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Page 1 金沢大学学術情報州ジトリ 金沢大学 Kanaraพa University
Title
「聖家族」の心理描写
Author(s)
飯島, 洋
Citation
国語国文, 72(1): 21-37
Issue Date
2003
Type
Journal Article
Text version
publisher
URL
http://hdl.handle.net/2297/38146
Right
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http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
ラディゲ﹁ドルジェル伯の舞踏会﹂︵原題震F富一合8目①
対象とされている。そして、その心理描写の方法と、レーモン・
族﹂を巡る批評・論考においては、明蜥な心理描写が主に評価の
た最初の新しい作品の一つである﹂と書いた。これ以来﹁聖家
る対象であるかの如く明瞭にわたし達の現実の内部を示してくれ
利一は序文に﹃聖家族は内部が外部と同様に恰も肉眼で見得られ
昭和七年二月に刊行された江川書房版﹁聖家族﹂に対し、横光
いは借用したのか、またどのような方法を使わなかったのか、に
ような描写方法を﹁舞踏会﹂から学んで﹁聖家族﹂に応用、ある
ことは略自明のこととされている。しかしながら、具体的にどの
って判断が分かれるが、兎に角﹁舞踏会﹂が大きな影響を与えた
の程度まで﹁聖家族﹂において実践されたかについては評者によ
別問題﹂と主張する。このように、ラディゲから学んだ方法がど
れが端整好美で綿密廻環の結構に達しているか否かはおのずから
典主義への意図があることは、疑いようない事実だとしても、そ
﹁聖家族﹂の心理描写
飯島、洋
︵2︶
る。一方江口清氏は﹁ラディゲと堀辰雄﹂で﹁あくまでも外貌の
︵3︶
模倣であって、本質的なものではない。﹂と、村松剛氏は﹁堀辰
QC﹃圖慧、以下﹁舞踏会﹂と略す︶との関係がしばしば指摘され
ついてはこれまで殆ど論じられてこなかった。江口清氏、澁澤龍
雄と立原道造﹂で﹁ラディゲの﹃舞踏会﹂を思わせるような、古
る。﹁舞踏会﹂は、二十世紀初頭の世相を背景に、ドルジェル伯
彦氏らが﹁聖家族﹂と﹁舞踏会﹂の類似部分の指摘を試みてはい
︵4︶
爵夫人マォーと青年フランソワとの密やかな愛情のうごめきを描
るが、これは場面の表現が似通っているということであり、それ
︵5︶
いた作品である。谷田昌平氏は﹁堀辰雄﹂で﹁ラジィゲの﹃ドル
はそれで大変重要な考察ではあるが、心理描写の﹁方法﹂とはま
︵1︶
ジェル伯爵の舞踏会﹄に学んだ方法がここで実践された﹂と述べ
﹁聖家族﹂の心理描写
二
﹁聖家族﹂の心理描写
た別のものであろう。
た。彼女はそれを自分のうしろにゐる扁理のためだとは気づ
られるものを抽出し、﹁舞踏会﹂とつき合せながら、影響関係に
初めて会った時分から、少しづつ心が動揺しだしてゐた。
a3絹子は、自分ではすこしも気づかなかったが、扁理に
かなかった。
ついて探り、更にはそこに見受けられる堀の意図について考察す
a4九鬼の死によって自分の母があんまり悲しさうにして
によって認識され記述されることである。単に人物たちの感情を
との一つは、登場人物の気づいていない、無意識の感情が語り手
堀辰雄の従来の作品と、﹁聖家族﹂を比較したとき目に付くこ
行きつつあった。/そして彼女はいつしか自分の母の眼を通
識らず自分の母の眼を通して物事を見るやうな傾向に傾いて
はせずに。lそして、それからといふもの、彼女は知らず
を持つやうになった。しかし、それが何であるかを知らうと
っていい。
細かく説明するだけであれば、必ずしも日本文学において﹁聖家
alかれは出来るだけ悲しみを装はうとした。だが、自分
a5扁理の乱雑な生活のなかに埋もれながら、なほ絶えず
して扁理を見つめだした。もっと正確に言ふならば、彼の中
で気のついてゐるよりずっと深いものだった、彼自身の悲し
成長しつつあった一つの純潔な愛が、かうしてひよっくりそ
族﹂を噴矢とするとも限らない。判断はかなり暖昧になるだろ
みがそれを彼にうまくさせなかった。
の表面に顔を出したのだ。だが、それは彼に気づかれずに再
に、母が見てゐるやうに、裏がへしにした九鬼を。/しかし
a2少女は、扁理を自分のうしろに従へながら、庭の奥の
び引込んで行った⋮⋮
う。その点無意識の心理の描写は注目に値するといえる。そのす
方へはいって行けば行くほど、へんに歩きにくくなりだし
彼女自身は、さういふすべてを殆ど意識してゐなかったと言
ゐた或る層を目ざめさせた。そのときから彼女は一つの秘密
たが、いつかその母の女らしい感情が彼女の中にまだ眠って
ゐるのを、最初はただ思ひがけなく思ってゐたに過ぎなかっ
ることとする。
本稿では、﹁聖家族﹂登場人物の内面描写のうち特徴的と考え
二
二
べてを抜き出してみる︵本文は筑摩書房版全集に拠った︶。
二
とが以前の堀になかったということは、その手法を自然に思いつ
語り手が人物の気づいていない心理を記述する部分、すなわち
a6彼女はさういふ・加川たちに川して何とも云へないにが
alは自分で意識している以上に九叩か牝んだことに対する悲
﹁彼は自分が⋮と思っていることを知らなかった︵気づかなかっ
いたというよりも、他者の作品からその方法を学び取ったことを
しみが深かったことを示す。a2a3a6は主人公岫埋の愛
た︶﹂というような描写が二箇所存する。︵本文はQ儲駕荘一九二
さを味つた。しかし、それか肺川山ため山桃妬であることに
の対象となる絹子が、n分では式つかないうちに岫皿を魚識し愛
四年版に、訳は東京創元社﹁レーモン・ラディゲ全集﹂に拠っ
予想させる。そこで﹁川踏会﹂を紐解くと、﹁聖裳族﹂と同様、
し始めることの描写である。a5は逆に、刎仰の紺十に対する無
た。但し解釈の不十分な個所が若干存するため、その場合は池宜
は、勿論、彼女は知づかなかつた。
庶倣の愛情の描堺である。a4は、紺・十が川魚紬に母の眼で物事
指摘する。︶
冒冒“圏罰く﹃o菖昌員ぃ。邑望昌曾①い①皇①目④冒騨言冒ぎぎ
を見るようになり、その紬果自分か肺雌のうちに斑辿された九鬼
をみるというものだが、細木夫人が九鬼を﹁霧﹃してゐたのにちが
︵熱に駆られたように彼は思うのだ、冷ややかな手だけが今
冒冨弱。邑昌旨。。﹃昌営昔麗gく。三島gog言。8匡厨の.
