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戦前期・・・・・・・・・・・・1

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戦前期・・・・・・・・・・・・1
経済学部の歴史 Ⅰ
――戦 前 期――
1 大学の創立
近代日本の大学成立には官と民の二つの流れがある。官では旧幕府から引き継いだ医学所、昌
平黌(昌平坂学問所ともいう)、開成所の三校が、明治政府のもとで改称された後に、1869(明
治2)年に統合されて「大学校」となった。昌平黌は国学を中心に洋学と漢学を合わせもつ国学
中心の流れが残った学問所であったが、文明開化といわれる時代となり、欧米のシステムが流入
するようになると、「大学校」では洋学中心となった。このほかに、工部省の工部大学校、司法
省法学校など一種の単科大学も存在した。それらが文部省に移管・統合されて、1877(明治10)
年に洋学教育機関を母体とする官立の東京大学となった。これが、1886(明治19)年に設立され
た帝国大学に統合された。
この間の日本の学校制度の変遷をみると、1872(明治5)年の「学制」によって、「全国ノ学
政ハ之ヲ文部一省ニ統フ」(同第1章)され、全国を8大学区に区分して、さらに中学区―小学
区と細分し、官主導の教育制度を整備することから始まっている。これを以って国民皆学の出発
といわれているが、教育費は受益者負担の考えに立ったものである。そして、私学私塾もそこに
統括される。
1879(明治12)年に「教育令」が布告される。そこでは「全国ノ教育事務ハ文部卿之ヲ統摂ス
…公立私立ノ別ナク皆文部卿ノ監督内ニアルヘシ」とされたが、公立・私立の学校の設置は府県
知事の認可とするなど、国の統括が緩和されていて、自由教育令とすらいわれたものである。大
経済学部国際交流の20
年 学部改革の回想
学については、「大学校ハ法学理学医学文学等ノ専門諸科ヲ授クル所トス」
(同令第5条)とし、
「専門学校ハ専門一科ノ学術ヲ授クル所トス」
(同令第7条)としているだけである。大学と専門
授業教室の風景、紹介
学校との区別が、総合か単科かという程度で、判然としてはいなかった。それは1880年、1885年
編集後記
ゼミ風景
と改正されて、再度文部省の監督権を強化している。この第3次改正で、同令第5条の大学規定
には変更がないが、同令第7条の専門学校は「専門学校ハ法科理科医科文科農業商業職工等各科
授業教室の光景、紹介
ノ学業ヲ授クル所トス」として、規制強化が加えられている。
1885(明治18)年に内閣制度が発足し、この伊藤博文初代内閣の文部大臣に森有礼が就任する。
そのもとで、1886年に帝国大学令や小学校令・中学校令・師範学校令の四勅令すなわち学校令が
公布され、日本の教育体系が整備された。この「帝国大学令」では、
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応ス
ル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」
(同令第1条)とされ、総長は勅任官とさ
れて、
「帝国大学総長ハ文部大臣ノ命ヲ承ケ帝国大学ヲ総轄ス」
(同令第6条)となる。こうして、
1899(明治32)年に京都帝国大学が設立されて、先の帝国大学は東京帝国大学に改称するのである
1
が、完全に文部大臣の管理下におかれるのである。この流れが官立大学の成立過程である。
帝国大学が「国家ノ須要ニ応」ずるための大学であり、官吏養成機関と位置づけられ、官僚制度
の基礎となった。しかし、私学は高等教育機関ではあるが、まだ大学として認められていなかった。
森文部大臣の理念とされる、学問と教育との分離論すなわち、初中等学校は教育の場、大学が
学問の場という位置づけを反映している。
それに対して、私立大学の流れはつぎのようになっている。1858(安政5)年の福沢諭吉の私
塾から発足し、1868(慶応3)年に慶應義塾と命名された。それは蘭学・英学等から始まり実学
教養的な教育機関であった。1875(明治8)年に新島襄によって開校した同志社英学校は個人的
