 、 盛 京 (奉 天 )
の管轄区は西側に拡大した。このことは中華民国期において、モンゴル問題への対応が奉
天 省 統 治 者 に と っ て は 不 可 欠 と な る 発 端 と な っ た [松 重 充 浩 2007]。
新 興 移 民 地 区 は 民 政 機 構 が 整 っ て い な い の で 、そ の 管 理 の た め に 郷 約 が 置 か れ た [王 広 義
2009]。郷 約 は 土 地 の 丈 量 、登 記 を め ぐ る 問 題 や 徴 税 な ど に 関 わ っ た だ け で な く 、民 間 紛 争
を解決する司法的権限も行使した。また、流動性の高い移民社会において治安維持の機能
も担った。新興移民地区では官側の力は弱かったので、民側である郷約が官側の施策の不
十分な部分を補っていた。官側の管理がゆるいことや官側の補完機能を担ったことから、
専横的行動をする郷約も多く、郷約の行動が問題となる場所もあった。しかし民政 機構が
整 っ て き た 宣 統 年 間 に な る と 、郷 約 は 撤 廃 さ れ た [段 自 成 2008]。保 甲 は マ ン チ ュ リ ア 全 域
で は な く 、 一 部 の 場 所 で 実 施 さ れ た と 考 え ら れ る [何 栄 偉 1992、 趙 麗 艶 2000]。
警 察 は 奉 天 で は 1902 年 (光 緒 28 年 )に 設 け ら れ た (4)。趙 爾 巽 が 盛 京 将 軍 を つ と め た 時 に 、
警 察 の 組 織 や 人 員 は 拡 充 さ れ た [渋 谷 由 里 1997、李 皓 2008]。そ の 結 果 、1910 年 (宣 統 2 年 )
に は 東 三 省 全 体 で 警 察 に 関 わ る 人 は 20-30 万 人 に 達 し た と 報 告 さ れ て い る (5)。
戦乱による混乱、移民急増への対応が求められたが、マンチュリアは独自の財 源に乏し
いため、新たな施策をしようにも、財源の枯渇がその実施を拒んでいた。清朝は新たな財
源として官地や清朝皇室の土地を払い下げ、財源にあてる政策を推進した。官荘などの払
い下げにあたっては、その優先権を荘頭に割り当てた。荘頭とは、官荘を管理し、税糧の
納入を担当していた人々であり、配下の壮丁や佃戸に対しては地主的な支配をおこなって
いた。土地の払い下げを受けた荘頭は、官地、皇室所領の管理人から地主へと変化した。
官地の払い下げは財源の確保だけではなく、在地有力者であった荘頭らを地方統治の末
端として取り込むことも目的としていた。清朝は土地の払い下げ後も、従前に荘頭が壮丁
や佃戸に対しておこなっていた地主的支配を公認した。こうした統治政策は、旗人の生計
維持を基調とした以前の政策とは異なるものであった。清朝は旗民制から脱却し、新たな
地 域 秩 序 の 形 成 に 踏 み 出 し た と 考 え ら れ る [江 夏 由 樹 1983]。
清朝は新たな人材の登用も試みていた。人材登用にあたって、清朝は 2 つの点に留意し
た 。第 一 に 、他 省 出 身 の 地 方 官 で あ っ て も 、在 地 の 実 情 に 通 じ た 官 吏 を 養 成 し よ う と し た 。
第二に、在地有力者を地方自治の名のもとに諮議局に集め、自治組織を通じて 在地勢力と
公権力との協力関係をつくろうとした。こうした方向性のもとで、在地の実情に通じた他
省 出 身 の 地 方 官 が 誕 生 し た が 、彼 ら は 辛 亥 革 命 後 に 地 元 出 身 者 に よ り 代 わ ら れ て い っ た [江
129
夏 由 樹 1990、 313-314 頁 ]。
1905 年 (光 緒 31 年 )4 月 に 盛 京 将 軍 に 就 任 し た 趙 爾 巽 は 、 こ れ ま で の 制 度 を 改 め る 政 策
を 推 進 し た 。 同 年 8 月 に は 奉 天 府 府 尹 と 盛 京 五 部 を 廃 止 し た (6)。 そ し て 同 年 10 月 に は 、
盛 京 で の「 旗 民 不 交 産 」の 原 則 を 廃 止 し た (7)。つ い に 、清 朝 は 康 熙 年 間 以 来 重 視 し て き た
「 旗 民 分 治 」 の 原 則 を 放 棄 し た の で あ っ た 。 他 方 、 税 制 改 革 も お こ な い 、 1905 年 (光 緒 31
年 )8 月 に 糧 饟 局 、 税 務 局 を 廃 止 し て 財 政 総 局 を 設 置 し て 盛 京 将 軍 の 管 轄 下 に 置 い た 。 翌
06 年 (光 緒 32 年 )に は 各 地 に 統 捐 局 を 設 置 す る と と も に 、 各 種 の 税 捐 を 撤 廃 し て 出 産 税 と
銷 場 税 に 整 理 し た [高 月 2006]。
さ ら に 清 朝 は 1907 年 (光 緖 33 年 )に 官 制 改 革 を お こ な い 、盛 京 将 軍 、吉 林 将 軍 、黒 龍 江
将軍を廃止して奉天省、吉林省、黒龍江省の東三省を設置し、関内各省と同様の総督巡撫
制を施行した。初代東三省総督には徐世昌が任命された。副都統も吉林、黒龍江ではすべ
て 廃 止 さ れ た (表 9 参 照 )。 旗 人 を 統 轄 し た 将 軍 、 副 都 統 の 廃 止 は 、 清 朝 に よ る マ ン チ ュ リ
ア統治の主体が、もはや旗人ではないことを表している。
清朝がもっとも留意していた旗人の状況は大きく変化していた。第一に、軍事技術が発
達し、八旗兵が操る弓矢は近代戦においては無用なものとなった。また旗人の頽廃も著し
く 、か つ て の 尚 武 の 気 風 は 薄 れ て し ま い 、軍 事 力 の 担 い 手 に は な ら な く な っ て い た (8)。第
二に、旗人の人口が増えていた。旗人のすべてが兵士になったわけでなく、兵士にはなら
ない旗人もいた。兵士であった旗人は清朝を支える軍事的中核であったので、その待遇は
厚 か っ た 。旗 人 全 体 の 人 数 は 18 世 紀 以 降 に 増 加 し た が 、兵 士 の 人 数 は 規 定 に よ り 決 め ら れ
て い た の で 、 兵 士 と な る 旗 人 の 割 合 は 低 下 し た 。 李 林 [1992、 73-75 頁 ]は 新 濱 県 と 金 県 の
一 族 を 事 例 と し て 、旗 人 中 の 八 旗 兵 と 非 兵 士 の 比 率 は 、康 熙 年 間 で は 1: 2.5、乾 隆 年 間 で
は 1 : 3.1、 道 光 年 間 で は 1 : 13.5、 光 緒 年 間 で は 1 : 17 で あ っ た と し て い る 。 嘉 慶 帝 は
1808 年 (嘉 慶 13 年 )に チ チ ハ ル 、 ア イ グ ン 、 メ ル ゲ ン 、 呼 蘭 の 旗 人 の 状 況 に つ い て 取 り 上
げ、兵士以外の旗人が増えており、兵士と同じ待遇を望む声が非兵士の旗人のなかには強
い が 、兵 士 を 増 や す こ と は 難 し い と 述 べ て い る (9)。鄭 川 水 [1982]は 旗 人 中 の 兵 士 の 人 数 は
正 確 に は わ か ら な い が 、 10% 未 満 だ と 推 測 し て い る 。 旗 人 全 体 の 人 数 が 増 え た た め 、 待 遇
の よ い 正 規 兵 に な れ る 割 合 は 低 下 し 、 非 兵 士 の 不 満 が 増 大 し て い た 。 第 三 に 、 清 朝 は 19
世紀後半以降財政困難に陥っており、旗人への俸給が重い負担となっていた。清末になる
と 、 旗 人 へ の 俸 給 は 十 分 に は 支 給 で き な い 状 況 と な っ て い た [鄭 川 水 1985]。
以上、①軍事技術の発達、②旗人の人口増加、③清朝の財政困難という要因から、清朝
は従前と同様に旗人の生計を保護し、十分な俸給を支給することはできなくなっていた。
清朝は旗人の立て直しは放棄して、
「 旗 民 不 交 産 」の 原 則 廃 止 、将 軍・副 都 統 の 廃 止 を 断 行
した。そして、州県制の拡大や総督巡撫制の導入をおこない、新たな地域秩序の構築を模
索した。しかし、清朝に残されていた時間はわずかであった。
日露戦争後、内陸部で生産された大豆は鉄道により港湾まで輸送され、日本やヨーロッ
パに大量に輸出されるようになった。鉄道運行により移民の流入は容易になり、マンチュ
リアの人口は増えていた。住民が消費する物資は増大し、商業取引も活発となった。それ
ゆえ通貨需要も増し、近代的な銀行が設立された。マンチュリアにおけるヒト、モノ、カ
ネの状況は日露戦争を境として、以前とは異なる段階に至ったとみなすことができる。そ
130
うしたなか清朝は滅亡し、マンチュリアの「中国人」の場所へと変わった。
(1)『 光 緒 朝 東 華 録 』 巻 158
光 緒 26 年 正 月 乙 卯 。
(2)『 宮 中 档 光 緒 朝 奏 摺 』 12
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(3)満 洲 国 地 方 事 情 編 纂 会 『 奉 天 省 洮 南 県 事 情 』 1936
(4)『 奉 天 通 志 』 巻 143
(5)『 宣 統 政 紀 』巻 42
pp.649-651。
pp.755-757
民治志2警察。
宣 統 2 年 9 月 己 巳 。趙 英 蘭 [2007]は 、マ ン チ ュ リ ア の 住 民 は 20 世
紀には、保甲や警察制度による管理に移行したという論点を主張している。
(6)『 徳 宗 実 録 』 巻 548
(7) 『 徳 宗 実 録 』 巻 550
光 緒 31 年 8 月 丙 午 。
光 緒 31 年 10 月 癸 卯 。
(8)参 謀 本 部 編 [1889、 317 頁 ]は 、「 八 旗 駐 防 ノ 制 ハ
…
年月ヲ経過スルノ久キ軍紀頽廃
シ驍勇ノ気風ヲ失ヒ、只其部落ニ於ル旗人ノ種類ヲ区分スルノ称呼ニ止リ、軍隊ノ編成
ニ関係ナキカ如キニ至レリ。現今ニ於テハ一隊一伍中各旗人ヲ混成スルモノアリ、八旗
各称ハ恰モ日本ノ源、平、藤、橘各々其姓ヲ同クセサルカ如シ。然モ同旗人ハ自ラ互ニ
相ヒ親密ナル愛慕心ヲ有シ、他ノ旗人ト同シカラサルヲ異ナリトス」と記述している。
(9)『 仁 宗 実 録 』 巻 191
嘉 慶 13 年 正 月 丙 午 。
おわりに
清朝は盛京では旗人と民人は別々に管轄する統治機構を構築して「旗民分治」をおこな
うとともに、無原則な民人の流入は禁止して、旗人の状況が変化することを防いでいた。
吉林、黒龍江では民人の流入は阻止して、民人が旗人を圧迫しないようにしていた。しか
し 、民 人 の 流 入 を 制 限 す る こ と は で き ず 、旗 民 が 雑 居 す る 場 所 が 増 え た 。清 朝 は 理 事 通 判 (理
事 同 知 )を 設 け て 旗 民 関 係 の 調 整 を お こ な い 、 旗 人 の 生 計 を 保 護 し よ う と し た 。
19 世 紀 後 半 、太 平 天 国 の 乱 に よ る 関 内 へ の 軍 隊 派 遣 、ロ シ ア の 勢 力 拡 大 は マ ン チ ュ リ ア
の動向に大きな影響をおよぼした。太平天国の乱以後、関内からの協餉は滞り、財政状況
は悪化した。ロシアに対抗するため軍備の増強が求められ、軍事費捻出のため一部の場所
では土地の払い下げが実施された。州県制の拡大がおこなわれたが、同時に副都統の増設
もおこなっており、これまでの統治機構の廃止ではなく修正により対応していた。一方、
ロシア、朝鮮との関係が変化し、アムール川、ウスリー川、図們江、鴨緑江が国境線と認
識 さ れ る よ う に な り 、「 国 境 に よ り 区 画 さ れ た マ ン チ ュ リ ア 」 が 形 成 さ れ た 。
日 清 戦 争 、義 和 団 事 件 、日 露 戦 争 の 三 度 の 戦 乱 、中 東 鉄 道 の 敷 設 の 結 果 、
「 旗 民 分 治 」や
旗人の生計保護を基調とする旗民制の維持はもはや不可能だと清朝は認識した。
「旗民不交
産」の放棄、州県制の拡大と旗人の統治機関の廃止、新たに台頭した在地有力者の取り込
みなど、日露戦争以降、清朝はこれまでとは異なった方向性の政策を推進した。
そうしたなか、鉄道が運行をはじめ、人口が増加して農業生産が増大するとと もに、農
産物売買が拡大し、マンチュリアの経済状況は新たな段階に入った。また、土地の払い下
げが大規模におこなわれ、地主が生まれていた。マンチュリアの主人公は旗人ではなく、
土地の払い下げや大豆生産・販売に関与した在地有力者へと移行した。
旗人はその歴史的な役割を終え、清朝滅亡後では旗人であることの社会的意義もなくな
131
っ た 。旗 人 と い う 人 間 集 団 は 実 質 的 に は 消 滅 し 、満 洲 人 、モ ン ゴ ル 人 、
「 中 国 人 」な ど の 今
日的な民族へと分かれていった。日露戦争後マンチュリアに勢力拡大した日本は多数の調
査報告書を残したが、旗人の動向についてはあまり述べていない。旗人の社会的影響力が
減退した点、清朝滅亡時に旗人は打倒の対象となったので社会から隠れて暮す旗人が多か
った点から、調査にあたった日本人の目に旗人の動向が触れることは少なかったと考えら
れる。しかしながら満洲国期になり、土地権利関係の整理がおこなわれた際、依然として
旗人と民人との間に土地権利関係が存在することが判明した。そのため、満洲国政府によ
る土地権利関係の整理は容易には進まなかった。マンチュリア社会の底辺に残る旗民関係
は満洲国期においても影響をおよぼしていたのであり、旗民関係の考察なしに 満洲国期の
理解はできない。
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138
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表1
府州県の設置状況-順治~同治年間-
年代
盛京
吉林
黒龍江
順治年間
1653 年
遼陽府、遼陽県、海城県
1657 年
奉天府
(遼 陽 府 廃 止 )
康熙年間
1662 年
錦県
1664 年
広寧府、遼陽県→遼陽州、
寧遠州、開原県、鉄嶺県、
蓋平県、承徳県、広寧県
1665 年
錦州府設置(錦県存続)
広寧府廃止(広寧県存続)
雍正年間
1726 年
永吉州、泰寧県、長寧
県
1729 年
1733 年
(泰 寧 県 廃 止 )
復州、義州、寧海県
乾隆年間
1736 年
(長 寧 県 廃 止 )
1747 年
吉 林 理 事 庁 (永 吉 州 廃
1772 年
岫 巖 理 事 庁 (理 事 通 判 )
止)
昌 図 理 事 庁 (理 事 通 判 )
長 春 理 事 庁 (理 事 通 判 )
嘉慶年間
1800 年
1806 年
1810 年
1813 年
伯 都 納 理 事 庁 (理 事 同
新 民 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
知)
道光年間
1843 年
金 州 理 事 庁 (海 防 同 知 )
(寧 海 県 廃 止 )
咸豊年間
ナシ
同治年間
1862 年
1864 年
呼 蘭 理 事 庁 (理 事 通
昌図理事庁→昌図撫民庁
判)
(撫 民 同 知 )
注:西暦ではなく、史料上の陰暦をそのまま使用している。
出 典 ;『 清 代 政 区 沿 革 総 表 』 中 国 地 図 出 版 社 、 1990、『 清 史 稿 』 巻 55-57 な ど よ り 作 成 。
139
表2
吉林、黒龍江での副都統の設置
年次
吉林
1653 年 ( 順 治 10
寧古塔
年)
吉林
1671 年 ( 康 熙 10
年)
黒龍江
黒 龍 江 城( 璦 琿 )
伯都訥
1685 年 ( 康 煕 24
斉斉哈爾
年)
墨爾根
1694 年 康 煕 33 年
三姓
1699 年 康 煕 38 年
阿勒楚喀
1710 年 康 煕 49 年
1731 年 雍 正 9 年
1756 年 乾 隆 21 年
出 典 :『 清 代 政 区 沿 革 綜 表 』 よ り 作 成 。
140
表3
光緒年間以降の府州県設置状況
年代
盛京
1876 年
岫巖理事庁→岫巖州、
吉林
黒龍江
敦化県、伊通州
綏化理事庁?
安東県、鳳凰直隷庁
1877 年
奉化県、懐徳県、寛甸
県、通化県、懐仁県
昌図撫民庁→昌図府
1879 年
海 龍 撫 民 庁 (撫 民 通 判 )
1880 年
康平県
1881 年
賓州撫民庁(撫民同
知)
五常撫民庁(撫民同
知)
双城撫民庁(撫民通
判)
吉林理事庁→吉林府、
長春理事庁→長春撫
1885 年
民 庁 (撫 民 通 判 )、伯 都
納理事庁→伯都納撫
民 庁 (撫 民 同 知 )
1888 年
遼源州、柳河県、臨江
県
農安県
輯安県、鎮安県、綏中
長春撫民庁→長春府、
県
西豊県、西安県、東平
県
彰 武 県 、 興 仁 県 ( 1908
年 撫 順 県 )、海 龍 撫 民 庁
→海龍府、新民撫民庁
→新民府
出典;表1に同じ。
141
表4
19 世 紀 に お け る 副 都 統 の 設 置 状 況
年代
盛京
吉林
1843 年
金州副都統
黒龍江
興京副都統
1875 年
1879 年
呼蘭副都統
1881 年
琿春副都統
呼倫貝爾副都
統
1894 年
1899 年
布特哈副都統
通肯副都統
出 典 ; 章 伯 鋒 編 『 清 代 各 地 将 軍 都 統 大 臣 等 年 表 』 中 華 書 局 、 1965
より作成
表5
吉林に駐屯する軍隊の状況
軍隊の種類
駐防八旗
練軍
靖辺軍
駐屯地
『吉林通志』 『満洲地誌』
寧古塔
1,351
1,439
三
姓
1,539
1,560
琿
春
622
462
寧古塔
190
189
三
姓
326
219
琿
春
-
-
寧古塔
885
2,179
三
姓
634
1,274
琿
春
4,122
2,801
出 典 ;『 吉 林 通 志 』 巻 50、 巻 52、 巻 53
『 満 洲 地 誌 』 313-315 頁 、 322-323 頁 、 330 頁 よ り 作 成
表6
漢
呼蘭の人口動向
1780 年 (乾 隆 45 年 )
1909 年 (宣 統 元 年 )
人
人
口
割 合 (%)
口
割 合 (%)
人
1,711
38.7
665,336
98.9
満洲人
1,358
30.7
5,287
0.8
ダホール人
533
12.1
1,261
0.2
その他旗人
818
18.5
1,486
0.2
4,420
100.0
673,370
100.0
合
計
出 典 : 柴 三 九 男 [1934]120 頁 よ り 。
142
94-104 頁
表7
20 世 紀 以 降 の 府 州 県 設 置 状 況
年代
盛京
1902 年
吉林
黒龍江
盤石県、長寿県
延 吉 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
綏 芬 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
賓州撫民庁→賓州直隷庁
1904 年
洮南府、靖安県、開通県
綏 化 府 、巴 彦 州、蘭 西 県
木 蘭 県、余 慶 県、青 岡 県
黒 水 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
大 賚 撫 民 庁 (撫 民 通 判 )
海倫直隷庁
呼蘭理事庁→呼蘭府
1905 年
安広県
1906 年
遼中県、本溪県
依蘭府
湯原県
拜泉県
錦 西 撫 民 庁 (撫 民 通 判 )
楡樹県、方正県、臨江州
肇 州 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
盤 山 撫 民 庁 (撫 民 通 判 )
伯都納撫民庁→新城府
安 達 撫 民 庁 (撫 民 通 判 )
法 庫 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
荘 河 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
1907 年
1908 年
荘河撫民庁→荘河直隷庁
密山府、樺甸県、濛江州
法庫撫民庁→法庫直隷庁
長嶺県
興仁県→撫順県、長白府
黒 河 府 、嫩 江 府 、臚 濱 府 、
大通県、呼倫直隷庁
黒水撫民庁→龍江府、
海倫直隷庁→海倫府
璦琿直隷庁
1909 年
興京府、醴泉県
富錦県、阿城県、穆稜県
営口直隷庁
額穆県、汪清県、和龍県
輝南直隷庁
樺川県、綏遠州
双城撫民庁→双城府
臨江州→臨江府
賓州撫民庁→賓州府
五常撫民庁→五常府
延吉撫民庁→延吉府
綏芬撫民庁→綏芬府
琿 春 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
東 寧 撫 民 庁 (撫 民 通 判 )
呢 嗎 口 庁 (撫 民 同 知 )
1910 年
安圖県、撫松県、鎮東県
舒 蘭 県、徳 恵 県、双 陽 県 、 濱 江 撫 民 庁 (撫 民 同 知 )
饒河県
143
訥河直隷庁
出典:表1に同じ
表8
年代別設置状況
年代
府
州
県
理事庁
撫民庁
直隷庁
康 煕 末 年 (1722 年 )
2
2
7
-
-
-
雍 正 末 年 (1734 年 )
2
5
9
-
-
-
乾 隆 末 年 (1795 年 )
2
4
8
2
-
-
嘉 慶 末 年 (1820 年 )
2
4
8
4
1
-
道 光 末 年 (1850 年 )
2
4
7
5
1
-
同 治 末 年 (1874 年 )
2
4
7
6
2
-
光 緖 前 期 (1900 年 )
5
6
16
3
6
1
光 緖 後 期 (1908 年 )
19
10
44
1
10
6
宣 統 末 年 (1910 年 )
26
10
59
1
9
9
出典;表1より作成
表9
清末における副都統の廃止
年代
盛京
吉林
黒龍江
1905 年
斉斉哈爾、呼蘭、布特哈、
通肯
1908 年
錦州
黒龍江、墨爾根、呼倫貝爾
1909 年
吉林、寧古塔、三姓、
琿春
阿勒楚喀、伯都訥、
注:盛京、金州、興京の副都統は清朝滅亡まで存続した。
出 典 ; 章 伯 鋒 編 『 清 代 各 地 将 軍 都 統 大 臣 等 年 表 』 中 華 書 局 、 1965
144
105-106 頁 よ り 作 成
第6章
鉄道敷設によるマンチュリアの社会変容
はじめに
本章では鉄道敷設に着目して、マンチュリアの社会変容について考察してみたい。以下
では、鉄道敷設を基軸に考察する理由について述べたい。
マ ン チ ュ リ ア の 人 口 は 1900 年 以 降 に 急 増 し 、1898 年 で は 約 760 万 人 で あ っ た の が 、1915
年 に は 2000 万 人 に 、1930 年 に は 約 3000 万 人 に 達 し た (図 1 )。人 口 増 加 の 要 因 と し て 、第
一 に 鉄 道 の 敷 設 が 指 摘 で き る 。 1900 年 前 後 に 中 東 鉄 道 (長 春 ~ 大 連 間 は 日 露 戦 争 後 に 満 鉄
と な る )と 京 奉 鉄 道 が 敷 設 さ れ 、 マ ン チ ュ リ ア の 鉄 道 総 距 離 は 3000 ㎞ を こ え た (図 2 )。 鉄
道敷設の結果、人々の移動は容易になり、関内からの移住を刺激し、マンチュリアの人口
は 増 加 し た 。第 二 に 、マ ン チ ュ リ ア で は 19 世 紀 末 以 降 に 土 地 の 払 い 下 げ が お こ な わ れ 、移
住者が耕作地を入手しやすい状況にあったことが指摘できる。これらの理由から、マンチ
ュ リ ア の 開 拓 は 大 き く 進 展 し た (図 3 )。
鉄道敷設は移住者の増加だけでなく、マンチュリア内陸部で生産された農産物の大量輸
送 を 可 能 と し た 。1908 年 に ヨ ー ロ ッ パ 市 場 へ の 大 豆 輸 出 が は じ ま る と 、大 豆 に は 旺 盛 な 需
要があることが判明した。それゆえ、生産した大豆を売却し、鉄道により大連まで搬出す
る商業的農業がマンチュリアでは急速に拡大した。そして、大豆需要はより多くの移民を
呼 び 寄 せ 、さ ら な る 開 拓 が す す め ら れ る と い う 相 乗 効 果 が 1900~ 30 年 間 で は 生 じ て い た と
考 え ら れ る 。マ ン チ ュ リ ア で の 農 業 生 産 は 1930 年 代 ま で 増 加 を 示 し て お り 、大 豆 、コ ー リ
ャ ン 、 小 麦 、 ア ワ の 生 産 量 は 増 え て い た (表 1-1)。
鉄道が敷設されたことから、移民が増加し、移民の開拓により農業生産が増加しただけ
でなく、内陸部で生産された農産物の搬出を容易にして農産物の商品化を推し進めた。こ
うした鉄道敷設の結果として生じていた社会変容の様相を、本章では通商ルートの変化、
農業生産の変化、金融状況の変化の三点から考察する。市場の盛衰は物資集散の多寡によ
り 決 ま る の で 、鉄 道 の 便 を 得 た 商 業 中 心 地 は 発 展 し 、鉄 道 利 用 に 不 便 な 商 業 中 心 地 は 停 滞 、
衰退した。商業中心地の動向は鉄道敷設の影響を受けており、通商ルートは鉄道敷設状況
により規定されていた。鉄道沿線は移民の流入が容易であり、農産物の搬出も有利であっ
たことから、鉄道は農業生産の増加をうながした。商業中心地としての発展、農産物取引
の増大は通貨需要を喚起し、金融状況にも変化をおよぼしていた。しかしながら、鉄道沿
線地域の状況は自然条件、開拓時期、鉄道敷設の時期などにより相違していた。それゆえ
主要鉄道路線をもとに、①中東鉄道沿線、②満鉄沿線、③京奉鉄道沿線、④奉吉・吉敦鉄
道沿線地域、⑤四洮・洮昻・打通鉄道沿線地域、⑥間島地域、⑦鴨緑江流域、⑧松花江流
域 、 ⑨ 黒 龍 江 流 域 の 九 地 域 に 分 け て 検 討 を お こ な う (図 4 )。 か か る 地 帯 区 分 に よ り マ ン チ
ュリアの地域的差異を検出し、社会変容の特質を洗い出してみたい。
1.中東鉄道沿線地域の変化
①地域概略
中 東 鉄 道 沿 線 と し て 区 分 す る 場 所 は 、吉 林 省 、黒 龍 江 省 の 47 県 で あ る 。内 訳 は 、ハ ル ビ
ン 地 方 の 13 県 (呼 蘭 、 巴 彦 、 蘭 西 、 東 興 、 綏 化 、 慶 城 、 綏 楞 、 鉄 驪 、 浜 江 、 阿 城 、 海 倫 、
145
望 奎 、通 北 )、東 部 線 地 方 の 7 県 (五 常 、珠 河 、葦 河 、延 寿 、寧 安 、東 寧 、穆 稜 )、西 部 線 地
方 の 18 県 (龍 江 、訥 河 、克 山 、龍 鎮 、甘 南 、景 星 、富 裕 、克 東 、徳 都 、青 崗 、拜 泉 、明 水 、
嫩 江 、安 達 、林 甸 、依 安 、肇 州 、肇 東 )(1)、南 部 線 の 5 県 (扶 余 、楡 樹 、双 城 、農 安 、徳 恵 )
の 合 計 43 県 で あ る 。
中 東 鉄 道 の 敷 設 契 約 は 1896 年 に 露 清 間 で 結 ば れ 、翌 97 年 に 起 工 し た 。1903 年 の 開 業 時
の営業区間は満洲里~綏芬河とハルビン~大連であった。しかし日露戦争後に長春~大連
は 日 本 に 譲 渡 さ れ 、 満 鉄 の 営 業 区 間 に な っ た (2)。
中東鉄道沿線は鉄道開業以前では人口は稀薄であり、都市も少なかったが、中東鉄道の
開 業 に よ り 沿 線 の 開 発 は 進 展 し た 。 中 東 鉄 道 の 貨 物 輸 送 量 は 、 1903 年 で は 約 40 万 ト ン で
あ っ た が 、29 年 に は 約 560 万 ト ン に 達 し た (表 2-1)。06 年 を 除 い て 、輸 出 貨 物 の 数 量 の ほ
うが輸入貨物を上回っている。中東鉄道は沿線の生産物を載せてウラジオや大連に向けて
輸送する役割のほうが、輸入品を輸送することよりも上回っていたと指摘できよう。貨物
の内訳では農産物の割合が高く、貨物輸送の動向は農産物の輸送量に左右され る比重が大
き か っ た 。農 産 物 の な か で も 大 豆 の 数 量 は 多 く 、農 産 物 輸 送 量 の 半 分 近 く を 占 め て い る (表
2-2)。 大 豆 の 輸 送 量 増 加 は 目 覚 ま し く 、 07 年 で は 2.3 万 ト ン で あ っ た が 、 29 年 に は 100
倍 以 上 の 248 万 ト ン に 増 え て い る 。 中 東 鉄 道 沿 線 で は 、 1907-29 年 間 に 大 豆 を 軸 と す る 商
業的農業が急速に拡大したことを示している。
以下では、通商ルートの変化、農業生産の変化、金融状況の変化について検証してみた
い。
(1)西 部 線 地 方 は 農 業 で は な く 遊 牧 を 主 な 産 業 と す る 場 所 も あ る の で 、県 で は な く「 旗 」が
設 置 さ れ た 場 所 も 多 か っ た 。「 旗 」 に つ い て は 除 外 し て い る 。
(2)中 東 鉄 道 の 歴 史 に つ い て は 麻 田 雅 文 [2012]を 参 照 。
②通商ルートの変化
中東鉄道の貨物輸送動向は、その運賃政策により変動していた。そして運賃政策の内容
は、中東鉄道を取り巻く状況により変転した。日露戦争までの運賃政策は、ロシア製品の
輸出を促進する一方、マンチュリア産農産物のロシアへの流入阻止を基調としていた。し
か し な が ら 、日 露 戦 争 後 に 長 春 ~ 大 連 間 が 日 本 へ 譲 渡 さ れ た こ と を 受 け て 、1908 年 に 大 幅
な運賃改正をおこなった。その内容は満鉄との対抗を基調にしていた。具体的には満 鉄経
由でハルビンまで輸送される貨物と、大連まで南行する農産物には高運賃を設定した。こ
の た め 、12 年 ま で 中 東 鉄 道 に よ る 南 行 貨 物 は 存 在 せ ず 、東 行 し か 輸 送 さ れ て い な い 。西 行
貨物の輸送量は一貫して少なく、中東鉄道全体のなかでは大きな位置は占めていなかった
(表 2-3)。
ロシア革命後、中東鉄道をめぐる状況は変わり、その輸送動向も変化した。変化として
は東行貨物の減少、南行貨物の増加が指摘できる。南行貨物が増加した理由は、満鉄が南
行 に 有 利 な 運 賃 を 設 定 し た 点 に あ っ た 。満 鉄 は 1921、22 年 に お こ な わ れ た 中 東 鉄 道 と の 連
絡 運 輸 会 議 を 有 利 に す す め 、南 行 貨 物 に は 特 別 割 引 運 賃 を 設 け る こ と に 成 功 し た (1)。と こ
ろ が 、満 鉄 に と っ て 有 利 な 状 況 は 長 く は 続 か な か っ た 。24 年 以 後 、中 東 鉄 道 は 再 び 満 鉄 と
の 対 抗 を 基 調 に し た 運 賃 政 策 を 実 施 し た (2)。こ の た め 東 行 貨 物 は 増 加 し 、1926-30 年 で は
146
100 万 ト ン を 超 え た 。 南 行 貨 物 も 増 加 し て お り 、 貨 物 を め ぐ る 中 東 鉄 道 と 満 鉄 と の 争 い は
満 洲 事 変 ま で 続 い た 。そ し て 35 年 に ソ 連 は 満 洲 国 へ 中 東 鉄 道 を 譲 渡 し 、両 者 の 競 合 は 終 了
し た (3)。
中東鉄道と満鉄は貨物の争奪を繰り広げていたが、輸送量全体では満鉄のほうが中東鉄
道よりも4~6倍多かった。その理由は、中東鉄道は全線単線であったが、満鉄は複線区
間を有していたこと、満鉄は効率の良い鉄道輸送を追求して運輸設備の改良に努めていた
点が指摘できる。
マンチュリア北部は中東鉄道開業以前では、馬車輸送により営口経由で農産物や日用品
の取引していた。ところが鉄道開業後では、鉄道により農産物はウラジオストクへ輸送さ
れ 、日 用 品 は 大 連 、営 口 か ら 輸 送 さ れ る よ う に な っ た (4)。中 東 鉄 道 開 業 の 結 果 、マ ン チ ュ
リア北部の通商ルートは鉄道駅を中心として形成されていった。鉄道開業以前では無人に
近かった場所でも、鉄道駅の開設後では商業中心地になった場所も多かった。
中東鉄道開業後に最も成長したのはハルビンであった。ハルビンは鉄道敷設がはじまっ
た 1898 年 で は 、 松 花 江 右 岸 に あ っ た 小 集 落 に す ぎ な か っ た (5)。 と こ ろ が 中 東 鉄 道 の 開 業
後 、大 連 ま で の 支 線 の 分 岐 点 に な っ た こ と か ら 、人 口 は 急 増 し た 。1903 年 で は 4.5 万 人 で
あ っ た が 、30 年 代 に は 50 万 人 を こ え る 大 都 市 に な っ て い た (表 2-4)。人 口 構 成 で 特 徴 的 な
点 は 、 ロ シ ア 人 が 多 か っ た こ と で あ る 。 一 時 期 は 15 万 人 を こ え た こ と も あ っ た 。 し か し 、
中 東 鉄 道 が 満 洲 国 に 譲 渡 さ れ た 35 年 に 鉄 道 関 係 者 は 退 去 し 、 そ の 人 数 は 大 き く 減 少 し た 。
ハルビンは商業を中心に栄えた都市であり、工業は製粉業や油房などの軽工業の水準に止
ま っ た (6)。
