...

精神障害者のエンパワメントにおける「障害者文化」概念

by user

on
Category: Documents
5

views

Report

Comments

Transcript

精神障害者のエンパワメントにおける「障害者文化」概念
October 2
0
0
5
―1
1
5―
精神障害者のエンパワメントにおける「障害者文化」概念適用
の可能性と課題*
松
岡
克
尚**
たらすこともない、全く新たな実践枠組みの構築
はじめに
が求められるのではないだろうか。その際に、
ソーシャルワーカーなどの援助者の存在を障害者
ソーシャルワークにおいては、これまでの医学
を無力化するものとして厳しく糾弾する視点は、
モデル、保護主義的処遇に対する反省から、障害
エンパワメント・パラドックスが指摘する内容に
者領域、特に精神保健福祉分野においてはエンパ
通じるものがあり、そこから私達が学ぶ点は多い
ワメントの実現とそれを可能にするべく利用者と
と思われる。
ソーシャルワーカー間のパートナーシップの構築
そうした批判側の声の中で、新たに実践枠組み
が大きな課題になっている。しかし、エンパワメ
を形作っていく中で参考になるものとして、英国
ントを実践理念として捉えたときに、そこには大
に始まる障害学の「社会モデル」、そして第二世代
きなパラドックスが生じることが問題視されてき
研究から生まれた「障害者文化」の考え方があげ
た。すなわち、エンパワメント実現のためにソー
られるだろう。ここでは、精神障害者エンパワメ
シャルワーカーが介入すると依存関係が増幅する
ントに対して、特に「障害者文化」の概念を適用
というものである。
することで精神科ソーシャルワークの新たな枠組
このパラドックスは、ソーシャルワーカーとい
みの可能性と課題を検討する試みを行いたい1)。
う「援助者」が障害者という「非援助者」を「援
助」するというコンテクストの中で用いられる限
1.障害者ソーシャルワークの現状と課題
り、完全に払拭することは不可能であるという指
摘すらある。このことは、同時に、障害者とソー
(1)医学モデルへの批判
シャルワーカーの間に、言葉の真の意味において
ソーシャルワークは、その創生期から差別や抑
のパートーナーシップの構築が果たして可能なの
圧に置かれた人々に対して一義的な責任を負う専
かという疑義をもたらす。エンパワメントのパラ
門職であると自らを見なしてきた。しかし、様々
ドックスを突き詰めていけば、否応なく、ソー
な非抑圧集団がある中で、障害者についてはソー
シャルワークの存在意義が問われる事態に直面す
シャルワークの世界では非抑圧者集団には含まれ
るではないだろうか。エンパワメントとは、ある
ない存在として扱われ続けた。その背景には、非
意味で、ソーシャルワークにとって頭上にあるダ
生産的で「落ちぶれた」存在としてのステレオタ
モクレスの剣のような存在なのかもしれない。
イプ的な障害者イメージがソーシャルワーカーに
こうした問題の解消のためには、パラドックス
巣くっていたことは否定できない。こうした背景
が指摘するような依存関係の発生やその強化をも
があってか、約4,
300万人の障害者がいるといわ
*
キーワード:精神障害者、障害者文化、エンパワメント
関西学院大学社会学部助教授
1)ここで言う精神障害者とは主に統合失調症(schizophrenia)患者を念頭に置いている。また、障害者について
は、身体、知的、精神の各障害者を総称するものとして用い、その表現としては敢えて「障害者」を、障害学
の中で主張されるように、
「the disabled people」
、すなわち「(社会によって)抑圧された人々」という意味合
いを強調するために、漢字表現の持つ問題にもかかわらず、そのまま用いることにしたい。同様に、
「健常者」
についても、「障害者」との対比を強調し、その権力性を示す意味で、敢えて用いることにする。
**
―1
1
6―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
れている今日の米国においてさえ、障害者と関わ
い、やらせない」ことは、障害者に自己選択と自
るソーシャルワーカーは少ないのが現状である
己決定を行う機会を奪い、本人の社会性をいっそ
(Mackelprang & Salsgiver 1996)。ソーシャルワー
う減衰させてしまう「悪循環」がそこに存在して
クの中でも独自の発展を遂げてきた精神科ソー
いた。それは、まさしく「社会的な死」に至る道だっ
シャルワークの対象となった精神障害者の場合は
たのである(Finkelstein 1993,
1
996;松岡 2002)
。
事情は異なるにしても、障害者全般という意味で
仮に、障害者がこうした従属的な立場から抜け
は上記のような指摘は的を射ていたといって良い
出すべく、
「積極的なコンシューマー」になろう
だろう。こうした関心の乏しさは英国でも事情は
としても、その結果は、それを自らの権威を傷つ
同じで、マイケル・オリバーとボブ・サピーは、
けかねないと快く思わない専門家によって、障害
ソーシャルワークは理論と実践の両面において、
者は自らが必要としているサービスの提供を控
障害者(オリバーらは身体障害者に限定している
えさせられるという報復手段に直面するリスク
が)に対する継続的な関心を維持できてこなかっ
に怯えなければならないという指摘がある
たと批判している(Oliver & Sapey 1999:28)。
(Mackelprang & Salsgiver 1996)。
「非生産的」という負のイメージに捕らわれた
実は、こうした状況は何よりもソーシャルワー
ソーシャルワークでは、クライエントが障害者の
ク自身が十分に認識していた。クライエント自身
場合、躊躇することなく「医学・病理モデル」
、
の生活に影響を与えるような決定において依存性
あるいは「個人モデル」が採用され、介入すべき
を払拭していくためには、ソーシャルワーカーと
生活上の困難の原因として、彼・彼女の欠陥、欠
クライエントの間にあるパワーのアンバランスを
損に焦点がおかれ続けたのは、むしろ自明のこと
だったかもしれない。特に、身体障害などとは異
解消する援助モデルが求められてきたといえる
(Boehm & Stample 2002)。
なって障害が固定したわけではなく、
「疾病と障
害が共存する」といわれている精神障害者の場合
は、医学モデル的、個人モデル的な処遇傾向は
(2)ソーシャルワークへのエンパワメント概念
導入
いっそう強烈であったと思われる。これらのモデ
エンパワメントについてはその関心の高さにも
ルに基づく各種サービスの提供は、全て非障害者
かかわらず、まだ一致した概念定義がなされてい
の援助者によって決定され、障害者はそれに対し
るわけではない。エンパワメントについての先行
て唯々諾々と従うことが求められた。本人の自己
研究レビューを通して、三毛美代子は複数の論者
選択、自己決定は全く無視されるか、あるいは軽
において共通する点があるとし、
「自分の生活を
視されていたのである。ビク・フィンケルシュタ
自分でコントロールしたり、自分の生活に影響す
インは、このようなサービス提供のあり方を「運
る外的な要因に影響を与えること」とエンパワメ
営管理(administrative)モデル」とも呼んでいる
ントを定義づけている(三毛 1997)。ここで明ら
(Finkelstein 1993:36―8)。
かのように、エンパワメントとは自己の生活に関
このように障害者は、自分自身の生活であるに
係する全てを自らがコントロールしていく力(パ
もかかわらず、自ら選択し、物事を自己決定する
ワー)の獲得を意味している。植戸貴子は、エン
機会を周りの者、なかんずく専門家と呼ばれてい
パワメント概念を考える上で「パワー」の持つ意
る管理者によって奪われてきたといえるだろう。
味を押さえておかなければならないとし、それ
エンパワメントの観点から見れば、まさしく障害
は、従来はややもすれば個人レベルの内的能力に
者は「パワーレス状態」
、「ディスエンパワメン
限定される傾向があったが、個人レベルに加え
ト」に置かれていたと言い換えられる。たとえ障
て、対人関係レベル、環境レベルにおけるパワー
害者の方から選択決定についての意思表示があっ
の獲得が目指されなければらならないと指摘す
ても、援助者や周囲の者は不可能性や危険性を盾
る。したがって、対専門職関係を含めた対人関
にしてそれを押さえ付けてしまうのが常であっ
係、および環境に存在する各種資源へのアクセス
た。「危 な い か ら 本 人 に 教 え な い、決 め さ せ な
においても、自らコントロールし得るということ
October 2
0
0
5
が重要になってくる(植戸 2003)。
―1
1
7―
の1991年に書かれた専門雑誌 social work の巻頭
