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“仕事”36年を振り返る
007 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) “仕事”36年を振り返る 篠原睦治 SHINOHARA Mutsuharu ── はじめに A── 臨床心理学研究の発表とその問い直しの開始 B── 特殊教育批判と「共生・共育」の模索 C── 生命操作・優生思想の諸問題―胎児診断からの出発 D──「精神薄弱」概念の検証と知能テスト批判 E──「障害」学生との出会いと「共学」問題 F──「養護学校義務化と発達保障論」批判 G── フィールド・ワーク: アメリカの「障害者・黒人」問題 H── 対談シリーズ:「共生」論の検証 I──「アジア」に関するフィールド・ワーク J── 臨床心理学会改革の終焉と社会臨床学会の創設 K── カウンセリングの実際とその批判 L── 特別支援教育と「教育改革」問題 M── 障害者・老人の囲い込みと暮らし ── おわりに 【要旨】ぼくは、2009年春で、定年退職する。在職36年になる。こんな機会に、 “仕事”を 振り返ってみるのも一興かなと思う。本稿で扱いたい著書、論文をリストアップしたら、 107点になった。それらをテーマ毎にまとめてみたら、テーマは13になった。取り組みだ した時期の順に並べると、 「臨床心理学研究の発表とその問い直しの開始」 「特殊教育批判 と『共生・共育』の模索」 「生命操作・優生思想の諸問題―胎児診断からの出発」 「 『精神 「 『障害』学生との出会いと『共学』問題」 「 『養護学 薄弱』概念の検証と知能テスト批判」 校義務化と発達保障論』批判」 「フィールド・ワーク: アメリカの『障害者・黒人』問題」 「対談シリーズ: 『共生』論の検証」 「 『アジア』に関するフィールド・ワーク」 「臨床心理 学会改革の終焉と社会臨床学会の創設」 「カウンセリングの実際とその批判」 「特別支援教 育と『教育改革』問題」 「障害者・老人の囲い込みと暮らし」になった。本稿では、各項 目にそって、論述する。 て、これまでの“仕事”を振り返っておくの ──はじめに も一興かなと思って、書き出すことにするが、 “仕事”という意味は多義的であいまいであ ぼくは、1973年春、和光大学人間関係学科 る。大学教員なので、 “仕事”として教育と 教員として再就職した。その前、5年間、東 研究が要請されていると思うが、とはいえ、 京教育大学特殊教育学科の助手をしていた。 ぼくには、自信をもって紹介できる“教育実 再就職以来36年、2009年3月、この大学を定 践報告”も“学術論文”もない。ぼくの出自 年退職することになっている。それにあたっ は特殊教育と臨床心理学だが、臨床家にも研 008 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 究者にもなりきれずに、その間を揺れながら、 の心理学の仲間入りをしたいと思っていた。 そして、多くの場合、いずれからも逸脱して、 そんなわけで、ぼくは、東京少年鑑別所に出 そのなかで、講義し、社会的発言をし、そし 入りして、累犯性の高い非行少年の心理学的 て、著書、論文、エッセイを書きちぎってき データを取りつつ、統計的処理(因子分析)を た。そんな軌跡を振り返ってみる。 行い、非行的性格の類型化を試みている。こ 本稿は、ここで扱いたい文献に発表順にナ れは修士論文だが、当時、日中は研究上の便 ンバーを付けたリスト(1~107)をあらかじ 宜を図ってくれつつ、夜になると一緒に考え め作成し、テーマ別にまとめ直して論ずるこ てくれた当該機関の鑑別技官、長谷川宜志と とにする。テーマは13(A項目∼M項目)にな の共著論文として『臨心研』に発表している2)。 ったが、A項目からM項目への順番は、各項 臨床心理学の分野で、研究者を志そうとす 目の最初に挙げた文献の発表時期の順とした。 る際、もうひとつ、やっておかなくてはなら したがって、順に示されるテーマは、取り組 ないことがあった。それは、精神分析的にオ みだした順番にもなる。 リエントされたユダヤ人臨床心理学者が多か ぼくは、主には子供問題研究会機関紙『ゆ ったアメリカ東海岸に渡って、 「本場の臨床 きわたり』 (月刊 1972年5月∼、2008年10月で 心理学」を勉強することだった。ぼくは、 403号) 、日本臨床心理学会誌『臨床心理学研究』 1964年夏から一年間、ニュージャージー州の (以下、臨心研と略。拙論の掲載範囲は、7巻3号 臨床心理学インターンとして、 「精神薄弱・ (1968年10月)∼29巻3・4号(1992年3月) ) 、そ 情緒障害」少年・少女の収容施設や精神病院 して、日本社会臨床学会誌『社会臨床雑誌』 で、主に心理テストの訓練を受けた。もう一 (以下、社臨誌と略。1993年4月∼、2008年6月で 年間滞在して、今度は、アイオワ大学精神病 16巻1号)に掲載してきた。本稿では、臨心 院小児精神科で、以前から影響を受けていた 研、社臨誌に掲載したものに加えて、その他 精神科医 Dr. R. L. Jenkins のもとで、少年院 のメディアに載せたものも素材にして論述を に出入りしながら、やはり心理テストを使っ 進めるが、共著、対談、討論ものも大切にし た非行性性格の類型化研究をしている。これ た。なお、 『ゆきわたり』掲載のものについ は、Jenkins と一緒に、アメリカの臨床心理 ては割愛した。 学関係雑誌に発表している1)。 A──臨床心理学研究の発表と その問い直しの開始 「精神薄弱」児、非 ぼくは、60年代当初に、 ぼくは、性格形成と親子関係ということに 関心を持っていたが、当時の心理学的常識は、 “望ましい”母子関係が“健全な”性格を形 成するということだったが、滞米中に読んだ 行少年の心理学を勉強したくて、東京教育大 『Growing up in the Kibbutz』 (Rabin, A. I. 1965) 学特殊教育学科を卒業した後、同大学大学院 では、イスラエル・キブツの集団主義保育・ で、臨床心理学を専攻することにした。当時、 教育(親子別寝制度)のほうが情緒的に安定 臨床心理学は、アカデミックな心理学として した、社会性のある性格を形成するという報 の市民権を持っていなかった。そのため、こ 告をしていた。これは従来の考えを問い直さ の分野での数量化を試みて、実証科学として せるものだったので、ぼくは、アメリカの研 009 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) 修・研究生活を終え、日本に戻る途中、四ヶ 発や問いかけを受けることで生起したし、ぼ 月間、Rabin の紹介で、キブツで取材活動を くも問われ問う事態のなかで苦悩した。それ した。その成果は、『キブツの子どもたち』 らの具体的なことについては、折々に後述し と題して公刊したが、ぼくも、Rabin と同様 ていくが、このような事態をくぐりながら、 の結果を報告している3)。 一つには、日本学術会議の心理学研究連絡委 1966 年秋、日本に戻り、大学院に復学し、 員会が編集した『現代心理学の動向 1946∼ 一年半ほどして、同大学特殊教育学科の助手 1980』で「臨床心理学」分野の批判的総括を になるのだが、1973年春、和光大学に再就職 行っている27)。 するまで、ぼくは疾風怒涛のときを過ごすこ とになった。 例えば、70年前後、少年法「改正」の動き が出てきた。矯正教育に加えて刑罰の強化、 少年法適用対象年齢の引き下げ、分類収容の 多様化と強化などが言われ、非行は親子(特 に母子)関係のせいであるということが強調 されるようになった。ぼくも、この議論の渦 中に入ることになるが、そのなかで、このと きまでのぼくの非行研究は「改正」を推進、 補完する立場になっていることに気づいて自 『キブツの子ども 己批判している4)。また、 たち』の「あとがき」で、イスラエル‐パレ スティナ問題に対する問題意識の欠如を反省 して、キブツ研究の歴史的・社会的位置づけ が見えていなかったことを告白している。な 《著書・論文》 1)Shinohara, M. & R. L. Jenkins: MMPI Study of Three Types of Delinquents. J. Clin. Psychol., 23, 1967, pp. 156-163. 2)篠原・長谷川宜志: [暴力系および窃盗系累犯 少年の自己概念に関する類型化の試み―Q技法 による因子分析的研究]臨心研8巻1号(1969)、 pp. 24-34。 3) 『キブツのこどもたち』誠心書房、1971。 4) [ 「青年層」設置における「成熟度」論争批判― 少年法「改正」に反対する論理]臨心研10巻1 号(1972) 、pp. 76-82。 、肥田野直編『現 27)篠原・山下恒男: [臨床心理] 代心理学の動向 1946∼1980』川島書店、1980、 pp. 173-188。 73)[イスラエル再訪の旅]、『「社会臨床」の思索』 自主出版、1997、pp. 1-32。 B── 特殊教育批判と「共生・共育」 の模索 お、ぼくは、1994年夏、キブツ社会・教育の 60年代後半、ぼくは、特殊教育学科助手と 現実と、イスラエルにおけるユダヤ人とアラ して、普通教育から特殊教育への橋渡し的業 ブ人の共存の可能性に関わって、取材してい 務としての教育相談を、知能テストを初めと る。このとき、 (集団主義保育・教育の前提と した心理テストやカウンセリングを使いなが しての)親子別寝制度の崩壊などを確認して ら、本格的に開始したが、そのなかで、 「分 いるし、今日では、絶望的な感を拭えないが、 けられる」ことの悔しさ、屈辱などの体験を まだまだ「共存」の一端をかい間見ることが 引きずる親子に出会うようになる。 「分けな できた73)。 い、分けられない」 「どの子も地域の学校へ」 1970年前後から、精神医学、臨床心理学関 の思いや願いを親子と一緒に膨らませながら、 「患者にとって、精神医学・ 係の諸学会では、 「教育相談の公開と共同化」の試みとして、 臨床心理学の知識・技術は何であったのか」 1972年春、「教育を考える会」を始めた。