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教会連合
第 429 号 20 日 本 基 督 教 団 また心を合わせて福音の信 仰のために共に戦っていると 12 23 章 〜 節 30 東京 ♦ 聖ヶ丘教会牧師 ちも相手を受け入れる事がで きないような事柄が起きて も、その個人を憎んだり拒ん だりしないように気を付けま しょう。どんなことにも動揺 させられない歩みが福音にふ さわしい生活であることを憶 えましょう。 そして神の御心を実現する ために、次の つの大きな目 標を提示します。 この内容は、 全ての教会が共通して目標に 定 め る 事 が で き る も の で す。 十分に共感し、力を合わせて 全うすべき当面の課題であり ます。 27 花を咲かせます。 ここで御言葉の信仰化を先 に 強 調 す る 理 由 が あ り ま す。 聖書は「あなたがたはこの世 に倣ってはなりません。むし ろ、心を新たにして自分を変 えていただき…何が神の御心 であるかわきまえるようにな りなさい」 (ローマ ・ ) と言っています。 また私たちには、キリスト を信じる事だけでなく、キリ ストのために苦しむ事も、恵 み と し て 与 え ら れ て い ま す。 信仰を恵みとして与えられた 事と、キリストの苦難にあず かる事も恵みとして与えられ ているという考えであります。 これには、苦難を通してしか 得 ら れ な い も の が あ り ま す。 苦しみも神が許してくださっ 第 三 に、 生 活 の 文 化 化 / ているのです」と言う御言葉 Third, From Life to Cultural を自分に語りかけてくださる Impact 変化した生活を通し 言葉として受ける事ができる て理想的なキリスト教文化の のです。 第一に、御言葉の信仰化/ たものであると受け入れる時、 First, From Scripture to Faith その苦難を神の恵みとして捉 聖書に徹底的に根を下ろす え直すことが自分に大きな豊 信 仰 で 霊 的 に 武 装 す る 事 で かさと益をもたらします。 す。 このような立派な戦いをす 「 あ な た が た は、 私 の 第 二 に、 信 仰 の 生 活 化 / る 時、 Second, From Faith to Life 御 戦いをかつて見、今またそれ 言葉に基づいて、信仰と生活 について聞いています。その が一致するように努力します。 同じ戦いをあなたがたは戦っ 2 フィリピの信徒への手紙 第 6 16 12 1 いうことであります。心が互 いに以心伝心で通じると福音 の信仰のために共に戦うこと ができます。ここで戦う相手 を見分ける力も必要です。エ フェソ 章 節には「わたし たちの戦いは、血肉を相手に するものではなく、支配と権 威、暗闇の世界の支配者、天 にいる悪の諸霊を相手にする ものなのです」と言われてい ます。 またどんなことがあっても、 反対 者に脅されてたじろぐ ことのない生活を送ることで す。親しい友人や知人が、自 分の目の前とは違って裏切る というサタンの働きをするこ とがあります。私たちは、こ こで注意すべき事はそのよう な 人 が サ タ ン な の で は な く、 その人を通して働くサタンを 見抜く力が必要であります。 主イエスも弟子であるペト ロに「サタンよ、 引き下がれ」 (マタイ ・ )と言われま した。しかし主イエスはペト ロ自身に対しては愛を持って 接してくださいました。私た 3 朴 壽吉 3 福音にふさわしい生活 今日の聖書は、教会共同体 の一致を損なう危険に瀕して いるフィリピの人々に対する 勧告であります。 まず「キリストの福音にふ さわしい生活」の「福音」と いう言葉について見ます。原 語のギリシア語エウアンゲリ オンは「よい」 (エウ)と「知 らせ」 (アンゲリオン)から成 る合成語であります。元来は 「よい知らせ」を意味します。 そして「生活」という言葉 についても考えて見ます。こ れ は「 ポ リ ス 」 、つまり都市 という言葉から由来する言葉 を使っています。フィリピ 章 節に「私たちの本国は天 にあります」ように、神の国 の市民らしい生活を連想させ る内容です。 福音にふさわしい生活を送 るなら、 一つの霊によってしっ かり立つべきです。つまり聖 霊によって堅く立つようにな ると福音にふさわしい生活を 送ることができるのです。 ▼ まことにして 一つなる教会をめざす 教会連合 福音主義 3 2013. 昭 和 52 年 10 月 13 日 第 三 種 郵 便 物 認 可 毎 月 1 回 10 日 発 行 第 429 号 / 2013.3.10 小林貞夫さんを偲んで は主に、恥辱は我らに」と祈 をこう呼んでいた)が「栄光 ない。当時の教会幹事(役員 る者はいないと私は今も思っ つける賜物については右に出 的に言い表し、解決の道筋を 混乱した中で、その状況を 的確に判断し、しかも短く端 会の伝統であったのかも知れ っておられたことを思い起こ 筆がおれるまで全うな さ っ た も絶えることなく、と う と う 教案を長く書き続け、 病 床 で でなく、教案誌の中高 科 分 級 き、連合常任委員とし て だ け し、私は彼の連合にお け る 働 敬愛する小林貞夫さ ん を 偲 ぶようにと依頼された 。 し か と言って下さる。それに間違 実は、私のよい指導者でいて 小林さんは人に私を紹介さ れるとき 「私の牧師だからね」 下さった。 あった。 の一つが小林兄との出会いで いは実に不思議であって、そ った。この時の、神の御計ら 部教会に遣わされることにな は、思いがけず山梨県の日下 の神学部で助手をしていた私 小林さんの言葉の中で私の 心に残っている言葉を思い出 ご近所であったわけではない さ っ て い た。 小 林 さ ん と は、 し、それでもできないことが うに教える自信はある。しか 伝統である。 ついでに、いつも私を立て て下さることも日下部教会の ものといっていい。 日下部教会の中で育てられた これは2007年9月号か る。 指し示して下さったからであ べきもの何であるかを明確に た。そうしながら、まだ若か 中高生修養会開会礼拝で、 た。何が何だか分からない混 った私を立てつつ、私に相談 「 自 分 は 生 物 の 教 師 で あ る。 乱状況の中で、私たちの見る のに、よく話をした。二人共 ある。それは、聞こうとしな す る と い う 形 を と り な が ら、 生物について誰にも分かるよ よく話すという点では似てい い生徒に分からせることだ」 らの「実録 教団紛争史」へ と 受 け 継 が れ る こ と に な る。 ラムをお願いした。 さ せ て い た だ い た 時、 「連合 ているので、機関紙編集人を 我ここに立つ こと、教団常議員、年 金 局 長 いはない。しかし小林さんは しつつ記したい。実は、この す。 さ す れ ば 兄 弟 の 信 仰 も、 ている。そのことをよく知っ などの大切な部分を書 く 資 格 私にとって「私の信徒」と呼 里 信 生 を有していないことを お 断 り ぶ わ け に は い か な い。 彼 は、 言葉が今も私に向かって、信 福音主義教会連合常任委員 森 兵庫♦関西学院教会牧師 しなければならない。 推 測 す ように教えて下さった。 求めることの大切さ、修養 会での生活のあり方を、この てメタ・ブレーン社から出版 この 回の連載がまとめられ 私たちは、この短いコラム から多くを学ぶことができ の窓から見た教団」というコ るに、小林さんとのつ き あ い ておられた。毎週、遠くから 祝して下さって献金をお捧げ 礼拝の献金の祈り、 「 私 た ち の 手 の わ ざ、 勤 労 を れた証がここにある。 体を立てることに命を燃やさ 教会を守ること、キリストの された。この書物の出版に情 † することができ有難うござい 呼ばれることがどれほど嬉し もっと献金ができるようにし ました。 もっともっと祝して、 改めて、故人を意志を継い で主と主の教会のためにお仕 る。 する歩みをと願うものであ いか」 † コメントは不要である。 えし、何よりも主に栄光を帰 この世の栄誉よりは神の御 名のあがめられることを願 う。これは、或いは日下部教 て下さい」 熱を傾けられた。 紛争期間中、 れるよりも教会学校の校長と 「 自 分 は、 学 校 の 校 長 と 呼 ば ある。 仰の師である小林さんが語り 方」という点で私の師、社会 かけて下さっている言葉でも のことを考えることにおいて 私の信仰の師であり、兄貴分 それで、私の実に個人 的 な 思 の長さでいえば、一番 長 い と いを語ることでお許し を 頂 き 兄貴といっていい。 私と兄弟の出会いは1 9 7 3 通ってきて責任を果たして下 主 の 教 会 に お 捧 げ に な っ た。 会では教会学校の校長を務め 小林さんは、私が赴任した † とき富士吉田市に居住し、学 小 林 さ ん は、 そ の 半 生 を 、 いやその生涯のすべてを主と 校の教師をしておられた。教 たい。 「信仰の貫き い う 理 由 で は な い か と 思 う。 だ か ら で あ る。 − 年4月に遡る。