資質が大きく影響して、官に対抗して自由な教育を目指し、キリスト教主義のもとに精神の育成
が重視された学校であった。そして、両者とも結社という新しい組織原理をとるところが共通し
ている。
この後、明治10年代に創立される私立大学の前身は、いずれも法律学校から出発している。
1880(明治13)年に東京法学社(法政大学の前身)
、明治法律学校(明治大学の前身)
、専修大学、
1882(明治15)年に東京専門学校(早稲田大学の前身)、1885 (明治18)年に英吉利法律学校
(中央大学の前身)の5校がまず設立されたのである。
日本の近代化は科学技術の導入と欧米諸国の近代的な諸制度を導入することから始まっている
から、日本における大学は法科から始まったといえる。日本の近代化が始まる明治時代は、当然
に、日本の国家制度の整備が急務であり、ここから日本の近代教育は、初等教育ではまず国民教
育が課題であったが、同時に高等教育では国家の官僚養成が必須となった。国家統一は法整備で
あり、とりわけ西欧の政治システムをとりいれることを目指した明治政府は法律の知識が求めら
れるから、高等教育機関が法学から始まる必然性があった。
「学制」が公布された1872(明治5)年に官雇外国人教師は200人弱であったが、1884(明治
17)年には450人に達している。それほど、日本の高等教育は外国人に依存していたということ
であるが、当然に講義は外国語で行われるのであるから、官立の大学に入学するには外国語がで
きないと受講できないことになる。このために、習練課程は長期にならざるをえないし、教育負
担も多大であった。したがって、当時の学生の多くは、官費による官吏養成であった。また、東
京では外国語習得のための予備校が多数設立されている。
それに対して、洋行帰りの日本人学者たちが、日本語で教育できる時代になってきた。同時に、
不平等条約の解消交渉の時期に当たり、日本人の法曹を育てる国家的な要請もあったといえる。
そのことは、内閣制度ができる1885(明治18)年には、外国人教師が120人ほどに激減している
ことに示されている。
私立専門学校の設立は、日本語で専門教育を受け、修学期間が短く、速成の専門教育を求める
需要に対応するものがあった。1882(明治15)年に設立された東京専門学校(現早稲田大学)の
「開校広告」によると、「修行ノ速成ヲ旨」とうたっているし、「邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授」と
2
している。わが母校「英吉利法律学校」も、「邦語ニテ英吉利法律学ヲ教授シ、ソノ実地応用ヲ
習練セシムルニアリ」
(英吉利法律学校の東京府知事宛の設置認可申請書)
、としている。
このように私立の法律学校は、時代の要請に即応して、法学を日本語で学ぶことが共通の特色
となっている。
その中で英吉利法律学校の増島六一郎は、開校式に英語で挨拶を述べたさい、「惟フニ何レノ
地何レノ民ノ事情ヲ探ルモ先其ノ地其ノ民ノ語ヲ解スルニ非ルヨリ探究密ナルコトヲ得ス法律ヲ
修学スル如キハ最モ然リ」と主張し、「終ニ英語ヲ以テ英吉利法律学ヲ教授スルノ日アランコト
ヲ渇望スルナリ」と述べている。実際に、1886(明治19)年6月には、従来の邦語法学科に加え、
原書を用いて授業を行う原書科の設置を行うなど、この間の事情は『中央大学百年史 通史編
上巻』
(107ページ)に述べられている。また、同時に増島を校長とする「東京英語学校」が設立
認可を受けているが、その設置願には「英語学、数学、漢文ノ三科ヲ教ヘ、傍ラ東京大学予備門
及ヒ其他諸官立学校に入ル者ノ為ニス」とあるから、外国語教育に対する執着が強かったことを
示している。
(同百年史、133ページ)
こうして成立した私立大学であるが、官尊民卑の時代であり、私立を自立した大学として認め
ようとはしなかった。私立法律学校特別監督条規によって、上記私立の5法律学校は特別監督校
となって、一時帝大総長の監督下におかれた。(18年に帝大総長の監督解除)私立法律学校も特
別監督校の指定を受けることによって、判事に無試験で登用される道等の卒業生に特典もあるの
