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柏木義円の国家主義教育批判

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柏木義円の国家主義教育批判
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柏木義円の国家主義教育批判
《研究ノート》
柏木義円の国家主義教育批判
坂 井 誠
柏木義円の天皇制国家への対峙は,明治 25 年の熊本英学校における奥村禎次郎の馘
首事件を発端にしている。教育勅語に準拠する教育実践以外を排除しようとする偏狭
な教育方針に疑問を呈し反発していく。柏木の主張する国家観の中核は,国家のありよ
うが「世界的大思想」
「世界的宗教」に導かれるものでなければならないとするもので
あり,普遍的原理のもとでの国家形成が必要であるとの見地に立つものであった。し
かるに,現実の日本の国家的様相は,天皇の権力の絶対性が強調され,国民の権利が
蔑ろにされていることが常態となっていた。教育が国民形成,国家形成に果たす役割
の大きさは古今かわることはない。そのゆえに,柏木義円は偏狭な国家主義教育への
傾斜に警鐘を鳴らしたものと考えられる。
本稿は,当時の著名な学者,井上哲次郎とのいわゆる,
「教育と宗教の衝突」論争,
加藤弘之との国家論争,さらに柏木の教育勅語観を考察することにより,柏木の国家
観の根拠を探ろうとするものである。
は じ め に
『柏木義円日記』明治 45 年 4 月 15 日条に以下のような記述がある。
大問題日本ハ特殊ノ国体ナリ,随テ特殊ノ倫理アリト云フハ日本ヲシテ世界ニ忌マ
レ,孤立セシムル所以ニアラザルカ。国民ヲ皇室ノ犠牲ト為シ,国民ヲシテ皇室ト
情死セシムル処以ニアラザルカ,教育勅語ト共ニ日本ノ存亡ニ関スル大問題也 1)。
この年の 7 月 30 日に明治天皇が死去する。その二週間前の同『日記』7 月 16 日条 2)に
も教育勅語を基礎とした倫理教育の設定の危うさを指摘し,
「我国ノ倫理教育ハ沙上ニ建
テラレ」ていると語ってもいる。
すでに明治 45 年段階にあっては日本の国家的方向性が確定し,日清日露戦争の結果,
国家権力の強大さと国民生活の難渋との陰影が明確になっていた。この史料から明治末
期の当面する国家的特徴が提示されている。柏木義円は日本の国家的在り様を以下のよ
うにみていた。
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社会科学 第 41 巻 第 2 号
① 日本は「特殊ノ国体」
「特殊ノ倫理」に支配されている国家であること。② 特殊の
「国体」
「倫理」を基調とした国家づくりを進めることにより「世界ニ忌マレ,孤立」化
を強めることになること。③ この「特殊の国体」
「特殊の倫理」さらに「皇室」
「教育勅
語」が一体となって国民に「犠牲」を強い,「情死」を強いるものとなっていること。
国民に「犠牲」「情死」を強いる「特殊」な日本の状況に対して,このままの在り方を
継続すれば難儀な状況の生まれることを危惧しての発言である。柏木のこの発言から,
日
本の「特殊」状況は何によって作られているのか。また,この「特殊」状況をどのよう
にすれば「世界ニ忌マレ」ることなく,
「孤立」することがなくなるのかといった課題が
措定されている。
本稿は柏木義円の国家観を,彼の教育体験(熊本英学校事件)と「教育と宗教の衝突」
論争,さらに加藤弘之との国家論争を通して考察するとともに,彼の理想とする国家と
はなにかをさぐることにある。
1 熊本英学校事件
1.1 熊本英学校
柏木義円が同志社英学校普通科を卒業するのは 1889 年(明治 22 年)6 月のことであり,
直後同志社予備校主任として教壇に立った。すでに彼はその以前に小学校教師の経験を
もっていた 3)。
1890 年(明治 23 年)10 月,同志社予備校主任から熊本英学校校長代理として赴任す
る。時にこの年の 10 月 30 日,教育勅語が煥発されていることは象徴的である。
柏木義円が熊本英学校の校長代理に赴任したのは同校の校長であった海老名弾正が日
本基督教伝道会社社長就任のため東京に在勤しなければならなかったからである。その
任期は,次期校長蔵原惟郭就任までの期間であった。
熊本英学校の誕生は以下の事情による。徳富猪一郎の主宰する大江義塾が猪一郎の上
京移住により閉校になるのは 1886 年(明治 19 年)9 月のことであった。熊本英学校の開
校は,大江義塾閉校を惜しんだ徳永規矩(徳富猪一郎の従兄)が同志を募って,基督教
主義による学校を熊本の大江に設立することを願ったことにはじまった。1887 年(明治
20 年),熊本英語学会として発足した。その趣旨は「正則熊本英学会」の広告に明らかで
ある 4)。徳永らは,「学問の必要」を説き,この熊本に「完全善良なる講習所」のないこ
とを惜しみ,同志社の卒業生・在校生の協力を得て英学校を創立することとなった。そ
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の英学レヴェルは「世間流布せる土音混合の英学と称する者の比に非るなり」と宣言し,
その目指すところの高さ,意気軒昂さをうかがうことができる。
「正則」とあるところか
ら,外国人教師による本格的英語教育が施されようとしていたことが判る。当該教師と
して,熊本にいた O.H.Gulic が考えられていた。この「熊本英学会」の後進が熊本英学
校である。その設立認可は 1888 年(明治 21 年)4 月。校長は海老名弾正,設立責任者は
浜田康喜であった。熊本英学校設立にあたり新島襄からも支援があった 5)。
1.2 熊本英学校事件
柏木が熊本英学校の校長代理として赴任して 1 年 3 ヶ月が経った。時に英国から帰国
した蔵原惟郭が正式校長に就いた。その就任式は 1892 年(明治 25 年)1 月 11 日に催さ
れたが,奇しくもこの日に事件がおこる。英語教師奥村禎次郎がつぎのような演説を試
みた。
本校教育の方針は日本主義に非ず,亜細亜主義に非ず,乃ち世界の人物を作る博愛
世界主義なり。故に我々の眼中には国家なく外人なし,況んや校長をや況んや今日
の来賓をや。予輩は只人類の一部として之を見るのみ 6)。
この就任式典の様子が掲載されたのが 1 月 12 日の『九州日日新聞』
,糾弾化するのが
22 日の同紙上でのことである。ちなみに,この『九州日日新聞』は国権党に与する御用
新聞であった。明治 25 年 2 月 15 日には第 2 回総選挙を控えていたことも事件化する誘
因となっていたものであろう。というよりも,民党派追落しの手段として奥村禎次郎演
説ないしは熊本英学校が利用されたものと考えられる。『九州日日新聞』をはじめとした
世論は奥村禎次郎の教員解雇を騒ぎ立てた。熊本県知事松平正直は,英学校に奥村の解
雇要求を突きつける。その理由は,教育勅語に基礎をおく国家主義教育に抵触し,奥村
の教員としての資質を不適格と断じたところにあった。
熊本英学校内部にあっては奥村の解雇要求に対して,受諾派と反対派の二派が形成さ
れる。受諾派は,一応の不服申し立てをおこなうが,文部省に事情説明とその判断を仰
ぐこととなり,渡瀬常吉を上京させた。文相大木喬任のいう国家主義を強調しない教員
は不適当であるとの意向に沿って,蔵原・渡瀬らは知事命令を受け入れる。その受諾理
由は極めて形式的なものである。
知事の職権を重んじ其の命令を奉ずるのみ(中略)知事は天皇陛下の信任し玉ふ所,
故に日本臣民としては一度も国家の法律を破らず其職権を重んじ命令を奉ぜざるべ
からず 7)
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との理由であった。受諾派は,知事命令の正否検討を棚上げし,
「知事は天皇陛下の信任」
するところであるがゆえにこれへの臣従を約束するものであり,学校側の主体性を顧慮
することも無く完全に屈服することとなった。渡瀬らには組織維持を第一義とする態度
が全面に押し出されており,なんら建学理念に立ちかえって検討する態度はうかがえな
い。ちなみに,海老名弾正はこの件について,冷笑している様子すらある 8)。
他方,反対派の動向はどうであったのか。反対派は,浜田康喜・柏木義円・奥村禎次
郎ら 15 名の教員がいた。彼らの意向は,柏木の筆による「開書」として『女学雑誌』に
掲載された。この年の 2 月に発表されていることから,柏木らの反応は迅速であったと
いえる。長文に及ぶが引用しよう。
本県知事は卒然我校に,奥村氏を解雇すべしと命令仕候,依て我校は其理由を伺ひ,
同氏の演説は違勅と認められ候と質し置候,固より違勅と認めしが其理由なるも,天
下の公論を憚りて,明白に違勅とし得るや否や刮目して相待居候,若し違勅と指令致
し候はゞ,これ天下公論の怱にす可らざる儀と存候,我校の覚悟は,理由分明ならざ
る限りは,特に違勅と指令致候はゞ,断然其命を奉ぜざる積りに御座候,されば県庁
は必ず,我校を解散致候は必然と存候(中略)吾人軟骨なりと雖とも,此膝屈す可
らざるの気節は有之候,
(中略)今回此膝一たび屈せば,我神聖なる主義を屈する儀
に御座候,真理を違勅と宣言せられて甘ずる事に相成候,偽善者の為に,我党教育
の主義を挫折せらるれば,如何にしても忍び難き儀に御座候,今や知事と保守者流
と相結託し,我校を斃さんと致居候は明かなる事に御座候,保守の妖雲天日を掩ふ,
熊本県下に在て,真理の光を現はすこと,今日遽かに期す可らず,今日の事頼む所
は,天下の公論のみ,国家の問題政治の問題を論ぜしに非すして,唯博愛の点より