ハ ル ビ ン 周 辺 は 農 業 条 件 に 恵 ま れ て い た の で 、ハ ル ビ ン 管 区 (7)か ら 発 送 さ れ る 農 産 物 の
数 量 は 中 東 鉄 道 全 体 の 約 30% に 達 し た 。ハ ル ビ ン 管 区 の な か で も 、呼 蘭 は 呼 蘭 川 の 水 運 に
よ り 運 ば れ る 農 産 物 の 集 散 地 と し て 繁 栄 し て い た (8)。 し か し 1928 年 に 呼 海 鉄 道 が 開 業 す
る と 、水 運 は 鉄 道 に と っ て 代 わ ら れ 衰 退 し た (9)。ま た 農 産 物 の 集 散 地 が 呼 海 線 の 各 駅 に 分
散するようになり、呼蘭を経由する数量は減少した。呼蘭の商業的地位は低下し、鉄道に
よ り 結 ば れ た ハ ル ビ ン の 影 響 力 が 呼 海 鉄 道 沿 線 に お よ ぶ よ う に な っ た (10)。 さ ら に 満 洲 国
期になると、中東鉄道が満洲国に譲渡されて大連までの直通輸送が可能となったので、ハ
ル ビ ン を 素 通 り し て 大 連 と 直 接 取 引 す る 貨 物 が 多 く な っ た (11)。
ハルビン管区に次いで農産物の発送量が多かったのは西部線地方であった。なかでも安
達 か ら 発 送 さ れ る 数 量 は 多 か っ た (12)。 安 達 は 中 東 鉄 道 の 駅 が 建 設 さ れ る ま で は 無 人 の 地
であったが、近隣の青崗県、明水県、拜泉県、克山県などからの農産物の集 散地となり、
そ の 発 送 量 は 増 加 し た (13)。 西 部 線 以 北 の 各 県 は ハ ル ビ ン か 安 達 の ど ち ら か に 農 産 物 を 搬
出 し て い た 。 と こ ろ が 呼 海 鉄 道 (馬 家 船 口 ~ 海 倫 間 、 1928 年 開 業 )と 斉 克 鉄 道 (昻 昻 渓 ~ 克
山 間 、 1933 年 開 業 )の 開 業 に よ り 、 農 産 物 の 搬 出 ル ー ト は 大 き く 変 化 し た 。
チチハル~克山間を結ぶ斉克線の開業は、沿線地域にハルビンの影響力の低下、洮昻線
経由による輸送の増加という現象を生じさせていた。沿線の克山や泰安は、鉄道開業以前
で は ハ ル ビ ン 、 安 達 を 経 由 し て 農 産 物 や 日 用 品 の 取 引 を し て い た (14)。 と こ ろ が 斉 克 線 開
業後では農産物は鉄道によりチチハル経由で取引され、さらに洮昻線を使い大連方面へ搬
出 さ れ る よ う に な っ た (15)。 日 用 品 の 仕 入 れ 先 も 洮 昻 線 経 由 が 増 え 、 ハ ル ビ ン と の 取 引 は
147
減 少 し た (16)。 斉 克 線 は 1933 年 に は 北 安 ま で 、 35 年 に は 黒 河 ま で 延 長 さ れ た 。 す る と 北
安が商業中心地として勃興した。鉄道により大連までの輸送ルートを手中にした北安の中
国人商人のなかには、これまでの地場売買ではなく、大連まで大豆を搬出する商人が出て
い た (17)。
西部線地方には歴史の古いチチハルがあったが、農産物集散地としての機能は大きくな
か っ た (18)。チ チ ハ ル は 軍 事 的 、政 治 的 に 形 成 さ れ た 都 市 で あ り 、そ の 商 圏 は 小 さ か っ た 。
また工業も盛んではなく、満洲国期においても製粉業、油房、畜産物加工業などの軽工業
が 存 在 し た に す ぎ な か っ た (19)。 そ れ ゆ え 人 口 の 増 加 も 鈍 く 、 満 洲 国 以 前 で は 4 ~ 5 万 人
で あ り 、 1940 年 代 に な っ て 10 万 人 を 超 え る 水 準 で あ っ た (表 5 )。
西部線地方のハイラル、満洲里近隣は草原地帯のため農業は盛んではなく、牧畜業が主
産業であった。ハイラルは軍事拠点であり、商業都市ではなかった。しかし中東鉄道の開
業後に商業都市として発展した。満洲里は中東鉄道が開業する以前には存在しなかった都
市 で あ っ た が 、 鉄 道 開 業 後 に 国 境 の 街 と し て 発 展 し た (20)。
中東鉄道の開業以前では、ハイラルの南にある甘珠爾廟で年一回開かれる定期市で牛や
羊は売買され、日用品の購入がおこなわれた。ところが鉄道開業後ではハイラルや満洲里
で 時 期 を 問 わ ず 売 買 で き る よ う に な り 、 甘 珠 爾 廟 の 定 期 市 は 衰 退 し て し ま っ た (21)。
ハイラル、満洲里に集散された畜産物はハルビンに送られた。雑貨や日用品の買い付け
も ハ ル ビ ン で お こ な わ れ 、ハ イ ラ ル 、満 洲 里 は ハ ル ビ ン 市 場 と 密 接 な 関 係 を 持 っ て い た (22)。
ハ ル ビ ン で 買 い 付 け ら れ た 綿 製 品 の 大 半 は 日 本 製 で あ り 、日 本 製 綿 布 は ホ ロ ン バ イ ル 方 面 、
さ ら に は 外 モ ン ゴ ル に も 出 回 っ て い た (23)。 日 本 製 綿 布 は 出 回 っ て い た が 、 そ の 販 売 を し
て い た の は 漢 人 商 人 、 ロ シ ア 人 商 人 、 イ ギ リ ス 人 商 人 で あ っ た (24)。
中東鉄道開業後、ハイラル、満洲里の商業は勃興し、国境をこえてロシア、外モンゴル
に も お よ ぶ 商 圏 が 形 成 さ れ た (25)。 だ が 、 国 境 を こ え た 商 圏 で あ っ た こ と か ら 、 周 辺 の 政
治的変動による影響も受けてしまった。外モンゴルにはソ連の影響の強い政権が誕生した
た め 、1927 年 に 東 三 省 政 権 は 外 モ ン ゴ ル と の 取 引 を 中 止 す る 命 令 を 出 し た (26)。ま た 、ソ
連 と の 関 係 は 29 年 の 紛 争 、満 洲 国 成 立 に よ り 悪 化 し た 。こ れ ら の 影 響 に よ り 、対 ソ 連 貿 易
は 減 少 し て し ま い 、 ハ イ ラ ル 、 満 洲 里 の 商 圏 は 縮 小 、 衰 退 を 余 儀 な く さ れ た (27)。
南 部 線 地 方 に は 扶 余 (伯 都 訥 )、 農 安 な ど の 中 東 鉄 道 開 業 以 前 に 形 成 さ れ た 都 市 が 存 在 し
た。鉄道開業後は沿線の各駅が商業中心地となり、扶余や農安は鉄道から距離があったの
で 、 商 業 的 に は 発 達 し な か っ た 。 中 東 鉄 道 の 開 業 後 、 三 岔 河 、 陶 頼 昭 、 窰 門 (張 家 湾 )な ど
の 商 業 中 心 地 が 誕 生 し た (28)。 南 部 線 で 輸 送 さ れ る 農 産 物 は 、 ロ シ ア 革 命 以 前 で は 中 東 鉄
道 の 運 賃 政 策 に よ り ハ ル ビ ン に 搬 出 さ れ た (29)。 と こ ろ が ロ シ ア 革 命 後 で は 、 中 東 鉄 道 の
輸 送 は 混 乱 し た の で 、 長 春 や 馬 車 輸 送 さ れ る 農 産 物 が 急 増 し た (30)。 長 春 へ の 馬 車 輸 送 は
1924 年 に は 沈 静 化 す る が 、以 後 、南 部 線 沿 線 は ハ ル ビ ン と 長 春 の 勢 力 が 交 錯 す る 地 域 と な
っ た (31)。
東 部 線 地 方 は 鉄 道 開 業 以 前 で は 人 口 稀 薄 な 森 林 地 帯 で あ り 、 都 市 と し て は 寧 古 塔 (寧 安 )
が あ る ぐ ら い で あ っ た 。 し か し 鉄 道 開 業 後 で は 珠 河 (烏 吉 密 河 )、 海 林 、 牡 丹 江 、 穆 稜 、 東
遼、綏芬河などの都市が勃興した。これらの東部線沿線の都市は、概 ねハルビンの商圏に
属 し て い た (32)。
148
牡丹江は鉄道開業後に商業中心地として発展したとはいえ、後背地を拡大できなかった
た め 農 産 物 の 発 送 量 は 大 き く は 増 加 し な か っ た (33)。と こ ろ が 満 洲 国 期 の 1935 年 に 圖 寧 線
(圖 們 ~ 牡 丹 江 間 )が 、37 年 に は 北 方 の 佳 木 斯 と 接 続 し た 図 佳 線 (図 們 ~ 佳 木 斯 間 )が 開 業 し
た こ と か ら 、牡 丹 江 は 交 通 の 要 所 と な っ た 。そ の た め 人 口 は 満 洲 国 以 前 で は 4000 人 程 度 に
過 ぎ な か っ た が 、41 年 に は 19 万 人 に 急 増 し た (表 2-6)。満 洲 国 期 に は 製 材 業 や パ ル プ 業 な
ど の 工 場 建 設 も お こ な わ れ 、 牡 丹 江 は 一 大 都 市 へ と 変 貌 し た (34)。 図 寧 線 の 開 業 に よ り 牡
丹 江 は 図 們 、 朝 鮮 北 部 と の 商 業 関 係 が 増 大 し 、 ハ ル ビ ン の 影 響 力 は 低 下 し た (35)。 満 洲 国
期の新線建設が牡丹江の成長をうながしたと指摘できよう。
ロシアとの国境に近い東寧、綏芬河はロシアとの商業関係が密接であり、また地理的関
係から朝鮮人の移住者も多かった。それゆえ、漢字のほかにロシア語、朝鮮語の看板を掲
げ る 商 店 も 多 か っ た (36)。1935 年 に 中 東 鉄 道 は 満 洲 国 に 譲 渡 さ れ 、ソ 連 は 満 洲 国 と の 国 境
往 来 を 遮 断 し た た め 、 ソ 連 と の 通 商 は で き な く な っ た 。 こ れ ま で ソ 連 (ロ シ ア )と の 通 商 で
栄 え て き た 綏 芬 河 は そ の 存 在 理 由 を 失 っ て し ま っ た (37)。ソ 連 と の 通 商 断 絶 (35 年 )、図 佳
線 の 開 業 (37 年 )に よ り 、東 部 線 地 方 の 商 圏 は 一 面 坡 を 境 に し て 、そ れ よ り 西 は ハ ル ビ ン に 、
東 は 牡 丹 江 に 分 か れ る 傾 向 が 強 ま っ た (38)。
中東鉄道沿線は概ねハルビンの商圏に属しており、物資はハルビンを経由して取引され
た。中東鉄道の沿線では、第一次大戦前ではロシア製品やドイツ製品が多く出回り、日本
製 品 は 少 な か っ た (39)。 だ が 、 第 一 次 大 戦 後 に な る と 日 本 製 品 の 出 回 り は 増 え 、 と く に 綿
製 品 は ロ シ ア 製 品 に 代 わ っ て い っ た (40)。 そ し て 、 満 洲 国 期 に な る と 日 本 製 品 の 独 占 市 場
と な っ て し ま っ た (41)。 第 一 次 大 戦 後 に 日 本 製 品 の 出 回 り は 増 加 し た が 、 そ の 取 引 の 大 部
分 は 漢 人 商 人 が し て い た 。1920 年 代 後 半 で は ハ ル ビ ン に 出 回 る 日 本 製 品 の う ち 、日 本 人 商
人 の 取 引 は 10% 程 度 で あ っ た と 観 察 さ れ て い た (42)。満 洲 事 変 後 に ハ ル ビ ン で 営 業 す る 日
本 人 商 人 は 増 え た が 、 日 本 人 商 人 の 顧 客 は 在 住 日 本 人 で あ り 漢 人 商 人 で は な か っ た (43)。
それゆえ、中東鉄道沿線での日本製品の取引は増加していたが、日本人商人による取引が
増加していたわけではなかったと推測される。農産物を取引して輸出す る日本人商人の活
動も振るわなかった。東部線地方の大豆はワッサルド、カバルキン、ドレーフスなどの外
国 人 商 人 に よ り 取 引 さ れ て い た (36)。 満 洲 国 期 に お い て も 、 こ れ ら の 外 国 人 商 人 は 取 引 を
継 続 し て お り 、 三 井 物 産 や 三 菱 商 事 と 競 合 し て い た (44)。
(1)満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 調 査 課 『 東 支 鉄 道 貨 物 運 賃 研 究 』 1925
36、 53-54 頁 。
(2)「 東 支 鉄 道 幹 部 更 迭 に 伴 う 運 賃 政 策 の 変 更 と 満 鉄 の 対 策 」『 現 代 史 資 料 33
満鉄3』
み す ず 書 房 、 1967。
(3)中 東 鉄 道 の 運 賃 政 策 に つ い て は 、以 下 も 参 照 。満 鉄 庶 務 部 調 査 課『 東 支 鉄 道 が 特 殊 運 賃
政 策 を 取 り た る こ と が 北 満 産 業 開 発 上 如 何 な る 結 果 を 生 じ た か 』1929(短 い も の で あ る が 、
簡 明 に 運 賃 政 策 に つ い て ま と め て い る )。満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 調 査 課『 東 支 鉄 道 運 賃 政 策 史 』
1926(中 東 鉄 道 商 業 部 コ ワ イ ル コ フ に よ る 著 作 を 翻 訳 し た も の )。 和 田 耕 作 「 東 支 鉄 道 運
賃 政 策 と 北 満 市 場 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 17-1、 1937
(4)外 務 省 『 北 満 洲 之 産 業 』 金 港 堂 、 1908
63-67 頁 。
(5)China, Imperial Maritime Customs, Decennial Report,1902-11 ,Harbin
(6)中 東 鉄 道 経 済 調 査 局 員 ス ウ リ ン 、 満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 訳 『 北 満 及 哈 爾 浜 の 工 業 』 1929
149
pp.1-33
(7)ハ ル ビ ン 管 区 は ハ ル ビ ン 中 央 駅 、 第 八 区 、 ハ ル ビ ン 埠 頭 駅 を 包 含 す る 区 域 を 指 す 。
(8)満 鉄 調 査 課 『 北 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 1910、 131 頁 。
(9)『 呼 蘭 府 志 』 巻 5 商 業 。
(10)哈 爾 浜 日 本 商 工 会 議 所 『 賓 北 、 斉 北 両 沿 線 の 現 況 』 1934
(11)鉄 路 総 局 『 濱 北 線 及 背 後 地 経 済 事 情 』 1936
20-31 頁 。
170-171 頁 。
(12)「 安 達 站 」『 東 省 経 済 月 刊 』 3-9、 1927
(13)横 浜 正 金 銀 行 調 査 課 『 北 満 安 達 事 情 』 1929
pp.3-12
(14)「 斉 斉 哈 爾 背 後 地 商 業 事 情 (一 、 二 )」『 満 鉄 調 査 月 報 』 9-1、 9-2、 1929
(15)「 1930~ 31 年 北 満 洲 輸 出 年 度 総 勘 定 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 12-2、 1932
196-202 頁 。
(16) 横 浜 正 金 銀 行 調 査 課 『 斉 克 、 四 洮 、 洮 昻 鉄 道 沿 線 経 済 事 情 』 1932、 7 頁 。
(17)「 北 安 鎮 経 済 事 情 」
『 満 鉄 調 査 月 報 』14-5、1934。鉄 路 総 局『 斉 北・平 斉 沿 線 経 済 事 情 』
1935
144 頁 。
(18)「 斉 斉 哈 爾 ニ 関 ス ル 調 査 」『 通 商 彙 簒 』63、1909。前 掲『 斉 克 、四 洮 、洮 昻 鉄 道 沿 線 経
済事情』9頁。
(19)「 斉 斉 哈 爾 に 於 け る 製 造 工 場 」
『 露 亜 時 報 』53、1924。斉 斉 哈 爾 商 工 公 会『 斉 斉 哈 爾 経
済 事 情 』 1939 を 参 照 。
(20)「 海 拉 爾 経 済 事 情 」『 日 刊 海 外 商 報 』 118
9-4
1925。「 満 洲 里 経 済 事 情 」『 東 洋 貿 易 研 究 』
1931。
(21)「 甘 珠 爾 廟 定 期 市 概 況 」
『 海 外 経 済 事 情 』47、1934。
「甘珠爾廟市の概況」
『満鉄調査月
報 』5-10、1935。
「興安北省新巴爾虎左翼甘珠爾廟会状況報告」
『 内 務 資 料 月 報 』1-5、1937。
北 満 経 済 調 査 所 『 甘 珠 爾 廟 会 定 期 市 』 1939
(22)哈 爾 浜 商 品 陳 列 館 『 経 済 上 よ り 観 た る 海 拉 爾 』 1934
(23)満 鉄 殖 産 部 商 工 課 『 満 洲 商 工 概 覧 』 1930
32 頁 。
694 頁 。
(24)哈 爾 浜 商 品 陳 列 館『 海 拉 爾 一 般 事 情 及 経 済 状 況 並 呼 倫 貝 爾 概 況 』1933
50-52 頁 。
「満
洲 里 地 方 の 英 国 商 社 」『 海 外 経 済 事 情 』 19、 1929.
(25)哈 爾 浜 日 本 商 業 会 議 所 『 満 洲 里 、 海 拉 爾 を 中 心 と す る 蒙 古 貿 易 調 査 』 1928。
(26)「 満 洲 里 の 最 近 市 況 と 対 後 貝 加 爾 地 方 密 貿 易 」『 満 鉄 調 査 時 報 』 9-6
1929
(27)「 満 洲 里 貿 易 状 況 (康 徳 元 年 )」
『 海 外 経 済 事 情 』7 、1935。
「 畜 産 物 貿 易 状 況 (海 拉 爾 )」
『 海 外 経 済 事 情 』 11、 1935
(28)『 北 満 主 要 都 市 商 工 概 覧 』 第 三 編 を 参 照 。
(29)満 鉄 調 査 課 『 東 清 鉄 道 南 部 沿 線 地 方 経 済 調 査 資 料 』 1917
66 頁 。
(30)横 浜 正 金 銀 行 調 査 課 『 東 清 鉄 道 南 部 支 線 特 産 物 出 回 状 況 』 1921
(31)北 満 経 済 調 査 所 『 旧 東 支 鉄 道 を 中 心 と せ る 北 満 大 豆 』 1936
各地の状況を参照。
24-27 頁 。
(31)東 部 線 地 方 の 概 況 に つ い て は 、
「 東 支 鉄 道 東 部 線 沿 線 事 情 (1-3)」
『 満 鉄 調 査 時 報 』7-5、
7-6、7-7、1927。哈 爾 浜 商 品 陳 列 所『 東 支 鉄 道 東 部 沿 線 事 情 (上 、中 、下 )』1930 を 参 照 。
(32)『 中 東 鉄 路 運 輸 統 計 1903-1930』 1932
64-76 頁 。
(33)「 東 満 洲 の 工 業 状 況 並 主 要 会 社 工 場 」『 海 外 経 済 事 情 』 3 、 1938
(34)「 五 年 度 東 満 特 産 界 回 顧 」『 牡 丹 江 商 工 月 報 』 17、 1939
150
(35)満 洲 事 情 案 内 所 『 東 満 事 情 』 1941
117-118 頁 。
(36)「 綏 芬 河 駅 に 於 け る 貨 車 直 通 遮 断 の 浦 塩 方 面 に 及 ぼ せ る 影 響 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 16-8、
1936。
(37) 北 満 経 済 調 査 局 『 満 洲 事 変 並 北 鉄 接 収 後 に 於 け る 北 満 主 要 都 市 の 経 済 的 動 向 』 1937
230-236 頁 。
(38)「 北 満 市 場 に 於 け る 本 邦 商 品 の 地 位 」『 海 外 経 済 事 情 』 1 、 1928
(39)「 露 国 製 織 物 と 北 満 市 場 」『 日 刊 海 外 商 報 』 374、 1926
(40)「 北 満 洲 貿 易 概 況 並 蘇 聯 邦 輸 入 商 品 」『 海 外 経 済 事 情 』 35、 1934。「 哈 市 を 中 心 と し た
る 北 満 市 場 に 於 け る 日 本 雑 貨 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 15-5、 1935。
(41)「 哈 爾 浜 を 中 心 と す る 北 満 一 帯 に 於 け る 輸 出 入 貿 易 」『 満 鉄 調 査 時 報 』 8-1、 1928
(42)「 満 洲 事 変 後 に 於 け る 在 哈 邦 人 の 動 態 に 就 て 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 14-21、 1934
(43)北 満 経 済 調 査 局 『 満 洲 事 変 並 北 鉄 接 収 後 に 於 け る 哈 爾 浜 を 中 心 と す る 各 国 商 工 業 の 動
向 』 1936
417-425 頁 。
(44)「 圖 佳 線 開 通 後 の 特 産 物 輸 出 経 路 変 化 と 出 回 予 想 量 」『 海 外 経 済 事 情 』 5 、 1937
③農業生産の変化
中 東 鉄 道 沿 線 で 早 く に 開 拓 が お こ な わ れ た の は 南 部 線 地 方 で あ っ た 。19 世 紀 以 降 、双 城
や扶余では開拓がおこなわれた。南部線一帯の可耕地の開拓は、清朝期にはほぼ終了して
い た 。1930 年 時 点 で 南 部 線 地 方 の 可 耕 地 の 既 耕 地 に 対 す る 割 合 は 93.7% で あ り 、ほ と ん ど
開 拓 は 完 了 し て い た こ と を 示 し て い る (表 2-7)。
ハルビン地方の開拓も比較的早く、なかでも呼蘭平野は黒龍江将軍の特普欽の尽力によ
り 土 地 の 払 い 下 げ が 1860 年 に 実 現 し 、開 拓 が お こ な わ れ た 。ハ ル ビ ン 地 方 は 総 面 積 に 対 す
る 可 耕 地 の 割 合 は 60% と 高 く 、呼 海 鉄 道 沿 線 の 余 剰 農 産 物 は 1910 年 代 後 半 で は 約 21 万 ト
ン あ る と 推 算 さ れ て い た (1)。
東部線沿線は森林や山岳地帯が多く、農業に適した場所は多くはなかった。可耕地の総
面 積 に 対 す る 割 合 は 50.3% で あ り 、半 分 が 農 業 の で き な い 土 地 で あ っ た 。農 業 条 件 に 恵 ま
れ た 場 所 は 、阿 城 近 隣 、珠 河 ~ 一 面 坡 、海 林 ~ 牡 丹 江 、穆 稜 ~ 馬 橋 河 で あ っ た (2)。中 東 鉄
道 の 開 業 後 に 移 民 が 流 入 し て 開 墾 が す す め ら れ た と は い え (3)、中 東 鉄 道 沿 線 の な か で は そ
の 普 通 作 物 作 付 面 積 は も っ と も 少 な か っ た (表 2-8)。
西部線沿線は、満洲里~札羅木特間の畜産区、牙克石~碾子山間の林間区、碾子山~ハ
ル ビ ン の 農 業 区 に 分 け ら れ 、沿 線 の な か で 農 業 が で き る 場 所 は 半 分 以 下 で あ っ た (4)。し か
し、西部線のハルビン~チチハル間、呼海線、斉克線で囲まれた半円の内側は農業条件に
恵 ま れ た 穀 倉 地 帯 で あ っ た (5)。こ の 半 円 の 外 側 、嫩 江 以 西 は 農 業 条 件 が よ く な く 、農 業 は
盛んではなかった。
作付面積を見てみると、西部線沿線の面積がもっ とも広く、次いでハルビン地方、南部
線沿線、東部線沿線である。西部線の動向で注目される点は、他よりも増加の程度が著し
いことである。南部線沿線やハルビン地方の開拓時期は早かったことから、鉄道開業後に
耕地は拡大したとはいえ、その増加は鈍かった。それに対して西部線地方は鉄道開業後に
開拓が進んだことを示している。
151
農 産 物 の 生 産 動 向 で は 、鉄 道 開 業 間 も な い 1907 年 で は 自 給 作 物 で あ っ た コ ー リ ャ ン 、ア
ワ の 栽 培 が 多 か っ た と 観 察 さ れ て い た (6)。 農 業 生 産 は 全 般 的 に 増 加 し て い た が 、 1925-29
年 に か け て は 大 豆 は 1.6 倍 、 小 麦 は 1.5 倍 、 コ ー リ ャ ン は 微 減 、 ア ワ は 微 増 で あ り 、 商 品
作 物 で あ っ た 大 豆 と 小 麦 の 増 加 が 特 徴 と し て 指 摘 で き る (表 2-9)。大 豆 生 産 は 29 年 を 頂 点
にして、以後減少している。これは、世界恐慌の影響と満洲国の農業政策によると考えら
れる。
以上から、中東鉄道開業後、西部線地方では開拓が進展し、大豆を軸とする商業的農業
を基調として農業生産が増えていた。ハルビン地方、南部線沿線は開拓時期が早かったこ
とから急激な開拓は生じなかったが、鉄道開業により商業的農業が拡大していたとまとめ
られよう。
(1)「 賓 黒 鉄 道 の 経 済 価 値 」『 露 亜 時 報 』 13、 1920
(2)『 北 満 洲 と 東 支 鉄 道 』 下 、 320 頁 。
(3)例 え ば 穆 稜 近 隣 の 開 拓 は 鉄 道 開 業 後 で あ っ た (「 吉 林 省 穆 稜 県 事 情 」『 通 商 公 報 』 615、
1915)。
(4)『 北 満 洲 と 東 支 鉄 道 』 下 、 275 頁 。
(5)「 穀 倉 を 繞 る 半 月 線 」『 満 蒙 』 14-8、 1933
(6)外 務 省 『 北 満 洲 之 産 業 』 金 港 堂 、 1908
48-49 頁 。
④金融状況の変化
中東鉄道沿線は鉄道開業以前では人口は少なく、商業取引は少数の都市でおこなわれた
だけであったので、沿線での通貨の流通量は少なかった。とくに銀貨が市場に出回ること
はまれであり、銀貨の流通量は全体の5%程度に過ぎなかったと、日露戦争後に日本人が
お こ な っ た 調 査 で は 推 定 さ れ て い た (1)。
中東鉄道は運賃や鉄道従業員の賃金としてルーブル貨を使用していたので、沿線ではル
ーブル貨が流通していた。鉄道沿線から離れた場所では、中国系銀行が発行した吉林官帖
や黒龍江官帖が主に使われていた。
黒 龍 江 官 帖 は ル ー ブ ル 貨 と 私 帖 の 駆 逐 を 目 的 と し て 、1904 年 に 官 民 半 額 出 資 に よ り 設 立
された広信公司が発行をはじめた。中東鉄道開業後、商業取引が増大して貨幣需要が高ま
っ た こ と 、納 税 に も 使 う よ う 清 朝 は 指 示 し て い た こ と か ら 、黒 龍 江 官 帖 の 流 通 は 拡 大 し た 。
しかし、広信公司は十分な準備金を持たないなかで乱発的に発行されたため、黒龍江官帖
の 価 値 は 下 落 し た (2)。黒 龍 江 官 帖 の 流 通 を 支 え る た め 、08 年 に 黒 龍 江 官 銀 号 が 設 立 さ れ 、
銀 元 票 と 銅 元 票 を 発 行 し て 黒 龍 江 官 帖 の 整 理 回 収 を 試 み た (3)。だ が 、黒 龍 江 官 帖 の 価 値 安
定 化 は 達 成 で き ず 、以 後 も 黒 龍 江 官 帖 の 価 値 変 動 は 大 き か っ た 。19 年 に は 黒 龍 江 官 銀 号 と
広 信 公 司 は 合 併 し て 黒 龍 江 広 信 公 司 と な り 、 30 年 に は 黒 龍 江 省 官 銀 号 に 改 組 さ れ た (4)。
ルーブル貨は中東鉄道の沿線で流通しただけでなく、営 口などの遠隔地との取引決済に
用いられた。黒龍江官帖や吉林官帖は省域をこえて流通することはほとんどなく、省域外
との決済に使うことは難しかった。例えば、ハルビン~営口間の決済にはハルビンでルー
ブ ル 貨 を 購 入 し て 、 営 口 に 送 金 す る 取 引 決 済 が 広 く お こ な わ れ て い た (5)。
ところがロシア革命によりルーブル貨は下落してしまい、決済貨幣としては使えなくな
152
っ た 。 新 た に 決 済 貨 幣 と し て 登 場 し た の は 朝 鮮 銀 行 券 (金 票 )で あ っ た 。 中 東 鉄 道 沿 線 に 朝
鮮 銀 行 券 が 流 通 す る よ う に な っ た の は 、日 本 軍 の シ ベ リ ア 出 兵 を 契 機 と し て い た (6)。朝 鮮
銀行券はルーブル貨に代わって中東鉄道沿線に登場したが、その役割は決済通貨であり、
中 国 人 間 で 流 通 す る こ と は ほ と ん ど な か っ た (7)。
一方、東三省政権もロシア革命により生じた新たな状況を利用して、幣制改革を試みて
い た 。1919 年 に 東 三 省 政 権 は 金 融 混 乱 の 収 拾 を 目 的 に 、中 国 銀 行 、交 通 銀 行 に 大 洋 票 の 発
行 を 認 可 し た 。 こ の 大 洋 票 に は 「 哈 爾 浜 」 と い う 印 刷 が あ っ た こ と か ら 「 哈 大 洋 」 (以 下 、
哈 大 洋 票 )と 通 称 さ れ た (8)。中 国 銀 行 、交 通 銀 行 は 20 年 3 月 に 、ハ ル ビ ン で は 哈 大 洋 票 を
無制限に兌換すると表明したことから、哈大洋票の信用は高ま った。また、中東鉄道が哈
大 洋 票 を 運 賃 と し て 受 け 入 れ た こ と も あ り 、 哈 大 洋 票 の 流 通 は 拡 大 し た (9)。
東 三 省 政 権 は 1920 年 10 月 に 自 ら 東 三 省 銀 行 を 設 立 し て 、 そ れ ま で 中 国 銀 行 と 交 通 銀 行
が お こ な っ て い た 哈 大 洋 票 の 発 行 に 着 手 し た 。 そ し て 、 1920-21 年 に 東 三 省 政 権 は 中 国 銀
行と交通銀行の哈大洋票発行額に制限を加え、東三省銀行の哈大洋票発行額を第一にする
政 策 を お こ な っ た [味 岡 徹 1983、 65 頁 ] 。 東 三 省 政 権 は 哈 大 洋 票 を 兌 換 紙 幣 と し て 維 持 す
る た め 、23 年 に は ハ ル ビ ン か ら 現 銀 を 持 ち 出 す こ と を 禁 止 し た 。こ の 結 果 、哈 大 洋 票 は 現
銀への兌換はできたとはいえ、現銀をハルビンから持ち出すことは禁止されたので、哈大
洋 票 は 事 実 上 の 不 換 紙 幣 に な っ て い た (10)。
東三省政権は哈大洋票の価値を維持するため、さまざまな対策をおこなったので、吉林
官帖や黒龍江官帖に比べて、その価値相場は安定していた。だが、その流通範囲は中東鉄
道沿線に限られており、沿線から離れた内陸部の農村では流通していなかった。内陸部の
農村では吉林官帖や黒龍江官帖が使われていた。まとめると、ロシア革命後のマンチュリ
ア 北 部 の 幣 制 は 、中 東 鉄 道 沿 線 で は 哈 大 洋 票 、内 陸 部 の 農 村 部 で は 吉 林 官 帖 や 黒 龍 江 官 帖 、
決済通貨として朝鮮銀行券が使われていた。
内陸部の農村で大豆を買い付けたり、雑貨を販売するには官帖が必要であり、官帖以外
の通貨を農民が受け取ることはなかった。金融機関が不備な内陸部の農村で取引をおこな
う 場 合 、 多 額 の 官 帖 を 携 帯 す る 不 便 さ と 苦 闘 し な け れ ば な ら な か っ た (11)。 ま た 、 朝 鮮 銀
行券は営口などの南部の商業中心地との決済に不可欠であったが、中東鉄道沿線のどこで
も入手できる通貨ではなかった。チチハルでは朝鮮銀行券の入手が難しかったため、営口
と の 決 済 は 一 度 ハ ル ビ ン を 経 由 す る 方 法 が お こ な わ れ て い た (12)。
中 東 鉄 道 の 開 業 後 、西 部 線 地 方 の モ ン ゴ ル 人 は 商 業 取 引 の 機 会 を 以 前 よ り 多 く 得 た た め 、
貨幣経済のなかに巻き込まれていった。モンゴル人らとの取引は紙幣ではなく銀貨おこな
わ れ た の で 、マ ン チ ュ リ ア で は 希 少 で あ っ た 大 洋 銀 貨 が 1920 年 の 満 洲 里 に は 流 通 し て い た
(13)。と は い え 、モ ン ゴ ル 人 ら の 間 で も 紙 幣 が 普 及 し 、20 年 代 後 半 で は 黒 龍 江 官 帖 や 哈 大
洋 票 の 流 通 も 増 え て い た (14)。
(1)満 鉄 調 査 課 『 北 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 1910
173-174 頁 。
(2)「 黒 龍 江 省 ニ 於 ケ ル 流 通 通 貨 ニ 就 テ 」『 農 商 務 省 商 工 彙 報 』 1 、 1911。
(3)孔 経 緯 主 編 『 清 代 東 北 地 区 経 済 史 』 黒 龍 江 人 民 出 版 社 、 1990
445-448 頁 。
(4)黒 龍 江 の 金 融 制 度 の 変 遷 に つ い て は 、満 洲 中 央 銀 行 調 査 課『 黒 龍 江 省 旧 銀 行 貨 幣 史 』1936.
