...

アッサラーム夜想曲 - タテ書き小説ネット

by user

on
Category: Documents
129

views

Report

Comments

Transcript

アッサラーム夜想曲 - タテ書き小説ネット
アッサラーム夜想曲
月宮永遠
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
アッサラーム夜想曲
︻Nコード︼
N6696BX
︻作者名︼
月宮永遠
︻あらすじ︼
ちょいポチャ平凡な高校生の桧山光希は、大いなる力に導かれ、
とある世界、とある時代の砂漠に降り立つ。言葉の通じない世界で、
強く美しい砂漠の英雄、ジュリアスと出会い、彼の﹁花嫁﹂として
運命を切り開いていく。
2017年3月18日に一迅社様より書籍販売されます。月宮永遠
︵著︶/Illust.駒城ミチヲ
1
※書籍化に伴うWEB版削除はいたしません。
2
地図など
●世界地図
<i154162|12534>
CREDIT
ROLL﹂参照
X0⋮⋮﹁Ⅰ:あなたは私の運命﹂参照
X1∼⋮⋮﹁END
●アッサラーム簡略地図
<i154163|12534>
聖都アッサラームは、街中をアール川とカルプロス川の大河が横断
する、砂漠の巨大オアシス、水の都でもあります。
街中には無数の運河が張り巡らされており、情緒ある木造の小型帆
船も入ってきます。
●アルサーガ宮殿見取図
<i154164|12534>
光希とジュリアスの私邸は、公宮にあります。別名﹁クロッカス邸﹂
。
※﹁みてみん﹂様に投稿した画像を、こちらに掲載しております。
3
登場人物
②ジュリアス/
③ジャファール/
<i235765|12534>
①光希/
④アルスラン/
⑫ユニヴァース/
⑦アーヒム/⑧ナフィーサ/⑨サリ
⑪ローゼンアージュ/
⑥ヤシュム/
⑩ルスタム/
⑤ナディア/
ヴァン/
※それぞれ初登場時点の年齢や役職を記載しています。物語進行に
応じて、年齢や役職は変わって行きます。
アンカラクス
※アッサラーム人の基本外見特徴:淡い褐色肌、銀髪、碧眼、平均
身長:男185cm、女:170cm
●主人公
ひやまこうき
氏名:桧山光希
年齢:17歳
外見:くせ毛黒髪、黒目、165cm、ぽっちゃり
備考:日本人の高校生、本編主人公
*
氏名:ジュリアス・ムーン・シャイターン
年齢:16歳
外見:くせ毛金髪、碧眼、185cm、額に青い宝石
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:大将、神剣闘士、
本編ヒーロー
●アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍
4
氏名:ジャファール・リビヤーン
年齢:33歳
外見:灰銀長髪︵背中まで+後ろで一つ︶、灰紫色の瞳、187cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:中将、アルスラン
と血の繋がらない兄弟、ジュリアス側近
*
氏名:アルスラン・リビヤーン
年齢:23歳
外見:灰銀短髪、蒼氷色の瞳、185cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:大佐、ジャファー
ルと血の繋がらない兄弟、ジュリアス側近
*
氏名:ナディア・カリッツバーク
年齢:25歳
外見:灰銀長髪︵背中まで左右編み込み︶、灰緑色の瞳、188cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:少将、ジュリアス
側近
*
氏名:アーヒム・ナバホラトゥーダ
年齢:43歳
外見:灰銀短髪︵+そりこみ︶、青灰色の瞳、195cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:大将、ジュリアス
側近
*
氏名:ヤシュム・マルジャーン
年齢:38歳
外見:灰銀短髪︵くせ毛︶、青灰色の瞳、190cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:大将、ジュリアス
側近
5
*
氏名:ユニヴァース・サリヴァン・エルム
年齢:18歳
外見:灰銀短髪︵左右に青い房︶、蒼氷色の瞳、耳に銀細工、18
5cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:上等兵、光希の武
装親衛隊︵仮︶
*
氏名:ローゼンアージュ
年齢:15歳
外見:ふわふわ灰銀短髪、青灰色の瞳、天使、175cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:上等兵、光希の武
装親衛隊︵仮︶
●アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:クロガネ隊
氏名:サイード・タヒル
とくとう
年齢:38歳
外見:禿頭、青灰色の瞳、隻眼、盗賊にしか見えない。192cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:軍曹、クロガネ隊
加工班班長
*
氏名:アルシャッド・ムーラン
年齢:26歳
外見:灰銀髪、猫っ毛、前髪と眼鏡で顔がよく見えない、青灰色の
瞳、181cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:伍長、クロガネ隊
加工班隊員、装剣金工、刀身彫刻の天才。光希の専属指導隊員
*
氏名:ケイト
6
年齢:15歳
外見:ふわふわ灰銀短髪、青紫虹彩+茶の瞳、175cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:一等兵、クロガネ
隊加工班隊員
*
氏名:スヴェン・ザイメット
年齢:13歳
外見:灰銀短髪、青灰色の瞳、153cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:二等兵、クロガネ
隊加工班隊員
*
氏名:パシャ・カルバート
年齢:13歳
外見:くせ毛灰銀短髪、蒼氷色の瞳、150cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:二等兵、クロガネ
隊加工班隊員
*
氏名:ノーア・ヘルモサ
年齢:13歳
外見:灰銀髪︵肩につくくらい︶、青灰色の瞳、145cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:二等兵、クロガネ
隊加工班隊員
●神殿
氏名:サリヴァン・アリム・シャイターン
年齢:56歳
メジュラ
ルティエ
シャトーウェルケ
外見:灰銀長髪、青灰色の瞳、額に青い宝石、185cm
備考:星詠神官と時空神官のそれぞれで最高位神官
*
7
氏名:イブリフ
とくとう
年齢:85歳
シャトーアーマル
外見:禿頭、白に近い青灰色の瞳、盲目、180cm
備考:ジュリアスの師、上級神官、神殿楽師
*
氏名:エステル・ブレンティコア
年齢:13歳
外見:灰銀長髪︵肩まで︶、青灰色の瞳、155cm
備考:神殿聖歌隊、天才
*
氏名:カーリー
年齢:10歳
外見:灰銀長髪︵肩まで︶、青灰色の瞳、130cm
備考:神殿聖歌隊
●お邸の人達
氏名:ナフィーサ・ユースフバード
年齢:10歳
外見:淡い灰銀長髪︵肩まで︶、青灰色の瞳、天使、140cm
備考:アルサーガ宮殿、上級神官、光希に仕える
*
氏名:ルスタム・ヘテクレース
年齢:28歳
外見:灰銀短髪。蒼氷色の瞳、185cm
備考:アルサーガ宮殿、神殿騎士
●公宮
氏名:リビライラ・バカルディーノ
8
年齢:25歳
レイラン
外見:灰銀長髪︵腰まで︶、蒼氷色の瞳、絶世の美女、171cm
備考:アースレイヤ皇太子妃No1、西妃
*
氏名:サンベリア・ベクテール
年齢:23歳
ユスラン
外見:濃い灰銀長髪︵腰まで+撒き毛︶、青灰色の瞳、168cm
備考:アースレイヤ皇太子妃No2、東妃
*
氏名:パールメラ
年齢:18歳
外見:灰銀長髪︵背中まで︶、青灰色の瞳、172cm
備考:アースレイヤ皇太子の姫
*
氏名:ブランシェット・ピティーソワーズ
年齢:16歳
外見:波打つ灰銀長髪︵腰まで︶、青灰色の瞳、可愛い、165cm
備考:アースレイヤ皇太子の姫
*
氏名:シェリーティア・クワン
年齢:16歳
外見:灰銀長髪︵背中まで+巻き毛︶、蒼氷色の瞳、170cm
備考:ジュリアスの姫
●アルサーガ宮殿
氏名:アデイルバッハ・ダガー・イスハーク
年齢:65歳
外見:灰銀短髪、蒼氷色の瞳、189cm
備考:アッサラームの皇帝
9
*
氏名:アースレイヤ・ダガー・イスハーク
年齢:22歳
外見:白銀長髪︵腰まで+三つ編一つ︶、空色の瞳、185cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:大将、アッサラー
ムの皇太子
*
氏名:ルーンナイト・ダガー・イスハーク
年齢:18歳
外見:灰銀短髪、青灰色の瞳、182cm
備考:アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍:大佐、アッサラー
ムの皇子
*
氏名:アメクファンタム・ダガー・イスハーク
年齢:7歳
外見:灰銀長髪︵肩まで︶、蒼氷色の瞳、120cm
備考:アースレイヤと西妃の第一皇子
*
氏名:ヴァレンティーン・ヘルベルト
年齢:45歳
外見:灰銀長髪︵肩まで︶、蒼氷色の瞳、185cm
備考:アルサーガ宮殿、理財長
*
氏名:アンジェリカ・ラスフィンカ
年齢:15歳
外見:灰銀長髪︵背中まで︶、青灰色の瞳、160cm、
備考:ナディアの婚約者
●ザイン公国
10
氏名:ルキアーノ・ドラクヴァ
年齢:58歳
外見:灰銀髪、蒼氷色の瞳、181cm
備考:ザイン三大公爵家の一柱。暗殺されたドラクヴァ家の公爵
*
氏名:ガルーシャ・ドラクヴァ
年齢:33歳
外見:灰銀短髪、蒼氷色の瞳、184cm
備考:ドラクヴァ家の嫡子、次期公爵
*
氏名:バフムート・ゴダール
年齢:85歳
外見:灰銀髪、青灰色の瞳、184cm
備考:ザイン三大公爵家の一柱。ゴダール家の公爵
*
氏名:リャン・ゴダール
年齢:32歳
外見:灰銀髪、青灰色の瞳、184cm
備考:ゴダール家の嫡子。ドラクヴァ公爵暗殺の嫌疑をかけられ、
ドラクヴァ家に拘束される。
*
氏名:ジャムシード・グランディエ
年齢:45歳
外見:灰銀長髪、灰青色の瞳、181cm
備考:ザイン三大公爵家の一柱。グランディエ家の公爵でザイン領
主。聖霊降臨儀日に権威返上予定
*
氏名:ヘガセイア・モンクレア
年齢:28歳
外見:灰銀髪、青灰色の瞳、186cm
11
備考:革命軍の幹部
12
大陸史
※十進数、1日24時間、1月が30日、1年13ヵ月の世界。
450年
※闘いは終結した日付を記しています。︵闘いによっては、およそ
の日付もあります︶
●期号:アム・ダムール
450−09−01:ジュリアスと光希の出会い
関連﹁Ⅰ:あなたは私の運命。第2話﹂
450−09−17:野営地のあるスクワド砂漠へ移動
関連﹁Ⅰ:あなたは私の運命。第19話﹂
※この後、ジャファール、アルスラン登場
450−09−24:聖戦決勝
関連﹁Ⅰ:あなたは私の運命。第27話﹂
※後日、サリヴァン登場
450−10−09:オアシスへ再び
関連﹁Ⅰ:あなたは私の運命。第39話﹂
※ナディア登場。後日、アッサラームへ発つ
450−12−14:聖都アッサラームに到着
関連Ⅱ﹁:シャイターンの花嫁。第1話﹂
※スクワド砂漠からおよそ2ヵ月経過。
13
この後、アルサーガ宮殿にてアデイルバッハ、アースレイヤ登場。
クロッカス邸にてナフィーサ、ルスタム登場。公宮にてリビライラ、
シェリーティア、パールメラ、ブランシェット登場
450−12−20:パールメラの救出
関連﹁Ⅱ:シャイターンの花嫁。第20話﹂
※後日、東妃の私邸で火事。祝賀会最終日
450−13−05:結婚式
451年
関連Ⅱ:シャイターンの花嫁。第40話
●期号:アム・ダムール
451−06−05:軍部へ
関連﹁Ⅲ:アッサラームの獅子。第1話﹂
※結婚からおよそ半年経過。この後、ユニヴァース、アージュ、サ
イード、アルシャッド登場。1ヵ月後にケイト登場
451−08−10:内乱勃発
関連﹁Ⅲ:アッサラームの獅子。第15話﹂
※サンマール広場下町地区。この後、ヴァレンティーン登場
451−11−15:ノーグロッジ作戦
関連﹁Ⅲ:アッサラームの獅子。第39話﹂
451−13−03:自信喪失と過労
関連﹁Ⅳ:天球儀の指輪。第6話﹂
※中央和平交渉とベルシア和平交渉について
14
451−13−09:合同模擬演習
関連﹁Ⅳ:天球儀の指輪。第10話﹂
※この後、アンジェリカ、サンビエラ、ルーンナイト登場
451−13−11:典礼儀式
関連﹁Ⅳ:天球儀の指輪。第17話﹂
※後日、イブリフ、エステル、カーリー登場
451−13−29:サンベリア暗殺防止
452年
関連﹁Ⅳ:天球儀の指輪。第29話﹂
●期号:アム・ダムール
452−01−20:陸路ノーグロッジ作戦
関連﹁Ⅳ:天球儀の指輪。第39話﹂
※この後、およそ40日間に及ぶ陸路偵察任務完了︵3/1︶、ベ
ルシア交渉決着、通門拠点出発4/1
452−06−01:国門到着︵東西戦争勃発︶
関連﹁Ⅳ:天球儀の指輪。第40話﹂
CREDIT
ROLL:ヤシュム﹂
451−06−10:山岳戦闘民族撃退戦
関連﹁END
※アッサラーム23万の軍勢、うち10万後方、8千損失
CREDIT
ROLL:アーヒム﹂
452−06−25:中央山岳狭路の戦い
関連﹁END
15
CREDIT
ROLL:ジャファール﹂
451−07−05:ノーヴァ空中広域戦
関連﹁END
※サルビア20万VSアッサラーム5万
CREDIT
ROLL:ユニヴァース﹂
452−07−10:ハヌゥアビスの進撃
関連﹁END
※東西の衝突。デメトリス、ジークフリード登場
CREDIT
ROLL:ルーンナイト﹂
452−07−25:ノーヴァ海岸防衛戦
関連﹁END
※サルビア25万VSアッサラーム15万。カシカ、ムエザ登場
CREDIT
ROLL:ナディア﹂
451−07−25:ノーグロッジ海上防衛戦
関連﹁END
※アッサラーム・ノーグ陣営2万、サルビア開戦時30万、アッサ
ラーム中央15万。ノーヴァ壊滅後に中央へ合流
CREDIT
ROLL:ナディア﹂
452−09−01:東西の頂上決戦
関連﹁END
※サルビア30万Vアッサラーム中央15万
CREDIT
ROLL:アンジェリカ﹂
452−09−25:和平調停と終戦
関連﹁END
※東西戦争の開戦︵6/10︶から80日、ハヌゥアビスに勝利。
戦況はアッサラーム軍に傾く。サルビア軍はアッサラーム軍に和睦
調停を申入。アルサーガ宮殿の印可が降りた20日後︱︱9/25
正式に東西戦争は終結した。アマハノフ登場。後日、ルスタムの回
想でアーナトラ登場。
16
CREDIT
452−10−25:再会
関連﹁END
ROLL:光希﹂
ROLL:ジュリアス﹂
453年
※開戦から140日。中央本陣は、半年ぶりに国門に帰還。凱旋は
3ヵ月後
●期号:アム・ダムール
CREDIT
453−01−10:帰還
関連﹁END
※終戦から90余日=アッサラーム遠征から10ヵ月後
453−04−10:クロガネ隊 新人配属
関連﹁恋歌:クロガネの応援歌﹂
454年
※スヴェン、パシャ、ノーア登場
●期号:アム・ダムール
454−06−10:大旱魃によりオアシス枯渇
455年
関連﹁恋歌:織りなす記憶の紡ぎ歌﹂
●期号:アム・ダムール
455−12−10:ココロ・アセロ鉱山視察
17
関連﹁恋歌:響き渡る、鉄の調和﹂
456年
455−12−24:ココロ・アセロ鉱山炭塵爆発
●期号:アム・ダムール
CREDIT
After
ROLL:サリヴァン﹂
456−11−01:東西戦争の終結から、4年後
関連﹁END
※ドラクヴァ当主暗殺
ROLL:−
456−13−24:ザイン内乱鎮圧戦
CREDIT
−﹂
関連﹁END
ears
457年
After
※アッサラーム出発13/10−到着13/23
●期号:アム・ダムール
ROLL:−
457−01−05:ザイン精霊降臨日
CREDIT
−﹂
関連﹁END
ears
CREDIT
4
4
ROLL:アメクファンタム﹂
457−01−30:アッサラーム皇位継承式
関連﹁END
※アメクファンタム成人、アースレイヤ即位
y
y
18
スライダー画像集
はじまり・1
<i142881|12534>
はじまり・2
<i142882|12534>
はじまり・3
<i142883|12534>
はじまり・4
ROLL
空想の恋|サリヴァン
CREDIT
<i142884|12534>
−
END
s
<i142886|12534>
−
もし
after
4
year
⋮⋮花嫁にめぐり逢えていた
瞳を閉じて、束の間の空想の恋を楽しむ。
今生では起こりえぬこと。
ら。
−
after
4
year
どれだけ年老いても、命が続く限り、君を待ち望む。いつまでも
ROLL
遠征王の追憶|アデイルバッハ
CREDIT
探し求めるのだろう⋮⋮
−
END
s
19
<i142887|12534>
−
after
4
year
様々な声を聞きながら、アデイルバッハは生まれた時から歩んで
ROLL
天高く|カーリー
CREDIT
きた、東西統一の覇道を降りた。
−
END
s
<i142889|12534>
朗らかな笑みにつられて、カーリーも笑い声を上げた。
−
after
4
year
玻璃のように澄んだ笑い声は、天高く響き、道行く人を少しばか
ROLL
偲ぶ夜の憩い|サンベリア
CREDIT
り幸せにした。
−
END
s
<i142890|12534>
よぎ
いくつもの光景が胸を過る︱︱
ひと
幾度となく呼ばれた茶会、この世の贅を尽くした楽園の宴。隅で
ROLL
−
−
after
after
4
4
year
year
縮こまるサンベリアを、この女は連れ回しもしたけれど、欠片も愉
CREDIT
しくなかったわけではない。
END
神の系譜|光希
−
s
栄光の紋章|ジュリアス
ROLL
CREDIT
−
END
s
<i142892|12534>
20
落胆した声を聞いて、光希の胸にも苦い想いが込み上げた。ささ
やかな勝利を得たものの、後味は極めて悪い。
<i161852|12534>
もし︱︱
彼の瞳に、一滴でも恋情が浮いていたら。光希が、彼を選ぶ素振
りを欠片でも見せようものなら。
わざわい
神の逆鱗に触れたとしても、リャンを殺そう。
ROLL
名もなき革命|エステル
CREDIT
−
after
4
year
天地破壊の禍が降り懸かろうとも、光希だけは渡さない。絶対に。
−
END
s
<i142893|12534>
傍仕えのナフィーサが給仕する横で、ローゼンアージュは旨そう
に、バターと蜂蜜を塗ったパンを頬張っている。空いた片手には、
オリーブを摘まんで。
−
after
4
year
あらゆる面で、エステルは彼を尊敬しているが、恐らく彼の方は
ROLL
血統|アメクファンタム
CREDIT
エステルなど空気も同然に思っているだろう。
−
END
s
<i142895|12534>
神の御心に従う魂が続いていく限り、この国の栄光は亡びない。
青い星に帰すとも、魂は朽ちることなく砂漠に宿り、シャイター
21
あまね
ンの守護大地たる西全土に遍く伝わるであろう。
CREDIT
ROLLから、4年間を綴った短編集。
<i172072|12534>
END
2015年12月自サイトにて先行公開。2016年3月20日か
ら転載開始。
恋歌 − クロガネの応援歌 −
<i172803|12534>
﹁皆、失敗を繰り返して成長していくんだ。前に進む気持ちがあれ
ば、大丈夫。焦らず、できることから、少しずつ始めていけばいい
よ﹂
ものづくりは試行錯誤の連続だ。
挫折しない人間なんていない。項垂れ、悲嘆し、打ちのめされ、
なおも挫けず挑み、這いつくばって努力を続けた者だけが、その先
に輝く奇跡を見るのだ。
恋歌 − 織りなす記憶の紡ぎ歌 −
<i172804|12534>
﹃読めないんだ、ちっとも。なのに、文字を眺めているだけで、涙
が溢れて⋮⋮この手紙、ジュリがくれた?﹄
手紙は、ジュリアスの直筆だった。東西大戦のさなか、光希に宛
てて書いたものだ。
﹃なんで、読めないことが、こんなに苦しいんだろう⋮⋮俺は、何
22
を忘れているんだろう﹄
はらはら、透明な雫が零れる。
恋歌 − 響き渡る、鉄の調和 −
<i172073|12534>
﹁それにしても、アルスランの義手に、貴方がそれほど心を砕くと
は思っていませんでした﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁そうでしょう。寝る間も惜しんで工房に籠り、危険も顧みずに、
自ら鉱山へ赴こうとする。随分と入れ込んでいますね﹂
恋歌 − 幾千夜に捧ぐ恋歌 −
<i215233|12534>
﹁待っているから。僕を探して。辛くても⋮⋮諦めないで、僕を探
してね﹂
涙に濡れた瞳の縁にそっと口づけると、ジュリアスは歯を食いし
ばって光希を見つめた。宝石のような青い瞳は、涙で潤んでいる。
﹁探します、幾千の夜を越えても、必ず、貴方を見つけてみせるッ
!! どうか、待っていて⋮⋮ッ﹂
花冠の競竜杯 − 書籍化&3周年記念作品 −
<i233789|12534>
競竜杯決勝戦。麗らかな快晴。
広大な楕円形の競技場には、大勢が集まっていた。
23
今日ここで、西大陸における最速の栄誉を懸けて、八人の飛竜の
騎手達が勝敗を競うのだ。
24
0
<i142881|12534>
<i142882|12534>
<i142883|12534>
<i142884|12534>
とある世界 とある時代
東西の広大な大陸を それぞれの神が守護していた
西を雷炎のシャイターン 東を冥府のハヌゥアビス
両者は度々諍いを起こし 守護大地を巻き込んだ
大地に暮らす人間が 勢力範囲を争うことを
互いの神は 良しとした
この物語の主人公は シャイターンに選ばれ
東との決戦を定められた少年である。
そしてもう一人︱︱
25
シャイターンの思し召しにより 天球を越えて
﹁花嫁﹂として招かれる少年である
この者が 賛美と祈りを捧ぐこと
この者を先の者が愛でることを
シャイターンは 良しとした
この物語は 神の思し召しについては
恐らく多くを語らない 明かさない
二人の少年の視点を以てして 旨とする
宇宙の大海原に 橋が架かる時︱︱飛び越えてゆける 貴方のもとへ
26
Ⅰ︳1
ひやまこうき
二○ⅩⅩ年、年の暮れの十二月、大晦日。木枯らし吹く東京、某
マンション。
﹁いてて⋮⋮﹂
へんぺい
ずれた眼鏡を直しながら、桧山光希は情けない声を上げた。狸に
似ている、といわれる扁平な丸顔を痛みに歪めて、黒目がちの瞳に
は涙が滲んでいる。
不安定な姿勢で棚上の箱を取ろうとしていたら、バランスを崩し
て椅子から転げ落ちたのだ。揚句、頭の上に箱が落ちてきて角が当
たる。
身長一六五センチで少しぽっちゃりしている光希は、自分でも哀
しくなるくらい鈍くさい。運動はからっきしで、体育の成績は小学
生の頃から並以下だった。
母親から、自分の部屋くらい片づけろ、といわれて渋々大掃除を
開始してみれば、まぁ出てくる出てくる、漫画、漫画、漫画、玩具、
フィギュア、ガラクタの山々。
片づけているはずなのに、一向に片づく気配がない。むしろ、余
計に散らかっていくように見えるのは気のせいだろうか⋮⋮
毎年年末には十袋近くゴミを出しているのに、なぜ一年でこうも
増えるのだろう。
﹁ふぅ⋮⋮あとはこれだ﹂
最後まで処分に迷ったガラクタ類︱︱壁掛けダーツと、見覚えの
ない箱から出てきた、古ぼけた硝子瓶だ。
27
ダーツは、肝心のダーツ矢が見つからず︵恐らく掃除中に間違え
て捨てた︶捨てることに決めた。古ぼけた硝子瓶は、中身がよく見
えず、コルク栓は異様に硬くて開きそうにない。
﹁なんだっけ、これ﹂
硝子瓶を蛍光灯の光に晒してみるが、中身はさっぱり見えない。
曇り硝子というわけでもなさそうだ。雑巾で拭いてみると、拭いた
ところから仄かな光が零れた。
もしかして、洗えば汚れは落ちるのだろうか?
試しに湯で表面を洗い流してみると、瞬く間にきらきらと無数の
光が瓶の中から溢れ出てきた。
﹁わーなんだろ⋮⋮﹂
水滴を払えば表面は曇り、湯をかければ透けて中が見える。そう
いう素材なのだろうか?
湯をかけながら目を凝らして中を覗くと、数多の星が煌めく、美
しい夜空が見えた。
瓶の角度を変えれば、万華鏡のように世界は変わる。夜空が見え
たり、砂漠のオアシスが見えたり⋮⋮まるで、瓶の中に世界が広が
っているようだ。
見れば見るほどよくできている。少しも玩具という感じがしない。
光源はどうなっているのだろう? さっきから湯をかけているが、
壊れないだろうか?
﹁︱︱うわっ﹂
ありえないものが見えた。慌てて手を離すと、瓶は硬質な音を立
てて洗面台の上を転がった。
28
光希は恐る恐る洗面台を覗き込み、ひぇ、と引きつった声を上げ
た。
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
眼鏡を上げて眼を擦ってみたが⋮⋮見える。とんでもなく美しい、
光希と同じ年頃の少年の姿が。
不思議と怖くはない。
こちらをじっと見つめる、宝石のような青い瞳はとても綺麗だ。
額にも瞳と同じ色をした、宝石のような綺麗な石がついている。
状況も忘れて、つい見惚れてしまう。
すっと通った鼻梁、形の良いハート型の唇、なめらかな陽に焼け
た肌。中性的な顔立ちをしているが、喉仏がある。男性だ。凛々し
い軍服がよく似合っている。
少し長めの、黄金を溶かしたような豪奢な金髪は、ものすごくリ
アルに風に靡いている。まるで、瓶の向こう側に、本当に存在して
いるようだ。
初めて彼を見るはずなのに、ずっと昔から知っているような、懐
かしい既視感に襲われた。この時をずっと待っていたような、よう
やく出会えたような、不思議な心地がする。
宝石のような青い瞳から、目を逸らすことができない。心の奥底
まで見透かすように、じっと見つめられて、光希は誘われるように
硝子瓶に手を伸ばした。
触れる瞬間、少年の声を聴いた気がした︱︱
29
Ⅰ︳2
浮遊感。暗闇。突き刺さるような水の冷たさ。
何が起きたというのか、溺れている。ありえないッ!
重たい水の圧に、全身の自由を奪われる。思いきり水を飲んだ。
鼻に水が入って痛い。
﹁はぁっ、はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂
必死に水を掻いて、光希はどうにか水面から顔を出した。
突き刺さるような冷たさだ。訳が判らない。混乱のままに顔を上
げて、更にぎょっとした。
数多の星が瞬く、広大な夜空が見える︱︱
﹁はぁ、は⋮⋮えぇっ?﹂
渦巻く銀河の形状まで見える、落ちてきそうな満点の星空だ。ぞ
っとするほど美しい夜空には、地球にそっくりな、半分欠けた大き
な青い惑星が浮いていた。
﹁は⋮⋮意味わかんねー﹂
﹁***、******!﹂
声が聴こえた方を、光希は弾かれたように振り向いた。対岸にぼ
んやりと人影が見える。眼鏡はどこかへ消えてしまったが、遠目に
も黄金の髪が輝いて見える。
30
﹁お前っ! わぷ⋮⋮っ!﹂
声を上げた拍子に、水を飲んでしまった。海水と違いしょっぱく
はないが、とにかく冷たい。
早く岸に上がらないと、死ぬ。
そう思っても、必死に手足を掻いたところで思うように進まない。
泳ぎは得意ではないし、水を吸った服がとにかく重い。
命の危険を感じていると、水飛沫の音が聴こえた。ざばざばと水
を掻く音が続く。
助けにきてくれるのだと理解した瞬間、安堵と同時に申し訳なさ
が胸にこみあげた。彼まで、こんなに冷たい水の中へ⋮⋮!
﹁***、******﹂
瞬く間にやってきた少年は、落ち着いた口調で声をかけてくれた
が、何をいわれたのか聞き取れなかった。
﹁ご、ごめんなさい﹂
やはり、硝子瓶の中に見えた、あの少年だ。
いざ目の前にすると、圧倒されてしまう。髪も瞳も纏う空気も、
何もかも煌めいていて神々しい。こんなに綺麗な人を、見たことが
ない。
﹁わわっ﹂
腕を引かれて、背中を預けるようにして後ろから支えられた。す
ごい安定感だ。彼は、光希を支えた状態で器用に水を掻き、足のつ
く浅瀬まで連れていってくれた。
ざばざばと水を蹴って、光希は倒れるように地面に膝をついた。
31
大げさなくらい身体が震えている。
﹁あ、あ、ありがとう﹂
寒くて、カチカチと歯が鳴る。どうにか礼を口にすると、少年は
そこらの茂みから、落ち葉や枯れ木を手際よく岸部に集め始めた。
もしかして⋮⋮見守っていると、期待通り火を熾こしてくれた!
手を翳しただけで、勝手に火が点いたように見えたが、気にして
いる余裕なんてない。
一刻も早く冷えた身体を温めたくて、光希は青い炎の前に蹲るな
り両手を翳した。
︵暖かい⋮⋮︶
やし
布のこすれる音に顔をあげると、少年は丈の長い上着を脱いで、
近くの椰子の木にかけていた。慣れた仕草で、首に結ばれた青色の
タイを指で緩めている。彼の恰好は、襟や袖の縁取りに銀が入って
いる以外は、全身黒一色だ。光希の視線を気にすることなく、手際
よく脱いで、あっという間に上半身裸になった。細身ながらしなや
かな筋肉のついた体躯は、彫刻のように美しい。腹筋も綺麗に割れ
ている。
一六五センチで六二キロを超える光希は、少しぽっちゃり体系だ。
ぐんか
腕も腹もまるっこくて、彼とは全然違う。少々妬ましく感じている
と、視界に少年の素足が映った。頑丈そうな軍靴も脱いだらしい。
﹁***、******、************﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
困ったことに、何をいわれているのか全然判らない。英語とも違
32
う、聞いたことのない不思議な響きだ。
少年は戸惑う光希に手を伸ばし、濡れたパーカーを引っ張った。
脱がせようとしていると知り、焦ってパーカーの裾を握りしめる。
なんとなく、彼の前で裸になるのは嫌だった。
﹁******﹂
﹁い、いいよ、脱がなくても平気だから﹂
必死に抵抗を続けると、少年は諦めたように手を離した。気を悪
くした様子もなく、唇に手を当てて指笛を吹く。
暗い緑の茂みが揺れる様を恐々見守っていると、馬に似た漆黒の
くつわ
たづな
あぶみ
動物が姿を見せた。
轡に手綱、鐙、腹にくくられた荷物から察するに、彼の騎乗馬な
のだろう。ユニコーンのように一角が頭についているが⋮⋮
︵ここはどこなんだ⋮⋮?︶
まるで、瓶の中に広がっていた世界に見える︱︱そんな馬鹿な。
静かに混乱する光希の傍らで、少年は荷袋から大判の布を取り出
し、光希の背後に座りこんだ。長い腕を回して、光希ごと布でくる
む。
﹁︱︱ッ!?﹂
背中に温もりを感じると共に、光希の全身に緊張が走った。全意
識は背後の少年へと向かう。
33
34
Ⅰ︳3
光希は少年の腕の中で、借りてきた猫のようにじっとしていた。
恥ずかしいことこの上ないが、人の体温とは暖かいものだ⋮⋮
厚布のおかげで外気が遮断されて、余計に人肌を温く感じる。濡
you
speak
english?﹂
れた服は気持ち悪かったが、人肌に馴染んで温まるうちに気になら
なくなってきた。
﹁⋮⋮あの、do
﹁******、************、******﹂
やはり英語は通じない。何をいわれているのか、全然判らない。
これは現実なのだろうか? 何だってこんなところにいるのか、
全くもって理解不能だ。
あの硝子瓶を洗っている最中に、何か事故でも起きたのだろうか?
水道管が破裂したか、或いは地震でも起きて頭を強く打ったか。
実は光希は倒れていて、これは夢だったりしないだろうか?
﹁すげーリアルだけど⋮⋮﹂
ぶつぶつ呟いていると、顔を覗き込まれた。じっと見つめられて、
光希もおずおずと青い瞳を覗きこんだ。夜闇の中でも、神秘的な瞳
は仄かな光彩を放っている。
硝子瓶を覗いた時も思ったけれど、なんて綺麗な人なのだろう。
同性でも思わず赤面してしまうほどの完璧な美貌だ。神々しいとは、
彼のことをいうのだろう。
35
﹁******⋮⋮************﹂
意味は判らないが、穏やかで少し低い声は耳に心地いい。ずっと、
囁くような優しい口調で話しかけてくれている。
彼は溺れかけている光希を見て、迷わず飛びこんで助けてくれた。
火を熾してくれて、今も布で包んで温めてくれている⋮⋮
何でこんな事態になったのかは判らないが、これだけは判る。彼
が傍にいてくれて、本当に良かった。
﹁助けてくれて、本当にありがとう。貴方がいなかったら、俺は死
んでいたかもしれない﹂
﹁*****﹂
﹁ごめん、言葉判らない⋮⋮俺は、桧山光希っていうんだ。桧山、
光希、桧山、光希だよ﹂
﹁ヒヤマ﹂
﹁そう! 桧山、光希﹂
﹁ヒヤマ、コーキ﹂
﹁貴方の名前は?﹂
光希は少年に指を向けて問いかけた。
﹁ジュ**ス・*ーン・****ーン﹂
半分以上聞き取れなかった。
36
﹁ごめん、もう一度。ジュ⋮⋮ス?何?﹂
﹁ジュリ*ス・*ーン・シャ***ーン﹂
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
﹁ジュリアス・*ーン・シャ***ーン﹂
﹁ジュリ、アス⋮⋮??﹂
何度か繰り返してくれたが、全部の音を拾うのは無理そうだ。焦
りが顔に出たのか、彼の方から妥協してくれた。
﹁︱︱ジュリ﹂
﹁ジュリ!﹂
二文字ならいえる。思わずガッツポーズをする光希を見て、ジュ
リアスは小さく笑った。初めて見る彼の笑顔は、思わずドキッとす
るくらい魅力的だった。
﹁***、ヒヤマ、コーキ、*********﹂
﹁あのさ、俺、硝子瓶の向こうからジュリが見えた⋮⋮これが夢じ
ゃないなら、俺は一瞬で地球からここに移動したのかもしれない。
地球があんなに大きく見えるから、位置的に考えてここは月だった
りする?﹂
反応を待ってみたが、彼の表情は少しも変わらない。凪いだ青い
37
瞳で見つめ返すばかり。
﹁言葉、判らないもんね⋮⋮でもさ、ここにこれたってことは、戻
れるはずだよ﹂
自分を納得させるように呟いた。あの不思議な硝子瓶の出所を、
どうしても思い出せない。大掃除していたら出てきたのだ。
最初はただの硝子瓶に見えたのに、湯をかけた途端にきらきらと
輝き出した。
その後は⋮⋮よく判らない。
なぜか冷たい泉の中で溺れていた。あの泉にもう一回飛びこんだ
ら、元に戻れるだろうか?
38
Ⅰ︳4
泉の冷たさを思い出したら、身体に震えが走った。思いつきを試
してみたいが、あの泉にもう一度潜る気力はない。
今何時だろう⋮⋮そろそろ二十時だろうか。ネトゲ仲間と約束し
ていたことを思い出したが、とても守れそうにない。
救助を呼ぼうにも、ここがどこかも判らない。そもそも連絡手段
がない。電波が届くか疑問だが、せめて携帯を持っていれば良かっ
た。
︵ここはどこなんだ? ちゃんと帰れるのか⋮⋮?︶
不安が膨れ上がり、光希は衝動的に立ち上がった。呼びとめる声
を無視して、突き刺すような冷たさの泉に入っていく。
﹁ヒヤマ、コーキ!﹂
は瓶、
こちら
は泉
後ろでジュリアスが叫んでいる。でも構っていられない。立ち止
あちら
まれば、突き刺すような冷たさに凍えてしまう。
きっと一時の我慢だ。
深く潜れば帰れるに違いない。
で繋がっているはずなのだから。
息を止めて、潜って、潜って︱︱
心臓が止まりそうだ。あまりの冷たさに、金属が響くような音が
耳朶に鳴り響く。これは不味いかなぁ⋮⋮と意識が遠のきかけた瞬
間、力強い腕に引き上げられた。
﹁げぇっ、げほっ! はぁっ、はぁ、は⋮⋮﹂
39
光希は酸素を求めて激しく咳こんだ。刺すような冷たさに肺が凍
りつきそうだ。手足の感覚がない。
︵苦しい⋮⋮!︶
涙で視界が滲んだ。水の跳ねる音が聴こえたと思ったら、ジュリ
アスに運ばれて陸へ連れ戻された。
もう自分の足では一歩たりとも進めない。引きつりを起こしたよ
うに痙攣する光希を、ジュリアスは火の前に下ろした。
﹁うぅ⋮⋮っ﹂
﹁*****! ヒヤマ、コーキ、********!﹂
ジュリアスは躊躇なくナイフで光希の服を切り裂いた。
服を剥ぎ取られ、裸にされても、もはや抵抗する気力はない。痛
いくらいに寒い。手足に感覚がなさすぎて怖い。
﹁うぅ、やだ⋮⋮っ、死にたくなぃ﹂
光希が冷え切っているからそう感じるのか、触れ合うジュリアス
の素肌は、とても熱かった。
隙間なく寄り添い、掌でしきりに腕をさすってくれる。手足に感
覚が戻ってくるまで、怖くて、光希はぼろぼろと堰を切ったように
泣き続けた。
は
パチリ︱︱朱の火花が散り、枯れ木の爆ぜる音が響いた。
﹁⋮⋮﹂
40
光希は腫れぼったい瞳でぼんやり、青い炎を見つめていた。
ようやく手足に感覚が戻ってきた。身体は疲れ切っていて、ジュ
リアスの体温に包まれたまま動けない。
手足が麻痺していく感覚は本当に恐ろしかった。
彼のおかげで一命を取りとめたけれど、身体を張って泉に潜った
のに、何も手ごたえはなかった。潜り方が浅かったのだろうか? でも⋮⋮あんなに冷たい、痛い思いをするのは、もう嫌だ。
﹁****、****﹂
慰めるように、髪を撫でられた。彼には本当に迷惑をかけている。
二度も救ってくれた。ずっと傍にいてくれるけれど、時間は平気な
のだろうか?
でも、ジュリアスがいなくなったら、どうしていいか判らない。
この訳の判らない世界で、頼れるのは彼だけだ。
これからどうしようと虚ろに思うも、思考はまとまらない。疲労
困憊しているし、包みこまれる温もりに眠気を誘われる⋮⋮
﹁ごめん、寝そう⋮⋮﹂
﹁****、ヒヤマ、コーキ﹂
お休み、と聞こえたのは、光希の都合の良い解釈だろうか⋮⋮
41
Ⅰ︳5
目を開けた時、一瞬、どこにいるのか判らなかった。
周囲を見渡すうちに、一連の摩訶不思議を思い出したが、ここが
どこなのかは判らない。
うずくま
振り返ると、ジュリアスは光希を包みこんだまま、瞳を閉じて眠
っていた。そのすぐ後ろに、荷を解いた黒い一角獣が蹲っている。
︵夢じゃないのか⋮⋮︶
れいめい
深い落胆に襲われ、胃はずしりと重たくなった。
えんたん
黎明の空を仰げば、美しい青い星が空に浮かんでいる。
空は刻一刻と明るくなり、地平線に鉛丹色の朝陽が顔を見せた。
たなびく雲は、朝の光線を浴びて黄金色に縁取られる。
星と太陽の輝きが同時に空を照らす神秘のなか、ようやく周囲の
景観に気がついた。
ここは小さなオアシスのようだ。
泉を囲むように緑が茂っており、オアシスの向こうには雄大な砂
漠が広がっている︱︱
ここは地球でも月でもない。そもそも光希の知っている太陽系か
も怪しい。
空には半分欠けた大きな地球が浮かんで見えるが、酸素も重力も
水もあって、極端に寒すぎず暑すぎない。そして人間が住んでいる
⋮⋮
これほど地球によく似た環境を持つ惑星が、果たして太陽系にあ
っただろうか?
ここは光希の常識では測れない、全く未知の世界なのかもしれな
い。
42
﹁****、ヒヤマ、コーキ﹂
宝石のような青い瞳と視線がぶつかり、思わず鼓動が跳ねた。昨
日から何度も思っているけれど、ジュリアスはちょっと心臓に悪い
くらい、綺麗だ。
﹁おはよう、ジュリ。一晩中ごめん、無理な体勢で辛かったでしょ﹂
やし
見惚れたことを誤魔化すように笑いかけると、ジュリアスは優し
は
くほほえんだ。光希に厚布をかけて立ち上ると、椰子の幹にかけて
ある服を身に着け、大振りのサーベルを慣れた仕草で腰に佩いた。
帯剣したジュリアスは、貴公子のように凛々しい。恰好から見て、
彼は軍人なのかもしれない。
動きにも、無駄が一切ない。
馬に餌と水をやり、水筒に泉の水を注ぐ。解いた荷物から鉄串を
取り出し、干し肉や穀類を刺すと、ぱらぱらと香りの良い香草をひ
と振り。見ているだけで涎が出そうだ。火で炙ると香しい匂いが辺
りに漂い、本当に涎が出てきた。
﹁腹減った⋮⋮昨日の昼から食べてないんだ。俺にも分けてくれる
?﹂
ひもじい思いでうかがうと、ジュリアスは笑って頷いた。火が通
っているか確かめ、どうぞ、と光希に串を手渡してくれる。
﹁うめぇ︱︱っ!!﹂
あまりの衝撃に、光希は絶叫した。串に具材を刺して、簡単な味
つけで焼いただけなのに、信じられないほど美味しい。
43
夢中で串に噛りついていると、温かいスープまで出してくれた。
細かく刻んだ野菜がたくさん入っている。涙が出るほど美味しい。
もし︱︱
逆の立場だとしたら。光希の目の前で誰かが溺れていて、仮に自
分が水泳選手だったとしても、迷わずに飛びこんで助けることがで
きただろうか?
でも、ジュリアスは身体を張って二度も助けてくれた。
帰る場所もあるだろうに、光希を抱えたまま火の番をしてくれた。
疲れているはずなのに、こうして朝食の面倒まで見てくれて、鉄串
を自分よりも先に光希に渡してくれた。
なんてすごい人なのだろう。強くて、恰好良くて、頼りになって
⋮⋮しかも、とても優しい。
﹁ジュリ、迷惑ばかりかけてごめん。ご飯すごく美味しいよ、本当
にありがとう﹂
﹁****、ヒヤマ、コーキ、********﹂
不意に明るい気持ちがこみあげ、光希は素直に笑った。
﹁ずっとフルネームで呼ぶよね。光希だけでいいよ。光希、光希﹂
﹁コーキ?﹂
﹁そうだよ、光希って呼んで。ジュリって幾つなの? 同い年くら
いに見えるけど。俺は十七歳だよ﹂
﹁********﹂
﹁ジュリも学校に通ってるの? テライケメンだし、モテるだろ?﹂
44
﹁********﹂
﹁いんだよ、謙遜しなくて⋮⋮ジュリならドヤ顔したって許される
よ﹂
﹁****、****⋮⋮﹂
会話が成立していたかどうかは謎だが、食事している間、心地い
い時間が流れた。
食べ終えると光希は両手を合わせて、ごちそうさま、と告げた。
普段はしないのだが、言葉の通じない彼に、感謝の気持ちを少しで
も伝えたかった。
食べ盛りの光希は、まだカツ丼が軽く入りそうなくらいには腹が
減っていたが、我がままはいえない。きっと彼の分の食事を分けて
くれたのだと思うから。
それに、ジュリアスだって食べ盛りだ。一八十センチ以上ありそ
うだし、光希よりも食べ足りないと思っているはず。
それより、この後ジュリアスはどうするのだろう⋮⋮
手際良く火を消して荷支度するジュリアスの様子を、光希は不安
そうに見つめた。
﹁コーキ、********﹂
呼ばれて傍へ寄ると、ジュリアスは裸に厚布をかけただけの光希
を、馬上に押し上げようとした。慌ててその手から逃げる。
﹁コーキ、***﹂
﹁ジュリ、俺、ここにいたい﹂
45
この泉を離れたら、元の世界に二度と帰れない予感がする。
置いていかれるのは不安だが、ここを離れてジュリアスについて
いくのも不安だ。戻ってこられる保障がないのなら、留まった方が
無難な気がする。
幸い、ここには水と木陰がある。一角獣も普通に泉の水を飲んで
いたし、飲める水なのだろう。
46
Ⅰ︳6
無言で見つめ合っていると、空の彼方、視界の端に鳥にしては大
きな影が映った。
鳥の群れ︱︱いや、鳥ではない。我が目を疑うが、いわゆるドラ
ゴンに似ている気がする。
空を仰いで呆然と立ち尽くしていると、編隊を組む飛竜達は急降
下を始めた。オアシスからそう遠くない場所に舞い降りる。
﹁ジュリ﹂
砂漠にいこうとするジュリアスの背中に声をかけると、ついてく
るな、というように掌をこちらに向けられた。
﹁コーキ、********﹂
馬を残しているから、戻ってくる気はあるのだろう。判った、と
いうように頷くと、ジュリアスは優しくほほえんでから背中を向け
た。
いかにも強そうな竜だ。一人で、どうするつもりだろう⋮⋮心配
になったが、ジュリアスは躊躇いのない足取りで近づいていく。
なんと、飛竜の背には人が乗っていた。ひらりと砂の上に舞い降り
るや、ジュリアスの前に跪いた。
あんなに立派な飛竜に乗るような人達が、光希と同い年くらいの
ジュリアスに傅くだなんて。彼は一体、何者なのだろう?
堂々とした振る舞いから察するに、指導者として敬われる立場に
あるのかもしれない。話し声は聞こえないが、ジュリアスの身振り
は彼等に何か指示を出しているように見える。
47
会話はすぐに終わった。
彼等は立ち上がり一礼すると、ひらりと飛竜に跨り、一頭だけ地
上に残して空へと飛翔した。
ジュリアスは一人でオアシスに戻ってくる。本当は身分のある人
なのかもしれない、そう思うと、近寄ることを躊躇ってしまう。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
﹁コーキ、***﹂
所在なげに立ち尽くす光希の傍に寄り、ジュリアスはあちこち撥
ねた黒髪を愛でるように撫でた。その手は優しく、どこか子供に接
する手つきを思わせる。
二十センチ以上の身長差もあるし、年下だと思われているのかも
しれない。確かに彼に比べたら、光希は無力な子供だ。
沈黙していると、背中を押された。黒い一角獣に乗せようとして
いると知り、光希は慌てて逃げた。
﹁ジュリ、俺ここに残る﹂
﹁*********﹂
﹁心配してくれてありがとう。でも、ここを離れても家に帰れる気
がしないから⋮⋮もっと泉を調べてみたいし。助けてくれて本当に
ありがとう。ご飯も美味しかった﹂
言葉が通じないことがもどかしい。
心から感謝の気持ちを伝えたいのに、ありがとう、ってどういえ
ば伝わるのだろう?
思い切って、腕を回してジュリアスに抱き着いた。感謝の気持ち
48
をこめて背中を叩くと、彼も抱き返してくれた。そのまま、胴を掴
んで持ち上げようとするので、慌てて身体を捻って逃げた。
﹁******﹂
﹁いかないよ。いいんだ、俺を置いていって﹂
ジュリアスは、思慮深い眼差しで光希の瞳を覗きこんだ。不安そ
うに映らないように、光希も瞳に力を入れて見つめ返す。
判ってくれたのだろうか。
光希を離すと、ジュリアスは一角獣に括りつけた荷を解いて、食
料や水を広げ始めた。鉄串や調理用の刃物を手にしながら、身振り
で使い方を教えようとしている。
﹁もしかして、くれるの?﹂
﹁******﹂
﹁いいよ、ジュリが大変だろ﹂
﹁コーキ、******﹂
手を振って遠慮する光希の腕を掴むと、ジュリアスはいい聞かせ
るように、水筒や食べ物を握らせた。
﹁******、************﹂
﹁ジュリ、いいって⋮⋮﹂
持たされた荷をジュリアスの胸に押しつけるが、受け取ってくれ
49
ない。
それどころか、顎に手を添えられて上向かされた。
至近距離で視線が交わりどきどきする。男だと知っていても、見
惚れるほど綺麗だから⋮⋮
緊張して固まっていると、ちゅっと額にキスされた!
﹁︱︱ッ!?﹂
光希の動揺といったらない。狼狽えまくって、額を手で押さえな
がら顔を伏せた。
﹁コーキ⋮⋮******、************、****
**************。************、**
**********﹂
ジュリアスは今までで一番長く喋った。内容は不明だが、大切な
ことをいわれた気がする。
いよいよお別れかと思うと、やはり心細くなる。不安そうに見え
ぬよう、光希は顔に笑みを貼りつけた。
﹁何から何まで、本当にありがとう。ジュリ⋮⋮気をつけて﹂
少し迷った末に、気をつけて、と口にした。さようならはいいた
くない。けれど、またね、ともいえない。もう一度会える保障など
ないのだ。
ジュリアスは、光希の頭を撫でたあと、賢い一角獣の首を撫でた。
そのまま、背中を向けてオアシスを出ていこうとする。
一角獣まで置いていくのだろうか?
というか、殆どの荷物を置いたままだ。
せめて水筒だけでも渡そうと、慌てて背中を追いかけると、青い
50
眼差しはすぐにこちらを向いた。光希の意図を察したように、微笑
と共に押しつけた水筒を返された。
﹁いいの? 飲み水なくて、砂漠、平気なの?﹂
﹁***コーキ*****﹂
青い瞳で光希を見つめて、砂漠を指差す。くる気はあるか? そ
う問いかけられた気がして、首を左右に振って応えた。
51
Ⅰ︳7
あぶみ
伏せる飛竜の元へ近づいたジュリアスは、鐙に足を掛けて、素晴
らしい跳躍力で騎乗した。こちらを見ている気がして、光希が腕を
振ると、彼も腕を上げて応えてくれた。
砂を巻き上げて羽ばたいた竜は、瞬く間に小さくなっていく。や
がて、空の彼方に消えた。
不安に押しつぶされる前に、光希は泉の探索を開始することにし
た。
ちょうめい
小さなオアシスは、十分も歩けば一周できる。泉は、底が透けて
見えるほどの澄明さだ。
膝まで水に浸かり、泉を覗きこんでみた。光希が硝子瓶を覗きこ
あちら
と
こちら
は、水を介して次元が
んでいた時、ジュリアスはこうして泉を覗きこんでいたのだろうか?
理屈は不明だが、
繋がったのかもしれない。
引きこまれたのは、どうしてジュリアスではなく光希だったのだ
ろう⋮⋮
とにかく、この泉に何かある可能性は高い。泉の底を調べてみる
価値はあるだろう。
陽が昇ると、急激に温度が上がってきた。
緑に守られているオアシスは木陰も水もあり快適だが、一歩外へ
出れば数分もしないうちに倒れてしまいそうな熱砂だ。
水温も上がってきたし、そろそろ頃合いだろう。
火の準備をしておきたいが、置いていってくれた荷の中に、マッ
チやライターの類は見つからなかった。彼は、どうやって火を熾し
たのだろう?
検討もつかない。
52
早々に火を諦めると、底を探れる長い棒を探すことにした。
荷袋に入っていたナイフで、手頃な枝を断ち切った。先端は大分
細いが、二メートルはありそうだ。
泉には、危険な生き物もいるかもしれない。万が一に備えて、刃
物を持って潜った方が良いだろうか。
小型ナイフにはしっかりした鞘がついている。これならどうにか
持っていけるかもしれない。荷物を漁り、皮袋を結ぶ紐に目が留ま
った。紐を裸の腰に巻いて、余った部分を鞘の袋とじになっている
蓋部分に通して結んだ。
﹁よし﹂
念入りに身体を解すと、素っ裸で軽くオアシスの外周を走った。
息切れが治まるのを待って、いよいよ潜水開始だ。
浅瀬から入り、腰まで水に浸かると、持ってきた枝で水底を探る。
先端が細すぎるせいか、手に伝わる感触がいまいち心もとない。
仕方なくある程度太さがあるところまで枝を折ったら、大分短くな
ってしまった。
心配していた水の冷たさは、陽が照っているおかげか、さほど感
じない。肺いっぱいに酸素を吸いこむと、一気に潜った。
けれど、潜るまでもなく、透度の非常に高い泉は、そこそこ深さ
のある水底も何なく透けて見えた。
美しい魚の群れが、すいすいと泳いでいく。水底には水晶のよう
な透明の珊瑚礁が煌めいている。
垂直にぐんぐんと潜ると、手にした枝で水底を探った。神秘的で
はあるが、ごく普通の泉だ。異次元に繋がっているようには見えな
い⋮⋮
﹁ぷはぁっ、はぁ、は⋮⋮﹂
53
水面から顔を出しては、息を吸って何度も潜った。
もしかしたら、あの不思議な硝子瓶が落ちているかもしれない、
そう思い至ってからは、いっそう注意深く水底を探った。
小さな泉とはいえ、くまなく水底を探るには相当時間がかかる。
一時間も経たないうちに、光希は疲れきってしまった。
水から上がると、厚手の布にくるまった。心配していた割には、
身体は冷えていない。尖った珊瑚に足を擦ってしまったが、大した
ことはない。無事に潜ることができて良かった。
とはいえ、肝心の帰る方法はちっとも判らない。今のところ、目
の前のオアシスは綺麗な普通の泉だ。
﹁はぁ⋮⋮判んねー﹂
思わず弱音が口をついた。背中を軽く押されて振り向くと、黒い
一角獣と目が合った。なんだか、心配されている気がする。
﹁ありがと⋮⋮﹂
びろうど
賢い獣に恐る恐る手を伸ばすと、天鵞絨のような手触りに、束の
たてがみ
間心を奪われた。
鬣や首を撫でてても、彼は気ままに長い尾を揺らしてじっとして
いる。
﹁そういえば、お腹すいた? 何かあるかな⋮⋮﹂
今朝、ジュリアスは何を与えていただろう。
これかな、と見覚えのある皮袋を開くと、干肉と穀物を細かく刻
んで擦り合わせたような食料が入っていた。ビーフジャーキーを連
想する匂いが漂い、口に入れてみると、割と美味しかった。
固くて苦い藁のようなものも交じっており、ぺっと吐き出すと、
54
傍にいた一角獣がぱくっと食べてしまった。
﹁ごめん、こっち食べて﹂
乾いた葉っぱの上に一掴みの食料を落とすと、一角獣は顔を寄せ
て食べ始めた。その様子を見ながら、光希も食べれそうな肉の欠片
を口へ運んだ。味は悪くはないが、物足りない。腹にたまらない。
米を食べたいと切実に思う。照り焼きバーガー、フライドポテト、
カフェオレ⋮⋮
家族は心配しているだろうか。
今頃、皆で食卓を囲んで、おせち料理をつついているはずだった
のに。お年玉で欲しいソフトを買うつもりだったのに⋮⋮
55
Ⅰ︳8
日が暮れるまで、休憩しては泉に潜ったが、結局何も見つけられ
なかった。
もしかしたら、時間も関係しているのかもしれない⋮⋮例えば、
夜にならないと異変は起きないのではないか?
そうだとしても、暗くなるにつれて気温も下がっていく。
昨日の凍える冷たさを思い出して、身体に震えが走った。もう二
度と、あんな思いをするのはご免だ。今度こそ死ぬかもしれない。
暮れなずみ︱︱
たなびく雲は黄金色に縁取られ、オアシスも、その向こうの砂漠
も薔薇色に染め上げられた。
息を呑むほど美しい光景なのに、人の気配が一切無くて、見てい
ると辛くなる。
孤独過ぎる。
どうして、こんなところに一人でいるのだろう⋮⋮
夜になり、気温はぐっと下がった。
光希は厚手の布をしっかり身体に巻いて、一角獣に寄り添い、温
もりを分けてもらっている。
この優しい生き物がいてくれて、本当に助かった。火がないと、
こんなにも寒いとは。夜の泉に潜るなんて、とても考えられない。
また明日、陽が昇ったら泉を徹底的に調べてみよう。策が尽きて
いよいよとなったら、夜の泉に入るか考えよう。
微睡んでいると、遠くから、力強く羽ばたく音が聴こえてきた。
もしかしたら⋮⋮ジュリアスが戻ってきてくれたのかもしれない。
期待して落胆するのは嫌だから、気持ちに歯止めをかけて、じっ
56
と空を見つめた。
間違いない。今朝と同じ竜だ。ジュリアスが戻ってきてくれた!
オアシスから少し離れたところに飛竜は着陸した。
はや
騎乗人がひらりと舞い降りる様子を見て、いてもたってもいられ
ず、光希は裸足で駆け出した。鋭い茂みで足を痛めたが、逸る心を
抑えられない。
﹁ジュリ︱︱ッ!﹂
﹁コーキ!﹂
ジュリアスも駆け寄ってきた。手を広げて迎えてくれるので、光
希は迷わず飛びこんだ。
﹁お帰りなさいっ!﹂
﹁コーキ、*******﹂
孤独や不安は一瞬で吹き飛んだ。ジュリアスが戻ってきてくれた
ことが、心の底から嬉しかった。抱擁の強さは、ジュリアスの気持
ちを伝えてくれる。彼もまた、光希との再会を喜んでいた。
興奮が少し落ち着いたところで、二人は離れた。着くずれを直す
光希を、青い瞳が静かに見下ろしている。
﹁戻ってきてくれたんだ﹂
﹁コーキ⋮⋮﹂
少し掠れた声に、思わず鼓動が跳ねた。見下ろす眼差しを、やけ
に熱っぽく感じるのは気のせいだろうか⋮⋮?
57
視線を逸らした光希の頬に、手が伸ばされた。ジュリアスは顔を
傾けて、ゆっくり頬を寄せ︱︱
︵キスされそう?︶
目を丸くして、光希はジュリアスの唇を両手で押さえた。布がま
たしても肩から落ちてしまったが、そんな思考はどこかへ飛んだ。
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
ジュリアスは口を押さえる光希の手を取ると、掌に吸いつくよう
なキスをした。柔らかく濡れた感触に、ぞくりと震えが走る。
﹁何するんだよ!﹂
思いきり手を振り払ったのに、ジュリアスは優しくほほえんでい
る。甘くほほえまれて、光希は慌てて視線を逸らした。
どうして、こんなことをするのだろう? 口説かれているように
感じるのは、気のせいだろうか?
﹁俺、男だよ?﹂
証拠を見せようと、光希はわざと前を肌蹴させた。昨日、裸を見
られているはずだが、暗くてよく見えなかったのかもしれない。
果たしてどういう意味なのか、ジュリアスはほほえんだ。ぎくし
ゃくと光希が前を隠すと、手を伸ばして再び顔を寄せてくる。
﹁だから、男なんだって!﹂
避ける間もなく、ちゅっ、と鼻の頭にキスをされた。思考は完全
58
に停止した。光希が固まっていると、今度は唇にキスをされた。
﹁ジュリッ?﹂
彼が何を考えているのか、まるで判らない。強い眼差しから逃げ
るように、光希は無意識に後じさった。怯えを感じ取ったのか、ジ
ュリアスは瞬きと共に視線を和らげた。
﹁****、************﹂
何やら呟くと、背を向けてオアシスへと歩いていく。光希は恐る
恐る、後に続いた。
59
Ⅰ︳9
オアシスに戻ると、黒い一角獣は尾を揺らして主にすり寄った。
食事の痕跡に気づいたジュリアスは、問いかけるように光希を見た。
﹁あ、うん。餌ならさっきあげたよ﹂
﹁*****、********﹂
わだかま
恐らく、謝礼の言葉を口にしたのだろう。ほほえみ合い、蟠って
いた気まずさは完全に消えた。
ジュリアスは背負っていた大きな荷袋を下ろすと、軍服の上下を
取り出して光希に手渡した。親切に、下履きまである。
﹁ありがとう!﹂
満面の笑みを向ける光希の頭を、ジュリアスは子供にするように
撫でた。定着しつつある仕草だ。
早速、着替えると、想像以上にほっとした。全身を包まれる安心
感。服の偉大さを改めて思い知った。
ぐんか
我がままはいえないが、サイズはかなり大きい。裾と袖を幾重に
も折り返した。
愕然としていると、丈夫そうな軍靴を渡された。大きいが、編み
上げなので調節はできそうだ。これで思い切り動き回れる。
銀と黒を基調にした軍服は、ジュリアスくらい背があれば凛と見
栄えするのだろうが、一六五センチのぽっちゃり体系の光希が着る
と、子供が晴れの日におめかしをしているみたいだ。折り返した袖
と裾が情けない⋮⋮
60
光希が身なりに気を取られている一方、ジュリアスは何かを探る
ように、地面を触り出した。大きな石や枝を取り除いているようだ。
調理か寝床の準備をしているのかもしれない。
﹁ゴツゴツしたものを取り除けばいいの?﹂
傍に寄って光希も石ころを避けると、そうだ、というようにジュ
リアスは頷いた。オッケー、と返事をしてせっせと手を動かしてい
ると、彼は細い竹のようにしなる枝を器用に組み上げ、支点を荒縄
で縛り始めた。
恐らく、テントを作っているのだろう。
案の定、骨組みを完成させるや、鉄杭で地面に固定していく。雨
露も凌げそうな頑丈な布を上からかけると、最後に重い岩で四方の
布を固定した。あっという間に完成だ。
テントは、大人二人が横になれるくらいの広さがある。中に布を
幾重も敷くと、肌触りの良いクッションや布を入れた。簡易テント
にびいろ
にしては豪華だ。
ジュリアスは鈍色の照明に火を点けると、テントの傍に置いた。
今、どうやって火を点けたのだろう?
硝子照明の中で、青い炎はゆらゆらと揺れている。そういえば、
昨日の焚火も青い炎だった⋮⋮普通は、赤くないだろうか?
﹁コーキ﹂
呼ばれて岸部へ寄ると、青い炎のたき火が燃えていた。本当に、
しんちゅう
一体どうやって火を点けたのだろう。じっと炎を見つめていると、
真鍮の杯を手渡された。
﹁何? 酒?﹂
61
喉に流し込んだ途端に、身体はカッと熱を帯びた。
﹁バ**ィー﹂
今の単語は、この飲み物の名前だろうか。
﹁バ・・?﹂
﹁バゥリー﹂
﹁バウリー﹂
何度か繰り返すと、ジュリアスは満足そうに頷いた。どうやら、
バゥリーというらしい。未成年なんだけど、大丈夫かしら⋮⋮と思
いつつ、光希は興味を惹かれてちびちび煽った。度数はきついが、
さかな
味は美味しい。
酒の肴に、ジュリアスは火で炙った串焼きを渡してくれた。どれ
も美味しいが、特に薄く伸ばしたナンは格別であった。
﹁すごく、美味しいよー﹂
美しいオアシスで満点の星空を眺めながら、美味しい食べ物に舌
鼓を打つ。地球でこんな贅沢をしようものなら、結構なお金がかか
りそうだ。
昨日からの出来事をとんだ災難だと思っていたけれど、得な面も
おもむろ
あるのかもしれない。そう思えるのも、全て彼のおかげだ。
端正な横顔を眺めていると、ジュリアスは徐にウードのような楽
器を取り出した。
︵マジか、楽器まで弾けんのかよ!︶
62
驚愕する光希の傍らで、ジュリアスは堂に入った仕草で楽器を構
えた。
異国のオアシスに、甘く、切ない旋律が流れ出す。
なんて美しい音楽なのだろう⋮⋮
本当に奇跡のような人だ。天から、あらゆる才能を約束されて、
生を受けたのではなかろうか?
演奏が途絶えて、我に返った光希が手を鳴らすと、ジュリアスは
甘くほほえんだ。男と知っていても、心臓を撃ち抜かれそうである。
すると今度は、演奏に合わせて歌ってくれた。
砂漠を思い浮かべるような、異国情緒たっぷりな音色に乗せて、
心地よい声が言葉を紡ぐ⋮⋮
歌詞は判らないけれど、甘くて優しい歌声が心に染み入る。聴衆
が光希しかいないことが、勿体ないくらいだ。
演奏が途切れると、光希は盛大に手を鳴らした。
﹁良かったよ! 歌も演奏も素晴らしかった。ジュリって何でもで
きるんだね﹂
﹁*****、コーキ********﹂
光希が楽器に手を伸ばすと、ジュリアスは快く渡してくれた。つ
ま弾けば、ポロンと柔らかな音色が響く。彼のように自由自在に演
奏できたら、さぞ楽しいのだろう。
﹁俺も一曲披露するよ。演奏は無理だけど﹂
弦を悪戯に掻き鳴らすと、ジュリアスは瞳を輝かせて手を鳴らし
た。
光希は、よく知っているアニソンを歌った。ノリのいい明るい曲
63
のはずなのに、学校帰りに寄り道をした、カラオケや友達の顔を思
い出して視界が潤んだ。
64
Ⅰ︳10
望郷を察したように、ジュリアスは光希の背後から腕を回して抱
きしめた。照れ臭いけれど、優しい腕と温もりに慰められる。
﹁もう、平気だから⋮⋮﹂
身じろぐと、シィー、と耳元で囁かれた。頬がカッと熱くなり、
音速で耳を押さえると、ジュリアスは優しい旋律を口ずさんだ。
酒も回り、温もりに眠気を誘われる。
うとうとしていると、ジュリアスは光希の髪を撫でたり、耳の輪
郭に触れ始めた。焦って身体を離そうとすると、やんわり腕を回し
て阻む。本気を出せば、逃げられるくらいの拘束だ。迷っているう
ちに、うなじに吸いつかれた。
﹁んっ⋮⋮﹂
鼻にかかった自分の声に驚いて、光希は慌てて逃げ出した。ずさ
っと尻もちをついて後じさる。
何が起きたのか判らない。冗談かと思ったけれど、ジュリアスは
誤魔化すような素振りは一切しなかった。青い双眸で真っ直ぐ光希
を見つめている。
どうしてこんなことをするのだろう。昨日会ったばかりの、名前
も知らなかった相手に⋮⋮
﹁コーキ、************﹂
動けずにいると、ジュリアスはテントを指して手招いた。
65
やはり同じテントで寝るのか。光希に文句をいう資格はないが、
うなじの感触はなかなか消えてくれそうにない。
﹁どうぞ、先に寝て。俺はもう少し、ここにいるから⋮⋮﹂
﹁****﹂
動こうとしない光希をしばらく見つめてから、ジュリアスは判っ
たというように頷いた。解いた荷物を片づけると、上着と靴を脱い
で中に入いっていく。
背中を向けていても、気配が気になって仕方がない。
彼の行動も理解不能だが、光希の動揺ぶりも同じくらい理解不能
だ。彼の仕草に、ときめいている自分が信じられない。
いくら恰好良くて頼りになるからといって、彼は、男なのに!
考えても、思考は迷走するばかり。いや、答を見つけることが怖
い気もする⋮⋮
埒もない思いを中断し︱︱
光希は焚火を消すと、上着と靴を脱いで恐る恐る中に入った。
ジュリアスは背中を向けて眠っていた。大きなテントだと思った
けれど、長身のジュリアスには少し窮屈そうだ。長い脚を軽く折り
曲げている。枕元にはサーベルと短剣が置いてある。
︵物騒だな⋮⋮︶
息をしているのかと疑うくらい、微動だにせず静かに眠っている。
そっと顔を覗き込むと、寝顔が綺麗すぎて、またしても鼓動が撥ね
た。
﹁お休み、ジュリ﹂
66
見惚れたことを誤魔化すように、光希は小さく呟いた。
明け方。
温もりに目を醒ますと、ジュリアスのしなやかな腕に抱きしめら
れていた。理解すると共に、一気に覚醒した。
少しでも動いたら起こしてしまいそうで、呼吸も止めて、全身で
背後の気配を探る。
背中越しに、規則正しい鼓動が伝わってくる⋮⋮大丈夫、まだ眠
っているらしい。
焦燥が落ち着くと、どうしてこんな体勢になったのか、経緯が気
になり出した。
誰か、他の女の子とでも勘違いしているのだろうか?
もしそうなら、目を醒ました時に彼も気まずい思いをするだろう。
先に目が醒めて良かった。
そっと腕から抜け出すと、光希は音を立てないように軍服に着替
えて、静かにテントの外へ出た。
まだ空は白み始めたばかりで、うっすらと靄がかかっている。空
やし
気もしんと冷えて肌寒い。
一角獣は椰子の木の傍で蹲って休んでいた。キュイと鳴いて顔を
上げたので、傍によって顔を撫でてやる。
︵ジュリは、またどこかへいくのかな⋮⋮︶
彼がここを発つ前に、火の点け方と、あの不思議な硝子瓶につい
て訊いておきたい。
ジュリアスがテントから出てくるのを待って、声をかけた。光希
の頭を撫でるなり、朝食の準備を始めようとするジュリアスの後ろ
をついて回る。彼の一挙一動を、光希は食い入るように見つめた。
使う食材、香草の入った袋、切り方、しまい方。目で見て学べる
ことは多い。
67
しかし、火の点け方だけは意味不明だった。枯れ木を寄せたかと
思えば、次の瞬間には勝手に火が点いたのだ。思わずジュリアスの
腕を掴んだ。
﹁どうやったの?﹂
﹁*****﹂
ジュリアスは光希をじっと見つめると、意図を汲んだように掌を
広げて見せた。ボッ⋮⋮と青い炎が揺らめく。
﹁うっそぉ!﹂
恐る恐る炎に手を近づけてみると、温もりが伝わってくる。目の
錯覚ではない。
﹁魔法⋮⋮?﹂
実感の湧かない単語だが、そうとしか思えない。
﹁俺には無理?﹂
光希は掌を広げると、ジュリアスを仰いで首を傾けた。否定する
ように、首を左右に振られた。
﹁やっぱ、無理か⋮⋮﹂
理屈は不明だが、彼にしか使えない超常の力なのかもしれない。
68
69
Ⅰ︳11
ジュリアスは火で炙る簡単な調理に、ひと手間加えて美味しく仕
上げてくれる。
今朝は焼いたチーズと野菜をパンに挟んで、蜂蜜をかけて出して
くれた。塩胡椒の味付けに、隠し味の蜂蜜がきいていて美味しい。
食事を終えて、すぐに身支度をしようとするジュリアスの腕を、
光希は掴んで引き留めた。
﹁ごめん、少しだけ時間をちょうだい。見て欲しいんだ、こっち﹂
用意しておいた枝で砂浜に絵を描き始めると、彼も砂をじっと見
下ろした。砂の上に、硝子瓶の輪郭と、その中に人間を描く。モア
イ像のような顔になったが、ジュリアスのつもりだ。
﹁ジュリだよ、ジュリ﹂
続けて硝子瓶の外にもう一人、人間を描いた。ハニワのような顔
になったが、光希のつもりである。
﹁これは俺だよ⋮⋮光希。判る? 俺はね、三日前の大晦日の晩、
こことは全く違う、日本という場所で、偶然この硝子瓶を見つけた
んだ﹂
光希は砂に描いた硝子瓶に、ぽたぽたと泉の水を垂らした。
﹁こうして硝子瓶を濡らしたら、瓶の中にジュリが見えたんだよ﹂
70
言葉を切ってジュリアスの様子をうかがうと、考え込むように砂
に描かれた絵を凝視していた。
﹁****、****コーキ****、************﹂
彼も伝えたいことがあるらしいが、言葉で返されても意味が判ら
ない。立ちはだかる言葉の壁に、光希は歯痒げに沈黙した。
ジュリアスは項垂れる光希の肩に手を置くと、空に浮かぶ青い星
を指差して光希を見つめた。
彼の真相をついた仕草に、心臓がどきどきし始めた。光希が地球
からきたことを、ジュリアスは理解している?
﹁ジュリ! 俺は地球からきたんだ。地球に帰りたい! どうすれ
ばいいっ!?﹂
苦痛を堪えるような顔をして、ジュリアスはその場に跪いた。恭
しく光希の手を取り、甲に口づける。
﹁何してるの⋮⋮﹂
澄み切った、宝石のように青い光彩を放つ瞳は、まっすぐに光希
を映した。
﹁****、********コーキ、********! **
**************************﹂
﹁判らないよ﹂
﹁⋮⋮******。**コーキ***************
*******。************﹂
71
﹁ジュリ⋮⋮﹂
﹁**********、****コーキ、********。*
***************、********﹂
こんなに必死に喋るジュリアスを、初めて見た。
言葉の通じないもどかしさを、彼も同じように感じているのだろ
う。伝えたいことがあるのに、伝える言葉が見つからない。請うよ
うに、光希の指先を額に押し当てている。
無意識に、光希は柔らかな金髪に手を伸ばしていた。
弾かれたように顔を上げたジュリアスは、青い瞳で食い入るよう
に見つめてきた。
かつ
どうして、そんな目で見るのだろう⋮⋮
餓える、青い瞳︱︱
燃え立つ青い炎のような、深い渇望を映す瞳から逃げるように、
光希は手を引いて後ろに下がろうとした。 ﹁︱︱っ!?﹂
ジュリアスは唐突に、光希の腰に腕を回して抱きついた。光希は
驚いて身体を強張らせたが、しがみつくような抱擁を、無慈悲に振
り解くことはできなかった。
どれだけそうしていたことか。
やがて、ジュリアスの方から腕を解いた。光希の手をとり、指先
に恭しく口づける。
それから、光希を驚かせまいとゆっくりと立ち上った。
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
72
遠慮がちに笑いかけると、激情は落ち着いたように、ジュリアス
も穏やかな笑みを返してくれた。
砂漠に吹く風が、二人の間をすり抜けていく。
ジュリアスは名残惜しそうにしながら身支度を再開し、異国の香
りを残して飛竜と共にオアシスを後にした。
空を翔けてゆく優美な飛竜の姿を、光希は一角獣と一緒に見送っ
た。
︵⋮⋮さっき、何をいいたかったんだろう?︶
ジュリアスはある程度、光希の事情を知っているのかもしれない。
光希が空に浮かぶ、あの青い星からきたことを知っているようだっ
た。
かしず
それに、どうして跪いたりしたのだろう?
飛竜から降りた人達には、傅かれて堂々としていたのに、恭しく
光希に接するのは、なぜ?
お互いの認識に、激しく齟齬がある気がする。つくづく言葉が通
じないことがもどかしい!
考えても、答えは出ない。
悩むことをやめると、光希は素っ裸になり、今日も泉に潜った。
散々潜ったが、泉は何の変哲もない、美しいごく普通の泉であっ
た。
一つ成果があったとすれば、溺れた際に失くした眼鏡を見つけた
のだが、陸に上がって耳にかけた途端、レンズがぽろっと落ちて、
うっかり自分の足で踏んで割ってしまった。
がっくりきたが、漫画のような一連の流れに、笑いがこみあげた。
まだ笑う余裕が残っていることに、少しだけほっとした。
73
74
Ⅰ︳12
三日目の夜は、空になかなか飛竜の姿が見えず、光希は泣きそう
な気持ちでジュリアスの帰りを待っていた。
やがて、待ち望んだ影が夜空の彼方に見えると、逸る心を抑えら
れずに、一目散にオアシスを飛び出した。
優美な飛竜が風を切って、砂漠に舞い降りる。
﹁ジュリ︱︱ッ!﹂
﹁コーキ!﹂
ジュリアスもひらりと舞い降りるや、駆け寄ってきた。
二人の距離が縮まると、腕を広げて迎えてくれる。彼に対する複
雑な気持ちも忘れて、光希は思いきり抱きついた。
﹁お帰り!﹂
﹁******﹂
甘い眼差しに見下ろされて硬直していると、ちゅっ、と額にキス
をされた。驚いてすぐに離れたが、嫌ではなかった。むしろ⋮⋮
混乱している光希を見下ろして、ジュリアスは優しくほほえんだ。
流れるように、光希の背中に腕を回して歩き始める。彼は一体、光
希のことをどう思っているのだろう?
オアシスに戻ると、ジュリアスは真っ先に一角獣の傍に寄った。
餌を与えられていることに気づくと、光希を振り向いてほほえんだ。
一角獣の食事の面倒は、光希にできる数少ない仕事の一つになり
75
つつある。
ジュリアスはテントや荷物に異常がないことを確認すると、火を
熾して調理を始めた。
今日は骨つき肉を持ってきてくれたようだ。
火で炙ると美味しそうな肉汁がぽたぽた落ちて、視線が釘づけに
なる。
香ばしい肉を、光希は満面の笑みで受け取った。最高に美味しい。
夢中で齧りついていると、ジュリアスはバゥリーの入った杯を渡し
てくれた。
度数の高い酒だが、ここで日本の法律を気にしても意味がない。
遠慮なくいただく。肉に酒がよく合うこと!
食事を終えて、満足そうに腹を撫でていると、ジュリアスは今夜
も素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
焚火の前で暫く団欒していたが、酔いが醒めて思考が晴れると、
光希は背筋を伸ばして座り直した。
﹁ジュリ、時間のある時でいいから、俺に言葉を教えてくれる? 早く言葉を覚えて、意思疎通できるようになりたい﹂
﹁****、********﹂
光希は酒の入っていた杯を指して、バゥリーと声に出した。次に
ジュリアスを指して、ジュリアスと声に出し、自分を指して光希と
声に出す。続けて一角獣を指差すと、ジュリアスを見つめて首を傾
げてみせた。
﹁トゥーリオ﹂
光希の意図を正しく汲み取り、ジュリアスは一角獣の名を教えて
くれた。
76
﹁トーリ?﹂
﹁トゥーーリオ﹂
﹁トーーリオ?﹂
トーリオ
でいいよ、というように苦笑を零した。
何度か繰り返したが、ネイティブの発音は難しい。ジュリアスも
最後には
そんな調子で、視界に映るものを指差しては、ジュリアスに発音
してもらい復唱した。及第点をもらえるまでヒアリングと発音を繰
り返す。彼はヒアリング下手な光希に対して、少しも怒ったり苛々
したりしなかった。それどころか、言葉を覚えようとする光希に対
して非常に協力的だった。
夜も更けて、光希の喉が疲れてきた頃に練習をやめた。
今夜は時間をずらしたりせず、二人で一緒にテントへ入った。
照明を落とす前に、ジュリアスは光希の頬にキスをしたが、それ
以上は何もせず、背を向けて横になった。
触れられると固まるくせに、背を向けられると寂しく感じる⋮⋮
そんな自分の乙女思考についていけず、光希もふて寝から深い眠
りへと落ちていった。
明け方。
目を醒ますと、今朝もジュリアスに抱きしめられていた。背中越
しに規則正しい鼓動が伝わってくる。
二度目なので衝撃は少ないが、気を遣うのも馬鹿らしくなり、遠
慮なく腕を避けて起き上がった。誰と勘違いしているのか知らない
が、間違える方が悪いのだ。
︵昨日は、背中を向けて寝た癖に⋮⋮︶
77
目を醒ましたジュリアスは、宝石のような青い瞳で光希を見つめ
ると、腕を引いて胸の中に引きこんだ。
﹁ちょっと﹂
﹁コーキ****⋮⋮﹂
暴れかけたが、耳朶に名を囁かれて固まった。彼は、誰かと間違
えているわけではなく、光希と判っている?
はんもん
胸の奥深く、混乱と共に喜びがこみあげた。嬉しいだなんて!!
思考停止︱︱ジュリアスが完全に覚醒するまで、光希の煩悶は続
いた。
78
Ⅰ︳13
あっとう間に十日が過ぎた。
ここへきて四日が経つ頃には、オアシスの暮らしにリズムができ
ていた。
夜は同じテントで眠り、朝になるとジュリアスは飛竜に乗って砂
漠の彼方へ消えてゆく。その姿を見送り、光希は泉に潜ったり、ト
ゥーリオの世話をしたり、覚えた言葉の復習をしたり、テントの周
辺を片づけたりと雑用をこなし⋮⋮時には昼寝をして時間を潰した。
陽が暮れてジュリアスが帰ってくると、火を囲んで共に食事を楽
しむ。
慣れ親しんだネット社会とは異なる、自然に根づいたオアシスの
生活の中で、食事は一番の娯楽だ。
食後はジュリアスが楽器を演奏したり、たまに光希も歌ったり、
言葉を教えてもらったりと団欒して過ごした。
夜も更けて欠伸が出る頃には、火を消して同じテントに入る。
暗くなれば眠り、夜明けと共に目を覚ます。規則正しい生活の繰
り返し。
ここはどこなのか、どうして光希はここにいるのか。それはまだ
判らない。
言葉も単語を少しずつ覚えてはいるが、日常会話にはほど遠い。
勉強は嫌いだし、思えば英語のテストはいつも平均点以下であった。
未知の言葉を習得するには、長い時間がかりそうだ。
昼間一人でオアシスにいると、先の見えない生活に鬱になり、涙
が出そうになることもある。
それでも、夜になればジュリアスがきてくれるので、どうにか心
を壊さずに今日までやってこれた。
美しい泉も、満点の星空も、雄大な砂漠も⋮⋮何もかも十日も経
79
てば見慣れた。
慣れればごく単調な生活の中で、心に潤いを与えてくれるのは、
賢く優しい一角獣トゥーリオと、強く美しく優しいジュリアスの存
在だけだ。
ジュリアスは、過剰なほど親切にしてくれる。
衣食住を惜しみなく提供し、酒や果物の嗜好品から、身を飾る装
飾品まで与えてくれる。砂漠に囲まれた水と緑しかないオアシスの
中で、不自然なほど生活に困らない。
それどころか、至れり尽くせりの快適な生活を送っている。
ジュリアスには感謝してもしきれないが、現状は彼の親切に対し
て返せるものが何一つないので辛い⋮⋮
ここへきて五日目くらいまでは、どこか楽観的に考えていたが、
変わり映えのない日々が続くうちに心境は変わってきた。
優しいジュリアスは、光希をいきなり砂漠に放置はしないと思う
が、このまま衣食住を彼に頼りきっていていいのだろうか。
日本に帰れなければ、生きている限り、ここでの生活が続いてい
くのだ。
一人でも生きていく方法を、探さないといけないのかもしれない。
夜になると、いつものように砂漠の彼方からジュリアスは飛竜に
乗ってやってきた。
オアシスに近付いてくる見慣れた影に、光希は大きく手を振った。
ジュリアスは必ず手を広げて迎えてくれる。光希が少し距離を置
いて笑いかけると、彼の方から抱きしめた。
やがて、少し顔を離して光希を見下ろし⋮⋮額と頬に触れるだけ
のキスをする。
﹁コーキ、ただいま﹂
﹁お帰り﹂
80
照れ臭さげに、光希は視線を逸らした。ジュリアスの甘い仕草に
も大分慣れたが、恥ずかしくないわけではない。
﹁ふふ、******。***寝て***?﹂
掌を重ねて眠る仕草をするジュリアスを見て、光希は頷いた。
﹁泉で泳ぎます。ご飯を食べます。勉強をします。﹃で、えーと⋮
⋮﹄、眠ります﹂
﹁うん、コーキは****﹂
とつとつ
訥々と喋る光希を見て、ジュリアスは生徒を愛でる教師のように
ほほえんだ。いつものように、背中に腕を回してオアシスへと歩き
始める。
光希は横目でジュリアスの様子を伺い、どこにも怪我をしていな
は
いことを素早く確かめた。
以前、腰に佩いているサーベルの鞘に、血がついていたのだ。
何の血か不明だが、帯剣しているサーベルは飾りではなく、実戦
で使用しているのだと判り、会う度に怪我をしていないか確認する
癖がついた。
﹁ふふ、髪が*******﹂
不意に、後ろ髪を撫でられた。撫でられたところを触ってみると、
跳ねていた。昼寝をしたせいだろう。
ということは、今のは癖がついているよ、といった意味合いだろ
うか。
81
﹁髪がはあねーて?﹂
﹁髪がはねています﹂
ジュリアスはほほえみながらもう一度発音してくれた。光希が復
唱すると、そうだよ、というように頷く。
﹁***、********﹂
ふと光希は沈黙した。
今の音の響き⋮⋮はっきりとした意味は判らないが、ジュリアス
が光希に対してよく口にする言葉だ。
恐らく、かわいいとか、抱きしめたいとか、キスしたいとか⋮⋮
そのあたりの意味合いだと思う。
以前オウム返しに口にしたら、眩い笑顔で抱きしめられて、唇に
キスをされたことがある。この単語の響きを聞いた時は、気をつけ
なくてはいけない。
彼は、割と頻繁に光希にキスをする。
好きな子にするキスなのか、家族にする親愛のキスなのか、挨拶
なのかは判らない。
理由は何であれ、ジュリアスにとって光希が特別であればいい。
もう、自分の気持ちにうっすら気づいてはいるのだが、その辺を
転げ回りたい心境に陥るので、深く考えないようにしている。
オアシスに戻ると、いつものように火を囲んで、主にジュリアス
が食事の準備をした。
光希も野菜を洗う作業だけは手伝った。頑丈な鍋の中に、カット
した野菜、厚切の肉、香草に乾燥果物を入れて蓋を閉じて火にかけ
る。
しばらくすると、野菜と肉のいい匂いが辺りに漂い出した。じっ
くり煮込むと本当に美味しいのだ。鍋を火から降ろすと、ジュリア
82
スは器によそって光希に手渡してくれた。
﹁はい。熱い***、*****﹂
光希はにっこり笑って器を受け取った。
彼は、朝も夜も、用意した食事を自分よりも先に光希に与えよう
とする。光希が口をつける様子を見てから、ようやく自分も食べ始
めるのだ。
神々しい容貌からして、人に尽くさせるタイプに見えるが、非常
に甲斐甲斐しく世話をしてくれる。少なくとも、光希に対しては出
会った時からそうだ。
これだけ甘やかされて、いざという時に自立できるのか不安であ
る。
83
Ⅰ︳14︵前書き︶
今後は日本語の台詞を﹃﹄、ジュリアス達との会話は﹁﹂で囲い
ます。
84
Ⅰ︳14
十五夜目。
光希はトゥーリオの背に乗って、オアシスの周りを巡回していた。
一等明るい星がもう真上まで昇っているのに、ジュリアスが帰って
こないのだ。
息を切らして後ろを振り返ると、オアシスは闇の中に隠れてもう
見えなかった。大分遠くまできてしまったようだ。これ以上遠ざか
ると、戻れなくなる危険がある。
﹃トーリオ、頼りにしてるよ﹄
賢い一角獣の首を叩くと、再び砂漠を駆け出した。もし、ジュリ
アスが帰ってこなかったら︱︱考えたくもない。
砂漠を駆けて、駆けて、駆けて︱︱
とうとう東の空が白む頃になっても、ジュリアスの姿はどこにも
見当たらなかった。光希は心が折れたように、一角獣の足を止めた。
﹃どこにいるんだよ⋮⋮﹄
わなな
背に乗った主を心配するように、トゥーリオは小さく啼いた。
光希は力なく項垂れると、戦慄く唇を噛みしめた。零れ落ちた涙
が、手綱を握りしめる手に当たって弾ける。
ふと、トゥーリオは何かに気づいたように首をもたげた。光希も
顔を上げて、大きく目を瞠った。砂の上に、人が倒れている。
﹁ジュリッ!?﹂
85
慌ててトゥーリオの背から降りると、砂に足を取られながら、転
がるように駆け寄った。
倒れている男の傍に膝をついたところで、ようやく人違いに気が
ついた。
︵違う、ジュリじゃない⋮⋮︶
落胆のあまり、目の前が真っ暗になった。
もう嫌だ。どうして自分ばかり、こんな目に合わなければいけな
いのだろう?
﹁⋮⋮っ、ジュリ⋮⋮ッ﹂
ぱたぱたと涙が零れて、砂に染みを作った。傍へきたトゥーリオ
が心配そうに頬を舐める。
光希は茫然自失していたが、水、と呻くような呟きを聴いて我に
返った。
﹁水! はい、水です﹂
飲みやすいように、男を仰向けにして水筒を渡してやった。
男は覆面を下げて厳つい顔を露わにすると、震える手で水筒をど
うにか口元へ運んだ。おぼつかない手つきを見て、光希も水筒を手
で支えてやる。
無精ひげの生えた、四十前後の体格のいい男だ。
見たこともない灰色の肌をしているが、化粧ではなく地肌らしい。
黒づくめの装束はあちこち切れていて、ところどころ血がこびり
ついている。全体的に黒いから気づかなかったが、よく見ればぼろ
ぼろだ。
86
﹁水を******、*****⋮⋮****顔*****、砂漠
****?﹂
呻くような濁声は聞き取り辛く、殆ど理解できなかった。光希は
困ったように首を振る。
﹁傷、見ます﹂
シャムシール
光希が負傷個所を見ようとすると、男は緊張したように身体を硬
は
くした。
腰に佩いた三日月刀に手を伸ばして後じさる。光希は敵意がない
ことを伝えようと、両手を上げてじっと男の金色の瞳を見つめた。
﹁***黒い髪、黒い瞳、****、砂漠の****?﹂
困った。何をいわれているのか、半分以上判らない。
男は光希の前で片膝を立て、両手で拳を作り胸の前で合わせた。
まるで主君に対するような、厳かで恭しい仕草だ。
何だろうと戸惑ったが、とりあえず手当をさせてくれるようなの
で、荷を下ろして男の傍に戻った。いろいろ持ってきていて良かっ
た。手当をしている間、男はじっと光希を見つめていた。
﹁オアシス、いきますか?﹂
﹁****オアシス﹂
男は深く頷いた。了承したように見えのたで、トゥーリオの背に
乗せようとすると、トゥーリオが嫌がった。
知らない相手を乗せたくないのだろうか? それとも重そうだか
87
ら乗せたくないのだろうか?
並ぶとよく判るが、男はかなりの長身だ。恐らく二メートル近い
だろう。
﹁トーリオ﹂
宥めるように名を呼んで頬を合わせると、トゥーリオは渋々とい
った様子で男を背に乗せた。
光希はトゥーリオの負担を考慮して、自分の足で歩き出そうとし
たが、せっつくように鼻頭で背中を押された。
﹃⋮⋮いいの? 重くない?﹄
トゥーリオは知性をうかがわせる青い瞳でじっと光希を見つめて
いる。乗りなよ、といわれているようだ。
とはいえ、馬上には既に男が乗っている。二人乗りをしたことの
ない光希は、どうしたものかと男を見上げた。
男は心得たように、力強い腕で軽々と光希を引き上げると、自分
の前に抱き合うように座らせた。困惑する光希の腕を自分の胴に回
し、ふり落とされないか体勢を確認すると、一角獣を走らせた。
男は見事な手綱捌きを披露してみせた。
道は賢いトゥーリオが覚えている。この調子なら、陽が昇りきる
前にオアシスに戻れるだろう。
88
Ⅰ︳15
風を切って砂漠を疾駆するので、自然と男の胸にぴたりと頬を寄
せる恰好になった。隙間を作ろうと努力していたが、次第に疲れて
無駄な抵抗は止めた。
どうやら、トゥーリオはかなり高速で走れるようだ。
昨夜から休まず砂漠を駆けているのに、脚力は全く衰えていない。
かの赤兎馬にも引けを取らないに違いない。
速度を落とさず駆けるうちに、オアシスが遠くに見えてきた。
いちる
ひょっとしたら、入れ違いでジュリアスが戻ってきているかもし
れない。一縷の望みを託して、光希は近づいてくるオアシスを凝視
した。
ゴウッ!!
突然、力強く羽ばたく音が砂漠に響いた。東の空に、待ち焦がれ
た飛竜の陰翳が見える!
しかし、いつもと様子が違う。
先頭の飛竜は、大群を率いてこちらへ向かってくる。
相乗りしている男は舌打ちするや、トゥーリオの腹を叩いて速度
を上げた。
ところが、トゥーリオは鋭く嘶くと、その場で足を止めた。
根を下ろした大樹のように動かぬトゥーリオに見切りをつけると、
男は光希を抱えて、砂漠を駆け出した。
﹁トーリオ!﹂
光希はトゥーリオの傍に戻ろうとしたが、男は許さなかった。光
希を荷物のように脇に抱えて、オアシスに向かって一直線に走る。
その後ろ姿を追いかけるように、一騎の飛竜が勢いよく近づいて
89
きた。砂漠の上に巨大な影が落ちる。
﹁あぐぅっ!﹂
男は鈍い声と共に砂漠に倒れた。光希も砂の上を転がる。すぐに
身体を起こして男を見ると、うつぶせに倒れている背に、矢が刺さ
っていた。
飛んできたであろう方向を振り返ると、青い炎を全身に纏い、黒弓
を手にしたジュリアスが立っていた。
額の石と青い眼差しが、爛と輝いている。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
シャムシール
茫然と呟く光希の傍で、男は呻き声を上げながら立ち上った。手
負いとは思えぬ俊敏な動きで、三日月刀を抜き放つや、ジュリアス
に斬りかかる!
﹁ジュリ!﹂
かわ
光希は蒼白になったが、ジュリアスは難なく太刀を躱し、男の足
を払って砂の上に転がした。呻き声を上げる男の傍へ寄り、三日月
刀を握っている手首を容赦なく踏みつけた。苦しげな咆哮が轟く。
光希は瞬きもできずに、茫然とその光景を見ていた。
︵まさか、殺す気?︶
息を詰めて見守っていると、飛竜に乗った兵士達が駆け寄り、男
を拘束してどこかへ連れ去った。
ジュリアスは手にしている弓を他の兵士に預けると、光希の傍に
膝をついた。
90
﹁コーキ、******?﹂
﹁ジュリ⋮⋮﹂
ようやく会えたのに、かける言葉が見つからない。
あの男は何者なのだろう? ジュリアスに襲いかかったし、敵な
のだろうか? あの男を、どうするつもりだろう?
﹁コーキ﹂
連れていかれた男を気にする光希を見て、ジュリアスは苛立った
ように名を呼んだ。
青い双眸には、剣呑な光が灯っている。
光希は気圧されたようにジュリアスを見上げていたが、遠くで男
の呻き声が聴こえると、反射的にそちらを見た。
﹁コーキ! ********!﹂
﹁︱︱っ﹂
何をいわれているのか不明だが、責めるような口調だ。声を荒げ
るジュリアスを初めて見た。
ジュリアスは怯える光希をトゥーリオの背に乗せると、自分もそ
の後ろに跨り、腹を蹴って砂漠を駆けだした。
オアシスに着くと、今度は急かすようにトゥーリオの背から降ろ
して、光希の服に手をかける。
﹁ジュリ?﹂
91
﹁コーキ、泉で身体を洗って﹂
﹁泉?﹂
やし
いつもと違う、ぴりぴりしているジュリアスが怖い。
じりじり後じさるうちに、背中に椰子の幹が当たった。ジュリア
スは両腕を幹につくと、腕の中に光希を閉じこめた。
強い、射抜くような眼差し。悪いことはしていないのに、追い詰
さざなみ
められている気がする。
漣のように肩を震わせている光希に気づくと、ジュリアスは少し
だけ表情を和らげた。
﹁コーキ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮っ﹂
掠れた声で名を呼ばれて、鼓動が跳ねた。無事に再会できた喜び
が、ひしひしと胸の内にこみあげてきた。
﹃⋮⋮心配したよ。会えて良かった﹄
涙ぐむ光希を見て、ジュリアスも苦しそうな表情をした。手を伸
ばして、慈しむように光希の目尻や顔の輪郭を撫でる。親指でなぞ
るように唇を触れられても、光希は逃げなかった。
青い瞳に熱が灯る。端正な顔がゆっくり降りてきて、光希はそっ
と瞳を閉じた。
もう、誤魔化せない︱︱彼のことが好きだ。
92
93
Ⅰ︳16
優しいキスに、抑えていた気持ちが泉のように溢れてくる。嬉し
くて、切なくて、瞼の奥が熱くなった。
彼も同じ気持ちでいるのだろう。閉じた唇のあわいを、もどかし
げに舌でなぞられた。
﹁コーキ、口を***⋮⋮﹂
何を要求されているのか、判ってしまった。
顔が少し離れた気配を感じて、恐る恐る瞳を開けると、熱を孕ん
だ青い双眸に見下ろされていた。心臓が、壊れてしまいそう︱︱
﹁好きです⋮⋮コーキ、口を開けて⋮⋮ね?﹂
心臓が尋常じゃないほど、激しく脈打っている。
好き
とい
出会ってから何度も耳にしてきた言葉の意味が、パズルの欠片を
当てはめるように、ぴたりと閃いた。焦がれるような
う気持ち。
﹁ジュリ⋮⋮好きだよ﹂
同じ言葉を返すと、ジュリアスは息を呑んで光希を見つめた。眩
しい笑みを閃かせ、再び唇を重ねる。
閉じたあわいをなぞられ、おずおずと唇を開くと、熱い舌先がも
ぐりこんできた。なぞるように歯列を舐められる。
思わず身体を引こうとすると、頭の後ろを手で固定されて、更に
口づけは深くなった。
94
︵うわ、うわわ!?︶
こんなキス、経験したことがない。触れ合うだけの優しいキスも、
全部ジュリアスが初めてなのに。こんな奪われるような熱いキス、
どう応えればいいか判らない。
﹁んぅ⋮⋮っ﹂
自分とは思えない、甘えた声が漏れた。羞恥に駆られても、止め
られない。死んでしまいそうなのに、ジュリアスは逃げ惑う光希の
舌をつついては刺激してくる。
逃げることもできず、酸素を求めて喘いでいると、熱い舌で逃げ
ていた舌を搦め捕られた。水音を立てながら、吸い上げられる。
﹁︱︱っ、ぅ﹂
角度を変えて唇を合わせ、熱いキスを交わすうちに、身体は熱を
もや
帯びて昂ってきた。股間があらぬ反応を起こしそうだ。
靄がかった思考が晴れて、少しだけ冷静になった。
ジュリアスは離れようとする光希を抱きしめると、好き、と耳元
に唇を寄せて甘く囁いた。膝から崩れそうになる光希を抱きしめて、
上着を脱がせようとする。
そういえば、泉に入れといわれた。
恥ずかしくて、この場から逃げ出したい気持ちが半分、もう半分
は火照った身体を冷ましたくて、服を脱いで下履きだけになった。
ジュリアスの突き刺さるような視線を背中に感じながら、急いで泉
に入った。
腹まで水に浸かったところで振り向くと、ジュリアスは腕を組ん
でこちらを凝視していた。
95
裸を見て、気持ちが冷めたりしていないだろうか⋮⋮
不安になったが、ちりちりと焼けそうなくらい、熱い眼差しで見
られているので、心配はいらなそうである。
視線から逃げるように、首まで水に浸かると、水の冷たさに声が
出そうになった。
朝陽に照らされ、水温は徐々に上がってきているが、まだまだ冷
たい。
水の跳ねる音に振り向くと、上を脱いだジュリアスが泉に入って
こようとしていた。引き締まった腕や腹筋をつい見てしまい、光希
は慌てて視線を伏せた。
﹃何で入ってくるんだよ⋮⋮﹄
文句を口にしたが、背中に気配を感じた途端に何もいえなくなっ
た。
取るべき行動を迷っているうちに、後ろから腕を回され、抱きし
められた。
隙間なく密着しているから、激しい動悸に気づかれてしまいそう
だ。だけど、彼も同じだ。背中越しに、光希と同じくらい速い鼓動
が伝わってくる。
﹁コーキ、***、********⋮⋮好きです﹂
意味は判らないが、ジュリアスが光希に対してよく口にする言葉
の一つだ。
ジュリアスの口から、例の言葉が発せられた。前は、復唱するな
り唇を塞がれて警戒していたが、今なら⋮⋮
同じ言葉を返してみたくなり、口を開きかけたところで、予想外
の感触に肩が跳ねた。
振り返ると、ジュリアスは手にした柔らかな布で光希の首筋を拭
96
っていた。
﹁⋮⋮﹂
首すじ、肩、腕、指先の一本一本まで、まるで壊れ物に触れるよ
うな優しい手つきで拭う。
息を潜めてじっとしていたが、布が肩から鎖骨をなぞると、思わ
ず身をよじって逃げた。
﹁コーキ﹂
甘く名を呼ばれたと思ったら、肩を抱き寄せられ、うなじに吸い
つかれた。
﹁ん、ぅ⋮⋮っ﹂
肌を滑る布が胸元まで下りていき、寒くて、つんと尖る乳首をく
るりと撫でた。その途端に腰に甘い痺れが走り、光希は慌ててジュ
リアスを仰いだ。
97
Ⅰ︳17
この先に進むのは、恐い⋮⋮
﹁コーキ⋮⋮***、********﹂
不安そうに仰ぐ光希を見て、ジュリアスは少しだけ残念そうにほ
ほえんだ。視線を和らげ、黒髪を指で梳くと、露わになった額に口
づけた。
水を含んだ布で、性的な触れ方ではなく、丁寧に光希の身体を清
めていく。
そもそも、どうして彼は光希を洗おうとしているのだろう?
一晩中、砂漠を駆けていたから、砂っぽかったのだろうか。それ
とも汗臭った?
腕の匂いを嗅いでいると、ジュリアスに顔を覗きこまれた。
﹁****、******?﹂
﹃俺、臭かった?﹄
﹁******?﹂
﹃平気?﹄
お互いに疑問口調を繰り返している。どうも噛み合っていないよ
うだ。
身体に震えが走ると、ジュリアスは光希を連れて岸部に上がった。
いつものように青い焚火を熾こし、膝の間に光希を座らせて後ろか
98
ら抱きしめる。
心地いい温もりに包まれているうちに、眠気がやってきた。思え
ば、昨夜から動きっぱなしだ。
﹁眠いです⋮⋮﹂
﹁コーキ、天幕に入ろう﹂
ジュリアスは紳士的な仕草で光希をテントに導くと、クッション
を整えて優しく寝かせた。
﹁ジュリは? 砂漠へいきますか?﹂
﹁はい、***コーキも******。***は眠って﹂
﹁はい⋮⋮少し﹂
まど
目を閉じると、顔中に優しいキスが雨と降る。最後に唇にキスを
すると、お休み、と耳朶に囁いた。
ろみ
吐息がくすぐったい。光希は忍び笑いを漏らしながら、優しい微
睡に身を委ねた。
夢を見た。
まるで鷹のように羽を広げて、光希はいい気持ちで風に乗って滑
空していた。
地上を見下ろすと、騎乗した黒装束の大群が、紅い旗を閃かせて
砂漠を疾駆している。 砂の対岸には、青い旗を掲げる、武装した大群が待ち構えていた。
先頭に立つ凛々しい少年は、ジュリアスだ。
黄金を溶かしたような金髪を風に靡かせ、凛と美しい青い瞳で、
99
厳然と前を見据えている。
赤と黒の大群が、もの凄い速さで砂と怒号を上げながら押し寄せ
てくる。
いよいよ眼前に迫ると、ジュリアスは湾曲した美しいサーベルを
とき
鞘から抜いた。
朗々と鬨の声を上げて、一気に駆け降りる。地平線を覆う大軍が、
ジュリアスを先頭に砂漠を突き進んでいく。
前線が衝突するや、血飛沫の舞う酷い乱戦になった。
かつぜん
地上を埋め尽くす、武器を手に争う人、人、人。怒号と咆哮。
鋼の戛然とした響き。爆ぜる火花。溢れる鮮血。
地上の地獄絵図だ。
熱砂の上で身動きの取れない騎馬は意味を失くし、あちこちで白
兵戦が繰り広げられていた。
ジュリアスも下馬して勇猛果敢に斬り込んでいる。溢れかえる人
の海の中で、ジュリアスは強烈な光を放っていた。
屈強な武装兵に比べて、ずっと軽装で細身なのに、雷光のように
身を翻しては、重く鋭い一撃で敵を薙ぎ払う。鬼神の如し強さだ。
血の海の中にいても、ジュリアスは目を奪われるほど美しかった。
額に輝く菱形の石と、青の双眸は爛と光り、時折ジュリアスの身
体から青い燐光が溢れ出した。
まるで、青い炎を操る戦神のようだ。
︱︱ジュリ⋮⋮
これは夢で、届かぬと知っていても呼びかけてしまう。
恐ろしく強いから、きっと平気だと思うけれど、そんなに一人で
敵陣に斬り込まないで欲しい。
味方を後方にあんなに残して、敵に包囲されて逃げ場を失くした
らどうするのだろう。
見下ろしていると、ジュリアスは唐突に空を仰いだ。とても驚い
100
た顔をしている。そんなわけがないのに、目と目が合ったように感
じた。
﹁⋮⋮コーキッ、コーキ⋮⋮! 大丈夫?﹂
﹁ん⋮⋮﹂
目を醒ますと、すぐ近くにジュリアスの綺麗な顔があった。心配
そうに見下ろしている。
うなされていたのか、光希は寝汗を掻いていた。
怖い夢を見たような気もするが、起きた傍から夢の内容を忘れて
しまった。
﹁あれ⋮⋮ジュリ?﹂
外が明るい。もう陽は昇っているのに、砂漠に出かけなかったの
だろうか?
﹁コーキ、私の**。***、********。天幕を畳んで私
と****砂漠にいきましょう。*********﹂
﹁砂漠⋮⋮?﹂
訝しげに訊ねる光希の瞳を見て、ジュリアスはしっかりと頷いた。
101
Ⅰ︳18
﹁砂漠、僕もいきますか?﹂
﹁そう、コーキも**********﹂
どうやら、光希も一緒に連れていきたいらしい。
﹁夜はオアシスに?﹂
﹁いいえ、********。スクワド砂漠に天幕を張るので、*
*******。****、オアシスへ******﹂
﹁⋮⋮オアシスは、僕の家です﹂
﹁コーキ、***********、オアシスへ*****﹂
スクワド砂漠とはどこにあるのだろう。オアシスを離れて、砂漠
に天幕を張って暮らすといいたいようだが、ここに戻ってこれなく
なるのは嫌だ。
沈黙していると、ジュリアスは安心させるように光希の両手を握
りしめた。
ここを離れたくはないが、そうしなくてはいけない事情がジュリ
アスにあるのかもしれない。
もしそうなら、光希に選択の余地はない。どのみちジュリアスに
置いていかれたら、一人では生きていけないのだから。それに⋮⋮
彼のことが好きだ。離れたくない。
102
﹁はい、ジュリといきます﹂
目を見て頷くと、ジュリアスは嬉しそうにほほえんだ。片膝をつ
いて跪くと、恭しく光希の手を取り、指先に口づけた。
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
﹁コーキ、貴方は私の******。****、********
***﹂
ジュリアスがよく口にする、いつもの言葉だ。
あなたはわたしの︱︱何といっているのだろう⋮⋮?
途中まで聞き取れるようになったけれど、後半が不明だ。いつも
真剣な眼差しをするから、きっと大切なことをいわれているのだろ
うけれど⋮⋮
意味が判らないから、どう応えていいか判らない。
少し考えてから、光希も膝を折ると、ジュリアスの手を取って同
じように口づけた。
﹁コーキ⋮⋮﹂
珍しく、ジュリアスが狼狽えている。にやにやしていると、ジュ
リアスは少し意地悪な笑みを浮かべて、光希を抱き寄せるや、唇を
奪った。
甘く貪られて手足から力が抜けきると、素早く横抱きで運ばれ、
気づけばトゥーリオの背に乗せられていた。
ふわふわした心地でいたが、大勢の兵士達に迎えられると、光希
の身体に緊張が走った。
彼等は、シャイターン、と口にすると恭しく跪いた。
聞き覚えのある響きだ。最初は聞き取れなかったけれど、何度か
103
耳にするうちに覚えた。恐らく、ジュリアスの後にファミリーネー
ムとして、ムーン・シャイターンと続くのだ。
隣を見上げて、ジュリアス・ムーン・シャイターン? と訊ねる
と、ジュリアスはほほえんだ。
﹁そう、私はジュリアス・ムーン・シャイターン。*******。
えらいね﹂
よくできましたといわんばかりに、ジュリアスは光希の頭のてっ
ぺんにちゅっとキスを落とした。人前なのに!
幸い、誰一人こちらを見ていなかった。彼等はつばの深い隊帽を
かぶり、覆面で顔の殆どを隠している。顔を伏せていると、どんな
表情をしているのか判らなかった。
飛竜の傍に寄ると、その巨体に改めて驚かされた。すらりとした
首、長い尾を持ち、翼には鉤爪がついている。全身を硬質な鱗で覆
われており、色は個体差があるようだ。目の前の竜は、美しい青銀
色をしている。
あぶみ
これに乗るのかと唖然としていると、飛竜は上体をぺたりと倒し
て伏せをした。それでも鐙は光希の遥か頭上にある。
ジュリアスは光希を横抱きにした状態で、高く跳躍した。嘘みた
いに、たった一度の跳躍で騎乗してしまった。
﹁コーキ、前に座って。鞍の中心に*******、足はここ。手
はここ﹂
﹁ひぃっ、とても高いねっ!?﹂
乗り方をレクチャーされたが、思った以上の高さに身が竦んでし
まい、それどころではなかった。
104
﹁*******。**********﹂
ジュリアスは体勢を確認するや、手綱をぴしりとさばいた。羽ば
たく直前の仕草に、光希は青褪めた。
﹃待って待って待って、飛ぶ気!? シートベルトとか命綱とかな
いのッ!?﹄
訴えは、半ば無視された。ジュリアスは宥めるように光希の頭に
キスを落とすと、飛竜を操り上空へと舞い上がった。
﹁うわ︱︱っ!!﹂
ほとばし
喉から絶叫が迸った。シートベルトを締めないまま、ジェットコ
ースターに乗るようなものだ。怖いなんてものじゃない!
声を上げる光希を、ジュリアスはしっかりと後ろから抱きしめて
いる。光希も必死に肩に回された腕を掴んだ。
上昇しているうちは、風圧が強くて、まともに目を開けていられ
なかった。
地上から遠ざかり飛行が安定しても、しばらく、おっかなびっく
り鞍の上でバランスを取っていた。
上空は風が強い。突風に煽られてよろめく度に、バクバクと心臓
がんこうじん
を鳴らしてはジュリアスの腕にしがみついた。
雁行陣展開している背後の飛竜を振り返ると、静かに真っ直ぐ飛
んでいた。声を上げているのは光希くらいだ。
﹁コーキ、大丈夫ですよ。****、*******﹂
﹁大丈夫、大丈夫⋮⋮﹂
105
目を閉じて、いい聞かせるように呟いた。
106
Ⅰ︳19
ひたすら東の空を目指して飛んでいた。
変わり映えのない砂の大地を見下ろしながら、光希は覆面の中で
ため息をついた。
ドラゴンに乗って空を飛ぶ、世にも貴重な体験をしているわけだ
が、感動や興奮よりも疲労と緊張と恐怖の方が勝っていた。
竜の背でバランスを取ることに少しは慣れてきたけれど、身体の
変なところに力が入り、腕や太ももが辛い。これは間違いなく筋肉
痛になるだろう。
それにしても、どこまでいくのだろう。
彼はいつも、こんなに遠くまできていたのだろうか?
オアシスとの往復は大変だったろうに、夜になるとオアシスにき
てくれた。どうして、そうまでして光希に会いにきてくれたのだろ
う?
出自や家族、年齢よりもそれが一番の謎だ。
綺麗で強くて優しくて⋮⋮ジュリアスを語れば褒め言葉しか出て
こない。
一方の光希は、綺麗でもないし強くも恰好良くもない。ごく普通
の高校生だ。
出会い方が異常だったから、吊り橋効果も多少はあったかもしれ
ないが、光希がジュリアスを好きになっても無理はないと思う。こ
れだけ綺麗で恰好いい人に、傍で蝶よ花よと大切にされたら、強い
感情だって芽生えてしまう。
でも、ジュリアスはどうして、出会った時からあんなに親切にし
てくれたのだろう?
光希にだっていいところの一つや二つあるとは思うけれど、それ
でジュリアスの心を掴めるかと訊かれたら、全然自信がない。
107
フィギュアを自作できるとか、PCを安価なパーツで組めるとか
いわれても、ジュリアスには何のことか判らないだろう。この世界
では全く役に立たない技術だ。
光希に一目惚れしたのだろうか?
ありえない。だとしたら、同情⋮⋮?
言葉は通じない、地球に帰れない、一人で生きていく力も知識も
ない。放っておいたら死にそうだから、仕方なく世話を焼いてくれ
た?
好きだといってくれたけれど⋮⋮
どうしてジュリアスに好かれているのか、光希にはよく判らなか
った。
やがて、地平線の向こうにうっすらと煙が立ち昇って見えた。
近づくにつれて、地上に立ち込める火炎と煙幕の様子も見えてき
た。
愛用していた眼鏡は紛失︵正確には自分で踏んで割った︶したが、
おぼろ
大自然で暮らす恩恵なのか、日本にいた頃よりも視力は上がってい
る。遠くの大地が朧ながら見える。
﹁ジュリ、あれ⋮⋮﹂
﹁コーキ、****スクワド砂漠***、********﹂
﹁ここ、スクワド砂漠ですか?﹂
﹁はい、********。******、****水も****
天幕があります﹂
目的地に着いたらしい。火柱の上がる不穏な大地のようだが⋮⋮
いや、人間が争っているようだ。
108
砂塵の舞う大地に、黒い人影が見えた。中には倒れたまま動かな
い人影もある。ここは、戦場なのだろうか︱︱
﹁***ナディア! 東****、******!﹂
﹁***! シャイターン﹂
ジュリアスがよく通る声で号令を出すと、雁行陣で飛行していた
飛竜達は、煙幕に向かって斜線陣を敷くように空中で編隊を組み替
えた。
ジュリアスともう一騎だけは煙幕から離れて、砂漠の上の野営地
に着陸した。見渡す限り天幕の山が続いている。
﹁コーキ、*******﹂
呼ばれても、すぐに反応できなかった。今さっき見下ろした光景
が、衝撃的すぎた。
鞍の上で固く握りしめた手を、そっと撫でられた。肩から力は抜
けたが、今度は身体が傾きそうになった。ジュリアスが支えてくれ
なければ、地面に落下していただろう。
ジュリアスは光希の膝下に手を入れて、騎乗した時のように、横
抱きにして宙へ飛んだ。
はなは
光希は恐怖に襲われたが、ジュリアスは難なく着地した。長身と
はいえ細身の身体のどこにそんな力があるのか、甚だ疑問である。
﹁ジャファール、コーキを天幕に*******。湯浴みの***
**﹂
砂漠に降りても、ジュリアスは光希を下ろさなかった。長身の軍
人に何やら指示を出すと、天幕に向かって歩いていく。
109
﹁僕、歩きます﹂
﹁****、足に******? *********﹂
どうやらジュリアスは、光希がすっかり疲れて足腰立たないこと
をお見通しのようだ。体勢を受け入れかけたが、全身武装した覆面
兵士がジュリアスの前にやってくると、気恥ずかしくなり降しても
らった。
﹁*****、シャイターン。****ロザイン?﹂
﹁ああ、**********。****、ナディアが*****﹂
何を話しているのか不明だが、男たちは光希を見て、ロザイン、
と口にして瞳を輝かせた。
彼等は右手を胸に当てて、恭しく敬礼すると、背を向けてきびき
びと去っていった。
オアシスでは数えるほどしか人間に会わなかったが、この野営地
では数万規模の人間が寝泊まりしているらしい。
人の多さに酔ってしまいそうだ。オアシスとは違う、血と硝煙の
匂いが充満している。
野営地には、三角形の緑色の天幕が整然と並び、点々と共同の水
場と火事場が設けられていた。
大きな丸いゲルのような白い天幕には、怪我人が収容されている
ようで、人の出入りが一段と多い。軍人とは違う、長衣を纏った軽
装の人間も出入りしている。
天幕の海が途切れると、少し距離を空けて大きな天幕がぽつぽつ
と現れた。
どの天幕にも大体、勇壮な青い旗が掲げられている。その旗に見
110
覚えがある気がして、光希はふと足を止めた。
﹁コーキ?﹂
﹁あ、ううん⋮⋮﹂
再び歩き出すと、間もなく大きな天幕の前にやってきた。
扉の前に、さっきと同じ青い旗が掲げられている。何の紋章だろ
う?
旗を凝視していると、衛兵達により、扉は大きく左右に開かれた。
111
Ⅰ︳20
天幕の中は思ったよりも広かった。飴色の調度品が置かれ、上品
で落ち着いた内装をしている。
扉を閉めると、外の喧噪が途絶えて、優しい花の香りに包まれた。
ここが戦場だということを忘れてしまいそうだ。
﹁コーキ、ここにいてください。**お湯を用意*****﹂
びろうど
天鵞絨の寝椅子に光希を座らせると、ジュリアスは天幕の外へ出
ていった。
ここしばらく屋外で生活していたから、屋根のある建物を新鮮に
感じる。薄い紗に覆われた天蓋の寝台には、大きな円形の枕が二つ
並び、薔薇のような花びらが散っていた。まるでハネムーンを過ご
すスィートルームのようだ。
︵オイオイ、あそこで寝ろと⋮⋮?︶
唖然としていると、壺を抱えた召使達を連れてジュリアスは戻っ
てきた。
湯浴みの場所と思わしき、タイル敷きの床に艶やかな浴槽が置か
れ、壺を抱えた召使が代わる代わる中に湯を注いでいく。
やがて、浴槽が湯で満たされると、彼等は額づいてお辞儀をして
から出ていった。
湯気の昇る浴槽に、光希の視線は釘づけになった。もしかして、
暖かいお風呂に入れるのだろうか?
﹁コーキ、寒かったでしょう。湯が******、服を脱いで、*
112
****﹂
うきうきしながら浴槽の傍へ寄った。上着を脱ぐと、ジュリアス
ぐんか
は当然のように手を出してきた。光希から上着を受け取り、衝立に
かけてくれる。脱いだ軍靴は寝椅子の傍に置かれた。
光希は苦笑しながらジュリアスの背を押して、衝立の向こうへ追
いやった。
﹁コーキ、******、******﹂
まふ
ジュリアスは衝立を離れると、身体を洗う麻布と固形石鹸を手に
戻ってきた。光希に手渡し、身振りで用途を教えてくれる。
﹁ジュリ、ありがとうっ!﹂
光希が破顔すると、ジュリアスも嬉しそうにほほえんだ。
﹁どういたしまして。***湯を*****﹂
久しぶりに石鹸を使えることが嬉しくて、光希は何度も頷いた。
衝立の外へジュリアスが出ていくと、光希はうきうきと服を脱ぎ、
壺に湯を入れて頭から思いきりかけた。
﹃うはぁ︱︱っ! 気持ちぃ︱︱っ﹄
あまりの気持ち良さに、思わず叫んだ。離れたところで、ジュリ
アスの笑う気配がする。
石鹸で頭、顔、身体をごしごしと洗う。毎日泉に入っていたから、
さほど汚れてはいないが、石鹸で洗うとやはり違う。
洗い流す湯の色は若干濁っている。汚れが落ちていくのが気持ち
113
いい。一通り洗い終えると、浴槽に身体を沈めた。
﹃あぁ︱︱⋮⋮いい湯だなぁ⋮⋮﹄
これ以上の幸福なんて、この世にあるまい。忘れかけていた、暖
かい湯にゆったりと浸かる心地良さ⋮⋮最高だ。
のんびり満足いくまで入浴を楽しむと、のぼせる前に湯から上が
った。
籠に入っていた大判の布で身体を拭いて、ゆったりした縫製の、
絹の上下に着替えた。
﹁湯、ありがとう﹂
髪を拭きながら衝立の影から出ると、ジュリアスは立ち上るなり、
嬉しそうに光希を抱きしめた。首にジュリアスの柔らかい髪が触れ
てくすぐったい。
﹁コーキ、*****⋮⋮﹂
﹁ジュリ、湯?﹂
﹁私は****。食事を用意*******﹂
せっかくの暖かい湯なのに、入らないのだろうか。ジュリアスは
光希を絨緞の上に座らせると、外の人間を呼びつけて、豪勢な食事
を用意させた。
目にも鮮やかな料理が、絨緞の上に次々と運ばれてくる。手のこ
んだ料理の数々に、光希の視線は釘づけになった。
オアシスと違い、ここでは湯浴みも食事も、専任の召使がいるら
しい。ジュリアスは明らかに、人に傅かれることに慣れている。
114
給仕をする召使は、華やかな外見をしていた。若くて容姿の優れ
た女性が多い。胸回りの開いた衣装は目の毒で、彼女達が動く度に、
光希はついつい視線で追いかけた。
ここは戦場ではないのだろうか?
どうしてこんなに、至れり尽くせりなのだろう。ジュリアスはい
つもこんな贅沢を味わっているのだろうか?
澄ました顔で酌をさせているジュリアスを、つい胡乱げに見てし
まう。目が合うと、光希の複雑な心中なぞどこ吹く風で、青い瞳を
和ませた。
ため息が零れそうなほど、美しいほほえみだ。そう思うのは光希
だけではないようで、給仕している女性も、頬を染めて瞳を伏せた。
﹁はぁ⋮⋮﹂
違う意味でため息が零れた。罪な男だ。ほほえみ一つで人の気持
ちをかき乱すのだから。
視線を伏せた女性を観察していると、ふに、と頬をつまれた。横
を向くと、不機嫌そうなジュリアスと目が合った。
﹁何?﹂
頬をつまむ手を弾くと、ジュリアスは光希の腰に腕を回して引き
寄せた。麗しい顔が目と鼻の先まで近付く。
急に流れた甘い空気に、光希は戸惑って視線を落とした。距離を
取ろうとしても、ジュリアスは離そうとしない。
﹁コーキ、*******﹂
﹃離してよ﹄
115
拒んでいるのに、ジュリアスは光希の頬に触れて視線を合わせ、
人目も憚らず唇を奪った。合わさった唇から酒精の味がする。
本気で逃げると、無理強いはされなかった。慌てて周囲を伺うと、
空気を読んだように、誰一人こちらを見ていなかった。
﹃人前でするなよ!﹄
﹁コーキ、********﹂
思わず日本語で怒ると、ジュリアスも何かいい返してきた。全く
何が気に入らないのだ。
別にやましい気持ちで、観察していたわけではないのに⋮⋮
不服そうにしているジュリアスを見ながら、ふと閃いた。もしか
して、嫉妬した?
頬が熱くなるのを感じて、光希は青い瞳から逃げるように視線を
逸らした。
116
Ⅰ︳21
食事は素晴らしく美味しかったが、美女達に給仕されて、気疲れ
してしまった。
彼女達は、ゴブレットが空になれば注ぎ足してくれたり、手を伸
かしず
ばす器を手前に寄せてくれたり、箸休めに果物をすすめてくれたり
⋮⋮実に細やかな気配りをしてくれるのだが、人に傅かれながら食
事をするのは落ち着かないものだ。
それに胸の谷間や太ももをつい見てしまい、視線を逸らす度にジ
ュリアスと目が合って、非常に気まずかった。
落ち着きのない光希の様子に、ジュリアスは食事の間ずっと不機
嫌そうにしていた。
そのせいか、彼は食後の紅茶が出されると、追い出すように彼女
達を天幕から下がらせてしまった。二人の方が光希も落ち着くので、
文句はない。
食後のお茶を静かに楽しんでいると、控えめに扉を叩く音が聴こ
えた。扉を注視していると、まだ湿っている髪を撫でられた。
﹁コーキ、私は******にいってきます。ここ******く
ださい。***眠って***﹂
出かけるなら見送ろうと思い、光希も席を立とうとしたが、両の
肩を押されてその場に座らせられた。
﹁コーキはここにいてください﹂
﹁はい⋮⋮﹂
117
ジュリアスは扉を開ける前に後ろを振り返り、光希が大人しく座
っていることを確認すると、一つ頷いてから外へ出た。
光希はしばらくぼんやりしていたが、あることを思い出して、立
ち上がるなり寝台の傍へ寄った。
﹃何で花びらが散ってるんだよ!﹄
これでもかと散らされた、薔薇のように赤い花びらをかき集め、
身体を拭いた布にくるんで籠の中に入れた。隠蔽完了。花びらを始
末した。
手持ち無沙汰で絨緞に腰を下ろすと、自然とジュリアスのことを
考えた。
脳裏に、物騒な光景が蘇る。
火柱と煙幕に覆われた砂漠、倒れたまま動かない人影、天幕に運
ばれていく負傷兵⋮⋮
見渡す限り、天幕の海が続いていた。こちらに、あれだけの兵士
がいるということは、争う相手も同じくらいの人数がいるのだろう
か?
数万人の人間が殺し合う光景を想像したら、何だか気持ち悪くな
った。
平和な日本とは違う。弓や剣で人が争う世界なのだ。争って、人
が本当に死ぬ世界⋮⋮
そういえば、ジュリアスに射られた黒づくめの男はどうなったの
だろう。最後に男の悲鳴を聞いた気がしたけれど⋮⋮殺されたのだ
ろうか⋮⋮
︵これが、ジュリの日常なのかな⋮⋮︶
オアシスでは全然判らなかった。ジュリアス以外には、誰もやっ
てこなかったから。朝になるとオアシスを出ていったのは、彼も戦
118
場に立つためだったのだろうか。
判らないことが多すぎる︱︱
一人で考え込むうちに鬱々としてきて、外の空気を吸いたくなっ
た。外へ出たら怒られるだろうか?
扉に耳を当ててみたが、外の様子は何も判らなかった。鍵はつい
ていないので、簡単に開きそうだ。
恐る恐る扉を開けて外の様子をうかがうと、すぐ傍に直立する兵
士の背中が見えた。驚いて息を呑むと、兵士はこちらを振り向いた。
﹁あっ﹂
振り向いた男の顔に見覚えがあった。確か、ジャファールと呼ば
れていた。
﹁ロザイン***シャイターン。******?﹂
﹁小便をしたいです﹂
咄嗟に外へ出る口実を口にしたが、変な顔をされた。通じていな
いのだろうか。それとも出たらまずい?
﹁僕、小便をしたいです﹂
繰り返すと、ジャファールは思案げに灰紫色の瞳で光希を見つめ
た。緊張しながら見上げていると、彼は小さな石粒を光希に手渡し
た。
﹁何⋮⋮?﹂
﹁****、*******⋮⋮﹂
119
光希は掌の小石を穴が開くほど見つめた。どこかで見た気がする
⋮⋮
﹃あ! これ﹄
そういえば、オアシスでこれとよく似たものをジュリアスに渡さ
れたことがある。
光希がその辺の茂みで用を足そうとしたら、わざわざ追いかけて
きて、これを渡したのだ。
あの時は意味が判らなかったけれど、もしかしたら用を足す際に
た
すが
使う道具なのだろうか?
矯めつ眇めつ眺めていると、親切なジャファールは実際に使って
用途を教えてくれた。
信じられないが︱︱
小石を尿道に詰めて排泄すると、尿は零れることなく消えてなく
なった。
ジャファールは小粒の小石と、もう少し大きい石を幾つか渡して
くれた。大きい石は聞かずとも用途を理解した⋮⋮
120
Ⅰ︳22
朝になっても、ジュリアスは戻らなかった。
天幕の扉を開けると、目の前に兵士の背中が見えた。ジャファー
ルかと思いきや、別人であった。
ここの人は皆そうだが、彼も長身で、端正な顔立ちをしている。
年は二十代前半だろうか。冴えた蒼氷色の瞳が冷たい印象を与える
青年だ。
﹁お早うございます﹂
挨拶をして外へ出ようとしたら、いくな、というように手て制さ
れた。
﹁何⋮⋮?﹂
ロザイン
といわれた。
﹁ロザイン***シャイターン。天幕****、********﹂
外へ出てはいけないらしい。そしてまた
﹁ロザイン、何ですか?﹂
﹁ロザイン*****? シャイターン******?﹂
何を訊かれたのか、全然判らない。戸惑う光希を見下ろして、彼
は訝しむように眉を上げた。
﹁*****食事を用意***?﹂
121
光希の困り顔を空腹と勘違いしたのか、朝食について訊ねられた。
としかさ
確かに空腹だったので、大人しく中へ戻ることにした。
やってきた給仕の召使は、昨日とは違う年嵩の女だった。穏やか
な口調と優しい笑顔に、光希は親しみを覚えた。
﹁ロザイン***シャイターン。****どうぞ﹂
女は檸檬色の飲料や、果物、大皿を手際よく絨緞の上に並べた。
大皿には、緑の野菜と燻製肉、ナンのような生地の上に卵を乗せ
て、きつね色に焼き上げた香ばしい料理が乗っている。とても美味
しそうだ。
昨晩は食べきれないほど量が多かったが、これなら食べられそう
だ。
昨晩といい、今朝といい、光希に用意される料理は、ここでは標
準なのだろうか?
恐らく、違う。
数万人の食事を日々賄うのは、きっと想像するよりも遥かに大変
なことだ。
ロザイン
と呼ばれるこ
この天幕は辺りで一番大きかったし、光希はここで特別な扱いを
受けているのだ。それはきっと、光希が
とに関係している。
ひざまず
ジュリアスは間違いなく、軍事権力者だ。
大勢の兵士がジュリアスに跪く光景を見ているし、ここへ着いた
時も、ジュリアスが歩けばモーゼのように道は開けた。
そんなジュリアスが光希に対して、懇切丁寧に接しているから、
ロザイン
とは、どんな意味なのだろう?
こんなにも優遇されているのだろう。
では
前後にジュリアスの名が続くので、ジュリアスのお客様? それ
とも、恋人?
122
彼は、周囲に光希をどのように説明しているのだろう?
ふと、給仕の召使が食器を持って退室しようとしていることに気
がついた。光希はさっと立ち上ると、先回りして扉を開いてやった。
すると彼女は、非常に驚いた顔をした。
﹁ロザイン***、*******﹂
ぬか
女は食器を床に下ろして跪くと、床に額づいてお辞儀をした。
光希も驚いてしまい、何もいえずにいると、外にいた兵士が女に
何か言葉をかけた。彼女は食器を持って立ち上がり、もう一度お辞
儀をすると静かに出ていった。
どうして、あんなに驚いたのだろう?
﹁ロザイン***シャイターン。******⋮⋮﹂
﹁僕は、桧山光希です﹂
﹁ロザイン***シャイターン。貴方の*******ません。私
はアルスラン・リビヤーン、アッサ******シャイターンの*
*****です。ジャファール・リビヤーンは私の*******
です﹂
﹁貴方は、アルスラン?﹂
ゆっくり発音してくれたので、どうにか名前だけは音を拾えたが、
後は殆ど判らなかった。ジャファールの名前が出てきたのはなぜだ
ろう。
﹁はい、ロザイン****﹂
123
﹁ロザイン? 僕は、桧山光希です﹂
﹁貴方の*******ません。*******。ロザイン***
シャイターン﹂
﹁桧山、光希です。桧山、光希﹂
﹁*******⋮⋮すみません﹂
ロザイン
と
どうやら、光希の名を呼んではくれないらしい。ジュリアスは普
通に呼んでくれたのに、どうしてだろう。
﹁僕は、ロザイン?﹂
﹁はい﹂
目を見て、はっきりと肯定された。判らない⋮⋮
は、何だ?
124
Ⅰ︳23
﹁あの、ジュリは?﹂
アルスランは黙考すると、シャイターン? と訊き返した。
﹁はい! シャイターン⋮⋮﹂
﹁シャイターンは**********﹂
﹃ジュリはどこにいるんですか? 無事でしょうか?﹄
案ずる気持ちが伝わったのか、アルスランは気遣わしげに光希を
見つめて、大丈夫、というように首肯した。
多少は安堵したが、やはり無事な姿を一目見たい。外へ踏み出そ
うとすると、肩を抱きとめられて阻まれた。
﹁離してください﹂
﹁天幕****出てはいけません﹂
反論を許さぬアルスランの厳しい表情を見て、光希は意気消沈し
ながら中へ戻った。
しかし、天幕の中にいてもすることがない。退屈すぎる。ジュリ
アスは本当に大丈夫なのだろうか?
不安な心地でいると、昼食が運ばれてきた。扉の向こうから、ア
ルスランがこちらを見ている。光希が大人しくしているかどうか、
見張っているみたいだ。
125
﹁アルスラン、食事?﹂
身振りで食事に誘うと、彼は驚いたような顔をして、首を左右に
振った。背中を向けた後は、こちらを見ようともしない。
昼食後は、しんとした天幕で一人きり、午後の長い時間を持て余
した。窓もないから、外の様子は一切判らない。うたた寝をして、
目を醒ましても一人きり。
何だか無償に人恋しくなった。ジュリアスとトゥーリオに会いた
い。
扉を開けると、今度はジャファールがいた。いつの間に交代した
のだろう。
﹁ジャファール、ジュリは?﹂
﹁ロザイン***シャイターン。********、夜は天幕に*
**きます﹂
光希は期待を込めてジャファールを見つめた。
﹃夜? ジュリ、戻ってきますか? 本当?﹄
表情を綻ばせる光希を見て、ジャファールはほほえんだ。生真面
目そうな印象であったが、笑うと途端に親しみやすくなる。
年は三十前後で、灰銀の長髪を後ろで一つに結わいている。背は
高く、彫りの深い顔立ちは映画俳優のように整っている。神秘的な
灰紫色の瞳も魅力的だ。
ここへきてからというものの、ジュリアスを筆頭に、容姿に恵ま
れた男ばかり見ている気がする。
野営地にいる兵士は皆、一八十センチを超える長身だ。明るい小
126
麦色の肌、そして濃淡の差はあれど、一様に灰銀髪をしている。
そういえば、ジュリアスだけは豪奢な金髪だ。ちなみに光希のよ
うな黒髪は一人も見かけない。
ジュリアスの年は幾つだろう? 落ち着いているし、光希より、
二、三歳は上だろうか?
大人しく天幕の中でジュリアスの帰りを待っていると、やがて夕
食が運ばれてきた。相変わらず上げ膳据え膳で給仕してくれる。
美味しい食事に満足していると、最後にとろりとした飲み物を渡
された。仄かな果物の甘味と、すっきりした後味で美味しい。喉の
奥に流し込むと、腹が燃えるように熱くなった。
今夜は酒が回るのが早い⋮⋮
夢心地で船を漕いでいると、壺や小箱を抱えた召使が天幕に入っ
てきた。
不思議に思っていると、浴槽まで引っ張られて、服を脱がされそ
うになった。
﹃何すんの!?﹄
服を押さえて抵抗したが、思うように足腰に力が入らない。あっ
という間に裸に剥かれた。
女とは思えぬ力で、身体をがっちり支えられたまま、指の先から
ほとばし
耳の後ろまで綺麗に洗われた。尻穴にぐりぐりと小石を詰められた
時は、絹を引き裂くような悲鳴が喉から迸った。
まるで腸内洗浄だ。
絶叫し、慌てふためくうちに、身体の奥まで綺麗にされていた。
湯から上がり、ぐったり絨緞に倒れ伏していると、両手両脚の爪
を磨かれ、金箔で指先から爪まで化粧された。
い
ありえない事態なのに、抵抗する気力が起こらない。やけに早い
鼓動が頭に響く。
身体が熱い。身に覚えのある熱だ。達く時の悦楽に似ている⋮⋮
127
︵え、まさか⋮⋮勃起してる?︶
うつぶせに倒れているからよく判らないが、腰に響くこの熱は⋮
⋮おろおろと急所を手で隠す光希の手を、女達はぴしゃりと跳ねの
けた。目にも止まらぬ早業で手際よく着飾っていく。
完成した自分の姿を見下ろして、光希は絶句した。
薄い生地の下着のような衣装は、肌を覆う面積が極端に少なかっ
た。性器がどうにか隠れるくらいの前垂れがついているだけ、殆ど
紐だ。しかも、硝子玉の連なりが尻に食い込んでいる。
唖然としていると、硝子玉の腰飾りを幾重も腰に回された。金鎖
を首からかけて、宝石のついた腕輪や、額飾りもつけられた。
装飾品がずっしり重くて動けない。
蓑虫のように絨緞の上でもぞもぞしていると、顔を固定されて薄
化粧を施された。生まれて初めて、唇に紅を引いた。
︵何で、こんな⋮⋮?︶
混乱と恐怖で、視界が潤んだ。女達は慈愛に満ちた笑顔を浮かべ
ている。意味が判らない。これから何が起きるのだろう。
︵怖い⋮⋮︶
寝台に運ばれて、これでもかというほど花びらが飾られた。むせ
返るような甘い香りに、脳が蕩けそうだ。
朦朧としている間に、いつの間にか女達は消えていた。
ジュリアスが帰ってくるかもしれない。
こんな姿を見られるわけにはいかない。
重い金鎖を、どうにか首から外そうと奮闘していると、非情にも
扉の開く音が聴こえた。
128
ジュリアスが帰ってきた︱︱
129
Ⅰ︳24
らしゃ
ジュリアスが寝台に近づいてくる。
咄嗟に羅紗の薄布を掴むと、腰に巻いて上体を起こした。
﹁お帰り﹂
引きつった笑顔の光希を見るなり、ジュリアスは息を呑んでその
場で足を止めた。
﹁コーキ⋮⋮﹂
﹃あ、あはは⋮⋮ごめん、驚くよな。俺にも何が何だか﹄
こんな恰好、見られたくなかった。
耐えられぬ羞恥に襲われて、視界が潤みかけた。俯いて顔を隠す
と、呪縛から解かれたようにジュリアスが駆け寄ってきた。頬を両
手で包まれ、上向かされる。
熱を孕んだ青い瞳に至近距離で射抜かれて、顔が燃えるように熱
くなった。
﹃あの、見ないで⋮⋮﹄
言葉は中途半端に途切れた。
両頬を固定されたまま、強く唇を押し当てられた。いきなり熱い
ねぶ
舌をねじ込まれて、吐息すら奪うように貪られる。激情に駆られた、
情熱的な口づけ︱︱
どうにか顔を背けると、露わになった耳朶を唇で食まれ、舌で舐
130
られた。
﹁は⋮⋮っ、ぁ⋮⋮﹂
力の入らない腕でジュリアスを押しのけようとすると、胸に当て
た手を取られて、逆に引き寄せられた。青い双眸で光希を捕えなが
ら、見せつけるように指先に舌を這わせる。
﹁あ⋮⋮﹂
うず
形の良い唇から、赤い舌がちろりと覗く。情事を連想させるよう
に、一本ずつ指をしゃぶられた。
官能を呼び起こされて、身体の芯がずくんと疼く。
照明の落とされた室内でも、青い瞳は仄かに輝いて見える。欲に
濡れた眼差しが、光希を求める想いの強さを伝えてくる。肉欲だけ
ではない、焦がれるような恋情︱︱どうしようもないほど、好きだ
という気持ちまで。
こんなに強く、誰かに想われたことなんてない。感情が昂って、
はらはらと涙となって零れた。
ジュリアスは小さく息を呑むと、瞳に唇を寄せて、優しく涙を吸
いあげた。
﹁私の*****、ロザイン。****⋮⋮好きです﹂
﹁僕も、好き⋮⋮っ、あ⋮⋮っ﹂
消え入りそうな声で囁くと、ジュリアスは光希の裸の胸に指を滑
らせた。軽く触れられただけなのに、やけに敏感に反応してしまう。
めく
逃げるように腰を引くと、攫うように背中に腕を回された。身じ
ろいだせいで、腰に巻いた薄布がはらりと捲れ、ジュリアスの視線
131
が吸い寄せられるように落ちた。
光希も視線を落として、絶句した。
勃ち上がった性器が、繊細な紗の前垂れを押し上げていた。先走
りが薄布に染みを作り、肌色が透けて見える。信じられないほど卑
猥な光景だ。
考えるよりも先に身体が動いた。くるりと反転して四つん這いで
逃げようしたが、上からジュリアスが覆いかぶさり、四肢を搦め捕
られた。
﹁⋮⋮ひっ!﹂
うなじに強く吸いつかれた。肩や背中に、熱い唇が欲望を押しつ
けるように何度も落とされる。
﹃よせよ、やだ! 離して﹄
しりたぶ
唇は背中を下りていき、尻の膨らみに辿りついた。熱い掌に尻臀
を揉みしだかれ、濡れた舌で舐められ、音を立てて吸いつかれた。
﹁あ、あ⋮⋮っ、んぅっ⋮⋮!﹂
聞いたこともない、甘い声が喉の奥から溢れ出た。恥ずかしくて、
泣きながら一生懸命口を押さえたが、どうしても止められない。
﹃や、やめっ⋮⋮!﹄
ジュリアスは柔らかな尻臀を吸いながら、割れ目に沿う硝子玉の
連なりを、くんっと引いた。
﹁んぅ⋮⋮っ!﹂
132
腰に甘い衝撃が走り、危うく気をやりそうになった。
このままではどうにかなってしまう︱︱
逃げたいのに、押さえつけられて逃げられない。力の入らない腕
で弱々しく敷布を掻くばかり。
﹁はぁっ⋮⋮コーキ、*****⋮⋮﹂
掠れた声で名を呼ばれて、ずくんっと腰が甘く痺れた。悲鳴が出
そうになり、固く握った拳に歯を当てて必死に堪える。
尻のあわいに沿う紐をずらされ、尻孔が空気に触れたと思ったら、
熱い吐息と共にぬるりとしたものが触れた。
﹁ジュリ︱︱ッ!?﹂
舐められている。必死に逃げようと尻を振るが、ジュリアスは腰
を抱え込み、綺麗な顔を尻に埋めて上下に揺らし始めた。皺の一つ
一つを伸ばすように舌を這わせ、音を立てて何度も吸いつく。
﹃やだっ! やっ、やめろ! 舐めるな⋮⋮っ!﹄
い
ぴちゃぴちゃと卑猥な音が、自分の尻から聴こえてくる。
腰を揺らす度に屹立が布にこすれて、達ってしまいそうだ。逃げ
うが
ようとする光希を叱るように、ジュリアスはいっそう音を当てて、
熱い舌で柔い尻穴を穿った。
133
Ⅰ︳25
えいん
揺れる腰の隙間に、手を伸ばされた。太もものつけ根から、睾丸
や会陰を撫でまわされる。
﹁ぁ⋮⋮っ、あ︱︱ッ!﹂
性器を直に触られると、あっという間だった。
光希は切なく腰を揺らして、ジュリアスの手に包まれたまま絶頂
を迎えた。凄まじい快感が身体中を駆け巡る。
快楽の余韻に身体を揺らしていると、優しく髪を撫でられた。あ
らゆる感情が溢れて⋮⋮涙が溢れた。
自分が信じられない。こんな恰好をして、女みたいな喘ぎ声を上
げて⋮⋮ジュリアスの手で⋮⋮
﹁⋮⋮っ、ごめん⋮⋮ッ﹂
﹁シィー⋮⋮﹂
頬に伝う涙を、ジュリアスは長い指で拭った。滑らかな絹で、光
希の濡れた下半身を拭うと、力の抜けきった身体を抱き合うように
膝上に乗せた。しゃくりあげる光希の背を、あやすように優しく撫
でる。
これまでの人生で、これほど涙したことはない。泣き疲れて、次
第に頭が朦朧とし始めた。
焦点の結ばない眼差しで、皺の寄った絹を見つめる光希の顔を、
ジュリアスはそっと覗きこんだ。泣いて腫れた瞼に、ちゅっ、とか
わいいキスをする。
134
慈しみに溢れた仕草に、光希もようやく力ない笑みを浮かべた。
ジュリアスは蕩けるような笑みを浮かべると、光希の顔中にキスの
雨を降らせた。
心地いいキスにしばらく身を任せていたが、唇が首筋、鎖骨を辿
り⋮⋮熱を灯すように肌を啄むと、燃えるような放熱を思い出して、
身体は勝手に強張った。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
﹁コーキ、大丈夫*****⋮⋮﹂
怯える身体を、ジュリアスは優しく宥めようとする。
追い詰めるような触れ方ではなく、少しずつ熱を灯すような触れ
方に、緊張は次第に解れていった。首や胸に優しく吸いついて、薄
く赤い跡を散らしていく︱︱
﹁ん⋮⋮っ﹂
親指でやんわり乳首を倒されると、堪え切れない声が漏れた。胸
に顔を寄せようとするので、光希は思わず膝の上から降りて、自分
の身体を抱きしめた。
目を見つめて首を左右に振ると、ジュリアスは諦めたように微苦
笑を浮かべた。綺麗な顔を近づけて光希の頬にキスをする。顔を離
すと、軍服の上着を脱いで下も寛げる。勢いよく欲望の塊が飛び出
した。金色の下生えから、光希よりもずっと大きい屹立が、雄々し
く勃ち上がっている。
﹁あ⋮⋮﹂
そこに、視線が落ちた。光希だけじゃない、彼も感じてくれてい
135
たのだと思うと、純粋に嬉しかった。
ジュリアスは見せつけるように、ゆっくりと上下に扱いた。光希
の様子をうかがいながら、手を差し伸べる。
迷いながらその手を取ると、本気を出せば逃げられるくらいの力
で引き寄せられた。
光希は逃げなかった。
抱き合うような恰好で、ジュリアスの膝上に乗り上げる。彼の扇
情的な姿を見て、光希の中心も緩く芯を帯び始めていた。
﹁は、ぅ⋮⋮っ!﹂
ジュリアスは自身と光希の性器をまとめて、ゆっくりと扱き出し
すぼ
た。空いた片手で光希の身体を撫でまわす。丸くふっくらした二の
腕、胸、腹⋮⋮尻臀。尻の割れ目に指を滑らせ、窄まりを押し込ん
だ。
﹁んぅっ、あ⋮⋮っ!﹂
互いの先走りで、性器はてらてらと濡れている。指が滑る度、ぬ
ぷっと厭らしい水音が弾けた。
卑猥な音に耳が犯される。理性は溶けて、次第に放熱のことしか
考えられなくなった。
﹁コーキ*****⋮⋮﹂
耳朶に囁かれる掠れた声に、下半身が甘く痺れた。意味は判らな
いけれど、酷く厭らしいことをいわれたと判る。
ねぶ
いやいやと顔を背けても、ジュリアスは何度も耳を唇で食み、舌
で舐って睦言を耳朶に囁いた。
136
﹃は、ぁ⋮⋮っ、俺、もうっ⋮⋮﹄
い
あと少しで達けそうなのに、ジュリアスは急に手を離した。昂っ
た熱をどこにも逃がせず、もどかしい。
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
﹁コーキ***、*******⋮⋮?﹂
﹃シてよ⋮⋮﹄
光希は強請るようにジュリアスの耳朶に囁いた。ジュリアスの手
に自分の手を重ねると、やんわり自身へと導く。
﹁︱︱ク⋮⋮ッ、コーキ、****﹂
いじ
ジュリアスは光希の唇を奪い、二本まとめて扱きながら後ろの尻
孔を指で掻いた。前と後ろを淫らに弄られて、殆ど気を失うように
二度目の放熱を遂げた。
137
Ⅰ︳26
ジュリアスは光希が疲れ果てて気を失うまで、身体を離そうとし
なかった。光希が泣いて怯えたので、後ろへの挿入は許してもらえ
たが、青い瞳に飽くことなく痴態を眺められた。
大きな掌が舐めるように素肌を滑り、幾度も官能を引きずり出さ
れた。声が枯れるほど喘いで、泣いて︱︱
﹃うぅ⋮⋮死にたい⋮⋮﹄
光希は、死にそうな、消え入りそうな声で呟いた。隣にジュリア
スはいない。目が醒めた時には既にいなかった。
陽はとうに昇っているはずなのに、まだ誰も天幕を訪れない。食
欲もないし、動きたくないが、そのうち給仕の召使がやってくるか
もしれない。
乱れた寝台を見られるのは嫌なので、のろのろと力の入らない腕
で身体を起こした。
ふと磨かれた爪が視界に映り、ジュリアスの舌で愛撫されたこと
を思い出した。一瞬で顔に血が上った。
︵ひぃ︱︱ッ! 忘れたいッ!!︶
今なら羞恥で死ねる。枕に顔を突っ伏して悲鳴をどうにか堪えた。
今夜もジュリアスはやってくるのだろうか? どんな顔をすれば
としかさ
いいのだろう⋮⋮そればかり考えて過ごした。
夜になると、年嵩の召使達が夕食を運んできた。朝も昼も食べて
いないのに、殆ど残してしまった。
女達はあれこれと気遣い、世話を焼いてくれるが、光希は心ここ
138
に在らずだった。ジュリアスに会ったらどうしよう、何ていおう、
そればかり考えていた。
今夜は湯浴みを一人でさせてくれた。用意された普通の寝間着を
見て、心底ほっとした。
召使が退室すると、いよいよジュリアスがくるかもしれないと身
構えていたが、一晩経ってもジュリアスは戻らなかった。
会うことを恐れていたのに、顔を見れないとなると今度は心配に
なる。
ここは戦場だ。ジュリアスは無事だろうか。ここへ戻らず、昨夜
はどこで眠ったのだろう。何事も起きていなければいいけれど⋮⋮
召使が朝食を届けに天幕を訪れると、光希は扉の外にジャファー
ルの姿を見つけて駆け寄った。
﹁ジャファール! お早う﹂
﹁ロザイン***シャイターン。お早うございます﹂
﹁お早う、ございます。あの、ジュリは?﹂
﹁シャイターンは****で******﹂
光希は食い入るようにジャファールを見つめた。言葉は判らない
けれど、灰紫色の瞳は凪いでいて、口調も穏やかだ。
心配するような、不穏な事態は起きていなさそうである。
緊張を解いて肩の力を抜くと、今度はジャファールが思慮深い眼
差しで光希を見つめた。
﹁何?﹂
139
﹁いえ⋮⋮すみません。******﹂
光希は訝しげにジャファールを見上げたが、彼は答えることなく、
背を向けて警備の姿勢に戻った。
暇な午後を持て余し、何度か扉を開けてみた。直立不動のジャフ
ァールの背中が見えるばかりだ。ここが危険な場所だと判ってはい
るが、天幕に軟禁されるのも我慢の限界だ。
翌朝、光希は決意を秘めて扉を開けた。振り向いたアルスランと
眼が合う。
﹁アルスラン、お早うございます。ジュリは?﹂
﹁ロザイン***シャイターン。お早うございます。シャイターン
は******︱︱﹂
﹃会いたいんだ﹄
ま
言葉を遮って、日本語で話しかけた。素早く周囲の様子を窺うと、
アルスランの他に人影は見当たらなかった。彼さえ撒ければ、逃げ
られるかもしれない。
﹁ロザイン******﹂
﹁すみません!﹂
光希は謝罪と共にアルスランの横を駆け抜けようとしたが、あっ
さり片腕で止められてしまった。
﹁離して!﹂
140
手足を振り回して滅茶苦茶に暴れると、偶然アルスランの顔に一
発入った。
﹁****ロザイン、********⋮⋮﹂
アルスランは低い声で呟いた。恐る恐る見上げると、蒼氷色の瞳
に苛立ちが浮かんでいる。冬の湖水のような視線が突き刺さり、光
希の奮起は消え失せた。
﹁すみません⋮⋮﹂
﹁********﹂
厭わしげな手つきで、アルスランは光希の襟を掴むと、猫の子に
するように部屋へ投げ捨てた。
尻餅をつく光希の後ろで、非情にも扉は閉められた。背中を振り
返り、光希はムッとして扉を睨みつけた。
一体誰の指示で、天幕に軟禁されているのだろう? やはりジュ
リアスなのだろうか?
141
Ⅰ︳27
もう五日、ジュリアスの顔を見ていない。
戦場に何か起きたようで、数日前から空も大地も鳴動している。
光希が天幕で一人眠っていると、不穏な地響きに目を醒ますことが
何度かあった。早鐘を打つ心臓を押さえながら、ジュリアスの安否
を祈った。
不安で堪らない。ジュリアスは無事なのだろうか?
扉の外には昼夜を問わず、必ずジャファールかアルスランのどち
らかがいる。ジュリアスのこと頻繁に訊ねるうちに、ジャファール
はともかく、アルスランには適当にあしらわれるようになった。言
葉は判らなくても、悪口をいわれていると何となく判る。
身の回りの世話は、毎日同じ召使がしてくれる。女達は心優しく、
光希に一生懸命仕えてくれるが、殆ど会話をしてくれない。いつで
も数歩下がったところで跪いて、こちらが言葉をかけるまで何もい
わない。声をかけても、最小限の会話で終ってしまう。
鬱々とした軟禁生活が続いた。
その日、空は朝から仄暗く染まり、遠くの砂漠で幾つも火柱が上
ろう
がった。
耳を聾する轟音が響き渡り、大地を揺るがす。天幕の中にいても、
恐ろしげな振動が伝わってきた。
この戦争、ジュリアス達は優勢なのだろうか? それとも劣勢な
のだろうか?
彼が無事ならもう何でもいい、無事な姿を一目見たい。オアシス
で過ごした穏やかな夜を、遠い昔のように感じる。
夜になり、ようやく地響きは止んだ。
光希は夕食後、不自然な酩酊感に参って、寝台の上で倒れていた。
やけに身体が熱い。
142
あの夜と同じ⋮⋮
食後に出された、とろりとした甘い飲み物。あれを飲んでから、
身体が熱くて思考がはっきりしない。
扉を開く音に顔をあげると、召使達がぞろぞろと壺や小箱を抱え
てやってきた。
﹁ロザイン***シャイターン。****湯浴みを****、お召
し物は*****﹂
﹁ジュリがここへ?﹂
光希は期待に目を輝かせながら、指で床をさした。今夜は久しぶ
りにここへくるのだろうか?
ところが、召使達は曖昧に首を振る。
よく判らないまま、力の入らない身体を支えられて浴槽に連れて
いかれた。恐怖が蘇り、逃げようとしたが、相変わらず力のある女
達に身体を押さえられて、爪の先から指の合間まで磨かれた。
尻穴まで綺麗に洗浄されて、甘い香りの香油で揉み解される。こ
の先の展開を想像して、羞恥と恐怖で涙が滲んだ。
あの夜のように、ジュリアスに触れられるのだろうか。
光希が震えている間も、女達は手を休めずに支度を続けた。
るいてき
髪を整えて繊細な額飾りをつけながら、光希の平たい顔に薄化粧
を施し紅を引く。
薄い紗で胸を巻かれ、涙滴型の銀細工が無数についた、絹の衣装
を着せられた。身じろぐ度にシャラシャラと涼やかな音が鳴る。ま
るで異国の踊り子のようだ。
入念に着飾ったが、最後に足首まで覆う毛皮のついた外套を着せ
られ、頭から紗をかけられた。少しも肌が見えない。
女達は光希の手を取り、扉の外へと連れ出した。外へ出ると、今
度はアルスランに手を引かれて歩かされた。
143
この恰好は最悪だ。視界は悪いし、着飾りすぎて重い。歩き辛く
て敵わない。
﹁アルスラン⋮⋮﹂
天幕の外へ連れ出された理由が判らず、光希は戸惑いながら呼び
かけた。
﹁ロザイン***、シャイターンが****います﹂
﹁ジュリ?﹂
﹁はい、*****。シャイターンに****﹂
これからジュリアスに会えるのだろうか?
光希は周囲に視線を走らせた。しかし頭にかけられた紗のせいで
視界が悪い。取ってしまおうかと頭に手を伸ばすと、アルスランに
止められた。
﹁顔を*****ません﹂
﹁何?﹂
なぜ顔を見せてはいけないのだろう? 視線で問いかけたが、ア
ルスランは黙々と歩くばかりで、問いかけには応えてくれそうにな
い。
こうしょう
諦めて周囲に視線を移すと、野営地の奥の方に、大きな焚火が見
えた。近づくにつれて、愉しげな哄笑や、歌声が聴こえてくる。野
太い男の声が多いが、女性の笑い声も聴こえる。
もしかして、あそこへ連れていかれるのだろうか?
144
ジュリアスには会いたいが、踊り子のような衣装を着ていると思
うと、手放しで喜べない。
まさか、踊れといわれやしないだろうか?
それだけは無理だ。
冷や汗を掻いているうちに、焚火を囲む人の輪にたどり着いてし
まった。皆、軍服を着崩して、豪快に酒を飲んでいる。
中には露出の激しい女性と熱烈なキスを交わしている者もいた。
唖然呆然⋮⋮目を丸くしていると、近くの天幕が揺れて、情事を
連想するような喘ぎ声が漏れ聴こえた。
︵何だここは。戦場で乱交騒ぎでもしているのか?︶
ジュリアスはすぐに見つかった。
一段高いところで絨緞の上にしどけなく寝そべり、酒を飲んでい
る。左右に艶やかな美女達を侍らせて。
目の前が真っ暗になった。
もう一歩も近寄りたくなくて、その場で足を止めたが、アルスラ
ンに無情にも背中を押された。立ち止まっては背中を押される。
ジュリアスは光希を見て、優艶な笑みを浮かべた。今夜は一段と
迫力がある。神秘的な青い燐光を纏うジュリアスは、この世のもの
とは思えぬ美しさだ。
﹁コーキ﹂
薄い紗では、射抜くような眼差しを防げない。
真っ直ぐに見つめられて手招かれると、強烈な怒りを覚えていて
も、足は自然に前へと踏み出した。
145
146
Ⅰ︳28
真っ直ぐ、ジュリアスだけを見つめて砂の上を歩く。
光希に気づいた兵士達は道を譲り、ある者は杯を掲げ、ある者は
胸に手を当てて跪いた。
はや
酔いの回った赤ら顔の男達は、光希を宴を盛り上げにきた踊り子
たしな
とでも勘違いしたのか、囃し立てるように口笛を吹いた。それを傍
らの兵士が窘めている。
素足で舞っていた女達は、踊りを止めて砂の上に跪いた。
楽士達も演奏を止めて同じように跪く。音が消えて辺りがしんと
やぐら
静まると、天幕に籠っていた兵士達も訝しげに顔を覗かせ始めた。
光希が櫓の前で足を止めると、ジュリアスは蠱惑的な笑みを浮か
べて手を差し伸べた。傍に侍っていた女達は、場所を譲るように左
右の階段から櫓を降りていく。
傍へ寄って良いものか迷っていると、ジュリアスにもう一度手招
かれた。
﹁コーキ、こちらへ﹂
﹁ジュリ⋮⋮﹂
おずおずと櫓に上がり、ジュリアスの傍で胡坐を掻くと、力強い
腕に腰を引き寄せられた。紗の上から強く唇を押し当てられ、酒精
の匂いに嫌悪を覚えた。
光希が顔を背けても、ジュリアスは何度も唇を寄せてくる。
ひとしきりキスの雨を降らせた後、ようやく顔を離すと、光希を
腕に抱いたまま立ち上った。祝杯をあげるように杯を掲げ、兵士達
を見渡す。
147
﹁ロザイン*****、********!﹂
﹁﹁﹁*****!﹂﹂﹂
ジュリアスが叫ぶと、割れるような大喝采が起こった。
それに応えるように、ジュリアスが腕を振り上げる。大地を揺る
がす喝采と兵士達の興奮は更に昂った。冷淡なアルスランですら、
拳を突き上げて叫んでいる。
異様な熱気に包まれて、光希は一人呆然としていたが、ふと思い
至った。
もしかしたら、戦局がジュリアス達に大きく傾いたのかもしれな
い。
数日前から夜でも爆音が響いていたけれど、今夜は不思議と静か
だし、戦場の前線で乱痴気騒ぎをする余裕があるのだ。
戦う必要も逃げる必要もなく、勝利が見えているのではないだろ
うか?
砂漠に異国情緒に富んだ音楽が流れ、女達が指に通した打楽器を
鳴らして踊り出した。サーベルを高く掲げて舞う男もいる。
ジュリアスはクッションにもたれかかりながら、光希の腰に腕を
きせる
回して宴の様子を満足そうに眺めている。
白磁の煙管をふかし、酒を飲みながら、悪戯に光希の顔や髪に口
づける。甘ったるい女物の香水や、強い酒の匂いが不愉快でたまら
ない。
しばらくすると、櫓を降りた女達が酒瓶を手に戻ってきた。ジュ
リアスと光希の傍に侍り、酌をし始める。
光希が俯いて手元をじっと見つめていると、宝石のような青い双
眸に顔を覗きこまれた。
﹁コーキ、*******?﹂
148
あんなに会いたかったのに、今は口をきくのも嫌だった。
伸ばされる手からつい逃げてしまう。光希がつれない態度を取る
と、周囲の女達は忍び笑いを漏らした。
周囲の目に、光希はどんな風に映っているのだろう?
酌をする女達のように、ジュリアスに侍る一人だと思われている
のだろうか?
衝動的に頭にかけられた紗に手をかけると、ジュリアスに腕を掴
まれた。
﹁*****ません﹂
﹁⋮⋮離してください﹂
﹁コーキ?﹂
﹁離してください﹂
伸ばされる手を払いのけると、傍にいた美女が、甘えるようにジ
ュリアスにしなを作った。ジュリアスはちらとも視線を向けなかっ
たが、光希は胸を締めつけられるような切なさに襲われた。
ジュリアスは美しい砂漠の王者だ。
彼の傍に侍りたい女も男も、きっと腐るほどいるのだろう。見目
麗しい女達に比べて、光希は平凡でちっぽけな子供でしかない。
特異な出会いのおかげで、今はジュリアスの傍に置いてもらって
いるけれど、いつかは飽きられる。
媚びるような視線を向けても、見向きもされない女。あれは、そ
う遠くない未来の自分の姿だ︱︱
そう思うと、紗を取ることを許されないのも、平凡な顔を晒して
欲しくないからでは、と悲観的な考えが浮かんだ。女を真似て化粧
149
したところで、光希は冴えない男でしかない。
悄然と俯く光希を、ジュリアスは気遣わしげに覗き込み、労わる
ように抱き寄せた。素直にもたれかかれず、距離を置こうとすれば、
強引に抱き寄せられた。
﹁どうかした? コーキ⋮⋮*****﹂
﹃ジュリには判らないよ﹄
﹁泣かないで﹂
﹃泣いてねーし﹄
﹁コーキ⋮⋮﹂
﹃何で、好きだなんていったの? 期待しちゃうじゃん。一緒にい
る自信なんてないのに⋮⋮﹄
﹁****、何を*****? 私は****コーキが好きだよ﹂
ジュリアスは少し身体を離すと、紗の上から光希の頬を包みこん
だ。青い炎のような双眸を見上げるうちに、視界がぼやけた。
﹃俺は、ジュリが好きだよ。でも⋮⋮ジュリは本当はどう思ってん
の? 女じゃねーし、チビだし、言葉も不自由だし⋮⋮ちょろいっ
て思ってんだろ? 俺はお前のハーレムに加わるのはご免だぜ。ふ
ざけんなよ、心配してたのに。俺にあんなことしておいて、酒飲ん
で女侍らせて何してんだよ。人にこんな恰好までさせて、てめーは
何様のつもりだ﹄
150
紗を被っていて良かった。涙が零れても、見えないだろうから。
﹁ごめんね、コーキ⋮⋮********。シィー⋮⋮泣かないで﹂
ジュリアスはあやすように光希を抱き寄せた。彼に腹を立てて泣
きぜん
いているのに、優しくされると甘えたくなってしまう。
いっそ背を向けて走り去れたら爽快なのに。毅然と立ち去る光希
を、ジュリアスが泣いて縋って追いかければいいのに。
八つ当たり気味に妄想をしていると、腰に腕を回されて立ち上が
るように促された。
ざわめく気配がしたが、泣いていることを知られたくなくて、ず
っと顔を伏せていた。
151
Ⅰ︳29
人の輪を抜けて喧噪から遠ざかると、光希は少しだけ冷静になっ
た。
﹁ジュリ⋮⋮あれ﹂
遠ざかり、小さくなった焚火を指すと、ジュリアスはほほえんで
さわ
軽く首を振った。主役が抜け出してしまって本当にいいのだろうか。
それに、このまま二人で天幕に戻るのは、癪に障る。
﹁僕は平気です。いってらっしゃい﹂
腰に回されたジュリアスの腕を外して、今きた道を指差すと、ジ
ュリアスは困ったように微苦笑を浮かべた。
﹁コーキは私が*********? ******﹂
機嫌をうかがうように甘く囁くと、ジュリアスは光希の腰に腕を
回して歩き始めた。戻る気はないらしい。
鉛の足取りで天幕に近づくと、扉に控えていたジャファールが穏
やかな笑みで迎えてくれた。
﹁お帰りなさいませ、シャイターン。ロザイン****。****
******﹂
穏やかな口調に、ささくれ立った心を慰められる。思わずジャフ
ァールの前で立ち止まると、ジュリアスに肩を抱かれて天幕の中に
152
押し込められた。
扉が閉まると同時に、光希は頭に被っていた紗を脱ぎ捨てた。爽
快感に思わずため息が出る。
﹁コーキ、******﹂
光希を見て、ジュリアスは目を瞠った。嬉しそうに、唇を寄せよ
うとする。
﹃あー酒くせぇなーもう、風呂入りなよ﹄
思いきり顔を背け、浴槽に向かって背中をぐいぐい押すと、ジュ
リアスは素直に背中を押されながら、くすくすと笑った。
﹁ジュリ、お湯は?﹂
﹁待っていて****、***湯を準備します﹂
すぐにジュリアスは外にいるジャファールに命じた。扉を閉める
と、再び光希の傍に戻ってくる。
毛皮の外套に、ジュリアスは手を伸ばした。されるがまま脱ごう
として、自分がどんな格好をしているか思い出した。
﹁コーキ?﹂
たじろぐ光希を、ジュリアスは不思議そうに見ている。光希は警
戒するように、すすす⋮⋮と寝椅子の奥まで下がった。
青い目に悪戯っぽい光を浮かべると、ジュリアスはひょいと寝椅
子を飛び越えて、逃げる光希を簡単に捕まえた。
153
﹁うわっ﹂
﹁コーキ***﹂
抵抗も空しく、無理やり脱がされた。銀細工が涼しげな音を立て
て揺れる。光希は羞恥を堪えながら、その場に蹲った。
﹁⋮⋮コーキ*******﹂
﹃違う、好きでこんな恰好してるわけじゃない﹄
うずくま
ジュリアスは蹲る光希に覆いかぶさると、ちゅっ、とむき出しの
肩にキスを落とした。
﹃やめろよ﹄
﹁シィー⋮⋮コーキ*****⋮⋮﹂
大きな掌で、包み込むように二の腕を撫で上げる。熱を灯すよう
に、うなじや背中に口づけを落としていく。
あられもない声を上げそうになり、慌てて口を手で塞いだ。声を
堪えていると、口に当てた手をジュリアスに引き剥がされた。その
瞬間、一際強く背中に吸いつかれる。
﹁⋮⋮っ、ジュリ⋮⋮ッ!﹂
﹁****⋮⋮﹂
たちま
ちりちりとした熱が幾つも肌に灯される。忽ち燃え上がるように
身体が熱くなった。せっかく忘れかけていたのに⋮⋮甘い疼きが蘇
154
る。腰が勝手に揺らめいてしまう。
官能の波に抗っていると、扉を叩く控えめな音が聴こえた。
ジュリアスは落ちた外套を光希にかけると、扉を開けて湯を運ぶ
召使達を中へ入れた。
︵危うく、流されるところだった!︶
早鐘を打つ心臓を押さえながら、光希は湯浴みの支度を眺めた。
準備が整い、召使達が出ていくと、ジュリアスは光希を手招いた。
﹁僕は大丈夫です。ジュリ、お湯を﹂
﹁********?﹂
何をいわれたのか判らず、首を傾げると、ジュリアスは愉しげに
ついたて
笑った。何でもないというように首を振り、軍服をいきなり脱ぎ始
める。
光希は慌てて衝立を広げ、寝椅子の奥へ逃げた。
今のうちに、この恰好を何とかしてしまおう。装飾品を全て外し
て、紗で化粧を拭き取る。衣装も脱いでしまいたいが、着替えは浴
槽前の籠の中だ。
ジュリアスは湯から上がると、化粧を落とし、脱ぎ散らかした光希
を見て残念そうに笑った。
155
Ⅰ︳30
湯上りのジュリアスは壮絶に色っぽかった。
さら
淡い褐色の肌は上気し、しとどに濡れた金髪から、滴が伝う。完
璧な裸体を惜しげもなく晒し、寝椅子の上で体育座りをする光希の
隣に堂々と腰かけた。
﹁⋮⋮服は?﹂
隣を直視できず、光希は前を向いたまま問いかけた。くすりと笑
う気配がする。
ジュリアスは身体を強張らせる光希を抱き寄せると、頬に手を伸
ばして上向かせた。
正視できずに眼を瞑ると、瞼に口づけられた。瞼、頬、鼻、それ
から唇⋮⋮触れるだけのキスが顔中に落ちる。
耐え切れずに顔を背けると、今度は耳朶を食まれた。濡れた音が
鼓膜を叩いて、心臓が破裂しそうなほど脈打った。
﹁離してください﹂
﹁いいえ****、*********﹂
光希は遠慮がちに、ジュリアスの素肌に手を伸ばした。遠ざけよ
うと触れた身体は、しっとりと濡れていて、驚くほど熱い。二人の
間にほんの少し距離が生まれても、すぐに背中に腕を回されて力強
く抱きしめられた。
見下ろす青い瞳には、熱が灯っている。
ジュリアスが好きだ。好きだけど⋮⋮どう考えても、光希が受け
156
入れる側だろう。痛い思いはしたくない。知識は無きに等しいのに、
おののく
無事に彼を受け入れられるのだろうか?
恐れ慄く光希を、ジュリアスは無言で見下ろしている。眼を見つ
めたまま、顔を傾けて唇を合わせた。酒精の味が舌に広がる︱︱さ
っと頭が冷えた。
﹃待て待て、ちょっと待て。ジュリ、酔ってるだろ? 後で後悔し
てもシャレになんねーぞ!﹄
﹁******﹂
顔を背けても、追いかけるようにジュリアスは唇を塞いだ。
﹁ん⋮⋮っ、離してッ﹂
﹁****!﹂
けいれつ
厭わしげに光希が叫べば、ジュリアスも強い口調で応じた。勁烈
な眼差しで光希を射抜いて、奪うように唇を塞ぐ。
覆いかぶさる身体が怖くて、本気で暴れたが、敵わない。鋼のよ
うな腕で光希を押さえつけ、角度を変えては、何度も舌を吸い上げ
る。
﹁︱︱っ、は、んぅ⋮⋮っ!﹂
ようやく唇が離れると、すっかり息が上がっていた。横抱きにさ
れて、寝台に降ろされる。光希は上目遣いに見上げた。
﹁はぁ、はぁ⋮⋮、ごめんなさい、ジュリ⋮⋮﹂
157
もう、逃げてしまいたい。許しを請う光希を無言で見下ろし、ジ
ュリアスは顔を下げると、素肌に唇で触れた。
ねぶ
いら
唇は肌の上をどこまでも滑り、胸まで下りると、乳首を柔く挟み
込んだ。先端を舌で舐りながら、もう片方を指先に弄う。
﹁は⋮⋮ぅ、あ⋮⋮っ、やだ⋮⋮っ!﹂
左右の乳首を丹念に愛されるうちに、混乱と羞恥が涙となって瞳
から溢れた。耐えられないと思いながら、同時に気持ちいいと感じ
ている⋮⋮
心と身体がばらばらに機能しているようだ。
逃げたい。逃げられない。熱の浮いた青い瞳に、痴態を見下ろさ
れている。
光希は涙を零しながら顔を両腕で隠した。ジュリアスは叱るよう
に、光希の腕をぐいっと引き剥がす。
﹃痛⋮⋮っ﹄
苦痛の表情を浮かべると、手加減するように掴んだ手から力を抜
いた。
﹁ごめんね****﹂
﹃もうやめて、やめてくれよ⋮⋮﹄
哀願する光希を見下ろし、ジュリアスは口元に微苦笑を浮かべた。
混乱を宥めるように、額や頬に優しく口づけながら、太ももを撫で
上げる。
尻を丸く包み込むように手を滑らせ、身体に纏う絹を全て取り払
うと、寝台の下に放った。
158
口では嫌だといっていても、光希の中心は緩く勃ち上がっていた。
薄い紗の前垂れを押し上げていると判る。ジュリアスはそこに視線
を落とすと、顔を寄せて布ごと口に含んだ。
強烈な快楽が走る︱︱
弓なりに仰け反る光希を押さえつけ、なおも舌を這わせ、濡れた
染みを広げていく。
﹃よせ⋮⋮よぉっ! ん⋮⋮っ﹄
﹁*****⋮⋮?﹂
ジュリアスは口を離すと、屹立をつぅっと撫で上げた。堪らずに
声を上げると、前垂れをはぎ取り、形の良い唇で直に咥えこんだ。
﹁ああっ、あ⋮⋮あぁ︱︱ッ!﹂
熱い咥内に含まれると、頭の中が真っ白になった。えもいわれぬ
快楽に支配されて、何も考えられない。
根元を指で愛撫されながら、舌で何度も擦られる。喉の奥まで咥
えこまれて、先端を強く吸われると、堪えきれずに白濁を噴き上げ
た。
﹁ジュリッ! ご、ごめんなさいっ!﹂
我に返り、ジュリアスを押しのけようとするが、腰を抱き込まれ
て離してくれない。喉を鳴らす音が、鼓膜を叩いた。
︵えぇッ、飲んだ!?︶
吐いた精を、嚥下された。
159
すぼ
信じれない思いで、肩を上下させていると、ジュリアスは尻の窄
まりに、香油で濡らした指を滑らせた。
慄いたものの、大した抵抗もできないまま、指を挿し入れられた。
そこはすんなりと長い指を呑み込んでゆく。
痛みや嫌悪は感じない⋮⋮
けれど、入り口を広げるように指が動いて、終いには三本の指が
中を探るように蠢くと、この先の展開に恐怖が芽生えた。
﹁ふっ⋮⋮、くぅ、うぅ⋮⋮っ﹂
﹁シィー⋮⋮大丈夫***﹂
涙する光希に気づいて、ジュリアスはあやすように肌に触れた。
光希の混乱が落ち着いてくると、優しくうつぶせにした。
されるがまま、光希は頭を枕に押し当てて、尻を高く上げた。
やはり怖い。ジュリアスは、震える背中にいくつもキスを落とし、
尻の割れ目に顔を埋めて⋮⋮舌を這わせた。
ざんし
羞恥のあまり、顔から火が出そうだ。尖らせた舌で孔を抜き差し
いじ
されると、未知の快感を堪えるのに必死になった。
後ろを解されながら、前を弄られる。先端から、射精の残滓が垂
れて太ももを濡らしていく⋮⋮
﹁あ、あ、あ⋮⋮っ﹂
うが
濡れた水音が沈黙を穿つ。尻孔から舌が抜ける頃には、身体中の
力が抜けきっていた。
仰向けに転がされ、視線を合わせながら股関節が引きつるくらい
脚を大きく開かされた。膝裏に手を入れられて、膝を深く折り曲げ
られると、浮いた腰の下に丸いクッションが挟み込まれた。
恐い︱︱
160
顔を倒して、あらゆる恐怖を堪えていると、背けた頬に唇で触れ
られた。
﹁コーキ*****﹂
蕩けた尻孔に、熱い亀頭が押し当てられる。
頂上で止まったジェットコースターに乗っているみたい。
息をつめて、煩いくらい心臓の音が聞こえる。
捕まっていないと、まっさかさま︱︱
﹁ああ⋮⋮っ!﹂
熱い肉塊が、ぐぐっ⋮⋮と中に押し入ってきた。圧迫感に息が止
まりそうだ。潤んだ視界の先で、ジュリアスが見下ろしている。
様子を見ながら全てを納めると、ジュリアスはゆったりと腰を揺
らし始めた。
始めは恐怖しかなかったが、たゆたうように揺すられるうちに、
じわじわと快楽が身体に拡がり出した。
優しい挿入をじれったく感じる。刺激が欲しくて腰を揺らすと、
視線が絡んだ。
﹁****﹂
途端に、貪るように唇を奪われた。最奥までねじ込んだ猛りを、
引き抜かれ、粘膜を擦られる刺激に腰に甘い痺れが走る。
﹁はぁ、はぁ⋮⋮、ああ⋮⋮っ﹂
限界まで抜いては、ゆっくり光希の中に入ってくる。ジュリアス
は慎重に腰を打ちつけた。光希が快感を拾って震えると、同じ場所
161
を何度も擦りあげる。
けいれん
突き上げは早くなり、腰の合間から聞くに堪えない粘着な水音が
響いた。
﹁んっ、あ⋮⋮っ、んっ、んぅ︱︱!﹂
﹁コーキ*****﹂
意識は曖昧模糊にぼやけていく。
昇りつめる度に吐精は減ったが、快楽は増して、最後は痙攣が止
ひまつ
まらなくなった。
最奥に熱い飛沫が注がれるのを感じると、殆ど気絶するように眠
りに落ちた。
162
Ⅰ︳31
翌朝、光希はジュリアスの隣で目を醒ました。
慣れない行為で負った筋肉痛と発熱の為、寝台から起き上がれな
かった。
まと
一方ジュリアスは、いつもより艶々とした輝くような美貌で、光
希を心配しながらも軍服を纏って天幕を出ていった。
微熱と全身筋肉痛で身体の負担は酷かったが、身体を重ねたこと
で、心の均衡は安定を取り戻していた。好きだといってくれたジュ
リアスの気持ちも、信じてみようと今は前向きに思える。
抱き心地が良いわけでもない男の光希を、一途に全身で愛してく
れたのだから⋮⋮伊達や酔狂ではなかったはずだ。
その日の夜︱︱
天幕にジュリアスが戻ってくる頃には、光希も大分調子を取り戻
していた。
湯浴みしたいと伝えると、ジュリアスは嬉々として湯を運び、力
の入らない光希を支えて湯に入れてくれた。
その後も傍を離れようとせず、あれこれと世話を焼いた。一段と
視線や仕草が甘くなったと感じるのは、決して光希の気のせいでは
ないだろう。
﹁僕は大丈夫⋮⋮﹂
今も、ジュリアスは絨緞の上で光希を抱っこして、スープを手ず
から飲ませようとしている。
子供じゃないんだから、と光希は狼狽えつつ、ジュリアスの嬉し
そうな顔を見ると何もいえなくなる。
163
﹁コーキ、私の****⋮⋮****﹂
やがて、綺麗に整えられた寝台に二人で入ると、ジュリアスが覆
いかぶさってきた。
ぎょっとした。流石に昨日の今日で身体を動かすのは辛い。
﹃今日は無理だよ⋮⋮体調が悪いんだ﹄
怯えながら見上げていると、ジュリアスは慈愛に満ちた笑みを浮
かべて頷いた。
判ってくれたのかと思ったが、伸ばされた手に容赦なく上下の寝
間着を脱がされた。
﹁ジュリッ!﹂
﹁コーキ*****。大丈夫です﹂
﹃はぁっ!?﹄
確かに、挿入はされなかった。
うが
けれど、全身を手と唇で愛撫されて、赤く腫れた孔を舌で何度も
穿たれた。
最後は興奮して勃ち上がった互いのものを、抱き合うようにして
扱き合い射精。挿れなかっただけで、もう殆どセックスと同じ行為
だ。
一回で止めてくれたとはいえ、結局、光希は疲れ切って眠りに落
ちた。
その翌朝。
気持ち悪い自分の喘ぎ声で目が醒めた。
違和感を感じて股間を見下ろすと、艶やかな金髪が視界に映った。
164
朝勃ちしている光希のものを、形の良い唇に咥えられていた。
強制的に射精させられ、更に背後から挑んでこようとする。半泣
きで許しを請うと、ジュリアスは美しい笑みを浮かべて、光希を四
つん這いにさせた。
挿入こそされなかったが、閉じた太ももの合間を熱い屹立が何度
も擦り上げて、光希の下半身はあられもない有様であった。
朝から三回も射精させられて、起きた傍から寝込む羽目になった。
淫蕩な日々︱︱
二人きりの天幕で、朝も夜も関係なく身体を求められる。
ねぶ
光希の体力を見ながら、最後までする日もあれば、慰め合って終
わる日もある。抱かれた翌日は、念入りに舌で孔を舐られた。
初めて身体を重ねたあの夜から、ジュリアスは少しも変わらず情
熱的に光希を求める。
貪るように抱かれて、倒れるように眠り、起きて⋮⋮繰り返し。
天幕に軟禁される生活は相変わらずだが、朝と夜に体力を激しく
消耗するので、日中は横になって休むことが増えた。
光希は次第に、身体を重ねることを、負担に思うようになってし
まった。
ここでの生活で、光希にできることは一つしかない。
天幕で大人しくジュリアスの帰りを待ち、性欲処理をするように
身体を重ねるだけ⋮⋮
自由はないけれど、安全な衣食住の見返りに、身体を差し出して
いるようで辛い。
もちろん、ジュリアスのことは好きだ。好きだからできる行為だ
と判ってはいるけれど、身体を重ねる度に、心に重石が増えていく
ようだ。
辛いと感じるのは、この関係が決して公平ではないからだろう。
寝台を整えて、身体を綺麗にした後、光希はサーベルを枕元に置
くジュリアスを、決意の眼差しで見つめた。
165
﹁ねぇ、ジュリ﹂
﹁ん?﹂
﹁僕、外にいきます﹂
ジュリアスは光希を振り返ると、思慮深い眼差しで見つめた。光
希も変わらぬ意志を込めて見返す。
﹁はい、****。もう少しだけ待って。ごめんね、***連れて
いくから﹂
﹁明日? 明後日?﹂
﹁コーキ⋮⋮﹂
ジュリアスの表情が翳った。そういう顔をされると、いつもの光
希なら引き下がるところだが、今回はそうはいかない。
166
Ⅰ︳32
﹁僕、外にいきます。砂漠、天幕、空⋮⋮見ます。勉強します﹂
﹁コーキ、********、******危険です。****な
い﹂
ジュリアスは諭すように光希の肩に手を置いた。光希はその手に
自分の手を重ねると、真っ直ぐにジュリアスを見返した。
﹁危険⋮⋮﹃だとしても﹄、僕は外にいきます﹂
﹁駄目、****ない。天幕の外は***危険**です。****
*もう少しだけ待って。*****﹂
﹁明日? 明後日?﹂
﹁*******⋮⋮﹂
﹁明日? 明後日?﹂
﹁コーキ⋮⋮﹂
﹁明日? 明後日?﹂
﹁⋮⋮判りました。外へ出ることは****ない**、ここ*勉強
する*****しましょう﹂
167
小さなため息をついて、ジュリアスは根負けしたように苦笑を漏
らした。勉強と聞いて、光希は瞳を輝かせた。
﹁勉強? 明日?﹂
﹁****﹂
ジュリアスは指を三本立ててほほえんだ。
﹁⋮⋮明日、明日、明日?﹂
明日という度に指を折って数えると、ジュリアスは肯定するよう
にほほえんだ。
光希も満面の笑みで頷いた。欲をいえば、自由に天幕の外を歩き
たいが、ここが戦場であることは理解している。勉強を見てもらえ
るだけでも万々歳だ。
交渉成立に達成感も得られた。言葉で苦労する分、時には多少強
引でも、伝える努力が必要なのだ。
三日後。
昼食を終えた光希の元を、ジュリアスは訪れた。昼間に訪れるの
は初めてのことだ。
これから勉強を見てくれるのかと思いきや、頭に紗をかけさせら
れ、外へ連れ出された。
天幕から歩いてすぐの、丸い天幕を訪れると、気品のある五十前
後の紳士が迎えてくれた。
﹁こんにちは、******ました。シャイターン、***ロザイ
ン﹂
168
知的で優しそうな紳士は、胸に手を当てて優雅に一礼した。
彼も長身で、ここでは一般的な灰銀髪に、淡い青灰色の瞳をして
いる。
額には青い菱形の石が輝いていた。ジュリアス以外で、額に石を
持つ人物を見るのは初めてだ。
﹁コーキ、****サリヴァン・アリム・シャイターン。****
*********です。サリヴァン、****私の******、
コーキです﹂
シャイターン
が入ってい
ジュリアスから人を紹介されるのは初めてのことで、光希は興味
津々でサリヴァンを見つめた。名前に
るから、彼はもしかしたらジュリアスの血縁者なのかもしれない。
壁一面の本棚に囲まれた室内といい、学者然とした佇まいといい、
もしかして彼が光希の勉強を見てくれるのだろうか?
﹁*****ロザイン、私はサリヴァン・アリム・シャイターン*
****ます﹂
﹁こんにちは。僕は光希です。貴方が勉強を?﹂
﹁はい、ムーン・シャイターン****ロザイン***、言葉を*
****ます﹂
﹁ありがとうございます!﹂
光希は勢いよく頭を下げると、ジュリアスを仰いで嬉しそうに笑
った。
﹁ありがとう﹂
169
ジュリアスは優しい手つきで、光希の黒髪を撫でた。あまり時間
がないらしく、光希の額に唇を落とすと、サリヴァンに会釈をして
天幕を出ていった。ジャファールは室内に残り、扉前の警備をして
いる。
﹁****ロザイン、*****﹂
サリヴァンは絨緞の上に腰を下ろすと、光希を見つめて隣をぽん
ぽんと叩いた。誘われるまま近寄り、隣に胡坐を掻いて座る。
彼は、光希の前に大きな本立てを置いて、黄ばみの大きな羊皮紙
を広げた。
︵地図だ⋮⋮︶
判っていたことだが、光希の知っている世界地図とはまるで違う。
東西に大きな二つの大陸があり、それぞれの中腹あたりから、細
長い陸が続いている。架け橋のような細長い陸の周囲には、無数の
島々が点在している。見たこともない地形だ。
無言で地図を凝視していると、サリヴァンは掌と同じくらいの大
きさの羅針盤を取り出して、地図の上に置いた。縁に彫られた、北
と思わしき記号を指でトントンと指し、地図上の同じ記号を差す。
﹁***は北、***は南⋮⋮﹂
サリヴァンは言葉を切って、じっと光希を見つめた。
﹁東、西。これは大陸、*****は海。海の***に二つの大陸
があり、東の大陸をバルヘブ東大陸、西の大陸をバルヘブ西大陸と
**ます﹂
170
﹁はい!﹂
光希は夢中で頷いた。
﹁****。ここはバルヘブ西大陸の***、スクワド砂漠です﹂
サリヴァンは地図の上、バルヘブ西大陸の最東端を差した。光希
は初めて、自分が地図上のどこにいるのかを理解した。
171
Ⅰ︳33
サリヴァンは思慮深い眼差しで、光希を見つめた。
黒い双眸に理解の光りを見てとるや、彼は地図上のスクワド砂漠
に、小さな木彫りの駒を置いた。木彫りの駒は、青色の旗を手に持
つ騎馬兵の姿をしている。
﹁***シャイターン****、アッサラーム・ヘキサ・シャイタ
ーン**です﹂
﹃この旗⋮⋮﹄
騎馬兵が手に持つ青色の旗は、この野営地で何度も見かけた旗だ。
旗には青い双竜と雷、剣が描かれている。
次に彼は、バルヘブ東大陸の南端に、赤い旗を手に持つ騎馬兵の
駒を置いた。旗には赤目の蛇が描かれている。
﹁これはサルビア・ハヌゥアビス**です。******﹂
サリヴァンは赤い旗を手に持つ騎馬兵を摘まんで北上させた。そ
のままバルヘブ東大陸と西大陸をつなぐ、細い島々、大陸を渡り、
スクワド砂漠まで駒を進める。もう片方の手で青い旗を持つ駒を手
にとると、赤い旗を持つ駒とぶつけて、戦う様子を表現してみせた。
﹃サルビア⋮⋮は敵なんだね。ジュリ達は彼等と戦っているんだ﹄
日本語で一人ごちる光希を見て、サリヴァンは駒を手に取った。
二騎の駒をぶつけた後、赤い旗を手に持つ騎馬兵を弾き飛ばした。
172
﹁サルビア・ハヌゥアビス**は****シャイターンに****、
********﹂
﹃ジュリ達が勝ったの?﹄
サリヴァンは赤い駒を手に取り、くるりと反転させると、敗走す
るように青い駒に背中を見せて、バルヘブ東大陸に向けて動かした。
陸繋ぎの島々の中腹で駒を止めて、再び反転させる。
﹃⋮⋮敵は逃げたってこと?﹄
﹁ロザイン、*****です。スクワド砂漠は*******﹂
サリヴァンはバルヘブ西大陸、スクワド砂漠の北西に記された文
字を指さすと、金色の玉ねぎ屋根のある宮殿模型をその上に置いた。
﹁**をアッサラームといいます。******、*******
***。私****、シャイターンもアッサラーム*******﹂
﹁アッサラーム⋮⋮﹂
﹁その通りです、ロザイン。*********、シャイターン*
***アッサラームへ*******﹂
サリヴァンは青い旗を持つ駒を、アッサラームにある宮殿に向け
て動かした。
なるほど。ジュリアス達はアッサラームという所から、スクワド
砂漠まで遠征してきたらしい。戦争が終わったのなら、彼等はこれ
からアッサラームに還れるのだろうか。
173
﹁⋮⋮ロザイン?﹂
沈黙する光希を気遣うように、サリヴァンはそっと名前を呼んだ。
﹁僕⋮⋮﹂
よぎ
何かいおうとしたが、言葉が続かなかった。望郷が胸を過り、顔
に影を落とす光希を見て、サリヴァンも表情を曇らせた。
﹁ロザイン、****シャイターン****。********﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
しさ
言葉の意味は判らないが、励まされたように感じて、光希は力な
い笑みを浮かべた。
サリヴァンは本立てに別の羊皮紙を広げて見せた。
羊皮紙には様々な衣装の人間が描かれている。階級制を示唆する
ように、様々な人間が描かれており、上にいくほど描写が豪華だ。
頂点の人物は判り易く王冠を頭に戴いている。
王様の下に描かれている人物は、額に宝石のような石を描かれて
いた。
﹁***シャイターンです。***アンカラクス。*******
***﹂
﹃え、ジュリ? ジュリって王様の次にえらいの?﹄
光希は目を瞠って、サリヴァンを仰いだ。眉間に石を持つという
のなら、サリヴァンもそうだ。
174
﹁貴方は?﹂
光希が首を傾げると、サリヴァンは上から四つ目を指差した。
彼の恰好とよく似た、長衣を纏う人物で、神官と思わしき恰好を
している。高位に位置しているようだが、王様に次ぐジュリアスと
は開きがある。
光希が黙考すると、サリヴァンはアンカラクスと呼んだ人物画の
額を指さして、じっと光希を見つめた。
﹁***ロザイン、*****﹂
﹁え?﹂
意図がつかめず首を傾げる光希を見て、サリヴァンは微苦笑を漏
らした。軽く首を振ると、また違う羊皮紙を本立てに広げる。
羊皮紙には、様々な姿の女性、男性、獣が描かれていた。背に翼
を持つ人物も描かれている。まるで神話の世界のようだ。
その中の、青い光を纏う男性は、何となくジュリアスを連想させ
る。じっと見つめていると、サリヴァンはその人物を指差して、シ
ャイターン、と告げた。
﹁シャイターン?﹂
﹁はい。***は*******、シャイターンといいます。**
**は******、ハヌゥアビス﹂
サリヴァンは灰色の肌をした、赤い瞳の男性を指さして、ハヌゥ
アビスと告げた。
ハヌゥアビスはジュリアス達が戦っている敵の名前であった。こ
175
れは軍隊の象徴絵か何かだろうか?
サリヴァンは次から次へと羊皮紙を広げては、様々な絵を見せて、
手振りや時には模型を使ってこの世界のことを伝えた。
判らないことの方が多いが、判ることもある。時間の許される限
り、講義に熱中して過ごした。
176
Ⅰ︳34
午後の長い時間をサリヴァンと過ごした後、光希はジャファール
おぼろ
と共に天幕に戻り、サリヴァンに借りた世界地図を繁々と眺めた。
訳も判らずここへきてから、ようやく朧ながらこの世界のことが
判ってきた。
この世界は大きな二つの大陸に分かれており、どちらもバルヘブ
大陸と呼ばれている。
二つの大陸を結ぶ、細く横に連なる島々を渡って、バルヘブ東大
陸から敵︱︱サルビア・ハヌゥアビスが攻めてきた。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターンと呼ばれるジュリアス達は、
彼等をこのスクワド砂漠で迎え撃ったのだ。
今思えば、砂漠で出会った黒装束の男は、サルビア・ハヌゥアビ
スの兵士だったに違いない。
光希は地図上のスクワド砂漠を見つめた。
ここで数万人の人間が争い、ジュリアス達が勝利した。サルビア・
ハヌゥアビスは敗走して陸つなぎの中腹まで下がったようだが、完
あやつ
全に撤退したわけではなさそうだった。
サリヴァンは赤い駒を操って中腹で止めた後、くるりとスクワド
砂漠に向き合うように駒の向きを変えていた。また攻めてくる可能
性がある、そういいたかったのではないだろうか。
彼は、ジュリアス達がアッサラームから遠征してきたといってい
た。
そこには玉ねぎの形をした金色屋根のある宮殿があるのだろう。
そして、人々が暮らす街もあるに違いない。皆、帰りを待つ家族が、
よぎ
帰るべき家があるのだろうか⋮⋮
哀しみが胸を過り、光希は瞳を閉じた。自分にも、帰れる日がく
るのだろうか?
177
地球へ。日本へ⋮⋮
ジュリアスと過ごしたオアシスは、恐らくスクワド砂漠から、そ
う遠くないはずだ。地図で見ると、バルヘブ西大陸の最東端、スク
ワド砂漠のやや南らへんだろうか。
だが、ジュリアス達はいずれアッサラームへ帰還するのだろう。
地図上で見ても、スクワド砂漠とアッサラームはかなり距離が離
れている。
ここを離れる時、光希はジュリアスについていく可能性が高い。
となると、次にオアシスへ戻れるのはいつになるか判らない。
オアシスで、試してみたいことがある。
と
こちら
の扉が開く
昼間の泉には散々入ったけれど、夜の泉には二度入っただけだ。
あちら
初めてここへきたあの日、あの夜だけ。
泉に地球が浮かぶ夜に限り、
︱︱そんな奇跡が、起こるかもしれない。
ジュリアスの傍に在ることを望んでいても、心の欠片を今でもあ
の泉に残している。
未練を断ち切りたい。
故郷を捨てる、覚悟を決めたい。
この世界で、ジュリアスと歩いてゆくのだと心を決めたい。
だから、あと一度だけ。あの泉に飛び込みたい︱︱
夜も更けた頃、ようやくジュリアスは天幕に戻ってきた。
絨緞に寝そべっていた光希は、身体を起こすとジュリアスに笑い
かけた。
﹁お帰りなさい﹂
﹁ただいま、コーキ﹂
﹁ジュリアス、ありがとう。サリヴァン、地図を僕に⋮⋮﹂
178
﹁ああ、彼は*********? 地図の*********?﹂
ジュリアスは上着を脱いで椅子に掛けると、光希の傍にやってき
て腰を下ろした。羊皮紙の地図を覗き込み、スクワド砂漠を指差す。
﹁スクワド砂漠はここです。私**が**場所ですよ﹂
﹁はい⋮⋮オアシスはここ?﹂
﹁そうです﹂
﹁ジュリアス⋮⋮僕、オアシスにいきたいです﹂
光希は、緊張した面差しでジュリアスを仰いだ。
﹁いいですよ。*********。コーキが******、連れ
ていってあげる﹂
意外にも、彼は穏やかにほほえんだ。
﹁いい? 本当に?﹂
そんなにあっさり許可が下りるとは思っていなかったので、逆に
不安になった。もう一度訊ねると、やはり綺麗な笑顔で肯定された。
彼は、光希が日本に帰る可能性を考えていないのだろうか? そ
れとも、帰っても構わないと思っている?
自分だって葛藤している癖に、にこやかなジュリアスを薄情だと
責めたくなった。己の身勝手さに辟易して、光希は顔を俯けた。
179
﹁*****⋮⋮、私はコーキを*******﹂
ささや
不意に囁かれて顔をあげると、ジュリアスは笑みを消して、真剣
な表情で光希を見つめていた。
見つめ合っていると、青い瞳の奥に熱が灯された。
無意識のうちに逃げようと後ろへ下がると、伸ばされた力強い腕
おとがい
に抱きしめられた。
頤に手を添えられ、上向かされる。額を合わせて、至近距離で見
つめ合った。そのまま顔を傾けて、唇が合わさる。
﹁ん⋮⋮﹂
何度キスをしても慣れない。手に汗もかくし、たまにはリードし
たいと思っても、激流に溺れないようにするだけで精一杯だ。
扉
が開いたとしても⋮⋮ジュリアスを選びたい。離れた
ジュリアスが好きだ。誰よりも。何よりも。
例え
くない︱︱
180
Ⅰ︳35
光希が目を醒ますと、いつものように後ろからジュリアスに抱き
しめられていた。
窓のない天幕は陽が射さないので、明りを灯さないと朝でも暗い
のだが、体内時計で何となく判る。恐らくもう、陽は昇り始めてい
ることだろう。間もなくジュリアスも目を醒ますはずだ。
ごろんと反対側に寝転がり、ジュリアスの方を向いた。暗闇の中
でも、ジュリアスの豪奢な金髪はきらきら輝いている。
前髪に少し寝癖がついている様子がかわいらしい。
相変わらずジュリアスの眠りは静かだ。
触れ合う肌が温かくなければ、死んでいるのかと勘違いしそうな
くらい静かだ。
うっすら唇を開けて眠る姿は無防備で、いつもよりあどけなく見
える。
そっと手を伸ばして、人差し指で唇をふにふに押していると、ジ
ュリアスはゆっくり目を開けた。宝石のような青い瞳に光希を映し
て、眩いほほえみを零す。
﹁コーキ⋮⋮お早うございます﹂
﹁お早うございます、ジュリ﹂
ジュリアスは手を伸ばして光希を胸に引き寄せると、腰に腕を絡
めてしっかりと抱きしめた。手触りを楽しむように、光希の髪を何
度も撫でる。
﹁起きます﹂
181
﹁シィー⋮⋮﹂
ささや
耳朶に囁かれて、頬が熱くなった。手足から力が抜けていく。弛
緩する身体を、ジュリアスはぎゅっと抱きしめた。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
ジュリアスは伏せていた目を開くと、弱り顔の光希を見つめて、
眼を細めた。静謐な青い瞳の奥に熱が灯る。
背中に回された腕が、するりと尻を撫でて、太ももに添えられた。
そのままぐいっと太ももを持ち上げられて、互いの股間が密着する。
熱い、固い猛りが下肢に当たった。
﹁僕、午後は勉強。サリヴァン⋮⋮﹂
光希が嫌がると、ジュリアスはつまらなそうな顔をしたものの、
大人しく太ももから手を離した。
つい最近、朝から熱烈に求められて熱を出したばかりなので、ジ
ュリアスも思うところがあったのだろう。
あつら
ジュリアスは光希の額にキスを落とすと、すぱっと起き上がり身
支度を始めた。
光希も寝間着を脱いで、誂えられた軍服に着替えた。
﹁ジュリ、僕、勉強します。サリヴァンに会う、しますか?﹂
光希が声をかけると、ジュリアスはサーベルを手に取りながら振
り向いた。
﹁ええ、****あります。会えますよ。昼食の後、ジャファール
182
に案内****、天幕で待っていてください﹂
﹁ありがとう!﹂
光希が満面の笑みを向けると、ジュリアスは一瞬動きを止めた。
かと思えば、傍にやってきて、ぎゅっと光希を抱きしめた。
﹁コーキ、かわいい⋮⋮﹂
かわいい
と口にする。
最近判るようになってきたのだが、ジュリアスは光希に対して、
頻繁に
愛玩的な褒め言葉だろうと、以前から検討はついていたのだが、
男に使う言葉ではないはずだと思い込んでいた。
かわいい、といわれて身長や体格差に劣等感を刺激されるが、嬉
しい気持ちの方が大きい。光希もぎゅっとしがみつくと、ジュリア
スはいっそう強く抱きしめてくれた。
昼過ぎに、光希は再びサリヴァンの待つ天幕を訪ねた。
﹁こんにちは、シャイターン****ロザイン***。*****
**? 昨夜はよく眠れましたか?﹂
長身の老紳士は、穏やかな眼差しで光希を迎えてくれた。
﹁ありがとうございます、サリヴァン﹂
﹁さあ、こちらへ﹂
サリヴァンは昨日と同じように、クッションの置かれた絨緞を光
希に勧めた。
183
光希が腰を下ろすと、サリヴァンは飴色の本立てを置いて、分厚
い資料を広げた。
﹁***シャイターン****、ロザイン*****教えます﹂
﹁はい﹂
光希は気を引き締めて背を伸ばした。サリヴァンは宜しい、とい
つづ
うように頷くと、栞の挟まれたぺージを開いた。
細かい文字がびっしりと綴られており、美しい挿絵が描かれてい
る。文字は読めないので、自然と挿絵に目が吸い寄せられた。
挿絵は信仰や宗教を連想させる、美しい彩色で描かれている。
威厳のある男性が、赤子の両脇を手で支えて、天高く掲げている。
彼の周囲を大勢の人が取り囲み、恭しく跪いている。生誕祝福を授
けるように、有翼の天使、麗しい男女の神々が天から舞い降りてき
た⋮⋮という構図だ。
﹁****額に**を持つ子供は、**の**を****持ってい
ます。シャイターンの額には青い********?﹂
﹁ジュリアスの額⋮⋮?﹂
光希は挿絵を凝視した。赤子の眉間には、ジュリアスと同じよう
に煌めく青い石がついていた。
184
Ⅰ︳36
挿絵の宝石を指さして、これは? と訊ねると、サリヴァンは自
分の額の宝石を指しながら、もう片方の手で挿絵の赤子を指した。
﹁シャイターンも、私も、この赤子のように額に宝石を持って**
*ました。宝石持ちと呼ばれ、*********。******
を持っています﹂
﹁宝石⋮⋮﹂
﹁そうです。***シャイターンは*********、****
*****。美しく、強く、***彼***、アッサラーム・ヘキ
サ・シャイターンを導く********です﹂
知らない単語が多いが、どうやらジュリアスを讃えているような
ので、光希は何度も頷いた。
﹁彼は**********、貴方というロザインを*****、
*********﹂
﹁ロザイン?﹂
よく耳にする言葉だ。光希を指しているようだが、一体どういう
意味なのだろう?
サリヴァンはまた別の絵を開いた。
額に宝石を持つ人の肖像画だ。皆一様に麗しい容貌をしており、
男性だったり、女性だったりと性別も年齢もばらばらである。
185
額の宝石は濃淡の差はあれ、青や紫系統の色をしている。
そういえば、サリヴァンの額の宝石も、アクアマリンのような薄
い水色だ。ジュリアスは鮮明なサファイアの青色をしている。
﹁**、私やシャイターンと***額に宝石を持って生まれた、*
******子供なのです﹂
﹁⋮⋮あ!﹂
いわんとすることが判った。ジュリアスもサリヴァンも、この人
達も皆、額に宝石を持って生まれた、そういいたいのか⋮⋮!
光希は瞳に理解の色を灯して、勢いよく顔を上げた。サリヴァン
は満足そうに頷いている。
﹁ロザイン、***は*****﹂
彼は穏やかにほほえんだ。どうやら、好意的な言葉をかけてくれ
たようだ。
﹁さて、これを見てください。彼等のロザインです。人****、
宝石や*****、******、*********です﹂
﹁彼等の、ロザイン⋮⋮﹂
サリヴァンの示した挿絵には、額に宝石を持つ人物画の下に、女
性、男性の顔、指輪、杖⋮⋮人であったり物であったりと、様々な
ものが描かれていた。
額に宝石を持つ人物との関連性が判らず、光希は不思議そうに首
を捻った。
顔に疑問符を浮かべる光希を見て、サリヴァンは突然、白紙の羊
186
皮紙に鉛筆を走らせ始めた。
彼には、絵の心得があるらしい。
もの凄い速さでジュリアスの顔を描いている。まるで本人を前に
しているような、正確なデッサンだ。
﹁サリヴァン、すごい!﹂
手を叩いて褒めると、サリヴァンは穏やかにほほえんだ。
あっという間にジュリアスを描き上げたと思ったら、今度は違う
人物のデッサンを始めた。
﹁え、僕?﹂
サリヴァンはジュリアスのデッサンの下に、光希を描き終えると、
光希を指してロザインと口にした。
﹁⋮⋮﹂
それから、資料に描かれた人物を指しては、その下に描かれた人
や物を指してロザインと口にした。
光希は、ジュリアスのロザインといいたいらしい⋮⋮
どういう意味なのだろう。ジュリアスとの関係を表す言葉だろう
か。家族や恋人⋮⋮?
ジュリアスにとってのロザイン⋮⋮光希は、寝食を共にする近し
い仲だ。なら、この資料に掲載されている人達にとっても、ロザイ
ンである人物や物に対して、特別な関係や意味があるのだろう。
もしかしたら、ロザインとは財産や資産を意味するのかもしれな
い。
﹃うーん⋮⋮﹄
187
光希が首を捻って悩み始めると、気にしなくていいよ、というよ
うにサリヴァンは光希の肩をぽんぽんと叩いた。
﹁大丈夫、******。*******。貴方はシャイターンの
ロザインで、****アッサラーム・ヘキサ・シャイターン**軍
の******﹂
サリヴァンは穏やかな口調で話しかけると、昨日見せてくれた階
級制の図解を本立てに広げた。
そこには様々な衣装をまとった人物が描かれており、頂点には王
冠を戴いている王様が君臨している。王様の一つ下の階層には、額
に宝石を持つ人物が描かれており、昨日サリヴァンは彼を指してジ
ュリアスだと説明した。
﹁*******、***シャイターン﹂
サリヴァンは昨日話した通り、額に宝石を持つ人物を指して、シ
ャイターン、と告げると、次に先ほど描いた光希のデッサンを手に
取り、額に宝石を持つ人物の横に並べて見せた。
﹁ロザイン、貴方はシャイターン**********﹂
﹁僕⋮⋮?﹂
まるで、光希の身分がジュリアスに匹敵するような口ぶりだ。
﹁はい、貴方の**は、シャイターンと***です﹂
﹁⋮⋮﹂
188
王様の次がジュリアスで、光希はジュリアスと同じ地位だといい
たいのだろうか?
189
Ⅰ︳37
理解が追いつかず、首を傾げる光希の肩に、サリヴァンは大きな
手を置いた。
﹁大丈夫です。*********。貴方はシャイターンの大切な
ロザインで、彼は貴方のことを*****います。****天幕を
畳み、アッサラームへ******。*********、***
********﹂
﹁僕が⋮⋮ジュリの大切なロザインですか?﹂
ふと思う。彼はきっと、光希とジュリアスとの関係を知っている
のだろう。同性同士の恋愛について、どう考えているのだろう?
﹁はい。シャイターンは貴方に******。*********
*****﹂
サリヴァンは穏やかにほほえんだ。澄んだ眼差しに、差別や非難
の色は一切浮かんでいない。そのことに、光希は思っていた以上に
ほっとした。
﹁僕は、アッサラームにいきますか?﹂
﹁ええ、******。貴方はシャイターンのロザインなのです*
*﹂
﹁いつですか?﹂
190
﹁*****、********﹂
サリヴァンは指を五本立てた。
﹁明日、明日、明日、明日、明日?﹂
光希は明日といいながら、指折り数えた。その仕草を見て、サリ
ヴァンは感心したように目を瞠っている。
猶予は、あと五日しかないらしい。早くオアシスに連れていって
もらわないと⋮⋮
﹁ロザイン、貴方は私が******。言葉の***、*****
********﹂
﹁サリヴァン、僕はオアシスにいきたいです。ジュリは、いいって﹂
﹁オアシス? ******ですか?﹂
﹁僕はオアシスの泉で溺れて⋮⋮ジュリが、僕を助けて﹂
﹁******。ロザイン、何故オアシスへいきたいと*****
?﹂
探るように訊ねられて、光希は返答に詰まった。
帰りたいわけではない。ここに残るけじめをつけにいきたいのだ
が、どう伝えれば良いのか判らない。
﹁シャイターンが良いと*******、アッサラームへいく前に
**********﹂
191
どうやら、ジュリアスに訊いてみろといっているようだ。彼自身
は反対しなかったことに安堵しながら、光希は頷いた。
夕方、サリヴァンの天幕で師事する光希の元に、ジュリアスが迎
えにやってきた。
﹁お帰りなさい﹂
﹁ただいま、コーキ﹂
ジュリアスは瞳を和ませて、ほほえんだ。愛でるように黒髪を撫
でる手を掴み、光希は上目使いに仰いだ。
﹁ジュリ、僕、オアシスにいきたいです﹂
﹁ええ、****連れていってあげる﹂
﹁本当に?﹂
嬉しさのあまり、光希はサリヴァンが見ていることも忘れて、自
分からジュリアスにすり寄った。距離を詰めて腕に触れると、ジュ
リアスは光希の腰を引き寄せて、額に素早く口づけた。
﹁ジュリ﹂
﹁さぁ、いきましょう。サリヴァン、******﹂
﹁いってらっしゃいませ、シャイターン、ロザイン﹂
192
ジュリアスはつばの深い帽子を光希に被らせると、腰を抱いたま
ま天幕の外に連れ出した。
外に出ると、ジャファールに手綱を引かれて、懐かしい友達、黒
い一角獣のトゥーリオがやってきた。
﹁トーリオ!﹂
長い尾を揺らして、トゥーリオは光希の傍へ寄ってきた。優美な
たてがみ
首を垂らして光希にすり寄る。
光希もわしゃわしゃと耳や鬣を夢中で撫でた。オアシスでは毎日
一緒にいたのに、ここへきてからは一度も会えなかったので寂しか
った。
トゥーリオに乗るのは久しぶりだ。
ジュリアスは光希を先に乗せると、自分はその後ろに跨るや、手
綱を捌いた。
過ぎゆく景色を眺めながら、天幕の数が減っていることに気がつ
いた。アッサラームの帰還に向けて、撤収準備が始まっているのだ
ろう。
野営地の端にたどりつくと、大きな飛竜が何騎か用意されていた。
周囲には重々しい武装兵達が跪いている。
﹁コーキ、こちらへ﹂
びろうど
光希は別れを惜しむようにトゥーリオの首を撫でた。天鵞絨のよ
うに滑らかな額に、そっと自分の額を寄せる。
﹃トーリオ、またね﹄
ジュリアスはぽんぽんと光希の頭を叩くと、すっと身を屈めて膝
裏を掬い、難なく横抱きで持ち上げた。そのままの体勢で跳躍し、
193
軽々と飛竜の背に飛び乗る。
またしても、命綱なしにフライトするのかと思うと、光希は少々
げんなりした。
194
Ⅰ︳38
ぼうばく
飛竜は瞬く間に、茫漠たる蒼空へ飛翔した。
風圧で砂塵が舞い上がる。光希は目と鼻を守るように、きつく瞼
を閉じて覆面を手で押さえた。
ザァッ︱︱!
飛竜は力強く羽ばたき、巨体を浮かせて、天空へ一気に翔け上が
った。
飛行が安定すると、目を開けて恐る恐る地上を見下ろした。随分
高く昇ったようだ。地上の天幕が豆粒のように小さく見える。
こうして見下ろしてみると、天幕の数がいかに減ったかよく判る。
ここへきた当初の半分もないかもしれない。アッサラームに向けて
既に移動を開始しているのだろう。
背後を振り向くと、十騎ほどの飛竜が並走していた。すぐ後ろの
二騎はジャファールとアルスランだ。
覚悟を決めてスクワド砂漠を見下ろすと⋮⋮想像と違って綺麗な
ものだった。
︵死体がない⋮⋮︶
無残な戦禍の爪跡が残っていると思っていた光希は、拍子抜けし
つつ、安堵に胸を撫でおろした。
陽に照らされた灼熱の熱砂は、幻想的な青い燐光で覆われている。
人影はどこにも見当たらない。
悠々と空をゆく、飛竜や鳥達の影だけが砂の上に落ちている。
ここが戦場だなんて、とても信じられない。
﹁ジュリ、砂漠は綺麗ですね﹂
195
ぽつりと呟くと、ジュリアスは様子を窺うように光希の顔を覗き
こんだ。見つめ返すと、警戒をほどくように青い眼差しを和ませる。
﹁砂漠の青い光は、何?﹂
訊ねると、青い双眸が僅かに翳った。
﹁あれは**の*が青く光って見えるのです。砂漠に******
を残す*******⋮⋮﹂
釈然としない光希の様子を見て、ジュリアスは光希の左胸を押さ
えると、同じ言葉を繰り返した。
﹁**の炎。*ともいいます﹂
﹁炎⋮⋮? 心臓の⋮⋮あ、命の炎? 魂?﹂
﹁そう、命。**の魂が青く光って見えるのです。彼等の魂が**
*****、ああして砂漠に********﹂
まさか、砂漠が青く光ってるのは、死んだ人間の魂だといいたい
のだろうか⋮⋮
陽は燦と降り注いでいるのに、恐怖で背筋が凍りついてゆく。灼
熱の太陽に照らされているにも関わらず、恐怖で背筋が凍りついて
ゆく。
見渡す限り、地平線の彼方まで青い燐光で覆われている。
あれが全て人の魂だというのなら、ここで途方もない数の人間が
死んだということになる。
絶句していると、後ろから片腕で抱きしめられた。
196
何をいえばいいか判らず、ただその腕に縋りつくように、しがみ
ついた。
飛翔から数刻。前方にオアシスが見えてきた。
陽は傾き始め、砂漠は西日に照らされている。あともう少しすれ
ば、砂の世界は、真紅に染め上げられることだろう。
こんなに美しい世界なのに⋮⋮どうして戦争をしているのだろう
? 事情は判らないけれど、ここで出会い、親切にしてくれた人達
が傷つくのは見たくない。戦場に立つジュリアスを想像するだけで、
身体が震えそうになる。
沈んでいると、飛竜は高度を下げ始めた。
オアシスに到着すると、ジュリアスは護衛達に少し離れたところ
で待つように命じた。光希だけを伴い、懐かしいオアシスへと向か
う。
野営地とは明らかに空気が違う。瑞々しい緑の香りに、緊張を緩
めて息を吐いた。
﹁ただいま⋮⋮﹂
ぽつりと呟くと、ジュリアスは反射的に振り向いた。小さな声だ
ったのに、聴こえたのだろうか。
﹁⋮⋮オアシス**********。***、私はコーキを連れ
てアッサラームへ帰還します。ここには何も残さない。明日の早朝
には天幕も畳みます﹂
声は、どこか硬質な響きを帯びていた。
見下ろす眼差しは、怖いくらいに真剣で、逃げることを許さない
と訴えているようだ。
197
﹃⋮⋮大丈夫、そのつもりでここへきたんだ﹄
臆せず見返すと、ジュリアスは真意を探るように光希を見つめた。
お互いの覚悟を測るような、強い視線が交錯する。
﹁僕はジュリが好きです。傍に⋮⋮共にアッサラームにいきたいで
す﹂
﹁コーキ⋮⋮私もコーキが好きです。******。******
***、貴方は私の*****﹂
何があっても、貴方を選ぶ。偽りのない気持ちを伝え合うと、同
時に笑みが零れた。
夕陽が一段と濃くなる。
ジュリアスの輪郭は、黄金色に縁取られて輝いた。
豪奢な金髪も、光希を映す青い瞳も⋮⋮茜色を反射して息を呑む
ほど美しい。
刹那、あらゆる感情が湧きあがり、どうしようもなく胸が苦しく
なった。
彼を見ているだけで、泉のように、とめどなく想いが溢れてくる。
彼を形成する全てが眩しくて、尊くて、心から愛おしい。
天使のようなほほえみ。
耳に残る優しい声。
蕩けそうな甘い視線。
強靭な体躯。
指導者として振る舞う姿。
サーベルを佩いた、気高く凛々しい姿。
傍で眠る、あどけない寝顔。
時折見せる、子供っぽい甘えた仕草。
飛竜を翔る姿⋮⋮
198
胸を焦がすような、好きという気持ち。
女のように扱われて傷つくこともあるけれど、それ以上に力強く
抱きしめられて、愛されることに幸せを感じている。
今はまだ、判らないことが多くて、助けられてばかりいるけれど
⋮⋮
力になりたい。
支えていきたい。
堂々と隣にいたい。
好きな相手を、守りたい。
全部ひっくるめて、ジュリアスが好きなのだ。性別なんて関係な
い。
﹁僕はジュリに会うために⋮⋮ここにいます﹂
﹁大切にします、私のコーキ。貴方は私の運命********⋮
⋮﹂
﹁運命?﹂
唐突に、出会った頃から耳にしていた言葉を、ほぼ正確に理解し
た。
その通りだ。
惑星すら飛び越えて出会えた奇跡は、もう、運命としかいいよう
がないだろう。
あなたは私の運命そのものだ
199
Ⅰ︳39
満点の星空の下。
さかな
あお
ジュリアスと二人、オアシスの夜を楽しんだ。
火を囲んで串焼きを肴にバゥリーを煽る。ジュリアスは久しぶり
に弦楽器を取り出すと、見事な演奏を披露してくれた。甘い歌声を
光希のためだけに聞かせてくれる。
言葉を少し理解できるようになった今は、ジュリアスの歌が恋人
に向けた歌だと判る。もしかしたら、多少歌詞を変えているのかも
貴方の黒い瞳に映っていられるのなら、全てを差し出そう⋮⋮
貴方に出会う為に、世界中の砂漠を旅して歩いた⋮⋮
しれない。
⋮⋮といった恋歌を、甘い声で囁くように歌われると、嬉しいけ
れど照れくさくて、光希は何度も視線を泳がせた。
﹁あ、ありがとう。ジュリ⋮⋮﹂
斜め上を見上げながら呟くと、ジュリアスの笑う気配がした。
﹁***コーキにも歌ってほしいな﹂
﹃え、俺ぇ?﹄
思わず日本語で狼狽えた。歌うにしても、日本語の歌に限られる。
こちらの歌はまだ覚えていないのだ。
首を左右に振ると、ジュリアスは楽器を置いて光希の腕を引いた。
200
膝の合間に座らせて、後ろから両腕で囲むように抱きしめる。
﹁なら、コーキを愛したいな⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
﹁嫌なの?﹂
﹁え? うん⋮⋮外は嫌だ。あの、僕、泉に入ります﹂
﹁⋮⋮泉に? どうして?﹂
耳朶に囁く声は、急に苛立ちを帯びて低くなった。光希を包み込
む腕の拘束も強くなる。
﹁僕は、あの泉で溺れて⋮⋮ここにいます。夜の泉、調べたいです﹂
泉に入りたい本当の理由は、帰還への未練を断ち切る為だ。
これからはジュリアスと共に生きていくと決めたから、最後に泉
に入ってけじめをつけたい。夜の泉に帰り道を見つけようが、見つ
けまいが、ジュリアスの手を取ると決めている。
けれど、ジュリアスは悪い方に勘違いをしたのか、耳朶に唇を寄
せるや、甘噛みした。
﹁ん⋮⋮ジュリ?﹂
﹁どういう***? 好きだっていってくれたのに。違うの?﹂
身をよじってジュリアスを振り返ると、悋気を帯びた眼差しと瞳
が合った。
201
﹁好きだよ! 僕はジュリの傍にいます。泉は⋮⋮知りたい⋮興味
? 大丈夫、僕はジュリとアッサラームへいきます﹂
﹁⋮⋮﹂
長い沈黙が降りた。ジュリアスは疑わしそうに光希を見つめてい
る。
安心して欲しくて、おずおずと唇を合わせると、途端に唇が燃え
上がった。きつく抱きしめられて、何もかも奪うように熱烈に貪ら
れる。
﹁んぅッ﹂
なぜだろう、余計に怒らせてしまった気がする。
﹁私が今夜コーキを連れて****、オアシスで*****の夜に
**********。アッサラームはここからずっと遠い。帰れ
ば**ここへは****これなくなる。***、コーキを手放す*
****ありません﹂
﹁ジュリ。離れる、違います。僕、オアシス、嬉しい⋮⋮ありがと
う﹂
﹁では泉には入らない?﹂
﹁入る﹂
﹁コーキ!﹂
202
﹁何、怒る? 夜、あの青い星、泉⋮⋮僕は家に?﹂
﹁⋮⋮貴方は知っているのでは?﹂
冷たく試すように問われて、光希は苛立たしげに叫んだ。
﹁知らない! 僕の家、長い間、朝、昼、晩、探す、探す、探す、
探す⋮⋮僕は、ジュリが好きです。とても好きです。本当! ﹃た
だけじめをつけたいだけだよ。だから﹄、泉に、入る﹂
﹁⋮⋮判りました。では、私も一緒に入ります﹂
けいれつ
ジュリアスはこれ以上は絶対に譲らない、というように勁烈な眼
差しで光希を睨んだ。冷たい泉に一人で無事に入る自信のない光希
は、願ったりと深く頷いた。
岸部に火を灯したまま、ジュリアスと二人、上半身裸になって泉
に入った。
鏡のように凪いだ水面に波紋が広がり、映りこんだ青い星が滲ん
だ。
日中と比べれば断然冷たいが、それでも気を失うほどではない。
不思議と以前潜った時よりも、水温を暖かく感じた。
泉は最初、いつも通りのごく綺麗な自然の泉であった。
しかし、しばらくすると水底が淡く光り始めた。
このまま⋮⋮
光が満ちるのを待って、手を伸ばせば、もしかしたら︱︱確信め
いた予感がした。
一人だったら、試しに手を伸ばしていたかもしれない。
でも、一人じゃない。
後ろから肩を抱く、力強い腕がある。それが答えの全てだ。
203
道が開けたとしても、ジュリアスの傍にいる。少なくとも、彼が
そう望む限りは⋮⋮
水底の光から逃げるように陸に上がると、安堵と同時に寂寥を覚
えて、瞳が潤んだ。
涙を堪えて顔をあげると、青い星が視界いっぱいに映って、嵐の
ように感情を揺さぶられた。
﹁⋮⋮コーキ、今夜**は私の知らない***を想って泣いて*い
いから⋮⋮***傍にいます。アッサラームへ帰れば、**貴方の
全ては私のものです。*******泣くことは許しません﹂
ジュリアスは優しい手つきで、何度も光希の髪を撫た。
﹃⋮⋮っ、ごめん。俺、泣き過ぎだよね⋮⋮嬉しいのか悲しいのか、
よく判らなくて﹄
選んだのは、紛れもなく自分なのに。
走馬灯のように、かつての日常が脳裏を駆け巡った。身体を二つ
に引き裂かれるような、深い喪失感に襲われる。
十七年間、大切に育ててくれた両親に、心の底から申し訳ないと
思った。
退屈だと思っていた高校生活が、恋しい。
毎日食べていたご飯が、すごく恋しい。
当たり前の日常は、当たり前なんかじゃなかった。暖かくて、眩
しくて、きらきら輝いていたのに。
どうして、気づけなかったのだろう?
もう一度、家族に会いたい⋮⋮こんな別れがあるなんて、思って
もみなかった。
もっとちゃんと、感謝の気持ちを伝えておけば良かった。
毎日伝えるチャンスがあったのに⋮⋮
204
母さん、毎日、美味しいご飯ありがとう。
布団干してくれてありがとう。すごく気持ち良かったです。
父さん、お仕事お疲れ様です。
高校に入れてくれてありがとう。卒業できなくてごめんなさい⋮⋮
兄キ、いつも何かと情報流してくれてありがとう。
コレクションが処分されそうになる度、かばってくれてありがと
う。
呑気にぬくぬくしていられたのも、全部兄キのおかげだと思って
る。
心配かけてごめんなさい。
頼むから、俺の所為で苦しんだりしないで。
本当にごめんなさい。
神様。
俺の全部の運を使い切ってもいいから、どうかあの人達を守って
ください。
お願いします⋮⋮俺の大切な家族を、どうかお守りください。
205
Ⅰ︳40︵Ⅰ章完︶
オアシスの切ない夜が明ける︱︱
光希はジュリアスよりも先に目を醒ますと、そっと腕の中から抜
け出した。軍服に着替えて、音を立てずに天幕の外に出る。
しんとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。大丈夫、心は前
を向いている。
昨夜は泣きながら眠ったせいか、どうも顔が腫れぼったい。念入
りに泉の水で顔を洗っていると、天幕からジュリアスが出てきた。
﹁コーキ?﹂
﹁お早うございます、ジュリ﹂
振り返ると、ジュリアスは安堵したように表情を緩めた。光希は
顔を拭きながら傍に寄り、青い瞳を見つめて笑いかけた。
﹁天幕畳む?﹂
﹁はい⋮⋮その前に食事にしましょう﹂
ジュリアスは優しくほほえむと、しばらく光希の髪を撫でてから
準備に取りかかった。
火を起こして鍋をかける。手際よく南瓜に似た黄色い野菜をすり
潰し、水で溶いて、肉と一緒に適当に切った野菜をごろごろと中に
入れた。
簡単な調理なのに、とても美味しそうだ。いい匂いが辺りに漂う。
206
﹁ジュリの料理は美味しいです﹂
﹁ありがとう、ここでは*****作れないけど、喜んでもらえて
嬉しいです﹂
ジュリアスは器にスープを注ぐと、自分よりも先に光希に手渡し
た。
想像した通り、スープは素晴らしく美味しかった。
﹁ありがとう。すごく美味しいよー﹂
手を合わせる光希の横で、ジュリアスは朝から酒を飲んでいる。
この後、飛竜に乗るのによく平気なものだ。
光希が暇そうに見えたのか、ジュリアスは杯の残りをぐいと煽る
と、火を消して出発の準備を始めた。
天幕を畳んで荷を片づけ、塵一つ残さず、あっという間に撤収準
備を終えた。手伝う間もなく、殆どジュリアス一人でやってのけて
しまった。
ジュリアスと並んでオアシスを出ると、護衛兵達が既に出立の準
備を終えて砂の上に跪いて待っていた。
﹁お早うございます、シャイターン、ロザイン﹂
ジャファールが護衛兵を代表して挨拶すると、ジュリアスは軽く
手を上げて頷いた。
﹁あぁ、**いきましょう﹂
﹁お早うございます、ジャファール⋮⋮﹂
207
光希もジュリアスの隣で控えめに挨拶した。幾人かの視線が光希
に寄せられた。光希が口を利いたことが意外だったのかもしれない。
少しでも良い印象を持って欲しくて、にこにこしていたら、ジュ
リアスに膝裏を掬われて横抱きにされた。慌てて首に腕を回すと、
超人的な跳躍で飛竜の上に降ろされた。
またこれに乗るのか⋮⋮と少々げんなりする。座り心地のいい位
置を調整していると、早くもジュリアスが手綱を捌いた。
﹁コーキ、飛びますよ﹂
﹁はい!﹂
砂塵で目や鼻をやられないよう、瞼をきつく閉じて覆面を手で押
さえる。
飛行が安定すると、オアシスを振り返った。いよいよ、オアシス
も見納めだ。
振り返ったままの光希を、ジュリアスはずっと支えていた。
数刻後。昼過ぎにスクワド砂漠の野営地に到着した。
こうべ
飛竜の群れが着陸すると、武装兵達が周囲に集まってきた。ジュ
リアスが光希を抱えて降りると、膝をついて頭を垂れる。
﹁お帰りなさいませ、シャイターン、***ロザイン﹂
先頭で跪いている軍人が声をかけると、ジュリアスは光希を横抱
きにしたまま彼の傍へ寄った。
﹁ナディア、戻ったのか﹂
﹁はい、昨夜。サルビア*は**に**しました﹂
208
﹁***﹂
ジュリアスは鷹揚に頷いた。光希はジュリアスの腕から降ろして
もらうと、ナディアと呼ばれた男をまじまじと観察した。
年は二十代半ばくらいだろうか。
中性めいた端正な顔立ちをしており、腰まで伸ばした艶やかな灰
銀髪がよく似合っている。淡い灰緑色の瞳も神秘的で、見つめてい
ると吸い込まれそうだ。
他の軍人同様、彼もかなりの長身だろう。跪いているのでよく判
らないが、もしかしたらジュリアスより背が高いかもしれない。
彼の軍服の上着は、他の者と違い丈が長く、膝下まで覆われてい
た。胸元を飾る階級章も多く、全体的に豪奢なので、地位のある人
なのかもしれない。
光希が無意識に見惚れていると、ジュリアスに腰を引き寄せられ
た。
﹁疲れたでしょう。天幕に戻りましょう﹂
﹁はい﹂
隣を見上げると甘くほほえまれて、思わず鼓動が跳ねた。誰より
も、ジュリアスが一番恰好いい。
光希が照れ臭そうに視線を伏せると、頭上でジュリアスがくすり
と笑う気配がした。
四日後。
ジュリアスは光希を連れてスクワド砂漠を後にした。バルヘブ西
大陸の中心都市、アッサラームに入るのは、更に二ヵ月後のことで
ある。
209
210
Ⅱ︳1
スクワド砂漠の聖戦から二ヵ月。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍一行は、灼熱の熱砂を抜
けて、遂にバルヘブ西大陸の中心都市、聖都アッサラームへ辿り着
いた。
頭上に拡がる蒼穹に、一筋の雲が流れていく。
﹁コーキ、見えてきましたよ﹂
﹁うわぁ⋮⋮﹂
光希はジュリアスの腕の中、飛竜の上で可能な限り身を乗り出し
た。地平線の彼方に、金色に揺らめく蜃気楼が見える。
聞いていた通りだ。
玉ねぎの形をした金色屋根の宮殿が、光の悪戯で空まで伸びて見
える。
こんじき
﹁金色のアルサーガ宮殿ですよ﹂
カテドラル
﹁すごい⋮⋮とても大きいですね﹂
足
がなければとても移動できませんよ﹂
﹁宮殿の敷地内に、大聖堂も宿舎も全部入っていますから。いけば
判るけど
﹁そっかぁ⋮⋮﹂
﹁高度を落とします。覆面をつけて﹂
211
飛竜が下降を始める。慌てて覆面で顔を覆ったものの、目の前の
光景に目を奪われて、光希はなかなか目を閉じれなかった。
噂に違わず、アッサラームは美しい都だ。
周囲を薄い水膜に囲まれ、水鏡にアッサラームの白と金色の建物
が映り込み、この世の楽園のような幻想的な光景を作り出している。
空と湖水の境目が溶けた世界。
なんて綺麗なのだろう⋮⋮!
感動のあまり、風圧に負けじと目を見開いて、網膜にしっかりと
美しい光景を焼きつけた。
飛竜隊はアッサラームから少し離れた所に着陸した。
この後は、重騎兵隊と足並みを揃えて、聖都アッサラームに凱旋
する予定だ。
この二ヵ月︱︱
かか
決して楽な道のりではなかったが、幸いにして、誰一人として病
に罹ったり、騎乗獣を乗り潰すこともなく、賊に襲われることもな
かった。
全員が、無事に砂漠を踏破した。
行軍の間に、光希は様々なことを学んだ。
特にジュリアスが身を置くアッサラーム軍については、聖都に暮
らす領民よりも詳しくなったかもしれない。
軍の空気にも大分馴染んだし、叶うことなら、いずれ軍の内勤と
して働きたい。ジュリアス次第ではあるが、手先は器用な方なので、
できれば工芸職か技術職に就きたい。
言葉も最初に比べれば、大分理解できるようになった。
相手がゆっくり発音してくれれば、どうにかヒアリングできる。
ぽっちゃり体系は相変わらずだが、青白かった肌は多少陽に焼け
て、少しは砂漠の男らしくなった気がする。
周囲が砂漠を奔走する中、ジュリアスは部下に簡易天幕を張らせ、
隣に光希を侍らせて優雅に寛いでいた。凱旋を前に呑気なものだ。
212
けれど、ジャファールやアルスラン、ナディアといった司令官達
たいご
も、見れば木陰で休んでいる。
隊伍を整えて凱旋するのは、恐らく明日の早朝になるだろう。
それまでは、比較的自由に過ごせるようだ。とはいえ、雑務をこ
なす下士官以下は例外のようで、汗水を流しながら奔走している。
﹁疲れましたか?﹂
﹁ん? ううん、平気です﹂
﹁公宮に戻れば、広い湯殿があります。早くコーキを入れてあげた
いな⋮⋮﹂
ジュリアスは絨緞の上に寝そべったまま、光希の膝に手を伸ばす
と、そのまま膝から太ももまで緩やかに撫で上げた。
瞳を伏せて鼻歌を口ずさむジュリアスは、いつになく上機嫌だ。
行軍中は、ゆっくり身体を重ねる暇もなかったので、傍にいなが
ら何度も我慢させてきた。
慣れ親しんだ公宮に帰れば、ようやく思いのまま愛し合えるので、
今から楽しみなのかもしれない。
光希としても、ジュリアスと二人きりで過ごせるのは楽しみだが、
身体の負担を考えると手放しで喜べない。
無意識にため息を落とすと、ジュリアスは青い瞳で覗き込むよう
に光希を見上げた。
﹁どうしたの? 色っぽいね⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮﹂
硬直する光希を、ジュリアスは蕩けるような眼差しで見つめてい
213
る。
今も謎なのだが⋮⋮日本では埋没していた平凡な容姿の光希を、
ジュリアスは絶世の美女︱︱いや、美少年だと本気で思っているよ
うなのだ。彼等人種に通じる共通美意識かというと、決してそうで
はなく、ジュリアス以外の人は礼節の範囲内で光希に接している。
ジュリアスだけが光希の一挙手一投足に、極端な反応を見せるのだ。
宝石持ち
ロザイン
と呼ばれていたが、今はある程度、
のジュリアスにとって、青い星から遣わされた光希
かといって、ジュリアスの審美眼が狂っているわけではない。
は特別なのだ。
当初は訳も判らず
意味を理解している。
ロザイン
光希はジュリアスの半身、唯一無二の至上の存在。欠けた心を補
う花嫁なのである。
214
Ⅱ︳2
雄大な黄昏が、砂漠を薔薇色に染め上げている。
明日にはアッサラームに入るので、兵士達は陽が暮れても荷を解
かず、持ち場でそのまま寝に入った。ジュリアスを始めとする司令
官達も、寝る為だけの簡易天幕しか張っていない。
﹁明日は長くなるから、もう寝ましょう﹂
﹁ねぇジュリ、あ⋮⋮うん﹂
ジュリアスは消そうとしていた照明から手を離すと、寝そべった
まま光希に視線を向けた。
﹁ん? どうかしました?﹂
﹁えっと⋮⋮明日の凱旋、どれくらい時間がかかりますか?﹂
﹁先頭は、朝休の鐘が鳴る頃にはもう凱旋門を抜けますよ。ただ全
軍が通るには、まる一日かかるでしょうね﹂
朝休の鐘は、午前六時頃を知らせる鐘のことだ。ジュリアスは数
万からなるアッサラーム軍の先頭をいくので、隣につき添う光希も
朝早くから凱旋門を潜ることになる。
﹁ジュリは凱旋門を通った後、そのままアルサーガ宮殿にいきます
か?﹂
215
﹁はい。花道を通って宮殿に入り、陛下に軍旗をお返しして行軍終
了です。その後の祝賀会は、アースレイヤに任せて、さっさと引き
上げるつもりです﹂
アースレイヤは軍の中枢を担う大将の一人で、現皇帝の皇太子で
もある。今回の遠征には加わらなかったようで、アッサラームでジ
ュリアス達の帰還を待っているという。
﹁僕は、アースレイヤ皇太子、それとも大将と呼びますか?﹂
﹁コーキは軍の人間ではありませんし、皇太子で良いでしょう﹂
﹁そのことなんだけど⋮⋮僕、軍で働いてもいいですか?﹂
すが
どきどきしながらジュリアスの反応をうかがっていると、青い瞳
は面白くなさそうに眇められた。腰に腕を回されて、ぐっと引き寄
せられる。
ロザイン
﹁コーキ、貴方は私の花嫁ですよ。軍事に関わらせるなど、そんな
危険な真似をさせるわけないでしょう﹂
﹁あ、もちろん、戦闘は無理です。危なくない、書いたり読んだり
する仕事なら、僕⋮⋮﹂
﹁そもそも働く必要がありません。明日には公宮に入るというのに、
一体どこへいくというの?﹂
﹁⋮⋮﹂
光希が沈黙すると、ジュリアスは宥めるように黒髪に口づけた。
216
﹁この話は明日にしましょう⋮⋮ね?﹂
そっと耳朶に囁くと、話は終いとばかりに照明の火を落とした。
光希の前髪をかきわけて、額に優しい口づけを落とす。
明りも消えて静かになると、光希も言葉を続ける勇気が萎んでし
まい、ジュリアスの腕の中でくるりと背中を向けて寝に入った。
これくらいで気落ちしても仕方ない。予想していた反応だ。根気
よくいくしかない⋮⋮
しじま
翌る朝。黎明の静寂を控えめに破る、朝課の鐘が聖都アッサラー
ムから聴こえてきた。
﹁ごめんね、起こしてしまった?﹂
衣擦れの音に瞼を開くと、涼しげな青い瞳に見下ろされていた。
﹁⋮⋮もういく?﹂
﹁まだ少し時間があります。起こしてあげるから、寝ていていいで
すよ﹂
ありがたい申し出に素直に頷き、光希は二度寝に入った。
しかし、外がざわつき始めた為、熟睡には至らず半分目醒めなが
ら微睡んでいた。
﹁コーキ、そろそろ起きて﹂
﹁⋮⋮あぃ﹂
217
まなこ
寝ぼけ眼の光希を見下ろし、ジュリアスは優しくほほえんだ。く
すぐったく思いながら、のそのそと光希は起き上がる。
﹁かわいい⋮⋮﹂
ぎゅっと抱きしめられて、癖のついた前髪や、額、頬に優しい口
づけが雨と降る。まだ顔も洗っていないのに、と光希は照れた。
何度か身じろぐと、ようやく離してくれた。身支度を整えて外に
出ると、すでに兵士達は整然と並んでいた。
なんと、最後尾が見えない。
唖然と隊列を眺めていると、ジャファールが珍しい白色の四足騎
よろ
竜を連れてきた。
白銀の装甲に鎧われた見栄えのする竜だ。背中には騎乗用の籠が
設置されている。
ジュリアスは慣れた仕草で光希を横抱きにすると、相変わらず一
跳躍で、あっさりと籠の中に入った。
大きな四足騎竜の背中は広く、飛竜よりも乗り心地は安定してい
る。
﹁いい眺めですね﹂
光希が笑いかけると、ジュリアスも綺麗な笑みを浮かべた。
隊伍の先頭に立つ二人を、後続部隊がじっと注目している。緊張
する光希を案じるように、ジュリアスは軽く肩を優しく抱き寄せた。
﹁⋮⋮平気ですか?﹂
﹁はい!﹂
目を見て頷くと、ジュリアスは目を優しく細めた。顔を上げて、
218
凛とした眼差しを周囲に走らせ、
﹁全軍、前進!﹂
よく通る声で号令を発した。
先頭が動き始めると、後続する重騎兵隊も一糸乱れぬ行進を開始
した。
たいご
どうにも高揚した気分を抑えられず、光希は何度も背後を振り返
った。美しい隊伍の行進は、まるで古代ローマを舞台にした映画の
世界のようだ。
いよいよ凱旋門が近づいてくると、苦笑したジュリアスに腰を抱
かれて姿勢を正された。
ドミアッロ
﹁﹁アッサラーム・ヘキサ・シャイターン万歳!!﹂﹂
近づくにつれて、凱旋を祝う大勢の人の声が聴こえてきた。
圧巻であった。
巨大な石の凱旋門を抜けた途端、視界を埋め尽くすような花びら
の雨が一斉に降り注ぐ。赤、青、白⋮⋮色とりどりの花びらが惜し
気なく宙を舞う︱︱
大勢の人達が地上から、窓から、屋上から、至るところから花道
に向けて花びらを放っている。
﹁﹁﹁きゃあぁ︱︱っ!!﹂﹂﹂
﹁﹁﹁シャイターンッ!!﹂﹂﹂
一際大きな歓声が沸き起こった。ジュリアスの名前が何度も呼ば
れる。感極まった、女性の悲鳴も聞こえた。
腰に回された腕に力がこめられ、隣を仰ぐと、ジュリアスは誇ら
しげに腕を掲げていた。大歓声が降りしきる中、陽を浴びて、豪奢
219
な金髪はきらきらと輝いている。
なんて神々しいのだろう。
ジュリアスは本当に英雄なのだ︱︱感動のあまり、肌が総毛立つ
のを感じた。
220
Ⅱ︳3
軍を、ジュリアスを讃える歓声が、絶え間なく四方から聴こえて
くる。
ドミアッロ
﹁﹁アッサラーム・ヘキサ・シャイターン万歳!!﹂﹂
アンカラクス
﹁﹁神剣闘士万歳!!﹂﹂
﹁﹁﹁シャイターン万歳!!﹂﹂
見栄えのいい士官にはファンがついているようで、ジャファール
やアルスラン、ナディアを呼ぶ声も多く聴こえた。
﹁∼∼?﹂
﹁えっ!? 何? 聞こえない!﹂
﹁∼∼?﹂
隣でジュリアスが何かいっているが、周囲の歓声にかき消されて
よく聞こえない。
﹁コーキ、大丈夫? 疲れていませんか?﹂
ジュリアスは身を屈めるや、耳朶に囁いた。熱い吐息と、柔らか
な唇の感触に、思わず頬が熱くなる。幸い、視界を遮るような花の
嵐と、つばの深い隊帽のおかげで、周囲には気づかれていない。
221
﹁平気です。ありがとう﹂
宝石持ち
ではありません。貴方を
﹁神剣闘士を讃える歓声は、私とコーキに向けられているんですよ。
ロザイン
花嫁を得た私は、もうただの
守る神剣闘士です﹂
瞳に喜びの光を灯して、ジュリアスはどこか誇らしげに笑った。
﹁僕は何もしていないけど⋮⋮ジュリは本当にすごいです。たくさ
んおめでとう、僕も嬉しいです﹂
﹁私は本当に運がいい。コーキ⋮⋮私の元へきてくれてありがとう﹂
はばか
ジュリアスは人目も憚らず光希を抱き寄せて、素早く口づけた。
周囲から一際大きな歓声が沸き起こり、光希は慌てて身体を離した。
およそ三時間毎に鳴る聖堂の鐘が、朝課の鐘から数えて三度鳴っ
た。
正午。
昼休の鐘が鳴り終える頃、ジュリアス達はようやくアルサーガ宮
殿の正門前に辿りついた。
かれこれ六時間以上、休まず行進を続けている。
ジュリアスは涼しい顔で周囲の歓声に応えているが、光希は疲労
困憊していた。
ドドンッ︱︱!
ジュリアスを乗せた騎竜が宮殿の敷地に入るや、一斉に祝砲が空
へと打ち上げられた。
続いて、金管の澄んだ音が天空に鳴り響く。
敷地内には、華やかに着飾った淑女や、帯剣した紳士達が大勢集
222
まっていた。拍手と共に英雄の帰還を迎えてくれる。
大勢の視線がジュリアスに集中する。そして隣に立つ光希にも遠
慮なく注がれた。
﹁コーキ、あと少しだから頑張って﹂
﹁はい⋮⋮﹂
しんたん
励ますように肩を抱かれて、光希は心胆を整え前を向いた。
かくしゃく
庭園に敷かれた真紅の絨緞を真っ直ぐ進むと、終点に設けられた
玉座に、威厳のある、矍鑠とした男が立っていた。
アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇帝である。
皇帝の隣には、胸に大将の階級章をつけた二十前後の青年が優雅
に佇んでいる。遠征に同行しなかったという、アースレイヤ・ダガ
ー・イスハーク皇太子だろう。
﹁コーキ、降りますよ﹂
﹁あ、はい!﹂
ジュリアスは光希の尻を腕で支えて、抱っこするように持ち上げ
ると、軽々と騎竜の籠から飛び出した。
地に足をついて正面を向くと、興味深そうにこちらを見つめる、
アースレイヤ皇太子と目が合った。咄嗟に会釈すると、彼は可笑し
そうに口元を緩めた。
皇帝も皇太子も、長身体躯で、こちらでは一般的な灰銀髪に灰青
色の瞳をしている。
皇帝の鋭い眼光は叡知を湛えていて、少しも年齢を感じさせない。
一方、皇太子は女性的な優しい端正な顔立ちをしていて、柔和な
空色の瞳が穏やかな印象を与える。美しい長髪を三つ編みにして肩
223
の前に垂らしている様も、彼の雰囲気によく似合っている。
﹁シャイターンの御子よ﹂
皇帝が口を開くと、ざわめきは一瞬で止んだ。水を打ったような
静けさが辺りを包む。
﹁よくぞ無事に戻った。今回ばかりはサルビアの猛攻に肝が冷えた
が、我等がシャイターンの活躍は遠くアッサラームに居ても、絶え
ず聞こえておった。サルビア軍の侵攻を見事に防ぎ、花嫁を手に戻
ったそなたの功績は、永く史上に刻まれることだろう。
我がアッサラーム・ヘキサ・シャイターンの兵士、同士、息子達。
よくぞ前線から帰還してくれた。この国はそなたらの力なくしては
成り立たぬ。東の脅威は消えた訳ではない。これからもよろしく頼
む﹂
そこで言葉を一度切ると、ふと表情を和ませて穏やかな口調で継
いだ。
﹁今朝は鐘が鳴る前から、英雄の帰還を讃え、アッサラームの栄華
を祝う声があちこちから聞こえてきた。何とも耳触り良く、幸せで
優しい音楽だと感じたものよ⋮⋮
今宵はゆるりと休むが良い。祝賀会は幾夜も続くしの、麗しい英
雄の姿を見る機会はまだある。皆も引き留めて困らせてはならぬぞ。
花嫁を愛でたいシャイターンの機嫌を損ねたくなければな﹂
皇帝の落ち着いた声はよく通った。
紡がれる言葉は不思議と心に染み入り、聞く者の胸を熱くさせる。
最後は軽く冗談も交えて、周囲から軽やかな笑い声が漏れた。
砂漠の英雄は青い軍旗を手に取るや、皇帝の前で膝を折り、両手
224
を高く掲げて旗を捧げた。
﹁陛下、ありがたいお言葉、軍を代表してお礼申し上げます。勝利
へと導いた軍旗を、謹んでお返しいたします﹂
﹁うむ⋮⋮長きに渡る遠征、大義であった!﹂
皇帝が旗を高く掲げると、再び祝砲が上がり、割れんばかりの拍
手喝采が沸き起こった。
225
Ⅱ︳4
ジュリアスは軍旗を皇帝に捧げた後、光希を手招いた。
途端に周囲の視線が顔に刺さり、離れた所から彼の雄姿を眺めて
いた余裕は一瞬で消えた。
﹁おいで、コーキ﹂
緊張で動けずにいる光希に、ジュリアスは笑みを閃かせ、手を差
し伸べる。周囲の年若い淑女達は色めき立ったが、光希は緊張のあ
まり手足が同時に出そうな有様であった。
視界にジュリアスだけを映して、どうにか傍へ寄ると、労わるよ
うに腰に腕を回された。
大勢が見ている前だというのに、彼の甘い仕草は相変わらずだ。
腰に回された腕をわざわざ解くのもどうかと思い、意志の力で笑み
を顔に貼りつけた。
緊張する光希に、皇帝も皇太子も瞳を和ませて、気さくに笑みか
ける。視線を交わしただけで、受け入れられている、と安堵にも似
た心地を覚えた。
﹁お初にお目にかかります。偉大なるイスハーク皇帝陛下、アース
ロザイン
レイヤ皇太子殿下。僕は、稀代のシャイターン、ジュリアス・ムー
ン・シャイターンの花嫁、光希と申します。アッサラームへのお導
きに感謝いたします﹂
何度も練習した口上のはずなのに、緊張のあまり、声は少々震え
てしまった。
226
﹁花嫁。よくぞアッサラームへきてくれた。お会いできることを、
楽しみにしていましたよ﹂
皇帝は丁寧な口調で光希に語りかけると、大きな手で光希の両手
を包みこんだ。光希はすっかり舞い上がってしまった。
﹁ありがとうございますっ!﹂
上擦った声で感謝の気持ちを伝えると、皇帝は鷹揚な笑みで頷い
た。隣に立つ皇太子も楽しげに瞳を輝かせて光希を見つめている。
﹁おめでとうございます、シャイターン。随分と、かわいらしい花
嫁を見つけましたね﹂
﹁ええ、本当に。砂漠を駆けた甲斐がありました。身に余る幸運を
神に感謝しております﹂
皇太子の言葉を受けて、ジュリアスは神々しい笑顔を浮かべた。
完璧に美しい笑みなのに、なぜか光希は小さな違和感を覚えた。
ジュリアスは光希のものいいたげな視線を柔らかく受け流すと、
挨拶を締めくくるように深く頭を下げた。
﹁婚礼をお許しいただき、ありがとうございます。後ほど改めてご
挨拶に伺いますので、今日はこれで御前失礼いたします﹂
﹁うむ。先ずは公宮で疲れをとると良い。数百年ぶりのシャイター
ンの婚礼を皆心待ちにしておる。祝宴の場でそなたと花嫁に会える
ことを、私も楽しみにしておるぞ﹂
皇帝の前を去ると、後ろに控えていた各隊の大将達が皇帝の前に
227
跪いた。
背中に皇帝の労いの言葉を聴きながら、光希はようやく自分の役
目を終えたのだと感じた。一刻も早く人目のない部屋で寛ぎたかっ
たが、その後の道のりの長いこと。
宮殿の中央玄関へ向かうと、恭しい待遇に思わず目を瞠った。
大勢の召使達が、たった二人を迎える為に、左右に列を成して頭
を下げている。
そび
花びらの散る赤い縦断の上を歩きながら、首が痛くなるほどに天
を仰ぎ見た。
白亜の宮殿は聳えるほどに高い。陽光を弾く金色屋根が眩しい。
あの屋根から見下ろしたら、どんな景色が見えるのだろう?
観音開きの扉が召使の手によって、左右に大きく開かれた。
内装は異国情緒漂う豪華なもので、細部に至るまで意匠の凝らさ
さんさん
れた幾何学的な装飾で彩られていた。
室内は自然の光が燦々と入り込む設計になっており、照明がなく
とも十分に明るい。
中へ入った後も、頭を下げる大勢の召使達に迎えられた。
物珍しげに視線を彷徨わせる光希と違い、ジュリアスは前だけを
見て歩く。慣れた足取りで石柱の回廊を渡り、幾度も扉を抜けてゆ
く。
やがて門兵の数も次第に減り、最後は女官が扉を開いてくれた。
﹁﹁お帰りなさいませ、シャイターン﹂﹂
扉の向こうから、十歳前後の子供と二十代後半の青年が現れた。
まと
子供の方は裾の長い神官服に身を包んでおり、青年は白銀の甲冑
を纏っている。
跪いて俯いているので顔は判らないが、どちらも髪色はここでは
一般的な灰銀色をしている。子供は淡い灰銀髪を肩で揃えており、
青年の方は硬質な灰銀色の短髪だ。随分と年の離れた組み合わせで
228
ある。
視線が合わないのをいいことに、二人を見下ろしていると、立ち
なさい、とジュリアスが声をかけた。
無駄のない動作で二人は立ち上ると、じっと灰青色の瞳で光希を
見つめた。
予想通り、二人とも非常に端正な顔立ちをしていた。子供の方は
精巧な人形のようだ。
﹁紹介しましょう。彼はナフィーサ・ユースフバード、公宮に仕え
る神官の一人で、光希の身の回りの世話を任せてあります﹂
少年は、幼い容貌に反する明晰な口調で告げた。光希を見つめた
まま、恭しくお辞儀をする。
﹁本日より、シャイターンの花嫁にお仕えさせていただきます。ナ
フィーサ・ユースフバードと申します。どうぞナフィーサとお呼び
ください﹂
光希がお辞儀をすると、それから、とジュリアスは騎士を指した。
﹁彼はルスタム・ヘテクレース、光希の護衛を務める神殿騎士です。
二人とも私の選んだ身元の確かな従者ですので、何かあれば安心し
て彼等に声をかけてください﹂
今度は甲冑を着た騎士が敬礼をする。
﹁あ⋮⋮僕は光希といいます。これからお世話になります。よろし
くお願いいたします﹂
﹁お仕えすることをお許しいただき、恐悦至極。我が身に余る光栄
229
か
に存じます。全身全霊を懸けて、お仕えさせていただきます﹂
年にそぐわぬ、真剣な眼差しでナフィーサは光希を仰いだ。年下
の子供に気圧され、光希は咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
﹁長きに渡る遠征で、さぞお疲れでしょう。お部屋の準備ができて
おります。どうぞこちらへ﹂
緊張を解すように、ルスタムに声をかけられた。光希が助かった
といわんばかりに笑顔で首肯すると、彼等は背を向けて歩き始めた。
﹁それにしても、ジュリ。ここは玄関からとても遠いですね⋮⋮大
変そう﹂
こっそり囁くと、ジュリアスは微笑を浮かべて首肯した。
﹁大切な公宮ですからね。人の出入りも厳しく制限されています。
光希も一人で出入りしてはいけませんよ。私が傍にいない時は、必
ず護衛を連れて歩いてください﹂
﹁護衛⋮⋮ジュリにも護衛がいますか? ジャファール達はもう僕
の護衛ではない?﹂
﹁常時ではありませんが、隊を動かす時は私にも護衛がつきますよ。
ジャファール達には、交代で休暇を取ることを許しています。遠征
から戻ったばかりですしね。彼等に会う機会は今後減るでしょうけ
れど、少なくとも祝宴の場では会えますよ﹂
野営地での生活が終わった今、やはりジャファール達に気軽に会
えなくなるようだ。慣れ親しんだ人間と疎遠になるのは寂しい。
230
ふと、ジュリアスとは一緒にいられるのだろうか、と今更ながら
一抹の不安を覚えた。
﹁ジュリはここで暮らすでしょう⋮⋮?﹂
﹁ええ、もちろん。光希を迎えたのですから、仕事が終わればここ
へ帰ってきますよ。しばらくは、早めに切り上げて帰るつもりです。
夜は一緒に過ごしましょうね⋮⋮﹂
艶めいた流し目を送ると、ジュリアスは素早く光希を引き寄せ、
頬に口づけた。
231
Ⅱ︳5
石柱の回廊を抜けて針葉樹の中庭へ出ると、泉に囲まれたペール・
アプリコットカラーの美しい邸の一部が遠くに見えた。
﹁あれが私達の家ですよ﹂
ジュリアスは前方を指して光希に笑みかけた。
﹁えっ、家? あれが!?﹂
﹁はい﹂
﹁はいって⋮⋮家? だって、すごく大きいですよ?﹂
﹁そうですか? 二人で住むにはちょうどいいくらいですよ。光希
の好きな浴場も中に二つ、中庭に一つ作らせました。気に入ってく
れると良いのですが⋮⋮﹂
唖然とする光希を見て、ジュリアスにしては浮き足立ったように
はにかんでいる。
完全に想像の範疇を越えている⋮⋮中庭に風呂?
