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第12回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会【 PDFファイル:13.66 MB 】

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第12回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会【 PDFファイル:13.66 MB 】
第12回 佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 次第
■日時:平成27年8月20日(木)
13時30分~16時30分
■場所:佐野常民記念館1階多目的室
1.開会
2.社会教育部長あいさつ
3.会長あいさつ
4.報告事項
・平成27年度の調査・報告事業について
・史跡三重津海軍所跡整備構想策定委員会の設置について
5.検討事項
・築地反射炉跡発掘調査の実施状況について
・今後の調査方針及び予定について
6.その他
7.閉会
会
議
資
料
資料 01:平成 27 年度の調査・報告事業について
資料 02:三重津海軍所跡の文献調査概要
資料 03:築地反射炉跡確認調査概要(1 区~14 区調査概要)
第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会設置要綱
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
考古学的調査の成果
(中間報告)
平成27年度
1
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
化学分析と共同による遺物の性格解明
煉瓦耐火度・
煉瓦耐火度・成分分析
(一部実施
一部実施・
実施・中断中)
中断中)
多布施反射炉出土
多布施反射炉出土材料鉄?
材料鉄?分析(
分析(計画)
計画)
胎土成分分析(
胎土成分分析(実施中)
実施中)
鍛冶遺構遺物分析(
鍛冶遺構遺物分析(計画)
計画)
SK20001廃棄土坑
2
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
コークス(焼炭)が多量に含まれること
が判明
3
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
所属時期
慶応元年以前
海軍ドック(前
回)
海軍ドック(石炭)
化学分析
1.3
海軍ドック(コークス
状)
1.2
開陽丸
1.1
茅沼
1.0
西九州
H/C
産地間で
産地間で有意な
有意な差
があることが知
があることが知られ
ている炭素
いる炭素、
酸素、
炭素、酸素、
水素、
水素、窒素の
窒素の原子
比率を
比率を比較=
比較=炭化
程度を
程度を示す
0.9
杵島・西杵
0.8
唐津
0.7
端島
0.6
高島
0.5
伊王島
図1:O/Cと
H/Cとの関係
図
大島
0.4
0.02
0.04
0.06
0.08
0.10
0.12
0.14
三池
O/C
海軍ドック(前
回)
海軍ドック(石炭)
0.025
海軍ドック(コークス
状)
開陽丸
0.023
0.021
茅沼
0.019
西九州
N/C
0.017
杵島・西杵
0.015
唐津
0.013
端島
0.011
高島
0.009
伊王島
0.007
図2:O/Cと
N/Cとの関
係図
大島
0.005
0.02
端島で石炭採取
風景
0.04
0.06
0.08
0.10
0.12
0.14
三池
O/C
(大石2015抜粋)
4
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
化学分析結果と遺物観察結果
①:出土地点がⅣ層に集中
②:端島産⇒磁器との共伴関係から慶応元年以前の使用
③:石炭・コークス(焼炭)は同生産地の可能性高
④:コークス出土量が最も多い。
⑤:石炭は小片(5㎝)程、中大塊全くなし=蒸気船燃料文献記録
や別地点石炭と異なる=わざわざ大塊購入必要なし=異なる用途
として購入?
⑤:タール塊?確認(高温液体が冷却して固形化)=タール製造過
程で生成か
石炭を密閉容器内で熱し、蒸留してタール生成?
コークスはタール製造残滓?
タール塊?の出土
タール製造に伴う排
出物、残滓か?
5
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
船舶用ロープの付着物
タールは船外面腐食防止用塗料
や船舶用ロープに塗布
=大量消費品
SK2001の石炭系遺物
〇慶応元年以前の端島産石炭購入を示す
〇別地点と出土状況と異なる
・小片のみ出土(大塊なし)
・コークスの突出した出土
・タール塊出土
タール製造に伴う廃棄物か
6
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
別地点出土の石炭(1)
(渠壁直上出土石炭)
別地点出土の石炭(2)
SK10018Ⅱ層下部(石炭集中出土層)
7
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
別地点出土の石炭の特徴
• 産地:高島,三池に近似
• 大塊を多く含む=蒸気船燃料購入文献記録と
整合(生産地に納品規格を指定)
• 廃棄年代=慶応元年以降
• 渠壁直上出土石炭は船渠廃絶直前=明治2年
(「海軍所」へ組織改編)または明治4年(廃藩置
県)頃か
• コークス(焼炭)比率少ない
蒸気船燃料
SK20001と(時期、規格、内容、産地)異なる
(蒸気船建造計画及び購入に伴う採炭記録)
(田口,前田2013より抜粋)
• 安政元年(1854)段階:長崎深堀領の高島、香焼島、伊王島の
出炭量調査
• 安政2年(1855):多久領で、翌年には小城領山代郷(現伊万里
市山代町)で石炭採掘場所調査・採掘実施命令
• 安政5年(1858):電流丸長崎到着。翌年、多久領で石炭産出場
所調査
• 万延元年(1860):海軍取調方が、多久領内の石炭性質調査。
南目熊副山(現武雄市北方町)の石炭を早津江(三重津)に送
らせ、翌年には蒸気船用に使用。
• 慶応3年(1866):高島石炭が良質であるとの評価を外国人に受
ける。慶応4年(1867)に高島の石炭を佐賀藩とグラバーが共同
経営。
• 文献調査で確認された佐賀藩領内の採炭地:杵島郡(多久領
北方)、伊万里山代郷、長崎の深堀領、高島、香焼島、伊王島、
端島等からの出炭記録のほか、佐賀藩重臣の諫早家も領内
(諫早)で炭鉱開発実施したが候補地は思わしくないとの結果。
8
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
今後の取り組み
• 分析精度高めるため、分析点数・比較試料を増やす
• 文献記録の幕末期のタール製造方法記録調査
• 文献とは別途、遺物観察・化学分析から製造方法調
査
• 文献記録と化学分析双方で検証する
• 塗布前のタール保管方法調べる
(液体保管?または固体保管し使用前に液状化?)
