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「趣味」から見た生涯学習―『発表会文化論』

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「趣味」から見た生涯学習―『発表会文化論』
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「趣味」から見た生涯学習
―『発表会文化論』の書評を中心に―
霜 村 光 寿
はじめに
1990 年に「生涯学習振興法」1)が制定されてから,2015 年で四半世紀が経過した。特に 21
世紀に入ってから,生涯学習をとりまく環境も激変してきていることは言を俟たない。近年
の日本ではどの分野も財政難であり,その点は生涯学習分野とて例外ではない。周知の通り,
生涯学習分野の活動でもこれまでハード偏重の側面は否めず,加えて財政難によって経済的
には縮小を余儀なくされているが,これまで手薄であったソフト面,特に人材の重要性等に
目が向くようになった 2)ことは大きなチャンスであるといえる。
評者は,2015 年度に勤務校において「生涯学習概論」を担当した 3)。評者は司書資格を所
有しているため,学部生時代に「生涯学習論」を履修し単位を取得したが,今回担当するに
あたって改めて学んでみると,現在の「生涯学習」が扱う範囲はかなり広いものであり,さ
まざまな分野とのボーダーがなくなってきていることを痛感した。これはとりもなおさず,
生涯学習の理念に近い状況が生まれつつあることに他ならないと感じているのであるが,現
)の中で自身も育つと,やはり「生
在の教育システムの枠組み(いわゆる「フロントエンド型」
涯学習」という感覚は芽生えにくく,大学に入学して「生涯学習論」を学ぶことによりはじ
めて,そういった考え方があることに気づく学生がほとんどであろうと推察される。当然,
「生涯学習論」を履修しなければ,
「生涯学習」という考え方があることにすら気づかない場
合もあろう。
しかしながら,大学で「生涯学習」を学ばなかったとしても,社会人になって本人が気づ
かぬうちに「生涯学習的なこと」を行っていることも多いと考えられる。その一つが「趣味」
である。
「趣味」を通してみると,フロントエンド型教育システムの「欠陥」ともいえる点が
見えてくる。その最たるものは,年齢による区分である。フロントエンド型教育システムは,
,後半期を「職業期間」と捉える考え方で,成人年齢を前後半の
生涯の前半期を「学習期間」
区切りとする 4)。一方趣味は,特に年齢は関係のないものである。現在の生涯学習論で扱う
「生涯学習」の範囲は,
「学校教育」の期間を除いた「成人教育」の部分であるように思われる
が,最終的な理念としては,学校教育を区別するものというより,包含する考え方である 5)。
したがって,この「趣味」を考察することにより,生涯学習のいわば理想的な形の追求に資
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「趣味」から見た生涯学習
するところがあると考えられる。
そのようなことを考えていた折,宮入恭平編著『発表会文化論―アマチュアの表現活動を
(青弓社,2015 年)に接した。後述の通り,本書はこれまで学術的に取り上げられる
問う―』
ことのなかった「発表会」にスポットを当て,その発表会が社会的にどのように認知されて
いて,どのような役割を果たしているかを考察した画期的な著作である。ここで取り上げら
れている内容には,言及は多くないものの,生涯学習と深く関わるものが見受けられる。そ
こで本稿では,本書の書評を通して,アマチュアの文化活動が抱えている問題や,ひいては
現代日本の生涯学習について,評者なりの見解を述べることとしたい。
なお,引用資料中〔 〕は評者による注である。また,著者への敬称は略した。
1.