論ぜしものゝ,語句を捕捉して,違勅と云ひ,斯る事の為に,知事たるもの,直に
私立学校に手を容るゝ儀に候はゞ,私立学校たるもの実に危険の境遇に立つものと
可申,
(中略)実に今回の事たる,基督主義私立学校の消長に関する大問題と存候へ
ば,何卒天下有志の勢力を聯合して,大運動致度不堪希望候,
(中略)今や空く偽善
者の為に,国家に不忠と呼ばれ,乱臣賊子の名を負はせられて,蹂躙せられんとす,
唯衷心慰むる所のものは,正義公道の必勝と,天下公論のあるのみに御座候 9)
「開書」の主張を整理すると以下のようになろう。①奥村の解雇理由は「違勅」演説の
ゆえであるというが,彼の演説は本当に「違勅」であるのか。②「開書」中,頻繁に「違
勅」の語がでてくるが,一体何を以て「違勅」というのか。その理由が分明ならざる限
り,これに従うことはできない。「神聖なる主義」「真理」「我党の主義」「博愛」を掲げ
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ている我々にしてみれば,これを「違勅」といわれ,その語だけで膝を屈することはで
きない。③知事が「違勅」を理由に,私立学校,就中,基督教主義の私立学校への圧力
をかけてくるならば,その存立問題にかかわる。真理探究を目指す教育や博愛精神を説
く教育のどこが誤っているのか。基督教主義に基づく教育思想が誤りで,教育勅語の精
神が絶対的真理を有するなどとどうして言えるのか。
「開書」全文から知事命令にたいする憤懣が伝わってくる。同様の趣旨が「吾人の心事
を明にす」10)にもうかがえ,不羈独立の私立学校として,自由人民として,理由不文明
の命令に服するに忍びないと訴えた。校長教員生徒たちが知事命令を受け入れるべしと
いうが,
「吾人は断して命令に服する能」ずとして,反対派の教師たちは受諾派の仲間た
ちと袂を分かつこととなった。
この事件の投げかけたものは何か。ひとつに,
知事が基督教主義に基づく教育が教育勅
語に違背するとして排除にかかる。他方,柏木らは教育勅語に与しない教育を毀しにか
かる行為は妥当性を有するものかと問いかける。すなわち,権力と教育のありようが問
われることとなる。第二に,奥村発言が問題視されることの意味。すなわち,言論の自
由・思想良心の自由・信仰の自由など「内心の自由」が蹂躙される国家・社会とは何か。
国家と個人の関係はどのようでなければならないかが問われることとなる。
熊本英学校事件のもたらした問題は,
「はじめに」に記した『柏木義円日記』明治 45 年
4 月 15 日条の「メモ」に通底していることがみてとれる。この事件から 20 年,柏木の脳
裏から上述の思念と疑問が離れることのなかった証しであるといえよう。
2 柏木義円の国家観
2.1 「惑を弁じて我党の主義を明にす」
まず,
熊本英学校事件との関連から柏木の国家観の枠組みを捉えることとする。上述の
「開書」からも柏木の国家観の骨格が浮き彫りにされている。柏木は,基督教主義・博愛
主義を基本方針とする教育活動が国家主義に馴染まないとして,これを強権的に蹂躙す
るありかたに否定的見解を示した。本節では,熊本英学校事件の最中にしたためられた
「惑を弁じて我党の主義を明にす」から柏木の国家観を確認したいと思う。
熊本英学校事件は,国家権力の前に一私学の基本方針と組織,さらに個人の「内心の
自由」が蹂躙されていく事実を露呈させた。柏木はこの事件を通してしばしば「個人の
尊厳」を強調し,「国家と個人」の関係について語ることとなる。
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「惑を弁じて我党の主義を明にす」11)の冒頭は「国家と個人」の関係について述べてい
て興味深い。
個人の尊厳決して国家の下に非るなり。国家遂に此個人に同化せざる可らず。個人
豈軽からんや。個人にして儼然自重決して国家と雖ども侵す可らざる程ならば其国
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家は実に九鼎大呂の重あるなり。個人軽ければ国家亦軽し。国家必ず個人の尊厳を
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認めざる可らず。教育は必ず個人の尊厳を発揮して,大に之をして自重せしめざる
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べからざるなり。(傍点はママ 引用者)
個人と国家の軽重を語る場合,個人が最重要であり,国家と雖も個人の尊厳を侵害し
うるものではない。個人を軽く扱う国家は,そのような国家自体軽いものである。本来,
国家なるものは「個人の尊厳」を容認しなければならない。教育の目指すものは,個人
の尊厳を発揮せしめるところにある。柏木は,
「私心を去て公道に就き,身を献して国家
に殉ずるの覚悟なきものは,これ個人の神聖を重んずるものに非るなり」という。
「国家
と個人」の関連性については,国家が「個人の尊厳」を容認するならば,国民はその国
家に対して私心を捨てて献身しうるものという。柏木が,個人を重視するゆえんは何か。
人間は本来,神の「影像」を映したものであるとの認識を有していたことと関連する。
明君・賢相・聖賢・君子・智者・学者・志士・仁人の良智良能は即ち是皇天上帝の影
像なり。国家の性格は即ち此影像の顕章せしものに外ならず。於是か国家の天職始て
顕る。国家の天職は即ち皇天の意思なるなり。されば個人は国家に統一せらるゝのみ
ならす,亦必す其国是とする所。其国家の天職とする所に同化する所なかる可らず。
国家をして其天職を全ふせしむる為には,身を以て之に殉する献身犠牲的の精神な
かる可らざるなり。
明君から仁人にいたる良智良能は,皇天上帝の影像であり,国家はこの皇天上帝の影像を
顕彰するものでなければならない。その意味で国家は,皇天上帝の意思を具現する国家
でなくてはならず,かかる国家に対して個人は統一同化されなければならない。柏木は,
ここに国家の目的は「皇天上帝」の意思を成就すること,
「個人の尊厳」を擁護し,これ
を推し進めていくところにあるとした。そのような国家に国民は期待もし,献身的にな
るものである。さらに,
「太陽は太陽系の中心なるも亦必す宇宙の大中心に帰向せさる可
ら」ざる存在であると同様,
「国家は個人の中心なりと雖ども亦必宇宙の大中心に帰向せ
さる可らさる」質をもつ。このことは「将来宇内の大勢は宇内を一貫せる理想の下に国家
に同化せしめんとする」ことと同一ではないか。
「国家に同化する所なき個人は国家に生
存することを得す,宇内に同化せざるの鎖国退守主義は第廿世紀の天地に国家を維持す
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るの道に非るなり」。この論理を図式化すると,個人⇔国家⇔宇宙となろう。そしてこの
図式を,上帝・国家・個人の関係で捉えるとき柏木は「上帝の意思個人に在りこれ個人の
特質なり。個人を統一する国家の性格は即ち此特質の反映なり。個人の特質重せざる可
らず。上帝の意思国家に在りこれ国家の特質なり。国家を統一する宇内の理想は即ち此
特質の反映なり。国家の特質重せざる可らず。上帝の意思宇内に顕れて国家之に帰向し,
国家に顕れて個人之に帰向す。真理人の内に在り,又人の外に在り。宇宙主義,国家主
義,個人主義共に尊重」すべきであるという。
個人や国家が,上帝の意思を反映するものであるならば,それを重んずるべきであるこ
とが期待される。しかるに,現実の国家は,柏木の描く国家像とは遥かに遠く,個人を
もって国家の機械視し,国家の権威を濫用して個人の神聖を蔑如しているのが実相であ
る。このような国家のあり方は,国家そのものを自壊させていくものと見做している。柏
木が,
「国家を重んして個人を重んし,個人を重んして国家を重んするの精神を発揮せん
ことを欲する」所以は,上帝中心主義を確守するからである。上帝は「真理の活現」
「道
義の活象」であり,
「真理活現して国家に在り,道義活現して個人に在り,共に尊重せざ
る可ら」ざる存在である。
ここに柏木義円の国家観の骨格が見えてくる。神の意思を体現する国家であるか否か
が分岐点となる。別の表現をするならば,国家のあり方が,
「個人の尊厳」を容認するの
か,あるいはこの「神聖」を蔑如するのかが分水嶺となる。彼は,前者の姿をとる国家
を是とし,後者の仕方をとる国家を否とした。
2.2 加藤弘之との国家論争
(1)加藤弘之「仏基両教の急處を衝く」
つぎに加藤弘之との国家論争から柏木の「国家観」を浮き彫りしよう。国家主義を標
榜する加藤と,個人主義に基礎をおく柏木の議論は興味深い。
加藤弘之は明治 33 年,
「仏基両教の急處を衝く」12)を著し,仏教・基督教,就中,基
督教を排斥すべく論を張った。他方,加藤の論文を読んだ柏木が手厳しい批判を加える
ことになる。
まず,加藤の言うところを聴こう。以下のような趣旨である。
① 世界教としての仏基両教は,国民教のように国神を奉じてその国の為に教えを布く
ものではないところから,
「全く国家的性質を脱して,実に世界的性質を帯ぶるもの」で
ある。
「慈悲を垂るゝ所の仏を奉じ,或は全世界万物の創造主たる唯一神を奉」ずる教徒
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は「全く国家的性格を脱して」「各国主権の下にありて,其臣民となるが如きは」その本
旨に悖るのではないか。要するに,愛敵の精神は全く国家の存在と相容れるものではな
く,この精神を有する宗教家は同時に国民たる事を得ない。
