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古文は時の方言

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古文は時の方言
はじめに
古文は時の方言
子
育課程所属の一年生全員に行っている九O分一回の授業
を紹介するという形で進めていく。
どのように進めて良いのか少々戸惑いつつ、本学におけ
る小教専︵小学校教科専門国語︶の授業で、毎年学校教
しかし本諜韓の一年生は、たくさんある必修の授業や、
降り注いでくる感じで一方的に与えられる多すぎる情報
人たちが素直に、興味を持ち、古典の世界と向き合って、
﹁思いがけず楽しいひとときを過ごしてしまったな﹂と
いう感想を持つような授業を目指している。
を体験したいと思っている学生も、少なからず居ること
も事実である。そのような十八から二十歳くらいの若い
て、心を閉ざしている場合も多い。反面、本当は古典が
持きなので、もっともっと自分の知らない世界、面白さ
中学・高校の古文の授業で、口問詩分解と逐語訳的な現代
語訳にうんざりしている。はじめから拒絶一反応を起こし
ー江戸時代の子供たちが読んだ ﹁浦嶋太郎﹂ i
長年お世話になった、中国古典文学ご担当の同国充博
先生のご退任を記念する論集に、研究分野として最も近
い古典文学祖告ということもあって、拙稿を掲載させて
いただくことにした。
回
日
日
量のせいで飽和状態に陥り、吸収力は極端に衰えている。
この機会を利用させていただき、教育のジャンルにお
ける初めての論考をまとめてみた。何しろ初心者なので、
ム
ー
‘
F
受講生達の大半は、受験勉強の一環のように行われる
-44-
有二
受動的に教室に居り、それなりの成績を取得できればよ
いというその場凌ぎの対処法で、過密スケジュールをこ
なしている。教員免許状を廻つての文科省の方針や、そ
れを受けての学部の体制を改善しない限り、それは致し
方のないことであろう。
大半の人には一瞬の体験に過ぎず、すぐに記憶の彼方
に追いやられてしまうに違いない。それでも、国語を専
攻しない学生にとっては、これが最後になるかもしれな
い古典の授業である。﹁一期一会﹂という言葉は受験勉強
の一つである四字熟語なので、皆知っている。この授業
も一期一会であることを確認しつつ、まず伝えるのは、
古文だからといって、﹁特別扱いしてはいけない﹂という
ことである。
一古文は時の方一言問
大学生の頃、たまたま見た N 珂K教育テレビの英語の
先生が、﹁英語も日本語も同じ地球語なのだから、大した
ことはない﹂と話していた。仮定法過去を例に出して、
臼本語も英語も、﹁もし寒かったら、窓を開閉めましょう
か?﹂と言うでしょうと。こういう先生に習ったら、私
も英語が好きになっていただろうにと、その時思った。
私もこの先生と同様のことを主張したい。﹁古文も同じ
日本語なのだから﹂と。方で話す人と同席するとき、
その人の一一言葉が分からないからとって、聞くことを放
棄するようなことはあまりしない。必死で理解しようと
努めるだろう。想像力を働かせて、前後関係から一一出向いた
いことを扱み取ろうとする。あまりにも違いすぎて難し
い場合であっても、その努力はする。わからなければ、
わかるように何らかの方策を立てる。分かろうとする姿
勢を放棄すれば、意思の疎通は絶たれてしまう。
なぜ、それが時代の違いだと出来ないのか。方丑一口が地
域の違う日本一時間であるならば、古文は時代の違う日本語
であり、時空の差にすぎないではないか。なぜ古文だか
らといって、想像力を働かせようとしないのだろう。分
からなければ分かるようにしないのだろう。大切なこと