概要と内容
それではまず,本書全体の概要を示しておこう。本書は,さまざまな分野における専門家
7 名が「発表会」を視点とした分析を行った全 9 章の論文と「はじめに」,「おわりに」で構成
されている。編者である宮入による「はじめに」と第 1 章「発表会の歴史」
(薗田碩哉,歌川
(佐
光一)は,全体の序論にあたる。その他の章はそれぞれ,第 2 章「習い事産業と発表会」
(歌川光一)
,第
藤生実),第 3 章「社会教育・生涯学習行政と地域アマチュア芸術文化活動」
(宮入恭平)
,第 5 章「発表会が照らす公共ホールの役割」
(氏原茂将)
,
4 章「学校教育と発表会」
(薗田碩哉)
,第 7 章「誰のための公募展」
(光岡寿郎)
,第 8 章「発
第 6 章「合唱に親しむ人々」
(宮入恭平)
,第 9 章「アメリカの発表会」
(早稲田みな子)
,
「おわ
表会化するライブハウス」
りに」
(宮入)となっている。
以下,各章の内容について簡単に触れておく。「はじめに」は問題提起となっている。こ
との発端は,編者の宮入が,過去にライブハウスに関する著作 6)を執筆していたときに抱い
た,「この社会には,発表会が満ちあふれている」という感覚にあったという。日本社会の
中で比較的浸透している「発表会」に関してはこれまで研究がなく,それを体系化したもの
が本書である。ここでは「発表会」を,
「日頃の練習成果を披露するために,おもにアマチュ
アの出演者自らが出資して出演する,興業として成立しない公演」と定義し,これの定義に
基づき各論が展開されている。第 1 章は,本書全体を概観する前提として,発表会の歴史に
ついて分析がなされる。非常に広義の「発表会」は,
「祭り」にその源流があるとし,したがっ
て
れば相当古い歴史を有するといえる(史料的制約から,本章で具体的に叙述されるのは
。そして,現在の「発表会」に至るにはその内容もさることながら,支え
江戸期からとなる)
る「仕組み」が明治期に形成されていく状況を概観し,最後に「アマチュア」という言葉は「愛
する人」が原義であることに触れ,
「発表」が生業と別世界での「生きがい」となっているこ
とを指摘する。
続いて各論に入り,第 2 章では習い事産業と発表会の関係が考察される。著者は幼少期に
ピアノを習っており,社会人になってからも続けていたレッスンにおいて,先生から上級者
「趣味」から見た生涯学習
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のいわば見本として発表会に参加することを求められるのだが,そこで「いやいや出るとい
うのに,参加費を払うのか」と違和感を抱くのである。さらには,近年のダンス(いわゆる
ストリート系のもの)の発表会では,後述のライブハウスの事例にあるようなチケット販売
のノルマがあるものもあると触れられており,興味深い。ピアノやバレエなどの芸術系の習
い事では発表会は付きものであるが,これは音楽教室やダンススクールでは年間のスケ
ジュールに組み込まれており,参加費には当然発表会運営の経費も含まれ,さらに発表会を
行う施設は「パッケージ化された発表会プラン」を提案しているところまであるという。習
い事における発表会の成立については,高度経済成長期の(子どもの)
「習い事ブーム」にお
ける「無目的」がゆえに発表会自体が継続の目的とならざるを得ず,大人の習い事について
は,「夢破れた」大人の「憧れ」を喚起し,
「お金を払ってでも参加したい」と思わせることで
発表会ビジネスを展開しており,さらには子どもに習わせることで習い事文化が再生産され
ているという指摘は鋭い。オンピーノピアノ教室の発表会を見学して著者が抱いた,「「お金
を払って得た演奏する権利をまっとうする」振る舞いに見えた」という感覚は,まさに発表
会の本質を突いたものであるといえよう。
第 3 章では,2014 年にさいたま市大宮区三橋公民館で起きた「公民館だより」への俳句掲
載拒否事件 7)を冒頭として,地域のアマチュア芸術文化活動がなぜ生涯学習行政の管轄なの
かということを問う。これは法的には,社会教育法において「社会教育」に「組織的な教育
「市町村の教育委員会の事務」に「音楽,演劇,美術その他芸術の発
活動」が含まれており,
表会等の開催及びその奨励に関すること」と規定され 8),生涯学習の対象となっていること
をまず確認している。そして,地域アマチュア芸術文化活動の全国的動向について,各種統
計調査を用いて詳細に分析する。分析から,公民館等でパフォーマンス的芸術文化活動の教
習が行われている状況を明らかにしている。また,地域アマチュア芸術文化活動がなぜ社会
教育や生涯学習行政の対象となるのか,歴史的変遷をたどり,生涯学習行政の混乱 9)があっ
たことや,
「緩やかな地域性しかもたないことが多い吹奏楽団体」などはいわゆるハコモノ
行政と結びつくことで資金を得ている例なども紹介しながら,行政に文化が利用されてきた
(と同時に,
「文化」側もそれに便乗してきた)側面を浮き彫りにする。そして,端から見て「趣
味」でしかないアマチュア芸術文化活動を,行政としてどう評価するかという議論の必要性
を説く。
第 4 章では,学校教育と発表会の関係が述べられている。この章では,近年の高等学校に
おける軽音楽部の様相が,コンテストを目指すなど「健全な部活動としてのロック」を標榜
し,吹奏楽部と似た「学校教育の一環としての部活動」になっている状況を概観する。こう
した部活動には「共同性をはらんだ競争性」が伴い,それは発表会文化を促す要因となるも