てよいだろう。測子の唯情は﹁咄.概族﹂の物州を動かしてゆく主
の自分をしずめてくれるだろうと。が彼は、多くの手のなか
ひない﹂ことから推して、やはり・肺理への蠅梢の萌芽を示すと見
助力である。また、作品末尾で肺埋か﹁死んだ九鬼が自分の裏側
でとくに一つだけを求めているのだとは、気づかなかった。︶
ラランソワの恋愛に対する考え方は、すでに作られている
色①切吻①貝﹄ヨ③ご厨助餌口の菖四涌匡﹃・
、員冒①豐忌.ニョ①題く豊一宮mP再室邑①吻①一級の国富o○回忌①の皇巨①の胃
註一再@m.冨畠の冨弓①皇巨④。割綴こ凰皇宮ごgゆく凰一註言い啓二①me﹃◎巨弾弓
○唇で①昌昌﹃①二厘④訂吻匡尉me⑦再西国心昌わゆ巨寓一㎡冒○員か厨討昌さ匡耐窃
にたえず生きてゐて、いまだにn分を力強く支妃してゐること
を、そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因
であったこと﹂を理附し、細木夫人が.柚理は﹁九鬼の化が緯のや
うに織りまざってゐる﹂からこそ救われると推断することからし
て、扁理が九鬼の死を深く悲しんでいる柵写は欠かせない設定と
いえる。
と言ってよかった。が、それを作ったのは彼自身なので、そ
二
語り手に幾場人物の内面すべてを見皿す役割を与えるというこ
﹁聖淡族﹂の心理捕写
三
る自分自身のせゐにした。
はそれを踊り子のための現在の苦痛から回避しやうとしてゐ
る。﹁自分への意地﹂は扁理への愛情の証左と考えられる。
の態度が扁理を自分たちから離れさせると考える場面の記述であ
ゐたのだ。さうして母からも離れて一人きりになりたい気持
b4彼女は心の中のうつたうしさを運動不足のせゐにして
るには、少女の心はあまりに硬すぎた。
で①画閻︲デー己戯胃昌?汚い宮①e①︸雪四目昌垂の壱○日シ画回かユ@国己○員闇
亀①×耳四目島己凰蔚.冨凰の︼︸駕路。冨寓8言話.︿︿臣①協恩尉舎①言○日口少
m・豊︾g烏茸野合﹃◎ロく閏①己毎月皇9行邑扁云匡①呂○駕
二のが巨一&︽a昌示さ二mg巨呂曾昌国恥︿︿莞昌ョ①三豊画昌﹀﹀2
対して﹁舞踏会﹂はどうであるか。
や、かうして歩いてゐるうちにまたひょっとしたら扁理に会
諦日日亀﹀︶
b3しかし、それが扁理に対する愛からであることを認め
へるかも知れないといふ考へなどの彼女にあったことは、少
しげな表情を離りつけてゐた。それは実に彼女自身への意地
のまにか、十七の少女に似っかはしくないやうな、にがにが
b5そんな風にこんぐらかつた独語が、娘の顔の上にいつ
に対して友情を持っているだけで、その細君に対しては何ら
れるのだ。﹁ぼくは思い違いをしたのかしら、ぼくはアンヌ
と予期していた。ところがその場になると、彼は平静でいら
そして彼女の前に出たら、何か特別な気持ちを感じるだろう
︵途中彼は思い続けた。﹁ぼくは、マオーを愛している﹂と。
であったのだけれども、彼女には、それを彼女の母への意地
の感情も抱いていなかったのではなかろうか﹂と彼は考え
しも自分で認めやうとはしなかった。
であるかのやうに誤って信じさせながら..⋮.
9画祇目骨で閉切目切目巴鼠協侶①三弾言具旬◎色く巴寓目一月呂閏目①画
た。︶
自己が持つ感情を自ら誤解・曲解するという傾向を持っていると
、撹
︲①︾gョ鳥胃烏旦︽
室目昌曽目角目牙圏昼目の行員目曾
以上のとおりであるが、﹁聖家族﹂においては、相手に対して
いえよう。すなわち、自己の中にうごめく感情を相手に対する愛
宮①豊巨①色目宮四目閏CO口冨具.F岱菖里厨呂闇三目①Q①ぬい具①扇①
二五
旦苛め①3℃○の曽弄﹃ご望琶憲邑秒ご再い宮門。①○○匡望邑酌、①の○厘の汀○○匡ぐ④茸
煙く豊一﹃陽呂忌冨画ぽい員.ご己茸○ヨロ?一ざ四目営○さ己晒①塵。①冒塾①昌①己旦巨一
情であることを見抜けない、あるいは見抜こうとしないのであ
る。blb2は扁理が絹子への感情を、b3b4は絹子が扁理へ
の感情を、愛であると認めようとしていない。b5は絹子が、母
﹁聖家族﹂の心理描写
﹁聖家族﹂の心理描写
一一一ハ
○口ご○ぬ罠①.
qe、
合省堅m隅98寄隅豊望①三月e騨忌号吻ョ目侭綴の目の色目C員.