横 浜 正 金 銀 行 調 査 課 『 北 満 洲 特 殊 通 貨 と し て の 官 帖 に 就 て 』 1925. 関 東 庁 財 務 部 『 吉 黒
153
両 省 発 行 紙 幣 概 要 』 1931 を 参 照 。
(5)前 掲 『 北 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 72 頁 。
(6)『 朝 鮮 銀 行 史 』 東 洋 経 済 新 聞 社 、 1987
179-184 頁 。
(7)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 哈 爾 浜 大 洋 票 流 通 史 』 1928
116 頁 。
(8)哈 大 洋 発 行 ま で の 経 緯 に つ い て は 、 味 岡 徹 [1983]を 参 照 。
(9)前 掲 『 哈 爾 浜 大 洋 票 流 通 史 』 1-8 頁
(10)前 掲 『 哈 爾 浜 大 洋 票 流 通 史 』 20-32 頁 。
(11)満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 『 北 満 奥 地 地 方 に お け る 見 本 展 示 旅 行 の 経 過 並 各 地 商 業 事 情 』 1930
2 、 59 頁 。
(12)「 斉 斉 哈 爾 に 於 け る 為 替 業 務 」『 東 洋 貿 易 研 究 』 8-7
1929
(13)「 満 洲 里 ニ 於 ケ ル 流 通 貨 幣 」『 通 商 公 報 』 728、 1920
(14)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 経 済 方 面 よ り 見 た る 呼 倫 貝 爾 事 情 』 上 、 1929
44 頁 。
2.満鉄沿線地域の変化
①地域概略
満鉄沿線として区分する場所は、鉄嶺、開原、法庫、西豊、昌図、伊通、梨樹、懐徳、
双 陽 、 長 春 の 北 部 地 方 の 10 県 、 復 、 蓋 平 、 荘 河 、 岫 巖 、 鳳 城 、 本 渓 、 海 城 、 安 東 、 営 口 、
遼 陽 、 遼 中 、 瀋 陽 、 関 東 州 の 南 部 地 方 の 12 県 1 州 、 合 計 22 県 1 州 で あ る 。 南 部 地 方 は 開
拓 の 歴 史 が 古 く 、 奉 天 (瀋 陽 )、 遼 陽 、 鉄 嶺 、 蓋 平 な ど の 歴 史 の 古 い 都 市 が 存 在 し た 。
日 露 戦 争 後 に 中 東 鉄 道 の 長 春 ~ 大 連 間 は 日 本 へ 譲 渡 さ れ 、1907 年 か ら 満 鉄 と し て 営 業 を
は じ め た (1)。 満 鉄 の 貨 物 輸 送 量 は 、 10 年 で は 約 337 万 ト ン で あ っ た が 、 29 年 に は 約 5 倍
の 約 2,136 万 ト ン 増 加 し て い た (表 3-1)。 貨 物 輸 送 の 内 訳 を 見 て み る と 、 農 産 物 と 石 炭 が
全 体 の 60-70% を 占 め て い た 。農 産 物 の な か で は 大 豆 が 50-70% を 占 め て お り 、満 鉄 は 大 豆
と石炭を輸送していたと指摘できる。それゆえ、大豆と石炭の状況により、満鉄の収益は
左 右 さ れ て い た [金 子 文 夫 1991、 108 頁 ]。 大 豆 の 輸 送 量 は 10 年 で は 60.6 万 ト ン で あ っ た
が 、 29 年 に は 299.1 万 ト ン に 達 し 、 1910-29 年 に か け て 増 加 し 続 け て い る 。
満鉄の開業により、大連、営口、安東の貿易港は鉄道により内陸部と接合し、対外貿易
と し て 発 展 し た 。な か で も 大 連 の 発 展 は 著 し か っ た 。大 連 は 1898 年 に ロ シ ア が 租 借 権 を 清
朝から獲得して都市建設をはじめる以前は、小村落に過ぎなかった。日露戦争後に日本が
ロ シ ア の 権 益 を 受 け 継 ぎ 、 貿 易 港 と し て の 拡 充 を お こ な っ た (2)。 人 口 は 1906 年 で は 約 3
万 人 で あ っ た が 、40 年 に は 約 66 万 人 に 増 加 し た (表 3-2)。人 口 だ け で な く 、貿 易 額 の 増 加
も 著 し か っ た 。 14 年 の 総 貿 易 額 は 約 9000 万 海 関 両 で あ っ た が 、 29 年 に は 4 倍 以 上 の 約 4
億 2000 万 海 関 両 に 増 え て い た (表 3-3)。大 連 貿 易 の 約 40% は 日 本 と の 貿 易 が 占 め 、関 内 と
の 交 易 は 20~ 30% で あ っ た こ と か ら 、日 本 と の 関 係 が 重 要 で あ っ た こ と を 示 し て い る 。こ
う し た 関 係 性 は 満 洲 国 期 に は よ り 顕 著 に な っ た 。満 洲 国 期 に は 日 本 と の 貿 易 は 50% 以 上 を
占 め て い る (表 3-4)。 と く に 関 内 か ら の 移 入 が 減 少 し て い る 点 が 目 に つ く 。
営 口 は 1858 年 の 天 津 条 約 に よ り 開 港 が 決 め ら れ 、条 約 上 で は「 牛 荘 」と 呼 ば れ た 。営 口
は 日 露 戦 争 ま で マ ン チ ュ リ ア 唯 一 の 貿 易 港 と し て 発 展 し 、1910 年 に は 人 口 は 5.5 万 人 に 達
154
し た (表 3-5)。 営 口 の 総 貿 易 額 も 増 加 し て お り 、 14 年 は 約 4700 万 海 関 両 で あ っ た が 、 31
年 に は 約 1 億 2600 万 海 関 両 へ と 約 2.6 倍 増 加 し た (表 3-6)。営 口 貿 易 の 特 徴 と し て 、関 内
と の 交 易 が 60-80% を 占 め て い る 点 を 指 摘 し た い 。 日 本 と の 貿 易 は 20% 前 後 で あ り 、 営 口
は関内との交易で栄えた港であった。そのため満洲国期になり関内との交易が難しくなる
と 、営 口 の 貿 易 額 は 減 少 し た 。32 年 の 総 貿 易 額 は 約 1 億 1000 万 国 幣 円 だ が 、37 年 に は 8600
万 国 幣 円 に 減 っ て い る (表 3-7)。
安東も日露戦争以前は鴨緑江流域で伐採された木材をあつかう小村落に過ぎなかった。
日露戦争後に貿易港となったこと、朝鮮と奉天を結ぶ鉄道の要地にあったことから人口は
増 え た 。 1917 年 で は 5.7 万 人 に な り 、 41 年 に は 約 31 万 に な っ て い た (表 3-8)。 安 東 の 対
外 貿 易 は 鉄 道 に よ る 陸 路 貿 易 が 多 く 、 60-70% は 陸 路 貿 易 が 占 め て い た (3)。 貿 易 動 向 は 対
日 貿 易 が 50% 前 後 を 占 め て お り 、 関 内 と の 交 易 は 15-30% で あ っ た (表 3-9)。 そ し て 満 洲
国 期 に な る と 営 口 と 同 様 に 関 内 と の 交 易 は 減 少 し て い た (表 3-10)。
大連や安東が貿易港として発展したことは、遼東半島にあった旧来の港湾に影響をおよ
ぼした。貔子窩、娘々宮、蓋平、大孤山は交易港として機能しており、山東半島と通商関
係 を 持 っ て い た [王 革 生 1990]。満 鉄 開 業 後 、山 東 半 島 か ら の 物 資 は 大 連 や 安 東 に 出 回 る よ
う に な り 、 旧 来 の 交 易 港 は 衰 退 し て し ま っ た (4)。
満鉄の営業開始後、大連、営口、安東の貿易額は増え、とくに大連の貿易額は増えてい
た。鉄道開業により、大連は小村落からマンチュリア第一の主要貿易港に成長した。鉄道
によりマンチュリア内陸部と結びついたことこそ、大連が貿易港として成長した主因であ
ったと指摘できよう。
(1)満 鉄 に つ い て は 、安 藤 彦 太 郎 編 [1965]、原 田 勝 正 [1981、2007]、蘇 崇 民 [1990]、加 藤 聖
文 [2006]な ど を 参 照 。
(2)満 鉄 調 査 課 『 露 国 占 領 前 後 ニ 於 ケ ル 大 連 及 旅 順 』 1911
3-7 頁 。
(3)満 鉄 商 工 課 『 南 満 洲 主 要 都 市 と 其 背 後 地 』 第 1 輯 第 1 巻 、 1927
(4)満 鉄 運 輸 課『 駅 勢 一 班 』1 、1913
地 』 第 1 輯 第 2 巻 、 1927
110-111 頁 。
155-156 頁 。満 鉄 商 工 課『 南 満 洲 主 要 都 市 と 其 背 後
50、 72、 84 頁 。
②通商ルートの変化
満 鉄 開 業 以 前 の マ ン チ ュ リ ア 南 部 の 通 商 は 、陸 路 と 遼 河 の 水 運 に よ り お こ な わ れ て い た 。
と く に 交 易 港 の 営 口 へ の 輸 送 に は 遼 河 が 使 わ れ た (1)。し か し 、満 鉄 開 業 後 で は 鉄 道 に よ り
物資は輸送されるようになり、鉄道駅が商業中心地として発展をはじめた。このため、遼
河の水運に依存していた商業中心地は大きな影響を受けた。鉄道開業後に衰退した商業中
心地としては、鉄嶺と遼陽をあげることができる。
鉄嶺は遼河の水運を通じて、営口と深い商業関係を持っていた。近隣で生産された大豆
は鉄嶺に集散され、遼河により営口まで運ばれた。ところが鉄道開業後、大豆は鉄道によ
り 大 連 ま で 輸 送 さ れ る よ う に な り 、近 隣 の 大 豆 は 開 原 駅 に 集 散 す る よ う に な っ た (2)。鉄 道
開業後に開原が商業中心地として発達したが、鉄嶺に出回る大豆は増加していたとはいえ
な い が 、大 き く 減 少 も し て い な い (表 3-11)。そ の 理 由 と し て 、鉄 嶺 の 中 国 人 商 人 は 古 く か
ら の 取 引 関 係 を 利 用 し て 、鉄 道 開 業 後 も 大 豆 取 引 に 関 与 し て い た こ と が 指 摘 で き る (3)。ま
155
た、遼河の水運がまったく利用されなくなったわけではなかった。水運は運賃が鉄道より
安 か っ た こ と か ら 、 水 運 が 選 択 さ れ る こ と も あ っ た (4)。
遼陽は太子河を利用した水運により営口と結びつき、商業中心地として繁栄していた。
遼陽の商圏は、太子河上流の本渓湖、堿廠方面を主としており、遠くは長春、吉林にまで
お よ ん だ (5)。 し か し 満 鉄 開 業 後 、 従 来 遼 陽 に 出 回 っ て い た 物 資 は 近 隣 各 駅 (煙 台 、 立 山 な
ど )に 集 散 さ れ る よ う に な っ た (6)。 さ ら に 安 奉 線 の 開 業 後 は 、 堿 廠 方 面 は 安 東 の 商 圏 と な
っ て し ま い 、遼 陽 の 商 圏 は 縮 小 し た (7)。満 鉄 開 業 後 で も 水 運 に よ る 営 口 と の 取 引 は 、運 賃
的には水運より安かったので消滅はしなかったが減少していた。そして、遼陽は営口より
も 大 連 と の 取 引 を 増 や し 、 大 連 と の 結 び つ き を 強 め て い た (8)。
満鉄開業後、遼河流域に存在した商業中心地も影響を受けていた。馬蜂溝は鉄嶺を経由
す る 物 資 の 積 み 出 し 地 と し て 栄 え た が 、1915 年 の 日 本 の 領 事 報 告 は 衰 退 の 傾 向 が 強 い と 報
告 し て い る (9)。 ま た 遼 河 流 域 の 商 業 中 心 地 で あ っ た 通 江 口 や 三 江 口 の 動 向 も 、 09 年 に は
衰 退 の 兆 し が 見 え る と 報 告 さ れ て い た (10)。 遼 河 流 域 の 商 業 中 心 地 は 衰 退 し て い た が 、 遼
河 の 水 運 は 消 滅 し た わ け で は な く 、 10 年 代 で は 10 万 ト ン 前 後 の 大 豆 が 水 運 に よ り 営 口 へ
輸 送 さ れ て い た (表 3-12)。営 口 に 出 回 る 大 豆 の 経 路 別 数 量 の 内 訳 を 見 る と 、20 年 代 前 半 ま
で 遼 河 経 由 は 全 体 の 30~ 50% を 占 め て い る (表 3-13)。減 少 し た と は い え 、遼 河 は 重 要 な 輸
送 路 で あ っ た と 指 摘 で き よ う 。し か し な が ら 、30 年 代 に な る と 遼 河 水 運 の 衰 退 は 歴 然 で あ
り、その歴史的役割は終了した。
陸路の通商ルートに位置して栄えた商業中心地のなかでも、満鉄から距離のあった商業
中心地は衰退していた。法庫門は内モンゴルとの通商ルートにあったので、往来する馬車
は 多 か っ た (11)。 し か し 満 鉄 沿 線 に は 位 置 し な か っ た の で 、 満 鉄 開 業 後 は 鉄 嶺 に 物 資 は 吸
収され、法庫門を経由しなくなった。それゆえ法庫門の商圏は、法庫県と康平県に縮小し
て し ま っ た (12)。 ま た 満 鉄 沿 線 に 位 置 し な い 伊 通 や 梨 樹 の 商 圏 も 、 公 主 嶺 や 四 平 街 に 奪 わ
れ て し ま い 、 商 業 中 心 地 と し て の 機 能 は 低 下 し て い た (13)。
以上から、水運に依存していた商業中心地、満鉄沿線から距離のあった商業中心地は、
満鉄開業後にその商業は衰退していたことが指摘できよう。
満鉄開業により商業的に発展した都市もあった。とくに大豆の集散地となった沿線都市
は 、 満 鉄 開 業 後 に 大 き く 成 長 し た 。 長 春 は 19 世 紀 以 来 の 商 業 中 心 地 で あ っ た だ け で な く
(14)、中 東 鉄 道 と の 接 続 駅 に も な っ た こ と か ら 、発 送 す る 大 豆 の 数 量 は 1920 年 ま で は 沿 線
で 最 も 多 か っ た (表 3-14)。12 年 に は 吉 長 鉄 道 (吉 林 ~ 長 春 )が 開 通 し 、交 通 の 要 所 と し て の
役 割 を 高 め て お り 、 人 口 も 20 年 代 に は 10 万 人 を こ え て い た (表 3-15)。 長 春 は 「 豆 の 都 」
と 称 さ れ る ま で 、出 回 る 大 豆 は 多 か っ た (15)。し か し 22 年 に 中 東 鉄 道 と の 間 に「 連 絡 大 豆
混合保管に関する協定」が結ばれたことから、中東鉄道により輸送された大豆は長春では
積 み 下 ろ さ れ ず 、通 過 す る こ と に な っ た (16)。ま た 20 年 代 に は 吉 長 鉄 道 に よ る 輸 送 さ れ る
大 豆 も 長 春 を 通 過 す る こ と に な り 、長 春 の 大 豆 市 場 と し て の 機 能 は 低 下 し て し ま っ た (17)。
満 鉄 開 業 後 に 大 量 の 大 豆 を 発 送 し は じ め 、商 業 中 心 地 と な っ た 都 市 と し て 開 原 、公 主 嶺 、
四 平 街 が あ げ ら れ る 。満 鉄 開 原 駅 は 開 原 城 か ら は 10 キ ロ ほ ど 離 れ て お り 、満 鉄 開 業 以 前 は
一寒村にすぎなかった。ところが、満鉄開業後にこれまで鉄嶺に搬出さていた大豆が出回
り 、 大 豆 取 引 の 商 業 中 心 地 と な っ た (18)。 公 主 嶺 は 満 鉄 開 業 後 、 伊 通 県 や 梨 樹 県 の 物 資 を
156
吸 収 し て 商 業 中 心 地 に な っ た (19)。四 平 街 も 満 鉄 開 業 後 に 商 業 中 心 地 と な っ た 。1917 年 に
は 四 鄭 鉄 道 (四 平 街 ~ 鄭 家 屯 )の 起 点 駅 に な り 、そ の 後 四 洮 線 (四 平 街 ~ 洮 南 )、洮 昻 線 (洮 南
~ 昻 昻 渓 )が 開 通 し た こ と か ら 、 よ り 商 業 中 心 地 と し て の 機 能 を 高 め て い た (20)。
奉 天 は 政 治 の 中 心 地 と し て 発 展 し 、 1905 年 の 人 口 は 18 万 人 に 達 し て い た (表 16)。 こ の
た め 居 住 者 が 消 費 す る 物 資 が 多 く 、奉 天 駅 に は 大 連 に 次 ぐ 大 量 の 物 資 が 到 着 し て い た (21)。
奉天は農産物の発送地としての機能は低かったが、輸移入品の消費地として重要であり、
満鉄開業後も商業中心地として栄えた。
満 鉄 沿 線 の 各 駅 の 特 徴 を 類 型 化 す る と 、① 旧 来 の 都 市 と 満 鉄 付 属 地 が 隣 接 す る 駅( 奉 天 、
長 春 、 遼 陽 、 鉄 嶺 )、 ② 旧 来 の 都 市 と 満 鉄 付 属 地 が 離 れ て い た 駅 (開 原 、 四 平 街 、 昌 図 、 蓋
平 、海 城 )、③ 満 鉄 開 業 以 前 で は 都 市 は な か っ た 駅 (公 主 嶺 、普 蘭 店 )の 三 種 類 に 分 け る こ と
ができる。②の類型では、旧来の都市は満鉄付属地の発展により商業的機能が奪われてし
まい、旧来の都市は衰退してしまった。たとえば、開原城は満鉄開業後に付属地に物資は
奪われ、商業中心地としての機能は低下していた。しかし満鉄沿線に位置すれば必ず商業
中 心 地 と し て 発 展 し て い た わ け で は な く 、既 述 し た 鉄 嶺 、遼 陽 の 事 例 も 存 在 し た 。つ ま り 、
その駅をめぐる交通路、後背地の状況により、商業的に発展する駅と必ずしも発展しない
駅があったと指摘できよう。
満 鉄 開 業 後 に 満 鉄 を 基 軸 と し た 通 商 ル ー ト が 形 成 さ れ た が 、1920 年 代 後 半 以 降 、新 た な
鉄 道 が 開 業 し た こ と か ら 、通 商 ル ー ト は さ ら に 変 化 し た 。27 年 に 瀋 海 鉄 道 (奉 天 ~ 海 龍 )が
開業すると、それまで開原に搬出され満鉄で輸送された大豆は、瀋海線による輸送される
よ う に な っ た (22)。 こ の た め 開 原 に 出 回 る 大 豆 は 減 少 し 、 特 産 商 も 買 い 付 け 地 を 瀋 海 線 沿
線 に 移 し た こ と か ら 、 開 原 の 大 豆 市 場 と し て の 機 能 は 低 下 し た (23)。 29 年 に 吉 海 線 (吉 林
~ 海 龍 )が 開 業 す る と 、そ れ ま で 公 主 嶺 に 出 回 っ た 大 豆 は 吉 海 線 沿 線 に 吸 収 さ れ 、公 主 嶺 に
搬 出 さ れ る 数 量 は 減 少 し た (24)。
1920 年 代 後 半 の 瀋 海 鉄 道 な ど の 新 線 開 業 に よ り 、こ れ ま で 満 鉄 が 輸 送 し て い た 貨 物 が 新
線 に よ り 輸 送 さ れ る よ う に な っ た が 、新 線 に よ る 輸 送 量 は 大 き な も の で は な か っ た [金 子 文
夫 1991、
430-439 頁 ]。新 線 に よ り 輸 送 さ れ た 貨 物 も 、最 終 的 に は 大 連 や 営 口 に 運 ば れ て
いた。張学良政権はこの点を打開するため、営口河北駅の改良、埠頭、倉庫の新設をおこ
な っ て 貨 物 の 受 け 入 れ 能 力 を 高 め る 試 み を し て い た (25)。30 年 に は 営 口 河 北 駅 に 到 着 し た
貨 物 は 、前 年 の 18 万 ト ン の 2 倍 以 上 の 37.1 万 ト ン に 達 し た (表 3-17)。と は い え 、貨 物 の
発着総数量では満鉄営口駅の半分にも達していない。新線開業は通商ルートを変化させて
いたとはいえ、新線は満鉄に代わるほどの輸送能力はなかったとまとめられよう。
以上の考察から、満鉄開業後に満鉄を基軸とする通商ルートが形成され、従来の水運、
陸 運 は 衰 退 し 、商 業 中 心 地 は 満 鉄 沿 線 に 移 動 し た こ と が 明 ら か に な っ た 。そ し て 1920 年 代
後 半 の 新 線 開 業 に よ り 通 商 ル ー ト は 変 化 し 、貨 物 輸 送 に お け る 満 鉄 へ の 依 存 度 は 低 下 し た 。
しかし、最終的な積み出し港には大連が利用されたので、満鉄をまったく利用せずに貨物
の輸移出入をおこなうことは難しかったとまとめられる。
(1)ク ラ ツ セ ン 「 鉄 道 敷 設 以 前 に 於 け る 満 洲 の 交 通 及 び 経 済 地 理 的 状 態 」『 東 亜 経 済 研 究 』
18-3、 1934
(2)「 鉄 嶺 四 十 一 年 中 貿 易 事 情 」『 通 商 彙 簒 』 54、 1909
157
(3)外 務 省 通 商 局 『 満 洲 事 情
第 三 輯 (第 二 回 )』 1921
(4)満 鉄 調 査 課 『 南 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 3 、 1910
11 頁 。
11-13 頁 。
(5)「 遼 陽 状 況 一 班 」『 農 商 務 省 商 工 局 臨 時 報 告 』 10、 1904
(6)「 南 満 洲 鉄 道 沿 線 各 地 経 済 事 情 」『 満 蒙 経 済 事 情 』 11
(7)満 鉄 調 査 課 『 本 渓 湖 、 堿 廠 間 経 済 調 査 資 料 』 1915
1917
116 頁 。
23-24 頁 。
(8)『 南 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 1 、 16 頁 。「 遼 陽 旧 歳 末 商 況 」『 通 商 公 報 』 5 、 1913
(9)「 馬 蜂 溝 水 運 状 況 」『 通 商 公 報 』 210、 1915
(10)「 遼 河 水 運 事 情 」『 通 商 彙 簒 』 42、 1909
(11)外 務 省 『 南 満 洲 ニ 於 ケ ル 商 業 』 1907
499 頁 。
(12)「 奉 天 省 法 庫 県 事 情 」『 通 商 公 報 』 6 、 1913。「 奉 天 省 法 庫 、 康 平 両 県 下 に 於 け る 産 業
現 況 」『 海 外 経 済 事 情 』 24、 1938。
(13)「 吉 林 省 伊 通 県 事 情 」
『 通 商 公 報 』393、1916。満 鉄 調 査 課『 南 満 洲 経 済 調 査 資 料 』5 、
1910
19 頁 。
(14)「 長 春 状 況 一 班 」『 通 商 彙 簒 』 47、 1910
(15)「 長 春 時 代 の 回 顧 」『 新 京 商 工 月 報 』 2-14、 1939
(16)満 鉄 鉄 道 部 『 混 保 十 五 年 史 』 1936
43-48 頁 。
(17)「 南 満 の 北 端 長 春 の 貿 易 (二 )」『 調 査 彙 報 (長 春 商 業 会 議 所 )』 4-9、 1925
(18)「 開 原 に 於 け る 大 豆 取 引 概 況 」『 通 商 公 報 』 193、 1915
(19)公 主 嶺 経 済 調 査 会 『 公 主 嶺 地 方 経 済 事 情 』 1932
1-3 頁 。
(20)横 浜 正 金 銀 行 調 査 課 『 斉 克 、 四 洮 、 洮 * 鉄 道 沿 線 経 済 事 情 』 1932
(21)満 鉄 経 済 調 査 会 『 満 洲 交 通 統 計 集 成 』 1935
57-58 頁 。
34-35 頁 。
(22)「 開 原 地 方 旧 年 末 商 況 」『 日 刊 海 外 商 報 』 1102、 1928
(23)「 鉄 嶺 及 開 原 地 方 昭 和 五 年 末 経 済 界 状 況 」『 海 外 経 済 事 情 』 7 、 1931
(24)「 中 満 農 村 に 於 け る 国 内 市 場 発 展 の 一 考 察 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 17-1、 1937
(25)営 口 商 業 会 議 所 『 営 口 港 、 遼 河 の 水 運 』 1932
16-17 頁 。
③農業生産の変化
満鉄沿線は自然条件的に農業生産に適しており、可耕地の比率が高かった。総面積 に占
め る 可 耕 地 の 割 合 は 48.2%で あ っ た (表 3-18)。 ま た 、 開 拓 の 歴 史 が 古 く 、 開 墾 が 進 展 し て
お り 、可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 は 84.1% で あ り 、ほ と ん ど の 既 耕 地 が 開 墾 さ れ て い た 。
1930 年 の 時 点 で 沿 線 22 県 の う ち 、 可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 が 90% を こ え て い る 県 は
8 県 、80% を こ え て い る 県 は 10 県 あ る 。も っ と も 、安 奉 線 沿 線 や 遼 東 半 島 は 山 岳 地 帯 が 多
く 、本 渓 県 や 岫 巖 県 の 総 面 積 に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 17% に す ぎ ず 、農 業 生 産 に 不 適 当 な
場 所 も あ っ た 。 人 口 密 度 も 高 く 、 沿 線 の 人 口 密 度 は 136 人 で あ り 、 京 奉 鉄 道 沿 線 に 次 ぐ 密
度であった。
次に、農業生産の動向について見てみたい。満鉄沿線地域は南北に長く、北部と南部で
は 農 業 条 件 が 相 違 し た の で 、「 地 域 概 略 」 の 冒 頭 で 示 し た 南 北 の 区 分 し 従 っ て 考 察 す る (表
3-19)。 北 部 は 南 部 よ り 可 耕 地 が 多 く 、 人 口 も 少 な か っ た 。 作 付 面 積 は 北 部 、 南 部 と も に
1932 年 ま で は 大 き な 増 減 を し て い な く 、以 後 や や 増 加 し て い る 。農 業 生 産 量 で は 、コ ー リ
158
ャンの生産量が大豆を凌いでいること、小麦は減少していたことを示している。大豆生産
の動向は南北で違い、南部は減少しているが、北部は微増している。総じて、満鉄沿線の
農業生産は変化が少なく、停滞的な傾向を示している。とくに南部に停滞的な傾向は著し
く 、 作 付 歩 合 は 1910 年 か ら 41 年 に か け て 、 ほ と ん ど 変 化 し な か っ た (表 3-20)。 例 え ば 、
荘河県金廠屯の作付歩合は親子三代の間変化しなかったと、満洲国期の農村調査報告書は
記 述 し て い る (1)。
満鉄沿線の農業生産の特徴として、商品作物として大豆だけが選択されていたわけでは
なかった点が指摘できる。蓋平県では満鉄開業後に商品作物として、落花生、果樹の生産
が 増 加 し て い た (2)。関 東 州 で も 大 豆 の 生 産 は 増 え ず 、商 品 作 物 は 落 花 生 、果 樹 が 選 択 さ れ
て い た [松 本 俊 郎 1988、 pp.122-124]。
満鉄沿線には未耕地はほとんどなかったので、増大した人口を農業が吸収することは難
し か っ た 。そ れ ゆ え 、新 開 地 を 求 め て 中 東 鉄 道 沿 線 に 移 住 す る 農 民 や (3)、大 連 や 奉 天 で 労
働 者 と し て 働 く た め に 出 稼 ぎ に 行 く こ と で 、 人 口 圧 力 を 緩 和 し て い た (4)。
以上の考察から、満鉄により輸送される大豆は増えていたが、満鉄沿線地域の農業生産
は停滞的な動向を示していたことが明らかになった。満鉄が輸送した大豆は、以前は水運
や 馬 車 に よ り 搬 出 さ れ て い た 大 豆 や 1920 年 代 以 降 は 中 東 鉄 路 か ら の 連 絡 運 輸 に よ り 運 ば
れた大豆であったと考えられる。満鉄は沿線の農産物搬出経路には影響をおよぼしたが、
農業生産動向にはあまり影響はおよぼしていなかったと指摘できよう。
(1)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局 調 査 部 第 一 科『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
県 荘 河 県 』 1936
131 頁 。
(2)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局 調 査 部 第 一 科『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
省 蓋 平 県 』 1936
康徳三年度-安東
康徳三年度-奉天
12-19 頁 。
(3)マ ン チ ュ リ ア 内 部 の 人 口 移 動 を 数 量 的 に 検 証 す る こ と は 難 し い が 、 京 浜 線 (新 京 ~ ハ ル
ビ ン )経 由 の 移 住 者 の 内 、 66% が 南 部 か ら の 移 住 者 で あ っ た と 1936 年 の 調 査 は 集 計 し て