そ という自他への問題提起が、患者側からの告 れと並行して自主講座を主催して、教育の合 010 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 理化、効率化の中で振興していた特殊教育批 幼児たちとその親たちと出合った。そして、 判をしている 。 「教育を考える会」活動を 地元の保育園・幼稚園に入るのを応援した。 軸とした子供問題研究会(以下、子問研と略) そのなかで、親たちが専門家の指導・助言の は、機関紙『ゆきわたり』を発刊するが、一 中で翻弄されつつ、親子が共同利害的な運命 年後には、総括集を出している6)。そのタイ 共同体を形成していくことに気づいた 7)20)。 トルは、 「共に生きる」だが、これは自主出版 この親子の葛藤的な紐帯は同時に「共に生き だった。出版部数500は、熱砂の中へ浸み込ん る」ことへのリアルな原点でもあると思われ でいく海水のごとく、人の手から手へと早々 てきた。 5) と消えていった。この事態に励まされて、ぼ くたちは、次々とマスコミ出版した 。 8)9)10)13)23) なお、 「共生・共育」の主張と養護学校義 務化批判については、ぼくのホームグランド、 のタイトル名にもなった「俺、 臨床心理学会で重ねて発言していくことにな 「普通」に行きたい」は、中学進学の段階で、 るが、教育心理学会に招かれてシンポジウム 担任と父親によって特殊学級に送られようと で発題しているし 7)、教育学会誌では特集 していた少年が母親と一緒に「教育を考える 「障害児教育の歴史と課題」への寄稿を求め 会」に飛び込んできて発した言葉だが、それ られている20)。いずれも少数派の立場で、教 は、ぼくたち大人へ「普通学級に行きたい」 育心理学会シンポでは、文部省路線の特殊教 著書 8)9) 「(みんなと一緒に)普通に生きたい」との思 育振興派の研究者たちから批判され、教育学 いを伝えるものだった。ぼくの初めての理論 会誌では、障害児の発達保障論に立つ「義務 書 では「教育=共育」の提言を行っている 化」徹底を主張する立場が多数派であった。 10) が、この言葉は、もともと、或る「障害」幼 児の母親のもので、ぼくは、この言葉に励ま されて、借用したことになる。 70年半ばから後半にかけて、障害児希望者 《著書・論文》 5)子問研編『自主講座 実践的主体形成の模索∼ 教育差別と特殊教育』自主出版、1972。 6)子問研編『共に生きる―「ゆきわたり」第一期 総括集』自主出版、1973。 全員入学の制度化(東京都、1974年)や養護 [ 「障害」児とその親との運命共同体を成立させ 7) 学校義務化 ( 1979 年) の動きの中で、「共 てきたもの―特に専門家の「臨床」的営為との 生・共育」の主張・運動とともに、障害児の 特殊教育(特に養護学校)への隔離収容を批 判していくのだが、 (養護学校から地域の普通 学校への転校を希望する)金井康治君親子の 自主登校運動が全国的にも注目された。ぼく は、 「別学」義務教育を批判して「共学」権 利教育を論じている12)13)。また、 「人間にな る」教育の思想を批判して、「人間である」 暮らしの思想を提言している14)23)。 70年代を通して、地元の保健所の三歳児健 診で心理判定員をしていたが、そこで「障害」 関連で]臨心研12巻2号(1974) 、pp. 47-62。 8)子問研編『俺、「普通」に行きたい』明治図書、 1974。 9)子問研編『続・俺、「普通」に行きたい』明治 図書、1976。 「障害児」観再考―「教育=共育」試論』明治 『 10) 図書、1976。 「別学」義務教育から「共学」権利教育へ―54 [ 12) 年度義務化・全員就学批判]臨心研 15 巻 2 号 、pp. 71-84。 (1977) 13)子問研編『「できない」子の側の生活とことば ―共に育つことへの模索』教育出版、1978。 14) [ 「人間になる」思想から「人間である」思想へ ―金井君親子の自主登校運動が提起するもの] 臨心研17巻1号(1979) 、pp. 63-76。 011 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) 20) [養護学校義務化と親の願い]教育学研究46巻2 号(1979) 、pp. 117-125。 23)子問研編『子どもに学び子どもと共に―普通学 級における「共育」の創造』教育出版、1980。 C──生命操作・優生思想の諸問題 ―胎児診断からの出発 今日、 「障害」胎児の診断と中絶は、強制 に基づくのではなく、むしろ「医療サービス」 み分け法」を論じたが、そのなかで、伴性遺 伝病と言われる血友病の子どもを持つ大西巨 人を非難して、渡部昇一が「次の子を生むべ きではなかったのに、生んだ」と述べたのに 対して、大西が激怒して発言した内容を考え たが、ぼくは、大西が、わが子を「悲運の存 在」と規定したことに疑問を呈し、 「渡部― 大西論争」の相補性を指摘している49)。 として行われていることについては周知の事 臨床心理学会活動のなかで取り組んだ「早 実だが、日本においては、胎児診断の行政化 期発見・治療」問題は、学会改革の終焉 宣言(兵庫県 1972年)から始まっている。当 (1991年)とともに、社会臨床学会が継承し 時、ぼくは、この行政化は、“いま、ここ” ていくが、このときまでの総括をしている67)。 の障害児・者を「不幸な・不幸にさせる」存 「精神薄弱の発 振り返ると、この問題は、 在と規定していることに基づいていると新聞 見」という社会的役割を負った三歳児健診や 投稿などで批判した。その後、このことに共 就学児健診にまで遡っている。そして、80年 鳴した障害児の親たちに出会うことになる一 代後半から登場してきた「脳死・臓器移植」 方で、この行政化を歓迎する親たちともやり 問題へと連動している。 とりすることになった。当時のやりとりは ぼくは、元ハンセン病患者で、らい療養所 『ゆきわたり』で公開されたが、二つの冊子 から小説、評論を発表し続けた島比呂志と、 にも収録した5)6)。以後、今日まで、このよ 彼の小説「海の沙」に感動することから出会 うな生命操作の諸現状に着目し続け、これら い、以後、対談を重ねることになる。それら の問題を「共生・反優生」の文脈で批判的に は、らい予防法廃止(1996年)を前後してだが、 論じ続けることになるが、その原点である。 その以前のは、 「いま、なぜ、らい予防法を 1987年には、臨床心理学会でもこの問題を 「いま、なぜ、 問うのか」68)、その以後のは、 総括する一書を編んでいる。それは、 『 「早期 らい予防法廃止を問うのか」72)であった。こ 発見・治療」はなぜ問題か』と題したが、ぼ れらでは、同法が優生保護法とともにあった くは、序章で、そのときまでの論争過程を振 のであり、ハンセン病者たちは、その体制下 り返っている48)。そこでは、役立たない者を で、生涯隔離と不妊手術を強いられてきたし、 排除する“消極的”優生思想に加えて、役立 同法廃止後も、らい予防法の精神と実態は つ者を作り出そうとする“積極的”思想への 脈々と生きていることを確認している79)。 動きをも指摘している。そして、そのような それから10年ほどして、この問題について 動きは、 「障害者の社会参加と自立」と裏表 は、ハンセン病の医療・社会史の研究者、藤 になって強調されてきた「障害の発生予防」 野豊と、結核の社会史を研究する青木純一と という国際的な動向と一緒にあるとも指摘し 改めて討論しているが、結核が明らかに感染 「伴性遺伝病 た。当該書で、一章を割いて、 性の強い病気であるにも関わらず本格的な強 予防」を強調しながら喧伝された「科学的産 制隔離に到らなかったのに対して、 「めった 012 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 にうつらない」ハンセン病者のほうが生涯的 日本において、尊厳死問題は、当面、 「延 に強制隔離された事情を探った。結核患者は 命医療の中止問題」に焦点化して論じられて ハンセン病患者と比べて圧倒的に多く、人々 いるが、厚労省「報告」の分析を介して推定 はこの暮らしの現実を痛み分けしなければな されてくることは、 「認知症」高齢者の尊厳 らなかったのに対して、ハンセン病の場合、 死の勧めや、緩和ケアと尊厳死の相互補完性 国策としての隔離収容が財政的に可能なほど である101)。 少ない人数であり、彼らは、回復後も障害や ぼくは、このような生命操作の今日性を、 “醜い”容貌(異形の体)を引きずりがちなの 「共生」の吹聴とともに、同時に顕在してい で、人々が国の隔離施策を歓迎したという背 る優生思想・施策の文脈で論じてきたが、こ 景などがあったことを反省的に語り合ってい れらの流れを振り返って論じた社会臨床学会 る。また、ハンセン病の強制生涯隔離が、フ 編「社会臨床の視界」第3巻 ( 2008 ) では、 ァシズム化(戦前)から「文化国家」建設(戦 このような今日的事態を「新優生学」時代と 後)へと移行するにつれて強化されてきた経 呼んだ。同巻で報告したが、秋葉聰と、アメ 過に着目して、 「文化国家」建設に貢献しな リカの優生思想・施策の原点(1920年代)を い者に対する優生思想的排除が「公共の福祉」 探るべく、 ( 「精神薄弱」と判定され、それゆえ のもとに戦後こそ進行したということを確認 強制妊娠中絶させられた)ケアリー・バック している102)。 ゆかりの地を訪ねながら、アメリカにおいて ぼくは、臓器移植法の成立(1997年)とその は、この時代の施策が、21世紀に入ってやっ 後の「改正」の動きに抗して、折々に今日まで と各州レベルで自己批判されたことを確認し 「脳死・臓器移植」問題を論じているが75)87)103)、 た。アメリカの「新優生学」時代は70年代に 2001年には、そのときまでを総括して論じた 入るにつれて本格化するが、それに遅れて、 著作を発表した 。ここでは、「生きるに値 伝統的な優生思想・施策が総括されたことに する・値しない生命(QOL) 」と、 「値しない」 なる105)。 89) と見なされたときの「死の自己決定権」とい 当該書の最終章106)では、竹内章郎と、胎 う二つのキーワードを摘出して、これらを批 児診断、脳死・臓器移植・尊厳死・安楽死に 判的に論じている。 「差別・抑圧としての死」を 言及しながら、 は、日米を往復しながら考えて 考えている。