︵﹁妙ね、わたしたちの仲良しの友だちだというのに、私た
ちはあの人の生活をちっとも知らないんだから﹂と。彼女
儲易旨各誌目号.卑自曾尉胃巨曽吻昌亘扁冒昌、
︵マオーは、自分たち夫婦のあいだに第三者が加わったため
ぬ○二ぐ①ご言里行四吋①国・巴①己︵﹃閂回国や○房も一口い医①臣﹃@厘×ぬロ①里夛邑騨彦秒臣舜①画一
は、噛まれた傷痕のような痛さを感じた。彼女はそれを好奇
の接触のときからはじまっていた。ド・セリューズ夫人を訪
酔い毎.の④耳①い@里一級己・巴置誌三つ農]巨思宮醇一昌邑o回国曾庁ヨ○首g思
に、こうまで喜びを感ずるということを、不安を抱かずに見
問したので、マオーの気持ちは落ちついた。ところが新しい
晶己○員ヨ凰の︼一ぐg弓三凰弄ロ冒昌﹃Q①守画己o言い少Qooop配四目opQ○三
心からだと思った。︶
まやかしが、彼女の誤解をまたしても延長させたのだ。今で
卑画国8勗附巳、目﹀己○昌駕一㎡壱一昼巨豊垣匡三己①弓言禺樹月円い
ることはできなかった。この不安な気持ちは、ほとんど最初
は彼女は、昔彼女の先祖たちが、いとこという覆いのもとに
宅稗乱の.卑口go尉さ冒建堅行.冨号四昌回①聡曽弓昌巨︽亘房里
1
愛のない結婚の罪を平気で犯したように、そうした姻戚関係
巳四巨冨昌日gg善い巨旨CO易国①ヨョ①昌彦①匡愚扇@号8COヨョ①弓①
四日
のもとに安んじているのだ。もうフランソワが、彼女には恐
い壱一巽○盲胃①幻臣員一己﹄旦○ロヨ筥弄壱一臣の色①で冨爾胃廻巨や二口①ご﹃①函①pop堅示
、
ろしくなくなった。︶
go田凰壽Q①ぐgH5ごo己彦①ごH四8一三邑昌の冨茸毎︾酌匡oog5Qo個堅.
を恨んでいるだけだと信じていた。︶
の策略に欺かれて、彼女は唯このばかげた接吻については夫
こ方ドルジェル夫人も、まだそのことを考えていた。が心
ソワは自分なりにそれを解釈して、それはパリではあり得な
その中には一種の率直な、信頼の空気が漂っていた。フラン
は、わずかな恋の希望さえ彼に与えるものではなかったが、
いっそうフランソワを幸福にした。もとよりそれらの手紙
︵それなのに彼女の手紙は、彼女がそばにいたときよりも、
損
。@8口8歳︾三目oQo侭堅賀胃易昌98園。、富農で閏目
シ房望シロロ①己ざぐ巴亘ご四目画勗2冨昌啓駕さ回国号思瀞冒ョゅ
︿︿6㎡豊島ap5愚9月冒凰扁日曾凰.C扁協5易白○房号8画
いことだと思った。フランソワが自分から離れているのでマ
画旨ユ巳①○①ご巴い①引回す⑫匡笥Qゆ
の茸い冨照目①旦巨OB員︶①帝貝昌昌里ョ豆①ョ①三gく。こさ弓画gご
①×勗希己。①勺﹀︶国汀駕冒国]弄匡国①ョ自呂蔚色貝堅苛冒①国営骨で○昌色①言
伊
の妻にこれほど満足感を覚えたことは、今迄なかったこと
られたものだとばかり思っていた。それゆえアンヌも、自分
幸福が、自分のそばにいる人、ドルジェル伯爵によって与え
るこの手紙の遣り取りに幸福を感じていたので、彼女はこの
は気がつかないことだが、実際そばにいる以上に喜びを与え
オーにしても今はもう警戒する必要はなく、そのうえ自分で
自分の愛情が見えなくなっているのか判然としない。踊り子を待
しまっているのである。一方﹁聖家族﹂においては、何によって
感によって、或いは夫が側にいることによって、見えなくされて
ーはフランソワヘの愛情を、或いは縁戚関係にあることへの親近
てしまったのか、その理由は大体の場合明確にされている。マオ
第一に、﹁舞踏会﹂では、なぜ当該人物が自分の感情を誤解し
この他にもいくつか同様の例が見られるが、その殆どに共通す
抽象的に記されるのみか、あるいはそれさえもない。扁理の﹁愛
出せるが、その他は、例えば心が﹁硬すぎた﹂からなどと極めて
つ場面のみは、その時踊り子を待っていたからという理由を引き
る性質として、自分が相手を愛しているという真の感情を認識で
の最初の兆候﹂の誤認だけは、﹁乱雑な生き方﹂が原因で、その
だ。︶
きず、何とも思っていないと思い込んでしまうというものであ
生き方は﹁死んだ九鬼﹂が自分を支配していることに気づかなか
ったためと明示されている。ただし、死者が自分を支配している
る。堀はこの態度を学び取って﹁聖家族﹂に応用したといってよ
いO
ことの無自覚というのも極めて観念的で、九鬼を芥川龍之介に、
扁理を堀に見立て、芥川の死の衝撃という作品外の現実を持ち出
最初に挙げた無意識の心理の記述は、﹁舞踏会﹂における先に
挙げた二箇所の例と自己の心情の誤解とを明確に区別し別個のも
さないと、理解が困難な点ではある。
第二に、自分の愛情を見抜けないことの持つ必然性の問題があ
のとして認識したと断定まではしがたい。いずれにせよ、自分の
本当の心理に気づいていない、あるいは気づこうとしない点に着
オーヘの愛情を、それぞれはっきり自覚できないでいるうちに、
る。﹁舞踏会﹂では、マオーがフランソワヘの、フランソワがマ
ただ、﹁聖家族﹂と﹁舞踏会﹂では、同じく自己の本当の感情
ずるずると二人の交流が続き、終局での破局に至るわけであり、
目し、方法として学び取ったのであろう。