のであり,学校教育の中で日頃の成果を披露する行為が無意識に内面化されるため,学校教
育後も習い事などで習得した成果を披露することは当然であるという認識が,多くの人に共
有されると結論づけている。
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「趣味」から見た生涯学習
第 5 章では,発表会と公共ホールの関係が論じられている。公共ホールがアマチュアサー
クルの「発表の場」となることがあるが,こうした場合ホール側は利用料金をもらって施設
を貸し出すのであり,これを「貸館」といい,2013 年度の調査では,この貸館での稼働日数
は自主企画事業の 7 倍近くにのぼるという。そもそも,公共ホールは「芸術創造の場」とし
て自主企画事業を多く行わねばならない(法的根拠としては 2012 年の「劇場法」10))が,実
態としては貸館(この場合はアマチュアのものに限らず,プロ興行主への貸出も含まれる)
が公共ホールを支えていることを指摘する。
「芸術」を非日常や創造性と,
「文化」を日常や
大衆性と捉えると,両者は相反するものであるが,著者は「市民文化の創造拠点」としての
公共ホールの存在に,可能性を見いだしている。
第 6 章では,発表会としての「合唱祭」を考察している。合唱コンクールではない「合唱祭」
というイベントは,参加する合唱団体が費用負担をして,発表会の運営組織を支える。合唱
の根幹となる和声は西洋音楽の考え方であるため,西洋音楽の導入によって日本にもたらさ
れたものであるという歴史的経過も踏まえ,日本の合唱が和声ではなく「斉唱」であったこ
とを確認している。そして,合唱は「成果を発表する」ことで初めて完結するものであり,
そのために発表会に必然性が出てくることを指摘し,現代においては「歌うコミュニティ」
として新しい発表会の可能性を示唆する。
第 7 章で取り上げられているのは,前述のパフォーマンス型ものとはやや異なる公募展で
あり,これを発表会文化の視点で考察している。しばしば批判の対象とされる公募団体展は,
美術界における「プロ」として認知されるために必要ないわば「登竜門」でもあることから権
威主義的になってきたが,近年の芸能人の入選などの事例を通して,美術の「プロ」ではな
い人の自己実現の場として位置づける人が増えてきたことを明らかにしている。つまり,権
威主義的であった公募団体展が「発表会」の場となってきており,美術界内部における公募
展批判がもはや的外れであり,さらに社会学の研究方法として「内部」の資料だけに依拠す
るのではなく,広い視点で社会的位置付けを解明する必要性も指摘する。
第 8 章は,ライブハウスと発表会の関係性についての考察である。ライブハウスの詳細に
ついては著者の別の著作に詳しい 11)のでここでは触れないが,日本のライブハウスには「ノ
ルマ制度」と呼ばれるものが存在する。これは,出演者に対して,ライブハウス側がチケッ
ト枚数分の金額の支払いを求めるというものである 12)。この制度は現在の日本において,ア
マチュアの出演するライブハウスが大方行っているシステムであるため,日本国内にいると
自明のこととしてあまり問題視されにくい。これを問題とするのは,著者がアメリカのライ
ブハウスで演奏をした際,現地の人に「出演者がなぜお金を払うのか」ということを言われ
たことによって,日本のライブハウスの「ノルマ制度」に違和感を覚えたためであったとい
う。この「ノルマ制度」の問題そのものについては,前掲の宮入書をご参照いただくことと
して,ここではその「ノルマ制度」によって,ライブハウスが「発表会化」していることを指
摘する。つまり,極論すればこの「ノルマ制度」は,出演者側がノルマ分の料金さえ支払えば,
「趣味」から見た生涯学習
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ライブハウス側は客の入りのいかんに関わらず一定の収入が保障されるため,ライブハウス
側は営業をする必要がない。したがって,客が入ろうが入るまいが構わない,お金を払って
でも発表の場が欲しい,という人と,安定した収入を得られるライブハウス側との利害関係
が一致しているので,著者は「ノルマ制度」がライブハウスの発表会化を促した側面がある
と分析する。もちろん,すべてのライブハウスが発表会化しているわけではないと著者は断
りを入れるが,その是非はともかく,文化産業としてのライブハウスで,ライブハウスの発
表会化が起きるという社会状況を描き出した。
本書最後の論文となる第 9 章では,少し趣が変わってアメリカにおける発表会が語られて
いる。もっとも,これもこれまでの文脈からまったくかけ離れたものではなく,南カリフォ
ルニアとハワイという,日系の人々が多い地域において行われる日本芸能の発表会を扱って
いる。ここでも,日本芸能で重要な役割を担った家元制度がベースにあるため,日本的とも
いうべき発表会の形態がみられるものの,すべてがすべて日本の引き写しではなく,現地で
独自の進化が起きている状況を明らかにする。現在の現地での発表会は,いわばショーとし
ての側面が加わり,ローカル化したことを指摘し,これらの状況を参考にして,発表会文化
における経済システムの見直しも示唆する。
そして「おわりに」では,現在の日本においては「発表会が到達点という目的になっ」てい
るという状況を各研究で明らかにすることができ,
「その背景に何らかの利益獲得の思惑の
ためにも利用されている事実を見過ごしてはならない」と全体を総括している。
2.