で、問題はあるにしろ、政府の統制を甘受している。このように、官吏となることが大学卒業の
特典であるから、日本では明治初期の大学創立過程で、基準を国が与えるという歴史が形成され
てしまった。ヨーロッパの創立が古い大学は、学ぶ者が専門学者を呼んで学舎をつくり、自治を
獲得しているので発祥の事情と、歴史環境の違いがあるといえる。
そういう過程を経て、1889(明治22)年10月1日に、本学は「東京法学院」と校名を変更した。
経済学部国際交流の20
年 学部改革の回想
一つは法律実務家を養成する点で順調な発展があり、拡張構想があったことである。実現には至
らなかったが、東京文学院および東京医学院との3学院連合構想である。二つは国内の憲法をは
授業教室の風景、紹介
じめとする法体系が整備されて、日本法の教授が課題になった外的環境の変化であった。
編集後記
ゼミ風景
1899(明治32)年8月3日に「私立学校令」が公布される。さらに、政府は、1903(明治36)
年に「専門学校令」を勅令で発布する。
「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」
(同令
授業教室の光景、紹介
第1条)
「私人ハ専門学校ヲ設置スルコトヲ得」
(同令第3条)とされた。ここで、すでに一定の
人材を養成し、卒業生に「学士」の称号を与え、大学と呼称している私立大学を学制上どこに位
置づけるかという問題が生じている。この「専門学校令」を私大の根拠法にしても、大学と呼称
することはできるのか。文部省は、結局、一定条件以上の教育水準をもつ専門学校には大学の呼
称を認めるとした。これが、いわゆる「専門学校令による大学」である。本学も、いち早く対応
して、大学部本科3年、予科1年半、専門科3年、研究科と整備して、1903(明治36)年に社団法
人「東京法学院大学」へと大学名を付加して改称する。
3
2 経済学部の創設
日本の総人口は1872(明治5)年に3480万人、20年後の1891(明治24)年に4025万人となって、
4000万人を軽く超えている。5000万人を超えたのは、明治が終わる1912(明治44)年であった。
明治初期段階の経済は、殖産興業政策のもとに発展するが、それは経済学というマクロ的な学
問の導入とはつながらなかった。それは在来産業を機械工業に改変することであるから、理念で
はなく、機械技術者が必要であり、まだ経済学の出番ではなかった。経済学が必要となるのは、
商品経済が広がり、一定の経済発展が前提となる。
中央大学が創立された1885(明治18)年に、国民総所得(名目)は約8億円強だったが、10年
後の日清戦争が終結した1896(明治29)年には約16億6600万円と倍増している。日露戦後の1906
(明治39)年には約33億円となっている。1916(大正5)年に約61億5000万円と、明治・大正時
代は10年ごとに名目国民総所得は倍加しているとみてよい。同時に、通貨価値は低下しているの
で、実質国民総所得は、日清戦争終結時までの10年間でおおざっぱに言って、平均年率4.2%程度
の伸びとみてよい。その後の10年間は平均年率2.7%となっている。
日清戦争をはさむ10年間に、日本の輸出入額は約4倍に増加している。20世紀になると、第1
次産業の構成が50%を割って、製造業や鉱業という第2次産業が急拡大している。近代日本の経
済は、対外戦争とともに発展していることは否めない。1905(明治38)年5月に日本海海戦でロ
シア・バルチック艦隊を破って国は意気揚々と、同年9月5日にポーツマス条約が締結された。
こうして、日本の資本主義的な近代企業が対外進出するほど、企業経済が拡大していた。そこで、
それに対応する企業人、とりわけ管理者層を必要とする時代が日露戦争後に増加した。このよう
な社会状況の変化が、法科一点張りの日本の大学に、新しい学部の設立を要請するようになった。
実際に、英吉利法律学校の出身者で弁護士試験に失敗した、横山源之助のような人物が現れて
きた。彼は、新聞記者として活躍し、日清戦後の労働社会の状況を、『日本之下層社会』の冒頭
