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昔芸術における Dynamis の再認識

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昔芸術における Dynamis の再認識
90
DynamiS
昔 芸術における
古典尊重のため
=
岡
月
A
恵
Revaluation of
三
の再認識
サこ
二
ChUZo TSUKIOKA
Dynamis
the Art
in
of
Music
-For@ the@ sake@ of@ classi s-
SUMMARY
As@ for@ the@ analysis@ of@ a@ musical@ phenomenon,@ F Helmholtz@ attempted@it@for@the@first
and@ K , Riemann,@
E Hanslick,@ E Toch,@ and@ others@ followed@ him,@ and@ at@ last@H ,
Mersmann@ has@ attained@ its@fullest@ development,@laying@ the@foundaLon@ of@ the@rule@of@reserving@ musical@ energy , And@ the@ explanation@ these@ scholars@ have@ given@ will@ be@ con
sidered@ as@ the@ most@ illuminating@ explanation@ that@ has@ ever@ been@ offered@ as@ to@ the@ way
of@ interpreting@this@musical@ phenomenon
Compared@ with@ this@ way@ of@ explanation , not@ a@ few@ other@ scholars@ have@ left@some
essential@ parts@ unknown@ and@ unrevealed@ in@ their@ explanation@ of@ music , And@ it@seems
that@ such@ a@ tendency@ has@ been , and@ still@is, prevailing@ and@ dominating@ in@ music ,
・
time ,
・
・
・
It@is@clear , however
, that@some@of@the@scholars@following@Helmholtz
, Riemann
, Hanslick
,
and@ Toch@ have@ gone@ so@ far@ as@ to@ put@ too@ strong@ emphasis@ upon@ the@ scientific@ way@ of
thinking , with@ the@ result@ that@ they@ have@ become@ inclined@ to@ ignore@ spiritual@ aspects@ of
the@ theory@ only@ to@ put@ their@ followers@ in@ confusion
This@ thesis, therefore , aims@ at@ having@ such@ a@ science , yoked@ attitude@ revised@ in@ this
field@of@ musical@ studies , To@ carry@ out@ this@ aim,@ the@ author@ here@ has@ made@ minute
inquiries@ into@ the@ phenomenon,@by@means@of@which@he@has@reconsidered@it@in@a@new@light
As@ it@is@necessary@ for@ a@ photographer@ to@PFepare@sensible@films,@so@it@seems@necessary
for@ the@ author@ of@ this@thesis@ to@ focus@ the@ glasses@ of@ his@ right@ j dgement@ upon@ the@ spir
itual@ aspects@ of@ this@school@ of@ musical@ studies.
In@ other@ words , an@ attempt@ has@ been@ made@ here@ to@ explain@ all@points@ of@ importance
in@ view@ of@ the@ reality@ of@ activities@ of@ the@ human@ heart
・
目
次
1. 昔 芸術の特質について
一 その心性との
Dynamis
-Tempo
的関係について 一
2. 青 芸術世界の中の 調音の分野について
一調,
性と Dynamis
3.
4.
Dynamis 一
作品と表現
一作品から得られる
5. 結
一
と
DynaImis 一
むぼ
昔 芸術世界の中の 時間の分野について
1. 昔 芸術の特質について
一 その心性との
Dynamis
的関係について 一
昔を素材とする 芸術 = 音楽を解説することは ,現今もなお ,困難を極めている。芸術の
昔 芸術における
Dynamis
中に,音楽については ,得心のゆく 解説にであ
ぅ
の再認識
91
ことがなく,それは ,音楽には霊性 があ
って,そのため 解き明かし 難 。 とされたり,従って ,楽曲は個々その場合場合に,互にそ
れを信じこむことのできる 人々 ひこ よってだけ,共通に 語りあ える, 傍 いものかのように ,
そんな程度の 答しか得られていない。 また一方,多面多角で ,そのため最高次元に位して
解釈されるべき 芸術であ るともされ,そこでは 建築と並び立つと 考えられ,
" 凍った音楽
が 建築に当 る " は ,もはや俗言となった。しかし, い づれも抽象性で 充満している 芸術で
あ ることを,同様に 強調して述べたと。うことに止まって ,その理解にお。
て ,確かなと
ころには,いまだ 達していない。
もろもろの芸術に 較べ, 舌 芸術は,その芸術的作用の 総体において ,著しく抽象的印象
で充満されているということ ,このことは,全くそのとおりである。 その経緯を理解する
ため,ゲーテ (J. Goethe
術の中に,最高とする
"
1749 ∼ 1832) の,次のことばを据えよう。 " 音楽をもって ,諸芸
とそれは,どのわけによってであ るか。 果して最も優位であ る
か。 それらを次のとおり 一瞥しょう。 もっとも,ゲーテがこのようにいったのは ,次のわ
げからであ ったろうと,次のわけは ,この草稿の全くの推量からいでられないのではあ る
が,しかもこの草稿にとっては 重要であ る。
" 芸術は夢だ "
と総じていわれている。 夢 とは,ここでは㎞ age の意味をい
う
。 ㎞ age
とは「感覚対象からの 刺激が,すでにこれにな。
のに,対象からの刺激に基ず いて ,心が
その内奥にっくりあ げたもの,としての ,心に得られた感覚 像 」つまり,覚面感覚的対象
の 刺激からはじまり ,これに基 ずいて得られたものとしての ,心の内面に現われたその
ものの スガタ をいう。 科学が,知的なものの 記憶に基ずいて ,それの加工によって生成す
るのに対して ,感性のものである芸術では,感覚的なものの 記憶が再現するとしてよさそ
うな,そういえば ,ボードレール (C. Baudelaire, 1821 ∼ 1867) は, " 芸術とは,感覚の
記憶術 だ " とした。 作家の側に立って 考えるに,制作の仕事は,その作品からの印象から
の 「ひろがり」としての㎞ age にこそ期待し ,この焦点に仕事が集中して 作出されるの
でなければならな。ということはたしかだ。 芸術品に対面した 鑑賞者にとっても ,作品そ
れ 自体をでなく ,作品からの「ひろがり」としての㎞age を受け容れているということ
は,またたしかである。 そして作品の 芸術的価値の 測定といったようなときも
image
に
負い,それの大小・高下がおし 測られるということも ,またたしかだ。
ところで, image に期待して作出される 芸術品にして ,作品のうちにそれの対象,つ
まり作家にとっての 可視的 可感 的対象が,其体的な感覚的 器 質の供与としての 役割を果し
ている,そう 見えている,或はそういってよい ,そのような芸術が存在すると ,これは具象
芸術であ る。 もつとも,芸術家はその 制作を通じてそれに 生れるべき㎞ age に期待し,
これを焦点とし ,これに向 って仕事を集中して 作出する。 と,さきに述べたとおりであ る
から,実存の感覚的対象の 供与にだ け ,これだけに止まっているような 場合のものを ,芸
術品として認めるわけにいかないのは ,いうまでもない。それとしても ,総ての芸術の中
に ,いま述べた具象的性質を ,音楽はまるで,全く含むところのない ,徹底的抽象性によ
って成立する 芸術であ る。 音楽の「 ヒビキ 」は,刺激体ではあったが,そして 感覚的な対
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月
岡
忠、
三
象 でも正しくあ ったのだが, しかし,その 生れた image を制約する何等の 具象性をも,
「
ヒビキ 」は有していなかったのであ る。 いま仮に, 劇 音楽だの,描写音楽だののとき , 森
羅 万象からして 得られたろうところの 具象的な音響を , そつくりと借用した 場合にであ
っ
たとすれば, これに関して ,われわれのいうべきことは 簡単で,音楽の培 外 のものだという
ことだけだ。 それは 昔 芸術の素材としての 意味のものとは ,決してならないからであ る。
ところで,具象的な 芸術においては ,その期待する image を誘発するのに 比較的に容
易ではあ るが,印象として 得られるところの ,それの image に対し,相応する 具象性の
故に,相応の度合の索制を 敢えてし,従って一方での確実性はあ っても (知的な確実性 は
あ っても ), しかし一方では image の不十分を
( 感性的な不十分を ) まぬかれられなく
なる。 芸術の発展 史 を締けばわかるとおり ,諸芸術はこのことから 救われるため ,あらゆ
る 努力をなしながら 発達したのであ った。 例えばデフォルマション
(deformation)もそ
の工夫のあ らわれで, この手法によると ,芸術家は芸術的対象としての ,見たもの,聴い
たものの「本質を 表現する」ため ,まず主要な観念と,従属的な観念とを見立てるが ,彼
はそれの 作 出に当って,双者を 誇大に露出すると 同時的に,後者をまるで 退嬰させる (H.
Taine, 1828 ∼ 1893) 。 人の目がみた ,外面白熱的な実存対象は,芸術家の 心がこれに見た
ものと,もはや置き換えられているのであ る。 芸術家が,対象に対面するや,芸術家に 独
特の Sense によって,対象から 既にして置き 換えられたもの (夢みたもの ), が 表現され
たのだと理解したら よい であ ろう 。 この夢みたものこそは image のゆたかな 「ひろが
り」をも誘い 出だすこととなるのであ る。
作家が,たとえデフォルマションの 結果としてのその 成果に, どのように期待してした
とはいえ,先に 述べた具象的芸術における , image への牽制乃至制約は ,具象性が,
これ
に存する限り ,全く拭い去られるというわけには 失はゆかないのであ る。 ゲーテが,音楽
を こそ最上だとしたのは ,
このことに理由づれられているらしい。 概ね , 次のとおり理解
することができる。 音楽以覚のどの 芸術のときも ,心が対象に協力し, これに共感を 得た
ろうそのときにおいてのみ ,そこで始めてその芸術的美に陶酔 し 得られる境地に 達しられ
るのだが (T. Lipps, 1851 ∼ 1914), 音楽に限っては 事情が大いに 違っている。 この芸術
は,他のどの芸術のときも 必要な,覚面の対象が示すところに ,心が協力するという 煩わ
しさにあ ぅ ところを知らない。 音楽には,寄る辺としての外面 ( 心の ) の場がない。 音楽
の美は,あなたの,ひたぶる な 内面 ( 心の ) にのみ,たちどころに 得られる。 あ なたにと
って,音楽のみこそは ,まるで自在に開花する。 この花は,匂いも 色も,あなたの心の丈
に後れて, まったくそのままなのだ。 芸術は image をこそねらいとし㎞age のなかっ
た芸術とてはなかったことに 考えれば,すべてが㎞
age
だとしてよいこの 芸術は,正し
くすべての芸術の 中に,冠絶している。そして音楽こそ 冠絶すると,ゲーテも 述べたそれ
の理解を,われわれは ,更におしすすめのである。
ラッセル (B. Russell, 1872 ∼
) が 哲 字の歴史とは ,心霊的なものと ,科学的なもの
との, 畢覚 はこの二つのもののたたかいの 歴史なのだが ,
といい,そしてこのたたかい
は ,いっ果てるともいいきれな。たぶん未来も 永遠に哲学の 課題であ るのだ. という意味
昔 芸術における
をも述べているが ,
Dynamis
の再認識
93
これは,われわれの 感性的なものと ,知性的なものとの価値的あ らそ
いを,過去に楓 刺し, 未 来に占って,あたかもいい当てているとしてよいであ ろう。 近世
哲学の隆盛時において ,
カントによれば ,
" 理性は感性の 上に立つ " であ った。 哲学史の
系譜をたどれば ,その古に遡 ぼるに従って ,知性的価値の優位を据えてい ,さればプラト
ンでは,そのイデア 説におけるとおり ,感性は殊のほか卑下されたのであ る。 延いて, 中
世紀キリスト 教神学派流の 教義の中では ,肉体的なものは ( 感性的なものは ) 悪魔でさえ
あ った。 次いで,デカルト (R. Descartes, 1596 ∼ 1650) を父とする近世哲学が , カント
(J. Kant, 1724 ∼ 1804) を 経 , へ一 ゲル (F. Hegel, 1770 ∼ 1831) に来たが, 亡 の天才的
哲 著者によっても ,心性の二側面のものとしての 精神的なものと 肉体的なものとの 関恥 @こ
関しては,十分には説明しき t.なかったのであ る。
ォ
Nihil est ln]Intellectu, quod non prlus fuerit in sensu.