い る (満 鉄 北 満 経 済 調 査 書 『 京 浜 線 経 由 漢 人 移 民 調 査 報 告 』 1936
14-18 頁 )。 ま た 満 洲
国期の農村調査では、北部の住民の大半は一時南部に居住し、それから北部に移住して
き た 人 が 多 い と 報 告 し て い る (『 農 村 実 態 調 査 報 告 書 』9 、龍 渓 書 舎
1989 復 刻
39-45
頁 )。
(4)前 掲 『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
康 徳 三 年 度 - 奉 天 省 蓋 平 県 』 196 頁 。
④金融状況の変化
満鉄開業以前において流通していた通貨は銀両・銀貨と制銭であった。だが、商業取引
はバーター的な取引が多かったこと、市場の規模も大きくなかったことから、通貨の流通
量 は 少 な か っ た (1)。し か し 満 鉄 開 業 後 に 商 業 活 動 が 拡 大 し た こ と か ら 、通 貨 の 流 通 量 は 膨
張した。満鉄沿線のほとんどは奉天省に属したので、以下では奉天省の金融状況について
検討してみたい。
奉天での日常取引は、日露戦争以前では制銭が使われており、物価の建値も制銭建であ
っ た 。 銀 貨 に よ る 取 引 は 、 制 銭 に 換 算 さ れ て お こ な わ れ た (2)。 日 露 戦 争 後 の 1905 年 12
月 に 盛 京 将 軍 の 趙 爾 巽 は 奉 天 官 銀 号 を 設 立 し (08 年 に 東 三 省 官 銀 号 と 改 称 )、小 洋 銀 を 基 礎
159
とした小洋票の発行をはじめた。そして私帖の発行禁止、抹兌銀取引の禁止を表明し、金
融 安 定 化 、幣 制 統 一 を 目 指 し た 。だ が 、そ の 成 果 は は か ば か し い も の で は な か っ た (3)。奉
天 官 銀 号 の 設 立 に 続 き 、07 年 に 大 清 銀 行 奉 天 分 行 (13 年 に 中 国 銀 行 奉 天 分 行 に な る )が 、10
年 に 交 通 銀 行 奉 天 分 行 が 設 立 さ れ 、 そ れ ぞ れ が 紙 幣 を 発 行 し た (4)。
日露戦争後、奉天では小洋銀を基礎とした小洋票の流通が拡大し、商業取引は紙幣であ
る小洋票が使われた。だが関内に流出する小洋銀は多く、小洋票の相場は動揺を繰り返し
た 。そ の 一 方 で 日 本 資 本 の 銀 行 が 設 立 さ れ 、紙 幣 を 発 行 し た 。1908 年 に 横 浜 正 金 銀 行 支 店
が 開 設 さ れ 、軍 票 の 回 収 に あ た る と と も に 鈔 票 の 発 行 を お こ な っ た 。1913 年 に は 朝 鮮 銀 行
支 店 が 開 設 さ れ 、朝 鮮 銀 行 券 (金 票 )の 発 行 を お こ な っ た [金 子 文 夫 1991、3 章 、6 章 ]。も
っとも、鈔票や金票は主に為替、貿易金融に使われ、日本人以外が日常取引で使うことは
ほとんどなかった。
中華民国期になると小洋銀の流出は激しくなり、小洋票の流通量も増えたことから、銀
貨と紙幣の相場に差が生じてしまった。このため、紙幣の小洋票を銀貨に兌換して、小洋
票 相 場 の 下 落 に 対 処 し よ う と す る 兌 換 請 求 が 発 生 し た 。 奉 天 で の 兌 換 請 求 は 1911 年 、 13
年 に 発 生 し た が 、こ の 時 は 一 時 的 な も の で あ っ た 。し か し 14 年 4 月 に は 大 規 模 な 兌 換 請 求
が 発 生 し 、 多 数 の 兌 換 請 求 者 が 銀 行 に 殺 到 し 、 金 融 状 況 は 混 乱 し た (5)。
1916 年 4 月 に 奉 天 省 の 権 力 を 掌 握 し た 張 作 霖 は 、金 融 安 定 化 の た め の 対 策 を 講 じ た 。同
年5月におこなわれた袁世凱による帝政復活をめぐる紛糾を契機として、中国銀行、交通
銀行は現銀の支払停止令を出した。この影響は奉天にも波及し、兌換請求が復活した。こ
の時張作霖政権は、金融安定化のために二つの対策を講じた。第一には、朝鮮銀行に借款
を 求 め 、金 融 安 定 化 の た め の 資 金 を 確 保 し た (6)。第 二 に 、小 洋 票 を 回 収 し て 新 た に 大 洋 銀
を 基 礎 と し た 大 洋 票 を 発 行 し 、大 洋 銀 本 位 制 に よ る 金 融 安 定 化 を 試 み た (7)。し か し な が ら 、
予想以上に小洋票に対する人々の執着は強く、大洋票の流通は拡大しなかった。
1917 年 12 月 に 張 作 霖 政 権 は 滙 兌 券 と い う 紙 幣 を 発 行 し 、 金 融 の 安 定 化 を 試 み た 。 滙 兌
券は大洋票と同様に流通すると規定されていたが、大洋票が兌換紙幣であったのに対して
滙兌券は不換紙幣であった。滙兌券は北京と天津の東三省官銀号の営業所において、上海
へ為替送金する際には、額面相当の上海規銀為替を交付するという、特殊な規定にもとづ
い て 発 行 さ れ て い た (8)。実 際 に は 、北 京 や 天 津 に 赴 い て 兌 換 す る 人 は い な い こ と を 想 定 し
て発行していた。滙兌券発行の目的は、第一には奉天での兌換請求を回避すること、第二
には上海規銀とリンクすることで相場の安定化はかることにあった。滙兌券は、その後奉
天票と一般的には呼ばれた。
第一次世界大戦によるマンチュリア経済の活況は滙兌券の流通を促進し、さらには世界
的な銀価の高騰にも助けられ、滙兌券の流通範囲は拡大した。張作霖政権は滙兌券による
金 融 安 定 化 を 確 固 な も の と す る た め 、1919 年 4 月 に 中 国 銀 行 、交 通 銀 行 が 発 行 す る 大 洋 票
の 兌 換 義 務 を 剥 奪 し 、 滙 兌 券 と 同 性 質 の 紙 幣 へ と 変 更 さ せ た (9)。 そ し て 20 年 9 月 に 「 査
禁 私 帖 考 成 弁 法 」を 制 定 し て 、奉 天 省 各 地 に 流 通 す る 私 帖 の 禁 止 を 徹 底 さ せ た [海 放 1986] 。
こ う し た 結 果 、 20 年 代 の 奉 天 で は 制 銭 も 銀 貨 も 流 通 せ ず 、 日 常 取 引 は 滙 兌 券 (以 下 、 奉 天
票 )に よ り お こ な わ れ た (10)。
奉 天 票 は 1920 年 代 に 奉 天 省 の 中 核 的 な 紙 幣 と な り 、奉 天 省 内 の 金 融 状 況 を 安 定 化 す る 役
160
割 を 果 た し て い た (11)。 し か し な が ら 基 本 的 に は 不 換 紙 幣 で あ り 、 張 作 霖 政 権 が 発 行 す る
信用証券ともみなせる紙幣であった。したがって、その相場動向には経済的要因だけでな
く 、張 作 霖 政 権 の 政 治 的 状 況 に よ る 影 響 も 受 け ざ る を 得 な か っ た 。20 年 代 に 張 作 霖 は 中 央
政 界 へ の 進 出 を も く ろ み 、 22 年 に 第 一 次 奉 直 戦 争 、 24 年 に 第 二 次 奉 直 戦 争 を 戦 い 、 25 年
には郭松齢の反乱を鎮圧するなど、軍事行動を繰り返した。これらの軍事行動のたびに奉
天票は騰落した。そして戦闘遂行や武器購入のために奉天票は乱発され、その価値は下落
し た 。25 年 後 半 以 降 、奉 天 票 の 下 落 は 激 し く な り 、そ の 後 は と ど ま る と こ ろ を 知 ら な か の
如く下落していった。
下 落 を 続 け る 奉 天 票 に 代 わ る 通 貨 の 創 出 が 求 め ら れ 、1929 年 5 月 に 東 三 省 官 銀 号 、辺 業
銀行、中国銀行、交通銀行は遼寧四行号連合発行準備庫を組織して現大洋票の発行を開始
した。現大洋票は奉天票に代わって流通を拡大し、奉天票下落によるインフレは終息へと
向 か っ た [西 村 成 雄 1992]。 30 年 7 月 に 東 三 省 官 銀 号 は 単 独 で 現 大 洋 票 の 発 行 を お こ な い 、
遼寧四行号連合発行準備庫に頼らずに現大洋票の相場維持をしていくことをはじめた。同
年8月には奉天取引所での奉天票の上場はとりやめられ、奉天票は市場から姿を消してい
っ た (12)。 奉 天 省 で は 奉 天 票 に 代 わ っ て 現 大 洋 票 が 中 核 的 な 紙 幣 と な る な か 、 満 洲 事 変 を
迎えた。
以 上 の 考 察 か ら 奉 天 省 に 属 し た 満 鉄 沿 線 で は 、1920 年 代 前 半 に 奉 天 票 に よ り 幣 制 統 一 が
進 展 し 、奉 天 票 の 下 落 後 で は 現 大 洋 票 に よ る 幣 制 統 一 が 進 ん で い た こ と が 明 ら か に な っ た 。
鉄道開業により沿線経済の規模が拡大して通貨需要が高まったにもかかわらず、マンチュ
リアでは現銀の保有量を増やすことは難しかったので、兌換紙幣の価値を維持していくこ
とは容易ではなかった。こうした難点を突破したのが奉天票であり、幣制統一をすすめた
張作霖・張学良政権の金融政策はもっと評価される内容を持っていたと指摘したい。
(1)前 掲 『 南 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 2
13 頁 。
(2)「 牛 荘 貿 易 ニ 関 ス ル 奉 天 府 観 察 ノ 一 班 」『 農 商 務 省 商 工 局 臨 時 報 告 』 明 治 33 年 20 冊 、
1900
7頁。
(3)関 東 都 督 府 『 趙 将 軍 の 財 政 々 策 ト 奉 天 ノ 恐 慌 』 1907
4章、6章。
(4)南 郷 龍 音 『 奉 天 票 と 東 三 省 の 金 融 』 満 鉄 庶 務 部 調 査 課 、 1926
(5)朝 鮮 銀 行 調 査 局 『 奉 天 支 那 銀 行 兌 換 問 題 沿 革 』 1917
(6)『 朝 鮮 銀 行 史 』 東 洋 経 済 新 報 社 、 1987
(7)前 掲 南 郷 龍 音
6-10 頁 。
157-189 頁 。
65-66 頁 。
(8)三 菱 合 資 会 社 資 料 課 『 奉 天 票 に 就 て 』 1926
(9)前 掲 南 郷 龍 音
4-6、 22-42 頁 。
5-7 頁 。
100-101 頁 。
(10) China, Imperial Maritime Customs, Decennial Report,1922-31 ,Shenyang
(11)奉 天 票 は「 悪 貨 の 代 名 詞 」な ど と 評 さ れ る こ と も あ っ た が 、こ う し た 評 価 は 1925 年 以
降 に 激 し く 下 落 し た こ と に 起 因 し て い る 。1920 年 代 前 半 で は 奉 天 票 の 価 値 は 安 定 し て お
り、奉天省内の金融の安定化をもたらしていた。奉天票による幣制改革が成功した側面
を 評 価 し た 研 究 に は 、 Ronald Suleski[1979] 、 魏 福 祥 [1989]が あ る 。
(12)横 浜 正 金 銀 行 調 査 課 『 現 大 洋 票 に 就 て 』 1932
161
7-22 頁 。
3.京奉鉄道沿線地域の変化
①地域概略
京奉鉄道沿線として区分する場所は、綏中、興城、錦西、錦、義、盤山、北鎮、黒山、
台 安 、新 民 の 10 県 で あ る 。京 奉 鉄 道 沿 線 地 域 は 遼 河 の 西 側 に 位 置 し た こ と か ら 遼 西 と も 呼
ばれた。古くから中華王朝の勢力が及んでいたため、農業生産も古い歴史を持っていた。
行政単位が設置された歴史も古く、清朝以前にも様々な名称の府州が置かれた。清朝前期
に錦県、広寧県、義州、寧遠州が設置され、清末になるといくつかの県に分割された。
20 世 紀 初 頭 に 敷 設 さ れ た 京 奉 鉄 道 は 、遼 西 経 済 に 影 響 を お よ ぼ し て い た 。京 奉 鉄 道 は 開
平 炭 鉱 か ら 採 掘 さ れ る 石 炭 の 輸 送 の た め 、李 鴻 章 が 1879 年 に イ ギ リ ス 人 技 師 を 招 聘 し て 敷
設 し た こ と に 起 源 が あ る 。そ の 後 延 長 が お こ な わ れ 、1893 年 に は 山 海 関 ま で 、1903 年 に は
新 民 ま で 敷 設 さ れ た (1)。日 露 戦 争 中 に 日 本 軍 は 新 民 か ら 奉 天 ま で の 軍 用 軽 便 鉄 道 を 敷 設 し 、
奉 天 ま で 鉄 道 を 延 長 し た 。日 露 戦 争 後 の 07 年 に 清 朝 は 新 民 ~ 奉 天 間 の 軍 用 鉄 道 を 譲 り 受 け 、
その改築をおこない、北京~奉天間の直通列車の運行をはじめた。中華民国政府は民間所
有 の 株 式 の 償 還 に 努 め 、19 年 に そ の 償 還 を 果 た し 、以 後 京 奉 鉄 道 は 政 府 資 金 と 借 款 に よ り
運 営 さ れ る 「 借 款 官 弁 鉄 道 」 に な っ た (2)。
1920 年 代 に 張 作 霖 政 権 が 中 央 政 界 へ の 進 出 は 、 京 奉 鉄 道 に も 大 き な 影 響 を お よ ぼ し た 。
22 年 の 第 一 次 奉 直 戦 争 を 契 機 に 、張 作 霖 政 権 は 奉 天 ~ 山 海 関 の 管 轄 権 を 確 保 し た 。さ ら に
24 年 の 第 二 次 奉 直 戦 争 に 張 作 霖 が 勝 利 し た こ と か ら 、山 海 関 ~ 北 京 の 区 間 の 管 轄 権 も 獲 得
し 、北 京 ~ 奉 天 間 の 全 区 間 を 張 作 霖 政 権 は 管 轄 下 に 置 い た (3)。そ の 後 、蒋 介 石 政 権 は 全 中
国の鉄道を統一的に管理することを表明し、京奉鉄道の移管を張学良政権に働きかけた。
29 年 に 協 定 が 結 ば れ 、天 津 管 理 局 が 全 線 を 管 轄 す る こ と に な っ た 。そ し て 営 業 収 益 を 増 や
すため、打通線、瀋海線から発送された貨物には割引運賃を設定し、より多くの貨物を吸
収 し よ う と し て い た (4)。満 洲 国 成 立 後 、奉 天 ~ 山 海 関 は 満 洲 国 政 府 に 接 収 さ れ 、名 称 も 奉
山 鉄 道 と 改 称 し て 運 行 さ れ た (5)。
京 奉 鉄 道 の 収 入 内 訳 で 特 徴 的 な の は 、旅 客 収 入 の 比 率 が 40% 前 後 を 占 め て い る 点 で あ る
(表 4-1)。 こ れ は 収 入 の 70~ 80% を 貨 物 収 入 に 依 存 し て い た 満 鉄 や 中 東 鉄 道 と は 大 き く 相
違 し て い る 。 次 に 区 間 別 の 輸 送 状 況 に つ い て 見 て み た い 。 1929 年 の 区 間 別 の 輸 送 状 で は 、
旅 客 、 貨 物 と も に 天 津 ~ 山 海 関 の 輸 送 量 が 多 い こ と を 示 し て い る (表 4-2)。 主 要 な 貨 物 は
農産物ではなく、開平炭鉱の石炭が多数を占めていた。山海関~奉天間は京奉鉄道全体の
な か で は 、 そ の 重 要 性 は 劣 っ た 区 間 だ と 指 摘 で き よ う (6)。
(1)「 清 国 鉄 道 溝 帮 子 新 民 屯 間 ノ 仮 開 通 」『 通 商 彙 簒 』 改 56、 1903
(2)京 奉 鉄 道 の 概 略 に つ い て は 、 井 上 勇 一 [1989、 1 章 、 2 章 、 7 章 ]を 参 照 。
(3)「 京 奉 路 通 車 之 現 状 」『 申 報 』 1922 年 7 月 22 日 。「 京 奉 路 整 頓 後 之 状 況 」『 申 報 』 1925
年 7 月 11 日 。
(4)満 鉄 調 査 課 『 満 洲 政 治 経 済 事 情 - 昭 和 四 年 - 』 1929
(5)鉄 路 総 局 『 奉 山 鉄 路 沿 線 及 背 後 地 経 済 事 情 』 1934
237-240 頁 。
58 頁 。
(6)京 奉 鉄 道 の 輸 送 動 向 に つ い て は 、資 料 不 足 も あ り 全 面 的 な 検 証 は で き な か っ た 。宓 汝 成
[1980、485 頁 ]は 京 奉 鉄 路 管 理 局 編『 京 奉 鉄 路 報 告 冊 』1920-1928 年 各 年 版 を 利 用 し て 輸
送動向を検討しているが、筆者はこれを参照することはできなかった。奉天商業会議所
162
『 奉 天 経 済 統 計 年 報 』1922 年 班 版 以 降 に は 、満 鉄 へ の 連 絡 輸 送 量 を 含 め た 京 奉 鉄 道 の 運
輸統計が掲載されている。しかし、奉天駅での発着貨物数量だけである。
②通商ルートの変化
鉄道開業以前、京奉鉄道沿線は営口の商圏に属していた。しかしながら鉄道開業後は奉
天や天津の影響力がおよぶようになり、商圏が分断される事態が生じていた。錦州を境と
して、その以東は営口と奉天の商圏に、以西は営口と天津の商圏に属するようになった。
このため奉天から発送される商品は錦州までであり、錦州より以西に輸送されることはな
か っ た 。 そ の 逆 に 、 天 津 か ら 発 送 さ れ る 商 品 は 錦 州 以 東 に 運 ば れ る こ と は な か っ た (1)。
京奉鉄道沿線の商業中心地としては錦州と新民が大きかったので、以下ではこれら二都
市の通商ルートの変化について検討を加えたい。
錦州は内モンゴル、熱河方面からもたらされる羊毛、毛皮類の集散地であり、羊毛市場
と し て の 重 要 性 は ハ イ ラ ル に 劣 ら な か っ た (2)。ま た 、港 湾 と し て 西 海 口 を 有 し て い た こ と
か ら 、海 運 に よ る 山 東 半 島 、中 国 南 部 と の 交 易 も お こ な わ れ た (3)。内 モ ン ゴ ル か ら 中 国 南
部にまでおよんだ錦州の商圏は、営口開港と京奉鉄道の開業により大きな影響を受けた。
1861 年 に 営 口 が 開 港 す る と 、こ れ ま で 西 海 口 を 経 由 し た 物 資 は 営 口 に 向 か う よ う に な り 、
錦 州 の 商 圏 は 縮 小 を 余 儀 な く さ れ た (4)。京 奉 鉄 道 の 開 業 後 、営 口 の 影 響 力 は よ り 強 く お よ
ぶ よ う に な り 、錦 州 の 商 圏 は 営 口 に 蚕 食 さ れ る 状 況 が 生 じ た (5)。と は い え 、従 前 の 状 況 が
消滅したわけではなかった。例えば、西海口を出入りするジャンクは減少したとはいえ、
山 東 方 面 と の 交 易 で は 一 定 の 影 響 力 を 持 っ て い た (6)。具 体 的 な 輸 送 状 況 を 示 す 統 計 は ほ と
ん ど な い が 、 表 4-3 か ら は 満 洲 国 期 に お い て も 山 東 方 面 と の 交 易 は 存 続 し て い た こ と を 知
ることができる。また、京奉鉄道を利用して、より有利な市場に商品を発送していた。例
えば、毛皮類は天津へ移出、綿製品は営口から移入、コーリャンは天津へ移出、大豆は営
口 へ 移 出 す る と い う 対 応 を と っ て い た (7)
満洲国期になると、錦州には奉天の影響力が強くおよぶようになった。満洲国成立後、
営口は対関内貿易の不振から衰退し、天津方面からの交易は陸境関税が設定されたことか
ら減少し、錦州をめぐる商圏は以前とは異なる状況になった。そうしたなか京奉鉄道を通
じ た 奉 天 の 影 響 力 が 錦 州 に 拡 大 し た (8)。表 4-4 は 錦 州 に 集 散 し た 貨 物 の 発 着 数 量 を 示 し て
おり、到着数量では奉天経由は営口経由を凌駕している。他方、熱河方面への鉄道が敷設
さ れ 、錦 州 の 商 圏 は 熱 河 方 面 に 拡 大 し た 。1935 年 に は 錦 州 ~ 赤 峰 間 が 、37 年 に は 古 北 口 ま
で の 鉄 道 が 開 業 し 、 熱 河 方 面 の 物 資 が 錦 州 に 出 回 る よ う に な っ た (9)。 錦 州 の 人 口 は 09 年
で は 約 4.4 万 人 で あ っ た が 、 満 洲 国 期 に は 大 き く 増 加 し て 41 年 に は 14.7 万 人 に な っ て い
た (表 4-5)。
新民は遼河の水運により営口と結びつき、内モンゴル方面やマンチュリア北部へ中継さ
れ る 物 資 の 交 易 地 と し て 商 業 的 に 繁 栄 し た (10)。人 口 も 1860 年 代 に は 約 3 万 人 に 達 し て い
る と 観 察 さ れ て い た (11)。 京 奉 鉄 道 と 満 鉄 の 開 業 に よ り 、 新 民 の 商 圏 は 縮 小 し た 。 大 豆 の
集 散 量 は 1908 年 で は 39 万 石 で あ っ た が 、 28 年 に は 9.4 万 石 に 減 少 し て い る (表 4-6)。 商
業 中 心 地 と し て の 機 能 低 下 は 人 口 に も あ ら わ れ て お り 、09 年 で は 5.2 万 人 で 遼 西 第 一 の 都
市 で あ っ た が 、 20 年 代 以 降 は 3 万 人 台 を 推 移 し て い る (表 4-7)。
163
京奉鉄道開業後では、営口の影響力が減少し、奉天と鉄道で結ばれたことから、奉天の
影響力が強くなっていた。とはいえ、営口との関係は消滅していなかった。綿製品などの
日 本 製 品 は 奉 天 経 由 で 仕 入 れ ら れ 、 中 国 製 品 は 営 口 経 由 で 仕 入 れ ら れ て い た (12)。 農 産 物
の 搬 出 先 も 、1922 年 で は 奉 天 40%、営 口 40%、天 津 20%で あ り 、新 民 市 場 に と っ て 奉 天 市 場
と 営 口 市 場 は 相 互 補 完 的 な 関 係 に あ っ た (13)。
以上の検討から、錦州、新民は京奉鉄道開業の影響を受けて、商圏の縮小を余儀なくさ
れた。しかし、錦州は満洲国期に熱河方面と鉄道で結ばれたことにより、商圏は拡大し、
新たな発展を示した。新民は新たな商圏を獲得することができず、商業中心地の機能は発
展しなかった。また、主要な取引先は奉天、営口、熱河であり、大連の影響力は大きくは
な か っ た 点 も 特 徴 と し て 指 摘 で き る (14)。
(1)「 営 口 の 後 背 地 と し て の 遼 西 及 東 蒙 事 情 」『 営 口 商 業 会 議 所 月 報 』 63、 1925
(2)「 錦 州 毛 皮 及 羊 毛 集 散 状 況 」『 海 外 経 済 事 情 』 6 、 1928。「 錦 州 経 済 概 況 」『 海 外 経 済 事
情 』 14、 1938
(3)1833 年 に 錦 州 を 訪 れ た チ ャ ー ル ズ ・ グ ッ ズ ラ フ は 、 西 海 口 に は 多 数 の ジ ャ ン ク が 出 入
り す る 様 子 を 述 べ て い る (Chinese Repositry.vol.1 p.191)
(4)満 鉄 調 査 課 『 錦 州 府 管 内 経 済 調 査 資 料 』 1909
32 頁 。
(5)「 錦 州 経 済 事 情 (上 )」『 通 商 公 報 』 20、 1913
(6)「 西 海 口 及 其 付 近 事 情 」『 営 口 商 業 会 議 所 報 』 84、 1928
(7)「 錦 州 に 於 け る 商 業 貿 易 の 現 勢 」『 満 蒙 之 文 化 』 9 、 1921
(8)「 遼 西 及 北 支 貿 易 経 済 事 情 」『 海 外 経 済 事 情 』 16、 1936
(9)満 鉄 鉄 道 総 局 『 熱 河 諸 鉄 道 及 背 後 地 経 済 事 情 』 1939
300-304 頁 。
(10)『 新 民 県 志 』 巻 七 陸 路 。
(11)B.P.P.vol.8,Commercial Reports,Newchwang,1868 p.227
(12)関 東 軍 司 令 部 『 南 満 洲 主 要 都 市 経 済 状 態 』 下 、 1924
445-446 頁 。
(13)前 掲 「 営 口 の 後 背 地 と し て の 遼 西 及 東 蒙 事 情 」
(14)「 綏 中 県 の 産 業 経 済 と 其 の 将 来 性 」『 錦 州 省 経 済 季 報 』 1-2、 1941
③農業生産の変化
京奉鉄道沿線は開拓の歴史が古かったことから、人口が稠密で、既耕地のほとんどは耕
作 さ れ て い た 。1930 年 の 京 奉 鉄 道 沿 線 の 人 口 密 度 は 138 人 で あ り 、9 区 分 の な か で は 最 も
高 い 数 値 で あ る (表 4-8)。 可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 は 94.3% で あ り 、 新 た な 開 拓 の 余
地はないことを示している。
農業生産の動向で注目されるのは、コーリャンの生産が盛んであり、大豆の数倍の生産
量 で あ っ た 点 で あ る (表 4-9)。 コ ー リ ャ ン の 生 産 量 が 多 か っ た 理 由 と し て は 、 沿 線 の 人 口
が多かったため地場消費としてコーリャンの需要があったこと、京奉鉄道により奉 天、北
京などの大都市に通じていたので、都市への食糧供給を目的としたコーリャンのほうが大
豆 よ り も 採 算 的 に 有 利 で あ っ た こ と が 指 摘 さ れ て い る (1)。つ ま り 京 奉 鉄 道 沿 線 で は コ ー リ
ャンが商品作物として選択されていたのであった。作付歩合の動向からも、コーリャンが
第 一 で あ り 、 大 豆 は む し ろ 減 少 し て 、 コ ー リ ャ ン が 増 加 す る と い う 傾 向 を 示 し て い る (表
164
4-10)。
京奉鉄道沿線の農業生産は、沿線住民への食糧供給、鉄道によって結ばれた大都市への
食糧供給の需要があったことから、コーリャンの生産量が多かった。満鉄沿線や中東鉄道
沿線とは違い、大豆の生産、販売に依拠して地域経済は回っていなかった。それゆえ、い
わゆる「大豆経済」という枠組みではとらえきれない特徴を持つ経済構造が形成されてい
たと指摘できよう。また、開拓の歴史が古いことから、未耕地はほとんどなく、耕地面積
は微増にとどまった。このため農業経済の規模は拡大していなく、農業労働者の必要性も
低 か っ た (2)。 中 東 鉄 道 沿 線 で は 移 民 の 労 働 力 に 依 拠 し た 農 業 生 産 が お こ な わ れ て い た が 、
京奉鉄道沿線ではこうした農業生産はおこなわれていなかった。
(1)「 経 済 上 よ り 見 た る 奉 山 鉄 道 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 12-2、 1932
(2)産 業 部 農 務 司 『 農 村 実 態 調 査 報 告 書 (県 技 師 見 習 生 )康 徳 四 年 度 - 錦 州 省 綏 中 県 』 1937
59-62 頁 。
④金融状況の変化
京奉鉄道沿線は古くから都市が存在したこと、関内との交易がおこなわれたことから、
通貨の流通は比較的浸透していた。以下では、錦州と新民の状況を事例として検討してみ
たい。
錦州では制銭が日常取引では使われていた。だが高額取引の場合、大量の制銭を準備す
ることは不便なため、有力商家が発行する私帖が流通していた。清朝期では私帖の信用は
厚 く 、そ の 価 値 は 安 定 し て お り 、制 銭 に よ る 取 引 は む し ろ 嫌 わ れ た (1)。し か し 中 華 民 国 以
降、現銀の関内への流出は激しくなっただけでなく、制銭も溶解されたり、流出したこと
か ら 金 融 状 況 は 不 安 定 化 し た 。張 作 霖 政 権 は 1917 年 5 月 に 本 位 貨 を 小 洋 票 と す る こ と 、私
帖 の 回 収 、禁 止 を 表 明 し て 金 融 の 安 定 化 を は か っ た (2)。そ し て 、奉 天 票 に よ る 幣 制 統 一 を
推 進 し 、 20 年 代 の 錦 州 の 紙 幣 は ほ と ん ど が 奉 天 票 と な っ た (3)。 28 年 以 降 で は 暴 落 し た 奉
天票に代わり、現大洋票が流通を拡大すると、奉天と同様の状況を示していた。
錦州と営口との決済は逆為替でおこなわれていた。その理由は、錦州は常に営口に対し
て 入 超 で あ っ た こ と 、錦 州 か ら の 現 銀 の 搬 出 は 禁 止 さ れ て い た 点 に あ っ た (4)。し か し 、日
本人商人にはこうした決済は無理であったので、ルーブル紙幣を現送して決済していた。
ル ー ブ ル 紙 幣 は 1900 年 初 頭 に ロ シ ア 軍 が 駐 屯 し た こ と を 契 機 に 流 通 す る よ う に な り 、高 額
紙幣が多かったため現送に適していた。ルーブル紙幣の流通状況については、当時の調査
でも明らかにはできていなかった。だが、奉天、営口、遼西各都市、熱河をめぐる物流は
相互に関連していたことから、ルーブル紙幣もこられの場所を還流していたのではないか
と 推 測 さ れ て い た (5)。