② 仏基両教は慈悲忍辱・博愛をその教えとしているが,その「教旨」を守ることが困
難になりうることがある。たとえば,
「若しも自国の敵国に対する行為が,仮令甚だ暴戻
無道なる場合にも,猶此暴戻無道なる行為を援けて以て正義なる敵国を倒すことに努め
ざるべからざる」事態が生ずる。仏基両教の信者はいかなる態度をとるのか。
「凡そ国家
の臣民たる者は,一意専心国家に忠ならざるべからず,義ならざるべからず」との前提
にたつならば,国家の臣民は,絶対的に国家の安寧幸福の為に尽さなければならない。
③ 仏基両教は現世俗界を軽視している。釈迦,基督は寂滅,天国を目的とし国家思想
を有するものではない。元来,印度猶太の人民は国家的思想の甚だ乏しい人民である。釈
迦,基督の理想は個人の霊魂救済にあって,毫も国家発達には意を払わない。
④ 国家思想と世界教の仏基両教の思想とは氷炭相容れざるものである。両教教徒が教
旨を遂げようとするならば,彼等は国家の制御を脱して,国家外の人民にならなければ
ならない。仏基両教の信者が,専ら国家臣民たるの責務を尽さんとするならば,教徒た
るの地位を去り,純乎たる国家の臣民とならなければならない。しかしながら,国家臣
民の地位を去って純乎たる教徒となることは至難の事柄である。
⑤ 仮に我国が他国と戦端を開くことがあり,その義が彼の国にあり不義が我国にあっ
た場合,両教の信徒たちは如何なる態度をとるのか。我国の非を悔い,戈を倒し敵の軍
門に降るを肯んずるか。あるいは,軍門に降ることを恥辱として戈を取って闘う側にま
わるのか。前者を採るならば,信徒たちは教旨に忠であるけれども,国家に不忠となる。
また,後者をとるならば彼等は教旨に不忠,国家に忠を尽くすこととなる。信徒たちの
「二種の資格と二種の責務とは,到底相矛盾せざるを得ざるにあらずや」。
加藤弘之の所論は,国民・個人の尊重は二の次に追いやられており,国家存在を第一
義的に捉えているところにその特徴がある。したがって,国民(臣民)は国家の手段と
して把握されている。ゆえに,
「国家の臣民たる者は,一意専心国家に忠ならざるべから
ず,義ならざるべから」ざる存在であることとなる。「自国の敵国に対する行為が,仮令
甚だ暴戻無道なる場合にも,猶此暴戻無道なる行為を援けて以て正義なる敵国を倒すこ
とに努めざるべからざる」ことを強いる。国家の存在を前提とし,二次的に国民が存在
するとの認識が貫徹している。さきの柏木の「国家と個人」の主張とは全く逆の立場に
あることは明らかである。
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(2)柏木義円「加藤文学博士に答ふ−所謂国家主義の妄謬を排す−」
かかる加藤の見解に対して,柏木は真っ向からの批判を展開した。
「加藤文学博士に答
ふ−所謂国家主義の妄謬を排す−」
「対加藤博士論戦」
「加藤文学博士の駁論を駁す」13)
がそれである。加藤への反論としては「加藤文学博士に答ふ−所謂国家主義の妄謬を排
す−」に詳述されているところからこれを中心に検討していくこととする。
「加藤文学博士に答ふ−所謂国家主義の妄謬を排す−」の冒頭は,加藤の論旨が「偶々
一部教育社会に流行して我国民教育の前途を誤りつゝある思想を代表するもの」である
と断じ,
「此の編を草」する目的は「其の妄謬を排する」ことにあり,単に加藤博士のた
めにせんとするのではなく,
「世の病的国家主義を排せん」と欲したからであるとしてい
る。
ちなみに,明治 20 年代から 30 年代にかけて国家主義思想の台頭が顕著であった。教
育,学問,思想・言論の世界において国家主義の圧力が蔽う。その事例を挙げると,大日
本帝国憲法の発布(明治 22 年),教育勅語の渙発(明治 23 年),内村鑑三不敬事件(明治
24 年),学校に下付された御真影と教育勅語謄本を校内の一定場所への安置指令(明治 24
年)
。これはのちの奉安殿・奉安庫の設置へと連なる。熊本英学校事件・久米邦武筆禍事
件(明治 25 年),
「教育と宗教の衝突」論争(明治 25 ∼ 26 年),日清戦争(明治 27 ∼ 28
年)
,尾崎行雄共和演説(明治 31 年),治安警察法公布(明治 33 年)と枚挙に遑がない。
日清戦争の勝利は,国民意識を国家主義的方向へ傾斜させたことは否めない。
柏木の戦いはかかる状況のなかでのことであった。加藤の論旨にそって柏木は反論を
加える。
第一点について。パウロの言葉を引用しながら,言語,学術,信仰のいずれをとってみ
てもその根底に「愛」がなければ一切取るにたらぬものである。
「善の実践は愛にあり」
「愛は是れ道徳の極致なり」として「愛敵」が愛の極致,人格の極致であるとした。とこ
ろが,加藤は「愛敵」の精神は国家の精神と背理するものとの認識を示すが,本来「国
家は理想的社会を来たらす機関」ではないのか。グラッドストーンに「政治の目的は善
を為すに易く悪を為すに難き社会を造るに在り」との言葉があるが,まさに「善を為し
易く悪を為すに難き社会」が理想の社会であり,国家はこれへの努力を怠ってはなるま
い。これを宗教上の言葉でいえば,
「神の国を致す機関」といえよう。だとすると,
「国
家本来の目的と宗教の精神」は決して背反するものではない。宗教上の「愛」の表れが
「個人の尊厳」を容認するにあるととらえ,国家の理想が人格尊厳の擁護保障を目指すも
のであるならば,国家と宗教とは乖離するものではない。
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第二について。国家の暴戻を当然のこととして受け入れ,
国民たるもの国家に絶対服従
すべき存在であるとの考え方には宗教家のみならず良心を重んずる人々にあっては誰も
追随するものは居るまい,と柏木はいう。国民は,国家の安寧幸福の為に尽さなければな
らないとしても,その判断基準は「自家の良心自家の判断自家宗教の光に依て尽す可き」
質のものである。仮に,国家が戦端を開き,これを自己の良心が非とした場合,断固とし
てこれに反対するものであり,
「断じて兵器を執るを肯ぜざるに何かあらん」。戦争におい
て,戦勝のみが国家の光栄ではない。「寧ろ屈辱を受くるも国家の公義を維持するが,反
て国家真正の利益たることあり」。その判断は,宗教上の問題でもあり,良心の事柄に属
する問題である。だからこそ国家においては,個人の思想・良心・信仰の自由が尊重さ
れなければならない。
第三について。ユダヤがその国家を滅亡させた理由の一つは,
「史上比類なき大聖を判
して之を最悪の罪人となし,敢て之を磔刑に処して国家として大罪を犯した」ところに
あったこと,二つに,
「排外の念強く,偏頗に国家の私利を主張」したところに求めるこ
とができる。
「罪悪を犯し私利を張るの国家は遂に滅亡せざるを得ず。国家思想の誤謬亦
恐る可きに非ずや」と厳しい。イエス・キリストを十字架につけ,国家を私利私欲のため
に動かしたところにその滅亡があるとした。換言すれば,真理を蔑ろにし,私利私欲に傾
く国家は大きな間違いを犯すとの認識を示す。かかる指摘は,
いつの時代いかなる国家に
も当て嵌まる言葉である。「敢て国家の非を遂ぐるを許すが如き国家思想に至ては,頗る
不健全なる思想と謂ざるを得ざるなり」との言葉は,天皇制・教育勅語批判をも含意し
ていよう。私利私欲による権力誤用は,国家をとんでもない方向にすすめていくもので
あるとの警句と解釈するならば,後年の日本の針路を予見しているかに思える。
「国家よ
り大なるものを認めざるの国家思想は,国家を誤る萎縮せる思想と謂ざるを得ざるなり」
との指摘は正鵠を射ている。かかる認識は後述するスピノザの国家意識の一端と共通す
るものを秘めている。
第四について。加藤の論に従えば,臣民たるものは一意専心,絶対的に国家のために尽
くすべき存在である。しかるに,基督教は一視同仁たる神の意志を守るべきものである
ならば,
臣民と宗教家は相容れないものとなるという。果してそうか。宗教を受容できな
い国家は,学術哲学も受け入れられないのではないか。先年,久米邦武事件が起きたが,
これは「俗吏が頑冥なる神道者流の躍起運動に動かされて,国家主義の名の下に思想の自
由を圧伏した事実に非ずや。(中略)堂々たる我帝国大学が俗権の為めに学問の独立を蹂
躙されたる怪現象に非ずや」と断じ,学問の世界において絶対的に尊貴なるものは「真
柏木義円の国家主義教育批判
67
理」探究以外に何あろうか。当然その前にある国王・帝王・ツァーリ・女王といえども
学術界においては何等のオーソリティーでもない。学術界の真理の結果が,国民の安心,
人心を撹乱動揺せしめようが,倫理の基礎を打毀し無道に走らしめようが,国家の治安
を乱そうが,政府の転覆となろうが,学者として躊躇しうるものではない。「学術亦決し
て国家の絶対権に盲従するものに非ざるなり」
,
「二十世紀の世界に立て堂々雄視するの
国家は,必ずや大宗教大思想を容れて綽々余裕あるの国家ならざるを得ざるなり」。
最後に,第五について。欧米の学問に精通していたと思われた加藤博士が旧意識(
「忠
義に屈託する凡想」)に囚われていることに意外の感ありと揶揄しながら,加藤の提示に
は何等の痛痒を感じさせるものではないという。不義の戦については,徹底して非戦を
唱え和議を提唱すべきである。「戦勝必ずしも国を興さざるなり。屈辱して道を伸ぶ,反
て国家の光栄たることあり」。しかるに,加藤博士はかかる考え方は「国家に不忠」であ
るというのであれば,博士は封建時代専制的蛮想を脱していないのではないか。
「博士尚
国家の絶対権を主張して,良心を屈し理性を屈せんとせらるゝ」意識に鉄槌を下そうと思
うとして加藤批判を続ける。加藤の言を比喩すれば,
専制国家の蛮的軍隊が敵軍に侵入す