いものは,知性の中にな。。 17 ∼ 18 世紀に開花した ,
あ らかじめ感性の F目 こな
イギリス経験論苗字 の ,
これは有
名な命題であ る。 この思潮は, とりもなおさず ,古代アテ不 ,ギリシャ,
ローマを経て ,
独 逸を中心に成長した 観念論を批判して 行なわれたものでもあ った。 すなわち,知性的価
値の偏重を,知性は先験的に得られていると 考えたそれを ,殊に思弁的なその論理に非難
を 浴びせたものだったのであ る。 この経験論にも , また批判が惜しまれなかったことはさ
ておき,人間成育における 現今の思潮においての ,環境の重視は,おおよそこの頃 よりい
でて 創 まったとしてよく ,また経験論が,明白な自覚を 屯って主張されたのは , F .Bacon
(1561 ∼ 1626), J. Locke
(1632 ∼ 1704),G . Berkeley
(1685 ∼ 1753), D. Hume
(l711 ∼ 1776)
らに代表されるとしても ,認識の源泉を,もっぱら経験に求める説諭らしいものといえ
ば ,古代においても ,既に見いだされるのであ る。
経験論哲学が ,始まりは,
イギリスで勃興したものから ,次第にその勢力を得,今や世
外的傾向のものとなりつつあ ることが,偶然事ではないということを ,芸術家らは,芸術
家らの各時代を 通じて,理解するのに容易であ るだろう。 そして
" 感性は,先天生得に良
い,知性は後天獲得のものであ る " と,いい易くもあ るであ ろう。 「自分の断片的な 経験に
しがみついて ,理論の重要性を理解せず,感性的局部的な 知識をもって ,普遍的な,
どこ
にでも適用できる 真理と誤認する」と , K, Marx (1818 ∼ 1883) や毛沢東 (1893 ∼
) ら
において排撃されたといっても ,
しかも, 昔 芸術は, 依然として経験論の 中のものなので
あ る。 そしてこの芸術には ,心性生成にとっての重要な示唆が , 実はかえって 含まれてい
るらし。のであ る。 経験をたよりとしてこの 芸術を解明するところには ,哲学の昏迷に灯
を点ずるようなことが ,あるかもわからぬ。 局部的な知識を ,普遍的な真理と誤認するど
ころか,普遍的なものとしての 音芸術故に,それの解明から導きだされた 普遍的な理論こ
そ真理であ る。 と ,それに到達し得られるかもしれぬ。 この意味からして ,われわれの企
ては ,ひとり昔 芸術のためとだけには 限らなくなるのであ り, 昔 芸術の本質に 考えても,
それが当然だといってもよいこととなるのであ る。 なぜなら 昔 芸術が,本来心のたけのも
のだと。ぅ ことは, このことは真実であ るからであ り, また, このゆえにこそ 音楽にば 霊
性があ ると見なされて 来たものだったことは , まだたしかなことであ るからであ る。 霊性
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恵
三
があ るとされたのは ,心のたけのものだということの 異なったいいかたにぼかならなかっ
たのであ る。
2. 昔 芸術世界の中の 調音の分野について
一調性と
Dynamis 一
すくなくとも ,
あ とから述べる 時間の分野との 有機的な結合によって 得られるわけ
と
なるのだが,音楽とは,音楽からわれわれの精神界にはいりこんで 来る,その力感から
して受けとられた ,内観的な緊張惑 だの,したがって,それから解放された弛緩の感じだ
の,これらによって代表的に説明されてよい ,まったく心の内観に得られる ,抽象の芸術
なのであ る。 この説諭 は ,
し,
源泉を, He ㎞ holtz (Lud ㎡ g Ferd 面and, 1821 ∼ 1894) に 発
(Karl wiIhelm JuIius Hug0 , 1849 ∼ 1919) によって展開され (E. Hans
Riemann
Ⅱ ck をふくめて ) Toch
)
(Ernst, 1887 ∼
) を 経 ,現在 Mersmann
(Hans, 1891 ∼
において頂点を 築。たところの,現今。
こ おけら最も進歩的で 全く真実性に 富む,そ
して新鮮な学説であ る。 その理につれて ,音楽の美は,その " 時間的に流れわたる 力感に
聴きとられる
の ょう
"
とは,現今もはや 定義的であ るとしてよい。 音楽の,究極的にいわれるこ
な内観に対して ,昔がどのように関係するか, この部門はこの 問題に答えるための
部門であ る。 音楽に聴くことは ,とりもなおさず " 鳴り響いて来た 心 " を 聴 。て 。 ること
なのだが,心に対して,昔が力性感をもって 作用するという ,それが果して木質的なもの
であ るならば,昔がこの 任に負 う 経緯が説明 づ げられなければならず ,それらを解き明か
すことが, この部門の任務となるのであ る。
昔によって示される 音楽的印象の 部門を思考するにあ たって,われわれは ,従来の因襲
から,まず開放されなければならないが ,音楽に関係のある 昔 とは,調性に関し,多少と
もこれに意味をなしている 青でなければならず ,かつ音楽の音は, この意味に叶 う 昔に 限
るということを ,あらためて正視する 必要があ るのであ る。 それは,音楽の力性的感覚は ,
調性に聴くところに ,
これに得られるのであ り, したがって音楽的内観,つまり 青 芸術に
おける感動は ,調性に関係ある昔に担われて 得られるのだからであ る。
童謡だの, 僅諾 だの,民謡だの,音楽の最も素朴なものの 発生する相についてみるに ,
それらは,後に音楽で調性とよぶところの ,人が音楽から聴き取ることのできる 安定感に
いでて, これに生れたものだということがわかる。 安定感といっても ,安定とは,不安定
と相対し,たとえば ,不安定の後に乗った安定のときに ,これに得られるべき ,実は相対
的感覚であ って,別にいえば ,音楽的安定感とは,揺動と静止との交錯する印象だとして
よく,また音楽に 聴くところに 得られた,精神的な 張力としての 波動的な運動感覚であ る
としてもよい。 この調性感は , 人にとって,先天的な 能力であ って,同様にも 一つの先天
的 能力であ るところの,音楽的時間性における 能力とともに ,音楽のために基本的な天与
の能力なのであ る。 したがってまた ,当然音楽の謎を解くための 重要な鍵を秘めてもいる
のであ る。 音楽学生らは ,音楽をも含めて,芸術一般をもまたおおむねは「学ぶ」として
なたの心の中に 眠っている, ということに 開眼
来たようだが ,音楽的能力は,いまも,あ
昔 芸術における
Dynamis
の再認識
95
16
5
ⅠⅠ
4
Ⅰ
lⅠ
口
ヰ令
鳴音
亜Ⅱ
長
Ⅱ調
0
ユ
つ第
8要
6
Ⅰム
5 Ⅱ
4
8V
2
C
ユ ー
されるならば 幸であ る。 音楽の能力は ,たとえば Mozart の殊にその幼少の 頃 の作品にみ
ることによってたしかであ るとおり,ほとんどまったく 天才に負うている。 この引例にき
け ばわかるように ,音楽ともっとも近いとされる 建築芸術との 比較においても " それとし
ても
奔 れた建築は,建築学の基礎なくしては 得られない " ところに,音楽は 本質的にそう
ではないということ ,また,音楽が
,他のどの芸術と較べても,格段の特異性を示してい
ることが, ほとんど立証されるのであ る。 調性感は, 音楽学以双の ,
人の能力なのであ
る。 いうまでもなく 音階以前の能力でもあ る。 この先天的能力について ,どのようにして
われわれの音楽が 生み出されたか ,これについて, C.Sachs は , " 音楽の魔法のもっと 以
前のもの " といって。るのであ るが,われわれは,そのものもまで追求する喜びを 頒たな
ければならない。
さて,昔は,音波の
刺激が,内耳に加えられて生じた 感覚で,聴覚にお。
てとらえられ
る。 その音波は,物体の振動からして 得られ,昔の性質は,振動の性質,したがってこれ
に生じた空気の 振動波の性質によって 定まる。 いまその高さに 限っていうと (われわれの
課題は,さしあ たっては高さにかけられている ), その相異は振動数によって 定まるのであ
る。 われわれの調音 (調性を担っている 各 昔のこと ) は , 常にほとん・ ど 複合音 (c0npaund
tone) だが,純音 (Pure tone 倍音を含まない 音叉の青のような 音 ) と区別せられ , それ
は, HelmhoItz によって現象物理学的分析が 行なわれ,第 1 図のとおりのデータが 得られ
ているのであ る。
外面からほ,昔のための,自然の振動現象から ,くわしくいえば昔の複合現象から ,心
性の内面からは ,
われわれに先天的な 感官感受に応じてこれに 得られる, 感性的心的作
用 ,この能力からして,両者内外自然法則的な 能力の結合として ,かくして調性感は超人
間的な,自然の法則からして ,われわれが得たところの 能力なのであ る。 むしろ,われわ
れの存在の法則のうち ,そこにね もっていた能力の ,これは却って覚醒であ ったとする 方
がよ いかも知れぬ。 覚醒だというのは ,次のとおり 発展的に解釈されて よ いからであ る。
音楽上の各 舌は ,倍音現象に見られた,すなわち,自然法則上に確かめられた 基音 と倍
背上に,それらの各 昔を往来しているという 根本的性質があ ることがわかり , したがっ
て,われわれにとって 歌いやすかったような 音系列は,倍音として得た自然現象上のもの
であ ったことがたしかとなり ,歌いにくい場合の音というのは ,この法則からはずれた場
合 のものだというわけが 明白となった。 ということは ,たとえ楽音とかつて呼びならされ