は、心を動かし、頭を働かせるということなのである。
そこに、現代の教育の問題が絡んでくる。品詞分解と
逐語訳的な現代語訳の丸暗記、あまりにも微視的な視野
で文章と対し過ぎているのだ。普通相手の一一一一口いたいこと
を理解しようとするとき、まずは全体で何を一言いたいの
かを大まかに掴み、それから前後関係を確認しつつ、細
部に一旦って把握していく。このような方法を、古文でも
行わなければ、いつまで経っても読めるようにならない
し、ちっとも面白くない。ある時代から死語になってし
まった特殊な言葉や、特有の一一出向い屈し、時代性など、わ
からないことは調べたり尋ねたり、いろいろな方法で分
-45-
かるようにすればよい。けれども大半の言葉は現代にま
で繋がっているし、一言い自しも少し割れれば自然と分か
るようになる。同じ日本語、間じ地球語なのだから。
古文は時の方言でしかないという感覚。これが重要だ
と私は考えている。わかるはずだと信じること。大した
ことはないと楽観視すること。そして何よりも、知りた
いという知的好奇心がかき立てられること。そのために
は現代語訳も大いに利用すればよい。注釈や解説も必要
なら堂堂と参照すればよい。
方一一一一口的古文感覚。これを実体験して貰うために、﹃御伽
草子﹄の﹁浦嶋太郎﹂を利用する。理由は、
*留学生以外の全員が昔話の浦島太郎を知っている
*司御伽草子﹄の話は昔話とかなり違う
*易しい古文である
等をはじめ様々あるが、とにかく全然難しくないという
感覚で長文を一気に読んで、しかも面白いと感じる、と
いう体験をさせたい。
テキストには小学館日本古典文学全集﹃御伽草子﹄を
用いる。理由は現代語訳が付いているから。頭注と現代
語訳と板本の絵付きである。昔話の滞島太郎の内容を確
認し、それとどこが違うのかをチェックするように伝え
て、私が朗読するので、学生達は易々と物語の世界を理
解し、楽しむことが出来る。先ず安心感を持たせること
が重要である。現代語訳があるから、分からなければそ
れをいつでも確認できるのだという安心感。そして、意
味が良く伝わるように朗読すること。学生に読ませると、
それが上手くいかない。意味を強調して朗読すると、黙
読ではかなり難しい古文でも、結構理解出来るものであ
る。そして、昔話との比較。比較するという作業を与え
ることで、より内容理解が容易になる。
このような、まるで補助車輪を付けた自転車に始めて
乗せる親の心境で、授業に臨むのである。﹁たしかに、古
文って、方一一一一口みたいなものだ﹂と、だんだん学生達の眼
が輝きを増して、私に向かってもっと聞きたいというエ
ネルギーを発してくれるようになる。はずなのだが、こ
れも年度によってもクラスによっても︵春・秋学期各
1 ・2時限の匝クラス︶反応に違いがあり、だんだん輝
き具合が鈍って来つつあるというか、引き込める人数が
少なくなりつつあるのが現実である。私の歳のせいか、
馴れのせいか、学生の質が変化したからか、まあそのす
べてかもしれない。この辺りは今後改善する必要性を感
じている。
ニ江戸の霊話
浦島太郎の物語は、﹃日本書紀﹄司丹後風土記﹄﹃万葉
集﹄などに既に登場するので、長い壁史安持っている。
-46-
﹁滞島子伝﹂の形で中古・中世の時代に広く流布した。
その中から、室町時代物語の一つとして﹃御如草子﹄所
収の﹁浦鳴太郎﹂が形成された。室町後期から江戸初期
に掛けては、さまざまな物語が豪華な絵入の物語草子と
として作られ、江戸期には絵入り抜本として棋を震ねた。
江戸中期になると、その中から特に面白いものを本屋が
選んで、﹁御伽草子﹂あるいは﹁御伽文庫﹂と呼んで豪華
な冊子本を出版した。全部で二三作品ある。その中に