呆然としながら歩いていると、やがて背の高い針葉樹の並木道を
抜けた。視界が晴れて、ようやく邸の全貌が見えた。
﹁うわぁーっ﹂
美しい景観に、思わず歓声を上げた。
232
家だと紹介された邸の正門には、長方形の泉が真っ直ぐ続いてお
り、陽を浴びて煌めく邸が映り込んでいる。
﹁すごく綺麗です﹂
﹁喜んでもらえて良かった﹂
感激する光希を見て、ジュリアスも、先導する神殿仕えの二人も、
嬉しそうにほほえんでいる。
ここでも帯状の頭布を巻いた召使達が、左右に列を成して迎えて
くれた。正面玄関の扉が左右に大きく開かれ、光希はそっと足を踏
み入れた。
﹁今日からここが貴方の家です。やっと連れてこれた⋮⋮﹂
ジュリアスは光希の背中に腕を回すと、噛みしめるように小さく
呟いた。
﹁僕、本当にここに住みますか?﹂
﹁もちろん﹂
正面玄関に立つと、優美な弧を描く左右の螺旋階段が視界に飛び
こんできた。
美しい装飾の階段を視線で追いかけながら顔をあげると、光の降
り注ぐふきぬけの天井が視界いっぱいに広がった。色硝子が陽に透
けて、柔らかな光を床に映している。
言葉も忘れて見惚れる光希の背中を、ジュリアスは優しく押した。
﹁さあ、二階に上がりましょう。私室に案内します﹂
233
螺旋階段を上り、広い廊下を奥まで進むと、飴色の扉をルスタム
が開いてくれた。
室内は白を基調とした落ち着いた内装で、天井がとても高く、大
きな一面の硝子窓が天井まで伸びていた。
そよ風を感じて視線を彷徨わせると、テラスに続く硝子扉が開い
ていた。誘われるように外へ出ると、蒼天の空に、豊かな緑、輝く
アール川の水面が視界に飛びこんできた。
テラスには心地良い寝椅子に絨緞、鎖紐で吊るされたブランコが
設置されていた。
﹃わーブランコだ﹄
早速、座ってみた。大人三人が座れそうな横長のブランコには、
毛織絨緞が敷かれており、とても座り心地が良い。
﹁ジュリ﹂
後ろを振り向いて手招くと、ジュリアスは隣に腰を下ろして腕を
回してきた。熱っぽく、こちらを見下ろす。急に甘い空気が流れて、
戸惑っているうちに⋮⋮唇が重なった。
﹁ん⋮⋮﹂
触れるだけのキスは、次第に深くなる。不安定なブランコの上で、
落ちないようにジュリアスにしがみついた。
﹁ずっとこうしたかった⋮⋮﹂
甘い、掠れた声に背筋がぞくぞくする。身体を引こうとすると、
234
逃がさないとばかりに、堅牢な腕の中に閉じ込められた。後頭部を
丸く包みこまれて、水音の立つ深い口づけが再開される。
﹁ん⋮⋮んぅ、ふっ﹂
キスしながら、身体をゆっくりと倒された。ブランコが揺れて、
光希は不安げに青い瞳を覗きこんだ。
﹁危ないよ⋮⋮﹂
﹁もう少しだけ﹂
そういいながら、ジュリアスは身をかがめて、熱い舌を光希の首
筋に這わせた。
﹁うわ、駄目! 汗かいてる﹂
﹁平気だよ﹂
﹁んっ⋮⋮ジュリってば﹂
詰襟の留め金に指をかけられ、思わず不埒な手を両手で掴んだ。
﹁やだ、汗かいてる。お風呂入りたい﹂
不服そうに光希が呟くと、ジュリアスは身体を起こして、天使の
ようなほほえみを浮かべた。
﹁いいですね。一緒に入りましょう﹂
235
236
Ⅱ︳6
﹁僕一人で入りたいです⋮⋮﹂
﹁どうして?﹂
﹁え? だって⋮⋮狭くない?﹂
﹁いいえ、十分広いから心配いりませんよ﹂
﹁⋮⋮だめ、恥ずかしい﹂
ふいと視線を逸らすと、思わず、といった風にぎゅっと抱きしめ
られた。
﹁かわいいことを﹂
﹁かわいくない。一人で入りたいです。いい?﹂
﹁そんなことをいわないで。コーキの為に設計したのです。一緒に
入りたい﹂
姿勢を正し真摯に告げると、ジュリアスは光希の手の甲に唇を落
とした。そのままの姿勢で上目遣いに、ね? と囁く。
﹃なッ、何すんだよ! お前本当に十六歳か!?﹄
かぁっと全身が熱くなり、光希は慌てて手を振り払った。
237
そう⋮⋮目の前の大人びたジュリアスは、実は光希よりも一つ年
下の十六歳なのである。
よし
一年が十三ヵ月ある世界なので、地球換算で考えると同い年に近
いのかもしれないが、彼はそんなこと知る由もないので、光希は十
七歳で通している。
アッサラームへの行軍途中、彼の年齢を知った時は驚いたものだ。
ためし
以来、年上ぶりたい衝動に駆られることも多々あるが、万能なジ
ュリアスの前で、成功した試は一度もない。
﹁子猫みたい。かわいい⋮⋮﹂
﹁こ、子猫? 違う! 風呂は一人で入ります。さようならっ﹂
ふいと顔を背けると、光希にしては機敏にブランコから降りた。
部屋に逃げ込もうとしたところを、後ろから抱きしめられる。
﹁一緒に入りましょう?﹂
疑問形だが、回された腕からは、絶対に一緒に入るという、強い
意志を感じる。柔らかな金髪を頬に感じながら、光希は渋々頷いた。
﹁判りました。一緒に入るけど、でも、あの⋮⋮触らないで﹂
砂漠の英雄は、この上なく綺麗な、それでいて嘘くさい笑みを浮
かべた。
部屋を出た後は、中庭の浴場までルスタムが案内してくれた。浴
場に入ると、今度はナフィーサが脱衣や湯具の準備をしてくれる。
均整の取れた体躯のジュリアスの前で、それも明るい所で裸にな
るのは恥ずかしかったが、今更だろうと覚悟を決めて一気に脱いだ。
238
ちりちりするような熱い視線を無視して大浴場に入ると、心地よ
い風に肌を撫でられた。
﹁わぁ、広い⋮⋮﹂
巨大な正方形の屋根つき大浴場は、片側がそのまま中庭に通じて
おり、優美な川と空を眺めることができた。そよ風が吹く度に、白
い湯煙がゆらゆらと踊っている。
ハーブの良い香りのする湯を手桶にすくうと、光希は頭から勢い
よく湯をかけた。
﹁あー、気持ちいぃー!﹂
思わずはしゃいだ声を上げると、いつの間にか傍にジュリアスが
いて、優しく湯をかけてくれた。
﹁いいよ、自分でやります。ジュリも浴びなよ、すごく気持ちいい﹂
﹁洗ってあげる﹂
﹁え⋮⋮﹂
だめ、というよりも早く、ジュリアスの指が髪に触れる。そのま
ま大きな手で頭皮をマッサージされると、心地良くて拒絶の言葉は
自然と消えた。
行軍中も贅沢に固形石鹸を使わせてもらっていたが、この大浴場
では更に上等な石鹸が幾種も用意されていた。ジュリアスは硝子瓶
の一つから蜂蜜色の液状石鹸を手に垂らした。
﹁いい香り﹂
239
﹁これで髪を洗うと、艶やかな仕上がりになりますよ﹂
﹁僕、いつもの石鹸でいいよ﹂
﹁遠慮しないで。いい香りでしょう?﹂
わしゃわしゃと優しく髪を洗われると、何だかむずむずしてきた。
﹁⋮⋮もっと力強く洗ってほしい﹂
﹁こう?﹂
﹃そぉーそーそ∼﹄
絶妙な力加減に、光希はうっとりと瞳を閉じた。人に髪を洗って
もらうのは、気持ちが良いものだ。湯で流し終えると、生まれ変わ
ったように気分爽快であった。
﹁ありがとう! 僕も洗ってあげます﹂
﹁ふふ。では、後で洗ってもらおうかな。先にコーキを綺麗にして
あげる﹂
まふ
楽しそうに笑うと、ジュリアスは光希好みの少し固めの麻布を石
鹸で泡立て、背中を洗ってくれた。
そこまでは良かったのだが、麻布が首筋や腰の際どいところまで
滑ると、思わず変な声が出そうになった。
240
241
Ⅱ︳7
まふ
不埒なジュリアスの手から、光希は麻布を奪い取った。
﹁ありがとう、平気です﹂
﹁遠慮しなくていいのに﹂
﹁遠慮じゃない。ご心配なく。ありがとうございます﹂
瞳を細めてきっぱりと告げると、ジュリアスが小さく吹き出した。
照れを誤魔化すように、前を向いたまま身体を洗い続けていると、
そのうちジュリアスも自分の身体を洗い始めた。
背中を向けていても、ひりつくような視線を感じる。急いで洗い
終えると、光希は逃げるように石囲みの広い湯船に身体を沈めた。
﹃ふぅ⋮⋮あー、気持ちぃー⋮⋮﹄
極楽気分で寛いでいると、間もなくジュリアスも湯に入ってきた。
広い湯船なのに、わざわざ光希の隣に身体を沈める。
照れ臭さをどうにか追いやり、光希は顔を傾けて、ジュリアスに
笑いかけた。
﹁気持ちいいですね﹂
﹁ええ⋮⋮光希と一緒に入れるなんて、夢みたいだな﹂
﹁うん。砂漠では、こんなに大きいお風呂、入れない﹂
242
湯をジュリアスの肩にかけてやると、腕が伸びてきて抱きしめら
れた。しばらく大人しくしていたが⋮⋮のぼせた。
﹁暑いー⋮⋮﹂
﹁ふふ、真っ赤だ。そろそろ上がりましょうか﹂
湯から出た途端に、身体から汗が噴き出した。
頭から水をかぶって汗を落ち着けると、軽装に着替えて、部屋に
戻る前に少し中庭で涼んだ。
二階の私室に戻ると、ナフィーサが冷たい飲み物を運んできてく
れた。光希が喉を潤している傍で、ジュリアスは度数の高そうな蒸
留酒を昼間から飲んでいる。
﹁今日はこのまま二人でのんびり過ごしましょう。明日はナフィー
サ達に公宮を案内させますよ。サリヴァンも呼んであります﹂
﹁サリヴァン! 嬉しいです! ありがとう、ジュリ﹂
サリヴァン・アリム・シャイターンは、ジュリアスと同じ宝石持
ちで、この世界の言葉を含め、様々なことを光希に教えてくれた尊
敬すべき師である。
彼とはスクワド砂漠の野営地で初めて出会い、アッサラームへの
数ヶ月に及ぶ行軍の合間にも教えを受けていたのだが、ここ十日余
りは凱旋準備で忙しくなり、会えていなかった。
もっと話を聞きたくて傍へすり寄ると、湯上りで壮絶に色っぽい
ジュリアスに流し目で見つめられた。
﹁コーキ⋮⋮明日までの貴方の時間を、全てもらっても良いですか
243
?﹂
応えられずにいると、長くて綺麗な指が伸ばされ、光希の唇を柔
らかく触り始めた。
逃げずにいると、親指が唇を割って口内に入ってくる。青い炎の
ような瞳を見つめたまま、口内を探る親指にそろりと舌を絡ませて
みた。
﹁コーキ⋮⋮﹂
青い双眸に、情欲が燃え上がる。神々しい美貌が降りてくる。唇
が合わさると同時に、強く抱きしめられた。
﹁ん⋮⋮﹂
貪るように唇を合わせながら、ジュリアスは攫うように光希を抱
きあげた。力強い足取りで寝室まで運び、キングサイズよりも尚広
い、天蓋のついた寝台の上に光希を降ろした。
自分も寝台に乗り上げて、光希の顔を囲うように両腕をつく。間
たちま
近で見つめ合い、どちらからともなく笑みが零れた。
そっと唇を重ねると、忽ち燃え上がった。舌を絡ませれば、強い
酒精の味が拡がり、身体は増々熱くなる。
﹁んぅ⋮⋮っ﹂
まさぐ
酔ってしまいそう⋮⋮はだけた襟の隙間に大きな手が入り込み、
肌を弄る。もどかしげに、胸から腹下まで、絹を少々乱暴に引き下
げられた。触れ合う下肢に熱い猛りを感じる。
ねぶ
露わになった肌に、啄むようなキスが幾つも落とされた。乳首を
こね回すように弄られ、熱い舌で舐られる。
244
﹁っ、あっ、ぅ⋮⋮っ﹂
卑猥な水音に、鼓膜を犯される。
ほとばし
尖った乳首を吸われて、何度も身体が撥ねた。堪え切れない声が、
喉の奥から迸る。羞恥に口を押さえても、容赦なくジュリアスに剥
がされてしまう
身体中に熱いキスを受けるうちに、気づけば光希の中心も緩く勃
ち上がっていた。
﹁あ⋮⋮﹂
射抜くような眼差しに光希が怯んだ瞬間、ジュリアスは触れ合っ
た下肢を原始的な動きで強く擦り合わせた。
﹁んッ、ジュリ、あ⋮⋮あんっ﹂
組み敷く身体を押しのけようとしても、びくともしない。強い刺
激から逃げられない。
勃ちあがった互いの性器が、布越しに擦れて、激しく官能を誘わ
れた。
仰け反る光希の喉に、ジュリアスは熱い舌を這わせた。震える身
体を下肢で押さえつけ、肉づきの良い胸を揉みこむ。
つんと上向く先端を指先に摘まれた瞬間、甘い痺れが腰に走り、
身体の奥がきゅんっと疼いた。
﹁あ⋮⋮だ、だめ﹂
熱い視線が胸に落ちるのを感じて、光希は慌てて首を振った。迫
る身体を押しのけようとすれば、煩いとばかりに腕をまとめ上げら
245
れ、頭上で縫い留められた。
﹁本当に、どうしてこんなにも甘く感じるのだろう⋮⋮﹂
どこか陶然と呟いたジュリアスは、震える胸に顔を沈めた。色づ
いて尖った先端に、舌を這わせる。
﹁う、あッ、んんぅッ、あん﹂
吸ったり、甘噛みしたりと、愛着を示す。どれだけ暴れても、ジ
ュリアスは離そうとしない。
どれだけ暴れても、ジュリアスは離そうとしない。光希は次第に
鼻声になり、半泣きで許しを請うた。乳首だけしか弄られていない
のに、腰が浅ましく跳ねてしまう。
乱れまくる光希の痴態を、ジュリアスは飽くことなく眺めた。腕
が痛いと訴えると、僅かに力は緩んだものの、組み敷かれたまま離
してはくれない。
色づき、いやらしく勃ち上がった乳首を、ぢゅうっと吸われて、
光希の昂りは強く反り返った。屹立は腹に打ちつけ、透明な飛沫を
散らす。
﹁ん︱︱ッ﹂
まなうら
強烈な快感に、眼裏が燃える。
頬を上気させて、感じ入る光希の媚態を、ジュリアスは食い入る
ように見つめていた。気をやりかけた光希が視線を揺らすと、正気
を呼び戻すように、唇に優しく口づける。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
246
頬を濡らす雫を、ジュリアスは愛しげに舐めとった。
247
Ⅱ︳8
﹁コーキ、少し腰をあげて﹂
いわれるがまま腰を浮かすと、身体の下から素早く衣を引き抜か
れた。光希だけ完全に裸になる。
﹁ジュリも⋮⋮﹂
遠慮がちにジュリアスの服に手をかけると、ジュリアスは身体を
起こして、男らしい仕草で自ら脱ぎ捨てた。そして情熱的に覆いか
ぶさってくる。
火傷しそうに熱い肌だ。触れ合ったところから熱が広がり、どち
らからともなく腰を揺らめかせた。
ロザイン
﹁愛している、私の花嫁﹂
﹁ジュリ⋮⋮んっ﹂
性器を直に触れられて、反射的に身体が跳ねた。焦れったい指の
動きで、緩やかに竿を撫で上げられる。
﹁気持ちいい⋮⋮?﹂
上気しているであろう光希の顔を見て、ジュリアスは満足そうに
目を細めた。青い瞳の光彩が強まり、逆光で顔に陰翳を落としてい
ても、仄かに輝いて見える。
長い指に、性器を根元から扱かれながら、すっかり敏感になった
248
乳首を摘まれた。
﹁だめッ! ジュリッ! んぅ⋮⋮っ⋮⋮﹂
官能を煽られて、あられもない声が零れてしまう。もう、昇りつ
めることしか考えられない。
﹁あ、ンッ⋮⋮! 手、離して⋮⋮!﹂
このままでは、ジュリアスの手を汚してしまう︱︱離してもらい
たくて身体を捻ろうとしたら、肩を強く押さえつけられた。
戸惑い、見上げると、強い視線に身体が震えた。慄く光希を見つ
めたまま、綺麗な顔を下げて、濡れた性器に舌を這わせる。放熱を
堰き止めるように、指を輪っかにして根元を締め上げた。
﹁あっ、あンッ、ジュリッ! あぁ⋮⋮ッ、離してぇッ!﹂
熱い舌での愛撫は、指でされるよりも、ずっと強烈だった。
根元を握られたまま、口内で亀頭をめちゃくちゃにされる。あま
りの快感に、声にならない。大海に浮かぶ小舟のように、いいよう
に翻弄されてしまう。
﹁んぁッ、あ、あん、ふ⋮⋮っ!﹂
身体中を痙攣させて刺激をやり過ごしていると、ジュリアスは指
の戒めを外して強く蜜口を吸い上げた。
強烈な快感が、身体を走り抜けた。
ほとばし
目は開いているのに、目の奥が明滅して何も映らない。身体中の
熱が、細い蛇口から迸る。
249
﹁あぁ︱︱ッ!﹂
気持ち良すぎて、何も考えれない。放熱の余韻に肩を上下させて
いると、嚥下する音が鼓膜を叩いた。
﹁気持ち良かった?﹂
﹁う、うぅ⋮⋮飲んだの?﹂
﹁はい﹂
﹁嘘、何で⋮⋮﹂
羞恥で死ねそうだ。ジュリアスの顔をまともに見られず、両手で
顔を覆っていると、あやすように胸に抱きこまれた。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮恥ずかしい﹂
﹁すごくかわいかった。私で気持ち良くなってくれて、嬉しい﹂
﹁うぅぅ⋮⋮かわいくない﹂
照れまくる光希を、この上なく甘い表情でジュリアスは見つめて
いる。
恐る恐る顔をあげると、上気した麗しい美貌がすぐ傍にあった。
愛情に満ちた眼差しだと感じるのは、光希の自意識過剰ではないだ
ろう。
これだけ近くにいても、少しも慣れない。ジュリアスは本当に神
250
様みたいだ。
滑らかな褐色の頬に手を伸ばすと、気持ち良さそうに瞳を閉じて、
まなじり
掌にすり寄ってくる。そのかわいらしい仕草に、思わずときめいて
しまう。じっとしているのをいいことに、親指で優しく眦を撫でて
⋮⋮額の青い宝石に触れてみた。
額の宝石に触れられるのは、光希がジュリアスの花嫁である証だ
という。
ジュリアスのように額に青い宝石を持って生まれた子供は、神殿
で成人するまで育てられるとサリヴァンから聞いた。
彼等はその土地を加護する神の化身とも呼ばれ、東西の決戦を歴
史が繰り返す時、神意により生まれるとも。
敵に打ち勝つ為に与えられし神力を自在に操るが、感情に乏しく、
喜怒哀楽は殆どない。
或いは
神降ろし
と呼ばれる稀有な彼等の更に一
只一つ、花嫁を欲する強い感情を生まれ持っており、それが彼等
宝石持ち
の行動原理の全てだという。
握りだけが、己の花嫁に巡り合うことができるらしい。
生まれながらにして砂漠の覇者であったジュリアスも、想像を絶
する苦難の果てに光希を手に入れたのだと、サリヴァンは話してい
た。
︵なんで俺なんだろう⋮⋮︶
ふけ
ジュリアスのことを考えると、いつも思う。
思い耽りながら青い宝石を撫でていると、宝石と揃いの青い双眸
が開かれて、幸せそうにほほえんだ。
その瞬間、ジュリアスの神力が具現化して、周囲に淡い光の粒子
が舞った。
本当に、ジュリアスは神様みたいだ。
251
252
Ⅱ︳9
放出後の、気だるい脱力感が幾らか和らぐと、見計らったように
ジュリアスは上半身を起こした。寝そべったまま、目で追いかける
びろうど
光希の手を取り、指先に口づける。
陽に焼けた天鵞絨のように滑らかな肌。しなやかで逞しい、相変
わらず羨ましいくらい綺麗な身体だ。
目が合うと、男らしい仕草で前髪を掻き上げながらほほえんだ。
思わず鼓動が跳ねる。いつも思うことだが、ジュリアスは心臓に
悪いくらい、綺麗で恰好いい。見惚れていると、足首を持ち上げら
れて、大きく割り開かれた。
﹁ジュリッ﹂
熱を帯びた視線が、あらぬところに向かう。
向けられる強い視線に、思わず静止を呑み込んだ。光希は放熱を
遂げて、一休みさせてもらった。次はジュリアスの番だ。
うつぶせにさせられて、尻たぶを揉みこまれる。柔らかなジュリ
アスの髪が背中に触れて、敏感になっている身体が跳ねた。
刺激に身構えていると、窄まりに吐息を吹きかけられた。
﹁ん⋮⋮っ﹂
指で孔の皺を伸ばすように、上下左右にこすられる。
その刺激だけで腰が甘く痺れて、垂れた中心が反応し始めた。四
つん這いにさせられて、上半身を伏せた状態で尻を高く上げさせら
れる。
心臓が、口から飛び出してしまいそうだ。尻の割れ目をつぅと撫
253
で上げられると、あられもない声が出そうになった。
﹁力を抜いていて﹂
﹁あ⋮⋮﹂
熱い舌に、身体がぞくりと震えた。後孔を拡げるように入り口の
周囲を舐めてから、ゆっくりと舌を差し挿れられる。
たかぶ
粘膜をなぞるように、何度も熱い舌で抜き差しされると、次第に
身体は昂った。
﹁っ、は、あ⋮⋮っ﹂
それでもまだ熱が回り切っていないせいか、喘いでいる自分を少
しだけ冷静に見てしまう。
ジュリアスに抱かれると、いつもこうだ。組み敷かれて、舐めら
れて、女みたいに喘いで⋮⋮だけど気持ちいい。
あの平和な世界に暮らしていた光希の常識は、もう半壊している。
ジュリアスに出会って、何もかも変わったのだ。
粘着な音を立てながら、長い指に後孔を弄られる。二本まとめて
抜き差しされるようになると、時折、前立腺の傍を刺激されて腰が
甘く震えた。
﹁ふ⋮⋮ッ⋮⋮んぅ﹂
﹁気持ちいい?﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
応えられずにいると、後孔を舌に愛されながら前にも手が伸ばさ
254
れた。羽が触れるように、裏筋まで長い指が滑る。
﹁あ⋮⋮っ﹂
﹁ねぇコーキ、気持ちいい?﹂
﹁ジュリ⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮?﹂
心臓が壊れそうなほど煩い。
い
最中に素直に感情を口にするのは苦手だ。いわせたいのなら、い
っそもっと、何も考えられないほど、溶かして欲しい。達く寸前は、
いつだって頭の中を真っ白にできるから⋮⋮
﹁あ、あ、あッ、ジュリ!﹂
応えないことに痺れを切らしたのか、ジュリアスが追い上げてき
た。股下から手を伸ばして、前を弄られながら、尻孔を三本の指で
同時に抜き差しされる。
﹁は⋮⋮私は気持ちいいよ、肌を合わせることも、口づけも、身体
の一番深いところで、交わることも⋮⋮全部、コーキがくれるもの
全てが﹂
﹁ああっ﹂
﹁全てが、愛おしい﹂
指を抜かれる瞬間、内壁を掻かれて背中が深くしなった。
255
前のめりに倒れる身体を更に征服するように、ジュリアスの力強
い腕が上から押さえつけてくる。尻をいっそう高く上げさせられて、
熱い塊が押し当てられた。
﹁は⋮⋮ッ﹂
息を吐いて、熱い昂りを迎え入れる。
ゆっくり奥まで挿れると、ジュリアスは上半身を倒して、動くよ、
と耳朶に囁いた。
腰を揺らす度に、侵入は深まる。圧迫感をもたらす熱い塊は、次
第に入り口を拡げ、滑らかな抽挿へと変わってゆく。
﹁ひっ、は⋮⋮っ﹂
腰を打ちつけられる度に、沈んだ上半身も合わせて上下する。
必死に敷布にしがみついていると、抽挿の速度を落としたジュリ
アスに、汗の浮いた背中を舐め上げられた。
﹁あぁっ﹂
背後から貫かれた後、挿れたまま身体を横向きにするよう促され
た。右足の太腿を腕で支えられて、下肢を合わせると激しい抽挿が
再開する。
﹁あ、んぁっ、あンッ﹂
腰がぶつかる度、震動で性器から透明な蜜が飛び散った。この上
なく卑猥な光景だが、もう恥ずかしいと考える余裕はない。
昇りつめたい︱︱
それなのに⋮⋮あと少しで昇りつめられそうなのに、間際になる
256
とジュリアスは速度を落として、刺激を逃がしてしまう。
焦れったく感じていると、完全に動きを止めたジュリアスに耳元
で囁かれた。
﹁気持ちいい?﹂
吐息を吹きかけられるだけで、可笑しいくらいに身体が震えてし
まう。
﹁ンッ⋮⋮気持ちいい⋮⋮﹂
ふっと小さく笑うと、ジュリアスは抱っこするように自分の身体
の上に光希を乗せた。その体勢のまま緩やかに腰を上下させる。
甘く揺さぶりながら、震える性器を撫でたり、勃ち上がった乳首
を舐めたり、弄ったりと全身をくまなく愛撫する。
﹁う、ひゃぁ⋮⋮ッ⋮⋮んぅッ、あっ、あぁ﹂
触れられて、舐められて、優しく突かれて︱︱
緩やかな抽挿に合わせて、身体中の官能を引き出されるように触
れられる。愛している、と熱烈に全身で伝えてくれる。
ゆらゆらと波間をたゆたうような行為が長く続き、我慢しきれず
光希が達すると、ジュリアスも追いかけるように光希の中に放熱を
遂げた。
257
Ⅱ︳10
翌朝。
昼過ぎになり、ようやく光希は寝台から起き上がった。ジュリア
スはもうとっくに出かけている。一人、ぎしぎしと悲鳴を上げる身
体を引きずり、屋内の浴場へと向かった。
﹁殿下、お背中を流しましょうか?﹂
よろよろと浴場に入ると、裾を捲りあげた裸足のナフィーサが入
ってきた。
﹁えっ!? いや、平気です﹂
﹁ですが、歩かれるのもお辛そうですし⋮⋮﹂
﹁ありがとう、でも平気です。あ、そうだ。お風呂を出たら、ご飯
食べたい。いいですか?﹂
﹁かしこまりました。私室に運ばせていただきます。お着替えを置
いておきますので、お召しになりましたらお戻りください。外に傍
仕えがおりますので、ご不便がありましたら、何なりとお申しつけ
くださいませ﹂
﹁はい、ありがとうございます⋮⋮﹂
畏まって一礼すると、ナフィーサはようやく浴場から出ていった。
曇り硝子の引き戸が閉まるのを見届けると、思わずため息をつい
258
かしず
た。光希の身の回りの世話が彼の仕事だと判っていても、一般家庭
育ちの身としては、傅かれる度に遠慮が先立つ。特に着替えや入浴
は一人で済ませる方が気楽だ。
それに、この身体を見られるのはちょっと⋮⋮
見れば身体のあちこちに赤い跡が残っている。全てジュリアスに
つけられたものだ。無垢な少年の目に晒してはいけない気がする。
木椅子に腰掛けると、太ももの際どいところに跡を見つけてしま
い、思わず呻き声が漏れた。
︵うわぁ、こんなところにまで⋮⋮︶
ふけ
昨夜はまだ陽も明るいうちから情事に耽り、夕食も摂らずに行為
に夢中になった。
疲れ果てて意識が途切れてもジュリアスは光希を離さなかったし、
光希も盛り上がった気分のまま、目が醒めれば再び身体を繋げた。
夜が更ける頃にようやく軽食を摂ったが、寝台に入ると口づけを
交わしてそのまま⋮⋮
つ
﹃痛ぅ⋮⋮股関節がぁ。足開き過ぎたせいだ⋮⋮サリヴァン神官に
会うってのに﹄
どうにか入浴を終えて私室に戻ると、ナフィーサは可憐な笑顔で
出迎えてくれた。
﹁お帰りなさいませ。テラスに昼食のご用意ができております。ど
うぞこちらにいらしてください﹂
当然のように、ナフィーサは手を差し伸べた。光希より、よほど
可憐で華奢な少年の手を見て、どうしたものか躊躇い⋮⋮よろめい
た。
259
﹁殿下! 危のうございます。さ、お手をどうぞ﹂
﹁ありがとう⋮⋮でも平気です﹂
かお
差し出された手を避けて歩き出すと、ナフィーサは傷ついたよう
な顔をした。そんな表情を見てしまうと、葛藤を抑えてでも大人に
ならなければと思う。
﹁あ、ありがとう! 嬉しいよ﹂
取り繕うように笑みを貼りつけて、華奢な掌に己の手を重ねる。
ナフィーサの安堵した表情を見る限り、正しい判断だったようだ。
﹁遠慮はいりません。さ、足元にお気をつけて﹂
テラスに連れ出され、大きな日傘の下、絨緞の上に案内された。
瞬く間に、彩色の良い果物や野菜、熱々の鳥肉の香草焼が運ばれ
てきた。給仕する召使達の中で、ナフィーサは誰よりも年若いが、
臆せず指示する様は堂に入っている。光希よりも大人びて見えるく
らいだ。
綺麗な少年を観察しながら黙々と食べていると、空の杯に気づく
や、ナフィーサは檸檬水を注いでくれた。
﹁ありがとう。ナフィーサ、昼食はもう済ませた?﹂
﹁お気遣いありがとうございます、殿下。私は後ほどいただきます
から、お気になさらず﹂
﹁いっぱいあるし、一緒にいかがですか?﹂
260
﹁いえ、めっそうもございません。そのお気持ちだけで十分でござ
います。ありがとうございます、殿下﹂
礼儀正しい少年は、きっちり腰を折って頭を下げた。綺麗な仕草
に感心しつつ、気になっていたことを口にした。
﹁その⋮⋮殿下って、いわないと駄目なの?﹂
﹁⋮⋮といいますと?﹂
ロザイン
ナフィーサは不思議そうに首を傾げた。
桧山さん
はどう?﹂
﹁でもそうか⋮⋮僕の、花嫁の名前を呼ぶことは禁則なのかな。な
ら
﹁御名をお呼びできるのは、シャイターンだけでございます。です
から、私を含め他の者は、敬称でお呼びさせていただいております。
お気に触りましたか?﹂
とか⋮⋮
光希
と呼ばれて
心配げに訊ねられて、すぐに応えなくてはと思うが、一瞬懐かし
い記憶が蘇った。
らち
こーちゃん
学校の友達や、家族からは当たり前のように
いた。他には
頭を軽く振って、埒もない思いを捨てた。仕方のないことだ。こ
ちらには、こちらの流儀があるのだから。
﹁いいえ、平気です。変なことをいってすみません﹂
不安そうにしているナフィーサを見つめて、光希は安心させるよ
261
うにほほえんだ。
262
Ⅱ︳11
昼食を終えると、神殿騎士のルスタムに邸の外へと連れ出された。
公宮を案内してくれるらしいのだが、邸の外に馬車が停まってい
るのを見て、思わず首を傾げた。
﹁馬車? 公宮って宮殿の敷地内でしょう?﹂
﹁アルサーガ宮殿は大変広いので、場所によっては歩くよりも馬車
を使う方が速いのです。公宮一つにしてみても、舞台や湯殿、庭園、
妃殿下方の邸と広うございますので、先ずは馬車で巡りながら説明
させていただきます﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
戸惑いつつ、馬車に架けられた梯子に近づくと、ルスタムは当然
のように手を差し伸べた。これぞ騎士といった完璧な仕草だ。
この待遇は、もう諦めるしかないのだろうか。
その手を取るには勇気が必要であったが、瞬巡の後、半ば諦めた
ように手を重ねた。
光希に続いてルスタムも馬車に乗り込むと、緩やかな振動と共に
動き始めた。
初めての馬車体験に、わくわくしながら窓の外に目をやると、ル
スタムは硝子窓を引き上げてくれた。
﹁わぁ、いい風ー﹂
開けた窓から、爽やかな風が吹き込んでくる。心地良さに笑顔に
263
なると、つられたようにルスタムもほほえんだ。
﹁正門までは全て殿下のお邸の一部にございます。もうすぐこの辺
り一面に、クロッカスが咲いて紫色に染まるでしょう﹂
﹁へぇ﹂
今は一面青々としている。これも十分美しいが、クロッカスとは
どんな花だろう?
﹁お邸も庭園も、全てシャイターンが殿下の為に造らせたものです。
殿下がこの庭を歩くお姿が映えるようにと、遠方から種を取り寄せ
て植えたのでございますよ﹂
﹁⋮⋮咲くのを、楽しみにしています﹂
照れ臭そうに、光希は頬を掻いた。歩く姿が映えるかどうかは疑
問だが、ジュリアスの気遣いは嬉しい。咲いた様子を、ぜひ見てみ
たいものだ。
それにしても、黙っていると固い印象を与える青年だが、こうし
て話してみると、意外に気さくで話しやすい。
狭い馬車の中でも、共に居て苦痛はなく、むしろ流れる景色を判
り易く説明してくれるので楽しい。
レイラン
﹁木々の向こうに見えるお邸はアースレイヤ皇太子の四貴妃のお一
人、西妃様のお邸にございます。西妃様は他の妃方々同様、午後は
庭園でお過ごしになられることが多いので、これからご案内する先
でご紹介できるでしょう﹂
﹁アースレイヤ皇太子の⋮⋮﹂
264
﹁はい。西妃様は名門バカルディーノ家の生まれで、御年七歳のご
ロザイン
子息がおられます。皇后陛下ご不在の公宮では第一位のご身分にご
ざいましたが、シャイターンの花嫁である殿下がお入りになりまし
た今、第二位となります﹂
訝しげに眉をひそめる光希を見て、ルスタムは安心させるように
言葉を続けた。
﹁不安に思われることはございません。殿下はシャイターンの花嫁
にあらせられます。信仰の象徴である御身を、例え皇帝陛下であろ
うとも脅かすことはできません﹂
淀みない説明を聞きながら、なんとなく、光希は大奥の光景を思
い浮かべた。
﹁⋮⋮公宮にはどれくらいの人が住んでいるのですか?﹂
﹁皇族の姫君達だけでも、三千人はいらっしゃるでしょう﹂
﹁三千人!?﹂
聞き間違いかと思った。思わず、窓の外に向けていた視線をルス
タムに向けると、彼は真顔で首肯した。
﹁はい。貴人達の身内や召使等を含めれば三万人に上るかと﹂
﹁公宮ってそんなに人がいるんですか?﹂
﹁はい。アッサラーム宮殿の敷地には、公宮の他にも神舎や軍舎が
265
ございます。そちらには更に多くの人間がおりますよ﹂
﹁⋮⋮﹂
半信半疑で沈黙する光希に、ルスタムは穏やかに言葉を続けた。
﹁実際に庭園をご覧になれば、よくお判りになると思います﹂
しゅんぷうたいとう
果たして、ルスタムの言葉は本当であった。
公宮の庭園は、女神の住まう春風駘蕩の楽園そのもの。
遠目にも煌びやかな装いの美しい女達が、庭園のあちらこちらで
さえず
自由に過ごしている。
あずまや
水辺の鳥小屋で囀りを楽しむ女。
四阿で琴を奏でる女。
子兎と戯れている女。
芝に寝そべり歓談している者達もいる。
女だけと思いきや、ちらほら男も見かけた。
﹁ここにいる人達は皆、皇族の、その⋮⋮﹂
ここは異世界なのだと、今更ながらに思い知らされる光景であっ
た。
あまりにも現実離れしていて、何を訊けば良いのか、咄嗟に言葉
が思い浮かばない。
﹁ここにいる方々は、皇族やシャイターンの妃、夫人、姫達にござ
います﹂
﹁えっ、シャイターン?﹂
266
光希は、食い入るようにルスタムを見つめた。嫌な予感に身構え
ていると、案の定、彼は平然と頷いた。
﹁はい、多くは皇族の姫君方ですが、シャイターンの姫君もいらっ
しゃいます﹂
頭を、ガツン、と殴られた気がした。
267
Ⅱ︳12
﹃ウソだろ⋮⋮﹄
呆然と呟く光希を見て、ルスタムは思案げに口を開いた。
﹁殿下、ご心配には及びません。シャイターンの妃候補に公宮入り
した貴人はいらっしゃいますが、室を与えられた姫は一人もいらっ
しゃいません。ご幼少のみぎりから、アッサラームでお過ごしにな
るよりも、砂漠を駆けていらっしゃるような方でしたから、そもそ
も公宮に立ち寄られる暇も殆ど無かったのです﹂
﹁知りませんでした⋮⋮ジュリにも女性の、恋人? がいるんです
ね⋮⋮﹂
衝撃のままに呟くと、ルスタムの顔に焦燥が浮かんだ。
﹁いいえ殿下、恋人ではございません。シャイターンのご意志とは
関係なく、姫君達の方からお家の為に、と公宮入りを希望されるの
です﹂
﹁ジュリの姫って⋮⋮どれくらいいるんですか?﹂
ロザイン
﹁三百人はいらっしゃると思いますが、ご心配は無用です。どれだ
け姫がいようとも、殿下は唯一にして絶対のシャイターンの花嫁な
のですから﹂
宥めるようにルスタムは言葉を続けるが、彼の声はどこか遠いと
268
こだま
ころから聞こえてくるようだった。耳朶の奥に、
言葉が谺している。
三百人
という
この公宮に、ジュリアスの相手が三百人もいるという事実に、光
希は打ちのめされた。
﹁どうか、ご安心ください。殿下は三千人からなる公宮の頂点にい
ひざまず
らっしゃいます。どんなに高貴な美姫であろうとも、御身を前にす
れば一様に跪き、殿下がお許しにならなければ、お声をかけること
すらできないのです﹂
﹁はい⋮⋮﹂
魂の抜けきったような、渇いた声で相槌を打った。
﹁シャイターンが花嫁を差し置いて、他の姫にお心を向けることな
ど、万が一にもございません。決してこの場限りのお慰めではなく、
事実にございます。既に降嫁の決まった姫君も幾人かいらっしゃい
ますし、これからも公宮を出ていかれる方は増えるでしょう﹂
﹁ありがとうございます、ルスタム。教えてくれて⋮⋮公宮に、こ
れほど多くの女性がいるなんて、僕は全然知りませんでした﹂
まだ混乱しているが、知らないよりかはマシだと思えた。
﹁殿下⋮⋮公宮についてあまりご存じではなかったのですね。ここ
には昔から独特の秩序があり、長い歴史もございます。良ければき
ちんとご説明いたしますが、一度お邸にお戻りになりますか?﹂
﹁いいえ、後でお願いします。このまま庭園を歩いてみてもいいで
すか?﹂
269
光希の顔に目を注ぎ、ルスタムは思案気に沈黙したが、すぐに恭
しく頭を下げた。
﹁かしこまりました﹂
その
公宮の苑に足を踏み入れると、気づいた者達は、膝を折ってお辞
儀をした。彼等は光希が遠ざかるまで、そのままの姿勢で動かない。
﹁殿下、頭を下げる必要はございません﹂
﹁あ、はい⋮⋮﹂
たしな
お辞儀されると、つい会釈してしまう。窘められて、素通りする
さざなみ
ようにしたが、傲慢に映らないか心配になった。
漣が広がるように、小声で囁く女達の姿が増えてゆく。
被害妄想かもしれないが、こちらを見てひそひそと囁かれると、
誹謗中傷されているような気がしてしまう。そう思うにつれて、足
取りは重くなった。
﹁殿下?﹂
とうとう立ち止まってしまった光希を見て、ルスタムは不思議そ
うに声をかけた。
気分が悪い。もう帰ろうか⋮⋮迷っていると、柳のような美女が、
従者を連れてこちらへ近寄ってきた。
灰銀の長い髪が風に揺れて、妖精の女王のような佇まいだ。
知らず目を奪われて彼女の歩みを待っていると、目が合うほどに
近づいたところで、麗貌は儚げに笑みを刻んだ。
空恐ろしいほどの美貌に、言葉も忘れて、見入ってしまう。これ
270
までお目にかかったことのない、絶世の美女だ。
レイラン
﹁ごきげんよう、シャイターンの花嫁。お会いできて光栄に存じま
す。私はリビライラ・バカルディーノ、アースレイヤ皇太子の西妃
にございます。どうぞよろしくお願いいたします﹂
﹁あ、貴方が⋮⋮僕は、シャイターンの花嫁、光希と申します。ア
ッサラームへのお導きに感謝いたします﹂
﹁我等がシャイターンの花嫁を公宮にお迎えすることができて、心
から嬉しく思います。新たな公宮の主に、宮女一同、誠意を尽くし
てお仕えさせていただきます。何なりとお申しつけください﹂
リビライラが優雅に膝を折って宮廷挨拶をすると、遠くから様子
を窺っていた女達も、その場で同じように深く伏せた。
光希も右手を肩に置いて腰を曲げる正式なお辞儀をする。ルスタ
ムやリビライラの従者達は一歩下がったところで膝をついて控えて
いた。
暫し庭園一帯に、厳かな空気が流れる。
とおっしゃりなさい﹂
しかし、一向に顔を上げる様子のないリビライラに、光希はどう
天は従順を嘉したもう
よみ
したものかと狼狽え始めた。
﹁殿下⋮⋮
親切なルスタムの助言を受けて、光希はとってつけたように、天
は従順を嘉したもう、と口にした。
必要な手続きだったようで、ようやくリビライラは顔を上げた。
青灰色の瞳を和ませて、美しい笑みを閃かせる。
﹁アースレイヤ様からお聞きしました通り、とてもかわいらしい方
271
ですのね。可憐な花嫁をお迎えになって、シャイターンもさぞお喜
びでしょう﹂
﹁え⋮⋮﹂
あずまや
﹁ここは陽射しがございます。よろしければ四阿で少しお話しされ
ませんか? 美味しいお茶をご用意しておりますのよ﹂
﹁えっと﹂
判断に迷ってルスタムの顔をうかがうと、肯定するように頷かれ
たので、光希はリビライラに視線を戻した。
﹁判りました。人と会う約束がありますので、少しでしたら⋮⋮﹂
ぎこちない笑みを浮かべると、リビライラは花が綻ぶようにほほ
えんだ。
272
Ⅱ︳13
あずまや
蔓薔薇や藤の絡まる石柱の四阿は、風がよく入り、ひんやりと心
地良かった。
﹁今、冷たいお飲み物をご用意いたしますわ﹂
リビライラが指示を出すよりも早く、気の利いた召使が、冷たい
果実水やよく冷えた果物の盛皿を運んできた。
﹁殿下、他の姫君を同席させてもよろしいでしょうか? こちらを
羨ましそうに見ている娘達がおりますわ。私が殿下を独り占めして
は恨まれてしまいそう﹂
﹁あ、はい。どうぞ﹂
﹁ありがとうございます﹂
リビライラは手にした扇子を畳むと、こちらを見ている女達を手
招いた。少し離れたところから、軽やかな歓声が上がる。
煌びやかな格好をした女達が、はしゃぎながら駆け寄ってきた。
可憐な美少女もいれば、豪奢な美女もいる。まるで世界の美女見
本一だ。両手に花で目の保養だが、かしましい女達に取り囲まれる
と、少々萎縮してしまう。
ロザイン
﹁皆さん、殿下の御前で粗相は許しませんよ。殿下、煩くて申し訳
ありません。我等が英雄の花嫁にお会いできて、皆舞い上がってい
るのですわ﹂
273
微苦笑を浮かべるリビライラに、いやぁ、と光希は曖昧な笑みで
応えた。
﹁順番に紹介いたしますわね。こちらは三年前に公宮に上がりまし
た、シェリーティア・クワン、クワン家の末子ですわ﹂
リビライラに紹介されて、シェリーティアは品良くお辞儀した。
巻き毛の灰銀髪に、少し釣り目の美少女だ。光希と同じ年頃だろう
か。目が合うと、強い蒼氷色の眼差しでじっと見つめてきた。敵意
を感じるのは、気のせいだろうか?
﹁その隣は、パールメラですわ。ドゥルジャーンに養子縁組をして、
三年前に公宮に上がりましたの。跳ねっかえりで、私も手を焼いて
いますのよ。困った姫君ですわ﹂
困ったといいながら、リビライラは楽しそうにほほえんだ。光希
も和んだ気持ちでパールメラに目を向ける。艶めいた美貌の少女だ。
﹁殿下、お会いできて大変光栄ですわ。パールメラ・ドゥルジャー
ンと申します。どうぞよろしくお願いいたします﹂
パールメラは蠱惑的な笑みを浮かべると、光希に片目を瞑って見
せた。
そのように親愛に溢れた仕草をされたのは、ジュリアスの他では
初めてのことだ。美少女に笑みかけられ、光希はどきまぎした。
その後も会話の合間に姫君を紹介されて、十人を超える頃には、
誰が誰だか判らなくなっていた。リビライラと、最初に紹介された
数人しかもう覚えていない。
一通り紹介を終えると、女達は思い思いに歓談を始めた。
274
﹁昨夜から宮殿では、盛大に祝賀会が開かれていますわ。私達公宮
の女が出入りを許されるのも、シャイターンの花嫁がいらっしゃっ
たおかげですわ﹂
﹁アッサラームの獅子達は、麗しい殿方ばかりで目の保養ですわね﹂
﹁アースレイヤ皇太子に、ルーンナイト様もお見えになっていたわ。
二人並ぶお姿も大変に目の保養でしたわ!﹂
きゃあきゃあと騒ぐ少女達を、呆れたようにパールメラは見据え
た。
﹁眺めるばかりでは殿方のお心を射止めることはできないわ。美し
く装っても、壁に咲いていては意味がないのよ。私はアースレイヤ
様にお手を取っていただけましたもの﹂
どこか自慢げにパールメラが茶々を入れると、浮かれていた姫達
は不快そうに眉をひそめた。
﹁パールメラ様、皇太子とお呼びすべきだわ。それに女から手を差
し伸べるだなんて⋮⋮﹂
たまわ
﹁あら、先日アースレイヤ様から室を賜りましたもの。親しみを込
めてお呼びしてはいけないかしら? 誤解なさらないでね。宴では
あの方からお手を取っていただいのよ﹂
さざなみ
パールメラの強気な物いいに、女達の間に漣のように緊張が走る。
事情を全く把握していない光希でも、彼女の態度が周囲の反感を
買っていると判った。
275
﹁およしなさい、パールメラ。殿下の御前だといったでしょう? 和やかにお話しできないなら、摘み出してしまうわよ?﹂
優しいリビライラがおっとり窘めると、ふわりと空気が和んだ。
光希を含め、周囲の女達は安堵したように息を吐いた。
レイラン
﹁まあ、申し訳ありません。西妃様。摘み出されるのは嫌でござい
ます﹂
パールメラも全く反省の色は見られないが、一応謝罪を口にした。
親しみやすい反面、勝気な一面のある姫なのかもしれない。
その後は明るく会話に花を咲かせたが、時折互いを牽制し合うよ
うな発言も零れた。度が過ぎなければリビライラも許容しているよ
うで、美貌に微笑を浮かべながら女達の会話を見守っていた。
そろそろ退席させてもらおうかと考えていると、四阿の向こうに
佇む可憐な美少女に気がついた。
目を奪われていると、リビライラがその様子に気づいて少女に声
をかけた。
﹁まあ珍しい。ブランシェットの方からきてくれるなんて。近くへ
いらっしゃい﹂
名を呼ばれた少女は、緩やかに波打つ銀髪を揺らして、おずおず
と四阿に入ってきた。長身の女達の中では小柄な方だ。光希と同じ
くらいの背丈かもしれない。
﹁殿下、彼女は四年前に公宮に上がった、ブランシェット・ピティ
ーソワーズですわ。大変な才女ですのよ。大人しい子で、人が集ま
る場にはあまり姿を見せてくれませんの。殿下にご挨拶したかった
276
のね?﹂
﹁はい⋮⋮西妃様。殿下、お会いできて大変光栄に存じます⋮⋮ど
うかブランシェットとお呼びください﹂
さえず
小鳥の囀りのような可憐な声に、思わず聞き惚れてしまった。な
んてかわいいのだろう。
﹁こちらこそ、よろしくお願いいたします﹂
声が上擦らないように、挨拶をするだけで精一杯だった。
277
Ⅱ︳14
思いのほか楽しい時間であったが、いよいよ時間が危うくなり、
光希は中座させてもらうことにした。宮女達の笑顔に送り出されて、
間もなくルスタムと共に馬車に乗り込んだ。
﹁お疲れのようですね⋮⋮サリヴァン神官には、また後日いらして
いただきますか?﹂
光希の顔色を見て、ルスタムは気遣わしげに声をかけた。
﹁いいえ、いろいろと訊きたいことがあるから⋮⋮﹂
帰りの馬車では外を眺める気力もなく、揺れに眠気を誘われるま
ま、瞼を閉じて微睡んでいた。
少しうたた寝してしまったようだ。目を醒ますと、身体の上にル
スタムの大きな上着がかけられていた。
﹁ありがとう⋮⋮﹂
﹁いいえ、殿下﹂
ルスタムは先に馬車を降りて梯子を準備すると、光希に向けて手
を差し伸べた。諦めの境地でその手を取ると、降りた先でナフィー
サが出迎えてくれた。
﹁お帰りなさいませ﹂
278
﹁ただいま﹂
﹁公宮はいかがでしたか?﹂
﹁うん⋮⋮すごかった﹂
その一言に尽きる。疲れた足取りで私室に戻ると、力尽きて絨緞
の上に倒れ伏した。
﹁殿下?﹂
﹁少し疲れました⋮⋮一人にしてもらえますか? サリヴァンがき
たら、教えてください﹂
﹁かしこまりました。お飲み物を置いておきますね⋮⋮では、失礼
いたします﹂
部屋の扉が閉まり、独りになると、光希は殆ど無意識にため息を
ついた。
﹃ジュリめ⋮⋮﹄
つい恨みがましい声が零れてしまう。なぜ彼は教えてくれなかっ
たのだろう?
公宮には、皇族が住んでいるのだとばかり思っていた。このお邸
にしても、これほど豪邸とは聞いていない。てっきり、公宮の一室
を使わせてもらえるのだと思っていたのだ。
以前、公宮について訊ねた時は、皇族の家族が住んでる、としか
答えなかった。聞いていた話と大分違うではないか。
少し、いや大分、説明が足りないだろう。
279
公宮で見た光景が瞼の奥に蘇る。
美しく、優しいリビライラ。彼女がアースレイヤ皇太子の一番の
妃で、パールメラは愛人という認識でいいのだろうか? そもそも、
何番目までいるのだろう?
それにしても、ブランシェットはとても可憐な姫だった。光希が
知らないだけで、ジュリアスにも囲ってる相手がいるのでは⋮⋮?
想像してみたら、途端に嫌な気分になった。
ふけ
あれだけの美女に囲まれて、一切手を出さないなんて、ありえる
らち
のだろうか。
埒もない思いに耽っていると、ナフィーサに呼ばれた。
﹁殿下、サリヴァン神官がお見えになりました。客間へお越しくだ
さい﹂
﹁はーい⋮⋮﹂
一階に降りると、階段下で待っていたナフィーサが、上着の皺を
伸ばしてくれた。
﹁ありがとう﹂
﹁いいえ、殿下。さ、こちらへ。客間にご案内いたします﹂
玄関ホールを抜けて広い客間に入ると、懐かしい老師が笑顔で出
迎えてくれた。
ロザイン
﹁お久しぶりです、シャイターンの花嫁﹂
﹁こんにちは! サリヴァン﹂
280
固く手を取り合って挨拶をする。久しぶりに敬愛する師に会えて、
落ち込んでいた気分は多少浮上した。
﹁凱旋の様子を賓席から見ておりました。ご立派でしたよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
褒められて、照れくさいような、誇らしいような気持ちになる。
嬉しそうに笑う光希を、サリヴァンは優しい眼差しで見つめた。
﹁良い邸ですな。シャイターンも寝る間を惜しんで設計した甲斐が
あったというものでしょう。花嫁をお迎えすることができて、さぞ
お喜びでしょうな﹂
﹁素晴らしい家です。僕は、公宮の一部屋に住むのだと思っていま
した⋮⋮﹂
しみじみと呟く光希を見て、は、は、は⋮⋮とサリヴァンは楽し
そうに笑った。
﹁花嫁に公宮の一部屋を宛がうなど、彼が許すはずがない﹂
﹁僕には⋮⋮立派過ぎます﹂
光希は苦笑いを浮かべた。皮肉な気持ちが顔に出ないよう、意識
しなければならなかった。
﹁相変わらず謙虚でいらっしゃいますなぁ。今日は公宮の庭園へい
かれたと聞いておりますが、いかがでしたかな?﹂
281
﹁はい⋮⋮とても驚きました﹂
死んだ魚のような眼差しで答える光希を見て、サリヴァンは苦笑
を浮かべた。
282
Ⅱ︳15
﹁僕は今日初めて公宮にいって⋮⋮あんなに多くの女性がいること
を知りました﹂
﹁さぞ驚かれたことでしょう﹂
労わりに満ちたサリヴァンの言葉に、光希は海よりも深く頷いた。
﹁秘密の多い場所ですからなぁ。殿下も今日見知ったことは、みだ
りに口にしてはなりませんよ。公宮には名家の姫君達が大勢いらっ
しゃいます。彼等の情報は時として、大金よりも値の張る価値をも
たらすのです﹂
師の真剣な口調に、光希も背筋を正して向き直った。
﹁サリヴァン、教えてください。公宮には、ジュリのために呼ばれ
た女性が、三百はいると聞きました。それは本当ですか?﹂
﹁ふむ⋮⋮誰からお聞きしたのですか?﹂
﹁僕の護衛をしてくれている、ルスタムです。今日は一日、彼が馬
車で案内をしてくれました﹂
﹁なるほど。三百人というのは本当ですよ。中にはシャイターンが
ロザイン
五つの頃から、縁組を決められていた姫君もいらっしゃいます。な
に、そのように不安そうなお顔をする必要はございません。花嫁を
お迎えした今、全て白紙に戻されております﹂
283
宝石持ち
﹁ジュリに、恋人や家族、子供はいないのですか?﹂
﹁安心なさりませ。そのような者はおりませんよ。
は、
父母とも断絶させられる運命です。御心を注ぐお相手は、花嫁であ
らせられる貴方様ただお一人だ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁こういった話は、他者から聞くとこじれるものです。ご本人に直
接お訊ねになってみてはいかがですかな? 他ならぬ花嫁から、そ
のように不安そうに訊ねられたとあれば、あの方も、包み隠さず教
えてくださるに違いありません﹂
その通りだ。本人に訊くのが一番早い。
しかし、あの公宮を見てしまった後で、ジュリアスの口から清廉
潔白だといわれたところで、果たして心から信じることができるだ
ろうか⋮⋮
かといって、実は公宮の女達と浅からぬ関係があると告白された
ところで、許せるかと訊かれたら、許せない気がする。
せめて、全て光希と出会う前の話であれば、仕方ないと思えるの
だろうか。
だが相手はどうだろう︱︱
ジュリアスが心変わりをしていたとしても、相手はまだジュリア
スのことを好きでいるかもしれない。
﹁ふぅむ、心配ですか?﹂
青褪めた光希の顔を見て、サリヴァンは訊ねた。
284
﹁はい⋮⋮サリヴァン神官は、シェリーティア・クワンという姫を
ご存じですか?﹂
﹁クワン家の末姫様ですな。存じておりますよ。彼女はシャイター
ンの婚約者の一人でしたからなぁ。もしかして、公宮でお会いにな
りましたか?﹂
﹁綺麗な姫でしたね⋮⋮﹂
胸に、苦い想いが拡がった。光希がいなければ、あの娘がジュリ
アスと結婚していたかもしれないのだ。
﹁僕がくる前、二人は恋人だったのですか?﹂
﹁いいえ、殿下。シャイターンはどなたもお傍に寄せませんでした
よ。戦い明け等、熱を沈める為に女を抱くことはあっても、あの方
はいつだって花嫁だけを求めておられました。私もシャイターンの
名を持つ身ですからよく判るのです。あの方にとって、貴方以上に
大切なものは何一つ存在しないのです﹂
いくら師の言葉とはいえ、素直に頷く気にはなれない。
セックスはしても本命じゃないからセーフ? アウトだと思う。
現在進行形だったら即アウトだ。
気になる点は他にもある。
ジュリアスはこの国の英雄だ。子供はどうするのだろう⋮⋮それ
ばかりは、光希にはどうしようもできない。
何だか、自分の存在が、シェリーティアにとっても、ジュリアス
にとっても、妨げになっているような気がしてしまう⋮⋮
﹁サリヴァン⋮⋮ジュリは子供はどうするのでしょう?﹂
285
﹁といいますと?﹂
﹁ジュリはこの国の英雄でしょう。跡継ぎを望まれているのでは?﹂
サリヴァンは安心させるようにほほえんだ。
﹁もしも花嫁が不在でしたら、どなたか娶り、子を成されていたか
宝石持ち
が同性の
もしれません。ですが、シャイターンは花嫁を得られた。他を望ま
れないことは明らかにございます。過去にも
花嫁を得た前例はありましたが、お子は成さず、花嫁に寄り添い生
涯を終えたと記録にもございますよ。それは誰にも責められること
ではございません﹂
﹁反対する人、いませんか?﹂
﹁中にはいるかもしれません。ですが⋮⋮いるかも判らぬ他者を気
にするよりも、隣を歩まれるシャイターンのお気持ちを考えられた
方がよろしいでしょう﹂
その通り⋮⋮その通りなのだが、諭すような師の言葉に、どうに
もならない反発心が芽生えた。
﹁殿下?﹂
﹁僕は、知らないことが多過ぎて、何が正しくて、正しくないのか、
判断がつかないのです。世界を広げたいです。今回のことも、僕は
⋮⋮この先、大切なことを何も知らないまま、ジュリと一緒にいる
ことはできません﹂
286
苦悩の滲む声が出た。サリヴァンは迷える者を導く賢者のような
眼差しで、光希を視界に映した。
﹁そう気負いますな。私にできることがあれば、何でもお申しつけ
ください。シャイターンからも、勉学を再開するお許しをいただい
ています。ですが殿下⋮⋮遠い世界からお越しなのですから、知ら
ないことばかりで当然です。急いて全てを明らかになさろうとせず
とも、必要に応じて知識は備わるものですよ﹂
﹁でも⋮⋮ジュリは本当にすごいから。僕は頑張らないと⋮⋮サリ
ヴァン、僕にもできる仕事はありますか? 働いてお金を稼ぐこと
はできますか?﹂
師は虚を突かれた顔で、光希を見つめた。
﹁仕事ですか⋮⋮流石にそれは、シャイターンがお許しにならない
でしょう。花嫁を独り占めされたくて仕方がないのですから﹂
肩を落とす光希を見て、彼は言葉を続けた。
﹁望むのであれば、時間をかけて説得されるほかありますまい。お
二人でよく話し合い、決めていかれてはいかがですか? 与えられ
た地位に甘んじるを良しとせず、立身を唱えるお心はご立派ですよ﹂
あれもこれも、すぐにはどうにもならない。俯く光希の頭を、大
きな手が労わるように撫でた。
287
Ⅱ︳16
今夜はじっくりジュリアスと話し合おう︱︱そう決めていたはず
のに、初めてというくらいの大喧嘩をした。
喧嘩のきっかけは、夜も更けた頃、女物の香水を漂わせて、ジュ
リアスが帰宅したことから始まる。
昼間、公宮で数多の美女を目の当たりにしていた光希は、気だる
げなジュリアスの姿を見た途端、心に影が差すのを感じた。
﹁随分、遅かったね⋮⋮酷く酒と香水の匂いがする﹂
﹁ただいまコーキ、遅くなってすみません。祝賀会に引っ張り出さ
れてしまって⋮⋮﹂
﹁ふぅん⋮⋮どんな人がいたの?﹂
脱いだ上着を椅子にかけると、ジュリアスはご機嫌をうかがうよ
うに、背後から光希を抱きしめた。
彼から漂う甘い香りが不愉快で、光希は首に回された腕から、さ
り気なく逃げた。
﹁コーキ?﹂
﹁臭いから近寄らないで﹂
そっぽを向いて告げると、ごめんね、とジュリアスは微苦笑を浮
かべた。清めてきます、といい置いて部屋を出ていく。
苛立つ感情を制御できずに、冷静になろうとテラスで風に吹かれ
288
ていると、しばらくしてジュリアスが戻ってきた。
﹁コーキ、風邪を引きますよ。中に入っておいで﹂
返事をする気になれず、背中を向けたまま夜空を見つめていると、
ジュリアスの方からテラスにやってきた。包み込むように背中から
抱きしめられる。
急いできてくれたのだろう、髪が濡れている。金糸のような髪を
伝う雫が、光希の肌をひんやりと濡らした。
﹁髪⋮⋮濡れてるよ﹂
﹁中に入りましょう?﹂
優しく耳朶に囁く。そこで意地を張るのは止めて、大人しく中に
入った。絨緞の上に並んで座ると、昼間見た公宮の話を振ってみる
ことにした。
﹁驚いたよ、あんなに多くの女性がいるなんて知らなかった。三百
人はジュリアスの為に居るって聞いたけど、本当?﹂
﹁あぁ⋮⋮結構いるのですね。誤解しないでくださいね、私が望ん
ロザイン
で公宮に入れたのではありませんよ。周りが勝手に見繕って入れた
のです。もちろん、花嫁を得た今の私には不要ですから、公宮を解
散するよう神殿には伝えてあります。これから次第に公宮の女も減
っていくでしょう﹂
ジュリアスは平然と答えた。全く動じない杓子定規な説明に、な
んとなく腹が立つ。
289
﹁公宮のこと⋮⋮どうして、もっと早く教えてくれなかったの?﹂
﹁⋮⋮そうでしたか?﹂
﹃とぼけてんじゃねーよ﹄
白々しい返事に、光希にしては、低く冷たい声が出た。
ね
宥めるように肩に回された腕を、鬱陶しそうに跳ね除ける。苛立
ちを堪え切れずに立ち上ると、悪びれのない端正な顔を睨めつけた。
﹁本当のことを教えて。絶対に答えて。公宮にいる女と寝たことは
あるの?﹂
﹁⋮⋮ありますよ﹂
﹁⋮⋮へぇ、そう⋮⋮シェリーティア姫とは?﹂
﹁ありません﹂
﹁じゃあ、いつ、誰と寝たことがあるの?﹂
﹁十三で成人して神殿を出た後、公宮での暮らしと共に夜の習いが
始まりました。宮女を抱いたのは、その時が初めてです。それから
は⋮⋮気が向けば公宮を渡り、正直に話せば、あの頃どれだけ抱い
たか覚えていません﹂
﹁僕とオアシスで出会った後も⋮⋮誰かを抱いていた?﹂
真顔で問い質すと、ジュリアスは心外といわんばかりに眉をひそ
めた。真剣な眼差しで光希を見つめる。
290
﹁それは絶対にない。オアシスで巡り会えた日から、コーキしか抱
いていません﹂
一途な青い瞳に、やましい色は浮かんでいないように見えた。
嘘はついていない⋮⋮?
けれど、もう既に傷ついている。
過去をとやかくいっても仕方ないと判っていても、感情が追いつ
かない。
ジュリアスが与えてくれる熱はいつも心地よくて、身体を重ねる
ことは、愛を交わすことなんだって、昨夜は実感できたばかりなの
に。
あんなに特別なことを、親密な時間を、例え過ぎた日々でも、誰
かと交わしていたのかと思うと⋮⋮胸が締めつけられるような苦し
さに襲われた。
光希だけのジュリアスではなかったのだ。
291
Ⅱ︳17
﹁⋮⋮そっか。ありがとう、答えてくれて﹂
﹁待って、完結しないで。どうしてそんなに悲しそうな顔をしてい
るの?﹂
ジュリアスは立ち上ると、光希の肩を強く掴んだ。抜け殻のよう
な身体が、軽く揺れる。
﹁今日はさ⋮⋮祝賀会にどんな人がきていたの?﹂
すっかり落ち込んで落胆していたが、素直に感情を吐露する気に
なれず、代わりに別の話題を振ってみた。
きけん
﹁軍関係者や、皇族や貴顕達、公宮関係者から各国の賓客まで大勢
きていましたよ﹂
﹁皆で集まって、どんなことをするの?﹂
﹁どんなことって⋮⋮退屈な時間を過ごすだけですよ。食べて飲ん
で、踊って、世辞を聞いて⋮⋮﹂
端正な顔に目を注ぎながら、心は遠くにあった。思い知らされる。
ジュリアスのことを、何も知らないのだと。
今更ながら、出会ってから、まだ半年も経っていないのだと実感
ロザイン
する。
花嫁と呼ばれて、この先もやっていけるだなんて、どうしてそん
292
なに能天気に考えていられたのだろう。こんな状態で、本当に結婚
なんてできるのだろうか?
﹁コーキ⋮⋮?﹂
﹁あ、うん⋮⋮楽しそうだね。僕もいってみていい?﹂
﹁そう楽しいものではありませんよ?﹂
﹁駄目なの?﹂
﹁構わないけど⋮⋮一度顔を出すと、次を期待されて鬱陶しいので、
七日後の最終日だけ参加してみますか? 最終日はジャファールや
アルスラン達を含め、軍の人間も全員参加しますよ﹂
﹁ジュリがいく時は同行したい。今日みたいに遅い時間でも良いか
ら⋮⋮声をかけて。一人でいかないで﹂
﹁判りました。でも、無理はしないでくださいね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁表情が晴れませんね⋮⋮私のせいですか?﹂
その通りなのだが、何もいえずにいると、ジュリアスに抱きしめ
られた。
﹁ねぇ、祝賀会が明けたら結婚式っていっていたよね⋮⋮日程を伸
ばすことはできない?﹂
293
﹁どうして⋮⋮?﹂
身体を離すと、ジュリアスは怖いくらいに真剣な眼差しで、光希
の瞳を覗きこんだ。
いつもなら怯むところだが、この時は光希も冷静に見返した。
﹁結婚のこと、少し考えたい﹂
﹁なぜ?﹂
﹁この先、ジュリと暮らしていけるのか、自信がない﹂
﹁すみません、意味が判らない⋮⋮どういう意味? コーキ一人く
らい自信を持って養っていけるけど﹂
﹁そういうことじゃない﹂
﹁じゃどういうこと?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁話してくれないと判りませんよ﹂
さわ
その台詞は、酷く癇に障った。
﹃うるせーな、お前の方こそいちいち説明が足りねーんだよ﹄
﹁コーキ、怒らないで。ちゃんと話して﹂
もうこれ以上話しても感情的になるだけだと思い、ジュリアスの
294
手を振り払うと部屋を飛び出した。
﹁コーキ! 逃げるな!﹂
咎める声を背中に聞いた瞬間、目の奥から熱い涙が零れた。螺旋
階段を駆け下りる途中、後ろからジュリアスが追いかけてきた。
絶対に捕まりたくなかった。泣き顔を見られるくらいなら、死ん
だ方がマシだと思えた。
全速力で走ったのに、結局、玄関に辿り着く前にあっさり捕まっ
てしまった。
﹁コーキ!﹂
﹁嫌だ! 見るな! 離して! 離してぇっ!﹂
逃げ出そうともがいて、泣き喚いても、ジュリアスは離してくれ
ない。少し離れたところからナフィーサやルスタム達が心配そうに
こちらを見ている。
﹁見るな! いけ!﹂
ジュリアスの鋭い怒声を浴びて、使用人達は主に見えないよう姿
を消した。ナフィーサ達の背中に、夢中で叫んだ。
﹁待って、いかないでっ! 助けて!﹂
﹁いい加減にしろ! 私を⋮⋮怒らせるな!﹂
ろう
刹那、耳を聾する雷鳴と共に、青い稲妻が光希の足元に落ちた。
ジュリアスの怒りが、神力を呼び起こしたのだ。彼から発せられ
295
る青い燐光が、空気中に砕け散った。
さざなみ
焦げつき、砕けた床石を見つめながら、光希の身体は漣のように
震え出した。
﹁すみません⋮⋮﹂
彼にしては、酷く悄然とした声で呟くと、光希の腕から力なく手
を離した。光希は震える身体を、両腕で守るように抱きしめた。
お互いに、言葉が出てこなかった。
いつでも優しいジュリアスに、こんな風に怒りをぶつけられたこ
とがショックで、光希は無言で足を踏み出すと、玄関の扉に震える
手を伸ばした。
﹁︱︱いかないで。お願いだから⋮⋮今夜は一人で部屋を使って、
私は客間で寝ます﹂
ぼうだ
万軍を率いる英雄とは思えない、頼りない声だった。
魂が震える。滂沱の涙を流しながら、ジュリアスを想い、帰れな
い故郷を想い、どこにも逃げ場のない気持ちを持て余したまま、搾
り出すように呟いた。
﹁僕が、客間で寝ます⋮⋮﹂
きびす
踵を返してジュリアスを一瞥もせずに、ふらふらと客間の方へ歩
いていくと、どこからかナフィーサが現れて、泣きそうな顔で手を
引いてくれた。
296
Ⅱ︳18
夢を見た︱︱
眠っている光希の枕元で、軍服姿のジュリアスが懺悔するように
囁いている。
すみません⋮⋮怖い思いをさせて、悲しませて⋮⋮
私を嫌いにならないで
ロザイン
愛している⋮⋮私の花嫁⋮⋮
聞いている方が切なくなるような告白の後、額に触れるだけのキ
スをして一度離れる。
その後、我慢できないというように、もう一度顔を寄せて、頬、
瞼、最後に唇にキスを一つ。
くすぐったくて、身体が目醒めそうになると、すぐにジュリアス
は顔を離した。
けれど、部屋を出ていこうとはせず、しばらく傍に立つ気配を感
じていた。
目が覚めると、何となく唇に指で触れた。
見慣れない天井をぼんやりと仰ぎながら、じわじわと覚醒してゆ
く。
重たい気持ちと共に、昨夜の記憶が蘇った。結局、何一つ解決し
ないまま、泣き疲れて眠ってしまったのだ。
﹁お早うございます、殿下﹂
297
まるで光希の起きるタイミングを見計らったように、ナフィーサ
が部屋に入ってきた。
﹁お早う、ナフィーサ﹂
﹁こちらにお食事をお持ちいたしましょうか?﹂
﹁ジュリは?﹂
﹁お出かけになりました。殿下には、ごゆっくりお過ごしいただく
よう、仰せつかっております﹂
﹁はぁー⋮⋮﹂
爽やかな朝にそぐわぬ、重いため息が零れた。ジュリアスも、今
頃ため息をついているのだろうか?
仕事もあるのに、さぞ憂鬱だろう⋮⋮
食欲は殆どなく、果実水と果物だけ口にすると、身支度を整えて
ルスタムを呼んだ。
﹁お早うございます、殿下﹂
﹁お早う、ルスタム。今日も庭園にいきたいのだけど、案内しても
らえますか?﹂
﹁もちろんでございます。午後からになさいますか?﹂
﹁うん⋮⋮そうしようかな。その前に、公宮について教えてもらえ
ますか?﹂
298
﹁もちろんでございます。書斎に参りましょう﹂
一階に設けられた円形の書斎は、図書館のように広く、部屋の側
しゅろ
面には、天上まで届く飴色の本棚が並んでいる。
滑らかな棕櫚の机の背には、大きな格子窓があり、柔らかい陽射
しが部屋を照らしていた。
﹁素敵な書斎ですね﹂
﹁殿下がお過ごしになり易いようにと、シャイターンが特別に造ら
せたのですよ﹂
気さくに笑みかけられたが、素直に感謝し辛くて、光希は沈黙を
貫いた。
﹁ここには、アルサーガ宮殿の書庫にも引けを取らない、貴重な蔵
書が幾つも保管されています。文字はお読みになれますか?﹂
﹁公用語なら、何とか⋮⋮﹂
正直なところ、公用語でもどうにか、といったところだ。ルスタ
ムは光希を椅子に座らせた後、本棚を巡り、何冊か見繕ってから戻
ってきた。
﹁公宮には秘密が多く、証拠を残すような一般的な書物というのは、
実は殆ど存在しておりません。ですので、ここで目にした本は、決
して他言されぬよう、お気をつけください﹂
﹁はい﹂
299
﹁これは公宮に上がる際に渡される、指南書の控えになります。ご
覧の通り、宮のしきたりや、宮の行事について記されております﹂
指南書には、墨絵で男女の絡み合う絵も描かれていた。古風な春
本を見ているようだ。ぱらぱらと本を捲りながら、気になっていた
ことを訊ねてみることにした。
﹁ジュリから聞いたのですが⋮⋮十三歳で初めて女を抱いたって。
常識ですか? 十三歳って、すごく子供だと思うのだけど⋮⋮﹂
﹁シャイターンが特別なのです。成人は十三歳ですが、その年では
まだ精通も始まらない子もいますから。婚姻を結ぶ平均的な年は男
女共に十八歳頃になります。女は特にですが、結婚初夜まで処女で
いる者が殆どです﹂
﹁あ、そうなんですね⋮⋮﹂
日本よりも貞操観念は高いのかもしれない。安堵を覚える光希で
あったが、
﹁ですが、皇族やシャイターンのような権力者は、後継者を残すこ
とも義務の一つとされますから、閨のたしなみは性教育の一環とし
て普通に行われます﹂
さらりといわれた言葉に、光希は雷に打たれたような衝撃を覚え
た。
︵閨のたしなみッ!!︶
300
大きく目を見開いたものの、頓狂な声はどうにか堪えた。通算何
度目か判らない、常識という名の壁が崩れ落ちる音を、頭の片隅で
聴いた。
﹁ルスタムは、十三歳のジュリに会ったことがありますか?﹂
﹁はい。シャイターンが赤子の頃から従者をさせていただいており
ます。十五歳で初めてお会いして、それから彼が十三歳になるまで
の十年間、ずっとお傍で見て参りました﹂
﹁へぇ! そうなの﹂
ルスタムは、来し方を懐かしむように目を細めた。
﹁あの方が十三歳の頃は、声も高くおかわいらしい外見でいらっし
ゃいましたが、初陣から勝利を飾り、早くも武を示されておいでで
した﹂
静かに傾聴していると、言葉を途切らせ、ルスタムは迷った様子
を見せた。視線で問いかけると、逡巡してから口を開く。
﹁⋮⋮成長期は神力が身体に治まり切らず、よく熱を出して苦しん
宝石持ち
でおいででした。夜の習いが始まり、公宮へ渡る機会が増えました
が、快楽を得る為ではなく、体調を維持する為でした。
は私利私欲に乏しく、シャイターンも例外ではないのです﹂
それはさすがに、忠信が故の弁に聞こえた。光希にいわせれば、
そんなものは、精力が余っていただけに過ぎない。
冷めた目をしている光希を見て、ルスタムは困ったように微苦笑
を浮かべた。
301
﹁余計なことを申し上げました。シャイターンには内緒にしておい
宝石持ち
は感情に乏しいって、サリヴァンも話していました。
てくださいませ﹂
﹁
でも、彼も笑うし、ジュリはとても感情豊かだと思うけれど⋮⋮﹂
﹁いいえ、シャイターンは花嫁を得られて、本当にお変わりになり
ました。それまでは、長くお傍でお仕えしている私ですら、笑った
お顔を見たことがなかったのですから﹂
﹁本当に?﹂
﹁本当でございます﹂
信じられない⋮⋮疑いの眼差しを向ける光希を見て、ルスタムは
またしても困ったような苦笑を零した。
302
Ⅱ︳19
﹁あの⋮⋮ジュリの女って、どんな女でした?﹂
指南書の挿絵を見つめたまま、光希はさり気なく訊ねてみた。ル
スタムは少し黙考してから、口を開いた。
﹁過去の姫君達との関係が、気になりますか?﹂
﹁まぁ⋮⋮はい﹂
﹁私から申し上げるよりも、シャイターンの口から直接ご説明され
た方が宜しいでしょう﹂
﹁ジュリと話すと口論になるから⋮⋮教えてください﹂
弱気になりつつ請うと、ルスタムは困ったような、仕方なさそう
な顔をした。
﹁⋮⋮殆どは一夜限りのお相手でしたが、中には数回お渡りになっ
た姫君もいらっしゃいました。年若いシャイターンと比べれば皆様
年上で、閨にも精通されている方ばかりでしたよ﹂
﹁ふぅん。その人達はまだ公宮に?﹂
返事をしないルスタムを訝しみ、瞳を向けると、澄んだ蒼氷色の
瞳には迷いが浮かんでいた。
303
﹁いるんだ⋮⋮﹂
﹁いいえ! そうでは⋮⋮ですが私から申し上げて良いことなのか﹂
﹁教えてください﹂
﹁⋮⋮かしこまりました。いずれにせよ、公宮へいけばお耳に入る
こと。シャイターンは殿下の杞憂を晴らしたい、と正式に公宮解散
を命じられたのです。流石に一両日で解散とはなりませんが、本日
からご本人の意志で退去が認められております﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁どなたも今後のお渡りがないことは明らかですから。早い方は、
今朝にはもう出ていかれたそうですよ﹂
﹁そうなんだ。でも⋮⋮出ていきたくない姫も、いるのでは?﹂
脳裏に強い眼差しで睨む、シェリーティア姫の姿が浮かんだ。
宝石持ち
が花嫁を迎えた場合、それ以前の公宮
ロザイン
﹁だとしても、公宮解散が決まった以上、いずれは退去されなくて
はいけません。
は閉鎖するのが慣例ですから、時期が少々早まったに過ぎません﹂
﹁ということは⋮⋮シェリーティア姫も公宮を出ていくのですか?﹂
﹁はい、近いうちに﹂
迷いのない返答に、安堵が芽生えた。同時に、胸の上に苦い思い
が拡がる。
304
本音をいえば、彼女達の都合はどうでもよく、ジュリアスを狙う
女は一人残らずいなくなればいいと思っている。己の醜い心を突き
つけられているようだ。
﹁はぁー⋮⋮﹂
﹁殿下?﹂
﹁僕、きっと嫌われていますよね⋮⋮公宮へいって、平気でしょう
か?﹂
﹁⋮⋮周囲の眼が気になるのであれば、無理に足を運ばれなくとも
良いのでは?﹂
机の上に突っ伏していた光希は、身体を起こしてルスタムを仰い
だ。
﹁いや、いきたいです。ジュリの相手を見ておきたい﹂
﹁かしこまりました。それでは、僭越ながら何点かご忠告させてい
ただいてもよろしいでしょうか?﹂
﹁はい、お願いします﹂
﹁先ず、シャイターンの公宮解散について、既に知れ渡っていると
判りかねます
とだけお応えください﹂
お考えください。ただし、公式表明はされておりませんから、訊か
れても
﹁はい﹂
305
﹁社交の場では、その場にいる上位者に挨拶するしきたりがござい
ますが、殿下は公宮における最上位にあらせられますので、殿下か
らお声をかける必要はございません。逆に周囲からの挨拶が煩わし
い時は、お手持ちの扇子を広げてお顔を隠してください﹂
﹁扇子⋮⋮って、これか﹂
ナフィーサが腰帯に差してくれた、飾り紐のついた扇子を広げて
みた。
白金色の綺麗な扇子だ。てっきり装飾品だと思っていたのだが、
そのような用途があるとは知らなかった。
﹁はい。近寄るな、という意思表示になります。また、どなたかに
お声をかけたい場合は、直接足を運ばずに、使いの者を介してくだ
さい﹂
﹁判りました﹂
﹁殿下に無礼を働くような不届き者は居ないと思いますが、いけば
興味の的にされますし、見えぬ所で噂話もされることでしょう。そ
ういった公宮の世界が煩わしければ、しばらくお邸から出られずと
も良いと思うのですが⋮⋮﹂
﹁ありがとう、ルスタム。僕は平気です﹂
自然と笑みが浮かんだ。彼の親切が身に染みる。
でも、ここにいても、悪い方に考えてしまうだけだ。外へ出た方
が、いくらか気分もいいだろう。
﹁ご立派ですよ。公宮のしきたり等は少しずつ学んでいかれると良
306
いでしょう。足を運ばれる前に、あと一つだけ、位についてご説明
させていただきます﹂
﹁はい﹂
レイラン
﹁公宮での第一位は皇后陛下にございますが、残念ながらお隠れに
なって久しく、長らくアースレイヤ皇太子の四貴妃のお一人、西妃
様が第一位でございました﹂
美貌の宮女、リビライラを思い浮かべながら頷いた。子供もいる
のに、自分の他にも妃がいることを、彼女はどう感じているのだろ
う?
﹁シャイターンの花嫁でいらっしゃる殿下は皇后陛下の次の実権を
お持ちですので、現公宮では第一位となります﹂
﹁はい﹂
実感は微塵もないが、立場上、光希はリビライラを上回るという
ことだ。
﹁次に皇帝陛下の四貴妃、皇太子の四貴妃と続くのですが、皇帝陛
下は四貴妃以下をお持ちではございません。ですので、殿下の次、
第二位はアースレイヤ皇太子の四貴妃となります。四貴妃は公宮の
本殿とは別に室を賜ることを許され、それぞれ東西南北の別棟で暮
らしておいでです﹂
レイラン
そういわれると、西妃以外の四貴妃を見ていない。そもそも皇帝
の四貴妃はいないのか。
307
ルナラン
ユスラン
ピアラン
﹁四貴妃にも順位がありまして、上から西妃、北妃、東妃、南妃の
順に高位とされています。四貴妃の次に夫人、姫と呼ばれ、シャイ
ターンの公宮では姫の位しかおりません⋮⋮﹂
次第に混乱が深まり、光希は眉根を寄せて呻いた。
﹁うっ⋮⋮難しい。四貴妃は、リビライラ様と、あと三人いるので
すね﹂
﹁はい⋮⋮四貴妃がお揃いの時もございましたが、現在は西妃様の
他には、東妃様だけとなります﹂
﹁へぇ?﹂
事情が呑み込めず、光希は不思議そうに首を傾げたが、ルスタム
はそれ以上は口にしなかった。
308
Ⅱ︳20
午後になると、光希はルスタムを連れて公宮の庭園を訪れた。
少し離れた所から広大な庭園を眺めてみると、今日も数多の美女
達が自由に過ごしていた。
しゅんぷうたいとう
傍から見ただけでは、人が減っているようには感じられない。
春風駘蕩たる常世の楽園。
蒼空の下、巨大な円形噴水で肌を濡らして戯れている美女達。
あずまや
レイラン
日傘の下で本を読む美女。
四阿では優雅に西妃が寝そべっている。
シェリーティアは真っ白な蔓薔薇の傘の下で、幾人かの女達と歓
談していた。
別に話したいわけではないのだが、かつてジュリアスの婚約者だ
ったのかと思うと⋮⋮一挙一動が気になり、観察するように眺めて
しまう。
見れば見るほど、綺麗なお姫様だ。彼女に勝てるとは、到底思え
ない。なぜお前なのかと詰られても、何一ついい返せる自信がない。
美女達の輪の中に、半裸で寛ぐ男の姿を見つけて、光希はルスタ
ムを振り返った。
﹁彼は、男ですよね? どうして公宮に?﹂
﹁男でも容姿の美しい者は、召し上げられることがあるのです﹂
﹁男でも⋮⋮?﹂
﹁まぁ公宮ですから⋮⋮中には男色家もいますし、孕む心配がない
分、好んで召し上げる方も居るそうですよ﹂
309
怪訝そうな光希の顔を見て、ルスタムは判りやすく教えてくれた。
絶句である。こんなにも美しい公宮が、途端にいかがわしい場所に
見えてきてしまう。
﹁ジュリの姫の中にも男はいますか?﹂
﹁はい。何名かいらっしゃったと思います﹂
くらりと、眩暈がした。もう、公宮に関して驚くまいと思ってい
たが、甘かったようだ。
﹁シャイターンは公宮を顧みない方でしたから⋮⋮彼が好んで男を
召し上げた訳ではなく、周囲の計らいで用意されただけですよ﹂
しょうぜん
打ちのめされ、悄然とする光希を気遣うように、ルスタムはつけ
加えた。
﹁ジュリは、男を抱いたことあるのかな﹂
ひっそりと呟いた。聞こえたであろうルスタムは何も応えなかっ
たが、あるだろうと光希は確信していた。
思えば、彼は何もかも手慣れ過ぎていた。
キス一つにしても、顔を傾けることすら知らなかった光希に対し
て、ジュリアスは当たり前のように頬を寄せて、唇を合わせれば舌
を入れてくる⋮⋮
臆せず光希の肌に触れて、舌で、手で、全身を愛撫する。痛くな
いように、念入りに後ろも解してくれる。知っていたとしても、な
かなかできる行為ではないだろう。
310
︵ジュリが遠いよ⋮⋮︶
知れば知るほど、距離を感じる。
ことづて
入り口で足踏みしていると、西妃の使いの者がやってきた。言伝
を聞いて四阿に目をやると、儚げな美女が手を振っていた。
﹁お誘いありがとうございます。では、少しだけお邪魔させていた
だきます﹂
光希が誘いに応じるや、使いの者は再び主の元へと走り去った。
ようやく庭園に踏み入ると、こちらに気づいた美女達がたおやか
に膝を折る。会釈しそうになる衝動をどうにか堪えて、正面を向い
たまま四阿へと向かった。
﹁ごきげんよう、殿下。気持ちの良い午後に、殿下にお会いできて、
とても嬉しいですわ﹂
﹁こんにちは、西妃様﹂
﹁東方から珍しいお茶を取り寄せましたの。ぜひ殿下にもお飲みい
ただきたいわ﹂
リビライラは穏やかにほほえむと、手を鳴らして召使を傍に呼ん
だ。女王様然とした所作に、つい見惚れてしまう。
紅茶の芳醇な香りが辺りに漂う。
お茶の準備が整うと、小さな可愛らしいお菓子や果物を載せた、
白磁の大皿が光希の目の前に置かれた。
彼女はジュリアスの公宮解散については少しも触れず、当たり障
りのない公宮話を朗らかに話してくれる。空気を読むことに長けた、
話しているだけで癒される聡明な美女だ。
311
﹁僕はまだ、この庭園しか知りませんが、西妃様は他にどんな場所
がお好きですか?﹂
光希が訊ねると、西妃はかわいらしく小首を傾げてみせた。
﹁そうですわねぇ、私も午後は庭園で過ごすのが好きですの。あと
は大噴水や蒸風呂にもよくいきますわ。とても気持ち良いのですよ。
良ければ殿下もいらしてくださいませ﹂
﹁⋮⋮大噴水や蒸風呂って、服を着て入るのですか?﹂
リビライラは不思議そうに首を傾げた。
﹁まぁ殿下、それでは衣装が濡れてしまいますわ。もちろん裸で入
るに決まっております﹂
誘っている相手は、一応男なのだが⋮⋮彼女は、判っているのだ
ろうか?
狼狽える光希を見て、リビライラは察したように説明してくれた。
﹁公宮内では男女の区別はありませんの。主人を癒し、お守りする
使命は等しく同じですから。本殿の泉や風呂では男女共に裸で寛い
でおりますわ﹂
唖然呆然。光希は開いた口がふさがらなかった。
︵自由すぎるだろうッ!︶
裸の男女が同じ風呂に入って、間違いが起きたりしないのだろう
312
か? そもそも羞恥心はないのだろうか?
﹁興味がおありでしたら、今度いらしてくださいませ。ご案内いた
しますわ﹂
﹁⋮⋮アースレイヤ皇太子や、ジュリもいくのですか?﹂
﹁アースレイヤ皇太子は時々いらっしゃいますが、シャイターンは
お見かけしたことはありませんわね﹂
安堵しつつ、アースレイヤがいくことに驚きを隠せなかった。優
あっぱれ
しげな美貌だったが、見た目によらず、酒池肉林なのだろうか?
もう、ここまで想像を突き抜けていると、いっそ天晴という気が
してきた。
大勢の裸美女に囲まれて風呂に入るのは、どんな感じなのだろう。
男なら一度は夢見る展開ではなかろうか?
むしろ、どうしてジュリアスはいかないのだろう?
風呂が嫌いなわけではあるまい。光希とは嬉々として一緒に風呂
に入っていた。では、美女に興味がないのだろうか?
︵そんな馬鹿な︶
ふと閃いた。いっそ腹いせに、好き勝手に振る舞ってやろうか。
光希が公宮の頂点だというのなら、思うがまま美女を侍らせ、奉仕
させたとしても誰も文句はいえないのでは?
心の内でため息をついた。張り合ってどうする⋮⋮そんな真似を
したら、余計にこじれてしまう。
﹁いいえ、僕はいきません。教えてくれて、ありがとうございます﹂
313
﹁残念ですわ。楽しそうだと思ったのですけれど⋮⋮そうですわ、
ブランシェットを誘ってみませんこと?﹂
﹁えっ!?﹂
﹁うふふ、あの娘がお気に召したのではありませんこと? 昨日は
随分、熱心に見つめていらっしゃったわ﹂
図星を指されて、心臓が跳ねた。悪戯っぽい光を瞳に灯して、リ
ビライラはほほえんでいる。
﹁近くにいると思うの。ブランシェットを呼んできて﹂
止める間もなく、リビライラは使いの者を飛ばしてしまった。
﹁西妃様、彼女はかわいいなと思うけど、僕は⋮⋮﹂
﹁実は昨日、ブランシェットから、もっと殿下とお話ししたいと相
談されましたの。内気な娘だから、つい力になってあげたいと思っ
てしまって。私、お節介だったかしら?﹂
﹁えっ?﹂
本当だろうか?
すっかり光希が動揺している間に、リビライラの使いの者がブラ
ンシェットを連れて戻ってきた。
314
Ⅱ︳21
レイラン
﹁ごきげんよう、殿下、西妃様。お招きありがとうございます﹂
可憐な美少女は、はにかんだようにほほえんだ。目の錯覚なのか、
ブランシェットの周りだけきらきらと輝いて見える。
﹁ごきげんよう、ブランシェット。蒸風呂についてお話ししていた
のよ。誰もいない早朝に、一人で入るのも気持ちが良いのよねぇ。
ブランシェットも蒸風呂はお好きかしら?﹂
﹁はい⋮⋮西妃様﹂
少女は、か細い声で頬を染めて頷いた。無言で茶を啜りながら、
光希は内心で身悶えていた。
﹁では、今度皆で一緒にいきませんこと?﹂
とんでもない爆弾発言に、光希は飲んでいた茶を噴き出しかけた。
隣を見れば、ブランシェットも真っ赤になって俯いている。
﹁僕はいきませんから、皆さんでどうぞ⋮⋮﹂
﹁あら、それではつまらないわ。ブランシェットは、どんな所が好
き?﹂
﹁私は⋮⋮庭園や薔薇園、川べり、あとは図書室が⋮⋮﹂
315
﹁ブランシェットらしいわ。本が好きですものねぇ﹂
納得したように、リビライラは頬に手を当てて頷いた。
﹁では今度、籠を持ってアール川へいきましょうよ。煌めく水面を
眺めながら、のんびり過ごすのですわ。気分が晴れますわよ﹂
優美なアール川の情景を思い浮かべて、光希は心を和ませた。晴
れた日に出かければ、さぞ気持ち良いだろう。
﹁楽しそうですね。それなら、僕もぜひ⋮⋮﹂
﹁素敵ですわ。私も⋮⋮⋮﹂
声が重なり、ブランシェットと顔を見合わせた。明るい気持ちが
こみあげて、笑みが零れる。
﹁ふふ、約束ですわよ。後で招待状を送らせていただきますわ﹂
何を持っていこうか、いつにしようかと話は膨らみ、気づけば陽
射しが大分傾いていた。
人が増える前に退散しよう、と光希は席を立った。挨拶をして四
阿を出ていこうとすると、
﹁あの⋮⋮殿下、これを⋮⋮﹂
控えめな声でブランシェットに呼び止められて、飾り紐を手渡さ
れた。薔薇の押し花がされた上品な栞だ。
かわいらしい贈り物に目を注いだ後、光希はブランシェットに視
線を戻した。少女は柔らかい青灰色の瞳を和ませて、蕩けてしまい
そうな笑顔を浮かべた。
316
﹁薔薇園の花びらを使って、私が作りましたの﹂
﹁貰っていいのですか?﹂
﹁はい、ぜひ⋮⋮﹂
﹁ありがとう⋮⋮大切にします﹂
噛みしめるように応えると、少女は頬を染めてはにかんだ。かわ
いらしい反応に、光希は胸をときめかせた。
ルスタムの物いいたげな視線を無視して四阿を出ると、馬車へ向
かう途中で、シェリーティアが一人で近づいてきた。
緊張しながら待っていると、勝気そうな美少女は笑みを湛えて優
雅に膝を折った。
﹁ごきげんよう、殿下。お会いできて光栄に存じます﹂
﹁こんにちは⋮⋮シェリーティア姫﹂
いとま
﹁お呼び止めして、申し訳ありません。近く公宮をお暇させて頂く
ことになり、ご挨拶に参りました。我等がシャイターンとの御婚礼
を、心よりお喜び申し上げます﹂
﹁ありがとうございます⋮⋮﹂
なかむつ
﹁失礼ながら、四阿では随分と仲睦まじいご様子でいらっしゃいま
したが、二心はございませんわよね?﹂
蒼氷色の瞳がきらりと光る。光希が息を呑んで固まると、代わり
317
にルスタムが窘めるように口を開いた。
﹁お控えください、シェリーティア姫。殿下の御前ですよ﹂
けんせき
﹁不作法は承知の上にございます。公宮事情に明るくない殿下の御
身を心配すればこそ、譴責は覚悟の上で申し上げております﹂
﹁シェリーティア姫﹂
ルスタムの声が険を帯びる。前に出て遮ろうとするルスタムを、
光希は片手で制した。シェリーティアは毅然と光希の瞳を見て、切
り出した。
﹁西妃様は外見と違い、大変恐ろしい方です。ブランシェット姫も
西妃様に逆らうことはできません。何も知らぬまま公宮を解散すれ
ば、西妃様が最大勢力になります。不用意な接触には、お気をつけ
なさいませ﹂
忠告の意図が判らず、光希は首を捻った。遠回しに、公宮を解散
するなといいたいのだろうか?
﹁西妃様と会話をしては、いけないのですか?﹂
﹁⋮⋮? リビライラ様はアースレイヤ皇太子の西妃様なのですよ
?﹂
不得要領に頷く光希を見て、今度はシェリーティアが訝しげに眉
をひそめた。
﹁殿下は御存知ないのですか?﹂
318
﹁シェリーティア姫、このような場でお止めください。殿下には私
からご説明させていただきます﹂
会話を遮るように、厳しい眼差しでルスタムは前に進み出た。
﹁⋮⋮出過ぎた真似をいたしました﹂
気丈な少女は、ルスタムの譴責に怯みはしなかったが、態度を改
め、深く頭を下げた。
319
Ⅱ︳22
馬車に乗り込み扉を閉めると、光希はルスタムに詰め寄った。
﹁さっきの、どういうことですか?﹂
レイラン
ロザイン
﹁無礼な振る舞いではありましたが、リビライラ様はアースレイヤ
皇太子の西妃なのだから、政敵にあたるシャイターンの花嫁に近づ
くのは目的がありますよ、という忠告をしたかったのでしょう﹂
﹁アースレイヤ皇太子の政敵⋮⋮ジュリが?﹂
﹁はい。西全土における軍事の象徴、聖戦を切り抜け、花嫁と共に
凱旋を果たした英雄の存在は、アースレイヤ皇太子にとって脅威な
アンカラクス
のです。しかもシャイターンは、王族を超える身分である賢者︱︱
神剣闘士に昇格いたしました﹂
言葉もなく茫然とする光希に、ルスタムは更に続ける。
﹁これまで、シャイターンは何度もお命を狙われてきました。公宮
でも幾度となく刺客に襲われていますし、先の聖戦でも、アースレ
イヤ皇太子の指示で、最前線で指揮を執らされておりました﹂
よぎ
凱旋の日に笑みかけられた、美貌の皇太子の空色の瞳が脳裏を過
った。あの優しげな美しい人が、ジュリアスを殺そうとしていると
いうのか?
﹁アースレイヤ皇太子は、ジュリの敵⋮⋮﹂
320
﹁あの方は穏やかな外見と違って、相当な野心家です。皇帝に座す
時に備えて支持率を高めておきたいのに、シャイターンに名声が集
まり過ぎていることを恐れています﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁例えばもし、重大な取り決めをする際にシャイターンが反対意見
を唱えれば、今のアースレイヤ皇太子は無視できないでしょう。周
囲がシャイターンを支持するからです﹂
﹁ジュリはそんなこと、一言も⋮⋮﹂
いわなかった。
怒りともつかぬ哀しみに襲われて、光希は唇を引き結んだ。どう
してこう、次から次へと知らないことばかり明らかになるのだろう。
いわれてみれば、凱旋の日、ジュリアスのアースレイヤへの態度
には、引っかかるものがあった。
おめでとうございます、シャイターン。かわいらしい花嫁を見つ
けましたね
ええ、本当に。砂漠を駆けた甲斐がありました。身に余る幸運を
神に感謝しております
互いにほほえんではいたけれど⋮⋮ジュリアスには、どこか凄む
ような迫力があった。あれは二人の間にある確執の片鱗だったのだ
ろうか。どうして、教えてくれなかったのだろう⋮⋮
﹁戦場に身を置いていた時は、きっとご説明する余裕も無かったの
321
でしょう。宮廷の人間関係は、遠く離れてしまえば目に映らぬもの
ですから⋮⋮﹂
沈んだ光希の顔を見て、ルスタムは慰めを口にした。思い遣りを
耳の片隅で聴き流しながら、心は思考の迷宮を彷徨う。
正直、アースレイヤに対しては美しく優しげな青年という印象し
かない。瞳が合った時、受け入れられていると感じたのは、気のせ
いだったのだろうか?
リビライラとブランシェットも、先ほど出かける約束をしたばか
りだ。
あんなに朗らかに笑い合っていたのに。あの笑顔に裏があると?
逆に、さぞ恨まれているだろうと思っていたシェリーティアには、
助言めいた忠告をもらった。
妬みがあったとしても、腹を明かした彼女は、潔かったのではな
かろうか?
何を信じて、何を疑えば良いのだろう⋮⋮
邸に戻ると、ナフィーサが笑顔で迎えてくれた。昨日ぼろぼろに
なった玄関は、早くも修繕されている。
﹁お帰りなさいませ、殿下﹂
﹁ただいま⋮⋮ジュリは?﹂
﹁まだお帰りになっておりません﹂
﹁そう⋮⋮﹂
二階の私室に上がろうか迷い、ぼんやり左右の螺旋階段を見上げ
たものの⋮⋮やはり上がる気にはなれなかった。
322
まだ、顔を合わせるのは怖い。顔を見たらまた感情が爆発して、
冷静に話せなくなりそうだ。
﹁⋮⋮僕、先にお風呂入ります。今日も客間を使っていい?﹂
﹁はい、殿下。お食事はいかがなされますか?﹂
﹁それも客間で﹂
いいながら背を向けて歩き出し、客間に入ると寝台に背中から倒
れた。
﹃はぁー⋮⋮疲れた﹄
目を瞑ったらそのまま眠ってしまいそうで、気合いを入れて起き
合がると、屋内の浴場に向かった。
汗を流して、さっぱりした気持ちで客間に戻ると、扉に背を預け
て、腕を組んだジュリアスが待っていた。
思わず息を呑んで立ち尽くすと、彼もすぐに気づいて姿勢を正し
た。
﹁お帰り⋮⋮コーキ﹂
﹁ただいま⋮⋮﹂
近づくのを躊躇っていると、誘導するようにジュリアスは扉を開
いた。視線に促されて中へ入ると、当然ジュリアスも一緒に入って
きた。
﹁昨日は、本当にすみませんでした。怖い思いをさせて、泣かせて
323
⋮⋮許して欲しい﹂
扉を閉めるなり、ジュリアスは光希に向き合い、謝罪すると共に
頭を下げた。真摯な姿を見て、心が震える。
﹁⋮⋮僕も、怒鳴ったり、泣いたりしてごめん﹂
情けない声で応じると、ジュリアスはゆっくり顔を上げて、慎重
に光希との距離を詰めた。
心を汲み取ろうとするように、腰を屈めて、青い瞳で光希の顔を
覗き込む。
真っ直ぐな視線に耐え切れず、光希の方から視線を逸らした。
324
Ⅱ︳23
﹁今日、私の公宮に解散を命じました。婚姻を迫りながら、公宮を
整理仕切れていなくて申し訳ありません。別邸を建てることばかり
気を取られて、本殿の公宮を失念していました﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁目を合わせては、くれませんか?﹂
仕方なく視線を合わせると、こちらをうかがうように、ジュリア
スは両腕を拡げて一歩を踏み出す。触れられるのが嫌で、光希は後
じさった。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
所在なさげに佇む光希を見て、ジュリアスは何かをいいかけて、
止めた。
﹁触れられるのも、嫌?﹂
彼らしからぬ、自嘲めいた口調だった。態度が悪いと自覚してい
ても、感情を制御できない。
﹁仲直りがしたい⋮⋮コーキの不満を聞かせて欲しい﹂
﹁不満⋮⋮﹂
﹁教えて?﹂
325
﹁公宮は解散したといわれても、なんだか⋮⋮気分が悪い﹂
﹁すみません。過去はどうにもできないけれど、これからできるこ
とがあれば、全力で応えてみせます﹂
怖いくらいに、真剣な眼差しを向けられる。ふて腐れている光希
と違って、ジュリアスの姿勢は真っ直ぐだ。
どうして、同じように前を向けないのだろう?
一歩を詰められれば、一歩下がった。
まるで、二人の心の距離のようだ。伸ばされた手が濡れた髪に触
れそうになると、顔を背けて拒んだ。
﹁コーキ⋮⋮触れたい。触れさせて﹂
切ない声に、心を揺さぶられる。その手に縋りたいのに、縋れな
い。過去に嫉妬しても仕方がないのに、どうして割り切れないのだ
ろう。
このままでは、お互いに苦しいだけだ。
ジュリアスは、頭を下げて謝ってくれた。光希も意地なんてはら
ずに、謝ってしまえばいいッ!
そう思っているのに、身体がいうことをきかない。どうしても素
直になれない。慎重に伸ばされた手から、身体を引いて逃げてしま
う。
﹁コーキ⋮⋮﹂
失望の滲んだ、哀しげな声が胸に刺さった。
﹁ごめん⋮⋮ジュリ⋮⋮﹂
326
搾り出した声は、潤んでいた。泣くまいとする光希を見て、ジュ
リアスは歯痒げな表情を浮かべている。
﹁そんな離れたところで泣かないで。慰めさせて﹂
﹁泣いて、ないッ﹂
声が震えないように、唇を噛みしめて、首を振った。
どうしても、公宮で見た光景を受け入れられない。あんなに美女
がいるなんて、全然知らなかった。十三歳から通っていたなんて、
初めて聞いた。
ジュリアスが遠い。
歩んできた何もかもが、違い過ぎる。手を繋いだのも、キスだっ
て全部ジュリアスが初めてなのに、彼はそうではないのだ。考え方
からして違う。
せめて、彼の口から聞きたかった。傷つき、悩むにしても、人か
ら聞かされるのではなく、彼自身に話して欲しかった。
大切にされていると、判っている。けれど、埋まらない距離がも
どかししい。追いつきたいのに、彼の背中が遥かに遠い。
﹁コーキ⋮⋮﹂
伸ばされた手を見て、反射的に叫んだ。
﹁いらない!﹂
腕をつき出して近づくのを拒むと、伸ばした手を両手に包まれた。
﹁⋮⋮!? さわっ﹂
327
﹁手だけ、だから﹂
包み込む手の暖かさに戸惑っていると、掌の内側を、親指で摩ら
れた。
﹁⋮⋮ッ﹂
執着を示す触れ方に肌が粟立ち、強引に手を引き抜いた。距離を
取ってジュリアスを仰ぐと、ものいいたげな視線が返される。
﹁⋮⋮明日の夜、祝賀会に呼ばれました。コーキも一緒にいきます
か?﹂
﹁ジュリも、いく?﹂
﹁陛下からお声を頂戴したので、断れそうにありません。私は一人
でもいくけれど、コーキは無理しなくても﹂
﹁僕もいきます﹂
昨夜のように、光希の知らない、酒や香水の匂いを纏って帰って
くるジュリアスを見るのは嫌だった。傍にいるのも辛いけど、離れ
て勝手に落ち込むのはもっと辛い。
﹁判りました。あと⋮⋮今夜は、客間ではなく、二階を使ってくだ
さい。コーキの部屋なのですから﹂
﹁このお邸は、ジュリのものだよ⋮⋮﹂
﹁二人のものです。コーキが過ごしやすいように、建てたのです。
328
私を含め、何かに遠慮をする必要はありませんよ﹂
﹁⋮⋮ジュリは、どこで寝るの?﹂
﹁一緒に寝るのは、嫌?﹂
寂しそうに訊ねられ、思わず返答に詰まった。申し訳なく思いな
がら、首を縦に振る。
﹁⋮⋮せめて、二階まで送らせてください﹂
差し伸べられた手を見て躊躇したが、彼の譲歩を拒むのは流石に
忍びなくて、大人しく手を重ねた。
螺旋階段を、ゆっくりと登る。
ようやく二階の私室に辿り着くと、名残り惜しそうにジュリアス
は手を離した。部屋に着いたのに、彼は動こうとしない。恐る恐る
顔をあげると︱︱
﹁⋮⋮ッ﹂
熱のこもった青い瞳と視線がぶつかった。
視線を泳がせ、後ろ手に真鍮の扉ノブを探っていると、頬に手を
添えられた。視線を戻すと、ゆっくりと神々しい美貌が近づいてく
る⋮⋮手で阻もうとしたら逆に指先を捕えられた。
指先に唇が触れて、身体が硬直する。固まっている間に、唇が重
なった。
﹁んっ⋮⋮﹂
唇が離れる瞬間、柔らかく上唇を食まれた。見つめ合う青い瞳の
329
奥に、熱が灯っている。
触れて欲しい。触れられたくない。
相反する想いに揺れている間に、ジュリアスは情熱を抑え込んで
瞳を閉じた。親密な空気を流して身体を離すと、扉を開いて光希の
背中を押しこんだ。
﹁お休み。また明日﹂
慌てて振り返ると、扉は静かに閉まるところだった。
330
Ⅱ︳24
翌朝、光希は身支度の為に朝から拘束される羽目になった。
﹁祝賀会は夜からでは? 後で身支度すれば⋮⋮﹂
ロザイン
ぐし
﹁いいえ、殿下はシャイターンの花嫁なのですから、腕によりをか
けて着飾らせていただきます。お肌のお手入れ、お髪のお手入れ、
やることはたくさんございますよ﹂
ナフィーサは張り切って告げると、手を鳴らして召使を呼んだ。
﹁殿下のご入浴をお手伝いなさい。清めたら香油で全身を磨きあげ
るのです﹂
﹁かしこまりました﹂
ぞろぞろと部屋に入ってくる召使達を見て、光希は焦ったように
声を上げた。
﹁待って! 風呂なら一人で﹂
﹁いいえ、殿下。この者達は美容に精通しております。さぁさぁ、
安心してご入浴なさいませ﹂
笑みを湛えてナフィーサが告げると、さぁさぁ、こちらでござい
ます殿下、と洪水に流されるが如く、召使達により光希は浴場へ連
れ去られた。
331
﹁わぁ︱︱ッ! 待って待って、服くらい脱げます!?﹂
よってたかって服を脱がされ、あれよという間に木椅子に座らせ
られた。足を合わせて秘所を隠している間に、髪や背中を手際よく
洗われていく。
大事なところはどうにか死守したが、足の指の合間まで人に、そ
れも女性に跪かれて洗われてしまい、光希は何度も声にならない悲
鳴を上げた。
﹁はぁ⋮⋮﹂
薔薇やジャスミンの浮いた湯船につかる頃には、披露困憊してい
た。
暖かな湯の中で重いため息をつく。その間にも、少し離れたとこ
ろで召使達が花びらや果物を湯に投入している。
風呂から上がると、今度は寝台に横になるようにいわれて、抵抗
も虚しく全身を手入れされた。除毛液を塗られて、全身つるつるに
させられたのだ。
﹃やめてくれよ∼もう⋮⋮女じゃないんだからさぁー⋮⋮﹄
つるつるになった腕を見て、光希は情けなくも涙ぐんでしまった。
砂漠にいた時ですら、ここまではされなかったのに。
今日は徹底的に全身を磨かれている。陰毛まで綺麗に整えた揚句、
除毛液で溶かされた。
肌を再び湯で流した後、檸檬水を飲みながら、花びらの浮いた湯
に入れられる。
髪に香油を塗り込み、爪を綺麗に磨いて、全身を研いて⋮⋮全て
が終わる頃には昼を大分過ぎていた。
332
朝から入浴を開始して、五時間以上にも及ぶ苦行であった。
﹁公宮の女は、皆こんなことしているの?﹂
テラスで軽食を口にしながら、光希は疲れきった口調で問いかけ
た。
﹁当然です。美しくあることも、宮女の務めでございます。公宮に
大浴場や蒸風呂が数多く用意されているのは、その為でございます
よ﹂
﹁女って大変なんだね⋮⋮﹂
﹁ですが殿下、大変お綺麗になられましたよ。何事も努力あってこ
そにございます﹂
晴れやかな笑みを浮かべるナフィーサの言葉に、光希は無言で応
えた。
﹁⋮⋮いつもより量少ないね。僕もう少し食べたい﹂
﹁あまりお召しになると、お着替えが辛くなりますよ。夜には豪勢
なお食事が用意されますから、我慢なさいませ﹂
やれやれ⋮⋮朝から数えて、通算何度目かのため息をついた。
レイラン
ふう
﹁ところで殿下、先ほど西妃様からこのような招待状が届きました﹂
ろう
受け取った封筒には、燕の意匠が描かれており、鈴蘭の紋章の封
燭が押されていた。
333
封を開けると、レース状に縁抜きされた手紙が一枚、とても美し
い書体で綴られている。先日、四阿の下で約束した、ピクニックの
正式なお誘いだ。
﹁うん⋮⋮出かける約束をしているんだ。返事したいな﹂
﹁良ければ代筆いたしましょうか? 西妃様からのお手紙も代筆で
しょう﹂
﹁そう? じゃあお願いします。お誘いありがとうございます、楽
しみにしています、って書いておいてください﹂
﹁かしこまりました﹂
手紙をナフィーサに渡してテラスから戻ると、用意された衣装を
見て噴き出しそうになった。
﹁何これ﹂
﹁特別にご用意しました、夜会衣装にございます﹂
用意された衣装は、上下に分かれた腹の出る縫製で、踊り子の衣
装のようだった。繊細な金糸のレースに硝子の珠玉をふんだんにあ
しらい、裾は金魚のようにひらひらしている。どこからどう見ても、
女物だ。
砂漠で着せられた衣装に比べれば露出は少ないが、凱旋の時に見
た貴婦人達の恰好と比べると明らかに露出が高い。
﹁これ、男が着るの?﹂
334
思わず、死んだ魚のような眼差しになった。
﹁宮女の礼装にございます﹂
沈んだ空気に気づかず、ナフィーサは真顔で応えた。
﹁もっと普通の服はないの? ナフィーサや、ジュリみたいな服が
いい﹂
ジュリアスはいつも軍服か、落ち着いた貴公子然とした恰好をし
ている。ナフィーサは足まで隠れる神官の聖衣を羽織っており、ど
ちらも肌の露出は殆どない。
﹁ですが、殿下は公宮の主にございますから⋮⋮それに今日は初の
お披露目にございます。服装に乱れがあってはなりません﹂
困り顔のナフィーサを見て、光希は絶句した。これも十分、乱れ
た服装に見えるが、正しい礼装らしい。
頭痛を堪えるように、光希はこめかみを揉みほぐした。
かくして準備は整った。
腹の出た衣装を着て、薄化粧を施し紅を引いた光希は、虚ろな眼
差しで寝椅子に腰かけている。
頭髪には、ジュリアスから贈られた、えもいわれぬ煌めきを放つ、
青いダイヤモンドのティアラを飾り、耳にも腕にも揃いの宝石をつ
けている。爪や手の甲にも、金色の化粧を施されていた。
黄昏、帰宅したジュリアスは、着飾った光希を見て眼を輝かせた。
﹁何て美しいのだろう⋮⋮私の花嫁⋮⋮困ったな、誰にも見せたく
ありません﹂
335
褒められても嬉しくない。光希は複雑な心境で、気まずそうに視
線を逸らすのであった。
336
Ⅱ︳25
ロザイン
﹁私の花嫁、立ってみて。もっとよく見たい﹂
嬉しげに請われて、光希はぎこちなく立ち上がった。ジュリアス
の視線がつま先から頭のてっぺんまで這う。肌が露出している部分
には、特に強く視線が留まった。
﹁この恰好、かなり恥ずかしいんだ﹂
視線に耐え切れず、思い切って顔を上げてみた。
﹁お似合いですよ⋮⋮本当に、とても綺麗だ﹂
眩しいものを見る眼差しに、居心地の悪さを覚えながら、光希も
ジュリアスを眺めた。
今日はいつもより瀟洒な装いをしている。黒で統一されているけ
れど、真っ黒というわけではなく、襟や袖の縁取りの銀刺繍が色を
添えている。緩やかなウェーブの金髪には、青いティアラを飾って
おり、物語に登場する異国の王子様のようだ。
﹁ジュリも恰好いいよ﹂
世辞ではなく本心から告げると、ジュリアスは嬉しそうにほほえ
んだ。
二人の間に和やかな空気が流れるのは、久しぶりな気がする。ジ
ュリアスもそう感じているのか、なかなか部屋を出ようとせず、ナ
フィーサが時間を告げにやってくると、名残り惜しそうに部屋を出
337
た。
二人で馬車に乗った後も、対面の席から、ジュリアスはずっと光
希を見つめていた。
﹁⋮⋮そんなに見ないで﹂
口にしたら、何だか余計に恥ずかしくなった。
﹁すみません、光希がすごく綺麗だから⋮⋮﹂
照れたように口元を抑えると、ジュリアスはふいと視線を逸らし
た。
なんだろう⋮⋮まるで自分が、美少女になったような気がしてく
る︱︱ありえない。ナフィーサ達のおかげで、髪も肌も綺麗にして
もらったが、相変わらずぽっちゃり体系だし、平凡な顔立ちに変わ
りはない。
何やら甘酸っぱい空気に二人して照れてしまい、窓の外を眺めた
り、顔を伏せたりしてやり過ごした。
アルサーガ宮殿の正門に辿り着くと、既に幾つもの馬車が停まっ
ていた。ジュリアスは先に下りると、当然のように手を差し伸べる。
素直に手を借りて降りると、そのまま腰を抱かれた。文句を口にし
びろうど
かけたが、見上げるほどに高い吊り橋門に気を取られ、腰に回され
た腕のことは意識から消えた。
大広間に続く廊下は、花冠の掛けられた照明に照らされ、天鵞絨
の赤絨緞が真っ直ぐ敷かれていた。
着飾った紳士淑女達が、赤絨緞の上を優雅に渡っていく。
アークナ
会場に足を踏み入れると、楽士隊が金管の音色を響かせた。集ま
った人々が一斉に振り返る。
イツ
﹁アッサラーム・ヘキサ・シャイターン率いる大将、並びに魔道騎
338
士ジュリアス・ムーン・シャイターン、そして花嫁のご入場にあら
せられます。アッサラームに栄光あれ!﹂
﹁﹁﹁アッサラームに栄光あれ!﹂﹂﹂
ジュリアスと光希は、熱狂的な歓呼によって迎えられた。金、銀、
青、赤⋮⋮様々な色の花びらが頭上から降り注ぐ。
綺羅、星のような眩い別世界。
会場の中央には宝石を散りばめた豪奢な噴水があり、正方形の泉
にはジャスミンの花や灯篭が幾つも浮かび、きらきらと水面を照ら
している。
異国情緒に溢れる音楽に包まれ、噴水や泉の傍では、踊り子たち
が鈴を鳴らして踊っている。銀の大皿を頭に載せた召使達までもが、
緩やかな腰遣いで踊っていた。
この世の贅を集結したかのような宴の様子に、光希は口を開けて
立ち尽くした。ジュリアスに支えられて、どうにか足を踏み出す。
﹁声をかけられないうちに、隅に移動しましょう﹂
祝いの言葉を流星雨のように浴びながら、人の洪水を縫うように
して隅に移動した。
人目を避けられる場所まで移動すると、ジュリアスが給仕から杯
を二つ受け取り、片方を手渡してくれた。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして。足は辛くありませんか? どうぞ椅子にかけ
て﹂
勧められるまま、何も考えずにふかっとした椅子に腰かけた。彼
339
は立ったままであることに気がついて、周囲を見渡したが、他に空
いている椅子はなさそうだ。
﹁私は平気です。立っている方が楽ですから﹂
﹁そう?﹂
ようやく一息ついて辺りを観察してみると、光希と似たような格
好をしている女をちらほら見かけた。中には公宮で見かけた顔もあ
る。シェリーティアやブランシェットもきているのだろうか?
﹁誰かお探しですか?﹂
見知った顔を探していると、ジュリアスに声をかけられた。
﹁公宮の知り合いが、きているかもしれない﹂
﹁例えば?﹂
﹁⋮⋮えっと、パールメラ姫やブランシェット姫﹂
なんとなく、シェリーティアの名前は出さなかった。アースレイ
ヤ皇太子の宮女であれば、流石にジュリアスも関係していないだろ
う。
﹁そうですか。あまり⋮⋮﹂
きけん
口調から苦言を予期して身構えていると、光希の知らない貴顕達
が、ジュリアスに近づいてきた。
340
﹁この度の凱旋、誠におめでとうございます﹂
﹁シャイターン、花嫁とのご婚礼、誠におめでとうございます﹂
﹁可憐な花嫁でございますな﹂
ことほ
彼等は口々に婚姻を言祝ぎ、盃を掲げた。
光希はぎこちない笑みを浮かべたが、ジュリアスの方は淡々と相
槌を打つだけで、花嫁を疲れさせてしまいますから、と彼等を追い
きけん
払ってしまった。そっけない態度に、光希は内心で酷く驚いた。
その後も、ジュリアスに声をかける貴顕達は後を絶たなかったが、
彼は誰に対してもつれない態度を崩さなかった。
礼儀正しい彼にしては、らしからぬ態度だ。誰に対しても、人当
りよく振る舞うのだろうと想像していた光希は、意外な思いを隠せ
ずにジュリアスを見上げた。前を見据える表情は、凛と美しいが、
冷たい印象を与える。
﹁ん?﹂
光希の視線に気づいたジュリアスは、無表情を溶かして首を傾げ
た。光希の心を汲み取ろうとするように、瞳を覗きこんでくる。
そのあからさまな変化を見て、ふと先日のルスタムの言葉を思い
出した。
いいえ、シャイターンは花嫁を得られて、本当にお変わりになり
ました。それまでは、長くお傍でお仕えしている私ですら、笑った
お顔を見たことがなかったのですから
あれは、ルスタムが大げさにいったわけではなく、本当のことだ
ったのかもしれない。
341
342
Ⅱ︳26
ジュリアスに声をかける人間は多いが、大抵の者はつれない態度
であしらわれるうちに、諦めてその場を去っていく。
しかし、中には隣に立つ光希に目をつけて、会話を引き延ばす者
もいた。
ロザイン
﹁お美しい花嫁ですな﹂
目を見れば、欠片も美しいと思っていないことは明白である。光
希は辟易しながらも、仮面のような笑みを貼りつけて礼を口にした。
隣でジュリアスが不機嫌になるのが判る。
それなりに見栄えのする男は、お愛想とばかりに光希の手を取る
や、唇を寄せようとした。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁私の花嫁に、許可なく触れないでいただきたい﹂
光希が拒否するよりも早く、ジュリアスはその手を男から奪い返
した。守るように光希の肩を引き寄せる様子を見て、男は可笑しそ
うに肩をすくめた。
﹁これはこれは⋮⋮大変失礼いたしました。仲睦まじいご様子で羨
ましい。ご婚礼おめでとうございます﹂
少々顔を引き攣らせながら、光希は祝辞を聞き流した。大した話
題もないのなら、さっさと立ち去って欲しい。
343
そう思っていると、ジュリアスが男の口上を適当に遮って追い払
ってくれた。
﹁疲れましたか? 休憩室に下がりますか?﹂
ひっそり息を吐いていると、気遣うように声をかけられた。
﹁ジュリは?﹂
﹁陛下のご挨拶が終わるまでは、ここにいます﹂
﹁僕も平気です﹂
頷いてみせたところで、ジュリアスの側近であるジャファールと
アルスランが、嬉しそうな様子で傍へやってきた。
﹁シャイターン、花嫁、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。この
度のご婚礼、誠におめでとうございます﹂
﹁ありがとうございます﹂
応えるジュリアスの声も明るい。先ほどまで相手をしていた貴人
達と比べて、口調も態度も随分と柔らかい。
﹁お綺麗ですよ﹂
ジャファールから世辞をいわれると、悪気がないと知っていても、
何だか無償に悔しくなった。好きで宮女の恰好をしているわけでは
ない。褒められても、嬉しくない。
ふて腐れつつ、三人の歓談に耳を傾けた。
344
淡白なジュリアスを散々見た後なので、彼等との会話は、余計に
和やかなものに感じられた。
︵いいなァ⋮⋮︶
彼等のように、気兼ねなく他愛もない雑談をできる相手が、光希
も欲しかった。
ちなみに、ジャファールとアルスランは、血の繋がらない兄弟で
ある。
戦争孤児のアルスランを、縁あってジャファールの家が引き取り、
二人は兄弟のように育てられたと聞いている。
冷たい印象を与えるアルスランだが、十歳離れたジャファールの
ことはとても信頼しているようで、軍に入ったのもジャファールの
影響らしい。彼等には砂漠で言葉を不自由にしていた頃、大変世話
になった。
野営地での日々を思い出していると、突然、会場の中心から盛大
な歓声が上がった。
何事かと顔を向けると、アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇
帝が手を上げて、歓声に応えていた。
﹁よくぞ集まってくれた。めでたい席である。今宵も存分に楽しん
で欲しい。今夜はシャイターンと花嫁が揃って顔を見せてくれた。
この国の英雄とその花嫁に、皆の者、盛大な拍手を﹂
皇帝自ら手を鳴らすと、周囲も呼応するように手を鳴らし、会場
はたちまち大歓声に包まれた。
ジャファールとアルスランも、わざわざ数歩下がって手を鳴らし
ている。
群衆の視線が一斉に集まり、光希は口から心臓が飛び出しそうに
なったが、ジュリアスは涼しげな笑みで応えている。
345
歓声が鳴りやむと、皇帝は、シャイターンの怒りを買いたくなけ
れば、花嫁に手を出してはならぬぞ、と茶化して周囲を沸かせた。
レイラン
音楽が流れ出すと、本格的に宴は幕を開けた。
アデイルバッハから少し離れたところに、西妃を傍らに伴うアー
スレイヤの姿を見つけた。
麗しい皇太子夫妻は大人気のようだ。男女共に大勢に囲まれて、
ひっきりなしに話しかけられている。
勝気な美少女、パールメラは空いているアースレイヤの反対側に
回り込み、人目も憚らず腕をからませていた。
興味津々でアースレイヤ皇太子一行を眺めていると、肩を撫でら
れた。びくっとして隣を仰ぐと、ジュリアスと目が合った。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁あ、いや⋮⋮アースレイヤ皇太子があそこに﹂
指さす方に目を向けると、ジュリアスは興味なさそうに頷いた。
﹁声をかけられると面倒です。近づかない方が良いですよ。ところ
で、何か料理をお持ちしましょうか?﹂
﹁あ、食べたいです。一緒にいってもいい?﹂
席を立とうと身じろぐと、すかさずジュリアスに肩を押された。
﹁姫はここで待っていてください。すぐに取ってきますから﹂
全身に衝撃が走った。
﹁﹃姫じゃねーし﹄⋮⋮いや、僕は男です。平気です﹂
346
﹁シャイターン、私が取ってきましょうか?﹂
﹁でしたら私が⋮⋮﹂
やりとりを見ていたジャファールとアルスランが、親切に名乗り
出た。
あまりにも居たたまれず、光希は、自分でいきます、といい置い
て逃げるように席を立った。背中に声をかけられたが、無視して走
る。
﹁ごきげんよう、殿下﹂
山のように料理が並べられたテーブルに近づくと、宮女達に呼び
止められた。ふり向くと、煌びやかに着飾った女達は、優雅に宮廷
挨拶で応える。
﹁シャイターンとのご婚礼、誠におめでとうございます。末姫の私
達がこうして宴に列席させていただけるのも、全て殿下が公宮にい
らして下さったおかげですわ。大変感謝しております﹂
女達は光希と同じように、身体の線がはっきりとした、上下に分
かれた腹の出る衣装を着ていた。似たような衣装のはずなのに、柳
のような美女達が身に着けると、全く別の衣装に見える。
自分の存在が、酷く滑稽に思えた。羞恥でどうにかなってしまい
そうで、思わず視線が足元に落ちる。
﹁殿下⋮⋮﹂
可憐な声に顔をあげると、愛らしい美少女、ブランシェットがこ
347
ちらを見ていた。
よりによって、こんな姿を見られるなんて︱︱
真っ白に燃え尽きて、灰と化している光希に気づかず、ブランシ
ェットは嬉しそうにほほえんだ。
﹁とてもお綺麗ですわ、殿下。私達、この後舞台に上がらせていた
だきますの、良ければご覧になってくださいまし﹂
きょうじ
少女は光希を見て、少しも変な顔はしなかった。それどころか笑
顔で褒めそやす。
けれど、その言葉が、笑顔が、光希の矜持を無残に引き裂いた。
348
Ⅱ︳27
乾いた笑みでブランシェット達に応えていると、人をかき分けて
やってくるジュリアスの姿が見えた。その隣には、こちらを指差す
シェリーティアの姿もある。
二人の姿を見た途端に、心は更に沈んだ。
気づけば挨拶もそこそこに、追い駆けるジュリアスから逃げた。
︵もうやだ、一人になりたい︶
人波のおかげで、小柄な光希はかえって逃げやすかった。皆、自
分より背が高いので、埋もれてしまえば見つかりにくい。
人の合間を縫うようにして壁面のバルコニーまで辿り着くと、静
かに硝子扉を開いて外へ忍び出た。
﹁はぁー⋮⋮﹂
ようやく一人になれた。力なくへたり込み、重いため息を吐く。
もう、何もかも嫌だ。こんな恰好、早く脱いでしまいたい⋮⋮う
んざりしていると、突然、肩に上着を掛けられた。
振り向いた先には、ジュリアスかと思いきや、意外な人物がいた。
﹁アースレイヤ皇太子⋮⋮﹂
﹁こんばんは。主役がこんな所でどうしたのですか? 風邪を引い
てしましますよ﹂
﹁貴方こそ﹂
349
レイラン
﹁息抜きですよ。ずっと人に囲まれていると、気疲れしてしまいま
すからね。西妃と交代で抜けて、適当に休憩しているんです﹂
皇太子の気さくな物いいに、光希は肩から力を抜いた。
﹁⋮⋮僕も、息抜きです﹂
﹁声をかけられて大変でしょう? 貴方もシャイターンと交代で抜
け出しているのですか?﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
困ったことに、普通に会話が始まってしまった。
彼はジュリアスの政敵だと聞いているが、こうして話していると、
最初に抱いた印象の通り、穏やかで気さくな青年のように思える。
﹁よく出てこれましたね。祝賀会ではバルコニーを解放していない
のですよ。私は知っていたから、期間中はここで息抜きしようと最
初から目をつけていたのです﹂
﹁そうですか﹂
硬質な返事を聞いて、アースレイヤは微苦笑を漏らした。
﹁そう警戒しないでください。別に貴方を取って食おうなんて、考
えていませんよ﹂
﹁アースレイヤ皇太子は⋮⋮﹂
350
いいかけて、言葉を切った。いっていいものかどうか躊躇ってい
ると、空色の瞳に楽しげな光が灯る。
﹁何ですか?﹂
ジュリアスを殺そうとしているって、本当?⋮⋮なんて、訊ける
わけがない。というか、暗殺を企むような男と二人きりでいて平気
だろうか?
﹁今なら、何でも答えてさしあげますよ。訊きたいことがあれば、
遠慮なくどうぞ?﹂
﹁どうして⋮⋮?﹂
﹁うん?﹂
﹁どうして、答えてくれるのですか?﹂
ロザイン
﹁貴方に興味がありますから。青い星の御使い、心なきシャイター
アルディーヴァラン
ンを繋ぐ花嫁。一度話してみたいと、前から思っていました﹂
しばた
強い視線を向けられて、光希は目を瞬いた。
宝石持ち
或いは
神降ろし
サリヴァンに聞いた話では、アッサラームでは宇宙を神々の世界
として崇める天文学信仰があり、
の花嫁は、青い星に住まう神から遣わされた御使いと考えられてい
るのだという。
身分に関わらず、アッサラームに暮らす人々は信心深いと聞く。
しかし、彼の光希を見る瞳には、純粋な信仰心だけではない、もっ
と深遠な光がうかがえた。
351
﹁アースレイヤ皇太子は⋮⋮公宮にどれくらい、恋人がいるんです
か?﹂
話題を探して、思いついたことを口にすると、アースレイヤは虚
を突かれた顔をした。
﹁そうですね⋮⋮妃を恋人と呼ぶのであれば、過去に何人もいまし
たが、今は二人ですね﹂
悪びれもなく、何人もいたといわれ、思わず胡乱げな眼差しにな
った。
﹁今は、どうして二人しかいないのですか?﹂
﹁さぁ、気づくといないのです﹂
﹁⋮⋮好きな人はいないのですか?﹂
アースレイヤは面白い冗談を聞いたように、瞳を煌かせた。
﹁好きな人⋮⋮妃達のことは分け隔てなく好きですよ﹂
﹁それは好きとは、違うと思う⋮⋮貴方は色男だ。一人に決められ
ないなんて、悪い男だ﹂
非難がましい眼差しを向けると、アースレイヤは噴き出した。楽
しそうに、声を上げて笑う。
﹁あはは、つい笑ってしまった。面白い人ですねぇ、それに結構か
わいい﹂
352
からかわれて、光希の目が据わった。
﹁やめて、僕は男です。嬉しくありません﹂
﹁おや? 恋人に、散々いわれているのでしょう? 貴方を見つめ
る彼ときたら、この人はなんて綺麗なんだろう⋮⋮って眼をしてい
ましたよ。氷のような男だと思っていましたが、貴方の傍にいると、
偉大な英雄も恋する一人の若者ですね﹂
﹁ジュリを、悪くいわないでください﹂
﹁褒めているのです。貴方を手に入れて、人間味が出てきた。面白
い男になったと思いますよ﹂
﹁⋮⋮ジュリに、酷いことはしないで﹂
﹁酷いことって?﹂
なんといえばいいか判らず、無言でアースレイヤを見つめた。彼
は含みのある笑みを浮かべると、手を伸ばして光希の頬を撫でた。
﹁そんな無防備に、見つめるものではありませんよ。姫、貴方の黒
い瞳は、特に相手を勘違いさせてしまいそうだ﹂
空色の双眸が眇められる。光希は顔をしかめると、頬に伸ばされ
た手を振り払った。
﹁どうやら時間切れのようですね。貴方の英雄が迎えにきたようで
すよ﹂
353
弾かれたように振り向くと、バルコニーの先にジュリアスが立っ
ていた。怖い顔をして、こちらを睨んでいる。
立ち尽くしていると、頬に柔らかい感触がした。ぶわっと悪寒が
走る。ジュリアスの全身から、冬の息吹のような、青い炎が発せら
れたのだ。
﹁心配しなくても、祝宴の場でそう酷いことはしませんよ。趣味の
範囲で、嫌がらせをするだけです﹂
光希は焦って頬を押さえると、アースレイヤを振り向いた。突き飛
ばしてやろうと思ったのに、難なく躱されてしまう。
刹那、鋼が風を裂いた︱︱
飛びのいたアースレイヤは、頬を押えている。
ジュリアスの投げた短剣が、頬を僅かに裂いたようだ。白銀の髪
がはらはらと宙を舞う。
血の滲む頬を押えながら、アースレイヤは楽しそうに笑った。
﹁ふふ、男の嫉妬は見苦しいと思いませんか? いやぁ、本当に面
白い男になりましたね。いいものが見れました。私は退散しますか
ら、後はお二人でどうぞ﹂
悪戯に爆弾を投下して、回収もせずにアースレイヤは退散した。
本音をいえば、光希もこの場から逃げてしまいたい。無言で近づ
いてくるジュリアスが恐ろしい。
354
Ⅱ︳28
肩にかけられた上着を握りしめる光希を見て、ジュリアスは不愉
快そうに眉をひそめた。
﹁コーキ、脱いで﹂
﹁え?﹂
﹁その上着、アースレイヤのものでしょう﹂
﹁あ⋮⋮﹂
そういえば借りたままだ。のろのろと上着を脱ぐと、差し伸べら
れた手に大人しく渡した。ジュリアスは忌々しそうにそれを握りし
たちま
めるや、ボッ⋮⋮と青い炎を閃かせた。
白い上着は忽ち炎に飲まれて、跡形もなく消し炭となった。唖然
とする光希の前で、風に吹かれ、細かな塵はどこかへ運ばれていっ
た。
﹁⋮⋮コーキ﹂
凍える青い双眸で己の掌を見つめながら、ジュリアスが呟いた。
空気が重い。死刑宣告を待つような心地で、続く言葉を待ってい
ると、彼は流し目で光希を見た。
﹁どうして、逃げたのですか?﹂
355
平坦な口調に気圧され、光希は生唾を呑み込んだ。彼の放つ悋気
に、肌が総毛立つのを感じる。
﹁僕⋮⋮﹂
﹁アースレイヤと何をしていたの?﹂
怒りを湛えた視線に耐え切れず、光希は瞳を泳がせた。
その瞬間、強い力で両肩を掴まれた。
︵怖いッ!︶
咄嗟に、両腕で顔と頭を守った。暴力から逃れようとしている、
防御の姿勢だ。
その姿を見て、ジュリアスは雷に打たれたかのような衝撃を受け
た。
﹁私が怖い?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁傷つけられると思った?﹂
﹁そういうわけじゃ⋮⋮﹂
﹁コーキ以上に大切なものなんてない。私が、貴方を傷つけるわけ
がない⋮⋮﹂
よぎ
哀しみに歪んだジュリアスの顔を見て、光希の胸に悔悟が過った。
彼を傷つけるつもりなんて、なかったのに。
356
﹁ごめんなさい。逃げたりして⋮⋮﹂
おずおずと一歩を踏み出すと、攫うようにして腕の中に抱きしめ
られた。
じっとしていると、むき出しの肩を大きな掌が滑り、首筋をゆっ
くり撫でられた。
全身に、恐怖以外の緊張が走る。恐る恐る顔をあげると、暗闇の
中でも光彩を放つ青い瞳に射抜かれた。
﹁こんな恰好で、こんな暗いところで、私以外と二人きりになるな
んて⋮⋮コーキは少し軽率だと思います。こんなこと、いいたくな
いのに。いわせないで、お願いだから。そんな、傷ついた、って顔
をしたって⋮⋮﹂
苦悶の表情を隠すように、ジュリアスは光希の肩に顔をうずめた。
柔らかい金髪が、肌に触れてくすぐったい。
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
背中に腕を回そうか躊躇っていると、唐突に、肩を舐められた。
濡れた感触に肌が泡立つ。
﹁んっ⋮⋮ちょ、ジュリ﹂
甘噛みされて、吸いつかれて、最後にもう一度舐められた。離れ
る気配がして、解放してもらえるのかと思いきや、唇で何度も首筋
に吸いつかれた。
溢れそうになる声を、必死に抑えていると、肩に置かれた手は妖
しく蠢き始めた。
357
露出した腹まわりを撫でられ、紗の上から、胸を揉みしだかれる。
親指で尖りを探るように摩り、布地を押し上げる先端を押し込んだ。
﹁やだっ! 離して﹂
ぎょっとして暴れると、ジュリアスは不埒な手を休めて耳朶に囁
いた。
﹁嫌だといったら?﹂
﹁え?﹂
﹁こんな所で二人きりになれば、何をされても文句はいえないと思
いませんか?﹂
﹁思わないよ⋮⋮こんなこと、ジュリしかしない﹂
﹁本当に?﹂
アースレイヤにキスされた方の頬を撫でられて、光希は気まずそ
うに視線を逸らした。ジュリアスは指で光希の頬を拭うと、上書き
するように唇を押し当てた。
﹁⋮⋮他に、どんなことをされましたか?﹂
﹁他って、何もされていないよ﹂
青い瞳は、疑わしそうにしばらく光希を見つめた後、苦痛を堪え
るように瞑目した。額を手で押さえて、苦しげに呻く。
358
﹁はぁ⋮⋮自制が効かない。愛しているのに⋮⋮信じきれない。視
線や仕草をいちいち疑ってしまう⋮⋮これでは見苦しいといわれて
も否定できないな﹂
自嘲めいた独白を聞いて、光希は弾かれたように顔を上げた。
﹁僕もだよ、ジュリ⋮⋮それは僕のことだ。僕の方がもっと、ずっ
と、見苦しいんだ⋮⋮﹂
﹁本当に、他には何も⋮⋮﹂
﹁されていない。上着を借りて、最後は頬にキスされたけど、それ
だけだよ。ここへ逃げてきたら、後からアースレイヤ皇太子がきた
の。少し、話しただけ⋮⋮﹂
レイラン
﹁昼間、西妃から招待状を受け取ったそうですね。アール川まで出
かけると⋮⋮ブランシェット姫に、心を惹かれている?﹂
どこか縋るような声の響きに、光希は苦しげに顔を歪めた。
﹁少し︱︱﹂
でも、と続けようとした言葉は、音にならなかった。きつく抱き
しめられて、怒りをぶつけるように唇を奪われた。
﹁あッ⋮⋮ン!﹂
舌を搦め捕られて、漏れ出る声すら吸われた。叱るように、何度
もきつく唇を食まれる。加減を誤れば、血が滲んでしまいそうだ。
359
﹁ジュリ、ふっ、ごめっ⋮⋮﹂
説明しようとしても、言葉を紡がせてくれない。思いをぶつける
ような、貪るような深い口づけはいつまでも続けられた。
360
Ⅱ︳29
﹁はぁ、はぁ⋮⋮﹂
息が上がるほどの熱烈なキスが終わり、ジュリアスを見つめると、
唇を親指で拭われた。
ロザイン
﹁コーキは、私の花嫁です。誰にも渡さない。他の誰にも心を許し
たりしないで﹂
﹁⋮⋮ジュリしか見ていないよ﹂
﹁もう公宮にはいかせません⋮⋮どうしてもいくというのであれば、
ブランシェット姫は適当な相手に降嫁させます﹂
こんな状況だというのに、怒りに燃える青い瞳を見上げて、喜び
を感じていた。手を伸ばしてジュリアスの頬を撫でる。
﹁ねぇ、嫉妬?﹂
期待を込めて訊ねると、ジュリアスは怖い顔で睨んできた。恐怖
ではなく、喜びで背筋が震える。
︵嬉しい⋮⋮︶
陶然とする光希の腰を強く引き寄せ、ジュリアスは尻を揉みしだ
きながら、下肢を隙間なく密着させた。耳朶に唇を寄せて、吐息を
吹き込むように囁く。
361
﹁そうだけど? ここで犯されたいの?﹂
少し乱暴な口調にぞくぞくする。ジュリアスに、嫉妬されるほど
想われているのだ。
﹁ごめん、不安にさせて⋮⋮彼女にはもう会いません。ごめんね⋮
⋮でも、嬉しい。今、ジュリが苦しんでいる気持ちは、僕がずっと
悩んで、苦しんでいた気持ちだから。やっと、同じ気持ちになれた﹂
しばた
訝しげに眉をひそめる綺麗な顔を両手に挟み、鼻の頭にキスをし
た。
虚を突かれたように、目を瞬いたジュリアスは、少しだけ険を和
らげた。探るように、光希の瞳を覗きこんでくる。
﹁僕は、公宮中の女に嫉妬していたよ。過去だと知っていても、辛
かった。ジュリのことが、好きだから⋮⋮僕だけのジュリでいて欲
しいんだ﹂
﹁コーキだけの私ですよ﹂
﹁僕も、ジュリだけの僕だよ﹂
拙い言葉ではあるが、ようやく気持ちを伝えられた。その一言が
聞きたくて、いえなくて、ずっと苦しかった。
﹁ジュリは、綺麗で、強くて、英雄で、お金持ちで、優しいから⋮
⋮僕は不安なんだ。綺麗な女も男も、皆がジュリを好きになる。僕
は負けてしまう⋮⋮今夜ここへきたのも、僕の知らない間に、ジュ
リが他の誰かと一緒にいるのが嫌だからだ﹂
362
正直に打ち明けると、ジュリアスは衝撃を受けたように、目を瞠
った。
﹁そんな、不安に思う必要ないのに⋮⋮私はコーキ以外の誰にも、
興味ありませんよ﹂
﹁ジュリのせいじゃない。不安になるのは、僕が弱いから。自信が
ないんだ⋮⋮﹂
﹁どうして? 私の唯一なのに﹂
頬を両手で挟まれて、唇に触れるだけのキスが与えられる。更紗
の衣装を握りしめながら、光希は歯痒げにジュリアスを仰いだ。
﹁⋮⋮僕は、女じゃない。男です。でも、ジュリの為にできること
が、何もない。ジャファールやアルスランが羨ましい。一緒に戦っ
て、力になれる彼等が羨ましい﹂
今夜は本当に惨めだった。凛々しいジュリアスの隣に、道化のよ
うな宮女の恰好でいることが恥ずかしくて、滑稽で、会場中から笑
われている気がしていた。
﹁コーキは私の花嫁です。他の誰も、代わりにはなれない。できる
ことが何もないなんて、そんな悲しいことをいわないでください。
傍にいてくれるだけで十分です。私の大切な愛おしい姫⋮⋮﹂
﹁姫ってやめて﹂
﹁え?﹂
363
﹁僕のこと、姫って呼ぶのやめて。僕は女じゃない。傷つくんだ﹂
﹁コーキ⋮⋮﹂
﹁この恰好も、嫌なんだ。女みたいで、恥ずかしい﹂
﹁とても似合っていますよ﹂
熱っぽく即答されて、思わず光希は変な顔になった。正気を疑い
たくなる。頬を撫でる手から、顔を背けて逃げた。
﹁なら、ジュリが着てみる? こんな恰好、したいって思う?﹂
﹁え? 私が着たらおかしいでしょう﹂
﹁僕が着てもおかしいよ!﹂
﹁似合っているけど、嫌なら無理に着る必要はありませんよ。どん
な格好が良かったのですか?﹂
﹁⋮⋮ジュリと同じ格好﹂
上目遣いに答えると、青い瞳に喜びの光が灯った。嬉しそうに、
抱きしめられる。
﹁かわいいコーキ。私とお揃いがいいのですか?﹂
﹁⋮⋮男の恰好がしたいんだ﹂
364
﹁判りました。コーキのことを
姫
と呼びません。他の者にも呼
ばせません。宮女の恰好もしなくて良いです。ナフィーサにも、無
理に着せぬよういっておきます⋮⋮他には?﹂
拗ねた顔をする光希を見て、ジュリアスは甘やかすようにほほえ
んだ。
﹁化粧も嫌だ﹂
﹁かわいいけど、判りました。化粧もしなくて良いです⋮⋮他には
?﹂
﹁僕を、女のように扱わないで。ジュリは優しいけど⋮⋮僕はもっ
と、自分で頑張りたいんだ。手を引いてくれなくても、階段だって、
馬車だって降りれるんだよ﹂
﹁私の態度が、コーキを傷つけていたのですね⋮⋮気をつけます。
ただし、私が危ないと判断した時には、止められても手を出します
よ﹂
﹁うん⋮⋮ありがとう﹂
﹁コーキ、他には?﹂
﹁勉強、頑張ります。何でも一所懸命に覚えます。だから、僕を一
人の男と認めてくれたら、公宮を出て仕事をしたい﹂
﹁はい、私にもお手伝いさせてください。一緒に考えていきましょ
う﹂
365
﹁⋮⋮いいの?﹂
﹁嫌なの?﹂
﹁ううん! ありがとう!﹂
そこでようやく、光希は笑顔になると、ジュリアスの背に腕を回
してしがみついた。力強い腕がしっかりと抱き留めてくれる。
﹁ジュリは何でそんなに優しいの? 神様なの?﹂
本気で訊ねると、綺麗な顔に柔らかな笑みが拡がった。
﹁コーキだけの私ですから。好きな人には、笑っていて欲しいじゃ
ないですか﹂
366
Ⅱ︳30
バルコニーから戻り、アデイルバッハに挨拶を終えると、二人は
早々に祝賀会を引き上げることにした。
会場を出ていく時、大勢に囲まれているアースレイヤと目が合っ
た。上着を燃やされたことを申し訳なく思いながら、顔の前で拝み
手をすると、彼は不思議そうな顔をした後、何もかも判っているよ
うに、気さくに手を上げて応えてくれた。
人をからかう悪癖もあるようだが、気持ちのいい青年である。ジ
ュリアスはそうは思わなかったようで、忌々しそうに氷の一瞥を向
けていた。
なにはともあれ、お邸に戻ると、ナフィーサが笑顔で出迎えてく
れた。
化粧を落として風呂に入り、さっぱりした気持ちで私室に戻ると、
ジュリアスが窓辺の机上を静かに見下ろしていた。
﹁ふぅ⋮⋮すっきりしたー、ジュリ? どうかした?﹂
傍に寄って、彼の視線を辿ると、机上にリビライラからもらった
招待状と、ブランシェットからもらった押し花の栞が置いてあった。
そういえば、栞は客間に置き忘れていたのだが、ナフィーサが届
けてくれたのだろう。
気まずい⋮⋮どう説明しようか迷っていると、ジュリアスは招待
状を手に取り、光希を見つめた。
﹁私から断りの返事をしても?﹂
﹁もう、ナフィーサが返事をしてしまったかも⋮⋮﹂
367
﹁今から断れば同じことですよ﹂
﹁その⋮⋮これが最後だから、いってもいい? もう公宮にはいか
ないって、自分の口でいいたい﹂
手にした栞に目を注ぎながらいうと、不服そうな顔で、ジュリア
スはそれを上から取り上げた。
﹁これは、ブランシェット姫にもらったの?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁彼女には、もう会わないといったでしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁コーキ?﹂
﹁⋮⋮はい、いいました。ごめんなさい、もう会いません。いけな
いって急いで手紙を出します﹂
﹁ナフィーサに頼めばいいですよ。断りの返事なら尚更、代筆させ
るのが礼儀です﹂
﹁そうなんだ。判った、そうする﹂
まだ不満そうにしている顔を仰いでほほえむと、青い瞳に探るよ
うに見下ろされた。
368
﹁確かに、ブランシェット姫はかわいいと思うけど⋮⋮僕の好きな
人は、ジュリだから﹂
はっきりと告げると、青い双眸は戸惑ったように揺れた。招待状
と栞を返されたので、引出にしまいながら、光希は笑顔で振り向い
た。
﹁明日は、図書室で過ごします。サリヴァンに会ったら、またきて
くださいって伝えて﹂
﹁ええ、必ず⋮⋮﹂
ようやく、ジュリアスも笑顔になる。光希の手を引いて、窓辺の
絨緞に並んで腰を下ろした。
蜜蝋を灯して、夜の憩い、穏やかな団欒を愉しむ。
すれ違う日々が続いていたので、ジュリアスの傍で、これほど心
が凪いでいるのは久しぶりだ。そう感じているのは、彼も同じよう
で、他愛もない雑談はしばし続いた。
夜も更けて、寝室に入ると、ジュリアスは熱っぽく光希を見下ろ
した。甘い時間を期待して、光希も見つめ返す。
しかし、浮ついた気持ちは、夜着に手をかけられたところで萎ん
だ。
﹁︱︱ちょっと、待って﹂
寝台に押し倒された体勢のまま、光希は横を向いた。身体中の体
毛を、すっかり処理されたことを思い出したのだ。
﹁コーキ?﹂
369
﹁あの、やっぱり⋮⋮﹂
股間まで、毛を刈られたのだ。裸を見られるのは、かなり恥ずか
しい。
ね
しかし、遠回しな拒絶を感じ取り、ジュリアスは不服そうな顔を
した。拗ねたように光希を睨めつける。
﹁焦らさないでください﹂
﹁ひゃぁッ﹂
首筋に顔を沈めて、舌で舐め上げられた。久しぶりに触れられた
せいか、やけに感じてしまう。
﹁もう、我慢も限界です﹂
きっちり合わせた襟を、素早く乱され、抵抗する間もなく上半身
を剥かれた。唇で肌に触れながら、ジュリアスは何度も跡を残すよ
うに吸いつく。
﹁あ、あぁ⋮⋮ッ﹂
肌のあちこちを吸われながら、強く胸を揉みしだかれ、上向いた
先端を、指先で弾かれた。
股間があらぬ反応をし始める。膝をすりあわせる光希に気づいて、
ジュリアスは容赦なく、膝を割ってきた。
﹁待って、待って﹂
慌てて止めようとするが、敵わない。薄い下着を両手で隠すが、
370
少々乱暴に手を弾かれ、あっけなく最後の砦を奪われた。
﹁⋮⋮ッ!﹂
むき出しの下肢に、視線が落ちる。その様子を直視できず、光希
は顔を倒した。
﹁見ないでッ﹂
身体を捻ろうとしたが、強靭な肉体で下肢を押さえつけられた。
﹁⋮⋮とても、刺激的な姿ですね﹂
﹁あっ!?﹂
急に膝裏を持ち上げられて、子供がひっくり返ったような恰好を
させられた。
緩やかに反応している性器に、息をふきかけられる。情けない声
が喉から零れた。甘い刺激に、腰が撥ねてしまう。
﹁わ、わ、だめッ﹂
あろうことか、端正な顔を、股間に埋めようとしている!
阻止しようと手を伸ばしたが、巧みに躱して、ジュリアスは強く
光希を吸い上げた。
﹁あぁッ!!﹂
熱い口内で扱かれて、中心が、むくむくと勃ち上がっていく。強
烈な快感に、抵抗する力は抜け落ちた。
371
﹁んぅ、やだ、強い⋮⋮﹂
淫靡な水音を立てながら、いつもより激しく吸引される。喉奥ま
で咥えられて、気を抜けば放出してしまいそうだ。
口淫を続けながら、感触を楽しむように、無毛の陰嚢をやわやわ
と揉みしだかれる。長い指は、尻の隘路をなぞり、ひくつく後孔を
押し込んだ。
﹁んッ、待って、離して﹂
ねぶ
熱い口腔で亀頭の形が変わるほど、舌で舐られる。何も考えられ
ないほど、気持ちいい⋮⋮ッ!
爆発する寸前を心得たように、ジュリアスは絶妙なタイミングで
口を離すと、今度は、陰嚢をしゃぶり立てた。
信じられないほど淫靡な水音に、鼓膜を犯される。
腹を打つほど反り返った中心を、つと指でなぞりながら、彼は後
孔に舌を潜らせた。
﹁も、やめ⋮⋮ッ﹂
下半身が、ぐずぐずに溶けていく⋮⋮
抉るように舌を挿し入れられ、身体の内側を舐められる。舌で前
後に揺すられる度に、性器が撥ねて、透明な飛沫を散らした。
﹁だめぇ⋮⋮ッ﹂
腰を引かせようと暴れても、即時に身体を寝台の中心に戻されて
しまう。
舌で犯され、放出の限界を迎えた時、光希は全身に力を入れてど
372
うにか堪えた。
﹁気持ち良かった? コーキは、かわいいな⋮⋮﹂
陶然とした声に、うっすら瞳を開けると、ジュリアスに見下ろさ
れていた。いっぱいいっぱいの光希を眺めて、満足そうにほほえん
でいる。
青い瞳に、蕩けきった光希の顔が映っている。視界を手で塞ごう
としたら、あっけなく寝台に縫い留められた。
﹁あ、あんッ﹂
空いた胸に、端正な顔を沈めると、ぷっくりとした乳首を、思い
きり吸われた。
﹁掌に、吸いつくみたい⋮⋮ふわふわしていて、貴方の身体はどこ
もかしこも甘い﹂
胸に舌を這わせながら、陶然とジュリアスが呟く。
羞恥から逃げるように、自由になった手で頭を抱え込むと、形の
良い唇に乳首を挟まれた。
﹁んぁッ﹂
彼の邪魔をしようとしても、あっけなく躱されてしまう。あらゆ
るところに、口づけが落とされる。
欲に濡れた顔を直視できず、視線を逸らすと、太腿の内側を吸わ
びろうど
れて、思いきり身体が撥ねた。
天鵞絨のような唇で、光希の身体中に触れていく。足の指先にま
で舌をはわされ、情けない悲鳴を上げた。
373
﹁そんなとこ、舐めないで⋮⋮﹂
青く燃える瞳と視線が絡み、光希は肩をすくめた。熱に浮かされ
たような執着がふと怖くなり、腰を引き気味にすると、勃ち上がっ
た性器を鷲掴まれた。
﹁︱︱ッ!?﹂
絶句する光希の身体を一瞬で組み敷き、ジュリアスは唇を奪った。
強く舌を吸いあげ、唇を揉みしだくように食む。
﹁んぅむ、ん、ん⋮⋮ッ!﹂
淫らなキスは永く続き、理性は急速に溶けていった。
高められた身体が疼いて、放熱の欲求を強く訴えてくる。無意識
に腰を揺らすと、ジュリアスは蠱惑的な笑みを浮かべた。
﹁挿れるよ﹂
目を見つめたまま囁くと、屹立を宛がい、一気に貫いた。
﹁あ︱︱ッ﹂
身体がおかしいくらいに撥ねて、反り返った性器が、ばちん、と
腹を打った。
﹁気持ちいい?﹂
﹁あ、う﹂
374
わなな
唇を戦慄かせる光希を見下ろして、ジュリアスは甘くほほえんだ。
鼻の頭を、ちょんと指で突く。
勃ち上がった自分のものに手を伸ばそうとすると、咎めるように、
寝台に押さえつけられた。
﹁や⋮⋮﹂
﹁中だけで、良くなれるでしょう?﹂
腰を甘く揺すられて、身体中が痺れた。頭の中が真っ白になり、
今度こそ放出の限界だと思った。
口内に挿し入れられた親指に、無意識で舌を絡ませる光希を、ジ
ュリアスは食い入るように見つめている⋮⋮
﹁︱︱ッ﹂
揺さぶられるうちに、いつの間にか、腹の間が濡れていた。最奥
も、熱い飛沫で濡らされている。
放熱に達しても、ジュリアスは律動をやめなかった。
激しい抽挿の合間に、ぐちゅんと泡立つ淫靡な音が、寝室に満ち
る。
もだえる光希を組み敷いたまま、肌のあちこちに吸いつき、舐め
て、貪るように抱き続けた。
375
Ⅱ︳31
翌朝。
昼を大分過ぎた頃、光希はようやく目を醒ました。隣に、ジュリ
アスの姿はない。
昨夜は、何度も愛し合った。
磨き上げられた肌を見て、ジュリアスはいつも以上に興奮してい
ふけ
たし、仲直り直後ということもあって、かなり盛り上がった。
明け方まで、情事に耽っていたにも関わらず、ジュリアスは艶々
した顔で、朝早くから出かけていった。
一方の光希は、遅い昼食を取り、のんびり過ごしている。
図書室で紅茶を飲みながら読書していると、ナフィーサが困り顔
で来客を告げにやってきた。
﹁え、ブランシェット姫?﹂
意外な来客を聞かされて、光希は目を丸くした。
﹁はい。お断わりしたのですが、どうしてもお目通り願いたいと懇
願されまして⋮⋮念の為、確認に参りました。いかがいたしましょ
う?﹂
﹁今、玄関に?﹂
﹁いえ、外でお待ちいただいております﹂
﹁何だろう⋮⋮会うよ、白の客間に案内してください﹂
376
﹁かしこまりました。シャイターンにも、お知らせいたしましょう﹂
﹁え、ジュリは仕事中でしょう。とりあえず、僕が要件を訊く﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁ナフィーサも同席してくれる?﹂
﹁かしこまりました﹂
背筋を伸ばしたナフィーサは、不安そうな表情を一変させて、手
際よく動き始めた。
身支度を手伝い、光希を応接間に案内すると、間もなくブランシ
ェットを連れて戻ってきた。
可憐な美少女、ブランシェットはおずおずと室内に踏み入ると、
光希と目が合うなり、すまなそうな顔をして深く頭を下げた。
﹁殿下⋮⋮押しかけるような真似をして、誠に申し訳ございません。
広い御心に感謝いたします﹂
少女は、いかにも不安げに両手を胸の前で合わると、縋るような
眼差しで光希を見つめた。
それは、思わず守ってあげたくなるような風情で、光希は弱り切
った顔で頭を掻いた。
﹁それで⋮⋮どうしたのですか?﹂
彼女が腰をおろすのを待ってから切り出すと、ブランシェットは
打ちひしがれた様子でぽつりぽつりと話し始めた。
377
レイラン
﹁実は⋮⋮昨夜の祝賀会でパールメラ様が西妃様のご不興を買って
しまい⋮⋮その⋮⋮大変危険な状態にございますの﹂
昨夜の、本妻を差し置いた彼女の奔放な振る舞いは、光希も見て
いる。不味いことになったのだろうか?
﹁西妃様は私に、明日の朝、パールメラ様を蒸風呂に誘うようお命
じになられました。とても嫌な予感がいたします⋮⋮どこにも逃げ
場のない公宮で、ある日突然、宮女が姿を消すのは珍しいことでは
ございません﹂
神妙な顔つきで光希が頷くと、少女は誰かが聞きつけるのを恐れ
るように、音量を落として囁いた。
﹁⋮⋮西妃様が早朝の蒸風呂を好まれていることは有名ですから、
宮女達は遠慮して、早朝はお邪魔しないようにしております。そこ
へパールメラ様をお呼びするということは⋮⋮口にするのも憚られ
るのですが、暗殺、をお考えではないかと⋮⋮﹂
﹁暗殺って⋮⋮西妃様が?﹂
思ってもみない展開に、光希は目を見張った。儚げにほほえむリ
ビライラと暗殺の二文字が結びつかない。いくらなんでも、考えす
ぎではないだろうか?
訝しげな様子の光希を見て、ブランシェットは瞳に涙をいっぱい
溜めていい募った。
﹁思い過ごしであれば良いのですっ、ですが⋮⋮パールメラ様のお
命が危ないと疑いながら、蒸風呂へお誘いするなど、恐ろしくてで
きません⋮⋮ご迷惑と知りながら、藁にもすがる思いで殿下の元へ
378
参りました。明日の朝、どうか私と一緒に蒸風呂へいらしていただ
けませんか?﹂
ついに、大きな瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちた。光希が口を開
くよりも早く、同席していたナフィーサが口を挟んだ。
ロザイン
﹁無礼な。訴える先を、勘違いしていらっしゃいますよ。そのよう
な手口で、シャイターンの花嫁を貶めるおつもりですか? お帰り
ください。そのまま、公宮機関に向かわれると良いでしょう﹂
およそ子供らしからぬ厳しい口調である。冷たいナフィーサの言
葉に、光希の方が焦ってしまう。
﹁待って⋮⋮ブランシェット姫、西妃様がパールメラ様を殺そうと
している証拠はありますか?﹂
問い質すと、ブランシェットは力なく首を振った。
﹁⋮⋮ありませんわ。あったとしても、露見いたしません。誰も西
妃様には逆らえませんもの。公宮機関は全て西妃様に繋がっており
ます。とても当てにはできません﹂
しかし、証拠もないのに、疑ってかかるのはどうだろう。光希の
消極的な視線を見て、少女は哀しげに顔を歪めた。
﹁私の杞憂であれば、良いのです。ですが、もしも⋮⋮殿下なら、
公宮のいかなる場所にも出入りできます。どうか、どうか、明日の
蒸風呂に、ご同行いただけないでしょうか?﹂
どうしたものか⋮⋮隣を見れば、ナフィーサが怖い顔でブランシ
379
ェットを睨んでいる。厳しい口調を予期して、光希は思わずナフィ
ーサを手で制した。
﹁暗殺があるとしても⋮⋮どうして、ブランシェット姫も一緒にい
くのですか?﹂
暗殺が本当なら、人目は少ない方が良さそうなものだ。
﹁お二人きりでは、警戒されるとお考えなのでしょう﹂
﹁どうして、そんなに西妃様を疑いますか? 皆でピクニックにい
こうって、笑っていたのに⋮⋮﹂
信じられない。理解に苦しむ光希の前で、ブランシェットは膝の
上で固く拳を握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。
﹁⋮⋮あの方は、無力な女にはお優しいけれど、台頭する女には容
赦がありません。今まで、アースレイヤ皇太子にお妃は多くいらっ
しゃいましたが、どなたも、いつの間にかお隠れになってしまいま
すの。お子を成しても変わらずに、ずっとお傍にいらっしゃるお妃
は、西妃様だけなのですわ﹂
よぎ
衝撃の告白を聞いて、西妃に関する、ルスタム、シェリーティア、
アースレイヤのそれぞれの話が脳裏を過った。
ユスラン
⋮⋮四貴妃がお揃いの時もございましたが、現在は西妃様の他に
は、東妃様だけとなります
⋮⋮西妃様は外見と違い、大変恐ろしい方にございます。ブラン
シェット姫も西妃様に逆らうことはできません
380
さぁ、気づくといないのです
それぞれ立場の違う四人が、西妃に対して似通った情報を口にし
ている。信じたくはないが、信憑性があるのかもしれない。これが
本当なら、確かに穏やかな話ではない。
﹁僕が蒸風呂にいけば、いいの?﹂
﹁なりません、殿下!﹂
ナフィーサは鋭い声をあげた。ブランシェットは縋るような眼差
しでこちらを見ている。
今のところ、彼女の憶測でしかない。杞憂である可能性もある⋮⋮
けれど、もし万が一、彼女の危惧した通りであるのなら、パール
メラが死ぬ可能性もあるのだ。
事前に防げるのなら防ぎたい。光希は逡巡した末、口を開いた。
﹁ジュリに相談します。蒸風呂にいく時間を教えてください﹂
﹁はいっ!﹂
不服そうな顔をするナフィーサの一方で、ブランシェットは涙を
散らして何度も頷いた。
381
Ⅱ︳32
その日の夜。
既にナフィーサから知らせを聞いていたジュリアスは、邸に戻る
なり光希に詰め寄った。
﹁それで、どうしてブランシェット姫は、ここへきたのですか?﹂
﹁ん? ナフィーサから聞いていない?﹂
﹁聞きましたよ。ブランシェット姫が、約束もなく私の不在時にコ
ーキを訪ねたと﹂
﹁うん﹂
呆れたように溜息をついたジュリアスは、青い瞳で疾しい心を探
るように、光希の顔を覗きこんできた。
見惚れるほど美しい微笑を湛えているが、目は少しも笑っていな
い。
﹁コーキ、昨日の今日ですよ? どうして大人しくしていられない
のですか?﹂
﹁僕のせいじゃないよ⋮⋮﹂
不当に詰られた心地で、光希はふて腐れた顔をした。光希だって、
今日はのんびり書斎で過ごすつもりでいたのだ。
382
たち
﹁はぁ⋮⋮性質の悪い嫌がらせですね。放っておきましょう。コー
キは金輪際、私の不在時に邸に人を入れないでください﹂
﹁ジュリッ!﹂
声を荒げると、宥めるように肩をぽんぽんと叩かれた。その手を
振り払うと、ジュリアスは腰に手を当てて首を傾げた。
﹁そんなかわいらしく怒っても、駄目ですよ。この件は放置します﹂
﹃アホかっ!﹄
思わず、日本語で怒鳴ってしまった。
﹁そもそも、止める必要がありますか? 出過ぎた真似をした宮女
が粛清されるだけでしょう﹂
さも面倒そうに息を吐くと、ジュリアスは上着を脱いで適当に椅
子にかけた。襟を寛げて身軽になると、言葉を失くしている光希の
傍に戻り、顔を覗き込む。
﹁コーキ⋮⋮? どうかしましたか?﹂
﹁ジュリ、人がね⋮⋮﹂
死ぬかもしれないのだ。でも、ジュリアスにしてみれば⋮⋮
﹁人が、何?﹂
身軽になったジュリアスの恰好を眺めて、つくづく思う。
383
彼は室内でも、サーベルは絶対に外さないし、短剣も足や胸に四
つは隠し持っている。武装は恰好ではなく、実戦で人を殺める為の
もの。
光希にはとことん甘いから忘れがちだが、ジュリアスは戦闘、殺
人におけるスペシャリストだ。知り合いが殺されるかもしれないと
聞いて、光希は上を下への大騒ぎだが、彼にしてみれば取り立てて
騒ぐこともない、日常茶飯事なのかもしれない。
﹁⋮⋮パールメラ姫は、知り合いなんだ。助けたい﹂
﹁どうやって?﹂
﹁僕が⋮⋮蒸風呂にいけば、止められるかも﹂
﹁私が許すと思いますか?﹂
﹁﹃警察﹄⋮⋮国は助けてくれない?﹂
﹁公宮は軍の管轄外です。入場規制の強い場所ですから、中に入れ
レイラン
る人間も限られています。宮を司る役所はありますが、アースレイ
ヤの西妃が牛耳っているので、首謀者が西妃なら、当然もみ消され
るでしょうね﹂
﹁⋮⋮ジュリは助けてくれないの?﹂
﹁助けるだけ無駄です。今回はたまたま露見したから食い止めるこ
とができても、次があるかもしれない。そもそもアースレイヤの公
宮に何人の宮女がいると思いますか? 焼石に水ですよ﹂
﹁そう思うなら、何で放置しているの? 国の怠慢じゃないの?﹂
384
﹁アースレイヤの怠慢です。公宮機関はアースレイヤの西妃、バカ
ルディーノ家が長く支配しています。あそこを切り崩さないと、根
本的な解決になりませんよ﹂
いかにも面倒臭げに息を吐くジュリアスを見て、焦りと苛立ちが
芽生えた。
﹁いいよもう、難しい話は。僕はパールメラ姫を助けたい。助けて
くれるの? くれないの?﹂
﹁気が進みません。心底どうでも良い⋮⋮アースレイヤは裏で面白
がるでしょうし、そもそもブランシェット姫に頼まれて、光希が動
くのも気に入らない⋮⋮﹂
彼にしては、珍しく悪態をつくと、腕を組んで考え込むように瞑
目した。やがて、瞼を上げると、青い双眸で静かに光希を見下ろす。
﹁誰の為なんですか?﹂
﹁え?﹂
﹁大した知り合いでもない宮女を助けるのは、誰の為?﹂
﹁僕の為です。知り合いが殺されそうなのに、黙って見ていられな
い﹂
﹁知り合いが殺されそうになる度、コーキは手助けするのですか?﹂
﹁もちろん﹂
385
﹁不可能です。第一、自分一人の力で救えると思っているのですか
?﹂
﹁難しいと思うから、こうしてジュリに頼んでる﹂
﹁コーキの為なら何でもしてあげるけど⋮⋮﹂
不満そうな顔つきで、ジュリアスは躊躇うように言葉を切った。
﹁ジュリ?﹂
﹁⋮⋮ブランシェット姫の為ではないのですか?﹂
一瞬、ふて腐れたようにそっぽを向くジュリアスの腕を掴んで、
だーかーらー! と揺さぶってやりたい衝動に駆られた。
﹁僕の為です。信じて。知り合いを殺されたくない。助けて﹂
単語を区切って強く訴えると、ジュリアスは錯雑な胸中を語るよ
うに眉をしかめ、諦めたように息を吐いた。
386
Ⅱ︳33
﹁判りました。何とかしましょう﹂
﹁ジュリーッ!﹂
勢いよく抱き着くと、いつものように、力強い腕で受け留めてく
れた。
﹁ただし、私のやり方に従ってもらいます。コーキはもう、この件
に関わらせません﹂
﹁ジュリのやり方?﹂
﹁宮女の安全は保障しますよ。その代わり、ブランシェット姫には
二度と会わせません。それでいいですか?﹂
﹁パールメラ姫は、助けてくれる?﹂
﹁お約束します﹂
﹁ありがとう。お願いします﹂
ほっと胸を撫で下ろしながら、光希は頭を下げた。
﹁コーキ! 止めてください、頭を下げたりしないで﹂
﹁ジュリにしか頼めないから、きちんと、ありがとうをいいたい﹂
387
﹁コーキ⋮⋮﹂
仕方なさそうに息を吐くと、ジュリアスは腕を伸ばして光希を抱
きしめた。弄ぶように黒髪を指に巻きつけ、離すを繰り返しながら、
ゆっくり唇を開いた。
﹁全力でコーキの為だといい聞かせます。そうでもしないと、疑い
そうになる私の気持ちを⋮⋮判ってくれなくても、せめて知ってい
てください﹂
﹁うん⋮⋮﹂
遣る瀬無い声を聞いて、光希は申し訳ない気持ちになった。帰っ
てきたばかりで疲れているのに、面倒事を頼み、嫌な気持ちにさせ
てしまった。
﹁では、早速準備に取りかかります。朝休の鐘が鳴るまでに片づけ
ないといけませんから、休んでいる暇はありませんね﹂
名残惜しそうに光希の身体を離すと、彼は脱いだ服を再び着込み
始めた。
﹁えっ、今からいくの?﹂
手際よく身支度を整えるジュリアスの背中を、光希は慌てて追い
かけた。
﹁仕方ありません、時間がありませんから。コーキは先に休んでい
てください、帰りは遅くなると思います﹂
388
﹁ううん、待ってます。ごめんなさい。疲れているのに、仕事を増
やして⋮⋮﹂
﹁いいえ、コーキの為ですから﹂
少々わざとらしく、コーキの、という点をやけに強調した。
おとがい
しかし、光希の沈んだ表情を見て、ジュリアスは表情を和らげた。
そっと頤に手をかけて上向かせると、頬に優しく唇を押し当てた。
﹁そんな顔をしないでください。大したことではありませんよ。な
るべく早く戻りますから﹂
﹁うん、気をつけて﹂
玄関まで見送ろうと、ジュリアスに続いて部屋を出ると、彼は苦
笑と共に振り向いた。
﹁見送りはここで。書斎に用もありますし、もう少し準備をしてか
ら出ていきますから﹂
﹁そう⋮⋮﹂
所在なさげに佇む光希を見て、ジュリアスは思わずといった風に
手を伸ばした。
﹁かわいいな、コーキは⋮⋮﹂
甘やかすように耳朶に囁かれ、光希も逞しい背中に腕を回した。
どちらからともなく、顔を寄せてキスをする。
389
角度を変えて唇を合わせて⋮⋮次第に口づけは深くなった。夢中
になり、足の力が抜けそうになる頃、ゆっくり唇は離れた。
﹁もう、部屋に戻りなさい﹂
まなじり
額、瞼の上、眦に優しいキスが落とされる。そっと目を開けると、
ジュリアスは天使のように綺麗なほほえみを浮かべていた。ぼぅっ
と見惚れている光希の頭を撫でて、お休み、と囁く。
閉じた扉の前で、光希はしばらく動けずにいた。全く、どうして
ジュリアスはあんなに恰好いいのだろう?
ふわふわした気持ちが落ち着いても、眠る気になれず、光希は部
屋の明かりを灯したまま絨緞の上に腰を下ろした。
彼の帰りを、待っていたい。何も手伝えないけれど、せめて一番
に労いたい。
どうせなら勉強していようと思い、上着を羽織り、分厚い単語辞
書を開いた。
ふけ
静かな室内に、紙を捲る音が響く。
じっくり腰を据えて辞書を読み耽っていると、ナフィーサが温か
い飲み物を差し入れてくれた。
﹁殿下、あまりご無理されませんよう﹂
﹁ありがとう﹂
カップに口をつけながら、ジュリアスを想った。無事に帰ってき
ますように⋮⋮
静かに夜は更けていく︱︱
390
391
Ⅱ︳34
明け方、空が白み始めた頃。
扉の開く小さな音に、光希は弾かれたように振り向いた。出かけ
る前と変わらない、ジュリアスの無事な姿を見て安堵する。
ふっくらした唇から疲れたようにため息を零したが、表情は穏や
かだ。清かな星明りに照らされた、輪郭のはっきりした頬と顎はこ
の世のものとは思えぬほど美しい。
﹁お帰り、ジュリ﹂
﹁起きていたの?﹂
小さく目を瞠ったジュリアスは、コーキの隣に腰を下ろすと、肩
を抱き寄せた。
﹁身体が冷えてる。まさか、ずっとここに?﹂
﹁平気です。ジュリは平気?﹂
﹁はい、全て終わりましたよ﹂
﹁⋮⋮聞いてもいい?﹂
﹁詳細は教えられません﹂
﹁⋮⋮﹂
392
戸惑った顔をする光希を見て、ジュリアスは続けた。
﹁知れば、コーキの負担が増すだけです﹂
﹁僕より、ジュリが心配です。大変だった? 話して﹂
﹁大したことはありませんよ﹂
﹁じゃぁ、話して。隠し事はなし!﹂
真っ直ぐ瞳を見つめて訴えると、ジュリアスは逡巡してから、諦
めたように口を開いた。
﹁⋮⋮内密にしてくださいよ﹂
﹁約束します﹂
キャラバン
﹁娘を密かに連れ出し、王都を離れる隊商に預けました。そろそろ
砂漠に向けて出発する頃でしょう。相手は貴族ではありませんが、
王都でも目利きの豪商として名の知れた傑物です。前々から宮女を
欲しがっていましたし、ちょうど良いでしょう﹂
﹁え、そうなの?﹂
ここを出て、見ず知らずの相手に、嫁ぐのだろうか。
﹁娘にはドゥルジャーンの名を捨ててもらうことになりますが、縁
談を受け入れれば、この先公宮と変わらない贅沢が約束されていま
すからね。喜んで受け入れましたよ﹂
393
﹁そう⋮⋮こっそり逃がしたってこと?﹂
レイラン
﹁いや、割と堂々と逃がしましたよ。アースレイヤと西妃にも話は
通してあります。西妃には予定通り、ブランシェット姫とパールメ
ラ姫の影武者を連れて蒸風呂にいってもらいます。いきは三人、帰
りは二人。あたかも蒸風呂で何かが起きて、パールメラ姫は失踪⋮
⋮という予定通りの状況を作っていただきます﹂
﹁⋮⋮それでは、リビライラ様が疑われてしまわない?﹂
怪訝そうに問いかけると、ジュリアスは涼しげな顔で首肯した。
﹁身から出た錆を利用させてもらいます。周囲は勝手に誤解してく
れるでしょう。コーキの耳にも、宮女失踪の噂話が届くかもしれま
せんが、適当に話を合わせておいてください。くれぐれも、この話
は内密に﹂
﹁リビライラ様は⋮⋮本当にパールメラ姫を、殺すつもりだったの
?﹂
﹁公宮を追い出せれば、何でも良かったのでしょう。私が動いたこ
とで、手間が省けた、と喜んでいましたよ﹂
俄かには信じ難い。まさか、本当に、あの優しいリビライラが⋮⋮
⋮⋮その隣は、パールメラですわ。ドゥルジャーンに養子縁組を
して、三年前に公宮に上がりましたの。跳ねっかえりで、私も手を
焼いていますのよ。困った姫君ですわ
あずまや
四阿で、彼女はパールメラをそう紹介した。困ったといいながら
394
少しも困った風では無くて、楽しそうにほほえんでいたのに。あの
笑顔は、嘘だったというのだろうか。
深刻そうな表情で黙す光希を見て、ジュリアスは小さく溜息をつ
いた。
﹁ほら、知らない方が良かったでしょう?﹂
虚を突かれて、光希は慌てて顔を上げた。
﹁違う。それは違います。僕は、嫌なことをジュリに押しつけてし
まった。もっと怒ったり、不満をいったり、僕に⋮⋮話して﹂
眩しいものを見るように、ジュリアスは青い瞳を細めた。彼の身
体から、優しい青い燐光が仄かに漂う。
﹁僕は⋮⋮今でも、リビライラ様がパールメラ姫を殺そうとしたな
んて、嘘だって思ってしまう。初めて会った時、優しくて、女神み
たいな人だと思ったんだ⋮⋮ジュリはどう思う?﹂
﹁公宮で立場を築く為には、優しいだけではいられません。寵を競
り合う女達を、愚かで憐れだと思っていましたが、今は少しだけ判
ります。西妃も、アースレイヤの隣に在る為に、そうせざるをえな
かったのでしょう﹂
その言葉に、感傷めいた憐情が湧いた。結局、皆で一人を共有す
るなんて、無理な話なのだ。何千人も美女を囲っても、お互い不幸
になるだけだ。
﹁近く、ブランシェット姫も降嫁が決まりました﹂
395
軽い衝撃を受ける光希を、宝石のように青い瞳が見つめている。
怖いくらいに澄んでいて、心の機微など、すっかり見透かされてし
まいそうだった。
﹁⋮⋮そう﹂
﹁話していいと、さっきいってくれましたね⋮⋮コーキは傷つくか
もしれないけれど、話したいことがあります﹂
﹁うん、判った。話して﹂
何をいわれるのかと、光希は緊張気味に姿勢を正した。
﹁ブランシェット姫はアースレイヤを慕う姫の一人です。コーキに
近づいたのも、蒸風呂の件も、全てアースレイヤの差し金です。危
ないところでしたよ。私が止めなければ、今頃、コーキは蒸風呂で
彼女達に襲われていたのですから﹂
﹁えぇっ?﹂
とんきょう
何をいい出すのかと思えば。予想外過ぎて、頓狂な声が出た。
396
Ⅱ︳35
﹁コーキは割と流されやすいから。ブランシェット姫に迫られたら、
拒めなかったのではありませんか?﹂
さも疑わしげに、ジュリアスは青い瞳を胡乱げに眇めた。
﹁失礼! ジュリの想像でしょ。彼女が僕に迫るなんて、ありえな
い﹂
なんといっても、彼女には女装を笑顔で褒められたのだ。哀しい
が、男として見られていない気がする。
﹁もし、コーキがいけば、アースレイヤもいっていたでしょう。初
心なコーキを籠絡するなんて、彼等には赤子の首を捻るより簡単で
す﹂
﹁どうして、リビライラ様やブランシェット姫が、そんなことを⋮
⋮﹂
納得がいかず、声の調子を落として睨むと、ジュリアスは冷めた
目で応えた。
﹁アースレイヤの嫌がらせです。狙いやすいコーキに目をつけて、
何かと邪魔をする⋮⋮コーキの知らないところで、私は何度も火の
粉を振り払っていますよ﹂
﹁⋮⋮本当?﹂
397
初耳だ。光希はまじまじとジュリアスの顔を見つめた。
﹁あまりに鬱陶しいので、昨夜は取引をしてきました。宮女の正装
をコーキに強要しないこと、婚姻の妨げをしないこと、ブランシェ
ット姫を使ってコーキを誘惑しないこと⋮⋮諸々﹂
見下ろす眼差しが迫力を増す。怯んだように光希が身体を引くと、
逆にジュリアスは身体を倒して迫ってきた。
﹁子飼いの隠密を動かして、娘を攫い、豪商に話をつけて⋮⋮奔走
する私を見て、アースレイヤは楽しそうに笑っていましたよ。対価
の一つも欲しくなるではありませんか﹂
頬を手の甲で撫でられた。蠱惑的な眼差しで見つめられて、光希
は目を逸らすことができなくなった。
﹁えっと⋮⋮心配かけて、ごめんなさい。だけど、一つ勘違いして
いるよ。ブランシェット姫はかわいいと思うけど、好きとは違う﹂
なじ
﹁惹かれたことは、事実でしょう。理屈ではないのだと、先日、コ
ーキも私を詰ったではありませんか﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁同じ公宮にいる限り、すれ違うことがあるかもしれない。心が狭
いといわれるかもしれませんが、心穏やかではいられませんでした﹂
﹁でも、ブランシェット姫は、んっ﹂
398
たちま
いい募ろうとすると、唐突に唇を塞がれた。絨緞の上に身体を倒
されて、忽ち口づけは深くなる。
﹁ん⋮⋮っ﹂
最後に上唇を食まれて、ゆっくりと端正な顔は離れた。光彩を放
つ青い瞳で、熱っぽく光希を見下ろしている。
戸惑ったように視線を揺らした光希は、思いついた懸念を、その
まま口に乗せた。
﹁ブランシェット姫がアースレイヤ皇太子を好きなら、降嫁の話を
彼から聞かされるのは、傷つくんじゃ⋮⋮﹂
﹁だから?﹂
青い瞳に剣呑な光が宿る。怒らせてしまった? びくびくしなが
ら様子をうかがっていると、手を引かれて身体を起こされた。
﹁コーキがそんな風だから、いちいち勘ぐってしまうのです。どう
して心配するのですか? 優しさ? それとも︱︱﹂
不安そうな顔をするジュリアスの頬を、両手で包み込み、無理や
り視線を合わせた。
﹁僕はジュリが好き。信じないの?﹂
﹁⋮⋮コーキは最初から同性愛に抵抗があったし、宮女の恰好も嫌
がるし、あの娘を想う貴方を見ていると⋮⋮不安になります。かわ
いい、と貴方の口から聞かされる度に、胸の内は酷くざわつくので
す。私は、その度に責め立てそうになる衝動を堪えて⋮⋮﹂
399
﹁ジュリ⋮⋮﹂
﹁コーキは私が何もいわないと責めるけれど、明かせば怯えるに決
まっています。私がその気になれば﹂
言葉を切ると、ジュリアスは頬に押し当てられた光希の手を、そ
っと外した。
ひんやりとした空気が流れて、青い燐光がジュリアスの身体から
溢れ出す。
薄く開いていた窓は独りでに閉まり、扉は小さく施錠の音を立て
た。ほら、閉じ込めた⋮⋮というように。
表情を凍らせる光希を見て、ジュリアスの表情は翳った。
掴まれていた手を離されて、光希の方から掴み直した。身を乗り
出して、触れるだけのキスをする。驚きに見開かれた青い瞳を見つ
めて、そっと唇を開いた。
﹁ジュリが男でも、女でも、好き﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁僕も⋮⋮ジュリを愛している﹂
たちま
初めてジュリアスに、愛している、と告げた。
冷気は忽ち溶けて、閉ざされた室内に穏やかな風が吹いた。
ジュリアスは、口を手で押さえ、恥じらうように顔を背けている。
思いがけず、かわいい反応を見せられて、光希は表情を綻ばせた。
光希の方から腕を伸ばして、頭を包み込むように引き寄せると、
長身はおずおずと傾いた。素直な反応に胸をときめかせながら、柔
らかな金髪に指を潜らせた。
400
﹁かわいい﹂
耳元で囁くと、腕の中でジュリアスは小さく身じろいだ。抱きし
めて、髪にキスをして⋮⋮いつもと立場が逆だ。
﹁いいよ、ジュリの好きなようにして。ブランシェット姫はかわい
そうだけど⋮⋮僕は、ジュリを優先する。僕だって、誰にでも優し
いわけじゃないよ﹂
誰からも好かれたいとは、思っていない。他の誰かに恨まれたと
しても、ジュリアス以上に大切なものなんてない。
彼が迷わず光希を選んでくれるように、光希の一番も、ジュリア
スと決まっている。
想い、想われることの奇跡を噛みしめていると、思考がぼやけて、
とろとろとした眠気が襲ってきた。
一晩中起きていたせいもあり、緊張が緩んで、一気に眠気がやっ
てきたようだ。
眠りに落ちる瞬間、お休み、という優しい声を聞いた気がした。
︱︱
401
Ⅱ︳36
公宮を騒がせた、パールメラの救出騒動から五日後。
連日続いた煌びやかな祝賀会も、今夜で最後だ。閉幕の挨拶をす
るジュリアスに、光希も同行する予定である。
今夜の為に用意された衣装を見て、光希は感嘆の吐息を漏らした。
﹁ちゃんと男物の服だ︱︱⋮⋮﹂
感動に震える光希を見て、ナフィーサは鏡越しに苦笑を浮かべて
いる。
﹁殿下、男性の礼装といえど、準備が必要です。午後からはお時間
を全ていただきますよ﹂
﹁ひぇ⋮⋮﹂
容赦のない宣告に、光希は情けない声を上げた。
﹁どうして僕だけ⋮⋮ジュリは服を着替えるだけなのに﹂
﹁シャイターンは礼儀・作法、身だしなみまで完璧でございますか
ら。殿下はまだ男性の礼装に不慣れですし、私としても万全の準備
を整えて差し上げたいのです﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
﹁今夜の礼装を見て、殿下は公宮を出るおつもりなのかと、憶測す
402
る者もいましょう。宮殿中の興味の的になるといっても、過言では
ございません。お一人になられる際は、どうかお気をつけください﹂
﹁ありがとう、ナフィーサ。心配してくれて⋮⋮僕は平気です、ジ
ュリも一緒だし。一人にはならないと思うから﹂
少年はしたり顔で頷いた。十かそこらの子供のはずなのに、ここ
へきてから光希に諭すような口調がすっかり板についてしまった。
﹁それがよろしいでしょう。シャイターンから離れないようになさ
いませ﹂
﹁はーい﹂
光希は気の抜けた返事をすると、午後まで中庭で一眠りしようと
外へ出た。
晴れ渡る蒼空が気持ちいい。背伸びをしていると、遠くの空に一
筋の煙が見えた。天に向かって細く伸びていく。
﹁もしかして、火事?﹂
それも、公宮の敷地内のようだ。隣に立つルスタムも、厳しい眼
差しで空の彼方を凝視している。
﹁確かに⋮⋮東の方角ですね。公宮で何か起きたのかもしれません﹂
警戒したルスタムは、光希を邸の中に連れ戻すと、周囲の警備を
確認して、煙が出ている方角に人を遣った。
同時にジュリアスにも伝令を飛ばす。現場を確認してきた遣いの
者が戻ると、再び光希の元を訪れた。
403
ユスラン
﹁煙の出所は東妃様の邸でした。幸い、大した火事には至らず、消
化活動も間もなく完了するようです﹂
﹁東妃様の⋮⋮? 原因は?﹂
﹁まだ特定されておりません﹂
先日の騒動に続いて、火事とは物騒なことだ。彼も同じことを思
ったのか、火元が判明すれば良いのですが⋮⋮と懸念を示した。
﹁今夜の予定に、変更はありませんか? ジュリは平気ですか?﹂
﹁はい。昼にお戻りになるそうです﹂
﹁え、わざわざ? ここは平気だと伝えました?﹂
﹁ご自分の目で、お確かめになりたいのでしょう﹂
﹁僕、外で昼寝⋮⋮﹂
厳しい眼差しを向けられて、光希は途中で口を閉ざした。
テラスに出ることも禁じられたので、仕方なく絨緞にごろんと寝
そべり、本を読むことにする。
彼のいった通り、ジュリアスは昼過ぎに戻ってきた。仕事が立て
込んでいるようで、光希の無事な姿と邸の警備を確認すると、すぐ
に出ていこうとした。
﹁夜には戻りますから、大人しくしていてくださいね﹂
404
﹁はいはい﹂
大人しく、は最近よくいわれる小言である。つい、適当に返事を
すると、聞き咎めたジュリアスはぴたりと立ち止まり、光希を振り
向いて一瞬で距離を詰めた。
﹁な、何?﹂
﹁判っていますか? 火事の原因はまだ明らかになっていません。
十分に気をつけてください﹂
﹁判った。了解です﹂
今度はきちんと答えたが、ジュリアスの不服そうな顔は変わらな
い。しかし、本当に時間がないらしく、光希の額にキスをして慌た
だしく出ていった。
午後になると、光希もナフィーサに拘束されて忙しくなった。
前回ほどではないが、全身を清められて、髪の手入れ、爪に至る
まで徹底的に磨き上げられる。
上品な黒の紳士服に着替え、ジュリアスのように首にタイをしめ
た。襟や袖がやけにひらひらしている気はするが、どこから見ても
男性の格好である。
壁に立てかけた全身鏡の前で、光希はポーズを決めた。正面を向
いたり、横を向いたり、回転したり⋮⋮鏡の中で、笑いを堪えてい
るジュリアスと目が合った。
︵見られたァ︱︱ッ!︶
羞恥で死ねそうである。固まっていると、ジュリアスの方から近
寄ってきた。
405
﹁かわいいコーキ、すごく似合っています﹂
眩しい笑顔で褒めてくれるが、恥ずかしくて、素直に喜べない。
﹁ありがとう⋮⋮﹂
奇妙な顔になる光希の全身を、ジュリアスは愛でるように眺めて
から、ぎゅっと抱きしめた。
身体を離すと、光希の足元に跪いて右手を取り、手袋の上からキ
スをする。男性の恰好をしていようとも、彼の騎士然とした態度は
相変わらずだ。
﹁⋮⋮人前で、しないでね﹂
釘を刺すと、ジュリアスは少し不満そうな顔をした。構わず手を
引いて、鏡の前で並んでみる。
判っていたことだが、かなり身長差がある。恐らく二十センチは
違うだろう。
彼も、今夜は夜会用の礼装姿だ。黒の上着に、艶のある靴を合わ
せている。同じような恰好をしていると、足の長さの違いが一目瞭
然で悲しい。
いつもよりかは、恰好良いつもりの光希だが、ジュリアスを前に
しては裸足で逃げ出したくなる。
勝とうだなんて思っていないが、光希も少しは恰好いいと思われ
たい。
﹁ジュリ⋮⋮あんまり傍に寄らないで︵自信なくすから︶﹂
悄然と呟くと、傍で聞いていたジュリアスはもちろん、ナフィー
406
サやルスタムにまで怒られた。
誰も味方なんていない。やさぐれた気持ちのまま、引きずられる
ようにして馬車に押し込められた。
407
Ⅱ︳37
﹁そういえば、火事の原因が判りました﹂
馬車に乗ってしばらくすると、ジュリアスは思い出したように口
を開いた。
﹁何だったの?﹂
ユスラン
﹁宮女の失踪を耳にして、次は我が身と恐れた東妃が、自ら邸に火
を焚いて、姿を眩まそうとしたようです﹂
﹁え⋮⋮﹂
表情を強張らせる光希を見て、膝に置かれた手をジュリアスは握
りしめた。
レイラン
﹁東妃も邸も無事だそうです。東妃は臆病な人柄で、社交にも殆ど
顔を出さないと聞いています。今のところ西妃は歯牙にもかけてい
ないでしょうし、暫くすれば宮も落ち着くでしょう﹂
無事と聞いて、身体の強張りは幾らか緩んだが、それでも、胸を
締めつけられるような、苦い罪悪感に襲われた。
パールメラを助けたことで、他の誰かを、そこまで脅かしてしま
うとは考えていなかった。
﹁表向きは、厨房から火が出たことになっています。額面通りに受
け取る者はいないと思いますが⋮⋮光希も何か訊かれたら、そのよ
408
うに答えてください﹂
﹁はい⋮⋮﹂
光希は悄然と呟いた。腿の上で握りしめた拳を、ジュリアスはそ
っと持ち上げると、手袋の上から甲に口づけた。
﹁心を痛めないで。逃亡を図る宮女は、珍しくありません。アース
レイヤの破滅的な公宮管理については、私からも苦言を呈しておき
ます﹂
﹁うん⋮⋮僕も、訊きたい﹂
バルコニーでアースレイヤと言葉を交わした時には、公宮にあま
り瞳を向けていないように見えた。今回の件について、彼はどう思
っているのだろう?
﹁何を?﹂
青い瞳がきらりと光った。思わず視線を彷徨わせると、強く手を
掴まれた。
﹁コーキ?﹂
﹁はい⋮⋮大人しくしています﹂
諦め半分、誤魔化し半分で返事をすると、訝しみながらも手を離
してもらえた。
今夜もアデイルバッハの挨拶で、朝まで続く饗宴は幕を開けた。
409
最終日ということもあり、豪華絢爛な大広間は大賑わいだ。ジュ
リアスと並んでいると、四方から注目を浴びる。堂々と手を繋いで
いるが、人目を気にしているのは光希だけで、ジュリアスはもちろ
ん、周囲の人々も朗らかな笑顔を浮かべている。
社交を避けて壁際に寄っていても、ひっきりなしに声をかけられ
た。
今夜は軍の礼装姿の男性も多い。彼等はジュリアスに気づくと必
ず声をかける。
女性ですら光希より背が高いのに、巨躯の軍人達に囲まれると、
自分を幼い子供のように感じてしまう。
詰襟のせいか、首まわりが締まって苦しい。
開始から一時間も経っていないのに、光希は既に気分が悪かった。
﹁顔色が悪いですね⋮⋮少し休みましょうか?﹂
平気と応えたが、ジュリアスは人払いをして道を開いた。
その判断は正しかったようで、廊下に出て、涼しい風に吹かれる
と、気分は多少上向いた。
くずお
今夜の為に解放されている客室に入ると、光希は力なく寝椅子に
頽れた。
﹁ごめん、ジュリ。面倒かけて⋮⋮﹂
﹁いいえ、コーキのことで面倒なんて一つもありません。私も体よ
く抜け出せて、良い休憩になりました﹂
﹁優しいなぁ﹂
思わずほほえむと、ジュリアスも優しい笑みを浮かべた。甲斐甲
斐しく、冷たい檸檬水を渡してくれる。口に含むと、すっきりとし
410
た味わいに、気分は多少和らいだ。
﹁ありがとう⋮⋮少し休めば、落ち着くと思う。ジュリは先に戻っ
てください﹂
﹁傍に居ますよ。一人にしたくない﹂
くしけず
ジュリアスは光希の隣に腰を下ろした。肩を抱き寄せ、黒髪を優
しい手つきで梳る。
﹁僕は平気です。たくさん、人がきているから、ジュリはいって⋮
⋮少し休んだら、僕も戻ります﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
彼は、なかなか光希の傍を離れようとしなかった。
あれこれと気遣い、世話を焼く。ようやく出ていく際にも、扉の
施錠や、部屋に誰も入れないことを心配そうに繰り返した。
﹁はぁ⋮⋮﹂
一人になると、小さな吐息もやけに大きく聴こえる。少し休んだ
ら戻ろうと思いながら、光希は静かに瞳を閉じた。
411
Ⅱ︳38
寝椅子に横になるうちに、気分は大分楽になった。全快とはいい
難いが、一人でいても退屈で、光希は会場に戻ることにした。
大広間に近づくにつれて音楽は大きくなり、人の笑い声が漏れ聴
こえてくる。
眩い世界に足を踏み入れ、さてジュリアスを探そうとしたところ
で、シェリーティアの姿が目に留まった。見知らぬ男に手を取られ、
厭わしげに顔をしかめている。
その様子を見て、逡巡したものの、光希は勇気を出して足を踏み
出した。
﹁こんばんは、シェリーティア姫﹂
﹁殿下!﹂
シェリーティアと見知らぬ男は、目を丸くして光希を見つめた。
男は酒の回った赤ら顔を慌てて引き締め、光希に最敬礼をする。
﹁お会いできて光栄に存じます。この度はシャイターンとのご婚礼、
誠におめでとうございます﹂
﹁ありがとうございます。彼女と少し話したいのですが、平気です
か?﹂
﹁は、はい。もちろんでございます。良ければお飲み物を﹂
﹁平気です、自分で取りにいきますから﹂
412
笑顔でそういうと、光希はシェリーティアの手を取り、逃げるよ
うにその場を離れた。
会話に割って入り、女の子を連れ出すなんて真似、生まれて初め
ての経験である。緊張と興奮で心臓が口から飛び出そうだった。
﹁あの、殿下﹂
困ったように声をかけられて、手を繋いだままでいることに気づ
いた。慌てて手を離すと、光希は改めて少女と向き直った。
﹁すみません、僕⋮⋮﹂
﹁お助けいただき、ありがとうございました。公宮の解散が決まっ
たものですから、耳の早い殿方達にお誘いをたくさん頂戴して、困
っておりましたの﹂
それは、嫌味なのだろうか⋮⋮ほほえむシェリーティアの心情を
読みかねて、光希はなんともいえない表情を浮かべた。
﹁シャイターンは、そのような自由をお許しなるほど、殿下のこと
を愛されているのですね⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁そのお召し物。とても宮女には見えませんわ﹂
﹁あぁ⋮⋮宮女の礼装だといわれても、どうしても嫌で﹂
理知的な瞳で、シェリーティアは光希を見つめた。品定めするよ
413
うな、やや鋭い視線に耐えていると、ふいと視線を逸らされた。
彼女の視線の先には、ジュリアスがいた。
軍の人間達と、穏やかに歓談している。
ここから人の輪に囲まれたジュリアスまで遠く、視線の合間を幾
人も通り過ぎていくというのに、彼女は吸い寄せられるようにジュ
リアスを見つけた。
その眼差しはとても真っ直ぐで、焦がれるような、切ないような、
憧憬に満ちた⋮⋮恋する者の眼差しであった。
﹁⋮⋮お慕いしていましたわ、ずっと。息が詰まりそうな公宮の日
々も、遠くから凛々しいお姿を一目拝見できれば、幾日も幸せな気
持ちに浸れましたの。あの方のお傍に寄りそうことが叶うのなら⋮
⋮そんな風に夢を見て、自分を慰めていましたわ﹂
どこか歌うように、胸中を語って聞かせる。一途な眼差しに、微
かな嫉妬と後ろめたさを覚えていると、少女は吐息を零した。
﹁振り向いていただけなくても、他の誰の者にもならなければ、い
つまでも夢を見ていられましたのに﹂
美しい双眸を光希に戻すと、少し悔しげな表情を浮かべた。
﹁焦がれる想いなど、寵愛をいただいている貴方には、永遠に判ら
ないのでしょうね﹂
﹁⋮⋮﹂
何も答えられない。いや⋮⋮答えなんて望んでいなかったのかも
しれない。
無言で立ち尽くす光希を見て、シェリーティアは満足そうにほほ
414
えんだ。
﹁全てお終いなのですわ。夢を見ることも、公宮の日々も。私⋮⋮
公宮を出ていけるのだわ﹂
﹁いつ、出ていくのですか?﹂
﹁明日。お見送りは不要ですわ。ほら、シャイターンが見ていらっ
しゃいますわ﹂
慌てて振り向くと、ジュリアスは人の輪を抜けて、こちらへやっ
てくるところだった。
レイラン
﹁ご存知かと思いますが、最近パールメラ様のお姿が見えませんの。
ユスラン
西妃様の勘気に触れてお隠れになった、と公宮では噂されておりま
す。東妃様のお邸でも火事が起きたばかりですわ。殿下も、くれぐ
れもお気をつけなさいませ。先日の私の忠告は、決して大げさなも
のではありませんのよ﹂
﹁シェリーティア姫、僕は⋮⋮﹂
少女の澄んだ瞳を見て、胸中は複雑に揺れた。何をいおうとした
のか、思考もまとまらぬうちにジュリアスが近づいてくる。
﹁︱︱ありがとうございます﹂
あらゆる気持ちを載せて、光希は感謝の言葉を口にした。ほんの
一時、黒と蒼氷色の視線が交差する。
﹁さようなら、殿下﹂
415
シェリーティアは、柔らかくほほえんだ。
﹁コーキ﹂
名を呼ばれると同時に、腰を引き寄せられた。シェリーティアは
数歩下がると、綺麗な笑みを浮かべて膝を折った。
﹁シャイターン、殿下、どうかお幸せに。いついつまでも、アッサ
ラームを明るく照らしてくださいませ﹂
シェリーティアからの、お別れの挨拶であった。
光希はほほえんだけれど、ジュリアスは冷めた一瞥を投げた。光
は我と共に、と返答して背を向けてしまう。
それだけ? と思ったのは光希の方だ。
気になって振り返ると、少女はまだ頭を垂れたままだった。次第
に人が流れて、少女の姿は見えなくなる。
﹁声を︱︱﹂
ジュリアスは何かをいいかけたが、途中でやめた。何? と光希
が訊ねても、小さく首を振る。
﹁それより⋮⋮気分はいかがですか?﹂
﹁うん、平気だよ﹂
ぎこちなくほほえむと、慈しむように髪を撫でられた。
優しい手も、声も、眼差しも、全て光希のもの。誰よりも特別扱
いしてもらっている。誰にも譲るつもりなんてない。
416
それでも、見向きもされない想いを目の当たりにすると、胸が痛
むのは、身勝手な感傷だろうか⋮⋮
417
Ⅱ︳39
ロザイン
﹁こんばんは、我らが英雄と、凛々しい花嫁﹂
レイラン
急に視界が開けたと思ったら、アースレイヤ皇太子が西妃を伴っ
て現れた。
二人並んで立つ姿は、実に神々しい。まるで神話の一場面を、そ
のまま切り取ったかのようだ。
﹁ごきげんよう、殿下。凛々しいお姿ですこと。先日は残念でした
わ。あれから公宮にもいらっしゃいませんし⋮⋮良ければ今度、私
の邸に遊びにいらしてくださいね﹂
公宮を統べる女神は、花のようにほほえんだ。何も知らなければ、
その笑顔の裏なんて、読み取ろうとも思わないだろう。
﹁こんばんは、アースレイヤ皇太子、西妃様﹂
やや緊張気味に応える光希の隣で、ジュリアスは唇の端に社交的
な微笑を溜めている。
﹁花嫁、先日は楽しい一時をありがとうございます。貴方の英雄か
ら、お叱りは受けませんでしたか?﹂
公衆の面前でからかわれて、光希は思わず目を瞠った。隣に立つ
ジュリアスが苛立つのが判る。
﹁アースレイヤ皇太子のおかげで、仲直りできました。感謝してい
418
ます﹂
彼の勘気を抑えようと、光希は繋いだ手に力をこめて告げた。耳
を澄ませている聴衆から忍び笑いが漏れたが、悪意のある笑いでは
ない。
﹁ふふ、どういたしまして。また遊びましょうね。その凛々しいお
姿、よくお似合いですよ。婚礼衣装も楽しみですね。もし軍の礼装
にするのなら、私からお祝いに肩章を贈らせていただきましょう﹂
﹁気持ちだけ、頂いておきます。ぜひ楽しみにしていてください﹂
ジュリアスはしれっと答えると、光希の腰に腕を回した。この場
から立ち去りたいのだろう。込められた力に逆らい、光希はその場
で足を踏ん張った。
訝しむジュリアスを手で制して、美貌の二人を仰ぐ。皇太子の瞳
は、楽しそうに煌めいた。
一歩前に進み出ると、光希は不慣れな手つきでレースの手袋をし
たリビライラの手を取った。彼女の方が背が高いので、自然と見上
げるような姿勢になる。リビライラの瞳が驚きに見開かれた。その
一瞬だけは、彼女の素の表情に見えた。
﹁リビライラ様、とても綺麗です。女神のようです。いつもお優し
くて、僕は貴方にとても感謝しています﹂
どうか、優しい人でいてください︱︱願いを込めて、世にも美し
い女性を仰ぎ見る。
果たして通じたのか、リビライラは目元を和ませると、取られた
手の上に、自ら手を重ねた。
419
﹁まぁ、光栄ですわ! 私、とても嬉しい﹂
自分から触れたくせに、包み込むような手の温もりを意識し始め
ると、頭の中は真っ白になった。
耐え切れなくなり、手を引き抜くと、今度はアースレイヤを見上
げる。
彼は面白がるような顔で、なぁに? と首を傾げた。続ける言葉
を躊躇ったが、公宮で起きたあれこれを思い浮かべ、どうにか奮起
した。手招くと、長身の皇太子は躊躇いなく腰を屈めて、顔を寄せ
る。
﹁コーキ﹂
状況を見守っていたジュリアスは、不服そうな顔で呼んだ。
申し訳なく思いつつ、光希もアースレイヤに顔を近づけた。取り
巻く女性達の間から、小さな歓声が上がる。
﹁リビライラ様を、不安にさせないでください。恋人は貴方だけ、
と安心させてあげてください。そうすれば、きっと、皆が幸せにな
る⋮⋮﹂
一息にいって身体を離すと、ジュリアスに強い力で肩を抱き寄せ
られた。アースレイヤは腹を押さえながら、くくく、と楽しそうに
笑い出した。
﹁まぁ、何の話ですの?﹂
﹁花嫁に叱られてしまいました。そうですね、貴方が我らがシャイ
ターンの傍で、いつでも、かわいらしく笑っていてくださるなら、
考えてみましょう﹂
420
真面目に答えるつもりなど、ないのだろう。今はそれでもいい。
心の片隅に留めてくれれば⋮⋮
光希はにっこり笑った。かわいいかどうかは置いておいて、ジュ
リアスの傍で笑うことなら簡単だ。今すぐできる。
﹁アースレイヤ皇太子、あまり私の花嫁を見つめないでください。
貴方といると注目を浴びて困ります。私のコーキは、恥ずかしがり
屋なのですから⋮⋮﹂
周囲の目から隠すように、ジュリアスは光希を抱きしめた。その
堂々たる甘い仕草に、周囲からどよめきが起きる。女の高い声に交
じって、男の低い声も聴こえた。
光希は、顔をジュリアスの胸に押し当てたまま、蚊の鳴くような
声で、もういこう、と囁いた。
照れる光希に目を落とすと、ジュリアスはこめかみに口づけた。
愛情に満ちた仕草に、周囲は更に沸く。
壁際に寄った後も、ジュリアスは光希を離そうとしなかった。
閉幕の挨拶が近づくと、わざわざジャファールとアルスランを呼
んで光希を見張らせる始末だ。
﹁よくお似合いですよ﹂
にこやかな二人から装いを褒められ、光希は破顔した。今夜に限
っては、お世辞でも嬉しい。
﹁今度、軍舎を見にいっても良いですか?﹂
暖かな空気に背中を押されて、光希は訊ねてみた。アルスランは
怪訝そうな顔をしたけれど、ジャファールな穏やかな笑みで頷いて
421
くれた。
﹁シャイターンがお許しになれば﹂
﹁はい!﹂
いつかきっと、この人達にも追いついてみせる。
決意を胸に前を向くと、ちょうどジュリアスが祝杯を挙げた。よ
く通る、涼やかな声が会場に響き渡る。
﹁千の夜を越えて、砂漠の彼方に花嫁を手にした。心を分かつ半身
こんじき
がある限り、光は我と共にあり。東の憂いも脅威にあらず。陛下の
御代を守り、命果てるまで露払う盾となろう。金色のアッサラーム
に栄光あれ!﹂
ワッ、と熱狂的な拍手喝采が沸き起こった。アッサラームを讃え
る大歓声が、天高く響き渡る。
﹁アッサラームに栄光あれ!﹂
﹁金色のアッサラームに!﹂
﹁アッサラームに栄光あれ!﹂
422
Ⅱ︳40︵Ⅱ章完︶
期号アム・ダムール四五〇年。一三月五日。晴天。
こんじき
祝賀会から十日後。金色のアッサラームで、光希とジュリアスは
華燭の典を挙げた。
ロザイン
カテド
この日、シャイターンの御子、アッサラームの英雄ジュリアス・
ラル
シャトーウェルケ
ムーン・シャイターンと、その花嫁、光希はアルサーガ宮殿の大神
殿にて、アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇帝、最高位神官で
あるサリヴァンの立ち合いの元、正式に婚姻を認められた。
ジュリアスの礼装姿は本当に素晴らしかった。
たぐいまれ
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍の礼装に身を包み、サー
ベルを帯剣した姿は凛と美しく、日頃から傍で類稀な美貌を見てい
る光希ですら、思わず呼吸を止めたほどだ。
丈の長い上着には、金モールの豪華な肩章がついており、襟や袖
の縁取りブレード、ベルトも金色。胸には階級章のほかに、様々な
きん
勲章が幾つもつけられていた。首のタイだけが白く、あとは全身黒
で統一されている。
ちなみに、光希の衣装も全身黒で統一されていた。
ぼたん
上着は胴を絞った上品なデザインの英国紳士のような縫製で、金
釦が幾つもついている。白いタイをしめて、サファイアの飾りで留
めていた。
光希の感覚では、結婚式といえば純白。
なぜ、黒? と不思議に思うところだが、アッサラームでは黒は
吉色だ。
明けの明星を象徴する、青い雷炎の戦神、シャイターンは夜を司
る神でもある。静謐な夜を連想させる黒は、軍の象徴色でもあった。
423
﹁ジュリは本当に恰好いいよ⋮⋮﹂
感動のあまり半泣きで告げると、ジュリアスはそれはそれは神々
しい笑顔を浮かべて、優しいキスをくれた。
ぼうばく
祝砲が上がり、飛竜隊による華麗な曲芸飛行が観衆を沸かせる。
茫漠の空に、色布で愛の言葉が描かれ、天空から放られた花びら
は、優雅に空を踊りながら、観衆たちの頭上へゆったりと舞い降り
てゆく。
その日の光景を、後にアースレイヤ皇太子は、国典よりも賑々し
かった、と語ったという。
しじま
目にも鮮やかな行進と、陽気な音楽がようやく途切れる頃。
密やかな夜の静寂に、二人は枕を並べて昔語りをしていた。過去
をほじくり返すようだが、光希は改めてジュリアスに成人の頃の話
をねだった。
﹁⋮⋮私は特に神力が強く、成人と共に軍に配属されました。夜の
習いが始まったのはその頃です。神力が昂る夜は精を放てば楽にな
るので、進んで公宮を渡った夜もあります。望まれるまま、いずれ
は公宮の娘を娶るのだろうと考えていました﹂
光希がじっと耳を傾けていると、ジュリアスは遠慮がちに、言葉
を続けた。
﹁相手を好いていたわけではありません。あの頃は訓練の度に限界
おぼろ
まで神力を使い果たしては、虚ろな心で誰かを抱いていました。け
れど、ある遠征で初めて花嫁の気配を肌に感じとり、私の中で朧だ
った自我は、花開くように明確になったのです。コーキのおかげで
すよ﹂
424
花が綻ぶようにほほえむと、ジュリアスは手を伸ばして黒髪を手
櫛で梳いた。感触を楽しむように、指に巻きつけたりと愛着を示す。
光希はほほえむと、それで? と先を促した。
﹁花嫁を探し求めて、遠征の度に先陣を切って砂漠を駆けました。
貴方はなかなか気配を読ませてくれなくて⋮⋮いつも霞を手に掴む
ようでした。それでも、私には貴方こそがオアシスでした。蜃気楼
の向こうに微かな気配を感じるだけで、心の渇きが癒されたのです﹂
﹁僕、時々、ジュリの夢を見るんだ⋮⋮﹂
よぎ
ふと、青い空が胸を過った。蘇る記憶⋮⋮鷹になって、悠々と空
を翔けたことがある。見下ろす先には︱︱
﹁心を飛ばして、会いにきてくれましたね。優しく声をかけられる
こともあれば、微かな気配しか感じられないことも⋮⋮だから私は、
どこにいても、何を見ていても、貴方の気配を探していました。夜
空に、砂の向こうに、鏡のように映る泉に⋮⋮残り香に誘われて、
幾日もその場から動けないこともありました﹂
一瞬、ジュリアスの瞳に狂おしい程の渇望が浮かぶ。光希が頬に
手を伸ばすと、掌に押し当てるように頬を寄せた。
﹁⋮⋮初めてこの手で触れた時は、焼かれぬこの身を雷に貫かれた
かと思いました。それほどまでに衝撃的で、霊感の全てだと思えた
のです。生まれて初めて、天の思し召しに心の底から感謝を捧げま
した﹂
そこで言葉を切ると、ジュリアスは恭しく光希の髪にキスを落と
425
した。
﹁幸せですよ。とても⋮⋮コーキさえ傍にいてくれたら、他には何
もいりません﹂
瞳を見つめたまま真摯に告げられ、光希は絶句した。
何という殺し文句だろう。でもそれは、光希の台詞だ。彼に寄り
添う為に、アッサラームへきたのだから。
﹁一緒にいようよ。ずっと。僕はジュリに嘘をつかない。ジュリも
僕に嘘をつかないで。喧嘩しても、仲直りして⋮⋮休みの日には一
緒に出かけよう。今度軍舎にもいってみたい﹂
青い瞳に喜びの光が灯る。腕を伸ばして、そっと光希を抱き寄せ
た。
﹁あぁ⋮⋮良かった。やっと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ジュリ?﹂
彼にしては珍しく、話している途中で寝入った。無理もない。仕
事と婚礼準備のかけ持ちで、疲れが溜まっていたのだろう。
金色の髪を優しく撫でると、秀でた額に、光希の方からお休みの
キスを落とした。
﹁お休み、ジュリ﹂
426
幕間︳始まりの回顧
宝石持ち
あるいは
神降ろし
とも呼ばれる赤子は、血の繋
ごく稀に、額に宝石を持って生まれる赤子がいる。
がりではなく、その大地を守護する神意により選ばれるという。
中でも青い宝石は、明けの明星を象徴する青い雷炎の戦神、シャ
イターンの神力を呼び起こす結晶であり、恐るべき力を秘めていた。
おわ
カテドラル
は、砂漠を総べる中心都市、聖都
青い宝石を持つ赤子は、シャイターンの守護大地、バルヘブ西大
宝石持ち
陸でしか産まれない。
西大陸で産まれた
アッサラームの奥深く、皇帝陛下の御座すアルサーガ宮殿の大神殿
に預けられる。
そして生誕祝福、信仰の対象とされる神名、シャイターンの名を
授かり、成人を迎える十三の歳まで人神として大切に育てられるの
だ。
後にアッサラームを軸とする、西連合軍三十万の兵を率いる砂漠
の覇者、ジュリアス・ムーン・シャイターンは、額に青い宝石を持
って生まれた。
物心つく頃には、自分の中に眠る強大な力の存在に気づいていた。
空虚な心の中、宿敵、不老不死を象徴する冥府の神、ハヌゥアビ
スへの闘心だけが鮮明で、遥か遠く東の大地から脅威が襲ってくる
ことを、人に習わずとも知っていた。
この強大な力で討つ為に、この世に生を受けたのだろう︱︱そう
幼心に理解していた。
海も空も陸も、全てが神々の領域。
地上は天上を戦で汚さぬよう、神々の作られた基盤。
守護大地は神々の勢力図。
427
海に隔てられた西と東の広大な大地は、それぞれ雷炎の戦神シャ
駒
。
イターンと冥府の神ハヌゥアビスに守護されている。
ジュリアスは神に選ばれた特別な
東の強敵を薙ぎ払う為だけに力を与えられ、私利私欲で大地を汚
さぬよう、心を深く、重く縛られている。
自我の欠如。
無感動。
他者の影響を受けず、心は神意を映す只の鏡。
絶望も希望もなく、周囲の音を聴き流し、きたる闘いに備えて研
鑽を積む日々。
十三の年に初めて戦場に立ち、初陣を飾った。
その夜、遠い砂漠の彼方に、生まれて初めて心を揺さぶる、けれ
どとても小さな気配を感じ取った。焦燥に駆られて無我夢中で馬を
走らせたが、正体は掴めなかった。
ロザイン
それが、欠けた心を補うもの、魂の半身︱︱花嫁を求める、長い
道のりの始まりであった。
治まり切らない神力に苦しむ夜は、よく神眼で様々なものを見た。
瞳を閉じていても、時折、青い宝石を通して神の視界を垣間見る
ことがある。神の目は様々な景色を映す。空に浮かぶ青い星、神々
の御座す天上の世界を覗いたこともある。
身体が神力に馴染むにつれて、神眼を自在に操れるようになって
いった。
そして、爆ぜる炎に、波打つ砂漠の向こうに、濡れた蜃気楼の向
こうに、星空の彼方に⋮⋮人の目には映らぬ、感じることのない優
しい燐光を、甘い香りを捕えた。
ほんの一瞬の時もあれば、残り香のように暫く漂うこともある。
僅かでも気配を感じると、天にも昇る心地がした。
同時に味わう、心の底から欲する渇望。甘美な気配が消えてしま
428
うずくま
うと、身を裂かれるような喪失感、深い悲しみに襲われた。
砂の上に僅かに気配を感じれば、その場に蹲り、残り香が消える
まで幾日も動けなかった。
遠ざかる気配を追いかけて、一晩中砂漠を駆けたこともある。
何が何でも手に入れたい。
傍に置きたい。
触れて、感じて、余すところなく味わい、包み、包まれたい。
生まれて初めて知る魂の欲求は、身を焦がす程に強烈だった。寝
ても醒めても、ここには居ない半身を想い、手に入れることがジュ
リアスの全てになった。
期号アム・ダムール四四九年。
ジュリアスが十五の歳、聖都アッサラームは侵略の危機に晒され
た。
防衛壁を幾つも突破され、前線を指揮する大将は討ち取られた。
東の脅威は遂にバルヘブ西大陸の先端、中央大陸との境目まで迫
り、スクワド砂漠は血で血を洗う激戦区に変貌した。
いけば帰って戻れないと揶揄された死地に、アースレイヤ皇太子
は五万の兵と共にジュリアスを将として送った。
元より恐怖心などない。
前線にいけば、いつ現れるかも判らぬ半身に出会えるかもしれな
い。願ったりだった。
アッサラームを侵略から救う為ではない。欠けた半身、花嫁を探
す為だけに遠征を受け入れた。
ところが前線は思った以上に壊滅しており、立て直しは困難を極
めた。
花嫁を探す暇もなく、戦場に立つ日々が流れる。援軍も兵糧も足
らず、アースレイヤは果たして王都を防衛する気があるのかどうか、
欠けた心ですら疑問に思うことも多々あった。
時間が経つ程に、両軍の疲弊は進んだ。
429
これだけの規模にも関わらず、何故かハヌゥアビスの宝石を持つ
将は一人もおらず、サルビアの兵が束になってかかってきたところ
で、ジュリアスにとって脅威ではなかった。とはいえ、五万の兵に
対して向こうは十万を超える大軍勢で押し寄せてくる。前に進むに
は、耐えるには、斬るしかない。
どれだけ斬ったかも判らない。
血で血を洗う修羅の中、ふと見上げた空の彼方を優美な鷹が滑空
していた。
︱︱あぁ、私の花嫁だ⋮⋮!
ジュリ⋮⋮
姿は違えど、見た瞬間に判った。彼の鳥は、名を囁いた。
︱︱あぁ! 呼ばれている! 待って、いかないで!!
魂が歓喜に震える。そして喪失の恐怖に震える。
身体の中から熱がこみあげて、青い炎に包まれた。一直線に拠点
兵を狩りながら、無我夢中で鷹の後を追いかけると、やがて小さな
オアシスが見えた。
優美な鷹は、オアシスの傍ですぅと姿を消した。
それから幾夜もオアシスに通い、一月が経つ頃。
アルディーヴァラン
千の夜を越えて、とうとう砂漠の彼方で花嫁を見つけた。
無窮の宇宙に浮かぶ、美しい青い星。神の住む星から遣わされた、
青い星の御使い。一目見た瞬間に心を奪われた。
静謐な夜を思わせる黒い瞳を潤ませて、ジュリアスの胸の中で声
を上げて鳴いた。
震える身体は柔く、脆く、小さい。加減を誤れば傷つけてしまい
そうだった。その者の名は⋮⋮、
430
﹁ヒヤマ、コーキ﹂
万感の思いを込めて口に乗せた。何と甘美な響きなのだろう。
コーキ、それが私の花嫁の名前。
︵ようやく、手に入れた︱︱︶
決して離すものか。例え、アッサラームが滅んだとしても、コー
キを手放すことだけはできない。
はどうなるのだろう。
歓喜に震えながら、同時に喪失の懸念を心の片隅に思う。初めて
宝石持ち
知る、失うことへの恐怖。
心を手にした
更なる力を得る代わりに、心は弱くなるのか。それとも強くなる
のか⋮⋮
よりしろ
新たな試練なのか。或いは、心なき依代を憐れに想う、シャイタ
ーンの慈悲なのだろうか。
431
幕間︳いとけない君
地上に落ちた、いとけない君。
オアシスで出会ってから、何度も野営地に連れていこうとしたが、
ロザイン
その度に光希はかぶりを振って拒んだ。
彼はジュリアスの花嫁。
安全に迎え入れる為にも、これまで以上に拠点を死守しなければ
ならない。
一刻も早く戦局を見極めなければ︱︱胸を引き裂かれるような苦
しみに襲われながら、トゥーリオを光希の傍に置いて、ジュリアス
は明け方にオアシスを発つ日々を繰り返した。
前線を固守しながら、将を集めて軍議を開き、スクワド砂漠の膠
着状態を終わらせる為に、防衛の布陣を動かし全軍で攻め込む策を
講じた。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍と違い、宿敵、サルビア・
ハヌゥアビス軍は援軍が後を絶たない。どれだけ切り崩しても、母
数の十万を削れない。
防衛一途ではこちらが消耗するばかり、疲弊に負けて、そう遠く
ないうちに切り崩されてしまう。いずれにせよ、決着の日は近かっ
た。
陽が沈み、逸る心を押さえてオアシスへ翔ける。
飛竜から降りると、オアシスから小さな影がまろび出てきた。遠
く闇夜の中でも、すぐに判る。
﹁ジュリ︱︱ッ!﹂
手を大きく振りながら、ジュリアスの名を呼んで、真っ直ぐに駆
けてくる。その奇跡の光景を目にして、ジュリアスは雨季のオアシ
スのように心が潤うのを感じた。
432
﹁コーキ!﹂
拡げた腕の中に、光希は勢いよく飛びこんできた。嬉しくて、つ
い加減を忘れそうなほど強く抱きしめてしまう。
﹁お帰りなさいっ!﹂
花が綻ぶような笑み。
﹁コーキ、今戻りました﹂
黒水晶のような瞳に見つめられると、呼吸を忘れそうになる。身
体中の血が駆け巡り、甘やかな感情と、焔のような所有欲に胸締め
つけられた。
︵この人は、私のもの⋮⋮︶
白くまろい頬に手を伸ばすと、神秘的な黒い瞳は驚きに見開かれ
た。口づけを阻むように、ジュリアスの口を柔らかな掌で押さえる。
赤子のようにふわふわした掌を吸うと、彼の唇から柔らかな吐息が
漏れた。
いとし、いとけない君。
こんな風に触れるつもりは無かったのに、吸った肌のなんと甘い
おのの
ことか。色づく唇を吸ったら、どんな味がするのだろう⋮⋮誘われ
るように顔を寄せると、小さな身体は慄き震えた。
︵怖い?︶
安心させるようにほほえむと、コーキは肩にかけた厚布をずらし
蜂蜜のような素肌を晒した。
小さくて、脆くて、柔らかな⋮⋮輝くような裸体に魅入っている
と、恐る恐る、といった風に上目遣いに問いかけられた。
﹁**、*****?﹂
残念ながら、彼の話す天上人の言葉は判らない。
何かを切々と訴えてくる⋮⋮潤んだ瞳で見つめられると、誘われ
ているのかと錯覚しそうになる。我慢できずに小さな鼻に口づける
と、彼は烈しく狼狽えた。
︵かわいい人だ︶
ほほえまずにはいられない。虚を突いて唇を奪うと、小さな体に
433
さっと緊張が走った。
怯えられると辛い。これ以上触れたら、嫌われてしまうかも︱︱
そう考えただけで、ジュリアスは心臓を鷲掴みにされた。
大袈裟ではなく、この人に嫌われたら生きていけない。
触れたい、味わいたい⋮⋮覚えたばかりの強い欲望を、必死に抑
え込まねばならなかった。
恐がらせないように。距離を測りながら。精一杯、紳士的に振る
舞う。そうとは知らず、光希は無邪気に笑う。
彼は、とにかくかわいらしかった。
一番小さい隊服を着せても尚余る裾。不満そうに折り返し、調整
する姿は十三の子供にしか見えない。
そもそも、成人の十三は超えているのだろうか?
いとけない君。
こいねがう
彼に好かれたい。どうか、ジュリアスのことを好きになって欲し
い。生まれて初めて、誰かの心を希う。
これが、恋。
何て自分勝手で、甘い感情なのだろう?
彼がジュリアスだけを見つめて、ほほえみ、唇を許してくれたら
⋮⋮どんなに素晴らしいだろう。
彼の気を惹きたくて、ジュリアスはこれまでにしたことのない真
似をした。飴色の弦楽器、ラムーダを取り出して恋歌を披露してみ
せる。
﹁*****! ************。*********
*****﹂
彼の反応は期待以上だった。黒い瞳を煌めかせ、手を叩いて喜ん
でくれた。
﹁ありがとう、コーキに喜んで貰えて嬉しい﹂
触れたそうにしている光希にラムーダを渡すと、彼はにっこりし
た。
﹁*********。********﹂
434
なんと天上人の歌を聞かせてくれた。弦を悪戯にかき鳴らし、軽
やかな声で、陽気な節を口ずさむ。
心癒される歌声に至福を味わっていると、光希は肩を落として俯
いた。郷愁に誘われてしまったようだ。
慰めを口実に背中から抱きしめると、柔らかな身体は背を預ける
ようにもたれた。
﹁**、*****⋮⋮﹂
離れようとする身体を柔らかく引き留め、朱く染まった耳に唇で
触れる。彼の困惑を宥めるように耳元で旋律を口ずさむと、すぐに
大人しくなった。
︵どこまで、許されるのだろう⋮⋮︶
探るように、柔らかな黒髪、耳に触れると、腕の中で小さな身体
が震えた。離れようとする身体を、考えるよりも先に引き留めてし
まう。強引な真似は︱︱躊躇いつつ、露わになった首に顔をうずめ
て吸いついた。
﹁ッ⋮⋮﹂
漏れ出る声も、蜂蜜色の肌も、酔いそうなほど甘い。
腕の中から逃げ出した光希は、星空のような瞳を見開いて、怯え
たようにジュリアスを見つめていた。
︵あぁ、言葉が判ればいいのに。溢れるほど、伝えたい想いがある
のに⋮⋮︶
いや、焦るものか︱︱霞に手を伸ばす日々は終わったのだ。触れ
られる距離に、夢にまで見た我が花嫁がいる。
彼を大切にしよう。何よりも、どんなことよりも。
欲望を押しつけるのではなく、彼の信頼を勝ち得るのだ。その暁
には、彼の全てが欲しい。
傍にいて手を出さずにいるのは辛い⋮⋮相当な忍耐を要するだろ
う。だがジュリアスにとってそれは、とても甘美な試練に思えた。
435
436
幕間︳あなたは私の
コーキと出会い、十五夜目。
決戦を目前にして、サルビア軍の奇襲を受けた。
陽が沈み、互いの布陣を睨み合いながら、拠点へと兵を引き上げ
た後のこと。三十に満たないサルビアの小隊が、アッサラーム軍に
扮装して、末端の拠点に密かに乗り込んできた。
軍議中のジュリアスに報告が届いた時点で、手練れの暗殺者達は、
こちらの将兵を十七名手にかけていた。陽動と思いきや本隊は動か
ず。少数精鋭による、指揮官を狙った完全な奇襲であった。
﹁捕えたサルビア兵に口を割らせました。二十八人構成の小隊で、
うち二十は討ち取り、三捕えて、残り五の行方を追っています﹂
アッサラームの中将、ジャファール・リビヤーンの報告を受けて、
ふかん
ジュリアスは空を見上げた。シャイターンの神力を借りて、味方の
拠点を上空から俯瞰するように遠視する。広範囲の遠視は身体に負
担を伴うが、これ以上戦力を削られたら作戦に支障が出てしまう。
疲労を無視して入念に確認した。
ほしょう
﹁ここはもう大丈夫でしょう。奇襲を受けたことを全隊把握してい
る。持ち場を守り、歩哨を続けているようです﹂
﹁南に逃げたという情報もありますが、追いますか?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
明日も早くから戦闘が始まることを考えれば、深追いはせず兵に
437
休息を与えたかった。普段ならそう判断するところだが、オアシス
に残したコーキへの懸念がある。
ここからオアシスまで、それなりに距離はある。足が無ければ夜
明け前に辿り着くことは不可能だろう。しかし万が一、辿り着いて
しまったら⋮⋮
ぞわりと悪寒が走り、背筋が凍りつきそうになった。
神力を解放してオアシスを遠視すると、最悪なことにコーキの気
配を読めなかった。トゥーリオの気配もない。まさか、砂漠へ出て
しまったのか。
ロザイン
﹁花嫁がオアシスにいない。私が出ます。飛竜隊を編成してくださ
い。ジャファール、アルスラン、ナディアは私と一緒に。拠点をア
ーヒムとヤシュムに預けます﹂
﹁すぐに﹂
滑走場に向かうと、前線で戦う将達がジュリアスを迎えた。
﹁総大将が自ら動かれずとも、我等でいって参りましょう﹂
壮年の戦士、アーヒムは気遣うように申し出たが、ジュリアスは
時間を惜しむように首を振って応えた。飛竜に騎乗して号令を発す
る。
﹁アーヒム、ヤシュム、ここは任せました。昼には戻ります。総員
私に続いて、上昇!﹂
いうが早いか、手綱をさばいて飛翔する。編成も確認せずに、上
昇するなり最大速で飛ばした。闇夜を星のように翔けながら、神力
を操りコーキの気配を探す。
438
オアシスに近づくにつれ、コーキの気配を強く感じた。
幾度も触れてきた気配だ、間違えようもない。安堵の息を吐きな
がら、己の力に少々目を瞠った。これほど広範囲の遠視を成功させ
たのは、初めてのことだ。花嫁に出会ってから、間違いなく神力が
高まっている。
安堵したのも束の間、コーキの姿をはっきりと遠視で捉えると、
恐怖で身体が凍りつきそうになった。
恐怖?
未知の感覚に戸惑いながら、見間違いであれと祈る。
恐れた通り、コーキはサルビア兵に抱えられるようにして、トゥ
ーリオに騎乗していた。
︵八つ裂きにしてやるッ!︶
おのの
一瞬で、燃えるような殺意に支配された。騎乗している飛竜が慄
いたように咆哮を上げる。
白み始めた空を突き進み、ようやくコーキの姿を肉眼に捉えた。
︵トゥーリオ! 止まれ!︶
神力で命じると、気高い黒獣は四肢に力を込めて立ち止まった。
大柄なサルビア兵は騎乗を諦めると、コーキを抱えてオアシスに逃
げ込もうとした。誰の許可を得て、ジュリアスの花嫁に触れている
のか。
﹁許さない﹂
静止の声を無視して飛竜を翔る。矢を番えてサルビア兵を射程範
囲に捉えると、憎悪を込めて射った。
砂の上に転がした男を、味方の兵が取り押さえる。視線で、殺せ、
439
と指示すると、深く頷いて引き下がった。
溢れ出た神力を落ち着かせてコーキを振り返ると、力なく砂の上
に座り込んでいた。
﹁コーキ、怪我はありませんか?﹂
﹁ジュリ⋮⋮﹂
呆然としているが、幸い外傷はないようだ。服に男の血がついて
おり、その場で服をはぎ取りたい衝動に駆られた。どうにか抑え込
み、ぐずるコーキをトゥーリオの背中に乗せてオアシスに連れ帰っ
た。
オアシスに着いても怒りは治まらず、コーキを少し怯えさせてし
まったが、しばらくすると、顔に安堵を浮かべた。
﹁⋮⋮*******。*******﹂
潤んだ瞳で、こちらを気遣うように声をかける。透き通った瞳か
ら、今にも涙が零れそうだ。無垢で、清らかな、いとけない姿を見
て、途端に身体は燃えるように熱くなった。
︵触れたい⋮⋮︶
どうしても我慢できずに手を伸ばすと、コーキは触れることを許
してくれた。柔らかな白い頬に触れても、唇に触れても、逃げずに
じっとしている。様子を見ながら顔を寄せても、まだ逃げない︱︱
最後の距離を詰めて、唇を重ねた。
吐息の何と甘いことか⋮⋮
天上の至福を味わった。
何度も唇を合わせて、気持ちを伝えると、コーキもはっきりと応
440
えてくれた。
﹁ジュリ、好きだよ﹂
その時の衝撃といったらなかった。
こんなにも嬉しいことがあるのか、と生まれて初めて感動を覚え
た。
勢いを止められず、少し強引に唇を奪うと、舌を絡めて思うがま
ほうじゅん
ま咥内を貪った。甘い滴を啜ると、身体は燃えるように熱くなり、
指の先まで芳醇な神力で満たされた。
たかぶ
いとけないと思っていたが、熱を帯びた表情は艶っぽく、胸を焦
がすほど身体を昂らせる。
そうかと思えば、唇を奪った男の前で無邪気に泉に入り、躊躇い
もなく肌を晒している。その場で身体を奪ってしまいたかったが、
少し肌に触れると泣きそうな顔をされた。
愛しい、いとけない存在。
急かしてはいけない。コーキの中にある、ジュリアスへの気持ち
を大切に育てたい⋮⋮
しかし、ここも安全ではない。トゥーリオを傍に置いているとは
いえ、コーキの身に危険が及ばぬ保証はない。願わくば、コーキか
ら手を取って欲しかったが、仕方がない。嫌がられたとしても、目
の届く所に連れていこうと決意した。
﹁⋮⋮はい、ジュリといきます﹂
戸惑いながらも、彼は手を取ってくれた。
こちらを見つめる黒い瞳には、確かな信頼が浮かんでいる。澄ん
だ眼差しを向けられて、ジュリアスの胸は感動に震えた。衝動的に
コーキの足元に跪くと、白い手をとり指先に口づけた。
441
﹁ジュリ?﹂
﹁コーキ、貴方は私の運命そのもの。私の花嫁、心から愛していま
す﹂
言葉の判らないコーキは不思議そうに首を傾げたが、すぐに膝を
つくと、ジュリアスの手を取り甲に口づけた。
﹁コーキ⋮⋮﹂
戸惑って声をかけると、黒い瞳を輝かせて楽しそうに笑った。
からかわれたと知って、自然と笑みが浮かぶ。かわいらしく笑う
姿を見ていると、こちらまで楽しくなってくる。抱き寄せて、思う
がまま唇を奪うと、くたりと四肢から力を抜いて、艶めいた瞳でジ
ュリアスを仰いだ。
隙だらけで、つけこみたくなる。一方で、安心してもたれかかっ
てくれるから、期待に応えたいとも思う。
矛盾に満ちた、くすぐったい感情も、初めて知るものであった。
奇襲を仕掛けたサルビアの残兵は、全て捕えた。
血で穢れた砂漠に、天上人であるコーキを連れ帰ることを渋る者
もいたが、ジュリアスは無視した。いっそ、穢れに触れて神気を失
っても構わないとすら思っていた。
彼は時折、青い星を見上げて悲しそうな顔をする。天上で仕えて
いた、シャイターンの元に帰りたいのかもしれない。
寂しげな姿を痛ましく思いながら、遣る瀬無い念に駆られてしま
う。コーキはジュリアスの花嫁だ。シャイターンの神意であるのな
ら、取り上げるな。
初めて知ったのだ。
情熱を、感動を、恐怖を、愛しいと思う気持ちを、自分以外の鼓
442
動を、体温を⋮⋮今更、手放せない。
︵命果てるまで戦うと誓う。だから、どうかコーキを私にください︶
443
幕間︳聖戦の終わり
東の脅威︱︱サルビア軍の侵攻を、アッサラーム軍はバルヘブ西
大陸の最東端、スクワド砂漠で迎え撃った。
それから一年。
アッサラーム軍は最後の牙城として死力を尽くし剣を振るうも、
無尽蔵に湧く不気味なサルビア軍に、戦意を失いつつあった。
ロザイン
そんな中、転機は訪れる。
は神格が上がり、心を持ってシャイ
守護神シャイターンの花嫁が砂漠に降臨し、信心深い兵達の心に
宝石持ち
希望を灯したのだ。
花嫁を手にする
ターンの神力を振るう高位人神として、アッサラームでは崇められ
ていた。
宝石持ち
こうして兵達は息を吹き返し、士気はかつてないほど高まる。
サルビア軍、十万の兵の総大将はガルトトという。
の血を引く、知略に長けた名将である。
対するアッサラーム軍、三万の兵を率いるは、亡き総大将に代わ
り、ジュリアス、アーヒム、ヤシュムの三大将である。
アーヒムとヤシュムの二将は、亡総大将に肩を並べる壮年の戦士
であり、また旧友でもあった。
彼等は当初、後から五万の援軍を率いて現れたジュリアスを疎ま
しく感じていた。亡き友への弔いを胸に各々指揮を執り、陣は乱れ、
二万の軍勢を失う。
しかし、戦神の如しジュリアスの力量を目の当たりにして、次第
に態度を改め、花嫁の降臨後は完全にジュリアスの前に膝を折った。
決戦の時。
444
双方、陣は整った。
砂の対岸に、地平線を覆う赤い軍旗がはためいている。
全軍並べても三万のアッサラーム軍に対し、開戦から増軍を繰り
返し、十万の兵を崩さないサルビア軍との兵力差は歴然であった。
それでも、兵達の目は死んでいない。
げき
ジュリアスの胸にも、恐れや敗戦の懸念は欠片も無かった。指先
まで神力に満ちている。
闘志に満ちたアッサラームの獅子達に檄は不要と思うが、アーヒ
を促した。
ムとヤシュムは軍旗を掲げてジュリアスの後方につくと、視線で
声
ならば。
一つ頷くと、武装したトゥーリオの腹を蹴って全軍の前を駆けた。
後方までよく通るように、声を張る。
﹁今日こそ決着の時。サルビアの侵攻を砕き、神罰を下そう。勇猛
果敢なアッサラームの獅子達よ、黒牙を抜け!﹂
オォ︱︱ッ!!
ほこ
大気を裂くような、びりびりと鼓膜に響く咆哮が上がる。
騎馬隊は黒い刃の鉾を掲げ、歩兵は黒い刃のサーベルを抜いた。
アーヒムとヤシュムが鼓舞するように軍旗を閃かせる。
対岸のサルビア軍からも闘志を燃やす声が上がった。
両者睨みあい︱︱ジュリアスが飛竜隊に先制の号令を発すると、
十万対三万のアッサラーム防衛戦、最後の火蓋が切って落とされた。
総大将ガルトトは慎重な人物で、側近の近衛と共に、幾重にも守
れた兵の最後方に構えていた。討ち取るには、まさに十万の軍勢を
突破しなければならない。
対してジュリアスは常に先陣を駆ける将で、飛竜隊同士の壮絶な
空中戦が始まると、自らわずか千の機動隊を率いて敵陣に切り込ん
だ。
445
敵陣に深く切り込まず、横ばいに兵を散らして数刻。
檻に閉じ込めるように、敵陣が左右に伸びてきた。囲い込みであ
る。
頃合いだろう。
進軍の合図、旗を揚げると、後方待機していたアーヒムとヤシュ
きょうげき
ムがそれぞれ一万の兵を率いて、前のめりになっている敵陣の後ろ
に回り込み、これを左右から挟撃した。
ジュリアスの首を狙って布陣は前のめりの状態。自然と最後方に
王手
をか
構える総大将ガルトトは、自軍と引き離されて孤立していた。そこ
へ更に千ずつに小分けした騎馬隊を送り込み、一気に
ける。
ところが、総大将ガルトトは増軍を後方から呼び込み、更に退却
する。
援軍のからくりは、この一年で読めていた。
永らく中立でいたバルヘブ中央大陸の蛮族達が、サルビアについ
たのだ。
サルビア軍は東から渡ってきているわけではなく、中央大陸に拠
点を設けて、最短でこの戦場に駆けつける確実な行路を確保してい
るに違いない。
アッサラームがこうまで追い詰められた最たる原因は、それほど
大規模な軍事情勢を、開戦するまで気づけなかったことにある。
陸続きの蛮族達とは常に争いが絶えぬ為、アッサラームの参謀は
味方につけるなど考えたこともなく、またサルビアがそれを成し遂
げるとは露程も考えていなかった。
︵アッサラーム生存の活路は、拠点の制圧以外にない︶
ジュリアスが自ら囮役であるように、敵の総大将ガルトトもまた
拠点をくらます為の囮役なのだ。衝突の度に、後方に構えては姿を
晒す。
446
そうと気づきながら、中央大陸の拠点に攻め込めずにいたには理
由がある。
中央不可侵、スクワド砂漠防衛というアースレイヤ皇太子の命令
アンカ
に背く権力を、ジュリアスが有しておらず、アーヒム、ヤシュムが
承服しなかったのである。
ラクス
しかし、花嫁を手にした今、ジュリアスの階位は皇帝に次ぐ神剣
闘士となり、権力の上でアースレイヤ皇太子を越えた。
ついに、拠点制圧の策に二将は頷いたのだ。
空を制する最大火力︱︱飛竜隊を目先の布陣に仕掛けるのではな
く、中央大陸の拠点制圧に向けて動かす。
この作戦の要を、ジャファール、ナディアの二名に任せていた。
いずれもジュリアスの側近である。
総大将ガルトトは驚きに目を瞠るだろう。開戦からずっと中央に
仕掛けずにきたのに、ここへきて突然不可侵を破るのだから。
しかし、空に火力を欠く分、地上に被害が及ぶ。
空中戦で負けが見え始めた。
かくしゃく
敵の飛竜隊により、遥か頭上から油樽が投げられ火矢を放たれる。
瞬く間に辺り一面炎の海に包まれ、赫灼たる赤に、孤立した部隊は
飲みこまれた。苦痛の断末魔が大気を揺るがす。
﹁シャイターン! お下がりくださいッ!﹂
立ちはだかる火の壁を前に、側近が声を張り上げた。
﹁引いても活路はない! 進め!﹂
砂を抉るように、青い雷を叩きつけた。巻き上がる砂塵で炎が弱
まると、一気に敵陣を進む。
トゥーリオはいかなる戦場も恐れない、誇り高い黒獣だ。燃え盛
る炎を飛び越え、単騎で総大将ガルトトに迫った。
447
知略に長ける軍将なので、決闘は避けると思いきや、目前に迫る
ジュリアスを睨みつけ動かなかった。
﹁決着をつけよう﹂
ジュリアスの呼びかけにガルトトは応じた。止める側近の声を無
視して、単騎で前に出る。
敵の総大将を間近に見るのは初めてだ。年は三十後半だろうか。
武装していても、鍛え抜いた体躯の戦士であると判る。
それでも一対一で負ける気はしない。向こうも気迫は同じ。ガル
トトは、不敵な笑みを浮かべた。
﹁お見事。背後を取られるとは思わなかった。しかし単騎で乗り込
むとは、シャイターンの御子は勇猛なのか、浅慮なのか﹂
﹁剣を交えれば判ること﹂
﹁いかにも﹂
鋼が閃き、火花が散った。
巨大な鋼を、ジュリアスはしなやかな流線で受け流す。速剣はア
けんげき
ッサラームの型の基本である。
剣戟が激しさを増すにつれて、ジュリアスの速度にガルトトは遅
れを取るようになった。
青い炎が剣に宿る。
最期の一閃は、彼は視界に捉えることすらできなかった。
大将同士の一騎打ちで、ジュリアスは見事敵将の首を跳ね飛ばし
た!
自軍から歓声の声が上がり、敵軍からは怨嗟の咆哮が上がる。
448
将の首を取った後は、殲滅戦へと移行した。圧倒的な神力を以て
して広範囲を薙ぎ払う、士気が高いままに残兵を蹴散らした。
アッサラームの飛竜隊が拠点を制圧し、勝敗を決した。
開戦から三年。
長き戦いは、ついにアッサラームの勝利で幕を閉じた。
しかし戦禍の爪痕は深く、双方何万という兵が死んだ。
アルディーヴァラン
命が尽きると、アッサラームの民達は屍を晒さず、青い燐光を燃
やしながら天に還っていく。神々の世界に召されるのだ。
一方、サルビアの民達は何も残さず大気に消える。冥府の神ハヌ
ゥアビスに導かれ、生前の記憶を抱えたまま輪廻に還るといわれて
いる。
スクワド砂漠は、一面青い燐光で覆われた。
多くを失いながらも、凱旋に臨むアッサラームの兵達の顔色は、
決して暗くない。心を寄せる、聖都アッサラームにようやく戻れる
のである。
天幕の中、眠る光希を見つめながら、ジュリアスも穏やかな表情
を浮かべていた。朝まで一緒に過ごせるのは久方ぶりだ。
手の甲で頬を撫でていると、うっすらと目を開き、黒い双眸はこ
ちらを向いた。眠そうな眼差しをして、かわいらしくほほえむ。
﹁お早う、ジュリ﹂
﹁お早う﹂
前髪を分けて額に口づけると、ふ、と子猫のように笑った。ほほ
えみ一つで、煩いほど鼓動が高鳴る。
光希に、一生に一度の恋をしている。
姿を瞳に映す度に、声を聞く度に、光希に落ちていく。
449
もう抜け出せないほど深いというのに、ほほえみ一つで胸が高鳴
り、更に落ちていく。果たして、どこまで落ちていくのだろう⋮⋮
この幸せを守る為に、すべきことは山とある。
凱旋が決まったのだ。
先ずは、光希を公宮に迎える準備をしなくてはならない。
アール川のほとりに屋敷を建てよう。光希の好きな湯を楽しめる、
大きな浴場を作ろう。星空の見える浴場はどうだろう。正門には水
路を引いて泉を張ろう。庭園には空が闇夜に染まる青紫のような、
クロッカスを一面に敷こう。きっと光希に似合う。
金色のアッサラームを見て、彼は喜ぶだろうか?
未来に思いを馳せて心湧きたつのは、生まれて初めての感覚であ
った。同時に失う可能性を思い、不安にも駆られる。全て光希が隣
に居ればこそ。
︵サルビアは、必ずまた攻めてくる︶
もう、宿命を負って単騎駆けるだけでは駄目なのだ。光希を守る
為に、先ず国を守らなくては⋮⋮
この戦いで名だたる将が死んだ。戻ったら軍の立て直しを急がな
ければならない。単騎駆けるのではなく、アッサラームを率いて駆
けなくてはならない。
愛する者を守る為に︱︱ジュリアスが、将としての自覚を改めた
夜であった。
450
Ⅲ︳1
ほとり
期号アム・ダムール四五〇年。六月五日。
ロザイン
公宮。蒼天を映して煌めくアール河の畔。
青紫のクロッカスに囲まれた花嫁の屋敷︱︱クロッカス邸。
上品な深緑色を基調とする紳士の装いで、光希は晴れやかな表情
を浮かべていた。
これから、アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地を見
学しに行くのだ。婚姻から半年、日々の説得が実を結び、ようやく
軍部を訪れることを許された。
この半年︱︱
現公宮の頂点に君臨する光希だが、華やかで昏く深い女の世界に
は馴染めず、人の集まる公宮施設には殆ど足を運ばなかった。
ジュリアスの公宮は既に解散されているが、三千人を超えるアー
レイラン
スレイヤ皇太子の公宮は今なお健在である。
彼の四貴妃の一人、西妃︱︱リビライラからは招待状を度々もら
ったが、ジュリアスと共に一度顔を出しただけである。
彼女は、一見しておよそ権謀術数とは縁遠い佳人に見えるが、半
ひと
年前に公宮を騒がせた、宮女失踪の首謀者である。棘も毒もある女
性なのだ。
表向きは優しい女だが、事情を知っているだけに、女神の如し微
笑を空恐ろしく感じることがある。
公宮から足は遠のき、屋敷に引きこもる間、持てる殆どの時間を
教養に費やした。
宝石持
大陸に広く普及する公用語、地理や歴史、武器、陣営、軍舎、軍
規⋮⋮多種多様に学んだ。
師事するサリヴァン神官は、ジュリアス以外では唯一の
451
ち
よみ
で、大変な高位神官でもある。多忙の身にありながら、神は勤
勉な者を嘉したもうと、光希の為に快く時間を割いてくれた。
宝石持ち
の義務として複数妻帯しており、腹違いの子供が十
今年五十七歳になる彼は、未だ花嫁を得ていない。
人いるらしい。
軍部に行くにあたり、ジュリアスが選抜した光希の武装親衛隊候
補の一人、ユニヴァース・サリヴァン・エルムという少年兵はサリ
ヴァンの息子の一人だという。先日十八になった光希と同い年とも
聞いており、会えることを楽しみにしていた。
なにせ、気安い同年代の友人はおろか、知人すら皆無に等しいの
だ。
最高の贅沢を享受しているが、不満がないかと言えば、そうでも
ない。
退屈で死にそうになる日もあれば、時にはジュリアスと意見が衝
突し、窮屈な思いをすることもある。
それでもアール川の畔にある屋敷は快適で、ジュリアスと共に過
ごせる満ち足りた日々を、概ね幸せだと感じていた。
今は衣食住を恋人に頼りっきりだが、軍の内勤が叶えば、いずれ
給金を得て、ジュリアスの為に何かしてあげたい。
凱旋を終えたら、穏やかに過ごしたい⋮⋮なんて零していたジュ
リアスは、瞬く間に忙しくなってしまった。
早朝から軍議に出席し、鍛錬をこなし、あまり明かそうとしない
が、複数の任務を掛け持ちしているらしい。
彼は、朝課の鐘が鳴り終える頃に帰宅し、朝早く出掛けていくの
だ。
疲れているだろうに、愚痴の一つも零さない。
今の光希では、彼の相談に乗れないことが口惜しい。軍関係者に
なれば、苦労も多少は分かち合えるようになるのではないかと、密
かに期待していた。
452
+
玄関ホールでしばらく待っていると、ジュリアスは二人の少年を
連れて戻ってきた。
﹁光希、お待たせしました﹂
コーキ
という呼び方は、
凛々しい軍服姿で、ジュリアスは滑らかな発音で光希を呼んだ。
半年の間に、どこか異国の発音だった
とても日本的な光希という呼び方へと変わった。
丁寧な口調は相変わらずだが、年相応の言動を見せることもある。
喜ばしい変化だ。
﹁お帰りなさい!﹂
満面の笑みで迎えると、ジュリアスも眼を和ませた。
﹁同行させる武装親衛隊候補を紹介します。彼はユニヴァース・サ
リヴァン・エルム。光希と同じ十八歳で、サリヴァンの八番目の息
子です﹂
言われてみると確かに、目元はサリヴァンに似ているかもしれな
い⋮⋮
しかし、落ち着いた雰囲気のサリヴァンと違い、彼の雰囲気は飛
びぬけて明るい。
整えられた灰銀の短髪は、左右に青い筋が入っており、形の良い
耳朶に銀細工が幾つも垂れている。軍人にしては珍しい、洒落た格
アイス・ブルー
好だ。
蒼氷色の瞳を輝かせて、光希を遠慮なく見つめている。不躾に感
じないのは、人懐っこい雰囲気のせいだろうか?