た昔を,時間継起的に連続羅列したとしても ,倍音現象の自然法則性に 叶わないような ,
そのような形式であ ったときは,これに は , 昔 芸術的作用としての 心性をよびさますはた
96
ら
月
岡
忠、
三
きがまったく 起り得ないことがわかったのであ って,音楽は自然の法則を 奏でていると
いうことが, さしあ たってたしかめ 得られたのであ る。 しかもこの説明は , 同一の法則上
に, 更に次のとおり 発展する。
( 音楽的調音の ) 自然法則性に 従えば基音 DO は,その調のすべての腕 往昔につき,母
体たる昔であ る。 調性感意識においては , " 基音 DO が, もしも無いなら ぼ DO 以外のい
ずれの音も無い
"
ということができる。 また DO 以外のすべての 音は,それが調性感意識
の上にのぼり 得られたとき ,つまり,
DO に対しての何らかの 意味をなすときを 限っての
み ,それらは調性の担い人としての 意味に叶うことができる。 基音 DO に対し,最初に最
も密接な倍音といえば ,第一番目の倍音としてのオクター ヴ 昔であ るが, この音は調性感
上には同音回帰によって 基音 DO
に回収せられ , そこで調がとりあ げた 斬 らしい最初の
昔は,第二倍音としての SOL 音だということとなる。 次には第三倍音があ るが, これも
基音に回収されるから ,第2 の新たな音として ,第四倍音 MI 昔を , 得ることが出来る。
調 感の担い人としての ,重要な音は,われわれの立論にとっては ,倍音現象上の, ここま
でに拾いあ げた「姉つの 音」であ る。 他の無数の倍音は ,人間の耳にとって多くの意味を
有しない。 それらは,心の耳に関すれば ,更に一そう 無意味であ る。 ここでわれわれは 科
学 過剰に陥らない 方が よ いのだが,そのわけは ,後に明山となろう 。
物質があ ると, これには重さがあ る。 あ る物質が,ある距離だ け 移動したとすると , 重
さと距離の大きさとを 掛け合わせることによって ,その作動力の大きさが,概念的には 成
立する。 どんなものであ れ, 自然のまま,全然静止して 在れば, これには助力はないが ,
この静止している 物質が動き始めるとし ,
どんな速度で 動いて, どんな動力がこれに 生じ
るかというような 考えによって ,静止している物体にも,可能性としての 動力が保存され
ていると考える。 これがエネルギー 保存 別 といわれるところのものなのであ る。 ここで 注
煮 しておきたいことは ,蝶が舞っているとすれば ,
これには,小さいが 相応の動力が 計上
されてよいし ,反対には,富士山のような
巨大な重さも ,
自然のままで 全く動いていない
ならば,動力は理論上計上されないということであ る。
これは,物理的動力を 測量するときの 概念であ るが,われわれの 精神界は,その醒めて
いる限りは,絶え間なく動力的経験の 中に棲んでいるのであ る。 行為や行動には ,その行
為し行動した 大きさと, 自分の躯の重さとから 割り出される 動力が,精神的な経験内容と
して,必ず伴 なっていたわけなのであ る。 それらの経験 は ,
目覚されていたものも , 目覚
されなかっだものもあ った (疲労感を得たときと ,それにはおょ ばなかったときもあ った
よう に ) が ,常住必ずしも ,それを目覚していたとは 限らなかったにもかかわらず ,次の
とおり。えるのであ る。 すなわち,人が若し,身体的な,外面的な動力を経験すること
が ,全くなかったのであ れば,人はその精神的ファイト ,つまり,
む 性の有する ェ ネルギ一
の温存を得られなかっだということ ,つまり無為徒食する 人が,還しい精神力を蓄えてい
るようなことは ,本来在り得られな。
のであ る。 ところで,疲労こそ 外力を自覚した 代表
者であ ったのだが,すでに 精神内面のものとして ,
これに得られた 心のファイトは ,おお
むね,却って疲労を克服するものとなって 顕現される。 精神力
は ,外力としての精神的
重
青 芸術における
Dynamis
荷に対してそれを 燃えっくさせる 心の人のための
97
の再認識
,まるで,薪のような
役目を果すものと
して顕現される。 それは,精神的内面のものとして ,外面の条件に照応するし,時には,
まるで似てもつかな。 反対な性質を 示すものとなって 顕現されることさえもあ る。 これは
一見驚くべき 変容であ る。 また変質でもあ
ころでもあ
る。 物的測量の世界からは
る。 しかし,まるで 変容変質してみえる
精神内界のものは
説明づけられないと
,実は外界の物的経
験 がなかったならば 心性の中にはいりこむに 由なかったのであ る。 この精神内界にはいり
こんでいるところのものを ,われわれは Dynamis と命名するの・であ る。
われわれの外面のもの ,つまり自然界現象学上の 条件が,われわれの身体的肉体的に ,
直接に刺激を 加えると,これが精神内面にはいり 込み心性はこれに
に帰せられるということを
生成する。 生成は自然
,誰でも経験した頁近 な例にとって ,い立見たのだが ,その類
似の多くのものは ,ここでは省略するとし ,このことに得心が得られれば ,われわれの目
的であ る 昔 芸術において ,個々の調音の示す機能を , 次のとおり容易に 理解できるのであ
る。
その調のすべての 調音との関係において ,現象学上の母体であ ったところの 基音 DO
は, 昔 芸術生成に際しても ,全くの自然青 であ る。 われわれの「姉つの 音」のうち,基音
DO に限っては,現象実験上の 基音としてそのまま ,更にいうと現象学以双の 自然音とし
てのそのまま ,それで昔 芸術に臨んでいる。 それを身上とし ,この本領において昔 芸術上
の役目を担っている。 この音はエネルギー 的 計算においては 零にひとしい。 それは富士山
のように自然のままで 静かで不動の 山,いや,
昔 なのであ る。 この音は,この 理由によっ
て , 昔 芸術上においても ,そのエネルギー感を分け持つべき 役には,役立たない。
基音はしかし ,この本来の性質ゆえに,それ自身だけで独立していると。
のであ
る。 それは,他の調音 と, 次のように関係する。
「姉つの音」のうち
ぅ
ことがない
,基音 DO
を
除いて, SOL 昔 そして MI 昔は,基音からの第二そして第四の 倍音としてのものを , 昔
芸術がその素材として 拉致したものであ ることについては 述べた。 自然科学によって 捉え
られた現象上の 事実が,音楽における 芸術的な印象を
,根元において生れさせたらしいと
いう暗示は,すでに得ている。 このことが暗示にいでて 起ったが,研究の結果,正当にそ
うであ ったことについては ,すでに述べるには坐 らないのではあ るが,主張したいのは ,
だからといって 芸術は,科学にすべてを 負うていはしないのだということ ,
この主張によ
って,われわれは ,以下の倍音を顧みないのであ る。 G.Revesz(1878 ∼
) の音響心理
学ほついてみれば 現象と印象との 関係には無数の 誤差が , 却って生じるのであ ったことが
実験的に証明され ,その誤差は心理学的な心性加工によって 得られるところのものだとい
こ
,つとが,ことこまかく諒解できるのであ る。 さて,音楽的生成にしたがって , 昔 芸術の
担い人としてこれに 与する倍音は , 必ずしも倍音現象に 得られた法則をそのまま ,それで
音楽を担っているのでは
根木条件にもかかわらず
,もちろんない。
それは,倍音現象に法則づけられているという
,しかし拡大され,個性は拡張され,それ自身で完成された 昔 芸
術の担い人として 母体たる基音 DO に,相対している。しかしまた SOL 青と MI 昔と
は ,本来倍音だという 根本の理由によって ,その母体たる基音 DO にいずれは統轄されな
98
月
岡
恵
三
いわけにゆかな。。 この発生的根本原理に 説明づけられながら「姉つの 音」の相互の 間に
は, 次の印象的機能が 生まれる。 そしてこの機能はまったく 便宜的ではあ るが,エネルギ
ー保存 別 に籠りて,宛もよく 理解されるところとなる。
基音 DO
以外の。づれの調音も ,基音 DO
組成に当って 彼らは,エネルギー
的 寄与をなし
に較べればエネルギー 的であ る。 昔 芸術の
以 って 昔 芸術の力性的機能を ,果さしめ
るのであ る。 各調音の,おのおの有しているエネルギーは ,それぞれ,分相応の
大きさで
あ る。 分相応とここで。うのは,調性に 寄与する立て 前からで, したがって, 昔 芸術が一
そう発展して ,たとへば 転調に臨んだような 場合には,各調音の位置づけも当然移転し ,
またそれに 従 れて,彼らのエネルギーも 新たなものとして 転移する。 しかし,調が 移動し
終ってそこに 新たに据えられれば ,彼等のエネルギーも ,本質的な,
調惑 上の彼らの法則
に帰せられ,次のとおりとなる。
倍音系数次序の 低次序なるより ,高次序なるにしたがって ,その保有するエネルギーが
増大する。 元来,われわれのここに。,精神内容としてのエネルギー 感 (Dyna ㎞ s) は ,
ぅ
自然に対する 抵抗感の
ブて
小にⅡ帝 せられ。てよく, 低 次序の倍苛は ,
自然的無抵㍑ 元首としての
基音に 容 げこむことが 容易であ るだめ, 自然に対 -九 る 抵抗 受 が小さく, しだがってその イ,ァ
する ェネ、 ル
これ。こ河し ,倍音次年の苗、
。) 昔は,基部こ 溶けこみにく㌧
、。
然に刈 " ㌻ 6 拍。,i 使が大きく, しだがって, この場合のエネルギーは ,大きいというわ。
で
ヰ
あ る0
ここに来て,われわ T は ,
牙
" 凍っ
ヵこ
音楽が建男㍗とされるわけを 分析することがで
きるの -C.あ る 0
DO.