への不知という描写であっても、かなりその性質を異にすること
愛の無自覚・誤認の持つ意味は小さくない。そもそも、二人の感
二七
も否めない。
﹁聖家族﹂の心理描写
主体に感じさせないというのは、まさに﹁心のからくり﹂である
るが、相手に対する人倫に反する形での愛情を、その感情を持つ
会﹂の表現を引用して、﹁舞踏会﹂の持つ特徴のひとつとしてい
ジィゲ﹂の中で﹁純潔な魂の無意識的なからくり﹂という﹁舞踏
情はドルジェル伯爵に対する背信にあたる。堀は﹁しエモンラ
やうに思はれた﹂と結ばれるのは象徴的だが、問題はその椀曲表
んだんと古画のなかで聖母を見あげてゐる幼児のそれに似てゆく
一つの季節を開いたやうだった﹂と始まり﹁少女の眼ざしは、だ
フェア﹂を重視した堀辰雄としては、作品冒頭が﹁死があたかも
特徴として、椀曲表現の多用を挙げることができる。﹁アトモス
定の達成を見た﹁聖家族﹂であるが、この作品の持つもう一つの
二八
といえる。ところが﹁聖家族﹂の場合、愛情を感知しない、また
現が登場人物からではない、語り手の視点からの心理描写に使わ
﹁聖家族﹂の心理描写
は認めようとしないところにどのような意味があるのであろう
れている点である。該当個所を抜き出してみる。
ティックな作品である﹂と回想したごとき切迫した精神状況も影
かに懸かれたやうになって書き上げた、私としては珍らしくパセ
て、﹁﹃聖家族﹄は私の経験した最初の大きな人生のなかで、何物
心理の描写が孕む作品のこうした問題は、堀が作品執筆にあたっ
し、誰かへの背信にあたるとも考えられないのである。無意識の
いくらか夫人を安心させたらしかった。
いらしいその青年の顔は、しかしその上品な顔立ちによって
C2その名前を聞いても夫人にはどうしても思ひ出されな
かってゐるのに、はじめて気づいたやうだった。
夫人はじぶんが一人の見知らない青年の腕にほとんど葬れか
Clその二人がやっとのことで群衆の外に出たとき、細木
︵7︶
か。扁理と絹子が恋愛関係に及んでも全く障害になることはない
響してか、﹁舞踏会﹂の方法を取り入れることに気をとられ、﹁聖
C3九鬼は、この少年を非常に好きだったらしい。それが
︵6︶
家族﹂の作品世界にそれを調和させることにまで思い及ばなかっ
この少年をして彼の弱点を速かに理解させたのであらう。
れはむしろ九鬼の死んだ時分からと言ひ直すべきかも知れな
めて会った時分から、少しづつ心が動揺しだしてゐた。⋮そ
C5絹子は、自分では少しも気づかなかったが、扁理に初
C4この仕事は彼の悲しみに気に入ってゐるやうだった。
たことを示すのではないかと考えられる。
様々な限界を孕んでいるにせよ登場人物の精綴な心理描写に一
三
に見える。さつきから自分をかうして苦しめてゐるもの、そ
C6突然、或る考へが扁理にすべてを理解させ出したやう
いO
のを読んだのであろう。なぜなら彼女は立ち上がったから。︶
知るためだった。きっと彼女は、自分の顔に時間がきている
て、時計代わりに、そろそろ出かける時間であるかどうかを
蜀崗画国や。﹄mロ①の①○画○ずい舜己一目、酔い画営己や閂⑥四壱画︻。①二宮四]一己つゅく画芦四吋○臣、﹄﹃
疑問形
であった。
a①画①国.四画易・○巨討8茸①己昌⑮駄目。ぐ①国凰〒里行呂員◎員包囲
れは死の暗号ではないのか。⋮それは彼には同時に九鬼の影
C7細木夫人はその瞬間、自分の方を睨んでゐる、ひとり
の○口ロや○コ己の冨己匡吋①融巳鯲耳①鳧四・①、二﹂巨頭①里︽胃国“旨5国釣ヨ︻皇巨①の①ロー固冒
○局○○国の冨国。①の.目巴の目一︺耳。pぐ凰舜宮。胃.蜀国ロや9mいく陰ご巨豊室噛堅O園
己里巴切麗邑me匙﹄o騨篇路①①ロロo宮ぐ昌一ヨ丹◎回国酌ヨ⑯行いo茸.言凰吻。①
の見知らぬ少女の、そんなにも恐い眼つきに鷲いたやうだっ
分にひどく肖てゐることに、そして、その少女が実は自分の
、○画︽︺詞R四口やgのロ①一①茸○宮く里?建つ画いa四国、行ヨ。旨い己巨﹃a①の。p
た。⋮さうして夫人は、その見知らない少女がそのころの自
娘であることに、なんだか始めて気づいたかのやうに見え
﹁舞踏会﹂にも登場人物の心理描写に少なからぬ断定回避表現
話しても何も恥ずかしいと思わないからだった。おそらくこ
︵フランソワが母にすこしも隠さないわけは、今度のことを
○○①巨禺勺
が見られるが、文法的に見て数種類に分類ができるため、それぞ
の純潔さはいろいろな事情からきているのだろうが、彼はそ
た。
れ分けて列挙してみる。
のほうがいいと思ったのだ。フランソワは今迄、純潔なもの
うか?︶
二九
は自分の心のもっとも不純な部分に見いだしたのではなかろ
ないのだと思うようになった。がこの味わいを、フランソワ
は、洗練されない味覚だけが、その楽しさを持つことが出来
を、とるに足らないものだと思っていた。ところが今の彼
推量形
夛匿いヨ画巨︽い○茸寓言哩画○①P巨噂延示CO回m三国屡冒○弓で色H○○皇屋①茸①口少
ョ智m8回目己①目①目○画茸①七○冒閏ぐgR昌尿目二・胃冒①合Q8目.
