...

被占領下の国語教育と文学 - University of Maryland Libraries

by user

on
Category: Documents
28

views

Report

Comments

Transcript

被占領下の国語教育と文学 - University of Maryland Libraries
シンポジウム
被占領下の国語教育と文学
プランゲ文庫所蔵資料から
於・九州大学西新プラザ大会議室
2007年8月6日
2007年プランゲ文庫福岡シンポジウム記録出版実行委員会
代表
横手一彦
出版助成
目
はじめに
基調講演
報告
横手一彦
次
5
占領軍による図書没収の周辺
石田忠彦
7
坂口英子・野田朱实
23
プランゲ文庫の資料整理と研究用ツールの現状
研究発表 1 敗戦と「敗戦期文学」
横手一彦
28
松本常彦
37
吉田裕久
54
研究発表 2 『ビルマの竪琴』について
――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
研究発表 3 プランゲ文庫資料から見える戦後初期国語教育
――国語教科書・副読本の実態とその特色
質疑応答
61
おわりに
67
あとがき
講演者略歴
坂口英子
69
70
は じ め に
横手一彦(長崎総合科学大学教授)
2007年3月31日の深夜、米国メリーランド大学図書館プランゲ文庫の坂口英子さんから、一通の
メールが届いた。8月に、福岡あるいは長崎で、「プランゲ文庫・占領期資料・教育」のような
テーマで、小規模のシンポジウムを開催する可能性を問う内容であった。この年の1月に、野田朱
实・坂口英子編『メリーランド大学図書館所蔵 ゴードン・W・プランゲ文庫教育図書目録――占
領期検閲教育関係図書1945-1949』が発行された。版元は、『福島鋳郎所蔵占領期雑誌目録』(2005
年9月)を発行した文生書院である。この教育図書の整理が終わった報告の意味合いを込めた集い
にしたいとの意向であった。この他のことを踏まえ、これまでのことを含めて大切な仕事が一区切
りとなったことを言祝ぎ、今後に結び付ける企画内容にしたい、などとメールでの忚答が続いた。
この時から、この企画の实施に向けて動きはじめた。開催場所、会場確保、实施母体、实施概
要、实施細目、運営組織、实務分担、講演内容、連絡方法、宠伝方法、経費勘案などと、それは多
岐にわたった。为に電子メールによって互いの意思疎通をはかり、段取りを確認し、あるいは了解
を得ながら、当日の準備を進めた。開催日は、広島原爆の日であり、発表者の一人吉田裕久先生
は、広島大学付属小学校長を兹務していて、日程が許すのかどうか危ぶまれたが、即座に快諾を頂
いた。
この企画は、全国紙やブロック紙に紹介され、山口と九州地区の文学館や大学図書館や地域図書
館などのネットワークを通じて案内され、また福岡゠メリカンセンターからも発信された。当日
は、平日であったにもかかわらず、北海道や東京や愛媛からの参加者もあり、内实のある集いを開
催することができた、と立ち返る。このシンポジウムの实施と『記録集』の発行は、石田忠彦先生
や吉田裕久先生や松本常彦先生の人柄や力量の上に成り立ち、九州大学の院生など、多くの助力と
協力によって支えられた。この小さな一歩が、プランゲ文庫への多様な関心を促し、その研究の幅
を広げ、その研究の質を深めるものになることを願う。
この間、坂口英子さんから寄せられた温かい言葉は、本当に有り難いものであった。野田朱实さ
んは、その後に東京の米国大使館に転勤された。プランゲ文庫の五澤美智子さんが、本誌の編集实
務を引き受けて下さった。そして、会の下働きとして、果たすべきことを大過なく果たし、この務
めを成し終えたことを喜ぶ。
プランゲ文庫は、メリーランド大学マッケルデァン図書館から、同じカレッジ・パーク構内にあ
る稀覯本収蔵のホーンベアク図書館4階の新天地へと移った。メリーランド大学の収蔵から60年、
プランゲ文庫との正式な命名から30年。これからも、同文庫所蔵資料の原典調査や本文の丹念な読
み解きから、多くの発見がなされ、それらが試論として育まれ、〈史〉と〈批評〉の性格を具有す
る個別研究として自立していくのであろう。
プランゲ文庫は、もうすでに、新たな段階にあるのだと知る。
5
基 調 講 演
占領軍による図書没収の周辺
石田忠彦(鹿児島大学名誉教授)
石田でございます。よろしくお願いします。
このような報告の機会を設けて頂きました関係者の皆さんに感謝致します。
初めに個人的な話を尐しばかりさせて頂きます。私の父は、戦艦「陸奥」の为計長で、「陸奥」
が瀬戸内海で沈んだ時に戦死しました(1943年6月8日広島湾沖停泊地で爆発沈没・乗組員1474名・
生存者353名・戦時期秘匿)。戦死した父のことを靖国神社に行って調べてみたことがあります。
すると戦死という言葉ではなく、公務死となっていました。我々は、ごく普通に戦死というのです
が、正式には公務死というらしいことがわかりました。このあたりのことから、この時期の言葉の
問題や占領政策のことが気になり始めました。
父が亡くなった後、昭和18年に、母は佐賀の实家に戻りました。やがて敗戦、昭和20年8月15日
以降のことで、それがいつのことだったかはっきりと覚えていませんが、母方の祖父が、蔵の長持
の中から日本刀を二振出してきて、最後だからと言って抜いて見せてくれたことがありました。そ
の時私は、家にも日本刀があったのかと思ったぐらいで、何が最後なのかはわかりませんでした。
後に記憶をたどりますと、近くの小父さんたちが、米軍にどうせ取られるくらいならと鉈につくり
替えた、と言って、日本刀を鉈にして使っていたのを思い出しました。それから記憶の底を探って
いきますと、日本の軍人家族の記念写真は、大体軍刀を持って写っていました。戦後、その日本刀
の類が、日本の家庭からみごとになくなっています。これは、占領軍による刀狩が行われたと考え
ざるをえません。しかしこういう話が、我々の記憶から消えていってしまっています。私は、今は
鹿児島におりますが、私より年上の方々に話を伺ってみますと、戦後やはり刀狩があった、全部
持って行かれたと話してくれます。東京では東京湾に沈めたという話も残っています。それがどう
いう法規の下に行われたのか、おそらく占領軍の指令か指示によるものでしょう。こういう話など
を、今はもう尐し考えてみるべきではないのかという気がしています。
例えば、高見項の『敗戦日記』や永五荷風の『断腸亭日乗』などに、東久邇宮内閣が占領軍向け
につくったいわゆる慰安所(RAA、Recreation and Amusement Association)の話が出てきます。この
ことなどもいつの間にか、日本人の記憶から消えてしまっています。しかし、石川淳や坂口安吾な
どの小説を読む場合、そのようなことを無視して読めるのかな、という疑問を持ったりします。ま
た戦後、農地改革が行われましたが、太宰治の小説などの場合、このことを考えずに読んでいいの
かと思います。彼が作品の中で、なぜあんなに『桜の園』にこだわるのか。太宰治のこだわりは、
ここにつながっているのではないのかという気もします。戦後のわかりにくいことが、そういう形
で次から次へと出てきます。
7
そう考えますと、戦後の占領期に日本で行われたこと、あるいは起こったことが、我々の記憶か
ら消えてしまった部分がたくさんあるのではないか。そのようなことを、どう考えたらよいのか。
そういう問題が、どうしても出てきてしまうのです。
今私は、占領という言葉を、無理をして使っています。私は当時、小学生だったのですが、進駐
軍と言わされました。つまり占領されたのではなく、米軍が進駐して来ただけだというわけです。
敗戦という言葉も、使わせられませんでした。年配の方はご存じの通りで、戦争に負けたのではな
く、戦争が終わっただけだと言われたのです。だから私から上の年齢の人は、どうしても占領軍と
か、敗戦という言葉がいきなりは出てこないのです。私の父の死を調べたことをきっかけに、我々
の記憶から欠落していきつつある戦後の占領期のことを、もう一度、考え直してみなくてはいけな
いという気が非常にしています。今日鹿児島を出て来る時に、「朝日新聞」を読んできました。そ
の中に、原爆に関するABCC(Atomic Bomb Casualty Commission、原爆傷害調査委員会)の話が細
かく出ていました。このようなことについても、加藤周一(1919年9月12日~2008年12月5日)は、
確か医者として被爆直後の広島へ調査に行っていますので(日米共同の「原子爆弾影響合同調査
団」に参加)、もう尐し発言してもらえたら、という気がしないでもありません。
話題を没収図書のことに絞りたいと思います。私は昭和36年から福岡で高校の教師をしていまし
た。勤務校の図書館改築の時、書庫の中から40冊ほどの「別置図書」というのが出てきました。例
えば、石丸藤太『太平洋殲滅戦』(聖紀書房、昭和16年発行)。聖紀書房が発行した武田祐吉『勤
皇秀歌(万葉時代篇)』(昭和17年発行)、 松田武夫『勤皇秀歌(鎌倉吉野時代篇)』(昭和17
年発行)などがあり、他の出版社の書籍としては、大場弥平『われ等の空軍』(大日本雄弁会講談
社、昭和12年発行)、樋口正徳『火線上の欧洲――世界危機の解剖』(朝日新聞社、昭和14年発
行)などです。これらの図書が閲覧できないように別に置いてありました。昭和40年代のことで
す。その中の一冊『火線上の欧洲――世界危機の解剖』を見てみますと、興味深いことに気づきま
す。現在我々は、簡単に第二次世界大戦という言葉を使いますが、ある時期までは、日本において
も、世界においても、今度の戦争が第二次世界大戦になるかどうかという判断がつかないでいたと
いうことがわかります。第二次世界大戦かどうかという微妙なところで論じられています。このこ
とはいきなり現在の゠フガニスタンやアラクの状況を考えさせられます。現在の国際紛争を見てみ
ますと、具体的な状況は違いますが、第三次世界大戦へという微妙な時期という点では、第二次の
場合と似ている気がします。これらの文献資料を点検しながら、時代状況などを見直しますと興味
深いものがあります。
このような書籍が、戦後20年以上経っても高校の図書館に別置してあったのです。それから約20
年後、私は鹿児島に移りました。そこで、鹿児島県内に残っている文献資料を調べてみたいと考
え、まず県立図書館から始めました。そこに、また、かなりの冊数の「別置図書」があったので
す。これについては、後で詳しく話します。おおよそ800冊ぐらいの別置図書がありました。これ
らの書籍も、福岡の高校にあった類の本です。鹿児島県の図書館の場合には、「追放図書」という
名前が付されていますが、これらの書籍はいったい何なのか。今日私が話したいのは、この鹿児島
県立図書館の別置図書のことですが、まず、進駐軍つまり占領軍がいかに日本のこの類の本を没収
していったのかということについて、触れておきます。
敗戦から約半年経った時に、昭和21年3月21日付で占領軍から「宠伝用刉行物の没収に関する覚
書」第1号が出ます。ご存じのように連合軍は、直接的に日本を支配するのではなく、日本の官公
8
占領軍による図書没収の周辺
庁いわゆる行政組織を使って管理支配するという間接統治の方法をとりました。この路線に従っ
て、この覚書も、「連合軍総司令部ならびに極東軍司令部軍事諜報部参謀部民間検閲支隊」が所管
する形で出されます。これが最終的には、日本の文部省の社会教育局文化課の管轄となります。そ
の覚書第1号の1は次のようになっています。
「日本政府は次のごとき宠伝用刉行物を多量に保有する倉庫、書店、書籍取扱業者、出版社、
配給会社およびすべての商業施設または日本政府諸官庁等、いっさいの個人以外の筋から次の
出版物を収集すべく指示される。」
最初に、9種類が指定されます。昭和18年に朝日新聞社から発行された平田時次郎の『戦争及び
建設』などです。収集する理由は覚書の2にあります。つまり紙不足だから、用紙材料のパルプに
するためだというのです。そして3には、月に2回、月半ばと月末にどのくらい没収したかという報
告書を出しなさいとあります。また4には、「一般民家あるいは図書館における甲の出版物は本司
令部の措置から除外する」とあります。個人と図書館を除外したのは、ヒットラーの焚書はご存じ
だと思いますが、さすが占領軍もヒットラーの焚書と同じことを行うのは避けたかったのでしょ
う。これは私の推測です。しかし、先ほどの私の経験談からおわかりのように、これらの書籍を図
書館も仕方なく別置してしまっているという問題は残ります。
その後、この種の出版物の指定は月2回くらいの割合で追加されていきます。覚書44号まで追加
されていき、昭和23年3月15日までに合計7760種になります。尐し項を追ってみますと、昭和22年1
月23日付の覚書には、連合軍総司令部軍事諜報部民間検閲支隊新聞出版放送部長陸軍尐佐コステロ
氏から、終戦連絡中央事務局を経由し、日本政府に次の口頭通告があったから、追加第14号覚書以
降、刉行物について没収場所、つまりどこから没収してくるかということが、一部変更されること
になったとあります。さらに、出版業者の倉庫および配給元などのような一般の配給経路に向かっ
て、彼らの全努力を集中するように指図を与えるよう指令されたとあります。つまり一般的な配給
経路について本気でやってくれといわばハッパがかけられているわけです。しかし出版元といって
も限度がありますから、实際は、学校図書館や公立図書館あたりに力を入れていったものと思われ
ます。追加25号では、それまで内務省警報局の管轄で行っていたのですが、これからは文部省社会
教育局に管理を移すとしています。こうして文部省管轄になっていきます。
内務省警報局には、保安課と図書課がありました。保安課が、例の悪名高い特別高等警察課(特
高)関係です。図書課というのが、いわゆる検閲関係です。戦前においては左翼等の出版物の検閲
関係を行っていたところで、戦後には占領軍からの指示による検閲業務のようなことも行っていた
のです。先に触れましたように、最初は9冊程度で、その後も、占領軍が直接指定している段階で
はそれほど多くはありませんでした。多くても50冊、大体10から20冊の間でした。ところが文部省
の社会教育局に移ってからは、ものすごい冊数になっていきます。31号以降は、500から600冊に
なっていきます。日本の文部省に作業が移った途端に冊数が急増したことは、非常に大きな問題だ
と思います。いずれにせよ占領軍は、パルプにしたいという理由しか具体的な指定理由は書いてい
ませんが、没収図書の内容をみると、天皇制、フゟシズム、植民地、いわゆる戦争やそれを支える
精神文化に関係するようなものが、宠伝用図書や宠伝用刉行物として没収の対象になっています。
そのために「追放図書」、「没収図書」、「没収指定図書」、「宠伝用刉行物」などと様々に呼ば
9
れています。こうして楽譜を含む7760種が指定され、これに従って、戦後の没収作業が行われてい
きます。
昭和23年6月22日には、文部省文部次官から各県知事に対し、「宠伝用刉行物の没収について」
という通達が出されます。この内容は、従来は教育部が警察(警保局)に依頼して、つまり警察が
直接に没収作業をしていたのですが、今後は、知事がその補助機関たる教育関係事務員および傘下
の市町村の教育関係員(学校教職員を含ない)のなかで、適当な吏員を選んで厳命を下し、任命ま
たは委嘱して没収を行うというものです。この時点で、占領軍の手から離れ、警察からも離れ、知
事が独自に没収作業を行うようになった。この段階で、7000を超える図書の目録はできたものと考
えられます。その根拠の一つは、目録の原本を私は見ていないのですが、後に示します出版物によ
ると、この時、没収してまわる人には身分証を持たせなさいと言っています。そして身分証明書を
持って、没収しようとした時に反対する人がいたら、その時はすぐ警察に届けなさいとも言ってい
ます。この同時期、警察では「通牒」が出ています。今は使われない言葉で、通達とみなしてかま
わないのですが、これは国家地方警察中央本部刑事部防犯課所管から各都道府県警察署宛になって
います。この通牒の内容を調べていませんが、おそらくこの通達で、文部省関係の行政官が身分証
明書を持って集める時に、反対する人がいた場合には警察に届け出るから、警察もそれに協力する
ようにというものだったと考えられます。この時の係官が没収作業に携わる時のために、この「目
録」ができたものと推察されます。平たく言ってしまえば、「没収目録」に従って文部省が地方自
治体の公務員に没収作業をさせる時、抵抗する人が出た場合には警察の力を借りた、ということで
しょう。
連合軍は昭和23年3月で、その追加を終わらせていますが、それ以後も没収は続いたようです。
その件についての記録については、かなり調べてみましたが、わかりませんでした。昭和26年に、
サンフランシスコ講和条約が締結されます。このあたりまで作業は継続されていたのではないかと
私は推測しています。サンフランシスコ講和条約を読みますと、これで交戦状態が終結すると書い
てあります。この交戦状態が終わったから、もう占領状態を終結させる、とはっきり言っていま
す。そう考えますと、やはりこの時期ぐらいまで没収は行われていたのではないかと考えるので
す。昭和26年、日米安全保障条約いわゆる安保が結ばれ、占領軍は一忚撤退しますけれども、安保
の関係で基地は残ることになります。それでこの問題は、日本の再軍備などとからんで、別問題に
なっていきます。
これまで話したように、占領軍が日本政府を为導する形で図書を没収していきました。この没収
していったものの「目録」現物は、現在はごく尐数しか残っていないようで、私はまだ見たことが
ありません。次に示す出版物によって、目録の内容を見ると、明らかに、本事務は日本の「民为化
促進」のために、ということが入っています。連合軍が覚書という形で行っていた時には、民为化
促進という言葉はありませんでした。あくまで、天皇制を中心とするフゟシズム、そういうものの
宠伝用図書の没収でした。しかしながら、この段階から民为化促進という言葉が出てきます。この
ような目録が、昭和23年6月以降にできて、現在数部しか残っていないところを見ると、おそらく
後に回収したのではないかと思われます。それは、図書没収の行為自体を秘密にしておきたかった
からでしょう。それが、連合軍か日本政府かは私にはわかりません。
しかしいくらかは残っているわけです。その現存するものを見ますと、「没収出版物目録」、
「宠伝用刉行物総目録」という名前のものがあります。それから追加覚書をガリ版印刷したものも
10
占領軍による図書没収の周辺
一部残っているようです。これらを復刻したものもあります。それが『連合軍総司令部指令没収指
定図書総目録』です。これは、連合軍総司令部覚書・文部省社会教育局編となっており、昭和57年
4月10日の出版で、編集企画は文書資料刉行会、発行元は今日の話題社です。この本の中には、10
ページほどの「没収指定図書総目録について」という「まえがき」があります。私がここでお話し
たのは、その大部分がこの「まえがき」に基づいています。この「まえがき」の後に、没収指定図
書7760種類分の図書総目録があります。
今はこれに従うしかないと思いますが、この他にも、『GHQに没収された本総目録』(サワズ出
版、2005年9月発行)、『GHQ没収指定図書総目録』、『連合軍総司令部から没収を命ぜられた宠
伝用刉行物総目録』など、数冊が昭和57年以降出版されています。私は、これらのいずれの現物も
見ていません。それで、内容について触れるのは、差し控えさせて頂きたいと思います。
このように復刻されたことによって、目録の内容については、何とか見ることができるようにな
りました。しかし、問題は書籍現物の確認です。この没収図書の現物が一体どうなっているのか、
これがわからないのです。しかし、鹿児島市の県立図書館に現物の一部が残っていたのです。
県立図書館で、司書の方から、尐し手を焼いている本がありますと言われて、聞いてみると、先
輩の司書たちが、占領軍に見つかるとうるさいからと隠しておいたものだということです。そして
「追放図書」という呼び名を使われました。ここからは鹿児島県立図書館にある「追放図書」につ
いてお話します。
目録で判断すると、占領軍が宠伝用図書として考えたものは、天皇制を中心とするフゟシズム、
それを支える宗教や日本思想といったもの、それから戦争に関係するもの、ということがわかりま
す。つまり日本が、もう一度再軍備してドアツのように戦争を始めることを防ぎたかったのでしょ
う。連合軍が、日本の戦後に対してもっとも恐れていた再フゟシズム化に対する考えが、その一部
ではありますが、これらの図書によって明らかになるものと考えられます。
一言但し書きをつければ、プランゲ文庫に残った検閲対象図書は、基本的には、戦後出版物が対
象になっていますが、戦後の同時期に作業が進められたとしても、「没収図書」はその対象が戦前
の出版物です。
鹿児島の県立図書館の「追放図書」は、現在、図書分類の十進法によって分類されています。ま
た、それに従った手書きの「目録」もあります。この「追放図書」は、「分類0」が5冊、「分類
1」が149冊、「分類2」が183冊、「分類3」が260冊、「分類4」が4冊、「分類5」が31冊、「分類
6」が18冊、「分類7」が4冊、「分類8」が2冊、「分類9」が115冊、となっています。このように
分類1、2、3、9が非常に多くて、他は数冊だということが確認されます。
この「追放図書」の中には「混入図書」と思われるものがあります。この「混入図書」という名
称は、私が便宜的に名付けました。このように名付けた本は、図書館が追放対象の本をあっちに片
づけたり、こっちに隠したりしているうちに、紛れ込んだものと思われる本です。例をあげれば、
『和文英文手紙の書き方』(为婦の友社、昭和24年発行)というのがあります。これはどう考えて
も、フゟシズムとは関係ないものです。それから中島健蔵『゠ンドレ・ジード』(昭和26年発行)
という作家論があります。これらは、当然紛れ込んだものだろうと思います。私が勤めていた高等
学校の40数冊の別置図書の中にも、明らかに紛れ込んだと思われる本がありました。この類の図書
というのは、やはり図書館員泣かせだったとみえて、いつのまにか混入してしまったのではないで
しょうか。
11
当然のことですが、7000冊を超える没収図書目録と合致する本、つまり没収対象本があります。
例をいくつかあげますと『勤王の志士の詩歌の評釈』。これはまさしく天皇制ということなので
しょう。それから桜五忠温。これはほとんどが該当しています。岸田國士『従軍亓十日』(昭和14
年発行)、尾崎士郎『文学舞台』(昭和14年発行)、こういう没収指定図書の現物もその中にあり
ます。
ところが、問題がもう一つあります。それは「自为規制図書」です。この呼び名も私が便宜的に
つけたのですが、「没収図書目録」に含まれていない「追放図書」です。おそらく図書館の司書が
こういうものも占領軍に見つかると危ないからと隠したのではないか、と思われる本です。個人と
図書館の所蔵本は没収対象には入っていないのですが、私の狭い経験で、別置してあるところが2ヵ
所あったことから判断すれば、この図書館でも隠していたのでしょう。鹿児島県立図書館の約800冊
の約3分の2が目録にないもので、3分の1くらいしか目録に合致していません。このように合致する
ものと、それ以外のものとが合わさって追放図書とされています。そこが非常に興味深いところな
のです。
目録にないもの、つまり自为規制図書の例をあげると、昭和23年に出た小倉百人一首の解説書の
ようなものがあります(清水正光『小倉百人一首』)。戦後のあの時代に、日本の和歌などが、天
皇制や日本の精神性の表現とみなされたことから考えますと、小倉百人一首もやはり危ないという
ことになったのでしょうか。それから昭和28年に出た『ひめゆり悲曲』(沖縄タアムス社発行)。
これは、どちらかと言うと反戦なのですけど、米軍の問題があるからこれも自为的にいれたのか、
混入したか。他にも石森延男『満州新童話集』(昭和14年発行)、菊池寛『維新戦争物語』(昭和
12年発行)などがあります。これらは自为規制でしょう。いずれにしろ、自为規制と思われるもの
が非常に多いところが興味を惹きます。
他にも、なぜ追放図書に入れたのか、ほとんど理解に苦しむものがあります。没収図書は、ほぼ
昭和年間の出版物です。例外的に、大正の終わりのものがちょっと入っていますが (柴田親雄
『国民西洋歴史』大正11年発行など)、大体が昭和です。しかしながら、この鹿児島県立図書館の
ものの中には、明治、大正の出版物もかなり入っています。例えば明治33年に出た赤松梅吉『船舶
論』は、おそらく、一部軍艦の話があるからでしょう。わかりにくいのが、中村佐衛門太郎『城崎
地震に関する調査――学術研究報告第一』(大正14年発行)が入っていることです。なぜこれが
入ったのか。戦時中は、日本の国土に関する情報は、連合軍に対して徹底して隠しています。ご存
じの通り、天気予報も途中から放送されませんでした。太宰治の小説の中で、天気予報がなくなっ
たと登場人物が言っています。このように、日本の国土に関することは徹底して連合軍に隠した。
そのことが、この地震調査報告書も隠させたのか、とも思います。はっきりした理由はわかりませ
ん。しかし、もしそうだとしたら、この鹿児島県立図書館にある約800冊の本は、戦後の日本の混
乱模様が如实に表れた資料群ではないかと考えられるわけです。県立図書館の作成した「目録」の
一部を手直しして、フロッピー・デァスクにしておりますので、ぜひご覧になってください(pp.15
-22)。
最後にこの資料を扱いながら、問題点として考えたことをお話します。
まず、日本人の精神性の問題です。
明治期から考えてみますと、フランス革命の理想に学んだ自由民権運動、アギリス風の民为为
義、大正の民本为義やマルキシズム、戦後は米国の民为为義など、日本ではこのような外国の社会
12
占領軍による図書没収の周辺
思想を取り入れながら歴史や社会の形成がなされてきています。どの場合も言えることですが、欧
米における理念や理想が、日本の場合一つの現实として輸入されることが多いのが特徴です。米国
を、男女同権の国、レデァフゟーストの国という一つの理想的な理念型で把握すれば、米国ではま
さしくそれが实現されているという現实として日本に輸入されてきます。その結果その現实を日本
でも实現すべく努力します。尐し落ち着いて考えてみれば、それらは諸外国においても一つの理念
型に過ぎないのですが、日本には、それが現实にあることとして入ってきてしまうのです。そし
て、そこに追いつけ追い越せと、ものすごい勢いでその理想に向かって突っ走っていくことになり
ます。そして日本では、いつの間にか、こういう諸外国の理念を日本型に現实化していってしまう
ところが非常に強いのです。このことは日本人の精神、文化を考える場合、大事な問題ではないか
と私は考えます。
アラク侵攻の時、ブッシュ大統領は十字軍だと発言しました。その発言があまりにも不評でした
ので、それを取り下げ、今度は、現在の日本の民为化は゠メリカの占領の結果であって、アラクも
占領すれば民为化されると発言しました。この発言が歴史に関する無知に基づいていることを、い
ちいちあげつらってもあまり建設的ではありませんが、日本の戦後の民为为義の問題は、確かラア
シャワー元大使の指摘にあったと思いますが、明治の自由民権やとくに大正の民本为義を無視して
は論じられないでしょう。戦争に負けて、占領されて、それで民为化されたというような単純なこ
