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「1600 年前の渡来史が現代日本人を癒す時が来る!」

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「1600 年前の渡来史が現代日本人を癒す時が来る!」
<論考>
「1600 年前の渡来史が現代日本人を癒す時が来る!」
歴史的、日本の大転換期には、百済と新羅で権力の移行があった。
●現代病に潜む価値観の時間
最近、衝動的で唐突な子供の犯罪が増えている。犯罪の低年齢化が一段と深刻化していて、
とてもショッキングである。子供たちにも強いるこの社会のストレスの根源はいったい何
だろう。ストレスと言えば、雅子妃が精神衰弱状態にあるという。なんで、国の元首の皇
太子妃が、心を病むまでになってしまうのだろう?
この日本社会では、毎日毎日、100人近い人が自殺していて、100万人以上の引きこもりが
存在する。同一の社会に存在しながら、まったくその人達の実像が見えてこない。何かが
おかしい!
そして、何ら関係のない事柄に見えるこの問題が因果関係があるように思えてきたのは、
つい最近のことである。
私は、1600年前の百済に関する歴史をライフワークにしている。現代とは無縁のはずのこ
の事柄が、“天皇家が百済系”であるという確信を得たとき、この現代にも因果が及んでい
ると思えてきた。
1600年前の過去と現在が交わることなど有り得ないと、気持ちを整理しても、何かに引き
寄せられるように、その事柄たちが頭から離れない。法隆寺の建立は1400年前だ。そして、
現在もそのたたずまいは古代と変わらず現存している。その法隆寺を建立したのは、聖徳
太子である。その聖徳太子が最初の憲法十七条を公布したという。内容においても、一条
は「和を持って尊とし」とあり、その理念は平和憲法の精神と合致する。平和憲法はただ押し
付けられたものではなく、受け入れる土壌があったこと、古代の教えへの回帰だったのかも知
れない。奇しくも現在改憲論が持ち上がっている。
また、この日本にはそれ以前から、存在する神社もたくさんあって、その信仰をずーっと
守り続けてる氏子達が、この日本社会の現代にも存在する。現代の人、社会人が抱く、時
間的な感覚って、いったい何だろう?
土俗的な風習を千年の時を経ても頑(かたく)なに守り続けてきた人達がいて、ほんの40 年
ほど前のテレビが普及されるまでは、その価値観を地域的に結束して維持してきた人達が
かなりの数いたと考えられる。千年という時が、この歴史のある日本においては、まった
く別世界の神話などではなく、社会の隅でひっそりと横たわっているのではないだろうか。
古代から守られてきた価値観を維持できなくなった大きな理由は、テレビメディアの普及
によって、日本全体が価値観の画一化が決定的となり、地域的な独自の価値観を維持でき
なくなった事があげられるが、その前にも大きな変革期が近代に二度あった。それは、敗
戦によるGHQ(米軍)の占領下でもたらされた憲法を含む、直接的な西洋人の価値観の
干渉が一つであり、もう一つが徳川幕府を倒して、政権を手にした明治維新の主人公たち
が、率先して西洋文明の流入を図ったことである。それは新たな価値観を持込む事で、過
去の価値観を根こそぎ切り崩して否定し、自分達が神になろうとしたのが、明治という時
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代だったからである。
●キーワードとなる明治
日本をコントロールしているのは、政治家ではなく官僚達であると、よく言われる。この
官僚という種族を生んだのが明治であり、この時代から官僚を中心にした既得権者達の聖