実はソーシャルワークの歴史を紐解けば、今日
言“Words creates World”(Hartman,1991)に
いうところのエンパワメントの考え方につながる
求められることが多い(三島 2002)。もちろん、
源流とでもいうべき活動が、ソーシャルワーカー
ソーシャルワークにおけるエンパワメント概念
が一つの専門職として形成される以前から既に芽
は、バーバラ・ソロモンによって既に1970年代半
生えていたことに気づく。久保美紀は、ジェーン・
ば に 提 唱 さ れ た も の で あ り(1976年 の“Black
アダムスやドロシア・ディックスの名を挙げ、こう
Empowerment”)、あるいはソーシャルワーク創
したソーシャルワークの先駆者たちがエンパワメ
始者たちによる初期の志向性をリバイバルさせた
ント志向であったことを強調している(久保 1
9
9
5)
。
のがソロモンであるとも解釈できる。その意味で
その意味では、バーバラ・サイモンがいみじくも
は、エンパワメントをポストモダニズム・ソー
指摘したように、ソーシャルワークにおけるエン
シャルワークの産物として捉えるのは、やや時代
パワメント実践は、1890年代以降において、その
的に合わないことになる。しかし、ソロモンの理
時代時代に異なる呼称が与えられてきたにせよ、
論はもともとはアフリカ系アメリカ人の解放運動
ソーシャルワーク、特に米国ソーシャルワークの
・公民権運動の展開と成果を参考する形で形成さ
伝統であり続けたともいえる(Simon 1994)。た
れていったものであり、その出発点には、ソー
だし、それがソーシャルワークの中で概念化さ
シャルワーカー自身の中に存在するアフリカ系ア
れ、脚光を浴び、市民権を獲得したのはそれほど
メリカ人への偏見の問題があったことが知られて
古い話ではない。というよりは、ソーシャルワー
いる(小松 1
995)。また、三毛は、1980年代にお
クの創始者たちによって志向されたエンパワメン
ける新保守主義時代がリードする米国において、
ト重視の姿勢は、その後の歴史の中で中心を占め
貧困、人種やジェンダーにまつわる差別や抑圧が
ることになったセラピー重視の潮流によって傍流
減少するどころか増加する勢いを示す中で、それ
に追いやられ、時代と共にその存在は希薄化させ
らに対して為す術がないソーシャルワークという
られてしまったという事情がある(久保 1995)。
専門職についての再帰的な疑問が、エンパワメン
今日におけるエンパワメントのソーシャルワー
トへの関心の高まりと無関係ではなかったと述べ
クの中への浸透には、
「ポストモダン」の影響を
ている(三毛 1997)。
否定できないという指摘もある。三島亜紀子によ
こうした指摘を考えると、エンパワメントの
れば、ソーシャルワーク理論を精緻化し、その学
「リバイバル」とは、フレックスナー・ショック
問性を高める試みを積み重ねることで研究たり得
以降に常に科学的な存在であることを志向してき
た幸福な時代は、1960年代以降の反専門職主義の
たソーシャルワーカーたちの姿勢に対する自己批
うねりの中で揺らぎはじめる。特に90年代に入っ
判、あるいはマイノリティを軽視してきたソー
てからの「ポストモダニズム」の浸透によって、
シャルワーク理論そのものへの懐疑によって生ま
ソーシャルワーカーを権力装置の一機関として見
れたともいえるのであり、その意味では、ソー
なす批判が生じるに至り、決定的な転換点を迎え
シャルワークにおけるポストモダニズムの先駆け
た。その上で、ポストモダニストの視点は、マー
であったともいえる。
ジナルな立場においやられてきた人たち、障害
障害者ソーシャルワークも、またソーシャル
者、女性、子供など、の存在を肯定的に捉えると
ワークの一部としてこうした潮流とは無縁ではい
いう意味で重要であるだけではなく、そうした視
られなかったし、障害者という、これまでソー
点でソーシャルワークを捉え直していく姿勢を持
シャルワーク全般が相対的に軽視してきた人々と
つことがソーシャルワーカーに必須の作業である
の関わりに従事し、まさにそうであるがゆえに
ことを認識させたのである(三島 2001)。
ソーシャルワークの姿勢を体現している存在とし
ちなみに、三島も指摘しているように、ソー
て、ポストモダニズム、あるいはそれ以前の反専
シャルワークにおけるポストモダニズムの開始
門家主義のうねりの中で絶えず厳しい批判の矢面
は、エコマップ開発で知られるアン・ハートマン
をソーシャルワーク全体に変わって引き受けてこ
―1
1
8―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
ざるを得なかった。そして、90年代以降のポスト
らの有するこうした権力性が援助関係に負の影響
モダニズム的な潮流の中で、ラディカルなソー
を及ぼしかねないことは十分に認識されていた
シャルワーク批判をはね除け、ソーシャルワーク
(北野 1995;久保 1995;三毛 1997;植戸 2002,
のサバイバルが目指されたときに、エンパワメン
2003)。先の植戸も、援助者と被援助者という関
トという概念は多くのソーシャルワーカー、特に
係にはどうしてもパワーの不均衡が内在化してし
障害者分野のソーシャルワーカーたちにとって極
まうことを指摘している。またそれを拍車にかけ
めて魅力的な道標に見えたであろう。
るかのように、権力構造を象徴する表現(「処遇」
や「指導」など)がまかり通り、利用者を話しの
(3)エンパワメントのパラド ッ ク ス と パ ー ト
ナーシップ
「話題」や「対象」にしか見ていない会話が横行
し、あるいは利用者を子供扱いにしがちなプログ
こうして今日のソーシャルワーク理論、実践共
ラムの設定がなされてしまっていると指摘し、
に、エンパワメントを抜きにして語ることはでき
ソーシャルワーカーとの関係で却って利用者がパ
なくなった。しかし同時に、エンパワメントのパ
ワーレス状態に陥る危険性があることを認めてい
ラドックスと称される問題が浮上してくることに
る(植戸 2002)。
なる。ジュディス・グルーバーとエディソン・
それゆえに、イェスケル・ハーセンフェルド
トゥリケットは、コネティカット州で始まったハ
は、ソーシャルワーカーとクライエントの関係は
イスクール運営への生徒自身や親の参加プロジェ
「パワー依存関係」が存在しているのであり、パ
クトの事例研究を行っている。そこには、教師が
ワーの非対称性を止揚すべく取り組みが必要であ
独占していた意思決定への生徒や親の参加によっ
ると強調したのであった(Hasenfeld 1987)。藤
て、両者のエンパワメントが果たされるというも
井達也も、
「当事者と協働しやすい」社会への変
くろみがあった。結果は、心理的に「エンパワー
革が目指さなければならず、そのためにはソー
された」という気分を醸し出せたのは確かである
シャルワークの価値に根ざしたパートナーシップ
が、組織的に見ればプロジェクトは成功裏に終
の構築が欠かせないこと、そして、パートナーシッ
わったとはいえなかったことが報告されている。
プはエンパワメント・アプローチの一部として見
彼女らによれば、民主的で平等な運営にもかかわ
なされるべきことを強調している(藤井 2
004)。
らず、エンパワーされるはずの生徒、保護者の間
植戸は、このパートナーシップの具体的な有りよ
に、専門職としての教師への依存が生じたことが
うについて、自分自身の事について知識を有して
失敗の原因であり、エンパワメントは逆説的な結
いることが利用者のパワーになっている一方で、
果をもたらしたという。グルーバーらは、この現
ソーシャルワーカーは社会資源や解決方法などに
象をエ ン パ ワ メ ン ト の パ ラ ド ック ス と 呼 ん だ
ついての知識やスキルという形でパワーを有して
(Gruber & Trikett 1987)。
また、エンパワメントに関してのソーシャル
ワーカーとクライエントの視点の違いをフォーカ
おり、両者がそれぞれのパワーを補完するような
形でのパワー共有関係は成立可能であるという
(植戸 2002)。
スグループを用いて調査分析したアムノン・ベー
しかし、稲沢公一は、エンパワメントのパラ
ムとリー・スタルスは、ソーシャルワーカーが示
ドックスは、ソーシャルワーカーの姿勢の問題で
したプロセス志向は、ややもすればクライエント
もなく、ましてや単なる技法上の問題でもなく、
の態度変容を重視するあまり、クライエントを取
エンパワメントという概念に本質的に付随するも
り巻く社会環境の変化を軽視する傾向があり、そ
のであり、パラドックスの解決は事実上難しいこ
の意味ではソーシャルワーカーのプロセス志向は
とを指摘する。稲沢によれば、そもそもエンパワ
伝統的、臨床的なワーカー・クライエント関係を