ここでは、竹内が「能力の共同 きたことをまとめたものだが、これらのキー 性」を論じ、このことに着目すれば「無能な ワードは、 「障害者の社会参加と自立」論を 者はいないし、共に生きられる」と論じたの 背後から支えるものであり、また、少子高齢 “いま、ここ”の有能な に対して、ぼくは「 化社会における尊厳死問題にもつながってい 者との関係性のなかで、無能のままで生きる」 るものであると論述した。 ということをお互い様のこととして共有する この著作 89) 追って、このテーマを、人権教育用テキス トの中で論じたが、特に「生と死の自己決定 権の表裏性」と「死ぬ権利から死ぬ義務への 必然」を考えた96)。 ことではないかと発言している。 《著書・論文》 5)子問研編『自主講座 実践的主体形成の模索∼ 教育差別と特殊教育』自主出版、1972。 013 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) 6)子問研編『共に生きる―「ゆきわたり」第一期 総括集』自主出版、1973。 48) [なぜ、 「早期発見・治療」問題に取り組むか― 本学会の論争過程をふりかえりつつ]、日臨心 編『「早期発見・治療」はなぜ問題か』現代書 館、1987年、pp. 15-60。 49)[科学的産み分け法の諸問題―特に「伴性遺伝 病予防」にかかわって]、日臨心編『「早期発 見・治療」はなぜ問題か』 、pp. 213-246。 67) [ 「早期発見・治療」問題から反優生・共生への 模索―日本臨床心理学会改革20年をふりかえる (その5) ]社臨誌2巻3号(1994) 、pp. 90-103。 68)島比呂志・篠原:[〈インタビュー〉いま、なぜ、 らい予防法を問うのか]社臨誌3巻1号(1995)、 D──「精神薄弱」概念の検証と 知能テスト批判 ぼくは、 60 年代半ばから 70 年代当初まで、 普通教育から特殊教育へと「精神薄弱の発見」 のための知能テストを行っていた。だから、 知能テストの知識と技術に習熟していた。70 年代半ばになるにつれて、臨床心理学会の場 などで、ふるい分けの道具としての知能テス ト批判は、受けさせられた側(特に母親たち) の体験として語られるようになる15)。知能テ pp. 2-21。 72)島比呂志・篠原:[〈インタビュー〉いま、なぜ、 ストを善用しようとする心理学研究者は「て らい予防法廃止を問うのか]社臨誌4巻3号 いねいに測る」ことを提唱したが、ある親は、 、pp. 13-30。 (1997) 「ていねいに測られる」ことこそ拒否したい 75) [ 「脳死・臓器移植」問題を読む] 、 『 「社会臨床」 と発言している16)。 の思索』自主出版、1997、pp. 87-129。 79)島比呂志・篠原『国の責任―今なお、生きつづ 臨床心理学会には、 「精神薄弱」者および けるらい予防法』社会評論社、1998。 「精神薄弱」概念が関わる事件、裁判が、振 87) [ 「臓器移植の法的事項に関する研究」批判]社 り返ると、四件持ち込まれている。まず、ぼ 、pp. 92-101。 臨誌8巻2号(2000) 89)『脳死・臓器移植、何が問題か―「死ぬ権利と くたちは、 「精神薄弱」と判定されたばかり 生命の価値」論を軸に』現代書館、2001。 に運転免許証を奪われた職業運転手による訴 96) [生命操作時代の「自己決定権」を考える] 、岡 訟の弁護を要請され、この裁判に関わること 村達雄・玉田勝郎編『人権の新しい地平―共生 に向けて』学術図書出版、2003、pp. 161-180。 になる(1973年)。ここでは、免許証剥奪の 101)[「延命医療の中止」問題を考える]社臨誌12 直接のきっかけになる「運転適性検査」には 巻3号(2005) 、pp. 61-69。 臨床的妥当性がないという批判的分析を行っ 102)藤野豊・青木純一・篠原: [〈討論〉「いのち」 の近代史を振り返る―ハンセン病・結核問題を 、pp. 88-119。 軸に]社臨誌13巻3号(2006) [臓器移植法「改正」の論理を検証する―現行 103) 、pp. 法批判を踏まえて]社臨誌14巻1号(2006) 58-68。 たり、成人の「精神薄弱」の場合、その定義 は「社会的・職業的適応能力」になるとし、 その意味で、この人は「精神薄弱」ではない 「精神薄弱」概念 と証言している。同時に、 105)秋葉聰・篠原:[「バック対ベル訴訟」とは何 そのものの批判をしたのだが、この論理は採 か―ケアリー・バックゆかりの地を訪ねて]、 用されないまま、ただし彼は「精神薄弱」で 社臨編〈シリーズ「社会臨床の視界」第3巻〉 『 「新優生学」時代の生老病死』現代書館、2008 、 ないということが認められて勝訴している pp. 218-273。 (津地裁 1976年)17)。 106)竹内章郎・篠原:[〈対談〉「差別・抑圧として 追って、幼児強姦殺人事件(静岡県島田市、 の死」を考える―胎児診断、脳死・臓器移植、 尊厳死・安楽死を問いつつ]、社臨編〈シリー 1954年)の容疑者、赤堀政雄の精神鑑定書問 ズ「社会臨床の視界」第3巻〉 『 「新優生学」時 題に取り組むことになる。彼は、この鑑定で 代の生老病死』現代書館、2008、pp. 273-324。 「精神薄弱」とされ、この概念そのものがも 014 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 たらす偏見ゆえに死刑という確定判決を受け ることを知った。また、物証の少ない事件に るが、彼の当初からの無実の主張と支援グル おいては、 「精神薄弱」概念が犯人像を描く ープによる反証活動によって、第四次再審公 ことに決定的に貢献することを確認した。こ 判でやっと無罪判決を獲得した ( 1989 年)。 の概念のスティグマ性・ラベリング性に直面 この間、ぼくたちは、 「精神薄弱」の判定過 して、社会的文脈における「精神薄弱」概念 程に対する批判的分析を中心に精神鑑定書批 の解体を主張してきた。 (なお、臨床心理学会 判を繰り返して行っている は、これらに関わった経過を総括して、 『裁判と 。 11)47) 三番目に取り組んだ事件は、或る中小企業 の組合リーダーが、同じ職場の「精神薄弱」 心理学―能力差別への加担』 (現代書館 1990年) を公刊している。 ) 女性と恋愛し、結婚を約束する中で性的行為 こんな社会的文脈を自覚しながら、判定や を行ったことが会社側に知られ、彼は、恋 知能テストの歴史と論理を批判的に検証する 愛・結婚する能力も抗拒能力もない彼女に強 作業は、ぼくたち臨床心理学に関わる者の社 制わいせつを行ったとして懲戒解雇処分を受 会的責任であった。それは、A. ビネーによ けたものである(1977年) 。裁判は、その撤回 る知能テスト開発の歴史的背景、ビネーの知 を求めて行われたが、ぼくたちは、 「精神薄弱」 能・社会観などの検証から始まった 18)。戦 概念そのものを批判しつつだが、法廷では、 中・戦後にかけての教育心理学者、三木安正 その状態は軽く、 「恋愛・結婚する能力も抗 の「精神薄弱」概念・特殊教育観の点検 50)、 拒能力もない」とするのは間違いであると反 戦後特殊教育における判定の歴史と論理の批 証した。しかし、それは採用されず、判決は、 判的分析 24)なども、その一環である。特に、 解雇処分妥当となった(1985年)42)55)。 文献24)では、知能と発達の診断に関わる各テ 四番目は、幼女わいせつ致死・殺人事件 (千葉県野田市、1979年)に関わってだが、こ ストの歴史的経過と理論的枠組みを特殊教育 振興過程と関連させながら点検している。 こでも、ぼくたちは、精神鑑定書が容疑者を ところで、戦後、 「知能」はIQ(知能指数) 「性的異常」者と描くことで 「精神薄弱」者、 に託して神話化し巷の言説となってきたが、 「真犯人」像に仕立てあげていく過程を批判 ぼく(たち)は、暮らしのなかで、それによっ 的に分析している 。なお、このような精神 て振り回される実態に着目してきた29)30)。そ 鑑定書批判に加えて、浜田寿美男による「調 「競う知能」から自由になって「生き して、 べる‐調べられる」関係の中でデッチあげら る知恵」を共に創ることを提言したが、それ れていく供述内容に関する批判的分析(浜田 は、 「一緒に居たい」ということを「共同存 (初版、三一書房、1992)/北大路 『自白の研究』 在としての人間の普遍的願望」として有り体 書房、2005)をもって、容疑者の無実の主張を に受け入れることであり29)、 「ボケ」という したが、結局、有罪判決を受けている(1993年) 。 ことを、 「ボケ」させる社会の仕組みに着目 上記四つの体験から、 「精神薄弱」概念は しつつも、一方で、 “自然な”変化として捉 社会的・職業的適応能力と規定されていて、 えて、老若男女が寛容に引き受けあうことで 一般社会においては、一旦「精神薄弱」と見 ある と論じた30)。 52) なされると、その能力は限りなく矮小化され 70年代半ば、知能テストを始めとした心理 015 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) テストをめぐっては、これを批判する動きと 擁護する動きが心理学界のなかでも渦巻きだ すのだが、なかでも、応用心理学会など、心 理テスト業界と連携している研究者を沢山抱 える学会は、国際的な動きに励まされて、関 連心理学諸学会を糾合して国内テスト委員会 を設立しようとしていた。そのため、七つの 心理学会代表委員からなるテスト問題懇談会 が開かれるのだが、そこでは三つの立場に分 かれた。それらは、①「誤用・乱用」の規制論、 ②ヒューマニズム的善用論、そして、③心理 テストの社会的機能・役割を問う立場である。 ①の立場は、心理テストをテスト業界・テス ト専門家に占有させつつ、標準化・商品化を 推進する立場である。ぼく(たち)の立場は、 臨床心理学会に拠点を置きながら、心理テス トの選別性・差別性を問い続ける③の立場で あった。この懇談会は、議論は平行線のまま、 やがて閉じられ、国内テスト委員会は成立す ることがなかった。ぼくは、この経過に直接 関わったが、その総括的報告を行っている19)。 《著書・論文》 11)日本臨床心理学会鑑定書問題小委員会: [赤堀 裁判における精神鑑定書批判]臨心研14巻2号 、pp. 23-50。 (1976) 15) [知能テストに左右される親子の生活とことば] 、 日臨心編『心理テスト―その虚構と現実』現代 書館、1979、pp. 46-60。 16) [ 「ていねいに測る」とは] 、 『心理テスト―その 虚構と現実』pp. 70-75。 『心理テスト― 、 「運転適性検査」とは何か?] [ 17) その虚構と現実』pp. 158-203。 18)篠原・奥村直史: [知能テストの諸問題とビネ ーの精神]、『心理テスト―その虚構と現実』 29) [就学時選別と知能神話] 、山下恒男編著『知能 神話―競う知能から生きる知恵へ』 JICC 出版、 1980年、pp. 72-94。 30)[老人と知能]、『知能神話―競う知能から生き る知恵へ』pp. 216-241。 42) [ 「精神薄弱」者との性的行為、わいせつか恋愛 か―千葉さんの懲戒解雇処分撤回裁判の中で考 える]臨心研22巻2号(1984) 、pp. 57-68。 47)佐藤和喜雄・篠原: [赤堀裁判における再審開 始決定の評価と批判]臨心研 25 巻 2 号( 1987 )、 pp. 56-82。 50)[三木安正氏の思想と仕事―戦時・戦後の教育 心理学と「精薄」教育]、波多野誼余夫・山下 恒男編『教育心理学の社会史―あの戦争をはさ んで』有斐閣、1987、pp. 252-278。 52)中島直・篠原: [青山さんの裁判における精神 、pp. 28-55。 鑑定書批判] 、臨心研27巻2号(1989) 55)北村小夜・篠原: [大久保製壜懲戒解雇処分取 消し訴訟と「恋愛・結婚する資格」 ] 、日臨心編 『裁判と心理学―能力差別への加担』現代書館 1990、pp. 159-232。 E──「障害」学生との出会いと 「共学」問題 ぼくは、長い教員生活で学部紀要に書くこ とは多くなかった。でも、ここにこそ書きた いことがあった。このときの和光大学人文学 部紀要(1980年)は「梅根悟博士喜寿記念論 文集」とタイトルされた。それは、73年に勤 務してから70年代を通して体験した「障害」 学生たちとそこに連帯する「健常」学生たち からの問いかけを受けて、 「大学」のあり方 を探ったものである。ここでは、初代学長、 梅根が、和光大学を「障害」者に「閉じない」 と消極的に宣言することで、かえって、紆余 屈折がありつつも、 “いま、ここ”の学生た ちと「共に学ぶ」キャンパスづくりが可能に pp. 245-293。 19 )[心理テスト規制とテスト業界・心理学界]、 なってきたことを報告したかった。また、こ 『心理テスト―その虚構と現実』pp. 369-388。 の頃、ぼくは、大学で「障害」者と出会いつ 24 )[判定の歴史と論理]、日臨心編『戦後特殊教 つ、一方で、街中(子供問題研究会など)で 育・その構造と論理の批判―共生・共育の原理 「知的障害」児・者と関わりながら、共通項 を求めて』社会評論社、1980、pp. 152-273。 016 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 では括れない、引き裂かれた「障害児・者」 村上健一は車イスに乗り、口でペンをくわ 問題を抱えることになるが、 「有能」を「無 えて書く者だが、彼は、“障害者のために” 能」との関連で相対化しながら、 “いま、こ バリア・フリー化していく社会の体験を、キ こ”の「有能」な者と共に、もう一群の者た ャンパス内での「共生・共学」体験と照らし ちは「無能のまま生きる」という関係論的テ 合わせながら、批判的に振り返っている 83)。 ーマを突きつけられていた。ぼくは、この論 上記ふたりの論文にそっては、『エスキス』 文で、 「厳格な試験」にパスしてきた「障害」 のスタイル上、ぼくは彼らのコメンテーター 学生も「健常」学生と同様に、より多くの の位置になっているが、実質的なセカンド・ 人々を排他しているという現実を、大学に留 オーサーであると自負している。 まって凝視することを提起している 。 21) プロゼミは、 「教育(教授)」を問い直す実 ろう学生、小野広祐とは授業「手話・点字 とコミュニケーション」で出会っているが、 験場だった。80年代半ば、ぼくは、着任以来、 当初、彼は、適切に読唇して分かりやすく口 そのときまでの五回のプロゼミを振り返って、 話していたが、やがて、ろう者の母語「日本 一文をしたためている 。このゼミでは「大人 手話」に徹するようになって、ぼく(たち) と子ども」 「差別すること・されること」 「日本 とはノートテーキングか手話通訳を介してし 人と在日韓国・朝鮮人」などを考えていたが、 かコミュニケーションしなくなった。彼との 41) 「教授する-される」関係を体験してきた新入 〈対論〉85)では、その経過を振り返りながら、 生との関係の中で、ぼく自身も「教授」とい ぼくは、お互いのハンディを引き受けつつ、 う一方向性を引き受けながら、一方で「対話」 口話も手話もチャンポンではだめかと迫るが、 という相互性をどうつくり出していけるかを 彼は、このことに同意することはなかった。 探っていた。考えていたテーマが関係論的な 実は、ふたりは、2008年になって、この議論 ものであっただけに、「伝達」から「対話」 の続きを行っているが、このとき、ぼくは、 への模索は、必然的なことでもあった。 日本語の無理さ、手話の自然さをいよいよ体 研究生で「視覚障害」者、大河内直之とは、 プロゼミ、ゼミ、卒論、研究生論文、授業 「手話・点字とコミュニケーション」「障害 験的に語る彼により共感的になっている。と すると、ぼくなど聴者の側はどのようにふる まうのかという新たな問いが生起している。 、 「障害者学生の生活等に関 児・者問題試論」 (二回目の対論は、近い将来、他の「障害」卒業 する懇談会(障懇)」で、ぼくが「共生・共 生たちとのインタビュー内容とともに公刊する 学か発達保障か」と問えば、彼は「どちらも ことになっている。 ) だ」と、ゆずらない関係で、それでも一緒に 考え続けてきた。学部紀要別冊『エスキス』 で、大河内は、それらの体験を整理して論じ ている 77)。彼のこの辺りのテーマの発端は、 「見えない」彼が「聞こえない」同世代に出 会いつつ、 「見る」言語としての手話を身に つけていく体験にある。 《著書・論文》 21)[大学論としての「障害者」問題―和光大学で の体験と思索]和光大学人文学部紀要14、1980、 pp. 53-66。 41)[プロゼミ私論―伝達から対話への試み]、『大 学教師の実践記録 和光大学の場合』明治図書 1983、pp. 22-36。 77)大河内直之・篠原: [コミュニケーションの可 能性―出会い、つながり、関わりあうこと]和 017 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) 光大学人文学部人間関係学部紀要別冊『エスキ ス 97』 (1998) 、pp. 89-107。 83)村上健一・篠原: [バリアフリー社会の体験と 思索]和光大学人文学部人間関係学部紀要別冊 (2000) 、pp. 170-187。 『エスキス 99』 85 )篠原・小野広祐 : [〈対論〉日本手話・ろう文 化・ろう学校をめぐって] 和光大学人間関係学科 『かわら版 R-WAKO 2000』 (2000) 、pp. 16-27。 究者席で隣り合って座る「発達保障論」に立 つ研究者たちの“仕事”を批判するというこ とになった。80年代の当該部会に論じられた リポートを読むなどの作業は、毎年、 『ゆき わたり』に書き続けたが、90年代に入るとき、 『共生・共学か発達保障か』と題して、その ときまでの争論を一冊にまとめた56)。1991年、 F──「養護学校義務化と発達保障論」 批判 E項では、職場での体験と思索を紹介した が、本項では、再び、D項につながる一群の “仕事”を紹介する。すでに述べたが、ぼく ぼくも関わった臨床心理学会改革活動は、J 項で紹介する経過で終焉を迎えた。このとき まで、この場でも、「健常児」と「障害児」 を分けることの批判と共生・共学の模索は、 臨床的営為としての判定業務、知能・発達診 は、特殊教育学科の助手をしながら、教育相 断の点検を行いながら続いたが ( D 項参照)、 談を本格的に始め、そのなかで、特殊教育の [「障害児」差別と共生・共学の模索] 66)は、 分断・隔離性に気づいて、 「共生・共育」を 学会活動の終焉に伴う、このテーマにそって 願い主張するようになった。気づいてみると、 の総括論文である。 そのことは、養護学校義務化徹底の動きと衝 なお、 [ 「権利としての障害児教育」再考― 突することになる。その動きを支える理論的 共生・共学の模索]95)は、人権教育のテキス 背景は、障害児の教育権思想、発達保障論で トの一章として書いたものだが、編者、岡村 あった。ぼくは、80年代前半から発達保障論 らは、相互性・共同性のなかで個人の人権・ に立つ教育学、心理学、教育実践などと向き 権利を論じるという視点でまとめようとして 合って批判的作業を重ねることになる おり、拙論も、そのような文脈に位置づけら 22)25)26) 。これらを一冊にまとめたのが 28)31)35)36)39)40) れたことになる。ただし、ぼくの場合、今も、 『 「障害児の教育権」思想批判―関係の創造か 「個人・人格の尊重」に立つ人権・権利論と 発達の保障か』44)だが、学校を、個々人の発 相互的で共同的な人間存在論との間はなかな 達保障の場としてではなく、個々人がつなが か埋まらないままで、このことは宿題として りながら相互関係的、共同的になっていくと あり続けている。 いった、関係の創造の場として描くことを提 唱した。 ぼくは、80年代前半から日教組全国教研障 害児教育部会の共同研究者として参加する。 ここは、 「発達保障、養護学校義務化の徹底」 を主張する多数派と「義務化批判と共生・共 学」を主張する少数派のせめぎ合いの場であ ったが、ぼくは、後者の立場に立って発言す ることになる。既述の連載作業では、共同研 《著書・論文》 22)[障害児の教育権思想批判・その1 清水寛氏に おける障害児教育研究の特徴とその批判]福祉 、pp. 126-147。 労働6(1980) 25)[障害児の教育権思想批判・その2 糸賀福祉思 想―近江学園・びわこ学園―「発達保障」理 、pp. 