域が確立し、現在もその聖域は守られている。
明治時代にもっとも強力でインパクトがあって、その後の日本の進路を大きく左右してい
く西洋文明は、西洋式の兵器産業の流入である。もちろん、その以前から武器などは輸入
されていたし、この時代には政治的システムや芸術を含む様々な近代文明の礎となる西洋
文化が持ち込まれたが、西洋式の兵器産業こそが、アジアの覇権を推進した原動力だった
と言える。その象徴的な人物こそが西洋式軍艦の製造に成功した“大村益次郎”であって、
現在その銅像が靖国神社の参道の真ん中で高だかとそびえているのである。
明治という時代には、神仏分離と廃仏毀釈が図られ、神社と寺が同境内にあるものは、寺
が取り壊されて排除された。その多くが新羅や高麗の名の付く渡来の寺だった。(一例:
昔、住吉大社の境内には、新羅寺があった。)その頃までは、民衆にとって渡来の神仏が
当り前に地域に存在していて、信仰の対象であっても、蔑(さげす)む存在でなかったと
考えられる。明治の創健者達は、自らが求心力を得る為に、古代の中心的な神(人)であ
った旧百済系の天皇家を担ぎだしたが、それと同時に、西洋の新たな文明を積極的に取り
入れて過去の価値観を排除し、そして自分たちが御神体となり得る「護国神社」を全国に
造ったのである。その精神的な総本山となるのが、靖国神社であった。ここに過去の価値
観との矛盾が生じるが、この曖昧な解釈が民衆に植えつけられていく。小泉首相の靖国参
拝問題とは、A 級戦犯合祀という問題だけでなく、明治の創建者たちへの忠誠の証しと言
えるだろう。
皇太子妃の精神を食い蝕んでいるものは、この明治に確立していく官僚という特権階級と
天皇家との関係に大きく起因する。それは、天皇家が日本の王として、国家の元首として
威厳のある存在として扱われるのではなく、官僚達から象徴(飾り)としてコントロール
される対象であったこと。そして、それは現在も続いているという事である。無関係に思
えた、靖国参拝と雅子妃の憂鬱は、しっかり因果で結ばれている。
●1600 年の因果のあらまし
在日コリアンの一人として、日本と朝鮮・韓国の関係を考えた場合。問題となる歴史が三
つあると考える。それは、①日本帝国による朝鮮・韓国の侵略(1875∼1945年代)、②豊
臣秀吉の1592年の「文禄の役」、1597年の「慶長の役」の2 回に及ぶ朝鮮侵略(1590年
代の約10年)、そして日本帝国の朝鮮進出の口実を与えることになる③「日本書紀」(720
年頃)の記述が大きなポイントだと捕らえている。
アバウトであるが歴史をストーリーにする。
ここで歴史に精通して文豪坂口安吾(1906年[明治39年生]~1955年)氏は、源氏は新羅系
で、平氏は百済系と述べている事を紹介する。実証論など詳しい事はさておき、坂口安吾
氏はそのように判断していたことを報告する。
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明治が創建される原動力は、下級武士の反乱です。下級武士とは何か?それは、関ケ原合
戦(1600年)で敗れた側であり、勝った側が明治維新で倒される徳川幕府ということにな
ります。
この関ケ原合戦のほんの数年前に秀吉の朝鮮征伐がありました。何で秀吉は朝鮮への遠征
を考えたのでしょうか?一説によると秀吉は、征夷大将軍になれず、関白にしかなれなか
ったことが、朝鮮征伐に走らせたという説があります。何故、秀吉は征夷大将軍になれな
かったのでしょうか?その頃、征夷大将軍職は源氏族系のみに与えられる特権職でした。
坂口安吾の言うように、源氏が新羅系なら新羅系で無かった事が、秀吉が征夷大将軍にな