• 平成28年度報告を目指す
三重津のタール製造と方法を解明
史跡三重津海軍所跡整備構想策定
史跡三重津海軍所跡整備構想策定
委員会の
委員会の設置について
設置について
●保存管理と公開活用のための史跡整備構想
●整備の方向性(手法など)
●目標の妥当性(見せ方など)
9
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
簡易(
簡易(仮)整備平面図(
整備平面図(案)
今後の
今後の調査方針及び
調査方針及び予定について
予定について
●史跡整備のための発掘調査の継続(三重津)
●築地反射炉跡の確認調査の継続
●重要産業遺跡全般の歴史文献調査の継続
●明治初期の文献調査(三重津)
●大久保浦関係の調査(三重津)
10
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
H27年度
H27年度 三重津発掘調査平面図(
三重津発掘調査平面図(案)
11
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
H28年度
H28年度以降発掘調査予定
年度以降発掘調査予定(
以降発掘調査予定(案)
「白帆注進外国船出入注進」
白帆注進外国船出入注進」(S複鍋252
複鍋252252-5656-02)
02)
12
資料01:平成27年度の調査・報告事業に
ついて
三重津海軍所図(『鍋島直正公伝』
鍋島直正公伝』第5篇)
13
第 12 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 20150820
資料 02:三重津海軍所跡の文献調査概要
三重津海軍所跡の
三重津海軍所跡の文献調査概要
1.三重津海軍所に関する明治以降の機構改革
⑴ 明治元(1868)年の機構改革
「火術方」・「船方」
・「武具方」
・「大銃方」・
「精煉方」・「合薬方」の軍事関連の組織が「軍務方」
にまとめられる。
⑵
明治二年の機構改革
・
「軍務方」が「軍事局」へ変更。
・改革後の機構
軍事局
知事…海陸ノ軍制ヲ定メ軍律ヲタテ諸隊ヲ編制シ守備攻戦凡ソ諸ノ軍務ヲ総判スルヲ掌サトル
―
海軍幹事…「海軍所ノ庶務ヲ掌ル」
―
陸軍幹事
―
器械幹事…「武器弾薬凡ソ諸ノ器械ヲ調理蓄蔵スルヲ掌ル」
(
『御変革御書附』
)
・海軍所の諸役
海軍幹事・副幹事・録事・史生・属吏
船将・二等船将・海軍士官・海軍二等士官
海軍学寮長・学校史生・学校寮長試補
(「日記」
)
・陸軍所の教育組織
火術方は陸軍所と改められ、局長・教導・同助勤・都検・指南役・指南役備欠が置かれ(「請御意」)、
海軍学寮においても同様の職制であった可能性がある。
⑶ 明治三年の機構改革
「軍事局」が「軍事掛」となる。その中に陸軍所、その附属として師範方・軍団所・募卒方、小属
に武庫所がおかれる。
(
「達帳」
)
「海軍所」はこの中にないが他の文書には「三重津」・「海軍所」
・「海軍学寮」がみられるため、海
軍所は「軍事掛」以外の機構に属したと考えられる。
⑷
廃藩置県前後の三重津
・明治四年の三重津発着関連記事
2 月 23 日、御前様、三重津海軍所で休憩の後出船 (「従二位様御凶変書留」)
4 月 1 日:直正の遺髪、三重津に上陸 (「従二位様御凶変書留」)
6 月 1 日:三重津に着船、海軍出張所で小休 (「日記」)
・廃藩置県後の動向
7 月 23 日、海軍兵学寮(中央政府の海軍学校)へ入寮する人物が達せられる。 (「官省進達」)
8 月 25 日、増田孫作ら六名が兵部省に採用の旨達せられる。 (「海軍省公文類纂」)
11 月、伊万里縣貫属の海軍兵員の採用願が兵部省へ出される。 (「官省進達」)
同年中、藩所有の蒸気船電流丸・延年艦の売却が進められる。 (「両京大坂長崎案文」)
同年中、孟春丸献艦される。 (『佐賀藩海軍史』)
-1-
第 12 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 20150820
資料 02:三重津海軍所跡の文献調査概要
⇒廃藩置県後、海軍所人材の政府出仕が進み、蒸気船は縣内で使用するものをいくつか残し売却や
献艦などより手放されていった。このようにして三重津の海軍所組織の解体が進んだものと考えら
れる。
2.大久保浦における修船
⑴
大久保浦の修船関連記事
① 大久保浦の特徴
文久二年 7 月 13 日の御番方よりの達
「海岸地〆リも宜、殊汐留御手当等ニも不相及、汐干之間を見計御修覆相整、至極弁利之地所」
(「諫早日記」
)
②
大久保浦で行われた修船に関する記事
・文久二年(1862)6 月、電流丸のキール銅板張り替えの修覆を整えるよう仰せ付けるように。
(
「請
御意下」
)
(
「諫
・同年 7 月 13 日、御番方より諫早私領大久保浦を観光丸などのキール修理に使いたいとの達。
早家日記」
、以下全て同史料)
・文久三年(1863)1 月 12 日、昨年冬に電流丸が破損したため、大久保浦で修覆したいと本藩か
ら達。
・慶応二年(1866)10 月 8 日、甲子丸の修覆で大久保浦を使うため雇夫を出すよう御船方より達。
・慶応三年(1867)3 月 11 日、井崎村大久保において皐月丸の修覆を行うので、雇夫を出すよう
船方より達。
・慶応四年(1868)閏 4 月 25 日、甲子丸を大久保浦で修覆すると達。
⑵
長里村大久保浦周辺の絵図・地図
「領内南部絵図」(元禄期)
諫早市立図書館蔵
「高来郡諫早私領長里村新地絵図」
財団法人鍋島報效会所蔵
-2-
佐賀県立図書館寄託
第 12 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 20150820
資料 02:三重津海軍所跡の文献調査概要
「諫早領海浅深図」
諫早市立図書館蔵
①
②
③
④
④
①竹崎湊江掛ル船、南風つよき時者此浦
江繋
②竹崎潮時不構船入船繋吉、南風ツヨキ
時ハ船繋悪、船大小六七拾艘程繋場ア
⑤
リ、竹崎ヨリ嶋原江八里
③竹崎ヨリ諫早江七里
④遠浅
⑤船掛悪、満潮ニ小船繋
明治二十二年作成、干拓前の地形
(「第六師管肥後国飽田郡」
『正式二万分一地形集成』柏書房、2001)
-3-
第 12 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 20150820
資料 02:三重津海軍所跡の文献調査概要
⑶
『諫早史談』掲載の情報
中川治記「小長井地先に起きた火船難瀬(ひゅうなぜ)の由来」
(
『諫早史談』第一号、昭和 44 年)
・佐賀の御本方から立派な武士が来て、井崎の士家鶴田家に役宅を造った。
→調査中。万延元年の諫早家の「座居帳」には鶴田の名前は確認されない。
・竹崎の鼻から築切猿崎の鼻の内■兎島を中にはさんで湾内の砂地を掘り下げ大久保の地元の海岸
に十軒の鍛冶小舎ができた。
→「猿崎の鼻」がどこに位置するか不明であるが、他の地名は井崎周辺に存在している。また、上
記の役宅も井崎の士家のもとに造られたと伝わっている。大久保浦を「井崎村大久保」と記す史料
もあり(「諫早家日記」)、大久保は井崎の方の大久保であった可能性も考えられる。
・そこに滞在した奉行は島義勇であった。毎日鶴田家の下僕に曲彔(椅子)を持たせて現場監督に
通っていた。
→年代の明記はないが、大久保における蒸気船修覆関連記事より、大久保浦で修覆を行いはじめる
文久二(1862)年六月に近い時期であると推測できる。当時島義勇は御蔵方組頭であったと考えら
れる(『佐賀偉人伝島義勇』)。翌三年三月六日には凌風丸製造に際し「御船方掛り合」となり(『佐賀藩
海軍史』
)、文久四年には長崎警備のための香焼島勤番所隊長に任命、同年三月には御船方勤務を命じ
られ観光丸の艦長となる(『佐賀偉人伝島義勇』)。
・ドック造りに何日かかったかはわからないが、間もなく忽然として五隻の黒船が沖に錨をおろし
た。感興(観光)丸・日進丸・さつき丸・電流丸・きのえ(甲子)丸、この五隻の黒船は佐賀藩が
諸藩にさきがけて長崎又は上海で購入した五隻でドックに次々に修理に来た。
(『長崎県広域道路地図』
、福岡人文社、2001)
-4-
第 12 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 20150820
資料 02:三重津海軍所跡の文献調査概要
3.三重津海軍所と佐野常民
⑴
三重津海軍所における役割・職務
安政五(1858)年 11 月、蒸気船(電流丸)受取。 (「日記」)
安政六年 8 月、海軍取調方附役となる。 (『中牟田倉之助伝』)
万延元年(1860)3 月、長崎において公儀より観光丸受取。 (「直正公年譜地取」)
4 月、観光丸の船長となる。 (『鍋島直正公伝』)
文久二(1862)年 3 月 15 日、キール銅板張替えを飽ノ浦在留蘭人から習うため三重津より電流
丸で長崎表へ向かう。 (「日記」・「請御意下」)
同年、幕府の建造の蒸気鑵千代田形の製造に物頭として携わる(翌三年完成)。
(「本島藤太夫ほか蒸気缶製作掛り役之者へ時服并銀被下候書付」)
文久三年 3 月 6 日、浅行小蒸気御船(凌風丸)製造のため御船方掛り合となる。
同日~22 日まで三重津において合議、佐野は御船方掛り合として参加(『佐賀藩海軍史』)
慶応二(1866)年 3 月 22 日、小城藩の船大木丸の受取に立ち会う。 (「小城藩日記」)
5 月 27 日、イギリス蒸気船(後の皐月丸か)受取。
(「白帆注進外国船出入注進」
)
明治二(1869)年 7 月、海軍英式に変更のため横浜へ遊学するよう達せられる。 (「日記」)
同年中、日進艦の代金支払い。 (「仮日記」)
⑵
佐賀藩海軍の主要人物
・役料帳
文久元年:海軍取調方 米五石 池尻勘太夫・佐野栄寿左衛門・田中善兵衛・吉浦平太
(「役料帳」
)
・明治二年の機構改革時の海軍所主要人物
船将・海軍幹事兼帯…真木安左衛門
海軍幹事…今泉弥太夫
副幹事…西村覚左衛門・福嶋徳之助
二等船将…増田孫作・澤野乕六郎・岡 廉之助
海軍士官…山﨑平太・直塚治部之進・相浦忠一郎
海軍学寮長…中嶋■之助・丹羽雄七
(「日記」)
・佐賀藩籍蒸気船と船長
観光丸
佐野常民(『鍋島直正公伝』)
皐月丸
岡鹿之助(『佐賀藩海軍史』)
電流丸
池尻勘太夫(「請御意下」)
孟春丸
中牟田倉之助(『佐賀藩海軍史』)
晨風丸
澤野虎六郎(「請御意下」)
延年丸
澤野虎六郎(『佐賀藩海軍史』)
飛雲丸
田中善兵衛(「請御意下」)
日進艦
真木安左衛門(『佐賀藩海軍史』)
甲子丸
中牟田倉之助(『佐賀藩海軍史』)
参考文献
榎本洋介『佐賀偉人伝 05 島義勇』
、佐賀城本丸歴史館、2011 年
『新小長井町郷土誌』
、小長井郷土誌編集委員会、2005 年
中野礼四郎編『鍋島直正公伝』第 1~6 編、侯爵鍋島家編纂所、1920 年
中村孝也『中牟田倉之助伝』
、中牟田武信、1919 年
秀島成忠『佐賀藩海軍史』
、原書房、1973 年
-5-
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
築地反射炉跡
確認調査概要
1区~14区の調査概要
位置図
多布施反射炉跡
築地反射炉跡
佐賀城跡
1
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
位置図2
日新小学校
天祐寺川
築地反射炉跡
十間堀川
13区
日新小学校
14区
天祐寺川
平成27年度築地反射炉跡確認調査区位置図
2
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
佐賀藩反射炉関係略歴
嘉永3(1850)6月 反射炉築造場所選定。
◆大銃製造方(=築地反射炉)主任
本島藤太夫
7月 反射炉建設着手。
嘉永6(1853)9月 公儀石火矢鋳立方(=多布施反射
炉)起工。
安政3(1856)12月 伊豆の反射炉築造に田代孫三郎の派遣
が決定。
安政4(1857)7月 (築地)手銃製造方となる。
慶応2(1866)7月 (築地)大砲弾丸の囲所となる。
3
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
築地反射炉跡確認調査トレンチ配置図
8区の遺構検出状況
4
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
南
溝
十間堀川
敷石遺構検出状況
版築土層
敷石遺構
整地層
5
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
(8区)敷石遺構検出状況接写(南から)
十間堀川跡
6
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
鉄滓
ガラス質滓
耐火煉瓦
陶磁器・瓦
10区遺構検出状況
溝(=SD001)
7
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
11区
11区
8
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
12区
13区
整地層
十間堀川跡
9
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
調査成果から推測する遺跡の範囲
?