メントとは「自分たちがパワーを獲得していく」
いっそう強化する方向に働きかねないと指摘する
という主体的な営為であるにもかかわらず、それ
(Boehm & Stample 2002)。
もちろん、ソーシャルワーカーたちには、自
を「エンパワメントさせる」という援助概念に置
き換えてしまったことこそにパラドックスの原因
October 2
0
0
5
―1
1
9―
を求めなければならないという(稲沢 2003)。確
のもとでパートナーシップの形成は困難であるこ
かに、「エンパワメントさせるための援助」とい
とを認めつつ、
「援助役割を超えて、人間として
う表現自体をするのであれば、それは矛盾そのも
の関心を互いにもち、かかわりあうこと」(藤井
のであろう。それでは、エンパワメントがワー
2004:182)は可能であるし、今こそこうした関
カーの援助により与えられたものになってしまっ
係が求められていると述べる。
ている。諸般の事情でソーシャルワーカーがエン
確かに、関係の出発点として藤井のいうような
パワメントのために介入せざるを得ないという理
「生の人間どうしの対等な関係」というものは十
屈もよく理解できる。しかしそうとなると、言葉
分可能であるし、そうでなければいかなる援助関
の真の意味でのエンパワメントにはならないし、
係であっても有意義な結果をもたらさないであろ
ソーシャルワーカーの介入を認めた分だけ利用者
う。ただ問題は、出発点ではたとえそうであった
の自己コントロールは相殺されて、パワーが減っ
としても、その後の具体的な展開の中で、どこま
てしまう。しかも、それが、北野誠一がいうよう
でこの対等性の貫徹が可能なのかということであ
に、ソ ー シ ャ ル ワ ー カ ー た ち も む し ろ「善 意
ろう。ただの「人間どうしの関係」であったもの
で」、「善かれと思って」行なったアプローチであ
が、い ず れ は、利 用 者(障 害 者)、ソ ー シ ャ ル
るだけに、余計に始末に困ることになる(北野
ワーカーというそれぞれの仮面をかぶらざるを得
1995)。オリバーらも、後述する障害学の立場に
ない。そうなると途端に、どうしてもそこには何
立って、エンパワメントをソーシャルワーカーか
らかの権力構造が入り込んでくることは避けがた
らの「贈り物」として捉えてるべきではないと戒
いのではないだろうか。そうであれば、出発点で
めている(Oliver & Sapey 1999:75)。
形成されていたかもしれない対等性は、先述した
エンパワメントのために欠かせないとされる
パワーの補完性が一部に留まるという事情も加
パートナーシップにしても、確かに利用者とソー
わって、その後の具体的なソーシャルワークの展
シャルワーカーの交互作用の中でパワーの補完と
開の中でむしろ背後に隠れてしまいがちになり、
いう関係は確かに成立し得るだろう。それにして
「援助」
、「支援」あるいは「介入」など様々な表
も、援助という「取引関係」の全領域にわたって
現のどれを使うにしても、
「援助する者」と「そ
そうした関係が発生するとは限らない。利用者が
れを受ける者」という権力関係、依存関係が前面
有するパワーよりもソーシャルワーカーのそれが
に出てくることになりかねない。こうなってくる
より広範囲である以上は、ある部分で補完し得て
と、パラドックスを避けるためにはセルフ・エン
も、それ以外の部分ではソーシャルワーカーの方
パワメントしか論理的には残されていないことに
がパワーの点で優位に立つことになる。補完関係
なる。
が一部に留まるのであれば、それ以外の部分を含
めた全体でソーシャルワーカーの優意は崩れな
(4)セルフ・エンパワメントとソーシャルワーク
い。そもそも当初において利用者がパワーレス状
誠に皮肉な言い方であるが、こうした分析を突
態にあるのであれば、圧倒的にソーシャルワー
き詰めていけば、
結局は、セルフ・エンパワメント
カーの方が上位であろう。対等な関係になるとす
の推進とはソーシャルワークという専門職の自己
れば、それは利用者がエンパワメントされてから
否定につながりかねない側面をもつ。多くのソー
ということになる。しかし、それではパートナー
シャルワーカーたちはこのパラドックスに直面し
シップ構築のためにエンパワメントしなければな
て、何とかエンパワメントと自らの存在意義を両
らないという本末転倒な話になってしまう。
立させるために、様々な取り繕いを強いられてい
もちろん、それでもソーシャルワーカーと利用
るのかもしれない。しかし、結局は、解決困難であ
者の関係には、パートナーシップの本質ともいえ
ることを認めつつ、あとは日々の実践の中で何ら
る「対等な立場」に立ち得ることは可能ではない
かの落としどころ(例えば、単なる「パートナー
かという指摘があることも否定できない。例え
シップ」ではなく「真のパートナーシップ」の構築
ば、先の藤井は、エンパワメント・パラドックス
といった表現のように)を見いだすことに期待を
―1
2
0―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
表明せざるを得ないのだろうか。それに対して
しかないと突き放している(長野 2001a)。
も、「それは真の同盟ではなく、専門職集団が発
それでは、全てはソーシャルワーカーの関与を
展するための手段に過ぎないように見える場合が
必要としないセルフ・エンパワメントで事足りる
ある」という批判さえされている(バーンズほか
のであろうか。もしそうであれば、もはや本論で
2004:172)。
検討していく精神障害者のエンパワメントをソー
しかも、エンパワメント以外にも、ソーシャル
シャルワークの視点で論じる必要などは全くない
ワークそのものが実は深刻な「病根」を抱えてい
ことになる。しかし、ソーシャルワークをはじめ
るという内部批判さえ飛び出してきている。樋澤
とする既存の専門職、学問、実践を一括して「リ
吉彦は、精神科ソーシャルワークにおけるパター
ハ学」として批判する障害者やその支持者の側に
ナリズムの検討を行う過程で、パターナリズムに
も、これまでの対専門職戦略、すなわちそれらに
対するアンティテーゼとして組み込まれているは
反発し、対抗していくというストラテジーを改
ずのソーシャルワークが、
そこに専門家としての
め、新たな方向性を探る動きが生まれてきている
精神科ソーシャルワーカー(PSW)とクライエン
ように思われる。そもそも、後述するようなオル
トとの関わりがある以上は、どうしても前者の後
タナティブとしての「障害学」という学の成立自
者に対する干渉や介入の手法をとらざるを得ず、
体が、ソーシャルワーカーなどの専門職との間の
いかにそれを「勧奨」や「助言」という心地よい名
関係を見直し、再構築しようとする障害者側の試
称に代えたところで、自分たちが批判するパター
みであるとも理解できるのである(山岸 2004)。
ナリズムにむしろ親和的であることを指摘し、
ソーシャルワークには抜きがたい権力性を有し
ソーシャルワークはそれらの援助行為が正当化さ
ていることに思いを馳せれば、それに対する障害
れるそもそもの根拠について再検討していく必要
者をはじめとした批判者との間で真摯な対話をと
があるとする(樋 澤 2003)。さ ら に、金 子 晃 之
おしてのみ、障害者ソーシャルワークの立て直し
は、そもそも援助技術とは、他者による計画的な
が可能になるのではないだろうか。また、こうし
ものであって、そこには利用者の完全な主体性と
た作業を誠実に果たすことによって、もしソー
は相容れないという原理を含んでいるとし、それ
シャルワークにまだエンパワメントを語れる資格
は、例えば施設オンブズマンなどのような第三者
があるとすれば、それはどういうコンテクストの
評価が十分ではないから生じた問題なのではな
中で可能になるのかについても検討していくこと
く、そもそも自ら援助と名のるものに根源的に付
ができると考える。
着している問題であると述べている(金子 2000)
。
そのように考えると、横須賀俊司の次のような
実際に、現状に対する障害者の目も非常に厳し
指摘は非常に示唆的である。横須賀は、ソーシャ
いものがある。例えば、精神医療サバイバーであ
ルワーカーと障害者の間には解消しがたい「格
る長野英子は、自らの精神病院での体験を元にし
差」があり、
「よほどのことがない限り、障害者
て、精神医療への関わりによって耐え難い苦痛を
は簡単に不安や不信感をもってしまってもおかし
強いられ、それによる苦しみは今なお継続してお
くない状況」が存在していることを指摘しつつ、
り、それはまさしく「PTSD」であると、精神医
それに気づいているソーシャルワーカーが少ない
療の加害性、権力性を批判する。いうまでもな
ことを嘆く。ソーシャルワーカーに残された道
く、こうした権力性に荷担してきたソーシャル