れなかった理由ということになります。源平合戦(1180-85)など平氏と源氏は鋭くぶつか
りますが、平氏は桓武天皇(50 代、781-806)を始祖とする天皇家の直系です。源氏も56
代の清和天皇(858−876)が始祖とされていますが、坂口安吾の言うように血族としての
違い、もしくは派閥(百済派・新羅派)としての違いがあったとしたら、百済系氏族と新
羅系氏族が時空を超えて、この日本の地で闘いを繰り広げていたという事です。源氏は平
氏を倒して、1200年に鎌倉幕府を起こし、京都から鎌倉に遷都し、征夷大将軍職の資格を
源氏族のみとします。
何時頃が源氏へと続く、新羅系渡来氏族への権力移行期なのか?それは京都に都が築かれ
た794年(平安時代の始まり)頃でしょう。京都への遷都は百済系の桓武天皇が指揮をとり、
初代征夷代将軍職にも百済系の坂上田村麻呂が就任しました。しかし、その時に日本最大の
豪族で新羅系渡来氏族の秦氏が中心となって、都が築かれたのです。秦氏族とは日本全国
に建立されている八幡神社などの始祖氏族です。
それ以前の飛鳥時代・奈良時代(592-710・710−794)に遡るとこの時代、特に飛鳥時代
の皇族達は百済語で会話したと推測され、百済系氏族の王たちです。「新撰姓氏録」とい
う古文書には、第30代敏達天皇(572-585)が百済人と記しています。妻は第33代推古天
皇(592-628)で、異母兄妹です。31 代用明天皇は推古天皇の実兄で、4人男子をもうけ
たが、そのうちの一人が厩戸皇子(聖徳太子)なのです。32代崇峻天皇(587-592)も敏
達天皇の異母兄弟です。そして、父親の欽明天皇(539-571)ももちろん百済人であったと
推測されるのです。
すなわち、聖徳太子を含め、少なくとも539年から628年までの約90年間、いや34代舒明天
皇も敏達の孫娘にあたり、百済大寺や百済宮を建立した後、その百済宮に居住しました。
そして、百済が滅亡の危機に瀕した時には、27000人にのぼる兵士を朝鮮半島に派兵したの
です。よって、100年以上は百済人の王達であったことは、もう史実としてはっきりしてい
たと言って過言でないのです。そして、この時代に仏教の教義が導入されたのです。では、
どこまで遡るかと言えば、15代応神天皇、16代仁徳天皇の時代まででしょう。明治に津田
左右吉という学者がいましたが、朝鮮の文献と付き合わせれば、応神天皇の頃が4世紀末か
ら5世紀始めと予測し、それ以前の天皇たちは神話の世界で実在しなかった可能性が高いと
説明しています。
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この応神天皇の頃、405年に百済から来日した学者がいます。それが日本文化の恩人と言わ
れる博士王仁です。博士王仁は論語と千字文を携えていたので、日本に文字を伝えた学者
として、現在もその功績が称えられていて、大阪の枚方市や高石市には、記念碑や遺跡な
どの多くが保存されており、東京においても上野動物園の公園内には銅像も建てられてい
るのです。
百済人が持ち込んだこの論語(儒教)と仏教が日本のすべて、もしくは多くの価値観のベ
ースを成したと言えるでしょう。道徳は論語の教えであり、仏教の教義、そしてそれ以前
から存在した神道とも融合して、日本の古代の価値観が形成されていき、世界にも稀な神々
が共存しうる価値観。八百万(やおよろず)の神々という価値観は、覇者である百済人の
同族達が持ち込んだ価値観であるがゆえに、共存が許されたと私は推測するのです。
その八百万の神々が住まう郷(さと)、「熊野古道」が、つい先日世界遺産に登録されま
した。
<あらまし年表>
日本の歴史的大転換期には、百済系・新羅系の間で権力の移行があった!