m画己のQO員①邑脅宮亜菌︲甲里庁巨室①言①胃①国己君①2﹃8画言思砺po閏
①罠①の①一①ぐ夢
︵マオーは鏡を出してみた。それは化粧を直すためではなく
﹁聖家族﹂の心理描写
﹁聖家族﹂の心理描写
三○
て、マオーの言ったことが嘘ではなく、彼女が本当にフラン
性質があった。ド・セリューズ夫人へ手紙を書いたと聞い
ソワを愛しているのだと、このとき初めてわかったのではな
申
。①ョ○ョ①昌寓侭]壱①号の里①貝︾星①胃冒冒昌匡弩昌3号①︺豊①
かろ︾うか?︶
少
①唇︽ぐ○口]目印二⑦H③宮IQ①くぃ口舌。①一口﹄一四画ごmQO匡厨四口ゆく巴詳I①一汀で一自助
尉ごゆ勗冨心︺いく四芦I目一己②、四戸のの﹄Q回国めい画弓”︽①巨国で①ご・①。①ご①の○罠ロ
副詞の利用言①具︲罫①など︶
呂呂邑の8国罰98目竺①︲ョ①日①色く○三四亨①斤呂・○邑置さ﹃8局
誤
一四里﹄己○痔寓Qoで巨国胃巨ロ①]二○○弓切。︼①固○①GOp再]釦の。①二①己屋○壷四℃①色巨
冨雪男昌農各望go目色鴫全目mo匡口
︵ド・セリューズ夫人の冷たさは深い慎ましさに過ぎず、そ
2℃①貝ん宮①自己⑦一日壱○脇ご罠急替Qいく凰庁易隅罵員﹄ヨ①己誘.
旨即C苞①冒号三目①号段q@房①ロ叙巨[壱・目①唱自号融の⑦﹃く①、
ず、自分から進んで夫の前に出向きたいほどだった。彼女は
れはたぶん、自分の感情を外にあらわすことが出来ない性質
︵告白の悲劇的な瞬間を思うと、彼女にはそれが待ち切れ
成程自信をすっかり失ってしまったので、他人にしいられて
のせいかもしれない。︶
の①ョ堅①﹃︵∼のように思われる︶の利用︵語り手からの内面の推
事を運ぼうと望んでいるわけだが、すでに帽子の場面がその
片鱗を示したように、彼女がこのように急いでいる心の中に
定としての利用はこの箇所ですべて︶
F三色昌旦豊昌着目畠、忌辱gいい$協易︾里酔亘扁さ.@﹃昌8口の畷
は、自分自身の意識しないでいることを罰しようとする、あ
の本能的な欲望が、多少なりとも含まれているのではなかろ
で①冒思閉雪竺聡⑦己旨急吋昌思戸豐二○戸a壼昌.o①耳騨旨綴.二聡ヨ匡凰︽
g函画8ョ目8号①名⑥豆扁呂①己g冒昌鄙﹃陽.号昌苛冒匡旨①輿
〆
○ごぃ豊名皀小菖︽含易苛8国g野①目8ョ慮曼○侭里号自①
﹂口、p﹄ヨ壱○耳①冨己昌目憲脇⑦邑巨○○①旨HgQ①一邸ヨp匡○昌○壹画○こヨQ①
箔うか?︶
でg8ぐgユ四忌昌︼芯、臣①Q⑦8全昌の①己農協︼骨①己己宮璽宕・Z①○○日も局〒
分の考えを抑制しようなどとしたことのない彼が、今日は自
︵今まで自分の感覚に手加減をしたことがなく、ましてや自
ご○臣吻騨の①宮一行○○口旬・庁.
︵読者も知ってのとおり、ドルジェル伯爵の性格の中には、
分にある種の考えを禁じようとしているのだ。他人が判断す
ム宮①夛畠色彦②ローロ①一目啓色ぐ色﹄一壱○冒己骨寓目④ご言︾ぬ臣守④]汀凰属国畠寺田﹃酌旨や○﹄m勺
﹄]ぬ自暫画○①叫冨○時己①ご詳望①言型○四巨切①具①言行言﹃①壁夛国再己①e①いい討買①臣の⑦ロ
みんなの見ている前で起こったことにしか真実性を認めない
る行儀作法よりも、われわれ独自が制御する心と魂の方が重
大であると、やっと彼にはわかったらしかった。︶
田国冒や白いごばく昌一で儲3国︻画巨ヨ①Q○個里Q①で昌切8国胃旦く舟.こ
い2国匡巴︽く○口ざ胃邑菖三m昌尉行里奇ヨ○①Qご﹂○二RQ①の。。Q軸己凹耳,
︵フランソワはここへ来てから、、まだ一度もドルジェル夫
人へ手紙を書かなかった。あの出発の日の沈黙を続けていた
いと願っているように思われた。︶
二協ョ匡昌耳、四①胃吋呂①一隅言易号苛胃曽昌忌の①昏器①三宮己R匡
︵ポールは、二人の友人関係がいくぶんゆるんできたのを惜
旦の蓉一菌.
しんでいるらしかった。︶
弔画﹃屋己①Q①○①の旨いで買い言○自切○○胃己目ご匡口①m︶ぬ宮]己①臣ぐ①国弄画函胃周①再
一望①貝①国席︺シご己①己三号画昌園①尉昌匡昌①貝菖この汀昌﹃野︾ず凰駕.