念・その批判的な考察]福祉労働7(1980) 117-136。 26)[障害児の教育権思想批判・その3 日教組教育 制度検討委報告における「共同教育」論批判] 福祉労働8(1980) 、pp. 127-154。 018 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 28)[障害児の教育権思想批判・その4 田中昌人氏 における「人間発達の科学」批判]福祉労働9 (1980) 、pp. 107-128。 31)[障害児の教育権思想批判・その5 「障害の早 期 発 見 ・ 早 期 治 療 」 の 諸 問 題 ] 福 祉 労 働 10 (1981) 、pp. 141-163。 ンストリーミング」が強調されて、障害児が 地域の学校へ戻ってきたと報道されるように なった。ぼくは、アメリカの教育思想の文脈 で、そんな事態が期待通りに進行しているは ずがないと思っていた。1981 年、職場では、 35) [障害児の教育権思想批判 第Ⅱ部 その1 養護 学外研究員制度が始まった。その年、クジに 学校教育実践記録を読む―八王子養護と与謝の 海養護のこと]福祉労働 17 ( 1982 )、 pp. 131あたって、その適用を受けることになった。 151。 迷わず、こんな問題意識を持って、アメリカ 36) [障害児の教育権思想批判 第Ⅱ部 その2 「交 に一年間の取材旅行に出かけた。滞在期間、 流」ということ、「共に学ぶ」ということ―第 三一次全国教研レポートを読む]福祉労働 18 『ゆきわたり』に毎月連載し、 『臨心研』には (1983) 、pp. 159-175。 32)33) 二回寄稿した 。日本に戻って、すぐに一 39)[障害児の教育権思想批判 第Ⅱ部 その3「障 冊にまとめたが 34)、アメリカでは、確かに、 害児保育」論への批判的考察―茂木俊彦氏の主 張をめぐって]福祉労働19(1983) 、pp. 144-160。 障害児・者たちが、ドラマティックにコミュ 40) [障害児の教育権思想批判 第Ⅱ部 その4 「障 ニティに戻っていたし、収容施設によっては 害児に話をさせるために」批判―河添俊氏の 解体したところもあった。 「一日の生活の仕方」にこだわって]福祉労働 20(1983) 、pp. 140-156。 一方、コミュニティ・スクールでは、黒人 44) 『 「障害児の教育権」思想批判―関係の創造か発 と白人の統合教育が進行していた。しかし、 達の保障か』現代書館、1986。 その場では、白人の文化規範、社会基準にそ 56)『共生・共学か発達保障か―'80年代日教組全国 教研の争論』現代書館、1991。 って教育ニードの多様化が進行し、それに見 66) [ 「障害児」差別と共生・共学の模索―日本臨床 合う教育プログラムが林立していた。そして、 ]社臨 心理学会改革20年をふりかえる(その4) 人種統合学校での各プログラムには人種的偏 、pp. 75-85。 誌2巻2号(1994) 95) [ 「権利としての障害児教育」再考―共生・共学 向が観察された。例えば、才能児学級、学習 の模索]、岡村達雄・玉田勝郎編『人権の新し 障害児学級には白人生徒、軽度精神遅滞児学 い地平―共生に向けて』学術図書出版、 2003 級、行動障害児学級には黒人生徒が圧倒的に pp. 92-112。 G──フィールド・ワーク: アメリカの「障害者・黒人」問題 60年代後半、臨床心理学の研修と研究のた 多かった。ぼくは、このような事態を「統合 下の新たな分離」と呼んだ。 アメリカ滞在中、日本の村落共同体に、相 互扶助的で異端排除的な“せめぎ合う”共生 めに、アメリカで過ごしたことについては、 のモデルがあるかもしれないと思い出した。 すでにA項で述べた。しかし、まもなく、そ そんな問題意識を持ちながら、或る縁があっ れらは、その後の仕事にそのまま生かされて て、 80 年代後半の五年間、毎夏一週間程度、 いくことになるどころか、かえつて、自己点 志摩・和具という漁村に出入りした。ここは 検作業の課題として引きずることになる。 「海女社会」であった。その報告は、 『ゆきわ 70年代半ば、日本では、養護学校義務化を 『エスキス』では総括的に たり』にしたが、 めぐる攻防が始まっていたが、アメリカでは、 一篇を書いた57)。都会人のぼくは旅人として 全障害児教育法(1975年)が成立し、「メイ 出入りして、彼らに歓迎されつつ、多くの新 019 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) 鮮な体験を書き記すことができた。しかし、 この村の「相互扶助」性を描くことはできた と思うが、当然のことだが、その裏側に引き ずる「異端排除」性について取材することは 困難であった。 こうして、ぼくは、自分たちの暮らす都会 に戻り、 「せめぎ合う共生」のリアリティの 一端々々を描き続けようとしている。さらに、 「日本的」共生論と括って、 「日本」という国 pp. 31-44。 34) 『 「障害児」教育と人種問題―アメリカでの体験 と思索』現代書館、1982。 57) [ 〈フィールド・ノート〉海女社会、志摩・和具 を描く]和光大学人文学部・人間関係学部紀要 (1991) 、pp. 110-126。 別冊『エスキス 91』 61 )[「死ぬ権利」にとまどいつつ]、『〈フィール ド・ノート〉1991年、アメリカ合州国の夏』自 主出版、1993、pp. 36-93。 6 2 )[「 ア フ ロ ・ セ ン ト リ シ ズ ム 」 に 出 会 っ て ]、 『 〈フィールド・ノート〉1991年、アメリカ合州 国の夏』 、pp. 94-137。 境で囲われた社会を肯定的に描こうとするこ とのナショナリズム性・排他性にも気づかさ H── 対談シリーズ:「共生」論の検証 れていく。 1991年、フルブライト研究員に採用された ぼくの思索の検証は、 「障害」児とその家 ので、三ヶ月だったが、十年ぶりに、アメリ 族の暮らしの場と接点を持つことなど、人々 カを訪ねた。このときは、湾岸戦争が始まっ との対話や討論の積み重ねでなされてきた。 て終わった年の夏だった。前回のフォロー・ 80年代を通して『臨心研』で〈対談〉 〈鼎談〉 アップ・スタディのつもりだったが、人種統 を重ねてきたが、 「どもり」を引きずりつつ 合教育は後退していた。アトランタなど大都 自ら演劇をしながら論じていた三好哲司とは、 市では、 「白人逃避」現象に伴って、残され 彼の「どもり」体験との照らし合わせの中で、 た黒人学校が際立っていた。ただし、そこで ぼく自身の「書痙」体験を振り返っている。 は、(ユーロ・セントリシズムに対抗する)ア 特に、しつこい左利きの厳しい矯正のなかで フロ・セントリシズム教育が展開していた 。 「見られる」緊張感を体験してきた少年時代、 62) また、アメリカ障害者法(ADA 1990年)が成 「頭脳」労働中心の上昇志向のなかで「手の 立していて、障害者の社会参加と自立が本格 震え」が決定的なハンディと感じていく青年 的に保障される事態が進行していた。ところ 時代のことなどを言語化している37)38)。 「死ぬ権利」 が、その保障が成立しない場合、 「障害児」に関わる仕事をしな 村瀬学は、 が認められるべきであるという裁判が起きて がら、 「自閉症」論など、臨床的・哲学的作 いた 61)。その後も、「障害児・者」問題など、 「障害 品を発表していたが、ぼくは、彼の、 特に「脳死・臓器移植」問題に関心を持って、 児」の世界を解釈する傾向に絡みながら、生 アメリカでの取材活動を重ねているが、この きあい、響きあう言葉とは何かを探った。村 ことについては、C項で述べた。 瀬の実践が「解釈としての言葉」ならば、ぼ 《著書・論文》 32)[マサチューセッツ州の特殊教育―主に「メイ ンストリーミング」をめぐって]臨心研19巻3 号(1982) 、pp. 20-37。 33)[人種差別と特殊教育―アメリカ合衆国におけ る近代平等思想批判]臨心研 20 巻 1 号( 1982 )、 くのは「行動として言葉」と一応言えそうだが、 この言葉の二重性は、いずれの人々の言葉に 混在しているということも確認している43)。 発達心理学研究者で、刑事事件での冤罪性 を供述過程の中で緻密に分析してきた浜田寿 020 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 美男とは、個体還元主義的な「発達」概念を スタイルとしての言動は「共生と優生のはざ 関係性・共同性へと開いていくことを考えて ま」を行き交ってしまっていることに気づい いるが、特に「自我」論は、自ずと、その文 ておかなくてはならない51)。 脈を断ちがちだが、その自我の意識において、 教育行政学を専攻しつつ「教育」の現在を 徹底してこのテーマにこだわり続けるほかな 問い続ける岡村達雄と、心理学の出自にこだ いという作業課題を確認している。また、個 わりつつ、心理学の歴史性・社会性を解明し 人還元主義的な「発達」概念を批判する余り、 ている山下恒男と、上記一連の対談を振り返 そこにもあり続ける個体・身体の展開、停滞、 って「共生」論を検証する鼎談をしている53)54)。 そして退却の諸相を忘れがちであることも自 ここでの議論は多義にわたっており、一つだ 覚させられている 。 け記しておくと、 「共生・共学」ということ 45) 教育、福祉、生活の問題を経済学の観点か は、 「障害児」を「健常児」集団から分離・ ら解こうとしている暉峻淑子とは、 「選択・ 隔離する近代教育制度の現実を批判し、そこ 自由」などをめぐって議論をしているが、ぼ に抗する生き方、暮らし方という意味合いで くは、 「共生」の世界は「せめぎ合い」性を 使いだしたが、ここに留まる限り、隠してし 引きずるので、そこは「非選択・不自由」の まって見えなくなっている問題はないかとい 場になりがちであると強調し、そこに「共生」 うことだった。例えば、 「分けない、一緒に」 の必然があるとくり返して述べている。とい のなかで、部落差別における「学力保障」や、 うのは、ぼくらは生物としての身体でありつ 在日韓国・朝鮮人問題における民族学校・母 つ、その身体は社会・文化、そして国家に規 語教育をどのように考えるかという問題が残 定されながら、それらを規定し返す存在なの る。