それま で 母 校 17 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 2 日本基督教団 福音主義教会連合 日本基督教団 福音主義教会連合 3 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 日本基督教団常議員 静岡♦遠州栄光教会員 今の時代、主に生かされる者の一人として くの課題を抱える教団にあっ て、長谷川保氏らが受けた痛 みや小林貞夫氏が取り組んだ 教会総会になっている 。 昨 日 私の所属する遠州栄 光 教 会 では毎年2月第4週が 定 例 の 海教区から病気療養中だった ことになったが、結果的に東 私は、昨年 月の教団総会 で初めて常議員に選出される たぶん私の方が教会との関係 していた先輩が短く理事長職 俊治氏が急逝した。施設長を り現役の理事長であった山浦 しているときに、創立者であ したのち、法人事務局を担当 議な巡り合わせだと感じてい が理事長になったことは不思 者でもなく、一職員だった私 れ た こ と に な る。 と は 言 え、 を 引 き 継 い で く だ さ っ た が、 もなく、教職者でも学識経験 小林貞夫氏に代わって選出さ を保ちやすいだろうというこ うと思った。創立者の家系で でも山浦氏の姿勢を踏襲しよ 私は、小羊学園の理事長を 受け継ぐにあたって、形だけ れた。 総会にも努めて出席しておら こんな私だが、キリスト教 の名によって立てられた社会 いる。 て今を生きることが許されて はできる。聖霊の導きによっ ストへ信仰によって歩むこと ら贖い出してくださったキリ しかし、同じように十字架 と復活によって私たちを罪か い。 稲松 義人 苦悩について、歴史として知 ることはできても、今の時代 配布された今年度の教 会 総 会 教団の運営に関してほとんど とで、翌年から理事長を務め の私が経験することはできな 資料にある「2012 年 度 の 経験も見識もない私には、長 福祉の実践の場に身を置いて 数年現場の支援員を 総括」の中の「日本基 督 教 団 谷川保氏や小林貞夫氏に代わ る。 した。 関係について」の項で 私 が 教 ることになった。 してこられた。 団常議員に選出された こ と に るだけの力などないことだけ 先達たちの祈りを思 い つ つ 言 及 さ れ て お り、「 当 教 会 に こ れ ま で 経 験 し た こ と、 ま は確かである。 た、貧しい器であるが主から は毎週の主日礼拝を大切にす かったように思うが、ご自身 大 切 だ。 同 じ キ リ ス ト の 教 代の君たちに残さないことが れ、 「感情的な問題を次の時 であったが、それをよしとさ は遠州栄光教会に属する青年 浦氏は遠州教会の長老で、私 かつて遠州教会と遠州栄光 教会とが分裂したときに、山 伝える者として全国の兄弟姉 主の恵みに生かされる喜びを に あ る 人 た ち の た め に 祈 り、 な苦しみ、悲しみ、困難の中 今も、いまだ福音の届かぬ 多くの人たちのために、様々 ある。 えすることができれば幸いで 示された課題に向き合う リスト教社会事業同盟に連な 会、時が過ぎれば再び協力関 託された賜物をもって、お仕 り、最後は同盟の理事も務め 実 録 教 団 紛 争 史 」 に よ り、 れ る よ う に な っ た と す れ ば、 る方であった。小羊学園が社 教団紛争のはじまりとされる 2005年より日本キリスト 会福祉法人になってからはキ 昨年天に召された小 林 貞 夫 氏が遺された「日本基 督 教 団 教社会事業同盟の理事長を務 ておられた。また、日頃より 主の不思議な導きによって 1969年9月、長谷 川 保 氏 めるようになったことが大き 多くの支援を受けている教会 務められ、教団正常化 に 尽 力 長きにわたって教団常 議 員 を 小林貞夫氏も1988 年 か ら もつ子どもたちの施設に就職 重度・重複の知的ハンディを れるからと、毎年の東海教区 の方たちに直接お礼を伝えら しゃったことを思い出す。多 係を取り戻すだろう」とおっ と願っている。 妹とともに歩む者でありたい 教団の働きを担っておられ る 方 々 に、 私 が 名 前 を 知 ら は常議員であったこと を 知 る て、たまたま小羊学園という に勧めることはほとんどな とっては、故長谷川保 氏 以 来 の常議員の選出であり … 」 と 山浦氏は、小羊学園の中で 職員に対して教会に行くよう 10 ことができる。同書によると、 いだろう。私は大学を卒業し 説明が加えられている 。 10 第 回教団総会の不法性と教団顧問弁護士の問題 《第4回》 東京♦東京神学大学教授 山 福音主義教会連合神学研委員長 ントを排除して開催されたこ とから見ても「違憲状態」で あることは明々白々です。 当 時 の 教 区( 東 京 教 区、 大阪教区、兵庫教区)の伝道 所を除く教会総数は、460 教会でした。全教団の教会数 な教会会議を快復すべ き で し て開催することによっ て 健 全 日本基督教団は第 回 教 団 総会を教憲・教規にし た が っ た教区総会は正規の教区総会 でない部外者を構成員に加え たからでした。会議の構成員 法的な総会を開催しようとし 東京教区規則にしたがった合 東京教区議長が教憲・教規と 兵庫教区)選出議員を欠いた 全教団の信徒の ・ パー 教 区( 東 京 教 区、 大 阪 教 区、 は、 繰り返し明らかにしました ように、第 回教団総会は いて重ねて指摘します。 選挙法」の解釈の問題点につ 選 挙 が で き な か っ た 理 由 は、 法律顧問中平健吉氏の「公職 京教区選出の教団総会議員の で し た。 「違憲状態」である ではないという法的筋道を貫 「 違 憲 状 態 」 で 開 か れ た 総 会 ましたように信徒議員の排除 合計です。すでに明らかにし 議員は教職議員と信徒議員の た。この120名の教団総会 るべき議員は120名でし 区、兵庫教区)から招集され 態」で開催された総会であっ て 強 行 開 催 さ れ た、 「違憲状 道 所 の 総 数 は 5 6 5 に な り、 であり、排除された教会・伝 伝 道 所 の 総 数 は、 1,6 4 7 に伝道所を加えますと、 教会・ されたことになります。これ セントの教会を排除して開催 口隆康 パー た。なぜなら「流血総 会 」 と いたことが1973年 教区) の教会担任正教師数 (教 理由は、教団総会に対する参 ( 東 京 教 区、 大 阪 教 区、 兵 庫 回教団総会は、 ・ は 1,3 4 4 教 会 で し た。 第 呼ばれた第 回教団総 会 が 暴 政 権 を も つ 信 徒 3 5,1 8 2 ・ パーセントです。 力的な行動によって粉 砕 さ れ 時点で東京教区で教団総会議 3 教区 18 の教会、教職、信徒を排除し 40 17 34 指して暴力支配に抵抗をつづ それに比べて第 回教団総 会は、合法的な教区総会を目 とになります。 の信徒の参政権を排除したこ ですから、 陪 餐 会 員 ) は 9 6,9 4 6 人 教師が排除されたことになり すから、実に 職選挙法の精神」に照らして 名で、 紛争の解決策は「教 憲 ・ 教 規」にしたがった健全 な 教 会 けている牧師と信徒たちを教 ます。 教区(東京教区、大阪教 パーセントの 任 正 教 師 数 は 1,4 2 9 名 で 570名です。当時の教会担 団総会の実態です。仮に「公 法とは言えないと主張した教 教規第 条②を解釈すれば違 回教団総会を審 18 3 第 回、第 17 ト、全教団の教職の パーセ 第 回教団総会は、 査 し た と し て も「 違 憲 状 態 」 第 回、 全教団の信徒 ・ パーセン ではないでしょうか。 3 40 3 3 40 36 18 36 兵庫 会議の開催以外に道は あ り ま 団総会の構成員から排除した それでは次に、第 回教団 総会から排除された「教職の 93 17 17 パーセント せん。会議制において は 、 も 変則的な教団総会を招集した 回)に引き続き、日本基督教 17 ・ し暴力によって正常な 総 会 が のです。第 回教団総会は不 第 回教団総会が開催 さ れ た 回教団総会の不法性に 団第 3 17 1973年 月の時点 で 、 東 11 しょう。 招集できないのであれ ば 開 催 東京359名、大阪118名、 中 平 健 吉 教 団 法 律 顧 問 が 教区の合計は 「 公 職 選 挙 法 」 に し た が っ て うか。1973年当時 教職の場合はどうなるでしょ セ ン ト の 排 除 で あ り ま し た。 要するに第 回、第 回教 団総会は、 ~ パーセント 34 しないことが暴力支配 に た い 1973年当時の信徒(現住 36 3 3 17 数」について分析してみま 11 17 であり、「教憲・教規」でした。 理由です。 16 す る 強 力 な 抵 抗 に な り ま す。 法な総会でした。前回(第8 17 月の たのですから、暴力に 対 抗 す 2 るもっとも強力な手段は「法」 員選挙が実現していなかった 34 たのです。 ついて論じます。とくに教団 3 名 が 排 除 さ れ た か ら で す。 