で、つぎのように描いている。「東京市15区、戸数29万8千、現在人口136万余、其の十分の幾分
は中流以上にして、即ち生活に苦しまざる人生の順境に在るものなるべしと雖、多数は生活に如
意ならざる下層の階級に属す、細民は東京市中孰れの区にも住み、その数幾何なるや知るべから
ず…」明治20年ころを基準100とすれば、
「明治30年代に入りて物価161、米価236の暴騰を致せり」
と、近代的な経済の発展の裏面社会を実態調査に基づいて鋭く描いたのである。また、後には農
商務省の職工事情調査(『職工事情』を刊行)に参加して、活躍している。こうした幅広い人材
養成が大学に求められる時代となった。
本学に経済学科が創設されたのは、1905(明治38)年8月18日であり、このような国家環境の
時代であった。先に本学は東京法学院大学を名のり、本科―予科、専門部、研究科と組織を整備
したのであるが、総合大学としての地歩を固める必要から、複数学部の新設計画がもちあがって
いた。この年、中央大学と改称して、本科と専門部に経済学科をまず設置した。
その間の事情は、
「国際情勢や国内経済事情の進展に即応し、総合大学を目指す本学は、経済、
4
商業に関する学術を教授する学科の新設をもくろんだのであるが、いま一気に経済、商業両科を
設けることは困難と判断した。そして、従来も教授内容としてきていた経済関係科目を独立させ、
多少の補強を加えれば大きな負担なしに、時間的にも実現が可能であるとし、まず手はじめとし
て経済科のみの新設となったのである」(『中央大学百年史 通史編 上巻』287ページ)とある
から、経済学科新設は総合大学を目指す一環といえるであろう。
したがって、その後4年遅れて、1909(明治42)年に商学科が設置された。経済学部の発祥と
なる本学の経済学科の設置は、日本でも非常に早い時期となっている。
東京大学に経済学部が設立されるのは、1919(大正8)年である。これは後述する、1918年12
月6日「大学令」に基づいている。法・医・工・文・農学部のつぎに経済学部が設置されている。
京都帝大でも、これと同時に経済学部が設置されている。したがって、国立の経済学部設置は、
私学より遅れ、本学部創立の14年後ということになる。
経済学科をもっとも早く設置しているのは専修大学で、1880(明治13)年に夜間部として発足
する際に、経済科、法律科を創立時から設置している。1888(明治21)年に経済科を理財科と改
称し、1905(明治38)年に再度、経済科に名称を戻している。1923(大正12)年に経済学部とし
ている。
ついで早いのは慶応義塾大学で、1890(明治23)年に大学部を発足させて理財科を設置して、
大学令が発令された後、1920(大正9)年に経済学部に改称している。そのつぎが早稲田大学で、
1882(明治15)年に東京専門学校として設立され、1902(明治35)年に大学名を改称する際に、
大学部と専門部とを新設して、大学部に政治経済学科、法学科、文学科を設置している。そして、
1904(明治37)年の専門学校令による大学となった際に、商科を設置して、大学令の発令後、
1920年に政治経済学部、商学部ができあがっている。
日本大学は、1888(明治21)年に日本法律学校として創立されているが、1904年に日本大学と
改称して、その際に、商科を設置している。1924(大正13)年に商科のなかに経済科を設置し、
経済学部国際交流の20
年 学部改革の回想
それを1934(昭和9)年に商経学部と改称して、再度1944(昭和19)年に経済学部としている。
明治大学では1904(明治37)年に商学部は設置されているが、政治経済学科は1912(明治45)
授業教室の風景、紹介
年に政学部を改称して発足しているので、これを創設とみてよい。法政大学は大学令発令後、財
編集後記
ゼミ風景
団法人化されたのを機に、1920年に経済学部を設置している。
このようにみてくると、本学の経済学科は専修大学、慶應義塾大学、早稲田大学に続いて、日
授業教室の光景、紹介
本では4番目に早く設置されたことになる。
経済学科発足3年目の1908年(明治41)7月に本科経済学科4人、専門科経済学科13人が第1