新 民 で は 、20 世 紀 以 前 で は 制 銭 が 最 も 使 わ れ た 。と こ ろ が 義 和 団 事 件 以 後 、制 銭 は 流 出
し て 市 中 か ら 姿 を 消 し た た め 、私 帖 の 流 通 が 増 え た (6)。日 露 戦 争 後 に 商 業 取 引 は 増 大 し た
が 、制 銭 、銀 元 の 流 出 は 激 し く 、私 帖 に よ る 取 引 は 一 層 多 く な っ た (7)。私 帖 の 流 通 拡 大 を
問 題 視 し た 張 作 霖 政 権 は 1922 年 に 私 帖 の 発 行 を 禁 止 す る と と も に 、そ の 回 収 を 命 じ た (8)。
そして奉天票の流通をうながし、その後は奉天と同様に奉天票、現大洋票が使われた。
錦州、新民での私帖の流通増加は、現銀や制銭の流通量が増加しないにもかかわら ず、
165
物資流通、商業取引が増大して通貨需要が高まっていたことへの対応として生じていた現
象であった。増大する通貨需要を満たし、金融状況の安定化をはかる手段として私帖は発
行されたのであり、私帖の存在を以て、通貨制度の不統一性を強調することは一面的な理
解 で あ る (9)。 私 帖 は い つ ま で も 流 通 し た の で は な く 、 1920 年 代 以 降 は 奉 天 票 の 流 通 が 拡
大し、幣制は統一的な方向に向かっていた。奉天票による幣制統一までの過渡期として、
私帖は使用されたとみなすことができよう。
(1)前 掲 『 錦 州 府 管 内 経 済 調 査 資 料 』 8-9 頁 。
(2)「 錦 州 に 於 け る 通 貨 に 就 て 」『 通 商 公 報 』 514、 1918
(3)「 最 近 錦 州 事 情 」『 営 口 商 業 会 議 所 報 』 83、 1928
(4)「 錦 州 経 済 事 情 (下 )」『 通 商 公 報 』 21、 1913
(5)朝 鮮 銀 行 調 査 局 『 熱 河 蒙 古 地 方 ニ 関 ス ル 調 査 』 1917
95-99 頁 。
(6)『 新 民 県 志 』 巻 四 幣 制 。
(7)「 新 民 府 金 融 事 情 」『 通 商 彙 簒 』 7 、 1908
(8)「 新 民 府 に 於 け る 帖 子 流 通 禁 止 」『 通 商 公 報 』 941、 1922
(9)私 帖 の 得 失 を 検 討 し た 戦 前 の 論 説 と し て は 、「 満 洲 に 於 け る 私 帖 」『 日 刊 海 外 商 報 』 76、
1925 が 興 味 深 い (「 満 洲 に 於 け る 私 帖 」『 経 済 資 料 』 15-5・6、 1929 は 、『 日 刊 海 外 商 報 』
の 記 事 を 転 載 し た も の で あ る )。
4.奉吉・吉敦鉄道沿線地域の変化
①地域概略
奉吉・吉敦鉄道沿線として区分する場所は、永吉、舒蘭、額穆、敦化、樺甸、盤石、輝
南 、 濛 江 、 東 豊 、 西 安 、 海 龍 、 柳 河 、 新 濱 、 撫 順 、 金 川 (1)、 清 原 の 16 県 で あ る 。 奉 吉 線
沿線は清朝期には狩猟場としての圍場が設置されており、民人の流入は禁止されていた。
19 世 紀 末 以 降 、圍 場 は 払 い 下 げ ら れ 、州 県 衙 門 が 設 置 さ れ た こ と か ら 本 格 的 な 開 拓 が す す
んだ。
奉 吉 線 は 奉 天 ~ 吉 林 間 の 鉄 道 で あ り 、 瀋 海 鉄 道 (奉 天 ~ 海 龍 )と 吉 海 鉄 道 (吉 林 ~ 海 龍 )で
運 営 さ れ た 。瀋 海 鉄 道 敷 設 の 経 緯 は や や 複 雑 で あ っ た 。日 本 側 は 1913 年 の「 満 鉄 五 鉄 道 に
関する交換公文」で開原~海龍間に借款鉄道を建設する権利を得た。だが、奉天省政府は
こ れ に 対 抗 し て 奉 海 鉄 道 (奉 天 ~ 海 龍 )の 敷 設 を 計 画 し た 。 満 鉄 は マ ン チ ュ リ ア 北 部 へ の 勢
力 拡 大 を 重 視 し て い た の で 、24 年 に 洮 昻 鉄 道 の 建 設 請 負 契 約 を 張 作 霖 東 三 省 総 司 令 、王 永
江 奉 天 省 長 と の 間 に 結 ぶ 代 償 と し て 、奉 天 省 側 に 奉 海 鉄 道 の 建 設 承 認 を 与 え た 。25 年 に 起
工 し 、27 年 に 奉 天 ~ 海 龍 間 が 開 業 し 、28 年 に は 朝 陽 鎮 ま で 延 長 さ れ た [曲 暁 範 2010、38-42
頁 ]。
吉 海 鉄 道 は 吉 林 省 政 府 の 主 導 に よ り 建 設 が 進 め ら れ た 路 線 で あ り 、1926 年 に 吉 海 鉄 路 籌
備 処 が 設 置 さ れ て 敷 設 に 着 手 し た 。 日 本 側 の 反 対 に も か か わ ら ず 、 27 年 に 起 工 さ れ 、 29
年 に 吉 林 ~ 朝 陽 鎮 間 を 結 ぶ 吉 海 鉄 道 が 開 業 し た [金 子 文 夫 1991、 422 頁 ]。
吉 敦 鉄 道 は 、1925 年 に 満 鉄 松 岡 理 事 と 葉 恭 綽 中 国 政 府 交 通 総 長 と の 間 に 締 結 さ れ た 建 設
請負契約にもとづいて建設された。契約内容には、工事期間中は技師長が、開業後は会計
166
主任が満鉄から派遣されることが明記されていたが、中国側の反発にあって実現 できてい
な か っ た [曲 暁 範 2010、 42-46 頁 ]。
(1)金 川 県 は 1928 年 に 設 置 さ れ 、1940 年 ご ろ に 濛 江 県 へ 編 入 さ れ た た め 短 期 間 し か 存 在 し
なかった。
②通商ルートの変化
瀋 海 鉄 道 (奉 天 ~ 朝 陽 鎮 )沿 線 で 商 業 中 心 地 と し て 栄 え て い た の は 、 海 龍 、 朝 陽 鎮 、 山 城
鎮 (北 山 城 子 )で あ っ た 。人 口 で は 山 城 鎮 が 最 も 多 く 、次 い で 朝 陽 鎮 、海 龍 で あ っ た (表 5-1)。
これらの商業中心地は満鉄開業以前では、鉄嶺経由で農産物の販売と雑貨の購入をしてい
た 。し か し 、満 鉄 開 業 後 で は 開 原 と の 関 係 が 密 接 に な り 、開 原 経 由 の 取 引 が 増 え た (1)。と
はいえ、綿製品などは古くから関係のある鉄嶺の商人を通じて購入することもあり、鉄嶺
と の 関 係 が 消 滅 し た わ け で は な か っ た (2)。こ れ ら の 商 業 中 心 地 は 満 鉄 開 業 の 影 響 を 受 け な
がら発達したが、海龍は政治行政の中心地であったこと、朝陽鎮と山城鎮に挟まれた位置
に あ っ た こ と か ら 、 そ の 商 業 的 発 展 は 鈍 く 、 人 口 も 他 よ り 少 な か っ た (3)。
瀋 海 鉄 道 の 開 業 後 (1927 年 )、農 産 物 は 開 原 で は な く 、瀋 海 鉄 道 に よ り 奉 天 へ 輸 送 さ れ る
よ う に な り 、沿 線 に は 奉 天 の 影 響 力 が お よ ぶ よ う に な っ た (4)。例 え ば 、1929 年 に は 海 龍 、
朝 陽 鎮 、 山 城 鎮 か ら 搬 出 さ れ た 農 産 物 16 万 ト ン が 、 瀋 海 鉄 道 に よ り 輸 送 さ れ た (5)。 瀋 海
鉄 道 経 由 で 満 鉄 に 輸 送 さ れ た 大 豆 は 、 28 年 は 10 万 ト ン 、 29 年 に は 29 万 ト ン に 増 え 、 30
年 に は 32 万 ト ン に 達 し た 。一 方 、満 鉄 開 原 駅 か ら 発 送 さ れ る 大 豆 は 、28 年 は 約 26 万 ト ン
で あ っ た が 、30 年 は 16 万 ト ン に 、32 年 は 12 万 ト ン に 減 少 し て い た( 前 掲 表 3-14)。瀋 海
鉄道開業により、奉天を経由する農産物が増えたことから、銭鈔取引のみをおこなってい
た 奉 天 取 引 所 は 、 31 年 か ら 大 豆 な ど の 特 産 物 の 上 場 を は じ め た (6)。
吉 海 鉄 道 沿 線 は 山 岳 地 帯 が 多 く 、農 業 条 件 に 恵 ま れ て い な か っ た (7)。こ の た め 農 産 物 の
出 回 り は 少 な く 、吉 海 鉄 道 の 貨 物 輸 送 量 は 瀋 海 鉄 道 よ り も 少 な か っ た (8)。吉 海 鉄 道 開 業 に
より、大きな影響を受けたのは盤石であった。盤石の交易は、満鉄開業後では長春や公主
嶺 と 馬 車 輸 送 に よ り お こ な わ れ た 。し か し 、吉 海 鉄 道 の 開 業 後 (1929 年 )は 奉 天 経 由 の 取 引
が 増 加 し 、 奉 天 の 影 響 力 が お よ ぶ よ う に な っ た (9)。
盤石より北側では鉄道開業後も通商ルートは変化せず、以前のように長春などと馬車輸
送により取引していた。その理由は、吉海鉄道を使って奉天まで輸送しても、運賃的に採
算が合うのは盤石までであったこと、吉海鉄道により北上して吉林経由で長春まで輸送す
る よ り 、馬 車 輸 送 に よ り 直 接 長 春 ま で 搬 出 す る ほ う が 運 賃 的 に は 安 か っ た 点 に あ っ た (10)。
奉吉線、吉敦線の始点であった吉林は、清朝初期から政治行政の中心地であり、また物
資 の 中 継 地 と し て も 栄 え て い た 。人 口 も 多 く 、1908 年 に は 8.1 万 人 に 達 し て い た (表 5-2)。
しかし、中東鉄道の開業後はハルビン、長春に商圏が奪われ、商業中心地としての機能は
低 下 し た (11)。そ う し た な か 、12 年 に 吉 長 鉄 道 (吉 林 ~ 長 春 )が 開 業 す る と 、吉 林 の 商 業 中
心地としての機能は再び上昇した。吉長鉄道開業前では、吉林~長春間の馬車輸送は片道
冬 で は 二 日 、 夏 で は 四 ~ 七 日 要 し た が 、 鉄 道 で は 三 時 間 半 で あ っ た (12)。 こ の た め 吉 林 に
出回る農産物や木材は増加した。とくに木材の出回りは多く、吉林駅から発送される木材
は 26 年 で は 約 11 万 ト ン に 達 し た (大 豆 の 発 送 量 は 約 4.5 万 ト ン )(13)。
167
奉吉鉄道沿線で懸案となっていたのは、どの鉄道と連絡して海港まで輸送するかであっ
た。具体的には、奉天から満鉄経由して大連まで輸送するか、奉天から京奉鉄道を経由し
て営口河北駅まで輸送するかが問題となっていた。瀋海鉄道と満鉄との連絡運輸協定は
1928 年 に 締 結 さ れ た 。と こ ろ が 瀋 海 鉄 道 側 が 一 方 的 に 廃 棄 通 告 を 宣 言 し 、そ の 実 施 は 紛 糾
し た (14)。 最 終 的 に は 28 年 10 月 か ら 連 絡 運 輸 は 実 施 さ れ た が 、 紛 糾 の 背 後 に は 、 瀋 海 鉄
道内部に満鉄との関係を重視する派閥と、京奉鉄道との関係を重視する派閥があり、両者
の 調 整 が う ま く い か な か っ た 点 に あ っ た と 観 察 さ れ て い た (15)。 瀋 海 鉄 道 と 京 奉 鉄 道 と の
連 絡 運 輸 も 28 年 11 月 か ら は じ ま り 、 こ こ に 輸 送 経 路 は 輸 送 時 間 、 運 賃 、 取 引 の 便 宜 な ど
多 様 な 要 因 を 考 慮 し て 決 め ら れ る こ と に な っ た (16)。
奉 天 省 政 府 は 吉 海 鉄 道 か ら の 貨 物 を 吸 収 す る 政 策 を 実 施 し た 。1929 年 2 月 に 奉 天 省 政 府
は、吉海鉄道を使って吉林省から奉天省に輸送された貨物については、税金を半額にする
措 置 を お こ な っ た 。ま た 、29 年 10 月 か ら 瀋 海 鉄 道 と 吉 海 鉄 道 と の 連 絡 輸 送 も は じ め た (17)。
31 年 に は 瀋 海 鉄 道 、吉 海 鉄 道 と 京 奉 鉄 道 と の 連 絡 輸 送 が 実 施 さ れ 、満 鉄 を 経 由 し な い 貨 物
輸 送 へ の 便 宜 が は か ら れ た (18)。 さ ら に 、 吉 海 鉄 道 は 満 鉄 に 対 抗 す る た め 割 引 運 賃 を 設 定
し て い た (19)。 瀋 海 鉄 道 、 吉 海 鉄 道 は 満 鉄 へ の 対 抗 姿 勢 を 出 し て は い た が 、 車 両 不 足 、 輸
送時間、取引制度の不備などから、満鉄との競合は難しかった。それゆえ、満洲国期には
輸 送 量 は 減 少 し て し ま い 、沿 線 経 済 が 満 鉄 へ の 依 存 か ら 脱 却 す る こ と は で き な か っ た (20)。
敦 化 を め ぐ る 通 商 ル ー ト は 鉄 道 敷 設 に よ り 二 転 三 転 し た 。1910 年 代 こ ろ ま で は 吉 林 と の
交易関係が密接であった。ところが間島の開発が進展したことから、間島経由の交易が増
え は じ め た (21)。1920 年 代 前 半 に 間 島 、朝 鮮 北 部 の 鉄 道 網 が 整 備 さ れ る と (6 節 参 照 )、敦
化 に は よ り 間 島 の 商 圏 が お よ ぶ よ う に な っ た (22)。こ う し た 動 向 は 、28 年 に 吉 敦 線 が 開 業
し た こ と か ら 逆 転 し 、 敦 化 に は 吉 林 、 長 春 、 大 連 の 影 響 が お よ ぶ よ う に な っ た (23)。 間 島
の 商 圏 は 縮 小 し 、 敦 化 か ら は 雑 貨 な ど が 以 前 と は 逆 に 間 島 へ 輸 送 さ れ た (24)。 し か し な が
ら こ う し た 動 向 は 長 く は 続 か ず 、1933 年 に 京 図 線 が 開 業 す る と 、再 び 間 島 と の 交 易 が 増 加
し た 。 そ の 結 果 、 36 年 に お け る 主 要 商 品 の 移 出 入 経 路 は 、 吉 林 経 由 35% 、 間 島 経 由 65%
と い う 状 況 に な っ た (25)。
(1)「 海 龍 事 情 (1911 年 調 査 )」(外 務 省 外 交 史 料 館 所 蔵 6-1-1-74「 鉄 嶺 領 事 報 告 書 」所 収 )。
(2)「 開 海 奉 海 両 鉄 道 開 通 後 の 影 響 予 想 」『 日 刊 海 外 商 報 』 146、 1925
(3)「 海 龍 県 に 於 け る 農 産 物 商 況 」『 通 商 公 報 』 527、 1918。「 大 正 九 年 度 海 龍 地 方 農 産 物 出
回 及 輸 出 状 況 」『 通 商 公 報 』 824、 1921
(4)「 瀋 海 鉄 道 沿 線 事 情 」 哈 爾 浜 商 品 陳 列 館 『 瀋 海 、 吉 海 鉄 道 沿 線 事 情 』 1930
(5)東 北 交 通 委 員 会 統 計 室 『 東 北 鉄 路 統 計 』 1931
121 頁 。
(6)「 満 洲 会 社 調 査 」『 ダ イ ヤ モ ン ド 』 20-29、 1937
(7)「 吉 海 鉄 道 沿 線 事 情 」『 満 蒙 事 情 』 104、 1930
(8)前 掲 『 東 北 鉄 路 統 計 』 126 頁 。
(9)奉 天 鉄 道 事 務 所 『 吉 海 線 及 其 ノ 背 後 地 調 査 』 1929
(10)同 前 。
(11)「 吉 長 鉄 道 敷 設 ノ 急 速 ヲ 必 要 ト ス ル 事 情 具 申 ノ 件 」明 治 40 年 3 月 6 日
務 代 理 林 久 治 郎 (外 務 省 外 交 史 料 館 1-7-3-49「 吉 長 鉄 道 関 係 雑 簒 」 1 )。
168
吉林領事館事
(12)満 鉄 調 査 課 『 吉 林 省 産 業 の 現 状 』 1927
(13)吉 林 居 留 民 会 編 『 吉 林 事 情 』 1927
166 頁 。
40-43 頁 。
(14)『 満 鉄 第 三 次 一 〇 年 史 』 上 、 511 頁 。
(15)「 奉 海 満 鉄 両 路 の 連 絡 問 題 」『 満 鉄 調 査 時 報 』 8-3、 1928
(16)「 京 奉 、 奉 海 連 絡 の 南 満 線 に 及 ぼ す 影 響 」『 満 鉄 調 査 時 報 』 9-1、 1929。 連 絡 輸 送 会 議
の 議 事 録 は 『 交 通 公 報 』 1844-1849 号 、 1928 を 参 照 。
(17)長 春 商 工 会 議 所 『 吉 海 、 瀋 海 鉄 道 沿 線 経 済 事 情 』 1932
(18)満 鉄 調 査 課 『 満 洲 政 治 経 済 事 情 - 昭 和 四 年 - 』 1930
4頁。
234-235 頁 。
(19)前 掲 『 吉 海 、 瀋 海 鉄 道 沿 線 経 済 事 情 』 3-28 頁 。
(20)吉 林 商 工 会 『 吉 林 省 城 を 中 心 と す る 経 済 概 況 』 1934
5頁。
(21)「 敦 化 県 事 情 」『 通 商 公 報 』 182、 1914
(22)満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 調 査 課 『 額 穆 敦 化 両 県 事 情 』 1926
82-83 頁 。
(23)「 経 済 上 よ り 見 た る 敦 化 の 将 来 」『 海 外 経 済 事 情 』 2 、 1930
(24)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局 調 査 部 第 一 科 『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
林 省 敦 化 県 』 1936
康徳三年度-吉
241 頁 。
(25)同 前 、 242 頁 。
③農業生産の変化
奉 吉 ・ 吉 敦 鉄 道 沿 線 は 可 耕 地 に 恵 ま れ て い な く 、 総 面 積 に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 29.1%
に す ぎ な か っ た (表 5-3)。 可 耕 地 が 多 か っ た の は 東 豊 県 、 西 安 県 、 海 龍 県 で あ り 、 総 面 積
に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 50% を こ え て い た 。可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 は 62.7%で あ り 、
未 耕 地 が 40% 弱 存 在 し て い た 。 し か し 、 永 吉 県 、舒 蘭 県 、樺 甸 県 、濛 江 県 、東 豊 県 、西 安
県 、新 濱 県 、撫 順 県 の 8 県 の 可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 は 80% を こ え て お り 、新 た な 開
拓は難しかった。可耕地に占める既耕地の割合の低い柳河県、輝南県、額穆県は鉄道沿線
から遠く、開拓条件に恵まれていなかった。
農 業 生 産 動 向 を 見 て み る と 、耕 地 面 積 は 鉄 道 が 開 業 し た 1920 年 代 後 半 以 降 で も 、大 き く
は 増 加 し て い な い (表 5-4)。 大 豆 の 生 産 量 が 増 え て い た こ と 、 コ ー リ ャ ン の 生 産 量 は 減 少
を示しているが、大きな増減とはみなせない。敦化では吉敦線の開業後、大豆生産が盛ん
に な っ た が 、 そ の 範 囲 は 広 く は な く 県 城 に 近 い 村 落 に と ど ま っ た (1)。
奉 吉 線 沿 線 の 農 業 生 産 で 注 目 さ れ る の は 、 朝 鮮 人 に よ る 稲 作 で あ っ た 。 19 世 紀 末 以 降 、
沿 線 に 移 住 す る 朝 鮮 人 は 増 え 、西 豊 県 、西 安 県 、東 豊 県 に 住 む 朝 鮮 人 は 1919 年 に は 約 3600
人 に 達 し た (2)。 そ の 後 も 移 住 す る 朝 鮮 は 絶 え ず 、 沿 線 の 朝 鮮 人 人 口 は 33 に は 約 3.8 万 人
に な り 、 稲 作 の 収 穫 量 も 約 23 万 石 に 増 え て い た (3)。
以 上 か ら 、奉 吉・吉 敦 鉄 道 沿 線 は 鉄 道 が 開 業 し た 1920 年 代 後 半 ま で に 、沿 線 の 開 拓 は す
すんでおり、未耕地は少ない状況にあった。それゆえ、鉄道開業後も耕地面積、農業生産
は大きくは増えなかった。鉄道開業により農産物の輸送経路は変化したが、農業生産の動
向に鉄道開業がおよぼした影響は大きくはなかったと指摘できよう。
(1)前 掲 『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
康徳三年度-吉林省敦化県』2頁。
(2)「 西 豊 、西 安 、東 豊 三 県 下 に 於 け る 移 住 朝 鮮 人 並 稲 田 増 加 に 付 て 」
『 通 商 公 報 』655、1919
169
(3)「 瀋 海 鉄 路 沿 線 の 朝 鮮 人 に 関 す る 一 般 情 勢 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 14-4、 1934
④金融状況の変化
金融状況について、奉天省に属した瀋海鉄道沿線と、吉林省に属した吉海鉄道・吉敦鉄
道沿線とに分けて見てみたい。
瀋 海 鉄 道 沿 線 地 域 は 満 鉄 の 開 業 後 、開 原 な ど へ の 満 鉄 の 駅 に 搬 出 さ れ る 農 産 物 が 増 え た 。
それゆえ商業取引も増え、通貨の流通額も増加した。だが、通貨の流通量は需要を満たす
に は 不 足 し て い た の で 、有 力 商 家 は 私 帖 を 発 行 し て 、通 貨 需 要 に 対 応 し て い た (1)。沿 線 の
幣 制 状 況 は 、1910 年 前 後 で は 制 銭 、銀 貨 、私 帖 が 混 在 し て は い た が 、金 融 状 況 は 安 定 的 で
あ っ た (2)。そ の 後 、銀 貨 の 流 出 は 激 し く 、奉 天 票 と 私 帖 が 主 要 な 通 貨 と な っ た 。そ し て 私
帖 は し だ い に 回 収 さ れ 、 20 年 代 中 ご ろ に は 奉 天 票 の 流 通 が 拡 大 し た (3)。
瀋海鉄道沿線地域では馬車で農産物を搬出し、その帰り荷として雑貨を購入するという
バーター的な取引をしていた。そのため、決済は特定の糧桟や雑貨店でおこなわれ、為替
に頼ることは少なかった。ところが瀋海鉄道開業後は、奉天との決済は為替でおこなわれ
るようになった。しかし金融機関は不備であり、例えば朝陽鎮では為替を取り扱う信頼で
き る 金 融 機 関 は な い た め 、 海 龍 に あ る 東 三 省 官 銀 号 支 店 ま で 赴 く 必 要 が あ っ た (4)。
こうした金融機関の状況は日本人商人の活動にも影響をおよぼしていた。日本人商人は
漢人商人と取引する際、一般的には金票を用いていた。しかし、瀋海鉄道沿線で金票の両
替をおこなう金融機関はなかったので、日本人商人は奉天票で取引するしかなかった。そ
のため奉天票の下落によるリスクを被ることになり、たとえ取引で利益をあげても、決済
で 損 失 を 出 す こ と も あ っ た (5)。
吉海鉄道・吉敦鉄道沿線の幣制は、ほぼ吉林と同じであったので、吉林の状況について
見 て み た い 。吉 林 で は 制 銭 や 銀 貨 が 使 わ れ た が 、そ の 流 出 は 激 し か っ た こ と か ら 、 1898 年
に吉林将軍は永衡官帖局を設立して、吉林官帖という紙幣の発行をはじめた。吉林官帖の
流 通 は 拡 大 し 、 日 露 戦 争 後 で は 最 も 多 く 使 わ れ て い た (6)。 1909 年 に は 永 衡 官 銀 銭 号 が 設
立 さ れ 、吉 林 官 帖 の 発 行 、省 財 政 の 統 轄 を お こ な っ た [劉 万 山 1987]。吉 林 官 帖 は 当 初 は 額
面 の 二 割 は 硬 貨 へ の 兌 換 を 明 記 し て い た 。と こ ろ が 、1911 年 以 降 で は 二 割 兌 換 の 明 記 は な
く な り 、 不 換 紙 幣 と な っ た (7)。 吉 林 官 帖 の 下 落 は 激 し か っ た の で 、 31 年 に 永 衡 官 銀 銭 号
は哈爾大洋票の発行権を取得して、哈大洋票による金融安定化を試みた。だが、満洲事変
の 勃 発 に よ り 中 断 さ れ た (8)。
吉海鉄道は瀋海鉄道と連絡運輸をおこなうようになったが、吉海鉄道沿線では吉林官帖
が、瀋海鉄道沿線では奉天票が使われており、両者の主要通貨は異なった。連絡 運輸によ
り 奉 天 と の 決 済 が 求 め ら れ た が 、吉 海 鉄 道 沿 線 の 商 人 が 奉 天 と 決 済 す る こ と は 難 し か っ た 。
例えば、盤石では吉海鉄道開業後に奉天へ搬出される農産物は増えたが、奉天と直接決済
することはできなかった。このため、以前から取引関係を持つ長春を経由して決済してお
り 、 決 済 の 困 難 さ が 取 引 動 向 に 影 響 を お よ ぼ す こ と も あ っ た (9)。
(1)外 務 省 通 商 局 『 満 洲 事 情 - 第 三 輯 (第 二 回 )』 1921
(2)満 鉄 調 査 課 『 南 満 洲 経 済 調 査 資 料 』 3
1912
各地の状況参照。
(3)前 掲 『 瀋 海 、 吉 海 鉄 道 沿 線 事 情 』 金 融 状 況 を 参 照 。
(4)前 掲 『 吉 海 線 及 其 ノ 背 後 地 調 査 』
170
168-169 頁 。
(5)奉 天 商 工 会 議 所 調 査 課 『 第 壹 回 奉 海 沿 線 旅 商 団 視 察 報 告 書 』 1929
66 頁 。
(6)「 吉 林 市 場 通 貨 概 況 」『 通 商 彙 簒 』 40、 1907
(7)南 郷 龍 音 「 吉 林 官 帖 の 研 究 (一 、 二 )」『 満 鉄 調 査 月 報 』 11-11、 11-12、 1936
(8)同 前 、 第 13 章 。
(9)前 掲 『 吉 海 線 及 其 ノ 背 後 地 調 査 』
5.四洮・洮昻・打通鉄道沿線地域の変化
①地域概略
四洮・洮昻・打通鉄道沿線として区分する場所は、彰武、康平、通遼、遼源、双山、長
嶺 、膽 楡 、開 通 、安 広 、洮 南 、洮 安 、鎮 東 、大 賚 、泰 来 、突 泉 、乾 安 の 16 県 で あ る 。四 洮 ・
洮昻・打通鉄道沿線は「蒙地」と呼ばれた、モンゴル人の生活空間であった。清朝はモン
ゴ ル 人 の 生 計 を 保 護 す る 目 的 か ら 、漢 人 の 移 住 は 禁 止 し て い た 。し か し 、19 世 紀 後 半 に な
ると、モンゴル人王公の財政的窮乏の解決、ロシアへの対抗から土地を払い下げて、漢人
に 耕 作 さ せ る 政 策 を 推 進 し た 。そ し て 、20 世 紀 初 頭 以 降 に 州 県 が 設 置 さ れ 、モ ン ゴ ル 人 の
生活空間は縮小した。
「蒙地」には四鄭鉄道、洮昻鉄道、打通鉄道、洮索鉄道などが敷設され、モンゴル人の
遊 牧 場 所 を 貫 い て 運 行 し て い た 。 最 初 に 敷 設 さ れ た 鉄 道 は 四 鄭 鉄 道 (四 平 街 ~ 鄭 家 屯 )で あ
っ た 。四 鄭 鉄 道 は 1913 年 に 日 本 政 府 と 中 華 民 国 政 府 の 間 で 取 り 交 わ さ れ た「 満 蒙 鉄 道 借 款
修 築 に 関 す る 交 換 公 文 」 (い わ ゆ る 満 蒙 五 鉄 道 に 関 す る 交 換 公 文 )に よ り 、 日 本 政 府 が 得 た
五 つ の 借 款 鉄 道 敷 設 権 を 得 た 中 の 四 洮 鉄 道 (四 平 街 ~ 洮 南 )の 一 部 分 で あ っ た 。17 年 に 開 業
し 、 22 年 に は 通 遼 ま で 延 長 さ れ た 。 23 年 に は 洮 南 ~ 鄭 家 屯 間 が 開 業 し た [金 子 文 夫 1991、
227-228 頁 ]。
洮 南 と 昻 昻 渓 を 結 ぶ 洮 昻 鉄 道 の 建 設 請 負 契 約 は 、1924 年 に 満 鉄 松 岡 理 事 と 張 作 霖 東 三 省
総司令、王永江奉天省長との間に結ばれた。満鉄はマンチュリア北部への勢力拡大を重視
していたので、洮昻鉄道の建設請負契約を何としても取得したかった。そのため中国側に
瀋 海 鉄 道 の 敷 設 を 承 認 す る と い う 代 償 を 払 っ て い た [金 子 文 夫 1991、422 頁 ]。26 年 に 開 業
し、路線的には満鉄と平行していた。
打通線は京奉鉄道の打虎山と通遼を結ぶ鉄道であり、奉天省政府の主導で建設された。
日 本 側 の 反 対 に も か か わ ら ず 、1927 年 に 開 業 し た [金 子 文 夫 1991、414-415 頁 ]。満 洲 国 期
には長春から王爺嶺、索倫を経て、阿爾山に至る鉄道が敷設され、沿線では開拓が進展し
て い た [芳 井 研 一 2007]。
②通商ルートの変化
満鉄開業以前では商業中心地としては鄭家屯や農安が栄えていた。しかし、鉄道開業以