453
﹁彼は、ローゼンアージュ。私の小間使いで、年は十五。剣技の腕
前は、私が保障します。今後は、ルスタムと共に光希の護衛を任せ
ます﹂
天使めいた容貌の少年は、澄んだ海水青色の瞳を和らげて微笑し
た。
自分がなぜ照れているのかも判らないままに、光希は会釈した。
背は光希より少し高いくらいで、アッサラームの人間にしては小柄
に見える。
﹁お世話になります。どうぞ宜しくお願いいたします﹂
笑顔で一礼すると、二人は姿勢を正した。同年代と思うと、不思
議な気安さを覚える。打ち解けていきたいものだ。
﹁﹁本日は花嫁の護衛にご指名いただき、大変光栄に存じます。精
一杯務めさせていただきます﹂﹂
紹介された二人は、異口同音に唱和すると、礼節に則った最敬礼
で応えた。
454
Ⅲ︳2
﹁本当は、私が同行できれば良いのですが⋮⋮﹂
馬車の踏み台に足をかける光希を見て、ジュリアスは残念そうに
呟いた。思わず、そのままの姿勢で後ろを振り向く。
﹁ジュリは一緒にいけないの?﹂
﹁そうしたいのですが、急用ができてしまって。軍部には話を通し
てありますから、見たい所があれば遠慮なくどうぞ﹂
名残り惜しそうに告げると、光希の手をすくい上げて甲に口づけ
た。周囲に人がいようとも、彼は相変わらずである。
照れ臭げに視線を逸らした光希は、行ってきます、と小声で応え
るのが精一杯だった。
+
くろがね
もんぴ
アッサラーム軍本部基地は、石造りの重厚な城塞である。
灰色の石柱と黒い鉄の巨大な門扉の左右には、青い双竜と剣の紋
は
章が入った軍旗が優美にはためいている。
詰襟軍服姿のサーベルを佩いた門兵達は、光希を乗せた馬車の紋
章を見て、胸に手を当てて最敬礼をした。
見栄えのする軍人や、建物を物珍しげに眺めるうちに、あっとい
う間に目的地に着いた。
﹁本部は五階まであります。三階から上は士官専用ですが、今日は
455
どこでも自由に出入りする許可を頂いております。気になる所があ
れば、遠慮なくおっしゃってください﹂
軍部に到着すると、ユニヴァースは印象通りの明るい口調で、先
導しながら説明をしてくれた。
﹁僕、クロガネ隊を見学したいです﹂
くろきば
クロガネ隊は内勤部署の一つで、黒牙と呼ばれる黒い鉄の製鉄、
加工を担っている。軍の内勤で、一番気になっている部署だ。
クロガネ隊製鉄班は高熱の鉄を叩く過酷な力作業だが、加工班の
方は、盾や剣、防具の修繕、修復、装飾。また名札や肩章の装飾と
いった、加工作業を主としている。
加工に使用する素材の一つ、鉄の粉末は、日本でフィギュアを作
っていた際に使用していた純銀含む粘土、アートクレイシルバーに
似ていて、これは天職なのでは、と閃いたのである。
﹁クロガネ隊は一階の奥が全てそうですね。製鉄班と加工班に分か
れていますが⋮⋮製鉄班の方は高炉がありますから、工房に入るの
は危険かもしれません﹂
思案気な表情のユニヴァースを見上げて、光希は口を開いた。
﹁ユニヴァースは入ったことはありますか?﹂
﹁製鉄工房はありません。加工の方はよく行きますよ。入隊したら
名札も必要だし、武器や防具の修理でしょっちゅうお世話になって
います﹂
﹁へぇ⋮⋮こんにちは﹂
456
石柱の回廊を渡る道すがら、兵士とすれ違う度に、彼等はわざわ
ざ脇へ避けて最敬礼をする。
先導するユニヴァースを含めて誰も反応しないので、光希がおず
おずと会釈をすると、やはりルスタムに止められた。
﹁会釈は不要です。永遠に目的地に辿り着けませんよ﹂
確かに⋮⋮すれ違う度に反応していたら、会話もままならない。
ロザイン
﹁やじ馬多いな。花嫁を一目見ようと、うろうろしているんです。
無視していいですよ﹂
どこか感心したように周囲を見渡してから、気軽い口調でユニヴ
ァースは応えた。
﹁僕なんか見ても楽しくないと思うけど⋮⋮﹂
見られるのは構わないが、がっかりされたら辛い。
﹁殿下はなかなかお姿をお見せになりませんし、今でも時の人です
から。軍部に顔を出すうちに、落ち着きますよ﹂
﹁そうかなぁ﹂
クロガネ隊の工房を訪ねると、薄汚れた前掛けを着用した隊員が
出てきた。しまった、という顔で前掛けを脱ごうとするので、光希
は慌てて手で制した。
﹁あ、どうかお構いなく。そのままの恰好で平気です﹂
457
﹁いらっしゃると聞いていたのに、大変失礼いたしました。中に入
って、ご覧になりますか?﹂
﹁はい、是非お願いします﹂
﹁かしこまりました。班長のサイード・タヒル軍曹を呼んで参りま
すので、少々お待ちください﹂
とくとう
アイス・ブルー
そう言って、笑顔のさわやかな好青年が連れてきたのは、思わず
二度見するような強面の男だった。
二メートルはありそうな分厚い強靭体躯。禿頭に鋭利な蒼氷色の
瞳、片目は眼帯で覆われている。どこから見ても、盗賊にしか見え
ない。
﹁殿下、ようこそいらっしゃいました。加工班班長を務める、サイ
ード・タヒル、階級は軍曹です﹂
見た目を裏切らない、重低音の渋い声だ。光希は、思わず心の中
で、ス●ーク! と叫んでしまった。
﹁ここでは主に隊員の武器や防具の修繕、補強、装飾を行っていま
す。刀身、黒牙の修繕は隣の製鉄班が行います。彼等は炎を使いま
すが、私達が使うのは鉄の粉末を聖水で溶いた粘土です。加工して
磨くと、闇夜のような黒艶を発します﹂
強面の男は、意外にも親切に工房を案内してくれた。
﹁アッサラームの武器は、黒い刀身が多いですよね。銀は使わない
のですか?﹂
458
﹁使いますよ。特に装飾ではよく使います。他にも金や銅、天然石、
革も扱います。刀身は鉄が好まれますが、良い鋼は他にもたくさん
あります﹂
﹁なるほどー。今は皆さん、武器の手入れをしているのですか?﹂
赤煉瓦造りの広い工房では、窓際一面に分厚い木の机が並んでお
り、隊員達が背を向けて作業に勤しんでいる。使用済の剣や盾を修
繕しているようだ。
﹁はい。新兵が大量に増えたので、修復作業が追いつかなくて。最
近は日暮れまでやっています。入隊すると一通りの武器と防具を配
給され、個人管理になるのですが、初めはどの隊員も破損が酷くて
毎日のようにここへ顔を見せるんですよ⋮⋮なぁ、ユニヴァース?﹂
からかうように名を呼ばれて、ユニヴァースは頭を掻きながら、
へらりと笑った。
﹁すんませーん、お世話になってます﹂
﹁お前そういえば、依頼書五枚も出したろ。机空いてるから自分で
作れ﹂
﹁うぇ?﹂
間の抜けた返事は無視して、サイードは光希を見下ろした。
﹁殿下、もしお時間があれば、試しに加工作業を体験してみません
か?﹂
459
﹁いいんですかっ?﹂
眼を輝かせる光希を見て、サイードは眼元を和ませた。
460
Ⅲ︳3
﹁それでは、試しに指輪を作ってみましょう﹂
そう言うと、サイードは様々な材料の入った箱を作業台の上に置
いて、よく見える位置に光希を座らせた。
くろがね
﹁材料の粘土は、鉄を溶いて暗所で七日保存したものです。作業中
たがね
の乾燥防止に使う造形用油。油を塗る筆。粘土を均等にならす棍棒。
え
鏨⋮⋮は危ないので、型板で装飾を入れましょう。押し当てるだけ
で柄がつきます。造形芯材、これに粘土を巻いて指輪の型を作りま
す。即効性の乾燥粉は、粘土にまぶして固めます。それから、研磨
剤に研磨台、真鍮ブラシ⋮⋮﹂
作業台の上に並べられていく材料を、光希はしげしげと眺めた。
磨くと黒くなるという湿った粘土は、今は殆ど白色をしている。初
めて見る材料や道具だが、使い方は何となく想像がついた。 興味津々で眺めている光希の後ろで、ルスタムもまた危険がない
かどうか確認している。やがて納得したように頷くと、部屋の隅に
戻り待機の姿勢を取った。
少年兵の一人、ローゼンアージュは先程から光希に背中を向けて、
壁一面の武器保管棚を熱心に眺めている。後で光希も拝見させて欲
しい。
もう一人の少年兵、ユニヴァースは光希の隣に座ると、腰のベル
トから刃渡り十センチ程の小さなダガーを外して机の上に載せた。
つか
﹁柄に蔦模様を入れてるんですよ﹂
461
視線を注ぐ光希に気付いて、ユニヴァースは蔦模様の入った柄を
見せた。精緻な模様が側面半分くらいに描かれている。
﹁えっ、これ自分で入れたの?﹂
﹁はい、時間を見つけて少しずつ⋮⋮﹂
店売りと見紛う出来栄えだ。尊敬の眼差しで光希が仰ぐと、ユニ
ヴァースは照れたように視線を逸らした。
﹁おい、ユニヴァース。お前、堂々と座るんじゃない。殿下の護衛
中だろうが﹂
窘める声を聞いて、ユニヴァースよりも早く、光希は口を開いた。
﹁僕は平気です。ユニヴァースと一緒に作業したいです。いいでし
ょうか?﹂
﹁わー殿下、ありがとうございます!﹂
﹁お前が言うな﹂
隻眼を細めてサイードは呆れたが、ユニヴァースが道具に手を伸
ばしても止めなかった。光希の前で、これだけ奔放に振る舞える者
も珍しい。
我関せず武器を眺めているローゼンアージュといい、同年代の気
安さを感じて光希は嬉しかった。
﹁粘土は触るうちに固くなっていきます。肌を痛めますので、保湿
油を指先によく馴染ませてから始めましょう。では先ず⋮⋮﹂
462
説明を受けながら手を動かし始めると、光希はすぐに没頭し、あ
っという間に三刻が経過した。
昼時課の鐘が鳴る頃には、サイードの丁寧な説明のおかげで、指
輪は大分仕上がった。網型を使って簡単な模様を入れただけだが、
一通りの作業を体験できた。後は研磨して見栄えを整えるだけだ。
﹁殿下は筋が良い。道具の扱いにも慣れていますな。もしやお心得
が?﹂
﹁似たような作業の経験があるんです﹂
褒められて、光希は頭を掻きながら応えた。すると、手元を覗き
こんだユニヴァースは、感心したように口を開いた。
﹁本当だ。殿下のように高貴な方でも、粘土に触れることなんてあ
るんですか?﹂
﹁うん。よく触っていたよ﹂
日本では、と心の中で付け加える光希を見て、ユニヴァースはし
きりに感心している。
﹁お前な。殿下に馴れ馴れしいぞ﹂
すっかり打ち解けた態度のユニヴァースを見て、サイードは呆れ
たように言った。
﹁俺もできましたぁ﹂
見かけによらず剛胆な少年は、強面のサイードの小言を軽く聞き
463
流して、装飾の成果を光希に見せびらかした。
﹁わー、ユニヴァース、仕事早いね!﹂
さっきまで柄の半分にしか入っていなかった蔦模様が、残り半分
にも同じように精緻な装飾が施されていた。ちらと見た限りでは、
鏨二種しか使っていないのに、よくここまで仕上げたものだ。
見せてもらったダガーを返すと、ユニヴァースは、アージュ、と
なげう
後ろ姿の少年に声をかけるや、いきなり彼の後頭部目掛けてそれを
擲った。
﹁ッ!?﹂
ダガーは寸分違わず、真っ直ぐにローゼンアージュの頭に︱︱
刺さると思いきや、瞬閃、まるで背中に目がついているかのよう
に、ローゼンアージュは振り向き、指で挟んで受け留めた。
﹁えぇ︱︱っ!﹂
立ち上り、驚愕の声を上げたのは光希一人だ。
班長は、工房で投げるな、と至極最もな注意をしたかと思えば、
外でやれ、と耳を疑う台詞を口にした。
﹁綺麗だろ?﹂
﹁⋮⋮刃が細い。こんなんじゃ殺せない﹂
﹁判れよ。お洒落だよ﹂
無邪気な顔でとんでもないことを口にする少年兵二人には、怖く
464
て突っ込めない。
﹁殿下の御前で、物騒な真似はお止め下さい。無礼な振る舞いは私
が許しませんよ﹂
唖然とする光希を気遣い、まともな発言をしたのはルスタム只一
人であった。
465
Ⅲ︳4
無表情でダガーをユニヴァースに手渡すローゼンアージュを見て、
光希も傍へ寄った。
﹁後ろを向いていたのに、よく取れたね! 僕も、アージュって呼
んで良い?﹂
人形めいた少年は、無表情を溶かして微笑を閃かせた。ほっとし
て、光希も笑顔になる。
﹁アージュは、ずっと武器を眺めていたね。気に入ったものはあっ
た?﹂
こくりと頷いた少年は、壁面の武器保管棚から禍々しいダガーを
手に取った。まるで宝物を献上するように、膝をついて恭しい手つ
きで光希に差し出す。
﹁あ、ありがとう⋮⋮﹂
恐る恐る手に取ると、ルスタムが心配そうに寄ってきた。
﹁殿下、お気をつけて﹂
﹁はい⋮⋮結構重いね。尖ってるし、刺さったら大変だ﹂
しっかりした柄、竹を斜めにカットしたような、筒状の刀身、刃
渡りは十五センチ以上ある。
466
﹁よく設計された、効率の良い殺傷武器です。身体のどこに刺して
も致命傷を与えられるでしょう。刺されば側面の棘が邪魔をして抜
けず、ものの数分で筒から身体中の血が流れて死に至ります。使い
方は⋮⋮﹂
そんな生々しい説明は欲しくない。聞くに耐えず、ストップ! ストップ! と光希はうわずった声で中断した。
﹁すと⋮⋮?﹂
可愛らしく首を傾げ、ローゼンアージュは澄み切った双眸で光希
を見つめ返した。天使のような容貌に反して、口から飛び出す言葉
は物騒の極みだ。
﹁殿下が怯えています。言葉をお選びください﹂
落ち着いた声でルスタムが窘めると、全員が、感心したように光
希を見下ろした。
﹁この部屋は、殿下の眼には毒かもしれませんなぁ﹂
﹁なるほどぉー﹂
﹁⋮⋮危ないですよ﹂
戸惑う光希の手から、ローゼンアージュは意外と大きな手で、ダ
ガーを取り上げた。
周囲を見渡せば、どういうわけか、幼い子供を見るような瞳をし
ている。落ち着きが悪くて、そろりと視線を逸らすと、窓の外から
467
こちらを覗き込む大勢の顔に気付いた。
﹁お前ら、何してる!﹂
ドスの利いた一喝に、やじ馬達は蜘蛛の子を散らすように逃げて
行った。関係のない工房の新人達までもが、椅子を鳴らして動揺を
見せている。光希もちょっぴり怖かった。
一方、サイードが怖くないらしい古参達は、よぉ、と鷹揚な笑顔
で手を上げている。
﹁殿下がお見えになるって聞いて、鍛錬上で待機してたんだけど⋮
⋮全然こないから、気になっちまってな﹂
ここ
﹁ふん、残念だったな。ずっと加工班に居たのさ﹂
彼等の会話が気になった光希は、恐る恐る窓辺へ近寄った。途端
たちま
に、おおっ、とどよめきが上がる。その声に驚いて足を止めると、
忽ち静かになった。
﹁あの、こんにちは⋮⋮僕を待ってくれている人がいるのでしょう
か?﹂
砕けた様子で話していた彼等は、規律に則った軍人よろしく、背
筋を伸ばして片腕を胸に当てた。
﹁煩くして、大変申し訳ありません。殿下がこられると聞いて、皆
浮き足立っていただけにございます。お気になさらず、どうぞご歓
談ください⋮⋮お邪魔になる、戻ろうや﹂
答えた彼は、後半の言葉を周囲に呼びかけた。各々同意の声を上
468
げるや、去り際に光希を見上げて声をかける。
﹁殿下、お会いできて光栄に存じます﹂
﹁良ければ今度、鍛錬場にもいらしてください﹂
﹁御前失礼いたします﹂
彼等を見送った後、光希は済まなそうな顔でサイードを見上げた。
﹁すみません、長居してしまいました。そろそろ行きますね﹂
﹁なんの。殿下にお越しいただき、大変光栄に存じます。隊員達に
も良い励みとなりました。こんな所で良ければ、いつでもいらして
ください﹂
強面の班長は、白い歯を見せて笑った。工房の隊員達も手を休め
て、顔に好意を浮かべてこちらを見ている。ほっとして、光希は肩
から力を抜いた。
﹁ありがとうございます。今日は本当に楽しかったです。あの、明
日も、きても良いでしょうか?﹂
顔色を窺うように問いかけると、サイードは僅かに眼を瞠り、
﹁もちろんですとも。お気に召していただいたようで、嬉しい限り
です﹂
気持ちいのいい笑顔で快諾してくれた。
469
470
Ⅲ︳5
クロガネ隊の加工班を出た後、隣の製鉄班にも寄ろうとしたが、
鋼の頑強な扉と、恐ろしげな警告文を見て足を止めた。張り紙には
こうある。
この先危険。高熱注意。防御服必須
扉には赤い絵の具で注意喚起する絵図も描かれている。倒れかけ
た鍋から液体が零れて、倒れた人の上に降り注ぐ⋮⋮判り易い内容
だ。
この中で何が行われているのか。怖い物見たさで、しげしげと扉
を眺めていると、ユニヴァースは念を押すように口を開いた。
﹁装備がないと中には入れませんよ?﹂
﹁うん、判っています﹂
行こうか、と言葉を続けようとしたところで、ギィ⋮⋮と扉は開
いた。恐怖にのけぞる光希を、後ろからユニヴァースが支えている。
中からダース●ーダーのように、全身真っ黒の防御服に身を包ん
だ男が出てきた。
シュコー⋮⋮と不気味な全面マスクの排気弁から、空気の漏れる
音が聞こえる。男はサイード並みの巨躯で、仰け反らないと顔が見
えない。その異様な外見は、昔観たテキサス●ーンソー、或いはジ
ェイ●ンの惨殺シーンを光希に連想させた。
禍々しい外見に反して、男は、入るか? と親指で部屋を指し、
かわいらしく首を傾げた。
471
﹁あ⋮⋮すみません、驚いてしまって⋮⋮わ、﹃あっつ﹄!﹂
﹁殿下、お下がりください﹂
扉の中から熱気が漏れて、チリチリと頬を撫でる。たじろぐ光希
の身体を、ルスタムは部屋から遠ざけた。
まるで、サウナみたいな熱さだ。こんな所で作業をして、身体は
平気なのだろうか?
キィン⋮⋮と鋼を叩く音。ゴォッと熱気が舞う音。ヴォォッ!!
と野太い男の叫び声まで聞こえる。
恐い。
熱気から更に逃げるように後じさると、光希は首を左右に振りな
がら男を見上げた。
﹁すみません、熱くて⋮⋮また今度、万全の準備をしてお邪魔しま
す﹂
お辞儀すると、男はシュコー⋮⋮と空気を吐き出しながら頷いた。
背を向けて、後ろ手に分厚い扉を閉める。
興味はあるが、製鉄班の工房に入るには、覚悟が要りそうだ。
その後もあちこちを散策し、気付けば陽が暮れようとしていた。
黄昏。
軍部の休憩室や作戦会議室を見せてもらった後、最後に軍舎を見
にいくことにした。兵士達はまだ訓練中らしく、軍舎に人の気配は
あまり無い。
案内してくれたユニヴァースとローゼンアージュの二人は上等兵
で、大部屋に八人で寝泊まりしているという。
﹁わー⋮⋮結構広いね﹂
472
くろがね
長方形の部屋の壁面はクリーム色の煉瓦で覆われており、正面奥
に大きな格子窓が一つ。左右にには、鉄で組んだ頑丈な二段の寝台
が並んでいる。
寝台ごとに簡易仕切り布が取り付けられていて、一応プライベー
ト空間の配慮はされているようだ。壁には武器棚が設置されており、
どの寝台にも二本以上の武器が掛けられていた。
﹁いやぁ、今は誰もいないから広く見えますが、八人全員入ると窮
屈ですよぉー﹂
少々うんざりした顔で、ユニヴァースはぼやいた。確かにそうか
もしれない。長身体躯の男ばかりでは、さぞ圧迫感があるだろう。
﹁それにしては、綺麗だね。すごく片付いている﹂
男部屋と思えぬほど、部屋の隅々まで掃除が行き届いている。棚
もきちんと整理整頓されており、とても綺麗だ。
感心して眺めていると、ユニヴァースはしたり顔で頷いた。
﹁殿下がお見えになるからと、鬼軍曹に死ぬほど掃除させられたん
です。これで綺麗じゃなかったら、俺達は死にます﹂
﹁そうなんだ﹂
いろいろあったらしい⋮⋮ローゼンアージュも横を向いて遠い眼
をしている。
﹁ユニヴァースの寝台はどれ?﹂
473
﹁一番右奥の下段です﹂
﹁お、窓際なんだね⋮⋮うん、なるほど﹂
武器棚に、大小さまざまな武器が、これでもかというほど掛けら
れてる。蒐集魂の伺える陳列ぶりだ。
﹁座ってみても良い?﹂
寝心地が気になり尋ねると、ユニヴァースは少し眼を瞠ったもの
の、どうぞ、と了承してくれた。
物言いたげなルスタムには気付かず、光希は革靴も脱ぐと、ごろ
んと横に寝転がった。
﹁へー、結構落ち着く⋮⋮﹂
﹁殿下!?﹂
﹁いけません殿下、はしたない﹂
周囲の慌てた声を聞いて、光希は跳ね起きた。
﹁えっ?﹂
ロザイン
﹁花嫁ともあろう御方が、みだりに男の寝所に触れてはなりません。
靴まで脱いでしまわれて⋮⋮シャイターンに叱られますよ﹂
﹁う、すみません⋮⋮﹂
しまった、行儀が悪かったようだ。苦言を呈するルスタムに同意
するように、ユニヴァースも頷いている。
474
久しぶりに同年代と一緒にいるせいで、少々浮かれているのかも
しれない。気をつけねばと思いながら、光希は靴を履き直して立ち
上った。
475
Ⅲ︳6
続いて、ローゼンアージュの部屋を見に行った。
彼も窓際右奥の下段が自分の寝台で、ユニヴァース以上に武器の
陳列ぶりは炸裂していた。おまけに、怪しげな小瓶の数々が、所狭
しと並べられている。
不穏なそれらを、見なかったことにした光希を不満に思ったのか、
ローゼンアージュは自ら小瓶の恐ろしい用途について説明し始めた。
聞くに堪えず、光希は不気味な解説を封じる為に、彼の頭を撫でる。
﹁うん、判った。よく判った。もう、十分かなぁー⋮⋮なんて。あ
りがとうね﹂
頭を撫でられた少年は、大きな瞳を更に見開いて、驚いた表情で
光希を見つめた。
﹁あ、ごめん! つい⋮⋮﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
照れたように、眼元に朱を散らして俯く。その様子に狼狽える光
希を見て、ユニヴァースが言う。
﹁アージュは無害そうに見えて、実害しかないから⋮⋮俺は平気だ
けど、怖がっている連中多くて、もしかしたら今、生まれて初めて
頭撫でられているのかも?﹂
そうなのだろうか? ローゼンアージュの瞳を覗き込もうとする
476
と、困ったように視線を逸らす。
生まれてから、一度も頭を撫でられたことがない?
子供の頃に、誰しも一度は体験するものではないのだろうか⋮⋮
一体どんな家庭で育ったのだろう。
アッサラームは美しい国だが、過酷な自然と争いを強いられてい
る国でもある。家族や知人を、戦争や災害で亡くす人はとても多い。
今日知り合ったばかりの相手に、踏み込んだ質問をすることは躊
躇われた。
かける言葉に迷い⋮⋮肩を軽く叩いて笑いかけるに留める。様子
を伺っていると、彼も穏やかに笑んだ。
﹁なぁ、俺も撫でてやろうか?﹂
やりとりを見ていたユニヴァースは、からかうように言った。
﹁何言ってるの?﹂
人形めいた少年は、表情を消すと、氷のような眼差しでユニヴァ
ースを見やった。
たった今和んだ空気は、あっけなく霧散している。この二人、仲
が良いのか悪いのか、どちらなのだろう?
﹁殿下の御前ですよ。殺気を出さないでください﹂
ルスタムは静かに嗜める。二人は肩をすくめると、溢れる殺気を
収めた。
﹁⋮⋮ジュリの部屋は、どんな部屋だろう?﹂
沈黙を埋めるように尋ねると、ルスタムが応える。
477
﹁大将は一階に個室を持っています。大部屋の二倍の広さがあり、
浴室、武器庫、書斎付の好待遇ですよ。ですが、シャイターンはあ
まりお使いになりません﹂
﹁個室いいなぁ。使ってないなら、使わせて欲しいですよ﹂
ユニヴァースがぼやくと、ローゼンアージュも同意するように頷
いた。八人部屋での共同生活は、いろいろと不便なのだろう。
﹁これから立身出世されると宜しい。サイード殿のように軍曹に昇
級すれば、個室がもらえますよ﹂
ルスタムが穏やかに告げると、ユニヴァースは表情を引き締めて
頷いた。
﹁出世しますよ、俺は。先の聖戦には行けなかった。あんな悔しい
思いはもうご免です。場を与えられたら、一騎当千! アッサラー
ムの獅子を名乗るからには、目指すは将だ。俺はいつか、シャイタ
ーンだって越えてみせる﹂
﹁シャイターンを?﹂
いかにも胡乱げにローゼンアージュは問い返したが、ユニヴァー
スは不敵な笑みを浮かべると、大きく首肯した。
﹁そうだよ。越えてみたいって思うのさ。俺は宝石持ちの血を引い
ているから、特にそう思うのかもしれないけど。シャイターンのよ
かむがか
けんげき
うに、身体を巡る神力を変幻自在に操って奇跡を呼ぶ! どこまで
も深淵な龍脈に漂いながら、神懸りの剣戟を繰り出すんだ﹂
478
そう語るユニヴァースの瞳は、不意に青色の光彩を帯びる。次い
で、窓も開いていないのに、一陣の風が流れた。
﹁そうだね⋮⋮少し似てるよ、ジュリに﹂
ぽつりと呟くと、ユニヴァースは自信に満ちた表情で、嬉しそう
に微笑んだ。ローゼンアージュの冷ややかな眼差しには、気付いて
いないらしい。
﹁さて、大分日が暮れましたね。今日はもうお戻りになりますか?﹂
とばり
窓の外には、夕闇の帳が降りてきている。光希はルスタムを振り
返ると、そうですね、と頷いた。
﹁少し疲れました。帰りましょう。今日は本当にありがとう﹂
笑顔で謝礼を口に乗せると、皆もにこやかな笑みで応えてくれた。
479
Ⅲ︳7
軍部に向かう道すがら、反対側からジュリアスが歩いてきた。
﹁ジュリ! 用事は終わったの?﹂
傍に駆け寄ると、涼しげな青い双眸を和ませて、光希を優しく見
下ろした。
﹁はい。光希が軍舎にいると聞いて、今向かっている途中でした。
どちらへ?﹂
﹁もう帰るところ﹂
﹁では馬車まで送りましょう﹂
﹁ジュリは今日も遅いの?﹂
﹁いえ、今日はもう少ししたら帰りますよ﹂
﹁あ⋮⋮じゃあ、どこかで待っていてもいい? 一緒に帰らない?﹂
にこやかに光希が提案すると、ジュリアスも嬉しそうに微笑んだ。
﹁いいですよ。一刻少々で戻ります。それまでどこか見ていますか
? それとも休んでいますか?﹂
﹁うん、少し疲れちゃった⋮⋮そうだ、ジュリの部屋で待っていて
480
もいい?﹂
いいですよ、と了承すると、ジュリアスは光希の後ろに控えるル
スタム達に眼を向けた。
﹁三人共、ご苦労。後は私が案内するので、ユニヴァースとローゼ
ンアージュは持ち場に戻ってください。ルスタムは一刻後に車庫で
待つように﹂
最敬礼で応える彼等を振り返り、光希は感謝の気持ちをこめて微
笑んだ。
﹁今日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです。
ユニヴァース、アージュ、また会えたら嬉しい﹂
﹁身に余る光栄に存じます。ご指名いただければ、いつでも馳せ参
じます﹂
﹁お会いできて光栄でした﹂
二人の少年は、偽りのない笑みで光希に応えた。
彼等と別れた後、光希はジュリアスと共に、軍舎の一階へ向かっ
た。
回廊の天井は半円状で、一面を淡い蜂蜜色の煉瓦に覆われている。
大きな蝋燭立ての鋼のシャンデリアに、等間隔に並ぶ鉄格子付の
くろがね
分厚い硝子窓。要塞を思わせる造りだが、全体的に一般兵の生活す
る二階と比べて豪華だ。
扉は歴史の重みを感じさせる焦茶色の木製扉で、鉄で補強されて
いる。扉枠は光沢のある黒御影石。枠の一番上には、軍の紋章が金
色で彫られている。
481
ジュリアスの部屋は、とても片付いてた。
というよりも、余計な物が一切ない。寝具や調度品は置かれてい
るが、使用された形跡は無い。
﹁綺麗だね。使ってないの?﹂
﹁そうですね、あまり⋮⋮一応掃除はされているので、綺麗ですよ。
好きに寛いでください﹂
一人で暮らすには十分な広さだ。落ち着いた書斎に、寝室、居心
地の良さそうな応接間もある。浴槽完備なので、わざわざ大浴場へ
行く必要もない。
これは確かに、大部屋で生活するユニヴァース達から見れば羨ま
しい好待遇だろう。
興味津々で光希が部屋を眺めていると、ジュリアスはキャビンを
開けて、酒しかないな、と呟いた。傍へ寄って覗き込むと、本当に
酒瓶しか入っていなかった。そうと意識すると、何だか急に喉が渇
く。
﹁何か用意させます﹂
とのい
ジュリアスは震動式の呼鈴を鳴らした。間もなく年若い宿直がや
ってくると、水と果実水を用意するよう命じた。
様子が気になり、光希が傍へいくと、少年兵は僅かに目を瞠った。
ジュリアスが短く、行け、と命じると慌てて一礼する。
二人きりになると、不意に抱きしめられた。光希も背中に腕を回
して、抱きしめ返す。
﹁ありがとう﹂
482
﹁いいえ。楽しかった?﹂
﹁うん! ユニヴァースとアージュをつけてくれて、ありがとう。
僕、同じ年頃の男と喋ったの、ジュリ以外では初めてかも﹂
﹁⋮⋮そう。今日はどこを見に行ったの?﹂
﹁クロガネ隊の加工班工房に行ったよ。サイード班長に教えてもら
いながら、指輪の加工をしたんだ。ほら⋮⋮﹂
ポケットから指輪を取り出して、ジュリアスに見せた。研磨が足
りず艶はないが、一応模様は判る。ジュリアスは感心したように口
を開いた。
﹁へぇ、光希が作ったの? 器用ですね﹂
え
﹁型造りは昔から得意なんだ。綺麗な円形でしょ。でも合わせ目の
接着がいまいちで⋮⋮柄も適当だし、研磨は足りてないし⋮⋮初め
てにしては上出来かな? 昼時課の鐘が鳴るまで没頭しちゃった﹂
大分時間を要してしまったが、次はもっと上手くできるはずだ。
仔細に指輪を観察していると、頭を撫でられた。
﹁明日も軍部に?﹂
﹁うん、工房に行きたい。サイード班長はいいって言ってくれたん
だ⋮⋮いいかな?﹂
少々甘えた口調でお伺いを立てると、ジュリアスは微苦笑を洩ら
した。
483
﹁いいですよ。そう言うと思っていました﹂
﹁良かった!﹂
ドミアッロ
万歳した拍子に、ふと寝室が視界に映た。横になってもいいかと
尋ねると、どうぞ、と頷くので、光希は遠慮なく靴を脱いで寝転が
った。
﹁わー⋮⋮気持ちいい。やっぱり大部屋とは違うね﹂
身体が柔らかく沈み込む。ユニヴァース達との寝台とは、寝心地
が一味違うようだ。吟味する光希を見下ろし、ジュリアスは寝台に
腰掛けると、
﹁まるで、大部屋の寝台を知っているような口ぶりですね﹂
﹁うん、寝台に座ってみたから⋮⋮﹂
疾しい気持ちはなかったが、青い双眸は探るように光希を見下ろ
す⋮⋮扉を叩く音に呼ばれて、仕方なさそうに視線を外した。
いい時にきてくれた。
なんとなく、ルスタムに窘められた言葉を思い浮かべながら、光
希は密かに胸を撫で下ろした。
484
Ⅲ︳8
﹁では、すぐ戻ります。待っていてください﹂
﹁うん﹂
おもむろ
見つめ合っていると、ジュリアスは徐に光希を抱き寄せた。照明
の影にあっても、青い光彩は煌めいて見える。
静かに唇が重なり、合わせた唇のあわいを舌でつつかれた。薄く
開くと、熱い舌を挿し入れられる。
﹁ん⋮⋮っ﹂
背中に回された腕に力がこもり、爪先が浮き上がった。後頭部を
手で支えられて、口づけは更に深くなる。
長いキスの果てに腕を解くと、ジュリアスは滑り落ちる光希の手
を取り、指先に唇で触れた。
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
なかなか手を離してくれない。瞳を覗き込もうとすると、光彩の
浮いた青い瞳を半ば伏せた。情熱を堪えるように一度瞑目すると、
ゆっくり光希の手を離す。
﹁それでは、また﹂
﹁うん⋮⋮﹂
485
あんまり名残惜しそうに言うから、光希の方も離れ難い気持ちに
させられた。すぐに会えるではないか⋮⋮どこか恥じ入った気持ち
で視線を逸らすのだった。
+
目まぐるしく日々は過ぎゆく。
あれから光希は、クロガネ隊の工房に入り浸り、興味や趣味の範
囲を越えて加工技術を熱心に学んだ。
隊員達も光希が足繁く通うことを喜び、時間の許す限り光希に技
術を教えた。
くろがね
工房の皆が忙しい時は、隅を借りて一人黙々と練習を続け、家に
帰ってからも熱心に書物を読み漁る。研磨まで工程の進んだ鉄を部
ロザ
屋に持ち帰り、ナフィーサの物言いたげな視線を無視して延々と磨
いたりもした。
これまでの人生で、これほど何かにのめり込んだことはない。
イン
かしこ
これを機に、隊員達との距離は急速に縮まった。ジュリアスの花
嫁だと、最初は畏まって緊張していた隊員達も、最近は弟子のよう
に接してくれる。
軍部に行く際は、ルスタムの他にローゼンアージュも付き添い、
クロガネ隊に顔を出せば、必ずと言っていいほどユニヴァースにも
会えた。
彼等と他愛のない無駄話をしたり、一緒に加工作業に没頭したり、
休憩室で休んだり⋮⋮何もかも新鮮で、毎日を心から楽しいと感じ
る。
公宮で過ごすよりも、もっとずっと気楽で、刺激的で、解放感に
溢れている。
好きなことに打ち込める、充足感!
屋敷で団欒している時も、クロガネ隊を含む軍部の話題が増えた。
今まで分かち合えなかった、ジュリアスの世界に少しは近付けた気
486
がする。
ある日︱︱
工房で働かせて欲しい、とサイードに打ち明けてみた。光希が使
えるようになるまでは、無給でも構わないと言い添えて。
彼は冷静に、そして諭すように説いた。
﹁嬉しいお言葉をありがとうございます。クロガネ隊の誉れにござ
います。
ですが、隊員になれば軍規が課せられます。内勤といえど、並以
上の体力が必要です。大人の体重ほどある装甲を台に乗せて作業し
ないといけない日もあれば、鋭い刀身に触る日もある。気をつけな
ければ、大怪我をする可能性もあります﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁正規の隊員ではなく、例えば臨時隊員として作業を限定してお任
せすることはできます。そういった点を踏まえて、シャイターンが
お許しになるかどうか、よくご相談してみてください﹂
﹁はい⋮⋮﹂
至極全うな助言である。
少しばかり凹んだ光希だが、その日の夜、早速ジュリアスに相談
してみた。彼は逡巡すると、緊張気味に返答を待つ光希を見下ろし
て、口を開いた。
﹁光希は正規の隊員のように、働きたいのですか?﹂
﹁ううん。身体を鍛えたいとも思わないし、戦闘は絶対に無理⋮⋮
できれば、加工班の専任として働きたい。どんな契約形態でも良い
487
から﹂
﹁いっそ佐官に就けば、訓練は免責されますが⋮⋮﹂
﹁いや、それは⋮⋮職権乱用じゃないか﹂
﹁難しい言葉を使うようになりましたね。では、クロガネ隊専任、
非戦闘隊員として、伍長勤務上等兵に任命しましょうか。光希の専
属指導隊員も必要ですね⋮⋮﹂
さらりと決めたが、かなり大がかりな人事に聞こえる。光希一人
の為に、ジュリアスにも、クロガネ隊にも迷惑を掛けているのだろ
うか⋮⋮
そう思うと、念願のクロガネ隊勤務への喜びよりも、罪悪感が先
立つ。
難しい顔をしている光希を見下ろして、ジュリアスは肩を抱き寄
せた。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁⋮⋮心配になって。僕のせいで、ジュリアスが悪く言われたりし
ないかな?﹂
﹁なぜ?﹂
﹁軍の内勤って、採用厳しいよね。それなのに、僕はジュリアスに
頼って、楽してクロガネ隊に入ろうとしている。正しい方法で入隊
を目指している人や、実力で入隊したクロガネ隊の皆は、僕に腹を
立てるんじゃないかな。僕だけじゃなくて、僕を入隊させたジュリ
アスまで悪く言われないかな⋮⋮﹂
488
まなじり
俯く光希を励ますように、ジュリアスは抱き寄せた。自信なさそ
うにしている顔を上向かせて、眦や頬に唇を落とす。
﹁心配無用です。文句なんて言わせませんし、光希は隊員から人気
があります。誰も反対などしませんよ﹂
自信たっぷりに言われて、思わず笑みが浮かんだ。せっかくのチ
ャンスなのだから、綺麗事は捨てて掴み取ろう︱︱そう決めた。
+
かくして︱︱
光希は、クロガネ隊加工班専任、非戦闘隊員、伍長勤務上等兵に
任命された。
特別仕様の微妙な肩書ではあるが、曲がりなりにも入隊が決まり、
ユニヴァースとローゼンアージュは正式に光希の武装親衛隊に任命
された。
また、クロガネ隊加工班の熟達者の一人、二十六歳のアルシャッ
ド・ムーランという青年が、光希の専属指導隊員に任命される運び
となった。
489
Ⅲ︳9
光希がクロガネ隊加工班専任、非戦闘隊員、伍長勤務上等兵に就
任してから早七日。
午前七時。晴天。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地。
﹁それじゃ⋮⋮﹂
馬車の中。緊張気味に光希は呟くと、ジュリアスの襟を掴んで引
き寄せた。陶器のような滑らかな頬に、そっと触れるだけのキスを
する。
﹁じゃっ! 行ってらっしゃい、行ってきます﹂
身体を離すと、慌ただしく挨拶を告げて扉を開いた。早くしない
と、捕まってしまう⋮⋮そう思って飛び出そうとしたのに、腹に腕
を回され、中へ引きずり戻された。
﹁ジュリ﹂
首を捻って睨むと、ジュリアスは飛びきり甘い顔で微笑んだ。
﹁はい、行ってきます。光希も気をつけて﹂
やり直し、と言うように額、両頬、唇の順番で優しいキスを落と
される。
ジュリアスと一緒に出勤するようになってから、いつもこうだ。
490
出掛ける時は、相手の無事を祈って四点を結ぶ聖なる口づけを⋮⋮
と言う彼の信奉を否定はしないが、人前や外では勘弁して欲しい。
ならば馬車内で光希から口づけて欲しい⋮⋮そう乞われて渋々受
け入れている。
しかし、光希の慌ただしいキスが物足りないジュリアスは、結局
自分でやり直しをしている。
なら、毎回ジュリアスからすれば良いじゃないか⋮⋮と光希が言
えば、私の無事は祈って下さらないの? とジュリアスが拗ねる。
そんなわけで、馬車の中で光希からのキスは習慣化した。今更だ
が、新婚らしいことをしていると思う。
﹁それじゃ、本当に行ってきます﹂
今度はジュリアスも止めなかった。
タラップを降りて軍部へ向かう光希とジュリアスを、ルスタムは
にこやかに見送ってくれる。彼はいつも車庫入れをしてから、光希
の後を追ってクロガネ隊の工房を訪れる。
一方、ローゼンアージュは無言で二人の後ろをついてくる。
ジュリアスとは階段下で別れた。彼は五階の大会議室で朝一の軍
議に列席、光希はいつも通り一階の工房に引きこもる予定だ。
﹁アージュ、お昼どうする?﹂
﹁殿下とご一緒しても?﹂
﹁もちろん。ユニヴァースはどうするかな?﹂
﹁さぁ⋮⋮﹂
人形めいた少年はどうでも良さそうに応えた。かれこれ二月余り
491
傍にいるが、武装親衛隊の二人は仲が良いのか悪いのか、いまいち
よく判らない。
工房に入ると、先日、光希の専属指導隊員に任命された、アルシ
ャッド・ムーランがいた。
﹁あれ、お早うございます。アルシャッド先輩﹂
﹁お早うございます。殿下、アージュ﹂
アルシャッドは丸眼鏡の底から、穏やかな笑みで応えた。猫っ毛
の灰銀髪で、前髪は長い。ぼんやりとした印象を受けるが、よく見
れば端正な顔立ちをしている。
背丈も体躯も申し分ないし、髪型を整えて眼鏡を外せば、ずっと
華やいだ印象になるだろう。
それにしても⋮⋮いつも以上に、髪も服もくたびれて見える。
﹁アルシャッド先輩、疲れていませんか? ちゃんと休みました?﹂
﹁いやぁ⋮⋮﹂
温厚な青年は、誤魔化すように頭を掻いた。
先日、飛竜隊から大量受注が入ったので、寝る暇もないのだろう。
光希も手伝えればいいのだが、まだ実戦に関わる仕事は任せてもら
えない。
え
たがね
アルシャッドは何でもこなす天才肌で、特に装剣金工、刀身彫刻
においては達人の域だ。精緻な柄を下描きもせずに鏨を打つ。
以前、目の前で実演してもらったのだが、神業すぎて少しも参考
にならなかった。見た瞬間に、彼の域に達するのは不可能だと絶望
したくらいだ。
言動はのんびりしているが、仕事は恐ろしく早い。納期を絶対に
492
たち
落とさない。仕事がどんなに立て込んでも、何だかんだで終わらせ
てしまう性質だ。
こんなに仕事のできる人に、自分の専属指導隊員を務めてもらい、
はがね くろがね
嬉しい反面、罪悪感もある。
ちなみにユニヴァースも鋼や鉄細工は彼から教わったらしい。
師事するコツを尋ねると、遠慮せず逐一聞くべし、と意外とまと
もな助言をくれた。
﹁アルシャッド先輩、掃除なら、僕が代わります。今のうちに仮眠
を取ってください﹂
掃除は全隊員による公平な当番制で、今週の当番はアルシャッド
だ。
﹁んー⋮⋮では、少しだけ横にならせてもらいますね。人がきたら
適当に起きますから﹂
アルシャッドはそう言うと、ふらつきながら内部屋の仮眠室へ消
えた。
彼もまた、光希をあまり殿下扱いしない奇特な人柄で、知り合っ
て七日も経てば、光希へのかしこまった遠慮は消えた。嬉しい限り
である。
ローゼンアージュと二人、作業台の上に椅子を乗せて床を履き、
水拭きしていると、光希の次に出勤の早い少年兵が入ってきた。
﹁お早うございます、殿下﹂
﹁お早うございます、ケイト﹂
女の子みたいな名前だが、男である。そもそも工房には男しかい
493
ない。
外見は天使のような容貌を持つ、ローゼンアージュに少し似てい
る。少し癖のある灰銀髪で、襟足を短めに整えている。
年はローゼンアージュと同じ十五歳で、背丈も大体同じ。光希が
少し見上げるくらいの位置に頭がある。
瞳はかなり珍しい色合いで、外側は茶色の縁なのに、中はオーロ
ラのように、青や紫、銀色の光彩がきらきらと絶えず変わる。
大人しい性格で、およそ戦闘には不向きに見える。最初は光希を
前にすると、直立不動の姿勢でしゃちほこばっていたが、最近よう
やく慣れてくれたらしい。
﹁あの、アルシャッド先輩は?﹂
﹁徹夜明けみたいで、今仮眠室﹂
﹁あ⋮⋮そうですか。あの、俺も掃除手伝います﹂
控え目に申し出る少年を見て、光希は破顔した。
+
しょうかい
午前九時。朝時課の鐘が鳴る。
この時間になると、朝の哨戒任務等を終えたクロガネ隊員は続々
と工房に戻ってくる。
全員集合して点呼を取り、朝礼を始める。全員で仕事の進捗と、
今日一日の作業を確認するのだ。
光希はまだ朝礼で発言することはできない。進捗管理はアルシャ
ッドが行い、彼が光希の分もまとめて報告していた。
494
﹁先ず殿下の進捗は、名札につける金古美、銀古美の装飾制作五件
ずつ、四日見込み。他、練習を兼ねて、鉄の刀身彫刻を武装親衛隊
え
のユニヴァース・サリヴァン・エルムから受注しました。こちらは
じっくり、柄から考えてもらおうと思います。
私の方は、昨日から飛竜隊第一の受注に着工しています。急ぎ且
つ量があるので、他の受注を人に振っているところで⋮⋮﹂
アルシャッドの報告を聞いていると、いつも申し訳ない気持ちに
なる。
彼の仕事は明らかに溢れているのに、実作業を手伝えないことが
歯痒い。しかも光希に教える為に、彼の貴重な時間を奪っている。
心の内では、光希を邪魔に感じているのではないか⋮⋮そう考え
て、勝手に落ち込んでしまう。
実際、邪魔ばかりしている。苛立ちを顔に出さない人だから、余
計にあれこれ想像して不安になる⋮⋮
いや、考えても仕方あるまい。
光希が今すべきは、卑屈にならず、素直に真面目に、できること
を精一杯やることだ。
495
Ⅲ︳10
昼休み。
いろうやぐら
広大な鍛錬場で、騎馬隊の第一から第三までが合同演習をしてい
る。
その様子を高層の井楼矢倉から、光希、ユニヴァース、ローゼン
アージュの三人で眺めていた。
最初は光希とローゼンアージュの二人で、騎馬隊第一所属のユニ
ヴァースを見にきたのだが、彼は二人の姿に気付くなり演習を抜け
出してしまったのだ。
﹁判ってはいるんだけど、落ち込む⋮⋮アルシャッド先輩、昨日徹
夜したんだ。僕のせいで、夜にならないと時間が取れないんだと思
う﹂
前方に眼を向けたまま、光希は鬱々と呟いた。
今朝は己を鼓舞して作業を開始したが、またしても気分は落ち込
んだ。アルシャッドを含む、他の隊員は朝から目の回るような忙し
さで、蚊帳の外にいる我が身が情けなくなったのだ。
﹁元気出してくださいよぉー。俺なら、これ幸いと昼寝しますよ。
雑用やらないで済むなんて最高じゃないですか﹂
﹁そうかな⋮⋮僕は、雑用やりたい。皆の役に立ちたい﹂
﹁じゃ、俺の依頼した刀身彫刻、凄いのお願いします!﹂
え
﹁うーん、そうだね。本物の刀身に入れるのは初めてなんだ。柄は
496
何が良いかなぁ⋮⋮﹂
頭を悩ませる光希の隣で、ローゼンアージュは冷ややかな眼差し
でユニヴァースを見た。
﹁ねぇ、演習に戻らなくていいの?﹂
﹁戻るかよ、あんな基礎。暑いし、退屈で死ぬぜ。新兵だけでやれ
ばいいのによ﹂
確かに日射しはきつい。鎧を纏い武器を持って、陣容の鍛錬は苦
行であろう。
倒れて運ばれていく兵士の姿も少なくない。今も運ばれていく兵
士を眼で追っていると⋮⋮運ばれた先で、頭から水を掛けられてい
た。酷い。
﹁合同演習でしょ? 皆でやるから意味があるんじゃないの?﹂
くずお
光希がそう口にすると、ユニヴァースはわざとらしく頽れた。
﹁殿下まで⋮⋮っ、辛い! じゃぁ、ここから殿下が、ユニヴァー
ス頑張れー! って声援をくれるなら戻ります﹂
﹁馬鹿じゃないの﹂
冷ややかな眼差しと共にローゼンアージュは一刀両断したが、光
希はにやりと笑う。
﹁いいよ、ユニヴァースが本当に戻るなら、ここから力の限り叫ぶ
よ﹂
497
ユニヴァースは止めようとするローゼンアージュを押しやると、
眼を輝かせて光希を見下ろした。
﹁殿下、本当?﹂
﹁そっちこそいいの? 本当に叫ぶよ? 後悔しない?﹂
﹁ユニヴァース・サリヴァン・エルム、直ちに任務に戻ります!﹂
最敬礼で応えるや、勢いよく井楼矢倉から飛び降りる。下に繋い
でいた馬に跨り、颯爽と駆けてゆく。驚くべき迅速さで、ぴたりと
配置についてみせた。
﹁もう戻っちゃった。すごいね、ユニヴァース﹂
﹁殿下、まさか⋮⋮?﹂
何事も動じない少年にしては珍しく、緊張した様子で主を見てい
る。光希が大きく息を吸いこむと、澄んだ青灰色の瞳は驚きに見開
かれた。
﹁ユニヴァース、頑張れーっ!!﹂
腹に力を溜めて、光希は全力で叫んだ。
将兵らは一斉にこちらを見上げる。光希の姿に気付くなり、口々
さざなみ
に﹁殿下?﹂﹁殿下だ﹂﹁ユニヴァース?﹂﹁何でユニヴァースが﹂
と細波のようにざわめく。
腕を振りながら、もう一度﹁頑張ってー!﹂と叫ぶと﹁はーい!﹂
とユニヴァースは腕を振り返した。
498
﹁あははっ!!﹂
光希は爆笑した。周囲の兵士達は﹁馬鹿、その返事はないだろ﹂
﹁敬礼だ、馬鹿﹂﹁敬礼しろ﹂﹁阿呆が﹂とユニヴァースを罵る。
中には頭を叩く者も。
﹁あいつ⋮⋮死ねばいいのに﹂
へいげい
ローゼンアージュはぼそりと呟いた。冬の湖水を思わせる双眸で
睥睨する。
能天気なユニヴァースと冷然としたローゼンアージュの対比が可
笑しくて、光希はしばらく笑い転げていた。
+
たちま
いい気晴らしになったものの⋮⋮工房に戻ると、忽ち鬱々とした
気分に支配された。
﹁殿下、何かお困りですか?﹂
朝から一度も声をかけない光希を気遣い、アルシャッドの方から
声をかけてくれる始末だ。
﹁いえ、順調です﹂
﹁柄は決めた?﹂
﹁はい、依頼者の名前の頭文字をとって、遊んでみようかなって⋮
⋮これは下描きです﹂
499
この世界の印刷技術は活版印刷が主流で、デジタル印刷なんて存
在しない。
その代わり、文字を美しく見せる手法︱︱カリグラフィーは非常
に発達している。製本に限らず、日々の手紙、日用雑貨への彫刻⋮
⋮用途は幅広い。参考書も非常に豊富で簡単に手に入る。
工房に置いてあるカリグラフィーの参考書を見ていて閃いたのだ。
ロザイン
名札と一緒につける装飾だから、何か縁起の良いもの、守護をも
たらすものが良い。
神話の生きる世界で、仮にも花嫁である光希が願い、形にすれば、
御利益があるかもしれない。
どこにいても、無事に帰ってこれますように
そんな願いを込めて、それぞれの名前の一文字を柄にすることに
決めた。
名は、それだけで強力なお守りになるものだ。
アルシャッドはしばらく下描きを眺めると、いいですね、と賞賛
を口にした。現金なもので、その一言で光希の凹んだ気持ちはかな
り浮上した。
500
Ⅲ︳11
その日の夜。
光希が寝入ってしばらく経った頃、シーツをめくる気配に起こさ
れた。
﹁お帰り⋮⋮﹂
まなこ
寝惚け眼で声をかけると、傾けている頬にキスされた。
﹁ただいま、光希﹂
眠りたいのに、耳朶に唇で触れたり、悪戯するように髪をつんと
引っ張ってくる。
﹁ん⋮⋮﹂
彼にしては珍しく、寝入る光希を起こそうとする。唇に触れる指
を払い、ジュリアスに背を向けると、隣で身体を起こす気配がした。
﹁光希、今日⋮⋮﹂
どうやら会話をしたいらしい。
仕方なく眼を開けると、光彩を放つ青い瞳にぎくりとする。ジュ
リアスは覆いかぶさるように、両腕を光希の顔の横についていた。
﹁どうしたの⋮⋮?﹂
501
﹁合同演習でユニヴァースの名を呼んだって本当?﹂
﹁誰が?﹂
﹁光希が呼んだと聞きましたけど?﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁答えてください﹂
一瞬、何のことか判らなかったが、昼間のことを思い出して、慌
てて頷いた。
﹁うん、本当だよ﹂
﹁どうして、そんなことを?﹂
﹁つい、面白くて⋮⋮いけなかった?﹂
﹁良くはありませね。大勢の前で、貴方が一兵士を応援すれば、贔
屓しているように映ります。彼も余計な妬みを買って、集団生活に
支障をきたすかもしれませんよ﹂
そんなことをいわれては不安になる。眠気はどこかへ飛んでいっ
た。
﹁そう思う? ユニヴァース、大丈夫かな﹂
﹁もうしないで﹂
502
﹁判った﹂
﹁⋮⋮今度、私の執務室にもきてくれますか?﹂
﹁え⋮⋮﹂
つい嫌そうな声が口を突いてしまい、ジュリアスは不服そうに眉
をひそめた。
﹁いいって、言ってください﹂
﹁三階から上は怖くて行けないよ。ジュリの個室ならいいけど⋮⋮﹂
上目遣いにいうと、ジュリアスはそっと光希を抱きしめた。体勢
いざな
を調整して、光希も眼を瞑る。
背に感じる穏やかな鼓動に誘われて、深い眠りへと落ちていった。
二日後。
金古美、銀古美のチャームを五件ずつ、合わせて十件の制作を、
どうにか期日前に完了させた。
その日の夕方、紙面でしか知らなかった依頼者達が工房を訪ねて
きた。二十代から三十代の若い兵士ばかりた。光希が手渡すと、嬉
しそうに表情を綻ばせた。
﹁ありがとうございます!﹂
﹁僕こそ、依頼していただいて、ありがとうございました﹂
喜んでもらえてよかった。胸を撫で下ろす光希を見て、若い兵士
は恐縮したように敬礼をした。
503
﹁お礼を申し上げるのは、私のほうです。これがあれば、どこにい
ても帰れる気がいたします。本当にありがとうございました﹂
作ったものを喜んでもらえる。そのことに、光希は想像以上に満
たされた。清涼な高揚感に身体中を包まれる。
この喜びを、真っ先に伝えたい。
いてもたってもいられず、五階にある立派な執務室を訪ねると、
ジュリアスは笑顔で迎えてくれた。
﹁いらっしゃい、光希﹂
﹁ちょっと聞いてくれる? 今ね⋮⋮﹂
嬉しさの余り、ローゼンアージュの視線も忘れて、自らジュリア
スに抱き着いた。溢れんばかりの喜びを伝えると、ジュリアスは我
がことのように喜んでくれた。
﹁良かったですね、光希。私にも作っていただけますか?﹂
﹁もちろん!﹂
光希は満面の笑みで応えた。
504
Ⅲ︳12
先日のチャームは思いのほか好評で、他の兵士達からも注文が殺
到した。
嬉しい限りである。
望んでくれる全員に渡したいところだが、かなりの数があるので、
アルシャッドと相談して、依頼してくれた順に一先ず百まで受注す
ることに決めた。
依頼をこなす合間に、お世話になっている人達︱︱工房の隊員や、
え
屋敷の人間、ジュリアス、ローゼンアージュ、ユニヴァースの分を
作る。
ユニヴァースに依頼されている、サーベルの刀身に入れる柄もよ
うやく方針を決めた。
げん
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍の紋章は、双龍と剣だ。
ならば、験を担いで昇り龍を入れる。願いを地上から天上へと運
び、叶えてくれる聖なる守護龍。
初めての刀身彫刻に不安は募る。精緻な柄になるだろうと覚悟し
ていた通り、下描きから難航した。
独特の黒艶を放つ刀身に、下描きを当てては首を捻る⋮⋮何故だ
ろう、しっくりこない。
悩んでも答えを得られず、行き詰る度に、気分転換とばかりにチ
ャーム制作に逃げた。
+
とばり
夜の帳に覆われた公宮。
たちま
テラスで寛いでいる時を見計らって、光希は完成したチャームを
ジュリアスに手渡した。彼は小さく眼を瞠ると、忽ち表情を綻ばせ
505
た。
﹁ありがとうございます。ネームプレートと一緒につけますね﹂
くろがね
破顔すると、襟を寛げて首から鎖を引っ張り出した。着用が義務
付られている鉄のネームプレートには、軍の紋章、所属名、名前が
記されてる。
鎖に金古美のイニシャルチャームを通すと、ジュリアスは指で摘
み、恭しく唇を押し当てた。
﹁光希が傍にいてくれるみたい﹂
健気な姿を見て、光希は思わず身を乗り出した。チャームの裏側
に、そっとキスをする。
﹁傍に居るよ﹂
囁くと、ジュリは嬉しそうに微笑んだ。眩しい笑顔を見て、もっ
と早く作ってあげれば良かったと後悔した。
チャーム制作が捗る一方で、刀身彫刻は遅々として進まず。
龍の意匠に決めたのに、なぜこうも下描きが上手くいかないのだ
ろう? もう、アルシャッドに泣きついてしまいたい。
﹁⋮⋮まぁ、そんなわけで、悩んでるんだ﹂
ノボリリュウ
に決めたって、いっていませんでした?﹂
工房にユニヴァースが遊びにきた時、光希はつい弱音を吐いた。
﹁あれ
﹁そうなんだけど、守護龍の下描きがどうしてか上手くいかなくて﹂
506
﹁しっくりこないんですね? 俺、守られるって柄じゃないし、守
護龍でなくとも、ありがたい御加護なら何であれ嬉しいですよ。シ
ャイターンも闘神ですし﹂
ユニヴァースの何気ない言葉を聞いて、光希は目を見開いた。
閃いた。
くりからりゅう
龍は龍でも、願いを聞き届ける守護龍ではなく、悪鬼滅する猛る
龍。懐かしい世界の武神︱︱不動明王の変化した姿、倶利迦羅龍!
火炎に包まれた竜が、岩の上に突き立つ宝剣に巻きついている形
像は、日本でもよく知られている。
龍は飛竜に、岩に立つ宝剣は、軍の紋章にあるサーベルに。そし
いっきかせい
て火炎を青い炎に置き換えれば、シャイターンを象徴する力ある柄
になる。きっと良いものが出来る!
それから︱︱
徹夜も辞さない勢いで、七日かけて一気呵成に仕上げた。
黒艶のある鉄に、どこか荒削りだが、人眼を引く力強い竜が入っ
た。
サーベルを渡すと、ユニヴァースはしみじみと刀身に魅入った。
﹁俺には判ります。この柄にはシャイターンの神力が宿っている。
こんな凄い御加護をもらえるなんて、思ってもみませんでした﹂
賞賛の眼差しを向けられて、光希は面映ゆげに頭を掻いた。
﹁うん、お見事! よくこの短期間で仕上げましたね﹂
くずお
師匠であるアルシャッドにも褒められ、光希は安堵のあまり、そ
の場に頽れそうになった。よろよろと作業台の椅子に腰かけると、
ローゼンアージュが心配そうに近付いてきた。
507
﹁殿下?﹂
﹁あ、大丈夫⋮⋮﹂
たがね
作業の間は無心でいられたが、安心した途端に圧し掛かるような
疲労に襲われた。ずっと座って作業していたから腰が重い。槌と鏨
を持っていた手は痺れ、潰れたマメがじくじくと痛みを訴えている。
﹁あぁ⋮⋮終わったぁ﹂
やり遂げた。アッサラームの加護を鉄に宿せた。
この世界にきて、初めて自分に出来ることを見つけた気がする。
身体は重たいけれど、達成感と、充足感、突き抜けるような解放
感で心は羽のように軽かった。
508
Ⅲ︳13
力を出し切ったせいか、高熱が続き寝込む羽目になった。
渾身の刀身彫刻をユニヴァースは褒めてくれたが、ジュリアスは
面白くなさそうであった。
﹁もう、こんなに疲れ切ってしまって⋮⋮どうしてユニヴァースの
為に⋮⋮﹂
光希の額に浮かぶ汗を甲斐甲斐しく拭き取りながら、ジュリアス
はぶつぶつと文句をいっている。
違う、自分の為にやったことだ。やっと、ジュリの力になれる︱
︱そういいたくとも、口を開く気力が無い。
﹁自慢されましたよ。全く、彼には宝の持ち腐れです。私なら百の
力を引き出せるものを⋮⋮でも、そのせいで貴方が倒れてしまうな
ら、どんな力もいりません。無理はしないでください﹂
彼は今、どんな顔をしているのだろう。顔を見たい⋮⋮それなの
に、どうしても眼を開けられない。
﹁光希がそこまで心を砕くとは思いませんでした。武装親衛隊に任
命したのは私ですが、こんなことなら任命しなければ良かった⋮⋮﹂
あいまいもこ
そんなことをいわないで欲しい。すぐに治すから︱︱いいたいの
に、意識は曖昧模糊に霞んでいく。
﹁⋮⋮き、光希? お早うございます。もう出掛けますが、ナフィ
509
ーサとルスタムがついていますからね﹂
ぼんやりした意識の向こうで、ジュリアスが心配そうに見下ろし
ている。
時間の感覚がない。いつの間にか、夜が明けたようだ⋮⋮
起き上がれずにいると、宥めるように肩を押された。寝ていてい
いよ、と優しい声がいう。汗で張りついた前髪を撫でられ、額に唇
が落ちる。意識は再び沈んでいった。
﹁殿下はまだ⋮⋮﹂
時々、ナフィーサの声も聞こえた。
﹁光希、もう二日も水しか口にしていない。少しは食べないと⋮⋮﹂
気がつくと外は暗く、隣にジュリアスがいた。
疲れているだろうに、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。軟体生
物のように力の入らない光希の身体を、自分の胸にもたれかけさせ、
スープを口元へと運ぶ。
きちんと呑み込んだつもりが、嚥下出来ずに唇から零れていった。
ジュリアスは何もいわず、口元を拭う。
申し訳ない⋮⋮
親鳥が雛鳥にそうするように、口移しでスープは与えられた。そ
れでも半分は唇から流れてしまい、ジュリアスの手や光希の寝間着
を汚した。一人で食事も出来ない我が身が情けなくて、視界が潤む。
﹁可哀相に⋮⋮﹂
零れる涙を、ジュリアスは唇で優しくぬぐった。
510
﹁今日、ユニヴァースから面会の申し入れがありました。断りまし
たよ。もう除名してやりたい⋮⋮早く元気になってくださいね﹂
五日寝込んだ果てに、光希は復調した。
テラスで食事する光希を見て、ジュリアスやナフィーサ、屋敷の
召使達はほっとした顔をしている。
とにかく腹が空いていた。
久々の食事にも関わらず、旺盛な食欲に溢れている。だから痩せ
ないのだろうか? あれだけ寝込んだのに、少しも痩せていないと
は⋮⋮頑固な脂肪が憎々しい。
﹁ねぇ、ユニヴァースは元気にしてる?﹂
ジュリアスは不満そうに柳眉をひそめた。
﹁元気ですよ。貴方を心配していました﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
﹁人の心配より、自分の心配をしてください﹂
﹁うん、心配掛けてごめん。本当に大丈夫だから、ジュリもう行っ
ていいよ?﹂
﹁追い払おうとしないでください。もう少しだけ、元気な光希の姿
を見ていたいんです﹂
﹁追い払おうなんて⋮⋮もぐもぐ⋮⋮﹂
食事の手を休めない光希を見て、ジュリアスは嬉しそうに眼を細
511
めた。皿を傍へ寄せたり、光希の頬についたパン屑を取ったり、何
かと構ってくる。
﹁良かった、元気になって﹂
﹁ありがとう。もしジュリが病気になったら、僕が看護してあげる
からね﹂
そういうと、ジュリアスは嬉しそうに微笑んだ。
﹁楽しみにしています。では、そろそろいきますね。光希は病み上
がりなのですから、無理しないように﹂
﹁はーい。いってらっしゃい﹂
座ったまま見送った。
一人になると、言われた通り屋敷の中で、というよりも寝台の上
で過ごした。暇潰しに遊戯室でボードゲームでもしようと思ったら、
ナフィーサに連れ戻されたのだ。
﹁殿下、もう! 今日くらいは大人しくしていてくださいっ﹂
どういうことだ⋮⋮自分よりずっと幼いナフィーサに、子供を躾
けるように叱られてしまった。
寝込んでいる間に、確実に年上の威厳は劣化したようだ。
512
Ⅲ︳14
早朝。アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地。
久しぶりにクロガネ隊に顔を出すと、今週の掃除当番、同僚のケ
イトは笑顔で出迎えてくれた。人形めいたローゼンアージュを恐れ
て、普段はあまり傍に寄ってこないのに、今日は駆けてきてくれる。
﹁殿下! 体調はもうよろしいのですか?﹂
﹁うん、ありがとう。もうすっかり大丈夫だよ。僕も掃除手伝うよ﹂
﹁いえ、そんな! お気になさらず﹂
いいから、いいからと腕まくりをすると、それまでじっとしてい
たローゼンアージュは光希の前に立った。
﹁僕がやりますから、殿下は座っていてください﹂
でも⋮⋮と言いかけると、澄んだ瞳にじっと見つめられる。無言
の圧を感じて、光希は口を閉ざした。
朝の準備をしていると、工房に人が集まり始めた。彼等は光希に
気付くと、おっ、という顔で傍へやってくる。
﹁お元気になられて良かった。殿下がいないもんだから、どいつも
こいつもしけた面して、鬱陶しいのなんの。アルシャッドなんてジ
メジメし過ぎて、カビが生えそうな勢いでしたよ﹂
こうしょう
そういってサイードは哄笑すると、釣られたように周囲も笑った。
513
しかし、アルシャッドだけは肩を落として頭を下げた。
﹁殿下の専属指導隊員にありながら、御身に無理をさせてしまい、
申し訳ありませんでした﹂
﹁違います! 僕が未熟だからいけないんです。アルシャッド先輩
のおかげで、いい仕事が出来ました。今日からまたよろしくお願い
します﹂
焦った光希が勢いよく頭を下げると、アルシャッドもほっとした
ような顔で微笑んだ。
﹁主従愛ですなぁ﹂
傍で見ていたサイードに笑われて、二人して照れ臭い思いをした。
久しぶりの工房は気が引き締まる。昼休の鐘が鳴り、肩を解して
いると、弾丸のようにユニヴァースが駆けこんできた。
﹁殿下! 生きてます?﹂
﹁煩い﹂
ニベもなく言い放ったのは、ローゼンアージュだ。
﹁こんにちは、ユニヴァース。生きてるよ﹂
光希は破顔した。良かった、彼も元気そうだ。
﹁良かったぁー⋮⋮すみません、俺が無理な注文をしてしまったか
ら﹂
514
﹁平気だよ。今回の仕事で少し自信がついたよ。アルシャッド先輩
がいつも話している、心を打ち、映す装剣金工が何か、判った気が
するんだ﹂
﹁でも俺、倒れるなんて思わなくて⋮⋮﹂
﹁平気だって。僕が未熟だからいけないんだ。この世界の宗教や神
くろがね
事も、もっと真剣に学んでおけば良かったって後悔した。この世界
では本当に鉄に神力が宿るから⋮⋮だから皆、一振りの剣に心を込
めるんだね﹂
﹁俺⋮⋮大切に使います﹂
は
ユニヴァースは腰に佩いたサーベルを撫でると、真剣な眼差しを
光希に向けた。
﹁うん、ありがとう。きっとユニヴァースを助けてくれるよ。今度
製鉄班も見せてもらいたいな。刀身を生み出す鍛冶師、研師、白銀
師がいるんだよね﹂
﹁そうですね。勉強になると思いますよ﹂
隣で作業をしていたアルシャッドは、手を休めず口を挟む。光希
は一つ頷き、今度見せてもらおうと心に決めた。
午後になると、歩兵隊第一に所属しているローゼンアージュは合
同演習の為に鍛錬場に向かった。ルスタムも神殿に用事があるから
と工房を離れると、光希の護衛は武装親衛隊のユニヴァース一人に
なる。
515
﹁殿下、大仕事お疲れ様でした! こっそり抜け出して、サンマー
ル広場に遊びにいきませんか? お礼に何でも好きなものを驕りま
すよ﹂
ユニヴァースは悪戯っぽく目を輝かせると、悪魔の誘惑を囁いた。
なんて魅力的なお誘いなのだろう。
﹁⋮⋮でも、叱られない?﹂
﹁俺、便利な裏口知ってるんです。合同演習を見にいくって伝えて、
演習が終わるまでに戻れば平気ですよ﹂
﹁そうかな⋮⋮﹂
確かに息抜きしたい。すごくしたい⋮⋮すぐに戻れば平気だろう
か?
葛藤は短かった。
誘惑に負けた光希は、アルシャッドに合同演習にいく旨を伝える
と、ユニヴァースと二人で、密かにアルサーガ宮殿を抜け出した。
この時下した決断を、後々まで悔やむことになるとは知らずに︱︱
516
Ⅲ︳15
アルサーガ宮殿から南に向かって、馬で駆けること半刻。
とんがり赤茶屋根がずらりと並ぶ、可愛らしい街並みが見えてき
た。
サンマール広場下町地区である。
大通りは見渡す限りテントの海で、大小様々な露店が所狭しとひ
しめき合い、大勢の人で賑わっていた。
﹁でん⋮⋮っと、何て呼びましょうかね?﹂
ユニヴァースは言葉を切ると、光希を見て首を傾けた。
﹁何でも良いよ。適当に、ありふれた名前で呼んで﹂
黒髪が零れないよう、深く帽子をかぶり直した。
﹁んー⋮⋮じゃあ、テオで﹂
﹁判った﹂
﹁テオ、テオ、テオ⋮⋮﹂
練習するように復唱するので、光希も真似をして、テオ、テオ、
僕はテオ⋮⋮と暗示をかけてみた。
﹁よし、テオ。腹が空きませんか? 買い食いしたことはあります
か?﹂
517
光希が首を振ると、ユニヴァースは近くの露店で骨付き肉を二つ
買い、一つを光希に渡してくれた。
香ばしい匂いに食欲をそそられる。はふはふと頬張ると、熱い肉
汁が口の中に拡がり、光希は満面の笑みを浮かべた。
更に別の露店でケイジャンチキンサンドを買い、石の階段に並ん
で腰掛け、盛大にかぶりついた。
光希もそれなりに食べる方だが、ユニヴァースに比べたら少食だ。
彼は、ボリュームのあるサンドイッチを瞬く間に三つ平らげ、別の
露店で豆のチリスープを買うと、腹をさする光希の隣で旨そうに飲
み干した。
﹁いいなぁ、それだけ食べて太らないなんて﹂
﹁食べれる時に食べるようにしているんです。どんなに食べても、
訓練するとすぐ腹が減るんですよ﹂
そういうユニヴァースは、歩きながら香草焼ソーセージを食べて
いる。
﹁⋮⋮肉ばっかりだと身体に悪いよ。野菜も食べないと﹂
﹁いざとなったら、その辺に生えてる草も食べますからね。肉は食
える時に食わないと﹂
洗練された外見に反する逞しさに、光希は密かに感心した。流石
は軍人である。
﹁僕も、鍛えたら変わるかなぁ⋮⋮﹂
518
ぽよぽよした腹を摩っていると、ユニヴァースはふと無言になっ
た。どうした? 見上げて首を傾げると、生暖かい眼差しで見下ろ
された。
﹁まぁ、テオはそのままで良いんじゃないですか? 可愛らしくて
?﹂
﹁良くない﹂
﹁英雄から寵愛をいただいているお姿なんですから。白くて柔い肌
を、損なわない方がいいですよ﹂
納得しかねるが、反論は控えた。本音をいえば、ユニヴァースの
ような淡い褐色の肌が羨ましい。アッサラームの人は皆そうだ。気
にしてもしょうがないが、並んで歩いていると劣等感を刺激されて
しまう。
会話の合間に、ユニヴァースは色鮮やかな果物露店に寄り道をし
て、二つカップを持って戻ってきた。一つを光希に渡してくれる。
﹁ありがとう。ねぇ、ユニヴァースは日焼けしているの? 本当は
もっと白いの?﹂
﹁生まれた時から、肌の色は同じですよ﹂
﹁ふぅん、いいなぁ。僕は全然陽に焼けなくて⋮⋮筋肉もないし﹂
﹁陽を浴びる度に、肌色が変わったら大変じゃないですか。まぁ、
身体を鍛えたいなら手伝いますけど、走り込みしただけで倒れそう
ですよね⋮⋮﹂
519
﹁酷いなぁ﹂
笑いながら歩いていると、反対側から色鮮やかな衣装を纏った若
い女性達が歩いてきた。柳のような身体つきの美女ばかりだ。見栄
えのいい軍人、ユニヴァースに気付くと足を止めて秋波を送る。
﹁軍人さん、どこに行くの?﹂
光希は雷に打たれたような衝撃を受けた。
︵逆ナンかよ! すげぇ、ユニヴァースすげぇっ!!︶
心の底からユニヴァースを尊敬する。しかし彼は、ごめんね、と
つれない返事をすると、彼女達の横をすり抜けてしまう。思わず振
り返ったのは光希の方だ。
﹁いいの?﹂
小声で尋ねると、ユニヴァースは苦笑を洩らした。
﹁いくら俺でも、テオを連れている時に、女引っかけようなんて思
いませんよ﹂
自信のある男はいうことが違う。殴ってやりたくなった。
﹁せっかく、声をかけてもらえたのに! 連絡先とか交換しておか
なくていいの?﹂
﹁いいんですよ、面倒臭いし﹂
520
﹁えぇっ!? あ⋮⋮恋人いるの?﹂
﹁恋人ぉー? いないかな?﹂
﹁何で疑問形なの?﹂
﹁特定の恋人は、いないかな?﹂
軽薄な言葉に、光希は白い眼を向けた。
﹁アージュみたいな眼で見ないでください。テオにされると傷つき
ます。付き合う時はいつも期限を先に伝えているし、その間は一人
だけにしていますよ﹂
ユニヴァースは焦ったように弁解した。
﹁期限?﹂
﹁任務を優先したいし、戦場にも出たいから。誰かと長い付き合い
は出来ません﹂
思いのほか真面目な顔で応えるので、それ以上追及することは躊
躇われた。
521
Ⅲ︳16
大通りの露店市場からは、細い小道が左右に幾つも伸びており、
迷路のように錯雑に入り組んでいる。
背の高いアンティークな建造物、階段やトンネル、色とりどりの
草花が眼を楽しませてくれる。
ってあげる﹂と親切に申し出てくれたが、光希は首を左右に振って
応えた。ジュリにお土産を買ってあげたいが、そんなことをすれば、
お忍び散策も露見してしまう。
小路を散策していると、ユニヴァースは空を見上げて切り出した。
﹁そろそろ戻りましょうか﹂
﹁そうだね。あー、楽しかったなぁー﹂
本当に楽しかった。遊び足りないが仕方ない。残念そうに呟く光
希の手に、ユニヴァースは柔木に彫られたスタンプシートを渡した。
﹁これ⋮⋮﹂
店を覗いて、ちょっといいなと思っていたものだ。十センチ四方
の曲がる木材に、いろいろな意匠が彫られている。装飾の下描きに
使えそうだ。
﹁良かったら、どうぞ﹂
﹁ありがとうー!﹂
522
破顔する光希を見て、どういたしまして、とユニヴァースも優し
く笑った。
刹那︱︱何かが空気を裂いた。
なげう
路地を素通りした町人風情の男が、振り向きざまに短剣をユニヴ
ァースに擲ったのだ。
電光石火。ユニヴァースは抜いたサーベルで短剣を払い落すと、
くずお
空いた片手で細いナイフを取り出し、眼にも止まらぬ速さで二本続
けて放った。
それぞれ襲ってきた男の頭と胸に命中する。男は膝をついて頽れ
た。
﹁走れ!﹂
ユニヴァースは光希を振り向いて叫んだ。しかし、咄嗟に動けな
かった。
次の瞬間、路地の影から露天商の恰好をした男が三人駆けてきた。
言葉もなく襲い掛かる。
ユニヴァースは一人を袈裟斬りに伏すと、振りかぶった勢いでも
う一人の首を刎ねた。勢いよく血が噴き出す︱︱
両手にいかにも殺傷力のありそうなダガーを持った最後の一人は、
巧みにユニヴァースの背後を捕えた。光希は無我夢中で、後ろ! と叫んだ。ユニヴァースは鋭い回し蹴りで男の身体を浮かせると、
サーベルの柄を両手で深く握りしめ、心臓に突き立てた。人が壊れ
る、嫌な音がした。
﹁あ、あ、あ﹂
心臓は早鐘を打ち、背中に嫌な汗が流れる。呼吸も止めていたよ
うで、一歩も動いていないのに、肩で激しく息をしていた。
523
﹁殿下、逃げよう﹂
ユニヴァースは、光希の肩に触れようとして躊躇う。彼の両手は
血で濡れていた。
光希は震える手でハンカチを取り出そうとしたが、ユニヴァース
はごしごしと自分の袖で乱暴に拭き取り、光希の肩を叩いた。
﹁殿下、聞いて。大通りに軍の詰所がある。そこまで走ろう﹂
反対側の路地から、不気味な男達が姿を見せる。
必死の形相で頷く光希を見て、ユニヴァースは安心させるように
微笑んだ。光希の手を掴んで勢いよく走り出す。屍を越えて暗い路
地に飛びこんだ。
怖い︱︱
竦みそうになる足を叱咤して、ユニヴァースの背中を見つめて必
死に走る。全速力で走っていても、腕は常に引っ張られて、引きち
ぎれそうな痛みを覚えた。
もうこれ以上、走れそうにない。
足が止まりそうになった時、ユニヴァースは手を離した。三階は
ありそうな高層の屋根から、複数の男が降ってくる。
﹁くそっ﹂
ユニヴァースは舌打ちをすると、サーベルを抜いて躊躇なく男達
に切り掛かった。一瞬のうちに二人の男が倒れる︱︱ユニヴァース
は強い!
視線が釘付けになっていると、口と腹に大きな腕が回されて、勢
いよく後ろへ引っ張られた。
﹁殿下っ!!﹂
524
ユニヴァースの鋭い声が聞こえる。
殺される。
考える間もなく、ごわごわした麻袋を頭から被せられ、その上か
らぐるぐると縄で縛られた。
﹁助けてっ!!﹂
必死に叫んだが、麻の中でくぐもった音が響いただけ。身体が浮
いたと思ったら、誰かに担がれた。
身体を締めつけられて、苦しい。
酸素を求めて必死に喘いでいると、気持ち悪くなってきた。すっ
ぱいものが喉からせり上がり、必死に嚥下する。
どうして、誰が? ユニヴァースは?
焦燥と共に、次から次へと疑問が湧きあがる。そして、ジュリア
スの顔が浮かんだ。
︵ジュリ、ごめんッ︶
いなな
吐き気と、縄の締め付けがもたらす苦痛をこらえていると、複数
の足音と共にガラガラ⋮⋮と車輪の音、馬の嘶きが聞こえた。
馬車だ。
複数の人の気配はするが、一言も喋らない。
彼等は何者なのだろう?
町人や露天商の恰好をしていたけれど、どう考えても一般人では
ない。ユニヴァースには躊躇せず襲い掛かったが、光希は手間を掛
よぎ
けて、連れ去ろうとしている。
誘拐。
その二文字が脳裏を過る。だとしたら、すぐには殺されないのだ
ろうか。
525
必死に考えていると、荷物のように持ち上げられ、固い木の板の
上に転がされた。
﹁痛いっ﹂
どうやら馬車の荷台に乗せられたらしい。
ガラガラと車輪の音と共に、震動が伝わる。荷台に日除けはなく、
じりじりとした日射しが麻袋を焦がす。
少しでも情報を得ようと耳を澄ませていたが、次第に気持ち悪く
なってきた。
﹁ハァ⋮⋮ハァ⋮⋮ッ﹂
呼吸が辛い⋮⋮せめて縄を解いて欲しい。
耐え切れず、麻袋の中に嘔吐した。最悪だ⋮⋮。
麻袋の中は更に劣悪な状態になった。自分の吐瀉物にまみれて、
心は完全に折れた。
﹁⋮⋮っ﹂
食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れる。いっそ気を失えれば
楽なのに、不快過ぎて意識を手放せない。
馬車に揺られて、一刻。光希はようやく荷台から降ろされた。
526
Ⅲ︳17
ようやく荷台から降ろされたと思ったら、ひんやりとした石床の
上に乱暴に降ろされた。縛られている為、受け身を取れず頭をした
たかに打ちつける。
﹃⋮⋮いったぁ﹄
﹁乱暴はよしなさい﹂
低い、落ち着いた声が聞こえた。コツコツと石床を鳴らして足音
は近付いてくる。
麻袋の上から巻かれた戒めが解かれると、滞った血は急速に駆け
巡り、身体はふわっと軽くなる。次いで麻袋を破かれた。
ようやく顔を外に出せて、清涼な空気を胸一杯に吸い込んだ。
光希のすぐ傍には、武装した男が十数人。彼等の中心には、身な
りの良い四十歳前後の紳士が立っていた。どの顔にも見覚えは無い。
ここは、かなり豪華なお屋敷のようだ。
広い玄関ホール。精緻なアラベスクの壁面。艶やかな天然石を敷
き詰めたチェス柄の床。品の良い調度品。天上から吊るされた円環
の燭立て⋮⋮室内には上品な香が焚かれている。
﹁手荒な真似をして申し訳ありません﹂
男は光希と眼が合うと、意外にも謝罪を口にした。訳が判らない
⋮⋮こんなことをしておいて、なぜ今更謝るのだろう。
﹁誰か。湯まで案内を﹂
527
呼びかけに応じて、体格の良い召使が姿を見せた。光希の身体を
起こそうと手を伸ばしてくる。気力を振り絞って振り払った。
自力で起き上がろうとした途端、膝が笑う。仕方なく人の手を借
りて起き上がると、精一杯男を睨みあげた。
﹁僕を傷つけたら、シャイターンは絶対に貴方を許さないでしょう﹂
ロザイン
﹁そう噛みつかれずとも、花嫁を傷つけるつもりはございません。
着替えを用意いたしましょう、酷く汚れていらっしゃる﹂
﹁ッ︱︱﹂
けいれつ
光希の眼が据わった。勁烈な眼差しで睨んだが、男は歯牙にもか
けず、さあさあ、と手を鳴らして召使を急かした。
体格の良い召使に囲まれて、浴室に連れていかれた。直ぐ後ろに
は武装した男達もついてくる。
浴室に入ると、素早く服を脱がされ、両手、両足を鎖に繋がられ
た。
この状態でどうやって身体を洗えと? ⋮⋮最悪なことに、髪も
身体も召使に洗われた。ここがどこか訊ねても、応えてはくれない。
縄できつく締めつけられた腹周りは、予想通り鬱血している。明
日には変色して痣に変わるだろう。他にも細かい擦り傷があり、湯
や石鹸が触れる度に、痛みをもたらした。
湯から上がると、手の鎖だけ外されて、召使に女性物の白い衣装
を着せられた。
一枚の布を交互に巻きつけて、腰で結ぶ簡単な構造だ。
下着は履かされていない。落ち着かないが、文句をいえる立場で
はない。ひとまず身綺麗になり、痛めつけられた心は僅かに潤った。
着替え終えると、再び手首を鎖に繋がれる。武装した男の一人に
528
横抱きで持ち上げられそうになり、慌てて逃げた。
﹁歩けます! 逃げないから、鎖を外して下さい﹂
両腕を前に突き出して訴えたが、主張は無視された。男は問答無
用で光希を横抱きで持ち上げる。そのまま薄暗い螺旋階段を降りて、
雅な地下空間に連れていかれた。
天上から吊るされた照明や、床に置かれた硝子照明に照らされて、
地下とは思えない程明るい。
横に広い空間には、多種多様な骨董品や観葉植物が並べられてい
た。
そして天井から、幾つも金細工の鳥籠が吊るされている。空籠も
あれば、色鮮やかな鳥が入っている籠もある。
異質な空間に、ヒュロロ⋮⋮と鈴の音のような小鳥の囀りが響い
ている。
部屋の右奥に、壁と鉄柵に囲まれた牢があり、光希はその中に押
し込められた。
外観は牢そのものだが、中は手触りの良い絨緞が敷かれ、美しい
衝立や寝台、調度品が置かれている。
武装した男は光希の手足から枷を外すと、硬質な音を立てて鋼の
扉を閉めた。頑丈そうな三つの鍵で施錠すると、背を向けて仁王立
ちの姿勢を取る。
﹁ここは、どこなんですか?﹂
光希は鉄柵に寄ると、背中に声をかけた。
﹁ここは、私の私邸の一つですよ﹂
思わぬところから返事が聞こえて、光希は顔をあげた。靴音を響
529
かせながら、男は檻の前までやってくる。鉄柵を挟んで対峙すると、
男は興味深そうに顔を寄せて、光希の瞳を覗きこんだ。
﹁本当に黒い髪、黒い瞳なんですねぇ。肌も何と白いことか。部下
が手荒な真似をして、申し訳ありません。珠のような肌に傷がつい
たら大変だ⋮⋮後で見てさしあげましょう﹂
いろいろな欲の浮いた眼差しであった。薄気味悪くて、光希は逃
げるように鉄柵から身体を離した。
﹁貴方は、誰なのですか?﹂
声は無様に震えた。
﹁これは失礼。私はヴァレンティーン・ヘルベルトと申します、殿
下﹂
名前だけは訊いたことがある。
アルサーガ宮殿の理財を取り仕切る、大変な有力者だ。巨万の富
を抱える貴人で、確かアースレイヤ皇太子派だとも⋮⋮
光希の表情を見て、ヴァレンティーンは満足そうに微笑んだ。
﹁祝賀会や婚礼にご招待していただきましたが、こうして言葉を交
わすのは初めてですね。さあ、どうぞ掛けて。楽な姿勢でお寛ぎく
ださい﹂
びろうど
主の言葉に、召使達は数人がかりで、優美な曲線を描く天鵞絨の
椅子を檻の前に運んだ。
腰を据えて会話する気があるらしい。
光希は戸惑いながら、その場に腰を下ろした。痛めた腹周りに圧
530
がかかり顔をしかめていると、その様子に気付いたヴァレンティー
ンは、周囲に命じて光希にも椅子を用意させた。
三人の召使が檻の中に入ってきて、壁際に置いてある豪華な肘掛
椅子を光希の傍に置いた。恭しい手つきだが、有無を言わさず光希
を座らせる。
更に猫脚のコーヒーテーブルを光希の傍に寄せて、水や果実酒を
注いだ杯を置いた。思わず喉は鳴ったが、手をつける気にはなれな
い。
﹁喉が渇いたでしょう? 毒なぞ入っておりません。さあ、どうぞ﹂
﹁どうしてこんなことを⋮⋮﹂
非難の眼を向けると、ヴァレンティーンは愉快そうに眼を細めた。
531
Ⅲ︳18
ロザイン
﹁まぁ諸々⋮⋮腹いせです。花嫁、貴方は大切な人質ですから、丁
重にもてなすとお約束いたしましょう﹂
腹いせ⋮⋮? 増々訳が判らない。
﹁⋮⋮僕を誘拐した罪は、決して軽くないはずです﹂
﹁シャイターンの貴方への寵愛が本物であることは、よく存じ上げ
はらわた
ております。さぞお怒りになるでしょう⋮⋮ですが、私はもう既に、
腸が煮えくり返るほど、腹を立てておりますから﹂
男は口元に嘲笑を刻んだ。冬の湖水を思わせる双眸に射抜かれ、
光希の肩は震える。
﹁⋮⋮誰に?﹂
﹁誰だと思いますか?﹂
﹁⋮⋮シャイターン?﹂
﹁当たらずも遠からず。青い星の御使い、貴方もシャイターンの信
奉者ですか?﹂
﹁もちろんです。きっと助けにきてくれると、信じています﹂
おうよう
即答すると、男は鷹揚に笑んだ。
532
﹁そうですねぇ。いつまでも居てくださって構わないのですが﹂
﹁お断わります﹂
真顔で拒否すると、ヴァレンティーンは楽しそうに笑った。
﹁あの⋮⋮僕と一緒にいた兵士は、どうなりましたか?﹂
始末した
という言葉が重
﹁あぁ、サリヴァンの御子息でしたかな? 始末したと訊いており
ますよ﹂
視界が真っ暗になった。
嘘だ︱︱機能を停止した思考回路に
石のように沈み込んでいく。
俄かには信じ難い。
サンマール広場で笑いながら、歩いていたではないか。串焼きに
サンドイッチを頬張って、露店を眺め⋮⋮記念にと、スタンプシー
トをもらったのだ。
訊き違えたのかもしれない。縋るようにヴァレンティーンを見る
と、希望を打ち砕くかのように、ゆっくりと首を左右に振った。
﹁嫌だ⋮⋮そんな⋮⋮ユニヴァース⋮⋮﹂
声は潤みかけた。震える手で口を押える。そうでもしないと、喚
き散らしてしまいそうだった。
﹁そんなにお悲しみになるのなら、どうして護衛も連れずに、宮殿
を飛び出したのですか?﹂
533
﹁︱︱!﹂
言葉の刃が、ぐさりと胸に突き刺さる。本当に、血が流れた気が
かいご
した。
悔悟の念が胸の内に渦巻く。
認めたくないが、この男のいう通りだ。どうして勝手に、抜け出
してしまったのだろう?
光希のせいでユニヴァースは死んだ。
彼一人なら、いくらでも逃げ切れたはずだ。あの時、光希がもっ
と速く走れたら! 剣を振るうことができたら︱︱!
ぼろぼろと涙が零れて、手に落ちる。もう気丈でなんていられな
い。
﹁⋮⋮っふ⋮⋮ぅッ﹂
﹁お優しいですね、花嫁⋮⋮泣くほどお辛いですか?﹂
返事をする気力もなく、光希はただ背を震わせた。
﹁勘違いされているようですが、私は、彼が死んだとはいっており
ませんよ﹂
﹁ッ!?﹂
どういうことだ? 勢いよく振り向いた光希は、探るような眼で
ヴァレンティーンを見た。男は愉快そうに眼を細めた。
﹁濡れた瞳もまた美しい﹂
﹁生きてるの?﹂
534
﹁さぁ? どう思われますか?﹂
光希の眼が据わった。
﹁悋気された瞳もまた⋮⋮﹂
﹁答えろ﹂
﹁御意。馬は始末したが、彼には逃げられたと訊いております。運
がいいこと﹂
逃げられた? ということは、生きているのか?
この男は、光希が勘違いしていることを知りながら、絶望する様
を見て嗤っていたのか?
腸が煮えくり返るとは、こういうことか︱︱気付けば杯を手に取
り、男に向かって放っていた。
ガシャンッ!
こうしょう
硝子は鉄柵にあたり砕け散った。欠けた破片で怪我の一つもすれ
ば良かったものを、男は愉快そうに哄笑している。悪趣味にもほど
がある。
しかし、燃えるような怒りの次には、深い安堵が訪れた。生きて
いてくれた⋮⋮
﹁⋮⋮僕がもし、宮殿の外に出なければ、誘拐はしなかった?﹂
﹁そうですね。今日はしなかったでしょう﹂
﹁僕を誘拐したこと⋮⋮誰にも伝えていないのですか?﹂
535
﹁いいえ、とうに宮殿に知らせましたよ﹂
うそぶ
少しも顔色を変えずに嘯く。
薄気味の悪さに、光希は無意識に後じさった。この男の余裕は、
どこからきているのだろう?
536
Ⅲ︳19
﹁宮殿に伝わっているのなら、すぐにここへくるのでは?﹂
訝しんで問うと、ヴァレンティーンは薄笑いを浮かべた。
﹁私は殿下を私邸にお招きしているのです。無粋な真似はご遠慮願
いたい。客人としていらっしゃるのならば、歓迎いたしますが⋮⋮
もし、武力で乗り込むようであれば、我がヘルベルト家に仇なす行
為とみなし、相応の歓待をさせていただくつもりです﹂
﹁⋮⋮剣を交えると?﹂
﹁ええ﹂
﹁どうして⋮⋮同じアッサラームの、同胞では﹂
愕然と呟く光希を、男は冷ややかな双眸に映す。
﹁シャイターンの御子は、大きくなり過ぎました。執政も判らぬ、
虚ろな子供にくれてやる程、私の財は軽くないのです﹂
そういえば、聖戦に莫大な軍事費を要したと訊いている。国庫で
賄えず、有力者から徴収しているとも︱︱彼も搾取された一人なの
だろうか?
﹁⋮⋮聖戦で、徴収されたのですか?﹂
537
ちょうらく
﹁聖戦。確かに、あの戦いで私財を失くした者は多い。ですが、我
がヘルベルト家は凋落とは無縁にございます。一国築ける富に一片
の傷なし! 聖戦に関しては、よく乗り切ったと褒めざるをえない
でしょう﹂
﹁では、どうして﹂
てんぷ
たち
﹁シャイターンは、軍略においては天賦の才に恵まれても、理財の
アンカラクス
才は乏しい。軍事資金を湯水と勘違いなさっている。性質の悪いこ
とに神剣闘士という大層な身分をお持ちだ。このままでは、栄えあ
るアッサラームの国庫は空になる﹂
﹁⋮⋮貴方の言葉が正しいのかどうか、僕には判りません。けれど、
僕を誘拐したことは只の罪でしょう。いろいろな人に迷惑を掛けて
います。僕を解放してください﹂
﹁まぁ、そうおっしゃらずに。きたばかりではありませんか﹂
﹁僕を解放する、条件は何ですか?﹂
﹁さぁ⋮⋮? 条件があると思いますか?﹂
﹁⋮⋮金?﹂
男は鼻で嗤った。
﹁富なら十分ございますよ﹂
﹁さっき、財を失くしたくないと、いっていたから︱︱﹂
538
男は光希の言葉を遮るように、杖の底で床を叩いた。
﹁誤解なさらず。貿易商で栄えた血筋です。益があれば、投資は惜
しみません。高みを目指して、全財産を懸けたことすらある。先程
は、犬にくれてやる金はない、そう申し上げたのです﹂
不遜な物言いに、光希は盛大に眉をひそめた。
﹁⋮⋮シャイターンを、犬だと?﹂
ロザイン
﹁事実、花嫁を得るまでは、アースレイヤ皇太子の犬でしたよ。そ
のまま従順に、使われていれば良かったものを⋮⋮凱旋した途端に
張り切り出して鬱陶しいこと。一度訊ねてみたかったのですが、ど
のようにシャイターンを手懐けたのですか?﹂
﹁手懐けるだなんて⋮⋮﹂
怯んだ光希を見て、男は辛辣な微笑を浮かべた。
﹁新しい飼い主は貴方だ。無垢な涙で、意のままに操っているので
しょう。それは貴方のお心? それとも天の神意なのですか?﹂
﹁誤解です!﹂
﹁しかし、神事も慣例も無視して、勝手に公宮を解散なさった。揚
句、花嫁をクロガネ隊に入れる破天荒ぶり﹂
痛いところを突かれて、光希は唇を引き結んだ。ジュリアスに頼
って、好き勝手に振る舞っている自覚はある。
本来は公宮を纏める立場にありながら、リビライラに任せっきり
539
で、自分はクロガネ隊で好きなことをしているのだ。
﹁殿下、私はアルサーガ宮殿の全権を掌握したいのです。莫大な財
を撒いて買収してきたのに、今更、神剣闘士に前を歩かれては目障
りなのですよ﹂
﹁全権⋮⋮? 陛下の臣下でしょう⋮⋮?﹂
﹁もちろんです。今は、陛下の御代を支える一家臣にございます。
しかしあと五年も経てば、皇太子の御子息は成人を迎えられる。そ
うすれば、近く帝位継承が行われるでしょう。アースレイヤ皇帝陛
下誕生の時、摂政の座に就くのは我がヘルベルト家です﹂
アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇帝の全兄弟、そしてアー
スレイヤ皇太子の上二人の兄弟は、皇位継承争いに巻き込まれて亡
くなったと訊いている。
幼いアースレイヤ皇太子を成人するまで擁護したのが、ヴァレン
ティーン・ヘルベルトだ。
アッサラームでは、どんなに富を持っていても、貴人では﹁皇族﹂
そして﹁賢者﹂の上に立つことは出来ない。
だから彼は、アースレイヤ皇太子と癒着して、権力を得たいので
あろう。
アースレイヤ皇太子の後ろ盾があるから、光希を誘拐しても余裕
の態度でいられるのか。
ということは、今回の誘拐にアースレイヤ皇太子も噛んでいるの
だろうか?
﹁⋮⋮もしかして、アースレイヤ皇太子に指示されたのですか?﹂
﹁いいえ。再三申し上げたのですが、訊き入れてくださらないので、
540
こうして自ら動くことにいたしました。どうも凱旋してから、あの
方も訊き分けが悪くなった。事情をご存知ではありませんか?﹂
光希に訊かれても困る。
﹁意外と信心深い方ですから、花嫁に嘘はつかないはずですよ﹂
﹁そうでしょうか⋮⋮﹂
﹁アースレイヤ皇太子もまた、執政において天賦の才に恵まれてい
る。聖戦では震撼する宮殿を見事に御した。しかし、惜しむべくは
爪が甘い。シャイターンの神剣闘士昇格を阻止していれば、今も陛
下に次ぐ権威を謳歌出来たものを﹂
ふる
言外にジュリアスを殺しておけば良かったと仄めかされ、光希は
背筋を慄わせた。
﹁貴方は、僕に何をさせたいのですか?﹂
ごうぜん
﹁最初に申し上げた通り、腹いせです。傲然たるシャイターン、神
剣闘士の威を借りる軍人共。次期皇帝陛下を冠する私との威光の差
を、見せつけてやろうと思ったまで﹂
﹁大罪を犯しても、許される身だと?﹂
ヴァレンティーンは眼を細めた。
﹁⋮⋮嬉しい誤算は、花嫁が思いのほか魅力的なことでしょうか。
やんちゃした甲斐がありました。手元に置くのも悪くない﹂
541
獲物を見るような眼で見つめられた。身体が仰け反りそうになる
のを、意志の力で堪える。
﹁或いは、今後いつでも私の呼びかけに応じ、花嫁の口からシャイ
ターンに囁いてくださるのなら、誰も傷つけずに貴方を解放しても
良い。いかがいたしますか?﹂
碌でもない提案に、光希は小さく唸り声を発した。どちらもご免
だ。
542
Ⅲ︳20
﹁⋮⋮本当に、解放してくれますか?﹂
ヴァレンティーンは穏やかに笑んだ。
﹁お約束をいただければ﹂
﹁約束?﹂
になるというのなら、従順に囀っていただかなくては﹂
さえず
誓約書のようなものだろうか? 男は椅子から立ち上ると、鉄柵
声
の扉に近づき、鍵に手を伸ばした。
﹁私の
ガシャン。鍵の外れる音が、やけに大きく響く。光希は椅子から
身体を起こすと、扉が開く前に部屋の後方へ下がった。
﹁何をする気ですか?﹂
﹁怯えなくてもよろしい。私は約束を守る男です。最初に、丁重に
もてなすと約束いたしました﹂
男はゆっくりと近づいてくる。
﹁嘘。僕を袋に押し込めて、荷物のように連れてきた﹂
ね
決然と睨めつける光希を見て、ヴァレンティーンは含み笑いを漏
543
らした。
﹁大変申し訳ありませんでした。縄で肌を痛めたと聞いています。
診てさしあげますから、こちらへ﹂
﹁こないでください﹂
﹁ふ⋮⋮小鳥を追いかけているようだ﹂
部屋の外周に背をつけたまま、じりじりと後じさる。卓に置かれ
た小箱を手に取った。
﹁ふ、それを私に投げるおつもりですか?﹂
その通りだ。少しでも近づいたら投げつけてやる。
寝台を迂回しようとしたら、男は急に手を伸ばしてきた。手にし
た小箱を投げつけて必死に逃げる。
大きな音が鳴り、旦那様! と檻の外から危ぶむ声が聞こえた。
﹁大事ない。扉だけ見ておけ。殿下、あまり暴れては傷が増えます
よ﹂
こう
﹁なら、何もしないで⋮⋮僕を傷つけたら、シャイターンは絶対に
貴方を許さない!﹂
しょう
精一杯きつい口調で吠えたが、ヴァレンティーンは愉快そうに哄
笑した。
掌の上で弄ばれているようだ。
緩急をつけて追い詰められる度に、焦ってあちこち身体をぶつけ
てしまう。調度品や壁飾りは床に落ち、水差しや杯が床に落ちて砕
544
け散った。
つ
﹃痛ぅ⋮⋮っ﹄
逃げる途中、素足で破片を踏んだ。痛みに立ち止まった瞬間、後
ろから抱きすくめられた。
﹁暴れるからですよ﹂
﹁嫌だ! 離して!﹂
ロザイン
﹁小さな身体ですねぇ⋮⋮花嫁は、いとけない子供のようだ﹂
雅な雰囲気の男だが、拘束する腕は鋼のようだった。手足をばた
つかせても、びくともしない。
ヴァレンティーンは光希を抱きすくめたまま寝台に近づく。顔か
ら血の気が引いた。
﹁嫌だっ! 離して、降ろしてー︱っ!﹂
むせ
声を張り上げたら声が枯れた。喉が痛い。げほげほと背を丸めて
咽ると、寝台に降ろされ、両手首を押さえつけられた。欲の浮いた
双眸に見下ろされる︱︱
﹁シャイターンも溺れる身体、味わってみたいと思っていました﹂
まなじり
嘘だろ⋮⋮勘違いであって欲しかったが、この男は本当に、光希
を欲望の対象として見ているらしい。
顔が近づいてきて、顔を横に倒したら、涙の滲んだ眦を舌で舐め
られた。
545
﹁甘い涙ですねぇ﹂
嫌悪と恐怖。涙は増々溢れた⋮⋮心は悲鳴を上げる。
﹁やめて﹂
﹁ふ、抵抗はお終いですか?﹂
﹁ごめんなさい。離してください。嫌だ⋮⋮怖い⋮⋮ふ⋮⋮っ﹂
﹁お可愛らしい⋮⋮生娘のようだ﹂
襟の合わせに手が滑り込む。おぞましい感触に、ぞぞ⋮⋮と鳥肌
が立った。
﹁嫌だぁッ!!﹂
絶望しかけた時︱︱
ろう
ドォンッ!! 耳を聾する衝撃音が響き渡った。
546
Ⅲ︳21
地響きと共に、天井から細かな破片が零れ落ちる。吊るされた鳥
籠は揺れて、小鳥達は不安そうに鳴き騒いだ。
ヴァレンティーンは光希の上から身体を起こすと、檻の外へ飛び
出した。光希も慌てて身体を起こすと、涙を拭って周囲に視線を走
らせる。
武装した男達は、ヴァレンティーンを背に庇うように武器を構え
た。
階段からも、続々と武装した私兵達が雪崩れ込んでくる。
重々しい、物騒な雰囲気だ。
光希は倒れた家具の影に隠れると、顔を覗かせた。
階段から息を切らして駆け込んできた男は、ヴァレンティーンを
見るなり声を張り上げた。
﹁ヴァレンティーン様! 軍が攻めてきましたッ!﹂
きか
﹁飛竜隊十五、騎馬隊五十、歩兵百。シャイターンの麾下精鋭です
! 屋敷を包囲、正門突破、現在交戦中です!﹂
たちま
思わず、ジュリ、と声に出た。胸に熱いものがこみあげ、視界は
忽ち潤んだ。
けんげき
助けにきてくれた。絶対にきてくれるって、信じていたッ!
やがて階段上から、怒号や鋭い剣戟の音が聞こえてきた。闘いが
始まったようだ。
しかし︱︱
ここには、ヴァレンティーン一人を守る為に、武装した男達が大
勢集まっている。
547
は
ジュリアス達の強さは知っているが、物騒な男達を観察している
うちに、ふと心配になった。
くろがね
アッサラーム軍の基本装備は、大小に差はあれど、腰に佩いたサ
ーベルだ。分厚い鉄を相手にすれば、刃は欠けてしまう。
せんこん
殺人鬼のような容貌の男も大勢いる。
巨大な鉈や斧、戦棍︱︱先端に棘のある鉄の棒︱︱を持っている
巨漢もいる⋮⋮あんなもので殴られたら、身体が消し飛ぶのではな
いか?
階段から私兵達が転がり落ちてきた。
次いで待ち望んでいたアッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍の
兵士達が、青い波動と共に飛び出した。先鋒にいるのはジュリアス
だ。
﹁きたぞぉッ!!﹂
へきとう
ひが
私兵の隊長らしき男が叫ぶ。
交戦の劈頭から、彼我入り乱れての接近戦となった。地下室は、
殺戮の場と化す。
かつぜん
苛烈を極める激戦だ。
鋼と鋼の打ち合いは戛然と響き、朱金の火花を散らした。
肉や骨を切る鈍い音、呻き声、怒声、断末魔。鮮血が飛び散り、
白壁を濡らしてゆく。
視界が辛い。正視に耐えぬ凄惨な光景だ。
しかし、どこかにジュリアスがいると思うと、金髪を探して、視
線は勝手に彷徨った。
﹁光希!﹂
乱戦を抜けて、青い燐光に包まれたジュリアスが現れた。鉄柵を
掴んでこちらを見ている。
548
﹁ジュリ!﹂
光希は家具の影からまろび出た。傍に駆け寄ると、鉄柵を掴む血
濡れたジュリアスの手の上に、自分の手を重ねる。
﹁怪我はっ!?﹂
青い双眸に、光希を映して声を荒立てる。光希は、嗚咽で声にな
らない⋮⋮必死に首を左右に振った。
その時、ジュリアスの背中を狙って私兵の一人がサーベルを振り
かぶる。
きょうげき
ジュリアスは気配を読んだように振り向くと︱︱瞬閃、相手を斬
り伏せた。更に挟撃する刃を躱し、これも斬り伏せる。光希を振り
返り、爛と輝く青い双眸で見つめた。
﹁すぐに片付けます。物陰に隠れていて。いいというまで、出てこ
ないで﹂
光希は何度も頷いた。ジュリアスは鉄柵の間から手を伸ばすと、
光希の頬に触れた。人を斬ったとは思えぬ⋮⋮優しく労わりに満ち
た仕草で涙の跡を拭う。
﹁絶対に大丈夫だから﹂
僅かに見つめ合った後、風のように身を翻した。次々と鬼神の如
し強さで敵を薙ぎ払う。
光希は物陰に隠れると、ジュリアスの姿を必死に眼で追いかけた。
光矢の如し速さに見失いそうになる。
アッサラーム軍の︱︱ジュリアスの強さは圧倒的であった。
549
半刻も経たずに決着はついた。
しんぎん
血の海の中、立っている人間はアッサラーム軍の兵士と、ヴァレ
ンティーン只一人。
私兵は死んだか、或いは戦闘不能で呻吟している。しかし、血の
たいぜん
海の中には、アッサラーム軍の兵士も沈んでいた。
悪夢のような光景の中、ヴァレンティーンは泰然と佇んでいる。
﹁剣を抜くなら、相手になりますよ﹂
けいれつ
ジュリアスは勁烈な眼差しで男を射抜いた。
﹁血気盛んなシャイターン、武器をしまいなさい。お気に入りの屋
敷を随分と汚してくれた。綺麗に掃除していただきますよ﹂
﹁無意味です。それより、抜かないのですか? ここで私に切り捨
てられた方が、この先お前の見る地獄に比べれば、まだ幸せかもし
れませんよ?﹂
﹁随分と大口を叩く。この場で私を切り捨てるというのなら、やっ
て見せてみよ!﹂
どうかつ
静まりかえった地下に、恫喝を吠える。
ジュリアスの身体から、怒りを帯びた青い燐光が燃え上がった。
しかし、息を吐くと静かにサーベルを鞘に戻す。
男は勝ち誇ったように、嗤った。
﹁血なまぐさいなぁ⋮⋮もう。こんな所で斬り合わないで欲しいな﹂
ふと、場にそぐわぬ穏やかな声が地下に響いた。
階段から現れたのは、黒い軍服を纏ったアースレイヤだ。血の海
550
の中を、優雅な足取りでやってくる。周囲の兵は、敬礼と共に道を
譲った。
ヴァレンティーンは、笑みを消した。
551
Ⅲ︳22
アースレイヤはジュリアスの前で足を止めると、恭しく右手を胸
に当てて敬礼した。
れいめい
﹁ここは制圧いたしました。他の私邸もアーヒム、ヤシュムから開
戦の知らせが届いています。黎明には片付くでしょう﹂
へりくだ
彼の謙った物言いに、ヴァレンティーンは盛大に顔をしかめた。
﹁何をしにいらっしゃった!﹂
﹁我等がシャイターンから、ヴァレンティーン・ヘルベルトを捕え
よと、全軍に指示が下りました。もちろん、この私にも﹂
ヴァレンティーンは憤怒の形相を浮かべる。
﹁貴方ともあろう方が、膝を屈するというのかっ! この私を捕え
ると!?﹂
﹁強い者に服するは、世の習いでございます﹂
﹁ほう? ならば私とて、ヘルベルト家の莫大な資産と人脈で、永
ね
く皇家を支えて来た自負があります。私を切り捨てるは、この国の
支柱を砕き、我等貴人の忠誠を踏みにじるも同然!﹂
どうかつ
恫喝する男を、アースレイヤは柔和な笑みを浮かべたまま睨めつ
けた。
552
﹁十分、甘い汁を吸ったでしょう? これまで皇太子庇護を免罪符
に、散々遊び尽くしたのですから⋮⋮﹂
せいえん
凄艶な笑みを見て、男は、これでもかと眼を見開いた。
﹁厭わぬとおっしゃるのか!? ありえぬ! そんなことをすれば、
この国は必ず傾く!﹂
﹁︱︱黙れ﹂
くずお
低い声を発し、ジュリアスはヴァレンティーンを蹴り飛ばした。
吹き飛んだ身体は、壁に当たり頽れる。
﹁お前が何をしたのか、全て知っている﹂
針のように冷たく鋭い声には、怒りが滲んでいる。
﹁楽に死ねると思うな。この先、お前には地獄が待っている。権限
剥奪、私財没収、反逆罪による血の制裁⋮⋮一族郎党、一人残らず
斬首に処す。お前の血は一滴も地上に残さない﹂
あの優しいジュリアスが、こんなにも威圧的に話す姿を、光希は
初めて目の当たりにした。なんて恐ろしい話をしているのだろう⋮⋮
﹁ごほ⋮⋮っ、何をいっている? 物知らぬ青二才が大口を叩いて
くれる。そのような蛮行、皇帝陛下がお許しになるものか﹂
男は憎悪の眼差しでジュリアスを睨んだ。鋼の如し視線は交錯し、
火花を散らす。
553
﹁陛下の了承は得ておりますよ﹂
アースレイヤの言葉に、ヴァレンティーンは絶句した。
﹁⋮⋮お前の不始末です。処刑の指揮は貴方が執ってください﹂
﹁御意﹂
冷ややかに命じるジュリアスに、アースレイヤが慇懃に応える。
尻をついた男は呆然と二人を見上げた。
﹁気が触れたか、アースレイヤ皇太子⋮⋮本気で、私を処刑すると
? あと少しで、全ての権力を手に出来るというのに⋮⋮ここまで
きて裏切るというのかぁッ!?﹂
﹁おや? 私の御代に貴方の変わらぬ栄華を約束した覚えはありま
せんよ﹂
﹁何を馬鹿な⋮⋮こんな馬鹿げた話があるものかっ! ふざけるな
ぁッ﹂
おのの
ふと、激昂するヴァレンティーンと眼が合った。慄く光希を瞳に
映し、男は呆然と呟く。
ロザイン
﹁まさか⋮⋮慈悲なき厳罰は、花嫁の為か? それ程までにお怒り
だと⋮⋮?﹂
﹁連れていけ﹂
554
兵士達はヴァレンティーンを縄で縛り上げた。檻の前を通り過ぎ
傾国
⋮⋮﹂
る途中、幽鬼の如し双眸で光希を見やり、
﹁
静かに呟いた。
過ぎゆく男の背中を、光希は視線で追い駆けた。彼の身の破滅に、
同情などしない⋮⋮けれど胸は痛む。
投げかけられた言葉の意味は判らなかったが、恐らくは、光希に
向けた呪詛であろう⋮⋮
アルディーヴァラン
血に染まった地下室に、青い燐光が立ち昇る。
よぎ
命尽きたアッサラームの魂が、神々の世界へ還ろうとしている⋮⋮
ふと、ユニヴァースの安否が胸を過った。まさか、この部屋のど
こかで倒れていやしないだろうか。
檻の外へ出てジュリアスの前に立つと、腕を掴んで迫った。
﹁ユニヴァースは!?﹂
ジュリアスは柳眉をひそめると、無言で光希を横抱きにして歩き
だした。彼の服に撥ねた血が、光希の服にも染み込んだ。
﹁あの⋮⋮ごめんなさい﹂
見下ろす青い双眸は、仄かな光彩を放っている。静かな怒りを感
じて、光希は口を噤んだ。ユニヴァースの安否を尋ねたいが、声を
かけ辛い。凄惨な光景に視線を彷徨わせていると、吐息が頬にかか
った。
﹁⋮⋮ここにはいませんよ﹂
555
﹁あ⋮⋮そうなんだ。無事?﹂
﹁ええ﹂
﹁良かった⋮⋮﹂
安堵に胸を撫で下ろすと、何も良くありませんよ、とジュリアス
は冷たく呟いた。
けんせき
怒っている。当然だ。助かった安堵が去ると、この後に予想され
るジュリの譴責や、周囲に及ぼした被害を思い⋮⋮胃はずしりと重
くなった。
556
Ⅲ︳23
地上にも、熾烈な争いの痕跡が残っていた。
壁も床も無残に剥がれ落ちている。天井にまで撥ねた血痕が、う
っすら青い燐光を放っている。
ふと見れば、ジュリアスや光希の服に染みた血も、淡く発光して
いたる。
同じアッサラームの同胞なのに。どうして血を流さなくてはいけ
ないのだろう⋮⋮
ヴァレンティーン。あの男に同情などしないが⋮⋮極刑が重過ぎ
る。無関係な血縁者まで、本当に処罰するのだろうか?
考えるほどに不安は増す。
ただ、今は何よりも、ジュリアスと視線が合わないことが辛い。
こんなに身体の距離は近いのに、心は遠く離れてしまっている。
﹁ここに座って﹂
荷袋の上に降ろされ、清潔な麻のズボンを渡された。下着を履い
てなかったので、ありがたい。着替える間、ジュリアスは裾の長い
外套を手に持ち、周囲の視線を遮ってくれた。
﹁ありがとう。履いた﹂
ぐんか
ジュリアスは外套を光希の肩に掛けると、子供にするように脇に
手を入れて、荷袋の上に再び座らせた。編上げの軍靴を履かせよう
とするので、思わずその手を掴んだ。
﹁自分で履ける﹂
557
﹁いいから。足裏を痛めているでしょう? 飛竜にも乗るし、手当
してから履かないともっと痛めますよ﹂
﹁判った⋮⋮ありがとう﹂
渋々頷くと、ジュリアスは光希の足元に跪いた。血で汚れた足を、
濡れた布で丁寧に拭っていく。手つきは優しいけれど、始終無言で
こちらを見ようとしない。仕方なく作業しているみたいだ。
多大な迷惑をかけた上、軍の大将に世話を焼かせていると思うと、
非常にいたたまれない。
重苦しい空気に耐えていると、涼しげな顔でアースレイヤ皇太子
が近づいてきた。
﹁飛竜の準備が整いました﹂
﹁ご苦労﹂
ジュリアスは背中を向けたまま応えた。相手は皇太子なのに⋮⋮
光希の方が心配になる。いや、立場上ではジュリアスの方が偉いの
か。
ロザイン
﹁花嫁、お怪我はありませんか?﹂
優しく微笑むアースレイヤを見て、光希はぎこちなく会釈した。
﹁はい。ご迷惑をお掛けいたしました﹂
﹁お助けできて良かったですよ。危うく国の一大事になるところで
した⋮⋮。怖い怖い﹂
558
気安い口調だが、含みがあるように聞こえる。返事に窮している
と、軍靴の紐を結わき終えたジュリアスは、
﹁そう思うなら、肝に命じておいて下さい﹂
立ち上るなり、アースレイヤ皇太子を冷ややかに睨んだ。
﹁判っています。これでも申し訳なく思っているのです。後は引き
取りますから、花嫁を連れてどうぞお帰り下さい﹂
頭を下げる皇太子を一瞥し、ジュリアスは光希を横抱きに持ち上
げた。無言でアースレイヤの前を通り過ぎる。すれ違う瞬間、彼は
光希を見て片目を瞑ってみせた。ご愁傷様、そういった感情を向け
られた気がした。
﹁光希、痛いところはありますか?﹂
青い瞳とようやく視線がぶつかり、光希は微笑んだ。
﹁平気。助けにきてくれて、ありがとう﹂
笑いかけても、ジュリアスの態度は軟化しない。痛みや、怒りを
堪えるような、遣る瀬無い表情をしている。
﹁ジュリは? 怪我していない?﹂
見たところ平気そうだが⋮⋮探るようにジュリアスの身体に触れ
ていると、手を掴まれた。じっと見つめるので、何だろうと光希も
視線を落とす。手の甲に細かな擦り傷があった。
559
﹁これくらい平気だよ。大したことない﹂
笑いかけても、応えてくれない。ふいと視線を逸らされた。
﹁少し、黙ってもらえまんせか?﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
﹁⋮⋮すみません。帰りましょう﹂
黙れといわれた⋮⋮ショックで、本当に口が利けなくなった。さ
れるがまま飛竜の背に乗せられる。<br>
不意に、痛いくらいの力で抱きすくめられた。ジュリアスは肩に
顔をうずめて、首筋を啄むように吸い上げる。
﹁ん⋮⋮っ﹂
声が漏れそうになると、口をジュリアスの手に押さえられた。
﹁いっそ、鎖に繋いでしまえば⋮⋮貴方はじっとしているのかな?﹂
ふる
耳朶に吐息を吹き込むように囁かれて、背筋が慄えた。
﹁我慢しても、良いことなんて一つもありません。同じだけ苦しむ
のなら、私の傍にいてくれる方が遥かにいい﹂
力で従わせようとする言動に腹が立ち、口を押さえている腕を叩
いた。
ようやく手が離れ、反論しようと口を開いた途端、腹に力強い腕
560
が回された。見事な手綱さばきで、瞬く間に夜空へ舞い上がる。
﹁ジュリッ!﹂
﹁舌を噛みますよ。しばらく黙っていらっしゃい﹂
﹁︱︱っ!?﹂
つんと澄ました態度が腹立たしい。
ならこっちも口を利くものか。光希も短気を起こして、公宮に戻
るまでの間、互いに無言を貫いた。
561
Ⅲ︳24
屋敷に戻ると、ナフィーサやルスタム達が安堵の表情で出迎えて
くれた。
﹁お帰りなさいませ、シャイターン、殿下﹂
ジュリアスは一瞥もせずに素通りしたが、光希は二人の顔を見て
足を止めた。
が、話をする間もなく、ジュリアスに手を取られて引っ張られる。
﹁ちょっと﹂
抗議の声は無視された。引っ張られている腕が痛い。小走りでジ
ュリアスの背中を追い駆け、二階の私室に入ると、ようやく手を離
された。
﹁ここで待っていてください﹂
そういってどこかへ消えてしまう。
視界に水差しが映り、光希は迷わず手に取った。絨緞に腰を下ろ
して、勢いよく三杯飲みほす。
﹁はぁ⋮⋮﹂
遠くから、終課の鐘の音が聞こえる。
疲れ果てた⋮⋮もうこのまま眠ってしまいたい。
何て一日だったのだろう。ユニヴァースとサンマール広場を歩い
562
たことを、遠い昔のように感じる。
ぼんやり虚空を見つめていると、ジュリアスは薬箱を手に戻って
きた。
﹁傷を見せてください。入浴する前に薬を塗ります﹂
﹁迷惑をかけて、ごめんなさい⋮⋮﹂
悄然と呟く光希に、ジュリアスは無言で手を伸ばした。羽織って
いる外套を脱がせ、その下の寝間着も脱がせる。上半身は裸で、下
はズボンだけ履いている状態だ。
﹁怒ってるよね⋮⋮﹂
すく
謝罪を黙殺し、ジュリアスは小瓶から、薄緑色のクリームを指に
掬い取った。
光希の背中や腕をつぶさに見ながら、すり傷の上に薄く塗る。ひ
んやりしていて、ハーブの香りがする。痛みは感じない。
腹周りの縄で締めつけられた跡は、指がかすめるだけでじくじく
した痛みが走った。痛々しい患部を見つめて、ジュリアスは顔をし
かめた。治まりつつあった青い瞳の光彩は、一際強くなる。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
深刻そうに傷を眺めるジュリアスを見て、あの恐ろしい体験が脳
裏に蘇った。
のどかな街中だったのに⋮⋮
突然、通行人に襲われて、麻袋を頭から被らされた。
縄で縛られ、思うように酸素を吸えず、口からひっそり呼吸を繰
り返して。日射しが照りつけ、身体中から汗が噴き出た。頬を伝う
563
汗を拭いたくても、腕を縛られて叶わない⋮⋮湿った重苦しい空気。
最悪だった。
麻袋の後は、ヴァレンティーンの前に連れていかれた。地下室。
それから︱︱その先は思い出したくない。
危ないところだった。ジュリアスがきてくれなかったら、どうな
っていたことか。
﹁助けてくれて、ありがとう⋮⋮﹂
呟くと、両手を握りしめられた。ジュリアスは掴んだ手を額に押
し当てると、
﹁こんなに傷をつけて。許せないッ﹂
呻くように呟いた。ジュリアスも苦しんでいる。いろいろなこと
に腹を立てている。
﹁勝手に抜け出して、ごめんなさい。歩兵隊の合同演習が終わるま
でに、戻ろうと思ったんだ。あんなことになるなんて、思わなくて
︱︱﹂
﹁いってくれたら⋮⋮私が同行できたかもしれない。少なくとも護
衛をつけられたのに。私がどんなに守ろうとしても、光希が自覚し
てくれなければ何の意味もありません﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
悄然と呟いた。
﹁⋮⋮足を見せて﹂
564
大人しく足を差し出すと、ジュリアスは黙々と擦り傷に薬を塗っ
た。
一通り塗り終えると、光希を横抱きにして屋内の浴場へと運ぶ。
移動する間、会話はない。苛立つジュリアスが怖くて、自分で歩く
とはいえなかった。浴室についた後も、傍を離れようとしない。一
緒に入浴しようとするので、慌てて押し留めた。
﹁一人で入れるよ﹂
﹁私の手で洗いたいのです﹂
強い視線と口調で告げられ、光希は反論の言葉を呑み込んだ。
﹁⋮⋮判った﹂
服を全て脱ぐと、ジュリアスも服を脱いで光希を抱き上げる。そ
のまま浴場に入り、タイルの上にクッションを置いて、光希を座ら
せた。
﹁濡れちゃうよ﹂
びろうど
驚いて腰を浮かすと、いいから、と肩を押さえられた。そして光
希の頭から湯をかける。
当然、尻に敷いた高そうな天鵞絨のクッションも湯で濡れた。
傷薬のおかげで湯はあまり沁みなかったが、それでも多少は痛み
が走る。
まふ
ジュリアスは光希の全身を、労わるように洗い上げた。
ハーブの香る石鹸で髪を洗い、麻布で身体も洗う。傷に沁みぬよ
う、細心の注意を払っていると判る、慎重な手つきで。
565
﹁ジュリも背中洗ってあげる﹂
麻布を彼の手から奪い、後ろを振り向いた。
﹁私は⋮⋮﹂
﹁いいから、いいから﹂
ジュリアスは躊躇ったが、光希が急かすと大人しく背を向けた。
傷も染みもない、滑らかな背中だ。
石鹸を馴染ませた麻布でこすると、布越しに鋼のような筋肉の感
触が伝わり、妙にどきどきした。自分の背中とはまるで違う⋮⋮
地下室で見た時は、服のあちこちに血が跳ねていたが、全て返り
血だったようだ。彼の身体には傷一つない。
良かったと胸を撫で下ろし、ふと気付いた。
彼も、光希の身体の傷を確認したかったから、一緒に入りたいと
いったのではないだろうか。
﹁⋮⋮心配かけて、ごめんね﹂
背中から抱きしめると、ジュリアスは肩を強張らせた。光希の腕
を柔らかく解いて、振り向く。
566
Ⅲ︳25
金色の睫毛から、滴がぽたりと落ちる。
青い双眸は喩えようもなく美しい。こんなに間近で見つめても、
ジュリの肌は陶器のように滑らかで、染みは一つもない。
﹁ん⋮⋮っ﹂
たちま
見惚れていると、唐突に唇を塞がれた。かき抱くように腕を回さ
れて、口づけは忽ち深くなる。
から
息をつく間もない、性急なキス。
こうこう
なぶ
舌を搦め捕られ、痛いくらいに吸われる。怒りをぶつけるように、
口腔を激しく嬲られた。
﹁ふ⋮⋮ごめっ、ん⋮⋮っ!﹂
むさぼ
言葉を紡ごうとしても、すぐに塞がれる。簡単に謝るな︱︱そう
いわれた気がした。
音が立つほど、荒々しく貪られる。
瞼を上げると、熱を帯びた眼差しに射抜かれた。ドクンッと鼓動
が跳ねる。なんて眼で見つめるのだろう。
﹁⋮⋮っ、んっ、ふっ﹂
ジュリアスは唇を離すと、腫れた光希の唇をぺろりと舐めた。流
れるように顎の先にキスをして、そのまま首筋から鎖骨へと唇で辿
る。
火を灯されて、身体は次第に目覚めていく。熱の溜まった中心は、
567
グンと芯を帯びた。
たかぶ
む
光希の腹にも、熱い昂りが触れる。ジュリアスの、熱だ。剥き出
しの先端に手を伸ばすと、力強く脈打つ。
艶めいた呻き声を上げると、ジュリアスは光希の背に腕を回して、
乳首に舌を這わせた。
﹁あぁっ﹂
強く吸い上げられ、甘い刺激に腰が揺らめく。
逃げようともがくと、かき抱く腕の力は増々強くなった。鋼のよ
うに固い腕に捕らわれて、胸のあちこちを吸われる。
﹁あ、あっ、んん⋮⋮っ!﹂
ねぶ
左右の乳首を交互に舌で舐られ、空いた片方を指先で絶えず転が
される。
時間をかけて愛された。息も絶え絶えに喘いでいると、濡れた先
端に吐息を吹きかけられる。
面白いくらいに身体が跳ねた。
背をしならせて喘ぐと、更に追い詰めるように、細かく指先で弾
かれる。
こだま
静かな浴室に、いつ終わるかも判らぬ、欲に溶けた声と濡れた音
が反響した。
﹁⋮⋮っ⋮⋮のぼせちゃうよ⋮⋮﹂
まふ
しり
窮状を訴えると、ジュリアスはようやく顔を上げた。水桶に麻布
を突っ込んだかと思えば、頬に押し当てられる。
たぶ
冷たくて気持ちいい⋮⋮布を手で押さえ、眼を閉じていると、尻
臀を両手で広げられた。驚いた拍子に、手から布が滑り落ちる。
568
﹁ジュリ!﹂
おのの
慄いて上擦った声が出た。
のぼせそうだし、身体の節々が痛い。こんな固いタイルの上で最
すぼ
後までしたら、きっと倒れてしまう。
尻の窄まりに指が這う。石鹸で滑りを良くした指が、撫でるよう
に行き来する。つぷりと指先が挿入されると、泣きたくなった。
﹁ここじゃ嫌だ⋮⋮﹂
﹁すぐ終わらせる﹂
しない、という選択肢はないらしい。ジュリアスは胡坐を掻いて、
その上に光希を跨らせた。
胸に抱き寄せ、あやすように首筋や肩に口づける。光希の様子を
見ながら、慎重に指で奥を探る。指の根元まで埋まると、ゆっくり
と抜き差しを始めた。
﹁⋮⋮っ、んん、あぅ﹂
指を引き抜きながら、感じやすい内壁をこすられると、突き抜け
るような快感に襲われた。
鼓動の音が耳の奥で弾けて聞こえる。これ以上は、本当にのぼせ
てしまう⋮⋮
﹁ジュリ、早く⋮⋮﹂
やけ
もういっそ、早く終わらせてしまおう。半ば自棄になって請うと、
ジュリアスは一瞬動きを止めた。
569
宥めるように背中を撫でられる。敏感になっている身体は、それ
すら甘い刺激となる。
しなる背中をきつく抱きしめられて、尖った胸の先端を再び強く
吸われた。
﹁んぅっ!﹂
い
今ならきっと、勃起した前を軽く擦られるだけで、達ってしまう。
快楽に呑まれて、前に手をやろうとしたら阻まれた。
ほとばし
お互い、肩で息をしながら見つめ合う。
上気した頬。青い双眸には、迸るような熱⋮⋮きっと光希も、似
たような顔をしている。噛みつくように唇を奪われた。
﹁んっ! はぁ⋮⋮ん、あっ﹂
観念して首に両腕を回すと、ジュリアスは空いた腕で背中を撫で
上げ、そのまま尻の合間に指を潜らせた。
巧みに孔をこじ開け、経路を作るように指を抜き差しする。
あて
三本の指が出入りするようになると、光希の腰を持ち上げて、双
丘の狭間に熱い塊を宛がった。
この瞬間は、何度経験しても緊張する。
強張る身体を解すように、ジュリアスは小刻みに肌に口づける。
入ってくる︱︱
圧迫感に呻き、逃げようとする身体を押さえつけられる。慎重に
光希の身体を沈めてゆく。
﹁ほら⋮⋮入った。動くよ﹂
耳元で密やかに囁くと、光希の返事も待たずに、ゆっくりと身体
を揺らし始めた。
570
﹁はぁ⋮⋮んっ!﹂
ひまつ
ジュリアスは背中を支えながら、透明な飛沫を散らす光希の屹立
に触れる。裏筋を撫でられるだけで、達してしまいそうだ。
震える光希を見て、ジュリアスはふっと笑みを零す。
ようやく見せてくれた柔らかい眼差しに、胸はぎゅうっと締めつ
けられた。
︵ジュリ⋮⋮︶
大切な名前を吐息にのせて囁くと、突き上げは早くなる。結合部
からひっきりなしに、欲望の擦り合う水音が立つ。
瞼をきつく閉じて顔を逸らしていると、頬を撫でられて名を呼ば
れた。
﹁光希。私を見て﹂
甘い声に、身体は更に熱くなる。全力疾走をしたかのよう。なか
なか眼を開けられずにいると、瞼を舌で舐め上げられた。誘われる
ように眼を開けると⋮⋮燃えるような青い双眸に射抜かれる。
﹁ぅあっ!﹂
ズンッと奥まで貫かれて、意識が飛ぶ︱︱視界に星が舞う。緩急
をつけた抽挿に揺すられながら、奪うように唇を塞がれた。
﹁︱︱っん、ふぅ、あぁッ﹂
うが
内壁を激しく穿たれながら、ジュリアスの引き締まった腹に勃ち
571
上がった屹立が擦れて、抗い難い悦楽をもたらした。
﹁⋮⋮っ、ああ︱︱っ!﹂
耐え切れずに、こぷりと吐精しても、ジュリアスは律動を止めな
い。唇が離れた途端に、嬌声が上がった。
﹁︱︱ッ、⋮⋮ック﹂
ジュリアスは青い双眸で光希を眺めた後、自ら熱を加速させて、
光希の中に欲望を吐き出した。
﹁光希⋮⋮﹂
もう指の一本すら、自力で動かせない⋮⋮
人形のように動けなくなった光希を、ジュリアスは甲斐甲斐しく
世話してくれた。汗を掻いた身体を再び洗い流し、抱きかかえて浴
室から運び出すと、身体を拭いて着替えさせてくれる。
限界だ⋮⋮
意識が戻った時には、寝台の上だった。額に触れるだけのキスが
落ちる。
﹁ジュリ⋮⋮?﹂
顔の傍で、シィー、と囁かれる。瞼を閉じ途端、吸い込まれるよ
うに深い眠りへ落ちていった。
572
Ⅲ︳26
翌朝。すっかり陽が昇った頃に目が覚めた。
跳ね起きると︱︱アタタ⋮⋮と情けない声が出た。全身筋肉痛だ。
特に腹筋に力を込めた途端、腹に圧がかかり酷く痛んだ。
﹁くぅ⋮⋮っ﹂
﹁大丈夫でございますか!?﹂
痛みに悶えていると、ナフィーサが飛んできた。
﹁うん、何とか⋮⋮寝坊しちゃった﹂
たちま
寝台を下りようとすると、ナフィーサの表情は忽ち強張った。
﹁シャイターンから、本日はこちらでお過ごしになるように、と承
っております﹂
﹁屋敷を出るなっていうこと?﹂
﹁はい﹂
申し訳なさそうな顔で、ナフィーサは頷いた。
あれだけの大事になったのだから、謹慎処分を受けても仕方ない
⋮⋮そうは思っても、心は重く沈んだ。
﹁⋮⋮いつまで?﹂
573
﹁二十日は必要だと、聞いております﹂
思ったよりも長い⋮⋮クロガネ隊の皆は知っているのだろうか?
ユニヴァースも謹慎処分を受けるのか?
﹁二十日経ったら、クロガネ隊に戻れる?﹂
﹁復帰については、改めて検討するとおっしゃっていました﹂
﹁そう⋮⋮ユニヴァースは? 何か聞いている?﹂
﹁私も詳しいことは⋮⋮只、軍規に沿って行われるのではないかと
⋮⋮﹂
いいにくそうに視線を逸らされ、光希は不安を掻き立てられた。
小さな肩に手を置いて、淡い灰青色の瞳を覗き込む。
﹁お願い、教えて。ユニヴァースは大丈夫だよね?﹂
ナフィーサは困ったように眉を下げて、判りません、と首を左右
に振った。
﹁じゃあ、ヴァレンティーンは? どうなるか知ってる?﹂
﹁申し訳ありません、私も、詳しい話は聞かされていないのです﹂
ロザイン
﹁⋮⋮僕って、シャイターンの花嫁だよね?﹂
たず
苛立ち、平坦な声で訊ねてしまった。ナフィーサの精緻に整った
574
顔が、辛そうに歪む。この様子だと、ジュリアスに口止めされてい
るのかもしれない。
﹁ナフィーサ。僕にいえないことなんてあるの?﹂
可哀相だが、詰問口調で迫った。
﹁お許しくださいっ! 何も話すなと厳命を受けております。時が
満ちれば、きっとシャイターンからご説明があるはず。今はどうか
⋮⋮っ﹂
されるかもしれない⋮⋮ユニヴァースは? 酷いことをさ
﹁この国の処罰は、とても重いから怖いんだ。ヴァレンティーンは
斬首
れない?﹂
縋るように見下ろしていると、肩に置いた手に、小さな手が重ね
られた。
﹁⋮⋮斬首では、ございません﹂
﹁本当に? どんな罰を受けるの?﹂
﹁︱︱申し訳ありません﹂
﹁ナフィーサッ!﹂
思わずナフィーサの肩を揺らすと、殿下、と窘めるようなルスタ
ムの声が聞こえた。
﹁申し訳ありません、扉を叩いてもお返事がありませんでしたので
575
⋮⋮勝手ながら入らせていただきました﹂
﹁ルスタムは、知ってる?﹂
﹁お気持ちは判りますが、お教えすることは出来ません﹂
﹁どうしてっ!?﹂
鋭く切り返すと、ナフィーサは怯えたように、光希とルスタムの
顔を交互に見比べた。
たえ
﹁厳しいことを申し上げるようですが、全ては、殿下の奔放な振る
舞いの結果にございます。天真爛漫な人柄は殿下の妙なる美徳です
が、尊い御身をご自覚くださらねば、取り返しのつかない事態とな
ります﹂
けんせき
静かな譴責に、光希は表情を硬くした。
﹁シャイターンの神眼のおかげで、御救いできましたが、ヴァレン
ティーン・ヘルベルトは一部隊に匹敵する私兵を抱えております。
昨夜は本当に、危ないところだったのですよ⋮⋮﹂
さざなみ
静かに諭されて、苛立ちは細波のように引いてゆく。
﹁ご自分の取った行動で、どれだけの被害が出たのか、それだけは
お教えいたしましょう﹂
澄んだ蒼の瞳に、厳しい光が宿る。光希が悄然と肩を落としても、
ルスタムは容赦しなかった。
576
﹁殿下のお姿が見えなくなった後、総力をあげてお探しいたしまし
た。シャイターンも極めて重要な任務を中断し、駆けつけられたの
です﹂
﹁はい⋮⋮﹂
アンカラクス
﹁いかに神剣闘士といえど、万能ではないのです。神眼でいつでも
殿下のお姿を捉えているわけではありません。シャイターンが任務
に集中していられたのは、殿下を信頼していたからです。私も信頼
しておりました。貴方は、貴方を慕い、信頼する者達全員の心を踏
みにじったのです﹂
頭を殴られたような、強い衝撃を覚えた。
﹁ルスタム、いい過ぎです⋮⋮﹂
静かな部屋に、ナフィーサの案じる声が落ちる。呆然と立ち尽く
す光希を、ルスタムは静かに見下ろした。
﹁全隊で機動隊を編成して、ヴァレンティーン・ヘルベルトに連な
る一派の一斉検挙に乗り出し、百五十名もの隊員が命を落としまし
た。殿下の捕らわれていた私邸では、特に死者が多かったと聞いて
おります﹂
あまりのことに、言葉が出てこない。幽鬼のように佇む光希を見
て、ルスタムは半分瞑目した。
﹁⋮⋮少々、いい過ぎました。今朝も早くから残党狩が続いていま
す。くれぐれも抜け出そうなど、お考えにならないように﹂
577
俯きそうになる顔を上げて、光希はルスタムの静かな眼差しを見
返した。
﹁迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。もし、ユニヴァー
スに処罰があるなら、僕も同じように罰してください﹂
とつとつ
訥々と震える声で謝罪する光希を見て、ルスタムはため息を落と
した。
﹁誰も、花嫁を罰することは出来ません。もし請うのであれば、一
人しかいらっしゃらないでしょう﹂
よぎ
脳裏に、ジュリアスの顔が過った。悔恨を噛みしめながら、光希
は小さく頷いた。
578
Ⅲ︳27
やり直せるのなら、昨日の朝からやり直したい。
食事も喉を通らず、鬱々とそればかり考えている。
くすぶ
悔恨を噛みしめる一方で、ぶつけようのない怒りも燻っている。
軽率だと責められるが︱︱
光希はただ、友達と街に繰り出して、息抜きをしたかっただけだ。
それがそんなに悪いことだろうか?
誘拐されて、貞操の危機に繋がるだなんて、露ほども思わなかっ
た。あんな惨事になるなんて、微塵も思っていなかった。
とが
もちろん、一番悪いのは誘拐した本人だ。その本人は、重い極刑
に処せられようとしている。
周囲の口ぶりから察するに、ヴァレンティーンの咎は他にもある
ようだが、それにしたって罰が重過ぎる。
この世界に馴染めたと思えた頃に、価値観の違いを痛感させられ
る。まるで見えない力に、試されているようだ。
もし、ユニヴァースの身に何か起きたら︱︱考えるのも恐ろしい
⋮⋮とても正気ではいられないだろう。
+
日が暮れる。
夕食も断ると、ナフィーサに泣きそうな顔で見つめられた。仕方
なく、もそもそと食べ始めると、心底安堵したように微笑んだ。
食欲はないと思っていたが、胃は空腹を覚えていたようで、出さ
れたものは綺麗に完食した。
今頃、ユニヴァースはどうしているのだろう⋮⋮
579
⋮⋮斬首では、ございません
軍規に沿って行われるのではないかと
今朝、ナフィーサはそういっていた。ユニヴァースと同じ罰を与
誰も、花嫁を罰することは出来ません。
ロザイン
えて欲しいと請えば、
ルスタムはそう応えた。
光希は二十日の謹慎処分だが、ユニヴァースには比較にならない、
厳罰が下るのではないだろうか。謹慎の間に、密かに終わらせよう
としているのでは?
軍規の罰則とは、どんなものがあったろう。
懲罰房があることは知っている。ユニヴァースは以前、演習を怠
けて数日入れられたことがある。だが、それはまだ軽い方だ。
戦に負ければ、降格処分になる場合もあると聞いた。でも今回は
関係ないはず⋮⋮
規律違反者には、拷問や捕虜の世話等、不快な任務を強制される
場合があると聞いたが、今回は適用対象だろうか?
密告、脱走者の項目も読んだことがある︱︱懲罰対象で、重い場
合は四肢の切断、死刑と書いてあったような⋮⋮
ぞくっと背筋が冷えた。
まさかユニヴァースに、そんな思い罰が課せられるとは思いたく
ないが⋮⋮
不安が募り、部屋の扉を開けて護衛に立つルスタムを見上げた。
﹁殿下?﹂
﹁ルスタム、ユニヴァースは⋮⋮酷い罰を受けるの?﹂
580
﹁お答えできかねます﹂
﹁お願い、教えて⋮⋮﹂
もう、そうとしか思えない。
軽微な罰だとしたら、こうまで隠したりしないだろう。少なくと
も、ナフィーサなら朝の問答の時に、安心するような言葉をくれた
はずだ。
﹁︱︱部屋にお戻り下さい﹂
﹁ルスタム! 僕なら助けられるかもしれない!﹂
﹁アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍の名誉に関わる問題です。
軍の総大将が決めることに、例え花嫁でも意見することは難しいで
しょう﹂
﹁ユニヴァースはいつ罰せられるの? ジュリはいつ戻ってくる?﹂
﹁最初の質問はお答えできかねます。シャイターンなら、遅くにお
戻りになると聞いております﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
ルスタムの硬い表情を見て、光希は肩を落とした。これ以上、彼
カテドラル
から有益な情報を引き出せそうにない。
はんもん
大神殿から、午前零時を告げる朝課の鐘が聞こえても、ジュリア
スは戻らなかった。
灯りの落とされた部屋で一人、煩悶しながら帰りを待つ。
夜も更けた頃、ようやくジュリアスは戻ってきた。なんとなく、
581
近寄りがたい。青い双眸は、暗闇の中でも仄かに煌めいて見える。
﹁お帰りなさい﹂
ねぶ
恐る恐る声をかけると、ジュリアスは無言で光希を抱き寄せ、唐
突に唇を塞いだ。
﹁ん⋮⋮っ﹂
たちま
触れるだけのキスは、忽ち深くなる。指先は冷たいのに、舐る舌
はとても熱い。
身体に火をつけるような口づけから、どうにか顔を離した。
﹁ちょ⋮⋮っ、待って!﹂
押しのけようと伸ばした腕を取られ、逆に引き寄せられる。背け
た顔を追いかけるように、唇を塞がれた。
﹁んぅっ!﹂
唐突なキスの意味が判らない。
昨日のような攻撃的なキスとは違う⋮⋮けれど、情熱的というよ
りは執拗なキスだ。
背中に腕を回され、そのまま寝室に運ばれそうになった。もがい
から
た拍子に唇は離れ、二人の間をつぅと銀糸が伝う。ジュリアスはそ
れを舌で搦め捕ると、強い眼差しで光希を射抜いた。
︵怖い⋮⋮︶
おのの
ジュリアスは慄く光希に覆いかぶさると、子供を抱き上げるよう
582
にして持ちあげた。
583
Ⅲ︳28
そっと寝台の上に降ろされた。
ジュリアスは光希の顔を挟むように肘をつき、熱っぽく見下ろし
ている。闇の中でも、青い双眸は仄かに輝いていた。
﹁待って﹂
顔を背けると同時に、掌でジュリアスの端正な顔を押しやる。
﹁ぅ、あッ⋮⋮﹂
唇に触れた指先を、舐められた。思わず眼を合わせると、青い双
眸に囚われたまま、指を甘噛みされた。ドクッと鼓動が跳ねる。目
を離せない。ジュリアスに、誘惑されてしまう⋮⋮
見つめ合ったまま、艶めいた美貌がゆっくりと近付いて︱︱唇が
重なる瞬間に、どうにか顔を背けた。
﹁待って! いろいろ訊きたいことがっ﹂
手を交差させて顔を防御すると、両腕を掴まれ、寝台に縫いとめ
られた。腕力では絶対に勝てない。背けた頬に吐息を感じながら喚
いた。
﹁お願い教えて、ユニヴァースはどうなるのっ!?﹂
答えの代わりに、唇の端を舐められた。誤魔化そうとしている?
思いきり顔を寝台に押しつけると、今度は仰け反る顎を辿り、首
584
筋に吸いつかれた。
﹁⋮⋮っ、教えてよ⋮⋮お願いだから⋮⋮﹂
続けて懇願すると、はぁ⋮⋮と小さな吐息が聞こえた。恐る恐る
瞼を上げると、物言いたげな青い双眸に見下ろされていた。
﹁たまには私だけを見て、私の名前だけを呼んで、私のことだけを
考えてくれませんか?﹂
抑揚のない口調に呆気にとられた。どうしてそんなに不安そうな
顔をするのだろう⋮⋮
﹁いつも、ジュリのことを想っているよ⋮⋮でも今は、心配事が多
すぎて苦しいんだ。ジュリは全部知っているんでしょう? 教えて
よ⋮⋮﹂
﹁光希は任務放棄、無断外出で懲罰対象です。最低二十日間、ここ
でじっとしていてもらいます﹂
﹁それは聞いた。ユニヴァースは?﹂
﹁同じく任務放棄、無断外出、そして極めて深刻な任務失敗による
懲罰対象です。責任を取らせて、光希の武装親衛隊は罷免しました。
今は懲罰房にいます。明日、軍規に沿って背中に七回、公開鞭打ち
の刑に処し、それから特殊部隊に配属します﹂
役職を降ろされた上、懲罰房⋮⋮しかも、公開鞭打ちって、どう
いうことだ。光希とは比ぶべくもなく、処罰が重いではないか。
585
﹁僕だって同罪だよ。僕も懲罰房に入れて。七回鞭を打つなら、半
数は僕を打って﹂
ジュリアスは露骨に顔をしかめた。
﹁卑怯ですよ。私が出来ないと知っていて、そんな口を利く﹂
﹁納得できない!﹂
カッとなって、光希はジュリアスの胸を強く叩いた。びくともし
ないことが悔しい。
﹁判ってください。軍規なのです﹂
﹁どうしてユニヴァースだけ怒られるの? お願い、止めてよ﹂
﹁貴方が口を挟めることではありません﹂
﹁僕だって軍の人間だよ、意見してはいけない?﹂
﹁軍人だと主張したところで、貴方は只の伍長勤務上等兵。大将で
ある私に、意見できると思いますか?﹂
かんげん
﹁できるさ、上司は部下の諫言に耳を貸すべきだ﹂
﹁⋮⋮本当に、難しい言葉を使うようになりましたね。しかし諫言
とはいえないでしょう。軍規も立場も解さず、眼に映る光景だけを
見て喚いている。いとけない子供みたいですよ﹂
光希は唸り声を上げた。
586
﹁煩いっ! ジュリはさ、僕がユニヴァースと仲良く街に出掛けた
から、怒ってるだけなんじゃないの? だから腹いせにそんな重い
処罰を与えるんじゃないの? 子供みたいなのはどっち?﹂
ジュリは苛立ちを双眸に宿すと、髪を掻き上げながら上体を起こ
した。
﹁はぁー⋮⋮不愉快﹂
﹁僕だって不愉快だよ!﹂
ね
光希も上体を起こすと、ジュリアスの胸をドンッと押した。長身
の下から抜け出すと、膝をついて決然と睨めつける。二人の間に火
花が散った。
﹁個人的な采配で処罰を決めたと? そんなわけないでしょう。私
個人の感情で決めていいなら、彼を八つ裂きにしてもお釣りがきま
すよ﹂
怒りを孕んだ苛烈な言葉に、光希は咄嗟にいい返すことができな
かった。
﹁能力を見込んで、光希の護衛を任せたというのに、自ら危険にさ
らすような真似をよくもしてくれた﹂
﹁だからって⋮⋮﹂
﹁これでも、貴方が気に病まぬよう、最大限の温情をかけたつもり
です﹂
587
﹁どこがっ!?﹂
﹁無事に帰れたから良かったものの、何が起きてもおかしくありま
せんでした。貴方に何かあったら、生きていけないのに⋮⋮光希は
彼のことばかり心配するけど、私の気持ちは考えてくれないの?﹂
真摯な眼差しに射抜かれる。
ジュリアスは間違っていないのかもしれない⋮⋮けれど、光希が
間違っているとも思えない。
﹁ごめん⋮⋮でも、僕のせいで誰かが責められるのは間違ってるよ。
ユニヴァースは任務失敗なんかしていない。襲われた時、迷わず僕
の前に立って守ってくれたんだ。すごい勇気だよ。本当に強かった。
でも相手は数が多くて⋮⋮僕が動けなかったからいけないんだ﹂
苦悩の滲んだ告白に、今度はジュリアスが押し黙った。
﹁もちろん、二人で勝手に街へ出たことは、怒られても仕方がない
と思う。だから、ユニヴァースと僕は等しく罰せられるべきだ﹂
﹁⋮⋮光希の意見は判りました。ですが、軍の決定は変わりません﹂
けいれつ
ジュリアスは静かに告げた。そんな、と光希は眉根を寄せたが、
反論は勁烈な眼差しに封じ込められた。
﹁心配したんです、本当に⋮⋮無事で良かった﹂
項垂れる光希を、ジュリアスは労わるように抱き寄せる。抗う気
力は起きなかった。
588
589
Ⅲ︳29
微かな物音に、ふと眼を覚ました。
隣にジュリアスがいない︱︱慌てて跳ね起きると、転がるように
寝台から飛び降りた。
﹁ジュリ!﹂
寝室の外へ出ると、既に軍服に着替えたジュリアスは、ちょうど
部屋を出て行くところだった。
﹁お早う、光希﹂
浮かない顔をしている。仲違いしたままなので当然だ。傍へ駆け
寄り、ジュリアスの腕を掴んだ。
﹁僕も連れていって!﹂
﹁⋮⋮できないと、昨日いいました﹂
﹁お願いだ、ジュリ。考え直して⋮⋮ユニヴァースだけ処罰を受け
ることになったら、彼にも、他の皆にも合わせる顔がないよッ﹂
縋りつく光希を見ても、ジュリアスは表情を変えなかった。やん
わり腕を外して、何もいわずに部屋を出ていこうとする。
﹁待って!﹂
590
部屋の外に控えていたルスタムは、ジュリアスに縋りつこうとす
る光希を引き留めた。
﹁殿下、お下がりください﹂
﹁嫌だよ! ジュリッ!﹂
声が潤みかけた。ジュリアスは物憂げに光希を見つめると、半分
瞑目した。数秒ほど視線を落として、再び上げると、
﹁光希から目を離さないように﹂
心を切り替えるように、冷淡な表情でルスタムに告げた。
﹁御意﹂
厳かにルスタムが応える。ジュリアスは光希を一瞥もせずに、上
着の裾を翻した。
﹁ジュリ! 待ってよ! 待って!﹂
無我夢中で暴れたが、ルスタムは決して手を離さなかった。
+
終課の鐘が聞こえる。
ちょうめい
光希はテラスの寝椅子に座ったまま、ぼんやり夜空を仰いでいた。
澄明な天空には、地球によく似た青い星が浮かんでいる。優しい
591
あんたん
星明かりも、心の内までは届かない⋮⋮
暗澹たる気持ちを拭えない。
ユニヴァースは無事だろうか?
処刑人
という言葉
鞭打ちがどういうものか誰も詳しく教えてくれなかったが、ルス
タムの話では、処刑人が鞭を振るうという。
に怯える光希を見て、死にはしない、と付け足したが、少しも安心
できなかった。
ユニヴァースは光希を恨んでいるだろうか。だとしても、謝るこ
とすらできない。
ナフィーサもルスタムも、お屋敷の人間は皆、いざとなったらジ
ロザイン
ュリアスのいうことしか聞いてくれない。
全てが憎く疎ましい。
ヴァレンティーンも、シャイターンの花嫁だと特別視されること
も、自由を与えられないことも。
謹慎処罰を下し、ユニヴァースに会わせてくれないジュリアスも、
ルスタムも、ナフィーサも。
だが、何よりも疎ましいのは、守られてばかりのくせに、不満ば
かり抱えている非力な我が身だ。
あの時もし︱︱光希が剣を振るえたら、身の躱し方を知っていた
ら、大通りにある軍の詰所まで逃げおおせたかもしれない。
︵悔しいッ!︶
消化できない怒りが身の内に渦巻いている。
誰とも口を利きたくなくて、ジュリアスが帰ってきても出迎えず、
一人テラスで夜空を見上げ続けた。
会話を拒む背中を見て、ジュリアスも声をかけようとはしなかっ
たが、朝課の鐘が鳴ると、見かねたように傍へやってきた。
﹁⋮⋮風邪を引きますよ﹂
592
伸ばされた腕が肩に触れる前に、光希は乱暴に振り払った。今更
向き合ってくれても遅いのだ。
﹁⋮⋮ユニヴァースの処罰は終わりました。治療中です。十日も経
てば回復するでしょう﹂
仕方なさそうにジュリアスはいった。お見舞いにいくことは許さ
れるだろうか? 訊いてみようか迷っていると、
﹁そんなに気になりますか? ユニヴァースの名前を出さないと、
視線もくれないのですね﹂
恨みがましい口調にカチンときた。
﹁僕を無視したのは、ジュリの方でしょ﹂
﹁違います。無視していないからこそ、最大限の譲歩をしました。
無視しているのは、光希の方でしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私が疎ましいですか?﹂
本音をいえば、今は疎ましい。理詰めで責められると勝てないし、
感情的になって碌なことにならない。既に苛々していて、余計なこ
とを口走ってしまいそうだ。
口を利きたくなくて、答える代わりに無言で顔を背けた。
﹁光希﹂
593
名前を呼ばれた瞬間、立ち上った。
手を取られそうになり、音が鳴るほど、過剰な動作で振り払う。
渇いた音に、胸が痛んだ。こんな態度をとったりして、ジュリア
スも光希自身も傷つけるだけだ。
でも、どうにもできない⋮⋮振り向かずに寝室に入ると、広い寝
台の端に寄って眼を閉じた。後からジュリアスも寝室に入ってきた
が、寝入った振りを続けた。背中に感じる視線を、苦心して意識の
外へ追いやる。
なかなか眠れなかった。
594
Ⅲ︳30
消化できない怒りを抱えたまま、三日が過ぎた。
何度かユニヴァースのお見舞いを申し出たが、ジュリアスは許そ
うとしなかった。
断食による無言の抗議は、光希よりも先にナフィーサが憔悴して
しまい、諦めた。
光希は生気のない顔をしているものの、ふくよかな身体は健在だ。
一方、ナフィーサは明らかに痩せた。まだ十一歳の子供に、それ
程ストレスを与えていることに罪悪感を覚え、切り出してみた。
カテドラル
﹁無理して僕に仕える必要はないよ。大神殿の神徒に戻ってもいい
んだよ?﹂
たちま
灰青色の瞳は忽ち潤んだ。絶望の色を浮かべて光希を見上げる。
﹁わ、私は⋮⋮殿下にお仕えできることを⋮⋮大変な、ほ、誉れだ
と、思っておりますのに⋮⋮﹂
悲壮な顔で、声を震わせ、ナフィーサは訥々と答えた。
﹁うん、でもナフィーサ、辛そうだから⋮⋮﹂
﹁殿下が、殿下が⋮⋮ッ⋮⋮私を疎ましく感じていることは、承知
しております。それでも、どうか、お、お傍に置いてくださいませ﹂
ロザイン
涙に濡れた一途な双眸を、拒絶することは難しい。
理解を得られず光希が苦しむように、花嫁を神聖視するナフィー
595
そんたく
サの気持ちを、光希もまた忖度できないのだ。
﹁判ったよ⋮⋮﹂
視線を逸らすと、視界の端でナフィーサは悄然と肩を落とした。
最近、こういうことが多い。
気遣いを素直に受け取れず、無下にしてしまう。相手を傷つけ、
自分も自己嫌悪で傷つくという悪循環。
気分転換できればいいのだが、二十日間の謹慎処分を受けている
為、外に出ることも叶わない。
鬱屈は貯まる一方だ。
ジュリアスとも殆ど口を利いていない。一方的に、ジュリアスを
無視している。食事を共にすることも拒み、同じ寝台に潜っても、
はんもん
端と端に寄り、会話もなく眠る日々が続いている。
煩悶を繰り返し⋮⋮三日目の夜。
どん底まで落ちたせいか、自然と心は浮上を始めた。
できないことを惜しみ、嘆いても、苦しいだけ。できることを見
つけて、気持ちを切り替えていく方が精神的に楽だ。
謹慎処分をきちんと受け入れる。大切な人達に八つ当たりしては
いけない。
ユニヴァースを見舞い、誠心誠意を込めて謝罪する。
クロガネ隊に復帰し、コツコツ仕事に励む。
しんたん
そして、訓練に参加する。必要があれば、軍舎に移ってもいい。
皆と同じ環境に身を置き、少しでも自分の身を守れるように心胆と
身体を鍛える。
運動は大の苦手だし、自分に向いているとも思えないが、それく
らいの覚悟を見せないと、身体を張って守ってくれたユニヴァース
に面目が立たない。
この決意を、ジュリアスに伝えようと心に決めた。
596
+
夜更けにジュリアスが帰ってくると、光希はおずおずと傍へ寄っ
た。
﹁お帰り、ジュリ﹂
﹁光希⋮⋮﹂
久しぶりに、青い双眸を正面から捉えた。
﹁話があるんだ。聞いてくれる?﹂
﹁もちろんですよ﹂
即答してくれたことに、内心で安堵のため息をついた。
窓辺に寄って、硝子照明を床に置く。光希が座ると、ジュリアス
も正面に腰を下ろした。
見つめ合ったまま、沈黙が落ちる。お互いに緊張しているのだ。
勇気を振り絞って、光希の方から口を開いた。
﹁ずっと、態度悪くてごめんなさい﹂
ジュリアスは肩から力を抜くと、光希の手を握りしめた。温もり
に励まされて、更に言葉を続ける。
﹁⋮⋮謹慎が明けたら、クロガネ隊に戻して。ユニヴァースのお見
舞いにも行かせて。それから、訓練に参加させて欲しい﹂
﹁訓練に?﹂
597
光希は深く頷いた。
﹁襲われた時、僕は一歩も動けなかった。対処方法を知っていたら、
捕まらずに済んだかもしれない。守られる努力をしたいんだ﹂
﹁先日の件は、光希の剣技に問題があったのではなく、護衛もつけ
ず無防備に外出したことが問題なのです﹂
﹁判ってる。でも護衛をつけても、同じことが起こるかもしれない
よ﹂
﹁いいえ。第一、アッサラーム軍の訓練はそんなに易しいものでは
ありません。繊細で可憐な貴方には一刻も耐えられないでしょう﹂
﹁可憐って⋮⋮﹂
呆気にとられたが、ジュリアスの眼差しは真剣そのものだ。
﹁泥にまみれることもあります。柔肌に傷がつく。それに、不作法
な者も多い⋮⋮そんな野蛮な輩が、貴方に触れる距離に立つなんて﹂
﹁僕も男だからね? 汚れたって気にしないよ。野蛮って⋮⋮軍の
人でしょう? 平気だよ⋮⋮﹂
と光希はいったが、ジュリアスは難しい顔をしている。
﹁クロガネ隊への復帰は良しとしても、ユニヴァースの面会と、訓
練については許可できません﹂
598
ロザイン
﹁⋮⋮僕はシャイターンの花嫁なんだよね。同等の権利があるんじ
ゃないの?﹂
﹁私の花嫁であると同時に、部下でもあります。兵士として新兵に
も劣る貴方は、上官であり先達者のいうことには素直に耳を傾ける
べきです﹂
﹁そうかもしれないけど! 試させてよ。訓練に参加してみて、一
日耐えられたらユニヴァースに面会させて。無理だと判ったら、ジ
ュリの言う通りにするから⋮⋮﹂
ジュリアスは憂鬱そうに息を吐いた。
﹁いいでしょう⋮⋮謹慎が明けたら、そのように手配します。一日
様子を見て、私が判断する。これでいい?﹂
首肯すると、ジュリアスはふと無言になった。どうしたの? と
首を傾げると、静かに呟く。
﹁⋮⋮光希がようやく、私を見てくれたから﹂
虚を突かれて、今度は光希が無言になる。
﹁貴方に見てもらえなくて⋮⋮苦しかった﹂
一途な眼差しに、胸に切なさがこみあげる。苦しいのは、光希ば
かりではなかったのだ。
﹁ごめん⋮⋮﹂
599
ジュリアスは何もいわず、真っ直ぐ光希を見つめている。
薄明りの中、ぼんやりとしか見えていないはずなのに、目や唇、
首筋、鎖骨⋮⋮見られているところが熱を持ち始めた。
空気が色濃くなってゆく︱︱身体を硬くしていると、腕を引かれ
て抱き寄せられた。夜着の襟を寛げ、肌に口づけられる。
﹁んっ﹂
思わずあえかな声が洩れると、ジュリアスは顔を上げた。熱を灯
した青い双眸に光希を見下ろす。ぞく⋮⋮っと腰に甘い戦慄が走り、
反射的に仰け反ると、追いかけるように唇が重なった。
﹁んぅっ﹂
ジュリアスは光希の後頭部を丸く包み込み、口づけを深めながら、
ゆっくりと光希を押し倒した︱︱
600
Ⅲ︳31
謹慎処分から、二十日後。
光希は久しぶりに、黒と銀の隊服に袖を通した。
ようやく屋敷の外に出られる⋮⋮といっても、屋敷に籠っていて
も、不満はそうなかった。
ジュリアスは暇を持て余す光希の為に、私室の隣の応接間を、光
希専用の工房に改装してくれたのだ。
おかげでチャーム制作は捗り、作業に没頭することで心も晴れた。
一階へ降りると、ナフィーサとルスタム、そしてジュリアスがい
る。彼等の表情は明るい。
苦難の二十日間を、全員で乗り越えたのだ︱︱光希も笑みを浮か
べると、彼等の傍へ歩み寄った。
+
午前七時。晴天。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地。
﹁光希。いってらっしゃい﹂
﹁ジュリも、気をつけて﹂
馬車の中で、久しぶりに四点を結ぶキスを交わす。
下りると、二十日ぶりにローゼンアージュが出迎えてくれた。光
希を映す瞳には、二十日前と変わらない親愛の色が浮かんでいる。
緊張しながらクロガネ隊の工房へ向かうと、隊員達は温かい笑顔
で迎えてくれた。
601
﹁殿下! もう復帰されて平気なのですか?﹂
戸口に現れた光希を見るなり、ケイトは傍に寄ってきた。喜びに
輝く不思議な光彩の瞳を見て、光希も微笑んだ。
﹁うん。ご迷惑をおかけして、すみませんでした﹂
そういって手製のチャームを渡すと、
﹁えっ、そんな! いただいていいのですかっ!?﹂
恐縮しつつ、とても喜んでくれた。
他の隊員にも渡したが、反応はケイトと似たり寄ったりだ。光希
の胸は喜びに満たされた。もちろん、ローゼンアージュにも渡した。
しょうかい
彼は天使のような微笑みで受け取り、その場でネームプレートの鎖
に通してくれた。
朝時課の鐘が鳴り、哨戒任務を終えた隊員達が続々と工房に戻っ
てくる。
光希に気付くと、気さくに声をかけてくれる。チャームを渡すと
満面の笑みで受け取ってくれた。
﹁いやぁ殿下、お久しぶりです﹂
﹁ありがとうございます! 大切にします!!﹂
﹁殿下、平気なのですか?﹂
光希を囲み、あれこれ話かける隊員を見かねた班長のサイードは、
殿下に寄るな群がるな、と人の輪を散らした。ぱん、と手を鳴らし
て、注目を集める。
602
﹁朝礼始めるぞ。内乱鎮圧で通常任務が大分遅れている。ノーグロ
ッジ作戦決行まであと十日だ。飛竜隊第一から第二、それから第三
と第四、残り第七まで装具一式、進捗はどうなっている?﹂
空気は引き締まり、ざわめいていた隊員はぴたりと口を閉ざした。
真剣な表情で姿勢を正す。
内乱鎮圧とは、先日光希を誘拐したヴァレンティーンの一族、ヘ
ルベルト家主導による、クーデターである。
当主更迭を申し渡されたヘルベルト家は、賛同する貴人諸侯を引
き連れて、アッサラーム軍に反旗を翻したのだ。
あぶみ
これに対し、ジュリアスは皇帝陛下勅命の元、反乱軍を十日かけ
て鎮圧した。その後方支隊をクロガネ隊も務めたらしい。
くつわ
ぐんか
﹁⋮⋮強化鋼の轡、手綱、前装甲の新調まで完了しています。鐙、
鞍、背面装甲は残り半分、軍靴に仕込む鉄板が手つかずです﹂
くま
飛竜隊で最も重要な選抜隊、第一から第二を担当しているアルシ
ャッドは、目の下に隈をこさえている。よく見れば、周囲の隊員も
疲れた顔をしていた。
ノーグロッジ作戦は、東西衝突︱︱対サルビア戦に向けた、バル
ヘブ中央大陸の渓谷経路確保の偵察任務である。
くろがね
深く入り組んだ渓谷の谷間を、海面すれすれの超低空飛行で駆け
抜ける高度な飛行技術と、高速飛行に耐えうる強度の鉄装具が必要
だという。
大量受注の為、一部は市街に外注しているが、殆どはクロガネ隊
で引き受けている。緊急任務で制作時間が削られている為、クロガ
ネ隊は、納期に向けて連日徹夜で作業を続けている。
朝礼後、光希はアルシャッドに声をかけた。
﹁すみません、先輩。僕、明日は朝から、歩兵隊の訓練に参加させ
603
てもらう予定なんです﹂
﹁あぁ⋮⋮班長から聞いてはいますが、それ、本当なんですか?﹂
アルシャッドは心配そうに訊ねた。ローゼンアージュも訝しげに
見ている。確かに、狂気の沙汰かもしれない。そう思いつつ、光希
は苦笑いを浮かべた。
﹁自分の為にも、少しずつ身体を鍛えていこうと思いまして⋮⋮﹂
﹁しかし⋮⋮午前中の基礎訓練だけでも、腕立て伏せ百回、腹筋百
回、二十分以内の鍛錬場外周の持久走を三本ですよ?﹂
光希は青褪めた。具体的な訓練内容を聞くと、とてもついていけ
ない気がする。
﹁や、やるだけやってみます。ユニヴァースにも面会したいし⋮⋮﹂
無事訓練を乗り切れば、面会を検討するとジュリアスは約束して
くれた。完遂できずとも、誠意を見せれば認めてくれる可能性もあ
る。
﹁彼も殿下を心配していましたよ。もしかしたら会えるかも、とよ
くここを訪れていました﹂
﹁ユニヴァースも復帰しているのですか?﹂
﹁はい。特殊部隊に配属されて、訓練に参加しているそうです。彼
もノーグロッジ作戦の構成隊員なんですよ﹂
604
﹁特殊部隊って、飛竜隊の構成部隊なんですか?﹂
﹁いえ⋮⋮特殊部隊は、別名、懲罰部隊と呼ばれています。彼等に
は、危険度の高い任務への強制参加が義務づけられるのです﹂
光希は息を呑んだ。懲罰部隊と呼ばれているとは知らなかった。
しかも、その作戦は︱︱
﹁ノーグロッジ作戦の指揮は、ジュリが執るって聞いているんです
けど⋮⋮危険なんですか?﹂
﹁難易度の高い任務ですが、シャイターンならば問題ないでしょう﹂
アルシャッドは安心させるように微笑んだが、光希は不安な気持
ちを拭えなかった。胃がじっとり重くなるのを感じながら、そうで
すよね、とどうにか淡い笑みを浮かべた。
605
Ⅲ︳32
ぐんか
てつびょう
光希も飛竜隊の大量受注の手伝いをすることに決まった。
かかと くろがね
主な仕事は軍靴の補強である。
靴底の爪先、踵に鉄を伸ばした板を仕込み、鉄鋲で補強する。
光希は補強に使う鉄の研磨作業を手伝っている。単調作業なのだ
が、研磨粉と真鍮ブラシを握りしめて淡々と磨く作業は、意外と重
労働だ。
昼休の鐘が鳴る頃、ローゼンアージュが工房にやってきた。
﹁殿下、外へいかれますか?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
どこで食べようかな、と光希は返答に迷った。
軍舎の食堂は、光希がいくと注目を浴びてしまうので、普段は配
給だけもらって外で食べている。しかし、食堂にいけばユニヴァー
スに会えるかもしれない。そう期待したが、ローゼンアージュは首
を横に振った。
﹁シャイターンにきつく釘を刺されていますから、殿下の前には現
れないと⋮⋮あいつ⋮⋮﹂
こずえ
人形めいた少年は、あらぬ方向を見つめて、スッと眼を細めた。
つられて光希も視線の先を辿ったが、風に梢がそよと揺れているだ
けであった。
﹁どうかした?﹂
606
﹁いえ⋮⋮﹂
なぜか、不機嫌そうにローゼンアージュは答えた。こんな時、ユ
ニヴァースがいれば、面白い冗談を飛ばしてくれたのだろうか⋮⋮
﹁やっぱり、そう簡単には会えないのかな﹂
﹁⋮⋮元気そうですよ﹂
﹁そっか⋮⋮アージュは、公開懲罰は見た?﹂
﹁はい、見ました﹂
﹁どうだった?﹂
訊ねた後で、はっとなった。彼の微細な報告は、恐ろしい予感が
する。慌てて、簡潔に教えて、と付け足した。
あれ
﹁茨鞭で打たれると、大抵三回で気絶するんですが、彼は最後まで
意識を保っていましたよ。よく耐えたのではないでしょうか⋮⋮﹂
悄然と肩を落とす光希を見て、お辛いですか? とローゼンアー
ジュは訊ねた。
﹁うん⋮⋮僕にも非はあるのに。ユニヴァースだけ辛い目に合わせ
たと思うと⋮⋮﹂
﹁命があるだけ幸いでしょう。ヘルベルト家と共に処刑されても仕
方ないと、僕は思っています﹂
607
相変わらずローゼンアージュはユニヴァースに容赦がない。実は
仲がいいと思っているのだが、任務が絡めばそんな甘い感情は許さ
れないのだろうか。
﹁⋮⋮ヴァレンティーンは処刑されたんだよね﹂
傾国
と詰られたよ⋮⋮意味が判らなくて、後で調べたん
なじ
﹁はい。七日前に﹂
﹁彼に
だ。酷いと思ったけど⋮⋮僕が公宮を出たせいで、あの人も、ユニ
ヴァースもこんなことになってしまったのかな﹂
﹁殿下がどうなさろうとも、帝位継承までに内乱は起きていました。
ユニヴァースにしても、武装親衛隊に任命されたことを、悔いてい
ないはずです。僕がそうだから⋮⋮﹂
言葉を切ると、ローゼンアージュは詰襟の留め具を外して、ネー
ムプレートを引っ張り出した。光希の渡したチャームを指でつまみ、
唇を押し当てる。
﹁殿下のことを、皆お慕いしているんです。殿下は、想像上の神話
よりもずっと⋮⋮親しみやすいから﹂
苦しいフォローだが、思わず笑みを誘われた。光希を励まそうと、
口下手な少年が一生懸命言葉をかけてくれる。
この世界にきて、耐えられないと思う出来事は多いけれど、人に
は恵まれていると本当に思う。
﹁ありがとう﹂
608
﹁いいえ⋮⋮昼食にしますか?﹂
﹁あ、そうだね﹂
そういえば食堂へ向かう途中だ。回廊の途中で話し込んでしまっ
た。
食堂には大勢の隊員達が列を成していた。各自プレートを持って、
待機列の最後尾に並んでいる。
光希は焼いたバケットと生ハムにチーズ、そして海老のガーリッ
ク炒めをプレートに乗せた。とても美味しそうだ。
一方、ローゼンアージュは大きなミックスグリルを二枚皿に乗せ
ている。オレンジ色のパプリカソースは美味しそうだが、量が多過
ぎる⋮⋮
ここの兵士達は皆、本当によく食べる。よく脂肪のない引き締ま
った体躯を維持できるものだ。
プレートを手に、二人で中庭の木陰に座った。
吹き抜けて行く風と、木漏れ日が心地いい。
座るなり、ローゼンアージュは猛然と食べ始めた。相変わらず、
外見に反する食欲である。負けじと光希も食べ始めた。
﹁うんっ、美味しいー﹂
感嘆の声を上げる光希を見て、ローゼンアージュも満足そうに頷
いている。
﹁そういえば、アージュはノーグロッジ作戦には参加しないよね?﹂
﹁はい。ですが、近いうちに中央の陸路偵察任務が決行されるかも
しれません。その時は、歩兵隊と騎馬隊で編隊されると思います﹂
609
﹁中央大陸って、アッサラームにもサルビアにも属していないんだ
よね。聖戦ではサルビアと手を組んだと聞いたけれど、アッサラー
ムが山岳民族と交わしている不可侵条約はまだ有効なんじゃないの
?﹂
﹁はい。ですので、飛行禁止区域の上空を避けて、海面すれすれを
飛ぶのです。山岳の海は岩礁に覆われた危険海域ですから﹂
となると、見つかれば、ただでは済まされないだろう⋮⋮心配に
なってきた。
﹁ノーグロッジ作戦、上手くいくと思う?﹂
﹁はい。編隊は飛行技術に長けた将兵ばかりです。ジャファール大
将やアルスラン少将、ナディア大将もいらっしゃいますよ﹂
﹁そうなんだ⋮⋮﹂
ろんこう
彼等のことはスクワド砂漠にいた頃から知っている。
それぞれあの聖戦の論功で一つ以上昇級しており、ジャファール
とナディアに至っては、ジュリアスと肩を並べる大将にまで昇進し
ていた。
ジュリアスは一人じゃない。
支えてくれる、強く信頼できる人たちが傍にいるのなら⋮⋮きっ
と、大丈夫。
いい聞かせるように、光希は心の中で呟いた。
610
611
Ⅲ︳33
昼食後。
くろがね
ローゼンアージュと別れた光希は、ルスタムと共に工房へ戻った。
ひたすら鉄を研磨する作業の再開である。数をこなすうちに手慣
れてきたが、かわりに腕と手が痺れて、効率はあまり上がらない。
手をぶらぶらさせていると、部屋の隅に控えるルスタムが傍に寄
ってきた。
﹁いかがされました?﹂
﹁手が痺れちゃって﹂
気遣わしげな眼差しに見下ろされる。一緒に作業をしているケイ
トも、心配そうにこちらを見ている。
﹁ケイトは平気?﹂
﹁俺は慣れてますから⋮⋮最初はきついですよね﹂
﹁なんかさー、右手が痺れちゃって⋮⋮ほら見て見て﹂
何も持っていないのに、右手はぷるぷると震えている。光希は笑
ったが、ルスタムとケイトは増々心配そうな顔になった。
﹁殿下、休憩なさってください﹂
﹁そうですね。暖かい湯をお持ちいたしましょうか﹂
612
二人の様子に光希は慌てた。他の隊員は誰も休憩をしていないの
に、一人で休むわけにはいかない。
﹁平気です。夜休の鐘が鳴ったら少し休むから、それまでは頑張り
ます﹂
やる気を見せる光希に、二人は心配そうにしつつ、引き下がった。
それにしても、同じ作業をしているケイトや、他の隊員はどうし
て平気なのだろう?
視線を感じたのか、ケイトは顔をあげると光希を見て首を傾げた。
つられて光希も首を傾げると、傍で見ていたルスタムはくすりと笑
みをこぼした。<br>
ケイトと二人で見上げると、失礼しました、とルスタムは笑みを
消して部屋の隅へ戻ってしまう⋮⋮そこは、一緒に首を傾げて欲し
かった。
手を休めつつ、研磨作業を続けるうちに日は暮れた。
夜休の鐘が鳴り響くと、ほどなくして、先着百名限定で受注した
チャームの依頼者達が続々と工房を訪ねてきた。
﹁殿下、ご機嫌いかがですか?﹂
﹁アルシャッド殿から、チャームができたと聞きまして⋮⋮﹂
﹁こんにちは。チャームの受け取りにきたのですが﹂
にわ
工房は俄かに騒がしくなる。ルスタムはさり気なく光希の傍へ寄
り、ケイトは普段の内気さが嘘のように、手際よく列整備を始めた。
﹁ネームプレートを手に持った状態で、二列でお並び下さい。順番
にお渡しします。最後尾はあちらになります﹂
613
何かのイベントのようだ。様子を見にきたアルシャッドもケイト
と一緒に列整備を買って出てくれる。他の隊員も休憩がてら手伝っ
てくれた。
効率を上げようと、光希に代わり手渡そうとする工房の隊員に、
受け取り側から文句が飛んだ。
﹁何してくれるんだ!﹂
﹁殿下に手渡されたいんだー!﹂
﹁そうだそうだー!﹂
傍で見ていたサイードは、子供か? と呆れたように嘆息してい
るが、光希は嬉しかった。感謝の言葉と共に、満面の笑みで受け取
ってくれるのだから。作って良かった、と心から思える瞬間である。
﹁大人気でしたね。飛竜隊の納品目途が立ったら、受注を再開しま
しょうか﹂
全員に渡し終えた後、アルシャッドは提案した。光希は笑顔で頷
くと、気分よく作業を開始した。
終課の鐘が鳴っても、工房の隊員は誰一人帰らない。
十日後のノーグロッジ作戦に合わせて、準備期間も含め、実際は
あと八日で飛竜隊に装具一式を納品しなければならないのだ。アル
シャッドは今夜も工房に泊るという。
光希も頑張って作業を続けていたが、ルスタムから作業を切り上
げるよう声をかけられた。様子を見にきたアルシャッドにも、
﹁もうお帰りください。明日は訓練に参加されるのですよね? ゆ
っくりお身体を休めてください﹂
帰宅を促された。皆と一緒に頑張りたいが、明日を考えれば、今
614
日はゆっくり休んだ方がいいだろう。
﹁⋮⋮すみません、それではお先に失礼します。明日の日中は訓練
ですが、夜は工房にきますから﹂
﹁班長から、明日は一日工房を休んでいいと許可をいただいていま
す。無理しないで、遠慮なくお休みください﹂
親切なアルシャッドの言葉を受け取り、後ろ髪を引かれつつ工房
を後にした。
屋敷に戻り、入浴を終えて団欒していても、ジュリアスはなかな
か戻ってこない。最近は、零時を過ぎないと帰らないので、今夜も
遅いのだろう。
少しだけ休むつもりで寝台に横になると、疲労のせいか深い眠り
に落ちてしまった。
衣擦れの音に、ぼんやり目を覚ます。
﹁⋮⋮ジュリ?﹂
﹁ただいま、光希﹂
﹁お帰り。今日さ⋮⋮ノーグロッジ作戦について聞いたんだけど、
難易度の高い、危険な任務なんだって? ジュリの話と違うんだけ
ど﹂
寝そべり、肘をついて顔を支えると、ジュリアスは光希をじっと
見つめた。
﹁そうですか? でも偵察だけですよ。片道十二日間程度の飛行経
路ですし、危ないというほどでも⋮⋮﹂
615
端正な顔を見て、思う。
彼にとっては、本当に大したことではないのかもしれない。何で
もできる人だから、難易度や危機感の捉え方も人と違うのだろう。
流石だなと思う反面、心配にもなる。
﹁その作戦、いつも通りの装備でいくの?﹂
﹁装備? 飛竜の騎乗装具なら、今クロガネ隊に発注している通り
ですよ﹂
﹁それは知ってる。ジュリの装備は? サーベルは帯剣する?﹂
﹁もちろん﹂
不思議そうにしているジュリアスを見て、光希は口を噤んだ。サ
ーベルを持っていくなら、やらせて欲しいことがあった。
﹁あのさ⋮⋮刀身に彫刻を入れさせてもらえないかな?﹂
しばた
ジュリアスは虚を突かれたように眼を瞬いた。枕元に置いたサー
ベルを手に取ると、お願いします、と光希に鞘ごと渡した。
光希も上体を起こして、両手で受け取る。ずしりとした重みが腕
に伝わってきた。
﹁七日もらっても平気?﹂
﹁はい﹂
ジュリアスは嬉しそうにほほえむと、光希の頬にキスをした。サ
616
ーベルを胸に抱きしめ、光希はシャイターンの加護を彫ることを約
束した。
制作時間にあまり余裕はないが、屋敷に工房もあるし何とかなる
はずだ。少しでもジュリアスの役に立ちたかった。
617
Ⅲ︳34
翌朝。蒼穹の彼方に、朝時課を告げる鐘が鳴り響いた。
広い鍛錬場には歩兵隊第一、総勢千名を越える兵士達が集まって
いる。
第一所属のローゼンアージュは、今日は光希の補佐役として、共
に隊列の一番後ろに並んだ。
﹁総員、待機!﹂
いかにも屈強そうな兵士、訓練下士官である軍曹が現れて、拡声
器もなしに号令を張り上げた。
兵士達は一様に寸分違わず同じ姿勢を取る。足を肩幅に開き、両
手を背中に回して腰辺りに下ろす。基本姿勢の一つだ。
﹁訓練内容を説明する。八人小隊を組み、腕立て伏せ、腹筋、背筋、
ほふくぜんしん
各百回、二十分以内の鍛錬場外周の持久走、これを三回。鉄板装甲
を背負って匍匐前進競争。昼休の鐘と共に、休憩一刻。終わらない
場合は︱︱﹂
尋常じゃない訓練内容だ⋮⋮覚えきれないほど長い。
﹁オォッ!﹂
腹の底から張り上げた咆哮が天を突く。
光希は一人で青褪めた。ローゼンアージュと二人組で参加させて
もらえることがせめてもの救いである。八人小隊に組み込まれたら、
間違いなく足を引っ張ってしまう。
618
﹁只今より訓練を開始する! 総員、装備確認! 襟、前、袖、腰、
足、靴!﹂
号令に合わせて装備を確認する。ローゼンアージュを盗み見なが
ら、光希はパシパシと腕や腰を叩いた。
ここへくる前に、ルスタムに装備を一通り確認してもらったので
不足はないはずだ。ちなみに一般支給されるダガーの代わりに、刃
を潰した子供用のダガーを渡されている。
﹁総員、整列! 小隊ごとにかけ声!﹂
軍曹の号令と共に、各小隊はその場で二人組を作り、基礎訓練を
開始した。
﹁殿下、僕達も始めましょう﹂
﹁うん﹂
光希は周囲の兵士達と同じように、腕立て伏せを開始した。
腕立て伏せなんて、いつぶりだろう⋮⋮懐かしく思う余裕は、最
初の十回で消えた。二十回こなしたところで大地に撃沈する。
﹁はぁ、はぁ、はぁ⋮⋮﹂
どうにか五十回を終える頃、ローゼンアージュは既に腕立ても腹
筋も終えていた。周囲の小隊も持久走を始めている。
運動は昔から苦手だ。特に持久走や水泳は大嫌いだ。運動が苦手
なことで責められた経験は殆どないが、びりっけつでゴールする時
にもらう、生暖かい視線や拍手は苦手だった。
619
ロザイン
居心地の悪いことに、ここでは埋没する高校生ではなく、シャイ
ターンの花嫁だ。おかげで、そこら中から視線を感じる。
﹁休みますか?﹂
気遣わしげな声に我に返った。
﹁平気⋮⋮続けるね﹂
ひぃひぃいいながら、どうにか腹筋と背筋を百回ずつこなした。
詰襟が暑苦しい。
しなやかで風通しの良い素材だが、襟と袖だけは芯が入っていて
固定されている。指導対象だと知っていても、襟元を寛げずにはい
られない。情けなく大の字に寝転がりながら、破れそうな肺で必死
に酸素を吸う。
﹁お疲れ様です﹂
そういって、ローゼンアージュは水筒の冷水を手ぬぐいにかける
と、ざっくり絞って光希の額に乗せてくれた。すごく気持ちいい。
お礼を口にする気力も無く、逆光でよく見えない少年の顔を、眼を
細めて見上げる。
バサッ!
唐突に、ローゼンアージュは日傘を広げた。どこから取り出した
のか、扇で風まで送ってくれる。
そよ風が心地いい⋮⋮
こうして寝そべっている間にも、大勢の足踏みする地響きが鼓膜
に伝わってくる。消化の早い小隊は、既に二周目に入っているよう
だ。
620
﹁僕も、走らないと⋮⋮﹂
ようやく呼吸も落ち着いて、よろよろと立ち上った。冷水をもう
一杯もらうと、一息ついて広大な鍛錬場を見渡した。
この外周を二十分で走れるとは思えないが、せめて完走したい。
駆け足を刻むとローゼンアージュも横に並んだ。走りながら器用
に、水筒や日傘を背負っている革袋に閉まっている⋮⋮四次元ポケ
ットのようだ。
﹁ありがと、アージュ﹂
﹁いいえ﹂
少年は涼しい顔で首を振って応える。
外周は恐ろしく長距離であった。
休み休みで、どうにか完走を終えたのは、昼休の鐘が鳴って少し
経ってからだ。
この過酷な訓練を日課でこなす彼等は本当にすごいと思う。
朝の鍛錬を終えた光希に、労いの声や拍手が四方から贈られた。
歩兵隊第一の兵士達以外にも、大勢集まっているようだ。
控えめに腕を挙げて応えると、わっと歓声が上がった。
声援は苦手なのだが⋮⋮彼等との実力差が開き過ぎているせいか、
劣等感はなく、単純に嬉しかった。
噴水の傍で兵士達は、袖や裾を捲って涼んでいる。
光希もふらふらと誘われるように足を向けた。歩きながら上着を
脱いで適当に放ると、シャツをズボンから引き抜き、袖を捲りあげ
て噴水に飛びこんだ。
﹁殿下っ!﹂
621
珍しくアージュは慌てたように声を上げる。周囲の兵士も一斉に
どよめく。光希の周りだけ、避けたように丸い空間が生まれた。
622
Ⅲ︳35
何をそんなに驚いているのだろう⋮⋮?
少し不安になり、周囲の兵士に眼を合わせると、すごい勢いで視
線を逸らされた。
なぜ?
軽くショックを受けていると、駆け寄ってきたローゼンアージュ
は素早く自分の上着を脱ぎ、光希の肩にかけた。
﹁こちらへっ!!﹂
﹁濡れちゃうよ!?﹂
ぐいぐいと腕を引っ張られ、引きずられるように噴水から抜け出
した。
﹁駄目なの? でも皆、水浴びしてたから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮濡れて、肌が透けています﹂
いつもは冷静な少年が、目元をほんのり赤く染めて、明後日の方
向を見ながら小声でいった。
﹁いいでしょ? 別に⋮⋮﹂
ロザイン
﹁え、ですが、殿下は花嫁ですし﹂
﹁そうだけど、男だし。別に照れなくても⋮⋮﹂
623
ローゼンアージュはそう思えないらしく、困ったように顔を伏せ
た。こんなに動揺している姿は初めて見るかもしれない。物珍しく
見つめていると、
﹁でも⋮⋮何だか、見てはいけないものを見ているようで⋮⋮きっ
とシャイターンもお怒りになると思います﹂
そう小声で続けた。
どういう意味だろう⋮⋮見たくないということ? それとも、ジ
ュリアスが怒るということは、慎みや貞操の問題だろうか。
さら
﹁でも、汗掻いたし水浴びしたい。固いことをいわないでよ。今更
じゃない? 地面にも寝そべったし、もう十分、醜態を晒してるん
だしさ﹂
﹁では、シャイターンの個室をお借りしますか? 専用の浴室があ
りますよ﹂
﹁そんな暇はないでしょ。いいよもう、昼食にしよう﹂
これだけ陽が照っていれば、じきに乾くだろう。濡れた上着を木
の枝に引っかけると、渋々自分の上着を羽織り、食堂へ向かった。
さんざん動いた後なのに、不思議と食欲はあまりない。大して食
べられず、死んだ魚のような眼差しで鍛錬場に向かう光希を、ロー
ゼンアージュは気遣わしげに見つめた。
﹁ご無理をされなくても⋮⋮﹂
﹁いや、頑張る⋮⋮ジュリと約束したんだ。一日耐えられたら、ユ
624
ね
ニヴァースの面会を検討してくれるって。少しずつでも鍛えていき
たいし﹂
なげう
会話の最中、ローゼンアージュはあらぬ方向を睨め付けると、袖
に仕込んだダガーを目にも留まらぬ速さで擲った。梢を掠めて木の
葉が舞い散る。
﹁何してるのっ!?﹂
﹁いえ、ちょっと⋮⋮⋮⋮害虫が﹂
﹁害虫!?﹂
﹁ええ、ちょっと。しぶとくて﹂
忌々しげに舌打ちする。
物騒な子だ。ここから仕留める必要のある害虫とは、一体⋮⋮怖
くて訊けない。
幸い、ダガーの飛んでいった方向に人影は見えない。光希は胸を
撫で下ろしながら、危ないでしょう? と、至極まっとうな注意を
した。
+
訓練後半、ダガーを用いた戦闘訓練を教わった。
アージュは光希にも判り易く、刃の躱し方、逃げ方を教えてくれ
た。先日のサンマール広場で起きた襲撃を彷彿させる実戦的な内容
で、光希は疲れた身体に鞭打って必死に学んだ。
限界を越えて挑んでしまい、立ち止まった瞬間に何度か眩暈を覚
えた。
625
光希に限らず、ちらほら隅でうずくまる姿を見かける。訓練に不
慣れな新兵だ。中には成人したばかりの、十三歳の子供もいる。
しばらく休んだ後、鍛錬場の外周をゆっくり走ることにした。
体重程もある装甲を背負っての持久走は、とてもできそうにない。
のろのろ走るだけで精一杯だ。
夜休の鐘が、天上の響きのように聞こえた。
汗だくだ。じっとしているだけで、全身から汗が噴き出す。今す
ぐプールに飛び込みたい。
ふらふらと噴水に近付く光希を見て、ローゼンアージュは慌てた。
﹁お待ち下さい、殿下。すぐにシャイターンの浴室を準備いたしま
すから﹂
光希は返事をする気になれなかった。
今この瞬間、恥も外聞もどうでも良かった。服を脱いで涼みたい
︱︱単純な欲求に、爪先から頭のてっぺんまで支配されている。
無言にこめられた光希の本気を見てとり、ローゼンアージュは顔
色を変えた。
﹁このまま、歩いて個室までいらしてください。すぐに使用許可を
いただいてきますから﹂
いうが早いか、疾風のように駆けていく。
光希は仕方なく佐官達の軍舎に向かおうとしたが、訓練を終えた
兵士達の、水場にいこう、という声を聞いて、反射的に進路を変え
た。
ジュリアスの個室よりも、共用の大浴場の方が近いし広い。一秒
でも待たされたくなかった。
しかし︱︱
大浴場に入り、景気よく服を脱いだところで少々後悔した。
626
光希に気付いた兵士達は慌てふためいて、道を空けたり、前屈み
になって急所を隠したり⋮⋮乙女のようにもじもじしている。
体格のいい褐色肌の男達に混じると、筋肉のない白い身体は浮い
て見えた。十三の子供にすら、体格で負けている気がする。
まぁ、今更だ。もう全裸になってしまった。えいやぁ、で浴場に
入り、頭から水を被った。共用の大浴場では水しか出ないが、訓練
を終えた熱い身体にはちょうどいい。
一息つくと、周囲のざわめきが耳に届いた。
殿下、白い、姫⋮⋮といった単語が断片的に聞こえてくる。眼が
合うと慌てて視線を逸らされるが、俯いた途端に突き刺さるような
視線を感じる。
居心地が悪い。さっさと上がってしまおうか?
迷っていると、ス⋮⋮と冷気が浴室を満たした。汗の滲む肌に震
えが走り、違う意味で汗が噴き出た。
﹁全員、眼を閉じて後ろを向け!﹂
凍てつくような、ジュリアスの怒声が浴室に響いた。
全員、しゃんと背筋を伸ばして背中を向ける。光希も反射的に眼
ぐんか
を瞑った。空気は張り詰め、戦場のような緊張感が満ちる。
静まり返った浴室に、駆け寄る軍靴の音が響く。次いで乱暴に硬
い布で身体を覆われた。
﹁︱︱っ!?﹂
驚いて眼を開けると、ジュリアスの上着を乱暴に被せられ、痛い
くらいの力で抱き寄せられた。
言葉をかける間もなく、その場から連れ出された。
627
628
Ⅲ︳36
浴室を出た後、抱えられたまま個室に連れていかれた。
ジュリアスは音を荒げて扉を閉じると、光希を降ろすなり両肩を
強く押さえつけた。
﹁貴方という人は︱︱っ﹂
﹁ごめんなさいっ! すみませんでしたっ!!﹂
けいれつ
脊髄反射で謝罪の言葉が口から飛び出す。勁烈な眼差しを向けら
れて、音速で顔を伏せた。
恐い。本気で怒っている⋮⋮
ジュリアスは光希から手を離すと、背を向けて深いため息をつい
た。苛立たしそうに、豪奢な金髪を掻き上げる。
﹁⋮⋮湯を用意してあります。身体が冷めないうちに入って。着替
えを持ってきます﹂
﹁ジュリ、あの⋮⋮﹂
部屋を出ていこうとする背中に声をかけるも、言葉の途中で扉は
閉められた。
﹃そんなに怒るなよ⋮⋮﹄
静まりかえった部屋に、覇気のない呟きが落ちた。ジュリアスを
あれほど怒らせるとは思わなかった。そんなにも、いけないことを
629
してしまったのだろうか?
判らない⋮⋮項垂れていると、コツンと窓に何かが当たった。何
だろう? と近寄り、ぎくりと足を止める。
曇り硝子の向こうに、人影が映っている。
外から、殿下、と呼びかける声を聞いて、弾かれたように窓を開
けた。
﹁殿下、お久しぶりです﹂
﹁ユニヴァースッ!﹂
二十日前と少しも変わらない、朗らかな笑みを浮かべるユニヴァ
ースがそこにいた。
﹁会いにきちゃいました。本当は、姿も見せるなって、釘を刺され
てるんですけど⋮⋮﹂
﹁ごめん、ユニヴァース! 辛い目に合わせてしまって﹂
変わらぬ笑顔を見たら、安堵のあまり大きな声が出た。ユニヴァ
ースは表情を引き締めると、頭を下げた。
﹁謝るのは俺の方です。連れ出した揚句、あんな危険な目に合わせ
てしまって。護衛が聞いて呆れます。申し訳ありませんでした﹂
光希は焦燥と、歯痒い念に駆られた。
﹁謝らないで。僕、任務失敗だなんて、思ってないからっ!! あ
の日、守ってくれてありがとう。僕が逃げ遅れたせいで、ユニヴァ
ースまで︱︱﹂
630
鉄柵を掴んでいい募る光希の言葉を、ユニヴァースは唇に指を押
し当てることで遮った。
思わぬ仕草に眼を丸くする光希を見て、青い瞳が細められた。
﹁処刑されても仕方ないと思っていました。だから、嬉しかったで
す。殿下が俺を惜しんでくれたと聞いて⋮⋮﹂
いつも、冗談ばかりいっているユニヴァースとは思えない、真剣
な口調だ。
﹁ずっと殿下のことを考えていました。落ち込んでいるだろうなっ
て⋮⋮訓練に参加される姿を見たら、なんか感動しました﹂
鉄柵を掴む手を、包み込むように上から握りしめられる。妙な緊
張感が流れて、光希は肩を強張らせた。
﹁変わろうとされているんですね﹂
これ以上、聞いてはいけない気がする⋮⋮何かが変わってしまい
そうだ。顔を背けると、誤魔化すように口を開いた。
﹁ユニヴァース、あのさ⋮⋮﹂
さり気なく、重なった手を引き抜こうとしたら、上から押さえつ
けられた。
﹁黙って見ているのも限界です⋮⋮﹂
鉄柵越しに腕が伸びてきて、頭を引き寄せられる︱︱掠めるよう
631
に唇が重なった。
弾力のある厚みを、唇は柔らかく受け止める。理解した瞬間に、
ユニヴァースの身体を押し退けた。
唇を甲で押さえながら、窓から距離を取る。
信じられない。
こんな時こそ、冗談にしてくれたらいいのに。ユニヴァースは少
しも笑っていなかった。
﹁今のは忘れるからっ! だからユニヴァースも忘れて﹂
﹁忘れる?﹂
﹁そうだよ! ジュリに知られたら、二人共殺される﹂
混乱の極地で、悲壮めいた台詞が口を突いた。狼狽える光希を見
て、ユニヴァースは口元に挑発的な微笑を刻む。
﹁⋮⋮ムーン・シャイターンは怒るかな?﹂
﹁何で嬉しそうな顔してるの!? 今はまずいんだよっ、ああ、も
う! ジュリがくる、いって!﹂
光希は返事も待たずに、慌てて窓を閉めて鍵を掛けた。
浴室に駆け込むと、羽織っていた上着を脱ぎ捨て、勢いよく頭か
ら湯をかける。
信じられない。
ユニヴァースにキスされた。意味が判らない!
密かに、想われていたのだろうか。いつから? 今までそんな素
ロザイン
振りは微塵も見せなかったのに!
光希はジュリの花嫁なのに⋮⋮
632
まてよ⋮⋮と、顔から血の気が引いていく。ジュリに知られたら
どうする気なのだろう⋮⋮冗談じゃなく、殺されるかもしれない。
﹁︱︱光希?﹂
浴室の外からジュリアスに呼ばれて、光希は口から心臓が飛び出
しそうなほど驚いた。
﹁着替え、置いておきますよ﹂
﹁うんっ、ありがとう!﹂
必要以上に大きな声が出た。意味もなく湯を叩いて音を鳴らす。
さっきのことを、どう消化すればいいか判らない。このまま浴室
に籠城したい気分だが⋮⋮ジュリに変に思われる。
観念して湯から上がった。
用意してくれた隊服に着替えると、袖を幾重にも折り曲げて外へ
出る。
窓を背にして、ジュリアスは立っていた。逆光で表情は見えなく
とも、爛と輝く青い双眸は、怒りを物語っている。つと上向けた掌
を差し伸べられ、
﹁光希﹂
静かに呼ばれて、恐る恐る差し出す手は、緊張のあまり小刻みに
震えている。手を取る半ばで、逆に手首を取られて勢いよく引き寄
せられた。
633
634
Ⅲ︳37
美しい、青い双眸に見下ろされる。
瞼の上に優しく口づけられた。唇は離れていかず、そのまま頬や
鼻筋を辿っていく。
愛情に満ちた優しいキスに、怯えと緊張は和らいだ。強張った肩
よぎ
から、力が抜け落ちる。唇に吐息がかかると、誘われるがままキス
を受け入れる。唇が重なる瞬間、ユニヴァースの顔が胸を過った。
﹁んっ﹂
こうこう
唇をやんわり食まれて、口腔を熱い舌であちこち刺激される。甘
いキスをしているのに、苦い想いが胸にこみあげた。
窓辺に意識を逸らす光希を叱るように、ジュリアスはシャツを捲
り上げ、大きな掌で背中を撫で上げた。
﹁ジュリッ﹂
離れようとすると、きつく抱きしめられ、そのまま寝室に運ばれ
た。ジュリアスは光希の肩に手を置くと、全身鏡の前に立たせた。
ロザイン
﹁どんな格好をしていようと、周囲の眼に貴方は私の花嫁として映
るのです。どうしてそんなに平然と、素肌を晒すことができるの?﹂
鏡の中で見つめ合い、光希は慎重に口を開いた。
﹁ごめんなさい⋮⋮汗や泥で汚れていたし、暑かったから、汗を流
したくて⋮⋮﹂
635
﹁ここの浴室を使えば良かったでしょう﹂
﹁そうなんだけど、さっきは本当に疲れていて、面倒臭くて⋮⋮﹂
ほぞ
ジュリアスは信じられないという顔をした。その顔を見て、光希
は自分の迂闊さに内心、臍を噛んだ。
﹁面倒臭いって⋮⋮意味が判りません。同じ軍舎内ではありません
か。貴方は面倒臭いと感じれば、誰とも知れぬ人前で素肌を晒すと
いうの?﹂
﹁ごめんなさい! 共同の大浴場を使っちゃいけないって、知らな
くて︱︱﹂
たぎ
﹁自覚して欲しいと、いっているんです!﹂
ふんまん
両肩を掴まれ、憤懣に滾った声で責められた。
視界は潤みかけるが、同時に反発心も芽生えた。鏡の中で睨み返
すと、両腕を振って拘束を解いた。
﹁だって皆、共同の大浴場を使っているじゃない! どうして僕だ
け駄目なの? そんなに怒るなら、最初に教えてよっ!﹂
﹁どうして判らないのです﹂
﹁何で僕だけ︱︱﹂
鏡の中で喚くと、ジュリアスは光希のシャツのボタンを素早く外
して、前をはだけさせた。自分も乱暴に上を脱ぎ捨てる。
636
呆気にとられていると、大きな掌に両肩を包まれた。
﹁全然違うんです、私と貴方は。どこもかしこも白くて、柔らかく
て⋮⋮触りたくなる。貴方の肢体はとても艶めいていて、魅力的な
んです⋮⋮同じ男とは思えません﹂
恐いくらいに真剣な顔で告げると、美しい顔を下げて、光希の肩
に口づけを落とした。肩を包んでいた掌は、ゆっくりと降りていき、
二の腕を撫でる。離れたと思ったら、胸を包み込まれた。
﹁鏡を見て﹂
いわれた通りに顔を上げて、唖然とした。
しなやかで逞しい、鋼のような褐色の身体が後ろから覆いかぶさ
しこ
り、厭らしい手つきでぷっくりした両胸を揉みこんでいる。
淡く色づいた乳首は指の合間に挟まれて、つんと凝っていた。
﹁っ、あ、ん⋮⋮っ、やだ﹂
ジュリアスと比べたら、筋肉のない白い身体が、なよく見える。
人より肉付きがいいとしか思っていなかった胸は、ジュリアスの手
で厭らしく形を変えて、誘うように色づいていた。
﹁やだっ、あ、嘘﹂
﹁思わず触れたくなる⋮⋮﹂
ジュリアスは光希の口内に指を潜らせると、優しくかき混ぜた。
そっと抜くと、濡れた指で凝った胸の先端を弾く。
637
﹁︱︱っ﹂
甘い刺激が全身に走った。
くずお
中心に熱が集まる⋮⋮膝が笑って頽れる身体を、ジュリアスは後
ろから支えて、寝台の端に腰を下ろした。
無意識に太ももを擦り合わせると、片手で器用にベルトを外され、
隙間から手を差し入れられる。
長い指で脈打つ屹立に触れられて、ひくんっ⋮⋮と下肢が揺れた。
ジュリアスは、顔を背けた光希の耳朶に唇をつけると、吐息を吹き
込むように囁いた。
﹁︱︱そう思うのは、私だけではありません。あの場にいた多くの
男が、濡れた貴方を食い入るように見つめていました﹂
嫉妬の滲んだ声で告げると、ジュリアスは光希の首筋に舌を這わ
せた。跡が残るくらいに、強くそこに吸いついた。
﹁っ、ん⋮⋮っ! うっそ⋮⋮だぁ﹂
﹁いとけないのに、眼を離せないほど艶っぽくて⋮⋮心配なんです。
お願いだから、もう誰にも肌を見せないと約束して﹂
﹁んぅ、あぅっ⋮⋮んん⋮⋮わかッ﹂
ほとばし
首筋を吸いながら、ジュリアスは忍ばせた手で屹立を愛撫した。
たまらずに喉の奥から嬌声が迸る
﹁ね、光希⋮⋮私に強請らなくていいの?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
638
﹁今日は、ユニヴァースの為に頑張ったのでしょう。面会を希望す
るんじゃなかった?﹂
考えもまとまらぬうちに、ジュリアスは手淫を加速させて光希を
煽る。亀頭を愛撫されると、あっけなく放出を迎えた。
余韻に震えていると、ジュリアスは外したアスコットタイで、掌
に受け留めた白濁を拭き取り、光希の濡れた下肢も綺麗に拭った。
自分だけ乱れてしまった羞恥を感じていると、後ろから顔を覗き
こまれた。
﹁一日様子を見て、私が判断していいのでしたよね﹂
光希はぼんやりとジュリアスを見上げた。長い指は頬を滑り、唇
に柔らかく触れる。
﹁サリヴァンに免じて、今回は見逃しますが⋮⋮次はありませんか
ら﹂
せいえん
端正な顔に、凄艶な笑みを浮かべた。見惚れるほど美しい笑みだ
が、眼は少しも笑っていない。
﹁面会は、見送りかな⋮⋮当然でしょう?﹂
唇に、触れるだけの口づけが与えられた。全て知られていること
を悟り、光希は無言で頷いた。
639
Ⅲ︳38
個室を出た後は、有無を言わさず公宮へ戻された。
刀身彫刻が手つかずなので、気力を振り絞って工房へ向かったが
︱︱作業台の前に座ったところで、集中力は湧いてこない。
はんもん
一途な眼差しでサーベルを見つめながら、思考は彼方にある。
みそぎ
どうしてユニヴァースはキスをしたのか⋮⋮煩悶は尽きない。
こんな時、日本の刀鍛冶は、滝に打たれて禊したりするのだろう
か。中庭に噴水ならあるな⋮⋮と考えたところで、日中の出来事を
思い出してしまい、煩悩は更に膨れ上がった。
気付けば、机の前で何もせず一刻経っている。
集中が必要だ。
深呼吸を一つすると、改めてサーベルに眼を向けた。
ジュリアスのサーベルは直剣ではなく、切先に向かって緩やかに
湾曲している。
かたなひ
非常に綺麗な刀身だ。実戦であれだけ使っているのに、神力のお
かげなのか、刃切れ一つない。
はがね
幅広で刀身に厚みがある割に、目方を減らす刀樋が彫られていな
くろがね
い。
鉄は重量のある鋼なのに、これでは腕にかかる負担が大きいだろ
う。しかし、ジュリアスはこれを片手でも難なく操るのだ。
これだけ刀身がしっかりしていれば、両面に彫りを入れても強度
を損なわないだろう。
表に樋を入れて軽量化してみようか? 樋を掻いた経験がないの
で、少々心配ではあるが⋮⋮
裏には装飾彫を入れたい。シャイターンの柄は絶対に彫るとして、
光希の名前を入れたら怒られるだろうか?
明日、アルシャッドに相談してみよう⋮⋮
640
﹁⋮⋮光希?﹂
ふと、優しく肩を揺すられて眼を開いた。
﹁⋮⋮あれ、ジュリ?﹂
﹁刃を向けたまま寝たりして。危ないですよ﹂
﹁本当だ⋮⋮﹂
うたた寝していたらしい。ジュリアスは剣を鞘にしまうと、船を
漕いでいる光希の頭を押さえて、頭にキスを落とした。
﹁疲れたでしょう。もう休んだら?﹂
﹁そうする⋮⋮﹂
ふらふら立ち上ると、ひょいと片腕で持ち上げられた。寝台まで
歩くのも億劫で、されるがまま大人しく運ばれる。
気付けば寝台の上だった。運ばれる僅かな間すら、眠りに落ちて
いたらしい。額に柔らかな温もりを捉えると共に、意識は途切れた。
+
翌朝。ジュリアスの声で目を覚ました。
身支度を終えたジュリアスは、凛とした姿勢で寝室に入ってくる。
光希も、お早う、といいながら、起き⋮⋮上がれなかった。
﹁ぐぁ︱︱っ﹂
641
カエルが潰れたような声が出た。
﹁どうしたの?﹂
﹁全身筋肉痛っ﹂
顔をしかめる光希を見て、ジュリアスは笑った。昨日の険はない。
穏やかな笑みを見て、光希は密かに胸を撫で下ろした。
馬車で軍部に向かう間も会話は弾み、別れ際には例のキスも交わ
した。
工房に入ると、徹夜明けで少々ぐったりしているアルシャッドを
見つけた。
﹁先輩、お早うございます。質問いいですか?﹂
﹁お早うございます。いいですよ﹂
昨夜引いた図案を、彼の前に広げた。
﹁ジュリの刀身彫刻を考えていて⋮⋮幅も厚みもあるから、表に樋
を入れて軽量化したいんですけど、歪みなく掻けるか心配で⋮⋮﹂
アルシャッドは光希の手元を覗き込むと、そうですねぇ、と難を
示した。
ぼうひ
﹁意外と棒樋は難しいですよ。一見単純な図柄ですが、その分少し
の歪みが目立ちます。あまり重量を減らしても振りに響きますし、
中央だけに入れるか、下半分に入れてみてはいかがですか?﹂
642
﹁確かに⋮⋮軽くし過ぎても良くないのかなぁ。それなら、こんな
形でも大丈夫ですか?﹂
今度は縦に走る雷の図案を見せた。ジュリアスの神力を意識した
意匠だ。
光希
光
はシャイタ
という文字を指差し
﹁なるほど、雷光ですね。いいと思いますよ⋮⋮この下の柄はどう
いうものですか?﹂
アルシャッドは、日本語で書かれた
た。
﹁それは、僕の名前で、生まれた国の文字です。
ーンの雷光、ジュリを照らす光、安らぎの光を表しています。名前
を彫ることで、離れていても一緒にいるって思って欲しくて⋮⋮﹂
照れ臭くなり、視線を泳がせる光希を見て、アルシャッドはほほ
えんだ。
﹁何よりも得難い力となるでしょう。書体も美しい。柄としても映
えますね﹂
異国の言葉でも、彫って大丈夫なようだ。アルシャッドから太鼓
光希
の二文字、裏はアッサラームとシャイ
判をもらって、光希は破顔した。
表には雷光の樋と
ターンを象徴する飛竜を彫る。守護と破壊︱︱表裏一体の柄だ。
﹁先輩、ありがとうございます﹂
﹁いえいえ。シャイターンの依頼なら、そちらを優先しても構いま
643
せんよ?﹂
﹁屋敷にも工房はあるから平気です。ここにいる間は、僕も皆と一
緒に研磨頑張ります﹂
光希はほほえむと、そうそう、と思い出したように別の図案を広
げた。
﹁閃いたんですけど⋮⋮皆が携帯しているナイフは、ハンドルと刀
身を折りたためないから、絶対に革鞘が必要じゃないですか。日常
用の携帯ナイフなら、もっと小さくていいと思うんです﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁こんな風に結合部を作って折りたたむか、もしくはハンドルを開
バタフライナイ
閉式にすれば、便利に携帯できると思うんです。開閉式の方は、蝶
って呼ばれて流行したこともあるんですよ﹂
が羽ばたくような動きから、僕の生まれた国では
フ
﹁へぇ、なるほど﹂
アルシャッドは眼を輝かせて図面を見つめた。いつの間にかロー
ゼンアージュも後ろから覗きこんでいる。
﹁折りたたみ式の方は、どうやって刀身を固定するんですか?﹂
ローゼンアージュの質問に、ハンドルの中で美味いことできない
かな? と光希は頭を掻いた。するとアルシャッドは筆を取り、さ
らさらと図面に描き加えた。
644
﹁中にバネの細工をすればいいですよ。刀身のジョイント部をフッ
ク状にしておいて、水平に開いた時に中でかみ込ませる。単純な仕
掛けで、しっかり固定できます。解除はバネの後部を押せるように
して⋮⋮﹂
﹁おぉっ﹂
つたな
流石である。拙い完成図面から設計を閃くとは⋮⋮天才過ぎる。
﹁開閉式の方は、美しい形状ですが、構造上刃が細くなりますね。
実用には向かないかもしれません。折たたみ式の方は、ジョイント
部と固定構造を精密に仕上げれば、一体型のナイフとほぼ同等の威
力を出せそうですよ。試しに作ってみましょうか﹂
﹁﹁おぉっ!!﹂﹂
光希とアージュは揃って声を上げたのだった。
645
Ⅲ︳39
ノーグロッジ作戦まで、あと三日。
光希
と
仕上がったサーベルを光希が渡すと、ジュリアスはその場で刀身
ひ
を抜いた。表に彫った雷光の樋を指でなぞり、その下の
いう文字に眼を留める。
の意味はシャイターンの雷光、ジュリ
光
﹁⋮⋮僕の名前だよ。
希望の光
になる。僕はジャファール
を照らす光⋮⋮二文字だと
達みたいに闘えないけど、心はいつも一緒にいるからね﹂
説明しているうちに照れ臭くなり、視線を泳がせた。頬に強い視
線を感じるが、気付かないふりをして更に続ける。
の文字に唇を押し当てた。
﹁裏には飛竜を彫ってある。守護と破壊を兼ね備えた、表裏一体の
光希
剣だよ。絶対にジュリを守ってくれる﹂
ジュリアスは刀身に刻まれた、
けんげん
黒い鋼から、神々しい青い燐光が溢れ出す。シャイターンの加護が
顕現したのだ。
﹁その加護は⋮⋮ジュリにしか効かないと思う﹂
﹁ありがとうございます、光希。嬉しい!﹂
ジュリアスは、花が綻ぶような笑みを閃かせた。彼のこんな笑顔
を見るのは、本当に久しぶりだ。嬉しくなって、光希は、強請るよ
うに両腕を広げた。ジュリアスは刀身を鞘にしまうと、光希を強く
646
抱きしめた。
﹁わーい﹂
つい、弾んだ声が出た。
﹁私を殺す気ですか⋮⋮﹂
﹁我ながら渾身の出来だよ。もっと褒めて!﹂
﹁とても嬉しいです。ありがとう。貴方の才能は、本当に素晴らし
いです﹂
﹁へへ、頑張ってよかった﹂
ジュリアスは光希の頬を両手で挟むと、唇に触れるだけのキスを
した。
﹁世界で一番かわいい。見事な刀身彫刻を⋮⋮光希の名前を入れて
くれて、ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮気をつけてね。無事に帰ってきてね﹂
軽くいおうとしたが、思いつめた声が出た。
﹁必ず﹂
どちらからともなく顔を寄せて、今度はしっかりと唇を合わせる。
吐息の合間に、掠れた声で名を呼ばれた。
647
﹁離れていても、他の誰にも⋮⋮ユニヴァースにも心を許さないで﹂
﹁ジュリしか見てないよ⋮⋮﹂
想いを確かめ合うようにキスをしながら、胸に切なさがこみあげ
た。
こんなに想い合っているのに、どうして離れなくてはいけないの
だろう。いつでも抱きしめてもらえたらいいのに⋮⋮
+
アルシャッドは、恐ろしく有能であった。
光希が刀身彫刻に奮闘している間に、折りたたみナイフの試作品
を五つも仕上げたのだ。
しかも、使用目的別に何枚かの異なった形状の刀身をジョイント
部に繋ぎ、一本のナイフで幾通りも使用できる、マルチナイフまで
編み出していた。
作戦準備に追われるジュリアスは、作戦の二日前から公宮には戻
らず、軍舎の個室で仮眠を取るようになった。
クロガネ隊も納期が近付くにつれて修羅場と化し、死人が出そう
な勢いであったが、先日どうにか納品を終えた。
作戦前夜。
緊迫感に包まれた軍部に、終課の鐘が鳴り響く中、光希はジュリ
アスの姿を探していた。
滑走場に続く車庫の入り口で、凛々しい後姿を見つけて、歩み寄
ろうとしたが︱︱途中で足を止めた。
ジュリアスは一人ではなかった。ナディアやジャファール、アル
スラン達、数人の将と一緒にいる。彼等にかしこまった様子はなく、
それぞれ楽な姿勢で談笑している。休憩中なのかもしれない。
648
ナディアは微笑を浮かべながら、気安い様子でジュリの肩を叩い
た。ジュリも手の甲で軽くナディアの胸を叩いている。話し声は聞
こえないが、打ち解けた関係であると判る。
声をかけていいものか迷っていると、背を向けているにも関わら
ず、ジュリはぱっと振り向いた。光希を見て小さく眼を瞠ると、談
笑の輪を抜けて、迷わず傍へやってきた。
﹁すみません。もしかして、待たせてしまいましたか?﹂
﹁ううん、忙しいのにごめん。これ、渡したくて⋮⋮﹂
掌サイズの折りたたみナイフを渡すと、ジュリアスは興味深そう
に観察した。すぐに用途を閃いたようで、刃の側面を摘まみ、水平
に開いてみせた。
﹁へぇ、折りたためるのか﹂
﹁アルシャッド先輩に作ってもらった。良かったら使って﹂
ありがたく、と受け取ると、ジュリアスは軍服のポケットにしま
った。
後ろでナディア達が見ていることに気付いて、それじゃあ⋮⋮と
光希が切り出すと、ジュリアスに抱きしめられた。
周囲の視線は気になったが、抱き寄せられたことの方が嬉しくて、
おずおずと光希も背中に腕を回した。
﹁⋮⋮後で、見送りにいくから﹂
れいめい
出発は明日の黎明。数千もの飛竜隊が、バルヘブ中央大陸のノー
グロッジ海域に向けて発つのだ。
649
﹁疲れているでしょう? 屋敷に戻ってください。見送りなら、こ
こで﹂
﹁いくよ﹂
決然と告げると、ジュリアスもそれ以上は反対しなかった。
抱擁を解く前に、襟を掴んで、唇にかすめるようにキスをする。
今度こそ離れようとしたら、ジュリアスの方から頬と唇に素早くキ
スを贈られた。
気付けば、皆に見られている。冷やかしの眼差しの中、今度こそ
慌てて身体を離した。
びょうぼう
渺茫たる、黎明の空。
たいご
日中の暑気を予感させる乾いた砂漠の風が、未明の冷気を早々に
追い払いつつある。
尖塔の影が落ちる滑走場には、飛竜隊の隊伍が列を成していた。
部隊ごとに招集がかかると、各々勇ましく立ち上がり、飛竜の待
つ滑走場へ向かう。騎乗する前に、上官による最終点呼が行われ、
名を呼ばれた兵士達は順番に配置についた。その中にはユニヴァー
スの姿もある。
先鋒隊のジュリアスは、一段高い所から指示を出している。惚れ
惚れするような凛々しさだ。
光希はその様子を、少し離れた所から見ていた。
軽やかに騎乗した雄姿を見つめていると、離れているにも関わら
ず視線が交差した。弾かれたように手を振ると、ジュリアスも腕を
上げて応えてくれた。
想いが溢れて、視界が潤んだ。
慌てて眼を瞬いて、空に発つ雄姿を目に焼きつけた。空の彼方に
消えゆくまで︱︱
650
そうと
ねが
彼等の壮途の無事を希う。
651
Ⅲ︳40︵Ⅲ章完︶
クロガネ隊はようやく落ち着きを取り戻した。
修羅場疲れしていたアルシャッドも、すっかり元気だ。ちなみに、
彼は先日、伸び過ぎた前髪を自分で適当に切ったらしく、大変なこ
とになっていた。
それはさておき︱︱
光希は要望の多いイニシャルチャームの受注を再開すると共に、
ローゼンアージュとアルシャッドの三人で、折りたたみナイフを更
に進化させた、携帯ツールナイフの改良に熱中していた。
光希の中で、多目的ツールナイフの代名詞といえば、スイス・ア
ーミーナイフである。十字ロゴの入ったナイフは世界的に有名だ。
そこからヒントを得て、両サイド折りたたみ式の様々なナイフが
飛び出す、まさに工具箱のような携帯ツールナイフを考えた。
現在試作を重ねていて、サイードも注目してくれている。もしか
したら軍で採用されるかもしれない。
しかし、武器開発に熱中する自分をふと顧みて、手が止まりそう
のこば
になることもあった。
この間も、鋸刃つきのサバイバルナイフを閃いて、いそいそと図
案を起こそうとしたところで、ふと我に返った。
当然のことだが、剣は、人を殺める殺傷武器だ。
光希がいくら日常用途向きに考えたところで、この世界で刃は、
命を奪い、奪われるものだ。ましてや軍で採用が決まれば、肉弾戦
になった時、最後の武器として使われる可能性がある。
またしても手を止めた光希を見て、ローゼンアージュは視線で問
いかけた。
652
﹁血を見るのも怖いくせに、より便利で強い武器を作ろうとしてい
る。僕は矛盾だらけだ⋮⋮﹂
彼は不思議そうに首を傾げたが、隣で聞いていたケイトは気遣う
ように口を挟んだ。
﹁お気持ちは判ります⋮⋮俺も本当は、殺されるより、殺すことの
方が怖いから﹂
﹁殺すか殺されるかの二択なら、僕は殺すことを選びます﹂
ちょうめい
清廉と告げた。少年の澄明な眼差しを、光希に否定することはで
きない。
しかし︱︱
一度芽生えた葛藤は、武器造りの熱意に影を落とした。
アルシャッドは葛藤する光希を見て、製鉄班の工房見学に誘った。
製鉄班の工房は、千五百度を越える炎から身を守る為、特殊な全
身防御服を着なくてはならない。重量がある上に体感温度は六十度
くろがね
を越える。ただ部屋にいるだけで、体力を消耗していく過酷な現場
だ。
かつぜん
しかし、鍛冶師が熱した鉄を叩く光景は圧巻で、心を奪われた。
叩かれるごとに、朱金の眩い火花を散らせて、戛然と音を響かせ
る。
打ち延ばし、鍛え抜かれるうちに、鉄は美しく見事な刀身へと姿
を変えてゆく。
そうして仕上がった刀身を研師が磨き、鞘師の作る鞘に刀身が納
まるよう、白銀師が調整する。
一つの武器が完成するまでに、驚くほど多くの人間が関わってい
た。
653
それぞれの職人が身骨を注ぎ、魂を吹き込んだ鉄に、細工師は彫
刻を施すのだ。
クロガネ隊には、全ての職人が揃っている。
一連の流れを理解すると、鉄に神気が宿るのも頷ける気がした。
え
これまで漠然と、この地に宿る神秘が働いているのだと考えてい
たが、一人一人が魂を吹き込むからこそ、柄にした時に力を宿すの
だ。
エネルギーを拾い集めて形にしているのは、紛れもない人の手。
重たい防護服を脱いだ後は、ぐったりと倒れそうになってしまっ
たが、素晴らしい体験をした。
どうしようもなかった葛藤も、幾らか和らいだ。鉄を触る仕事が
好きだ︱︱恐るべき武器なのだとしても、関わっていたい。そう気
付かされた。
﹁今日はありがとうございました﹂
アルシャッドに心から感謝を告げると、彼はとても優しいほほえ
みをくれた。前髪が大変なことになっていなければ、ときめいてい
たかもしれない。
+
日々は流れてゆく。
ゆめうつつ
工房で作業している間は忘れていられても、夜一人きりになると、
寂しさが募った。
恋しく想うあまり、ジュリアスの姿を夢現に見る夜もあった。
幻の向こうで、ジュリアスは岩場に腰を下ろして、眼を閉じてい
た。綺麗な寝顔を眺めていると、瞳を開けて、光希? と名を呼ん
だ。
654
︱︱そうだよ⋮⋮元気?
ジュリアスは優しくほほえんだ。
﹁元気ですよ。光希は?﹂
︱︱俺も元気だよ⋮⋮ご飯は? ちゃんと食べてる?
﹁食べてますよ。光希は?﹂
︱︱俺も食べてる⋮⋮ちゃんと寝てる?
﹁倒れない程度には。光希は?﹂
︱︱寝てる⋮⋮今もたぶん、寝てる⋮⋮?
﹁⋮⋮会いにきてくれて、ありがとう﹂
︱︱俺も会いたかった⋮⋮いつ帰ってくるの?
﹁もうすぐです。あと七日くらい﹂
︱︱判った⋮⋮
ジュリアスは手を伸ばすと、寂しそうにほほえんだ。
﹁そこにいるって、何となく判るんですけど⋮⋮触れられない﹂
そういわれた瞬間、ジュリアスに触れたいと思った。
青い双眸は驚きに見開かれる。ジュリアスに伸ばした手は透けて
655
いたけれど、触れることができた。
ジュリアスは両手で光希の頬を挟むと、顔を傾けて唇を重ねた。
唇の柔らかい感触が伝わる⋮⋮
︵いい夢だなぁ⋮⋮︶
眼が覚めた時、思わず唇に触れた。ジュリアスの姿を見ることが
できたのは、サーベルに入れた名前のおかげかもしれない。
アッサラーム流にいえば、これもアッサラームの思し召しなのだ
ろう。
+
七日後。
ノーグロッジ作戦任務を無事に終えた飛竜隊は、アッサラームへ
帰還した。
およそ二百余名が命を落としたが、数千から成る全隊としてはほ
ぼ無傷に等しかった。
狙いは、中央大陸の渓谷を超低空飛行で翔け抜けることが可能か
どうか、経路確保を探ることにあり、結果として十分成功といえる
ものであった。
無人の断崖絶壁に拠点を置ければ、奇襲戦に長けた山岳民族との
衝突を避け、かつ東からサルビア軍が攻めてきた際、中央大陸で迎
撃できる利点がある。
史上に類を見ない、大戦が迫りつつあった。
656
幕間︳聖都への帰還
アッサラーム防衛戦。開戦から三年。
かいやぐら
十万ものサルビア軍勢に勝利したアッサラーム軍は前線から二ヵ
せんとう
月かけて、ついに蜃楼に揺れる聖都アッサラームを視界に仰いだ。
ちょうめい
たいご
澄明な天空に伸びる、金色の尖塔。
聖都を眼前に、万もの隊伍は整然と列を成している。
ジュリアスはコーキを伴い、勇壮華美な四足騎竜の背にあった。
隊伍の先頭に立ち、今まさに号令をかけようとしている。
後ろには、共に万の軍勢を率いた大将︱︱アーヒムとヤシュムが
いる。彼等は青い双龍の軍旗と共に、戦死した総大将の旗を掲げて
いた。
準備は良いかと視線で問えば、いつでも、と力強い視線が返る。
﹁全軍、前進!﹂
ぐんか
号令をかけると、総勢一万を超える兵は、各隊ごとに分列行進を
開始した。
勇ましい蹄鉄や軍靴の音が、蒼穹の彼方まで高らかに響き渡る。
巨大な石造りの凱旋門を抜けた途端に、視界を埋め尽くさんばか
りの、色鮮やかな花びらが宙を舞った。
花道の左右にはずらりと人が並び、通路の狭間や窓、屋根、あら
ゆる所から花びらの雨を降らせている。
ドミアッロ
﹁﹁アッサラーム・ヘキサ・シャイターン万歳!!﹂﹂
アンカラクス
﹁﹁神剣闘士万歳!!﹂﹂
657
ロザイン
盛大な歓声に、ジュリアスは腕を上げて応えた。
シャイターンの花嫁をアッサラームに迎える吉報は、既に周知さ
れている。婚姻を祝福する声はいたるところからかけられた。
隣に立ち、ジュリアスを見上げる黒水晶のような眼差しには、賞
賛の色が浮かんでいる。他の誰でもない、コーキから尊敬を寄せら
れることが、何よりも誇らしかった。
+
アルサーガ宮殿の正門に入ると、盛大に祝砲が打ち上げられた。
緊張するコーキを伴い、皇帝の待つ玉座へ歩み寄る。年老いても
尚、叡知を湛える瞳には労わりの色が浮かんでいた。
皇帝の隣には、胸に大将の階級章をつけた優雅な男︱︱アースレ
イヤがいる。虫も殺せぬ典雅な風情だが、この男には何度も命を狙
われてきた。
つい先日もアッサラームに戻る道すがら、刺客に襲われたばかり
だ。無論、そんなものに倒されるジュリアスではない。全て返り討
ちにしてやった。
心情を押し隠して軍旗を手にすると、儀礼に則り両手で捧げた。
﹁陛下、ありがたいお言葉、軍を代表してお礼申し上げます。勝利
へと導いた軍旗を、謹んでお返しいたします﹂
﹁うむ⋮⋮長きに渡る遠征、大義であった!﹂
皇帝が旗を高く掲げて応えると、再び祝砲が上がり、大地を揺る
がすような歓声が湧き起こった。
﹁おめでとうございます、シャイターン。可愛らしい花嫁を見つけ
658
ましたね﹂
よゆうしゃくしゃく
アースレイヤは朗らかな笑みを浮かべていった。余裕綽々の態度
だが、この男の胸の内など知れたものではない。
﹁ええ、本当に。砂漠を駆けた甲斐がありました。身に余る幸運を
神に感謝しております﹂
笑みを顔に貼りつけながら、ふと思う。ジュリアスは花嫁を得
て、皇帝に次ぐ神剣闘士に昇格するわけだが⋮⋮この男は暗殺に失
敗したことを惜しんではいないのだろうか? どうにも調子の狂う
相手だ⋮⋮
てっぴ
ともかく、役目は終えた。
公宮に続く、重々しい鉄扉を開く。この先は限られた人間しか足
しゅんぷうたいとう
を踏み入れることはできない。
春風駘蕩たる、常世の楽園。
ジュリアスは十三の頃から、シャイターンの御子として公宮を抱
えていた。着飾った宮女達にさして興味は無かったが、この美しい
庭園は好ましい。
葉色はオーロラのように重なり、薔薇やルピナス、アリウム、ア
ルケミラ・モリス⋮⋮たくさんの花が咲いている。
風に運ばれて薔薇の香りが漂い、風に運ばれて、薔薇の香りが漂
う。コーキは誘われるように微笑んだ。
﹁すごい⋮⋮花の香り﹂
眼を輝かせて、視線を彷徨わせている。好奇心を抑えきれない様
ほとり
子に、ジュリアスも笑みを誘われた。
アール川の畔にある、公宮の敷地内に建てた新居を見て、コーキ
は目を瞠った。
659
﹁うわあーっ﹂
嬉しそうにはしゃぐ様子を見て、ジュリアスは満足した。彼の為
に立てた館だ。ここでの暮らしを気に入ってくれるといい。
実はジュリアスも、屋敷を見るのは始めてである。
遠くから建造指示は出していたし、神眼で見ることもあったが、
こうして目の前にすると実感が違う。素晴らしい出来栄えに、現場
指揮を任せていた腹心の部下や、職人達に尊敬と感謝の念を抱いた。
アール川を望める二階に案内すると、コーキはテラスに出るなり
歓声を上げた。
﹃*******﹄
天上の言葉を口ずさみ、鎖で吊るされたソファーブランコに嬉々
として座る。笑顔のままジュリアスを振り返ると、眼を輝かせて手
招いた。
誘われるまま隣に座り、背中に腕を回すと、照れたように黒い瞳
は揺れた。
ようやく二人になれた。手の届く距離にコーキがいる⋮⋮
頬を挟んで唇を重ねると、色づいた唇から吐息が漏れた。押さえ
ていた欲望を刺激される。
口づけを深めると、不安定な体勢を支えるように、腕にしがみつ
いてきた。頼りない腕や仕草に愛しさがこみあげる。
﹁ずっとこうしたかった⋮⋮﹂
耳朶に囁くと、コーキは勢いよく視線を逸らした。どれだけ抱い
ても、彼の初々しい反応は変わらない。ジュリアスよりも年上だと
聞いているが、とてもそうには見えない。
660
コーキの為に造った浴室を見て欲しくて、一緒に入ろうと誘うと
恥ずかしそうに視線を逸らされた。
つい構い過ぎてしまうのは、そんなかわいらしい反応を見たいか
らかもしれない。
柔らかな身体を抱きしめながら、諦めていた未来に思いを馳せる。
朝にはコーキの隣で目を覚まし、共に食事をして紅茶を飲む。
昼には庭を並んで歩き、夕暮が濃くなれば、テラスで夕涼みをし
て、夜には灯をともして団欒する。
そして清かな明かりの下、コーキを腕に抱きながら眠りにつくの
だ。
もし、花嫁に出会えたら︱︱シャイターンは、願いを叶えてくれ
た。
よみ
かんなんしんく
神はアッサラームを嘉したもう。
そうと信じる。
はとう
この先に、どれだけの艱難辛苦があろうとも構わない。コーキさ
えいてくれるのなら︱︱万里の波濤をも越えてゆける。
661
幕間︳恋心と嫉妬︵前編︶
ぎょうしょう
凱旋から数日。
カテドラル
名だたる驍将が、アルサーガ宮殿の大神殿に召集された。
アッサラーム防衛戦の論功行賞︱︱アッサラーム・ヘキサ・シャ
イターンの名誉元帥である、アデイルバッハ・ダガー・イスハーク
皇帝自ら、戦績を挙げた兵士を労い、褒美を与える場である。
ジュリアスと共に最前線の大将として戦ったアーヒムとヤシュム
には、それぞれ純金の勲章と、報奨金、宝物五点、肥沃な土地を与
えられた。
次に、五千から万もの軍勢を率いて、見事に中央拠点を征したジ
ャファール、ナディアは大将に昇進、アルスランは少将に昇進し、
純金の勲章の他、報奨金、宝物三点が与えられた。
アンカラクス
そしてジュリアスは、アーヒムとヤシュム同等の褒章を賜った後、
メジュラ
ルティエ
ウェルケ
正式に神剣闘士に任命され、その場で叙任式が執り行われた。
しん
星詠神官と時空神官のそれぞれで最高位神官を兼任する、サリヴ
ちゅう
ァンが、式に使うブルーダイヤモンドをあしらったティアラと、真
鍮の指輪を手に持って現れた。
﹁ジュリアス・ムーン・シャイターン、前へ﹂
祭壇の前に進み出て膝を折ると、静かな声が頭上に降る。
﹁アッサラームの思し召しにより、ジュリアス・ムーン・シャイタ
ーンを神剣闘士に任命いたします。奢ることなく、礼節を守り、神
力を存分に活かしてください﹂
サリヴァンの手で頭にティアラを載せられた。立ち上ると、今度
662
は左手の人差し指に指輪をはめられる。
ロッククリスタル
﹁ティアラを飾るブルーダイヤモンドは守護神シャイターンの象徴。
指輪にはめ込まれた水晶は、曇りなき一途な心の象徴です。これを
神剣闘士の証としてお渡しいたします﹂
手袋の上からでも、難なくはめられる儀式用の指輪である。フー
プには神剣闘士、そしてジュリアスの名が刻まれている。
﹁感謝いたします﹂
宝石持ち
の一人だ。花嫁を渇望する気持ちは、誰よりも
ロザイン
サリヴァンは笑みを含んだ視線で、ジュリアスを見つめた。
彼も
知っていることだろう。
しかし、湖水を思わせる瞳は鏡のように凪いでおり、羨望や嫉妬
の色は欠片も映っていない。師が弟子を想うような、優しさと祝福
に溢れている。
どれほどの葛藤の果てに、たどり着いた境地なのか⋮⋮この人の
言葉には、耳を傾けなくてはいけない。自然と背筋が伸び、心が澄
み渡った。
﹁花嫁をお守りし、ひいては聖都アッサラームをお守りください﹂
﹁命に代えても﹂
背後を振り返ると、列席している軍関係者はもちろん、皇族や貴
人達まで、全員深く頭を下げていた。
今この時から、ジュリアスは皇帝陛下に次ぐ権威である神剣闘士
ふんまん
たぎ
︱︱賢者と呼ばれる権力者であると正式に認められた。
度重なる刺客の襲撃から判る通り、内心では憤懣を滾らせている
663
者もいるであろう。
その者達はこうなることを、なんとしても防ぎたかったに違いな
い。
ふと、祭壇傍の内陣に立つコーキと眼が合った。周囲を気にかけ
おり
ながら、口元を優しげに綻ばせる。その優しいほほえみを見た瞬間
に、心に沈んだ澱は溶けた。
コーキは、薄汚い宮廷事情なんて知らなくていい。
あの屋敷で、心安かに過ごしてくれたら⋮⋮それさえ叶うのなら、
何が起きようとも耐えてみせる。そう思った。
+
公宮において、天上人でありシャイターンの花嫁であるコーキは
第一位の身分である。
誰にも脅かされることはない。安全そのもの⋮⋮そう思っていた
のに、コーキはジュリアスの公宮を見て衝撃を受けたらしく、塞ぎ
込んでしまった。
宮女がどれだけいようと、ジュリアスにとっては、意識に留まら
ぬ背景と同じ。コーキが気に留めるとは考えてもいなかった。
憂いを解こうとしたはずなのに、結婚を待って欲しいと請われ⋮
⋮冷静ではいられなくなった。
﹁待って、いかないでっ! 助けて! 俺もいく!﹂
﹁いい加減にしろ! 私を⋮⋮怒らせるな!﹂
口論の末に、苛立ちを抑えきれず、何よりも大切な花嫁を力で捻
じ伏せようとした。床を砕いて、何処へも行かせまいと︱︱
最悪だ。
今度こそシャイターンの元へ帰ってしまうのでは? そんな恐怖
664
に襲われた。万の軍勢を散らせても、コーキの一挙一動が怖かった。
彼は思い留まってくれたが、一人客室へ下がってしまった。小さ
な後姿はジュリアスを完全に拒絶していた。
れいめい
コーキのいない寝台で一人眠る気にもなれず、手酌で酒を煽るう
ちに、黎明の空は白み始めた。
眠ることを諦めて着替えると、屋敷を出る前にコーキの顔を見に
いった。
あどけない寝相に、笑みが浮かんだ。
コーキは少し寝相が悪い。今朝もクッションは二つ下に落ちてい
て、痛くないのかと思うほど首を逸らしている。
起こさぬよう姿勢や掛布を直すと、枕元に肘をついて、コーキの
寝顔を覗きこんだ。かわいい。子犬みたいに小さく鼻を鳴らしてい
る。
﹁すみません⋮⋮怖い思いをさせて、悲しませて⋮⋮私を嫌いにな
らないで⋮⋮愛している。私の花嫁﹂
とても自分の言葉とは思えない、弱々しい言葉が口をついた。け
れど本心だ。この人に嫌われたら、まともではいられないだろう。
早朝の大神殿。
朝課に勤しむサリヴァンを呼び出し、公宮解散の申請を半ば強制
的に押しつけた。時間のかかる公式手順を踏んでいる余裕など無か
った。
鬱々としながらも軍議をこなし、陽が暮れて屋敷に戻ると、直ぐ
に書斎にルスタムを呼んだ。
﹁過去の姫君達との関係を、とても気にされているようでした。肩
を落としておいででしたが⋮⋮本日も庭園に足を運ばれました。ま
るで恋敵を見るような眼差しでしたよ﹂
665
﹁恋敵!? そんな者、いるわけない︱︱﹂
あずまや
﹁無垢なお方ですから⋮⋮四阿ではブランシェット姫と仲睦まじい
ご様子で、庭園を出る際にシェリーティア姫から釘を刺されており
ました﹂
﹁ブランシェット姫⋮⋮確か、ピティーソワーズ家の一人娘でした
か? アースレイヤの姫が、なぜコーキと?﹂
苛々する。八つ当たりと知っていても、つい詰問口調になってし
まう。
レイラン
﹁稀に見る可憐な姫君ですから、殿下が見惚れるのも無理はありま
せん。西妃様とお出かけになるお約束をしておりました。別れ際に
は、姫君から手作りの栞をいただいておられました﹂
﹁宮女ごときが、私の花嫁を誘惑していると?﹂
﹁そう睨まないでください。公宮事情を何も知らされておらず、お
気の毒でしたよ。天上人といえど、ここで暮らす以上、やはり公宮
指南が必要なのではありませんか?﹂
﹁︱︱コーキはもう、帰っているんですよね?﹂
席を立つと、いけませんよ、と窘めるように声をかけられた。
﹁なぜ? 本人の口から聞きたい﹂
﹁そんな怖いお顔で、殿下を追い詰めてはいけませんよ﹂
666
﹁追い詰めたりしません。心外なだけです。私の気持ちを疑われて
いるなんて。不満や不安があるのなら、直接私にいえばいい!﹂
﹁同じ出来事でも見る者によって捉え方は変わるものです。シャイ
ターンにとっては空気同然の些事でも、花嫁にとっては違うかもし
れません。それを上から説き伏せようとされても、理解はえられな
いでしょう﹂
﹁面倒なことです。公宮など、さっさと潰しておけば良かった﹂
﹁短気はよくありませんよ﹂
思慮深い声を無視して、ジュリアスは部屋を出た。
ルスタムと話している時は苛立ちが強かったが、客間の前でコー
キを待っているうちに頭は冷えた。昨日の二の舞はご免だ。
やがて、濡れた髪を拭きながらコーキが戻ってきた。ジュリアス
に気付いて、表情を強張らせる。
慎重に、努めて穏やかに声をかけると、昨日の亀裂をいくらか修
復できた。ぎこちない態度ではあったが、祝賀会に同行することに
も了承してもらえた。
667
幕間︳恋心と嫉妬︵後編︶
宮女の礼装を纏うコーキは、この世にあらざる美しさだった。
白と金糸の紗は、彼の身じろぎに合わせて、波打つように揺れて
は視線を誘う。
薄布から覗く真珠のような肌。
目尻にさした朱金は、黒水晶のような双眸を引き立て、一段と神
秘的に見せる。
けん
紅を引いた艶やかな唇は、今すぐ口づけたいと思わせる。
何て綺麗なのだろう⋮⋮妍を競う宮女など足元にも及ぶまい。
コーキの視界に映っているだけで、身も心も熱くなる。普段はい
とけないのに、今夜は危うい魅力に溢れている。
このまま二人で過ごせないものか⋮⋮出掛けねばならないことが
口惜しい。誰にも見せたくないのに⋮⋮
﹁この恰好、かなり恥ずかしいんだ﹂
不躾に見つめている自覚はあるが、視線を逸らすことは難しかっ
た。恥じらう姿にもそそられる。
﹁お似合いですよ⋮⋮本当に、とても綺麗だ﹂
コーキは困ったようにほほえんだ。
黒い瞳に賞讃を浮かべて、ジュリも恰好いいよ、と褒めてくれる。
どんな美辞麗句よりも、彼のくれる一言の方が遥かにうれしい。
ロザイン
宮殿の夜会にコーキを同伴するのは今夜が初めてで、想像した通
きけん
り、数多の視線が浴びせられた。
いかな貴顕の視線といえど、我が花嫁を紹介するつもりはない。
668
コーキは初めこそ居心地悪そうにしていたが、壁に寄ってからは、
興味深そうに視線をやりはじめた。動かない視線を辿ると︱︱
﹁あ、いや⋮⋮アースレイヤ皇太子があそこに﹂
レイラン
皇太子夫妻を見ていたらしい。アースレイヤは左右に西妃と姫を
侍らせ、相変わらず大勢に囲まれていた。
会話の流れで、姫、と呼んだら機嫌を損ねてしまった。宮女の恰
好をしているというのに、人目も憚らず裾を閃かせて駆けてゆく。
﹁コーキ!﹂
直ぐに後を追うも、行き交う人に阻まれて見失ってしまった。
探す途中、見覚えのある宮女に声をかけられた。一時はジュリア
スの婚約者候補でもあったクワン家の娘︱︱シェリーティアだ。
﹁シャイターン、殿下があちらに⋮⋮﹂
指差された方に見ると、コーキは泣きそうな顔をしていた。傍へ
寄ろうとすると、身を翻して人波に攫われるように消える。
逃げた⋮⋮?
宮女達に囲まれていたことよりも、そちらの方が気になる。まさ
か⋮⋮隣に立つシェリーティアを見て、誤解を与えたのだろうか。
すぐに追い駆けるが、今度は簡単に見つからない。
神眼で探ると近くに気配を捕えたが、傍に余計な気配も感じて苛
立ちが芽生えた。
バルコニーへ出ると︱︱
アースレイヤに身を寄せるコーキの姿が眼に入った。
不愉快であったが、激情に駆られて先日後悔したばかりだ。それ
なのに、冷静になろうとする側から、アースレイヤはぶち壊してく
669
れる。
なげう
コーキの頬に唇を寄せる光景を見せられ、怒りが湧く︱︱皇太子
と知っていて短剣を擲った。
﹁ふふ、男の嫉妬は見苦しいと思いませんか? いやぁ、本当に面
白い男になりましたね。いいものが見れました。私は退散しますか
ら、後はお二人でどうぞ﹂
食えない男だ。いっそ、頭を狙えば良かったか?
﹁アースレイヤと何をしていたの?﹂
思った以上に、冷たい声が出た。不安そうなコーキを見ても思い
遣る余裕はなく、視線を逸らされることすら我慢ならなかった。
だが、肩に手を置いただけで、あからさまに怯えられ、冷水を顔
に浴びせられた気がした。ジュリアスに、傷つけられると思ったの
か?
でんぱ
﹁コーキより、大切なものなんてないのに⋮⋮私が貴方を傷つける
わけがない﹂
わなな
感情が溢れ、唇は戦慄く。悲しみが伝播したように、コーキも顔
を曇らせた。
そんな顔をさせたいわけではないのに⋮⋮星明かりを浴びる艶や
かな姿に、醜い妬心が芽生える。なぜ、こんな所でアースレイヤと
二人きりに︱︱
﹁はぁ⋮⋮自制が効かない。愛しているのに⋮⋮信じきれない。視
線や仕草をいちいち疑ってしまう⋮⋮これでは見苦しいといわれて
も否定できないな﹂
670
やめておけと判ってはいても、愚かな感情がブランシェット姫に
惹かれているのかと⋮⋮余計なことを口にさせる。
コーキの歪んだ表情を見た瞬間に後悔した。何も答えさせまいと、
容赦なく唇を奪った。
︵こんなに想っているのにッ、どうして、私だけを見てくれない!
?︶
元は純粋な想いのはずなのに、なぜ、こんなにも辛いのだろう。
荒れ狂う感情を必死に押さえているのに、コーキは笑みすら湛え
て、ねぇ、嫉妬? と囁いた。眩暈がしそうだった。
人の気も知らず︱︱
好奇心を満たすように、愛を測られ、反応を試されている。どこ
までも無邪気が許されると思うな、そんなに煽るなら責任を取らせ
てやる。
凶暴な感情が牙を剥く。その後に続く意外な告白が無ければ、こ
の場でコーキを犯していただろう。
﹁僕は、公宮中の女に嫉妬していたよ。過去だといわれても、はい
そうですか、なんて思えない。ジュリのことが、好きだから⋮⋮僕
だけのジュリで居て欲しいんだよ﹂
嵐のような感情を、コーキも持っていると教えてくれた。
それが本当なら、こんなに嬉しいことはない。身を持って知った、
こんなにも強い感情を、ジュリアスに向けてくれているというのだ
から⋮⋮
﹁コーキだけの私ですよ﹂
671
﹁僕も、ジュリだけの僕だよ﹂
やっと同じ気持ち
瞳に互いの姿だけを映して、囁くように告げた。
という言葉の意味が判った。
甘美な喜びに包まれた時、コーキの口にした
になれた⋮⋮
さいな
公宮へ来てから、コーキもずっと、こんな気持ちを抱えて苦しん
でいたのか⋮⋮
たとえジュリアスがコーキだけを見ていても、宮女を見る度に苛
まされたのだろう。
コーキを大切にしたい⋮⋮
それは、ジュリアスの尺度で測るのではなく、押しつけるもので
もなく、コーキの望むままにあるべきなのだろう。
後に、コーキがクロガネ隊勤務に至る、きっかけとなった夜でも
あった。
672
幕間︳さわがしい夜
祝賀会に参加した翌日。
レイラン
ジュリアスの不在時に、ブランシェットは約束もなくコーキを訪
ねてきた。
ナフィーサの話では、西妃の宮女暗殺防止のために蒸風呂へ同行
して欲しいという、ふざけた招待状をひっさげて。
アースレイヤの嫌がらせだ。
夜会の連続に辟易しているのだろう。憂さ晴らしとばかりに、コ
ーキとの時間を邪魔するのは止めて欲しい。
﹁僕はパールメラ姫を助けたい。助けてくれるの? くれないの?﹂
い
純粋なコーキはすっかりほだされ、善良な眼差しでジュリアスに
請う。反対し、翻意を説いたが、聴き容れようとしない。
昨日は散々嫉妬させられ、醜態を晒したばかりだ。宮女の顔はも
う見たくないし、今夜は二人きりで過ごしたかったのだが⋮⋮
ジュリアスと過ごす時間よりも、小さな正義感を優先させた恋人
を少し恨めしく思う。
少々わざとらしく、明け方までかかると強調すると、コーキは悄
然と肩を落とした。
﹁ううん、待ってます。⋮⋮ごめんね、疲れているのに。仕事増や
しちゃって⋮⋮﹂
傷つけたいわけではない。ただ、ジュリアスのやるせない気持ち
を、多少なりとも知って欲しかった。
とはいえ⋮⋮肩を落とす様子を見せられると、つれない態度をと
673
るのも限界で、結局ジュリアスの方から折れてしまう。
何もかも、あの男がいけないのだ︱︱苛立ちは全てアースレイヤ
に向かった。
+
十三で公宮を持たされた時から、同時に子飼いの隠密も与えられ
た。十名ほどの規模であったが、その後、ジュリアス自身で人事を
行い、現在は精鋭三十名ほどで構成されている。
召集の方法や場所は、その時によって異なる。今回はジュリアス
の執務室に、人目を避けて呼び出した。
救出対象の宮女を連れ出す役は、ローゼンアージュに任せる。何
をやらせても、如才ない仕事ぶりを発揮する少年で、特に暗殺に関
しては素晴らしい才能を持っている。
今回は少女めいた容貌を活かして、宮女に扮して公宮へ忍び込ん
でもらう。
宮女を下げ渡す豪商には、別の者を遣いにやる。
公宮。
西妃の別邸にアースレイヤを呼び出した。応接間に入ると、絨緞
の上で、西妃に酌をさせながら優雅に寛いでいた。
﹁こんばんは、シャイターン。ご一緒にいかがです?﹂
朗らかなあいさつに、ジュリアスは眉をひそめた。
いい気なものだ。こっちはコーキとの団欒を我慢して、火消しに
奔走してやっているのに、これみよがしに妃を侍らせ、酒を勧める
とは。
674
﹁コーキに手を出すのは止めてください。不愉快です﹂
表情をかえずに吐き捨てたが、アースレイヤはほほえんだ。
﹁これは失礼。非礼のお詫びに、明日は殿下を連れてご一緒に蒸風
呂などいかがですか? 心を尽くして歓待させていただきますよ﹂
は
不愉快もここまで極めれば、いっそ感心する。無意識のうちに、
腰に佩いたサーベルを指で撫でていた。
﹁まぁ、怖いお顔﹂
楽しげに笑う西妃の細腰を抱き寄せ、滑らかな額にアースレイヤ
は唇を寄せた。
﹁あなた方の酔狂に巻き込まないでください。西妃も少し自重した
方がよろしいのでは? その立場、危うくなりかねませんよ﹂
﹁ええ、ムーン・シャイターン﹂
いかにもしおらしく頷いてみせる。この女の口から、真実が零れ
ることなんてあるのだろうか?
﹁パールメラは連れていきます。そちらで影を立て、明日は予定通
りに蒸風呂へ向かってください﹂
﹁遅くまで大変ですね⋮⋮お疲れでしょう? いっそ本当に蒸風呂
へいらしてはいかがですか?﹂
﹁いくわけないでしょう。娘を弄んで、思うところは少しもないの
675
ですか?﹂
冷ややかに見下ろすと、アースレイヤは陽だまりのような笑みを
閃かせた。
﹁なかなか綺麗な娘でしょう? さしあげましょうか? 殿下もお
気に召していたようですし﹂
わだかま
酷い冗談に嗤う気も起きない。穏やかに笑む男を見て、ふと思う。
宮殿に濃く巣食う蟠った闇に育てられ、いずれ帝位はこの男の手
せいせんりょうりゃく
に落ちる。退廃的な一面もあれど、聖戦では十分な才覚を示した。
時が満ちれば、政戦両略に優れた治世をもたらすだろう。
その時、この男の心を捕えるものは周りにあるのだろうか?
西妃と寄り添っているように見えるが⋮⋮全く別の所に立ってい
るようにも見える。
虚を埋めたジュリアスを見て、どう思っているのだろう?