は、障害者に対して、そうした「格差」があるこ
ワーカーたちも同じ被告席に座らされているので
とから「逃げない、苦しみやしんどさを引き受け
あると考えた方がよい。さらに長野は、PSW が
るメッセージ」を発進することであり、そこから
ケアマネジメント従事者に就くことが予測される
障害者との間に真の意味での協働関係の構築と
精神障害者ケアマネジメントとはサバイバーを管
ソーシャルワーク再構築の可能性が開かれること
理する「差別的」な取り扱いに他ならず、結局
を示唆している(横須賀 2003)。権力構造に代表
は、サバイバーを安心させるためのものではな
されるように、両者の間には大きな「溝」が存在
く、ケアマネジメント従事者を安心させる意味で
していることを自省的に認知し、それでも「しん
October 2
0
0
5
―1
2
1―
どさを引き受けるメッセージ」の発信を可能にし
の努力を強いながらも、いつまでたっても同化を
ていくためには、障害者ではなくソーシャルワー
拒み続ける社会に絶望しての、
「同化・統合」モ
クの側が「溝」の対岸に向けて飛び込んでいかな
デルの「約束違反に対する異議申し立て」という
ければならないのではないだろうか。少なくと
性格も有している(石川 2002;杉野 2002)。
も、ボールはソーシャルワークの側に放たれてい
るのは確かのようである。
こうした観点から、次に、ソーシャルワークに
こうした障害学の主張は、国際的にも大きなイ
ンパクトを与えており、国際障害分類も社会モ
デルとの折衷が試みられて、2
001年に ICF(国際
とっての「溝」の対岸の動きを、
英国に始まる障害
生 活 機 能 分 類:International Classification of
学の動向をとおして探っていく作業を行いたい。
Functioning, Disability and Health)へ の 衣 替 え
が行なわれたのも周知のところである。日本でも
2.障害学の潮流と障害者文化
2003年に障害学会が結成され、2004年7月に静岡
で第1回総会が開催された。同時に、日本におい
(1)障害学と社会モデル
てもそのオルタナティブ性が遺憾なく発揮され、
障害学とは、これまで様々な援助サービスの受
既存の学問、専門家(「リハ学」)への厳しい問い
給要件としてとらえられてきた障害、あるいは
かけと、伝統的な障害概念、およびそれに基づい
サービスの対象者、あるいはあくまでも客体にす
て築き上げられてきたリハビリテーションや福祉
ぎなかった障害者という捉え方ではなく、まさし
サービス・システムについての「脱構築」の試み
く障害の側、あるいは障害者の視点から新たな知
がなされている。
を形成しようとする学問であり、同時に既存の枠
組みを打破を目指す運動でもある。日本における
(2)社会モデルへの批判と第二世代の登場
障害学の先駆者の一人である長瀬は、障害学を以
こうして一世を風靡することになった障害学で
下のように説明している。すなわち、
「障害を分析
あるが、1990年代に入ってから、創始者であるオ
の切り口として確立する学問、
思想、知識の運動
リバーらの社会モデル中心の考え方に対して、そ
体」であり、
「『障害者すなわち障害者福祉の対象』
れは「インペアメント」の「隠蔽」につながって
という枠組みからの脱却を目指す試みである。そ
いる、あるいは身体への中立的もしくは肯定的な
して、障害者独自の視点の確立を指向し、文化と
態度を強いているのではないかという批判が生ま
しての障害、障害者として生きる価値に着目す
れてきた。これが、障害学の第二世代と呼ばれる
る」学問的実践でもある(長瀬 199
9:11)。
動きであり、第一世代が差別主義的な社会の変革
障害学では、障害者が直面している問題とは実
を主張することから「平等派」と呼ばれるのに対
は欠損や能力の欠如ではなく、社会的なバリアで
して、こちらの方は「差異派」
、あるいは「異化
あることが主張される。こうした社会的バリア、
アプローチ」と言い表されることもある(倉本、
すなわち「ディスアビリティ」こそが「障害」の本
1999;長瀬、1
999;杉野、2002)。後述するよう
質であるとされる。ここでいう「ディスアビリティ」
に、第二世代には障害者という存在を肯定する
とは、作為的、無作為的な社会の障壁であり、そ
「障害の文化」への志向、そこには健常者主導の
れによって引き起こされる機会の剥奪や排除を意
マジョリティ文化からの「異化」が目指されてい
味する。こうした社会こそが、
「できなくさせる
る、という点にそのネーミングの理由がある。
社会」なのであり、差別主義的な本質がそこに露
さて、第二世代研究者の代表者として、ジェ
呈されている。その変革こそが目指されなければ
ニー・モリス、リズ・クローなどの存在が挙げら
ならない(石川 2002)。こうした考え方は「社会
れるが、彼女らは、社会モデルによって糾弾され
モデル」と呼ばれている。この社会モデルは、こ
ている社会のバリアを解消するために往々にして
れまでの障害の克服を障害者の個人的努力に求め
障害者が陥りやすい罠に、自らのインペアメント
る医学モデル、個人モデルに対するオルタナティ
の否定的側面を忘却してしまうことがあると指摘
ブであり、同時に、障害者に社会への適応=同化
する。そしてさらに、これまでの社会モデルが
―1
2
2―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
「障害」概念の見直しに性急なあまり、身体への
能性を有する。もし、
「障害の文化」というもの
中立的もしくは肯定的な態度を表示し続けること
が成立するのであれば、当然、インペアメントの
を障害者に要求し、それが結果的にインペアメン
種類も多様であることを考えれば、それに応じて
トとその体験を抑圧させてしまっているのではな
様々な「障害者の文化」が存在することになって
いかと疑念を示した。
くる。したがって、倉本がいうように、
「障害の
社会的バリアとその抑圧に対して戦うという目
文化」、あるいは「障害者の文化」とはこうした
標の前で、インペアメントについて否定的な体験
様々な文化を総称したものである(倉本 2000)。
を自覚した障害者は、その感情を抑圧せざるをえ
実際に、個別の文化としては、
「ろう文化」と
ない。何故なら、ディスアビリティの解消が主
いう位置づけが、ろう者自身の手によってなされ
目的であり、インペアメントに拘ることは瑣末な
ている(木村・市田 1996)。手話という、日本語、
ことに過ぎない。しかし、それは新たなタブー
英語といった音声言語とは全く異なる言語体系を
の創出につながりかねな。そうではなく、障害者
持ち、それによる独自の体験と生活スタイルを、
がよりよく生きることを難しくしているのは、
ろう者たちは持つ。それらの全体はまさしく、木村
バリアだけではなくインペアメントをどう受け取
2)に 違 い な い(石 川
の い う よ う に「ろ う 文 化」
るかであり、そこから目を背けてはいけないと第
2000;木村・市田 1996;木村 2000;長瀬 1998)。
二世代は主張する(倉本 1999;石川 2000;杉野
ろうの人たちは言語的共同体としてのアイデン
2002)。
ティティを有するが、ろう以外の障害者にはそう
こうした第二世代の批判に対して、第一世代の
ではなく、共通の身体、体験、方法にアイデン
方からは、例えば、コリン・バーンズのように、
ティティを見いだす可能性がある。また、文化に
社会モデルが込めた主張をなし崩しにしてしまう
は優劣はない。そうであれば、それぞれの文化は
と い う 反 発 が 生 じ て い る(Barnes 1998(石 川
独自の文化を開花させて行くべきという考え方を
2000より引用))。しかし、石川や杉野も指摘する
ように、第二世代といえども、社会モデルを否定
生む。ここにも、第二世代の特徴になっている
「異化」という立場が強調されている。
しているわけではない。むしろ、社会モデルによ
こうした「障害者の文化」については、
「盲文
る社会的バリアの解消と差別の撤廃が必要なこと
化」の存在(杉野 1
997;倉本 1
998)、あるいは
を完全に同意してる。ただし、社会的バリアを完
ラディカルな障害者解放運動を展開したことで知
全に除去しても残るインペアメントとその体験
られる「青い芝の会」での脳性マヒ者による取り
を、社会モデルの埒外に追いやるのではなく、イ
組みに「障害者の文化」の芽を嗅ぎ取った倉本の
ンペアメントも社会モデルに内摂していくべきで
指摘(倉本 1997)など、その存在を肯定する障
あるとする点に、第一世代と異なる視点を見いだ
すことができる(石川 2000;杉野 2002)。
害学の研究が多くなされている。倉本は、さらに
「青 い 芝 の 会」の み な ら ず、障 害 者 プ ロ レ ス