後、物資の輸送には鉄道が使われるようになり通商ルートは変化した。鉄道開業により鄭
家屯の通商ルートは変わった。鄭家屯は遼河の水運を使って物資を交易しており、とくに
内 モ ン ゴ ル 方 面 か ら も た ら さ れ る 牛 馬 の 取 引 で 栄 え た (1)。 と こ ろ が 、 1910 年 代 後 半 以 降
に 牛 馬 取 引 の 中 心 地 は 北 方 の 洮 南 に 移 動 し 、鄭 家 屯 に 出 回 る 牛 馬 は 減 少 し た (2)。牛 馬 取 引
171
は 減 少 し た が 、 鄭 家 屯 近 隣 の 開 拓 が 進 み 、 農 産 物 の 出 回 り が 多 く な っ た 。 07 年 か ら 22 年
に か け て 、 鄭 家 屯 に 出 回 る 農 産 物 は 2 倍 以 上 増 加 し て い た (3)。
鄭 家 屯 は 遼 河 の 水 運 に よ り 営 口 と 密 接 な 取 引 関 係 に あ っ た が 、1917 年 に 四 鄭 鉄 道 が 開 業
す る と 、物 資 輸 送 は 水 運 か ら 鉄 道 へ 、取 引 先 は 営 口 か ら 四 平 街 、大 連 に 変 化 し た (4)。も っ
とも水運が消滅したわけではなく、鉄道より水運のほうが運賃は安かったので、水運を選
択 す る 商 人 も い た (5)。22 年 に 鉄 道 は 通 遼 ま で 延 長 さ れ 、翌 23 年 に は 鄭 家 屯 ~ 洮 南 間 が 開
業した。こうした新線開業により鄭家屯は一通過駅になってしまい、商業中心地としての
機 能 は 低 下 し た 。 そ れ ゆ え 人 口 も 20 年 で は 6.4 万 人 で あ っ た が 、 37 年 に は 4.4 万 人 に 減
少 し て い た (表 6-1)。
鄭 家 屯 の 商 圏 を 奪 っ て 発 展 し た の は 洮 南 と 通 遼 で あ っ た 。洮 南 は 20 世 紀 初 頭 で は 30-40
戸 ほ ど の 小 村 落 に 過 ぎ な か っ た 。し か し 、内 モ ン ゴ ル の 交 易 拠 点 と し て 発 展 し 、1918 年 に
は 人 口 は 3 万 人 に 達 し た (表 6-2)。 鉄 道 開 業 以 前 の 洮 南 ~ 鄭 家 屯 の 物 資 輸 送 は 、 往 復 で 冬
は 9 日 前 後 、 夏 は 13 日 を 要 し た が 、 鉄 道 開 業 後 は 半 日 に な っ た (6)。 四 洮 鉄 道 、 洮 昻 鉄 道
の 開 業 に よ り 物 資 輸 送 は 容 易 と な っ た が 、農 産 物 は 沿 線 各 駅 に 分 散 し て 出 回 る よ う に な り 、
洮 南 へ の 集 散 量 は 減 少 し て い た (7)。
通 遼 は 1912 年 ご ろ に 集 落 が 形 成 さ れ 、 16 年 に は 人 口 は 3000 人 程 度 に な っ た (8)。 鄭 家
屯 の 出 先 機 関 的 な 要 素 が 強 い 商 業 中 心 地 で あ っ た が 、22 年 に 鄭 家 屯 ~ 通 遼 間 が 開 業 し 、27
年 に 打 通 線 が 開 業 す る と 大 き く 発 展 し た 。 30 年 代 に は 人 口 は 4 万 人 を こ え て い た (9)。
四洮鉄道・洮昻鉄道・打通鉄道が敷設されたことから、マンチュリア南北間の物資輸送
は満鉄を経由しなくても可能となった。だが、四洮鉄道と洮昻鉄道は洮南で接続していな
かった。その理由は、四洮鉄道経営陣は北京交通部系であ ったのに対して、洮昻鉄道の経
営陣は奉天省政府系であったことに起因した。両鉄道が接続し、連絡運輸がはじまったの
は 1927 年 9 月 で あ っ た (10)。 満 鉄 は 四 洮 鉄 道 ・ 洮 昻 鉄 道 沿 線 か ら の 貨 物 を 吸 収 す る た め 、
26 年 に 両 鉄 道 と 連 絡 運 輸 に 関 す る 会 議 を お こ な っ た 。し か し 、四 洮 鉄 道 と 洮 昻 鉄 道 の 経 営
陣 の 関 係 が よ く な い こ と 、洮 昻 鉄 道 側 が 一 方 的 に 利 益 の 35% を 要 求 し た こ と か ら 決 裂 し た
(11)。他 方 、京 奉 鉄 道 と の 連 絡 運 輸 は 28 年 か ら 実 施 さ れ た (12)。営 口 河 北 駅 へ 輸 送 さ れ る
物 資 は 増 え た と は い え 、 満 鉄 の 経 営 を 脅 か す ほ ど の 数 量 で は な か っ た [ 金 子 文 夫 1991 、
436-439 頁 ]。
洮昻鉄道の開業により、洮南から北行して中東鉄道に乗り換え、ハルビン方面に搬出す
ることができるようになった。しかしながら、洮南から北行する貨物はなく、すべて四洮
鉄 道 に よ り 四 平 街 方 面 に 輸 送 さ れ た (13)。 洮 昻 鉄 道 を 北 行 し て 中 東 鉄 道 に 輸 送 さ れ た 貨 物
の分岐点は泰来駅であった。泰来駅より北側の駅では昻昻渓方面に、南側の駅では洮南経
由 が 選 択 さ れ た (14)。
四洮鉄道・洮昻鉄道・打通鉄道沿線には、モンゴル人の間を行商して回る商人が活動し
て い た [田 中 秀 作 1937、 後 藤 富 男 1958] 。 彼 ら は 「 撥 子 (ポ ー ツ )」 と 呼 ば れ 、 モ ン ゴ ル 人
と の 交 易 に は 重 要 な 役 割 を 果 た し て い た (15)。「 撥 子 」 の 出 発 地 は 1910 年 代 で は 鄭 家 屯 で
あ っ た が 、 20 年 代 に は 通 遼 に 移 動 し た 。 30 年 代 に は よ り 西 方 の 開 魯 を 拠 点 と す る 「 撥 子 」
が 増 え て い た (16)。 鉄 道 の 敷 設 に よ り 漢 人 が 流 入 し 、 モ ン ゴ ル 人 は よ り 西 方 へ と 移 動 し て
いた。そのため「撥子」の拠点も西方に移動していたと考えられる。
172
(1)「 鄭 家 屯 商 業 事 情 」『 通 商 公 報 』 272、 1915
(2)「 最 近 鄭 家 屯 事 情 」『 満 蒙 之 文 化 』 21、 1921。「 洮 南 を 中 心 と す る 東 部 内 蒙 古 事 情 概 要 」
『 満 鉄 調 査 時 報 』 5-8、 1925
(3)「 鄭 家 屯 に 於 け る 穀 類 商 況 」『 通 商 公 報 』 987、 1922
(4)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 大 連 港 背 後 地 の 研 究 』 1923
45 頁 。
(5)「 鄭 家 屯 に 於 け る 遼 河 輸 出 入 貿 易 」『 日 刊 海 外 商 報 』 65、 1925
(6)ベ・エ ヌ・メ ニ シ コ フ 編 、満 鉄 調 査 課 訳『 斉 斉 哈 爾 、洮 南 及 び 伯 都 訥 地 方 経 済 事 情 』1922、
138 頁 。
(7)「 洮 昻 鉄 道 沿 線 付 近 農 産 物 出 回 状 況 」『 奉 天 商 業 会 議 所 月 報 』 165、 1926。「 新 穀 出 回 状
況 (洮 南 )」『 日 刊 海 外 商 報 』 1054、 1928
(8)「 通 遼 鎮 及 付 近 地 方 事 情 」『 通 商 公 報 』 384、 1916
(9)衣 目 精 一 『 興 安 南 省 通 遼 の 現 状 』 出 版 地 不 明 、 1935
13 頁 。
(10)「 洮 昻 鉄 道 ノ 現 状 ニ 就 テ 」 鄭 家 屯 中 野 領 事 代 理 → 幣 原 外 務 大 臣
昭和二年三月八日付
(外 務 省 外 交 史 料 館 F-1-9-2-6「 洮 昻 鉄 道 関 係 一 件 」 所 収 )。「 四 洮 洮 昻 両 鉄 道 連 絡 開 始 」
チチハル清水領事→田中外務大臣
昭 和 二 年 九 月 二 四 日 付 (同 前 所 収 )。
(11)「 洮 昻 鉄 道 の 悲 境 と 三 線 連 絡 」『 満 鉄 調 査 時 報 』 7-5、 1927
(12)『 昭 和 四 年 度 満 洲 政 治 経 済 事 情 』 1930
236 頁 。 四 洮 鉄 道 、 洮 昻 鉄 道 、 京 奉 鉄 道 の 連
絡 運 輸 に 関 す る 議 事 録 は 、『 交 通 公 報 』 1820、 1823-1830 号 、 1928 を 参 照 。
(13)満 鉄 洮 南 公 所 『 洮 南 商 工 事 情 』 1929
18-37 頁 。
(14)「 洮 昻 鉄 路 沿 線 之 経 済 概 況 」『 中 東 経 済 月 刊 』 6-11、 1930
(15)満 鉄 調 査 課 『 東 蒙 に 於 け る 撥 子 』 1925
(16)満 洲 中 央 銀 行 調 査 課 『 開 魯 県 経 済 事 情 』 1935
16 頁 。
③農業生産の変化
四 洮・洮 昻・打 通 鉄 道 沿 線 の 総 面 積 に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 35.6%と 低 い (表 6-3)。洮 南
近隣の開通県、膽楡県、安広県、鎮東県、洮安県の農業条件はよくなく、農業生産は振る
っ て い な い と 1910 年 代 後 半 で は 観 察 さ れ て い た (1)。 ま た 、 打 通 鉄 道 沿 線 も 砂 漠 が 多 く 、
農 業 に は 適 し て い な い と 報 告 さ れ て い た (2)。 可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 は 54.3% で あ
り 、 30 年 の 時 点 で は ま だ 未 耕 地 が 多 か っ た こ と を 示 し て い る 。
農 業 生 産 動 向 は 、 作 付 面 積 は 増 加 し て い る (表 6-4)。 1920 年 代 で は 鉄 道 開 業 に よ り 移 民
が 流 入 し 、開 拓 が 進 展 し て こ と が 観 察 さ れ て い る (3)。農 産 物 で は 大 豆 よ り コ ー リ ャ ン の 生
産量のほうが多い。その理由として、第一にコーリャンのほうが旱水害に強いこと、第二
に 農 業 経 営 は 粗 放 的 で あ っ た の で コ ー リ ャ ン の ほ う が 適 し て い た 点 が 指 摘 さ れ て い る (4)。
大豆の生産量も増えてはいるが、コーリャンやアワよりも多くはない。鉄道開業により大
豆 の 生 産 が 志 向 さ れ る 傾 向 は あ っ た と は い え 、限 定 的 な も の で あ っ た (5)。つ ま り 、四 洮 ・
洮昻・打通鉄道沿線の農業生産は、必ずしも大豆生産に特化した農業生産はおこなってい
なかったと指摘できる。
四洮・洮昻・打通鉄道沿線では漢人による開拓がおこなわれ、モンゴル人は西方に追い
や ら れ る 現 象 が 生 じ て い た 。例 え ば 、1919 年 に 日 本 人 が 膽 楡 県 で お こ な っ た 調 査 報 告 書 に
173
は、モンゴル人は漢人の流入によりこれまでの生活場所を追い出され、西方へ移動してい
た 状 況 を 述 べ て い る (6)。鉄 道 の 敷 設 は 開 拓 の 進 展 や 商 業 的 農 業 の 発 展 を う な が し た が 、遊
牧生活を送るモンゴル人の生活には、とくに何も寄与しなかったと考えられる。むしろ従
来の生活場所を追われるという、マイナスの効果をおよぼしていた。
(1)「 洮 南 を 中 心 と す る 産 業 」 田 中 末 広 『 満 洲 及 蒙 古 』 東 方 拓 殖 協 会
1920
(2)「 打 通 路 与 鄭 通 路 之 沿 線 概 況 」『 中 東 経 済 月 刊 』 6-9、 1930
(3)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 洮 索 間 各 地 方 調 査 報 告 書 』 1924
5-7 頁 。「 穀 類 輸 出 状 況 (洮 南 )」
『 日 刊 海 外 商 報 』 903、 1927。
(4)「 洮 南 の 現 況 」『 満 蒙 』 41、 1923。 満 鉄 鄭 家 屯 事 務 所 『 鄭 家 屯 付 近 一 帯 ニ 於 ケ ル 農 業 事
情 』 1935
29 頁 。
(5)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局 調 査 部 第 一 科『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
省 洮 南 県 』 1936
康徳三年度-龍江
25-26 頁 。
(6)「 膽 楡 県 事 情 」(外 務 省 外 交 史 料 館 1-6-1-26-1-3「 各 国 事 情 関 係 雑 纂
別 冊 奉 天 省 」所
収 )。
④金融状況の変化
四洮・洮昻・打通鉄道沿線の金融状況について、鄭家屯と洮南を事例にして検討してみ
たい。
鄭家屯では通貨は常に不足がちであり、有力商家が発行する私帖も多く流通していた。
第一次世界大戦前では小洋票4割、私帖4割、銀貨1割、銅貨1割であったと報告されて
い る (1)。1920 年 代 に な る と 奉 天 票 の 流 通 が 拡 大 し 、私 帖 は 漸 次 回 収 さ れ て い っ た (2)。鄭
家屯の金融状況で興味深いのは、他の都市との決済は逆為替でおこなわれ、現銀の移動に
よ る 決 済 は し て い な か っ た 点 で あ る (3)。逆 為 替 の 売 買 は「 経 紀 」と 呼 ば れ た 金 融 機 関 が お
こなっており、
「 経 紀 」は 為 替 の 需 給 関 係 を 調 節 し 、為 替 売 買 に 伴 う 手 数 料 を 受 け 取 っ て い
た。為替の買い手が多く、売り手が少ない場合は為替の打歩が高く、その反対に買い手が
少 な く 、売 り 手 が 多 い 場 合 は 割 引 さ え も お こ な わ れ た (4)。鄭 家 屯 で は 私 帖 の 流 通 や 逆 為 替
による決済をおこない、金融状況の緊張を回避していた。それゆえ、金融状況は概ね安定
し て い た と 報 告 さ れ て い る (5)。
洮 南 は 地 理 的 に 奉 天 省 、吉 林 省 、黒 龍 江 省 の 三 省 と 交 易 で き る 場 所 に 位 置 し た こ と か ら 、
清末では小洋票、吉林官帖、黒龍江官帖、私帖、ルーブル紙幣などの雑多な通貨が流通し
て い た (6)。し か し 、奉 天 省 に 属 し た こ と か ら 奉 天 票 の 流 通 が 拡 大 し 、吉 林 官 帖 や 黒 龍 江 官
帖 の 流 通 は 1920 年 代 前 半 に は 僅 か に な っ た (7)。26 年 の 調 査 報 告 で は 、洮 南 の 通 貨 は ほ と
んどが奉天票であり、売買の標準価格や税金の徴収は奉天票でおこなわれていると述べて
い る (8)。
以 上 の 鄭 家 屯 と 洮 南 の 検 討 か ら 、1910 年 代 ま で は 種 々 の 通 貨 が 流 通 し 、と く に 私 帖 に 依
存 し て 通 貨 需 要 を 満 た し て い た こ と 、20 年 代 に な る と 奉 天 票 が 主 要 通 貨 に な っ た こ と が 明
らかになった。
四洮・洮昻・打通鉄道沿線でおこなわれたモンゴル人との交易は、紙幣よりも物々交換
か現銀でおこなわれた。モンゴル人の間でも紙幣を使うことは広がっていたとはいえ、簡
174
単におこなえるものではなかった。漢人商人でもうまく対応できない状況に、日本人商人
が お こ な え る わ け は な い と 、1915 年 に 刊 行 さ れ た 農 商 務 省 の 調 査 報 告 書 は 述 べ て い る (9)。
(1)「 鄭 家 屯 金 融 状 況 」『 通 商 公 報 』 274、 1915
(2)「 最 近 鄭 家 屯 事 情 (二 )」『 満 蒙 之 文 化 』 22、 1921
(3)「 鄭 家 屯 状 況 」『 通 商 彙 簒 』 15、 1912
(4)前 掲 「 鄭 家 屯 金 融 状 況 」
(5)「 開 蒙 古 に 於 け る 金 融 状 態 」 前 掲 『 満 洲 及 蒙 古 』 所 収 。
(6)「 内 蒙 古 洮 南 府 事 情 」『 農 商 務 省 商 工 彙 報 』 8 、 1910
(7)「 奉 天 省 洮 南 事 情 」『 通 商 公 報 』 534、 1918
(8)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 圖 什 業 圖 王 旗 事 情 』 1927
(9)農 商 務 省 商 工 局 『 東 部 内 蒙 古 事 情 』 1915
64 頁 。
106-110 頁 。
6.間島地域の変化
①地域概略
間 島 と し て 区 分 す る の は 延 吉 県 、 琿 春 県 、 和 龍 県 、 汪 清 県 の 4 県 で あ る 。 間 島 に は 19
世紀後半以降に移住する朝鮮人が増えるとともに漢人の移住も増え、漢人と朝鮮人が暮す
場所として間島の開発は進展した。ロシアと接していることからロシアの影響を受け、義
和団事件の際には一時的にロシア軍の占領下に置かれた。日露戦争後では日本の勢力が拡
大 を は じ め 、 1907 年 に 日 本 政 府 は 龍 井 村 に 韓 国 統 監 府 間 島 臨 時 派 出 所 を 設 置 し た 。
間島は清朝、朝鮮、ロシア、日本の勢力が交錯する場所となった。清朝と日本の対立は
1909 年 に「 間 島 に 関 す る 日 清 協 約 」が 締 結 さ れ た こ と か ら 妥 協 が 成 立 し 、韓 国 統 監 府 間 島
臨時派出所は撤廃された。その代わりに日本は領事館を開設し、龍井村に総領事館を、延
吉 、頭 道 溝 (延 吉 県 )、百 草 溝 (汪 清 県 )、琿 春 に 領 事 館 分 館 を 設 置 し た 。10 年 の 朝 鮮 併 合 後 、
間島在住の朝鮮人は日本人なのか、それとも中国人なのか、その法的地位が日中間では係
争となった。こうした問題が生じた理由は、間島は 政治的には中国の領域であったが、日
本が植民地とした朝鮮人が過半数を占めるという、政治的領域と社会的領域が一致してい
ない点にあった。間島では抗日闘争を展開する朝鮮人の活動が激しかった。日本側は抗日
運 動 を 鎮 圧 す る た め 、20 年 に 琿 春 事 件 が 起 き た こ と を き っ か け に 、関 東 軍 、朝 鮮 軍 か ら な
る 軍 隊 を 派 遣 す る と い う 手 段 も 用 い て い た [李 盛 煥 1991、 2 章 、 3 章 ]。
1907 年 か ら 31 年 に か け て 間 島 の 人 口 は 約 10 万 人 か ら 約 52 万 人 に 増 え 、 朝 鮮 人 の 人 口
も 約 7 万 人 か ら 40 万 に 増 え て い た [李 盛 煥 1991、397 頁 ]。マ ン チ ュ リ ア 各 地 に 朝 鮮 人 は 移
住 し て い た が 、 そ の 60% 以 上 は 間 島 に 居 住 し て い た 。 26 年 時 点 で の 人 口 比 率 は 、 漢 人 約
20% に 対 し て 朝 鮮 人 は 約 80% で あ っ た 。 県 別 で は 和 龍 県 の 人 口 は 95% が 朝 鮮 人 で あ っ た 。
も っ と も 少 な い 汪 清 県 で も 朝 鮮 人 は 60% 以 上 を 占 め て い た (表 7-1)。 朝 鮮 人 が 多 い と い う
特 徴 は 満 洲 国 期 、中 華 人 民 共 和 国 成 立 後 も 変 わ ら ず 、52 年 に 延 辺 朝 鮮 族 自 治 区 が 成 立 し て
現在に至っている。
②通商ルートの変化
175
間 島 に お け る 商 業 中 心 地 は 琿 春 、 延 吉 (局 子 街 )、 龍 井 村 の 三 つ が 大 き く 、 そ の 次 に は 頭
道 溝 、百 草 溝 で の 商 業 取 引 が 盛 ん で あ っ た (1)。以 下 で は 、琿 春 、延 吉 、龍 井 村 の 動 向 に つ
いて検証してみたい。
琿春は朝鮮人が多数を占めた間島のなかでも漢人の人口が多く、中国側の政治的拠点で
あ っ た (表 7-2)。 琿 春 の 貿 易 ル ー ト に は 、 朝 鮮 経 由 と ロ シ ア 経 由 が あ っ た 。 ロ シ ア 経 由 は
1891 年 に ウ ラ ジ オ ス ト ク が 開 港 し た こ と を 契 機 に 増 加 し た 。だ が 、1909 年 に ウ ラ ジ オ ス ト
クが自由港制度を廃止した影響を受けて、ロシアとの貿易は減少した。一方、朝鮮経由の
貿 易 が 増 加 し 、16 年 に は ロ シ ア 経 由 を 上 回 っ た (表 7-3)。ロ シ ア 革 命 後 の 22 年 に ソ 連 と の
国 境 は 封 鎖 さ れ た た め 、 ロ シ ア 経 由 に よ る 貿 易 は ほ と ん ど な く な っ た (2)。
朝 鮮 経 由 が 増 え た 背 景 に は 1921 年 に 雄 基 が 開 港 し た 点 が 指 摘 で き る 。雄 基 か ら 琿 春 に 輸
送される物資が増え、さらに雄基から輸送された物資は琿春を経て、吉林まで運ばれるよ
う に な っ た (3)。雄 基 の 開 港 後 、琿 春 ~ 吉 林 の 取 引 が 増 え 、琿 春 の 貿 易 総 額 は 11-29 年 に か
けて約3倍増加した。しかし、龍井村の発展が著しく、その圧迫により琿春の商圏は大き
くは拡大しなかった。
延 吉 (局 子 街 )は 1907 年 ご ろ で は 、 人 口 約 1500 人 の 小 さ な 街 で あ っ た が 、 琿 春 と 同 様 に
漢 人 の ほ う が 朝 鮮 人 よ り 多 く ( 表 7-4)、 中 国 側 の 政 治 的 拠 点 で あ っ た (4)。 延 吉 の 貿 易 ル
ー ト は 、10 年 以 前 で は 営 口 ~ 吉 林 ~ 延 吉 と い う ル ー ト と 、ウ ラ ジ オ ス ト ク ~ 琿 春 ~ 延 吉 の
二つがあった。しかしウラジオストク~琿春~延吉は、ウラジオストク自由港廃止により
衰 退 し た 。 こ れ に 代 わ り 、 08 年 に 開 港 し た 清 津 と の 貿 易 が 増 加 し た (5)。 延 吉 に は 海 関 は
設置されていなかったので、海関統計からその貿易動向を知ることはできない。日本の領
事 館 の 観 察 で は 、16 年 の 取 引 額 の 多 寡 は 清 津 、吉 林 、琿 春 の 順 序 で あ っ た と し て い る (6)。
1917 年 以 降 、延 吉 の 商 業 取 引 は 鉄 道 の 開 業 に 大 き く 変 動 し た 。17 年 に 清 会 鉄 道( 清 津 ~
会 寧 )が 開 業 し た こ と を 受 け て 、延 吉 と 朝 鮮 方 面 の 貿 易 は 増 加 し た 。20 年 に は 清 津 経 由 は
輸 入 で は 75% 、 輸 出 で は 65% を 占 め た (7)。 清 会 鉄 道 は 延 吉 の 取 引 額 を 増 や し た が 、 龍 井
村 の 発 展 を も う な が し て い た 。延 吉 に と っ て 打 撃 と な っ た の は 、23 年 に 天 図 軽 便 鉄 道 の 龍
井 村 ~ 上 三 峰 間 が 開 業 し た こ と で あ っ た [黒 瀬 郁 二 2005]。朝 鮮 経 由 の 物 資 は 鉄 道 に よ り 龍
井村へ運ばれ、龍井村が商業中心地となった。
龍 井 村 は 19 世 紀 後 半 に 朝 鮮 人 の 移 住 に よ っ て 形 成 さ れ た 街 で あ り 、 1907 年 ご ろ で は 人
口 は 約 400 人 に 過 ぎ な か っ た (8)。 12 年 以 降 、 清 津 経 由 で の 貿 易 が 拡 大 し 、 西 方 の 敦 化 方
面 と の 取 引 が 増 え は じ め た (9)。 17 年 の 清 会 鉄 道 ( 清 津 ~ 会 寧 ) の 開 業 、 23 年 の 天 図 軽 便
鉄 道 開 業 に よ り 、 龍 井 村 は 琿 春 、 延 吉 に 代 わ っ て 間 島 の 商 業 中 心 地 と な っ た 。 17 年 以 降 、
龍 井 村 の 輸 移 出 入 額 は 増 え 続 け て お り 、総 額 で は 28 年 に は 約 6 倍 に な っ て い る 。大 豆 の 輸
出 量 は 、 17 年 か ら 28 年 に か け て は 約 380 倍 も 増 え て い た ( 表 7-5)。 ま た 人 口 の 増 加 も 著
し く 、26 年 に は 約 1.5 万 人 に な っ て い た (表 7-6)。同 じ 26 年 の 時 点 で 琿 春 の 人 口 は 約 8200
人 、 延 吉 の 人 口 は 約 9600 人 で あ っ た の で 、 龍 井 村 は 間 島 第 一 の 都 市 に な っ て い た 。
以 上 を ま と め る と 、間 島 の 商 業 中 心 地 は 1900 年 代 前 後 で は 琿 春 で あ っ た が 、延 吉 も 商 業
中心地として勃興していた。ところが、清会鉄道、天図軽便鉄道の開業により龍井村が商
業中心地になるという変遷をたどっていた。鉄道の敷設は間島の経済発展に大きな影響を
およぼしていたと指摘できよう。こうした動向は満洲国期にも継続しており、新線の開業
176
により龍井村の優位は崩れた。
満 洲 国 期 に は 日 本 に と っ て 懸 案 で あ っ た 吉 会 鉄 道 問 題 が 、 京 図 線 (新 京 ~ 図 們 )開 業 に よ
り 解 決 し た [金 靜 美 1992、加 藤 聖 文 1997、芳 井 研 一 1999]。1933 年 に 京 図 線 が 開 業 す る と 、
図 們 が 商 業 中 心 地 と な っ た 。 図 們 は 31 年 時 点 で は 、 人 口 わ ず か 1700 人 の 街 に 過 ぎ な か っ
た 。し か し 京 図 線 開 業 後 に 人 口 は 急 増 し 、35 年 に は 約 2.8 万 人 に な っ た (10)。図 們 の 成 長
は 急 激 で あ り 、34 年 に は 龍 井 村 の 貿 易 額 を 凌 駕 し た (表 7-7)。35 年 7 月 に は 龍 井 村 の 税 関
は 図 們 と 合 併 す る こ と に な り 、 龍 井 村 が 商 業 中 心 地 で あ っ た 時 代 は 終 焉 し た (11)。 満 洲 国
期の間島では図們が商業中心地となり、延吉が政治行政の中心地となっていた。
満 洲 国 期 の 1935 年 に は 図 寧 線 (図 們 ~ 牡 丹 江 )が 、 37 年 に は 図 佳 線 (図 們 ~ ジ ャ ム ス )が
開業し、図們の後背地は拡大した。これらの新線開業により、間島は牡丹江やジャムス方
面 を も 商 圏 と し 、 間 島 を 中 継 地 と し て 出 回 る 物 資 は 増 加 し た (12)。 こ う し た 動 向 は 間 島 の
対 外 貿 易 港 で あ っ た 朝 鮮 北 部 三 港 の 貿 易 額 が 、33 年 以 降 に 大 き く 増 え て い る 点 か ら も 知 る
こ と が で き る (表 7-8)。 と は い え 、 朝 鮮 北 部 三 港 の 貿 易 量 は 大 連 に は お よ ば な か っ た 。 36
年 の 朝 鮮 北 部 三 港 の 貨 物 発 着 数 量 は 約 133 万 ト ン で あ っ た が 、大 連 は 約 960 万 ト ン で あ り 、
大 連 の ほ う が 約 7 倍 も 多 か っ た (13)。
(1)頭 道 溝 の 状 況 に つ い て は 、
「頭道溝事情」
『 通 商 彙 簒 』1 、1912、
「頭道溝地方事情」
『通
商 公 報 』 696、 1919 年 を 参 照 。 百 草 溝 に つ い て は 、「 百 草 溝 事 情 (上 、 中 、 下 )」『 通 商 公
報 』 142、 143、 144、 1914、「 百 草 溝 分 館 管 内 事 情 」『 通 商 公 報 』 1219、 1924 を 参 照 。
(2)「 吉 林 東 部 経 済 事 情 」『 経 済 資 料 』 14-2、 1928
242 頁 。
(3)「 琿 春 地 方 商 況 」『 日 刊 海 外 商 報 』 1032、 1927
(4)統 監 府 間 島 臨 時 派 出 所 『 間 島 産 業 調 査 書 』 1910
商業の部3頁。
(5)「 清 国 局 子 街 商 勢 一 班 」『 通 商 彙 簒 』 13、 1910
(6)「 局 子 街 貿 易 概 況 (大 正 五 年 )」『 通 商 公 報 』 445、 1917
(7)『 満 洲 事 情 - 第 二 輯 (第 二 回 )』 154 頁 。
(8)前 掲 『 間 島 産 業 調 査 書 』 商 業 の 部 1-3 頁 。
(9)「 間 島 大 正 元 年 貿 易 年 報 」『 通 商 公 報 』 14、 1913
(10)鉄 路 総 局 『 京 図 線 及 背 後 地 経 済 事 情 』 1935
373 頁 。
(11)税 関 概 史 編 纂 委 員 会 編 『 満 洲 国 税 関 概 史 』 1944
238 頁 。
(12)「 図 佳 線 開 通 後 の 特 産 物 輸 出 径 路 変 化 と 出 回 予 想 量 」『 海 外 経 済 事 情 』 5 、 1937.