会担任補教師は含まない)は 17 ・・・教会法と世俗法の混濁・・・ 17 教団法律顧問弁護士による 第 回教団総会正当化 17 3 17 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 4 日本基督教団 福音主義教会連合 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 区(東京教区、大阪教 区 、 兵 で、全教団 教区の中 で 教 第 回教団総会が開催さ れた1973年 月の時点 いと思います。 不法性を明らかにして お き た す。さらに第 回教団 総 会 の 無理があったことは明白で ための定足数を定めた条文で この条文は、教団総会成立の とができない。ただし、議事 ば、議事を開き議決をするこ 条 教団総会は、議員総数 3分の1以上の出席がなけれ は 次 の よ う な 条 文 で す。 「第 集すれば合法的総会になると 議員を招くことなく開催され ていれば、他の 教区の総会 いて教団総会議員が選出され 教団総会議員120名を招集 あったことです。招集すべき 280名を招集した総会で あたり、招集すべき教団総会 それは教団総会を招集するに れていません。 長見解を撤回したことは記さ 委員長が前述の信仰職制委員 乱の中でも北森嘉蔵信仰職制 れています。しかし、その混 すと問題は、このような教団 こで指摘しました。そうしま 釈にも問題があったことをこ 中平氏の「公職選挙法」の解 議 員 4 0 0 名 を 招 集 せ ず に、 門家でない中平氏の教規(第 解釈です。 「 違 憲 状 態 」 で 開 催 さ れ た 間違いの理由は、総会成立 第 回教団総会を「教憲・教 の 定 足 数 を 定 め た 第 条 を、 規」に照らして精査すべきポ た教団総会も合法的総会であ することなく開催した教団総 と強弁しました。教会法の専 回教団総会は不法ではない 総 会 招 集 議 員 数 に あ て は め、 イ ン ト が 明 確 に な り ま し た。 おける平行関係を提示して第 ることになります。これは明 こ の 解 釈 は「 教 規 第 条 」 を 誤 解 し て い ま す。 第 条 らかに教規第 条の間違った る。 れた解釈」にあたります。こ 議員総数の 回教団総会の招 の「度外れた解釈」の合法性 合 に つ い て は 別 に 定 め る。 」 いうもので、いわゆる「度外 中に定足数を欠くに至った場 に関して第 会に合法性があるのかという の法律顧問の教規第 の か 否 か を 判 断 す る 試 金 石、 教会性を保持する教会である がった「法の支配」によって 教団が「教憲・教規」にした ことはできません。日本基督 ないという解釈には最 初 か ら 分の 以上を招 ヶ月前の1970年 月に、飯清教団議長は信仰 審査問題」であるからです。 教団の法律顧問である中平 健吉氏は、総会議場で「公職 選挙法」と「教規」の解釈に 条 ② ) の 解 釈 は 別 に し て、 条②の ば定足数に達しても教団総会 回教団総会は合法性にお は開くべきでない」 (議事録 を整理し、本稿が「顧問弁護 以上 教区総会にお 庫教区)の開催と教団 総 会 議 す。教団総会議員は400名 集の約 1 2 0 名 の 教 区 選 出 議 員 が、 「 度 外 れ た 解 釈 」 に よ っ て 教 問題です。招集されなかった 団総会を招集した 「招集責任」 区 )。 の 中 の 員の選挙が済んでいま せ ん で への招集がなされていること 職制委員会に諮問していま こそが法的問題になります。 以 上、 す な わ ち した。それにもかかわ ら ず 教 が前提とされています。その す。それに対し北森嘉蔵信仰 第 分の 団総会を招集できると 判 断 し 上で議員総数の 分の いても正当性においても教 の た根拠に次のような考 え 方 が の出席がない場合には「議事 職 制 委 員 長 は、 「一教区でも 教師の 割、 信徒の 割 分 134名の定足数に達する見 を排除した教団総会の 「招集」 込みがある場合には、議事を あったことが議事録( 第 頁 を開き、議決をすることがで 開き、議決をすることができ 参照)に記されていま す 。 そ きない」 と定めているのです。 総会議員の未選出教区があれ 団総会議員の選出が済んでい 士問題」を取り上げる理由を 録を見ますと、第 であるという訴を提起した場 合、日本基督教団は教憲第 上 の 出 席 で あ る( 教 規 第 兵庫教区)にもう1教区、つ 総会準備委員によって紹介さ りが総会準備委員川端純四郎 たのかと言う問題を放置する したのか、「違反状態」であっ 教区(現時点では 16 17 の混濁」と言う観点から問題 護士問題を「教会法と世俗法 「招集責任」問題に議論を 憲・ 教 規 に 照 ら し て「 違 憲 」 移す前に、さらに教団顧問弁 う解釈です。 証言)という信仰職制委員長 条( 「第 条 本教団は教憲 および教規の定めるところに 頁、加藤亮一准議員による ができるという規定ではあり したがって、会議制によりそ れば教団総会を招集すること ここにある論理は次 の よ う な三段論法です。①教 団 総 会 回教団総 見解を表明しています。議事 釈が成り立つとしますと、 4 (次号につづく) にしたいと思います。 の政治を行う」 ) に「 違 反 」 教会法に照らして更に明らか 4 教 教 区( 東 京 教 区、 大 阪 教 区、 会招集までの手続きの混乱ぶ 17 まり 以 条 )。 ② 教 団 総 会 の 成 立 ません。もし、そのような解 第 議員は400名である ( 教 規 3 1 条 )。 ③ し た が っ て 議 員 総 数 要件は議員総数の 分 の 3 22 以上の教 17 第 回 教 団 総 会 が、「 公 職 選挙法」に照らして不 法 で は れは「法的には定足数 に 達 す 3 17 17 19 4 19 12 1 すなわち「教憲に関する違憲 る見込みがある場合、 総 会 を 議員総数の 分の 3 17 教憲に関する「違憲審査問題」 開くことは可能である 」 と い 7 19 19 1 3 3 3 3 6 3 16 1 19 3 1 3 11 17 16 19 4 17 17 1 日本基督教団 福音主義教会連合 5 教会と広報 ングと同様に、実社会への適用を経 命じになる。日本の人口の1%にも しかし、主はそれでよしとされて いるのではない。外へでていけとお うな科目体系も作られ、マーケティ て、その効果の大きさも評価されて 満たないわれわれが、このことを見 つめるとき、それにふさわしい備え きた。 ★ 稿として、与えられた テ ー マ に つ い 機関誌への原稿とし て 、 つ ま り 福 音伝道を担う側の立場 を 想 定 し た 原 有し、それに向かっての具体的な取 また、組織・企業に与えられたま ぼろし(ビジョン)を言葉として共 る。 の多くの人はこの視点をもってい 中で何度も叫ばれた。そして教会外 るいは顧客満足、という言葉がその を、 訴 え、 指 摘 し て い け ば、( 外 の に は、 花 園 の 中 で 通 り が よ い こ と 「外の世界」と隔絶してい ま た、 ることを前提とするなら、外の世界 いにおもんばかることができる。 あって、すべてをあうんの呼吸で互 聖書の教えという共通した土俵が まな立場があったとしても、互いに こんなことは不要であろう。さまざ て進めるのか、そして主の御用を実 ねばならないとき、それをどうやっ はばの広い課題を切り盛りしていか 人々の訴えからインフラ、 財政など、 されてきたというのだ。いや、それ ではない。彼らはどんな道具を持た 任して挫折を感じたとしても不思議 ろへ、新任の若い牧師がいきなり着 たとえば、経験豊かなベテランの 牧師が担当しても伝道の困難なとこ を教会はしてきただろうか。 て2、3思うことをまとめてみる。 り組みの課題(ミッション)をかか 世界が実際にそれに影響を受けるか 現 す べ く、 ビ ジ ョ ン に 沿 っ た ミ ッ 田 昌 之 まず、神学校での講 義 科 目 そ し て 実習科目として、「マーケティング」 げ、そこに向かってのプランを作る とは無関係に)居心地よく暮らして ションを共有し、それを具体的なプ 教会が、一種の閉じた花園として 存 在 し つ づ け れ ば よ い の で あ れ ば、 そして「プロジェクトマネジメント」 こと、そして具体的な目標をその中 いける。これをつきつめれば、どう ロ ジ ェ ク ト と し て 一 つ 一 つ 実 施 し、 福音主義教会連合常任委員 井 東京♦狛江教会員 という つがあったら い い と か ね が で建て、そこへ向かって一歩一歩歩 やってだれが変革を担うかとは無関 そしてそれを成功させるのか、その もつべきツールのひと つ に 加 え る べ 日本に居て、伝道を志 す も の と し て 世に生きるキリスト者 と し て 、 特 に よ、と言っているので は な い 。 こ の んな運営と推進をしていけばいいの 達成に向かうこと、このためにはど の難しい人間が複数集まって一つの た だ で さ え、 つ ま づ き、 あ や ま り、同じ目標をキープしていくこと の中に自己満足をすることもできよ 一応確立しているようにも見え、そ 機 能 し て い け ば、 花 園 の 存 在 感 も、 こうして外の世界から見れば、野 党の立場を貫いて、批判勢力として すべてがたとえで示される」 (マル ち明けられているが、 外の人々には、 「あなたがたには神の国の秘密が打 伝道推進の掛け声、それは単なる か け ご え に お わ ら せ て は な ら な い。 