?
残された課題
[範囲の絞り込み]
①整地層西端部の確認
②整地層東端部の確認
③溝(SD001)の西延長の確認
[遺構の確認]
①反射炉本体の位置的確認
②関連施設の確認
10
資料03:築地反射炉跡確認調査概要(1
区~14区調査概要)
残された課題
[考古遺物の蓄積]
①反射炉廃棄物・廃棄場の確認
(鋳型・耐火煉瓦・その他反射炉構築材)
②遺物の科学分析
[]
①
②
11
第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
第 11 回 佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 議事録(
議事録(要旨)
要旨)
平成 27 年 2 月 20 日(金)
13:30~16:30
ほほえみ館 1 階 いきいき検査室
■:委員
□:事務局
【出席委員】
・渡辺芳郎委員(会長)
・田端正明委員(副会長)
・安達裕之委員
・本多美穂委員
○報告事項
▽平成 26 年度の
年度の調査・
調査・報告事業について
報告事業について、
について、質問・
質問・意見等
<整理調査概要について
整理調査概要について>
について>
■:午前中に佐野常民記念館で、
「灘越蝶文の入っている焼き物が海軍方の頃のもので、船方になって
からは灘越蝶文が無くなる」という説明を聞いて、理解のできることだと思った。
しかし、C 類と言われた分は、役名に灘越蝶文が入っているが、これは船方になってからの時期
からも出土するということなのか。
□:船方の時期になってからも出土する。
また、出土状況から判断すると、B・C 類は一緒に出土している。
ただ、側面に描かれている文字が違う。
■:午前中に説明を聞いたときは、灘越蝶文と一緒に描かれている「役」という文字の入ったものは、
ひょっとすると海軍方の時期のものかなという話であったと思うが。
□:
「役」という字が入ると、今のところの状況では船方以降のものだと考えられる。
A2 類ではほぼ灘越蝶文が主体であるが、基本的に船方の時期以降になると、あまりそういった模
様が目立たないというニュアンスでよかったか。
□:
(資料 01,P.2,下部)C 類になると、たしかに灘越蝶文にプラスして梅文が結構入っていて、碗
には灘越蝶文が入らなくなる。
図の上の A2 類というのは、全て灘越蝶文関係である。
なので、そういう面では灘越蝶文が減ってくるということになる。
ただ、灘越蝶文の皿は結構出るので、その量比については、今後さらに調査をしたいと思ってい
る。
■:冒頭でもお話をいただいたように、
「海」とか「御舩方」
「舩(船)
」というのは、他では出土例が
今のところ確認できておらず、非常に特殊で、三重津海軍所を象徴するような遺物である。
1
第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
また、灘越蝶文という鍋島焼に用いられているモチーフをここで使っているというのも、やはり
藩の肝入りというか、鍋島公のお気に入りというか、そういう場所であって、そのために発注さ
れた製品であるという可能性を示唆している。
先ほど本多委員から指摘があったように、記念館の展示コーナーでは、灘越蝶文の有無について、
分かりやすくといえば分かりやすくということだけれども、そのように展示されていたという感
じがしたということである。
灘越蝶文が古くて、それが無くなって「御舩方」という感じの展示だったような気がするので、
もしかしたらそこが誤解を招いたのだと思う。
□:
「御舩方」などがあるところに、それらの遺物は新しいと書いていたので、そう誤解されたのかも
しれない。
■:
「海」から「舩」に変わったのは、組織名の変更に伴っている可能性はあると思う。
それとともに、
「御舩方」という文字しか入っていないものと、灘越蝶文が入っているものとの製
品の質のバリエーションの違いについて、やはり灘越蝶文が入っているものは若干焼きが良いも
のが多いのに対して、
「舩」とか「役」が入っているものは良いものもあるが、質の劣るような焼
きがあまいようなものも含んでいるところを見ると、裏づけは無いが、灘越蝶文や「海」などの
有無は、もしかするとある一時期の使い手側のランク差みたいなものを表しているということは
ないだろうか。
□:今回はそこまで言い切ることはできなかったのだが、そのとおりだと思う。
たしかに図のように(資料 01,P.2,下部)
、上段の A1 類・A2 類、下段の B 類・C 類も、上段か
ら下段に時期が移っていくと仮定しているのだが、それは多分、器種構成が全く変わらないで、
ある一時期に上級と下級の二つの集団が使っていた時期が前後するということではないかという
ふうに考えている。
□:少し補足しておくと、これらの特注磁器が総量で何個体出ているのかということがまだ分かって
いなくて、例えばこれが、海軍取調方三重津出張所に関わりがあった構成員の全員が使っていた
ものかどうかということは、まだはっきりしていないところである。
ヨーロッパの軍隊編成にあわせて言うと、Officer(士官)はおそらく佐賀藩の言い方だと平侍で、
下士官が手明鑓。
それ以下の文書に載らないような船手達の方が実際は多いのだが、船手まで陶磁器を使っていた
かどうかは分からない。
ただ、ヨーロッパでは軍装とか食器まで、階級によって違っているので、特に士官・下士官・兵
で、全く使用しているものが違うという事例が 19 世紀から多いと聞いているので、ひょっとする
と製品のバラつきは、佐賀藩海軍の中での階級に対応するものであるかもしれない。
■:軍隊、軍施設というのは、いろんなところで身分差が強調されるところだと思うので、そういっ
たところがもしかするとリンクする可能性があるかもしれないが、安達先生のご意見はどうでし
ょうか。
■:軍装なら分かるけど、食器は分からない。
□:調べた結果、ヨーロッパ海軍の例は分からなかったが、陸軍だと野戦で使うようなものだと将校
用と下士官・兵用では 19 世紀でも違っていたらしいので、ひょっとするとそういうこともあるの
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
かなと思う。
■:それらの磁器は船や陸など使った場所が混ざっていて、また、三重津海軍所で働く人の中でも階
級によって違いがあってどれがどれだか分からない。
□:以前、安達先生にお聞きしたときは、船の中で使っていたかどうかは分からないということであ
った。
■:船の方は輸入したので揃っていたかもしれない。
また、陸上で使っていたかもしれない。
■:開陽丸の食器類はどうしていたのか。
□:開陽丸の遺物や報告書を見たかぎりでは、陶磁器はあったがこういうものは無かった。
むしろ肥前産の普通の磁器が結構出ているが、こういう規格化されたものとか見たことがないよ
うなものは、報告書や展示物の中には無かった。
■:食器類は磁器類を使っていたか。
□:磁器だった。
磁器以外というとガラスなどがある。
■:金属製とか。
□:あった。
フォークとかスプーンとかもあって、錫製のいろいろなものが出ていた。
多分、金属の皿も出ていたような気がする。
■:陶磁器は結局割れやすい。
■:陶磁器の最大の欠点は割れやすいということもあるので、船に載せるよりは地上での生活に使わ
れたと思う。
器種を見ると、おそらく飯碗、湯呑碗、小皿、中皿という感じで、そういった意味では食器の基
本のセットと思われるので、こういうものはやはり日常生活に用いられたのではないだろうか。
それこそイメージでは、食堂のようなところで複数の人間に対して料理を並べるような、そうい
う場面で使われているような感じである。
その中で当然、身分差によって、食堂が違っていたり、食べるものが違っていたりするような中
で、食器類も使い分けられていたというイメージだといいのかなと個人的には思っている。
それが成分分析で生産地の差とか、有田産のものを使っているとか、塩田産のものを使っている
とかといったことが分かってくると面白いのかなと思っている。
■:こういうところで焼き物がたくさん出てくるというのは佐賀の特徴だと思っている。
よそのドックにも働く人は当然たくさんいたと思うが、いろんなところから寄せ集めて適当に使
っているのかもしれない。
焼き物の産地の佐賀の三重津海軍所であって、文字や文様を入れているところから、非常に丁寧
につくったのではないかと個人的に考えている。
これは三重津海軍所の特徴を表すものである。
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
■:たしかに、日本最大の磁器生産地を抱えていた佐賀藩ならではの特色が、ここに表れているのだ
と思う。