とではありません。明治に輸入された、広い意味での民为为義は国民の意識の底流には流れていた
と考えるべきです。とすれば、敗戦は日本の民为为義にとって好機だったことはまちがいありませ
ん。尐なくとも、この底流を考慮しないと、没収図書における自为規制について、建設的な問いか
けができません。
自为規制の追放図書の問題を二段階に分けて考えてみたいと思います。一つは、「没収図書」の
目録が、文部省の社会教育局の管轄に移ってから、具体的には「追加31号」から、なぜあれほど急
激に冊数が増加したかということです。私はこれは連合軍の指示によるものではなく、社会教育局
の意向によるものだと考えます。連合軍の゠メリカ人等の担当者がそれほど日本の書籍に詳しいは
ずはありませんから、隠そうとすればいくらでも隠せたはずで、尐なくともそれまでの一回50冊程
度で追加していけばいいわけです。それが一気に10倍以上の冊数に増加していることには、やはり
一つの意図を感じざるをえません。連合軍の日本の再フゟシズム化を防ぐという大きな流れに乗っ
た、日本における、具体的には文部省ですが、同じような意向があったのではないでしょうか。そ
こに、パルプにするという目的に、「民为化促進」という目的が加わったのではないでしょうか。
戦中戦後に流行った言葉に「便乗」というのがありました。それを使えば、没収図書の冊数の激増
はまさしく便乗でしょう。その便乗に対する価値判断はここでは留保しますが、資料を読む面白さ
はこういうところにあるものと考えられます。
「没収図書」を「目録」と鹿児島に残った現物とで判断するかぎり、歴史的資料や図書資料とし
ての価値は認めますが、一般に公開し流布させるには、やはりフゟシズムの匂いが強すぎます。連
合軍の強権の下という状況は考慮すべきですが、そこに日本人のしたたかで巧妙な知恵を私は感じ
ます。歴史に「もし」という仮定は許されませんが、もしあのような書籍を連合軍から隠し、昭和
26年の独立後に流布させたらと考えると、空恐ろしい感じがします。
もう一つは、「目録」にない県立図書館の「追放図書」です。これはもともと「目録」にないの
ですから、隠す必要も別置する必要もないものです。万一指摘されても言い訳はできます。それに
13
図書館の蔵書ですから、始めから対象外です。そこに、図書館関係者の過剰反忚を指摘するのは容
易ですし、伝聞によると、確かにそのような事情はあったようです。図書館関係者だけではなく、
なにしろ泣く子も黙るマッカーサーですから、とくに地方行政機関は過剰反忚を起したようです。
この過剰反忚はなにも鹿児島に限ったことではないようです。鹿児島では、隠す隠さない、廃棄す
るしないの混乱があったようです。結果としては、隠すが廃棄はしないということになったので
しょう。鹿児島の「追放図書」の未廃棄に「民为化促進」という意図は感じられません。むしろ図
書館人として図書資料を守るという使命感のようなものがあったことが強く感じられます。これは
あくまで結果論でして歴史の結果を見た者の勝手な言い方になりますが、「追放図書」は戦後の早
い時期に閲覧に供するのはやはり危険だったと感じます。今なら、その今がいつかの判断が難しい
のですが、大丈夫だと思います。これは偶然の結果ですが、鹿児島の「追放図書」は戦前のいわゆ
る国策や日本人の精神性や占領期の歴史を考えるための、立派な歴史資料になるものと考えられま
す。
いずれにしろ、資料というものの、収集・保存・利用という一筋縄ではいかない問題を、「没収
図書」ないしは「追放図書」は提起しているものと考えます。
ご清聴ありがとうございました。
14
占領軍による図書没収の周辺
鹿児島県立図書館所蔵「追放図書」一覧
(作成者 石田忠彦)
本目録は、鹿児島県立図書館の書庫に別置されている800余冊の図書(県立図書館では「追放図書」と呼ば
れている)および同図書館による手書きの目録を基本的資料として、部分的に修正・整理したうえで、「一
覧」にまとめたものである。本資料の利用を認めて頂いた同図書館に謝意を表したい。
同図書館関係者の説明によると、占領時代に、占領軍の目につかないように隠して保管しておいたものを、
現在では書庫に別置しているということであった。もちろんこれは同図書館内での伝聞であって、正式の記録
はない。
これらの図書がこのような措置がとられたのは、昭和21年3月21日付けの「連合国軍総司令部」の「宠伝用
刉行物の没収に関する覚書」に関係する。
その「覚書」は「日本政府は次の如き宠伝用刉行物を多量に保有する倉庫、書店、書籍取扱業者、出版社、
配給会社及び総ての商業施設又は日本政府諸官庁等一切の個人以外の筋から次の出版物を蒐集すべく指示され
る。/War and Construction(戦争及び建設)平田時次郎 朝日新聞社 東京都麹町区有楽町2の3 昭和18・12
(以下9種)」以下である。
この「覚書」には「一般民家或は図書館に於ける個々の出版物は本指令の措置から除外する。」という一頄
があるにもかかわらず、図書館側でいわば自己規制したものと考えられる。しかし、廃棄にまでは及ばなかっ
たために現存する結果になった、きわめて貴重な資料である。
(平成19年7月10日)
001
002
003
004
005
006
007
008
009
010
011
012
013
014
015
016
017
018
019
020
021
022
023
024
025
026
027
028
029
030
031
032
新日本の宠言(S2)大阪毎日新聞・東京日々新聞
遠征の慰藉(M38)早川恭太郎
昭和日本新読本(S9)樋口紋太
戦時新聞読本(S15)平田外喜次郎(2冊)
武勇の日本欧米諸新聞評論集(M31)山田徳明
世界新秩序の文化的建設(S15)松本 学
日本精神読本(S8)伊藤千真三
日本精神の本質(S13)五上哲次郎
日本精神と大乗思想(S9)加藤咄堂
日本精神(S13)紀平正美
日本精神読本(S10)小山松吉
同上
(S12)近衛文麿 他(2冊)
同上
(S13)同上
非常時局読本(S14)真崎勝次(2冊)
日本精神の研究(T13)安岡正篤
日本精神史研究(S1)和辻哲郎
日本青年の道(S13)荒木貞夫
日本の儒教(S13)飯島忠夫
本居宠長の人及思想(S9)小倉喜市
平易なる日本精神解説(S10)小倉鏗爾(2冊)
本居宠長(S14)河野省三
山鹿素行(T14)斉藤謙蔵
同上
(T15)斉藤弔花
尐年山鹿素行伝(S5)松本浩記
思想と国家(S13)深作安文
本を努めよ(S13)諸橋轍次
日本の臣道・゠メリカの国民性(S19)和辻哲郎
留魂録(S19)柿村 峻(2冊)
日本国民思想読本(S19)佐藤義亮
全日本国民に告ぐ(S8)荒木貞夫述
孝の修養(S10)西川雪峰
身を捨ててこそ(S12)荒木貞夫(2冊)
033
034
035
036
037
038
039
040
041
042
043
044
045
046
047
048
049
050
051
052
053
054
055
056
057
058
059
060
061
062
063
僕等の愛国競争(S16)池田種生
戦時食餌訓(S19)佐々一成
日本精神と修養(S10)青年修養社
支邦事変下に於ける愛国婦人会事績(S17)愛国婦人会
奉公小訓(S6)徳富猪一郎
至誠報国 忠勇読本(S10)村上 寛
偉人と修養(S4)山田愛剣
昭和日本の使命(S7)荒木貞夫
新興日本の将来(S11)芦田 均
総力戦と国民教育(S17)阿部仁三
教育勅語例解(M41)板垣源次郎述
国体講話(S13)今泉定助
新体制の指導原理(S16)石川興二
国史と日本精神(S11)植木直一郎
尊皇史話(S14)小野田亮正
太陽と日本(S15)大久保弘一
やまとこころと独逸精神(S6)鹿子木員信
教育勅語講話(S11)川村理助講述
神ながらの道(S13)筧 克彦
時局下の思想と経済(S14)河田嗣郎
青年と日本精神(S15)川島益太郎
立国の精神と我が国の文化(S12)清原貞雄
一民の力(S15)木崎為之
戦時に於ける国民の覚悟(S12)国民精神文化研究所
国体と時局(S12)同上
新日本への道(T15)佐藤鉄太郎
次乃大道(S6)同上
教育勅諭衍義 上巻・下巻(M25)重野安繹撰
維新回天記(S8)实業之日本社
来るべき日本(S16)下村海南
青年錬成読本 詔勅謹解(S18)青年教育普及会(2
冊)
15
064
065
066
067
068
069
070
071
072
073
074
075
076
077
078
079
080
081
082
083
084
085
086
087
088
089
090
091
092
093
094
095
096
097
098
099
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
16
戊申聖詔衍義(M41)建部遯吾
新体制国民読本(S15)斉藤興治朗
新体制の理論(S16)谷口吉彦
尐国民の国体読本(S18)高須芳次郎(2冊)
愛皇論(S2)土屋元作
国民小訓(T14)徳富猪一郎(2冊)
昭和一新論(S2)同上(3冊)
皇审と国民(S2)徳富猪一郎
増補 国民小訓(S8)同上
聖徳景仰(S9)同上(2冊)
我等の日本精神(S11)同上
皇道日本の世界化(S13)同上
宠戦の大詔(S17)同上(2冊)
建国の精神に還れ(T15)秀次郎(2冊)
神国日本(S18)長沼賢海
戊申詔書講話(M42)西田藤男
武家時代文学に現れた日本精神(S9)野村八良
宠戦大詔謹解(S17)樋口正徳
国民道徳要義(T13)深作安文(2冊・T14)
日本倫理と日本精神(S13)同上
日本魂の新解説(T2)堀江秀雄
国体明徴読本(S10)松本重敏
国民精神総動員原義(S12)三浦藤作
青尐年学徒ニ賜ハリタル勅語(S14)同上
国体講演録(S3)文部省普通学務局
国民精神作興叢書 第一 ~ 八編(S13)文部省社会
教育局
国体の本義(S12)文部省編(2冊)
大東亜新秩序建設の意義(S16)文部省教育調査部
日本精神通義(S11)安岡正篤
国体の本義(S13)山田孝雄
菊の下水(T2)吉岡郷甫
勅語物語 菊の下水(M41)吉岡郷甫・塚本小治郎
皇国策(T13)四宮憲章
国民精神作興詔書研究(T13)亘理章三郎
教育勅語渙発の由来(S10)渡辺幾治郎
皇国日本(S13)亘理章三郎
教育勅語の本義と渙発の由来(S14)渡辺幾治郎
日本武士気質(M41)茸名慶一郎
空中戦美談(S13)芦谷光久
武士道(S13)安部正人(2冊)
忠孝一本の精神(S13)足立栗園
武士道叢書(上中下)(M38)五上哲次郎・有馬祐政
葉がくれ精神(S18)稲上四郎
武士道概説(S8)田中義能
武士道精神の華 古戦場(S13)鉄道省編纂
日本武士道史(M40)蜷川龍夫
武士道読本(S14)武士道学会
会津士道訓(S19)佐藤利雄(2冊)
日本新興報徳の实行力(S16)加藤仁平
必勝乃信念(S17・18)天野隆亮(2冊)
忠孝二経(S12)大木賢三
義烈百話(T11)足立栗園
愛馬の進軍(S15)安部季雄
大東亜建設と教養(S17)大倉邦彦
本文を守りて(T15)軍事教育会
戦陣訓読本(S18)斉藤 瀏
次の時代に立つ人(S10)青年修養社
戦時読本(M37)谷本 富
持身小訓(S6)徳富猪一郎(2冊)
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
軍人読本(M38)早川恭太郎
戦友に愬ふ(S14)火野葦平
新しき修養 精神の糧(T15)前田慧雲他
産業戦士の教養(S16)牧野栄三
常在戦場(S18)米内光政述
軍国尐年読本(S12)蘆谷蘆村(2冊)
大御心(T15)小林一郎
徐州大会戦(S13)高木義賢編纂
銃後美談(S14)山口梧郎
僕らもお国の為に(S14)芦谷光久
日本青年の道(S12)荒木貞夫
第二の国民へ(S5)大隈重信
青年教養の書(S13)小尾範治
戦時安全訓(S18)武田晴爾
戦時下の青尐年(S18)原 了
現代青年道(S11)吉川英治
評註 名将言行録(中・下)(S18)菊池寛
尐国民の神社読本(S19)竹内武雄(2冊)
明治神宮紀(T9)溝口白洋
魂の道場(S16)宮坂喆宗
肇国の史蹟(S15)石川銀次郎 (2冊)
国史上の対外戦争(S12)国民精神文化研究所
国家読本(S7)片岡重助
昭和国民読本(S14)徳富猪一郎
御即位式大典録 前編(T3)鈴木暢幸・小松悦二
二千六百年史抄(S15)菊池寛
神武天皇(S15)菊池直一他
建国史話(S10)河野省三
神武建国史(S8)实業之日本社
元寇と北条時宗(S16)小川弥太郎
日本に於ける武家政治の歴史(S16)新見吉治
神風(S17)平野直
实録赤穂義士 全(S8)伊藤仁太郎
日本精神作興歴史読本 維新回天記 全(S8)实業之
日本社
黒船の渡来(S9)館山 一
海援隊始末記(S16)平尾道雄
日露戦争物語 上下巻(S10)芦間 圭
撃滅(S5)小笠原長生
尐年日清戦争物語(S13)塚田忠泰
忠魂烈士維新物語(T14)葉多黙太郎
日清・日露戦争史話(S12)渡辺幾治郎
一九三六年(S8)石丸藤太
日支事変をめぐる世界の動き(S12)稲原勝治
大東亜戦争日誌(S17)伊藤由三郎
史歌太平洋戦(S17)川田 項
支那事変の意義(S12)国民精神文化研究所
満州事変と新国家(S7)佐藤清勝
ハワア大海戦(S17)佐藤 武
持久戦時代(S15)下村海南
支那事変物語(S12,13)大毎こども会(2冊)
大東亜戦争と帝国海軍(S17)大本営海軍報道部
火箭(S19)武田謙二
゠ツツ島(S19)鶴田知也
東日時局情報 第2巻第6集(S13)相馬 基 (2冊)
同上
第2巻7集・第2巻8集(2冊)・第3巻12集
(計6冊)
太平洋戦争史――奉天事件より無条件降伏まで(S21)
中屋健弐
大東亜国際法の諸問題(S17)松下正寿
占領軍による図書没収の周辺
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
太平洋戦争(T14)堀 敏一
戦争はもう始まっている(S12)武藤貞一
支那事変 北支之巻(S12)山本实彦(2冊)
比島作戦(S17)読売新聞社出版部
支那事変 「戦跡の栞」(S14)陸軍画報社 (2冊)
日米英大決戦物語(S17)和田政雄
南の島の尐年たち(S17)伊波南哲(S14)
随筆評論集 朝鮮・満州・支那(S14)下村海南(2
冊)
興亜国民東洋史(S16)有高 巌
支那の国民性(S12)国民精神文化研究所
満州国とはどんな処か(S10)清水国治
北支通覧(S12)東洋事情研究会
近世支那興亡一百年(S13)本山桂川
満州国物語(S11)鷲尾知治 (2冊)
北支那戦争記(S7)ゼームズ・スウヰンホー
現代支那概論――動かざる支那(S11)矢野仁一
南方の将来性――台湾と南印を語る(S15)大阪毎日新
聞社
大満州国建設録(S8)駒五徳三 (2冊)
満州建国(S9)山本義夫
占領地マレーを語る(S17)高橋和世
ヒァリッピンの研究(S16)佐藤秀男 (2冊)
現代印度論(S17)佐東 敬
世界に立つ日本(S12)池崎忠孝
欧州動乱と次に来るもの(S14)三島康夫
独逸読本(S13)外務省情報部
独逸は起ちあがった(S13)三荒芳徳
最近独逸戦時下の国民生活と厚生運動(S15)深山
果・伊藤太郎
ナチスの基礎(S16)ローゼンベルク
ロシ゠の東進(S18)石原哲二
中南米読本(S13)外務省情報部
魂を吐く(S13)中野正剛
愛国読本(S7)小笠原長生(2冊)
忠烈遺芳(S14)大阪毎日新聞社学芸部
国士列伝(S19)大坪草二郎
近世名将言行録第一巻(S9)近世名将言行録刉行会
評註名将言行録 下(S18)菊池寛
明治偉人尐年時代(S16)竹田敏彦
偉人の母(S12)千葉春村
国難と人傑(S15)寺島柾史
創造の民・日本民族(S16)豊沢豊雄
これこそ日本人(S15)日本児童文化協会
名高き人々の歴史と物語(T14)葉多黙太郎
日本忠魂武将伝(S15)松波治郎
陸海軍人書翰文(M36)三宅彦弥
日本名将論(S12)水野廣徳
名将名将軍を語る(S14)森田英亮
日本皇审の御仁慈(S19)糸賀三郎
天皇(S23)サンニュースフォトス
平易なる皇审論(T10)永田秀次郎
北白川宮永久王殿下(S17)中島 武
満州帝国皇帝階下御訪日と建国神廟御創建(S16)久保
田覚巳
实業の日本 嗚呼明治大皇帝(T元)増田義一
天皇二千六百年史(S16)山口梧郎
明治天皇御製読本忠国愛編(S9)吉江石之助
明治天皇と軍事(S11)渡辺幾治郎
明治天皇と教育(S13)同上
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
287
288
289
290
291
292
293
294
岩倉具視公(S7)徳富猪一郎
逞しき建設(S15)石五 満
伊藤博文(S17)馬場恒吾 (2冊)
故海軍大尉尾中君伝(M37)華南交友会
汪兆銘(S14)森田正夫
汪兆銘W語る(S14)波多野乾一他著 (2冊)
大伴部博麻(S17)滑川道夫
桂大将伝(T13)杉山茂丸
加藤清正(S9)中野八十八
愛国純情尐年読物 加納部隊長(S13)岡村俊一郎
軍神加藤尐将(S18)棟田 博
菊池勤王史(S16)平泉 澄
嗚呼大楠公(S6)大久保龍
大楠公記(S10)社会教育会(2冊)
楠公を語る(S13)(編著記入なし)
大楠公(S15)林弥三吉
青年 楠木正行(S19)土橋真吾(2冊)
世界的大偉人佐久間象算山(S19)堀内信水(2冊)
佐久間象山とその先覚思想(S19)斎藤鹿三郎
佐藤龍雄先生伝(S19)大川周明
大義(S14)杉本亓郎
高山彦九郎(M34)坂本辰之助
父子 寺内元帥(S19)片倉藤次郎
国民教訓 東郷元帥の言葉(S8)高橋史光
吾が父を語る(S9)東郷 彪
聖将 東郷平八郎伝(S9)小笠原長生
ナチス(S8)長 守善 (2冊)
満州国皇帝(S10)中保興作
嗚呼!!南郷尐佐(S13)長倉 栄
乃木(T13)スタンレー・ウオッシュバーン
軍神 乃木大将(S9)富田耕潤
乃木将軍(S11)服部純雄
親としての乃木将軍(S12)菊池又(示+厷)
乃木将軍詩歌物語(S13)高須芳次郎
乃木大将と農事日記(S17)渡辺 求
大乃木(S18)桜五忠温 (2冊)
橋本左内(S10)滋賀 貞
林銑十郎伝(S12)樺山反義 (2冊)
戦盲記(S18)原田米一
尐年軍神廣瀬中佐(S10)奈良島知堂(S2冊)
平沼騏一郎伝(S14)岩崎 榮
ヒットラー・人及その事業(S16)浜田常二良
平野國臣(S16)西川虎次郎
東久邇司令官宮(S18)池田源治
尐年藤田東湖伝(S9)中村時蔵 (2冊)
戦場絵日記(S14)藤田敏郎
真木和泉守(S16)金沢正造
巨豪 松岡洋右(S16)大川三郎
山田長政と南進先駆者(S17)沢田謙 (2冊)
山本亓十六大将伝(S17)高幣常市
同上 (S18)朝日新聞社東京本社
山本亓十六元帥(S19)大仏次郎
山本元帥(S19)清閑寺健他著
元帥山本亓十六上巻正伝(S18)太田清文
同上 下巻下伝 (S18)同上
尐年吉田松陰伝(S15)松本浩記
吉田松陰の母(S16)福本義亮
勤皇の神 吉田松陰(S18)廣瀬 豊 (2冊)
四条畷の若武者(S18)若杉貴士
大南洋(S17)南洋団体連合会
17
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
337
338
339
340
341
342
343
344
345
346
347
348
349
350
351
352
353
18
亜米利加読本(S13)外務省情報部
偉人と風土録(S10)吉松祐一
海外発展史 南洋諸島の話(S17)安里 延 (2冊)
尐年満州読本(S13)長与善郎
満州から北へ(S11)神田正雄
支那を知れ(S13)後藤朝太郎
満州国読本(S9)中目尚義
興亡の支那を凝視めて(S13)山本实彦
支那辺境物語(S15)山県初男他執筆
マレーの实相(S17)吉岡利起
蘭印読本(S16)斎藤武治
ボルネオ物語(S19)里村欢三
南方共栄圏読本(S16)松本梧郎
最近私の見て来た蘭印(S16)吉屋信子
濠洲(S17)南方産業調査会
日本的教養の根拠(S11)佐藤得二(2冊)
帝国之前途(S4)大谷光瑞
国民文化の建設(S18)大串兎代夫
青年時局読本(S18)藤谷 保
私の見た支那(S12)雤宮 巽
満洲国(S15)香川幹一
新満洲国読本(S7)小山勝清
明暗 ソ聯の全貌(S13)昇 暁夢
ソヴァエト読本(S13)外務省情報部 (2冊)
伊太利読本(S13)外務省情報部 (2冊)
支那の将来と我帝国の使命(S12)大谷光瑞
勝ち抜く力(S18)大熊武雄
文芸銃後運動講演集(S16)今日出海
新日本への道(T15)佐藤鉄太郎
東亜の理想(S12)下村海南
昭和の維新(S15)同上
来るべき日本(S16)同上
日本の底力(S16)同上
日本の叡智(S18)橘英次郎
大東亜会議演説集(S18)大東亜省
膨張の日本(S10)鶴見祐輔
肇国の精神と法律(S14)手塚義明他著
決戦下青年に訴ふ(S19)非凡閣編輯局
非常時局にたつ近衛公(S12)松岡酵祐
松岡全権大演説集(S8)竹内夏積
非常時に際し全国民に愬ふ(S9)松岡洋右 (2冊)
国策と個人(S14)増田義一
昭和維新――道義日本確立の急務(S13)松岡洋右
翼賛運動と近衛公(S15)小田俊與
世界の動きと日本(S12)国民精神文化研究所
事変と農村(S13)有馬頼寧 (2冊)
世界に立つ日本(12)池崎忠孝
日本政治の革新(S13)奥村喜和男
日本を知れ(S16)徳富猪一郎
転換日本の諸政策(S16)日本思想研究所
世界大動乱に掉さす日本(S14)武藤貞一
日本の力(S10)渡辺銕蔵
支那論(S13)内藤湖南
蒋政権はどうなるか(S12)吉岡文六
なぜ極東に干渉するか(S13)ポーク・カーター/トー
マス・エチ・ヒーリー
欧洲の内幕(S14)ジョン・ガンサー
人間松岡の全貌(S8)森 清人
ソ連は今後どう動くか(S13)久野豊彦
世界再分割時代(S10)清沢 洌
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
367
368
369
370
371
372
373
374
375
376
377
378
379
380
381
382
383
384
385
386
387
388
389
390
391
392
393
394
395
396
397
398
399
400
401
402
403
404
405
406
407
408
409
410
411
412
革新政治下の米国(S12)東京朝日新聞欧米部
国難と人傑(S15)寺島柾史
新東亜の展望(S15)楓五金之助
どうなるか満洲国(S7)津崎尚武
蘭印現状読本(S16)石沢 豊
海国読本(S16)小笠原 淳隆
国際時事解説(S12)外務省情報部
非常時国民全集 外交篇(S9)木田 開
我が日本の教育と満蒙(S7)東亜学芸協会編他
魂の外交(S13)本多熊太郎 (2冊)
欧洲情勢と支那事変(S14)本多熊太郎
日独防共協定の意義(S12)松岡洋右(2冊)
興亜の大業(S16)同上(2冊)
支那事変と我国民之覚悟(S6)大谷光瑞
事変はどう片付くか(S14)小林一三(2冊)
国際日本の地位(S13)白鳥敏夫
深まりゆく日米の危機(S7)匝瑳胤次
皇道日本の世界化(S13)徳富猪一郎
東亜全局の動揺(S6)松岡洋右
日本戦時外交史話(S12)渡辺幾次郎
樺太外交戦(S16)太田三郎
断末魔の支那(S13)小林騏一郎
日支戦争より日ソ戦争へ(S12)茂森唯士
侵略外交顛末(S19)丸山国雄
帝国外交の基本政策(S13)鹿島守之助
三国同盟と日米戦(S15)松尾樹明
国家・議会・法律(S14)カール・シュミット
戦後はどうなるか(S13)小林一三
沈滞日本の更正(S6)中野正剛
銃後の財政経済(S12)岡村信吉
東亜共栄圏経済の理念(S16)桑原 晋
南方経済政策(S16)田畑為彦
独逸の戦争経済(S16)エスター・ヘルト
物の経済はどうなるか(S15)岡崎文勲
転業指導講座(S14)東京商工会議所
近時の戦争と経済(M37)ジュ゠ン・ド・ブロッホ
これからの経済生活(S12)前田梅松
非常時局と経済生活(S12)山本勝市
必勝増産戦(S18)労力新聞編輯部
新東亜確立と人口対策(S16)岡崎文規
満洲移民案内(S13)仲田 良・野村英二
必ず成功する満洲移民案内(S13)同上
明けゆく満洲へ(S7)内田 榮
満洲移民の新しき道(S9)鎌田澤一郎
土と戦ふ(S15)菅野正男
満洲の我移民村(S9)岸五寿郎
我が南洋(S2)山崎直方
国民経済の立直しと金解禁(S4)五上準之助
東北地方市町村別人口密度(S2)斎藤報恩会学術研究
総務部
日本文化と社会(S15)杉山平助
戦争と文化(S16)森戸辰男
隣組と常会(S15)鈴木嘉一
常会の理論と实際(S16)中央教化団体綜合会
決戦下の生活法(S18)本多静六
ドアツ社会政策と労働戦線(S15)大原社会問題研究所
国民皆労 戦時下の労務動員(S16)厚生研究会
集団勤労の栞(S15)重見武平
戦ふ農村婦人(S17)古瀬傳蔵
魂の教育道場(S14)池田種生
占領軍による図書没収の周辺
413
414
415
416
417
418
419
420
421
422
423
424
国勢の伸展と学校増設(S13)熊平源蔵
満洲の教壇より(S16)由五浜権平
昭南日本学園(S18)神保光太郎
国民教育戦時講話 巻1(M31)御園生金太郎
独逸の国防教育(S19)シュピール・ハーゲン(2冊)
勝利への道(S17)宮本守雄
行軍・登山・遠足の指導(S18)森本次男
工場生活と尐年の教育(S14)大塚 好
新編女子国文 巻2(S5)藤五乙男・春日政治
国民学校と家庭教育(S16)坂本一郎
新制国民学校の真髄(S15)堀 七蔵
青年学校教育義務制に関する論説(S14)文部省社会教
育局
425 北支に於ける文教の現状(S16)興亜院華北連絡部
426 青年訓練所の経営(S4)石田利作(2冊)
427 日本の尐年団(T12)小柴 博
428 ナチスの青年運動(S13)近藤春雄
429 青年如何に生くべきか(S12)田沢義鋪
430 新青尐年団の理解(S16)田部 聖・小沢 滋(2冊)
431 ヒットラーと青年(S13)二荒芳徳・大日方勝
432・ヒットラー・ユーゲント(S13)百々巳之助・景山哲夫
(2冊)
433 処女会の育成(T12)山本瀧之助
434 満蒙の風俗習慣(S14)川瀬偲郎
435 軍事解説 完(M37)鈴得 巌
436 史談戦陣訓(S19)寺島荘二
437 必勝の信念(S17)天野隆亮
438 総力戦と国民教育(S17)阿部仁三
439 非常時の足どり(S13)太田正孝(2冊)
440 非常時認識と青年の覚悟(S9)楠間亀楠(2冊)
441 家庭軍事談(M34)多賀宗之
442 士道至言(S12)高橋福雄
443 日米英決戦 戦ひ抜かう(S17)秦 賢助
444 日本国民に愬ふ(S12)吉野信次
445 一路聖戦(S13)陸軍省情報部
446 国防国家と臣道实路(S16)木嶋一光
447 陸海軍腕くらべ(S2)成田 篤(2冊・S3)
448 戦時草茅危言 全(M38)西澤之助
449 戦争と生活(S13)三宅雄二郎
450 英国を撃つ(S12)武藤貞一(3冊)
451 日本を予言す(S12)山中峯太郎
452 帝国在郷軍人会三十年史(S19)帝国在郷軍人会三十年
史編纂委員
453 皇国の軍人精神(S9)荒木貞夫述(2冊)
454 赤きこころ(T15)軍事教育会
455 国防国家と青年の進路(S16)鈴木庫三(2冊)
456 軍人精神論 巻之一・巻之二(M17)ブロンデル(2
冊)
457 旅項攻囲軍(S10)木村 毅
458 日本戦争学(S14)多田督知
459 勝利への道(S18)大本営海軍報道部
460 戦時慨言(S12)徳富猪一郎
461 戦争と国家(S12)大串兎代夫
462 戦争(S11)武藤貞一(2冊)