﹁冗談ですよ﹂
表情を変えないジュリアスを見て、アースレイヤはつまらなそう
に首をすくめてみせた。
﹁⋮⋮シャイターン、ご足労いただき、ありがとうござます。手間
が省けましたわ﹂
空気を読んだ西妃は、それとなく水を差した。帰れ、といいたい
のだろう。
﹁明日の采配を任せますよ。それから、ブランシェット姫は降嫁さ
せてください。目障りです﹂
676
﹁御意﹂
いらぬ詮索をしてしまった。この二人の未来など、知ったことで
はない。
踵を返すジュリアスを、二人は止めようとはしなかった。
+
キャラバン
宮女を連れ出し、豪商の隊商の手筈を終える頃には、空はうっす
ら白み始めていた。
結局、今回一番得をしたのは、馬鹿な真似をした宮女だろう。窮
地を救われ、公宮にはない自由を手に入れたのだから。
屋敷に戻り、まだ起きていたコーキを抱きしめるまではそう思っ
ていた。
コーキから初めて、愛している、と告げられた。
﹁いいよ、ジュリの納得がいくようにすれば。ブランシェット姫の
希望を優先するべきだって、僕の意見は変わらないけど⋮⋮それで
ジュリが不安になるなら、僕はジュリを優先する。僕だって誰にで
も優しいわけじゃないよ﹂
更に、優しいコーキにしては珍しく、ジュリアスを優先すると、
はっきりいい切ってくれた。
荒んでいた心は潤いを取り戻し、奔走した甲斐があったと⋮⋮現
金にも思い直すのだった。
677
Ⅳ︳1
対サルビア戦に向けた、ノーグロッジ海域の飛行経路偵察任務、
通称ノーグロッジ作戦は、作戦開始から二十五日後、アッサラーム
への帰還と共に完了した。
飛竜隊二百余名の犠牲を出したものの、数千から成る全隊として
ことほ
はほぼ無傷に等しく、偵察任務は大きな成果を収めた。
滑走場には、彼等の帰還を言祝ぐ軍関係者が集まり、光希も当然
駆けつけた。
作戦総指揮官を務めたジュリアスを始め、各隊を率いた将達、そ
して特殊部隊︱︱懲罰部隊として強制参加させられたユニヴァース
は、
﹁殿下! こっち向いて、こっち向いて♪﹂
と、相変わらずの調子で声をかけ、周囲の同僚達に引きずられる
ようにして退場した⋮⋮元気そうで良かった。
ノーグロッジ作戦完了から十日。
一度もユニヴァースに会っていない。特殊部隊として、早くも次
の任務に就いているらしい。
アッサラーム軍は今、対サルビア戦に向けた、大規模な軍事拡大
に総力を挙げていた。
軍事の中心にいるジュリアスは、かなり忙しそうにしている。最
近では、軍舎に泊ることも増えた。
一方、光希は週一回から二回、午前九時から昼休の鐘が鳴るまで
の約三時間を、歩兵隊訓練に費やすようになった。
ローゼンアージュの指導による完全個別訓練である。正規訓練内
678
容の半分もこなせていないが、少しずつ体力はついてきた⋮⋮気が
する。
ちなみに、共同大浴場で裸になった事件には続きがある。
事前に止められなかった連帯責任として、ジュリアスの指示によ
り、その日訓練に参加した全隊員に訓練下士官達から鉄拳制裁が下
された。
全隊員に恐怖を植えつけてしまったらしく、光希が少しでも水場
へ足を向けようものなら、誰かしら飛んできて全力で止められるよ
うになった。
その必死の形相に光希が怯えるのを見て、ローゼンアージュは一
度切れてしまい、大惨事になりかけた。
平穏な日常を取り戻しつつ、軍はぴりぴりしている。
クロガネ隊では、近いうちにまた修羅場がやってきそうだ、と別
の意味でため息をこぼしたりした。
また、改良を重ねた結果、クロガネ隊考案、多目的ツールナイフ
の軍採用が正式に決まった。
人の良いアルシャッドは、これは光希の手柄なのだと憚ることな
くふれこみ、光希は軍内部で非常に注目を浴びることになる。
これまでチャーム等の装飾品や、刀身彫刻を細々と引き受けてい
くろがね
たが、光希ご指名で武器開発依頼や、軍幹部の将達から、難易度の
高い依頼が舞い込んでしまい⋮⋮断るに断れず、光希は鉄と睨み合
い、頭を悩ませる日々が続いている。
六日に一度の祝福日。
屋敷の中庭で、光希はティーテーブルに乗せたカップを穴が開く
ほど、見つめていた。
﹁殿下? いかがされましたか?﹂
ただならぬ様子でカップを凝視する光希を見て、ナフィーサは不
679
思議そうに問いかけた。
﹁いや⋮⋮僕にもあるはずなんだよ﹂
﹁何がですか?﹂
突然、穏やかな声が聞こえて肩が跳ねた。振り向くと、軍服姿の
ジュリアスが、颯爽とこちらへやってくるところだった。
﹁ジュリ!﹂
﹁仕事が一段落したので、今日は光希と一緒に過ごそうと思いまし
て﹂
﹁本当っ!?﹂
思わずはしゃいだ声が出た。ジュリアスと休日を過ごせるなんて、
いつ振りだろう。ノーグロッジ作戦が終わってから、初めてではな
いだろうか?
﹁何をしていたのですか?﹂
﹁ああ、いや⋮⋮最近、鉄を思うように扱えなくてさ。でも、今ま
で彫刻を入れて、加護を宿せてきたんだから、僕にも、そういう神
秘の欠片というか、片鱗があるはずだと思って﹂
﹁受注が舞い込んでいるようですね﹂
﹁うん⋮⋮嬉しい反面、期待されているって思うと⋮⋮なんか気が
焦っちゃって。この間、初めて彫刻に失敗したんだ。加護を宿せな
680
かったの。せっかくの刀身を一本無駄にしちゃってさー⋮⋮﹂
つい先日の話だ。本番に向けた習作用とはいえ、手間暇かけて鍛
えた刀身を無駄にしてしまった。
アルシャッドやケイト達は、そんなこともあると励ましてくれた
のだが⋮⋮思った以上に心に影を落とし、難易度の高い受注へのプ
レッシャーは更に増した。
﹁あまり考え過ぎても、身体に良くありませんよ。たまには気晴ら
ししませんか?﹂
そういって、ジュリアスは光希の頭を優しく撫でた。
﹁うん⋮⋮そうだね。せっかくジュリもお休みなんだし!﹂
沈んだ気持ちを吹き飛ばすように、光希は明るくいった。
アッサラームの突き抜けるような青空に、風に靡くジュリアスの
黄金色の髪が映えている。眼を和ませる光希を見て、ジュリアスも
優しくほほえんだ。
681
Ⅳ︳2
昼下がり。
時間ならまだたくさんある。何をしよう、どこへいこう? 光希
はうきうきしながら、反対側の椅子をジュリアスに勧めた。
嬉しそうにしている光希を見て、ジュリアスは笑いをこぼしなが
ら席についた。
二人が着席すると、銀盆を手にしたナフィーサがやってきて、冷
たい果実水を給仕し始めた。
﹁へへー﹂
光希が満面の笑みを向けると、ジュリアスも片頬杖をつきながら
ほほえんだ。ドキッとするほど綺麗な笑顔だ。
浮かびあがれー
このありあまる喜びを、今こそエネルギーに変換できないものか
⋮⋮神秘を引き出すべくカップの上に手を当てて
と、性懲りもなく光希は念じた。
﹁どうしたの?﹂
﹁ぐぬぬ⋮⋮僕の中の、眠れる力を引き出す特訓。宙に浮かしたい
の。ジュリみたいには、いかないのかなぁ⋮⋮コツってある?﹂
﹁コツですか⋮⋮そうですね、無心になることでしょうか﹂
無心ね⋮⋮と、光希は真剣な眼差しでカップを睨んだ。すると、
祈りが通じたように、カップはふわりと宙に浮いた。
682
﹁ふぁあっ!?﹂
﹁ふっ﹂
光希は目を剥いて奇声を上げたが、笑いを含んだ吐息を聞いて顔
を上げた。ジュリアスは明後日の方向を見つめて、優雅にカップに
口をつけている。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
恨みがましい声で呼ぶと、ジュリアスは人の悪い笑声をこぼした。
﹁うまくいった?﹂
﹁もぉーっ! ぬか喜びしたでしょぉーっ!﹂
﹁あははっ!﹂
ティーテーブルを叩いて悔しがる光希を見て、珍しくジュリアス
は声を上げて笑った。からかわれたことも忘れて、光希も一緒にな
って笑う。
サンダーストーム!
? いつものアレ?﹂
って
これはこれで面白い遊びができるかもしれない、そう思い、光希
はいそいそと立ち上った。
﹁ねー、ジュリ、僕が手を突き出して
サンダーストーム
叫んだら、ばりばりーっていつものアレを出してよ﹂
﹁⋮⋮
﹁青い雷炎を出せるでしょう?﹂
683
﹁あぁ⋮⋮﹂
サンダーストーム
!﹂
ジュリアスは要領を得たように、判りました、と頷いた。
﹁はい、いっくよー! 照れを捨てて、光希は全力で叫んだ。真上に右掌を突き出すと、
ジュリアスは絶妙なタイミングで、青い雷炎を迸らせた。天に向か
って青い火柱が勢いよく立ち昇る。
﹁おぉーっ! 今、息ぴったりだったよね!?﹂
その場でぴょんぴょん飛び跳ねる光希を見て、ジュリアスは笑っ
た。
﹁アレ、アレやってみよう! 僕がこうして、後ろに体重を倒すか
ら⋮⋮転ばないように、空中で支えて! 判る? 判るっ!?﹂
マトリックスの名シーンを真似て、光希は限界までイナバウアー
のポーズをとった。
それを見て、ジュリアスは慌てたように駆け寄ろうとしたが、転
ばないように支えて! と光希が叫ぶと、仕事を理解したように眼
に見えない力で光希の身体を宙で支えた。
﹁フゥーッ! タァーッ!﹂
奇声を発しながらアクロバットなポーズを次々に決めていると、
ナフィーサと眼が合った。
684
﹁お楽しそうですね、殿下﹂
穏やかに笑みかけるナフィーサを見て、光希は撃沈した。十一歳
の子供より子供だった⋮⋮。
芝部に突っ伏していると、ジュリアスは心配そうに傍へ寄ってき
た。
﹁光希?﹂
光希は顔をジュリアスの方に倒して、寝そべったまま仰ぎ見た。
﹁まだまだ時間あるよね。何しようか﹂
ジュリアスは光希の隣に腰を下ろすと、手を伸ばして、風にそよ
ぐ黒髪を撫でた。
﹁光希は? どこかいきたい所はある?﹂
どこだろう⋮⋮大地に身を投げたまま、光希は考えた。
685
Ⅳ︳3
ジュリアスと一緒に過ごせるのなら、光希はどこだって構わなか
った。どこにも出かけず、屋敷でのんびり過ごしてもいい。
うきうきしている様子の光希を見て、ジュリアスは優しげに眼を
細めた。形の良い指を伸ばして、光希の頬を撫でる
﹁⋮⋮宮殿の外へ出掛けてみますか?﹂
﹁え?﹂
﹁私と一緒なら、どこへでも案内しますよ。街へ降りてみますか?﹂
気遣いは嬉しいが、頷く気にはなれなかった。ユニヴァースと二
人でサンマール広場に繰り出して、凄惨な結果に終わったことは記
憶に新しい。
たとえジュリアスが傍にいても、街へ降りるのは、まだ少し怖い
⋮⋮
賑やかに過ごすのもいいが、今日は二人きりで、のんびり過ごす
のがいいかもしれない。
﹁それより、サンドイッチを持ってさ、ピクニックにいこうよ。ア
ール川を眺めながら、日光浴しよう。退屈かな⋮⋮?﹂
いいえ、とジュリアスはほほえんだ。光希の前髪を指でよけると、
露にした額に触れるだけのキスを落とした。
﹁光希と一緒に過ごせるのなら、どこでも嬉しいですよ﹂
686
同じことを思ってくれる︱︱光希は、幸せな心地で瞳を閉じた。
眩しい陽の光を瞼の奥に感じながら、頬を撫でる温かい手の上に、
自分の手をそっと重ねた。
+
公宮敷地内にあるアール川の畔︱︱
ピクニックに出かける二人に、ナフィーサは籠を持たせてくれた。
びろうど
さらさ
中にはサンドイッチに果物、葡萄酒や蒸留酒、チーズが入っている。
天鵞絨の絨緞を敷いて、大きな更紗の日傘の下、ジュリアスと並
んで寝そべる。
ルスタム達もその辺にいるはずだが、姿は見えない。視界に入ら
ぬよう気を遣ってくれているのだろう。
くすぐ
なび
透き通った水面は光を反射して、きらきらと輝いている⋮⋮心地
よい風が肌を擽り、悪戯に髪を靡かせた。
隣に寝そべるジュリと手を繋いで、日傘から覗く青空を眺める。
優美なコンドル、飛竜達が空を滑空してゆく。
︵いい気持⋮⋮こんなに穏やかな気持ちは、久しぶりだなァ⋮⋮︶
ここしばらくは、眼の回るような忙しさだった。こうして二人で
過ごせる時間を、とても贅沢に感じる。
﹁そういえば、オアシスでジュリと出会ってから、もう一年経つん
だね﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
﹁いろんなことがあったよねぇ﹂
687
﹁本当に。光希はすっかり隊服が板につきましたね﹂
﹁まあねー、慣れたよ﹂
﹁光希、最近休めていますか?﹂
頬に視線を感じながら、光希は空を仰いだまま続けた。
﹁⋮⋮ジュリこそ働き過ぎだよ。こんな風に過ごすことってあるの
?﹂
﹁私は慣れてしまいまして⋮⋮でも、光希が私に合わせる必要はあ
りませんよ。根を詰めて工房に籠っていると聞いていますが、本当
に休めていますか?﹂
光希は気まずげに沈黙した。
ナフィーサやアージュから聞いているのだろう。作業が思うよう
に進まず、最近は屋敷に持ち帰って、夜も作業をしている。決して
効率が上がるわけではないのだが⋮⋮
くろがね
﹁休んでいても、どうせ鉄のことを考えちゃうから⋮⋮つい工房に
籠っちゃうんだよね。もう、脅迫観念に近い気がする。やらなくち
ゃ⋮⋮っていう気持ちが重くて、少し苦しい﹂
凪いでいた心が揺れるのを感じて、光希は眼を閉じた。ジュリア
スは上体を軽く起こすと、心配そうに光希の顔を覗きこんだ。
﹁受注を止めては?﹂
688
﹁納期はまだあるから⋮⋮頑張りたい。期待に応えたい気持ちもあ
るんだ﹂
でも、一番近い納期があと七日だ。間に合うかどうか既に怪しい。
納期を迎えて、やっぱりできませんでした、という報告は最悪だろ
う。
﹁実は、少し心配しています。毎日クロガネ隊で働いて、夜も遅い
し⋮⋮休日申請も全然していませんよね。何日ぶりの休日ですか?﹂
﹁⋮⋮ノーグロッジが終わってから、初めてかな⋮⋮﹂
﹁十日も前ですよ。きちんと休んでください﹂
﹁ジュリこそ、ちゃんと休みなよ。帰れない時は、軍舎で寝てる?
机の上でそのまま寝たりしてない?﹂
﹁私のことはいいんです﹂
﹁良くないでしょ﹂
﹁次はいつ休めますか?﹂
﹁納期が押しているから⋮⋮﹂
ジュリアスは真剣な眼差しで光希を見下ろした。
﹁光希が頑張りたいというから、見守っていましたが、苦しんでい
るのなら話は別です。休みを取れないほど根を詰めるようなら、私
が阻止します﹂
689
一言、助けて欲しいといえば、いともあっさり解決してくれるの
だろう。身の丈を越えた仕事から解放されるのだろう。だけど⋮⋮
﹁ありがとう。もう少しやってみたいんだ⋮⋮待ってて﹂
上目遣いに仰ぐと、ジュリアスは探るように光希の顔を覗き込み、
小さく嘆息した。何もいわずに、絡めた手を持ち上げて、そっと口
づけた。
690
Ⅳ︳4
アール川でピクニックをした日から三日。
光希は連日続く工房作業に、疲労困憊していた。直近の納期は四
ほこ
日後に迫っているというのに、納品の目途が全く立たないのだ。
依頼主は、光希の評判を耳にした飛竜隊の佐官で、鉾に武神、シ
え
ャイターンを彫って欲しいという。
過去に同じような柄を、ユニヴァースやジュリアスの実剣に彫っ
くろがね
た実績がある。だから、今回も同じように出来るはずだと見積もっ
ていたが、作業は思いのほか難航していた。
加工班工房で、光希は習作用の刀身を彫る手を止めた。
あらわ
もうあらかた彫り終えているが、失敗していると判っている。鉄
に宿る力を、全然顕せていない。諦めきれずに彫り続けてしまった
が、時間と刀身を無駄にしだだけだ。
うまくいかない⋮⋮
今日、目途が立たないようであれば、アルシャッドに相談しない
とまずいだろう。だが、彼は最近工房にいない。別件で忙しいらし
く、朝礼にも参加せず現場に直行直帰する日々が続いているのだ。
アルシャッドは今、ノーグロッジ作戦で命を落とした二百余名の、
あかし
未回収ネームプレートを納品する為、聖域と呼ばれる墓所に日参し
ている。
肉体は地上に残らないので、身の証であるネームプレートや、装
飾品を代わりに土に埋めて石柱を建てる。それがアッサラームの埋
葬方法だ。
﹁殿下、浮かない顔ですな。いかがされましたか?﹂
行儀悪く頬杖をついていると、サイードに声をかけられた。光希
691
は慌てて姿勢を正すと、長身を仰いだ。
﹁いえ⋮⋮アルシャッド先輩に、相談したいことがあるんですけど、
忙しいかなぁって考えていたところで⋮⋮﹂
﹁なに、同じ宮殿にいるのですから、顔を見せるくらいできるでし
ょう。工房にくるよう、遣いをやりましょうか?﹂
﹁あ、そんな⋮⋮それなら僕がいきます﹂
﹁お手間ではありませんか? 聖域は橋向こうにありますし、かな
り距離がありますよ﹂
﹁平気です。行き詰ってしまって⋮⋮息抜きもしたかったから﹂
光希が苦笑いを浮かべると、そういうことなら、とサイードも頷
いた。
班長の許可も取れたので、勤務中ではあるが早速ルスタムを連れ
て馬車でアルシャッドを探しにいく。
そういえばここへきて随分経つのに、儀式以外で大神殿の方まで
きたことがない。シャイターンに祈りを捧げる典礼儀式は毎日行わ
れているというのに⋮⋮いかがなものか、と光希は今更ながら後ろ
めたく感じた。
﹁アッサラームの信仰心が足りないから、罰があたったのかなぁ⋮
⋮﹂
光希は心配げに呟いた。
﹁おかしなことをおっしゃいますね。御身が信仰の象徴そのもので
692
すのに﹂
ルスタムの言葉に、光希は力なく首を振ってみせた。
けいけん
﹁いやぁ⋮⋮周りは神聖視してくれるけど、僕自身は敬虔とは無縁
だよ。それに僕にとっての神様は、シャイターンじゃなくて、ジュ
リだし﹂
ルスタムは口元を綻ばせた。
カテドラル
﹁シャイターンへの献身と同じことですよ。そのようにシャイター
ンを敬う殿下に、罰など当たるわけがありません﹂
﹁ならいんだけど⋮⋮﹂
雑談するうちに、景色が変わった。
アルサーガ宮殿の広大な敷地のおよそ三分の一は、大神殿の管轄
だ。
その中には、典礼儀式を執り行う大神殿の他に、神官達が修道生
活を送る宿舎や、これから向かう聖域も含まれている。
アール川に架かるアルサーガ橋を渡り、対岸に渡った先が聖域の
入り口だ。非常に広大な為、徒歩ではいけない。馬車に乗ったまま、
聖域の車道を進んだ。
聖域は美しい庭園でもある。
アクアオーラ
幾種もの白薔薇と純白のジャスミンが辺り一面に咲き乱れ、見渡
す限り整然と並ぶ墓標︱︱六角柱の水色虹彩に輝く水晶は、陽の光
を浴びて煌めいている。
この世にあらざる幻想的な光景だ。
聖域に足を踏み入れた途端、開けた窓から清らかな風が流れた。
遠くから死者を悼む鎮魂歌が聞こえてくる。天使の歌声だ。少年
693
だけで構成されている、大神殿の聖歌隊だろう。
ようやく人の集まる一帯を見つけて、馬車を止めて窓から様子を
伺った。
大勢の遺族や、神官達、小さな聖歌隊、関係者らしき隊員の姿が
見える。天上の調べが響く中、墓標の前に跪いて、語りかけるよう
に献花する人達。
とても神聖で、壊してはいけない空気が流れていた。
﹁殿下、いかがいたしますか?﹂
アルシャッドの姿を見つけたけれど、声はかけられそうにない。
﹁邪魔するのはやめておこう⋮⋮でも、もう少しだけ、ここにいよ
うかな﹂
しばらく神聖な光景を眺めた後、光希は静かにその場を去った。
+
工房に戻り、やりかけの鉄を見たら、思わずため息が出た。
やらないと。
しかし、一人ではもう終わりそうにない。明日、調整をお願いし
なくてはいけないだろう⋮⋮
せめて、やれるだけやる。そう決めて、光希は終課の鐘が鳴って
も、工房で作業を続けた。ルスタムは心配そうにしていたし、隊員
達も様子を見にきてくれたが、集中を切らしたくなくて休憩もとら
ずに作業を進めた。
見かねたルスタムに説得されて渋々引き上げてからも、お屋敷の
工房に籠って鉄と向き合った。
失敗が怖いわけじゃない。
694
ロザイン
それよりも、あると信じていた力を失うかもしれない恐怖を感じ
ていた。
よすが
思い知らされる。光希にとって鉄を彫ることは、ジュリの花嫁と
して傍に在るための縁なのだ。
ジュリアスの隣にいていいのだと、この大地に生きていいのだと、
シャイターンに許されている気がしていた。
それなのに︱︱
少し調子が悪いだけだと思っていた。ここまで苦戦するとは考え
ていなかった。
何度目かの失敗作を見つめて、やりきれない歯痒さがこみあげ⋮
⋮思わず作業台を拳で叩いた。
695
Ⅳ︳5
夜が明けても、ジュリアスは屋敷に帰ってこなかった。
いよいよ弱音を吐こうか迷っていたけれど、一晩が明けて、今日
は一人で乗り切ろうと光希は心に決めた。
工房へ向かうと、久しぶりにアルシャッドがいた。昨日、同じ加
工班隊員に伝言を頼んでおいたので、忙しい中、朝礼にきてくれた
のだ。
﹁殿下、昨日はわざわざ探してくれたようで、申し訳ありません﹂
﹁いえ、こちらこそ、忙しい中すみません。実は、たまっている受
注を消化できなくて⋮⋮﹂
事情を説明するうちに、顔は次第に下を向き、声はぼそぼそと小
声になった。
アルシャッドは怒らなかった。いつも通り穏やかな口調で、光希
に代わって的確に納期調整をしてくれる。
依頼主への納期交渉まで代わってくれようとするので、それだけ
は自分ですると光希がいうと、
﹁俺は殿下の専属指導隊員ですから。こういう時、矢面に立つのも
仕事ですよ。殿下の一生懸命な姿勢は、皆知っています。遠慮せず
に、もっと頼ってくれていいんですよ﹂
不覚にも視界が潤みそうになり、慌てて俯き唇を引き結んだ。
そろりと伸ばされた手が視界の端に映り、顔をあげると、アルシ
ャッドは困ったようにほほえんだ。
696
﹁お慰めしたら、叱られますかねぇ﹂
頭を撫でようかどうか、迷ったらしい。共同大浴場の鉄拳制裁が
あって以来、光希に触れた者には天誅が下ると思われているようだ。
中途半端に伸ばされた手と、困り顔を見て、光希も口元に笑みら
しきものを浮かべた。
﹁先輩なら平気です﹂
光希がいうと、アルシャッドは控えめに黒髪を撫でた。その触れ
方が本当に慎重で、光希はまた笑った。
アルシャッドは光希から完全に作業を取り上げたりはせず、任せ
られると判断したところは手伝わせくれた。簡単な作業が多いとは
いえ、手持無沙汰にならず救われる思いがした。
くろがね
沈んだ心は幾らか晴れはしたものの、アルシャッドが去り、作業
台で黙々と鉄を触りだすと、心は再び落ち込んだ。
与えらえた仕事を全うできなかった。アルシャッドに泣きついて
しまった。鉄も扱えない。何も解決なんてしていない。自分が情け
ない⋮⋮
凹んでも仕方ない︱︱気力を振り絞って作業を開始したものの、
精神的に弱っているせいか、気分はどんどん悪化した。
次第に手がぶるぶると大袈裟なくらい震え出して、真鍮ブラシを
持つこともできなくなった。
これ以上ここにいても、できることがない⋮⋮
心配そうにしているローゼンアージュや、隊員達の顔を見て、光
希はルスタムと共に早退することにした。
﹁すぐにシャイターンに伝えて参ります﹂
697
駆け出しそうなルスタムの腕を、光希は咄嗟に掴んだ。
﹁いいよ、ジュリも大変だろうから⋮⋮﹂
ロザイン
﹁花嫁の一大事です。知らされない方が苦痛でしょう﹂
ルスタムはローゼンアージュを伝令にやり、人払いした休憩室に
光希を寝かせた。
ぐんか
早退して良かった。横になっていても気持ち悪くて、目が回る。
朦朧としていると、石畳の廊下を駆ける軍靴の音が聞こえてきた。
﹁光希!﹂
うっすら開いた視界に、心配げに見下ろすジュリアスが映る。
その後ろにはローゼンアージュやルスタムがいて、馬車の用意が
整いました、寝台に乗せましょう、とそれぞれ声をかけるが、ジュ
リアスは光希しか見ていなかった。
﹁光希⋮⋮﹂
きてくれた。呼び出すのは悪いと思っていたのに、いざ顔を見る
と心が温まった。
ジュリアスに付き添われて、救助用の荷台で馬車まで運ばれた。
混濁する意識の向こうで、幾つもの心配そうな声を聞いた気がし
たが、応える余裕はなかった。ただ、アルシャッドの声には思わず
反応した。
引き継ぎをしたばかりなのに、更に負担をかけてしまう。馬車の
中で身体を起こそうとすると、ジュリアスに肩を押さえられた。
﹁そのままで⋮⋮﹂
698
﹁先輩に⋮⋮謝っておいて。ごめん⋮⋮ジュリ、忙しいのに⋮⋮﹂
わなな
気力を振り絞って喋ると、ジュリアスはとても辛そうな顔をした。
唇を戦慄かせて、噛みしめるように、光希⋮⋮と囁く。
彼の方が酷い顔をしている。平気だから⋮⋮そういいたいのに、
声になったかどうか⋮⋮
+
お屋敷に戻った後、その日のうちに軍の医師が診にきてくれた。
診察の結果、過労、と診断された。
健康には自信があったのに、気持ち悪くて殆ど食べれなくなって
しまい、それから数日間は栄養補給と滋養強壮に利く、抗生物質飲
料を定期的に飲まされ、死んだように眠り続けた。
忙しいはずのジュリアスは、気付けば傍にいて慰めてくれる。
前にもこんなことがあった気がする。あれはそう、初めて刀身彫
刻を彫った時のことだ。高熱を出して寝込んでしまった。でもあの
時は、達成感に満ちていたのに⋮⋮
身体が弱っているせいか、精神的にも弱ってしまい、訳の判らな
い悲しみに襲われては涙が溢れた。
﹁ごめんなさい、ごめんなさい⋮⋮っ﹂
何に対して謝っているのかすら、よく判らない。でもジュリアス
は、子供をあやすように添い寝をして、光希が眠りに落ちるまで一
人にしなかった。
699
700
Ⅳ︳6
倒れてから四日。
医師には、当たり前のことを注意された。とにかく規則正しい生
くろがね
活を送ること。十分な睡眠と、食事療法と、適度な運動をすること。
根を詰めて鉄に向き合うあまり、そんな当たり前のこともできな
くなっていたのだ。
穏やかに数日を過ごし、体調は大分良くなった。
しかし、ジュリアスはベッドに腰掛けて、光希の手を両手で包み
こんでいる。その表情は、心配そうに曇っていた。
明日にでもクロガネ隊へ戻りたいと、光希が申し出たせいだ。
﹁病み上がりなのですから﹂
﹁でも、もう四日も休んでるし﹂
﹁まだ復調とはいえません。少なくともあと十日は休んでください﹂
﹁そんなに休めないよ﹂
﹁お願いです、光希﹂
青い瞳に真っ直ぐ見つめられると、毅然と跳ね除けることは難し
い。光希は弱々しく視線を泳がせた。
﹁⋮⋮でも、いつまでも皆に迷惑を掛けられない﹂
﹁まだ顔色が良くありません。復調もせずに戻り、周囲を心配させ
701
ては元も子もありませんよ﹂
真摯に諭され、光希は渋々頷いた。
﹁判った⋮⋮でも十日は長いよ⋮⋮﹂
﹁様子を見ながらです。私がいいというまで、しっかり休んでもら
います﹂
﹁はい。ありがとう⋮⋮忙しいんでしょ? 仕事は平気?﹂
包まれている手を解いて、逆に光希からジュリアスの手を包み込
んだ。
﹁傍についていたいのですが⋮⋮今夜は軍舎に泊ります。中央和平
交渉が間もなく整いそうなんです。六日後には合同模擬演習もあり
ますし、そろそろ人選を決めなくては﹂
中央和平交渉は、中央大陸の山岳民族達との会談を目的とする、
アッサラーム軍で現在遂行中の極秘任務の一つである。
作戦にはユニヴァースの所属する特殊部隊︱︱別名、懲罰部隊も
同行していると聞いている。
東西の列強に挟まれた中央に暮らす彼等は、中立を保つというこ
とが不可能で、長い歴史の中で何度も戦禍に巻き込まれてきた。
現在はサルビアと共同戦線を張っていることを承知で、ジュリア
あらかじ
ス達アッサラーム軍はどこを戦場とするか︱︱どこを焦土と化すか
相談しているのである。
残酷だが、開戦場所を予め決めておくことは、彼等にも益がある。
どうせ焼かれるなら、その場所を決めておけば被害を最小に済ま
せられるからだ。
702
﹁そっか⋮⋮ベルシア和平交渉は、進んでいるの?﹂
﹁長い航路になりますから、交渉が始まるのはまだ当面先でしょう﹂
ベルシア公国はバルヘブ東大陸の最南端に位置する要塞都市で、
王を冠するサルビアに従属しながらも、政権交代を狙って過去に何
度か反乱を起こしている。
ジュリアス達は、サルビアが東諸侯に呼びかけ連合軍として西に
侵攻してきた時、ベルシア公国の離反を切り札にしたいと考えてい
た。
自国の背後に虎視眈々と反乱を狙う軍事勢力を残していては、サ
ルビアも安心して国を空けて遠征はできないであろうという布石で
ある。
﹁交渉が始まれば、サルビアに知られるのは時間の問題だよね⋮⋮﹂
たやす
﹁連合軍を募るのは容易いことではありません。聖戦の被害も、向
こうの方が遥かに大きい。立て直しには時間がかかるでしょう﹂
﹁でも、いつかは闘うんだよね⋮⋮﹂
繋いだ手に視線を落として、光希は哀しそうに呟いた。
﹁心配しないで。アッサラームを焦土にはしません﹂
﹁ジュリが心配なんだよ﹂
次こそは東西の総力戦になる。アッサラームの平和をもちろん願
っているけれど、それ以上にジュリアスが心配なのだ。
703
﹁これがきっと、今生最後の試練になります。切り抜ければ、その
先百年を貴方と共に過ごせる⋮⋮離れている間も、心はいつも傍に
いますよ﹂
ジュリアスは光希の手を持ち上げると、甲に唇を落とした。
﹁⋮⋮サーベルを見せて﹂
ジュリアスはすぐに鞘ごと光希に手渡した。ベッドの背に体重を
光希
の二文字。
預けて、すらりと黒い刀身を鞘から抜く。相変わらず、刃切れ一つ
ない輝くような刀身だ。
ひ
雷光の樋の下に入れた
身体に変調をきたしても、この二文字は変わることなく、ジュリ
アスを守ってくれるのだろうか⋮⋮
光
。そ
不安が顔に出ていたのかもしれない。ジュリアスは光希の眼を見
て、力強く頷いた。
﹁万の援軍よりも心強い、私の剣です。私を導く唯一の
の輝きは、少しも損なわれていません﹂
刀身を鞘にしまうと、光希は想いの限りを込めて胸に抱きしめた。
﹁この剣だけは、いつまでもジュリを守ってくれますように﹂
力を失くしても、この剣だけは変わらずにいてほしい。心の中で、
シャイターンに呼びかけた。
704
705
Ⅳ︳7
ぎゅうっと胸に剣を抱きしめる光希の頭を、ジュリは優しく撫で
た。
﹁無理をさせてはと⋮⋮思っていましたが、六日後の合同模擬演習
を見にきませんか?﹂
﹁合同模擬演習?﹂
確か、毎年恒例の軍主催の宮廷行事の一つだ。宮殿敷地内にある
円形闘技場で開催されると聞いている。
﹁はい、陛下もお見えになりますが、一般にも公開されますし、堅
苦しいものではありません。いい気晴らしになるかもしれませんよ﹂
﹁へぇ⋮⋮そういえば、闘技場には入ったことないなぁ﹂
鍛錬所の後ろに、巨大な円形闘技場があることは知っている。古
代ローマを彷彿とさせる建造物には、以前から興味があった。
けんぶ
﹁軍事演習とはいえ、アッサラームの獅子の中でも、見栄えのする
若い隊員による剣舞披露もあったり、なかなか華やかですよ﹂
目を輝かせる光希を見て、ジュリも嬉しそうに言葉を継ぐ。
﹁へぇー! 行進と模擬戦だけじゃないんだ﹂
706
﹁模擬戦も、各隊代表による勝ち残り戦で、頂上決戦はかなり盛り
上がりますよ。毎年、賭博を取り締まるのに苦労しているくらいで
す﹂
﹁へぇー! 誰が出るんだろう﹂
﹁懲罰部隊に配属されなければ、騎馬隊第一の代表は間違いなくユ
ニヴァースだったのですけれどね﹂
﹁えっ、そうなの﹂
光希は目を瞠った。
﹁素行に問題はありますが、優秀ですよ。幹部から要望もきていま
すし、帰還が間に合えば、参加させるつもりです﹂
﹁へぇー⋮⋮じゃあアージュは? かなり強いんじゃないの?﹂
﹁そうですね。間違いなく歩兵隊一の戦力ですが⋮⋮辞退したよう
ですね。興味ないようなので、当日はルスタムと一緒に光希の護衛
をしてもらいます﹂
アージュの雄姿も見てみたいが、傍にいてくれるのは嬉しい。
それにしても、思った以上に面白そうだ。光希は日本にいた頃、
友人と陸上自衛隊の富士総合火力演習を見学したことがある。
間近で見ると迫力が違うものだ。民間への軍事披露ならば、ぜひ
見てみたい。
﹁楽しみだな。元々、宮廷行事だから強制参加だと思っていたけど﹂
707
レイラン
ユスラン
﹁強制というわけではありません。ただ、光希は公宮の貴妃席から
観戦することになります。西妃や東妃も同席しますが、構いません
か?﹂
﹁僕は構わないけど⋮⋮﹂
答えながら微妙な気持ちになった。
以前ジュリに頼んで暗殺対象の宮女を助けた際、不幸にもアース
レイヤの東妃に勘違いをさせてしまい、逃亡に至らせた経緯がある。
あれ以来、公式の場で何度か顔を合わせてはいるが、今でもその
時のことを打ち明けられずにいる。極秘事項故、今後も叶わないだ
ろう。
﹁光希が出席しても四貴妃の席は埋まりませんので、空いた一席に
は、ナディアの婚約者、アンジェリカ・ラスフィンカが招待される
と思います﹂
﹁へぇ、ナディア将軍の?﹂
ナディア・カリッツバーグはアッサラーム軍の大将の一人で、ジ
ュリの側近でもある。背中まで流れる灰銀髪の美しい青年だ。婚約
者がいたとは知らなかった。
﹁はい。ナディアに心酔している、少々煩い娘ではありますが⋮⋮
裏表のない性格ですから、光希とは話が合うかもしれません﹂
ジュリが女性に対して、好意的な批評をするのは珍しい。
﹁アンジェリカ姫は、幾つなの?﹂
708
﹁確か十六歳です﹂
﹁へぇ、ナディア将軍は二十六歳だよね? 結構年が離れているね﹂
﹁そうですか? 十歳差なら近い方でしょう﹂
﹁そうなの? それにしても、ジュリとは一緒に観戦できないのか
ぁー﹂
どうせなら、光希も一般観客席か、軍関係者席から観戦したかっ
た。
﹁私は監視する立場ですから、基本的には観客席に降りていけませ
ん。ですが、貴妃席にも少しは顔を出せますよ﹂
﹁本当? ジュリは演習に参加しないの?﹂
﹁入隊した当初は剣舞や試合に出ていましたよ。今はもう人にやら
せて、観戦するだけのいい身分です﹂
ジュリはふふ、と愉しそうに笑った。
﹁そっかぁ、でも残念だな。ジュリの剣舞見てみたかった。きっと、
すごく恰好いいんだろうね﹂
今より幼い、入隊当初のジュリを脳裏に思い浮かべてみる。今よ
り背も低くて、天使みたいなあどけない顔をして、でもやっぱり凛
々しくて皆の先頭に立つような︱︱。
﹁剣舞で良ければ、いつでもお見せしますよ﹂
709
﹁見せてよー。ジュリが試合に参加した時は、優勝したの? 大歓
声だったでしょう?﹂
﹁そうですね⋮⋮それなりに﹂
控えめに微笑むジュリを見て、光希は彼の謙遜を悟る。だって、
ジュリだ。大歓声を浴びて華麗に勝利したに違いない。
﹁楽しみだな、合同模擬演習﹂
﹁では、しっかり休んで、体調を整えないといけませんね﹂
長い指に、撥ねた黒髪を撫でられながら、光希は明るい気持ちで
﹁そうだね﹂と応えた。
710
Ⅳ︳8
療養に専念する光希の元に、見舞いの品々が届けられた。
ーツ
レイラン
ユスラン
クォ
回復を願う手紙、色とりどりの果物、草花、災厄を祓う様々な水
晶。
ふうろう
公宮を代表して西妃や東妃からも届いている。
ひと
つばめの紋章の封蝋は、バカルディーノ家のものだ。更に鈴蘭の
意匠があれば、送り主はリビライラと判る。
彼女は毎日のように手紙をくれていた。様々な面を持つ複雑な女
だが、光希の身を案ずる手紙に嘘はない。
サリヴァンからも温かい手紙をもらった。
カテドラル
光希からはなかなか触れられずにいた、ユニヴァースの件にも触
つづ
れて、何も気にする必要はない、いつでも気兼ねなく大神殿にきて
回復を祈る
というメッセージと共に、
ほしい、回復を願っている⋮⋮と流麗な書体で綴られていた。
ローゼンアージュからも
謎の液体の詰まった硝子瓶が届けられた。勇気を出して飲もうとし
たが、ナフィーサに止められた。気持ちだけありがたくもらってお
く。
クロガネ隊からも、見舞いの手紙や品々が届いた。
アルシャッドの手紙もある。意外すぎる押し花のされた可憐な一
筆箋に、彼らしい崩れた字体で、仕事は滞りなく進めている、何も
心配せずに療養に専念して欲しい、クロガネ隊への復帰を待ってい
る⋮⋮そう綴られていた。
クロガネ隊が恋しい。早く元気になって、皆と一緒に働きたい。
軍舎に寝泊まりするジュリアスからも、摘み取ったばかりのよう
に瑞々しい花束が連日届けられた。
花束と一緒にカードが添えられていて、嬉しくもあり照れ臭くも
あり⋮⋮
711
赤、白、黄色、青⋮⋮日によって様々な薔薇が届けられた。抱え
きれなほどの薔薇を持つジュリアスを想像してみると、驚くほど違
貴方は私の希望であり、誇りです
貴方は私の全て。何をしていても可愛らしい人
永遠に貴方に尽くします
和感がない。
顔から火が出そうな台詞ばかりだが、嬉しい。綺麗な字体を指で
なぞりながら、にやにやしてしまう。
﹁殿下、本日も届いておりますよ﹂
しょくふ
私室で寛いでいると、ナフィーサが手紙や見舞いの品々を持って
現れた。
持ちきれない分は召使に運ばせている。朱金の織布に覆われた、
大きな荷物が特に眼についた。
﹁何だろう⋮⋮﹂
モリオン
一際大きな荷物は光希の目の前に置かれた。はらりと織布が外さ
れ、輝きがこぼれる。
はら
﹁アースレイヤ皇太子から、邪気を祓う見事な黒水晶の贈りもので
す。置き場所に希望はございますか?﹂
﹁よく判らないけど⋮⋮すごく高価じゃない? いいのかなぁ⋮⋮﹂
712
﹁殿下の回復を願う、アースレイヤ皇太子のお気持ちでしょう﹂
回復を祈る
と一言綴られてい
見舞い品として水晶を送ってくれる人は多いが、これほど大きい
水晶は初めてもらった。手紙には
る。
﹁いろんな人に心配かけてしまったな⋮⋮早く復帰したい﹂
水晶を見つめながら、しみじみと呟いた。
﹁合同模擬演習まで、あと二日ですよ。殿下の元気なお姿を見れば、
皆も喜ぶでしょう﹂
ナフィーサの言葉に、光希は口元を綻ばせた。
﹁うん⋮⋮今度、典礼儀式にも参加しようと思うんだ﹂
よ
ルスタムの話では、最近、典礼儀式に足を運ぶ隊員が増えている
という。光希の回復を祈っているのだろうと。
光希も彼等の為に祈りたい。神も、思い遣りを嘉みしたもう。
ナフィーサは嬉しそうに頷いた。元は神殿の上級神官を務めてい
た少年は、例にもれず信心深い。
合同模擬演習まであと二日。
周囲の暖かな想いに癒され、光希は心身ともに元気になりつつあ
る。
くろがね
屋敷の工房で鉄にも触り始めた。以前のような閃きはないが、倒
れるほど思いつめていた、鉄への焦燥は、いつの間にか霧散してい
た。
焦っても仕方ない⋮⋮また一からやり直そう。
713
ロザイン
思えば、不安に駆られている時は、自分の心配ばかりしていた気
がする。
周囲の視線や反応を気にして、花嫁の資質を問われているのだと
果てのない被害妄想に囚われていた。
けれど、連日届けられる手紙や見舞の品々は、光希への思い遣り
に溢れたものばかり。
納期を守れ、力ある鉄を、それでも花嫁なのか⋮⋮そんなことは
誰もいっていない。
光希が勝手に想像して、恐れ、疑い、傷ついていただけだ。注目
やま
を浴びて、期待に応えようと背伸びをして⋮⋮見栄や虚栄心がなか
っただろうか。
ちょうめい
ユニヴァースやジュリアスの刀身を彫った時、そんな疚しい気持
ちがあっただろうか。
鉄は心を映す鏡。曇らせていたのは光希自身だ。澄明さを忘れて
やしなかったか。
答えは、もう見えている気がする。
714
Ⅳ︳9
合同模擬演習、当日。開幕前。
すいか
緑と白の生花に飾られた円形闘技場には、大勢の観客がつめかけ
ていた。早くも祝杯を上げ、酔歌を叫ぶ者もいる。
軍服姿の光希は、護衛にルスタムとアージュを連れて、円形闘技
場にやってきた。
レイラン
ユスラン
二階中央の貴妃席に足を運ぶと、華やかな女達は光希を見るなり
膝を折った。
如才ない宮女の礼装姿に身を包む西妃︱︱リビライラと、東妃︱
︱サンベリア。
リビライラは、間もなく七歳になる一人息子、次期皇太子のアメ
クファンタムを連れている。美男美女の血を見事に引き継いだ、利
発そうな愛らしい少年だ。
では、最奥にいる見慣れない可憐な少女は、ナディアの婚約者︱
︱アンジェリカだろう。
﹁ごきげんよう、殿下。心配いたしましたわ﹂
リビライラは親しげに光希の手をとると、心を込めて告げた。
みやび
日頃忘れがちだが、アルサーガ宮殿の女達の中で、光希は誰より
も威を放つ。
この場にいる雅な女達の中でも、頭一つ抜きんでて高貴な身分な
のである。
アンジェリカは顔を伏せるのを忘れたように、喜びに瞳を輝かせ
て光希を見つめている。口を利きたくて堪らない、そんな顔だ。あ
からさまな視線も、そこまでいくと微笑ましく感じて、光希は控え
めにほほえんだ。
715
ロザイン
﹁アンジェリカ・ラスフィンカと申します。我らがムーン・シャイ
ターンの花嫁にお会いできて、大変光栄に存じます﹂
少女は、印象通りの弾んだ声で応えた。
﹁初めまして、アンジェリカ姫。こちらこそ、お会いできて光栄で
す﹂
しゃくじょう
好意的に思いながら応えると、アンジェリカは感激しきった様子
で、満面の笑みを閃かせた。
席について歓談に興じていると、間もなく錫杖を持った礼装軍服
姿の皇帝︱︱アデイルバッハ・ダガー・イスハークが現れた。
皇帝は光希達に笑みかけると、闘技場を見渡して一つ頷いた。玉
はつえんとう
座の前に立ち、右手を天に伸ばして開幕の合図を告げる。
開幕を告げる祝砲が上がり、色のついた発煙筒を持つ飛竜隊が、
闘技場の上空を五列編隊で翔けてゆく。
見事な曲芸飛行に、観客席から割れんばかりの歓声が沸き起こっ
た。光希も感激しながら、夢中で手を鳴らした。
高らかに響き渡る金管の音色に迎えられ、陸路の要、装甲竜騎隊、
騎馬隊、歩兵隊が入場を開始する。
各隊の代表で編成された、総勢五千名を越える大行進である。
行軍の末尾には、豪華な二輪装甲車に乗って各隊の幹部が登場し
た。
ジャファール、アルスラン、ナディア、アーヒム、ヤシュム、ア
ースレイヤ、そしてジュリアス︱︱軍を代表する英雄達の登場に、
闘技場は割れんばかりの喝采に包まれた。
﹁きゃあぁ︱︱ッ! ナディア様ぁ︱︱ッ!!﹂
716
大歓声にも負けない甲高い声に、光希はぎょっとして横を向いた。
隣に座るリビライラもアンジェリカを見ている。
少女は感極まった様子ではらはらと涙を流していた。全員の注目
を浴びていると知るや、ナディア様が素敵すぎて⋮⋮と恥ずかしそ
うにはにかむ。そうだね、と光希は苦笑いを浮かべた。
しかし、気持ちは判らないでもない。
先頭をゆく将達は惚れ惚れするような凛々しさだ。
青い双龍と剣の軍旗を閃かせた二輪装甲車の上で、礼装軍服姿の
ジュリアスは手を上げて歓声に応えている。勇ましいアッサラーム
の獅子の中でも、一際輝いて見える。
視線を奪われていると、今度はアンジェリカが光希を見てほほえ
んだ。
﹁素敵ですわね!﹂
﹁うん。本当にね﹂
少し照れながら光希が相槌を打つと、アンジェリカだけでなく、
リビライラも眼を細めた。
和やかに笑っていると、闘技場に黄色い悲鳴が反響した。若い隊
員による、一糸乱れぬ合同剣舞が始まったのだ。
﹁アージュも出れば良かったのに﹂
後ろに控える少年に声をかけると、暑いだけです、とどうでも良
さそうに返された。
確かに、見ている分には美しいが、当の本人達は重労働だろう。
片手で剣を支え、複雑な型や跳躍を何度も繰り返すのだ。かなりの
体力を要するに違いない。
剣舞に眼が慣れてきた頃、さり気なく横に並ぶ女達を観察した。
717
左端で感極まって涙していたアンジェリカは、今は大人しく着席
している。ナディア以外に興味はないらしい。
左隣のリビライラは優雅に紅茶を飲んでいて、息子のアメクファ
ンタムは、光希と眼が合う度に、可愛らしくにっこりしてくれる。
右隣に座る、東妃︱︱サンベリアは少々、顔色が優れない気がす
る⋮⋮人前に姿を見せることが苦手な人なので、憂鬱なのかもしれ
ない。
ひと
美女の多い公宮の中で、サンベリアは比較的大人しめの容貌をし
ている。目立った美人ではないが、雰囲気の綺麗な女だ。
﹁アンジェリカ姫から見て、ナディア将軍はどんな人ですか?﹂
端に座るアンジェリカに話を振ってみると、よくぞ聞いてくれま
したといわんばかりに、眼を輝かせて光希を振り向いた。
ぎんもくせい
﹁あの方こそ、アッサラームの英雄ですわ! 五歳の頃、銀木犀の
香る湖水でお会いした時から、少しも変わりませんの。気高くて凛
々しくて⋮⋮ラムーダ演奏も、それはお見事ですのよ﹂
﹁好きなんですね⋮⋮﹂
﹁それは、もう⋮⋮っ﹂
﹁アンジェリカ姫にそこまで想われて、ナディア将軍は幸せですね﹂
褒めたつもりだが、なぜか少女は切なそうに表情を曇らせた。
﹁でしたら、私も嬉しいのですが⋮⋮残念ながら、この溢れる気持
ちは一方通行なのですわ﹂
718
しょげたかと思えば、でもめげませんわ、とアンジェリカは瞳に
闘志を燃やして両の拳を握りしめた。
﹁そんな風に想ってもらえて、やっぱりナディア将軍は幸せですよ﹂
光希が笑いかけると、アンジェリカは恥ずかしそうに視線を伏せ
た。その様子を見ていたリビライラは、初々しいですわ、と愉しげ
に茶々を入れるのだった。
719
Ⅳ︳10
雲一つない蒼空に、昼休の鐘が鳴り響いた。
一刻ほど昼休憩を挟んだ後、午後からは勝ち残り式の模擬戦が始
まる予定だ。
︵ジュリはどうするのかな?︶
休憩をとるなら一緒に過ごしたい。姿を探しにいこうと、光希が
席を立ったところで、貴妃席にアースレイヤが姿を見せた。
﹁殿下! ごきげんいかがですか? 心配いたしましたよ﹂
﹁ご心配を⋮⋮あ﹂
いい終えぬうちに、腕を広げて迫るアースレイヤに抱きしめられ
た。お愛想とばかりに背中を叩いていると、
﹁⋮⋮ほら、あそこにシャイターンが﹂
やま
そっと耳打ちされて、光希は慌てて身体を離した。
疾しい気持ちは欠片もないが、つい慌ててしまう。闘技場を見下
ろすと、不機嫌そうなジュリアスと瞳が合った。
気を取り直して手を振ると、手を上げて応えてくれたが、忙しそ
うに将達と行ってしまった。
﹁⋮⋮ふふ、怒ってる怒ってる﹂
720
﹁もう、わざとですか?﹂
思わず呆れた視線を送ると、アースレイヤの愉しそうな視線に跳
ね返された。
﹁元気な殿下のお姿を拝見して、つい嬉しくて。お許しください﹂
綺麗な笑みを、光希は白々しい気持ちで眺めた。人をダシにする
のは勘弁してもらいたい。
﹁︱︱父上!﹂
突然の子供の声に、光希もアースレイヤも視線を向けた。
頬を蒸気させたアメクファンタムは、アースレイヤの足元に駆け
寄ると、長身を仰いでにっこりとほほえんだ。
幼い息子を見下ろす空色の瞳には、紛れもない愛情が浮かんでい
る。
父親らしい一面もあるのだと感心していると、アースレイヤの後
ろに、佐官の軍服を着た青年が立っていることに気がついた。
硬質な灰銀の短髪の下には、涼しげな目元が覗く。端正な顔立ち
の、凛然とした青年だ。光希と眼が合うと、優雅に一礼してみせる。
﹁お会いできて光栄に存じます。私はルーンナイト・ダガー・イス
ハーク、アッサラーム軍の大佐を務めております﹂
名前を聞いて、光希は眼を瞠った。
﹁アースレイヤ皇太子の弟君ですよね?﹂
﹁はい﹂
721
こうして正面から見比べてみても、あまり似ている印象はない。
よく見れば眼元は似ているが⋮⋮どちらかといえば皇帝に似ている。
﹁殿下は、本当に瞳の色も黒いのですね⋮⋮﹂
しばた
彼もまた、光希を観察していたらしい。光希が慌てて眼を瞬くと、
ルーンナイトは不躾な視線を詫びるように距離を取った。
﹁あまり私とは似ていないでしょう?﹂
アースレイヤはルーンナイトの肩に腕を回すと、楽しそうにいっ
よぎ
た。どうやら兄弟仲は良いらしい。
ふと、胸に五つ年上の兄の顔が過り、光希は返答に詰まりかけた。
﹁⋮⋮眼は少し似ていますよ﹂
ユスラン
アースレイヤは口元を優しげに綻ばせると、腕を解いて、今度は
東妃の傍へ寄った。親しげに肩に垂らした髪を手に取るや口づけを
落とす。
﹁東妃、昼食はもう済ませましたか?﹂
親密なやりとりをどきどきしながら見ていると、サンベリアの顔
色が真っ青なことに気がついた。
﹁いけませんよ、大事な身体なんですから⋮⋮きちんと食べないと﹂
含みをもたせた発言に、光希は眼を見張った。
722
︵え、子供が⋮⋮?︶
サンベリアは小刻みに肩を震わせ、消え入りそうな声で頷いた。
リビライラは女神の如し笑みを浮かべると、消化にいいものを運ば
せましょう、と慈母のようにほほえんだ。
ルーンナイトは、微妙な空気を読んでいるのか、いないのか⋮⋮
無邪気に笑うアメクファンタムの相手をしている。
かける言葉を測りかねているのは、光希とアンジェリカの二人だ
けだ。
リビライラが手を鳴らすと、さっと召使が現れて、瞬く間に絨緞
の上に、色とりどりの果物や野菜、銀器を並べ始めた。
﹁さぁ、召し上がれ﹂
リビライラは優しく笑んでいるが、サンベリアは震えそうな手を
どうにか動かしている有様だ。
﹁⋮⋮僕も、いただいていいですか?﹂
サンベリアを残してこの場を去るわけにもいかず、光希は諦めて
輪に加わった。アンジェリカも空気を読んだように、私も、と調子
を合わせる。
いびつ
怯えるサンベリアに、アースレイヤとリビライラは左右からあれ
これ声をかけた。なんとも歪な光景に、光希は胃が重くなるのを感
じた。
﹁美味しいですよ﹂
そしゃく
微妙な空気を少しでも和まそうと、もぐもぐと咀嚼して笑顔を振
りまく。
723
そんな気苦労を無視して、アースレイヤは光希の口元に指を伸ば
し、ついていますよ、と余計なお世話でパン屑を払ったりした。
たいぜんじじゃく
背後に控える少年から冷気が漂うが、当の本人は背後の冷気もど
こ吹く風で、泰然自若とした態度を崩さない。
光希は、彼が何を考えているのかまるで判らなかった。
724
Ⅳ︳11
模擬戦開幕を告げる祝砲が空に響いた。
出場する隊員は全部で十二人。全員、階級が上等兵以下の若い隊
員だ。
彼等は二組に別れて勝ち抜き戦を行い、それぞれの組で勝ち残っ
た二人が最後に戦い、勝敗を決する。
彼等の中には、久しぶりに見るユニヴァースの姿もあった。
アースレイヤとルーンナイトは椅子まで用意させて、このまま貴
妃席から観戦するつもりらしい。サンベリアの顔色は悪くなる一方
だ。
けんげき
ぎこちない空気に胃を痛めていた光希だが、試合が始まると眼は
闘技場に釘付けになった。
模擬戦とはいえ、実剣を使用する。
かつぜん
長身体躯の若い隊員が、黒牙を閃かせて激しい剣戟を繰り広げる
様は圧巻だ。
時に火花を散らせ、戛然と響かせる。観衆は大喜びで、割れんば
かりの声援を送っているが、光希は見ていて何度も冷や冷やした。
﹁わ⋮⋮っ﹂
自分が戦っているわけでもないのに、肉迫した闘いを見ていると、
身体の変なところに力が入る。
﹁左の奴は、両利きなんです。うまく背後で持ち手を変えて、相手
を翻弄している﹂
大人しく座っていられず、縁に肘をついて前のめりで観戦する光
725
希に、ルーンナイトは解説してくれる。
後ろで背伸びをしているローゼンアージュを手招くと、すぐに光
希の隣に並んだ。ルスタムは苦笑を浮かべたが、特に咎めなかった。
﹁何で実剣なの?﹂
﹁実剣を使わずに、何で戦うんです?﹂
﹁刃を潰した剣でいいでしょう﹂
光希が真面目に応えると、ふっ、と兄弟そろって微笑を洩らした。
﹁そんな試合を見ても、誰も白熱しないでしょう﹂
ルーンナイトがいった。
﹁でも⋮⋮﹂
﹁少々血が飛び散るくらいでいいんですよ。アッサラームの獅子達
の、勇猛な姿を見る者に印象づける目的もあるのですから﹂
アースレイヤの言葉に、光希は腕を組んで唸った。
﹁でも、死んでしまったら?﹂
﹁これは敵わないと思えば、負けを認めればいいのです﹂
﹁負けを認めてもいいんですね?﹂
﹁もちろん。試合であって、殺し合いじゃありませんから﹂
726
話している間に、決着がついた。
相手のサーべルを弾き飛ばしたのは、ルーンナイトの解説にあっ
た、両利きの隊員だ。
割れるような大歓声が湧き起こる。色とりどりの花が闘技場に投
げ入れられた。
光希も手を叩いてると、ルーンナイトに薔薇の花束を渡された。
意味が判らず首を傾げると、
﹁貴妃席から贈られる花は、大変な誉れです。気に入った者がいれ
ば、投げ入れるといいですよ﹂
なるほど⋮⋮光希は豪快に花を放った。風に舞って、思い思いに
落ちてゆく。
こうしょう
会場は、オォッ、とどよめいた。隣でルーンナイトとアースレイ
ヤは、肩を震わせて哄笑している。
勝利した隊員は、ぽかんとした表情でこちらを見上げた後、恐縮
しきった様子で敬礼をした。
まずかったかしら⋮⋮光希は不安そうに周囲の顔色を窺った。
﹁殿下はあの隊員を推しているのだと、会場中が誤解しましたよ。
彼は人気急上昇ですね﹂
﹁え⋮⋮っ﹂
贔屓したつもりはない。皇子二人は、平気ですよ、問題ありませ
ん、とそれぞれいうが、ローゼンアージュは諦めろといいたげに顔
を横に振っている。
﹁あ、じゃあ⋮⋮次は僕以外の誰かが、貴妃席から花を投げいれま
727
せんか?﹂
名案とばかりにリビライラ達を振り返ったが、
﹁一輪でしたら⋮⋮あのようには投げ入れられませんわ﹂
リビライラは困ったようにほほえんだ。サンベリアも似たような
反応をよこす。アンジェリカに至っては凛とした眼差しで、ナディ
ア様以外はお断わりですわ! と潔く断った。
﹁うぅ⋮⋮じゃあ僕が毎回、投げ入れます﹂
やけ
自棄になって提案すると、ローゼンアージュは光希を見るや、こ
くりと頷いてどこかへ駆けていった。
呆気にとられていると、やがて溢れんばかりの花束を腕に抱えて
戻ってきた。冗談だったのに⋮⋮
728
Ⅳ︳12
溢れるほどの薔薇を放るという失策を冒してからは、慎ましく一
しょうかい
輪のみを投げ入れるようにした。
投げ入れる際、哨戒に立つジュリアスと何度か眼が合い、気まず
い思いをした。
ふと見れば、サンベリアはいよいよぐったりしていた。腹を押え
て俯いている。
﹁大丈夫ですか?﹂
光希が声をかけると、アースレイヤもリビライラも、一見して心
配そうに彼女に群れた。しかし、サンベリアの具合を余計に悪化さ
せていることはあきらかである。
彼等と引き離した方がいい。そう判断すると、思い切って東妃の
前に跪き、怯えきった双眸を下から仰いだ。
﹁休みましょう。案内しますから、ついてきてください﹂
有無をいわさずサンベリアの手をとって立たせると、
﹁すぐ戻りますね﹂
きけん
貴妃席に並ぶ貴顕な顔ぶれに、一方的に告げた。
闘技場内部の、関係者区画にある休憩室を人払いして、サンベリ
アを横に寝かせた。
﹁傍にいて欲しい人はいますか? 呼んできます﹂
729
額に浮かぶ汗の玉を拭いてやりながら訊ねると、サンベリアはか
細い声で、近しい仲だという侍女の名を呟いた。護衛兵の一人を遣
いにやると、光希は安心させるようにほほえんだ。
﹁安心してくださいね。サンベリア様⋮⋮お腹に子供がいるのです
か?﹂
思い切って訊ねると、サンベリアは力なく頷いた。やっぱり、と
光希は内心で頭を抱えた。
パールメラ失踪の時に、逃亡すら考えた人だ。さぞ不安な気持ち
でいるに違いない。
﹁姫様!﹂
せんしゅ
恰幅のいい年かさの女が、慌ただしく駆け込んできた。寝椅子に
横たわるサンベリアの傍に跪くと、力なく身体に沿う繊手を、ふっ
くらした手で包み込む。
慈しみに溢れた仕草を見て、光希は少し安心した。気の弱いサン
ベリアにも、心を許せる人はいるらしい。
﹁馬車と護衛を用意させます。今日はもうお帰りください。皆には、
僕から説明しておきます﹂
さっきから独断の連続だ。恐ろしいが、光希が公宮の権威という
のなら許されると信じたい。それに、ルスタムが光希の指示に従っ
てくれているうちは問題ないだろう。
去り際、サンベリアは感謝の色を瞳に浮かべて、光希に深くお辞
儀をした。
730
﹁ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません﹂
﹁いいえ⋮⋮ゆっくり休んでください﹂
光希が笑みかけると、サンベリアも控えめにほほえんだ。
彼女の今後を思うと、心配になる。何とか、助けてあげられたら
いいのだが⋮⋮
サンベリア達を見送った後、貴妃席に戻る道すがらジュリアスに
会った。
どうやら光希を探していたらしい。ほっとした顔で近付いてくる。
﹁東妃はどうしたのです?﹂
﹁今、ルスタム達に送らせたところ﹂
﹁何があったのです?﹂
﹁彼女、お腹に子供がいるんだ⋮⋮アースレイヤ皇太子とリビライ
ラ様に挟まれて、具合を悪くしたんだと思う﹂
光希の言葉に、ジュリアスは眉をひそめた。
﹁懐妊したのか⋮⋮﹂
﹁サンベリア様はどうなると思う⋮⋮?﹂
ジュリアスは沈黙で応えた。表情からは読みとれないが、同じこ
とを考えている気がする。このままでは、リビライラに消されてし
まわないだろうか?
731
﹁⋮⋮アースレイヤの思う壺です。東妃のことは忘れてください。
できますか?﹂
ウッ、と呻く光希を、ジュリアスは静かに見下ろした。
﹁彼女を助けてあげたい﹂
疲れたようなジュリアスのため息を聞いて、光希は身体を強張ら
せた。硬くなる頬の両線を両手に包み込み、ジュリアスは唇に触れ
るだけのキスをした。
﹁この話は、今はよしましょう﹂
賛成⋮⋮光希は無言で首を縦に振ると、腰を抱かれたまま貴妃席
に戻った。
732
Ⅳ︳13
貴妃席にジュリアスと戻ると、アースレイヤ達に笑顔で迎えられ
た。
彼等が声をかける前に、ス⋮⋮とジュリアスはさりげなく光希の
隣に立ち、視線を遮った。
思うところは大いにあるが、今は観戦に集中する。試合は大分進
み、ユニヴァースの準決勝戦が始まるところだ。
﹁ユニヴァースだよ、勝てるかな﹂
﹁勝てるでしょう﹂
ジュリアスは即答した。実際、その予想通り、ユニヴァースの圧
勝に終わった。二、三、剣を閃かせたと思ったら、相手は腕から血
を流して蹲ってしまったのだ。
﹁大丈夫かな⋮⋮?﹂
蒼い顔で訊ねる光希の肩を抱き寄せ、衛生兵が控えていますから、
とよく判らない慰めをジュリアスは口にした。
ともかく、光希は薔薇を一輪手に取り、投げ入れようとして⋮⋮
ふと隣に立つジュリアスを見上げた。
﹁⋮⋮どうぞ、投げれば?﹂
ジュリアスは、どこか投げやりに呟いた。
微妙な空気だが、試合を見ていたのに彼にだけ投げ入れないのも
733
どうかと思い、光希は花束から一輪を抜いて投げ入れた。
ユニヴァースは貴妃席を見上げて、嬉しそうに手を振っている。
据わった視線を頬に感じながら、光希も控えめに振り返した。
ついに決勝戦。
会場は割れんばかりの喝采に包まれた。
かわ
それぞれの組の勝利者︱︱ユニヴァースと、初戦を勝ち抜いた両
どら
利きの兵士は、正面対峙でサーベルを構える。
試合開始の銅鑼が鳴り、両者同時に駆け出した。
閃きが早すぎて眼が追いつかないが、どちらも紙一重で躱してい
るように見える。
互角に見えたが、しばらくするとユニヴァースが押し始めた。激
たたら
しい応戦を続けながら、少しずつ陣の淵へと相手を追いやる。
キィンッ!
最後は対戦相手が踏鞴を踏む形で、陣の外へ追い出された。
ワッ、と会場は震えるほど沸き立った。
﹁うぉ︱︱っ! ユニヴァース優勝!?﹂
固唾を呑んで見守っていた光希も、思わず叫んだ。
会場が煩くて声は殆ど通らない。隣を仰ぐと、そのようです、と
ジュリアスは気のない声で返事した。
儀礼に則り、貴妃席からも花が投げ入れられた。頑なに拒んでい
たアンジェリカも投げ入れている。
光希も投げ入れようとしたら、上からひょいとジュリアスの手が
伸びてきて、花を奪われた。奪っておきながら、至極どうでも良さ
そうにそれを投げ入れる。
﹁何で?﹂
﹁別に?﹂
734
二人の間に、なんともいえない沈黙が流れた。
外野は楽しそうだ。初々しいですわ、リビライラは呟き、皇子二
人も愉しそうに見ている。
これで模擬戦も終了かと思いきや、進行役は最後の演目と称し、
優勝者に挑戦権を与えた。
優勝者に与えられる褒章の一つで、階級問わず名指しで実剣勝負
を挑める権利だ。
指名を受けた方に拒否権はない。日頃は手の届かない階級相手に、
公式の場で挑めるので、毎年大いに盛り上がるとか。
けんせん
わくわくしながら見守っていると、ユニヴァースはこちらを見上
げてサーベルの剣尖を貴妃席に向け︱︱
﹁シャイターンッ!﹂
凛然と吠えた。
オォ︱︱ッ!! 殆ど怒号のような歓声が響き渡る。
今日一番、闘技場が沸いた。
興奮した観客達が石床を足で踏み鳴らし、その振動が貴妃席まで
伝わってくる。人の強烈な足踏みで地面が揺れる!
﹁ジュリ、指名されたのっ!?﹂
腕を組んで見下ろしていたジュリアスは、不敵な笑みを浮かべる
と、サーベルをすらりと抜いて、闘技場に立つユニヴァースに剣尖
を向けた。
見惚れるほど恰好良くて、心臓がどきどきする。
歓声が煩すぎて、思わず両耳を手で塞いだ。
興奮した観客が、ボロボロと二階から零れ落ちている。危ないっ
たらない。周囲の兵士が慌てて収拾している。
735
その様子をハラハラしながら見ていると、いきなり抱きしめられ
た。
﹁︱︱っ、ん!﹂
おとがいを掬われて、上向いた途端に唇を塞がれた。しっとり唇
を重ねて軽く吸われる。顔を離すと、すぐ近くで青い双眸が優しく
細められた。
﹁いってきます。私が勝ったら、手に余るほどの花を、投げ入れて
くださいね﹂
ジュリアスは光希の手をとると、恭しく甲に口づけた。冷やかす
外野を無視して、光希はしっかり頷いた。
﹁頑張れ、ジュリッ!!﹂
ジュリアスは輝くような笑みを閃かせると、石縁に手をかけるや、
軽やかに飛び降りた。
慌てて闘技場を見下ろすと、ジュリアスは既に舞台に向かって歩
き始めていた。
最終演目。
挑戦者︱︱優勝者ユニヴァースと、アッサラーム大将、ジュリア
スとの試合が幕を開けた。
736
Ⅳ︳14
どら
大歓声に迎えられた最後の演目。
銅鑼が鳴り、試合開始を告げる旗が八の字を描くように振り下ろ
された。
これまで開始と同時に踏み込んできたユニヴァースは、ここへき
て慎重にじりじりとすり足になった。一方ジュリアスは、泰然と構
えている。
張りつめた空気が闘技場を覆い、沸いていた観衆もシン⋮⋮と静
まり返った。
﹁臆してるな﹂
ルーンナイトの言葉に、気付かされる。斬り込む前から、ユニヴ
ァースは後ろへ下がっていたのだ。今までずっと、前のめりの姿勢
だったのに。
﹁挑戦者は、恐れることなく斬り込まなくては﹂
けんげき
しかし、ユニヴァースは己の後退を気付くや、勢いよくジュリア
スに向かって斬り込んだ。
くろがね
キィン︱︱ッ! 鋼がしなる。
鉄を鳴らして、眼にも止まらぬ剣戟が始まった。
﹁どちらを応援しているのですか?﹂
アースレイヤの問いに、光希は顔を前に向けたまま、ジュリ! と即答した。
737
だが、どちらも惚れ惚れするような雄姿で、眼を離せない。これ
では、アンジェリカを笑えない。
ひるがえ
ひらめ
彼は本当に強い。ユニヴァースの剣筋が見えているような身のこ
なしで、風のように身を躱し、合間に鋭い閃きを放つ。
序盤は、完全にユニヴァースの応戦一方に見えた。
次第に動きは良くなり、ユニヴァースは積極的にジュリの間合い
に飛びこんだ。
それでも尚、光希でも判るほどに、二人の剣技には開きがある。
ユニヴァースからゆらりと青い燐光が漏れた。あれは、シャイタ
ーンの神力ではないのか。
﹁いいのっ!?﹂
すく
思わずルーンナイトを見ると、肩を竦めて肯定された。
﹁別に、禁止されているわけではありませんよ﹂
かつぜん
打ち合う剣戟の音が変わった。
ギィンッ! 鋼の重さを戛然と響かせる。
剣閃に金色の火花が飛び散った。
ジュリアスの優勢は変わらないが、一撃でも入れば大惨事になる。
ジュリアスも神力で応戦しないのだろうか⋮⋮
﹁ジュリ⋮⋮﹂
ふと、ジュリアスとユニヴァースは剣を合わせたまま動きを止め
た。ユニヴァースが何か言葉をかけているように見える。こんな時
に、何を話しているのだろう?
次の瞬間、ジュリアスは青い炎を剣に宿して、今までで一番鋭い
一撃をユニヴァースに放った。
738
かろうじて受け身を取ったものの、ユニヴァースは場外まで弾き
飛ばされる。
オォ︱︱ッ!!
唖然としていると、闘技場は割れるような拍手喝采に包まれた。
観客は全員総立ちで、手を鳴らしている。花びらや祝杯が勢いよ
く宙を舞った。
﹁ジュリ︱︱ッ!!﹂
光希は夢中で叫んだ。ジュリアスは光希を見て誇らしげに腕を上
げた。
本当に素晴らしい試合だった。ローゼンアージュから花を全て受
け取ると、光希は勢いよく会場に放った。
﹁おめでとう︱︱っ!!﹂
腕を振りながら声を張り上げていると、貴妃席からリビライラ達
が、気品に満ちた仕草で花を投げ入れた。これぞあるべき公宮の佳
人の姿だ。
大雑把過ぎたか⋮⋮と後悔しかけたが、ジュリアスは器用に風を
ろう
操り、光希の投げ入れた花をいくつか手に取ると、花びらに口づけ
た。
オォ⋮⋮ッ!!
大歓声は、動揺したようなどよめきに転じる。次いで耳を聾する
黄色い悲鳴が響き渡った。
﹁流石ですわ、シャイターン! 良かったですわね、殿下っ﹂
アンジェリカの言葉に、光希は満面の笑みで頷いた。アデイルバ
ッハも傍へやってくると、いい試合だった、と満足そうに労った。
739
場外に弾き飛ばされたユニヴァースは、空を仰いで転がっていた
が、人が駆け寄る前に自力で立ち上がった。
肋骨辺りを押さえてはいるが⋮⋮立って歩けるらしい。
ジュリアスはユニヴァースの傍へ歩み寄ると、軽く腕を叩いた。
ユニヴァースは深く頭を下げ、ジュリアスはその頭をぺしっと叩い
た。
何だか、清々しい気持ちにさせられる。二人共、本当に恰好良か
った。
閉幕式が終わると、朝から騒いでいた観客達は千鳥足でふらふら
と闘技場を後にした。
皇帝陛下が退出すると、ようやく貴妃席も解放された。
早くも撤収準備の始まった闘技場に、クロガネ隊や顔見知りの隊
員達が、こちらを見上げている様子に気がついた。手を振ると、嬉
しそうに振り返してくれる。
﹁殿下、今日はご一緒できて光栄でしたわ。またいつでも、遊びに
いらしてくださいね﹂
リビライラに声をかけられて、光希は慌てて振り向いた。宮廷挨
拶を交わすと、彼女は優雅に去ってゆく。
ユスラン
﹁あの⋮⋮東妃様を案じるお姿に、感動いたしました。とても的確
なご判断と勇気でしたわ。またお会いできることを、楽しみにして
おります﹂
アンジェリカにも声をかけられた。
﹁僕も、楽しかったです。今日はありがとうございました﹂
こちらこそ、という気持ちでいっぱいだ。
740
なんせアースレイヤとリビライラだけでは、空気が微妙過ぎて間
が持たなかった。サンベリアも更に酷い状態になっていただろう。
明るく機転の利く彼女が一緒にいてくれて助かった。
741
Ⅳ︳15
屋敷に戻ると、眠りこける前に気力を振り絞って入浴を済ませた。
まどろみ
そして、私室に辿り着くと、絨緞の上にばたんと倒れこむ。
微睡の中、ジュリアスを想う。まだ撤収作業をしているのだろう
か。朝から働き詰めで、さぞ疲れているだろう。
﹁ん⋮⋮﹂
髪を撫でられる感触に眼が覚めた。いつの間にか、眠っていたら
しい。眼の前にジュリアスがいる。
﹁⋮⋮おかえり﹂
﹁ただいま﹂
のそのそと身体を起こすと、優しく抱きしめられた。ジュリアス
の肌から、石鹸のいい香りが漂う。ちょうどいい位置に肩があるの
で、顔を乗せた。素晴らしい心地に眠りを誘われる⋮⋮
﹁眠い?﹂
﹁んー⋮⋮遅かったね⋮⋮﹂
身体を持ち上げられて、膝上に乗せられた。向かい合わせに抱っ
こされて、再び抱きしめられる。
﹁はぁ⋮⋮癒される⋮⋮﹂
742
ジュリアスはしみじみと呟いた。互いに忍び笑いが漏れる。今日
はさぞ疲れただろう。裏方も表舞台でも大活躍だった。
﹁お疲れ様。今日は、すごく恰好良かった﹂
青い双眸を細めると、ジュリアスは光希の手を取り、指先に口づ
けた。甘い空気に誘われて、光希から顔を寄せる。
自分からするキスは、未だに少しぎこちない。顔を傾ける方向で
毎回戸惑うし、一度は鼻をぶつける。
だから、結局いつもジュリアスが角度を微調整してくれる。唇を
触れ合わせるのがやっとで、自分から舌を絡ませることもできない。
でも、ジュリアスとするキスは好きだ。いつでも幸せな気持ちにさ
せてくれるから⋮⋮
﹁ん⋮⋮﹂
口づけは次第に深くなる。光希からキスを始めても、途中からジ
ュリアスに主導権を奪われてしまう。
くすぐ
しっとりと唇を吸われて、舌を挿し入れられた。首に腕を回して
応えると、粘膜のあちこちを舌で擽られて、絡めた舌を強く吸われ
る。
たちま
光希の拙いキスとはまるで違う、巧みなキス。どくどくと心拍数
は上がり、忽ち顔は熱くなる。身体を引こうとすると、腰に回され
た腕にきつく抱き寄せられた。
﹁っ、は、ん⋮⋮!﹂
吐息すら奪うように、唇を奪われる。食べられてるみたい。熱烈
に、執拗に求められる。
743
腕に置いた手に力を込めて窮状を訴えると、ようやくジュリアス
は唇を離した。肩で息をしていると、膝裏を掬われて身体を持ち上
げられた。
束の間見つめ合い⋮⋮首に腕を絡ませると、すぐに寝室へ運ばれ
た。滑らかな敷布の上に降ろされ、乗り上げてきたジュリアスに唇
を塞がれる。
瞼を閉じたら、昼間のジュリアスの雄姿が鮮やかに蘇った。
今日見た光景を一生忘れない⋮⋮信じられないくらい恰好良かっ
た。ジュリアスは光希の英雄だ。
﹁︱︱呼んでくれて、嬉しかったですよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
吐息のような囁きに瞼を開けると、青い双眸に静かに見下ろされ
ていた。
﹁ユニヴァースの相手をしている時、私の名を呼ぶ光希の声が聞こ
えました﹂
本当だろうか。大歓声に紛れて、聞こえなかったのでは⋮⋮
光希の疑問を読んだように、ジュリアスはふっと優しい笑みを浮
かべると、包み込むように掌で頬を撫でた。
﹁聞こえましたよ﹂
﹁すごかった。夢中だった。ジュリって、なんて恰好いいんだろう
って思った﹂
かたど
見下ろす視線は、更に甘くなる。長い指で、光希の唇を象るよう
744
になぞり始めた。
﹁光希はすごくかわいかった。身を乗り出して、夢中で観戦してい
ましたね。無邪気に抱えるほど花を投げ入れたりするから⋮⋮悔し
かったですよ。貴方は時々憎らしい真似をする﹂
素直に打ち明けてくれたジュリアスがかわいくて、思わず笑みが
こぼれた。笑うと、拗ねたように口を閉ざす。彼のこんな顔、光希
しか知らなければいい。誰にも見せないで欲しい、ずっと。
﹁ジュリって、時々すごくかわいいよね﹂
頬を挟んで引き寄せると、鼻の頭にキスをした。見下ろす視線は、
照れたように逸らされる。けど、すぐに戻ってくる。熱を乗せて︱︱
745
Ⅳ︳16
ジュリの視線は唇や首筋を辿り、静かに熱を灯してゆく。
端正な顔が降りてきて、額や頬に口づける。耳朶を食まれて、び
くりと身体が跳ねた。
﹁ん⋮⋮っ﹂
耳穴にまで舌を潜らせるから、思わず顔を振って逃げる。顔の前
で交差させた腕を、あっさり引き剥がされた。
ふと一途な眼差しで、掴んだ光希の手を見やる。何かと思えば、
手首の内側に赤い線が走っていた。花を触った時、痛めたのかもし
れない⋮⋮。
﹁痛くないよ⋮⋮﹂
一応言ってみるが、ジュリは慰めるように、そこに唇で触れた。
手首に執着をみせて、労わるように傷を舐める。
﹁光希⋮⋮﹂
ついば
想いを込めた、切なくなるような囁き⋮⋮。
手首から肘の内側までを、軽く啄むようにして唇を落としてゆく。
夜着を捲られて、肉づきの良い胸の膨らみを揉みしだかれた。
﹁あ、ぅ⋮⋮んっ⋮⋮﹂
乳首を抓まれ、指の腹で擦られた途端に中心が疼く。咄嗟に振り
746
上げた腕を掴まれ、寝台に縫いとめられる。
ねぶ
空いた胸に顔を沈めると、乳首を唇で挟み舌で舐る。電気が流れ
たみたいに、ジュリの下で何度も身体は跳ねた。
こす
血流が巡り、中心は芯を帯びる。組み敷かれた下肢に、熱い猛り
が擦れる。光希だけじゃない、ジュリも⋮⋮。
乳首を吸われながら、長い指に濡れ始めた屹立を、つぅと撫で上
げられた。
﹁あ、ん⋮⋮っ﹂
腰が甘く疼いて、高く、あられもない声が口をついて、ジュリの
形のいい唇から、ふっと艶めいた微笑が洩れる。
腰紐に手をかけられ、協力するように腰を浮かすと、下着まで一
遍に脱がされた。上も脱がされ、光希だけ裸に剥かれる。
袖を軽く引っ張っると、ジュリは膝立ちになり、男らしい仕草で
上を脱ぎ捨てた。躊躇いなく下も脱ぐと、見事な肢体を惜しげもな
く晒す。
窓から射す星明かりを浴びて、淡い褐色の肌は煌めいて見える。
綺麗⋮⋮。
ジュリに見慣れる日なんて、永遠にこないのかもしれない。
びろうど
今でも、ふとした瞬間に見惚れてしまう。
しなやかな筋肉に覆われた天鵞絨の肌に誘われて、ゆっくり身体
を起こした。
割れた腹筋に手を這わせて感触を楽しんでいると、肩をとん、と
押されて再び倒される。背中がついた途端に、胸の膨らみを激しく
吸われた。
﹁っ、んっ⋮⋮あ⋮⋮っ!﹂
胸や腹をあちこち吸われながら、唇はどんどん下がってゆく。濡
747
れた屹立の先端にちゅっとキスされる。そのまま、滲み出す滴ごと
音を立てて啜られた。
﹁あ⋮⋮ぁ⋮⋮ああ⋮⋮っ!﹂
い
えもいわれぬ悦楽。根元から先端までねっとり舐めあげられ、軽
く達きかけた。
陶然としている間に、足を大きく押し広げられる。
空気に触れてひくつく窄まりに、ぬめりを絡めとった指先をつぷ
りと差し入れられる。
亀頭を熱い口内に含まれながら、後ろを優しく指で弄られる。抜
き差しされる度に、ぐぷんっと抽挿音が弾けた。
﹁や⋮⋮ぁ、ん⋮⋮っ!﹂
前と後ろを同時に責められ、悦楽を駆け上がる。
けれど、真っ白に意識を飛ばす直前で、ジュリはぴたりと手を止
めた。光希の身体を後から抱え直すと、両腿を押し開いて猛る剛直
を宛てがう。
緊張に強張る身体のあちこちに、優しいキスが落ちる。
ジュリの剛直を呑み込むのは時間がかかる⋮⋮息を吐きながら下
肢を弛緩させて、ゆっくり沈めてゆく。
﹁大丈夫⋮⋮ほら入った⋮⋮﹂
ジュリは満足そうに囁くと、圧迫感と充足感に喘ぐ身体を背後か
ら抱きしめた。乳首を指先で転がしながら、やんわり突き上げる。
﹁んっ⋮⋮あ⋮⋮っ!﹂
748
﹁気持ちいいよ⋮⋮﹂
耳朶を食まれ、吐息を吹き込むように囁かれると、下肢に力が入
りジュリを締めつけてしまう。
ゆったりとした擦り上げは、次第に激しい抽挿へと変わってゆく。
突き上げられる度に、光希の反り返った性器は何度も腹を打ち、熱
い滴を飛び散らせた。
﹁あ、あ、あ︱︱っ!﹂
終わらない律動に揺られながら、気が遠のくような絶頂を迎えた。
吐精を続ける間もジュリは止まらない。快楽は引き延ばされて、
思考は焼き切れそうになる。
ようやく引き抜かれたと思ったら、身体を仰向けに倒され、白濁
に濡れた性器を口内に含まれた。
﹁︱︱っ!? ジュリッ! やめ⋮⋮っ﹂
振り払おうと暴れても、ジュリは下肢を押さえつけて離さない。
音を立てて蜜口を啜りあげた。
二度目の絶頂がきて、背中は弓なりにしなる。一滴残らず吸い尽
くされる。
もう、言葉も出ない⋮⋮。
ぼんやり見上げていると、ジュリは身体を起こして唇の端につい
た白濁を舐めとった。光希の足を拡げて、柔らかくなった窄まりに、
未だ衰えぬ剛直を宛がう。
哀願するように力なく首を振ると、欲に濡れた青い双眸で甘く微
笑む。
﹁あと一回だけ⋮⋮ね?﹂
749
優しく挿入を果たすと、ゆったりと腰を使い始める。
緩やかな抽挿の合間に、身体を倒して唇を塞ぐ。舌を絡め、吸わ
れるうちに、疲れた体に熱が灯り、時間はかかったが次第に昂った。
するりと腰を撫でられ、ぐぐっと中心が反応する。
甘く穿たれながら、屹立を握りしめられると、身体は勝手に快感
を拾って蕩ける。
﹁あっ、あぁ⋮⋮っ!﹂
﹁︱︱ハ⋮⋮ッ﹂
逃げる腰を掴まれて、何度も引き戻される。最後は背が浮き上が
るほどに強く、最奥まで突き上げられた。
三度目の放熱を遂げながら、中を熱い飛沫で満たされていく︱︱。
ロザイン
﹁愛している、私の花嫁⋮⋮﹂
ジュリは、喘ぐ光希の唇に触れるだけのキスをする。優しい愛の
言葉を聞きながら、意識を手放した⋮⋮。
750
Ⅳ︳17
合同模擬演習から二日後。早朝。
カテドラル
光希は、典礼儀式に参列する為、ジュリと共にアルサーガ大神殿
を訪れた。
聖都アッサラームのどこにいても仰ぎ見ることができるように⋮
⋮と意図された大神殿は、実に巨大な建造物だ。
およそ三万人以上を収容できるとも言われている。
一番高い玉ねぎ形の尖塔に至っては、もはや陽が眩しすぎて仰ぎ
見ることすら叶わない。
重厚な石造りの堂内は林立する石柱に囲まれ、高みに穿たれた大
きな窓からは清らかな陽光が降り注いでいる。
あまりの美しさに、光希はしばらく圧倒されていた。
大神殿は一般参列者にも開放されており、堂内は見渡す限りの人
で溢れかえっている。
皇族やジュリ達の座る内陣には座席があるが、一般開放されてい
る主身廊にはない。皆床にじかに座って、礼拝の始まりを待ってい
た。
朝休の鐘が鳴り響く︱︱
典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始まると、少年聖歌隊によ
る天上の調べが堂内を満たす。
特に先頭に立つ少年の歌声は、群を抜いて素晴らしい。容姿にも
恵まれている。流れる灰銀髪、利発そうな灰青色の瞳。純白の聖衣
を纏い歌う姿はまさしく天使だ。
﹁綺麗な声だね⋮⋮﹂
こっそり隣に座るジュリに囁くと、ジュリも顔を寄せて耳元に囁
751
いた。
﹁エステルです。素晴らしい歌声ですが、十三になったので残念な
がら聖歌隊の在籍は今年が最後です﹂
﹁へぇ⋮⋮声代わりしていないなら、続ければいいのに﹂
﹁聖歌隊の伝統ですから﹂
﹁ふぅん⋮⋮﹂
メジュラ
聖歌は楽しく聞いていられたが、星詠神官が祭壇に上がり、祝詞
を詠み始めると、間もなく眠気に襲われ始めた。
頭がふらふらと左右に揺れ動く度に、隣でくすりと微笑が漏れる。
﹁だから言ったでしょう? 退屈だって⋮⋮﹂
密やかな囁きに、思わず口元には苦笑らしきものが浮かんだ。
退屈ではないのだが、淡々とした韻律、呪文の如し祝詞を延々聞
かされると、どうにも抗いがたい眠けが⋮⋮。
周囲の様子をそっと窺うと、信心深い人々は目を閉じて黙祷︱︱
胸の前で両手を交差し、静かに祈りを捧げていた。
﹁あと少しですよ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
気合いを入れ直して瞳を閉じると、光希もアッサラームの安寧や
よみ
皆の無事と幸せを無心に祈る。
神は、敬虔なる者を嘉したもう⋮⋮。
752
そら
星詠神官の祝詞は一刻ほど続き、最後は﹁アッサラームに栄光あ
れ﹂といった定型祝詞を参列者全員で諳んじて終わった。
その後は、邪気を祓う聖水をいただき、典礼儀式は終了となる。
ここからは自由退出が許されるので、静まり返っていた神殿は、
俄かにざわつき始めた。
まだ幼い下位の神官達が、祭壇の泉から汲み上げた聖水を、参列
者に配ってまわっている。
皇族と同様、内陣の先頭列に座っている光希は真っ先にいただい
た。
十にも満たない少年が、頬を染めて恭しく差し出す様子に、自然
と笑みを誘われる。
﹁ありがとう﹂
少年は嬉しそうにはにかむと、ぺこりと会釈して次なる信徒の前
に立つ。
﹁では行きますか?﹂
ジュリは対岸で手を振るアースレイヤを無視して、光希に声をか
けた。アースレイヤの隣には、リビライラとサンベリアの姿もある。
控えめに会釈するサンベリアに気を取られたが、ジュリに手を握
られて視線を戻す。
﹁うん。とりあえず、出ようか﹂
主身廊に降りると、道すがら大勢の参列者に声をかけられた。笑
みを貼り付けて素通りしていると、ケイトの姿を見つけた。
﹁殿下! もうお身体は平気なのですか?﹂
753
﹁ケイト! ありがとう、もう平気。明日から復帰するんだ﹂
久しぶりに会えて嬉しい。お互いにはしゃいだ声が出た。近況報
告をしようとすると、ジュリに肩を抱き寄せられた。
﹁︱︱! ムーン・シャイターン、ご挨拶が遅れて申し訳ありませ
ん﹂
かしこ
ケイトは顔色を変えて最敬礼で畏まった。
﹁お早う、ケイト。光希は病み上がりですから、明日からよく様子
を見てあげて欲しい。どうかよろしく﹂
﹁は、は、はい⋮⋮っ! こちらこそ、よろしくお願いいたします。
一同、殿下の復帰を心よりお待ちしております﹂
ケイトは真っ赤になって、何度も頭を下げている。
名残り惜しいが、同行してくれているジュリにあまり時間もない
ので、後ろ髪を引かれつつ大神殿を後にした。
754
Ⅳ︳18
人の少ない深緑の裏庭に出ると、大きな幹に並んでもたれかかっ
た。
鮮やかな黄緑の合間から、木漏れ日がきらきらと降り注ぐ。木陰
に流れる涼風は、二人の頬や髪を撫でてゆく。
和やかな空気を壊す覚悟で、光希はずっと気になっていたことを
切り出してみた。
﹁ジュリ、あのさ⋮⋮サンベリア様のことなんだけど﹂
見下ろす涼しげな双眸が、スッと細められた。怯んでなるものか
と続ける。
﹁男の子が生まれた場合、一切の継承権を放棄することはできない
のかな?﹂
﹁もう東妃の懐妊は周知されています。彼女個人が主張したところ
で、周囲は認めないでしょう﹂
﹁アースレイヤ皇太子が許しても?﹂
﹁皇太子の身にありながら、生まれてもいない第二子を廃嫡に処す
など、許されないでしょう﹂
﹁ジュリは?﹂
﹁︱︱光希、懐妊を認められた東妃に、私が手を差し伸べることは
755
できません。ベクテール家にしてみれば、待望の懐妊です。男子な
ら権威も見えてくる。彼女の目線に立たず、全体を見渡せば国を挙
げての吉報なんですよ?﹂
視線を伏せて、諭す眼差しから逃げた。
﹁⋮⋮そのせいで殺されたら、元も子もないじゃない﹂
﹁こんなところで、滅多なことを言わないでください。その可能性
を含めて、彼女が自分で対処すべきです。ベクテール家も周到な警
備で彼女を守っていますよ﹂
殺されなければ、それでいいのだろうか。この先も続く長い人生
を、憂鬱を抱えながら過ごすしかないのか⋮⋮。
ジュリは光希の肩を抱き寄せると、頭のてっぺんにキスを落とし
た。
﹁光希が気に病むことではありません。忘れてください﹂
忘れたくとも忘れられない。この先もなんだかんだで、彼女とは
顔を合わせるのだ。
﹁それより、今日はこの後どうしますか?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
ふけ
思いに耽るうちに、話題は移ってしまった。ジュリは光希の手を
握りしめると、今度こそ返答を求めて見つめてきた。
﹁サリヴァンに会いに行きたいんだ﹂
756
﹁いいですよ。もう少し時間がありますから、一緒に行きます﹂
﹁本当? まだ時間ある?﹂
﹁はい。朝時課の鐘が鳴るまででしたら﹂
﹁それなら⋮⋮それまで二人で過ごさない? サリヴァンには、後
でルスタムと一緒に会いに行くから﹂
朝時課の鐘が鳴るまで、あと一刻はあるだろう。ジュリは嬉しそ
うに微笑んだ。
﹁もちろん、構いませんよ﹂
カテドラル
意気投合したところで、大神殿前の広場に面した庭へと向かう。
手を繋いで歩いていると、どこからか少年の話し声が聞こえてきた。
﹁⋮⋮リー、どうしてお勤めを果たさないの。今日はムーン・シャ
イターンも、殿下もお見えになっていたのに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ル、だって⋮⋮、⋮⋮は嫌です﹂
どうやら、話題はジュリと光希に及ぶらしい。このまま歩いて行
くと、姿を見られてしまう。鉢合わせるのは少々気まずい。
﹁聖歌隊の少年ですね﹂
﹁あれ、あの子、さっき歌っていた子だ⋮⋮﹂
757
思わずじっと見つめていると、視線に気付いたように幼い少年達
ひざまず
は振り向いた。ジュリと光希に気付くなり、慌てふためいてその場
に跪く。
﹁こんにちは⋮⋮あの、綺麗な歌声でした。思わず聞き惚れるくら
い﹂
なるべく優しく声をかけると、少年は頬を紅潮させて﹁ありがと
うございます﹂と、綺麗な声でお礼を口にした。その隣で、更に幼
い少年が目を丸くしてこちらを見ている。
﹁ムーン・シャイターンと、殿下⋮⋮?﹂
その少年の声もとても可愛らしい。思わず笑みかけた。
﹁また、歌声を聞けることを楽しみにしています﹂
決して社交辞令ではない。典礼儀式に参加する日は、彼の歌声を
また聞かせて欲しい。
﹁は、はい⋮⋮っ! ぜひ、またいらしてください。お待ちしてお
ります﹂
顔を輝かせる少年に、光希もまたにこやかな笑みを向けた。
+
早朝の散歩もなかなか気持ちいいものだ。
758
く
ここには、華やかな公宮の庭園とはまた違った魅力がある。
朽ちた煉瓦の垣根に、蔦が絡み、錆付いた園芸道具に、太陽みた
こしょくそうぜん
いな黄金色のジャスミンが寄り添っている。
過ぎ去りし時間の跡をとどめるような、古色蒼然とした趣のある
庭だ。
﹁宮殿の庭って、どこも綺麗だよね﹂
﹁どこが一番好きですか?﹂
それは難しい質問だ。どれも素晴らしい庭園ばかりだし、それぞ
れ違った魅力がある⋮⋮その中でも、選ぶとすればやはり、
﹁屋敷の庭かなぁ。あちこちで見かけるから、ジャスミンをすごく
好きになったよ。正門に面したクロッカスも好き。一面綺麗に咲い
たよね⋮⋮ジュリは?﹂
﹁私も同じです﹂
甘い眼差しに見下ろされて、不意打ちで鼓動が跳ねた。なぜ照れ
ているのか判らないままに、視線を逸らす。
ふと直進した先の十文字通路に日時計のオブジェを見つけた。
﹁また日時計だ。二つ目だね。天球儀も見かけたし、大神殿の庭っ
て神秘的だね﹂
アルディーヴァラン
﹁神々の世界を信奉する、天文学信仰の膝元ですから。世界の運行
に思いを馳せる仕組みや装飾が、庭園にも反映されているんですよ﹂
﹁ふぅん⋮⋮庭園にもいろいろあるんだね。公宮は薔薇っ、聖域は
759
真っ白っ、ここは神秘的⋮⋮って感じがする﹂
ざっくりした感想を漏らすと、ジュリは愉快げに微笑んだ。
緻密な設計の元に敷かれたであろう庭園を、一言で評したのが可
笑しかったのかもしれない。
760
Ⅳ︳19
久しぶりにサリヴァンを訪ねると、相変わらず穏やかな笑みで迎
えてくれた。一段高い窓際の絨緞へ案内してくれる。
いつ見ても、とても落ち着いた内装の書斎である。
灰色の幾何学模様の床石に、窓から降り注ぐ光が反射して仄かに
煌めいている。部屋の左右には背の高い本棚があり、幾種もの蔵書
が整然と並べられている。
﹁今朝、初めてジュリと一緒に、典礼儀式に出席しました﹂
早速、今朝の典礼儀式について報告すると、
くろがね
﹁良いことですよ。祈りを捧げることは、あらゆることに通じてい
ます。鉄を扱う際にも触れる境地ですから、きっと御身の助けとな
るでしょう﹂
的確すぎる言葉が返り、光希は目を丸くした。心の内を読まれた
のかと思った。
﹁鉄を打てなくなった時、天に見捨てられたかと思いました。僕の
信仰心が足りないせいかと⋮⋮﹂
しょうせい
サリヴァンは破顔すると、愉快そうに笑声を上げる。
ロザイン
﹁何をおっしゃる。花嫁をシャイターンが見捨てるだなんて﹂
そうだと信じたいが、今日の典礼儀式を思い返すと不安を覚える。
761
よみ
眠たげな生欠伸を噛み殺していた光希を、神は嘉してくれるだろう
か?
﹁ムーン・シャイターンからは、復調されたとお聞きしましたよ﹂
笑いを収めたサリヴァンはふと光希を見やる。
がいぜんせい
﹁はい、おかげさまで⋮⋮これを機に、蓋然性を高めたいと思った
というか﹂
しどろもどろで応えると、サリヴァンは先を促すように頷く。
﹁実は神力をどう鉄に宿すのか、きちんと理解はしていないんです
⋮⋮いつも無我夢中のうちに、なんとかできたって感じで﹂
法則や仕組みがあるのなら、ぜひ教えを請いたい。
﹁理屈を介さずとも鉄を打てば響くのは、殿下が御力を引き寄せる
才に恵まれているからでしょう﹂
﹁理屈を介したいんです﹂
即答すると、サリヴァンは微苦笑を浮かべた。生徒を見やる師の
ような眼差しを向ける。
﹁理屈というより⋮⋮日々の暮らしと共に培う感覚なのです。どの
ような生まれであれ、御力に触れずには生きていけません。それは、
農民なら鉄を手に土を耕した時から、戦士なら武器を手にした時か
ら、神官なら天球儀の指輪をはめた時から自然と備わってゆくもの﹂
762
ふけ
経験ということだろうか⋮⋮。視線はそのままに思い耽っている
と、師は右手に嵌めていた指輪を外して見せた。
なんだろうと見ていると、指輪は意外な形に化けた。留め金を支
あかし
柱に広げることで、天球儀の形になる、折りたたみ式の指輪だった。
アルディーヴァラン
﹁広げると天球儀になります。神官は天文学信徒でもある。その証
を身に着けることで、意識を高め、広く雄大な神々の世界に、思い
を馳せているのです。ほんの一例ですが⋮⋮こうした日々の繰り返
しにより、自然と御力を傍に感じるようになるのです﹂
﹁すごい⋮⋮指輪にこんな仕掛けがあったなんて。留め金や細工が
すごく精巧ですね。とても繊細に作られている⋮⋮﹂
三連の指輪を留め金で上手く制御している。細やかな設計の元に
作られたのだろう。天文学への愛情と、熱意が伝わってくる指輪だ。
﹁鉄に触れるうちに、ごく自然に介せるようになりましょう。苦慮
焦っても仕方ない
と言われた気がした。
するからこそ鉄も美しく鳴るというもの﹂
やんわりと
ふと公宮へ来たばかりの頃を思い出す。ジュリとすれ違っていた
時、同じように言葉をかけてもらった覚えがある。また焦り過ぎて
いるのだろうか⋮⋮。
﹁今度、神官宿舎を訪ねると良いですよ。イブリフという名の、幼
いシャイターンを育てた老師がおります。彼の目線で一日を見ると、
様々なものが映りましょう﹂
﹁ジュリを育てた人ですか?﹂
763
俄然興味を引かれた。会える者なら、ぜひ会ってみたい。
﹁ムーン・シャイターンにもご一緒していただきたいものです。時
には、心を落ち着かせる静寂も必要です﹂
﹁では、ジュリに聞いてみますね﹂
サリヴァンは穏やかな笑みで首肯した。
764
Ⅳ︳20
ふけ
屋敷に戻ると、図書室から天文学信仰の資料を持ち出して、絨緞
に寝そべり読み耽った。
﹁熱中されていますね﹂
ナフィーサは紅茶を給仕しながら、光希の手元を見て微笑んだ。
﹁うん、ちょっと興味が湧いて⋮⋮ナフィーサも、神官宿舎で暮ら
していたんだよね?﹂
﹁はい。五つの時から、殿下の傍仕えに召し上げられるまで、宿舎
で暮らしておりました﹂
﹁どんなところ?﹂
なら
﹁シャイターンの教えに倣って祈りと労働のうちに共同生活を送る
場です。アッサラームの中でも特に厳しい戒律で知られております﹂
﹁五歳から暮らしていたの?﹂
光希が眼を瞠って尋ねると、ナフィーサはどこか遠い眼をして、
当時の記憶を紐解くように口を開く。
﹁そうですね⋮⋮それまでは何不自由なく暮らしていましたから、
宿舎に移ってからは泣いてばかりいました。ですが⋮⋮静寂の中で、
見えてくるものもたくさんあります。今ではアッサラームの思し召
765
しに感謝しておりますよ﹂
﹁ナフィーサって⋮⋮本当に十一歳?﹂
少年は大人びた表情で﹁本当でございますよ﹂と微笑んだ。光希
よりよほど達観している。
ふとナフィーサの右手に嵌められた指輪に視線が留まった。
﹁それ天球儀の指輪?﹂
﹁はい﹂
﹁見せてくれる?﹂
ナフィーサから指輪を受けとると、留め金を支点に指輪を広げて
みせた。
﹁よくできているよねぇ。数学的な美意識すら感じる。アッサラー
ムの天文学信仰って、もっと霊的な話だと思ってた。神様が実在し
ているし⋮⋮でも、僕の知っている数学的要素も多い気がする﹂
﹁万象の全てを計ることは出来ませんが、数式に表せることも多い
ですからね。天上人の数式とは、どのようなものなのですか?﹂
それは難しい質問だ。
﹁うーん⋮⋮例えば、空に浮かぶ遠くの星を観測したり、天体の運
アルディーヴァラン
行に関する法則ができたり、万有引力の法則が発見されたり、僕の
世界でも皆、宇宙に⋮⋮神々の世界に夢中だったんだ﹂
766
ナフィーサは﹁同じでございますね﹂と眼を輝かせて微笑んだ。
本当は彼の語る宇宙と、光希の知っている宇宙には認識の差があ
ることを知っている。
けれど、それをわざわざ指摘して問い質す気はない。彼等の信じ
ているものを、否定する必要なんてどこにもないのだ。
光希にも、もてる知識でこの世界を解き明かせやしない。最たる
は、紛うことなき存在するシャイターンの存在だ。
聖都
を作ったとし
天文学信仰の教義では、シャイターンは西の海に大陸を浮かべ、
一番最初に地上の星たる、全ての威を集める
ている。
カテドラル
実際、アッサラームには、ムーン・シャイターン、建国皇家、そ
して大神殿の権威が全て揃い、金色に光り輝いている⋮⋮。
神話はそのまま実話に通じるところが、この世界のすごいところ
だ。
青い星を仰いで、ふと閃いた。
天体望遠鏡を自作できないだろうか。もしかしたら、ジュリが神
眼で見る世界を、ほんの少しでも覗けるかもしれない。
想像を膨らませて図面を起こすうちに日は暮れて、湯を浴びてか
らも設計を続けた。明日アルシャッドに見せるつもりだ。
テラスに置いた照明の明かりで手元を凝視していると、ふっと影
が差した。
﹁何をしているんですか?﹂
﹁ジュリ! お帰り﹂
﹁これは何の図面?﹂
思慮深い青い双眸で、光希の手元を覗きこむ。
767
﹁あぁ⋮⋮天体望遠鏡を考えてたの。これがあれば、神力に頼らな
くても、ある程度は肉眼で遠くの星を見ることができるかなと思っ
て﹂
夜空を仰いで応えると、ジュリは隣に座り光希を抱き寄せた。
﹁それは⋮⋮あの星の向こうを見てみたいから?﹂
声には探るような響きがあった。
﹁あ⋮⋮違うからね。あの星が僕の知っている星と違うことは判っ
てるんだ﹂
ジュリが言うには、心眼で垣間見る青い星には、空に浮かぶ神殿
があったり、背中に羽を持つ佳人が翔けていたりするらしい。まさ
しくこの世ならざる神の世界だ。
﹁ジュリが見ている世界を見てみたいなって思って﹂
﹁私は、あまり見せたくないな⋮⋮﹂
思わずジュリを見つめると、憂いを含んだ瞳に迎えられた。
﹁光希が遠くへ、行ってしまいそうな気がするから⋮⋮﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
よぎ
否定しようとしたら、不意に懐かしい故郷が胸を過った。家族の
顔や街並みが脳裏に閃く。もう二度と帰れない過ぎ去りし世界。懐
かしい人達は、元気にしているだろうか⋮⋮。
768
﹁ん⋮⋮﹂
心を飛ばしていると、ふと唇を塞がれた。触れては離れて⋮⋮何
たちま
度も柔らかく唇を吸われる。
忽ち心を引き戻された。宝石のような青い瞳が視界いっぱいに映
る。光希の帰る場所はここだけ。今度は自分から唇を重ねた。
769
Ⅳ︳21
寝台に寝そべりながら図面に手を加えていると、
﹁明日からクロガネ隊でしょう? 程々にしてはいかがですか?﹂
呆れを含んだ声が頭上に降ってきた。つい、生返事で応える。
﹁︱︱聞いていないでしょう?﹂
うん、と言いそうになり流石に自重した。
めく
手を休めて隣を見上げと、ジュリは上半身を背もたれに預けて、
なにやら資料を捲っていた。
﹁ジュリこそ⋮⋮まだ仕事?﹂
﹁少しだけ。陸路偵察任務の編隊をそろそろ考えたいのですが、中
央とベルシアの両方と交渉中なので少々揉めていまして⋮⋮﹂
﹁陸路の編隊って歩兵隊も? アージュも行くの?﹂
﹁いえ、彼には残ってもらいます。特殊部隊には行ってもらいます
が﹂
﹁また? こないだ負傷したばかりなのに。特殊部隊の任期ってど
れくらいなの?﹂
特殊部隊所属のユニヴァースは、合同模擬演習でジュリと対戦し
770
た際に肋骨を痛めた。ジュリと一緒に見舞いに行っら、割と元気そ
うにしていたが怪我人である。
﹁開戦前には解体しますよ﹂
﹁ジュリも⋮⋮また遠征するの?﹂
﹁作戦が並列しているうちは、しばらくアッサラームに留まります。
陸路はナディアに任せようかと。開戦すれば当然私も前線に立つこ
とになりますが⋮⋮﹂
大戦が近づいていると思うと憂鬱になる。今からこんなことで、
ふけ
いざ遠征となった時、耐えられるのだろうか⋮⋮。
図面に視線を落としながら埒もない思いに耽っていると、ジュリ
の手が伸びてきて、上から図面を取り上げられた。
﹁あ⋮⋮﹂
﹁いつまで見ているの?﹂
﹁返して﹂
取り返そうと腕を伸ばしたら、更に遠ざけられた。無言で見つめ
合う。膝立ちになって奪い返そうとしたら、ジュリも応戦してきた。
﹁大人げない﹂
﹁光希より年下ですから﹂
﹁ふはっ、こういう時ばっかり!﹂
771
つい笑ってしまった。つられたようにジュリも笑顔になる。笑っ
た拍子に思考が飛び、そういえばと思い出した。
﹁そうそう、サリヴァンがね、今度ジュリと一緒に神官宿舎を見に
おいでって言っていたよ。イブリフ老師に会うといいって⋮⋮﹂
﹁老師に?﹂
﹁僕、行ってみたい。ジュリの都合はどう?﹂
﹁そうですね⋮⋮判りました。調整しますから、少し時間をくださ
い﹂
光希は笑顔で首肯する。ジュリは手にしていた書類を片付けると、
光希の腕を引っ張って抱き寄せた。
綺麗な顔が間近に迫り、思わず鼓動が跳ねる。
急に流れ出した甘い空気にどきどきしていると、ゆっくり唇を塞
がれた。
から
瞳を閉じれば、唇を割って熱い舌が潜りこんでくる。舌を触れ合
わせると、味わうように搦め捕られる。
またが
深いキスを交わしながら、するりと腰を撫でられ⋮⋮太腿の付け
根をぐいっと持ち上げられた。ジュリの上に跨る姿勢になり、下腹
部は隙間なく密着する。猛りを布越しに感じて、顔は熱くなった。
長いキスの後に、互いの吐息がかかる距離で見つめ合う。
青い双眸に恋情を乗せて訴えてくる。ぞくりと震えるほどの深い
想い⋮⋮貴方は、私のもの、絶対に離さない︱︱。
後ろに逃げると、追い縋る唇に吐息すら奪われた。
﹁んっ! は⋮⋮っ、ぁ⋮⋮﹂
772
﹁︱︱ッ、ン⋮⋮﹂
甘いキスをしているのに、切なさがこみあげる。ジュリとするキ
スが好きだ。望めばいつでも与えて欲しい。
不安なんか、溶けてしまえばいいのに⋮⋮!
顔を傾けて、深く交差する口づけに、光希の中心もいつの間にか
硬く勃ち上がっていた。
ねぶ
はじ
ジュリは器用に光希の夜着をたくし上げると、胸の膨らみごと口
に含んだ。唇で乳首を挟んで舌で舐る。もう片方も指で細かく弾か
れ、背中は限界まで弓なりにしなった。
﹁んっ、は⋮⋮っ﹂
快感を逃がそうと腰をよじると、下着の中に直接手を入れられた。
尻臀を丸く包む大きな手に、形が変わるほど揉みしだかれる。
長い指が割れ目をなぞり、秘めやかな窄まりを探られると、身体
は逃げようとする。
﹁や⋮⋮﹂
強い腕が、逃がさないとばかりに下半身を押さえつける。乳首を
しゃぶられながら窄まりを弄られ、指先が差し入れられる。
﹁や、ぁ⋮⋮っ﹂
身体のあちこちにキスをされながら、あっという間に裸に剥かれ
た。隠れるようにジュリの胸に顔を埋めて、夜着を握りしめている
と、原始的な腰使いで下肢を刺激された。
堪らずに身体を浮かした瞬間、反り返った屹立を優しく握り込ま
773
れた。突き抜けるような強烈な快感。
﹁はぅ⋮⋮っ!﹂
い
危うく達きかけた。膝立ちになるよう促され、その隙にジュリも
ひだ
服を脱ぎ捨てる。香油を取り出すと、光希の下半身にたっぷりとか
けた。
濡らした指をつぷりと根本まで挿れると、襞を擦り上げながら前
後させ始める⋮⋮。
﹁ん⋮⋮っ﹂
後孔を解されながら、屹立を扱かれた。括れをくすぐられ、袋ま
でやんわりと揉みこまれる。
合間に乳首を舐められて、昂りは脈打ち腹を打つほどに反り返っ
た。孔がひくついて、食まされた指を締めつけてしまう︱︱。
﹁︱︱挿れるよ﹂
欲に濡れた瞳に見つめられながら、猛りを埋め込まれる。奥まで
はい
入ったジュリの熱が、ゆっくりと動き始める。中を擦りながら限界
まで引き抜いては、再びゆっくりと、奥へ奥へと挿入っていく。
﹁あっ、ン⋮⋮ッ、あ⋮⋮っ、ぁ⋮⋮!﹂
えぐ
乳首を食まれ、性器を弄られながら、後ろを焦らすように抉られ
た。何度も、何度も⋮⋮。
激しい抽挿よりも、波間をたゆたうような腰の動きが好きだ。深
くて淫らで甘くて⋮⋮大切にされていると思わせてくれる。
自分よりも光希を優先しようとする、ジュリの優しさ。強い愛を
774
感じる。守られているとも。
この瞬間だけは、あらゆる不安から遠ざかっていられる。
与えられる熱に身を任せ、何も考えずにどこまでも二人で昇りつ
めてゆく。
﹁光希⋮⋮﹂
前立腺の傍を擦り上げられて、一際強く腰が跳ねた。集中的にそ
こを責められ、えもいわれぬ快楽に支配される。
堪えきれず、反り返った屹立から精液が勢いよく噴きあがった。
﹁や⋮⋮っ、あぁ︱︱っ!﹂
うが
嵐のような放熱。中を抉るジュリを食いしめた。艶っぽい呻き声
と共に、最奥を穿たれる。
﹁⋮⋮ッ⋮⋮!﹂
﹁あ、ぁ⋮⋮っ⋮⋮﹂
ジュリが達すると同時に、光希もまた細切れに吐精した。
くたりと体重を預けてもたれかかると、望むままに力強い腕で抱
きしめてくれる。光希も首に両腕を回して、何も言わず、ただしが
みついた。
775
Ⅳ︳22
光希は過労で倒れてから、十三日ぶりにクロガネ隊へ復帰した。
工房仲間は皆、暖かく迎えてくれた。懐かしい屑鉄と工房の匂い。
顔ぶれを眺めれば、胸の内には喜びがこみあげた。
﹁お元気になられて良かった﹂
アルシャッドは長い前髪と銀縁眼鏡の奥から、眼を和ませる。
﹁先輩、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした﹂
深く頭を下げると、彼は途端に狼狽えて手を左右に振った。
﹁止してください、そんな、どうか顔を上げて。大事ありませんよ﹂
﹁今日からまた、よろしくお願いします﹂
一礼すると、アルシャッドは生徒の発表を愛でる師の眼差しで首
肯する。
光希が倒れる前に持っていた火急の仕事は全て、アルシャッドを
始めとする同僚達が引き取ってくれた。残された案件は、納期期限
のないものばかりだ。
﹁あれ、これナディア将軍だ⋮⋮﹂
未処理の発注書を整理していると、署名された名前に思わず呟い
た。
776
依頼の殆どは刀身彫刻だが、彼だけは弦楽器に合わせる鉄細工を
依頼していた。横からアルシャッドがひょいと発注書を覗き込む。
﹁へぇ、ラムーダか。面白そうな依頼ですね﹂
るいてき
ラムーダは、涙滴形の弦楽器の名前だ。ふと合同模擬演習でアン
ジェリカが話していたことを思い出した。
﹁そういえば、ナディア将軍はラムーダ演奏が上手なんだっけ⋮⋮﹂
くろがね
﹁鉄や硝子と違って木は、自然の中で生まれ育ってきた歴史を持つ
生き物です。鉄細工と合せれば、木の持つ力と鉄の造形との結びつ
きを体感できますよ﹂
なにやら高尚な説明に、光希は不得要領に頷いた。いかにも難し
そうに聞こえる。
﹁時間がかかりそうです⋮⋮﹂
﹁納期指定もありませんし、とりあえず頭の隅に留めておきましょ
う。良い依頼ですよ﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
﹁大量受注が入っているので、当面は殿下もそちらに加わってくだ
さい﹂
ノーグロッジ作戦に続く、陸路偵察任務に向けた大量受注のこと
だ。
777
﹁忙しくなりますが、無理はせずに取り組みましょうね﹂
﹁はい!﹂
﹁まだ本調子ではないのですから、歩兵隊訓練への参加も控えた方
がいいと思いますよ﹂
﹁気をつけます。あの⋮⋮今度、神官宿舎へ行こうと思っています。
その日はお休みしてもいいですか?﹂
アルシャッドは笑顔で快諾すると﹁そういえば﹂と継いだ。
﹁典礼儀式に参列されたんですよね。ケイト達から聞きましたよ。
いかがでしたか?﹂
﹁感動しました。聖歌も素晴らしかったし、祝詞はまだよく判らな
いんですけど⋮⋮﹂
﹁すごく内面と向かい合う一時ですよね。一心に鉄を打つ時と、少
し似ていると思います﹂
﹁そういう感覚的なものを、どうにか身につけられないか、サリヴ
ァン師に聞いてみたら、地道に頑張れみたいなことを言われました
⋮⋮﹂
アルシャッドは噴き出した。
﹁直球ですねぇ﹂
﹁近道なんてありませんよね⋮⋮話の流れで、天球儀の指輪を見せ
778
てもらいました。すごく緻密な造りですよね﹂
﹁あぁ、真鍮の。つい閉じたり開いたり、弄っちゃいますよね﹂
そうそう、と光希は笑った。神官達もきっと、息抜きにあの指輪
を弄って気を紛らわせているに違いない。ふと望遠鏡のことを思い
出した。
﹁先輩、昨日閃いたんですけど、簡単な天体望遠鏡を作れないでし
ょうか? 工房にある材料で、どうにかなりそうな気がするんです
けど⋮⋮﹂
昨夜描いた図面を拡げてみせた。
円柱の外側に接眼レンズをつけて、どうにかして、中に上手いこ
と鏡を入れれば、お手軽な望遠鏡ができそうな予感がする。
﹁へぇ、望遠鏡! 素晴らしい閃きですねぇ﹂
アルシャッドは眼を輝かせた。元は自分の閃きでないとはいえ、
彼に褒められると嬉しい。光希は照れくさげに頭をかいた。
﹁偉大な先人の閃きのおかげです﹂
きょうとう
﹁鏡筒は何でも良さそうですね。眼鏡をばらして代用して⋮⋮硝子
は工房のを拝借して、研磨で削ればできそうですね﹂
﹁本当すか!?﹂
﹁はい。そんなに難しい仕組みではなさそうですし﹂
779
アルシャッドの天才ぶりにはつくづく感嘆させられる⋮⋮。彼は
光希の拙い図面に手を加え、すらすらと材料名を追記し始めた。ま
たち
るで答案を見ながら書いているかのような、迷いのない手つきだ。
元々発明が好きな性質なのだろう。
サイードが様子を見にくるまで、二人で熱中して図面を覗き込み、
望遠鏡話に花を咲かせた。
780
Ⅳ︳23
忙しげな軍舎に、夜休の鐘が鳴り響く。
光希はアージュと共に、軍舎の看護室を訪れた。入った途端に、
部屋中の視線は光希へと向かう。どこへ行っても歓迎されるのは嬉
しいが、落ち着かないのもまた事実だ。
紗で遮られた白い寝台の傍へ近寄ると、光希に気付いたユニヴァ
ースは、えへらっと笑みかけた。
﹁いらっしゃい、殿下﹂
﹁調子はどう?﹂
﹁大分いいですよ。お一人ですか? ムーン・シャイターンは?﹂
ユニヴァースは首を伸ばして、光希の背後に人影を探す。
﹁僕とアージュだけだよ﹂
応えると、ユニヴァースは視線を戻して心配げに口を開いた。
﹁今日から復帰されたんですよね、体調は平気ですか?﹂
﹁うん、平気だよ﹂
﹁殿下、これ⋮⋮﹂
ユニヴァースはポケットから何やら取り出すと、光希へ手渡そう
781
とした。
刹那、アージュは目にも止まらぬ速さで短剣を抜き放つ。瞬閃。
幾筋かの銀糸は、はらりと宙を舞った。
﹁アージュッ!?﹂
﹁殺す気かっ!?﹂
アージュは油断なく短剣の切っ先をユニヴァースに向けている。
﹁殿下に触ったら、斬るように言われています﹂
﹁何それっ!?﹂
﹁まだ触ってねぇよ!﹂
とんきょう
ほぼ同時に、光希は頓狂な声を出し、ユニヴァースは呻くように
喚いた。
﹁⋮⋮まだ?﹂
アージュの眼が据わった。ゆらりと殺気まで立ち昇る。光希は慌
てて、短剣を持つ腕を掴んだ。
﹁お、落ち着いてっ!﹂
﹁落ち着けよ、何もしないよ。これを渡したかっただけだ⋮⋮﹂
再び光希へ伸ばされた手を、アージュは空いている平手で叩き落
とした。何かが床に落ちる。
﹁お前ね⋮⋮﹂
782
ユニヴァースは呆れ顔だ。警戒姿勢を解かないアージュの傍で、
光希は床に落ちたものを拾い上げた。
﹁これ⋮⋮﹂
様々な装飾が意匠された柔木には、見覚えがあった。
以前、サンマール広場に出掛けた際に、ユニヴァースにもらい、
同じ日に失くしてしまったもの⋮⋮。
声もなく凝視していると、ユニヴァースは照れくさげに口を開い
た。
﹁街へ寄った時ついでに買ったんです。お土産です﹂
﹁ありがとう⋮⋮﹂
つい先日、ジュリと見舞いにきた時は、渡す素振りも見せなかっ
たのに。ずっと機会を窺っていたのだろうか⋮⋮。
﹁殿下、あれから、宮殿の外へ出掛けたことはありますか?﹂
光希は沈黙した。
﹁息抜きも大切ですよ。たまには出掛けてください。ムーン・シャ
イターンが一緒なら、恐いものなんてないでしょう?﹂
自分の方が重症なのに、眼差しには真剣な気遣いの色が浮かんで
いる。
﹁そうだね⋮⋮今度、機会があったら行ってみるよ﹂
783
柔木に視線を落としたまま応えた。せっかく、きっかけをもらえ
たのだから。あの日の辛い記憶も、乗り越えてゆきたい。
﹁俺で良ければ、いつでもお共しますよ﹂
﹁黙れ﹂
ユニヴァースもアージュも相変わらずだ。
三人で過ごす空気は同世代の気安さに似ていて、一緒にいると癒
される。
生まれや立場は違えど、光希は密かに、二人のことを大切な友達
のように想っていた。
﹁おい、ちびっ子。狂犬。しっかり殿下を護衛しろよ﹂
ユニヴァースは、自分より小柄な少年の頭をぺしっと叩いた⋮⋮
いい奴なのは間違いないが、誰にでも喧嘩をふっかける態度だけは、
何とかして欲しい。
﹁⋮⋮斬る﹂
アージュはきれた。両手に短剣を構えて、本当に寝台の上のユニ
ヴァースに襲いかかる。
﹁当たらねぇなー!﹂
﹁死ね﹂
怪我人のユニヴァースは元気いっぱいだ。アージュの殺気がなけ
れば、じゃれているようにも見える。
784
﹁止めてよ、二人共︱︱っ!﹂
﹁てめぇら! ここは病室だっつってんだろぉが︱︱っ!﹂
看護長が仲裁に入り、どうにか事態は収束した。
785
Ⅳ︳24
とばり
夜の帳が下りた公宮。屋敷の工房。
つち
光希はリハビリを兼ねて刀身彫刻に熱中している。槌と釘を手に、
下描きを入れたシャイターンの竜を彫る。
鉄を打つたびに、キィンと綺麗な音色が響いた。いい音だ。大分
調子を取り戻せている。
にやにや笑っていると、手を滑らせた拍子にガッといらぬ傷をつ
けてしまった。無心の境地は、まだまだ遥かに遠い⋮⋮。
﹁︱︱光希﹂
不意に背中に声をかけられた。
﹁あ、お帰り﹂
﹁もう朝課の鐘が鳴りましたよ﹂
傍へやってきたジュリに、背中から抱きしめられた。ちゅっと頭
のてっぺんにキスされる。
﹁二日後の朝なら時間を作れそうです。神官宿舎へ行きます?﹂
光希は眼を輝かせた。
﹁行こう。僕もクロガネ隊に話しておく﹂
﹁今日はどうでした?﹂
786
﹁少し疲れたけど、平気だよ。夜休の鐘が鳴ったら工房から追い出
された。残業させてくれないんだ﹂
﹁させるなと言ってありますしね﹂
﹁えぇ? 少しくらいなら平気だよ。皆忙しそうだし⋮⋮﹂
道理で皆して過保護だったわけだ。
﹁病み上がりなんですから⋮⋮﹂
日中の様子を思い出していると、頬を掌の甲に撫でられた。見上
げると、探るような眼差しと眼が合う。
﹁ユニヴァースに会いに行ったの?﹂
疾しいことは何もないのに、つい背筋が伸びた。
合同模擬演習を終えて、ジュリによるユニヴァース面会禁止令は
一応、解除されている。
﹁⋮⋮アージュもいたよ?﹂
﹁当たり前です﹂
ジュリの返事はそっけない。
﹁お見舞いだよ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
787
﹁怒らないでよ。アージュが十分暴れたから、ちょっかい出される
暇もなかったよ﹂
ジュリはどこか不服そうに沈黙した。
﹁落ち着いたらさ、宮殿の外へ遊びに行こうよ。ジュリと一緒に行
きたいな﹂
明るい口調で誘うと、ようやく笑みかけてくれる。
﹁しばらく、歩兵隊訓練は休もうと思う﹂
﹁その方がいいでしょう﹂
﹁代わりに、典礼儀式になるべく参加したい﹂
﹁判りました。私も行ける日は一緒に行きましょう﹂
ジュリは今日も一日軍議漬けだったらしく、少々疲れた顔をして
いた。朝は早くて、夜は遅い。彼の方こそ、過労で倒れないか心配
だ。
寝台に入り、光希に寄り添うように横になると、すぐに深い眠り
へと落ちてゆく。
せめて、眠っている間は安らぎが訪れますように⋮⋮。
+
カテドラル
二日後。アルサーガ大神殿。
朝休の鐘が鳴り止むと、典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始
788
まった。
聖歌を奏でる歌声は、先日と変わらぬ少年だ。この素晴らしい歌
メジュラ
声を、間もなく聞けなくなるとは惜しい。
星詠神官が祝詞を詠み始めると、眠気との戦いが始まった。隣で
くすりと笑う気配がする。
﹁眠い?﹂
﹁平気⋮⋮﹂
もくとう
姿勢を正すと、目を瞑って黙祷に集中する。
一心に祈りを捧げていると、ふいに瞼の奥が明るくなった。
姿は見えないが、シャイターンに見つめられている気がする。ジ
ュリのように、深い情愛を向けられて⋮⋮。
ぞくりと肌が粟立ち、焦って目を見開いた。
﹁光希⋮⋮?﹂
ジュリの呼びかけに応える余裕はない。心臓は早鐘を打っている。
ふけ
今のは何だったのだろう⋮⋮。
思い耽っていると、更なる不思議が起きた。
堂内に、幻の如し蜃気楼が生じたのだ。
唖然呆然⋮⋮異様な光景なのに、眼を瞠る者は光希だけ。隣に座
るジュリにも気付いた様子はない。
これは一体、どうしたことか︱︱
幻は、大神殿の石柱の影に潜む男女を映す。
女は、人目を避けるように、目深にフードを被ったリビライラだ。
男は、見たことのない神官で、リビライラの言葉に頷く素振りを
見せている。
声は果てしなく小声で聞きとれないが、とても嫌な予感がする⋮
789
⋮。
おぞけ
耳をそばだてていると﹁サンベリア﹂という呟きが聞こえた。
そこで蜃気楼は消えた。
爪先から頭の天辺まで、ぞぞ⋮⋮っと怖気が走る。
思わず自分の身体を抱きしめると、ジュリに肩を抱き寄せられた。
胸にしがみつくと、心配そうに名を呼ばれる。
心を落ち着けて正面を向くと、今さっきの影はどこにもなく、リ
ビライラもサンベリアも、瞳を閉じて静かに黙祷を捧げていた。
あの光景は一体⋮⋮。
勘違いであって欲しい。けれど今、確信にも近い思いで胸を占め
るのは⋮⋮
リビライラによるサンベリア暗殺だった。
790
Ⅳ︳25
何か良くないことが起きるのでは⋮⋮と恐れていたが、何事もな
く典礼儀式は終了した。
﹁光希、何があったの?﹂
﹁うん⋮⋮後で話す﹂
アースレイヤ達から目を離さずに返事をすると、ジュリにぐいっ
と肩を抱き寄せられた。問いかけるような双眸を見上げて﹁ここで
は言えない﹂とだけ応える。
﹁お早うございます。ムーン・シャイターン、殿下﹂
ジュリは光希を背に庇うようにして、アースレイヤに対峙した。
皇太子の後ろには、美しく佇むリビライラと、憂いを秘めたサン
ベリアの姿が見える。
﹁お早うございます、アースレイヤ皇太子﹂
ジュリの背から出ると、変わらぬ穏やかな眼差しを向けられる。
﹁朝からお会いできて、嬉しいですよ﹂
﹁毎日きているのですか?﹂
﹁ええ、来れる日は。お二人は心境の変化ですか?﹂
791
からかうように問われて、光希は照れくさげに微笑んだ。
﹁すみません、なかなかこられず⋮⋮﹂
﹁もし良ければ、この後ご一緒にお茶でもいかがですか?﹂
﹁すみませんが、用事がありますから﹂
光希が口を開くよりも早く、ジュリは一瞬の躊躇もなく断った。
アースレイヤは﹁残念ですよ﹂と如才ない笑みを閃かせる。
しかし、用事があるのは本当だ。この後は二人で神官宿舎へ行く
約束をしている。
彼等の様子を観察しているうちに、ジュリに肩を抱かれたまま外
へ連れ出された。もう少し彼等の様子を見ていたかったのだが⋮⋮。
二人きりになると、さっきの不思議な体験をジュリに話して聞か
せた。
﹁⋮⋮それは、祈りに触れる未来の断片ではないでしょうか﹂
﹁だとしたら、近いうちにサンベリア様の身に、よくないことが起
こるかもしれない﹂
しばた
光希が縋るような眼差しを向けると、ジュリは眼を瞬いた。
﹁それだけの情報では、動きようがありませんよ﹂
﹁高位の神官が関係していると思うんだ。顔を見れば分かるかも⋮
⋮﹂
792
﹁念の為、大神殿の警備を厚くしておきます﹂
﹁この情報を、サンベリア様にだけ、こっそり教えてあげられない
かな?﹂
﹁不用意に脅かすだけですよ。典礼儀式は私も注意しておきます。
中にも兵を配置させましょう﹂
﹁うん⋮⋮﹂
光希は不安な気持ちに一先ず蓋をして、大人しく頷き返した。
+
緑の木立に建つ神官宿舎。
ちり
淡い赤茶色の美しい建物に踏み入ると、まるで時を止めたような
静寂に包まれた。
窓から差し込む光に照らされて、たゆたう塵はきらきらと輝いて
いる。微かな空気の流れが運ぶ不思議な匂い。柱の手触り。石壁の
冷たさ⋮⋮。
音がない。
人影はあっても、声を発している人はいない。これか⋮⋮! と
流星のごとく閃いた。
これが噂の、ナフィーサやサリヴァンの話していた﹁沈黙﹂の戒
律。
活動している時間帯ですら守らなければいけないという。発言を
許される場所以外では、基本的に口を開くことを許されない⋮⋮。
これは辛い。光希ならとても耐えられない。一日で音を上げそうだ。
幼少時をここで過ごしたというだけあり、ジュリの足取りは淀み
ない。入り組んだ迷路のような石廊を、すらすら歩いてゆく。
793
やがて、幾何学な青いタイルで埋め尽くされた礼拝堂についた。
たいぜん
イブリフ老師は静かに黙想していた。高齢と聞いているが、その
ひざまず
ぬか
後ろ姿に弱さは欠片もなく、大樹のように泰然としている。
めしい
ジュリは老師の前に跪くと、額づきそうなほど深く頭を下げた。
老師はジュリの肩に触れると、今度は盲いた双眸で光希を見やる。
深い皺の刻まれた瞳の色は殆ど白に近い。光を映さぬと聞いてい
なら
るが、対峙するとつぶさに観察されているような心地を味わう。
ジュリに倣って額づくと、節くれだった大きな手が光希の肩に触
れた。
声に出して挨拶をしていいものか迷っていると、老師は静かに立
ち上がり、礼拝堂を出て行った。その後をジュリと二人でついてゆ
く。
﹁お傍で学んでいた時は、いつもこうして師の後ろを歩いていまし
た﹂
﹁喋ってもいいの⋮⋮?﹂
ひそひそと囁くと、ジュリはふっと微笑を零した。
﹁平気ですよ。神官誓願を立てているわけではありませんから。で
も、小声で静かに﹂
老師は中庭の池の縁に腰かけると、指先を水に浸してまた黙想を
始めた。ジュリも池の縁に腰かけ指先を水に浸したので、光希も真
似をする。
育ての人、イブリフ老師に思い馳せるうちに、水に触れる指先に
自然と意識は集まった。
アール川から水路を引いている池の水は、冷たくて心地いい。
眼を閉じても、水が流れゆく光景が瞼の奥に浮かぶ。
794
さえず
陽の光を瞼の奥に感じながら、梢の音や鳥の囀りに耳を傾ける。
人の声は聞こえなくとも、決して静寂ではない。むしろ自然界の
音に、五感が目覚めていくようだ⋮⋮。
ふと、想像してみた。
幼いジュリが小さな足で、師の後をついて歩く姿を︱︱。
小さな手で水を掻いて、こんな風に五感で自然を感じ取ったのだ
ろうか。静寂の中で、どんな黙想をしたのだろう。
その後も自然に寄り添う、素朴で静かな時間を三人で共有した。
陽を浴びながら黙々と田畑を耕し、昼は中庭に面した廊下で、質
素だが美味しい食事を共にした。
昼食後は、再び礼拝堂で黙想に耽る。
老師は、最後に中庭でラムーダ演奏を聴かせてくれた。沈黙する
宿舎の中で、柔らかな音色がこの上なく鮮やかに聞こえた。
シャトーアーマル
﹁老師は神殿楽師なんです。昼と夜は演奏による祈りを捧げていま
す。幼い頃、私やナディアは彼から演奏を習いました﹂
﹁へぇ、そうなの⋮⋮﹂
流石ジュリのお師匠様。見事な演奏だ。思わず、目を閉じて聞き
惚れてしまう⋮⋮。
老師とは、最後まで一言も言葉を交わさなかったけれど、共有で
きたものは多かった。
宿舎を出た後、光希は声量を戻して笑みかけた。
﹁ジュリ、今日はありがとう﹂
﹁いいえ、こちらこそ。老師に光希を紹介できて良かった。おめで
とうと祝福してくれましたよ﹂
795
﹁そうなの!? いつ?﹂
ジュリはくすりと微笑した。
﹁寡黙な方ですから﹂
﹁寡黙っていうか⋮⋮﹂
いつ、喋ったんだろう⋮⋮。
老師とジュリの間で交わす、声なき会話なのだろうか。ジュリは
人差し指を唇にあてて微笑んだ。
気になる。でもジュリが幸せそうにしているので、その秘密を暴
く気にはなれなかった。
796
Ⅳ︳26
軍舎に戻ると、真っ直ぐクロガネ隊の工房に向かった。
今日は一日休みをもらっているのだが、老師の素晴らしい演奏の
おかげで、ナディアの依頼︱︱楽器装飾への意欲が湧いていた。鉄
は熱いうちに打て、だ。
くろがね
﹁楽器に鉄は合わないと思ってたんですけど、考え直しました﹂
光希の言葉に、アルシャッドは眼鏡の奥から知性の浮かぶ双眸を
和ませた。
﹁思い描く通りに、多様な質感と形を具現化できる加工性の良さ、
表現力の豊かさ⋮⋮鉄は最も優れた素材だと思いますよ﹂
﹁抱えた時、手にひっかからず、音の邪魔をしないもの⋮⋮表面は
明るい茶色だから鉄に目がいくし、印象を損なわないような意匠が
いいですよね?﹂
アルシャッドは﹁じっくり考えてごらんなさい﹂と穏やかに回答
をはぐらかした。
﹁発想を形にするには、実現する為の技術が必要です。それは、い
くらでも教えてさしあげますよ﹂
﹁はーい⋮⋮﹂
﹁ふふ。あ、そうだ⋮⋮天体望遠鏡の試作が出来ましてね⋮⋮﹂
797
﹁おぉ⋮⋮!﹂
どうぞ、と渡された白い筒を早速覗き込む。多少ぼけてはいるが、
十分だ。ガリレオの使った望遠鏡より具合はいいかもしれない。
﹁アージュ。ほら、見てごらん!﹂
武器棚を眺めるアージュを寄びやり、筒を覗かせる。
﹁わ⋮⋮﹂
アージュは映りこむ虚像に驚きの声を上げ、不思議そうに筒を眺
め回すという、期待通りの反応をくれた。
ふと休憩がてら、サリヴァンに見せに行こうと閃いた。
﹁先輩。少しだけ借りてもいいですか? 休憩が終わったら返しま
す﹂
﹁いいですよ﹂
+
カテドラル
うずくま
大神殿へ向かう道すがら、子供の声に思わず足を止めた。
蹲って泣きじゃくる姿には見覚えがある。前にもここで出会った
子供だ。
見過ごすわけにもゆかず、小さな背中にそっと声をかけると、子
供は飛び上がらん勢いで振り向いた。
﹁殿下っ﹂
798
光希と気付くなり、拙い仕草で跪く。それを﹁いいから、いいか
ら﹂と制しながら近寄る。
﹁こんにちは。一人?﹂
﹁あ⋮⋮エステルは、今お稽古をしていて⋮⋮﹂
﹁君の名前は?﹂
﹁カーリーです﹂
可愛い響きの名前だ。そういえば、そんな名前の映画もあった。
けれど彼は名前と違って、流れるように美しい銀髪をしている。
﹁どうして泣いているの?﹂
哀しげに視線を伏せる。大きな瞳から、涙腺を決壊させたように
大粒の涙がぽろぽろと零れた。どうしたものか⋮⋮。
﹁これから実験しに行くんだけど、良かったらカーリーも一緒に行
く?﹂
﹁実験⋮⋮?﹂
﹁天体望遠鏡だよ。遠くのものがよく見えるんだ。ほら、覗いてご
らん﹂
望遠鏡を手で固定してやると、カーリーは素直に顔を寄せた。
799
﹁わぁ⋮⋮っ!﹂
カーリーは、子供らしい感嘆の声をあげた。眼をきらきらと輝か
せて、天使のような笑顔で光希を仰ぎ見る。
﹁あの玉ねぎ屋根の天辺に登ったら、絶景だと思わない?﹂
﹁⋮⋮! あ、でも⋮⋮僕、お稽古に戻らなくちゃいけないんです。
見つかったら怒られちゃう⋮⋮﹂
﹁お稽古って?﹂
﹁聖歌隊の、歌の練習です。もうすぐエステルが辞めちゃうから、
僕が代わらないといけなくて⋮⋮﹂
﹁エステルの代わり?﹂
愕然とした。彼の代わりを務めるのは、誰であれ胃が痛いだろう。
まだこんなに小さいのに⋮⋮。
﹁僕はこの間、我慢し過ぎて倒れたんだ。辛くて無理だと思ったら、
立ち止まったり、休んでもいいと思うよ⋮⋮﹂
涙に濡れた青い瞳で、光希を仰ぎ見る。
﹁でも⋮⋮エステルの前で、辞めたいなんて言えないんです⋮⋮﹂
﹁どうして?﹂
よぎ
青い瞳に哀しみが過る。しかしカーリーは、答えを口にする前に、
800
探しに来たらしいエステルに連れられて行った。
﹁⋮⋮どうして、エステルの前だと言えないんだと思う?﹂
二つの小さな背中を見送りながら、隣を歩くアージュに尋ねてみ
た。なんの興味もなさそうに一言﹁さぁ?﹂と返る。
﹁アージュも、辛くて裏庭で泣いちゃうことってある?﹂
今度は斜め上に視線を動かし、再び光希へ戻すと、
﹁⋮⋮泣いたことがありません﹂
驚きの発言をした。絶句。光希はここへきて、何度泣いたか知れ
ない。あの時も、あの時も⋮⋮。
少しでいいから、アージュの豪胆さを分けて欲しい⋮⋮。
801
Ⅳ︳27
約束もなくサリヴァンを訪ねたが、快く時間を空けてくれた。
ジュリと二人で神官宿舎に赴き、イブリフ老師に会ったと報告す
ると、彼は嬉しそうに表情を綻ばせた。
﹁老師も喜んでおられたでしょう﹂
﹁どうでしょう⋮⋮そうだといいのですが﹂
曖昧に頷いた。実のところ、光希には老師の表情の変化すら判ら
なかった。
﹁噂に聞いていた静寂を体感してきました。一日だけなら良い経験
と思えますが、あれが続いたら僕には耐えられません﹂
サリヴァンは破顔すると、愉快そうに声を上げて笑う。
﹁完全なる沈黙は、より深くシャイターンと交信する手段の一つで
す。外の刺激や情報を遮断して、祈りを重ねることで我々は神力を
高めてゆくのですよ﹂
もくとう
﹁そういえば今朝、黙祷を捧げている時、シャイターンに見られて
いるような気がしたんです。幻まで見えて⋮⋮﹂
師は思慮深げに眉をあげた。
﹁シャイターンを降ろしたのですなぁ⋮⋮。流石は殿下、我等がそ
802
れを為すには、数日かけてねばなりません﹂
褒めてくれるが、どちらかと言えば恐い体験であった。特に幻の
方は、今思い出してもぞっとする。
ふと、開け放した窓から聖歌が流れる。ここへ来る途中に出会っ
た、子供達のことを思い出した。
﹁さっき、聖歌隊のカーリーとエステルという子供に出会ったので
すが、ご存知ですか?﹂
﹁知っておりますよ。二人共優秀な歌い手です﹂
問いかけるような眼差しに誘われて﹁実は⋮⋮﹂と先の出来事を
話して聞かせる。師は一つ頷いてから口を開いた。
﹁カーリーは実力は十分なのですが、非常に内気な性質で、人前に
立つことが苦手でしてな﹂
﹁まだ小さいのに、あんなに泣いて悩んでいると思うと可哀相です
ね⋮⋮﹂
﹁転機がくれば、気鬱も晴れましょう。殿下の御心は、まだ晴れま
せんか?﹂
先日の前のめりな自分を思い出して、少々恥ずかしくなる。
﹁おかげさまで⋮⋮かなり晴れました﹂
光希は偽りのない、澄んだ笑みを向けた。
いろいろな人に出会い、典礼儀式に参列したりと活発に動いたこ
803
おり
とで、心にしつこく溜まっていた澱が、少しずつ流されたように感
じる。
﹁実は指輪を見せていただいた後、こんなものを閃いたんです﹂
反射望遠鏡を取り出すと、光希は両頬の線を緊張に硬くしながら、
師の双眸を静かに見返した。
﹁この望遠鏡では叶いませんが⋮⋮もし、光を分析する技術があれ
ば、宇宙に浮かぶ遥か彼方の星を見れるかもしれません。そう考え
るのは、悪いことでしょうか?﹂
宇宙は神の領域と信奉する彼等にしてみれば、異端ともいえる思
想だ。天文学信仰の理念に触れると知っていて、彼ならという思い
から尋ねてみた。
﹁知識欲は生まれ持った権利です。他者が口を挟むことではなく、
知り得た者もひけらかすのではなく押しつけるでもなく、語らう分
には誰にも止められますまい﹂
師は口元を優しげに綻ばせた。光希の肩から、ふっと緊張が抜け
落ちる。
ジュリの傍に在る為ならば、疑問すら封じ込める覚悟があった。
けれど、語らう分にはいいと言ってくれる。
もし、遠い未来に⋮⋮宇宙の果ての光を捕えることができたら、
そのどこかに、光希の知っている青い星も存在するのかもしれない。
﹁これで青い星を覗いたら、シャイターンは怒るでしょうか?﹂
﹁試されてみてはいかがですか? といっても昼の空では無理です
804
かな﹂
深い知性を宿した碧眼が、どこか悪戯っぽく笑っている。
﹁いいえ、望遠鏡ならたぶん⋮⋮﹂
というわけで、書斎の窓から早速覗いてみた。
﹁わぁ︱︱⋮⋮﹂
肉眼では叶わなくとも、筒を覗けば青空に浮かぶ星の輪郭がはっ
きりと見える。サリヴァンに場所を譲ると、ほくほくしながら覗き
こんだ。
﹁これは、これは⋮⋮新鮮ですなぁ﹂
覗かれたと知り、慌てふためくシャイターンを想像したら、知ら
ず笑みが零れた。今朝はこちらが覗かれたので丁度いいだろう。
﹁好奇心を追いかけるのは悪いことではありませんよ。受け入れる
だけではなく、苦慮の果てに見つけてこそ我らの信ずる天文学です﹂
そういってサリヴァンは、天文学信徒の証︱︱天球儀の指輪を光
希に渡してくれた。
﹁これ⋮⋮﹂
﹁さしあげます。殿下も立派な、信徒でいらっしゃる﹂
指輪は、右手の人差し指にぴたりとおさまった。
805
生まれや思想は違えど、アッサラームの大地に生き、シャイター
ンを信奉していいのだと目に見える形で肯定してもらえたように感
じる。
震えそうな声で﹁ありがとうございます﹂と伝えると、先達者は
穏やかに笑んだ。
鉄への不調は、この日を境に完全に復調した。
806
Ⅳ︳28
くろがね
鉄は打てるようになったものの、今度は別の問題に心を囚われる
ようになった。
典礼儀式に参列すると、ほぼ毎回のように何らかの白昼夢を見る
ようになったのだ。内容は様々で、サンベリアを脅かすものであっ
たり、サルビアの動向であったり⋮⋮。
いずれも危険を知らせる内容ばかりで、見ると不安にさせられる。
白昼夢を見るようになって、しばらく経った頃。
膠着状態に痺れを切らした光希は、屋敷にジュリが帰るなり切り
出した。
﹁もう、サンベリア様に全部話そう﹂
﹁いいえ。接触は避けて、このまま泳がせた方がいいでしょう﹂
カテドラル
真っ向から意見が割れて、睨み合いのような沈黙が流れる。
白昼夢を頼りに、リビライラが通じている大神殿の神官の存在を、
ジュリは既に割り出している。ならば未然に防ぎたいというのが光
希の主張で、このまま放置して決定的な現場を押さえたいというの
がジュリの主張だ。
ユスラン
﹁ジュリだって、いつも大神殿に駆けつけられるわけじゃないでし
ょ。今のうちじゃないの?﹂
レイラン
﹁未然に防いだところで、次の機会に狙われるだけです。東妃を助
けたいのなら、西妃の罪を明らかにして、バカルディーノ家の影響
力を弱めるべきです﹂
807
﹁リビライラ様を、追い詰めたいわけじゃないんだよ⋮⋮﹂
光希は哀しげにため息をつく。
﹁露見したところで、西妃は失脚しませんよ。それでも、しばらく
は大人しくなるでしょう﹂
﹁そうかもしれないけど、皆の見ている前で罪を暴くのは⋮⋮反対
だよ。裏でこっそり、処理できないの⋮⋮?﹂
﹁光希は、誰を助けたいのですか?﹂
ぐっと返答に詰まった。﹁どっちも﹂という答えは許されないの
だろうか⋮⋮。
﹁いっそ、ジュリの公宮に入れることはできない?﹂
言った瞬間、しまったと思った。慌てて口を押さえても遅い。
﹁︱︱本気で言っているの?﹂
ジュリの声が怖いくらい低くなる。何も言えずにいると、畳みか
けるように冷たく言われた。
﹁光希は、私が東妃と夜を共にしても、平気だというのですか?﹂
﹁そうは言っていないよ。名目上ジュリの公宮に入れられないかな
って⋮⋮﹂
808
﹁公宮の在り方で、私を責めた人の台詞とは思えませんね﹂
その通り、光希が悪い。判っているのに、ふてくされたような口
調になる。
﹁あの時と今回じゃ、状況が違うでしょ⋮⋮﹂
﹁そうですか? 本当に?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
引くに引けず、意地になって返事をすると、ジュリは寝椅子の背
もたれに手をついて、光希を苛立たしげに見下ろした。
﹁いいですよ。光希が望むのなら、私の公宮に東妃を迎えましょう。
その方が、彼女も心安らかでいられるでしょうから﹂
光希は上目遣いに押し黙る。試されていると思った。ここで否定
しなければ、ジュリはこの部屋を出て行ってしまうかもしれない⋮
⋮。
﹁ごめんなさい。公宮に入れたりしないで﹂
一応の謝罪は、不満そうな響きがたっぷり乗っていた。
結局、ジュリの思う通りにしか事態を運べないと思うと、苛立ち
が募る。納得なんてしていないから、綺麗な顔を寄せられても顔を
背けてキスを拒んだ。
﹁光希﹂
809
頬を包まれて、親指で唇をなぞられる。こういう時の、ジュリの
感情はよく判らない。
﹁僕に腹を立ててるんでしょ? 何でキスなんか⋮⋮﹂
﹁貴方に軽んじられたことに⋮⋮落胆しただけです。怒っているの
は、光希の方でしょう?﹂
ジュリを落胆させたのかと思うと、胸が痛む。光希の悪い癖だ。
都合が悪くなると、ジュリの前から逃げ出したくなる⋮⋮。
ひざまず
無意識のうちに部屋の扉を見つめていると、頬を挟まれて視線を
戻された。
ジュリはその場に跪いて、光希を仰ぎ見る。
光希の手をとり、恭しく甲に口づけた。ゆっくり背を伸ばし⋮⋮
唇を塞ぐ。
﹁ん⋮⋮﹂
キスが深くなる前に顔を逸らすと﹁逃げないで﹂と請うように囁
かれ、頬は強張った。今のはどちらの意味だろう⋮⋮。
優しく抱きしめられて、額や頬に触れるだけのキスが繰り返され
る。顔を背けても、優しい唇はどこまでも追いかけてきた。
とうとう唇を塞がれると、光希も観念して身体から力を抜く。や
んわり唇を食まれて、薄く開いた合間に舌先が入り込む。
﹁ん⋮⋮、ぅ⋮⋮﹂
こうこう
貪るというよりは宥めるような、優しく口腔を愛撫するような触
れ合い。絡めた舌を甘く吸われ、頬を撫でる指先は首筋に降りてゆ
く⋮⋮。
810
その先に進むのは嫌だった。
肩を軽く押すと、ジュリは静かに身を引いた。いや、引いてくれ
た。
﹁⋮⋮もう心を煩わせたりしないで。東妃の件は、こちらで処理し
ます﹂
抑制の利いた微笑を浮かべて、光希の頬を撫でる。視線を逸らし
たのは、光希の方。
ジュリはすごく大人だ。それに比べて⋮⋮自分の気持ちなのに、
どうしてこうも制御できないのか。
811
Ⅳ︳29
カテドラル
大神殿の内陣に光希はジュリと並んで座っている。
主身廊には、典礼儀式の始まりを待つアッサラームの敬虔な信徒
たちが今朝も大勢集まっていた。
天窓から外光の射す堂内はいつもと同じに清らかであり、いつも
とは違う密かな緊張館が漂っていた。
石柱の影には、神官に扮したアッサラーム兵が潜む。リビライラ
によるサンベリア暗殺に備えて、ジュリの配置した兵士達だ。
今日は、予知夢に見た内通者︱︱神官が、祭壇に立つ日なのであ
る。
暗殺を巡ってジュリとは意見が対立していたが、口論の末に光希
が折れた。決定的な瞬間を捕える方向で、ジュリは準備を進めてい
た。
大神殿には、アッサラームの獅子で十指に入るような将も配置さ
れている。
例えば祭壇の影にジャファール、内陣と交差廊の境目には、堂々
とナディアが配置されていた。
ふれ見れば、ナディアは婚約者︱︱アンジェリカといた。
仕事中だから仕方ないのかもしれないが、ナディアの態度はそっ
けない。声は聞こえないが、アンジェリカは哀しげに肩を落として、
主身廊へ引き下がってゆく。
﹁どうかした?﹂
﹁いや⋮⋮あそこにナディアとアンジェリカが﹂
ジュリはさして興味なさそうに﹁あぁ﹂と呟いた。
812
﹁ナディア恰好いいから、あそこにいると目立つね﹂
ちょうど視界の開けた所に立つナディアに、アンジェリカでなく
とも色めいた視線を投げる者は多い。何でわざわざあの場所に配置
したのだろう。
﹁ナディアは昔、聖歌隊に所属していたんですよ。大神殿の構造に
詳しいので、機動性の高い場所に配置しました﹂
﹁へぇ、聖歌隊出身なの。なるほど⋮⋮﹂
典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始まり、少年聖歌隊による
天上の歌声が大神殿に響き渡る。
緊張に身が引き締まる。いつも通りにしないと⋮⋮そうは思って
も、対面のリビライラとサンベリアの様子をつい盗み見てしまう。
まさか、こんな人目のあるところで行動は起こさないとは思うが⋮
メジュラ
⋮。
星詠神官が祭壇に上がり、シャイターンへの祝詞を詠み始めると、
心の中でシャイターンに必死に呼びかけた。
よみ
何事もなく、無事に終わりますように⋮⋮!
い
神は敬虔な者を嘉したもう。
祈りは聴き容れられたのか、幻の如し白昼夢が眼前に揺れる。
しかし前に見た幻と違う⋮⋮リビライラも神官も出てこない。ゴ
ブレットに注がれた聖水を、サンベリアが飲み干し⋮⋮そこでふつ
りと幻は消えた︱︱ まさか、毒⋮⋮?
この間は、サンベリアが裏の回廊から帰る道すがら、神官に扮し
た暗殺者に襲われる幻を見た。
どちらが本当なのだろう。なぜこの間と違うのか。隣に座るジュ
813
リに伝えようとした時、聖水が運ばれてきた。内陣の皇族には真っ
先に渡される︱︱
気付けば席を立ち、サンベリアの前に走っていた。
今にも口をつけようとしているサンベリアの腕を掴んだ。聖水は
零れて、灰青色の双眸は驚きに見開かれる。
﹁サンベリア様、僕と一緒にきてください﹂
驚きに目を瞠る周囲を無視して、その場からサンベリアを連れ出
した。もう後戻りはできない。内陣を出るや彼女を振り返り、早口
で捲し立てた。
﹁貴方は、このままだと殺されます。さっきは、毒殺の可能性があ
った。権力を一切捨てる覚悟はありますか?﹂
サンベリアは思慮深い眼差しで光希を見つめて、しっかりと頷い
た。
﹁︱︱光希!﹂
後ろから、ジュリが追い駆けてきた。アースレイヤやリビライラ
もいる。震えそうになる足を叱咤して、精一杯、視線に威厳を込め
て叫んだ。
﹁僕はさっき、偉大なるシャイターンの声を聞きました。サンベリ
ア様を、神官宿舎に入れるようにと、お告げがありました﹂
﹁光希!?﹂
ざわめく周囲を一喝するように、光希は凛然と言い放つ。
814
﹁彼女は私有財産を捨て、婚姻を破棄し、シャイターンに誓願を立
てる必要があります。御子と共に神官宿舎に迎え入れてください﹂
﹁随分とまた、突然のご神託ですね。ですが、シャイターンの意志
とあれば、従うほかありません﹂
アースレイヤは乗り気だ。如才ない笑みを湛えながら、瞳はどこ
か悪戯っぽく笑っている。
周囲の貴人達からは﹁男児であればどうするのだ﹂﹁東妃を宿舎
に入れるなど﹂と当然の疑問が相次いだ。
﹁それだけではありません。サルビアの動向も予見しました。百万
を超える軍勢が攻めてくる未来を見ました。中央の本隊は囮で、広
い空域に大軍を編隊しています。ルビアから大量の武器を仕入れて
︱︱﹂
﹁光希!!﹂
尚も叫ぼうとしたら、ジュリに抱きすくめられた。予見したこと
をジュリ以外に伝えたのは、今この場が初めてだ。周囲の空気が変
わったと判る。
﹁ルビアに動きがあるのは本当だ﹂
﹁戦略を知ることができれば、勝ったも同然ではないか﹂
﹁ベルシアの和平など流れても⋮⋮﹂
告げた内容が正しいと判断できる者がこの場にいたらしく、興奮
気味に光希の言を後押しした。
815
ロザイン
﹁︱︱ここは神殿です。軍事の話は控えてください。花嫁の言う通
りに⋮⋮東妃を宿舎へお連れしろ﹂
ジュリの指示でナディアとジャファールは的確に動いた。集まっ
ていた貴人達も顔を見合わせて﹁失礼しました﹂と引き下がる。
サンベリアを見やり、リビライラは儚げに笑みかけた。
﹁サンベリア様。公宮を出て行かれるのですね。寂しくなりますわ
⋮⋮﹂
心から別離を惜しむような口調だ。彼女を見ていると混乱する⋮
⋮全て光希の勘違いで、暗殺など起こらなかったのではないか。
﹁殿下の御言葉通りにいたします。生涯、シャイターンにお仕えい
たします﹂
儚げな彼女にしては珍しく、凛と毅然に告げるや、典雅な一礼を
してみせる。彼女自身の決意表明で幕引きとなり、人々は堂内へ消
えてゆく。
ね
光希もジュリと並んで戻ろうとしたら﹁お見事でした﹂と囁きを
聞いた。思わず振り向いて、アースレイヤを睨め付けた。
﹁どうして、守ってあげないの?﹂
最初から、彼が矢面に立てば良かったのではないか? 皇太子は、
美しくも冷たい微笑を浮かべた。
﹁たかが公宮で生き残れないようでは、手を差し伸べるだけ無駄で
しょう﹂
816
﹁光希。行きましょう﹂
見下した台詞に、反論しようと口を開きかけたが、ジュリに肩を
抱かれて通り過ぎる。そのまま内陣へ戻った。
817
Ⅳ︳30
ぐんか
典礼儀式の後、大事をとって光希は公宮に戻された。
夜も更けた頃、荒々しく軍靴を鳴らす音と共に、ジュリが工房へ
やってくる。
﹁光希!﹂
やはり怒っている。作業していた手を休めると、溜息を堪えて振
り向いた。
﹁お帰り。どうなった?﹂
﹁片付けてきましたよ。なぜあんな真似を?﹂
﹁今日に限って、違うものが見えたんだ。ジュリに言う暇がなかっ
た。ごめんなさい⋮⋮﹂
ユスラン
﹁確かに、ゴブレットには致死量の毒が塗られていました。結果と
して、東妃を救えましたが⋮⋮神力をあのように示すのは早計でし
たよ﹂
﹁でも他に思いつかなかったんだ﹂
ジュリは作業台の傍へ近寄ると、歯痒げに見下ろす。光希は上目
遣いに仰ぎ見ると、気になっていたことを口に乗せた。
﹁⋮⋮サンベリア様は、もう大丈夫?﹂
818
﹁ええ、宿舎に入りました。毒を仕込んだ神官は既に事切れていま
したが、他の内通者は捕えました。四貴妃を神官宿舎に入れるなど
前代未聞ですが⋮⋮貴方の予見の前では、その驚きも霞んでしまい
ましたね﹂
﹁いけなかった⋮⋮?﹂
﹁喉から手が出るほど欲しい情報ですからね。光希を軍議に連れて
くるよう、散々言われましたよ⋮⋮﹂
厭わしげにこめかみを指で押さえ、青い瞳は半ば伏せられた。
﹁僕は構わないよ。皆に知らせるべきだと思う﹂
﹁反対です﹂
﹁知っていることを、伝えるだけだよ﹂
﹁利用されるだけです﹂
﹁利用してくれていいんだよ。僕だってアッサラームの人間なんだ
から!﹂
ロザイン
﹁その前に私の花嫁です!﹂
苛々しげに言い捨てる。光希は気圧され身体を引きかけたが、気
を取り直すように口を開いた。
﹁とにかく⋮⋮明日はクロガネ隊に行くよ﹂
819
ちまなこ
﹁幹部連中が貴方を血眼で探しているんですよ? 行けば、即連行
されます﹂
﹁そ、そうなの?﹂
ジュリは険を解くと、思慮深い眼差しで光希を見つめた。
﹁大戦に向けて情勢は緊迫しています。相手の行軍経路、兵力、戦
略が判れば遥かに優位に立てる。その答えが貴方にあるのなら、た
とえ花嫁からでも引き出そうとするでしょう﹂
﹁僕は嬉しいよ。ジュリや皆の力になれることが。大した力には、
なれないかもしれないけど⋮⋮協力は惜しまないよ﹂
立ち上ると、苦慮の窺える眼差しを見つめ返した。ジュリは哀し
げにため息をつく。
﹁それでも⋮⋮私は光希を巻き込みたくありません﹂
手をとられ、甲に口づけられた。慈しむように、何度も柔らかく
吸われる。逆にジュリの手をとると、ぎゅっと両手で包みこんだ。
﹁ありがとう。僕も同じ気持ちなんだよ。ジュリを助けたいんだ⋮
⋮手伝えることがあるなら、何でもしたいんだよ﹂
不意に腕を引かれて抱きしめられた。軍服に顔をうずめると、い
つもより少し早いジュリの鼓動が伝わってくる。
﹁もう、光希が悩む姿を見たくありません﹂
820
﹁いいんだよ。僕の心配よりジュリは自分の心配をしてよ﹂
おとがいを掬われて顔をあげると、首を伸ばしてキスを受け入れ
た。首に腕を回した途端、深いものへ変わっていく。
﹁ん⋮⋮﹂
ジュリの額の宝石を通して、シャイターンが光希を見ている⋮⋮
ジュリの恋情のような深い想いを向けられている、そう感じること
がある。
︱︱俺を大切だと思ってくれるなら、絶対にジュリを守って。傷
つけたら許さない⋮⋮!
い
脅すように訴える。苦笑と共に、願いは聴き容れられた気がした
︱︱
821
Ⅳ︳31
シャイターンの意志と称して、東妃を神官宿舎に入れた翌日。
光希はジュリと共に典礼儀式に参列した。
対面に座るアースレイヤの隣には、今朝はリビライラしかいない。
美しい二人は、昨日と全く変わらない穏やかな笑みを口元に浮かべ
ている。
周囲の光希を見る眼差しは昨日までと少し違う。シャイターンの
お告げはあるのかと、こちらを気にしているようだ。
お告げはあった。
サンベリアへの懸念が晴れた今、最大の懸念はこれから起こる大
戦の行方だ。シャイターンは断片的な幻でサルビアの動向を教えて
くれた。
+
﹁私は直ぐ軍議に入りますが、光希は一度お屋敷に戻りますか?﹂
﹁ううん、クロガネ隊の工房に行くよ﹂
典礼儀式を終えた後、そのまま二人で馬車に乗った。昼を過ぎた
ら、光希も軍議に出席する予定である。
﹁疲れていませんか?﹂
﹁ううん。ジュリこそ⋮⋮﹂
﹁私は平気です。軍議に呼ぶ際は、工房に人を遣りますから、待っ
822
ていてください﹂
﹁判った﹂
軍部へ到着すると、ジュリは後ろ髪を引かれつつ軍議へ向かい、
光希はクロガネ隊の工房へ直行した。
クロガネ隊の皆も、昨日の顛末を聞いているらしく、光希を見る
なり心配そうに声をかけてきた。
﹁お休みされても良かったのですよ﹂
気遣わしげなアルシャッドに首を振って応える。今日は昼までし
かいられないので、なるべく仕事を片付けておきたかった。
﹁そういえばラムーダの依頼、仕上がりましたよ﹂
しょくふ
ナディアから預かっている弦楽器を作品棚から取り出すと、くる
んである織布を外した。木に浮かぶ意匠を見るや、アルシャッドは
眼を輝かせた。
﹁綺麗に睡蓮が咲きましたね﹂
くろがね
楽器には鉄による睡蓮の花の意匠が施されている。伸ばして曲げ
る作業は製鉄班に手伝ってもらったが、そこから形を整えて細工を
入れる作業は、光希一人でやった。
シャイターンに祝福されし神聖な楽器である。美しい音色を聴か
せてくれるに違いない。
昼休みに中庭へ出ると、ふと肩を落として歩くアンジェリカの後
ろ姿を見かけて、思わず声をかけた。
823
﹁こんにちは、アンジェリカ姫﹂
﹁まぁ殿下! ごきげんよう!﹂
顔を上げたアンジェリカは、沈んだ表情を一瞬で吹き飛ばし、花
が綻ぶように笑みを閃かせた。
﹁沈んだ顔をしていましたよ。何かあったんですか?﹂
少女の表情は、再び哀しげなものになる。誰かに聞いて欲しかっ
たのか、弱々しげに口を開いた。
﹁⋮⋮実は、ナディア様が遠征に発たれる日にお見送りしたいと申
し上げたら、人伝に断られてしまって。直接お伺いしようと足を運
んだのですが、取り次いでいただけませんでしたの﹂
声に覇気はなく、震えている。光希は気遣わしげに眉根を寄せた。
﹁殿下﹂
噂をすれば影だ。振り向いた先にナディアがいた。背中に流した
銀髪を風に揺らめかせ、相変わらずの美男ぶりである。
光希はアンジェリカに場所を譲ろうと身体をずらしたが、ナディ
アはそちらをちらりとも見ずに、
﹁ムーン・シャイターンがお呼びです。軍議へお越しください﹂
恭しく一礼するや、簡潔に要件を伝えた。
﹁はい、今行きます。その前にナディア、アンジェリカと少し話し
824
た方が⋮⋮﹂
そこでようやくナディアはアンジェリカに視線を向ける。
﹁姫、これから軍議がありますから。要件は従卒に伝えてください﹂
にべもない。沈んでいた少女は増々意気消沈して、小さく﹁はい﹂
と応えた。たったそれだけのやり取りで、ナディアは灰緑色の瞳を
光希に向ける。
﹁ナディア、僕はアージュと戻るから。良かったら、もう少し⋮⋮﹂
﹁殿下、私のことはお構いなく。参りましょう﹂
佇むアンジェリカを気にかける光希を見かねたように、ナディア
はやや強引に光希の肩を抱いて歩き出した。
﹁あ⋮⋮待ってよ、ナディア﹂
訴えたが、ナディアは歩調を緩めない。振り向くと、彼は戻らな
いと知っているのか、アンジェリカはその場で優雅な一礼をした。
﹁恋人じゃないの?﹂
つい非難がましい声が出た。ナディアは﹁婚約者です﹂と訂正す
ると、ようやく肩から手を離した。気付けばナイフを持ったアージ
ュがすぐ傍にいる。
﹁アージュッ!?﹂
825
﹁殿下に触ったら⋮⋮﹂
﹁それまだ有効なのっ!?﹂
とにかく武器をしまわせようと慌てふためいていると、傍でくす
りと微笑する。見上げると、思いのほか優しい眼差しと眼が合った。
﹁あ、そうだ⋮⋮頼まれていたラムーダの依頼、完成しましたよ。
いつでも工房にきてください﹂
閃きを口にすると、ナディアは嬉しそうに破顔した。
﹁ありがとうございます。必ず伺います﹂
﹁アンジェリカ姫にも、そうやって笑いかけてあげればいいのに⋮
⋮﹂
光希が残念そうに言うと、ナディアは微苦笑で応えた。
﹁すごく可愛いと思うけど⋮⋮好きじゃないの?﹂
﹁彼女は少々煩くて、苦手なのです﹂
ナディアは穏やかに、しかし躊躇なく応えた。アンジェリカの溢
れんばかりの想いは、残念ながら裏目に出てしまっているのかもし
れない⋮⋮。
826
Ⅳ︳32
きけん
ぎょうしょう
戦略会議室には、明晰な貴顕や驍将が全員集まっていた。
彼等の中心にジュリは立ち、傍にはアースレイヤやルーンナイト
の姿もある。
重厚な雰囲気の室内は、天上も高く広々とした造りなのに、彼等
の存在感のせいか手狭に感じられた。張りつめた緊張感と好戦的な
殺気に満ちている。
中央に置かれた大理石の円卓には、巨大な羊皮紙の地図が敷かれ、
模型の駒が無数に配置されている。いかにも難解な戦略が展開され
ていた。
光希の訪れにより、軍議は中断され全員の眼がこちらを向く。
﹁光希、こちらへ﹂
呼ばれて、そろりと円卓に近づいた。ジュリの隣に座ると、励ま
すように肩を抱きしめられる。思慮深い眼差しを見返して頷くと、
ジュリは凛々しい笑みを浮かべた。
﹁先ずは光希から、判る範囲で予見した内容を教えてください﹂
﹁はい。初めに⋮⋮シャイターンの啓示は、日によって内容が変わ
ります。一つの未来に対して、幾通りもの可能性があります。です
から、僕が見た光景は可能性の一つとしてお聞きください﹂
全員の視線が光希に集中している。手に汗を掻きながら席を立つ
と、机に置かれた地図を眺めた。
聖都アッサラームのバルヘブ西大陸と、敵サルビアのバルヘブ東
827
大陸は、広大な海により隔てられている。東西の巨大な大陸を、細
い陸地と細かい島々が橋を渡すように繋いでおり、この中央の細い
路を、中央大陸と呼んでいる。
ろうかい
﹁東連合軍の規模は百万を越えます。ですが、老獪なサルビアは、
この軍勢を隠して進軍します。中央大陸には半数以下の人数で進み、
残りを広大な空に分散して進んできます﹂
兵力を示唆する木製の駒を、地図の上に分散して置いた。中央大
陸、中央大陸の上下の海域、ノーグロッジ海域、ノーヴァ海域⋮⋮
これだけでも三か所に分散している。更に細かく駒を置いていくと、
次第に居並ぶ顔から色が失せた。
彼等が青褪めるのも無理はない︱︱。
東連合軍に対抗して、ジュリ達も西大陸の諸侯に呼びかけて連合
軍を募っている。それでも、総勢三十万に満たないと聞いていた。
﹁馬鹿な、聖戦後だというのに、東はどれだけ力を残しているのだ
⋮⋮!﹂
﹁ここまで広範囲で攻めて来るというのか!?﹂
﹁半数以下といえど、こちらの戦力を遥かに凌ぐ軍勢ではないか。
中央とて味方ではない、圧倒的に不利だぞ⋮⋮﹂
﹁忌々しい蛮族が、開戦場を設ければ義理に応えたとでも思ってい
るのだ﹂
でんぱ
﹁どう手をつければ、いいのだ⋮⋮﹂
さざなみ
不安は細波のように伝播する。将達は顔を見合わせ、中には項垂
828
れる者もいた。
いくら予見しても、それで彼等の不安を取り除けるとは限らない
のだ。
机に置いた手が震えそうになった時、その手に大きな手を重ねら
れた。ジュリは席を立つと、将達を見据えて声を張った。
﹁︱︱狼狽えるな! お前達が戦わねば、アッサラームは滅ぶんだ
ぞ! 何万何十万という規模で人が死にます。判っているのですか﹂
水を打ったような静けさが室内を満たす。
﹁今この場に集う軍事の要だけが、情勢を把握し、アッサラームを
救う策を考えることができるのです。全員顔を上げなさい。光希の
言葉に耳を傾けて、地図を見て。諦めることは、私が許さない!﹂
わだかま
蟠った絶望を、一喝する。手の暖かさを感じながら、胸に熱いも
のがこみあげてきた。
﹁アッサラームの獅子が、百万を相手に負けるものか。そうでしょ
う?﹂
今やここにいる全員が、食い入るようにジュリを見つめている。
集まる視線を臆せず凛と見返し、笑みすら浮かべて力強く言い放つ。
けんこんいってき
﹁ハヌゥアビスの宝石は私が砕いてみせる。乾坤一擲、我等にあり
! 黒牙を抜いてみせろ!﹂
﹁﹁﹁オォッ!!﹂﹂﹂
まるで戦場のように全員が吠えた。巨大な覇気が室内に渦巻く。
829
息を吹き返した将達は、目を皿のようにして再び地図を眺め始め
た。光希の予測する行軍経路を見て、悲観するのではなく活路を探
して言葉を紡ぐ。
﹁中央を本勢と見せかけたい東の裏を掻くには、こちらも中央に本
勢を当てなくては⋮⋮﹂
﹁広域に渡っていようがいまいが数に開きがある、奇襲を仕掛ける
ほかあるまい﹂
﹁ノーヴァの広大な空はジャファールに任せよう。八十八の変化に
富む飛竜編隊なら、奇襲攻撃にも優れている﹂
全員が地図を覗きこみ、駒を進めては戻し⋮⋮実に数日に渡って
何通りもの戦略を考えた。
光希は日が暮れると公宮に戻されたが、将達は軍舎で仮眠を取り、
眼を覚ませば軍議を再開した。
ようやく、東連合軍総勢百万に対する、西連合軍総勢三十万の闘
いに勝算が見え始めたが、皆思うところは一つであった。
﹁いずにせよ、中央は最も血が流れる。過酷な前線になるだろう⋮
⋮﹂
一人が言うと、全員が重々しく頷いた。見通しの悪い山岳での戦
いに、飛竜や重騎兵隊はおろか、騎馬隊ですら容易に動かすことは
難しい。血で血を洗う、修羅の世界。過酷な肉弾戦となる。
﹁中央は私が出ます﹂
ジュリは一瞬の躊躇なく言い切った。全員が首肯で応じる。
830
光希は内心で暗いため息をついた。そう言うだろうと、知ってい
た。判っていた。
でも、止めたい。そんなに前に行かないで欲しい。総大将なら、
もっと後ろで構えていてもいいではないか⋮⋮!
顔を伏せて歪んだ表情を隠していると、息を切らして伝令が部屋
に入ってきた。
﹁失礼いたします! 先程、ベルシア和平交渉の経過報告が届きま
した。お伝えして良いでしょうか?﹂
ヤシュムが﹁申せ﹂と頷くと、伝令は口を開きかけ︱︱光希を見
るや眼を瞠った。周囲から﹁何をしている﹂と急かされ、覚悟した
ように口を開く。
ロザイン
﹁ハッ! ベルシアからは⋮⋮盟約の証に、我らが花嫁の身柄をよ
こせと⋮⋮﹂
さざなみ
緊張が細波のように走り、ジュリは音を荒げて机を叩いた︱︱。
831
Ⅳ︳33
ジュリの怒気にあてられて、伝令は震え上がった。誰もが虚を衝
かれた顔で、肩を強張らせる伝令を見やる。
﹁まぁ、最後まで聞こうではありませんか﹂
変わらぬ穏やかさでアースレイヤが応えると、ジュリは苛々しげ
に﹁黙れ﹂と低い声を発した。極限まで張り詰めた空気が部屋を支
配する。
﹁話を聞くだけですよ﹂
ロザイン
﹁聞くまでもない。ベルシアは本気で、花嫁を天秤にかけられると
でも思っているのか? 許し難い国辱だ。サルビアの次はお前だと
でも伝えてください﹂
﹁ジュリ、聞こうよ⋮⋮﹂
小さな囁きは、静まり返った室内に思いのほか響いた。欄とした
眼差しに射抜かれ、光希は小さく息を呑んだ。
﹁さぁ、どうぞ﹂
アースレイヤが再び水を向けると、伝令は慎重に口を開いた。
なび
﹁⋮⋮申し上げます。ベルシアはこちらの要望通り、サルビアに靡
かず、挙兵しないでも良いと。ただし、大戦が終結するまで総大将
832
たるムーン・シャイターンの花嫁を、ベルシアに渡せと仰せです﹂
﹁断る!﹂
ジュリは吠えるように即答した。
しかし、将達の反応は分かれた。ジュリ同様﹁ありえぬ﹂と切り
捨てる者もいれば﹁断るには惜しい﹂と未練を見せる者もいた。
迷って当然だった。
ベルシア公国はバルヘブ東大陸の最南端に位置する要塞都市で、
王を冠するサルビアに従属しながらも、政権交代を狙って過去に何
度か反乱を起こしている。
サルビアが東諸侯に呼びかけ連合軍としてアッサラームに侵攻し
てきた時、ベルシア公国の離反があれば、一兵も向けずしてサルビ
アを牽制できるのだ。
反逆を狙う勢力を国の背後に残しては、サルビアも安心して長期
に渡り国を空けることはできない。
この交渉は、百万の軍勢を大きく削れる可能性を秘めている。光
希の心は激しく揺れた。
﹁か、考えさせてください⋮⋮﹂
蚊の鳴くような声で告げると、ジュリに恐ろしい顔で睨まれた。
﹁では保留にして、休憩にしましょう。空気の入れ替えをした方が
良さそうだ﹂
アースレイヤがぱんっと手を叩いても、緊迫した空気はしつこく
留まったが、彼はどこふく風で退室した。
光希は腕を掴まれて、その場から連れ出された。石廊の影に引っ
張りこまれると、壁に手をついたジュリに、爛とした双眸で見下ろ
833
される。
﹁どういうつもりですか?﹂
﹁サルビアは必ず連合軍を為して大群で攻めてくる。兵力を削らな
いと、とても勝ち目はないよ﹂
﹁私が負けるとでも?﹂
﹁そんなこと⋮⋮﹂
﹁光希を渡せるわけがない﹂
光希は苦しげに顔を歪めた。
﹁僕だって行きたくない! でもやっぱり⋮⋮ベルシアは絶対に、
味方につけておくべきだよ。東で連合軍が起こる時、ベルシアの離
反はサルビアにとって本当に大きな枷になる﹂
﹁駄目だ、行かせられない﹂
﹁でも、百万を越える軍勢なんだよ。ベルシアが離反すれば、この
戦争をずっと早く終わらせられる可能性がある⋮⋮!﹂
﹁光希を渡したところで、約束を守る保障なんてない﹂
﹁なら、こちらからも要求を増やそうよ。公平にするんだ﹂
﹁本気で言っているの?﹂
834
けいれつ
青い勁烈な眼差しに直視される。
﹁本気だよ﹂
一歩も引くものかと、負けじと睨み返す。鋼のような視線がぶつ
かり、火花が散った。
﹁はぁ⋮⋮連れてくるべきじゃなかった﹂
厭わしげに呟くジュリを見て、胸が痛んだ。彼の苦慮を、ほかな
らぬ光希が増やしてしまっている⋮⋮。
﹁でも、前向きに考えてみない? 皆にも聞いてみて︱︱、んっ!﹂
言い終わらぬうちに、唇を塞がれた。閉じた唇を割って、熱い舌
が口内に入ってくる。身体を痛いほど壁に押しつけられる。腕を折
れそうなほどの力で掴まれた。
﹁⋮⋮ふ⋮⋮あ、ん⋮⋮っ⋮⋮!﹂
荒々しく貪られて、言葉を発する暇すら与えられない。
首を振ろうとすれば、苛立ちをぶつけるように唇を強く食まれた。
いつ終わるとも判らぬ、執拗で巧みなキス。
ジュリは光希が軽く考えていると思って、腹を立てている。でも、
そうじゃないのだ。
﹁っ、は⋮⋮ん⋮⋮﹂
強張った身体から力が抜けると、ジュリは追い詰めるようなキス
から、高めるようなキスに変えてきた。首筋をつぅと撫でて、詰襟
835
の内側に指を忍ばせる。
ぎょっとして、身をよじろうとしたら再び腕を強く掴まれた。あ
っけなく両手を一まとめに掴まれる。詰襟のボタンを外され、前を
開かれた。
﹁︱︱っ、や⋮⋮あ⋮⋮っ!﹂
手は大胆に潜りこみ、柔らかな胸の膨らみを揉みしだく。塞がれ
た唇から、弱々しい拒絶が零れる。
乳首を探られ、やんわりと押し潰された。転がしたり抓んだり、
刺激を与えながらジュリは唇を離した。
声をあげまいと我慢する光希を、青い瞳が眺めている。
﹁⋮⋮どうすれば、前向きに考えられるの? こんなか弱い姿を見
せられて、どこに安心する要素が?﹂
﹁ジュリ⋮⋮ッ﹂
﹁武器を使わなくても、光希を捕まえることくらい一瞬でできます。
碌に自分の身も守れやしないのに、ベルシアに行って無事に済まさ
れるだなんて、考えが甘すぎる﹂
﹁僕は、ジュリが心配なんだよ⋮⋮っ!﹂
本音を叫んだら、感情が昂って声は潤みかけた。
絶対に泣くものかと歯を食いしばる光希を、ジュリは歯痒げに見
下ろす。暗いため息をつくと、光希の服の乱れを直して慰めるよう
に抱きしめた。
アンカラクス
﹁私はシャイターンに選ばれた神剣闘士なんです。この日が来るこ
836
ロザイン
とを生まれた時から知っていたし、その為に準備してきました。ア
ッサラームを⋮⋮花嫁を守るだけの力を与えられているのですから、
使わせてください﹂
いつもと同じ展開だ。
ジュリは正しい。彼の思う通りにするしかない。泣き喚いている
光希が、余計に子供に見えるだけ。
涙を滲ませる光希をあやすように、額や頬に優しいキスが繰り返
される。
守られるだけじゃなく、守りたいのだ。その想いはなかなか届か
ない︱︱
837
Ⅳ︳34
小休止の後、ジュリは全員の前ではっきりと告げた。
ロザイン
﹁ベルシアの要求は断る。花嫁は絶対に渡しません。対価を変えて
交渉する分には構いませんが、それだけは肝に命じてください﹂
はんばく
毅然とした眼差しに、反駁する者は在らず。未練を見せていた将
達も一様に口を閉ざした。
全員が首肯する様子を見て取るや、伝令はいそいそと一礼して退
出した。
光希の心中は複雑だ。
頭では﹁本当にいいのか﹂と考えていても、心ではジュリがはっ
きり拒否してくれたことに、安堵している。
もしもジュリが、躊躇いもせずにベルシアの要求を呑んだら。果
たして光希はどう思っただろう⋮⋮。
カテドラル
紛糾する軍議に、夜休の鐘が水を差す。光希は軍議を抜けると、
ルスタムを従えて大神殿を訪れた。
﹁サンベリア様はお元気かな?﹂
隣を歩くルスタムに声をかけると、安心させるように頷いてくれ
た。
﹁誓願を立て戒律を守り、神官同様に宿舎で過ごされていますよ。
清貧の生活も、苦ではないようです。公宮にいるよりもずっと、穏
やかな表情をされていましたよ﹂
838
﹁そっか⋮⋮﹂
光希は口元を緩めた。かなり強引な手段で、それもほぼ独断で神
ふけ
官宿舎に入れてしまったが、助けになったのであれば良かった。
落ち着いたら会いに行ってみようと思い耽っていると、大神殿か
らエステルとカーリーが出てきた。今日は楽しそうな笑顔を浮かべ
ている。
﹁こんにちは﹂
﹁殿下!?﹂
ひざまず
愛らしい少年達は飛び上がらんばかりに驚いた。その場で跪こう
とする二人を﹁いいから、いいから﹂と手で制する。
仲の良さそうな二人の様子に和む。エステルは光希を仰ぎ見るや、
照れくさげに口を開いた。
﹁あの⋮⋮先日はすみませんでした。私はもうすぐ聖歌隊を抜ける
のですが、後任のカーリーはずっと私に気兼ねしていたみたいで、
殿下の前で泣いてばかり︱︱﹂
﹁エステルッ!﹂
カーリーは恥ずかしそうにエステルの言葉を遮った。掴みかかり
そうな勢いだ。
﹁エ、エステルがいけないんだよ。続けたいってずっと言っていた
から⋮⋮立場を奪うみたいで、僕⋮⋮なのにいつの間にか入隊申請
済ませてるし、聞いてないよ﹂
839
﹁え、エステルは軍に入るの?﹂
光希は眼を瞠った。
﹁はい! 成人したら入隊します。合同模擬演習すごく感動しまし
た! ムーン・シャイターンはとてもお強くて⋮⋮私もいつかあん
な風に闘技場に立ちたいです﹂
瞳を輝かせるエステルの隣で、カーリーも﹁私も成人したら入隊
します!﹂と笑顔を閃かせる。
夢と希望に満ちた眩しい笑顔だ。一点の曇りもない憧憬の眼差し
で光希を仰ぎ見る。
﹁⋮⋮そっか。なら、もうすぐ仲間になるんだね。よろしくね﹂
この子達もいつの日か戦場に立つのだろうか。切なさに蓋をして、
微笑んだ。
﹁はいっ!﹂
二人は嬉しそうに、声を揃えて返事する。名残惜しそうに光希を
振り返りながら、駆けてゆく⋮⋮。
+
暮れなずみ、アッサラームは美しい黄金色に染まる。
沈みゆく陽は、空の裾を薔薇色に燃やす。
斜光の射しこむ大神殿に、礼拝する人の流れが途絶えることはな
い。
光希は祭壇を向いて跪くと、瞳を閉じた。シャイターンに力なく
840
呼びかける。
︱︱あんな小さな子達も、戦場に立たせるのかよ。ここは戦いば
かりだ。俺を花嫁に選んでくれたのなら、ジュリと一緒に戦える力
をくれても良かったのに⋮⋮。
ベルシアの和平交渉はどうなるか分からない。向こうが花嫁をよ
こせの一点張りなら、交渉は決裂だ。
百万を越える東の勢力と、全面衝突するしかないのだろうか。﹁
戦わない﹂という選択肢は、なぜないのだろう。
互いに十分広い領土を持っているではないか。征服の必要がどこ
にあるというのか。
い
﹁︱︱そのように健気に祈りを捧げられては、シャイターンも聴き
容れるほかありませんね﹂
突然、背中に声をかけられて、埒もない思いは中断した。アース
レイヤは光希の隣に立つと、祭壇に一礼して跪く。
﹁お告げはありましたか?﹂
﹁いえ⋮⋮アースレイヤ皇太子も、お祈りに?﹂
﹁休憩です。石で冷やされた、ここの空気が好きなんです。何をお
祈りされていたのですか?﹂
﹁祈りというか⋮⋮不満ばかり考えていました﹂
﹁不満?﹂
841
﹁⋮⋮ベルシアの和平交渉をどう思いますか?﹂
﹁もしかして、人柱になるか悩んでおられる? 花嫁を欠けば、兵
の士気は元よりムーン・シャイターンはこの国を見捨て兼ねない。
割に合わない取引だと思いますよ﹂
少々意外な思いで、光希は目を瞠った。彼はどちらかと言えば、
光希を見捨てでも交渉を取ると思っていた。
﹁ベルシアもこちらの出方を探っているのでしょう。無理難題の後
に、難易度を下げた要求をふっかけてくるかもしれませんよ﹂
﹁さっきは保留と言ったのに⋮⋮﹂
﹁彼も頭を冷やす時間が必要でしょうから。貴方のことになると、
心なきシャイターンも随分と熱い男になる﹂
﹁貴方は冷静ですね﹂
褒めたつもりであったが、アースレイヤは自嘲めいた笑みを浮か
べた。
﹁⋮⋮なるようになる、そう思っているだけです。もちろん、万策
尽きた際に思う境地ですけれど﹂
﹁勝てると⋮⋮いえ⋮⋮﹂
不謹慎かと思い途中で切った言葉を、アースレイヤは拾い上げた。
﹁悪くない勝率だと思いますよ。他の将達なら勝てると言い切るの
842
でしょうね。貴方の目に、私が冷静に映るのだとしたら⋮⋮それは
私が、敗戦した場合の未来も想定できるからでしょう﹂
敗戦⋮⋮言葉の重さに光希の顔は歪んだ。口にした本人は黒髪に
手を伸ばすと、苦悩を癒すように髪を梳く。
﹁勝率を上げるのは貴方だ。迷わず、ムーン・シャイターンのお傍
にいるとよろしい﹂
髪に触れる手を跳ねのけると、華やかな美貌に微笑を浮かべる。
掴みどころのない人だが、何かを尋ねて答えをはぐらされることは、
不思議とあまりないように思える。その答えが納得いくかどうかは
置いておいたとして⋮⋮。
今日に関して言えば、心を軽くしてくれた。
843
Ⅳ︳35
ぼうばく
夢の中。
茫漠たる空と砂漠の間を、光希はジュリの隣を馬に乗って駆けて
いた。最前線の先鋒隊だ。
背後にはジャファールやアルスラン達も続いている。眼前には赤
い旗を掲げる、埋め尽くさんばかりのサルビア兵。
ジュリは臆することなく凛然と立ち向かう。
青い双眸で前を見据えて、誰よりも先頭を走る。いつもと違うの
は、その隣を光希も走っていることだ。襲いかかる敵をジュリと共
に薙ぎ倒している。
将たる姿で、一歩もひけをとることなくジュリを敵の刃から守る
︱︱
﹁⋮⋮光希?﹂
優しく肩をゆすられて、ふっと目が覚めた。
夢かぁ︱︱⋮⋮。
胸中を深い落胆と虚しさが襲う。あれは光希の願望が投影された、
都合の良い夢だったのだ。思わず項垂れてると、ジュリに抱きしめ
られた。
﹁疲れましたか?﹂
﹁いや、今いい夢を見てさぁ⋮⋮ジュリと同じ馬に乗るんじゃなく
て、隣を並走するんだ。将として敵を蹴散らしてさ﹂
﹁将として?﹂
844
﹁そうだよ。あーあ⋮⋮あれが、本当なら良かったのに。現実の僕
は、何でこうも弱いんだろう﹂
﹁光希は弱くなんか、ありません﹂
即答が返る。光希は瞼を半ば伏せ、沈黙した。
﹁腕力に欠けても、光希はいつでも前を向いている。心は立派なア
ッサラームの獅子です。貴方は私の癒しであり、希望であり、誇り
です﹂
手を包み込まれて、真摯な眼差しに告げられる。やるせなさを噛
みしめながら、口元を緩めた。
﹁嬉しいよ、ありがとう⋮⋮それでも僕は、ジャファール達が羨ま
しい。剣を持ちたかった﹂
ふとジュリは表情を曇らせた。
﹁今日はすみませんでした。光希の誇りを傷つけるつもりは⋮⋮﹂
よぎ
苦い思いが胸を過る。軍議の合間に石廊に連れ出され、か弱いと
言われた。否定できないことが辛い。
﹁いいんだ⋮⋮僕も悪かったから。もしジュリがベルシアの要求を
迷わず受け入れていたら、傷ついたと思う。なのにあんな風に責め
てごめん⋮⋮﹂
瞼に、優しい唇が触れる。三回繰り返されたところで顔をあげる
845
と、頬と唇にも触れるだけのキスが落ちた。
﹁交渉の余地はまだあるでしょう。光希は絶対に渡せませんが、他
の物であれば応じる用意はあるのですから﹂
﹁開戦に間に合うかな⋮⋮﹂
﹁いずれにせよ、間もなくノーグロッジ作戦を開始します。陸路偵
察任務が明けたら、編隊を組んで中央に進軍します﹂
進軍と聞いて鼓動が跳ねた。いよいよ始まるのだ。青い双眸を見
つめて、光希は覚悟を決めて頷いた。
﹁ジュリ、あのね⋮⋮﹂
ある決意を伝えると、ジュリは思慮深げに黙考し⋮⋮受け入れた。
+
次に光希が軍議に呼ばれた際、皆の前で宣言した。
﹁僕も出陣します﹂
言い終わらぬうちから、室内はざわめいた。集まっていた将達か
ら、驚きの声と静止の声が上がる。
﹁最後まで聞きなさい﹂
他ならぬジュリの冷静な声で、場は静まる。
846
﹁戦うことはできませんが、進軍の士気を高めることならできるか
も⋮⋮できます。砂漠を抜けた先の通門拠点に僕も行きます。進軍
の間はずっと、シャイターンの声を僕の口から皆に伝えます。アッ
サラームは必ず勝利するんだって!﹂
震えそうになる唇を噛みしめて皆の顔を見渡すと、賞賛の眼差し
を向けられていることに気付いた。
﹁ご立派になれられましたなぁ﹂
知的な壮年の戦士、アーヒムはしみじみと呟いた。賛同する声が
いくつも続く。
誇らしさと喜びが胸にこみあげ、顔に熱が溜まった。
照れくさげに笑みを噛み殺す光希の背中を、ジュリは優しく、け
れど力強く叩いてくれた。
﹁花嫁こそアッサラームの希望の光。陸路に向かう隊にも、このこ
とを伝えておくように。準備が整い次第、ノーグロッジ作戦を開始
します。ナディア、ヤシュム、任せましたよ﹂
総大将を見返す毅然とした視線は力強く、自信に満ち溢れている。
彼等は礼節に則った、完璧な一礼で応えた。
﹁西の数は?﹂
問いかけに、アースレイヤが応じる。彼は机上の地図に視線を落
とすと、ベルヘブ西大陸の南に味方の駒模型を追加した。
﹁西大陸共同戦線も形になりつつあります。ついにザインが応じま
した。南のザイン、セラム、北はセラハンまで賛同し、西連合軍総
847
勢三十万を越えたところです﹂
周囲から﹁おぉっ!﹂と歓喜の声が上がる。
東の軍勢には遠く及ばないが、勝率を出すための軍勢を満たした
のだ。
百万と三十万⋮⋮想像を絶する人の数だ。それだけの人間が、間
もなく衝突する。
光希は戦慄すら感じて、地図上に置かれた青いアッサラームの駒
模型を見つめた。
848
Ⅳ︳36
軍議を終えた後は、ルスタムとアージュを連れて、クロガネ隊の
工房に向かった。アルシャッド達にも、許される範囲で今後の動向
を伝えておきたかったのだ。
﹁えっ、殿下も同行されるのですか?﹂
心配そうに声をかけてきたのはケイトだ。そういう彼も、間もな
く後衛部隊として進軍することが決まっている。お互い前線に立つ
ことはないが、危険が全くないわけではない。
﹁うん、流石に中央までは行けないけど⋮⋮通門拠点までは皆と一
緒に行くつもりだよ﹂
﹁アッサラームに残ることは、できなかったのですか?﹂
眉根を寄せて気遣わしげに問いかける。光希は不安そうな肩を叩
いて、笑った。
﹁皆と行きたいんだ。大丈夫、アッサラームは絶対に勝利する﹂
﹁殿下⋮⋮﹂
ロザイン
﹁シャイターンの花嫁がそう言うのなら、勝ったも同然ですなぁ!﹂
こうしょう
班長のサイードは豪快に哄笑する。気付けば、他の隊員達も作業
の手を休めて、こちらを見ていた。
849
納期の嵐に襲われ、皆やつれた顔をしているが口調や表情には覇
気がある。アルシャッドも伸びて来た前髪の奥で、目を細めて光希
を見つめた。
﹁ご立派ですよ﹂
﹁クロガネ隊の皆が、僕を育ててくれたおかげです⋮⋮﹂
声は尻すぼみになった。光希が照れくさげに頭を掻くと、サイー
ドとアルシャッドは黒頭に手を伸ばした。代わる代わるに撫でる。
巨躯のサイードに撫でられると頭は左右に揺すられた。
でも嬉しい。光希は笑顔のままアージュと眼が合い、閃いた。
ナイフが飛び出すかと背筋が冷えたが、じっとしている⋮⋮と思
った矢先、ふらりとこちらへ近寄る。
﹁待ってっ!!﹂
アージュはナイフを閃かせたりはしなかった。ただ凛とした眼差
しで光希を見つめる。
﹁僕は殿下の武装親衛隊です。もちろん、通門拠点にも一緒に行き
ます﹂
﹁⋮⋮うんっ! 心強いよ。ありがとう﹂
頼もしい少年兵を見つめて、ふと出会った頃より背が伸びている
ことに気付いた。そんなに変わらなかったはずの目線はいつの間に
か高くなっている。
光希を含めて、皆少しずつ変わってゆく。
不安がないわけではないけれど、一人じゃない。かけがえのない
850
大切な仲間が、こんなにも増えたのだ︱︱。
皆の笑顔を、瞳に焼きつけるように眺めていると、窓の外からユ
ニヴァースが﹁殿下!﹂と手を振ってきた。
﹁次の任務が決まったんで、知らせに来ました﹂
﹁ノーグロッジだよね。配置は?﹂
傍へ寄ろうとしたら、工房にナディアが訪れた。
来客が重なり、室内に砕けた空気が満ちる。工房の隊員達は手を
休め、サイードも﹁先客万来だなあ﹂と言いながら完全に寛いでい
る。
﹁お、ナディア将軍。俺の部隊はナディア将軍と同じ配置ですよ﹂
﹁そうなの。こんばんは、ナディア﹂
﹁こんばんは。ラムーダを受け取りに来ました﹂
くろがね
すっかり忘れていた。ぽんと手を鳴らすと、織布をかけた楽器を
手渡した。
ナディアはラムーダを受け取ると、表面に施した鉄の睡蓮を見つ
めて、感触を確かめるように指で触れた。
﹁睡蓮は夜に眠っても陽が昇れば再び美しく咲く、再生と復活を意
味する花です。この楽器に紡がれる音が、聴く人の胸に何度でも鮮
やかに蘇るように⋮⋮そんな願いをこめました﹂
緊張しながら反応を窺っていると、彼は空いている椅子に腰かけ
て、軽く弦を鳴らした。柔らかな音色が、空気を震わせて工房に響
851
き渡る。
﹁いい音じゃないか。色男、一曲弾いてくれよ﹂
サイードが笑い、周囲の隊員も﹁それがいい﹂と声を揃えた。光
希もわくわくしながら見ていると、ナディアは期待に応えるように
つま弾いた。
シタラ
素晴らしい音色に、思わず瞳を閉じて聞き惚れる。
ふいに、木造りの打楽器や、澄んだ竪琴の音が重なった。
驚いて眼を開くと、どこから持ってきたのか、楽器に心得のある
隊員達が、ナディアのラムーダに合わせて音を奏でていた。
アッサラームの夜を想わせるような、異国情緒に溢れた優しいメ
ロディが流れる。
眼を閉じると、不思議が起きた。
美しい砂漠の景色や、水膜に反射する金色のアッサラームが瞼の
奥に鮮やかに浮かぶ⋮⋮。
音を睡蓮に喩えたからだろうか。
心の中に、花開くように音が咲いていく。
やがて音が途切れると、余韻冷めやらぬままに夢中で手を鳴らし
た。
﹁わーっ! すごい! とても綺麗でした。何ていう曲ですか?﹂
﹁ありがとうございます。古典音律を引用した、即興です。不思議
と弦を弾いたら、美しいアッサラームが心に思い浮かんだのです。
弾かずにはいられませんでした﹂
楽器に触れていた隊員達も﹁俺もだ﹂と興奮気味に同意した。
﹁即興!? すごい⋮⋮僕もアッサラームの美しい景色を、心に想
852
アッサラーム夜想曲
い浮かべて聞いていましたよ﹂
﹁では⋮⋮この曲を
と呼びましょう。殿下
のくださった、シャイターンの祝福のおかげです。何度でも蘇る音
⋮⋮素晴らしい音をありがとうございます﹂
﹁こちらこそ、ありがとう! とても感動しました。また弾いてく
ださい﹂
﹁はい、殿下。喜んで﹂
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
仕上がりは上々のようだ。ほっと胸を撫で降ろしていると、いつ
の間にか工房へやってきたジュリに肩を抱かれた。
﹁私の花嫁を口説かないでください﹂
珍しいジュリの軽口に、工房は明るい笑いで満たされた。ナディ
アも苦笑しながら﹁失礼しました﹂と頭を下げる。
﹁とても美しい曲でした。野営の慰みになるでしょう。将兵に聴か
せてあげてください﹂
﹁はい。何度でも弾きましょう、アッサラームを想って﹂
皆、穏やかな表情をしている⋮⋮。
美しい音楽のおかげだ。音楽には人を癒す力がある。
アッサラームを遠く離れても、ラムーダの美しい音色が、アッサ
ラームの姿を鮮明に見せてくれるはず⋮⋮。
853
一度聴けば、何度でも心に蘇る。故郷への道標のように︱︱。
854
Ⅳ︳37
夜の帳の降りた公宮。
クロガネ隊を出た後、光希はジュリと別れて先に屋敷へ帰った。
団欒の一時に、テラスでラムーダをつま弾いてみる。
光希の腕前は、かろうじて一通りの音を鳴らせる程度である。ナ
ディアの演奏に触発されたものの、同じようには到底弾けない。
時々調子を外しながら苦心していると、背中に笑い声を聞いた。
振り向けば、濡れた髪を拭きながらジュリがやってくる。
﹁お帰り﹂
﹁ただいま。珍しいですね﹂
﹁ナディアの演奏すごかったから。僕もあんな風に弾きたいなと思
って⋮⋮﹂
ジュリは隣に座ると、光希の手元を覗きこんで弦の押さえ方や、
楽器の持ち方を指導し始める。
くろがね
﹁手はこう、もっとしっかり抱えて⋮⋮指はここ⋮⋮﹂
かむが
﹁⋮⋮判った! このラムーダにも、鉄の装飾を入れればいいのか。
そしたら、僕でも神懸かりの演奏ができると思わない?﹂
流星の如し閃きを口にすると、生暖かい眼差しに見下ろされた。
﹁いくら楽器が良くても、腕がないと無理か⋮⋮﹂
855
﹁そんなに弾きたいのなら、習ってみますか?﹂
﹁いや、たまにジュリが教えてくれれば十分だよ⋮⋮ところでナデ
ィアは、もうすぐ陸路偵察任務に発つんだよね﹂
﹁はい﹂
﹁出発前に、点呼取って滑走場に並ぶよね? その時さ、婚約者の
アンジェリカも中に入れてあげられないかな? 見送りしたいって
前に言ってたんだよ﹂
﹁どうでしょう⋮⋮﹂
ジュリは思案げに顎に手をやる。
﹁ナディアがどうしても嫌なら仕方ないけど⋮⋮アンジェリカが可
哀相で。残される方も辛いんだよ⋮⋮﹂
﹁判りました。伝えておきましょう﹂
﹁うん、ありがとう。聞いてみて。ナディアって優しいのに、アン
ジェリカに冷たいよね⋮⋮﹂
光希はふと思い出したように腕を組んだ。
﹁そうですか?﹂
﹁うん。この間、二人一緒のところに居合わせてさ、アンジェリカ
の好意は明らかなのに、ナディアは全然見向きもしないの。見てい
856
て可哀相だったよ﹂
﹁光希は優しいですね﹂
﹁別に普通だよ。あれはナディアが悪い。年上の男なんだから、も
っとさ⋮⋮﹂
続けて文句を垂れようとしたら、不意にジュリに肩を抱き寄せら
れた。ラムーダは取り上げられて、金箔装飾のテーブルの上に置か
れる。
問いかけるように見上げると、唇が触れる。忍び笑いを洩らすと、
ジュリもくすぐったそうに笑った。
﹁⋮⋮ジュリも弾いてよ﹂
ラムーダを押しつけるように渡すと、ジュリは堂に入った仕草で
構えた。弦をつま弾くと、心地いい優しい音色が流れる⋮⋮。
彼の演奏の腕前も素晴らしい。光希にしてみれば達人の域だ。演
奏が途切れた瞬間、盛大に手を鳴らした。
﹁素晴らしい!﹂
﹁ありがとう﹂
星明かりをもらい受けて、ジュリの輪郭は清らかな薄青に縁取ら
れる。
見惚れるほど美しい笑みに言葉を忘れていると、見つめ合ったま
ま抱き寄せられた。端正な顔が下りてきて、唇が重なり合う。
何度か柔らかく唇を吸われた後、うっすら開いた合間から熱い舌
を差し入れられる。頭の後ろを丸く包み込まれて、口づけは更に深
857
くなる。
甘い口づけを何度も繰り返す。もうジュリのことしか考えられな
い⋮⋮。
ようやく顔が離れた時には、顔はとても熱くなっていた。
﹁ジュリって⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮?﹂
中途半端に言いかけて止めたが、大した内容ではない。不得要領
に視線を彷徨わせると、ジュリは頬を撫でて視線を合わせてきた。
﹁いや⋮⋮﹂
﹁言って?﹂
光希しか映さぬ青い双眸は、とろりとした蜜のよう。甘い眼差し
に心を奪われていると、前髪を軽く引っ張られた。
﹁聞きたい⋮⋮﹂
言うほどのことじゃない。視線を泳がせて追及を躱しても、頬や
唇に触れられて視線を何度も捕われる。唇を指先でなぞられて、観
念して口を開いた。
﹁キスが⋮⋮上手だなぁって﹂
消え入りそうな声だったが、聞こえたらしいジュリは、恥ずかし
げに視線を逸らした。言わせたくせに。でも、彼の照れる姿は貴重
だ。つい物珍しげに見つめてしまう。
858
﹁そんなに見ないでください﹂
恥じらう姿に胸を打たれて、光希はふっと口元に笑みを閃かせた。
しかし、見られるうちに耐性がついたのか、ジュリは艶っぽい微
笑を浮かべると、光希の顔を両手で挟みこんだ。
﹁それって⋮⋮もっとして欲しいってこと?﹂
﹁え⋮⋮﹂
たかぶ
応えられぬうちに唇を塞がれた。あんなことを言ってしまったか
ら、妙に意識してしまう⋮⋮。
腰を撫でられながら口づけを交わすうちに、身体が昂ってきた。
859
Ⅳ︳38
テラスからベッドに移動しても、貪り合うような口づけは続いた。
キスの合間に、手は夜着の中へ忍び入り素肌を這う。
﹁っ、は⋮⋮ん⋮⋮っ﹂
身体に熱が灯りゆくのを感じながら、ふと明日も軍議があるな、
と少し冷静に思う。
いつものように抱かれては、明日ジュリの顔を見られないかもし
れない⋮⋮。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮?﹂
﹁明日も軍議⋮⋮ん⋮⋮っ﹂
下肢を押さえつけられながら、乳首を抓まれる。痛気持ちいい快
楽が走り、言いかけた言葉は中途半端に切れた。
前をはだけさせられ、露わになった乳首に吸いつかれる。
﹁待っ⋮⋮﹂
静止の声も虚しく甘噛みされた。背を仰け反らせると、今度は宥
めるように舌先でつつかれる。快感に負けて喘がされてしまう。
意地が悪い。さっきは無理にでも言わせようとしたくせに⋮⋮。
拒否の言葉を言わせまいと、巧みに快楽で責めてくる。そうと判
860
っていても、拒み切れない。
ジュリは先に脱いで全裸になると、光希の服にも手をかけてきた。
観念したように腰を浮かして協力する。
目が合った瞬間、軽く睨むと甘い眼差しに受け止められた。ジュ
リはずるい⋮⋮。
下着を下げられると、昂った中心がぶるんっと勢いよく飛び出し
た。
そこを凝視されて、顔は熱くなる。つい隠すように股間に手を下
ろすと、手首を取られて引き剥がされた。しかも濡れた切っ先に、
綺麗な顔が落ちてゆく⋮⋮。
﹁ジュリ⋮⋮んぁっ!﹂
ぱくりと咥えられて、熱い口内の中で亀頭を転がされた。屹立を
ほとばし
扱かれながら、尖らせた舌で蜜口をつつかれる。
あられもない嬌声が迸りそうになり、慌てて唇を噛みしめた。
窄まりをそっとつつかれ、光希のぬめりを絡めた指先を、浅く潜
い
らせてくる。いやらしく指を抽挿されながら、前を蕩かされると、
声を堪えることは難しかった。
あっけなく昇りつめて、殆ど叫ぶように達く。
﹁は、ん⋮⋮っ、あ︱︱っ!﹂
肩で息をして、虚空を見つめていると、ごくり⋮⋮と光希の吐き
だしたものを嚥下する音が耳に届く。
余韻に震えてる間も、蜜口をぢゅぅっと吸われて、最後の一滴ま
で啜り上げられる。
﹁あぁ⋮⋮っ﹂
861
背中は大きく弓なりにしなった。
﹁ん、可愛かった⋮⋮﹂
ジュリは力を失くした中心に、なおも舌を這わせている⋮⋮。熱
い舌と唇に包まれて扱かれるうちに、達したばかりの性器が弱々し
く反応を見せ始めた。
身体を繋げる前に、ジュリはいつも念入りに光希の準備をする。
愛されている幸せを感じる反面、刺激を制御されて焦らされている
とも感じる。
欲望を素直に口にするのは苦手なので、代わりにジュリの柔らか
な金髪を軽く引っ張る。
熱を帯びた青い眼差し︱︱
ジュリは察したように上体を起こすと、昂りを見せつけるように
扱き始めた。更に雄々しく猛らせると、光希の足首を高く持ち上る。
視姦するような眼差しを意識して、尻の窄まりは自然とひくつい
た。長い指で解すように、そこを撫でる。
香油を使って入り口を解すと、長い指を奥まで差し入れる。指を
前後に動かしながら、前立腺を刺激して光希の身体を蕩けさせる。
はい
何本も指が出入りするようになると、熱い性器を後孔に押し当て
る。ぬめりが窄まりを濡らし、ぐぐっと切っ先が挿入ってくる︱︱。
﹁あ、あ! あぅ⋮⋮ん、は⋮⋮っ﹂
じゅいつ
熱く逞しい猛りが、中を満たす︱︱震える襞を、ぬめりを帯びた
充溢で開かれていく。奥を探られるのが怖くて、自然と身体は逃げ
ようとしてしまう。
﹁あ⋮⋮っ﹂
862
腰を掴まれては引き戻された。
ゆったりとした腰使いで、光希の様子を見ながら甘く擦り上げる。
しなやかな筋肉のついた腕に触れると、青く光彩を放つ瞳に見下
ろされる。熱に浮かされた顔が降りてきて、身体を繋げる合間に唇
を塞がれた。
﹁⋮⋮ん⋮⋮っ﹂
舌を絡め合いながら、身体が浮くほどに強く、突かれ、引き抜か
れ、再び奥まで突き上げられる。
抽挿のたびに、粘着な水音が弾けた。
勃ちあがった性器に指をかけられ、亀頭を親指の腹で擦られた瞬
うごめき
間、またしても軽い絶頂を迎えた。
肉襞が蠢き、ジュリを締めつけてしまう。
どくり、と中を貫いたジュリの熱が弾けた。
最奥を穿たれて、光希も絶頂を駆け上がる。もはや何度目か分か
らぬ放熱に、全身を震わせて、薄い蜜を飛び散らせた。
﹁あっ⋮⋮あ、あ︱︱っ!﹂
﹁⋮⋮ッ︱︱!﹂
断続的な吐精は長く続き、その度に強い快感に支配される。
ジュリは余韻を楽しむように、光希の中に居座り続け、甘く腰を
揺らし続ける⋮⋮。
朦朧としていると、ふっとジュリの微笑する気配がした。
﹁あ、ぅ⋮⋮﹂
﹁光希⋮⋮﹂
863
中を抉られながら、全てを吐きだした性器を、つぅと撫でられた。
びくんっと反射的に勃ちあがる。
﹁も⋮⋮無理⋮⋮﹂
喋るのも億劫で、代わりに首を左右に振ってみせたが、ジュリに
は伝わらなかった⋮⋮。
864
Ⅳ︳39
しょうかい
アッサラームを覆う蒼穹の空を、哨戒の飛竜が翔けてゆく。
陸路によるノーグロッジ作戦開始。アルサーガ宮殿、軍部保有の
たいご
広大な滑走場に、歩兵隊、騎馬隊それぞれ第一から第七隊までの総
勢五千名がずらりと隊伍を為している。
先鋒隊は二輪装甲車に立つ歩兵隊総指揮のナディアと騎馬隊総指
揮のヤシュムである。
歩兵隊第一隊には、ユニヴァースが所属する特殊部隊︱︱別名、
懲罰部隊も組み込まれている。
滑走場では進軍前の最終確認が行われていた。上官による最終点
呼、装備確認、荷積みの確認。確認を終えた者から順次配置につい
てゆく。
その様子を、光希は滑走場に併設されている基地から眺めていた。
隣にはアンジェリカもいる。
彼女は婚約者であるナディアの見送りにきている。本人には来る
なと言われたらしいが、その後ジュリに取り成してもらい、軍関係
者として基地への立ち入りを許された。
﹁絶対に帰ってくるよ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
アンジェリカは既に号泣している。握りしめた薄絹は、涙を吸い
過ぎてもはや機能していない。
ポケットから清潔なハンカチを取り出すと、勇気を出してアンジ
ェリカに渡した。彼女はそれを握りめ、はにかむように笑ってみせ
る。
865
﹁ありがとうございます。お優しい殿下﹂
光希は照れくさげに頭を掻いた。
﹁いやぁ⋮⋮僕と一緒なら、滑走場にも入れますよ。本当にここで
いいの?﹂
﹁はい。ナディア様のお邪魔になっては、いけませんから﹂
健気な言葉に、ほろりとさせられる。
進軍前の最終確認は気が抜けないが、番が来るまでの間は、兵達
も割と思い思いに過ごしている。家族と話している者、同僚と話し
ている者、隊帽を顔に被せてうたた寝している者、武器の手入れに
余念がない者⋮⋮様々だ。
ユニヴァースは特殊部隊の仲間と楽しそうに話しこんでいた。
屈強な男達と比べると、長身のユニヴァースも華奢な方だが、肩
を叩いて笑顔を交わす姿は対等に見える。
﹁殿下︱︱っ!﹂
視線に気付いたユニヴァースは、光希を見るなり威勢よく叫んだ。
つられて他の兵達までこちらを振り向く。
﹁行ってらっしゃい!﹂
注目を浴びて恥ずかしかったけれど、立ち上って大きく手を振っ
た。向こうもぶんぶんと千切れんばかりに手を振ってくれる。
更に此方へ駆け寄ろうとしたところを、慌てふためいた周囲に止
められた。背中から重石のように幾人も圧し掛かり、圧死しそうな
866
勢いで地面を叩いている⋮⋮。
ふと対岸のナディアと目が合い、弾かれたようにアンジェリカを
見つめた。
﹁ナディアだよ﹂
﹁は、はい﹂
﹁ナディア︱︱ッ!﹂
名を叫ぶと、控えめに手を振り返してくれた。ほらほらとアンジ
ェリカを急かす。
せっかく視線をもらえたのに、彼女は顔を真っ赤にして今にも倒
れそうな有様だ。
﹁大丈夫?﹂
﹁はい! こちらを見ていただけましたわ⋮⋮﹂
またしてもアンジェリカは泣き出してしまった。
でも、気持ちは判る⋮⋮。
前回は光希もジュリを見送る立場だった。目の前で飛竜に騎乗す
るジュリの雄姿に、胸がいっぱいになったことを覚えている。
出発準備が整うと、現場にジュリ、アースレイヤ、ジャファール
が労いにやってきた。全将兵は右手を肩に置いて最敬礼する。
ジュリは総指揮のナディアとヤシュムの腕を叩いた。
﹁全軍、前進!﹂
号令と共に、総勢五千を超える、各隊ごとの分列行進が始まった。
867
そうと
ぐんか
勇ましい蹄鉄や軍靴の音が、アッサラームの蒼空に高らかに響き渡
る。
彼等の壮途の無事を祈るばかりである。
+
およそ四十日間に及ぶ陸路偵察任務は、中央での衝突もなく、ほ
ぼ無傷でアッサラームへの帰還を遂げた。
ロザイン
また、この間にベルシアとの交渉が晴れて成立する。
花嫁の引き渡しではなく、サルビアが約束していた倍の報酬をア
ッサラームから支払うことで決着がついた。
ベルシアの離反にサルビアは激怒したが、説得は諦め、間もなく
総勢百万を越える大軍勢で侵攻を開始した。
その行軍経路は光希の予見した通り、広範囲に渡るものであった。
迎え撃つべく、アッサラームもジュリを先頭に、総勢三十万を越
える軍勢を率いて、中央への進軍を開始。
ユニヴァースの所属する特殊部隊も解体され、中央広域戦︱︱後
の東西戦争に向けた編隊に組み込まれた。
光希は彼の身を案じたが、武功を狙うユニヴァースは果敢にも中
央の前線を希望した。ジュリと同じ配置の、山岳の激戦区である。
光希はジュリと共に、総勢二十三万︱︱ほぼ全軍を従えて、後方
支援の拠点となる通門拠点を目指した。
868
Ⅳ︳40︵Ⅳ章完︶
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争に向けて、光希達は国門とも
呼ばれる、通門拠点に向けてアッサラームを発った。
光希はジュリと共に飛竜でスクワド砂漠を越えた後、用意されて
いた二輪装甲車に乗り込み、更に東へと進んだ。
周囲を二百の精鋭が守り、その前後左右を数千にも及ぶ選り抜き
の騎馬隊が警備にあたっている。
戦地が近付くにつれて、行軍は重々しくなっていった。
気候も変わる。
きゅうしゅん
アッサラームのからりとした暑さから、次第にじっとり湿気を含
んだ暑さに変化した。
とうはん
青空は深い茂みに覆われ、岩だらけの急峻な山容では、馬車での
登攀に苦労し、時に光希も徒歩で進んだ。
辿り着いた通門拠点は、断崖絶壁の障害地形に建てられた巨大な
石の要塞で、アッサラームの巨大建造物に見慣れたはずの光希です
ら、言葉を忘れるほどに圧倒された。
﹁すごい⋮⋮っ!﹂
カテドラル
アッサラームの大神殿よりも遥かに大きい。五万もの兵を収容で
きると言われるのも納得の大きさだ。
仰ぎ見る尖塔の高さに、ぞくりと背筋が冷えた。石の巨人が立ち
はだかっているようだ。
﹁すごい⋮⋮何て大きいんだろう⋮⋮﹂
﹁アッサラームの国門ですから。いかなる梯子も届かないほど、天
869
高く築き上げられました﹂
﹁すごいね⋮⋮﹂
同じ言葉しか出てこない。首が痛くなるほど仰ぎ見ていると、ジ
ュリに肩を抱きしめられた。
﹁この砦にいれば安全です﹂
安心させるように笑みかける青い瞳を見返して、光希もしっかり
と頷く。
拠点に着くと、光希は与えられた私室に案内されたが、ジュリは
慌ただしく行軍準備の為に部屋を出て行った。
﹁殿下、お疲れでしょう。少しお休みください⋮⋮﹂
気の利くナフィーサは、冷たい飲み物を持って現れた。ちょうど
喉が渇いていたところだ。
﹁ありがとう。ナフィーサこそ疲れていない? アッサラームとは
空気が違うよね﹂
﹁薄手の服を取り揃えておきました。アッサラームと違って、夜半
もあまり温度が下がらないようですから﹂
りょじん
室内にいても少し肌がべたつく。日陰にいれば涼しいアッサラー
ムとは大分勝手が違う。旅塵や汗を流し、部屋に戻るとジュリがい
た。
﹁お帰り﹂
870
らしゃ
ジュリは見慣れぬ恰好の光希を見下ろすと﹁可愛い﹂と褒める。
ほしょう
きょへき
光希は今、ゆったりした造りの羅紗の上下を腰帯で留めただけの軽
装である。
ぎんはん
薄手の外衣を羽織ると、ジュリと共に要塞の歩哨に出て、鋸壁か
ら空を仰いだ。
天には数多の星が瞬き、青い星は清らかな光りで国門を銀班に染
めている。
美しい夜空はアッサラームと同じ。
しかし眼下に見下ろす黒々とした樹林や、合間に覗く厳しい岩肌
は、夜でも蛍のように無数の灯りのともる聖都とは様子が違う。
生温い風を頬に感じていると、不意に背中からジュリに抱きしめ
られた。
﹁空気が違うよね。慣れるのに、少し時間がかかりそう⋮⋮﹂
﹁アッサラームで待っていてもいいんですよ?﹂
﹁ここで待ってる。帰る時は一緒だよ﹂
すぐに返事がないので、振り向くと青い双眸と眼が合った。
﹁もちろんです。一緒に帰りましょうね﹂
﹁︱︱焦った。すぐに返事してよ﹂
﹁ふふ﹂
﹁ジュリ⋮⋮本当に危ない時は、絶対に無理しないで﹂
871
﹁はい﹂
﹁僕は、ジュリが無事ならそれでいい⋮⋮﹂
見つめ合ったまま、自分からジュリの襟を掴んで引き寄せ、重ね
るだけのキスをした。
﹁絶対に守って﹂
﹁はい﹂
光希だけを映して、美しい青い瞳を嬉しそうに和ませる。綺麗な
顔を寄せると、今度はジュリの方からキスをした。
瞼を閉じれば、美しいアッサラームの景色が鮮明に思い浮かぶ。
ぼうばく
なび
あの場所に、必ず二人で帰るのだ︱︱。
+
数日後。
鬱蒼とした緑を覆う、茫漠たる蒼天。
湿地帯に吹く風は、青い双竜の軍旗を靡かせる。
要塞の中庭には、拠点を発つアッサラーム兵が整然と並んでいた。
たいご
彼等の先頭に立つのは、ヤシュム、アーヒム、そしてジュリ︱︱
万もの兵を指揮する大将達だ。
更に拠点に入りきらない二十万もの軍勢が、外で隊伍を為して出
発を待っている。
これだけの大軍が、サルビア軍と戦う為に移動するのだ。
戦争が始まるのだと実感せずには︱︱戦慄せずにはいられない。
872
﹁シャイターン、アッサラーム勝利の予言成就が、一日も早いこと
をお祈り申し上げます﹂
光希は、中庭の全将兵から見える高台に立ち、天を仰いで祈りを
捧げた。
これから中央陸路に向けて出兵する、アッサラーム軍の心が少し
い
でも晴れるように⋮⋮。
まるで聴き容れられたかのように、一際爽やかな風が中庭に流れ
た。
その場にいた全員︱︱アーヒムや、ヤシュム、ルーンナイトまで
もが、光希の言葉を受け入れて膝を折る。
﹁全軍、前進!﹂
ジュリの号令がかかり、勇壮な騎馬隊は巨大な石門を出てゆく。
思わず要塞の縁に走り、遠ざかるジュリの背中を見つめた。胸に
こみ上げる想いを噛みしめながら、強く願う。
どうか無事に帰ってきて⋮⋮!
心の声が届いたかのように、ジュリは騎乗したまま振り返り、光
希を仰ぎ見た。身を乗り出して力の限り叫ぶ。
﹁武運を祈ってる⋮⋮! 絶対、必ず、戻ってきて︱︱っ!﹂
ジュリは力強く拳を上げて応えてくれた。
﹁アッサラームを守るぞ!﹂
﹁﹁﹁オォ︱︱ッ!!﹂﹂﹂
隊伍を為す全員が、天に向かって咆哮を上げる。
873
勝利を約束するかのように、陰った雲間から陽光が射した。天か
ら伸びる斜光は、進軍の路をどこまでも明るく照らしているのだっ
た︱︱。
874
1 ﹃山岳戦闘民族撃退戦﹄ − ヤシュム − ヤシュム・マルジャーン︱︱中央広域戦陸路大将
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたムーン・
シャイターン、アーヒムと共に、中央激戦区の前線に立つ。
スクワド砂漠を越えて通門拠点を抜けた後、およそ二十三万の軍
勢と共に山岳湿地帯に突入。
ヤシュムらは不慣れな湿地帯で進軍困難を極め、また山岳戦闘民
族の奇襲に苦しんでいた︱︱。
︱ ﹃山岳戦闘民族撃退戦・一﹄ ︱
通門拠点を抜けると、深い茂みの湿地帯に変わる。
乾いた気候に慣れたアッサラームの兵達は、じめついた湿地の空
気にすっかり参っていた。
また、この辺りの地形に詳しい山岳民族に、昼夜を置かず野営地
や休憩しているところを奇襲されて、アッサラーム軍は満足に休息
を取れずにいた。
とうてき
﹁忌々しい蛮族め⋮⋮姿を見せて襲ってくればいいものを。茂みに
隠れて投擲ばかり、煩い蠅のようだ﹂
875
ヤシュムはぼやかずにはいられなかった。
ほしょう
たった今も、お気に入りの第一歩兵隊を襲われたばかりで、周囲
の歩哨を余儀なくされている。
﹁こうも足止めされては、中腹に辿りつく頃には、何もかも終わっ
ているのではないか?﹂
くつわ
轡を並べるアーヒムもうんざりした口調で同意を示す。
サルビアと一戦交える前に、ここに陣を張って蛮族の掃討に転じ
てもいいくらいだ。
見えぬ敵から執拗に嫌がらせを受けて、進軍の足は鈍り、ヤシュ
ムに限らず全将兵は苛立ちを募らせていた。
そんな中、進軍経路について弁を交わすヤシュムらの元に、伝令
がまたしても蛮族の奇襲の知らせを持ってきた。
﹁おのれ、卑怯な真似ばかり!﹂
﹁逃がすな!﹂
﹁捕えろっ!﹂
騒がしい兵らの声に外へ出てみると、挑発された兵達は、無思慮
に飛び出して行くところであった。これは罠だと、ヤシュムは直感
した。
﹁馬鹿者! 止まれ!﹂
﹁行くな!﹂
ヤシュムとほぼ同時にアーヒムが叫ぶ。
しかし静止の声は兵達の怒号にかき消され、役目を果たさなかっ
た。
876
﹁先頭を止めるしかない﹂
いなな
ムーン・シャイターンは騎乗するなり、猛る味方の先頭に向かっ
て走った。
脅かすように、大きくトゥーリオを嘶かせたことで、ようやく兵
の流出は止まったが、既に数千の兵が流れた後のことだった。
時を置いて少数の精鋭と共に、彼等の後を追いかけてみれば、案
の定、無残な死地と化していた。
深い水溜りの穴だらけの、致命的な湿地帯に誘い込まれたのだ⋮
⋮。
進退を阻まれたアッサラームの兵達は、皆殺しにされていた。夕
むご
闇に映える悲しくも美しい青い燐光が、彼等の身体から立ち昇る。
何と惨い。これでは無駄死にだ。後方に控える同胞には、とても
見せられない⋮⋮。
しかし沈黙したところで、ヤシュム達だけが戻ってきたことで、
残された味方は全てを察してしまった。
その後は幸いにして奇襲はなかったものの、兵達の顔は一様に暗
かった。
﹁この先、山岳民族を無視して、進軍はとても無理でしょう﹂
軍議でムーン・シャイターンが口を開くと、ヤシュムもすぐに賛
同した。
﹁おびき出しましょう。畜牛を残したまま、この野営地を明け渡す
のはいかがです? 連中が夢中で口にしているところを後ろから叩
くのです﹂
血気盛んな蛮族なら、肥えた牛に飛びつくに違いない。我ながら
877
うまい作戦と思えたが、アーヒムは懸念を示した。
﹁血肉を与えて、余力を増したらどうする﹂
﹁なんの。この湿地ではまともに焚火も起こせまい。生肉を満腹食
らえば、消化に時間を要する。動きはさぞ鈍るだろう﹂
﹁いいかもしれませんね﹂
﹁ムーン・シャイターンまで⋮⋮﹂
﹁今日は大敗を喫しました。怖気づいたように背中を見せても、相
手は疑わないでしょう。野営地に蓄えを残したまま逃げれば、必ず
ここで足踏みしてくれる﹂
総大将は明晰な口調で語る。
﹁では、伏兵を隠しておきますか﹂
﹁蛮族の全貌も把握出来ていないのに、いささか早計ではありませ
んか?﹂
周到なアーヒムは思慮深げに眉根を寄せ、水を差す。
﹁アーヒムの心配も判ります。敵の兵力を分散させて二点から攻め
しがん
ましょう。明日、私とヤシュムは戦意を失くした風を装い、川を越
えた場所まで下がります。退却と見せかけ、密かに此岸で待ち伏せ
ましょう。相手が追いかけてきたら、彼等の半数以上が渡河し終え、
一番混雑しているところを攻撃します﹂
878
﹁ふむ。半渡に乗ずるわけですな⋮⋮﹂
今度はアーヒムも乗り気を見せる。
﹁いい策ではありませんか。進軍を戻すことにはなりますが、蛮族
は脅威だ。今のうちに叩いておかなければ、いずれ致命的な被害が
出る﹂
へきとう
ヤシュムは劈頭からして乗り気だ。
のろし
﹁明日、アーヒムは精鋭と共に野営地で潜伏していてください。こ
ちらが戦闘を始める際は狼煙を上げます。一斉に攻撃に転じてくだ
さい﹂
﹁御意﹂
かくしょうしょ
話はまとまった。
夜間における各哨所の巡視にムーン・シャイターンが出掛けた後
も、ヤシュムは暫しアーヒムと酒を酌み交わした。
﹁深酒は禁物だぞ⋮⋮﹂
アーヒムの忠告は尤もだが、呑まずにはやっていられない。満足
に弔いもできず、散って行った同胞を思うと無念で仕方なかった。
﹁判っている。だが、やりきれないのだ⋮⋮﹂
﹁あまり責めるな、ヤシュム。明日を勝利で飾り、同胞への手向け
としよう﹂
879
むくろ
﹁同胞は皆あっけなく散ってゆく⋮⋮躯を残す蛮族を、少し羨まし
く思わぬか﹂
さら
﹁そう感傷的になるな。敵に屍を晒すなど、俺はご免だ﹂
﹁お前は、俺より先に死んでくれるなよ﹂
アーヒムは豪快に笑い飛ばした。確かに、少しばかり感傷的にな
っているようだ。首を捻ると、余計なことは口にせず大人しく酒を
煽る。
︱︱二度は許さぬ。必ず報復してやる。
ヤシュムは心に深く誓った。
880
2
︱ ﹃山岳戦闘民族撃退戦・二﹄ ︱
翌朝。夜明けの濃霧に乗じて、アーヒムは密かに少数精鋭の伏兵
を、野営地から少し外れたところに配置した。
作戦通り、ヤシュムとムーン・シャイターンは野営地に食料を残
したまま、戦意を失くしたように撤退準備を始める。
ヤシュムは辺りに聞こえるよう、自分の副官に﹁今一度攻めまし
ょう﹂と言わせ﹁後方に戻り配置換えを行う﹂と尤もらしく答えた。
﹁退却せよ!﹂
大きく号令をかけると、全隊と見せかけたアッサラーム軍は、野
営地に背を向けて歩き出した。
湿地の入り口は平野で、一本の河が横たわっている。来る時にも
越えてきた河だ。熟知の浅瀬から渡河前進を命じると、兵達は間も
なく渡り終えた。
もともと後方に残しておいた支隊と合流すると、伏兵にすべく、
窪みや岩場の影といった地形にうまく隠した。
渡河を終えてずぶ濡れの本陣も、対岸から見えぬところで火に当
たらせ、皮膚には防寒の油を塗らせる。
881
いつでも来るがいい。
対岸の茂みを睨みつけるヤシュムの傍に、軽食を手にムーン・シ
ャイターンが戻ってきた。持っていた一つをヤシュムに渡してくれ
る。
﹁ありがたく⋮⋮しかし、ここにいては危険です。どうかお下がり
ください﹂
﹁ヤシュムが心細いかと思いまして﹂
﹁ぶっ﹂
彼らしからぬ軽口に、思わず吹き出してしまった。こんな冗談を
言える人だったろうか。
﹁何をおっしゃる﹂
ふと衝撃から立ち直ると、余計に張っていた力が抜けたことに気
付いた。
参った。気を遣われてしまったようだ⋮⋮。
自分とは一回りも歳の離れた若者に、穏やかに諭された気分だ。
わざとらしく咳払いすると、余裕のある笑みを浮かべてみせる。
﹁ありがとうございます。しかし、総大将が待ち構えていては、と
ても敗走には見えませぬ。お気遣いくださるのなら、どうぞ辺りの
茂みにでも隠れていてください﹂
﹁そうしましょう﹂
彼はヤシュムの肩を叩いてから、大人しく引き下がった。
882
その背を見送りながら、思えば行軍の最中にも幾度となく気遣わ
れたいたのだと、今更ながら気付いた。
昨日の軍議にしても、ヤシュムの言を立てれば次はアーヒムを立
てていた。年若いムーン・シャイターンから見れば、アーヒム共に
くつわ
口煩い将だろうに、贔屓なく重用し、達成感を抱かせるのだから大
したものだ。
スクワド砂漠で轡を並べた時には、淡々とした態度が癇に障った
ものだ。今では隣を走るだけで、勇気づけられるのだから不思議な
ものだ。
元から軍略の才には恵まれていたが、いつの間に人心掌握まで身
につけたらしい。そういえば、アーヒムの態度も、彼に対して随分
と柔らかくなった⋮⋮。
ふと一陣の風に異変を知る。
どうかつ
殺気を捉えて気を引き締めた途端、対岸に山岳の蛮族が現れた。
ざっと見積もっても、数百はいる。
ヤシュムは対岸に向かって、昨日の仕返しとばかりに恫喝を吠え
た。
﹁ここまでは、到底追ってこれまい!﹂
作戦を把握している兵達も、ヤシュムに次いで盛大に野次を飛ば
す。
﹁今に立て直し、襲ってやる。首を洗って待っているがいい!﹂
﹁合間に隠れてばかりの臆病者め!﹂
散々に喚いてから背を向けると、蛮族達は無思慮に追い駆けてき
た。流石に渡河は素早い。
彼等の半数が越えたところで、ムーン・シャイターンは﹁今だ!﹂
と茂みから立ち上り、隠しておいた伏兵も一斉に続く。
883
動きやすい平地で、兵力を分散させられた蛮族を追い詰めること
は容易かった。
未だ渡っていない向こうの部隊は、対岸の味方を救援出来ず、渡
り終えた部隊もヤシュム達の黒牙に襲われて、後退動機の自由がな
い。
存分に刃を振るった。
むくろ
ムーン・シャイターンも目にも止まらぬ速さで、敵を斬り伏せて
いる。瞬く間に、彼等の躯で河は赤く染めあげられた︱︱。
対岸にアーヒムが姿を見せると、蛮族達は完全に戦意を失くして
湿地へと逃げ帰ろうとした。
その背を見た途端に、昨日の悔しさが再燃する。
しかし、追い駆けようとするヤシュムの肩をムーン・シャイター
ンは強く押さえる。殆ど睨みつけるように振り返った。
﹁今なら︱︱っ!﹂
すが
﹁ヤシュム! 今戦いで、山岳民族は本来の敵ではない! 背中を
向けて逃げる者に、容赦なく追い縋ることは得策とは言えません。
判りますか?﹂
冷静さを求められている︱︱。
どうにか怒りを抑え込み、期待に応えようと口を開いた。
﹁やむをえずして、烈しく抗戦する展開を避ける為でしょうか⋮⋮﹂
﹁それもありますが、敗者に対して戦場で寛容だと評判が拡がれば、
それを耳にした別の者と相対した時、指揮官が直ぐに退却する決心
をしてくれるようになる﹂
深い言葉に眼を瞠った。彼がこれほどに思索の人とは知らなかっ
884
た。
﹁この先も長い。再び剣を交える機会を、少しでも有利にしておく
んです﹂
﹁なるほど⋮⋮頼もしい将師だ﹂
ヤシュムが絶句していると、いつの間に渡河を終えたアーヒムが、
感心したように呟いた。
確かに、彼の経験に裏打ちされた格言には、感心させられること
が多い。とても一回りも歳が離れているとは思えぬ。
﹁アーヒム、野営地は?﹂
問いかけると、アーヒムは不敵な笑みで応えた。思わずムーン・
シャイターンと揃って笑顔になる。
﹁やれやれ⋮⋮これで一つ、勝ちを取り戻しましたな﹂
こうむ
﹁痛手は被りましたが、ようやく進軍できます﹂
﹁しかし、随分と遅れを取った。有利な地形は、もう押えられてい
るかもしれませんな⋮⋮﹂
三人揃って表情を消した。アーヒムの懸念は現実のものになるだ
ろうと、確信に近い思いを抱いたからだ。
サルビアと一戦も交えぬうちから、大きく出遅れてしまった。
﹁︱︱まぁ、今夜の野営では酒を振る舞いましょう。皆よく粘った﹂
885
アーヒムの言葉に、ヤシュムもにやりと頷いた。
勝ちは勝ちだ。
陰気を忘れるくらい、憂さ晴らししておいた方がいい。窺うよう
にムーン・シャイターンを見ると、笑みを浮かべて頷いてくれた。
﹁そうですね、今日は皆を労いましょう﹂
よし! 今夜はうまい酒が飲めそうだ。
二人の肩を叩けば、同じように叩き返される。そこでようやく、
ヤシュムの沈んだ気分は上向いた。
886
3 ﹃中央山岳狭路の戦い﹄ − アーヒム −
アーヒム・ナバホラトゥーダ︱︱中央広域戦陸路大将
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたムーン・
シャイターン、ヤシュムと共に中央激戦区の前線に立つ。
アッサラーム軍は山岳戦闘民族八千の手練れに一度は大敗を喫し
たものの、敗走に見せかけた奇襲でこれに勝利し、中央大陸中腹ま
で進軍する。
後方支隊に十万、アーヒムら率いる前線に十万の兵力を残したま
ま、遂に難関地形とされる山岳狭路でサルビア十万の軍勢と初戦を
迎えた︱︱。
︱ ﹃中央山岳狭路の戦い・一﹄ ︱
中央大陸において、最も行軍困難とされる断崖絶壁の狭路を抜け
た先、ようやく視界の開けた平地でサルビア軍が﹁無敵﹂と誇る重
装歩兵隊の待ち伏せにあった。
分厚い鉄の壁に押し負け一時退却を命じると、背後を襲うサルビ
ア軍の攻撃に、足を踏み外して転落する者が相次いだ。
887
山岳での狭い一本道では、攻めるよりも守る側の方が有利だ。
しかも、向こうは最寄の高地を占領しており、狭路から攻め込ま
なければならないアッサラーム軍と比べて、各段に有利だった。
目と鼻の先にサルビアの旗を視界に収めながら、一太刀も攻め込
めず、アッサラーム軍は狭路の奥へ後退せざるをえなかった。
﹁初戦はサルビアに軍配が上がったか⋮⋮﹂
アーヒムは中央山岳の地図を睨みながら、忌々しい気持ちで呟い
た。対面に座るヤシュムも﹁全く﹂と頷く。
﹁それにしても、よくもこんな所まで、あのように重い装備を持っ
てきたものだ﹂
よろ
全身鋼に鎧われた、あの重装備で行軍してきたとは思えないから、
東大陸からはるばる別途に運んで来たのだろう。荷運びの労を考え
ると、敵ながら少々感心してしまう。
対面に座るヤシュムも忌々しそうに唸った。
﹁うーむ。しかし、あそこを抜けない限りは、この先に進めんな﹂
﹁ムーン・シャイターンは?﹂
﹁直ぐに来られよう﹂
ヤシュムが答えると同時に、ムーン・シャイターンは天幕にやっ
てきた。
我々を見るなり﹁今日はよくやった﹂と労いの言葉をかける。退
却一手のどこを褒められたのか⋮⋮閉口していると若き覇王は口端
を上げて笑んだ。
888
﹁今日の一戦で気付けたことは多い。まともに衝突すれば巨岩の如
ちせき
しでも、あの重たい部隊には弱点がある。散開隊形になってしまえ
ば機能しないし、狭い地積の密集方陣では混み合い、互いに邪魔を
してしまう。こちら側の狭路に誘えれば勝利を得られます﹂
﹁それはそうですが⋮⋮狭路となれば、向こうも先ず深追いはして
来ないでしょう﹂
思わず反論すると、ヤシュムも﹁向こうは高地を陣取り、見晴ら
しも良い﹂と頷いた。
﹁明日も再び正面から挑みます。いかにもこの路を攻めるのだと、
向こうに印象づける陽動です。今日を果敢に凌いだからこそ、相手
の眼には自然に映るでしょう。敢えて奥へは攻め込まず、じりじり
と苦戦していると思わせるのです。向こうが勇み足で狭路に入れば、
きょうげき
すかさず叩きますし、そうでなければ日暮れと共に撤退して、翌日
に後方から回らせた部隊で挟撃しましょう﹂
﹁左右は絶壁。飛竜も降りれますまい。挟撃とは、どの部隊を動か
すのです?﹂
アーヒムが問えば、彼は一つ頷いてヤシュムを見やる。
﹁ヤシュム、身軽な精鋭を三百動かせますか? 明日は敵の目が本
陣に向いている間に絶壁に移動し、そのまま待機してください。翌
昼、合図を待ってサルビアを後方から叩いてください﹂
指名を受けたヤシュムは、狼狽えたように腕を組んだ。
889
﹁しかし軽装備では、あの重装備にかすり傷一つ負わせられないぞ。
投石機でもないと無理でしょう﹂
﹁敵の体力を出来る限り削ります。明日は果敢に攻めると見せかけ、
三日目以降が勝負です。三日目も私とアーヒムで、敵の前に姿を見
せます。サルビアは我々の進軍を警戒して、陣立てを整えてくるで
しょう。敵の陣がすっかり整った後、我々はいったん退却します﹂
そこで、ムーン・シャイターンの作戦が読めた。
﹁ふむ⋮⋮あの狭路では、こちらが後退しても、敵は攻めるに攻め
られませんな。やっかいとばかり思っていましたが、陽動を起こし
やすい地の利もある﹂
﹁あの重装備では、数刻立っているだけでも体力を奪われるでしょ
う。こちらが仕掛ける頃には、疲労している上に空腹というわけだ﹂
ヤシュムの言に愉快な気持ちがこみあげた。
きっぱん
﹁では奴らの目の前で、将兵にはゆっくり喫飯させてやりましょう﹂
今日の前進が、明日の陽動に活きるというわけか⋮⋮。
なるほど、ムーン・シャイターンが、今日はよくやったと褒めた
きじ
理由が判った。ヤシュムもにやりと笑むと﹁では、そのように﹂と
軍議を中断し、地図の上に杯を載せた。
ちょうど喉が渇いていたところだ。
アーヒムも従卒を呼び寄せ、酒の肴にしようと、雉の燻製を焼い
て持ってくるよう命じた。
﹁準備がいい、アーヒム。いつも気の利いた酒や肴を用意してくれ
890
て、俺は嬉しいぞ﹂
砕けた雰囲気に、ムーン・シャイターンも姿勢を崩すと、思案気
に腕を組んで息を吐いた。
﹁お疲れですなぁ﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
ロザイン
﹁重いため息でしたよ。拠点で待つ花嫁が気になりますか?﹂
軽口のつもりであったが、彼は﹁はい﹂と素直に首肯した。
﹁心配なさいますな。この狭路を抜けても尚、拠点までは遠く離れ
ています。敵も、そう簡単には辿りつけますまい。それに一大事と
なれば、皆一丸となって殿下を御守りすることでしょう﹂
﹁もちろんです。ですが⋮⋮それとは別の理由で、連れてきたこと
を、少し後悔しています﹂
敵襲以外の何を心配しているのだろう⋮⋮。
ヤシュムと二人で見ていると、彼は気まずそうに口を開いた。
﹁この先、前線に復帰できない負傷兵が、拠点に運ばれると思うの
ですが⋮⋮﹂
﹁ふむ﹂
﹁すぐに人手は足りなくなる。光希は優しいから⋮⋮恐らく彼等を
手伝うでしょう﹂
891
それのどこが問題なのだろう⋮⋮話が見えずに困惑していると、
対面に座るヤシュムは可笑しそうに笑った。
﹁つまり、殿下が他の者を気にかけることが、お嫌なのですね﹂
﹁光希の優しさを、相手が勘違いしなければいいのですが⋮⋮﹂
つわもの
そういうことか。しかし、無用な心配に思える。恐れ多くもムー
ン・シャイターンの花嫁に手を出す兵は、我がアッサラーム軍には
皆無だろう。
ヤシュムも同じことを思ったのか﹁心配し過ぎでしょう﹂と苦笑
している。
﹁でも、前例がありますから﹂
前例と言われて、殿下の元武装親衛隊、ユニヴァース・サリヴァ
ン・エルムの顔が浮かんだ。
殿下を宮殿の外へ連れ出して、ムーン・シャイターンの怒りを買
ったことは軍でも有名な話だ。しかし⋮⋮。
﹁きっちり報復されたではありませんか。あれを見て、震え上がら
なかった連中は一人もいませんでしたよ﹂
謀反を起こしたヘルベルト家に至っては慈悲なき血の制裁が下り、
花嫁を連れ出した元武装親衛隊の兵士も公開鞭打ち刑に処された。
極刑こそ免れたものの、わざわざ円形闘技場で行われた公開刑を、
ほぼ全将兵が見させられたのだ。
高みから眺めるムーン・シャイターンの氷の眼差しは、アーヒム
ですら空恐ろしいものを覚えたものだ。あの凄惨な光景を見た者は、
892
殿下に無礼を働こうなど、露ほども思わないだろう。
﹁だといいのですが⋮⋮﹂
﹁あまり心配し過ぎては、明日に響きますよ﹂
雉の燻製が運ばれてきたので勧めると、ムーン・シャイターンも
ようやく酒に手をつけた。
彼の場合、いささか度を越した心配に思えるが、残してきた者を
想う気持ちは、アーヒムにもよく判る。
妻は亡くして久しいが、アッサラームで帰りを待つ忘れ形見の双
子は、アーヒムにとって掛け替えのない生きる支えだ。あの子達が
待っていると思うと、こんな所ではとても死ねないと、腹の底から
思う。
﹁︱︱アッサラームに﹂
そう言って杯を掲げると、二人もアーヒムに続いて酒を煽った。
893
4
︱ ﹃中央山岳狭路の戦い・二﹄ ︱
中央山岳狭路での二日目の戦い。
翌朝は早くから陣を並べた。サルビアも負けじと早くから朝飯を
なび
澄ませて、陣立てを整えている。
狭路の向こうに靡く赤い旗を眺めていると、ヤシュムが傍へやっ
てきた。立ち込める靄を見て、うんざりしたように﹁砂漠が恋しい
⋮⋮﹂とぼやく。全く同感である。
﹁ヤシュム、そのなりで行くのか?﹂
ヤシュムは鎧も隊帽も全て外し、背中にサーベルをくくりつけた、
生身に近い出で立ちだった。手には杖と革紐が握られている。
﹁兵にも同じ格好をさせてるぞ。合図を心待ちにしている﹂
﹁風に煽られて、落ちるなよ﹂
ヤシュムはにやりと笑うと﹁お前こそ、死ぬなよ﹂と肩を叩いて
894
きた。
間もなく陣は整った。
騎乗したムーン・シャイターンに視線で問われて、いつでも、と
敬礼で応える。若き覇王は黒牙をすらりと抜き放つと、誰よりも先
に敵陣へ駆けた。
オォッ!!
とき
狭路を恐れず疾駆するムーン・シャイターンに、勇猛果敢な第一
歩兵隊が鬨の声を上げて続く。
サルビアの重装歩兵隊も鋼鉄の盾を前に突き出して、分厚い鋼の
壁を築き上げた。それを、ものともせずにムーン・シャイターンは
乗り越えてゆく︱︱。
﹁道が開いたぞぉ! 続け︱︱っ!!﹂
腹から声を出した。
昨日の敗退に苦い思いを味わった前線の新兵は、剣を合わせた当
初こそ及び腰だったが、次第に瞳に闘志を宿して声を張り上げた。
攻め込みもしないかわりに、押されもせず前線で踏ん張る陽動作
戦の副次効果だ。自分達の力で前線を保てているのだと、自信を取
り戻したのだろう。
﹁あそこだ! シャイターンがいるぞ!﹂
敵の声に、ムーン・シャイターンの姿を探した。
金色の髪が風に靡く様は、戦場においてもよく目立つ。しかし下
馬して斬り込むとは、陽動にしてもやり過ぎだ。思わず舌打ちする
と、ムーン・シャイターンの傍に馬を寄せた。
﹁下がられよ!﹂
895
闘志に燃える青い瞳がアーヒムを仰ぎ見る。サルビア兵を前に、
シャイターンの支配が大分強まっているようだ。それでも、深入り
し過ぎたことを自覚したように前線を下がった。
﹁総大将が景気よく前へ出過ぎですぞ! 目をつけられる!﹂
﹁済まない﹂
向こうの布陣の中心には、将を守る手練れがいる。敵の最強部分
との激突は、序盤では避けたかった。せっかく高まった士気が下が
ってしまう。
﹁一度下がります。ここは任せました!﹂
ムーン・シャイターンから前線を引き継ぐと、押し込んでは引い
て、日が暮れるまで不退の姿勢で耐え抜いた。
二日目が終わる︱︱。
アッサラーム、サルビアの両軍共に手ごたえを感じて、それぞれ
野営地へと引き上げた。
こちらは重装歩兵隊を相手に渡り合えたという自信、あちらは前
線を防衛しきった自信である。敵と味方の双方を欺いた、大掛かり
な心理戦に成功したのだ!
当然アーヒムらも手ごたえを感じていた。
野営地に戻りムーン・シャイターンと合流すると、伝令から首尾
よくヤシュムが配置についたと知らせを受ける。思わず、互いの肩
を叩かずにはいられなかった。
﹁よくやりました﹂
﹁貴方も!﹂
896
アーヒムはほくそ笑んだ。サルビアはさぞ甘美な優越感に酔いし
れているのだろうが、それも今夜までだ。
+
中央山岳狭路での三日目の戦い。
不慣れな山岳での闘いということもあり、兵達の顔に疲労が見え
始めていた。
騎乗しているムーン・シャイターンはどうかと様子を窺うと⋮⋮
こちらは流石に涼しい顔をしている。
﹁向こうの陣が整ったら、半刻置いて下げましょう﹂
﹁御意﹂
昨日よりも更に早い時間に陣を完成させた。サルビアへの嫌がら
せだ。向こうも慌てて布陣を急いでいる。
準備が整い、暫し睨み合った後に、アーヒムは前線を解いて狭路
の奥へと退却させた。
剣も交えず退却するアッサラーム軍を見て、サルビアは声も高ら
かに野次を飛ばしてきた。それを拾い、血気づく若い兵士に﹁下が
れ!﹂と何度も言う必要があった。
早朝から苦労して陣を引いたのに、あっけない退却に兵達も不満
そうにしていたが、野営地に戻り昼まで自由に過ごせと言うと、大
半の者は喜んだ。
アーヒムも腹ごしらえしようと天幕へ寄ると、騎乗したムーン・
シャイターンが傍へ寄ってきた。
﹁上出来です、アーヒム﹂
897
﹁ムーン・シャイターン。作戦通りです。しかし、新兵は煩くて敵
いませんな⋮⋮何度か、斬り捨てそうになりましたよ﹂
﹁ふ、いい働きでしたよ。ここが超越困難な障害地形で助かりまし
た。向こうは一歩も動けず、あの装備で待機せざるをえないのです
から﹂
ムーン・シャイターンの痛快な台詞に、アーヒムも大きく頷いた。
﹁今のうちに休んでおきましょう。昼過ぎから大仕事が待っていま
すぞ﹂
狙い通り、昼を過ぎると、サルビア兵はすっかり疲弊しきってい
た。待てど敵は来ぬと見切りをつけ、もとの野営地へ引き返し始め
る。
その隙に、密かに各隊に出撃準備を急がせた。
こちらはたっぷり休憩をとり、昼飯も食べている。くだびれたサ
ルビア兵など敵ではない。
﹁ムーン・シャイターン、私は左から﹂
﹁判りました。では右から﹂
互いに先頭を率いて駆け出すと、敵の背中を左右から叩いた。
﹁攻めて来たぞぉ︱︱っ!!﹂
﹁止めろぉ︱︱っ!!﹂
慌てふためいたサルビア兵は陣を戻そうとするが、今こそ疾駆す
898
るムーン・シャイターンの黒牙が将を捕える。
ただの一閃で将の首を落とし、続けざまに周囲を固める選り抜き
の精鋭を斬り伏せる。惚れ惚れするような剣捌きだ。
オオォォ︱︱ッ!!
地面を揺らすような、歓喜の声が湧き起こった。
アーヒムも拳を握りしめて﹁いよぉし!﹂と吠えずにはいられな
かった。
その機を逃さず、絶壁を駆け上がってきたヤシュムの率いる三百
の精鋭が、弱り切ったサルビアの重装歩兵隊を勢いよく蹴散らし始
めた。
彼等が敵を斬り結ぶたびに、士気が高まってゆくのを肌に感じる。
勝利への追い風は、完全にアッサラーム軍に吹いていた。
決着は近い!
数名の精鋭を率いて空いた平地を全力で駆け上がると、赤い旗の
閃く高地を目指した。あそこを占領すれば、この戦いは終わったも
同然だ。
ひが
敵が矢を番える間もなく、一気に斬り込んだ。
彼我入り乱れての接近戦ともなれば、サルビアの得意とする長技
︱︱遠間からの正確な騎射など、最早何の役にも立たない。
﹁戦意無い者は、どけぇいっ!﹂
指揮系統もなく狼狽える敵兵を散らすと、丘の上に青い双竜の旗
を突き立てた。風に揺れる旗を見上げて、アッサラームの全将兵か
ら一際大きな歓声が起こる。
オオォォ︱︱ッ!!