だけではない。与党として、個々の ね思っていることを表 明 し た い 。 んでいくことを体系立てて学べるよ 係に、ただ問題の指摘だけをすれば ための道具を今、教会はもっている きだとは思っている。 か、これも、経験的な教訓から、さ う。 コ4・ ) のだろうか。 商業主義の中で、良 い に つ け 悪 い に つ け、 顧 客 が 何 を 求 め て い る か 、 まざまな手法、そして基礎的な理論 ★ 現場の牧師、そして 各 教 会 の 信 徒 がそれらを大事なもの と し て 意 識 せ うになった。 いいことになる。 何を考えているか、そ れ を 訴 求 す る がまとめられ、実習を通して学ぶよ ★ 能力は磨かれてきた。 顧 客 目 線 、 あ 2 11 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 6 日本基督教団 福音主義教会連合 茨 木 東 教 会 献 堂 報 告 大阪♦茨木東教会員 筧 正 彦 ねることができたことは大き 共に祈り、話し合いを積み重 を 励 ま し て く だ さ い ま し た。 によってのみ、力強く私ども 当時主任担任教師であった 下村邦夫牧師は、ただ御言葉 築 委 員 が 共 に 御 言 葉 を 聞 き、 な力となりました。 新会堂建築という嵐の海を漕 それゆえに、 「茨木東丸」は、 計画から完成までの間、本 当に祈りが必要でした。その とが許されたのです。 月新会堂を主にお献げするこ た め 毎 月 第 一 主 日 礼 拝 で は、 ぎ進み、遂に、2012年9 「教会」を主題とした説教に え て、 建 物 の 老 朽 化 が 進 み、 耳を傾け、礼拝後には全体祈 人一組と 修をしなければならない状況 ました。 なって全員で心を込めて祈り 祷会の時を持ち、 まで改革長老教会形成のため となりました。 雨漏り箇所も増加し、毎年補 教 会 員 名( 家 族 ) で、 2億円以上の建築費をかけた に、共に研鑽を積み、伝道協 の度の新会堂建築 拝堂を持ちたいとの願いがあ なる空間としての独立した礼 れでいっぱいでした。天を仰 の中の小舟のように不安と恐 の状況に心を奪われる時、嵐 くださっていたのです。主は ちが祈るより前に主が祈って 画をよしとされました。私た 教会堂を建てることが出来る 力をしてきました。この四教 の大きな支えとな りました。 会の交わりが、こ りました。 と祈ることしか出来ませんで の御導きの確かさに畏れを覚 年までに新会堂を建築すると という目標を定め、創立 えます。 席となり、年に数 の決断をいたしました。 い て、 「 新 会 堂 で 伝 道 を!」 した。 ぎ、 「主よ、助けてください」 活きて働いておられます。主 建築計画は 年前から始め られ、2006年の総会にお 名で満 回行う教会学校の 礼拝堂は 子どもたちと保護 周 者や求道者を加え 直 ち に「 会 堂 建 築 委 員 会 」 ザヤ ・ )との御言葉通り 弟 姉 妹 に 御 礼 申 し 上 げ ま す。 が設けられ、月に一度、牧師 に 私 た ち を 導 い て く だ さ り、 こ れ か ら 借 用 金 7,7 2 0 万 祈り、 ここに至りますまで、 御支援くださいました福音主 た出席者が150 の奨励から始まる建築委員会 「 安 心 し な さ い、 わ た し だ、 円の返済が始まります。なお )と、主の御臨在を示 恐れることはない」 (マタイ ・ し続けてくださいました。 りお願いする次第です。 一層の御加祷と御協力を心よ 義連合の諸教会と主にある兄 名を超えるように を行いました。そのような中 し か し、 主 は、「 見 よ、 新 しいことをわたしは行う。今 なって、礼拝堂に で、良きキリスト者の設計者 やそれはめばえている」 (イ 入りきれなくなり 19 今年創立 周年を迎え ま す 。 1995年には茨木 教 会 と 兄弟教会である茨木春 日 丘 教 55 幾 多 の 困 難 が あ り ま し た。 など、誰が想像出来たでしょ この 年を顧みますと、周囲 う。しかし、主は私たちの計 75 1967年に建 てられた旧会堂の 10 43 27 50 3 また、礼拝堂を多目的に使 用しているため、何よりも聖 「茨木四 茨木東教会は、茨木教会の 会、 千 里 丘 教 会 と、 「日曜学校分校」から始まり、 教会伝道会」を結成し、これ (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 10 と出会いました。設計者と建 80 ました。それに加 14 50 日本基督教団 福音主義教会連合 7 《2012.9.29》 会)が主催者となって毎年開 会、富士見町教会、高井戸教 と言えるでしょう。 総力を挙げて取り組んできた と東神大が日本伝道のために 主催者を発起人教会、実行 委員会を東神大として、教会 行われます。 になりますが、その時々の仕 して立場は変わっていくこと 実を目の当たりにさせられて き込まれた者として、その事 だくことになり、主の業に巻 には実行委員を担わせていた ことで献身、及び東神大への 29 14 られ、東京神学大学に日本全 170名以上の参加者が与え の証をお聞きしました。その 光教会野村稔牧師による献身 会松本のぞみ牧師と同遠州栄 して日本基督教団上尾使徒教 後、証と賛美と祈りのときと 学校での証、家族への証)の リ ス ト 教 Q & A、 社 会 で の マ:神学生の生活と学び、キ 懇 談( 全 礼拝(説教は東神大教授が持 9月第4週の土曜日に、開会 きています。 おり、その意義は拡大されて ついて語り合う場ともなって 方も含めて伝道や信仰生活に れましたが、現在は未信者の こされることを願って始めら 会の青年から伝道献身者が起 の活動、 結婚と家庭について、 道の衰退が叫ばれる中、諸教 証、CS教師として、青年会 ち回りで担当) 、関心のある 藤 勝 彦 学 長 に よ る シ ョ ー ト 一方、日程やプログラム構 レ ク チ ャ ー が 行 わ れ ま し た。 成に大きな変化はなく、毎年 後、希望者を対象として、近 テーマに分かれてのグループ 構成されています。また、伝 教授、職員、神学生によって ここ数年は内藤先生、東神大 から青年を連れてこの会に参 業後に派遣された教会や学校 こされ、東神大に入学し、卒 出し、ある者は献身の志が起 り、青年を育てこの会に送り され、教会の役員・長老にな のうち、ある者は信仰が燃や す。 「青年の集い」の参加者 後の献身者が起こされていま また、その中から毎年1割前 加教会数は 役員を除く参加者は 増加傾向にあります。第 回 認知度が高まり、参加者数は 備 時 間 の 調 整 が 困 難 と な り、 もあってか、年を追うごとに でいる青年の皆さん、是非お こととなります。これを読ん ている伝道の業に用いられる なた」の一声が、主がなさっ の青年をお誘いください。「あ の会を祈りに覚え、是非周り なっている諸教会の方々、こ 送 し ま す。 こ れ を お 読 み に 委員会から各教会に案内を郵 は、170名を超える参加者 次回開催予定日は2013 の内、東神大関係者・牧師・ 年9月 日(土)です。開催 を迎えた2012年において 越しください。主は 「あなた」 す。 与し続けたいと願っていま がなさっている伝道の業に参 方でこの会に青年を送り、主 います。今後、東神大を卒業 国の青年が集う熱気溢れた一 名、参 日が近づいたら、東神大学報 28 14 を 超 え ま し た。 に案内が掲載されます。実行 90 ト教学校などで仕える伝道者 い」を通して日本に起こされ 私自身、この会に参加した 日本全国からの参加をお待 ちしています! 遣わされましょう。 を待っておられます。日本伝 日となりました。 達の献身の証(男女各 道の主を共に讃え、 語り合い、 発案されたことが始まりとな 1 在は阿佐ヶ谷教会、 国立教会、 東神大レクチャー体験が順に 名) 、 ているのです。 り、首都圏の発起人教会(現 別懇談と昼食 (司会は神学生、 加 す る … そ の よ う な ダ イ ナ 「 青 年 の 集 い 」 は、 、 教 会 や キ リ ス ミックな主の業が「青年の集 1999年に内藤留幸先生が 教 授 も 参 加 ) 80 グループ8テー 入学の志が堅くされ、入学後 催され、回を重ねる中で少し この会に関わった神学生が 続々と全国の教会やキリスト 銀座教会、洗足教会、聖ヶ丘 2 0 1 2 年 9 月 日( 土 ) 教会、大宮教会、横浜指路教 東京神学大学を会場に、第 が開催されました。 ずつ変化を遂げてきました。 