﹁浦嶋太郎﹂が入っている。いつまとめられたのかは明
確ではないが、現存する﹁酒呑章子﹂の末尾に
大坂心斎橋順擾町書林渋川清右衛門
という刊記があることから、江戸中期︵享保年間コ広 1
コ試あたり︶に、渋川清右毎門によって、上方で出版さ
れたらしい︵市古貞次﹁中世小説の研究﹄東京大学出版
会一九五五年一二月刊︶。室町時代に存在した短い物語
すべてを御伽草子と呼ぶこともあるが、本稿では狭義の
意味で、この渋川版を司御伽草子﹄と呼び、そこに所収
されている浦島を﹁浦嶋太郎﹂と表記する。使用する本
文は小学館新編日本古典文学金集﹃御伽草子﹄所収のも
のを利用する。︵注︶
﹁江戸時代の子供が読んだものだから、あなたたちに
読めないはずはないでしょう﹂と始めるのだが、実際は
丹緑板︵赤や縁の美しい多色刷り︶も交じっている豪華
本であるから、寺子屋に通う長麗住まいの庶民の子供で
はなく、富裕層の教養のを一回であったに違いない。いずれ
にしろ刀仰伽草子﹄は、子供向けなのだから、初等教員
免許状必須科目で扱う古典としては、最適の教材である。
学生達は江戸時代の子供達って、どんなものを読んでい
たのか、親はどのようなことを子供に教えたがっていた
のかということに輿味を持つ。この観点を導入すること
が重要である。子供に何を読ませ、何を依えるか、これ
は教師はもとより親にとっても大事な事柄だからである。
学生達は教員になるために必要であるという意識と由時
に、吉分は何を読み、侭を学んで来たのかということを
思い返しつつ、江戸時代と比較する視点を持つのである。
古文がただの昔の文章ではなく、に現代と共通するテ
ーマで結びつくことになる。
一一一ギブ&テイクの世界
昔話との違いの中で、特に重要な点を簡単にまとめて
みる。
−太部は大人で︵二酉・五歳︶、子供達に虐められて
いた亀を助けたのではなく、自分で漁をしていてつ
り上げる。
亀は女に変身して現れ、太郎を竜宮城に誘う。
太郎はその女と夫婦になる。
3 2
-47ー
竜宮城は海の中ではなく、絶海の小島のようなと
ころで、四季が一度に存在する不思議な建物である 0
5 一一一年後に故郷に帰るとき七O O年経っており、寅
った玉手箱を空けると紫雲がたなびき、太郎は鶴に
変身する。
6 その後浦島明神として亀と夫婦の明神となって、
衆生を済慶する。
﹁浦嶋太郎﹂では、亀を助けた結果、最後は明神となっ
て永遠の命を与えられ、衆生を済度する尊い存在となる。
室町時代の人々にとっては︵おそらく江戸時代もてこれ
は完壁なハッピーエンドである。
ーのように、太郎は自分で亀を釣り上げ、次のように
言って、亀を放してやる。
汝生有るもの b中にも鶴は千年、亀は万年とて、命
久しきものなり。忽ちここにて命をた﹄ん率、いた
はしければ、助くるなり。常には此恩を思ひ出すべ
し﹂とて、此亀をもとの鴇へかへしける。
昔話のように、﹁よい子﹂が行った小さな親切ではなく、
思着せがましいこと宏一言い︵傍謀部︶、物語は亀の報恩の
形できっちりと展開していく。因果応報の思想が行き渡
っていた中世の時代、人々はギブ&テイクの原則則を守り、
むやみに美談に飛びつくようなメランコリックさは無か
ったのだろう。それが健全で開放的な人間関係を作り出
す。人間関係の基礎はギブ&テイクが成り立つことにあ
るということを、現代社会ではもっと重視すべきで、子
供にもそれはきっちり教えるべきだろう。
点線部にある﹁鶴は千年、亀は万年﹂という決まり文
句は、最後に玉手箱の中に込められていた寿命や、変身
する暁神の姿にきっちり繋がっているので、全体に不合
理さや矛扇のない作品に仕上がっている。この話を念頭
に置いて、昔話を見ると、小さな親切だったのに、さん