批評―評者の興味関心からの考察―
(1) 評価できる点
それでは,本書について批評を加えてみる。ここでは少し,評者の体験等も披瀝すること
で,いかに発表会文化が戦後日本において「自明」のこととして浸透していたかということ
も改めて確認しておきたい。
まず,いうまでもなく最も重要な点で,本書全体を貫いているテーマである「発表会」に
関する学術的・体系的な研究がこれまで存在してこなかったため,本書がその嚆矢であるこ
とを評価しないわけにはいかない。特に,その理由として編者は「発表会があまりにも自明
のものとして内面化されてしまっているがゆえに,改めて俎上に載せるに値しなかったのか
もしれない」
(10 頁)と述べており,自明のこととして捉えられている社会規範などを疑っ
てみるという,社会学の最も基本的な姿勢を基礎にしていることがうかがえる。
続いて,各章の論点をいくつかみてみよう。まず,習い事産業と発表会文化の関係である。
本書における議論の中で,発表会と最も親和性の高いのがこの習い事であると思われる。習
い事も,講師が収入を得るという点においては「産業」であり,講師や事業体は収益を上げ
ねばならないため,その中で行われている発表会も経済活動に巻き込まれる。
評者自身は習い事産業における発表会というものに関わったことがないのであるが,姉が
110
「趣味」から見た生涯学習
ピアノを習っており,発表会は毎年の行事と認識していた 13)。したがって,自身が直接かか
わらなくとも,戦後日本において発表会を自明のこととして受け止めていたのであり,著者
がいう「ギャラはもらえず,安くはない参加費を払って」
(41 頁)行う発表会に違和感を抱く
ことはなく,本書を読み初めて,よく考えると不思議なシステムだと考えるに至った。この
ことは,後述のライブハウスの問題とも通底している。
実際には,習い事において物事を「習う」人の多くは子どもであるため(もっとも,1970
年代以降にブームとなった「大人の習い事」もあり,論文中この点についても言及はある),
月謝を払うのは親である。欧米のような,楽器を奏でるなどの目的のために習い事をする,
というのとは異なり,いわゆる「一億総中流」のステータスとして習い事がブームになった
結果,発表会が目的化したという指摘は鋭く,さらに,演奏者が子どもであって,そのスポ
ンサーが親であるという場合に,発表会の「目的化」がもっとも安定すると述べられている
ところは,現代日本の発表会文化を最も的確に描き出しているものといえよう。
この指摘は,生涯学習についてもいえることであり重要である。生涯学習も政策的に「作
られたブーム」であった頃があり,それらにより「ただ学べばよい」という風潮の時代があっ
たことも否めない 14)。しかし,生涯学習はその特徴として学習者の主体性なくして語ること
はできないものであり,
「何のために学ぶのか」という目的意識を明確に持つことがまず問
われることと,少なからず通底するところがあると考えられる。
「大人の習い事」がこれまでとは明らかに異なる発表会文化を形成しつつあ
展望として,
ると述べられている。このあたりから本来の,例えば楽器であれば「演奏するために習う」
という目的に沿ったあり方へと変わっていく可能性があるのではないかという指摘は大変示
唆に富んでおり,真の人生の豊かさとは何かを考えるよい契機になると考えられる。
次に,生涯学習行政とアマチュア文化活動の関係を論じた第 3 章である。本章では具体例
としては市民吹奏楽団が挙げられている(部活動や市民団体としての吹奏楽についても改め
て論じられるべき研究対象である)が,その活動の状況は非常に重要な問題を投げかけてい
ると思われる。地域の「社会教育関係団体」には地域を成立母体とする団体が想定されてい
るが,「緩やかな地域性しかもたないことが多い吹奏楽団体など」は生涯学習行政の管轄と
なることが多く,もし助成を得ようとすれば「社会教育施設を練習場として利用するだけで
なく,首長部局が主導する「文化芸術振興計画」の趣旨に則って発表会の申請をするような
。ここで注目したいのは,助成を得るために登
場合も出てくる」と述べられている(84 頁)
録団体となるなどの手段を講じているにもかかわらず,市民吹奏楽団などが練習場として公
民館を使用するのは利用料が安価であるためで,設備に対する不満は我慢しているという状
況がある(72 ∼ 73 頁)という点である。
軽音楽などであれば,公共施設の利用が嫌なのであれば民間の音楽スタジオを借りればよ
いため,ある種棲み分けがなされている。一方で吹奏楽などの大人数での音楽活動のような