るにあたり,司令官が国家の絶対権を振りかざし,
「民家焚く可し」
「賈肆掠む可し」「婦
女輪姦す可し」
「良民虐殺す可し」と厳命されたならばどうか。博士はその国民の義務と
して唯々諾々その命令に従うのか。仮に,恥を知り義を重んずる兵士が死を以てこの暴
令に従わないならばどうか。博士は,この兵士をして国家に不忠なるものとしてみるこ
とができるか。
この事例はまさに「国家」と「国家より大なるもの」を併置し,いずれが重いかの判
断を迫るものである。柏木の国家観の根幹に関わるものと考えられる。長いけれども引
用したい。
来らんとする世紀に於て大に振興するの国家は,必ずや国家を超絶せる世界的大思
想に由て鼓吹せらるるの国家ならざる可らず。世界的宗教は,
是れ国家を超絶せるの
大思想にして,又国家を活動進歩せしむるの生気なり。国家は屡々此の如き思想と
相衝突することに由て其国論を訓練せられ,其国是を拡大せられ,斯くて大に其開
進の気運を促さるゝものなり。其衝突に得堪へずして,柔弱なる偽宗教を得て己に
従属せしめんとするが如き国家は,是れ侏儒の国家なり,国家に隷属して其頤使に
甘んずるが如き宗教は,是れ阿世の偽教なり。我邦一派の学者教育家が精神的に国
家至上主義を唱るが如き,是れ徒らに国家の為めに空ら元気を張りて,その実国家
を萎縮せしむるものにして,国家の前途を誤るものと謂ざるを得ざるなり。吾人は
68
社会科学 第 41 巻 第 2 号
敢て国家の為めに剛健なる宗教を宣伝して,国民をして其指導に従はしめんと欲す
るものなり。吾人は国家に対して宗教の権威を張て憚らざるものなり。所謂国家至
上主義と称して人の心身を挙て之に隷属せしめんとするが如き,吾人は断々乎とし
て之に反対せざるを得ざるなり。国家主義者若し之に憚らずば,敢て来て迫害せよ。
吾人は国家本来の真意義を発揮せん為に,此の如き血迷ふたる国家主義者と格闘す
るを辞せざるなり 14)。
柏木においては,20 世紀にあって「大に振興するの国家」は,国家を超絶する「世界
的大思想」
「世界的宗教」を基礎においた国家でなければならないという。その理由は,
「国家は屡々此の如き思想と相衝突することに由て其国論を訓練せられ,其国是を拡大せ
られ」
「其開進の気運を促」しうるからである。
柏木の国家観の特徴のひとつは,
「個人の尊厳」を擁護する国家を是認するところにあ
る。具体的には,思想・信仰・良心の自由を保障するところにあると考えられる。
17 世紀から 19 世紀にかけて,ヨーロッパではいわゆる「古典的自由主義」が完成する
が,その骨格は,私的所有権保障,思想・信仰・表現の自由,権力分立の三原則であろ
う。内心の自由を保障する前提には,寛容の精神と国家の中性性を前提とするところに
ある。
ところで,柏木義円の国家観の根底にある意識を近代西洋思想史の流れのなかに比定
するならば,スピノザの意識に共通するものがあるように思える。スピノザの語る国家
目的や国家のあり方とは以下のようなものである。
国家の究極目的は支配することでなく,又人間を恐怖に依って制御して他者の権利
のもとに立たしめることでもなく,むしろ反対に,各人を恐怖から解放し,かくて各
人が出来るだけ安全に生活するやうにすること,換言すれば存在と活動に対する彼
の自然権を自己並びに他者を害することなしに最もよく保持するやうにすることで
ある。敢て言ふ,国家の目的は人間を理性的存在者から動物或は自働機械にするこ
とではなく,むしろ反対に,人間の精神と身体が確実にその機能を果し,彼ら自身
が自由に理性を使用し,そして彼らが憎しみや怒りや詭計を以て争ふことなく,又
相互に悪意を抱き合ふことのないやうにすることである。故に国家の目的は畢竟自
由に存するのである。15)
スピノザの言う究極的国家目的とは,
「存在と活動に対する彼(= 人民・個人 引用者
注)の自然権を自己並びに他者を害することなしに最もよく保持するするやうにするこ
とであ」り,
「人間の精神と身体が確実にその機能を果し,彼ら自身が自由に理性を使用
柏木義円の国家主義教育批判
69
し…相互に悪意を抱き合ふことのないやうにすること」にある。国家の目的とは,
人をし
て「自由に存」せしめることにあるという。しかるに国家が強大化し,国民・個人・人
格を機械視し支配するとき,彼らの存在・活動・自然権を蹂躙するものとして機能する。
そのような国家は,国民をして「憎しみや怒りや詭計を以て」争うこととなり,
「相互に
悪意を抱き合ふ」国家・社会の到来となる。すなわち,「自由」の侵害が支配する国家と
なる。スピノザのかかる認識は,日本の国家的様態と対峙する柏木の意識と通ずるもの
がある。16)
柏木に話を戻そう。「世界的大思想」「世界的宗教」を基礎におく国家観を提示し,そ
れを理想とした柏木は国家制度のありようを,西洋諸国のそれに範を採っていることは
否めない。西洋ブルジョア国家は,立憲主義に基礎をおく国家を形成させ,議会制度を
発展させた。国によってはそのシステムを立憲君主政体・議院内閣制・大統領制などを
それぞれに採用し発展させる。これらの国家はいずれも,民意を反映させようとすると
ころに共通性をもった。国家は民意を受容する度量が必要であるし,そのような国家に
国民は期待もよせ呼応するものである。また,かかる「国家と国民」の相互関係が国家
を鞏固にするものであるとの認識をもっていた。しかるに,日本の国家的実態をみると,
形式的には,立憲君主制・代議政体・内閣制度を用意したが,国民の要求に基づくそれで
はなく,トップ・ダウンによるお膳立てのシステムであった。柏木の言を借りるならば,
その国家は「偽宗教」を振りかざし,それに強権的に従属させようとするものである。こ
のような国家は「侏儒の国家」であり異形でもある。しかも,
「侏儒の国家」を積極的に
是認し追随する国家至上主義者も多数いる。偽而非学者や偽善的教育家がそれである。柏
木はかかる存在を一蹴されるべきものであると見做した。そこで,
柏木義円は日本的政治
状況を変革するのに「国家の為に剛健なる宗教を宣伝」することを念頭においた。この
「剛健なる宗教」とは基督教仏教の普遍的宗教であり,柏木にあっては基督教をさしたこ
とは当然である。国民の倫理道徳の根幹を「教育勅語」ではなく,普遍性をもつ宗教道徳
に設定しようとする。新島襄は,
基督教主義を根幹においた教育による人材育成をその目
標にしたが,柏木の場合も個人の依拠する思想的根拠を基督教に求めようとしたのであ
る。最後の「血迷ふたる国家主義者と格闘するを辞せざるなり」の言葉に柏木の覚悟が
みえる。加藤はこの論争を通じて,
「国家を眼中に置かず只管基督教の隆昌をのみ祈り居
る不忠不孝の行為を何とも思わぬは当然のことである。実に恐ろしき人物である」17)と
柏木をみなしたのである。
70
社会科学 第 41 巻 第 2 号
3 柏木義円と教育勅語
3.1 井上哲次郎との論争
つぎに「忠君愛国主義者」の「謬見を妄動する」事例として「教育と宗教の衝突」論
争および教育勅語観を中心に柏木の意識を検討しよう。
柏木義円は教師としてその社会的スタートをきったが真に教育の重さを感得したのは
熊本英学校事件を通してではなかったろうか。この事件を通して「国家と個人」
「教育と
個人」
「国家と教育」の相互関連性を考えざるをえなかったに違いない。本節で扱う「教
育と宗教の衝突」論争は教育宗教問題に限定されるものではなく,すぐれて柏木の国家
観を知りうるうえでも重要な論争であった。
この論争は熊本英学校事件後,同志社に復帰した柏木の「事件」の余熱冷めやらぬ時期
に展開された「教育勅語」をめぐる教育・宗教・国家論争であった。すでに井上は『勅語
衍義』を著し(1891 年),その解釈をほどこしていた。その意味では,国家主義教育政策
の代弁者と基督教主義を教育の基礎に置こうとする一教師との論争である。政府は,
天皇
制国家の確立を目指し,中央集権化を推進する。当然,教育政策にもその意図が反映され
る。その基本方針が「教育勅語」であり,国家と教育とが直結した形をとることになる。
(1)
「教育と宗教の衝突」
井上哲次郎によると,
「教育と宗教の衝突」は『教育時論』の記者の質問に答えたもの
が文章化され,
『教育時論』第 272 号に掲載されたものである。そして,論争になるのは,
これを読んだ基督者たちが反論を試みたことにその発端があると記している。井上への
反論の烽火をあげたのが横井時雄,本多庸一,柏木義円らであったという 18)。柏木義円
も同様に『教育時論』を読んだことを語っている 19)。教育勅語煥発後の教育界は,
「曲学
阿世之徒,玩弄偏見之輩」が「漫に其の聖旨を曲解し,囂々相和して以て己に異なるもの
を抵排し,
或いは聖勅を孤柱となして改進の潮勢に抗せんと」する状況が蔓延しているこ
とに柏木は危惧を呈した。他方,井上は「耶蘇教は元と我邦に適合せざるの教」と断じ,
頻発する不敬事件の事例を挙げ(明治 24 年には内村鑑三不敬事件,明治 25 年には熊本
英学校事件,八代高等小学校事件,山鹿高等小学校事件が挙げられる)
,例えば,内村鑑
三不敬事件では,その顛末を記したのち,耶蘇教は唯一神の立場を採り,他神のその領
分に併存することを許さない宗教であるとし,次のように指弾した。
我邦は古来神道の教ありて,神の多きこと実に千萬を以て数ふ,其最大の神たる天照
大神は実に皇室の祖先なりと称す,然かのみならず,歴代の天皇は皆亦神として尊
柏木義円の国家主義教育批判
71
崇せらる,然かのみならず,倫理に関する教えも皇祖皇宗の遺訓と見做さる,是れ
現に我邦の国体の存する所とするなり,然るに耶蘇教徒の崇敬する所は,此にあら
ずして他にあり,他とは何ぞや,猶太人の創唱に係る所の神に外ならざるなり,余