教学校に遣わされていくこと 17 回日本伝道を担う青年の集い 当日は、開会礼拝において 焼山満里子先生がヨハネ福音 員会が組織されましたが、準 書 章 〜 節 か ら「 信 仰、 まず、当初は発起人教会の 希望、愛」と題して説教され、 青年と神学生によって実行委 15 グループに分かれての昼食と 12 11 三橋 侑子 青年の集い実行委員 東京♦頌栄教会教会員、東京神学大学修士 1 年 東京神学大学 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 8 日本基督教団 福音主義教会連合 志願 泉 健 えるっていうのも、このことにかか いくためだもの。捨てることそのも けど、それは、イエスさまに従って ていくことのほうが大事なのではな のよりも、イエスさまに従って生き わっているのね。 」 「 そ う そ う。 職 業 も 家 庭 も、 す べ て が禁欲の場所になる。 」 「でもやっぱり捨てているわけじゃ いかしら。 」 ど、でも、禁欲とか断念とかって言 ない。それまで積み上げてきたもの 「 う ー ん。 わ か る よ う な 気 も す る け うと、なんだか悲壮な感じがしちゃ を放棄して、それまでの生き方を断 念しているわけだろ。たいへんなこ うな。つらそうと言うか。」 どうしてモトム君は 、 す ぐ に 難 し い言葉を使いたがるん だ ろ う 。 「 せ ぞ く な い き ん よ く? 知 ら な い よ、そんなの。何それ ? 」 モトム君がまた難しいことを言い 出しました。 は、聖職者がすることであり、ある 禁 欲 す る こ と、 霊 的 な 訓 練 を し、 信仰に根ざした生き方をすること て、 「霊的な訓練」の意味にも用い 「いや、モトム君、教会で『献身』っ そうか! ふつうに「献身」って 言ったら、そういう意味なんだね。 だけど……。 」 尽くすことだぜ。それこそつらそう やドイツ語の Askese は「修 「 ホ ン ト? 献 身 っ て っ た ら、 自 分 ascesis 徳、 苦 行 」 、 そ し て さ ら に「 禁 欲 」 のことは犠牲にして、何かのために め、この言葉を語源とする、英語の て言ったら、自分の生涯を神さまに わたしのすべてを献げ尽くしてしま オリさんを見つけたみたい。 モトム君は目を大きくして、カオ リさんの顔をまじまじと見つめまし んじゃない? だって、イエスさま が呼んでいてくださるんだもん。 」 は、そうしないではいられなかった とだよ。 」 ます。 いは少なくとも、世俗から離れた教 お献げして、伝道者として生きるこ いたい。 」 「そうかしら? 献身は、前向きで、 明るい感じがするけどな。」 は思うけど、でも、お弟子さんたち た。まるで、今まで知らなかったカ 「カオリさんは、イエスさまになら、 全部献げてもいいんだ?」 「うん。イエスさまになら、喜んで、 と思う相手がいるって、ものすごく の意味をもつようになりました。 「 そ う か な あ。 た い へ ん な こ と だ と 「 い や、 ぼ く も 初 め て 知 っ た 言 葉 な 会の領域ですることと考えられてい とだから。 」 じゃない。 」 んだけど、世俗的な世 界 の 中 で 禁 欲 ました。それに対して、宗教改革者 「献げるけど、捨てるのではない、っ 『献身』のほうがもっと悲壮な感じ す る こ と を、『 世 俗 内 禁 欲 』 っ て 言 たちは、世俗のただ中で、信仰のゆ ら れ る よ う に な り ま し た。 そ の た うんだってさ。」 えにいろいろなことを断念し、神の てこと?」 幸 せ こ と だ と 思 う よ。 (カオリさん 「 カ オ リ さ ん、 喜 ん で 全 部 献 げ た い 御心と信じる生き方に集中していく のにしていただくというか。」 「 捨 て る ん じ ゃ な い ね。 神 さ ま の も 「 神 の も の と し て、 も う 一 度 神 か ら にとって、献身は喜びなんだ…) 」 世紀初頭に活躍した社会学者 マックス・ウェーバーが「世俗内的 「 そ う そ う。 イ エ ス さ ま の お 弟 子 さ 子です。 最後はつぶやくように言って、モ トム君はなにやら考え込んでいる様 「 ふ ~~ ん。 前 に 話 し て た、 職 業 を んたちは、網も舟も何もかも捨てた 受け取り直すみたいな?」 神さまからのコーリングとしてとら な禁欲」と呼んだのでした。 を、 ことを主張し、実践しました。これ とでした。 モトム君の話は少し 入 り 組 ん で い たのですが、おおよそ 次 の よ う な こ とは少し違う意味なんだって。」 「 そ う 思 う で し ょ? ぼ く も そ う 思った。だけど、禁欲 っ て 、 も と も (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 カオリさんがムッと し た 顔 を し て いるので、モトム君は あ わ て て 続 け もそういうものじゃな い の ? 」 「 ふ ー ん。 だ っ て、 禁 欲 っ て 、 い つ と い っ た 意 味 で す が、 こ れ が 転 じ でも、 そんなことを言ったら、 いう言葉があります。 「訓練、修行」 「うん。 東京神学大学准教授 小 神奈川♦センター北教会牧師 どういうこと? 「献身」って 3 聖書 「『世俗内禁欲』って知ってる?」 カオリさんの 献 身 ギリシア語に「アスケーシス」と 20 日本基督教団 福音主義教会連合 9 10 日本基督教団 福音主義教会連合 ▲ 敬称略 ▼教会献金 小金教会 2,000 銀座教会 5,000 小松川教会 2,000 遠州栄光教会 10,000 遠州栄光教会 10,000 泉ヶ丘教会 7,000 銀座教会 50,000 大阪教会 3,000 大阪教会 3,000 大阪教会 1,000 合 計 93,000 ★印はクリスマス献金です。 大阪教会の金 25,770 円はアドヴェント 献金です。 笠原个可兄の献金は妻康子召天記念献金 です。 イースター献金を 北村 知子 横山 良一★ 鈴木 優子 津幡 りほ★ 津幡佳伸・直美★ 松永 政和 笠原 个可 市川 テル 大見川昭子 福永 嘉彦 おささげください 2013 年 1 月 11 日〜 2 月 10 日 ▲ ▼個人献金 皆様のお祈りとお支えを感謝いた します。 「 ま こ と に し て 一 つ な る 教 会 を 形 成するため」に一層の努力と、忍耐 強い働きを必 要 と し て い ま す 。 今年も、私たちは教会連合の活動 強化のためにイースター献金をささ げることとい た し ま し た 。 何かと支出の多いときではありま すが、何卒ご理解くださり、ご協力 をお願いいた し ま す 。 日本基督教団 福音主義教会連合 献金感謝報告 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 筑紫教会 松澤教会★ 中村町教会★ 西宮一麦教会★ 札幌中央教会★ 大阪教会 大阪教会 洛北教会★ 銀座教会 長崎古町教会★ 新松戸幸谷教会★ 洛北教会★ 美竹教会★ 大和キリスト教会★ 松戸教会★ 日下部教会 相模原教会(有志) 愛宕教会★ 熊谷教会★ 茨木教会 静岡教会 九段教会★ 鎌倉泉水教会★ 札幌教会★ 2,000 10,000 10,000 20,000 30,000 500,000 25,770 20,000 200,000 19,920 3,000 20,000 100,000 30,000 5,000 70,000 21,000 3,000 5,000 30,000 600,000 10,000 3,000 20,000 合 計 1,757,690 11 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 25 日本基督教団 福音主義教会連合 4月 /木 列王記上第 19 章 ルカによる福音書 第 15 章 11 − 24 節 26 /金 列王記上第 20 章 ルカによる福音書 第 15 章 25 − 32 節 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん 良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をは めてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥 えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 22・23 節 すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわた しと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開い て楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。 』 」31・32 節 帰って来るのを待ち続けていた父親は、「雇い人の一人 にしてください」と言って戻って来た息子を、雇い人では なく、子として受け入れました。しかも、兄が経験したこ とのないような最上の祝いを催して喜んだのです。 悔い改めとは、向きを変えることです。父親のもとに帰 ろうと、身をひるがえすことです。神はあの父親のように 帰りを喜んでくださるのです。 父親がいつも一緒にいるのに、その祝福を受け取り損ね ているとしたら、兄息子こそ失われているのかも知れませ ん。