ものは,公共施設を頼らざるを得ない部分が多い。もちろん,例えば吹奏楽団体が「社会教
「趣味」から見た生涯学習
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育関係団体」に登録することで,地元の催し物などで演奏を披露する機会が増えるとすれば,
それ自体は団体にとって望ましいことであろう。しかしながら,そうした行政に頼らないと
活動できないという状況は,文化の「自立」を考えるとあまり望ましい状況とはいえない。
このことは今後,検討されねばならない問題の一つであるといえよう。
第 4 章は「学校教育と発表会」という題が付されているため,文化祭や学芸会に関するも
のかと想像したのであるが(この点については後述)
,内容は近年の高等学校における軽音
楽部に関する考察であった。ここでは,近年の高校における軽音楽部が,いわゆる体育会系
「軽音楽」
部活動のような活動内容になっていることが指摘されている。評者にとっては,
はそもそも学校で扱われる範囲外であるという感覚があったので,これには隔世の感があっ
た 15)。それが,現在では高校の部活動として存在するために,教育的側面を強調し,
「
「不健
,
全なロック」を「健全な部活動」という文脈に書き換えている」と論じられており(101 頁)
このことには大変驚いた。一方でこのことは,(著者は意図していないであろうが)昨今の
体育会系における「指導」の問題が,吹奏楽部や軽音楽部といった,文科系の部活動にも潜
んでいるということを示唆するものであるように思われる 16)。
第 8 章の「発表会化するライブハウス」での論考は,編者である著者がアメリカで受けた
「出演者がなぜお金を払うのか」という問いが出発点となっている。前述の通り,日本のラ
イブハウスには出演者がお金を払うノルマが存在し,そのことは評者も知っていたが,同時
にそれを自明のこととして捉えていたことに気づかされた。この点は,日本における「ミュー
ジシャン」にとって共通の認識であると考えられる 17)ことが,非常に重要である。
発表会とライブハウスの関係を考えると,本論でのライブハウスが発表会化している(集
客いかんを問わず,出演者がお金を払うことで演奏の場を得ている)という指摘は,現在の
ライブハウスの実態を浮き彫りにしているといえる。10 年以上前であれば,ライブハウスの
「格」に見合わない出演者も,現在であれば出演することができるようになってきていると
考えられる。演奏機会の提供という意味では,地域の文化拠点としての社会貢献的側面を強
調することもできる。だが,基本的に「ノルマ制度」においては集客が少なくてもライブハ
ウス側の収入が保証されているため(184 頁)
,あえて営業するところは少ないであろう。そ
う考えると,やはりライブハウスは「地域の文化拠点」などではなく,相変わらず(という
よりむしろ昔以上に)閉じられた空間であることに変わりないといえよう 18)。
第 2 節の「発表会化を助長するライブハウス」という題は刺激的である。本論では指摘さ
れていないが,発表会的ライブを希望するアマチュアバンドからすれば,公民館の発表会等
ではないちょっと「格」のある場所に出演できる,というメリットがある反面,ライブハウ
ス側は彼らを出演させることで「格」を落として収入を得ることになり,文化・芸術の面か
らすると,ライブハウス側の罪は大きいように思われる。
なお,第 5 章の公共ホールと,第 8 章のライブハウスは,それぞれ前者が公,後者が民と
いう点では異なるものの,共通する問題を抱えている。前者は自主企画ではなく「貸館」を
112
「趣味」から見た生涯学習
「市民文化の創造拠点」としての存立が危ぶまれ,後者はノル
多くすると収益は増えるが,
マ制で収益を上げるというシステムになり,文化活動から経済活動へ傾斜している。双方と
も「貸しホール」として貸し出すことで収益を得る点で共通しており,興味深い。
最後に触れておきたいのが,第 7 章「誰のための公募展」である。評者自身は美術にはまっ
たく造詣がないため,ここでの内容は自分には関係のないことと思って読み始めたのである
が,評者の知人にこれに近い「活動」を行っている人がいることに思い当たった。
評者の知人には絵本・造形作家がいるが,その知人はそれを本業にはしていない。しかし
ながら,地域の DIY 店が主宰するカルチャー ・ スクールの講師を務めているので,世間一般
的にも絵本作家として認知されてもよい位置にいると考えられる。その知人(以下 A とする)
は,過去に公募展に作品を出品することを何度か行っている。A は美術教育を受けていない