騎乗して駆けてくるヤシュムを見つけて、こちらも馬を走らせた。
互いに薄汚れてはいるが、大した怪我はしていない。
﹁ヤシュム! 無事か!﹂
899
﹁おおっ! やったな!﹂
ムーン・シャイターンの姿を探すと、ぬかりなく残兵を散らして
いた。そんなもの、部下に任せておけば良いものを⋮⋮。
﹁この一勝は大きいぞ⋮⋮﹂
ヤシュムがしみじみと呟く。その通りだ。中腹の高地を抑えたの
だ。近付くサルビア兵がいれば、次は一気に斜面を駆け下りて襲え
る。
﹁︱︱さて、迎えに上がるとするか。我らがムーン・シャイターン
を⋮⋮﹂
ヤシュムは苦笑を漏らした。
アンカラクス
﹁先頭を駆ける御姿は、神剣闘士になられた今も、お変わりないな﹂
﹁全くだ。時々首を捕まえて引き戻したくなるわ﹂
﹁はは、前線は荒れたか﹂
﹁いや、作戦通りだ。大した御方だよ﹂
ヤシュムと並んで傍へ寄ると、淡々と剣を振るっていたムーン・
シャイターンの顔が、明るく輝いた。
﹁二人共、やりましたね﹂
900
ムーン・シャイターンの労いの言葉に、最敬礼で応える。
彼と戦場に立つと心労は増すが、他では決して味わえない高揚を
得られるのも確かだ。ヤシュムも同じであろう。彼の前に膝を折る
者は皆、結局のところ彼に惚れ込んでいるのだ。
それに、いい笑顔を見せるようになられた。
ロザイン
虚ろに剣を振るう姿を知っているだけに、彼の笑顔の貴重さが分
かる。花嫁を得て彼は変わった。
通門拠点にいる皆にも、早くこの吉報を届けてやりたい。特に花
嫁には、改めて感謝を捧げたいと思うのであった。
901
5 ﹃ノーヴァ空中広域戦﹄ − ジャファール −
ジャファール・リビヤーン︱︱中央広域戦空路大将、ノーヴァ上
空総指揮官。
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、腹心の戦友であり、弟
でもあるアルスラン・リビヤーンと共にバルヘブ中央大陸の北に広
がる、ノーヴァの広大な空を駆ける。
聖都アッサラームから飛竜に乗って戦地へ直行したジャファール
は、見事な飛行術を駆使して、山岳湿地帯でジュリアスらが足止め
されている間に、一早くノーヴァ海域の孤島の要塞に辿り着いてい
た。
今まさに、サルビア兵二十万にも及ぶ大軍勢を、アッサラーム飛
竜隊五万で迎え撃とうとしていた︱︱。
︱ ﹃ノーヴァ空中広域戦・一﹄ ︱
一早く戦地に辿り着いたジャファールは、サルビアの大軍勢が襲
ってくる前に、周囲の地形を徹底的に調べ上げた。
気流の安定しないノーヴァの空は、長時間飛行には向いていない。
短時間で効率よく決着をつけるには、確実な飛行経路︱︱特に撤退
経路の把握が鍵となる。
902
﹁ジャファール、戻ったぞ﹂
孤島の要塞から海を眺めていると、傍へアルスランがやって来た。
朝から絶壁周辺の試験飛行をしていたはずだ。
﹁︱︱早いな。どうだった?﹂
から
﹁どうにか飛べる。ただ速度を少しでも落としたら、風に食われて
粉々だ。サルビアの重装甲では、先ず無理だろう。誘い込めば搦め
捕れるな﹂
アルスランはにやりと笑った。
﹁使えそうだな。布陣の機動合図を決めておこう﹂
ジャファールは、ノーヴァ海域に面した中央大陸の絶壁周辺は、
潮流の性質が異なっているがゆえに、そこから朝方と夕方に、絶壁
へ叩きつけるような強風が吹くことを承知していた。
敵の側面に風が吹きつけるように位置取りできれば、一網打尽に
できる。この地の利を必ず活かそうと心に決めた。
かんげき
﹁例の間隙も見てきたが⋮⋮あそこを飛ぶのは至難の業だぞ。私も
見るに留めておいた﹂
逃走経路として目をつけていた、断崖絶壁と切り立った孤島の間
隙のことだ。アルスランが至難の業と言うからには、飛竜隊の精鋭
でも厳しいのだろう。
﹁そうか⋮⋮﹂
903
﹁おまけに強い潮風が絶えず吹きつける。よほどの幸運を持ち合わ
せていないと、墜落は免れないだろう﹂
﹁しかしあの細道なら、サルビアの大軍勢も横に広く展開すること
はできないし、風に煽られ自滅してくれる可能性が高い⋮⋮﹂
仮に眼前に迫ったとしても、一度に小隊ずつと接近戦をすること
になれば勝率は上がる。
﹁こちらが自滅したら元も子もないぞ﹂
未練を見せるジャファールに、アルスランは諦めろと言わんばか
りに肩を叩いてきた。
内心では未練のため息を吐きつつ、無言のままに頷いてみせる。
﹁中盤までに十五万は削れるだろう。ただそれ以降の消耗戦になっ
たら、包囲布陣は厳しくなる⋮⋮最後はこの要塞で籠城もありえる
な﹂
﹁避けたいものだ。アッサラームの飛竜隊が飛べぬとは⋮⋮﹂
アルスランは嘆かわしそうに首を振った。気持ちは分かるが、手
段を選んではいられない。
﹁殲滅戦ではないし、二十万を看破する必要もない。ムーン・シャ
イターンがハヌゥアビスに勝てば、撤退と掃討戦に変わる。そこま
で持ちこたえることが我々の使命だ﹂
﹁分かっている。今、黒油を運び込ませているところだ﹂
904
﹁⋮⋮どこから持ってきた?﹂
﹁軍部と拠点の倉庫から頂戴してきた﹂
アルスランは子供みたいな笑みを浮かべた。
一瞬、奪ったのではあるまいな⋮⋮と考えたが、油は火責めの必
需品だ。自ら備蓄に動いてくれたことを、今は感謝したい。
少々無鉄砲な所のある弟だが、自分の仕事をきちんと把握してい
るようだ。
しょうろう
﹁鐘楼や壁に目立った配置をするな。いかにも手薄だと思わせてお
け﹂
あなど
﹁侮って、押し寄せてくれたらいいな﹂
﹁ああ。だが、先ずは十五万の敵飛竜隊を削ることが大前提だ﹂
ジャファールが釘を刺すと、アルスランも重々しく頷いた。
アッサラームでは味わえぬ潮風に吹かれながら、遥か東の空を仰
ぎ見た。間もなく、あの空を覆い尽くさんばかりの飛竜が攻めてく
る︱︱。
905
6
︱ ﹃ノーヴァ空中広域戦・二﹄ ︱
数日後。空を覆い埋め尽くさんばかりの、朱金装甲のサルビア飛
竜隊が東から攻めてきた。
まるで空が燃えているようだ。
それは屈強なアッサラーム飛竜隊ですら、覚悟を迫られる光景で
あった。
敵は予想通り、豊富な飛竜隊を横に広く展開して迫ってきた。
こちらも、ノーヴァ上空の北をアルスラン、南をジャファールが
受け持ち飛竜隊を横に広く展開させた。
ジャファールは先ず相手の力量を測る為に、精鋭揃いの第一飛竜
隊に敵の前衛を叩かせた。
︱︱出過ぎだ。前線を下げろ。
伝令に杖で合図すると、すかさず後退を知らせるべく発煙筒に火
を点ける。
深追いせず、前線を押しては引き戻し、相手の主力部隊がどこに
配置されているのかを探り続けた。
906
︱︱左翼と右翼を同時に叩け。敵の追撃に応じるな。狭路から逃
げこめ。
あらかじ
次々と伝令に指示を与えていく。
追撃が加速した時には、予め決めておいた狭路から自陣へと逃げ
帰らせた。その間に交代部隊が前線に出る。
アッサラーム軍もサルビア軍も、初戦では大きな動きを見せずし
て終わった。
夜の訪れと共に、双方野営地へ引き返していく。
﹁アルスラン!﹂
飛翔場を歩く弟の姿を見つけて、ジャファールは背中に声をかけ
た。
﹁ジャファール! 無事か?﹂
﹁ああ。損害は?﹂
﹁およそ百だ﹂
﹁そうか⋮⋮こちらは三百だ﹂
告げると、アルスランは眉根を寄せた。
﹁多いな。攻めこんだわけじゃないだろう?﹂
﹁気になった配列に何度かぶつけた。それで、どう見る?﹂
尋ねた途端に、アルスランの瞳に閃きが光る。
907
﹁判ったぞ、中央前衛部隊が選り抜きの精鋭だ。だが両脇は甘い、
にわ
弱そうな兵ばかりで闘志も低い。サルビアに徴兵された北方あたり
の俄か部隊だろう﹂
アルスランの見解にジャファールも同意見であった。
天幕に入り、ノーヴァの仔細な地図を広げると、アルスランの部
隊の駒を中央よりやや左に置いた。
﹁さっきの話だが、私も同意見だ。明日は陣を動かしながら攻める
ぞ。相手の部隊配列が今日と同じと判ったら、合図を送る。アルス
ランは精鋭を連れて左翼を叩け﹂
﹁ジャファールはどう動く?﹂
﹁中央を少し下げる。敵の精鋭と激突を避ける⋮⋮そう思わせる。
相手が前に押し出してきたら、私は右翼から回り込む。後ろを捉え
たら可能な限り叩いて、向こうが体勢を整える前に一斉退却だ﹂
﹁よし。機動指示は任せるぞ﹂
アルスランは腕を組みながら地図を見下ろし、しっかりと首肯し
た。
﹁ああ。だがこの作戦も、相手の陣次第だ。状況を見てかなり動か
すから、見逃さないよう頼む﹂
しょうかい
﹁判った。ところでジャファール⋮⋮昨日から碌に寝ていないだろ
う。夜間の哨戒は見ておくから、少し休んだらどうだ⋮⋮﹂
908
気遣わしげな視線を向けられて、ジャファールは微笑した。
﹁なんの。日射しが温かくてな。飛竜の上でたっぷり仮眠を取って
いたのさ﹂
アルスランは噴き出した。彼の笑いの沸点は実はとても低いのだ。
﹁良く言う! それで三百の兵を欠いたというなら怒るぞ!﹂
﹁冗談だよ。今日見た陣を、なるべく正確に記しておきたい。それ
が終わったら休ませてもらう﹂
﹁サルビアの歩兵は、どこまで進んでいるのだろうな﹂
のろし
﹁狼煙を見る限りでは、アッサラーム軍より足が速いらしい﹂
﹁そうか⋮⋮アッサラーム兵は山岳の気候に弱いしな﹂
ふと伝令から聞いた戦況報告を思い出し、ジャファールは頬を強
張らせた。
おびただ
﹁実は⋮⋮山岳湿地帯で夥しい数の昇魂が確認されたとも聞いてい
る﹂
アルスランは小さく息を呑んだ。
﹁本当か?﹂
﹁偵察隊の報告だ。位置からみて、サルビアではなく、山岳部族だ
ろう。ただ敗退の合図はなかったそうだ。あちらも奮闘しているの
909
だろう。陸路は何処よりも修羅場なはずだ⋮⋮﹂
﹁あぁ⋮⋮だが明日は、ノーヴァも正念場だな﹂
アルスランの言葉に深く頷いた。
今日は大した動きを見せなかったサルビアも、明日は猛攻してく
るに違いない。
その予測は、まさにその通りとなるのであった。
+
二日目は、布陣の読み合い合戦となった。
空中戦は個人戦にあらず︱︱連携機動が全てだ。
ジャファールはサルビアの空中布陣を見るなり、昨日と同じで中
央に決勝部隊がいることを見抜いた。
すぐさま伝令を通じて、中央より左に待機するアルスランに﹁左
翼から攻めよ﹂と知らせる。
アルスランは迅速な先制で、敵の左翼に食らいついた。
風を捕えて急降下し、鋭い鉤爪で敵の頭に襲い掛かる。
闘志の低い左翼は、アルスラン率いる精鋭にかき乱され、基本と
なる空の隊形を順調に乱し始めた。
しかしアルスランが敵の後方に回り込もうとしたところで、サル
ビアも動きを見せる。左翼を諦め、中央の精鋭で疾風のようにこち
らの陣に駆け込んできたのだ。
くけい
︱︱両翼を下げた中央突出型の凸形陣形と見た⋮⋮。機動に富む
いい陣形だ。逃げねば圧迫包囲されて袋叩きだな。
ジャファールはすぐに陣を動かした。
前線が衝突する前に、最精鋭の第一飛竜隊を、横に長い短形に配
910
置する。
かんげき
かわ
五段構えの小部隊構成とし、それぞれ十分な間隙を空けさせた。
少し横にずれるだけで、正面衝突をたやすく躱せる戦法である。
更に間隙部には単独の飛竜隊を配置し、敵が正面から見た時に隙
間が目立たないよう工夫した。
かなり複雑な指示であったが、伝令も隊もよく反応した。
日頃から空中戦の訓練を積み、鍛え抜かれたアッサラームの飛竜
隊だからこその機動連携である。総数で負けても、質では勝ってい
るとジャファールは自負していた。
この周到な陣形が功を奏し、サルビアの猛進を最小の被害で躱す
ことに成功した。
左翼を猛攻するアルスランもおよそ好調に敵を蹴散らしている。
しかし多勢に無勢で、後ろを捉えるには至らない。
それはサルビア軍も同じことで、互いに後ろを取らせまいとし、
複雑に陣を動かし続けた。
昼を過ぎる頃、前線に疲弊が見え始める。特に数で負けるアッサ
ラームに顕著に現れた。
︱︱第一から第三まで、兵を交代。追撃は狭路で躱せ。第一は並
列飛行で前線と交代。一線に並べて正対を仕切り直し!
ジャファールの連続する細かい指示を、伝令が必死の形相で呑み
込み、発煙筒に火を点けて行く。
アッサラーム軍は巧みな機動連携で、夕刻までサルビア軍の猛攻
を耐え凌いだ。ここまでただの一度も後ろを取られていない。
実のところ︱︱
サルビア軍はジャファールの指揮能力の高さを認めざるをえなか
った。
圧倒的な兵力差に、アッサラーム軍は逃げ戦を展開すると考えて
いたのだ。それを知略で補い、防衛一途ではなく攻めの陣を引いて
911
粘りを見せる。
闘志の高いアッサラーム軍を見て、長引かせるのは得策ではない
と考えた。
一日を通して中央に精鋭部隊を置き続けたが、密かに配置変更を
行い、両翼に主力を移した凹形陣形でアッサラーム軍に迫ってきた。
正面前衛の配置は動かさなかった為、アッサラーム軍からはサル
たぎ
ビア軍の配置変更が判らなかった。
しかし、闘志を滾らせた朱金装甲の精鋭飛竜隊を見ても、ジャフ
ァールは少しも動じなかった。
陣形が透けて見えなくとも、サルビア軍が日暮れ前に本腰を入れ
て攻めてくることを、心理的に読んでいたのだ。
︱︱よくぞ夕刻まで持ちこたえた。風向きが変わる。絶壁へ誘い
込め!
この時刻、ノーヴァ海域に面した中央大陸の絶壁周辺は、潮流の
性質が異なっているがゆえに、絶壁へ叩きつけるような強風が吹き
荒れる。
この風がサルビアの側面から吹きつけるよう、位置取りする策を
あらかじめアルスランと講じてあった。
先頭を率いるのはアルスランだ。逃げる風を装い、敵を絶壁に巧
みに誘い込む。注目を浴びたところで、風に掴まらぬよう目にも留
まらぬ神速で駆け抜けていく。
ゴォォ︱︱ッ!
戦車のように強靭な敵の主力部隊は、風に負けて絶壁に次々と叩
きつけられた。
魔物の如し強風は、あらゆる音を奪う。慈悲なき破壊により、敵
ひっきょう
の陣は壊滅的に乱れた。
畢竟︱︱
サルビア軍がアッサラーム軍にしてやられたのだと悟ったのは、
912
三万にも及ぶ朱金装甲の飛竜隊が無残に海へ散った後であった。
サルビア軍の両翼の主力部隊は半数以上が無事であったが、不動
のアッサラーム最前衛を見て、風をも操るアッサラーム軍は、こち
らの配置変更も見ぬいていたのでは⋮⋮と戦慄した。
+
撤退していくサルビア軍を、ジャファールは悠然と眺めていた。
ジャファールは、彼等の密かな配置変更まで読めていたわけでは
なかったが、悠然とした態度こそ相手に恐怖を与えることを知って
いたのだ。
兵力差のあるサルビア軍に心理戦で勝利し、二日目の猛攻を完封
した。
﹁見事だ! ジャファール﹂
要塞に戻ると、アルスランが満面の笑みで駆けてきた。周囲から
も賞賛の声が相次ぐ。
﹁ありがとう。お前も素晴らしかった﹂
サルビア軍の猛攻を見事に凌いだアッサラーム軍であったが、被
害がないわけではなかった。主力部隊を含む、三千にも及ぶ兵を失
っていた。
互角に渡り合えているように見えても、圧倒的に不利であること
に違いはないのだ。
913
914
7
︱ ﹃ノーヴァ空中広域戦・三﹄ ︱
二十日以上に及ぶ空中戦の果てに、アッサラーム軍は二十万もの
敵軍勢を撃墜した。
アッサラーム軍によるノーヴァの快進撃を恐れたサルビア軍は、
ノーグロッジ上空に割いた主力部隊すらもノーヴァに集結させて、
蟻一匹見逃さないほどの集中砲火を浴びせた。
空における天才軍師と名高いジャファールと言えども、この一斉
攻撃には苦しめられ、五万の軍勢を八千まで減らされた。孤島の要
塞に籠り、奇襲を駆使して応戦するも、次第に防衛一途へと追い込
まれていった。
アルスランや他の将を交えての軍議で、ジャファールはいよいよ
決断せざるを得なかった。
﹁︱︱ここは長くない。退却するべきだ﹂
﹁しかし⋮⋮あと少しではありませんか? ムーン・シャイターン
はハヌゥアビスを歯牙に捕えたと知らせが来ています﹂
﹁その通りだ。中央が粘りを見せているのに、我等がここを捨てて
915
は敵に勢いを与えてしまう﹂
﹁そうです。空の要が背を見せたとあれば、アッサラーム飛竜隊の
名折れでございましょう。ノーヴァに散った同胞にも顔向けできま
せん﹂
﹁ジャファール、諦めるには早い。こちらもノーグロッジに援軍を
要請しよう。サルビア軍は本勢を全てここに集めている。ナディア
も我等の要請を待っているはずだ!﹂
全員の猛反対を受けて、ジャファールは嘆息した。
﹁皆の気持は判るが⋮⋮どう足掻いても、ノーヴァに勝ち目はない。
ここにいても、この先一方的な殺戮が待っているだけだ。例え援軍
が来たとしても、結果は変わらない。撤退して立て直しを図るべき
だ﹂
﹁ジャファールッ!﹂
激昂したアルスランが机を大きく鳴らした。副官達も口にはしな
いが、ジャファールを視線で責めている。
﹁悲観しているわけではない。事実だ。撤退は恥ではないが、局面
を見抜けぬは恥だと思わないか?﹂
﹁何だと﹂
周囲から射抜くような視線がジャファールの顔に刺さる。しかし
彼は気圧されず、冷静な眼差しで一同を見渡した。
916
すさ
﹁よく聞け、この孤島は吹き荒ぶ潮流と風に守られた自然の要塞だ
が、味方からも孤立しやすい弱点がある。サルビアもそれが判って
いるから、敢えて我等に止めを刺さないのだ。援軍など呼んでみろ、
敵の思う壺だぞ。向こうは包囲布陣で待ち伏せしているのだ。ナデ
ィアもそれが判っているから、ノーグロッジを離れられないのだ︱
︱﹂
﹁決めつけるな。私は援軍を要請するべきだと思う︱︱皆は、どう
思う?﹂
﹁同じく﹂
﹁私も﹂
全員の非難の眼差しが、ジャファールに集中する。
撤退して、スクワド砂漠まで下がり、立て直しを図るべきだ。
ジャファールの考えは変わらなかったが、彼等の心を伴えなけれ
ば、何事においても失敗するだろう。かといって、援軍を呼んだと
ころで無駄死にさせるだけだ。ならば、答えは一つしかない⋮⋮。
﹁総指揮権は私にある。援軍は呼ばない。だが⋮⋮お前達がそうま
で言うのなら、足掻いて見せよう﹂
﹁おおっ!﹂
﹁ジャファール⋮⋮ッ!﹂
途端に笑顔になる面々を見て、ジャファールは苦笑を漏らした。
まったく、実に武人らしい気性だ。
しかし⋮⋮どう考えても、この孤立した要塞に未来はない。いく
つかまだ策はあるが、焼石に水だ。いざとなったら、アルスランだ
けでも逃がさなくては⋮⋮。
917
この時ジャファールは、過酷な選択を近々迫られるだろうことを
覚悟していた。
+
ジャファールは孤島の要塞、最後の防衛戦に挑んだ。
きんしょう
飛竜隊の横方向の間隔を密集した空中布陣を敷き、サルビアの目
にはいかにも僅少であるように偽った。
から
組し易しと見て、サルビアの小隊が接近してきたところで横隊の
幅を寛げて、一気に搦め捕る。こうして小出しの小隊を少しずつ削
るうちに、怒ったサルビア軍は広範囲の布陣を敷いて、要塞へ迫っ
てきた。
﹁︱︱今だ! 油を流せ!﹂
要塞の四方から黒油を垂れ流し、十分に敵を引き寄せた所で火矢
を放った。ゴォッと海が燃え上がる。潮風は煙を流し、並列飛行で
迫る敵の進軍を妨げた。混乱に乗じて、更に追撃をかける。
僅か数百の飛竜隊で最後の快進撃を見せたが、サルビア軍も攻撃
の手を休めなかった。
砲台を乗せた重量級の飛竜隊を見て、ジャファールは直ぐに後退
の指示を出したが、そのうちの一騎がジャファールを狙っているこ
とに気付いたアルスランは、神速で敵に突っ込んだ︱︱。
﹁︱︱止せっ!﹂
身を乗り出して叫んだ。
敵の攻撃は要塞から外れたが、代わりにアルスランを襲った。燃
え盛る炎と煙が邪魔をしてよく見えない。
918
﹁アルスランッ! どこだ!﹂
煙の合間から、アルスランを乗せた飛竜が姿を見せると、安堵の
あまり膝から力が抜けそうになった。しかし、あの激しい衝突で無
事では済まされなかったようだ。腕から流れる鮮血が、ここからで
もはっきり見てとれる⋮⋮。
アルスランは要塞に降りるなり、倒れ込んだ。崩れる身体を抱き
留めて、胸を抉られるような痛みを覚えた。
愛する弟の、右腕がなかった。
919
8
︱ ﹃ノーヴァ空中広域戦・四﹄ ︱
空中戦で腕を失ったアルスランは、その夜から高熱を出して生死
の淵を彷徨った。
飛竜隊最速の乗り手であり、陣の要であり、何より兵達から絶対
的な支持を集めていたアルスランの前線離脱は、風前の灯火であっ
た要塞の息の根を完全に止めた。
﹁アルスランを逃がしたい。頼む﹂
ジャファールは集めた将達の前で、頭を深く下げた。
﹁判っております。アルスラン将軍を、必ず通門拠点までお連れい
たします﹂
﹁我々が囮になります。ジャファール将軍も、どうかお逃げくださ
い﹂
すぐに答えてくれた彼等に、救われた想いで顔を上げた。ジャフ
ァールを見る眼差しには、ただただ心配の色が浮かんでいる。
920
﹁気持ちは嬉しいが、最後まで指示を出す人間は必要だろう⋮⋮﹂
﹁心配には及びません。ここは我等にお任せください!﹂
﹁貴方を失うわけには行きません。それこそアッサラームの損失で
す。今こそスクワド砂漠まで撤退し、どうか援軍と共に立て直しを﹂
﹁我等が間違っておりました。損害を大きくする前に、撤退すべき
だった︱︱お許しください。この上、ジャファール将軍まで失って
は、今度こそ同胞達に顔向けできませぬ﹂
﹁どうか、お逃げください⋮⋮!﹂
必死に言い募る将達の顔を一人一人見つめて、ジャファールは穏
やかに微笑んだ。
+
ぐんか
鐘楼に上がり、空を埋め尽くさんばかりのサルビア軍を見ている
と、騒々しい軍靴の音が聞こえてきた。
﹁ジャファールッ!!﹂
さわ
﹁アルスラン、走るな。傷に障る﹂
﹁出て行けとは、どういうことだっ!?﹂
﹁聞いた通りだよ。護衛と共に一刻も早く、拠点へ︱︱﹂
921
激昂したアルスランは左手だけでジャファールの襟を掴み、凄ま
じい形相で睨みつけてきた。
﹁ふざけるな! ここで最期まで戦う﹂
﹁その腕でか?﹂
﹁︱︱っ!﹂
﹁⋮⋮アルスラン、通門拠点に下がり、ノーヴァで見た全ての布陣、
兵力を一刻も早く味方に伝えてくれ。必ず同胞達が応えてくれる﹂
アルスランは苦痛に顔を歪めた。
彼の苦しみを思うとジャファールの胸も激しく痛む。
しかし、これで脱出の名目が立ったのだと思うと⋮⋮彼が腕を失
ったことは、アッサラームの思し召しなのかもしれないとすら思え
た。
ふと、彼の頬を濡らす涙に気付いて、自然と笑みが浮かんだ。
﹁泣くな⋮⋮アルスラン。もう子供じゃないだろう?﹂
遠い記憶が蘇る。幼い五歳の子供の姿と、立派に成長したアルス
ランの姿が重なって見える⋮⋮。
ジャファールを追いかけて入隊し、よくここまで立派に戦ってく
れた。肩を並べて戦えたことを、心から誇りに思う。
﹁ジャファール、頼む、戦わせてくれ⋮⋮! 飛竜に乗れなくても、
指示は出せる!﹂
子供のように涙を流す弟が、たまらなく愛しかった。
922
﹁お前はもう、十分戦った﹂
﹁終わっていない! まだ⋮⋮っ!﹂
﹁アルスラン。お前の役目は、ノーヴァの一部始終を一刻も早く味
方に伝えることだ。ムーン・シャイターンの決着は近い。布陣を整
えて耐え忍べば必ず勝てる。皆にそう伝えてくれ﹂
﹁なら、ジャファールも⋮⋮!﹂
﹁私は残る。死地にも、指示を出す将は必要だ﹂
涙に濡れた顔は絶望に染まった。
﹁死ぬ気じゃないだろうな⋮⋮﹂
﹁まさか、そう簡単にやられはしない。必ず後から追い駆ける。お
前は先に行ってくれ﹂
縋るような眼差しを向ける弟の頭を引き寄せて、額を突き合わせ
た。
﹁大丈夫だ、次は必ず勝つ﹂
﹁ああ⋮⋮!﹂
﹁アルスラン、お前は自慢の弟だ。共に戦えたことを誇りに思う︱
︱﹂
923
隻腕になっても、彼の誇りは少しも損なわれない。どうか、苦し
んでくれるなと祈る。
﹁おいっ、今生の別れのようだぞ、縁起でもない﹂
不服そうに顔をしかめるアルスランを見て、笑みが零れた。
﹁はは、悪い﹂
﹁死ぬなよ、絶対に。頼むから⋮⋮!﹂
﹁判っている。人のことより、自分の心配をしろ。隻腕でも飛べる
か?﹂
﹁問題ない﹂
しっかりとした口調だが、相当な苦痛と戦っているのだろう。額
に玉のような脂汗が浮かんでいる。だが、強がりを叩けるうちは信
じて大丈夫だ。
飛翔場へ降りると、アルスランの護衛達が飛竜の準備を整えて待
っていた。
﹁よし、行け!﹂
アルスランの背中を押して、騎乗を手伝ってやった。苦痛に顔を
歪ませているが、呻き声一つあげなかった。大した根性だ。
飛翔の衝撃を避けて離れる前に、彼を乗せる飛竜の顔を撫でた。
﹁︱︱シルビア、アルスランを頼むぞ﹂
924
澄み切った金色の瞳が、自信を宿して煌めいている。何が何でも、
背に乗せたアルスランを守るだろう。
﹁行け!﹂
﹁ジャファールッ! 後から来ると、約束してくれ!﹂
﹁約束する! 行け!﹂
アルスランは辛そうに顔を歪めたが、見事に隻腕で飛翔した。
西へ飛び立つ姿を見届けた後、ジャファール達もまたすぐに飛び
立つ準備を始めた。アルスランの飛行が無事であるように︱︱囮に
なるのだ。
ふと、妻のエミリア、幼い息子の顔が脳裏に浮かんだ。
この決断を責めるだろうか⋮⋮。いや、そんなことはあるまい。
こんな時だというのに、自然と笑みが浮かんだ。それよりも、ア
ルスランの後に彼女を思い出したと知れば、そちらの方が叱られそ
うだ。
飛竜の傍へ駆け寄ると、優美な飛竜が首を下げて、ジャファール
に頬をすりよせてくる。最後まで仕えてくれる、強く頼もしい相棒
の顔を叩いた。
﹁頼むぞ、ブランカ︱︱﹂
金色の瞳には、ジャファールへの信頼と信愛が確かに浮かんでい
た。どんな悪路でも恐れずに駆ける、ジャファールにはもったいな
いくらいの優れた飛竜だ。
振り返ると、覚悟を決めた味方の目が一斉にジャファールに集中
した。
925
﹁この先、私の指示を待つ必要はない。各自最善と思う路を選び、
可能な限り拠点を目指せ。私はサルビア兵を引き寄せて断崖絶壁の
狭路を行くが、従う必要はない。アルスランを唸らせた難関地形だ。
命の保証はない﹂
﹁どこまでも︱︱﹂
そういうだろうとは思っていたが、つい苦笑が零れた。何故、最
後に選ぶのは、我が身ではないのだろう。ジャファールを含めて︱
︱。
﹁後続部隊は、最後に砦に火を放ち、同じく拠点を目指せ﹂
全員がジャファールを見て、しっかりと頷いた。最敬礼でひれ伏
す。
﹁行くぞ!﹂
手綱を引いて、ノーヴァの空へと飛翔する。
ジャファールはサルビア軍の注目を十分に浴びてから、誘いこむ
ように狭路へと飛竜を走らせた︱︱。
926
9 ﹃青い星﹄ − アルスラン −
アルスラン・リビヤーン︱︱中央広域戦空路少将
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、腹心の戦友であり、兄
でもあるジャファール・リビヤーンと共にバルヘブ中央大陸の北に
広がる、ノーヴァの広大な空を翔ける。
二十日以上に及ぶ空中戦の果てに、アッサラーム軍は二十万もの
敵飛竜隊を撃墜した。しかし、この快進撃に恐れをなしたサルビア
軍は、空の主力部隊を全てノーヴァに集結させて、アッサラーム軍
を壊滅へと追い込んだ。
戦傷により右腕を失ったアルスランは、戦線離脱を余儀なくされ、
断腸の思いでノーヴァの窮地を逃れた。ノーヴァで起きた一部始終
を味方に伝えるべく、数名の護衛と共に通門拠点へと向かうのであ
った︱︱。
︱ ﹃青い星・一﹄ ︱
アルスランは瀕死の状態で、どうにか通門拠点へ辿り着いた。
サルビア兵の追撃からアルスランを守ろうとした護衛は、殆ど全
員ノーヴァの海に散って行った。
振り返らずに、前を見続けるしかない︱︱。
927
昼夜兼行で飛び続け、どうにか味方陣営に辿り着いたものの、右
くずお
腕を欠いた長期飛行に身体はとうに限界を越えていた。通門拠点の
飛翔場に降りるなり、頽れるアルスランの身体を、周囲のアッサラ
ーム兵は慌てて支えた。
まともに意識が戻った時には、血の匂いに満ちた病室に寝かされ
ていた。
そこらじゅうから、鈍い呻き声が聞こえてくる。
首を傾けた拍子に、額の上に乗せられていた湿った布がずれ落ち
た。
︱︱ここは⋮⋮国門に着いたのか⋮⋮。
起き上がろうとして、右腕がないことを思い出した。その途端に、
じくじくとした痛みが蘇る。傷口は綺麗に包帯が巻かれていた。こ
の腕では、もう前線には⋮⋮。
いや、今はそんなことより︱︱
広い病室には溢れかえるほどの兵士が寝かされていた。血に染ま
った重症の者が多い。彼等の合間を縫うようにして、知っている顔
を探した。
最後までアルスランと一緒に、ここへ辿り着いた護衛が二人いた
はずだ。一人は、アルスランよりも重傷を負っていた。
﹁︱︱カミル!﹂
ようやく一人見つけて、枕元に膝をついた。
真っ青な顔で、今にも死にそうな呼気で喘いでいる。胸に巻かれ
た包帯は、どす黒く変色していた。どれだけの血を流したのだろう
⋮⋮もはや浄化石をもってしても止血が間に合わないのか。
﹁アルスラン! 動いたら駄目だ!﹂
928
ロザイン
彼の様子をじっと見つめていたら、袖を捲りあげた花嫁がこちら
へ駆けてきた。
何て姿だ。血まみれじゃないか︱︱。
﹁花嫁⋮⋮﹂
﹁やっと熱が下がったんです。血は止まっているけど、動かない方
がいい﹂
アルスランの身を案じる言葉で、花嫁はここで負傷兵を診ている
のだと察した。
﹁彼は私の護衛なんです。少し話がしたい﹂
﹁カミルは⋮⋮運ばれてから、まだ一度も意識が戻らないんです﹂
﹁カミル、お前のおかげだ。国門まで無事に辿り着いたぞ﹂
呼びかけに応じるように、カミルは瞼を震わせて、ゆっくり瞳を
開いた。
﹁あ! 気がついた⋮⋮﹂
アルスランを視界に認めると、瞳に安堵の色を浮かべて弱々しく
頷いた。もう、声を出すことは難しいらしい。
﹁そっか⋮⋮ずっと、アルスランを心配していたんだ⋮⋮アルスラ
ンは、もう大丈夫ですよ。ちゃんと手当を受けて、しっかり歩いて
いる﹂
929
花嫁は手が汚れることも躊躇わず、カミルの手を握りしめる。青
白い顔は、ほっとしたように和らいだ。
﹁お水、飲めますか?﹂
カミルはいらない、というように視線を逸らした。渇きなど、と
うに失せた感覚なのだろう。恐らく、もう⋮⋮。
﹁辛い? 薬を飲んで欲しいんけど⋮⋮﹂
花嫁は残念そうに呟くと、手にしていた水差しを床に置いた。カ
ミルは瞳に感謝の色を浮かべて、病床から花嫁を見上げている。
﹁ありがとう、と言いたいようだ⋮⋮﹂
声の出せないカミルに代わって伝えると、花嫁は哀しそうに顔を
歪めた。今にも泣きだしそうに見える。
カミルは淡く微笑んだ。
彼の胸から、青い光が立ち昇る⋮⋮。
花嫁は小さく息を呑んだ。
周囲の同胞達も、悲しそうに彼を見つめている。
アルディーヴァラン
全てのアッサラームの同胞がそうであるように、彼もまた青い星
へ︱︱神々の世界に召されるのだ。
花嫁は歯を食いしばって、あらゆる痛みを堪えていた。血と汗に
まみれた髪を梳いてやり、穏やかな最期を迎えさせようとしている。
﹁お休み、カミル⋮⋮﹂
優しい囁きに眠りを誘われるように、カミルはゆっくり瞳を閉じ
930
た。
苦しみから解き放たれるのだ⋮⋮。
命の火を燃やして、青い燐光が空へと昇ってゆく。隊服とネーム
プレートだけを花嫁の腕の中に残して⋮⋮。
しばらく、誰も動けなかった。
﹁ありがとうございます。彼の最期を、優しいものにしてくれて﹂
﹁僕じゃないよ⋮⋮カミルが笑ってくれたのは、アルスランが会い
に来てくれたからだ﹂
唇を噛みしめる花嫁を見ていると、聞くことは躊躇われたが、ど
うしても知りたかった。
﹁もう一人、ユハという護衛を⋮⋮﹂
最後まで言い終わらぬうちに、花嫁は悲しそうに力なく首を左右
に振った。カミルとユハのネームプレートを、左手にそっと握らせ
てくれる。
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁ユハは、一度も意識が戻らないうちに、昨日⋮⋮アルスランは無
事だよって、言ってあげれば良かった⋮⋮﹂
﹁ありがとう﹂
﹁僕は、何も⋮⋮﹂
沈んだ表情で瞼を半ば伏せる。隠れた黒い瞳を見下ろしながら、
931
慎重に口を開いた。
﹁彼の最期を教えてくれて、ありがとう。貴方から聞けて良かった
⋮⋮他に、ノーヴァ部隊は来ていませんか?﹂
﹁はい、何人か⋮⋮今、治療を受けています﹂
﹁その中に、私より後にきた者は? ジャファールはいませんか?﹂
花嫁は顔を上げると、黒い瞳に気遣わしげな色を浮かべて、アル
スランを見返した。
﹁ジャファールは、ここには来ていません⋮⋮﹂
身体から力が抜け落ちた。彼は、ここに来ていない⋮⋮。
932
10
︱ ﹃青い星・二﹄ ︱
ロザイン
言葉を失くしていると、花嫁に両肩を掴まれた。
黒水晶のような瞳に、呆然としたアルスランの姿が映っている。
﹁ノーヴァ壊滅の知らせは、偵察隊から聞いています。アルスラン、
貴方の荷の中にあった、貴重なノーヴァ情報を記した手紙は、ルー
ンナイト皇子にお渡ししました。ルーンナイト皇子は昨日、五万の
アッサラーム兵と、元ノーヴァ部隊と共にスクワド砂漠へ向かいま
した。ジャファールの託した指示の通り、これからノーヴァ海岸沿
いに布陣してサルビア空軍を迎え撃つ算段です﹂
アルスランは眼を瞠った。味方はもう、向かってくれているのか
⋮⋮!
﹁ノーヴァの要塞については、何かご存知ですか?﹂
のろし
﹁三日前、ノーヴァの要塞から、壊滅と撤退を伝える狼煙が上がっ
たそうです。最後は、火柱が上がったと聞きました﹂
933
﹁攻め落とされたのか!?﹂
動揺しきった声が出た。花嫁は労わりの滲んだ口調で続ける。
﹁狼煙の後に火が上がったので、恐らく要塞に最後まで残った味方
の仕業だろうと、話していました﹂
﹁⋮⋮逃げ延びたノーヴァ部隊の数は、どれくらいですか?﹂
﹁およそ四百だそうです﹂
﹁四百⋮⋮﹂
アルスランは愕然とした。
開戦時には五万もいた兵を、たったの四百まで減らされたと言う
のか。サルビアはまだ空の主力部隊を二十万は残しているというの
に!
痛みを忘れて立ち上ると、無言で病室の外へ出た。
﹁どこへ行くんですか!?﹂
﹁私もルーンナイト皇子と合流します﹂
﹁無茶です! その怪我で行こうだなんて!﹂
花嫁は必死に追い駆けてくるが、もはや口を利く気にもなれなか
った。こんな所で、三日も費やしてしまった。一刻も早く向かわな
ければならない。
934
﹁待ってください、アルスランッ!﹂
左腕を取られて、思わず反射的に振り払った。
くずお
驚くほど、手応えがなかった。花嫁はいともあっさり吹き飛ばさ
れ、固い石壁に身体をぶつけて頽れる。一瞬、骨が折れたのでは⋮
⋮と背筋が冷えた。
苦しそうに呻く花嫁を、傍にいた武装親衛隊の少年兵が心配そう
に助け起こしている。
﹁花嫁、申し訳ありません。お怪我は︱︱﹂
顔を覗き込もうとしたら、凄まじい殺気を感じて思わず飛びのい
た。
人形めいた顔立ちの少年兵は、外見を裏切る禍々しい殺気でアル
スランを牽制してきた。これ以上近寄れば、斬り掛かってきそうな
勢いだ。
﹁アージュ﹂
さざなみ
宥めるように名を呼ばれると、殺気は細波のように引いた。
そういえば、ローゼンアージュという名前だった。軍では割と有
名だ。何で上等兵に留まっているのか疑問の剣技を持ち、ムーン・
シャイターンに重用され、花嫁の武装親衛隊に大抜擢された、よく
判らない経歴の少年である。
﹁申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?﹂
﹁大丈夫です。僕こそ、弱くてすみません⋮⋮﹂
なぜか、花嫁は肩を落として項垂れた。
935
﹁あ、いや⋮⋮こちらこそ。つい力加減を忘れてしまいました﹂
﹁アルスラン、ここに留まってください﹂
請うような眼差しに映りながら、かける言葉が見つからない。
﹁ルーンナイト皇子が出兵した今、この要塞で一番の階位は貴方だ。
いや、本当は僕なんですけど。皆が奔走してくれてどうにか機能し
ているけど、判断に困ることも多くて⋮⋮ここに残って、皆と一緒
に指揮を手伝ってもらえませんか?﹂
﹁花嫁⋮⋮﹂
﹁お願いします、アルスラン。貴方の力が必要なんです﹂
お助けしてさしあげたい。
しかし⋮⋮ノーヴァに散った仲間を思うと、今すぐにでもあの空
に戻りたい。とはいえ、戻ったところで、この身体ではもう⋮⋮。
﹁⋮⋮私の飛竜は、ここにいますか?﹂
花嫁の強張った表情を見て、誤解を与えたことに気付いた。
﹁無茶な飛ばし方をしたから、様子を見に行きたいだけです﹂
﹁それなら⋮⋮判りました。案内します﹂
どうやら、花嫁も一緒に来るつもりらしい。
花嫁の隣に並ぼうとしたら、少年兵と眼が合った。何を考えてい
936
るのか、表情からは全く読み取れない⋮⋮と思っていたら、すっと
身体を引いて、数歩後ろへ下がる。アルスランに場所を譲ってくれ
ることにしたらしい。
﹁花嫁の護衛は無表情だが、いい腕をしている﹂
﹁いつも僕を助けてくれるんです﹂
我がことのように嬉しそうに笑う。良好な主従関係にあるのだろ
う。好ましいことだ。
外に出ると、日はすっかり暮れていた。
夜空に浮かぶ、美しい青い星が視界に飛びこんでくる。これまで
の戦いで、あの星にどれだけの同胞が還っていったことだろう⋮⋮。
竜舎に入ると、シルビアは首を伸ばしてアルスランを歓迎してく
れた。元気そうな姿に、胸に安堵が広がる。
﹁シルビア、疲れさせて悪かった。お前のおかげだ⋮⋮助かったよ、
ありがとう﹂
大きな顔を撫でながら、このままシルビアの背に乗ってしまいた
い誘惑に駆られた。
﹁シルビアっていうんですね。綺麗な飛竜⋮⋮﹂
﹁そうでしょう。花嫁⋮⋮シャイターンのお告げはありましたか?﹂
﹁え?﹂
﹁次こそ、サルビアに勝てるのだと、花嫁の口からお聞きしたい﹂
937
﹁︱︱うん。絶対に勝つよ。アルスランやジャファールが、命がけ
で届けてくれた情報は、僕を含めて、ここにいる皆と⋮⋮スクワド
砂漠に向かった全員が共有しています。一つも無駄にしないから﹂
花嫁は思慮深い眼差しにアルスランを映し、落ち着いた口調で聞
かせた。
﹁ノーヴァから戻ってきた兵達は皆、アルスランがここにいると聞
いて、すごく喜んでいましたよ。砂漠へ向かった彼等の為に、アル
スランの分も、僕からたくさんお祈りしておいたから﹂
祈りと聞いて、自然と空に浮かぶ青い星を見上げた。
叶うことなら、仲間と一緒に戦いたい。今すぐ砂漠に駆けつけた
い。負傷していなければ、右腕さえあれば。だが、何よりも願うこ
とは︱︱
﹁花嫁。シャイターンに伝えて欲しい。ジャファールだけは、あの
青い星に連れて行かないでくれ。連れて行くなら、私にして欲しい﹂
花嫁に優しく背中を叩かれた。
﹁⋮⋮ジャファールが無事に帰って来るようにって、祈ります﹂
﹁後から来ると、約束してくれたんです⋮⋮﹂
﹁うん﹂
穏やかな即答を受けて、ふと荒れていた身の内で何かが弾けた。
ジャファールは約束を違えたりしない。今までも、これからも︱︱
938
﹁必ず帰って来る。ここで、ジャファールの帰りを待ちます﹂
﹁うん。僕も⋮⋮待っているんです。毎日祈ってる。皆が⋮⋮ジャ
ファールが、帰ってくるようにって、いつも祈ってるよ﹂
情のこもった言葉が嬉しくて、力加減に気をつけながら花嫁の背
中を叩いた。
﹁ここで私に出来ることをいたしましょう。ノーヴァの全てをこの
眼で見てきました。伝令をお貸しください、手紙にはない情報がま
だあります﹂
﹁はいっ!﹂
花嫁の満面の笑みに、アルスランもつられたように笑顔を浮かべ
た。
歩む震動すら傷口に響くので、決して早くは歩けないが、ここへ
来た時よりも足取りは軽かった。
939
11 ﹃ハヌゥアビスの進撃﹄ − ユニヴァース −
ユニヴァース・サリヴァン・エルム︱︱中央広域戦陸路上等兵
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、ヤシュム率いる第一右
翼騎兵隊の主力精鋭として中央激戦区の前線に立つ。
アッサラーム軍は難関地形とされる山岳狭路で、サルビア十万の
軍勢に勝利し、布陣に有利とされる見晴らしの良い高地を占領した。
しかし︱︱
時を同じくして、バルヘブ中央大陸の北に広がるノーヴァの広大
な空では、ジャファール、アルスランらがサルビア軍の猛攻にあい、
壊滅寸前に追い込まれていた。
この時アッサラーム軍は、中央陸路の激突に備えて後方支隊に十
万の軍勢を有していたが、ノーヴァ壊滅を懸念したジュリアスは、
その半数を聖都アッサラームへの防衛に当てることを決意する。
後援に不安を残したまま、ジュリアス率いるアッサラーム軍は、
サルビア軍総大将︱︱ジークフリード・ヘイル・ハヌゥアビス率い
る三十万の軍勢を迎え撃とうとしていた。
︱ ﹃ハヌゥアビスの進撃・一﹄ ︱
940
こう
ほうか
せっ
森林の遥か彼方から、闇夜に光り輝く烽火が立ち昇る。味方の斥
候隊からの、敵襲の知らせである。
﹁︱︱随分早いな。もっと時間かかるかと思った﹂
ほしょう
ユニヴァースは連れだって歩く歩哨兵に声をかけた。
﹁そうか? 敵が実際に近付いてきたら消えるものだし⋮⋮あれが
見えるうちはまだ遠いんじゃないのか﹂
どこか眠たげな顔つきの男は、気のない返事をした。
りょうせん
﹁というか⋮⋮妙な知らせだな。あんな彼方の稜線を、なんだって
敵は固守してるんだ?﹂
味方が烽火で注意喚起しているのは、アッサラームが陣取りして
いる高地から、はるか彼方の峰である。サルビアは何が目的であん
な所を大切に守っているのだろう⋮⋮。
しちょう
﹁確かに⋮⋮重要な補給品を運ぶ輜重隊が通っているのかもな﹂
﹁二・三日もすれば、到着しそうだね﹂
﹁どうせなら、もっと早く来れば良かったのにな⋮⋮支隊を下げた
途端、本陣と当たるなんてついてない﹂
がっかりしきった口調で言うと、いかにも憂鬱そうなため息をつ
く。
﹁まぁ、ノーヴァ壊滅の危機だし、しょうがないでしょ﹂
941
きか
﹁お前は平然としているんだな⋮⋮ヤシュム将軍の麾下部隊だろ、
きつい前線になると思うぞ﹂
同情の眼差しで見つめられたが、ユニヴァースとしては望むとこ
ろだった。
﹁俺、あの人の下で戦うの好きだよ。苛烈で、攻めの一手で、絶対
引かないよね﹂
﹁俺はご免だ⋮⋮アーヒム将軍の配属で良かった﹂
﹁いいの。俺、武功立てたいし。前出たいから﹂
明るく応えると、信じられないものを見るような眼差しを向けら
れた。
﹁その突き抜けた性格⋮⋮羨ましくないけど、感心するよ。お前だ
から言っちゃうけど、大人しくしていれば栄えある殿下の武装親衛
隊でいられたのに。そしたら今頃、安全な国門で後方支援だったん
だぞ﹂
﹁それ、よく言われるー﹂
﹁だろうな⋮⋮懲罰明けに殿下が取り成してくれたのに、前線に志
願したんだろ? 正直、理解不能だよ﹂
﹁俺、将軍になりたいし。いつかムーン・シャイターンを越えたい
んだ﹂
942
﹁へぇ⋮⋮﹂
呆れたような、白けた眼差しを向けられた。彼に限らず、大抵の
者は似たような反応をする。
けれど、ユニヴァースはふざけて言ったわけではない。
緩い口調と相まって、軽く見られることが常だが、アッサラーム
軍に入隊した時から、全くぶれない正真正銘の本気だった。
︱︱負けず嫌いってわけでもないんだけどね。越えてみたいって
思うのは、やっぱシャイターンの血を引いているせいなのかな。
﹁俺なら、武装親衛隊の地位を死守するけどな⋮⋮将来安泰だし、
殿下、お優しいし。はー⋮⋮夜の高地にいても湿気があるってどう
いうことなんだよ。アッサラームに帰りたい⋮⋮﹂
よぎ
ふと、脳裏に花嫁の笑顔が過った。今でも少し、切ない気持ちが
こみあげる。
﹁本当は、後悔してるだろ?﹂
﹁まぁ、両立は難しいよね﹂
﹁何とだよ。考えるまでもなく武装親衛隊だろう。俺が代わりたい
くらいだ⋮⋮﹂
その言葉は癇に障った。つい冷ややかな口調になる。
﹁お前に務まるかよ﹂
﹁知ってるよ。夜ですら、呼吸が辛いんだ⋮⋮少しくらい夢を見さ
943
せてくれ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮難儀だな﹂
本当に具合の悪そうな顔を見て、つっかかるのは止めた。
山岳独特の気候に音を上げる者は多いが、彼は特に酷い方だ。よ
く今日まで無事でいられたなと思う。
ロザイン
空に浮かぶ青い星を見上げて、一時はずっと傍で護衛をしていた
シャイターンの花嫁のことを想う。
姿を見ると、つい追いかけてしまうので、離れているくらいがち
ょうどいいのかもしれない⋮⋮。
ムーン・シャイターンを怒らせて、特殊部隊にぶちこまれてから
というものの、アッサラームにいるよりも砂漠か山岳にいる時間の
方が長かった。
その間に、熱していた気持ちは、多少柔らかなものに変化した。
特殊部隊明けに前線復帰が叶ったのは、前線に立ちたいという強
い気持ちと、合同模擬演習で優勝した腕を買ってくれた⋮⋮という
ふ
点と、何よりもユニヴァースの気持の変化を敏感に読み取ったから
ではないかと思う。
んぬ
彼の中でユニヴァースの存在が、視界に映るのも許せぬという憤
怒から、かろうじて許容できる⋮⋮くらいに落ち着いたのであろう。
だが、連れて来たことを、後悔はさせまい。
必ず武功を立ててみせる。
アーヒム、ヤシュム、そしてムーン・シャイターン︱︱いずれも
アッサラームの英雄だ。
この東西の激突を、国の存亡を賭けた戦いと捉え、決死の覚悟で
臨む者は多い。ユニヴァースにも、もちろんその意気はあるが、そ
れ以上に彼等と共に戦えることが単純に嬉しかった。
闇夜に白く煌めく烽火を眺めながら、穏やかな笑みを浮かべるユ
ニヴァースを、奇妙な生き物を見るような眼で隣の歩哨兵は見つめ
944
ていた⋮⋮。
945
12
︱ ﹃ハヌゥアビスの進撃・二﹄ ︱
ユニヴァースの目測通り、三日後にはサルビア軍の先行部隊が、
赤い旗を閃かせて眼前に現れた。
待ち構えていたアッサラーム軍は、高地の布陣から投射機を用い
て一網打尽にしようとしたところ、一射もできずに戸惑いの声を上
げた。
﹁おのれ⋮⋮っ、サルビアめ!﹂
﹁それが人間のすることか!﹂
﹁卑怯だぞ!﹂
彼等は捕まえたアッサラームの同胞達を丸裸にし、縄で横一列に
繋いで柵のように並べて前進して来たのだ。
同胞を傷つけたくないアッサラーム軍は、有利な高地を押さえ、
万全の布陣を敷きながらも、投射攻撃をしあぐねていた。
﹁うわ、えげつなー⋮⋮﹂
西連合部隊とアッサラーム軍の混成部隊に、騎兵隊前衛として配
946
置されていたユニヴァースも、その光景を見るなり思わず眉をひそ
めた。
は
ただでさえサルビア兵を前に血が騒ぐのに、怒りが上乗せされて
何度も腰に佩いたサーベルを手で撫でた。
﹁おのれぇ! 許せぬ!!﹂
激昂しやすいヤシュム将軍も、これを見るなり鬼の形相で怒鳴り
散らした。
だが、それは彼に限ったことではない。
捕虜を肉壁とする蛮行もそうだが、誇り高いアッサラームの獅子
とっかん
を裸に繋ぐ侮辱は、全てのアッサラーム兵を激怒させた。
激した吶喊が天を突く!
総大将の作戦指示も待たず、ヤシュムは独断で動いた。
捕虜による柵の切れ目、すなわち片翼の側面へ狙いを定めて疾風
のように駆け出したのだ。
日頃ヤシュムと行動を共にする精鋭達は、将軍の突飛な行動に慣
れたもので、すぐさま後に続いた。ユニヴァースもその流れに乗っ
て駆け出すと、馬を加速させて先方部隊にちゃっかり混じった。
﹁何だ、貴様ぁっ!?﹂
﹁隊を乱すな!﹂
将軍に続く精鋭からは怒声を浴びたが、気にせず駆けた。ヤシュ
ムがどのように仕掛けるのか興味がある。見逃しては勿体ない。
ヤシュムは右翼から勢いよく斬り込んだ。
頑強に見えたサルビアの右翼に配された重装歩兵は、実際に剣を
交えるとユニヴァースから見ても、大して手応えを感じなかった。
闘志も低く、完全に怒れるアッサラーム軍に威圧されている。
頭に血が昇っていても、ヤシュムはきちんと組し易い配列を読ん
947
でいたのだ。
特攻したヤシュム率いるアッサラーム軍は、間もなくサルビア軍
の右翼を好調に蹴散らし始めた。
更にアーヒムも、ヤシュム同様に右翼へ駆け込む機動を見せてい
る。
ユニヴァースは後続する味方を見やり、思わす感心した。
合図も何もあったものではなかったが、気付けば斜線陣を為して
いたのだ。
特攻したヤシュムをアーヒムが補佐する形で、敵の片翼から斬り
込む布陣が自然とできていた。
やがてアッサラーム陣営がサルビア陣営の背後を捕えると、敵の
指揮官はこちらの捕虜を放置して、部隊を解体すると蜂の子を散ら
すように撤退してしまった。
ヤシュム達は追撃を試みたが、敵はてんでばらばらに走る為、一
掃には至らなかった。
しかし、捕虜達を無事に救い出すことに成功し、兵達の顔は一様
に晴れやかだ。囚われの身ですっかり衰弱してしまった同胞達も、
安堵したように笑顔を浮かべている。
﹁逃げ足だけは早い奴らめ﹂
近くにいたので、文句を言うヤシュムの傍へ寄ってみた。
﹁将軍、やりましたね!﹂
﹁おぅ、ユニヴァースか﹂
彼はユニヴァースを見るなり名を呼んだ。まだまだ平兵士のユニ
ヴァースだが、いろいろと有名人なので、どこへ行っても大抵の人
間に周知されている。
948
﹁いきなり特攻したから焦りましたよ﹂
将軍に対する口調ではないが、ヤシュムは気にした様子もなく口
を開いた。
﹁そういえば、よくついて来たな。だが気を引き締めておけよ。あ
っけなく引き下がったのは、偵察が目的だからだ。じきに本腰を入
れて攻めて来るぞ﹂
りょうせん
﹁明日から人海戦術で工事するって聞きましたけど、本当ですか?﹂
﹁うむ﹂
せっこう
﹁斥候隊の報告では、稜線の向こうには何もなかったんですよね?﹂
ほしょう
先日の歩哨任務で見た光景を報告したところ、思いのほか上層は
重く受け止め、明日からの工事に踏み切るらしいのだ。
﹁念のためムーン・シャイターンが遠視をされたのだ。そしたら、
彼方を無数の鳥が飛び立ち、舞い降りようとしないことが、昨夜新
たに判ったのだ﹂
﹁それって⋮⋮何かが、茂みに隠れながら、こちらに向かっている
ということですか?﹂
訝しげな声に、ヤシュムは首肯で応じる。
﹁いかにも。戦車隊は読んでいたが、重量四足騎竜まで遠路はるば
る連れて来たらしい﹂
949
﹁え⋮⋮っ!﹂
かっぽ
大木すら踏み倒す重量級の竜が戦場を闊歩すれば、味方は大混乱
だろう。対決に備えるには、確かに大掛かりな工事が必要だ。
﹁とまぁ、明日からしばらく工事だ。頑張れよ! 上等兵﹂
ヤシュムに肩を叩かれて、ユニヴァースはがっくりと項垂れた。
面倒な肉体労働は大嫌いだ⋮⋮。
翌日から、ジュリアスらの指揮で、高地から見下ろす平地に大掛
ざんごう
かりな工事が進められた。
布陣の両翼には、塹壕︱︱味方が身を守るために使う溝︱︱を延
伸させ、その端末部には抵抗力の期待できる要塞状の築城工事をな
さしめた。
湿地気候の中での肉体労働は、作業に携わる全アッサラーム兵を
辟易させた。
ユニヴァースも然り。
日に日に荒んだ眼つきになり、いつの日か将軍になったら、雑事
は全て人任せにしよう⋮⋮なんて碌でもないことを考え始めたりも
した。
ようやく完成目途が立ち、地獄の土木作業から解放された︱︱よ
うに思えた。
﹁いよぉーし、よくやった!﹂
ヤシュムの労いの声に、汗水流していたアッサラーム軍兵達から
ワッと歓喜の声が上がる。
﹁休憩の後は、杭の打設作業だぞぉ︱︱!﹂
950
次いで響き渡った容赦ない指示に、顔を輝かせていたアッサラー
ム軍兵達は、その場に崩れ落ちた。ユニヴァースも顔から地面にぶ
っ倒れる。剣を振るっていた方が余程ましだと思いながら。
951
13
︱ ﹃ハヌゥアビスの進撃・三﹄ ︱
姿は見えないが、梢を不気味に揺らして、とんでもなく巨大なも
のが、徐々に近付いていることだけは判る。
大地を揺るがす地響きと共に、地上の小石はカタカタと小刻みに
揺れた。
あと数日もすれば、重量四足騎竜が姿を見せることであろう︱︱
+
ユニヴァースは野営で寛いでいるところを、軍議をかわす将達の
天幕に呼ばれた。
少々緊張しながら中へ入ると、ムーン・シャイターンはユニヴァ
ースが着席するのを待ってから、地図上の駒をいったん取り払い、
一から説明を始めた。
﹁整理しよう。間もなくサルビアの本陣が攻めてくるが、思ってい
くけい
かんげき
た以上に重量四足騎竜の数が多い。そこで⋮⋮対飛竜戦で使われる
かわ
横に長い短形で臨もうと思う。中隊の三段構成にして、十分な間隙
を空ける。騎竜が突進してきたら柔軟に躱せ。右翼騎兵部隊の指揮
952
をヤシュム、左翼騎兵部隊の指揮をアーヒム、中央は私が受け持つ
が、ハヌゥアビスが出てきたら応戦に追われて、まともに指揮は執
れなくなるだろう。そこで︱︱﹂
﹁︱︱もしかして、俺に指揮を?﹂
空気を読んで言葉を継いだら、
﹁おい﹂
﹁阿呆か﹂
﹁馬鹿か﹂
﹁なわけあるか﹂
間髪入れずに机を囲んでいた全員からつっこまれた。
﹁⋮⋮ユニヴァースに遊撃隊を任せたいのです。間隙の合間に立ち、
騎竜が攻めてきたらシャイターンの神力で足止めしてください﹂
﹁なるほどぉ⋮⋮﹂
さらりと言われたが、相当な苦労を伴う予感がする。できるだろ
うか?
長くはもたないが、人よりも神力には長けている。
束の間であれば剛剣をもってして、はるか重たい騎竜でも斬り伏
せられる⋮⋮かもしれない。
﹁重量四足騎竜に暴れられると、対戦車用に苦労して打ち込んだ杭
が無駄になります。戦車は無視してもいいので、とにかく重量四足
騎竜を狙ってください﹂
953
﹁︱︱っ!﹂
あの苦労が水の泡になるなんて⋮⋮悪夢でしかない。身の内に俄
然、闘志が湧いてきた。
﹁俺の精鋭から、三百の騎兵を預けよう。好きに使うといい﹂
ヤシュムの言葉に思わず目を輝かせた。小隊といえど、指揮を任
されたのは初めてだ。
﹁ありがとうございます!﹂
+
数日後。サルビア軍は進軍と共に派手な銅鑼の音を響かせ、巨大
な重量四足騎竜を連れて現れた。巨大な竜が一踏みするたびに、大
きく地面が揺れる。
覚悟はしていたが、とにかく大きい。踏まれたら即死であろう⋮
⋮。
巨大な竜の後ろには、大鎌を車軸に取り付けた戦車の姿も見えた。
あれに轢かれたら、鎧ごと切り刻まれてしまう。
軽装神速を攻撃の主とするアッサラーム軍と違い、サルビア軍は
装備からしてまるで違う。全てが巨大で重い。
ユニヴァースは気合いを入れると、隣に立つ自分よりも背の高い
男︱︱デメトリスを見上げた。ヤシュムから預かった、三百の隊を
まとめる将だ。
﹁デメトリス。俺は、かなり自由に動くから⋮⋮頑張ってついてき
て。これと狙いを定めた奴に俺が襲い掛かったら、全員で一斉に襲
い掛かって﹂
954
﹁かしこまりました﹂
いかにも有能そうな歴戦の将︱︱デメトリスは、ユニヴァースの
緩い指示にも力強く首肯で応じる。
小隊を与えられたところで、指揮などあってないようなものであ
ったが、ユニヴァース率いる三百の小隊は、阿鼻叫喚な戦場におい
て意外なほど光った。
﹁次はあれだ! 行くぞ!﹂
ぎょしゃ
先ずユニヴァースが人並み外れた跳躍で重量級の騎竜に駆け上り、
背の馭者を片付ける。次いで、強肩の弓隊が正確な騎射で柔い急所
を狙い、ユニヴァースが神力をもってサーベルを突き立てると、巨
大な重量四足騎竜も地面に跪いた。
くろがね
抜群の切れ味に、ユニヴァースはサーベルを見てにんまりする。
ロザイン
鉄の刀身には、武神シャイターンの力を秘めた彫刻が彫られている。
以前、花嫁に手ずから彫ってもらったものだ。
最初の一匹こそ時間を要したものの、日を重ね、数をこなすうち
に手慣れてきた。蜂が一斉に襲いかかるように次々と片付けていく
のに、そう時間はかからなかった。
ユニヴァース達がやっかいな竜を斬り伏せる度に、味方から歓声
が上がる。
﹁いよっし! デメトリスッ!﹂
竜から飛び降りると、頼りになる副官が無傷で駆け寄ってきた。
﹁ユニヴァース殿、お見事です﹂
955
思わず笑みを浮かべた。
おちい
目立った竜は、あらかた駆逐した。パニックに陥ってサルビア陣
営を走る竜も何頭かいるが、敵陣営を荒してくれる分には問題ない。
更に数日が経ち︱︱
圧倒的不利な兵力差にありながらも、周囲を見渡せば、概ねアッ
サラーム軍が善戦していた。
サルビアの凶悪な戦車も杭に阻止され、合間から軽装歩兵が槍を
投げて果敢に交戦している。
日が経つにつれ、戦車に乗った馭者は、次第に焦り、冷静さを失
い始めていた。
ひ
ついには後続する味方軍の方へ戦車を乗り戻そうとして、隊列は
混乱に陥り退き色が見えてきた。
あとひと粘りだ。
手応えを感じていると、バリバリ⋮⋮ッと空が割れるような、こ
の世の終わりのような強烈な音が、辺り一面に響いた。
ユニヴァースもデメトリスも、咄嗟にその場に膝をついた。空が
けんげん
割れるほどの落雷があったのだと思ったが、そうではなかった。
神の与えたもう力の顕現︱︱シャイターンとハヌゥアビスが激突
したのだ!
そうと悟や、ユニヴァースは駆け出した。
﹁ユニヴァース殿!﹂
デメトリスの声を振り切って、音が聞こえた方へと走った。つい
に始まったのだ。
恐るべき神力を宿した宝石持ち同士の、神々の威信をかけた頂上
決戦。
この目で見たい⋮⋮!
二人の姿は、はっきりとは見えないけれど、眩い閃光の向こうで
超常の神力がぶつかっていることだけは判った。
956
空に走る青い閃光は、ムーン・シャイターンの操る青い雷炎の力。
全てを呑み込むような重苦しい黒い濃霧は、ハヌゥアビスの操る死
の呪い。
かむがか
けんげき
ハヌゥアビスは、サルビア人特有の灰色の肌に、血のように赤い
目をしていた。
二人は火花を散らして神懸りの剣戟を繰り出している。
︱︱あれこそ、俺の目指す剣だ。
かす
空気はびりびりと震え、衝撃で砕けたあらゆる破片が飛び散り、
肌を掠めれば血が噴き出した。
これ以上近付くのは危険かもしれない。しかし⋮⋮もっと近くで
見たい。
﹁︱︱いけませんっ! ユニヴァース殿っ!!﹂
足を踏み出したところを、後ろからデメトリスに引き留められた。
さわ
﹁障りとなる!﹂
大地を抉るような衝撃に、両軍共に引かざるをえなかった。超常
を操る総大将同士の一騎打ちを、全員が離れたところから固唾を呑
んで見守る。
しかし、三日三晩続いた激戦のさなか、ノーヴァが壊滅した︱︱。
957
958
14
︱ ﹃ハヌゥアビスの進撃・四﹄ ︱
サルビア軍の重量級戦車、四足騎竜を相手に、アッサラーム軍は
果敢に戦ったが、ノーヴァ壊滅に勢いづいたサルビア陣営に次第に
押され始め、一時退却を余儀なくされた。
ムーン・シャイターンとハヌゥアビスの頂上決戦も中断され、互
いの布陣を睨み合いながら野営地へと引き上げた。
戦場を闇夜が覆う︱︱
アッサラーム軍は頑として占領した高地を降りはしなかったが、
広大な空に散って行った多くの同胞を想い、空気はひたすらに重か
った。
一方で、サルビア陣営は明るい。離れていても、浮かれている様
しがん
ひがん
子がよく判る⋮⋮。
此岸と彼岸では、天と地ほどに差があった。
+
気丈なユニヴァースも、ノーヴァに散った五万もの同胞を想うと、
流石に笑うことは難しかった。仲の良い飛竜隊の兵士も何人もいた
のだ⋮⋮。
959
ここも相当な激戦区だが、ノーグロッジの主戦力までを投じて一
斉攻撃を受けたノーヴァは、どれほど苛烈を極めたことだろう。
やりきれない、重々しい気持ちに心を支配される。
ノーヴァに向かった将︱︱ジャファールやアルスランは無事なの
だろうか⋮⋮。
空の要を担う重要な二人だ。失ったとあれば、この先の空中戦に
おいて相当な苦戦を強いられることだろう。
言葉もなく焚火を囲むアッサラーム兵達の前に、酒樽を乗せた荷
車を引いて、アーヒムとヤシュムが労いにやって来た。
﹁お前ら、しけた面をするな。顔を上げろ!﹂
ヤシュムは手を叩いて、兵の合間を縫って歩いた。
﹁ノーヴァに散った同胞を想うのなら、顔を上げてみせよ。無念を
晴らす機会なら、明日から幾らでもあるわ。今夜は呑み明かせ。濁
りを溜め込むな﹂
ういきょう
あお
アーヒム自ら、酒瓶を配って回っている。茴香入りの火酒だ。
兵達の輪に交じって腰を下ろすと、豪快に酒を煽った。杯に注ぎ
足しては飲み干す。景気のいい飲みっぷりに、次第に周囲の兵達も
表情を緩めて、酒に手を伸ばし始めた。
同胞やアッサラームを想い、泣き出す者は多い。心の内を吐露し、
周囲と分かつことで傷を癒そうとしていた。
逝きし人との行きし日々を想いながら⋮⋮。
ふと離れたところで、サーベルを胸に抱いて空を仰ぎ見るムーン・
シャイターンの姿に気付いた。
一人でいたいのだろうか⋮⋮迷った末に、酒を手に近付くことに
した。
960
﹁ムーン・シャイターン﹂
砂漠の覇王は、疲れた顔をしていた。
隣に腰を下ろしても何も言われなかったので、酒の入った杯を渡
した。ムーン・シャイターンは、無言で喉に流し込むように煽る。
﹁私の神眼でも⋮⋮ジャファール達の行方が視えないのです。ユニ
ヴァースは、どうですか?﹂
﹁俺は、ムーン・シャイターンほど、遠視が利かないから⋮⋮ハヌ
ゥアビスと激戦したばかりで、神眼も霞んでいるのかもしれません
よ﹂
﹁︱︱私が⋮⋮もっと早く、決着を⋮⋮いや⋮⋮﹂
これほどまで、苦悩に揺れるムーン・シャイターンを初めて見た。
何を言えばいいか判らず、空いた背中をバシッと叩いた。
﹁俺は、殿下じゃないんですからね。慰めてあげられませんよ﹂
冗談めかして言うと、彼はふっと鼻で笑った。
﹁いりませんよ、そんなもの﹂
﹁とんでもない神力の応酬でしたね。傍で見たかったけど⋮⋮近寄
れませんでした。空が落っこちてくるんじゃないかと思いましたよ﹂
ロザイン
﹁覚悟はしていましたが⋮⋮流石に手強い。正直、花嫁を手にして
いない、以前の私の神力では押されていたと思います﹂
961
広げた掌に視線を落としながら、確信めいた口調で語る。
﹁じゃあ、今は?﹂
﹁もちろん、私が勝ちますよ﹂
ユニヴァースの問いに、一瞬の躊躇もなく勝利を宣言するや、不
敵に笑って見せた。
﹁その調子ですよ!﹂
ふと笑顔で見つめ合っていることに気付き、愕然とした。男を慰
める趣味はない。花嫁は別として⋮⋮。
﹁まぁ⋮⋮ムーン・シャイターンに何かあっても、殿下のことは心
配しないでください。俺が︱︱ぐは⋮⋮っ!﹂
横腹をいきなり蹴られた。
﹁⋮⋮﹂
﹁いってぇ⋮⋮っ!﹂
本気で痛い。謝りもしない、すかした態度に苛立ちが湧く。人が、
空気を和まそうと⋮⋮。
恨みがましい視線で睨んでいると、
﹁おう、楽しそうだな。二人して﹂
ヤシュムとアーヒムが傍へやって来た。﹁飲み比べしよう﹂と、
962
勝手に空いた杯に酒を注ぎ始める。
﹁あれだな、お前はいい性格しているな。公開懲罰を受けて、此処
まであっけらかんとしている奴は初めて見たぞ﹂
ヤシュムは感心したように、ユニヴァースを見つめた。
﹁いやー正直、極刑もありえたと思うので、鞭打ちで済んで良かっ
たなーと⋮⋮﹂
とはいえ、思い出すだけで失神しそうになる。これまで生きてき
た中で、あれほどの苦痛はない。今の蹴りもなかなか痛かったが⋮
⋮。
﹁うむ⋮⋮お前、よく生きてるな﹂
アーヒムはしみじみと呟くと、豪快に酒を煽った。しかも人の杯
を見て空と判るや、なみなみ注いでくる。
何杯目か判らぬ杯を見て、遠い眼差しになる。明日、泥酔して戦
いにならなかったらどうするのだろう⋮⋮。
﹁飲んでおけ﹂
心を読まれたのかと思った。アーヒムに﹁ありがたく﹂と告げる
と、空に浮かぶ青い星を見上げて、酒を満たした杯を掲げた。
︱︱アッサラームの同胞よ。どうか安らかに⋮⋮
ノーヴァの敵は必ずとってみせる。一気に喉の奥に流し込んだ。
腹の底から燃え上がるようだ。
963
隣を見れば、ムーン・シャイターンも同じように酒を流し込んで
いた。口元を乱暴に拭うと、瞳に強い光を宿して全員の顔を見渡し
た。
﹁ノーヴァを落としたサルビアのことは、アースレイヤとルーンナ
イトに託す。中央の使命は、ただ一つ︱︱ハヌゥアビスに決勝する
ことだ。ナディアに来てもらう﹂
﹁﹁御意﹂﹂
全員が再び杯を掲げた。この喉を流れる熱を、決して忘れはしま
い︱︱。
964
15 ﹃花嫁を守る者﹄ − アージュ −
ロザイン
ローゼンアージュ︱︱花嫁つき武装親衛隊
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、シャイターンの花嫁の
武装親衛隊として通門拠点に同行する。
にな
ジュリアスらが中央陸路に向けて遠征した後、通門拠点は中継的
役割を担って多忙を極めた。
しちょう
各在庫管理︱︱物資管理、資材管理、武器防具管理、そして騎竜、
騎乗馬の管理。
せっこう
進軍の補給支援をする輜重隊の派遣、進軍の偵察任務を主とする
斥候隊との連携、アルサーガ宮殿を含む各署への伝令、負傷兵の受
け入れ⋮⋮仕事は実に多岐に渡った。
人手不足に悩む通門拠点では、花嫁ですらも拠点兵士に混ざり後
方支援を手伝っていた︱︱
︱ ﹃花嫁を守る者・一﹄ ︱
通門拠点へきてから、ローゼンアージュの生活は、全て花嫁を中
心に動いている。
彼の主は、朝休の鐘が鳴る頃に合わせて目を覚ます。
965
それからおよそ一刻半経つと、身支度を終えて部屋を出てくるの
で、頃合いを見て扉の外で待機するようにしている。
花嫁の武装親衛隊である職務を考慮して、ローゼンアージュに宛
がわれた部屋は、花嫁の部屋のすぐ傍にあった。いつでも主の私室
に駆けつけられるので、移動は非常に楽だ。
﹁お早う、アージュ﹂
﹁お早うございます、殿下﹂
いつものように、軽装軍服姿の花嫁が姿を見せた。ここへきてか
らというもの、暑いからと詰襟の隊服を嫌い、首回りの楽な上衣ば
かり着ている。
﹁それじゃ、行こうか﹂
これから負傷兵のいる病室に向かい、朝食の給仕を手伝うのであ
る。それは本来、常駐衛生兵の役目だが、花嫁は率先して手伝って
いた。
今のところ二部屋のみ解放されている病室は、ひんやりとした石
壁の、清潔で綺麗な部屋だ。窓からは心地いい風が流れ、柔らかな
自然光が降り注いでいる。
﹁皆さん、お早うございます﹂
﹁﹁お早うございます﹂﹂
兵士達に人気のある花嫁は、どこへ行っても歓迎される。病室も
また然りで、花嫁に万が一にも無礼がないよう、護衛として眼を光
らせておかなければならない。
966
それにしても、開戦と共に少しずつ負傷兵が増えている。いずれ
部屋が足りぬほど、負傷兵で溢れかえることだろう。
﹁器を持てますか?﹂
﹁ありがとうございます!﹂
手ずから給仕してくれる花嫁を見て、負傷兵は嬉しそうにお礼を
口にした。
自然の流れに任せていると、全員給仕して欲しいが故に、自分か
ら動こうとしないので、適当に手を出すことにしている。
今朝も根菜汁を秤で測ったように均等に器によそうと、花嫁の進
行方向周辺に素早く手渡した。
﹁受け取って﹂
﹁は、はい﹂
器を突き出すと、大抵の者はびくびくしながら受け取る。特に若
い兵士はなぜかローゼンアージュを恐れている者が多い。
﹁アージュ、仕事早いね。僕は下手くそだな⋮⋮時間かかりすぎだ
よね﹂
先回りして給仕を済ませるローゼンアージュを見て、花嫁は今朝
も感心したように呟いた。
仕事が早いのは、余計な会話を一切しないからだ。しかし、どう
伝えようか迷っているうちに、花嫁の関心は他に移る。
﹁ありがとう、一周したね。じゃ、おかわりする人いるか、聞いて
967
くるね﹂
花嫁が﹁おかわりする人ー﹂と声をかけると、おずおずと、しか
し大抵の者が手を上げる。
ローゼンアージュもかなり食べる方なので、おかわりしたい気持
ちは判る。しかし花嫁に給仕させずに、自分でやれとは思う。なの
で、ここでもさり気なく暗躍する。
手を上げた者達の器を一気に回収し、適当によそってまた戻る。
トレイを差し向けて﹁取って﹂と言うと、彼等はびくびくしながら
も受け取っていく。
一方で、花嫁が直接手渡ししている兵士は、嬉しそうに声をかけ
ている。
ムーン・シャイターンからは、適度な会話であれば放置して良い、
度を超す場合は中断せよと命を受けていた。
人づきあいというものに疎いローゼンアージュは、適度な会話の
基準が判らない。だから、基本的には花嫁の顔を見て判断している。
︱︱殿下、お楽しそう⋮⋮。
自然な笑みを浮かべて、目の前の兵士と言葉を交わす姿は、とて
もリラックスしているように見えた。こういう時は放置している。
また別の者の前で、給仕をしながら言葉を交わす。今度は、ふと
悲しげな表情を見せる。こういう時は注意が必要だ。
﹁⋮⋮早く、食欲が戻るといいですね﹂
﹁ありがとうございます﹂
相手の具合を気にかけただけと判り、警戒を解いた。
今度は起きるのに難儀する、比較的重症の負傷兵の前にゆき、背
968
中にクッションを入れて起こすのを助けている。
ムーン・シャイターンからは、基本的には触れさせるなと命を受
けているが、負傷兵の看護とあれば多少は仕方あるまい。しかし、
動けるのに花嫁に甘えようとする者は別だ。
ここでもローゼンアージュは密かに暗躍する。
素早くクッションを腰に入れてやり﹁起きて﹂と告げる。大抵の
者はおどおどしながら自力で起き上がる。
不満そうな態度を見せる者は、殺気で黙らせる。もう一度﹁起き
て﹂と言えば、今度は大人しく﹁すいません⋮⋮﹂と起き上がる。
ローゼンアージュは元は戦災孤児で、幼少の頃に暗殺技術を徹底
的に仕込まれた。縁あってムーン・シャイターンの隠密に加わって
からも、暗殺の仕事を時折任されている。相手を黙らせる方法は熟
知していた。
﹁アージュは、看護も上手だね﹂
花嫁は優しすぎる。もっと適当に接していいのだ。しかし、どう
伝えようか迷っているうちに、花嫁の関心は他に移る。
﹁それじゃ、空いているお皿を片付けようか﹂
花嫁がよたよたと真鍮のトレイに器を乗せ始めると、流石に兵達
も率先して動き出す。じゃあ全部自分でやれと思うが、親切な花嫁
は逐一お礼の言葉を口にしている。
放っておくと、兵達は花嫁の前に居座り会話を始めるので、ここ
でもローゼンアージュは暗躍する。
目線で﹁邪魔﹂と威圧すると、大抵の兵は引き下がる。鈍感な奴
には直接﹁邪魔﹂と言う。これで大抵の者は引き下がる。
﹁アージュ﹂
969
﹁⋮⋮﹂
威圧しているところを主に見つかった。見つかると大抵怒られる
ので、気をつけなければならない。
しかし怒るといっても、窘めるように名を呼ばれて終わるのが常
だ。
ちなみに、反省などしない。なぜなら、自分は少しも悪くないか
らだ。
︱︱僕は正しい。皆、殿下に構いすぎる。殿下は殿下でお優しす
ぎる。
ローゼンアージュとしては、双方に言いたいことがあった。
食器を片付け終えると、常駐衛生兵の手が空いている場合は、後
を任せておしまいだが、人手が足りない時は花嫁自ら厨房へ運ぶ。
﹁お持ちしますよ、殿下﹂
﹁でも⋮⋮怪我に響きませんか?﹂
﹁なんの、これしき﹂
包帯を巻いている兵の姿を見て、花嫁はどうするべきか迷ってい
る。自然の流れに任せておくと、ここでまた立ち話になるので、ロ
ーゼンアージュは暗躍する。
﹁お任せします﹂
花嫁の手からトレイを奪って、目の前の兵に手渡す。大抵の者は
970
素直に受け取る。尚も会話したがる奴は視線で﹁行け﹂と脅す。
これで殆どの者は大人しくなる。
花嫁はにこやかに彼等を見送ると、布巾をしぼって机を拭き始め
た。ここでも大抵、動ける負傷兵達が花嫁の周りに集まって手伝お
うとする。
自然の流れに任せておくと、負傷兵達は延々と声をかけてくるの
で、ローゼンアージュはさりげなく暗躍する。
じっと相手の目を見て視線で﹁黙れ﹂と脅すと、大抵の者は静か
になる。
お前らそんなに元気なら、早く前線に戻れといつも思う。
﹁ふぅ⋮⋮ちょっと休憩しようか﹂
朝の給仕が終わった。昼と夜も大体同じ流れである。
ちなみに、動けない負傷兵の着替えや、身体を拭く行為は、最初
にやろうとした段階で阻止した。それは確実にムーン・シャイター
ンに命じられている禁則事項に触れると判断したからだ。
時折、突飛な行動に出る花嫁の護衛は、一時たりとも気を抜けな
いのである。
971
16
︱ ﹃花嫁を守る者・二﹄ ︱
ロザイン
朝の給仕を終えた後、花嫁と一緒に中庭へ出た。
花嫁は花や緑を眺めることを好む。特にジャスミンやクロッカス、
薔薇が好きで、見かけると傍へよって愛でる。
﹁ジュリは今、どこらへんかなぁ⋮⋮﹂
もの憂げにため息をつく花嫁を、あちこちの影から暇な兵士達が
眺めている。お前ら、本当にさっさと前線に戻れと心の底から思う。
あまりに視線が鬱陶しい時は、殺気を滲ませて﹁見るな﹂と威圧
する。これで大抵は静かになる。
しかし、ローゼンアージュでも追い払えない人間はいる。
﹁お早うございます、殿下﹂
﹁お早うございます﹂
例えば、このルーンナイト皇子だ。花嫁を見かけると、必ず声を
かけてくる。
972
﹁ご機嫌いかがですか?﹂
﹁ありがとうございます。ジャスミンを見かけて、アッサラームを
思い出していました⋮⋮﹂
微笑む花嫁を見て、ルーンナイトは言い辛そうに切り出した。
せっこう
﹁実は⋮⋮先ほど中央陸路の斥候から、ムーン・シャイターンが山
岳戦闘民族と衝突したと報告が届きました﹂
花嫁は息を呑んで、胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
﹁ジュリ達は、無事なんですか?﹂
﹁ムーン・シャイターンは無事ですが、不慣れな足場と奇襲で、進
軍に苦戦しているそうです。湿地帯では二千から三千の昇魂があっ
たとも⋮⋮﹂
﹁そんなに⋮⋮!﹂
ふらつく花嫁の肩を、ルーンナイトが支えている。
﹁︱︱お気を確かに。アッサラームの獅子がやられたまま、引き下
かたき
がるはずがない。中央には勇猛な歴戦の将、ヤシュム将軍やアーヒ
ム将軍もいます。必ず同胞の仇を取ってくださる﹂
﹁はい⋮⋮﹂
かげ
ルーンナイトは励まそうとしているが、花嫁の表情は増々翳った。
973
もはや蒼白と言ってもいい。この優しい人は、誰かが闘い、傷つき、
死ぬことが敵味方関係なく恐ろしいのだ。
﹁花嫁、そう不安な顔をされるな﹂
ルーンナイトは困ったように花嫁を見て、それから訴えるように
ローゼンアージュを見つめた。お前も慰めろ、とでも言いたいのだ
ろうか⋮⋮。
喋るのは苦手だが、俯く花嫁を見て決意する。お仕えする主の不
安を晴らすことも護衛の役目だ。
﹁山岳の戦闘民族は身軽で剣技に長けていますが、我等砂漠に生き
る戦闘民族には及びません。アッサラームの獅子であれば、一撃必
殺の剣技を教えられています。迎え撃ち、相対しての勝負であれば、
一人十殺︱︱いえ、百殺で瞬く間に決着はつくでしょう。心配はご
無用です﹂
がいぜんせい
勝利の蓋然性について明晰に語ったつもりであったが、二人は微
妙な顔をした。しかし、ややもすれば花嫁は淡く微笑む。
﹁僕が不安に感じちゃ、駄目だよね。本当に辛いのは、今も進軍し
ているジュリ達なんだから﹂
﹁殿下⋮⋮﹂
花嫁を見下ろすルーンナイトの表情に、安堵が滲む。
﹁アージュ、礼拝堂に行こうか﹂
花嫁の後ろに従うローゼンアージュの背中を、ルーンナイトに軽
974
く叩かれた。なぜ叩かれたのだろう⋮⋮とりあえずやり返した。
﹁︱︱っ﹂
ルーンナイトは跪いて呻いているが、無視して花嫁の隣に並ぶ。
﹁どうかした?﹂
﹁何でもありません﹂
アッサラームの建造物であれば、大抵は屋内に礼拝堂が設けられ
ている。大きな城塞ともなれば、それこそ数百人規模を収容できる
礼拝堂もある。
この巨大な城塞建築の国門にも、大小三つの礼拝堂が用意されて
いた。
花嫁は、そのうちのごく小さな礼拝堂を好んで、時間を見つけて
は日参している。
シャイターンの花嫁が祭壇の前に跪き拝礼する姿は、ローゼンア
ージュの目にも、厳かでとても神聖に映った。
この静かな時間を邪魔をしないように、ローゼンアージュは部屋
の隅で控えるようにしている。
今日はいつになく、祈りを捧げる時間が長い⋮⋮。
ようやく立ち上がった花嫁は、誰に呟くともなく、ぽつりと零し
た。
﹁どうしてシャイターンは、教えてくれないのかな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁ここへ来てから、先視が通り辛いんだ。何もかも、ぼやけてばか
975
り。シャイターンにも判らないことがあるのかな⋮⋮﹂
予見の力のことかと、合点がいった。青い星の御使いならではの
疑問なのだろう。
しかし、ローゼンアージュにはよく判らない感覚だった。
﹁僕には、この目で見て、感じることが全てです。予見の力はあり
ませんが、不安など一遍も感じておりません﹂
花嫁の黒い瞳は、ローゼンアージュの顔に答えを探すように見つ
めている。
﹁殿下も⋮⋮﹂
何と言えばいいのだろう。かける言葉を迷っていると、花嫁は綻
ぶように微笑んだ。
﹁うん、僕も⋮⋮ジュリを、皆を信じているよ。皆でアッサラーム
に帰るんだってね﹂
時々、花嫁はローゼンアージュの口下手を察したように、言わん
とする先を紡いでくれる。
誰かと心を通わす経験なんて皆無だったし、したいとも思わなか
ったけれど、この小柄な主だけは別だ。
︱︱いつでも、お心が晴れやかでありますように。
花嫁が礼拝する時は、ローゼンアージュも珍しくシャイターンに
祈りを捧げいている。
ムーン・シャイターンがお傍にいない今、自分が何ものからも守
976
るのだ。
よみ
神は、花嫁を守るを嘉したもう。
977
17 ﹃宮殿の決断﹄ − アースレイヤ −
アースレイヤ・ダガー・イスハーク︱︱アッサラーム軍大将、ア
ルサーガ宮殿会議長
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、アルサーガ宮殿に残り
宮廷政治の中心に立ちながら、通門拠点と共に後方支援の要を務め
る。
アッサラーム軍は陸路、空路共にサルビアの主勢力と激突し、戦
場は苛烈を極めた。
圧倒的戦力差で開戦を迎えた中央大陸の北、ノーヴァの広大な空
では、ジャファールやアルスランらがわずか五万の勢力で快進撃を
見せるも、サルビア軍の総攻撃を浴びて、ついにノーヴァ壊滅へと
追い込まれた。
ノーヴァが苛烈を極める時︱︱
陸路ではジュリアスら率いるアッサラーム軍は、宿敵ハヌゥアビ
スを歯牙に捕える。果敢に攻め込み善戦を展開するが、ノーヴァ壊
滅に勢いづいた敵陣営に押され、一時退却を余儀なくされた。
勢いを増したサルビア軍は、アッサラーム軍の本陣を中央に足止
めしたまま、空の精鋭をバルヘブ西大陸の最東端︱︱かつて聖戦の
舞台となったスクワド砂漠の先へと向かわせようとしていた。
︱ ﹃宮殿の決断・一﹄ ︱
978
ノーヴァ壊滅の知らせは、聖都アッサラームにも届けられた。
現在、アルサーガ宮殿の最上階、数百人を収容できる﹁光の間﹂
うが
にて、大規模な宮殿会議が開かれている真っ最中である。
金縁の格子天上の中央には、巨大な天窓が穿たれている。
天窓を覆う淡い青色の硝子板から、清らかな陽光が降り注ぎ、机
へきとう
上に敷かれた悲惨な戦況地図を、無情なまでに明るく照らしていた。
会議は劈頭からして紛糾。
しかし、議長を務めるアースレイヤは沈黙している。意見を求め
られても首を振り、周囲の者に自由に喋らせていた。
﹁ノーヴァを壊滅させたサルビア軍は、勢いに乗ってこちらへ向か
っているのだろう﹂
﹁ジャファール将軍の行方は判らないのか⋮⋮﹂
きけん
頼りなげに顔を見合わせて、不得要領に頷く貴顕達。気持ちは判
らないでもないが、ため息をつくばかりではどうにもなるまい。
﹁この状況で、当てにしてはいられないだろう。一刻も早く迎え撃
たねば﹂
事の重大さに冷や汗を掻きながらも、地図を見つめて明晰に語る
者もいる。
﹁アルスラン将軍に向かってもらうわけにはいかないのか?﹂
﹁前線に戻れぬほどの戦傷を負ったと聞いているが⋮⋮﹂
979
眉根を寄せて、暗いため息をつく。空戦の象徴とも言える最高の
乗り手を失ったことは、ノーヴァ壊滅に輪をかけて彼等を混乱に突
き落としていた。
ロザイン
﹁花嫁に今一度お戻りいただき、戦況の先視をお窺いしてみてはど
うか﹂
縋りたい気持ちは判らないではないが、花嫁には国門に居てもら
わねば困る。
いずれにせよ、アッサラームを憂いて口を開く者は限られている。
そうでもない者との温度差は激しい。
例えば、ベルシア和平の外交にあたらせた要人達は、この局面に
おいて実に冷静でいる。大方、亡命の算段がついているのだろう。
周囲に適当に合わせているが、内心では己の富と権力の安泰しか
考えていない。そうした姿勢に嫌悪はないが、今回ばかりは癪に障
る。アースレイヤにも過分に火の粉が降りかかるのだから。
﹁聞けば山岳の蛮族共は、湿地帯におびき寄せ、酸鼻を極める虐殺
たちま
を行ったそうではないか。何故報復しない。山岳一帯を火の海に沈
めればいいのだ。サルビアの進軍も阻める!﹂
ふんぬ
ぜっぽう
一人が憤怒もあらわに、声を荒げて激しく机を叩く。忽ち口論に
火が点き、止めようのない舌鋒合戦が始まった。
﹁それは、アッサラーム軍が中央を抜かれるとおっしゃるのか?﹂
﹁馬鹿な、それでは中央に留まるアッサラーム軍はどうなるのだ﹂
﹁侵略すること火の如くと、そのままではありませぬか﹂
980
﹁しかし既に十万を越える、アッサラームの兵士が命を落としてい
るではないか⋮⋮! ありえないと言い切れるのか!?﹂
﹁確かに。追い風は向こうに吹いている。勢いを増したサルビア勢
は危険だ﹂
﹁何を言うか。難関障害地形に挑み、高所に布陣せしめたのだ。一
進一退の攻防にも、今に神風が吹く!﹂
﹁ならば、どうしてノーヴァは落ちたのだ⋮⋮!﹂
﹁いかにジャファール将軍といえど、サルビアの総攻撃を食らった
とあらば仕方あるまい⋮⋮﹂
﹁そうだ。救いようのない孤立した死地を、よくぞあそこまで生か
してくれた﹂
﹁しかし空の要を欠いたのもまた事実だ。痛い損失と言わざるをえ
ないな﹂
ノーヴァに関しては、アースレイヤにも疑問はある。撤退の判断
が遅過ぎやしなかったか。決戦空域の敵軍勢が膨れ上がった時点で、
劣勢は明らかだったはず。
後退して立て直しを図った方が得策ではなかったか。撤退により
ふかん
中央の士気は下がったかもしれないが、兵力をもう少し残せたはず
だ。
ジャファールは冷静に戦況を俯瞰する将だ⋮⋮恐らく、撤退を説
いただろう。
しかし、実際は壊滅するまで撤退命令を出さなかった。いや、出
981
はんばく
せなかったのだ。明晰に語る彼に、反駁を浴びせる光景が眼に浮か
ぶ⋮⋮。
︱︱ノーヴァの件ではっきりした。この国に、敗戦を受け入れる
度量はない。
たとえ聖都にサルビアが迫ったとしても、最後の一人まで命を散
らして戦うのだろう。国民皆兵令を出すまでもなく、女子供までも
が武器を手にする。無血開城など夢のまた夢︱︱
ならば、アースレイヤの取る道は一つしかない。
席を立つと、地図上のノーヴァ海岸に、アッサラーム軍の駒を追
加で重ねた。
﹁迎撃準備が必要でしょう。国門を守るルーンナイトに総指揮を任
せます。ノーヴァを撃破したサルビアの猛攻を、ノーヴァ海岸で食
い止めるのです﹂
表には出さないが、苦渋の選択だ。本音を言えば、ルーンナイト
を行かせたくない⋮⋮しかし、それしか道がない。
劣勢色濃い中、下がった士気を立て直し、防衛の要で指揮を振る
うことは容易ではない。それを成しうる将は今、それぞれの拠点を
保つことに精一杯なのだ。
日頃から将兵に交じって行軍をこなしているルーンナイトは、周
囲の人望も厚い。中心になれるだろう。
ただ、ゆけば帰ってこれるかも判らぬ、過酷な死地だ⋮⋮。
﹁おぉっ!!﹂
﹁ルーンナイト皇子、自ら行ってくださるのか!﹂
﹁なんと心強い。兵の士気も高まることだろう﹂
982
けんちょ
アースレイヤの言葉に、大半の者は喜色を浮かべたが、一方で不
安そうに狼狽える者もいた。敗戦が見え始めると、人の反応も顕著
に現れるものだ。
勝機がないわけではない︱︱。
ノーヴァ壊滅に挫けず、よく中央は持ちこたえている。
流石はムーン・シャイターンが率いているだけあって、士気はど
こよりも高い。この後の立て直しが上手くゆけば、アッサラームに
風が吹く可能性は十分ありえる。
﹁現在陸路から後方支隊の五万の混成部隊がスクワド砂漠へ向かっ
ています。ノーヴァを逃れた四百の精鋭も然り︱︱それでも尚、サ
ルビアを迎え撃つには充分とは言えません﹂
敢えて言葉を切ると、景色を愛でるように全員の顔を眺めた。見
返す視線の揺るがぬ者、視線を彷徨わせる者⋮⋮様々だ。
﹁ここもまた、戦場であることをお忘れなく⋮⋮背を向けて逃げる
ことは、この私が許しませんよ﹂
特定の相手に目線を合わせて笑いかければ、判り易く狼狽える。
ムーン・シャイターンに命じられた形ではあるが、アルサーガ宮
殿の最大勢力、ヴァレンティーン・ヘルベルトに血の制裁を下した
のはアースレイヤだ。おかげで笑みに箔がついた。すんでのところ
で寝返り、首の皮を繋いだ彼等にしてみれば、さぞ恐怖であろう。
﹁恐れながら、私兵五千を向かわせます﹂
﹁同じく、私も⋮⋮﹂
よろ
おずおずと挙手する顔を見渡して、アースレイヤは冷めた心を微
笑で鎧う。
983
いしずえ
﹁ここにいる、高貴な血筋の一人一人が、聖都アッサラームに栄光
と繁栄の礎を築くのです。どうか、御力を貸してください。もちろ
ん、成果に対しては十分に報いる準備があります﹂
揺れていた視線も定まった。利を計り、心を決めた彼等の眼差し
は、全てアースレイヤに向けられている。
さんち
﹁ノーヴァ海岸で食い止めます。散地を許さず。サルビア兵に一歩
たりとも砂を踏ませてはいけません﹂
﹁﹁おぉっ!!﹂﹂
今度は全員が目の色に闘志を宿して頷いた。燃料が何であれ、一
つの目的に闘志を燃やしていれば、人はおのずとまとまる。
その日のうちに、ノーヴァ海岸に向けた挙兵命令が国門に発せら
れた。
984
18
︱ ﹃宮殿の決断・二﹄ ︱
終課の鐘が鳴る頃には、挙兵に応じる旨を烽火で知らされた。
恐らくルーンナイトも、こうなることを覚悟をしていたのだろう
おおやけ
⋮⋮。
撤退を見誤るな
公の知らせとは別に、彼には個別に伝令を送ってある。
託したのは一言︱︱
いよいよとなれば、アースレイヤが指揮を執る。
その時は︱︱
国の存亡を賭けて、アッサラームで迎え撃つことになるだろう。
聖都を血で穢すことになるが⋮⋮和睦が成立しえない以上は仕方が
ない。
もし︱︱
ノーヴァに初めから、ナディアをつけていたらどうなっていただ
ろう。
彼もまた優れた知略の将だ。サルビアの総攻撃にも違った結果が
出ていたかもしれない。
いや、それ以前にノーグロッジの守備手薄を見抜かれ、攻め込ま
れるのが落ちか。
百万を僅か三十万で凌ごうとしているのだ。
985
これくらいの戦況困難は予測していた。それでも、死地へ赴くル
ーンナイトを想うと心は陰る。
非情で知られるアースレイヤだが、血を分けた弟をかつて命懸け
で守り抜いたことがある。それは決して、有事に宛がう為ではなか
った。
+
レイラン
朝課の鐘はとうに鳴り終えているが、西妃の私邸を訪れると、灯
りを点けて待っていた。
抱きにきたわけではない。バカルディーノの私兵を動かしてもら
う交渉にきたのだ。
﹁アースレイヤ皇太子﹂
﹁西妃⋮⋮﹂
今でも、互いを愛称で呼ぶことはない。
公宮に相応しい繊細な麗貌だが、彼女は権謀術数における百戦錬
磨だ。いかにも儚げな笑みで、冷たい炎のような心を覆い隠してい
る。
それは、アースレイヤにも言えることだ。お互いに、感情を隠す
ことに慣れ過ぎてしまった。とはいえ、長年連れ添ってきただけあ
り、言葉にせずとも判ることはある。
﹁酷い方。ようやく私のことを、思い出していただけましたのね﹂
﹁貴方を忘れたことなんて、一度もありませんよ﹂
﹁ふふ⋮⋮ご心配なさらなくても、バカルディーノ一門、アースレ
986
イヤ皇太子を最後まで御支えいたしますわ﹂
流石に話が早い。用件を承知している。西妃はアースレイヤの足
元に跪くと、優雅に一礼してみせる。
﹁助かります。宮殿会議もこうであればいいのだけど﹂
﹁ご謙遜を。思うように運べましたのでしょう?﹂
つと顔を上げた西妃は、美しい灰青色の瞳でアースレイヤを見上
げた。
公宮美女を飽きるほど見てきたアースレイヤでも、彼女の典雅な
所作には今でも見惚れることがある。
従順を装いながら、アースレイヤから軍事情報を引き出そうとし
ている。
公宮の花に喩えられる美貌よりも、彼女のそういう保身と野心に
溢れた姿勢の方が好ましい。
﹁貴方も、私の時間が無限にあると勘違いしている? でも、いい
よ。少し話そうか﹂
窓辺の絨緞に腰を下ろすと、西妃も隣に腰を下ろして身体を寄せ
てきた。細腰を引き寄せながら、召使の持ってきた酒に口をつける。
﹁ノーヴァ海岸でサルビアを迎え撃ちます。指揮は、ルーンナイト
に任せる﹂
﹁お辛いでしょう?﹂
﹁そうだね。貴方も私も、どこにも逃げ場がない。辛いものだよ﹂
987
﹁シャイターンがお守りくださいますわ﹂
おやおや⋮⋮と思い、つい西妃の顔を見てしまった。やはり半分
は冗談のようだ。
﹁子供の頃は、よく思ったものだ。シャイターンが本当に守護神で
あるのなら⋮⋮なぜ、守護大地を血に染めるのだろうと﹂
東西統一
の夢を追い駆けていらした頃、国境があるか
﹁答えは出ましたの?﹂
﹁陛下は
ら戦争は起きるのだと、そうお答えになられた。貴方はどう思う?﹂
﹁叶わぬ夢について?﹂
﹁いいえ﹂
﹁︱︱シャイターンですら、ハヌゥアビスと争うことを止められま
せんのよ。人の身で泰平を望んでも、到底叶わぬ夢ではありません
の?﹂
思わず笑みを浮かべて、彼女の額に口づけた。今、それ以外の回
答は欲しくなかった。
彼女のこういうところが好きだ。アースレイヤの心の機微を読ん
で、ここぞというところは絶対に外さない。
﹁そうだね。国境があろうがなかろうが、争いは起こる。むしろ明
確な敵が在るおかげで国はまとまる。事実、西の結束は固い。アッ
サラーム侵攻の憂慮さえ解消されれば、サルビアの存在は決して害
988
悪ではないと、思っているくらいだよ﹂
敵を歓迎する口ぶりに、明晰な彼女も抵抗を感じたのか、沈黙で
応える。
﹁流石に、ついてこれなかった?﹂
﹁お気をつけあそばせ。口は災いの元ですのよ﹂
﹁ふふ、判っていますよ﹂
﹁それで、諸侯は挙兵に応じましたの?﹂
﹁駆け引きはもうお終い?﹂
美しい笑みはそのままに、西妃の瞳に微かな苛立ちが灯った。
﹁どなかしら。時間が無限にあると勘違いなさっていると、最初に
釘を刺されたのは﹂
﹁やだなぁ、西妃。夜更かしのせいか、苛立っているみたいだ⋮⋮﹂
からかうように顔を近付けるアースレイヤを、不敬にも彼女は扇
子で遮った。
﹁自問自答は祭壇の前でなさいませ。私は答えを映す鏡ではござい
ませんのよ﹂
﹁そうだね⋮⋮集めた私兵を含めて、ノーヴァ海岸に十万の布陣を
敷けるはずだ。死にもの狂いで攻めるだろうノーヴァ残兵を先頭に
989
立たせれば、それなりに士気は上がると思う﹂
﹁追加で五万ですわ﹂
﹁ん?﹂
﹁我がバカルディーノ家を含む公宮勢力から、飛竜精鋭を主とする
五万の軍勢を、アースレイヤ皇太子に託します﹂
告げる凛とした口調に、ふと彼女への賞賛が芽生えた。
﹁⋮⋮西妃、貴方には本当に助けられる﹂
﹁我が喜びですわ﹂
眼の錯覚ではなく、星明かりの魔性をもらい受けて輝く姿は、女
神のように美しい。純真無垢の頃よりも、毒を吸って凛と咲いた今
の姿の方が良い。
︱︱リビライラ。貴方が西妃でいてくれて良かった。
+
ノーヴァ海岸に向けて、早くもルーンナイトは進軍を開始した。
アルサーガ宮殿からも、間もなく進軍を開始する。徒歩での行軍
カテドラル
は何十日かかるか判らないので、全隊飛竜に乗っての高速移動であ
る。
斜光の射しこむ大神殿︱︱
祭壇前に跪くアースレイヤに声をかける者はいない。西妃に指摘
された通り、自由に心を吐露できるのはここだけだ。
990
聖戦
と崇めるが、欲に濡れた会議の
アースレイヤに言わせれば、信仰と戦争は別である。
世の中は、東西の闘いを
顔ぶれを思い出すと、鼻で哂いたくなる。
いかに高次元の存在が、純粋に闘いを求めたとしても、人は人の
よぎ
目線でしか物事を捉えられない⋮⋮。
ふと、黒い眼差しが脳裏を過る。
花嫁は、青い星の御使いにありながら、意外にも東西の衝突に疑
問を抱いていた。
いつだったか、東西を断絶する決して越えられない壁を築くこと
はできないのかと、尋ねられたことがある。
国境を失くす思想とは真逆の考えを、個人的には面白いと思った。
天まで届く壁を築けば、互いに二度と顔を合わせずに済む⋮⋮。
と言伝を聞いた。
ことづて
もし、そのような壁を築いたら、壊すのは果たして誰であろう?
沈黙。
アッサラームに尽くす
答えは見つからぬまま、小さな吐息を洩らした。
ルーンナイトからは
ふけ
聖都に、そしてアースレイヤに宛てた言葉だ。
よみ
今は、埒もない思いに耽るよりも、彼の為に祈ろう⋮⋮。
い
︱︱ルーンナイトの武運を祈る。神がアッサラームを嘉したもう
なら、どうか聴き容れて欲しい⋮⋮。
991
19 ﹃公宮に咲く花﹄ − リビライラ −
レイラン
リビライラ・バカルディーノ︱︱アースレイヤ・ダガー・イスハ
ーク皇太子の西妃
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、公宮勢力をまとめあげ、
援軍に苦しむノーヴァ防衛戦に貢献する。
ムーン・シャイターンの公宮が解散させる以前から、三千人の宮
女を抱える公宮の最大勢力は西妃の生家︱︱バカルディーノ家であ
り、その地位はもはや不動のものになっていた。
皇后不在の公宮における第一位は、本来であれば花嫁であるが、
権威を誇示せず、また東西戦争では通門拠点に同行した花嫁に代わ
り、リビライラは公宮の頂点に君臨していた。
︱ ﹃公宮に咲く花・一﹄ ︱
リビライラは、あらゆるものに恵まれて生を受けた。
輝くような美貌。艶やかな銀髪。神秘的な灰青色の瞳。何不自由
なく暮らせる富と権力。
くぼ
お前はいつか、皇太后の座を射
その代り、バカルディーノ家に背かぬ従順さを求められた。
よど
淀み、落ち窪んだ昏い眼差しで
992
止めるのだ
しゅんぷうたいとう
⋮⋮呪詛のように吹き込まれて育った。
公宮へ来たのは、もう十年以上昔のこと。
春風駘蕩の楽園。
出口のない牢獄。
幾つもの顔を持つ、この華やかな世界にもすっかり馴染んでしま
った。
+
大きな全身鏡の前に立ち、リビライラは己の輝くような美貌を客
観的に眺めた。
まと
白い鈴蘭を頭髪に飾り、額には繊細な硝子玉の連なりが陽光を弾
いて煌めいている。銀糸の刺繍で縁取りされた白い紗を纏い、肌を
はかな
晒す腰には、銀糸で編まれた薄緑の帯飾りを垂らしている。
儚げな美貌を引き立たせる、白い衣装。
本当は、繊細で可憐な白よりも、鮮やかで眼を引く赤が好きだ。
それでも、今日のように大事な日には、己の魅力を最大限に引き
出す白を着なくてはならない。
﹁ごきげんよう、西妃様﹂
リビライラが公宮を歩けば、そこら中から声がかかる。
ムーン・シャイターンがたった一人の花嫁の為に公宮を解散する
かしず
ルナラン
以前から、公宮における最大勢力を固守してきた。
誰もが足元に傅く。
ここへ来たばかりの頃、健在だった北妃に殺されかけたことがあ
る。
蝶よ花よと育てられてきたリビライラは、恐怖に震えたものだが、
助けてくれる者などいなかった。アースレイヤですら⋮⋮。
彼が日頃、妃を名で呼ばず、階位で呼ぶ理由が判った瞬間でもあ
993
る。
︱︱すぐに代わるから⋮⋮名前を覚えるだけ、無駄⋮⋮そういう
こと⋮⋮?
気付いた時には、愕然としたものだ。
かえり
星の化身、宮殿の花と謳われたリビライラの名を、口にしたがら
ない男がいるだなんて。
儚げと言われる容貌に反して気性の荒いリビライラは、自分を顧
みないアースレイヤが許せなかった。
必ず、名を呼ばせてみせる。
彼の中で自分の評価を、少しずつ上げて行った。公宮で対等しそ
うな女が現れる度に、どんな手を使ってでも蹴落とした。
四貴妃ですら手にかけた。北妃も影を使って片付けた。
最初は、アースレイヤの眼に留まる為。
いつしか怒りは愛情に代わり、傍で支えたいと思うようになって
からは、より一層、西妃の立場を固守し続けた。
決して届かないのだと⋮⋮気付くまでにそう時間はかからなかっ
た。
十年を共にしても、アースレイヤの心を捉えたことは一度もない。
彼の視界に、公宮事情など欠片も映っていない。リビライラを含
めて公宮の全ては、移ろいゆく背景。
宮殿にいても公宮にいても、視線はいつも遥か遠く︱︱外の世界
へ向けられている。あらゆる戦いの渦中に身を置く彼にとって、公
宮は些事に過ぎない。
つの
かさ
ただその時、傍にいる者を気まぐれに愛でるだけ⋮⋮。
想いを募らせても、虚しさが嵩むだけ⋮⋮。
振り向いて欲しいと願ったこともあるけれど、いつしか諦めた。
好きなだけ、外の世界に眼を向けていればいい。
リビライラは国母になる。
994
公宮の頂点に登り詰めてみせる。一大勢力を築いて、決してお飾
きけん
ひざまず
りにはならない皇太后になってやろう。
宮殿に侍る貴顕を、足元に跪かせて、興が乗れば愛でてやっても
いい。
誰にも媚びない。屈しない。
もはや生ぬるい感情で、寵を競ったりはしない。東妃も懐妊さえ
しなければ、手にかけようなど思わなかったのに⋮⋮。
花嫁が気転を利かして神官宿舎に入れなければ、あの日、サンベ
リアの命は尽きていた。
そうなることを知っていながら、アースレイヤは止めたりしない
のだ。
一時、気まぐれに愛でるだけ。
残念ですよ
最も多く、彼の視線を集めてきたリビライラですら⋮⋮。
ふと思う︱︱
たとえリビライラが殺されても、顔色一つ変えず
と片付けてしまうのではないだろうかと⋮⋮。
そんな末路は、もはや恐怖だ。
今朝早く、サルビアのノーグロッジの主力部隊が、ノーヴァに集
結したと知らせを聞いた。
近いうちに、必ずアッサラームから挙兵の声が上がる。
ぎりぎりで進軍を続けるアッサラーム軍は、どこかで枯渇する。
リビライラは、国を揺るがす局面にぶつかった時、支えとなれる
ように、密かに準備を進めていた。
バカルディーノの権威を示すいい機会だ。
ここには高貴な親に持つ娘も、バカルディーノと懇意にしている
皇家筋の娘も数多くいる。
そして、彼女達の頂点に立っているのは、リビライラなのだ。
995
996
20
︱ ﹃公宮に咲く花・二﹄ ︱
あずまや
青空を仰ぐ庭園。四阿に一人の娘を傍へ呼んだ。
バカルディーノと懇意にしている皇家筋の、高貴な娘である。
﹁これを、お父君に届けてくださる?﹂
レイラン
﹁かしこまりました、西妃様﹂
ふうろう
娘は嬉しそうに顔を輝かせて、手紙を受け取った。
封筒に押された、つばめの紋章の封蝋は、バカルディーノ家のも
の。更に鈴蘭の意匠があれば、リビライラからの密書と判る。
確固たる地位を築いた今、鈴蘭を意匠された手紙を受け取ること
は、公宮では一種の名誉とされていた。
﹁貴方にしか託せないの⋮⋮アッサラームの為に、どうかお願いね
?﹂
いかにも儚げに微笑むと、娘は頬を染めて、宝物のように手紙を
胸に抱きしめた。
997
﹁お任せください、西妃様。必ずお渡しいたします﹂
決意を秘めた眼差しに、リビライラへの憧憬と畏怖を滲ませて、
しっかりと頷く。
リビライラの本性を知っている公宮の女ですら、リビライラが潤
んだ眼差しを向けると、感極まったような表情を見せる。
それは、この娘に限ったことではない。
大抵の者は、リビライラを前にすると似たような反応を見せる。
ロザイン
あのアースレイヤですら、時々見惚れることがある。
見惚れるといえば、ふと、あからさまな花嫁の態度を想い出して、
知らず微笑が漏れた。
微笑みかけるだけで、しどろもどろで視線を逸らす姿は、リビラ
イラから見ても可愛らしい。
カ
ああいう素朴な一面に弱い人間は、ムーン・シャイターンに限ら
ず意外と多い。
テドラル
アースレイヤですら、花嫁には好意らしきものを抱いている。大
神殿で姿を見かけると、わざわざ声をかけにいくことを知っている。
リビライラも、花嫁のことは気に入っている。
もし、女だったら⋮⋮どうなっていたかは判らない。
万が一にも、皇太后への道を邪魔することがあれば、殺さなけれ
ばいけなかった。
愛する息子︱︱アメクファンタムの脅威になりうる存在は、今の
うちに摘んでおかなければならないのだから。
リビライラ自身は、花嫁の存在をむしろ歓迎しているが、公宮で
は妬まれることもしばしばある。
自分達が寵を競って苦心している傍らで、美貌の英雄から、揺ら
ぐことのない愛を捧げられる立場が、羨ましくて仕方がないのだろ
う。
そんなものは、無意味な悲嘆だ。第一、嫉妬する相手を間違えて
998
いる。
アースレイヤが心を明かす相手は、一番はシャイターン。その次
は、弟君なのだから。
そうとは知らず、立場もわきまえずにリビライラに愚痴を零す娘
もいる。人の不満や不幸は、時に耳を楽しませてくれるが、過ぎる
と不愉快に変わる。
少しつれない態度を取っただけで、取り巻きの娘達が察して、追
い払ってくれるようになった。身から出た錆ではあるが、今では肩
身の狭い思いをしていることだろう。
花嫁を羨ましいと思ったことは、一度もない。
輝くような美貌、巨万の富、揺るがない権力︱︱人より遥かに有
利な立場に生まれたことを、シャイターンに感謝している。
一途な寵愛が欲しいわけでもない。欲しかった頃もあったけれど
⋮⋮もう過去の話だ。
今はもっと、燃えるような想いを抱いている。
+
ノーヴァ壊滅の知らせが届いた。
元より勝算の少ない戦いだったのだ。むしろよく今まで持ちこた
えたと言えるだろう。
アースレイヤは一日掛かりで宮殿を説き伏せた後、ようやくリビ
ライラの元に姿を見せた。公宮勢力を当てにしていることは判って
いる。
﹁我がバカルディーノ家を含む公宮勢力から、飛竜精鋭を主とする
五万の軍勢を、アースレイヤ皇太子に託します﹂
﹁⋮⋮西妃、貴方には本当に助けられる﹂
999
うず
リビライラに向けられる、アースレイヤの眼差しが賞賛を帯びて
煌めく。
とうに捨てた感情が疼いて、胸の内に喜びらしきものをもたらし
た。
感情とは、なぜこうも思い通りにいかないのか。嫌な人。名前を
呼びもしないくせに⋮⋮。
﹁我が喜びですわ﹂
でも、それでいい。アースレイヤの割り切った態度こそが、リビ
ライラを美しく、気高く咲かせる。
西妃。傍に侍る符号の一つ。いつでも取って代われる存在。そう
思われていた方が好都合。
︱︱もっと高く。果ては宮殿の頂点までも上り詰めてみせる。誰
にも媚びない、跪かない、屈しない、脅かされることのない、遥か
な高みへ⋮⋮!
その燃えるような想いこそ、リビライラの全てだ。
だからこそ、誰よりも美しく、気高く、咲き続けなければいけな
いのだ。
孤高の花であり続けてみせる︱︱いつまでも。
1000
21 ﹃ノーヴァ海岸防衛戦﹄ − ルーンナイト −
ルーンナイト・ダガー・イスハーク︱︱アッサラーム軍大佐、ノ
ーヴァ海岸総指揮官。
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、通門拠点にて後方支援
の指揮を執った後、ノーヴァ海岸に総指揮官として出陣し、海岸沿
いにてサルビア軍を迎え撃つ。
せっこう
ルーンナイトは、ノーヴァ壊滅の知らせを斥候から聞くと、アッ
サラームからの出撃要請を予期して、直ちに飛竜編隊の準備に取り
掛かった。
間もなくアッサラームから知らせが届くと、その日のうちに返答
する。
生き延びたノーヴァ兵は、ルーンナイトの元に再び集結し、決死
の覚悟でノーヴァ海岸へ向かおうとしていた。
れいめい
黎明を待つ国門に、ノーヴァ情勢の知らせを持って、右腕を欠い
た瀕死のアルスランが辿りついた︱︱。
︱ ﹃ノーヴァ海岸防衛戦・一﹄ ︱
1001
そび
天高く聳える、早朝の国門。
ロザイン
西へ発とうとするルーンナイト一行を、白銀の聖衣に身を包んだ
花嫁が見送りにやってきた。
疲労が溜まり顔色は優れないが、見上げる黒い眼差しは、相変わ
らず澄んでいて美しい。
﹁ルーンナイト皇子、これを﹂
くろがね
掌を差し出すと、小さな鉄細工を渡された。針で留める襟章で、
表には飛竜の翼の彫刻が入っている。
﹁シャイターンの加護か⋮⋮﹂
え
﹁ささやかですけれど、無事に戻ってこれるように⋮⋮願いをこめ
て﹂
四方から眺めた後、すぐに襟に留めた。
小さな飾りだが、神聖な黒艶を放つ翼の柄は、目には見えない力
を宿している。
寝る暇もないほど忙しいだろうに、よく鉄に触れる時間があった
ものだ⋮⋮。
﹁この翼があれば、どこへでも飛んで行ける﹂
﹁お似合いです﹂
花嫁は照れくさげに頬を掻いた。
﹁ありがたい⋮⋮殿下、アルスランは気がつきましたか?﹂
1002
﹁いえ、まだ⋮⋮﹂
表情を曇らせる花嫁を見て、肩に手を置いた。
﹁空の将が寝台の上で往生するものですか。今に目を覚ましますよ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁殿下。彼の運んでくれた情報は、とても貴重なものです。アルス
ランが目覚めたら、援軍の知らせを⋮⋮希望は潰えていないと、伝
えてください。後方支隊と合わせて五万で先行しますが、アースレ
イヤは必ず援軍を送ってくれる﹂
﹁はい、必ず﹂
﹁それから⋮⋮ノーヴァの責を負う必要はないと、もし彼が我々を
追い駆けようとしたら、そう伝えてください。あの怪我で飛竜に乗
れば、命取りになりかねない﹂
﹁はい⋮⋮﹂
瞼を半ば伏せて、暗い声で頷く姿は、白銀の聖衣とあいまって彼
を儚げに見せる。
﹁そう深刻な顔をなさるな。国門を守る花嫁が憂いた顔をしていて
は、皆も不安になります﹂
﹁はいっ﹂
こしら
花嫁は沈んだ顔をあげると、無理やり笑みを拵えてみせた。いい
1003
心意気だ。
激化する戦況の中で、国門を離れるのは心配でもあるが、今や花
嫁はこの国門の支柱だ。アッサラーム全将兵の心の拠り所となって
いる。負担をかけるのは心苦しいが、任せるしかない。
愛嬌のある寝癖を撫でてやると、花嫁の傍に控える少年兵が殺気
を増した。面白い。このやりとりも、暫しお別れかと思うと少々寂
しく感じる。
﹁どうか、お気をつけて。ご武運をお祈りしています﹂
﹁必ず戻ります﹂
花嫁はしっかり頷くと、中庭の全将兵から見える高台に立ち、天
を仰いで祈りを捧げた。
ノーヴァ海岸に向けて出立するアッサラーム将兵を勇気づけるた
めだ。
﹁散っていった同胞を青い星にお導きください。どうか、アッサラ
ーム防衛に御力を貸してください。サルビアの大軍を押し返し、必
ずやノーヴァを守り抜けると信じております﹂
い
厳かな祈りと勝利の予告は、天に聴き容れられたかのように、周
囲の靄を晴らした。
不思議に、ジャスミンの香るアッサラームの風が流れて、ここが
深い密林であることを忘れそうになる。
必ず、アッサラームに戻ってみせる。こんな所では死ねない。
深い瞑想を終えると、ルーンナイトは立ち上り、同じように跪い
ていた全将兵に声をかけた。
﹁全員立て。中央から駆けつけてくれた同胞よ、そしてノーヴァを
1004
戦い抜いたアッサラームの勇敢な獅子達よ、目指す場所は一つだ。
判っていると思うが、抜かれればアッサラームは落ちる﹂
アルスランのもたらした対サルビアの布陣、計略図を手に握りし
め高く掲げてみせた。
﹁アルスラン、ジャファールが託してくれた、対サルビア戦の策は
この手にある! アッサラームからも十万を越える援軍が、今も空
を翔けてノーヴァ海岸を目指している。心は一つだ! どれだけ血
を流しても、サルビアに一歩たりとも砂を踏ませるな。耐え抜けば、
今にムーン・シャイターンがハヌゥアビスを討ち滅ぼしてくれる!
そうすれば、我々の勝利だ!!﹂
けいれつ
勁烈な眼差しが、先頭に立つルーンナイトに集中する。覚悟は全
員できている。金色のアッサラームは、全員の心の灯。消すわけに
はゆかぬ。
﹁アッサラームを守るぞ!﹂
﹁﹁﹁オォッ!!﹂﹂﹂
ルーンナイトが叫ぶと同時に、天に向かってひび割れた咆哮が上
がった。
1005
22
︱ ﹃ノーヴァ海岸防衛戦・二﹄ ︱
ルーンナイト率いる飛竜隊は、青い軍旗を閃かせてノーヴァの空
を翔けた。
目指すは国門の北、ノーヴァ海岸である。
かつて聖戦の舞台となったスクワド砂漠よりも、更に東端にある
海と陸の境目、断崖絶壁。航路と陸路では攻め込めない、空を行く
しかない難関地形だ。
最速で翔けた甲斐があり、サルビアの進撃より早く海岸に布陣せ
しめた。
﹁今回、最初から判りきっていることがある﹂
絶壁を見下ろしながら呟くと、歴戦の将、副官のカシカが隣に並
んだ。
﹁兵力差でございますか?﹂
﹁サルビアとの兵力差はもちろんだが⋮⋮向こうはノーヴァを落と
1006
して勢いづいている。寄り道せず最速で、真っ直ぐ西へ攻め込んで
くるだろう﹂
ふる
いかにも確信めいた口調で告げると、カシカは一つ頷き、厳しい
眼差しを空に向けた。
﹁いかにも。夜戦になる可能性もありますな﹂
かげ
﹁そうだ。知りがたきこと陰の如く、動くこと雷の震うが如し⋮⋮﹂
ジャファールに託された計略図と、眼前に広がる絶壁を見て、ル
ーンナイトは感心せずにはいられなかった。
﹁ジャファール将軍の言ですか?﹂
﹁ああ⋮⋮向こうは、こちらの軍勢を十万で見積もっている。後方
支隊の五万、アッサラームから五万。しかし実際は、向こうにとっ
て未知の勢力、公宮勢力五万の軍勢が隠されている。この敵の死角
にある五万は大きい﹂
﹁戦闘隊形の幅も広がりますな﹂
う
﹁迂をもって直となす。ジャファールの言に乗って、秘められた五
万はノーヴァの北を迂回させる。向こうが神速で懐に飛びこんでき
たところを伏撃させる。がら空きの背後を美味しくいただきだ﹂
カシカはルーンナイトの手元を覗き込みながら、感心したように
頷いた。
﹁ジャファール将軍は真に天才ですな。この計略図、未来を見てき
1007
たとしか思えませぬ。隠された五万の軍勢を、どうやって知りえた
のか⋮⋮﹂
﹁本当だな。今この場にいてくれたら、どれほど心強いか⋮⋮﹂
弱気を口にしたと悟り、途中で止めた。今は、考えても仕方のな
いことだ。
﹁ルーンナイト皇子﹂
名を呼ばれて振り向くと、クロガネ隊のケイト一等兵が立ってい
た。彼はアッサラームと通門拠点間の伝令を務める一人だ。
﹁ケイト、状況はどうだ?﹂
線の細い少年兵は大体いつも緊張しているが、今日の表情は明る
いように見える。これは期待できそうだ。
﹁吉報です。一つ、明日の夕刻には、ムエザ将軍率いる十万の援軍
が、西の空から現れる見込みです。二つ、通門拠点に運ばれたアル
スラン将軍が目を覚ましました。早速指揮を執り、各所への連絡も
加速し始めています﹂
ちょうじょう
﹁重畳!﹂
思わず、カシカと共に笑顔になった。
援軍も然りだが、アルスランの回復も喜ばしい。ルーンナイトの
抜けた国門は、ここへきてからも心に巣食う憂慮であった。
彼がいれば、国門は問題ない。花嫁のことも支えてくれるだろう。
これで前線に専念できる。
1008
きか
それに援軍を率いるムエザ将軍は、東西を駆けた皇帝を傍らで支
え続けた、誰もが認める歴戦の将だ。今も皇帝の麾下部隊をまとめ
る宮殿の守護神として、周囲からの信は厚い。また、ルーンナイト
の幼少時に、剣の稽古をつけてくれた師でもあった。
﹁陛下には、よくお礼申し上げねばな﹂
﹁ご武運を⋮⋮そうおっしゃっていたそうです﹂
変わらぬ豪胆な笑みが思い浮かび、ふっと笑みが洩れた。稽古を
つけてもらう度に、容赦なく壁まで吹っ飛ばされたものだ。
﹁先生なら、俺の指示など不要だろう。ジャファールの計略を活か
す。五万を率いて北に回り、伏撃に備えよとだけ伝えて欲しい。天
幕に書簡がある。持って行ってくれ﹂
﹁御意﹂
ケイトの背中を見送った後、カシカに肩を叩かれた。
﹁心強いですな﹂
﹁さっきの弱音は、忘れてくれ﹂
﹁ふはは⋮⋮﹂
何でも把握している副官の存在とは、やっかいなものだ。
﹁中央の吉報が待ち遠しいな﹂
1009
﹁そうですな⋮⋮皇子、ムエザ将軍に連携機動の仔細を伝えなくて
よろしいのですか? 今なら伝令に託せます﹂
﹁俺の仕事は、ここで踏ん張ることだ。先生も勝手にやれる。下手
に連携なぞ意識したら、あっという間に全滅するぞ﹂
あっけらかんと言えば、カシカの瞳は呆れを含んで細められた。
﹁相変わらず、大雑把でいらっしゃる⋮⋮﹂
﹁ふはは!﹂
何を今更。カシカの真似をして笑い飛ばしてやった。
1010
23
ほうか
︱ ﹃ノーヴァ海岸防衛戦・三﹄ ︱
せっこう
遠くの孤島から、闇夜に光り輝く烽火が立ち昇る。ノーヴァの空
を翔ける味方の斥候からの、敵襲の知らせである。
ルーンナイトは将達を天幕に呼んだ。その中には、元ノーヴァ兵
を束ねる将も交じっている。
﹁明け方には衝突するだろう。全員、準備はいいか?﹂
﹁いつでも︱︱﹂
全員が瞳に闘志を宿して、深く頷いた。
特に元ノーヴァ兵の瞳は昏い。消えることのない、サルビアへの
報復の炎がちらついている。
﹁サルビアめ⋮⋮勢いづきおって大した自信だ﹂
一人が忌々しそうに吐き捨てると、周囲から同調する声が次々と
上がった。
1011
﹁侮っていられるのも、今のうちだ﹂
﹁士気はこちらも十分高い。油断しているサルビア軍を噛み砕いて
みせよう﹂
﹁そうだ、ここをサルビアの死地に変えてやる﹂
士気は高い。アッサラーム軍は死にもの狂いでサルビアに襲いか
かるだろう。ここを抜かれたら、アッサラームが落ちることを全員
が理解しているのだ。
﹁機動の早さは自信がある証拠だ。向こうは、ジャファールとアル
スラン、空の二柱を仕留めたことで気が大きくなっている⋮⋮だが、
彼等は決して敗軍の将ではない﹂
決然とした響きで否定すると、将達もすぐに首肯した。
﹁おぉっ﹂
﹁もちろんです﹂
﹁見よ︱︱託された計略図には、アッサラームに迫る危機を回避す
べく、確かな活路が記されている。彼等が最後まで部下を想い、ア
ッサラームを想っていた証拠だ﹂
ノーヴァの地図の上に、アルスランの手記、そしてジャファール
の残した計略図を拡げると、全員が悔しそうに顔を歪めた。元ノー
ヴァ兵は視界を潤ませて、仕えた主君の直筆を食い入るように見つ
めている。
﹁あの死地にいて、最期まで諦めなかったのだ。懲罰があるわけで
もないのに、逃げるを良しとせず、ノーヴァに多くの同胞が散った
のは、アッサラームへの想いばかりではない。先頭を駆ける将の背
1012
中を、全員が迷わず見続けたからだろう﹂
がいたん
彼等は誰もが認める、真の勇将だ。ルーンナイトの偽りない言葉
は、彼等の慨嘆の琴線に触れた。
﹁そうだ! 命が惜しくば、西へ逃げることもできた。留まったの
は一人一人の意志だ。それも名将がいたからこそ﹂
﹁その通りだ﹂
﹁いかにも。撤退命令が下るまで、誰一人前線を譲らなかったと聞
く﹂
とも
口々に無念を吐き捨てる表情は昏い、しかし、もはや揺るがぬ決
意が瞳に点っている。
﹁あの粘りがあったからこそ、ノーヴァは一斉攻撃を受けながらも、
ぎりぎりまで持ちこたえることができたのだ。俺にはまだ、そこま
での求心力はない。だから、皆の力を借りるぞ。お前達を、怨嗟か
ら解放してやりたいが⋮⋮今はその闘志すらも利用させてもらう﹂
集まった将達は、ルーンナイトに完璧に礼節に則った最敬礼で応
えた。
﹁望むところです。我々は、同胞をさしおいて、生き長らえた亡霊。
魂はノーヴァに散った同胞に捧げました。残されたこの血肉も、ア
ッサラームを守る為に燃焼できれば本望です﹂
ちょうめい
澄明な凛然とした眼差しが返される。
1013
﹁このノーヴァ海岸には、あらゆる兵が集まっている。一人一人が
様々な想いを抱えて、前線に立っている。それでいい。だが忘れる
な、心は一つだ。全員が胸にアッサラームの灯を宿している。消え
ていい灯など一つもない︱︱﹂
は
言葉を切って立ち上がると、腰に佩いたサーベルを抜いた。
けんせん
切っ先を天に向けて高く掲げると、全員が同じように黒牙を抜い
て、その剣尖をルーンナイトに合わせた。
サーベルを佩いた時から、アッサラームの獅子となる。
ここにいる全員が、成人した十三の時から黒牙を振るってきた。
剣尖を合わせて交わす約束は、決して違えることのない誓願だ。
﹁俺は前線に立ち続ける、お前達も立ち続けてくれ。今日を乗り越
えたら、再びここに集まるんだ。いいな?﹂
﹁必ず︱︱﹂
鋼の擦り合う音を響かせて、誓いは結ばれた。
+
空が白み始めた頃。
ついにサルビア軍が攻めてきた。
東の空を埋め尽くす大軍︱︱空の彼方まで、無限に広がる朱金装
甲の重装飛竜隊だ。
その威容はアルスランの手記にある通り、空が燃え上がっている
ようであった。
﹁皇子、貴方にお仕えできる喜び⋮⋮シャイターンに感謝いたしま
す﹂
1014
隣に立つ副官の大袈裟な言葉に、つい微笑が漏れる。
﹁感謝するには、少し早い。サルビアを撃破してからにしたらどう
だ?﹂
東の彼方を見据えたまま、気軽い口調で返した。
﹁御意﹂
こだわ
﹁カシカ。乱戦になったら、俺の指示に拘るな。好きに兵を動かし
て構わない﹂
﹁君命を仰ぎます﹂
﹁遅かれ早かれ、酷い乱戦になる。その時は、現場の判断で動いた
方がいい﹂
恐らく空は血で染め上げられるだろう。しかし、ルーンナイトの
懸念を見透かしたように、カシカは不敵に笑った。
﹁いかな戦地にあろうと、御支えしてきました。この先も同じこと﹂
﹁その忠、嬉しく思うぞ。だがな、俺の生こそ、君命に受けざると
ころありの好例だ﹂
遠い記憶を思い浮かべたら、懐かしむ口調になった。言わんとす
る先を読んで、カシカは顔をしかめている。
﹁む。宮殿と同じに考えなさるな⋮⋮﹂
1015
﹁あそこもまた戦場だ。俺が今ここに在るのは、アースレイヤのお
かげだ﹂
まだ子供の頃、アースレイヤを擁護する皇太子派︱︱ヴァレンテ
たばか
ィーン・ヘルベルトに暗殺されかけたことがある。逸早く謀略を見
抜いたアースレイヤは、自分が代わりに殺すと謀り、ルーンナイト
を密かに匿った。
知る人ぞ知るこの宮廷事情を、腹心の部下、カシカは当然知って
いる。
あざむ
﹁あの方も幼いながらにして、よく皇太子派を欺きましたね﹂
﹁兄上の二枚舌には恐れ入る。あそこの夫婦の会話を聞いたことが
あるか? 背筋が冷えるぞ﹂
﹁⋮⋮援軍をよこしていただいたご恩を、お忘れですか?﹂
やゆ
揶揄する口調を嗜めるように、カシカは眼を細めて呆れたように
呟いた。
﹁判っている。あの人が宮殿に立ってくれているおかげで、俺はこ
うして自由に外へ出て行けるんだ﹂
﹁自由に出て行き過ぎです⋮⋮﹂
﹁俺の生は、アースレイヤがくれたものだ。だからこうして⋮⋮来
たな。出るぞ︱︱﹂
﹁御意﹂
1016
飛翔場に戻りそれぞれ飛竜に騎乗すると、周囲を見渡して口を開
いた︱︱
﹁飛翔!﹂
きんこ
号令と共に、進撃を告げる金鼓が空高く鳴り響き、機動合図の発
煙筒に火が点けられる。
アッサラーム軍十五万対、サルビア軍二十五万。アッサラーム防
衛を賭けて、壮絶な空の戦いが幕を開けた︱︱。
1017
24
︱ ﹃ノーヴァ海岸防衛戦・四﹄ ︱
空を覆うほどのサルビア軍を見て、ルーンナイトは既視感に襲わ
れた。
しんぼうえんりょ
怖いくらい、ジャファールの予期した通りの布陣だったからだ。
つくづく彼の深謀遠慮には敬服させられる。
いやはや、この光景を見せてやりたいものだ。自画自賛するので
はないか?
おかげで布陣は読めた︱︱
敵の最前線は、空を覆うほどの横隊包囲陣。その背後の陣形は縦
そさん
隊で、一見攻めやすそうに見えるが、弱点と見せかけた罠だ。
縦隊の中隊単位で疎散させ、いかにも隙間から脱出ができるよう
おうさつ
に見せかけているが、一度入ったが最後、中隊単位ながらも密集隊
列を維持している重装飛竜に鏖殺されて終わる。
そして、この正面に集中せざるをえない周到な包囲網こそ罠だ。
サルビア軍は精鋭を中央にぶつけてアッサラーム軍を足止めし、
その間に別部隊が迂回して上陸を狙ってくるだろう。
二重、三重にも張り巡らせた布陣の罠を、ルーンナイト一人では
到底読み切れなかった。
決して、一人ではない︱︱
ノーヴァを生き抜いた精鋭達。
1018
ジャファールとアルスランの託してくれた、対サルビアの計略。
戦場の士気の高さ。
ムーン・シャイターンから受け継いだ中央後方支隊。
アースレイヤの送ってくれたアッサラームからの援軍。
ひっきょう
今この場に立ち、共に前線へ向かう、アッサラームの全将兵達。
畢竟。
あらゆる力に支えられて、今ここにルーンナイトは立っている。
+
︱︱伝令。迎撃開始! 緩やかに前線を押し出し、第一飛竜隊投
射開始!
杖で機動合図を送ると、伝令がすぐに発煙筒に火を点ける。
ついに前線が衝突した。鋭い飛竜の咆哮が空に響き渡る。
サルビア軍は最初から総攻撃を仕掛けてきた。探り合いなどせず、
前線を押し上げてくる。
敵の中央布陣から、精鋭部隊が前線に滲み出してくると、ルーン
ナイトは一度前線を下げさせた。
︱︱伝令。前線部隊、元ノーヴァの小隊と交代、正対を仕切り直
し! 遠慮はいらない。敵の精鋭を思いっきり叩け!
敵の精鋭が突出してきたら、こちらも最精鋭︱︱報復に燃える元
ノーヴァ兵を当てて、敵の猛攻を防いだ。四百の元ノーヴァ兵を機
殲滅せよ
というルーンナイトの指示に、元ノーヴァ兵は一騎
動連携に組み入れず、突破戦力とする作戦である。
当千の働きを見せた。意気衝天の闘志で、迷いも恐れもなく果敢に
斬り込んで行く。
互いの精鋭同士の衝突では、アッサラームが押しているとルーン
1019
ナイトは判断した。思わず杖を握る手に力が入る。
当然だ。闘志が違う!
斬り込んでいる彼等も、手応えを感じているだろう。ジャファー
ルなら、そろそろ引きの合図を出すのだろうが⋮⋮いい空気だ。こ
ういう時は攻めて良し!
青い軍旗に追い風が吹く︱︱
ルーンナイトの押しの強さは、このノーヴァ防衛戦においては功
を奏した。
というのも、サルビア軍の総指揮官は、ジャファールの周到な計
略を闘い抜いてきた為、本人も知らずうちに、非常に用心深くなっ
ていた。
どんな些細な動きも見逃すまいと慎重になり、ルーンナイトが勢
いで攻める時にも、裏があるのでは⋮⋮と深読みし過ぎて、何事に
おいても起動が遅れた。
実際、ルーンナイトも作戦の本筋はジャファールの計略に沿って
いる為、サルビアの総指揮官は、ジャファールの匂いを嗅ぎとって
は惑乱させられた。
相対する将︱︱ルーンナイトの本質を掴めず、まるでジャファー
ルの亡霊と闘っているような、不気味な恐ろしさを感じとり、本陣
勢力を二分する迂回起動に踏み込めずにいた。
そして、敵が陥るその心理を、ジャファールは読み切っていた。
計略図に記された通りである。
⋮⋮敵は疑心に囚われ、追撃の手を緩める。前線の進撃速度が落
ちれば、迂回起動を足踏みしている証拠。機を逃さず北から伏撃す
べし
ね
今こそが伏撃の﹁機﹂だろう。ルーンナイトは決然と眼前を睨め
付けるや、機動を指示する指揮杖を振り上げた。
1020
︱︱伝令。今を逃すな。敵の背後に食らいつけ!
機動合図と共に、伝令がすかさず進撃を伝えるべく発煙筒に火を
点ける。
サルビア軍の背後はがら空きだ。完全に狙い通り。恐ろしいほど
思い描いた通りに、戦況が動く。
鳥肌を覚えずにはいられない。まるで、隣にアルスランとジャフ
ァールが立ってくれているようだ。
あらゆる力に背中を押され、機動合図と共に叫んだ。
﹁行けぇ︱︱っ! 前線を押し返せ!!﹂
北の空に伏していたムエザ将軍は、ルーンナイトの指示に素早い
機動で応じた。サルビアの無防備な背後に一斉に襲いかかる!
死角からの伏撃に、サルビア軍は大いに狼狽えた。
﹁中央を叩け!﹂
サルビア軍が陣形を崩したところに一斉攻撃を命じると、全隊が
光矢の如く敵陣を襲い、大いに痛手を負わせた。
立て直しを迫られたサルビア軍は、撤退命令を出さざるをえなか
った。衝突と共に勝負をつける算段でいたサルビア軍は大いなる誤
算である。
+
初日を乗り切り天幕に将を集めると、互いの肩を叩き合った。
命を落とした者もいる︱︱しかし、最も恐怖とされた激突初日の
サルビアの猛攻を防衛し切ったのだ。
1021
﹁お見事でした﹂
天幕にムエザ将軍が現れると、ルーンナイトはつい癖で最敬礼を
しそうになり、将軍本人に止められた。
﹁皇子、ここでの総大将は貴方だ﹂
﹁先生が、きてくれるとは思いませんでした﹂
﹁宮殿にいても退屈ですからな﹂
寛いだ様子で人の悪い笑みを浮かべるも、向ける眼差しは、手塩
にかけた弟子を見るそれであった。
﹁はは、相変わらずですね﹂
﹁初日の勢いは大切です。今日の功績は大きい﹂
労いと共に肩を叩かれ、ルーンナイトも大きく頷いた。
﹁ありがとうございます﹂
幸先の良い開戦を迎えられたが⋮⋮まだ始まったばかりだ。日を
重ねるごとに、戦況は厳しくなるだろう。
孤立したノーヴァの空同様、ここも長くはもたない。
だが、何としてもムーン・シャイターンがハヌゥアビスに勝利す
るまでは、ここを生かさなくては⋮⋮。
最後は、士気の高さがものを言う。
翌日も、ルーンナイトは戦いの前に将を集め、黒牙の切っ先を合
わせた誓願を立てた。
1022
﹁決して倒れるな。前線に立ち続けろ。今日を乗り越え、再び全員
でここに集まるぞ!﹂
﹁﹁オォッ!!﹂﹂
一日を乗り越えるごとに、天幕に集う将の数は一人、また一人と
減って行ったが、ルーンナイトはこの誓願を、闘いの前に必ず行っ
た。
一方︱︱
中央陸路も戦況は激化していた。
シャイターンとハヌゥアビスの、神力を解放した頂上決戦が繰り
広げられているのだ。
東の空は、まるで天が割れたような轟音を響かせ、青い閃光を走
らせた。
その凄まじさは、時にノーヴァ海岸を攻めるサルビア軍を恐怖さ
せるほどであった。
+
ノーヴァ海岸の激突から十五日。
夜戦明けの野営地は、寝静まりかえっている。
サルビアの絶え間ない猛攻に、ノーヴァ海岸を守る兵の疲労は限
界に近付いていた。
撤退を見誤るな。
襟に留めた翼の章に指で触れながら、アースレイヤの言葉を思い
返す。限界はどこにあるのか。今こそジャファールの苦慮が判る。
一進一退の攻防の行方を、神のみぞ知るというのなら⋮⋮祈らず
1023
にはいられない。
よみ
︱︱シャイターン。どうかアッサラームを嘉したもう。
1024
25 ﹃穏やかな風﹄ − アルシャッド −
アルシャッド・ムーラン︱︱中央広域戦伍長、クロガネ隊加工班
班長代理
せっこう
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、通門拠点にて、斥候を
務めるサイードに代わり、クロガネ隊加工班班長代理を務める。
元ノーヴァ兵と共にルーンナイトが軍を発した後、生死を彷徨っ
ロザイン
ていたアルスランは、幸いにも意識を取り戻した。その後、右腕を
失う重傷を負いながらも、花嫁と共に後方支援に加わり、多忙を極
くろがね
める通門拠点は活性化し始める。
工房で鉄加工を務めるアルシャッドにも、アルスランの命で中央
に運ぶ武器防具の荷積み指示が下り、激化する前線の為に連日徹夜
で勤しんでいた︱︱。
︱ ﹃穏やかな風・一﹄ ︱
気付けば夜が明けていた。いつの間にか外が明るい。
しかし寝る間も惜しんで鉄を打った甲斐があり、アルスランの依
頼をどうにか終えることができた。製鉄班が荷積みを手伝ってくれ
たおかげで、いつでも運び出せる。
1025
しちょう
昼には、中央に向けて輜重隊が発つ。どうにか、間に合わせられ
て良かった。
どら
連日徹夜作業に追われて、工房内は死屍累々だ。今なら倒れ伏す
彼等の耳元で銅鑼を鳴らしても、眼を覚まさないのではないだろう
か。
アルシャッドもその辺に転がって、仮眠を取ろうかと思いきや、
花嫁とナフィーサ、アージュ、そしてケイトがやってきた。
﹁先輩⋮⋮お疲れ様です。これ、差し入れ。皆が起きたら、皆にも
あげてください﹂
ふくいく
花嫁から受け取った籠には、山盛りの桃が入っていた。色艶のい
い桃だ。いかにも美味しそうな、馥郁たる香りがする。
﹁やぁ、美味しそうだ。ありがとうございます。ケイトはいつ戻っ
てきたの?﹂
ポケットからナイフ︱︱クロガネ隊考案の携帯ツールナイフを取
り出して、桃を剥きながらケイトを見上げた。顔を見るのは、随分
久しぶりな気がする。アルシャッドは通門拠点で工房勤めだが、ケ
イトは開戦してからアッサラームと通門拠点間の伝令を務めていた。
﹁さっきノーヴァ海岸から戻ったばかりです﹂
﹁どうでした?﹂
﹁無事、ルーンナイト皇子に、アルスラン将軍からお預かりした書
簡をお渡しできました。将軍の復帰を聞いて、とても喜ばれていま
したよ。吉報で良かったです。ルーンナイト皇子は順調に布陣を整
えていました。ムエザ将軍もアッサラームから軍を発して、今ノー
1026
ヴァに駆けつけています。サルビア軍との衝突まで、あと数日を要
しそうです﹂
一仕事終えた安堵を顔に浮かべて、なかなか明晰な口調で語る。
臆病で内気な彼に、戦場を駆けずり回る伝令が務まるか心配してい
たが、無用であったようだ。
﹁上々ですね。この後の予定は?﹂
﹁俺を含めて、十五人の伝令が任務交代しました。七日後にまた拠
点に向かいます。それまで時間あるので、クロガネ隊の手伝いをし
ていても良いですか?﹂
二つ返事で了承しようとしたら、ナフィーサが強張った顔でケイ
トを見上げた。
﹁あの⋮⋮ケイト殿、もし良ければ、殿下の手紙を、ムーン・シャ
イターンに届けていただけないでしょうか?﹂
しょくふ
花嫁が﹁え?﹂と目を丸くする横で、ナフィーサは織布をめくり、
十通はありそうな手紙の束を取り出した。
光沢のある手紙の裏面には、見慣れない装飾が入っている。すぐ
え
に、天上人の文字で綴られた、花嫁の名前だと気付いた。以前、ム
ーン・シャイターンの刀身に彫っていた柄と同じものだ。
﹁せっかくお書きになられたのに、机に隠されていては意味があり
ませんよ。渡せば、きっとムーン・シャイターンもお喜びになられ
ます﹂
﹁俺は構いませんが⋮⋮﹂
1027
ケイトは言葉を切ると、問いかけるような眼差しでこちらを見た。
もちろん、アルシャッドにも異論はない。
﹁俺からもお願いします。届けてさしあげてください。きっと喜ば
れます﹂
﹁いや、ケイト任務明けなのに、悪いよ﹂
ケイトはにっこり笑った。
﹁大丈夫ですよ﹂
﹁いや、でも⋮⋮なら今度、中央に向かう伝令が来た時に渡すよ﹂
花嫁は慌てた様子で、ナフィーサの手から手紙を奪い返そうとし
ている。ナフィーサは後ろ手に手紙を隠すと、じりじりと花嫁から
距離を取った。
﹁そう言って殿下、毎回お渡しにならないではありませんか⋮⋮ノ
ーヴァの衝突前に、お渡ししましょうよ。きっとムーン・シャイタ
ーンのお慰めになると思います﹂
﹁でも、最初の方、何書いたか覚えてないし。変なこと書いてある
かも⋮⋮。やっぱり、ちょっと待って!﹂
﹁殿下、勢いも大事でございますよっ﹂
かわ
ナフィーサは軽い身のこなしで、奪い返そうとする殿下の手を巧
みに躱し、ケイトに全ての手紙を渡した。
1028
ケイトも心得たもので、腕を高く掲げて、取り上げようとする花
嫁の手から逃れている。
三人でわあわあ声を上げて手紙を取り合う姿は、何だか子供がじ
ゃれているようで微笑ましい。
それにしても、この桃は美味である。良し。咀嚼していると、ふ
とローゼンアージュと目が合った。彼だけは冷静に起立している。
﹁食べますか?﹂
ナイフに突き刺して桃を差し出すと、人形めいた少年は、ひょい
とつまんで口へ放り込んだ。無表情で咀嚼しているが、美味しいと
感じているはずだ。たぶん。
﹁では、早速行って参ります﹂
どうやら、ナフィーサとケイトに軍配が上がったらしい。ケイト
は眩しい笑みを閃かせて、風のように工房を飛び出して行った。そ
の後ろ姿をナフィーサが﹁まだ他にもあります﹂と言いながら、追
いかけて行く。
殿下は肩で息をしながら、無言で彼等の去った扉を眺めていたが、
やがて照れ臭げに頬を掻きながら振り向いた。
﹁殿下もお一ついかがですか?﹂
一切れ桃を差し出すと、疲れた顔をした花嫁は、危なっかしい手
つきで口へ放り込む。すぐに﹁美味しい﹂と破顔した。
1029
26
︱ ﹃穏やかな風・二﹄ ︱
ロザイン
工房からナフィーサとケイトが出て行った後、花嫁は諦めように
小さく息を吐いた。
﹁まあ、いいか⋮⋮元々渡すつもりで書いたものだし﹂
﹁きっと喜ばれると思いますよ。ムーン・シャイターンからは、手
紙をいただいたのですか?﹂
﹁はい、何通かもらいました。その時は、僕も返事を書こうと思う
んですけど⋮⋮文章書くのすごく苦手で、後から読み返すと渡す勇
気がなくなるんですよね⋮⋮﹂
どんな文面を思い浮かべたのか、花嫁は照れ臭げに頭を掻いた。
﹁判ります。俺も文字を書くのは苦手だから﹂
文字の乱雑さは自覚している。読めぬとまでは言われないが、酔
っ払いの文字のようだとは言われたことがある。
1030
花嫁は瞳に悪戯っぽい光を灯して、くすりと笑った。
﹁先輩も僕と同じで、ちょっと字体崩れてますよね。すごく親近感
湧きます。でも⋮⋮前に僕が倒れた時、お見舞いにもらった手紙、
すごく嬉しかったですよ。押し花の一筆箋もすごく可愛くて﹂
﹁あれは、妹の趣味です。最初、図面用紙に書いたんですけど、妹
に見つかって、すごい剣幕で怒られまして﹂
ありえないっ
と没収された。
一応、皺のない綺麗な図面用紙にしたためのだが、見つかった途
端に
﹁あはは、そういうことですかー。道理で⋮⋮先輩、そういえば妹
がいるんですよね﹂
妹だけでなく、兄と弟も一人ずついたのだが、先の聖戦で二人共
亡くしてしまった。そのせいもあり、十歳離れた妹のことは、家族
全員で可愛がっている。
﹁はい、殿下と同じ年頃ですよ。たまに帰ると軍の話をせがまれて、
すっかり満足するまで離してもらえないんですよ﹂
﹁へぇー、仲良さそう﹂
明るい声の響きに、さり気なく花嫁の表情を窺った。穏やかな笑
よぎ
みに、密かに胸を撫で下ろす。昔はこうした話題に触れると、笑顔
に一瞬寂しげな影が過ることがあったのだ。
﹁手紙には、どんなことを書かれたのですか?﹂
1031
﹁殆ど近況報告です。文章書くの下手くそで、全然簡潔に書けない
んですよね。無駄に長くなってしまって﹂
﹁設計図はいつも簡潔でいらっしゃるのに﹂
﹁先輩、それ褒めてない! 設計図は細かく描きたいんですよぉー﹂
花嫁は悔しそうに拳を握りしめ、語尾を伸ばすと同時に、それを
振りかざした。意気込みは伝わった。
思わず声を上げて笑っていると、花嫁は深いため息をついて、思
慮深い眼差しでアルシャッドを見上げた。
﹁僕はこれくらいで、良かったのかもしれません﹂
﹁え?﹂
﹁僕がもし、先輩みたいな天才だったら、ナイフの改良くらいじゃ
済まなかったから⋮⋮﹂
﹁ふむ?﹂
首を傾けると、花嫁は頭をひと撫でするや、迷ったように口を開
いた。
﹁︱︱アッサラームで祝砲や帆船大砲門を見た時、ある強力な武器
を思いついたんです。もし作り方を知っていたら、僕は作ってしま
ったかもしれない﹂
﹁どんな武器ですか?﹂
1032
何気ない口調のつもりであったが、花嫁は表情を強張らせて、返
答に詰まった。
﹁この世界の力の均衡を、大きく変えてしまう可能性があるから⋮
⋮﹂
﹁それほどまで? ふーむ、気になりますね﹂
どんなものだろう。祝砲を見て閃いたということは、遠距離にお
ける威嚇か、火薬の改良だろうか⋮⋮。
﹁先輩に話したら、作れちゃいそうだから⋮⋮﹂
花嫁は複雑そうな表情を作ると、微苦笑を浮かべた。
﹁火薬の類ですか? でしたら、俺の専門外です﹂
﹁いやー、先輩の万能さは僕が保障します! だからやっぱり黙秘
です﹂
﹁買いかぶりですよ﹂
謙遜ではなく本音であったが、花嫁は瞳を輝かせてアルシャッド
を見るや﹁そんなことない﹂と言い切った。
思わず苦笑で応えると﹃アイキューメッチャタカソウ。スゲーヨ
ホント﹄と聞きなれない天上人の言葉を口ずさむ。教えてはくれな
さそうだ。
﹁残念ですよ﹂
1033
﹁はは、でも⋮⋮鍛え抜いた鋼で戦うこの世界には不要かも、とも
思うんです﹂
﹁火薬の類に神力は宿せませんし、鋼に勝る武器はないと思います
よ﹂
いかに性能や威力が良くとも、神力を宿せなくては意味がない。
それに剣や鉾は、先人達が改良を重ね、連綿と受け継がれてきた、
古来最強の武器だ。その形状だけでも十分な威力を持つ。
﹁そうですよね⋮⋮そう思うんですけど、厳しい戦況を聞くと、や
っぱり作るべきだったのかな、もっと出来ることがあったんじゃな
いかってって不安になるんですよね﹂
花嫁は憂鬱そうに瞼を半ば伏せた。
﹁十分、皆の力になっていますよ。今朝も、こんな早くから差し入
れを届けてくださって、皆も目を覚ましたら感動すると思いますよ﹂
桃を手に取り笑みかけたが、花嫁は心苦しげに首を振った。
﹁これくらい⋮⋮本当は僕もクロガネ隊を手伝いたいんですけど、
すみません﹂
﹁謝る必要はないでしょう。よく頑張っていらっしゃる。さぞお疲
れでしょう﹂
﹁平気です。ちゃんと寝台で眠れるだけでも、感謝しなくちゃ﹂
それは全く同感である。身体を伸ばして、横になって眠れるとい
1034
うのは素晴らしいことだ。
﹁ジュリは、大丈夫かなぁ⋮⋮﹂
黒髪の下の不安そうな顔を伏せて、心配げに独りごちる。
﹁今に戦況も好転しますよ﹂
どうにもならない気休めが口を突く。花嫁は心ここに在らずで生
返事をすると、遠い目をした。
離れているムーン・シャイターンを想っているのかもしれない。
アッサラームが恋しいのはアルシャッドも同じだ。ここにいる誰
もが同じ気持ちだろう。
早く帰りたいものだ、あの美しい金色の聖都へ︱︱
1035
27
︱ ﹃穏やかな風・三﹄ ︱
ロザイン
二人で桃を二つ平らげた後、花嫁はふと気付いたように口を開い
た。
﹁先輩、大分前髪伸びましたね﹂
言われて気がついた。そう言われると、視界に少し掛かっている
かもしれない。切っておくか、と思い、ポケットからナイフを取り
出した。
﹁︱︱待った﹂
﹁殿下?﹂
前髪を掴んで根元から切ろうとしたら、花嫁に腕を掴まれた。な
ぜか眼が据わっている。
くろがね
﹁先輩、その切り方はないですよ。鉄の扱いはあんなに繊細なのに、
自分のことはかなり適当ですよね﹂
1036
﹁はは、よく言われます﹂
とくとう
いっそ、サイード班長のように禿頭にしてしまいたい。妹が必死
に止めるので、今のところ思い留まっているが⋮⋮。
﹁僕に切らせてください﹂
﹁え?﹂
﹁先輩よりは、上手に切れると思います﹂
﹁じゃあ⋮⋮お願いします﹂
特に断る理由はない。傍に控えるアージュも不動なようなので、
ナイフを花嫁に手渡した。
しかし、正面を向いて対峙すると、図らずも花嫁の顔が傍にあり、
何となくムーン・シャイターンの顔が脳裏をよぎった。別に、疾し
いことは何もないのだが。
散髪に備えて瞳を閉じていると、慌てたように駆けてくる足音が
聞こえた。
﹁おいっ、何してる!?﹂
厳しい表情のアルスランは、勢いよく殿下の肩を掴んだ。
﹁アルスラン! 今ナイフを持ってるから、危ないですよ﹂
花嫁は驚きをに眼を瞠り、険しい顔の将軍を振り仰いだ。彼は花
嫁の手に握られたナイフに気付くや、怪訝そうに眉をひそめた。
1037
﹁こんにちは、アルスラン将軍﹂
これは、誤解させたかなぁと思いつつ、顔には出さずに会釈をし
た。
﹁⋮⋮何をしているんですか?﹂
﹁アルシャッド先輩の、前髪を切ろうと思って﹂
﹁何だ、そんなことか⋮⋮お前、自分で切ればいいだろう﹂
予想通りの、呆れ半分、脅かせやがってという視線をいただいた。
﹁そうですよね﹂
まぁいいかとさっきは思ってしまったが、よくなった。傍から見
れば不敬にあたる行為だ。気さくな方なので、つい距離感を忘れが
ちだが、誰もが跪くシャイターンの花嫁である。
﹁いいんです、僕が切らせてくれって、お願いしたんです﹂
﹁何故?﹂
﹁先輩、壊滅的に髪切るの下手くそだから﹂
壊滅的と言われて、アルシャッドは少しばかりショックを受けた。
一方、アルスランは一応納得したように引き下がる。
﹁まぎらわしい、誤解を招く光景でしたよ。ならば、お早く。間も
1038
しちょう
なく、遠路に向かう輜重隊が出発しますので、一緒にきていただけ
ませんか? 彼等に声をかけてやって欲しい﹂
﹁判りました﹂
﹁いやいや、自分で切れますから、どうかお構いなく。輜重隊の皆
さんのところへ、早く行ってあげてください﹂
辞退してみたが、花嫁は改めてナイフを手に取るとアルシャッド
に向き直った。
﹁前髪切るくらい、すぐ終わりますよ﹂
花嫁の気は変わらないらしい。意固地になっても仕方ないので、
大人しく目を閉じた。
﹁︱︱殿下!?﹂
悲壮感に溢れた悲鳴。全員で振り向くと、両手で口を押さえたナ
フィーサが扉に立っていた。
﹁何をしてらっしゃるんですか!?﹂
﹁えっと、アルシャッド先輩の、前髪を切ろうと思って⋮⋮﹂
さっきと全く同じ流れを繰り返そうとしている。アルスランは半
眼になり、花嫁は困ったように頬を掻いている。アルシャッドもど
うしたものかと腕を組んだ。
﹁︱︱僕が切ります﹂
1039
ローゼンアージュが一瞬で解決してくれた。スパッと空気を裂く
音と共に、前髪がはらはらと落ちる⋮⋮。
怖いと思う暇すらない、目にも止まらぬ早業だ。
﹁わ、いい感じ。今のどうやったの?﹂
﹁ありがとうございます﹂
ナフィーサもようやく状況を把握したらしい。ほっとしたような
表情を見せるや、胡乱げに花嫁を見た。
﹁殿下が、アルシャッド殿に迫っているのかと、勘違いしてしまい
ました﹂
﹁はぁ?﹂
﹁私もそう思いました﹂
﹁えぇっ?﹂
ナフィーサとアルスランに代わる代わる言われて、殿下は狼狽え
たようにアルシャッドを見た。心配しなくても、そんな誤解はもち
ろんしていない。
﹁大丈夫、純粋な親切だと判っていますよ﹂
﹁うん﹂
殿下はほっとしたように胸を撫で下ろした。次いで怒った表情で
1040
彼等に噛みついた。
﹁もう! どうしてそんな勘違いするんだ! おかしいでしょ!﹂
﹁はは﹂
アルスランは楽しそうに笑った。生死の淵を彷徨い、絶望に暮れ
ていた姿からは想像もつかない、穏やかな笑顔だ。
花嫁も同じことを思ったのだろう。笑みを浮かべるアルスランを
見て、怒ったことも忘れて目元を和ませている。穏やかな笑みを浮
かべたまま、ナフィーサを振り向いた。
﹁今から輜重隊に挨拶しに行くんだけど、ナフィーサはどんな用事
?﹂
﹁ケイト殿をお見送りしてきましたので、報告に戻りました。私も
ご一緒させていただいて、よろしいですか?﹂
﹁もちろん。それじゃ、先輩、行ってきます。お邪魔しました﹂
気さくに手を振る花嫁に、アルシャッドも手を振って応えた。花
嫁と共にアルスラン達も工房を出て行く。
賑やかな音が消えると、急に静かになったように感じる。
花嫁の行く先には自然と人が集まる。
悲しみも多いこの通門拠点で、花嫁の存在は、穏やかな風のよう
に全将兵の心を優しく慰めてくれる。
アルシャッドは知らず微笑み、三つ目の桃に手を伸ばした。
1041
1042
28 ﹃手紙﹄ − ケイト −
ケイト︱︱通門拠点間伝令、一等兵
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、クロガネ隊加工班に在
籍しながら、アッサラームと通門拠点間の伝令を務める。
元ノーヴァ兵と共に軍を発したルーンナイトの元へ、意識を取り
ロザイン
戻したアルスランに託された追加の書簡を届けた後、任務の合間を
縫って、花嫁の手紙をムーン・シャイターンの元に届ける役目を買
って出た。
これまで、特に危険とされる中央の伝令を恐れていたが、今回ば
かりは花嫁の力になろうと決意し、山岳の夜を翔けるのであった︱︱
︱ ﹃手紙・一﹄ ︱
不安定な気流によろめきそうになりながら、手綱を必死に握りし
めて昼夜を翔けた。
寝静まり返った山岳の夜は、穏やかとはほど遠く、不気味な静け
さに包まれている。眼下に広がる昏い茂みは、まるで恐ろしい魔物
が大口を開けて、墜落するケイトを待ち構えているようだ⋮⋮。
果たして、ケイトの恐怖心がそう錯覚させるのか︱︱
1043
ほうか
きらきらと立ち昇る白い烽火を彼方に見つけた時は、安堵のあま
り飛竜の背からずり落ちそうになった。
どうにか無事に辿り着けたのだ。
味方の野営地に着いて花嫁の伝令を名乗ると、直ぐにムーン・シ
ャイターンがやってきた。
﹁花嫁からの手紙を持って参りました﹂
軍の頂点に立つ、雲の上の存在がケイトの前に立つ。神々しい美
貌と、凛とした雰囲気に圧倒されて、声は震えてしまった。
﹁光希から?﹂
﹁はい、こちらに﹂
しょくふ
織布ごと渡すと、ムーン・シャイターンはすぐにあらため、喜び
の光りを眼に宿した。
﹁ナフィーサの手紙もあるな⋮⋮ケイト。少し待てますか? すぐ
に返事を書くので、持って行ってほしい﹂
﹁はい!﹂
思わず笑顔で応えた。すぐに返事をもらえれば、花嫁も喜ぶに違
いない。
天幕に消えていくムーン・シャイターンを見送った後、素晴らし
いラムーダの音に誘われて傍へ寄ってみた。
かがりび
演奏しているのは、ナディアだった。
夕闇の中、篝火に照らされて演奏する姿は美しく、戦場を駆ける
将にはとても見えない。しかし、彼は聖戦で歴戦の将と肩を並べて
1044
武功を上げた、紛れもない実力を兼ね備えた将軍の一人である。
ムーン・シャイターンの覚えもめでたく、これまでに、いくつも
の重要な作戦指揮を任されている。
今回の戦いでは、中央大陸の南、ノーグロッジ海域の総指揮を務
めていたが、ムーン・シャイターンに呼ばれて中央の戦力に加わっ
ていた。
三日、あるいは四日︱︱
間もなく、ここで激戦が繰り広げられる。
ノーヴァの空を落としたサルビア軍は今、勢いに乗って西を神速
で翔けている。彼等が海岸沿いに攻め込む時、中央陸路でもまた一
斉攻撃を仕掛けてくることは判っている。
全ての戦場で火を噴かせ、外部の呼応を絶ち、それぞれの前線を
孤立させるつもりなのだ。
この素晴らしい演奏を聴けるのも、今のうちだ⋮⋮。
前線で戦う、いかにも屈強そうなアッサラームの獅子達が、素晴
らしい演奏に聴き入るように目を伏せている。
ケイトも彼等の輪に加わって、岩場に腰を下ろした。
︱︱素晴らしい演奏だなぁ⋮⋮目の奥に、アッサラームの姿が思
い浮かぶようだ⋮⋮。
薄い水膜に映りこむ、金色の美しいアッサラーム。空と湖水の境
目が溶けた世界。
青い空に白い雲が流れて、彼方を優美なコンドルや飛竜が翔けて
カテドラル
ゆく⋮⋮。
大神殿から響き渡る、厳かなカリヨンの音色。
本当に、何もかもはっきり覚えている。
くろがね
︱︱あぁ、アッサラームの工房が恋しい⋮⋮。殿下やアルシャッ
ド達と、鉄を叩く日々⋮⋮あの宝物のような日常に戻りたい。
1045
一面の窓から陽光の射す、赤煉瓦造りの広い工房。
鉄を打つ力強い音、繊細な音。光を浴びて煌めく鉄。屑鉄の匂い
⋮⋮。
作業台に槌を置きっぱなしで、たった今あそこから出てきたばか
りのような気がする。目を閉じるだけで、いつでもあそこに戻れる
ような気がする。
鮮明に思い浮かべるあまり、鼻の奥が少しツンとした。
視界が潤みそうになり慌てて眼を開けると、同じように目を覆う
兵が大勢いた。
彼等は、過酷な前線で戦っているんだ。ケイトよりもずっと、ア
ッサラームが恋しいだろう⋮⋮。
素晴らしい演奏が途切れて、ぱんぱんと手を鳴らす乾いた音が響
いた。ケイトもナディアを見て手を鳴らすと、美貌の将軍と眼が合
って、飛び上がりそうになった。
﹁ケイト﹂
彼が落ち着いた声で名を呼ぶと、輪になっていた将兵達もケイト
を振り返った。
﹁本当だ、ケイトじゃないか﹂
﹁どこから来たんだ?﹂
次々と声をかけられる。伝令は戦場における大きな情報源なので、
大体どこへ行っても歓迎される。
﹁殿下の遣いで、国門から今さっき、こちらに着いたばかりです。
その前は、ノーヴァ海岸へ行って参りました﹂
1046
簡潔に応えると、彼等は眼を輝かせて次々に質問を浴びせる。
﹁おう、通門拠点の様子はどうだ?﹂
﹁殿下はお変わりないか?﹂
﹁アルスラン将軍は復帰されたと聞いたけれど、どうなんだ?﹂
﹁アッサラームから援軍はきているのか?﹂
﹁海岸の様子は⋮⋮﹂
四方から声を掛けられて、どれから答えようか迷っていると、ナ
ディアが﹁一つずつ順に﹂と助け舟を出してくれた。
注目されるのは苦手だ。手汗を掻きながら、しどろもどろで知っ
ていることを全て伝えると、彼等は思い思いに話し始めた。
﹁良かった! 将軍が意識を取り戻したというのは、本当だったん
だな。一体誰だ、儚く星に還られたなんて、酷い話を聞かせたのは﹂
﹁俺は、怒りのあまり第三の眼が開き、サルビアの進軍をうわ言の
ように呟いている⋮⋮なんて噂を聞いたぞ。あれもやはり戯言だっ
たんだな﹂
﹁全くどいつもこいつも⋮⋮酒飲みながら話す奴の言うことなんて、
何一つ信用できねぇな﹂
﹁違いない﹂
ケイトのもたらし吉報を、彼等はいたく喜んだ。言葉は悪いが、
声の調子も表情も明るい。聞き惚れるような演奏に涙ぐんでいた姿
が嘘のように、豪快に笑い飛ばして酒を飲んでいる。
密かに安堵に胸を撫で下ろした。悪い報告であれば、彼等は嵐の
ように荒れていたかもしれない。そうなれば、戦闘に向いていない
1047
ケイトは、巻き添えを食らってその辺に転がる可能性が高い。
そろそろ、ムーン・シャイターンの天幕に戻ろうかと腰を浮かし
たら、再びナディアに呼び止められた。
﹁この後、通門拠点に戻りますか?﹂
日頃は口を利くこともない、雲の上の存在だ。ケイトは緊張しな
がら口を開いた。
﹁はい、ムーン・シャイターンから返事をいただけたら、すぐにで
も﹂
﹁なら、私も用事を言いつけても良いでしょうか?﹂
﹁何でしょう?﹂
﹁これを殿下に、これは、もしアッサラームに寄る機会があれば、
ラスフィンカ家に﹂
ナディアは二通の質素な手紙をケイトに持たせた。
国門はこれから帰るし、アッサラームも伝令に預けて渡すことが
可能だ。恭しく受け取ると、雨にも負けない革袋にしまった。
﹁お預かりいたします。殿下には私から、アッサラームには伝令に
託してお届けいたします﹂
﹁ありがとう﹂
麗貌に微笑を乗せて笑みかけられ、ケイトは訳も判らず頬が熱く
なるのを感じた。
1048
﹁あの⋮⋮素晴らしい演奏でした。本当に、アッサラームが恋しく
なるくらい⋮⋮﹂
しどろもどろで偽りない賛辞を贈ると、ナディアは嬉しげに微笑
んだ。
﹁殿下からいただいた曲ですよ。もう何遍も弾いていますが、その
度に安らぎを与えてくれる。お前も私も、早く帰れるといいですね﹂
﹁はい﹂
気持ちよく笑顔で別れると、間もなくムーン・シャイターンの天
幕に招かれた。
1049
29
︱ ﹃手紙・二﹄ ︱
戦場の中にあっても、天幕の中は不思議な清涼感に包まれていた。
仄かに漂うジャスミンの香りは、ここが深い密林であることを忘れ
させてくれる。
びろうど
天井は高く、吊るされた照明の明かりが、贅をこらした幾何学模
様の床を照らしている。柔らかな天鵞絨の絨緞は、踏みしめること
を躊躇うほどだ。
﹁少し、話を聞いてもいいですか? そこにかけて﹂
ロザイン
どきどきしながら、示された天鵞絨貼りの肘掛椅子に腰を下ろす
と、ムーン・シャイターンは花嫁の手紙に視線を落としたまま口を
開いた。
﹁光希は、負傷兵の世話に時間を割いているようだけど、ケイトは
その様子を見たことがありますか?﹂
﹁はい、ちらとですが⋮⋮﹂
1050
﹁どんな様子でしたか?﹂
﹁とてもお忙しくしていらっしゃいます。開戦してから、負傷兵達
が次々に運ばれるようになって、部屋を空けるのに苦労しています。
人手が足りず、アージュやナフィーサも、殿下の手を助けています﹂
記憶を辿りながら答えると、彼は瞳に案じるような光を灯してケ
イトを見た。
﹁ちゃんと休んでいますか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
言い淀むケイトを見て、彼は全てを察したようだ。さり気なく嘆
息すると﹁もう少し触れておこう⋮⋮﹂と何やら呟き、机上の手紙
に筆を走らせる。
よう
﹁アルスランの復帰は、本当に喜ばしい。ジャファールの安否は杳
として不明ですが、たとえ神眼に映らなくとも、私には彼が息絶え
たとは到底思えないのです﹂
﹁私もです。アルスラン将軍もジャファール将軍のお帰りを信じて
待つと﹂
ムーン・シャイターンは軽く微笑んで頷くと、再び手紙に視線を
落とした。
﹁ところで⋮⋮ルーンナイトのことが多々書かれているのですが⋮
⋮彼は病室に頻繁に出入りしていたのですか?﹂
1051
しちょう
せっこう
﹁え? そんなはずは⋮⋮。ルーンナイト皇子は輜重隊や斥候隊の
指揮で、大変お忙しくされていました。その上宮殿への報告も務め
られておりましたから⋮⋮﹂
衛生の手伝いまでは、とても手が回らなかったはずだ。あの多忙
を極める日々に、花嫁が手紙に書くほどの接点など、あったのだろ
うか⋮⋮。
しかし、考えを巡らせていると、ふと思い当たる光景があった。
﹁あ⋮⋮病室にはいらっしゃらなかったと思いますが、城壁や中庭
でお話しされているお姿でしたら、何度かお見かけしました。もし
かしたら、その時のことを書かれたのでしょうか?﹂
﹁城壁ですか?﹂
不意に声に不機嫌が滲む。まずいことを言ってしまったのだろう
か⋮⋮。
﹁アージュは傍にいましたよね?﹂
探るように問われて、必死に記憶を探らねばならなかった。遠目
に見かけただけだし、意識して見ていなかったから、正直あまり記
憶に自信がない。
﹁︱︱いえ、つまらないことを聞きました。そうであると思ってい
た方が、心安らかでいられるので、そう思うことにします﹂
しどろもどろで視線を泳がせるケイトを見て、彼の方からこの話
題を終結させてくれた。
1052
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁ノーヴァにも寄ったと話していましたね。どんな様子でしたか?
援軍が集結しているはずですが責は重い。ルーンナイトに気負っ
た様子はありませんでしたか?﹂
密かに胸を撫で下ろした。それなら自信を持って答えられる。
﹁とんでもありません。大変お頼もしい様子でいらっしゃいました。
布陣も間もなく整い、迎え撃つ準備は着々と進んでいます。兵の士
気も高く、闘志に溢れておりました﹂
ちょうじょう
﹁重畳﹂
美貌に笑みかけられ、ケイトは妙に緊張しながら背筋を伸ばした。
﹁あの⋮⋮私は、中央の伝令は初めてですが、ここの空気も勢いが
あると、肌で感じております﹂
膝においた拳を握りしめながら、ケイトにしては頑張って伝えた
が、頼りなげな口調は相変わらずだ。
しかし対峙する彼は、瞳に光を灯してケイトを見るや、しっかり
と首肯した。
﹁次こそは、全ての力を出し切る総力戦になります。必ずハヌゥア
ビスに勝利してみせる︱︱手紙にも書きましたが、ケイトからも光
希に伝えてください﹂
﹁はいっ!﹂
1053
重大な使命だ。返事する声は少し掠れたが、彼は笑ったりしなか
った。
﹁任務の合間に、よく届けてくれました。大変だったでしょう。山
岳の夜を恐れず、駆けてくれてありがとう﹂
労ってもらえるとは思っていなかったので、何だか、とても感動
してしまった。もっと﹁ご苦労﹂とか﹁良し﹂とか一言二言で済ま
されると思っていた。
ほうか
﹁お優しい言葉、ありがとうございます。味方の烽火のおかげで、
私でも迷わずに飛ぶことが出来ました。殿下がなかなか渡せない様
子でいらっしゃいましたので、届けてさしあげたいと思った次第で
す﹂
暖かな気持ちのままに応えると、彼も嬉しそうに口元を緩めた。
﹁ふふ、その様子は、ナフィーサの手紙にも書いてありました。こ
んなに癒される手紙をもらったのは、初めてですよ。光希はなかな
か返事をくれないから⋮⋮嬉しいものですね。明日から気を引き締
めないと﹂
はにかむムーン・シャイターンを見て、頑張った甲斐があったと、
ケイトは心の底から思った。
﹁これを、光希に﹂
﹁必ず︱︱﹂
1054
美しい流麗な文字で署名された、ムーン・シャイターンの返事を
受け取り、今度は花嫁に届けるのだと思うと、とてもわくわくする。
満面の笑みを浮かべるであろう、花嫁の姿が今から目に浮かぶか
ら。
+
とんぼ返りで国門に戻ると、真っ先に花嫁の姿を探した。
ムーン・シャイターンからの手紙を渡すと、思った通り、輝くよ
うな笑みを浮かべて両手で受け取ってくれる。
﹁ありがとう、ケイト!﹂
﹁お役に立てて、光栄です﹂
傍らに控えるナフィーサもとても満足そうにしている。多少無理
やりにでも届けて良かったと、お互いに思っていることは顔を見れ
ば判る。
恋人からの手紙は、一人で読みたいものだろう⋮⋮。
大切そうに両手で持つ花嫁を見て、邪魔をせずその場を去ったが、
後でこっそりナフィーサに様子を聞いてみようと思うケイトであっ
た。
1055
30 ﹃ノーグロッジ海上防衛戦﹄ − ナディア −
ナディア・カリッツバーク︱︱中央広域戦空路大将、ノーグロッ
ジ上空総指揮官。
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、ノーグロッジ上空にて
指揮を執る。
アッサラーム軍は、開戦に向けてノーグロッジ海域の行軍経路を
調べ上げ、切り立つ渓谷、難関地形の利を掴んだ上で開戦に臨めた
ものの、これを警戒したサルビア軍は三十万もの大軍勢を率いてノ
ーグロッジに迫りつつあった︱︱
︱ ﹃ノーグロッジ海上防衛戦・一﹄ ︱
アッサラーム軍は東西戦に向けて、数回に渡りノーグロッジ海域、
また中央経路の行軍経路を調べ上げていた。
ほぼ全隊が参加した、ノーグロッジ作戦である。
ムーン・シャイターンと共にこの作戦の指揮を執ったナディアは、
開戦に臨む海面地形に精通していた。
ノーグロッジにおいて不利を悟ったサルビアは、非常な警戒を見
せた︱︱アッサラーム軍二万に対して、三十万もの大軍勢で攻めて
きたのである。
1056
へきとう
劈頭ではノーヴァ上空に配置されたサルビア軍二十万よりも、実
に十万以上も多かったのだ。
衝突を目前に控え、ナディアは側近達を天幕に召集すると、最後
の総括軍議を開いた。
﹁三十万もの大軍勢で迫ってきたのは、ノーグロッジにおいて自信
がない証拠です。初日に奇襲を仕掛ければ、成功する可能性は高い﹂
圧倒的な兵力差を前に、ナディアは逆に敵の不安を見抜いて自信
をつけた。机に手を置いて立ち上ると、持久戦に臨むつもりでいる
将達の顔を見渡して、明晰に語りかける。
きょうげき
﹁挟撃に良い、激する潮流に立つ渓谷があります。持久戦における
要塞とするには惜しい﹂
から
険しい渓谷狭路は、兵力差を埋めるための自然要塞として目星を
つけていたが、地の利で搦め捕った方が巨利がある︱︱それがナデ
ィアの結論であった。
﹁ですが、短期決戦を仕掛けるには、危険が多過ぎやしませんか?﹂
﹁そうです。我々の使命は殲滅ではない。敵の意識を集めたまま、
離さぬことでしょう﹂
元々、長期戦で粘るつもりでいた味方陣営は、初日に博打を打つ
ような作戦に難色を示した。開戦前に、軍部で散々講じた布陣を崩
したくはないのだろう。
気持ちは判る。しかし、持久戦で殺してしまうには惜しい。敵を
削れる見込みがあるのであれば、仕掛けるべきだ。
1057
﹁しかし、奇策を投じるには、開戦初日が最適でしょう。狭路を退
路に使えば、敵におよその地形がばれてしまう。日が経つにつれて、
持久戦以外には何もできなくなりますよ﹂
ナディアは懸念を語り説得を試みたが、将達は顔を見合わせるだ
けであった。
﹁大軍に挑み兵力を下げる危険を冒すよりも、注意を引きつけ、兵
力を温存した方が得策ではないでしょうか?﹂
﹁あらかじめ講じていた通りに、地の利を生かした方がよろしいか
と⋮⋮﹂
かわ
渓谷狭路を要塞として、巧みに攻撃を躱す作戦を将達は押した。
とはいえ、総指揮権はナディアにある。全員の視線がナディアに集
中した。
論破する勝算はあったし、そうしても良かったが自重を選んだ。
我を通すことは可能だが、今後を考えて総意を優先することにした
のだ。
あいろ
﹁判りました。奥に位置する渓谷狭路は退路として確保し、左右の
隘路を挟撃に使いましょう﹂
﹁それがよろしい﹂
﹁うむ﹂
納得した風に頷く将達を見て、ナディアはもう一つ提案した。
しちょう
﹁向こうの兵力は脅威ですが、あれだけの兵力を維持するには、相
応の輜重隊が必要なはずです。補給拠点を叩いて、敵の士気をくじ
1058
いておきましょう﹂
こちらはすぐに賛同を得られた。
せっこう
﹁おっしゃる通りだ。戦場は広い。東に飛ばす斥候の数を増やしま
しょう﹂
﹁あれだけの重装飛竜を維持するには、相当に大変だろう。補給経
路を隠すにも限界があるはずだ﹂
﹁斥候に精鋭を含めて、偵察と補給襲撃を兼ねさせれば良い﹂
﹁では、そのように﹂
﹁敵の戦闘隊形は整っている。明日には衝突するだろう﹂
将の一人が開戦時期に触れると、話題は初日の開戦について移っ
た。
﹁明朝、サルビア軍は包囲布陣、あるいは横隊の戦闘隊形で迫って
くるでしょう。神速に富む百程度の精鋭を動かし、衝突は避けて、
敵を巧みにかき乱してください﹂
かくらん
﹁心得ています。十分に攪乱して疲れさせたところを、誘い込み、
襲撃部隊で叩きましょう﹂
ナディアの意図を汲んで一人が言葉を続けると、周囲もすぐさま
頷いた。
﹁サルビアの重たい装備は、ここでは不利だ。疲労も早いはず﹂
1059
﹁いかにも追い詰めやすそうに見せかけ、敵の意識を引っ張りまし
ょう。三十万は脅威ですが、それだけの兵力がここに集まっている
分、ノーヴァと中央の負担は減らせているはず︱︱必ず、耐え抜き
ますよ﹂
﹁﹁オォッ!!﹂﹂
全員が闘志を燃やして、ひび割れた咆哮で応えた。
+
ろう
翌日。
耳を聾する重装飛竜の咆哮が、海に切り立つ渓谷に響き渡った。
眼下には、激しい潮流が渦巻いている。墜落すれば、そのまま死
に至るよう海域だ。
空一面を覆う朱金装甲のサルビア重装飛竜大隊を前に、アッサラ
ーム陣営は、ナディアですら視覚的に圧倒された。
判っていたことだ。明らかな兵力差、臆さない方がおかしい。だ
が︱︱落とさやしない。凌いでみせる!
宙に浮いた布陣で双方睨み合い、ナディアから機動合図を仕掛け
た。
︱︱伝令。前線の横隊を押し上げよ。
サルビア軍も間髪おかずに、横隊の戦闘隊形で前線を押し上げて
きた。
機動直後こそ、アッサラーム軍の動きは固かったが、連携機動を
進めるうちに良くなっていった。いよいよ前線を衝突させると、臆
することなく敵陣営に先制を浴びせる。
1060
ややもすれば、敵を翻弄し始めた。
小回りを活かせるこの地形では、アッサラーム軍に分がある。味
方の健闘を見たナディアは、昨夜、自ら廃案にした策がふと惜しく
なった。
︱︱大軍を獲るには、今日をおいて他にないのだが⋮⋮いや、決
めたことだ。集中せねば︱︱伝令、隘路への誘導を開始。
伝令に指示を出すと、すぐさま起動合図用の発煙筒に火が点けら
れた。
一網打尽とはいかずとも、敵が戦地に不慣れな初日のうちに、少
きんしょう
しでも多く戦力を削っておきたい。
僅少の一隊を釣り出し部隊として前方へ派出し、サルビア軍の追
撃を誘ったが食いつきは鈍かった。
切り立った渓谷は、サルビア軍の幅を取る重量装甲飛竜の戦場に
は不向きで、追撃を嫌がったのだ。
︱︱仕方ない⋮⋮伝令。前線を押し上げよ。
隘路に誘い出したい。
ひ
ある程度の被害を覚悟で、百ずつの数個編隊を敵の豊富な横隊に
挑ませた。
おじけづいた風を装い、退き色を見せると、ようやく敵も食いつ
いた。細道を進むにつれて、敵はおのずから一列縦隊になることを
強いられ、十分に間延びしたところを、あらかじめ配置しておいた
味方による頭上からの投石で撃墜した。
この奇策は綺麗に成功したものの、誘い込んだ隘路は細く距離も
なかった為、大打撃には至らなかった。渓谷狭路であれば、万もの
軍勢をくじけた可能性があった︱︱ナディアが惜しむのも無理はな
い。
1061
以降、敵も慎重になり、アッサラーム軍の待ち構える狭路を見れ
ば撤退するようになった。
当初の予定通り︱︱
決着を見せない衝突が続く。
死角からの奇襲を仕掛けては、狭路に逃げ込むアッサラーム軍に、
サルビア軍は攻めたり退いたりと、あの手この手で挑発を仕掛けて
きたが、ナディアは頑として深追いを避けた。
1062
31
︱ ﹃ノーグロッジ海上防衛戦・二﹄ ︱
しちょう
サルビア軍の挑発と襲撃は長く続いたが、二十日を凌いだ辺りか
ら衰えが見え始めた。
ふ
この頃、補給物資満載の輜重隊をことごとく狩り獲っていた為、
敵の大型飛竜は弱り始めていた。
補給を叩いた効果が現れてきたと味方は喜んだが、ナディアは腑
に落ちなかった。
ついにサルビア軍の進撃が止むと、野営地に引き上げるなり、全
ての将を招集して軍議に臨んだ。
﹁あれほど有利な状況にありながら、進撃がないのはおかしいと思
いませんか?﹂
憂慮を口にしたが、見渡す将らの顔に、およそ緊張感は浮いてい
なかった。
﹁重い飛竜隊を動かす余力がないのでしょう﹂
﹁こちらの動きに慎重になってるのでは?﹂
1063
﹁高をくくっていたろうに、さぞ悔しい思いをしているでしょうな﹂
ナディアの懸念を、将達は前向きに捉えていた。出し抜いてやっ
たと、こちらこそ高をくくっているように見える。
﹁補給が途絶えれば、猛攻に走るもの⋮⋮食糧不足は恐怖なはず。
なのに、あの余裕はおかしい。何か隠しているとしか思えません。
こちらの負担が減った分、ノーヴァの負担は増えたのではないでし
ょうか?﹂
なおも懸念を口に乗せるが、見返す視線は明るいものばかりだ。
﹁向こうは快進撃を続けていると、合図があったばかりです﹂
﹁おぉっ﹂
﹁流石、空の二柱が構えているだけある!﹂
果たして、本当にそうだろうか⋮⋮。
せっこう
﹁敵の戦力を確認したい。これまでの斥候の報告を、些細なことで
も構いません。全て教えてください﹂
ナディアはノーグロッジの仔細な地図の上に、各将からの報告を
元に、敵兵力に見立てた駒を置き直していった。
そうして整理し直してみると、ふとあることに気付いた。
﹁︱︱やはりおかしい。後方の拠点は、無人である可能性が高い。
遠目に旗を見たと言えど、空に野鳥が群がっていると報告にあった
1064
のですよね? 既に軍を引き払っているのでは?﹂
さざなみ
もはや揺るがぬ疑心を視線に込めて見渡すと、眼には見えぬ緊張
が、細波のように周囲に走った。
﹁密集した中央拠点は、確かに正確な情報を掴み辛い。とはいえ、
これほど有利な状況にありながら、撤退する理由が敵にありますか
?﹂
瞳に動揺を浮かべて、一人が口を開いた。
﹁ノーヴァの快進撃を恐れて、敵が標的を向こうに絞ったのだとし
たら?﹂
ナディアの鋭い指摘に、全員の表情が強張った。思考を閃かせる
と、各々考えうる展開を口走る。
﹁一理ある。こちらは膠着状態も同然。開戦から兵力は然程動いて
いないが、ノーヴァは二十万もの飛竜大隊を討ち取ったと聞く⋮⋮﹂
﹁それが本当であれば、少なくとも一万以上の兵力がノーヴァに移
動していることになる⋮⋮﹂
﹁持久戦として成功を収め過ぎたか。まずいことに、ノーヴァはこ
こよりも地形が難しい。狙われたら孤立してしまう﹂
﹁補給経路を絶ったことで、敵を追い詰めたのかもしれん﹂
ほうか
﹁︱︱とにかく、烽火で知らせねば﹂
1065
一人が気転を利かして、すぐに伝令を呼んだ。そのやりとりを視
界に納めながら、ナディアは言葉を続けた。
﹁敵が進撃してこないのは、我々をここに集中させ、外部の呼応を
絶つことが狙いです。ノーヴァへの流出を防がなくては、手遅れに
なります﹂
ナディアの警告を、今度は全員が重く受け止めた。
﹁しかし、あの数に正対での勝負は厳しい﹂
﹁兵力差が開き過ぎている。逃げる敵を足止めしたくとも、そう安
直に討って出るわけにも行きませんな⋮⋮﹂
﹁︱︱相手が本気で移動を考えているなら、足止めは先ず不可能で
しょう﹂
空気がざわついた。
ナディアも口にしながら、背筋が凍りついていく恐怖に襲われた。
向こうが本気で後退を始めたら、二万の兵力ではとても止められな
いだろう︱︱
ノーヴァ壊滅の危機が、かなり現実味を帯びてきた。
﹁⋮⋮明日、敵陣営に乗りこみ、可能な限り敵将を暗殺しましょう﹂
ノーヴァを救う有効な手立てとは言い難いが、何かせずにはいら
れない。周囲の将達も気持ちは同じで、すぐにナディアに賛同した。
﹁分かりました。夜半に仕掛けましょう。日暮れと共に撤退を見せ
てきたから、敵も油断しているでしょう﹂
1066
﹁大勢では目立ちます。小隊で、サルビア兵に扮して攻めましょう。
敵の鎧と旗を集めさせてください﹂
﹁敵兵に扮せと?﹂
ナディアは眼を剥いた将に向かって、いたって冷静に﹁その通り
です﹂と首肯した。
﹁どうしても、耐えられませんか?﹂
ね
静かに睨め付けると、相手もそれ以上の反論は飲みこんで、不承
不承頷いた。一応の納得は見せたものの、気乗りしていない様子は
一目瞭然だ。
軍議を解散し、気心の知れた副官達だけが天幕に残ると、彼等は
苦笑気味に主に声をかけた。
﹁やはりサルビア軍に扮する案は、不評でしたね﹂
たばか
﹁私とて、気乗りはしませんよ。ですが手段を選んでいる余裕はあ
りません。いっそ、敵を謀る密使を送りたいくらいです﹂
﹁それは、どのように?﹂
きょうげき
﹁皆の賛同は得られませんでしたが、渓谷を要塞として使うのでは
なく、おびき寄せ前後から挟撃したかった。初日に短い隘路ではな
く、深い狭路で仕掛けていれば万もの大軍を獲れた﹂
惜しむ口調で語ると、副官は思慮深げに眉を上げた。
1067
﹁しかし、その策は持久戦には向かないと、納得されたではありま
せんか﹂
﹁あの時は、総意を汲んだのです。ノーヴァへの流出を止めたい今
こそ有効な手です。とはいえ、要塞としての機能を散々見せてしま
退き色濃く、間もなく狭路から撤退する。
ったので、敵も只では騙されてくれません。ですから⋮⋮サルビア
に寝返ると見せかけ︱︱
とでも、貴方が吹き込んでですね⋮⋮﹂
とん
合図を送るので背後を叩けば殲滅は容易い。北に集結して攻めるは
不策也
﹁わ、私ですかっ!?﹂
きょう
美貌に流し眼で見つめられた副官は、指で己の顔を指差して、頓
狂な声を上げた。
﹁貴方くらい立場のある者でないと、向こうも相手にしないでしょ
う﹂
﹁無茶をおっしゃる! 第一、味方が知ればどうなることか⋮⋮﹂
﹁その時は、貴方の裏切りは私の指示によるものと、それらしく皆
に言えばいい。味方の恐慌を防ぎ、勝利への期待を高められるでし
ょう。事実、全て私の指示通りなわけですし︱︱﹂
とう
深刻そうな顔つきで押し黙る副官を見て、ナディアは滔々と語る
言葉を切った。
﹁︱︱冗談です﹂
半分本気であったが、ナディアもこの策は成功しないと分かって
1068
いた。側近の問いかけるような眼差しを受けて、内に秘めていた憂
慮を口にする。
﹁⋮⋮私がサルビアの将なら、主力部隊を真っ先にノーヴァに引き
上げます。今更どんな手を打っても、移動した相手を説得すること
はできません。ここに残る将は、睨みを利かせて吠え止めをするだ
けです。対峙する気のない敵将を欠いたところで、事態は変わらな
いのでしょう﹂
﹁それでも、明日は行かれるのですか?﹂
﹁︱︱何もしないよりは⋮⋮﹂
いくらかマシだ。決定打に至らずとも、一矢報いたい。
ナディアに同調するように、その場にいる全員の表情が陰った。
﹁休みましょう﹂と解散して一人になったところで、戦況を思うと
休む気にはなれない。
天幕の外︱︱
青い星を仰ぎながらもどかしさを噛みしめる。
この窮状は、ジャファールの類まれな軍才を、敵も認めている証
拠だ。
脅威を感じて、これほどの配置変更を行うとは⋮⋮果たしてどの
ような敵将なのだろう。いずれにせよ、この先ノーヴァは酷く荒れ
るだろう。
しかし、ノーヴァに参戦したくとも、ここを離れればサルビアに
拠点を許してしまう。守る所が増えると、どうしても兵力は分散さ
せられる。広域戦のもどかしいところだ⋮⋮。
ナディアは気鬱を払うように首を小さく振ると、静かに天幕に戻
った。
1069
+
翌日。
進退を見せないサルビア軍に、ナディアはいよいよ軍の大規模な
移動を確信した。気付いた上でなお、いつも通りの決着を見せない
持久戦を展開した。
その日の夜半。
サルビア重装飛竜隊に扮した少数精鋭の暗殺部隊は、暗闇に乗じ
て密かに敵陣に乗り込み、拠点将を少なからず暗殺した。
将狩は成功を収めたが、既に主力部隊の大半はノーヴァに進軍し
ており、それらの進軍を妨げられたかと言えば、結果には至らなか
った。
ここから戦況は大きく動く。
ノーヴァ壊滅︱︱
ハヌゥアビスとの決着を見送ったムーン・シャイターンは、ナデ
ィアを中央陸路に召集する。要請を受けたナディアは迅速に応じ、
無人の拠点に天幕や旗を残したまま、味方の大半を率いて中央陸路
へ移動せしめた。
勢いづいたサルビア軍もまた、完全にノーグロッジを放棄してノ
ーヴァに集結する。
空を覆う朱金装甲の重装飛竜大隊は、西へ︱︱アッサラームを目
指した。
敵の動向を探る斥候は、その様子を見て﹁空が燃え上がるようで
あった﹂と味方に伝えたと言う。
決着は近づいていた︱︱
1070
1071
32 ﹃神威 ﹄ − ナディア −
ナディア・カリッツバーク︱︱ノーグロッジ配置後、中央広域戦
陸路大将。
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、ノーグロッジ上空で総
指揮を務めた後、ムーン・シャイターンからの召集に応じ、中央陸
路の戦力に加わった。
ノーヴァ壊滅により、中央陸路は勢いづいたサルビア軍に押され、
一時撤退を余儀なくされる。
アッサラーム軍は苦しい選択を迫られることになった。
国門から挙兵したルーンナイトが、ノーヴァ海岸にてサルビアを
迎え撃とうとしている時、中央陸路でもまた、ナディアを交えて最
後の決戦に挑もうとしていた︱︱
︱ ﹃神威・一﹄ ︱
ナディアは暗闇に乗じて、密かに中央陸路に上陸を果たした。
苦しい戦況に兵達の顔色は芳しくなかったが、ナディアに気付く
と、眼を輝かせて歓迎を口にする。
負傷している者も多いが、瞳の輝きは失われていない。今日まで
1072
前線を耐え抜いた彼等は、もはや全員が精鋭と言えるだろう。
まと
野営地を歩いていると、ムーン・シャイターンの方から出迎えた。
神々しい覇気を纏う主君の姿に、ナディアは知らず安堵を覚えた。
﹁申し訳ありません。起動が遅れました﹂
跪いて最敬礼で応えると、すぐに﹁立ってください﹂と頭上に声
が降る。
﹁こちらこそ、急がせてすみません。今、ノーヴァ海岸にルーンナ
イトが向かっています。アッサラームからの援軍も間もなく現地に
到着するでしょう﹂
﹁では、アースレイヤ皇太子が動かれたのですね﹂
希望の持てる見通しに、ナディアは破顔した。聖戦の時は、味方
の増援と補給が滞りがちで、内なる不信に苦しめられた苦い経験が
ある。今回、その心配はいらぬようだ。
同じことを思ったのか、主の美貌にふと冷ややかな笑みが閃いた。
﹁流石にルーンナイトを見捨てることは、あの男にも難しいのでし
ょう﹂
﹁それだけでは、ないと思いますよ﹂
﹁この大戦に負ければ、莫大な負債が残りますからね。宮殿も動か
ざるをえないでしょう﹂
﹁⋮⋮全体を見渡して、勝算を見出したからこその判断でしょう﹂
1073
窘めるように告げると、彼も態度をあらため、微苦笑と共に﹁判
っています﹂と応えた。
﹁ジャファール達は無事でしょうか?﹂
﹁アルスランは通門拠点にいるそうです。重傷を負ったと聞きまし
たが⋮⋮ジャファールの行方は私にも分かりません﹂
愕然とした。シャイターンの神眼を持ってしても行方が知れない。
もはや安否は絶望的なのか。
苦い想いが胸に広がってゆく。アルスランの行方については聞き
及んでいた。ではジャファールもどこかに伏しているのではと、密
かに期待していたのだ。
﹁ノーヴァを想うと⋮⋮彼等を孤立させてしまったことが悔やまれ
ます﹂
﹁私も同じ気持ちです。ハヌゥアビスの決着を長引かせたことは、
私の責です。弁解の余地もありません﹂
厭わしげに息を吐き、彼方を見つめる。昏い眼差しに、彼の苦悩
が見て取れた。
﹁無事でいて欲しいですね⋮⋮﹂
ムーン・シャイターンは無言で頷いた。天幕へ戻る主君の背中を
見送った後、ナディアは野営地を騎馬で巡り、各将に声をかけて回
った。
﹁ナディア! よく来たな﹂
1074
﹁間もなく中央も衝突するぞ。よく身体を休めておけよ﹂
ナディアに気付いたヤシュムとアーヒムが、傍へ駆け寄ってきた。
二人の変わりない精力的な姿に、自然と笑みが零れる。この豪胆
な二人を見ていると安心する。どんな戦いにも勝てそうな気がして
くる。
﹁ノーグロッジはどうであった?﹂
しの
﹁開戦時こそ三十万を越えておりましたが、渓谷狭路の利に助けら
れ、どうにか凌げました。サルビアは主戦力を完全にノーヴァに移
しています。こちらも二千を残してきましたが、一万五千を移し終
えました﹂
﹁ノーヴァは口惜しいな⋮⋮﹂
﹁はい⋮⋮皆も同じ気持ちでしょう。静かな覚悟を感じます﹂
﹁ちと、表情が硬すぎるよな。ナディア、ラムーダを持ってきてい
るか?﹂
﹁ええ﹂
﹁弾いてやってくれ。慰めになる﹂
﹁いいですよ﹂
ヤシュムに限らず、ナディアを見かける将兵達の多くは、演奏を
せがんだ。
1075
かがりび
弾けば、ナディア自身の安らぎとなるので、夜になると篝火の前
しの
で頻繁にラムーダを演奏した。時にはムーン・シャイターンも輪に
加わり、アッサラームを偲ぶ曲に耳を傾けた。
え
︱︱この過酷な日々の果てに、金色のアッサラームに戻れるのだ
と、希望を持ちたい⋮⋮。
ロザイン
花嫁に入れてもらった睡蓮の柄は、音色に深みを持たせてくれる。
特に故郷を想い奏でれば、アッサラームの情景が不思議と鮮やかに
心に蘇った。
弾く度に毎回誰かしら泣いてしまうのは、そのせいだろう。
魂を震わせるような演奏に触れて、ナディアは密かに思うことが
あった。
シャトーアーマル
︱︱望まれて将になったが、いつの日か、前線を退く時が来たら
⋮⋮その時は、イブリフ老師のように神殿楽師になりたい。
望まれたとはいえ、将として戦場に立つことを選んだのはナディ
ア自身だ。後悔はしていない。ムーン・シャイターンに仕えること
に、喜びも見出している。
けれども、叶うことなら半生は、静かにラムーダをつま弾いて過
ふけ
ごしたい。
思い耽っていると、ふと聴衆の中に伝令のケイトの姿を見つけた。
彼のもたらしてくれた、各拠点の確かな情報には吉報が多く、特
にアルスランの復調には、全員が顔を輝かせた。
また、花嫁の手紙をムーン・シャイターンに届けてくれたようで、
張り詰めた表情をしていた主君を想うと、心から嬉しく思った。何
よりの癒しとなるはずだ。
﹁あの⋮⋮素晴らしい演奏でした。本当に、アッサラームが恋しく
1076
なるくらい⋮⋮﹂
ケイトのくれる言葉に、自然と笑みが零れた。光栄だが、彼のも
たらしてくれた吉報と手紙の効果には遠く及ぶまい。
﹁殿下からいただいた曲ですよ。もう何遍も弾いていますが、その
度に安らぎを与えてくれる。お前も私も、早くあの街に帰れるとい
いですね﹂
﹁はい﹂
昼夜を兼行して空を翔けたケイトは、野営地で仮眠を取った後、
ムーン・シャイターンの返事を始め、ナディアやその他の将兵の託
した手紙を持って野営地を後にした。
少々危なっかしい飛翔ではあったが、上昇した後はどうにか西へ
飛んで行った。
昨日よりも、明るく輝く主君の表情を見て、ナディアも密かに表
情を綻ばせたのであった。
1077
33
︱ ﹃神威・二﹄ ︱
中央勢力は、ナディアを加えても十万に満たなかった。それに対
し、サルビア軍は倍のおよそ二十万で迫ってくる。
開戦時と比べれば、その数を大分減らしているが、それでも兵力
差は開いていた。
﹁︱︱基本配置は、左翼騎兵部隊をアーヒム、中央の混成部隊をヤ
シュム、そしてナディア、右翼騎兵部隊をデメトリスとしましょう﹂
アッサラーム陣営では、ナディアを交えて、初日に投じる編隊に
ついて軍議が交わされていた。
﹁私が中央で良いのでしょうか?﹂
﹁ヤシュムは激しやすいからな、手綱をよろしく頼む﹂
アーヒムはにやりと笑い、ヤシュムをからかった。
﹁頼りにしているぞ﹂
1078
ヤシュムは笑いながらナディアの肩を叩いた。頼りにしている、
と言われたが、心強さを覚えたのはナディアの方であった。
﹁私は中央後方に控えますが、固定編隊には入らず、ハヌゥアビス
に集中します﹂
ムーン・シャイターンの言葉に全員が頷いた。間違いなく、今戦
いにおける最重要任務だ。
﹁向こうも重装四足飛竜は在庫切れのようだが、重装歩兵隊で初戦
に臨むであろう。とはいえ、連戦の爪痕が残り、足場は酷く乱れて
いる。鉄壁の布陣にも限界があるはずだ﹂
﹁適当に伏兵を配すか?﹂
﹁そうですね⋮⋮。足場の悪さは逆に使えます。前線を上げながら、
ついじょう
伏兵を配してください。適当に剣を交えた後、退却し挟撃しましょ
う﹂
ヤシュム、アーヒムの言にムーン・シャイターンは乗った。
ざんごう
﹁では私が陽動を仕掛けましょう。本隊を退却させ、敵をして追躡
せしめ、塹壕の手前までおびき寄せよう。そこで本隊を反転させ、
伏兵も敵の両側面から立ち上がり挟撃する﹂
鋭い眼光に自信を溜めて、アーヒムは取り巻く顔ぶれを眺める。
その視線には、仲間に寄せる信頼が浮かんでいた。
﹁隙間のない重装歩兵も後ろを狙えば、恐るるに足らずだな﹂
1079
ヤシュムは腕を組むと、満足そうに口端を持ち上げた。
彼等の滑らかな軍議の様子を見て、ナディアは感心せずにはいら
れない。随分と打ち解けたものだ。聖戦の時とは大違いだ。
あの頃︱︱
彼等は水と油ほどに険悪⋮⋮と言うか、反りが合わなかった。
オアシスで花嫁を得てから事態は徐々に好転したが、それでも今
の自然な空気には及ばない。
幼い頃からムーン・シャイターンの側近として育てられたナディ
アは、大切な主君に対する周囲の反応を、常日頃からもどかしく思
っていた。
我が君は、花嫁を得てから、変わったのだ。
皆の中心となって弁を振るう主君を見て、誇らしく、喜ばしい気
持ちが胸の内に湧き起こった。
忠
軍才や、シャイターンの神力に長けているからだけではなく、彼
自身の人となりが周囲を惹きつけているのだ。以前は薄かった
が集まりつつある。
列席している将達も、頼もしく感じていることだろう。
初日の作戦を決めた後は、自然と軍議を減らし、その他の準備を
進めた。アーヒムやヤシュムらは、しばしナディアの天幕を訪れて
は、連携機動について弁を交わした。
かがりび
いよいよ明朝に開戦を控えた夜。
篝火の前に自然と将兵らは集まった。
﹁アッサラームが恋しいな⋮⋮﹂
﹁俺もそろそろ帰りたいです﹂
くつろ
アーヒム、ヤシュムの隣に堂々と座っている上等兵︱︱ユニヴァ
ースは、実に寛いだ様子で酒を飲んでいた。
1080
﹁あ! お前、それ俺の酒じゃねぇかっ! わざわざ取っておいた
んだぞ!﹂
自前の酒に手を出されたようで、ヤシュムは腹立たしそうにユニ
ヴァースの後頭部を叩いた。
﹁このやろっ!﹂
﹁った! すんません﹂
﹁お前ら子供か?﹂
アーヒムは﹁ん?﹂と言いながら、呆れたようにヤシュムとユニ
ヴァースを半目で眺めた。
用意の良いアーヒムは、畜牛を調理させて、酒と共に将兵に公平
に振る舞った。
決戦を控えて多くの兵が殺気立つ中、歴戦の将達は実に泰然とし
たものだ。
賑やかに騒ぐ彼等の様子を眺めていると、ムーン・シャイターン
が隣で笑う気配がした。
﹁煩いでしょう?﹂
﹁いい空気ですよ。頼もしいですね﹂
﹁ナディアの参戦で、更に士気は高まりましたよ﹂
﹁もっと早く駆けつければ良かったのですが⋮⋮今更ながら、敵の
大軍勢で移動が隠され、機動が遅れたことが悔やまれます﹂
1081
﹁⋮⋮ノーグロッジの配置では、苦しい思いをさせました﹂
ノーグロッジに最小の兵力を当てたことを、開戦前から彼は気に
していた。
﹁いいえ、他に選択肢が無かったことは、よく分かっています。あ
そこは地形にも恵まれていました。私やジャファールでも、他に兵
力を回す判断をしたことでしょう﹂
ナディアが言葉を重ねても、なかなかそうは思えないようで、こ
の話題になると最後は決まって沈黙が落ちる。
﹁苦しみは皆同じです。今悩むのは、やめましょう。私もやめます﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
﹁ところで、殿下から手紙をもらったのでしょう? お変わりない
様子でしたか?﹂
沈んだ空気を払おうと、思いつきを口にすると、途端に彼は表情
を和らげた。
﹁想像はしていましが、将兵に交じって奔走しているようです。光
希らしい⋮⋮﹂
﹁ケイトが天の御使いに見えましたよ。アルスランの意識が戻った
と聞いて、ほっとしました﹂
﹁ルーンナイトの抜けた穴を、アルスランがよく補っているようで
1082
す。通門拠点が機能していると、兵の士気も上がる。優秀な支隊が
後ろにいてくれると心強い﹂
実感の籠った声で語るや、ふと遠い眼差しをする。先の闘いを思
い浮かべていることは容易に想像がついた。
﹁聖戦の時は、苦労しましたものね﹂
﹁本当に。あの時ハヌゥアビスがいたら、全滅もありえましたね﹂
さらりと飛び出した不吉な言葉に、ナディアは苦笑いで応えた。
﹁早く、ここにいる全員でアッサラームに帰りたいものです﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
﹁もう随分経つような気がします。ラムーダを弾く度、望郷に駆ら
れてしまう⋮⋮。殿下のおかげで音色に深みが出ました。無事に帰
れたら、あらためてお礼申し上げるつもりですが、せっかくケイト
が通りかかったので、私も手紙を渡しましたよ﹂
ムーン・シャイターンは怪訝そうに柳眉をひそめた。
﹁光希に?﹂
﹁はい﹂
﹁人の花嫁に送る前に、自分の婚約者に送ったらどうなんですか?﹂
視線に微かな嫉妬が滲む。相変わらずの寵愛ぶりを見て、つい微
1083
苦笑が漏れた。
﹁送りましたよ。アンジェリカに対する態度が冷たいと指摘を受け
てから、少しあらためているんです﹂
﹁あの娘は、さぞ喜ぶでしょうね﹂
﹁別に嫌いではないのですが、彼女の前に立つと自分が玩具か、珍
獣にでもなったような気分にさせられますよ。そうですね、忘れて
いました。アッサラームに帰ったら、彼女の相手をしなくてはいけ
ないのですね⋮⋮﹂
心穏やかな静けさとは対局に在る少女を思うと、つい﹁面倒だな﹂
と思ってしまう。更にため息をつくと、隣でムーン・シャイターン
が珍しく声を上げて笑った。
﹁どうも、ナディアと話していると気が緩むな⋮⋮﹂
愉快そうにしている主君を見て﹁まぁいいか﹂とナディアは一先
ず自分の憂鬱を後回しにした。
1084
34
︱ ﹃神威・三﹄ ︱
明朝。高地から、サルビア軍の進軍を見下ろし、先頭に立つムー
ン・シャイターンは、凛然と声を張り上げた。
﹁ノーヴァ海岸はルーンナイトが固守してくれる。我々中央の使命
はただ一つ! ハヌゥアビスに決勝することだ!!﹂
﹁﹁オォッ!!﹂﹂
闘志を漲らせて味方が吠えると、神速で高地を駆け下り、重たい
機動のサルビア軍に衝突した。
衝突した前線から血しぶきが噴き上がる。
サルビア軍の重装歩兵、硬い鉄壁に、先頭の歩兵がすり潰された
のだ。それでも歩兵達は突破口を作ろうと果敢に立ち向かった。
策戦通り、ヤシュム、ナディアの中央混成部隊が前線を叩く間に、
右翼、左翼の将ら︱︱アーヒム、デメトリスが、巧みに窪みや杭の
合間に伏兵を配置した。
しかし、騎馬では十分な進退が取れない!
衝突と共に、ナディアはすぐに騎馬隊の不利を悟った。
1085
ざんごう
敵の戦車や重装四足飛竜に対して設けた、深い塹壕や杭の残骸が、
思った以上に足場を酷いものにしていたのだ。
しかし、敵もこちらの騎馬隊に対抗して、後続部隊に騎馬隊を用
意していることに気付くと、逆手に取る案を思いついた。
﹁ヤシュム! 伏撃の時は歩兵で攻めましょう!﹂
﹁何!?﹂
﹁これでは騎馬を生かせない。敵騎馬隊の馬を仕留めれば崩せるっ
!﹂
﹁よし分かった!﹂
一方アーヒムは敵を引きつけ、伏兵の配置まで誘い込もうとして
いた。
﹁歩兵隊前に出ろ!﹂
ヤシュムの指示に応じて、騎馬編隊の合間から歩兵隊が滲み出し
てきた。次いで﹁合図を待って、馬を狙え!﹂と指示を飛ばす。
﹁今だ! アーヒムに続けぇ︱︱っ!﹂
敵進軍の両脇に伏した兵に向かってヤシュムが叫ぶと、隠れてい
おうさつ
た味方は一斉に立ち上がり、左右正面から挟撃した。正対する歩兵
隊も果敢に馬を仕留めると、機を逃さず敵の鏖殺に成功した。
アッサラーム陣営から歓声が沸き起こる。
しかし、勝機を掴みかけたところで、敵軍から更に大きな歓声が
沸き起こった。
1086
騎乗したハヌゥアビスが、僅か数百の精鋭を連れて、眼前に姿を
現したのだ。
先頭を駆けるナディアは、敵の総大将を初めて目の当たりにした。
あれが、ジークフリード・ヘイル・ハヌゥアビス!
想像していたよりも、ずっと若い。恐らく、ムーン・シャイター
ンと年は大して変わらないはずだ。
それでも互いに強大な力を秘めていることは間違いない。額に宝
石を持つ者同士、剣を交えれば苛烈を極めることだろう。
﹁シャイターン!﹂
凛としたハヌゥアビスの声が、戦場を一喝する。
ムーン・シャイターンは既に駆け出していた。少数の親衛部隊だ
けを連れて、ハヌゥアビスに対峙する。背を見せて自軍に戻るハヌ
ゥアビスを、ムーン・シャイターンは躊躇なく追いかけた。
罠を危惧して追いかけようとするナディアを、ヤシュムは止める
︱︱
﹁落ち着け! 場所を変えるだけだ!﹂
﹁︱︱しかし!﹂
﹁行っても、邪魔になる!﹂
反論を口にしかけたが、突然の雷鳴に声はかき消された。空が落
ちてくるような轟音に、間近に話すヤシュムの声すら通らない。
ナディアに限らず、敵も味方も唖然として身を屈めて空を仰ぎ見
た。
空は青白く照らされ、次の瞬間には暗闇に染まった。
これが、宝石もち同士の衝突なのか⋮⋮!
1087
聖戦の時でも、これほどの衝突を目にすることはなかった。あの
時、ハヌゥアビスはいなかったのだ。
崩れた足場は、敵の戦車や重量四足騎竜のせいばかりではない⋮
⋮激しい神力の応酬による爪痕でもあったのだ。
﹁︱︱進めぇっ!!﹂
ろう
耳を聾する轟音が途切れた瞬間、ヤシュムが厳然と怒号する。我
かつぜん
に返ったナディアは、目の前の戦況に集中した。味方も一斉に敵に
向かって黒牙を振り上げる。
﹁﹁オォッ!!﹂﹂
ひが
彼我入り乱れての接近戦となり、鋼がぶつかり合い、戛然と響か
せ火花が散った。
顔を背けたくなるような、血に染まる修羅の世界︱︱青い燐光と、
黒霧が空気を満たし、衝突する度に人影が消えていく。
きか
なんて光景だ! 集中が乱れる⋮⋮!
幸いにしてヤシュムの麾下部隊は勇猛果敢な上に精鋭揃いで、補
佐として剣を振るうナディアの配置は、前線において最も安全とい
えた。
ヤシュムの十分な力量を見て、ナディアは補佐に徹することで味
方の士気を繋いだ。押され気味の前線に駆けつけては、綻びを修復
するように援護を続ける。
数では劣っていても、シャイターンの神力を見て士気は高まって
いる。
敵もそうだが、一種の暗示にかかっている状態であった。
血を流して剣を振るう者は、興奮のあまり、恐らく痛みすら飛ん
でいることだろう。
血の流れた戦場に、日が落ちる。
1088
決着には至らず、互いの陣営を睨み合いながら野営地へと引き返
した。
撤退するハヌゥアビスをムーン・シャイターンは追い駆けたよう
だが、深追いはせず、間もなく追討を諦めた。
戦況は膠着状態が続く︱︱。
仕切り直しの度に布陣を敷いても、日暮れには目を覆いたくなる
ような乱戦へと発展した。
1089
35
︱ ﹃神威・四﹄ ︱
衝突から十五日目。
ムーン・シャイターンにより深手を負ったハヌゥアビスは、しば
らく前線から姿を消していたが、ようやく姿を現した。
昼に差し掛かり、大きく布陣を動かしている最中、両軍にとって
予測外のことが起きた。
敵の前線に配置された奴隷部隊が、突如、アッサラーム軍に向か
って突進を始めたのだ。
きんこ
﹁準備は良いかぁっ! 金鼓を鳴らせぇいッ!﹂
﹁︱︱お待ちください!!﹂
ヤシュムは敵がついに総攻撃をしかけてきたと思い、機動合図を
叫んだが、ナディアはこれを止めた。サルビア軍らの数個騎兵大隊
が不自然に動き、奴隷部隊の背を斬り捨てる光景を目の当たりにし
たのだ。
1090
﹁あれは逃亡兵です! 敵は統率が取れていない、間隙の編隊で!﹂
﹁よし判った!﹂
ほころ
言葉短い訴えであったが、ヤシュムはすぐに起動に応じた。
ハヌゥアビスの大軍勢に、綻びが見え始めている⋮⋮!
勝機を感じた前線の将兵は、すかさず左右に道を開いて逃亡兵達
の為の退路を作った。逃走する奴隷兵は、戻れば味方の刃に斬られ
るので、決死の覚悟でこちらへ飛びこんでくる。
アッサラーム陣営が敵奴隷兵を無視するのを見て、他の敵兵もこ
ちらへ向かって逃走の機動を見せた。不利を悟ったサルビア軍は、
ついに本物の全面衝突を始めざるをえなかった。
﹁行くぞ!﹂
混乱に乗じてムーン・シャイターンが先頭を駆け出すと、左翼、
右翼についた各将も後に続いた。敵の前線が乱れているうちに、ナ
ディアも迷わず敵陣営を襲った。
ハヌゥアビスは真っ直ぐに、ムーン・シャイターンを目掛けて駆
けた。
互いに盾は使わない。
剣を交えた瞬間、青白い衝撃波が波紋のように広がり、周囲にい
た騎馬隊を薙ぎ払った。
﹁身を低くしろ!﹂
ざんごう
ヤシュムの鋭い怒号に、全員がすかさず身を屈め、あるいは塹壕
に姿を隠した。
総大将同士の一騎打ちは、苛烈の一言に尽きる︱︱
空は割れて、大地は揺れた。
1091
ハヌゥアビスの操る重たいブレードを、ムーン・シャイターンは
青い炎を纏うサーベルで、しなやかに受け流してる。
その度に金色の火花が散り、鋼が砕けるような衝撃音が鳴った。
かむがか
けんげき
音だけ聞いていると、とても剣の打ち合いとは思えない。
息をつく間もない神懸りの剣戟を前に、懇願するようにシャイタ
ーンに呼びかけていた。
シャイターンッ! どうか天の加護を⋮⋮!!
瞬閃。ムーン・シャイターンが一撃を受けて、肩を押さえた瞬間
︱︱考えるよりも先に駆け出していた。ナディアだけでなく、他の
将兵も、ヤシュムも駆け出した。
膝をついたムーン・シャイターンの肩を、ハヌゥアビスが容赦な
く蹴り上げる。
﹁止せっ!!﹂
肩から血を流し、崩れ落ちるムーン・シャイターンに向かって、
巨大なブレードを振り上げる︱︱。
﹁︱︱っ!!﹂
その瞬間、時が止まったかのように感じられた。
示し合わせたわけでもなく、ムーン・シャイターンを守ろうと駆
けつけた将兵らは、瞬時に盾を取り密集陣形を取った。
ムーン・シャイターンの意識は落ちていた。
力の入らない主君の身体を抱えるナディアを、味方が後ろへ追い
やる。
神力を帯びた巨大なブレードが振り下ろされると、盾を持つ全員
が歯を食いしばって衝撃に耐えた。
ドゴォッ!!
1092
火花を散らし、轟音と共に鋼の破片が飛び散る。
重たい斬撃は、硬い鋼の盾にひびを入れ、盾を持つ者の指や腕を
砕いた。
﹁ぐぁっ﹂
﹁守れっ!!﹂
鈍い悲鳴を上げながらも、全員が盾を持ち直して、再びムーン・
シャイターンの前に巨大な盾を築いた。
構えた傍から、ハヌゥアビスの恐ろしい斬撃が飛んでくる!
重たい衝撃に、味方は再度吹き飛ばされた。
﹁うぐっ﹂
﹁守れぇっ!!﹂
盾が壊れても、骨が砕けても、誰一人盾を離さなかった。身を挺
して、死にもの狂いでムーン・シャイターンの盾となる。
ナディアが後退しようとした時、ムーン・シャイターンはふっと
意識を取り戻した。
顔を上げて何かを呟く︱︱重傷を負ったとは思えない、素早い動
きで立ち上った。
﹁お待ちを︱︱っ!﹂
手を伸ばしたが、届かなかった。
ムーン・シャイターンは両手でサーベルを握りしめて、味方の盾
から勢いよく飛び出した。ハヌゥアビスも剣を構え、双方、大きく
振り上げる。
けんせん
その瞬間、天を割って巨大な雷が地上に、ムーン・シャイターン
の振り上げる剣尖に落ちた。強大な落雷を刀身に受けたまま、勢い
1093
よく振り下ろす︱︱
強烈な一撃は、ハヌゥアビスを重たいブレードごと二つに裂いた。
全員が息を呑んだ。
ハヌゥアビスの額にある赤い宝石が、四方に砕け散る︱︱ハヌゥ
アビスの姿は、黒い霧となり周囲に消えた。
﹁ナディア! ムーン・シャイターンをお連れしろ!﹂
ヤシュムの声に、我に返ったナディアは、すぐにムーン・シャイ
ターンの傍へ駆け寄った。
重傷を負い、今にも崩れ落ちそうな身体を支えようとしたが、ム
ーン・シャイターンは気丈にも顔を上げて青く光るサーベルを高く
掲げた。
﹁﹁オォォ︱︱ッ﹂﹂
割れるような喝采が味方陣営から湧き起こった。ナディアも胸を
熱くさせて腕を上げた。
お見事! よくぞ! ついに⋮⋮ハヌゥアビスに決勝したのだ!!
総大将を討ち取られ、戦意をくじかれたサルビア軍は、失意のも
とに撤退を始めた。
アッサラーム軍もしばらく追討の姿勢を見せたが、深追いはせず、
早々に自陣へと引き上げた。
撤退を心得た敵将が指揮を執ったこともあり、掃討戦は長引かず、
その日のうちに敵陣営は、高地から目に見えぬ所まで下がった。
遠ざかって行く朱金の軍旗を高地から眺めながら、アッサラーム
の全将兵は歓声を上げた︱︱
1094
1095
36 ﹃慟哭﹄ − サイード −
サイード・タヒル︱︱中央広域戦軍曹、中央陸路斥候隊隊長
せっこう
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、クロガネ隊加工班班長
をアルシャッドに委任し、中央陸路の最前線にて斥候隊長を務める。
しちょう
ノーグロッジ海上ではナディアの計略により、敵の輜重隊を襲撃
し補給を絶つことに成功した。
しかし、これに対抗するかのようにサルビア軍もまた、アッサラ
ーム軍の輜重隊を襲撃するようになり、後方支援に被害が拡大して
いた。
ジュリアスらがハヌゥアビスと激戦を繰り広げる中、中央陸路斥
候隊の隊長を務めるサイードは、アルスランから要請を受けて、中
央に発つ輜重隊の警護任務に就くことになった︱︱
︱ ﹃慟哭・一﹄ ︱
へいたん
国門から少し離れた拠点で、サイードは味方の輜重隊と合流した。
彼等は、兵站の中でも、中央最前線に物資を届ける極めて重要な輜
重隊だ。
ここのところ、自軍の輜重隊は度々サルビア軍の襲撃を受けてお
1096
り、これ以上被害に合えば、最前線の生命線が絶たれかねない。今
度ばかりは確実に荷積みを届けねばならなかった。
﹁これまで使ってきた道は、三度に渡って襲撃を受けている。道を
変えるしかあるまい﹂
サイードの提案に皆が賛同した。過去実績のある経路であったが、
敵に狙われている以上諦めるしかない。
﹁問題はどの道を通るかですね⋮⋮﹂
古参兵の一人、ヨルディンが呟くと全員が唸った。この辺りは山
岳戦闘民族の縄張りで、深入りすれば今度は彼等に襲われる心配も
ある。
﹁⋮⋮五隊に分けよう。四隊は囮で、本命の一隊は、目につきにく
いノーヴァ海域側の絶壁を行く。本隊は俺が行こう。ヨルディンも
きてくれ﹂
﹁判りました﹂
皺の刻まれた思慮深い眼差しにサイードを映し、首肯で応じる。
﹁囮の四隊にも、多少は荷を乗せておけ。運悪く見つかっても、敵
もこれで全てかと勘違いしてくれるかもしれん﹂
顎をさすりながら思案げにサイードが指示すると、全員が賛同の
声を上げた。
れいめい
﹁四隊はしっかり武装して、今夜同時に出発しろ。俺達は黎明に出
1097
発する﹂
﹁はい! サイード隊長、どうかお気をつけて﹂
そうして十人ずつで構成された囮の四隊は、闇に乗じて密かに通
門拠点を後にした。
サイードは空が白み始める黎明を待ち、十人と四輪車五台を率い
て通門拠点を後にした。
+
ほぼ初見の山岳絶壁の山道であったが、一行は概ね順調に進んで
いた。危惧していたサルビア軍の影は見えない。
しかし目的地に近付くにつれて、空気はピリピリと張りつめてい
った。
敵の姿は見えずとも、空や風、大地が前線の苛烈さを物語る。日
によっては、空をかち割るような青い稲妻が何度も走り、耳を塞ぎ
たくなるような地響きと轟音が響き渡った。
宝石を持つ総大将、ムーン・シャイターンとハヌゥアビスが激突
しているのだ。壮絶な激突の余波を目の当たりにして、若い兵士達
は度々足を止めて震え上がった。
﹁うわっ!﹂
今も青白く光る空を見上げて、兵士の一人が小さな悲鳴を上げて
いる。
昼でも陽の射さない深い茂みの中にいても、空に青い稲妻が走る
と、辺り一面を真っ白に照らし足元に影を落とした。
﹁⋮⋮すごいな。今日はこれで何度目だ?﹂
1098
﹁決着が近いのだ﹂
﹁シャイターンよ、どうか我等に勝利の加護を!﹂
味方は空ばかり気にかけているが、サイードは周囲の森の様子に
異変を感じていた。敵意は感じられないが、こちらを観察する複数
の視線を感じる。
この辺りに暮らす山岳民族か。敵意がないのはどうしたことだ?
このまま通してくれるならいいが⋮⋮。
異変を感じ取ったヨルディンは、サイードの傍へやってくると、
指示を仰ぐように視線で問いかけた。
同じく、視線で応える︱︱様子を見よう⋮⋮剣を合わせず済むな
ら、それが一番だ。
異変に気づいた者は他にも何名かいたが、サイードは沈黙を指示
した。味方に知られ、空気に殺気が滲むのを防ぐ為だ。山岳民族は
気配に敏い。下手に刺激して無用な戦闘を引き起こしたくはなかっ
た。
各々、緊張を強いられる行軍はしばらく続いたが、十日目の夕刻、
ついに前線の野営地に辿り着いた。近道を通った囮の四隊は既に到
着しており、サイード達を見るなり満面の笑みで駆けてきた。そし
て喜ばしい吉報を口にする。
﹁ハヌゥアビスに決勝したのか!!﹂
サイードは声を弾ませた。共に辿り着いた輜重隊の面々は、その
場に跪いてシャイターンに祈りを捧げている。中には涙を流す者も
もいた。
﹁おぉ! やったな!﹂
野営地を見て回っていたサイードは、顔なじみの古参兵を見かけ
1099
て声をかけた。男は身体中に傷を負っていたが、サイードを見るな
り嬉しそうに顔を輝かせ、しっかりした足取りで駆け寄ってくる。
﹁サイード、ちょうど良い時にきたな! 祝杯を上げよう!!﹂
﹁見事だ! よく耐えたなぁっ!!﹂
喜びを分かち合い、背中を叩き合った。互いに薄汚れた恰好はし
ているが、幸い大きな怪我はしていない。
かたき
﹁ノーヴァの敵を取ってやったぞ!﹂
男は誇らしげに拳を天に振り上げる。
﹁これでノーヴァ海岸も楽になるだろう。援軍も飛ばせる﹂
サイードも明るい口調で応えた。
﹁ああ。これから五千の飛竜大隊が援軍に向かう予定だ。もう大丈
夫だ﹂
﹁ムーン・シャイターンはご無事か?﹂
懸念を口に乗せると、対峙する男は力強く首肯で応じた。
﹁重傷を受けたが、命に別状はない。天幕で治療を受けておられる。
将軍達も無事だ﹂
﹁そうかぁ⋮⋮﹂
1100
サイードは深い安堵の息を吐いた。肩の荷が下りたようだ。﹁ま
たくる﹂と言って踵を返すと、背中に﹁おいっ﹂と声をかけられた。
﹁もう行くのか? 寄っていけよ、皆も喜ぶ﹂
﹁そうしたいが、少々気になることがあってな。またくるさ﹂
﹁判った! 気をつけろよ﹂
男は気持ちの良い笑顔で手を振った。サイードも笑顔で応えると、
輜重任務で同行したヨルディンを探して声をかけた。偵察に戻ると
告げると、意表を突かれたように顔に驚きを浮かべる。
﹁もう向かわれるのですか?﹂
﹁あぁ。お前達は休んでいけ。明朝になっても合図がなければ、今
回通った道はもう使うな﹂
声を落として告げる。ここへ来るまでの途中、こちらをじっと観
察していた山岳民族のことが気になっていた。彼等と話をしてみた
い。
﹁では私も一緒に参ります﹂
それはありがたい。首肯で応じると、その日のうちにヨルディン
の他にもう一名を連れて、山岳経路に向けて再び出発した。
1101
37
︱ ﹃慟哭・二﹄ ︱
しばらく馬を走らせると、来た時と同じように視線を感じた。サ
イードは下馬すると、山中に向けて声を発した。
﹁敵意はない! こちらは三名だけだ。姿を見せて欲しい﹂
少し待つと、茂みを揺らして五名の山岳民族の男が姿を現した。
黒い肌に白い墨を入れており、頭髪は複雑に編み込まれている。サ
イードの胸あたりまでしか身長はないが、恐ろしい戦闘民族である
ことに間違いはない。口から突き出た鋭い犬歯は、巨木を噛み砕く
力を秘めている。戦闘になると、鋭い牙で獲物に襲いかかるため、
せんこん
蛮族と呼ばれる所以でもある。
彼等は鋼の戦棍を手にしていたが、サイード達が両手を見せると、
いくらか警戒を解いた。
﹁⋮⋮首領が、お前達に会いたいと言っている﹂
彼等の一人が、抑揚のない低い声で淡々と告げた。
1102
﹁何?﹂
訝しげに片眉をひそめるサイードを見るや、余計なことは口にせ
ず、背中を向けて歩き始める。
﹁⋮⋮ついてこい﹂
彼等の二人が背後に回ると、ヨルディンは警戒して剣を抜いたが、
サイードは制した。大人しく従うサイードを見て、他の二名も剣を
しまう。
彼等は自分達のことを﹁ヌイ﹂と名乗り、サイードら三名を彼等
の集落に連れ帰った。
そこはノーヴァ海域に面した断崖絶壁で、岩肌には無数の穴が開
けられ、入り組んだ階段が築かれていた。恐ろしく難攻不落な自然
の要塞だ。
﹁これは驚いた⋮⋮﹂
サイードは感心して呟いた。アッサラームでは野蛮と蔑まされる
彼等だが、決して劣った暮らしをしているわけではないことは、こ
の集落を見れば一目瞭然である。
﹁どこへ連れて行くのだ﹂
ヨルディンが尋ねても、ヌイ達は答えなかった。彼等の言う、首
領の前に連れて行かれるまで、口を開く気はなさそうだ。
せいち
サイード達は格別大きな石造りの建物に通された。主柱や壁面に
は精緻な金色の装飾が施されており、広い廊下には優美な彫像が飾
られている。石の特性を生かした荘厳で美しい建物だ。外にも中に
も武装した大勢のヌイ達がいる。ここに首領がいるのかもしれない。
1103
サイード達はいよいよ面会を予期して身構えたが、案内された広
々とした一室で、意外な人物を目にした。
﹁ジャファール⋮⋮ッ!﹂
ジャファールを含む三名のアッサラーム兵が、寝台に力なく横た
わっていた。見るからに満身創痍だ。身体を覆う包帯は、ところど
ころ黒く変色している。サイード達は慌てて彼等の傍へ駆け寄った。
﹁生きている!﹂
ヨルディンはジャファールの呼気を確認すると、歓喜の声を上げ
た。味方に気付いた寝台の兵士は、嬉しそうに顔を輝かせた。
﹁来てくれたのか⋮⋮っ﹂
腹に包帯を巻いた四十前後の兵士は、オルベスと名乗った。もう
一人、モンバールという若い兵士とジャファールは重傷を負ってお
り、意識はない。額に汗の玉を浮かせて、苦しそうに呻いている。
だが、生きていてくれた。奇跡だ。シャイターンよ、感謝するぞ
!!
サイードはオルベスの肩に手を置くと、縋るような眼差しに力強
く頷いて応えた。待ち望んでいただろう吉報を告げる。
﹁ハヌゥアビスに決勝した。アルスラン将軍も無事だ﹂
﹁おぉ⋮⋮っ﹂
オルベスは顔に喜色を浮かべ、次いで顔を歪めた。歯を食いしば
って、ぼろぼろと涙を流す。
1104
﹁ありがとう、あぁ⋮⋮、良かった、良かった⋮⋮っ﹂
その様子には、サイード達も思わず目頭を熱くさせられた。味方
のいない果ての地で、一人意識を保ち、さぞ不安を抱えていたこと
だろう⋮⋮。
サイードは部屋の隅に控えるヌイ達を振り向くと、心からの感謝
をこめて最敬礼をした。
﹁仲間を助けてくれて、ありがとうございます﹂
サイードに倣って全員が深く頭を下げた。
﹁礼には及ばない﹂
部屋に立派な宝飾具を身につけたヌイが入ってきた。他のヌイに
比べて、明らかに威厳があり、周囲のヌイ達も彼に対して頭を下げ
ている。
﹁私はヌイの首領、スーラと言う。彼等を助けたのは、借りを返す
ためだ﹂
堂々たる外見に見合った、落ち着いた口調で告げた。
﹁借り?﹂
﹁そうだ。開戦前にアッサラームの民と各部族達で、同盟を交わし
ていた。しかし、いざ東西の闘いが始まると、山岳の民は無思慮に
アッサラーム軍を襲ってしまった﹂
1105
その言葉に、誰もが沈黙した。
本隊が通門拠点から進軍を開始して間もない頃、山岳戦闘民族の
奇襲に苦しめられ、ついには湿地帯で数千もの兵を虐殺されたこと
は記憶に新しい。
﹁襲ったのはエゾの民であったが、そなたらにしてみれば、山岳に
暮らす民は皆同じであろう。ウラノ河で戦闘が起きた時、我々は更
なる報復を覚悟した。ところが、偵察の者達からシャイターンは追
討を避けたと聞いた。最初は信じられなかったが、その後の進軍で
証明された。そなたらは我々に報復せぬまま、ついにサルビアと激
突した。神々の震う力に、空も大地も怯えている。もうこれ以上血
を流す必要はない⋮⋮﹂
厭わしげな口調であったが、深い樹林を思わせる双眸に、憎しみ
は浮いていない。在るのは哀しみだけ⋮⋮。
﹁大切な仲間です。お助けいただき、感謝の言葉もありません﹂
礼節に則った一礼で応えると、スーラはゆっくり首を左右に振っ
た。
﹁許したわけではない。そなた達はいつも、東西の争いに我々を巻
き込む。森を荒す蛮族はそなたらの方だ。今回はシャイターンに借
りを返しただけ。そこに寝ている男の傷が癒えたら、連れて出て行
け﹂
サイードは再び無言で頭を下げた。
互いに禍根はあれど、アッサラーム軍の理性的な振る舞いを評価
し、情けを与えてくれたことに違いはない。
苦難の果てにも、希望はある。この吉報を耳にすれば、皆喜ぶだ
1106
ろう。
1107
38
︱ ﹃慟哭・三﹄ ︱
天も海も闇に染まっている。
ぎんはん
星明かりは、潮流の荒い海に複雑に映りこみ、うねる蛇のように
銀班を為している。
遠く岸壁に押し寄せる波音を聴きながら、サイードは窓辺から空
を仰いでいた。
今夜は、宛がわれた客室に下がらず、ジャファール達の寝ている
部屋で交代で番に就いている。ヌイ達に敵意がないことは判ってい
るが、負傷した味方を置いて部屋に下がることは不安だ。
不意に掠れた声で名を呼ばれた。
驚いて振り向けば、寝台からジャファールがしっかりした眼差し
でサイードを見つめている。
﹁ジャファール将軍!﹂
傍へ寄ると、ジャファールは強張った顔でサイードを見上げた。
サイードは包帯の巻かれた肩に手を置くと、安心させるように微笑
んだ。
﹁ムーン・シャイターンは、見事ハヌゥアビスに決勝しました。ア
1108
ルスラン将軍も無事です。通門拠点で指揮を執られていらっしゃる﹂
﹁︱︱っ! 神よ⋮⋮っ﹂
ジャファールは手で目頭を押さえた。堪えきれない嗚咽と共に、
感謝の言葉をいくつも囁く。その姿を見ていたら、サイードの目頭
も熱くなった。
﹁ご無事で良かった⋮⋮﹂
目を覚ました他の仲間達も、顔に喜色を浮かべて傍へやってきた。
オルベスも寝台の上で顔を倒して、涙を零しながらジャファールの
名を呼んでいる。
﹁あぁ、良かった! ジャファール将軍っ!﹂
俄かに騒がしくなると、呻いていたモンバールも意識を取り戻し、
周囲を見渡して顔を輝かせた。ジャファールもオルベスも笑みを浮
かべている。
﹁あなたの無事を聞けば、皆も喜びます﹂
薄暗い部屋に希望が満ちる。サイードは明るい気持ちで言った。
﹁おかしいな⋮⋮サイードが天の御使いに見える⋮⋮﹂
ジャファールが真顔で応えると、全員が笑いを零した。喜びを分
かち合い、暫しシャイターンに感謝の言葉を捧げもした。
興奮が少し引いたところで、サイードは戦況を話して聞かせた。
ノーヴァ海岸にルーンナイトらが挙兵したことを知るや、ジャフ
1109
ァールは噛みしめるように何度も頷いた。
そして沈黙する。
勝利までに要したあまりに大きい代償を想うと、歓喜は去り、重
い空気が流れた。
ゆめうつつ
﹁目を覚ますことが恐ろしかった。どれだけの、絶望が待っている
のかと⋮⋮夢現を彷徨い、いっそ青い星に行けたらと、願ったりも
した。けれど、その度に引き留める声が聞こえた﹂
長い旅路を終えた賢者のように、深い静かな声で、ジャファール
はぽつぽつと心境を語った。
﹁⋮⋮最後は死を覚悟して、厳しい狭路へ挑んだのだ。あそこから
生還できたのは、最後まで私についてきてくれた者達のおかげだ。
少なくはなかった。だが、二人しか残らなかった︱︱﹂
﹁皆、気持ちは同じでしたっ! 将軍は全身全霊をかけてノーヴァ
を導いてくださった。貴方はこの先も、アッサラームに必要なお方
です⋮⋮っ、貴方のことだけは、何があってもお守りしようと、全
員で誓ったのです﹂
﹁そうです! 生きていてくださって、本当に良かった﹂
悲壮な独白を遮るように、寝台の上でオルベスとモンバールは声
を荒げた。
﹁ノーヴァ壊滅は、私の責任だ⋮⋮﹂
かいご
悔悟に満ちた暗い呟き。
1110
﹁違いますっ!!﹂
全員が口々に否定したが、ジャファールは力なく首を振った。
﹁事実だ﹂
厳しい表情を浮かべるジャファールを見て、全員がやるせない気
持ちを噛みしめた。あまりにも重い現実を前に、かける言葉が見つ
からない。
ノーヴァに関しては多くの意見があるが、結果として、早い段階
で二十万もの大軍を撃破したからこそ、サルビア軍に決勝したのだ
とサイードは考えていた。
兵力を分散したまま戦いを続けていれば、時と共にアッサラーム
の不利に傾いただろう。
敵が狙いを絞ってくれたおかげで、ある意味守りやすくなり、攻
撃の余裕が生まれたのだ。敵の集中砲火に限界まで耐え、最後まで
ノーヴァに尽くしたジャファールに、全アッサラーム兵は心からの
敬意を抱いているはずだ。
﹁ノーヴァの悲しみを、一人で背負うことはありません。皆同じ気
持ちです﹂
うが
沈黙を穿つように、サイードは本心から告げたが、ジャファール
が納得していないことは、凍りついたように硬い表情から伺えた。
﹁死んでいい者など、一人もいない。私は彼等の犠牲の上に立って
いるんだ﹂
﹁生き残る度に、修羅を見ます⋮⋮それでも、御身を案じて悲嘆に
暮れていた我々は、今こうして無事にお会いすることが出来たこと
1111
を、シャイターンに心から感謝していますよ﹂
サイードの言葉に全員が深く頷くと、ジャファールもようやく表
情を緩めた。凍りついた彼の心の端を、ほんの少しでも溶かせたの
かもしれない。
﹁判ってる、判っている⋮⋮アルスランは腕を失くしても、帰って
きてくれた。だから私も⋮⋮どれほどの絶望が待っていようとも、
引き留める声を聞く度に、帰らねばと思った。たとえ腕を失くして
も、足を失くしても⋮⋮死んだとしても、絶対に︱︱っ﹂
悲痛な嘆きは、潤みかけて不自然に途切れた。言葉を続けられな
くなったジャファールは、静かに顔を掌で覆う。
その姿を見て、苦境を共にしたモンバールとオルベスは泣き崩れ
た。
身を裂かれるような魂の慟哭︱︱
身体だけではない、彼等は心にも深い傷を負っていた。癒えるま
でに、長い時間を要することだろう⋮⋮。
せめて、一刻も早く彼等を味方の元へ連れて帰ってやりたい。
﹁⋮⋮よくぞ、生きていてくれました。帰りましょう、国門でアル
スラン将軍も待っていますよ﹂
﹁あぁ︱︱﹂
くずお
くぐもった声が、哀しみの流れる部屋に落ちた。
青い星の清らかな斜光は、嘆き頽れる同胞を慰めるように、彼等
の上に降り注いでいた⋮⋮。
+
1112
ほうか
その日のうちに、サイードは烽火でジャファールの無事を知らせ
た。
これを目にした斥候はすぐに本陣に伝え、各拠点にハヌゥアビス
への決勝、そしてジャファールの無事が通知された。
全員が歓喜したことは言うまでもない︱︱
1113
39 ﹃恋と友情﹄ − アンジェリカ −
アンジェリカ・ラスフィンカ︱︱ナディア・カリッツバークの婚
約者
東西戦争の開戦から八十日、ムーン・シャイターンがハヌゥアビ
スに勝利したことにより、戦況はアッサラーム軍に大きく傾いた。
中央陸路をアッサラーム軍が制すると、ノーヴァ海岸を猛攻して
いたサルビア軍も不利を悟り、中央から送られたアッサラーム軍の
援軍と殆ど一合もせずにして撤退した。
アッサラーム陣営が今大戦における二大拠点を制圧すると、その
他拠点の混乱も次第に治まり、サルビア軍はアッサラーム軍に和睦
調停を申し入れた。
開戦から九十日。
アルサーガ宮殿では戦争終結に向けて、事後処理に追われていた
︱︱
︱ ﹃恋と友情・一﹄ ︱
アンジェリカの父、アマハノフ・ラスフィンカ、そして長兄、ル
シアン・ラスフィンカは東西戦争における、サルビアの属国、ベル
シア公国との外交を担当していた。
1114
ベルシア公国はバルヘブ東大陸の最南端に位置する要塞都市で、
王を冠するサルビアに従属しながらも、政権交代を狙って過去に何
度か反乱を起こしている。アッサラーム陣営は開戦前、ベルシア公
国に巨額の資金援助と引き換えに、サルビア軍の発する東連合軍か
らの離反を約束させていた。
へきとう
ロザイン
この交渉成立には、長い経緯がある。
ベルシアは交渉の劈頭、花嫁の身柄を要求してきた。しかし、ム
ーン・シャイターンが断固拒否するや、貿易航路の融通や城塞の明
け渡しといった無理難題を求めた。交渉は難航したが、最終的にサ
ルビアの提示した報酬金額の二倍を支払うことで納得させた。
この交渉を中心になってまとめた人物こそ、アマハノフである。
彼は既にアッサラームに帰還し、アルサーガ宮殿に従事している
が、ルシアンは今もベルシア公国に残り現場交渉役を務めていた。
﹁お父様。アッサラーム軍は中央拠点を発ったとお聞きました。戦
争はもう終わるのに、ルシアンお兄様はまだ戻れませんの?﹂
柔らかな斜光の射す書斎に、少女の思案げな声が流れた。
ルシアンがベルシア公国に渡航してから、既に半年が経過してい
る。一向に帰還目途の立たない兄のことを、アンジェリカはずっと
心配していた。
﹁耳が早いね。まだ、しばらくは無理だろう。東西の対決は一先ず
決着がついたが、ベルシア公国はこれからが勝負だ﹂
いかにも知的な紳士、アマハノフは書斎机に筆を置くと、諭すよ
うにアンジェリカを見つめた。
﹁納得できません。こちらは約束した金額を全て納めるのに、何故
お兄様を返してくださらないの﹂
1115
﹁サルビアにしてみれば、ベルシアの離反は裏切りでしかない。報
復も兼ねて、東西戦争の負債をベルシアで清算しようと考えている
だろう。だからベルシアも、アッサラームとの縁をまだ切りたくな
いのだよ﹂
言わんとすることは判る。しかし、アンジェリカは不服そうに眉
をひそめた。
﹁私達に、ベルシアの戦争を手伝えとでも?﹂
﹁何しろ遠い。遠征は無理だが、今後何かしらの要請をしてくるこ
とは考えられるね﹂
﹁切がありませんわ!﹂
苛立たしげに声を荒げると、穏やかな紳士は、やむをえまいと言
うようにため息をついた。
﹁気持ちは判るが、無下にも突き放せまい⋮⋮サルビアが戦争を長
期化せず和睦調停を申し入れたのは、自国の背後への憂慮があった
からこそだ﹂
ご尤も︱︱やるせなさを噛みしめながら、アンジェリカは沈黙を
強いられた。
サルビアは自国の背後に、虎視眈々と反乱を狙う勢力を残してい
る。故に、軍事の主力を国から長く遠ざけていることに危機感を持
っているのだ。その背景があるからこそ、短期間のうちに調停は進
められていた。
1116
﹁⋮⋮アッサラーム軍が凱旋する時までには、ルシアンお兄様も戻
ってこられるかしら?﹂
少女が声の調子と肩まで落として尋ねると、アマハノフは瞳に愛
情を灯して愛娘を見やった。
﹁その時までには、大分情勢も落ち着いているだろう﹂
﹁皆で喜びを分かち合いたいもの⋮⋮お兄様方にも、傍にいて欲し
いわ﹂
寂しげな声を、紳士は優しい微笑で受け留めた。
﹁ベルシアも保険が欲しいだけで、ルシアン達を本気で危険に晒す
つもりはないよ。我々を怒らせたら、酷い報復が待っていることは
向こうも承知しているはずだ﹂
﹁お父様やルシアンお兄様ばかり、ご苦労なさっている気がするわ
⋮⋮ベルシアに関して、議会の皆様方はお味方になってくださらな
いの?﹂
彼はベルシアから帰還した後も、毎日遅くまで執務に携わってい
た。たまに私邸に帰ってきても、仕事を山ほど持ち込んで書斎から
殆ど出てこれない。
ノーヴァ壊滅の一番苦しい時期には、保身に走る議会に拘束され
る傍ら、和平交渉に携わった貴人達の間を奔走して離反を防いでい
た。
﹁お前は笑ったり怒ったり、忙しいね。この間までナディア殿の心
配に忙しかったのに﹂
1117
案じられることを嬉しく思いながら、アマハノフはからかうよう
に笑った。アンジェリカも誘われるように、笑みを閃かせる。
﹁ナディア様のご無事は確信いたしましたもの! 中央はノーヴァ
海岸に援軍を派出する余裕も生まれましたし、ムーン・シャイター
ンもいらっしゃいますわ。国門に発つと聞きましたし⋮⋮もう大丈
夫ですわ﹂
しばた
アマハノフは感心したように目を瞬いた。
﹁やぁ、本当に最近とても耳聡いね。私の書斎に潜りんでいるのか
ね?﹂
﹁心強い味方がいるのですわ﹂
澄ました顔で告げると、ふと彼は思案気な色を顔に浮かべた。
﹁お前まさか、殿下のことを言っているんじゃないだろうね⋮⋮﹂
﹁その通りですわ﹂
﹁アンジェリカ⋮⋮﹂
窘めるような声の響きに、アンジェリカは肩を竦めてみせた。
﹁お返事を強請ったりなんてしていませんわ。お手紙は、全てご好
意でいただいたものです﹂
﹁うーん⋮⋮殿下は非常にお忙しいのだから、お手を煩わせてはい
1118
けないよ。お前は口を開くと止まらぬし⋮⋮﹂
﹁私そんなに礼儀知らずではありません。それに殿下とは、お友達
なのです﹂
少々誇らしげに胸を張って応えたが、アマハノフは告げる言葉を
迷うような、煮え切らない表情を顔に浮かべた。
﹁お前はよく勘違いもするからなぁ⋮⋮﹂
﹁お父様っ﹂
﹁親しみやすい方でいらっしゃるけれど、天上人であらせられるこ
とを忘れてはいけないよ﹂
﹁もちろんです。忘れたことなどありませんわ﹂
アンジェリカはしおらしく頷くと、書斎机にルシアンに充てた手
紙を置いた。いつもアマハノフに預けて届けてもらっているのだ。
楚々とした仕草でアンジェリカが退出すると、アマハノフはよう
やく娘の機嫌を損ねたことに気がついた。諭すような口調がいけな
いのだと判っていても、ついつい可愛い娘を想うと、余計な言葉を
重ねてしまう。
手紙を手に取ると、静かに微苦笑を零した。
賢人と言われていても、秀でた外交手腕を万事発揮できるわけで
はないのである。
1119
40
︱ ﹃恋と友情・二﹄ ︱
ロザイン
私室に戻ると、陶器の文箱を空けて、花嫁からもらった手紙、そ
してナディアからもらった手紙を取り出した。
もう何遍も読み返している。
想い人の手紙は簡素な文面であるが、初めて目にした時は手が震
えて、そのまま倒れてしまうかと思った。幸せ過ぎて、枕元に置い
て眠ったほどだ。今は箱にしまい大切に保管している。
花嫁からは、これまでに何通かもらっている。いつも思い遣りに
満ちた文面で、国門の様子なども差し支えない範囲で教えてくれる。
直筆と判る、大きくて崩れがちな文字も、見ていて心が和む。美し
い代筆よりも遥かに嬉しい。
花嫁の優しさは、上辺だけでないと知っている。アンジェリカに
多少なりとも気を許していなければ、こんな風に繰り返し便りを届
けてくれはしないだろう⋮⋮。
実際に見せられはしないが、友情を疑うアマハノフの前に拡げて
﹁ほら!﹂と言ってやりたい気持ちもある。
五歳の時にナディアに一目惚れをしてから、特に夢みがちな性格
に育った自覚はあるが、相手を思い遣れないほど鈍感なつもりはな
1120
い⋮⋮。
ふけ
しかし、思いに耽るうちに、短気は去り、不安が芽生えた。
アマハノフの言う通り、友達と思っているのはアンジェリカだけ
で、花嫁の優しさに甘えているのだとしたら?
実際︱︱
以前のナディアであれば、アンジェリカに手紙をくれるなんて、
とても考えられなかった。今でこそ大分落ちついたけれど、子供の
頃は彼に相当しつこくつきまとい、煙たがられたものだ。
十歳年の離れたナディアは本当に大人で、全然手が届かない。
片思いでも幸せだけれど⋮⋮叶うことなら、両想いになりたい⋮
⋮。
少しでも好きになって欲しくて、躍起になればなるほど気持ちは
空回った。いつしか、縮まらない距離を、寂しく見つめるばかりに
なってしまったけれど⋮⋮。
花嫁に出会ってから、少しずつ好転した。この手紙にしても、花
嫁の影響だろう。
思い当たる節がある。
以前、中庭で偶然ナディアに出会い、つれない態度を取られたと
ころを、花嫁に見られたのだ。
思えば、あの日を境に変わった気がする。
遠征に旅立つナディアの見送りも、一度は本人に断られたが、花
嫁が取り成してくれたおかげで軍部の敷地に入ることを許された。
ナディアの凛々しい姿を目の当たりにして、視線をもらえた時は
感動のあまり泣いてしまった。
花嫁には本当によくしてもらっている。
でも⋮⋮ほんの少し、花嫁が羨ましい。
つれない想い人は、アンジェリカよりも彼と話している方が楽し
そうなのだ。
哀しみに相まって、どうにもならない、醜い妬心が芽生える。歪
みそうになる顔を掌に沈めて、くぐもった声を上げる。
1121
自己嫌悪と嫉妬が膨れ上がり、その辺を転げ回りたい衝動に駆ら
れた。
︱︱こういう時は、思う存分っ、気持ちを吐き出すに限りますわ
っ!!
くすぶ
アンジェリカは勢いよく顔をあげると、書斎机の前に座り、紙と
筆を取り出した。
しんたん
深呼吸を一つ。
心胆を整えると、脇目も振らず、燻る想いを猛然と書き綴り始め
た。
殿下がお羨ましい。私はお傍にいても視線一つもらえないのに、
いともあっさり視界に留まり、優しくお声をかけていただいて、羨
ましい
不敬極まりない文面だが、今は気にしない。
ナディア様もナディア様です。婚約者が目の前にいるというのに、
殿下ばかりにお声をかけて、私のことは放置されるのですから。私
は視界に入っていないとでも? その眼は節穴ですの? 嫌がらせ
ですの?
つれない想い人にも、筆による舌鋒を容赦なく浴びせる。食らう
が良い!