ざんな結末が待っていて、残酷な感じさえ与える支離滅
裂な物語であることがわかる。
なぜこんな奇妙な話になってしまったのか。実は昔話
は、明治時代の固定教科書に掲載されたものと同じなの
である。現代に至る迄、児童書の世界で明治時代の国定
教科書の影響が如何に大きいかを示す、好例であろう。
そのあたりの事情は三浦佑之の宮市局太郎の文学史﹄︵段
ーに紹介︶に詳しいので、参照されたい。
関竜宮城の実態
﹁浦組問太郎﹂で描かれる竜宮城は、現代的感覚だと南
の携に浮かぶ楽園、ハワイのような常夏の国のイメージ
だが、当時としたら、西の海の果てにあると考えられて
いた西方極楽浄土のイメージであろうか。竜宮城は﹁四
方に四季の草木をあらわせり﹂で、次のように描写され
-48-
4
ている。
まづ東の戸をあけて見ければ、春の景色とおぼえて、
梅や桜の咲き乱れ、榔の糸も春風に、なびく霞の内
よりも、強の音も軒近く、いやつれの携も花なれや。
みなみおもて
南面を見であれば、一度の景色とうち見えて、春を
隠つる垣ほには、卯の花やまづ咲きぬらん。池の蓮
は露かけて、汀涼しきさざなみに、水鳥あまた遊び
けり。木々の梢も茨りつつ、空に鳴きぬる蝉の声、
夕立過ぐる雲間より、声たて通る時鳥、鳴きて夏と
やしらせけり。
西は秋とうち見えて、四方の梢も紅葉して、ませの
内なる白菊や、霧立ちこむる野辺の末、真萩が露を
分け分けて、声ものすごき鹿の音に、秋とのみこそ
知られけれ。
さてまた北をながむれば、冬の景色とうち見えて、
医方の梢も冬枯れて、枯葉に置ける初霜や、山々や
ただ白妙の、雪に埋るる谷の戸に、心細くも炭がま
の煙にしるき賎がわざ、冬と知らする景色かな。
この部分の特色を考える事は、前半部分の山場で、眠
気覚ましを兼ねて、学生達に次々指摘して貰う。
ー四季の季節が東西梅北に分割された庭に同時に存
在する。
岩波日本古典文学大系司御伽草子﹄の頭注には、 ﹁沼呑
七・五調和文の美文体で綴られている。
子﹂にも同様の表現があり、当時の慣用表現とされて
いる。﹁酒呑童子﹂では章子の住まいについて﹁四節の四
季をまなびっ﹄﹂︵島津本では﹁四方四角には春夏秋冬を
つくり﹂︶と表現されており、非現実的で、人間には望み
ようのない理想の住まいの条件として、臨季が同時に楽
しめることが適しているのであろう。
実はこれは能︿郁郁﹀の影響化にある発想ではないだ
ろうか。人生を悟ることのできる枕で夢を見て居るシテ
が、皇帝となって栄耀栄華を極めている描写がある。
春の花咲けば、もみぢも色濃く、夏かと思へば、雪
も降りて、盟季折々は、自の前にて、春夏秋冬、万
木千草も、一日に花咲けり、面白や、不思議ゃな。
︵岩波日本古典文学大系﹃謡曲集﹄︶
四季が問時に存在するのではなく、めまぐるしく変化し
て時が経過する様子を描写している。しかし夢の中ので
きごとなので、実は二度にすべてがそこに現れている状
態を表現しているのであろう。
四季の変化が顕著で、いずれも美しいことを誇りとす
る日本の控史風土の中から、四季を向持に味わうことが
最高の理想であるという考え方が生まれてきたのであろ
う。﹁浦嶋太郎﹂では、竜宮城にそれを拡用しているので
ある。
2
-49-
このことも、朗読でちょっと強調すれば、容易に気ゃつ
けることである。日本語には、和文・漢文・和漢混請文
があり、それぞれに特色と適する内容があることを紹介
し、ここはという美しい場面、情緒的な場面では、本来
の日本語である和文の、しかも韻文体で連綿と繊細に表
現していくのである。この書き分けが最も上手く出来て
いるのは、﹃平家物語﹄党一本であろうか。主人公の心情
や、平家の滅びていく有様などの部分で、印象的な和文
が用いられている。