こうして、 「学力保障」における能力差 で、身体的存在としてのお互いは、もともと、 別、民族学校における分離性ということを射 その拘束性・呪縛性を生きるほかないと、 程に入れつつだが、そのときまでの「共生・ 「せめぎ合う共生」を描いている 。 46) 政治を「詩学」として論ずる栗原彬とは、 共学」論を相対化する問題意識が生じたこと は確かである。また、ぼくは、「共生」を、 近代社会(現代社会)のなかでの「共生」を 人々が心身的存在として時空間を共有するこ 語り合ったが、そこには、モデルとしての とに焦点を当てて考えていたのだが、岡村は、 “いま、ここ”の 「共生社会」を描くことと、 「越境、旅、交流」の文脈でもそこに生起す 社会における、ぼくたちのライフスタイルと る「共生」を探っていけるのではないかと提 しての「共生」の捉え返しがあった。また、 起している。 戦争に反対し、公害を告発する論理を問いあ っている。戦争や公害の被害の諸事実を「病 気・障害」で訴えようとするとき、“いま、 ここ”の「病者・障害者」を負的存在として 見ていることにならないかという問題である。 つまり、戦争も公害もない「モデルとしての 共生社会」を願うときでも、ぼくらのライフ 《著書・論文》 37)三好哲司・篠原:[〈対談〉「どもり」と「書痙」 ]臨心研20巻4号(1983) 、 の生活とからだ(Ⅰ) pp. 60-81。 38)三好哲司・篠原:[〈対談〉「どもり」と「書痙」 の生活とからだ(Ⅱ) 、 ]臨心研21巻1号(1983) pp. 70-82。 43)村瀬学・篠原:[〈対談〉生きあい響きあう“こ とば”のありようを求めて]臨心研 23 巻 2 号 021 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) の扱いをめぐって」を書いたが、これは、和 (1985) 、pp. 119-142。 45)浜田寿美男・篠原:[〈対談〉子どもの生活世界 を捉え直す]臨心研 24 巻 2 号( 1986 )、 pp. 88113。 46)暉峻淑子・篠原:[〈対談〉近代の視角―社会・ 身体・発達にこだわって]臨心研25巻1号 (1987) 、pp. 59-78。 51)栗原彬・篠原:[〈対談〉近代社会の「共生」を 、pp. 52-87。 探る]臨心研26巻2号(1988) 53 )岡村達雄・山下恒男・篠原 : [〈鼎談〉「共生」 論を検証する(上)]臨心研 27 巻 3 号( 1990 )、 pp. 51-73。 光大学内に設置された「朝鮮研究会」活動で 54 )岡村達雄・山下恒男・篠原 : [〈鼎談〉「共生」 論を検証する(下)]臨心研 28 巻 1 号( 1990 )、 pp. 51-78。 さらには「国民の海外発展」説を引きずって 培った問題意識に支えられている。特に、同 研究会が行った、朝鮮侵略の本拠地、名護屋 城など、北九州旅行での見聞が、その背景に ある。戦後において、 「朝鮮侵略」という反 省的認識に立つ記述が多くなっていくが、依 然として、戦前の「朝鮮征伐」の色合いを残 しながら、「假途入明」説、秀吉英雄史観、 いるものもあった。戦前・戦中の歴史観の現 在性を自覚させられた作業であった58)。 「朝鮮研究会」のメンバーと相当重なったが、 I──「アジア」に関する フィールド・ワーク 90年代半ば、 「和光大学モンゴル学術調査団」 (団長 三橋修)は、三年間にわたって、 「国 ぼくは、和光大学で、 「アジア」に関する 境にまたがる」モンゴル人たちを、各地に訪 研究と活動に関わる同僚たちに恵まれ、影響 ねて「変容するモンゴル世界」を調査し一書 されながら、この分野で学び発表する機会を を編んだ。ぼくもその一員として、ふた夏に 持ってきた。80年代半ばに発足した「アジア わたって、カザフスタンとの北境の町、ホボ 研究・交流教員グループ」は『アジア研究』 グサイル(中国・新疆ウイグル自治区)を訪ね、 を発刊してきたが、それは、1996年秋に第10 「草原の中の宴」と題して、 「改革・開放」の 号(終刊号)で閉じた。終刊号の編集担当は、 中の遊牧民の暮らしを見聞しながら、モンゴ ぼくだった。その責めも感じて、そのときま ル人としての自立と漢人中心社会への同化の での9号分を精読して「 『方法としてのアジア』 はざまで揺れつつ生きる様子を書いた76)80)。 を探る」を書いた。そこで、ぼくは「日朝・ 日韓問題に逢着するほかなかった」 。 71) ぼくは、アメリカを他山の石としながら、 2001年夏、澁谷利雄に案内され、フィール ド・ワークする学生たちに同伴して、スリラ ンカを旅している。そして、日本に戻って、 アメリカとの関係で、日本を振り返ってきた 澁谷と語らいつつ、その体験を振り返ってい が(G項、参照) 、一方で「アジアの中の日本」 る。シンハラ人中心社会のなかで、彼らとタ ということに自覚的であろうとしてきた。さ ミル人とが対立、葛藤する政治状況を見聞す らに、アジア各地への軍事的・経済的侵略の る一方で、各地の「神仏が同居する境内」を 歴史を想うとき、 「日本とアジア」という認 訪ねて考えた。この風景を、ヒンドゥー教と 識も、もちろん反省的にだが、必要な理解の 仏教を制度的に別個なものと見なしつつ、そ 仕方なのかもしれないと考えている。 の混淆になっていると理解することは、キリ さて、この文章 71) に先んじて、 「戦後教科 書における秀吉研究―特に『文禄・慶長の役』 スト教的発想であると気づいた。神仏がゴッ チャに居る風景は、庶民の暮らしの観点から 022 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 合理的で馴染みやすいことであると感じた92)。 《著書・論文》 70年代前半、学会内外の場で「障害」児の 親たちや「精神障害」者の生活と言葉を聴く 58)[戦後教科書における秀吉研究―特に「文禄・ ことで、心理テストやカウンセリングを見直 慶長の役」の扱いをめぐって]、和光大学朝鮮 す作業を始めるのだが、 「学会改革20年をふ 研究会『朝鮮研究―特集・豊臣秀吉と朝鮮』 りかえる」連載、その163)では、このように 、pp. 33-82。 (1992) 71)[「方法としてのアジア」を探る]、和光大学総 丁寧な臨床活動の反省を重ねることで、やが 合文化研究所 アジア研究・交流教員グループ て彼らのための“より良い”臨床家になって 『アジア研究』10号(終刊号 1996) 、pp. 23-32。 いった経過を、それで良かったのかとの思い 76)[ホボクサイルのモンゴル大草原―たった二日 間の大きな体験]、和光大学人文学部・人間関 で振り返っている。 (1997) 、pp. 33-49。 係学部紀要別冊『エスキス 96』 80年代後半に入ると、精神医療現場の告発 80) [草原の中の宴─ホボグサイルの人々を訪ねて] 、 と国際世論のなかで、国家も医療者たちも 和光大学モンゴル学術調査団『変容するモンゴ ル世界―国境にまたがる民』新幹社、 1999 、 「精神医療改革」を迫られていったが、ここ pp. 250-288。 には、医療チームの充実・拡大が強調され、 92)篠原・澁谷利雄:[〈対談〉スリランカ体験の検 臨床心理士の専門性の強化と国家資格化が求 証]、和光大学表現学部・人間関係学部紀要別 (2002) 、pp. 14-37。 冊『エスキス 2002』 められてくる経過がある。こうして、臨床心 J── 臨床心理学会改革の終焉と 社会臨床学会の創設 ぼくは、60年代半ばから、臨床心理学会会 理学会内では、この動きを警戒する側と歓迎 する側に分裂、対立するのだが、その264)で は、後者が、 「 『される』側に学び、 『される』 側のために」(“より良い”心理臨床家)路線 員だが、60年代末からは、以後20数年にわた を選択していった経過を批判的に述べている。 って、同学会活動の企画・運営に参加しなが その3 65 ) では、「資格・専門性」議論を、 ら、臨床心理学や心理臨床の自己点検をし続 それらを批判する立場から振り返り、やがて、 けてきた。「する」側の自分たちの仕事を 90年代当初、社会臨床学会設立に到る経過と 「される」側の暮らしや言葉から問い直しな 趣旨を記した。臨床心理学会では、 「臨床心 がら、 「共に生きる」筋道を模索してきたと 理学・心理臨床」の理論と実際を、当該分野 言える。このなかでの大きな課題の一つは、 の者たちが、 「される」側、関連領域の人た 臨床心理士の専門性・資格問題であったが、 ちと一緒に考えようとしていたが、社会臨床 そのひとつに、その国家資格化に抗する経過 学会では、 「社会臨床」という言葉に仮託し があった。しかし、80年代後半に入ると、学 て「さまざまな立場・領域の人々が共に考え 会内にも、かつての“改革派”精神科医たち る」と明記し、医療、福祉、教育における臨 の働きかけを受ける中で、国家資格化を推進 床や実践を歴史・社会・文化の文脈で対象化 する動きが出てきた。議論は、数年、激しく し問題化することとした。 続いたが、この動きに批判的なぼく(たち) 『障害児』差別と共生・共学の模 その466)「 は敗退し、新たに社会臨床学会を設立した。 索」では、上記D項、F項、G項で紹介したこ 「学会改革20 本項で紹介する一連の論文は、 とを、時間の流れにそって整理している。そ 年」を振り返ったものである。 の5 67)では、 80 年半ば以降、「優秀な子孫」 023 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) を作ることと「障害の早期発見・治療」が、 母親中心の「子産み・子育て」施策の強化の K── カウンセリングの実際とその批判 なかで、積極的に意図されてくる経過を振り 返った。このような優生学的事態は、暮らし 「学会改革」時代、心理治療やカウンセリ の中で、その他の側面でもうかがえたが、臨 ングの問い直しが、主として精神医療の現場 床心理学会が開催した『「早期発見・治療」 から開始され、行われてきた63)64)65)。心理テ はなぜ問題か』出版記念シンポジウム(1988) スト、特に知能テストの問題は、主として学 では、自然食・健康食運動、反原発運動、そ 校現場と、教育相談業務などその周辺から掘 して、脳死・臓器移植問題を切り口に考えて り起こされてきた(D項参照) 。 ぼくは、学校現場に関わって論ずることが いる。 