調子が出てきた。手は休まることを知らない。天衣無縫の詩人の
ように、淀みなく白紙を埋めていく。
子供の頃、ラムーダを触らせて欲しいとお願い申し上げた時、す
げなく断れました。あれ以来怖くて口にできません。私が怖くてで
1122
きないことを、殿下は容易く叶えてしまう。羨ましいのですわ
音楽を愛する人だから、ラムーダに神力が宿ると聞いて、喜ばし
く思ったけれど⋮⋮本当は、心のどこで哀しみも感じていた。
こんな風に妬んでばかりいる、自分が大嫌い
アンジェリカは手を休めると、息を吐いた。己の未熟さに向き合
うのは、勇気がいるし胸が痛む。
けれど、顧みることも必要だ。再び机に向かうと、勢いよく筆を
走らせた。
大人になりなさい。妬んでも無意味なのだから。教養と忍耐を身
につけなさい
ちんしもっこう
短気を起こす度に思う。家族は皆、沈思黙考に秀でた佳人だとい
うのに、どうして一人だけこうも味噌っかすなのか⋮⋮。
一途に自信があっても、主張が過ぎては意味がないのよ
﹁ふぅ⋮⋮﹂
ようやく筆を置くと、勢いで書いた手紙を読み返してみた。
上出来だ。
とても人には見せられない、過激な心の声が全て書かれている。
綺麗に封をして、アンジェリカの署名を入れた。あとは使いに渡
せば届く。
もちろん、渡さない。
これはアンジェリカ流の、落ち込んだ時の対処方法なのである。
勢いに任せて筆を走らせ、きちんと封をして机に眠らせる。その
1123
気になれば、いつでも渡せる、という風にしておく。しかし実際は、
どんなに苛立っていても、二・三日も経てば、その手紙を本人に渡
そうという気は微塵もなくなる。むしろ読み返すと、恥ずかしさの
余り顔から火が出そうになる。
最後は燃やすか細かく千切るかして、どうしようもなかった気持
ちを消化させるのだ。
一仕事を終えて、非常にすっきりした。
しかし︱︱
すっきりし過ぎたせいで、アンジェリカはよりによってこの日、
その手紙をしまい忘れて、書斎机の上に置きっぱなしにしてしまっ
た⋮⋮。
更に気分転換しようと午後から出掛けてしまう。
日頃手紙を預かる召使は、机の上に置かれた手紙を見て、いつも
のように回収してしまった。そのように命じられてる召使に罪はな
い。
帰宅したアンジェリカが気付いた時には、手遅れだった。
﹁あぁぁ︱︱っ!!﹂
絹を引き裂くような叫び声を聞いて、家中の人間が集まった。ア
ンジェリカは泣きながら、ことの顛末をアマハノフに聞かせた。
﹁わ、私⋮⋮っ⋮⋮取り返しのつかないことを⋮⋮っ!! いくら
むべ
殿下だって、怒られるわ! 嫌われたっ、きっと嫌われた⋮⋮っ、
どうしようっ﹂
がいたん
憐れ︱︱慨嘆も宜なるかな⋮⋮。
友達
だと言ったア
勝気な娘が取り乱す姿を、アマハノフは久しぶりに見た。
しかし、その恥も外聞もなく狼狽える姿は
ンジェリカの言葉を、思慮深く明晰な彼に信じさせた。
1124
ゆうぎ
かんじょ
﹁もし、本当に殿下が友誼を抱いてくださっているのなら、ご寛恕
くださるだろう。出してしまったものは仕方がない。急ぎ、もう一
通書きなさい。誤魔化すのではなく、偽りのない澄んだ本心を伝え
なさい。嫌われたくない、友達でありたいのだと﹂
賢明な父の言葉に従い、アンジェリカは胃を痛くしながら、何度
も書き直した。
完全に自業自得であるが、ぼろぼろになりながら手紙を書き上げ、
縋るように召使に託す姿は憐れであった。
結果は、果たして︱︱
1125
41 ﹃祈り﹄ − ナフィーサ −
ロザイン
ナフィーサ・ユースフバード︱︱神殿上級神官、花嫁の従者
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、シャイターンの花嫁の
身の周りの世話を務める従者として通門拠点に同行する。
東西戦争における後方支援の要、通門拠点﹁国門﹂にて、ナフィ
ーサは花嫁らと共に、日夜運ばれる負傷兵の看護に奔走。多忙を極
める日々の中、花嫁の傍で幾つもの苦楽を共にし、ナフィーサは十
二歳になっていた。
目まぐるしく日々。出会ってから、およそ一年半近くが経とうと
していた︱︱
︱ ﹃祈り・一﹄ ︱
カテドラル
代々神官を務める名門に生まれたナフィーサは、五歳になると共
に親元から離され、大神殿の神官宿舎に預けられた。
短い子供時代は終わりを告げる。
それまでの裕福な暮らしから一遍して、厳しい沈黙の戒律、贅沢
とは対局にある清貧の暮らしを強いられた。最初は辛くて泣いてば
かりいたが、どれだけ泣いても、無邪気な子供時代には戻れなかっ
1126
た。
給仕や召使の仕事をしながら、あらゆる礼儀作法を学んだ。
末子のナフィーサは内省的な性格で、幼少時は優秀な兄達の影に
隠れがちであった。しかし、神官宿舎で共同生活を送るうちに才能
を認められ、七歳になる頃には一位神官として、典礼儀式に従事す
るようになる。
シャトーウェルケ
八歳を迎える頃には、早くも上級神官として認められ、天球儀の
シャトーアーマル
指輪を授けられた。高名な最高位神官、サリヴァン・アリム・シャ
イターンや神殿楽師のイブリフ老師から、天文学信仰を学び、同時
に公宮作法や様々な神事を学んだ。
そして九歳の終わりに、運命は大きく動く。
厳しい聖戦のさなか、ムーン・シャイターンが花嫁を得た朗報に、
アッサラーム中が歓喜した。
アッサラーム軍の凱旋直前まで、大神殿では花嫁の傍に召し上げ
る神官人事について、協議が交わされていた。
一名はムーン・シャイターンに幼少時から仕えている、ルスタム・
ヘテクレースにほぼ確定していたが、もう一名の選定に難航してい
た。
由緒正しいユースフバード家も候補に挙げられていたが、優秀な
兄が上に二人いるので、ナフィーサは己に白羽の矢が立つとは露ほ
ども考えていなかった。
審査過程は極秘の為、詳細は不明であるが、神殿の選定をムーン・
シャイターンが認可する形で、最終的に選ばれたのはナフィーサで
あった。
︱︱私に務まるのでしょうか⋮⋮。
最初は戸惑いの方が大きく、凱旋の日を迎えることが怖くもあっ
た。
家族からは賛辞と激励を送られ、栄えある名誉を受け入れなくて
1127
は⋮⋮そう思っていた。
初めて主となる花嫁に出会った日のことを、今でも忘れない︱︱
﹁あ⋮⋮僕は光希と言います。これからお世話になります。よろし
くお願いいたします﹂
花嫁は年の割に小柄で、本当に、黒い髪と瞳をしていた。
清らかで親しみやすい笑顔を見た瞬間に、迷いは消えた。この方
に全身全霊をかけてお仕えしよう、そう心に決めた︱︱
+
あれから、一年半。ナフィーサの信仰と生活は、全て花嫁と共に
ある。
ルーンナイト皇子が国門からノーヴァ海岸に向けて軍を発した後、
アッサラームと通門拠点間の伝令を務めるケイトが、任務の合間を
縫って国門へ立ち寄った。
ナフィーサは敬愛する主を想い、とある提案をする。
机の肥やしになっている花嫁の手紙を、ムーン・シャイターンに
届けるのだ。ケイトに託すと快諾と共に、その日のうちに前線に向
かってくれた。
数日後。ケイトはムーン・シャイターンの返事を携えて、国門に
無事帰還を果たした。
﹁ありがとう、ケイト!﹂
﹁お役に立てて、光栄です﹂
返事を両手で受け取り、満面の笑みを浮かべる主を見て、ナフィ
ーサはケイトと密かに視線を交わし、互いの健闘を讃え合った。
1128
すぐにでも手紙を読みたいであろう、主の傍をしばし離れる。
頃合いを見て私室を訪ねると、花嫁は寝椅子に深く沈み込み、手
紙を握りしめたまま涙を流していた。
﹁殿下⋮⋮?﹂
﹁あ、ごめん⋮⋮心配しないで。悪い知らせじゃないから﹂
花嫁は頬を流れる涙を拭いながら、照れ臭そうに笑った。
﹁お茶をご用意したのですが⋮⋮﹂
﹁ありがとう。もらうよ﹂
ジャスミンを浮かべた紅茶をカップに注ぎながら、花嫁に尋ねて
みた。
﹁⋮⋮ムーン・シャイターンは、なんて?﹂
﹁うん⋮⋮順調みたい。ヤシュム達も皆元気だって。あとは、僕の
心配ばかり書いてあるよ。衛生の手伝いも程々にとか、クロガネ隊
の仕事まで掛け持ちは止めなさいとか⋮⋮﹂
﹁その通りでございますね﹂
せっこう
﹁僕が斥候の中継は難しいって書いちゃったものだから、アルスラ
ンによく相談するようにって、いろいろ助言が書かれてるんだけど
⋮⋮僕のせいで困ったことになってないか、心配になってきた﹂
花嫁は手紙から顔をあげると、不安げに視線を揺らした。
1129
﹁アルスラン将軍がいらしてから、ここも大分落ち着きましたよね。
お忙しくされていますが、皆同じでございます。殿下も十分お忙し
いではありませんか﹂
﹁僕は要領悪いだけ。アルスランってすごいよね⋮⋮ジュリがナフ
ィーサの仕事ぶりを褒めてるよ。この手紙の件にしても⋮⋮面倒ば
かりかけて、ごめんね﹂
﹁いいえ! とんでもありません﹂
﹁ジュリ、すごく喜んでくれたみたい⋮⋮。背中を押してくれて、
ありがとうね﹂
穏やかな笑みを浮かべる主を見上げて、ナフィーサも表情を綻ば
せた。
﹁我が喜びです﹂
﹁はぁー⋮⋮、会いたいなぁ﹂
﹁そうですねぇ⋮⋮﹂
﹁ジュリの顔を忘れそうだよ﹂
﹁まさか!﹂
なんという不敬を口にするのか。しかし、花嫁の瞳は﹁冗談だよ﹂
と笑っている。
1130
﹁早く、お戻りになって欲しいですね﹂
﹁本当にね⋮⋮そのうち、手紙に向かって話しかけちゃいそうだよ﹂
主は寂しそうに手紙を眺めたかと思えば﹁元気?﹂と本当に声を
かけた。
返事を届けたくとも、間もなくノーヴァ海岸と中央陸路で同時に
開戦を迎える。しばらく個人的なやりとりを交わす余裕はなくなる
だろう。
﹁⋮⋮ナフィーサ、大きくなったよねぇ﹂
茶器を片そうと立ち上ると、花嫁はナフィーサを見上げて、唐突
に呟いた。
﹁そうですか?﹂
﹁初めて出会った時は、僕よりずっと小さかったのに⋮⋮。何歳に
なるんだっけ?﹂
﹁十二でございます﹂
﹁来年はもう成人かぁ﹂
親が子の成長を愛でるような眼差しを向けられ、ふと照れ臭い想
いに駆られた。
は
﹁ナフィーサが成人に佩くサーベルには、僕が彫刻を入れるよ﹂
﹁え、本当ですか?﹂
1131
くろがね
シャイターンの花嫁は、優れた細工師でもある。特に鉄の彫刻に
は、素晴らしいシャイターンの加護を宿すのだ。
え
﹁うん。何でも好きな柄を入れてあげる﹂
﹁ありがとうございますっ!﹂
シャトーメジュラ
晴れやかな気持ちで、ナフィーサは満面の笑みを浮かべた。
ナフィーサは、サリヴァン師のように星詠神官を目指しているが、
花嫁に仕える限り護剣の役目も担う。刀身に花嫁自ら神力を与えて
くれたら、きっと何よりも強い剣となるだろう。
﹁そのうち、背も抜かされちゃうんだろうなぁ⋮⋮﹂
誇らしい気持ちで頷いた。そうでなければ困る。花嫁を守る従者
なのだから︱︱
1132
42
︱ ﹃祈り・二﹄ ︱
嵐のように毎日は過ぎ去ってゆく。
特にノーヴァ壊滅後は、続々と負傷兵が運ばれ、数えきれないほ
ど青い星へ旅立っていった。
黄昏の国門。
窓から射しこむ黄金色の斜光は、紗を擦りぬけて、病室の半ばま
で照らしていた。柔らかな光が、苦痛に呻く彼等のせめてもの慰め
になれば良い。
﹁殿下、もうお休みになりませんか?﹂
疲れ切った花嫁の顔を見て、ナフィーサは声をかけた。
﹁うん⋮⋮少しだけ﹂
そういって、少しで済まないことは判っている。ローゼンアージ
ュも、ナフィーサに視線で﹁もっと止めろ﹂と無言の圧をかけてく
る。悩むところだ。昨夜運ばれてきた、前線の負傷兵の容体が心配
1133
なのだろう⋮⋮。
結局、ナフィーサが迷っている間に、花嫁は次の病室へ向かって
しまう。こういう時、もう一人の従者、ルスタムの存在を思い出す。
彼ならどうしたか︱︱
﹁意識が戻らないな⋮⋮﹂
花嫁は、昨夜運ばれてきた若い負傷兵の枕元に跪くと、額に浮い
た汗をそっと拭いた。包帯の具合を確かめて、痛みを取り除こうと
するように患部にそっと触れる。
ここへ来て、もうどれだけ見送ったか判らない︱︱
花嫁は、同胞を一人きりで逝かせることを恐れてた。
夜半は当直も減りがちで、夜には息のあった者も、陽が昇る頃に
は姿を消していることが多々ある。誰にも告げず、隊服やネームプ
で
レートだけ残して、青い星へ還ってしまうのだ。花嫁は、彼等の残
んぱ
していった痕跡を、歯を食いしばって回収する。周囲に悲しみが伝
播しないように、泣くまいとする姿は、見ていて胸が痛かった。
﹁殿下、そろそろ休憩にしませんか?﹂
少しだけ、と言いつつ大分過ぎた。幸いにして、心配していた負
傷兵は容体を持ち直した。峠はもう越えただろう。
今度は花嫁も﹁そうだね﹂と言って立ち上る。
終課の鐘はとうに鳴っているが、煉瓦造りの大広間には、まだ大
分人が残っていた。それぞれ食事したり、剣に油を塗ったりして寛
いでいる。
とても静かな時間だ。
天井から吊るされた鋼の円環照明が、疲れている彼等の横顔を、
仄かに照らしている。顔に落ちる陰影は、どことなく物哀しい印象
を与える。
1134
ほしょう
ナフィーサ達も黙々と食事していると、俄かに外の様子が騒がし
くなった。
顔を上げて様子を窺っていると、城壁で歩哨任務に就いていた兵
士が、室内に駆け込むなり叫んだ。
﹁︱︱伝令! ムーン・シャイターンが、ハヌゥアビスを破りまし
たっ!!﹂
その場にいた全員が振り向いた。次々に声が上がる。
﹁本当か!?﹂
﹁ついにか!!﹂
﹁やったな﹂
﹁ではアッサラーム軍が勝利したのか!﹂
思わず呼吸すら止めて、ナフィーサも知らせを運んだきた歩哨兵
を凝視した。
﹁詳しい状況はまだ伝わっておりませんが、各将は全員無事と聞い
ています。夕方には掃討戦に移り、サルビア軍は前線から陣を下げ
たそうです。本陣は⋮⋮中央拠点を制圧いたしましたっ!!﹂
﹁﹁オォッ!!﹂﹂
途端に割れるような喝采が起きた。中身の入ったゴブレットが宙
を舞い、ついさっきまで静まり返っていた空間は、大衆酒場のよう
に騒然となった。
カテドラル
ナフィーサも思わず立ち上り、歓声を上げた。勢いのまま祝詞を
叫ぶ。祝福を告げる大聖堂のカリヨンが、高らかに鳴り響いた気が
した。
1135
熱に浮かされたように隣に座る花嫁を振り向くと、花嫁は目を潤
ませて、口元を手で押さえていた。周囲の歓声に応えるように、無
言で何度も頷いている。その様子に気づいた兵士達は、花嫁の周囲
に集まり、口々に﹁殿下﹂と話しかけた。
﹁殿下、もう大丈夫でございますよ﹂
せっこう
﹁これで本陣も撤収の目途が立ちます!﹂
﹁斥候の連絡を待ちましょう﹂
﹁我々の勝利が決まったも同然です﹂
﹁ムーン・シャイターンも、間もなくお戻りになるでしょう﹂
花嫁は笑おうとして、失敗した。消え入るような声で﹁はい﹂と
答え、俯く。慈雨のように、ぼろぼろと涙が零れた。
その姿を見て、ナフィーサの胸にも切なさと歓喜がないまぜにな
ってこみあげた。痛いほど気持ちが判る。この場にいる全員が判る
はずだ。
花嫁は少しだけ顔をあげると、隣に座るナフィーサを確認した。
遠慮がちに頭を寄せてきたので、ナフィーサの方から手を伸ばして
抱きしめた。
﹁良かったですね、殿下⋮⋮っ﹂
﹁うん⋮⋮っ、あぁ、良かった!! 良かったぁ⋮⋮無事だって﹂
花嫁は強い力でしがみついてきた。ナフィーサもしっかり抱きし
めながら、涙を流した。この時を、どれほど待ち望んでいたことか。
よみ
︱︱アッサラームを嘉したもう、シャイターンよ! お導きに感
謝を⋮⋮!
1136
知らせを聞いて、続々と兵士が集まってきた。仲間と騒々しく喜
びを分かち合い、次いで花嫁の傍に駆け寄る。花嫁の対面に座るロ
ーゼンアージュは、そわそわし始めた。周囲を牽制すべきかどうか、
迷っているのだろう。
そのうちに、アルシャッドとアルスランも姿を見せた。
﹁この日を、どれほど待ち望んだことか﹂
隻腕の将軍がしみじみと呟くと、丸眼鏡の奥から眼を細めて、ア
ルシャッドも﹁長い戦いでしたね﹂と相槌を打つ。
﹁大丈夫ですよ、もう﹂
アルスランは左腕を伸ばして、ナフィーサと花嫁の頭を交互に撫
でた。
﹁お前はいつも通りだな⋮⋮﹂
黙々と食事を続けるローゼンアージュを見るや、彼は感心したよ
うに呟いた。
花嫁はゆっくり顔をあげると、泣き腫らした真っ赤な顔で、照れ
臭そうに笑った。
﹁アージュも、喜んでますよ。ね?﹂
花嫁がローゼンアージュに笑い掛けると、珍しく彼も笑みを浮か
べて﹁はい﹂と短く応えた。
見渡せば、皆、こちらを見つめて笑顔を浮かべている。花嫁は窓
の外を見上げると、語りかけるように呟いた。
1137
﹁ありがとうございます。僕達を守ってくれて⋮⋮星に還った仲間
にも、どうか伝えてください。もうすぐ、アッサラームに帰れるよ
って⋮⋮﹂
その囁きを聞いた者は、その場に跪いて手を胸の前で交差させた。
波紋が広がるように、周囲の者も次々と膝を折っていく。
喧噪は去り、再び静けさに包まれた。やがて全員が跪き、遥かな
よど
るアッサラームを、同胞を、逝きし人との行きし日々を想い、静か
な黙祷を捧げた。
薄く開いた窓から風が流れこみ、血や汗の澱んだ匂いを攫ってい
った。
代わりに清涼なジャスミンの香りが辺りに漂う。懐かしいアッサ
ラームに吹く風だ。
瞳を閉じれば、蜃気楼に揺れる金色のアッサラームが目に浮かぶ。
あの懐かしい聖都へ、帰れる日はきっと近い︱︱
1138
43
︱ ﹃祈り・三﹄ ︱
翌朝。嬉しい知らせは続く︱︱
アルスランは病室の入り口に立つと、誰かを探す素振りを見せ、
花嫁を見るなり駆け寄ってきた。慌ただしい様子に、周囲は何事か
と顔を上げる。
彼は花嫁の傍に跪くと、口を開きかけて迷ったように閉ざした。
﹁アルスラン⋮⋮?﹂
花嫁はアルスランの強張った顔を見て、緊張したように姿勢を正
した。悪い知らせなのだろうか⋮⋮ナフィーサも身構えてアルスラ
ンの言葉を待った。
せっこう
﹁今、斥候から知らせがありました。ジャファールが、無事だと⋮
⋮﹂
﹁本当っ!?﹂
﹁あぁ﹂
1139
﹁良かった︱︱っ!﹂
室内の空気は一瞬にして明るくなった。悪い知らせどころか、こ
こにいる全員に希望を与えてくれる、素晴らしい知らせではないか!
﹁おぉっ⋮⋮、ご無事であったか﹂
﹁それは良かった﹂
﹁生きておられたか﹂
﹁いつ、お戻りになるのですか?﹂
﹁今、どちらに?﹂
﹁戻ってこられるのですか?﹂
﹁誰が知らせを?﹂
唾を飛ばしかねない勢いで、矢継ぎ早に飛んでくる質問に、アル
スランは一つずつ答えた。
しちょう
﹁中央遠路に向かう輜重隊の、護衛任務に就いたサイードからの連
絡だ。ノーヴァ側の絶壁に暮らす、山岳民族の集落にいるらしい。
怪我を負っているそうだが、命に別状はないと。回復を待って、本
陣と合流してから戻ると聞いた﹂
﹁良かったぁ、本当に⋮⋮﹂
声を震わせ目頭を押さえる花嫁を見て、あちこちでもらい泣きし
ている。ノーヴァから生還した飛竜隊の兵士は、その場に泣き崩れ
た。くぐもった唸り声を上げる同胞を、周囲の兵士が背中を叩いて
慰める。
﹁アルスランッ! 良かったですね!﹂
1140
花嫁がアルスランの肩をぐっと掴むと、彼もようやく表情を緩め
た。潤んだ眼差しを隠すようにして顔を俯ける。
﹁︱︱はい﹂
﹁絶対に、会えますよ﹂
花嫁は膝立ちになると、下を向いているアルスランの頭を抱きし
めた。アルスランも左腕を伸ばして、花嫁の背中をきつく抱きしめ
る。大きな手は、少し震えていた。
﹁生きていてくれた⋮⋮﹂
掠れた声には、絶望に射しこむ一条の光を見出したような響きが
あった。それを聞いて、ナフィーサの胸は杭を打たれたように締め
つけられた。
皆が待ち望んでいた知らせだが、兄弟の絆で結ばれた彼こそ、待
ち望んでいたことだろう⋮⋮。
誰も口にはしなかったが、ジャファールの安否は絶望的だった。
もう、戻ってくることはないだろうと⋮⋮ほぼ全員が思っていた
はずだ。ナフィーサもそうだ。気丈に振る舞うアルスランの前では、
とても口にできないが、いよいよ本陣を引き上げる時、彼にどんな
い
言葉を掛ければいいものか、昨夜も考えていたくらいだ。
彼は、挫けずに祈り続けていた。聴き容れずには、いられなかっ
たのだろう。天は汲み取ってくださったのだ。
﹁大丈夫、絶対に皆で帰れます﹂
花嫁が声をかける度に、アルスランは小さく頭を上下させて頷い
1141
た。昨日とは慰める立場が逆だ。ナフィーサの目には、花嫁がそう
して慰める様は、とても清らかな光景に映った。
アルスランはやがて顔を起こすと、少し赤い眼をして笑った。
﹁これから、撤収準備で忙しくなりますよ﹂
抱擁される間に、自分を立て直したらしい。いつもの冷静な口調
に戻っている。
﹁そういう忙しさなら、大歓迎です!﹂
花嫁の笑顔は、周囲にも伝染した。木漏れ日が差すように、暖か
な空気が流れる。
﹁ノーヴァ海岸も持ちこたえました。引き際の判断が難しかったが、
ルーンナイト皇子の粘り勝ちでしょう﹂
﹁良かったぁ⋮⋮﹂
﹁彼も大きな軍功を立てましたね。あとはもう、上層部の仕事でし
ょう。我々の任務は、後片付けと撤収編隊です﹂
アルスランが周囲に向かって﹁お前達も、早く治せよ﹂と声をか
けると、威勢のいい返事があちこちから返ってきた。
+
サルビア陣営から和睦調停の申し入れがあり、八十日以上にも及
ぶ東西大戦は収束に向かいつつある。
アルスランの言った通り、国門は大戦の事後処理に追われ、全員
1142
が深夜まで作業をしなければならなかった。
それでも、任務に従事する兵士の顔は明るい。
ノーヴァ海岸の飛竜大隊は早くも撤収を始め、アッサラームに向
けて順々に戦地を後にしていた。
ノーグロッジ拠点と中央拠点も撤収の目途が立ち、三十日も経て
ば国門を通過するだろう。
いよいよ、アッサラームへの帰還が目に見えてきた。
開戦から九十余日。
花嫁はアンジェリカから二通の手紙を受け取り、返事に頭を悩ま
せていた。
﹁⋮⋮謝罪の便りに対して、お返事をすれば宜しいのでは?﹂
文面の仔細は知らぬが、およその事情は聞いた。アンジェリカは、
送るつもりのない手紙を手違いで送ってしまい、その詫びを二通目
にしたためたらしい。
﹁まぁね。ただ、最初に届いた手紙も、彼女の本音だからな。聞か
なかったことにするのも⋮⋮﹂
﹁ですが、向こうはそうして欲しいのでは?﹂
﹁うーん⋮⋮アッサラームに着いたら会えるかな。顔を見て話した
方が早そうだ⋮⋮。僕で良ければ、いつでも話を聞きますよ⋮⋮っ
と﹂
返事の方針が決まったらしく、花嫁はさらさらと筆を走らせた︱︱
1143
1144
44 ﹃あるアッサラームの詩﹄ − ルスタム −
ロザイン
ルスタム・ヘテクレース︱︱神殿騎士、花嫁の従者
カテドラル
十五歳の頃から、大神殿に預けられたジュリアスに預けられたジ
ュリアスに仕え、聖戦後は花嫁にも仕えた。
敬虔な信徒であり、また二人の素顔を知る、数少ない人間の一人
でもある。
東西戦争の間は、聖都アッサラームに残り、シャイターンと花嫁
の暮らす私邸の管理を任された。
︱ ﹃あるアッサラームの詩・一﹄ ︱
アルサーガ公宮の広大な敷地の中に、シャイターンと花嫁の暮ら
す、美しいペール・アプリコットカラーの豪邸がある。
クロッカス邸の呼び名で親しまれる邸宅は、その名の通り周囲を
一面の青紫色のクロッカスに囲まれており、正面から見た時、睡蓮
の浮かぶ泉に鏡のように映りこむ。
とう
泉の脇には、ツユクサや白いジャスミンが寄り添い、涼しい水辺
に彩りを添えている。
この美しい景観に、思わず足を止める来訪者は多い。
花嫁の私室はアール川に面しており、テラスに出ると、滔々と流
1145
れゆく、煌めく水面を一望できる。花嫁は毎日のように、ここでお
茶を飲んだり、朝食を摂って過ごした。天井から吊るされたソファ
ーブランコは特にお気に入りで、時にはシャイターンと並んで座る
こともある。
夕食は専用のパーラーよりも、私室で済ませることが多く、また
中庭のゴールデン・アカシアの下で摂ることも好んだ。風や、花と
緑、土や夜の匂いが気持ちいいのだろう。
これらは全て、シャイターンが花嫁を想い、アッサラームの建築
家や芸術家達に造らせたものである。
当時は聖戦の最中で、シャイターンは前線にいた為、建設の進捗
管理はルスタムが務めた。
完成には様々な困難を伴ったが、ルスタムは協力を惜しまなかっ
た。仕える主が花嫁をどれほど渇望していたか、誰よりも知ってい
たからだ。
︱︱こんな私でも、花嫁に会えたら心が動くのだろうか⋮⋮
彼は成人したばかりの頃、こんなことを口にした。
宝石持ち
とはいえ、成人したばかりの少年が、血を流しても
あの時は、物悲しく聞こえたものだ⋮⋮
であるサリヴァンは、今でも花嫁を
の殆どは、花嫁に巡り逢えずに生涯を終える。
宝石持ち
宝石持ち
剣を持たされ、唯一口にした希望は、とても望み薄いものであった。
稀有な
事実、もう一人の
得ていない。
巡り逢わせは奇跡にも等しい。
星の導きのもと、奇跡を与えられたシャイターンには、同じだけ
の試練が与えられるだろうと、かつてサリヴァンは予言した。
本人もそう感じていたのだろう。聖戦の前と後では、あらゆる面
で変わった。
花嫁を迎える為に、この素晴らしい邸宅を建てたことも、以前で
1146
はとても想像できなかったことだ。
一兵卒と共に泥にまみれて進軍することも厭わないシャイターン
は、自身の身の回りのことに、殆ど興味を示さなかった。与えられ
たものを、無関心に享受するばかり。
しかし、花嫁︱︱青い星の御使いを、アッサラームに迎えるにあ
たり、決して天上の暮らしに劣らぬようにと、前線で戦いながら頻
うわあーっ、すごく綺麗です
繁に伝令を飛ばし、精力的に新居に取り組んだ。
苦労の甲斐があり、花嫁は新居をとても喜んだ。花嫁の朗らかな
笑顔は、その場にいた全員を笑顔に変えたものだ。
あの日から、このクロッカス邸は二人の主の帰る家となった。
長く不在にしている主達は、間もなく東西戦争から帰還する。
彼等を迎えるにあたり、やることはたくさんある。
ルスタムは主の帰還に合わせて、内装の模様替えや、召使の人事
等に着工し始めていた。この日は、庭園整備の専門家を屋敷に呼ん
だ。
﹁お久しぶりです、ルスタム様﹂
四十前後の誠実そうな男、アーナトラは嬉しそうに表情を綻ばせ
た。
アーナトラはこの邸宅の庭園を手がけた筆頭庭師であり、アッサ
ラーム史上でも三本の指に入ると称される、偉大な庭園建築家でも
ある。
﹁お元気そうですね、アーナトラ殿﹂
﹁私にできることであれば、良いのですが﹂
1147
アーナトラは柔和な瞳に、からかいの色を浮かべてルスタムに問
いかけた。
﹁ご安心ください。些細な注文ばかりですから﹂
当時は邸宅の完成に向けて、無理難題の応酬だったが、今回はそ
んな事態にはならない。軽微修繕と模様替えが主である。
﹁ご遠慮なく、やり甲斐のある庭園ですよ。我ながら最高傑作です
とも。クロッカスも見事に咲きましたねぇ﹂
アーナトラはしみじみと呟き、ルスタムも相槌を返した。
今でこそ庭園を一面青紫色に染めているクロッカスだが、植えた
当初はまだ根が小さく若葉色であった。あの時は、海を越えて輸入
した、球根や種の検疫に苦戦させられた。おかげで予定よりも納品
が遅れ、花嫁の到着まで十日を切った時点で、庭園のあちこちで地
肌が覗いていた。
しゅろ
キャラバン
庭園に限らず、テラスやサンルーム、浴室に使用する大理石や胡
桃や棕櫚等の高級木材も足りず、アッサラームを中継する隊商を駆
けずり回り、どうにか取り寄せたものだ。
﹁⋮⋮あの奔走した日々を、昨日のことのように思い出しますよ﹂
同じことを考えていたアーナトラは、ふと遠い眼をして懐かしそ
うに呟いた。
﹁忘れられませんね﹂
﹁いい思い出です。さて、どのようにいたしましょう?﹂
1148
アーナトラは微笑んだ。
﹁正面のパーゴラに、もう少し色が欲しいのですが﹂
﹁あのパーゴラも、わずか三株のモンタナが遂に天辺まで伸びまし
たねぇ⋮⋮花つきも見事だ。ラウンド型のハンギングバスケットを
吊るしましょうか。お帰りになるお二人を祝福して、リボンを結び
ましょう﹂
﹁お任せします。花は黄色にしてください﹂
﹁殿下のご趣味でしたね。八重咲きのマリーゴールドあたりを合わ
せましょう。玄関に飾るコンテナも色を変えますか?﹂
アーナトラに言われて、玄関の左右に置いてある、白磁のコンテ
ナを思い浮かべた。現在、垂れ下がるシルバーリーフに、モリスや
ポピーが植えられている。色合いは良いが、少々育ち過ぎてしまっ
たので、形を整えて欲しいと思っていたところだ。
﹁そうですね⋮⋮ラベンダーを混ぜてください﹂
﹁かしこまりました。青と白の配色で、ロベリアを混ぜて、透明感
のある青にいたしましょう⋮⋮﹂
一通り庭園を見て回り、おおよその要望を伝え終えると、確かに
ささやかでしたよ、とアーナトラは取り繕いもせず、ほっと胸を撫
青い煌めき
はお造りにならないのですね﹂
で下ろした。なんだかんだ言って、やはり心配していたのだろう。
﹁今回は、
1149
仕事の話が一段落すると、アーナトラは軽口を叩いた。
﹁花嫁はお喜びにならないと、判っておりますからね﹂
﹁素晴らしい至宝ですけれどね﹂
と呼ばれる、ダイヤモ
聖戦後、シャイターンは、アッサラームに花嫁を迎え入れるにあ
青い煌めき
たり、いくつもの贈り物を用意していた。
中でも話題を呼んだのが、
ンドのティアラである。
二四九個ものラウンド・ブリリアント・カットのダイヤモンドを
敷き詰め、中央にはえもいわれぬ輝きを放つ、二十五カラットの最
高級ブルー・ダイヤモンドが埋め込まれた。フローレスに近い、こ
︱︱
わいほどの透明度。恐ろしいほどの稀少価値。光を弾く様はまさに
青い煌めき
値段はつけられないとまで言われた。
あまりの貴重さから、宝石商から邸宅に運び入れる際、精鋭騎馬
隊が周囲を警護したほどである。
しかし、残念ながら花嫁がそのティアラを身に着けることは殆ど
なかった。
誰しもが溜息をつくと誉めそやされたが、万人を虜にできるわけ
ではないのだと、くしくも花嫁で証明されてしまった。
天上人であらせられる花嫁は、後々明らかになるのだが、宝石を
含め、贅沢な嗜好品に殆ど興味を示さなかったのである。
しかし、富も名声もある砂漠の英雄は、花嫁を喜ばせたい一心で、
ことあるごとに、そういった贈り物を用意した。
公宮における寵は、贅沢な贈り物も物差しの一つである。そのよ
うに教えられた主が、勘違いをするのも無理はない。
彼が間違いに気付くまでには、少し道のりがあり⋮⋮やがて花嫁
1150
まふ
の好みを心得ると、実用的な装剣金工の細工道具、装飾の参考にな
りそうなカリグラフィー、いい香りの花束、肌触りの良い麻布⋮⋮
身の回りのささやかなものを贈るようになった。
中でも特に喜ばれたのは、私室に隣接する応接間を、花嫁の為に
工房へ改装したことだろう。ただ、花嫁は仕事を私邸に持ち帰るよ
うになってしまい、心配の種が増えた⋮⋮というのは、余談である。
﹁⋮⋮華美な贈り物より、ささやかな気遣いを喜ばれる方ですから﹂
﹁庭園を歩くお二人の姿を、見れないことが残念でございます﹂
﹁いずれ、機会がありましたら﹂
ルスタムは控えめに微笑んだ。アーナトラは気のいい男だが、ル
スタムの一存で主達との面会を約束することはできない。彼もそれ
を十分に承知しているのであろう。気持ちの良い笑顔を浮かべた。
﹁それでは、近日中に鉢植え等を揃えてお持ちいたします﹂
﹁よろしくお願いします﹂
ルスタムは玄関の外に立ち、アーナトラの背中が見えなくなるま
で見送った。
1151
45
︱ ﹃あるアッサラームの詩・二﹄ ︱
ルスタムは、夕陽に染まる美しい邸宅をしみじみと眺めた。
ロザイン
黄昏の静かな一時に、在りし日の二人を思い出す。
花嫁の従者であるルスタムは、もう一人の従者ナフィーサと、花
嫁が行く場所はどこへでも同行した。時には二人の邪魔をしないよ
う、見えない所まで下がる。そんな時、傍らでナフィーサはこんな
言葉を零した。
﹁時々、お二人を見ていると、詩のように美しいと思うことがあり
ます﹂
ナフィーサは照れたように、大袈裟でしょうか? と続けたが、
ルスタムも同じように思ったことがあった。
例えば⋮⋮
アール川の河川敷にビロードの絨緞を敷いて、二人で寝そべり、
のんびりと煌めく川面を眺めている後ろ姿。
せいひつ
流れる風は微かに梢を揺らし、水面を揺らめかせる。せせらぎと
梢の音。小鳥の囀り。静謐な美しい時間は、見ているだけで不思議
1152
と心が安らいだ。
例えば⋮⋮
青紫色に染まるクロッカスの庭園を並んで歩く姿。
散歩を好む花嫁は、一人でもよく中庭を歩いている。気ままに草
花を眺めて、時には椅子に掛けて一休みする。
シャイターンが傍にいる時は、それらの散歩道を並んで歩く。手
を繋いで歩く姿は、見ていて微笑ましいものであった。
他にも、数え上げれば切がない。
とばり
朝露に光る石畳を、並んで歩く姿。木漏れ日の下で寛ぐ姿。夜の
帳の下、森の匂いの立ち込める庭園を眺めている姿。
中でも、特に忘れられない光景がある。
黄金色に染まる、黄昏時。
アルサーガ宮殿の黒いシルエットが空に浮かび上がり、白い鳥の
カテドラル
群れが色を添えるように、優雅に飛んで行く⋮⋮
遠くで鳴る、大神殿のカリヨン。
夕暮れの心地よい風。
漂うジャスミンの香り。
音も、風も、光も、香りも⋮⋮全てが見事に調和していた。
そんな詩のように美しい一時を、二人は中庭に置かれたソファー
で寄り添い、夕涼みをしながら楽しんでいた。
深い感動を受けたことを、今でも覚えている。
アルサーガ宮殿での華々しい婚礼儀式や、二人で正装して神事に
出席する姿も、厳かで素晴らしいが、それよりも、何気ない日常の
光景の方が不思議と心に残っている。
それはきっと、二人並んで寛ぐ姿が、神聖というよりも、温度の
ある優しさを見る者に与えるからだろう。
そんな話をナフィーサにすると、その時の光景を隣で見ていた彼
もまた、深く同意を示した。
﹁覚えています、その時のこと。日常の一時に、そんな感動を味わ
1153
えるなんて、とても幸せだなぁと思いましたよ﹂
﹁本当に。この邸宅を建てるにあたり、苦労があった分、尚更そう
感じるのかもしれませんが⋮⋮﹂
邸宅の完成にいたる経緯を、多少なりとも知っているナフィーサ
は、ルスタムを見上げて、労わるように深く頷いた。
﹁本当に、素晴らしいお邸宅です﹂
そしてナフィーサもまた、特に忘れられない光景を語った。
﹁幸運なことに、日々お目にかかれる光景なのですが、殿下が青い
星を仰ぎ見るお姿に、心を打たれます。青い星の御使いがアッサラ
ームに降りてきてくださり、今私の目の前にいらっしゃるのだと⋮
⋮実感するあの瞬間は、もう、本当に言葉に言い表せません﹂
なるほど、ナフィーサらしい⋮⋮それにしても、同じ光景でも、
見る者によって印象は変わるものだ。
﹁そうですね。同じ光景を、シャイターンは、どちらかといえば不
安に思われるそうですよ﹂
﹁えっ?﹂
﹁花嫁が、神の御許に還ってしまうのではないかと思うそうです。
殿下が昼でも星の見える望遠鏡を造られ、彼の星を覗いた時は、特
にそう思われたとか﹂
ナフィーサは表情を曇らせた。
1154
﹁そんな⋮⋮それは、悲しいお考えでは。殿下は、そんなおつもり
はないと思うのですが﹂
﹁時には、懐かしく思われるのかもしれませんよ﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁我々も神殿に預けられた時から、それまでの生活とは断絶させら
れますが、それでもアッサラームにいることに変わりはありません。
殿下はもう⋮⋮青い星に還ることは叶わないのですから﹂
︱︱生きている限りは⋮⋮
﹁いいえ。アッサラームこそ、殿下のお還りになる場所です﹂
ナフィーサは少々むきになったように、はっきりと告げた。あの
やり取りを懐かしく感じる。思えばあの年若い神官にも、しばらく
会っていない。
元気にしているだろうか?
花嫁は、危ないからとナフィーサを置いて行こうとしたが、本人
は頑として譲らなかった。
信念や忠誠に年は関係ない。ナフィーサは真剣だった。
迷いのないナフィーサの想いは、最終的に花嫁の心を動かし、ア
ッサラームから遠く離れた国門への同行を許された。
東西戦争は終結に向かっている。
もう間もなく、花嫁はシャイターンと共に帰ってくるだろう。
また、寄り添う二人の姿を傍で見ることができる。日常の小さな
感動を再び味わえるのだ。
1155
夕陽に染まる庭園に一人立ち、ルスタムは彼等の無事を祈った。
1156
ロザイン
46 ﹃再会﹄ − 光希 −
ひやまこうき
桧山光希︱︱シャイターンの花嫁
聖戦の最中、スクワド砂漠の南西に位置するオアシスに降臨し、
宝石持ち
ジュリアスと婚姻を結び、およそ半
青い星の御使い、シャイターンの花嫁として聖都アッサラームに迎
え入れられる。
シャイターンの
年間を公宮で過ごした後、アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍
に入隊。クロガネ隊加工班専任、非戦闘隊員、伍長勤務上等兵に任
命される。
せっこう
東西戦争では通門拠点である国門に後方支援隊として遠征に同行。
四五二年九月二五日。
現場では補給、斥候、衛生等に率先して務め、将兵らの士気向上に
貢献する。
開戦から八十余日。期号アム・ダムール
いんか
総大将を欠いたサルビア軍から、アッサラーム軍に和睦調停の申
し入れがあり、アルサーガ宮殿の印可が降りた二十日後︱︱正式に
東西戦争は終結した。
終戦後、ジュリアス率いる山岳中央拠点の本陣は、国門を目指し、
順次撤収を開始。
終戦から三十余日。中央本陣は、半年ぶりに国門への帰還を果た
そうとしていた。
1157
︱ ﹃再会・一﹄ ︱
びょう
光希は城壁に立ち、渺とした青空を仰いだ。
頬を撫でる風も、大分冷たくなったものだ。ここへ来たばかりの
頃は、暑くて詰襟の上着を脱いでいたけれど、今では着用しないと
りょうせん
肌が粟立つほど寒い。
彼方の稜線に、待望の青い軍旗はまだ見えない。けれど、きっと
もうすぐ︱︱
﹁殿下!﹂
しょうかい
背中に声をかけられて、光希は振り向いた。哨戒から戻った兵士
が、笑顔で駆け寄ってくる。
﹁間もなく、お戻りになりますよ﹂
はつらつ
嬉しい報告に、光希は溌剌とした笑みを浮かべた。今は、笑顔で
いない方が難しい。もうすぐ、ジュリアスが帰ってくるのだから。
報告に来てくれた兵士が去った後も、光希はその場に残った。
ついさっきまで、日課業務に就いていたのだが、皆が気を遣って
光希から仕事を取り上げるのだ。手持無沙汰になり、先ほどからこ
うして彼方を見つめている。
﹁昼には戻ってくるかな?﹂
後ろに控えるローゼンアージュに尋ねると、恐らくは、と彼は首
を傾けた。
1158
﹁待ってるのって、落ち着かないな⋮⋮騎馬して、迎えに行ったら
駄目かな?﹂
﹁落ち着いてください﹂
﹁はい⋮⋮アージュも、久しぶりにユニヴァースに会えるね﹂
反応がないので振り向くと、どうでもいいです、と言われた。つ
れない返事だが、なんとなく嬉しそうに見える︱︱ような気がする。
﹁︱︱あ﹂
なび
彼方に、待望の風に靡く青い軍旗が見えた。先頭の騎馬隊が姿を
見せると、次々と青い旗が閃いた。
︱︱あぁ、帰ってきた!
先頭を行く親衛騎馬隊の後ろに、間もなく、将を乗せた天蓋付の
二輪装甲車が現れた。あれに乗っているのは佐官以上の将、ジュリ
アス達だ。
﹁殿下、そろそろ下りましょう﹂
﹁うん⋮⋮﹂
そう言いつつ、彼方から目を離せない。勿体なくて動けない。あ
と少しで、見えるはずなのだ。
シャイターンの意匠の入った二輪装甲車を見つけて、光希の胸は
燃えるように熱くなった。姿は見えなくても、乗っているであろう
1159
想い人の凛々しい姿が目に浮かぶ。
﹁殿下﹂
﹁うんっ、行こう!﹂
催促されて、今度は光希も即答した。
胸を弾ませて中庭へ下りると、既に多くの兵士達が集まっていた。
英雄の帰還を出迎えようと、皆、仕事の手を休めて外に出てきてい
るのだ。彼等は光希に気付くと、笑顔で道を空けてくれる。恐縮し
ながら道なりに直進すると、やがて馴染の顔ぶれを見つけた。
﹁殿下! こちらへ﹂
アルスランに呼ばれて傍へ駆け寄ると、アルシャッドやナフィー
サも一緒にいた。
﹁ナフィーサ、ごめん。午後は仕事に戻るよ﹂
午前中は日課業務の諸々を、殆どナフィーサに押しつけてしまっ
た。ジュリアスを出迎えたら仕事に戻ろう⋮⋮そう思ったのたが、
﹁いいえ! ごゆっくりなさっていてください!﹂
﹁殿下﹂
﹁そうですよ、今日くらい⋮⋮﹂
﹁周りに気を遣われるだけですよ﹂
その場にいる全員から反対された。少々照れ臭いが、皆の心遣い
が嬉しい。光希は、お言葉に甘えて、と笑った。
1160
﹁なんだか、緊張してきました⋮⋮﹂
光希の隣で、ナフィーサは深呼吸している。その様子を見ていた
ら、光希まで緊張してきた。
﹁あ、来ましたよっ!!﹂
ついに、先頭の騎馬隊が国門の正門を潜り抜けた。
英雄達の帰還に、割れんばかりの拍手喝采、大歓声が飛び交う。
更に将を乗せた二輪装甲車が入ってくると、一際大きな歓声が上が
った。
光希も首を伸ばしてジュリアスの姿を探した。人が多くて視界が
悪い。気付いてもらえるか心配になったが、入り乱れていた兵士達
は左右に割れて、彼へと続く道を空けてくれた。
﹁光希!﹂
車から降りたジュリアスは、すぐに光希を見つけた。半年ぶりに
見るジュリアスは、相変わらず神々しいくらい美しい。
﹁お帰り、ジュリ!﹂
肩に重傷を負ったと聞いて、ずっと心配していたのだが⋮⋮ちゃ
んと自分の足で真っ直ぐ歩いている。五体満足で帰ってきてくれた。
﹁良かった⋮⋮﹂
たちま
もっとよく彼の姿を見ていたのに、いざ本人を前にしたら、気持
ちが溢れて、忽ち視界は潤んだ。
1161
﹁会いたかった﹂
﹁僕も﹂
力強い腕で光希を抱き寄せると、ジュリアスは唇に触れるだけの
キスをした。途端に、周囲から大歓声が沸き起こる。注目を浴びて
りょじん
非常に恥ずかしかったが、それ以上に嬉しかった。
旅塵にまみれ、漆黒の軍服には砂がついていたが、光希は構わず
顔を埋めた。これ以上に幸せなことなんてない︱︱そう思いながら。
抱きしめてくれる、力強い腕。
耳触りの良い声⋮⋮彼だけが、名前を呼んでくれる。
額やこめかみに触れる、優しい唇。
心地いい体温。確かな鼓動。
包みこむような安心感。
溢れるほどの幸せ。喜び⋮⋮
﹁お帰り、待ってた⋮⋮ッ﹂
最高の幸福に包まれながら、光希はくぐもった声で囁いた。頭上
で優しく微笑する気配がする。
﹁ただいま、光希﹂
その一言を聞いた瞬間、光希は心の底から満たされた。
1162
47
︱ ﹃再会・二﹄ ︱
オペラ
石畳の中庭では、壮大な歌劇が繰り広げられていた。
至る所で再会の喜びを分かち合っている。無理もない⋮⋮ここに
辿り着くまでに、彼等の一人一人が過酷な道のりを乗り越えてきた
のだ。
その様子を感無量で眺めていると、やがてジュリアスと光希の傍
にも、続々と将達が集まってきた。
﹁殿下、お久しぶりです﹂
ずっと安否を懸念されていた将軍の姿を見て、光希は眼を輝かせ
た。
﹁ジャファールッ! お帰りなさい!﹂
隣には、アルスランがいる。笑みを浮かべている二人を見上げて、
光希も満面の笑みを浮かべた。ジャファールは少しやつれたように
見えるが⋮⋮目立った怪我はなさそうだ。
1163
﹁お元気そうですなぁ、殿下﹂
ヤシュムとアーヒムも揃って姿を見せた。
﹁ただいま戻りました﹂
ぎょうしょう
更に後ろから、ナディアまで。アッサラームの名だたる驍将が勢
揃いだ。周囲の兵士達は、近寄るに近寄れず遠巻きにこちらを見て
いる。
豪勢な顔ぶれに、光希も少々気圧されたが、喜びの方が大きい。
ずっと、こんな光景を見たいと思っていたのだ。
﹁いい日だなぁ⋮⋮﹂
しみじみと呟くと、皆も明るい笑顔を浮かべた。
奇跡だと思う。
何が起きても可笑しくない戦いだった。こうしてまた、皆で笑い
合えるのは、奇跡と言っていいはずだ。
ふと、少し離れた所に立つユニヴァースと眼が合った。
﹁ユニヴァース!﹂
光希が叫ぶと、周囲の将兵らも一斉にユニヴァースを見た。あ、
ごめん⋮⋮と思ったが、ユニヴァースは大して怯まずに近付いてき
た。
﹁殿下、お久しぶりです﹂
﹁うん、久しぶり!﹂
1164
笑顔を浮かべたまま光希が振り向くと、ローゼンアージュは少し
首を傾げ、閃いたように口を開いた。
﹁︱︱あ、昼までに帰還されましたね﹂
﹁そうだけど、違うっ!﹂
つい、全力で突っ込んでしまった。
﹁よぉ、アージュ﹂
ユニヴァースが屈託なく笑うと、ローゼンアージュは澄ました顔
で、おかえり、と応えた。彼等との他愛のないやりとりを、とても
懐かしく感じる。嬉しくて、くすぐったいような、胸にこみあげる
ものがあった。
少し場が和んだせいか、遠巻きにしていた他の将兵らも集まって
きた。
もっとのんびり話せたらいいのだが、彼等の中には、すぐに出発
する者もいる。
最大五万人を収容可能な国門だが、これからも後続部隊がやって
くるので、全員は収容しきれないのだ。国門に留まる兵士は全体の
半分もいない。殆どの部隊は国門で補給を済ませると、聖都アッサ
ラームに向けて行軍を再開するのだ。
﹁気をつけてくださいね﹂
アッサラームに発つ将兵らに、光希が声をかけると、全員、眩し
い笑顔で応えた。
1165
﹁ありがとうございます!﹂
﹁お会いできて光栄でした。殿下も、どうかお気をつけて﹂
﹁一足先に、アッサラームに向かいます﹂
﹁アッサラームでお待ちしております!﹂
先発歩兵隊は国門から、およそ二ヵ月かけて聖都アッサラームを
目指す。光希も、かつて聖戦から帰還する時は、行軍の大半を歩兵
と共に進んだ。
︱︱シャイターン。どうか、彼等を無事に、アッサラームへ帰し
てください。
長い道のりであることは知っている。彼等の旅の無事を祈るばか
りだ。
逆に今、国門の警備を交代する為に、聖都アッサラームから国門
に向かっている部隊もいる。
ちなみに光希は、ジュリアスと共にしばらく国門に留まり、軍の
大半が移動を終えたところで、飛竜に乗って合流する予定である。
アッサラームに凱旋を果たすのは、まだ三ヵ月は先だろう。
﹁アッサラームが恋しいね﹂
慌ただしい旅立ちの様子を眺めながら、光希は隣に立つジュリア
スに声をかけた。
﹁そうですね⋮⋮﹂
﹁大分ここにも馴染んだけどね﹂
﹁殿下、そろそろ、私室にお戻りになられては?﹂
1166
小さくため息をつくと、絶妙なタイミングでナフィーサに声をか
けられた。
﹁うん⋮⋮ジュリは?﹂
﹁私も戻ります。流石に疲れましたよ﹂
﹁そうだよね。ついでに着替えたら? ちょっと砂っぽいみたいだ
し﹂
袖についている砂を叩いて落としてやると、すみません、とジュ
リアスは光希の肩から手を離そうとした。思わずその腕にしがみつ
く。
﹁光希?﹂
﹁いいんだよ﹂
﹁いえ、汚れますよ﹂
﹁気にしない﹂
光希が手を離さないでいると、彼も諦めたように腕から力を抜い
た。
﹁到着すると判っていたのに⋮⋮野営が長引くと、身の周りを疎か
にしがちでいけませんね﹂
﹁ジュリはいつも綺麗だよ。ちょっと砂っぽかっただけ。ここに運
1167
ばれてくる負傷兵ときたら、どうしてそうなった⋮⋮っていうくら
いドロドロで⋮⋮﹂
不意に、こめかみにキスをされた。
﹁よく頑張りましたね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ここ
皆が血を流して前線で戦っている間、光希も国門で戦っていた。
きょうじ
眼を背けたくなるような出来事もたくさんあったけれど、いつで
も、彼に恥じない自分で在りたい。その挟持があったからこそ、ど
うにか今日までやってこれたのだと思う。
頭を引き寄せられた瞬間、視界は一瞬で潤み、ポロッと涙が零れ
た。
﹁︱︱⋮⋮っ﹂
溢れる涙を慌てて拭うと、包み込むように肩を抱き寄せられた。
力強い腕が支えてくれるから、俯いて歩いていても少しも怖くない。
1168
48
︱ ﹃再会・三﹄ ︱
私室に戻った後も、光希の涙は止まらなかった。ジュリアスに抱
き寄せられて、蓋をしておいた弱さを、片っ端から開けられてしま
ったのだ。
﹁ごめん⋮⋮こ、んな、泣くはずじゃ⋮⋮っ﹂
﹁我慢しないで﹂
さす
子供を抱っこするように、膝上に乗せられた。背中を摩ってくれ
るジュリアスの首に両腕を回して、ふと彼が重傷を負っていたこと
を思い出した。<br>
﹁ごめん! 肩っ﹂
﹁平気です。もう殆ど治っているから﹂
﹁重傷だったんでしょう?﹂
1169
﹁それなりに⋮⋮今は平気ですよ﹂
﹁見せて﹂
沈黙が返った。青い双眸には、心配そうな色が浮かんでいる。光
希が、散々泣いてしまったせいだろう。
﹁いつかは、見るよ。僕はその時、泣くかもしれない⋮⋮だったら、
どうせ今泣いてることだし、今見せてよ﹂
視線を逸らさずに見つめていると、ジュリアスはやがて諦めたよ
うに上着を脱ぎ、その下のシャツも脱いだ。肩を覆う包帯も、剥が
していく。
傷は、ほぼ塞がってはいるが、まだ治りかけだ。右肩から斜めに
走る傷痕が痛々しい。どれだけの血が流れたのだろう⋮⋮
動揺が表情に出ないよう、歯を食いしばり、目を見開いていたけ
れど、やっぱり涙は溢れた。大きな手に頬を撫でられると、堪らず
その手に縋りついた。
﹁こんな、こんな、怪我を⋮⋮﹂
﹁見た目程、深くないんですよ﹂
嘘だ。かなりの血が流れたに違いない。死んでも、おかしくなか
ったかもしれない⋮⋮
﹁もう、戦わないで﹂
﹁光希⋮⋮﹂
1170
﹁次は、絶対、耐えられないよ⋮⋮﹂
﹁判っています﹂
﹁どこにも行かないで﹂
﹁行きません﹂
くすぶ
迷わずに即答されたけれど、光希は素直に受け取れなかった。
いきど
半年前、捻じ伏せた感情が、心の片隅で燻っていたのだと思い知
宝石持ち
だから。神剣闘士だから。総大将だから⋮⋮そう言
アンカラクス
らされる。傷痕を見て、あの憤りが再燃した。
ってジュリアスは最前線に向かっていった。誰も止めたりしない。
でも光希は、泣いて喚いて、引き留めたかった。
︱︱我慢したんだよ、必死にっ!!
抱きしめようとする腕を跳ね除けて、光希の方からジュリアスの
腕を掴んだ。
﹁僕は、ジュリが心配なんだよっ!!﹂
﹁光希﹂
﹁ジュリが死んだら、生けていけない。置いていかないで⋮⋮っ﹂
﹁置いてなど︱︱﹂
顔を寄せる気配を感じて、光希は大きく仰け反った。傾いだ身体
1171
を、ジュリアスは腕の中に引き寄せる。そのまま、唇を奪われた。
﹁ん︱︱っ﹂
キスが欲しいわけじゃないのに、もがいても離してくれない。手
首をきつく掴まれて、隙間なく身体を引き寄せられた。
頭の後ろを手で支えられ、口づけは増々深くなる。舌を差し挿れ
られた拍子に、彼の右肩に手を置いて、思いきり力を込めてしまっ
た。
掌に、ざらついた皮膚を感じる︱︱光希は、眼を見開いて身体を
強張らせた。
﹁ごめ⋮⋮っ、⋮⋮んぅっ!﹂
謝罪は言葉にならなかった。散々泣いた後なので、情熱的なキス
は少し苦しい。酸素を求めて顔を傾けた後も、唇の端に何度も口づ
けられた。
﹁光希を置いて、死ぬわけがない﹂
見下ろす青い眼差しは、とても真摯な光を灯していた。
﹁絶対に、光希を置いて先に死んだりしない﹂
まるで誓いの言葉のようだ。
﹁ジュリの姿を見せてくれって、ずっとシャイターンに祈っていた
光希
の名を宿した剣は、ずっと私を守ってくれましたよ﹂
んだ⋮⋮でもちっとも叶えてくれなかった﹂
﹁
1172
優しい慰めに、光希はようやく少しだけ微笑んだ。
﹁良かった。その剣は、戦場に行けない、僕の代わりだから⋮⋮﹂
﹁ハヌゥアビスと戦った時も、シャイターンがこの剣に力を貸して
くれました﹂
﹁⋮⋮僕の願いは聞いてくれないのに、ジュリには力を貸すんだ。
いいけどさ﹂
ふて腐れたように呟く光希の頬を、ジュリアスは愛しそうに手の
甲で撫でた。額に優しい口づけを落とす。
﹁きっと、剣を振るう私の姿を、光希に見せたくなかったのでしょ
う﹂
﹁どうして?﹂
﹁⋮⋮愛する人に、嫌われたくないから﹂
今度は光希の方から、ジュリアスの頬を両手で挟み込んでキスを
した。
﹁刀身に名前を入れたのは、僕だよ。昔、剣を振るうジュリの姿を、
鳥になって見たこともある。ジュリが何をしても、嫌いになんてな
らないよ﹂
﹁⋮⋮﹂
1173
﹁ジュリを、愛している。その為に、僕はアッサラームへきたんだ﹂
青い双眸は、うっすらと涙の膜に覆われた。潤んで煌めく様は、
まるで宝石のよう⋮⋮どんな宝石も、ジュリアスには遠く及ばない。
光希の至宝だ︱︱
1174
49
︱ ﹃再会・四﹄ ︱
光希は散々泣いた後、ナフィーサの手を借りて顔を洗い、その間
にジュリアスは汗を流しに行った。
は
一人で寛いでいると、ジュリアスは身軽な格好で戻ってきた。サ
ーベルは佩いているが、上は襟の開いたシャツ一枚だ
﹁髪、濡れてるよ﹂
﹁食べているうちに、乾きますよ﹂
﹁ジュリ、髪伸びたねー﹂
﹁そうですか? この間、切ったばかりですよ﹂
﹁後ろで結わけそう﹂
二人して、窓辺に敷かれた絨緞の上に胡坐を掻くと、ナフィーサ
や召使達が食事を運んできた。ジュリアスはナフィーサを見て、僅
1175
かに眼を瞠った。
﹁ナフィーサも、少し見ないうちに背が伸びましたね﹂
﹁そうでしょうか?﹂
ナフィーサは恥ずかしそうに、はにかんだ。
﹁成長期だね。いっぱい食べな﹂
光希が言うと、ナフィーサは嬉しそうに笑った。
﹁はい、いただいておりますよ。さあ、温かいうちに、どうぞお召
し上がりください﹂
絨緞の上には、湯気の立つ料理がたくさん並んでいる。豪華にし
過ぎないように、と言っておいたのだが、効果があったかどうかは
怪しい。
祝杯用の葡萄酒で乾杯した後、早速ふわふわしたオムレツをつつ
いていると、隣でジュリアスの笑う気配がした。
﹁相変わらず、卵料理が好きですね﹂
﹁うん。いくらでも食べられる自信がある﹂
﹁飽きませんか?﹂
とか食べてみたいな﹂
﹁飽きないねー。シンプルな目玉焼きとか、卵焼きも好きだよ。
目玉だらけ焼き
1176
﹁
目玉だらけ焼き
?﹂
不思議そうに聞き返しながら、ジュリアスも料理に手を伸ばした。
まっさきに手をつけたのは、鳥を丸のまま焼いた豪快な料理だ。
﹁そう。ねぇ、ナフィーサ、今度作ってよ。鉄板で、ひたすら目玉
焼きを作ればいいんだよ﹂
﹁なんですか、その偏った料理は⋮⋮﹂
ナフィーサは嫌そうな顔をした。
﹁目玉焼き祭りだよ。ジュリ、野営の食事はどうだった? ちゃん
食べてた?﹂
﹁食べていましたよ。国門のおかげで、補給も安定していましたか
ら﹂
﹁そっか。良かった﹂
ジュリアスの頬に髪が流れる様子を見て、光希はふと閃いた。
﹁食べ辛くない? これで結わいたら?﹂
工房でよく使っている革紐を渡すと、ジュリアスは器用に後ろで
一つに結わいた。
﹁おぉっ﹂
髪を結わいたジュリアスも、とても恰好いい。恋人の新鮮な姿に
1177
眼を奪われていると、食べやすい、とジュリアスは喜んだ。
﹁髪って、誰が切ってくれたの?﹂
﹁自分で切りました﹂
﹁へぇ、器用だね﹂
﹁昔は身の回りを、従卒に任せていましたけれど、最近は自分でや
る方が気楽で⋮⋮特に戦場では﹂
﹁僕なんか、ナフィーサに任せっきりだよ﹂
ジュリアスは笑った。給仕しているナフィーサも、忍び笑いを漏
らしている。
﹁でも、ここへきてから、人のお世話はかなり上手になったよ。あ
れ⋮⋮僕、ジュリと一緒に戦場行けるんじゃない? 従卒ってこと
でさ⋮⋮﹂
﹁光希が従卒なら、喜んでお世話してもらいますよ﹂
光希は目を輝かせた。割と本気でいい案だと思ったのだが、冗談
です、とあしらわれてしまった。
﹁あとはもう、アッサラームへ帰るだけですから。出番はありませ
んよ﹂
﹁⋮⋮帰った後は?﹂
1178
声に滲んだ不安を感じとり、ジュリアスは光希を振り向いた。青
い双眸を和らげ、安心させるように微笑む。
せいせんりょうりゃく
﹁しばらく、執務に専念しますよ。じきにアースレイヤが即位しま
す。あれで、政戦両略に優れていますから、東西衝突を上手く避け
るでしょう﹂
そうだといい⋮⋮アッサラームへ帰ったら、ジュリアスとお屋敷
くろがね
でのんびり過ごしたい。またピクニックもしたいし、街へ繰り出し
てもいい。
それから、クロガネ隊勤務に戻り、アルシャッド達と鉄細工の受
注も再開するのだ。やりたいことは、いくらでもある。
﹁戻ったら、のんびり過ごしましょうね﹂
二人して、同じようなことを考えていたらしい。光希は幸せを噛
みしめながら頷いた。
1179
50
︱ ﹃再会・五﹄ ︱
久しぶりに、穏やかな午後をジュリアスと共に過ごした。
満ち足りた、贅沢な時間。延々と話は弾み、合間に甘く爽やかな
葡萄酒で喉を潤した。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。
眼が覚めた時には、寝台の上で、外はもう暗かった。光希はジュ
リアスの姿を探して、控えの間にいるナフィーサを訪ねた。
﹁ジュリは?﹂
﹁お目覚めですか? 少し前に、アルスラン将軍に呼ばれて出て行
かれました。じきにお戻りになりますよ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁殿下、今のうちにご入浴されますか?﹂
﹁そうだね﹂
1180
軽い口調で応えたが、光希はかなり緊張していた。夜が色濃くな
ると、これからの時間を考えてしまう。昼間はこの緊張を忘れたく
て、ついつい飲み過ぎてしまったように思う。
恐らくジュリアスは、光希を抱きたいと言うだろう⋮⋮
けれど、彼の酷い傷痕を見た後では、負担のかかる行為に懸念が
先立つ。
ふくいく
迷いつつ、光希は専用の浴室に足を運んだ。ナフィーサは、かな
り前から準備していたに違いない。馥郁たる香りの湯が、浴槽にた
ぷんと張られている。
今夜は、ジュリアスに負担をかけないよう、光希がリードするべ
はんもん
きかもしれない⋮⋮
しゅす
煩悶を振り切り、ほてった身体に冷水をかけて浴室を出ると、灰
青色の繻子の上下に着替えた。
身支度を終えても、往生際悪く長居してしまった。
じゅうがん
観念して廊下へ出ると、涼風と共に、どこからか美しい旋律が流
るいてき
れてきた。音色に誘われて、光希は石壁に穿たれた銃眼に身を寄せ
た。
シタラ
姿は見えないが、誰かが、涙滴型のラムーダを奏でているのだろ
りょうほ
う。寄り添う月型の竪琴、タンバリンの音。微かに、歌声、笑い声
も聞こえる。
いい夜だ。
涼しい風が、ほてった肌に心地良い。
天には星が瞬き、青い星の清かな光が、国門の突き出た稜堡を蒼
銀に染めている。包み込むような光は、ジュリアスの纏う青い燐光
のよう。
光希は、自然と口元に微笑を浮かべた。恐れることはない。大好
きな人と、幸せな時間を過ごせるのだから。
緊張が剥がれ、肩から力が抜けると、迷いのない足取りで私室に
向かった。
1181
﹁あ、お帰り⋮⋮﹂
部屋に戻ると、窓辺にジュリアスが立っていた。しどけない様子
に光希の胸は高鳴った。ジュリアスは、ほっとしたような顔をして
いる。
﹁仕事は終わったの?﹂
﹁報告だけ。今日は、何もしませんよ﹂
傍へ寄ると、腰を引き寄せられた。熱を帯びる、青い双眸。密度
の高い光。満ちる、青︱︱
﹁ん⋮⋮﹂
どちらからともなく顔を寄せて、唇を重ねた。愛情を伝えあうよ
うに、触れあうだけのキスを繰り返す。微笑する気配を感じて、う
っすら瞳を開けた。
﹁きてくれないのかと、心配していました﹂
からかうように言われて、光希は照れ臭げに笑った。
﹁いや、正直、緊張してる⋮⋮﹂
心臓がおかしいくらい、早鐘を打っている。眼を合わせられずに
いると、そっと抱き寄せられた。
触れ合う鼓動は、光希と同じくらい速い。大きな手に頬を包まれ
て、そっと上向かされた。
1182
﹁ん⋮⋮っ﹂
たちま
こうこう
口づけは忽ち深くなり、熱い舌で口腔を探られた。音が立つほど、
たぎ
激しい口づけ。風に吹かれて、湯冷ましをしたばかりなのに、身体
は燃えるように熱くなる。中心に熱が滾る︱︱
﹁︱︱っ﹂
ジュリアスも同じだ。
隙間なく抱きあっているから、互いの昂りが判る。つい逃げ腰に
なると、強い腕に腰を押さえつけられた。訴えるように、腰を擦り
あわせられる。
口づけを繰り返しながら、爪先が浮くくらい抱きしめられて、そ
のまま寝台に運ばれた。
ゆっくり寝台に降ろされて、滑らかなシーツの上に背中から倒れ
る。追い駆けるように、ジュリアスが覆いかぶさってきた。
﹁大丈夫だから⋮⋮﹂
右肩に触れずにいる光希を見下ろして、ジュリアスの方から光希
の手を取って、肩に乗せた。
﹁⋮⋮手当した?﹂
﹁もう塞がっていますよ。そろそろ包帯も不要です﹂
そういって、ジュリアスは上を脱いだ。肩を覆う白い包帯が痛々
しい。
1183
﹁そんな顔をしないで﹂
﹁痛かったでしょ﹂
﹁⋮⋮多少は﹂
﹁嘘でしょー﹂
どうして、そんな見え透いた嘘をつくのだろう。死ぬほど痛かっ
たはずだ。
1184
51
︱ ﹃再会・六﹄ ︱
包帯に包まれた右肩をそっと撫でていると、手を取られた。
﹁私も、光希の肌を見たい﹂
﹁うん⋮⋮﹂
時間をかけると余計に恥ずかしくなるので、早業のように上を脱
ぎ捨てた。機敏な動きの光希を見て、ジュリアスは笑っている。
﹁子供の着替えみたいでしたよ﹂
﹁煩いな﹂
会話する余裕は、大きな掌に腹を撫でられた途端に消えた。ただ
撫でられているだけなのに、おかしいくらい、身体が敏感に反応し
てしまう。
1185
﹁んっ﹂
キスをしながら、肌のあちこちに触れられた。肌に吸いつくよう
な掌は、どこまでも滑っていく。やがて少し膨らんだ胸まで辿り着
き、先端を指先で転がされた。
﹁⋮⋮っ﹂
﹁光希は変わらないな。滑らかで、白くて⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮ジュリだって、変わらないよ﹂
傷なんて関係ない。ジュリアスはいつだって、見惚れるほど綺麗
だ。淡い褐色の肌は、星明かりに照らされて煌めいている。
しこ
端正な顔が下がり、光希は逃げるように視線を逸らした。吐息が
肌にかかる。痼った乳首を指で摘まれ、口に含まれた。
﹁んぅ、ふ⋮⋮っ、っ⋮⋮!﹂
刺激に耐えている間に、下履きごと一遍に引きずり下ろされた。
﹁あ⋮⋮っ﹂
たかぶ
昂りが空気に触れて、光希は小さく息を飲んだ。ジュリアスの長
い指先が、反り返る屹立の裏筋を撫で上げる。ぬめりを帯びた茎を
何度か扱くと、ゆっくり顔を伏せて、形のいい口で︱︱
見ていられなくなり、視線を泳がせた途端、身体の中心を熱い粘
膜に包まれた。
﹁や、ぁっ﹂
1186
圧倒的な悦楽に脳髄まで支配される。
すぼ
いじ
屹立を舌で愛されながら、秘めやかな窄まりまで弄られた。ジュ
リアスが口や手を動かすたびに、ぬぷ⋮⋮といやらしい水音が立つ。
﹁は⋮⋮ん⋮⋮っ﹂
ジュリアスが口を離した途端、濡れた切っ先が腹につきそうなく
い
らい反り返った。
あと少しで、達ったのに⋮⋮羞恥よりも快楽に支配されて、昇り
つめたい、そう口走りそうになる。光希の事情を察したように、ジ
ュリアスは淡く微笑んだ。
﹁もう少し我慢して﹂
﹁ン⋮⋮﹂
熱を帯びた眼差しは、再び、あらぬところへ落ちる。両足を大き
こうこう
く押し開かれ、光希は息を飲んだ。あわいの奥に、ジュリアスの吐
息を感じた途端、熱い舌に後孔を舐めあげられた。
﹁ん⋮⋮っ﹂
初めてされることではないが、飛びかけていた理性が戻るくらい
には、抵抗を感じる。足を閉じようとしたけれど、ジュリアスは構
わず両の親指で、入り口を広げ、舌をねじ込んだ。
﹁や⋮⋮っ、あ、ぅ⋮⋮っ﹂
みち
ジュリアスと繋がる路を、何度も舌で穿たれる。
1187
後孔が解れてくると、今度は光希の身体を横に倒して、中指を奥
に差し挿れた。
﹁んぅ⋮⋮っ﹂
光希を横から抱えるようにして、舌で乳首を舐めあげながら、指
で肉襞を擦り上げる。ジュリアスの愛撫は、相変わらず丁寧で、甘
くて、そして労わりに満ちている。
柔らかな金髪を撫でて、つんと軽く引っ張って合図すると、ジュ
リアスは首を伸ばして光希の唇を塞いだ。甘い口づけに酔いしれな
がら、身体中を解されていく。
三本に増やされた指が、光希を優しく押し広げる。前立腺を刺激
される度に、身体は魚のように撥ねた。
ふわふわと夢見心地でいたが、持ち上げた光希の足を、ジュリア
スは平気で右肩に乗せようとするので、慌てて上半身を起こした。
﹁肩っ﹂
﹁平気です﹂
ジュリアスは光希を押し倒そうとするが、光希はその手を掴んで、
ジュリアスを仰ぎ見た。煩いほど、心臓が早鐘を打っている。
﹁あの、僕も、しようか?﹂
震えながら喋る光希を、ジュリアスは熱の灯った瞳で見下ろした。
﹁⋮⋮何を?﹂
﹁その、口で、ジュリを⋮⋮﹂
1188
全部は言えずに、視線を泳がせていると、ふ、と笑う気配を感じ
た。頬を撫でられて、親指で唇をなぞられる。恐る恐る視線を合わ
せると、思わずドキッとするほど、優しい顔をしていた。
﹁光希の口で?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁こんな可愛い口に、私のなんて挿れられない﹂
﹁ん⋮⋮っ﹂
そんなことを言いながら、唇に触れていた親指は口内に潜りこん
できた。顔を引きかけたが、勇気を出して、ジュリアスの瞳を見な
がら舌を絡ませた。
こんなことをしていても、ジュリアスは未だに光希を神聖視して
いる。光希だって劣情を抱くこともあるのに、彼の瞳に光希は、穢
れない聖人に映るらしいのだ。
情事を連想させるように、顔を前後に動かしてみると、ジュリア
スは怖いくらいの真剣さで光希を見つめた。欲情しきった、青い瞳。
親指を引き抜かれ、荒々しく唇を奪われた。少し乱暴に押し倒さ
れ、柔らかなシーツの上で背が跳ねる。
光希が怪我を気にかける間もなく、大きく足を押し開かれて、熱
い切っ先を入り口に宛がわれた。
﹁︱︱挿れるよ﹂
アーモンドに似た甘い香りが漂い、あわいの奥に、ひんやりした
液体が垂らされる。挿入を助ける香油だ。用意があるのなら、舌で
1189
舐めなくても⋮⋮と一瞬思ったが、思考はすぐに弾けた。
﹁んっ、は⋮⋮っ、あ﹂
よろこ
熱い塊が、ぐぐっと光希に押し入る。久しぶりの挿入は、覚えて
いるよりもずっと、窮屈で、圧迫感があって、そして悦びをもたら
した。
好きな人と、結ばれる幸せ。
ようやく剛直を呑み込むと、ゆったりとした抽挿が始まった。光
希の様子を見ながら、熱の塊が肉洞を穿ち、粘膜を擦り上げる。
最奥を穿たれると、痛みすら走るのに、同時に幸せを感じる。ジ
ュリアスの与えてくれる熱に酔いしれながら、光希は心の中でシャ
イターンに呼びかけた。
︱︱何もいらない、ジュリがいれば、それだけいいっ!!
宝石を通して見ていると言うのなら︱︱どうか聞き届けて欲しい。
ジュリアスがいれば、ジュリアスさえいれば、それでいい。他に
何もいらないから、どうか、ジュリアスだけは守って欲しい。どん
な災厄からも守って欲しい。二度と傷つけないで⋮⋮!
不意に、ジュリアスは律動がやめた。
青い光彩を帯びた双眸が、静かに光希を見下ろしている。ジュリ
アスの身体は、神々しい青い燐光で煌めいた。
﹁光希がいれば、それでいい。他に、何もいらない。どんな犠牲も
厭わない﹂
心に思ったことと、同じ言葉をかけられて、光希は目を見開いた。
﹁︱︱っ、あ⋮⋮!﹂
1190
光希が言葉を紡ぐ前に、抽挿は再開された。激しい突き上げに、
身体を前後に揺さぶられる。肩を気にかける余裕はない。しがみつ
いてないと、吹き荒ぶ嵐のような情熱に攫われてしまう︱︱
﹁⋮⋮っ、は⋮⋮あぁ︱︱っ﹂
ほとばし
最奥に、熱い迸りを感じながら、光希もまた達した。視界は真っ
白に弾ける。猛りを損なわず、ジュリアスはすぐに緩やかな律動を
始めた。
﹁︱︱っ、ひぅ⋮⋮っ﹂
肩で呼吸をしながら、余韻に震えていると、汗の浮いた額に口づ
けられた。
﹁まだ放せない⋮⋮﹂
﹁いいよ﹂
ジュリアスの好きにして︱︱後に続く言葉を呑み込んで、微笑ん
だ。
そもそもジュリアスが一度で満足するとは、思っていない。ジュ
リアスに手を伸ばして頬を撫でると、猫のように、気持ち良さそう
に眼を細めた。
見惚れるくらい端正な顔が降りてきて、啄むようにキスをされた。
<br>
好き︱︱
想いがとめどなく溢れてくる。
愛おしい熱に包まれながら、やがて、夢を見るように眠りに落ち
1191
た。隣にジュリアスがいる幸せを、噛みしめながら⋮⋮
1192
52
︱ ﹃再会・七﹄ ︱
本陣到着から三日。
みそぎ
国門の朝に、清廉な鐘の音が響き渡った。
光希は禊を終えると、白を基調とした聖衣に着替えて、国門で一
番大きな礼拝堂に足を運んだ。これから、鎮魂の儀を執り行うのだ。
数百人を収容できる礼拝堂には、既に多くの信徒が集まっていた。
高窓から斜めに降り注ぐ陽光は、石造りの主身廊にじかに座り、
礼拝の始まりを待つ彼等を優しく照らしている。
主身廊には、ナディアやジャファール達、前線から生還した将ら
の姿もある。
皆、汗や汚れを落として、すっかり身を清めてきている。例え要
塞を兼ねる国門であっても、礼拝に血の匂いを運んでいはいけない。
礼拝の前には、身体だけでなく、携帯する武器も清める必要があっ
た。
﹁殿下、こちらへ﹂
きざはし
光希はナフィーサに手を取られて、祭壇に続く階を登った。辿り
1193
着いた高みには、清らかな純白のジャスミンが飾られている。
アッサラームの典礼儀式に比べたら、大分簡略しているが、パイ
メジュラ
プオルガンの演奏と共に礼拝は始まった。
進行役の星詠神官はナフィーサが務める。
はり
一礼すると、澄んだアルトの声で、祈祷の言葉を諳んじ始めた。
玻璃のように透明な声は、偶数の接尾が韻を踏む八音節形式を、
まるで詩のように美しく響かせる。
霊気を帯びた言の葉は、石造りの礼拝堂に厳かに響き渡り、耳を
もくとう
澄ませるアッサラーム信徒の心に沁み渡った。
皆、胸の前で両手を交差し、眼を閉じて黙祷を捧げている。
光希も眼を閉じて、心の内に呼びかけた。
︱︱戦況を教えてくれなかったのは、俺に見せたくなかったから
? それとも、シャイターンにも読めなかったの?
かいこう
もしかしたら、ジュリアスの言う通り、ぼかし、見せないことで、
光希を守っていたのかもしれない。
ゆめうつつ
心を痛めないように⋮⋮或いは、ハヌゥアビスとの邂逅から⋮⋮
誰にも話したことはないが、灰色の肌をした少年を、夢現に一度
だけ見たことがある。
錯雑たる感情に揺れはしたが、怒りや憎しみは湧いてこなかった。
かつ
彼個人に恨みはない。向こうも光希に気付いて、瞳を瞠っていた。
餓える赤い瞳。憎しみは浮いていなかったように思う。むしろ⋮⋮
﹁︱︱シャイターン、前へ﹂
ナフィーサの声で我に返ると、礼装姿のジュリアスが光希の前に
跪こうとしていた。
ジュリアスはここに集まる信徒の代表、光希はシャイターンの御
使いとして祭壇に立っている。赦しを請う者と、与える者だ。
1194
﹁穢れを払い給う、御手に口づけを﹂
ナフィーサの口上に従い、ジュリアスは光希の手を取り、甲に恭
しく唇で触れた。次は光希の番だ。事前に言われている通り、ジュ
リアスの額に唇を押し当てた。
本当は、信徒一人一人にするべきなのだが、視界に映るだけでも
数百人はいるので仕方がない。
黙祷の後は、参列者による、青き星に捧ぐ魂の合唱︱︱哀悼歌が
続く。
赦し給え。憐み給え︱︱
この後も礼拝堂は解放されているので、敬虔な信徒達は自由に祈
りを捧げられる。
光希も一刻半ほど、ナフィーサと留まり、静かに黙祷を捧げた。
あらゆる魂の安らぎを祈ることは、許されないだろうか? 甘い
と言われても、本音を言えば、誰にも傷ついて欲しくない⋮⋮
ジュリアスの傍に在る為に、最善を尽くすと誓う。しかし、祈り
だけは自由に捧げたい。
瞼を閉じて内心に呼びかけていると、霊気に包みこまれているよ
うな、慰められているような気がした。
朝時課の鐘が鳴り、鎮魂の儀、並びに礼拝は終了した。
﹁お召し替えされますか?﹂
ナフィーサに問われて、光希は頷いた。重たいし、早く脱いでし
まいたい。
聖衣を着ていると、いつもに増して注目される。今は特に、隣に
ジュリアスもいるので、そこら中から視線を感じる。声をかけられ
る度に笑顔を浮かべていたら、表情筋が引き攣ってきた。
1195
﹁殿下﹂
中庭に面した回廊で、ナディアに呼び止められた。
﹁先日はラムーダに柄を入れていただき、ありがとうございました﹂
光希は嬉しそうに微笑んだ。律儀なナディアは、前にも前線から
便りで、感謝の気持ちを伝えてくれたことがある。
﹁どういたしまして。音色はどう?﹂
﹁素晴らしいです。野営の慰みになりました﹂
﹁良かった。僕も久しぶりに、ナディアの演奏を聴きたいな。今度、
弾いてくれる?﹂
﹁もちろんですよ﹂
ナディアは笑みを浮かべて快諾すると、回廊の奥へと引き返して
いった。どうやら遠目に気付いて、わざわざ声をかけてくれたらし
い。
くん、と繋いだ手を引っ張られて、隣に立つジュリアスを見上げ
た。
﹁どうしたの?﹂
﹁やたらと、声をかけられますね﹂
﹁本当にね、この衣装のせいだよ。早く着替えよう﹂
1196
﹁そうしましょう﹂
私室に戻り、いつもの隊服に着替えると、光希は肩をぐるぐる回
して破顔した。
ジュリアスもかしこまった礼服を脱いで、椅子に座るなり長い足
を組んで一息ついている。後ろからぽんぽんと肩を叩くと、ジュリ
アスは小さく息を吐いた。
﹁ラムーダなら、私が弾いてあげるのに⋮⋮﹂
思わず、吹き出してしまった。
﹁ナディアとは、同じ師を仰いだのですから﹂
ジュリアスは肩に乗せた光希の手を取ると、甲に唇を落として、
光希を見上げた。涼しげな眼差しに、不意を突かれて見惚れてしま
い、からかってやろうという悪戯心はどこかへ消えた。
﹁光希はどこへ行っても人目を引くから、時々隣にいても、遠く感
じることがあります﹂
切なさを帯びた告白に、光希の顔から笑みが消えた。
﹁⋮⋮ありえないよ。それは僕の台詞だよ﹂
﹁私を見て、嫉妬深いと笑いますか?﹂
ぐ、と唇を引き結んだ。思ったよりも、ジュリアスを傷つけてし
まったのかもしれない。
1197
﹁笑わないよ﹂
恋人の沈んだ表情を見て、光希は足元に跪くと、手をとって甲に
唇を押し当てた。
﹁好きだよ。誰よりも。離れていた間もずっと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁本当だよ。久しぶりに会えて、僕はジュリにもう一度恋している﹂
口にした途端、恥ずかしさがこみあげたが、ジュリアスはようや
く表情を和らげた。
﹁私も、光希のことが誰よりも好きですよ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
照れ臭くなり、立ち上がろうとしたら腕を掴まれた。
﹁口づけて、光希から﹂
つんと高飛車に言うと、ジュリアスは返事も待たず瞳を閉じた。
長い睫毛は伏せられて、目元に濃い陰影を落としている。
たまには、光希からキスをすることもある。それなのに、今はジ
ュリアスの唇を見つめただけで、頬が熱くなった。
ぎこちなく顔を傾けて、触れるだけのキスを一つ。すぐに顔を離
すと、ジュリアスはゆっくり瞳を開けて、幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、光希の心臓は撃ち抜かれた。
1198
嘘ではない︱︱ジュリアスに、もう一度恋している。
1199
53
︱ ﹃再会・八﹄ ︱
本陣が国門に戻ってきてから、二十日。
前線撤退、凱旋行軍は概ね順調に進んでおり、床を埋め尽くさん
ばかりにいた負傷兵達も、大分数を減らしていた。
せっこう
光希は最近、衛兵の手伝いをする傍ら、クロガネ隊の手伝いをし
ている。
前線で斥候に就いてたサイードやケイトも国門に戻ってきており、
クロガネ隊の工房は活気を取り戻していた。
屑鉄の匂いの漂う工房。
ここには、いつも誰かしらいる。特にアルシャッドは、アッサラ
ームにいる時よりも、今の方が工房に籠っているくらいだ。サイー
ドも戻ってきたので、クロガネ隊加工班班長代理から解放されて、
気楽そうにしている。
多忙なアルシャッドが、のんびりしている姿は非常に珍しい。
今なら、偉大な先輩にいろいろ聞ける。この機を逃さんと、光希
はある計画を練っていた。まだ誰にも打ち明けていない。
その日、工房で作業しているところに、偶々アルスランがやって
きた。サイードとの会話が一段落するのを見計らって、光希は近づ
1200
いた。
﹁アルスラン、いい?﹂
﹁殿下﹂
﹁こんにちは。あの、お願いがあるんですけど⋮⋮傷、大分良くな
りましたよね。採寸させてくれませんか?﹂
﹁採寸?﹂
﹁はい。上を全部、脱いで欲しいんですけれど﹂
途端に周囲はざわついた。
﹁⋮⋮なぜ?﹂
アルスランの怪訝そうな顔を見て、光希は焦った。順序が逆であ
った。説明もせず、いきなり脱げと言われても困るだろう。
光希はアルシャッドを呼ぶと、作業台の上に、まだ構想段階の図
面を拡げてみせた。
﹁上手く出来るか判らないんですけど⋮⋮挑戦してみたいことがあ
るんです﹂
義手
を造りたいんです﹂
上からアルシャッドが覗きこんでいる。光希は気合を入れて説明
を始めた。
﹁右腕の代わりになる、人工の
1201
﹁あ、なるほど⋮⋮﹂
流石、アルシャッドは飲みこみが早い。図面を見て、何を造ろう
としているのか判ったらしい。一方、アルスランは戸惑った表情を
浮かべている。
﹁アルスランの場合、切断面が上腕だから、こんな風に肩からベル
トをつけて固定します。肘関節、それから五本の指と関節を造りま
す。武器を仕込むこともできるかもしれない⋮⋮どうでしょうか?﹂
﹁それは⋮⋮どのように作るのですか?﹂
今や工房にいる全隊員が、顔を寄せ合って図面を覗きこんでいる。
お粗末な落描きを見られているようで、恥ずかしくなってきた。
﹁この図面は、僕の引いた初期案だから、あんまりじっと見ないで﹂
﹁材料は?﹂
早速アルシャッドに突っ込みを受けて、そうなんです、と光希は
肩を落とした。
くろがね
﹁皮膚に触れるから、素材から考えないといけないんですけど、骨
組みは鉄で外側を別素材で覆うか、あるいはあえて骨組みを見せる
か⋮⋮課題はいっぱいあるし、作れるかも判らないんですけど、挑
戦してみたいんです。いいでしょうか?﹂
﹁どうして、そこまでなさるんですか?﹂
アルスランは心底判らない、という顔で光希を見下ろした。蒼氷
1202
色の双眸にたじろぎかけたが、負けじと見つめ返した。
﹁僕が、そうしたいから。やらせてくれませんか。他の人の役に立
つかもしれない。もちろん完成しても、使う、使わないはアルスラ
ンの自由だから﹂
真剣に見上げると、今度はアルスランの方がたじろいだ。ふ、と
目元を和ませて、光希の頭を撫でる。
﹁いいも何も、私が止めることではないでしょう。私でよければ協
力しますよ﹂
安堵する光希を、アルスランは感慨深そうに見下ろした。
﹁今のお言葉、サリヴァン師を思い出しました。いかなる運命が横
たわろうとも、最善を尽くさねばならない。後に続く者の励みとな
るから︱︱﹂
﹁⋮⋮はいっ。ありがとうございます!﹂
早速、アルスランに上半身裸になってもらい、切断面の確認を始
めた。壊死や炎症を起こさず、綺麗に塞がったことだけは、不幸中
の幸いである。
昔、膝下を失ったアメフト選手が、技術とリハビリの結晶で、強
烈なプレーに耐えうるまで復活した話を聞いたことがある。あれを
成しうるには、肉体改造が必要だ。この世界で、流石にそこまでの
最新医療は望めない。先ずは被せること、固定することから考えな
くては⋮⋮
﹁︱︱殿下、殿下っ!﹂
1203
気付けば、幾つもの焦った声に呼ばれていた。アルシャッドまで
焦った顔をしている。後ろからいきなり肩を抱きしめられ、アルス
ランから引き離された。
﹁何をしているのですか?﹂
﹁ジュリッ﹂
訝しむ表情を見て、光希は唐突に閃いた。
﹁誤解しないでねっ!? 医学の進歩の為に、一肌脱いでもらって
いるんだ。あ、うまいこと言った!﹂
﹁﹁﹁殿下﹂﹂﹂﹂
﹁おや、うまい⋮⋮﹂
一息に言い切ると、周囲から呆れた眼差しと共に、総突っ込みが
入った。いや、アルシャッドだけは感心したような視線をくれてい
る。
おもむろ
ジュリアスに始めからきちんと説明すると、一応納得してくれた。
そして、徐にアルシャッドの名を呼んだ。
﹁かしこまりました﹂
への挑戦︱︱ここから長い月日をかけて、鉄の新
くろがね
アルシャッドは心得たように、光希に代わってアルスランの採寸
義手
を始めるのであった。
光希の
たな可能性が編み出されることになるのだが⋮⋮それはまた、別の
話である。
1204
1205
54
︱ ﹃再会・九﹄ ︱
終課の鐘が鳴る頃。
しょく
天井から吊るされた、鋼のシャンデリア︱︱蜜蝋を燃やす無数の
るいてき
燭の灯の下、馴染の顔ぶれが、輪になって集まっている。
輪の中心には、涙滴型のラムーダを抱えるナディアがおり、素晴
らしい演奏で聴衆を楽しませていた。
光希もジュリアスと共に輪に加わり、まろやかな音色に耳を傾け
ている。
アッサラーム夜想曲
には、望郷を掻きたてられる。
レパートリーの多いナディアは、いろいろ聴かせてくれるが、特
に心に響く
金色に輝く美しい都の情景が、色鮮やかに瞼の奥に浮かぶ。
かいやぐら
澄んだ蒼穹の空。
蜃楼の彼方。
光の悪戯で天まで聳える、遥かなる尖塔⋮⋮
﹁鬱蒼とした樹林もいいけど、黄金色の砂漠が懐かしいよ﹂
演奏が途切れ、光希がしみじみと呟くと、周囲から同意の声がぱ
1206
らぱらと上がった。
﹁凱旋が待ち遠しいなぁ﹂
さかな
ヤシュムは、ぱんと膝を叩いた。彼はさっきから、アーヒムと焼
サソリ
串を肴に、いかにも強そうな蒸留酒を飲んでいる。瓶の底に沈んで
いる物体が、蠍に見えるのだが⋮⋮
じっと見つめていると、ジュリアスは干したナツメヤシの実を、
光希の口に入れてくれた。仄かな甘みが美味しい。
﹁⋮⋮初めてアッサラームを見た時、鏡みたいだなー、って思いま
したよ﹂
空と湖水の境目が溶けた世界に、深い感動を味わったことを覚え
ている。ナフィーサが、判ります、と便乗してきた。
キャラバン
﹁子供の頃、外から商隊がやってくると、アッサラームの外観を眺
めたくて、よく見送りに行きたいと強請っていました﹂
微笑ましいエピソードに、光希は和んだ。ちなみに、現在十二歳
のナフィーサの言う子供の頃とは、神殿宿舎に入る前、五歳以下を
指している。
﹁ザインからも、観光にくるくらいだしな﹂
ヤシュムの言葉をアーヒムは、巡礼だ、と否定した。ザインはバ
ルヘブ西大陸の南西に栄える公国である。東西対戦では、西連合軍
に万軍を発してくれた、アッサラームの盟友国でもある。
﹁そうそう、アッサラームに戻ったら遊びに行きたいんですけど、
1207
皆さん、お勧めの場所はありますか?﹂
きじ
光希が何気なく尋ねると、皆、気前よく次から次へと教えてくれ
た。
かまど
﹁ナルドの竈屋は、美味しい雉料理を出しますよ﹂
ジャファールに言われて、光希は眼を輝かせた。隣に座っている
ジュリアスに、知っているか尋ねると、首を左右に振って応えた。
﹁旧市街に行くなら、アルバ・センテをお勧めしますよ。一通りの
ジンを飲める﹂
アルスランが応え、今度もジュリアスは知らなかった。
﹁祝福日にダリア・エルドーラ市場に行ってみるといいですよ。織
物店の山と積まれた絹や、白磁や青磁が、そこら中に溢れています
から。気に入りの絨緞も見つかるかもしれませんよ﹂
アルシャッドが提案すると、あちこちから相槌が返された。ジュ
リアスを見ると、流石に私も知っています、と苦笑された。尚、祝
福日とは六日に一度の休日のことである。
みずたばこ
﹁物見高いアッサラームっ子なら、誰でも知っていますよ﹂
びんろうじ
ふけ
檳榔子を噛みながら、ユニヴァースが笑う。水煙草が流行ですよ、
と継げばヤシュムが、総大将でも娯楽に耽るのか? とからかった。
﹁あんまり、柄の悪い場所を教えないでください﹂
1208
ジュリアスは不満そうに一同を睥睨した。しかし、光希はかなり
興味を引かれた。
﹁そこ、行ってみたいなぁ。大きな市場なんだ?﹂
思えば、アッサラームにきてからというものの、まともに外出し
て遊んだことが殆どない。ユニヴァースと宮殿を抜け出し時は、大
惨事になってしまった。あれ以降、宮廷行事や神事は別として、私
的な用事で出掛けたがあっただろうか。
﹁では、今度行ってみますか?﹂
ジュリアスに誘われて、光希は破顔した。ぜひ行ってみたい。
﹁殿下達、出掛けるなら変装した方がいいですよ﹂
ユニヴァースに言われて、光希は思わずジュリアスを見上げた。
確かに、光希の黒髪もジュリアスの金髪もよく目立つ。
かつら
﹁鬘とか?﹂
﹁それでもいいですけど、一日つけてると疲れますよ。染粉をあげ
ましょうか?﹂
﹁染めるって、銀色に?﹂
全員が頷いた。まぁ、それもそうだ。他の色に染めたら、結局目
立ってしまう。しかし、銀髪⋮⋮ジュリアスは似合うだろうけれど、
光希自身は銀髪に激しい抵抗を感じた。
1209
﹁染めるのか︱︱⋮⋮﹂
一瞬、そうまでして外出しなくてもいいか⋮⋮という気になりか
けた。本来、光希はかなりの引きこもりだ。
﹁嫌なら、帽子でもいいんじゃないですか?﹂
ユニヴァースに妥協案を示され、ジュリアスを仰ぐと、いいと思
いますよ、と了承された。
し
﹁殿下は肌も白いし、完全に隠すのは限界がありますよね。もし、
本気で変装する気がおありなら、別人にしてさしあげますよ﹂
ナフィーサに言われて、興味を引かれた。
﹁どんな風にするの?﹂
せい
﹁顔に褐色の化粧をして、髪を染めて、手袋をすれば、限りなく市
井に溶け込めます﹂
﹁なるほど⋮⋮考えとく﹂
本気で変装をするのも、案外楽しいかもしれない。光希の心は少
々傾いた。
1210
55
︱ ﹃再会・十﹄ ︱
ふと、さっきから一言も喋らないローゼンアージュが気になった。
﹁アージュは、どこかお勧めの場所を知ってる?﹂
ケルシー
光希が尋ねると、全員の視線がローゼンアージュに集中する⋮⋮
が、彼は全く動じず、巴旦杏の実を頬張っている。
金の刺繍
という隊商宿の一階で、数百種
キャラバン・サライ
マイペースな少年は斜め上に視線を動かし、暫し黙考すると、光
希に視線を戻した。
﹁少し遠いですけど、
もの紅茶を飲めます。殿下は、お好きかもしれません﹂
﹁意外にまともですね⋮⋮﹂
ナフィーサは失礼なことを口走った。ユニヴァースは、合法だろ
うな? ともっと失礼なことを口走った。
1211
﹁ありがとう。覚えておくよ﹂
不満げなローゼンアージュに慌てて笑顔を向けると、彼は小さく
頷き、再び食べ始めた。
ガイタ
﹁殿下、祝福日なら、旧市街で蚤の市も楽しめますよ。私も時々足
を運んで、掘り出しものを見つけるんです。風笛やアコーディオン
の大道芸も楽しめますよ﹂
ナディアの言葉に、光希は瞳を輝かせた。
﹁へぇー! 蚤の市。それも行ってみたいな﹂
﹁ジュリは?﹂
光希は笑顔のまま、隣に座るジュリアスを見上げた。
﹁ん?﹂
﹁どこかお勧めの場所はある?﹂
﹁ありますよ﹂
全員の注目を集めたが、後で教えます、と明かしてくれなかった。
まぁ、後で教えてくれるのなら文句はない。
キャラバン・サライ
アッサラームに帰るのが今から待ち遠しい。光希はまだ見たこと
のない、ダリア・エルドーラ市場や蚤の市、茶葉の香る隊商宿を思
い浮かべて、胸を躍らせた。
その後も話は盛り上がり、延々と食べて飲んで⋮⋮朝課の鐘が鳴
る頃、お開きとなった。
1212
光希とジュリアスが退散する時も、ヤシュムやアーヒムは新しい
酒瓶の口を切っていたので、まだまだ飲む気らしいが⋮⋮。
私室に戻ると、光希は早速アッサラームの地図を引っ張り出した。
さっき教えてもらった情報を、紙面に書き留めていく。
﹁︱︱あ、ジュリのお勧めの場所ってどこ?﹂
振り向いて声をかけると、ジュリアスは傍へきて地図を指差した。
﹁桟橋?﹂
はしけ
﹁荷揚げの終わった、行商の艀に乗れる場所が幾つかあるんです。
きっと光希は気に入ると思いますよ﹂
﹁へぇー、それはぜひ乗ってみたい﹂
聖都アッサラームは、街中をアール川とカルプロス川の大河が横
断する、砂漠の巨大オアシス、水の都でもある。街中には無数の運
河が張り巡らされており、情緒ある木造の小型帆船も入ってくるの
だ。
﹁さっきは、どうして教えてくれなかったの?﹂
﹁⋮⋮少し面白くなかったんです。光希が何を聞いても、嬉しそう
にしているから﹂
﹁ジュリと一緒に行けると思うから、嬉しいんだよ!﹂
光希が笑うと、ジュリアスも淡く笑んで光希の頭を撫でた。
1213
﹁美味しい料理を、食べに行こうね。ジュリアスにご馳走したい﹂
自分で働いて得たお金で、ジュリアスに何かしてあげたい。それ
は、光希のささやかな夢の一つであった。
クロガネ隊勤務のおかげで、配給金が結構貯まっている。散財は
皆無に等しいので、一日遊び倒しても困りはしないだろう。
﹁なら、昼は光希、夜は私がご馳走するということで、どうですか
?﹂
﹁いいよ!﹂
光希が満面の笑みを浮かべると、ジュリアスは眼を細めて頬にキ
スをした。
+
二人がアッサラームに戻れるのは、年が明けてからである。
終戦から九十余日。アッサラームを出発してから、実に十ヵ月も
の月日が流れていた。
1214
56 ﹃帰還﹄ − ジュリアス −
ジュリアス・ムーン・シャイターン︱︱アッサラーム軍、総大将。
中央広域戦︱︱史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたアーヒ
ム、ヤシュムと共に、中央激戦区の前線に立つ。
序盤は、山岳湿地帯の行軍、山岳戦闘民族の奇襲に苦しめられる
が、山岳狭路まで押し進むと、高地に布陣せしめハヌゥアビスとの
決戦に臨む。
敵軍との圧倒的兵力差を難関地形の布陣と戦略で補い、優勢に運
ぶが、ノーヴァ壊滅の勢いに呑まれ後退を余儀なくされる。
ノーグロッジ上空につくナディアの本陣と合流し、仕切り直し、
最終決戦に臨む。
東西戦争の開戦から八十余日。遂に敵サルビア軍の総大将︱︱ハ
ヌゥアビスに勝利を喫する。
戦局はアッサラーム軍に傾き、和睦調停の申し入れを受け入れる
形で東西戦争は終結した。
スクワド砂漠の南東に位置する国門から軍を発して半年、ジュリ
アス率いる本陣は国門に到着。
実に半年ぶりに光希と再会を果たす。
二人は暫く国門に留まり、アッサラームから発せられた国門警備
隊と交代する形で帰郷を開始。
終戦から九十余日。アッサラームから軍を発してから十ヵ月。晴
れて、凱旋を果たそうとしていた︱︱。
1215
︱ ﹃帰還・一﹄ ︱
ぼうばく
茫漠たる碧空の下。黄金色に煌めく砂の上に、悠々と翔ける飛竜
の影が落ちる。
おぼろ
砂の彼方に浮かぶ、懐かしい蜃気楼。
帰ってきた
という強い想い
遥かな尖塔は朧に揺れ、天まで伸びゆく聖都アッサラームが見え
る。
乾いた風に頬を嬲られ、胸の内に
が不意にこみあげた。
﹁久しぶりだなぁ⋮⋮﹂
手綱を引くジュリアスの腕の中で、光希は弾んだ声をあげる。気
持ちはよく判る⋮⋮アッサラームを発ってから、随分と日が流れた
ものだ。
﹁そろそろ下ります。覆面をつけて﹂
舞い上がる砂を吸わぬよう、着用を促すと、光希は首肯で応じて
覆面を押し上げた。こちらを振り向いて、これでよし⋮⋮と視線で
合図する様が可愛らしい。
顔を覆う厚布の内で笑みながら、ジュリアスは手綱を引いた。
飛竜の群れはゆったりと旋回して、静かに下降を始める。
国門を発してから、西を目指して右翼、中軍、左翼と遠征軍を三
たいご
つに分けて進んできた。
隊伍の先鋒は総司令官ジュリアス、副指令官のアーヒム。次いで
1216
ヤシュム、ナディア、ジャファールと続く。
衝撃を最小限に抑えて、アッサラームから少し離れた砂の上に下
りる。
この後は聖戦の時と同じように、重騎兵隊と足並みを揃えて、聖
都アッサラームに凱旋を果たす予定だ。
かぶらや
砂塵が落ち着くと、下士官達は天幕の準備に奔走する。
やがて、先鋒隊の到着を告げる鏑矢が、天に向かって垂直に放た
れた。賑々しい音色を拾い、間もなく宮殿を伝令が走ることだろう。
天幕が張られると、ジュリアスは光希を連れて早々に下がった。
外套を脱いで、同じように寛ぐ光希を腕の中に引き寄せる。
﹁疲れましたか?﹂
﹁僕は平気。ジュリは?﹂
﹁私も平気です﹂
﹁帰ってきたね⋮⋮﹂
平気と応えたが、光希の声には疲労が滲んでいた。無理もない。
最短で翔けたとはいえ、ここまで数十日に及ぶ行軍であった。
本心を明かせば、華々しい凱旋よりも公宮の私邸に連れ帰り、早
く休ませてやりたい。
﹁肩の調子はどう?﹂
﹁問題ありませんよ﹂
とうに塞いだ傷を、光希は未だに気にかける。少し身体を離すと、
黒水晶のような双眸にジュリアスを映して微笑んだ。
1217
﹁聖戦の時を思い出すね﹂
﹁はい⋮⋮﹂
あの時と大きな違いがあるとすれば、ハヌゥアビスの脅威を退け
たことだろう。勝機を分けたのは、この腕に光希がいればこそ。
﹁苦しいよ、ジュリ﹂
﹁すみません﹂
ふけ
思いに耽るうちに、きつく抱きしめてしまったらしい。身体を離
すと、天幕の外から﹁お飲み物を﹂と控えめな声がかかる。
外へ出ると、下士官が直立の姿勢で水差しを持っていた。どうや
ら、声をかける機会を窺っていたらしい。
﹁ありがとう﹂
水差しを受け取ると、
﹁いえ! あの、光栄です。晴れて凱旋に臨めることが出来て⋮⋮﹂
若い下士官は、頬を紅潮させて一礼した。彼が去った後も、こち
らを窺う複数の視線を感じる。
やれやれ⋮⋮声をかけられる前に天幕に下がった。
光希とのんびり過ごしたくとも、外に張った簡易天幕ではなかな
かそうも行かない。ため息を洩らすと、勘違いしたらしい光希に腕
を引かれた。絨緞の上に座るよう促される。
1218
﹁休んだ方がいいよ﹂
﹁いえ、私は⋮⋮﹂
﹁運転お疲れ!﹂
ねぎら
妙に凛々しい表情で労われた。流暢な公用語を身に着けても、光
希の言葉には度々笑みを誘われる。
﹁はい、ありがとうございます﹂
大人しく体勢を崩すと、腕を引いて小柄な身体を引き寄せる。力
を抜いて、背を預けてくれる重みが愛おしい。
本当は肌を触れ合わせたいけれど⋮⋮こうして傍にいてくれるだ
けでも癒される。
黒髪を分けて、こめかみに唇を寄せると嬉しそうに笑う。その瞬
間、堪らなく幸せだと感じた。
1219
57
︱ ﹃帰還・二﹄ ︱
ぎょうこう
翌朝。
たいご
暁光を浴びながら早朝に天幕を畳むと、ジュリアスらは延々と続
く隊伍を整えた。
よろ
長の行軍に薄汚れ、顔に疲労を滲ませる将兵らも、表情は誇らし
げに輝いている。
凱旋の先頭をゆくジュリアスと光希は、白銀装甲に鎧われた、華
美な四足騎竜の籠に乗った。
﹁また、これかぁ⋮⋮﹂
小声を拾い隣を見下ろすと、光希は苦笑いで応えた。
﹁なんでもない。頑張る﹂
﹁疲れたら、中で座っていいですよ﹂
﹁いいの!?﹂
1220
勢いづいた返事に、思わず笑みが洩れた。
﹁見えないようにね﹂
﹁任せて﹂
ぐんか
眼を輝かせる様子にふと和み、次いで、合図を待つ後方を見やる。
アーヒムとヤシュムが頷くのを見てから、
﹁全軍、前進!﹂
いつかのように、号令をかけた。
ひるがえ
万を超える隊伍は、一糸乱れぬ分列行進を開始する。
翻る青い双龍の軍旗。石畳を鳴らす、勇ましい蹄鉄や軍靴の音が、
空の彼方まで響き渡った。
凱旋門を抜けると、視界を埋め尽くさんばかりの、色鮮やかな花
びらが宙を舞う。
花道の左右にはずらりと人が並び、通路の狭間や窓、屋根、あら
ゆる所から花びらの雨を降らせている。
ドミアッロ
﹁﹁アッサラーム・ヘキサ・シャイターン万歳!!﹂﹂
遠征から生還した獅子達に、流星雨のごとき喝采が浴びせられる。
中には隊を乱して、抱き合って再会を喜ぶ者もいれば、むせび泣
く者もいる⋮⋮事情は判る。今日ばかりは彼等を諫めることは難し
い。
観衆に応えて腕を上げるジュリアスの隣で、光希もまた腕を振っ
て応えている。零れる笑顔の、なんと眩しいことか。
アッサラームに迎え入れた時よりも、光希は格段に綺麗になった。
1221
清廉さはそのままに、しなやかな強さを身に着け、臆することな
く堂々とジュリアスの隣に立つ⋮⋮見惚れていると、ひょいと籠の
中に小柄な身体を潜めた。
﹁交代で休憩しよう﹂
囁きを聞いて、思わず笑ってしまった。あの時にはなかった、籠
の中で休憩する余裕すら身に着けたらしい。
やがて、アルサーガ宮殿の正門に辿り着くと、盛大に祝砲が打ち
みやび
上げられた。
かくしゃく
宮殿の雅さも、久しぶりとなると新鮮に感じる。
敷布に用意された玉座に待つ皇帝は、矍鑠とした佇まいでジュリ
アスを迎えた。
彼の隣には、アースレイヤとルーンナイトの姿もある。
皇太子の貼り付けたような微笑は相変わらずだが、隣にルーンナ
イトが立つせいか、いつもより気を抜いているように見える。
﹁よくぞ、無事に戻ってくれた﹂
皺を刻む双眸には、偽りのない感謝と労いの色が浮かんでいる。
ジュリアスも視線で応えながら、後方に控えるアーヒムから青い
軍旗を受け取り、跪いて両手で捧げた。
﹁勝利へと導いた軍旗を、謹んでお返しいたします﹂
軍旗の返上と共に、遠征に与えられた全権を返上する。
﹁国の存亡を賭けた、東西の衝突であった。全てのアッサラームの
民を、よくぞ救ってくれた。時代の節目に立ち合えたことを、シャ
イターンに深く感謝する﹂
1222
かんなんしんく
頭上から降る静かな声には、どこか遠い記憶を紐解くような響き
があった。胸に灯されたのは、彼自身の駆けた艱難辛苦の遠征かも
しれぬ。
ロザイン
アデイルバッハ皇帝陛下⋮⋮彼の御代では、この遠征が最後にな
るだろう。
聖戦の遠征が無ければ、花嫁に巡り合うことは叶わなかった。彼
もまた、ジュリアスを導いてくれた一人だ。
﹁全ては、砂漠を守護するシャイターン、そして我がアッサラーム
軍、全将兵の力の賜物です﹂
想い込めて告げた。掌の上から軍旗の重みが消える︱︱
﹁長きに渡る遠征、誠に大義であった!﹂
皇帝は、旗を天に向けて掲げた。
祝砲は再び打ち上がり、割れんばかりの拍手喝采が沸き起こる。
名を呼ぶ声に振り向けば、喜びを湛える黒い双眸と眼が合った。
唐突に想う。
花嫁︱︱光希に引き合わせてくれた、全てに感謝を捧げたい。
生まれた時から、人よりも天に教えられてきた。己は神意を映す
鏡だと考えていた⋮⋮。
けれど、シャイターンに限らず、ここまでジュリアスを引き上げ
てくれた、全ての人に感謝を捧げたい。
+
クロッカスの綻ぶ懐かしい私邸に戻ると、腹心の部下に出迎えら
れた。
1223
﹁お帰りなさいませ﹂
﹁ただいま、ルスタム!﹂
光希は満面の笑みを浮かべ、飛びつきそうな勢いだ。追従するナ
フィーサも、表情を綻ばせている。
懐かしい顔に再会して、気が緩むのはジュリアスも同じ。
手入れの行き届いた屋敷を眺めやり、ようやく寛げる場所に帰っ
てこれたのだと、自然と肩から力が抜けた。
光希も人目を憚らず、思い切り腕を伸ばしている。
﹁紅茶を煎れてくれる?﹂
どこか甘える口調で、じゃれつくようにナフィーサの肩を掴んで
いる。
﹁仰せのままに﹂
とう
行軍の合間に、また背の伸びた少年は笑顔で応じる。
光希と共に私室に下がると、テラスから滔々と流れるアール川の
煌めきを眺めやる。
肩を抱き寄せれば、黒い双眸はこちらを向く。衝動のままに顔を
近付けると、光希も首を伸ばして瞼を閉じた。
柔らかな唇を塞ぐと、不思議と匂い立つジャスミンが香る。彼が
シャイターンの御使いだからなのか、ジュリアスの花嫁だからなの
か⋮⋮。
﹁ん⋮⋮﹂
1224
息継ぎの合間に微かな声。漏れる吐息を、どうしてこれほど甘く
感じるのだろう⋮⋮。
身体だけではなく、心にも熱を灯される。光希だけだ。ジュリア
スをここまで満たしてくれるのは⋮⋮。
1225
58
︱ ﹃帰還・三﹄ ︱
長い一日の終わり。
朝課の鐘が鳴り響き、雑事を切り上げ寝室に入ると、光希はまだ
起きていた。上体を手で支えるようにして、寝台に座っている。
清らかな星明かりを浴びて、白い頬に神秘的な陰翳を落とす様子
に、知らずため息をつく。
たちま
隣に腰をおろし、肩を抱き寄せておとがいに手を添えた。ゆっく
り唇を合わせると、忽ち口づけは深くなる。
自然に唇が離れると、光希は遠慮がちに口を開いた。
﹁ジュリ、今日は早めに寝たいんだ⋮⋮﹂
﹁疲れましたか?﹂
無理もない、長旅を終えて凱旋に臨んだのだ。もう眠っているか
と思っていた。
﹁明日は、久しぶりに工房に行きたいから⋮⋮実は、アンジェリカ
とも約束があって、あんまり疲れるわけには⋮⋮﹂
1226
﹁なんですって?﹂
﹁え?﹂
不思議そうに見上げて、首を傾ける。つい、呆れた眼差しで見下
ろしてしまった。
﹁夜のしじまに、私というものが在りながら⋮⋮少々不作法ではあ
りませんか?﹂
少々恨みがましい声が出た。光希の顔に焦りが浮かぶ。判ってい
ないところがまた⋮⋮。
﹁え、えっ?﹂
肩を押すと、小柄な身体はあっけなく寝台に倒れる。
黒髪を散らす顔の左右に肘をついて、腕の中に閉じ込めた。戸惑
いの浮かぶ視線を搦め捕る。
言われなくても、今夜は静かに休ませてあげるつもりでいたのに。
疲れているだろうから⋮⋮。
でも、人に会う為だと言うのなら、遠慮なんていらないのでは?
抱きたい。光希の身体に植えつけてやりたくなる。身の内に宿る
熱を︱︱
顔を寄せて唇を塞いだ。あがく腕に拒絶を感じて、かき抱く腕に
力を込める。
﹁ん⋮⋮っ﹂
柔らかな唇を割り開いて、口内を潤す滴を吸い上げた。この人の
唇は、どうしてこんなに甘いのだろう⋮⋮。
1227
微かな息遣いが闇に満ちる。
おのの
口づけの合間に昂りを下肢に押しつけると、光希は慄くように身
体を震わせた。視線を合わせようと見下ろせば、恥じ入るように顔
を横に倒す。
知らず笑みが漏れる。何度抱いても、この人の初々しい反応は変
わらない。目にする度に心を奪われる。
﹁一度だけなら、いい⋮⋮?﹂
耳元に囁くと、光希は顔を背けたまま、大きく眼を見開いた。唇
で頬に触れると、驚くほど熱い。
素直な人だ。
くすりと笑ったのがいけなかったのか、光希はジュリアスを押し
のけようと、柔らかい手で顔に触れてきた。
彼の拒絶なんて、いとも簡単に封じ込められる。
﹁ふ⋮⋮っ﹂
やりようはいくらでも︱︱柔い掌に吸いつけば、それだけで身体
しゅす
を跳ねさせ、あえかな声をあげる。
繻子に手を忍ばせ、滑らかな肌を撫で上げながら、胸元までたく
しあげた。露わになる白い肌を眺めてから、唇で触れる。
﹁⋮⋮っ⋮⋮ん﹂
色づいた胸の先端を指で倒し、光希の顔を覗きこんだ。どくりと
熱が溜まる。悦楽を堪えて唇を噛みしめる表情は、普段からは想像
もつかないほど艶めいている。
天真爛漫な笑顔にも癒されるが、甘く匂い立つ艶姿にも心を掻き
たてられる。もう、止められない。
1228
しかし、あまり時間をかけては疲れさせてしまう。けれど、一度
ふけ
しか味わえのなら時間をかけて味わいたい⋮⋮。
埒もない思いに耽りながら、つんと尖る乳首を指で愛でる。ふと
光希の顔を見つめて、頬を滑る滴を見た途端、心臓が止まりかけた。
﹁光希?﹂
そんなに嫌だったのだろうか。
﹁﹃チガゥッ、オレ﹄なんでもな⋮⋮っ﹂
光希は、取り乱したような声で囁いた。滑り落ちた涙を、乱暴に
手で拭っている。その手を取ろうと身じろいだ拍子に、下肢が擦れ
て気付いた。光希もまた昂らせていることに。
照れているのか︱︱
少し触れ合っただけで、光希もまた昂らせている。
ジュリアスと同じように、求めてくれている。胸の内は燃えるよ
うに熱くなった。光希の身体の隅々まで愛でて、味わいたい欲求に
支配される。
顔を落として、色づく肌を吸いながら、彼の昂りに手で触れた。
あやすように撫でるだけで、快感を逃がすように身体を震わせる。
﹁︱︱は⋮⋮っ、ん⋮⋮っ!﹂
甘い声⋮⋮。
光希はいつも声を押さえようとする。誰も入ってこない寝室に二
人きりでいても。
もっと聞いていたいのに⋮⋮。
声を引き出したくて、何度も白い肌に吸いつく。薄い肌は、少し
吸いつくだけで赤く色づく。
1229
抱く度につい跡を残してしまうのは、そうした事情もある。後々
眼で見て楽しめるから︱︱言えば、怒らせそうだが⋮⋮。
服を全て取り払い、裸で抱きしめた。吐息が零れそうだ。この瞬
間に勝る幸福感なんてない。
﹁光希⋮⋮﹂
上気した顔を上向かせ、唇から、顎の先に口づける。唇でなぞる
ように、首筋、鎖骨⋮⋮胸、順に唇で辿り、最後に顔を下げて昂り
を口に含んだ。
﹁や⋮⋮っ⋮⋮あっ、んぅっ﹂
細切れに届く、抑えきれない嬌声を聞きながら、指に香油を絡め
て後ろへ持っていく。双丘の奥を解しながら、震えている屹立を上
下に吸い上げてやる。
い
淫靡に立つ水音は、ジュリアスの身体も熱くさせる。このまま、
達かしてやりたいが、昇りつめれば熱も冷めてしまう。だから、最
後まではしない。理性を溶かして、心身の準備を整えるだけ。
﹁もう少し我慢して﹂
うつ伏せに組み敷いて、あわいを指でなぞる。跳ねる身体を宥め
るように、空いた背中に何度も唇を落としていく。唇を落とす度に、
弓なりにしなる背中に強くそそられる。
あらかじ
指は大した抵抗もなく、潜りこんで行く。後ろは最初から少し解
れていた。
今夜、求められるであろうことを予期して、予め準備をしている
姿を思うと、いじらしく感じる。どこまでも蕩かしてやりたい。
1230
﹁あ、ぅ⋮⋮んっ﹂
後孔を舌で愛すると、光希は恥じらうように足を閉じようとする。
いつもそう、押し開こうとすると恥じらって、微かな抵抗を見せ
るのだ。どうしてそんなことを⋮⋮と小声に尋ねられたこともある。
彼の身体なら、隅々まで愛せる自信がある。例え足が泥に汚れて
いようとも、光希であれば舌で清められる。
指を三本、ばらばらに動かして抜き差しできるようになると、光
希の身体を起こして、向かい合わせに抱き合う。
見上げる黒い双眸は、蜜のように溶ける⋮⋮ジュリアスを映して、
熱を訴えている。
1231
59
︱ ﹃帰還・四﹄ ︱
﹁この体勢で⋮⋮?﹂
不安の滲んだ声を聞いて、宥めるように肩や首に口づけた。
向かい合わせに抱き合い、少し浮かした身体に猛りを押し当てる
と、光希も力を抜いて、受け入れる体勢を整える。
﹁挿れるよ﹂
﹁あ、ぅ⋮⋮﹂
震える身体のあちこちに口づけながら、肉襞を押し広げ、奥まで
少しずつ押し入る⋮⋮ぐぷっと香油の弾ける音が鼓膜を叩いた。光
希の熱に包まれてゆく。
﹁あっ!﹂
全て納めると、光希は高い声を上げた。恥じ入るように唇を噛み
しめる。また⋮⋮そんなに噛みしめるから、唇を傷つけるのだ。
1232
﹁息を吐いて、口で⋮⋮﹂
唇に指で触れると、思い出したように噛みしめを解く。吐息を洩
らして、濡れた眼差しでジュリアスを見上げた。
昂りに、どくりと熱が溜まる。黒い眼差しに囚われたまま、きつ
く抱きしめて、光希の最奥まで征服する。
﹁⋮⋮っ⋮⋮は、ぅ﹂
様子を見ながら突き上げると、小柄な身体を艶めかしく揺らし、
感じ入る声を漏らした。
窓から斜めに差し込む星明かりが、白い肌を仄かに煌めかせる。
何て美しいのだろう⋮⋮心の全てを奪われる。光希を喩えるのな
ら、果たして何がふさわしいのだろう。
匂い立つジャスミンの香り。風に靡くクロッカス。雨上がりに煌
めく菫。シャイターンの与えたもう雨⋮⋮慈雨。渇きを潤す雨雫。
大袈裟ではなく、あらゆる神秘と、この世の美しいものを全て合
わせても、尚足りないように思う。
神々しさに胸を打たれながら、同時にあさましい欲望を掻きたて
られる。
慈しみたいという穏やかな気持ちの裏には、凶暴な欲望がある。
こんなにも美しいものを、征服する悦び︱︱
神力が昂ると、特にそう。慈愛よりも、強い恋情、燃えるような
執着が勢いを増す︱︱誰にも渡さない⋮⋮絶対に!
陶然とした顔を両手に包むと、光希は目線を合わせることを恥ず
かしがる。閉じた瞼に口づけて﹁眼を開けて﹂と囁いた。
﹁や⋮⋮ぁっ﹂
1233
快楽に溶けた顔でジュリアスを見つめる。それでいい。ジュリア
スに抱かれているのだと判って。貴方は私の花嫁なのだから︱︱言
葉の代わりに、甘い身体を強く突き上げた。
﹁あ⋮⋮っ⋮⋮んぅっ﹂
震動が強すぎて、辛そうに浮かす身体を今度は優しく包み込む。
激情を押さえなくては⋮⋮光希は、優しく抱かれることを好むから。
身体を繋げたまま寝台に横たえ、片足を肩に乗せて足を大きく割
り開く。
波間をたゆたうような、ゆったりとした抽挿を再開すると、光希
は熱に浮かされたようにジュリの名を繰り返し呼んだ。
﹁気持ちいい?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
素直に頷く。ここまで理性が溶けきると、何を尋ねても、限りな
く素直に応えてくれる。
高みに追いやっては、直前で動きを止める。
訴えるような眼差しに、言わんとすることは判る。もう少し身体
を揺らしていたいけれど⋮⋮あまり疲れさせては可哀相か。屹立に
手を添えて熱を煽った。
﹁あ、ん⋮⋮、あ、あぁ⋮⋮っ﹂
追い上げると、光希は間もなく、身体を震えさせて吐精した。互
いの身体の間を飛沫で濡らす。
余韻に震える痴態を見下ろしながら、ジュリアスもまた光希の中
で果てた。
1234
熱の奔流を感じて、組み敷いた身体は力なく震える。
殆ど意識をやるように、くたりと横たわる光希を抱きしめて、額
や頬に唇を押し当てた。
﹁光希?﹂
返事はない。少々⋮⋮いや、かなり疲れさせてしまったようだ。
﹁ごめんね﹂
小声に囁くと、濡れた身体を拭いて全て綺麗にした。乱れた寝台
も整え、弛緩する身体を横たえてやる。
+
暫く眠りに落ちていた光希は、やがて眼を覚ますと、ジュリアス
を視界に映して眼を和ませた。
﹁辛くないですか?﹂
少々罪悪感を抱きながら問いかけると、光希は微笑んだ。
﹁平気﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
どうにもならない謝罪を口に乗せると、光希は小さく吹き出した。
﹁なんで謝るの﹂
1235
﹁疲れたでしょう?﹂
﹁まぁね、でもいいよ⋮⋮僕もしたかったから﹂
後半を、殆ど消え入るように囁く。光希にしては、かなり珍しい
睦言だ。やはり恥ずかしいらしく、照れ臭げに顔を伏せる。
その様子を愛でるように見下ろしていると、手を伸ばしてジュリ
アスの視界を塞ごうとしてきた。
逆に伸ばされた手を取り、掌に口づける。柔らかな肌を吸うと、
光希は小さく息を呑んだ。甘さを含んだ視線で、ジュリアスを見上
げる。
その瞬間︱︱
言葉ではとても言い表せない想いが、胸に溢れた⋮⋮。
誰よりも愛している。
視線、零れる吐息、優しい言葉、甘い身体⋮⋮彼の全てに囚われ
ている。今も、これからもずっと。
1236
60
︱ ﹃帰還・五﹄ ︱
凱旋の翌朝。
久しぶりに宮殿敷地内の軍部︱︱クロガネ隊の工房へ、光希は張
り切って出向いた。
十ヶ月ぶりの復帰である。
昼過ぎに、宮殿を訪れるアンジェリカと約束があるというので、
ジュリアスも同席を名乗り出た。
約束の時刻が近付き、ナディアを連れて中庭を訪れると、間もな
くアージュと共に光希がやってくる。
やがてアンジェリカも姿を見せたが、その表情はいつになく昏い。
心酔するナディアがいるというのに、どうしたことだろう。まるで、
敵と一戦交えて惨敗を喫したかのように、悄然と俯いている。
﹁わー⋮⋮沈んでる﹂
隣で光希が、小声に独りごちた。
﹁どうしたのでしょう、あの娘は⋮⋮﹂
1237
﹁うん、心当たりはあるんだけど⋮⋮気にすること、ないんだけど
なぁ﹂
言うが早いか、光希は苦笑と共にアンジェリカの傍へ歩み寄る。
娘はジュリアスよりも先ず、光希に対して深く頭を下げた。
﹁お久しぶりです、殿下⋮⋮先日は、大変不躾な手紙を送ってしま
い、誠に申し訳ありませんでした﹂
この娘にしては、ありえないほどの暗い声と顔つきで、深刻そう
に謝罪する。
﹁久しぶり、アンジェリカ。手紙のことは、気にしてないから。僕
も気付けずにごめん﹂
ふと思う。光希はいつの間に、名前を呼び捨てるようになったの
だろう⋮⋮。
﹁恥ずべき振る舞いでした。悔いております。なのに、お優しい言
葉をかけていただいて⋮⋮﹂
俯いたままに、声は潤みかけた。
﹁本当に気にしていないから、そんなに気に病まないで⋮⋮﹂
娘はぼろぼろと泣き始めた。一体、どんなやりとりがあったと言
うのだろう。隣でナディアも目を瞠っている。
﹁わ、泣かないで⋮⋮﹂
1238
光希は宥めるように、アンジェリカの髪を撫でた。
距離が近過ぎる。しかも何やら小声で﹁ジュリとナディアには話
していないから﹂と親密な様子で告げている。気になる。一体、何
があったというのか。
﹁お気遣いまで⋮⋮殿下、本当に申し訳ありませんでした﹂
嗚咽の合間に、途切れ途切れに謝罪する娘を、困ったように黒い
双眸は見つめている。
何だこの事態は。
とういそくみょう
視線でナディアに問いかけると、私にも何のことか⋮⋮といった
無言の応えが視線で返された。
原因不明か。だが、今はそんなことよりも。
このままでは、抱擁しかねない。
ある種の危機を覚えたジュリアスは、冷静に当意即妙な対応を取
る︱︱ナディアの背中を押してアンジェリカにぶつけた。
瞬時にあらゆる連鎖反応を引き起こす。
光希は驚いて娘から距離を取り、次いでナディアは障害物︱︱ア
たちま
ンジェリカの肩を掴んだ。
娘は忽ち息を呑み、驚きのあまり涙を止めた。良かったではない
か。ジュリアスは、その隙に光希の肩を抱き寄せた。
﹁では、私達はこれで﹂
来たばかりだが、目礼して背中を向ける。後のことは、全てナデ
ィアに押しつけた。
しかし、退散しようとすると、アンジェリカばかりかナディアに
も呼び止められる。
﹁お会いしたばかりですわっ﹂
1239
﹁挨拶しか口にしていませんよ﹂
そんなことは判っている。顔に笑みを貼り付けたまま振り返った。
﹁久しぶりに会えたのでしょう? 遠慮はいりませんから、どうぞ
ごゆっくり﹂
﹁いや、僕も話したい︱︱﹂
隣から聞こえる抗議は、視線で黙らせた。顔を伏せる様子に、己
の失敗を悟るが、この場を離れることの方が先決だ。
+
中庭を離れる道すがら、光希に﹁怒っている?﹂と尋ねられた。
見上げる双眸は、少々不安そうに揺れている。
やはり、先程の一瞥のせいで委縮させてしまったらしい。
﹁いいえ⋮⋮﹂
﹁手紙のことは、黙っていてごめん。でも、とても個人的なことだ
から⋮⋮﹂
﹁判っています﹂
手紙とは本来そういうものだ。個人に宛てたものを、他者が暴く
ようなものではない。
判ってはいても⋮⋮自分の知らないところで、親密なやり取りが
あったのかと思うと、やはり面白くない。名前を呼んでいたことも
1240
気に食わない。
ふと光希の方から手を繋いできた。
見下ろすと、今度は穏やかな眼差しと眼が合う。
﹁⋮⋮﹂
凪いだ眼差しに映るうちに、悔悟の念が湧いた。あれはどう考え
ても、浅慮な言動であった。
ばつの悪い思いに駆られていると、光希は大人びた笑みを浮かべ
た。
﹁ジュリはいつも、真っ直ぐに想ってくれるね﹂
﹁⋮⋮光希こそ、怒っていませんか?﹂
﹁怒ってないよ﹂
寛容な恋人と違い、我が身のなんと心の狭いことか。
﹁すみませんでした﹂
ようやく謝罪が口をついた。
﹁あの二人も、僕等がいない方が、気兼ねなく話せるでしょう。こ
のまま、散歩でもしようか?﹂
素晴らしい提案に、ジュリアスも自然と表情を綻ばせるのであっ
た。
1241
1242
61
︱ ﹃帰還・六﹄ ︱
凱旋から数日。
ぎょうしょう
カテドラル
アッサラームの名だたる驍将は、大神殿に召集された。
東西戦争の論功行賞︱︱アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍
の名誉元帥である、アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇帝自ら、
戦績を挙げた兵士を労い、褒美を与える場である。
今回の論功の場には要人に限らず、多くのアッサラーム領民も招
き入れられた。
へきとう
サルビア軍への決勝を印象づけたい、宮殿側の戦略も透けて見え
たが、式の劈頭から沸き起こる盛大な喝采を見れば、大成功と言わ
ざるをえないであろう。
アデイルバッハ皇帝は、論功行賞において度量の深さを見せた。
武功を立てた将兵らにはもちろん、前線を退いた負傷兵らにも己
の懐から恩賞︱︱肥沃な土地、宝物等の金品の数々︱︱を与えたの
だ。
ジャファールにもノーヴァ壊滅を失態とせず、五万の軍勢で二十
万を討ち取った武功を先ず讃えた。
彼の人望が功を奏し、観衆から一際大きな喝采を浴びる。ジュリ
1243
アスとしても、極めて妥当な恩賞と思えたが⋮⋮、
﹁身に余る光栄です。私にかような恩恵を賜る資格はございません﹂
当の本人は蒼白になり、上奏するも︱︱
﹁そなたがいらぬと申しても、他に与える適任がおらぬ。好きにす
るがいい﹂
皇帝の言葉を覆すには至らず。恐縮そうに受け取るのであった。
余談だが⋮⋮彼は後日、下賜された恩賞を部下に分け与えると、
自らは鎮魂の儀式を行ったという。
また、腕を失ったアルスランには、より多くの褒章が与えられた。
それらの幾つは、最前線からの撤退に代わるものだ。
前線を翔ける飛竜隊最速の乗り手を欠いたことは、サルビア軍に
決勝しても尚、多くの者を落胆させたが、本人は穏やかな笑みを浮
かべていた。
余談だが⋮⋮彼もまた、下賜された恩賞の殆どを部下に与えてし
くろがね
まった。ジャファールと共に鎮魂の儀式に臨み、暫しアッサラーム
で静かな日々を送る。新たな鉄の右腕で前線を翔けるのは、まだ先
のことである。
論功は、若き将兵らにも公平に行われた。
中央陸路において、大きな武功を立てた上等兵の一人︱︱ユニヴ
ァースは、いつになく緊張した面差しで、実父でもあるサリヴァン
の前に立った。
﹁⋮⋮立派でしたよ﹂
おご
ちょうめい
声をかけられて、誇らしげに頷く。向き合う姿は父子そのものだ。
勲章を下賜され浮かべた笑みは、一遍の驕りも無く、実に澄明な
1244
ものであった。
彼は軍功の大きさから、二階級進み、下士官訓練を経てから軍曹
への着任が約束された。
これまで、持って生まれた才覚に振り回されていたように見えた
が、この遠征を経て、芯のある自信を身に着けたように思う。将と
して駆ける日も、案外そう遠くはないかもしれない。
国門で気丈に励んだ光希にも、クロガネ隊代表として恩賞を与え
られた。
授与の様子は、アースレイヤあたりの演出を感じたが⋮⋮観衆は
沸き、何より涙する光希の姿を見たら、ジュリアスの胸も熱くなっ
た。
+
私邸に戻った後、光希は下賜された勲章を見て、ぽつりと呟いた。
﹁これは、ジュリのおかげなんだ﹂
﹁私?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
それきり黙ってしまう。傍で見下ろすと、ややあって口を開く。
﹁迷った時は、いつもお手本にしていた。ジュリならこうするかな
って﹂
驚かされた。そんな風に考えていてくれるとは⋮⋮知らなかった。
﹁再会した時、ジュリに恥ずかしくないように、その都度、自分な
1245
りに判断してきたつもり﹂
﹁光希⋮⋮﹂
﹁だから、ジュリのおかげなんだ﹂
﹁光栄です。そんな風に言ってもらえて﹂
たちま
面映ゆい気持ちで礼を口にすると、ジュリアスを映す双眸は忽ち
涙で潤んだ。透明な黒水晶のようだ。
﹁嬉しいよ。認めてもらえた⋮⋮誇らしい﹂
涙が雫になる前に、光希は素早く目元を拭う。少し赤い目元で、
晴れやかに笑った。
﹁ありがとう﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
言葉に言い表せないほど、光希への想いが膨れ上がる。愛しいと
も、誇らしいとも⋮⋮眩し過ぎて、触れられないとすら思う。
動けずにいると、光希の方から腕を回して抱きついてきた。抱擁
を強請るように、隙間なく身体を寄せて。
光希に惹かれる瞬間は数えきれないほどあるが、こんな風に不意
打ちで感動させられ、揚句、無防備に傍へ寄られると⋮⋮取るべき
行動に迷う。
我に返り、空いた背中を抱きしめると、腕の中で﹁やったねー﹂
と機嫌よく笑った。澄み切った喜びが伝わってくる。
1246
﹁私も人の前に立つ時は、いつも光希に恥じぬように⋮⋮そう意識
しています﹂
光希は顔をあげると、じっとジュリアスを見上げる。
﹁他の誰にどう思われようと、貴方の期待だけは裏切りたくないか
ら﹂
本心を明かして額に口づけると、光希は眼元に朱を散らして額を
押さえた。黒水晶のような瞳には、ジュリアスしか映していない。
ふと気付く。自分がそうであるように、彼もまた、ジュリアスに
見惚れているということに。
胸の内に喜びがこみあげる。彼の視線を独占できる⋮⋮これほど
嬉しいことがあるだろうか。
光希は視線一つで、こんなにも満たしてくれる。
1247
62
︱ ﹃帰還・七﹄ ︱
論功行賞を終えて数日。
ジュリアスはヤシュムと二人、アーヒムの私邸に招かれた。帰還
して一段落したら、三人で飲み交わそうと約束していたのだ。
﹁無事に帰ってこれて何よりだな﹂
は
アーヒムは笑みを深める。三人共サーベルは佩いているが、軍服
も鎧も脱いだ身軽な格好で、緑豊かな庭園を見やりながら各々手酌
で酒を汲んでいる。
﹁もう生温い湿地はこりごりだ﹂
辟易したようにヤシュムが言うと、アーヒムは﹁西の結束を高め、
砂漠を護る生き方をすべきだ﹂と同意を示した。
﹁しばらく遠征もないでしょう⋮⋮﹂
ジュリアスは確信していた。しかし、アーヒムは懸念を示すよう
に継ぐ。
1248
よう
﹁だと良いが⋮⋮大戦が片付けば内輪が揉めるもの。アッサラーム
は最凶の芽を摘んだが、他国は楊として知れぬ﹂
アッサラームにおける最凶の芽︱︱アースレイヤと宮殿勢力を二
分していたヴァレンティーン・ヘルベルトは、既に血の制裁に処さ
れている。
この国も他国同様、しばしば権威の座を巡って血を流す。
時に深刻な内部分裂をきたすものだが、東西戦争の前に決着をつ
けられたことは幸いであった。
しかし、西連合軍に応じてくれた盟友国の中には、今まさに内乱
を迎えようとしている国もある。
﹁後援を発するにしても、東西の衝突ほどに荒れはしないでしょう﹂
ジュリアスが言うと、ヤシュムもこれに同意する。
﹁そうだとも。じきにアースレイヤ皇太子も即位される。遠征には
難を示す方だ﹂
するとアーヒムも顎に手をやり﹁確かに﹂と一つ頷き、
﹁思えば、内憂外患に疲弊せぬよう、公宮にまでは口を出さないの
かもしれませんな⋮⋮﹂
思いがけず、皇太子への理解を示した。
﹁只の怠慢です﹂
ジュリアスは一刀両断した。膨れ上がる公宮を御そうとしないの
1249
は、単に面倒くさいからであろう。
無益な血を流さぬよう、とっとと縮小してしまえば良いものを。
前々から思っていることである。
﹁総大将は、皇太子に厳しいな﹂
やゆ
ヤシュムに揶揄されて逡巡した。彼にも褒める所がないわけでは
ない。
﹁いずれにせよ、帝位は彼に転がります。彼ならば⋮⋮と思っては
いますよ﹂
あと四年。アメクファンタム第一皇子の成人に合わせて、アース
レイヤ皇太子は即位する。
かつてアデイルバッハ皇帝は、慣習に従い、即位と共に敵対する
全ての兄弟を処刑した。
そうでなくとも、暗殺の脅威が絶えぬ地位である。その息子、幼
少のみぎりから機転の利いたアースレイヤは、幼い弟を庇い生き延
びたが、上の兄弟達は一人残らず倒れ伏している。
最大勢力は既に粛清し、血を分ける弟も兄皇子に服従を誓ってい
る。彼の即位を邪魔する者は、もはやアッサラームに一人もいない。
﹁労せず帝位の座を手にしても、才覚が伴わなければ砂の牙城も同
然。砂漠はそんなに甘い世界ではない⋮⋮だが、彼は今の地位を己
の才覚で得ている﹂
﹁お前にしては不敬だ﹂
アーヒムの言を、ヤシュムはからかった。
1250
しゅんげん
﹁違う、認めているのだ。峻厳な自然に向き合い、西にあまねく民
を纏め上げ、聖都を護り東の脅威に打ち克つには、賢明さ、そして
ある程度の野心も必要だ﹂
﹁アースレイヤ皇太子は適任であると思いますか?﹂
問いかけると、アーヒムは静かに頷いた。
﹁あの方は東西の衝突を避ける。私は評価しておりますよ﹂
﹁征服を諦めると?﹂
ヤシュムは尋ねる。
この問いは今、あらゆる場所で耳にする。意見は割れるが、サル
ビア軍に決勝したこともあり、東への侵攻気風は再び高まっていた。
しかし。
﹁恐らくは、東西統一は決して成り立たないのであろう。成しうる
のであれば、我々よりも先ず、時を超越する神々がとうに成しえて
いるはずだ﹂
アーヒムの言葉に、ジュリアスも同感であった。しかしヤシュム
は﹁神々の真意など判らぬ﹂と首を振る。
﹁押しては引いて。どちらか優勢に見えても、時を刻むうちに、優
劣は入れ替わる。そういうことだ。本気で攻めるだけ労力の無駄と
いうもの﹂
これにも、全く同感である。
結局のところ、いつの時代も敵を中央から駆逐したところで、勢
1251
力範囲の端は、国門を越えぬ不動の線に定まる︱︱それが答えの全
てではなかろうか。
東の侵略を食い止めるだけでは
そうおっしゃていた⋮⋮以前は私も同じ考えであっ
﹁陛下が東西を駆けておられた頃
解決にならぬ
たが﹂
アーヒムは遠い眼差しで虚空を見やる。そして厳然と言った。
﹁互いに何度攻めたか知れぬ。それでも結局は決勝しきれない。戦
いの歴史を紐解けば、それこそ数千年をくだるまい⋮⋮それほどま
で、拮抗することがありえると思うか?﹂
﹁⋮⋮まぁ、普通に考えればないであろうな﹂
問いかけにヤシュムは応じる。闘えば、どちらかが勝ち、どちら
かが負けるものだ。
﹁ならば、この調和こそが神意と思わぬか﹂
﹁そうかもしれん⋮⋮﹂
今度はヤシュムも頷いた。
彼等の会話を聞くうちに思う。東西の拮抗は果たして神意なのか、
ロザイン
或いは本当に拮抗しているのか⋮⋮。
今回で言えば、命運を分けたのは花嫁の存在だ。光希なくしてハ
ヌゥアビスに決勝は叶わなかった。
西は軍勢で負けていたが、神力はジュリアスの方が上であった。
よみ
では互角の勝負であったか⋮⋮いいや、天がアッサラームの決勝を
嘉してくれたのだ。
1252
ふと無意識に、肩を押えた。
かつてない強敵︱︱宿命の敵にありながら、ハヌゥアビスをある
意味で誰よりも理解していた。
渇望に苛まれながら、きたる決戦に備えて耐える日々。ジュリア
スと同じ⋮⋮彼はもう一人の自分だった。
いや︱︱
考えても詮無いこと。時代を違えれば、負けていたのはアッサラ
ームであったかもしれぬ。
かげ
聖戦に誓ったのだ。光希の降りた砂漠を、何があっても守るのだ
と。
かいれい
﹁総大将、瑰麗なお顔が翳っておられますなぁ﹂
からかうようなヤシュムの声に我に返った。気付けば、アーヒム
もこちらを見ている。
﹁やれやれ⋮⋮軍議のようだ。遠征を終えたのだ、祝い酒にしよう﹂
﹁そうしよう﹂
﹁同感です﹂
くつわ
あらためて、三人で杯を掲げる。ジュリアスが﹁アッサラームに﹂
と発すれば、他の二人も同じ言葉を口にした。
場を仕切り直して酌み交わす酒は、美味であった。聖戦で轡を並
べた時には味わえなかった、和やかな空気に満ちている。
ひっきょう
畢竟︱︱東西の闘いに決勝したのだ。
1253
1254
63
︱ ﹃帰還・八﹄ ︱
聖都は、朝陽の浴びて金色に光り輝いている。
シャイターンの神像、いたる所に咲くジャスミン、そして聖堂の
尖塔が人々の営みを静かに見守っている。
はしけ
アルサーガ宮殿から一番近い桟橋へ寄ると、ジュリアスは光希と
しせい
共に、荷積みを終えた艀に同乗した。旧市街まで運んでもらうのだ。
市井に繰り出す今日、二人はちょっとした変装をしていた。
ジュリアスは髪を銀粉で染め、目深に被った帽子で青い宝石を隠
している。光希も同様に髪を染めて、顔には褐色粉をはたいている。
お忍びといえど、離れた所に護衛をつけさせている。アージュも
屋根を伝って、光希の後をついてきている。
﹁綺麗だなぁ⋮⋮﹂
ぎんはん
日射しに照らされて、銀班に煌めく運河を見やり、光希はフード
の奥から瞳を輝かせる。
普段とは違う恋人の姿に、ジュリアスは眼を和ませた。蜂蜜を溶
かしたような肌も魅力的だが、濃い肌色もよく似合っている。
﹁アッサラームに結構いるのに、運河を渡るのは初めてだよ﹂
1255
﹁気に入った?﹂
﹁うん! 気持ちいいねぇ﹂
嬉しそうに笑う光希を見て、ジュリアスも微笑む。きっと気に入
ると思った。やはり連れてきて正解であった。
心地よい風に吹かれ、隣には光希がいる⋮⋮いい気分だ。
暫し船旅を楽しんだ。
こしょくそうぜん
ダリア橋の傍で降りると、目的地︱︱ダリア・エルドーラ市場ま
で、並んで歩く。
古い歴史を持つ旧市街には、古色蒼然とした美しさがある。それ
でいて、朝から人の賑わいで活気づいている。暮らしに溶け込む喧
噪は、不思議と心を和ませてくれる。
﹁市場って感じがする!﹂
くろてん
隣ではしゃいだ声を上げる。
さらさ
黒貂の毛皮、西方の銀細工、真鍮や銅製品。造花に、数百種もの
更紗。兎売りや、焼き立てのパンを売る者⋮⋮光希の気を引くもの
は多い。
人目を避けて目深にフードを被っていても、三歩もゆけば何かし
らに興味を引かれ、すぐにフードを上げてしまう。
好奇心を抑えきれない姿は、自然とジュリアスの笑みを誘う。
﹁走らないように﹂
﹁あれ見てよ、すごい絨緞!﹂
山と積まれた草花、幾何学、民族模様の手織り絨緞を見やり、光
1256
希は何度目かの歓声を上げた。素直な賞賛は、道ゆく人の笑みをも
誘う。
近年は、合理的な合成染料が主流になりつつあるが、ジュリアス
は時を経て自然と風合いを増す、草木染めの絨緞が好きであった。
﹁気に入ったものがあれば、教えてください⋮⋮﹂
団欒の用途に、もう何枚かあってもいいかもしれない⋮⋮そう思
ったが、店の主が光希の瞳の色に気付いて目を瞠る。
﹁出ましょうか﹂
不思議そうに頷く光希の肩を抱いて、さり気なく店を出る。店を
通り過ぎた後も、しばらく背中に視線を感じていた。
変装をしていても、街中をゆけば自然と光希に視線が集まる。護
衛をつけてはいるが気を抜けない。
こうして隣に立ち、彼に集まる視線を意識すると⋮⋮決着はつい
ているとはいえ、かつて犯したユニヴァースの浅慮に、今更ながら
腹が立つ。
﹁やっぱり、ジュリの隣にいると人目を集めるな⋮⋮﹂
﹁私ではなく、光希の方でしょう﹂
うろん
間髪入れずに応えた。一般的な銀色に髪を染めたジュリアスは、
かなり周囲に溶け込んでいるはずだ。
しかし光希はそうは思わないようで、胡乱な眼差しで見上げる。
﹁違うよ。ジュリだよ。普段からこんな感じなの?﹂
1257
﹁どうでしょう、あまり周囲を意識して歩きませんから⋮⋮﹂
周囲の人間は背景も同じ。今更、他者の視線を煩いとも感じない。
﹁ジュリも、歩いてて声をかけられたりする?﹂
﹁声?﹂
光希は不意に、何も言わずジュリアスの腕にしがみついた。往来
の真ん中で、彼にしては珍しい行為だ。
﹁光希?﹂
﹁今すれ違った人、振り返ってジュリを見ていたよ。壁に衝突しそ
うな勢いでさ⋮⋮﹂
周囲を警戒するように呟く。どうやら、誰とも知れぬ相手に妬い
ているらしい。そんなことで気を揉む必要は無いのだが⋮⋮嬉しい。
自分も光希を前にすると、よく些細なことで妬いてしまうので、
理屈ではないのだと知っている。
寄り添って歩いてくれるので、つい額に口づけたら腕を解かれて
しまった。残念に思いながら、ふと気になったことを尋ねてみる。
﹁さっき、ジュリも⋮⋮って言いましたね。誰のこと︱︱﹂
﹁おーっと、あれは何だろうっ!?﹂
光希は不自然に、果実水を売る商人を指差した。今度はジュリア
スの方が、胡乱な眼差しで見下ろす。
問い詰めたい気もするが、誤魔化すように笑う姿が可愛いので、
1258
まぁいいか⋮⋮と思い直した。代わりに手を繋ぐと、戸惑いの浮か
ぶ黒い双眸が見上げる。
﹁いいでしょう?﹂
尋ねると、光希は照れたように視線を前に戻した。ふと沈黙が下
りて、耳は自然と周囲の喧噪を拾う。
通りのあちらこちらで、客を呼び込もうと物売りが一際大きく声
を響かせる。生きる喜び、活気に満ち溢れている。
はとう
交わされる言葉は、公用語に、南に普及する南陽語、さらに砂漠
と荒野と波濤の先の言語までも耳に届く。
﹁⋮⋮結構、聞き取れない言葉もあるなぁ﹂
むべ
同じく喧噪に耳を澄ませていた光希は、飛び交う言語の豊富さに
しせい
眼を丸くしている。
うず
市井に疎い彼の驚きも宜なるかな。なんといっても、多種多様な
商品で溢れた市場は、あらゆる商店や卸問屋が渦のように取り巻い
ているのだ。
﹁アッサラームで商売するのなら、最低でも五、六ヵ国語に通じて
いなくてはいけません﹂
﹁ジュリも話せるの?﹂
﹁はい。西の主要な言葉は一通り。公用語を学んでおけば、不便は
ありませんけれど﹂
﹁すごいなぁ⋮⋮﹂
1259
みずたばこ
やがて人の出入りの多い、水煙草屋の前で、光希は足を止めた。
たしな
肩を抱いて歩くよう促すと、足を踏ん張り、ジュリアスの袖を引く。
﹁喫ってみたい﹂
言うと思った。
﹁駄目です﹂
即答する。
昔はどちらからといえば年配者の嗜みであったが、近年は若者に
人気だ。
一服を一刻ほどかけて喫うので、自然と隣合う客と長話になる。
光希を連れて入るには懸念が多過ぎた。
1260
64
︱ ﹃帰還・九﹄ ︱
みずたばこ
光希はなかなか水煙草を諦めなかった。
﹁いいじゃない﹂
店の前で、子供のように粘る。
﹁また今度にしましょう﹂
﹁今度があるの?﹂
瞳を輝かせる様子に、自然と笑みが浮かぶ。
﹁いつでも。私と一緒なら﹂
嬉しそうに微笑む光希の肩を抱いて、ようやく店の前を過ぎると、
今度は見知らぬ男女に呼び止められた。
1261
﹁アッサラームは初めて? 案内しましょうか?﹂
若い男は、人当りの良い笑顔を向ける。水先案内を生業とする者
だろう。通りのあちこちで足を止めていたので、目をつけられたの
かもしれない。
光希はフードを目深に被り直し、顔を伏せた。わざわざ覗き込も
うとする男の態度に苛立ちが湧く。
﹁不要です。二人きりで見て回りたいので﹂
おせっかいな営業を断り、光希の肩を抱いて歩き始めると、男は
後ろを追いかけ食い下がる。
﹁仲が宜しいですねぇ。お昼はどこで食べるんですか? 決まって
いないなら、良い店を紹介しましょうか?﹂
まずいことに、光希は興味を引かれたらしい。顔をあげると外套
の陰翳から、闇夜のような眼差しを向ける︱︱男は眼を見開いて息
を呑んだ。
﹁遠慮します。放っておいてください﹂
顔を隠すフードを押さえて、今度こそ連れ出すと、男は﹁待って﹂
と手を伸ばす。遠慮なく払いのけた。
﹁触れないでください﹂
声の調子を下げて一瞥すると、身を弁えたように引き下がる。賢
明だ。これ以上しつこいようであれば、手段は選ばぬつもりであっ
た。
1262
﹁ごめん⋮⋮﹂
﹁いいえ、でも気をつけて﹂
さくそう
錯綜する通路をゆくと、ハーブと香辛料の匂いが漂ってきた。光
希は腹を押さえて、ジュリアスを見上げる。
かまど
﹁お昼にしない? お腹すいた。ジャファールの教えてくれた竈屋
に行こう﹂
二人で向かった竈屋は、ジャファールが推薦するだけあり、美味
しい雉料理を提供してくれた。
焼いた雉肉の表面を削げ落とし、刻んだ野菜を胡桃のパンに挟ん
で食べるのだが、大層美味しく、光希も無心にかぶりついていた。
﹁ここは、僕がご馳走します﹂
丁寧な口調ではにかむ姿は、胸を打たれるほど可愛らしかった。
腹ごしらえをして外へ出ると、周辺に軒を連ねる食料品店を見て
回る。巣入りの蜂蜜を見つけて、光希は眼を丸くした。
﹁買ってあげましょうか?﹂
欲しいのかと思い尋ねると﹁いや﹂と首を振る。
﹁加工された蜂蜜しか見たことないから、新鮮だっただけ⋮⋮﹂
不思議に思い首を傾げると⋮⋮聞けば、光希の生まれた天上の世
界では、硝子瓶に、屑一つ浮かばぬ綺麗な蜂蜜を詰める技術がある
1263
という。
昔はそうした話を聞く度に、アッサラームに不便はないかと不安
を覚えたものだが、彼の朗らかな態度は、あの頃から少しも変わら
ない。
﹁住めば都だよ⋮⋮ジュリもいるしね﹂
照れ臭そうに、嬉しいことを言ってくれる。
恥ずかしがり屋な光希は、愛情をあまり表に出さないが、時に思
いがけず言葉を紡いでくれる。
公宮へ迎えた当初は、この人の心が欲しくて、身の周りに何もか
も最上の物を並べようと躍起になったものだ。住めば都⋮⋮とは、
当時からよく聞かされた言葉である。
くろがね
﹁僕の知る世界にはない技術も、アッサラームには山とあるよ。鉄
の奇跡は最たるものだ﹂
こうち
﹁巧緻な装飾を施せるのに?﹂
﹁今でこそね。技術もそうだけど、考え方からして違うから⋮⋮シ
ャイターンの守護があるこの地でなければ、僕の打つ彫刻は、ただ
の装飾と同じだよ﹂
﹁いつまでもいてくださいね﹂
﹁当たり前だよ﹂
綻ぶように笑顔を向けてくれる。
傍にいる
と聞かない限り、安心を得られな
天上の話に触れた後は、毎回つい言わせてしまう。以前ほどでは
ないが、彼の口から
1264
いのだ。
そんたく
彼の口を重くさせてしまうのは、そうしたジュリアスの態度のせ
いもあるだろう。忖度に長けた人だから⋮⋮。
しかし、他ならぬ光希に遠慮をさせてしまうのは不本意だ。切り
出してみようか⋮⋮迷っていると、くんっと繋いだ手を引っ張られ
た。
﹁面白かったね。旧市街も歩いてみようよ﹂
場を和ますように、光希から提案してくれる。笑みながら、その
提案にありがたく乗ることにした。
この先も二人で過ごす時間は続くのだから︱︱今日はアッサラー
ムの隅々まで、楽しんで欲しい。
1265
65 END CREDIT ROLL 完
︱ ﹃帰還・十﹄ ︱
キャラバン・サライ ハマム
ダリア・エルドーラ市場を抜けた後、旧市街の街並みを散策した。
大通りは、あらゆる施設に通じている。
学校、図書館、病院、宿泊所、給食所、隊商宿、大衆欲場、神殿。
特に神殿の数は多い。アッサラームには大小合わせて、二千もの
神殿がある。
そして神殿の傍には、必ず身を清める為の沐浴場が併設されてい
る。祝福日には一際賑わいを見せる一角だ。
ふと、どこからか教義を口ずさむ子供達の声が聞こえてきた。近
くに、神殿があるのだろう。一角に設けられた学び舎で、教義を習
っているに違いない。
道の反対側からは、笑い合い声をあげながら子供達が駆けてくる。
﹁ジュリの子供時代を見てみたかったなぁ⋮⋮﹂
沈黙の
小さな彼等の姿に光希は眼を和ませると、ぽつりと呟いた。
﹁神殿で物静かな日々を送っていましたよ﹂
あんな風に、声をあげて笑うような子供ではなかった。
1266
戒律
に縛られているだけにあらず、感情そのものが希薄だった︱
︱光希に出会うまでは。
﹁小さいジュリは、すごく可愛かったんだろうね﹂
黒い瞳を細めて、ジュリアスを見上げる。
﹁私こそ、光希の幼い頃を見てみたかったな﹂
天使のようにあどけなかったに違いない。本人を前に言えないが、
初めて会った時から、いとけない印象を抱いていた。成人すら疑っ
たくらいだ。
﹁ジュリと全然違うよ。僕は﹃ゲームバッカリ⋮⋮ヒキコモリトイ
ウカ﹄まぁ、うん⋮⋮大人しい子供だったよ﹂
もし、小さな光希が目の前にいたら⋮⋮想像すると、思わず笑み
が浮かんだ。大人が子供に構う気持ちもよく判る。
とても眼を離せやしないだろう。何をするにも、はらはらしてし
まいそうだ。
﹁何で笑うの?﹂
不思議そうに問われる。
﹁いえ⋮⋮小さいな光希の姿を思い浮かべたら、可愛いなと思いま
して﹂
﹁大丈夫、ジュリの方が可愛いから﹂
1267
強い調子で告げる姿が可笑しくて、笑みが零れた。どう考えてみ
ても、彼の方が可愛いと思う。
しばらく練り歩いた後、道沿いの茶屋に入った。
アッサラームでは、一日は紅茶に始まり、紅茶に終わると言って
も過言ではない。朝食の後、昼食の後、夜の団欒にも紅茶を飲む。
この風習を、光希は公宮に入った当初から受け入れた。
金の刺繍
で喫茶をしたいと
国柄、街中にも喫茶を提供する店は数多くある。買い物に疲れた
客達が一休みするのだ。
本当はアージュに教えてもらった
話していたのだが、凱旋門の方まで戻らねばならず、残念ながら一
日では行けない。
﹁アージュは疲れてないかなぁ﹂
ジャスミン茶に口をつけながら、光希は護衛の少年を案じるよう
に呟く。
﹁⋮⋮平気だと思いますよ﹂
光希は気付いていないようだが、アージュは護衛の傍ら、露店で
けんせき
度々買い物をしていた。屋根の上で焼き串を頬張っている姿も目撃
している。
煩くは言わないが、ジュリアスでなければ譴責が飛んでも文句は
言えまい。
+
暮れなずみ、空の裾に色が差した。
帯状にたなびく雲の輪郭は、沈みゆく光線を浴びて、黄金色に縁
取られる。街の灯がともり始める光景は一際美しい。
1268
カテドラル
薔薇色に染まる聖都アッサラームに、大聖堂のカリヨンが空高く
鳴り響く。
運河に沿う遊歩道を並んで歩きながら、光希は空を仰いだ。
﹁なんでだろう⋮⋮胸を打たれるなぁ﹂
空には白い鳥が群れ飛び、どこか物哀しい声で鳴き騒いでいる。
それらに耳を澄ませて、光希は呟いた。
﹁たくさん歩いたから、疲れたでしょう?﹂
﹁少しね。でも平気﹂
﹁夕食を食べに行きますか?﹂
﹁ごめん⋮⋮食べ過ぎたみたい。苦しいくらいなんだ﹂
済まなそうに謝る姿に、思わず吹き出してしまった。だから言っ
たのに。茶屋に二度入り、道行く先の露店で飲んで、食べてを繰り
返していたのだ。
﹁では、もう少し歩きますか?﹂
歩けば、重たい胃も少しは軽くなるだろう。そうして気が向けば、
店に寄ればいい。
﹁うん、そうしよう﹂
﹁楽しい一日でしたね﹂
1269
街に繰り出して、これほど楽しいと感じたのは初めてだ。良い気
晴らしにもなった。
何よりジュリアスの隣で、今日という日を光希が心から喜び、楽
しんでくれたと判るから⋮⋮こんなにも満たされた。
﹁楽しかったなぁ。もう一日が終わってしまうのか⋮⋮﹂
名残惜しそうに呟く。ジュリアスも同じ気持ちだ。
﹁また来ましょう﹂
明るい気持ちで応えると、光希は隣で歩みを止めた。振り返ると、
澄んだ眼差しで見上げる。
﹁一緒にいようよ。ずっと⋮⋮﹂
その言葉の響きに、ふと在りし日の夜に交わした会話を思い出し
た。
﹁互いに嘘をつかず、喧嘩をしても、仲直りをして?﹂
あの日の会話を再現するように継ぐと、光希は悪戯っぽく眼を輝
かせる。
みずたばこ
﹁覚えてた? 休みの日には一緒に出掛けよう。今度、水煙草も試
してみたいんだ﹂
それは、どう応えたものか⋮⋮。
顔に笑みを張り付けて閉口すると、大して痛くもない肘打ちが脇
に入った。
1270
﹁そこは
そうだね
﹁また今度﹂
って言おうよ﹂
﹁いいよ。ジュリが付き合ってくれないなら、他の人を誘うから﹂
それは聞き捨てならない。
﹁絶対に許しませんよ﹂
﹁なら、ジュリが付き合ってくれないと﹂
﹁⋮⋮判りました﹂
結局、折れるのはジュリアスの方だ。実現するには準備が必要だ
ろう。しかし、満足そうに笑う、愛しい姿を視界に映すと、まぁい
いか⋮⋮という気にさせられる。
光希の為ならば、どんな苦労も惜しむまい。
ふと夕闇に染まる歩道の先に、不思議な光景を垣間見た。
時を重ねた二人︱︱ジュリアスと光希が手を繋いで、笑い合う姿
だ。淡い金色に包まれた幻は、ジュリアスの横を通り過ぎてゆく。
﹁どうしたの?﹂
呼ばれて我に返った。見下ろせば、歩みを止めたジュリアスを、
黒い双眸が不思議そうに見上げている。
﹁いいえ、なんでも⋮⋮﹂
1271
もしかしたら、シャイターンの見せてくれた幻であったのかもし
れない。
この先にも、隣に光希がいるという約束。
続いていく道の先にも、変わらずに光希がいてくれるのなら⋮⋮
どこまでも歩いて行ける。
﹁行きましょうか﹂
繋いだ手を引いて、再び歩き始めた。
夕暮に染まる、アッサラームの街並みを︱︱
1272
66 ﹃空想の恋﹄ − サリヴァン −
︱ ﹃空想の恋・一﹄ ︱ サリヴァン
宝石持ち
がそうであるように、サリヴァンもまた赤子
額に、青い宝石を持って生まれた。
歴代の
おわ
カテドラル
のうちから家族と離され、聖都アッサラームの奥深く、皇帝陛下の
御座すアルサーガ宮殿の大神殿に預けられた。
生誕祝福を受け、信仰の対象とされる神名︱︱シャイターンの名
を授かる。
サリヴァン・アリム・シャイターン。
ロザイン
それが正式名となり、成人を迎える十三の歳まで人神として大切
に育てられた。
もっ
ここにはいない、いるかも判らぬ花嫁を黙して想う日々の中、剣
よりも筆を取った。
くう
じゃく
己の役目は、先陣を切って東に侵攻することではない。信仰を以
て聖都を導くことであろうと、幼心に理解していた。
こしら
いかな賑わいを見せる光景も、サリヴァンの眼には空々寂々と映
る。
にこりともしない能面顔を見て、育ての神官は笑みを拵える術を
教えてくれた。芯から笑えずとも、笑みを浮かべれば周囲の者を癒
し、自分も生きやすかろうと、厳めしい顔の老いた信徒は言った。
1273
顔に似合わず明朗な気質で、サリヴァンを遠巻きにしない情の厚い
人であった。彼に教えを請えたことは、幸いであったといえよう。
月日は流れゆく︱︱
の義務として妻を娶った。
神意を映す鏡のような心に、魂の半身である花嫁への憧れと、天
宝石持ち
文学への使命だけが自然と灯っていた。
やがて、命じられるままに
評判の美姫もサリヴァンの心を動かすことはなかったが、彼女達
は聡明で、慎み深く、己の役目をよく理解していた。
妻と子を得ても、芯から満たされることはない。叶わぬ想い、満
たされぬ愛の苦悩は続く。
こうまい
あらゆる才に恵まれながら、埋まらぬ心の溝を、離れたところか
ら呆然自失と眺めているかのよう。
この渇きは、いつか癒えるのだろうか?
育ての恩師を青い星へ発つのを見送り、いつの間にか高邁な信徒
だと尊敬を集めるようになっても、その問いを思う時、凪いだサリ
ヴァンの心には波紋がたゆたった。
慰めに先人達の残した書を紐解けば、茜色の羊皮紙には、古い記
憶が連綿と綴られていた。
一番最後に記された記憶は、およそ三百年も昔のことだ。
に生まれた以上、避けられぬ道。運よく花嫁にめぐり
胸を抉るような渇望は、サリヴァンだけが味わうものではない。
宝石持ち
びゃくだん
逢える者は、幾星霜と続くアッサラームの歴史の中でも、ほんの数
えるほどしかいない。
なぜ、このような星の下に⋮⋮無味無臭の生を受けたのか、白檀
に跪き、シャイターンに問いかけてみたりもした。
長い祈りは静寂に包まれ、沈黙のほかに応えるものはない。
答えは、唐突に与えられる︱︱
ある朝、赤子のシャイターンが、大神殿へ連れてこられのだ。圧
倒されたものだ。額に持つ青い宝石の、なんと色濃く輝かしいこと
か!
1274
一目見て悟った。
か
駒
なのだと。
彼こそは、東の脅威に打ち克ち、西を導く砂漠の覇者となろう。
サリヴァンは、彼を導く為に選ばれた特別な
衝撃は、幼いシャイターンの眼差しに映るうちに霧散した。こう
いう、運命なのだろう。
受け入れねばならない。
神に、いかなる運命を与えられようとも︱︱たとえ花嫁にめぐり
宝石持
逢えなくとも、最善を尽くさねばならない。そうすれば、後に続く
者の励みとなる⋮⋮
の為に。迷えるサリヴァンの為に。
先人達もそうして、生涯の記録を残してきたのだ。次の
ち
今度は、サリヴァンの番だ。
かんなんしんく
神名を授けられし幼い少年、ジュリアス・ムーン・シャイターン
を導き、彼が進むであろう艱難辛苦の道を、照らす手助けをしなけ
ればならない。
彼の為に、アッサラームの為に、智恵の柱となろう︱︱そう決意
した。
+
幼い英雄との出会いから、十五年。
聖都アッサラームは、東の侵攻に苦しめられていた。敵軍勢は、
巧みに難攻不落の国門を迂回し、ついにスクワド砂漠に駒を進めた。
国の存亡を賭けた聖戦に、多くの兵士、信徒は進んで戦役に従軍
し、勇敢に戦った。
劣勢が続く中、アースレイヤ皇太子は議会の︱︱ヴァレンティー
ンの決定に唯々として従い、年若いシャイターンを過酷な最前線へ
と送り込んだ。
彼の神力のほどを知っていてもなお、命を散らしてしまうのでは
ないかと、サリヴァンは危惧した。
1275
東の侵攻から三年。
前線はよく持ちこたえているものの、膠着状態が続き、アッサラ
ームを照らす希望の灯は陽炎のように揺れていた。
しかし︱︱
奇跡のような知らせがアルサーガ宮殿に伝えられた。
﹁伝令! シャイターンの花嫁が、砂漠に降臨されました﹂
うが
きけん
黎明の冷え込みを穿つ明朗な声が、壮麗な広間に響き渡った。
頬を紅潮させて伝令が口早に告げるや、居並ぶ貴顕達は唖然とし、
間もなく一人残らず表情を綻ばせた。
﹁なんとめでたい!﹂
﹁それは真なのか!?﹂
﹁おぉっ! 明けぬ戦に、シャイターンが応えてくださったのだ⋮
⋮っ!﹂
口々に喜びを叫ぶ。
無理もない。久しぶりの朗報、それも国を揺るがす吉報だ。聖都
はもちろん、過酷な戦いを強いられている前線は息を吹き返すこと
であろう。
議会に列席していたサリヴァンは、ひっそりと表情を緩めた。
年若いシャイターンの慟哭の深さは、誰よりも知っている。並外
れた神眼で、花嫁の気配を微かでも感じ取ることができるだけに、
触れられぬ辛さは一押しであったろう。
彼は、ついに花嫁を手に入れたのだ。
羨む心もある。
だが、それ以上に祝福する思いがサリヴァンを満たした。
彼はサリヴァンにとって、偉大な砂漠の英雄である前に、教え子
であり、額に宝石を持つ同胞なのだ。
1276
花嫁を求める渇望を身を以て知っているだけに、目頭は自然と熱
くなった。よく耐えたものだ。あの厳しい地で、挫けずに、本当に
よく耐えた⋮⋮
シャイターンは、宿命を課すだけではない。アッサラームを導く
救いの手を、こうして差し伸べてもくださる。
花嫁の出現により、戦況は一変した。
青い星の御使い。花嫁の存在は、アッサラーム全土に希望を与え
たのだ。
アッサラーム軍総勢五万に対し、サルビア軍総勢十万。
圧倒的不利な状況下で、ジュリアス・ムーン・シャイターンは見
事に敵の総大将を討ち取り、長く苦しめられた、難関の山岳拠点を
制圧せしめた。三年に渡る東の猛攻を耐え抜いたのだ。
期号アム・ダムール四五〇年九月二四日。
サルビア軍は撤退し、アッサラーム防衛戦への勝利は決定した。
聖都が喜びに沸く中、サリヴァンは飛竜の背にあった。砂漠に散
ぼうばく
った同胞の魂を、鎮めにゆく為である。
十数日をかけて、茫漠の空を翔けた。
ふけ
眼下に見下ろす白い砂は、やがて、青い燐光の立ち昇る戦場へと
変貌してゆく。
美しくも哀しい光景に、サリヴァンは軽く眼を瞑って思索に耽っ
た。どれだけ多くの同胞がこの砂漠に散ったことだろう。
戦場の激しさを思いながら、味方陣営の拠点へ降りると、懐かし
い顔ぶれが集まってきた。
﹁老師、お久しぶりです﹂
教え子であったナディアに呼び止められ、サリヴァンは笑みを浮
かべた。
﹁おお! ⋮⋮元気そうだ。苦しい戦いでしたね﹂
1277
本当に、と応える彼は幸いにして怪我はないようだ。その後ろか
ら、ジャファールとアルスランも姿を見せた。
黒地の軍服は砂で白く薄汚れているものの、大した怪我もなく、
零れる笑顔は澄んでいる。
﹁よくぞお越しくださいました﹂
﹁お待ちしておりましたよ﹂
それぞれ声をかけられ、サリヴァンも笑顔で応じた。希薄な心で
も、年の功でいまや、自然な笑みを浮かべられる。懐かしい顔ぶれ
を眺めて、気分が高揚していることも確かだ。
さん
ふと、黄金色の奔流が視界に映った。
燦たる光を弾く、豊かな金髪を揺らして英雄はやってきた。同時
にナディア達は少し下がり、場所を譲る。
﹁サリヴァン、お久しぶりです﹂
﹁⋮⋮お久しぶりです﹂
反応が遅れてしまったのは、彼の変貌ぶりに驚いたせいだ。溢れ
出る覇気の、なんと強いことか。花嫁を得て、神力を更に高めたよ
うだ。
﹁花嫁を見つけました﹂
告げる口調は、やや硬い。金髪の下で僅かに緊張したように、頬
の両線を固くさせている。
1278
﹁聞いておりますとも。おめでとうございます、ムーン・シャイタ
ーン。心よりお喜び申し上げます﹂
祝福を贈ると、砂漠の英雄は安堵したように肩から力を抜いた。
傍目には判らぬ程度の身じろぎであったが、サリヴァンには、彼が
宝石持ち
を差し置いて花嫁にめぐり逢えたことに、
密かに緊張していたのだと判っていた。
先達である
芽吹いたばかりの心が後ろめたさを囁くのであろう。
﹁花嫁は健やかにお過ごしですかな?﹂
水を向けてやると、年若いシャイターンは控えめに頷いた。
﹁天上の言葉を話すのですが、惜しいことに私には判らなくて⋮⋮﹂
﹁お会いできますかな?﹂
﹁はい。もちろん⋮⋮﹂
砂漠の覇王は、複雑そうな表情を浮かべた。言葉の端を切り、窺
宝石持ち
として、羨ましくもあり、
うような気配を見せる。年を経たからこその、笑みが浮かんだ。
﹁お気になさいますな。同じ
それ以上に嬉しく思っておりますぞ﹂
本心であった。
宝石を持って生まれたこと。年若いシャイターンの師となること。
彼が花嫁を得たこと⋮⋮
全ては、偉大なるシャイターンの思し召しだ。
自然とそう思えたことに、サリヴァンは流れた月日を思い、ある
1279
段階に到達できたのだと、感慨を抱いた。
1280
67
︱ ﹃空想の恋・二﹄ ︱ サリヴァン
前線到着から、数日。
ぼうばく
一陣の風が、砂を撫でていった。
薄暗い黎明の空の下でも、茫漠たる砂漠は青い燐光に覆われ、視
界に困らぬほど明るい。
とう
見渡す限り続く青い燐光。一つ一つの光は、同胞の魂である。そ
れだけ多くの同胞が、ここで死んだということだ⋮⋮
そら
聖衣を纏ったサリヴァンは、悲壮な光景を見つめながら、滔々と
十五編の聖典を諳んじた。
ひせき
こんじき
横隊に並んで跪く兵士達は、厳かに黙祷を捧げている。
たなごころ
﹁⋮⋮我々の終油の秘蹟は、金色の聖都にあります。シャイターン
の掌は、彼等を必ず導いてくださる﹂
全てを読み終え、最後にサリヴァンが締めくくると、幾人も頷い
た。声もなく涙する同胞を、隣の者が慰めている。
鎮魂の儀は、聖戦による殉教者への手向けであり、また残された
者の慰めでもあった。
1281
更に数日︱︱
決勝を喫した拠点は、早くも撤収準備を開始した。
夜になると、決勝を祝して、または聖都への帰還を祝して、あち
ばんとう
こちで酒盛りが開かれた。
普段であれば、晩祷ならびに終課に勤めるところであるが、ここ
へきてからは、サリヴァンも何度か彼等の輪に混じった。
信仰は飲酒を禁じていない。シャイターンが敬虔な信徒にも、飲
ロザイン
酒をお許しくださる神で良かった。
花嫁と二人で過ごしたいのであろう、年若いシャイターンが姿を
見せることは稀であったが、挨拶程度に顔を見せることもあった。
くだん
そうして拠点での生活に馴染むうちに、ようやく花嫁に引き合わ
せられた。
約束の日。
宛がわれた天幕に、ジュリアスとジャファールに付き添われ、件
の花嫁が姿を見せた。
﹁はじめまして﹂
世にも高貴な青い星の御使いは、ぎこちない口調で頭を下げた。
素朴な容姿ながら、話に聞いていた通り、肌は白く、瞳も髪も艶
やかな黒であった。東西に通じる神聖色である。
﹁こんにちは、よくぞおいでくださいました。ムーン・シャイター
ン、そして花嫁﹂
ゆっくりとした発音で告げると、花嫁は礼儀正しく頷いた。
花嫁に寄り添う彼は、実に穏やかな眼差しをしている。青い双眸
には、花嫁へ寄せる確かな愛情が窺えた。
しゅうたん
その姿を見てもなお、サリヴァンの胸には祝福しか沸いてこなか
った。渇望に苦しみ、愁嘆に暮れた葛藤も、今では昔のことだ。
1282
です。サリヴァン、こちらが私の魂の半身、コーキで
﹁コーキ、この方はサリヴァン・アリム・シャイターン。私と同じ
宝石持ち
す﹂
戦場に立つ勇ましい姿からは、想像もつかぬほど優しい声であっ
た。サリヴァンは少しばかり眼を瞠ったが、花嫁を見つめる英雄は
気付いていない。
﹁こんにちは。僕は光希です。貴方が勉強を?﹂
互いの紹介を終えると、花嫁は黒い眼差しに喜びの光を灯して、
サリヴァンを仰ぎ見た。その通りだと応えると、花が綻ぶように笑
みを閃かせる。
﹁ありがとうございます!﹂
微笑ましく見ていると、花嫁は隣に立つジュリアスを見上げて、
はにかんだ。
﹁ジュリ、ありがとう﹂
すると彼は、いまだかつて見せたことがないであろう、優しい笑
みを浮かべた。慈しむように花嫁の髪を撫でてから、天幕の外へ出
てゆく。
言葉に不自由しながら、天上人である花嫁は謙虚によく学んだ。
その姿に、サリヴァンの花嫁に対する印象は、早くも上書きされた。
柔らかな頬は幼さを感じさせるが、黒水晶のような瞳には、知性
の光が灯っている。見た目より、年は上なのかもしれない。
花嫁は地図を凝視するなり、方角をすぐに理解した。スクワド砂
1283
漠が地図上のどこに位置するかを知り、オアシスとの距離感を掴ん
でみせる。
言語の他にも、あらゆる学問を教えてさしあげたい。
学者精神が疼いたこともあり、その考えはサリヴァンの中に留ま
った。
ある日、天幕に向かうジュリアスを見かけて、そういえば、と呼
び止めた。
カテドラル
﹁アッサラームに花嫁をお迎えしましたら、大神殿にお招きしても
よろしいですか?﹂
﹁大神殿に?﹂
﹁はい。聡明なお方ですし、知識欲も探究心もある。ぜひ言葉の他
にも、天文学をお教えしたい﹂
良い提案だとサリヴァンは思ったが、ジュリアスは複雑そうな表
情を浮かべた。
うが
﹁凱旋の道のりも長くなりますし⋮⋮アッサラームに戻ったら、穏
やかに過ごしてもらいたいと考えています﹂
いささ
どうやら、他意はないサリヴァンの言葉を、聊か穿って捉えたら
しい。彼の言葉には多少の警戒が滲んでいた。
﹁それは良い。美しいお屋敷を建てたと聞いておりますよ。花嫁も
さぞお喜びになるでしょう﹂
安心させるように言葉をかけても、端麗な顔に浮かぶ気鬱は晴れ
ない。サリヴァンは微苦笑を浮かべた。
1284
かんけい
﹁少々、気が急いていたようです。確かに、勉学の前に先ず、公宮
での生活に馴染むことが先でしたな﹂
ぎまん
﹁いいえ。馴染まなくてもいい。欺瞞と奸計に満ちた公宮など、煩
わしいだけです。コーキに無理をさせたくありません。離れの私邸
で、穏やかに過ごして欲しいのです﹂
どこか厳しい口調で告げる年若いシャイターンを見て、サリヴァ
ンはどう応えたものかと口を閉ざした。
花嫁を公宮第一位の権威として迎えることは、しきたりに則った
決定事項だ。周囲から遠ざけたい気持ちも判らないではないが、公
宮の頂点に君臨する花嫁が、人前に全く出ないわけにもいかないだ
ろう。
﹁ふぅむ⋮⋮懸念がないとは言えませぬが、公宮が美しい楽園であ
ることも、また事実。案内してさしあげれば、花嫁は喜ばれるので
は?﹂
公宮に囲われた多くの女達と違い、花嫁には出入りも許されてい
る。
﹁もちろんです。ただ、私の花嫁に関わることは、何であれ十分に
見極めるつもりです﹂
案じる言葉の裏には、花嫁を独占したいという恋情が透けて見え
た。
﹁出過ぎたことを申しました。お許しくだされ。おっしゃる通り、
アッサラームは遥か遠い。先ずは長旅に気を配るとしましょう⋮⋮﹂
1285
一礼して言を下げると、英雄は黙して頷いた。
若者らしい、微笑ましい心中を察し、サリヴァンは口元が緩むの
を堪えねばならなかった。
1286
68
︱ ﹃空想の恋・三﹄ ︱ サリヴァン
こんじき
西の大陸の中心都市、金色の聖都アッサラーム。
季節の移ろいは殆どなく、一年を分かつ雨季と乾季の別があるだ
そうきゅう
け。
蒼穹は遥かに遠く、降り注ぐ日射しは力強く大地を照らす。風は
爽やかに乾いており、時に砂の上を吹き荒ぶこともある。
日中の砂漠は熱砂となり、夜は真逆で冷え込む。
カテドラル
厳しい自然に囲まれたアッサラームは、街中を大河が横断する、
砂漠の巨大オアシス。大神殿のカリヨンが高らかに響き渡る、シャ
イターンに守護されし悠久の聖都だ。
ティミアン
ライラック
アッサラーム軍は、数十日をかけて懐かしい聖都を目指した。
近付くにつれ、風に運ばれてジャスミンや麝香草、紫丁香花が薫
る。
たいご
光の悪戯で、天まで伸びる金色の尖塔を視界に映し、サリヴァン
は静かに一礼した。
行軍を共にした彼等は、隊伍を整えてから、見目華やかな行軍で
凱旋門を抜ける予定だが、サリヴァンは一足先に宮殿へ戻った。
1287
﹁よく戻ったな﹂
絢爛華麗な謁見の間に入ると、アデイルバッハは玉座を立ってサ
リヴァンを労った。
﹁陛下、ただいま戻りました。お変わりありませんか?﹂
﹁朗報を聞いてから、アッサラーム中が活気づいている。気分が良
い﹂
満面の笑みを浮かべる皇帝を見て、サリヴァンも知らず笑んだ。
主君であり、知己である彼の顔を見て、帰ってきたのだと、ふと実
感がこみあげたのだ。
﹁凱旋は、それは賑やかなものになりますな﹂
﹁うむ。楽しみだ﹂
皇帝は、しごく満足そうに笑った。
その通り、英雄達の凱旋は、それは賑やかなものであった。飛竜
ロザイン
達が曲芸飛行を披露し、色とりどりの花びらが宙を舞った。
一行は、街中の歓呼によって迎えられ、英雄とその花嫁を乗せた
凱旋車が傍を通ると、誰もが喝采を叫んだ。
長らく不在であった、公宮における第一位を迎え入れ、公宮関係
者も顔に喜色を浮かべて奔走した。
国を挙げて、祝福された二人であったが︱︱
公宮へ戻った後は、想い合うが故のすれ違いを招いていた。老婆
心ながら、双方に言葉をかけたものだ。
﹁公宮を解散してください﹂
1288
まだ陽も昇らぬ、暁の早朝から神殿を訪ねるなり、ジュリアスは
強張った表情で告げた。
﹁そう、焦らずとも⋮⋮﹂
﹁急ぎたいのです。でないと、コーキの信頼を得られない﹂
﹁解散は決まっておりますが、神事はまだ先ですよ﹂
もっ
﹁手続きなど、悠長に待てません。私の権威を以てして、可及的速
やかに解散して欲しいのです﹂
﹁⋮⋮かしこまりました﹂
意志の固さを認め、異例と知りつつ、解散要求をサリヴァンは受
け入れた。
その急報は、公宮の権威であるバカルディーノ家を始め、各有権
者にも知らされた。
公宮行事を無視してまで解散されたジュリアスの公宮は、注目を
集め、様々な憶測を呼んだ。
しかし、公宮に暮らす女達には、救いであったかもしれない。報
われぬ想い、満たされぬ愛への苦悩から、解放されたのだから。
一人、また一人と公宮を後にした。サリヴァンが一時世話をした、
ジュリアスの婚約者候補、シェリーティアもその一人だ。
﹁サリヴァン様、大変お世話になりました﹂
宮女の衣装を脱いだ美しい娘は、深く頭を下げた。
1289
﹁お元気で﹂
﹁はい﹂
娘は万感を込めるように公宮を仰ぎ見ると、澄んだ瞳を細めた。
長く注がれる視線を追い駆けると、遠く回廊の奥に、様子を窺うよ
うに佇む花嫁の姿が見えた。
﹁⋮⋮憎めない方でしたわ﹂
娘はくすりと微笑した。
天上人をたとえるにしては、不敬な言葉だ。けれど、娘の浮かべ
る微苦笑に悪意はなく、ある種の感傷と、自嘲めいた色だけが浮か
んでいた。
既視感を覚える、やるせない表情。叶わぬ想いを諦めた者が浮か
べる、優しくも哀しい表情。
報われぬ恋。空想の恋を追い駆けた娘は、静かに公宮を後にした。
遠ざかり、小さくなりゆく後ろ姿を見守りながら、サリヴァンは、
この世界、この時代にはいない空想の花嫁を思い浮かべた。
かの人を想う時、清涼な風が流れて、ジャスミンが薫る。
瞳を閉じれば︱︱
瞼の奥に、いまだ見たことのない想い人が、慈母のような笑みを
湛えて振り向いた。
そっと心の中で、呼びかける。
お元気ですか?
どこに、いらっしゃるのですか?
今生では、お会いできませんか?
1290
言葉をかけてもらえるのなら⋮⋮名を呼んでくださいませんか?
私の名は、サリヴァン。サリヴァン・アリム・シャイターンと申
します
叶わぬ想いだ。
かげろう
けれども⋮⋮こうして夢想している限り、いつまでも青春を追い
駆けていられるような気もする。
年老いてなお、眼に映る光景を清涼に捉えられるのは、陽炎のよ
うな貴方のおかげかもしれない。
1291
69
︱ ﹃空想の恋・四﹄ ︱ サリヴァン
ロザイン
期号アム・ダムール四五一年、八月一〇日。
みやび
花嫁が宮殿から姿を消した。
陽が昇りきった午後、雅な宮殿は騒然となった。長い年月の中で
カテドラル
も、典雅な宮殿が、あれほど取り乱したことも珍しい。
天上人の姿を探して、大神殿にも兵はやってきた。
始めは、姿が見えなくとも、宮殿のどこかにはいるはずだと、皆
が楽観的に考えていた。行先も伝言を残していたし、滅多に宮殿の
外へ出ない人が、前触れもなく出掛けるとは考えられなかったのだ。
ところが、事態は思わぬ展開をみせる。
不在を聞いて宮殿へ駆けつけたジュリアスは、神眼で遠視を行い、
すぐに顔色を変えた。
﹁宮殿にはいません。サン・マルク市場へ向かっているようです﹂
その場に集まっていた全員に、小波のように動揺が走った。
﹁本当ですか?﹂
1292
﹁まさか、お一人で?﹂
﹁護衛はついておらんのかッ!?﹂
たぎ
口々に驚嘆の声を上げ、すぐに沈黙した。針のように肌に突き刺
さる、冷たい冷気が流れたからだ。
﹁ユニヴァース⋮⋮ッ﹂
ふんまん
蒼白い光を瞳に灯して、ジュリアスは憤懣に滾った、低い声を絞
けんげん
り出した。
神力の顕現たる青い炎は、蜃気楼に揺らめいた。
﹁彼は、コーキを連れて単独行動をしている﹂
恐ろしい事実を聞かされ、この時ばかりは、サリヴァンも呻きた
い衝動に駆られた。
花嫁の失踪。
この最悪の状況に、よりによって武装親衛隊の少年兵︱︱サリヴ
ァンの息子である、ユニヴァースが関わっているのだという。
なんらかの事件に巻き込まれたのか。しかし、破天荒な我が子の
性格を思うと、彼が引き起こした可能性も否定はできなかった。
状況は悪化する。
彼の不在に気付いたのは、サリヴァン達だけではなかった。
なび
宮殿の権威たる理財長︱︱ヴァンレンティーン・ヘルベルトもま
た、気付いていたのだ。
た
大変な有権者である彼が、欠片も靡かぬジュリアスを、日頃から
疎ましく思っていることは有名な話である。
やす
先の聖戦で、過酷な前線へ送りやったのも、英雄ならば鎮圧も容
易かろうと、居丈高に会議で言い放ち、アースレイヤ皇太子を頷か
せたからに他ならない。
1293
宝石持ち
は他にもいらっしゃ
更に言えば、サリヴァンを籠絡しようとしたこともある。
きけん
不敬にも、砂漠の英雄に代わる
る、そう貴顕達の前で、思わせぶりに目配せしたのだ。
いんぎん
傲岸不遜な態度はサリヴァンの眼にも余ったし、アースレイヤの
心中も想像がついた。
しかし皇太子は、何度も慇懃な口調で﹁是﹂と応えてきた。そう
しゅ
言わざるをえなかった背景には、歯向かえば、皇太子と言えど命が
いんとう
危ぶまれた事情もある。
くあ
よう
とはいえ、眼に余る淫蕩ぶりが、果たして自衛であったのか、宿
なだ
痾であったのかは楊と知れない。
しかし︱︱
その後、混迷する宮殿を宥め、聖戦を乗り切ったことで、彼は才
覚を示した。
頭角を現し始めたアースレイヤにも、理財長は懸念を抱いていた。
理財長は、皇太子の即位までにジュリアスの立場を弱め、アース
内乱
は起こるべくして勃発した。
レイヤを操る手綱を引き締めたいと考えていたのだ。
誰もが予期していた
﹁ヴァレンティーン・ヘルベルトを捕えます﹂
﹁許可する。花嫁を救出せよ﹂
武力による内乱鎮圧︱︱ジュリアスの下した決断を、厳かに皇帝
は承認した。
﹁御意﹂
怒気を押し殺した声で、ジュリアスは礼節に則った一礼をした。
すぐさま踵を返し、謁見の間を飛び出していく。サリヴァンもその
後を追い駆けた。
1294
もはや一刻の猶予もない。
最優先される作戦は、花嫁奪還である。当然、ムーン・シャイタ
ーンが先頭指揮に臨んだ。
くつわ
同時に進行する作戦は、ヴァレンティーン・ヘルベルトの身柄拘
束、拠点制圧。完全なる武力無力化だ。これは、聖戦で共に轡を並
べたヤシュム、アーヒムらが先頭指揮に臨んだ。
﹁作戦遂行に、ヴァレンティーンの生死は問わない﹂
その日予定していた演習は中断され、緊迫した空気に包まれた滑
走場。作戦に向かう各々に向けて、英雄は冷たい声で告げた。
﹁﹁御意﹂﹂
たいご
数千から万もの兵を指揮する将達は、厳かに一礼した。
彼等は素早く作戦を共有すると、すぐに滑走場で隊伍を成す、そ
れぞれの部隊の元へ散った。
責任の一端はサリヴァンにもある。後に続こうとすると、ジュリ
アスは厳しい眼差しをサリヴァンに向けた。
﹁サリヴァンは残ってください。ヴァレンティーンを捕えたら、ア
ースレイヤには現場にきてもらわなければならない。貴方には最初
から最後まで、内部指揮を任せます﹂
﹁かしこまりました。このような事態となり、なんとお詫びを申し
上げればよいか︱︱﹂
﹁謝罪は本人から聞く。先ずは、光希の救出です。責任を感じるな
ら、ここで正確な指揮をッ!﹂
1295
おのの
よぎ
強い口調で彼は一喝した。空気がびりびりと震え、近くを通った
兵士達は慄いたように跪いた。
狼狽えている場合ではない。サリヴァンも気を引き締め、胸を過
るユニヴァースへの懸念を切り離した。彼の言う通り、今、最優先
すべきは花嫁の救出だ。
﹁御意﹂
端的に応えると、己が使命を果たさんと宮殿へ駆けた。
1296
70
︱ ﹃空想の恋・五﹄ ︱ サリヴァン
聖都アッサラームは、暗雲に覆われた。
しょうかい
領民には扉を固く閉ざすよう触れが出され、宮殿を中心に厳しい
たいご
ていてつ
哨戒網が敷かれた。聖戦をくぐり抜けたアッサラーム軍の精鋭が、
隊伍を成して真昼の聖都を駆け抜ける。蹄鉄が石畳を叩いて、火花
を蹴立てた。
きか
宮殿では、アースレイヤとサリヴァンを中心に、緊急会議が続け
られている。
もはや、花嫁の捜索に話は留まらない。
内乱鎮圧・花嫁奪還。
遠征に臨めるだけの戦闘力を兼ね備えた、ジュリアス直属の麾下
精鋭達。一騎当千の将︱︱ジャファール、アルスラン、ナディア、
ほ
ヤシュム、アーヒム達を先頭に編隊された隊伍は、複数拠点制圧に
向けて、同時に兵を動かした。
うか
戦況の様子は、日中でも眼に留まる、黒い煙を天空に昇らせる烽
火により、すぐさま宮殿に伝えられた。
全ての戦況を正確に把握しうるのは、軍議に立つサリヴァン達だ
けだ。
1297
﹁伝令! 東二区で開戦いたしました!﹂
﹁伝令! 東北三区、およそ五百と開戦いたしました!﹂
次々と開戦の知らせが届いた。
苦戦している拠点、手薄な拠点には援軍を送り、任務を遂げた隊
には次の指示を出す。優先順位を決めて、的確な指示を出すには相
当な集中力を要した。
﹁編隊が崩れている。あそこはもう機能しない、引いて立て直しを
⋮⋮ッ﹂
その場で
と伝えよ。上手くすれば、そのまま拠点の中心に飛びこ
﹁いや、時間が惜しい。近く、ジャファールがいます。
立て直せ
めるでしょう﹂
へきとう
回避策を訴える将の弁を遮り、沈着冷静にアースレイヤは告げた。
けいがん
劈頭から見事な指揮能力を披露する彼に、サリヴァンは密かに賞
賛を贈った。冴えわたる炯眼は、この非常時においても、同時進行
で繰り広げられる戦況をよく捉えている。揺るがぬ精神力も大した
ものだ。
彼に欠けたところがあったとしても、補って余りある才能に恵ま
れていることは確かだ。
﹁伝令! 西の拠点に援軍が終結しています。か、掲げる紋章旗は
⋮⋮ハグル家、バンセ家にございますッ﹂
息を切らせて駆け込むなり、伝令は悲壮な顔で告げた。
﹁なんだとッ 共同戦線を張っているのか!?﹂
1298
﹁なんだ、それはァッ!﹂
むべ
耳にした将達が、青褪めるのも宜なるかな。
どちらも大変な有力者だ。ヘルベルト家の起こした内乱に合わせ
て、反旗を翻したというのか。
押さえねばならぬ拠点は、僅かの間に倍増した。制圧と同時に、
民衆の安全も確保しなければならない。
進軍は、退路は、損害は、兵力は、拠点数は、指揮する将は︱︱
各々が、必死の形相で目まぐるしく計算している。気持ちは判る
が、彼等の焦燥ぶりは逆にサリヴァンを冷静にさせた。
﹁⋮⋮細かく隊を分けるとしましょう。深入りせず、浅く攻めてゆ
けば、どこかに必ず綻びが見えてくる。穴の開いた拠点を見つけた
ら、一点集中の指示を出します。近い部隊はこれに応じ、確実に制
圧していきましょう﹂
砂漠と違い、場所の限られた街中では、機動の制限が多い。決勝
部隊がどこかに潜んでいたとしても、援軍として駆けつけるには時
間を要する。
兵力を問えば、圧倒的にこちらが有利なのだ。
同時に反旗を翻し、機動の混乱を招きたいようだが、冷静に対処
しさえすれば、逆に敵は兵力を分散させたが故の弱体化が顕著にな
る。
﹁どれだけ火を噴いたところで、アッサラーム全域に哨戒網を張り
巡らせている、こちらの有利に変わりはありませんからな﹂
落ち着いたサリヴァンの声は、呻いていた一同を黙らせた。それ
ぞれが険を和らげ、首肯で応じる。
すぐさま、作戦は前線に伝えられた。
1299
くみ
応じる前線の将も見事なもので、サリヴァンの意図を正確に汲み
取り、浅い牽制を繰り返しては敵の苛立ちを誘った。
同時に開戦した拠点にも、やがて様々な違いが見え始めた。与し
やすい拠点へ集中砲火の指示を出すと、蜂が襲いかかるように、瞬
く間に制圧してみせる。作戦が機動に乗り始めるまでに、そう時間
はかからなかった。
﹁⋮⋮シャイターンも人が悪いと思いましたが、納得がいきました。
聖者とは思えぬ采配ぶりです﹂
どこか悪戯めいた光を瞳に点して、アースレイヤは賞賛を口にし
た。サリヴァンと同じように、彼もまたサリヴァンを測っていたら
しい。
﹁年の功ですよ﹂
﹁ご謙遜を。隣にいてくださると、心強いですよ﹂
おもね
阿るでもなく、アースレイヤは繕いのない微笑を浮かべた。
かくして︱︱
花嫁は無事に救出された。
首謀者である、ヴァレンティーンを拘束。この世の春を謳歌して
いたヘルベルト家の栄華は、地に堕ちた。
私財没収。私領も差し押さえられ、新たな当主を擁立することも
叶わず、一家断絶の極刑を、擁護してきたアースレイヤに申し渡さ
れたのだ。
1300
71
そうきゅう
︱ ﹃空想の恋・六﹄ ︱ サリヴァン
ちょうめい
澄明な、遥かなる蒼穹
円形の闘技場には澄んだ空気が流れ、悠々と流れゆくコンドルが
影を落としている。
花嫁を無事に救出し、安堵に包まれたのも束の間、アルサーガ宮
殿は重たい緊張感に包まれていた。
その日は、ユニヴァースの公開懲罰が施行される日であった。
円形闘技場に軍幹部は全員召集された。
血縁者であるサリヴァンも列席している。周囲の者から同情の眼
差しを寄せられる中、シャイターンはいつもと変わらぬ、まっすぐ
な視線を寄こした。
﹁ご迷惑をおかけいたしました。深く、お詫び申し上げます﹂
一礼すると、彼は静かに頷き、
﹁処罰の後は、立ち入りを許します﹂
1301
絶対零度の湖水を思わせる冷貌の中に、僅かな気遣いを見せた。
再び頭を下げるサリヴァンの横を、今度は無言ですり抜ける。
石柱の木陰から陽の下に出ると、眩しい日射しに足を止めた。
我が子の過ちを、不始末だと嘆きはしない。ただ、よく晴れた青
空が心に突き刺さった。
大勢が集まっているにも関わらず、闘技場の空気は鎮痛で重く、
静かであった。高みから見下ろすシャイターンの纏う空気が、氷の
息吹のように冷たいからか。
二階の中央からは、何もかもよく見えた。
懲罰を受けるユニヴァースは、舌を噛まぬよう口に丸めた布を食
まされ、裸の背中を向けて、鉄棒に両腕を高く戒められている。
あや
重いため息が隣から漏れた。精悍な体躯を黒い軍服に包んだ、五
番目の息子のサンジャルだ。その隣には、こんな場でも眼にも彩な
衣装を着ている、七番目の息子、浮世離れしたランシルヴァがいる。
間もなく始まる懲罰を前に、日頃は顔を合わせれば賑やかな二人
が、随分と大人しい。
非情の獄吏が鞭を振るった。
強い茨鞭は、鍛えた肉体であっても、皮膚を破る。
空気と肉を裂く、しなる鞭の音。衝撃に耐える呻き声。
背中から血を流す姿を見るうちに、サリヴァンは身に宿る神力が
昂るのを感じた。人より感情は希薄といえど、我が子が無抵抗のま
まに傷つけられていく姿は見ていて辛い。
隣を窺うと、二人共平静を保っているように見えて、攻撃的な神
力が漏れていた。
くずお
七回の鞭を、ユニヴァースは耐え抜いた。
縄を解かれた途端に頽れる身体を、傍にいた兵士が支える。サリ
ヴァンが立ち上るよりも早く、サンジャルが傍へと駆け寄った。
﹁ユニヴァースッ!﹂
1302
意識は既になかった。
一瞬、死んでしまったのかと危ぶんだが、すぐに胸が上下する様
子に気がついた。背中に触れぬよう運び出すさなか、高みから見下
ろすシャイターンと視線が交錯した。
纏う空気に怒気を滲ませたのは、日頃はユニヴァースを疎ましく
思っているサンジャルであった。
﹁サンジャル﹂
攻撃的な潜在下の神力を高める彼を、サリヴァンは諫めた。する
と、彼も不敬に気付いたように視線を逸らし、傷ついたユニヴァー
スへと視線を戻した。
﹁すみません﹂
﹁いいえ。早く、治療してやりましょう﹂
衛兵の手を借りて運び出すと、やがてユニヴァースは眼を開けた。
うつ伏せの背中には包帯が巻かれており、止血が追いつかず、と
ころどころ黒く変色している。傾けた視界に長身のサンジャルを映
して、眉をひそめたかと思えば、サリヴァンに気付いて今度は眉を
下げた。
﹁ご迷惑を、おかけしました﹂
彼にしては抑揚のない、昏い声が静かな病室に落ちた。
﹁もういい。よく、耐えた﹂
頭を撫でてやると、ユニヴァースは横に倒していた顔を、白い円
1303
形の枕に埋めた。
﹁⋮⋮もう、会えないのかなぁ﹂
両肩を微かに震わせ、くぐもった声で独りごちる。
その愁嘆する姿を見て初めて、サリヴァンは彼の秘めし想いを知
った。傍に立つ二人も、僅かに眼を瞠っている。
なんということだ︱︱
それでは尚更、繰り返し悔恨に襲われ、今は苦しかろう⋮⋮
﹁お前でも、落ち込むんだな﹂
皮肉を発したのは、サンジャルだ。しかし、いつもほどには声に
棘がない。無言で応えるユニヴァースの頭を、ランシルヴァは優し
く撫でた。
﹁可哀相に⋮⋮なんて、痛そうなんだ。しばらく、背中は見ない方
がいいよ﹂
まるで自分の背が傷ついたかのように、ランシルヴァは顔をしか
めた。色彩に富む、優しげな風貌をしたこの青年は、最も美しい詩
句を書くとアッサラームでも評判の詩人である。
﹁そんなに酷い⋮⋮? てゆうか、ランシルヴァはともかく、どう
してサンジャルが?﹂
﹁俺がいては不満か﹂
﹁正門警備はどうしたんだよ﹂
1304
﹁すぐに戻る。その前に、これだけは言っておく。貴様がどう振る
舞おうが関係ないが、父上に迷惑をかけるな﹂
潔癖な息子は、軽蔑しきったように鼻を鳴らした。一方、ユニヴ
ァースは気まずそうに沈黙する。
﹁⋮⋮サンジャル。よしなさい﹂
見かねて口を挟むと、サンジャルは態度を改め、礼節に則った一
礼をした。仕事を抜け出してきたからと、早々に部屋を出ていく。
﹁姉さん達も心配していたよ。元気になったら、顔を見せに行くと
いい。喜ぶんじゃない?﹂
部屋に静寂が訪れると、ランシルヴァはのほほんとした表情で、
優しく声をかけた。
﹁うん⋮⋮﹂
﹁ね、殿下ってどんな方?﹂
好奇心の滲んだ問いに、ユニヴァースは沈黙で応えた。その質問
は、今は酷であろう。
﹁⋮⋮ゆっくり休みなさい﹂
一人にさせてやろうとサリヴァンが席を立つと、ユニヴァースは
ぽつりと、可愛い人、と呟いた。
﹁そっかそっか﹂
1305
伏せているユニヴァースの頭を、ランシルヴァは無造作に掻きま
わした。
外見に気を使うユニヴァースは、髪を盛大に乱されても、文句も
言わずに伏せていた。
この後︱︱
政争に敗れたヘルベルト家は、全面的に反旗を翻す。傘下の私兵
を集めてアースレイヤに宣戦布告。
最後の抵抗は、苛烈を極めた。
対するアッサラーム軍は、これを容赦なく徹底的に弾圧する。皇
帝の印可の下、万軍をものともせず十日で制圧。ヘルベルト家は劣
勢を覆せぬまま、敗れた。
抗争の明けた翌朝、石畳は見渡す限り、青い燐光に覆われ、その
戦闘の激しさを物語っていた。
粛清は皇帝の勅命である。しかし、凄惨な結末は、シャイターン
の逆鱗に触れたことも起因していただろう。
﹁許さぬ! 許すものかッ!﹂
ちょうらく
凋落し尽くした様相で喚く男の身体を、兵士が押さえつける。乱
れ髪からは想像もつかぬ、かつて宮殿を牛耳り、この世の春を謳歌
したヴァレンティーン・ヘルベルトだ。
ついに処刑台の上に頭を乗せられ、男は深淵に溺れるように顔を
下げた。
﹁触るな! 私を誰だとォ⋮⋮ッ、宝冠を支えし石柱は、貴方が自
らの手で砕くのだ。奈落へと転落する様を、とくと見よ! これぞ、
未来の貴様の姿よ。栄華など泡沫の夢に過ぎないと、思い知るがい
いッ!!﹂
1306
﹁終わりです。ヴァレンティーン﹂
アースレイヤは、激昂する男に穏やかに応えた。
﹁聖都よ、落日に沈め。崩れ堕ち、呪われるがいい⋮⋮ッ﹂
﹁人を呪うのに、どうして自分は呪われないと思うのです? この
顛末は、全て貴方が引き寄せたもの﹂
﹁黙れえぇッ!!﹂
たいぜん
冷然と見下ろすアースレイヤは、肘掛椅子に泰然と座すシャイタ
ーンに視線を投げた。無言のうちに、承認は交わされる。
﹁首を刎ねよ﹂
高みから執行を命じるは、美貌の皇太子、冷然と首肯したのは、
偉大なる砂漠の英雄であった。
命を絶つ、非情の大鎌が振り下ろされる。血の連なりが弧を描い
た。
1307
72
カテドラル
びゃくだん
︱ ﹃空想の恋・七﹄ ︱ サリヴァン
血の粛清が明けた聖都。
かげ
清らかな早朝の陽光が、大神殿の白檀を照らしている。
しかし、跪くシャイターンの美貌は翳っていた。近寄ることを遠
慮していたが、長く祈りを捧ぐ姿を見るうちに、自然と足が向かっ
た。
よみ
﹁神は勤勉な者を嘉しましょう﹂
﹁サリヴァン⋮⋮﹂
ロザイン
﹁花嫁は、いかがお過ごしですかな?﹂
﹁私の花嫁です﹂
声に含まれた苛立ちを感じとり、サリヴァンは眼を瞠った。彼は
気まずそうに視線を逸らすと、悔いるように拳を額に押し当てた。
1308
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁お気になさいますな。いつでもお待ちしておりますと、お伝えく
だされ﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
かんぜん
苦悩の滲んだ声を聞いて、サリヴァンは彼のことを気の毒に思っ
た。
政争でも闘争でも、敢然と立ち向かえる偉大な英雄は、超人では
あっても、万能ではないのだ。
それは、地上に遣わされた天上人も同じこと。悩む英雄の姿を見
る限り、花嫁もまた、苦しんでいるのだろう⋮⋮
二人が並んで姿を見せるのは、謹慎が明けてからである。花嫁が
サリヴァンに気兼ねなく声をかけるには、更に時間を要した。
背中の傷が乾いた頃、ユニヴァースは特殊部隊︱︱別名、懲罰部
隊に配属され、危険を伴う遠征に従軍する。明るい性質の彼は、遠
征の過程で次第に自分を立て直した。
想像しがたい、東西の決戦が近付いてくる。
中央和平交渉、ベルシア和平交渉が難航する中、花嫁は体調を崩
して勤務中に倒れた。心労が祟ったのであろう。
あの時は、多くの者が花嫁の回復を祈って、大神殿を訪れたもの
だ。
稀なる天上人は、常人には考えも及ばぬ孤独を密かに抱えていた。
それは、魂の行き着く先や星の運行といった、信仰を揺るがす懐
疑で、誰にも打ち明けられずにいたようだ。
深い霊的葛藤の欠片を、意外な形でサリヴァンは知る。花嫁が作
ったという、物珍しい望遠鏡だ。大洋を眺める際に使うそれと似て
いるが、彼が作ったものの方が精度は良い。
言葉も知らなかった無垢な人が、ここまで成長したのか。零から
1309
歩んだ道のりに指輪で報いると、
﹁ありがとうございます⋮⋮っ﹂
黒い瞳を潤ませ、天球儀の指輪を震える両手で受け取った。指輪
を受け取る彼の眼差しは、黒水晶のように美しい。
その喜ぶ姿を見て、彼はこの先も砂漠の英雄と共に、アッサラー
ムで生きていきたいのだと、サリヴァンにもはっきり判った。
少しでも長く、彼等の上に優しい霧雨が降ればいい⋮⋮
願ってみても、避けられぬ戦いは始まる。
あがな
花嫁は英雄と共に、アッサラームを離れて国門へと向かった。
血で購う聖戦に、多くの同胞が青い星へ還ってゆく。
様々な苦難が、彼等を襲ったことだろう。
それでも二人は、かつての聖戦のように凱旋を果たした。盛大な
よぎ
歓呼によって迎えられ、アッサラームは祝福に包まれた。
あの頃を振り返ると、幾つもの光景が胸を過る。
論功前夜︱︱
激戦を繰り広げ、最も死者を出したノーヴァの戦いを振り返り、
けんこにってき
アデイルバッハは言ったものだ。
へきとう
﹁劈頭、乾坤一擲の空中戦で、ジャファールはサルビアに勝利した
のだ。難関地形を恐れず、先頭に立って作戦指揮を務めた。評価に
値する男だ﹂
多くの議論を呼ぶ戦いに、サリヴァンも彼とおよそ同じ意見であ
った。彼は更にこう続ける。
てきがいしん
﹁サルビアの敵愾心を煽り、知略に長けた将が、大胆な配置変更で
襲いかかった。それでもなお、死地を延命させたのは、彼の手腕に
因るところが大きい﹂
1310
﹁彼が名将であることは、誰もが認めておりますよ﹂
﹁辛い思いをさせた⋮⋮﹂
静かな呟きには、経験に裏打ちされた、苦慮の響きが込められて
いた。
あの夜、喉に流し込む火酒に、皇帝は慰めを求めていたのかもし
れない。深酒を控えている人が、九杯も空けていた。
+
期号アム・ダムール四五一年、一月一六日。
揺り香炉の薫る、大神殿。
論功行賞で祭壇に立つサリヴァンの前に、ユニヴァースは誇らし
げにやってきた。
﹁⋮⋮よく頑張りましたね﹂
知らず口元を緩め、労うと、彼の瞳は喜びに輝いた。
﹁ありがとうございます。父上﹂
天性の陽気に恵まれている彼も、思い悩む日々があった。表には
ちょうめい
出さぬが、叶わぬ想いに苦しんでいた。
とうしんそう
知っているからこそ、讃えたい。
灯心草のように真っ直ぐに立ち、澄明な眼差しを向ける我が子は、
短い間に、見違えるほど成長してみせた。
時間の流れは、人を癒してくれる。
輪廻に縛られぬ西の民であれば、万人に与えられる権利だ。
1311
いかなる
利き腕を失くし、前線を離れたアルスランは、以前よりも頻繁に
大神殿を訪ねるようになった。
﹁腕を失くしてから、貴方の言葉をよく思い出します。
⋮⋮﹂
運命が横たわろうとも、最善の努力をしなければならない。後に続
く者の、励みになるから
己に言い聞かせるような口調であった。
﹁よく戻ってくれました﹂
ふけ
傷に触れぬよう肩に手を置くと、彼は思い耽るように瞼を半分伏
せた。
﹁多くの部下を亡くしました。この喪失感が埋まる日など、永遠に
こない気がします﹂
﹁残された者の役目です。それでも、貴方は前を向こうとしている﹂
逝きし人との行きし日々を胸に︱︱
はとう
命ある者は、いわばしる小川を漕ぎいで、人生の大洋のもたらす
波濤を越えてゆかねばならない。
そうきゅう
ちょうしょう
灰色の朝がきても諦めずに、白い波頭の光る海を見るまで。
それからの日々、幾日もアッサラームの蒼穹に、弔鐘が鳴り響い
た。
生き残った者の心に傷痕を残し、東西大戦は終結した。
1312
1313
73
︱ ﹃空想の恋・八﹄ ︱ サリヴァン
あれから、四年。
期号アム・ダムール四五六年。十三月五日。
えいよう
東に決勝したアッサラームは、その後、大きな内乱も遠征もなく、
平和を享受し、栄耀栄華の極地にあった。
間もなく、アメクファンタム第一皇子は成人する。新たな皇太子
誕生に伴い、長く治世を守ったアデイルバッハ皇帝は退位し、アー
スレイヤが即位する。
新しい御代が始まろうとしている。
聖都の前途は明るく、希望に満ちていた。祝福に包まれ、生きる
喜びに溢れている。
しかし、光明が射せば影も射す︱︱
はざかいき
東西戦争の折に、万もの援軍に同意したアッサラームの主要盟友
国の一つ、南西に栄えるザイン公国は、激動の端境期にあった。
けいけん
かつて様々な王朝が覇権を競い、栄枯盛衰を繰り返してきたザイ
ンは、聖都アッサラームを仰ぐ敬虔な信徒であり、広大な土地を神
事により選出された公爵家が治める、誇り高い独立自治区である。
1314
美しい古都は、終戦後に内紛が激化し、著しく治安が悪化してい
た。その被害は、もはやザイン内域に留まらない。
この数年。
荒れるザインの治安に交易は滞り、周辺経済にも影響を及ぼして
いる。
治安悪化の原因は、ザインを支配する三家にある。
三大公爵家︱︱ドラクヴァ家、ゴダール家、グランディエ家のう
ち、十年に渡りグランディエ家がザインを治めてきた。
グランディエ公爵、ザインを治める領主の名を、ジャムシード・
グランディエという。
十年続いた覇権を、年明けの聖霊降臨日に返上し、同時に次の宗
主家を選出しようとしている。
ところが、ドラクヴァ家とゴダール家は、覇を賭けて牽制し合い、
先日ついにドラクヴァ家の当主が暗殺された。
ゴダール家の嫡子リャンに疑惑がかかり、ドラクヴァ家は彼を拘
束。ゴダール家はリャンの解放を求めるが、ドラクヴァ家は頑とし
て拒否している。
しい
この問題は、今なお解決していない。
誰が、ドラクヴァ家の当主を弑したのか。
リャンは無実なのか。
次の覇は、ゴダール家か、それともドラクヴァ家か。
悪化する治安に、領民からは不満の声が高まり、自由統治を唱え
る革命軍が乱を発起した。現在、三家と革命軍の緊張は、限界まで
高まっている。
安定しない情勢の中︱︱
宗主家を務めるグランディエ家から、精霊降臨儀式の招待状が、
西における最古最高最大の文明都市、聖都アッサラームに届けられ
た。
額面通りに受け取れば、恒例の式典への招待状であるが、その裏
には、絶対的な威信の介入により鎮静化を図りたい、公爵家の狙い
1315
も見える。
すなわち︱︱
ロザイン
東西に決勝した砂漠の英雄、ジュリアス・ムーン・シャイターン
と、その花嫁、青い星の御使いの立ち合いの元に、聖霊降臨儀式を
迎えたいと申し入れたのだ。
しかし、シャイターンは花嫁を伴うことに難色を示している。
たぐいまれ
一方、神の啓示を受けた花嫁は、同行を強く主張している。
類稀な星のめぐりで出会った二人は、想い合いながらも、近頃は
聖霊降臨儀式の参列権を巡って対立関係にあった。
今朝も早くから、絢爛華麗な﹁光の間﹂にて定期宮殿議会が開か
れているが︱︱
﹁僕も行きます﹂
﹁認められません﹂
強張った表情で花嫁が告げれば、隣に立つシャイターンが即答す
る。もう何度か、繰り返されている光景である。
﹁時期が悪過ぎます。判ってください﹂
﹁難しいことは判りますが、僕も、どうしても予見を無視できない
んです﹂
﹁アッサラームと違って、街中でも襲撃があるかもしれないのです﹂
﹁親衛隊を連れて行きます﹂
鋭い双眸に臆さず、花嫁は堂々と応えた。おっとりしている彼に
しては、この件に関して、少しも譲る気配を見せない。
1316
﹁光希に代わって、できるだけの支援をすると約束します。どうか、
アッサラームに残ってください﹂
﹁僕も招待を受けているのだから、行く、行かないは僕に決めさせ
てください﹂
﹁内紛の起きている場所に、貴方を連れて行くことはできないと、
申し上げているのです﹂
彼は、青い光彩を讃えた眼差しで花嫁を見下ろした。無言で睨み
合う二人の間に、見えぬ火花が散る。
﹁警護で苦労をかけるかもしれないけど、僕はザインで起こること
を予見しています。役立てると思うけど⋮⋮﹂
いかにも不服げに花嫁が応えると、シャイターンは苛立ちを抑え
込むように黙りこくった。
空気はいっそう張り詰め、数十もの心配げな視線が、シャイター
ンと花嫁の間を行き来する。
周囲が口をつぐむ中、アースレイヤはこめかみを押さえ、疲れた
ように口を開いた。
﹁まぁ⋮⋮制圧に行くわけではありませんし、彼に任せてはいかが
ですか?﹂
﹁ですが!﹂
はんばく
反駁を唱える花嫁を、アースレイヤは視線だけで制した。
1317
﹁定かでないお告げより、治安の悪化している場所に、大切な花嫁
を連れていく懸念の方が、重要な問題ですよ﹂
ふんまん
静かに諭され、花嫁は憤懣やるかたない様子で、沈黙を強いられ
た。
1318
74
カテドラル
︱ ﹃空想の恋・九﹄ ︱ サリヴァン
黄金色の黄昏。
議会を終えて、大神殿の書斎に座っていると、手元の書物に影が
映り込んだ。
窓辺に風が流れて、夜に咲くジャスミンが薫る。
羊皮紙に書き留められた昔の記憶を読み返していたサリヴァンは、
宝石持ち
が現れる。
照明を灯して筆を執った。記すのは、日々欠かさぬ手記である。
いつの日かまた、次なる
しゅうたん
その者が、花嫁とめぐり逢えるとは限らない。横たわる運命に呆
然自失し、愁嘆に暮れるかもしれぬ。
その時、その者を導く灯の一つになれるように、この生涯を記し
ておく︱︱
﹁サリヴァン様﹂
控えめに扉を叩く音に、サリヴァンは顔を上げた。
﹁どうぞ、お入りください﹂
1319
﹁殿下がお見えになりました﹂
扉を開いたのは、かつて聖歌隊で高音域の独唱を務めた少年︱︱
エステル・ブレンティコアだ。
声変りを迎えた少年は、伸ばしていた髪も短く切り揃え、凛々し
いアッサラームの獅子に成長した。現在は、ユニヴァースと同じ第
一騎馬隊に所属している。
軍舎で共同生活を送る傍ら、大神殿の書物の殿堂にも足を運ぶ、
勤勉な信徒である。
﹁お通ししてください﹂
ロザイン
筆を置いて席を立つと、間もなく、エステルは花嫁を連れて戻っ
てきた。出会った頃から殆ど変らぬ背丈で、花嫁はサリヴァンを仰
ぎ見た。
﹁こんにちは、サリヴァン﹂
﹁こんにちは、花嫁﹂
笑みかけると、花嫁は疲れた愛想笑いを返した。
﹁お忙しい中、すみません﹂
﹁いえいえ、構いませんよ﹂
はんもん
こちらの勧めるままに絨緞に腰をおろし、煩悶するように腕を組
む。
大分悩んでいる花嫁の様子に、サリヴァンは皺の刻まれた顔に苦
1320
笑を浮かべた。
﹁お疲れですなぁ⋮⋮﹂
﹁僕では、ジュリを説得できそうになくて⋮⋮ご相談に上がりまし
た﹂
﹁あのご様子では、私が申し上げても聞かぬでしょう﹂
﹁ううーん⋮⋮無視できたら僕も楽なんですが、シャイターンは何
度も呼びかけるんです。実は、さっきも中庭で金色の蛇を見て⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁サンベリア様の時みたいで、嫌な予感がするんです﹂
深刻そうに呟くと、花嫁は重いため息をついた。彼は、以前にも
啓示を受けて、暗殺の危機からアースレイヤの東妃を救ったことが
る。
あの時のように、それぞれのシャイターンの板挟みになり、苦労
しているようだ。
﹁啓示は、変わりありませんか?﹂
夜のように黒い瞳は、眼に映らぬ世界を見るように、神秘的に煌
めいた。
すす
﹁いえ、今日は例の煤けた建物の奥で、倒れている男性を見ました。
彼がきっと、捕えられているリャンなんだと思います﹂
1321
﹁顔は見ましたか?﹂
﹁うつ伏せに倒れていて、はっきりとは⋮⋮手足を鎖に繋がれてい
ました﹂
花嫁は顔を苦しげに歪めると、呻くように呟いた。
ドラクヴァ公爵暗殺疑惑のかけられているゴダール家のリャンは、
ドラクヴァ家に拘束されている。その様子を覗いたのなら、惨い光
景であったかもしれない。
﹁神はなぜ、彼の様子を見せたのでしょうな﹂
ふと浮かんだ疑問を口にすると、花嫁は閃きの光を瞳に灯してサ
リヴァンを見た。
宝石持ち
に関係しているのではない
﹁薄暗い部屋の中で、彼の額のあたりだけ、青く輝いていました。
もしかしたら、彼の系譜は
でしょうか?﹂
どこか緊張した様子で、花嫁は声をひそめて告げた。
﹁ははぁ、なるほど⋮⋮﹂
シャイターンの系譜は、明るみにしてはいけない。みだりに口に
してもいけない。利益追求が生まれぬよう、世俗と限りなく無縁で
なければ⋮⋮。
只人の手に託せぬ事態を、神は花嫁に託したのだろうか。
東西の決勝は、神の領域だ。
善きも悪しきも記される天の書といえど、神同士が関わった戦い
の先は不確かで、高次元の存在であっても見通せないのかもしれな
1322
い。
宝石持ち
が生まれる可能性の
与えられる断片的な情報は、定まらない未来の欠片か。
見捨ておけず、リャンの子孫に
芽を、神は守れとおっしゃっている⋮⋮?
﹁ふぅむ⋮⋮手段を問わないのであれば、シャイターンを説き伏せ
る方法がないわけではありませんぞ﹂
﹁方法?﹂
﹁賢者の上に立つ権威が、たった一つあります﹂
この国の頂点、皇帝の勅命であれば、賢者の称号を持つシャイタ
ーンであっても無視はできない。
言わんとすることを察し、花嫁は苦々しい表情で沈黙した。恐ら
く、彼も考えなかったわけではなかろう。
﹁⋮⋮権力で説き伏せるのは﹂
﹁無理にとは申しませぬ﹂
花嫁は鎮痛な面持ちで沈黙した。少々気の毒に思いながら、サリ
ヴァンは安心させるように微笑んだ。
﹁今の話は、どうか内密に。けれどシャイターンには仔細をお伝え
して、彼の采配にお任せしてみては?﹂
﹁いいえ⋮⋮判りました。陛下にお窺いしてみます﹂
迷いの表情を消すと、花嫁は重々しい口調で呟いた。
1323
1324
75
︱ ﹃空想の恋・十﹄ ︱ サリヴァン
ロザイン
花嫁の訪問を受けた、翌夜。
くろてん
朝課の鐘も鳴った遅い時間に、サリヴァンは皇帝の私室に呼ばれ
た。呼んだ張本人、黒貂を纏ったアデイルバッハは、やってきたサ
リヴァンを見るなり、不服そうに睨んだ。
﹁お主、花嫁に何を吹き込んだ? 決死の表情で訪ねてきたぞ﹂
ぞ
﹁人聞きの悪いことを、おっしゃいますな。相談に乗っただけです
よ⋮⋮許可されたのでしょう?﹂
うがん
文句を聞き流しながら傍へ寄ると、彼の趣味であろう、精緻な金
工象嵌の寝椅子を勧められた。
﹁仕方あるまい。神意に背くわけにはゆかぬ﹂
苦々しい口調に、サリヴァンは無言のまま、一礼で応えた。
1325
﹁だが、迷ったぞ。悩ましいことだ。あちらに応えれば、こちらが
立たぬ⋮⋮シャイターンには恨まれるであろうな﹂
﹁恨むなど⋮⋮﹂
今朝は典礼儀式に姿を見せなかったが、やはり、昨日の助言が後
を引いたのだろうか。彼が腹を立てるとしたら、アデイルバッハで
はなく、花嫁に対してであろう。
ここ最近の二人を思うと、少々心配になる。仲違いをしていなけ
れば良いのだが⋮⋮
﹁本当は私も、花嫁を連れていくことには反対だ。だが、神の啓示
と言われては、無視するわけにもゆかぬ﹂
腕を組み、悩ましげに呟く皇帝を見て、サリヴァンも重々しく頷
いた。
﹁ザインだけではなく、西全域に関わる神託かもしれませんからな﹂
﹁雨期は天空も荒れやすい。あの土地に大兵乱が起こるぞ。シャイ
ターンには、軍を発する許可を与えた﹂
こんぜん
僅か一日の間に、皇帝はザインへの軍事介入を決断した。潔い彼
の性格もあるが、神託はそれほど重要なものだ。宗教と政治が渾然
一体となったアッサラームでは、ごく自然な思想とも言える。
﹁聖霊降臨儀式に参列するだけでは、済まなくなりそうですな⋮⋮﹂
制圧が目的ではないが、有事に備えた軍事編成となるだろう。花
嫁を連れていく以上、特別な武装親衛隊も必要だ。
1326
﹁全く、退位まで待てぬものか。形式上ではあるが、他国にも援軍
要請を出すようアースレイヤに命じたわい﹂
建前上の書状でも、アッサラームの呼びかけに応じない首領は、
西にいないであろう。いよいよ事態は、西の盟友諸国を巻き込む様
相を帯びてきた。
﹁せめて、異国で迎える一年の除夜が、穏やかであると良いのです
が⋮⋮﹂
﹁ええい、アースレイヤめ。私に号令を発せよとは、面倒ごとを押
し付けよって!﹂
﹁は、は、は⋮⋮﹂
駄々をこねるような口調に、サリヴァンはつい笑みを零した。
﹁退位したら、国を空けてやろうか。私に代わって踏ん張れば良い
のだ﹂
いら
人の悪い笑みを浮かべて、皇帝は愉快げに企んでいた。
+
しじま
天なる星が見下ろす、夜の静寂。
かたど
休む前の一時に、指から外した天球儀の指輪を指先に弄う。支点
で留められた三連の輪は、天球を象り、星の運行を連想させる。
廻る世界のどこか︱︱
恋い慕う人はいるのだろうか。
1327
指輪を弄び、やがて、あてどない想いを閉じるように、三連の輪
を一つに畳んだ。静止した指輪を寝台の傍に置き、静かに横になる。
眠りは安らぎだ。
もし
⋮⋮花嫁にめぐり逢えていた
瞳を閉じて、束の間の空想の恋を楽しむ。
今生では起こりえぬこと。
ら。
どれだけ年老いても、命が続く限り、君を待ち望む。いつまでも
探し求めるのだろう⋮⋮
瑠璃色の空の下、アッサラームを並んで歩けたかもしれない。偉
リラ
大な英雄のように、祝福されし歓呼で迎えられたかもしれない。
それはきっと、サリヴァンの心を奪う丁香花の薫る人。鏡のよう
おぼろ
に凪いだ池の傍に立ち、蓮の浮かぶ水面に、その姿を映す。
対岸に立つサリヴァンが視線を上げれば、朧な輪郭の中に、笑み
を湛えてこちらを見つめる、唯一の人と眼が合う。
﹁貴方ほど、美しい人はいませんよ﹂
本心から告げれば、目の前に立つ花嫁は幸せそうに微笑み、応え
るように頷いてくれる。
﹁ずっと、ずっと、お会いしたいと思っておりましたよ﹂
手を差し伸べれば、彼女も繊手を伸ばしてくれる。陽だまりのよ
うな笑みを浮かべて、同じ言葉を返してくれるのだ。
愛しい人。ようやくお会いできましたね
眠りに落ちゆく瞬間。なんとも、幸せな心地であった。
1328
1329
76 ﹃遠征王の追憶﹄ − アデイルバッハ −
︱ ﹃遠征王の追憶・一﹄ ︱ アデイルバッハ
くすぐ
鼻孔を擽る、仄かに甘い蜜蝋の香り。
こんぜん
揺らめく灯を眺める度に、繰り返される遠征の記憶。一人捧げた
晩祷を思い出す。
青い燐光は砂を覆い、蒼い空と渾然となった。
青い星を見上げてばかりいたが、この先、アデイルバッハもそう
長くはないであろう。天命を終えたら、ようやく彼等に詫びること
ふけ
ができる︱︱
思い耽っていると、衛兵から来客の知らせを受けた。
夜分に私室を訪ねたアースレイヤを、アデイルバッハは夜着のま
ま迎え入れた。
﹁遅くに申し訳ありません﹂
﹁良い﹂
ロザイン
用件は判っている。
夕方、花嫁の訪問を受けて、ザインへの同行を承認すると共に、
1330
アースレイヤとシャイターンには軍を発する指示を出した。早速、
仔細の報告を持ってきたのだろう。
杯に酒を注いで勝手に飲み始めると、アースレイヤは書面に眼を
落としたまま、口を開いた。
﹁明日には編隊を開始します。五日もすればザインへ発てるかと﹂
﹁うむ﹂
﹁なかなか忙しいですよ。陛下にお願いするとは、花嫁も粘りまし
たね⋮⋮シャイターンには、私から正式に遠征の権限を与えても?﹂
﹁良い。兵は好きに使え、宗主国としての役目を果たせと伝えよ。
有事の判断も、全てシャイターンに任せる﹂
﹁御意﹂
聖霊降臨儀式を前に、大きな抗争が起きないとも限らない。有事
には、内乱鎮圧の指揮を執ってもらわねばなるまい。
間もなく雨期も明ける。乾期が訪れ、交易が活発化する前に、鎮
圧に乗り出す方が得策だ。
﹁聖霊降臨儀式に列席する首領にも、援軍要請の書状を送っておけ﹂
﹁はい。もう用意してあります﹂
﹁うむ﹂
有事にアッサラーム主導で介入して解決してしまっては、他国の
面目が立たない。体裁上の共同戦線である。
1331
﹁ところで⋮⋮近く、公宮を縮小することに決めました﹂
﹁ほぉ?﹂
意外な告白に、アデイルバッハは酒を呑む手を休めた。窓辺に寄
ったアースレイヤは背を向けており、その表情は判らない。
﹁隠れ蓑はもう不要か?﹂
背中に問いかけると、心を読ませない如才ない笑みで振り向いた。
﹁隠れ蓑だなんて。心地良い楽園ですよ。即位しても変わらず、足
を運びますとも﹂
﹁施政はついでか﹂
﹁割と好きですけどね。ただ、凝り過ぎると肩も凝ります﹂
軽く応える口調に、苦笑で応えた。まぁ、彼の持ち味だ。退位し
遠征王
とは呼ばれないでしょう﹂
た後は、煩く言うつもりもない。好きにすればいい。
﹁私は
﹁好きにせよ﹂
明言すると、アースレイヤは静かに頷いた。彼が遠征に乗り気で
ないことは、昔から知っている。
﹁東西統一に翔けた陛下を、心からお慕いしております。アッサラ
1332
ームにも感謝しています。けれど、子供の頃をどうしても忘れられ
ない﹂
と弟に言い聞かせ、床
本心を明かさぬ彼にしては、珍しいことだ。少々意外な思いで耳
倉に隠れておいで。ここは快適だから
を傾けていると、更に続けた。
﹁
悟られてはいけな
と私の顔に眼を注ぐ男を、千の夜に渡っ
を鳴らす杖の音を耳にすれば、いつでも笑みを貼り付け振り向いた。
ご機嫌いかがですか?
と気を張る子供の私を夢に見ます﹂
て欺いた︱︱とうに去った日々なのに、今でも
い
恨めしくはないが、告白には深淵の響きが秘められていた。
﹁苦労をかけたな﹂
甘いはずの酒をふと苦く感じていると、アースレイヤは、亡き妃
によく似た顔に微苦笑を浮かべた。
﹁陛下は、慣例を緩めてくださった。これは⋮⋮感謝や尊敬とは、
別のところにある感情なのです﹂
アデイルバッハ自身は、古い慣例に沿って、即位の際に脅威とな
る兄弟を全て処刑している。その重い業を、アースレイヤにはルー
ンナイトに服従を誓わせることで免除していた。
﹁重圧を背負い、悲惨がこの身に浸透していくことが、厭わしいの
です。いかな権威にあっても、それらは全て周囲に撒いてしまいた
い﹂
1333
﹁お前らしい﹂
﹁アッサラームを導く手助けはしますが、主力は他の者であっても
らわねば困ります﹂
﹁良い。思い描くようにすれば良い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁他に、私の許しが欲しい案件は?﹂
黙りこくるアースレイヤの顔が、ふと年相応の青年に見えて、ア
デイルバッハはくつくつと喉を鳴らした。
﹁そうそう。軍がザインへ発つ際には、陛下から号令をかけてくだ
さいますか?﹂
﹁⋮⋮そんなもの、お前がすれば良かろう﹂
遅れた返事には、嫌そうな響きが滲んだ。
長く続く行軍を、注目を浴びる檀上から起立して見送るのは、老
いた身には苦行だ。
﹁いえいえ、陛下でないと。私はまだ、皇帝ではありませんから﹂
その通りなのだが⋮⋮この会話の流れに、笑ったことへの仕返し
を感じた。
1334
1335
77
︱ ﹃遠征王の追憶・二﹄ ︱ アデイルバッハ
こうち
穏やかな昼下がり。
アイス・ブルー
テ
巧緻華麗な一室。斜光を弾いて煌めく、青のタイルの美しい調べ。
ィミアン
淡い銀髪の下、叡知を讃えた蒼氷色の瞳で、アデイルバッハは麝
カテドラル
香草の香る中庭を見やった。
その隣には、大神殿の権威であり、長年の知己でもある、サリヴ
ァンがいる。成人にも満たぬ頃から傍にいるが、互いに目元に刻む
皺は、随分と深くなった。
穏やかな風に吹かれて、砂漠の彼方を思う。
退位が近付くせいか、ふとした瞬間に、駆け抜けてきた日々を振
り返ることが増えた。
果敢に攻めた東への侵攻。渾身の制圧に耐え続けもした。アデイ
ルバッハの治世を讃える者は多い。
がりょうてんせい
東西の決勝を評価する声が大半であるが、微かに聞こえる反論の
声もある。
ロザイン
安寧の訪れたアッサラームを見て、画竜点睛を欠くと、嘆く者は
少なからずいた。
砂漠の英雄がいて、その傍らに天上人である花嫁が寄り添う。知
1336
略に富む皇帝が治め、新たな悠久の御代が始まろうとしている。豊
かな理想郷だ。
しかし︱︱
東西の別は、依然として健在なのである。
四年前に交わしたサルビアとの和睦に、批判の声もあった。
遠征王ならば号令を発し
と、昔を知る幾人かに責める眼差しを向けられた。
東に決勝したことで侵攻気風は高まり
てくださる
なぜ、侵攻しなかった?
様々な声を聞きながら、アデイルバッハは生まれた時から歩んで
きた、東西統一の覇道を降りた。
やみわだ
﹁神が黒暗淵を雷鳴で照らし、無名の土くれ、命無き粘土からアッ
サラームをお創りになり幾星霜⋮⋮西を総べる聖都アッサラームを、
私は強固にしたかったのだ﹂
唐突に口を開くと、隣でサリヴァンが微笑した。
﹁強固でしたとも。陛下の御代こそ、史上の誉れ。繁栄の極地と言
えるでしょう﹂
﹁完璧ではない。仮初の平和を享受し、繁栄の極地にあってなお、
東の脅威は消えなかった﹂
﹁東西戦争に、見事決勝したではありませんか﹂
﹁勝利だけならば、幾度も納めてきた。ムエザ達を率いて幾夜も翔
けて、全てを懸けて闘った。だが、どれだけ年月を賭けても、東の
境界線を塗り替えるには至らぬ﹂
﹁その日々があったからこそ、アッサラームは栄華の極地にあるの
1337
ですぞ﹂
﹁遠征のさなか、ファティマと皇子を立て続けに失った時は、神は
この地を照らすのを、お止めになったのかと思った﹂
﹁深い哀しみでしたな⋮⋮﹂
当時を知るサリヴァンの口調は静かで、アデイルバッハも視線は
そのままに首肯した。
﹁御心に応えようと、全身全霊で尽くす私に、神はこれ以上何をお
求めになると思った﹂
﹁天界に憩う星の輝きは、幾星霜を経ても変わりませぬ﹂
かく
﹁あの時は、そうは思えなかった。私の中で、赫と燃える信仰は一
度死んだのだ﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
﹁征服を諦め、西の結束に眼を向けてからの私は、見る者によって
は、呆然自失と映っただろう﹂
﹁いいえ。いつであっても、真の賢帝でしたよ﹂
友の慰めに、アデイルバッハは首を振って応えた。
﹁ファティマを喪い、残りの生涯を一人で過ごすだろうと知った。
どんな美姫にも心が動かぬ。じきに帝位を譲るのだと⋮⋮公宮を維
持する気も失せてしまった﹂
1338
﹁ファティマ様⋮⋮お懐かしいですなぁ﹂
よぎ
美しく、たおやかな女の面影が胸を過った。若くして去った彼女
には、随分と苦労をかけたものだ。
宝石持ち
の義務だと説き伏せ、妻を
﹁忘我に身をやつして初めて、花嫁を渇望する、お主の境地を知っ
たのだ。私は、渋るお主に
娶らせたな⋮⋮﹂
﹁いいえ、陛下。最後には必要な役目だと、理解しておりましたよ﹂
﹁お主には、頭が下がる﹂
寛容な友と違い、この年になってなお、癇癪も起こすし、時に自
説は譲らない。古い知己が自分を語れば、寛容とは無縁と口にする
ことであろう。
ひせき
﹁幸いにして、妻達は私の良き理解者として、支えてくれました。
至上の秘蹟を手にすることは叶わなくとも、幸せは得られるもので
す﹂
柔和に笑むサリヴァンを見て思う。出会った当初の虚ろな眼差し
は、いつの間にか穏やかな双眸へと変化した。花嫁に巡り合わずと
も、彼は絶望せずに道を進み、今もこうして傍で支えてくれる。
﹁永く重い帝位を、よく守られましたな﹂
﹁褒められると、悪い気はせぬな!﹂
1339
こうしょう
ふと愉快がこみあげ、アデイルバッハは哄笑を漏らした。
宝
として生を授かったことを、心から感謝しておりますよ﹂
﹁艱難辛苦の数十年を、お傍で見て参りました。陛下の御代に
石持ち
﹁花嫁に巡り合えずともか?﹂
﹁ええ﹂
﹁⋮⋮全く、感服させられるわい。シャイターンを導くお主の姿は、
私の眼には聖者に映る﹂
﹁この境地には幾歳月が必要でしたから、彼との出会いが、どうに
か成熟の橋が架かる頃で助けられました﹂
﹁正直だな﹂
﹁若き日の私が彼を見れば、妬みを感じたことでしょう。若者の弱
みです、大目に見てくだされ﹂
どこかおどけるような口調に、アデイルバッハは再び哄笑した。
﹁皇子たちも、ご立派になられましたな﹂
いあく
はかりごと
﹁アースレイヤは、猜疑心が強く酷薄な性格をしているが、人心掌
てんぷ
握に長けている。帷幄で謀をめぐらし、宮殿の遥か彼方で決勝する
天賦の才にも恵まれた。アッサラームを良く守るだろう﹂
自ら先陣を切って駆けた皇帝の言葉に、サリヴァンはたくまざる
説得力を感じて頷いた。
1340
﹁彼の施政には展望があります。陛下がお守りしたアッサラームの
栄華に、お変わりはないでしょう﹂
﹁昔は東西統一をさかんに説いたものだが、今はそうも思えぬ。彼
が導くアッサラームは、私の思想とは別のところにあって良いのだ﹂
宝冠の重みを感じながら、アデイルバッハは彼方を見つめた。
﹁悔いはない﹂
﹁そろそろ、休まれてはいかがですか?﹂
労いの言葉に、隣に立つ知己を見た。お互いに、ごく自然な笑み
を浮かべている。
﹁長い間、ご苦労だった﹂
﹁何をおっしゃる﹂
﹁労ってやろう。帝位を譲ったら、外洋を越えてエルノ島までゆこ
うか﹂
﹁美しい神の島ですなぁ﹂
表情を綻ばせるサリヴァンを見て、アデイルバッハはにやりと笑
んだ。
﹁傍にいよ! 老いらくの身に付き合え﹂
1341
﹁身に余る光栄ですが、神にお仕えする身ですから﹂
﹁時には心身を休めるのも、勤めというもの。旅路から戻ったら、
まとめて祈ればいい!﹂
皇帝の身勝手な申し出に、目じりの皺を深め、サリヴァンは苦笑
で応えた。
1342
78 ﹃天高く﹄ − カーリー −
︱ ﹃天高く・一﹄ ︱ カーリー
カテドラル
六歳の夜明け、施設を出て聖歌隊に入った。
りつりん
巨大な大神殿に聳える無数の石柱は、まるで栗林する石の森。圧
倒されて、足が竦んだ。
お目にかかったことのない、美しい衣装︱︱聖歌隊の白い聖衣に
着替えて、この先どうなるのかしら、と不安で胸が潰れてしまいそ
うだった。
おのの
厳しい戒律で知られる宿舎に足を踏み入れ、恐ろしいほどの静け
さに慄くカーリーを、三つ年上のエステルは優しい笑みで迎えてく
れた。
大好きなエステル。
優しくて賢くて、延々続く礼拝の作法も完璧。聖典もすらすら読
み上げ、何遍も諳んじてみせる。
そして、誰よりも上手に歌う。
高窓から斜めに降り注ぐ朝の陽光を浴びて、天高く、のびやかに
賛美歌を歌うのだ。
彼はいつでもカーリーの前を歩いた。憧れだった。それなのに︱︱
1343
﹁僕の後任はきっと、カーリーなんだろうね﹂
高音域の個人指導を受けるようになった頃、エステルはカーリー
を敵視し始めた。
唖然とするカーリーを苦々しげに見下ろして、背を向けて駆けて
行ってしまう。
﹁待ってよ、エステル!﹂
追いつこうと走っても、振り向いてくれない。いつもなら、優し
い笑顔で振り向いてくれるのに。
玻璃のような声だと、確かに周囲は褒めてくれる。
けれど、エステルより上手に歌えたことなんて一度もない。何度
も音階を踏み外すし、譜面も彼のようには読めない。発音だって、
歌う度に指導される。
至らない所ばかりだ。才能があるとは思えない。彼の後任なんて
務められない。逃げ出してしまいたい⋮⋮
こんなに自信のないカーリーの、一体、何がそんなに脅威だとい
うの。
﹁カーリーには、判らないよ!﹂
﹁待って、エステルッ!﹂
声をかけても手を伸ばしても、届かない。エステルは行ってしま
う。
あの頃は、追い駆けるばかりのカーリーが、彼に負担をかけてい
たのだと気付けなかった。
次第に、一人で泣くことが増えた。慰めてくれる優しい手は、遠
のいてしまったから。
1344
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
ロザイン
陽を浴びて、優しく声をかけてくれたのは、天上人の花嫁であっ
た。
慰められる度に、縋りつきたい衝動に駆られた。不安な気持ちを、
誰かに聞いて欲しかった。
けれど、花嫁の親切に甘えてしまえば、増々エステルに嫌われる
⋮⋮そう思うと、素直に縋りつけない。
友情はもう、戻らないのだろうか⋮⋮
どうにかしたいのに、方法が判らない。
重苦しい憂鬱はしばらく続いたが、暮れの合同模擬演習を過ぎた
頃から、エステルの態度は軟化し始めた。
聖歌隊を卒業した後、エステルは軍に入隊したと人から聞いた。
おめでとう、と伝えたくて、声をかける機会を窺っていると、彼の
方から声をかけてくれた。
眼が合うのは久しぶりで、お互いに緊張していた。先に口を開い
たのは、エステルの方だ。
﹁ごめんね。大好きだよ!﹂
泣きそうな顔をして、謝ってくれた。昔のように肩を引き寄せ、
抱きしめてくれる。
あの時、胸が張り裂けそうなほど嬉しくて、カーリーは大泣きし
た。
+
あれから、四年。
カーリーは十五歳、エステルは十八歳になった。友情に変わりは
1345
ない。
同年代に比べて背も低く、声質はまだ高音域を保っているが、カ
ーリーもとうに聖歌隊を卒業している。
親友を追い駆けて、アッサラーム軍に入隊した。
けんげき
かつては高音域をどこまでも駆け上がっていたけれど、今では鍛
錬場を駆け周り、同じ口から剣戟を繰り出す掛け声を上げている。
﹁あ、殿下だ⋮⋮﹂
きんしょく
暮れの合同模擬演習が近付く、闘技場。
演習の合間に水場で休んでいると、菫色装飾の回廊を進む、天上
人の姿に気がついた。
﹁お疲れ﹂
ぼうっと眺めていると、声をかけられた。同じく休憩中のエステ
ルだ。カーリーの視線を辿り、回廊を進む花嫁を見上げている。
﹁⋮⋮ザインに出発されるんだよね﹂
横顔に声をかけると、彼はようやく視線をカーリーに戻した。
﹁殿下の武装親衛隊の配属が決まったよ﹂
﹁決まったんだ! いいなぁ⋮⋮﹂
誇らしげに笑う幼馴染を、カーリーはふて腐れた気持ちで仰ぎ見
た。
﹁カーリーは志願したの?﹂
1346
﹁したかったけど、推薦してもらえなかった﹂
﹁そうか﹂
そういうエステルは、志願者の殺到した花嫁の武装親衛隊の枠を
見事に射止めた。
かつて、高音域の天才と呼ばれた少年は、声変りも既に果たして
いる。落ち着いた男の声へと変貌した親友が羨ましい。
﹁あーあ⋮⋮ザインまでどれくらいだろう?﹂
﹁戻るのに、四十日はかかるはずだよ﹂
﹁そんなに?﹂
﹁どんなに遅くても、アメクファンタム皇子の成人式までには、お
戻りになるさ﹂
親友の言葉に、カーリーも頷いた。
皇太子誕生、ならびに皇位継承される神聖な日には、聖都の英雄
と花嫁も並んで姿を見せるだろう。
﹁こんにちは﹂
﹁﹁殿下!﹂﹂
振り向いた先に、いつの間にか花嫁がいた。
世にも稀なる天上人は、出会った日から今でもずっと、気さくに
声をかけてくれる。他の同僚に、妬まれることがあるくらいだ。
1347
嬉しそうに言葉を交わすエステルを眺めていると、花嫁は分け隔
てない笑みをカーリーにも向けた。
﹁カーリー、調子はどう?﹂
﹁はいっ! 元気です。あの、どうかお気をつけて﹂
﹁ありがとう。カーリーも怪我しないように。よく気をつけてね﹂
相変わらず、優しい言葉をかけてくれる。
殆ど変らぬ目線の人は、手を伸ばしてカーリーの頭を撫でた。嬉
しいが⋮⋮十五の男子として、いかがなものだろう。
神秘的な黒い瞳に、カーリーはまだ、中庭で泣いていた子供に映
るのだろうか?
どう反応しようか迷っているうちに、手は離れた。惜しいと思っ
てしまうのは、カーリーが子供だからか。
期号アム・ダムール四五六年、十三月十日。
暮れの合同模擬演習を待たず、アッサラーム軍はザインへ向けて
いきけんこう
出発した。
意気軒昂とアッサラームを発つ親友の背中を、カーリーは城壁か
ら羨ましい気持ちで見送った。
いつか︱︱
追い駆けるのではく、隣に並んで走りたい。
助けられるばかりではなく、彼が転びそうになった時は、カーリ
ーが手を差し伸べられるように。
1348
79
︱ ﹃天高く・二﹄ ︱ カーリー
アッサラーム軍が出発してから、数日後。
軍舎の窓辺に頬杖をつき、カーリーはぼんやり空を仰いでいた。
ロザイン
空は晴れ渡っているというのに、気持ちは今一つぱっとしない。
花嫁の親衛隊としてザインへ発った親友を思うと、悔しいような
誇らしいような⋮⋮心に靄がかるのだ。
﹁はぁ⋮⋮﹂
何度目かのため息に気付き、カーリーはかぶりを振った。
やれやれ︱︱
六日に一度の休みだというのに、鬱々としていては勿体ない。
空は久しぶりに晴れ渡っていることだし、気分転換にダリア・エ
ルドーラ市場へ繰り出してみようか。
よし、と心を決めると、早速外へ飛び出した。
馬車を経由して市場の前で降りると、たちまち賑やかな喧噪が耳
に飛びこんでくる。
露店を眺めながら足を踏み入れると、いくらも歩かぬうちに、ぽ
1349
んと肩を叩かれた。
﹁ひゃあ!﹂
﹁わー、可愛い声﹂
飛び上がらんばかりに振り向いた先には、にこやかに笑むランシ
ルヴァの姿があった。
﹁こんにちは、ランシルヴァ様⋮⋮﹂
照れ臭げに咳払いをして、カーリーはお行儀よく会釈した。
とうに成人したが、カーリーはまだ声変りをしていない。かつて
席を置いた聖歌隊では、エステルの後任を務め、高音域を先頭で歌
う立場にあった。
その実力を、ランシルヴァはよく知っている。神殿で耳にしたカ
ーリーの歌声に聞き惚れ、後日、道ゆくカーリーの背中に彼が声を
かけたことから、二人は見かければ声をかける程度の知人となった。
高名な詩人である彼は、見る度に色彩に富んだ格好をしている。
今日は、緩く波打つ長髪に、乙女のように可憐な花を挿しており、
不思議と似合っている⋮⋮
万象の神秘や懐疑を、言葉で語りかける詩人は、尊敬を集める。
特に高名な彼等の墓所は故郷に建てられ、大勢の参詣者を集めるの
だ。しかし、彼を見て尊敬するかと聞かれると⋮⋮うーむ。
ちなみに、彼はユニヴァースの実兄である。年も近く、仲は良い
らしい。
挨拶を終えた後、なんとなく、二人は並んで歩き出した。互いに
市場には遊びにきており、急ぎの用もない。
﹁詩はどのようにして、作るのですか?﹂
1350
道すがら尋ねると、ランシルヴァは人差し指を顎に添え、視線を
斜め上に動かした。
﹁んー⋮⋮歩いていると、流星のように閃いて、口から飛び出して
くる感じかな﹂
﹁⋮⋮﹂
返す言葉もなく、カーリーは沈黙した。
けんげん
彼は、例えば胸を打つ美しい光景や音楽を、あるがまま紙の上に
散らして、奇跡を顕現させる人だ。
思考錯誤により道を切り開く、およそ厳しい韻律や理念を追求す
る詩人とは対局にある、天性の詩人であった。
﹁ほら。ああいうものを見て、人は詩人になるんだ﹂
彼が指さすままに空を仰ぐと、飛竜が編隊を組んで、悠々と翔け
てゆくところだった。
ガイタ
そうかと思えば、今度は雑貨屋に揺れる香炉を指して、いい匂い
と笑い、大道芸人の風笛の演奏に耳を傾け、鼻歌を合わせる。
カーリーよりずっと年上なのに、落ち着きがなく、天真爛漫で子
供のような人だ。
彼は、あの高名なサリヴァンの息子としても名を知られているが、
あまり宮殿には寄りつかない。ユニヴァースと並んで歩く姿を見る
のも、宮殿の外と決まっている。
﹁ランシルヴァ様の見ている世界には、詩が溢れていそうですね﹂
﹁溢れているね!﹂
1351
﹁思いついた詩に、手を加えたり、直したりはされないのですか?﹂
迷いがないのかと思いきや、ランシルヴァは、いやと首を振った。
﹁いまひとつ精彩が足りないと思えば、寝かせることもあるよ﹂
﹁寝かせる?﹂
﹁そう。いったん忘れておいて、しばらくしてから眺めるんだ。そ
れで、あ、こうしようと後から直して、完成することもある﹂
﹁へぇ⋮⋮﹂
相槌を打っていると、偶然目に入った書店に、まさしく彼の詩本
が並べられていた。
この霞を食べて生きていそうな不思議な人は、紙を使って何冊か
の本も出している。サリヴァンの息子、という肩書きは別としても、
正真正銘、名の知れた詩人なのである。
﹁これをあげよう。新刊だよ﹂
﹁ありがとうございます⋮⋮﹂
詩本と思いきや、渡されたのは、いかにも女性の好みそうな情報
誌であった。この本と、彼にどんな関係があるのだろう?
﹁記事を書いているんだ﹂
﹁えっ、この雑誌で?﹂
1352
﹁女名を使って、流行情報を書いている﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
エステルは不得要領に頷いた。高雅な詩人であり、女性雑誌にも
記事を書くとは。彼の頭の中は、どのようになっているのだろう⋮⋮
﹁好きな詩人はありますか?﹂
﹁たくさんいるよ。特にルノーが好きかな﹂
聞いたことのある名前に、カーリーも頷いた。全編殆ど、煙草と
酒の、懐かしいアッサラームの古詩を書いた人だ。
すい
﹁これだけは見ておいた方がいいよ。アッサラーム美術の粋を見る
ことができる﹂
書店に立ち寄り、彼が絶賛したのは、アッサラームでも三指に入
る、庭園建築家の手がけた庭の画集本であった。
﹁お詳しいですねぇ﹂
感心して告げると、ランシルヴァは喉を鳴らして笑った。
﹁あのクロッカス邸の庭を手掛けた、著名人だよ﹂
﹁え、そうなんですか?﹂
公宮に建つ、花嫁のお屋敷を見たことはないが、大変美しいと評
1353
判は耳にしている。
﹁ところで、君はどうして、しょんぼりしていたんだい?﹂
﹁あ、判るんですね⋮⋮﹂
意外な思いで、何気に失礼なことをカーリーは口走った。彼には、
人の心の機微など無縁な気がしたのだ。
﹁小腹が空いたからね﹂
﹁はぁ﹂
意味不明だが、大した抵抗もなく、カーリーは口を開きかけた。
﹁やや、あれはなんだい?﹂
さぁ言おうと、口を開いた傍から、彼の好奇心は余所へ移った。
美味しそうな匂いをさせている、饅頭屋を見つけて目を輝かせて
いる。声を掛ける間もなく、脱兎のように屋台へ突撃してゆく。
心変わりの激しい人だ⋮⋮詩人とは、皆ああなのだろうか?