ため,いわゆる画壇とは違う形を模索しており,アンデパンダン方式(無審査)の展覧会に
出品していた。もっとも,その公募展は主催団体のイデオロギーに準じた作品を出さねばな
らないという暗黙の了解があったようで,それに嫌気のさした A はほどなく出品をやめるの
であるが,その公募展の常連には,本論文中に述べられているようないわゆるプロ志向の描
き手も多く含まれていた。そのような中にあって,A の作品はかなり異色であったようで,
主催団体の機関紙に掲載されるなど注目を集めたのである。
このことは,本論文中にある,芸能人などが自己実現のために公募展に出品する,という
ことと通じるところがあるように思われる。A に関していえば,当初は「公民館での発表会」
に甘んじたくない,と芸術志向で公募展に出品していたのであるが,現在は自身の作品に自
信を持ったことで逆に,身近な人々に自分の作品に触れてもらうことが重要であるという認
識に立ち,公民館の文化祭を主な発表の場としている。この流れ自体は A の心境の変化によ
るところが大きいのであるが,本論での分析と照らし合わせてみると,A が出品し始めた頃
にはすでに「公募展の発表会化」が始まっていたのであり,A の作品が公募展で評価される必
,現在の活動
要はなく(おそらく A の作品を評価できる審査員は画壇にはいないであろう)
へとつながっていくことはある種必然であったとさえ思われるのである。
このように,
「発表会」一つでさまざまな日本文化を論じることができるのである。この
視点は大変画期的であり,この問題を提示した本書の意義はきわめて大きい。
(2) 気になった点
さて,前述の通り本書は非常に優れた研究成果といえるが,気になったことを 3 点ほど挙
げておこう。まず,スポーツに関する言及が本書ではほとんどなされていないことである。
これは,スポーツそのものが現在のところ「芸術文化活動」とは区別されるものであるため
当然の帰結であり,評者の無理な要求かもしれない。本書で取り上げられているもののうち,
スポーツに近いものとしてはダンスがある(第 2 章)。ダンスは近年スポーツと捉えられ始め
たものであるが 19),本書ではどちらかというとやはり「芸術文化活動」として扱っていると
「趣味」から見た生涯学習
113
(競技会)
言ってよいだろう。スポーツにおいて発表会に相当するものは,基本的には「試合」
になるため,厳密な意味での「発表会」とは異なるであろう。しかしながら,本書でも触れ
られているダンスの発表会のように,スポーツの分野でも発表会に相当するものはあり,本
書では第 6 章の合唱祭のように審査を行わない,競技性を取り除いた発表会のようなものが
存在しうることは考えられる。
またそれ以前に,そもそも競技会自体も,選手が参加費を払っているのが一般的であると
推察される。そう考えると,スポーツの競技会も発表会の一種であると捉えることはできな
いだろうか 20)。この点は,ぜひ評者も検討したいと考えているところである。
次に,公民館に関する記述がほとんどないことである。生涯学習に関して,本書では第 3
章で取り上げられているが,この中では公民館そのものの話が出てこない。特に,公民館で
は年に何回か文化祭が行われているところもあり 21),これこそまさに生涯学習行政の管轄す
る発表会といえる。せっかく生涯学習に関しても少なからず触れられているので,この点も
特に同章の著者である歌川による研究を望むものである。
そして,学校における学芸会や文化祭を取り上げなくてよいのか,という問題がある。こ
れも本書全体を通して,発表会の定義を「日頃の成果を披露するために,おもにアマチュア
の出演者自らが出資して行う,興行として成立しない公演」としている(11 ∼ 12 頁)ことか
ら,この定義においては学校における学芸会や文化祭は含まれない(出演者自らが出資して
いない)ことによる面が大きいと思われるので,著者たちの不備ではない。しかしながら,
「日頃の成果を披露する行為〔=発表会〕は,学校教育の
第 4 章でも触れられているように,
なかで無自覚のうちに内面化される」
(109 頁)であれば,なぜ学校教育という場でそのよう
な状況が現出するのか検討する必要があろう。管見の限り,学校における学芸会や文化祭に
関する研究は,意外なことにほとんどないようである。この点については,最終的には部活
動そのものの意義を問う視点を持ちつつ 22),今回の著者たちによって掘り下げられることを
期待したい。
なお,欲をいえば,第 4 章はやや異質な印象を受ける。それは,題と内容のズレによると