そのためにも、第二世代障害学では障害者は自
(ドッグレッグス)、障害者舞踏(劇団態変)につ
らのインペアメントについて否定することなくあ
いて「障害者文化」の視点から分析を試み、最後
りのままに語ってみようという立場が奨励される
の舞踏グループについて芸術表現という枠内では
ことになる。自分のインペアメントと、そこから
あるにしても、障害者の身体にオルタナティブな
来る体験、あるいはこれまで生きてきた方法、そ
価値を植え付けていること(
「障害者文化」の萌
うしたものを否定することなく、かといってイデ
芽)に 成 功 し て い る と 評 価 し て い る(倉 本
オロギー的に肯定することもなく、全てをただあ
1999)。また岩隈美穂は、異文化 コ ミ ュ ニ ケ ー
りのまま語っていく。そこになにがしかの全体性
ションの立場から、障害者と健常者との間のコ
と共通性が見られるのであれば、それは「障害の
ミュニケーションは異人種、異民族間コミュニ
文化」、「障害者の文化」として位置づけられる可
ケーションと酷似していること、中途障害者の
2)この言語的特異性という点を強調することから、ろう者は自らを障害者ではないという主張が強くなされるこ
ともある。
October 2
0
0
5
―1
2
3―
「健常者から障がい者への移行のプロセス」が日
モニーを握っている健常者の文化の支配性と、そ
本人がアメリカでの新しい文化に適応していく過
の文化の基底を成している、障害者は劣った存在
程に近似していることを指摘し、このことは、障
と見なす優生学的な思考(要田 1
996,1999)こ
害者文化の存在証明にもなると述べている(岩隈
そが問われてくることになる。
1998)。
もっとも、果たして「障害の文化」
、あるいは
3.精神障害者エンパワメントの課題
「障害者の文化」と呼ばれるものが「文化」とし
て成立し得るのかどうかについては様々な議論が
(1)障害者文化とソーシャルワークの再構築
ある。長瀬は、米国障害学会が発行した1995年の
先述したような動きを踏まえて、本論の目的で
学科誌での議論を整理し、ディスアビリティ・カ
ある障害者、中でも特に精神障害者のエンパワメ
ルチャーが果たして「文化」としての定義を満た
ントにおいては、ソーシャルワークが果たし得る
す存在なのかどうかについては学会の中でも同意
役割として何が認められるのかについての検討を
が得られていないと述べている。一方で長瀬は、
行いたい。その際にまず気づく点は、障害学から
メジャーなメディアにも取り上げられるなど徐々
の批判はそのまま従来のソーシャルワークのあり
にであるが、「障害文化」の存在は当然視される
方、およびソーシャルワークがエンパワメントを
ようになっているという見解も紹介している(長
扱うことへの批判に通じているということであろ
瀬 1998)。また倉本は、文化とは、慣習化された
う。既に引用したフィンケルシュタインの主張の
行為・行動様式、ルールや価値観、文化的生産物
ように、「できなくさせる」側に援助者としての
の3つが含まれたものと定義づけ、障害者である
ソーシャルワーカーが存在しているのである。障
が故に障害者が担う文化というものは存在し得る
害学からの批判は、ソーシャルワークがエンパワ
とする(倉本 2000)。
メントを語る資格を有したいと願うのであれば、
ちなみに障害学第二世代が主張する「障害者の
文化」とは、杉野昭博の言う「名のりの文化」に
そのあり方を根本から見直すことを迫っていると
いえるだろう。
他ならない。それは、他者から規定され、主流に
次に気づく点としては、障害者たちが「名の
従属する単なるサブカルチャーでもなく、あるい
り」を通して、障害者文化を打ち立て、発展させ
は他者への反発から生まれた対抗文化でもなく、
ていくプロセスとは、すなわちセルフ・エンパワ
障害者の内部からその固有性に立脚しながら発進
メントの過程に重なっていくということである。
された文化である。決して健常者の文化に同化し
先の倉本の「文化」の定義に従えば、共通する障
きれない障害者の生の現実と体験に立脚するもの
害の体験を通して、自分たちにとって使いやすい
であり、それは健常者との間では埋めきれない溝
「文化的生産物」を活用しながら、生活していく
を前提として成立している(杉野 1997)。
上で負担のより少ない「慣習化された行為や行動
その際に、忘れられてはならないのは、
「障害
様式」、あるいは「ルールや価値観」を育み、深
者文化」に対峙する「健常者文化」における圧倒
化させていくことによって、
「健常者文化」の支
的なマジョリティ性についてであろう。障害者の
配と抑圧から脱却し、解放されていく過程とは、
方には、その生き方を、よりよい生活について語
「自分の生活を自分でコントロールしたり、自分
ることが求められるのに対して、健常者にはその
の生活に影響する外的な要因に影響を与える」と
ようなことは一切あり得ない。健常者が無傷で、
いうエンパワメントにそのまま重なるのではない
障害者には絶えず自らを問い直す作業が強いられ
だろうか。奥田啓子は、米国の動向を踏まえなが
ている(長瀬 2000)。こうした非対称性こそが、
ら、障害者文化の一つであるろう文化の中におい
先ほどの大きな溝を構成しているともいえるので
て、ろう者のエンパワメントの可能性を示唆して
ある。障害者の文化を問うことは、同時に健常者
いる(奥田 2002)。
の文化を健常者自身が自省的に問いつめていくこ
これらのことは換言すれば、エンパワメントは
とと表裏一体でなければならない。圧倒的なヘゲ
セルフ・エンパワメントしかあり得ないというこ
―1
2
4―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
との証明にもなっている。というのも、文化を育
題であるという根拠が失われてしまうことを指摘
ているということは当該文化の外部の者が、良き
する。そうした反省にたって、豊田は次のように
理解者として外に向けて紹介することはあり得る
提言する。すなわち、
「障害者と非障害者という
としても、内側に向けて干渉を行うべきものでは
マイノリティとマジョリティの関係の問題として
ない。それは、当該文化の内部において、自然発
位置づけるときにおいては、少なくともその双方
酵的に行われるべきものであると考えるべきであ
が当事者として同じテーブルにつく必要がある
ろう。
し、社会全体の問題として考えるとき、その変革
しかし、同時に次の点については是非とも銘記
の主体は障害者ばかりに求められるべきではな
しておくべきではないかと考える。すなわち、障
い。それは共同の作業としてなし得るべきものだ
害者の文化が「名のりの文化」であることは、
からである」
(豊田 1998:113)。
「名のり」を向けられた「健常者文化」のあり方
この主張を、
「障害者文化」の文脈に置き換え
が問われることになるという点である。
「健常者
てみたい。すなわち、
「障害者文化」を軸にして
文化」は圧倒的なマジョリティである。異なる文
差別と抑圧の解消を論じるのであれば、それは社
化がぶつかり合うときに、そこには必然的に様々
会全体との関連の中で、換言すれば非障害者=健
な摩擦が生じる(木村 2000)。「健常者文化」と
常者文化との共同作業を通して果たされなければ
の文化摩擦では、力関係の差を考えれば「障害者
ならない。しかし、この共通のテーブルを設定
文化」の方が極めて不利であり、そこから生じる
し、相互コミュニケーションをとるという作業が
様々な困難とその克服の努力を障害者の方が引き
いかに困難なことなのかを私達は気づく必要があ
受けざるを得ない。曰わく、
「自分たちの文化を
る。先にも引用した異文化コミュニケーション学
発信して、多数派に理解を求めよ、それが障害者
者の岩隈は、異文化コミュニケーションの最大の
の役割であり義務である」と。しかし、これでは
障壁が自民族優越主義であるとし、特に「和の文
新たな障害者役割の付与であり、形を変えた健常
化」という同質性を強調する日本社会においては
者による障害者の支配でしかない。「障害者文化」
障害者と健常者という異文化コミュニケーション
を通してセルフ・エンパワメントを果たそうとす
が困難であることを吐露してる(岩隈 1998)。
れば果たすほど、先のような障害者役割に縛られ
もちろん、この困難の源は、障害者と健常者の
て身動きできなくなってしまいかねない。皮肉な
双方にあると考えた方がよい。自己が所属する
ことであるが、これは形を変えた新たなエンパワ
「障害者文化」の確立と深化のためには、ある程
メントのパラドックスでもあるだろう。
度の「民族優越主義」の発生は避けられないし、
この新たなパラドックスの可能性を前にして、
そのことは後述する長瀬のろう文化への批判から