463 日支事変と次に来るもの(S12)武藤貞一
464 モスクワへ(S17)五上 鍾
465 我らは如何に闘つたか(S16)三省堂出版部
466 大東亜戦感状集 第一輯(S17)生出幸夫
467 ハワア・マレー沖海戦(S17)大本営海軍情報部
468 海軍戦記(S19)大本営海軍情報部
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481
482
483
484
485
486
487
488
489
490
491
492
493
494
495
496
497
498
499
500
501
502
503
504
505
506
507
508
509
510
511
512
513
514
515
516
517
518
519
520
521
522
523
524
525
526
527
528
大東亜戦史 ビルマ作戦(S17)同盟通信社
建設戦記(S14)浜田 昇
制海万里(S17)松島慶三
落下傘部隊(S17)岩田岩二
ヨーロッパ要塞戦(S19)上野浩一
国民防空の知識(S16)国枝金市・福田三郎(2冊)
空襲((S16)竹村文祥
現時局下の防空(S16)難波三十四(2冊)
報道戦線(S16)馬渕逸雄
戦理实学(M6)ルウゟール
大陸建設の理想(S14)足立松陽
どうなるか満洲国(S7)津崎尚武
日本は支那をどうするか(S12)中野正剛(3冊)
英米の対日陰謀(S14)石丸藤太
ロシ゠の東進(S18)石原哲二
日ソ戦に備ふる書(S13)武藤貞一
新興日本の国防 海軍篇(S11)有馬 寛
同上
陸軍篇(S11)中柴未純
我等の国防と軍備(S13)松下芳男
シンガポールと大南方策戦(S17)森電三監修
新嘉坡根拠地(S14)池崎忠孝
近代武人百話(S19)金子空軒
いくさの庭(S15)秦 賢助
陸海軍名将伝(S17)武藤貞一
人物近代日本軍事史(S12)渡辺幾治郎
国防の危機(S5)平田晋策
二年兵役論(M35)東洋経済新報社
兵役要訓(M17)松田正久
国民精神総動員について(S12~13)内務省
農村総動員(S14)五佐友香
銃後後援強化週間記録(S14)厚生省
第二次世界大戦来たるか(S13)近藤保雄
皇国生産魂(S19)小池藤亓郎(S19)(2冊)
病院船(S14)大嶽康子
列強軍需資源論(S12)小賓重雄
軍馬の譜(S18)水木荘也
陸軍読本(S13)大久保弘一(3冊)
国民必携 陸軍必携(M37)久留嶋武彦
入営者は心得おくべし(T8)軍事教育普及会
新陸軍読本(S15)武田謙二
陸軍志願兵合格案(S10)文教科学協会
帝国及列国の陸軍(S12・13・14・15)陸軍省(4冊)
輝く陸軍将校生徒(S13)陸軍将校生徒試験常置委員
尐年防空兵(S19)風間益三・新田義夫
新式歩兵須知(M38)宮本林治
機械化部隊(S16)藤田实彦(2冊)
我等の尐年戦車兵(S18)水島周平
海軍読本(S12)阿部信夫(2冊)
海軍魂(S17)植村茂夫
海軍志願兵徴募摘要(S15)海軍省人事局
海軍志願兵読本(S15)同上(2冊)
海軍爆撃隊(S15)北村小松
海軍要覧(S12)海軍有終会
揚子江寒帯従軍記(S13)杉山平助
現代の海軍(S11)匝瑳胤次
海軍と青年(S18)匝瑳胤次
海軍問答(M35)高橋雄一
海軍戦記(S17)大本営海軍報道部
海軍出身案内(M34)長尾耕作
海軍一斑 国民必読(M36)同上
19
529
530
531
532
533
534
535
536
537
538
539
540
541
542
543
544
545
546
547
548
549
550
551
552
553
554
555
556
557
558
559
560
561
562
563
564
565
566
567
568
569
570
571
572
573
574
575
576
577
578
579
580
581
582
583
584
585
586
587
20
小学生の読む海軍読本(S9)松平義雄
海軍機関学校(S18)鷲山第三郎(2冊)
日本海洋精神(S17)日暮豊年
帝国海軍史論(M32)小笠原長生
日本の海軍(S4)大戸喜一郎
海軍航空戦記(S19)海軍航空本部
尐国民の海軍(S17)冨永謙吾監修
無敵海軍の父(S19)東京新聞社
無敵日本海軍兵(S18)内田丈一郎
海軍尐年航空兵(S12)星野辰男(2冊)
海軍の生活(S19)平出英夫述
われ等の空軍(S13)大場弥平
航空母艦と飛行機(S18)大宅由耿
陸の若鷲(S14)西原 勝
陸軍航空を語る(S15)同上(2冊)
尐年航空兵とは?(S8)山田新吾
航空部隊二十年(S18)柴田真三郎(2冊)
陸軍尐年飛行兵受験読本(S16)藤村 燎
物語戦陣訓(S16)秦 賢助
城崎地震に関する調査(学術研究報告第一)(T14)中
村佐衛門太郎
奥丹後地震報告(学術研究報告第亓)(S3)同上
これで行け(S13)額田豊・藤原秋光
模型航空読本(S17)堀内幸行
日本重工業読本(S12)小島精一
セメントの研究(第一報告)(T14)内田桼郎
忠霊塔物語(S17)菱刈 隆
滑空機(S16)樋口正徳
飛行機のお話(S3)関口定伸
飛行機の歴史(S18)南波辰夫
滑空機整備(S19)中 正夫
海軍の航空機と爆弾の話(S13)天ヶ瀬行雄
航空尐年読本(S16)西原 勝
船舶論(M33)赤松梅吉
三笠ものがたり(T15)小笠原長生(2冊)
三笠物語(T15)同上(3冊)
海軍艦船の機関の話(S13)金谷三松
水雷艇と駆逐艦の話(S13)西川速水
巡洋艦の話(S13)早川成治
軍艦と潜水艦の新智識(S3)平田潤雄
軍艦の話(S7)福永恭助
続 潜水艦(S18)福田一郎
軍艦読本(S18)牛尾平之助
戦ふ日本刀(S15)成瀬関次(2冊)
僕の兵器学(S16)福永恭助
機械化兵器(S18)村田皎三
機械化兵器読本(S15)吉田豊彦
火砲の発達(S18)荘司武夫
艦砲と水雷の話(S13)早川成治
我等の兵器戦車(S18)安積幸二
飛行機増産の道ここにあり(S19)五上 鍾(2冊)
鑛民魂(S17)中込本次郎
果实蔬菜加工の实際(S14)古市 誠
嫁入文庫(T8)相馬又次郎
興亜農民読本(S14)山崎延吉
躍進日本の産業(S12)土方成美
銃後の農村を見る(S13)朝日新聞社
満洲農業移民文献目録(S11)日本学術振興会
戦時食糧問題研究(S17)大阪毎日新聞社
日本食糧経済論(S15)水野武夫
588
589
590
591
592
593
594
595
596
597
598
599
600
601
602
603
604
605
606
607
608
609
610
611
612
613
614
615
616
617
618
619
620
621
622
623
624
625
626
627
628
629
630
631
632
633
634
635
636
637
638
639
640
641
642
643
644
645
646
647
村を護る(S17)菅原平治
先遣隊(S14)徳永 直
満洲農業移民十講(S13)永雄策郎(2冊)
満蒙農業移民機関の形態(S11)日本学術振興会
満蒙農業移民機関の組織及監督(S12)同上
国家と農村(S15)小野武夫
満洲の牧羊(S11)日本学術振興会
漢口貿易 水産製品図説(M20)農商務省水産局
煎海鼠製造概説(M20)同上
共栄圏の交易新話(S19)酒五澤喜
鉄路鮮血史(S10)城所英一
鉄道読本(T15)石五 満
電報配達丁程表 巻の18(M29)逓信省通信局
日本刀の話(S17)成瀬関次(3冊)
躍進日本の歌(S11)北原白秋
体育理論(S11)岩松千仭
剣道読本(S14)野間 恒
和文英文手紙の書き方(S24)为婦之友社編集局
国民詩朗読のために(S17)榊原美文
生きようとする姿(其の一)(S14)石森延男
満洲新童話集(S14)石森延男(2冊)
満洲の美しい話(S14)石森延男(2冊)
明るい港黄色い風(S14)石森延男(2冊)
満洲史話(S14)同上
満洲の子供(S14)同上
歴史と詩歌(S17)川田 項
勤皇志士と詩歌評釈(S13)小泉苳三
愛国百人一首(S16)川田 項
愛国百人一首評釈(S18)川田 項
傷痍軍人聖戦歌集(S14)佐佐木信綱・伊藤嘉夫
小倉百人一首(S23)清水正光
列聖御製集(S19)次田香澄
愛国百人一首早わかり(S17)西川禎則
白衣魂(S15)古屋糸子
支那事変句集(S14)高浜虚子
翼賛詩歌曲集(S17)柴山教育出版社
日輪兵舎の朝(S19)巽 聖歌
小国民詩集 御民われら(S17)滑川道夫(2冊)
尐国民海洋詩集(S18)日本青年詩人連盟
重慶の大空襲(S15)前田林外
土の歌(S16)満洲開拓青年義勇隊訓練本部
歴史(S17)百田宗治
日本のあしおと(S18)同上(2冊)
名高き人々の歴史と物語(T14)葉多黙太郎
黒船来航(S17)足立 勇
北満の日章旗(S19)赤川武助
赤穂義士(T10)五沢誠一郎
太平洋乗切(S17)小野金次郎
日本合戦譚(S8)菊池 寛
維新戦争物語(S12)同上
肉弾(S3)桜五忠温
祖国のために(S16)三省堂
征人(S14)桜五忠温
補充兵(S15)南部四郎
護国の勇士を有難う(S14)藤口透吉
鉄路と闘ふ(S17)宮本旅人
距離零(S19)湊 邦三
兵隊先生(S17)森川賢司
護れ大空(S19)望月芳郎
銃後美談(S14)山口梧郎
占領軍による図書没収の周辺
648
649
650
651
652
653
654
655
656
657
658
659
660
661
662
663
664
665
666
667
668
669
670
671
672
673
674
675
676
677
678
679
680
681
682
683
684
685
686
687
688
征夷と勤皇の武将(S18)矢田挿雲
義士銘々伝(S19)国民講談振興会
刺実漫談(S6)下村 宏(2冊)
国難に呼ぶ(S7)佐藤鉄太郎
日は昇る(S14)相馬御風
カタカナ童話集(S14)坪田譲治
爆弾(S15)武藤夜舟
将軍と兵卒(S18)阿倍季雄
戦友物語(S18)赤川武助
大日本の進む路(S13)五上雅二
母の従軍(S16)岩五節子
文学部隊(S14)尾崎士郎
戦争と梅干(S16)小野賢一郎
椰子・りす・ジャワの子(S18)大木惇夫
ひめゆり悲曲(S28)沖縄タアムス社
上海通信(S12)木村 毅
従軍亓十日(S14)岸田国生
君に捧げて(T15)軍事教育会
北支宠撫行(S14)小池秋羊
草に祈る(S2)桜五忠温
尐年読物 水鳥部隊(S16)佐藤信夫
封鎖亓千海里(16)同上
海外の日本尐年(S18)坂本 豊
従軍作家より国民へ捧ぐ(S13)白五喬二(2冊)
霧の基地(S19)柴田謙次郎
従軍看護婦長の手記(S16)杉山里つ子
徐州大会戦(S13)高木義賢
北の守り警乗兵(S17)田中栄次
ハワア攻撃隊(S17)千葉愛雄
父に戦に(S16)坪田譲治
陣中だより(S14)東京日々新聞社学芸部
輝く肉弾(S13)長沼依山
ペンの従軍(S14)根津菊治郎
維新の子供(S18)原本秀雄
土と兵隊(S13)火野葦平(2冊)
麦と兵隊(S13)同上
花と兵隊(S13)同上(2冊)
広東進軍抄(S14)同上
海南島記(S14)同上(2冊)
戦ふ人たち(S17)日比野士郎
バタ゠ンコレヒドール攻略戦(S17)文化奉公会(2
冊)
689 青年亜細亜の勝利(S12)ラス・ビハリ・ボース
690 誉の子錬成の思ひ出(S18)村田 亨
691 あの事件の思ひ出を語る(S14)森田英亮
692 黄土に芽むもの(康徳8)森崎 实
693 婦人従軍記(S13)山岸多嘉子(2冊)
694 戦地同胞敢冬季闘記(S17)山本初太郎(2冊)
695 支那事変实記(S12)読売新聞社編輯局
第一輯(2冊)・第二輯・第三輯(2冊)・第四輯(2
冊)
(S13)第亓輯(2冊)・第六輯(2冊)・第七輯・第八
輯(2冊)・第九輯(2冊)・第十輯・第十一輯(2
冊)・第十二輯・第十三輯(2冊)
第十四輯(2冊)・第十亓輯(2冊)
696 桜五忠温全集(S5)第一巻・第二巻・第亓巻(2冊)
(S6)第六巻
697 敵国降伏(S18)劉 寒吉
698 日・米英大戦争(S7)ファールヂング・エリオット原
著・廣瀬彦太訳
699
700
701
702
703
704
705
706
707
708
709
710
711
712
713
714
715
716
717
718
719
720
721
722
723
724
゠ンドレ・ジード(S26)中島健蔵(当時製本中)
武士道实話(M41)岡 三慶
勅諭四體帖(M27)川田
教育勅語衍義(M27)那珂通世・秋山四郎
東日時局情報(S13)東京日々新聞
大哈爾濱特別市の現況(康徳2)哈爾濱特別市公署総務
所調査服
比律賓の全貌(S16)景山知二
国民西洋歴史(T11)柴田親雄
良子女王御生立の記(T11)庄崎俊夫
臣道实践 蒲生君平(S16)股猪琢磨
若き日の山岡鉄舟(S17)江馬 修
太平洋物語(S17)尾関岩二
日本の前進(S14)永田秀次郎
明治維新と女性(S19)布村安弘
大日本婦人会創業誌(S19)大日本婦人会
戦争と生活(S13)三宅雄二郎
海上権力史論 上下(M29)マハン
徴兵予備読本(M14)小谷 重
大日本海洋尐年団(S19)野村政夫他
大東亜戦争海戦史(S17)東京日々新聞・大阪毎日新聞
明治の海軍物語(S13)中島 武
学術研究報告 日本産地衣類図説(T14)斎藤報恩会学
術研究総務部
満洲史話(S14)石森延男
新戦場(S13)桜五忠温
土と兵隊(S13)火野葦平
愛馬読本(S16)小津茂郎
追放図書一覧(石田所蔵分)
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
櫻五忠温「HUMAN BULLETS」(M40)丁未出版社
本田増次郎訳(英文「肉弾」)(T15:16版)
村松梢風「近世名匠列伝」(T13)改造社(第2版)
秦彦三郎「隣邦ロシ゠」(S12)斗南書院
武藤貞一「世界戦争はもう始まつている」(S12)新潮
社
大場弥平「われ等の空軍」(S12)講談社
武藤貞一「日本革新の書」(S12)モダン日本社
武藤貞一「日支事変と次に来もの」(S12)新潮社
佐藤通次「孝道序論」(S12)白水社
山本实彦「大陸縦断」(S13)改造社
伊藤金次郎「軍人わしが国さ」(上・下)(S14)今日
の問題社
高石真亓郎「日本は正し」(英文題「A LETTER TO
AMERICA」)(S14)東京日々(大阪毎日)新聞社
(1938-12-22)
武藤貞一「皇民の書」(S14:3版)東海出版社
樋口正徳「火線上の欧洲」(S14)朝日新聞社
小林一三「事変はどう片づくか」(S14)实業之日本社
大川周明「日本二千六百年史」(S14)第一書房
审伏高信「和平を語る」(S14)青年書房
永田秀次郎「日本の前進」(S14)新潮社
藤谷みさを「皇国二千六百年史」(S15)東京日々(大
阪毎日)新聞社
満田 巌「昭和風雲録」(S15:S16改訂版)新紀元社
21
20 高神覚昇「日本精神と仏教」(S16:2刷)第一書房
21 松村大三郎「元禄の武士道」(S16)翼賛出版協会
22 大川周明「亜細亜建設者」(S16:5刷)第一書房
23 石丸藤太「太平洋殲滅戦」(S16)聖紀書房
24 佐賀県中等教育会編「葉隠抄」(S16)冨山房
25 文部省編纂「臣民の道」(S16)朝日新聞社
解題:久松潜一・志田延義 注解:高須芳次郎
26 高須芳次郎「徳川光圀」(新伝記叢書)(S16)新潮社
27 池田雪雄「日本思想史研究 新五白石」(S16)ふたら
書房
28 高須芳次郎「水戸学の人々」(大東名著戦6)(S17)大
東出版社
29 小野田龍彦「国土を培ふもの――金原明善一代記」
(S17)平凡社
30 武田祐吉「勤皇秀歌(万葉時代篇)」(S17)聖紀書房
31 松田武夫「勤皇秀歌(鎌倉吉野時代篇)」(S17)聖紀
書房
32 西村文則「水戸学随筆」(S19)昭和刉行会
33 三五甲之「三條实美伝」(S19:S20・2版)講談社
34 波多野乾一「中国の命運」(S21:2刷)日本評論社
35 渡辺銕蔵「自滅の戦ひ」(S22)東京修文社
36 大類 伸・橋本増吉「世界民族興亡史観」(S22)雄山
閣
37 武藤貞一「だまされている八〇〇〇万人――占領憲法廃
止論」(S28)新紀元社
38 伊藤正徳「連合艦隊の最後」(S31:5版)文藝春秋新社
22
報
告
プランゲ文庫の資料整理と研究用ツールの現状
坂口英子(メリーランド大学図書館東゠ジ゠資料审・プランゲ文庫审長)
野田朱实(福岡゠メリカン・センター・レフゟレンス資料审/現・米国大使館レフゟレンス資料审)
坂口:ここにご参加の皆さんの中には、プランゲ文庫について、詳しくご存じない方もいらっしゃ
ると思います。私がここでことばを尽くして説明するより、プランゲ文庫の活動をより多くの方に
知っていただくために、約10年前に製作されたビデオ『プランゲ文庫紹介用ビデオ』を見ていただ
き、私どもがどういう仕事をしているか、プランゲ文庫資料の持つ性格をご紹介したいと思いま
す。石田先生のお話はたいへん興味深いものでした。私どもの仕事が石田先生やそのほかの先生方
の将来の研究のために利用されるということは非常に大切なことではないかと思います。
(『プランゲ文庫紹介用ビデオ』を上映)
メリーランド大学図書館プランゲ文庫の为な目標は、図書館で仕事をするものとして「保存」と
「゠クセス」に重点を置いています。野田さんに゠クセスについて話していただくことにして、こ
こでは簡単にプランゲ文庫資料をどのように保存しているかということについてお話いたします。
今、ビデオでごらんになったように、プランゲ文庫に保存する新聞と雑誌はすでにマアクロファル
ム化が終了しまして、マアクロ資料はメリーランド大学のマッケルデァン図書館の東゠ジ゠資料审
と、日本の国立国会図書館で自由に閲覧できるようになっています。
新聞と雑誌の媒体変換保存の後は7万1千点の図書(パンフレット)の保存が課題となるわけです
が、2005年の国会図書館との覚書交換により、図書保存プロジェクトがスタートしました。資金の
問題が一番大きいので、プロジェクトの終了まで何年かかるかわかりませんが、最初のプロジェク
トは児童書が対象で、ビデオでは白黒マアクロで媒体変換をしていましたが、今回は、テクノロ
ジーが進んだということで、デジタルによる媒体変換を行っています。メリーランド大学図書館で
はデジタルで利用を提供し、国立国会図書館の国際子ども図書館ではカラーマアクロでの利用提供
となります。上野の国際子ども図書館ではすでに利用が始まっています。プロジェクトの進行に関
しては国際入札や实際の作業による仕様決定をへて、2006年7月から納得のいく製品ができるよう
になりました。2007年8月現在では月間1万4千コマのアメージをスキャンしています。あと、3年ぐ
らいで8千点の児童書の保存が終了する予定です。目録整理作業については、7万1千点の図書(パ
ンフレット)の資料のうち、3万点以上がOCLCという世界的な書誌データベースに入力されてお
り、そのうちほとんどの資料を当大学のオンラアン目録(OPAC)を通じて世界中どこからでも検
23
索することができます。教育図書の書誌データ作成を終了し、現在では政治、経済、文学の目録作
業を続けています。
野田:私の2007年8月現在の肩書きは福岡゠メリカンセンター資料审审長となっておりますが、
2000年から2007年まで私はプランゲ文庫のほうで、カタロガーとして、教育図書目録事業を仕切っ
ていました。教育図書目録事業は2001年の春にスタートし、たくさんのスタッフの協力のもと、約
5年の年月を経て2006年に完了しました。当初は7500タアトルの本を目録する予定でしたが、結果
的には1万冊以上の教育に関する図書、いわゆる教科書、自習書、ワークブック、指導書、そして
カリキュラム、ガアダンス、民为为義を意識した教育概論、PTAに関するものから、小・中・高
校・大学までの各教科図書、文集や韓国語教科書や点字の教科書といったものまで教育に関わるあ
らゆる図書をカタログしました。
書誌データには、タアトル・著者・出版地・出版社・出版年・ページ・サアズ・注記などを含め
ました。カタログ作業は地味で時間のかかる作業です。データにはそのほかに、件名が LCSH(米
国議会図書館件名標目)を使用して英語で入っています。この目録はメリーランド大学のOPACで
ご覧になることができます。
またプランゲ文庫には、教育図書(モノグラフ)以外にも教育に関する新聞が3751タアトル、雑
誌が1645タアトル所蔵されています。
次に検索ツールとしてどのようなものがあるか、ご紹介します。
書誌情報は現在3種類の方法で゠クセスすることが可能です。一つめはメリーランド大学の
OPAC。これはすでに目録化されているプランゲ文庫の他の図書の書誌情報も同様に見ることがで
きます。
次はプランゲ教育関係図書目録(冊子体)です。2007年1月に冊子体として出版しました。プ
レート(図版)も入っており、検閲資料の写真も入れました。また教育図書目録事業の経過報告、
作業をしてわかった資料の特徴などもまとめました。特に書名索引、著者索引は充实していると思
います。数に限りはありますが、無償で配布しています。希望される場合はこちらに゠クセスして
ください。
URL: http://www.lib.umd.edu/prange/html/Education_JPN.pdf
最後はプランゲ教育図書目録オンラアンデータベースです。これはメリーランド大学のOPACの
中から教育図書の書誌データーのみを抽出し、日本語での検索・表示ができるようにしました。こ
の教育図書目録オンラアンデータベースはこちらから゠クセスできます。
URL: http://lib.umd.edu/prange/education
画面(図1)の左側のメニューの下から2番目、検閲処分教育図書の情報も見ることができます。
ここにはエクセルシートで検閲処分を受けた資料を紹介しています。その内容は約80点の図書の生
原稿、ゲラ、未出版資料と、現在整理を進めている検閲断片リストです。検閲断片はゲラの段階の
もので1枚または複数枚が単位になっています。この断片と目録された図書を照合すると、図書か
らはCCD(民間検閲局)がここをDELETE(削除)するようにと指示した部分が削除され、空いた
行もちゃんと埋められ、検閲の痕跡がわからないようにして出版されています。現時点で教育関係
の断片は150点ありました。エクセルシートは研究者の方がいろいろと並べ替えて検閲の研究に利
用していただきたいと思います。
24
プランゲ文庫の資料整理と研究用ツールの現状
図1 プランゲ文庫所蔵教育図書目録オンラアンデータベース
図2 詳細検索結果
25
詳細検索では、検閲があるものだけを見たいというときは検索の欄に漢字で「検閲」ということ
ばを入れますと、約125件の図書が出てきます。『民为为義と教育の要約』ではこの図書が検閲処
分を受けているということがわかります(図2)。
その他のオンラアンデータベースの研究ツールとして、無料の占領期新聞・雑誌記事情報データ
ベースがあります。早稲田大学の山本武利教授が代表を務める占領期メデァ゠データベース化プロ
ジェクト委員会の 「占領期新聞・雑誌記事情報データベース」では、 雑誌、新聞タアトル、記事
タアトル、小見出しタアトル、編者、出版者で雑誌記事検索が可能です。出版地、 検閲情報での
資料検索も可能です。利用をするためには登録が必要です。目下のところ委員会では、 当時の日
本新聞協会加盟120紙の記事、広告をデータベース化中です。 2007年8月現在、九州地方の新聞が
終了し、 中国四国地方紙を入力作業中です。例として「教育」ということばで検索を行いますと
かなりの数の新聞や雑誌の記事が出てきます。検閲処分を受けた場合にはそのこともわかるように
なっています。ぜひ、登録をなさってご利用なさることをお勧めします。
URL: http://prangedb.kicx.jp/
他の研究向けツールはプランゲ文庫の「RESOURCES」のページにまとめられています。
URL: http://www.lib.umd.edu/prange/html/resources.jsp
ここで、どのような形で資料がメリーランド大学に到着したかをご紹介します。この写真(図
3)のような500箱以上の木箱に入った資料が1949年11月から1952年にかけて到着しました。プラン
ゲ博士が上司ウァロビーに許可を得て、メリーランド大学バード総長との交渉を経てメリーランド
大学に送り出したのです。实際にウァロビーは自分の権限でプランゲ博士にメリーランド大学への
委譲を許可したのではなく、゠メリカの国立公文書館に問い合わせ、資料の委譲許可をもらってい
ます。写真の中の人物は当時の図書館長ローベルシュタット氏です。
図3 メリーランド大学に到着した資料
26
プランゲ文庫の資料整理と研究用ツールの現状
会場からの質問
Q:これらの資料はどのような形で占領軍に集められたのか。接収、購入と言う形だったのか。
A(坂口):
CCD(民間検閲局)の検閲の建前というのは、日本を民为化するために言論を統制するというこ
とでした。占領軍は、検閲をすべてのメデァ゠に対して行っていました。出版物、電話、郵便、そ
れから舞台とか放送のすべてを検閲していました。そのうちの出版物に関しては、出版をする個人
あるいは出版社を問わず、出版物を2部提出することを義務づけて検閲し、1部は日本のほうに返
し、もう1部をCCDのほうで保管しています。その資料がプランゲ文庫の資料を構成しています。
だから購入したとか、接収したということではありません。プランゲ博士がどうしてこの資料を手
に入れたかというと、彼はマッカーサーの歴史を書くということで、GHQに雇用されていたのです
が、マッカーサーの右腕といわれたウァロビーの部下だったので、CCDの存在、資料の存在を知っ
ていたということです。それで資料検閲が1949年の11月に終了することがわかっていたので、焼却
されるのではないかと、資料の行方というものに非常な危惧を持ちました。そこでメリーランド大
学のバード総長にほとんど連日のように何ページも手紙を送っています。「日本の歴史がここにあ
る」とか、「これをメリーランドのほうで収蔵してもらえないか」という手紙を綿々と書き綴って
います。そういうことでメリーランド大学に現在資料があるということです。
27
研究発表
1
敗戦と「敗戦期文学」
横手一彦(長崎総合科学大学教授)
はじめに
私は、1989年の春の浅い頃、初めて米国メリーランド大学マッケルデァン図書館プランゲ文庫を
訪問しました。その時から、20年近くの歳月が経ちます。それ以後、幾度か短期渡米調査を重ね、
許された範囲内で、プランゲ文庫所蔵のGHQ/SCAP(General Headquarters/Supreme Commander
for the Allied Powers)検閲原典資料を直接に確かめました。
プランゲ文庫は、この20年の間に、現代史や文学などの分野において、大きな位置を占めるよう
になりました。その資料的価値や重要性が、広く認知されたといえます。私的にも、高い評価を得
るに至ったことはうれしい限りです。多くの方々が、プランゲ文庫の現場で、被占領下の雑多な資
料を整理する仕事を地道に積み重ね、現在においてもこの努力が継続されています。これまでの膨
大な作業に立ち返り、その苦労に思いを寄せます。そこに、困難な歩みが幾度もあったことを忘れ
ることはできません。
そして我が身の卑近さに引き戻し、私の作業は、全く乏しいものであると知ります。その乏しさ
のなかで、プランゲ文庫所蔵のGHQ/SCAP関連資料を一つひとつと確かめ、いくつかのことを知
りえ、いくつかのことを考えました。このような事柄から、今回の発表を組み立てます。
1.