3 描写されているのは四季の風物で、和歌の慣思句
を用いて、誰でも知っている四季の代表的な最物が
読み込まれている。
多くの場合学生達は、季語を用いていると答える。俳
句の教育が浸透している証拠であろう。季語を選定する
土台となったものとして、勅撰和歌集四季の巻での用語
があることを、ここで確認する。春と一言えば梅、桜、柳、
霞に鴬。夏は卯の花、蓮、水鳥、蝉、夕立、時鳥。秋は
紅葉、白菊、霧、鹿の声。冬は枯葉、初霜、雪、炭窯の
煙。いずれも伝統的で慣用的な歌誌を連ねている。
春は霞で秋は霧という、同じ空中の水蒸気の粒を、季
節によって用語を変えている点も注意したい。秋の鹿の
声は、ちょっと学生には難しいだろう。晩秋は鹿の結婚
シ!ズンで、牡鹿が牝鹿を求めては哀れっぽく鳴き歩く
のである。その声が何とも人恋しさを感じさせる。﹁秋﹂
は﹁飽き﹂に音通で、失患のイメージを与えるので、冬
に繋がる秋という季節感の寂しさが強調されるというこ
とも、ちょっと触れられるとしたら、その時間の学生達
は、かなり理解力も吸収力も良くて、私も調子よくしゃ
べっている状態である。夏には涼しさを感じさせる水が
あり、冬には、炭境という人事が入っている点も、和歌
と毘様の傾向である。
このように、ここは美しい描写にしたいと作者が思う
ときに、歌一語を連ねた韻文体を用いる。平安後期以後、
和漢混靖文で書いた文章の特色である。この文体は古今
集仮名序に端を発していて、仮名序が文学史上重要な位
置にある理由は、その内容もさることながら、実はちょ
っと接雑な抽象的内容を美しく表現するときの、美文体
のモデルとされたからに他ならない。だから、古今集仮
名序は、一度はちゃんと勉強しておいた方が良い。
仮名芹まで丁寧に触れるには、せめて一一一回くらいたっ
ぷりかけて授業を行わないと無理だろう。が、それでは
時間内に一気に物語を読了して、結末にびっくりすると
いう面白さを味わうスピード感が損なわれてしまう。古
典享受の楽しさの一つには、スピード感も重要な要素だ
と考えている。
それはさておき、 江戸時代の子供達は、 知らないうち
n
u
z
u
に日本語の重要な特色について、ここで体験しているの
である。歌語によって表される、美しく豊かな日本の四
季。日本人が次代にどうしても継承したいことの一つが、
四季の美しさであり、歌語の美しさであろう。それを、
何気なく、童話を読む中で学び取っていける仕組みがあ
ることにも気付いて葺いたい。
五﹃漉氏物語﹄との出会い
え
と
竜宮城は、閣のように
誇
F
震
3
~
草
主
西
さて前半の山を一つ越えたのだが、ここでもう一踏ん
張り、更にもう一つ、竜宮城の描写で確認しておきたい
ことがあるのである。四季が開時に一つの建物の中にあ
る。このことから何か連想することはないだろうか。
今のところ各年度のどのクラスでも、一人くらいは気
付く学生がいる。平均すれば数名、多い場合は一 O 人く
らいだろうか。
﹃糠氏物語﹄、光源氏が造営した六条院である。そうい
うと思い出す人も多い。学生達は、過去に習った内容を
ほとんど−記憶の彼方に置き忘れていて、ちっとも告分で
取りだして今に活用しない。頭の道具籍から何を取り出
せるか、そういう訓練を幼少の頃からし続ける必要があ
。
心
マ
『;憲民物語』六条院
「浦幾太郎j竜宮城
EU
引き継いで全面的に改築したものであるので、先ず中宮
にどの町がよいか選ばせたところ、母が秋を好んでいた
て用意された。中宮は六条御息所の忘れ形克で伊勢の斎
宮であった入、御怠所亡き後、椋氏が後見人となって入
内させた。ムハ条院自体が、ムハ条郷息所の屋敷跡を源氏が
と秋の町を南側に、夏と冬の町を北側に作っている。秋