兄は弟が帰って来たことによって、父の悲しみと喜び とから遠く離れている、失われていた自分の姿に気づくこ とになります。 人間はどれほど愚かであるか、また、人間を憐れもうと される神の取り計らいがどんなに深いことかを、私たちも 知らされるのでありましょう。 27 /土 列王記上第 21 章 ルカによる福音書 第 16 章 1 − 18 節 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方を ほめた。… 8 節 「不正な管理人の譬え」と呼ばれるこの譬えについて考 え始めると、止めどがありません。また、不正な管理人の 振る舞いがほめられていることに戸惑いを感じます。ある いは躓く人もいるかも知れません。今日は、聖書の中で一 番難解な譬えを読んでいます。 しかし、主イエスはこの最悪の人物を取り上げ、神の国 (ご支配)をお示しになります。この男も神の国のドラマ の登場人物となっているのです。そして、 「ほめた」と言っ て、神の国がこの男の振る舞いの中に映し出されもします。 この不可思議な譬えとともに、神の国は私たちのところに 来ます。 29 /月 列王記上第 22 章 マタイによる福音書 第 16 章 19 − 31 節 …『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言 うことを聞き入れはしないだろう。』 31 節 私たちはしるしが欲しいのです。信じるに足る証拠さえ あれば「信じよう」と思っています。しかし、それは人の 言い訳にしか過ぎません。すべてのことは「モーセと預言 者(聖書)」に記されています。その言葉に聞いて信じた いと願うことが大切です。 神の救いの出来事はイエス・キリストにおいて既に成就 しました。しかし、それは私たちの目には隠されています から、信じて受け入れるよりほかはありません。しかし、 必ず与えられる約束の伴っていることは感謝すべきことで す。 28 /日 創世記 しかし、ノアは主の好意を得た。 第 6 章 9 − 14 節 8節 ひとりの人とその家族が選ばれます。人類に対する神の 怒りと拒絶は、実は救いと恵の実現に向けられていたので す。 「神に従う無垢な人」 (9節)とは、完全で欠点のない人 という意味ではなくて、神とともに歩む人、恵のもとにと どまって、み心に生きる人です。 そのような人こそ人類が造り変えられるために残された 人でした。 30 /火 列王記下第 1 章 ルカによる福音書 第 17 章 1 − 10 節 …自分に命じられたことをみな果たしたら、『わた しどもは取るに足りない僕です。しなければならな いことをしただけです』と言いなさい。」 10 節 私たちの救いは自分の力で勝ち取ったものではありませ ん。ただイエス・キリストによってなし遂げられた罪の赦 しの出来事を、信じて受け入れることです。 ですから、その信仰に大きい小さいはありません。大き な信仰が大きな赦しをもたらすのではないからです。 また、 私たちの赦しは私たちが赦しに生きるためですし、 私たちの業はただなすべきことをしたに過ぎないのです。 私たちに大きな業がなし遂げられたからです。 日本基督教団 福音主義教会連合 19 /金 列王記上第 14 章 ルカによる福音書 第 14 章 7 − 14 節 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。 あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなた やその人を招いた人が来て、『この方に席を譲って ください』と言うかもしれない。そのとき、あなた は恥をかいて末席に着くことになる。 8・9 節 「信じる」とは、自分の生活の中に神を迎え入れること ではなく、あるいは、神のことを考えて生活するというの でもありません。そのように信仰が表現されることもある でしょうが、信じるとは「神が入ってきてしまっている」 ということです。 時には、神を迎え入れたくないと思うような私たちの生 活の中に、神が入ってきてしまう、「あなたは恥をかいて 末席に着く」、それが信仰です。 21 /日 創世記 第4章1−9節 20 12 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 4月 /土 列王記上第 15 章 ルカによる福音書 第 14 章 15 − 24 節 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にで も人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 23 節 「無理にでも」とは物騒なことを言っているのではあり ません。神の国の宴会に招き入れようとする神の熱心を伝 えます。恵みによって、その不思議な力によって招き入れ てくださらなければ、この世のしがらみ(責任)に縛られ ている私たちは、神の国の宴会にあずかることはないで しょう。 私たちを解き放ち、招き入れてくださるのは、宴会の席 を満たすために、相応しくない者、招かれていない者を、 なにがなんでも連れて来させる神の恵みの力です。 22 /月 列王記上第 16 章 ルカによる福音書 第 14 章 25 − 35 節 カインとその献げ物には目を留められなかった。カ インは激しく怒って顔を伏せた。 5節 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 27 節 カインの憤りは神の自由を承認できなかったことを示し ます。 神はなぜアベルを受け入れたのか、神の自由を計ること はできません。飼葉桶のみどり児、十字架の困窮者を通し て私たちを救い祝福されるのは、神の計り知れない自由に よることでありました。 神は神です。押し付けがましい私たちの要求に神を従わ せることはできません。カインは神からその自由を承認す ることを求められたのです。 「十字架を背負う」とは、 はっきりとしたイメージを持っ ています。処刑場に向かう者の姿です。刑を受けるために 処刑場に向かう者だけが十字架を負うのです。 主イエスは十字架を負われました。神の裁きをお受けに なったということです。処刑されたのです。罪のためです。 しかし、ご自分の罪ではありません。私たちの罪のためで す。私たちに代わって負ってくださったのであります。 その十字架を私の十字架として負うことを知る者が、主 イエスの弟子です。 23 /火 列王記上第 17 章 ルカによる福音書 第 15 章 1 − 7 節 24 /水 列王記上第 18 章 マタイによる福音書 第 15 章 8 − 10 節 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がい て、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原 に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回ら ないだろうか。 4 節 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がい て、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、 家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろう か。 8 節 羊の群には羊飼いがおり、その群を養います。「主はわ たしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い」と詩 編 23 編はうたいます。 その群を離れては、羊は生きていくことはできません。 しかし、迷い出てしまうのです。羊飼いである主は、迷い 出た一匹を見つけ出すまで捜し歩くお方だというのです。 「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わ たしを正しい道に導かれる」正しい道とは、恵みを見出す 道です。 十枚の銀貨とは、嫁ぐときに母親から渡された銀貨を連 ねたネックレスのことだろうと言われます。何か事があれ ば、その銀貨が助けとなるでしょう。娘を思う母親の愛情 が銀貨には託されています。その銀貨を一枚であっても失 くしてしまったとしたら、 どんなに悲しいことでしょうか。 神の愛を見失い、その眼差しから隠れてしまったのが人間 なのかも知れません。 神の悲しみは、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるま で念を入れて捜す愛となります。 13 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 13 日本基督教団 福音主義教会連合 4月 /土 列王記上第 9 章 ルカによる福音書 第 13 章 10 − 17 節 14 /日 創世記 第 3 章 1 − 10 節 …その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 16 節 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 9節 安息日は申命記の記述によれば、出エジプトの恵みを覚 える日でありました。