□:以前の委員会でも同じようなコメントをさせていただいたと思うが、中野の方で分析している通
り、いろいろ細かなところはあるが、今後の史跡整備に向けて大きな意味を持つのは幕末の時期
の 20 年である。
しかし、これは三重津海軍所に限らないが、実は考古学的遺物の年代の分解能の目盛の中に入っ
ているものであって、なかなか出土遺物で順番や年代を推定することが難しい。
ただ、三重津海軍所跡の場合、遺跡調査と文献調査を平行してやっているので、慶応元年 8 月の
組織改変、それまで海軍取調方は直正直轄の御側の御備立方の中にあったが、それが文久元年に
直正が引退するときに、軍制改革と海軍だけは自分が直轄するということを言っている。
それが慶応元年の 8 月には、外向であるが、一般会計部門の中に海軍が移されたということで、
そこで一つ海軍というものがある程度達成することができ、それに伴って制度改革が行われたら
しいということである。
そこで文献調査の成果と、ドライドックの改築部の一括出土の成果が絡み合うことによって、制
度改革が慶応元年 8 月に発令されているので、食器が変わるには発注から納品まで 1~2 年とかか
るとは思うが、一つはこの「御舩方」
、あるいは B・C・D 類が出ることによって、それが三重津
海軍所の後半期にあたる遺構であったということが捉えられる。
これから史跡整備に向けて調査をしていくが、これが極めて大きなものであって、しかも終わり
はどうも明治 2 年くらいで、少なくともまた次の海軍所という制度改革があるので、その間に生
産されたものだろうということである。
これから整備に向けて、三重津海軍所跡の中の遺構を大きく前半期と後半期に分けるときに、B・
C・D 類という磁器の存在が極めて大きなものであるということを申し添えておく。
■:この時期といえば、磁器だと端反碗の時代ということで、かなり時期幅をもって語られる中を、
三重津だけの特色としてさらに非常に細かく見ている。
ただ、B・C・D 類が使われても、A 類も引き続き使用はされていたと考えてもいいのか。
□:絶対に無いとは言えないが、B・C・D 類と A 類は同時に使われてはいないと考える。
■:ドラスティックに変わるのか、紡錘形に変わるのかは、今後の史料の増加の中で確認しなければ
いけないが、少なくとも B・C・D 類が出るというのが、慶応元年 8 月を一つのラインとして前期・
後期を分ける非常に大きな手がかりを得たということで、今回の中野さんの調査成果は非常に大
きな意味を持てたのではないかと思う。
ねちっこく調べた成果が、今後の調査研究や整備に役立つと思う。
<三重津海軍所跡の
三重津海軍所跡の文献調査概要>
文献調査概要>
■:電流丸の損傷についての史料がいくつかあり、これは三重津で修理ができているが、どんな故障
だったのか。
三重津でどういった修理ができるのか知りたい。
□:三重津では主として船底修理を行う。
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
三重津でできなかったときというのは、修理ができなかったというより、閉め切りができなくて
修理ができなかったということであって、船底修理自体はドックに入れて作業ができるかという
ことが問題になる。
■:そのときの故障内容はどういうものであったのかということは分かっているのか。
□:少し補足すると、これは記録に現れる電流丸との修覆場との関係で、それは船底修理のために三
重津のドックに入れて、文久元年の秋にはどれくらい上手くいったのか分からないが、次の年に
は閉め切りが上手くいかずに長崎へ行ったという記録がある。
艦船の修理全体として、三重津で何ができたのかということはまだ難しいところはあるが、他の
記録によると、晨風丸の帆柱の交換とかは三重津でやったようである。
ただ、これは遺跡調査や他の分とも関わってくるが、どうも三重津で本格的な工作器械が据わっ
ていた記録が無い。
あるいは、そういうものは凄まじく重い部品が稼動するので、ものすごく大きな基礎が必要にな
るが、そういったものは遺跡調査の結果出てきていない。
もう一つは、佐賀藩が長崎の飽ノ浦製鉄所にあったものと同じような修船用の器械をオランダに
注文しているが、佐賀藩が財政負担に耐えられず、結局それは船が着く前に幕府への献納を決め
ているので、おそらく三重津には据わってはいない。
そういうことを考えると、三重津でできたことはおそらく船体修理で、ドックがあるので一番や
やこしい船底の修理が三重津ではできただろうと思う。
逆に、エンジン周りであるとか、補足であるが資料の中に「ケートル」と書いてあるが、これは
ボイラーのことだが、そういったものの本格的な修理は三重津の施設では難しかったと思う。
三重津の修覆場、ドライドックの運用記事が最初に出てくるのが文久元年の秋ということになり、
同時期に飽ノ浦の方でも完成されているので、献納器械のときの飽ノ浦の自由使用の部分が実際
にはどういうことを指しているのかは分からないが、エンジンとかボイラー周りの本格的な修理
はやはり長崎の飽ノ浦で行って、三重津ではドライドックを使って船底修理を行ったと思う。
それもドックが一個しかないので、おそらく一隻の船が長期間ドックに入っていると他の船の修
理ができないので、先ほどの報告にあったように、軽微であって簡単なやり方で済むもの、ある
いはドライドックに入れなくても済むようなものは、大久保浦に持って行ったのではないかとい
うことである。
記録を見ているとエンジン周りとか、どうもスチームパイプが何度も破けているようで、例えば
甲子丸が天草の方でスチームパイプの修理をしたということが出ていて、網洗とか雁道とか三重
津の沖合でもそういった修理をしたり、調子をみたりしているので、そういった感じではないか
なと思う。
三重津の修覆場で全ての修理ができたわけではない、ということが一つの大きな点かなと思う。
■:長崎の飽ノ浦では艤装岸壁があって器械があるので、基本的に船底修理以外はできると思う。
万延元年の電流丸の飽ノ浦での修理は、順次完成している段階で、全部が完成できていないと稼
動しないわけではないから据え付ける途中でも使っている。
□:飽ノ浦で行われた修理は、安政 6 年ごろから始まっている。
■:飽ノ浦にはオランダ人の技師がいるから、かなりのことができていたと思う。
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
慶応元年だったか失念したが、加賀藩の発機丸という蒸気船が将軍の上洛に巡航している。
その後、長崎の飽ノ浦でケートルの装換工事を行っているけれども、ケートルを吊り上げている
ときに落としたので、飽ノ浦での修理を諦めて上海に回したという事例がある。
そういったことで、飽ノ浦では船底修理以外はできた。
多分、船底修理は三重津のドックではできるけれども、大久保浦ではそういう機能があったか分
からない。
土手を利用するとできたかもしれないが、潮が引いている間しかできないので効率が悪く、長期
間の修理はできなかっただろう。
ただ、もう少しきちんとした堀割があれば、長期間の修理も閉め切ることでできたと思う。
□:観光丸を大久保浦に持って行った前後に、電流丸がどうも三重津のドックに入っていたので、や
はりドックが 1 個しかないというのと、三重津のドックが空いていないときは、大久保浦でやっ
たのではないかなと思う。
ご指摘のとおり、かなり効率が悪いやり方になり、潮が引いている時間だと 1 日に 2 時間くらい
しか修理ができないような感じかもしれないが、どうしても三重津のドックが他の船の船底修理
で使われているときは、効率が悪くても大久保浦を使ったような感じがしている。
■:三重津のドックを使った船底修理というのは、結局あんまり把握できていないと思うが、それで
今のご説明というのは納得がいかないところがある。
史料的な問題もあるかもしれないが、三重津で修理をやったとはっきり確認できるのは文久元年、
そのあとはやろうと計画してダメという状態が続いて、その後に大久保浦が出てくるという状況
なのだと思うが、どのような状態で大久保浦が使われたかというのは、三重津と合わせてよく見
ていかないと、三重津の機能などを誤解してしまうおそれがあるかなという気がする。
それは大久保浦でも飽ノ浦でも同じことである。
修理関係の記事はここに出ているもので全てなのか。
□:今のところ見つかっている分はこれで全部になる。
■:残っているかどうかは別にして、大久保浦で修理をしようと思うと、あの辺で乗組員を泊まらせ
たり、職人の仕事場とかあったりしたはずである。
□:ご指摘のとおり、三重津での修理記事あるいは蒸気船の修理記事全般に言えることであるが、古
い方に偏っているような気がする。
1860 年代初頭に蒸気船の不具合が集中して、あとはあまり修理の必要がなかったというケースも