SOL .MI この三つの昔は ,主要昔群 に属するといわれることを ,同先口のこととも
もう。 他の昔らは 捌青群 のものだと。われて。る 。 これは音楽的調性感上の 舌らを,建築
M
。力感にたずねて ,すでにこれに得 た 類別であ っだのであ る。 すなわち,主要古 群の音
武侃 / 窩 与する役目は ,
次の建築 術 的見取図に十分似通って 、、 るのであ る。
・
ネ
DO は,土台にあたり SOL
だる。 DO
は, 梁にあ たり, MI
は基音 と , SOL
にあ
召 されているが ,
は属音 と , MT
は支柱
は,
ムロ
目
このわけによって , 宛も よく、・。
・、 あ てられ
ているとしてよい。 主要 舌群 によって,建築的骨細が 定まる
Ⅰ
@/ 副 吉祥 が ,それぞれ応分に骨組を肉付け ,
ここに 昔 芸術
的 建築的意想 図亜 が得られる。 すなわち,音楽の形相が ,
こ
Ⅰに整っているのが 見。 られる。
牙
青墓 " における耳の 印象は, この図形を口でみることと ,
宛も符合する。 継起的 m 。"
第
3
的ないずれかに
図
れかに
( 。ずれにでも )
ま
来て。るその音が,主要な。
ず
在るときは,われわれにとって ,
と
もかく,安定的な 情感を誘うのであ り,そうでなくて , 副次
( 。ずれにでも )
在って , 殊に , 長くそれに止まったり ,継起がこれに中
断 されたりすれば ,未解決で不安定な情感が,克明に得られよ
う
。 そして 昔 芸術における
時間の様式は ,空間芸術の様式に借りて 語れば,次の例話に借りて 説明 づ げられて よ 。経
青 芸術における
Dynamjs
の再認識
99
路を歩むのであ る。
冒険ずきな,いたずらっ 子があ る。 建て物によじのぼり 麻に跳 び だし,その尖端にま
でも達し,しかも曲芸じみた, 危 。振舞にお ょ んだりするので ,人々はあれよあ れよの,
心さわぎだ。 やがて 童児は ,どんな風にかして,ともかく地上に降り立っことができだの
で 人々は安心する。 事件は,これで一応終りとなったというわけだが ,概括的に。
って,
舌 芸術の過程からは ,この例話を目でみている 空間的な印象。と ,類似の印象が得られる。
この例話ば,単純で ,音楽の断片についていっだものに
のぼっていったか
造 るのだが,どんな
風。 に建て物に
,どこの場所で,どんな芸当をどの位 やっだか,そしてまた,地上に降
立つのに,どの経路をつたったか , と 。 ったような作品の 特質に関すれば ,それらは芸
m.;。こ 特有な作品の 個性の自由にまかせて ,際限な。
のであ る。 しかし,どの 個性的な作品
り
・
も,さきの例話にみたような ,共通の概念においての 情感を示さな。ならば,構造から、
、
っても,内部生命感から。っても,芸術的価値に 来られず,人文の資質に叶わなくもなる
のであ る。 奇矯を事とするもののごときは ,命知らずの, 愚かな 童 児の無謀によ
われた墜落ともみえる ,知恵の足りない悲劇だと。わねばならぬ。
ゲて
見舞
,それが順当であれば,これに生じるわれわれの 印象 は 平静となる。
予感される経路を ,それが裏切れば,これには, 驚佗 だの,怪奇だのの,ともかく異様の
情感が得られよ 。 吉 芸術作品の個性的な 相異は,規 " の 大小はもとより ,内面的昂奮の高
まりの度合から ,詩趣,劇的効果に。
たるまで,すべて遍歴のあ りさまによって 告げられ
舌の遍歴に考えて
う
るところとなり ,遍歴のありさまは, とりもなおさず ,作家の個性に従って選ばれだので
あ る。 さ て ,
吉の遍歴の,順当な 経路とは,自然に対しての抵抗感が ,漸増し,まだ、
漸減
する経路のことであ る。 調の基音に対して , 遠 。倍音として考えられた 舌が, 近 。倍音 と
して考えられ だ 音を求めて,次々に 基音に達すれば ,終止感情を自然平静に導き 得るとこ
ろとなる。 こうして,終結するにふ き わし。自然法則的な 形式にととのえられだものが ,
楽曲が終るときの 終止構成法としての 知識をともなっだのであ った。
,いままでの発達に考えても ,将来も無限に発展することではあ ろう。
けれ ビ も芸術的本質に 叶い,人文のものとしての 資質を失わないために ,。
ずれの方式
も,自然法則を無視はできな。であ ろう 0 自然とともに ,かくしてこそのみ音楽もまだ 無
音 芸術の様式は
窮 無極を生きてゆくのであ ろう。
以上にお。て 長調音楽の生成を 見た。 ところが,その 副 舌許については ,まるで触れて
。なかったように 見える。 副 吉祥 は ,これから述べる 短調についての ,同然の理解に達し
たその後に,そこで述べるのが便宜であ ると考え,長短商調を 対比ざせながら 理,解するつ
もりであ る。
短調の調惑の 成立に関しては ,今までにみた長調のそれと 比較的に心的加工の 度合が ,
一層高まってとらえられ
,長調が,自然科学上に
説明づけられる 根木原理を有して。るの
に 較べれば,短調の調感は,すでに得たる長調の 調感に
,殆んど全く心的加工が 加えられ
,これに得たものであ るらしいのであ る。 短調の旅の過去の 科学的な
分析は,おおむね,かえって,故事つけに
終ってしまった。 それらは, 理,解しがたいもの
た結果のものとして
100
月
岡
と ,短調を,かえって
持て余させてしまった。
忠、
三
F. HeImholtz の長調のための 上音共鳴理
論の裏 づけとしての 短調のための 下昔 共鳴理論は,その後の学者によって (音響心理学者
G. Revesz らによって ), K. Rieman, V. D,mndy らを含めて全くの 誤認であ ることが,
明らかにされた。
われわれは,心性の能力としての 感覚的なものの 加工の可能性,すなわち ,心性におい
ての美的加工の 可能性を探求しながら ,次のとおりの, 斬 らしい立論を 試みようとするの
であ る。 それは,心の内面を,探し当てようとする 試みだが,類推するだげに 終る, とい
う,あながちにそれだけでもな い のであ る。
短調の骨子をなす ,宛も長調の DO.SOL.MI
に匹敵している 昔群は , la. ㎞・ do(Do
SOL. bMI) であ る。 この二種類の 主要 昔 群を比較すると ,主音と属音とは,互いに完
全 5 度で据えられていて 同じだが,それぞれに 特異な中音の 座が,両者の対比的な性格づ
けをしているのだということがわかる。 注目さるべき 主要な点は,中音の座の,別々な 据
えかたにかかっている。 それの発生とその 印象とを説明づけることが ,重要となるが, 従
来 このことが,容易でなかったのであ る。 学者らはこれの 科学的解明を 企てたが,成功し
なかった。 それを,心性の能力としての ,心的加工の結果のものだと 理解するための , そ
の 立証を試みるのであ る。
条件をそなえた 器に , 砂を満たし,次の実験を試みよう。 その水平な底面の 真ん中に ,
砂がこれに落ちこむ 為の穴を穿つと ,砂は吊り上げられた 器の下の平面に ,山とっもる。
得られたこの 山の形は,いさまでもなく 円錐形だ。 このとき,器の 中の砂には,器の 真下
に,いま築かれた砂山と同じ大きさの ,同じ円錐形の, しかし, さかさまの穴が ,
自然的
必然的に穿たれる。 この現象は,重力の 平衡な分配のお 膝 として得られたものであ る。 さ
て, これに得られる ,形而上の原理は,単純な,ただそれだけの
自然法則のものであ った
にもかかわらず ,現象外内面の法則としてのこの 原理は,われわれの感覚にとっての , 山
と谷
とを,空 と水とを造り 作し,それは心性内面にとっては ,万象陰陽の気を涯らせるとこ
ろとなった。 これに得られる 天地有情は,心的加工のお 蔭のものだと ,
このことは, 誰一
人も否定しきれるものでない。 われわれは, さきの実験的現象にみる 際において,一方で
はこれを山として 見 ,一方では谷 としてこれに 見る。 これはしかし ,一つの原理の表裏 に
ほかならなかったのであ る。 表面のものと ,裏面のものと,更にこれの 属性的に導き 出さ
れる側面のものとしての ,もろもろの観念だの感情だのを 縦にするとすれば ,際涯ないひ
ろがりともなることだろうが , 畢克は ,心性の要請によっての ,心的加工の結果として 得
られだ心の華々にほかならない。 若しもこれらの ,たしかに支配的な原理に遡れば ,それ・
は , だしかに同一の ,只ひとつの自然的な 法則をいでられないのであ る。
調性感における 陰陽二側面を 分つ座を ぅ けもつものとしての 中音にっ。てみるに,長調
では,主音からの上方 長 3 度音として,短調では,属音からの下方 長 3 度音として,それ
は据えられている。 このことは, われわれの美的視覚としての ,
と ,それの倒置とに,思
い 通わせられる。
黄金分割の正常な 配置
黄金分割のそれに 得られる印象は ,印象として
の明暗,軽重,晴れやかざや
曇らわしさや ,更には鋭利鈍重の,相対するものとなるが ,
Dynamis
昔 芸術における
の再認識
Ⅰ
01
ここでもまた 原理をいえば ,黄金分割と名づけられた 形而上の比例配分をいでていない。
すべては,水菜相対的な心性の要請によっての ,心的加工のものとして ,これに得た感情
にほかならないことを 考えないわけにゆかない。 こうして,この ょ うな心性の要請ゆえに ,
われわれは,一つの黄金分割を,倒置し,また横にも斜にも,更に無数に用い分けるので
あ る。 それらに生れるその 都度の印象は ,一つ一つ,すべて
別々の外界の 現象によってで
なければ理解されないということはない。 心性には人たる 特有の能力があ る。 とすれば,
これらの現象 界 の一つの原理を ,無数に使い わける妙を,特有の,その心性の能力に帰せ
しめることを , 育 ってはいけないか ,但し,その
能力を心性が 如何にして得たかにつ。て
は,なお十分には解かれていないのではあ るが。
美的視覚のものとしての 黄金分割は,本来垂線上のもので ,その美は,水平線上の
シソ
メトリーと相応し , 実は,重力の同一の法則の 中のものとして , 互に融合する 美感であ
る。 水平であ れば シソ メトリ一に如くはないところの 力の比例配分が ,力感的に縦に来
て ,これに得られた,奇妙な配分となったものなのであ る。 水平にシンメトリーを 要請し
た力感的印象が ,垂直には,この
奇妙な配分を 要請したのだとしてよく ,心性は,縦には
,
折半する よ りは,この奇妙な 配分の上に,かえって平衡感を得たのだと 理解すればよい。
この故にわれわれは シソ メトリ一におけるほどに
,その名 づけられた・ 厳密な配分を ,これ
に要求して。るのでも,たしかにな、
。。 近 ・似のものから 拾うと次のようになるのであ る。
13 : 8,
8 : 5,
5 : 3,
名づけられているものを ,厳密に示せば AB
き , AB
: AP=AP
: PB
すなわち
ABxPB
3
: 2,
2
: 1,
を線分とし, P
二 AP2
1
を
: 1
AB 上の一点とすると
であ る。
,まったくこのようにいうほかないが ,美的視覚のものとしての 黄金分
割の,近似値としての,いまみた案分比は,美的聴覚のものとしての ,調性感を組成する
下 思議な偶然と
ための,主要昔 群の相互間に 見られる音程的案分地 と ,あたかも相似であ り,あるいは
全く合致することが
見られる。 それはまた,
よく長短商調を 区別立てる中音の 座を位置
づ、ける,双方の比例的系 数 をも含めていて ,まったく奇妙というほかない。次の図に見よ
Mt //, S?L.,,,,,@---------.