そのうち、特に「脳死・臓器移植」問題に 多かったが、80年代に入って、ここでは、一 関しては、その立法化の動きと共に、90年代 般の教員がカウンセリング・マインドを持つ を通して、そして今日も考え続けることにな ことの必要性が言われるようになり、そのた る(C項参照)。(なお、連載「学会改革20年を めの行政主導の研修会も開かれていく。こん ふりかえる」は、文献 74 ) でまとめた。) また、 社会臨床学会第14回総会(沖縄)で、ぼくは、 な折、ぼくは、日教組からの依頼を受けて、 学校現場における心理テストやカウンセリン 「学会改革20年」をはさんだ40年間の「特殊 グの諸問題に関する資料の整理と解釈を行っ 教育・臨床心理学・心理臨床」をめぐる自分 ている59)。そこでは、知能テストから性格テ 史を講演している104)。 ストへと関心が広がっている様子が窺われた。 《著書・論文》 63) [ 「 『される』側に学び、 『される』側と共に」と は―日本臨床心理学会改革 20 年をふりかえる ]社臨誌1巻2号(1993) 、pp. 81-95。 (その1) 64)[「『される』側に学び、『される』側のために」 の選択―日本臨床心理学会改革20年をふりかえ ]社臨誌1巻3号(1994) 、pp. 36-42。 る(その2) 65) [ 「資格・専門性」論議と学会改革の終焉―日本 臨床心理学会改革20年をふりかえる(その3)] 社臨誌2巻1号(1994) 、pp. 55-67。 66) [ 「障害児」差別と共生・共学の模索―日本臨床 ]社臨 心理学会改革20年をふりかえる(その4) 誌2巻2号(1994) 、pp. 75-85。 67) [ 「早期発見・治療」問題から反優生・共生への 模索―日本臨床心理学会改革20年をふりかえる (その5) ]社臨誌2巻3号(1994) 、pp. 90-103。 74 )[「心理臨床から社会臨床へ」をめぐる思索 『「社会臨床」の思索』]自主出版、 1997 、 pp. 33-86。 104) [ 「臨床心理学」にからみ、あらがって40年、そし 、pp. 42-56。 て、いま……]社臨誌14巻2号(2007) これは、 「校内暴力」 「いじめ・不登校」が社 会問題化しているときと対応しているが、こ れらの問題は逆に心理主義化して、心理テス トからカウンセリングへ、そして、後者から 前者へと、カウンセリング、カウンセリン グ・マインドが期待されていった。その期待 は、学級経営や教科指導に関してでもだが、 養護教員の仕事にも向けられるようになって いる。 この調査活動に触発されて、ぼくは、カウ ンセリング・マインドに対する推進的、批判 的、それぞれの立場にある教員たちの聞き取 り調査を行った。そこで明らかになったこと だが、カウンセリング・マインドが流行した 大きな事情には確かに「校内暴力」「いじ め・不登校」問題があった。しかし、もう一 つ、生涯学習社会における自己教育力、自己 024 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 解決力の涵養というテーマがあった69)。 脈で、河合隼雄(「二一世紀日本の構想」懇談 90年代に入るにつれて、カウンセリングは 会座長)ら、臨床心理士の国家資格化を目指 いろんな場面で要請されてきて、巷間では、 す一群が、そのためにはスクール・カウンセ “カウンセリング・ブーム”の様相を呈して ラーが必須であると主張したのだが、そこに きた。例えば、阪神・淡路大震災、臓器提 は、自分たちの業界を拡大していく動きが窺 供・移植、出生前診断などでのカウンセリン えた86)。 グが、 「する」側から強調され、実施されて きている。教育現場では、スクール・カウン セラーの導入が開始されていく。そこでは、 PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの「心 の病」 、自己決定、自己実現などの強調とと もに、社会と個人のはざまの暮らしの問題を、 ひたすら個人や個人の心理に還元して解こう とする傾向が際立ってきた81)。 90年代に入ると、女性同士、障害者同士の ピア・カウンセリングが社会的運動・組織と して流行るようになった。このことは、ぼく にとっては意外なことだった。カウンセリン グとは「くろうと・しろうと」関係で成立す ると考えていたからである。障害者同士の場 合の実態と理論的背景を調べたが、そこには、 「障害者の社会参加と自立」があった。が、 同時に「健常者」中心社会からの独立という こともあった。しかし、障害者間が「する・ 《著書・論文》 59)[学校現場における心理テスト・カウンセリン グの諸問題] 、日本教職員組合『健康白書 No. 7 子どもをめぐる各種検査の実態と問題点』 1992、pp. 10-73。 63) [ 「 『される』側に学び、 『される』側と共に」と は―日本臨床心理学会改革 20 年をふりかえる ]社臨誌1巻2号(1993) 、pp. 81-95。 (その1) 64)[「『される』側に学び、『される』側のために」 の選択―日本臨床心理学会改革20年をふりかえ ]社臨誌1巻3号(1994) 、pp. 36-42。 る(その2) 65) [ 「資格・専門性」論議と学会改革の終焉―日本 臨床心理学会改革20年をふりかえる(その3)] 、pp. 55-67。 社臨誌2巻1号(1994) 69 )[学校カウンセリングの現状と問題]、社臨編 〈社会臨床シリーズ2〉『学校カウンセリングと 心理テストを問う』影書房、1995。 81) [いま、なぜ、カウンセリングを問うのか] 、和光 、pp. 148-157。 大学人間関係学部紀要3号(1999) 82) [ピア・カウンセリングを考える] 、社臨編『カ ウンセリング・幻想と現実 下巻 生活と臨床』 現代書館、2000、pp. 308-337。 86) [ 「教育の転換」とスクールカウンセラー]現代 、pp. 100-110。 思想(2000. 8) される」関係に階層化されること、ピア・カ ウンセラーが資格化・職業化されること等の L── 特別支援教育と「教育改革」問題 疑問が残ったままである82)。 21世紀に入る前後から教育基本法「改正」 「改正」教育基本法(2006年)は、その4条 「学校教育」 (2006年)に到る「教育改革」は、 「教育の機会均等」第二項で、 「国及び地方公 を「義務として強制する教育」と「サービス 共団体は、障害のある者が、その障害の状態 としての教育」に分けて、それぞれを「エリ に応じ、十分な教育を受けられるよう必要な ート(フロンティア) 」と「問題を起こす子ど 支援を講じなくてはならない」と規定したが、 も」に対応させる教育へと転換することを期 そのことは、 「特殊教育から特別支援教育へ」 待していく 。ここでのキーワードは「個性 ということで制度化された(2007年)100)。 86) 「選択の自由」 「自 「教育の多様化」 の尊重」 さて、ぼくは、80年代当初、アメリカでの 己決定・自己責任」等である。このような文 取材活動を通して、そこでのメインストリー 025 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) ミングと個別化教育計画(IEP)に着目した が(G項参照)32)33)34)、これは、日本における の特別支援教育と矛盾するものではない94)。 さて、特別支援教育を支える道具としての 「特別支援教育」のひとつの淵源であった。 個別式知能検査WISC-Ⅲは、知能レベルの個 21世紀に入って、この教育は、普通学校・学 人間比較だけではなく、個人内比較も可能に 級における「問題を起こす子ども」を「(軽 なっている。全IQ、言語性IQ、動作性IQに 度)発達障害児」と括りだすことから始まる 「知覚 加えて、12の下位検査を「言語理解」 のだが、同時に、従来の特殊教育を包摂して 統合」 「注意記憶」 「処理速度」の四つの群に いく。これは、政府が「エリート(フロンティ 分けて、各群のIQも算出できる。かくて、七 」尊重の教育への転換を明言した状況を ア) つのIQの組合せ具合などで、子どもたちの個 追って登場してくるのだが(K項参照)、 「エ 性化・個別化に役立てることができると言う リート(フロンティア)」教育は、「個別化」 のである。 「個性化」 「選択の自由」を標榜して、学区制 こうして、WISC-Ⅲによって「 (軽度)発達 の解体と学校選択の自由、教科の選択制と習 障害児」の診断が可能になったと言われるが、 熟度別学級、そして中高一貫教育などで実現 最近の拙論107)では、知能テストが「精神薄 しつつある93)。 (軽度)発 弱の発見」のためのビネー式から「 特別支援教育への流れは、 90 年前後から、 達障害児」のためのウェクスラー式 (特に 「知的障害児」との差異を強調して「学習障 WISC-Ⅲ)へと移行していく経過を、特別支 害児」が括りだされ、彼らのための通級学級 援教育が制度化していく過程とセットにして が提言、実施されることから始まる 。21世 論じている。その教育は、いよいよ個別化し 紀に入って、普通学校・学級から「学習障害 心理主義化している。 60) 児」 「注意欠陥・多動性障害児」 「高機能自閉 症児」などを「(軽度)発達障害児」と包括 し、彼らを加えた「障害児」たちを、通常の 、特別支援 学級、特別支援教室(元通級学級) 学級(元特殊学級)、特別支援学校(元特殊学 校)へと、判定し再配置する事態が進行して いるが、その際求められることは、適切な行 動観察と心理テストである。 そのことに言及する前に、インクルージョ ンに触れる。これは、90年代に入って、欧米 において強調されてくる教育思潮だが、日本 では、「共育の道」と訳されたことがある。 しかし、実際は、普通教育と特殊教育を包摂 (インクルージョン)し合って、個々人の教育 ニードに合わせたプログラムを多様化し階層 化することになっている。その意味で、既述 《著書・論文》 32)[マサチューセッツ州の特殊教育―主に「メイ ンストリーミング」をめぐって]臨心研19巻3 号(1982) 、pp. 20-37。 33)[人種差別と特殊教育―アメリカ合衆国におけ る近代平等思想批判]臨心研 20 巻 1 号( 1982 )、 pp. 31-44。 