は今耶蘇教徒に対して神道者になれと勧むるにはあらず,此には単に耶蘇教者の国
体を損傷すること多き所以を解釈するに止まるなり。20)
井上は,一神教としての基督教を否定し,天皇の神格化に連なる天照大神への信仰のみを
容認するとの立場を堅持し,それを前提として論を進める。井上は,基督教徒は愛国の
精神に乏しいと揶揄し 21),勅語の精神と耶蘇教とはその趣を異にすると語り 22),耶蘇教
は天国を立てんことに力を注ぐが地上の国家繁栄を目的とするところがないとした 23)。
(2)「勅語と基督教」
井上哲次郎の「教育と宗教の衝突」に対して,柏木は「勅語と基督教」
「勅語と基督教
(井上博士の意見を評す)」
「再び井上哲次郎氏に質す」
「教育宗教の衝突」
「勅語濫用の弊
衝破せざる可らず」で応ずる 24)。ここに「論争」化することになる。いずれも井上に対
する反論であるが,前者二編が詳細であることから,この二編を中心に検討したい。
柏木は「勅語と基督教」のなかで井上哲次郎の談話要旨を以下のようにまとめている。
(一)耶蘇教の道徳は無国家的なり,是れ勅語の道徳と耶蘇教の道徳と互に其の趣を
異にする一個条なり。(二)耶蘇教は現世を見ること甚だ軽く,従て現世の事物を賤
しみ軽ずるの情を生ず。此の点に於ても,
勅語の精神と耶蘇教の精神とは頗る趣きを
異にせざるを得ず。(三)耶蘇教の博愛は墨子の兼愛と均しく無差別的の愛にして,
勅語の愛は差別的なり。(四)耶蘇教は忠孝の二徳に頗る冷淡なり。而して実に勅語
道徳の精髄はこの二徳に在りて此の二徳は日本支那の道徳に於て最高と立てたるも
のなり云々。25)
テーマ的にいえば,井上は「基督教と国家」
「基督教と現世」「基督教と博愛」「基督教と
忠孝」を問題とした。柏木はこの四点に反論を加えていくが,
「忠孝の精神と基督教の精
神との関係を論述し,基督教は決して忠孝の道に乖戻」するものでないことを論じ,
「而
後徐ろに項を逐ふて博士の所論を査察せん」26)とした。
柏木はその論説「勅語と基督教」の全編を「基督教と忠孝」についての記述に充てて
いる。以下のように語る。
宇宙に高潔美麗なるものが多くあるけれども,とりわけ人の道念ほど高尚美麗なもの
はない。その所以は,敬虔の念,尊崇の念,畏敬の念,献身的忠義の念があるゆえであ
る。人は敬虔の動物である。人の品位は実に其の敬虔の念あるか否かによる。人の品位は
72
社会科学 第 41 巻 第 2 号
発達無限である。そして其の発達とは要するに敬虔の念の発達に外ならない。人は父母,
長上を尊崇することを知り,人智の大小によって大主小主を崇事するものである。
「忠孝」
は君父に対する臣子のつかえる道ではあるが「人間の諸徳を統ぶるの徳」ではない。では
崇敬の核となりうるものは何か。人間の道念は完全円満かつ意識生命ある実在者を畏敬
するものでなければ満足しうるものではない。この実在者とは,孔子の畏敬した皇天上
帝であり,ソクラテスが畏敬した皇天上帝であり,イエス・キリストが天父としてつかえ
た独一真神である。彼らの本領は,皇天に敬事する敬虔の念にある。この敬虔の念のなか
に孝悌,忠信,愛国などがあって諸徳が包含されているのである。君に仕える至誠あるも
のは天を敬する至誠があるはずであり,天を敬する至誠あるものは君に仕える忠孝の念
が厚篤である。逆に君に媚びるものは天をも敬せざるものである。また,良君の臣民に
対する態度として,理非を問わず盲従を強いることは避けるべきで,臣民の道を重んじ,
道に由ってこれを導いていくことが肝要であろう。このような君臣関係が成立すること
により,国家や君の地位が磐石なものになろう。
しかるに現在の状況は敬虔の念の発達を阻害する要因が存在する。ことにその阻害要
因が教育界に充満しているとみなし,横行する偽而非忠孝主義者を教育界から排除すべ
きを厳しい口調で迫る。
徒に既往忠孝の事蹟に拘泥して,其の大いに完全円満最高至聖の存在者に向て発達
せんとするを嫌ふは,果してコレ忠孝を重んずる所以なるか。
(中略)敢て俗権の声
援を借り,人心の狭隘を奇貨と為し,人の理性を圧伏して此の念の発達を沮遏せん
とするもの滔々教育社会に飛揚するを見るは,実に咄々怪事に非ずや。
(中略)甚し
ひ哉,偽善之徒の尊貴なる名に由りて世を誤るや。今や思想の自由を妨ぐるものは
忠孝の名なり,人の理性を屈仰するものは忠孝の名なり,敬虔の念の発達を阻害す
るものは忠孝の名なり,偽善者の自らを飾るの器具は忠孝の名なり,此の奇々怪々
なる現象は専ら教育社会に在るに非ずや。敢て勅語を以て君父の上に最上者を置く
を排するの具と為すは何等の諂諛ぞ。コレ決して聖君慈父の意に非ざるなり,コレ
大いに勅語の御精神を誤るものなり。我が教育界を革新せんと欲するものは,先づ
大いに此の謬想を教育界より駆除せざる可らざるなり。
柏木はここに「忠孝」観念について一つの答えを出している。本来の「忠孝」とは,
人
の「敬虔の念」に裏打ちされたものであるべきで,軽薄皮相な「忠孝」はかえって「個
人の尊厳」を阻害することとなり,国家・君主をも危うくするものとなる。柏木は,し
ばしばチャニングの「人なる名称は,帝王と曰ふよりも大統領と曰ふよりも更に尊貴な
柏木義円の国家主義教育批判
73
り」
との言葉を引用する。人の存在はそれ自体尊重されるべき質のものであるとの人格主
義に依拠した。柏木は,ことに教育界においてこの精神の貫徹を期待する。何故なら教
育の目的の一つが,人間の尊貴性の認識にあるからである。まさに「個人を以て国家の
機械視し,敢て国家の権限を濫用して個人の神聖を蔑如し,之を無にするの挙動あらば,
国家自らを毀つなり。吾人は国家を重んじて個人を重んじ,個人を重んじて国家を重ん
ずるの精神を発揮せんことを欲するなり」27)との言葉を再確認するものである。権力に
与し,
「敬虔の念を沮遏せんとする」教育家たちとの距離は大きい。
(3)
「勅語と基督教(井上博士の意見を評す)」
「勅語と基督教(井上博士の意見を評す)」28)は,井上の四つの批判に対して順次答え
ていく。
第一の「基督教と国家」について。井上は,勅語の主義は国家主義をとるものである
が,基督教のそれは無国家主義であるところから勅語の趣旨に反するという。これに対
して柏木は,基督教の何を以て無国家主義というのかと反問し,つぎのように応じた。
基督教は宇内人類のために普通の大道を発揮し,時間空間を超えていかなる国家形態
にも通ずる道徳的根本を説くものである。その説くところは,敬神愛人の二大主義であ
る。基督は,まず人心の根底を新たにして敬神愛人の誠意をたてるのである。この「誠
意」がたてば,親に対しては孝,兄弟に悌,朋友には信,弱者には慈となり,国家に対し
ては忠となるのである。さらに,天皇と基督の関係についても興味深い認識を示す。
「我
天皇陛下は国家の元首なり,故に其の国民に国民的の道徳を訓示し玉ひしなり。基督は
世界の人類の為に人間の大道を立て玉ふなり,故に専ら人心に敬神愛人の誠意を打立て
んと為し玉ひしなり」として,天皇,基督はそれぞれにおいて道徳を提示した存在であ
ることを容認する。ただし,天皇の示すそれは日本一国に限定されたもので,日本にお
いてのみ通用する道徳規範であるのに対して,基督のそれは人類普遍の道徳の大道を立
てたものであるところに決定的な違いがある。そこで天皇が,基督が説いた敬神愛人を
説こうとするならばそれは越権であるという。
柏木は,井上の説く国家主義についても批判的である。井上のいう国家主義とは,国
民をして緩急国難に殉ずることを強い,国家を唯一の中心とし,人の良心・理性をも国
家に従属させようとするものである。もし,国家を唯一の中心とし,人の良心も理性も
国家に対して権威のないものであるならば,国家は人をして単なる奴隷国家の器械と見
るにすぎないものである。基督教はかかる国家主義を許容するものではない。
そもそも「勅語」は井上のいう国家主義を強要するものなのか。「勅語」の性格は,
「何
74
社会科学 第 41 巻 第 2 号
人にても実践す可き国民としての普通なる道徳的行為を訓示し玉ひし」ものにすぎない
のではないのか 29)。「勅語」が,儒教仏教基督教の範疇に踏込み,この宗教または彼の宗
教と相容れずとした場合,天皇自らが倫理学論争を判定する学術界の大王に押し上がる
こととなり,宗教の異議を鎮定する宗教界の法皇となすこととなる。かかる意識や行為
は,天皇の詔勅を誣げて非立憲的詔勅に換骨奪胎するものである。教育家の中にしきり
とかかることを喧伝する徒輩が多くなってきている。天皇を学術界の大王,宗教界の法
皇たらしめようとする教育者こそ「諂諛の徒」「軽躁の徒」というべきである。
第二の「基督教と現世」について。井上は,基督教は未来を望んで現世を軽んずるとい
う。パウロに「都ての事神を愛する者の為に皆働て益を為すを我儕は知れり」との言葉
があるが,この言葉は現世を軽んずるものの言なのか。
「宇宙の事之を盲目の運命と為す
ものと,智慧と愛との活動と信ずるものと,孰れか現世を重んずる」
,
「現世を嘲るもの,
現世を弄ぶもの,現世を厭ふものと,粛然神の智慧と神の愛を認めて天職を此の世に尽
さんと期するものと,孰れか現世を重んずる」と畳み掛ける。
将来の大成を期するものと,現在の逸楽に耽るものと果して孰れが現世を軽んじてい
るのか。勅語との関連で言えば,勅語に未来の記述のないがゆえに,未来を信ずる宗教
は勅語の旨趣に合致せずとするのか。また,勅語に言わないところを言うか,あるいは
勅語に言うところを言はなければ勅語にかなわないことというのであろうか。このよう
なことが跋扈すれば,勅語を以て,学術哲学宗教すべて人事に関する事を包括しうるも
のと妄想することとなりはしないか。