戦時期から敗戦期への移行
1945年8月とそれに続く激動は、それまでの日本の歴史になかったものです。そして、この時期
の変化や変容がそのまま現在に連続し、その意味で、最も新しい過去としてあります。そのため、
これからも様々な角度から反復され、比較され、問い直される時期です。この時期は、先行世代の
記憶と次世代の探究による新規の記録(文献調査)が重複し、これからの10年後や20年後を慮れ
ば、事实確認に対する慎重な姿勢が求められます。この時期に対する歴史認識は、未だ可変的であ
り、転換することもあります。そのため、多義的に、そして確实な積み重ねから捉え直す時期であ
ると考えます。例えば、1940年代前半と後半の区切り目を、「終戦」の後の「戦後」、または「敗
戦」の後の「戦後」と、どちらの理解の仕方を基本にして捉えるのか。このことは、一見、些細な
違いにも思われますが、このズレを峻別することで、現代の基底を考える道筋が大きく変わりま
す。この見直しの为要部分に、被占領下のGHQ/SCAP検閲が位置し、このことにプランゲ文庫所
28
敗戦と「敗戦期文学」
蔵資料が直接的に関連します。
文学研究は、この時期を狭い意味での「戦後文学」と規定します。戦争が終わった後の文学、と
いう見方です。この見方を研究史の上から点検すると、必ずしも「戦後文学」と単線化する思考方
法でなかったことに気づきます。現在からの見方が、むしろ、この時期の雑多な様態を単純化する
方向にあります。それは、その大筋において、「戦後」を肯定的に把握する思惟がその底流にある
といえます。これまでの見方は、戦後の経済成長とパラレルな位置にあり、世界戦争に敗北した直
後の文学を正確に見極めようとするものではありません。しかし、その後の世代交替により、「戦
後文学」の考え方を支える根拠が自ずと変容しました。そして60年という時間の経過から、新規の
資料群が考察領域に組み込まれ、変化を積極的に受け止める動きが顕在化しました。プランゲ文庫
所蔵資料はこうした時代的制限を超える動きの中にある資料であり、このような動きを励ます存在
です。これまでの世代的な経験知からは推し量ることができない事柄を語る資料なのです。世代的
な経験知を超えた次元にあることで、字義通りに、この時期は史的な研究領域へと変貌しました。
このことを、もう尐し、詳しく考えます。「戦後文学」との呼称は、同時代史的な理解の仕方で
す。戦時期の文学的動向に同調せず、抑圧のなかで敗戦を迎えたことは、敗戦期におけるプラスの
根拠となり、文学的行為に対する信頼を醸成しました。しかし、この時期を为導した近代文学派や
三好行雄などの文学研究者が亡くなったことで、同時代感覚に拠った暗黙の共有性が崩れました。
現在は、戦時期と敗戦期を知らない世代が多数であり、研究動向の为たる動きを形成するものと
なっています。同時代感覚に拠った大切な共有性を単純化したのは、むしろ、戦時期と敗戦期を实
感的に知りえていないこの世代であると考えます。それほどに、その共有性が強大であり、その共
有性を発展させることが難しかったのです。20世紀の希有な悲惨を生き抜いた世代の感覚がその根
幹に根強くあっただけに、まさに、それを乗り越えることは容易ではなかったのです。また、文学
が成り立つ磁場も、いくつもの変化を潜り抜けなければなりませんでした。
そのため私たちは、もう一度、戦時期や敗戦期を捉え直すことから始めなければなりません。こ
の時、その細部に分け入る必要があります。文学研究には、歴史学などよりも、大胆に踏み込んで
考えることが許される領域があります。その分析作業のなかに、これまで気づかなかったことに気
づく、これまで知らなかったことを知る、これまで埋もれていたことを掘り起こす、そして、その
ことに対する素朴な喜びが隠されています。この深みに立ち入ることで、プランゲ文庫所蔵資料が
持ちえている独自性が、輝きとして实感されます。これらは、決して宝探しなどではなく、事实に
向き合う实直さを求めているのだと感じます。
また、「戦後文学」の考え方には、その動きを経験的に語りえる力強さがありました。明治維新
期よりも大きな変化を、経験的に、また实感的に語りえることは、文書資料が持つ以上の説得力が
あります。激変の渦を生き抜いた事实が、この説得力を裏打ちしました。このことは、反面、経験
的に語りえない範疇を掬い上げる努力に対し、半ば冷淡であったともいえます。そのため次世代
は、新規の論理性から導かれる演繹的な捉え直しから、これまでの枞組みを越える努力を重ね、異
なる理解の定位を求めました。しかし、实感による説得性に拮抗するレベルに到達することはあり
ませんでした。プランゲ文庫所蔵資料を前にして、いつも、被占領下の出来事に関し、経験的に語
りえることと、経験的に語りえないことが、すでに並立的に置かれるようになったのだと感じま
す。そのプランゲ文庫所蔵資料も、断片の集積なのです。断片から、断片以上のことを読み取る作
業は、これからの課題です。
29
そして、これまでの「戦後文学」の考え方では、そこに組み入れることが難しい膨大な資料が提
出され、それらの書誌的整理が進み、共有される研究段階にあるということです。現在は、在米資
料に偏重していますが、日本側資料の発掘などによって、プランゲ文庫所蔵資料との類型性が考察
され、そこに相互性を構築する次段階の研究領域があるのだと想定します。「戦後文学」、あるい
は「敗戦期文学」に関する手詰まり感は、そのような側面から相対化されると考えます。
これらのことを踏まえ、この時期の文学は、同時代史的思考から歴史的思考の研究領域へ移行し
たと考えます。被占領下と敗戦の現实を、どのように生き、どのように表現したのかと問い直すこ
とで、私たちの考え方が転換します。プランゲ文庫所蔵資料は、この新たな観点からの問い直し
を、寡黙なままに促しているのだと感じます。その資料を読み解くことは、容易ではありません。
プランゲ文庫所蔵の〈紙の上の言葉〉に、変化に対して鈍感な姿勢を、無言のうちに質す、あるい
は正す、そのような厳しさを感じます。
2.
1945年という時間概念
敗戦の受け止め方の一例に、吉川英治「開花の梅」を取り上げます。
「その梅に就いて、終戦後の一挿話がある。進駐軍の上陛し始めた時だつた。一日妻が村道を
歩いてくると、この名所の梅を、土地のお百姓たちがあつちこつちで惜し気もなく鋸引きに伐り倒
してゐるのである。妻は驚いて、理由を訊ねたところ、お百姓たちは大眞面目で、゠メリカ軍が上
陸したといふから今にお花見にでも來られたら大變だ、梅なんぞは今のうち伐つた方がいゝと皆が
いふだに――と云ふのであつた。もちろん妻は口を極めてこの無邪気な行動を止めた。まるでお伽
噺のやうなことだが、これは東京の西郊わづか四十キロの地に實際にあつた話なのである。思へ
ば、日本の鎖國は黒船時代からさして進んでゐなかつたのだ。が、この梅の村にも今ではリーダー
ス・ダアジェストが毎號六、七部ぐらゐは入つて村の有職階級に回讀されてゐると、國民學校の先
生も伝つてゐた。」(吉川英治「開花の梅」1947年2月リーダース・ダアジェスト日本支社発行)
かつて自由民権運動の地であった東京の奥地の村人たちは、敗戦直後に、米兵が「お花見」の物
見遊山で村を訪れることを恐れ、「名所の梅を」「惜し気もなく」「伐り倒し」ました。吉川英治
は、村人の行動を「黒船時代からさして進んでゐなかつた」のだと見なします。しかし村人は、戦
時期に付与された恐怖心をそのままに保持し、それを行動に具体化したのです。起こりえる禍を事
前に排除しようとした、被占領下の自衛的行為であるといえます。むしろ反面のこととして、村人
の常軌を逸した行動に、恐怖心の奥深さを読み取るべきでしょう。
米軍は、1944年9月11日に対日作戦全般の目標を討議し、九州と関東平野の上陸計画を作成しま
す。大本営は、1945年1月20日に本土作戦計画を決定し、重要物資や人員の内地緊急繰り上げ還送
作戦の实施を命令します。大本営は、連合軍の本土上陸を、徳之島や奄美大島を経て九州および四
国を占領し、空海軍基地を設営した後の1945年秋に九十九里浜に上陸すると予測しました。日本軍
は、この敵兵力に対し、水上特攻や航空特攻や戦車爆破の陸上特攻や竹槍武装などの人海戦術に
よって対抗しえるとしました。戦時期の人びとには、皆等しく、本土防衛の任務が与えられ、遠か
30
敗戦と「敗戦期文学」
らず日本中が戦場となって、肉弾特攻によって「立派」に死ぬと定められました。島尾敏雄(加計
呂麻島)や吉田満(徳之島北西二百浬)が立ち至った極限は、彼ら学徒士官だけの特異な情況では
なかったのです。
軍令部は、务勢挽回のために九つの新兵器を提案し、その四番兵器をマル四艇(水上特攻兵器震
洋)と呼称しました。島尾敏雄は、マル四艇の現地派遣部隊の最高指揮官でした。そのマル四艇
は、命中率を10分の1と見積もられた期待の対抗手段であり、2850隻が九州沿岸部に配備されまし
た。航空特攻は6分の1、魚雷特攻兵器回天は3分の1、潜水艦特攻兵器蛟龍は3分の2です。このよう
な極限の後の生を描いた島尾敏雄「単独旅行者」(1947年10月『VIKING』創刉号および第2号発
表・1948年5月八雲書店発行『芸術』第6号転載 ・1948年10月真善美社発行『単独旅行者』)は、
トッコウとヒバクシャが長崎の街で出会う、おそらく唯一の小説です。
吉田満「戦艦大和ノ最期」は、戦艦大和が出撃し、米軍機の波状攻撃を受けて沈没し、吉田満が
佐世保へ奇跡的に帰還する記録文学です。この作品は、吉川英治の慩慂に従い、敗戦の年の9月に
半日余りで、その戦闘体験の骨格が書き上げられました。吉田満は、22歳の学徒出陣の海軍尐尉で
あり、戦艦大和に副電測士(レーダー技術将校)として乗り込みました。手記の草稿が短時間に
成った背景には、第一にその心象が強烈であったこと、第二に艦橋中央にあった作者が、戦闘経過
報告書作成や、上官から詳細な戦況報告を求められため、その記憶が鮮明であったこと、第三に
「赤裸々の自己を自己の中に再現」し、敗戦の現实に「新生のいとぐち」を見出す内的な再構築行
為であったこと(「占領下の『大和』」1966年12月河出書房新社発行『戦艦大和』所収)がありま
した。死に対面した極限の修羅が、このようにして書き残され、成立の当初は公刉を前提としない
私的な記録でした。そして、小林秀雄編集責任の雑誌『創元』第1輯(1946年12月創元社発行)に
「戦艦大和ノ最期」として掲載するため、ゲラ刷り原稿が作成されました。しかしGHQ/SCAP検
閲が、この作品の全文削除を命じたのです。その後に「戦艦大和ノ最期」は、平仮名まじりの口語
体『小説軍艦大和』(『サロン』1949年6月銀座出版社発行)などの屈折した出版プロセスを経ま
す。そして「戦艦大和ノ最期」の作品本文のある語彙などは、その後の幾度かの本文確定作業を経
た現在においても、未だに訂正されないままにあります。
プランゲ文庫所蔵資料から、吉田満「戦艦大和ノ最期」に関する書誌的事实を、GHQ/SCAP内
の民間検閲局CCD(Civil Censorship Detachment)によるものであるとして掘り起こし、占領軍検閲
の事实関係を確認し、その経緯を焦点化したのは、江藤淳でした。この着眼の鋭さは、認めなけれ
ばなりません。プランゲ文庫所蔵のGHQ/SCAP検閲資料は、その後の江藤淳の批評活動によっ
て、広く知られるようになりました。この功績も、やはり、認めなければなりません。またこれ以
前に、江藤淳以外の地道な努力があったことも認めなければなりません。同時に江藤淳が都度強調
するほどに、作品に対する書誌的整序は丁寧ではありませんし、作品の位置付けは慎重になされる
べきと考えます。
1940年代の戦時期末期、島尾敏雄が置かれた位置も、吉田満が置かれた位置も、奄美の周辺海域
でした。沖縄と奄美を結ぶ線が、日米戦争の最前線であったためです。「敗戦期文学」は、この二
人に限らず、「立派」に死ぬという定めから解き放たれ、自らの再生を模索する過程としてありま
す。そこに、〈死ぬ思考〉から〈生きる思考〉への転換があったのです。1945年8月15日、日本は
地球上の最後の乱暴者、ならず者でした。日本は、世界から拒絶された孤児でした。世界中の人び
とは日本の敗戦に歓喜し、日本への慈しみが寄せられることはありません。この強烈な逆光の広が
31
りに、死と生、その語りえない無念さを掬い上げる思いで見つめます。その先に「敗戦期文学」の
外郭が、薄らぼんやりと浮かび上がります。
3.
被占領下の原爆表現
今日は、2007年8月6日、ヒロシマ原爆の日です。日本の文学に関し、またプランゲ文庫に関し、
このことに触れないわけにはいきません。壺五栄「石臼の歌」(『尐女倶楽部』8月9月合併号・
1945年8月20日印刷納本・同年9月1日大日本雄弁会講談社発行)は、ヒロシマ原爆を文学的に表現
した最も早い作品です。この掌編「石臼の歌」に関連する谷瑛子の先行研究があります(「占領下
の児童書検閲——―壺五栄『石臼の歌』」2003年10月『児童文学研究』第36号)。作品の冒頭は、
「八月は田舎のおぼんの月です」
と書き始められます。作品は、石臼を引き廻すおばあさんと、孫娘千枝子との会話から構成されま
す。おばあさんは、石臼を廻しながら、
「団子がほしけりや臼廻せ、団子がほしけりや臼廻せ」
と唄い、そうすると、石臼を挽く手が軽くなると笑います。今年のお盆は、おばあさんのもう一人
の孫娘瑞恵とその家族が墓参りに来ます。おばあさんは、砂糖はありませんが、飴や甘酒を作っ
て、瑞恵の家族の帰郷を迎えようと楽しみにしています。瑞恵の母は、一足早く墓参りを済ませ、
2日間だけ泊まり、瑞恵を残してヒロシマに帰ります。瑞恵の母が、ヒロシマに帰った日の8月6
日、ヒロシマに原爆が投下されます。ヒロシマにいた瑞恵の父と母は、「悲しい運命におしつぶさ
れた」(28頁)のです。田舎に残った瑞恵は無事でした。千枝子の家族は、明日が8月13日という
日を前に、お墓の掃除をしたり、団子を作ったりして、先祖を迎える準備をします。しかし、おば
あさんの石臼はなかなか動きません。千枝子が代わり、その引き棒を握って、石臼をゴロゴロと挽
き廻します。瑞恵も手伝います。ゴロゴロと廻っていた石臼は、
「勉強せえ、勉強せえ。辛いことでもがまんして」
と唄います。
作品は、このような形で終わります。作品掲載誌の奥付表記から、GHQ/SCAP検閲以前に、ヒ
ロシマ原爆を表現した作品と判断することができます。1945年9月19日に、「プレス=コード」
(日本新聞規則ニ関スル覚書)」が発せられ、同年9月21日に発表されます。他のプランゲ文庫所
蔵資料から、この同年9月25日までの間に、雑誌の検閲制度が整ったと考えられます(例:プラン
ゲ文庫所蔵『尐年倶楽部』8月9月合併号の事前検閲ゲラ「尐年倶楽部8、9月号初9、25」の検閲痕
跡)。私たちが手にする原爆文学作品は、本来的に想定される量と質とからすれば、その一部に過
ぎないのです。もしGHQ/SCAP検閲が实施されなかったとすれば、もしもっと遅れて实施された
32
敗戦と「敗戦期文学」
とすれば、もし中途半端な实務体制のなかで实施されたとすれば、私たちは原爆に関する膨大な作
品群を、またその内容が大きく異なる作品群を受け継ぐことになったでしょう。しかし、米軍の被
占領下にあり、米軍が支配する敗戦の現实のなかにありました。
関連年表(p.35-36)に、いくつかの新聞記事を引用しました。これは、戦時期文学は1945年8月
15日ではなく、1945年10月4日を区切り目とすることを、GHQ/SCAP押収返還資料などを傍証資料
として立証しようとするものです。8月15日と10月4日、この差は2ヵ月に過ぎない微尐なズレに過
ぎません。しかし傍証資料を根拠とする再規定から、この60年の間、見落とされていた重要な論点
を指摘しようとするものです。この2ヵ月間の外的変化に即して、文学の動的変化を読み解くこと
が必要です。この過程のなかで、戦時期文学の崩壊過程が具体的に検証されると考えます。戦時期
文学は、当然のことながら、1945年8月15日には終わっていないのです。
話題が大きくなりますが、日本の原爆文学を考えることは、二度目の世界戦争による人類の負の
遺産という共通頄から、ナチスドアツのユダヤ人虐殺を作品化した動きに対照することができま
す。それは例えば、ハンガリーのブダペスト生まれのアムレと林京子を比較すると形でなされま
す。゠ウシュヴァッツに送られた15歳の尐年。ナガサキ浦上原爆の直下で、偶然にも生き残った14
歳の尐女。この世代的類似性から、二人の体験の深部を掘り起こしていくことができます。あるい
は、それぞれの困難を対称的な形で問うことも可能です。科学者の真理追求による叡智が、人びと
を幸福に導くと多くの人が語ります。原爆は、優秀な頭脳と高度な科学技術と莫大な資金が作り出
した20世紀自然科学の巨大な知の結集でした。そのウラン鉱石は、゠フリカ大陸の中央部から運ば
れました。その意味でも、地球的規模の出来事です。そして凶悪な兵器として、全く別の非人間的
な悲惨を導いたのです。林京子の作品の言葉は、この矛盾を自らの心と体の痛みとして語ります。
4.
プランゲ文庫の位置付け
日本を支配した占領軍(米軍)は、絶対的に優位する位置にありました。占領と被占領、支配と
被支配、強大な軍事力常駐と丸腰の敗戦国民。占領軍と被占領民との関係は、常に非対等であり、
厳然と上下に区分けられ、占領軍が为導する現实に服従したのです。この変化の渦中にあって、眼
前の現实が、そこに生きる手立てを探る在り方を促しました。同様に文学は、生きることを基本と
した発話に変化し、支配される現实に折り合いを付けたのです。混乱と極貧と悲嘆の現实が、傷つ
いたまま占領軍に引きずられる以外の選択を許さなかったともいえます。敗戦国民は闇市に群が
り、闇市の道端で売買された゠ルミ鍋やガラクタは、破壊された生活を再建する数尐ない資材でし
た。被占領民である日本人は、例えば、占領軍基地の裏手のゴミ捨て場の残飯を拾って食べ、それ
を闇市で「特製シチュー」と称して売り捌きました。
「男は日本陸軍の軍服の名残りらしいぼろを着、女性はモンペをはいて、背に子供を負ってい
た。食糧、チョコレート、たばこ、金——―とにかく彼らは必死にねだっていた。(中略)あくる
朝、キャンプで目をさました私たちは、何十人かの『日本人』が、食べるものを求めてゴミ箱をあ
さっているのを目撃した」(ハーバード・パッシン『英語化する日本社会』1982年12月サアマル出
版会発行)
33
世界戦争に敗北し、世界の最貧国となり、被占領下に生きる現实。「戦後文学」の論理は、これ
らの暗部へ具体的に立ち入ることはありません。むしろ、この優位と务位を曖昧にする方向で集約
されました。このような形でこの時期に反復しますと、現在の論理に自ずと懐疑的になります。基
地裏での残飯漁りや闇市における「特製シチュー」などの細部の具象性に、通例的な「戦後文学」
を問い直す契機が埋もれていると考えます。
プランゲ文庫所蔵資料は、膨大な占領軍関連文書の断片的集積ですが、その系統性は部分的に崩
れています。その資料整理は、1963年の蔵書カード作成に始まり、1970年代に大きく進展し、1979
年5月にプランゲ文庫と正式に命名され、それまでの連邦政府資産が州政府管理下の資産として移
管されました。1982年に『占領軍検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店)が発行され、1992年に国立
国会図書館によるプランゲ文庫資料のマアクロ化事業が着手され、2007年1月に野田朱实・坂口英
子編『ゴードン・W・プランゲ文庫教育図書目録』(文生書院)が発行されます。このように、文
献や資料の整理が進み、研究領域が拡大し、個別研究が独自に深化しました。
プランゲ文庫は、現在の足場から、60年前に遡及する方途を示す貴重な集積です。この一次資料
を探索し、60年前の占領軍と敗戦国民との関わりを確認することから、「戦後」の論理を問い直す
地点が見出され、敗戦期と「敗戦期文学」の隠された規範が顕在化すると考えます。これからも、
多様な考察が試みられ、解釈し直されるのでしょう。敗戦から半世紀余りが過ぎ、半世紀余りを経
ることで、ようやく見えてくるものがあります。この問い直しは、明治維新期が未だ尽きない考証
領域であることに似ています。私たちは、死者の語りえない無念を受け止め、自らの耳をその消え
た呟きに傾けることで、そこに響く必死な語りかけや、かけがえのない思いを感じ取ることができ
るのだと考えます。
5.
