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間近に迫る死に直面するイエス

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間近に迫る死に直面するイエス
主日 集会 2015.2.8
間近に迫る死に直面するイエス
④主は最後に「父よ。御名の栄光を現してください」と言われたが、ゲッセマネでも同様に、最後に「父がわたし
に下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(ヨハネ18:11)と言われた。
ふくい んしよ
ヨハネ福音書12:27-33
いま
こころ
さわ
なん
い
ちち
(3)そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
とき
すく
い
12:27 今わたしの 心 は騒いでいる。何と言おうか。
『父よ。この時からわたしをお救いください』と言
とき
いた
に話したのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにでは
おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
ちち
み
な
えい こう
あらわ
てん
こえ
き
えい こう
12:28 父よ。御名の栄光を 現 してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をす
あらわ
いち ど えいこう
あらわ
き
ぐんしゆう
かみなり
な
い
ひとびと
み つか
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群 衆 は、 雷 が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使い
かた
はな
い
があの方に話したのだ」と言った。
こた
い
こえ
き
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがた
のためにです。
いま
よ
いま
よ
し はい
もの
お
あ
ひと
主のすばらしいことばやみわざのすべては御父の御名に大きな栄光をもたらした。しかし、それよりもさらに大き
な栄光が、キリストの死と埋葬、復活、そして昇天を通して神にもたらされようとしていた。
神の御声を雷鳴と間違えた者がいた。神の声を聞き分け、理解できるのは、聖霊の助けを頂いた人のみである。
福音の真理も聖霊が語ってくださらなければ、聞く人にとってはいつまでも無意味なままである。
ご自身のためであれば、声が聞こえなくてもよかったのだ、と主は聞いていた人々に説明された。むしろ、そば
だ
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
ち じよう
なくて、あなたがたのためにです。(28節b-30節)
神の栄光は、イエスの地上における働きの間、現された。ナザレにおける沈黙の30年間、3年間の公生涯、救い
でに 現 したし、またもう一度栄光を 現 そう。」
た
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方
じ ぶん
ひ
よ
に立っている人々のために声が聞こえたのである。
12:32 わたしが地 上 から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
じ ぶん
し
かた
し
しめ
い
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
(4)「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」(31節)
「今はこの世のさばきです」と主は聞いている人々に言われた。世は「いのちと栄光の主」を十字架にかけよう
【祈りながら考えよう】
としていた。そうすることによって、世は自分を罪に定めることになる。「キリストを拒絶する」という恐ろしい行
為のゆえに、判決が世に言い渡される。罪ある人類にさばきが下されようとしていた。
「この世を支配する者」とはサタンのことである。サタンは、主イエスを完全に始末できたと思った。ところが
(1)「今わたしの心は騒いでいる」と言われる「主の心の動揺」は何が原因ですか。
(2)27-28節の主の祈りはゲッセマネの園での祈りとどのように類似していますか。
そうではなく、救い主は人間のために「救いの道」を備えられ、同時にサタンとその支配下の軍勢を撃破してしま
われたのである。サタンはカルバリで完全な敗北を喫した。主は次のように語っておられたようである。
「いよいよ今週のうちに、わたしが十字架の上で贖い主として身代わりの死を遂げることにより、この世の支配
あたま
(3)主の十字架の死によってこの世の支配者サタンはどのように敗北し頭を砕かれましたか。キリス
ト者はこれをどのように適用すべきですか。
【解
説】
(1)今わたしの心は騒いでいる(27節a)
この文は、突然強い精神的苦しみが主に襲ってきたことを意味している。それは主を悩ませ、苦しめ、困惑させ
るものであった。それはどこから来たのであろうか。十字架上の苦しみと、それに伴う肉体的な苦難を単に予見し
たところから来たのではない。単なる肉体的な苦しみであるなら、多くの殉教者たちは長い間耐え忍んできたし、
うめき声も立てず、文句も言わずに耐え忍んでいる。
イエスの苦しみは、そのような苦しみではなかった。それは、イエスの頭の上に転嫁して置かれた罪の重さのゆ
えであり、それが彼に圧力を加え、「今わたしの心は騒いでいる」と叫ばせたのである。主は自分の上に転嫁された
人間の罪のすべての重みを感じられたのであり、彼が十字架に近づくに従って、ますます重く彼の上にのしかかっ
てきたのである。
者であるサタンは致命的な打撃を受け、人間を支配する座から引き下ろされ、追い出される。蛇の 頭 は砕かれる」
(創世記3:15)。この主の十字架でのみわざを、今日の私たちは、どう適用すればよいのか。
神に対する不敬虔の罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じ受け入れる。その時、私たちはサタンの支配下から
解放される。なぜか。悪魔がいかに人の罪を訴えようとも、神は主イエスを信じた者を、主の十字架のみわざゆえ
に赦しておられる。
「この者の罪に対するさばきは2千年前に完了した。カルバリの十字架において終了した。御子イエスを信じる者
を、わたしは義とする。十字架で流された御子の贖いの血潮には何の不足もない」と神は宣言しておられる。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれで
すか。神が義と認めてくださるのです」(ロマ8:31-34)。
悪魔は主を信じる者たちを訴えるが、何の力もない。なぜか。主を信じる者たちを訴える罪のさばきは終わって
いる。十字架のみわざを突きつけられては、悪魔は訴えようがないのである。悪魔の力は砕かれた。
死も恐怖ではなくなった。主イエスは死を打ち破り復活した。主を信じる者たちには同じく、死は何の力もない。
復活の初穂なる主に続いてキリスト者はみな復活する。私たちにとって死は眠りにすぎず、「天の御国への入口」と
(2)何と言おうか。
『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、
わたしはこの時に至ったのです。「父よ。御名の栄光を現してください」(27節b-28節a)
ここに述べられている出来事全体の中に、後にゲッセマネにおいてより十分に展開されることの、短い要約が示
されている。両者の間には、それぞれの段落に著しい類似性がある。
①主はここでは「今わたしの心は騒いでいる」と言われたが、ゲッセマネでも同様に、
「わたしは悲しみのあまり死
ぬほどです」(マタイ26:38)と言っておられる。
②主はここでは「父よ。この時からわたしをお救いください」と言われたが、ゲッセマネでも同様に、「わが父よ。
できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と言っておられる。
③主はここでは「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」と言われたが、ゲッセマネでも同様に、「どう
しても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください」(マタイ26:42)と言っ
いう意味に変えられた。
悪魔に対して、まだ判決は「執行」されていない。しかし、サタンの破滅は定まった。サタンは今もなお、悪事
を働きながら、世を行き巡っている。しかし、サタンが死の池に投げ込まれるのは時間の問題である。
(5)わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(32節)
主が十字架に上げられるなら、人々をご自身のもとに集め、悪魔の暴力的支配から、あらゆる民族と国々の人を
解放し、主のしもべ、また弟子とするであろう。キリストの十字架以後、多くの人々はサタンの力から解放され、
キリスト者になるであろう。
(6)イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである(33節)
使徒ヨハネのこの説明のことばは、明らかに、主が言わんとされた意味を明確にすることを意図したものである。
ヨハネは主が「上げられる」とは、主が十字架の上に上げられることを特に指していると言っている。
ておられる。
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