あるいは文化間の葛藤や対立という可能性を前に
も伺い知れよう。同時に、圧倒的にヘゲモニーを
して、もし、それらが障害者のみでは解消できな
握っている健常者文化も「民族優越主義」である
い、言い換えれば、セルフ・エンパワメントの限
ことは明らかである。先にも触れたが要田洋江が
界が存在しているのであれば、そこにソーシャル
指摘するように、「健常者文化」には「優性思想」
ワーカーとしての出る幕があり得ると考えられな
が根強く張り付いており、それを障害者側に押し
いだろうか。このことを考えるに当たって、さら
つけようとしてきた と も い え る(要 田 1996,
に次に、
「当事者性」についての豊田正弘の議論を
1999)。鄭暎恵がいみじくも指摘するように、自
検討してみたい。
らのヘゲモニーを握っている圧倒的マジョリティ
豊田は、障害者運動が「当事者性」を主張する
にとって、その支配を脅かさない程度の範囲で、
あまり、勿論それは運動に権威を与えるという効
マイノリティたちの多様性を許容しているに過ぎ
果をもたらしたのであるが、その一方で、本来で
ないという可能性は払拭できない。
ここでは多文
あればこの社会全体が共有すべき障害者問題が
化主義が、むしろ反差別のポーズ、ないし免罪符
「障害者の、障害者による、障害者のための」議
としての機能を有するに留まってしまいかねない
論に封じ込められてしまい、障害者問題が社会問
(鄭 1996)
。
October 2
0
0
5
―1
2
5―
こうした議論を踏まえてみれば、単純に、セル
されている。長瀬は、ろう文化の担い手たちが自
フ・エンパワメントの一環として「障害者文化」
らを障害者ではないと位置づけていることに対し
の創造と発展を礼賛し、その方向を奨励していく
て、それではろう者はそもそも障害者をどう定義
だけでは大きな限界に直面することに気づくこと
づけているのかを明確にすべきではないかと批判
ができる。双方の「民族優越主義」のぶつかりと
し、同時に、ろう文化のもつ「ろう中心主義」が
いう異文化コミュニケーションの場を前にして、
新たな周辺を生み、中心が周辺を抑圧する結果を
そこに新たな支配と服従の関係が発生しないよう
生みかねないと危惧する(長瀬 1996)。
に、深刻な葛藤と対立を解消し、あるいは新たな
「障害者文化」が、その文化としての成熟を深
パラドックスを回避し、ソフトライディングさせ
めれば深めるほど、排除の論理にそまっていく危
ていくべき仲介者の存在が欠かせないのではない
険は確かに存在する。ろうという枠内でいえば、
だろうか。このことは、伝統的なソーシャルワー
それは、難聴者や中途失聴者の排除であり、ろう
クの用語を使えば、障害者のセルフ・エンパワメ
の中で「目覚めない者」の排除であり、さらにろ
ントの障壁、それも環境的な障壁を除去するこ
う文化以外の「障害者文化」からの関係途絶であ
と、言い換えれば、セルフ・エンパワメントと
ろう。同じことは、ろう以外の他の障害者にもい
「障害者文化」発展を可能とする環境面での改善、
えることである。また、障害の多様性を考慮すれ
整備ということになるだろう。ここに、社会環境
ば、どこまで「障害者文化」が細分化されればよい
的な側面も重視し得る専門職としてのソーシャル
のかも不明であるし、重複障害者の場合はどの文
ワークが関与する積極的な意味が認められるので
化に所属すればよいのか迷うことになりかねない。
はないだろうか。
このように「障害者文化」といってもまだまだ
こうした考え方には、障害学の立場に与する者
理論的にも実践的にも検討を要することは多く残
からも一定の支持がある。横須賀は、身体障害者
されている。しかし、先述した文化摩擦について
としての立場から、また障害学に関わる研究者と
は、それが底なしの暗闇に陥るスパイラルである
して、ソーシャルワークは間接援助技術、なかん
として闇雲に否定されるものでは決してないこと
ずくソーシャルアクションを中心に展開されるべ
には注意したい。むしろ、相互の接触と摩擦を通
きであることを予言している(横須賀 2003)。い
して、相互理解と尊重が生まれる可能性の方を私
うまでもなく、このソーシャルアクションとは
たちはより重視すべきであろう。ただし、そのた
「健常者文化」への働きかけをより強く意識した
めには文化間の出会いの場の設定が欠かせないの
ものであると見なすことができるだろう。また、同
であり、かつ複数の文化を知るということによる
じくソーシャルワークの間接援助技術としてコ
中立的な存在がその場に介在してもよいと考え
ミュニティワークも同じ脈略でその展開の必要性
る。そうした役割もソーシャルワーカーが果たし
が認識され得るかもしれない。オリバーらも、社
得るのではないかだろうか。
会モデルを完全な形で導入していくこと、
すなわ
ここまでの結論として、確かにセルフ・エンパ
ち社会の変革がターゲットにされることによっ
ワメントこそ一義的に追求されなければならない
て、障害者ソーシャルワークの可能性は見いだせ
にしても、それだけでは健常者による新たな支配
るこ と を 指 摘 し て い る(Oliver & Sapey 1999:
とパラドックスを生みかねないのであり、また
178―84)。
様々な文化間葛藤を引き起こしかねない。そうで
しかし、改めて「障害者文化」というものがそ
はなく地域社会において上記の意味での多文化主
の中に様々な障害者の文化を内包していること、
義を根付かせ、相互理解と尊重の「共生」を実現
そしてそれぞれが「民族優越主義」に陥りがちな
していくためには、ソーシャルワークの関与はむ
傾向は否定できないということを考慮すれば、文
しろ必要になってくる可能性がある。こうした新
化摩擦は「健常者文化」との間だけに生じるので
たなソーシャルワーク実践の枠組みを、ここでは
はなく、「障害者文化」内部にも発生し得ること
仮に「多文化共生的アプローチ」と呼んでおく。
になる。このことは、既に現実の問題として認識
―1
2
6―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
(2)精神障害者文化とソーシャルワーク
それでも、精神障害者でもセルフ・エンパワメ
障害学がこれまで主に身体障害者を念頭に置い
ントと独自の「障害者文化」の創設の可能性は全
て構築されてきたものであるだけに、セルフ・エ
く否定できないことも事実である。先にも引用し
ンパワメントは精神障害者にも可能であるのかど
た、精神障害者である長野は自らの体験に則し
うか、あるいは「障害者文化」というアイデアが
て、エンパワメントとは「『自己肯定』であり『誇り
精神障害者にも適用できるのかどうかという点の
の回復』である。すべて精神医療が奪い否定してき
確認をまず行っておく必要がある。特に、精神障
た物を取り戻す作業である」と主張する一方で、
害者には「疾病と障害が共存」しているという特
「一つはなぜ『「精神病』者とレッテルを貼られたら
性があり、そのことが与える影響は看過できない
そんな立派な人間にならなきゃいけないのか」、
かもしれない。
「専門家の自己正当化の言い換えではないか」とい
大谷京子は、精神障害者のエンパワメントは
う疑問を提示しつつ、
「『キチガイ解放』の視点から
もっとも難しい変化であるというグティエーレス
言えば、
『自立』も『自己決定』も『主体的人間』も
の言葉を引用しながら、その背景には精神医療の
健常者文化の産物であり、全く違う『人間のありよ
実情が精神障害者をディスエンパワメントさせて
う』
『キチガイ丸だし』の生活を肯定させていくこ
いることがあると指摘している(大谷 2003)。こ
とも必要ではないか?それこそわれわれのエンパ
の視点は、環境改善が果たされれば、精神障害者の
ワーではないか?われわれの少数者の文化に基づ
セルフ・エンパワメントは十分可能であるという
く生活もあっていいではないか?さらにそれを支
考え方をもたらす。一方で、ドナルド・リンホース
えるサービスは当然必要ではないか?既成の現存
トらの見解は逆である。彼らによれば、エンパワメ
する社会に適応することだけをなぜ求められるの
ントでは意思決定を自ら行うというプロセスが重
か?適応を 支 え る サ ー ビ ス し か な く て い い の
視されるべきであるという観点から、精神障害者
か?」と述べ、精神障害者という「キチガイまる
エンパワメントの方法として、援助計画へのクラ
だし」の「少数者の文化」の創出宣言と多数派文
イエントの参加という試みを行った。しかし、そこ
化への同化拒否を行っている(長野 2001a)。
にはいくつかの障壁が存在していたとして、その
この長野の主張は意図的にラディカルさが強調
中でも最大の障壁とは、
精神障害そのものであっ
されているようにも思えるが、私達は、セルフ・
たことが指摘されている(Linhorst et al.