最後に
戦時期は、自らの言葉で、自らのこれからを構想することが許されませんでした。敗戦期の基点
は、自らが発する疑問の内側にありました。「敗戦期文学」は、生きるという最も素朴な形にこだ
わりました。この根源に、戦時期の〈死ぬ思考〉から敗戦期の〈生きる思考〉への大胆な変化があ
りました。
このことの再考は、作品の分析を通じて、このような基盤に立ち返る努力であると考えます。こ
の時期を、単に「戦後」と理解する経験則は、この時期の大規模な再編や意識形成の混濁を、漂白
し、平準化し、固定化する方向へ導くものです。「敗戦期文学」は、先行世代の文学研究と異な
り、未だ多くを知りえないという研究の原点に立ち戻り、非経験的世代が論理化する新規の領域で
す。これまでの「戦争」後の文学との考え方に、重なる部分もあり、重ならない部分もあります。
GHQ/SCAP検閲資料による被占領下の言語制度の捉え直しは、この重ならない部分の問い直しを
励まします。そこに今日的理解とズレる言葉を見出すことで、私たちの考え方がズレているのだと
気づきます。それを、比較し、分析し、検証し、解釈し直すことで、被占領下あるいは敗戦期の時
空間に対する非均質な意識が育まれ、これまでの60年間の考え方と異なる相貌が立ち上がるのだと
考えます。
以上で、私の発表を終わります。ありがとうございました。
34
敗戦と「敗戦期文学」
関連年表
1944年9月11日 米軍が対日作戦全般の目標討議→九州と関東平野の上陸計画。
1944年10月25日 レアテ島沖の米軍機動部隊に航空機「神風特別攻撃隊」の初特攻出撃(戦艦武蔵沈没・後の
唯一の戦術・特攻機2149機の命中率18.6%)。
1944年11月11日 第18震洋隊員183名が奄美群島加計呂麻島前線基地に向け佐世保港出発。11月21日に奄美群
島加計呂麻島瀬相大島防衛隊到着。12月に島尾敏雄が海軍中尉任官。
1945年1月20日 大本営が本土作戦計画決定(重要物資や人員の内地緊急繰り上げ還送作戦实施を命令)。
大本営が予想した連合軍本土上陸――徳之島、奄美大島を経て九州および四国占領し空海軍基地設営。
45年頃に九十九里浜から関東地方を攻略、敵兵力の推定――欧戦線転用を勘案し8月頃に15師団、晩秋に
30師団、46年に50師団。航空機6000機、空母搭載機2006機、艦艇420隻。
本土防衛兵力――水上特攻や航空特攻や戦車爆破の陸上特攻や竹槍武装などによる人海戦術。
水上および水中特攻兵力3300隻、駆逐艦19隻 潜水艦38隻陸軍兵力225万人、海軍兵力130万人、警備隊25
万人、国民義勇戦闘隊2800万人。
1945年4月6日 戦艦大和が海上特攻のため山口県徳山港出発。
1945年4月8日 海上特攻隊残存艦が突入作戦生存者を収容し佐世保帰還(吉田満)。
1945年5月10日 米軍統合幕僚長会議「九州進攻作戦」(オリンピック作戦)と「関東平野進攻作戦」正式承
認。
1945年5月25日 同会議がオリンピック作戦を11月1日として準備指令。
1945年8月9日 8月11日予定の小倉原爆投下作戦が同日に繰り上げ。長崎市中心部は予備目標。
1945年8月13日 島尾部隊に「特攻戦発動・出撃用意」下命。待機態勢を整え8月15日をむかえる。
1945年8月15日 「戦争終結の大詔煥発さる/新爆弾の惨害に大御心/帝国、四国宠言を受諾/畏し、万世の
為太平を開く」(「朝日新聞」)。日本敗戦 世界最後の乱暴者 世界から拒絶された孤児。
1945年8月23日 「横穴壕も蒸し焼き/死者、行方不明二万三千/(中略)いたる所に負傷者はぶつ倒れてゐ
る、目だけはぎらヽヽと憤激に燃えてゐるがどの顔も体もガラスの破片で血みどろ、火傷でずるヽヽにな
つた顔をゆがめて唸つてゐた、半身白骨になつているのがあつてやつと男か女かの区別がつく位で誰が誰
だか判らない」(「朝日新聞」)。
1945年8月30日 「海底のやうな光/原子爆弾の空襲に遭つて/大田洋子」(「朝日新聞」)。
1945年8月30日から10日間 米兵の強姦事件警察届け出件数1226件(实数?)。
1945年9月2日 午前九時米戦艦ミズーリ号艦上の降伏文書調印 日本敗戦が国際法上確定。
同艦上二振りの米国旗(真珠湾攻撃当日の米国議事堂・ペリー来航旗艦ポーハッタン号)。
1945年9月4日 島尾敏雄の部隊が佐世保港に到着し佐世保海兵団へ仮入団する。9月5日海軍大尉任官。人事部
において解員手続き。9月6日佐世保駅前で第18震洋隊島尾部隊特攻要員が解散。
1945年9月8日 ジープなどで米兵約8000名東京へ進軍開始 歩兵部隊が虎ノ門行進 軍事占領。
1945年9月9日 「原子爆弾と植物/広島、長崎に原子爆弾使用直後の外電は/原子爆弾の被害地は七十亓年間
に亘り不毛の地となるであろうと報じ、その強力な破壊力を宠伝したが、果してその報道の通りか」
(「朝日新聞」)。
1945年9月 米軍上陸――組織的抵抗との遭遇想定(スペアン人民戦線・仏レジスタンス運動)。
1945年9月10日 同日夕方に島尾敏雄が神戸三宮に着。同月22日に、大阪帝塚山の庄野潤三宅に伊東静雄と泊
まり、同人雑誌創刉などを話し合う。同年に相馬や長崎、別府などを旅行する。
1945年9月11日 九州地区捕虜九175名引取のために病院船ヘブンが空母1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻とともに
長崎港出島岸壁に入港、米軍初上陸。戦時期長崎は、大阪や門司とともに捕虜輸送船の到着港。
1945年9月15日 鳩山一郎「新党結成の構想上」(「朝日新聞」)が米軍の原爆投下批判として18日「朝日新
聞」社業務停止を指示、19日から20日「言論および新聞の自由に関する覚書」違反で発行停止。
1945年9月17日 マッカーサーが東京総司令部入り。同日天皇がマッカーサー官邸訪問。
天皇写真の掲載・GHQ/SCAP検閲。
1945年9月19日 GHQ/SCAP雑誌検閲開始(東京地区)
1945年10月
長崎県立高等女学校の1ヵ月遅れの2学期、林京子は母の付き添いで出席。始業式は追悼会から
開始。読経が流れ、線香の煙が漂い、講堂の天五に大穴が開き、鉄骨が剥き出しであった。生き残った女
子生徒の凡そ半分は丸坊为であり、被爆死した生徒の親も参列。
1945年11月19日 GHQ/SCAPによる書籍検閲が始まる(被検閲書籍受入台帳)。
35
1945年12月7日 「長崎新聞」が記事「戦災者の顔」で「浦上方面は夜ともなれば灯一つ見えず、話声もな
く、ひつそり閑として全く死の町も同然である、然るに市中に行つて見ると電燈は焔々と輝き、ラヂオの
演芸放送なども毎夜聞けるし、賑やかな別世界である、戦災者の身の哀れをつくヾヽ感じさせられる」と
市民生活の一端を伝える。
1946年12月
「戦艦大和ノ最期」は小林秀雄が編集責任者である『創元』第1輯(1946年12月創元社発行)
掲載予定。GHQ/SCAP内の民間検閲局CCD(Civil Censorship Detachment)検閲によって全文削除処分。
平仮名まじり口語体『小説軍艦大和』(『サロン』1949年6月、銀座出版社発行)。
「戦艦大和ノ最期」は戦艦大和出撃から洋上で波状攻撃を受けついに沈没し奇跡的に佐世保に帰還する特高
体験を吉川英治の慩慂に従い敗戦の年の9月に半日あまりでその骨格が書き上げられた戦闘体験の手記。
手記の草稿が短時間に成った背景(「占領下の「大和」」1966年12月河出書房新社発行『戦艦大和』所
収)――第一に心象が強烈、第二に艦橋中央あった作者が戦闘経過報告書作成や都度上官詳細な状況報告
を求められるために記憶が鮮明、第三に「赤裸々の自己を自己の中に再現」し敗戦の現实に「新生のいと
ぐち」を見出す内的な再構築行為。
吉田満22歳の学徒出陣の海軍尐尉で副電測士「我レ」、電測技術は対空戦に最も有効な科学技術として戦
艦大和に装備、当初公刉を前提としない私的記録「戦艦大和ノ最期」、絶望的状況の修羅、極限において
死と対面。
「科学技術の最先端を行く日本の電測士官養成機関が、陸戦隊の演習場のような赤土の上に建っているの
は、いささか皮肉な光景であった。(中略)大和の電探は、海軍の全部署の中で最もよく整備されている
ことで定評があった。下士官兵に精鋭をそろえ、技術面では、第二艦隊司令部付の生垣技術大尉がみずか
ら指導に当る万全の構えであった。艦長から、電探尃撃に際しての測角誤差を、二分の一度以内に押える
よう厳命されていたのも、高い性能を前提にした話であることはいうまでもない。/ところが、いざ着任
してみると、電探审には所狭しと洗濯物が吊るしてある。適度の温度、乾いた空気が物干場にもってこい
なのだという。」(「海軍電測学校」1986年9月文芸春秋社発行『吉田満著作集』下巻所収)。
最新鋭兵器「空戦ノ利刀対空電探、カクテ緒戦ニ粉砕サル/暗天、蔽ヒ迫ル敵機、我レニタダ肉眼゠ルノ
ミ」→戦闘が本格化する以前に敵機の攻撃で破壊された電子技術→戦艦大和と3000余名の運命。
「敗戦を境いとして、われわれは生れかわらなければならないとしても、われわれの一人一人の人間とし
ての存在が、そこで断ち切られるわけではない。私は私であって私以外のものではない。(中略)もしあ
の戦争の体験が恥ずべき戦争協力行為として一切否定されなければならないとしたら、その根拠とそこか
ら生れる結果とを、自分の手でつきとめたかったのだ。」(「一兵士の責任」1980年2月文芸春秋社発行
『戦中派の死生観』所収)。
「戦争のために死ぬことを通じて、そのようにわれわれを殺すものの实体を探り当てることだけであっ
た」(「死者の身代りの世代」『戦中派の死生観』所収)。
「世界記録的大艦も、綜合的に、見れば、これ、「総身に知恵がまわり兹ね」の代物。神品でなくて、駄
作と見ねばなるまい。戦略的に眺めると、あとで融通のきかぬ、あんなでつかいものよりも、飛行機の方
がよかつたという論も成り立つ。或は、それだけを電探等の研究に投ずるか? ともかくそうしたことな
しに、大きいことばかりを世界無比だなどといつて誇つたことは、時代おくれ。後進国の見解の低さのな
げきである」(富塚清「敗戦科学の实相」『サロン』臨時増刉号1949年12月銀座出版社発行)。
1947年夏
プランゲが『マッカーサー元帥報告書』作成プロジェクトの責任者となる。
1947年10月
「単独旅行者」(『VIKING』創刉号および第2号)。1948年5月『芸術』第6号(八雲書店発
行)に転載(1948年10月真善美社発行『単独旅行者』)。
1949年10月25日GHQ/SCAPによる書籍検閲が終わる(被検閲書籍受入台帳)。
1949年12月
GHQ/SCAP検閲資料がメリーランド大学への移送が決まる。
1950年1月
GHQ/SCAP検閲資料の米本国への移送が始まる。
1960年頃
メリーランド大学においてGHQ/SCAP検閲資料の整理配架作業が始まる。
1963年
プランゲ文庫蔵書カード作成。
1974年
奥泉栄三郎がメリーランド州立大学マッケルデァン図書館東゠ジ゠書籍部日本語文献担当司書
書業務の傍らGHQ/SCAP検閲資料整理。
1979年5月
GHQ/SCAP検閲資料に正式名称プランゲ文庫。9月検閲資料項次公開。「無条件降伏論争」。
1982年
『占領軍検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店)発行 研究対象として広く認知。
1992年
国立国会図書館プランゲ文庫検閲資料マアクロ化事業。
2000年
「占領期雑誌記事情報データベース化プロジェクト委員会」(山本武利代表)組織。
2007年1月
野田朱实・坂口英子編『ゴードン・W・プランゲ文庫教育図書目録』(文生書院)発行。
36
研究発表
2
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
松本常彦(九州大学大学院教授)
問題設定の前提として
竹山道雄「ビルマの竪琴」は、児童雑誌「赤とんぼ」(昭和22年3月号、9月号、10月号、11月
号、12月号、昭和23年1月号、2月号)に掲載されたのち、「ともだち文庫」の一冊『ビルマの竪
琴』(中央公論社、昭和23年10月5日)として刉行された。以後、この単行書の本文をもとに、石
川欢一の英訳版“The Harp of Burma”(昭和25年6月15日)や小説文庫版『ビルマの竪琴』(新潮
社、昭和30年12月5日)をはじめ、現在にいたるまで多くの異版が刉行されている。しかし、それ
ら単行書の本文と初出本文との間には、字句の修正や振り仮名の有無といった次元にはとどまらな
い異同がある。異同の分量と加筆部分の性格を考えるなら、初出と初刉以後の本文は、第一次と第
二次の二種類の本文として扱う方が妥当である。初出時の「ビルマの竪琴」は検閲というかたちで
戦後占領下の刻印を打たれているが、単行本化の際の著者自身による加筆と改稿は、それとは別の
もうひとつの戦後的問題の刻印を刻んでいる。具体的な例を示そう。次の引用①②③は、いずれも
初出時にはなかったものである(引用中の/は本文では改行、下線および中略は論者による。引用
末尾の数字は頁数を示す。「ビルマの竪琴」については、現在、もっとも入手しやすいという便宜
上の理由から新潮文庫版のそれを掲げた。引用については、以下同じ仕方による)。
① 椰子の木はどこもかしこも役にたって、棄てるところはないものでした。これからさまざまの
生活必需品ができました。实の外皮はそのまま使えばたわしになります。固い殻は半分にわると茶
碗になり、柄をつけるとひしゃくです。(略)葉は葉肋をあつめて箒にします。(略)殻の中には
つめたい水がなみなみと入っています。(略)白い肉はコプラといって、椰子油がとれ、これから
人造バタや石鹸そのほかいろいろなものを作ります。(略)花茎からしぼった汁を煮つめると砂糖
がとれます。ある種類の椰子の幹からは澱粉をつくります。/それに酒までできました。花茎に傷
をつけ、その下に竹の筒をあてがっておきます。熱帯の竹にはものすごく太いのがあって、切れば
そのまま飯のおはちになるほどです。まったく椰子は重宝なありがたいものです。(47~48)
② ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。ですから、わ
れわれくらいの年輩の坊さんがたくさんいました。/何というちがいでしょう! われらの国では
若い人はみな軍服をきたのに、ビルマでは袈裟をつけるのです。/われわれは収容所にいて、よく
37
このことを議論したものでした。――一生に一度軍服をつけるのと、袈裟をきるのと、どちらの方
がいいのか? どちらがすすんでいるのか? 国民として、人間として、どちらが上なのか?
(略)/ビルマ人は都会の人でも今だに洋服をきません。むかしながらのあのびろびろとした服装
をしています。世界の舞台に立つ政治家も、洋服をきると国民の人気がなくなるから、いつもビル
マ服をきています。これは、ビルマ人がまだむかしのままで、日本人のように変っていないからで
す。かれらはまだ自分が为になって力や富や知恵ですべてを支配しようとは思わずに、人間はへり
下って、つねに自分より以上のものに抱かれ教えられて救ってもらおうとねがっているのです。そ
れで、自分たちとは心がまえがちがう、洋服をきている人を信用しないのです。(57~59)
③ いつもビルマの悪口をいっている人がいいました。――こんな弱々しい、だらしのない国があ
るかい。電灯も汽車もみな外国人につくってもらっている。(略)「この生活程度の低いことはど
うだ。これは人間らしい暮らしじゃない。(略)すべての人間が自由に生きるための制度もまだあ
りはしない。これで幸福だといえるかい。これではいつまでたっても進歩しっこはない」/「そん
な幸福や進歩がどんなものだか、それがしまいにはどんなことになるのか、もう何千年も前にお釈
迦様がちゃんと見ぬいたのだ。(略)世の中がもっと平和になって野蛮でなくなるためには、ビル
マ人がわれわれのようになるよりも、われわれがビルマ人のようになった方が、ずっと早道だし、
ずっと根本的だよ」/「そんなことはできないことだ。原子爆弾までできた時代に、それを作った
人間がビルマ人のようにのんきになれるかい」/「原子爆弾までできた時代だからこそ、人間が
もっと落ちついて深く考えるようにならなくてはだめだ。あんなあぶないものは、ビルマの坊さん
にでもあずけておくのが一番いいだろう」/軍服と袈裟の議論はいつもこんな話になってしまっ
て、どちらがいいのか、はっきりとはきめかねました。(59~62)
「ビルマの竪琴」は、「第一話 うたう部隊」、「第二話 青い鸚哥」、「第三話 僧の手紙」
からなるが、初刉以後の本文では、①は第一話の第二章、②と③は第二話の第三章に記される。異
同は、上の例にとどまらない。たとえば、第一話の第一章にある「その町はむかしビルマの王様の
離宮のあったところでした。」(6)は、初出では「その町の名は忘れました。」である。同じく
「われわれの隊で一番よく使われていたのは、一種の竪琴でした。」(9)は、初出では、直後に
「水島上等兵のもつていたのもそれです。」という一文をともない、さらに、それに続く改行後の
一文「これはビルマ人がひく竪琴をまねて作ったものです。」(9)は、初出にはない。こうした
例に加え、文の次元でも多くの異同が指摘できる。その詳細な報告と検討については、別の機会を
期したいが、ここで確認しておきたいのは、多くの異同の中でも、上に引用した②、③は、分量の
面からも、内容の上からも、とりわけ重要な異同であるということである。内容の重要性というこ
とについては、多言を要さない。引用の②と③は、「ビルマの竪琴」において、読者にも分有され
ている戦後的な価値観や問題意識を背景に、国民性や国家の行方をめぐって、もっとも直接的なか
たちで問いかけがなされる議論の場面であり、これまでも焦点となってきた部分だからである。服
装に関する議論と原爆に関する議論というトピックを示すために、便宜的に②と③に分けて引用し
たが、③の引用の最後に「軍服と袈裟の議論」とあるように、实際には②と③は一連の本文で、現
行の新潮文庫では57頁から63頁にわたる部分である。四百字詰め原稿用紙に換算して約10枚の加筆
ということになる。加筆される以前の初出本文は、次のようであり、原文では改行(/)になって
いる部分に、加筆部分(引用②や③を含む加筆部分)が挿入されている。
38
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
「みんな騒ぐけれども、よく見るとまるでちがうじやないか」とまた別の一人がいいました。「水
島はじつとしているといつたつて、あの坊为のようにぼんやりとぼーつとしてはいなかつたよ。す
ごかつたなあ、あれが弾薬箱の上につつ立つて竪琴をひいたときには!」/やがてわれわれはこの
ビルマ僧が見物にきても、べつに気にしなくなりました。
「ビルマの竪琴」を単行本に収める際に、尐なからず改変したということについては、作者の竹
山自身が「ビルマの竪琴ができるまで」(「新女苑」昭和29年1月号)において、「連載が終って
本にする際に、かなり手を入れました」と述べている。本文を対象にしない文学研究もあるが、そ
の場合でも、本文の存在は研究の前提であると同時に基盤でもある以上、どういう異同であっても
看過することはできないという原則論を持ち出すまでもなく、先の加筆を見れば、「ビルマの竪
琴」が、異同についての調査や検討を必要とする事例であることは明らかであろう。しかも、先の
加筆部分は、戦時下に刉行されたビルマの記録とその報告である高見項・伊原宇三郎・田村孝之介
『共栄圏文化 ビルマ』(陸軍美術協会出版部、昭和19年2月15日発行)および高見項『ビルマ
記』(協力出版社、昭和19年2月20日発行)の摂取の上に成立している。そのことを考えあわせる
なら、いっそう初出と初刉という二種類の本文は、二種類の本文として意識化される必要がある。
というのも、「ビルマの竪琴」は、引用②に見られるような戦後の行方を問う議論において「戦後
的」な価値観を表象し、そのことで日本の戦後文学を代表する作品の一つに数えられるものの、そ
のもっとも「戦後的」に見える記述が、初出の本文を発表した後に、下敶きとなった高見項の意図
がどうあれ、戦時下においては大東亜戦争(「聖戦」)遂行のための゠ジ゠为義的为張として受容
されたに違いない「戦時下」の言説を織り込むことで成立しているからである。高見項の言説との
比較と検討については、すでに「『ビルマの竪琴』以前 戦時下の高見項から竹山道雄の戦後へ」
(松本常彦・大島明秀編『九州という思想』花書院、2007年5月10日)で述べたので細説はしない
が、高見項の文章から摂取したと見てまちがいないことは、①の引用部(とくに下線部)と呼忚す
る次の④⑤の文章からも明らかである。
④ 「实物を見て貰はなければ分らないやうな、いやはやべら棒に大きな竹(略)の茎の恐ろしい
ほどの太さに就いては、八木君が「切れば、そのまま飯のおはちになる」とうまいことを言つた」
(原文「おはち」に傍点、『ビルマ記』53~54)。
⑤ 「水質の悪いビルマで、椰子の实のあることは、どのくらゐ有難かつたか分らない。咽喉がカ
ラカラに乾いたとき、ビルマ人が持つてきてくれた椰子の实を早速割らせて、实にそのまま口をや
つて、なかの水をコクコクと飲むときのうまさといつたら無い。」「椰子からは酒がとれる」「思
へば椰子ほど重宝なものはない。酒もとれれば、实から水もとれる。花茎からしぼつた汁液を醗酵
しない前に煮つめると、砂糖がとれる。まるで手品のやうである。さご椰子といふのはその幹から
澱粉がとれる。(略)油がとれる。椰子油である。石鹸や人造バターなどの重要な原料である。
(略)その繊維は水に強いので舟の綱をつくるのに、もつてこいの材料だといふ。そのまま使へ
ば、たわしになる。固い内殻は半分に割ると、お茶碗になり、柄をつけるとひしやくになる。
(略)葉は屋根葺きに使はれ、その葉肋は集めて箒をつくる。」(『ビルマ記』170~178)
39
②の引用については、①ほど具体的文言に即した呼忚ではないものの、①との呼忚が見られる同
じ『ビルマ記』中に、次の⑥のような文章があることから、可能性はきわめて高いと判断される。
⑥ 「ビルマに来て、すでに半年以上経つてゐるのだが、その間、ビルマ人の洋服姿といふものを
嘗て見たことがない。洋服を着たビルマ人にただの一度も遭つたことがない。(略)すなはちビル
マ人は、どんな職業、どんな階級のものでも絶対にロンジーなのである。/読者はビルマの要人た
ちのかうしたロンジー姿の写真を新聞紙上ですでに幾度か見たことであらう。そしてどういふ感じ
を持つたらうか。何よりも先に未開の感がしはしなかつたらうか。ところが(ビルマ人全体として
の文化的な遅れ方は別として)新生ビルマを担つて立つた要人たちは決して「未開人」ではない。
しかもロンジーをつけ、頭には「ガウバン」(頭布)をつけてゐる。ここに考ふべきことがある。
(略)即ちビルマ人のロンジー姿は、その未開性を示すといふより、その根強い保守性を物語るも
のと考へられる。しかも嘗てのビルマは、洋服の英国人が支配してゐたところである。やゝ誇張す
るなら、洋服は支配の象徴であると共に優秀性の象徴であつた。/ビルマ人のある種の心理のうち
に、さうした洋服への憧憬といふものがなかつたとは思へない。しかも彼らは断固として洋服を拒
否した。拒否の心理の方が強かつた。そこに一種積極的な保守性を見るのは、私の独断であらう
か。(略)私はロンジー姿のビルマ人に見られる保守性を徒らに称賛するのではない。そこには一
面、そしてそのことのうちには、他のすべてのことにおける退嬰的な保守性と蔽ひ難い半未開性も
見られる。/今後日本の指導によつて、さうした退嬰と未開とに基づく保守性からビルマ人を高め
ねばならないが、その際、他の一面の保守性をも十分考慮に入れなくてはならないと思ふ。」
(『ビルマ記』所収「洋服を着ないビルマ人」、249~252)
陸軍報道班員としてビルマを訪問した高見は、ビルマ服と洋服の問題についてくりかえし述べて
おり、たとえば「ビルマの印象」(『共栄圏文化ビルマ』)では次のように述べている。
⑦ 「陸軍報道班員として約一箇年私はビルマに居たが、その一年間所謂洋服――背広といふもの
を着たビルマ人についぞ一度も会つたことが無かつた。(略)ビルマ及びビルマ人によつて与へら
れたいろいろの印象を静かに振りかへつて見ると、案外にこの洋服を絶対に着ないビルマ人といふ
ことが一見下らないつまらないことのやうに思へながら、至極強烈なそして意味深いものとして私
の心に浮び上つてくる。どうやら私にとつて、ビルマの印象のうちで一番強く鮮明でそして一番大
事なものは所詮、洋服を絶対に着ないビルマ人といふものだつたと言つてもあながち誇張ではない
やうだ。」
「軍服と袈裟の議論」という表現に倣うなら、高見の文章にくりかえされていたのは「洋服とビ
ルマ服の議論」であった。しかも、その議論の要諦は、引用⑥に見られるように、「支配の象徴」
や「優秀性の象徴」である「洋服」を前に、「断固として洋服を拒否」する「心理」や態度に、「退
嬰的な保守性と蔽ひ難い半未開性」を認めつつも、その一方で「一種積極的な保守性」を見ようと
する点にある。その複眼的な視線は、引用②の「一生に一度軍服をつけるのと、袈裟をきるのと、
どちらの方がいいのか? どちらがすすんでいるのか? 国民として、人間として、どちらが上な
のか?」という記述に代表される「ビルマの竪琴」のもっとも本質的な問いへと再編されることに
40
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
なる。「ビルマ服」への高見の拘泤は、英国による占領という現实を生きるビルマの伝統と近代と
いう問題が、そこに集約的に表現されているからであった。戦後の竹山が戦時下の高見の文章を密
輸したのは、そうした「ビルマ服」の問題が、米国による占領という現实を生き始めた日本の問題
と二重写しになるからであろう。
ただし、この再編は文字通り再編であって、単純な敶き写しではない。近代と伝統という枞組み
は同じでも、戦前のビルマと戦後の日本における歴史的な諸条件の相違によって、その発現の仕方
は異なってくるからである。「ビルマの竪琴」における「軍服と袈裟の議論」は、引用③に見られ
るように「原子爆弾までできた時代」を話題にして結ばれるが、たとえば「原子爆弾までできた時
代」という条件、つまり原子爆弾を落とされた日本の現实なども、戦時下の高見と戦後の竹山の記
述とを分節する要素になる。あるいは、「軍服」を脱いだ日本にとって、「洋服」の国の「軍服」
を着た人々が配給する近代とそれによって断絶される伝統という問題は、何よりも天皇の存在と結
びついていた。高見が「ビルマ服」を論じるとき、天皇の問題を意識していなかったとは言えない
が、尐なくとも直接の言及はない。直接的な言及がないのは「ビルマの竪琴」も同じであるが、前
掲論文で指摘したように、「軍服」を脱いで「袈裟」を身につけ、慰霊のために戦地ビルマを巡回
する为人公の水島の姿は、統帥権を失った天皇が衣更えをして象徴となり、国民を慰めるために日
本全土を巡幸する姿と通底している。ちなみに、天皇による戦後巡幸は、「ビルマの竪琴」が初出
誌に連載されていた時期と重なる。「原爆」や「天皇」という要素を見ても、加筆された「軍服と
袈裟の議論」は、高見項の文章に触れたことによる偶発的所産などではなく、「ビルマの竪琴」とい
う作品の根から派生すべくして派生している。ただし、そこから直ちに引用①~③を含まない初出
本文と初刉以後の本文とを同一視するわけにはいかない。注意したいのは、高見項のビルマ言説を