400年-700年
百済系隆盛期
700年-850年(京都への遷都/百済⇒新羅)百済系の衰退・新羅系秦氏への権力移行期
660年に百済が滅亡し百済系が衰退しはじめる。本国を背に新羅系が力を得て、勢力の逆転
現象が起きていたのではないか。712年に新羅系氏族が古事記を記す。720年に百済人は新
羅への怨念を込めて日本書紀③を綴る。794年に京都に遷都されて、初代征夷大将軍に坂上
田村麻呂が就任し、平安京時代が始まる。
850年-1100年 新羅系の絶頂期から衰退期、百済系の挽回期
本国の新羅が935年に滅んで、新羅系氏族の権威に衰退があったのではないか。しかし内部
的には、様々な抗争もあったでしょうが、遷都までに至らなかった。
1100年-1200年(鎌倉への遷都/百済⇒新羅)百済系・新羅系最終抗争期(源平合戦へ)
百済系の平氏と新羅系の源氏との抗争が本格化していき、源平合戦の果て源氏が勝利。
1200年に鎌倉幕府が設立される。
1200年-1500年
新羅系源氏族のみが征夷大将軍になれると定める。
1500年-1600年(新羅系源氏でない秀吉が天下を平定)戦国期
豊臣秀吉が天下を平定するが、征夷大将軍にはなれない。擬似(旧)新羅国の朝鮮を征伐
②に出兵する。
1600年-1850年 擬似新羅系の支配期
徳川家康は、擬似新羅系(源氏系)を名乗り、征夷大将軍に就く。
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1850年-1945年(明治維新/擬似新羅系⇒代理百済系)明治派(旧豊臣派)の台頭-暴走期
明治維新によって、まったく異質の勢力が誕生する。それは明治派(旧豊臣派)であり、
西洋文明(新大陸文化)を流入して、百済系の天皇を担ぎはするが、今までの価値観を埋
没させて、日本の過去を消す作業に専念する。自らが神に成らんとする。そして日本書紀
③の記述を持ち出して、朝鮮を侵食①していく。結果、アジアの覇権へと暴走しだして、
戦争が拡大して行き、敗戦となる。
日本の西洋人コンプレックスは、太平洋戦争の敗戦に起因するものより、西洋文明を羨望
する明治派の教育によるものが大きく、古来の価値観のリセットがその目的の一つであっ
たと言える。ただ、その西洋文明の流入は、直接的なものではあってはならず、必ず明治
派の手を介するものでなければならかった。この時代に、脱亜入欧を唱えて福沢諭吉を筆
頭に現存の名門大学が設立されていくのである。
1945年-現在 明治派の復活・隆盛期(皇族混迷期でもあり、現在へと続く)
敗戦によって消滅するかに思えた明治派だが、1950年~53年の朝鮮戦争で戦勝国のアメリ
カからほとんどお咎めを受けないまま、政権に戻ってくる。(例:A級戦犯の岸信介氏は、
敗戦後14年で首相となる)しかし、直接的な西洋文化の干渉や流入が始まり、明治派が企
図していなかった自由主義やヒッピー文化なども日本に蔓延する事になる。ビートルズが
未だに支持されるのは、この頃の価値観によるものである。
ただ、明治派によって、大陸、特に朝鮮(韓国)との関係史が、すでに日本の民衆の記憶
からすっぽりと消されてしまっており、西洋文化のみが善であり、未来であるという価値
観が植えつけられて、「過去を振り向かない」、「歴史を考えない」という価値観が右肩
上がりの経済成長によって、後押しされるのである。そしてテレビメディアの出現によっ
て、日本全体が画一化してしまうことになる。このような経緯を経て、明治派の思想や影
響力は現在も、政・官・財の業界にしっかりと根をおろしている。
●明治の知識人は知っていた
上記のストーリーは仮説に過ぎない。しかし、これに近い史実を津田左右吉や坂口安吾の
発言からみても、明治の文学者や歴史家達はすでに認識していたはずである。姜尚中教授
は著書「在日」で次のようなことを記している。「海外で生活してはじめて、日本ほど文
学者が厚遇される国がない事を知った。それは文学者たちと政治が密接に関係を持ってい