第三「基督教と博愛」について。井上哲次郎は,基督教の博愛は墨子の兼愛であり,無
差別の愛である。ところが勅語の愛は差別的な愛であることを強調する。この点におい
ても基督教と勅語とは相容れないものである。自らの親を敬せずして人の親を敬するこ
とを悖愛というが基督教の博愛は悖愛としてあるともいう。
そもそも基督教のいう博愛とは「人の心に神あり,微賎なるものも之を侮るは神を侮
るなり,之に親切を為すは神に親切に為すなりと信じ,如何なる場合にも人を愛重する」
ことを言う。井上は悖愛だの,差別的無差別的愛などと唱えるが,
「真成の博愛に豈に差
別的無差別的の別あらん。要するに是れ空論,博愛の精神を知らざるものゝ論のみ」と
一蹴する。基督教の博愛は神を愛することにはじまり,すべての人は神の愛したもうた
ものであり,その心に尊重すべき神の肖像があるとの確信によるからである。儒教の愛,
基督教の博愛に相違するものはない。異なるとすれば,一つは天然の愛情のみおこり,一
つは天然の愛情に加えること神を愛するの信仰を以て為すところにある。
柏木義円の国家主義教育批判
75
第四「基督教と孝行」について。井上哲次郎は聖書マタイ伝 8 章 22 節の「イエスは彼
に言われた,
「わたしに従ってきなさい。そして,その死人を葬ることは,死人に任せて
おくがよい」」30)という聖句に対して,孔子ならば父の死に際して帰って葬るべく指示す
るだろうに,基督のこの言葉は孝行を軽視し,勅語の旨趣に違背しているのではないか
と問うた。
柏木はこの批判に対し,基督が父を葬ることを制止したものではない。その意味する
ところは,
「先づ神に従へ,其の心霊の生命を得可きを」説いたのであり,孔子の仕方は
「外部の習慣礼式より人を正さんとす」るところにあったのである。基督は直ちに人の心
を根底より正さんとするゆえの行為であり例示である。時と事情に応じてその弟子に最
も適った教えを垂れるのである。
勅語は,国民教育の徳義奨励のために発布されたものではあるが,憲法のもとでの宗教
の自由を蹂躙するものではあるまい。仏基儒の主義を奉ずることも可能なのである。帝
国憲法 28 条の明文以外にその意義を揣摩して,この宗教と相容れず,かの宗教にあい悖
るとするならば,これは「我立憲帝王の聖詔を誣ゐて非立憲的たらしむる」こととなる。
「聖詔を誣ゐ」ている徒輩が教育家中にあり,
「忠義顔するもの」がある。慨嘆せざるを
えない。教師がそうであるならばまだ許しもするけれども,帝国大学博士井上哲次郎が
かかることに与していようとは実に奇怪至極というべきである。
さて,この節では「勅語と基督教」
「勅語と基督教(井上博士の意見を評す)
」の二編
を中心に「教育と宗教の衝突」問題を扱ってきたが,井上哲次郎の挑発の意味を柏木は
以下のようにみていた。
吾人は知る,教育宗教衝突なる妄想の起因は,道徳教育を器械的に観し,聖賢人を
教ゆる本旨を了解せざるに存する事を。(中略)於是か,吾人は衝突妄想の由来を推
測するに苦しまざるなり。即ち(一)聖書を解する皮相なる事,
(二)徳育の思想注
入的にして開発的ならざる事,
(三)勅語を自家の加勢となす事,
(四)聖書を論ず
るに謹重の意なき事,
(五)余り容易く邪推し,余り容易く讒誣して,事実を審査し
立言を重んずる学者の徳操なき事,衝突妄想の由来唯此の如きのみ。31)
ただ,
基督教批判を意図する「教育と宗教の衝突」論争の教育界や社会に及ぼす政治的効
果・影響は小さくは無かったはずである。柏木は,井上の論法の杜撰さを指摘する 32)の
みならず,
「勅語」の主義が保守主義,多神教主義に基づくものにあるとし,
「勅語」その
ものが正直かつ善良なる人心を惑乱させ,一つの偏見を醸成させる(例えば,耶蘇教徒
を国賊視する)には十分な役割を果すとみている。また,不敬事件を大仰に騒ぎ立てる
76
社会科学 第 41 巻 第 2 号
ことにより基督教を邪教視することにもなる。さらに,井上の著した『勅語衍義』が修
身教科書として学校教育に施されたならば,その保守主義・多神教主義が拡大再生産さ
れていく効果をもつこととなる。かように,井上哲次郎の影響力の大きさは否定できず,
彼を国家社会が支援し,権威化すればなおさらである。そこには,国民の思想信仰良心
の自由選択が極端に狭められていくことをも意味することともなる。偽而非愛国主義者,
偽而非教育家などが「勅語」の権威に依拠した国家形成を推進するならば,その事柄自
体を危惧せざるをえなくなる。
3.2 「教育勅語」観
上述してきた「教育と宗教の衝突」論争を通して,教育勅語を奉戴する勢力はこれを
「護符」として,固定的解釈をほどこし,他の道徳的原理・観念を排除している様を知り
えた。
柏木はこの厄介な「教育勅語」について如何に把握していたかを探ってこの章を閉じ
たいと思う。
33)
大隈重信の言葉を借りてこの問題を考えるヒントとしたい。柏木に「大隈首相の失言」
なる論説がある。表題にいう大隈首相の「失言」とは,大隈が京都市教育会の席上で行っ
た演説をさしており,以下のような発言であった。
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孰れの宗教も皆個々の経典を有するも独り我日本に於ては之無し。然れども我国は
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世界の経典に優に勝る偉大崇高なる教育勅語を有するなり云々
(傍点はママ 引用者)
大隈の発言に依拠して,日本の道徳教育的根拠を語るならば,日本には宗教的骨格にな
りうる教えは希薄ではあるけれども,世界に冠たる「教育勅語」が存するという。教育
の根幹,道徳の根幹を「教育勅語」におくことに違和感のない大隈の発言である。教育
会(あるいは日本全国の教育界)が百万の援軍を得た思いをもったことであろう。かかる
発言に対して,柏木は,一国の総理大臣の識見としては安直かつ偏狭な見解とみなした。
教育会での演説であるからこそ反ってこの発言を見逃すべきでないとした。
つねづね柏木は,
「教育勅語」に群がる偽而非愛国主義者を嫌悪してきたことはこれま
での議論の示すところである。だからこそ「世界の経典に優に勝る偉大崇高なる教育勅
語」と謳いあげ,偽而非愛国主義者を追認するかの大隈発言を問題視したのである。柏
木は,
「教育勅語」の効果を「道徳教育上其実績を見ざりし」ものであり「反て真誠なる
精神教育の進歩を阻害した」ものとして認識していた。では何故「道徳教育上其実績」が
77
柏木義円の国家主義教育批判
あがらなかったか。道徳教育の何たるやを理解しない役人と精神教育の何物かを知らざ
る教育家たちの「誤用」によるものであるという。
天皇が教育勅語を国民に宣示したのは,両親が子供に善人たれと勧奨し,その心得を示
すのと同じであってそれ以上のものはない。にもかかわらず,有司,教育家たちはその
意を斟酌することなく,国民道徳を萎靡不振ならしめた。さらに,かかる「誤用」に批判
の声も出てこないのは「教育勅語」に触れることをタブー視する空気が醸成されているか
らである。ここにいう「誤用」とは,
教育勅語が煥発されたとき「倫理道徳の根本問題は
既に悉く茲に解決せられたり」と判断したところに生じており,加えて,有司や教育家
たちは確たる道徳教育上の認識をもってはいないものだから「我は教育勅語の旨趣に拠
て教育を施す也」と呪文を唱え,自己陶酔しているところにある。さらに,
「彼等には既
に研鑽考究する可き倫理教育上の根本問題なきなり。彼等の腐心する所は唯徒らに教授
の手段に関する形式的末枝の問題のみ。彼等が教育勅語を振り舞はすは恰も形式的宗教
家が内容なき神の名を振り舞はすが如きなり」とその問題意識なき怠慢にもあるとした。
すなわち,形式主義的陥穽に陥っていることさえ認識できないでいる状況を呈するまで
にいたっていたのである。さきの大隈重信の「失言」もこの形式主義者と同一のものと
見做しての批判である。
有司・教育家たちは国家的権威を笠にきて,往々にして不敬を以て威嚇する。かかる威
嚇は教育上「危険なる暗礁」以外のなにものでもない。本来,倫理教育の権威は人格的
権威をも有するものであることが期待される。にもかかわらず,有司教育家たちは教育
勅語を誤用して政治的権威を以て道義的権威と見做している。そのうえ,
「教育勅語」を
世界無比の教典とするとなると,全く認識の成長や進歩は望むべくもなく遅滞が存する
だけである。
「元来倫理教育のアゥソリチーたる可き道義的人格と其教典とは,耶蘇でも
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釈迦でも孔子でも,バイブルでも仏典でも儒書でも吾人の良心と理性とに由て自由に批
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判して以て吾人の道義的識見をせしむるものならざる可らず」
(傍点はママ 引用者)と
いうとき,柏木は,学問・教育・自己研鑽は自由な討議,発想,批判などがあってはじ
めて可能であるとみているのである。でなければ,言葉や意識は形式的かつ硬直化した
ものとなり,広がりを期待させる要素は何も見出すことはできない。教育勅語の誤用原
因を執拗に衝く柏木によると,それは勅語を万能なるものとして事足れりとする態度と,
不敬を恐れて腫れ物を触れるが如き態度をとるところに生ずるものという。では,如何
にすればその誤用を是正しうるか。柏木は大胆な提言をおこなう。そのまま引用しよう。
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此れ実に難問題なり。恰も崇神帝が其褻瀆の機ならしめん為に神器を大廟に収め玉