の町は、天皇の后である秋好中宮の宿下がりの場所とし
条抗を念頭に置いていたと一証明することは不可能であろ
う。出典研究ではないのだから、それを目的としている
ようになった後にこの竜宮城の描写を読んだとき、真っ
先に患ったのが、﹁六条院に似ている﹂ということだった。
このことを伝えたいのである。﹁浦嶋太郎﹂の原作者が六
﹁掠氏物語﹄六条院の説明をするには、布のようなこ
とをかいつまんで話す必要がある。司源氏物語﹄への輿味
をかき立てることができれば、成功であろう。
私は昔は気付かなかったのだが、﹃源氏物語﹄に親しむ
東 H春、南昨夏、西昨秋、北 H冬
という配置だが、﹃源氏物語﹄︵初音巻で完成︶では、
ことに因んで、秋を選んだ。春の町は、源氏と紫の上の
住まいである。若紫が成長して紫のtとなり、作者は春
二つの物語に共通するものを教えてくれる。私の体験は、
まさにそういう楽しさであったのだ。
この体験をすると、古典を読むことが止められなくな
過去に読んだ物語が、今読んでいる物語の中に再び現
れてきて、過去とは違う世界を見せてくれる。あるいは
江戸時代の子供達は、まさか﹃、源氏物語﹄を知らない
だろう。しかし﹁浦嶋太郎﹂に親しんで成人した後に
﹃源氏物語﹄と出会ったとしたら、﹁あっ、竜宮城に似て
いる﹂と思うのではないだろうか。そう思った場合には、
﹃源氏物語﹄が身近になり、同時に﹃御伽草子﹄の面白
さを再確認するはずである。
わけでもない。大事なのは、私が六条院を連想したこと
であり、連想することで、﹁浦鳴太郎﹂が一層面自く感じ
られた事実である。
のイメージを与え、特に樺桜のような人として紫の上を
描いている。南向きが家としては良い場所であるから、
重要人物の住居にそれが当てられるのは当然であろう。
夏の町は北東、すなわち丑虎で、鬼門に当たる。そこを
守るのが花散思である。糠氏の思い人の一人であったが、
今は友達関係で、人徳に優れた教義人なので選ばれた。
源氏の息子のタ霧や玉蔓が住み、育てられた。冬の町に
は明石の上が住む。北西のもっとも悪い場所のようだが、
蔵を建てるには適した方角である。父は明石入道、明石
という地方を治めた受様︵地方長官︶で、豊かな経済力
を持っている。沢山建てられた蔵によって、の実力を
示している。
り
L
r
o
。
る
のい合った愛の言葉であることを習ったと記寵してい
る学生が、一クラスに何人かは存在する。六条説よりは
良く知っている。漢詩の授業はかなり熱心に行われてい
るのだろう。ついでにここで﹃長恨歌﹄の内容を確認し、
白楽天が日本人の最も好きな唐の詩人であること、﹃源氏
物語﹄をはじめ多くの作品に引期されていることも伝え
。
る
最後にもう一つ、 6は、夫嬬の縁は二世であるという
考え方。では一世と三世はどういう関阿部だろう。親子が
一世であり、主従が一二世の縁なのである。これを知って
いっても実際には、母体の中で子供に母親の血は繋がっ
ているわけではないのだが。繋がっていたらみんな同じ
血液型になってしまう。母体では血を胎盤に吹き付けて、
子供は胎盤から栄養を吸収しているに過ぎないのだ。そ
れはともかく、近代以降の方が、親子の縁を重く考えて
いることに、触れておきたい。
このような問いかけを繰り返していると、まるでクイ
ズのようで気が引けるが、学生達は生き生きと楽しそう
いる人はまずいない。特に親子がこの世だけの縁だとい
うこと。中世には広く浸透していた。血のつながり、と
2は、中世文学に親しむ者には馴染み深い噴用句だが、
学生達はほとんど知らない。﹁一樹の影に宿り﹂が雨︷侶り
であり、ご、何の流れを汲む﹂が同じ川から水を汲んで欽
に、いろいろなことに思いをめぐらせ始める。もちろん