考えられるのだが、史料の偏りの可能性が高いのではないかというふうに考えている。
それから、三重津のドライドックの運用の記事が確実なのは文久元年の秋、それから閉め切りが
上手くいかなかったという記事が文久 2 年 6 月に出てきて、あとは具体的には出てこない。
先ほどの整理調査報告のとおり、慶応元年 8 月以降にスロープの部分を改築して、造成土による
階段状の壁面構成に戻して、その中に磁器が入っているということは、少なくともドライドック
の改修とメンテナンスは慶応元年 8 月以降までは確実に 1 回は行われているということになる。
その間廃絶していたというのは、ちょっと遺構の状況からしたら考えにくいので、それなりにそ
この時点までは使っていたのではないか。
少なくともメンテナンスをしないと、すぐに泥がたまるので、なかなか使い勝手が悪いとは思う。
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
そういうことを考えると、記録が 1861 年、1862 年に史料的な偏りで集中しているようにみえる
のではないのかなという気がしている。
■:文献調査の場合、どこを探すかで出てくる情報が違ってきたりするので、他にもあるのかどうか
ということについては精査をお願いしたいと思う。
おそらく長崎の飽ノ浦がエンジン周りとか機関周りの修理で、三重津それから代替施設として大
久保浦で船底の修理、日本国内ではどうしようもないときには上海、というように一口に修理と
いっても内容が違っていて場所も使い分けられていた、もしくは使い分けざるをえなかったとい
う状況があったと思う。
三重津が修理場としてどういう性格を持っていたか、当時の日本の船の修理場の中でどのように
ポジショニングされるかということは、今後考えていく必要があるのかなと思っている。
また、大久保浦は三重津との相対的な評価の中でどのように評価していくか、昨日、オプション
で行って来たが、あの辺りはかなり地形が変わっているので、当時どういう地形でどの程度の修
理が可能だったかということを今後明らかにしていただきたい。
そうすることで、逆に三重津の性格も見えてくる部分もあるのかなと思う。
□:文献調査に関しては、平成 22~23 年度に佐賀県と共同でやったときに、支藩とか大配分は佐賀市
の担当だったが、結局見ることができた文書が役所の日記類だけなので、私領や支藩の公的なと
ころで残された記録しか見ることができていない。
先ほど安達先生からご指摘があったとおり、諫早関係のもので、大久保浦という名前で出てくる
かは分からないが、探っていくといろいろ出てくるかもしれないので、これから取り組みを検討
したいと思う。
■:幕府の例から言うと、平らなところは困るが、水路があればそこで閉め切ってできる。
黒龍丸は、神戸の操練所の中にあった船蓼場で堀割みたいなところを閉め切ってやる。
浦賀の中堀のようなああいう堀割があれば、やる気があれば船底修理だけならできたのではない
だろうか。
□:飽ノ浦で加賀藩の船を修理中に吊り上げているケートルを途中で落とした、ということを先ほど
お話されたが、飽ノ浦にあったクレーンはいわゆる片持式のクレーンのことか。
■:あれではなくて三叉のやつで、写真に写っているものである。
この場合、観光丸がケートルを吊り上げていて、ああいうものが無いときに臨時のクレーンがつ
くれるから。
□:しっかりした基礎の常設したクレーンが無くてもできたということか。
ケートルとかも帆柱を使って吊り上げることは可能だろうか。
■:簡単にできる。
外国のシーマンシップの運用術の教科書を見ると、帆柱を使った重量物の吊り上げ方が書いてあ
る。
□:大砲の動かし方は図面で見たことがあったが、ケートルとかは見当たらなかった。
■:ケートルは直接では無いけど、多分それを使ってやった。
だから、日本でも翻訳書が明治に入ったと個人的には信じているのだけれども、その辺を見れば
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
何をやったか想像がつくし、多分オランダの海軍伝習の運用術を教えている。
□:文久 2 年に三重津の製作場で、電流丸の予備ボイラーの組み立てをしているが、ボイラーの組み
立てはできても、どこでどうやって積んだのかということが分からない。
■:観光丸のボイラーを換えているから知っているはずだろう。
□:その場合、接岸岸壁は必要になるのか。
■:ドックがあれば…。
□:ドックの中に据えれば作業は可能だということか。
■:そうだと思う。
大久保浦で最初に見た平らなところだと無理だけど、後で見た土手みたいなものがあるところだ
と、そこをベースにしてできる。
□:逆に、艤装というべきそれに関するような作業というのも、大久保浦ではできなくて、三重津で
は…。
■:後の方に見た土手のある大久保浦ではできたかもしれない。
▽平成 27 年度の
年度の調査・
調査・報告事業について
報告事業について、
について、質問・
質問・意見等
■:三重津海軍所跡の上流側の方の調査は考えているか。
□:それについては検討事項のところで詳しくご協議いただきたいと思っているが、近年の文献調査
の結果、船屋地区と稽古場地区の間の辺りに、最初の海軍方三重津出張所が置かれていたという
ような状況が想定できる。
可能であれば三重津海軍所の起点として、その辺のところの判断が早めにできればいいと思って
いる。
磁器関係でも「好生館」が出てきていたり、あるいは「弘道館」の存在とかが明らかになってき
たりしているので、そういったものの成果があげられれば、三重津海軍所の始まりの姿が分かる
かと思う。
■:分析関係は引き続き実施されるということでよろしいか。
□:基本的には三重津だけではなくて、現在、多布施反射炉の方にも取り掛かりつつあるので、その
辺は継続的にやっていきたいと思っている。
■:文献関係も引き続きされるということでよろしいか。
□:基本的には継続していきたい。
■:午前中に佐野常民記念館で展示を見て、非常に良くできていたと思うが、発掘されたものの原型
モデルがあるとさらに良かったかと思う。
例えば、こしき炉の大きな壁が多く出ているので、あれの全体像が見えて分かりやすいものとか、
炉に溶かすのも絵が描いてあるだけで大体分かるとは思うが、少し作業場の様子が分かるような
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
ものはどうだろうか。
ドックのところは大体分かってきたので、作業場の様子について展示をされたらどうだろうか。
□:その辺をどうやって史跡の価値をお伝えするかというのも、今後の大きな課題であり、今後の調
査や分析が必要になってくるところである。
また、どうやって整備に活かしていくかということも検討していかないといけない。
■:今日見た記念館の展示は、以前に比べれば、随分、具体的に分かるようにはなっているけれども、
どうも抜けたところがあるような感じがする。
□:やはり、時間が不足していたということが理由としてある。
最近になって、世界遺産絡みで三重津海軍所跡を訪れる方も増えたということもあって、
「行って
も何も無い」とおっしゃられる方も結構多くて、それを解消するために記念館 3 階に大急ぎで展
示をつくったということである。
手が届かないところもあったかなというふうには思っている。
■:展示をまず今のまま放っておくというのもまずいことだと思うので、責任ある展示をしていかな
いといけないだろう。
■:これから新しい調査成果が上がってくると思うので、展示にこまめに反映するようなことをする
と、一度来た方もまた来ようかというような、こういうところが以前来たときと違っているとか、
リピーターの確保という点でも必要なのかなと思う。
○検討事項
▽三重津海軍所跡発掘調査について
三重津海軍所跡発掘調査について、
について、質問・
質問・意見等
意見等
■:御番所はどういう役割をしていたのか。
□:一般的に警護などを司る外向の役所だと思う。
そのことについて午前中に本多委員とお話したが、ただ、川番所というか、しかし船を取り締ま
るわけではないし、管轄するわけでもない。
どういう表現がよろしいか。
■:港町の派出所とかにあたるのではないか。
■:施設の中への出入りを監視する見張り番ではないのか。
□:絵図を遡っていくと 18 世紀の末には、荒籠から土居に向かう道の途中に御番所というものがある。
次に出てくるのが、安政 6 年の 7 月の終わりぐらいの白帆注進図の中にも、図の中央の同じ位置
に御番所というのがあるので、文書には早津江番所というふうに出てくるので、同じ位置にずっ
とあったということである。
また、これはどこまで参考になるか分からないが、大正の末につくられた例の鍋島直正公伝に載