ころもあるのだが,基本的に軽音楽部の活動について述べられているものであり,そこにお
いて本書の中心たる関心「出演者自らが出資して行う公演」にまつわる記述が抜け落ちてし
まっているためであろう。この点も改めて宮入論考を待ちたい。
おわりに
以上,『発表会文化論』の書評を通して,趣味から生涯学習を見ることについて評者の見
解を述べてきた。本稿での検討をまとめておく。
本書は,これまで自明のこととして顧みられることのなかった「発表会」に光を当て,さ
まざまな分野・角度から分析を行い,そこに通底するのは,決して「自明」のものとして昔
から存在しているのではなく,戦後の日本の文化的・政治的なものも背景としながら,独自
114
「趣味」から見た生涯学習
に作られ発展してきたものであることを明らかにした。やや物足りない部分もあるが,それ
らは今後の課題として検討されるべきもので,本書の価値を減じるものではない。「発表会」
研究を初めて体系化したものとして,今後の基礎研究となるものである。
そして,本書の大きな特徴は,
(一応「芸術文化領域」としてまとめることはできるものの)
一見関係のない分野においても,発表会を通してみることで共通した問題を抱えているとい
うことを浮き彫りにしたところにある。その分野は,習い事であれば例えばピアノやバレエ
であるが,これらは大人はもちろん,子どもでも趣味と言って差し支えないものである。そ
れ以外でも,本書に事例として挙げられているもの(図らずも音楽が多かったが,他にも美
術など)はいずれも趣味といえるものであり,生涯学習(行政)と少なからず関わりを持っ
ているものである。言い方を変えれば,その人の主体性がなくては始まることのない趣味は,
学習者の主体性を大きな特徴とする生涯学習と,非常に親和性の高いものなのである 23)。そ
のことをも,本書は示す可能性を秘めているのだ。
評者は勤務校において生涯学習論を担当したが,専攻は歴史学であり,恥ずかしながら社
会学の素養はない。そのような人間に,本稿で述べたことを考えさせる力を持っているのが
本書であった。生涯学習を考える上でも,重要な 1 冊になっているといえる。
注
1) 生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律(平成 2 年法律第 71 号)。
2) これまで,生涯学習の「前身」とでもいうべき社会教育の機関として公民館の存在が生涯学
習を表象するものであったが,近年では生涯学習を行う学習者に対してどのように学習を支
援するかという観点から,生涯学習のコーディネーターの必要性が注目されてきていると考
えられる。岩永雅也『現代の生涯学習』(放送大学教育振興会,2012 年),123 ∼ 125 頁。
3)
2015 年度前期に,実践女子大学文学部図書館学課程で「生涯学習概論」を担当。本稿は,
同授業内で報告を行ったものである。受講学生諸君には感謝申し上げます。
4)
岩永,前掲書,52 ∼ 57 頁。
5)
生涯学習振興法第 3 条には,振興に資するための事業の範囲に,学校教育,社会教育,文化
活動が含まれている。現在,生涯学習に学校教育が含まれることは広く認識されつつあるが,
にもかかわらず「生涯学習論」において学校教育が疎外されるのは,日本における生涯学習
の源流が社会教育にあり,社会教育が学校教育と競合するものとして捉えられてきた経緯が
あり,大学の「生涯学習論」で扱う内容については現在が過渡期であり,教科書等にはまだ
反映されていない部分があるためと評者は考えている。生涯学習研究の歴史と現状について
は,津田英二ほか編著『講座・転形期の社会教育Ⅵ 社会教育・生涯教育研究のすすめ―社
会教育の研究を考える―』(学文社,2015 年)を参照した。
6)
宮入恭平・佐藤生実『ライブシーンよ,どこへいく―ライブカルチャーとポピュラー音楽―』
(青弓社,2011 年)。
7) 2014 年 6 月,埼玉県さいたま市大宮三橋公民館を活動拠点とする俳句会のメンバーである
74 歳の女性が詠んだ,日本国憲法第 9 条に関する俳句を,同年 7 月号用の「公民館だより」
「趣味」から見た生涯学習
115
に掲載しようとしたところ,護憲が公民館の立場であると誤解される恐れがあるとして公民
館側が掲載を拒否した事件。「9 条の俳句掲載拒否/大宮区の三橋公民館「誤解される」/作
者「行政が自主規制」」,『埼玉新聞』,2014 年 7 月 5 日,18 面。
8)
社会教育法第 5 条 12。
9)
戦後の日本では,現在の生涯学習に相当する概念は,戦前からの「社会教育」を引き継ぐ形
で始まり,社会教育法を基礎として施設では公民館,人材としては社会教育主事がそれを担