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社会科学 第 41 巻 第 2 号
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ふたる如く,寧ろ大英断教育勅語を諸学校より奉還せしめ,之を然る可き所に奉掲
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し,之を青史に大書して,以て其誤用の機会を根本より撤し去るを以て吾人は当今
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教育改革の一大警策と為すなり。
(傍点はママ 引用者)
教育現場から「教育勅語」を撤去せよという。かかる提言は柏木がはじめてではない。
西園寺公望が第二次文相時代(1898.1.12 − 1898.4.30)に,いわゆる,第二教育勅語構
想 34)を抱懐していたらしい。ここでは,西園寺公望の「第二教育勅語」問題について触
れるゆとりはない。西園寺にその構想があったことのみを指摘しておく。
ところで,上にあげた大隈重信の発言はいかなる政治的効果をもつことになったので
あろうか。教育勅語を「誤用」することに意を介さない有司・教育家にお墨付きを与える
こととなるのみならず,その弊害を助長することとなったことは否めない。勅語を金科
玉条の如く崇めるのではなく,他の諸教典と比較検討してみてはどうか,自由討究の場
があってもしかるべきではないかというのが柏木の基本姿勢である。勅語の用いられ方
を検討すると,仮に文章上多少の美しい表現があったところで,倫理上訴えるものがな
ければ何等意味を有するものではない。政治的な権威を借りて不自然なことを強要して
はならない。憲法には欽定憲法というのがあるが,これは可能なものである。ところが,
欽定倫理,欽定宗教はあってはならないものである。政治上の権威と倫理道徳上の権威
とは自ずとその位置が違う。
柏木義円のいっそのこと,教育勅語を教育現場から撤去したらどうかという提案は大
胆であり,
予想外のものである。彼はこの「教育勅語」の胡散臭さを嫌というほど知って
いる。真正な道徳,倫理,宗教の妨げとなっていることを明確に宣言したものであった。
4 理想とする国家像−結語にかえて−
喋々と「柏木義円の国家観」について述べてきた。最後に,柏木の理想とする国家が
いかなる理念によって導かれるものであるのかを提示して結語としたい。
上述してきた事件・論争を時系列的に並べると「熊本英学校事件」
(明治 25 年)→「教
育と宗教の衝突」論争(明治 25 年∼ 26 年)→「加藤弘之との国家論争」
(明治 33 年)と
なる。この 3 件に流れる柏木義円の国家についての主張は一貫していた。柏木にとって了
承しうる国家の姿は「個人の尊厳」を受容しうる国家であり,そのような国家に国民が献
身的に貢献しうるとした。逆に偏狭な国家意識を振りかざして個人の理性・良心の自由を
蹂躙する国家を問題視するのである。日本においては国家形成に大きな役割を担った事
柏木義円の国家主義教育批判
79
柄の一つに「教育勅語」があった。柏木は教育勅語が「世界的大思想」
「世界的宗教」と
対峙したとき「教育勅語」の主張に無理のあることを指摘した。
柏木の人間観は,人間存在そのものが何物にも変えがたい尊貴な存在としているとこ
ろにある。その故に,
帝王や大統領といえども個人の尊貴性に干渉し犠牲を強いることは
不可であるとした。柏木は教育の目的を「此の尊貴なる自覚を喚起する」ところにあると
し,倫理教育の目的はなおさらそうでなければならない。したがって「個人の尊厳」を尊
重する教育をほどこす前提として,自由に思考し自由に発言し批判しあう環境が必要で
ある。しかるに,国家が教育を管掌するとき,自由自治の空気は変じ,規則による管理
が強化される。「熊本英学校事件」がそれを物語る。地方政権が,教師奥村禎次郎の思想
が国家主義教育に相応しくないとして彼の馘首を求めた。国家権力・教育勅語を背景に,
知事松平正直は,自由な学校経営が保障されるべき一私学に干渉の度を強める。かかる
行為が許されるのならば,一私学一教員の存立や思想信条良心の自由保障は困難になる。
国家主義に基づく教育のみが善とされ,他の理念による教育,就中,基督教主義に基づく
教育が不善とされるのは不可解である。教育の国家主義化が強化されることの延長線上
には,ともすれば私学の存立の困難さ,その建学理念の放棄にも連なることとなる。事
実,明治政府は,学校への教育勅語奉戴の強制のみならず,それに先んずる明治 16 年末
の「改正徴兵令」においても私立学校潰しを画策している。何かにつけ,国家はその方針
に従おうとしない存在を力ずくで鋳型に嵌め込もうとする。かかる仕方は,柏木の最も
嫌悪するところで,彼にとっては,「個人の尊厳」を蔑如する以外の何物でもなかった。
柏木は,改めて国家と個人のあり方について答えを出す必要が生じてきた。彼は,
「惑
を弁じて我党の主義を明にす」に個人の尊厳を強調し,
「国家と個人」の関係を,個人の
尊厳があってはじめて国家の尊厳が可能となり,国家は個人の尊厳を守るべき存在とし
て期待した。そして,これが国家の目的の一つであるとした。
柏木にあっては,個人の尊厳を蹂躙する権力にたいしては厳しい批判対象になる。加藤
弘之との国家論争はその表れであった。加藤弘之は,臣民を国家の手段とみなした。い
かに暴戻国家であろうとも臣民は国家に隷従すべきであるとの考え方に対して,柏木は
真っ向から反論を展開した。発展する国家とは,国家を超絶する「世界的思想」
「世界的
宗教」によって導かれる国家である。そして,国家はしばしばこの「大思想」と衝突する
ことがあるが,その衝突により,国論を練磨しうるものであり,それが発展の基礎とな
りうるのである。この衝突に堪ええず,偽宗教に隷従する国家は「侏儒の国家」となる。
不幸にして日本は「侏儒の国家」に属する。日本という国は「国家より大なる思想を迫害
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社会科学 第 41 巻 第 2 号
し,国家以下の徒を出すを以て忠君愛国と誤想する」国家である。そして,この「誤想」
に基づく教育をほどこし,「忠孝」「滅私奉公」を強制するのである。加藤弘之はそのイ
デオローグの先頭に立った。
「教育と宗教の衝突」論争で井上哲次郎との教育勅語をめぐる論争では,井上の基督教
批判と排除の論に対して,
「勅語と基督教」「勅語と基督教(井上博士の意見を評す)」に
おいて応えた。井上の依拠する「教育勅語」の語る「忠孝」道徳は,
偏狭な君父−臣子の
道ではあるだろうけれども「人間の諸徳を統ぶるの徳」ではない。皇天に敬事する「敬
虔の念」のなかに孝悌・忠信・愛国などの諸徳が包含されるとし,
「人間の尊貴」たる所
以は,
「敬虔の念」の無窮の発達したところにある。一朝一夕に成就しうるものではない
が,この「敬虔の念」を助長していくのが道徳教育の目的であろう。しかるに,この念の
発達を沮遏しようとする勢力が教育界を跋扈している。偽而非忠孝主義者,偽而非忠孝
が蔓延っている。軽薄皮相な「忠孝」こそ,反って国家・君主を危うくするものである。
俗流教育家の唱える「忠孝」の根拠もまた「教育勅語」にある。
柏木は,
「教育勅語」は真正な道徳倫理宗教を伸張させる質のものではないと捉えてお
り,反ってその阻害要因として機能していると見做した。したがって,
「教育勅語」を教
育現場から撤去させることが「真正な道徳倫理宗教」を発展させるものであるという。さ
らに,
「教育勅語」の教育界等に及ぼす影響は負性をもつ意味で大きいと語る。教育勅語
に群がる御用学者・偽而非教育家・官僚政治家たちは,これを不磨の大典のごとく崇め
るが,このこと自体が既に思考停止状態に陥っている姿である。彼らは,
「不敬」を以て
威嚇する。その行為は教育の発達進歩になんら供するものではなく停滞・畏怖をもたら
すだけである。
かくて,柏木が危惧した日本の「特殊」状況は,偽而非国家主義者たちが声高に「愛
国」を叫ぶことにより醸成されることとなった。その際,教育が大きく機能した。とり
わけ「教育勅語」のもつ呪縛性は国家の権威化に絶大な力を貸すこととなり,個々人の
「内心の自由」を逼塞させるのには充分すぎるほどの効果をはたすこととなる。
注
1 )飯沼二郎・片野真佐子編『柏木義円日記』118 ページ(行路社 1998 年)
(以下『日記』と
略称)
2 )『日記』124 ページ
3 )同志社以前の柏木義円の経歴を簡単に記しておきたい。1878 年,東京師範学校小学師範科
を卒業した柏木は,同年 10 月,群馬県土塩小学校に赴任しており(18 歳),翌年,群馬県
柏木義円の国家主義教育批判
81
細野西学校校長になっている。1880 年,同志社英学校に入学するが,翌年に退学。さらに,
小学校教師に復帰し細野東小学校校長に赴任した。しかしながら,1884 年(明治 17 年),
再度同志社英学校に入学している。時に,24 歳であった。
4 )『熊本新聞』明治 20 年 5 月 11 日。
「正則熊本英語学会(広告)」は以下のように記す。「学
問ノ必要ナル敢テ贅言ヲ用ヒズシテ世人既ニ之ヲ知ル矣。然レドモ唯其完全善良ナル講習
所ナキヲ苦ム而已。偶々博学ニシテ道徳高キ米国教師オ・エチ・ギューリキ先生ノ来熊ニ
会フ。即チ咨ルニ此事ヲ以テス。先生嘉納自ラ奮ツテ之レニ当タラン事ヲ諾シ,且書ヲ馳
セテ大学博士ヲ其国ニ招聘セン事ヲ許サル。於斯西京同志社卒業生奥亀太郎氏同山田健三
郎氏同五年生西山亀次郎氏ト謀リ,更ニ諸先覚ノ賛ケヲ得,此ニ一ノ学会ヲ設ケ□ニ共ニ