日 満 実 業 協 会 『 東 満 洲 産 業 概 観 』 1939
(13)満 鉄 鉄 道 総 局 『 貨 物 運 輸 図 表
91-94 頁 。
昭 和 11 年 度 』 1937
農業生産の変化
間 島 の 農 業 は 朝 鮮 人 、 漢 人 の 流 入 に よ り 発 展 し た 。 農 産 物 作 付 面 積 は 1913 年 か ら 41 年
に か け て 約 3 倍 増 え て い た (表 7-9 参 照 )。 農 産 物 の 特 徴 と し て は 、 朝 鮮 人 が 主 食 と し た ア
ワの生産が多かったこと、コメが生産されていたことが指摘できる。一般的に漢人はコー
リャンを主食にしたので、漢人が多数の場所ではコーリャンが多く生産された。間島では
漢人より朝鮮人のほうが多かったので、アワの生産がコーリャンを上回っていた。コメは
朝 鮮 人 が 間 島 に も た ら し た 農 産 物 で あ っ た 。 間 島 で の コ メ の 生 産 は 20 世 紀 以 降 に 拡 大 し 、
177
そ の 作 付 面 積 は 1913 年 か ら 41 年 に か け て 約 33 倍 と 急 激 に 増 加 し て い た 。し か し 、全 体 に
占 め る 割 合 は 10% 未 満 で あ っ た (1)。
間 島 は 山 が ち な 地 形 で あ り 、 全 体 に 占 め る 不 可 耕 地 の 割 合 は 80%を こ え て い た 。 も っ と
も可耕地が多かったのは延吉県であり、少なかったのは琿春県であった。延吉県の大豆作
付 面 積 は 間 島 全 体 の 約 60% を 占 め て お り 、コ メ の 作 付 面 積 で も 約 70% を 占 め て い た 。延 吉
県 は 間 島 の な か で は 農 業 生 産 が 盛 ん な 県 で あ っ た こ と を 指 摘 し た い (2)。
大 豆 や コ メ な ど の 商 品 化 率 の 高 い 作 物 は 、鉄 道 開 業 に そ の 生 産 が 増 え て い た (3)。天 図 軽
便 鉄 道 の 開 業 後 、龍 井 村 か ら 輸 出 さ れ る 大 豆 は 大 き く 増 え た 。開 業 前 の 1922 年 で は 約 13.5
万 ピ ク ル で あ っ た が 、開 業 後 の 24 年 に は 約 56.7 万 ピ ク ル と 、約 4 倍 の 増 加 を 示 し て い た 。
こ う し た 大 豆 の 増 加 に よ り 、龍 井 村 か ら の 農 産 物 輸 出 動 向 は 23 年 以 降 、大 豆 の 輸 出 量 の ほ
う が ア ワ の 輸 出 量 よ り 多 く な っ た (表 7-5)。 大 豆 と 同 様 に 商 品 作 物 の 傾 向 の 強 か っ た コ メ
の 作 付 面 積 も 、延 吉 県 で は 天 図 軽 便 鉄 道 の 開 業 後 に 増 加 し て い た (4)。間 島 全 体 の 作 付 面 積
も ア ワ 、コ ー リ ャ ン は 横 ば い 、減 少 で あ る の に 対 し て 、大 豆 と コ メ は 増 加 を 示 し て い る (表
7-9)。 天 図 軽 便 鉄 道 の 開 業 後 は 、 商 業 中 心 地 の 動 向 だ け で な く 、 農 業 生 産 動 向 に も 影 響 を
およぼし、大豆やコメなどの商品作物の生産を助長したと指摘できる。
間島の農産物流通機構の特徴として、糧桟が存在せず、糧桟の役割は特産商が担ってい
た点が挙げられる。糧桟は自己の裁量により農産物を買い付け、好機を見て売却していた
が、特産商は自己の思惑ではなく、輸出業者の委託を受けて農産物を買い付けていた。他
の場所では、糧桟は農民と密接にかかわり、農産物の買い付けとともに日用品の販売や、
農 業 資 金 の 貸 付 け も お こ な っ た 。間 島 に は 朝 鮮 総 督 府 が 監 督 す る 金 融 部 が 各 地 に 設 け ら れ 、
農業資金の貸付けをしていたので、糧桟から借りる必要はなかった。金融的な関係性をつ
くる必要性が低かったため、糧桟のような業者は求められず、委託にもとづいて買い付け
を す る 特 産 商 が 活 動 し て い た と 考 え ら れ る (5)。
(1)「 間 島 農 事 現 況 視 察 概 報 (明 治 四 十 三 年 度 )」
『 通 商 彙 簒 』68、1910。
「大正十年間島琿春
地 方 主 要 農 産 物 収 穫 高 並 農 況 」『 通 商 公 報 』 915、 1922。
(2)『 満 洲 産 業 統 計 - 昭 和 六 年 - 』 1932
6-7 頁 。
(3)「 間 島 に 於 け る 水 田 」『 通 商 公 報 』 340、 1916
(4)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局『 康 徳 三 年 度 農 村 実 態 調 査 報 告 書
戸 別 調 査 之 部 』第 2 分 冊 、1936
123 頁 。
(5)池 田 和 夫 「 間 島 に 於 け る 特 産 物 配 給 組 織 の 特 殊 性 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 16-7、 1936
④金融状況の変化
1900 年 前 後 の 間 島 で の 通 貨 の 流 通 量 は 少 な か っ た だ け で な く 、種 類 も 混 在 し て お り 、清
朝、ロシア、日本の発行した通貨が流通していた。
琿春では主に吉林官帖が使われていたが、ロシア との貿易が盛んになったことから、ル
ーブル貨の流通が増えた。すると、標準通貨は相場変動の激しかった吉林官帖ではなく、
ル ー ブ ル 貨 に す る 傾 向 が 強 ま っ た (1)。 し か し 、 1917 年 の ロ シ ア 革 命 以 降 に ル ー ブ ル 貨 は
下落したため、吉林官帖による取引が多くなった。とはいえ、吉林官帖は額面の大きい官
帖がほとんどであり、日常取引に必要な小額官帖は少なく、円滑な商業取引を阻害してい
178
た。このため琿春商務会は吉林省長の許可を得ずに、小額面の官帖を発行して対応してい
た (2)。 20 年 代 に は ル ー ブ ル 貨 は 姿 を 消 し た が 、 吉 林 官 帖 は 相 場 変 動 が 激 し く 、 通 貨 と し
て の 信 用 が 低 か っ た の で 、安 定 し た 通 貨 が 求 め ら れ た 。20 年 代 以 降 、朝 鮮 と の 貿 易 増 加 を
背 景 に し て 朝 鮮 銀 行 券 (金 票 )の 流 通 が 増 え 、 以 前 の ル ー ブ ル 貨 と 同 様 の 役 割 を 果 た す よ う
に な っ た (3)。
延吉の状況も琿春と同じであり、吉林官帖とルーブル貨が流通していたが、ロシア革命
後 で は 吉 林 官 帖 が 主 要 通 貨 に な っ て い た (4)。延 吉 で の 商 業 取 引 は 吉 林 官 帖 建 で お こ な わ れ
たので、吉林官帖の相場動向は取引に大きな影響をおよぼした。一般的に、吉林官帖の相
場上昇は日本円の下落をもたらし、官帖相場の下落は日本円の上昇という動向を示 す。こ
のため、官帖相場が下落すると中国人商人は日本製品の決済が厳しくなってしまい、日本
製 品 の 購 入 は 控 え ら れ た (5)。 吉 林 官 帖 は 1920 年 以 降 激 し く 下 落 し た た め 、 延 吉 で は 22
年 9 月 よ り 建 値 を 現 大 洋 (銀 元 )に 改 め 、 官 帖 下 落 に よ る 影 響 を 収 拾 し よ う と し て い た (6)。
金融機関の未整備も金融混乱を助長していた。延吉では殖辺銀行支店と中国銀行支店が
1917 年 に 開 業 し た が 、営 業 不 振 の た め 、殖 辺 銀 行 支 店 は 18 年 に 、中 国 銀 行 支 店 は 22 年 に
閉 店 し た 。 23 年 に 東 三 省 銀 行 支 店 が 開 業 し て 、 為 替 業 務 や 資 金 融 資 を は じ め た (7)。 同 行
は 開 業 当 初 こ そ 市 中 金 融 を 救 済 し た が 、そ の 後 の 営 業 成 績 は か ん ば し く な か っ た (8)。こ の
ため、延吉の商人は龍井村まで赴き、朝鮮銀行支店を利用して為替送金するという対応を
し て い た (9)。そ う し た な か 延 吉 と 朝 鮮 側 と の 貿 易 は 増 え 、朝 鮮 銀 行 券 の 流 通 が 増 え て い た
(10)。
龍 井 村 で も 1900 年 前 後 で は 吉 林 官 帖 と ル ー ブ ル 貨 が 使 わ れ て い た 。 そ う し た な か 、 07
年に韓国統監府間島臨時派出所が設置されたことを契機に、日本円が出回るようになった
(11)。朝 鮮 と の 貿 易 が 増 え る な か で 朝 鮮 銀 行 券 の 流 通 が 増 え 、16 年 前 後 で は 吉 林 官 帖 55%、
朝 鮮 銀 行 券 35%、 ル ー ブ ル 貨 10% と い う 状 況 と な っ た (12)。 ロ シ ア 革 命 後 に ル ー ブ ル 貨 は
姿 を 消 し 、 朝 鮮 銀 行 支 店 が 17 年 に 開 設 さ れ た 後 で は 、 朝 鮮 銀 行 券 の 流 通 が 拡 大 し た 。 20
年代以降、朝鮮銀行券は龍井村の支配的な通貨となり、吉林官帖の流通は少ないという独
特 な 通 貨 状 況 に な っ て い た (13)。 朝 鮮 銀 行 券 の 増 加 は 、 日 本 人 商 人 や 朝 鮮 人 商 人 の 商 圏 拡
大 を 有 利 に し 、輸 出 で は 両 商 人 が 取 引 を 掌 握 し て い た 。輸 入 で は 20 年 代 後 半 で は 日 本 人 商
人 40%、中 国 人 商 人 35% 、朝 鮮 人 商 人 25% で あ っ た 。総 じ て 、龍 井 村 で は 中 国 人 商 人 の 活
動 は 振 る わ な か っ た (14)。
琿 春 、延 吉 、龍 井 村 は 1920 年 代 以 降 に 朝 鮮 と の 貿 易 が 増 加 し た こ と か ら 、朝 鮮 銀 行 券 の
流通が拡大していた。しかし間島全体から見れば、朝鮮銀行券の流通は都市に限定されて
お り 、 農 村 で は 吉 林 官 帖 、 永 衡 大 洋 票 が 使 わ れ て い た (15)。
満洲国期においても、都市では朝鮮銀行券が流通していた。間島と朝鮮との貿易は満洲
国 期 に 増 加 し た こ と か ら 、 朝 鮮 銀 行 券 を 使 う 人 は 多 か っ た 。 と は い え 、 朝 鮮 銀 行 は 1936
年 12 月 に 満 洲 国 か ら 撤 退 し 、朝 鮮 銀 行 の 在 満 資 産 は 満 洲 興 行 銀 行 に 移 譲 さ れ る に お よ ん で 、
満 洲 国 幣 の 流 通 は 拡 大 し た (16)。
(1)「 琿 春 経 済 状 況 」『 通 商 公 報 』 168、 1914
(2)「 琿 春 商 務 会 発 行 官 帖 に 付 て 」『 通 商 公 報 』 495、 1918
(3)China, Imperial Maritime Customs, Decennial Reports,1922-31 ,Hunchun
179
(4)「 局 子 街 に 於 け る 露 貨 流 通 状 況 」『 通 商 公 報 』 493、 1918
(5)「 局 子 街 地 方 貿 易 径 路 の 変 遷 」『 通 商 公 報 』 865、 1921
(6)「 局 子 街 に 於 け る 物 価 建 値 変 更 」『 通 商 公 報 』 1011、 1922
(7)「 局 子 街 に 於 け る 商 業 発 達 の 趨 勢 と 支 那 銀 行 の 営 業 成 績 」『 通 商 公 報 』 509、 1918.「 局
子 街 概 観 」『 満 鉄 調 査 時 報 』 5-8、 1925
(8)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 吉 会 鉄 道 関 係 地 方 調 査 報 告 書 』 第 五 輯 、 1928
67 頁 。
(9)「 局 子 街 経 済 概 況 」『 海 外 経 済 事 情 』 12、 1929
(10)前 掲 『 吉 会 鉄 道 関 係 地 方 調 査 報 告 書 』 第 五 輯
67-68 頁 。
(11) China, Imperial Maritime Customs, Decennial Reports,1902-11 , Lungchinsun
(12)東 洋 拓 殖 会 社 『 間 島 事 情 』 1918
461 頁 。
(13) China, Imperial Maritime Customs, Decennial Reports,1922-31 , Lungchinsun
(14)『 吉 会 鉄 道 関 係 地 方 調 査 報 告 書 』 第 二 輯 、 1928
(15)前 掲 『 吉 会 鉄 道 関 係 地 方 調 査 報 告 書 』 第 五 輯
(16)『 外 務 省 通 商 局 日 報 』 33、 119、 178
68-69 頁 。
65 頁 。
1937
7.鴨緑江、松花江、黒龍江流域地域の変化
鉄等ではなく水運を輸送手段として地域が、マンチュリアには存在した。以下では、鴨
緑江、松花江、黒龍江流域地域の動向について検討してみたい。
①鴨緑江流域地域
(1)地 域 概 略
鴨緑江流域地域としてとして区分する場所は、寛甸県、桓仁県、輯安県、通北県、臨江
県、長白県、安図県、撫松県の8県であり、満洲国以前ではすべて奉天省に属した。鴨緑
江 流 域 は 柳 条 辺 牆 の 外 側 に あ っ た の で 、清 朝 は 民 人 の 流 入 を 禁 止 し て い た 。19 世 紀 後 半 以
降、清朝は土地の払い下げをはじめ、州県衙門も設置された。漢人は鴨緑江下流から上流
へ と 開 拓 を す す め 、 朝 鮮 人 は 上 流 か ら 下 流 へ と 開 拓 を す す め た (1)。
鴨 緑 江 流 域 は 朝 鮮 と 接 し て い る こ と か ら 、朝 鮮 人 が 開 拓 を お こ な い 、暮 す 場 所 も あ っ た 。
日 露 戦 争 前 に お い て 鴨 緑 江 流 域 に は 、す で に 約 4 万 人 の 朝 鮮 人 が 居 住 し て い た (2)。各 県 別
に 朝 鮮 人 の 人 口 が 判 明 す る の は 1935 年 の 統 計 が 最 初 で あ り 、こ れ に よ る と 長 白 県 に は 2.1
万 人 の 朝 鮮 人 が 住 み 、 県 人 口 の 35% を 占 め て い る (表 8-1)。 鴨 緑 江 流 域 に は 朝 鮮 人 が 暮 し
た と は い え 、 間 島 に 比 べ る な ら ば 少 数 で あ っ た 。 35 年 時 点 で 間 島 の 朝 鮮 人 は 約 46 万 人 で
あるのに対して、鴨緑江流域は約7万人にとどまった。
朝鮮人の人口は間島に比べて少なかったとはいえ、鴨緑江流域の朝鮮人をどのように統
轄するかは日中両国の懸案となっていた。日本側は間島と同様に、領事館を設置して警察
を 常 駐 さ せ る 方 法 で 取 り 締 ま ろ う と 考 え た 。1927 年 に 日 本 側 は 臨 江 に 領 事 館 分 館 を 設 置 し
よ う と し た が 、 奉 天 省 側 や 住 民 の 反 対 に 遭 遇 し て 実 現 で き な か っ た [尾 形 洋 一 1978、 冨 塚
一 彦 1989]。
鴨 緑 江 流 域 で の 朝 鮮 人 に よ る 抗 日 闘 争 は 激 し く 、1924 年 5 月 に は 鴨 緑 江 を 下 航 し て 視 察
180
中であった斎藤実朝鮮総督が狙撃されるという事件が起きた。日本側と中国側では抗日朝
鮮 人 の 取 り 締 ま り に つ い て 協 議 が 続 け ら れ 、25 年 に は 三 矢 朝 鮮 総 督 府 警 務 局 長 と 于 珍 奉 天
省警務処長との間にいわゆる「三矢協定」が結ばれ、日本側は鴨緑江流域の朝鮮人に対す
る 実 質 的 な 管 轄 権 を 得 た と 認 識 し た [李 盛 煥 1991、pp.213-228]。し か し 、抗 日 運 動 は 終 息
せずに満洲国期を迎えた。
満洲国期に鴨緑江流域は豊富な地下資源を有していると称され、
「 東 洋 の ザ ー ル 」と し て
脚 光 を 集 め た 。1938 年 9 月 に 満 洲 重 工 業 開 発 株 式 会 社 (満 業 )の 子 会 社 と し て 東 辺 道 開 発 株
式会社が設立され、開発に着手した。しかし、実際の地下資源の埋蔵量は多くはなく、そ
の価値は高くないことがやがて判明した。開発当初は製鉄所の建設も計画されたが、東辺
道 開 発 会 社 の 活 動 は 鉄 鉱 石 約 300 万 ト ン 、石 炭 約 400 万 ト ン を 採 掘 し た に と ど ま っ た [栂 井
義 雄 1980、 102 頁 ]。
(1)大 崎 峰 登 『 鴨 緑 江 - 満 韓 国 境 事 情 』 兵 林 館
(2)外 務 省 『 在 満 朝 鮮 人 概 況 』 1934
1910
70-72 頁 。
12-13 頁 。
(2)経 済 状 況 の 変 化
商業中心地となっていたのは輯安、臨江、長白、支流の琿江流域では桓仁、通化であっ
た (1)。こ れ ら の 商 業 中 心 地 の 商 圏 は 大 き く は な く 、鴨 緑 江 流 域 は 小 市 場 の 分 立 状 態 に あ っ
た。鴨緑江流域の商業中心地は河口に位置した安東で農産物を売却し、雑貨を仕入れてい
た。だが、上流に位置した長白は安東から離れていたため、対岸の恵山鎮との取引が多か
っ た (2)。さ ら に 満 洲 国 期 に 朝 鮮 側 で 恵 山 鎮 ~ 城 津 間 の 鉄 道 が 開 業 (1938 年 )し た こ と か ら 、
長 白 は 城 津 の 商 圏 に 属 す る こ と に な り 、 国 境 で あ る 鴨 緑 江 を こ え た 商 圏 が 形 成 さ れ た (3)。
鴨緑江の水運による安東との取引は、満洲国期においても長白ではおこなわれていなかっ
た と 報 告 さ れ て い る (4)。
琿 江 流 域 の 通 化 は 第 一 次 世 界 大 戦 以 降 、 商 業 中 心 地 と し て 発 展 し た 。 1919-27 年 の 間 に
雑 貨 の 取 引 額 は 約 10 倍 に 、 大 豆 の 出 回 り は 約 3 倍 増 加 し た (5)。 満 洲 国 期 に は 東 辺 道 開 発
の 拠 点 と な っ た こ と 、37 年 に 梅 河 ~ 通 化 間 の 鉄 道 が 開 業 し た こ と か ら 奉 天 の 商 圏 が 伸 張 し 、
鴨 緑 江 流 域 で は 随 一 の 商 業 中 心 地 と な っ た (6)。
満 洲 国 期 に は 鴨 緑 江 に よ る 水 運 よ り も 、朝 鮮 側 と の 交 易 と 奉 天 方 面 と の 取 引 が 選 択 さ れ 、
水運は衰退した。その理由は、治安不良により鴨緑江の往来が危険になったこと、鉄道敷
設 に よ る 商 圏 伸 張 の 影 響 を う け て い た 点 に あ っ た (7)。 さ ら に 1941 年 に 水 豊 ダ ム (寛 甸 付
近 )が 完 成 す る と 、鴨 緑 江 の 水 運 は 水 豊 ダ ム を 境 に 二 分 さ れ 、安 東 の 商 圏 は 縮 小 し て い た と
考えられる。
鴨 緑 江 流 域 は 山 岳 地 帯 が 多 く 、 総 面 積 に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 15% に す ぎ な か っ た (表
8-2)。人 口 密 度 も 28 人 と 小 さ く 、中 東 鉄 道 沿 線 と 同 じ く ら い で あ っ た 。農 業 生 産 動 向 は で
は 、 作 付 面 積 は 増 加 し て い な く 停 滞 し て い た こ と を 示 し て い る (表 8-3)。 主 に 自 給 用 に あ
てられたトウモロコシの生産量が多かった点が、農業生産の特徴として指摘できる。朝鮮
人により稲作がおこなわれていたが、その生産は全体のなかでは小さかった。例えば、通
化 県 で は 水 稲 の 占 め る 割 合 は 約 8 % に す ぎ な か っ た (8)。
鴨緑江流域では林業に依存する度合いも強く、伐採労働者の多寡や木材伐採量の 増減は
181
流 域 経 済 に 影 響 を お よ ぼ し て い た 。鴨 緑 江 流 域 の 木 材 は 1920 年 代 に な る と 良 材 を 産 し な く
なっただけでなく、奥地の木材を伐採しなければならなくなったことから伐採費が高くな
っていた。それゆえ、北満材や吉林材に対抗できなくなり、流域経済にも打撃をおよぼし
て い た [塚 瀬 進 1990、 47-51 頁 ] 。
金融状況は、第一次世界大戦前では商業取引の規模は小さかったことから、流通する通
貨 は 少 な か っ た 。上 流 地 域 で は 物 々 交 換 さ え も お こ な わ れ た (9)。1914 年 の 視 察 報 告 で は 、
鴨緑江流域での紙幣の流通は少なく、山間部ではほとんど流通していなかった報告されて
い る (10)。 第 一 次 世 界 大 戦 以 後 で は 奉 天 票 や 私 帖 の 流 通 が 拡 大 し 、 朝 鮮 側 と 交 易 し た 場 所
で は 金 票 も 流 通 し て い た (11)。 紙 幣 の 流 通 が 拡 大 す る 中 で 、 満 洲 国 期 を 迎 え た 。
以上の検討から、鴨緑江流域では水運による取引がおこなわれていたが、鉄道開業によ
り朝鮮北部の城津と奉天の商圏が拡大し、国境によっては画されない通商ルートが形成さ
れた。満洲国期には治安の悪化、水豊ダムの建設により水運は衰退し、安東の商圏は縮小
していたことが明らかになった。
(1)「 奉 天 省 長 白 県 事 情 」
『 日 刊 海 外 商 報 』153、1925。奉 天 省 寛 甸 県 公 署 編『 寛 甸 県 一 般 状
況 』 1933
38 頁 。
(2)「 恵 山 鎮 地 方 ニ 於 ケ ル 国 境 貿 易 並 経 済 状 況 」『 朝 鮮 総 督 府 月 報 』 2-10、 1912
(3)「 城 津 の 経 済 圏 と 産 業 立 地 」『 朝 鮮 』 340、 1943
(4)「 鴨 緑 江 に よ る 上 流 方 面 取 引 」『 安 東 経 済 時 報 』 202、 1937
(5)「 通 化 経 済 界 概 況 」『 海 外 経 済 事 情 』 22、 1929
(6)『 満 洲 国 現 勢
康 徳 一 〇 年 度 』 272 頁 。
(7)「 安 東 よ り 観 た る 東 辺 道 (一 、 二 )」『 安 東 経 済 時 報 』 17、 19、 1939
(8)『 満 洲 国 現 勢
康 徳 三 年 度 』 193 頁 。
(9)前 掲 『 鴨 緑 江 - 満 韓 国 境 事 情 』 167-171 頁 。
(10)朝 鮮 総 督 府 『 国 境 地 方 視 察 復 命 書 』 1915(『 朝 鮮 統 治 史 料 』 9 巻 所 収 )
854 頁 。
(11)「 通 化 地 方 事 情 」『 通 商 公 報 』 臨 時 増 刊 号 3 、 1919
①松花江流域
(1)地 域 概 略
松 花 江 流 域 地 域 と し て と し て 区 分 す る 場 所 は 、賓 県 、木 蘭 県 、通 河 県 、方 正 県 、依 蘭 県 、
湯原県、樺川県、富錦県、同江県、饒河県、勃利県、宝清県、虎林県、綏濱県、撫遠県、
密 山 県 の 16 県 で あ る 。松 花 江 流 域 地 域 の な か で 、も っ と も 下 流 に あ る 賓 県 で 開 拓 が お こ な
わ れ た の は 19 世 紀 後 半 以 降 で あ っ た 。 以 後 、 開 拓 は 下 流 域 へ と 拡 大 し て い き 、 20 世 紀 初
頭 に は 州 県 が 設 置 さ れ た 。そ し て 1920 年 代 に 流 域 の 開 拓 は 進 展 し た が 、人 口 は 少 な か っ た 。
松 花 江 流 域 の 総 面 積 に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 48.2% で あ っ た (表 8-4)。1930 年 の 時 点 で 、
可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の 割 合 は 22.2% で あ り 、多 く の 未 耕 地 が 残 っ て い た 。人 口 も 稀 薄 で
あ り 、 人 口 密 度 は 14 人 で あ り 満 鉄 沿 線 の 10 分 の 1 で あ っ た 。 農 業 生 産 動 向 で は 、 作 付 面
積 は 1920 年 代 後 半 以 降 に 増 加 し て い る (表 8-5)。生 産 動 向 と し て 注 目 さ れ る の は 、大 豆 や
小 麦 の 生 産 量 が 多 い 点 で あ る 。大 豆 、小 麦 と も に 20 年 代 に は 、そ の 生 産 量 は 大 き く 増 え て
182
いる。
松花江は国内河川のため外国船が自由に航行することはできなかった。だが、ロシアは
アイグン条約により松花江の航行権は得ていると主張し、船舶を航行していた。そして
1903 年 に 中 東 鉄 道 は 船 舶 部 を 創 設 し 、松 花 江 の 水 運 事 業 に の り だ し た 。当 然 な が ら 、清 朝
側 は こ う し た ロ シ ア の 動 向 に 反 対 し た 。と は い え 、10 年 8 月 に「 松 花 江 航 行 に 関 す る 議 定
書 」が 清 朝 と ロ シ ア の 間 で 取 り 交 わ さ れ 、ロ シ ア 船 の 航 行 は 公 認 さ れ た (1)。こ の た め 、ハ
ル ビ ン よ り 下 流 で は 、 ロ シ ア 船 が 独 占 的 な 勢 力 を 占 め て い た (2)。
ロシア革命以後、東三省政権は松花江の航行権を取り返す試みをおこなっていた。ロシ
ア 船 に 対 抗 す る た め に 船 舶 会 社 を 設 立 し た だ け で な く 、1924 年 に 松 花 江 流 域 で の 外 国 船 の
航行禁止を表明した。中東鉄道は一方的な東三省政権による航行禁止に抗議したが、その
撤 回 は で き な か っ た (3)。そ し て 、26 年 に 東 三 省 政 権 は 中 東 鉄 道 船 舶 部 を 強 制 的 に 閉 鎖 し 、
松 花 江 の 航 行 権 を 回 収 し た (4)。
満 洲 国 期 の 1934 年 に は 三 江 省 が 設 置 さ れ 、 松 花 江 流 域 の 大 部 分 が 編 入 さ れ た 。 39 年 に
は対ソ連戦に備える北辺振興事業が企図され、国境防衛に配慮した政策を推進する地域と
なった。
(1)満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 運 輸 課 『 東 支 鉄 道 を 中 心 と す る 露 支 勢 力 の 消 長 』 上 、 1928
第 5 章 3 節 。 満 鉄 哈 爾 浜 事 務 所 調 査 課 『 松 花 江 航 行 権 問 題 の 研 究 』 1924 も 参 照 。
(2)China, Imperial Maritime Customs, Decennial Report,1902-11 , Kirin Appendix
(3) 「 ス ン ガ リ ー 外 国 船 舶 航 行 禁 止 問 題 」『 現 代 史 資 料
満 鉄 ( 二 ) 』 み す ず 書 房 、 1966
334-335 頁 。
(4)前 掲 『 東 支 鉄 道 を 中 心 と す る 露 支 勢 力 の 消 長 』 下 、 8 章
(2)経 済 状 況 の 変 化
松 花 江 流 域 地 域 に お い て 商 業 中 心 地 と し て 栄 え た の は 依 蘭 (三 姓 )、 佳 木 斯 、 富 錦 で あ っ
た (1)。こ れ ら の 商 業 中 心 地 は 松 花 江 の 水 運 に よ り 商 業 取 引 を し て い た が 、鉄 道 の 開 業 と ロ
シ ア (ソ 連 )情 勢 の 変 化 に よ る 影 響 を 受 け て い た 。
満 洲 国 期 以 前 で は 依 蘭 の 商 圏 が 大 き か っ た が 、1937 年 に 図 佳 線 (図 們 ~ 佳 木 斯 )が 開 業 す
る と 佳 木 斯 が 栄 え 、 依 蘭 は 衰 退 し た (1)。 佳 木 斯 は 15 年 で は 糧 桟 は 7 戸 し か な か っ た が 、
24 年 に は 約 40 戸 に 増 え 、 商 業 的 に 発 展 し て い た (2)。 そ し て 37 年 に 図 佳 線 が 開 業 し 、 40
年 綏 佳 線 (綏 化 ~ 佳 木 斯 )が 開 業 し た こ と か ら 、 一 大 商 業 中 心 地 と な っ た 。 佳 木 斯 の 人 口 は
34 年 で は 約 2 万 人 で あ っ た が 、41 年 に は 約 11 万 人 に 増 え て い た (3)。鉄 道 開 業 に よ り 佳 木
斯 は 商 圏 を 拡 大 し 、鉄 道 に よ り 牡 丹 江 や 朝 鮮 北 部 に 輸 送 さ れ る 農 産 物 も 出 て い た (4)。物 資
は松花江の水運ではなく、鉄道輸送に依存する度合いが高まった。また、鉄道沿線には特
産 物 市 場 が 形 成 さ れ 、 勃 利 や 林 口 が 新 た に 商 業 中 心 地 と し て 勃 興 し た (5)。
富錦はロシアとの貿易により栄えていた。しかし、対ロシア貿易はロシア革命以後に衰
退 し 、 1929 年 の 中 東 鉄 道 を め ぐ る 紛 争 以 後 は 途 絶 し て し ま っ た (6)。 こ の た め 、 商 業 中 心
地としての機能は低下していた。
以上の検討から、松花江流域の通商ルートは鉄道開業による影響を受けて依蘭は衰退し
ていたこと、その逆に鉄道の恩恵を受けて佳木斯は興隆していたことが明らかになった。
183
鉄道の敷設は水運に依存していた地域経済の様相を変えていたと指摘できよう。
金融状況は、吉林官帖が主要通貨であった。吉林官帖が不足ぎみの場所もあり、そうし
た場所では私帖が流通していた。商業中心地から離れた農村部では、流通する通貨は少な
く 、 物 々 交 換 が お こ な わ れ て い た (7)。 満 洲 国 期 に お こ な わ れ た 依 蘭 、 勃 利 の 調 査 報 告 は 、
満洲国幣は額面が高い紙幣が多かったので農村部では流通していなく、依然として小額面
の 吉 林 官 帖 が 流 通 し て い た と 述 べ て い る (8)。
(1)鉄 路 総 局 『 図 寧 、 寧 佳 、 林 密 線 及 背 後 地 概 況 』 1935
192 頁 。
(2)国 際 運 送 株 式 会 社 哈 爾 浜 支 店 『 松 花 江 の 河 豆 』 1924
11 頁 。
(3)「 満 洲 都 市 人 口 動 態 の 地 域 性 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 24-1、 1944
115-116 頁 。
(4)満 洲 中 央 銀 行 調 査 課 『 佳 木 斯 を 中 心 と す る 河 下 特 産 事 情 』 1936
22-24 頁 。
(5)「 新 興 都 市 佳 木 斯 及 牡 丹 江 」『 東 洋 貿 易 研 究 』 17-8、 1938
(6)前 掲 『 満 洲 事 変 並 北 鉄 接 収 後 に 於 け る 北 満 主 要 都 市 の 経 済 動 向 』 295-310 頁 。
(7)前 掲 『 吉 林 省 東 北 部 松 花 江 沿 岸 地 方 経 済 事 情 』 各 地 の 金 融 状 況 を 参 照 。
(8)「 吉 林 省 三 姓 、 勃 利 地 方 経 済 事 情 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 15-4、 1935
50 頁 。
③黒龍江流域地域
(1)地 域 概 略
黒龍江流域地域としてとして区分する場所は、璦琿県、奇克県、遜河県、烏雲県、佛山
県 、蘿 北 県 、呼 瑪 県 、鷗 浦 県 、漠 河 県 、奇 乾 県 、室 葦 県 の 11 県 で あ る 。奇 乾 県 、室 葦 県 は
モンゴル人が暮す場所であり、満洲国期にはモンゴル人行政区の興安北省に編入されて、
県制は撤廃された。黒龍江流域は気候的に農業生産には適していなかったので、開拓が進
展 し た 時 期 は 遅 か っ た 。 こ の た め 州 県 制 の 導 入 時 期 も 遅 く 、 20 世 紀 以 降 で あ っ た 。
黒龍江流域の森林資源は豊富であったが、林業は盛んではなく、黒龍江流域の需要に充
当 さ れ る 程 度 で あ っ た (1)。人 口 の 多 か っ た 呼 瑪 、漠 河 は 金 鉱 採 掘 に よ り 形 成 さ れ た 町 で あ
り、商業中心地とはみなせない場所であった。これらの町は金鉱労働者の多寡によって経
済 状 況 は 左 右 さ て い た (2)。
総 面 積 に 占 め る 可 耕 地 の 割 合 は 27.4% と 低 い (表 8-6)。 そ し て 可 耕 地 に 占 め る 既 耕 地 の
割 合 は 1930 年 で は 1.5% に す ぎ ず 、農 業 生 産 は 振 る っ て い な か っ た こ と を 示 し て い る 。人
口 も 少 な く 、 最 も 多 数 の 璦 琿 県 で 3.4 万 人 で あ り 、 他 県 は 1 万 人 に 達 し て い な い 。 人 口 に
対して土地は過剰であったので、耕地の入手は容易であった。それゆえ、農民は農業条件
が 悪 く な る と 、 す ぐ に 他 所 へ 移 動 し て い た (3)。 農 業 生 産 は 少 な く 、 30 年 代 に な っ て も 農
業 生 産 は 増 え て い な か っ た (表 8-7)。
黒 龍 江 (ア ム ー ル 川 )の 水 運 は 、 ロ シ ア 革 命 以 前 で は ロ シ ア 船 が 独 占 的 な 勢 力 を 占 め て い
た (4)。し か し 、ロ シ ア 革 命 以 後 に ロ シ ア 側 の 水 運 は 衰 退 し 、東 三 省 政 権 が 運 行 す る 船 舶 の
輸 送 量 が 増 え た (5)。東 三 省 政 権 の 船 舶 に よ る 黒 河 へ の 輸 送 量 は 1928 年 に は 約 10 万 ト ン に
達 し 、 ロ シ ア 船 舶 の 輸 送 量 を 凌 駕 し て い た (6)。 満 洲 国 期 の 34 年 に ソ 連 と の 間 に 「 満 ソ 水
路 協 定 」 が 結 ば れ 、 両 国 共 同 で 黒 龍 江 の 水 運 は 管 理 ・ 運 営 し て い く こ と が 決 め ら れ た (7)。
この結果、両国の船舶が黒龍江上を航行していた。
184
(1)満 洲 国 財 政 部 『 黒 龍 江 岸 経 済 事 情 』 1934
188 頁 。
(2)「 黒 龍 江 上 流 呼 瑪 、 漠 河 両 地 方 事 情 」『 通 商 公 報 』 718、 1920
(3)実 業 部 臨 時 産 業 調 査 局 調 査 部 第 一 科『 農 村 実 態 調 査 一 般 調 査 報 告 書
省 璦 琿 県 』 1937
康徳三年度-黒河
202-203 頁 。
(4)「 黒 龍 江 航 運 ニ 関 ス ル 調 査 」 満 鉄 総 務 部 調 査 課 『 調 査 資 料 』 3 、 1918
5-7 頁 。
(5)「 黒 龍 江 沿 岸 地 方 に 於 け る 対 露 貿 易 の 消 長 と 密 貿 易 」
『 満 洲 中 央 銀 行 調 査 資 料 』12、1935
67 頁 。
(6)China, Imperial Maritime Customs, Trade Report for the Year 1928 ,Aigun
(7)満 洲 事 情 案 内 所 『 黒 龍 江 』 1936
16-18 頁 。
(2)経 済 状 況 の 変 化
黒龍江流域で商業中心地として栄えたのは璦琿であった。璦琿は条約上で開港場として
決 め ら 、1909 年 に は 海 関 が 設 置 さ れ た 。璦 琿 は 対 岸 の ブ ラ コ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク と 貿 易 し て
い た が 、 位 置 的 に 往 来 に 不 便 で あ っ た こ と か ら 、 黒 河 が 貿 易 拠 点 と な っ た 。 1910 年 以 降 、
黒河はブラコヴェシチェンスクとの貿易、上流金鉱への物資供給地として発展し、その逆
に 璦 琿 は 衰 退 し て い た (1)。呼 瑪 、漠 河 の 物 資 は 黒 河 を 経 由 し て も た ら さ れ 、上 流 各 都 市 は
黒 河 の 商 圏 に 属 し た (2)。黒 河 の 貿 易 動 向 は 、中 国 よ り 移 入 し て 外 国 に 再 輸 出 し て い た 動 向
を 示 し て い る (表 8-8)。 黒 河 と ブ ラ コ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク と の 貿 易 に は 密 貿 易 も 多 か っ た の
で、海関統計の数値は実際の貿易動向とは一致しないと考えられるが、黒河が物資の中継