︵話し合ったように思われる一種の霊感から、アンヌもマォ
ーも、ヴェネッィアに行きたいような様子はなかった。︶
、
⑫①ロ︸毎℃己己。○い①再ゴケー昌弄Hご里、○雪壽①門・○①己屋閏己①﹃○.
︵ただ一人公爵だけは、この演しものをにがにがしく思っ
た。︶
これは正しくは﹁思ったらしかった﹂と訳すべきである。
田画罰自画︼一切gゴヴー昌一○.﹃己己﹃①弓。﹃①一
﹁聖家族﹂の心理描写
︵やっと、彼はわかったらしかった!︶
﹁聖家族﹂成立以前には﹁舞踏会﹂の翻訳は存在しなかったか
ら、原典の表現を直接堀自身が解釈して取り入れることになる。
堀辰雄は﹁舞踏会﹂での断定回避表現のうち主にの。ョ三①﹃の用法
﹁舞踏会﹂のごときはそれの有する純粋な、そして露骨なく
を﹁聖家族﹂に取り入れたと一応は考えられる。
らゐの心理解剖によって、実に僕を感動させたのである。
︵昭五・二﹁レエモンラジィゲ﹂︶
と書いている堀だが、心理描写に﹁やうだ﹂を多用することと、
﹁露骨なくらゐの心理描写﹂lこれは明蜥な心理描写と言い換え
ることが出来ようlとは矛盾する。断定を避ける椀曲表現は、描
写しようとする人物の内面に、完全には踏み込まない、あるいは
踏み込めないでいることを意味する。確かに、﹃舞踏会﹂の地の
文にも例示したとおり推定表現が少なくない。では、﹁舞踏会﹂
の﹁露骨なくらゐの心理解剖﹂に感動したにもかかわらず、な
ぜ、堀は心理の描写に、このような断定を避ける方法を用いたの
︵8︶
だろうか。﹁舞踏会﹂の真似ができれば何でもよかったのだろう
か。岡崎直也氏は、﹁堀辰雄﹁聖家族﹂の方法﹂において、﹁古典
主義的明蜥性を目指して客観的な語りを方法としたという点から
解き明かされねばならない﹂と述べ、﹁視点の移動をスムーズに﹂
重さ﹂を﹁手ごたえのあるもの﹂とする役割を担うとしている。
すること、そして﹁全知的なナレーションが断定的に語る真実の
gョ目量巨①デアル。熱狂的デァル。二、﹁アドルフ﹂﹁ドオル
⋮一、﹁白痴﹂﹁地獄ノー季節﹂弓ルドロールの歌﹂等。
白痴。ドストエフスキイの神秘をはじめて知ったのである。
マルドロオルの歌ノ神秘︵三日︶
﹁聖家族﹂の心理描写
しかし視点の移動の際に椀曲表現が用いられる場面は限られ、右
︵昭和四年八月の日記︶
ジェル伯爵ノ測踏会﹂等。烏“畳屋。デァル。優雅デァル。然
コクトーの指摘というのは一九二八年に刊行された﹁世俗な神
に引用した例は人物の心理を、対話したり傍にいる相手の視線を
を、﹁聖家族﹂以外の資料を見渡し、それと外国文学とのかかわ
シ両者共ソノ最高ノ部分ハ神秘的ナトコロデァル。︵七且
りまで含めて考察する論孜はほとんどないのだが、これは非常に
秘﹂︵原題●Fョ湧昏@号宮。患、本文は。冒目①g①目冒社一九二八
年版、訳は東京創元社版全集に拠る︶の
zo耳①の己◎ぬ宮①助︺四壱つ①一行冨巨国宕目舜一が己c宰屋①己屋ヨ蕩毎﹃①.○弓で凰昌
おかげで﹁卿踏会﹂のよさが一届解ったやうな気がしました
んだすこし前でした。そのせゐもありませうが、﹁白痴﹂の
﹃白痴﹂を読んだのは、数年前、ラジィゲの﹁舞踏会﹂を読
宅宛胃za田切ゆ嗣己田○F固く固いF両吻蜀鈩顕F固い己両Fシ蜀○zヨシ弓學騨
冒湯[@国①巨駕.冨湧誌﹃①号一堅借画自8”シロ○F宅函回Fシ
号3壱二g︽g四四且胃言宮①曾呂①さ皀④唱昌号冒④巽
旦臣目く里野①、型。闇8①駕巨昼で①冒貢①ヨ蕩尽ユ①巨漢.⑫。ヨヨ潟感恩ぐ蔚具
己屋ヨと、急﹃①○○コ目。④○二で①億己昌舜一@s昼屋@.○三コ○○①馨屋二句①旨茸①
し、逆にまた﹁獅踏会﹂をいつも連想させるので﹁白痴﹂を
F田国シFロ己○○宮司両ワマ○両⑦田炉か易望ヨ湧急ユ@回×全匡①
画③四口○○画ロ亘屋m二宮①一望Cご鷺二包示思豈匡臣ヨ①︵祁巨ぐ﹃、言昌②弓一①、亜○麗唾。
愛してゐます。あとでコクトオが﹁卿踏会﹂にも﹁白痴﹂に
︵昭九・六﹁ドストエフスキィの作品のうち最も愛読した作
①のこぶ示崩四国o①冒酔己①.○①盲一昌律協冒①国己昌いざ晨詠.