っている三重津海軍所之図にも御番所というのが同じ位置にある。
ただ、御番所自体は海軍所の管轄の一部というものではないような気がしていて、先に早津江番
所があったところまで、船屋から三重津の範囲が拡大していって、結果的に御番所が三重津の敷
地の中に取り込まれるようなイメージではないのかなと考えている。
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
それはある程度、傍証するものとして、文久元年 7 月末、有明海の今の島原半島の対岸の玉名市
あたりで異国船が侵入したというふうな情報がもたらされて、佐賀藩も有明海北岸の各地域、主
に丸目(まるめ)というところを防御拠点として、早津江津にも緊急配備が敷かれている。
そのときの記述を見ると、早津江番所というのが出てきて、その後 10 月に「これまでは早津江番
所に大砲やゲベール銃などの洋式装備が無かったが配備する」とあり、それについては三重津に
いる海軍方の連中がやるという記述が出てきている。
その段階まで、少なくとも三重津海軍所の敷地の中には、この早津江番所があったのではないの
かなと思う。
最後まであったかどうかというのは、慶応元年 8 月に機構が大きく変わるので分からない。
文久元年の秋に三重津のドックの運用が開始されていたぐらいには、この早津江番所が存在して
いたというのが文字記録で分かる。
また、佐野家にあったとされる伝来の絵図、内容からすると、電流丸のために三重津のドックを
つくったということを描いていると思うが、そういうものと合致するかなと思う。
■:
「鋳立物形拵場」という字が書かれているが、鋳型のことではないのか(資料 03,P.2,上段)。
鋳立物とはあまり聞いたことがないが、この「形」という字で鋳型のことを表すことはあるので、
鋳型をつくった場所ではないのかなと思う。
□:意味が「鋳型製作場」ではないのかということである。
■:下の「鋳物場」というのは何であるか。
□:上は「鍛冶細工場」
、下はろくろ場と読めるかもしれない。
もし、ろくろ場だとすると、今まで調査で見つかっていないが存在していなければいけない施設
として、材木を扱う施設とロープを扱う施設があるが、ひょっとしたら川の方に加工施設があっ
たと思っている。
□:字は「金へんに声」と書かれている。
次が「車に両」
。
□:もし、ろくろと読めるなら木挽き場みたいな可能性がある。
■:材木加工場をろくろと呼ぶのか。
□:その辺は検討が必要だとは思うが、三重津に必要なものでまだ発掘されていないものは、材木を
扱う部分とロープを扱う部分である。
■:ロープを扱う部分は建物が細長い。
□:ただ、考古学的な遺跡の特徴として、土間でやる作業というのは痕跡が残るが、床を張ってその
上でやる作業というのは遺跡の形では出てこない。
それもあって、材木やロープ関係は、遺構の形では見当たりにくいのかなということも考えてい
る。
■:ロープを扱う部分は足場が残るだろう。
□:鋳立場とか鍛冶場とかみたいに、きちんと土間と炉の形で遺跡情報が分かるかというと、材木や
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
ロープは難しいのではないのかなと思う。
■:しかし、電流丸の関係もあるが、材木を切って組み立てる場というのは必要ないのではないか。
つくるときには要るのだけれども、そのときには、図面小屋みたいな場が必要である。
ただ、そういう関係を全く描いてないから、どうなのかと思っている。
□:図面小屋みたいなものは、萩の恵美須ヶ鼻造船所の絵図にはたしか残っていたと思う。
電流丸の修理のための施設の場合、ああいうものがここには存在しなくてよいということでよか
ったか。
■:そのとおり。
□:逆にそうすると、造船を行わない限りは、そういった材木などの大規模な施設は必要ではないと
いうことか。
■:あとで凌風丸をつくるときには、ロープをつくる場とか、フレームを組み立てる場が必要になっ
てくると思うが、これがもし電流丸をつくるためだけの施設であったなら必要はない。
□:製作場で確実に組み立てているのは、電流丸の予備ボイラーと幕府から依頼された千代田形のボ
イラーで、きちんと足場を…。
■:組立場とかなかったのか。
□:そのとき、製作場用に、かなり大きな材木を手配したというのは記録に残っている。
ただ、それがどういう使われ方をしたのかが分からない。
■:旧堤防はスーパー堤防の後ろにあるのか。
□:本来は少しクランクしていたが、スーパー堤防がショートカットしたので、このように保存堤防
が残されているというふうなことになる。
■:佐野の絵図が正しいとすると、ドックの先端がギリギリ残っているのかもしれない。
□:この道の表現だと、当時の土居の頂部が道になっているので、当時の三重津海軍所の下場という
のはこの辺になる。
ちょっとどれくらい近い位置になるのかは分からないけど、この図で見るとそんなにギリギリま
ではドックはつくっていないような感じもする。
□:でも、都市計画図と合わせた図からスーパー堤防は川側に広げている。
堤防上から駐車場へ下りるスロープを設けていて、そのすぐ下まで調査したが、ちょうどドック
がすぼまりかかっていた。
荷物を降ろすような改築部が出ていて、結論的にはこの辺からすぼまって、今のスーパー堤防の
下に潜り込んでいるのではないかという状況になっている。
■:御番所は早津江特有のものでなくとも、藩内の地域行政の拠点というような役割を持っていたの
であれば、海軍方というのは藩の公的な施設ではあるが、当初あくまで藩主のプライベートマネ
ーで運営がなされていたとすると、周辺が海軍方に囲まれたとしてもお金の出どころが違うこと
になる。
そこで、当初は独立性を持っていたけども、船方になって公的な施設になった段階で、何らかの
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
形に改変されたという可能性はあるのか。
□:可能性はあると思う。
慶応元年 8 月に、海軍方が船方になったというよりも、和船まで含めて佐賀藩の艦船運用が船方
に一括化されたという感じになるが、それと同時に御側から外向になったということになる。
御番所があったときに、三重津の船蔵番というのも、特殊勤務手当ての一覧表のようなものの中
に出てくるが、同じ外向でもこういった番方の管轄と船方の管轄では役目が違うものが近接して
いる。
だから、三重津の船屋の範囲に船蔵番はあったと思う。
三重津の船屋がいつ無くなったかということは分からないけれども、慶応 3 年には楠久と伊万里
の船屋が廃されているみたいで、多分蒸気船を運用するからという理由だと思うが、慶応年間に
入って海軍方が船方になった段階で、三重津の船屋はおそらく廃されている可能性が高いのでは
ないかなと思う。
ただ、そのときに御番所がどうなっていたかということは分からない。
御船方ができたので、それまでの船方の管轄だった船蔵番は無くなってもいいかもしれないけど、
御番所はそのあとでも残っていたのではないのかなと思っている。
■:それを踏まえて遺物との関係であるが、御番所が公的な施設だとすると、例えば大皿であるとか、
あるいは京焼の色絵であるとか、当然生活もあるので大鉢などは番所の中から出てくるものであ
るが、鍋島焼が出てくるというのは番所では非常に考えにくい。
そうすると、これは江戸後期のたしか安政銘を持った鍋島焼に非常に近くて、清朝の絵の影響を
受けている牡丹文であるが、そういったものとすると江戸の終わりぐらいでもいいと思う。
これは番所には似合わないもので、むしろ番所の周囲が海軍方の中に含まれて、直正や藩の上級
役人がやってくるとか、そういった普通の番所ではないケースとしてこういうものが持ち込まれ
ているのかなという感じがする。
番所的の性格にプラスして、海軍方なり三重津海軍所の性格が加わったのが、この遺物なのかな
と思う。
今後、川副町が調査した部分、あるいは、おそらくこの後の検討課題になるが、将来的な発掘調
査の中で、精煉所とかドックで出ている遺物というのが偏りすぎている。
一般食器類がほとんど無くて、学食か何かでいっぱい並べるようなあり方というのは、一般生活
ではほとんどありえないことであって、むしろこっちの方が鍋島焼は別としても、一般的な性格
に近い器種構成を考えると、三重津全体の中でどういう食器あるいは上流側にある船蔵なんかの
役所関係での遺物というのと整理してみて、そのことによって先ほどの報告の特注製品の三重津
の中での位置づけというのが見えてくるのかなという気がする。
ぜひ川副町の資料の総ざらいをやっていただければと思う。
□:海軍所が設置される前に、鍋島閑叟が三重津に来たという記録は見当たらないが、設置直前に電