るからである」とある。即ち史実などの実証を行う研究者より、フィクションで都合のい
いストーリーを創作できる文学者の方が為政者にとって都合が良かったからだと言える。
太古の昔から日本と朝鮮・韓国は頻繁に往来を繰り返し、切っても切れない関係で結ばれた
兄妹民族であった。「近くて遠い国」というイメージは、人為的に捏造されたイメージで
しかない。
日本の国宝第1号は、新羅系渡来氏族の秦氏が建立した広隆寺(603 年)の宝冠弥勒菩薩
半跏思惟像であり、国宝の多くが渡来の品々であるのにもかかわらず、現代人はその事を
漠然としか認識することができない。それは、過去と現在を結ぶことのできない思考によ
って、もたらされている。古墳からもたらされる、大陸や朝鮮との関わりのある遺物をマ
スコミは報じても、文学者や政権よりの歴史家達によって結論付けることを回避されてし
まうのである。また、隠蔽され続けている歴史は限りなく存在する。
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●何で?どうして?おかしいと思えること
何で子供達が親達に虐待されるのだろう。幼児に内臓が破裂するような殴りかたを昔の大
人はしただろうか。何で成人男性は総ロリコン化しているのだろう。何で子供達が性的な
標的として誘拐されたりするのだろう。何で日本歌謡に横文字が挿入されなくてはいけな
いのだろう。何で意味が通じにくくなる、日本人同士の対話でもカタカナ外来語を駆使す
る事が、ビジネスの場で偉いと思われるのだろう。何で女子高生達は援助交際なんかする
のだろう。何で年金ってもらえなくなるのだろう。
何でヒートアイランド現象が起こるほど、都市開発をしてしまうのだろう。何で北朝鮮バ
ッシングが起こるのだろう。何で日本はアジア系の外国人を蔑むのだろう。何で反戦を唱
えると悪者にされるのであろう。何で被爆国なのに核を持ちたがる人が日本にはいるのだ
ろう。何でプロ野球界はゴタゴタしているのだろう。この他にも限りない、何でだろうが
存在する。
この無関係に見える事柄達が、不思議なことに何かの因果で結ばれている。徹底された商
業主義と、欧米の個人主義の流入によって、日本が古来から育んできた道徳観が崩れ落ち
てしまったのである。しかし、過去の道徳観を確かめるために振り向くことが許されない
のが、この日本の問題であり、現実のように思える。それは、明治派がもたらした西洋式
の産業によって、経済発展を遂げ、その恩恵が与えられたのである。しかし、道徳観を確
認する為の過去は、明治派が神になる為に消し去ってきたものでもある。
●繋がる因果
子供達が虐待される原因の一つが、家族や家長を中心にした土俗的家族観が崩壊して、欧
米的個人主義の流入が、古来の子育ての知恵を喪失させ、個人への負担が増えたことに起
因するのではないか。
女子高生などが援助交際をする一番の要因は、携帯電話の料金支払いが引き金になってい
る。商業主義による、携帯電話の普及を促すために、低年齢層への売込みがなされた。そ
れは携帯を所持しなくてはいけないという画一化された価値観で広められたのである。ま
た、商業主義による、低年齢層の市場開発(例:小学生向けの化粧品)が促進されている。
ミニスカート・化粧という、大人の女性の領域に低年齢の女子が取り込まれていく。それ
に伴い、小学生の女子が性的な対象として、商品化されていくのである。それがテレビメ
ディアによって、合法的に画一化した価値観として社会に浸透していくことによって、成
人男性が総ロリコン化していくことになる。“モーニング娘”などは、完全に成人男性の
性的対象として、商品化されていると言って過言ではないだろう。
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また、ミュージックシーンにおける英語の挿入は、明治派の間接的な西洋羨望観と戦後の
直接的な西洋文化の流入がミックスされた複合的要素を含んでいるが、意味が判らなくて
も、画一化された価値観によって受け入れるしかないものであった。英語が挿入されると