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第
4
図
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Ⅰ
02
]
月
は舌
忠、
三
この 余 弦の指数を,便宜120 とした。 中音の座が,長調では ,主音のオクターブ昔から
考えての, 8:5
にあ たり,短調では,同じ方式によって , 5:3
にあ たることがわかる。
心性の能力としての ,感性的なものの,心的加工は芸術家によって ,その作品の上に ,
縦横に展開されて。るのであ る。 芸術は,学問・ 宗教・道徳などと 並んで,文化の一部門
とされるが,他の 諸部門との 違ひは ,感性的直観的であ る点にあ る。 したがって芸術の 文
立 。 口ま ,感性的なものの,その生成の過程だの,形象的な ,その受容の形式だのを,無視
できず,感官にはじまる 外界の刺激は ,
がら芸術は , 必ずしも
白 然の模倣
これを尊重しないわけにはゆかないが ,
( アリストラレス )
それだからと。って,絶対的イデ 一の現われ
( へ一
しかしな
にとどまるということはなく ,また,
ゲル ) ともいいきれな。 。 この間にお
いての説明の 困難は,心的加工の 条理を説き明かすことのむ づ かしさにかかって。るので
あ
る。 不可知の精神的存在, となすものもあ る。 知りつくせないが 存在することはたしか
だ,
としてよりものが ,精神界には在る。 そして,おもうに,われわれの,外界に適応す
るための感覚器官は ,相互に, 耳が日のものから ,
目が茸のものから 扶けられながら , そ
れぞれの印象としての 内観と緒 ぴ あ わされて育ってゆくのであ る。 たと へば ,空間芸術に
とり入れられるリズム 感は,本来時間的に得られた精神内容からの 反映であ る よ うに,芸
術は,さまざまの類別や区別をされていても ,しかも,どの
芸術も,精神的に全く個 立す
る 存在であ
ると。ぅ わけにゆかな。。 その
ょ
うなわけからして ,時間芸術としての音楽に
お。て ,短調の成立は,かえって美的視覚のものから ,その明暗表 衷を反映して 長調のそ
れに対立させられ ,
婁
、 @,で, 印象的にも,形式的にもおのずから 相対的なものとして ,
こ
こに生成を遂げだとものと 理解されるのであ る。
以上の論説は ,い主だそれの科学的立証には 達せず,的確度において ,不十分である。
しかし,
昔 芸術にとっては
,科学の名に被 た 非情な,分析の過剰だの,殊に故事づけで 束
縛されてしまうなどのこ
L, よ 0 @@
一
ま
まるで 放巧 だが,われわれのしかたの 方が , 幸をもた
らすことが,かえってできるのであ る。 この観測によ ゲて ,青柴的 エネルギー保行 別か ,
長短商調を含めて 適用され得る。 それによって 吉 芸術の有機生命的な 感覚的印象を 理解し
得られ。る 。 科学におもねってのみした 過去にしだがってこのことを 追求するならば ,矛盾
と 神着を到底解きほぐせないところに
帰着しよう。 おもうに芸術の 為の,科学的理論の 過
・
乗Ⅱま かえって芸術の 為の致命的な 傷害となる危険さえ 伴な、、 がちだということを 警戒する
必要があ ろ
われわれの観察にお。 ては,調性感は, 専ら。わゆる 施 待駒調性感であ った。 昔 芸術の
原始的発生的立場からする ,
この論拠を離れずにするためには ,
調性感を K. memann
・
の 純正調理論のそれに 委ねることは , 舌 芸術のための 根本的理念にお。て ,しのびがた、
、
ことであ
ったの・であ
る。 この旋律的調性は ,純正調に較 べて,あまりにも人間的に 熟して
い,その発生形態から。
えば,まだあまりにも,人類的なものなの・であ る。 もっとも, そ
れとしてもわれわれはまた ,次のとおり , K. Ⅲ emann
らの偉大な功績に 負 う ことができ
る。 それは, 長 " は ,倍音現象から得られ だ 主要 昔群 に次のとおりの 心的 力 H 工がなされて
得られたらい。、
ハぅ こと,
と「
短調は,長調主要舌 群への加工によって 得られた 新
Dynamis
昔 芸術における
の再認識
103
且
ヰ
廿
0頁
何%
4%
化伽
子丑
Ⅰ
Ⅰ
-一一一一一Ⅰ
LL
(
f,
仔
・Ⅴ
,
)
第
は
・
4
@ 寸 7億
, ,_ , , Ⅰ l ヰ Te
・
・
甜材宙用坤比牡伸舐
5
屋上
)
図
らし。主要吉祥のものに ,更に長調におけると ,同じ形式の加工がなされて 得られたらし
いと。ぅ こと。 両調 とも,基音と ,そのオクターヴ 商い同名吉との 間に , 支えられている
ことに ヴ。、 ては, 不思議を要しまい。 そして網の第 2 音 (上 主音 ) と第 7 音 (導音 ) と
は, これらは, 次の図形を理解したところに ,
その上で調 愚 意識の上に導入されたと 考
えてよ。, これらこそは 徹底的心的; n 工によって得られ ,むしろあとから調の内部にはい
り込んだものと 理解してよい 育種のものなのであ る。 宛も調に関する 限りの,変化昔のす
べてと同じ性格者として 類型づけられよう。 なお,それらし。
暗示に,十分かかりやすい
と 。 っても, しかも,われわれは 上主音と導音とを V 度における倍音とする 考を, ここで
採りあ げな。。 そのような論証を , 後から故事づけだだめに , 昔 芸術の感性的本質を 滅ぼ
し ,知的なものかと,その所を失うに
至らしめたのであ る。 調感 に与するに, 上 主音も導
音も,そのように分析的に割り 出された音程をひびかせては。 はしな。のであ って, 仮 。 こ
そうして割り 出された音程を , 調惑 上に挿入すれば , 調惑は ,そのためにかえって 不安定
なあ やしげなものとなる。 それの被害は , 誤り用いられる 導音において 殊に著しく,誰も
その矛盾を容易に 発見するであ ろう。 なお作図の中で , IV 皮においての ( もちろん長調
の ) 同様の錯誤をも ,敢えて冒していはしないのであ る。 作図の中の, FA.LA.DO
を,
これを IV 度 倍音と考える 考え方からは ,作図のように,短調を導き得ないのであ って,
たまたま IV 度ではあ ってもそれは 本質的に, 1 度の起用としての 意味に活きて ,ここで
は眺められなければならない。
この作図からして ,次のとおりの,商調め mode
を決定的に得られたのであ る。
Ⅰ
04
月
岡
第
恵
6
三
図
調性感を,われわれが, ビ んな経緯から 獲得したかを ,長調および短調に代表させて 険
べたのであ った。 調性の類 種は ,歴史的にも,民族的にも, あ ま 多 あ るが,われわれの 立
論は, どの調性にも 通用することに 期待してなされた。 そのうち,現今ではただ 歴史の頁
にとどまっているだけのものとなった ,ギリシャ音階の幾つかのもののような ,当時さえ
人文の正確な 素朴 牲 に縁故づけられなかったような 類 種 のものは, もとより,われわれの
思考の覚のものとして 切り捨てて,惜しまれなかったのであ る。 調性感が得られると , ど
の 調にであ れ,音楽はこれに安んじて乗り ,安泰な,しかし,こころのすさげに ,さすら
いの旅をはじめるのであ
る
( ゆく方も知らずのものも
時 たまはあ ろう ) 。
このときにあ た
って,音楽が調を離れずにその 旅をつづけるだろうあ りさまは,旅行者の 列車が, レール
から脱線しないでゆくことに 期待するのと 同じ程度に, 自然的な要求によってそうなるの
であ る。 音楽にとって 調性はそれほど 重要であ る。 これによっておもうに ,調性から,
強
いて離れたがる 傾向を示すあ る種の音楽があ って,それがかえってわれわれの 興味を索く
ならば ( そういうことが 常にたしかにあ るが ), この興味とは ,かえって, 彼らが,実は基
盤 に据えている 調性の,かえってそのゆえに 調性的な意識を , 振り捨てようとしている ,
むしろ破れを 追い求めてゆくことの 興趣にほかならないと ,いえなくもない。そうしてそ
れらは,たぶん変化昔の興味から 出発したと考えられるのであ る。
変化 昔 とは,その調の 担い人としての 性格を,すくなくとも ,その調が,彼に
課した役
柄を,彼が自ら放棄した場合にこれに 起った,そうした性格の音だといえるのであ る。 そ
の 調に 尚 関係 ず けられている 場合は, 自らの役割から 離れて,仲間の別の音に依存する 性
格者と成りかわる。 甘 FA があ れば, これには FA の本来の性格は ,もはや無いのであ っ
て,それはおおむねは , SOL の援護者として 或は家来としてその 調に寄与できるものと
成りかわっている。 FA は,本来は,
MI のための,導音と 名づげられる 役割によって 調
音の仲間であ ったのであ る。 bSI は同じわけによって ,下なる LA の為のもので ,本来
上 なる主音の為の 導音であ った性格を失っているのであ る。 もし転調の為の 変化 昔 があ る
と, 彼らはすでに ,
それの身仕度をととのえているのであ
りをさす。 こうして身替りが ,
次の身替りを 誘い ,
る。 それとは彼ら 自体の身替
章には, 放浪の旅にまでさすらうこ
ととなると歩調性だの 無 調性だのの音楽をこれに 創める仕儀とほなるのであ る。 そのよう
な興味を,深刻すぎたらしい 遊戯を , 更には虚脱の 快感をも,ある意味では誰も 企てやす
いのであ って,このところに ,多謝だの無識だのの 宿る領域があ るのであ る。 それはさて
おき,調に関係のある正しい意味での 変化昔には,宛も 脱線事故にであ った列車が,復旧
を求めるような 意欲があ り,そのため ,この変化昔はエネルギー 的な姿勢をたく ゎ えるこ
ととなりこれは ,おおむね調音に解決されるのであ る。 われわれは結びに 来て,一般に次
のとおりいうことができる。 変化昔には,調音に解決されるべき 性質があ る。 調の副吉祥
昔 芸術における
Dynamis
の再認識
Ⅰ
05
には,その主要昔群 に解決されるべき 性質があ る。 主要 昔 群の音らには ,基音と離れがた
い
律義があ って,
音であ
畢 寛は基音に帰納されるところとなるのであ
る。 基音は自然そのままの
ることから,音楽の 終結は,仕事を自然におかえしする。 すなわち自然に 帰依させ
るといえる思いがこれに 生じるところとなるのであ る。 おもうに,音楽が在り,それが始
まったところに ,われわれの精神は, 自然的無為への 抵抗,つまり
心のなかで,そうした
仕事を採りあ げて。たのであ った。 これが, 昔 芸術品としての 音楽なのであ る。
3. 昔 芸術世界の中の 時間の分野について
-
㎏ mpo
Dynamis
と
一
時間観念は物質の 移動の持続を 意味し, 力 性的現象に,その因由を有する 観念であ る。
時間は心理的状況で , 変って感じられ ,感情に対しての薬物の作用などによって ,はやく
感じられたりおそく 感じられたりする。 したがって, 精神病者にとっても , 同様の変化
が 認められる, というようなことはあ るが, しかも本来的にいって , 自己推論的立場 (W.