うこととなった。その大きな転機となったのが前述の「生涯学習振興法」成立であるが,こ
れにより行政の側では「首長部局」の生涯学習活動へ参入(既存の「コミュニティセンター」
を「追認」しそれらを活用)することになり,公民館などを所管する教育委員会社会教育課
などの社会教育部課といわば二重行政が現出した。岩永,前掲書,74 ∼ 76 頁。
10)
劇場,音楽堂等の活性化に関する法律(平成 24 年法律第 49 号)。
11)
宮入恭平『ライブハウス文化論』(青弓社,2008 年)。
12) 「例えば,一枚二千円のチケット三十枚をノルマとして課された場合には,出演者はその合
(181 頁)。
計金額六万円をライブハウスに支払わなくてはならない」
13)
評者が幼少期に習った習い事は習字で,習いに行っていた習字教室では発表会は行っていな
かった。評者の姉が通っていたピアノ教室の発表会でも,発表会の参加にあたっては参加費
を支払っていた。
14)
岩永,前掲書,35 ∼ 36 頁。
15) 「軽音楽」も定義はさまざまであるが,ここではさしあたりクラシック以外のポピュラー音
楽(フォーク,ロック)としておく。
16)
例えば,著者は近年の吹奏楽部や軽音楽部のメディアでの取り上げられ方について触れ,そ
れを「物語を必要とする部活動」と分類しているが(101 ∼ 104 頁),これは体育会系でいえ
ば甲子園野球の文脈とまったく同様である。
17)
アマチュア・ミュージシャンの場合,ノルマに関して「ノルマというシステムへの疑問では
なく」
「あくまでもライブハウスへの出演料という共通の認識がうかがえる」と指摘されて
いる(前掲,宮入『ライブハウス文化論』,85 頁)。
18)
一方で,出演したい「ミュージシャン」にとって,これまで出演できなかったライブハウス
に出演できるようになることは,ライブハウスが「開かれた空間」になったのではないか,
という指摘も考えられ,一理ある。しかしながら,古くからライブハウスに関係していた者
たちが,ライブハウスに「文化発信の場」という意義を見いだしていたこと(前掲,宮入『ラ
イブハウス文化論』,32 ∼ 33 頁)を踏まえれば,やはり「ロック系ライブハウスでの歪んだ
パフォーマーとオーディエンスの関係は,ミュージシャンのような音楽に携わる人たち同士
の,あるいは身内間の閉鎖的な空間を形成している」(同前,208 頁)という宮入の指摘が的
確であると評者は考える。この点は,一般の人々と日本における軽音楽の演奏に深く興味を
持った者とで温度差もあり得るので,他日改めて検討を期したい。
19)
2008 年 3 月に改訂が告示された学習指導要領では,中学校の保健体育において武道とダン
スが必修とされた。
20)
特にマスターズの大会や,いわゆるマイナースポーツでは競技会の観客がほとんど身内であ
るなどの「発表会」的な状況が現出していることがあるのではないかと想定される(この場合,
スポーツ競技会が「発表会化」したのではなく,元々発表会であったものが競技会化したと
116
「趣味」から見た生涯学習
いうこともあり得る)。もっとも,スポーツ競技会における「参加費」が,試合する場を得
るための費用なのか,審査されることに対する対価なのかについては検討を要するが,この
点については他日を期したい。
21)
例えば,前述の知人 A の在住する地区の公民館では,毎年秋に文化祭と称して,普段公民館
を利用している個人や団体が日頃の成果を発表する場となっている。評者も見学に行ったこ
とがあるが,そこで展示されている作品は,手芸作品などをはじめとしてプロ並みの腕前の
ものが少なくない。
22)
なお,戦後の運動部活動に関する研究としては,中澤篤史『運動部活動の戦後と現在』
(青弓社,
2014 年)が注目される。
23)
本稿脱稿後,歌川光一「社会教育・生涯学習実践として「趣味」をみる視点―その歴史と展望―」
(
『社会教育』第 70 巻第 9 号,2015 年 9 月)に接した。この論文では,社会教育・生涯学習
が趣味をどのように捉えてきたか,その歴史を概観し,社会教育・生涯学習行政において「発
表する趣味」を支える視点が育っていないことを指摘しつつ,一方で趣味活動家はそれらに
不自由さを感じる以前に,すでに地域の教育や文化行政に参加しはじめていると述べられて
いる。今後,生涯学習においても趣味をどのように考えるかという視点が,より一層重要に
なってくることを示唆していると感じられた。
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