中には腕枕で眠ってしまう者も居て、気になってくると、
﹁眠ってもいいけれども、私に分からないようにして﹂
六昌然に学ぶ古典的教養
作者が﹃源氏物語﹄の六条院をどの程度意識している
のかは削判断しにくいが、﹁滞嶋太郎﹂には古典作品や慣用
匂などの引用が多いことも特色の一つである。
−鶴は千年亀は万年
2一樹の蔭に宿り、一河の流れを汲むことも、皆他
生の縁
3 借老罰穴の語らひ
4天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の技となら
ん
5鴛鷲の契り
6 一一世の縁
7会者定離のならひ
などである。全部に言及する余裕が無いので、一部だけ
取り上げよう。
食に使うことを理解させるにも、かなり時間が掛かる。
しかし、分かってみると、素敵な事柄だと思う人も多い。
4は、白楽天可長恨歌﹄の説で、玄宗皇帝と楊貴妃
O
﹁
リ
nペ
児童書になぜこんなに引用が多いのかということは、
是非問いかけておきたい。学生達はすぐに気付く。江戸
と一一霞って、姿勢を正させてしまう。
今集・近代短歌など、沢山の難しい和歌を無理矢理のよ
うに勉強させられ、なぜそうなるのかもよく考えずに、
憶える人もいるだろう。現代人は歌人でもない限り、ま
ずそんなことはしないのだから。
意味を丸暗記した経験安持っている。だから、和歌が嫌
いなのである。しかし、平安以降の物語の中で、登場人
物は大事な場面になると歌を詠む。そのことに違和感を
時代の子供達は、童話を読みながら、こんなにいろいろ
なことを知るのだと。﹃長恨歌﹄の一節まで入っているこ
とに、驚きを、感じると共に、自分たちが如何に貧困な教
ることは、そんなに容易いことではない。どうして悲し
いのか、どんな悲しさなのか、どうしたいのか、どうし
たらよいのか、連綿と続く心理措写は、フランス近代小
説にでもならないと、獲得できない手法である。日本人
だから﹁物語のいできはじめ﹂の﹃竹取物語﹄から既
にそれを使っている。﹃源氏物語﹄でも、そして﹃平家物
司義経記﹄﹃御伽草などでも詞様である。町時
択して、適当に組み合わせれば、心清表現が可能になる。
貰った方も、決まり文句の意味さえ理解出来ていれば、
内容を汲み取ることが出来るのである。
はそれを、和歌の形で容易に行っていた。記述式長文よ
りも、三択問題の方が易しいように、似た環境で狭い世
界に共同生活している場合、状況によって決まった言葉、
言い屈しがあって、その時々の自分に最も近いものを選
たまに、正解が分かる学生がいる。和歌の方が心情を
伝えやすいから。自分の気持ちを事細かに言葉で表現す
養しかもっていないかわかって、どうしてもっといろい
ろ知る機会がなかったのかと、焦りを感じ出す。そこが
重要なところで、ただ知っているか?憶えなさい!では
あまり効果はないが、江戸時代の子供達と比較されてし
まうと、俄然対抗意識が生まれるらしい。
確かに、教養書として、大変上手く出来ている。
七和歌の重要性
そろそろ時間が足りなくなってきて、後半は適当に読
み飛ばして、もう一つ是非伝えたい、後半の山場を迎え
る
。
別れに際して太郎夫婦は和歌の贈答を行い、しみじみ
と別れを清しむ。さらに太郎は船中と様変わりした故郷
の地でも歌を詠む。クライマックスになぜ和歌が入って
いるのだろう。学生達の大半は、和歌は嫌いである。高
校までに、百人一首はともかく、万葉集・古今集・新古
-54-
代にまで降ってくると、和歌を詠めることが教義人の
しであるという認識が生まれてきているので、﹁浦嶋太
郎﹂の歌同様、掛詞だけを使用して、言葉遊びでしかな
いような類型的でお粗末な歌ばかりになってくるが、そ
れでも歌が詠めるのは、貴族的な教養人の証しである。