学ブ所ヲ講究セント欲ス。而シテ只完全ニシテ且ツ善良ナルハ敢テ世間流布セル土音混合
ノ英学ト称スル者ノ比ニ非ルナリ。加之更ニ邦学ノ一科ヲ設ケ専ラ和漢必用ノ書ヲ講究シ,
以テ幼学ノ便ニ供ス。(下略)」
なお,
「熊本英学校」研究については上河一之「熊本英学校」
(田中啓介『熊本英学史』本邦
書籍 昭和 60 年)に詳しい。
5 )「貴兄御企の私学校皇張の為め,少々に候得ども先金五拾円都合致候」とある。明治 21 年
3 月 27 日付 海老名弾正宛書簡(『新島襄全集』3 巻)
6 )『九州日日新聞』明治 25 年 1 月 12 日
7 )『九州日日新聞』明治 25 年 2 月 16 日
8 )渡瀬常吉は海老名弾正の手足となって働いた。この「熊本英学校事件」についても海老名の
耳にその状況は逐一入っていたと考えられる。後年,柏木は「海老名先生と私」(『上毛教
界月報』391 号 昭和 6 年 6 月 20 日)を記したなかに次のような記述がある。「海老名先生
は…金峰山(熊本南郊の山)が破裂するぞとて何か諷する所あり。斯くて蔵原校長は自ら
見て不当とする奥村教員解雇の命令を奉じて竜頭蛇尾に終り,私等同志は辞職した。…終
に自ら廃校するに至った。「死すべき時に死せざれば死にまさる恥あり」とは此事か,これ
私が海老名先生と意見を異にした始めであった」とある。海老名の「諷する所」とは,海
老名が事件化することを渡瀬の情報から予見していたものといえる。そして海老名が何等
手を打とうとしていない態度に柏木は違和を感じている。この柏木の挿話は海老名の態度
を知るうえで興味深い。
9 )柏木義円「開書」『女学雑誌』304 号 明治 25 年 2 月
10)「吾人の心事を明にす」『基督教新聞』明治 25 年 2 月 26 日
11)「惑を弁じて我党の主義を明にす」(『護教』第 10 号)史料「惑を弁じて我党の主義を明に
す」の入手は困難を極めた。大阪商業大学の片野真佐子教授のご好意により,そのコピー
をいただいて読むことができた。記して謝意を表したい。
12)加藤弘之「仏基両教の急處を衝く」『太陽』第 11 号 明治 33 年 9 月
13)この三作は『上毛教界月報』第 24,26,27 号に見ることができる。(明治 33 年 10 月 15 日,
12 月 15 日,明治 34 年 1 月 15 日 以下『月報』と略称)
14)柏木義円「加藤文学博士に答ふ−所謂国家主義の妄謬を排す−」『月報』第 24 号
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社会科学 第 41 巻 第 2 号
15)スピノザ『神学・政治論−聖書の批判と言論の自由―』下巻 275 ページ(畠中尚志 訳 岩
波文庫版 昭和 49 年)
16)柏木義円の西洋思想受容については検討の余地がある。というよりも,全く未開の分野で
ある。今後の大きな課題と考えている。ただ,スピノザの見解に対して柏木が彼から直接
影響を受けたとは断言しえないが,国家観の認識の一端が共通していると思われることは
興味深い。柏木の基督教理解,聖書解釈をも視野にいれて考察する必要があろう。
17)加藤弘之「余の世界教論に対せる『東京毎週新誌の駁論』を読む」
『太陽』第 15 号 明治
33 年 12 月
18)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」『教育時論』第 279 号 明治 26 年 1 月 井上が「教育と
宗教の衝突」を自ら記した経緯は「教育時論の記者が余の談話を後にして文章を綴られた
るは,能く余の談話の主意を述べられたるに拘はらず,豪も誤謬なきものとすべからざる
こと是れなり,凡そ言論は練達せる速記者をして速記せしむるも尚ほ多少の誤謬を免れず,
況んや錯雑せる論弁を記憶によりて叙述するに於てをや」としている。ここに掲げた「教
育と宗教の衝突」は『教育時論』第 279 号∼ 281,283 号。なお,
「教育と宗教の衝突」は
『明治文学全集 80 明治哲学思想集』(筑摩書房 昭和 49 年刊)を参照した。以下,
『哲学思
想集』と略称。
19)柏木義円「勅語と基督教」
『同志社文学』第 59 号(伊谷隆一編『柏木義円集』第一巻 未
来社 1970 年)
20)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」
『哲学思想集』125 ∼ 126 ページ
21)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」
『哲学思想集』127 ページ
22)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」
『哲学思想集』131 ページ
23)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」
『哲学思想集』132 ページ
24)いずれも『同志社文学』第 59,60,64,65,67 号 明治 25 年 11 月− 26 年 7 月(伊谷編
『柏木義円集』第一巻)
25)「再び井上哲次郎氏に質す」(『同志社文学』第 64 号)の冒頭では,井上の主張を以下のよ
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うに纏めている。箇条書き風に示すと,① 耶蘇教徒は皆忠孝を以て東洋古代の道徳とし忌
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嫌に堪へざるなり。② 耶蘇教徒は外国宣教師の庇陰を得て生長せしもの故,甚だ愛国の精
神に乏しきなり。③ 真誠に愛国心あるものは,生命亦国の犠牲に供す可きなり,何ぞ彼の
勅語を拝するを拒むを用ひん。耶蘇教徒は,風俗に逆ひ,秩序を紊り,以て国の統合一致
を破らんとす,国の災実に是れより大なるはなし。④ 耶蘇教は欧米諸国に行はるゝ宗教な
る故,之を信ずるものは自然其の教の由りて出る所を本国の如くに思惟し,却て我が国を
外国の如くに見做すの傾向を生ぜざるを得ず。⑤ 若し耶蘇教徒にして勅語に同意を表する
ものあらば,是れ必ず時勢の奈何とも為し難きを知り,姑く之に附和して機会の乗ず可き
を待つものなり。⑥ 耶蘇教は国家的精神に乏しきのみならず,又国家的精神に反するもの
なり。
(なお,傍点はママ)
26)柏木義円「勅語と基督教」
『同志社文学』第 59 号 明治 25 年 11 月(伊谷編『柏木義円集』
第一巻)
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柏木義円の国家主義教育批判
27)柏木義円「惑を弁じて我党の主義を明にす」『護教』第 10 号
28)柏木義円「勅語と基督教(井上博士の意見を評す)
」
『同志社文学』第 60 号(伊谷編『柏木
義円集』第一巻)
29)「開書」末尾の「追伸」部分に,教育勅語について次のように記している。
「勅語は教育家
唯国民として心得可き事を語らせ玉ひしのみにして,道徳主義を確定し玉ひし譯には無之
と存居候」。
30)「マタイによる福音書」日本聖書教会 1959 年版
31)柏木義円「教育宗教の衝突」
『同志社文学』第 65 号 明治 26 年 5 月(伊谷編『柏木義円集』
第一巻)
32)柏木義円「再び井上哲次郎氏に質す」
(『同志社文学』第 64 号)に「井上哲次郎氏の教育と
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宗教の衝突を論ずる,果して哲学者の本領を守りしものか。何ぞ其の断言の容易にして軽
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率なるの嫌あるや」(傍点 ママ)といい,彼の論拠は自己に都合のよい資料(例えば,
「仏
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教新聞」
「九州日日新聞」記事)のみを駆使し「公平に事実の審査を為」すことのない態度
を批判し,頻繁に「欧米学者の議論を引用」するけれども「基督教本旨を失ふた羅馬法皇
の耶蘇教を評論」するにすぎないものであるという。さらに,井上は聖書の解釈を施すも
ご都合主義的解釈にしかすぎず,しかもその解釈が浅薄であることを指摘している。
33)柏木義円「大隈首相の失言」『月報』第 190 号 大正 3 年 8 月 15 日
34)定着した用語ではないことから「新教育勅語」などとも言われている。筆者は便宜的に「第
二教育勅語」と呼ぶこととする。なお,西園寺公望の「第二教育勅語」構想については,
小俣憲明「日清・日露戦間期における新教育勅語案について」
(京都大学人文科学研究所編
『人文学報』第 64 号 平成元年 3 月)が詳しい。また,立命館大学西園寺公望伝編纂委員
会編『西園寺公望伝』第二巻 183―294 ページに第一次・第二次文相時代の西園寺公望の意
識と行動を紹介している。
(岩波書店 1991 年)
参考文献
飯沼二郎・片野真佐子編(1998)『柏木義円日記』行路社
伊谷隆一編(1970)『柏木義円集』1 巻 未来社
柏木義円(1985 復刻)『上毛教界月報』全 12 巻 不二出版
新島襄全集編集委員会(1987)『新島襄全集』3 同朋社出版
大久保利謙・柳田泉他編(1974)『明治文学全集 80 明治哲学思想集』 筑摩書房
スピノザ 畠中尚志訳(1973)『神学・政治論』下巻 岩波文庫
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