回生として卒業している。この中央大学第23回卒業式において、久米良作学員が「経済科卒業諸
君は、本大学第1回の卒業生なりと吾輩実業界に在る者の最も歓迎する所なり本大学法科はすで
に声明隆々として遠近に振ふ今後経済科も亦共に益々盛大ならんことを切望して止まざるものな
り」(『中央大学百年史 通史編 上巻』294ページ)と門出を祝っている。経済学科第2回卒業
生は本科8人と専門科19人となっている。このような事情は、第1次世界大戦期まで続く。
5
第1次世界大戦によって、日本は未曾有の経済発展を遂げて、人口の都市移動が急速に進んで
きた。人々が都市に定着し、医師や弁護士のような高級技術者と企業の事務職あるいは官公吏・
教師のようなサラリーマン層が新たな中間層をつくる時代となった。この中間層は、地主層に替
わって、新たな時代を背負い、インテリで俸給に恵まれ、子女の教育に熱心となる。この中間層
は、国家主義に対抗する自由教育、大学の自治、美術団体等の文部省支配からの独立、幅広い政
治参加を求めるようになり、いわゆる大正デモクラシーの基盤となっていく。この流れの教育要
求に対して、旧来の超エリート的な数少ない帝国大学のヒエラルキー学制では応えられなくなっ
た。また、官吏は充足するようになり、帝国大学だけに与えた官吏登用の恩典、例えば判検事の
無試験任用のような特権は廃止せざるを得なくなった。このような変化に対応しながら、新しい
基準で文部省は大学を縛ることになる。このような文脈で、「大学令」が1918(大正7)年に勅
令として公布された。
第1条 大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的ト
シ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス
第2条 大学ニハ数個ノ学部ヲ置クヲ通例トス…学部ハ法学、医学、工学、文学、理学、農学、
経済学及商学ノ各部トス
第4条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得
第6条 私立大学ハ財団法人タルコトヲ要ス(以下略)
ここで、私立大学は旧来の社団法人から、一定の財産を蓄積した財団法人となることが、強要
されたのである。本学でも、まず「社員ノ定数25名以内」とした定款を変更し、最終的には「80
名以内トス」と改めて、認可を受けた。その上で、募金活動を開始して、申込額70万円余(うち
24万5000円は三宅碩夫による現物寄付額)を集めたのである。そのうち、実際に払い込まれた金
額は不明となっているが、これを基金として、1920(大正9)年4月15日に「大学令に依拠する
中央大学」が認可された。この間の事情は『中央大学百年史 通史編 上巻』
(376ページ以下参
照)に詳しく述べられている。こうして、中央大学は法学部・経済学部・商学部・大学院・大学
予科と学部体制をとり、予科は第1部(法・経済)、第2部(商)とし大学の整備が行われ、名
実共に大学の地位を固めたのである。
遡って、1892(明治25)年に神田大火で校舎が全焼しているが、神田一ツ橋の帝国大学講義室
に仮教場を設けて授業を続け、同年8月校舎再築にこぎつけている。1923(大正11)年9月の関
東大震災では三たび校舎を焼失している。これの復旧をはかりながら、さらなる発展をめざした
本学は、1926(昭和元)年8月に駿河台校舎を完成させ、錦町校舎から駿河台校舎へ移転し、以
来50年この地において充実発展してきた。1931(昭和6)年に夜間学部を開設し、1944(昭和19)
年に工業専門学校を新設するというのが、戦前の本学の変遷史であった。
大学令による認可定員は、経済学部は200人であった。1920年代の学長が評議会に毎年行う報
6
告によると、在籍数はつぎのようになっていた。
大学部経済学部
専門部経済科
1920(大正9)年2月
132人
874人
1925(大正14)年1月
127
1166人
1926(昭和元)年2月
69
1137人
経済学部のその後の発展を卒業生数から追っておく。1921(大正10)年4月の第36回卒業式