Wundt, 1832 ∼ 1920) で得られたものでもなく ,また社会学派が主張するような ,社会が要
詣 するところからして ,
これに得られた 観念であ ると,そう 。 ぅ ものでは, もちろんない。
それは,物の位置が変ったとい
j
る。
自然は,静止していると 見えるが,われわれの地球上での
人の心性の周囲において ,
意識にもとずき ,位置の移動の持続を意味する 観念であ
法則から,その圏外に一歩をいでると ,われわれの手近な,太陽系運動の法則の中で,地
球を含めての 環境は,法則的な,無窮無極の運動の持続であ る。 ereenwich の ( という 地
球 上のこの位置の
)
時計が,時間測定の指針をなすのも ,
ここの時計の 機構が,宇宙的天
体力性の,徹底的な応用に基ずいていて ,そのため,信頼できるのも,時間が,人間の
能
力 以前のものから 得られた観念であ ることのかえって 自然科学的な 証拠だといってよいで
あ ろう。 事実名器としての ( 知能の生産としての ), 世界の何れの 商社がっくりあ げた 時
計 に期待するとりも , 黎 くれば再び海原に 朝陽の輝きわたる 時刻に期待することの 方が ,
時間に関し, これ。より正確なるはな。 のであ る。
物質の位置が 変ったという 観念は ,力がその物質に 加えられた結果だという 概念によっ
て 成り立つ観念であ る。 このわけによって ,時間性は,
力 性と不離密接の 観念内容をもっ
て。るのであ る。 いま,ある重さがあ る距離だ。ナ 移動したとすると ,
力の概念的な 指数は ,亜さX 距離で得られるが ,
Ⅱゴ ,時間がこれに得られる
害摘
0
これに必要であ った
この総体指数を , 動かした力の 大きさで
この逆算をすることによって , 長い時間のときよりも ,
短かい時間のときの 方が,その作動力が大であ る。 というような 結果も , 得られる。 この
ことは 昔 芸術のための 時間の性質に 関して重要で ,時間には,
この性質があ る 為 , この性
質が,すでにみた,調音の性質と ,組みあわさって, 昔 芸術の,内面的な観相を,担う可
能 性を生むこととなったのであ る。
音楽の時間的継起の 状態については ,普通これを tempo といっている。 そして現今 楽
典の知識の中では ,たとえば tempo J =80 といい, この場合には 1 分間 80 呼の速度
であ ることを示しているのだが ,それは,
まるで知的なものと 考えられているだめで ,
106
月
岡
恵
壬
tempo の本来の意味からすると ,重要な誤りをおかしている。本来的にも, そして現今
も tempo とは,実はそのような 器械的な解釈上のものでは ,あり得られないのであ る。
tempo とは, ラテン語の tempus に出で,それは「歩く」を 意味した。 音楽のものとな
った 後も,たとえば,中世の音楽で, brave l0l(s ㎏ n) は 1 個の tempus にあ たり, そ
れは互に力性的交替運動をする , semi brave0(s ㎏ n) 2 個によって支えられて。 ,それ
がにの力性的単位が ) 同時的に時間的単位でも ,またあったのであ る。 当時は brave 。 こ
は,二種類の力性的区別があ ったが,それにつ。
てば後から述べるとし ,われわれの。
わ
ゆる古典を経,音楽がようやく 近代的分化の 影響を受けるにおよんで ,現今は,
二 80 の
ように示されるように 成り替ったのであ る。 現今の書き方によるそれは ,むしろ beat と
われわれの呼ぶところのものと 同質であ る。 それならばも ほや tempo の成れの果てだと
も。わなければならな。。 昔 芸術の生命とも。える真正な tempo とは,
二 80 と書かれ
」
ているとはいっても ,
これだけの意味のものでは 決してないのであ る。
中世紀の音楽に 触れ, グレゴリアン・チャ
ソト についておもうに ,そのアルシスとテ一
、ジスとは,聖歌の本質としての ,祈りの効果を表現するだめ ,むしろ信条となって。
る。
この 歌 。かたは, Solesmes
派の人達によって 成し遂げられ ,別して,
DomMocquereau
(1849 ∼ 1930) によって格別に 整頓されだ。 彼はキロ
; と 名づけられている 波状線しを
旋律に月 き 添えて,目にそれを見せることまでもした。 そしてこれが ,グレゴリアン・チャ
ノ
ン
ト
における指揮者の 為の定法として 採られて。るのを誰も見たところとおもう。 囚に ,
アルシスとは ,旋律の韻律的な躍動,なにかもちあ がるもの,
ト「
ロ
,。に軽くしなやかなもの ,
しだがってテージスは ,アルシスに持続的にあ らわれる,アルシス ス の緊張からして 解放
された,弛緩であ り,休息でもあ るものであ る。 V.D, ㎞ dy は
フ ルシスとテージスという
代りに,もっと一般的な 軽抽と重拍 という名称を 用。だことは,人の知るところであ る。
・
独逸 でほ小節の最後の 拍は auf-takt であ り,それは,上方斗こ 浮上しておよいで、 、 るタク
ト
であ る。 tempus
「歩く」につ。て 考えるに,振りあげられる囲は ,
的にかけて,それで振りあ げられるのであ る。 踏みおりた抑は ,
もあ たり,一連の動作が, これに完了する。
その踏みおりる
目
目的を果しだ 安息の場に
この故に , 振りあ げられた 脚は 動的で軽く ,
踏みおりた脚は 静的で重々 し 。。 そうしていっも , 踏み挙げられるために 踏みおりるょり
@@ょ , 踏みおりるために 振り挙げられる。 この同様の理論は , 遠くギリシャで ,すでに
われて。たのであ るが,このことは ,後に其体的に音楽的時間の 性質としての 能動的なも
のと受動的なものとを 否応なしに要求するところとなった。 それは tempo の木質的なも
のとして, 舌 楽の時間 力 性の支離的な 役割を演じるところとなっだのであ る。
tempo
を, 舌 芸術発達過程の 中に回顧したが ,
中世の音楽から ,
仙人 利の パレストリ
一々, ビバルディ, 独逸の ラッソ ロ バッハらを開花期としての 所謂内典音楽の 隆盛期に
であ い, 次 。で浪漫音楽の 19 世紀的成熟の 時代を経て現代に 来だ。 これより 先 ,近代知
約文明の発達に 浴びて,音楽もまた ,いちじるしく 知的なものに 分化するに至ったことは ,
当然といえるが ,それとしても tempo
う
とは, beat と混同誤用されてよいような ,そのよ
に単純な場合のものではな。 。 おもうに音楽にあ ずかる時間的性質は , tempo
に上
昔 芸術における
Dynamis
の再認識
107
これに意味づけられ ,それによってはじめて 昔 芸術に,調音のそれと 対等な,或はそれに
先立つ役割を 果すに可能な 性質を得られるのであ る。 それは昔が,調性に関与する立場か
らしてのみ, 舌 芸術に寄与し 得られるのと ,宛も相応し軌をまったく 一にするということ
ができる。 これ、ま重要な事柄であ る。
われわれの現代楽譜。ことっては, tempo は小節毎に, これに内在して。 るのであ る。
brave の昔にあ っては,それは semi brave 3 個を有るときに ,完全な brave (tempus
perfect)であ り,その2 個のときにはかえって ,不完全な brave(tempus imperfect) で、
あ った。 それは,われわれの小節が往古の brave に,いかにつよく 関係 ず けられるかを ,
告げるのであ り,またわれわれの ,小節とは,実は
, 力 性的抑揚に,いかに強く結 び あ わ
されなければならないかをも ,示唆して余りあるといわなければならな。 のでもあ る。 そ
れば,次に示すとおり , まるで力性的抑揚が ,時間性に対して,かえって支配的でさえあ
ったことを物語って 呉れるのであ る。
3
個の se ㎞ brave を有する場合にお。 て
あ るが ), 力 性的抑揚が,決定的に
(現代楽譜法からすると
,一見じて不合理・で
完成されて。ることが,一目瞭然であ る。
2
個の semi
brave の場合は,時間性のそれだ。
ナ からは, どちらのものともいえな。 。 はやまって述べ
てしまったが ,時間性は舌芸術に乗って,その細かく刻まれたもののときの ぼど 動的で強
くなり,ながらえだもののときのほど 静的で弱くなる。 このことを, 昔 芸術的 energy
保
存 別 に当て嵌めれば ,短小な時間は,圧縮されだ 螺旋のようにエネルギーを 有して。, 長
大な時間 は, 伸び展がったそれのように 悠長であ ると。えば,理解しやす。
ことであ ろう。
完全な brave にあ っては, 1 個の semi brave と , 2 個の semi brave との,すなわち
短かい強音
と ,長い弱音との,規則的な交替となり
完成されるということが ,
,
したがって, 力 性的抑揚が決定的に
これ。によって理解されたのであ る。 同然の理によって ,不完全
brave では,それを,時間性からだけでいえば , どちらのものともい。 きれなかったので
あ る。 それとしても , 昔芸附 こおける時間は , 力 性的性質と離れてほ 存在しな。というこ
とを, 力 性を無視するところ。こは, 昔 芸術の時間は 存しないということを ,われわれは,
一度ならず反省してよいのであ る。
さて, 昔 芸術に与する 時間には,最も小さ。ものには beat があ る。 beat を刻むものと
tempus Perfectum