流丸かなんかに乗って一度来ているかもしれない。
その後、蒸気船の運用が一般的になってくると、来る回数は増えているようである。
ただ、三重津の中のどこに来たのかということであるが、
「出張所」という言い方が一番出てくる
ところであるが、出張所が同じ場所を指すのであれば、多分海軍方の出張所がここらへんだった
のではないのかなと思っているので、ここを掘ると遺物の比較ができて、優品がたくさん出てく
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
るのではないかと考えている。
そうすると、直正公がそういうふうにして出張所で休憩したのではないかなと思う。
後世の絵図ではあるが、精煉方の絵図を見ると御座所みたいなものが描かれていて、その外に蒸
気機関車の雛形が走る図があるので、そういったことでここが稽古場地区、トレーニングエリア
ということになるので、例えば会試だとか、藩主上覧の下で銃陣訓練とか、船に関する訓練をや
る場合、ひょっとすると御番所が二次的にそういう利用のされ方をしていた可能性もあるかもし
れない。
■:下流と上流で発掘調査の密度がかなり違うので、今後、上流の方の調査を進める中で、三重津全
体の遺物の内容のバラつきや量や内容ということが分かってくると、全体の中で遺物について推
測することもできるのかなと思う。
番所で鍋島焼が出るという意味が分からなくて、関係としては藩主絡みのところがあるとは思う
が、それが特殊なのか、それこそ鍋島焼がザクザク出るような地点があるのかということを含め
て、今後のお楽しみの一つではないかなと思う。
■:発掘作業員の居住地区というのはどこになるのか。
そういう方も日常的に食器を使うと思うが。
□:ここに「鍛冶大工住居所」というのがある。
■:その辺には磁器が出るのか。
□:そこはまだ未調査であり、スーパー堤防の下にあたると思われる場所である。
□:築地の銅製大砲をつくった鋳立場でいうと、作業があるときだけすごい数を動員してきて、それ
以外は常駐をしていないので、日常生活に使うものに関してはここから出るかというのは分から
ない。
どちらかというと、稽古人詰所にそういうものがある可能性はある。
■:御船方とかいろいろ磁器が出てくるのは、あれは船で使うものだといつも思っていて、だからド
ックの方でも出て、陸で使うものは他にあると思っていた。
■:ドックの出方も一括廃棄のような出方で、ごみ捨て場のような感じである。
■:そういうところで勘違いをした。
■:いずれにしろ、三重津海軍所は一つの軍需工場であり、トレーニング場でもあるが、同時に生活
空間でもあるので、陶磁器分布や出土状況の違いとかから、生活面も当時の三重津海軍所の一部
なので期待したいところではある。
■:御番所があそこにあったということは、他所の船が来るおそれがあったということなのか。
□:多分、川の交通を監視するというか、治安を守るというような川番所みたいなイメージだったの
ではないかと思う。
■:御番所というのは、派出所みたいな行政拠点であるので、早津江だけにあったわけではなくてあ
ちこちにあった。
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
製造場と調練場の境目がどこで引くことができるのかというのは、今後三重津の全体像をつかん
で、なおかつ整備という段階になると非常に重要な情報になると思うので、そこ辺りの解明も是
非お願いしたい。
▽今後の
今後の調査方針及び
調査方針及び予定について
予定について、
について、質問・
質問・意見等
意見等
■:史跡に指定されているので、上面で確認調査をストップさせるのか。
□:発掘調査のイメージのように全ての遺構を縦に掘るのは、基本的に最小限にする。
また、内容物を残すために平面確認で済むところは平面をおさえていく。
ただ、今まで全く調査をしていないところで、遺構の性格が分からない場合、最小限下げざるを
えないだろうと思う
■:船屋地区あたりも河川敷にあたるのか。
□:河川敷と漁港になる。
基本的に漁港についてはさわることはできない。
今、公園部分になっているところについて、川副町で公園をつくったときに、内容がはっきりし
ていないが杭列のようなものが出ている。
これがもし建物とかになるようだったら、三重津海軍所ができる前の船屋の時期のものであった
のか、三重津海軍所前半期の船屋のものであるのか、後半期の三重津海軍所のものであったのか
ということを確認していかないといけない。
確実に言えることは、三重津海軍所ができる前の船屋も遺構面としては存在するということが、
一番北の調査で分かっているので、船屋地区を調査するときはそのことを意識してやらなければ
いけない。
■:文献でいくつかの段階を経て、三重津海軍所が形成されてきたということが分かっているので、
発掘調査で出てきた考古学資料でどこまでおさえきれるのかということが、一つポイントになる
のではないかと思う。
□:史跡としての三重津海軍所跡の価値を明らかにするためには、ここが分かっておかないといけな
いという点があれば、そこを遺跡で検証できるかどうかの検討を委員会で行うので、そういった
御意見もいただければと思う。
■:そういうことだとドックの反対側になるだろう。
遊具が移転したということなので、ドックの反対側の壁を見つけて、確実な幅をおさえられると
いうことが重要な課題になると思う。
□:優先順位は分からないが、いずれ掘るつもりである。
■:全体像は分かったのか。
□:基本的に大正期に作成された図面や二次的な編纂物で、今われわれが抱いている三重津海軍所に
対するイメージがある。
南側については綿密に調べて、どうもそれが全く違うらしいということが分かっている。
ただ、基本的には、稽古場地区と船屋地区についても修覆場地区と同じようなことを繰り返さな
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
いといけないと思っている。
公園造成のときに遺跡の有無について調査をしていて、全域に残っているということが分かって
いる。
平成 21 年以降は市教育委員会を主体にやっていて、史跡の北限の予定範囲を決めるために船屋地
区の北端を掘っているが、真ん中の稽古場地区を全く掘っていないというふうな状況になる。
■:稽古場地区というのは無いのかもしれない。
□:稽古場地区が後世編纂物のイメージみたいにグラウンドであれば、遺構としては何も出ないので、
それだけに境目になりそうな早津江番所を今回当てに行きたかった。
そうすると何も無い空間だとしても、当時のグラウンドみたいなもので、基礎工事みたいなもの
だけあっても、史跡として活きた空間になるということになると思う。
ただ、三重津海軍所の時期より後に掘りこまれた校門の部分の取扱が、史跡整備の中では考えな
ければいけないが、これ自体、江戸時代の史料の中には出てきていないものである。
それから、稽古場の遺構が後世でかなり壊されていて、少なくとも入り江みたいな形で 1948 年の
航空写真に写っているので、明治に入ってそれまでの間に、そこにあった稽古場地区の遺構が無
くなっているのかなと考えている。
だから、史跡整備では壊された空白のような感じになるのかなと思っている。
■:トレンチを入れてみたらどうか。
□:現在、多目的広場となっていて公園利用者もいらっしゃるので、稽古場地区に関しては調査順番
としては最後の方になるのかなと思う。
ただ、多目的広場に当たらないところで、絵図にもいろいろ書いてあるところは、掘れるのであ
れば掘りたいなと思っている。
■:稽古場地区と製作場の境界が今回出てきたということだが、稽古場地区と船屋地区の境界は分か
っているのか。
□:佐野家に伝来していたとされるものが信頼できるのであれば、土居から荒籠におちる道を見つけ
ると御修覆場地区と稽古場地区の境目が分かるだろうと思うが、稽古場地区と船屋地区の境界に
関しては三重津になってからの絵図面が残っていないので分からない。
ただ、海軍方取調方三重津出張所にあたるような建物が見つかれば、稽古場地区は自動的にそこ
から下流側というふうなことになると思う。
■:建物が無いということが、稽古場地区の一つの特徴になるだろうから、上流側の遺構密度の分布
などが分かってくると、引き算的に稽古場地区が抽出できるのではないかと思っている。
□:ただ、稽古場地区でも縁辺には、稽古人詰所などが出てくると思う。
真ん中は、御指摘のとおり何も無い空間だと想定される。
それから以前に安達先生に御指摘いただいたが、ここで銃砲訓練をやったなら土手のようなもの
があるのかなと思う。
大砲は多分、実弾では撃っていなくて、ゲベール銃の銃陣訓練とかを多くしているので、それは
実弾を使ったかなと考えている。