カッコいいと認識するその価値観の裏には、古代的・アジア的なイメージはダサいという
認識が塗りこまれている。
そして、携帯電話やミュージックシーンはティーンエイジャーが中心に市場が形成されて
おり、相互が刺激をし合って、補完しあっているといえるのである。
無差別な開発は、ヨーロッパなどではできない。それは歴史的な出土品が発見された場合、
丁重に扱う価値観があるからである。明治派・官僚による過去を消すことが大命題の一つ
という価値観、そして明治派が築いた経済システムを維持するためには、後戻りできない
ことが理由にある。ニュータウン構想は、そのシンボリックな事柄であった。多摩ニュー
タウンなどは、古墳時代の遺跡の宝庫であったが開発してしまった。その意図されたもの
は、土俗的家族観から遮断された環境の創出であり、明治派によってもたらされる、まっ
たく新しい生活の演出であったと言える。しかし、過去を切り捨てた街づくりは、あえな
く構想倒れとなっていくのである。
野球というスポーツは、アジア的価値観を断ち切り、明治派の手によって、持ち込まれる
西洋文化を羨望する価値観のシンボル的な文化として適合していた。これに商業主義的な
価値観をプラスすると、元巨人のオーナー渡辺恒夫氏の数々の発言は至極合点がいくこと
なのである。
北朝鮮バッシングや反戦者・アジア人へのべっ視や核兵器に執着する人達の存在は、明治
派の西洋文明を流入して、神になろうとした価値観。その明治から既得権を得て相続し、
維持しようとする人達の価値観が日本社会に画一化してもたらされているからと言えよう。
西洋文明は、明治派を介して、日本そしてアジアにもたらされるべきものであって、明治
派が牽引する日本がアジアの覇者でなくてはならないという価値観が根底に潜んでいると
解釈すれば、納得できるのである。
明治派の遺志がしっかり、現代に受け継がれているという証として、外国人登録証に記さ
れる桐の紋章と法務省建物の透かしに見ることができる。桐の御紋は豊臣家の家紋であり、
また法務省(官僚)が管理者であるという誇示と言えるだろう。
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●結論
1600 年前の過去と現代の諸問題が直接交わりあっているという考え方は、誇張した考え
なのかもしれない。また、明治派をいくら非難しても、その人達によってもたらされた社
会構造が現代の経済社会の土台になっている以上、リセット(革命)することなどはでき
ない。アメリカを中心にした西洋的価値観こそが、現代のグローバルスタンダードとして
確立している。だから、私達、ビジネスマンはネクタイをして仕事をするのである。
ならば、数々の矛盾を抱えたままでもいいのだろうか。社会を壊すことはできなくても過
去の道徳的価値観の復古はあってもいいのではないか。それによって、痛んで歪んでしま
った現代人の精神を少しでも調整するきっかけになりえると信じたい。
世紀405 年に百済人によって、もたらされた論語。その儒教の教えは、間違いなく日本の
道徳
的価値観を育くんだ。神道や仏教とも融合して、神々が共存しうる価値観が、過去にはあ
ったのである。その教えは現代人の精神を癒してくれるものである。
画一化された価値観からそろそろ脱皮してもいいだろう。いにしえの歴史を知り、その先
人達の偉業に耳を傾けてもいいのではないか。西洋式の建築技術では、千年の耐久性はな
い。しかし、京都や奈良やいろいろなところに渡来の人達が造作したものが千年の時を経
ても、威風堂々現存しているのである。無理はしなくてもいいから、ちょっと振り向いて
みればいい。
古代の渡来人たちの偉業を素直に認めることができれば、近隣の周辺国との外交問題など
は大幅に改善されるだろう。危機論などは、より現実的な水準に落ち着き、核武装論は沈
静化すると思う。平和憲法の改憲論も良好な方向に向うであろう。過去を取り戻して皇太
子・皇太子妃が訪韓すれば、韓国の民衆は温かく熱烈に迎えいれ、雅子妃の心を癒す手助