(完成された
tempus imperfectum
1
も
brave)
(不完成の brave)
s@"@C@)@;@@@
,,
@, - , @@、 、.@ ,
V@@
、@/@@@"@(SYo@
N@@
,@@V@, V@@
, @@@
。, 、f@o@
V@@@@-@
, 、
101lo│
101 │
I 101
lol I )01
lol I │o│
・
第
7
図
108
月
岡
忠、
三
しての,よりもっと 小さい時間は 時間的にも力性的にもむしろ beat に集約され,または
これに吸収される。 次には,小節,われわれの
重視する tempo があ る。 それから phrase
があ る。 phrase が重なり,有機的に成長して楽曲が 生れる。 この間に在って , 昔 芸術の
生成に与って ,はじまりに決定的に有能なのは , beat よりは,先ずtempo であ る。 昔 芸
術の時間的表現は ,その選ばれたtempo に上って・先ず 起るとしてよく ,この時 beaU は,
運動する人体の 脈 博 のように,通常は運動の表面に 現われるということがないのであ る。
脈博 の遅 い 速 いは , 運動からの反映であ るよさに, beat は tempo からの反映であ り,
tempo が速ければ beat は速くなり, それが遅ければ 遅くなるだけであ る。 ところで,
tempo は phrase との関係においても ,依然として leader なのであ って, phrase もま
た tempo
にしたがって , 速くも遅くもなる。 延いて楽曲におよんでも ,同じわLナ によっ
て tempo
こそ楽曲の速度を 支配するのであ る。
われわれの楽譜からする ,現今風の書法の理解は,このょう にして生きてる tempo
つき, 誤解を強請しやすいということは ,
まったく注意を 要する。
」
に
二 80 の類のものの
直接的な危険についてはすでに 述べたが,拍子記号も 同然であ って , 次の音楽は,いずれ
も
4 拍子だと読むけれども ,
4 の tempo
を歩んでいはしないのであ る。 誤ってすれば ,
この音楽にとってまったく 致命的な損傷を 来たすこと必定といわなければならない。 注意
さるべきであ る。
現今において ,われわれは, tempo
を 有しているのであ る。 s ㎏ nC
の正当な記号の 名残として,わずかに C となと
は , むかし tempusimperfectum(
SO㎎ te
ⅠO.
第
8
図 (a)
当時不完全な tempus
がⅠⅠともす t,
け.
ヰ
0.
ユⅠ+
Dynamis
昔 芸術における
の再認識
Ⅰ
09
S0nate
3
,
Ⅰ
第
8
図 (b)
とされたもので 現今の全音符 2 個で支えられた tempo) の為のもので ,それは tempuS;
perfectum ( 当時完全な tempus とされたもので ,現今の全音符 3 個で支えられていた )
のための s ㎏ n0 に対していたのであ り, sign のは,速い C の意を示すため C に縦線。
が 書き加えられてのとなったものなのであ
った。 のは,現今は : とも書かれるため , 2 仏
と ,まるで数学的に読みとられ,然も直接に tempo を意味しているかのように 誤認され。
やすい。 のは偶然的に ,しばしばあたかも tempo と融けこみやすいが , beat を受け持
っ特長が小さいもののときのほど
6
,その誤認の危険の度合が ,更に高まる。
たとえば 3,
の拍子記号を 有する楽曲の tempo は,通例は,
1 または 2 であ るだろう。
音楽の内生命的な , 力 性的抑揚と離れてはならないところの tempo において,もしも
それの失当に 陥るならば,そこでは
,われわれの音芸術的 力 陸運動は生ぜず ,それは,昔
am
Dy
呪 られる
表壊
什一
4
品
と 作品か
芸術の生命観を 失うことともなろう。 tempo とは, 要するに時間とともなってあ らわれ
る規則的な力性的交替の ,循環的なそれの単位だと,早わかりすることもまたよい。
これ"
から引例される 作品の実際に 見ながら,それらを十分に理解されたいのであ る。
一
一
一
月
110
Vo
Ⅳ
v e
ks
sche
De
2
図
:
が
9
第
誤って
de
Mu
ra
d
Mo
この旋律は, tempo
だということによって ,
韻律的躍動が 得られるのであ る。
とすれば,つまり 4 に歩かせてしまうと ,動的なァ ルシスと,静的なテージス
とが,その所を 得られなくなり ,音楽が死んでしまう。たまたま,たたみかける 時間と,
それの解決らしい 時間とが,規則的に,正当に韻律運動を 担って。ることが, よ くわかる
が ,調音の配置によってあ らわれる Dyna
而s
も概して好適であ る。
し ,テージス
副昔群 に属する調音が 配され だ 部分は,それが主要 昔群 に属するものの 場合に較べれば ,
より開放的であ る。 開放的な感覚を 得られるわけは ,調音の示す Dyna ㎞ s に負 う のであ
る。
F . Mendelssohn
第
10
図
強く押し " され だ 螺旋が,突如として開け放だれだときのような , 掻 ねかえる勢で ,こ
の歌が始まるわ。ナを ,冒頭の休止符が, 語って。て 呉れる。 後半の部分では ,同じ休止符
によって韻律運動が ,指導されているにもかかわらず , 副昔群 のものが Dyna 血 s 的 優位
を 奪ってる。 ただしその最後部で , 再 び 時間的 Dynamis
が優位を占めるのであ る。 , 印
の飛躍は , 後に説明される 女性的リズム 形体だから,当然とも。
える。
Der@ Lindenbaum
第
nl
F.Schubert
op.89N0.5
図
始まりに,休止符が書き落されている。 この種の誤記 は , copy に際して起るらし。 が,
それは,ちようど文意を通じることのできなかった ,不出来な手紙のようなものであ る。
著名な伴奏にのって 歌いだす原譜にみれば ,正しくわかるのだが,部分を copy する際の
心得にもと考えて ,わざわざ,とり
出して引例とした。 ,印では,この
楽曲の韻律運動 姿
勢からして,時間性があ きらかに優位であ るから,たとえ 副 音だといってもこれでよいの
であ る。 この名曲の韻律運動には , 中世の, いわゆる完成された tempus (tempus perfectum) の雰囲気が,ただよって。
る。
昔 芸術における
第
ネ印は,女性的リズムであ る。
Dynamis
12
の再認識
Ⅰ
11
図
このように本来 重 抽であ る位置に「昔の 強さが次第に 減
抄 するいくつかの 音から成っている 韻律」が来て。るときに,これを 女 り リズム と
ぅ 。 われわれの ,
。わゆる古典音楽の So ㎞ ization では,すべての冊子での第 1 拍とか,
4 拙子の第 3 拍とか (6 拍子の第 4 抽も ) が , 強くなるのは ,女性的リズムの場合に限る
といってよいのであ る。 これに対する 男性的リズム とば ,第1 拍 (重抽 ) が , 1 つの音で
成り立っている ,普通一般的なものをい。
,それは市 。抽 だから当然弱まるべきであ る。
小生白
弱まるのが普通だ。
Beathouen
, op 、
14
No
・
2
目"
第
13
図
Peters 版からの copy だが, 点線で示されだような phrasing であ るべきだと考え
も
その
れる。 しかし早計に 強請できな。。 と。ぅめ げば,
Beethoven の中
には,それが殊に 多 。らしいからであ る。 旋律学,和声学 ,そしてわれわれの Dyna 血 s
から,そこからだけでいえば ,点線で示されたとおり 訂正されなければならない。 それと
芸術的知的な 要請によっての 特異な形態も ,
起るべき可能性があ
る上,
しても, この楽曲のこの 部分でぼ,特別な要請があ るとも見えないので ,
これは書きかた
で間違ったもののように 思われる。 この種の疑問は ,われわれの楽譜の随所で 散見される
もので,一つの引例とした。 終結の際のは ,女性的終止リズムが拡大されだものだが ,機
能的にまったく 素派 らしい効果だ㈱。
112
月
岡
恵
三
MO
14
第
この示されたキロ
ももヤ工
は ・Ⅱ 0.
ノ
由
Ⅰ
@
図
ノ, の場合は,確信を 以って,これが 正しいといえる。 調音 Dyna ㎞ s
のまるで規範的な 運動であ
る 上 ,時間 Dyna
強力な推進の 結果として終曲の 際の同じ
1
血 s がまたまるでそれを 強調している。 この
度 和音が, しかもよく終結の 機能を果すに 至る
のであ る。 無を有に,芸術は帰せしめるのだそうであ る。 無から有が生れたのを 見る思い
がする。
七
) Ⅱ・Ⅰ。
図
Ⅱ。
15
ヰ
*
ma
Te
第
Dynamis の再認識
青 芸術における
この Andante
113
は beat のためにではなく , tempo のためのものであ る。
を端正にととのえて ,気品高い Andante が奏でられるのであ る。 C
2
つの tempo
tempus ㎞ per,
は
fectum から受け継がれた sign の名残のものだが ,それが実践されるために ,絶好の機
会を与えている 作品であ る。 , 印の第 1 拍 および第 3 抽は,すべて女性的リズム 形体であ
るから,それぞれ軽い ァクセソト を共有する (第 15 図 ) 。
Senate
Ⅱ0 ⅠⅠⅠ
宝
)
ト
・
甘
0.ⅠⅠ サ .