地 で あ っ た 点 は 指 摘 で き よ う (3)。黒 河 へ の 中 国 か ら の 移 入 品 の ほ と ん ど は ハ ル ビ ン か ら 水
運 に よ り 輸 送 さ れ て お り 、黒 河 は ハ ル ビ ン の 商 圏 に 属 し た (4)。ハ ル ビ ン か ら ブ ラ コ ヴ ェ シ
チェンスクに直接輸出されることは、通関の関係からほとんどなかったと報告されている
(5)。
黒河とロシアの貿易動向は、常に黒河の出超であり、ロシアから黒河にもたらされる 物
資 は 少 な か っ た (表 8-9)。 対 ロ シ ア 貿 易 に よ り 黒 河 は 商 業 中 心 地 と し て 繁 栄 し た が 、 1923
年 6 月 に ソ 連 は 一 方 的 に 交 通 の 断 行 を 表 明 し 、正 規 の 貿 易 は 途 絶 し た 。24 年 の 黒 河 か ら ロ
シ ア へ の 輸 出 額 は 0.9 万 海 関 両 に す ぎ ず 、 前 年 の 187.3 万 海 関 両 に 比 べ る と 激 減 し た (6)。
そ の 後 、30 年 に ソ 連 は 極 東 貿 易 公 司 を 設 置 し て 貿 易 を 再 開 し た が 、34 年 に は 閉 鎖 さ れ て し
ま い 、 貿 易 関 係 は 消 滅 し た (7)。
ロシアとの貿易途絶後、黒河の取引先は黒龍江沿岸の諸都市となった。しかし、沿岸諸
都市の人口は少なく、物資の需要は少なかった。黒河経済にとって打撃であったのは、上
流 金 鉱 の 採 掘 が 振 る わ な く な っ た こ と で あ っ た 。金 鉱 労 働 者 は 最 盛 期 に は 3-4 万 人 い た が 、
1920 年 代 後 半 に は 数 百 人 に 減 少 し て い た (8)。 こ の た め 黒 河 の 商 店 も 減 少 し て し ま い 、 20
年 に は 約 700 戸 あ っ た が 、 27 年 に は 340 戸 に 減 少 し て い た (9)。
満 洲 国 の 1935 年 に 北 黒 線 (北 安 ~ 黒 河 )が 開 業 し 、黒 龍 江 が 凍 結 す る 冬 季 で も 物 資 の 輸 送
が可能となった。これ以前でも、陸路による馬車輸送は冬季にチチハルとの間でおこなわ
れ て い た が 、 船 舶 に 匹 敵 す る ほ ど の 輸 送 量 は な か っ た (10)。 北 黒 線 開 業 に よ り 、 ハ ル ビ ン
から黒河へ鉄道により輸送される物資は増えた。しかしながら、水運は鉄道に比べて輸送
費が安かったので、鉄道開業後も水運は消滅せず、鉄道と水運の間には分業的関係が形成
185
さ れ た (11)。 満 洲 国 期 に 黒 河 は 鉄 道 と 通 じ た が 、 ロ シ ア 貿 易 は 途 絶 し て い た こ と 、 上 流 金
鉱は衰退していたことから商業的に発展できる要因は存在せず、以前の繁栄を取り戻すこ
と は な か っ た (12)。
黒河ではロシア革命以前では、主にルーブル紙幣が使われており、黒龍江官帖はほとん
ど 流 通 し て い な か っ た (13)。 と こ ろ が 、 ロ シ ア 革 命 後 に ル ー ブ ル 紙 幣 は 無 価 値 と な っ た こ
とから、哈大洋票の流通が拡大した。その理由は、黒河はハルビンの商圏に属したこと、
1921 年 に 東 三 省 銀 行 の 黒 河 支 店 が 設 置 さ れ た 点 に あ っ た (14)。ハ ル ビ ン と の 決 済 に は 、上
流 で 採 掘 さ れ た 砂 金 が 現 送 さ れ る こ と も あ っ た (15)。
満 洲 国 期 に な る と 、満 洲 国 幣 へ の 移 行 は 順 調 に す す み 、1933 年 ご ろ に は 満 洲 国 幣 だ け が
流通するようになった。満洲国幣への移行がスムーズにおこなわれた背景には、黒龍江沿
岸での貨幣流通量は少なかったので、旧紙幣を一括して満洲国幣と交換することが容易で
あ っ た 点 が 存 在 し た (16)。 満 洲 国 幣 に よ る 幣 制 統 一 を 、 満 洲 国 側 の 金 融 政 策 か ら の み 考 察
することは一面的だと言えよう。
(1)「 黒 河 地 方 事 情 」『 通 商 公 報 』 705、 1920
(2)朝 鮮 銀 行 調 査 課 『 黒 河 経 済 事 情 』 1935
5頁。
(3)「 黒 龍 鉄 道 沿 線 地 方 事 情 (其 一 )」『 通 商 公 報 』 394、 1917
(4)満 鉄 総 務 部 調 査 課 『 黒 龍 江 省
其三黒河道』
(5)「 哈 爾 浜 と 沿 岸 黒 龍 地 方 の 通 商 」『 通 商 公 報 』 244、 1915
(6)「 黒 河 貿 易 状 況 」『 日 刊 海 外 商 報 』 257、 1925
(7)前 掲 『 黒 河 経 済 事 情 』 6 頁 。
(8)China, Imperial Maritime Cus toms, Decennial Report,1922-31 ,Aigun
(9)「 黒 河 商 況 並 商 戸 減 少 」『 日 刊 海 外 商 報 』 890、 1927
(10)「 黒 河 事 情 (三 )」『 日 刊 海 外 商 報 』 574、 1926
(11)「 康 徳 二 年 度 の 黒 龍 江 水 運 状 態 」『 満 鉄 調 査 月 報 』 16-1、 1936
(12)満 鉄 鉄 道 総 局 資 料 課 『 国 鉄 沿 線 背 後 地 経 済 事 情 調 書 (北 黒 線 篇 )』 1936
147 頁 。
(13)「 黒 龍 江 省 黒 河 地 方 事 情 」『 通 商 公 報 』 173、 1914
(14)満 鉄 庶 務 部 調 査 課 『 哈 爾 浜 大 洋 票 流 通 史 』 1928
12-13 頁 。
(15)「 黒 河 経 済 一 般 」『 日 刊 海 外 商 報 』 540、 1926
(16)「 黒 龍 江 岸 通 貨 金 融 事 情 」 前 掲 『 黒 龍 江 岸 経 済 事 情 』 所 収 。
おわりに
鉄道の敷設はマンチュリアの地域社会、地域経済に大きな影響をおよぼしていた。概括
的に鉄道は、移民の増加、農業生産の増加、商業的農業の拡大、通商ルートの動向、商業
中心地の盛衰に影響を与えていた。しかしながら、マンチュリア全域でこうした状況が一
律に進行していたわけではなかった。
農業生産の増加は中東鉄道沿線では生じていたが、京奉鉄道沿線や満鉄沿線は開拓時期
が早かったことから、農業生産は鉄道開業後も大きくは増えなかった。鉄道敷設後に商業
的農業が拡大し、中東鉄道沿線では大豆が選択されたが、京奉鉄道沿線ではコーリャンが
186
選択されていた。こうした相違は沿線地域が鉄道の影響をどのように受け止めたかの結果
であり、沿線地域の歴史的特徴が反映していたと指摘できよう。
通商ルートの動向、商業中心地の盛衰に鉄道は決定的な影響をおよぼしていた。鉄道開
業後に水運は大きな影響を受け、水運により栄えた商業中心地は衰退した。鉄道沿線から
離れた都市は、鉄道沿線の都市に商業的機能を吸い取られていた。間島において顕著にあ
らわれていたが、新線の開業は通商ルートを変化させ、それに伴い商業中心地も交替して
い た 。通 商 ル ー ト に 位 置 し た 商 業 中 心 地 は 人 口 を 増 や し 、都 市 化 が す す ん だ 。20 世 紀 以 降
のマンチュリアにおいて、鉄道敷設と都市化との相関関係は高い。中国関内では定期市が
おこなわれた商業中心地が稠密に分布した。これに対してマンチュリアは定期市網ではな
く 鉄 道 駅 が 流 通 の 結 節 点 と な っ て お り 、 中 国 関 内 と は 異 な っ て い た [安 冨 歩 2009]。
鉄道駅を中心に農産物が集荷され、日用品が販売され、商業取引は増大した。そのため
通貨需要も増し、過爐銀のような決済システムでは対応できなくなった。社会的通用性の
高い通貨を、通貨需要に見合うだけ供給する必要があった。しかし現銀保有量の増加は望
めなかったので、兌換紙幣の価値維持はマンチュリアでは難しかった。この限界を突破し
たのが奉天票であった。また、遠隔地間の決済ではルーブル貨や金票という外国通貨を利
用するという、特異なシステムを創出していた。
中華民国期では奉天票、吉林官帖、黒龍江官帖が省域をこえて流通することは難しかっ
た。金融面では東三省は統一されていなく、張作霖・張学良政権による地域統合は不十分
であったことを示している。こうした状況は満洲国期に改められ、満洲国幣による通貨統
一がおこなわれた。この点から、満洲国期の地域統合は、以前よりもその統合度は高い状
況に移行したと指摘できよう。
鉄 道 開 業 後 、マ ン チ ュ リ ア は 世 界 市 場 へ の 農 産 物 (大 豆 )の 輸 出 に よ り 経 済 成 長 し て い た 。
清朝の統治者たちに、こうした経済成長を政策的に達成する意図はなかった。旗民制の維
持が限界に達し、新たな地域秩序を州県制の拡大、総督巡撫制の導入により試みるなか、
外国資本が敷設した鉄道の運行がはじまり、マンチュリアは鉄道の影響を受けて社会変容
していった。鉄道開業によりマンチュリア内でのヒト、モノ、カネの動きは大きく活況化
した。大豆の生産状況、世界市場での大豆の相場動向、鉄道路線やその運行状況、紙幣の
価値変動などが、マンチュリア経済の動向を規定する時代になった。
鉄道運行の影響は、朝鮮人やモンゴル人にもおよんでいた。間島や鴨緑江流域では地域
開発がすすみ、その結果として朝鮮人の移住をうながしていた。朝鮮人の活動空間の拡大
とは逆に、モンゴル人は漢人による開拓の影響を受けて、より西方へと移動を余儀なくさ
れていた。こうしたマンチュリアの状況の上に満洲国は成立した。それゆえ満洲国 期の理
解には、鉄道開業により急激に社会変容したマンチュリアの状況を視野に入れる必要があ
る。
187
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1989「 昭 和 2 年 帽 兒 山 分 館 設 置 と 在 満 朝 鮮 人 問 題 」『 法 政 大 学 大 学 院 紀 要 』 22
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189
第6章 表
表1-1 マンチュリア農産物生産量(万トン)
年度
大 豆
小 麦
コーリャン
ア ワ
総 計
-
1914
147.7
48.2
206.4
134.3
-
1921
232.7
82.8
323.4
194.3
-
1923
310.6
75.4
477.3
160.0
1925
418.5
96.2
470.9
313.6
1,635.2
1927
483.0
144.6
450.4
322.6
1,755.8
1929
486.6
129.2
470.9
337.2
1,847.4
1931
524.1
158.2
453.3
298.3
1,877.5
1933
462.0
86.5
405.2
320.8
1,706.6
1935
383.9
102.4
400.7
296.8
1,571.2
1937
459.0
97.5
458.5
313.4
1,805.1
1939
379.1
88.9
426.7
290.6
1,634.4
1941
322.0
82.4
413.2
275.8
1,622.7
1943
311.7
37.4
461.2
245.8
1,638.9
1944
334.4
32.0
478.0
310.0
1,721.2
注:
『満洲産業統計』を参照し、明らかな誤植は訂正した。
換算率は『満洲の農業』1931 250 頁によった。
出典:1914 年は関東都督府『軍事上ヨリ観察シタル満蒙一般状態図表(経済之部)』1914
「満洲及東部蒙古主要農産物比較図」より、
1921-23 年は『満蒙年鑑』各年版より、
1924 年以降は Kungsu C.Sun The Economic Development of Manchuria
in the First Half of the Twentieth Century. Harvard University Press. Cambridge,
Mass.1969 p.31、p.58 より作成。
1
表2-1 中東鉄道貨物輸送状況(万トン)
年度
輸出貨物
南行
東行
西行
合計
輸入貨物
南行
東行
西行
合計
鉄道内
輸送
通過
貨物
総計
-
-
1906
4.6
0.7
5.3
9.9
2.9
12.8
19.5
3.8
41.5
-
-
1908
19.8
1.9
21.8
3.6
1.0
4.6
22.3
5.9
54.6
-
-
1910
41.5
2.5
44.0
6.2
0.9
7.2
36.4
7.0
94.6
1912
5.0
45.6
3.0
53.7
2.3
5.9
2.8
11.0
38.0
9.0
111.7
1914
7.3
41.8
1.3
50.4
11.6
6.4
1.3
19.4
40.9
9.1
119.8
1916
16.8
43.6
2.3
62.8
19.1
7.3
1.8
28.2
55.6 73.3
219.9
1918
45.3
18.9
1.1
65.2
14.5
3.7
0.1
18.2
49.6
1.1
134.1
1920
85.3
11.6
0.9
97.8
20.1
1.3
0.1
21.5
48.0
0.2
167.5
-
-
-
1922
77.1
60.9
138.0
32.2
2.6
34.8
75.5
248.3
-
-
-
1924
112.1
76.1
188.3
36.1
6.6
42.8
71.6
302.6
-
-
-
1926
132.0
120.8
252.8
43.7
7.8
51.4
119.1
423.3
-
-
-
1928
118.3
150.4
268.7
52.3
9.4
61.7
214.5
544.9
-
-
-
1930
72.1
130.5
202.6
34.1
5.9
40.0
178.8
421.4
-
-
-
1932
123.0
42.0
165.1
17.0
2.3
19.3
114.4
298.8
-
-
-
1934
46.8
15.9
62.7
9.5
1.0
10.5
135.5
208.7
出典:和田耕作「東支鉄道運賃政策と北満市場」
『満鉄調査月報』17-1、1937 10-11 頁より作成。
表2-2 中東鉄道農産物発送量(万トン)
年度
大豆
小麦
総計
ハルビン
西部線
東部線
管区
1903
2.5
2.4
11.3
2.7
0.9
0.9
1907
2.3
2.6
19.2
10.0
1.4
3.0
1910
29.6
10.7
54.6
15.6
13.4
8.6
1913
35.6
8.9
58.1
17.1
15.3
9.1
1916
36.9
12.3
70.9
23.8
20.4
8.1
1919
21.5
17.5
65.0
36.6
16.3
6.9
1922
90.4
13.5
154.9
54.3
49.5
14.6
1925
146.4
8.4
229.8
66.3
95.1
22.9
1928
199.0
43.7
354.7
117.9
127.1
48.2
1929
248.1
28.9
367.7
141.9
128.0
42.8
1930
169.2
16.3
270.6
99.7
89.2
49.4
出典:
『中東鉄路運輸統計 1903-1930』1932 53-55 頁より作成。
2
南部線
6.8
4.8
17.1
16.6
18.6
5.2
36.4
45.6
61.5
55.0
32.3
表2-3 中東鉄道農産物輸送方向別数量(万トン)
年度
南行
東行
西行
総 計
-
1903
0.4
0.5
1.0
-
1905
0.1
1.2
1.4
1907
0.4
11.3
1.5
13.2
1909
1.1
33.1
1.0
35.1
1911
5.4
57.5
3.0
66.0
1913
3.9
44.5
0.9
49.2
1915
15.8
56.6
0.7
73.1
1917
26.8
53.5
7.8
88.1
1919
33.2
20.4
6.8
60.4
1921
82.4
43.1
2.6
128.1
1923
88.6
69.0
1.2
158.7
1925
133.1
76.5
0.4
210.0
1927
141.1
141.8
0.5
283.3
1929
214.0
81.0
0.3
295.4
1930
85.7
129.5
0.3
215.5
出典:表 2-2 に同じ。
表2-4 ハルビンの人口推移(万人)
年度
漢 人 ロシア人 日本人
総 計
…
1903
2.8
1.6
4.5
1916
4.5
3.4
0.2
9.0
1918
9.4
6.0
0.3
15.7
1922
18.4
15.5
0.4
18.0
1926
31.1
7.1
0.3
38.9
1934
42.0
5.5
1.5
50.0
1940
44.0
2.7
3.8
51.7
出典:
「哈爾浜在留各国人数」
『通商彙簒』改 40、1903、
『北満主要都市商工概覧』1927 32-33 頁、
『満洲国現勢-康徳4年版』233 頁、
『哈爾浜経済事情』1940 3-4 頁より作成。
3
表2-5 チチハルの人口推移(万人)
年度
人 口
1907
4.0
1914
3.4
1918
4.4
1926
5.6
1932
7.5
1937
9.8
1941
12.3
出典:
「斉斉哈爾市情況報告」
『通商彙簒』72、1907
『満洲事情 第5輯(第2回)』1922、57 頁
『北満主要都市商工概覧』1927、641 頁
『斉斉哈爾経済事情』1939、6頁
「満洲都市人口動態の地域性」
『満鉄調査月報』24-1、1944
表2-6 牡丹江の人口推移(万人)
年度
人 口
1931
0.4
1933
1.1
1935
2.7
1936
4.3
1937
9.9
1941
19.3
出典:満鉄鉄道総局『牡丹江の現勢』1937、7頁。
「満洲都市人口動態の地域性」
『満鉄調査月報』24-1、1944
より作成。
4
表2-7 中東鉄道沿線各県の面積・人口(1930 年)
県名
面 積
(k ㎡)
ハルビン地方
呼蘭
巴彦
蘭西
東興
綏化
慶城
綏楞
鉄驪
浜江
阿城
海倫
望奎
通北
計
4,454
3,036
2,451
1,111
2,790
4,023
1,141
5,995
524
2,574
4,038
2,173
12,161
46471
可耕地÷
総面積
既耕地÷
可耕地
人口
(万人)
人口
密度
48.1%
64.0%
67.3%
54.4%
76.8%
45.2%
93.2%
31.4%
79.4%
58.1%
51.1%
80.9%
31.7%
60.1%
99.0%
95.2%
93.2%
25.2%
100.0%
37.7%
68.2%
8.6%
91.1%
95.2%
88.6%
91.2%
16.3%
70.0%
36.0
34.3
16.5
2.8
27.5
15.2
5.4
2.9
48.9
27.3
27.4
21.2
6.0
271.4
81
113
67
25
98
38
47
5
933
106
68
98
5
58
東部線地方
五常
珠河
葦河
延寿
寧安
東寧
穆稜
7,059
1,788
5,071
4,470
17,200
6,982
8,446
44.5%
93.1%
73.9%
72.4%
32.4%
15.7%
20.0%
53.4%
55.0%
12.0%
60.5%
35.9%
25.8%
41.2%
28.4
12.2
4.1
24.7
22.4
4.4
5.2
40
68
8
55
13
6
6
計
51,016
50.3%
40.5%
1014
20
47.1%
69.7%
55.2%
67.0%
89.6%
65.7%
83.8%
93.6%
99.9%
99.6%
91.4%
93.7%
42.8
54.7
53.6
41.0
34.2
2263
63
107
89
110
115
92
25.6
14.7
30.0
5.5
25
22
52
4
南部線地方
扶余
楡樹
双城
農安
徳恵
計
6,812
5,132
6,026
3,714
2,975
24,659
西部線地方
龍江
訥河
克山
龍鎮
5
10,141
6,627
5,749
14,657
35.3%
86.3%
79.6%
51.1%
58.4%
20.5%
49.6%
2.5%
甘南
景星
富裕
克東
徳都
青崗
拜泉
明水
嫩江
安達
林甸
依安
肇州
肇東
計
4,238
5,857
1,558
1,681
3,316
2,589
4,685
2,327
53,218
4,901
3,067
3,761
7,275
4,269
139,916
80.7%
52.1%
78.3%
93.4%
93.4%
81.0%
77.0%
74.2%
15.7%
38.1%
48.7%
70.1%
61.7%
54.5%
65.1%
5.6%
15.9%
34.4%
38.9%
11.2%
81.4%
89.0%
89.5%
4.5%
44.1%
58.9%
26.9%
52.9%
81.8%
42.6%
3.8
6.0
2.4
5.2
2.5
20.0
38.4
11.8
6.7
13.1
9.9
7.1
29.8
20.2
252.7
9
10
15
31
8
77
82
51
1
27
32
19
41
47
18
総計
262062
60.3%
61.7%
851.8
33
出典;
『満洲産業統計 昭和5年』1931 より作成
表2-8 中東鉄道沿線普通作物作付面積(100 キロ㎡)
年度
ハルビン
南部線 東部線
西部線
合 計
管区
1915
102
107
35
31
275
1925
140
126
48
115
429
1929
151
141
74
194
560
1932
145
141
77
202
565
1938
149
126
46
207
528
1941
148
128
44
227
547
出典:満鉄調査課『人口耕地及農産物ヨリ見タル満蒙ノ大勢』1919 307-316 頁
満鉄庶務部調査課『東三省農産物収穫高予想 大正 14 年度第3回』1926
『満洲産業統計』
、
『満洲農産統計』各年版より作成。
表2-9 中東鉄道沿線農業生産量(万トン)
年度
大 豆
小 麦
コーリャン
ア ワ
1921
70.6
44.8
70.2
49.1
1925
148.6
56.4
136.2
126.8
1929
239.4
86.4
130.1
139.9
1932
169.8
77.3
85.1
105.6
1938
190.4
69.4
100.8
133.7
1941
126.9
66.1
93.8
122.1
出典:表 2-8 に同じ。
6
表3-1 満鉄貨物輸送動向(万トン)
年度
大 豆
農産物合計
石 炭
1910
60.6(72.4%)
83.7(100%)
102.5
25.9%
30.4%
1912
59.4(59.0%)
100.7(100%)
174.9
23.9%
41.6%
1914
92.0(67.5%) 136.3(100%)
249.5
26.5%
48.4%
1916
96.4(64.7%) 148.9(100%)
241.1
26.5%
42.8%
1918
121.2(62.9%)
192.7(100%)
292.2
25.7%
39.0%
1920
168.9(51.2%)
329.9(100%)
317.5
35.8%
34.5%
1922
168.7(50.8%)
331.9(100%)
464.8
30.4%
42.5%
1924
171.9(55.6%)
309.0(100%)
607.5
23.3%
45.9%
1926
213.0(53.4%)
398.9(100%)
726.9
26.6%
48.5%
1928
256.6(63.6%)
403.6(100%)
868.0
23.0%
49.5%
1929
299.1(69.9%)
428.0(100%)
893.7
23.1%
48.1%
1931
292.3(68.6%)
426.4(100%)
732.6
27.6%
47.4%
1932
314.2(73.2%)
429.2(100%)
730.4
25.9%
53.8%
1934
276.8(63.0%)
439.3(100%)
930.0
20.3%
42.9%
1936
213.9(59.9%)
356.8(100%)
974.8
16.7%
45.6%
注:安奉線を含む。
出典:
『満洲交通統計集成』36-39 頁、
『南満洲鉄道株式会社
第三次十年史』上、520-523 頁より作成。
表3-2 大連の人口推移(万人)
年度
中国人
日本人
総計
1906
2.4
0.8
3.3
1910
4.2
2.7
6.8
1915
7.2
3.9
11.2
1920
15.0
6.3
21.3
1925
16.7
7.8
24.5
1930
25.0
9.9
36.5
1935
33.2
14.1
48.1
1940
43.8
18.2
66.1
出典:水内俊雄「植民地都市大連の都市形成」
『人文地理』37-5、1985 表5より作成。
総 計
337.0
100%
420.5
100%
515.1
100%
562.7
100%
748.7
100%
921.2
100%
1092.6
100%
1323.5
100%
1500.1
100%
17,530
100%
1856.3
100%
1545.4
100%
1657.3
100%
2167.1
100%
2136.6
100%
表3-3 大連港輸移出入額推移(1000 海関両)
年度
日本
関内
輸 入
1914
17,306
輸 出
合 計
移 入
合計
移 出
28,987
46,293
9,673
13,101
(51.7%)
1916
25,661
25,755
51,416
20,505
14,984
(47.3%)
1917
44,255
31,156
75,411
25,103
23,044
(47.1%)
1919
61,470
78,348 139,818
40,601
13,472
(53.9%)
1921
43,732
68,876 112,608
33,967
32,775
(46.7%)
1923
40,762
82,895 123,657
28,995
43,075
(47.6%)
1925
48,547
86,364 134,911
43,235
53,018
(44.2%)
1927
61,290
89,037 150,327
44,226
71,453
(39.9%)
1929
83,361 115,885 199,246
54,759
63,114
(39.2%)
1931
71,632 119,760 191,392
33,572
65,867
(45.1%)
注:
( )は総貿易額に占める割合を示す。
出典:
『北支那貿易年報』各年版、
『満洲貿易年報』より作成。
合 計
22,774
(25.5%)
35,489
(32.7%)
48,147
(30.1%)
54,073
(20.9%)
66,742
(27.7%)
72,070
(27.7%)
96,253
(31.6%)
115,679
(30.7%)
117,873
(23.2%)
99,439
(23.4%)
表3-4 満洲国期の大連港輸移出入額推移(1000 海関両)
年度 日本
関内
1933
輸 入
輸 出
255,286
146,463
合 計
移 入
401,749 47,521
(55.3%)
1934 299,836 145,370 445,206 30,213
(56.8%)
1935 333,284 149,953 482,237 18,005
(62.0%)
1936 394,982 188,745 583,727 22,168
(60.2%)
1937 440,447 221,895 662,342 17,893
(58.8%)
注:
( )は総貿易額に占める割合を示す。
出典:
『満洲国外国貿易統計年報』各年版より作成。
輸移入
輸移出
総 計
38,569
50,904
53,892
54,767
83,396
76,624
130,168
129,072
101,629
139,665
97,441
162,519
121,260
183,650
146,389
230,031
206,084
302,444
141,999
282,570
89,473
(100%)
108,659
(100%)
160,020
(100%)
259,240
(100%)
241,294
(100%)
259,960
(100%)
304,910
(100%)
376,420
(100%)
508,528
(100%)
424,569
(100%)
合計
移 出
合 計
輸移入
輸移出
総 計
35,310
82,831
(11.4%)
61,581
(7.8%)
45,035
(5.8%)
96,801
(10.0%)
97,065
(8.6%)
389,232
337,545
449,246
335,182
464,375
315,371
526,201
442,699
640,096
484,850
726,776
(100%)
784,428
(100%)
779,746
(100%)
968,900
(100%)
1,125,846
(100%)
31,367
27,030
74,633
79,171
表3-5 営口の人口推移(万人)
年度
人 口
1910
5.5
1919
6.1
1922
7.6
1931
11.3
1937
16.2
1940
18.5
出典:
『満洲事情 第2輯』14 頁、
『満洲事情 第4輯(第 2 回)』12 頁、
『営口の現勢』1925 11-16 頁、
「満洲事変後に於ける営口経済界の推移(1)」
『営口商業会議所報』144、1934
「満洲都市人口動態の地域性」
『満鉄調査月報』24-1、1944
より作成。
表3-6 営口輸移出入推移額(1000 海関両)
年度
日本
関内
1914
輸 入
輸 出
3,686
5,834
合 計
移 入
合計
移 出
9,520
19,895
12,586
(20.1%)
1916
2,649
3,890
6,539
17,484
12,858
(16.0%)
1917
2,616
2,488
5,104
19,985
12,695
(12.6%)
1919
3,448
8,961
12,409
25,880
11,884
(22.8%)
1921
3,363
6,275
9,638
36,928
17,772
(13.8%)
1923
4,894
2,905
7,799
43,463
27,336
(9.0%)
1925
6,286
3,884
10,170
42,903
26,844
(11.0%)
1927
5,862
3,568
9,430
36,887
28,175
(11.5%)
1929
6,759
10,385
17,144
36,890
22,132
(19.8%)
1931
3,515
26,528
30,043
20,494
65,701
(23.9%)
注:
( )は総貿易額に占める割合を示す。
出典:
『北支那貿易年報』各年版、
『満洲貿易年報』より作成。
合 計
輸移入
輸移出
32,481
(68.6%)
30,342
(74.3%)
32,680
(80.5%)
37,764
(69.5%)
54,700
(78.2%)
70,799
(81.7%)
69,747
(75.2%)
65,062
(79.1%)
59,022
(68.2%)
86,195
(68.9%)
27,518
19,828
23,047
17,795
25,074
15,500
31,967
22,386
44,811
25,097
55,383
31,268
61,197
31,522
49,036
33,182
52,269
34,296
30,740
94,936
総 計
47,346
(100%)
40,842
(100%)
40,574
(100%)
54,353
(100%)
69,908
(100%)
86,651
(100%)
92,719
(100%)
82,218
(100%)
86,565
(100%)
125,6767
(100%)
表3-7 満洲国期の営口貿易額推移(1000 国幣円)
年度
日本
関内
1932
輸 入
輸 出
5,007
25,205
合 計
移 入
30,212
15,199
(26.7%)
1933
11,483
17,618
29,101
19,739
(36.2%)
1934
9,641
16,213
25,854
12,504
(40.0%)
1935
14,344
17,689
32,033
6,091
(48.0%)
1936
11,684
23,308
34,993
9,562
(44.2%)
1937
37,666
21,449
59,116
4,983
(68.7%)
注:
( )は総貿易額に占める割合を示す。
出典:
『満洲国外国貿易統計年報』各年版より作成。
合計
移 出
60,499
22,158
17,172
21,404
26,336
12,052
合 計
輸移入
75,698
(66.9%)
41,897
(52.2%)
29,676
(45.4%)
27,496
(41.2%)
35,898
(45.4%)
17,035
(19.8%)
24,657
88,577
37,092
43,215
29,049
36,316
25,174
41,606
26,347
52,701
49,666
36,371
表3-8 安東の人口推移(万人)
年度
人口
1917
5.7
1922
9.9
1929
13.8
1932
15.5
1937
20.4
1941
31.3
出典:
『南満洲主要都市と其背後地 第1輯第1巻』1927 15-16 頁、
『安東誌』1920 32 頁、
『満洲商工概覧』1930 417-418 頁、
「満洲都市人口動態の地域性」
『満鉄調査月報』24-1、1944
より作成。
輸移出
総 計
113,234
(100%)
80,307
(100%)
65,365
(100%)
66,780
(100%)
79,048
(100%)
86,037
(100%)
表3-9 安東輸移出入推移額(1000 海関両)
年度
日本
関内
1914
輸 入
輸 出
11,328
1,549
合 計
移 入
合計
移 出
12,877
3,219
4,732
(53.1%)
1916
15,432
2,479
17,911
3,201
6,894
(54.4%)
1917
25,203
5,222
30,425
2,265
3,548
(70.0%)
1919
27,130
9,457
36,587
5,654
4,765
(57.7%)
1921
24,459 14,623
39,082
6,804
6,914
(59.9%)
1923
22,213 19,717
41,930
8,401
10,663
(47.6%)
1925
33,342
9,009
42,441
4,783
8,100
(48.9%)
1927
31,747
9,747
41 ,494
5,925
10,040
(38.8%)
1929
36,324
9,013
45,337
6,769
6,756
(49.1%)
1931
8,224 10,729
18,943
12,123
15,725
(26.5%)
注:
( )は総貿易額に占める割合を示す。
出典:
『北支那貿易年報』各年版、
『満洲貿易年報』より作成。
合 計
輸移入
輸移出
総 計
7,951
(32.8%)
10,095
(30.6%)
5,813
(13.3%)
10,419
(16.4%)
13,718
(21.0%)
19,064
(21.6%)
12,883
(14.9%)
15,965
(14.9%)
13,525
(14.6%)
27,848
(38.9%)
16,072
8,181
21,019
11,924
30,525
13,163
36,944
26,444
36,030
29,265
35,219
52,961
42,170
44,559
42,616
64,392
49,789
42,572
25,819
45,744
24,253
(100%)
32,943
(100%)
43,688
(100%)
63,388
(100%)
65,295
(100%)
88,180
(100%)
86,729
(100%)
107,008
(100%)
92,363
(100%)
71,563
(100%)
表3-10 満洲国期の安東貿易額推移(1000 国幣円)
年度
日本
関内
合計
輸 入
輸 出
合 計
移 入
移 出
1933
40,077
13,185
4,814
9,795
1934
57,771
10,603
2,649
6,829
1935
59,782
10,100
1,384
6,700
1936
72,882
8,231
2,372
6,023
1937
37,570
11,871
53,262
(49.4%)
68,374
(60.0%)
69,882
(62.6%)
82,113
(60.6%)
49,441
(53.6%)
1,455
4,471
注:
( )は総貿易額に占める割合を示す。
出典:
『満洲国外国貿易統計年報』各年版より作成。
合 計
輸移入
輸移出
39,164
(36.3%)
9,478
(7.8%)
8,084
(7.2%)
8,394
(6.2%)
5,926
(6.4%)
61,448
46,393
77,372
44,735
75,685
35,898
93,333
42,163
53,885
38,296
総 計
107,842
(100%)
122,107
(100%)
111,583
(100%)
135,496
(100%)
92,180
(100%)
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