間もなく戻ってくると、どうぞ、とカーリーの分も渡してくれた。
﹁美味しいねぇ﹂
幸せそうに頬張る姿が、一瞬、カーリーよりもずっと年下に見え
た。
口に拡がる甘味は美味しく、加えて子供のように笑う彼を見てい
ると、自分が子供だと思い悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えた。
1354
﹁⋮⋮ん? 何を話していたんだっけ?﹂
﹁美味しそうな饅頭だなぁって、話していたんですよ﹂
﹁そっかそっか﹂
朗らかな笑みにつられて、カーリーも笑い声を上げた。
玻璃のように澄んだ笑い声は、天高く響き、道行く人を少しばか
り幸せにした。ランシルヴァも慈しむような眼差しで見下ろしてい
る。
彼は︱︱
カーリーが思う以上に、実はカーリーの声に大層惹かれており、
度々詩を創る閃きに変えているのだが、本人はまるで気付いていな
かった。
1355
80 ﹃偲ぶ夜の憩い﹄ − サンベリア −
かかん
︱ ﹃偲ぶ夜の憩い・一﹄ ︱ サンベリア
プリムラ
今でも、あの頃を夢に見る。
しゅんぷうたいとう
桜草の庭を無邪気に駆けて、花冠を編んだ幼い日。もう、二度と
戻らぬ、自由の日々。愛しい記憶⋮⋮
かしこ
十五歳。
恐れ畏み、足を踏み入れた。
万華鏡のように、宝石箱のように煌めいて、目にも彩な春風駘蕩
たる公宮。
ぎまん
しかし、十数年を過ごしてなお、サンベリアの眼には灰色の世界
に映った。
パンモデウム
青褪めた愛が満ちる、欺瞞と悲壮に満ちた絶望の世界。永久に抜
け出せない、万魔殿。
見えない鎖に繋がれて、もう二度と自由に走れない。
けん
あの方の眼に、美しく映らずとも一向に構わなかった。美しく咲
く花々と、妍を競い、寵を競り合う気持ちは欠片も無い。見劣りす
る己の容姿に、安堵していたくらいだ。
それなのに⋮⋮どうしたことか、彼はサンベリアの元を度々訪れ
た。
1356
身籠れば、消される。
とぎ
お役目と判ってはいても、伽は恐怖でしかない。どれだけ甘く優
しく抱かれようと、常に死への恐怖があった。
叶うことならば、公宮を飛び出したい。
たった一度、決死の覚悟で挑んだことがある。火事を装い、逃げ
出そうとしたのだ。
誰もいなくなるまで隠れていようと、物陰に身を潜めるうちに、
あいまいもこ
白煙に包まれ、意識は遠のいた。
せきばく
あの時、曖昧模糊にぼやける意識の向こうで、心に棲むもう一人
の私が優しく囁いた。
死んでもいいのよ
それでもいいと思った。
生き延びたところで、どうだというのだろう。寂寞の公宮で、変
わらぬ恐怖を抱えて生きてゆくだけ⋮⋮
けれど、どこからか家人達は集まり、物陰に身を潜めていたサン
ベリアを見つけ出した。火は広がらず、間もなく消し止められた。
あの時、死んでしまえば良かったと、後に何度も後悔することに
なる。
懐妊︱︱
殺される
という、か細い
何よりも恐れていた事態だ。腹に宿った命に、戦慄が走った。
﹁殺される⋮⋮ッ﹂
こご
こだま
身体は恐怖に凝り、昏い思考の中で
己の声だけが、何度も耳朶に谺した。
﹁あぁ、マーサ。どうか、誰にも言わないで⋮⋮!﹂
1357
﹁姫様、何をおっしゃいますか! 黙し通せるような場所ではあり
ません。早く、お父君に知らせましょう。必ずバカルディーノ家に
話を通してくださいます﹂
﹁駄目よ、駄目⋮⋮あの方には、通用しないわ﹂
弱々しく頭を振るサンベリアを、マーサは優しく抱きしめてくれ
たが⋮⋮それから先のことは、思い返すのも憂鬱な日々であった。
生家は喜んだ。不自由ないようにと、細やかに差し入れをし、腕
の立つ女中を密かに送ってよこした。
懐妊を知り、アースレイヤも喜んだ。疑心に満ちたサンベリアの
眼にも、澄んだ笑みに映ったくらいだ。
しかし、リビライラを思う度に、心は悲鳴を上げそうなほど軋ん
だ。
﹁いけませんよ、大事な身体なんですから⋮⋮きちんと食べないと﹂
﹁消化にいいものを運ばせましょう﹂
合同模擬演習の席で、リビライラが横から果実を進めれば、反対
側からアースレイヤも別のものを勧める。
霜のように冷たい絶望と恐怖を眼の端で見やりながら、震える手
を伸ばした。滑稽なほど怯えるサンベリアを見て、残酷な二人は愉
しんでいた。
顔に綺麗な笑みを貼り付けていても、冷めた眼は真実を雄弁に物
語る。
貴方が邪魔なの。消えてくださる?
間違いなく、リビライラはそう思っていた。
1358
ひと
今にも倒れてしまいそうな、弱い女。どうやって切り抜ける?
気遣うように、それでいて愉しげにアースレイヤが嗤う。歪で、
不気味な人達だ。この上なく美しい笑みを湛えて、人の弱さを暴く
ことを、少しも躊躇しない。
﹁僕も、いただいていいですか?﹂
歪んだ視界を正してくれたのは、いとけない容姿の、青い天球か
ら遣わされた天上人であった。
公宮の頂点にありながら、少しも気取ったところのない素朴な印
カテドラル
象を与える人で、傍にいるとサンベリアの心は凪いだ。
運命の日︱︱
いつもと変わらぬ、清らかな陽光の降り注ぐ大神殿。
典礼儀式の始まりを告げるカリヨンの音を待っていると、ふと内
陣の影に、いつもは立たぬ神殿騎士の姿を見つけた。よく見渡せば、
石柱のそちこちに護衛が立っている。
違和感に気付くと、周囲に満ちる空気も、ぴんと張り詰めて感じ
た。水底のような不気味な静けさに、嫌な予感が芽生える⋮⋮
しかし、原因は判らぬまま、澄んだ鐘の音色が鳴り響いた。
眼を閉じて、黙して祈りを捧げるうちに、胸の不安は霧散してい
く。
無心になれる、聖なる時間が好きだ。祈りを捧げると、不安もい
くらか和らぐから⋮⋮
黙祷を終えて、聖水を受けとろうとした瞬間、正面から駆けてき
た花嫁に腕を取られた。思いもよらぬ衝撃に、手にしたゴブレット
から聖水が零れた。
﹁サンベリア様、僕と一緒にきてください﹂
1359
いつになく、緊張した面差しの花嫁に続くと、廊下へ出るなり彼
は口を開いた。
﹁貴方は、このままだと殺されます。さっきは、毒殺の可能性があ
った。権力を一切捨てる覚悟はありますか?﹂
黒水晶のような眼差しに映りながら、一瞬、答えを躊躇った。サ
かんぜん
ンベリア自身に未練はなくとも、家名を守る父や母を思うと、頷き
兼ねたのだ。
けれど︱︱
この先、馴染めぬ公宮で、忍び寄る暗殺に、敢然と立ち向かって
ゆく自信などない。
賞賛も栄誉も立場もいらない。ただ、怯えることなく、穏やかな
日々を過ごしてみたい⋮⋮!
心に棲む、もう一人の私が背中を押した。
選んでいいのよ
気付けば、深く頷いていた。
後を追い駆けてきたアースレイヤ達を前に、花嫁は驚くべきこと
を口にする︱︱
﹁彼女は私有財産を捨て、婚姻を破棄し、シャイターンに誓願を立
てる必要があります。御子と共に神官宿舎に迎え入れてください﹂
そうできれば、どんなに素晴らしいか。
そび
サンベリアよりも背は低いのに、厳かに啓示を口にする天上人の
背中は、不思議と霊峰のように大きく聳えて見えた。
四貴妃にありながら、神門に下る。
1360
さざなみ
前代未聞の異例に、小波のように周囲に動揺が走ったが、花嫁の
揺るがぬ言葉は彼等を黙らせた。
アイス・ブルー
内陣へ戻ろうとすると、公宮の佳人、美しいリビライラと視線が
絡んだ。
彼女の、蒼氷色の瞳が苦手であった。いつも、少し視線を逸らし
て、直視しないよう調節しているくらいだ。
けれど、あの瞬間︱︱
芽生えた感情に、名をつけるとしたら、何が相応しかったろう?
妃として対峙するのは、これが最後になる。
そう思うと、不思議と美しい眼差しを臆することなく見返せた。
最初で最後の、視線が交錯する。
﹁サンベリア様。公宮を出て行かれるのですね。寂しくなりますわ
⋮⋮﹂
知己との別離を惜しむような口調に、サンベリアの胸中は複雑に
揺れた。
ぼうばく
幾星霜の時代の重みを告げる神殿の中、周囲の景色は視界から失
よぎ
せ、二人きりで茫漠の砂の海に立っているような、そんな錯覚を覚
えた。
いくつもの光景が胸を過る︱︱
ひと
幾度となく呼ばれた茶会、この世の贅を尽くした楽園の宴。隅で
縮こまるサンベリアを、この女は連れ回しもしたけれど、欠片も愉
あずまや
しくなかったわけではない。
時には、四阿の下で静かに過ごし、穏やかな時間を共有したこと
もある。
焦燥と疑心だけが、あの雅な世界の全てではなかった。
本当は、サンベリアの弱さが、常世の楽園を灰色の染めてしまっ
たと、知っている。
畏怖の陰には、憧憬も確かにあった。
1361
﹁殿下の御言葉通りにいたします。生涯、シャイターンにお仕えい
たします﹂
憧れていた︱︱典雅な所作、銀細工のように美しい容姿もさなが
ら、揺るがない、直視できぬほど強い、燃えるような眼差しに。
交差していた視線は、どちらからともなく自然に外れた。静かに、
言葉もなく内陣へと戻ってゆく。
心の中でひっそり、万感を込めて告げた。
さようなら、リビライラ様︱︱
1362
81
︱ ﹃偲ぶ夜の憩い・二﹄ ︱ サンベリア
優しい夜。
よなきうぐいす
澄んだ天空には、数多の星が煌めいている。
窓辺に座り、夜啼鶯の声に耳を澄ませながら、来し方を懐かしん
でいると、扉を叩く音に意識を呼び戻された。
﹁かあさま?﹂
開いた扉の隙間から、日向に咲いた花のように明るい笑顔が覗い
た。
老女のマーサを従えて、小鹿のように歩み寄る我が子。息子のア
ルジュナに、サンベリアは自然と笑みを浮かべた。
﹁まだ眠っていなかったの?﹂
﹁申し訳ありません、姫様。どうしてもお会いになると、ぐずるも
のですから﹂
1363
仕方なさそうな口調には、アルジュナへの慈しみが溢れていた。
この善良な女は、昔からサンベリアによく仕え、今でもサンベリア
を姫と呼ぶ。
足元までやってきた小さな体を抱き上げると、アルジュナは悪戯
好きの猫のように喉を鳴らして、サンベリアの首にしがみついた。
﹁私の小さな愛し子。今日は何を学んだの?﹂
﹁きょうてんを、読みました。二章まで覚えました!﹂
﹁偉いわね。よく励めば、徳のある神官になれますよ﹂
﹁がんばります!﹂
無邪気に笑う我が子の頬を、サンベリアは愛しげに撫でた。
親の贔屓目かもしれないが、覚えの良い、敏い子だから、本当に
徳を重ねてゆけるかもしれない。
何十万語にも及ぶ、長い教典の全巻を諳んじることのできる者は、
たぐいまれ
やがて一位神官の資格を与えられる。
幼少の頃から、類稀な才能と褒め称えられた、ナフィーサやナデ
ィア、シャイターンも十歳を待たずして資格を得ている。アルジュ
ナもいずれ、そうした道を歩めるかもしれない。
﹁はげめば⋮⋮天使さまに、お仕えできますか?﹂
﹁ええ、きっと﹂
﹁きよくて、おやさしい、天使さま?﹂
﹁そうよ。母様と貴方の命を、御救いくださった、尊くて、お優し
1364
い方なの。このご恩はいつか、今生でお返ししなくてはならないわ﹂
﹁はい、かあさま﹂
間もなくアメクファンタムは成人を迎え、この国の皇太子になる。
覇権争いから退いたサンベリアに、変わらぬ美貌でリビライラは
笑みかける。美しくも冷たい笑みに戦慄はするが、母となった今、
リビライラの炎のように苛烈な野心も少しは理解できる。
彼女の野心の裏には、母としての愛も確かにあると思うから。
神事の折にたまに顔を合わせると、アメクファンタムは無邪気に
アルジュナに声をかける。二面性を持つリビライラだが、見守る眼
差しは母のそれであった。
だんらん
時間の流れと共に、状況も心情も移ろう。
清し夜の、慎ましい団欒。
ずっと憧れていた、この安らぎを授けてくれたのは、かの花嫁だ。
牢獄のような公宮から、天使の御業で救いあげてくださった。
﹁まだ起きているのなら、一緒にお祈りしましょうか﹂
﹁天使さまに?﹂
﹁そうよ。ザインへお発ちになった、花嫁に⋮⋮﹂
先日、シャイターンと共にザインへ発った花嫁の無事を、毎日の
ように祈っている。サンベリアが眼を閉じると、アルジュナも瞼を
伏せた。
﹁どうかご無事に、お戻りになりますように⋮⋮﹂
﹁なりますように⋮⋮﹂
1365
復唱するいとけない声を聞きながら、遠く、砂漠の空を翔けてい
るであろう、花嫁の無事を願う。
どうかご無事に、お戻りになりますように︱︱
1366
82 ﹃神の系譜﹄ − 光希 −
︱ ﹃神の系譜・一﹄ ︱ 光希
神々しい朝陽が昇る、聖都アッサラーム。
幾星霜を経た綱をしっかと握りしめ、今朝も、老僧がカリヨンを
打ち鳴らす。清らかに澄み渡る暁の空に、澄んだ鐘の音色を響かせ
るのだ。
典礼儀式に参列している光希は、内陣に座り眼を閉じていた。今
いにしえ
日も瞼の奥に、不思議な光景が広がる。
南西に栄える古の大都︱︱ザイン。
抗争に脅かされる街。
すす
木蔦のからまる、煉瓦の建物。
はた
有刺鉄線の向こう、煤けた壁の傍には、うち捨てられた木工の作
業台。縮れた織糸、褪せた絨緞。頭布を巻いた咎人達が、機を織っ
ている⋮⋮
死の匂い立つ昏い建物。
その奥深く、血のこびりついた部屋に、倒れ伏す男がいる。
と囁く。
恐ろしくて、眼を背けようとすると、シャイターンはしきりに
見ろ
顔はよく見えない。薄暗い部屋の中、彼の額の辺りだけが、青白
1367
く輝いて見える。まるで
宝石持ち
おわい
を暗示するように。
彼は瀕死で、とても弱っている。衰えた四肢は鎖に繋がれ、自力
で抜け出せない、昏くて汚穢満ちた場所に、酷い状態で閉じ込めら
れている。
味方はいないのか。
いや、助けようとする者がいる。
砂漠に立つ、覆面をした男。顔を覆う厚布の隙間から、灰青色の
瞳が覗く。左目の下に、ほくろが一つ。
やがて砂漠は消え︱︱
豪華絢爛なお屋敷、神聖な礼拝堂が見えた。
斜光が降り注ぐ神聖な祈りの場で、敬虔な人達が祈りを捧げてい
る。部屋に飾られている、杯と葡萄の意匠された、ドラクヴァ家の
紋章旗。
彼等の背中に、音もなく忍び寄る影。手にした短剣には、月桂樹
の紋章︱︱ゴダール家のもの。
殺されてしまう⋮⋮!
逃げてと言いたくとも、幻の相手には届かない。
いつもこうだ。彼等が無事に逃げおおせるのかどうか、予見では
判らない。現実に起きることなのかどうかも︱︱
﹁⋮⋮光希?﹂
幻は霧散し、意識は現実へ呼び戻された。
聖水を配る幼い神官が、不安そうな顔で光希の前に立っている。
﹁あ、ごめんね﹂
慌てて杯を受け取ると、少年はほっとしたように頬を緩めた。恭
しく頭を下げると、次なる信徒の前に立つ。
1368
﹁行きましょうか﹂
差し伸べられた手を見て、光希は重ねることを躊躇した。中途は
んぱに持ち上げた手を、ジュリアスの方から握りしめた。
思わずため息が出かけた。この後に予定している宮殿議会を思う
と、気が重くなる⋮⋮
影の射した光希の顔を見て、ジュリアスもまた頬を固くした。そ
の様子には気付かず、光希はジュリアスと並んで大神殿を後にした。
い
ザインへ促すシャイターンの啓示は、日々繰り返されるのだが、
ジュリアスは光希の懸念を聴き容れようとしない。
年明けにザインで行われる聖霊降臨の儀式に、アッサラームを代
表して列席するジュリアスは、光希を連れていくことに激しく反対
していた。
対する光希は、同行を主張している。
平行線をたどる攻防に、心身は疲弊する一方だ。いつ見ても凛々
しいジュリアスと違い、光希の表情は大分疲れていた。
気を張って臨んだが︱︱
宮殿会議は、和やかな雰囲気とはほど遠かった。
彼等を説得しようと躍起になることに、疲れてしまった。本音を
言えば、もうザインのことで気を揉みたくない。
らち
ふけ
くさむら
気落ちした光希は、クロガネ隊へ直行せず、気分転換に中庭を訪
れた。
石畳に座りこみ、埒もない思いに耽っていると、草叢の合間に、
黄金色の鱗が光った。
現れたのは大きな蛇だ。
優美に頭をもたげて、叡知を湛えた蒼い眼で光希を見つめる。語
りかけるように、赤い舌を覗かせた。
恐怖はない。
無言で殺傷しようとするローゼンアージュを、光希は手で制した。
龍の尾のような、錦の蛇。あれは、シャイターンの化身だ。光希
1369
を見つめて、無言で語りかける。
﹁殿下! お下がりください﹂
危ぶむ声を発したのは、近衛の一人だ。剣を構える彼等を、光希
は今度も手で制した。唇に指を当てて、静かにと合図する。
わざわい
魔性の蛇と見つめ合うと、瞼の奥に、稲妻が走った。
未来が見える。
ザインの支柱はひび割れ、禍の雨が降る。
つぶて
翳った空に翻る、ゴダール家とドラクヴァ家の紋章旗。
うが
残酷で非情な抗争が起こり、垂直に降る礫のような雨は、石畳を
穿ち、彼等の血で河を作る。
雨滴の伝う、鈍色の絞首刑具。
絞首刑執行人が、目隠し布をされた男に縄をかける。留金でとめ
た鉄輪に吊るそうと⋮⋮!
恐ろしい未来に、立ち向かう者がいる。
白い鳥を意匠した旗を掲げる、革命軍だ。先頭に立つ男の、左目
の下にはほくろが一つ︱︱
﹁殿下?﹂
訝しむローゼンアージュの声に、我に返った。
と囁くように。
蛇は、光希を泰然と見据えて、舌を覗かせている。声なき声で
行きなさい
﹁はぁ︱︱⋮⋮判ったよ⋮⋮﹂
しばらく見つめ合い、やがて、諦めて返事をすると、蛇は満足し
たように頭を下げた。ゆっくりと丸い頭を巡らし、長い身体をくね
らせながら、草叢をかき分けて消えてゆく。
1370
とはいえ︱︱
ザインへ行くことを、ジュリアスは認めようとしない。アースレ
イヤも乗り気ではないし、光希の劣勢は明らかだ。
思い悩み、サリヴァンに相談すると、アデイルバッハへ申し入れ
ることを暗に勧められた。
考えなかったわけではない。
ただ、間違いなくジュリアスは怒るだろう。彼とこれ以上険悪に
なるのは避けたいが、覚悟を決めるしかないのか⋮⋮
腹をくくって皇帝に話すと、渋りはしたが、シャイターンの啓示
だと説く光希を、最終的に受け入れた。
まなじり
その日のうちに、権威の頂点からジュリアスに勅命が下り、彼は
不機嫌も露わに屋敷へと戻ってきた。
絨緞の上で団欒している光希を見つけるや、眦を釣り上げて速足
に寄ってくる。
﹁納得したはずでは?﹂
挨拶もなく、棘のある声が頭上に降る。
美貌に冷たく見下ろされ、一瞬、怯みかけた。覚悟はしていたが、
本気で怒っているジュリアスは恐い。
﹁⋮⋮しているわけないよ﹂
﹁陛下に進言するなんて、卑怯ですよ﹂
吐き捨てるように罵られ、光希はむっと顔をしかめた。
﹁大勢の前で、僕をやりこめたジュリに比べたら、マシじゃない?﹂
﹁やりこめた?﹂
1371
瞳に鋭い光を走らせると、ジュリアスは低めた声で応えた。肌が
粟立つのを感じながら、光希も負けじと睨み返す。
今朝の宮殿会議には、光希も腹を立てていた。
皆を説得できるものならとジュリアスが言うから、注目に耐えて
会議に臨んでいるのに、あの態度はなんだ。皆の前で、光希の意志
をへし折りたかっただけではないのか?
1372
83
︱ ﹃神の系譜・二﹄ ︱ 光希
嫌な沈黙が流れた。
耐えかねて、先に視線を外したのは光希の方だ。無言で立ち上り、
背を向けて螺旋階段に向かうと、後ろからジュリアスが追いかけて
きた。
﹁待ってください﹂
腕に手をかけられても、両足に力を込めて、振り向くことを拒ん
だ。
﹁ごめん、休憩しよう﹂
﹁光希﹂
﹁今日はもう﹂
﹁光希、待って﹂
1373
﹁ごめん、一人で考えたい⋮⋮﹂
背中を向けたまま告げると、ジュリアスは宥めるように光希の肩
に手を置いた。込められた力に抗えず、仕方なく振り向いた。
﹁行かないでください。問題を長引かせるだけです。もう少し⋮⋮
座って話しましょう?﹂
ため息をつきたい衝動を堪え、光希は肩に置かれた手をやんわり
と外した。
﹁ジュリは、いつでも落ち着いてるね﹂
﹁私が?﹂
沈黙で応えた。苛立っている自覚がある。態度が悪いとも。だが、
平静を保てそうにない。
こういう時、光希は一人になりたいといつも思うのだが、ジュリ
アスは嫌がるのだ。
﹁貴方に責められて、冷静ではいられませんよ。でも、光希に関す
ることだから、後回しにしたくありません﹂
理性に長け、桁はずれの頭脳を持つ彼は、何でもその場で解決し
てしまおうとする。
﹁ジュリと話していると、こんな時でも、僕は講釈を聞いている気
分になる⋮⋮ごめん、もう行かせて﹂
1374
顔を伏せると、俯けた視界にジュリアスの手が映った。大袈裟に
身体を傾けて、その手を避けてしまった。
﹁⋮⋮会議では、私も強く言い過ぎたかもしれません。すみません
でした﹂
彼の素直な謝罪は、光希の複雑な心中を更にかき乱した。
﹁いいよもう、お互い様だから。続きは、明日にしよう﹂
﹁光希。納得していないのに、終わらせようとしないで﹂
冷静な口調にカチンときた光希は、つい睨みつけるようにジュリ
アスを見上げた。
﹁僕はジュリみたいに、いつでも正しい判断ができるわけじゃない
んだ﹂
平淡な声が出た。真っ直ぐな眼差しから逃げるように、掌で視界
を覆う。理性を総動員させて、淡い笑みを顔に貼り付けると、ゆっ
くり手を剥がした。
﹁明日は笑ってみせる。だから、今夜は一人にさせて﹂
﹁光希⋮⋮﹂
﹁お願い﹂
﹁⋮⋮判りました﹂
1375
落胆した声を聞いて、光希の胸にも苦い想いがこみあげた。ささ
やかな勝利を得たものの、後味は極めて悪い。
﹁ナフィーサも、下がらせてください﹂
﹁え?﹂
﹁私を遠ざけるというのなら、今夜は他の誰も傍に寄せないで。護
衛も、視界に映らぬ配置で﹂
けいれつ
恋情の覗く勁烈な眼差しに、光希は反論を呑み込んだ。
﹁⋮⋮判った﹂
﹁ですが﹂
了承すると、後方に控えるナフィーサから戸惑いの声が上がった。
窘めるように、ルスタムは手でナフィーサの動きを制している。
彼の八つ当たり気味な嫉妬を責める資格など、先に短気を起こし
た光希にはない。
逃げるように視線を外すと、背を向けて、一人で二階へ上がった。
﹁はぁ︱︱⋮⋮﹂
慣れ親しんだ私室に入るなり、ため息が落ちた。
心も体も、鉛のように重い。指を動かすことすら億劫だ⋮⋮
殆ど停止した思考で、のろのろと着替えた。水を一杯飲み干すと、
照明を落として、早々に寝台へ上がる。
もうこれ以上、悩みたくない。今夜はせめて、安らかな眠りに慰
めて欲しかった。
1376
1377
84
︱ ﹃神の系譜・三﹄ ︱ 光希
穏やかな陽の光で眼を覚ました。
覚醒すると共に、何一つ解決していない現状が、重たく圧し掛か
る。荒んでいた心は静まったものの、憂鬱が晴れたわけではない。
あのやりとりを繰り返すのかと思うと、朝から気が滅入る。
ジュリアスの言う通り、時間を空けたところで、苦しみを長引か
せただけかもしれない⋮⋮
のろのろと着替え、処刑場に向かう心地で下へ降りると、紅茶を
運ぶナフィーサと鉢合わせた。
﹁お早うございます、殿下﹂
﹁お早う⋮⋮﹂
穏やかな笑みに、光希の張り詰めた心は幾らか和らいだ。
十六歳を迎えたナフィーサは、声変りを経て男らしくなった。
出会った頃は、光希の胸までしかなかった背丈も、今では見下ろ
されるほどだ。天使のようにあどけなかった容貌も大人びて、清廉
1378
とした美貌へと変わった。伸ばした髪を後ろで結い上げ、背中に長
く垂らしている。
白い聖衣に、光希が施した巧緻こうちなジャスミンの意匠の入っ
たサーベルを履く姿は凛々しく、気品を備えた騎士そのものだ。
﹁沈んだ顔を、なさらないでください。シャイターンが一日千秋の
想いでお待ちですよ﹂
隣で光希が物憂げなため息をつくと、ナフィーサは困ったように
微苦笑を浮かべた。
茶器を運ぼうと足を向ける彼に並んで、光希も仕方なく重たい足
を動かした。
しかし、扉のない部屋の向こう、窓辺で寛ぐジュリアスの姿が視
界に映ると、胃は鉛を流し込んだように重たくなった。護衛に立つ
ルスタムが一礼してくれるが、応える心の余裕がない。
﹁う︱︱⋮⋮気まずい。会いたくないなぁ﹂
﹁殿下⋮⋮﹂
気遣わしげに足を止めるナフィーサの腕を軽く叩き、光希は気合
いを入れて部屋に足を踏み入れた。泰然と絨緞に寛ぐジュリアスと、
視線が絡んだ。
﹁お早う、光希﹂
﹁お早う﹂
不自然に映らぬよう気をつけながら、ジュリアスの傍に腰を下ろ
した。傍でナフィーサは、慣れた手つきで茶器を用意している。
1379
﹁ご機嫌いかがですか?﹂
皮肉な挨拶に、頬が引きつりかけた。気分は溌剌とはほど遠いが、
昨夜、約束した通りに、どうにか笑顔を拵こしらえてみせる。
﹁⋮⋮っ﹂
唐突に腕を引かれ、傍にナフィーサがいるというのに、唇を奪わ
れた。
﹁んんっ!﹂
咄嗟に拒めず、緩んだ唇の合間から、容赦なく舌を挿し入れられ
た。顔を背けようとしても、頭部を固定されて動けない。音が立つ
ほど、激しく舌を吸われる。
執拗なキスからは、苛立ちしか伝わってこない。光希は渾身の力
を振り絞って、ジュリアスを突き飛ばした。
﹁嫌だ!﹂
本気で怒鳴ると、ようやく腕を解かれた。周囲に視線を走らせる
と、ナフィーサを始め、給仕の者は既に姿を消していた。人影は見
当たらない。
文句を言ってやろうと、抗議の視線をジュリアスに戻すと、彼も
また強い視線で光希を射抜いた。
﹁一夜で何が変わったというのです﹂
﹁人前ではやめてと、いつも言ってる!﹂
1380
責める口調を跳ね返すと、ジュリアスは厭わしげに眉をひそめた。
﹁私を遠ざけ、機嫌を直してくださらない﹂
会いたくない
など、貴方の口から聞きたくない!﹂
﹁ジュリが怒らせるからだよ﹂
﹁
きつい口調で責められ、光希は小さく息を呑んだ。さっきの何気
ない言葉を、彼は耳にしていたのだろうか。
﹁⋮⋮すみません、声を荒げて﹂
﹁さっき⋮⋮﹂
﹁私は、遠ざけられている間も、光希のことしか考えられませんで
した﹂
﹁あれは、ごめん。気まずくて、つい⋮⋮﹂
聞かせるつもりはなかった、言葉の切れ端だ。狼狽える光希を見
つめて、ジュリアスも伏目がちに吐息を零した。
﹁仲直りをしてください。心がすれ違っていては、たったの一晩で
も拷問でした﹂
﹁でも、典礼儀式もあるし⋮⋮帰ってからにしない?﹂
朝から一戦やり合いたくない。
1381
﹁いいえ。どうせ気になって、何も手につきやしませんよ﹂
答は間髪を入れずだった。
﹁はぁ⋮⋮﹂
彼の真っ直ぐな想いは、もちろん嬉しいのだが⋮⋮融通が利かな
いったら。はぐらかすとか、とりあえずとか、後回しと言った言動
は、ジュリアスに限っては通用しない。
﹁ため息をつかないでください﹂
どこか拗ねたような口調で請われ、光希はあわやつきかけた重い
ため息を、寸前で堪えた。
1382
85
︱ ﹃神の系譜・四﹄ ︱ 光希
﹁判ったよ⋮⋮僕の不満は知っての通り、ザインへ行くことを認め
られないことだよ﹂
﹁はい﹂
真っ直ぐな視線を向けるジュリアスを見て、光希も気持ちを切り
替えて姿勢を正した。
が生
﹁啓示の内容に進展があったよ。捕えられているリャン・ゴダール
宝石持ち
は、シャイターンの系譜に関わる者かもしれない﹂
﹁リャン・ゴダールが?﹂
﹁憶測だけど⋮⋮彼の子供か、或いは彼の血筋に
まれるのかもしれない﹂
﹁どのような啓示なのです?﹂
1383
﹁うつ伏せで、リャンの顔はよく見えないんだけど、額の辺りに青
い輝きが見えるんだ﹂
﹁⋮⋮それだけ?﹂
軽んじる口調に、光希は少々たじろいだ。ジュリアスが口を開く
前に、慌てて言い募る。
宝石持ち
を暗示しているのかも﹂
﹁でも、薄暗い部屋で、そこだけぼんやりと光るんだ。ジュリやサ
リヴァンのように
﹁なぜ⋮⋮﹂
わなな
に引き合わせる
形の良い唇を戦慄かせ、深刻そうに呟いた。光希が眼を瞠る中、
宝石持ち
ジュリアスの身体から青い炎が揺らめく。
﹁ジュリ?﹂
﹁まさか⋮⋮その啓示は、光希を他の
為?﹂
﹁えっ﹂
予想外の話の飛躍に、光希は言葉を詰まらせた。
どうしたら、そんな発想になるのだろう⋮⋮いや、呆けている場
宝石持ち
の存在
合ではない。珍しく動揺しているジュリアスの頬を、光希は両手で
包んだ。
ロザイン
﹁僕はジュリだけの花嫁だよ。シャイターンは
1384
が生まれるかもしれない、家系の人﹂
の存在?﹂
宝石持ち
宝石持ち
を公にしたくないから、僕に伝えたんじゃないかな﹂
﹁
﹁違った。
深刻そうに呟くジュリアスを見て、光希は慌てて言い直した。
﹁そうだとしても、なぜ光希が行く必要があるのです?﹂
﹁啓示を受けたのは、僕だから⋮⋮﹂
﹁事情は判りました。光希に代わって、私が彼を助けましょう。陛
下から軍を発する許可も、正式に頂きましたし﹂
ジュリアスは頬を包む光希の手を外すと、強い意志の光を瞳に点
して、光希を見つめた。
﹁でも、僕も招待されているんでしょう? いないと判れば、不信
を招くよ。その上、軍を差し向ければ警戒を煽るだけだと思う﹂
﹁心配しなくても、牽制が主な目的ですよ。有事には、その限りで
はありませんが﹂
﹁そういうのを脅迫っていうの。ほら、ジュリだけで行けば、いか
にも軍事介入になる。だからさ⋮⋮僕という花嫁がいれば、向こう
の印象も大分変るはずだよ﹂
外された手を、今度はジュリアスの肩に置いて膝立ちになった。
瞳に力を込めて見下ろすと、ジュリアスは厳しい表情を浮かべた。
1385
﹁光希を政治に利用するのは、好ましくありません﹂
﹁何を今更。ジュリにも言えることでしょ。いいんだよ、利用して
くれて。偶像のようなものだし﹂
﹁偶像ではありません! 貴方は天上界でも最高位の御使い、シャ
イターンの花嫁であり、私の花嫁ですよ?﹂
﹁そうだね⋮⋮﹂
出た、と思いながら光希はやや投げやりに相槌を打った。不服そ
うに、ジュリアスは﹁事実です﹂と返す。
﹁とにかく、僕とジュリが一緒に行けば歓呼で迎えられるよ。抗争
にも歯止めをかけられるかもしれないよ﹂
﹁それは、そうでしょうけれど﹂
﹁リャンは本当に危ういんだ。酷い状態で捕らわれていて⋮⋮早く
しないと、死んでしまう。彼を助ける為にも、やっぱり花嫁の存在
が必要だと思うよ﹂
﹁ならば、身代わりを立てます﹂
﹁身代わりぃ?﹂
思わず胡乱げな声が出た。訝しむ光希を見上げて、ジュリアスは
真顔で首肯する。
1386
﹁誰でもいい。光希でなければ﹂
﹁僕を知っている人がいたら、どうするの?﹂
﹁車や紗の中から、みだりに出なければいい。人前に立つ時もベー
ルをかけていれば、顔を見られずにすみますよ﹂
﹁そんな手間をかけるなら、僕を連れて行こうよ!﹂
揺さぶってやりたい衝動を堪えて喚くと、ジュリアスは嫌そうな
顔をした。
﹁光希を連れて行きたくありません﹂
つまるところ、彼の本音はその一言に尽きる。
1387
86
︱ ﹃神の系譜・五﹄ ︱ 光希
おもむろ
困り顔で沈黙する光希を見つめて、ジュリアスは徐に口を開いた。
﹁リャン・ゴダール⋮⋮私から光希を奪う者ではないと、誓えます
か?﹂
﹁もちろん!﹂
かげ
自信を持って即答したが、ジュリアスの表情は余計に翳った。
﹁只でさえ内戦の起きている危険な場所なのに、そんな啓示を聞か
されては、とても頷けませんよ﹂
﹁味方もいるよ! 覆面で顔がはっきりしないんだけど、彼を見つ
ければ、たぶんうまくいく﹂
﹁憶測でしょう﹂
1388
﹁きっとうまくいくよ﹂
宝石持ち
だとして、どうだと言
言い直したが、ジュリアスの表情は硬いままだ。
﹁あのさ、仮にリャンの子供が
うの? 僕は既にジュリと結婚しているし、年も二十歳を越えてる。
立場からみても、年齢からみても、その子供と僕が、どうにかなる
わけがないでしょ﹂
﹁そんなもの、なんの障害にもなりませんよ﹂
宝石持ち
が、自分の花嫁にめぐり逢えたら、脇目も
苦々しい口調で、ジュリアスは吐き捨てるように言い切った。
﹁成長した
ふらずに手に入れます。立場や年齢なんて、なんの抑止にもなりま
せん﹂
﹁でも、その子の花嫁が、僕とは限らない⋮⋮ていうか、また話が
逸れてる。そもそも、仮の話で﹂
﹁絶対に反対です﹂
きっぱりと言い切られ、光希は会話の運びに失敗したことを悟っ
た。説得の道のりは、遥かに遠のいた気がする⋮⋮
﹁⋮⋮とりあえず、軍部に行かない? この話は帰ってからにしよ
う﹂
典礼儀式には、もう間に合わないだろう。疲れた心地で腰を浮か
すと、ジュリアスに手を取られ、よろめく身体を抱きしめられた。
1389
﹁今この場で、はっきりと約束してください﹂
﹁ジュリー⋮⋮﹂
﹁でないと、とても離せません﹂
﹁僕だって、乗り気じゃないんだよ。ただ、眼を背けようとすると、
って、物言わぬ幻や不思議で僕を責める。もう、
シャイターンが怒るんだ﹂
行きなさい
﹁怒る?﹂
﹁
覚悟を決めて、ザインへ行って、解決して、すっきりしたいのッ!﹂
やけくそ気味に叫ぶと、意外にも、今こそジュリアスは青い双眸
に迷いを浮かべた。
﹁お願い。僕を連れて行って﹂
頬を引き寄せ、唇に触れるだけのキスをすると、ジュリアスは光
希の背中に腕を回して、口づけを深めた。
長いキスを一つだけして顔を離すと、ジュリアスはなんとも複雑
そうな顔をしていた。
もっ
﹁⋮⋮神意に背けぬということは、判ります。身を以て知っている
から。私も剣を持つ度にそうでした﹂
﹁ジュリ、一緒に行こう?﹂
1390
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁よし、決まった﹂
﹁貴方は、私だけの花嫁です﹂
﹁もちろん﹂
表情を明るくする光希に反して、ジュリアスは苦しげに眉を寄せ
た。
﹁今、伝えておきます。光希を奪おうとする者は、誰であれ絶対に
許しません﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁例えば、リャン・ゴダールでも。その子供だとしても。絶対に許
さない。どこまでも追い詰めて、必ず報復します﹂
真顔で告げられ、応えあぐねていると、柔らかく唇を吸われた。
﹁覚えておいてください﹂
﹁そんなに、心配しないで﹂
ぴりっとした空気を誤魔化すように笑みを繕うと、唇を指でなぞ
られた。
﹁軽く考えないでください。私は本気です。私がどれほど残酷にな
れるか、知らないわけではないでしょう﹂
1391
強い眼差しに気圧され、押し黙ると、ジュリアスはどこか脅すよ
うに光希を見つめた。
青い瞳は、仄かに光彩を帯びている。
動けずにいると、正面から抱きしめられた。見つめ合ったまま顔
から
を傾けると、頭部を丸く包まれ、キスはたちまち深まる。甘く貪ら
れ、逃げる舌を搦め捕られた。
﹁⋮⋮っ、んぅ﹂
想いを植え付けるような深い口づけは、今さっきの恐ろしい言葉
が、正真正銘、彼の本気であることを伝えていた。
1392
87
︱ ﹃神の系譜・六﹄ ︱ 光希
ザインへの遠征が正式に決まった、翌日。
クロガネ隊を訪れた光希に、同僚達は代わる代わる気遣いの言葉
をかけた。多少の寂しさを覚えつつ、光希は引き継ぎに専念した。
一月も工房を離れるのかと思うと、やりかけの仕事が気になる。
戻ってから巻き返せるだろうか?
﹁後のことは、お任せください﹂
尊敬してやまない装剣金工の錬達、アルシャッドは光希の心中を
察したように声をかけた。光希が人に渡すか迷っていた細やかな引
継ぎまで、全て引き取ってくれる。
﹁ご迷惑をおかけいたします﹂
﹁いえいえ。こちらのことは気になさらず、ザインに専念してくだ
さい﹂
1393
彼がそう言ってくれるのならば、万事解決だ。多忙な身でありな
がら、面倒そうな素振りは少しも見せない。
ぬか
もう、彼にはひれ伏すしかないだろう。
ふらふらと額づきかける光希を、アルシャッは焦ったように止め
た。
銀縁眼鏡の奥で、優しい碧眼が困ったように笑っている。頼りげ
ない外見の青年だが、彼も今ではクロガネ隊の副班長だ。
﹁殿下、どうかお気をつけて﹂
去年、一等兵から上等兵に昇進したケイトは、相変わらず優しげ
な容貌で、心配そうに光希を見つめた。
﹁ありがとう。いい物を見つけたら、お土産に買ってくるね﹂
﹁お構いなく、殿下。道中のご無事を、お祈りしています﹂
馴染の顔ぶれに旅路を気遣われ、光希は破顔した。
残念ながら、班長のサイードは今この場にいない。彼は兵器製造
局の長官職を務める、軍器太監という大役を兼任しており、現在、
別の拠点に赴いているのだ。
全員と再び会えるのは、年が明けてからになるだろう。
改造短剣の出来栄えを確かめているらしい、ローゼンアージュと
アルシャッドのやりとりを、光希はしみじみと眺めた。
この居心地の良い仕事場とも、しばしお別れだ。
+
期号アム・ダムール四五六年、一三月一〇日。
ザインに出発する日がやってきた。
1394
派遣される軍の規模は、総勢五百。かつての大戦を思うと随分と
あいろ
そう
小規模に感じるが、込み入った市街を想定した妥当な数だ。戦略は
基本的に、小隊での隘路戦と同じである。
全隊、飛竜に乗って砂漠を南下する予定である。
きか
後方指揮は、ヤシュム、アルスラン、ナディアと錚々たる顔ぶれ
で、ユニヴァースもヤシュムの麾下に編隊されている。
彼等はザインから少し離れた所で待機し、ジュリアスの命令次第
では、ザインに武力介入することになる。
なおアーヒムやルーンナイト、ジャファールはアッサラームに残
り、聖都の警護を務めている。
今回、一兵卒に扮する光希を守る為、武装親衛隊は周囲に馴染む
よう、ローゼンアージュを筆頭に若い兵で編隊された。
その中には、かつて聖歌隊にいたエステル・ブレンティコアもい
る。ユニヴァースに憧れて、騎馬隊に所属している彼は、次の合同
模擬演習では、優勝最有力候補の一人だと言われていた。
事実、超難関と言われた、ローゼンアージュに並ぶ光希の側近親
衛隊の座を、彼は射止めたのだ。
並々ならぬ、努力の賜物であろう。
いつかアッサラームの獅子になる、そう眼を輝かせて語った少年
が、本当に夢を叶えて、光希の前に現れたのだ。
幼い姿を知っているだけに、光希は時間の流れを感じずにはいら
れなかった。
出発前︱︱
点呼までの間、各々自由に過ごす兵達を眺めていると、滑走場の
向こうからユニヴァースがやってきた。
﹁こんにちはー、殿下﹂
﹁ユニヴァース! いいの? ここにいて﹂
1395
そろそろ点呼が始まるはずだ。彼の所属する部隊は、先発隊なの
で、かなり最初の方に呼ばれるだろう。
﹁なんだかんだで、一刻かかりますよ﹂
呑気に笑う彼は相変わらずだ。階級も大分上がったのに、髪も染
めているし、耳につける銀細工の数も減らない。
﹁戻りなよ﹂
冷ややかな口調でローゼンアージュは声をかけた。ユニヴァース
はにやにやしているが、親衛隊に配属されたばかりのエステルは、
心配そうに二人の様子を見ている。
﹁お前、うちの後輩をいじめるなよ?﹂
居心地悪そうに眼を伏せるエステルの横で、ローゼンアージュは
どうでも良さそうな顔をしている。ユニヴァースの懸念は、光希も
思うところで⋮⋮配属されたばかりのエステルが、それもローゼン
アージュとうまくやっていけるか、少々気を揉んでいた。
雑談しているところに召集の号令がかり、揃って顔を上げた。ど
うやら、ユニヴァースの部隊らしい。
﹁じゃ、俺行きますね! 殿下もお気をつけて!﹂
﹁ユニヴァースもね!﹂
手を振ると、ユニヴァースは朗らかな笑みを浮かべて、仲間の元
へ駆けていった。
1396
﹁光希﹂
呼ばれて振り向くと、ジュリアスに手招かれた。
いよいよ出発だ。光希は、隊伍の先頭、飛竜の背にジュリアスと
共に騎乗した。
先発隊の出発準備が整い、ジュリアスは高台に立つアデイルバッ
しゃくじょう
ハを仰いだ。
皇帝が錫杖で天を差すと、ジュリアスは敬礼で応えて、手綱を引
いた。
﹁飛翔ッ!!﹂
凛と声を響かせ、出発を告げる。曇った空に向かって、数百もの
飛竜が、矢の如く翔けあがった。
1397
88
うなばら
︱ ﹃神の系譜・七﹄ ︱ 光希
ちょうぼう
見下ろす眺望は、砂の海原。
荒涼とした砂漠に、往時を偲ばせる遺跡の数々が、陽や星明かり
くずお
を浴びて神秘的に煌めいた。
砂に頽れた石柱を眺めていると、思いは遥か数千年へと遡ってゆ
く。
﹁光希﹂
傾いだ姿勢を正すように、腹に回された腕に力が込められた。
﹁ごめん﹂
見入るあまり、いつの間にか前のめりになっていたようだ。姿勢
を正すと、こめかに口づけられた。
﹁疲れましたか?﹂
1398
﹁平気。景色に見惚れていただけ﹂
﹁もう少し飛んだら、休みましょう。雨が降る﹂
西大陸には今、本格的な雨期が訪れている。
つぶて
南下する途中も、何度か透き通る雨に南風が溶け込んだ。
霧雨なら気にせず翔けるが、礫のような雨が降る日は、行軍を諦
めねばならない。
よって、飛べる日はひたすら長く、昼夜兼行して飛び続ける。
操縦を人任せにしている光希でも、長時間を飛竜の背で過ごすの
は楽ではない。しかしジュリアスは、始終手綱を握りながらも、そ
の手は少しも危うくなかった。
﹁少し代わろうか?﹂
﹁平気ですよ﹂
﹁無理しないで。僕にもたれて、うたた寝していいよ﹂
気遣いを申し出ても、ジュリアスは受け入れようとしない。少し
意地になると、ジュリアスはくすりと微笑した。
﹁怖くて、任せられません﹂
﹁平気だって﹂
﹁お構いなく﹂
強引に、ジュリアスの手から手綱を取ろうとすると、ぺしっと手
を叩かれた。
1399
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
何事もなかったかのような、沈黙が流れる。
飛竜の背にいる間は大体こんな感じで、一度も運転を任せてもら
えなかった。
+
アッサラーム出発から、十三日。
古の大都を目前に、ジュリアスは縦隊を四つに分けて、東西南北
の門に合わせて配置した。
ヤシュムは東、ジュリアスと光希は西だ。ナディアやアルスラン
も一緒である。
簡素な天幕の中から、しとしと降る優しい雨の連なりを見上げて
いると、後ろからジュリアスに抱きしめられた。
﹁寒くありませんか?﹂
かげ
白い息を吐きながら、光希は首を横に振った。
さくふう
確かに、陽が翳り雨が降ると、砂漠を渡る風も冬の息吹のように
感じる。朔風は頬を嬲るが、ナフィーサが山ほど厚着させてくれた。
しょうかい
間もなく、ザインに入る準備を進める光希達の元へ、先にザイン
へ入った哨戒が戻ってきた。
﹁伝令! 早朝、ドラクヴァ家が襲撃を受けました。仕掛けたのは、
ゴダール家だと。護衛と共に西の郊外まで出迎えると、グランディ
エ公からの言伝です﹂
1400
﹁襲撃って?﹂
天幕の内側で聞いていた光希は、思わず外へ顔を出した。
眉をひそめるジュリアスの横に並ぶと、跪いた男は、呆けたよう
に光希を仰ぎ見た。
﹁⋮⋮仔細は?﹂
仕方なさそうにジュリアスが口を開くと、伝令は呆けた顔を引き
締めた。
﹁現在、ザインに入った先発隊が調べております。密偵から、これ
を﹂
若い哨戒兵は、ジュリアスに小さな筒状の紙を渡した。中を確か
め、ジュリアスは一つ頷く。
﹁行ってみないことには判りませんね。出迎えは不要、こちらから
伺うとグランディエ公に伝えてください﹂
﹁はっ﹂
伝令は短く応えると、すぐに引き返していった。
﹁行くの? 遠視は?﹂
懸念が先立ち、光希は思わずジュリアスを仰いだ。額に輝く青い
宝石は、シャイターンの神秘の証。千里の彼方を見渡すことができ
るはず。
1401
﹁私と関わりの少ない事象では、見ようにも鮮明さに欠けます﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁ザインの様子を見てきます。疲れていると思いますが、もう少し
ここで待っていてください﹂
﹁判った﹂
キャラバン・サライ
﹁すぐ戻ります。後で隊商宿に移動しましょう﹂
額に触れるだけのキスをして、身を翻そうとするジュリアスの服
を、光希は無意識に掴んだ。青い双眸と視線がぶつかる。
﹁気をつけて﹂
﹁はい。光希も﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁すぐに戻りますよ﹂
﹁うん⋮⋮気をつけて﹂
繰り言に気付き、光希はジュリアスの服から手を離した。
﹁心配しないで。光希の方こそ、十分に気をつけてくださいね﹂
﹁うん﹂
1402
そび
遠ざかる背中は、砂漠に聳える大都へ向かってゆく。
流れる金髪の奔流を見送りながら、ふと宮殿の庭で見かけた、金
よぎ
色の蛇を思い出した。
幻が、脳裏を過る。
豪華絢爛なお屋敷、神聖な礼拝堂。
斜光が降り注ぐ神聖な祈りの場で、敬虔な人達が祈りを捧げてい
る。部屋に飾られている、杯と葡萄の意匠されたドラクヴァ家の紋
章旗。
彼等の背中に、音もなく忍び寄る影。手にした短剣には、月桂樹
の紋章︱︱ゴダール家のもの。
ドラクヴァ家が襲撃されたとは、まさか︱︱
﹁殿下、天幕の中へ﹂
背中にかけられたローゼンアージュの声に、我に返った。
嫌な予感を断ち切るように、光希は彼方から視線を背けて、静か
に天幕に戻った。
1403
89
︱ ﹃神の系譜・八﹄ ︱ 光希
雨が上がり、曇った空の奥から西日が射す頃。
ザインから戻ったジュリアスは、光希の待つ天幕を訪れた。光希
を見て、一瞬顔に安堵を浮かべるも、すぐに硬い表情に変わる。
﹁ドラクヴァ家の人間が、ゴダール家の刺客に襲われたそうです﹂
﹁刺客!?﹂
驚嘆の声を上げる光希を見て、ジュリアスは厳しい表情で頷いた。
﹁聖なる礼拝堂を、血で穢したのです﹂
﹁礼拝堂⋮⋮﹂
わなな
唇が戦慄いた。あの恐ろしい幻が、現実に起こってしまった。
震える光希の身体を、ジュリアスは宥めるように抱きしめた。悪
夢から逃げるように、光希も強く縋りつく。
1404
﹁誰か、死んだの?﹂
﹁十数名の死傷者が出ました。当主を二度も襲われたドラクヴァ家
は激怒し、ゴダール家に全面抗争の宣告をしたそうです﹂
﹁そんな!﹂
もっ
身体を起こしてジュリアスを仰ぐと、思慮深い眼差しには、厳し
い色が浮かんでいた。
ロザイン
﹁事態は深刻です。もう、花嫁の存在を以てしても、平和的な解決
は難しいでしょう﹂
﹁刺客って、ゴダール家が?﹂
﹁残された短剣には、ゴダール家の紋章が入っていたそうです﹂
﹁ゴダール家は、なんて?﹂
﹁否定していますが、リャンの解放を求めて、彼等も武力抗争に踏
み切ると宣戦布告しました﹂
﹁いつ!?﹂
﹁明日の昼までにリャンを解放しなければ、アブダム監獄を襲撃す
ると﹂
﹁あ、明日? まだゴダール家の仕業と、決まったわけではないん
でしょう?﹂
1405
行動を起こすにしても、ザインへ入った後のことだと思っていた。
到着早々の展開について行けず、光希は青褪めながら口元を押さえ
た。
﹁今のところは。ですが、もう真相など重要ではないのでしょう。
リャンが解放されたところで、衝突は避けられないかもしれません﹂
﹁ザインの街中で⋮⋮?﹂
﹁今から、ザインの当主、ジャムシード・グランディエに会いにい
きます﹂
﹁僕も行く﹂
思わず、ジュリアスの両腕を強く掴むと、ジュリアスは厳しい顔
で首を左右に振った。
﹁駄目です﹂
﹁でも﹂
キャラバン・サライ
﹁治安が悪過ぎます。今夜は、隊商宿に泊ることも控えた方がいい
でしょう。念の為、光希の影武者を連れて行きます﹂
﹁ジュリは? 一人で行くの?﹂
﹁ナディアも行きますよ。そんな顔をしないで。私にも護衛はいま
すから﹂
1406
﹁でも⋮⋮﹂
頼りない声が出た。光希の不安げな表情を見て、ジュリアスは勇
気づけるように光希の両肩を包みこんだ。
﹁すぐ戻ります﹂
﹁戦うの?﹂
﹁いざとなれば﹂
迷いのない返答に、不安を掻きたてられた。あれだけの大都に軍
が押し入れば、民間にも被害は及ぶだろう。
﹁街の人達は、避難しているの?﹂
﹁一部の地区では⋮⋮光希、心配しなくても、こちらから戦いを仕
掛けたりしませんよ﹂
そうは言っても、いざ武器を持った者同士が戦えば、無傷とはい
かないだろう。
﹁不安だ﹂
﹁できる限りのことはしますが、危険は冒しません。そもそも、聖
霊降臨儀式に招かれただけなのですから﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁光希﹂
1407
両の頬を挟まれ、上向かされた。青い瞳には、不安そうな表情の
光希が映っている。頬を撫でるジュリアスの手に、自分の手を重ね
た。
﹁無茶は、絶対にしないで﹂
﹁約束します﹂
抱擁を解くと、ジュリアスは外套を羽織り直した。覆面で額の宝
石も、金髪も隠し、眼だけを覗かせる。
天幕の外へ出ると、トゥーリオの手綱を引いてナディアがやって
きた。いよいよ行ってしまうと思うと、知らず手はジュリアスの袖
を掴んでいた。
﹁⋮⋮闘いが始まる時、酷く雨が降るかもしれない。どうか、気を
つけて﹂
﹁はい。光希も⋮⋮﹂
意志の力で離した手を、ジュリアスに取られた。覆面を下げると、
光希を見つめたまま指先に口づける。
心臓を鷲掴みにされた。叶うことなら、引き留めたい⋮⋮いつま
で経っても、見送ることに慣れない。
想いが溢れて、胸が張り裂けてしまいそうだ。
唇を引き結ぶ光希を強い視線で見下ろすと、ジュリアスは今度こ
そ背中を向けた。光希に扮した兵をトゥーリオの背に乗せて、自分
もその後ろに跨る。
最後に光希の姿を青い瞳に映すと、霧けむる砂漠を駆け出した。
1408
1409
90
︱ ﹃神の系譜・九﹄ ︱ 光希
いにしえ
古の大都から、カリヨンの音が聞こえてくる。
しじま
夜も明けやらぬ黎明に、礼拝を告げる鐘は、夜の静寂を控えめに
破った。
﹁殿下﹂
鐘の音に混じって、淡々とした青年の声が聞こえる。耳の片隅に
拾い、光希は薄眼を開けた。
﹁殿下、中へ入ります﹂
寝ぼけた思考で、咄嗟に反応できずにいると、ローゼンアージュ
は返事も待たずに入ってきた。
﹁どうしたの?﹂
﹁百数名の武装集団が、こちらへ近付いてきます﹂
1410
﹁え?﹂
慌てて身体を起こすと、ローゼンアージュは畳まれた軍服を手渡
した。
﹁革命軍の紋章旗を掲げています。着替えて、お早く﹂
呆けている場合ではない。やってきたナフィーサに身支度を手伝
ってもらい、準備を終えると照明を落とした。薄暗い視界の中、外
套を羽織り、手を引かれて外へ飛び出す。
﹁誰なの? なんでここへ?﹂
ロザイン
昨夜、光希の影武者を連れて、ジュリアスは公式にザインへ入っ
たはずだ。一兵卒に扮する光希が花嫁だと、知っている人間がいる
のだろうか?
﹁判りません﹂
﹁待って﹂
強い力で腕を引かれて、光希は慌てて周囲を見渡した。
天幕で休んでいた兵達は全員、外に出ている。黒牙を抜いて、臨
戦態勢だ。
よぎ
彼等が見据える先︱︱砂の対岸には、赤い松明が不気味に揺れて
いる。東西大戦の記憶が胸を過り、光希はぎくりとさせられた。
しかし、白い鳥の意匠された旗を眼にした途端、全く別の光景が
脳裏を過った。
1411
﹁殿下ッ!﹂
急かす声と腕を振り切り、光希はアルスランの立つ野営の前線に
向かって、全力で駆け出した。
﹁そこで止まれ! 何者だ!﹂
すいか
背中からローゼンアージュが光希を押さえるのと同時に、アルス
ランは鋭い口調で誰何を発した。
﹁敵意はないッ! 革命軍のヘガセイア・モンクレアだ! リャン
のことで、話がある!!﹂
中心に立つ一人が、両腕を高く上げた状態で叫んだ。怪我をして
いるのか、足を庇うようにして立っている。
﹁花嫁に会わせて欲しいッ!﹂
ここに花嫁がいることを知っているかのような口ぶりに、野営の
空気は張り詰めた。
﹁殿下、お早く﹂
殆ど引きずるようにして、ローゼンアージュは光希を後方へ下げ
ようとした。肩を抱きしめる腕に抗い、光希は足を踏ん張った。
﹁彼の顔が見たい﹂
﹁いけません﹂
1412
前へ出ようとする光希を、ローゼンアージュばかりか、エステル
も押しとどめようとする。
﹁お願いだ、どうか!! このままでは、リャンは殺されてしまう
⋮⋮ッ﹂
幻に見た、砂漠に立つ覆面姿。彼こそが、リャンを助ける者かも
しれない!
﹁そこで跪けッ!﹂
冷淡な口調でアルスランが命じると、ヘガセイアと名乗った男は、
すぐに膝をついた。
﹁彼を失うわけにはいかないのです、どうか御慈悲をッ!﹂
必死さの滲んだ震える声を聞いて、光希は心を決めた。
﹁詳しい話を聞きたい。皆、力を貸して﹂
﹁殿下﹂
﹁言う通りにして。早くッ!!﹂
厳しい口調で一喝すると、周囲に動揺が走った。
ね
後方の異変に気付き、アルスランの眼がこちらを向く。光希に気
付くや、眉をしかめた。非難の視線で睨めつける。
﹁アルスラン! 彼を連れてきて﹂
1413
鋭く命じると、苛立ったようにアルスランは舌打ちした。
﹁ナフィーサ、アージュ。彼と話したい。お願い、力を貸して﹂
強い視線を向けると、二人は光希を見つめて表情を引き締めた。
主の本気を知り、彼等も心を決める。
﹁仰せの通りに。私が代わりを務めます﹂
表情を改めてナフィーサが応え、ローゼンアージュも無言で首肯
した。ナフィーサは跪く護衛を振り返ると、
しゃ
﹁淡い照明と紗を持て。私が殿下の代わりを。護衛の者は、私の後
ろに。エステルはローゼンアージュと共に殿下の傍へ﹂
小声で、しかし的確に指示を出した。ザインへ入る際、光希の代
役を務める予定でいたナフィーサには、一通りの準備がある。
作戦を知り、駆け寄ってきたアルスランは、天幕の影に光希を押
し込むや、氷のように冷たい眼差しで見下ろした。
﹁危険です﹂
﹁彼は敵じゃない! 探していた、リャンを助ける者ですっ!﹂
﹁貴方を危険に晒すわけにはいかない﹂
﹁シャイターンの思し召しですッ!﹂
﹁︱︱ッ、いいから、隠れてろ!﹂
1414
﹁僕は彼に会う為に、ここまでやってきたと言ってもいい! 信じ
てッ!!﹂
くろがね
冷たい鉄の右腕に触れて、光希は告げた。
月日を費やして命を吹き込んだ鋼腕は、アルスランを以前と変わ
アイス・ブルー
らぬ飛竜隊最高最速の騎手として、最前線に戻した。
冴えた蒼氷色の瞳には、案じる光が灯っている。逡巡、据わった
眼つきに変えると、後方に控える護衛を睨んだ。
﹁あいつを連れてくる。不審があれば、迷わず殺せ﹂
﹁﹁﹁はっ﹂﹂﹂
氷の刃のような口調でアルスランが命じると、全員が一瞬の躊躇
もなく、即答した。
殺伐とした空気に喉を鳴らしたのは、光希だけだ。
1415
91
︱ ﹃神の系譜・十﹄ ︱ 光希
天上から垂らした紗の中に、光希に扮したナフィーサは寛いでい
る。
室内には揺り香炉が薫り、灯された淡い照明は、ナフィーサの陰
翳を神秘的に映していた。
﹁殿下、僕の隣へ。端で跪いて﹂
﹁はい﹂
言われるがままローゼンアージュに倣い、光希はぎこちなく跪い
た。隊帽と覆面で、眼しか出していない状態だ。俯いてしまえば、
先ず光希とは気付かれない。
中の様子を窺うアルスランは、ナフィーサの﹁良い﹂という返事
に、恭しく胸に手を当てた。
ロザイン
﹁花嫁が、話を聞きたいとおっしゃっている。二人、こちらへ﹂
1416
入出を許可すると、すぐにヘガセイアとアークと名乗る二人の男
が連れてこられた。
そっと目線を上げて様子を窺うと、覆面を取った顔は意外にも若
々しく、まだ二十代に見えた。
﹁私に、どんなご用件でしょうか?﹂
ぬか
紗の奥からナフィーサが声をかけると、ヘガセイアは恐縮しきっ
たように、額づいた。
﹁御目通り叶い、恐悦至極。お休みのところ、誠に申し訳ありませ
ん。いかなる罰も受ける覚悟でおります﹂
﹁話を聞かせてください﹂
﹁はい! ザインの希望の星、革命の寵児、我が友でもあるリャン
の窮地をお救いいただきたく、こうして馳せ参じました﹂
﹁リャン・ゴダールですね?﹂
しい
﹁はい。リャンは無実です。ドラクヴァ公を弑してなどおりません。
彼は、陥れられたのです﹂
﹁陥れられた?﹂
かんけい
﹁はい。彼は、ジャムシード・グランディエの奸計によって、汚名
を着せられたのです﹂
衝撃の告白に、光希は覆面の内側で眼を瞠った。初耳だ。リャン
が、グランディエ公爵に陥れられた?
1417
﹁妙なことを言う。我等がシャイターンと花嫁は、そのグランディ
エ公に招かれて、ザインへやってきたのだぞ﹂
鋼腕で腕を組むと、いかにも胡乱げにアルスランは尋ねた。
光希の胸にも、重苦しい不安が芽生えた。昨夜、ジャムシード・
グランディエにジュリアスは会いに行ったはずだ。無事なのだろう
か⋮⋮
﹁嘘ではありません! このことは、複数の同志が証言してくれま
す﹂
﹁この場でか?﹂
﹁今すぐには⋮⋮証言できる者を捕えられているのです﹂
﹁話にならないな﹂
針を含んだ瞳でアルスランが言い捨てると、ヘガセイアは歯痒げ
な視線を向けた。
﹁彼が無実であることは、本当です! ドラクヴァ公爵暗殺の真相
を追ううちに、ジャムシード・グランディエの企みを知り、彼はむ
しろ二家の争いを止めようとしていました﹂
﹁企み?﹂
﹁はい。今朝の礼拝堂の惨劇、真の狙いは後継のドラクヴァ公爵で
はなく、グランディエ公の意に背いた、聖霊降臨の儀式を司る神官
達だったのです﹂
1418
﹁どうやって調べた?﹂
﹁様々な職に就く同志達が、危険を冒して情報を集めてくれました﹂
﹁ここに花嫁がいることも?﹂
﹁ザインへ到着してからの様子を、見張らせておりましたから⋮⋮﹂
間諜を仄めかす発言にアルスランは目線を鋭くさせたが、これは
お互い様であろう。ジュリアスも到着する前から、偵察隊を送り込
んでいる。
けが
﹁謙虚を口にしていても、ジャムシードは領主続投を狙う野心家で
す。二家を操り、聖霊降臨儀式も穢そうとしています﹂
﹁それが本当で、そこまで情報を掴んでいるのなら、早く二家に打
ち明けてはどうか?﹂
ね
そっけない返答に、ヘガセイアは悔しそうな表情を浮かべた。上
目遣いにアルスランを睨めつける。
﹁何度も伝えようとしました。けれど、革命軍を敵視する彼等は、
我々の言葉を聞こうとしません﹂
﹁そもそも、革命軍の幹部がなぜ、三大覇権の一派、リャン・ゴダ
ールを庇う?﹂
﹁彼は、革命軍の首領なのです。僕達は、彼の目指す思想の元に集
まった、同志なのです﹂
1419
﹁首領だと?﹂
﹁はい﹂
誰かが聞きつけるのを恐れるように、ヘガセイアは声を低めて告
げた。彼のもたらした告白に、光希は眼を瞠った。
リャンが革命軍の首領︱︱
次期宋主家を巡る抗争と思いきや、この国では更に大きな大旋風
が吹き荒れようとしている。
﹁驚かれるのも無理はありません。リャンは革命軍では別名を名乗
り、身分を明かしていない。このことを知るのは、ごく少数です﹂
﹁ゴダール家は知っているのか?﹂
﹁祖父君はご存知だと、リャンは話しておりました﹂
リャンの祖父、バフムート・ゴダール公爵のことだ。
吟味するようにアルスランが沈黙すると、ヘガセイアは縋るよう
に仰いだ。
﹁花嫁がおいでくださったのは、天の救い。どうか、御力をお貸し
ください﹂
慈悲を請う青年に、アルスランは冷たい一瞥を向けた。
﹁言っておくが、真偽も判らぬ私怨に手は貸せない。我々は、聖霊
降臨儀式に招かれただけなのだから﹂
1420
話は終いとばかりにアルスランが手で合図すると、周囲の護衛は
跪くヘガセイアの身体を起こそうと動いた。
﹁お待ちを﹂
﹁話をお聞きくださっただけでも、幸いであったと感謝するがいい。
下がられよ﹂
﹁お聞きをッ! もうすぐ、リャンは殺されてしまう! そうなれ
ば、ゴダール家とドラクヴァ家の衝突は止められません。ザインの
街が崩壊してしまうのですッ!!﹂
必死に額づこうとするヘガセイアを、屈強な兵達は強引に立たせ、
天幕の外へ連れ出そうとする。
長い裾に足を取られたヘガセイアはよろめき、天幕の端に立つ光
希に倒れかかった︱︱
1421
92 ﹃名もなき革命﹄ − エステル −
︱ ﹃名もなき革命・一﹄ ︱ エステル
カテドラル
五歳で親元を離れ、大神殿に預けられた。
四年が過ぎた頃。声の才を見出され、戦災孤児のカーリーが聖歌
隊にやってきた。三つ年下の小さな子で、大きな瞳には不安がいっ
ぱい。守ってあげなくては⋮⋮そう思わせる子供だった。
それからは、いつでも一緒にいた。
黎明に歌う時も、昼に掃除をする時も、夜に食事をする時も、晩
祷を捧げる深夜にも⋮⋮
厳しい戒律に挫けそうな夜は、身体を寄せ合い、同じ寝台で眠り
についた。
共に学び、成長してゆく︱︱
同じ時間を共有しながら、カーリーの一歩前を進むことが、あの
頃、エステルの誇りであった。
後ろを振り向いて、追い駆けてくる、一途なカーリーの姿を見る
のが好きだった。幼い彼の眼に、自分の姿が英雄のように映ること
が嬉しかったのだ。
けれど︱︱
玻璃のような声だと、誉めそやされる自分以上に、カーリーは天
才であった。才能を花開かせ、聖歌隊の次代を担う歌手として、誰
1422
からも注目を浴び始める。
絶対不変と思っていた二人の関係は、綻んだ。
成人が近付くと共に、聖歌隊の引退も近付き、エステルは次第に
卑屈になった。
昔は、後ろを振り向いてまで確かめていたのに、いつの間にか、
追い駆けてくるカーリーを疎ましいと思うようになってしまった。
離れた所でしょぼくれて、哀しそうにエステルを見るカーリーを
見る度に、このままではいけない、優しくしてあげなくては、何度
も自分に言い聞かせた。
けれど、傲慢で幼い虚栄心が邪魔をする。
エステルが聖歌隊の服を脱ぐ時、カーリーはまだ十歳。彼は、こ
れから聖歌隊の歌手として、全盛期を迎えるのだ。
妬ましかった。
中庭で一人で泣く姿を見ても、思い遣るより、同情を買いたいの
かと、苛立ちが勝ってしまう。そんな醜い心を知る度に、胸は潰れ
そうなほど軋んだ。
あんなに大好きだった少年を、一方的に、嫌いになってしまった。
こんなに貧しい心の自分には、天罰が下るに違いない。
祈りを捧げながら、雷に打たれやしないかと怯えていた。
出口のない迷路で、もがき、苦しむ中︱︱
大いなる転機が訪れる。
初めて観戦を許された、花嫁が貴妃席に立つ暮れの合同模擬演習。
優雅で力強い剣の閃きに、エステルの眼は釘づけになった。
今でも忘れられない。
最終演目で、ユニヴァース・サリヴァン・エルムは、偉大な砂漠
かつぜん
の英雄、ジュリアス・ムーン・シャイターンに挑んだ。
戛然と響く、眼にも止まらぬ鋼の応酬。触れ合う刃は、火花を散
らした。
青い閃き。
シャイターンの振るう圧倒的な神力を目の当たりにして、エステ
1423
ルは感動に打ち震えた。
だが、何よりもエステルの胸を打ったのは、強大な相手を前に、
恐れず、何度でも立ち向かう、ユニヴァースの雄姿だった。
決着がついて、大歓声に包まれた途端、倒れてしまうんじゃない
かしらと思うほど、エステルの心臓は激しく脈打った。
天上人である花嫁は、抱えるほどの花束を英雄に贈る。感動的で、
胸がいっぱいで、清々しい歓喜が、爪先から頭のてっぺんまで駆け
抜けていった。
もう一人の英雄︱︱仰向けに倒れて動かないユニヴァースを食い
入るように見つめていると、彼はちゃんと立ち上り、シャイターン
に頭を下げた。
その姿を見た瞬間、心に大旋風が吹き荒れた。我が身に、革命が
起きたのである。
彼の清廉さに比べて、自分はどうだ。
彼の振り絞った勇気に比べて、自分はどうだ。
傷ついてなお、彼は勝者に頭を下げた。自分はどうなのだ。
すく
涙が溢れた。
自分の中に掬っていた、黒くて醜い心は、涙と一緒に流れていっ
た。
肩を支えられて会場を下りてゆく、遠ざかる彼の背中を、滲む視
ちょうめい
界を何度も擦りながら、最後まで見守った。
澄明な空に誓う。
立ち止まるのを止めよう。
幼い日々に卒業しよう。
彼の背中を目標に励み、いつの日か、彼のように闘技場に立ちた
い。
その日を境に、固執していた聖歌隊への未練は、すっぱりと消え
た。心は澄み渡り、歌声からも迷いが消えた。
避けていたカーリーに、今更どう声をかけようか⋮⋮迷っている
うちに、典礼儀式で、花嫁の前で歌う栄誉を与えられた。
1424
誇らしく、胸を高鳴らせたものだ。
名声を欲する時には、なにごとも上手くいかなかったが、苦悩か
ら解放されてからは、進む道が明らかになり、幸せだと感じること
が増えた。
迷うことなく、成人と共にアッサラーム軍へ入隊した。
報告の機会を窺っていると、花嫁に慰められ、中庭で涙するカー
リーの姿を見つけた。
緊張しながら声をかけると、カーリーは眼を丸くしてエステルを
仰いだ。素直なカーリーの眼には、エステルへの変わらぬ愛が浮か
んでいた。
﹁ずっと、冷たくして、ごめんね﹂
罰の悪い思いで告げると、カーリーは涙を散らして首を左右に振
った。
﹁殿下と、何をお話ししていたの?﹂
何気ない口調で尋ねたが、カーリーは怯んだ。声をかけられた嬉
しさと、エステルの機嫌を損ねるのではという恐怖が、同居してい
る顔であった。
屈託のない笑みを浮かべていた子が、こんなにも悲壮な顔をする
ようになってしまった。
そうさせたのは、エステルだ。カーリーにとってエステルは、恐
らくまだ世界の全てなのだ。
﹁ごめんね。大好きだよ!﹂
わなな
抱き寄せると、カーリーは肩を戦慄かせて、強い力でしがみつい
てきた。
1425
﹁⋮⋮っ、ぼ、僕も、エステルが、だいすき⋮⋮っ!!﹂
その後、カーリーは大声で泣いた。あれほど大泣きするカーリー
を見たのは、後にも先にも、あの時だけだ。
拗れた二人の関係は、ようやく元に戻った。
手を繋いで神殿を飛び出したある日。
神殿を訪れた花嫁と、入り口ですれ違った。間もなくアッサラー
ム軍に入隊するのだと、少し誇らしい心地で告げると、
﹁⋮⋮そっか。なら、もうすぐ仲間になるんだね。よろしくね﹂
彼はどこか寂しげな表情で、微笑んだ。
微かな違和感を覚えても、黒い双眸に映る誇らしさと、喜びの方
が強かった。
あの当時、ベルシアとの和議に花嫁が苦悩していたことを知らな
いエステルは、ただ、花嫁に仲間と呼びかけられたことが嬉しかっ
たのだ。
四年後。エステルは花嫁の武装親衛隊に抜擢される。
1426
93
︱ ﹃名もなき革命・二﹄ ︱ エステル
あれから、四年。
合同模擬演習でユニヴァースに憧れを抱いてから、必死に追いか
け、精鋭揃いの第一騎馬隊へ配属が決まった。
暮れの合同模擬演習に向けて、第一騎馬隊の候補にエステルの名
ロザイン
があげられたが、迷った末に辞退した。
シャイターンや花嫁と共に、ザインに従軍する為だ。
幸運にも、ザインに向けて特別に編成される、花嫁の武装親衛隊
に選ばれた。かつてユニヴァースも務めた栄えある任務に、エステ
ルは二つ返事で了承した。
ザインへ発つ二日前。
武装親衛隊の中でも、最後衛だろうと思い込んでいたエステルで
あったが︱︱
﹁アージュは、僕の護衛隊長なんだ。判らないことは、彼に聞いて﹂
﹁は、はい!﹂
1427
花嫁に呼ばれて、ローゼンアージュに引き合わせられた。
恐れ多くも、彼と同じ側近の武装親衛隊に抜擢されたのだ。
﹁アージュも、いろいろ教えてあげてね﹂
﹁はい﹂
彼は人形めいた美貌で、無表情に頷いた。
この繊細美妙なる麗人は、外見にそぐわぬ凄まじい剣技の持ち主
で、花嫁を公宮に迎えた時から武装親衛隊を務めている。
そうして、花嫁の絶対的な信頼を勝ち取り、右腕にのし上がった
のだ。
見目麗しい容姿も彼を助けたろうが、家柄に関係なく、花嫁の傍
に立てるのは、実力重視のアッサラーム軍の気質であろう。
長く上等兵に留まった謎の人でもあったが、今では、武装親衛隊
隊長ならびに、ユニヴァースと同じ少尉の階級に就く青年士官であ
る。
﹁よろしくお願いします﹂
敬礼するエステルを、ローゼンアージュは無言で見下ろした。温
こだ
度の感じられない眼差しに、ザインへの行軍をいささか不安に感じ
るエステルであった。
+
しゃし
花嫁は、相変わらず気さくな人柄で、奢侈にも拘らず、行軍の不
便にも不満一つ零さなかった。
とはいえ、これまでのように接するわけにはいかない。
1428
気を引き締めて護衛任務についていると、天幕から顔を覗かせた
花嫁は、
﹁二人共、休憩にしない?﹂
暇潰しを見つけたような顔で、エステルとローゼンアージュに声
をかけた。
﹁いえ、私は⋮⋮﹂
恐れ多くも、花嫁の誘いを辞退するエステルの横で、ローゼンア
ージュは、何の躊躇いもなく天幕の中へ入った。
﹁お菓子あるよ。エステルもおいでよ﹂
﹁は、はい﹂
二度も誘われて断るのもいかがなものかと、エステルも中へ入る
と、蜂蜜と紅茶の良い香りが漂った。
傍仕えのナフィーサが給仕する横で、ローゼンアージュは旨そう
に、バターと蜂蜜を塗ったパンを頬張っている。空いた片手には、
オリーブを摘まんで。
あらゆる面で、エステルは彼を尊敬しているが、恐らく彼の方は
エステルなど空気も同然に思っているだろう。
並んで護衛についていても、彼から連携や分担、注意点といった
話は、一度もされなかった。
というより、会話がない。
それはエステルに対してだけではなく、彼は基本的に、誰に対し
ても殆ど口を利かない。会話する相手といえば、天上人であり、主
たる花嫁くらいだ。
1429
ザインに到着するまでは順調であったが︱︱
そこから、混乱を極めた。
到着したその日に、三大公爵家の一つ、ドラクヴァ家が襲撃を受
けたのだ。花嫁を残して、シャイターンは単独でザインに入ること
を決める。
花嫁の後ろで警護に立ちながら、眼の前で繰り広げられる光景に、
エステルは何度も眼を瞠った。
今も、シャイターンの身を案じて、花嫁は思わずといった風に、
袖を掴んで引き留めている。
かんぜん
彼が、あんな風に一途に見下ろすとは知らなかった。
万軍を率いて、いつでも敢然と立ち向かってゆく英雄が、花嫁の
手を剥がせずにいる。
時間がないと知っていても、引き留める花嫁を無下にできないの
だ。
他の者が、同じ真似をしようものなら、氷の一瞥を向けるだろう。
触れることすら、許さないかもしれない。
衝撃だ⋮⋮
これだけエステルが注視していても、一途な視線は花嫁だけに注
がれている。
﹁どうか気をつけて﹂
﹁光希も⋮⋮﹂
英雄は、離れていく花嫁の手を取り、指先に恭しく口づけた。見
守っていると、鋭い眼差しで突然こちらを見た。
甘さの欠片もない視線は、何があっても花嫁を守れと、エステル
達に言っている。
凍てつくような覇気に、思わず仰け反りかけたが、隣でアージュ
は心得たように一礼した。エステルも慌てて最敬礼で応える。
1430
一角馬に騎乗したシャイターンは、雄々しくも美しかった。
ぎょうゆう
貴公子のような佇まいからは想像もつかないが、彼こそはアッサ
ラームの誇る驍勇の獅子だ。闘えば負けなし、連戦連勝の軍事天才
である。
英雄は最後に一目、騎乗から花嫁を見下ろし、ナディア達と共に
ザインに向かって駆けていった。
﹁⋮⋮殿下、天幕の中へ﹂
いつまでも見送る花嫁に親衛隊隊長が声をかけると、彼は視線を
断ち切り、静かに天幕に戻った。
1431
94
︱ ﹃名もなき革命・三﹄ ︱ エステル
ザインに到着した翌朝。
黎明の空の下、砂漠の彼方に穏やかではない武装集団︱︱革命軍
ロザイン
が現れ、野営地に小波のように緊張が走った。
花嫁の休む天幕に、声をかけることを躊躇するエステルの横で、
ローゼンアージュは素早く中へ入った。躊躇っている場合ではない。
エステルも彼に続くと、花嫁を天幕から連れ出した。
い
革命軍の中心と思わしき男は、花嫁との対談を望んだ。
花嫁を危険に晒すわけにはいかない。到底聴き容れられぬと全員
が思ったが、花嫁の強い意志により、周囲は動いた。おっとりした
花嫁が、あのように喝を飛ばす姿を、エステルは初めて目の当たり
にした。
﹁アルスラン! 彼を連れてきて﹂
花嫁が命じると、振り向いたアルスランは舌打ちした。不遜な態
度に眼を丸くしたエステルであったが、花嫁は気にも留めずこちら
を向いた。
1432
﹁ナフィーサ、アージュ。僕は彼と話したい。お願い、力を貸して﹂
揺るがない信頼の眼差しで、花嫁はローゼンアージュとナフィー
サを見た。二人は、その期待に即時に応える。
名を呼ばれなかったことを拗ねたりはしないが、互いに信頼し合
う彼等の姿は、エステルの眼に眩しく映った。
作戦を知り、アルスランは夜叉のような顔でやってきた。西で野
営の指揮を任されている彼は、天幕の影に花嫁を引き込むと、今に
も掴みかからんばかりに詰め寄った。
﹁危険です﹂
﹁彼は味方なんです﹂
﹁証拠は? 貴方を危険に晒すわけにはいかない﹂
﹁シャイターンの思し召しですッ!﹂
馬鹿
と言いかけた。
﹁︱︱ッ、いいから、隠れてろ!﹂
彼は一瞬、あろうことか
先ほどは不遜と思ったけれど、強い口調の裏には、花嫁に対する
思い遣りが感じられる。粗暴な言動も、積み重ねてきた信頼があれ
ばこそか。
﹁僕は彼に会う為に、ここまでやってきたと言ってもいい! 信じ
てッ!!﹂
くろがね
花嫁は、アルスランの鉄の右腕に触れて、叫んだ。
1433
一騎当千の不屈の将が、即答できずに押し黙る。
今でも、飛竜隊最速の騎手であるアルスランは、四年前の東西大
戦で利き腕を失くし、一度前線を去っている。
その後、クロガネ隊の活躍により、生ける鉄の腕を与えられ、最
前線に復帰した話はもはや伝説だ。
楽な道のりではなく、様々な困難を伴ったと聞いている。特別な
鉄を求めて、花嫁が怪我を負ったこともあった。
二人の間に見える絆は、そうして乗り越えてきた困難の深さを感
じさせる。
逡巡は短く、アルスランは怜悧な蒼い双眸を、エステル達へ向け
た。
﹁二人を連れてくる。不審があれば、迷わず殺せ﹂
﹁﹁﹁はっ﹂﹂﹂
空気は冷たく張り詰めた。
天幕の準備が整い、花嫁に扮したナフィーサの前に、ヘガセイア・
あらかじ
モンクレアと名乗る男が連れてこられた。革命軍の幹部だという彼
が明かした真相に、花嫁は動揺を見せたが、実はエステル達は予め
知っていた。
というのも、花嫁が休んでいる間に、シャイターンに遣わされた
哨戒が真相を伝えたのである。
天幕でアルスランが仕掛けたヘガセイアへの詰問は、情報を得る
為ではなく、彼がどこまで把握しているかを測る為であった。
けつまず
一通り話を聞き終えた後、アルスランの合図で彼等を連れ出そう
とすると、ヘガセイアは蹴躓いた拍子に、天幕の端に立つ花嫁に倒
れかかった。
刹那。
刃のような風が流れる。
1434
しょうてい
花嫁の身体に触れる前に、ローゼンアージュは鋭い掌底をヘガセ
イアの鳩尾に入れた。
﹁ぐ⋮⋮っ﹂
﹁アージュッ!!﹂
くずお
呻いた長身は宙に浮き、天幕を揺らして頽れた。苦しげに呻く身
体を、エステルも容赦なく押さえつける。
全員が殺気立ち、黒牙がヘガセイアとアークを取り囲んだ。
﹁何をする!?﹂
苦しげに呻くヘガセイアの傍らで、押さえつけられたアークが抗
議を唱えた。これまで大人しいふりをしていたが、狙いは花嫁か?
意志疎通は皆無であったが、この時は不思議と呼吸が合った。
示し合せたように、ローゼンアージュが背後からヘガセイアを拘
束し、その隙にエステルはヘガセイアの裾を捲り上げた。
足首まで覆う長衣がめくれて、細く弱った脚が覗いた。左脚を庇
う仕草は、演技ではなかったらしい。
﹁エステルッ! アージュッ!!﹂
主の鋭い叱責の声に、エステルは咄嗟に手を離した。青褪めた顔
で、その場に跪く。
しかし、親衛隊隊長は手を離しはしたものの、警戒は解かずにヘ
ガセイアと対峙した。その姿を見て、エステルは己の失態を悟った。
叱責に怯んで、不審と思った相手への警戒を忘れるとは!
﹁乱暴はいけない!﹂
1435
気遣う花嫁と、その声に周囲を見てとり、ヘガセイアは苦痛も忘
れて眼を瞠っている。
﹁いや、今のは、私がいけなかった⋮⋮っ﹂
思い出したように、苦痛の表情を浮かべるヘガセイアを、花嫁は
自ら助け起こそうとした。それよりも早く、ローゼンアージュがや
や乱暴にヘガセイアを助け起こす。
今の一件で、ヘガセイアは紗の向こうより、本物の花嫁に気を取
られてしまった。
﹁待て﹂
アルスランの静止を無視して、花嫁は覆面を下げた。
特異な白い肌、闇夜のように黒い髪と瞳を見て、ヘガセイアとア
ークは絶句した。
というより、全員が絶句した。
花嫁だけは平静に、ヘガセイアの傍へ寄ろうとする。慌てて止め
ようとするエステル達を、彼は手で制した。
ごく近い距離で顔を覗きこまれたヘガセイアは、緊張気味に背筋
を伸ばしている。
﹁貴方を信じます。貴方は、リャンを助ける存在だ﹂
花嫁は、天啓を受けたかのように、確固たる口調で告げた。
﹁殿下。根拠は?﹂
投げやりな口調で応じたのは、アルスランだ。演技も無駄と知っ
1436
てか、口調も普段と変わりない。
いちる
ヘガセイアは我に返ると、勢いよく首を縦に振った。不自由する
脚でぎこちなく跪き、一縷の希望を託すように花嫁を仰いだ。
﹁ありますッ!! 証言をしてくれる者が、ザインで待っておりま
す﹂
﹁リャンが殺されるのは、いつですか?﹂
﹁今日の昼には﹂
﹁僕もリャンを助けたいのです。彼の所に、案内できますか?﹂
﹁はいッ!!﹂
﹁殿下⋮⋮﹂
絶望的に呆れを含んだアルスランの呟きは無視して、花嫁はヘガ
セイアにしっかりと頷いてみせた。
﹁危のうございます﹂
﹁殿下!﹂
﹁殿下。シャイターンはここで待てと︱︱﹂
相次ぐ懸念の声を、神秘の黒い瞳は一瞥で黙らせた。
﹁誰か、すぐにジュリに知らせてください。僕はヘガセイアと先に
行く﹂
﹁﹁殿下﹂﹂
1437
﹁今、この場で、最終決定権を持っているのは僕です﹂
決然と告げる花嫁を見て、周囲は言葉を呑み込んだ。だが、アル
スランだけは射抜くように見下ろしている。
﹁⋮⋮ゴダール家が抗争を仕掛けると、夜半に伝令が知らせました。
リャンが革命軍だとも。ですが、街は間もなく封鎖されます。ここ
で、シャイターンの指示を待つべきです﹂
至って冷静に告げるアルスランを見上げて、花嫁は苦しそうな顔
をした。
﹁伝令? ジュリはなんてっ?﹂
﹁殿下は、ここで待つようにと。ムーン・シャイターンは最悪の場
合、連合軍と共にザインに侵入する可能性があると﹂
﹁そんな⋮⋮早く行かないと、リャンは⋮⋮ッ﹂
﹁落ち着け、落ち着いてください。彼の救出についても、然るべき
専任が編隊されています﹂
﹁本当に? ⋮⋮じゃあ、どうして彼が刑具にかけられる光景を、
僕は何度も⋮⋮アルスラン、やっぱり僕を連れて行って﹂
﹁できません﹂
﹁お願い、力を貸して!﹂
1438
緊迫した空気の中、二人は暫し睨み合った。やがて、諦めたよう
に息を吐いたのはアルスランの方だ。
﹁⋮⋮判りました。殿下に従います﹂
渋面で告げるアルスランを、花嫁は、花が綻ぶような笑みで見上
げている。
この局面で彼が折れたことに、エステルは驚きを隠せなかった。
権威に従ったのではない。花嫁の寄せる信頼に、応えたのだ。
﹁アージュ、エステル。さっきは、怒鳴ってごめん。しっかり護衛
してくれて、ありがとう﹂
﹁︱︱ッ、いえ!﹂
花嫁は優しくも凛々しい顔で微笑むと、身支度を整えるべく天幕
に戻った。感動の余韻から我に返ると、ローゼンアージュと眼が合
った。
﹁あ⋮⋮あの、先ほどは沈着冷静な対応、見事でした。咄嗟に動け
なかったことを、反省しております﹂
一息に言い終えると、我が身の至らなさが気恥ずかしくなり、つ
い視線を逸らした。
静寂が流れ、様子が気になり顔を上げてみると︱︱彼は、エステ
ルを見ていなかった。干したなつめやしの実を齧っている。持ち歩
いているのだろうか⋮⋮?
不思議すぎる。例え月日を重ねたとしても、彼の心中を読める日
など、永遠に来る気がしないエステルであった。
1439
1440
95
︱ ﹃名もなき革命・四﹄ ︱ エステル
いにしえ
古の大都は、暗雲に覆われた。
天空には暗雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうだ。彼方から、
雷鳴が微かに聞こえてくる。
ロザイン
昨夜、ザインに入ったシャイターンはまだ戻らない。
花嫁は伝令を送った後、エステル達を従えて、ヘガセイアの率い
る革命軍と共に西門へ移動した。
巨大な列柱街路は見上げるほどに高く、いかにも堅牢で、門とい
うより城塞だ。天辺の城壁には警備兵がずらりと並んでいる。
味方の人数は百五十。
そのうち百は、本物の革命軍だ。エステル達を含む全員が、胸に
白い鳥の刺繍がある、藍色の外套を羽織っている。花嫁も揃いの外
套を羽織っているが、中には彼の希望で聖衣を纏っている。
﹁一刻待ちましょう。シャイターンから指示があるかもしれません﹂
先を急ごうとする花嫁の前に、アルスランは腕を伸ばした。花嫁
は長身を仰ぐと、首を横に振ってみせた。
1441
﹁一刻じゃ戻ってこられないでしょ﹂
﹁先発隊を行かせますから、殿下はここでお待ちください﹂
﹁ですが、我々だけではゴダール家とドラクヴァ家を止められませ
ん! どうか﹂
横からヘガセイアが口を挟むと、アルスランは舌打ちせんばかり
に睨んだ。
全員の視線が花嫁に向かうと、彼は黒い瞳に決意の光を灯して、
力強く頷いた。
﹁行こう﹂
﹁感謝いたします!﹂
キャラバン
ヘガセイアは喜びに瞳を輝かせると、砂の丘陵から躍り出た。
西門の前には、入場規制により立ち往生する、隊商の列ができて
いる。
入場は困難に見えたが、門を守る警備隊はヘガセイアを見ると、
あっさり道を空けた。
﹁気をつけろ、ゴダールとドラクヴァは一触即発だ。じきに出入り
が厳しくなる﹂
中へ入る際、警備隊の一人が声をかけた。彼も革命軍の仲間のよ
うだ。
街には、緊迫した空気が流れていた。
普段であれば、賑わいを見せているであろう石畳に人影はなく、
1442
まるで無人の街のようだ。どの家も、扉や窓を固く閉ざしている。
弊害物の少なさは、騎馬で移動するエステル達には都合が良かっ
た。
静まり返った街に、蹄鉄の音が鳴り響く。
殆ど止まらずに駆けると、やがて蒼古な煉瓦の建物︱︱リャンが
にわ
捕えられているアブダム監獄が見えてきた。
どのう
監獄に続く一本道、坂道の途中には、俄か造りの堤防が築かれて
いた。
壊れた家具や土嚢が山と詰まれ、革命軍が固守している。彼等は、
ヘガセイアに気付くなり群れてやってきた。どうなった、大丈夫か、
と代わる代わる声をかける。
﹁状況は?﹂
ヘガセイアが馬上から声をかけると、彼等は緊張した面持ちで首
を振った。
しょ
﹁駄目だ、もうすぐゴダールが来る。くそ、鉄扉に近寄ろうものな
ら、矢の雨が降るッ!﹂
うい
﹁門の前には油が撒かれてる。ゴダールが攻めてこようものなら焼
夷する気でいるんだ﹂
報告を受けるなり、ヘガセイアは顔をしかめた。
﹁惨いことを﹂
どうやら、彼等はここでゴダール家とドラクヴァ家の衝突を食い
止めるつもりのようだ。リャンを助けたくとも、ドラクヴァ家の管
轄するアブダム監獄に近寄れないのだろう。
1443
﹁花嫁をお連れした。交渉してみる﹂
﹁何?﹂
彼等の視線は、覆面を被ったエステル達の間を彷徨った。花嫁は
緊張したように肩を強張らせたが、気付かれた様子はない。
人垣を押しのけるようにして、エステル達は坂道を駆け上がり、
門の傍へと近づいた。
﹁そこで、止まれぇッ!!﹂
空気を引き裂く、鋭い怒号が飛んだ。
有刺鉄線の向こう、見張塔から指揮官と思わしき、鋭い容貌をし
じゅうがん
くろがね
れんど
た男が敵意も露わに睥睨している。まだ三十前後の若い男だ。
蔦のからまる外壁の銃眼には、ずらりと鉄の連弩が覗いており、
こちらを照準していた。
﹁アッサラームの光明、シャイターンの花嫁が、リャンの解放を求
めている!﹂
射程範囲の境から、アルスランは声を張り上げた。
﹁花嫁だと?﹂
すぐには信用されず、問答はいくつか続いた。
ひ
牽制射撃が足場に放たれたると、空気は張り詰め、アルスランは
退き色を見せた。
撤退を感じとったのか、突然、花嫁は下馬して駆け出した。周囲
の声を振り切り、外套も脱ぎ捨てる。
1444
﹁︱︱僕が花嫁です。リャンを連れてきてください!﹂
正体を明かした花嫁を、アルスランは射殺そうな視線で睨んだ。
エステルも真っ青になって追い駆けた。
曇天の下でも、白銀の聖衣は眩しく映る。加えて、特異な白い肌
と黒髪は、全員の眼を奪った。ヘガセイア達までが、吸い寄せられ
るように視線を奪われている。
その稀なる姿を一目見るなり、指揮官も激しく狼狽した。慌てて
自陣に武器を下げるよう指示する。
﹁ですが、リャンはドラクヴァ当主暗殺の、重要参考人です!﹂
どうにか冷静さを取り戻し、指揮官は声を幾らか押さえて叫んだ。
﹁彼を傷つけてはいけないッ! 連れてきてください! 早くッ!
!﹂
有無を言わさぬ鋭い命令に、全員が委縮した。静寂が束の間流れ
︱︱
﹁リャンを連れてこい﹂
見張塔に立つ指揮官は、下士官に命じた。
1445
96
︱ ﹃名もなき革命・五﹄ ︱ エステル
灰色の空から、雫が垂れた。
石畳にぽつぽつと、濡れた染みが広がってゆく。
張り詰めた緊張感が続く中、看守に挟まれ、手枷をつけた男がや
ってきた。
彼が、リャン・ゴダールか⋮⋮!
項垂れ、その表情は判らない。痩せた長身、薄汚れ、破れた衣服
の合間から覗く肌は、赤く鞭の跡が残っている。
憐みを誘う無残な姿を見るなり、花嫁は顔を歪ませた。
﹁酷い⋮⋮﹂
掠れた呟きを耳に拾い、看守は恐縮しきった様子でリャンの手枷
を外した。
今にも泣きだしそうな花嫁を見て、エステルは動揺したが、ロー
ゼンアージュは冷静にリャンの容体を判断した。
﹁殿下。大丈夫、生きています。死にそうにありません﹂
1446
身もふたもない言い様に、花嫁は複雑そうな表情を見せたが、蒼
白な顔色はいくらか和らいだようだ。
﹁リャン! 無事かっ?﹂
下馬したヘガセイアが駆け寄ると同時に、革命軍の仲間が数人駆
け寄り、傷ついたリャンの身体を左右から支えた。
項垂れれていたリャンは、のろのろと顔をあげると、ヘガセイア
を認めて、憔悴した顔に笑みらしきものを浮かべた。
﹁遂に幻が見えるぞ⋮⋮なぁ、煙草を一本くれないか?﹂
﹁何言ってる! 殿下の御前なんだぞ﹂
ヘガセイアは焦ったように怒鳴った。リャンもようやく花嫁に気
付くと、口をぱかっと開けた。
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
これでもかと眼を瞠り、花嫁を凝視する。
﹁良かった、やっと会えた!﹂
花嫁が熱狂的に告げると、リャンは驚愕の表情のままに、勢いよ
くヘガセイアを見た。
﹁どうなってる?﹂
﹁ゴダール家とドラクヴァ家の抗争が始まる。その前にリャンを解
1447
放しようと、花嫁の御力をお借りしたんだ﹂
﹁抗争? ゴダール公は!?﹂
﹁リャンの解放を求めて、ドラクヴァ家に宣戦布告した。お前が無
事だと判れば、引き下がってくれるかもしれん﹂
ヘガセイアとリャン、傍らに立つ花嫁を革命軍の同志は輪になっ
て囲み、息を呑んで彼等の発言に聞き入っている。
﹁来るぞぉ︱︱ッ!!﹂
怒号が会話を割った。門に注意を払っていた革命軍は、動揺を見
せた。
﹁ヘガセイア、坂の下は封鎖されたッ!!﹂
しょうかい
駆けてきた哨戒が、息を切らして叫んだ。
ゴダール軍の威容は、高所を押さえるこちらからよく見える。説
得は間に合わないと知り、ヘガセイアは覚悟を決めてリャンの肩を
掴んだ。
﹁リャン、花嫁と逃げろ﹂
﹁お前も来いッ!!﹂
弱った腕を伸ばして、リャンはヘガセイアの袖を強く掴んだ。
﹁私は残る!﹂
1448
リャンの手を振り払い、ヘガセイアは周囲に向かって声を張り上
げた。
﹁同志よッ!﹂
全員の眼が彼に集まると、更に続ける。
﹁行く道は険しく困難だが、恐れてはいけない! 黒牙を抜けッ!
!﹂
ヘガセイアが抜刀すると、幾人も従った。恐怖と興奮をないまぜ
た顔で、一心に彼を見つめている。
﹁リャンは希望だ! 彼を生かしてザインを生かす! 私達ならで
きる!﹂
﹁﹁オォッ!﹂﹂
﹁ここで闘うんだ! 恐怖したら隣を見よ! 同じ心を持つ同志が
立っている!﹂
﹁﹁オォッ!﹂﹂
﹁必ず成し遂げられる! 恐れるな! 立ち向かえッ!!﹂
﹁﹁オオォッ︱︱!!﹂﹂
威風堂々たる声は空気を振動し、その力強い言葉は彼等を鼓舞す
る。闘いへの恐怖を克服させた。
彼が足に不自由しながらも、人を引き付け、愛される理由が垣間
1449
見えた。
革命が始まろうとしている。死を覚悟した瞳で、幼い子供までも
が大弓に手をかけた。
射程範囲の境に立つゴダールの指揮官は、こちらを見据えて、息
を吸い込んだ。
﹁邪魔立てする者は容赦しないッ! 堤防を壊し、ドラクヴァに鉄
槌を下してやるッ!!﹂
双方の怒号が飛び交い、戦いの火蓋は切って落とされた。
﹁あの堤防じゃ、いくらも持たない。来い。無駄死にするだけだ﹂
アルスランは乱暴にリャンの襟を掴むと、エステルに向けて放っ
た。慌てて自分より長身の男を受け留める。
﹁待って、ヘガセイアが!﹂
手を伸ばす花嫁を、ローゼンアージュは抱えるように持ち上げる。
ろう
逃走に踏み切るさなか、蹄鉄の地響きが聞こえてきた。
震動は膨れ上がり、瞬く間に耳を聾する騒音に変わる。
﹁止めろぉ︱︱ッ!!﹂
﹁リャンは無事だ! 監獄へ行くな! 罠だッ! リャンは無事だ
ッ!!﹂
革命軍が繰り返し叫んでも、闘争心に燃えるゴダール家の者には
届いていない。
刃は火花を散らし、鮮血を噴き上げる。ザインを想う者達が、そ
1450
れぞれの志を胸に互いを滅ぼし合う。
その時︱︱
かぶらや
けたましい鈴の音が曇天に響いた。
曇天に向けて垂直に、味方が鏑矢を放ったのだ。進軍の合図だ。
この局面で、ついにシャイターンは軍を動かしたということか。
強制鎮圧が始まる⋮⋮ッ!
﹁待てッ、シャイターンがくる! ここで合流しよう﹂
空を見て判断すると、アルスランはこちらを向いた。
﹁エステル、アージュ! 花嫁を守れ﹂
言われるまでもない。最敬礼で応えると、ローゼンアージュと共
に花嫁を背中に庇う。花嫁は焦ったように手を伸ばした。
﹁アルスランはッ!?﹂
﹁味方が通る道を確保してきます。殿下、今度こそ大人しくしてい
てくださいよ﹂
彼は、不敬にも花嫁を指差して睨んだ。しかし、花嫁の不安そう
な顔を見て、表情を和らげる。
﹁すぐに、きてくださりますよ﹂
一言告げると、騎馬隊と共に堤防へ向かってゆく。もう前線は人
の衝突で見通しが利かない。
最初の衝撃ですり潰された兵士達は、既に倒れ伏していた。白い
石床は瞬く間に血に染まり、昇魂︱︱蒼白い燐光が昇り始めている。
1451
最後衛に隠れる花嫁は、その様子を辛そうに見ている。視界を遮
ろうと前に立つと、震える手でエステルの腕を掴んだ。
﹁大丈夫、判るんだ。ジュリがくるって﹂
つぶて
遠くにあった雷鳴は、すぐそこまで近付いてくる。礫のような雨
に混じって、青い稲妻が空を引き裂いた。
耳を聾する雷鳴は、シャイターンの咆哮だ。我を忘れて剣をふる
っていた者達ですら、慄いたように天を仰いだ。
﹁火矢を放てッ!﹂
指揮官が攻撃を命じると共に、稲妻の一筋が、地上を貫いた。否、
天を突く剣先に降りて、凄まじい一閃で周囲を蹴散らした。
﹁ジュリ︱︱ッ!﹂
喧噪の中、花嫁の上げた声を彼は正確に拾った。
美しくも力強く、騎乗のシャイターンは、武装した軍勢をものと
もせず、一直線に駆けてくる!
1452
97 ﹃栄光の紋章﹄ − ジュリアス −
︱ ﹃栄光の紋章・一﹄ ︱ ジュリアス
古き蒼穹の日。
こんじき
あまね
ようらん
天地創造の日に、神はアッサラームをお創りになった。
ま
はとう
金色に輝く聖都が、西に遍く文明の揺籃の地であることは、論を
いしずえ
俟たない。
礎は四方へと根を拡げた。砂の波濤を越え︱︱時代と共に様々な
異人種が流入し、南西に栄えし都、ザインが誕生したのだ。
厳しい自然に、歴史を積み上げてきた都市の威容は、誇り高く美
しい。
いらか
大通りの左右には、高級な旅籠や酒家が建ち並ぶ。
かげ
視線を巡らせた先で、豪奢な金色の甍が、西に傾く斜光を反射し
て鹿毛色に煌めいた。
アッサラームを仰いで暮らす人々は敬虔で、部族は皆が平等とい
う思想の元に、相互補助の精神が讃えられてきた。
しかし︱︱
ばっこ
覇権が長引くと、身勝手な利益追求が生まれる。
有権者の支配に繋がり、軍閥の跋扈、被害は市井へと降り懸かる。
かく語りき、平等の精神はいずこへ。三家がザインを支配し始め
たのは、いつからであったろう?
1453
市街は不安に満ちている。
しょうかい
西門に到着した後、ジュリアスは光希を砂漠に残し、少数を連れ
てザインへ入った。
人目を引く外見は、覆面で頭髪と額を覆い哨戒を装っている。ア
キャラバン・サライ
ッサラーム軍の隊服を着た馬上のジュリアスを、まばらに歩く領民
は不安そうに見上げた。
街の様子をざっと眺めてから、手配させた隊商宿に入ると、予め
潜入させていた密偵が計ったように戻ってきた。
﹁報告します。襲撃を受けたのは、ドラクヴァ家の新しい当主、ガ
ルーシャ・ドラクヴァです﹂
長年使っている隠密は、床に跪き、覆面の奥から淡々と応えた。
﹁死者は?﹂
﹁当主は無事ですが、列席していたドラクヴァ家の者と、神官合わ
せて十数名の死傷者が出ております﹂
﹁襲撃したのは?﹂
﹁残された武器には、ゴダール家の紋章が入っていたそうです。ゴ
ダール家は否定しているようですが、亡き公爵の祈祷を穢され、二
度も襲撃を受けたドラクヴァ家は、ゴダール家に全面抗争を宣告し
ました﹂
﹁真相はどうなのです?﹂
﹁今、詳しく調べております。ゴダール家はリャンの解放を求めて、
武力対抗する姿勢を見せています﹂
1454
﹁アッサラームの介入に合わせて、和議の申し入れは無かったので
すか?﹂
横から口を挟んだのはナディアだ。跪いた男は、そのようです、
と淡々と応えた。
宗主国の介入を知った上で、武装を解かないとは⋮⋮ドラクヴァ
家に勝算はあるのだろうか?
﹁リャンについては?﹂
﹁アブダム監獄を見てきましたが、堅牢な城塞そのものです。近付
くことはおろか、侵入は極めて困難でしょう﹂
彼が捕えられている監獄はドラクヴァ家の領地にある。左右を絶
れんちょく
壁に守られた難関地形で、辿り着くには一本道の斜面を駆け上がる
しかない。
﹁領主については?﹂
おんしゃ
﹁評判はすこぶる良いですよ。温藉高雅で廉直公平。有能の士であ
れば、身分問わず要職に就かせる。病床の両親を世話する孝行者で
す。二家が荒れていることもあり、傑出した円満な人柄は、領民の
支持を集めています﹂
﹁領主の模範ですね。ですが、真に潔白ですか?﹂
﹁判断するには材料が不十分です。ただ、証拠はありませんが、革
命軍が何人か行方不明になっており、グランディエ家の仕業だとい
う噂を耳にしました﹂
1455
﹁それぞれの軍事規模は?﹂
﹁ゴダール家の主力部隊は三千、豪族と同盟を結んでおり、外壁の
外にも五千潜んでいます。ドラクヴァ家は軍資金を募り、腕の立つ
傭兵を五千以上、集めているようです﹂
﹁大体、拮抗していますね。和議がなれば話は早いのですが⋮⋮﹂
この後会いに行く予定でいるグランディエ公には、二家も招くよ
う伝えてある。その場で和睦を成せれば、事は穏便に運ぶだろう。
﹁傭兵なら、忠誠も薄いでしょう。買収してはいかがですか?﹂
ふけ
思い耽っていると、ナディアが提案した。
悪い手ではない。東西大戦の折には、多額の資金援助を材料に、
東のベルシアに、サルビアへの従軍離反を約束させたこともある。
しかし、ジュリアスの思案を絶つように密偵は首を振った。
﹁金品では、解決に至らないでしょう。今朝の一件で、両家とも臨
戦態勢。いつ火蓋が切って落とされてもおかしくはありません﹂
﹁⋮⋮ご苦労。およそ把握しました。グランディエ公に会いに行き
ます﹂
﹁すぐに向かわれますか?﹂
ナディアの問い掛けに、軽く首を振って応えた。
﹁一度、光希の所に戻ります﹂
1456
事態は思った以上に深刻だ。野営を続けることになるが、ザイン
へ光希を迎え入れるのは、少し様子を見た方がいいだろう。
陽が傾いてゆく︱︱
西の拠点に戻ると、一兵卒に扮した光希が心配そうに駆けてきた。
彼の無事な姿を見て安堵したが、すぐに行かねばならない。経緯
を話して発とうとするジュリアスを、光希は不安そうに見上げた。
﹁闘いが始まる時、酷く雨が降るかもしれない。どうか、気をつけ
て﹂
﹁光希も⋮⋮﹂
本音を言えば、この状況で光希の傍を離れたくない。西の拠点は、
信の置ける将を配置してあるが、不安はある⋮⋮
︱︱命に代えても、光希を守れ。
視線に声なき声を乗せて、ジュリアスは光希の護衛を一瞥した。
鋭い眼光に気圧される者もいたが、全員がしっかと最敬礼で応えた。
1457
98
︱ ﹃栄光の紋章・二﹄ ︱ ジュリアス
覆面を外したジュリアスは、アッサラーム軍として正式にザイン
キャラバン・サライ
へ入った。
隊商宿に直行し、いかにも花嫁を送り届ける振りをする。本物が
狙われない為の防衛だ。
黄昏が翳る中、ナディアと共にジャムシード・グランディエ公の
屋敷を訪ねた。
赤銅色の煉瓦に、雲間から漏れた柔らかな斜光が当たり、淡く輝
いている。繁栄を続けてきた一門らしく、蒼古でありながら、手入
リラ
れの行き届いた壮麗な屋敷だ。
重厚な玄関の左右には、七弦琴を意匠された紋章旗が飾られてい
くだん
た。高雅な人物と聞いているが、確かに趣味は良いらしい。
件のジャムシード・グランディエ公は、柔和な笑みを浮かべてジ
ュリアスらを迎え入れた。
﹁慌ただしいお出迎えとなってしまい、申し訳ありません﹂
﹁ゴダール公とドラクヴァ公は?﹂
1458
果たして、要人はきているのだろうか。
﹁ゴダール公はお見えになっておりますが、ドラクヴァ公からは欠
席すると、連絡がありました﹂
﹁シャイターンの命だと、ご存知ではないのですか?﹂
横からナディアが口を挟むと、ジャムシードは顔に罰の悪い表情
を浮かべた。
﹁私も申し上げたのですが、今朝の一件のせいで、気が昂っている
ご様子でして、ゴダール家の人間と同じ席につくのは嫌だと⋮⋮﹂
歯切れの悪い口調に、ナディアは冷めた眼差しで応えた。確かに
子供じみた言い訳だ。
しかし、アッサラームの不興を買うと知っていて断ったのだとし
かくしゃく
たら、ある意味で感心する。
案内された応接間には、矍鑠とした男が立っていた。
彼が、バフムート・ゴダール公爵だろう。年は八十を越えると聞
いているが、鋭い眼光に衰えは感じられない。
﹁お会いできて光栄に存じます﹂
深く一礼するゴダール公に、ジュリアスは手を上げて応えた。全
しゃくにん
員が席につくと、すぐに豪勢な食事と酒が振る舞われた。
傍に見目良い酌人がやってきて、どうぞ、とジュリアス達に勧め
る。
﹁長の旅路でお疲れでしょう。遠慮はいりません。どうぞ、お寛ぎ
1459
ください﹂
リラ
主人が手を鳴らすと、心得たように竪琴を抱えた楽士が入ってき
た。紋章旗に意匠された琴と同じ、七弦を張った古来から伝わる琴
だ。
﹁ザインで起きている、詳しい状況をお聞かせください﹂
旋律が流れ出すと、ジュリアスは早速本題に入った。
だほら
﹁お聞きください! ドラクヴァはゴダールの仕業とぬかしとりま
すが、駄法螺です。私達は今回の件も、その前の公爵暗殺にも全く
関わっていないのです﹂
待ち構えていたように口を開いたのは、ゴダール公だ。
﹁しかし、今朝の件、残された武器にゴダールの紋章が入っていた
と聞いていますが?﹂
﹁濡れ衣です! ドラクヴァの自演に決まっとります。聖霊降臨儀
とう
式が迫り、難癖をつけて我々ゴダール家を滅ぼしたいのでしょう﹂
辟易したように、バフムートは言い捨てた。
その後も彼の舌鋒は止まらず、杯を景気よく空けながら、滔々と
語り続けた。
初見では寡黙な人物に見えたが、よほど不満が溜まっていたと見
える。
一方、宥めるように酒を勧めるジャムシードは、柔和な笑みを崩
さず、言葉をあまり発しない。
1460
﹁ジャムシード公爵。混乱があるようですが、予定通り、聖霊降臨
儀式に臨めますか?﹂
問いかけると、男は柔和な笑みで頷いた。
はす
﹁難しい状況ですが、大切な神事を延期するわけには参りません。
年明け、必ず蓮花の聖殿で行います﹂
迷う素振りは一切見せず、ジュリアスの眼を見て言い切った。
﹁今朝の襲撃で、その儀式を司る神官も倒れたと聞いています。適
任者は決まっているのですか?﹂
﹁再選をしております。ザインの威信にかえて、必ずや遂行してみ
せます﹂
﹁日を改めた方が、よろしいのではありませんか?﹂
予定通りに行えば、十年謳歌した領主の権威を、年明けに返上す
ることになる。欠片も惜しくはないのだろうか?
気遣う口調の裏の意図を読んだように、ジャムシードは思慮深い
微笑を浮かべるや、指を天に向けた。
﹁天井をご覧ください﹂
その言葉に、全員が眼を上げた。
広い天井には、今にも降ってきそうな星々と、精緻なシャイター
ンの絵画で飾られている。部屋に入った時から、胸の内で密かに賞
賛していた。
1461
﹁聖霊降臨日の様子を描かせたものです。まほろばの天界に憩う神
が、源泉となる光を、地上に届けてくださる﹂
﹁眼を奪われます。美しい絵画ですね﹂
隣でナディアが賛辞を贈ると、ゴダール公爵も感嘆のため息をつ
いた。
﹁ザインに眠る古い聖霊が地上に再生する、世俗からは想像もつか
ぬほど尊い日なのです。我々の都合で、妨げるようなことがあって
はなりません﹂
穏やかだが確固たる口調には、確かな信仰心が窺えた。
﹁儀式の日まで、どうぞ安心してこの屋敷でお寛ぎください。野営
の補給や、必要なものがあれば、ご遠慮なくお知らせください。全
て用意いたしましょう﹂
﹁ありがたく﹂
こうはん
歓待を受ける気はないが、補給の申し出はありがたい。
うが
温厚なジャムシードの話術は巧みで、広汎な知識を披露した。ジ
けいりん
ュリアスが穿った質問を投げても、必ず即答してみせる。
十年間、ザインを導いた経綸手腕は本物のようだ。
ただ、この評判通りの好漢を、なぜか額面通りに受け入れる気に
なれない。違和感というよりは、嫌悪を覚えるのだ。
原因が判らず思案していたが、会話の途中に閃いた。
なるほど、宮殿でしばしば顔を合わせる、貼り付けたような笑み
の、あの男に似ているのだ。
夜も更けて、暇を告げるジュリアスを、ジャムシードは当然のよ
1462
うに引き留めた。
花嫁を待たせているから、と断りを口にしたところで、奥の回廊
から獣じみた呻き声が聞こえた。
老人の声のようだ⋮⋮
駆け寄る召使の足音が幾つも続き、間もなく声は止んだ。ふとジ
ャムシードを見ると、濁った眼で回廊の奥を見つめていた。柔和な
表情も剥がれ落ちている。ジュリアスの視線に気付くと、無表情を
溶かして微笑を浮かべた。
﹁病の家人がおりまして⋮⋮大変、失礼いたしました﹂
﹁いえ、お大事に﹂
﹁お気遣い、ありがとうございます。聖霊降臨日に、花嫁にお会い
できることを楽しみにしております﹂
穏やかな表情は元通りだが、光を失った瞳の印象は、ジュリアス
の中に強く残った。
1463
99
︱ ﹃栄光の紋章・三﹄ ︱ ジュリアス
キャラバン・サライ
朝課の鐘が鳴る頃、隊商宿へ戻った。
夜も更けているが、まだ休むわけにはいかない。照明を灯して、
卓上にザインの地図を広げると軍議を再開した。
もはや、和議は不可能︱︱いつ抗争が起きてもおかしくはない。
リャンの救出について話しが及んだ時、ゴダール家の遣いの者が
訪ねてきた。バフムート・ゴダールとは、先ほど屋敷の前で別れた
ばかりだ。
訝しみながら部屋に招き入れると、使者と共に現れたのは公爵本
人であった。
﹁どうしたのです?﹂
ジュリアスが声をかけると、バフムートは厳しい顔つきで一礼し
た。その場にいる全員の眼が彼に集中した。
﹁ご無礼をお許しください。どうしても、お伝えしたいことがあり
まして⋮⋮リャンは、彼は、革命軍なのです﹂
1464
予想外の告白に、その場にいた全員が眼を瞠った。
﹁ゴダール家の嫡子が、なぜ革命軍に?﹂
﹁若者は、何でも議論の種にするものです。孫もまた、親しい者と
論を交わすうちに熱くなり、私が気付いた時には革命軍、それも率
いる立場にありました﹂
﹁それは、グランディエ公爵も知っているのですか?﹂
﹁公にはしておりませんが、恐らく気付いているでしょう﹂
﹁今朝の件といい、先代のドラクヴァ公爵の件といい、リャンが関
わっているのですか?﹂
かんけい
﹁いいえ! あの場では、ドラクヴァを罵りましたが、仕掛けたの
はジャムシードです。我々もドラクヴァも彼の奸計に嵌められたの
です﹂
苦々しい想いを吐き捨てるように、バフムートは言い切った。
﹁嵌められた? そうと知りながら、ドラクヴァに宣戦布告したの
はなぜです?﹂
﹁真実を明かしても、無意味です。ドラクヴァは報復がしたいので
はなく、領主の座を競う相手を滅ぼしたいのです。身を守る為には、
こちらも武装するしかありません﹂
一応、筋は通っている。ナディアに視線を向けると、強い視線が
1465
返された。彼も、同じことを考えているらしい。いよいよ抗争が起
きる︱︱
﹁もう、衝突は避けられません。ならば、ドラクヴァがリャンを殺
す前に、こちらから仕掛けるつもりです﹂
﹁それでは、他の二家の思う壺ではありませんか?﹂
﹁止むを得ません。明日は血の雨が降ります。どうか安全なところ
に、お隠れになっていてください﹂
一礼して、退出しようとする。和議や戦略の相談にきたわけでは
ないのだろうか?
﹁それだけを伝える為に、ここへ?﹂
こんじき
かく
背中にジュリアスが声をかけると、バフムートは覚悟を決めた瞳
で振り向いた。
はんぺい
﹁我等三家、元はアッサラームの藩屏です。金色の聖都は、心に赫
と燃える、信仰そのものです。御目にかかれて、誠に光栄でした﹂
バフムートは、叡知を湛えた眼差しでジュリアスを見ると、大樹
のように背筋を伸ばし、見事な一礼で応えた。
+
バフムートを見送った後、ジュリアスは臨戦態勢に入る決断を下
した。
1466
﹁休む暇がなくなりました。これから先は、有事を前提に進めます﹂
彼の言葉が本当なら、明日は数千の兵がザインに入ることになる。
﹁あの男の言葉を信じるのですか?﹂
思案げなナディアの問いかけに、ジュリアスは首肯で応じた。
﹁否定できない以上、対策を取らないわけにもいきません。とはい
え、先に軍は動かせないので、ゴダールの機動に合わせて突入しま
す﹂
﹁各国の部隊もですか? 外に三千は待機しておりますよ﹂
図面に駒を置き始めると、今度は別の将が懸念を口にした。
﹁百ずつ四方に配置するよう、伝えてください。戦闘ではなく、領
民の避難と退路確保を任せます。帰還後にアッサラームから褒賞を
送るとも﹂
それで彼等の体裁と面子は保たれるだろう。制圧が目的でもない
かぶらや
市街で、俄か部隊を率いるつもりは毛頭ない。
ほうか
﹁雨で烽火が使えない場合は、鏑矢で合図してください。四方、中
央の見晴らしの良い場所に、各隊の伝令を二名ずつ配置するように﹂
地図上の四方を順に差しながら駒を置いていくと、全員が瞳に焼
き付けて首肯した。
﹁繰り返しますが、制圧が目的ではありません。無益な血は流さぬ
1467
よう、黒牙を汚さずを美徳としてください﹂
明日は、理性の戦いを求められるだろう。
図面を睨みながら隊の配置、伝令を走らせるジュリアスの横で、
ナディアは少々不満そうな顔をした。
﹁我々が鎮圧に踏み切ることを予期して、彼は情報を流したのでし
ょうか?﹂
﹁いや、打算はないと思いますよ。アッサラームへの忠誠心で、独
りでここへきたのでしょう﹂
﹁しかし、これでは共同戦線を張ったも同然ですね﹂
不本意そうなナディアの指摘に、ジュリアスは僅かに口元を緩ま
せた。確かに、リャンの身柄を確保するところまでは、協力姿勢を
取ることになるだろう。
﹁構いませんよ。リャンの救出に協力すると、光希にも約束してい
ますから﹂
作戦会議は夜通し続けられ、空が白み始めた頃、遣いにやった伝
令が戻ってきた。
﹁南門、ヤシュム将軍から承知と﹂
﹁東は?﹂
﹁同じく、ユニヴァース少尉から、承知と﹂
1468
ちょうじょう
﹁重畳﹂
間もなく、四方を守る将の全てに情報が行き届いた。
到着早々に慌ただしいが、事前に情報を掴めたのは幸いであった。
おかげで、準備する余裕がある。
どうにか作戦の見通しが立ち、一息ついたところで、慌ただしく
伝令が駆けてきた。
﹁伝令ッ! 西門から、花嫁が革命軍と共に、ザインへ入った模様
!﹂
﹁どういうことです?﹂
ある種の恐怖を覚えながら、ジュリアスは一切の表情を消して尋
ねた。
﹁殿下は、リャンの知己、ヘガセイア・モンクレアと名乗る革命軍
幹部の男と行動を共にしております。その者を連れて、監獄へ行く
と伝言を預かりました﹂
﹁は︱︱⋮⋮﹂
思わず、深いため息が零れ出た。光希にあるまじき行動は、典礼
儀式の啓示のせいだろう。しかし⋮⋮
﹁︱︱護衛は?﹂
﹁武装親衛隊、アルスラン将軍がついております﹂
アルスランがついていながら、なぜ⋮⋮
1469
伝令と行き違いになった? いや、そうではない⋮⋮判った上で、
光希の命令を優先したのか。
鋼腕を手にする過程で、彼は光希に傾倒した。その忠誠心を知っ
光希
の文字に触れた。神眼で
ているから、西門の将をアルスランに任せたのだ。裏目に出たのか?
黒牙を抜いて、刀身に刻まれた
光希の気配を探ろうとすると、阻むように神の視界は靄がかった。
﹁︱︱なぜ、邪魔をするッ﹂
おのの
声を荒げると、幾つもの慄いた視線がジュリアスに向かった。そ
れを気にかける余裕はない。
神は、リャンの元に駆けつける花嫁を良しとするのか? なぜ、
引き合わせようとする?
﹁花嫁を探しましょう﹂
肩を叩かれ、我に返った。ナディアの平静さを見て、ジュリアス
はどうにか怒りを抑え込んだ。
﹁アブダム監獄に向かいます。南門に動きがあれば、合図してくだ
さい。その時は、一斉に突入します﹂
﹁﹁御意﹂﹂
覇気を帯びるジュリアスを仰ぎ、全員がしっかと頷いた。
1470
100
︱ ﹃栄光の紋章・四﹄ ︱ ジュリアス
青い軍旗が曇天に翻る。
ザインは封鎖されており、家という家が窓や扉を閉じて、息を潜
めている。街中の通りには、幾つもの検閲が設けられていた。
しかし、ザインを掌握する三家であっても、アッサラーム軍を止
めることはできない。
先頭を駆けるジュリアスは、西の宗主国たるアッサラームから、
遠征に匹敵する権限を与えられているのだ。
つぶて
青い軍旗の一行を阻むわけにもいかず、ゴダール家の兵はアッサ
ラーム軍に並走するように、アブダム監獄を目指している。
監獄へ続く、坂道まであと少し︱︱
天空から雨が垂れた。
ぽつぽつと地面を濡らしたかと思えば、瞬く間に牙を向く。礫の
かぶらや
ような雨粒が、叩きつけるように斜めに降ってきた。
アッサラーム軍、同盟軍の一斉突入を告げる鏑矢が、濁った天空
に垂直に打ち上げられた。
けたましい音を響かせて、隅々まで響き渡る。
遂に、南門でゴダールの外部部隊が起動を見せたということだ。
1471
くずお
荒天に見舞われ視界は最悪だが、二家の衝突を止めなければならな
い。
けぶる視界の向こう、若い兵が血を噴き上げながら頽れた。
かつて、アッサラームで起きた内乱のようだ。非情の殺し合いは、
歴史ある古都に血の雨を降らせる。
無益な争いでしかない︱︱馬上から凄惨な光景を眺めて、ジュリ
アスは心中に呟いた。
﹁総大将ッ!﹂
監獄へ続く大通りを目指すさなか、向かいの通りから隊伍を率い
るヤシュムが駆けてきた。
突出して駆けてくる様子を見てとり、ジュリアスも馬を寄せる。
﹁ヤシュム!﹂
﹁南門に半数を送りました。ゴダールの外部部隊を引き留めていま
す。指揮はデメトリス、こちらは七十余﹂
﹁正しい判断です。東は?﹂
﹁ユニヴァースに行かせました﹂
﹁判りました。光希と連絡が取れません。そちらには?﹂
いちる
一縷の望みを託して問いかけたが、ヤシュムは眼を瞠るなり、す
ぐに首を左右に振った。
﹁きておりませんよ! どういうことです?﹂
1472
しとどに濡れた金髪を掻き上げ、ジュリアスは頭痛を堪えるよう
に呻いた。
﹁革命軍と行動を共にしているらしい﹂
﹁まさか、坂の上に!?﹂
﹁ありえます﹂
﹁防壁前は乱戦ですよ。革命軍は成人したての子供も多い。突っ込
むんですか?﹂
﹁仕方ありません、正面から行くしかない﹂
間髪入れずに応えると、ヤシュムも覚悟を決めたように頷いた。
俄か造りの防壁へ近付くほど、革命軍とゴダール家の衝突は激化
した。
彼等の鮮血に染まる石畳を、空から落ちる滝のような雨が洗って
ゆく。
﹁突破しますか?﹂
﹁いえ﹂
武力行使を確認するヤシュムに、ジュリアスは短い否定で応えた。
入り乱れたこの坂道を、闘わずして抜け切るつもりだ。
﹁私の後に続いてください﹂
誇り高い黒馬、トゥーリオの首筋を撫でると、主の意図を察した
1473
ように力強く地面を蹴った。
前線を見据えて、矢の如く加速してゆく。
監獄に続く斜面は、左右を石壁に阻まれ迂回はできない。
その強固な壁を、ジュリアスは逆に利用した。助走をつけて防壁
きか
を飛び越えると、ほぼ垂直の壁面を斜めに駆ける!
曲芸に近い馬術だが、ヤシュムを始めとする麾下はジュリアスの
後ろに続いた。その恐るべき進軍光景は、火花を散らして剣戟する
者の眼をも奪った。
﹁アッサラーム軍かッ!?﹂
﹁壁を走っていやがる﹂
ふる
壁伝いに乱戦を突っ切っるさなか、怒りに慄える幾つもの声を聞
いた。
しょうい
﹁リャンは無事だッ! 罠だ! 上に行けば焼夷される! 退けぇ
ッ!!﹂
積み上げた土嚢の奥から、まだ若い革命軍の兵が必死に叫んでい
る。
﹁貴様らの児戯に付き合っている暇はない! そこを退けぇッ!﹂
忠告の声を、ゴダールの指揮官が一蹴する。火がついた闘争心は、
礫の雨でも消せはしない。
進退窮まる坂道を駆けると、唐突に視界が開けた。馬蹄を鳴らし
て着地すると、視界にアッサラームの青い軍旗が翻った。
﹁アルスランッ!!﹂
1474
道を切り開き、進撃を食い止めているのはアルスランだ。
﹁上ですッ!﹂
彼はジュリアスを見るなり、短く叫んだ。目線で応えると、ジュ
リアスはすぐに斜面の更に上を目指して馬を走らせた。
その時、最前線から滲み出てきたゴダールの兵が、監獄に向かっ
て無思慮に走り出した。
﹁ゴダールがきたぞッ!!﹂
有刺鉄線の向こう、監獄の見張塔からドラクヴァ陣営の指揮官が
吠えた。石壁に空いた銃眼から、黒牙の鋭い矢が無数に覗いている
︱︱
姿は見えぬが、木立の陰に光希の気配を感じとり、ジュリアスは
背筋が冷えた。
敵意に燃える指揮官は、部下に射撃の合図を送る。鉄扉の前に横
たわる、黄土色の油の海に向けて、火矢を放とうとしているのだ。
触発すれば、雨をものともせず燃え上がるだろう。
﹁火矢を放てッ!﹂
光希がいるのに⋮⋮ッ!
くろがね
眼も眩むような怒りを覚えた。
鉄の刃先に、雫が伝う。
剣先を空に翳すと、シャイターンは応えるように雷鳴を轟かせた。
ろう
雷光をまとった黒牙で、監獄の鉄扉に向かって一閃する!
れんど
耳を聾する雷鳴に、周囲は委縮した。衝撃は堅牢な石壁を穿ち、
銃眼から覗く連弩ごと破壊した。
1475
ロザイン
﹁花嫁に触れてみろ、我が剣にかけてくれるッ!﹂
て
﹁撃ぇ︱︱ッ!!﹂
妨害を知り、指揮官は怯まず、弓隊にジュリアスを照準させた。
おのの
流星雨のように飛来する矢を、ジュリアスは全て弾き飛ばした。
無傷で迫る姿を見て、弓隊は慄いたように後じさる。
﹁仕留めろッ!﹂
指揮官は忌々しそうに舌打ちすると、自ら勇ましく大弓を引いた。
鉄扉の上から、ジュリアスを照準して矢を放つ。
放たれた矢を、ジュリアスは騎馬したまま刀身で防いだ。続けて
一矢、更に一矢と防ぐ。
有利な遠射が当たらず、弓を引く指揮官は眼を瞠る。しかし、見
事な弓さばきですぐに矢を番えた。
高所からの、抜群の遠射。
躱す度に飛距離は縮まり、矢の速さは増す。互いに、次に放たれ
る一矢は、眼にも止まらぬ速さであると判っていた。
極限の零の中、視線が交錯した。見覚えのある顔だ。彼はドラク
ヴァの後継、ガルーシャ・ドラクヴァだった。
そう
放たれた、眼にも止まらぬ一射︱︱
錚々たる鋼の響きよ!
金色の火花が散る。雨を貫く光矢を、ジュリアスは神技の一閃で
弾いたのだ!
黒馬は、有刺鉄線の鉄扉をものともせず跳躍する。その衝撃で見
張塔の足場が崩れ、ガルーシャは地面に降りた。
﹁くるぞッ!﹂
1476
ついに、監獄の内側へ着陸したジュリアスを見て、門兵達は恐れ
慄き後じさった。
指揮官︱︱ガルーシャは矢を番えようとするが、遅い。
黒牙を一閃すれば首を取れる。彼はジュリアスを見上げて、死を
覚悟したように口の端を上げた。
制圧が目的ではない。
閃かせた刃は、番えた矢を弓ごと破壊し、ガルーシャの首の皮に
触れる直前で止まった。
﹁︱︱お見事﹂
ガルーシャは観念したように、両手を上げた。
﹁ガルーシャ・ドラクヴァ。これ以上の抵抗は、アッサラームへの
反逆と見なします。直ちに武装解除してください﹂
鋼のような視線でジュリアスが見下ろすと、ガルーシャ・ドラク
ヴァは上げていた手を肩に当てて、最敬礼で応えた。
﹁⋮⋮従いましょう。貴方には、勝てる気がしない﹂
ガルーシャの投降により、ドラクヴァの抵抗は鎮まった。
開かれた鉄扉からヤシュムの部隊が雪崩こみ、武装兵達を手際よ
く取り締まっていく。
﹁総大将!﹂
威勢の良い声に振り向くと、ユニヴァースが配下を従えて坂を駆
け上がってきた。東の鎮圧にあたっていたはずだが、随分と到着が
1477
早い。
﹁ドラクヴァは降伏した! 抵抗する者は捕えよ﹂
﹁御意!﹂
短い指示に応じて、ユニヴァースは無駄のない動きで監獄に押し
入り、ヤシュムの隊と挟撃するように、残兵を取り囲んだ。彼も今
では一個隊の将である。
東西南北から攻め入った将達も、全員が監獄に続く坂下に集結し
始めている。混乱は治まりつつあった。
﹁︱︱ジュリッ!﹂
弾かれたように、ジュリアスは振り向いた。
光希︱︱
茂みの奥、アージュとエステルの後ろで、薄汚れた男に寄り添う
ようにして立っている。
あの男が、リャン・ゴダールか。
男の背を支える光希と、縋るようにして立っているリャンの姿を
見た瞬間に、怒りがこみあげた。
1478
101
︱ ﹃栄光の紋章・五﹄ ︱ ジュリアス
不安そうに見つめる光希の隣で、唖然としている男︱︱リャン・
ゴダールを、ジュリアスは氷の眼差しで見下ろした。
ロザイン
﹁誰の許しを得て、私の花嫁に触れている﹂
馬上から剣先をリャンに向けると、男は不敬に気付いたように姿
勢を正した。
﹁ジュリ、待って︱︱﹂
﹁武器を下ろさぬ者、直ちに武装解除せよ!﹂
周囲に向けて一喝すると、武器を手にしていた者は慌ただしく従
った。革命軍も武器を下ろして、様子を窺っている。
視界に映る範囲に、争う者はいない。
混乱が落ち着いたことを確認すると、ジュリアスは呆けたように
見上げている、リャンの前に降りた。
1479
﹁待ってッ!!﹂
あろうことか、光希はリャンの頭を腕の中に引き寄せた。
﹁怪我をしているんだ!﹂
見下ろす氷の眼差しにも怯まず、光希はジュリアスを睨み返した。
更に男の顔を両手に挟むと、四点を結ぶ口づけ︱︱額、両頬に素早
く唇を押し当てた。
﹁光希ッ!!﹂
力任せに、リャンの首を掴んで引きずり倒した。
﹁ぐ⋮⋮っ﹂
呻く男を気にかける光希を、両腕で拘束する。
﹁やめてッ! 彼に祝福を与えました! 酷い真似をすれば、天罰
が下りますッ!﹂
しれつ
胸に縋りつく光希を見下ろして、比類ない熾烈な感情が走った。
酷く罵ってやりたい気持ちで、口を開きかける︱︱
﹁なぜ、そのような者を庇うのですか?﹂
疑問に満ちた声で問い掛けたのは、ガルーシャ・ドラクヴァだ。
光希を前に、困惑しきった様子で跪いている。
1480
﹁この場で、全てを明らかにするつもりはありません。ですが、一
つだけ。リャンの無実だけは、はっきりと申し上げておきます!﹂
い
澄んだ声は、天に聴き容れられたかのように、隅々まで響き渡っ
た。
曇天は急速に遠ざかってゆく。
雨の大気に漂う微細な粒子は、雲間から射しこむ斜光を弾いて輝
いた。
ぎんねず
神の御業を目の当たりにして、人々は呆けたように、光希を仰い
でいる。怒りに支配されているジュリアスですら、銀鼠の靄に立つ
光希を、美しいと思った。
しょうけつ
﹁⋮⋮よくも、猖獗満ちる場所に、私の花嫁を立たせてくれました
ね﹂
おのの
怒りの矛先を周囲に向けると、慄いたように全員が視線を伏せた。
呻くリャンの身体を、革命軍の仲間が助け起こしている。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
袖を引かれて、不安そうな黒い瞳と視線が合った。例えようのな
い、怒りが沸き起こった。
﹁︱︱ッ、勝手な真似を!!﹂
﹁ごめんなさい!﹂
﹁どうか花嫁をお叱りにならないでください! ご迷惑をおかけし
たのは、全て私なのです!﹂
1481
勘に触るッ!
けいれつ
度し難い男だ。ジュリアスは勁烈な眼差しで睨んだ。射抜く視線
は針そのものだったが、リャンは気丈にも臆さず見返した。隣で支
える男が、焦ったように声をかけているが、リャンは強い視線を外
そうとしない。
もし︱︱
彼の瞳に、一滴でも恋情が浮いていたら。光希が、彼を選ぶ素振
りを欠片でも見せようものなら。
わざわい
神の逆鱗に触れたとしても、リャンを殺そう。
天地破壊の禍が降り懸かろうとも、光希だけは渡さない。絶対に。
罪を覚悟した刹那。風が流れた。
陰惨な冷気が満ちて、誰もが下を向く中、光希だけは躊躇わずに
手を伸ばし、ジュリアスの頬を撫でた。
﹁大丈夫。僕達は変わらない﹂
静かな囁きは、ジュリアスの心の琴線に触れた。無垢な黒い眼差
しは、ジュリアスだけを映して煌めいている。
神よ︱︱
安堵と共に、血流が身体を駆け巡った。
頬に触れる手を、掴もうとする己の手が震えている。ジュリアス
は、自分がどれほど恐怖していたかを知った。
﹁︱︱リャンッ!﹂
人を割って、バフムート・ゴダールが駆けてきた。リャンを認め
て、顔に安堵の色を浮かべている。
互いの無事を喜ぶ二人を視界の端に見やり、ジュリアスは内心で
深く息を吐いた。
眼差しをいくらか和らげると、こちらに眼を注ぐ一同を見渡した。
1482
﹁今日から聖霊降臨日まで、一切の抗争を禁じます。破るものは、
西諸侯と共に厳しく取り締まるので、そのつもりでいてください﹂
ひれ伏す一同は深く頷いた。
感謝の眼差しで仰ぐ光希を見て、ジュリアスは不機嫌も露わに片
眉を上げた。
全く⋮⋮光希には、言ってやりたいことが山とある。気まずげに
視線を逸らしたかと思えば、光希は顔つきを変え、凛とした表情で
周囲を見渡した。
﹁僕は、特定の誰かではなく、ザインを祝福にきました﹂
一人、また一人と光希を仰ごうと顔を上げる。
﹁争うのではなく、奪うのではなく⋮⋮力を合わせることができる
はずです。誰もが、敬虔な心で結ばれているのだから﹂
光希の纏う清廉な空気や、神聖な闇夜のような黒髪は、彼等の視
線を大いに奪った。
﹁武器を置いて、大切な人達と穏やかな除夜を迎えてください。そ
して晴れの聖霊降臨日の後には、アッサラームの新しい御世を、ザ
インの皆にも祝福して欲しい﹂
澄んだ声は不思議と響き渡り、遠くに跪く者にも届いた。
﹁もう、この美しい都で血を流すのはやめましょう﹂
ひれ伏すゴダール家、そしてドラクヴァ家は深く頭を下げた。
1483
1484
102
︱ ﹃栄光の紋章・六﹄ ︱ ジュリアス
キャラバン・サライ
三家から歓待の申し入れがあったが、いずれもジュリアスは断っ
た。
今夜こそは、静かな隊商宿で光希と共に過ごしたい。
汗を流して絨緞に腰を下ろすと、流石のジュリアスでも疲労を感
じた。ほろ苦いザインの葡萄酒が、乾いた舌に沁み渡る。
休む間もなく奔走していた光希も、濡れ髪のまま、ジュリアスの
隣でまどろんでいる。
ザインに到着してから、息もつけぬ展開であった。
今夜は早く休んだ方がいい。判ってはいるが⋮⋮リャンに寄り添
う光希の姿が、瞼の奥に焼きついたまま消えてくれない。
一度は光希に救われ、捻じ伏せた憤りが心の底で燻っている。や
り場のない怒りを、まだ消化できていないのだ。
確かにリャンを見た瞬間、シャイターンに縁があることを、朧な
がら神眼で感じ取った。だが、そんなことはどうでも良い。二度と、
光希に会わせたくない。
﹁⋮⋮ジュリ、まだ起きてる?﹂
1485
一人で杯を空けていると、眠そうな眼で光希はジュリを仰いだ。
ゆったりした動作で起き上がり、寝台へと眼を向ける。
﹁ジュリ?﹂
起き上がろうとする光希の腕を、殆ど無意識に掴んだ。
﹁⋮⋮リャンを支える光希を見て﹂
硬い声を聞いて、光希は表情を強張らせた。困らせたくない。け
れど、空気を悪くすると判っていても、言わずには⋮⋮
﹁胸が、張り裂けるかと思いました﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁私が、どれほどの想いで︱︱﹂
声を荒げそうになった途端に、光希に抱きつかれた。
﹁心配かけて、ごめん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ジュリ⋮⋮今回の件で、誰かを罰したりしないで。全て僕の独断
なんだ﹂
乞うような口調で、窺うようにこちらを仰ぐ。愛おしいけれど、
じれったい念に駆られた。彼の瞳には、いつでも多くの心配事が同
1486
居しているのだ。
﹁いいえ、責任を取らせます。光希の安全を守る親衛隊に、あるま
じき行動でした。西門を任せたアルスランにも︱︱﹂
﹁お願いだ、やめて﹂
光希は、泣きそうな顔でジュリアスに縋りついた。
﹁それから、光希も残りの日はここで謹慎です。聖霊降臨儀式には、
代役を連れていきます﹂
﹁そんな! 出席できないなんて﹂
﹁あんな所で貴方を見つけて、心臓が壊れるかと思いました。もう
これ以上、心配の種を増やさないでください﹂
﹁ごめんなさい。だけど︱︱﹂
﹁却下です。残りの日は、大人しく私の傍に﹂
いかにも不満げに光希は沈黙した。口ではジュリアスだけの花嫁
と言いながら、光希は神秘の力は万民の為にあると考えている。
身勝手と知っていても、ジュリアスにはそうした光希の高潔さが、
不満であった。
﹁光希は、私だけの花嫁です⋮⋮﹂
﹁もちろんだよ。心配をかけてごめんなさい。だけど、必要とされ
ている局面で、隠れていたくない。力の放棄に等しいと、指摘され
1487
たこともあるんだ⋮⋮﹂
どうせ、アースレイヤだろう。あの忌々しい男は、ジュリアスを
動かす手段に、何度も光希を利用しようとしてきた。
﹁東西大戦とは違いますよ。光希が危険を冒してまで、ザインを助
ける理由なんてありません﹂
﹁ジュリ⋮⋮あんなことが起きた後だし、ちゃんと皆の前に出て祝
福したいよ﹂
柔らかな手を伸ばして、優しくジュリアスの頬を撫でる。今夜ば
かりは、宥められるものか。その手を掴んで剥がした。
﹁残りの日を、ここで浅慮を反省して過ごすのなら、他の者への処
罰は考慮しましょう﹂
﹁⋮⋮それは、脅迫だ﹂
﹁私が、いつでも正しい判断ができるなんて、本気で思っているの
だとしたら、大きな間違いですよ﹂
ここへくる前に投げつけられた言葉を返すと、光希は苛立ちを押
えこむように沈黙した。
かくも冷たい眼差し。彼の心が離れていくのが判る。
心に壁を作り、眼の前にいるジュリアスを見ようとしない。眼に
は見えぬ玻璃の壁が一枚、二人の間に挟まっているようだ。
忌々しい壁を前にすると、普段であればことのほか優しく囁くの
だが、この時は、苛立ちが勝った。
1488
﹁⋮⋮っ﹂
絨緞の上に光希を押し倒し、強引に口づけた。暴れる身体を押さ
えつけ、角度を変えては、唇を合わせる。
﹁ぅ、な⋮⋮っ!?﹂
顔を離すと、光希は戸惑った表情でジュリアスを見上げた。
﹁私を心から締め出そうとするのは、やめてください﹂
﹁僕がいつ︱︱﹂
﹁たった今﹂
視線を逸らさずに告げると、組み敷いた身体は小さく震えた。顔
を下げると、顔を横に傾けて逃げようとする。
﹁やめて﹂
耳の輪郭をなぞるように、舌を這わせると、弱々しい抵抗で応え
た。
﹁何の解決にもならない。今、本当に抱きたいって思ってる?﹂
﹁思っていますよ﹂
﹁怒りをぶつけているだけだよ﹂
﹁そうですよ。欲望を、ぶつけてはいけませんか?﹂
1489
﹁な⋮⋮﹂
﹁貴方は私の花嫁だ⋮⋮抱きたい﹂
﹁ジュリッ﹂
もう、気持ちを抑えられそうにない。腕の中で、怯んだ表情を見
せられても、構わずに珠のような肌に吸い付いた。
1490
103
︱ ﹃栄光の紋章・七﹄ ︱ ジュリアス
真珠のように艶めいた肌を見下ろし、身体を滾らせる征服欲のま
まに、顔を下げた。
﹁愛している⋮⋮光希は?﹂
耳朶に囁くと、光希は無言で顔を背けた。頬は固く引き締まり、
愛情の欠片も見いだせない。
﹁私だけの光希だと、いつかの夜に、囁いてくれましたね。あの心
は、今も変わらない⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁光希﹂
﹁言いたくない、今は﹂
1491
冷たい拒絶に、慈しむ心は砕け散った。
凶暴な感情に任せて、噛みつくように口づける。柔らかな唇を塞
いで、思うがままに揉みしだき、甘い舌を吸い上げた。
﹁や、めッ﹂
こご
柔らかな肌に手を滑らせ、胸の尖りを指先に捉えた。角度を変え
て口づける合間に、凝る乳首を指先で愛する。
﹁ジュリ!﹂
唇を離して、顎の先に口づけ、首すじから鎖骨までの、なだらか
な線を唇で吸いながら辿っていく。
﹁離してッ﹂
反論を無視して、色づく乳首を強く吸い上げた。
背中をしならせる身体を押さえ付け、音を立て、ことのほかいや
らしく舐めあげる。
﹁あ、ぁ⋮⋮っ﹂
声を上げまいと身体を強張らせているが、腰骨の内側に手を滑ら
せるだけで、甘い声を上げた。 息すら止めようとする光希と違い、ジュリアスは早くも昂りを感
じていた。呼気が乱れている自覚がある。
ふいに手を休めると、こちらの様子を窺うような、弱々しい眼差
しがジュリアスを捕らえた。
﹁︱︱⋮⋮﹂
1492
潤んだ黒い瞳を見た瞬間に、体温は更に上がった。布越しに彼の
中心に手を伸ばせば、びくりと身体を撥ねさせ、反射的に小さく丸
まろうとする。
﹁駄目!﹂
構わず下履きに手を掛けると、光希はジュリアスの下腹を押し上
げようとした。
たわいもない拒絶など、あっけないほど簡単に封じ込められる。
逃げようとする腰を引き戻し、容赦なく服を脱がせた。
﹁う、やだって!﹂
﹁抱きたい﹂
﹁ジュリ⋮⋮﹂
頼りなげな声に呼ばれて、胸に痛みが走ったが、やめるつもりは
ない。裸にした光希を組み敷き、両腕を押さえて開いた胸に舌を這
わせた。
﹁ん、んぅ⋮⋮っ﹂
本気で抵抗をしていても、素直な身体は、ジュリアスの与える刺
激を快感に捉える。その証拠に、潤んだ声は紛れもなく艶めいてい
る。
﹁光希⋮⋮﹂
1493
緩く勃ち上った中心を柔らかく握りしめると、眉根を寄せた光希
は力なくジュリアスを見上げた。
﹁やめて﹂
拒絶を呑み込むように、唇を重ねる。顔を振って唇を外そうとす
るので、わざと下唇を吸い上げた。
﹁ジュ⋮⋮﹂
閉じた光希の脚の間に、ジュリアスは下腹部を押しつけた。猛っ
た塊を布越しに感じて、光希は慄いたように首を左右に振る。
﹁したくない﹂
﹁⋮⋮感じているくせに。私ばかり責めるのは、卑怯ではありませ
んか?﹂
﹁︱︱ッ!﹂
ね
光希は忌々しそうに唸ると、手を振り上げた。いくらでも避けれ
たが、そうはしなかった。
渇いた音と共に、頬に熱が走る。
怒りに燃えた黒い瞳で、上目遣いにジュリアスを睨めつけてみせ
る。そんな眼で見ても、こちらを昂らせるだけだ。
1494
104
︱ ﹃栄光の紋章・八﹄ ︱ ジュリアス
腰を引き寄せ、強引に両足を押し開いた。
﹁やめてよ!﹂
腰を固定したまま、下肢に顔を寄せて、屹立に息を吹きかけると、
光希は刺激を散らすように身体を揺らめかせた。
裏筋に下を這わせて、ゆっくりと舐め上げる。先端まで行き着い
たところで、口内に含みこんだ。
﹁あぁっ﹂
艶めいた声に、身体は滾る。丸い亀頭の形が歪むくらいに、強く
吸い上げた。
﹁あ⋮⋮んっ、ああッ!!﹂
絶頂が近いのだろう。光希は焦ったように身じろぎ、ジュリアス
1495
を押しのけようとする。
﹁離して!﹂
﹁⋮⋮なぜ? 良いのでしょう?﹂
﹁離してったら⋮⋮ッ!﹂
﹁出して。このまま、私の口に﹂
言葉の卑猥さに、光希が狼狽えるのが判る。遠慮などせず、強く
吸引すると、光希は唇をかみしめた。
﹁⋮⋮ッ﹂
快楽を堪える艶めいた媚態を眺めながら、思い知ればいいと、苛
立つ心が囁いた。
同じだけ、光希にも求めて欲しい。
容赦なく追い詰めると、光希は身体を震わせて達した。喉の奥に
吐精されたものを、あますことなく嚥下する。
﹁う⋮⋮﹂
顔をあげると、光希は羞恥と罪悪感をない混ぜたような顔で、ジ
ュリアスを見つめていた。
﹁こんなこと、僕は⋮⋮﹂
﹁もっと足を開いて﹂
1496
閉じようとする足に手を掛けると、光希は泣きそうな顔をした。
﹁ジュリ﹂
﹁舐めてあげる﹂
﹁やだ⋮⋮っ﹂
強引に割リ開くと、屹立に舌を這わせながら、窄まりへ指を滑ら
せた。
﹁ぅ、嫌だって⋮⋮ッ!﹂
切羽詰まった、か細い声が聞こえても、手加減する気になれない。
抵抗を押さえつけ、しゃぶりたてながら、香油に濡らした手で尻
のあわいを撫で上げた。
﹁うぅ⋮⋮﹂
蕾にゆっくり潜り込ませると、抵抗もなく呑み込んでいく。
﹁ジュリッ!﹂
揺らめく媚態を眼に愉しみながら、指を深く埋めてゆく。肛壁を
さするように、指を前後させると、光希は大きく身体を撥ねさせた。
食まされた指を強く締めつけた。
ひくつく蕾に、二本、三本⋮⋮指を増やしていく。
香油の入った瓶を傾けて、尻のあわいに、たっぷりと垂らす。下
肢はとろりとした液体に濡れそぼり、照明の光を浴びて煌めいた。
漂う甘い芳香に、ジュリアスは眼を細めた。一方で光希は、嗚咽
1497
にも似たくぐもった声を漏らしている。
尻を左右に鷲掴み、割拡げられた後孔の口が押し開く。ジュリア
スは顔を埋めると、舌先で突くようにそこを押した。
﹁力を抜いて﹂
﹁嫌だ﹂
﹁光希﹂
シーツに押し当てた横顔に口づけようすると、光希は拗ねたよう
に顔を反対側に倒した。
﹁んっ⋮⋮﹂
髪をかき分け、耳朶を齧ると、拒絶は甘い声に変わる。
﹁痛い思いはしたくないでしょう?﹂
優しい口づけを繰り返すと、光希も半ば諦めたように身体を弛緩
させた。
﹁ん、や⋮⋮っ、あぁ!﹂
卑猥な水音を立てて、蕾を弄ると、甘さの含んだ声を断続的に上
げた。繋がる為の経路を優しく広げていくと、やがて三本の指も滑
らかに動き始めた。
シーツに顔を埋めていた光希は、今や筒状のクッションに噛みつ
いて、声を押さえんとしている。
切っ先を蕾に宛がい、ジュリアスは光希の閉じた瞼を舐め上げた。
1498
﹁なっ﹂
視線を合わせながら、押し入った。光希は息を殺して、衝撃をや
り過ごしている。
身体を前後に揺するたびに、挿入は深く突き刺さった。
縮こまった下腹を掌で撫で回し、揉みしだくと、光希は甘い息を
吐いて力を抜く。奥深くまで入り込んだところで、ジュリアスも動
きを止めた。
﹁⋮⋮ッ﹂
ぜん
あられもなく脚を拡げたまま、光希は荒い呼吸を繰り返している。
どう
熱く脈打ち、締め付ける孔壁を穿てば、肉襞が包みこむように蠕
動し始めた。
﹁あ、あっ、んんッ!﹂
たが
強烈な快感に、ついジュリアスは加減の箍を外して、悦楽を穿っ
た。
上がる嬌声に苦しげな響きを察知して、加減すれば光希も良さそ
うに下肢の強張りを解く。
﹁ん、んッ!﹂
﹁誰よりも、何よりも私を優先してください﹂
黒い双眸に、涙の膜が張った。返事を拒むように、唇を噛みしめ
ている。飛沫で奥を濡らしても、引き抜かずに揺さぶり続けた。
1499
﹁は、ぁ⋮⋮っ、嫌だ⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮ッ、は、本当に?﹂
内壁の反応するところを穿てば、背をしならせて刺激を逃がそう
とする。黒い眼差しは、怒りと快感がない混ぜになり、潤んでいる。
彼の許容を越えても、貪ることを止めるのは難しかった。
満ちる空気は、果てなく濃密に深みを増してゆく。
満足がいくまで揺さぶり、ようやく離す頃には、光希は殆ど口も
利けぬほど疲れ切っていた。
視線が絡むと、眉をひそめて反対側に顔を傾ける。頬に触れると、
煩げに振り払われた。
﹁満足した?﹂
その言い方に苛立ち、光希の肩を掴んで無理矢理こちらを向かせ
た。潤んだ瞳から、涙が零れ落ちる。
﹁⋮⋮謝りませんよ﹂
傲慢な台詞は、力なく響いた。
燻っていた怒りは一瞬で氷塊し、苦い深淵に変わる。腕を交差し
て顔を覆い、欠片も声も出すまいとする光希⋮⋮
か弱い風情に、胸が張り裂けそうなほど軋んだ。
全てを捧げられるほど、愛しているのに。何よりも、大切にした
いのに。どうして。
なぜ、傷つけてしまうのだろう⋮⋮
1500
1501
105
︱ ﹃栄光の紋章・九﹄ ︱ ジュリアス
るたく
抗争の終結は、ジャムシード自身による証言により幕を閉じた。
密室で長時間に及ぶ軍事裁判にかけられた末、彼は流謫の刑を申
し渡された。
罪の重さを考えれば、死罪もありえたが、領民から支持の厚いジ
ャムシードに恩赦が認められたのだ。
ヘガセイアに真相の証明をする手立てがあったことは本当で、革
命軍の中にはリャンの無実を晴らす者が幾人もいた。彼等は計画さ
れた礼拝堂の惨劇を知り、二家にどうにか知らせようとしていたと
ころを、ジャムシード・グランディエにより囚われたのだ。
かくして、ゴダール家への嫌疑は晴れた。
二家は武力抗争の休戦に同意し、ジャムシードの後継は傍流の家
系から、年若いジークムントが選ばれた。
厳格な宗教家であるジャムシードの犯行が露呈し、善良な領民を
不安にさせたが、アッサラーム軍立ち合いの下、領民の前で三家が
停戦に応じると、歓びの喝采が起きた。
各国から要人が集まる中、聖霊降臨の神官達も急ぎ再選抜が行わ
れ、ザインは威信にかけて、予定通りに聖霊降臨日を迎えようとし
1502
ている。
うなばら
争いが去る一方で、憐れな男が一人、静かにザインを去った。
砂の海原に消えゆくジャムシードの顔には、穏やかな笑みがたゆ
たっていた。
その笑みに理解が及ばず、気味悪げに訝しむ者もいたが、ジュリ
アスには心当たりがあった。軍事裁判の場で、憐れな男は最後の最
後に心を明かしたのだ。
﹁私は、グランディエ家の重い家名が、心底疎ましかったのです﹂
﹁名声を得ていても?﹂
問いかけると、男は自分を冷たく嗤うように、そうです、と続け
た。
﹁富貴にあれど、心は貧しい身でした。くる日もくる日も、病床の
両親、放蕩の兄、知恵の足りぬ弟達の世話をして、理性に疲れて、
憑かれていったのです。真に病んでいたのは、この私でした﹂
彼は長いこと、家族の問題に苦慮していた。負担を一身に背負い、
およそ安らぎというものはなかったという。
受け継いだ栄光も見上げるほどの富も、心を慰めやしない。家族
というものに嫌悪を抱き、自らも家族を作ろうとは思わなかったと
いう。
﹁領主になり、今度は二家の面倒まで見なければならない。家とは、
なんとおぞましいのでしょうか。毎日、救いを求めておりました。
家の礼拝堂は、夕刻になると、天窓から一筋の光が降りてくるので
す。浄化の光に照らされ、煌めく塵を眺めながら⋮⋮ある日、つい
に考えました﹂
1503
︱︱二家を滅ぼそう。ドラクヴァ公爵を暗殺し、罪をゴダール家
に押し付けるだけでいい。野心の強いドラクヴァは報復に乗り出す
であろう⋮⋮
﹁二家がいなくなった後、領主を続けるつもりだったのですか?﹂
その疑問に、ジャムシードは静かに首を振った。
ちょうらく
﹁病める私が選ばれるのなら、それも天意と受け取り、もうあと五
年。選ばれなければ、凋落しようと決めておりました﹂
力ない呟きには、苦悶極まった響きがあった。自らの裁きを神に
託した男は、顔に陰惨な影を落として、ぽつぽつと語った。
﹁なぜ、私の家族は壊滅していたのでしょうか? 創造神の意図で
とが
あるのなら、グランディエ家をお見放しになるおつもりであったの
か。そうでないのなら、この私といい、空虚な家といい、誰の咎で
しょうか?﹂
心を打ち砕かれ絶望し尽くした男は、透明な涙を流した。
﹁哀しいのですか?﹂
﹁いいえ! 嬉しいのです。流謫の身となれることが、心の底から
嬉しいのです。ようやく、家から解放される⋮⋮私は真に、孤独に
なりたかったのです﹂
その慟哭は、周囲の想像をはるかに裏切るものであった。その者
にとって何が幸福であるか、他人には真に推し量れはしないのだ。
1504
苦悩から解き放たれた彼の笑みは、偽りなく澄明なものであった。
砂に向かって、黙々とさすらう男の背を、役人と幾人かの家人が
侘しく見守っていた。
同じ日に︱︱
ジャムシードが三家の調和を崩したことを、リャンは権力の解体
のきっかけと話した。
﹁血の混濁は、ようやく終わったのです。長い悪夢でした。三家の
支配を少しずつ緩めていけるよう、これからも努めます﹂
十年に渡る栄光を守った男は砂漠に消え、囚人から解放された青
年は、晴れやかに展望を語った。
+
一年の除夜。
ザインを揺るがした抗争の事後処理にも目途が立ち、ジュリアス
は今夜ばかりは朝課の鐘が鳴る前に、光希の元へ戻った。
﹁お帰り﹂
﹁ただいま、光希﹂
後ろから抱きしめ、顔を覗き込もうとしても、光希はふいと視線
を反らした。
背けた頬に唇を寄せようとすれば、手で阻まれる。
﹁⋮⋮静かにしていたい﹂
小声であったが、その言葉はジュリアスの胸に突き刺さった。あ
1505
じょうあん
の夜から、光希の心はまだ遠く離れている。今夜は、聖なる浄闇だ
というのに⋮⋮
﹁一緒に外の様子を見に行きませんか? 今夜は領民も朝まで起き
ているでしょう﹂
外に出すつもりのなかったジュリアスにしては、精一杯の譲歩で
あったが、光希は力なく首を振った。
﹁欲しいものは?﹂
望まぬと知っていても、尋ねずにはいられない。光希の機嫌をど
うにか取りたい⋮⋮けれど、腕の中で彼は力なく首を横に振った。
﹁光希⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうしたら、許してもらえますか?﹂
﹁謝らないと、言ったのに?﹂
顔を背けたまま、乾いた口調で光希は呟いた。
﹁⋮⋮貴方に許されたい。除夜だというのに、眼も合わせてもらえ
ないなんて﹂
すると光希は、おずおずとジュリアスを見上げた。
﹁誰の眼にも留まらず、声もかけられず、ひっそり内に籠りたい時
1506
ってない?﹂
﹁⋮⋮例外はあります。判りました、静かにしています﹂
せめて、傍にいることは許して欲しい。
会話もせず、ただじっと抱きしめていると、腕の中で光希は次第
に力を抜いた。背を預けて、温もりを分けてくれる。
﹁⋮⋮オアシスを思い出した﹂
﹁え?﹂
夜空に向けていた視線を光希に戻すと、美しい夜のような瞳はこ
ちらを向いた。
﹁言葉は全然判らなかったけど、会話がなくても、いつでも僕の気
持ちを汲んで、抱きしめてくれたよね﹂
﹁そうすることで、私も満たされていましたから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮怒りって、持続しないなぁ﹂
腕の中で光希は、諦めたように息を吐いた。許されたことを知り、
ジュリアスもまた内心で密かに安堵のため息をついた。
﹁ジュリってずるいよ﹂
恋人は、ふて腐れたように呟いた。
返事に詰まったのは、全く同じことを光希に対して思うからだ。
強大なシャイターンの神力を操れても、光希につれない態度を取ら
1507
きょうだ
れると、怯懦にさせられてしまう。
返事の代わりに、黒髪を撫で、こめかみに口づけを落とした。
1508
106
︱ ﹃栄光の紋章・十﹄ ︱ ジュリアス
しじゅうから
聖霊降臨日。
四十雀は祝福を囀り、ザインに古来から伝わる、優しい弦の音色
キャラバン・サライ
は、一月の天空に響き渡った。
隊商宿の一室。ナフィーサの指揮の元に、光希の代わりを務める
少年兵の準備が整った。頭から長いベールをかけて、肌の見えぬ服
を着て手袋をすれば、中の人物が誰であるかは判らない。
その様子を、光希は部屋の隅で静かに眺めている。不満そうでは
ないが、どこか寂しそうに見える。
部屋を出る間際になっても視線を剥がせずにいると、光希は微か
に笑みを浮かべた。
﹁待ってるよ。行ってらっしゃい﹂
結局、光希が折れてくれて、代役を立てることに決まったが、満
足かと聞かれたらそうでもない。
宿を出た後も、恐らく窓辺に立っているであろう光希を、仰ぎた
い衝動に駆られた。そんな真似をすれば、周囲の眼に不自然に映っ
1509
てしまう。我慢するしかない⋮⋮
ありとあらゆる商店、中でも巡礼洋品店は賑わいを見せている。
街中の人が聖殿に向かって大移動をしていた。
はす
ここへ到着した日、閑散としていた通りからは想像もできない盛
況ぶりである。
馬車は走り出し、やがて蓮花の聖殿が見えてきた。
大都に暮らす大勢の人々が、清らかな装いで集まっている。三家
も揃い、西に名を馳せる名士、族領の姿もある。
続々と車が続く中、アッサラームの象徴、青い双竜と剣の紋章旗
が翻ると、集まった群衆から一際大きな歓声が上がった。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍の総大将、ジュリアス・
ムーン・シャイターン、その花嫁を乗せた天蓋のついた豪奢な二輪
装甲車が通過する際には、少しでも近くで見ようと、前に出ようと
する群衆を警備隊が整備するほどであった。
恭しい手つきでジュリアスは花嫁の︱︱光希の代役を務める若い
兵の手を取った。
ナフィーサに指導を任せただけあり、彼の演技は様になっていた。
屋内で座す時はナフィーサを使うが、歩く姿を見せる時には、背
格好の似ている子供を採用している。
偽物と知らぬ人々は、崇敬の眼差しで花嫁を仰ぎ、瞑想に耽った。
やがて︱︱
神官達が祝詞を上げると、超常の神秘が始まる。
蝋燭の灯された祈祷台には、砂で果てた竜の骨が、供物として捧
いのり
げられている。大地に宿るシャイターンの神秘を借りて、竜は霊的
に再生するのだ。
静けさが満ちて、信徒は沈黙の祈祷を捧げる。
聖霊に満たされた骨の抜け殻は、霊の言葉を語りかける。星の廻
りを見極め、道を示す。
領主は、リャン・ゴダールに
1510
広大に響き渡るは、神のごとく!
新たなグランディエ公は、十年保有していたザインの御旗を、次
なる領主、リャン・ゴダールへと手渡した。
割れんばかりの喝采が鳴り響いた。革命軍の若者達も、笑顔で壇
上に上がるリャンを仰いでいる。
儀式の大部分は終わったが、聖霊降臨日の祝福は一日続く。
この後、供物や祈祷具を手に持った参列者は、ザインに点在する
礼拝堂を巡りながら練り歩くのだ。その光景はもはや国民大移動で
ある。
アッサラームの代表として、ジュリアスも参列を求められたが、
ナディアに任せて早々に引き上げた。
ひっそり静まった隊商宿に戻ると、光希は紅茶を飲んで寛いでい
た。
﹁お帰り﹂
朗らかな笑みに安堵し、傍へ寄ると、楽しそうに瞳を輝かせてこ
ちらを仰いだ。
﹁どうだった?﹂
﹁リャンが選ばれて、領民は喜んでいましたよ﹂
﹁そっかー! 見たかったなぁ﹂
晴れやかな笑みを浮かべ、少し悔しそうに呟いた。後ろめたさが
こみあげ黙すると、光希は苦笑を浮かべた。
﹁いいよ、もう﹂
1511
只の口癖にしては、声に説得力があった。意味を計りかねている
と、光希は黒い眼差しを和らげ、淡く微笑んだ。
﹁アッサラームに帰る前に、飛竜に乗って散歩したいな﹂
﹁いいですよ﹂
快諾したものの︱︱用事が重なり、実現するには日を要した。
+
出発前夜。
飛竜の背に光希を乗せて、ジュリアスは空を翔けていた。穏やか
な風に任せて、静かに滑空する。
遠く離れた所で、砂の上に下りた後は、肩を並べて青い星を仰い
だ。
頭上には、幾つもの彗星が飛来している。神々が遠くへ旅立とう
としているのだ。
﹁綺麗だねぇ⋮⋮﹂
﹁どこにいても、星明かりは変わりませんね﹂
眼が眩むような星空⋮⋮まるで、光希のようだ。
﹁そうだねぇ⋮⋮どこにいても、青い星を仰げるね。向こうから見
たら、この星はどんな風に見えるのかな?﹂
不思議な問いかけに、ジュリアスは僅かに首を傾けた。
1512
﹁あるがままに、見えるのでしょう。シャイターンには全てお見通
しなのですから﹂
光希は、淡い笑みを浮かべた。澄んだ眼差しでジュリアスを見つ
めた後、一途な眼差しを天空に向ける。
﹁⋮⋮僕が昔いた国では、自分達の立っている星の青さを知ったの
は、長い歴史のずっと後だったんだ。はるか天空の彼方まで旅した
人が、﹃地球﹄は青かったって伝えたんだよ﹂
チキュウ︱︱
彼の口から時々こぼれる、青い星の名だ。我々がヴァールと崇め
る星を、光希は出会った頃から、違う名で呼ぶ。
腕を引いて抱き寄せると、光希は黒い双眸でジュリアスを見上げ
て、幸せそうに微笑んだ。
﹁好きだよ﹂
瞬く間もなく、彼の方から唇に触れるだけの口づけを与えられた。
波紋のように、歓びが全身に広がっていく。
﹁私も、好きです。聖霊降臨日に、寂しい思いをさせてすみません
でした﹂
﹁いいよ⋮⋮僕も判ったから﹂
顔を覗きこむと、眼が合うことを避けるように、光希は照れ臭げ
に視線を伏せた。
1513
﹁演技と知っていても、僕じゃない誰かを花嫁と呼んで、恭しく振
る舞うジュリの姿を見るのは、辛かった﹂
﹁光希⋮⋮﹂
嫉妬してくれたと知り、歓びが芽生えた。見つめていると、光希
は、はにかんだ笑みでジュリアスを見た。
﹁変わらずに今も、ジュリだけの僕だよ﹂
﹁光希!﹂
この間の夜は聞けなかった告白に、ジュリアスは感激した。
﹁そろそろ、帰る?﹂
照れ臭げに立ち上がろうとする光希を、思わず腕を引いて抱きし
めた。
﹁どうか、もう少しこのまま﹂
腕の中の温もりに幸せを感じていると、光希はぽりぽりと頬を掻
いた。
﹁⋮⋮僕を好きでいてくれて、ありがとうね﹂
﹁それは、私の台詞です﹂
﹁想い続けるって、難しいと思うんだ。両想いになれることが奇跡
だし、恋人になれても、気持ちが変わることもある⋮⋮﹂
1514
﹁そんなこと︱︱﹂
﹁あるんだよ、普通は。でも、ジュリと一緒にいて、そういう不安
は感じたことがない。すごいことだと思う﹂
﹁当たり前です。幾千の夜が過ぎても、変わらずに光希だけを愛し
ています﹂
この想いが褪せる日など、永遠にこないだろう。初めて贈る言葉
ではないのに。耳の先まで赤く染まる様子に、思わず笑みが零れた。
﹁⋮⋮ジュリにフラれたら、僕は立ち直れないだろうな﹂
﹁ありえません﹂
﹁ジュリは僕にフラれたら、泣く?﹂
泣くくらいで、済むはずがない。
たとえ、光希の気持ちが離れたとしても、拒まれたとしても、光
希を離せないだろう。今も、想像しただけで胸が締め付けられた。
﹁⋮⋮考えさせないでください﹂
人の気も知らないで、光希は悪戯が成功したような顔で、愉しげ
に笑った。
翌日。
いよいよザインを発つ日。街中の見送りを受けて、アッサラーム
軍は門を潜り抜けた。砂漠の野営地に着くなり、ジュリアスは隊伍
1515
を整えた。
号令をかけようとするところへ、単騎でリャン・ゴダールが駆け
てきた。
用向きを尋ねようとする仲介を無視して、好き勝手に野営地を走
る。誰かを探す素振りに、ジュリアスは嫌な予感を覚えた。
﹁何の用ですか?﹂
ついにジュリアスの前に立った青年を睨むと、屈託のない笑みを
浮かべた。
﹁お見送りにきました﹂
そう言いながら、彼の眼はジュリアスの後ろに注がれている。光
希は一兵卒に変装しているが、この男には顔を知られているので、
意味はない。
﹁殿下、心から感謝しております。とても言葉では言い尽くせませ
ん⋮⋮!﹂
足元に跪くリャンを見て、光希はおずおずと進み出た。
﹁貴方が無事で良かった﹂
﹁必ず、治安は良くなります。どうか、その時にまたいらしてくだ
さい﹂
﹁はい。聞いていた通り、風光明媚な街でした。いつかまた、ゆっ
くり見れたらいいなと思います﹂
1516
その言葉に、リャンは感極まったように言葉を詰まらせた。光希
はリャンの額に手を伸ばした。
﹁光希︱︱﹂
﹁健やかな心の、救われし幸いな者よ。この先、百年、千年⋮⋮シ
ャイターンの守護が続きますように﹂
ことほ
短く言祝ぎ、祈りを捧げた。
跪いた男は、潤んだ瞳で光希を仰いでいる。感動の余り、声も出
ないらしい。
面白くない⋮⋮光希の不興を買ってまで、聖霊降臨日に身代わり
を立てた苦労が水の泡だ。
﹁もういいでしょう。行きますよ﹂
うんざりしつつ、二人を引き離した。
慌ただしく飛翔した後も、しばらく不満な気持ちは後を引いた。
﹁許してよ、精霊降臨日に言えなかった分、祝福したかったんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
責める口調ではなかったが、承服しかねてジュリアスは口を閉ざ
した。
しばらく、飛竜の背で沈黙が流れていたが、遠洋まで飛ぶ渡り鳥
の群れに遭遇し、沈黙は破られた。
﹁わぁ︱︱﹂
1517
心底感動したように、光希は眼を輝かせて歓声を上げた。
﹁すごい。なんて数! アッサラームに向かって飛んでる!﹂
わだかま
数千と群れ飛ぶ鳥の大移動は、確かに雄大で美しい。てらいのな
い笑顔を見たら、燻っていた蟠りは自然に解けた。
﹁大陸の果てまで飛んでいく鳥です。しばらく眺められますよ﹂
﹁アッサラームに帰れるんだね⋮⋮﹂
その声には、憧れの響きがあった。共に金色の聖都に帰れる幸せ
を、ジュリアスもようやく噛みしめた。
1518
107 ﹃血統﹄ − アメクファンタム −
︱ ﹃血統・一﹄ ︱ アメクファンタム
びろうど
四歳の誕生日に、アースレイヤから美しい一角馬を授かった。
しゅろ
全身が灰色の珍しい種で、天鵞絨のような毛並みをしている。彼
女は、ランツァ。そう名付けた。
アッサラームに生まれた男なら、五歳にもなれば馬に乗る。棕櫚
の木の鞍に抱き上げられ、手綱を持てと言われるのだ。
揺られるうちに体感を掴み、幾日か繰り返せば、さぁ行っておい
で、と送り出される。更に日が経つと、砂の海に向かって駆け出せ
るようになる。
風を切って、馬と一体になって、最大速度に挑戦するのだ。
あの頃、ランツァに夢中だった。
宮殿を飛び出して、砂の大海原、いつまでも沈まぬ夕陽に向かっ
てどこまでも駆けたものだ。
黄昏になると、黄金に染められた空と砂は渾然一体となり、息を
呑むほど美しい。
無限に続く砂の世界︱︱聖都アッサラーム。
遠征王
と呼ばれる皇帝、父であり次期皇帝であるアース
祝福されし悠久の国に、輝かしい皇家に生まれたことが誇りであ
った。
レヤ、母であり公宮の花と呼ばれる、美しいリビライラ。
1519
世界は明るく輝いていて、希望に満ちている。
約束された幸福。それが、アメクファンタムの未来だ。
五歳になると、家族の肖像画を新しくした。
愛する家族は多忙なので、画家の前に一斉に並ぶことは一度しか
なかったが、その一度が嬉しかった。
嬉しいけれど恥ずかしくて、恥ずかしいけれど嬉しくて⋮⋮じっ
としていることは困難であった。
本当は、ランツァも一緒に描いて欲しかったのだが、残念ながら
駄目だと言われた。
ピアラン
六歳の頃、アースレイヤの姫が身籠り、室を賜った。四貴妃︱︱
南妃に昇格したが、間もなく姿を消した。
行き場のない公宮で?
謎の多い不思議な失踪には、リビライラの名を囁く声が、幼いア
メクファンタムの耳にも聞こえてきた。
そして知る、皇家の血塗られた系譜⋮⋮
ダガー・イスハーク家は、輝かしい栄光と智恵と善意だけで築か
れてはいない。
後衛に名を連ねる現皇帝も次期皇帝のアースレイヤも、繊細佳人
なリビライラですら、非情なまでに残忍な側面を持っている。公宮
を維持する為に、彼女は幾度も手を血に染めていた。
信じていた未来は、初めて翳った。
血は繋がっているはずなのに⋮⋮彼等の非情が判らない。自分も
そうあるべきなのだろうか?
恐ろしくて、ランツァに寄り添い泣き伏した夜もある。
行く末に不安を覚えながら、七歳を迎えた。
聖戦の終結。
国を揺るがす聖戦にアッサラームは耐え抜いた。劣勢の危ぶまれ
ロザイン
た、三年にも及ぶ侵攻を防衛しきったのだ。
砂漠の英雄は、花嫁を連れて凱旋を果たした。
その様子を、アメクファンタムはリビライラと並んで貴賓席から
1520
眺めていた。信心深い家系に育ったアメクファンタムは、花嫁に畏
敬の念を抱いていた。
彼と初めて言葉を交わしたのは、その年の暮れの合同模擬演習で
ある。
さいな
青い星のように、和やかな瞳をしていた。
血統の重みに苦しみ、猜疑心に苛まされるメクファンタムの瞳に
も、花嫁の笑みは清らかに映った。
尊い方。自分の歩む生とは、縁遠い方。
花嫁に対して、離れたところから鑑賞するような印象を抱いてい
たが、間もなく、唯一無二の恩人へと昇華する。
八歳になる頃、尊い天上人は暗殺の危ぶまれていたサンベリアを
救い上げたのだ。
彼女が産み落とす子は、いずれリビライラか、或いは自分が手に
かけることになるのかと、密かに恐怖していたのだ。
知らせを聞いた時、冷たい恐怖は春風に吹かれて、凍える指先に
は血が通い出した。
安息香の焚かれた、穏やかな黄昏。
祭壇に跪き、感謝を捧げるアメクファンタムの隣に、アースレイ
ヤは無言で跪いた。
﹁何を熱心に祈っていたの?﹂
﹁え?﹂
声をかけられたことが意外で、思わず呆けた返事をしてしまった。
アースレイヤは、敬虔な信者のように瞼を固く閉ざしている⋮⋮
答えを待たれている気がして、恐る恐るサンベリアの話しを聞か
せると、彼はゆっくり口を開いた。
﹁宝冠を戴く身であっても、傍に置く者を選ぶことはできるよ﹂
1521
穏やかな口調だが、重い言葉だ。アースレイヤは血を分けた実弟
が健在のまま、即位を迎えようとしている。それ以外の兄弟が全員
倒れ伏しても、彼とその弟だけは生き抜いたのだ。
たそがれ
彼が祈りを捧ぐ姿を見るのは、今日が初めではない。
毎日の典礼儀式に列席しているし、黄昏には静寂と安らぎの空間
で祈りを捧げていることを知っている。
見慣れた日常の祈りの光景に、今日初めてアースレイヤの幼い頃
に想いを馳せた。
もしかしたら、神と語らい心を解放することで、束の間の安らぎ
を得ているのだろうか。幼い頃からずっと⋮⋮
﹁僕は、陛下のようにも、父上のようにもなれる気がいたしません
⋮⋮﹂
﹁同じ道を歩む必要などない。事実、私は陛下と違って遠征を推し
進めはしないからね﹂
思わず隣を仰いだ。東西大戦は目前に迫っているが、今の口ぶり
からは否定的な感情が窺えた。
しゅくあ
﹁人は歴史に学べない。幾年月、東西の衝突で苦渋を舐めても、東
西統一を聖戦と崇め、国境に攻め入る。この国の宿痾だ﹂
﹁ですが⋮⋮先日、花嫁に行軍の意志を確認されたとお聞きしまし
たが⋮⋮﹂
﹁東西の戦いが避けられないことは、明白だからね。勝機を上げる
為にも、あの尊い方が自らの口で、遠征に発つと告げることが肝心
なんだ﹂
1522
では、功を奏したのだろうか。彼は国門への従軍を名乗り出たと
聞いている。
﹁以前の花嫁は、尊い御身にどれだけの力があるか、理解されてい
なかった。それは、力の放棄に等しい﹂
その言葉は、アメクファンタムの胸に突き刺さった。
か
皇家の、それも皇太子に最も近いと目されながら、我が身に降り
懸かる権威に怯えているのだから⋮⋮
叱られた心地で押し黙ると、ささめくような、愉しげな笑い声が
耳に届いた。
﹁落ち込むには早過ぎる。見込みはあるから、精進しなさい﹂
﹁︱︱ッ、はい﹂
滅多に褒めることのない人の言葉に、アメクファンタムは瞳を輝
かせて頷いた。
1523
108 END CREDIT ROLL − after 4
years − 完
︱ ﹃未来への階・二﹄ ︱ アメクファンタム
東西大戦の終結から四年。
間もなくアメクファンタムは、十三歳になる。
柔らかな曇り空の下、ザインから帰還するアッサラーム軍を、ア
メクファンタムは宮殿の滑走場で待っていた。隣には現皇帝である
アデイルバッハと、次期皇帝のアースレイヤがいる。
ロザ
やがて、空の彼方に飛竜の陰翳が見えると、同じく滑走場で待つ
兵士達が、一斉に帽振りで歓呼を叫んだ。
イン
先頭を翔ける飛竜には、砂漠の英雄︱︱シャイタ−ンと、その花
嫁が騎乗している。
﹁元気そうですね﹂
彼等の無事な姿を認めて、アースレイヤは穏やかに微笑んだ。ア
メクファンタムも頷くと、彼等が着陸する様子を見守った。
青い軍旗を手にした英雄は、しっかりした足取りでこちらへ歩み
寄ると、皇帝の前で跪いた。恭しい手つきで、軍旗を両手で捧げる。
1524
﹁聖霊降臨儀式は、無事に終了いたしました。お預かりしていた軍
旗を、謹んでお返しいたします﹂
軍旗の返上と共に、任務に与えられていた全権限を返上するのだ。
﹁うむ、大義であった。こうして、そなたから軍旗を受け取るのは、
今度こそ最後になるな﹂
穏やかにアデイルバッハが告げると、跪いたムーン・シャイター
ンも顔を上げて、控えめな笑みを浮かべた。
皇帝は軍旗を手に取り、高く掲げてみせた。周囲から喜びの咆哮
が上がる。
西の英雄と花嫁の帰還を喜ばぬ者など、アッサラームには一人と
していないのだ。
歓喜に包まれながら、アメクファンタムの心は平静であった。い
や、緊張しているのだ。
カテドラル
ザインの聖霊降臨儀式が終わったということは、次は己の成人の
儀式と、戴冠式が待っている。
+
期号アム・ダムール四五七年。一月三〇日。
アッサラームに栄光あれ
と謳っている。
数千本もの管楽器が、厳かで喜ばしい福音を大聖堂に響かせた。
少年達が大音声で
﹁アースレイヤ・ダガー・イスハーク皇太子﹂
とう
滔々と流れる言の葉、祝詞の果てに、サリヴァンが名を読み上げ
ると、アースレイヤは祭壇の前に跪いた。
1525
しろてん
顔に聖油を塗り、優雅に白貂をまとった彼は、厳かで美しく、立
派であった。
しゃくじょう
石床を鳴らし、アデイルバッハはアッサラームの歴史を重ねた水
晶の宝冠を、彼の頭上に与えた。更に金色の錫杖と宝珠を渡す。
皇帝自ら手を取りアースレイヤを立たせると、その背を押して皆
の前に立たせた。
﹁新皇帝︱︱アースレイヤ・ダガー・イスハーク﹂
きけん
今この瞬間、最高権威はアースレイヤに委譲された。
列席する各国の名士、貴顕達は深く跪いた。ザインから招かれた
リャン・ゴダールも、礼装姿のシャイターン、聖衣を纏う花嫁も新
皇帝の誕生に跪く。
厳かな空気は、数々の神事に参列してきたアメクファンタムにも、
緊張をもたらした。
﹁アメクファンタム﹂
名を呼ばれて、いよいよ席を立つ。
安息香に包まれた祭壇へ上がる時、石畳に刻まれた、幾世代もの
足音が聞こえた気がした。
きざはし
心臓は早鐘を打っている。くらりと眩暈を堪えて仰ぎ見ると、新
皇帝と眼が合った。
血統に支えられてきた階へと足をかける。踏み出す一歩を、これ
ほど頼りなく感じるのは、いつぶりだろうか。
﹁アメクファンタム様、もう少し前へ﹂
サリヴァンに小声に囁かれて、慌てて数歩を調整した。
1526
﹁アメクファンタム・ダガー・イスハークの成人を認め、皇太子と
して遇することを、シャイターンに誓って宣言する﹂
アースレイヤが告げると、成人の象徴である黒牙のサーベルを、
サリヴァンは両手で差し出した。鞘に納められた刀身には、花嫁が
手ずから彫った双竜が意匠されている。
﹁命ある限り、皇家の責務を負い、アッサラームに仕えることを誓
いなさい﹂
﹁はい、陛下﹂
全身を緊張させながら、戴冠したアースレイヤに最高位の敬称で
応えた。
幸せな皇子時代は終わった。これからは皇太子として、この国を
見据えて行かねばならない。
かげ
皇家が揃って露台に姿を見せると、眼下に集まる群衆から、割れ
んばかりの喝采が送られた。
遠く︱︱
金色の陽に照らされ、尖塔の輪郭は鹿毛色に輝いている。
満ちる熱気と祈りの波動を肌に感じながら、アメクファンタムは
瞳を閉じた。
アッサラームを讃える大歓声が、聞こえる。
新しい御世が始まる。
時が満ちれば、連綿と続く歴史の後衛に、アメクファンタムも名
を連ねるのだ。
神の御心に従う魂が続いていく限り、この国の栄光は亡びない。
あまね
青い星に帰すとも、魂は朽ちることなく砂漠に宿り、シャイター
ンの守護大地たる西全土に遍く伝わるであろう。
1527
再び眼を開けると、手を挙げて歓声に応えた。
権威に怯まず、奢らず、長い道のりに屈することなく、歩んでい
こう︱︱その先にきっと、未来がある。
1528
1 ﹃クロガネの応援歌﹄
大戦が終結し、欠けた人員の補充も兼ねて、クロガネ隊に新人が
配属されることになった。
光希の所属する工作班にも、十名の配属が決まった。
そのうちの五名は成人したばかりの少年達で、光希より背も低く、
整った顔立ちはあどけなさを残している。腰に佩いたサーベルも重
たそうだ。
クロガネ隊の伝統として、一年以上勤務した者には、直属の弟子
がつく。光希がアルシャッドに師事するように、他の者にも決まっ
た師匠がいて、自分の成長と共に弟子がつき、技術を後衛へと伝え
ていくのだ。
光希は既にクロガネ隊に三年務めているが、特異な身分ゆえ、こ
れまで弟子を持たなかった。
その暗黙の了解に、一石を投じたのはアルシャッドだ。
彼は、新人が投入されることを機に、光希に弟子をつけることを
提案したのである。中には案じる声もあったが、サイードの後押し
もあり実現した。
一人だけを弟子にして不平が生まれぬよう、ケイトが補佐につく
形で、三人の弟子をとることに決まった。
教育をしたことのない光希は、緊張しつつも楽しみにしていた。
自分とアルシャッドのように、良好な関係を築けていけたらいい。
︱︱記号アム・ダムール四五三年。四月一〇日。
初々しい三人の少年達は、背を伸ばし、かかとをきっちりと揃え
て光希の前に立った。青い瞳を期待と希望に煌めかせて、まだ丸み
のある頬を仄かに染めている。
1529
ロザイン
﹁お会いできて、光栄です! シャイタンーンの花嫁﹂
﹁いやいや、そんな⋮⋮﹂
一点の曇りもない憧憬の眼差しで見上げられて、光希は頭を掻い
た。周囲を見渡せば、工房仲間達は面白そうな顔で眺めている。
﹁毎年の名物だけど、大戦を乗り切って拍がつきましたなぁ。今年
は勢いが違う﹂
とくとう
にやにやとした笑みを浮かべて、禿頭のサイードがいった。
苦笑で応えると、面白がるような顔つきのケイトと眼が合う。誤
魔化すように咳払いをすると、胸に手を当てて少年達に向き直った。
﹁僕はケイトです。殿下と共に、君達の指導に当たります。判らな
いことがあれば、遠慮せずに聞いてください﹂
柔和な笑みでケイトがいうと、三人は元気よく返事をした。スヴ
ェンはケイトに眼が釘付けになっている。一目惚れか?
楽しくなりそうな予感に、光希は密かに胸を躍らせた。
十日も経つ頃には、三人の間に差が生まれ始めた。
同時に教えていても、呑み込みの仕方や速度が違う。
最も呑み込みが早いのはスヴェンで、天性の才に恵まれていた。
しょくぼう
要領も愛想も良く、器用に何でもそつなくこなすので、早くも将来
を嘱望されている。純情な一面もあり、頬を染めてケイトに話しか
ける様子などは見ていて微笑ましい。
パシャは個性派で、単純な課題を与えても、思いもよらぬ見事な
結果で応えてみせる。才能豊かなのだが、いささか飽きっぽい性質
1530
をしており、単調な作業が続くとやる気をなくす。
二人の影に隠れて、あまり注目されないノーアは、三人の中で一
番の努力家で、人が嫌がる単調作業も率先して引き受けている。内
たがね
向的な性質で、自分から人に声をかけることは苦手なようだ。呑み
込みも遅く、鏨を持つ段階になると、一度はいらぬ傷をつけてしま
う。
ここ最近よく見かける光景は、失敗の多いノーアをスヴェンがか
らかい、気まぐれにパシャが口を挟むというものだ。
三人の中で中心的な役割を担っているのは、スヴェンである。
日が経つにつれて、その傾向は顕著になった。苦戦するノーアの
世話を焼き、我関せずなパシャに声をかけて、三人で励もうとして
いる。
互いに切磋琢磨していってほしいものだが、ノーアは大分苦戦し
ているようだ。他の二人が優秀過ぎて、追いつくことに必死に見え
る。
自然と、光希もケイトもノーアに時間を割くことが増えていった。
ケイトを好いているスヴェンはこれが面白くなく、些細なことでノ
ーアに突っかかるようになった。
今も、終課の鐘が終わっても席を立とうとしないノーアを、物言
いたげな顔でスヴェンは見下ろしている。
﹁あと何が残ってるの? 手伝おうか?﹂
﹁ありがとう。でも、大丈夫、自分でやれるから﹂
申し出をやんわりと断られ、スヴェンは複雑そうな表情を浮かべ
た。
﹁ノーアさ、あんまり工房に居残るなよ﹂
1531
﹁うん⋮⋮でも、僕だけ遅れてるから﹂
﹁お前があんまり工房に詰めてると、終課で上がる俺等がさぼって
るように見えるじゃん﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁俺、自分が残るのも好きじゃないけど、人が残るのも嫌なんだよ﹂
﹁そっか⋮⋮んと、気にしないで。これは僕の仕事だし、大分やり
かけちゃって、手渡すのも中途半端だから﹂
﹁そうか?﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮後で先輩に教えてもらってんの?﹂
﹁いや、独りでできる作業だから﹂
どこか妬心の滲んだスヴェンの口調に、ノーアも強張った表情で
応えている。
手先を動かしながら、背中に聞こえてくる彼等の会話に光希の意
識は引っ張られた。
隣を見ると、物言いたげなケイトと眼が合う。互いに、どうする
? と目配せをした。
声をかけようか、どうしようか⋮⋮躊躇っているうちに、スヴェ
ンは工房を出ていった。ちなみに、パシャはとうに帰っている。
独り残ったノーアは、のろのろと手を動かし始めた。気のせいで
はなく、背中に元気がないようだ。
1532
人に迷惑をかけずに自力で頑張りたいノーア。そんなノーアを見
ていて、効率が悪いと不満を覚えるスヴェン。
第三者としては、どちらの気持ちも判る。
三人の中で、ノーアの努力の比重は最も大きいだろう。彼に求め
られている課題は山ほどある。それは仕方がない。
ただ、彼等はもっと、お互いの状況に気を配れるようになるとい
い。できれば、そのことに自分達で気付いて欲しかった。
1533
2
真夜中。朝課の鐘が鳴る頃。
屋敷の工房に籠ったまま出てこない光希を心配して、ジュリアス
はそっと背中に声をかけた。
﹁まだ起きているのですか?﹂
﹁あ⋮⋮そろそろ寝るよ﹂
机の傍によると、ジュリアスは光希の手元を覗きこんだ。
﹁何の制作をしているのですか?﹂
﹁ちょっと復習というか、明日の準備をしていただけ﹂
﹁復習?﹂
たがね
﹁うん。新人教育で簡単な受注を任せているんだけど、鏨の扱いに
難航していたから、製造工程のお手本を用意してみようかと⋮⋮﹂
くろがね
鉄の指南書も一応あるのだが、基本的な知識の羅列に過ぎず、実
際の受注ではあまり役に立たない。
目まぐるしい受注の舞い込むクロガネ隊では、技術の伝達は殆ど
口伝でなされる。
特に光希は、ほぼ独学で研鑽を積んできた。
言葉に不自由していたこともあり、説明を受けるよりも、とにか
く人の作品を眺めて、手元を覗きこみ、制作工程を盗み見ながら成
1534
長してきたのだ。
今でこそ一人で受注をこなしているが、決して楽な道のりではな
かった。
﹁なるほど。具体的な手本があれば、下の者は学びやすいでしょう﹂
﹁うん、僕もそう思って。いやぁ、それにしても、人に教えるのっ
て難しいね﹂
腕を組んで唸る光希を見下ろして、ジュリアスは頷いた。
﹁判ります。私も、自分にとって当たり前のことが、他の者には当
てはまらないということを理解するのに、先ず時間がかかりました﹂
﹁軍事で?﹂
﹁はい。初めて小隊の指揮を執った時、味方の動きの悪さに驚きま
した。なぜ、視野が狭いのか、逐一機動の判断が遅れるのか、不思
議でなりませんでしたよ﹂
淡々と告げるジュリアスを仰いで、光希は苦笑いを浮かべた。
﹁⋮⋮そりゃぁ、ジュリと比べたら、他の人がかわいそうだよ﹂
﹁神力の優劣に関わらず、個々の努力の怠慢に映ったのです。実際
は、あらゆる要因があったのですが、その時は少々手厳しく指摘し
てしまい、味方を余計に委縮させてしまいました﹂
彼を基準にして周囲を評価するのは、あまりにも酷であろう。光
希は苦笑いを浮かべてジュリアスを見た。
1535
﹁まぁ、誰にでも失敗はあるよね﹂
﹁人には得手不得手があると知り、要所を押さえて人に任せるよう
になってから、大分変りました。指導も、今では得意とする者が務
めています。最も、私より厳しいかもしれませんが﹂
﹁なるほどねぇ⋮⋮人を上手に使うって、一つの才能だよね。その
点において、僕はアルシャッド先輩に遥かに及ばないな﹂
いかな修羅場であっても、彼の穏やかな態度は一貫している。仕
事の不手際を見つけようとも、不機嫌を表に出さず、苛立ちを人に
ぶつけることもない。
類稀な才能に恵まれながら、少しも奢ったところがなく、手が空
けば新人に混じって雑事もこなす。
彼は、どんな状況でもよく人を見ている。
どれだけの受注が舞い込み、誰の手が空いていて、誰が苦戦して
いるのか。
個人技も神の領域だが、全体最適で動ける彼の総合能力の高さに
は、感服せずにはいられない。
﹁充実しているようですが、困ったことはありませんか?﹂
﹁ん、平気。忙しいけど、楽しいよ﹂
新人教育は、良い刺激になっている。仕事に張り合いが生まれ、
創作意欲も掻き立てられている。
﹁でも、ほどほどにね。もう休みましょう﹂
1536
後ろから抱きしめられて、光希は肩から力を抜いた。
工房に籠ると、ついつい時間を忘れてしまう。ちょうど、きりの
良いところまで進んだし、残りは明日でも良いだろう。
しかし︱︱
三人の教育に力を注ぐ光希であったが、事態は芳しくなかった。
ノーアの失敗が続くうちに、彼の落ち込みようは眼に見えて酷く
よろ
なっていったのだ。周りが気遣う言葉をかけても、無理して笑顔を
鎧い、頑なに一人でやり遂げようとしている。
やっきになって鏨を打つノーアの姿は、少し前の光希を思い出さ
せた。
かつて、鉄に神力を思うように宿せず、倒れるほど思いつめたこ
とがある。あの時味わった苦しみは、生涯忘れやしない。
業務終了後の工房。
鉄の端切れを鞄に入れて、持ち帰ろうとするノーアを見かけて、
光希は思わず声をかけた。
﹁ノーア、ちょっと待って﹂
﹁殿下!﹂
肩を撥ねさせたノーアは、視界に光希を認めると罰の悪い表情を
浮かべた。
﹁軍舎に戻った後も、練習しているの?﹂
﹁⋮⋮はい、照明を点けていられる間は﹂
﹁きちんと休んでいる?﹂
﹁はい⋮⋮﹂
1537
力なく、警戒気味に返事するノーアを見て、光希は内心で息を吐
いた。この分だと、碌に睡眠を取っていないのだろう。
﹁無理をし過ぎないようにね。疲れが取れなければ、鉄も綺麗に響
かないよ﹂
﹁はい、申し訳ありません﹂
叱られたと思ったのか、ノーアの声は沈んだ。絞り出すような謝
罪を聞いて、光希は歯痒い念に駆られた。
彼の苦悩が判る。そして、あの時のアルシャッド達の気持ちが、
今こそ判る。
どうにかしてやりたいが、これは彼が自分で乗り越えねばならな
いことだ。
状況は好転しないまま、数日が流れた。
その日、朝一の工房で、光希は三人の進捗を確認していた。
やはり、三人の中ではノーアが一番遅れている。見落としている
のか、手つかずの案件も一つあるようだ。騎馬隊の訓練武具の修繕
といった、さほど難しい内容ではない。ただ、納期が三日後に迫っ
ている。
さて、どうしたものか⋮⋮
今朝も早くから工房で精を出しているノーアの姿を見て、光希は
手にした発注書に再び眼を落とした。
彼の怠慢でないことは、判っている。ノーアは今、いっぱいいっ
ぱいなのだ。
いいや、代わりにやっておこう︱︱ノーアの苦戦ぶりを見て、光
希は彼の発注書の確認漏れを指摘しなかった。
とはいえ、日中は光希も別件で立て込んでいる。
加工班は今、義手制作に総力を挙げて取り組んでおり、光希とア
1538
ルシャッドは中心的役割を担っていた。
日中は義手制作と教育指導がある為、独りでできる作業は後回し
にせざるをえない。
工房で残業すると周囲に気を遣わせてしまう為、光希は仕事を屋
敷に持ち帰るようになった。
﹁⋮⋮光希?﹂
﹁あっ、もうこんな時間か⋮⋮﹂
工房にやってきたジュリアスを振り返り、光希は瞳をこすった。
かなり集中していたようだ。
﹁最近、遅くまで起きていますね﹂
﹁うん、ちょっと﹂
おもむろ
探る様な眼差しを向けられて、光希は笑って誤魔化した。
机の上に散らばった発注書の一枚に、ジュリアスは徐に手を伸ば
した。よりによって、ノーアの名前の記されたそれを、光希は慌て
て取り返そうとした。
﹁他の隊員の受注を、どうして光希が?﹂
﹁ちょっとね⋮⋮返して﹂
﹁また、無理をしていないでしょうね?﹂
﹁してない、してない。返してよ﹂
1539
発注書を取り返すと、光希はいそいそと鞄にしまった。
﹁⋮⋮最近、遅くまで仕事をしているのは、新人の指導が影響して
いるのですか?﹂
否定的な気配を読み取り、光希は姿勢を正した。
﹁無理をしているわけじゃなくて、僕がしたくてしているんだ。教
えるのも勉強になるし、僕の為にもなっているよ﹂
﹁こんなに疲れた顔をしているのに?﹂
目元を親指で摩られて、気まずげに光希は視線を逸らした。
﹁今だけだよ。もう少ししたら、落ち着くと思うから﹂
﹁本当に?﹂
﹁うん﹂
﹁倒れない?﹂
﹁倒れません﹂
澄ました顔で光希が言うと、不満そうな顔をしたものの、ジュリ
アスもそれ以上は言わなかった。
1540
3
難航は続く。
日を追うごとに、ノーアの遅れは悪化した。光希の補佐負担は増
し、三人の関係もぎくしゃくし始めた。
元から協調意識の低いパシャは別として、中心的役割を担ってい
たスヴェンの、ノーアに対する当たりがきつくなったことが原因だ。
彼は、何事も遅れをとるノーアに、次第に苛立つようになった。
大人しいノーアは、自分を責めて悲壮感を漂わせ、スヴェンはそ
っぽを向き、パシャは面倒そうな顔でその様子を眺めている。全く、
てんでばらばらだ。
﹁どうしたものかなぁ⋮⋮﹂
離れた所から三人の様子を眺めて、光希はぼやいた。
﹁ノーアは時間がかかるかもしれませんね﹂
ケイトの言葉に、光希も無言で頷いた。とりとめのない雑談をし
ていると、スヴェンが傍へやってきた。
﹁何の話ですか?﹂
警戒気味に尋ねるスヴェンを見て、
﹁お早う、スヴェン。三人共頑張っているなって、話していたんだ
よ﹂
1541
たちま
ケイトは柔らかく微笑んだ。忽ち頬を染めるスヴェンを見て、光
希は微笑ましい気持ちになった。
﹁先輩達はノーアに優しいですよね。いいなぁ﹂
﹁なんで拗ねてるの? スヴェンのことだって、ちゃんと見ている
よ﹂
そういって光希が笑うと、スヴェンは唇を尖らせた。
﹁ならいいんですけど⋮⋮﹂
﹁そろそろ朝礼が始まるよ。スヴェンも準備をしておきな﹂
ケイトがいうと、少年は素直に返事をして背中を向けた。隣で光
希がにやにやしていると、ケイトは微妙そうな表情を浮かべた。
﹁何ですか?﹂
﹁好かれているなぁと思って﹂
﹁殿下には遠く及びません﹂
﹁いやいや、ケイトには負けるよ﹂
﹁いえいえ、殿下には⋮⋮﹂
しまいには肘で突き合っていると、アルシャッドに朝礼の声をか
けられた。準備に取り掛かると、忘れていた受注を思い出したノー
アが、蒼白な顔で光希の前にやってきた。
1542
﹁す、すみません! 修繕の件、すっかり忘れていて⋮⋮ッ﹂
﹁あー、それなら平気、やっておいたから﹂
気にしないで、と笑う光希を見て、ノーアは強張った顔で肩をす
くめた。
﹁あ、僕⋮⋮申し訳ありませんでしたッ!﹂
肩をいからせて、酷くどもりながらノーアは応えた。
その悲痛な謝罪の声は、まだ人もまばらな朝の工房に、やけに響
いた。スヴェンやアルシャッドも、こちらを見ている。慌てた光希
は、ノーアに顔を上げさせた。
﹁謝らないで、僕の配分がよくなったんだから。ちょっとやり方を
考えてみるよ﹂
平静さを装い、穏やかに声をかけながら、光希は内心で舌打ちを
した。
いざとなったら自分がやればいい、そう思っていたが、受注の仔
細は把握していたのだ。苦戦している状況を判っていたのだから、
他の仕事を任せるか、引き取るにしても工程を共有すれば良かった。
入って間もない新人に、こんな顔をさせるようでは先輩として失
格だろう。
反省した光希は、やり方を改めた。
良さそうな案件を幾つか抜いて、本人に選ばせようと思い、アル
シャッドの手が空いた隙を狙って声をかけた。
意見をもらいながら、受注書を振り分けていると、
1543
﹁お前、不器用過ぎだろ。まだできてないのかよ?﹂
いささ
呆れたようなスヴェンの声を背中に拾い、光希は手を止めた。口
調からして軽口のようだが、聊か無遠慮だ。
﹁殿下?﹂
手を休めたままの光希を見て、アルシャッドは不思議そうに首を
傾けた。
﹁あ、すみません︱︱﹂
意識を手元に戻したものの⋮⋮
﹁本当にさぁ、どうやってクロガネ隊に入ったの?﹂
返事のないノーアに追い打ちをかける、スヴェンの心無い一言に
再び手を止めた。
衝動的に立ち上り、つかつかと二人の方へ歩み寄ると、驚く顔で
仰ぐ二人の肩に光希は腕を回した。
﹁こら、喧嘩するんじゃない。同期なんだから、仲良く精進しなよ﹂
﹁殿下ッ!!﹂
﹁わわわ⋮⋮﹂
眼を丸くしている二人の頭を、悪戯に掻きまわした。
﹁ノーア、焦らずやればいいよ。皆がついているんだから。スヴェ
ンも手伝ってあげて。ノーアが慣れてくれば、今度は彼が君を助け
1544
てくれるよ﹂
軽い口調で告げると、二人は神妙な顔で頷いた。先輩風を吹かせ
ているかなぁ、と少々不安になりながら光希はアルシャッドの元に
戻った。彼は、菩薩のような微笑を浮かべていた。
﹁えっと、すみません。どこまで話しましたっけ⋮⋮﹂
﹁成長しましたねぇ﹂
しみじみと呟くアルシャッドを見て、光希は面映ゆげに沈黙した。
尊敬する先達を前にしては、光希もまだまだ至らない一弟子に過ぎ
ない。
それに、仲裁はしたもののノーアとスヴェンの空気は良好とは言
い難い。
一日沈んだ顔をしていたノーアは、休みを勧める周囲の言葉に耳
を貸さず、終課の鐘が鳴っても工房に残っていた。
声もかけずに工房を出ていくスヴェンを見て、光希はノーアの傍
へ寄った。
﹁まだやっていくなら、僕の作業を参考に見てみない? 今から中
心の竜を意匠するんだ﹂
背中に声をかけると、ノーアは弾かれたように振り向き、遠慮が
ちに頷いた。
﹁よく見ていて﹂
﹁はい﹂
1545
たがね
つち
かたど
薄く伸ばした鉄に、双龍の意匠を筆で象る。
え
鏨を持つと、迷うことなく槌で打った。軍の象徴でもある柄は、
これまでに何百と打ってきた。昔は苦労したが、今では光希の得意
な柄の一つである。
﹁すごいなぁ⋮⋮﹂
澄み切った尊敬の眼差しを向けられて、光希は照れ臭そうに微笑
んだ。
﹁ありがとう。すぐにノーアもできるようになるよ﹂
﹁そうでしょうか⋮⋮﹂
﹁僕も、最初は失敗の連続だったよ。納期前に工房で倒れて、皆に
迷惑をかけたこともある﹂
眼を瞠るノーアを見て、光希は眼元を和ませた。
﹁僕はね、ジュリのおかげで、クロガネ隊に入れてもらえたんだ。
正規で入隊した他の隊員に対して、最初は引け目を感じていたよ﹂
﹁⋮⋮﹂
ロザイン
﹁花嫁としての気負いもあったし、人より出遅れている分、頑張ら
ないとって思っていた。でも、言葉で不自由したり、基礎で躓いた
り、とにかく酷かった﹂
﹁殿下が?﹂
1546
﹁うん。ノーアよりずっと苦戦していたよ。誰だって、最初からで
きるわけじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皆、失敗を繰り返して成長していくんだ。前に進む気持ちがあれ
ば、大丈夫。焦らず、できることから、少しずつ始めていけばいい
よ﹂
ものづくりは試行錯誤の連続だ。
挫折しない人間なんていない。項垂れ、悲嘆し、打ちのめされ、
なおも挫けず挑み、這いつくばって努力を続けた者だけが、その先
に輝く奇跡を見るのだ。
﹁できることから⋮⋮﹂
噛みしめるように反芻するノーアを見て、光希は手を休めた。し
ょげたように肩を落とす少年を真っ直ぐ見つめる。
﹁時間がかかっても、ノーアの彫りは細部まで丁寧で、僕は安心し
て仕上げを任せられるんだ。人には個性があって、それぞれの長所
がある。ノーアのいいところを、ゆっくり伸ばしていけばいいよ﹂
微笑みかけると、ノーアは眉を八の字に下げて顔を歪めた。
﹁僕は、人より手も遅いし、居残っても成果を出せなくて、悔しい
です。自分が情けない⋮⋮ッ﹂
最後の方は、声が潤みかけた。泣くまいと歯を食いしばる姿に、
昔の自分が重なって見える。
1547
﹁ノーアの頑張っている姿は、皆も認めているよ。投げ出さずに、
努力する姿勢は本当に素晴らしいと思う。今はきついかもしれない
けど、やめないで欲しいな﹂
﹁はい⋮⋮ッ﹂
﹁躓かない人間はいないよ。誰かと比べて落ち込む必要はないし、
自分なりに、最大の努力ができればそれでいいと思う﹂
ついにノーアは、ほろほろと涙を零した。幾筋もの涙が、頬を濡
らしていく。嗚咽を堪える少年の頭を、光希はくしゃりと撫でた。
︵頑張れ、ノーア︶
強く、心の中で声援を送る。
まだ十三の少年なのだ。未熟で当たり前。身の丈を越えた挫折は
深く、乗り越えねばならない壁は、遠くて高い。
今は、努力がなかなか成果に繋がらず、辛かろう。先に進んでい
く同期の背中を見て、不安に駆られる気持ちはよく判る。
だが、努力は決して無駄にならない。
彼の心を鍛え、自信を与え、いつか苦戦していた受注をこなせる
日が、必ずやってくる。経験に裏付けられた光希の確信であった。
1548
4
少しずつ、状況は好転していった。
ノーアは適度に周囲を頼るようになり、一方で人の三倍の努力を
続けた。自分の力量の少し上、ぎりぎりこなせる受注に挑戦して、
実力を少しずつ伸ばしていった。
今日も、終課の鐘が鳴ってもノーアは作業を続けている。
彼がやっているのは、そう難しくない平面装飾だが、根気のいる
たがね
作業で、精緻な蔦模様を全面に入れなければならなかった。
物言いたげなスヴェンの視線にも動じることなく、鏨を打つ横顔
は、真剣そのものだ。疲れた顔をしているが、いい顔をしている。
ノーアは、七日をかけて見事に受注を終えた。
﹁やるじゃん﹂
丁寧な装飾を見て、スヴェンは感心したようにいった。賞賛を受
けて、ノーアは嬉しそうに肩から力を抜く。
﹁ありがとう!﹂
てらいのない笑顔でノーアがいうと、傍で見ていたパシャも肩を
叩いた。
ノーアの努力は本物だ。
相変わらず作業に時間を要するが、精度は高い。謙虚な性質も変
わらず、皆が嫌がる根気のいる作業にも率先して取り組む。
自然と、周囲の対応も変わっていった。
もてる技術を共有して、彼の成長を助けている。スヴェンの態度
もここしばらくの間に軟化し、もたつくノーアに苛立ちながらも、
1549
好意的な助言をかけることが増えていった。
善良な者が、努力を積む姿には勇気づけられるものだ。
人は成長するものだと、感じずにはいられない。
鏨を持つ手つきも様になり、最初は右往左往していた材料選びに
も、迷わず棚から持ち出すようになった。
十日を要した受注を、五日で終えるようになった。
自分の受注だけでなく、人の受注を意識するようにもなり、どの
ような装飾、工程を要するのか情報を得るようになった。
あんなに内気で臆病だったノーアが、自分から声をかけにいく姿
を見た時、光希は思わず涙ぐんでしまった。
﹁あの子、成長したよね﹂
しみじみと呟く光希を見て、ケイトは微笑んだ。
﹁よく頑張っていますね﹂
彼の成長が、我がことのように嬉しい。
クロガネ隊は素晴らしい工房だ。彼等と共に働けることが、光希
は嬉しかった。
怒涛の日々は、過ぎゆく。
大量受注の目途もたち、クロガネ隊の面々にも生気が戻ってきた。
サイードも然り。彼は三人の歓迎会をしようと工房仲間に呼びかけ
た。こういった誘いを、普段は遠慮する光希だが、この時は三人を
歓迎してやりたいと思った。
﹁ジュリに聞いてみます。許可をもらえたら僕もいきます﹂
即答で断らない光希を見て、サイードは嬉しそうに破顔した。
1550
﹁なんなら、総大将もご一緒されるといい﹂
﹁はは⋮⋮一応、聞いてみます﹂
断られるだろうなぁ、と思いつつ光希は愛想笑いを浮かべた。
その日の夜。屋敷に戻ってきたジュリアスを捕まえて、光希は早
速切り出した。
﹁ジュリ、僕も歓迎会に行っていいかな?﹂
﹁歓迎会?﹂
﹁クロガネ隊の皆で、新人歓迎会をするんだ。最近ようやく落ち着
いたし、僕もいきたい﹂
﹁場所はどこですか?﹂
﹁詳しくは知らないけど、サンマール広場の周辺みたい﹂
﹁いつ?﹂
﹁まだ決まってない。早ければ三日後?﹂
思案気な顔になるジュリアスを見て、光希は続けた。
﹁一応、帽子と覆面はつけていくよ。隅に座っていれば、人目につ
かないと思う。アージュも連れていくから、いいかな?﹂
﹁判りました﹂
1551
﹁えっ、本当!?﹂
﹁店を貸し切って、見えないところに護衛を配置します。軍車で、
送迎をさせてくれるなら﹂
﹁ありがとう!﹂
嬉しそうに笑う光希を見て、ジュリアスも表情を緩めた。
﹁たまには、いい気分転換になるでしょう。楽しんできてください﹂
まさか本当に許可が下りるとは思っていなかった光希は、満面の
笑みで頷いた。
﹁ジュリも一緒にいく?﹂
﹁私がいては、皆を緊張させてしまいますよ﹂
﹁そんなことないよ。喜ぶと思うよ﹂
何より、光希が嬉しい。ジュリアスは微笑みを浮かべると、腰を
屈めて光希の額に唇を落とした。
﹁私のことは気にせず、楽しんでいらっしゃい﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁後で話を聞かせてくださいね﹂
﹁うん。今度、二人で飲みにいこうね﹂
1552
手を繋いで微笑みかけると、ジュリアスも嬉しそうに頷いた。
+
翌日。
許可が下りたことを工房仲間に告げると、皆が笑顔になった。光
希が同僚達と工房の外で飲みにいくのは、これが初めてかもしれな
い。
どこから聞きつけたのか、ヤシュムとユニヴァースも出席したい
といい出した。わざわざ工房に顔を出して、サイードに直接交渉し
たのである。
﹁いやぁ、殿下と飲めるなんてめったにないし!﹂
へらりと笑うユニヴァースを、サイードは隻眼を眇めて呆れたよ
うに見下ろしている。
﹁こいつはともかく、お前もか?﹂
視線を向けられて、ヤシュムはからりと笑った。 ﹁酒が飲めると聞いてやってきたぞ!﹂
﹁一応、うちの新人の歓迎会なんだがな﹂
ぎょうこう
﹁なら、うちも第一騎馬隊から適当に新人を連れてくる。殿下と一
緒に呑めるなんて僥倖、滅多にないから喜ぶだろう﹂
﹁適当に連れてくるな﹂
1553
こうしょう
面倒そうな顔をするサイードを見て、ヤシュムは哄笑を飛ばした。
その様子を笑顔で眺めている光希を見て、ユニヴァースは不思議そ
うに首を傾げた。
﹁それにしても、よく許可が下りましたね。もしかして、総大将も
くるんですか?﹂
﹁いや、ジュリはこない。アージュはくるよ﹂
ね、と後ろを向くと、同意を求められた青年は、どうでも良さそ
うな視線をユニヴァースに投げた。ついでに一言。
﹁邪魔﹂
﹁俺が? 酷くない?﹂
﹁面倒﹂
﹁ふふん、俺は殿下と楽しく飲むんだ。羨ましいだろう? お前は
しっかり警護を務めろよ﹂
﹁⋮⋮﹂
空気がひんやりとして、光希は二人に間に割って入った。
﹁ほらほら、喧嘩しないで。ちょっとくらい、アージュも飲んで平
気だよ。外にも護衛はいるだろうから﹂
﹁殿下は、優しいなぁ﹂
1554
大袈裟に腕を拡げて抱き着く真似をするユニヴァースの顔面を、
ローゼンアージュは無言で鷲掴んだ。
くぐもった声で、意味不明に喚くユニヴァ︱スを見て、光希は愉
快な気持ちで笑った。
1555
5
歓迎会、当日。
木造の居酒屋は、典型的なアッサラームの民家を改装したもので、
とても雰囲気が良かった。溌剌とした看板娘が、手際よく注文を受
けている。
わくわくしながら光希も卓につくと、間もなく人数分の麦酒が配
られた。
﹁さぁ、飲もう!﹂
一人が声を上げると、全員が杯を上げた。気安い空気に、誰もが
笑顔を浮かべている。
高級料理が並ぶ宮殿では、なかなかお目に掛かれない素朴な家庭
料理に、光希は新鮮な気持ちで舌鼓を打った。冷えた麦酒が料理に
よく合う。
卓の反対側でヤシュムとユニヴァースは、早くも飲み比べを始め
ていた。
部屋の隅では、音楽に覚えのある若い兵士が弦楽器を鳴らし、仲
間と一緒になって陽気に歌っている。
日頃は勤勉なアッサラームの獅子達が、愉しげに騒いでいる。
薄い琥珀色の酒を傾けながら、光希は眼を和ませた。
﹁殿下ぁー、飲んでますかぁー﹂
不意に、対面の席にスヴェンがやってきた。大分酔っぱらってい
るようだ。赤ら顔で呂律も妖しい。
周囲は面白がっているが、光希は心配になり、水を飲ませたりと
1556
世話を焼き始めた。
﹁殿下はお優しいなぁ﹂
﹁だって、まだ子供なんだから﹂
茶々を入れるユニヴァ︱スに応えると、ヤシュムや他の隊員達も
酔っぱらったスヴェンを見た。
﹁なに、大して飲んじゃいませんよ﹂
﹁泥酔して正体不明になるなんざ、軍に入った以上は通過儀礼だ。
おうよう
そのうち強くなりますよ﹂
もさ
軍の猛者達は鷹揚に笑うが、光希にしてみれば、十三歳なんて子
供も同然だ。アッサラームで暮して大分経つが、成人したての子供
に酔っぱらうまで飲酒を許容する皆の感覚には、なかなか馴染めず
にいる。軍隊ならではの空気かもしれないが⋮⋮
﹁こらこら、もう飲むんじゃない﹂
手前に水を置いてやったのに、スヴェンは身を乗りだして酒に手
を伸ばしてくる。光希が世話を焼くせいか、なんだかんだいいつつ、
他の隊員がスヴェンの面倒を見始めた。
﹁これは泥酔かなぁ﹂
苦笑いを浮かべているのは、ケイトだ。水差しを卓に置いて、ス
ヴェンに飲ませようとしている。酒に伸ばすスヴェンの手をケイト
が掴むと、スヴェンは据わった眼でケイトを見た。
1557
﹁先輩⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁先輩︱︱ッ﹂
﹁わぁっ、何﹂
でろでろに酔っぱらっていたスヴェンは、急に機敏な動きでケイ
トに抱き着いた。唖然とする光希の肩を、さりげなくローゼンアー
ジュは引いた。
﹁あちゃー、もう泥酔だったか。アージュ、助けてあげて﹂
はい、と端的に応えた青年は、乱暴にスヴェンに手を伸ばすと、
ぽいっ、と放った。スヴェンは撃沈して、口から泡を吹いている。
﹁なんか瀕死なんだけど!?﹂
光希が慌てて駆け寄ると、離れた席にいたノーアが飛んできた。
店の人間に手桶と水を用意してもらい、甲斐甲斐しく汗の浮いた額
を拭き始めた。
﹁ノーアかよ。触るな、馬鹿! ケイト先輩ー⋮⋮﹂
﹁煩い、馬鹿はお前だ! だらしないなぁ、もう! 殿下の前で、
恥ずかしくないの。しっかりしろよ﹂
舌打ちをして不平を零すノーアを見て、光希とケイトは笑った。
1558
普段と立場が逆転していて面白い。
少し前は、一方的にやりこめられていたノーアが、年相応の瑞々
しい表情で、スヴェンに噛みつくようになった。
文句をいい合っていても、じゃれているようにしか見えない。パ
シャも他の隊員に構われて、否応なしに溶け込んでいるようだ。
愉しそうな様子を見て、思わず口元が綻んでしまう。光希はいい
気持ちで杯を傾けた。
壁に穿たれた大きな窓から、夜風が流れて心地よい。
楽しい夜は更けていく。
店内はまだ賑わっているが、迎えの知らせを聞いて、光希は店の
外へ出た。
少々ふらつきながら店を出ると、双龍の紋章が入った、黒塗りの
馬車が止まっていた。
御者台に座っているのは、ルスタムだ。もしやと期待して見てい
ると、中から出てきたのはジュリアスだった。
﹁きてくれたんだ﹂
満面の笑みを浮かべる光希を見て、どことなく、ジュリアスはほ
っとしたような表情を浮かべた。
﹁楽しかった?﹂
﹁うん! 酔っぱらったなぁ⋮⋮﹂
嬉しそうにジュリアスの傍へ寄る光希の後ろで、隊員たちは、赤
ら顔を引き締めて、敬礼をしていた。
1559
﹁楽にしてください。もう、いきますから﹂
﹁総大将も一緒にどうだ?﹂
剛胆なヤシュムが気軽に誘うと、年若い隊員たちは、直立のまま、
ぎょっとしたように眼を剥いた。
﹁そりゃいい! 飲み比べしましょうよ!﹂
緊張を孕んだ空気には気付かず、ユニヴァースが悪のりをする。
光希が窘めようとするよりも早く、
﹁勝者には、殿下がとっておきのご褒美をくれますよ!﹂
高らかに宣言した。
﹁えっ、僕!?﹂
驚愕する光希を見て、周囲からもどよめきが起こる。ジュリアス
は涼しげにユニヴァースを一瞥すると、光希の肩を抱いて背を向け
た。
﹁あっ! 逃げないでくださいよ、総大将ッ!﹂
﹁その手には乗りませんよ。あまり騒がしくして、店に迷惑をかけ
ないように﹂
﹁えぇッ﹂
不平を垂れるユニヴァースの頭を、周囲の兵士は一斉に叩いた。
1560
﹁ありがとう。でも、私がいては、皆の気が休まらないでしょう。
遠慮せず、今夜は楽しく過ごしてください﹂
柔らかな表情で告げるジュリアスを見て、年若い隊員たちは舞い
上がった。軍の頂点に立つ英雄から、気さくに声をかけられれる幸
運など、そうそうあることではない。
馬車が走り出すと、緩やかな揺れに眠気を誘われる。ジュリアス
にもたれかかりながら、光希は幸せな心地で眼を閉じた。
﹁楽しかった?﹂
優しく髪を撫でられ、思わずにっこりと微笑んだ。
﹁とてもね。今日はありがとう。いって良かった⋮⋮﹂
幸せそうに寝入る光希を見て、ジュリアスは微笑んだ。
実を言えば、今日は何をするにしても、同僚と出掛ける光希のこ
とばかり考えていた。 万が一にも害が及ばぬよう、密かな護衛策を講じながら、他の者
達とどのように過ごすのか、気になって仕方がなかったのだ。
彼を束縛するつもりはない。
とはいえ、朝帰りは流石に認められず、朝課の鐘が鳴るまでに戻
らなければ、迎えにいくつもりでいた。
事前に了承は得ていたが、不興を買わないか少々心配もしていた。
だから、扉を開いて眼が合った瞬間、表情を綻ばせた光希を見て
安堵したのだ。
なかなか自由をあげられないが、今日の笑顔を見てしまっては、
こうした機会をもっと増やしてやりたいと思うジュリアスであった。
1561
1562
6 ﹃織りなす記憶の紡ぎ歌﹄
︱︱期号アム・ダムール四五四年六月。
かんばつ
アッサラームより南東の小さな集落は、稀に見る大旱魃に見舞わ
れた。
オアシスの地下水を延々と集落まで引いて、井戸から汲み上げて
いるのだが、数ヶ月に及ぶ厳しい日照りが、供給源たるオアシスを
枯渇させた。
カテドラル
メジュラ
そのオアシスこそ、光希がアッサラームに導かれた始まりの場所
である。
天候を読むのは大聖堂に従事する、星詠神官の仕事である。神力
ウェルケ
に長けた者であれば、祈祷を用いて、晴れた空に雨雲を呼こともで
きる。
宝石持ちであるサリヴァンは、星詠神官の最高位神官に就いてお
り、祈祷における達人でもあった。彼は三度に渡り雨を呼んだが、
か
その地に根づく不運の連鎖は深く、一時潤っても、すぐにまた枯れ
てしまう。
この事態を、最も完結に、且つ奇妙珍事のように結論づけたのは、
アースレイヤだ。
彼の話を総括する。
言わずもがな、海で隔たれた広大な大地を、それぞれの神が守護
している。
覇を競う二神は、互いの守護大地を脅かさんとし、先の東西大戦
では西が決勝した。面白くない東の神︱︱冥府のハヌゥアビスは腹
いせに、嫌がらせを仕掛けているのだと。
まるで呪いではないか⋮⋮不安を掻き立てられた光希は、祭壇で
密かに交わしたこの話を、サリヴァンにも話した。彼は笑わなかっ
1563
た。むしろ厳しい顔つきで肯定した。
﹁長い歴史を紐解けば、大戦に勝利した国には、しばしば不遇が続
きます﹂
﹁不遇?﹂
﹁然様。大戦に勝利しても、勢力範囲を伸ばせぬ最大の要因がこれ
です。勝利した国には、天災や事故といった不運が重なり、侵略の
機会を阻まれるのです﹂
﹁では、アッサラームに試練が課せられると?﹂
﹁旱魃、嵐、内乱⋮⋮様々な不遇に治世を乱される。栄華を築いて
も、勢力範囲を伸ばすには至らない﹂
﹁やっと、大戦を乗り切ったのに⋮⋮﹂
あまね
まさか、本当に自然外の力が働いているとでもいうのであろうか?
ことわり
﹁夜空に遍く大海原にどれだけ眼を凝らしても、地上にいては天の
理を紐解けはしません。これは仮説ですが、東西大戦を決勝に導く
為に、今回は、シャイターンがより大きな犠牲を払ったのではない
かと考えております﹂
﹁犠牲、ですか?﹂
﹁連綿と続く東西の拮抗を考えると、強大な神においても、何らか
の制約がある可能性が考えられます。全面戦争で決勝しても、勢力
範囲を伸ばせない。勢いを殺がれる何らかの制約により、もう一方
1564
が力が蓄え⋮⋮戦力が再び拮抗した時に、激突は起こるのではない
かと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁地上では西が決勝しても、天空ではハヌゥアビスが余力を残して
いるのかもしれません﹂
その荒唐無稽にも取れる説を、光希はどう受け止めればよいか判
らなかった。ただ漠然と、シャイターンの払った犠牲とは、時空を
越えて、光希を呼んだことではないか⋮⋮そんな不安に駆られた。
まさか光希のせいで、西に不遇を招くとは考えたくもないが⋮⋮
黙りこくった蒼白な顔を見て、サリヴァンは心中を察したように、
皺の浮いた手を光希の肩に乗せた。
﹁殿下。貴方がこの地にいらしたのは、紛れもなく、アッサラーム
の思し召しです。その点において、不安に思うことは何一つありま
せぬ﹂
﹁⋮⋮僕の力では、計り知れないことが多過ぎて、時々、無力感に
打ちのめされそうになります﹂
﹁貴方は、尊い天上人であると同時に、アッサラームの民でもある。
地上と天空に住む二人のシャイターンは、必ず殿下をお守りしてく
ださるでしょう﹂
理解しきれたわけではないが、その言葉には思い遣りがあり、光
希は小さく頷いた。
その日の夜。団欒の一時に、同じことをジュリアスにも訊ねてみ
た。
1565
﹁ジュリはどう思う?﹂
﹁確かに、宿敵は討ち取りましたが、冥府の神は牽制を仕掛けてく
るかもしれません﹂
﹁そんな﹂
﹁東西大戦のような衝突には至りませんよ。ただ、師のいう通り、
アッサラームへの試練は続くかもしれませんね﹂
黙す光希を見て、ジュリアスは安心させるように微笑んだ。
﹁案じても、時に試練は訪れるものです。これまでも二人で乗り越
えてきたではありませんか。次も同じことです。ね?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
頷いたものの、顔は下を向いた。ジュリアスは光希の垂れ下がっ
た両手を掬い取ると、励ますように小さく揺らした。そのまま腕を
引かれて、広い胸に抱き寄せられる。
何事も起きなければいい。腕の中で祈りながら、光希は瞳を閉じ
た。
1566
7
更に二十日余り。
事態は芳しくなく、水不足の為の断水で、砂漠の一部の地区で給
水制限がされるまでになった。
事態を重んじた神殿の面々は、光希にオアシスへの同行を願えな
いかサリヴァンに申し入れ、彼の口からジュリアスへと伝えられた。
その日、朝から軍議を執り仕切っていたジュリアスは、老師の訪
問を受けて、彼を執務室に案内した。
﹁難しい状況です。次の雨乞いの儀は、殿下にも私と共に手を合わ
せていただけないでしょうか?﹂
頭を下げる師の姿を見て、ジュリアスは小さく息をついた。予測
していなかったわけではない。厳しい星詠みの状況から、サリヴァ
ンが説きにくるのは時間の問題だと考えていた。
﹁⋮⋮承服すべきと判ってはいるのですが、彼の地へ光希を連れて
いくのは、あまり気が進みません﹂
﹁泉は枯渇しておりますし、中へ入られる必要はありませぬ。傍に
祭壇を整えます故﹂
宥めるようにサリヴァンはいった。
﹁⋮⋮前に、今回の東西大戦では、シャイターンがより大きな犠牲
を払ったのではないかと話していましたね﹂
1567
﹁はい﹂
﹁地上では西が決勝しましたが、天空では果たして今どちらが優勢
なのだと思いますか?﹂
﹁天の事象を推し量ろうとすれば、夜が明けてしまいますよ﹂
師の言葉に、ジュリアスは憂鬱そうに息を吐いた。
﹁なぜ光希なのか。呪縛があるとすれば、私を狙えば良いものを﹂
﹁星の巡り逢いを果たした二人です。どちらに難が降り懸かろうと
も、共に在れば脅威は退けられるでしょう﹂
束の間、沈黙が流れる。逡巡の後、ジュリアスは心を決めた。
﹁⋮⋮仕方ありませんね。私もいきます。急いで日程を調整します
ので、少し時間をください﹂
ジュリアスの心中を察し、サリヴァンは思慮深い眼差しを向けた
後、深く頭を下げた。
カテドラル
大聖堂から、鐘の音が聞こえてくる。
こがね
サリヴァンを見送った後、ジュリアスは軍議に戻らず、遥かな尖
塔の上に立っていた。
西に傾く陽は、豊かな聖都を黄金色に染め上げている。
美しい眺望に心を洗われながら、過ぎ去りし激動の日々を思う。
聖戦を越えて、幾千夜を越えて光希に巡り逢い、かつてない規模
の東西大戦に決勝した。
アッサラームに凱旋して、穏やかな日々を過ごすものと考えてい
1568
たが、時折、燃え立つような闘いへの衝動を感じることがある。
あまりにも長く、戦場にいすぎたせいだろうか⋮⋮
闘うことがしみついてしまって、永く続く穏やかな日々というも
のを、ジュリアスはもう、想像できなくなってしまっていた。
あぶ
冥府の神が、砂漠を脅かす。
ほむら
そう考えた時、焔が鉄を炙るように、身の内で神力が昂るのを感
じる。
冥府の神が脅かさんとしていても、ジュリアスに宿る神力が翳っ
たわけではない。大戦を終えて、神力は身体の隅々まで満ちている
くらいだ。
﹁光希を連れていけ、そうおっしゃるのか⋮⋮﹂
雲間から射す茜に、声なき神託を感じ取り、ジュリアスは独りご
ちた。
事態は動き出す︱︱
一連の話を聞いた光希は、間髪を入れずに了承した。
困窮する状況に助力したい気持ちが半分、もう半分は、蒼い星を
映す泉に郷愁を覚えたから。
オアシスで過ごした日々を、もう随分と昔に感じる⋮⋮
テラスで頬杖をつき、蒼い星に想いを馳せていると、不意に頬を
撫でられた。ジュリアスだ。彼の不安な気持ちを汲んで、光希は安
堵させるように微笑んだ。
﹁大丈夫だよ。もう帰りたいなんて、いわないから﹂
1569
﹁この先、どんな啓示を受けたとしても、必ず私の傍にいてくださ
いね﹂
﹁いるよ。どこにもいかない⋮⋮﹂
言葉は、優しい口づけに吸い込まれた。啄むような触れ合いを重
ねて、顔を離す。互いの瞳に映る想いを確かめて、もう一度。
今は、言葉なんていらない。
後頭部を手で支えられ、腰を引き寄せられると、次第に深い口づ
けに溺れていった。
1570
8
︱︱期号アム・ダムール四五四年七月二五日。
夜も明けきらぬ、黎明の空。
砂に囲まれたオアシスの天空には、無数の星屑が瞬いている。
吸いこまれてしまいそうな、満点の星空を仰いで、光希は両腕を
広げた。
肺一杯に、懐かしい空気を吸いこむ。そうして深呼吸を繰り返し
ていると、背中から抱きしめられた。馴染んだ気配に、笑みが零れ
る。
﹁久しぶりだね。ここへくるのは﹂
﹁光希⋮⋮﹂
声に滲んだ幽かな不安を嗅ぎ取り、光希は安心させるようにジュ
リアスの腕を叩いた。
あまり口にしないが、彼は光希がオアシスへくることを長く恐れ
ていた。
ここは、始まりの場所だから。
星を越えて、光希が初めて砂を踏んだ場所。あの泉の底から、異
次元の扉を開いて光希はやってきた。同じ場所から、天空へ戻るこ
とがあるやも⋮⋮そんな不安を拭えないのだろう。
﹁そろそろ、着替えてくるね﹂
到着したばかりだが、夜には祈祷が始まる。天幕に下がる光希の
1571
背を、ジュリアスは複雑な気持ちで見送っていた。
蒼い星が、空に浮かぶ。
儀式を執り行えるよう、急ぎ祭壇は整えられた。
身支度を整えた光希が祭壇の前に現れると、要人達は手を休めて
一礼した。光希は、いつもの銀糸の聖衣ではなく、金銀の円盤が一
面に縫い付けてある伝統的な衣装を着ていた。雨乞いをする神官装
束である。
﹁僕は、祭壇の前にいて良いのでしょうか?﹂
首を傾げる光希に、サリヴァンは首肯で応じた。
﹁はい。殿下は私の後ろで、この泉が満たされることをお祈りくだ
さい﹂
﹁祝詞を上げなくても平気ですか?﹂
﹁その役は、ナフィーサが勤めます。想いは祈祷の根源。殿下は、
心で呼びかけてくだされ。声なき祈りを、天は拾い上げてください
ます﹂
﹁判りました﹂
星を読むサリヴァンの傍で、ナフィーサは真剣な顔つきで学んで
いる。
ここへくる前に、光希からいい出したことだ。オアシスでは光希
の身の回りの世話より、師の傍で学んで欲しいと。
儀式に疎い光希の補佐の為でもあるが、ナフィーサの後学にも良
いだろうという目論みもあった。光希の傍仕えとして心を尽くして
1572
メジュラ
くれる彼が、ゆくゆくは星詠神官の道を歩みたいと考えていること
を、光希は以前から知っていた。前途ある少年の時間を、光希の傍
にいることで全て取り上げてしまうのは忍びない。
砂の上に、焔が揺れる。
絹織のかけられた祭壇の上、無数の蝋燭に火が灯された。
神官達は祭壇を輪になって囲み、サリヴァンと光希は祭壇前で、
それぞれ腰を下ろした。
神官達は神聖な音を奏でて、祈りの場を清める。厳粛な気が満ち
て、清涼な風が吹き始めた。
両手を胸の高さに持ち上げて、サリヴァンが聖句を唱えると、輪
になって座す神官達が復唱する。
水晶が共鳴するようように、波紋が広がってゆく。 大勢の神官が、砂に敷いた絨緞の上に胡坐をかいて、拝礼をした。
光希も礼節通りに、絨緞の上で三度、身体を平伏す。
滔々︵とうとう︶と流れる祈祷を聴き流しながら、心の中でシャ
イターンに呼びかける。
︵オアシスが満ちますように⋮⋮︶
厳かな空気が満ちる。やがて、瞼の奥が揺らいだ。祭壇の前で見
る、白昼夢のようだ。
蒼い燐光を帯びる、朧な輪郭︱︱シャイターンが見える。彼が自
らの姿を見せるのは初めてのことかもしれない。
流れる豪奢な金髪に、涼しげな蒼い瞳。褐色の肌をした、威風堂
々たる美丈夫だ。
顕現した戦神は、つと手を伸ばし、光希を指す。声は、頭の中に
直接響いて聞こえた。
怨嗟を絶つ為に、試練が課せられる。それは永久ではない、想い
があれば乗り越えられる⋮⋮
1573
どのような試練かは判らないが、期待されていると知り、光希は
緊張した面持ちで頷いた。
刹那︱︱音を立てて蒼い空は落ちた。
視界は暗闇に覆われ、身体は、虚空に突き落とされる。無尽の静
寂に包まれた。
胸に大穴を開けられたような、凄まじい衝撃。胸から、金色の砂
粒がさらさらと零れ落ちていく︱︱
﹁うわ⋮⋮っ﹂
溢れ出る砂を堰き止めようとするが、指の合間から、砂の粒子は
流れて落ちていく。
よぎ
止められない。気が急いて、思考がまとまらない。痛みはない。
ただただ、焦燥感が募るばかり。
最後の一粒が流れ落ちる瞬間、ジュリアスの顔が脳裏を過った。
視界が戻ると、駆け寄る本人の姿が見えた。いつでも冷静な彼が、
心配そうな顔をしている。
﹁光希!﹂
大丈夫。応えたいのに、瞼が重い︱︱力強い腕を感じた瞬間、意
くずお
識は途切れた。
頽れる光希の身体を、ジュリアスは抱きとめた。
辺りが騒然となった時、天を覆う雨雲から、ぽつ、と雫が垂れた。
唖然と空を仰ぐ面々に、雫は次々と降り注ぐ。
恵みの慈雨は三日降り続け、その間、光希は眼を醒まさなかった。
1574
1575
9
蒼とした夜。
静かに眠る光希の傍に、ジュリアスは寄り添い、離れられずにい
た。光希は三日前に倒れてから、懇々と眠り続けている。身体に異
常は見られないが、一向に眼を醒まさないのだ。
このまま眼を醒まさないのでは︱︱そんな不安に駆られてしまう。
まんじりともせず夜を明かし、四日目の朝。
光希はようやく眼を覚ました。視点の定まらぬ様子でぼんやりと
天幕を見渡し、ジュリアスに気付くや、極限まで黒い瞳を見開いた。
﹃えっ?﹄
﹁あぁ、良かった﹂
﹃え⋮⋮﹄
何をいわれているのか判らない。そんな顔で、光希はジュリアス
を凝視している。只ならぬ様子に、ジュリアスは眉を顰めた。
﹁気分は? 喉が渇いているでしょう?﹂
﹃⋮⋮誰?﹄
かす
幽かな呟きは、公用語ではなかった。手を伸ばして髪に触れると、
光希はぎょっとしたように眼を丸くした。どうも様子がおかしい。
正体不明の違和感を覚えながら、ジュリアスは唇を開いた。
1576
﹁本当に心配しました。三日も眠っていたのですよ﹂
檸檬水を注いだ杯を渡すと、光希はぎこちなく口に運んだ。表情
を和らげて何かを呟いたが、訊き取ることはできなかった。
﹃あの、ありがとうございます。ここは⋮⋮?﹄
﹁光希? ⋮⋮どうして、天上の言葉を?﹂
訝しんだジュリアスは、顔を寄せて黒い双眸を覗きこんだ。丸く
見開かれた眼に、驚愕と戸惑いが浮かんでいる。亡霊でも見たかの
ような顔で、光希は唇を開いた。
﹃俺の名前、どうして知ってるんですか?﹄
﹁光希? 一体どうしたのですか?﹂
﹃誰なんだ?﹄
呆然自失したように天上の言葉を呟く光希を見下ろしながら、ジ
ュリアスは嫌な胸騒ぎを覚えた。
﹁祈祷の途中で、倒れたことは覚えていますか?﹂
﹃ここは、どこなんだ⋮⋮?﹄
﹁⋮⋮私が判りますか?﹂
不安そうに、黒い双眸が揺れる。
警戒するような眼差し、覚束ない様子で室内を見渡す光希を見て、
1577
よぎ
遠い記憶が脳裏を過った。
オアシスで初めて出会った時、光希は不安そうにジュリアスを仰
ぎ、天上の言葉を喋った。あの夜を思い出す。
﹁意識が混濁しているのか⋮⋮三日も眼を覚まさなかったから。サ
リヴァンを呼んできます﹂
Who
are
you? I⋮⋮やっぱり、
腰を上げようとするジュリアスの袖を、光希は切羽詰まった表情
で掴んだ。
﹃English?
英語じゃないのかな?﹄
﹁⋮⋮大丈夫。ここにいます﹂
不安そうな光希を見て、立ちあがりかけていたジュリアスは再び
腰を下ろした。座ったまま、天幕の向こうに呼びかける。すぐに応
じるナフィーサに、サリヴァンを呼んでくるよう伝えた。
間もなくやってきたサリヴァンは、一通り診断を終えると、難し
い顔で小さく首を振った。
﹁一時的なものかは不明ですが、殿下は記憶を失くされていらっし
ゃる﹂
﹁記憶を?﹂
﹁然様。公用語も理解されていない。伴侶である貴方のことも、認
識できていないご様子。ですが、思考はしっかりしていらっしゃる
⋮⋮まるで、初めてお会いした頃に退行されたようですな﹂
1578
﹁身体に異常はないのですか? 祈祷の影響とかしか思えません。
あの時、何があったのです?﹂
﹁聖句を諳んじている者で、他に昏倒した者はおりません。儀式は
滞りなく行われました。殿下お一人が、シャイターンの啓示を受け
たのです﹂
﹁どのような声を訊いたのだろう⋮⋮﹂
﹁神のみぞ知ることでしょう﹂
サリヴァンは判らない、というように首を振った。
身体に異常はなくとも、一時的な記憶障害をきたしているようで、
ジュリアスは元より、公用語まで失くしているという。
不安そうにしている光希を見て、ジュリアスはいったん天幕から
人を下がらせた。
﹁光希の好きな、桜桃の桜漬けですよ﹂
甘味を短剣で裂いて口に運ぶと、光希は戸惑った顔をしながらも、
おずおずと口を開いた。
﹁美味しい?﹂
﹃⋮⋮ありがとうございます。﹁おいしい﹂﹄
咀嚼を終えると、光希は控えめに微笑んだ。後半を、ジュリアス
の言葉を真似て返す。
檸檬水を杯に注いで手渡すと、申し訳なさそうに光希は会釈をし
た。
1579
﹃すみません、何から何まで⋮⋮あの、俺は光希といいます。俺を
知っているようだけれど、貴方は? 名前は?﹄
胸に手を当てた光希は、自分の名前を繰り返した後に、問いかけ
るようにジュリアスを見て首を倒した。
冷水を顔に浴びた気分で、ジュリアスは一瞬言葉に詰まった。が、
すぐに衝撃をやり過ごして笑みを浮かべる。
﹁⋮⋮私の名前は、ジュリアスです。どうぞ、ジュリと呼んでくだ
さい﹂
名を繰り返すと、光希は理解を眼に灯して、ジュリ、と呟いた。
﹃ジュリ、ありがとうございます﹄
﹁はい﹂
笑みかけると、光希は照れたように視線を逸らした。愛しさがこ
みあげて、つい手が伸びる。頬に触れると、光希はびくりと肩を撥
ねさせた。手を離そうか躊躇するが、もう少しだけ、と指を滑らせ
る。柔らかな唇に親指で触れると、光希は途端に身体を固くした。
﹁⋮⋮すみません。驚かせてしまって﹂
﹃え、と⋮⋮﹄
﹁空腹でしょう? 何か食べましょう﹂
空気を変えるように、食事する手ぶりを見せると、光希は腹を手
1580
で押さえて、そういえば、という顔をした。気まずそうに頷く様子
を見て、ジュリアスは微笑んだ。
﹁遠慮はいりませんよ﹂
料理を運ぶ召使達を、光希は物珍しそうに眺めていた。
言葉を発しない光希を見て、ナフィーサは給仕の手を止めた。心
配そうに眉を寄せる。
﹁オアシスは蘇ったというのに、殿下の身にこのような難が降り懸
かるとは。記憶を失くしてしまわれるだなんて⋮⋮﹂
﹃えっと⋮⋮?﹄
言葉をかけられて、光希は戸惑ったように会釈をした。視線を外
さずに、じっとナフィーサを見つめる。その様子に、なぜかジュリ
アスの心は騒いだ。
﹁光希﹂
黒い双眸がこちらを向くと、肩を抱き寄せてナフィーサから遠ざ
けた。
﹁ナフィーサ﹂
﹁はい﹂
﹁呼ぶまで、下がっていてください。二人で過ごしたい﹂
﹁かしこまりました﹂
1581
丁寧に頭を下げたナフィーサは、静かに外へ出ていく。
光希と親しい間柄であっても、この状態の光希の傍に、ジュリア
ス以外の誰かを寄せるのは嫌だった。
記憶をなくしている光希に、動揺を与えたくないのもそうだが、
他の誰かに真新しい関心を覚えるのを見たくないからだ。
﹁⋮⋮本当に、忘れてしまったの?﹂
﹃⋮⋮?﹄
俄かには信じられず、幾つか簡単な公用語を口にしてみたが、光
希は芳しい反応を示さなかった。
不安そうな、申し訳なさそうな顔で首を振るばかり。頻繁に口に
する、ワカラナイ、という響きを、そういえば昔は何遍も訊いたこ
とを懐かしく思い出した。
もすそ
天幕で拙い会話を続けるうちに、陽は傾いていく。
空は茜色に染まり、やがて裳裾に藍色が広がる。夕闇が色濃くな
るにつれて、青い星が姿を見せた。
﹃嘘だろ⋮⋮﹄
天幕の外に出た光希は、砂漠に膝をついて、幽鬼のような顔で空
を仰いだ。
﹁光希﹂
名を呼んでも、反応を示さない。魂を吸い取られたような顔で、
ひたすら空を︱︱青い星を仰いでいる。
1582
﹁光希!﹂
不安を掻き立てられ、両肩を掴むと、黒い眼はようやくこちらを
向いた。
﹃なんだって、こんな⋮⋮﹄
﹁光希⋮⋮﹂
﹃マジで、どこなんだここ? どうなってるんだ!?﹄
望郷を誘われたように空を仰ぐ姿を見て、ジュリアスは表情を凍
らせた。
再び戻された黒い瞳が、不安そうにこちらを仰ぐと、急速に思考
は回転を始める。霞がかった頭に、信じたくはない事実が否応なし
に浸透していった。
老師のいう通り︱︱光希は、ジュリアスを忘れている。オアシス
で出会い、アッサラームで過ごしてきた時間の全てを、失くしてし
まったのだ。
まるで、蘇ったオアシスの代償に、光希は記憶を失くしたように
思えた。
1583
10
星明かりを浴びて、佇む光希。
空を仰ぐ想い人の背に、そっとジュリアスは声をかけた。血の気
の失せた顔がこちらを向く。迷子のような顔をしていた。
﹁大丈夫、何も怖いことなんてありませんよ。中へ入りましょう?﹂
手を差し伸べると、光希はふらふらと戻ってきた。
﹃⋮⋮信じられない﹄
﹁シィ。こちらへいらっしゃい﹂
光希は手を引かれるまま天幕の中に入り、力なく絨緞に腰を下ろ
した。ジュリアスも隣に腰を下ろして、丸まった背中を宥めるよう
に摩る。
光希は、呆然自失したように項垂れていたが、しばらくすると、
隣にいるジュリアスを思い出したように顔を上げた。
眼が合うと、照れたように視線を逸らし、また戻すを繰り返す。
微笑みかけると、眼に見えて狼狽えた。
こんな状況であっても、光希に意識されていると思うと喜びが芽
生えた。幸い、肩や背に触れても嫌がる様子はない。
﹁光希。こちらへ﹂
ジュリアスは光希の手を引いて、寝台に座らせた。頼りげない黒
い瞳は、どうすればいいのかしら、そう囁いている。
1584
不安そうにしていると、彼は普段よりもずっと幼く見える。
出会った頃の、いとけない印象をまざまざと思い出しながら、ジ
ュリアスは光希の足元に跪いた。そうでもしないと、何も知らない
光希に、衝動的に口づけてしまいそうだった。
﹃えっ!? 待って﹄
﹁動かないで﹂
脱がせようとして、靴に手をかけると、光希は戸惑ったように身
じろいだ。下から仰ぐと、ジュリアスは安心させるように微笑んだ。
﹁疲れたでしょう? もう休みましょう﹂
殊のほか優しく囁いたが、光希は返事をしなかった。戸惑ったよ
うに、ジュリアスを黒い眼でじっと見つめている。まるで、出会っ
た頃のようだ。視界から、少しでも多くの情報を得ようとしている
のだろう。
﹁⋮⋮大丈夫ですよ。怖いことは何もありません。私が傍にいます﹂
黒髪を手で梳くと、光希は途端に身体を強張らせた。
﹃何?﹄
﹁いえ⋮⋮疲れたでしょう? もう休みましょう﹂
反対側から、ジュリアスも寝台に上がると、光希は眼を見開いた。
﹁今夜はもう、眠ってしまいなさい。お休みなさい、光希﹂
1585
背を向けて横になると、照明を落とす。すると光希は、窺うよう
に声をかけた。
﹃え⋮⋮本当に寝るの?﹄
緊張の後にやってきたような、いかにも拍子抜けした声が、かわ
いらしかった。
光希はしばらく上体を起こしたまま、もじもじしていたが、やが
て横に寝転がった。
﹃お休みなさい﹄
小声で呟く。なんとなく、言葉の意味は想像がついた。控えめな
夜の挨拶に胸を暖かくさせながら、ジュリアスは密かに微笑んだ。
夜闇に、静寂が流れる。
隣で眠る、男の背を光希はぼんやりと見た。
胸の真ん中に、大きな穴が開いてしまったように感じる。
大切な何かが抜け落ちてしまったような⋮⋮どうしてこんな所に
いるのか、何も思い出せない。一体、自分の身に何が起きているの
だろう?
彼は、誰なのだろう? どうして親切にしてくれるのだろう?
何一つ判らないのに、不思議と彼の傍にいると心が安らぐ。
どうして︱︱疑問は間もなく、曖昧模糊にぼやけた。揺るやかな
眠りに誘われて、意識は落ちていく⋮⋮
眠りに沈みゆく刹那、優しい指に髪を梳かれたような気がした。
静かな寝息が聞こえてくる。
1586
音を立てぬよう、ジュリアスはゆっくり身体を起こした。慎重に
手を伸ばして、寝台に散った黒髪に触れる。
﹁⋮⋮﹂
こみあげる想いを押え切れず、そっと顔を寄せた。閉じた瞼に、
唇で触れる。
彼の安らかな眠りを祈りながら、夢の中で、ジュリアスを想って
くれたらと願った。
光希の記憶は戻らぬまま、予定よりも七日遅れて、ジュリアスは
オアシスを発った。
1587
11
雲一つない、眼の醒めるような青空。
光の悪戯で、玉ねぎ型の尖塔が天まで伸びて見える。
天を映す水鏡に、金色の尖塔が映り込む様は、呼吸を忘れるほど
美しい。
これが、アッサラーム。
なぜだろう⋮⋮初めて見る景色のはずなのに、不思議と昔から知
っているような気がする。
記憶は戻らぬまま、光希はジュリアスと共にアッサラームへ帰還
しようとしていた。
オアシスを発つ際、勇壮な飛竜を見て倒れそうになったが、数刻
も飛ぶうちに、どうにか耐性を身につけた。今はジュリアスの腕の
中に納まっている。
﹁聖都アッサラームですよ﹂
﹃アッサラーム⋮⋮﹄
復唱すると、そうだというように、腹に回された腕に軽く力が込
められた。
おずおずと視線を合わせると、宝石のように青い瞳が細められる。
気恥ずかしさに、光希はすぐに視線を逸らした。恥じらう自分に疑
問を覚えるが、いちいち甘い仕草をするジュリアスがいけない。
彼は、眼を瞠るほど格好いいのだ。
鍛えられた長身体躯、男として理想的な身体でありながら、非常
に洗練された容姿をしている。淡い褐色の肌、豊かな金髪に宝石の
ような碧眼。
1588
世の中には、こんなにも美しい男がいるのか。
信じられないほど綺麗で、まるで異国の皇子様だ。
甘く微笑まれると、同姓と知っていても胸が高鳴ってしまう。そ
れでいて、傍にいると不思議と安心感に包まれるのだ。ずっと、寄
り添っていたいような⋮⋮
眼が醒めた後の摩訶不思議に、正気を失わずにいられたのは、こ
の親切で優しい美貌の青年が、常に傍にいてくれたおかげだ。
言葉の通じない、寄る辺ない世界で、赤子も同然の光希を何かと
気遣い、世話を焼いてくれる。関係は不明だが、彼の方は光希をよ
く知っているらしく、親密すぎるくらいに光希に接する。
今も猫の子のするように、優しい手つきで髪を梳いている。
彼が何を考えているのか不明だが、こんな風に触れられて、少し
も嫌とは思わない光希の方がもっと意味不明である。嫌どころか、
むしろ⋮⋮
﹁もうすぐ、到着しますよ。覆面をつけて﹂
﹃ん、つける?﹄
下げていた覆面を摘まれて、光希は意識を呼び戻された。意図を
察して、覆面を上げると、よくできました、というように髪を撫で
られた。大きな手は、男性的なのに綺麗で、耳や頬を滑り落ちる指
に、つい見入ってしまう。
心拍数を撥ねさせながら、光希はどうにか平静を保った。
果たして、彼との関係はどのようなものなのだろう?