エジプトからの解放と自由を神の大 いなる恵みとして、民はいつまでも覚えることが求められ ました。 18 年も体を伸ばすことの出来なかった女を主はいやさ れ、18 年の束縛から解放されたのです。彼女はそこで初 めて腰がまっすぐになり、神を賛美することが出来るよう になりました。そのいやしを見た会堂長は腹を立てました が、このいやしによる自由と解放こそ、安息日に相応しい 行為であったと言えるのです。 アダムは木の間に隠れて、み顔を避けていました。 「あ なたはどこにいるのか」という問いは、地理的場所ではな く、人間がどの方向を向いているのかという問いです。 この神の問いかけは、 人間の究極的な滅びに対する、 切々 たる立ち返りへの呼びかけでもありました。 その神の呼び掛けは、キリストにあってすべての人に届 けられました。 15 /月 列王記上第 10 章 ルカによる福音書 第 13 章 18 − 21 節 …「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。 18 節 主はここで神の国は何に似ているか、と言われます。こ の 2 つの譬えは、そのいずれも人間の目には結果として 見ることが出来るだけであって、その過程は隠されている と言えます。どのようにしてそうなるのかは神のことであ り、誰にも知られていないのです。 つまり、教会の業は徹頭徹尾、神ご自身の業だと言って いいでしょう。人間の知恵や計画によるものではないとい うことです。私たちの力は、たとえ小さくても決して失望 することはないことを思わせられるのです。 この福音の力、 福音の恵みを信じて伝道に励みたいものです。 17 /水 列王記上第 12 章 マタイによる福音書 第 13 章 31 − 35 節 16 /火 列王記上第 11 章 ルカによる福音書 第 13 章 22 − 30 節 「狭い戸口から入るように努めなさい。… 24 節 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた者 がいました。この人は、恐らく自分は当然救われる者であ ると思っていたことでしょう。正統的なユダヤ教徒であっ たのかも知れません。それに対して、主は「狭い戸口から 入るように努めなさい」と言われました。 22 節に「エルサレムへ向かって進んでおられた」とあ ります。十字架に向かっての旅です。狭い戸口とは十字架 の主への信仰です。それは多くの人が入りたいと望まず、 歩みたいと願う道でもありません。 しかし、救いに至る戸口は、そこにしかないのです。 18 /木 列王記上第 13 章 ルカによる福音書 第 14 章 1 − 6 節 …わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を 進まねばならない。… 33 節 …「安息日に病気を治すことは律法で許されている か、いないか。」 3 節 あるファリサイ派の人々が、「ヘロデがあなたを殺そう としています」と忠告します。善意の忠告であったと思い ます。しかし、主は「進まねばならない」 と言われます。 〝ね ばならない〟とは、そのように神によって定められている、 という意味です。エルサレムで十字架に架けられるという ことは、神の意志であるということです。 それは雌鶏が翼の下にひなを集めるように、神の救いへ の招きであり、キリストによってご自分の恵みの意志を明 らかにした神は、全ての人が悔い改めをもってそれに応え ることを待っておられるのです。 〝安息日を覚えて、これを聖とせよ〟という戒めは、ユ ダヤの社会ではかなり厳格に守られて来ました。それは日 常の仕事を休むことであり、日常生活の中断でした。その 目的は神が創造の業を終え、休まれたことを覚えるととも に(出エ 20 章) 、 出エジプトの恵みを想起する日(申 5 章) でもありました。人がその業を中断し、神の創造の祝福の 中へ招かれ、その恵みに与り、それを讃える日でした。 水腫を患っている人をいやし、神の祝福の中に招き入れ ることは、井戸に落ち込んだ牛を助ける以上に、安息日の 精神に合致することではないでしょうか。 日本基督教団 福音主義教会連合 7 /日 創世記 第 2 章 4b − 9 節 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形 づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこ うして生きる者となった。 7節 人は土(アダマ)の塵から造られました。土にすぎない はかない存在です。 それは、人生が空しいということではありません。神の 前にいと小さき者だということです。 神の息を吹き入れられたとは神のあわれみと恵みによっ て、人がいと小さき者として神を賛美し、感謝しつつ生き るものとされたということです。 9 /火 列王記上第 5 章 ルカによる福音書 第 12 章 49 − 53 節 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 その火が既に燃えていたらと、どんなに願っている ことか。 49 節 「実に人はただ忘れるばかりでなく、忘れることによっ て、自分が忘れてしまっていることも忘れる」ある人の言 葉です。人間は罪を忘れるのです。見事に忘れる。そして、 罪は見事に人間を捕らえて離さない。私たちは、罪を忘却 したところで、平和だ平安だと言っているのかも知れませ ん。正しい裁きと赦しが必要なのです。 主イエスはご自分が審判者であられることを明かしてく ださり、その裁きこそ、良きことであり、神の栄光となる ことをお示しくださいます。 11 /木 列王記上第 7 章 ルカによる福音書 第 13 章 1 − 5 節 8 14 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 4月 /月 列王記上第 4 章 ルカによる福音書 第 12 章 41 − 48 節 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、 下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うよ うなことになるならば、 45 節 「人間という存在はなんと矛盾に満ち、罪にまみれてい ることか。私は無力だ。何をしても無駄だ」 。 「全てが終わ る。死は勝利者だ」と考えているなら、それは自分勝手な 考えです。 自分勝手に考え始めると、私たちの視野はたいへん狭い ものになり、私たちの見通しは、まことに短いものになり ます。そして、隣人や身の回りのものが、すべて遠い存在 となります。しかし、救い主であられる主イエスは、再び 来られます。 10 /水 列王記上第 6 章 ルカによる福音書 第 12 章 54 − 56 節 …どうして今の時を見分けることを知らないのか。」 56 節 主イエスは「あなたがたは空や地の模様を見分けること は知っているのに、どうして今の時を見分けることを知ら ないのか」と言われました。 「今の時」とはキリスト到来 の時のことです。 主イエスの伝道の第一声は「時は満ち、神の国は近づい た。悔い改めて福音を信じなさい」 (マルコ 1・15)でし た。 「近づいた」とは「来た」ということで、 「関係が生じた」 という意です。 「悔い改めて」とは「向きを変えて」です。 今こそ、キリストに生きるべき時なのです。 12 /金 列王記上第 8 章 ルカによる福音書 第 13 章 6 − 9 節 …あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅 びる。」 5 節 …『御主人様、今年もこのままにしておいてくださ い。… 8 節 ピラトによってガリラヤ人が迫害されるという事件が起 こった時、そのような災難に遭うのは、彼らが他のどのガ リラヤ人よりも罪深い者だったからだ、と思った人々がい たようです。また、シロアムの塔が倒れて死んだ 18 人は、 エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも罪深い者だっ たのではないかと考えた人がいました。主は「決してそう ではない」と言われ、因果応報的な考えを否定されます。 そのような考えこそ大きな不幸であるということでしょ う。 そのような考え方、生き方を 180 度変えなければ、即 ち悔い改めなければ、あなたも滅びると警告されるのです。 この譬えの、実がならないいちじくの木はイスラエルを 象徴しています。主人は大きな期待を持って 3 年間実の なるのを待ったのです。3 年経っても実のならない木は無 用の長物にすぎませんでした。主人は切り倒すことを命じ ます。これはイスラエルに対する裁きの宣告です。 しかし、園丁は一年の猶予を申し出ます。この園丁の姿 こそ主イエスの執り成しの姿と重なり合うのではないで しょうか。主の公生涯の 3 年を思い浮かべます。 「もしそ れでもだめなら」と言う園丁の必死の思いが伝わって来ま す。主の十字架の死による執り成しを思うのです。 