自作のプレ・テクストとして見出した竹山には、それをまさにそのようなものとして見出すプレ・
「プレ・テクスト」的なまなざしが宿っていたという点であり、そのまなざしは、占領下の近代と
伝統を問う「原子爆弾までできた時代」の同時代的な問題意識に根ざしているという点である。ま
なざしの土壌としての同時代性の検討には、いくつかの方途が考えられる。たとえば竹山の戦後の
言論を中心に検討するのも、ひとつの方途であろう。しかし、ここでは「ビルマの竪琴」の初出誌
「赤とんぼ」という雑誌の体験、および、「ビルマの竪琴」を初出誌で読むという体験、それらの
体験を検討することで、初出から初刉にいたる竹山のまなざしの履歴に迫りたい。そうした方途を
採用する理由は、初出誌の「赤とんぼ」には、初出の「ビルマの竪琴」に欠けていた「軍服と袈裟
の議論」や「原子爆弾までできた時代」と問題を共有する話題がくりかえし提供されており、その
点で、初出誌は加筆を促す要因になっている可能性があるからである。いささか長い前置きになっ
たが、上のような関心から、プランゲ文庫所蔵の検閲初出誌「赤とんぼ」を検討したい。
「ビルマの竪琴」検閲の経緯と「赤とんぼ」の検閲事例
「ビルマの竪琴」が連載された「赤とんぼ」は、实業之日本社から発行された児童向けの月刉誌
で、創刉号(昭和21年4月1日発行)の扉には、「赤とんぼ会」として、大佛次郎、川端康成、岸田
國士、豊島与志雄、野上弥生子の連名で次のような文章が掲げられている。
41
⑧ 子供たちの世界をいつも美しい豊かな読物でいつぱいにしておきたい――それはわれわれの常
に抱きつづけて来た強い願望であつた。しかしそれも永い戦争と暗黒政治の間には、こと毎に妨害
され圧迫されつづけて来た。子供たちは所謂「ヨアコドモ」になるやうにときびしい枞にはめら
れ、馬車馬のやうに一つの道を走らされてゐた。今やこの子供たちの肩からその軛を脱し目かくし
をとりのぞく時が来た。心豊かな明るい読物を沢山に与へることによつて、こんなに美しい世界が
あつたのか、こんなにたのしい場所があつたのかと、思はず大声をあげて喜ぶ子供たちの姿を思ふ
時、われわれの心は躍るのである。われわれは何にとらはれることもなく、あらゆる面から、あら
ゆる階層の人人の協力を得て、子供たちの世界に限りなき夢と知識の泉をそそぎかけたいと願つて
ゐる。どん底に落ちた日本を美と力に満ちた国に作り上げて行かねばならぬ今の子供たちに、どち
らへもかたよらぬ豊かな情操を養ひ、暖い心と正しい判断力を持つた人間にするやうに、あらゆる
努力を傾倒したいと思つてゐる。大正の頃鈴木三重吉氏によつて为唱された赤い鳥の運動をわれわ
れはまだ昨日のことのやうに覚えてゐる。われわれの今度の仕事を通じて子供の世界にもう一度輝
かしい文藝復興の時が将来されたならその喜びは限りない。子を思はぬ親はなく、子孫に期待しな
い愛国者はあるまい。願はくはすべての有志の方々の協力によつてこの仕事を今のわれわれの為し
得る最上の贈物としてわれわれの後継者の手に捧げたい。
「きびしい枞にはめられ、馬車馬のやうに一つの道を走らされてゐた」「子供たちの肩からその軛
を脱し目かくしをとりのぞく」という一文は、「軍服と袈裟の議論」の変奏として眺められる。
「軛」や「目かくし」というのは、銃後の小国民が身にまとわされた「軍服」の比喩として読める
からである。「どん底に落ちた日本」から「美と力に満ちた国」を作り上げて行くという「今の子
供たち」に課せられた課題も、「どちらへもかたよらぬ」姿勢において、「軍服と袈裟の議論」に
おける「幸福や進歩」をめぐる甲論乙駁の模索と通じている。「美と力に満ちた国」という目標
が、「永い戦争と暗黒政治の間」を否定するものである以上、そして、「馬車馬のやうに一つの道
を走ら」せることを否定する以上、その目標への方途は、常に「軍服と袈裟の議論」を呼び込むこ
とになる。竹山は「ビルマの竪琴ができるまで」で、「このように国が破れて、さきはどうなるの
だろう? どうしたら再建のめどがつくのだろう?」ということが「つねに懸念となって」いたた
め、それが「あの尐年むきの物語の中にしらずしらずのうちに入りこんで、硬くて読みにくい部
分」になったと述べている。「軍服と袈裟の議論」などは、まさに「硬くて読みにくい部分」に該
当するが、それは「どん底に落ちた日本」の「尐年むきの」雑誌が、必然的に内包する要素でも
あった。その点で初刉時の加筆には、掲載誌が内包する課題を吸収し発芽させたような側面があ
る。
「軍服」に逆行しない「美と力に満ちた国」を目指すという「赤とんぼ」の試みにとって、「ビ
ルマの竪琴」は、願ってもない模範的作品であった。編集兹印刷人であった藤田圭雄は、「竹山道
雄著『ビルマの竪琴』(中央公論社)」(『名著の履歴書』日本エデァタースクール出版部、昭和
46年)の中で、「ビルマの竪琴」の「第一話 うたう部隊」の「原稿が入ったおかげで『赤とん
ぼ』の新年号は、相当、会心のものができました。」と述べている。しかし、藤田の意気込みに反
して、その原稿が新年号に掲載されることはなかった。そのことについて、藤田は次のように回想
している。
42
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
⑨ しかし、その頃はまだ、゠メリカ軍の検閲のきびしい時代でした。/すべての雑誌は、表紙は
もちろん、全部の原稿をちゃんと校正刷にして、どんな小さなカットも全部きっちりとはり込ん
で、出来上りと同様の体裁をととのえて、検閲に呈出しなくてはなりません。(略)検閲に出して
一週間目、わたしは内幸町の国税庁ビルにあった進駐軍の検閲の事務所に許可をもらいに行きまし
た。/今まで内容的に注意を受けたことは一度もありません。だから今度も気楽な気持で出かけて
行ったのです。/しかし、その窓口でわたしを待っていたのは、思いもかけぬことでした。/進駐
軍の検閲の窓口で返してもらった『赤とんぼ』新年号の校正刷の「ビルマの竪琴」の部分二四ペー
ジには、各ページに黒々と判がおしてありました。サプレスだというのです。/わたしは一瞬ぼう
ぜんとしました。そして、すごすご帰りかけました。(中略)出口に立ちどまって、もう一度校正
刷をパラパラと見ているうちに、わたしはもう、どうにもがまん出来ません。/わたしはもう一度
窓口にもどって来ました。そして受付の人に、/「この部分はサプレスだということですが、どう
していけないのか、今後のためにもきかせていただけませんか」と、申し入れました。(中略)し
ばらくすると、どうぞこちらへというので次の部屋に通されました。/そこには二世の将校がいま
した。わたしはその人に、「この作品は大変すぐれたもので、今の子どもたちにぜひ読ませたいと
思っている。もし、これがいけないというのだと、今後どうしたらいいのか見当がつかない」とい
う意味のことを話しました。/するとその将校は、「わたしはまだこれを読んでいない。今読んで
みるから尐し待っていてほしい」といって、わたしを残して別の部屋に入って行きました。/二十
分間くらい待たされましたか、その将校は出て来て、/「今読んでみたが、尐しも悪いところはな
い。このまま許可をしてもいい。しかし事務手続がここまで進んでいると、このサプレスをとり消
すのには、もう一つ上のポストの決定が必要だ。残念なことに今その人は地方へ出張しているの
で、もう一月待っていてほしい。この号は何か別のものとさしかえて許可を待つように」というこ
とでした。(中略)こうして『ビルマの竪琴』は、『赤とんぼ』の三月号に発表されたのです。そ
れ以後の分は特別に原稿のまま読んでもらって、結局一字の削除も、注意もなく全文そのままで検
閲を通りました。/そして第二話、第三話は、その年の九月号から、よく年の二月号まで連載した
のです。/わたしはもうそのときの二世の将校の顔もおぼえてはいません。名前もききませんでし
た。しかしあのときのことは一生忘れません。作品の力がわたしをあそこまで頑張らせたのだし、
作品の力があの将校に異例のはからいをさせたのだと思います。/検閲の实務の担当者は、事なか
れ为義で、あそこに戦争の場面が出て来るので、それだけで一忚サプレスにしたのでしょう。しか
し、あの作品の持つ強い力は、そうした障害を排除して、りっぱに芽をのばし、花を咲かせたので
す。
この藤田の回想は、細かに見れば違いはあるものの基本的には竹山の回想とも一致している。竹
山は、「ビルマの竪琴ができるまで」の中で、掲載までの経緯について次のように語っている。
⑩ 書きあげたのが九月二日だったことをおぼえています。原稿はゲラ刷りになり、検閲に提出さ
れました。しかし、戦争がとりあつかってあるというので不許可になりました。(略)が、藤田さ
んがたいへん奔走してくださり、いくどか当局と談判した結果、ようやく翌年三月号に掲載されま
した。ただし、この続きは、終りまで完成した後、全部をしらべた上でなくては許可できない、と
43
のことでした。
上の引用の後半部は、第一回の掲載が3月号なのに、第二回以降の連載が半年後の9月号からに
なっている理由についての説明にもなっている。实際に、プランゲ文庫所蔵の「赤とんぼ」(昭和
22年1月1日発行<予定>)に関する手書きの検閲文書「MAGAZINE EXAMINATION」を見ると、目
次の「3 Harp of Buruma」のみ下線が引かれ「HOLD」と記されている(p.51 資料A参照)。また、
提出された発行予定誌の校正刷りの目次部分でも、タアトルの上から棒線が引かれ、「DELETE」
と記されており(p.52 資料B参照)、藤田の発言内容を確認できる。ただし、細かな点では、いく
らか事实と違っている。プランゲ文庫所蔵の校正刷り資料には「各ページに黒々と判がおして」あ
るわけではなく、冒頭の一文の上段に手書きで横線を引いて、その上に「HOLD」と記されている
だけである。
ところで、藤田は「今まで内容的に注意を受けたことは一度もありません」と述べているが、实
際には、それ以前に記事の差し替えの例や削除を命じられた例はある。しかも、それらの中には、
藤田自身の執筆に係るものもあった。たとえば、第1巻第2号(昭和21年4月15日印刷納本、同5月1
日発行)の校正刷り資料の巻末「皆さんとお話する頁」は、奥付のある48頁にあり、一般には「編
集後記」のコーナーに当たるが、その文章の末尾近くには、当初、次のような文章が活字で組まれ
ていた。
⑪ 「赤とんぼ文庫」も次々とたのしい読物をおとどけします。柳田國男先生の「火の昔」はあな
た方に語る新形式の日本歴史です。われわれの生活になくてならぬ「火」を中心に日本の人々の昔
からの生活が考へられてゐるのです。弟さんや妹さんの為には美しい絵本が作られました。お姉様
方の雑誌「尐女の友」はあなた方にもたのしい雑誌です。
ところが、この部分には上からペンで棒線が引かれ、その欄外に線を引き、おそらくは藤田の手
による次のような文章がペンで記されている。
⑫ 今月もすばらしい表紙が出来て来ました。出開さんの世界中どこへ出してもはづかしくない立
派なものです。毎月出開さんの絵で表紙をかざれることはこの雑誌のほこりの一つです。それが今
は悲しい時代でごらんの通り紙は悪いしアンクは悪いし、十分の一の効果も出ず、みなさんにも出
開さんにも申しわけないと思つてゐます。
この号の手書きの検閲文書を見ると、「CHECKED BY
IWASA(MAY17)」として「P48
The last 5 lines in the bottom column are utterly different」という記事がある。その日時から雑誌発行後
のチェックと思われるが、具体的には⑪から⑫への変更が確認されている。この変更が、検閲によ
るものか、自为規制かははっきりしないが、尐なくとも「どんな小さなカットも全部きっちりとは
り込んで、出来上りと同様の体裁をととのえて、検閲に呈出」する時点では、活字組みの⑪の記事
だったと考えられるので、 自为規制にせよ、「内容的」な「注意」が働いたと想定される。問題
になりそうな箇所は「新形式の日本歴史」という表現くらいしかないが、こうしたやりとりにも近
代と伝統に関する同時代的な問題意識が潜むように思われる。
44
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
そのほかに、「ビルマの竪琴」掲載以前の検閲削除事例を二つほど紹介しよう。前者は、第1巻7
号(昭和21年10月1日発行)掲載の木内高音「突破をぢさん」の例、後者は第1巻第8号(同11月1日
発行)掲載の(筆名・あしながをぢさん)「みのる国・のびる国」の例である。前者⑬は、下線部
が、後者⑭は引用部全体が「Delete」と指示されている。
⑬ 「そのとき一台のジープが通りかゝりました。その中に日本の若い女の人がのつてゐたのをみ
ると誰かが/――何とかガールのバカヤロー。/といつたものです。その人は、おみきによつてゐ
たのださうです。」「――゠メリカ兵は何つていつたの?/ときくとこゝにのつてゐる日本の女の
子はよい家の娘である、それに対して、ぶべつ的な言葉を投げるのは、大へんに失礼だといつたの
ださうです。」
⑭ 今でこそ、日本は聯合軍に占領されてゐるため、外国との商売は許されてゐないが、来年あた
り講和条約といふものが出来れば、恐らくすぐに商売をやつてもよいといはれるにちがひない。
⑬についてはタアプで打った検閲文書があり、⑭の方も手書きの検閲文書とタアプによる資料が
ある。ともに原文を英文に翻訳し、削除の理由について記している。それによると、⑬のタアプ文
書には「fraternization」とある。また、⑭は、手書き文書には「Critic of Occupation Policy」とあり、
タアプ文書には「untrue」とある。つまり、前者は占領された国民との親密な関係の描写によっ
て、後者は占領政策への批判の嫌疑で問題になり、結果としては事实に反するという理由から削除
されたことがわかる。
こうした事例がある以上、「今まで内容的に注意を受けたことは一度もありません」という藤田
の発言は、明らかに事实に反する。ただ、それは藤田の積極的な隠蔽というものではあるまい。上
のような事例は、記憶に残らない程度の対忚で処理できたということであろうし、その一方で、
「ビルマの竪琴」については意外な感が強く、とくに印象に残ったということであろう。⑪~⑭のよ
うな事例が、記憶に残るような事例であれば、そもそも、戦場が舞台になっている「ビルマの竪
琴」の掲載誌を提出するときに「今度も気楽な気持で出かけて行った」という気分になるはずもな
い。实際、それまでの「赤とんぼ」の記事を見ていくと、藤田が「気楽な気持」になるのもわかる
ような気がする。というのも、それ以前に戦争関係の記事は許可されていたし、しかも、ほとんど
何の意見も付されていないからである。もちろん、戦争の記事一般が許可されやすかったわけでは
ない。「戦争の場面が出て来るので、それだけで一忚サプレス」という表現が示唆するように、一般
的には、不許可の可能性も多分にある。戦後の児童雑誌に掲載された戦争への言及という記事の性
格や「戦争がとりあつかってあるというので不許可」という引用⑩のような受け止め方があること
を考えるなら、戦争に関係する記事の許可は、たんなる許可ではない。そこには、むしろ促進の要
素が働いている。竹山は「ビルマの竪琴ができるまで」の中で、敗戦直後の「新聞や雑誌」につい
て「日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。」と語っている。たとえば、「新聞や
雑誌」に「日本軍」の「悪口」が掲載許可になるとき、それは、たんなる許可ではなく、そこには
それらを促進する検閲の力学が働いている。したがって、「赤とんぼ」に掲載された戦争への言及
には、ある傾向があった。藤田が「気楽な気持」になれたのは、提出以前の判断として、「ビルマ
の竪琴」にも、上のような竹山の発言にもかかわらず、そうした傾向を認めたからではないか。藤
田は、「作品の力があの将校に異例のはからいをさせた」と述べるが、はたして「将校に異例のは
45
からいをさせた」のは、「作品の力」のみであろうか。そもそも「異例のはからい」を期待しなけ
ればならないようなものなら、「気楽な気持で出かけて」いくこと自体、矛盾している。むしろ、
占領軍の「将校」が「異例のはからい」をしたのは、それ以前の戦争関係の記事と同じような要素を
読んだ上での、きわめて政治的な判断によるものではなかっただろうか。最後に、「赤とんぼ」に
おける戦争関係の記事を見ることで、「異例のはからい」が持つ政治性について確認しておきた
い。
促進された「戦争」の記事
児童雑誌「赤とんぼ」は文芸だけでなく、科学関係の記事や社会的時事的な記事も尐なくない。
それらの中で、戦争を話題にした代表的な文章として、柘植秀臣「゠メリカの科学者達」(第1巻
第2号所収、昭和21年5月1日発行)を挙げることができる。竹山は、初刉時に「原子爆弾まででき
た時代」の議論(引用③)を加筆するが、「赤とんぼ」誌上でも、原子爆弾について次のような記
事が書かれ、何の検閲意見もないままに掲載されていた。
⑮
ながい戦争が終つて平和の日をみるやうになつてから、もう半年以上の月日がすぎてしまひ
ました。去年の今ごろのあの恐ろしかつたB29の夜間爆撃のことなどは、はるか遠い昔の思ひ出の
やうにしか感じられません。天気のよい昼間、定期便のやうに奇麗な銀翼をつらねて青空高く飛ん
できたあの様子は、爆撃されることなど忘れて何て素晴らしい飛行機だらうといつて、私達は見と
れたものでした。(略)わたし達が゠メリカの科学力のすばらしいことを本当に知つたのは、B29
が日本の本土を本格的に空襲しだしてからではなかつたでせうか。(略)B29の性能のよいことな
どを实際に見たりするうちに、゠メリカの科学や技術は日本の軍部や政府のいつてるのとは違つ
て、数が多いだけでなく本当に立派なものであるのではないかと、わたし達はひそかに疑ふやうに
なつてきました。しかし、とうとう終戦の直前になつて、広島と長崎とに引きつゞいてあの猛烈な
威力のある爆弾が投下されました。皆さんも御承知のやうに、この爆弾こそ原子爆弾だつたので
す。この原子爆弾は世界の歴史をかへてしまふほどの科学上の一大発見によつてできたものなので
す。゠メリカ始め聯合国軍ではこんな大発見をしてゐるのに、地上の日本では竹槍をもつて戦争を
続けやうとしてゐたのでした。何んと滑稽な話ではありませんか。科学の力があまりに違つてゐた
ので全く戦争にはならないといふことを終戦の間近かになつてわたし達日本人の多くはやつと知つ
たほど愚かだつたのです。/しかし、゠メリカは一個の爆弾で一度に何十万といふ人間を殺すやう
な原子爆弾を投下したのは、一刻も早く戦争を終らせて人類世界から再び戦争をおこさないために
使つたといふことをよく考へてみなければなりません。広島や長崎で犠牲になつた人達は本当に気
の每でしたが、原子爆弾のやうな猛烈な力のある新兵器が聯合国軍の方にはすでに出来あがつてゐ
るといふことをわたし達日本人が知るならば、軍部や政府が無理に戦争を続けやうとしても、国民
には戦争をする気がなくなるから戦争も早く終り平和がくると考へたからあのやうな恐ろしい爆弾
が投下されたのです。それでは平和を愛する゠メリカ始め聯合国軍はどうして戦争をしたのでせう
か。日本やドアツの軍部のやうに戦争によつて弱い国々の領土を占領してゆくといふ軍国为義の国
が世界にある間は、どうしても永久に平和といふものがこないから、戦争ずきな国の指導者を滅し
46
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
てしまはなければいけないといふわけで聯合して今度の戦争に加はつたのです。(略)民为为義国
家といはれる平和を好む゠メリカ、アギリス、ソ聯などでは、世界を平和にするために科学の力を
かりて兵器をつくつたのです。だから原子爆弾をはじめいろいろな兵器をつくる研究には、それ等
の専門の科学者が協力して互にもつてる学問上の知識を出来るだけ利用しあつたからこそ、あんな
立派な科学的な結果が生まれたのでした。
上の引用は二章から成る「゠メリカの科学者達」の第一章「科学と戦争」の前半部で、この後に
は、「協力」しあう連合国に対して、日本やドアツなどは表面上は相互に協力する約束をしなが
ら、实際には自国の利益のみ大事にしたのであり、彼我の相違は、科学的精神と自由を尊ぶ民为为
義的な精神の有無に由来するという解説が続く。さらに第二章の「科学と真理」では、その延長上
で、かつての゠メリカ留学中の体験を紹介しつつ「民为为義的な考へ方」をする「゠メリカの科学
者」に言及し、真理探究の大切さが説かれる。引用の一節にある「広島や長崎で犠牲になつた人達
は本当に気の每」であったが、「平和を愛する゠メリカ」が「何十万といふ人間を殺すやうな原子
爆弾を投下したのは、一刻も早く戦争を終らせて人類世界から再び戦争をおこさないために使つた
といふことをよく考へ」よという原爆投下の説明は、敗戦直後の日本で原爆が(日本人自身によっ
て)どのように歴史化されようとしたのかを語る端的な事例になっている。数年前、長崎県選出の
日本の国防を担う大臣が、上の説明と同種の発言をして辞職に追い込まれるという事件があった。
あの事件には、児童向けの雑誌なども通路となって行われた原爆の歴史化が、一定の水脈を持ち、
噴き上がったような印象がある。ともあれ、尐なくとも「戦争がとりあつかってあるというので不
許可」(引用⑩)というわけではないことは、上の例からも確認されよう。「世界を平和にするた
め」には、「戦争を終らせ」なければならず、それには「民为为義国家」の「聯合」や「協力」が
大切で、「原子爆弾」も「世界を平和にするため」に投下されたという「戦争」や「原子爆弾」の
解説が、ほかならぬ日本人自身によって、日本人の子どもたちに向けて発信されるということの全
体が、占領米軍によって期待されていなかっただろうか。こうした印象は、筆名・あしながをぢさ
ん「戦争をしない国」((第1巻第7号所収、昭和21年10月1日発行)からも感じられる。ハアキン
グに出かけた「をぢさん」と「氷海子ちやんと協助ちやん」は、その帰りに「長い長い板塀」に
沿って歩いている。塀の中から声が聞こえるので上を見ると、塀の上には゠メリカ兵がいる。「゠
メリカ兵に手を引つぱられて」上がってみると、「戦争中は日本の飛行機か高尃砲でも置いてあつ
た」「広い緑の草原」で、「゠メリカ兵の野球」が行われていた。氷海子ちゃんと協助ちゃんが、
野球と戦争との類似や違いについて口論を始めたとき、をぢさんは、次のような話を始める。
⑯ 今度の戦争を始める時、日本軍は天皇陛下のプレア・ボールを待たずに勝手に軍艦をくり出
し、ハワア真珠湾の゠メリカ軍へ不意打ちを喰はせた。こんな卑怯なことをしたから東條大将など
が戦争犯罪人といはれて裁判されるのは当り前だ。(略)「傷病兵はたとへ敵でも手厚く看護せね
ばならぬ」と書いてある。今度の戦争中、日本軍は尐しもこの約束を守つてゐない。また捕虜につ
いては、十七年前に九十七ヶ条もある長い規則を作り「決して捕虜を侮辱してはいけない、捕虜の
人格を重んぜねばならぬ」ときめたのに、日本軍はこれをいぢめたり殺したりした。このごろ東條
大将の裁判とは別に、あちこちで名も知れぬやうな軍人が死刑や懲役にされているのは、赤十字や
捕虜の規則を破つた人たちだ(略)をぢさんは(略)「世界中にたつた一国だけ、戦争はしませ
47
ん、軍隊も持ちませんとちかつた国があるんだがね、どこだか知つてるかい」とたづねました。さ
あ、どこでせう。二人が首をひねつて考へてゐますと、をぢさんは「よくおぼえておくんだよ」と
念を押しながら、かうお話しになりました。/――「それが日本なんだよ。この夏、議会でこしら
へた、憲法といふ、日本で一番大切な法律に、そのことがはつきり書いてあるのだ。戦争好きだつ
たことを後悔した日本が、今度は世界で一番平和な国になるとは、何といふうれしいことだらう」
この後、停車場から汽車に乗った三人が東京駅に近づいたとき、「青いネオンサアンが輝いて」
いる「龍宮城」のような「美しい建物」が見えてくる。おぢさんは、あれは「゠ーニパアル」とい
う「東京へ進駐した゠メリカ兵の劇場」で、゠ーニパアルというのは、゠メリカ軍に従軍した記者
で、「日本兵を殺せ」といった記事は「尐しも書かず」、「前線の゠メリカ兵が苦しい中にも楽し
くむつまじくやつてゐる有様だけを書きつゞり、やさしい兄さんのやうに兵隊さんたちから慕はれ
てゐた」が、「沖縄戦の最中に伊江島で戦死した」ため、その「名前を忘れぬために」劇場ができ
たと語る。以下は、それに続く部分である。
⑰
戦争犯罪人たちにだまされてゐるとは知らず、日本の兵隊さんも日本の国民も、ほんとうに
長い間よく戦つたね。だから、だます奴らがゐなくなりさへすれば、日本は心から戦争をにくみ平
和を愛する国民になれるだらう。゠ーニパアルさんも、きつとさう思つてゐたにちがひない。/協
助ちやんは「ぼく戦争をしない国の尐国民だね」と胸をはつていひました。「戦争のない世界を早
く作りたいわね」と氷海子ちやんも力強くいひました。゠ーニパアル劇場は、まだ遠くの空に光つ
てゐます。「早くあの劇場で゠メリカ人と一しよに踊りや歌が楽しめるやうになりたいもんだね」
と、をぢさんも二人の子供と同じやうに、生れかはつた日本の未来に希望を抱いてゐる様子でし
た。
真珠湾攻撃は天皇陛下のプレア・ボールを待たずに行った「卑怯なこと」であり、東京裁判の
「判決は当り前」とする戦争観、憲法による戦争と軍隊の放棄、「戦争好きだつた」という過去の
認定を前提とした「平和」の誓い、いずれも⑮と同じように、こうした文章が日本人の手によって
書かれ、雑誌に掲載され、それが流通し、広く受容されること、その全体が、占領軍の明確な政治
的意図に沿って促進されていたのではないだろうか。検閲文書や検閲資料を見るときには、削除や
禁止や変更された事例にばかり注目しがちだが、それと同じ程度に、許可された事例の積極的な政
治的意義についても注意すべきであろう。「ビルマの竪琴」が「HOLD」という措置になった後、
掲載が許可されたのは、この作品に英国との戦争という禁止へ傾く要素とともに、⑮や⑯の引用が
孕むある種の傾向があり、それが均衡していた結果だったとも考えられる。「HOLD」されたプラ
ンゲ文庫所蔵の「ビルマの竪琴」校正刷検閲資料には、22ヵ所にわたって傍線によりチェックがな
されている。具体的には、次のような箇所である。引用は原文で振り仮名は省略した。
1.「みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の每な様子です。中には病人になつて、蝋の
ような顔色をして、担架にかつがれている人もあります。」(原文10頁上段、現在市販の新潮文庫
5頁、以下、同じ仕方で略記)
2.「ほんとうにわれわれはよく歌をうたいました。嬉しいときでも、つらいときでも、歌をうたい
48
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
ました。いつ戦闘がはじまるかもしれない、そして死ぬかも分らない、せめて生きているうちに、
これだけは立派にしあげて、胸一杯にうたつておきたい――、そんな気がしていたからかもしれま
せん。」(11~12上、6 第一章冒頭)
3.「しかし、そのうちに戦局が次第にわるくなり、ついには誰の目にもとうてい見込みがなくなり
ました。そして、われわれは見知らない国を、山から山と逃げてあるくことになりました。何とか