竜宮の描写に使われていた四季を表す美しい歌語の力
もしかり、クライマックスで詠まれる和歌もしかり、古
い時代に知何に和歌が重要であったかを理解する良い機
会である。
八紫雲の暗示するもの
いよいよ最後、玉手箱を開けると立ち上ってくるのは、
白煙ではなくて、紫の雲一一一すじである。ここで、読むの
を止めて、質問する。さて、この雲はどんな予兆でしょ
うか。ラッキーな事柄か、アンラッキーか。全員にどち
らかに手を上げさせてみる。私の一一白い方が影響するらし
くて、割合はその時によって違うが、必ず、開方に分か
れる。それぞれどうしてそう患うのかを開いてみる。ア
ンラッキーだと患った人たちは、紫が不吉な色だからだ
と答える。ラッキーの理由は、高貴な色だから。正解は
ラッキーカラi。紫雲は舟弥陀如来の乗り物であり、人
が死ぬとき紫雲が見えると、それは阿弥陀諜が撞楽浄土
からお迎えに来てくれている証拠になるのである。﹃方丈
記﹄を書いた鳴長暁の説話集守党心集﹄などにも事例が
報告されている。当時の人々は﹁紫雲﹂と聞けば、即座
に阿弥陀様のお迎えを連想するのである。
だから、ここはこれから良いことが起こるのだと、読
み手に予測させる働きがある。嫌に素直に、妙に納得し
て、授業は終わりとなる。
おわりに
かなり欲張りな内容で、次々とたたみかけるように展
開して、私白出身はくたびれ果てて、ようやく九O分の授
業を終える。時間に余裕があれば最後に感想を少し書い
て貰う。このような場合悪く書く人はいないから、差し
引いて受け取る必要があるが、﹁文法とちがって面白かっ
た﹂﹁久しぶりの古典だったが、思いがけず楽しかった﹂
とか﹁浦嶋の話がこんなに違ったなんて、びっくりした。
もっと他の話も知りたい﹂﹁子供にはやはり昔話の方がょ
いと患う﹂﹁子供にも﹃御御草子﹄を教えたい﹂﹁和歌が
こんな役割をもっていたんんて﹂などと、大旨良い皮応
の感想が書いてある。しかしやっぱりほとんどの学生は、
すぐに忘れてしまうようだ。一年後携にある盟語領域専
攻試験で﹃御伽草子﹄について書けという小項自を出題
したら、ほとんど全員、骨背けていなかった。
そんな中で、これまでに最も印象的だった感想は
υ
に
u
n
F
﹁古文は時の方一一=E ということに共感を覚えました。
その上で、先生はどんな文法の授業をなさるのか、
受講してみたくなりました。
というものだった。これは今までで一番嬉しい感想だっ
た。実は、私は文法をとても重椀しているのである。馴
れることが先決なのは確かだが、入門が終わって、吏に
上級の段階に進んだとき、内容を厳密にきっちりと理解
︵注︶浦島伝説に関する研究は非常に多くある。主なも
のとしては、水野祐﹃古代社会と浦島伝説﹄︵雄山閣
一九七五年ニ月刊︶、三浦佑之﹃浦島太郎の文学史
ib ︵五柳書院一九八九年一一月
|恋愛小説の発生
刊︶、林晃平﹃浦島伝説の研究﹄︵おうふう二0 0
ニ年一月刊︶などである。古代社会との関わり、滞
島伝説の変遷、国定教科書・昔話浦島太郎など近代
の児童文学に関しての論考などは、これらを参照さ
にいちいち紹介はしない。また、浦島伝説と中国の
れたい。先行研究の紹介もそこに詳しいので、本稿
文法的な押さえは是非必要になる。私の場合は、感覚的
にまず内容を把握してしまって、それを文法的にチェッ
関わりに関しては、本学卒業生の安中瞳氏が近く論
考を発表するので、そちらも併せて参照されたい。
しようとするとき、他人に解釈を説暁しようとするとき、
クして確認する、という順番なのだが。
次は、文法の授業例をご紹介したい。
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