15 日本基督教団 福音主義教会連合 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 1 4月 /月 サムエル記下第 22 章 ルカによる福音書 第 12 章 1 − 3 節 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明 るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋 根の上で言い広められる。」 3 節 主イエスはご自分が救い主であられること、ご自分がど のようにして人々に救いをもたらすかを、弟子たちにお語 りになりました。ひそかに、心を込めてお語りになりまし た。 その真理を世界中に語り伝えることを、ご自分だけでな さらないで、むしろ、弟子たちにお委ねになりました。し かも、弟子たちが聞いた主イエスの真理、この世の人々の 救いの言葉は、ご自分を迫害する人に対する救いの言葉で した。 3 /水 サムエル記下第 24 章 ルカによる福音書 第 12 章 8 − 12 節 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたし の仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使た ちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。 8節 主の慈しみを受け入れて、主イエスを「わたしの仲間で あると言い表す者」は、主もまた、「神の天使たちの前で 受け入れる(自分の仲間であると言い表す)」と書かれて います。神の天使たちの前とは、主イエスが御使いたちを 従えて裁きの座につく時です。主イエスが何の相応しさも 持ち合わせていない、この私を友と呼んでくださる、だか ら「主はわたしの仲間です」と、この地上で言い表し続け るなら、最後の審判において主イエスは私たちの仲間であ り救いでいてくださる、というのです。 5 /金 列王記上第 2 章 ルカによる福音書 第 12 章 22 − 34 節 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れ もせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養っ てくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値 があることか。 24 節 空高く空中散歩している烏は優雅に見えます。しかし、 物の本によると、烏はよく食べるそうです。地上に下りて いる時は食べ物をつつき、空を飛んでいるときには食べ物 を探している。なぜ、よく食べるのかと言うと、空を飛ぶ のには、たくさんのエネルギーを必要とするからだそうで す。食べるために飛び、飛ぶために食べている。思い煩っ ているのは、烏も一緒なのかもしれません。 神は私たちをも顧みていてくださいます。 2 /火 サムエル記下第 23 章 ルカによる福音書 第 12 章 4 − 7 節 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺して も、その後、それ以上何もできない者どもを恐れて はならない。 4節 「友人」と呼ばれて戸惑うのは、私たちが主イエスの友 人として少しもふさわしくないからです。いつ、私たちは 主の友人だったでしょうか。罪人の一人に過ぎませんし、 決してそれ以上のものではありません。 しかし、それにも関わらず、なお、主が私たちを「友」 とお呼びになるとしたら、それは、ひとえに主の思いやり によることで、相応しくない者を敢えて相応しいと見なし てくださる主の慈しみに他ありません。 4 /木 列王記上第 1 章 ルカによる福音書 第 12 章 13 − 21 節 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所 がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こう しよう。… 17・18 節 この譬えで、金持ちの最も際だった特徴は、彼が終始、 独り言を繰り返している、ということです。対話の相手が いないのです。自分自身にしか語り得ない男、それがこの 金持ちです。彼には父や母、子どもたち、そして、友人や 雇い人、また隣人はいないのでしょうか。そして、なによ りも神はおられないのでしょうか。すでに、彼自身が失わ れています。 神に依り頼むことを知り、神に従い、そして共同体にお いて交わされる愛によって互いに結び付けられることこ そ、人間として相応しいことなのです。 6 /土 列王記上第 3 章 ルカによる福音書 第 12 章 35 − 40 節 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 35 節 「腰に帯を締め」とは、着物の裾を上げて帯に巻き付け、 身構え、 準備をすることです。 「ともし火をともして」 とは、 夜遅く婚宴から帰って来る主人を待って、 戸をたたくとき、 すぐに戸を開けることができるように、いつでも目覚めて いることです。 そのように主人の帰りを待っている僕は幸いである、と 主イエスは言われました。主ご自身が、 自ら腰に帯を締め、 食卓の準備をし、このような僕のために給仕をしてくださ るからだ、というのです。 主は来られます。 教会教育には 教会学校教案 をどうぞ 月号 目次 巻頭言……………………………………… 張田 眞 「学士院院長はCS校長だった」 特集………………………………………… 小友 聡 「教会学校教師のための旧約聖書講座」 月号の教案 テキスト研究…………………………… 大石 健一 説教 例 藤川 義人・大三島義孝・小林 眞 疋野 愛子・藤盛 勇紀・大野 和男 塚本 佳奈・上森 俊明・宮本 義弘 森里 信生・嶋田 恵悟・春原 禎光 聖句カードのお話………… 浅見 覚・内田 知 分級教案…………………………………… 筧 伸子 田中かおる・堀岡満喜子 読者の広場・教会紹介 日下部教会(山梨県) ラ 共にあずかることができますように。 ◇ 主のご受難をしのび、復活の喜びに ファエル前派と 世紀のイギリスの画 ◇ 近 藤 存 志 著「 キ リ ス ト の 肖 像 」 (教文館)が出版されまし た。著者は本紙に連載「主イエスの肖 家たち 像」をお書き下さり、大変好評であり ましたが、この度、さらに内容が充実 されて一冊の書物となりました。たい へん、嬉しいことであります。 ◇ 教会連合を献金をもってお支えくだ る皆さまに感謝いたします。教団改革 は仕上げともいうべき教団の形成・充 実へと向かうべき段階に至っていま す。教団紛争の悪しき遺産が残ってい 昭和 年 月 日第三種郵便物認可(毎月1回 日発行) − 円)一年間購読料3000円(送料とも) − ますから決して容易なことではありま − − せん。祈りつつ励んでまいりたいと願 部以上200円 − F A− X 15 います。 発行所 日本基督教団 福音主義教会連合 〒 東京都中央区銀座4 2 1 銀座教会堂ビル内 03 3561 0242 電話03 3561 0231 7 33909 − F A− X − 編集室 日本基督教団 鳥居坂教会内 〒 東京都港区六本木5 6 03 3401 8289 電話03 3401 8704 発行人 長山信夫 編集人 張田 眞 郵便振替口座 00170 − − 毎月、献金報告をお載せしています が、ときどきお名前や所属教会に間違 10 3 月号 contents 定価1部250円(〒 60 − いがあり、 ご指摘いただいております。 13 室 た い へ ん 申 し わ け あ り ま せ ん。 ま た、 − − 集 19 4 4 編 − ご指摘を感謝いたします。 10 説教/「福音にふさわしい生活」 ……………………………… 朴 壽吉 1 追悼/「我ここに立つ−小林貞夫さんを偲んで」 …………… 森里信生 2 新常議員になって/「今の時代、主に生かされる者の一人として」 …… 稲松義人 3 解説/教会形成のための 「教憲・教規」 の読み方 第9回 第 17 回教団総会の不法性と教団顧問弁護士の問題《第 4 回》 ・・・教会法と世俗法の混濁・・・…………………… 山口隆康 4 「教会と広報」…………………………………………………… 井田昌之 6 報告/「茨木東教会 献堂報告」 … ……………………………… 筧 正彦 7 報告/東京神学大学「第 14 回日本伝道を担う青年の集い」…… 三橋侑子 8 シリーズ カオリさんの献身志願③ 「 『献身』ってどういうこと?」 … ………… 小泉 健 9 献金感謝報告(2013 年 1 月分) ………………………………………… 10 聖書日課(2013 年 4 月) ………………………………………………… 15 教案誌案内・編集室……………………………………………………… 16 52 104 − 0061 106 − 0032 − 20 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10 16 日本基督教団 福音主義教会連合 福音主義教会連合の主張(創立感謝宣言より)