Motto@Allegro
第
C は tempo
2
16
図
を意味していることをま 里解したことによって ,
第
2
小節の頭 音 Ⅲc-在る
C 昔と Es 昔 とは女性 Rhythm を担っていることが 理解できる,冒頭のそれを 理解する
ことが, この曲を弓 弾 くことだといってもよいほどこの 曲にとって重要なことがらであ る
(第
Ⅰ
6 図 )0
速い
3
拍子は, tempo
速い
6
拍子は tempo
l
2
であ ることを理会する 糧にとおもって 引例した
であ ることを理会するために 引例した
(第
(第
17 図 ) 。
18a, b 図 ) 。
この美しい旋律の ,第3 拍の軽くつまづいたような 感じのする,風味ある韻律は , 常に
その直前の , 同じ昔によって Iead されている。 lead の役をつとめているその 音が,もし
も別の音であ れば,第 3
ぅと 考えられる。
拍晋も,その音にしたがった 同様に別のその 音となったものだ
このわけは, この楽譜では
」・用
)
-
と書かれている
(第
る
19 図 ) 。 けれ
一
@一"
一
山心
両
刀
114
Ⅰ
17
ガ
ⅡⅠ
第
図
Senate
穫
第 18 図 (a)
臣く俺
ちなす t)
昧
・
曲
ⅠⅠも
昔 芸術における
Dynamis
Ⅰ
己
19
図
ワ
﹁
せl
b
図
8
1
第
15
第
115
の再認識
116
岡
月
恵
三
ども,この楽曲の 内容は次の楽譜のように 書かれる方が ,一般的にわかり 易くなるので
は曲
m
h
B №
aO
ne
.s
39.
np
J
ⅢばれⅠ せ dタ
ノめ CO みタぬe%be グず
oh
た
ア
れ
2Ⅰ
にⅠ
免ひ
あ る。
㎡Ⅰ
シ
マ
ム
どど甜 タグ 1@ ぱ穏 a
Ⅰ。グせ
耳ノ
4
第
20
図
親切に,それは作品にと ゲても,演奏者にとってものことだが ,まったくよく 書 げて、,、
るとおもわれる。 楽譜は,知的なものとして 有能なのだが ,いわゆる測量楽譜ともいわれ
るくらいのものだから ,書きかたにしたがって ,音楽の相貌も美的内質も一変すると。 う
ような場合も 起り得る。 比較してみるために 引例した。 (第 20 図 )
5. 結
び
昔 芸術を観察するに 当っては,側面から ,それを照射するための ,二つの鏡を,こ対句。こ
立てるのが適当であ る。 二つの鏡によって ,それぞれ映しだされるべき , 昔 芸術の要素と
考えるものには , MeIody, Rhythm,
Harmony
などがあ る。 もっとも, この三つのもの
が, 吉 芸術の姉要素だと ,限って。
ってよいわけもなく ,素材を電子的手段にまでも 求め
るに至った現今の 質量的拡張をまで 考慮に入れるならば ,その領域は膨大であ る。 けれど
青 芸術 @ お ひナる
Dynamis
の再認識
117
も昔 芸術にお。で観察さるべき 主要な点といえば 依然として,先の,三つのものと考えて
よい。 しかしこの三つのものは ,それぞれ,独白に
個立 するのではなく , 昔 芸術の妙は,
それらが有機的に 関係し,一つの生命体をなしながら ,心性の妙のまにまに, これに生れ
るのであ る。 その生れでた 昔 芸術の,心性的作用においては ,心のさまが,まるで映しだ
されるが, このとき, 昔 芸術には, MeIody と Rhythm と Harmony とが, 自然的必然
的に 兼 $a備わってい,彼らを含めて, 舌 芸術は有機的な ,ある生命感をなしながら 生れる
のであ る。 このわけによって , 鏡は,その側面に,同時的に並んで立てらるべきで ,そう
性質を, 昔 芸術は示しているのであ る。 ところが,これには ,二者の何れを除外して
も 昔 芸術が成立しないというわけがまたあ る。 それで,概してこの三者は昔芸術の 三要素
い
う
だともまた。えるのであ る。
われわれは,和声については , 未 だ何も触れられなかった。 一見すると,旋律と 和声と
は ,それぞれ,それ
自身で完成されている よう に見える。 しかし,旋律も 和声も,その生
れた原理性についてみると ,それらは自然法則としての 倍音現象から , 両っ ながら得られ
たものだということがいまは 明かとなっている。 昔 芸術史の過程では ,旋律は,和声に
先
行していた。 だからといって ,その旋律に加工されたものとして 和声が得られたのでも ,
実はないのであ る。 人類の昔芸術的才能は ,はじめは,和声の
妙を発見するところなく ,
それは,旋律を先ず整えて久しくこれにとどまり ,永い時代を流れていた。 当時の才能は
この限られた 昔 芸術的素朴に 長い時間住みなれていたのであ った。
和声音楽が,明白な自覚をもって 創 まったのは,イタリ 一の G. P. Pa ㎏ strina(l515∼
1594), ドイッの O. Lasso (1520 ∼ 1594) らによってであ ったと考えられる。 これは, 吉
芸術史の重要な 時期を画するところとなったものなのだが
,これより先 ,その以前の数世
紀にねだる時代においても 夕声的なものへの 興味は,すでに偶然 事 のように発見されてい
た 。 それはおそらく ,それまでの旋律的な歌唱の フト した機会に,完全8 度の階 和 だの,完
全 5
皮の,そして完全
4
度の階 和 だのを諒承するに 至ったということに
それらが, ヵノソ 風な作品の試みをすでにはじめてはいたのであ
て自然なことなのだが ,
創
まったらしい。
った。 この偶然は , 極め
これらの 階和 和音は , 極めて自然的であ ったということの ,かえ
ってそのため ,そのあまりに旋律に 融合する性質がかえってうとまれて ,和声の妙に値し
ないものと考えられるところとなり ,現今では和声学的にむしろ 排除されているのは ,
皮肉であ る。 これらの完全な 階 和音こそは,現今の和声音楽の正統の 母であ ったものを。
和声感は,その獲得されるや 急速に成長し , 舌 芸術をたち立ち 肥え太らせたが ,同時に,
旋律をも大いに 発展させるに 役立ったのであ る。 階和 和音における ,聴覚上の同時的に快
いものは,それを時間継起のものとしてもまた 快いものであ ったからであ る。 次々に得ら
れた和声の発見が ,
同時的に次々に 旋律の 一 そう自由な拡充を 導いたのは, 至極当然の
ことであ った。 そしてこの間に ,旋律音楽も和声音楽も,同一の原理に生れたものだとい
うことを理解させるに 至ったのであ る。 そうして次第に 青芸術のための ,知的理解の地歩
が 固められると ,・その帰趨が音楽学的追求だの ,現象科学的実験だのを ,導入したのであ
る。
118
月
岡
忠、
二
進化する人類の 英知は,素朴な原始性を,次第に軽蔑するに至るらし。 。 そして軽蔑し
ている限りはまだよ。 のだが,時として ,原始性や素朴性から ,まるで離脱するという 危
険 にもまで,好んで踏みこみやすいのでも ,あるらしいのであ る。 昔 芸術は,素材として
の ヒビキ 」の,時間継起的な横の流れに,これに成立するわけなのだが ( たとえ和声を
流れる和声音楽も。 和声音楽において ,われわれは,その横の流れに,清澄感だの, 啄濁
「
感 だのの交錯ずるあ りさまを聴き ,
これに,われわれの 音楽的エネルギー 保存 則の ,更に
有力な 担 。人 としての役割を 課するのであ る ), 音楽の科学は , それ自体, 昔 芸術の要請
において起っだのであ ったのに「 ヒビキ 」を縦に検べる 阿字でも,当然としてまたこれに
あ っだ。 そこでその結果は , 舌 芸術に本質的な , 横の流れを顧みながちだと。
う
危険を招
来したのは,また当然でもあ ったのであ る。
その
ょう
な音楽科学は ,英知なるにもかかわらず ,時として古 芸術の誤認をもなさしめ
、た 。 現代の音芸術が ,数多の課題を,われわれに投げかけているのは ,音楽同 じ、 の,その
ような,おおむね縦 なる手法が,現在も 訂正しきれな。でいるねめてあ る。 たとえば, 調
快感と。 う ただ一つの例にとってみても ,旋律的なものと , 沌 上綱のそれと ,平均律と,
二者があ るが,現にわれわれの 耳にとって真実に 生命あ るそれは,。
った 。何れなのか。
またあ る。は,人の七代の調性感は Ar であ って,中世においては ,それは R であ り, 呪
代は C であ るというような ,
石
仮にそう。う 知的啓発に属すべきような 丁件が ,感性的人
㎞ " の 代表者でもあ るところの, 舌 芸術の中に , 在ってよいものなのか。 われ # コ % しは, こ
さして,調性音楽は
19 世紀を頂点として 崩壊したとやらの 物語らいを, @
しく
げ
展 げる人々の虚実を 判断することができるのてあ る。
人は, 舌 芸術的才能の 要請にしだがってのみ ,始めには旋律のす へ でを,それかわ 夕戸
音楽を,そして和市を,また現在まての楽器のすべてを ,楽曲の形式や,容態をも,
これ
から求めこれに 得たのであ る。 これらのものは , 昔 芸術にとって ,すべて本質的な要請に
よってのみ健全に 発達し得られたのであ って, この芸術には ,奇矯を受容ずる 余地がない
のであ る。 再 がさつきの二つの 調性につ。ていえば,音楽的才能としての , どれか一つの
調性こそは,他の二つを,いわば似而非的な他の 二つを,彼の能力の中に消化し ,その消
化の可能小生の 故に
" 昔 芸術的
有 にもたらしているわけ
"
のものでなければならない。 その
一つの真実のものが ,たとえば調性にっ。
て 何れであ るかは,もはや 言 うを 要しまい。
" 先天生得に
負
う
ともに無限に 洗煉されることはあ っても,
"
感性の中のものであ って,人類の知
しかも・
白り
・
芸術は, 昔 芸術は殊更
進化と
もっぱら知識が 兄出 だす次々の 新 らし
いものを,まるで新規に組み合わせ・てする 知的遊戯,趣味かとも 見えるそれらに 佼 べれ
ば,遥かに超越的な ,今更のように,生命らしくも 本来的な,芸術の中の芸術として , 霊
魂 的な不忠 議 なものを奏でる ,そうしたぷ術 なのであ る。
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