ここはどこなのか、どうして自分はここにいるのか。果たして彼
は誰なのか⋮⋮判らないことだらけだが、何よりもそれが最大の疑
問だ。
光希には、高校二年までの記憶しかない。
眼を醒ましたあの日、鏡に映る自分の姿を見て、知らぬ間に、二・
1589
三年の月日が流れていると予測していた。
空白の時間を、この未知の世界で恐らくはジュリアスと過ごして
きたのだろう。彼の仕草には、月日に裏付けられた親密さを感じる。
夜空を仰いで郷愁に誘われる度に、傍で慰めてくれた。不安で堪
らずに、涙の滲んだ眼の端に、口づけられたこともある。
﹃⋮⋮ッ﹄
﹁光希?﹂
﹃や、なんでもない﹄
想い出したら、顔が火照った。
彼のことを何も知らないのに、急速に惹かれていく。膨れていく
想いを、止められない。この想いの先に何があるのか、知ることが
少し怖い⋮⋮
緑の庭園に舞い降りると、駆け寄ってきた軍関係者に飛竜を任せ、
ジュリアスは黒い一角獣を光希の前に連れてきた。
﹁トゥーリオですよ。覚えていますか?﹂
﹃トゥーリオ?﹄
美しい生き物は懐っこく、光希を見て嬉しそうに首を伸ばした。
びろうど
艶やかな鬣を大人しく撫でさせてくれる。
天鵞絨のような手触りに夢中になっていると、くすくす、と小さ
な微笑が聴こえた。
顔をあげると、蕩けるような微笑を向けられて、音速で視線を逸
らした。またしても、心臓の鼓動がおかしなことになり始めた。
恥じらう乙女のような反応に自問自答していると、ジュリアスは
1590
腰を屈めて、光希の頭の上にキスを落とした。
﹃わぁっ!﹄
慌てふためく光希を見て、ジュリアスは笑っている。甘ったるい
空気に眩暈がする。
いっぱいいっぱいになっていると、光希の緊張が伝わったのか、
ジュリアスはようやく身体を離した。トゥーリオの背に乗るのを助
けてくれる。
花盛りのジャスミンを眺めながら、道を進んだ。
そよ風に梢が揺れて、煉瓦の道に木漏れ陽が躍る。
陽を浴びて煌めく、瀟洒な屋敷の全貌を見て、光希は息を呑んだ。
﹃すげぇ⋮⋮﹄
物語に登場する、宮殿のような佇まいだ。
一面を紫の絨緞、クロッカスに覆われており、そよ風が吹く度に、
爽やかに香っている。
呆気に取られていると、ジュリアスは光希の顔を覗きこんで満足
そうに微笑んだ。
薄々気付いてはいたが、彼はかなり身分が高いらしい。使用人達
が、主を出向かるように、左右に列を成して頭を下げているのだ。
本当に皇子様だったりして。
こんなにも人目を引く男の隣にいて、不審な眼で見られやしない
か不安を覚えたが、無用な心配だった。誰も彼もが、笑顔で親切に
接してくれる。
﹃ロザイン、って俺のことか?﹄
光希の顔を見て、そのように声をかけるのは一人二人ではなかっ
1591
た。好意的な笑みを向けられているので、愛称か何かなのかもしれ
ない。
それにしても、こんなにも多くの人間に、どうして光希は周知さ
れているのだろう?
顔中に疑問符を浮かべる光希の背を、大丈夫だよ、というように
ジュリアスは柔らかく押した。
﹃わ⋮⋮﹄
外観にも圧倒されたが、内装も素晴らしかった。
壁面を飾る青い幾何学模様のタイル。あちこちに穿たれた窓から
は、自然光が降り注ぎ、照明がいらないほど明るい。
正面に優美な螺旋階段があり、ジュリアスは光希を二階へと案内
した。
奥の部屋へ入ると、どこからか風が流れて、爽やかな異国の香り
が漂った。
薄く開いた窓硝子に気付いて、テラスへ出てみると、陽光を弾い
て煌めく大河を一望できた。
﹁アール河ですよ﹂
﹃アール⋮⋮﹄
優しいジャスミンの香る異国の風に吹かれながら、光希は煌めく
水面をぼぅっと眺めた。
まただ⋮⋮
不思議な既視感。ここから、こうして景色を眺めるのは、これが
初めてではないような気がする。頬杖をついて浸っていると、顔に
影が射した。背中から温もりに包まれる。
1592
﹃ジュリ?﹄
後ろから抱きしめられて、光希は眼を瞬いた。忽ち顔が熱くなる。
肩を縮めていると、頬に口づけられた。
﹃っ!?﹄
心臓が破裂しそうなほど鳴っている。
緊張に耐えかねて眼を瞑ると、唇の端に柔らかなものが触れた。
少しでも口を動かせば、触れ合ってしまいそうで、光希は呼吸すら
止めた。
﹁恐がらないで﹂
﹃⋮⋮っ﹄
耳朶にそっと囁かれて、増々体温が上がる。心臓が破れそうだ。
緊張を解そうとするように、ジュリアスは光希に優しく触れた。髪
をくすぐったくなるほど、丁寧な手つきで梳いて、耳の輪郭をなぞ
る。
親密過ぎる空気に、ついていけない。
首筋を指が滑り、あやうく出掛けた声を呑み込んだ。綺麗だけど、
骨ばった男らしい手が、喉を撫でて顎をくすぐる。
﹃あ、の﹄
どうすればいいか判らず、そっと上目で窺うと、信じられないほ
ど甘い眼差しに見下ろされていた。綺麗な顔がゆっくり降りてきて、
呆然とする光希の唇を塞ぐ。
1593
﹃ん﹄
慌てて顔を背けると、すぐに顔は離れたが、ジュリアスは光希を
離そうとはしなかった。至近距離で、髪を撫でたり、耳や頬を気ま
まに撫でる。
彼の触れ方は、まるで恋人のそれだ。
一体自分は、普段彼とどんな風に過ごしていたのだろう? まさ
か、これが当たり前だったのだろうか?
身体を固くしながら静かに混乱していると、ナフィーサが茶器を
運んできた。空気が変わることにほっとして、光希が肩から力を抜
くと、そんな心情を見透かしたようにジュリアスは光希を抱き寄せ
た。
人が見ているのに、と焦る光希と違い、ジュリアスは堂々として
いる。ナフィーサも特に驚いたりもせず、にこやかに給仕を始めた。
どきまぎしながらも、彼等の傍にいることで、光希は不思議な安
らぎを覚えていた。
この和やかな空気は、なんというか、とてもしっくりくる。
恐らく、過ごしてきた時間の長さに因るものなのだろう。記憶を
失くす前にも、こうして、彼等と紅茶を飲んでいたのかもしれない。
1594
12
アール河の煌めく水面を眺めると、光希は表情を和らげた。
束の間、彼の顔から、陰りが消えたように見えて、ジュリアスは
内心で安堵した。
肩を引き寄せて、室内へ招き入れる。記憶を失くしていても、ア
ッサラームを描いた絵画的な草木染めの絨緞は光希のお気に入りら
しく、進んで腰を下ろした。なんともなしに、指を滑らせて手触り
を愉しんでいる。
﹁気持ちいい? 二人でエルドラード市場へ繰り出した際、購入し
たものですよ﹂
﹃ふかふか﹄
絨毯を撫でながら、紅茶を煎れる様子を、光希は興味津々といっ
た風に眺めている。紅茶は、一般家庭では火で沸すことが多いが、
公宮では正式に炭火で沸かしている。
視線に気がついたように顔をあげると、光希は黒曜の瞳を細めて
笑った。
﹁︱︱ッ﹂
素直な笑顔に不意打ちで見惚れてしまい、ジュリアスは咄嗟に言
葉が出てこなかった。光希の周りだけ、金色に輝いて見える。
﹃おぉー、凄い。本格的だなぁ﹄
1595
心を奪われているジュリアスには気付かず、光希は興味深そうに
給仕の様子に眼を注いでいる。
﹁工房を見たら、貴方はもっと喜ぶのかな﹂
﹃何ですか?﹄
にこにこしている光希を見て、ジュリアスは微笑んだ。
休憩の後に工房へ案内すると、期待した以上に光希は喜んだ。
作業机の上にかけられた布をめくると、鋼の腕輪が置かれていた。
オアシスへ発つ前まで、光希が取り組んでいたものだ。
﹁⋮⋮覚えていますか?﹂
﹃これは、何でしょう?﹄
不思議そうに首を傾げながら、光希はじっと鋼に眼を注いだ。自
ら打った意匠に眼を凝らしている。
興味深そうに眺めた後、今度は別のものに視線を移した。
記憶を呼び起こす糸口には至らなかったようだ。
ささやかな落胆を覚えながら、ジュリアスは気を取り直して、部
屋を案内した。
強い関心を寄せるものの、光希は記憶を手繰り寄せるような反応
は見せなかった。
工房を案内し終えた後、ふと思い立って、ジュリアスは腰に佩い
光希
の二文字を見て、彼は眼を大きく見開いた。
たサーベルを鞘から抜いた。刀身を抜く。光希が自ら意匠した双竜
え
の柄、そして
﹃なんで、俺の名前⋮⋮﹄
1596
﹁光希が私の為に、刀身に刻んでくれました。遠く離れていても、
この剣を通じて、いつでも貴方は私の傍にいてくれます﹂
﹃⋮⋮﹄
じっと耳を傾けながら、光希は刀身に指を滑らせた。何かを読み
取ろうとするように、黒い鋼に彫られた名を撫でる。その様子を眺
めながら、ジュリアスは黒髪に手を滑らせた。黒い双眸と眼が合い、
愛しさが胸にこみあげた。
ロザイン
﹁たとえ記憶を失くしても、貴方が光希であることに変わりはあり
ません。私の大切な花嫁です﹂
﹃えっと⋮⋮﹄
﹁ん?﹂
視線で先を促すと、光希は顔を伏せた。恥じらう姿に胸を暖かく
させながら、ジュリアスは耳にかかる金髪を掻き上げ、銀細工の飾
りを見せた。
﹁これは、先日光希からいただいたものです﹂
﹃へぇ、ピアス? 似合ってる﹄
光希は自分の装飾品はあまり造らないが、ジュリアスには日頃か
ら贈り物をよくしてくれる。
﹁他にもありますよ。お茶を飲みながら、眺めましょう﹂
1597
私室に戻ると、ナフィーサが心得たように紅茶を煎れた。桜桃の
砂糖漬を見て、光希は表情を綻ばせている。
﹁美味しい?﹂
﹁おいしい﹂
頬を膨らませて、光希はジュリアスの言葉を真似た。幸せそうに
咀嚼する姿がかわいらしい⋮⋮
﹁良かった。光希の好きな菓子の一つでしたよ﹂
照れ臭そうに視線を逸らす光希を見て、ジュリアスは頬杖をつい
て、彼に魅入っていたことに気付いた。
﹁少し失礼﹂
席を立つと寝室に入り、大切にしている宝石箱を手に戻った。
中には光希からもらった指輪や耳飾り、帯や鞘の装飾といった様
々な貴金属が収められている。
光希は興味深そうに眺めると、そろりと手を伸ばしつつジュリア
スを窺った。
﹃触っても平気ですか?﹄
﹁どうぞ。全部、光希が作ってくださったんですよ﹂
揃いの二つの指輪を手に取り、光希の掌に乗せる。光希は、しみ
じみと銀色の円環を眺めた。
それは、光希がクロガネ隊に勤務するようになり、しばらくした
1598
頃に贈られた最初の指輪だ。自分の装飾品は滅多に造らない光希が、
珍しく自分とジュリアスの分を揃えて作った。恋人の証なのだと、
はにかみながら指に通してくれて⋮⋮
﹃これは⋮⋮イニシャル? にしては長いな⋮⋮﹄
不思議そうな声に我に返り、ジュリアスは光希の手元を覗きこん
だ。指輪の裏に刻まれた文字に気付いたようだ。
﹁結婚の記念にと、名前と時を刻んだ指輪です。とても嬉しかった
ですよ﹂
手元が落ち着かず、互いに日頃は指輪を外しているが、外出する
際は身に着けている。
﹃ペアリングみたい⋮⋮あれ、ちょうどいい?﹄
首を傾げ、光希は少し小さい指輪の方を自分の薬指にはめた。す
んなり収まる指輪を見て、不思議そうに首を傾げている。思わずジ
ュリアスが微笑を漏らすと、問いかけるような視線を向けられた。
﹁それは光希の指輪だから⋮⋮これは私﹂
もう一つの指輪をジュリアスは薬指にはめた。ぴたりと収まる指
輪を、光希は眼を丸くして凝視する。
﹃えッ、なんで? え⋮⋮?﹄
﹁今から二年前、私達はアッサラーム中の祝福を浴びて婚姻を結び
ました﹂
1599
﹃ちょっと待って⋮⋮俺とジュリは、一体どういう関係なんだ?﹄
1600
13
沈黙が流れる。
黒い双眸を丸く見開いて、光希はジュリアスの瞳に答えを探して
いる。
かと思えば、我に返ったように目元を赤く染めた。視線を逸らさ
れる前に、ジュリアスは無意識に指を伸ばした。
﹁⋮⋮貴方は、私の運命そのものです。幾千夜を越えて、砂漠で巡
り逢い、虚ろな心に火を灯してくださった。恋を知り、生きる喜び
を知り、私の何もかもを変えたのです︱︱光希﹂
﹃はい﹄
妙に畏まった返事をする光希を見て、ジュリアスは微笑んだ。銀
色の円環をはめた手をそっと持ち上げて、優しく唇で触れる。
﹃あ⋮⋮﹄
戸惑う黒い瞳を見つめたまま、ジュリアスは姿勢を正した。片手
を右肩に当てて、唇を開く。
﹁光希が好きです。出会った時から、変わらずに貴方だけを想って
います⋮⋮愛している。私を知って、どうかもう一度、私を好きに
なってください﹂
﹃ジュリ⋮⋮﹄
1601
﹁⋮⋮口づけてもいい?﹂
想いを抑え切れず、硬直する光希の肩を手で包み込み、ジュリア
スは顔を近付けた。
﹃あ、あの﹄
﹁光希⋮⋮﹂
距離を取ろうと突き出された腕を無視して、ジュリアスは腰を引
き寄せた。光希が怯えている。判っているが、止まれそうにない。
唇に視線を落とすと、光希は顔を背けた。眼を見開いて硬直する身
体を、更に抱き寄せる。
そっと唇の端に口づければ、光希は小さく震える。ジュリアスは
熱を持った頬を両手で挟むと、視線を合わせたまま唇を押し当てた。
﹃⋮⋮ッ﹄
久しぶりに触れた唇に、全身が痺れた。
硬直する光希の腰に腕を回し、隙間がないほど密着させる。啄む
ような口づけを何度も繰り返して、少しずつ角度を深めていく。
﹃ん、ぅ﹄
上唇を柔らかく食むと、うっすら開いた唇から甘い吐息が零れた。
もっと欲しい。
から
強烈な劣情がこみあげて、舌を挿し入れた。歯列を割って、逃げ
惑う舌を搦め捕る。柔らかな舌を啜り上げた。怯えた光希は逃げよ
うと腕を振る︱︱反射的に両腕を掴んだ。
1602
﹃ジュリッ﹄
悲鳴を聞いて、我に返った。
涙目になっている光希を見下ろして、名残惜しく思いながら、ジ
おのの
ュリアスは口づけを終わらせた。最後に、ちゅ、と唇を触れ合わせ
ると、光希は慄いたように全身を強張らせた。
記憶を失くしているのだと知っていても、怯えた表情をされるの
は辛い。
﹁⋮⋮すみません、驚かせてしまって﹂
悄然と視線を落とすジュリアスを見て、光希は今の口づけが、戯
れでないことを悟った。
嫌ではなかった。
天地がひっくり返り、全力疾走したかのように心臓は拍動してい
るが、決して嫌ではなかった。
無意識に濡れた唇に触れると、じんと、身体が甘く痺れた。
キスがこんなにも気持ちいいだなんて、知らなかった。
知らなかった? 本当に⋮⋮?
さざなみ
消失した記憶の奥底で、熾火が揺れている。得体の知れない何か
が、泉のように胸から溢れ出して、細波のように全身に広がった。
﹃俺達は、やっぱり、そのぅ⋮⋮そういう関係なの?﹄
訳が判らない⋮⋮殆ど自問するように光希は呻いた。暴れる心臓
に手を当てて、必死に宥める。
﹁光希⋮⋮﹂
困惑する姿を見て、抱きしめたい衝動をジュリアスはどうにか堪
1603
えた。焦ってはいけない。己に強くいい聞かせねばならなかった。
このキスをきっかけに、二人は距離を測りかねるようになった。
互いを意識しながら、踏み込めない。
光希は恥ずかしそうに緊張している風だが、ジュリアスの事情は
もっと切実だった。
己を律していても、やり場のない欲望は募っていく。
手を伸ばせば触れられる距離に光希がいるのに、触れられない。
ふと気付けば、光希の唇やうなじ、身体の線に眼を注いでいる。
居心地悪そうに身じろぐ光希を見る度に、我に返るのだ。
このままでは、いつか刹那的な欲望に負けて、強引に奪ってしま
いそうだ。
日毎想いは募ってゆく。
これまでのように触れぬよう、細心の注意を払わねばならなかっ
た。
怖がらせないように、驚かせないように⋮⋮
甘く切ない戒めに苛まれながら、ジュリアスはそれでも光希の傍
にいたかった。
食事の合間に、団欒の一時に、西に傾く日射しを眺めながら、こ
れまでの出来事を光希に話して聞かせた。
言葉は判らずとも、ジュリアスが語りかけると、光希は澄んだ黒
しじま
い眼差しを向けてじっと聴きいった。
夜の静寂には、寝物語の代わりに昔話を聞かせた。
﹁⋮⋮昨夜は、どこまで話しましたっけ? クロガネ隊に勤め始め
たところまで?﹂
絨緞に寝転んだままジュリアスが首を傾けると、光希も同じよう
に首を傾けた。忍び笑いを漏らしながら、そうそう、と続ける。
1604
﹁あの時は、本当に心配をしましたよ。少しでも眼を放すと、貴方
は思いもよらないことをしてくれる﹂
﹃ん?﹄
﹁この話を蒸し返すと、光希はよくそうやってとぼけて⋮⋮今は本
当に判らないんだから、もう⋮⋮﹂
ふと絨緞についた白い手に眼が留まり、触れたい欲求に駆られた。
意志の力で視線を逸らしながら、ジュリアスは再び口を開く。
﹁貴方が急に抜け出すものだから⋮⋮﹂
甘く切ない夜は更けていく。
1605
14
時折、断片的な記憶が脳裏を過る。
見慣れた日本の日常であったり、見知らぬはずのアッサラームの
光景であったりと様々だ。
例えば、暮れなずむ夕暮に立ち微笑むジュリアス。金色に縁取ら
れた輪郭の神々しさ。
彼が万軍を率いて、敢然と立ち向かう英雄だということを、今は
理解している。
ジュリアスは、絵物語の存在などではなく、熱を持った圧倒的な
存在感で光希の傍にいる。
この世界は、夢ではない。
地球とは別にある、もう一つの現実世界だ。
よぎ
ふとした瞬間に、ジュリアスと過ごした記憶が蘇る。肌を重ねた
記憶が脳裏を過った時には、倒れそうになった。
妄想ならまだいい。
だが、夢の余韻でちりちりと焦げる肌が、あれは現実に起きたこ
となのだと、光希にいい聞かせているようだった。
まさか、本当に⋮⋮?
何をどうして、そのような事態になったのだろう?
あらゆる才に恵まれた美貌の英雄と、ごく平凡な自分が、次元を
飛び越えて恋仲になる過程が全く想像つかない⋮⋮
しかし、対の指輪を持ち、寝食を共にし、キスをする仲なのだ。
は
只の知り合いや、友人では済まされないだろう。
日を重ねるごとに、この涯てしない大地に光希という存在が根付
いていく。
1606
朧な想いが形になっていく。
不思議な感覚だった。
曖昧な視界が晴れていく安心感の一方で、朧な肉体に血が通い出
す不安も募る。
高校の制服を着た自分の姿が日に日に遠ざかり、黒い軍服を着た
自分の姿が鮮明になっていく⋮⋮
﹁光希?﹂
まどろみ
優しく揺り起こされて、光希は微睡から醒めた。
らち
澄んだ青い瞳を見た途端に、心はアッサラームに引き戻される。
埒もない想いに囚われていた気がするが、ジュリアスの瞳を見る
と、あやふやな存在が引き締まる。
﹁お早うございます﹂
﹁お早う﹂
寝ぼけている光希と違い、ジュリアスは既に軍服に着替えていた。
寝台の上で光希がぼんやりしている間も、彼は手際よく身支度を整
えていく。
玄関まで見送ると、ジュリアスはすぐには出ていかず、光希を振
り返った。
背の高い身体をすらりと伸ばし、凛々しい軍服姿で光希の前に立
つ。見惚れて赤くなる光希を見下ろして、彼は優しく微笑んだ。
﹁ゆっくり過ごしていてください。すぐに戻ります﹂
﹃行ってらっしゃい。気をつけて﹄
1607
かす
綺麗な顔が降りてきて、慌てて眼を瞑る。光希の緊張を知ってか、
幽かな微笑を漏らすと、ジュリアスは頬に優しく口づけた。
+
夕食を終えた後、私室に戻ったジュリアスと光希は、テラスで夕
涼みを愉しんでいた。
ロンド
よるやみ
雨上がりのしっとりとした夜に、ジュリアスは弦楽器を抱えて、
メランコリック
メローな旋律をつま弾いている。
どこか憂愁な、異国情緒に富む輪舞曲が夜闇に溶け込んだ。
余韻を残して曲が終わると、光希は眼を輝かせて手を鳴らした。
﹃⋮⋮上手!﹄
素直な賞賛は、在りし日の姿をジュリアスに彷彿とさせた。
眼を細めて、来し方を懐かしむジュリアスを、光希は不思議そう
に見つめ返した。
﹃ジュリ?﹄
﹁いえ、なんだか懐かしくて⋮⋮﹂
沈黙が流れる。
ぼんやりと青い星を仰ぐ光希の横顔を、ジュリアスはじっと見つ
めた。
日頃は、心を紛らわせるように気丈に振る舞っている光希だが、
やはりどこか無理をしているのだろう。
月光をもらい受けて、白い輪郭は青白く照らされている。郷愁を
誘われて翳る表情は、もの哀しく、そして美しかった。
1608
﹁光希?﹂
静かに声をかけると、光希は小さく眼を見開いて、思い出したよ
うにジュリアスを見た。
﹃ジュリ⋮⋮俺は、帰れるのかな? 地球に⋮⋮﹄
かす
戦慄く唇から、幽かな呟き︱︱チキュウ︱︱と聞いて、心臓を鷲
掴まれた。
青い星へ還る?
腰を引き寄せて顔を覗き込むと、夜空のような瞳は、戸惑ったよ
うに揺れた。親指で唇をなぞれば、二人の間に緊張が走る。
﹁いかないでください﹂
﹃ジュリ﹄
腕を引いて抱き寄せると、光希は身体を硬くした。腕の中で抗わ
れて︱︱
﹃んっ!?﹄
気付けば、唇を重ねていた。
柔らかな唇に、心が甘く痺れる。啄むような口づけを繰り返すと、
うっすら唇が開いた。顔を傾けて深く口づけていく。
﹃⋮⋮ッ⋮⋮んぅ﹂
1609
舌を絡ませると、光希は甘い吐息を漏らした。限界の縁で堰きと
めている理性が、崩壊しかけている。
少しだけ顔を離すと、黒い瞳にうっすら涙の幕が張っていた。目
元を指でなぞると、光希は逃げるように視線を泳がせた。
﹃な、なんで?﹄
頬を上気させて、唇は扇情的に濡れている。下肢の昂りを感じな
がら、ジュリアスは手すりを背に光希を追い詰めた。
﹁⋮⋮思い出せませんか? こうして何度も、私に触れられたこと
を﹂
頬を手の甲で触れると、光希は、慄いたように身震いした。
﹃なんか、恐いんだけど⋮⋮﹄
﹁光希﹂
怯えたように顔を背けられた刹那、殆ど衝動的に唇を奪った。
﹃んッ﹄
口内を貪り、思うがまま唇を奪う。とても止められない︱︱甘い
吐息を味わいながら、己がいかに飢えていたかを思い知った。
﹃ん、ぅ﹄
唇の合間から、いつまでも聞いていたいような、艶めいた吐息が
漏れる。心臓は激しい鼓動を打ち、全身の血は瞬く間に熱くなる。
1610
たが
ほんの少し触れただけで、箍が外れた。腰を押しつけると、光希
はびくりと肩を撥ねさせた。
﹃や⋮⋮放せッ﹄
抵抗されるほどに、飢えが募る。
首すじに吸いつくと、甘い声で啼いた。光希が怯えている、やめ
なくては︱︱頭の片隅で理性が囁いても、もろい自制の壁は、肌に
触れるほどに罅割れた。
ロザイン
﹁光希が忘れてしまっても、貴方は私の花嫁だ﹂
﹃⋮⋮ッ﹄
朱くなった耳朶を甘噛みすると、光希は息を呑んだ。
あぁ、また。怖がらせている。逃げようと光希が顔を逸らす。駄
目だ︱︱逃がしてあげられない。
﹃ン︱︱ッ﹄
﹁ッ!﹂
舌を噛まれて、痛みに顔を離すと、蒼白な顔で光希はこちらを見
ていた。幾らか冷静になり、そっと手を伸ばすと、光希はびくりと
肩を撥ねさせた。
﹁⋮⋮拒まないで﹂
涙に濡れた黒い眼を見ながら、額に口づけた。
1611
﹃どうして⋮⋮﹄
互いの眼を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
伝えたい想いがあるのに、言葉が見つからない⋮⋮
もどかしさを噛みしめながら、ジュリアスは拳を硬く握りしめた。
やがて、諦めたように傍へナフィーサを呼んだ。
﹁⋮⋮光希を休ませてあげてください﹂
すれ違う瞬間、安堵の表情を浮かべる光希を視界の端で捉えて、
胸に切なさがこみあげた。
ナフィーサに寄り添う姿を見ていられず、眼を逸らすジュリアス
を、今度は光希が切なげに見ていることには、ジュリアスは気付い
ていなかった。
1612
15
性急に触れてしまったせいで、翌日は一日避けられた。
視線が合うだけで、眼に見えて肩を震わせるのだ。
自業自得なのだが、怯えられているという現実に、ジュリアスの
心は沈んだ。
その夜は、二階の寝室には戻らなかった。
緊張を強いるのは忍びないという念が半分、あとの半分は、面と
向かって怯える姿を見たくなかったからだ。
夜も更けた頃。
書斎で深酒をしていたが、眠気は一向に訪れない。どれだけ煽っ
ても、光希の顔が脳裏にちらついて離れない。
我慢できず、寝顔だけ見るつもりで二階の私室へ入ると、光希は
弾かれたように顔を上げた。まだ起きていることにも驚いたが、頬
を濡らす涙に眼を瞠った。
﹁光希? どうしたの?﹂
﹃ジュリ⋮⋮﹄
傍へ寄ると、光希は握りしめた手紙をジュリに見せた。
﹁それは⋮⋮﹂
寝台の上には、紐でくくられた手紙の束が散らかっていた。文箱
を見つけて、中を検めていたようだ。
﹃読めないんだ、ちっとも。なのに、文字を眺めているだけで、涙
1613
が溢れて⋮⋮この手紙、ジュリがくれた?﹄
手紙は、ジュリアスの直筆だった。東西大戦のさなか、光希に宛
てて書いたものだ。
﹃なんで、読めないことが、こんなに苦しいんだろう⋮⋮俺は、何
を忘れているんだろう﹄
はらはら、透明な雫が零れる。
﹁光希⋮⋮﹂
抱きしめたい︱︱手を伸ばしかけて、躊躇した。
顔を上げた光希は、涙に濡れた瞳でジュリアスを見た。何もいわ
ずに、彼の方からすり寄ってくる。
﹃ふ⋮⋮ッ⋮⋮﹄
声を殺して泣く光希の身体を、ジュリアスはそっと抱きしめた。
悲痛な気持ちが、ジュリアスにも浸透していく。
﹁泣かないでください⋮⋮﹂
﹃なんで思い出せないんだ、俺、なんで⋮⋮﹄
その夜は、同じ寝台で寄り添って瞳を閉じた。
音を立てぬよう身体を起こしたジュリアスは、背を向けて眠る光
希を見つめた。めくれた掛布を直してやりながら、穏やかな寝顔に
眼を注ぐ。
月灯りに縁どられる丸い頬の輪郭、少し開いた唇⋮⋮記憶にある
1614
ままの、愛しい光希だ。
それなのに、彼の方はジュリアスを覚えていない。
眠る光希を見守りながら、なんともいえぬ寂しさがこみあげた。
このまま、光希の記憶が戻らなかったら?
﹁⋮⋮﹂
言葉にならない。
満点の星が降る夜、泉を通じて現れた光希。一目見た瞬間に、彼
こそが生涯ただ一人の恋人だとジュリアスには判った。
初めて交わした視線を忘れない。
黒く濡れた視界を不安そうに揺らして、ジュリアスに縋りついた。
青い星から落ちてきた、愛しい存在。かき抱いた身体は柔らかく暖
かくて、心なき身に火を灯したのだ。
あの衝撃も、感動も、喜びも、夜空の美しさまで、あの最初の一
瞬のままに思い出された。
﹁愛している⋮⋮﹂
あどけない寝顔に、そっと囁く。
同じ言葉を、今の光希は返してはくれない。
傍にいてくれる。それで十分ではないか︱︱そういい聞かせても、
寂寥を拭えない。
二人で編んできた、織りなす記憶のより糸は、永遠に解けたまま
なのだろうか。
胸が痛い⋮⋮
滔々︵とうとう︶と流れゆく時間の中で、ジュリアスだけが佇ん
でいるような、壮絶な錯覚に囚われた。
1615
眼を閉じれば︱︱
昨日のことのように、思い浮かべることができる。
オアシスで焚火を前に、ラムーダを奏でた夜。
言葉を覚えようと、励む姿。拙い言葉遣いに、胸を暖かくさせた
こと。
たがね
艶めいた宮女の姿⋮⋮それを厭い、拗ねる姿。
ひたむきに、鏨を打つ姿。応接間を工房に改装すると、それはそ
れは喜んでくれた。
思うように鉄に神力を宿せず、打ちひしがれる姿。
倒れたと知らせを聞いた時は、心臓が止まるかと思った。苦しみ、
夢うつつに謝罪を繰り返す痛々しい姿。
祭壇に跪く、厳かな横顔。
大戦を前に、不安を押し殺して笑顔を浮かべる健気な姿。高見か
ら手を振る姿⋮⋮
何度も、何度も、支えられてきた。
武器を持たなくとも、光希は強い。
倒れても、起き上がる度に前を向いて、一つ一つに打ち克ってき
た。守っているようで、守られていたのはジュリアスの方だ。光希
の存在があったからこそ、東との大戦を乗り越えられたのだ。
国門で再会した喜び。
幾度となく交わした情交⋮⋮
思いかえせば、切がない。
堰きとめられない想いが、次から次へと溢れ出ていく。
天に導かれて、二つの軌跡は点を結んだのだ。
二人で過ごしてきた時間は、どれだけ経っても褪せぬ宝物。その
全てを、光希は失くしてしまった。このまま、永久に思い出せない
かもしれないのだ。
﹁⋮⋮﹂
1616
甘い感傷と呼ぶには苦しすぎて、喉奥までせり上がるため息を、
ジュリアスは封じ込めた。額に拳を押し当てて、瞑目する。
︵こんなことでどうする︱︱︶
不安に思っているのは、光希の方なのだ。見知らぬ場所で、知人
もなく、言葉も判らず、どれだけ心細い思いをしていることか。こ
れ以上、彼に苦しい思いをさせてはいけない。
光希の支えにならねば。
日向に咲いたような、優しい笑顔をもう一度見たい。心から朗ら
かな笑みを浮かべられるよう、この手で守ってやりたい。
それが最優先だ。自分の欲や感傷など、二の次でいい。ジュリア
スは強くいい聞かせた。
1617
16
深夜。
眼の醒めた光希は、隣にジュリアスがいないことに気付いた。
最近は、いつもそうだ。光希と同じ寝台で眠ることを、避けてい
るように思う。
もの哀しく感じながら、いつもであれば眠りにつくのだが、その
日はどうにも心細くて起き上がった。
﹃はぁ⋮⋮﹄
自分でも、驚くほど沈んだため息が零れた。
あの夜から、ジュリアスは光希に対して一線を引くようになった。
あんな風に触れたのに、今になって二人の距離を軌道修正するよう
に、触れなくなったのだ。
丁寧で柔らかな物腰は変わらないが、光希の常識に合わせるよう
に、紳士的な触れ方しかしなくなった。
差し伸べる手はどこまでも優しいのに⋮⋮何かが物足りない。
一体、何が?
最初はあんなに戸惑っていたのに、触れられなくなると、離れて
いく指先を未練がましく視線で追いかけてしまう。
もう、言い逃れはできない。
夜毎、身体の奥に焔が揺らめいている。
記憶も定かではないのに、光希はジュリアスを欲していた。
こんな思いをするなら、あの夜、彼を拒まなければ良かった⋮⋮
一夜限りでもいいから、抱いてもらえば良かった。
日が経つほどに、あの夜を後悔している。あの夜が二人の分岐点
だったように思える。
1618
もう、どうすればいいのか判らない⋮⋮
夜空を見上げれば郷愁を誘われるが、それ以上にジュリアスに背
を向けられることが辛い。
彼が、離れていってしまう。
そう思うと、途方もなく胸を締めつけられた。どんな不安よりも、
ジュリアスに見放されることが怖い。
﹃⋮⋮っ﹄
目頭がふいに熱くなり、堪える間もなく、涙が溢れた。ぱたぱた
と次から次へと零れて、手を濡らす。
酷い精神状態で、自分でも制御できない。彼を想うだけで、泣い
てしまうなんて。
あぁ⋮⋮いつの間に、こんなにも惹かれていたのだろう?
彼を失うかもしれないと思っただけで、身体が竦んでしまう。
こうまで追い詰める理不尽な運命が、理解を越えた世界が憎い。
一体自分が何をした?
欲しい説明は、何一つ得られない。
この世界に、光希の居場所なんてない。ジュリアスの示す居場所
に、甘えているだけだ。
﹃ジュリ⋮⋮﹄
そっと呼んだ名は、夜闇に吸い込まれた。唇を噛みしめると、涙
を拭って光希は顔を上げた。
寝台の傍に置かれた照明に手を伸ばして、火を灯す。ジュリアス
の姿を探して、そっと廊下に出た。
寝静まった屋敷を歩いたことがないので、少々不安であったが、
応接間の扉下から、光が漏れていることに気付いて胸を撫で下ろし
た。
1619
﹁誰です?﹂
﹃あ、あの﹄
扉前で立ち尽くしていると、中から声をかけられた。返事に詰ま
ると、こちらへ近付く靴音が聞えた。
﹁光希?﹂
扉を開いたジュリアスは、立ち尽くす光希を見下ろして、眼を瞠
った。普段とは違う、襟を寛げたしどけない様子に、光希は視線を
逸らした。
﹃こんばんは⋮⋮すみません、眼が醒めてしまって﹄
﹁こんな時間に⋮⋮どうかしました?﹂
かす
問いかけるような口調に視線を戻すと、光希は曖昧に頷いた。幽
かな酒精の香りに、身体が火照りだす。
そっと部屋の奥を覗きこむと、書斎机に酒杯が置かれていた。一
人で飲んでいたようだ。
﹃⋮⋮いいな﹄
羨ましそうに呟くと、ジュリアスは扉を大きく開いて、光希を中
へ招き入れた。紳士らしく、椅子にかけていた上着を拡げて、光希
の肩にかけようとする。
﹃平気です﹄
1620
﹁こんな薄着で⋮⋮一体どうしたのですか?﹂
まぶち
何かに気付いたように、ジュリアスは小さく眼を瞠った。光希の
まなじりにそっと指で触れる。少し赤い眼淵をなぞり、心配そうに
眉を寄せた。
慰めるように肩を撫でられ、光希は誤魔化すように笑みを浮かべ
た。机の傍へ寄り、酒瓶を見下ろす。
﹁光希?﹂
不作法を心配しながら、恐る恐る杯に手を伸ばす。ジュリアスは
見咎めはしなかったが、心配そうな顔をしている。
﹃やっぱり、お酒?﹄
一口含むなり、光希は顔をしかめた。喉が燃えるようだ。随分と
強い蒸留酒だが、割りもせずに飲んでいたのだろうか?
﹁そんなに傾けては、貴方はあまり強くないのですから⋮⋮﹂
杯を取り上げられそうになり、光希は悪戯心で手を引いた。
﹃俺も飲みたい﹄
数歩を下がって杯に口をつけると、ジュリアスは困ったように笑
った。書棚にしまわれた硝子箱を空けて、中から小ぶりの杯を取り
出す。中に酒を注ぐと、光希に手渡した。
﹁飲むなら、こちらをどうぞ﹂
1621
﹃いいの? ﹁ありがとう⋮⋮﹂﹄
杯を受け取ると、光希は絨緞に腰を下ろした。どうやら、ここに
居てもいいらしい。
﹁少し飲んだら、休みましょう﹂
想いを持て余して、強い酒を、次から次へと光希は煽った。
﹁光希? そんなに飲んでは⋮⋮﹂
ジュリアスが杯を取り上げようとすると、光希は拗ねた顔をした。
取り上げられてたまるものかと、杯を持った手を遠ざける。
﹃いいんだ。俺、きっと成人しているから﹄
﹁そんなに顔を赤くして。ほら、水を飲んで﹂
﹃飲みたいんだ﹄
水を勧める手を巧みに躱して、酒を煽る。仕方なさそうに笑うジ
ュリアスを見て、光希は悪戯めいた笑みを零した。
打ち解けた様子を見て、ジュリアスはほっとしたように、肩から
力を抜いた。
﹁記憶を失くしても、貴方は変わりませんね。こうして傍にいるだ
けで、本当に、どうしようもなく惹かれてしまう⋮⋮﹂
穏やかな口調に耳を傾けていると、ジュリアスはどこか困ったよ
1622
うに視線を揺らした。
﹁この間は、驚かせてしまってすみませんでした。私が狼狽えては
いけないのに、冷静を欠いてしまって⋮⋮﹂
﹁だいじょうぶ﹂
気落ちした声を聞いて、思わず光希はそう口走った。発音はたど
たどしいが、正しく伝わったのか、ジュリアスは眼を瞠っている。
﹁ジュリ、だいじょうぶ。だいじょうぶ⋮⋮﹂
繰り返すと、ジュリアスは間もなく相合を緩めた。青い瞳を細め
て、光希を見つめる。
﹁はい、大丈夫です⋮⋮﹂
黒水晶のような双眸に映りながら、ジュリアスは救われた心地で
囁いた。
巡り逢えたことが奇跡なのだ。
傍に光希がいて、何を恐れることがあるのだろう。
記憶を失くしていても、光希は光希だ。今夜も、沈んでいるジュ
リアスを心配して、夜分に姿を探してくれた。愛する本質は何も変
わらない⋮⋮そう思うと、昏い霧のような諦念は晴れていった。
優しく慰められてジュリアスの気分は上向いたが、今度は光希の
方が沈んだ声を出した。
﹃迷惑かけて、すみません⋮⋮﹄
注意深く様子を見守りながら、光希の傍にジュリアスは腰を下ろ
1623
した。肩を抱き寄せれば、柔らかな身体は素直にもたれかかる。
﹃ジュリは、特別なんだ⋮⋮それだけは判る。迷惑かけてばかりだ
けど、見放さないで⋮⋮﹄
潤んだ声を噛み殺すと、伏せた顔をジュリアスの胸に押し当てる。
いたいけな姿に、堪らないほど愛しさが胸にこみあげた。
﹁そんなに風に触れては⋮⋮﹂
強く抱きしめたい念に駆られて、理性を総動員させた。
固く拳を作り、どうにかじっとしていると、光希の方から抱き着
いてきた。
1624
17
しがみつく腕の震えに気付いて、ジュリアスはそっと抱き寄せた。
背を摩ると、安堵したように強張りが解ける。
﹁泣かないで⋮⋮光希が忘れてしまっても、私が覚えています。い
つでも話して聞かせてあげる。少しずつ、知っていきましょう?﹂
気持ちを抑えられずに、ジュリアスは黒髪をより分けて、額に唇
を落とした。
ここが限界かもしれない。理性が危ぶむ声をかける。
このままでは、何をしでかすか判らない⋮⋮離れようとすると、
光希は腕に力を込めた。離れまいとしがみつき、潤んだ眼で仰ぐ。
少しだけ開いた唇に眼が留まり、ジュリアスの鼓動は撥ねた。口の
中が砂漠のように乾いていく。
﹃ジュリ⋮⋮俺達は、どんな関係なの?﹄
遠慮がちに伸ばされた手が、ジュリアスの頬を撫でる。その手の
上に、そっと手を重ねると、光希は視線を揺らした。
﹁⋮⋮私が、恐くないの?﹂
この間の夜から、避けられている自覚はあった。酔っているとは
いえ、今夜はどうしたのだろう?
﹃俺達は、恋人なの? ジュリは、俺のことをどう思ってる⋮⋮?﹄
1625
﹁え?﹂
泣きそうな顔を見て、ジュリアスは咄嗟に伸ばしかけた手を、意
識して下ろした。哀しそうな顔を見て、再び手を伸ばす。
避けられることを恐れたが、光希は逃げなかった。目元を赤く染
めている。
﹃⋮⋮俺は、独りじゃないのかな⋮⋮ここで、ジュリと過ごしてき
たんだよね、きっと⋮⋮﹄
瞼を伏せる光希を見つめながら、寝癖のついた黒髪を撫でた。腕
の中に光希がいる。欲が芽吹いて、唇に指で触れると、光希は恥ず
かしそうに視線を逸らした。照れてはいても、嫌がっているように
は見えない。
ゆっくり顔を傾けると、光希は静かに瞼を閉じた。優しく唇を重
ねあわせる。顔を離すと、蕩けた眼でジュリアスを仰いだ。
﹃⋮⋮ジュリ﹄
﹁ん?﹂
﹃もう一回して?﹄
﹁⋮⋮?﹂
首を傾けるジュリアスを仰いで、光希は躊躇いがちに身を乗りだ
した。首を伸ばして、唇の端にそっと口づける。
﹁光希⋮⋮﹂
1626
深い幸福感に包まれて、ジュリアスは言葉を失った。渇いた心の
奥底まで、潤っていく。
﹃⋮⋮嫌だった?﹄
絶句し、唇を押さえるジュリアスを見て、光希は狼狽えたように
視線を揺らした。
﹁私に触れられるのは、嫌ではない?﹂
互いに、疑問口調を繰り返して、沈黙する。
腕の中で大人しくしている光希の顔を覗き込み、試すようにこめ
かみに口づけた。光希は、甘えるようにジュリアスに体重を預けて
くる。
許されているとはっきり感じて、欲が疼いた。もっと触れてもい
いのだろうか⋮⋮
﹁光希⋮⋮﹂
少しだけ身体を離して顔を覗き込むと、光希は潤んだ眼でジュリ
アスを見た。気がつけば、柔らかな身体を組み敷いていた。もう、
堪え切れない︱︱
視界が反転する。
襟の紐を解かれて、薄紗の夜着に手が入りこむ。丸い腹を撫で上
げられて、光希の頬は燃えるように熱くなった。
記憶の抜け落ちている光希にとって、直に素肌に触れられるのは、
これが初めてだ。
咄嗟に撥ね退けようともがくと、両腕を頭上でまとめられて、き
1627
つく絨緞の上に縫い留められた。仄昏い部屋の中で、額の宝石と青
い双眸だけが、不思議な光彩を放っている。
﹃あ⋮⋮﹄
その瞳の色を見て、ぞくりと背筋が震えた。射抜くような、強い
眼差し。知っている︱︱
﹃う、ぁ﹄
つぅと肌をなぞる指先に、乳首を摘まれて、光希は喉を鳴らした。
やんわりと刺激を与えられて、甘痒い疼きが走る。
乳首を弄られている。
衝撃に狼狽える間もなく、両の尖りを何度も指で愛撫された。繰
り返されるうちに、甘い痺れは全身に広がり、腰にまでも達した。
﹁んん⋮⋮﹂
服をたくしあげられ、肌が青い眼にさらされる。何度も弄られた
せいで、そこが尖っているのが見なくても判る。
﹃見ないで⋮⋮﹄
熱い視線に耐えかねて、光希は羞恥に顔を倒した。上気した端正
な顔は、あまりにも扇情的で眼の毒だ。
﹁⋮⋮誘ったのは、貴方だ。今夜ばかりは、私を責めないで欲しい﹂
艶めいた低い声に、ぞくり、と背筋が慄えた。
1628
1629
18
胸元に顔を寄せたジュリアスは、何度も唇を落とした。やがて、
先端に舌を這わせる。
﹃ん、ぁっ﹄
漏らすまいと唇を噛みしめていても、あえかな声が漏れてしまう。
迸りそうになる嬌声を、光希は唇を噛みしめてどうにか堪えた。
男なのに。胸を弄られただけなのに。そんなところで感じるなど
考えたこともなかったのに、たった今の刺激だけで、昇り詰めてし
まいそうだった。
﹁酒を飲んだせいか、いつもより赤く染まっている⋮⋮どこもかし
こも、美味しそうですよ﹂
﹃ん、ぁ⋮⋮ッ﹄
ねぶ
低く笑みを漏らしたジュリアスは、唇で乳首を挟み、舌先で先端
とうつう
を舐った。軽く引っ張られながら、ちろちろと舌先でくすぐられる。
甘い疼痛は、腰にまでも達する。
﹃ふぅ⋮⋮ッ﹄
先端にちゅうっと吸いつかれて、堪らずに光希は声を上げた。ぴ
んと伸ばした足の指先が、瞬時にきゅっと丸まる。
声を堪える光希に気付いて、ジュリアスは顔を上げた。噛みしめ
た唇を、長い指でそっとなぞる。唇のあわいを行き来し、光希の眼
1630
を見つめたまま、口内へ指を潜らせた。
﹁指を、吸ってみて﹂
﹃ん⋮⋮﹄
﹁そう。いい子﹂
遠慮がちに舌を絡ませると、褒めるように、口腔の柔らかい部分
を指でくすぐられた。
いんとう
濡れた音が立ち、途方もなく、いやらしいことをされている気分
にる。酒よりもずっと濃密な、淫蕩な空気に酔ってしまいそう⋮⋮
﹁光希は口の中も、敏感ですよね⋮⋮﹂
指先に舌先をくすぐられて、光希は顔を赤くした。零れそうにな
る唾液を呑み込むと、自然と中をまさぐる指を吸い上げてしまう。
眼を細めたジュリアスは、光希の目元に唇を寄せた。
﹁堪らないな⋮⋮﹂
舌を弄ばれながら、情事を連想させるように上下に抜き差しされ
て、光希はジュリアスに抗議の視線を送った。指に歯を立てると、
ふふ、とジュリアスは愉しげな笑みを零した。
﹁かわいい⋮⋮いとけない貴方に、口淫をさせているようだ﹂
﹃んぅ﹄
乳首を指で弾かれて、光希は甘い声を上げた。
1631
下肢を強く押しつけられる。布越しにも判る猛った熱を感じて、
思わず眼を見開いた。
﹃う、ぁ⋮⋮うぅっ﹄
唾液を纏って濡れた指に乳首を弄られながら、もう片方を熱い舌
で舐られる。内股を擦り合わせる光希の痴態を眺めながら、ジュリ
アスは悩ましげに息を吐いた。
﹁はぁ⋮⋮やっぱり、欲しい﹂
ジュリアスは光希の腹を撫でた。慄く身体を押さえつけたまま、
下肢に手をもぐらせる。
﹃だめ﹄
肩を押えようとしても、ジュリアスはびくともしない。後ろへ逃
げようとしたが、下着の奥までも潜り込んだ指先に先端を撫でられ
た。
﹁⋮⋮濡れていますね﹂
﹃うわ、ちょっと﹄
焦る光希を見下ろして、ジュリアスは蠱惑的に微笑んだ。逃げな
くては、そう思うのに、手際よく衣服を脱がせられてしまう。
﹁触れますよ?﹂
﹃待って!﹄
1632
腹を打つほど反り返った屹立を、大きな掌に扱かれる。くちゅり
と濡れた音が立ち、光希は羞恥に眼を瞑った。強烈な快感に襲われ
て、肩に手を当てたものの、押し退ける力が湧かない。
抵抗の殺がれた光希を見て、ジュリアスは本格的に手淫を始めた。
中心を扱きながら、一方でやわやわと蜜袋を揉みこむ。
﹃いやぁ、あ、ぁッ﹄
淫靡に指がなぞり上げる度に、腰が跳ね上がる。先走りの蜜を飛
ばしながら、光希は幾度も喘いだ。
﹁久しぶりだから、溢れてきますね⋮⋮たくさん、良くしてあげる﹂
赤く腫れた性器に、ジュリアスは息を吹きかけた。慄いた光希は
そこを隠すように手を伸ばしたが、それよりも早く口に含まれた。
﹃ちょッ!?﹄
舐められている︱︱理解が追いつかない。あまりの光景に、光希
は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
1633
19
激しく拍動する心臓が、鼓膜の奥で煩いほど鳴っている。
したたる雫をすくったジュリアスの舌が、ねっとりと幹を舐めと
っていく。
息をつめて凝視する光希を、ジュリアスは下から仰ぐように見つ
めた。
﹃⋮⋮ッ﹄
淫靡な光景に、身体が震える。逃げようと手をつくと、阻むよう
に強く腰を引かれた。とん、と背中から絨緞の上に倒れる。
次の瞬間、激しく口淫されて、光希は悲鳴を上げた。そのまま堪
え切れずに、ジュリアスの口の中で達してしまった。彼は痙攣をす
る下肢をまだ離さず、啜り上げて残滓までも奪っていく。
﹃んぁ、ぁッ、嫌だ﹄
後孔をなぞられて、光希は眼を見開いた。慄く身体を宥めるよう
に、ジュリアスは顔を寄せて囁きかける。
﹁私を忘れてしまっても、甘い身体はちゃんと覚えている⋮⋮でし
ょう?﹂
青い双眸に欲情を灯して、吐精を遂げた性器をあやすように撫で
る。杯を傾けると、絨緞が濡れるのも構わずに、尻のあわいに垂ら
した。
1634
﹁大丈夫、恐がらないで⋮⋮光希は、私に何度も抱かれてきたんで
す﹂
蹴り上げようとした足を絡め取られ、酒の雫と共に、ぬめった指
先が後孔に潜り込んだ。
入浴は済ませているが、そのようなところを指に犯されるとは思
っておらず、光希は硬直した。
﹁痛くないでしょう⋮⋮?﹂
﹃そ、それだけは無理ッ! 抜いて﹄
肌のあちこちを吸いながら、より一層、指を奥深くまで潜り込ま
せてくる。ついに、長い指の付け根まで挿入されて、光希は涙眼で
震えた。入口をくつろげるように蠢く指先に、翻弄されてしまう。
﹃無理だって⋮⋮動かさないでッ﹄
拒絶を無視して、ジュリアスは何度も指を抜き差しした。ぬぷ、
と引き抜いた指を舐めて濡らし、再び後孔に宛がう。二本の指で内
壁をくすぐられて、光希は淫らに悶えた。
﹃あぁ⋮⋮ッ﹄
ふる
内壁の凝りを掻かれた瞬間、腰が弾けた。未知の快感に全身が慄
える。
﹁ここ、覚えていますか? 気持ちいい?﹂
耳朶に囁かれて、光希は必死に首を振った。
1635
尻を弄られて、こんなにも深い快感を得られるとは知らなかった。
中を弄る指は、心得たように、敏感なそこばかりを擦り上げる。
﹃う、ぁ⋮⋮抜いて﹄
懇願とは裏腹に、熱くうねる内壁は、ジュリアスの指をきゅうと
食い締めていた。
﹁大分柔らかくなったな⋮⋮﹂
呟きの意味は判らなかったが、光希はこれから起こる展開を恐れ
て、びくびくとジュリアスを仰いだ。
美貌が傾き、唇が重なる。ねっとりと口内を舐られながら、三本
に増やされた指で後ろを甘く犯される。時折、悪戯に性器も弄られ
て、前も後ろも、ぐずぐずに蕩けていった。
﹃あぅっ﹄
尻のあわいに舌が這わされる。蕾を舌で突かれ、光希はとろんと
した瞳に、僅かに理性を呼び戻した。
衝撃に呼吸を止めていると、縁をなぞっていた舌は、ぐぐっと中
へ潜り込んできた。中を舐められている感覚に、光希はうつぶせた
? 思い出して⋮⋮私に、こうして触れられてい
まま、絨緞にしがみついた。
イヤ
﹃い、や﹄
﹁本当に
たことを⋮⋮﹂
低い睦言に誘われて、光希は恐る恐る振り返った。光彩を放つ青
1636
ひと
い瞳に、確かな欲情の灯を見て震えあがった。断片的な記憶が、呼
び起こされる︱︱この美しい男から、蕩けるような愛撫を受けたこ
とが⋮⋮
﹁何度抱いても、光希の初々しさは変わらないけれど、今の貴方に
は少し酷かな⋮⋮﹂
優しく髪を撫でられると、信じられないような羞恥も忘れて、光
希の心は熱く震えた。
身体から強張りを解く光希を見下ろして、ジュリアスは甘く微笑
む。
﹁恐いなら⋮⋮そうして、私にしがみついていて﹂
首に両腕を絡ませると、ジュリアスは光希の身体を持ち上げた。
胡坐を掻いた膝を跨らせるように、光希の身体を垂直に下ろす。行
為への恐怖が少しでも和らぐよう、ジュリアスは下履きを寛げただ
はい
けで、光希の眼に性器を見せずに、後孔へ猛った塊を宛てがった。
ぐぐっと、熱塊が狭い入口を押し拡げて、ゆっくりと挿入ってく
る。
極度の緊張で光希が身体を強張らせると、ジュリアスは苦しげに
呻いた。
﹁少し力を抜いて﹂
低めた声を聴いて、彼も苦しいのだと気付く。
こうした行為は初めてではないのかもしれないが、今の光希には
知る由もない。どうしても恐怖が勝る。強張りを解けず、ごめんな
さい、と口走る光希の顔を、ジュリアスは両手で挟みこんだ。
1637
﹁謝らないで、光希。大丈夫だから⋮⋮ね?﹂
額に、頬に、眼もとに、唇にキスをされた刹那、涙がぽろりと零
れた。情欲を堪えて、案じるように光希を見つめる美貌を、眺めて
思う。労わるように自分を抱きすくめる彼のことが、どうしようも
ないほど好きだ。
ぱぁっと視界が開けた気がした。
好きだと自覚した途端に、恐怖は急速に遠ざかり、愛しさがこみ
あげてくる。
﹁そう、力を抜いて⋮⋮上手に呑み込めていますよ﹂
光希が落ち着くのを見て、ジュリアスは肌のあちこちに唇を落と
した。
﹃ん⋮⋮﹄
﹁なるべく、ゆっくり動きますね﹂
首筋を啄まれながら、波間をたゆたうように身体を揺すられた。
甘く奥を穿たれて、光希も気持ち良さそうに眼を細める。
艶めいた吐息が首筋にかかり、ぞくぞくする。自分と同じように、
彼もまた感じ入っているのだと思うと、嬉しくて、身体は増々蕩け
ていった。
﹃んぁっ﹄
膨らんだ前立腺を、先端で擦り上げられて、光希は嬌声を上げた。
とてもできないと思ったが、悦楽に沈むうちに、身体は勝手に揺れ
始めた。
1638
﹃あっ、やだ、いぃっ﹄
まなうら
喘ぐ光希の唇を、ジュリアスが奪う。光彩を帯びる青い双眸に、
背筋がぞくぞくと震える。
身体の奥深くまで奪われながら、眼裏に蒼い稲妻が走った。
﹃うぁ、いっちゃ、あぁ︱︱ッ﹄
身体中の性感帯を刺激されて、光希は悦楽を駈けあがった。
びくびくと痙攣する光希の奥深くで、ジュリアスも放熱を遂げる。
中を濃厚な熱に犯されながら、光希はくたりとジュリアスにもたれ
かかった。
首筋を伝う汗を舐めとられて、放熱の余韻の覚めやらぬ身体が震
える。
﹁愛しています、光希⋮⋮ずっと、貴方だけを﹂
言葉は判らなくても、愛を囁かれていると判る。光希はゆっくり
上体を起こすと、ジュリアスを見つめて、自分から唇を重ねた。
彼のことが、好きだ⋮⋮
胸にぽっかりと空いていた穴に、暖かな明かりが灯る。金色に燃
える焔は、夕陽に燃えるアッサラームにも似ていた。
光希の場所は、ここだけ⋮⋮彼の、ジュリアスの傍に在るのだと、
今、ようやく判った。
1639
1640
20
空が白み始めた黎明に、光希は眼を醒ました。
長い夢を見ていたような、不思議な心地であった。隣に眠るジュ
リアスを見て、僅かに眼を瞠る。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
記憶にあるよりも、少しやつれたように思う。美しく端正な顔に
眼を注ぎ、頬にそっと唇を落とした。
﹁ごめん、心配かけた⋮⋮﹂
金髪を優しく梳いてやると、くすぐったそうにジュリアスは眼を
開けた。微笑んでいる光希を見上げて、青い双眸を喜びに煌めかせ
た。
﹁お早う、光希﹂
﹁お早う、ジュリ﹂
いつものように朝の挨拶をしただけなのに、どういうわけか想い
が溢れて、視界が潤んだ。驚いた表情を浮かべるジュリアスの頬に、
光希は素早く口づけた。青い双眸が驚きに見開かれる。
﹁⋮⋮光希? 泣いているの?﹂
身体を起こしたジュリアスは、心配そうに顔を覗きこんでくる。
1641
光希は泣き顔をあげると、もう一度唇にキスをした。
﹁嬉しくて⋮⋮﹂
揺れる青い瞳を見つめたまま、手を伸ばした。すぐに背中に腕が
回される。どこか遠慮がちな触れ方に、光希の方から強くしがみつ
いた。
﹁愛している。ずっと傍にいてくれて、ありがとう⋮⋮ッ﹂
﹁あぁ⋮⋮神よ﹂
紛れもない安堵の滲んだ呟きに、光希は眼を閉じた。
涙が頬を伝う。彼の震えが治まるまで、光希は広い背中を何遍も
摩ってやった。
+
記憶は戻ったが、ジュリアスの過保護は治らなかった。むしろ悪
化したように思う。記憶を失くしたことが、相当に堪えたらしい。
屋敷の外へ出ることを許さず、アースレイヤからの公務の申し入
れもことごとく断っていた。
心配をかけた身として、大人しく屋敷に引きこもる光希であった
が、軟禁生活が十日も続くと、このままではいけないと思うように
なった。
夜半に戻ってきたジュリアスを、光希は部屋に明かりを灯したま
ま迎え入れた。
﹁お帰りなさい﹂
1642
﹁ただいま。まだ起きていたの?﹂
﹁うん。少し、話をしようと思って﹂
光希の顔色を窺うように、ジュリアスは黙り込んだ。今の状態が、
不自然であることは彼も判っているのだ。
﹁明日から、クロガネ隊に復帰しようと思うんだ﹂
﹁もう?﹂
﹁遅いくらいだよ。病気でもないのに、十日も休ませてもらった。
十分だよ。僕はすっかり元気なんだから﹂
﹁たったの十日ですよ﹂
﹁⋮⋮あのね、ジュリ。記憶を失くしていても、僕はジュリに惹か
れていたよ﹂
眉をひそめるジュリアスを仰いで、光希は垂れた両腕をぎゅっと
握った。
﹁本当だよ。ジュリは優しくて恰好良くて、凄く甘くて⋮⋮好きに
ならない方が難しいよ﹂
﹁そういう割には、私に怯えていたではありませんか﹂
﹁そりゃ、言葉も判らないし、記憶のない僕は、同姓を好きになっ
た経験だってないんだから。でも、ちゃんと好きになったよ﹂
1643
沈黙が流れる。探るような眼差しを向けるジュリアスを仰いで、
光希は辛抱強く待った。
﹁⋮⋮私の眼の届かないところで、貴方が倒れやしないか不安なの
です﹂
﹁そう簡単に倒れないし、記憶喪失にもならないよ。あんなことは、
一度あれば十分だ﹂
﹁次がないとは、いい切れないでしょう。不安なのです﹂
真摯に訴える眼差しを受け留めて、光希は腕を伸ばすとジュリア
スの頬を両手で包みこんだ。
﹁ジュリは僕よりずっと忙しいし、仕事も大変だし、倒れるかもし
れないよね?﹂
﹁私は︱︱﹂
﹁大丈夫、なんて根拠はないでしょ? お互い様でしょ?﹂
頬を包む腕を、ジュリアスは一瞬で掴んだ。強い眼差しで光希を
見下ろす。
﹁私と貴方が、同じなわけがないでしょう﹂
﹁不安な気持ちは、同じだよ。でも、もしジュリが記憶を失くした
ら、今度は僕が想いを伝えるね﹂
﹁え?﹂
1644
﹁ジュリにもう一度好きになってもらえるように、今度は僕が頑張
るよ﹂
﹁⋮⋮﹂
拘束されていた腕が緩んだ。淡い笑みを浮かべるジュリアスの頬
を、光希はもう一度両手で包み込んだ。
﹁だから、心配いらないよね?﹂
半ば強引に結論づける光希を見て、ジュリアスは表情を和らげた。
仕方ないなぁ、というように光希を抱きしめる。
﹁判りましたよ。絶対に、無理はしないでくださいね﹂
﹁はい!﹂
翌日、光希は屋敷の外へ出ることを許された。
久しぶりに工房に顔を見せると、クロガネ隊の仲間は安堵した顔
で光希を取り囲んだ。記憶を失くしていたとは知らない彼等は、光
希は療養の為に休んでいたと思っているのだ。
健康そのもの、元気な光希であったが、工房で少しでも物を運ぼ
うものなら、傍にいる誰かにすかさず取り上げられてしまう。
何もかも正常に戻るには、更に数日を要するのであった。
1645
21 ﹃響き渡る、鉄の調和﹄
茜射す工房。
くろがね
作業台を囲んで、複数人の技術者達が、黒い鉄の腕を調律してい
た。
中心にいるのは、光希とアルシャッドだ。
彼等が造っているのは、人の上腕を模した鉄の義手である。鉄の
たてがみ
装甲と骨組、一角獣の骨と鉄の粉末を調合して伸した人口筋肉、複
雑な動きを制御する為の神経には、竜の鬣を用いている。
この二年。思考錯誤を続けながら、光希を中心に、クロガネ隊は
総力を上げて取り組んだ。
その結果、義手造りは目覚ましい成果を遂げた。
繊細な動きはまだ難しいが、電子回路もないのに無機質な腕に神
バランス
の加護︱︱命を宿したのである。人の意志を伝播し、自在に動く。
外見の補完や身体の平衡調整は然り、日常生活の支援補佐であれ
ば、十分な練度に達していた。
既に実用に向けた試験段階に入っており、二ヵ月前からアルスラ
ンに装着を依頼している。
しかし、関節に不具合をきたす点と、装着から七日前後で意志の
伝播が滞る大きな課題を抱えていた。日々の調律が必要不可欠で、
その頻度はかなり短い。調律できる技術者が傍にいない場合、義手
は使い物にならなかった。
﹁あぁ、やはり関節神経が擦り切れていますね﹂
丸眼鏡の奥で、アルシャッドは眼を眇めた。光希も顔を寄せて覗
き込むと、細部まで分解された様子を見てとり、感嘆に眼を見開い
た。
1646
﹁本当だ。よく見つけましたね! さすがだなぁ⋮⋮﹂
義手の原案は光希だが、そこから改良に改良を重ねて、精巧な骨
組みと神経線の調和を生み出したのは、アルシャッドだ。張り巡ら
せた神経線は、もはや神の領域といえる。
﹁いえいえ⋮⋮アルスラン殿も大分、義手に慣れてきたご様子。指
の関節神経に影響を及ぼしているということは、彼が指の動きを駆
使できている証拠です﹂
﹁神経の耐久性が、増々課題になってきますね⋮⋮﹂
ふぅ、と光希は息をついた。アルスランの意志の伝播は上達して
も、肝心の器が応えられないのだ。義手の痛みやすさは、最重要課
題であった。
﹁日常の補佐としてなら、十分活用できる精度に達しておりますよ﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
光希は天井を仰いで小さく唸った。
当初は血の通わぬ義手に、ここまでの精度を求めてはいなかった。
想像以上の成果を上げたといえるだろう。
だが、鉄の研究を続けるうちに、更なる可能性が見えてきたのだ。
諦めるには惜しい。
本人は口にして望まないが、アルスランを飛竜隊に完全復帰させ
てやれるかもしれないのだ。
﹁実戦に耐えうる複雑な動きを実現するには、限界があるでしょう﹂
1647
胸中を読んだように、アルシャッドはいった。
﹁関節負荷を改善できればなぁ⋮⋮もっと丈夫な神経線の代わりが
あればいいんだけど﹂
﹁竜の髭は鉄と相性がいい。伝播にも欠かせませんよ。問題は、関
節側にあるように思えます﹂
﹁関節側に?﹂
﹁はい。今のままでは、関節が強すぎて、集約される神経、筋肉が
負けてしまうのです。硬質はそのままに、柔軟性に富む鉄に変わる
素材があれば、耐久性は良くなるかもしれませんねぇ⋮⋮﹂
疑問を投じられ、作業台を囲む全員が、各々考え込むように唸っ
た。耐久性の課題は、全員の頭を悩ませていた。
調律を終えた、数日後。
戸口に現れたアルスランを振り返り、光希は破顔した。
﹁アルスラン! お帰りなさい﹂
﹁ただいま戻りました﹂
三十日あまり、彼は任務でアッサラームを離れていた。
東の大国、サルビアの出兵を知った上層部が、百あまりの小隊を
偵察に向かわせたのだ。総指揮をジャファール、副官をアルスラン
が務めた。
隻腕の将軍を見て、工房は俄かに騒がしくなる。様子に気付いて
1648
サイードも姿を見せた。
﹁おぅ、久しぶりだな。どうだった?﹂
﹁ああ、問題ない。東も偵察が目的で、一合もせずに引き返してい
った。進軍は先ずないだろう﹂
集まっていた面々は、吉報を聞いて表情を緩めた。アルシャッド
も安堵したような顔で、ご無事で良かった、とアルスランに声をか
けた。
﹁さぁ、こちらへ。調律は済んでいますよ﹂
﹁助かる﹂
﹁先ずは診察しましょう。肩を見せてください﹂
アルシャッドがいうと、アルスランは即時に応じた。少し離れた
ところで、光希もその様子を見守る。
幸いにして切断面は綺麗な平面だが、盛り上がった皮膚は柔く弱
い。最初は、義手を装着する度に皮膚を傷つけてしまっていた。
間もなく装着を終えたアルスランは、確かめるように指先を動か
し、満足そうに頷いた。
﹁いつも悪いな。これがあると助かる﹂
﹁感謝しろよ﹂
サイードがからかうと、アルスランも笑みを零しながら頭を下げ
た。光希も笑いながら、その様子を眺めた。
1649
しかし、任務に先立ち彼は義手を置いていった。そのことを、光
希は密かに残念に思っていた。
1650
22
年の暮れ。
座礁に乗り上げていた義手の研究は、金属鉱山であるココロ・ア
くろがね
セロ鉱山の一部閉鎖の通達がアッサラームにもたらされたことによ
り動き始めた。
ココロ・アセロ鉱山は良質な鉄の産地であり、従業員数は約三千
名、血縁者や関係者を合わせると一万人を超える。砂漠に囲まれた
鉱山の麓に形成された、一大都市である。
大小合わせて百を越える坑口のうち、特に主要とされる第一から
第七の坑口がある。
アッサラームに届けられた、第一坑口の閉鎖について記された通
達の概要は、こうだ。
高品位鉱の枯渇、産出量低下に伴い、第一坑を閉口する。これ以
上の採掘は崩落の危険性がある為、新たな採掘路を築くものとする
鉱山資源は、アッサラームにも供給されている為、鉱山組合から
連絡が届いた次第である。
第一坑は、最も古い採掘場の一つで、長期にわたって採掘が行わ
れた結果、採掘深度が途方もなく肥大化していた。以前から危険性
が指摘されており、閉口に拍車がかかったようだ。
書簡と共に届けられた第一坑内で採掘された鉱石は、選鉱の為に
クロガネ隊に渡った。
興味本位で検分した光希は、予期せぬ拾いものに眼を輝かせるこ
とになる。
その鉱石こそ、光希達が求めていた、神力を伝播する鉄の素子を
含む、柔軟性に富む素材だったのだ。
1651
﹁これが欲しい!﹂
鉱山組合では無価値とされた石の真価に気付いた光希は、即時に
主張した。
鉱山を管理しているのは、町の炭鉱夫達が運営する鉱山組合であ
る。彼等は、豊富な鉱山資源を町の運営資金に充てていた。
アッサラーム軍から正式に第一坑への視察を申し入れると、組合
は軍が費用全額負担した上で、現場指揮に従うならと条件を提示し
た。
全面的にジュリアスは肯定したものの、光希が現場へ同行するこ
とだけは渋面を見せた。
夜も更けた頃。
屋敷の私室で、二人は紅茶を飲みながら、今後について話してい
た。
﹁視察は送る予定ですが、同行は許可できません。必要なものを、
こちらに届けさせるだけではいけませんか?﹂
ジュリアスの問いに、光希は首を振って答えた。
﹁この眼で見て確かめたいんだ。現場にいれば、採掘した鉄ですぐ
に実験できるし﹂
﹁賛同はできませんよ。鉱山は今、閉口に反対する炭鉱夫達が、争
議を起こしていて、治安が悪い。既に死者も出ています﹂
﹁坑道で採掘された鉱石の価値は、僕が保障する。廃坑にする必要
はないんだよ﹂
1652
﹁とても個人的な利益追求に聞こえますよ。貴方や私が望めば、周
囲にどれほどの影響を与えるか判っていますか?﹂
諭す口調に、光希は不服げに眉をひそめた。
﹁理由もなく、贔屓しているわけじゃないよ? 多くの人を助ける
為の技術進歩に繋がるんだ﹂
﹁その保障はどこにあるのです? 利益を生むまでに、あと何年か
かるのですか?﹂
﹁そりゃ、具体的に計画できているわけじゃないけど﹂
こうむ
﹁鉱山組合の雇用削減は、彼等の財政政策でもあります。稼働にか
かる資金、貴方が赴く為に被る人事、視察費、予算外の研究費は、
どこからどのように捻出するのですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
押し黙る光希を見て、ジュリアスは幾らか視線を和らげた。
せっこう
﹁通達の内容に、幾つか疑問があります。今、斥候に真偽のほどを
探らせているので、もう少し待ってください﹂
﹁⋮⋮でも、ジュリは任務でアッサラームを発つでしょう?﹂
﹁その予定です﹂
報告を待っている間に、ジュリアスは国境警備の為に、アッサラ
ームを発ってしまうかもしれないのだ。
1653
﹁いずれにしても、クロガネ隊は派遣されるのでしょう? なら、
アルシャッド先輩もいくというし、末席でいいから僕も同行させて
欲しい﹂
﹁光希の励む姿を見てきましたから、応援したいとは思っています
が⋮⋮﹂
期待のこもった眼差しを向ける光希を見下ろして、ジュリアスは、
思案気に腕を組んだ。
﹁それにしても、アルスランの義手に、貴方がそれほど心を砕くと
は思っていませんでした﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁そうでしょう。寝る間も惜しんで工房に籠り、危険も顧みずに、
自ら鉱山へ赴こうとする。随分と入れ込んでいますね﹂
気まずそうに視線を伏せる光希を見て、ジュリアスの胸中は複雑
に揺れた。義手制作に心骨を注ぐ、ひたむきな姿を傍で見てきたか
ら、応援したい気持ちは当然ある。
ひんみんくつ
しかし、鉱山は治安が悪い。あの街にはアッサラームからは想像
もつかない貧民窟もあるのだ。
そういった点も心配だが、単純に面白くない。他者に心を注ぐ姿
を見たくなかった。
束の間の沈黙の後、心を奮い立たせて光希は顔を上げた。青い双
眸を見つめて、請う。
﹁この機会を逃したら、次に鉱山へ入れるのはいつになるか判らな
1654
いから、いかせて欲しい。うんと気をつけるから﹂
﹁心配だと、申し上げているんです﹂
﹁い、いきたい⋮⋮﹂
弱気にもごもごと呟く光希を見下ろして、ジュリアスは器用に片
眉を上げてみせた。
﹁そんな風にかわいく強請れば、私が何でもいうことを聞くと思っ
ているのでしょう?﹂
﹁いや、思ってないよ⋮⋮かわいくもない﹂
﹁光希の願いなら、何でも叶えてあげたいけれど、時々、本当に悩
まされます﹂
﹁ごめん⋮⋮﹂
﹁心配なのです。せめて一緒にいければいいのですが、私も出兵し
なければならない⋮⋮だから、いかないで欲しい﹂
﹁⋮⋮﹂
弱り切った顔で、光希は沈黙した。
﹁ここにいてくれますか?﹂
﹁⋮⋮できれば、いきたい﹂
1655
﹁いかないで、とお願いしたら?﹂
﹁う⋮⋮﹂
﹁光希?﹂
﹁いきたい、なぁ⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮いってほしくない、なぁ?﹂
口真似をするジュリアスを見て、光希はつい口元を緩めた。
﹁お願い、ジュリ。許可をください﹂
思案気な顔のジュリアスに身体を寄せて、光希は上目遣いに仰い
だ。
﹁⋮⋮はぁ﹂
﹁ジュリは優しいなぁ﹂
﹁なんですか、もう﹂
﹁ジュリは優しくて、強くて素敵だなぁ。幸せだ﹂
甘えるようにしがみつくと、ジュリアスも腕を回して光希の身体
を抱きしめた。
﹁そうですね。私は光希に甘すぎるのかもしれません。少し、厳し
くした方がいいのかもしれない﹂
1656
﹁え、嫌だ。優しいままでいて﹂
﹁優しくさせてください﹂
﹁我がままが多くて、ごめんね﹂
﹁まだ許可は出していませんよ。準備する時間をください。話はそ
れからです﹂
厳しい口調を装っているが、彼が最大限に便宜してくれるであろ
たちま
うことを予感して、光希は笑みを深めた。背伸びをして頬に口づけ
れば、力強い腕に抱きしめられ、爪先が浮く。忽ち唇を奪われて、
情熱的に貪られた。
1657
23
へきとう
鉱山組合からもたらされた一部閉口の知らせを、アルサーガ宮殿
の上層部は劈頭から疑っていた。
ココロ・アセロ鉱山は、西大陸の中でも巨利を産む鉱山の一つで、
いきさつ
利権を握る当局者が暗殺される血生臭い事件が、過去に何度か起き
ている。
そういった経緯から、今回も幅を利かせている第一坑口の派閥を
邪魔に思う、他の派閥の仕業ではないかと睨んでいたのだ。
当初、諜報を命じられていたジュリアスは、他の人間に指揮を任
せるつもりでいた。自分は東の遠征に従事しようとしていたが、光
希が鉱山に強い関心を示したことにより、優先順位を改めた。
東をアーヒムに託し、自らは南西の鉱山に注力する。
報告を受けたアースレイヤは、人払いをした執務室にジュリアス
を呼んだ。
﹁正直、驚きましたよ。貴方は東に発つものだとばかり思っていま
したから﹂
﹁暫くアッサラームを空けますが、ナディアもヤシュムもいますし、
問題はないでしょう﹂
そういう心配はしていない、と言わんばかりにアースレイヤは肩
をすくめた。
ロザイン
﹁鉱山利権の整備など、面倒なだけですよ⋮⋮まぁ、貴方が花嫁の
為に苦労を買って出たいというのなら、止めはしませんけど﹂
1658
﹁はい﹂
間髪入れずに言い切るジュリアスを見て、アースレイヤは眼を細
めた。
くろがね
﹁鉄の研究に支援は惜しみませんが、無意味な投資は許可できませ
んよ。たとえ花嫁の願いでも、閉口の裏に何もなければ、大人しく
手を引いてください﹂
さじ
現時点では、鉱山の第一閉口はアースレイヤにとって些事に過ぎ
なかった。坑口は他にもあるし、アッサラームへの供給になんら不
益がないからだ。
せっこう
﹁斥候の情報から、ある程度の裏は取れています。放置すれば、数
百名規模の解雇者を出すことになりますよ﹂
解雇者が増せば治安は悪化する。あの街で、鉱山夫が鉱山をおい
キャラバン
て他に収入を得る手段は殆どない。職を失くした者は、食べていく
為に商隊を襲い始めるのだ。急務ではないが、鉱山への悪路は、交
易弊害として以前から問題視されていた。
﹁まぁ、任せます。いらぬ波風を立てて、アッサラームへの悪感情
を煽ることだけはないように。それとも、武力行使が必要になりそ
うですか?﹂
アースレイヤの懸念に、ジュリアスは弛く首を振って応えた。
﹁争議は起きていますが、武器を持たない鉱山夫達です。閉口が決
まっても、雇用支援で解決できるでしょう﹂
1659
﹁そうしてください。利権を握っているのが有能な人間であれば、
煩くいうつもりはありません。アッサラームの総意としてください﹂
﹁御意﹂
めいせき
多少の横領には眼を瞑るということだ。
気に食わない男ではあるが、明晰さと度量の広さは認めてもいい。
皇帝譲りの、数少ない彼の美徳だろう。
第一閉口で利を得る人間の目星はついている。第一坑の真価が認
められた時、稼働継続に同意するなら、ジュリアスも必要以上に暴
き立てるつもりはなかった。
﹁全く。私が最初に命じた時は、関心の欠片もなかったくせに、花
嫁が関わった途端に眼の色を変えますね﹂
﹁⋮⋮﹂
呆れを含んだ視線を平然と受け流すジュリアスを見て、アースレ
イヤはやれやれ、と息をついた。
﹁もし得と見て手を出すなら、最後まで面倒を見てくださいよ﹂
﹁御意﹂
会話の終わりを感じて、ジュリアスは敬礼で応えた。踵を返した
ところで、背中に笑いを含んだ声をかけられた。
﹁そうそう、鉱山町の銘菓は日持ちします。手土産を楽しみにして
いますよ﹂
1660
﹁⋮⋮判りました﹂
穏やかな微笑み見据えて、ジュリアスはやや面倒そうに返事をし
た。余計な仕事が一つ増えた気分だ。
アースレイヤの許可を得た後、ジュリアスは直ぐに次の行動に移
った。軍幹部を召集して、視察に赴く人選、日程、空路を決める。
数日のうちに一通りの根回しを済ませると、最終的に渋々ながら
も光希の鉱山行を認めた。
﹁⋮⋮護衛と行軍経路は、私に手配させてください。坑内には絶対
に入らないこと、時期を決めて戻ると約束できるのなら、許可しま
しょう﹂
﹁はい!﹂
﹁たとえ成果が上がらなくとも、期限を順守して、アッサラームに
戻ると約束してください﹂
﹁了解﹂
﹁破ったら、お仕置きですよ。向こう一年間、公宮に閉じ込めます
からね﹂
﹁恐いよ⋮⋮﹂
真顔で返事を迫るジュリアスを見上げて、光希はすぐに頷いた。
﹁判った。期限を守ります﹂
いささか大仰に敬礼で応えると、ジュリアスは眉をひそめた。
1661
﹁約束ですからね。私も用を片付け次第、鉱山へ向かいます﹂
﹁え、本当?﹂
きてくれるのだろうか。期待を込めて見つめると、ジュリアスは
不機嫌そうな眼差しをわずかに和らげた。黒髪に手を伸ばして、指
で梳く。
﹁東の巡察はアーヒムに任せます。私は鉱山組合の裏を確認次第、
鉱山町へ直行するつもりです﹂
﹁ジュリもきてくれるんだ! 心強いよー。裏って何?﹂
﹁ザインで開かれる工匠の会合に、ココロ・アセロ鉱山の要人も出
席するのです。そこで違法取引が行われる可能性が高い。現場を押
えるつもりです﹂
﹁それは、閉口に関係すること?﹂
﹁はい。元々調べる予定ではいましたから。私が傍にいない時に、
無茶な真似はしないでくださいね﹂
﹁うん。ありがとう⋮⋮﹂
感謝の気持ちをこめて、広い背に腕を回した。胸に頬を寄せて瞳
を閉じれば、すぐに優しく抱きしめてくれる。
鉱山行を認めてもらう為にも、不安を見せてはいけないと気張っ
ていた分、肩から余計な力が抜けた気がした。
彼がきてくれるのなら、もう恐いものなしだ。
1662
翌朝。
意気揚々と、許可が下りたことをアルスランに伝えると、さも疑
わしそうに眉をひそめられた。
﹁⋮⋮本当でしょうね?﹂
﹁本当ですよ!﹂
﹁殿下のお気持ちは大変嬉しく思いますが、貴方を危険に晒してま
で、義手を欲しいとは思いません﹂
﹁十分気をつけます。鉱山といっても、実際に坑内に入るわけでは
ないし、僕はひたすら工房に缶詰の予定ですから﹂
﹁そうはいっても、アッサラームほど設備も整っていないし、治安
も悪いでしょう。私は今のままでも十分満足していますよ﹂
﹁アルスラン。うまくいけば、以前のように飛べるかもしれないん
です﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁ここで諦めてしまうのは、勿体ないですよ﹂
畳み掛ける光希を見て、アルスランは苦虫を潰したような顔をし
た。
﹁何も、無理をして今いかずとも、またの機会にしてはいけないの
ですか?﹂
1663
﹁千載一遇の機会なんです。今を逃しては、次の好機がいつになる
か判りません﹂
﹁貴方に何かあっては、シャイターンに顔向けできません。片腕ど
ころか、四肢を切断されて牢獄いきになっても、文句はいえません
よ﹂
﹁恐いことをいわないでください⋮⋮﹂
恐ろしい例えに光希は怯んだが、アルスランは真顔で続ける。
﹁冗談ではありません。焦っても仕方のないことです。どうか、ご
自愛ください﹂
﹁それでも僕はやっぱりいきたい。アルスラン、心配だというのな
ら、貴方も一緒にきてください﹂
勢いよく頭を下げると、アルスランは周囲を気にして狼狽えた。
﹁殿下、お止めください﹂
軍部の廊下で立ち話をしている為、すれ違う軍関係者がちらちら
と視線を送っている。承知の上で、光希は頭を下げ続けた。
﹁どうかご同行をお願いしますッ!﹂
勢いでごり押すと、やれやれ、といった風にアルスランは頷いた。
﹁⋮⋮判りました。頭を上げてください﹂
1664
﹁本当ですか?﹂
﹁殿下は意外と強情だ。シャイターンの気苦労が窺えるな⋮⋮﹂
ぽりぽりと頭を掻く光希を見て、アルスランはどこか遠い眼をし
た。
光希の申し出もあり、割とすんなり鉱山の視察組にアルスランも
編成された。他もあらかた決まると、いよいよ光希の鉱山行は確定
した。
神殿の務めがある為、同行できないナフィーサは、厚い指南書を
したため、ローゼンアージュに手渡した。
﹁私の代わりに、殿下のお世話をお任せします。紅茶の煎れ方から、
お肌の手入れまで書いてありますから、よくよく眼を通しておくよ
うに!﹂
真剣な顔つきで託すナフィーサを見て、ローゼンアージュも真顔
で頷いてる。
﹁⋮⋮いや、肌の手入れはどうでもいいから﹂
思わず光希が口を挟むと、ナフィーサは厳しい視線を投げてよこ
した。
﹁殿下の白い肌は、陽に弱いのです。鉱山町は空気も悪いのですか
ら、手入れを怠ってはいけません!﹂
﹁は、はい﹂
1665
気圧されて頷くと、よろしい、というようにナフィーサは頷いた。
視線をローゼンアージュに戻すと、指南書の説明を再開する。
﹁衣装の選別に迷った時は、十一項を開いてください。室内と外出
時では異なります。こちらの項目を⋮⋮引用は下に番号を振ってあ
ります﹂
真面目に聞き入るローゼンアージュを見て、光希は少々気の毒に
思った。
1666
24
︱︱期号アム・ダムール四五五年一二月一〇日。
夜も明けきらぬ、黎明。
天空に瞬く星は、すでに消えている。空気は冷たいが、雲一つな
い晴天だ。
隊伍をなす飛竜隊の前に立ち、ジュリアスは厳しい眼差しを一同
に向けた。準備が整ったことを確認すると、アルスランとサイード
を傍へ呼んだ。
ロザイン
﹁心して花嫁を守るように。傷一つつけてはなりません﹂
﹁御意﹂
二人が敬礼で応える様子を、光希はジュリアスの隣で緊張気味に
見ていた。いよいよ鉱山に向けて、出発するのだ。
﹁光希も、くれぐれも無茶はしないように﹂
﹁はい﹂
﹁アッサラームに比べて、鉱山町は治安が悪い。一兵士に扮してい
るとはいえ、一人で出歩いてはいけませんよ。常にアージュと行動
を共にしてください﹂
﹁判っています﹂
1667
﹁貴方に何かあれば、全隊の連帯責任とします。心してください﹂
﹁はい﹂
真剣な表情で光希が頷くと、ジュリアスは気遣わしげに抱き寄せ
た。強い腕の力から、案じる気持ちが伝わってくる。胸がいっぱい
になり、光希も強くしがみついた。
﹁ジュリも気をつけてね。僕より、ずっと危険なんだから﹂
見送りにはいけない、恋人の身を光希も案じる。
﹁はい。必ず⋮⋮﹂
この後、ジュリアスは少数を率いてザインへ赴く。そこで開かれ
る工匠の会合に潜り込み、裏取引を押さえるのが目的だ。
本来は他者に任せる予定でいた任務を、彼が自ら指揮を執るのは、
光希達の研究の弊害を取り除く為なのだ。
互いに別れを惜しみながら身体を離すと、想いのこもった視線を
交わした。
迷いを断ち切るように、光希は頬を引き締め、背を向けた。ロー
ゼンアージュの手を借りて、彼と共に飛竜の背に乗る。
高くなった目線から、最後にもう一度、地上に立つジュリアスを
見下ろした。こうして彼に見送られるのは、初めてのことかもしれ
ない。
どうか、無事で。
声なき祈りを心に唱える。一抹の寂しさを覚えながら、光希は気
持ちを引き締めた。
1668
﹁飛翔!﹂
アルスランの号令が蒼天に響き渡った。
がんこうじん
隻腕でも、彼の飛行に問題は無い。堂に入った操縦で、見事に飛
翔してみせる。
順調に上昇気流に乗ると、飛竜隊は一糸乱れぬ雁行陣を展開した。
このまま真っ直ぐに南下を続けて、予定通りに運べば、十日後に
は西に舵を取る。ややもすれば、目的地たる鉱山町に到着するだろ
う。
こうばい
ココロ・アセロ鉱山は、西における最古最大の大国、アッサラー
ムから遥か南西に位置する。
あかいわ
四方を砂に囲まれた巨大な山脈の頂上は雪化粧で覆われ、勾配の
緩やかな野裾になるにつれて赤磐に転じる。天辺は大体いつも雲が
キャラバン
かかり、その全貌は稀にしかお眼にかかれない。
豊かな鉱物の取れる山の麓には、隊商や鉱山夫の憩う小さな町が
あり、周辺およそ一〇〇キロメートル圏内には、それ以外の町は見
当たらない。
町から持ち運びされる鉱石を狙った盗賊が横行しており、ココロ・
アセロ鉱山への道のりは治安が悪かった。
その為、移動は空路を取ることが多い。光希達も、全軍、飛竜に
乗っての高速大移動である。
十日後。
砂丘の彼方に、霊峰が姿を現した。
天高く聳える頂は雲に隠れ、その全貌を拝むことはできない。麓
には鉱山町が切り開かれていた。
現役稼働する鉱山を生まれて初めて目の当たりにした光希は、つ
い飛竜の背から身を乗りだして地上を眺めた。
1669
﹁殿下﹂
手綱を操るローゼンアージュは、控えめに光希の肩を引き寄せた。
視線で詫びると、姿勢を正す。
間もなく着陸すると、忘れかけていた地上の熱気に包まれた。強
烈な陽射しが、真上から照りつけてくる。
隊伍を整える間、光希は天幕の影で休んでいた。日向にいると汗
が噴き出すが、日陰に入ってしまえば涼しい風が吹く。アッサラー
ム同様に、乾いた空気が気持ち良い。
ふと隣を見ると、ローゼンアージュは真剣な顔で指南書に眼を通
していた。何やら付箋が増えている⋮⋮
﹁気楽にしていいからね﹂
声をかけると、彼は何を思ったのか急に立ちあがり、荷箱の中か
ら真鍮の壺を取り出した。
給仕に使う茶器だ。ナフィーサに仕込まれたのか、ローゼンアー
ジュはなかなか手慣れた手つきで給仕を始めた。檸檬を浮かべた杯
を受け取り、光希は微笑んだ。
﹁ありがとう。喉が渇いていたんだ﹂
﹁いえ。気付くのが遅くてすみません﹂
﹁そんなことないよ。アージュがいてくれて心強いよ﹂
気を張っていたらしい青年は、その言葉にほんの少しだけ表情を
緩めた。
一息つくと、光希は彼の手を借りて身支度を整えた。肌に褐色粉
を塗り、隊帽と覆面で顔を隠す。正面からは眼しか見えない、いさ
1670
さか怪しげな恰好ではあるが、鉱山町の空気は悪く、覆面を常用し
ている者は少なくなかった。
全隊の準備が整うと、いよいよ光希達は現場へ向かった。
鉱山視察は、クロガネ隊の任務と公表し、最高責任者はアルスラ
ン、工房の現場監督はサイードが務める。光希は身分を隠して、ク
ロガネ隊の一兵士として、現場に同行する手筈になっていた。
開拓時代の名残を留める鉱山町は、迷路のような煉瓦の路地が入
わいざつ
り組んでおり、雑多ながらも洗練されたアッサラーム市街とは、一
のきさき
味違う猥雑さであった。
喧噪飛び交う店の軒先には、山と積まれた古着や頑丈な革靴、大
小様々なつるはしがところ狭しと並べられている。日用品の他にも、
都会でも手に入りにくい高級品なども並び、なかなかの盛況ぶりだ。
東西大戦を決勝に導いたアッサラーム軍は、ここでも大半の人間
に歓迎されたが、中には余所者を見る眼を向ける者もいた。
うずくま
話に聞いていた通り、治安は良くないようだ。
道端に身体を壊して働けなくなった浮浪者が蹲り、身寄りのない
子供達が、獲物を見るような眼つきで一行を検分している。
鉱山は大小合わせて一〇〇を越える坑道が敷設されており、特に
主要な坑口は第一から第七とされている。
キャラバン・サライ ハマム
全ての坑口に通じる麓の拠点には、選鉱場、精錬所、水汲み場、
給食所といった採鉱関連の建物の他に、病院、隊商宿、沐浴場まで
備えた複合施設がある。
今回の視察の為に、ジュリアスの命で、施設内には工房と軍の宿
舎が建てられていた。
やってきた光希達を見て、遠巻きにしている炭鉱夫達は、脱帽し
て頭を下げた。
閉口予定の第一坑に従事する労働者達だ。軍の視察の為に、廃坑
は一時保留となり、ひとまず稼働が続くことを、彼等は喜んでいた。
﹁一通り道具は揃えてあります。他に足りないものがあれば、町で
1671
調達しましょう。治安は悪いが、物は揃ってますよ﹂
サイードに案内された石造りの工房を眺めて、光希は満足そうに
頷いた。質素だが堅牢だ。これなら、十分研究に集中できる。
﹁ありがとうございます。早速、準備しますね﹂
サイードとアルスランが鉱山組合と会談している間、光希はアル
しゅろ
シャッドと共に工房で荷解きにとりかかった。
棕櫚の作業机には、鉱山で採れた鉱石が名札と共に並べられてい
る。一つを手に取り、光希は眼を閉じた。身の内に、不思議な静け
さが満ちていく。
﹁⋮⋮うん。できそう﹂
瞳を開くと共に、小さく呟いた。
ここでなら、義手の新たなる可能性を見出せそうな予感がする。
隣に立つアルシャッドを見ると、彼も丸眼鏡の奥から、自信に満
ちた瞳で見返してきた。
﹁頑張りましょうね﹂
﹁はい!﹂
くろがね
けんげき
この世界には、理屈では説明のつかない超常が起こる。
鉄は大地に根づく神力を宿し、巨岩を砕き、荒々しい剣戟に耐え
抜く。剣を持つ主の意志に沿うように、柔軟にしなり、脅威に打ち
克つのだ。ならば義手とて同じこと。
陽は沈み、町に明かりが灯る。
1672
鉱山から立ち昇る煙は、麓に降りてくる。
埃にまみれた町は夕暮でも空気が悪く、汗ばんだ肌に炭塵が張り
つき、誰も彼もが黒ずんで見えた。
﹁部屋で湯を浴びれますよ﹂
そう言って、サイードは趣ある真鍮の鍵を光希に手渡した。
佐官以上は一人部屋で、中に浴室がついているのだが、サイード
は広い大衆浴場の方が好きらしい。
かし
しょうしゃ
人前で肌を晒せぬ光希は、当然個室へ戻った。
艶めいた樫の扉を開くと、瀟洒な内装に眼を瞠った。簡素な部屋
を想像していたが、急設したとは思えぬ行き届いた部屋だ。
白塗りの壁と柱。床には絹織の高級絨緞が敷かれ、円蓋のついた
寝台の傍には、夜空を描いた色硝子の照明が置かれている。壁には、
万華鏡のような意匠の青磁のタイルが張られ、豊かな色彩の絵画が
飾られていた。
﹁いつの間に⋮⋮﹂
せっこう
しみじみと呟きながら、石膏彫刻の文机の傍へ寄ると、薔薇の花
束に、ジュリアスの直筆が添えられていた。
いつでも貴方の傍に
どこにいても、ジュリアスは光希を気にかけてくれる。綴られた
文字に胸を暖かくさせながら、光希は瞳を閉じた。
1673
25
六日後。
昼休を告げる鐘の音に、光希は手を休めた。工房に詰めている隊
員達も、顔を上げて肩を解している。
街の中心には、唯一の大きな寺院があり、遥かな鐘楼は人々に時
間を告げるのだ。
光希達も、昼は炭鉱夫達に混じって給食所で取っている。
休憩の暇つぶしに盤遊戯に興じる者が多く、光希はその遊びに強
ロザイン
かった。計らずとも彼等と交流が進み、煤汚れた作業着姿の光希を、
ごうほうらいらく
誰もシャイターンの花嫁とは疑わず、親しげに声をかけられるよう
になるのにそう時間はかからなかった。
アルスランはいい顔をしなかったが、豪放磊落ながら社交に長け
るサイードが何かと傍にいるので、あまり煩くはいわない。
﹁テオ! 調子はどうだ?﹂
﹁こんにちは、ダンカンさん。あれ、額から血が⋮⋮﹂
ここではテオの名で通している光希は、巨躯の男の額に滲んだ血
を見て、眼を瞠った。
﹁どうってことねぇよ。かすり傷だ﹂
﹁手当をしましょうよ﹂
手を振るダンカンを無視して、光希は手際よく背負っていた麻袋
から、救急道具を取り出した。
1674
炭鉱現場は、常に危険が伴う。
富をもたらす産業でありながら、坑内作業を中心とする鉱山では、
他産業に比べ作業環境の悪さが何かと眼についた。
過酷な労働において、不十分な保安を見ていると、坑内でいつ事
故が起きてもおかしくない不安に駆られてしまう。
﹁⋮⋮おめぇ、とろそうに見えるけど、手際いいよな。軍で働くよ
り、鉱山技師の方が向いているんじゃねぇか?﹂
﹁はは⋮⋮﹂
国門で壮絶な救援活動に従事していた光希は、本人も知らぬ間に
救急処置、看護に非常に通じていた。
覆面のうちで快活に笑う光希を、アルスランは不服そうに見てい
る。下っ端兵士で通している光希が、小間使いの少年のように思わ
れることが彼は気に食わないのだ。
﹁ありがとよ。よし、一局付き合え﹂
﹁はい!﹂
使い古した盤を取り出すと、ダンカンは駒を並べ始めた。光希も
笑顔で応じる。ぱちぱち、と駒を置く二人を、暇潰しに眺める男達
が囲んだ。
﹁ほー⋮⋮なるほど、そうきたか。テオは強いなぁ﹂
﹁いえいえ﹂
一局を終えるのに、大体半刻といったところだ。
1675
今回も光希の勝利で決着がつき、ダンカンは感心したように唸っ
た。謙遜しつつ、嬉しげに光希は応える。今のところ、負けなしで
ある。
﹁いつまでいるんだ?﹂
﹁えーと、あと二月ほど﹂
﹁テオが帰るまでに、絶対勝ってやる!﹂
煤に汚れた顔で、白い歯を覗かせてダンカンは哄笑した。
﹁お前達、いつまで休憩している!﹂
突然に飛来した罵声に、光希は肩を撥ねさせた。声のした方を振
り向くと、がっしりした額の、無精髭を生やした男が仁王立ちで立
っていた。
彼の名はベルゼ。現在の第一坑道長だ。
元は第一坑道副長であったが、閉口争議の処分と称して、一月前
に組合はダンカンを降格し、副長のベルゼを坑道長に据えたのだ。
﹁ち、うるせぇのがきやがった﹂
ぼやいたのは、歯抜けのジリーだ。他の連中も、不満そうな顔を
している。気難しく、横柄な態度のベルゼは、第一坑道の鉱山夫達
から嫌われていた。
﹁しゃあねぇな﹂
そういって肩をすくめると、ダンカンは駒を片付けて席を立った。
1676
光希も慌てて席を立つ。ベルゼと眼が合い、小さく会釈をすると、
小馬鹿にしたように睥睨された。
﹁そこの軍人さんも、こんな所で油を売っていちゃ、見咎められま
すよ﹂
嫌味な口調に、光希は覆面の内で苦笑いを浮かべた。
ダンカン達と交流を持つ光希は、ベルゼに煙たがれている。軍人
らしくない、ぽっちゃりとした体型も、彼には嘲笑の対象であるら
しい。
そんな横柄な態度の男も、ローゼンアージュに冷たい視線を向け
られると、怯んだように表情を強張らせた。苦々しい表情に変えて、
踵を返して去っていく。
﹁ま、気にすんな。機嫌がいいことなんてない、じーさまだからよ﹂
ダンカンに肩を叩かれて、光希は小さく眼で笑った。
炭鉱に戻っていく彼等と笑顔で別れると、光希も工房へと引き返
していった。
終鐘が鳴るまで工房で過ごし、肩を解しながら宿舎へ戻る道すが
ら、坑口から出てきたダンカン達に遭遇した。
﹁おぅ、風呂に行くのか?﹂
鉱山連中と歩いているダンカンに呼び止められた。光希が手を上
げると、ダンカンも手を上げて応える。
﹁ダンカンさん。お疲れ様です﹂
﹁一緒にいこうや! 明日は休みだ。汗流した後、皆で一杯やりに
1677
いくんだ。テオもこいよ﹂
光希が戸惑った顔をすると、傍にいた炭鉱夫達は苦笑いを浮かべ
た。
﹁テオだって軍の人間だ、俺等と一緒にすんじゃねぇよ﹂
気遣いの滲んだ言葉ではあったが、光希は線引きを感じて慌てた。
大衆浴場は無理としても、飲みにはいきたい。
﹁後からいきます! 店を教えてください﹂
﹁おい﹂
隣から、呆れを含んだアルスランの声が聞こえたが、光希は無視
した。
﹁誘ってくれたのに、断るのは⋮⋮﹂
約束を交わして別れた後、そろりと長身を仰ぐと、アルスランは
仕方さなそうに溜息をついた。
お許しを得て、光希は表情を明るくした。部屋に戻り、身綺麗に
してから扉を開けると、背を向けていたローゼンアージュが振り向
いた。
﹁お待たせ﹂
寡黙な青年は、目礼すると光希の後ろに付き従う。計らったよう
に、アルスランとサイードもやってきた。
全員、隊服は脱いでおり軽装ではあるが、腰に紋章の入ったサー
1678
ベルを履いている。光希はいつも通り麻袋を背負って、踵の潰れた
靴を引っかけていた。
ぐんか
﹁⋮⋮その恰好で? せめて軍靴を履いてください﹂
﹁駄目? 一応、外行き用に買ったんだよ。すごく履きやすいんだ、
これ﹂
アルスランに指摘されて、光希は足元に視線を落とした。鉱山町
で入手した、ここでは一般的な日用靴だ。
例の指南書を開きながら、ローゼンアージュは光希の私室に入る
と、編上げの軍靴を手に戻ってきた。光希の前で跪き、上目遣いに
訴えてくる。
﹁はい⋮⋮﹂
無言の圧力に屈し、光希は大人しく履きかえた。
1679
26
町は、夕暮の喧噪に包まれている。
想像した通り、光希達一行はそこら中から視線を集めた。
軍服を脱いでいても、彼等の雰囲気は垢抜けている。中でも、帯
剣した見目麗しい青年士官達︱︱アルスランやローゼンアージュは
特に視線を集めた。色めき立つのは女ばかりではない、秋波を送る
男も中にはいる。
注目を浴びる彼等に挟まれて、光希はなんとなく背を丸めて道を
進んだ。
店は繁盛していた。
はす
組合の象徴である、四つの三角形を意匠された帽子を被った男達
は、日中の労働を麦酒で癒していた。
その傍らに、胸元の開いた服を着た蓮っ葉な女達が侍っている。
幾筋かほつれた髪を垂らし、しなをつくる姿は退廃的で艶めかしい。
こういった方面で免疫のない光希は、どきまぎしながらその光景
を視界に納めた。
﹁⋮⋮殿下、本当にいくのですか?﹂
﹁う、うん﹂
こうしょう
確認をとるアルスランに、光希も少々たじろぎながら答えた。わ
はは、とサイードが愉しげに哄笑する。
﹁別にいいだろ。ちっとくらい羽目を外したって。なぁ?﹂
﹁俺はシャイターンにどう報告すればいいんだ⋮⋮﹂
1680
﹁まぁ、上手くいってくれ﹂
無責任にサイードがいい放つと、こめかみを押さえながらアルス
ランは息を吐いた。
中へ入ると、光希達に気がついた炭鉱夫達が、よぉ、と気軽に手
を上げた。席へつくなり、波と注がれた杯を渡される。
﹁乾杯だ!﹂
男達が杯を突き合わせる。光希も煽ると、隣に座る男が気を利か
して葉煙草を渡してきた。何もいわずに、アルスランはその手を制
した。
﹁え、駄目なのかい? 成人はしているんだろう?﹂
﹁あ、はい﹂
興味を引かれて煙草を受け取る光希を、アルスランは針のように
眼を細めて睨んだ。あまり刺激しては、彼の堪忍袋の緒が切れそう
だ。
﹁せっかくですが、また今度﹂
控えめに光希が断ると、男は愉快そうな笑みを浮かべた。
﹁坊やには、ちぃっと早かったかな?﹂
﹁く⋮⋮っ﹂
1681
悔しげに呟く光希の頭を、ダンカンはぐしゃぐしゃとかき乱した。
なかなか剛胆な男は、ローゼンアージュとアルスランに睨まれても
平気なようだ。
﹁本当に、そんなに小さいのに、よく炭鉱へきたなぁ。仕事は順調
なのか?﹂
﹁おかげさまで、捗っています﹂
向かいに座るアルシャッドと視線を交わし、光希はダンカンに笑
いかけた。
質のいい鉄はすぐに精錬所に運ばれて、工房へと運ばれる。おか
げで殆ど待ち時間もなく、義手制作の実験に取り組めている。
でんぱ
恵まれた環境のおかげで、研究は最終段階に差し掛かっていた。
神経の伝播劣化という重要課題にも解決の目途が立ち、あとは細
かな調整の繰り返しだ。
ほくほくとした笑みを浮かべる光希を見て、ダンカンはニヤッと
笑った。
﹁よしよし。頑張ってる坊主に、いっちょ女を紹介してやろうか?﹂
光希は慌てて首を振った。
﹁僕、恋人がいますから﹂
﹁へぇ!?﹂
男は眼を丸くしたかと思えば、光希の二の腕を掴み、ふにふにと
揉み始めた。光希はローゼンアージュに目配せをしなければならな
かった。こんなところで殺意を滲ませてはいけない。
1682
﹁嘘だろ? やらけーなぁ、坊主。こんなナリで、ちゃんと女抱け
んのか?﹂
﹁あはは⋮⋮﹂
弱り切った顔で、光希は言葉を濁した。意味不明に、男は頬を突
いてくる。
眼を細めたローゼンアージュは、真顔で男の頬を指で突いた。つ
んつん、などのかわいらしいものではない。
﹁うぉっ!?﹂
どすっ。指が刺さりかねない衝撃に、男は鈍い声をあげるて頬を
押えた。顔を歪めて痛がっている。
﹁す、すみません! 大丈夫ですか!?﹂
﹁お、おぅ。もしかして、テオの恋人って⋮⋮﹂
﹁違いますよ﹂
即答する光希の横で、ローゼンアージュは例の指南書を開き、顔
を上げた。
﹁僕はで⋮⋮テオの下僕です﹂
﹁同僚です﹂
きりっとした表情で告げる青年の言葉を、光希は慌てて上書きし
た。
1683
﹁下僕⋮⋮﹂
ダンカンは間の抜けた顔で、二人の顔を交互に見比べている。
﹁アージュ、その指南書ちょっと見せてくれる?﹂
果たして、何が書かれているのか。
外野は楽しそうだが、光希は不安になった。しかし、取り上げよ
うと手を伸ばせば、ひょいと躱される。
子供じみた攻防がおかしかったのか、ダンカンは愉快そうに破顔
した。
会話の合間、手水に席を立とうとすると、護衛にローゼンアージ
ュだけではなく、アルスランまで席を立った。
﹁大丈夫⋮⋮﹂
同行を断りかけたが、無言の圧力に屈した。されるがまま、覆面
を直される。男達の物言いたげな視線に見送られて、光希は廊下へ
出た。
場末の酒場で、彼等の過保護ぶりは目立って仕方がない。
部屋に戻る途中、廊下ですれ違った男は、光希に気付いて嫌な笑
みを浮かべた。酒精の匂いを漂わせて、覆面の中を覗き込もうとし
てくる。
﹁寄るな﹂
アルスランは低い声で命じると、男を遠ざけた。
﹁軍の美丈夫を侍らせて、いったい、どんなお姫様なんだ? ちょ
1684
っと声を聞かせてくれよ﹂
狼狽える光希を背に庇い、アルスランは剣呑な眼で相手を見た。
﹁おぉ、恐い。そう睨むなよ﹂
赤ら顔の男は両手を上げて、降参とでもいいたげに去っていく。
困ったことに、からかう者は後を絶たなかった。
席についた光希の顔色を見て、ダンカンはからかうでもなく、真
面目に訊ねてきた。
﹁随分、大事にされてんだなぁ。本当は、どっかいいところのお坊
ちゃんなのか?﹂
﹁違いますよ﹂
﹁じゃあ、なんだっていつもいつも、お姫様みたいに護衛されてる
んだよ?﹂
﹁危なっかしくて、眼が離せないだけだ﹂
真顔でアルスランがいうと、ダンカンは口笛を吹いた。唖然とす
る光希を見て、閃いたように指を鳴らす。
﹁そうか、あんたがテオの恋人か!﹂
﹁違います!﹂
﹁⋮⋮眼を離さないよう、恋人によく頼まれているのでな﹂
1685
﹁ほぉ! で、誰なんだ?﹂
﹁誰でもいいじゃありませんか﹂
話題を逸らそうと試みたが、ダンカンは粘った。周囲の男達も悪
ノリをしてくる。
﹁気になるなぁ。毛も生えていなさそうな坊やに見えるのに﹂
﹁坊やって、僕を何歳だと思っているんですか﹂
﹁ふにふにだし⋮⋮うぎゃぁッ!!﹂
二の腕を揉んでいた男は、ローゼンアージュに腕を捻られて、悲
鳴を上げた。捻った本人は顔色一つ変えずに指南書に眼を落とすと、
きりっと顔を上げる。
﹁この方に、みだりに触れてはいけません。無礼は許しませんよ﹂
﹁ねぇ、何が書いてあるの!?﹂
慌てたせいで、声が裏返った。ぎゃはは、と愉快げな哄笑が部屋
に満ちる︱︱
﹁臭ぇと思ったら、閉口組がいらっしゃるッ!﹂
突然の罵声に、全員が入り口を見た。第四坑道の炭鉱夫達が、小
馬鹿にしたような眼でこちらを見ていた。
﹁ちっ、酒が不味くならぁ。場所変えるか?﹂
1686
一人がいうと、他の者もまばらに頷いた。緊張する光希の傍らで、
表情を引き締めたローゼンアージュとアルスランが乱入者達を睨ん
でいる。
一触即発の雰囲気に、女達はそそくさと席を立った。
第四坑道の男達は、ずかずかと店に入ってくると、ダンカンの前
で昂然と腕を組んだ。
﹁とっとと、出ていけよ﹂
﹁絡むんじゃねぇよ。席は空いてるだろ? あっちで、大人しく飲
んでろや﹂
くぃと部屋の奥を指すと、ダンカンは鼻で笑った。対峙する男は、
唇を歪めて嗤った。不味いな、と光希が思った次の瞬間には、男は
問答無用で拳を振りかざした。
﹁危ないッ!﹂
殴られる︱︱そう思ったが、ダンカンは酔っ払いとは思えぬ俊敏
な動きで躱した。身を屈めて、回転を聞かせた裏拳を腹に叩き込む。
﹁ぐぅっ﹂
唸ったのは、喧嘩を吹っかけてきた男だ。よろめいた男を、そい
つの味方が支え、射殺しそうな眼でダンカン達を睨んだ。
﹁やりやがったな﹂
あっという間に、酒場は喧嘩場と化した。取っ組み合いの喧嘩に、
1687
酔っ払い達が面白がって野次を飛ばしている。
﹁殿下、こちらへ﹂
ローゼンアージュに腕を引かれて、光希は大人しく席を立った。
もう、飲んでいる場合ではない。
入り口に向かう途中、頭に血の上った男達が襲いかかってきた。
殴る相手は、誰でもいいようだ。
鋭い眼をした男が、脇をしめて拳を固めた姿勢で走り込んでくる。
ローゼンアージュはそいつの脚を払い、巨体を宙に浮かすと、廻し
蹴りを打ち込んだ。
もはや彼の身体に染みついた経験が、的確に彼の身体を動かして
いるのだ。
鈍い音に、光希は顔をしかめた。巨体が頽れると、周囲の鉱山夫
達は更に血気ばんだ。
﹁民間に手ぇ出しやがって! 構わねぇ、やっちまえ!﹂
﹁お高くとまりやがって、軍のお偉いさまがなんだって鉱山にやっ
てきたんだ! とっとと出ていきやがれッ!﹂
騒然となった店内で、アッサラームの兵士達は冷静だった。少な
からず酒を飲んでいたはずなのに、平然と処理していく。
﹁おいおい、絡んできたのはどっちだ? ほどほどにしておけ﹂
壮年の兵士が、呆れたように応えた。
﹁⋮⋮止められない?﹂
1688
戸口から室内を振り返り、光希はサイード達に尋ねた。巨躯の男
達に暴れられて、店はさぞ大迷惑だろう。
﹁店の被害は弁償しましょう。今水を差すと、余計な恨みを買いま
すよ。ああやって、憂さ晴らしをしているのでしょうから﹂
サイードは肩をすくめてみせた。
﹁そうかぁ⋮⋮﹂
確かに、気色ばんだ連中の中には、面白がっている者もいるよう
だ。妙に活き活きとして見える。
彼等が大きな怪我を負わぬことを祈りながら、さり気なく護衛に
周囲を固められて、光希は帰路についた。
宿舎に戻ると、真っ先に湯を浴びた。酒精の匂いを落として、よ
りゅうぜんこう
うやく一息つく。
いぐさ
龍涎香の焚かれた室内は、品よく整えられており、窓辺には蒼と
ぼうばく
した藺草が生けてあった。仰向けに寝台に転がり、瞳を閉じる。
疲労で茫漠とした思考に、今さっきの賑やかな喧噪が蘇り、ふと
愉快な気持ちがこみあげた。
﹁ふ⋮⋮﹂
騒がしい一夜であったが、楽しかった。
ここでは、身分の壁なく彼等と接していられる。
静かな部屋に一人でいると、心は凪いで、次第に遠くへと彷徨い
始めた。
今頃、ジュリアスはどうしているだろう⋮⋮任務は順調にいって
いるのだろうか。
1689
︵無事でいますように︶
心の中で、恋人の無事を願う。のんびり天上で寛ぐシャイターン
が、判ってるよ、と応えてくれた気がした。
1690
27
︱︱期号アム・ダムール四五五年一二月二四日。
ザインに潜入したジュリアスは、街の石工に扮して、会合に出席
していた。
ざっと見る限り、三〇名ほどが参加している。
職人同士の情報共有を目的の主とする会合だが、取引の場として
も使われている。気難しそうな職人面が多いが、海千山千な商人も
あらかじ
ちらほら交じっている。
予め調べてある通り、ココロ・アセロ鉱山の幹部もきていた。
事情は把握している。
彼等がここにいるのは、第一坑を閉口した後、新たな採掘現場を
起こすにあたり、多額の賄賂と引き換えに特定の組合を斡旋する裏
取引の為だ。
監視していた男が部屋を出ていくのを見て、ジュリアスは部下に
目配せをした。凡庸な職人に扮した隠密が、静かに男の後をつけて
いく。
頃合いを見て指示した部屋に向かうと、捕縛された男達は、不安
そうな顔でジュリアスを仰いだ。
﹁お前達は誰なんだ? どこの組合だ?﹂
﹁我々はアッサラーム軍です﹂
﹁アッサラーム軍だと? どうしてここへ? 視察で鉱山にいって
いるんじゃないのか?﹂
1691
﹁鉱山には、他の仲間がいっています。我々は、取引の現場を押え
る為にここへきました﹂
﹁何のことだ︱︱﹂
﹁最初に断っておきます。我々は、知りたい情報は全て掴んでいま
す。偽って答えた場合は、アッサラームに報告した上で、厳しく罰
しますので覚悟してください﹂
覆面を下げたジュリアスの顔を見て、男達は震え上がった。
額に輝く青い宝石。誰を敵に回したのかを理解して、己の運命を
呪うように呻いた。
﹁鉱山の坑道新設の為に、今日この場で、三つの組合から資金を得
ましたね?﹂
淡々と言葉を紡ぐジュリアスを、青褪めた顔で髭面の男が見つめ
た。
﹁答えてください﹂
﹁⋮⋮そうだ﹂
﹁第一坑の閉口を承認したのは、第三、四、七の坑道長に相違ない
ですね?﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
問答はしばらく続いた。
こちらの掴んでいる情報を一つ提示する度に、男の顔から生気が
1692
てきがいしん
失せていった。自信と敵愾心を十分に挫いたところで、ジュリアス
は少し口調を和らげた。
﹁︱︱現在、争議が起きている第一坑の炭鉱夫を、新たな採掘現場
で再雇用する意志はありますか?﹂
﹁それは、いや⋮⋮﹂
﹁再雇用以外の手立てがあるのですか?﹂
気まずそうに黙る男の顔を、ジュリアスは注意深く眺めた。
実は、この点に関しては調査が不十分で、調べ切れていなかった。
相手はこちらの質問口調に、気を回す余裕はないようだ。疾しいこ
とでもあるのか、視線がしきりに動く。
﹁交渉材料が不十分なことが気掛かりです。このままでは、争議も
長引きますよ﹂
鉱山から遠く離れたザインで、それも小さな会合で取引をするほ
ど警戒心の強い彼等が、鉱山の争議に頓着していないことをジュリ
アスは前から不審に思っていた。鎮静する目論みでもないとなると
︱︱
﹁そういえば、第一坑の保安に関して、炭鉱夫からの嘆願書を過去
に何度か却下していますね?﹂
沈黙は肯定だ。怖気をふるったように俯く顔は、こちらを見よう
としない。
背筋が冷えるのを感じながら、ジュリアスは部屋の外に飛び出し
た。空を仰いで、サーベルを抜く。
1693
﹁光希?﹂
逸る気持ちを抑えて
眼に集中する。
光希
の文字を指でなぞった。瞑目して神
遥かな鉱山の様子が視えて、心臓が止まりかけた。
坑内には入らないと約束をしたのに。
何が起きたのか、逃げ惑う人の波にさからって、光希は坑内に飛
びこんでいった。
﹁光希ッ!﹂
坑内の爆発事故。
崩落が起こる︱︱光希の頭上に崩れる巨岩を見て、ジュリアスは
全身全霊を傾けて、光希を守ることに集中した。
+
晴れた空と、翳った空。
鉱山の頂は見えず、山の片側には暗雲が立ち込め、今にも雨が降
りそうだった。
ここではよく見られる天候だそうだが、光希には、山を挟んで分
かつ空の色は、これから起こる未来の明暗を暗示しているように思
えた。
﹁殿下?﹂
足を止めた光希を、ローゼンアージュが不思議そうに見ている。
﹁あ、ごめん⋮⋮﹂
1694
炭鉱夫達の後ろから、選鉱作業を眺めていた光希は、妙な胸騒ぎ
を覚えながら緩く首を振った。
顔色の悪い光希を見て、アルスランは思案するように首を傾げた。
﹁具合が悪そうだ。お戻りになりますか?﹂
﹁いや、少し休めば平気だから﹂
鉱石の調整が気になっていた光希は、気丈に告げた。アルスラン
も熱心な光希の気持ちを汲んで、帰れ、とはいわなかった。
﹁ダンカン達を探してきます。ここで少しお待ちください﹂
遠ざかる背中を見送りなら、光希は空を仰いだ。
嫌な予感がする⋮⋮
カテドラル
こだま
どうにも頭が重くて、工房で横になって休んでいると、警鐘を告
げるかのような、大聖堂の鐘の音が鼓膜の奥で反響した。
﹁︱︱ッ﹂
飛び起きた光希は、転がるように天幕の外へ飛び出した。驚いた
顔をしている護衛兵には眼もくれず、第一坑口を凝視する。
血液が血管中を駆け巡り、心臓は煩いほど音を立てている。
いつもと変わらぬ様子に、違った景色が重なって映る。これから
起こる未来だ。坑内で爆発が起こる。先頭をゆくアルスランは、爆
風に呑みこまれてしまう︱︱
﹁アルスランッ!!﹂
1695
急に駆け出した光希の後ろを、ローゼンアージュはすぐに追いか
けた。腕を取り、引き留めようとする。
﹁殿下ッ﹂
﹁危ない! 中で爆発が起こる。アルスランはまだ中にいる!﹂
腕に縋りつき、真剣な顔で告げる光希を見て、ローゼンアージュ
は厳しい視線を坑口に向けた。
﹁炭鉱夫達を全員、今すぐ避難させて。殿下が事故を視た﹂
人形めいた容姿の青年は、鋭い口調で兵士に指示した。端的な命
令を受けて、彼等はすぐさま行動に移る。
的確に動く兵士の様子を見て、光希は安堵したが、心臓はまだ早
まなうら
鐘を打っている。心を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。
しかし、眼を閉じれば眼裏に、力なく倒れるアルスランの姿が蘇
る。
﹁︱︱ッ﹂
先視では︱︱アルスランは脱出する間際、騒然となった坑道の事
情を知り、人命救助の為に中へ戻ってしまうのだ。
﹁殿下ッ﹂
衝動的に駆け出した光希を、ローゼンアージュが後ろから抱きし
めた。
﹁離して! 間に合わないッ﹂
1696
無言で首を振る青年を見て、光希は逆に襟を掴んで縋りついた。
﹁一緒にきて!!﹂
切羽詰まった形相で告げる。逡巡し、ローゼンアージュはしっか
と頷いた。二人は人の波に逆らって、坑口に飛びこんだ。
斜坑を進むと、やがて分岐路の監視台に立つ、アルスランの姿が
見えた。彼は事情を知らぬ炭鉱夫達に、脱出を促していた。
﹁アルスランッ!!﹂
鋭く叫ぶと、アルスランは何事かと振り向いた。光希を見て、極
限まで眼を見開くと、慌ててこちらへ駆けてくる。
﹁︱︱殿下ッ!!﹂
ろう
その後の言葉は、爆音にかき消えた。
巨岩がぶつかり合う、耳を聾する激音が響く。
光希ッ!
一瞬、あるはずのない声が聞こえた。何が起きたのか判らないま
ま、気付けば光希はローゼンアージュに抱きしめられていた。
﹁逃げろぉ︱︱ッ﹂
﹁火だァッ!!﹂
切羽詰まった幾つもの悲鳴が、第一斜坑の坑口に響き渡った。
1697
つ
﹁痛ぅッ﹂
状況を見定めようと、腕の中で光希は身体を捻った。途端に足首
に激痛が走り、鈍く呻いた。
ドドォッ!!
続く爆音に、声はかき消された。ローゼンアージュは、眼を瞑る
光希をきつく抱き寄せた。
坑道の崩落事故か!?
違う。埃っぽい、鉄塵の匂い、熱した空気︱︱爆発事故!?
沈み込むような、重たい空気を感じとり、光希は背筋を冷やした。
黒く煙る視界の正体は、常温発火性の砂だ。
炭塵に似た砂に、引火爆発したのだとしたら、現在、坑道内には
有害な一酸化炭素が蔓延している可能性が高い。
即時に胆が冷えた。
坑内には、千人を越える労働者が従事しているのだ。彼等の命が
危ない!
﹁ここは危ない、お早くッ﹂
ローゼンアージュの声は、四方から飛来する怒号にかき消された。
引きずられるようにして、煙の帯と共に坑口の外へ飛び出した。
中も外も、焦げついた硝煙の匂いが鼻を突く。
被害のほどは不明だが、地上には血を流して、助けを求める者、
力なく横たわる者達が累々としていた。
﹁なんてことだ﹂
救出せんと、中へ飛びこんで行く者。山の轟きに、瓦礫の音、怒
1698
号が入り乱れて現場は騒然となった。
されるがままに、光希はその場から離された。アルスランを先頭
に、ローゼンアージュに肩を抱かれて、坑口から少しでも遠ざかろ
うとする。
最初、救急用に張られた簡易天幕に光希は運ばれた。
気付けば、幾つもの心配そうな顔が、光希の顔を覗きこんでいた。
サイードやローゼンアージュ、アルスランもいる。良かった。無事
だったのだ。
﹁あぁ、良かった!﹂
﹁お身体は平気ですか? 痛いところは、ございませんか?﹂
馴染の顔を見て安堵すると共に、彼等の瞳に安堵の光が灯るのを
見て、光希の胸は温まった。
横たえた身体は鉛のように重かったが、気合いで、平気だと応え
た。起き上がろうとすると、激しい痛みが左足首に走った。
﹁うッ﹂
苦悶の表情を浮かべる光希の肩を、アルスランは厳しい眼差しで
押さえた。
﹁動くな。足を痛めています。町まで降りますよ、いいですね?﹂
﹁皆は? 大丈夫?﹂
﹁爆発の影響で現場の足場が崩れて、何人か下敷きになりました。
今、救出作業を続けているところです﹂
﹁なんてことだ﹂
1699
苦悶の表情を浮かべて、光希は呻いた。
光希も、爆発に巻き込まれたはずなのだが、足を挫いただけで、
大きな怪我はしていない。
一体、何が起きたのだろう。ジュリアスの声を聞いた気がしたけ
れど⋮⋮あの危機的状況から、彼が光希を救い出してくれたのだろ
うか?
傍にローゼンアージュが膝をつくと、光希の身体に腕を伸ばした。
たちま
華奢な外見に反する、強い腕で光希を横抱きに持ち上げた。
忽ち、慌ただしい現場から遠ざかっていく。
﹁アルスラン!﹂
腕の中から叫んだ。現場に残り、指揮を執るアルスランを振り向
くと、彼は一礼してみせた。
﹁気をつけてッ﹂
﹁殿下も! すぐに戻ります﹂
その後、足の痛みと疲労のせいで光希は高熱を出した。
再び眼を開けた時には陽が昇っており、すぐにアルスランがやっ
てきた。厳しい眼差しを向けられて、光希が身構えると、彼は深く
頭を下げた。
﹁殿下の先視のおかげで、被害を最小限に抑えることができました。
大事な御身に怪我を負わせてしまい、弁明のしようもありません。
申し訳ありませんでした﹂
﹁いやいや、そんな。頭を上げてください。大した怪我ではありま
1700
せんから。それよりアルスランは? 怪我はしていない?﹂
﹁はい。救出にも目途が立ちました。工房務めの隊員も皆無事です﹂
﹁ふぅ、良かった﹂
安堵の息を吐く光希を、アルスランは厳しい眼差しで見下ろした。
﹁今後も護衛を続けるにあたり、一つお約束してください﹂
固い口調に、光希は自然と背筋を伸ばした。
﹁私を庇おうと考える前に、先ずご自分を優先していただきたい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁我々がどれだけ殿下を守ろうとしても、貴方が自ら危険の渦中に
飛びこんでしまっては、全ての労が無駄になります。勇敢と無鉄砲
は全く別です﹂
﹁はい。すみませんでした﹂
悄然と俯く光希の頭を、大きな手が労わるように撫でた。
顔をあげると、意地の悪い、けれど親しみのこもった眼差しに見
下ろされていた。
﹁全く、殿下の護衛は胆が冷えます。シャイターンへの言い訳も用
意しておいた方がいいですよ﹂
﹁う⋮⋮﹂
1701
胃を押えて呻く光希を見て、アルスランは満足そうに笑った。
翌日。炭鉱組合から次のように公表された。
第一斜坑の坑口から約二〇〇〇メートル付近の斜坑で炭塵爆発が
発生。
坑内で用いられていた石炭を満載した列車の連結が外れ、火花を
出しながら脱線、暴走し、これにより大量の常温発火性の塵が坑内
に蔓延。引火爆発したのが原因である。
間もなく閉鎖するからと、炭鉱組合は、坑道の保安を二の次にし
ていた側面が仇となった。
後の調べで判ったことだが、連結に故障をきたした列車の部品は、
老朽により劣化していた。
また、引火爆発の防止策としての塵の除去と撒き水、岩粉の撒布
を怠ったことにより、坑内には塵が蓄積されていたのだ。
1702
28
坑内の爆発事故により、第一から第五までの坑口は一時閉鎖され
た。
現場はまだ騒然としている。
収入を得られない炭鉱夫達は、組合に補助を訴えた。事故が起き
た第一坑道の監督不届きとして、働けない間の賃金保障を申し出た
のだ。
だが、組合は責任の押しつけ合いに忙しく、現場の復旧に遅れが
出る始末だ。
鉱山は不穏な空気に包まれているが、光希の活躍を見ていた炭鉱
夫達は、感謝を述べた。
﹁どうせ坑道にも入れやしないし、一杯やりにいこうぜ。今夜は俺
のおごりで痛飲だ﹂
きっぷ
気風のいいダンカンの申し出に、仲間は盛り上がった。
期限が迫る中、鉱山の採取が捗らず、内心ではやきもきしていた
光希も、彼等の好意を無下にするのは偲びなく誘いに応じた。
﹁事故は組合が保安を怠けたせいだ。塵の除去を何年もやっていな
いことなんざ、俺達はとっくに指摘していたんだ﹂
ダンカンがぼやくと、他の男達も悔しそうに頷いた。
﹁どうせ閉口するからってあいつら聞きやしねぇ。鉱山管理だなん
て、椅子で踏ん反りかえってる奴に何が判るってんだよ﹂
1703
﹁全くだぜ。グレアムはあいつらの怠慢で死んだようなもんだ⋮⋮﹂
グレアムは、今回の事故で命を落とした第一坑口の炭鉱夫だ。
﹁グレアムに﹂
一人が杯を掲げると、全員が手を抱げた。
しばし厳かな空気が流れ出す。しんみりとした気持ちで、光希も
杯を傾けた。
残された猶予は、あと十日ほどだろうか。そろそろ移動準備を始
めないと、ジュリアスと約束した期限内にアッサラームへ戻れなく
なる。
﹁はぁ⋮⋮﹂
憂鬱なため息をつくと、傍で見ていたガンタンは気の毒そうな顔
をした。
﹁あんたらも、とんだ視察になっちまったな。この分じゃ、坑道は
しばらく入れないぜ。こっちは、軍がいてくれて助かったけどよ﹂
肩を叩かれて、光希は力なく笑った。
﹁僕の滞在日数は限られているけれど、この後も軍の支援は続けら
れますから。早く復旧できるよう、必ず尽力してくれますよ﹂
﹁坊主とも、もうすぐお別れかぁ﹂
しみじみとガンタンは呟くと、よし、と手を鳴らした。
1704
﹁今夜はいい思いをさせてやるからな!﹂
﹁え?﹂
眼を白黒させる光希の頭をぐしゃりと撫でると、ダンカンは女将
に何やら耳打ちして、光希を振り向くなり親指を立てた。
﹁⋮⋮碌な予感がしないな﹂
横で見ていたアルスランは、不穏な空気を読み取り胡乱げに呟い
た。
間もなく、男達の歓呼に迎えられて、派手な女達が店にやってき
た。
﹁災難だったわねぇ、ダンカン﹂
親しげに髭面を撫でる妙齢の女は、ダンカンの馴染のようだ。
﹁全くだぜ。今夜は俺のおごりだ。こいつらに元気を分けてやって
くれよ﹂
女は話題のアッサラーム軍の将兵を見て、灰青の眼を煌めかせた。
﹁いい男ねぇ。早く紹介してくれたら良かったのに﹂
﹁悪ぃな。こちとら、野暮用が続いてよ。坊主達は、もうすぐアッ
サラームに帰っちまうんだ。いい思い出を作ってやってくれよ﹂
﹁えっ﹂
1705
﹁あら、もう帰ってしまうの?﹂
寂しそうにいわれて、光希は姿勢を正しながら頷いた。
﹁そっちのお兄さんも帰ってしまうの?﹂
艶めいた流し眼を、アルスランは無表情で躱した。席を立つと、
物いいたげに光希を見下ろす。帰るぞ、と無言の圧を受けて、光希
は苦笑いを浮かべた。
﹁いいわ。いい思いさせてあげる﹂
ふふふ、と愉しげな笑みを浮かべた女は、数人の女に耳打ちをし
て、光希の傍へ侍った。それをアルスランが阻むと、魔の手は彼に
も伸びる。手荒に振る舞えず、苦虫を潰した顔でアルスランは光希
の腕を引いた。
﹁もう帰るぞ﹂
﹁そ、そうですね﹂
逃げるように光希が席をたつと、ふと、無表情でいたローゼンア
ージュは、ぱっと入り口に視線を向けた。
戸口に立つすらりとした長身を見て、光希は息を呑んだ。ここに
いるはずのない人物がいる。
はっとしたアルスランが踵を揃えて敬礼を取ると、ジュリアスは
その先の言葉を制するように、手を上げた。
﹁お邪魔してすみません、部下を迎えにきました﹂
1706
﹁ごほッ﹂
盛大に咽る光希の背を、傍にいた女が摩ってくれる。
銀髪姿のジュリアスは、光希を見てほほえんだ。見惚れるほど美
しい笑みだが、眼は少しも笑っていない。
どういうことです?
空耳が聞こえる。大量の冷や汗を吹き出しながら、お疲れさまで
す⋮⋮と光希は死にそうな声を絞り出した。
﹁えれぇ男前な軍人さんだなぁ⋮⋮ありゃ、坊主のお迎えか? お
めぇ、本当に下っ端なのかよ?﹂
﹁あはは⋮⋮﹂
歯抜けのジリーはぽかんとした顔で、ジュリアスと光希を見比べ
た。
乾いた笑みを浮かべながら、光希はジュリアスの傍へ寄った。優
しく肩を抱かれたが、なぜか捕縛された気がした。
﹁明日、正式に挨拶に参ります。今夜はこれで﹂
踵を返すジュリアスの背に、アルスランは声をかけたが、ジュリ
アスは視線で黙らせた。
﹁先ずは光希から話を聞きます︱︱お前達はその後だ﹂
低めた声に、アルスランは強張った顔で頷いている。サイードか
らは、なぜか同情するような視線を送られた。
1707
道中声をかけても、ジュリアスは素っ気ない相槌しか打たなかっ
た。これは相当怒っている。冷たい横顔を仰いで、光希は不安を募
らせた。
部屋につくなり、ジュリアスはやや乱暴に光希の肩を突き放した。
﹁︱︱あんな場所で、何をしていたんですか?﹂
﹁事故のことは聞いているよね? 気落ちした皆を励まそうと、ダ
ンカンが誘ってくれたんだよ﹂
﹁娼婦を侍らせておいて?﹂
﹁いや、疾しいことは何も﹂
﹁私が割って入らねば、あのまま夜を共にしていたのではありませ
んか?﹂
﹁まさか! 違うって!﹂
﹁どうでしょうね﹂
﹁もう帰ろうとしていたところだよ。それより、ジュリはどうして﹂
﹁私がきては、都合が悪いですか?﹂
﹁そんなことない。驚いたけど、きてくれて助かったよ﹂
いかにも憂鬱そうに、ジュリアスはため息をついた。
﹁軽くいってくれる﹂
1708
﹁あの⋮⋮﹂
﹁炭鉱事故を知って、私がどんな想いでここへ駆けつけたと思いま
すか?﹂
﹁う⋮⋮ごめん。心配かけたよね﹂
﹁坑道には入らない約束でしたよね?﹂
﹁そう、なんだけど、緊急事態で﹂
﹁なぜ約束を破ったのです?﹂
﹁事故が視えたんだ。アルスランが危ないと思って︱︱﹂
﹁危険を冒すなッ!﹂
強い口調で叱られて、光希は口を閉ざした。
怯んだ様子を見て、ジュリアスは視線を一度逸らすと、やや和ら
げて戻す。光希の両肩に手を置くと、強く抱きしめた。
﹁心配しましたよ。本当に﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁人の気も知らずに、こんな甘い匂いをさせて﹂
不穏な空気を感じて、光希はなんとなくジュリアスの胸に手をつ
いた。酒場にいたので、匂いが染みついているのかもしれない。遠
1709
ざかろうとする腕を、ジュリアスはきつく掴んだ。強い眼差しを受
け留めきれず、顔は下を向く。
﹁光希﹂
﹁⋮⋮っ﹂
恐る恐る顔をあげると、強い眼差しに射抜かれた。青い双眸に光
彩が灯っている。ぐっと間合を詰められて、両肩を掴まれた。
1710
29
沈黙︱︱
硝子照明の奥で蜜蝋が揺らめいている。淡い黄金色に照らされた
ジュリアスの横顔は、幽玄的な美しさに満ちていた。
﹁あの、さ﹂
言葉は意味をなさなかった。うなじを引き寄せられ、抗う間もな
く唇を塞がれた。
﹁んッ!﹂
胸を押し返すと、ジュリアスはゆっくり顔を離して、光希の頬を
両手で包みこんだ。熱の灯った青い瞳で、静かに見下ろす。眉根を
寄せる光希を抱き寄せ、耳元に唇を寄せる。
﹁これほど心配をかけさせて﹂
くずお
耳朶を甘噛みされて、息を吹き込まれた。身体の芯が甘く痺れて、
全身に震えが走る。
口を開く間もなく、再び唇が降りてきた。
甘く食むように啄まれたかと思えば、荒々しく貪られる。頽れる
身体を、逞しい腕に攫われた。
はい
縋りつく光希の顎を、ジュリアスは指で持ち上げる。視線が唇に
落ちて、期待するように開いてしまう。すぐに熱い舌が挿入ってき
た。
1711
﹁んぅ﹂
から
逃げ惑う舌を搦め捕られ、強く吸われた。
反射的に逃げ出そうとすると、後頭部を丸く包まれて、口づけは
増々深くなる。
想いの深さを刻むようなキスに、思考が蕩けていく。
ようやく唇が離れると、身体に全く力が入らなくて、ジュリアス
の胸にもたれかかっている状態だった。
吸われて、腫れているであろう唇を、ジュリアスは満足そうに指
でなぞっている。
端正な顔を下から仰ぐと、いつもとは違う銀糸の髪が視界を覆っ
た。一房に指を絡めると、その指先にジュリアスは唇で触れた。
﹁光希⋮⋮﹂
名を呼ばれただけで、胸が高鳴る。
強引なキスを仕掛けてきたのに、許しを請うような瞳で見つめら
れて、光希は喉を鳴らした。
﹁汗、掻いたから⋮⋮﹂
視線を逸らすと、頬を手の甲で撫でられた。
﹁一緒に入ればいい﹂
返事をするよりも早く浴室に連れ込まれ、服を剥かれた。湯はた
っぷり張られており、白い湯気が立ち昇っている。
引き締まった淡い褐色の肌を見て、光希は顔を伏せた。
久しぶりに顔を見たせいだろうか? 淡い照明の下で、裸体を晒
すことが恥ずかしい。つい両手で前を隠してしまう。
1712
恥じらう光希と違って、ジュリアスは堂々としている。光希の様
子を眺めて、瞳で愉しんでいるようだ。ゆっくり手を伸ばすと、濡
れた肌に手を滑らせて、胸に唇を落とした。
﹁ん⋮⋮ッ﹂
こだま
ねぶ
凝る先端を舐められ、柔らかく吸われる。鼻にかかった甘い声が、
浴室に残響した。
熱い舌が、尖った乳首を舐る。何度も嬲られ、身体は火がついた
ように炙られた。
中心がぐぐっと持ち上がる。重く、熱の溜まり始めた下肢に、ジ
ュリアスは指を伸ばした。長い指が絡みつき、やんわりと揉みこま
れる。
﹁んっ﹂
跳ねる身体を愛おしそうに抱きしめた後、ジュリアスは顔を上げ
て、首筋に吸いついた。
きざ
愛撫されながら、光希もおずおずと手を伸ばした。そこは、しっ
かりと萌していた。
幽かな吐息を聞いて、身体が昂る。あっという間に追い上げられ
てしまいそうだ。
﹁ちょっと、待って﹂
いくらなんでも早すぎる。光希は身体を引こうとしたが、ジュリ
アスは聞こうとしない。追い上げるように、濡れた先端を指で揉み
こんでくる。
﹁ジュリ!﹂
1713
﹁我慢しなくていい﹂
﹁ッ!﹂
そう囁いたジュリアスに、艶めかしく中心を扱かれる。突き抜け
るような快感に攫われて、光希は放熱を遂げた。
くたりと力の抜けた身体を、ジュリアスはきつく抱きしめた。
宥めるように背中を撫でていた掌は、ゆっくり下へと降りていき
⋮⋮双丘を割開くように尻の形を変えた。
﹁ん﹂
蕾を押し込むように指先で触れられて、光希は戸惑いながら、ジ
ュリアスの腕を掴んだ。
﹁⋮⋮待って、まだ中を洗ってないから﹂
﹁してさしあげる﹂
ジュリアスは耳朶を食みながら、妙に丁寧な言葉で囁いた。
﹁え⋮⋮﹂
﹁今夜は私にさせて。心配をかけさせた罰です﹂
﹁で、でも﹂
これまで、後ろの準備をジュリアスにさせたことはない。迷って
いるうちに、ぬめりを帯びた指先が潜り込んできた。薔薇の精油に
1714
浄化石の粉末粉を解いたものを、内壁に塗り込められる。腸の洗浄
作用もあり、光希は普段、夜になる前に密かに処理をしていた。ま
さか、彼に手ずからされるとは︱︱
﹁まって、嫌だ!﹂
強く暴れると、片腕で腰を痛いほど引き寄せられた。
﹁いいから﹂
﹁それだけは、嫌だッ﹂
腸内を洗われている。羞恥に眼が眩みそうだ。
﹁暴れないで。いらぬ怪我をしますよ﹂
涙目になっている光希の頬やこめかみに、宥めるように口づける。
逃がすつもりはない。ジュリアスの本気を感じ取り、光希は真っ青
になった。
﹁ちょ、やだって。こんなこと⋮⋮ッ⋮⋮やだよ、自分でするから﹂
﹁駄目﹂
中を洗浄する指は、遠慮の欠片もなく内壁を掻いた。卑猥な動き
で、光希の弱いところをすりあげる。
﹁うぅ⋮⋮やだって、やだぁ﹂
切羽詰まった声で震える光希を、ジュリアスは欲情に濡れた瞳で
1715
見つめた。
﹁綺麗になってきた。かわいいな、感じてしまった?﹂
酷いことをされているはずなのに、身体はしっかりと反応してい
た。瞳の端に涙が滲む。
片足を抱え上げられて、あられもない恰好をさせられる。身体の
中をまさぐる指は、容赦なく光希を追い込んだ。
﹁うぁ⋮⋮ぁ⋮⋮ッ﹂
﹁光希﹂
指先が、一点を掠めて、光希は嬌声をあげた。顔を背ける光希を
見つめて、ジュリアスは愛おしそうに名を呼ぶ。
身体をよじって逃げようとすると、肩を引き寄せられ、壁に追い
詰められた。タイルに手をつくと、光希は縋るように振り向いた。
濡れた視線が絡む。
あいろ
彼の手で、中はすっかり綺麗にされてしまった。もはや指は別の
目的を持って、隘路を抜き差ししている。
﹁あ、んっ﹂
唇を塞がれながら、猛った切っ先を後孔に宛がわれた。
圧倒的な質量が、慎重に押し入ってくる。きつい挿入を労わるよ
うに、光希の顔にキスの雨が降る。
最奥まで楔を埋め込まれると、つい腰は逃げを打った。すぐに引
き戻され、緩く穿たれる。
﹁んぁ﹂
1716
わなな
生理的な涙を零す光希の頬を、ジュリアスは舌で舐め上げた。
戦慄く唇を舐めて、震える身体に覆いかぶさり、きつく抱きしめ
ぜんどう
る。鼓膜を破りそうなほどに、心臓が拍動している。
ゆっくりと身体を揺すられて、中が熱く蠕動し始めた。
引き抜かれる度に、快感がもたらされ、脈打つ楔を締めつけてし
まう。艶っぽい呻き声を聞いて、光希の身体は昂った。
精を吐いたばかりなのに、もう芯を帯びて震えている。
個室に響く音が、やたらと大きく聞こえる。耳を塞ぎたい念に駆
られるが、後ろから身体を揺さぶられて、そんな余裕は消し飛んだ。
﹁あぁ、んっ!﹂
勃ち上がった性器から、熱が溢れるのを感じる。快感に飲まれて
手を伸ばそうとすれば、叱るように絡め取られた。
﹁放して、もう﹂
息を喘がせていると、もう少しだけ、と耳朶にささやかれた。首
を振ったが、ジュリアスは構わずに律動を続ける。
前後不覚で溺れかけた。
快感の波にさらわれて、もはや何も考えられない。荒い呼吸の中
で、昇り詰めることだけに全ての意識を持っていかれる。
﹁あっ﹂
ジュリアスは光希に挿れたまま、体勢を変えた。床に胡坐を掻い
て、上から光希を下ろす。
顔が近付いたと思ったら、噛みつくように唇を塞がれた。
夢中で舌を絡ませていると、少し乱暴に性器を擦り上げられた。
1717
卑猥な手つきで上下に擦られて、喉から嬌声が迸る。
﹁や、やだ、って⋮⋮もうっ! んぅ﹂
蹂躙されながら、前を扱かれる。舌を搦め捕られ、強く吸われた
瞬間、堪らずに放熱を遂げた。
最奥にも熱い飛沫を感じる。濡らされて、震える身体を、青い双
眸が眺めている。
荒い呼吸が続く。
引き抜かれる感覚に、鼻にかかった甘い声が漏れた。
抜いた後も、ジュリアスは光希の肌を慈しむように唇で触れた。
何度も、何度も︱︱
1718
30
鉱山町に礼拝へと誘う朗唱が聞こえてきた。
白い煉瓦造りの寺院には、しめやかで荘厳な空気が満ちており、
人々は絨緞の上に腰を下ろして、礼拝の始まりを待っていた。
髭を落として身を清めたダンカンは、祭壇の上から手向けの言葉
を口にした。
﹁名簿を見た時、知っている名前ばかりで、言葉が出てこなかった。
グレアム、ジャイロ、ラブレス⋮⋮皆同じ坑道に潜った仲間だ。こ
んな風に別れを告げるのは辛い⋮⋮﹂
顔の煤を落として、一張羅を羽織った炭鉱夫達は、檀上に立つダ
ンカンを哀しそうな瞳で見ている。お調子者の歯抜けのジリーも、
気難しいベルゼでさえ、沈んだ表情でいた。
﹁跡形もなく、姿を消してしまった。青い星に還った友よ、今度語
らいたい時はどうすればいい?﹂
言葉を切り、眉間を押えた後にダンカンは前を見据えた。
﹁死んでいった仲間達、巻き込まれて死んだ市民達。二度と同じ過
ちを起こさなうよう、鉱山の改善を続けることが残された者の使命
だ﹂
毅然と告げた言葉は、自らを律するものであり、組合の幹部に放
った警告でもあった。
黙祷の後には、祈祷が続く。
1719
そして、安らかな眠りを願う、鎮魂歌がしめやかな寺院に響き渡
った。重なる歌声の合間に、すすり泣く声、アッサラームでは聞き
慣れない、地元の響きが時折混じる。
鉱山に散った命を、もの哀しい顔で人々は悼んだ。
くろがね
事故を起こした第一の閉口は確実とされる中、光希は鉱石の価値
を改めてジュリアスに告げた。
極めて稀少価値の高い金属、この世で最も柔軟性に富む鉄は正式
に価値を認められ、軍が復興支援を約束したことが決め手となり、
再稼働が決まった。
﹁テオには世話になったな﹂
別れの日、ダンカンは真面目な顔をして頭を下げた。
﹁こちらこそ、大変お世話になりました。おかげさまで、無事に任
務を終えることができました﹂
﹁本当に感謝しているんだ。テオがいなかったら、事故はもっと酷
いものになってた。それに、第一の再稼働を上に掛け合ってくれた
んだろ?﹂
感謝の眼で見下ろされて、光希は照れ臭げに視線を伏せた。頬を
掻きながら、口を開く。
﹁それは、アッサラーム軍の皆と⋮⋮ダンカンさん達のこれまでの
働きがあったからこそです﹂
控えめに光希が笑うと、ダンカンは眼を眇めた。幼く見える青年
が、軍の下っ端でないことにダンカンは薄々感づいていた。しかし、
本人が明かさない限り疑問を口にするつもりはない。
1720
﹁テオ。本当に感謝してる。困ったことがあれば、いつでも力にな
るぜ﹂
この世間知らずで、おっとりしている軍人のことが、鉱山技師と
して常駐して欲しいくらいに、ダンカンは好きになっていた。
﹁はい! ありがとうございます﹂
涼風に吹かれながら、別れの視線を交わす。互いの息災を祈って、
穏やかな笑顔を浮かべた。
隣で光希達の別れを見守りながら、ジュリアスは冷たい視線を一
方へ投げかけた。
瞳の合った男、組合の幹部達は吹き出す冷や汗を必死に堪えてい
るようだ。
︱︱裏切れば、粛清する。
声なき脅しを視線にのせて、ジュリアスは冷たく睥睨した。
閉口確実。再開は金輪際ないだろうと誰もが思っていた坑道の再
よ
稼働が決まった背景には、光希の申し入れも一因しているが、ジュ
リアスの率いる諜報部隊が掴んだ真相に依るところが大きい。
炭鉱事故は、荷車の老朽化、炭塵発火による爆発事故と分析され
たが、あくまで表向きの公表に過ぎない。
真相は、もっとずっと残酷だ。
事故は偶然ではない。列車の連結は人為的に外されたのだ。
利権を狙う組合が、事故に見せかけて、邪魔な労働者達を粛清し
ようと目論んでいたのである。
組合が救出に手間をかけたのも、爆発後に生じる一酸化中毒で労
働者達を殺す為であった。遺族より、傷害を負った労働者の賠償や
1721
慰問の方が高くつく。殺してしまえば安上がりという、非人道的な
計算があった。
事故があった日。
部外者であるアッサラーム軍が救助活動に奔走する間、組合の救
援部隊は麓で立ち往生していたのは、そういう理由だ。
軍が救助に駆けつけなければ、数百名規模の死者を出していただ
ろう。
明るみに出れば、鉱山まるごと閉鎖しかねない醜聞を材料に、ジ
はんさ
ュリアスは組合への利権介入を取りつけていた。
今後は組合の定める煩瑣な手続きを省いて、軍から要請する資源
いきさつ
を直にアッサラームに運び入れることができる。
ちなまぐさ
経緯の全容を知る者は、少ない。
血腥い舞台裏を、ジュリアスは光希にも明かさなかった。純粋に
鉄の探究心に燃える光希を、哀しませたくなかったのだ。
第一坑の再稼働と、アッサラームへの供給を聞いて、光希は素直
に喜んだ。
制作意欲に拍車がかかったようで、眼を輝かせて、早くアッサラ
ームに帰ろうと請う。
澄んだ笑みを見て、今後も彼にだけは明かすまいとジュリアスは
心に決めた。
+
アッサラームに戻り、十数日。
気の遠くなるような調整を繰り返し、義手は完成した。光希は逸
る気持ちを抑えられず、完成したその日のうちにアルスランを工房
に呼んだ。皆が見守る中、
﹁不思議だ⋮⋮鉄の腕なのに、以前と変わらない。とても軽い﹂
1722
生ける鉄の腕は、すぐにアルスランに馴染んだ。冷たい拳を握り
しめて、驚愕に眼を瞠っている。
﹁うまくいった!﹂
おもむろ
狂喜乱舞する光希を暫し見下ろすと、アルスランは徐に距離を取
った。慎重にサーベルを右手で抜く。
柄を握りしめて、しなやかな身のこなしで、身体の左右に刃先を
流す。その様子を、光希は満面の笑みで見守っていた。
﹁良かった。大成功だ﹂
﹁感謝してもしきれません﹂
﹁いやぁ、良かった﹂
てらいのない感謝の言葉に、光希は頭を掻きながらはにかんだ。
﹁貴方には、随分と迷惑をかけてしまいました﹂
﹁いやいや、僕の方が何倍も迷惑をかけていますから。アルスラン
には、いつも助けてもらっています﹂
ふ、とほほえむアルスランを見て、光希も笑みを浮かべた。
たえ
﹁殿下の妙なる美徳ですね。本当におおらかでいらっしゃるから、
口も利けぬ天上人であらせられることを、つい忘れそうになる﹂
﹁よしてください。そんなたいそうなものじゃないんだから﹂
1723
﹁本当ですよ﹂
﹁優雅さに欠けているだけです。僕が何もできない子供だったこと
を、よく知っているでしょう?﹂
出会った当初を思い出して、アルスランは口元を緩めた。確かに、
今よりもずっと幼かったと思いながら眼を細める。
﹁成長されましたね﹂
﹁おかげさまで。鉱山でも、あらゆることから守ってくれましたね。
謝るのも、お礼をいうのも僕の方ですよ﹂
詳しいことは判らないが、あの炭鉱事故に裏があることを、光希
はなんとなく肌で感じていた。
ジュリアスの到着は時期が良すぎたし、難航するかに思えた鉱山
組合との交渉は、随分とあっさり決着がついた。アッサラームの威
光だけではない、なんらかの取引があったのだろう。
﹁貴方は真に尊い方だ﹂
アルスランは騎士然と跪くと、光希の手を右手で取った。
﹁あ、アルスラン⋮⋮﹂
アイス・ブルー
狼狽えて、引き抜こうとする手をやんわり握られた。恭しく甲に
唇が落とされる。
進退窮まった状態で、光希は蒼氷色の双眸を見下ろした。
﹁殿下は、私の苦しみを癒し、新たな腕を授けてくださった。貴方
1724
が望む時には、いつでも力になると約束しましょう﹂
大仰な言葉に、光希は慌てた。
﹁そんな、責任を感じる必要はありませんよ。僕がそうしたくて、
したことだから。その腕が、アルスランの助けになれば、僕はそれ
で十分だし﹂
狼狽える光希を仰いで、アルスランはどこか悪戯めいた光を瞳に
灯して、笑った。
﹁私も、そうしたくてするのです。私がそうと決めた、心の在り方
ですから、殿下が気にされる必要はありません﹂
﹁本当に、気にしなくていいですよ? そもそも、アルシャッド先
輩やクロガネ隊の皆のおかげであって、僕だけの力じゃないんだか
ら⋮⋮﹂
﹁殿下。感謝しております﹂
晴れやかな顔で笑うと、光希の手をアルスランは額に押し当てた。
ジュリアスもよくやってみせる、アッサラーム風の従順を示す仕草
だ。
﹁⋮⋮っ﹂
これまで、彼にここまで想われたことはない。
居心地が悪くて、光希は視線を彷徨わせた。工房の人間が、興味
深そうにこちらを見ており、増々居たたまれなくなった。
彼が、こんな風にまっすぐ感情を示す人だとは、知らなかった。
1725
いや、限られた相手には見せる素顔であるそれを、光希に見せると
は思っていなかった。
﹁判りました! 判りましたからッ﹂
慌てて喚くと、アルスランは屈託のない笑みを見せた。慌てふた
めく光希を見て、周囲から笑いが起こる。
﹁殿下は色男ですなぁ﹂
悪戯っぽくサイードがいうと、周囲から賑やかな笑いが起こった。
アルシャッドやケイトまで笑っている。光希は困り顔で呻くのであ
った。
1726
31 ﹃幾千夜に捧ぐ恋歌﹄
大戦から四年。
新年を迎えたクロガネ隊の工房では、朝早くから掃除当番の隊員
が床を磨いていた。中には、仕事の準備に取り掛かる者もいる。卸
棚に並ぶ品を帳簿につけたり、作業机を片付けたり。クロガネ隊の
いつもの朝の風景だ。
﹁お早うございます!﹂
扉を開けて元気のいい挨拶をした少年︱︱スヴェンは、絶賛片想
い中のケイトの姿を見つけて、瞳を輝かせた。
﹁ケイト先輩、何か手伝えることはありますか?﹂
﹁ありがとう。俺は大丈夫だから、ノーア達に訊いてみて﹂
﹁ノーアとパシャなら平気です。もう訊きました。なので、遠慮せ
ずに何でもおっしゃってください!﹂
﹁俺は平気だから、他の人に声をかけてみてくれる?﹂
﹁はぁい⋮⋮﹂
恋する少年は、少々がっかりしたように返事をした。彼がケイト
にあしらわれて肩を落とす姿は、工房では日常の光景である。片恋
は今のところ見込み薄いのだが、スヴェンは何度袖にされても諦め
ない。
1727
昼休の鐘が鳴った後、ケイトが一息ついている様子を見て、スヴ
ェンはいそいそとケイトの傍に寄った。近くにいた光希は、つい手
を休めて二人に視線を注いだ。
﹁ケイト先輩、好きです! 恋人になってください!﹂
﹁すみませんが、無理です﹂
にべもなくケイトがいうと、周囲からささやかな笑いが起きた。
悪意あるものではない。スヴェンは真剣そのものなのだが、猪突猛
進な少年が空回る姿につい笑みを誘われるのだ。
﹁あぁッ! 俺の溢れんばかりの愛は、出口を求めて溺れています。
このままでは、難破してしまう! ケイト先輩、助けてくださいッ﹂
﹁うーん、浮き袋はどこかなぁ﹂
工房を見渡すケイトに、はい、と光希は粘土の入った麻袋を渡し
た。ケイトは笑顔で礼をいうと、それをスヴェンに差し出した。ス
ヴェンは両手に顔を沈めると、ワッと泣き真似をした。
﹁酷い、先輩! これじゃ水を吸って余計に沈んでしまいますよ!
責任をとって、溺れた俺を蘇生してください﹂
﹁え?﹂
ケイトが何かをいう前に、スヴェンは腕を回してケイトに抱きつ
いた。捨てられた子犬の風情で、上目遣いに仰ぐ。背伸びをして、
顔を近付けようとすると、ケイトは嫌そうな顔でスヴェンを引き剥
がした。
1728
﹁暑苦しい。抱きつくんじゃない﹂
﹁先輩ぃ﹂
積極的だなぁ⋮⋮と他人事のように光希は眺めていたが、当事者
であるケイトは違った。
﹁あのね、スヴェン。こういう風に騒がれるのは、苦手です。俺は
スヴェンの気持ちには、応えられないよ。本当にごめんね﹂
温厚なケイトにしては、誤魔化さず、はっきりとした口調で告げ
た。
工房に沈黙が落ちる。
これまで、なんだかんだいいながらも、スヴェンの振る舞いを許
容してきたケイトだが、ついに限度を振り切ったのだろうか?
底抜けに明るく前向きなスヴェンも、表情を凍りつかせている。
悄然と肩を落として、すみません、と消え入りそうな声で呟くなり
工房を出ていった。
﹁スヴェン﹂
後ろを追い駆けようとした光希は、腕を掴まれて振り向いた。ケ
イトだ。追い駆けるなと視線で訴えられ、言葉に詰まった。
周囲の隊員達は、互いの顔を見合わせて肩をすくめている。
最初に動いたのは、同期の少年達だった。心配そうな顔でノーア
が、淡々とした顔でパシャが席を立ち、工房を出ていく。彼等の背
中が見えなくなると、
﹁申し訳ありません、殿下﹂
1729
ケイトは非礼を詫びてから腕を離した。
﹁いや。ごめん、僕は追い駆けるべきじゃないよね﹂
﹁⋮⋮﹂
ケイトは力なく首を左右に振った。すみません、と力なく返事を
する。
想いを断る方も、しんどいのだ。
翳った表情を見て、彼にも息抜きが必要だと光希は感じた。ケイ
トも同じだったようで、休憩に誘うと二つ返事で応じた。
廊下を抜けて中庭に出ると、殆ど同時に蒼天を仰いだ。
﹁元気出してね。スヴェンには仲間がいるし、立ち直るよ。ケイト
は、いつも通り接すればいいと思う﹂
﹁はい⋮⋮すいません、空気を悪くしてしまって﹂
﹁あれはしょうがないよ。ケイトが謝ることじゃない﹂
人の心ばかりは、どうにもならないものだ。スヴェンは一生懸命
に恋をして、ケイトは受け入れられなかった。
このまま昼食を食べにいこうと提案すると、ケイトは感謝するよ
うに淡く微笑んだ。
食事をして、雑談しているうちにケイトの気分も上向き、彼の方
から工房へ戻ろうと切り出した。
幸い、工房に漂っていた気まずい空気は、どこかへ流れていた。
かも
というより、忙しさが増して、それどころではなくなっていた。
話しかけるな、という殺伐とした空気を醸して、誰もが仕事に没頭
1730
している。
スヴェンも戻ってきていたが、互いに視線を合わせようとはしな
かった。
慌ただしい一日が過ぎ去り、終課の鐘が鳴ると、ケイトはスヴェ
ンに一言も言葉をかけず、工房を出ていった。
偶々スヴェンの隣にいた光希は、気落ちしたスヴェンの顔を見て、
ぽんと肩を叩いた。なんとも弱り切った顔で、少年は光希を見た。
﹁はぁ⋮⋮﹂
思わしげにため息をついたかと思えば、机の上に突っ伏す。恋す
る少年の頭を、光希はぽんぽんと叩いた。
﹁元気だして﹂
﹁⋮⋮俺は殿下になりたい﹂
﹁え?﹂
﹁ケイト先輩と仲良くなりたい。少しでいいから、意識して欲しい﹂
右頬を机につけたまま、スヴェンは拗ねたように光希を見た。
﹁まぁ、彼は人見知りするから。最初は僕に対しても、緊張してい
たよ﹂
﹁そうなんですか? 俺にも早く打ち解けてくれないかなぁ⋮⋮﹂
﹁十分、打ち解けていると思うよ。ケイトはスヴェンとはよく喋る
方だよ。普段は、もっとずっと口数が少ないから﹂
1731
﹁あしらわれているだけです。それくらい、判っています﹂
﹁卑屈だなぁ。スヴェンは話しやすいから、ケイトも気軽にいいや
すいんだと思うよ﹂
﹁でも、迷惑だっていわれちゃったから⋮⋮﹂
わなな
唇を戦慄かせ、歯を噛みならしてスヴェンはいった。普段は陽気
に振る舞っている彼からは、想像できないほど弱々しい姿だ。
﹁う、ん⋮⋮毎日工房で顔を合わせるし、きついね﹂
﹁全然、諦められる気がしない⋮⋮﹂
﹁元気出して。今度の休みに、ノーアやパシャと気晴らしに出掛け
てみたら?﹂
﹁ケイト先輩といきたい⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁想うだけでも、許されないのでしょうか?﹂
﹁心は自由だよ。スヴェンだけのものだ﹂
スヴェンは小さく頷くと、哀しそうに眉を下げた。
﹁でも、俺はもう伝えることは許されないんだ⋮⋮﹂
1732
かける言葉を見つけられず、光希は黙していたが、ふと思い浮か
んだことを口に乗せた。
﹁その想いを、綴ってみたら?﹂
﹁え?﹂
﹁あ、いや⋮⋮かっとなったり、もどかしい想いで、にっちもさっ
ちもいかない時は、紙に書くといいって、前に友達が話していたこ
とを思い出して﹂
﹁手紙で、想いを伝えるのか⋮⋮﹂
﹁ううん、実際に渡さなくていいんだ。書きなぐった後は、敢えて
二・三日寝かせるらしい。数日経ってから読み返すと、その苛烈な
内容は、とても人に見せる気が起こらなくなるそうだよ﹂
と、以前アンジェリカは話していた。やりれきな想いを昇華する
のだと。
﹁なるほど。でも、それでも渡したくなったら、どうするのでしょ
う?﹂
﹁⋮⋮その時は、渡せばいいんじゃないかな?﹂
余計なことをいったかしら。納得を眼に灯すスヴェンを見て、光
希は少々不安になった。
1733
1734
32
昼休み。クロガネ隊の工房。
机で物書きに熱中しているスヴェンの手元を、不思議そうな顔で
同僚が覗きこんだ。
﹁⋮⋮お前、何書いているのかと思えば、何書いてるんだ?﹂
﹁うわ、ちょっと見ないでくださいよ﹂
﹁どれどれ、見せてみろ﹂
背の高い隊員は小さな折紙を拡げると、取り返そうとするスヴェ
ンの手をよけながら中を覗きこんだ。
貴方は空に浮かぶ可憐な星
⋮⋮ってなんじゃそりゃ﹂
﹁うわぁーっ! やめて! 見ないでっ!!﹂
﹁
愉快そうに笑う男を見て、興味を引かれた他の隊員も集まってき
た。
真っ赤な顔で手紙を取り返そうとするスヴェンの手を阻み、彼は
他の隊員にも手紙を見せた。
﹁ひぃ、恥ずかしいッ! 読まないでくださいッ﹂
﹁ぶはっ。面白い奴だとは思っていたけど、想像以上に面白いな﹂
1735
﹁煩いっスよ! 俺の恋心を、からかわないでください﹂
﹁褒めてるんだよ。ていうか、お前はまだケイトのこと諦めてなか
ったのか?﹂
﹁まだ、ってなんですか? これからですよ、俺の戦いは﹂
﹁⋮⋮勝ち目はないんじゃないのか?﹂
少々気の毒そうな顔で男が言うと、スヴェンは拗ねたように頬杖
をつき、ようやく戻ってきた手紙を悩ましげに見つめた。
﹁こんなに好きなのに⋮⋮﹂
﹁スヴェン、失恋の特効薬は新しい恋だぜ? 誰かいい子を紹介し
てもらえよ﹂
﹁まだ、失恋したわけじゃないですよ﹂
キッとスヴェンが睨むと、取り囲む同僚達は肩をすくめてみせた。
﹁要は、望み薄なケイトの尻を追いかけるより、他に眼を向けたら
どうだって話だよ﹂
﹁んなっ!? 下世話ですよッ! ケイト先輩の尻って、尻って⋮
⋮何を想像しているんですか!?﹂
がたっと席を立ち、鼻を押えてスヴェンは喚いた。手の隙間から、
赤い血がぽたりと滴る。
1736
﹁落ち着け。下世話なのはお前だ。なんで鼻血吹いてんだ? どっ
かで抜いてきた方がいいんじゃねぇか?﹂
﹁抜いてこいって!? 俺のケイト先輩になんて暴言をッ!!﹂
﹁︱︱何の話ですか?﹂
大人しいケイトにしては、冷たい声で一同を見渡した。
途中から会話を聞いていた光希とケイトは、騒がしい空気の理由
が判らず始めは首を傾げたが、真っ赤な顔のスヴェン、にやにやし
ている隊員達を見て、なんとなく想像がついた。
硬直したスヴェンの手から、はらり、手紙が零れ落ちた。風の悪
戯でケイトの足元にそれは転がる。
﹁よせ⋮⋮﹂
誰かが、深刻そうに呟いた。ケイトは零れ落ちる髪を耳にかけな
がら、流れるようにそれを拾った。
小さな紙切れに眼を注ぐケイトを見て、光希はなんとなく不安を
覚えた。ひょいと顔を寄せて、中を覗き込む。素早く眼を走らせて
内容を確認すると、ケイトの様子を窺った。不思議な光彩の瞳が、
スヴェンに向けられる。スヴェンの顔が緊張に凍りついていく。
﹁︱︱それ、僕が書いたんだ﹂
気付けば、口走っていた。
﹁﹁﹁へ?﹂﹂﹂
頓狂な声があちこちから上がる。
1737
﹁やだなァ、人の書いたものを、そんな風に暴くものじゃないよ﹂
﹁殿下が? ⋮⋮スヴェンの署名がありますけど﹂
ケイトは訝しげに光希を見た。
﹁ウン。共同創作なんだ。表現の幅を広げたいと思って、スヴェン
と恋文の練習していたんだ﹂
﹁練習ですか?﹂
﹁そうそう。文字の練習にもなるし、感受性が高まるかなと思って﹂
自分でも苦しいものを感じたが、集まった面々は、安堵したよう
な顔で頷いた。
﹁なんだ、そういうことか。悪かったな、スヴェン。笑ったりして﹂
和やかに転じた空気に便乗するように、スヴェンは陽気な笑みを
浮かべている。ケイトだけは疑惑に満ちた眼差し向けてきたが、光
希は笑顔で跳ね返した。
少年の恋心が、これ以上傷つくのを見たくなかったのだ。
しかし、この一件は思わぬ展開を招くことになる。
クロガネ隊の中で、意中の相手に恋文をしたためる不思議な流行
が起きたのだ。次第に輪は広まり、製鉄班や内勤者に限らず、軍舎
全体へと浸透していった。
早朝や黄昏時に、不定期で恋文の朗読会なるものが開かれ、きっ
かけを作った光希はしばしば招かれるようになった。
光希の綴る拙い言葉の恋文は、意外とウケが良かった。
1738
最初は嘘の延長線上で、渋々奇妙な流行に乗っていた光希だが、
次第に楽しむようになり、率先して朗読会に参加したりもした。
恋文は、初めのうちはジュリアスを想い浮かべて書いていたのだ
が、今では、架空の誰かに宛てた、恋する乙女のような文を書くこ
ともあった。
一月が経っても、熱は冷めやらず。どの恋文が最も優れているか、
内輪で競い合うことになった。
﹁ぜひ、殿下もご参加ください﹂
周囲から熱心に誘われて、光希は引き攣った顔で了承する羽目に
なった。
﹁参加されるんですって? 頑張ってくださいね﹂
この流行のきっかけにされたケイトは、少々根に持っているらし
く、光希が大会に出ると知ってからかった。
﹁⋮⋮どうも。頑張るよ。ケイトに宛てて書こうかな﹂
﹁いいですよ?﹂
意地悪のつもりでいったら、ケイトも負けじといい返してきた。
互いに、ふふふ、と笑顔で応じる。
﹁どうせ、爆笑ものだと侮っているんでしょ? いっておくけど、
大分マシになってきたんだよ。皆の前で赤面するのは、果たしてど
ちらかな?﹂
﹁いいんですか? 俺のために恋文を書いてくださるなんて、シャ
1739
イターンが知れば何ておっしゃるか﹂
﹁う﹂
小さく呻く光希を見て、ケイトはくすりと微笑した。
﹁全く、人が好いんですから。簡単に周囲に乗せられて、後悔して
いるでしょう?﹂
﹁うぐ⋮⋮まぁ。いや、出席するよ。もう返事しちゃったし﹂
﹁えぇ?﹂
今度こそ、ケイトは不満そうな声を上げた。
﹁ジュリにはいわないよ。わざわざ教える必要もないし﹂
﹁殿下、それはいい考えとはいえませんよ⋮⋮﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
困り顔の友人を見て、光希も腕を組んで考え込んだ。最初はこん
なつもりではなかったのに、いつの間にか流行は広まり、ジュリア
スに隠れて朗読会で競おうとしている。
﹁出席するのは、これを最後にするよ﹂
ふぅ、と憂鬱そうに息を吐くと、隣でケイトは仕方なさそうに肩
をすくめてみせた。
1740
1741
33
十日後。
屋敷の工房で筆を手に、紙面とにらめっこをしていた光希は、ど
うにかして詩を完成させた。
清書したそれを読み返し、満足げに頷いてみせる。
休憩ついでに湯を浴びて戻ってくると、机に置きっぱなしにして
いた詩を手にしているジュリアスを見て、思わずカッとなった。
﹁ちょっと! 勝手に見ないでよ﹂
﹁光希が書いたの?﹂
﹁そうだよ。放っておいて﹂
﹁見過ごせるわけがないでしょう﹂
ジュリアスは蒼い双眸を針のように細めた。咎めるような眼差し
を向けられて、光希は罰の悪い表情を浮かべた。
﹁ただの遊びだよ。そういう反応をされると思ったから、いいたく
なかったんだ﹂
﹁恋文が流行っているのは知っていますが、光希がそれほど興味を
引かれているとは知りませんでした﹂
﹁聞く分には、なかなか楽しいよ。僕に文才はないと判ったから、
書くのはこれで最後にするけど﹂
1742
﹁それで、これは誰に宛てて書いているの?﹂
﹁え?﹂
﹁銀色の髪の⋮⋮って、私ではありませんよね﹂
ぎくぎく、と光希はたじろいだ。明確な対象がいるわけではない。
いろいろ書き散らした後に、いい文章だけを残したらそうなったの
だ。
﹁誰のことですか?﹂
﹁や、そこらへんは曖昧なんだ。特定の誰かを書いているわけじゃ
ない﹂
﹁銀色の髪の、誰を連想して書いたの?﹂
﹁⋮⋮﹂
どう説明したものか、光希は言葉に詰まった。最初は、冗談のつ
もりでケイトに宛てて書こうとしていたので、その一節が残ってい
るに過ぎない。
﹁書き上げたら、渡すんですか?﹂
﹁渡さないよ﹂
﹁誰にも?﹂
1743
﹁うん。人にあげるのが目的じゃなくて、朗読会で読み合う為に書
いているんだ﹂
白状すると、ジュリアスは面白くなさそうな顔で腕を組んだ。
﹁へぇ、朗読会に。それほど、光希は恋文に熱中しているのですか﹂
﹁そうでもないんだけど⋮⋮﹂
﹁私も出席していいですか?﹂
﹁だめ﹂
﹁どうして?﹂
﹁ジュリがきたら、皆緊張しちゃうよ。それに恋文を書かない人に
参加資格はないんだからね﹂
﹁もちろん、光希に宛てて書きます﹂
﹁えぇ?﹂
不満そうに光希が声を上げると、ジュリアスもむっとしたように
眉をひそめた。
﹁私が書いては不満ですか?﹂
﹁ジュリがその場にいたら、きっと皆、公平に判断できないよ。ジ
ュリを選ぶしかないじゃない﹂
1744
﹁光希だって同じではありませんか?﹂
﹁だから、そう思われないように、僕はウケ狙いでケイトに⋮⋮あ﹂
﹁そう、ケイトに宛てて書いていたのですね﹂
﹁いや、その⋮⋮﹂
﹁冗談だとしても、光希が他の誰かに恋文を書くのは、気持ちのい
いものではありませんね﹂
﹁怒らないでよ。今度の朗読会を最後に、もう参加するのはやめる
から﹂
﹁そういう問題ではありません﹂
﹁もう参加すると約束してしまったし、見逃してよ﹂
﹁無理です﹂
﹁ちょっとした内輪の朗読会だよ。ジュリが心配するようなことな
んて一つもない﹂
﹁心配しかありませんよ。どんな顔で、声で、それを光希が読むの
か気になります。周りがどう思うのか、どんな眼で貴方を見るのか
想像するだけで腹立たしいのに﹂
真摯に告げられて、光希は視線を泳がせた。頬を手の甲で撫でら
れ、恐る恐る視線を戻す。
1745
﹁そんな心配をするのは、誓ってジュリだけだから。僕が読むとい
つも笑いが起こるんだよ?﹂
﹁信じられません。本当にそうなのか、この瞳で確かめにいきます﹂
﹁こないでよぉ﹂
そっぽを向くジュリアスの頬を両手で挟みこんで、光希は背伸び
をした。意図を察して、ジュリアスも光希の腰に腕を回す。そっと
唇を塞いだ。
﹁今回だけだから。ね?﹂
彼にしか通用しない上目遣いで仰ぐと、ジュリアスは小さく息を
呑んだ。
﹁⋮⋮卑怯ですよ﹂
こんな拙い誘惑に誘われてくれる恋人に、愛しさが芽吹く。
﹁たまにはいいじゃないか。普段はジュリにまるで勝てないんだか
ら﹂
﹁心にもないことを。私が光希に限っては弱いことを、十分知って
いるくせに﹂
﹁うーん? どうかな?﹂
誤魔化すように笑うと、ジュリアスはつんとそっぽを向いた。拗
ねたような態度が、妙にかわいらしかった。
1746
1747
34
朗読会の日。
いつもより寝過ごした光希は、ジュリアスに揺り起こされて眼を
醒ました。頭が重い⋮⋮すぐに身体の不調に気がついた。
﹁知恵熱が出た⋮⋮﹂
これは絶対、恋文に頭を使い過ぎたせいだ。額を押さえる光希を、
ジュリアスは心配そうに見ている。続く言葉を予想して、光希はき
びきびと寝台を降りた。
﹁平気﹂
﹁そうは見えません﹂
背中から抱きしめられて、光希は素直にもたれかかった。
﹁うーん⋮⋮でも、今日の為に皆が準備してくれているし、いくよ﹂
﹁欠席してもいいでしょう﹂
﹁せっかく書いたし、僕も少し楽しみなんだ。今日は早く帰るよ。
ジュリはきたら駄目だからね﹂
念押しすると、ジュリアスは不満そうにしながらも頷いた。
﹁判りました。具合は悪いのだから、無理はしないでくださいね﹂
1748
﹁うん﹂
昼休の鐘が鳴ると、工房の一角に朗読会の参加者が集まってきた。
意外なことにサイードとアルシャッドまでいる。
熱が上がっている自覚はあるが、光希は不調を堪えて檀上に上が
った。
読み上げるのは、光希も含めて七名だ。光希が引き留めたので、
ケイトは嫌そうにしながらも輪の端っこで傾聴している。
﹁蒼い星から尖塔を見下ろす友よ、雷鳴の聖歌を響かせ、黄金時代
が始まる。黄水仙の香りがしおれても、心のなかで無限に香るもの。
いつかまた、会える日まで﹂
と、この美しい詩を詠み上げたのは、あのサディールである。
強面からは想像もつかぬ繊細な詩だ。
強靭体躯な彼等を見ていると、詩とは無縁に思えるが、意外と美
しい詩を詠む者は多い。アッサラームには教養人が多いのだ。
幾人かの後に、緊張した面持ちでスヴェンも檀上に上がった。
﹁月光が翳る夜には、優しい涙雨に合わせて、どうか歌ってくださ
い。私の愛しい小夜啼鳥⋮⋮﹂
スヴェンはケイトを熱っぽく見つめて歌う。
﹁その調べは、貴方が歌ってはじめて、とても甘美になるのです﹂
一途な瞳でケイトに歌を読むスヴェンを見て、光希は瞳を和ませ
た。
1749
しるし
﹁君は夜明けを知らせる、明るい徴、曇りなき宵の明星。僕のため
に瞬いているのは、なぜ?﹂
﹁さぁー? 知りません﹂
さらりとケイトが流すと、拍手と共に、愉快な笑いが起おこった。
スヴェンの照れ臭げな顔を見て、光希は微笑んだ。
﹁驚いた。素敵な詩だったよ! スヴェンは感性が豊かだね﹂
本心であった。思えば自分が十三の頃、これほどひたむきな恋を
しただろうか?
淡い恋心なら少年時代にも覚えはあるが、ジュリアスとの出会い
を想うと、全てが霞んでしまう。
在りし日の恋人を想う。もしも、少年の頃に出会えていたら、彼
もスヴェンのように一途に想ってくれただろうか?
﹁殿下?﹂
﹁あ、いや。なんでもない⋮⋮﹂
我に返った光希は、小さく笑った。
﹁さて、次は僕の番だ。スヴェンには負けないよ﹂
思考を切り替えて席を立った光希は、部屋の片隅を見て思わずぎ
ょっとした。いつの間にか、ジュリアスがいるではないか。
瞳が合うと、彼は悪戯めいた光を眼に灯して、どうぞ? という
ように手で壇上を指した。
1750
﹁︱︱っ﹂
これは恥ずかしい! しかし、周囲はまだジュリアスに気付いて
いない。皆の前で光希が狼狽えれば、ジュリアスの存在に気付かれ
てしまう。そうすれば、緩んだ空気は忽ち張り詰めてしまうだろう。
覚悟を決めると、照れ臭さを押し殺して、光希は口を開いた。
チャンパック
﹁夜闇に包まれても、ジャスミンと金香木が、帰り道を教えてくれ
る﹂
本人を前にして読むのは、かなり恥ずかしい。
結局、詩はケイトではなく、ジュリアスを想い浮かべながら書き
直していた。
きんいろ
﹁夢から醒めても、全身を黄金色の光輝に包まれる⋮⋮﹂
たと
これは、ジュリアスにあてた恋文だ。なるべく湾曲した表現にし
たつもりだが、彼を喩える言葉がそちこちに散りばめられている。
どう思っているだろう? 恥ずかしくて、ジュリアスの顔を見る
ことができない。
どうにか詠み終えて拍手に応えていると、ジュリアスが傍にやっ
てきた。
﹁素敵な恋歌でしたよ﹂
嬉しそうに微笑まれて、光希は絶句した。他の者も、ぎょっとし
たようにジュリアスを見ている。
﹁朝より、熱が上がっているでしょう? 今日はもう帰りましょう﹂
1751
﹁えぇ? あ、ちょっと﹂
挨拶もそこそこに、ジュリアスは光希の肩を抱いて、檀上から降
ろした。工房仲間達のはやし立てる声や、声援に見送られて、光希
は慌ただしく工房から連れ出された。
﹁え? ジュリも帰るの?﹂
﹁送りますよ﹂
外に出ると、ルスタムが御者台の上で待機していた。促されるま
ま馬車に乗り込むと、すぐに緩やかな振動が伝わってくる。
﹁光希﹂
隣を仰いで、鼓動が撥ねた。熱の灯った青い双眸が、まっすぐ光
希を見ている。詩を聞かれた羞恥がこみあげて、顔を背けると耳朶
を舐められた。
﹁あっ﹂
どうにか声を堪えると、腰を強く抱かれた。耳の輪郭を唇でなぞ
られ、舌を穴に挿れられる。濡れた音が鼓膜を叩き、光希は眼をぎ
ゅっと瞑った。
﹁待って﹂
強くいったつもりが、想像以上にか細い声が出た。ジュリアスは
答えない。眼の端に涙が滲んだ。
腰を抱く腕が、下へ降りていく。太腿の内側をするりと撫でられ
1752
て、光希は鼻にかかった声を上げた。
﹁ちょっと待って﹂
﹁想像していた通りでしたよ。頬を染めて、恥じらう貴方はすごく
かわいらしかった﹂
﹁⋮⋮そんな馬鹿な﹂
﹁本当ですよ。詠み上げている途中で、攫ってしまいそうでした。
あんなに魅力的な貴方を、他の誰にも見せたくなかった﹂
﹁う、だからって⋮⋮挨拶もせずに、抜けてきちゃったよ﹂
拗ねたように光希がいうと、ジュリアスは人差し指で光希の唇に
触れた。かぁっと頬が熱くなり、光希は慌てて眼を瞑った。
﹁これでも、読み終えるまでは、と我慢したのです。私を想って書
いてくれたのでしょう?﹂
耳朶に囁かれて、光希は震えた。返事を請うように耳元で名を呼
ばれて、小さく頷くと、頬に優しいキスが贈られた。
﹁とても嬉しかった。ありがとう﹂
﹁⋮⋮頑張ったよ﹂
照れ臭さを誤魔化すように笑うと、ジュリアスは優しい瞳をした。
﹁なぜでしょうね⋮⋮光希から詩を贈られるのは、今日が初めての
1753
はずなのに、とても懐かしく感じたのです。本当に嬉しかった。あ
りがとう、光希﹂
想いの籠った言葉に、光希の胸も暖かくなった。
﹁うん⋮⋮どういたしまして﹂
素直にもたれかかり、眼を瞑る。優しい手が、愛おしそうに髪を
梳いてゆく。
嬉しそうにしているジュリアスを見て、頑張った甲斐があったと
光希は満足した。
1754
35
朗読会を終えた後、光希は本格的に熱を出して寝込んだ。
完全に、知恵熱である。
意識は朦朧とし、食欲もなく、嘔吐に苦しむ羽目になった。普段
は血色の良い丸顔を蒼白にさせて、寝台の上で苦しげにえづいてい
る。
﹁光希﹂
ウルフラム
前のめりで口を押える光希の背を、ジュリアスは心配そうに摩っ
ている。
手渡された菩提樹の茶を口に含むと、気分はいくらか和らいだ。
﹁落ち着いた?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
心配そうに髪を梳く手を、光希は複雑な気持ちで眺めた。傍で看
病してくれるのは嬉しいが、治まらない吐き気に不安になる。彼の
目の前で粗相をしてしまいそうで、恐かった。
﹁平気だから、ジュリはもういって﹂
﹁こんなに辛そうにしている光希を、置いていけませんよ﹂
﹁⋮⋮﹂
1755
重苦しい圧迫感に、呼吸すらままならない。ジュリアスは汗で張
りついたシャツのボタンを外し、濡らした柔布で肌を拭ってくれた。
﹁冷たくありませんか?﹂
﹁ううん⋮⋮気持ちいい⋮⋮﹂
はふはふと喘ぐ光希を見下ろして、ジュリアスは愁眉を下げた。
﹁かわいそうに。なかなか熱が引きませんね﹂
﹁眼を閉じていても、眼が回る⋮⋮はぁ⋮⋮﹂
﹁シィ﹂
辛そうに喋る光希の瞼を掌で覆うと、ジュリアスは熱をもった額
に唇を落とした。
﹁汗かいてるよ⋮⋮あまり、傍にいない方が⋮⋮うつるから﹂
切れ切れに光希が呟くと、ジュリアスは緩く首を振った。
﹁そんな心配はしなくていいから。傍にいさせてください﹂
﹁でも、ジュリの前で、吐いたら⋮⋮﹂
﹁大丈夫だから。そんな泣きそうな顔をしないで﹂
最後までいい終えぬうちに、頬に優しいキスが落ちる。
慈しみに溢れた口づけに、光希の緊張は和らいだ。恐らく、前後
1756
不覚の酷い状態になったとしても、彼は光希に幻滅したりしないだ
ろう。
﹁ごめん⋮⋮﹂
﹁シィ。謝らなくていいから、楽にして﹂
朦朧として眼を醒ます度に、ジュリアスが傍にいた。空が白み始
める頃に眼を醒まし、ふと隣を見るとジュリアスと眼が合った。ず
っと看病してくれていたのだろうか?
﹁ジュリ⋮⋮僕のことはいいから、もういって﹂
﹁眼が醒めた? 気分は?﹂
﹁⋮⋮うつるよ﹂
﹁平気ですよ。常人より遥かに頑丈ですから。何か、食事を用意さ
せましょうか?﹂
首を振ると、ジュリアスは心配そうな顔をした。
﹁まる二日、食事を取っていませんよ。一口でも、食べれませんか
?﹂
﹁ん⋮⋮﹂
思い出したように、幽かな空腹感が蘇り、光希は淡く頷いた。
ほっとしたように微笑んだジュリアスは、背中にクッションを当
てて、光希の身体を起こした。ナフィーサに卵粥を用意させると、
1757
部屋から下がらせて、手ずから給仕を始める。
﹁自分で食べるよ﹂
﹁遠慮をしないで﹂
﹁⋮⋮なんか、嬉しそうだね﹂
﹁そんなことは⋮⋮いえ、ずっと傍にいられると思うと、少しだけ
嬉しいのかもしれません。こんな時でないと、貴方を独占できませ
んから﹂
﹁何いってるの﹂
﹁本当ですよ。貴方ときたら、いつも人に囲まれて忙しそうにして
いるのだから。勤勉にもほどがあります﹂
頬をつつかれて、思わず笑みが零れた。
﹁こんな時くらい、世話をさせてください。ほら、口を開けて﹂
よぎ
口元にスプーンを運ばれる。くすぐったいような、暖かい気持ち
がこみあげて、光希は素直に口を開いた。
優しい味を咀嚼しながら、ふと遠い記憶が脳裏を過った。
昔⋮⋮日本で暮していた頃、熱を出して寝込むと、母は卵雑炊を
作ってくれたものだ。林檎を擦り下ろしたヨーグルトが好きだった。
﹁もう食べれない?﹂
目の前にスプーンがあることを思い出して、光希はもう一口だけ
1758
食べた。
﹁なんか、昔を思い出した﹂
﹁昔?﹂
﹁うん。アッサラームにくる前のこと⋮⋮熱を出すと、こんな風に
看病してくれたなぁって⋮⋮﹂
遠い眼差しをする光希の髪を、ジュリアスは何もいわずに撫でた。
﹁ジュリは寝込んだ時、どうしていたの? 誰かが傍にいてくれた
?﹂
﹁私?﹂
﹁うん﹂
﹁そうですね⋮⋮病気とは違いますが、神力を持て余していた頃は、
よくうなされていましたよ﹂
﹁誰も傍にいなかったの?﹂
﹁看護されたところで、どうにもなりませんし⋮⋮﹂
﹁︱︱はっ﹂
いい淀んだ言葉の先に気付いて、光希は小さく息を呑んだ。ジュ
リアスが神力を持て余していた頃といえば、頻繁に公宮へ渡ってい
た頃だ。
1759
微妙な表情を浮かべる光希に気付いて、ジュリアスは少し慌てた。
力なく垂れた手を両手で包み込み、首を傾げる。光希はにやっと笑
うと、その手を上からぺしりと叩いた。
﹁光希?﹂
﹁別に、もうとやかくいわないよ⋮⋮昔は苦労していたんだね﹂
少し喋ったせいか、眼が回る。瞼を閉じると、光希は背もたれの
クッションに沈み込んだ。
﹁もう休んで﹂
﹁ん⋮⋮ごめん、少し寝るね﹂
枕を調整されながら、光希は眼を閉じた。ジュリアスはそっと覆
いかぶさると、額に優しいキスを落とした。
1760
36
熱で朦朧とするさなか、不思議な夢を見た。
見慣れぬ、広く豪奢な寝室に、軽く三人は横になれそうな大きな
寝台が一つ。
その上で横になっている少年︱︱幼いジュリアスだ。
天のお導きだろうか?
在りし日の、幼いジュリアスの姿が見える。
寝台の上で、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。全身の苦痛
を堪えるように身体を丸めて、額には大粒の汗が浮いている。
寝込んでいる光希よりもずっと、苦しそうだ。
成人したての頃は、神力が身体に収まらずに苦しんだといってい
たが⋮⋮想像以上に辛そうだ。
光希は、寝台に腰かけると汗の浮いた額に手を伸ばした。夢とは
思えぬ、確かな感触が指先に伝わってくる。
呻いていたジュリアスは、ぱちっと眼を開くと、驚愕の表情を浮
かべた。
﹁ジュリ、大丈夫?﹂
﹁え⋮⋮﹂
唖然とするジュリアスを見下ろして、光希はほほえんだ。傍に置
いてある平たい甕を覗きこみ、沈んだ布を見つけて、硬く絞った。
額の汗を拭いてやると、ジュリアスは我に返ったように、跳ね起
きた。
﹁あ、あの、貴方は?﹂
1761
﹁寝ていていいよ。今度は僕が看病してあげる﹂
まだ薄い肩を押すと、なすがままにジュリアスは横になった。眼
を見開いて、光希を凝視している。
﹁そうか、夢か⋮⋮﹂
納得するように独りごちるジュリアスを見て、光希も、そうかも
しれないと笑った。妙に五感は現実味があるが、夢でもなければ、
ジュリアスが子供なはずがない。
﹁楽になった⋮⋮こんな夢は初めてだ﹂
﹁本当? 良かった。すごく苦しそうだったよ。かわいそうに⋮⋮
昔は大変だったんだね﹂
あどけない顔の輪郭を両手に挟むと、ジュリアスは眼を瞬いて頬
を染めた。なかなか見られない初々しい姿に、光希の心は温まった。
﹁かわいいなぁ。ジュリの子供時代かぁ、へぇー。想像した通り、
女の子みたいに綺麗な顔をしている﹂
絵に描いたような美少年だ。成長したジュリアス同様、陶人形の
ように端正な顔立ちをしているが、頬は丸みを帯びていて柔らかい。
浮かれたようにはしゃぐ光希を仰いで、ジュリアスは青い瞳を煌
めかせた。
﹁綺麗なのは、貴方だ⋮⋮どうして、私の名前を知ってるのですか
? 貴方は、もしかして﹂
1762
期待の籠った瞳を見つめ返して、光希は額に唇を落とした。ジュ
リアスは全身を強張らせた。
﹁わぁ⋮⋮﹂
眼を見開いて、額を手で押さえている。かわいらしい反応に、光
希はにっこりほほえんだ。
ロザイン
﹁初めまして、僕は光希。未来のジュリの花嫁だよ﹂
﹁あぁ、やはり!﹂
わなな
感動したようにジュリアスは跳ね起きた。薔薇色の唇を戦慄かせ、
光希の手を両手に取り、自分の額に押し当てた。
﹁夢でもいい! 会いにきてくださった⋮⋮私の、花嫁⋮⋮コーキ﹂
心に染み透るような、魂の叫びだ。内面を烈しく揺さぶられ、彼
を守ってあげたいという本能的な気持ちが溢れ出した。
肩を震わせる幼いジュリアスを、光希はそっと胸の中に抱き寄せ
た。遠慮がちな腕が、背に回される。宥めるように背を摩りながら、
これから起こる長い戦いに思いを馳せた。
あともう少ししたら、ジュリアスは戦場にいかねばならない。ア
ッサラーム軍を率いて、東の侵略に立ち向かわなければならないの
だ。
か
二人が出会うまでには、長い茨の道のりがある。
彼に降り懸かる苦難を思いながら、金髪を優しく撫でていると、
ジュリアスは顔を上げた。
熱っぽい瞳で、光希を強く見つめてくる。
1763
子供でも、ジュリアスの本質は変わらない。憧憬、心酔⋮⋮激し
い恋情を、強い視線で訴えてくる。
応えて良いものか迷っていると、ジュリアスは光希の両肩に手を
置いた。喉をこくりと鳴らして、膝を立てる。
﹁えーと⋮⋮﹂
成人したての︱︱恐らく十三かそこらの少年とキスをするのは、
いくら相手が恋人とはいえ、光希は抵抗を覚えた。
けれど、探るように震える手で触れてくるジュリアスを拒むのは
忍びなくて、一度だけなら⋮⋮と眼を閉じた。
ゆっくりと唇が重なる。
触れ合わせるだけの、拙いキス。遠慮がちな触れ方に、新鮮な気
持ちを味わった。いつもの癖で口を開きかけたが、幼いジュリアス
はその先に進もうとしない。
顔が離れると、ジュリアスは眼元を染めて熱っぽい瞳で光希を見
た。
﹁⋮⋮もしかして、口づけは初めて?﹂
訊ねると、ジュリアスは恥じ入るように睫毛を震わせた。
﹁はい﹂
成長したジュリアスからは、想像もつかぬ初々しさだ。幼い色香
りに眩暈がする。光希は背徳感にも似た高揚感を覚えた。
﹁もっと、触れても⋮⋮?﹂
慎重に手を伸ばしてくるジュリアスを見て、躊躇う。
1764
いくら夢だからといって、子供を相手にする行為では⋮⋮理性の
声を聞きながら、夢とはいえ、彼が初めて知るであろう口づけを与
えられることに、確かな喜びも感じていた。
﹁⋮⋮うん﹂
誘惑に負けて顔を寄せると、ジュリアスは震える手で光希の頬に
触れた。
﹁ん⋮⋮﹂
そっと、唇が重なる。
光希の方からうなじを抱き寄せ、唇を押しつけた。柔らかな感触
を楽しみながら、下唇をそっと挟みこむ。ちゅ、と軽く吸いつくと、
ジュリアスの身体から淡い光が溢れた。
﹁平気⋮⋮?﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
顔を離して耳元で囁くと、艶っぽい吐息を漏らした。様子を見な
がら、もう一度唇を重ねる。角度を変えて、唇がこすれると、そっ
と唇が開いた。
舌を絡めるか迷っていると、ジュリアスの方からする、と伸ばし
てきた。遠慮がちに唇の隙間を撫でる。
ここ
迷いを捨てると、そろりと挿し入れられた舌に、光希は優しく舌
を絡ませた。
この先、彼が公宮で経験するであろう様々を思いながら、想う︱
︱夢でもいい。この一時が、彼の記憶のどこかに残ればいい⋮⋮
唇を優しく吸ってから顔を離すと、ジュリアスは唇を手で押さえ
1765
ながら、食い入るように光希を見つめた。
愛おしい想いが、膨れ上がる。光希は手を伸ばすと、少年の身体
を引き寄せて、両腕で抱きしめた。
﹁未来で待っているから、僕を見つけてね﹂
穏やかな抱擁の後、身体を離すと、ジュリアスは強い力で光希の
腕を掴んだ。
﹁いってしまうのですか?﹂
1766
37
言葉に詰まる光希を見て、ジュリアスの双眸に鋭い光が灯った。
獰猛な気配︱︱青い燐光が身体から放たれる。
﹁ジュリ?﹂
﹁嫌だ⋮⋮醒めるな、まだ﹂
寝台に押し倒されて、光希が慌てて起き上がろうとすると、強い
力で組み敷かれた。
﹁ジュリ!﹂
子供とは思えぬ力だ。信じられないが、二十歳を越える光希の力
で抗えない。
﹁コーキ⋮⋮﹂
襟の中に手が潜り込み、光希はぎょっとした。振り払おうとした
ら、逆に腕を寝台に押しつけられた。
﹁えっ!?﹂
わなな
戸惑う光希を見下ろして、ジュリアスは唇を戦慄かせた。
﹁夢なのだから⋮⋮私の好きにしたって﹂
1767
﹁夢?﹂
﹁⋮⋮でしょう? こんなことが、実際に起こるはずない﹂
そういって、端正な顔をゆっくりと光希の首元に沈める。肩が細
かく震えていることに気付いて、光希は抵抗するのをやめた。
﹁そう、だよね⋮⋮夢に決まってる﹂
幼少時のジュリアスを見てみたいと以前から思っていたから、熱
せ
に苦しむ光希を憐み、シャイターンが情けをかけてくれたのかもし
れない。
そう思うと、感情を堰きとめていた理性は解けた。四肢から力を
抜いて、衣装の内で蠢く指先に身を委ねる。
﹁ん⋮⋮っ﹂
ぎこちない触れ方に、背徳感を刺激されながら、光希は自ら上着
を脱いだ。一枚、一枚と脱いでいく姿を、ジュリアスは食い入るよ
うに見つめている。
﹁将来、君は僕と結婚をする。大人になったジュリに、僕は何度も
抱かれてきたから⋮⋮﹂
言い訳のように光希が告げると、
﹁⋮⋮私が? 貴方を?﹂
たず
信じられない、といった顔でジュリアスは訊ねた。見つめ合った
まま、光希の方から顔を寄せる。薄く開いた唇を、そっと塞いだ。
1768
﹁ん、んぅ﹂
滑らかな唇を愛撫すると、かき抱くように身体を抱き寄せられた。
から
今さっきのぎこちなさが嘘のように、躊躇いもなく、貪るように
口内を荒される。唇を食まれ、舌を搦め捕られる。青い瞳に情欲が
灯っていた。
﹁貴方が欲しい﹂
﹁それはちょっと、早いんじゃないかなぁ⋮⋮﹂
肩を掴む手を外し、光希は逆にジュリアスを寝台に押し倒した。
潤んだ双眸が、戸惑ったように光希を見上げてくる。何をされるの
きざ
か判らない、という顔を見て背筋がぞくっとした。
下肢に触れると、そこはしっかり萌していた。布の上から屹立を
撫でると、ジュリアスは小さく息を呑んで、腰を引き気味にした。
﹁今夜は、僕がしてあげる⋮⋮いいかな?﹂
﹁え⋮⋮﹂
下履きに手をかけると、ジュリアスは慌てたように光希の腕を掴
んだ。
﹁⋮⋮夜の習いは、まだ?﹂
﹁は、い﹂
俯く顔を見て、光希は少し頭が冷えた。
1769
﹁⋮⋮やめておく?﹂
勢いよく顔を上げたジュリアスは、首を左右に振った。
﹁離れては嫌です。もっと、触れて欲しい。私も貴方に触れたい⋮
⋮こんなに、綺麗な肌に⋮⋮﹂
恐る恐る伸ばされる手に、光希は身を任せた。光希と殆ど変らな
い大きさの手が、遠慮がちに首すじや腕に触れてくる。
好きに触れさせながら、光希もジュリアスに手を伸ばした。服に
手をかけても、素直に腰を浮かせて下履きを脱ぐ。ふるりと屹立が
零れると、恥ずかしそうに視線を揺らしたものの、光希の手を拒も
うとはしない。
嫌がる素振りはないことを確かめながら、光希はゆっくり顔を沈
めた。
普段は殆どさせてくれないが、夢の中のジュリアスは素直だ。ま
だ幼い性器に息を吹きかけると、艶めいた吐息を漏らした。
﹁なんか、すごくいけないことをしている気分⋮⋮﹂
﹁こ、コーキ?﹂
﹁舐めてもいい?﹂
下から見上げるように訊ねると、ジュリアスの眼元にぱぁっと朱
が散った。期待の籠った眼差しを見て、光希はほほえんだ。
﹁ん⋮⋮ッ﹂
1770
丸い亀頭に口づけただけで、ジュリアスの腰は撥ねた。指で優し
く擦り上げると、甘い声を漏らして快感を堪える。
そろりと舌を這わせると、落ち着かない、といったようにジュリ
アスは光希の髪に指を潜らせた。
﹁ひもちいい?﹂
口内に含みながら上目遣いに訊くと、ジュリアスは上気した顔で
首を縦に振った。初めての口淫は刺激的すぎたのか、口に含んだだ
けで、吐精寸前まで追い込まれているようだ。
﹁ん、ん⋮⋮﹂
うつつ
鈴口から滲んだ雫を舐めとり、更に狭い蛇口を舌で突いた。
味わうような代物ではないはずなのに、夢でも現でも変わらずに、
不思議と仄かな甘みを感じる。
﹁コーキ! いけません﹂
輪っかにした指で竿を扱くと、ジュリアスは勢いよく腰を引かせ
た。
﹁いいよ、出して﹂
﹁で、ですが﹂
口から離れた屹立を、光希が指でつと撫でると、ジュリアスは腰
を震わせて吐精した。熱い飛沫が、光希の手を濡らす。
1771
﹁すみませんッ﹂
焦ったように、脱いだ上着で光希の手を拭うジュリアスを見つめ
ながら、光希はほほえんだ。
﹁気持ち良かった?﹂
﹁それは、もう⋮⋮! コーキは、このようなことを、どこで⋮⋮
いえ﹂
どこか悲壮な顔を見て、光希は片手を預けたまま、空いた手で金
髪を優しく梳いてやった。
﹁初めての口づけも、肌に触れたのも⋮⋮全部ジュリが初めてだよ。
いつの日か、成長した君と僕は出会って、恋をするんだ﹂
﹁私と⋮⋮本当に?﹂
﹁本当に﹂
﹁夢でなければ、どんなに⋮⋮﹂
﹁また会えるよ。約束する﹂
額に口づけると、ジュリアスは哀しそうな顔をした。寝台を降り
ようとする光希を後ろから抱きしめて、寝台に引き戻す。
﹁いかせない﹂
﹁ジュリ﹂
1772
﹁私の作った幻であるなら、ここに留まれ!﹂
強い口調で命じるジュリアスを見て、光希は身体の芯が震えるの
を感じた。動きを止めた僅かの間に、彼は光希を寝台に組み敷いた。
1773
38
逃げようとしたわけではなかった。ただ、落ち着いて話をしたか
っただけだ。
戸惑ったように視線を揺らす光希をどう思ったのか、ジュリアス
は性急な手つきで下履きを脱がせた。咄嗟に拒めなかったが、むき
出しの下肢に手が触れて、急速に理性を呼び戻された。
﹁さ、さすがに、それは﹂
﹁コーキに触れたい。もっと﹂
おのの
力なく垂れた中心を摩られて、光希は慄いた。逃げようとすると、
強い力で腰を引き戻される。
﹁ジュリッ!﹂
ジュリアスは、端正な顔を沈めると躊躇もなく光希の性器に舌を
這わせた。年端もゆかぬ美しい少年が、いやらしい舌遣いで光希を
高めてくる。
﹁ッ、離して﹂
拒んでも、ジュリアスは離そうとしない。暴れると、性器を甘噛
みされた。急所に歯を立てられる恐怖に、反抗心は手折られてしま
う。
﹁駄目だって、もう、ちょっとッ﹂
1774
切羽詰まった様子を、今度はジュリアスが上目遣いに見上げてい
る。感じ入る光希の痴態を眺めながら、強く屹立を吸い上げた。
﹁あぁ!﹂
ほとばし
腰を震わせている間も、ジュリアスは吸引をやめなかった。精管
から迸る雫を、喉を鳴らして嚥下していく。
﹁⋮⋮もっと欲しい﹂
未熟な身体の少年は、頬を上気させて陶然と呟いた。
淫靡な光景に怯み、身体を捻って逃げようとする光希を、逃がさ
ないとばかりに、背中からジュリアスが体重をかけてのしあがって
きた。
﹁ここに、私を⋮⋮﹂
﹁駄目!﹂
尻のあわいを指でなぞられ、光希は背を慄わせた。緊張を解くよ
うに、ジュリアスは項や背中に啄むようなキスを降らせた。
﹁んぅッ﹂
びろうど
天鵞絨のような唇が、肌のそちこちに雨と降る。
甘い唇に翻弄されて、どうせ夢なのだから奔放に振る舞っても構
わないではないか⋮⋮天秤にかけられた理性と誘惑が、激しくせめ
ぎ合った。
1775
﹁こんなに綺麗な肌、見たことがない⋮⋮柔らかくて、手に吸いつ
くよう。甘くて、いい匂いがする﹂
﹁んん!? 待って。そこはちょっと﹂
尻たぶを掴む手を咄嗟に掴むと、少々乱暴に手を振り払われた。
ジュリアスは、強引に親指で尻穴を割拡げると、すっと通った鼻梁
を尻の間に埋めた。
﹁あ、んッ﹂
優しく舌で突かれて、光希の腰も声も跳ね上がった。這って逃げ
ようとすると、強い力で腰を掴まれる。
﹁貴方は、こんなに甘い声を、他の誰かに聞かせたのですか?﹂
﹁ジュリだけだって⋮⋮んぅ﹂
背に覆いかぶさるジュリアスに項をきつく吸われて、一際甲高い
声を上げた。本当に? と耳朶に囁かれて、身体中が熱くなる。
﹁腰を上げて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
迷っていると、蝶を針で縫い留めるように、寝台に強く身体を押
しつけられた。
﹁私だけに、肌を許してくれるのでしょう?﹂
1776
﹁そうだけど⋮⋮﹂
﹁貴方が欲しい。お願いです、どうか応えてください﹂
どこか不安そうに請われて、光希はおずおずと膝をついて、腰を
あげた。顔は伏せた状態で、下肢を高く上げる。
あらぬところに息がかかり、甘い刺激を予感して身体は勝手に揺
れた。
﹁あ⋮⋮ッん﹂
年端もいかない少年に、なんという真似を⋮⋮幽かに残った理性
が囁くが、尻たぶを揉みこまれると、だらしのない声が喉から迸っ
た。ぬかるんだ入り口を、熱い舌がなぞりあげる。
﹁だ、め﹂
やっぱり︱︱土壇場で理性が目覚め、腰を引かせようとすると、
ジュリアスは叱るように舌で深く穿った。
﹁あふッ﹂
激しい抜き差しで、後孔を犯される。じゅぷっと、濡れた音が弾
けて、光希は全身を赤く染めた。
これが初めての経験であるはずなのに、少年は恐れも躊躇もなく、
光希の身体に舌で触れてくる。
﹁あぁッ! あ、あ、はぁッ、ん﹂
幼くても、ジュリアスの触れ方は情熱的だ。後孔を舌で解しなが
1777
ら、反応し始めている光希の中心に指を這わせる。
甘く貪られて、光希も次第に乱れていった。なけなしの理性は、
とうに崩壊している。
仰向きに体位が変わり、膝裏に腕を入れられた。見つめ合ったま
ま、つぷりと肉塊が押し入ってくる。
﹁熱い⋮⋮コーキの中、すごく私を締めつけて﹂
﹁ジュリ⋮⋮﹂
手を伸ばすと、意図を察したように身体を倒して、光希に覆いか
ぶさった。欲するままに唇を合わせる。
情熱的な口づけをかわすうちに、慎重な腰遣いは、荒々しいもの
こだま
へと変わっていった。光希も夢中で背中に腕を回して、しがみつく。
部屋に反響する、濡れた音。舌を絡め、腰がぶつかり、荒い息遣
いが部屋に充満していく。
熱気に包まれながら、微かな笑声を耳に拾い、光希はうっすら眼
を開けた。
﹁暖かい⋮⋮コーキの腕に抱きしめられて、こっちも⋮⋮私をきつ
く抱きしめてくれる﹂
﹁んッ﹂
身体の奥を突かれて、一際高い声を上げた。
撥ねる身体を舐めるように見下ろして、ジュリアスはふと真顔に
なる。光希の右足を持ち上げると、身体を横に傾けて、深く貫いた。
﹁あぁっ、ふッ、ン﹂
1778
堪らない。光希の感じるところを探るように、緩急をつけて腰を
振られる。開いた胸を掌で撫で上げ、汗ばんだ身体を伏せたかと思
えば、胸に舌を這わせる。
﹁あ、あぁ⋮⋮﹂
しこ
痼った乳首を食まれ、びくびくと腰が撥ねた。ジュリアスは熱に
浮かされたように、いやらしく胸を揉みこみ、先端を指で弾いた。
﹁んぅッ、ふっ、あぁッ﹂
ねぶ
形の良い唇に吸われ、甘噛みされて、舐られる。淫らな愛撫に、
光希は何度も甘い声を上げた。
﹁は、はな⋮⋮う、もたなッ﹂
﹁もっと見たい⋮⋮﹂
切羽詰まった表情を見て、ジュリアスは腰遣いを緩めた。抽挿の
合間に、汗のしたたる首筋、鎖骨、胸、腹に舌を這わせる。もどか
しいほど丁寧な愛撫を繰り返して、光希の欲望を煽りたてる。
我慢できずに、光希の方から腰を揺らすと、ジュリアスは表情を
綻ばせた。
﹁かわいい人⋮⋮私で、気持ちいいのですよね?﹂
﹁もっと⋮⋮﹂
﹁もっと?﹂
1779
﹁⋮⋮﹂
﹁あぁ、コーキ! こんな幸せがあるだなんて﹂
信じられない、そう呟きながら、ジュリアスは自身を引き抜くと、
深く光希を貫いた。
﹁んッ﹂
強烈な快感が爪先から、頭の天辺まで駆け抜けていった。甘い刺
激にもだえる光希を引き寄せ、ジュリアスは何度も後ろから穿つ。
﹁あぁッ﹂
背後から交わった後、身体を仰向けて、正面から抱き合った。
幼いながらも、細く引き締まった裸体は美しい。
よろ
腰を打ちつける身体に手を伸ばすと、褐色の肌は熱く、硬い筋肉
たぎ
に鎧われていた。うっすら割れた腹筋を指でなぞると、ジュリアス
は艶っぽい呻き声を漏らした。欲に滾った瞳で、強く光希を射抜く。
天使のように整った顔立ちをしているのに、欲情した男の瞳をして
いる。
﹁あ、んぁッ!﹂
熱い杭に前立腺を刺激されて、光希は仰け反った。うねる粘膜に
締め付けられ、ジュリアスも顔を歪める。
快感を貪り、共に上り詰めていく。
絹をきつく握りしめ、快感に耐える光希の胸に、ジュリアスは指
を這わせた。
1780
﹁や、あ﹂
胸の先端を指の腹で愛撫されて、光希は身悶えた。もう、我慢で
きそうにない。放熱の欲に支配されていると、唇を割って、指がも
ぐりこんできた。
﹁⋮⋮ッ⋮⋮このまま、貴方の中で果てたい﹂
口内を探る指に舌を絡ませて、光希はジュリアスを見上げた。欲
する情熱が、触れ合ったところから伝播する。
﹁ん︱︱ッ﹂
足の指先を丸めて、光希は背を弓なりにしならせた。絶頂を迎え
て、頭の中は真っ白になる。
吐精は長く続き、二人の間を濡らした。ジュリアスに指で扱かれ
る度に、びくびくと細かな飛沫が散る。
放熱の余韻に浸っていると、暖かな手に両頬を包まれた。達した
ばかりなのに、下肢を開かれる。
﹁んぅッ﹂
唇を貪られながら、ぐんっと突き上げられた。
痙攣するように、二度目の放熱を遂げても、ジュリアスは光希の
身体を放そうとしない。
﹁ん⋮⋮ッ⋮⋮僕、もう﹂
﹁もっと、貴方を感じていたい﹂
1781
殆ど透明な飛沫を散らしながら、光希は潤んだ瞳で、幼い恋人を
見つめた。壮絶な色香に、頭がくらくらする。情熱に呑みこまれて、
意識は混濁していった。
1782
39
夜が溶けていく︱︱
空が白み始める頃になっても、二人とも眠らずにいた。
眠ったら、この奇跡のような時間が終わってしまう気がして、ぽ
つぽつ、とりとめのない話を続けている。
ふと流れた沈黙に見つめ合っていると、ジュリアスは陶然とした
表情で唇を開いた。
﹁黒水晶のような瞳ですね。いつまでも映っていたい﹂
恋情をのせた言葉に、光希はほほえんだ。
﹁ジュリの瞳も綺麗だよ。透き通った空を映しているみたい。この
髪も⋮⋮﹂
柔らかな金髪を指で梳くと、ジュリアスはくすぐったそうに眼を
細めた。
こがね
﹁黄金色は、僕にとってジュリの色なんだ。アッサラームの遥かな
尖塔や、斜陽に染まる街並みでもなく、ジュリの風に靡く金髪を連
想する﹂
﹁ありがとうございます。コーキにそんな風にいってもらえるなん
て、とても光栄です。恋歌のようだ﹂
くすぐったそうに笑うジュリアスを見て、光希もほほえんだ。
1783
﹁そうだよ。ジュリを想って書いたんだ﹂
チャンパック
期待に輝く眼を見て、光希は眼線を逸らした。逡巡してから口を
開く。
きんいろ
﹁⋮⋮夜闇に包まれても、ジャスミンと金香木が、帰り道を教えて
くれる。夢から醒めても、全身を黄金色の光輝に包まれる﹂
帰る場所も眠る場所も、一つだけ。
﹁深淵に落ちても、稲妻が闇を切り裂いて、遥かな蒼穹を運んでく
る。
私をすくいあげる者よ。
あけの明星のように、砂漠に染み入る雨滴のように、優しい楽器
の調べのように︱︱
天に浮かぶ青い星が過ぎた日を語りかけてきても、私には、蒼闇
に浮かぶ黄金色が貴いのです﹂
艶やかな髪を指で梳きながら、光希は眼を細めた。
開いた窓から入ってくる星明かりに照らされ、金糸の髪は神秘的
に煌めいている。
﹁そこに輝く光は、昏れゆく年が迫っても、私の心を潤す清新の泉
でしょう﹂
朗読会で歌った詩を諳んじ終えると、ジュリアスは双眸を潤ませ
た。
﹁⋮⋮どこにいても、私の傍に戻ってきてくださいますか?﹂
1784
﹁傍にいてくれないとやだよ。僕をアッサラームに呼んだのは、ジ
ュリなんだから﹂
唇に触れるだけのキスを贈ると、たまらない、といったようにジ
ュリアスは光希を抱きしめた。
あいまいもこ
温もりに包まれるうちに、揺り籠のような眠りに誘われた。意識
は曖昧模糊に霞んでいく。互いに別れの時を察して、見つめ合った。
﹁⋮⋮こんなに幸せなのに、夢だなんて﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁私がコーキの泉であるなら、コーキは私を潤すオアシスです。貴
方との永遠が欲しい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ここにいるのに。触れて、感じて、名を呼んでもらえるのに、こ
れが、夢だなんて﹂
切ない声に心が震える。まるで、心臓を鷲掴まれたようだ。
﹁絶対、また会えるから﹂
宝石のような青い瞳に、熾火が灯る。光彩を帯びて、薄闇の中で
輝いた。
﹁いかないで﹂
1785
﹁ごめんね⋮⋮﹂
﹁いかないでください﹂
﹁⋮⋮﹂
言葉が見つからない。頬を優しく撫でると、ジュリアスは潤んだ
瞳で光希を見つめた。懸命に、自分を落ち着かせようとする姿に胸
が潰れそうになる。衝動的に抱きしめると、ジュリアスも震える手
でしがみついてきた。
﹁このまま、時が止まればいいのにッ﹂
﹁信じて。僕達は必ずまた会えるんだ﹂
﹁コーキ⋮⋮﹂
﹁もう眠って。大丈夫。眼が醒めたら、いつもと同じように朝が始
まるよ﹂
秀でた額に優しい口づけを落とすと、ジュリアスは力なく首を振
った。
は
﹁貴方を知り、運命が定まりました。霊魂不滅の啓示を、この身に
刻んだのです。夜が明けても、私はきっと涯てしない渇望に苛まれ
るでしょう﹂
哀切と諦念の入り混じった声に、光希も表情を曇らせた。
﹁待っているから。僕を探して。辛くても⋮⋮諦めないで、僕を探
1786
してね﹂
涙に濡れた瞳の縁にそっと口づけると、ジュリアスは歯を食いし
ばって光希を見つめた。宝石のような青い瞳は、涙で潤んでいる。
﹁探します、幾千の夜を越えても、必ず、貴方を見つけてみせるッ
!! どうか、待っていて⋮⋮ッ﹂
﹁大好きだよ、ジュリ。僕の英雄。大切な人。たった一人の、最初
で最後の恋人。未来で待ってる﹂
重ねた唇は、涙で濡れていた。
胸が張り裂けそうだった。身体を二つに裂かれるような苦しみを
堪えて、震える手を離す︱︱遠い時の向こうで、待っている人がい
るから。
1787
40
は
涯てしない夜が明ける。
薄く開いた窓から、風がジャスミンの香りを運んでくる。清涼な
空気に包まれながら、光希は優しく揺り起こされた。
﹁⋮⋮き⋮⋮光希?﹂
満ちる青。
視界に飛びこんでくる、神々しいほどに端正な顔。心配そうな顔
をしたジュリアスの輪郭を、黎明の星明かりが照らしている。
﹁ジュリ⋮⋮﹂
端正な顔が下りてきて、眦に口づけられた。濡れた唇の感触に、
光希は自分が泣いていることに気がついた。
﹁辛いですか?﹂
﹁平気⋮⋮﹂
不思議と、身体の不調は治っていた。恐らく熱も引いているだろ
う。
﹁夢を見ていたんだ﹂
心配そうな顔をしているジュリアスを仰いで、光希はぼんやりと
答えた。
1788
﹁夢? どんな?﹂
﹁⋮⋮?﹂
こだま
想い出そうとしても⋮⋮の面影は、さざ波のように遠のいていく。
ただ、光希を呼びとめる、哀切の声だけが耳に反響した。
﹁哀しい夢?﹂
﹁いや﹂
﹁青い星を夢に見たの?﹂
﹁ううん⋮⋮﹂
優しく涙を吸われて、光希は眼を閉じた。眼裏に、幻燈のような
輪郭が浮かび上がる。あれは⋮⋮
﹁最初は嬉しかったんだ。でも、置いてきちゃったから﹂
﹁誰を?﹂
ほんの少しだけ、声に嫉妬を滲ませてジュリアスは訊ねた。
光希が縋るように手を伸ばすと、ジュリアスは暖かな胸の中に光
希を包みこんだ。しなやかで強靭な身体で癒してくれる。
﹁泣かないでください﹂
﹁うん⋮⋮﹂
1789
﹁寂しくなってしまったの?﹂
あやすように、髪を撫でられる。美貌を仰ぎながら、夢の欠片を
ほんの少しだけ思い出した。
﹁そうだ。小さなジュリに会ったんだ。天使みたいで、女の子みた
いにかわいかった﹂
﹁私?﹂
﹁そう、ジュリ﹂
﹁子供の私は、さぞ喜んでいたでしょう﹂
幼いジュリアスを思い出して、光希は再び視界を潤ませた。
﹁泣きそうな顔をしていた﹂
﹁私が?﹂
﹁引き留められたんだ。でも⋮⋮﹂
夢に引きずられて、少し感傷的になっているようだ。沈んだ顔の
光希を見て、ジュリアスは優しいキスの雨を降らせた。
﹁ジュリ⋮⋮僕を見つけてくれて、ありがとう﹂
甘えるように身体を寄せると、ジュリアスは光希の首の下に腕を
潜らせ、隙間なく抱き寄せた。
1790
そっと仰ぐと、鼻の頭にキスをされる。青い瞳が、柔らかく細め
られた。
﹁幾千夜を越えても、必ず見つけてみせます﹂
わなな
その一言に、雷に打たれたような衝撃が全身に走った。
﹁︱︱⋮⋮ッ﹂
まぶち
瞬く間に、眼淵に涙が盛り上がる。唇を戦慄かせる光希を見て、
ジュリアスは表情を変えた。
﹁⋮⋮光希?﹂
﹁ぅ、ふ⋮⋮っ﹂
堪え切れない嗚咽が唇から漏れた。精緻な美貌が涙で霞んでいく。
胸が痛い。どうしてこんなにも苦しいのだろう?
﹁光希、泣かないでください﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁夢の中で、寂し思いをしないように、抱いていてあげる。今度は
同じ夢を見ましょう﹂
零れ落ちる涙を、唇で優しく吸われた。あの時は離した手で、ジ
ュリアスにしがみついた。
﹁⋮⋮いいね、そうしよう﹂
1791
小さく笑うと、光希は静かに眼を閉じた。
優しい眠りに誘われていく。暖かな体温に包まれながら、記憶の
ねが
彼方へ遠ざかっていく、幼いジュリアスを想う。
ありがとう︱︱ちゃんと見つけてくれた。希った通り、また逢え
た。これからは、ずっと⋮⋮
優しいキスを額に感じながら、光希は穏やかにほほえんだ。
1792
1
期号アム・ダムール四五六年、二月。
間もなく、アッサラームで八年ぶりとなる競竜杯が開催されよう
としている。
これは西大陸諸国の参加する四年に一度のお祭りで、前回は東西
大戦を目前に控えていた為に見送りとなった。
八年ぶりの開催に、各地で盛り上がりを見せている。
宮廷評議会の議長を務めるアースレイヤは、課題の一つである競
竜杯の不正賭博について、規制緩和する方針を提起していた。
一つ、主要都市への遊戯場の誘致。
一つ、競竜杯の公式投票券の発行。
評議会の反応は賛否両論である。
穏健派は、競竜杯の時期に不正賭博が横行する前例をあげ、反社
けいがん
会勢力が関与する恐れを説いた。
急進派は、アースレイヤを炯眼と讃え、戦禍の爪痕を癒す手段に
なると期待した。
西大陸の権威中枢、アッサラームは五百年以上も昔から、賭博を
堕落の象徴として厳しく取り締まってきた。
領民に賭博遊戯を提供するには、皇帝の認可証が必要で、現状は
聖都アッサラームにある高級遊戯社交場、ポルカ・ラセただ一つが
有しているのみである。
最終決定権を持つ皇帝は、年の初めに公儀の間で、アースレイヤ
に一任すると宣言している。
しかし、アースレイヤは独断で敢行せず、広く意見を集めた。彼
の巧妙なかけひきにより、賛成意見は既に過半数を超えている。
1793
残る懸念は、二つ。
一つは、国内外で圧倒的な人気を博しているジュリアスが静観し
ていることである。可決時期を目前にしての静観は、穏健派と同義
である。
もう一つは、理財管理局の長官を未だに定めていないことである。
前理財長であるヴァレンティーンの粛清以降、アースレイヤは敢え
て長官を据えず、副官二名を配して様子をうかがってきた。だが、
競竜杯を機に経済復興を先導していく長官を定めるべきだと内外の
声は高まっている。
どちらの問題も、アースレイヤは今夜中に片づけようと決めてい
た。
びろうど
つづ
アルサーガ宮殿の最上階。
天鵞絨の綴れ織りをかけた高い壁が続く大廊下を、髭を蓄えた高
慢そうな顔立ちの男が歩いている。蒼い文官の長衣をきて、緋色の
分厚い絨毯の上を歩く姿は、自信に満ちて堂々としたものだ。
男の名はハーラン・クモン。年は四十半ば過ぎで、亡き理財長の
代理を務めている、副官二人のうちの一人である。
ハーランはアースレイの執務室の前で足を止めると、背筋を伸ば
して扉を叩いた。
﹁入ってください﹂
したん
穏やかな声に呼ばれて、ハーランは皇太子の執務室に入った。
﹁アースレイヤ皇太子﹂
彼は恭しく臣下の礼をとった。
﹁こんばんは、ハーラン。座ってください﹂
アースレイヤは穏やかな顔と声でいった。
ハーランが革張りの長椅子に腰をおろすと、紫檀の長方形の卓を
挟み、アースレイヤも長椅子に座った。
普段は鋭い眼光を期待に輝かせ、ハーランはアースレイヤを見つ
めた。
1794
だが、はちきれんばかりの希望は、続くアースレイヤの言葉で潰
えた。
﹁結論からいいますと、次期理財管理局長はオデッサ・ハクネスに
決めました﹂
長官に任命されるものと信じて疑わなかったハーランは、己の聴
覚を疑った。
告げた本人は、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている⋮⋮聞き
違えたのだろうか?
﹁誤解しないでくださいね。ハクネスを長官に据えるのは、決して
貴方が彼に劣っているからではありません。貴方の補佐能力の高さ
を買っているからです﹂
信じられない思いでアースレイヤの顔を凝視していたハーランは、
我に返るなり、自分がいかに有能か、長官に相応しいか言葉を尽く
した。
礼を失せず一通り聞き終えたあとで、アースレイヤは変わらぬ微
笑でいった。
﹁その情熱を、副官として存分に発揮してください。貴方のこれか
らの働きに期待しています﹂
鉄壁の微笑に跳ね返され、ハーランは失意を胸に執務室を出た。
幽鬼のような足取りで、今にも倒れてしまそうだ。
︵⋮⋮信じられん。悪い夢を見ているようだ︶
こんなはずではなかった。ハーランの出世街道は、非の打ちどこ
ろがないはずだった。
強大なヴァレンティーンには下るしかないと思っていたが、おこ
ぼれに預かれればそれでも良かった。
だが、彼は自滅した。理財長の席が空いた。
運が向いてきたのだと思い、今日まで後任に納まるべく、あらゆ
る根回しをしてきた。ついに副官にまでのし上がり、長官席は目前
だった。
それなのに、オデッサ・ハクネスに敗れた。
1795
名門出のハーランとは比ぶべくもない下級貴族の男に。勤勉だが、
閃きの精彩に欠ける凡庸な男に。
︵⋮⋮あの男に下るというのか? この私が?︶
大回廊を渡る途中で、西方諸国に勇名を馳せるアッサラーム軍事
の象徴、シャイターンとすれ違ったが、ハーランは上の空で挨拶を
した。ハーランは明晰な頭脳でめまぐるしく計算をしていた︱︱ど
こけ
うすれば、ハクネス、そしてアースレイヤを凋落させられるのか。
︵よくも虚仮にしてくれたな、ハクネス、アースレイヤ⋮⋮この借
りは返してもらうぞ。首を洗って待っていろ⋮⋮︶
野心に満ちたハーランの瞳には、復讐の焔が灯っていた。
1796
2
アルサーガ宮殿の最上階。
大回廊の途中でハーランとすれ違ったジュリアスは、男の青褪め
た顔を不思議に思った。アースレイヤの執務室から出てきたようだ
が、彼の不興でも買ったのだろうか?
かし
思い耽りながら執務室へ向かうと、衛兵はすぐに扉を開いて、ジ
ュリアスを控室へ通した。緋色の絨毯を進み、最奥にある樫の扉を
ノックする。どうぞ、と返事はすぐに返された。
﹁こんばんは、シャイターン。どうぞ座ってください﹂
アースレイヤはいつもと同じ柔和な笑みをジュリアスに向けた。
磨き抜かれた紫檀に華麗な彫刻を施し、硝子の天板を載せた机に、
聖都アッサラームの地図が広げられている。
肘掛け椅子に座ると、ジュリアスは探るような眼差しをアースレ
イヤに向けた。
﹁廊下でハーラン・クモンとすれ違いましたよ。魂が抜け落ちたよ
うな顔をしていましたけれど﹂
アースレイヤは軽く肩をすくめた。
﹁彼には面白くなかったでしょうね。まぁ、仕方ありません。どん
なに有能でも、野心の強すぎる男を据えるわけにはいきませんから﹂
ということは、次の理財長をオデッサ・ハクネスに決めたのだ。
その決定に、ジュリアスはさして驚きを覚えなかった。
﹁妥当な人選でしょう。ただ、就任早々、競竜杯の理財を取り仕切
るのは、ハクネスには荷が重いかもしれませんね﹂
﹁そこは、彼に頑張ってもらうしかありません﹂
アースレイヤは軽く流すと、さて、と話題を変えた。
﹁今度は貴方との問題にも決着をつけますよ﹂
と、仔牛皮紙に精緻に描かれた地図を指でさす。
1797
﹁新たな遊戯場を三か所に誘致します。そのうちの一つに旧市街を
推したいのですが?﹂
地図をとくと眺めて、ジュリアスは思案げな表情を浮かべた。
﹁ポルカ・ラセと共食いになります。賭博戦争の温床になりかねま
せんよ﹂
今回の賭博遊戯場の誘致で、ジュリアスが最も懸念しているのは
治安の悪化だった。
資金力のある事業団体の裏には、厄介な組織が潜んでいることが
常である。アッサラームに翳が射すことだけは避けなければならな
い。
﹁成長に競争は必須です。ポルカ・ラセの一強を変えるいい機会だ
と私は思いますが⋮⋮貴方がそういうのなら、アッサラーム外でも
構いませんよ﹂
﹁誘致はアッサラームの他にしてください。ただし、競竜杯の公式
投票券の発行はポルカ・ラセに限定するように﹂
﹁いいでしょう﹂
アースレイヤは書類の束から顔をあげると、頬杖をついてジュリ
はんばく
アスを見つめた。
﹁反駁するわけではありませんが、この手の戦争は、闘う相手を間
違えていると思いませんか?﹂
﹁なぜですか?﹂
﹁需要が途絶えない限り、誘惑の種はどこからでも芽を出します。
賭博を規制したいのなら、買う人間を一人残らず隔離すべきです、
本当はね﹂
常人を惑わす賭博の魔力には共感できないジュリアスだが、彼の
いわんとすることは判った。いつの時代でも、人の購買意欲を零に
することは不可能に等しい。
﹁誘致先は、一定基準を満たした兵団を持つ都市に限定してくださ
い。要衝に楼門を設置し、アッサラームへの業務報告を徹底させ、
巡察の通行許可を認めるように﹂
1798
﹁いいでしょう。賭博遊戯法に関する規定は、アマハノフに主導し
てもらいますよ﹂
ジュリアスは軽く頷いた。アマハノフは東西大戦の和平条約の際
に、国内外の交渉をまとめた優秀な外交官である。人選に異論はな
い。
﹁アッサラームから巡視隊を派遣しますが、基本的には、現地の自
治兵団に治安の取り締まりや入場制限の適正判断は任せます﹂
ジュリアスの言葉に今度はアースレイヤが頷いた。
﹁構いませんよ﹂
﹁軍事予算は?﹂
目と目が合った。
﹁賭博総収益の一割を配分します﹂
﹁二割です﹂
確固たる意志で告げるジュリアスを見て、アースレイヤは半分瞑
目し、仕方なさそうにため息を吐いた。
﹁良いでしょう。貴方の賛同を得ないわけにはいきませんからね﹂
この瞬間、主要交渉課題の一つに決着がついた。
これまで内密の打ち合わせを重ねてきたが、軍事予算は常に議論
の対象だった。
多額の予算を裂いたとしても、賭博遊戯の敷設は高収益を確保で
きる自信がアースレイヤにはあった。
﹁遊戯社交場の誘致に、百以上の事業団体が名乗りを上げています。
七つまで絞りました﹂
アースレイヤの拡げた羊皮紙を覗きこみ、ジュリアスは眉をひそ
めた。
﹁クシャラナムン財団?﹂
﹁貴方のいいたいことは判りますよ。ただ、遊戯場の建設に要する
莫大な資金を考えると、簡単に弾けなくて迷っています﹂
﹁危険が多すぎます﹂
クシャラナムン財団は、もともと南大陸の部族の集まりで、砂漠
1799
キャラバン
の平和協定を破り、商隊を襲って荒稼ぎをしている、悪名高い盗賊
団である。
交易の盛んな街に根を下ろし、賭博と麻薬で領民を堕落させたこ
ともある。地元部族と激しい交戦の末に国を出たが、その後もあら
ゆる街に根城を降ろし、富を吸い上げてきた。
アッサラームから討伐隊を派遣したこともあるが、壊滅には至っ
ていない。
彼等は衰退しても、どこからか害虫のように染み出てきて、再び
財団を再結成するのだ。聖戦や東西大戦後は戦争孤児を攫い、財団
は悪の犯罪組織として膨れ上がっていた。
厳しい顔つきのジュリアスを見て、アースレイヤはため息をつい
た。
﹁⋮⋮人里に虎を放つようなものですよね。アッサラームの治安を
優先しますか﹂
﹁当たり前です﹂
咎めるようにジュリアスがいうと、アースレイヤは降参とばかり
に両手をあげた。
﹁そういわれるだろうと思っていました﹂
﹁競竜杯の準備に追われながら、財団の手綱を引き締めるのは至難
の業ですよ﹂
﹁判りました。候補から抹消しておきますよ﹂
﹁そうしてください。公表時期はいつにしますか?﹂
﹁諸々、次の評議会で明らかにします。今度は静観せずに賛同して
くださいね﹂
御意。短く答えると、ジュリアスは席を立ち、儀礼的な敬礼をし
て執務室を出た。
1800
3
夜の緞帳に包まれたクロッカス邸。
湯浴みのあとに夕食をとり、光希は工房に籠って趣味の銀装飾を
していた。あまりにも集中していたので、背後に立つ気配に気づか
なかった。
﹁光希﹂
思いがけず声をかけられ、口から心臓が飛び出しかけた。顔だけ
振り向くと、凛々しい軍装姿のジュリアスがすぐ傍にいた。
﹁あ、お帰り﹂
﹁ただいま﹂
たがね
覆い被さるように抱きしめられ、髪に柔らかく口づけられる。光
えっぺい
希は鏨を机に置くと、ジュリアスの方に身体ごと向いた。
﹁遅かったね。今日も評議会?﹂
﹁いえ、夕方まで軍務をこなして、閲兵のあとにアースレイヤと競
竜杯の話をしていました﹂
複雑に結んだ幅広のタイを緩めながら、ジュリアスは疲れたよう
に息を吐いた。ココロ・アセロ鉱山から戻ったあとも、彼は競竜杯
の準備に追われて多忙を極めていた。
﹁お疲れ様。遅くまで大変だね﹂
背もたれの縁に置かれた手の上に、光希が労わるように掌を重ね
ると、ジュリアスは優しく目元を和ませた。
﹁光希はずっと工房にいたの?﹂
﹁うん。今、湾曲型の髪飾りを作っているんだ。完成したらあげる﹂
﹁私に?﹂
﹁うん﹂
﹁ありがとうございます﹂
心から嬉しそうにいわれて、光希は照れくさげに視線を逸らした。
1801
﹁評議会は順調?﹂
﹁はい。そろそろ大詰めです。次で公式遊戯場や誘致先も決まるで
しょう﹂
光希は期待に瞳を輝かせた。
﹁投票券発行権は、ポルカ・ラセに決まるといいな﹂
﹁さぁ、どうでしょう?﹂
﹁決定でしょう?﹂
﹁公表を楽しみにしていてください﹂
﹁うん。皆も期待していると思うよ。僕も楽しみ﹂
ジュリアスは光希の髪を撫でた。黒髪を指に巻ききつけながら、
理由を訊いてくる。
﹁だって、公式賭博場に決まれば、僕も公務でいけるでしょう?﹂
﹁そんなに楽しみにしていたのですか?﹂
﹁評判の遊戯場だからね。それに、支配人のヘイヴン・ジョーカー
さんはクロガネ隊の後援者だよ。直接会ってお礼をいいたいって、
前から思っていたんだ﹂
ヘイヴン・ジョーカーは、定期的に多額の援助金をクロガネ隊に
寄付している、有力な後援者の一人である。先のココロ・アセロ鉱
ちまた
山の視察費にも、寄付金の一部が当てられていた。
﹁あまり評判の良い男ではありませんよ﹂
﹁ふぅん? 聞いた話だと、彼の複製画は巷で大人気らしいよ﹂
﹁貴方は、どこからそのような情報を仕入れてくるのですか?﹂
探るような視線を向けられて、光希は軽く肩をすくめた。
﹁どこにいたって、噂というものは風に乗って耳に入るものだよ﹂
ジュリアスはふざけて、光希の両耳を手で覆う真似をした。
﹁なら私は、貴方の耳によからぬ噂が入らぬよう、情報を規制しな
いといけませんね﹂
﹁噂っていうものは、防ごうと思って防げるものじゃないと思うよ。
ジュリは遊戯場が増えることに反対なの?﹂
構ってくるジュリアスの手を避けながら、光希は訊ねた。
1802
﹁そうでもありません。治安さえ保たれれば、経済面において功を
奏すと思っていますよ﹂
﹁前にポルカ・ラセにいきたいといったら、反対したじゃない﹂
﹁貴方が誘惑されては困りますから﹂
ジュリアスは冗談めかして答えたが、本心だった。とはいえ、賭
博自体は善良な人間を脅かす堕落の危険を孕んではいても、必要悪
であると認めている。それも光希が関わらなければの話ではあるが
⋮⋮
﹁賭博自体に興味があるわけじゃないよ。ポルカ・ラセに興味があ
るんだ﹂
王宮のように豪華な賭博の宮殿を、一度この目で見てみたいと光
希は以前から思っていた。
﹁ジュリはいったことある?﹂
﹁視察で何度か中へ入りましたよ﹂
﹁いいなぁ⋮⋮今度は僕も連れていってね﹂
曖昧な笑みを浮かべているジュリアスを、光希は上目遣いに睨ん
だ。
本人は無意識にしているのだろうが、ジュリアスは誘惑を感じて、
思わず唇を見つめた。
﹁⋮⋮賭博場に集まる人間が、貴方に、邪な念を抱かないか心配な
のです﹂
﹁聞いた話では、ポルカ・ラセは評判の良い遊戯場みたいだけどな
ぁ﹂
﹁良い噂ばかりではありませんよ﹂
﹁百聞は一見にしかずってね。やっぱり見てみないことにはなんと
もいえないな﹂
さりげなく交渉を混ぜてくる光希がかわいらしくて、ジュリアス
はくすくすと笑った。思わず願いを叶えてあげたくなるが、心配は
多い。その内面を知ってのことか、光希は柔らかくほほえんだ。
﹁ジュリが傍にいてくれれば、怖いものなんてないよ﹂
1803
敬愛に満ちた眼差し。ジュリアスが光希の肘をとって抱き寄せる
と、光希もジュリアスの首に腕を回した。覆い被さるように唇は重
なった。
1804
4
アルサーガ宮殿。光の間。
宮廷評議会に各上院議員、各長官達が集い、侃々諤々︵かんかん
がくがく︶と競竜杯の議論がなされていた。
ようやく概要趣旨の共有が終わり、議長を務めるアースレイヤの
進行で、質疑応答に推移した。
﹁︱︱以上。これまでの話し合いを総括して、次のことを提案いた
します。交通の要衝三か所に高級遊戯場を誘致。建設事業団体はこ
ちらに記した通りです﹂
演壇のアースレイヤは、飾り紐を引っ張り、背後にある緞帳を上
げた。黒板に記された事業団の名前を見て、議員達の間に軽いざわ
めきが起こる。
﹁遊戯場の誘致を推しますが、公式賭博はポルカ・ラセに限定いた
します。質問があればどうぞ﹂
アースレイヤは余裕の表情で、泰然と周囲を見回した。
質問の火蓋を切ったのは、第一級の貴族で、白豹の毛皮を羽織っ
た年配男である。
﹁消費行為の流転になりましょう。賭博は多額の収益を見込めます
が、その他の分野で消費が衰える危険は?﹂
鋭い指摘に、アースレイヤは穏やかな笑みを浮かべた。
﹁賭博遊戯の収益の大半は、富裕層から得るものです。特に競竜杯
では、外部からの来場を多く見込めます。彼等の落とす行楽費を通
じて、消費全体の分母は上がるでしょう﹂
賛同、或いは議論の声が四方から上がる。今度は別の議員席から
手が挙がった。
﹁財団の予想では、収益の大部分はアッサラームの領民に起因する
といわれていますが?﹂
1805
穿った指摘に、アースレイヤは笑みを浮かべたまま頷いてみせた。
﹁賭博遊戯は悪ではなく、格調高い娯楽です。収益の過半はアッサ
ラームの主に富裕層が担うことになるでしょう。彼等の資産を動か
し、集客施設を整備し、国内外の観光を促進するのです﹂
よそ
彼の回答は淀みない。が、今度は別の議員席から手が挙がる。
﹁他所の財団が参入すれば、アッサラームの遊戯場の利益は傾くの
では?﹂
会議の場はざわめいた。互いに顔を見合わせて、熱の入った論を
交わし始める。
その光景に、アースレイヤは満足を覚えた。
質問の上手な妨害者のおかげで、会議は盛り上がりを見せている。
いい傾向だ︱︱手ごたえを感じながら、アースレイヤは魅力的な笑
みを浮かべた。
﹁彼等は、有力で貴重な資金源です。建設に協力はしてもらいます
が、公式賭博の権限を譲るつもりはありません﹂
穏やかな笑みを湛えてアースレイヤが発言すると、議員達は顔を
見合わせた。
理財長に就任したオデッサが挙手すると、全員の視線が彼に集中
した。
線の細い外貌からは、生真面目で弱々しい印象を与えるが、非常
に頭の切れる男である。
﹁皇太子のご意見に全面的に賛同いたします。経済成長を望めるで
しょう。賭博遊戯施設による局地的収益だけでなく、回遊型の観光
をすることが期待されます。外交にも大きく寄与することでしょう﹂
議会は水を打ったように静かになった。
副官のハーランは無言を保っているが、外交官長のアマハノフは
同意した。
﹁おっしゃる通りです。治安の強化は必要ですが、収益の拡散効果
さざなみ
と呼びこみ力の増大は魅力的です。私も賛同いたしますよ﹂
室内に、漣のように動揺が走った。
1806
理財と外交の重鎮が賛同を唱えた。残るはあと一人︱︱全員の視
線が、ジュリアスに集まった。
今日はまだ、一度も発言していない砂漠の英雄は、一同を見回し
てから席を立った。
﹁賛同します。交易の悪路を整備する、良い機会になることを期待
しています﹂
ワッ︱︱室内から拍手が起きた。
評決の場で、ジュリアスの全面的な賛同は即決を意味する。アー
スレイヤは勝利の笑みを浮かべた。
﹁では、競竜杯の公式賭博場は、ポルカ・ラセに決定いたします﹂
﹁﹁意義なし﹂﹂
﹁誘致先の三か所、建設事業団は黒板に記した通り﹂
﹁﹁意義なし﹂﹂
希望に満ちた声が続く。
﹁誘致先の治安強化指導の為、アッサラームから巡視隊を派遣しま
す。建造は一年後の完成を目途に、進める予定です﹂
﹁﹁意義なし﹂﹂
セヴィーラ・
アッサラーム
﹁皆様のご理解に感謝します。競竜杯を経て、私達は更なる飛躍を
セヴィーラ・
アッサラーム
遂げることになるでしょう。アッサラームに栄光あれ!﹂
﹁﹁アッサラームに栄光あれ!﹂﹂
閉会の決まり文句を、異口同音に唱和して解散。
宮廷評議会は、今日の決定を受けて、アッサラーム各地に下記を
発布した。
競竜杯の公式賭博場は、ポルカ・ラセに確定。
また、賭博の規制緩和により、交通の要衝である三都市に高級遊
戯場の誘致する運びとなった。
1807
1808
5
晴れた日である。
しゅろ
賭博遊戯の行方を巡って宮廷評議会が紛糾している頃、同じ宮殿
の一角、様式美あふれる整形庭園の棕櫚の大樹の下で、光希はアン
ジェリカと紅茶を飲んでいた。
穏やかな光景だ。
整然と刈り込まれた芝生に、白塗りの錬鉄家具が鮮やかに映えて
こ
いる。辺りには花壇のジャスミンが香り、頭上に生い茂る緑の天蓋
に漉された陽は、柔らかな木漏れ陽を、心地よいひと時を愉しむ二
人の上に落としていた。
光希は仕事の休憩中で、アンジェリカは父のアマハノフを待って
いるところだ。アマハノフはジュリアスと共に評議会に出席してい
るのである。
カップを卓に置き、そういえば、とアンジェリカは思い出したよ
うにいった。
﹁今度、ポルカ・ラセで公式賭博を祝して大夜会が開かれますでし
ょう﹂
﹁そうだね﹂
光希が頷くと、アンジェリカは目を輝かせた。
﹁殿下はいかれるんですの?﹂
﹁うん。ジュリと出席する予定﹂
﹁羨ましいですわ﹂
﹁アンジェリカはいかないの?﹂
﹁お父様が許してくださいませんの。未婚前の淑女にはふさわしく
ないからって﹂
ふけ
ポルカ・ラセは賭博遊戯を提供するだけでなく、高級娼婦との戯
れも提供している。性愛に耽りたい高貴な紳士淑女たちが大勢集う
1809
のである。
﹁残念だね。ナディアと結婚したら、連れていってもらうといいよ﹂
なにげなく口にした光希は、アンジェリカの翳った表情を見て、
頬杖をほどいた。
﹁どうかした?﹂
﹁⋮⋮実は、婚約を解消したんですの﹂
﹁えっ﹂
光希は真鍮の燭台で殴られたような衝撃を覚えた。その驚愕の表
情を見て、アンジェリカは痛ましげな笑みを浮かべた。
﹁もっと早く、解消するべきだったのですけれど、決心がつかなく
て﹂
卓の上に置いた手が、幽かに震えている。光希は殆ど無意識に、
細い指先の上に自分の手を重ねた。
﹁⋮⋮本当に? え、いつ?﹂
﹁公表はこれからです。でも、ずっと前からお話しはうかがってい
ましたの。お父様もナディア様も、私が落ち着くのを待っていてく
ださったのですわ﹂
﹁本当なのか⋮⋮二人はいつか、結婚するのだろうと思っていたの
に﹂
アンジェリカは唇を噛みしめた。ゆっくり顔をあげると、ほろ苦
い笑みを口元に刻んだ。
シャトーアー
﹁私の幼い夢でした。どれだけ想っても、ナディア様は兄が妹に気
を揉むような想いしかくださらないの﹂
﹁アンジェリカは大切に想われているよ﹂
マル
﹁判っていますわ。でもナディア様は、イブリフ様のように神殿楽
師になることを望んでいらっしゃるのですもの。お止めできません
でしたわ﹂
諦めと哀切の滲んだ瞳を見て、光希の胸は痛んだ。
彼女が今の言葉を口にするまで、どれほど苦悩し、涙を流したこ
とだろう。
1810
﹁⋮⋮本当に好きでしたの﹂
﹁うん﹂
﹁本当に、本当に好きでしたのよ﹂
わなな
﹁うん⋮⋮知っているよ﹂
アンジェリカは戦慄く唇を噛みしめ、空を仰いだ。滲んだ涙をや
り過ごして、ため息を吐く。
﹁ナディア様を諦めるのだと思うと、胸が張り裂けそうでしたわ。
何日も生ける屍のような気分でした﹂
﹁アンジェリカ⋮⋮﹂
﹁この先きっともう、彼以上には誰のことも好きになれないわ﹂
光希は、かける言葉が見つからなかった。ただアンジェリカの手
をずっと握っていた。彼女も外そうとはせず、しばらくじっとして
いた。
やがて、アンジェリカの方から空気を変えるように、笑みを浮か
べた。
﹁いけませんわね。すぐ自己憐憫に陥ってしまうの。しっかりしな
さいって自分にいい聞かせてばかり﹂
﹁⋮⋮無理もないよ﹂
﹁ね、殿下。ポルカ・ラセの感想を、ぜひお聞かせくださいね﹂
握っていた手を、逆にアンジェリカに握られた。たとえ空元気で
も、彼女の頬に色が射すのを見て、光希もほほえんだ。
﹁判った、よく見ておくよ。競竜杯は観にいけるの?﹂
﹁ええ、お父様と一緒に観にいきますわ﹂
嬉しそうに話すアンジェリカを見て、光希は少し安堵した。
明るく朗らかな彼女を愛し、慰める者は大勢いるだろう。アマハ
ノフもその一人だ。彼女が父を敬愛しているように、彼もまた娘で
あるアンジェリカを心から想っている。
﹁アンジェリカの話も今度聞かせてね﹂
﹁ええ! もちろんですわ﹂
ほほえみあっていると、アンジェリカは閃いたように瞳を瞠った。
1811
﹁そうそう、殿下にお土産がありますの﹂
﹁お土産?﹂
アンジェリカは金鎖のついた斜め掛けの鞄から、淡い色の布にく
るまった包みを取り出した。
﹁ルシアン兄様が、外来の品々を贈ってくれましたの。おすそ分け
ですわ﹂
そういって、綺麗な便箋を広げてみせる。
﹁へー、綺麗だね﹂
﹁宮廷で恋文が大流行していますでしょう。殿下も、先日は恋文大
会に参戦したとお聴きしましたわ﹂
﹁よく知っているね﹂
﹁うふふ。私も聞いてみたかったですわ﹂
﹁ははは⋮⋮﹂
光希は乾いた笑みを浮かべた。彼女こそが流行のきっかけなのだ
が、本人は露知らず。
発端は、ケイトに恋文を書いたスヴェンを、光希が思わぬ形で庇
ったことだが、そもそもスヴェンに恋文の助言をしたのは、アンジ
ェリカ流の憂さ晴らし方法を以前に聞いていたからだ。
まだありますのよ、とアンジェリカはごそごそ鞄を漁り、流行の
情報誌を引っ張り出した。
﹁競竜杯の特集記事ですわ。もうご覧になって?﹂
﹁いや、知らない﹂
中を捲ってみると、アルスランの全身姿絵が描かれていた。
﹁おっ、アルスランだ﹂
本人をそのまま写したかのような、繊細美妙な筆遣いで、凛々し
く描かれている。
彼は西大陸が誇る最高最速の乗り手、アッサラーム代表の騎手で
あり、競竜杯の優勝最有力候補なのだ。
感心しきりで凝視する光希の様子に、アンジェリカは笑みを浮か
べた。
1812
﹁私は家にもう一冊ありますから。良ければさしあげますわ﹂
﹁ありがとう!﹂
光希が破顔すると、アンジェリカも嬉しそうに笑った。
﹁お土産は、もう一つありますの﹂
そういって、今度は小さな小瓶を卓に置いた。
﹁これは?﹂
﹁滋養飲料ですわ。これはアガサ兄様がくださったの⋮⋮なんでも
疲労回復によく効くとか﹂
﹁へぇ∼、ありがとう。それじゃあ、今度疲れてたと思ったら飲ん
でみる﹂
﹁ええ、そうしてくださいませ﹂
笑いあっていると、庭園の方に二人の男性が近づいてきた。アマ
ハノフとジュリアスである。
ぱっと席を立ってお辞儀をするアンジェリカにならって、光希も
席を立った。ジュリアスに笑いかけてから、アマハノフに敬礼をす
る。
アマハノフは恭しい宮廷挨拶で応えると、卓の傍に寄り、広げら
れた包みを見て苦笑を零した。
﹁こんにちは、殿下。娘からまた何か押しつけられましたかな?﹂
アンジェリカは拗ねたようにアマハノフを見ると、お土産ですわ、
と反論した。
光希がジュリアスを見ると、青い双眸が細められた。軽く肩を抱
き寄せ、光希の髪に口づける。
﹁楽しそうなお茶会ですね﹂
﹁うん。たくさんお土産をもらったよ﹂
光希は抱擁をほどくと、包みを指して笑った。ジュリアスは情報
誌を捲ると、アルスランの絵を見て口角を上げた。アンジェリカに
感じの良い笑みを向ける。
﹁ありがとうございます、アンジェリカ姫﹂
﹁いいえ! とても楽しいひとときでした。お相手してくださって
1813
ありがとうございました、殿下﹂
﹁僕も楽しかったよ。今度は僕もお土産を持ってくるね﹂
ほほえみ合う二人の間を、爽やかな風が流れる。行き交う暖かな
心には、月日を重ねた絆と変わらぬ友情があった。
アンジェリカとアマハノフが去ったあと、ジュリアスは空いた席
に座った。情報誌を捲りながら、光希の手を取り、自分の頬や唇に
押し当てている。無意識にしているらしく、文字を目で追いかけな
がら、光希の指先で遊んでいる。
﹁⋮⋮ねぇ、ジュリ﹂
﹁ん?﹂
ジュリアスは紙面から顔をあげると、光希を見て首を傾げた。
光希は躊躇った。アンジェリカとナディアのことを訊いてみたい
が、彼女は公表はこれからだと話していた。
﹁光希?﹂
﹁⋮⋮ううん、なんでもない﹂
彼の方から口にするまでは、訊かずにおこう︱︱心に決めると、
光希は話題を変えた。
﹁この雑誌、皆にも見せてあげよう。明日の昼、三階の休憩室に持
っていくよ﹂
ジュリアスは瞳に悪戯めいた光を灯した。
﹁アルスランの反応が見物ですね﹂
﹁だよね。ジュリも時間があればきて﹂
﹁判りました。ところで、これは?﹂
小瓶を指してジュリアスは訊ねた。ああ、それ? と光希は頷く。
﹁滋養剤みたい。疲れた時に呑むと、元気になるんだよ﹂
た
すが
﹁また怪しげなものを⋮⋮﹂
小瓶を手にとり、矯めつ眇めつ眺めるジュリアスを見て、光希は
苦笑を浮かべた。
﹁そんなことないよ、滋養剤は一般的なものだよ﹂
疑わしそうに瓶を睨むジュリアスの手から、光希はそれを取り返
1814
した。
﹁さてと、僕もそろそろ戻らないと⋮⋮﹂
席を立つと、ジュリアスに肘をとられて、大樹の幹に背を押しあ
てられた。光希の顔の横に手をついて、自分の身体で隠すようにし
て覆い被さってきた。
﹁ジュリ?﹂
彼は答えずに、艶めいた表情で光希を見下ろしてくる。
﹁外だから⋮⋮﹂
困ったようにいいながら、光希はジュリアスの上着の前に手を滑
らせ、無意識にジュリアスを悩ませた。
﹁光希﹂
顎に指をかけられ、逸らした視線を呼び戻される。待って、小さ
な抗議は唇の中に消えた。
優しく唇を触れ合わせるうちに、光希は身体の力が抜けていくの
を感じた。
顔を離しても、ジュリアスの息遣いが傍に感じられて、光希は顔
をあげることができなかった。濡れた唇を親指で拭われる。
﹁⋮⋮僕、もういかないと﹂
思いきって顔をあげると、熱っぽい瞳をしているジュリアスのな
めらかな頬に、かすめるようにして唇を押し当てた。虚を突かれた
顔を見て、光希は小さく笑った。
﹁あとでね﹂
ジュリアスはくすっと笑うと、少し身体を離した。光希の手をと
り、甲に恭しく唇を押し当てる。
﹁そうしましょう。これ以上傍にいたら、本当に離せなくなりそう
だから﹂
秘めやかで親密な空気をほどいて、二人は木陰の外へ出た。光希
は少し朱い顔でジュリアスの隣に並び、軍部に向かって歩き始めた。
1815
1816
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n6696bx/
アッサラーム夜想曲
2017年3月27日07時22分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
1817
Fly UP