けになるだろう。様々な現代の諸問題は、因果によって絡み合っている。歴史がその糸口
になり得ると信じる。
最近、その糸口となるその兆候は見えはいじめている。京都・新羅系雅楽が脚光を浴び(奈
良には百済系の雅楽がある)、中国人女性の女子十二楽坊が人気を施している。そして、
西洋語が挿入されず土俗的音調を奏でる“元ちとせ”の『海神(わだつみ)』は古代の価
値観への回帰への叫びのように聞こえてくる。『海神(わだつみ)』とは、邪馬台国の草
創期に九州の南方地域から朝鮮との間の海域に住んでいたとされる古代海洋種族で、倭人
は「海神族(わだつみぞく)」や中国西岸から来た「海人族(あまぞく)」という説もあ
る。どっちにしても、古代を主題にした歌なのである。そして、宮崎駿監督の「もののけ
姫」をはじめ、他の作品にも古代の香りが漂う。そして、現代人を癒している。
一度考えて頂きたいのは、親を敬う心や親の世代が大切にしていた価値観、元服や伝統衣
装を文明開化の名の下に切り捨てたのは明治であって、一概に戦後教育に起因するもので
はないこと。その過程がどうだったか、創造する努力をしてもらいたい。そして親を敬う
心を天皇崇拝に置き換えて削ってしまったことが、現代の日本社会に影を落とす結果とな
った。
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文明開化とは一体何だったのでしょう。現代建築物を見る限り耐久性は30年から最長で100
年に過ぎず、逆に退化してしまったのではないでしょうか。そして、美術品においても国
宝類の芸術性と比較すると、古代の技能や感性に遠く及ばない。明治に文明が花開いたと
いうスローガンは稚拙とも言える。その幻想を振りほどき、西洋文化の流入を正しく評価
することで、混同されている認識を整理する必要がある。
最後に、先日お亡くなりになった狂言師の野村万之丞氏について触れたい。氏は百済から
伝来された伎楽を“真伎楽”と銘打って、復活に心血を注がれたという。享年44 歳の若さ
だった。
日韓国民交流年の02年には百済の古都・扶余で、そして今年4月には平壌での公演を成功
させた氏は常々こう語っていたと言う。「韓国は恨(ハン)の国というけれど、これは相
手を恨(うら)むというのではなくて、本来いっしょにあるべきものが離れているから悲
しいということ。だから韓国と北朝鮮の関係は恨なわけ。本当は国境線など引けない」。
狂言師の野村万之丞氏のご冥福を祈る。多くの方に伎楽は百済からもたらされた日本文化
だと伝えよう。それは氏の遺志を語り継ぐことになるからだ。
日本の中にも恨(ハン)がある。同和(部落)問題である。現在、部落問題と天皇制は対
立した関係として認識されている。しかし、部落民とはいったい誰なのか。 それは古代の
王(天皇)の祭事を司る人たちであり、陵を守る人たちであって、天皇と一つの共同体だ
った。だから、天皇陵と同和問題は同じ地域に同居している。まさに恨(ハン)と言える。
日本は“和”ではない。“和”とは聖徳太子が提唱した理念であり、精神性である。平和
憲法を再び放棄するなら、“和”という称号も辞退すべきだろう。しかし、日本の中の恨
(ハン)が開放されるなら、その時こそ真の国際交流も始まるだろう。内なら矛盾を克服
して“和”を世界に提唱できるようになるからだ。
私は、これからも1600年間の百済に関する因果を語り継ごうと思う。奇しくも在日コリア
ンの最大の居住地、大阪の生野こそ百済文化が流入された起源の地であり、この地に“在
日”が居住したのは、決して偶然などではなく必然性があったことを・・・。そして、その歴
史が未来への大きな鍵になると信じる。
ただ、この道は大変苦難の道になるかも知れない。何故なら、渡来史はあまりにも刺激的
で現代の感覚を超越した史実で彩られているからだ。
金床憲
2004.8.23
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