局﹃己冒○局g皇国吻諺勗○z両z国z蜀嗣丙.三ンF[×︶宛◎両.巳陛借間画8
ロ叩﹂︶
あるやうな影があることを指摘してゐるのを知りました。
れている。
堀は小品や日記で﹁舞踏会﹂の持つ﹁影﹂﹁神秘﹂について触
してみたい。
並要な作業ではないかと思われるので、多少回り道になるが検証
で、氏の主張には当てはめられない。碗曲表現を併用した理由
二
通してではなく、完全に語り手の視点から滞るものといえるの
三
は神秘の画家だ。ピカソは神秘的な画家だ。その神秘は彼が
う。人はかつて曲馬団を描いたように、神秘を描く。キリコ
︵僕たちの時代は、他日、神秘の時代と名付けられるだろ
という言葉が問題になる。
統括することと一応は考えられそうだが、﹃レムブラント光線﹂
に動かさうと﹂するとは心理の明蜥な記述によって人物を作者が
堀のいう﹁光﹂は人物の心理を照らし出すもの、そして﹁巧妙
った。たとえば昭和五年二月﹁新潮﹂に発表された﹁蕊術のため
ドストエフスキーを論じる際もジイドの作品を引用することがあ
堀は以前からアンドレ・ジイドの作品に言及することが多く、
偉大な画家で、すべての偉大さは神秘的であることから来
﹁ラ・フォンテーヌの寓話﹂、﹁ドルジェル伯の舞踏会﹂など
の蕊術について﹂所収﹁二つの傑作﹂には
る。優雅の神秘、つまり﹁アドルフ﹂、﹁クレーヴの奥方﹂、
は、﹁白痴﹂、﹁地獄の一季節﹂、﹁マルドロール﹂と同じよう
るものだ。しかし﹁白痴﹂の場合は、それと異って、僕を感
を見せつけられるのは、それはスタンダァル自身の意志によ
﹁赤と黒﹂の場合、僕がジュリァン・ソレルの中に自分自身
に神秘的だ。/優雅は滕朧よりも作品をはるかに見えなくす
る。ピカソは優雅そのものだ。それが彼の不可視性を確実に
である。﹁白痴﹂などに絡めての堀の記述は、彼が﹁聖家族﹂執
動させるものは、ドストエフスキイ自身の意志であるか誰の
︵9︶
筆以前から、﹁舞踏会﹂の﹁神秘﹂性に関心をもっていたことを
意志であるかはっきりしない。それは何か超人間的な力によ
する。︶
示している。
るもののごとくである。ヂイドの所謂﹁作品における神の部
﹁聖家族﹂の中では、それと反対に、私は諸人物に頭上から
ジイドが文壇に認められる前の処女作で、日本での入手は当時ほ
とあるが、これはジイドの小説﹁パリュード﹂︵原題も塾邑①m患、
分﹂が後者にはより多くあるらしい。
何処からともなく、云はば一種のレムプラント光線のやうな
ぼ不可能と考えられるので、本文は初版でなく普及したo国脇輿社
いつぽう﹁聖家族﹂自体に関しては次のような有名な記述があ
ワ︵やO
ものを投げようと試みた。さうしてその光と影の中でさまざ
文中の
一九二六年版に、訳は新潮社版全集に拠る︶の著者自身による序
︵昭九・七﹁小説のことなど﹂︶
まな人物を出来るだけ巧妙に動かさうとした。
﹁聖家族﹂の心理描写
事件を寄せ集めその上に光が一面しか照さない様にして強烈
おけると同じく陰影である。ドストエフスキーは彼の人物や
やうな気もしないではなかった。
女︵Ⅱ自分で想像した少女︶とは全く別な二個の存在である
漠然ながらではあるが、自分の前にゐる少女とその心象の少
ことの記述に、﹁舞踏会﹂を﹁聖家族﹂に活用させようと試みる
堀辰雄は、相手の側近くいながら、その存在を把握しきれない
︵昭五・五﹁ルウベンスの偽画﹂︶
な光を照射する。その人物の各々は影の中に浸り、その影の
上に免れ掛かってゐる。︵略︶ドストエフスキーの如きは、
夫等の暗黒さを尊重し保護する。︶
︵﹁ドストエフスキー﹂武者小路実光訳昭五刊︶
村﹂に至る諸作で、堀は﹁自己を含めて人間および人間関係の複
以前から関心を抱いていた。﹁ルウベンスの偽画﹂から﹁美しい
堀が直接﹁レムブラント光線﹂という言葉を使うのは昭和九年
雑さを捉えること﹂を狙いとしていたことが、池内輝雄氏によっ
に拠っていると考えてよかろう。
のことなので、﹁聖家族﹂執筆前後に本当にジィドのこの文章に
て分析されている。
ブラント光線﹂を引用したとき堀は自分が﹁聖家族﹂に﹁不可
﹁神秘﹂﹁不可視﹂への関心を示していたことを考えると、﹁レム
称の視点から記述する方法として﹁やうだ﹂という表現を使った
ドラマには神秘的な部分が存することに関心を持ち、それを三人
も、人間の心理を全ては捉えきれないこと、人間たちの織りなす
堀は、心理を明蜥に洗い出す古典的心理劇の方法を目指しつつ
︵旭︶
触れていたかはこれだけでは断定できない。だが、﹁聖家族﹂執
視﹂な部分、﹁影﹂を与えようとしていたことを想起していた、
と考えられよう。
筆前後において、コクトーの文章に基づいて﹁舞踏会﹂の持つ
とみなしてよいと思われる。
となると、﹁レムブラント光線﹂を、従来の説の略全てがそう
であるように、人間の心理を明蜥に映し出すものとだけ考えるこ
とは、梢一面的ということになる。
お前の中には何か見知らないものがあるのだ。
︵昭四・十﹁眠れる人﹂初出原題は﹁眠るつてゐる男﹂︶
﹁聖家族﹂の心理描写
現を使い分けた基準について考えてみたい。
三五
最後に、意識下の心理まで記述する﹁露骨﹂な描写と、椀曲表
四
関する部分である。本人たちがはっきり認めようとしない感情
互への想いに焦点が当てられており、殆どが相手に対する愛情に
人物の深層心理にまで分け入った記述は、扁理と絹子の間の相