(経済学部としては第11回目)で、卒業生は大学部で41人、専門部で160人と、とりわけ専門部で
100人を超える水準に到達している。このように、経済学部では、大正期後半になってくると、
専門部が膨張し、関東大震災が発生した1923(大正12)年には専門部卒業生が初めて200人を超
えて280人となった。この増加傾向は昭和初期まで続き、1928(昭和3)年に263人となる。しか
し、それ以降は再び減少の時代となるので、これは昭和初期の不況を反映しているといえよう。
大学部の経済学部卒業生は、1929(昭和4)年までは20人前後で、翌1930(昭和5)年に第45回
卒業式(経済学部23回目)で44人が卒業しており、以後、50人前後の水準であった。
第2次大戦期をみると、太平洋戦争が勃発した1941(昭和16)年には2回の卒業式が行われて
いる。第56回卒業式(経済学部34回目)は3月に挙行されて、大学部139人、専門部332人が卒業
しているが、12月に3ヵ月繰上の第57回卒業式(経済学部35回目)が行われて、それぞれ206人、
573人が卒業している。翌1942(昭和17)年にも6ヵ月繰上卒業が行われて、288人と648人の大
量の卒業生を輩出している。
敗戦後、1946(昭和21)年の第62回卒業式(経済学部40回目)では、大学部126人、専門部32
人の卒業生となっている。新制大学に変更して、専門部が廃止されるが、その最後となる 1951
年の第68回卒業式では,経済学部卒業生は、大学部で452人、専門部で952人となって、以後学部卒
業だけになる。
つぎに、経済学部の講義内容を学則から追跡しておく。最初の本科経済学科の講義科目をみる
と、別表のようになっている。
経済学科課程表(1909年・明治42)が基本となって、1922(大正11)年学則まで、ほぼ変更が
ない。この年の学則をみると、かなり科目が整備されている。原論と政策が区別されて、低学年
で原論的な科目を、高学年で政策あるいは応用科目という配置になっている。ついで、1931(昭
和6)年学則では、必修科目と選択科目に分類されているが、これまでみられた分野区別(財政
学とか統計学)がはずされて、個別の科目に分化されている。この、科目大系がその後、戦前の
規範となっていた。
7
経済学部100年史戦前編付表
経済学科課程表[1909年・明治42年]
科 目
経済学
第1年
経済通論
第2年
貨幣論、農業政策、交通政策
第3年
信用並銀行論、商業政策、植
民政策、社会政策及工業政策、
保健政策、財政学
統計学
統計学
計算学
簿記原理
人口及経済統計学
経済史
経済史及経済学史
経済貨物論
経済貨物論
経済地理
経済地理
経済貨物論
民法、商法、国法学、国際法、実習科、英語経済、英語
学則[1913年・大正2年]
科 目
計算学
(変更部分のみ)
第1年
簿記
簿記
学則[1922年・大正11年]
科 目
第2年
第3年
計理学
(変更部分のみ)
第1年
第2年
経済学
経済原論、貨幣論
政治学
政治学
統計学
統計学原論
人口及経済統計学
簿記及会計学
簿記原理
会計学
経済史
経済史及経済学史
第3年
信用及銀行論、農業政策、
商業政策、植民政策、
交通政策
社会及工業政策、保険政策
政治史
外交史
経済地理及商品学 経済地理及商品学
学則[1931年・昭和6年]
科 目
必修科目
選択科目
(変更部分のみ)
第1年
第2年
第3年
憲法、民法、経済原論、 民法、商法、経済学史、貨幣論、商法、経済学史、保険学、
経済史、経済地理、
銀行論、農業政策、商業政策、 交通政策、社会政策、財政学、
統計学、植民政策、
政治社会史、工業政策、
政治学、
第1外国語
経済演習、第1外国語、
経済演習、第1外国語
簿記学、経営学総論、
国際公法、信託論、応用簿記、 国際私法、会計学概論、
哲学、社会学、行政学、経済事情、景気変動論、
国際経済及金融論、
刑法、
市場論、
証券及証券取引所論、
第2外国語
第2外国語
第2外国語
農村問題及産業組合論、
8
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