そういったことはまだ分からないが、少なくとも二次的な編纂物ではそういうイメージがあるけ
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
れど、その辺をどうしていくかと考えているところであって、発掘調査の結果、グラウンドであ
ればグラウンドという感じで決めていくしかないのかなと思っている。
■:整備のターゲットの年代にもよるのではないかとは思う。
ただ、それにしてもエリアを何とか地区と呼んでいるところは、確定させないとなかなか整備を
することは難しいかなという気がする。
□:年代の問題は史跡全体で考えた場合、三重津海軍所が無かった船屋の時代。
次に、仮に三重津海軍所の前半期と言うなら、船屋と海軍方が並列して下流側のおそらくここ辺
りまで、文久元年までに整理されたときの前半期の三重津。
それから、おそらく慶応元年 8 月以降に船屋が廃されて、北限の全域まで三重津海軍所の範囲が
広がって、後の明治 2 年には海軍所三重津出張所という言い方になるが、それとほぼ変わらない
姿であっただろうということで、史跡の中の遺構のまとまりとしてはその 3 時期が考えられる。
船屋単独の時期というのは、そこで整備の対象にはならないかなとは思うので、本多委員の御指
摘のとおり、前半期と後半期に三重津が分かれる。
それは、ドックに関しては、文献の記録から 1861 年の秋には設置運用がなされて、考古学的な証
拠でも矛盾しない。
そして、今回の新たな調査で、慶応元年 8 月から明治 2 年の段階までの間で 1 回改築をしている
という証拠が出てきている。
その場合、ドックは前半期であっても後半期であっても整備の対象になっていく、ということを
細かくやっていくしかないのかなというふうな感じである。
そういう点で、前半にお話のあった御船方の時期というのは、それを助ける有効な手段ではない
かなと考えられる。
■:整備の主眼を前半期におくのか、後半期におくのか、それは将来的な議論とするにしても、まず
何よりも前半期と後半期の境を、しっかりと区分けできるようにならないと、整備そのものも上
手くはいかない。
前半期と後半期が同じものとして整備されることは、歴史的には良くないことだと思う。
そこで、どのようにして前期と後期が区別されて、なおかつ遺構レベルで抽出・整理ができるの
かというところが、まず目標になるところではないかと思う。
■:南の駐車場も史跡の範囲に入っているが、三重津海軍所の南限の確定というのは必要になってく
るのではないか。
□:必要になってくるが、公園利用されている方の駐車場となっていて、すぐ調査をするのは難しい。
ただ、少なくともここのトレンチまで三重津海軍所に特有な土が間違いなく分布しているので、
駐車場の南限まで史跡範囲に含めば、確実に遺跡は守られるだろうという考え方で史跡範囲が設
定されている。
将来的に、今のあずま屋があるところから駐車場の上流側にかけては、一度トレンチを入れて、
ドックの南にどんな施設があったのか、ドックの端が三重津海軍所の端ということはないだろう
から、何らかの施設はあっただろうと思うが、確認を今後していかなければいけないと思う。
ドックエリアの中では、結構優先順位が高いのかなと思うが、駐車場利用との兼ね合いで今後ど
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第 11 回佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会議事録(要旨)
うしていくかということになっている。
○その他
その他
■:昨日伺った大久保浦は、文献的にも大きなウェイトを占めていそうな感じであるが、どういうふ
うに考えているのか。
□:1948 年の米軍の航空写真を手に入れて地形を確認して、あとは参謀本部の 5 万分の 1 の地形図と
か、あるかどうか分からないが明治 5 年のものとか、可能であれば長崎本線が通る前の地図を手
に入れて、干拓前後でかなり地形が 1860 年代の初頭と大きく変わっているみたいなので、来年度
にそれを確認していく。
あとは、諫早領に関しては、諫早史料の役所の日記しか見ていないので、こちらだけでは無理な
ので地元の図書館とかと御相談しながらどんなものがあるか調査していきたい。
少なくとも修理の年代は分かっているので、その周辺をあたって、浦の中の宿舎だとか拾えると
分かってくるのかなと思う。
■:よく市民の方々がいろいろと活動をされているが、行政はもう少し関心を持ってもいいのかなと
思う。
□:文化庁と一緒になってやっていくような史跡整備というのは、できあがるまでにかなり時間がか
かるものになるが、三重津海軍所跡に来られる方はだんだん多くなってきていて、
「来ても何も無
い」とおっしゃられることもある。
その辺は整備の前に、文化庁とも御相談しながらだとは思うが、例えば発掘調査で位置が間違い
なく確定できるものは現地で分かるような感じで、これから検討していかなければいけないかと
思う。
本格的に史跡整備が完成するまで、限定的ではあるが、来訪者に三重津海軍所跡の価値をお伝え
することが必要だと思っている。
(以上)
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佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会設置趣旨
佐賀市重要産業遺跡(築地反射炉跡・精煉方跡・多布施反射炉跡・三重津海
軍所跡)は、幕末期に始まる日本の近代化を考える上で、極めて重要な歴史的
意義を有するものである。
そこで、佐賀市教育委員会では、この佐賀市重要産業遺跡の国史跡指定を目
指して、平成21年度から重要遺跡確認調査事業を実施しているところである。
しかし、全国でも幕末期の近代化産業遺跡の調査例は少なく、その調査方法
等についての情報量が少ないのが現状である。
また、遺跡の特殊性また重要性を考えれば、今後の調査にあたっては、考古
学や文献史学のみならず、産業技術史に関連する分野の専門家の指導・助言を
受けながら、慎重に調査を進めていくことが不可欠である。
そこで、関連する各専門分野の学識経験者の指導・助言を受けることを目的
に「佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会」を設置する。
佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会 委員名簿(三期目)
区分
氏名
分野
所属
役職
委員
安達
裕之
船舶技術史
東京大学
名誉教授
委員
田端
正明
分析化学
佐賀大学
名誉教授
委員
本多
美穂
文献史
佐賀県立図書館
係長
委員
渡辺
芳郎
考古学
鹿児島大学
教授
佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会設置要綱
(設置)
第1条 佐賀市重要産業遺跡(築地反射炉跡・精煉方跡・多布施反射炉跡・三重津海軍所
跡)の調査に際し、産業遺跡の特性及びその重要性から、調査に万全を期すため、佐賀市
重要産業遺跡調査指導委員会(以下「委員会」という。
)を設置する。
(掌握事務)
第2条 委員会は、次に掲げる事項について検討し、指導するものとする。
(1) 佐賀市重要産業遺跡における調査の基本方針に関する事項
(2) 佐賀市重要産業遺跡における現地調査の方法に関する事項
(3) 佐賀市重要産業遺跡における整理・分析の方法及び成果の報告に関する事項
(組織)
第3条
委員会は、委員7名以内をもって組織し、学識経験者のうちから教育委員会が委
嘱する。
(任期)
題4条
委員の任期は、2年とする。ただし、委員が欠けた場合における補欠の委員の任
期は、前任者の残任期間とする。
2
委員の再任については、これを妨げない。
(会長及び副会長)
第5条 委員会に会長及び副会長1名を置き、委員の互選により選任する。
2
会長は、委員会を代表し、会務を総理する。
3
副会長は、会長を補佐し、会長に事故があるときは、その職務を代理する。
(会議)
第6条 委員会の会議は、会長が招集し、会長がその議長となる。
2
会長は、必要があると認めたときは、会議に委員以外の関係者の出席を求め、説明又
は意見を聴くことができる。
(庶務)
第7条 委員会の庶務は、教育委員会社会教育部文化振興課において処理する。
(補則)
第8条 この要綱に定めるもののほか、委員会の運営に関し必要な事項は、別に定める。
2
委員会は、佐賀市重要産業遺跡調査事業の完了により、解散するものとする。
附 則
この要綱は、平成22年2月24日から施行する。
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