2002)。
エンパワメントと「精神障害者文化」創出の可能
三毛も、慢性疾患を抱える人のエンパワメント
性がまさしく、精神障害者の側から宣言されてい
についてはそれが有効であるという指摘があるこ
ることに気づくであろう。また、山田富秋も、北
とを認めつつ、やはり病気そのものが持つ困難を
海道浦河町の精神障害者作業所「べてるの家」の
無視できないことを述べている。そして、不安
取り組みを通して、そこに医療や常識のスティグ
定、かつ悪化する症状に苦悩し心理的に不安定に
マに対抗する戦略が語られ、実践されていること
なっている人に、エンパワメント(文脈では政治
を指摘している(山田 1999)。この指摘もまた、
的エンパワメントになっている)が果たして可能
「精神障害者文化」創出の可能性を示唆するもの
であるかと疑問を呈する(三毛 1997)。精神障害
と考えてもよいだろう。そして、次なるステップ
も典型的な慢性疾患としての側面を持ち、一概に
として、「精神障害者文化」とその外部との間で
は言えないものの、安定期と不安定期、症状の回
コミュニケーションを通じた相互理解もまた必要
復と悪化を繰り返す傾向にあることを考えれば、
になってくる(藤澤 1992)。
それらがセルフ・エンパワメントの達成に対して
この可能性の延長線上でいえば、精神障害者の
マイナス要因として働くことは十分に予測できる
セルフ・エンパワメントは可能であるし、その場
だろう。ここに、セルフ・エンパワメントの条件
合のソーシャルワーカーに求められる役割とは、
整備にむけた何らかのミクロ的、臨床的な介入と
長野がいうようにエンパワメントの直接的な支援
いう意味で、ソーシャルワーカーの関与の可能性
者ではなく、精神医療の被害者というサバイバー
が示唆されるのではないだろうか。
の「権利擁護官」
、あるいは本人の生存権・福祉
October 2
0
0
5
―1
2
7―
権追求のための情報提供者という位置づけになる
(長野 2001b)。同じく精神医療サバイバーの広
4.今後の課題
田和子も、アドボケイト、すなわち権利擁護にむけ
た代弁者としての関わりをソーシャルワーカーに
差し当たって問われてくるのは、上記のような
期待していることを述べている(広田 2003)。こ
新たなソーシャルワーク像に基づいた実践方法の
うした関わりの延長線上には、先述した環境改善
開発であろう。
「精神障害者文化」生成の可能性
の取り組みが見えてくることになる。もっとも、
があることを前提にして、その創出と発展、およ
アドボケイトには、どうしても「翻訳」の問題がつ
び異文化間交流が可能となるような何らかの社会
きまとうために、ソーシャルワーカーはその代弁
的装置の開発にソーシャルワーカーが関与するこ
行為を慎重に行わざるを得ないという指摘がある
とは必要であろう。そこに何らかの地域福祉、政
ことは認識しておくべきであろう(杉野 1997)。
策的なアプローチが求められてくることになる。
一方で、先のリンホーストらの慎重意見も無視
その具体的な実践戦略とそれを裏付ける理論モデ
できないところである。精神障害が慢性疾患であ
ルの提示が求められる。
るが故の心理的な困難などに対する支援として、
具体的にいえば、圧倒的なヘゲモニーを握る
ソーシャルワークのミクロ的な介入があり得るの
「健常者文化」への働きかけは特に大きな課題に
ではないかという意見を先に指摘しておいたが、
なる。この点で参考になるかもしれないのが、
これについてもセルフヘルプ活動やピアカウンセ
「多 文 化 教 育 MultiCultural Education:MCE」の
リングなどをとおして、すなわちソーシャルワー
試みであろう。MCE は、1960年代の公民権運動
カーを介在させることもなく、心理的なサポート
の高まりに対する反応として開発されたものであ
などは可能であるという反論が予想され得る。こ
り、性別、社会階層、民族、人種、あるいは文化
うなると、結局は他の障害者ソーシャルワークと
的特徴の違いにかかわらず、子供たちは全て同じ
事情は全く同じであるということになる。しか
学校の中で学ぶ機会が平等に与えられなければな
し、精神障害者のセルフヘルプ活動が身体障害者
らないという仮定に基づくアイデア、概念、教育
のそれに比べて停滞気味であることを考えれば、
改革運動、ないしプロセスとして定義づけられて
上のような反論はあまり説得力を持たないという
いる。しかし、初期の調査においては、偏見除去
印象は否定できない。
という意味でその効果が見いだせなかった報告さ
いずれにせよ、
「精神障害者文化」の創出が可
れていたし、あるいはその効果に関して実施され
能であるということであれば、少なくともソー
た様々なメタ分析でも結果は様々であったといわ
シャルワーカーは、その過程をとおして精神障害
れている(Moreli & Spencer 2000)。こうした知
者がセルフ・エンパワメントしていく上での障壁
見を参照、あるいは反面教師にしつつ、ソーシャ
を除去することに加えて、環境整備、各種の社会
ルワークとしての介入プログラムを開発していく
資源創出、「健常者文化」や他の「障害者文化」
ことが求められる。
との「共生」を可能にする間接援助技術(コミュ
しかし、事はそれほど簡単ではないだろう。精
ニティワーク、ソーシャルアクション)をその中
神障害に付随したスティグマの圧倒的な力を前に
心にそえるべきということになってくる。すなわ
して、「言うは易し行うは難し」が現実的なとこ
ち、「障害者文化」を創出することを通してのセ
ろではないだろうか。話を複雑にしているのは、藤
ルフ・エンパワメント推進を図り、その為のメ
澤が指摘しているように、精神障害者内部にもそ
ゾ、マクロ的な障壁を除去することに焦点を置い
うしたスティグマが浸透しており、ややもすれば
た多文化共生的アプローチのソーシャルワーク実
精神障害者内部でそれが自己増幅する可能性であ
践こそが、今後求められるであろう。それは、障
る(藤澤 1992)。そうなれば、精神障害者がみずか
害学のいう社会モデルの延長線上にある社会変革
らの疾病と障害に対する態度を見直し、それを文
につながっていくものであると考えられる。
化の形まで高めては「名のり」を行うことは極め
て困難なのかもしれない。先述した慢性疾患ゆえ
―1
2
8―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
の困難や苦悩に対する支援も含めて、ここにもミ
クロ的なソーシャルワーカーの関与の可能性はな
いのかどうかも検討していかなければならない。
さらに最後にどうしても触れておかなければな
American Journal of Community Psychology, 15(3)
:
353―71.
Finkelstein, Vic, 1993, “Disability: A Social Challenge Or
An Administrative Responsibility?”, In John Swain,
et
al . ( ed . ),
Disabling
Barriers -Enabling
らないことは、全ての精神障害者に対してセルフ
Environments, The Open University, London: 34―43.
・エンパワメントと「精神障害者文化」の創出へ
――& Stuart, Ossie, 1996, “Developing New Services”, In
の参加を強制すべきものでもないということであ
る。とはいっても、文化が当該文化に所属する
者、あるいはそうであると見なされた者に対し
て、大きな強制力を働かせる可能性がある。そう
なると、自主的に「障害者文化」に加わらない精
神障害者に対するリアクションは、厳しいものが
あるかもしれない。
同時に、また全ての精神障害者がそこへの参加
が可能とも言い切れないことは留意すべきだろ
う。セルフ・エンパワメントに固執する限り、そ
G. Hales.(ed.)
, Beyond Disability, SAGE: 170―87.
藤井達也、2
0
0
4、『精神障害者生活支援研究――生活モ
デルにおける関係性の意義』学文社.
藤澤三佳、1
9
9
2、「スティグマとアイデンティティに関
する一考察――精神病患者会の会報の分析から」
社会学評論、4
2
(4)
:3
7
4―8
9.
Hartman, Ann, 1991, “Words creates Worlds,” Social
Work, 36
(4)
, 275― 6.
Hasenfeld, Yeheskel, 1987, “Power in Social Work
Practice,” Social Service Review, 61
(3)
: 469―83.
広田和子、2
0
0
3、「精神医療サバイバーとしてのアドボ
ケイト.
」ソーシャルワーク研究、2
8
(4)
:1
3―7.
れが難しい人たちは見捨てられてしまいかねな
樋澤吉彦、2
0
0
3、「
『自己決定』を支える『パターナリ
い。同じ事は重度の知的障害者にも言えることで
ズム』についての一考察─―『倫理綱領』改訂議
あろう。
ポストモダニズムと障害学からのソーシャル
ワーカーの権力性への批判は的を射たものであっ
たと思われるが、それだけでは全てをカバーしき
論に対する『違和感』
」
精神保健福祉、3
4―1:6
2―9.
稲沢公一、2
0
0
3、「エンパワメント」精神科臨床サービ
ス、3:4
2
3―7.
石川准、2
0
0
0、「ディスアビリティの政治学――障害者
運動から障害学へ」
社会学評論、5
0
(4)
:5
8
6―6
0
1.
れない領域が存在しているのも確かのようであ
―――、2
0
0
2、「ディスアビリティの削除、インペアメ
る。もしそうであれば、機械的なセルフ・エンパ
ントの変換」石川准・倉本智明編著『障害学の主
ワメントと「障害者文化」を推進する多文化共生
的なソーシャルワークの展開は、新たな「マイノ
リティ」(見捨てられた人々)を生み出しかねな
張』明石書店、1
7―4
6.
岩隈美穂、1
9
9
8、「異文化コミュニケーション、マスコ
ミュニケーション、そして 障 が い 者.
」『現 代 思
想』
、2
6―2:1
9
2―2
0
3.