34) 『 「障害児」教育と人種問題―アメリカでの体験 と思索』現代書館、1982。 60) [ 「学習障害児・通級制」を考える―反優生・共 生にこだわって]、日教組障害児教育部編『学 習資料・「学習障害」を考える』、 1993 、 pp. 45-66。 93) [ 「教育改革」のなかの「個性の尊重」と「自己 決定」を問う]、小沢牧子編『子どもの〈心の 危機〉はほんとうか?』教育開発研究所、2002 pp. 118-129。 94) [ 「インクルージョン」と「教育改革」の現在と 、pp. 8-16。 問題]社臨誌10巻1号(2002) 100) [教育基本法「改正」の動きと「特別支援教育」 の提言の関連を探る]社臨誌 12 巻 1 号( 2004 )、 026 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 pp. 46-57。 107)[いま、なぜ、「発達障害」なのか、WISC-Ⅲ なのか] 、社臨編〈シリーズ「社会臨床の視界」 4 巻〉『心理主義化する社会』現代書舘、 2008 、 pp. 200-244。 子高齢化社会危機説のなかで老人がどのよう に描かれていくかの問題意識を述べているが、 尊厳死協会運動は、精神・生産活動ができな くなった者はもはや「生きるに値しない」と いう発想(QOL論)および「本人意思の尊重」 M── 障害者・老人の囲い込みと暮らし という主張に支えられていると指摘し、この ような発想や主張は、エリート男性たちによ 21世紀に入る直前に、高齢者との関連で介 るものであると指摘している。一方で、同協 護保険制度が発足している(2000年)。そして、 会入会希望者には、家族介護に心身ともに苦 (障害児・者の)支援費制度(2003年)が始ま 労した「主婦」など女性たちが多く、彼女た ったが、この制度は3年で廃止されて障害者 ちこそが「尊厳死」願望を表しているのだと 自立支援法制度(2006年)が施行されている。 分析している78)。 障害者の福祉制度も、介護保険制度へと組み 「老い」の囲い込みとしての介護 追って、 込めないかと模索されているが、いまのとこ 保険制度を論じ、それは、 「痴呆性」老人の ろ、別々である。しかし、ふたつの制度は 暮らしを保障するシステムになっておらず、 「社会参加と自立」で理念化されながら、福 彼らに関しては、 「延命治療の中止」 「尊厳死」 祉の産業化・商品化を志向している。 日本においても、施設収容を拒否して社会 の倫理化・合法化で補完しようとしていると 指摘した84)98)。 参加し自立していく障害者側の主張と運動は QOLと「本人意思の尊重」は、脳死・臓器 70年前半から開始されるが、ノーマライゼー 移植問題でも認められることだが、この問題 ションと在宅主義が国策として動き出す90年 を扱った拙著では、アメリカの論調に見られ 代に入ってから、ぼくたちは、その現在を確 る「家族の紐帯ゆえの老人の死の義務」を紹 かめる作業を行っている。これは共同研究だ 介、批判しながら90)、上記シンポなどでの発 ったが、ぼくは、逆に、街の暮らしから施設 「豊かな社会」と「個人の 言を再整理して、 へと収容されつつ、そこでの収容者同士の自 尊重」を越える地平を模索することを提言し 治を主張し施設改善を求めた、一人の障害者 ている91)。 の半生を描いた70)。 80年代半ば以降、精神障害者に対する「人 支援費制度発足の直前、この制度の問題に 権に配慮した医療」と「社会復帰の促進」に ついて障害者たちと討論しているが、そこで そって、社会防衛を強調して隔離収容主義を 「高齢者と障害者を同一視しながら分断 は、 推進してきた精神衛生法体制が「改革」され している」 、 「社会参加と施設収容は循環して ていくのだが、その一方で、その分、一般社 いる」 「自己決定の強調と共同性の後退」等 会における精神医療施策がやはり「自傷他害 に気づいている99)。 の防止」という観点から新しく加わってくる。 和光大学人間関係学科主催のシンポ「高齢 90年代末には、保護と医療を目的とした強制 化社会の中で『老いること』と『共に生きる 入院対象の拡大という文脈から「移送制度」 こと』を考える」(1997年)で、ぼくは、少 が新設されたが、この業務は民間委託されつ 027 和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月) つ、カウンセリング的扱いを強調しながら、 拘束・管理のソフト化・サービス化を図ろう としている88)。 特に、 「触法精神障害者」に対する保安処 分的対策の動きは、戦後もずっと折々に噴出 98)[「老い」の囲い込みと介護保険制度]、和光大 学人間関係学部紀要・第7号第1分冊『現代社会 (2003) 、pp. 38-55。 関係研究 2002』 99)古賀典夫・天野誠一郎・田中清・篠原:[ 〈討論〉 暮らしのなかで支援費制度を考える]社臨誌11 巻1号(2003) 、pp. 53-68。 してきたが、心神喪失者等医療観察法が、 「大阪・池田小学校児童殺傷事件」(2001年) ──おわりに を契機に成立している ( 2005 年)。ぼくは、 この動きを批判するなかで、この法律の保安 在職中、ぼくは、子供問題研究会の場や地 処分性を指摘し、その歴史的経過を整理した 域の暮らしの中で、 「障害」児、 「障害」者や が、 「心神喪失者の犯罪は罰しない、心神耗 彼らの家族などと一緒に考えることが多かっ 弱者のはその刑を軽減する」とする刑法39条 た。教室の内外で出会った学生たちの一群と の規定と、措置入院制度の保安処分性を問題 は、職場の内外で、何かとつき合いが続いて 化している。その軸は、彼らから「人格」 いる。さらに、娘たち、孫たちとのことで、 「責任」概念を奪ってしまうことの疑問だが、 同時に、これらの概念を肯定することで、犯 出産、育児、保育・教育を軸に喜怒哀楽して きたことが幾つもある。 罪をひたすら個人に収斂しかねないという問 そんな暮らしのなかに、障害者の全員入学 題も引きずることになるので、問題は葛藤的 制度、養護学校義務化、メインストリーミン に残っている 。 グ、ノーマライゼーション、胎児診断と中絶、 97) 《著書・論文》 70) [ 「生活と自治」を求めて―街の生活から施設改 善の暮らしの中で]、社臨編〈社会臨床シリー 『施設と街のはざまで―「共に生きる」と ズ3〉 いうことの現在』影書房、1996、pp. 137-164。 [社会は老人をどう描きつつあるか―「尊厳死」 78) 、和光大学人間関係学部紀要2号 問題にふれて] 、pp. 127-133。 (1998) 84)[公的介護保険制度の問題を探る]社臨誌8巻1 、pp. 8-19。 号(2000) 88) [戦後精神医療施策と移送制度の位置]社臨誌8 巻3号(2001) 、pp. 44-51。 [死の義務」の提唱を検証する―ハードウィッ 「 90) 『脳死・臓器移植、何が問 、 グ論文を読みつつ] 題か―「死ぬ権利と生命の価値」論を軸に』現 代書館、2001、pp. 320-336。 91) [社会は老人をどう描きつつあるか―「尊厳死」 問題を軸に] 、 『脳死・臓器移植、何が問題か― 「死ぬ権利と生命の価値」論を軸に』現代書館、 2001、pp. 337-364。 97) [ 「心神喪失者等医療観察法案」批判]社臨誌10 巻3号(2003) 、pp. 46-62。 脳死・臓器移植、尊厳死・安楽死、障害者自 立支援法、介護保険制度、教育基本法「改正」 、 特別支援教育等々をめぐる諸状況、諸問題が 立ち現れて、これらをどう考えるか、どう解 くかが迫られてきたし、今も問われている。 そんな場合、 「一緒に考える」ことしかな いのだが、ぼくの場合、10代後半から30代前 半までにしっかり身につけた特殊教育、臨床 心理学の知識と方法、そして、キリスト教的 ヒューマニズムがあるので、それらを問い直 し検証するという作業が伴ってきた。 本稿は、その一端を振り返ったことになる。 そこには、通して「共生・反優生」という課 題があったように思われてくる。70年代前半 に、 「共生・共育」に共鳴して、そのことを 主張しだして、すぐ気がついたことだが、そ れは、直ちに別学義務教育制度とぶつかって 028 “仕事”36年を振り返る◎篠原睦治 いた。それだけに、あの頃、「共生・共育」 人々の自我、意識、思考が、良くも悪くも人 は、新鮮な問題提起性・メッセージ性を持っ 間社会をつくってきたし、その社会の反省と ていた。今日、 「共生」は流行りの言葉にな 修正も、これらによってなされてきたことを っている。ぼくには、そのことと裏表になっ 認識しつつも、一方で「自我、意識、思考」 て、優生思想・施策が進行していることが気 中心主義で問題はないのかという疑問である。 がかりである。しかも、それは、 「上」から つまり、これらの強調の中で、 「生きるに値 の動きでもあるが、普段に暮らす人々の願い する生命」と「生きるに値しない生命」の区 にも支えられているし、求めているように思 別が生まれてきたことも厳粛な事実である。 われる。 そのことを自覚して、 「無能のままで生きる」 これまで述べてきた“仕事”は、これから という難題を、 “いま、ここ”の暮らしのな も続いていく。特に、少子高齢化社会危機説 かで、どのように解けるか、描けるかを探り のなかで、老いつつあるぼくら夫婦の暮らし 続けたいと思っている。 を見つめながら、老人たちが追い込まれてい なお、本稿では、ある一群の人々を、障害 る現実及び老若男女のせめぎ合う諸相を凝視 者、 「障害」者、 「障害者」と、文脈と気分に しながら、 「危機説」を克服するイメージと よって使い分けて書き記してきた。ぼくの場 言説を創り出したいと願っている。 合、 「健常者・障害者」と括る社会的・思想 ところで、ぼくをずっと悩まし続けている 的文脈にこだわっているし、これらの概念を 思想的課題は、 「個人の尊重」と人々の相互 必要としない文脈や関係を探している。難問 性・共同性が葛藤的・矛盾的関係になりがち だが、このテーマこそが後生大切にしていき だという現実を、両側面に惹かれながら解い たいことなのである。 ていくことである。もうひとつのことは、 (2008/12/18) ──────────────────[しのはら むつはる・和光大学現代人間学部身体環境共生学科教授]