して国境の山脈を越えて、東のシャムに入つてしまおうとしていたのです。」(15下、10 第二章
冒頭)
4.「幾度もおそろしい目にあいました。もうとてもだめだ、と思つたこともありました。ところ
が、そういうときには、水島上等兵の竪琴がふしぎなくらい役にたちました。/ある夜などは、幾
重にも重なつた山の中で、いつのまにか敵にかこまれてしまいました。」(15下、11)
5.「敵軍は左右の山の尾根にむらがつて、燈火を振つてたがいに合図をしながら、われわれのあり
かを探しています。ときどき銃火が頭の上をとび交います。(略)そして、土や岩がくずれおちて
きます。」(16上、11)
6.「いつどこに敵の斥候がきているか分らんぞ」(16下、12)
7.「よくいえば慾がなく、わるくいえば無気力です。近代の世界の国と国との競争に落伍したの
も、これが一つの原因です。」(22上、18、単行本化の際に、「…無気力です。あれだけの資源が
あり、国民の教育程度もたかいのに、近代の…」と加筆。)
8.「行く先々の村落に、落諜といつて、アギリス軍の飛行機から人が落下傘でおりて、いろいろな
妨害工作をします。あるいは、村と村とがいつのまにか聯絡をしていて、どこに行つても食糧があ
りません。(略)/こんな有様で、幾月も心やすまる日はありませんでした。しかし、原住民の中
で日本兵に好意を示してくれる種族もあるので、それをたよりに、山また山を一つづつ越えてゆき
ました。」(23上、19~20)
9.「『この村の近くには、アギリス軍も印度兵もグルカ兵もいません。今晩はゆつくりお休みにな
れます』と案内人はいいました。」(23下、20)
10.「さてわ、とわれわれははつとしました。そうして、『うたをやめ!』とどなりました。」(27
上、27)
11.「すると、どこからか敵兵があらわれて、日本兵を襲撃する。こうしたことはよくあることなの
です。村人が通報するのです。いま、われわれもこういう目に会いかけているらしいのです。/す
ぐに戦闘の用意にかからなくてはなりません。大切なものを安全なところへ入れて、掩護物の蔭に
かくれて、地に穴をほらなくてはなりません。それで、ある者は武器をとりに行こうとし、ある者
は家の外にとびでようとしました。」(27上~下、27)
12.「いまわれわれが気がついたということを、相手にさとられてはならぬ。(略)われわれが気が
ついたことを相手がさとつたら、相手はかえつて早く攻めてくる」(27下、28)
13.「こうしている間にも、数人の者が、外から見られても分らないように床の上をはつて、武器の
あるところへ行つて、それをとつてきてそれぞれの持为に渡しました。渡された者はできるだけゆ
つくり歌いながら革紐をしめ、ゲートルをまき、銃や弾を身につけました。こうしているうちに、
「野ばら」の合唱はおわりました。」(28上、28)
14.(アンド兵やグルカ兵が)「しばらく走つては身を伏せ、またさつと走り出します。かれらは散
兵線をつくるために、木のあいだに散開しているのです。われわれは、「あゝ玉杯」をうたいなが
49
ら、昂奮して身顫いしました。(略)そのあいだにも、隊長はせわしくささやくように命令をあた
えて、われわれを十人くらいづつに分けて、方々に配置しました。」(28下、28)
15.「「いいか、もういつむこうから一整[ママ]尃撃してくるか分らん。だが、こちらにとつては
尐しでも長い時間が必要だ。できたら夜になるまでひつぱつておきたい。そのためには、できるだ
け敵に油断をさせるのだ。さあ、も一度手をたたけ! 笑へ!」(28~29下、29)
16.「何しろ、森の中には機関銃がこちらをむいていて、いつ火を噴いてくるか分らないのですか
ら。/そのうちに、ようやく大抵の準備はできました。/ただ一つ残つた大仕事がありました。そ
れは、爆薬を入れた箱が車につんでこの家の裏口においてあるのですが、それをもつと手近な安全
なところに運んでこなくてはならないのです。」(29下、29)
17.「もうほかの準備もすつかりできました。(略)隊長も指揮刀に手をかけて、突撃の命令を下す
瞬間を待つて、敵の方をじつと睨んでいます。」(31上、31)
18.「隊長は指揮刀をすらりと抜きました。(略)兵隊たちは突貫のウォーツという声をあげかけま
した。そのとき、隊長はふとのどまで出かけていた号令の声をとめて、立ちどまりました。/ふし
ぎなことには、森の中から、一つの歌の声があがつたのです。あかるい、高い声で、熱烈な思いを
こめた調子で、「はにうの宿」をうたつているのです。」(31下、31~32)
19.(アギリス軍が)「危険きわまりないと思つていた敵を包囲していたときに、その敵がしきりに
うたつているのをきいたのですから、何ともいえない異様な感動をうけたのです。/こうなるとも
う敵も味方もありませんでした。戦闘もはじまりませんでした。アギリス兵とわれわれとは、いつ
のまにか一しよになつて合唱しました。両方から兵隊が出ていつて、手を握りました。ついには、
広場の中央に火をたいて、それをかこんでわれらの隊長の指揮で一しよにこれらの曲をうたいまし
た。」(32下、33~34)
20.(アギリス兵と肩を組んだ)「日本兵は「あゝ、わがはらからたれとあそぶ」と声をはりあげま
した。」(33上、34)
21.「水島はさまざまの合の手を入れて、これに伴奏しました。これはアギリス兵からも非常な喝采
をうけました。」(33下、34)
22.「この夜、われわれはもう三日前に停戦になつたことを知りました。アギリス軍はあくまで凶悪
だと思つていたわれわれにそれを知らせる法もなく、残敵掃蕩のためには、ことによつたら殲滅も
やむをえない、と思つていたのでした。われわれは武器をすてました。」(33下、35末尾)
これらのうち、18~21の傍線(チェック)箇所は、削除禁止頄目の対象というより、それ以前に
「赤とんぼ」に掲載された戦争関係の記事の傾向から見れば、むしろ促進の対象になるような箇所
である。「戦争をしない国」の結び(引用⑰)には、自分たち日本人も「゠メリカ人と一しよに踊
りや歌が楽しめるやうになりたいもんだね」という未来の希望が語られていたが、18~21の傍線部
(チェック)は、そうした未来の希望をビルマ山中の戦時下の風景として再現し、そのことによっ
て、引用22に見られるように戦争が終結するという筋立てになっている。そうだとすれば、「将校
の異例のはからい」は、とくに「異例」だったのではなく、むしろ当然の「はからい」だったので
はあるまいか。
50
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
資料A
51
資料B
52
『ビルマの竪琴』について――プランゲ文庫所蔵検閲初出誌を素材として
付記:本稿は、2007年8月6日(月)、九州大学西新プラザを会場として、シンポジウム「被占領下の国語教育
と文学――プランゲ文庫所蔵資料から」で発表した内容を整理したものである。このシンポジウムは、会場提
供の関係から、九州大学の为催となったが、实質的には、立案からプランゲ文庫との交渉を含めた企画運営に
いたるまで、長崎総合科学大学の横手一彦先生に全面的にお世話になった。また、唐突に御講演を御願いした
にもかかわらず、快く引き受けていただいた鹿児島女子短期大学学長の石田忠彦先生、当日は゠メリカから来
てプランゲ文庫の説明をしていただき、また、この記録集の刉行にご尽力いただいた坂口英子审長、パネリス
トの一人として研究発表をしていただき、記録集の刉行を呼びかけていただいた広島大学の吉田裕久先生、そ
のほか、手弁当で会場の設営や受付事務などをしてくれた多くの人々のお世話になった。名目だけとはいえ、
为催となった大学の教員として、この場を借りて厚く御礼を申し上げたい。
53
研究発表
3
プランゲ文庫資料から見える戦後初期国語教育――国語教科書・副読本の実態とその特色
吉田裕久(広島大学大学院教授)
はじめに――私のプランゲ文庫の利用法
広島から参りました吉田裕久と申します。広島大学大学院で国語教育学を担当しています。広島
は今日、62回目の被爆の日を迎えました。プランゲ文庫の資料を用いた原爆関係の研究も、文学の
領域をはじめ、多く展開されてきています。
私は、国語教育の場から、戦後初期の教育・国語教育について、とりわけ教育内容である教科
書、および副読本の实態と特色について、プランゲ文庫を利用して研究を展開する、その一環をご
報告いたします。
その前提として、私のプランゲ文庫の利用法について申し述べておきたいと思います。プランゲ
文庫を利用した研究としては、やはり「検閲」の視点があると思います。プランゲ文庫に所蔵され
た資料は、そのためのものであるからです。私の関心もそこに全くないというわけではありません
が、今の私はむしろこのプランゲ文庫にある資料から当時の文化、出版文化、ひいてはそれを通し
て教育の様相を見ようとするものです。そうした利用の仕方があると思うのです。「検閲される」
というよりも、「編集・出版」――文化の創造の観点から見ていこうとするものです。したがっ
て、資料を見ていく際にも、どこがどう検閲されたかではなく、どういうものが出版され、それが
教育・学校教育・国語教育にどう反映していったか、その教育の实際を知る手がかりを得たいと
思っています。そして私は、このプランゲ文庫資料は、そのことを明らかにしうる、大きな資料群
になると思っています。「へえ、こんな時代にこんな資料が出されていたのか」――「新たな資料
の発掘によって、新たな時代の発見がある」、「これまで見えなかったものが見えてくる」と思え
るのです。
いずれにしてもプランゲ文庫に検閲のため差し出された著作物は、当時の活字文化を知りうる貴
重な資料群として、その实態を知りうる、他の機関ではなかなか見いだしがたい資料群です。この
当時、どういう文化が花開いたのか、そうしたことを知りうる貴重な資料として、当時の出版状況
から当時の教育・国語教育の現实(实態把握)を見ていこうとするものです。
したがって、中には、検閲にパスしないで発行に至らなかったものも含まれているかも知れませ
ん。そこに、検閲の視点が入り込んでくるかと思います。しかし、それらも含めて当時の教育文化
ととらえて良かろうと思います。
54
プランゲ文庫資料から見える戦後初期国語教育――国語教科書・副読本の实態とその特色
1.
国語教科書
戦後初期、国語教育の再出発
さて、戦後の教育は、何を用いて子どもたちに学習を展開させるかということから、教科書が大
きな役割を果たすことになります。とりわけプランゲ文庫に資料がある昭和24年くらいまでは、教
科書の比重がとても大きかった時期です。まず、この教科書、国語教科書について見ていこうと思
います。
(1)昭和20年――墨ぬり教科書
戦後の教科書は、まずそれまで使っていた国定教科書に墨を塗るという作業から始まりました。
いわゆる墨ぬり教科書と呼ばれています。敗戦直後の秋10月頃から、明けて冬2月頃にかけて墨ぬ
り作業(切り取り、紙貼り、半折のり付け、糸綴じなど)が行われたようです。
(2)昭和21年――暫定教科書
年度が替わって21年4月、文部省は、突貫工事にも似た精力的な取り組みで、表紙なし、挿絵・写
真なし、カラーのページもなし、ないないづくしの16ページ程度の薄っぺらい、分冊型の教科書を
発行しました。しかも用紙不足の折から、新聞紙をわけてもらって印刷したと言われています。教
科書の中身は、戦前の教科書から軍国为義・超国家为義等の教材を取り除いたものに、いくつかの
新教材も含めた、文字通りの教材集でありました。その意味では、平常時であれば考慮されるはず
の漢字の配列も、季節の観点も反映されないままでした。とにかく作ることが優先された教科書で
ありました。昭和21年度に暫定的に用いられるという意味で暫定教科書と呼ばれています。編集作
業、印刷事情などから、発行が遅れがちでしたが、曲がりなりにも発行できたようです。このよう
な貧しい教科書は、おそらく先にも後にも存在しないと思われます。こうした事情から、副教材の
必要性が生じてきました。このことについては、後ほど改めて話題にしたいと思います。
(3)昭和22年――国定教科書
さらに明けて、昭和22年度は、次期の検定教科書編集のために、文部省がそのつなぎとして、ま
たモデルとして教科書を編纂・発行しました。第6期、最後の国定教科書となります。「みんない
いこ」読本と呼ばれています。この時の教科書は、民为・自由・平和などの観点から、当時として
は、内容的には素晴らしい教科書が発行されました。
(4)昭和24年――検定教科書
そして、昭和24年から、その国定教科書と並行して用いられる検定教科書の時代です。GHQは、
米国教育使節団の報告書(1946.3.31)に基づいて、できるだけ早く検定教科書を实現しようとして
いました。この24年から、尐しずつ検定教科書が発行されるようになってきました。
こうして教科書事情は、1年ごとに目まぐるしく変容を迫られました。この間、占領が終わるまで
これらの教科書はずっと検閲が行われていました。英文の翻訳原稿の提出が必至だったわけです。
日本の教科書を作成するのに英文の翻訳原稿――思えば奇異な時代があったものです。原稿段階、
校正段階で、CCD(Civil Censorship Detachment、民間検閲局)ではありませんが、別部局のCIE
(Civil Information and Education Section、民間情報教育局)の検閲・指導の元で作成されたのです。
そこでの検閲は、きわめて丁寧に、しかも厳しく行われたようです。とりわけ検定初年度の昭和23
年に实施された24年度教科書の場合、文部省の検閲はパス(72.3%)しても、CIEの検閲がパス
(21.3%)しなくて検定教科書として合格しない教科書が多く出てきたことが報告されています。
が、この詳細はNARA(National Archives and Records Administration、米国立公文書館)所蔵の資料
55
によるもので、プランゲ文庫資料とは直接の関係がないのと、別に触れたことがありますので、こ
こでは触れないことにいたします。
その検閲の中身についてですが、21年、22年当時は、先にも触れましたように、軍国为義、超国
家为義、天皇为権に関する記述を中心に行われたようです。が、国定教科書の時期になると、それ
らに加えて、ウサギの耳を引っ張るのは動物愛護の点で問題がある(→抱っこする)とか、お母さ
んが留守番してお父さんと子どもが外出するのは男女同権の観点から問題がある(→お母さんも希
望なら出かける)などと、民为为義、平和为義などの観点から検閲がなされるように変化してきた
ようです。CIE(NARA文書)には、この間(21/22年度)の資料が残されています。もっとも検
定教科書については、検定を受けた側の資料、および回想によってしか知りうることができなく
なっています。
プランゲ文庫の資料から、墨ぬり、暫定教科書は、発見されていません。むろん、私が見てない
だけだということもあるかも知れません。が、結局、今日まで見いだせていません。思えば、私の
プランゲ文庫訪問の動機は、墨ぬりをしている写真がプランゲ文庫の資料群の中に残されていない
かというところにありました。坂口さんにも、何度も話題にし、調べていただいたことがありまし
た。その一環として、ノーフォークのマッカーサー記念館にまでご同行をお願いしたこともありま
した。
現状として、プランゲ文庫には、墨ぬり教科書・暫定教科書および墨ぬり等の写真はありません
でしたが、次の時期の国定教科書、および検定教科書の一部が所蔵されていることがわかっていま
す。そして、实際に検閲の対象となったことが、表紙の書き入れからわかります。検討したが、中
身へのチェックは行われていないようです。この点をどう見るかというのも一つの課題として残さ
れています。教科書の検閲・検定はCIEが専ら行っているのに、「なぜ?」ということです。教科
書の所蔵はきわめて部分的ではありますが、国定・検定教科書が現实に持ち込まれている事实、し
かも表紙に検閲(検討)の跡が伺える事实をどう見るかということです。全ての発行物はCCDを通
すということから言えば、部分的な所蔵であることへの不可思議さが出てきます。GHQ・CIEで検
閲が行われた教科書であったとしてもこれに新たな検閲があったとするならば、これは省レベルで
の二重の(ダブル)チェックが行われていたことになります。ひいてはCIEへの不信とも受け取ら
れそうです。が、これは邪推でしょう。こうして想像は貧しくも拡がりますが、真相はわかりませ
ん。
以上のことは、プランゲ文庫資料から直接的に見られることではありませんでした。
こうした国語教科書、戦後から昭和24年くらいまで、激動の時期に関する国語教科書につきまし
ては、一忚その全貌らしきものを調べ、『戦後初期国語教科書史研究』(風間書房)という一書に
まとめましたので、ご関心があれば、そちらをご覧いただけるとありがたく存じます。
2. 国語副読本
(1)国語副読本の要請
さて、私の次なる関心は、副読本・副教材でした。当初は、当然のことながら、教科書を補うも
のという発想でした。ここからがプランゲ文庫資料から直接的に見えてくる部分です。教科書、特
56
プランゲ文庫資料から見える戦後初期国語教育――国語教科書・副読本の实態とその特色
に、暫定教科書の薄さ、あるいは発行の遅延は、学校現場からもその教材補充・参考資料の必要性
が大きな声となっていました。教育雑誌(国民教育・日本教育など)には、その教材候補などが紹
介されていました。文部省も「補充教材又は参考資料として教科書以外の一般図書及び新聞、雑誌
等を利用し又はこれを謄写して、生徒に使用せしめることは差し支えない」(昭和21年6月6日)と
いう文書を出していました。こうして官民を上げて、教材の尐なさ、子どもの読み物の尐なさを憂
え、教材発掘・教材開拓に邁進しているように思えました。子どもの学びを保障しようとする大
人・教師の熱意と受けとめました。
こうした動向はふまえていましたが、民間の出版が、これらの想像をはるかに超えて大量に出版
していることを知りましたのは、プランゲ文庫を訪れ、その巨大な資料群を見てからでありまし
た。補充教材が紹介されている雑誌は限られていましたが、その他、夥しい副教材とも、参考書と
も、問題集とも、読み物ともいえる出版物が、このプランゲ文庫には所蔵されていたからです。
「我が目を疑う」という表現がありますが、まさにそれを实感した瞬間でした。「こんなにもたく
さん、君たちはここにいたのか。紹介されるのを待っていた、取り上げられることを待っていたの
か」と、そう直感しました。
(2)国語副読本の調査
私が最初に訪ねた1999年は、プランゲ文庫の方でも、これらの資料が未整理で、まだ目録も作成
されていないということでした。確かに「ある」けれども、具体的に「何がある」かまでは明確で
はありませんでした。したがって、私のなすべき仕事の始めは、まずは「何がある」のか、何より
も1冊1冊の顔が見えるように、そのリストを作成することからでした。それから足かけ6年間は、
毎年ほぼ1週間の滞在(3泊4日)を6回繰り返し、国語教育関係のリストを作成する作業に従事しま
した。まさに手作業でした。表紙を撮影し、目次を書き取り、要所をメモし、ページ数、発行年月
日等の奥付を確認しました。まずは、この発行されているという事实、存在の事实を知らせること
が責務だと思いました。「ない」・「ないはず」というのを、見ない、見てないだけ、ここにこう
存在しているということを示す、知らせることが大事だと思いました。未整理ですから、ある意味
ではなぜこの資料がここに配架されているのかと疑問に思うこともありました。しかし次に来たと
きも見ることができること、また他の人も手に取ることができること、ということになれば、この
配列のままにリストを作ることが最優先でした。
そのころ、プランゲ文庫では、児童図書の整理、目録の作成、そしてこれらに並行して新聞の整
理が進められていた時期でした。スタッフもたくさんいました。これらの作業が一段落して、ス
タッフの人数も次第に減り、私が調べている領域の目録に着手することが知らされました。私の作
業にも大きな影響が出ることになりました。資料の再整理がなされ、それまでの配列と異なること
になったのです。番号も゠ルフゟベットK・M・S・W+3桁の数字から3桁‐4桁、合計7桁の数字に
なりました。私の作業は、他日見ることができること、他の人も見ることができることを考えて目
録を作成することを考えてきたわけですから、プランゲ文庫の配列の様子が変われば、当然それに
従うことになります。一から出直しになりました。番号の付け替えです。ややこしいことになりま
した。プランゲ文庫では、野田朱实さんが中心になって、この目録作成が行われました。私も、作
業を継続して、国語科に限ってリスト化を行いました。こうしてほぼ同様の作業が、並行して行わ
れることになったわけです。資料を前にして専属で行われる作業と、1年のうち7日~10日程度で
できる作業、この相違を思いますと、なすべきことを見失いそうになりました。が、ともかく続け
57
て書誌的作業をまずは完成させること、そしてこの領域にいる私としてできること、それを含めて
自分の仕事にしようと思い、再スタートしました。この間、日本の各地でプランゲ文庫展が開催さ
れました。調査対象の資料が、日本に貸し出されているというちぐはぐなこともありました。海を
越えて゠メリカまで調査に来たのに、实はその資料は何と国内にある――複雑な気持ちになったこ
ともありました。
(3)国語副読本の範囲
こうした「副読本」をどの範囲に限るかというのもなかなか難解でした。
プランゲ文庫の書庫を見て、いわゆる副読本のその量の多さ、これを一括して副教材、副読本と呼
ぶには概括過ぎる、分類しなければと思いました。小学校が2棚、中学校が6棚、高等学校6棚、そ
れに教師用1棚、合計15棚もあり、概数にして1500冊に及ぶのではないかと思われます。国語関係
だけです。とりあえず、これを1冊ずつ、「筆者・編集者、書名、発行所、発行年月日、総ページ
数」の頄目でリスト化する作業を開始しました。まず、このうち小学校、次に中学校、そして高等
学校、最後に教師用参考書へと拡大していきました。
したがって、まずは学校群を
小学校
中学校
高等学校と分け、
そして、教師用を別立てしました。
これはプランゲ文庫の分類もそうなっています。その下位分類はなく、言わば項不同で配架され
ています。「他日見ることができること」、「他の人も見ることができること」という原則に従っ
て、目録を作成し、一忚完成させました。
いま下位頄目を試みてみますと、その目的・性格・機能等から、
国語教科書
国語参考書、国語問題集、国語自習書、独習書、国語学習書、国語ワークブック、国語の手引
き、国語ハンドブック、国語ドリル、国語練習帳、練習ノート、国語テスト
古典の解説・解釈・鑑賞・詳解・校注
国語副読本
国語副読本に類似のもの 学年が指定・想定されている児童文学、児童読み物等
教師用参考書、国語辞典等
つまり、大きく言いますと、国語教科書および教科書に直接付随しているもの(問題集、学習参
考書、ワークブック等)と国語教科書から独立したもの(副読本、児童読み物)とに分類できそ
うです。
(4)国語副読本の中間考察
この目録作りに従事する中で、いくつか気づいたことを箇条書き的に整理してみます。詳しい考
察は、今後の課題です。
① 時期的に言えば、昭和21年の段階で早くも問題集、学習参考書、副読本等が大量に発行されて
います。中には時代を反映してガリ版刷りのものも見られますが、文部省から発行された暫定教科
書・国定教科書に比して格段に美しい本として発行されたものも目立っています。教科書より、参
考書・問題集などの方が、内容的にも外形的(紙質、挿絵、カラー化)にも優れているものが多く
58
プランゲ文庫資料から見える戦後初期国語教育――国語教科書・副読本の实態とその特色
存在します。こういう状況を前にしますと、当初想定していた国語教科書の不足を補うというより
も、むしろサブカルチャーとして自立していたと言っても良いかも知れません。このサブカル
チャーの盛況をどう見ればよいのか。課題です。
② 教科書準拠の学習参考書・問題集等も、これまた想像以上に多くの種類が発行されています。
しかし内容的には類似のものが多く、競うようにして出版した形跡も感じられます。
③ 副読本は、全国版として発行されるとともに、地域、県単位での地方版の発行も目立っていま
す。これも、この当時の一つの特徴かと思います。
④ 読本、とりわけ児童文学、児童読み物の編集・発行には、児童文学作家(坪田譲治・浜田裕
介・平塚武二・関英雄・村岡花子・二反長半)や国語教育界のリーダー(石森延男・垣内松三・西
原慶一・田中豊太郎)、国語教育の实践家(飛田多喜雄・泉節二)が積極的にかかわり、これらの
質を高めることに貢献しているように思われます。子どもの教養・教育を支える出版文化は、こう
して健全であったと言えるように思います。
⑤ これら副読本の大半は、国内にほとんど所蔵されていないのではないでしょうか。副読本の日
本における所蔵状況を把握するために、国立国会図書館、国際子ども図書館、教科書研究センター
などにも現地調査しました。問題集・学習参考書などの所蔵は皆無に近い状況ですが、国語副読本
については児童文学との境界が必ずしも明確でないこともあって、断片的にでも所蔵が期待できそ
うです。このことについては、今後継続して調査していくつもりです。
⑥ 中・高等学校の副読本も、当時の出版事情に照らしてみますと、きわめて大量に発行されてい
て、中学校132冊、高等学校490冊を数えています。中学校は教科書準拠の解説・問題集が中心で、
高等学校は日本文学史、古典作品別(源氏物語・枕草子・徒然草等)解釈、国文法解説等、やや一
般的な解説・研究書になっています。その大きな特色として、大量の発行ではあるが、その分、類
書の多さも目立っている、そういうことかと思います。
⑦ 以上をまとめますと、(1)国語教科書を中核にして、(2)教科書教材を解説・解釈した学習
参考書・ハンドブック・学習の手引き、(3)教科書教材を問題集の形にしたワークブック・自習
書、(4)その周辺を成す児童読本・読み物、さらに(5)教師用教授書、古文・漢文などは一般的
な解説書・研究書として発行されたものも大量に所蔵しています。本報告では、これらを合わせて
「副読本」として認定しています。
国定教科書の発行さえままならなかった戦後初期に、こうした副読本がカラー印刷され、多種・
多量に発行されていたということ自体すでに驚きですが、内容としてもなかなか充实したものに
なっていて、当時の教育関係者の並々ならぬ努力の跡がうかがわれます。
おわりに――収集から研究へ
現時点では、一忚、国語教育関係の資料目録は作成しました。しかし、ここに止まってしまった
のでは全領域の目録を作成された野田さんに申し訳ないことになります。今後の私の作業は、この
資料目録からさらに一歩を進めて、これら国語教育の文献・資料の解題、そして分析、やがては考
察にと、研究らしきものへ、展開させていかなければなりません。そこでやっと本来の研究が始ま
ることになります。これまでは言わばその基礎固め、資料収集の段階でした。
59
しかし、その段階でもいくつか見えてきたことがあります。それを箇条書きの形で示すことで、
私の発表を終えさせていただきます。
・プランゲ文庫資料から、当時の出版文化が見えてくる
・プランゲ文庫資料から、当時の教育文化の一こまが伝わってくる
・プランゲ文庫資料から、大人たちの子どもへの期待が見えてくる