の影﹂と気づくC6も、そうと断定することは避けており、夫人
いう態度が読み取れる。扁理が自分を苦しめているものを﹁九鬼
九鬼の生前の交流、感情に直接踏み込まず、そっとしておこうと
扁理の﹁悲しみに気に入って﹂いると推量するC4では、扁理と
﹃二一、
一二ユノ
を、語り手が刷挟する形になっている。なぜ本人たちが気づかな
が絹子の視線に筋き、過去の自分と娘が似ていることに気づくC
﹁聖家族﹂の心理描写
いのかという疑問は残るが、互いへの愛情を外側からでも描写し
似形で捉えられているといえよう。C6は絹子の感情を語るもの
7でも、絹子と扁理の関係が夫人の中では自分と九鬼の関係と相
それに対して、椀曲表現のほうは、程度の差こそあれ、すべて
だが、彼女の心の動揺と九鬼の死を関連付けようとするところで
ない限り、物語は進展しようがない。
登場人物の過去がかかわっているといえる。﹁舞踏会﹂では、本
堀は、扁理と絹子の、特に絹子の感情について積極的に心理解
は断定が避けられる。
いるのに対し、椀曲表現に関してはさまざまな場面で広く用いら
剖し記述する一方、九鬼と細木夫人との関係にかかる部分につい
人の気づかない心理の描写がなされる点は特定の状況に限られて
れている。それによって偏りなく作品全体に﹁神秘性﹂を漂わせ
既に繰り返し説かれているように、九鬼には堀の文学上の師で
ては、九鬼の死に対する扁理自身気づかない悲しみを述べる他
具体的には九鬼と細木夫人という、作品の中枢をなす扁理と絹
ある芥川龍之介が、細木夫人には芥川が密かに愛したといわれる
ている。それに対し﹁聖家族﹂では椀曲表現についても限定的な
子の一世代前の人物が関与している。細木夫人が、自分が扁理の
詩人・アイルランド文学者であった才女、片山広子が原型となっ
は、その心理に土足で踏み込むことを避け、﹁神秘的﹂な覆いを
腕に免れ掛かっているのに﹁はじめて気づいた﹂らしい時︵C
ている。二人の交流を間近で目撃し、芥川の自裁に深い衝撃を受
場面に用いている。である以上、堀にある意図があったと考える
1︶、彼女は九鬼を失ったことの悲しみによって樵悴していたと
けていた堀としては、彼らの内面には踏み込みがたい、認識し切
掛けたのだといえる。
考えられよう。そんな婦人の内面には深く切り込むことを避けて
れぬ部分を感じ、﹁舞踏会﹂などに学んだ椀曲表現によって九鬼
のが適当ではないか。
いる。九鬼の扁理への思いを推量するC3や、九鬼の蔵書整理が
と細木夫人のかかわる部分を﹁神秘性﹂の帳に包んだとの推定も
成り立ち得る。すると、絹子と扁理のお互いへの感情を意識下ま
で説明することにも、堀自身と、広子の娘で堀が一方的な恋愛感
情を持っていたとされる片山みね子との関係が影響していること
が考え得る。これは、﹁聖家族﹂という虚構に、実生活がどのよ
うにかかわり、作品形成に影響したかという問題に繋がるもので
あり、改めて考察したい。
彼は先刻強く自分の心を打った、この顔の中に隠れてゐる謎の
やうな或る物を解いて見度くてたまらない気がした。先刻受けた
印象が殆ど一秒間も心から離れないので、急いで何ものかを再び
く、未だその外にこの異常に見える顔は、今は又一層の力を以っ
検めようとするlといった様子であった。美しいためばかりでな
いlものがこの顔の中にあった。が、それと同時にこの顔には直
て彼に迫った。殆ど測り知られない滑持と帷蔑lそれは憎悪に近
ぐに人を信じ易いやうな臆くばかりの淳撲な或る物があった。同
の情をすらそへるやうにも思はれる。⋮アグライァは立ち止って
時に所有せられたるにこの対象は看る人の胸に、何となく憐燗
には微塵も気まりの悪さうな様子もなく、唯だ少しばかり吃驚し
手紙を受け取ると、頻りと不思議さうに公爵を眺めた。その眼色
たらしい色が覗はれてはゐたが、それとても察するところ公爵唯
昭四十六・三︶
﹁堀辰雄﹁ルウベンスの偽画﹂と﹁聖家族﹂﹂︵国文学漢文学論叢十
わない様である。︵第四絹・三︶
び上って又急に腰を下した。而も自分の挙動に最小の注意さへ払
二三分坐ってゐる中に、患ふいふ訳か二度迄も不意に椅子から飛
唇は僅かに標へ、手は落着き場処を知らぬかの様であった。彼は
奇心とで客の言行を剛察してゐた。老人は幾らか蒼い顔をして、
公爵は驚くといふ程でもなかったが、少くとも特別な注意と好
︵1︶﹁国文学﹂︵昭三十六・三︶
八注V
10
︵2︶﹁比較文学﹂一号︵昭三十三・四︶
へ
一人に関係してゐるらしかった。︵第一篇・七︶
︵3︶﹁国文学解釈と鑑賞﹂︵昭三十六・三︶
︵5︶﹁国文学﹂︵昭五十二・七︶
︵4︶︵3︶に同じ
︵6︶新潮社版﹁聖家族﹂あとがき
︵7︶﹁新潮﹂より﹁坐術のための坐術について﹂︵昭五・二︶
︵8︶日本文学論究︵平三・三︶
︵9︶因みに﹁白痴﹂では、人物の錯綜する心理が膨大な量をもって断定
けて語られる部分が散見される。堀はロシア語を読めなかったので、
形で描写される一方、同じ人物の心理が別の部分で椀曲的に断定を避
︵いいじまひろし・群馬県立館林高等学校教諭︶
三
七
ドストエフスキー全集刊行会版全集︵大正十四年刊︶の本文中で心理
の椀曲的な表現がされている部分を、一部だが引用する。
﹁聖家族﹂の心理描写
ノ、
ー
一
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