い。そのことを念頭におきつつ、ミクロ的なアプ
金子晃之、2
0
0
0、「知的障害者施設における援助技術の
ローチと多文化共生的アプローチとの整合性を図
原理的問題点と権利擁護の課題」社会福祉学、4
1
る作業が残されているのではないだろうか。
―1:2
7―3
7.
木村晴美・市田泰弘、1
9
9
6、「ろう文化宣言――言語的
少数者としてのろう者」現代思想、2
5
(5)
:8―1
7.
文献
コリン・バーンズほか、杉野昭博ほか訳、2
0
0
4、『ディ
――――、2
0
0
0、「ろう文化とろう者コミュニティ」倉
スアビリティ・スタディーズ――イギリス障害学
本智明・長瀬修編著『障害学を語る』エンパワメ
概論』明石書店.
2.
ント研究所発行、筒井書房、1
2
0―5
Boehm, Amnon & Stamples, Lee H., 2002, “The
北野誠一、1
9
9
5、「ヒューマンサービス、エンパワーメ
Functioning of the Social Worker in Empowering:
ントそして社会福祉援助の目的」ソーシャルワー
The Voices of Consumer and Professionals.” Social
Work, 47
(4)
, 449―60.
鄭暎恵、1
9
9
6、「アイデンティティを超えて.
」井上俊
ほか編『岩波講座現代社会学1
5 差別と共生の社
3.
会学』岩波書店:1―3
Gruber, Judith & Trikett, Edison J., 1987, “Can We
ク研究、2
1
(2)
:1
0
8―1
9.
小松源助、1
9
9
5、「ソーシャルワーク実践におけるエン
パワーメント・アプローチの動向と課 題」ソ ー
シャルワーク研究、2
1
(2)
:7
6―8
2.
久 保 美 紀、1
9
9
5、「ソ ー シ ャ ル ワ ー ク に お け る
Empowerment 概念の検討――Power との関連を中
Empower Others? The Paradox of Empowerment in
心に」ソーシャルワーク研究、2
1
(2)
:9
3―9.
the Governing of an Alternative Public School,”
倉本智明、1
9
9
7、「未完の『障害者文化』――横塚晃一
October 2
0
0
5
―1
2
9―
の思想と身体」社会問題研究、大阪府立大学社会
6.
福祉学部、4
7
(1)
:6
7―8
代思想、2
4
(5)
:4
6―5
1.
―――、1
9
9
8、「障害の文化、障害のコミュニティ」現
――――、1
9
9
8、「障害者文化と障害者身体──盲文化
2.
を中心に」解放社会学研究、1
2:3
1―4
1
5.
代思想、2
6
(2)
:2
0
4―2
―――、1
9
9
9、「障害学に向けて」石川准・長瀬修編著
――――、1
9
9
9、「異 形 の パ ラ ド ッ ク ス――青 い 芝・
ドッグレッグス・劇団態変」石川准・長瀬修編著
5.
『障害学の招待』明石書店、2
1
9―5
9.
『障害学への招待』明石書店、1
1―3
大谷京子、2
0
0
3、「精神障害者福祉実践におけるエンパ
5.
ワメント」関西学院大学社会学部紀要、
9
6:2
4
5―5
――――、2
0
0
0、「障害学と文化の視点」倉本智明・長
奥田啓子、2
0
0
2、「ろう者をめぐるソーシャルワーク実
瀬修編著『障害学を語る』エンパワメント研究所
践の基礎的考察――アメリカの専門誌に見る援助
1
9.
発行、筒井書房、9
0―1
5
5―6
4.
観の動向をとおして」社会福祉学、4
3―1:1
Linhorst, Donald M., Hamilton, Gary, Young, Eric, &
Eckert, Anne, 2002, “Opportunities and Barriers to
Empowering People with Severe Mental Illness
through
Participation
in
Treatment
Oliver, Michael & Sapey, Bob, 1999, Social work with
disabled people, second edition, BASW.
Simon, Barbara L., 1994, The Empowerment Tradition in
Planning,”
the American Social Work, Columbia University:
Mackelprang Romel & Salsgiver Richard O., 1996,
杉 野 昭 博、1
9
9
7、「
『障 害 者 の 文 化』と『共 生』の 課
Social Work, 47
(4)
: 425―34.
“People
with
Disabilities
New York.
and
Social
Work:
Historical and Contemporary Issues,” Social Work,
異
文化の共存』岩波書店、2
4
7―7
4.
――――、2
0
0
2、「インペアメントを語る契機――イギ
41
(1)
: 7―14.
松岡克尚、2
0
0
2、「障害者ソーシャルワークにおける社
会資源利用」杉本敏夫・津田耕一・植戸貴子『障
害者ソーシャルワーク』久美出版、2
0
8―2
0.
三毛美予子、1
9
9
7、「エンパワーメントに基づくソー
シャルワーク実践の検討」関西学院大学社会学部
リス障害学理論の展開」石川准・倉本智明 編 著
『障害学の主張』明石書店、2
5
1―8
0.
豊田正弘、1
9
9
8、「当事者幻想論――あるいはマイノリ
ティの運動における共同幻想の論理」現代思想、
2
6―2:1
0
0―1
3.
植戸貴子、2
0
0
2、「エンパワメント志向の社会福祉実践
5
紀要,7
8,1
6
9―8
三島亜紀子、2
0
0
1、「
『ポストモダニズム』と相対化さ
れた social work theory――契機としてのクリーブ
ランド児童虐待事件.
」ソーシャルワーク研究、
――利用者−ワーカー関係のあり方についての一
考察」社会福祉士、9、7
2―8.
――――、2
0
0
3、「エンパワメントの概念整理とエンパ
ワメント実践のための具体的指針に関する一考
2
6
(4)
:4
5―5
0.
―――――、2
0
0
2、「社会福祉学における『主体』に関
する一考察.
」ソーシャルワーク研究、2
8
(1)
:3
9―
察」社会福祉士、1
0、6
1―6.
山田富秋、1
9
9
9、「障害学から見た精神障害――精神障
害の社会学」石川准・長瀬修編著『障害学への招
4
4.
Moreli, Paula T. T. & Spencer, Michael, S., 2000, “Use
and
題,
」青木保ほか編『岩波講座文化人類学8
Support
Education:
of
Multicultural
Research―Informed
and
Antiracist
Interdisciplinary
Social Work Practice.” Social Work, 45
(2)
: 166―75.
長野英子、2
0
0
1a、「精 神 障 害 者 の エ ン パ ワ メ ン ト と
は.
」久留米障害者生活支援センター、ケアマネイ
ジャー養成講座『私の体験から、エンパワーとケ
1
1.
待』明石書店、2
8
5―3
山岸倫子、2
0
0
4、「障害の社会モデルにおける『福祉』
及び『福祉』批判の一検討――社会モデル論者の
議論から」日本社会福祉学会第5
2回全国大会報告
要旨集、3
3
9.
横須賀俊司、2
0
0
3、「障害者運動から見たソーシャル
ワーカー.
」
ソーシャルワーク研究、2
8
(4)
:4―7.
アマネジメントを考える』
、2
0
0
1年1
1月1
9日資料.
要田洋江、1
9
9
6、「障害児と家族をめぐる差別と共生の
――――、2
0
0
1b、「ユーザーからみたケアマネジメン
視角――『家族愛』の再検討」栗原彰編『講座差別
ト」久留米障害者生活支援センター、ケアマネイ
ジャー養成講座『私の体験から、エンパワーとケ
アマネジメントを考える』
、2
0
0
1年1
1月2
3日資料.
長瀬修、1
9
9
6、「
『障害』の視点から見たろう文化」現
の社会学2
9.
日本社会の差別構造』
弘文堂、
8
0―9
――――、1
9
9
9、『障害者差別の社会学――ジェンダー
・家族・国家』岩波書店.
―1
3
0―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
Association Between The “Disabilities Culuture” and Empowement
of People with Mental Illness
ABSTRACT
Empowerment is a concept that is indispensable to the theory and practice of social
work for the people with mental illness. However, there have been criticisms in terms of
postmodernism and disabilities studies that social work essentially has a concealed power
structure. Therefore, with more support from social workers, clients become more
dependent on them, resulting in a disempowered state. This study evaluates the role of
social workers in the empowerment of the people with mental illness in terms of the
association between “disabilities culture” and empowerment. Disabilities culture indicates
the claim that the people with disabilities have their own culture. For the people with
mental illness, establishing their own culture means nothing less than empowerment for
themselves. The role of social workers is to make approaches so that the people with
mental illness can create their own culture by self-empowerment and deepen exchanges
with others who have disabilities. We then examine the issues inherent in such
approaches.
Key Words : People with mental illness, Disabilities Culture, Empowerment
Fly UP