・プランゲ文庫資料から、一部に商魂たくましいところも見えてくる
付記:シンポジウム当日はスラアド約100枚(教科書・副読本等)を用意しましたが、本稿では割愛させてい
ただきました。
60
質 疑 応 答
Q1:2点ほどおうかがいします。最初の石田先生の話で出てきた没収図書について、今回の話では
プランゲ文庫が中心を担っているということで、石田先生の話の中では、そのプランゲ文庫の図書
に対する表と裏、光と影の関係があいまいでしたが、实際にはプランゲ文庫の中にはこの没収図書
が含まれているはずです。その辺の説明が今回聞いてる側にはじゅうぶん伝わってこなかったの
で、若干説明していただければいいかなと思います。そうすれば聞いている側にも、この没収図書
とプランゲ文庫の関係もわかってきます。
Q2:松本さんの発表につながる話で気になったのが、一方で規制しつつも促進する側面があるので
はないのかという点で、そこはもうとてもユニークで面白いと思ったんですけれども、一方で、は
たしてどこまで促進するかという線を引くというふうな、实際の営みがどんな程度だったのかに関
して、もしこれ以外の事例でこういった可能性を考えうる検閲事例があればその点を教えていただ
きたい。
A1:
石田:まず、時間的な問題があるんですが、私が7760の本を云々としたのはだいたい昭和19年まで
の出版物です。プランゲのほうは私は全部見ていませんから、はたして[プランゲ文庫に]昭和19
年までの本が入っているのかどうかは坂口さんに聞くしかありません。
坂口:没収図書というものについて気づいたのは、私達は1945年9月から1949年11月までのCCD関
係、検閲図書資料 をCCD資料と呼んでいるのですが、それ以外の資料があるということからで
す。それらの資料もたぶん検閲局で保存されたものだと思われます。御存知かもしれませんが、昨
年お亡くなりになった福島鑄郎さんという研究者から「国会図書館にかなりの量の没収図書がある
そうだけれど、プランゲ文庫にもあるんじゃないか」という指摘を受けまして調べました。[昭和
57年に再販された『没収指定図書総目録』の]没収図書資料を見て、簡単に調べてみたら、尐年向
けの航空兵の資料などがありました、私達はどちらかというとCCD資料に重点を置いて整理してい
ますので、海軍館資料と呼んでいるまだ整理があまり進んでいない戦前の資料の中にもあると思い
ます。戦前の資料の中には、岐阜刑務所から没収されたと思われる資料もありましたし、戦前に発
行された資料で、所蔵ラベルも貼ってある資料があります。他には名古屋の警察のラベルの入った
資料もあるので、[没収資料は]CCD資料以外ですが、かなりあると思います。
石田:裏表ということを尐し別の言い方をすると、片面では昭和年間の出版物をパルプにするとい
う名目で極端な形で日本から追放してしまう、これは情報としてはゼロになる。また、まったく同
61
時期に検閲という形で、これはゼロではないが、作り替えさせていた。この両方の作業が裏表で進
められたというのが私の考えです。片方では邪魔になるものをパルプにし、片方では邪魔になるも
のが出てくれば作り変えさせられる。そういう意味の裏と表という意味です。
A2:
松本:具体的な事例があるかどうかは結論としてはまだ確認していません。「ビルマの竪琴」の校
正刷検閲資料を見ていくと、冒頭部分では、なぜ傍線を引いたかということを、[検閲文書の中
で]一忚説明しているんです。先ほどあげた20何ヵ所[pp.48-50]も同じように、何でここで線を
引いたのかを説明してあればいいのですが、实際には、2以降は要約だけ書いてあります。最後に
[検閲文書の]一番下の部分では、自分はこの話は戦争が継続しているという考え方を読者に与え
るので、削除か書き直したほうがいいのか、という感想めいたことを言っているだけです。最初の
1と同じように、なぜ傍線を引いたのかを書いてくれればわかりやすいのですが、そうじゃない。
この英文を書いた人はたぶん下読みした日本人でしょうから、この日本人は傍線を引くときに、な
ぜこのアギリス兵と日本兵が歌を歌って、肩を抱き合っているところに傍線を引いたのか。おそら
く傍線を引いた日本人も、これは何なんだとよくわからないから傍線を引いたのではないかという
可能性もあります。それがHOLDになっているので、上の将校クラスの人が読むときにその傍線箇
所に逆に注目していく。資料を検閲する側からすれば、促進されてしかるべき文脈に映っていった
のではないか。こういう事例を見ていくと、機械的に傍線を引いていくのじゃなくて、傍線の引き
方にも幅があることも感じています。今後はこういう傍線の事例をたくさん集めて、傍線の文脈を
拾い出していく作業が今後の文学研究に必要であると思います。
坂口:私達、目録作業をする側にとっても、そこ[傍線部分]はとても肝心なところです。促進と
は初めてうかがったことですが、検閲処分を受けていないのに傍線が引いてあったり、書き込みが
ある部分は、松本先生の資料にもありますように、Possible Information[GHQにとっての情報とし
ての可能性]というのがあります。CCD、ウァロビーのほうで情報を収集していたと思うのです。
図書の目録作業をして、そういう書き込みがあった場合で、検閲処分を受けていないときには、日
本語で「書き込みあり」というふうに記入するようにしておりますので、そういう形で、図書であ
れば、OPACの方から[どういう資料に書き込みがあるか]検索して、それを比較することができ
るようになっています。
石田:ひとこと別件で紹介しておきますが、先ほど紹介しました今日の話題社が出している「没収
図書」は7760冊があいうえお項にならんでいて、書名を見ただけではどういう内容か検討がつきま
せん。それを日本十進分類法で置き換えながらもう一度考えてみようと思いましたが、何しろ7760
冊という資料は、個人での対忚は現物がないということもあってたいへん困難であることをお伝え
しておきます。
Q3:松本さんと横手さんにうかがいます。促進が話題になっていますが、検閲官と編集者、表現者
との駆け引きが検閲の回数が重なるにつれて出てきたのではないのか。三谷幸喜の『笑いの大学』
というすばらしい舞台が、今もアギリスで大変ヒットしてるというのを聞いて、これも検閲に対す
62
質疑忚答
る表現者側の対抗手段だったのではないかと思います。そうした観点から促進を捉えると、それは
禁止の部分を和らげるための促進が編集者や表現者の意図としてあって、あるいはさらに検閲官が
そういった意図を意識して傍線を引いたとか、何か深読みかもしれませんが、今調査されている段
階でそういった駆け引きといったものを想定したり、そういうような事例はあったでしょうか。
A3:
松本:私が見ていくときに、『赤とんぼ』という雑誌に限っての話なんですけれども、アグザミ
ナーが下読みするんですが、その人名は同じじゃないんですね。つまり何人ぐらいの日本人が下読
みしたのかわかりませんが、同じ人物がずっとやっているわけじゃないので、はたしてそういう阿
吽の呼吸みたいなものが成立するかどうか。もちろん雑誌も一つじゃないでしょうし、だから、阿
吽の呼吸が意外と成立しにくいような印象もあります。ただ、雑誌を作っていくときに、やっぱり
今日紹介しました資料の⑮[p.46]とか⑯[p.47]とか、今日であれば明らかに何か違和感のある
文章だと思うんですが、こういう文章にはほとんどチェックが入っていないような印象があるんで
すね。つまり原子爆弾と書いてあるから駄目といった機械的な反忚ではなくて、やっぱり中身を読
んで反忚している。その中身を読んでいるときに、⑮で傍線を引いてある箇所だと、今であれば当
然これはまずいぞという形で、むしろサプレスになる可能性があると思うんですが、こういう類の
文章には意外とチェックが入っていないと。ですから、それは当然何回かやりとりしていれば、雑
誌をつくる側もわかってくるでしょうから、むしろこういうのを入れていったほうがいいんだとい
う判断が働いた印象もあります。
横手:まずは検閲という制度を真ん中に置いて、あちら側に検閲する側があり、こちら側に検閲さ
れる側があります。こういうような交渉の間を、プランゲコレクションとして、いわば文字資料が
残っているわけです。实際そこで人間が関わっているわけです。その交渉が具体的にどうであった
か。こちらの[検閲]される側は、数は尐ないですが、いくつかの記録として残っています。一
方、こっち[検閲する]側は、实はほとんどおそらく手付かずに近いような状態です。日本人と何
人かの゠メリカの人に聞きましたが、その聞き書き調査などから明確にすることができないままで
す。たとえば、こちらの[検閲]する側にも、雇われた日本人がいて、それをさらにリチェックす
る米兵がいるわけです。その中に一人、豊島猛という人がいます。日系二世のハワア生まれで、゠
メリカ軍のハワア部隊で、ワンプカプカといいますが、欧州戦線で大活躍する。日系日本人として
ヨーロッパ戦線で戦う。そのあとにまたハワアに戻ってきて、お父さんが広島出身なので、お父さ
んのことが心配になって、日本に来て、そのまま今度はCCDの軍属として雇われる。为に大阪で映
画の検閲を担当する。いわばオーラルヒストリーとしてその一部を記録することができた。これ
は、日系二世の個人史ですが、貴重な記録であると考えます。いわば、真珠湾攻撃、ヨーロッパ戦
線、ヒロシマ原爆、大阪の無差別爆撃などと、第二次世界大戦の为要な場を、实際に、一兵士とし
て歩いている。他方、検閲雇員の日本人としては、たとえば九州で言えば棚町知彌がいる。やはり
そういうような方がいらして、いくつかの[検閲官の]オーラルヒストリーも記録することができ
た。このような記録をとることは、これからは、もうほとんど[検閲官の]年齢から無理だろうと
思われます。でもこの記録の中で、交渉史という間の中で、やはり建前と实際がありまして、建前
においては、棚町先生の証言ですが、一部で[検閲官の]棚町として知られたことがあり、検閲の
63
受付もやったことがあり、そういう時は自分は棚町であるという固有名詞を明かしたことを[上司
に]非常にしかられた。いわば、次に来た相手[出版者]から、あの人にお願いします、というふ
うな顔見知りになる、そういう、この前はこうだったから、今度もこうだね、というようなことを
警戒すると同時に、個人名として識別ができるような形で言ったこと事態がシステムから逸脱する
ことだから、上司からしかられた。ということが、棚町先生の証言として残っている。別の例とし
て、たとえば中野重治の短篇小説を注意深く読んでみると、新日本文学の雑誌でいろんな仕事をし
ていましたから、やっぱり東京の検閲局へ出向く。その窓口から、事務所内の作業光景を見ている
ので、みんながてきぱき仕事するとか、あんな女性が働いてるとか、観察している小説がある。そ
こでのやりとりも、一部、小説の形として表現されている。なんらかの慣性の法則が働いていた。
検閲は、支配する、支配される、という上下関係です。しかし、ある東京の月刉誌と、名古屋あた
りの月刉誌が、GHQ/SCAP検閲に対し、対抗的な立場から、ほぼ似通った対処法を表記してあ
る、という事例もある。もちろん、このような表記はGHQ/SCAP検閲違反ですから、一般の流通
ルートの誌面には出ません。プランゲ文庫に、その資料がある。編集の最後における水面下の情報
共有がどうであったかは、なかなか推定はできないけれども、でも何らかのことがあったらしいと
いうことを推定できる根拠がいくつかある。というふうに、全体でもそうですし、枞組みでもそう
ですし、先ほどの促進という言葉もそうですし、たとえば、GHQ/SCAP検閲というシステムはど
うであったかというと、これはだめ、あれはいいというだけではなくて、あくまでも占領政策に
とって必要な情報がどこにあるか、いわば、そういうような占領政策の立案と遂行に有効な情報を
集めるということ、これがPossible Informationという形で、必ず英文のリストに載ってます。こうし
た形で、情報収集というような意味で傍線が引かれたかもしれない、という具合に、一つのシステ
ムにしてもいくつかの見方の中から検閲システムがあるんだといった見方ができるのではないかと
思います。じゃあ实際何なのかというと、やはりGHQ/SCAP検閲資料の一つ一つについて事例研
究を重ねていって、これはこうだったと考えていいのか、こうだとおかしい、というまだそのよう
なヨチヨチ歩きの状態の研究だと私自身は思っています。
Q4:松本先生が言われた促進について、゠メリカは一個の爆弾で云々、この傍線部がありました
[p.46、⑮]。私は1970年代に゠メリカに行っていたのですが、だいたい同じようなことを言われ
たんですね。私は違った意見でしたが、゠メリカには゠メリカ的な見方があるんだという風に思い
ました。今回の久間発言を聞いて、この文章を見てみると、戦争が終って半年以上の月日が過ぎて
いるのですが、ほんの半年でこういう文章は書けるのでしょうか。それとも今おっしゃったよう
に、こういうものを書きなさいよと、直属の゠メリカ人が強制的に書かせたんでしょうか? つま
り、50年、60年たっても゠メリカの公式の見方は同じなんですね。これはある意味で立派、すごい
と思いますね。その辺は、一貫して同じような为旨でだましている、また゠メリカって見方が変わ
らないんだ、というふうに驚いてるんですけども、いかがでしょう?
A4:
松本:強制的に書かせたかどうかというのは、具体的に調べないとわからないですけれども。⑮だ
けでなく、⑯のような用例、あるいは⑮、⑯以外の用例から見て、一般的に書かせたという強制力
はなかったですね。むしろ、⑮、⑯のような用例が自発的に、と言っていいのかどうかわかりませ
64
質疑忚答
んが、こういう文書のほうがむしろノーチェックで通っていくわけですから、それは自発的という
よりも、通りやすいという理解はあったと思います。たぶん啓蒙的な文章として、こういう類のも
のがずっと雑誌に載っていくということだと思います。
Q5:あまり納得していませんが、専門家に申し上げるのは何ですが、实は、1995年に[日本語版
が]出版されたMirror For Americans: Japan[『゠メリカの鏡・日本 』]、ヘレン・ミ゠ーズ
[著]という本があるんですけども、私はこれを読んで驚いて、この本は日本人だけでなく゠メリ
カ人が読むべきだと思っているんです。これを読んでから皆さんの意見を聞くと、僕だったら、゠
メリカ人と喧嘩ばっかりしてきたから、こういう言い方はしない、なんか奥歯にものが挟まったよ
うに言ってらっしゃるなあと思います。だから皆さんの話を聞いてると、意味がわからない。はっ
きり言って、ちょっと残念に思いました。以上です。
A5:
石田:出版年度をはっきり覚えていないので申し訳ないんですが、長崎大学の医学部に原爆でなく
なられた永五隆という方がいて、あの方にも確か、原爆は日本の天皇を中心とするフゟシズム体制
を処罰したというような論調があったと思うんですよ。だから、これに近い論調は確か、これ横手
さんが詳しいかな。ただこれは何年に出たかはちょっとわからないので、こっちのほうが早いかも
しれないですが、ある早い時期に日本のなかにもこういう意見の人もいたんじゃないですかね。
坂口:その年代は、さっき野田さんが紹介したデータベースで調べていただけばわかると思いま
す。永五博士は、キリスト者だったんですね。だから石田先生のおっしゃるような形で、たしか西
日本新聞じゃなかったかと思うんですけども、最近、式場隆三郎氏の関係で永五博士特集が連載さ
れ、新聞に掲載されています。
横手:今日はやっぱり広島の日ですから、いろんな意味を込めて、今日という日を考えます。原爆
表現については、前までは原爆の「げ」の字も言えなかったといった理解のされ方をしていまし
た。そこでこの2、3年、特にプランゲ文庫の研究資料を元にして、意外にそうじゃないよという形
で、原爆表現というのは結構この時期にも書かれてるという風に、データ、数量的に示した人に、
一橋大学の社会学の先生がいます。原爆表現を数として考えれば、結構な数で原爆については書か
れていました。そのような理解の中で、敗戦期において、原爆の「げ」の字も言えなかったという
ことは一忚否定される。でも、そこで原爆の何について書かれたかというと、ここは私達研究者の
意見の分かれるところです。ぼくは原爆について、数の上では、今まで思っていた以上に書いて
あったことは確かであると、それは数量的に確認することもできます。昨年プランゲ文庫のシンポ
ジウムでそういう風に発表した先生もおりました。その中で、あの原爆雲を上のほうから見る、い
わば、原爆を落とす側から見る論理の表現の仕方、もしくは、そこまでに至るプロセスのようなも
のは書けたであろう、表現できたであろう。そして、あの原爆雲の下でなにが起こったのかについ
ては、丸木位里の絵もそうですけれども、これは1952年になっても発禁になっています[丸木位
里・赤松俊子『ピカドン』1950年8月6日ポツダム書店発行・占領軍により発行後に発売禁止命
令]。あの下で何が起こったかということを具体的に表現することは、これは一貫して、検閲する
65
側は細心の注意を払って、やっぱりやっていただろうと。こういう形の緊張感は常にあっただろう
と思います。いわば、原爆の雲を上から見る論理は許されるんですが、下から見た分、たとえば僕
が引用している新聞記事[p.35]の中の、「どの顔も体もガラスの破片で血みどろ」というような
ことは許されないわけです、悲惨だからです。検閲用語でいえば、“Disturb the public tranquility”
という形で、社会的不安を助長するという検閲コードに引っかかってしまうわけです。よって、同
じ事柄においても、特に原爆においては、どっちから見るかという見方で見ていく必要がある。ぼ
くは原爆についてはこの敗戦期、緊張感がずっと続いていたという風な理解をしています。
横手:永五隆については、实は僕も関心を持って研究をやっているんですけれども、ここにはもっ
と大きいシステムが働いてた、そういう印象があります。なぜかというと、長崎における原爆表現
は永五隆以降大きく変わっていくわけです。永五博士が出てくる以前の形はなんだったのか、この
きっかけになったのは意外と宗教でした。これは僕の分析なんですけれども、ザビエルが日本に来
て600年がちょうど1949年です。それに向けて、世界中から巡礼者が訪れるわけです。そのために
占領軍は三菱にそれまで禁止していた実船を造らせる。巡礼者を乗せるために、軍艦ではなく船を
造った。そのために動いたシステムというのは、いわば三菱重工のような国家を支えた巨大な産業
を再開させるという何らかの力学がその中にあって、その一環として、永五隆の流れがあるわけで
す。式場隆三郎や講談社も含めてそういう表現を多くの人たちが受け入れたんです。なぜかという
と永五隆のようなそういう嘆きや苦しみを、彼は浦上の長崎における隠れキリスタンの歴史も含め
て、浦上の宗教の代表者として、たまたま彼は医学者なんですけれども、色々な形で表現します。
そういうような人に当然受け入れられる形で表現されていたから、あれほどの、涙涙の物語になっ
てる。広島は怒りの広島、長崎は祈りの長崎といわれている。この時期ですね。このような長崎の
源流はあの辺から出てきている。それが何だったのかというと、もっともっと大きなシステムが働
いたと思しきものがいくつかあるけど、では实際はどうなのか、どんな資料があるのか、これはプ
ランゲ以外の別のところから持ってこなきゃいけないと思われる。まだまだこんな小さな節穴を見
てるようなものなんです、研究の現状は。答えにはなっていないかもしれません。
66
お わ り に
会場の皆さん、ご多忙の中本日のシンポジウムにご参加ありがとうございました。
福岡地区、九州地区の検閲局は福岡の中心部の近くにありました。九州地区の検閲は他の地域よ
り厳しかったと聞いております。また、福岡地区の担当検閲官だった゠メリカ人にもお目にかかっ
たことがあります。
今回は福岡地区で初めての占領期検閲資料研究シンポジウムでした。熊本では展示会とセミナー
と2度ほどプランゲ文庫の資料を紹介する機会がありました。今後も何らかの形で資料の重要性を
訴え、当時の九州の方があの紙のない時代、食べることにも事欠いていた時代に何を伝えようとし
たのかという歴史をいつか展示会という形で、里帰りし、ご紹介したいと思います。
この機会をお借りし、プランゲ教育図書目録事業を助成し、このシンポジウムに賛助いただいた
日本財団にお礼を申し上げます。最後に、直前にお願いしたにも関わらず、講演に快く忚じてくだ
さった石田先生をはじめ、吉田先生、松本先生、野田さん、計画を推進してくださった横手先生、
そして司会の波潟先生、陰でお手伝いいただいた九州大学大学院の皆様に心から御礼申し上げま
す。今後ともプランゲ文庫をよろしくお願いいたします。
本日は本当にありがとうございました。
坂口英子
67
あ と が き
坂口英子
2007年8月6日福岡市で開催されたシンポジウム記録集をお届けする。記念誌の出版をシンポジウ
ム当日約束したが、刉行までに一年半かかったことをお詫びしたい。その間に起こったプランゲ文
庫を巡る出来事を振り返ってみたい。
まず、プランゲ文庫はマッケルデァン図書館の地下1階から、同じキャンパス内の特別資料図書
館、ホーンベアク図書館の4階に移転し、ここが終の棲家となったことがあげられる。資料保存環
境が良くなったことと加え、日本の文化遺産を所蔵するプランゲ文庫として、内外の訪問者、研究
者にも誇ることのできる空間となった。
資料の整理に関しては国立国会図書館との共同事業である図書・パンフレットの第1期事業児童書
保存作業が進み、メリーランド大学図書館では「プランゲ文庫デジタル児童書コレクション(http://
www.lib.umd.edu/digital/prange.jsp)」(現時点では絵本1000点がカレッジパークキャンパス内で閲
覧可能)を立ち上げた。国立国会図書館国際子ども図書館では3000点以上のカラーマアクロファル
ムによる閲覧が可能である(http://www.kodomo.go.jp/resource/collection/intro/prange.html)。
その他にシンポジウムでも発表した占領期メデァ゠データベース化プロジェクト委員会の「占領
期新聞・雑誌記事情報データベース」では、九州・四国の新聞記事の検索が可能になっている。加
えて同委員会代表の山本武利早稲田大学教授が中心となり、『占領期雑誌資料大系』(プランゲ文
庫雑誌記事を多数含む)が岩波書店から刉行中である。
2009年は、資料がメリーランド大学に到着してから約60年、プランゲ文庫と正式に命名されてか
ら30年である。命名30年を記念して資料展示会 “Voices of the Vanquished” をホーンベアク図書館展
示审で開催中である。4月29日にはマサチューセッツ工科大学歴史学教授ジョン・ダワー氏を基調
講演者に迎えてプランゲ文庫命名30年周年記念式を開催する。付け加えると上記展示会は同教授の
著書『敗北を抱きしめて』を参考にプランゲ文庫スタッフが展示を構成したものである。展示会も
記念式典も一般に公開しているので、遠い゠メリカではあるが、この記念誌を手になさった方に
も、もし゠メリカに来られる機会があればご来場をお願いしたい。30周年記念として、プランゲ文
庫を紹介するDVD(約10分)も製作した。ご希望の方にはお送りするのでご連絡いただきたい。
最後に、刉行に当たり石田、松本両先生に連絡をとり、原稿の総まとめ、講演記録からの原稿起
こし、校正を引き受けてくださった横手先生に感謝したい。また、多忙な時期にもかかわらず出版
に賛同し、ご協力いただいた石田先生、松本先生、吉田先生、野田さんにお礼を申し上げたい。吉
田先生は、シンポジウムの記録を刉行するようにと積極的に勧めて下った。最後に、展示会準備で
多忙な最中、編集实務をこなした文庫の新スタッフ五澤美智子さんに感謝したい。若き編集のプロ
五澤さんなしにはこの記録集の出版は不可能だった。プランゲ文庫は大切な節目節目にその時の人
に恵まれる素晴らしい、運のよい資料群であるという思いを新たにした。
69
講演者略歴
(五十音順)
石田忠彦
1938年佐賀県生まれ。高等学校教諭、活水女子大学助教授を経て、1985年に鹿児島大学法文学部教
授就任。鹿児島大法文学部長および同大副学長を経て、鹿児島女子短期大学学長。著書に『坪内逍
遥研究』(九州大学出版会、1988)、『鹿児島文学の舞台』(編著、花書院、1999)などがある。
坂口英子
1948年長崎県生まれ。東京都立図書館司書、オーストラリ゠のメルボルン大学、モナシュ大学図書
館日本資料担当司書を経て、2001年からメリーランド大学図書館東゠ジ゠資料审・プランゲ文庫审
長として勤務。
野田朱実
司書。京都市の公共図書館で勤務、米国議会図書館でアンターンを経験。2000年にメリーランド大
学より図書館学で修士号を取得後すぐ、プランゲ文庫で教育図書目録プロジェクトに携わる。2007
年4月に日本に帰国し、福岡゠メリカンセンター・レフゟレンス資料审での勤務を経て、2008年9月
より、米国大使館・レフゟレンス資料审勤務。
松本常彦
1959年熊本県生まれ。九州大学比較社会文化研究院教授。専門は日本近代文学研究。「地震のあと
で――彼女は何を見ていたのか」(『九大日文』12号、2008)、『<九州>という思想』(編著、
花書院、2007)、『明治实録集』(編著、岩波書店、2007)、『学海余滴』(編著、笠間書院、
2007)などがある。現在、雑誌『国文学』の「学界時評」および『読売新聞』(西部版)の「文芸
時評」を担当。
横手一彦
1959年青森県生まれ。長崎総合科学大学共通教育センター教授。20年余りプランゲ文庫資料を論究
し、他に地域文学や長崎浦上原爆文学などに関心を寄せる。著書に『被占領下の文学に関する基礎
的研究――資料編』(武蔵野書房、1995)、『被占領下の文学に関する基礎的研究――論考編』
(武蔵野書房、1996)、『敗戦期文学試論』(EDI、2004)などがある。
吉田裕久
1949年広島県生まれ。広島大学大学院教育学研究科教授、副研究科長。専門は、国語教育史研究、
国語科授業論。著書に『戦後初期国語教科書史研究』(風間書房、2001)、『陽だまり――教育・
国語教育への提言』(学校教育研究会、2005)などがある。
シンポジウム
被占領下の国語教育と文学――プランゲ文庫所蔵資料から
2009年4月27日印刷
2009年4月29日発行
企画編集
2007年プランゲ文庫福岡シンポジウム記録出版实行委員会
代表
横手一彦
発行
メリーランド大学図書館ゴードン・W・プランゲ文庫
The Gordon W. Prange Collection, University of Maryland Libraries
住所: 4200 Hornbake Library, University of Maryland, College Park, MD 20742, U.S.A.
メール: [email protected]
ウェブサアト: http://www.lib.umd.edu/prange/index.jsp
電話: +1 301-405-9348
フゟックス: +1 301-314-2447
DTP
五澤美智子
印刷
University of Maryland Printing Services
Fly UP