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カントに於ける意志の自由
24 カントに於ける意志の自由 序論 高橋和夫 ように、カントはこれらのいずれの立場にも属さない独自の自由論を展開した。とはいえ、自由の哲学的理解にとっ 意志の自由の論義には古来二つの際立った哲学的見解の対立、すなわち﹁決定論﹂と﹁非決定論﹂がある。周知の ての困難はカントの理論にもつきまとっている。それはカント的自由の多次元性め中に存する。カソト哲学における 自由概念の持つさまざまな意味を克服してカント的自由の根本性格を規定することは必ずしも容易ではない。 この小論の目的は、まず、カントの多次元的な自由概念を、人間存在の意志に即して、すなわち理性的ー有限的、 または叡知的ー感性的性格として特徴づけられる行為主体の意志の二元的構造の中で把握することによって、自由の 対立的な諸次元が﹁自発性ω噂o暮曽コ色慈ごとしての自由と直接間接に結びついていることを明らかにすることにあ ではなく、行為主体の自発性として悪への自由を支える基礎概念でもある。 る。自発性は、道徳的自由の理論的基礎であるが、これは単に善意志の自由としての自律の自由の根底に存するだけ この小論の目的は、更に、悪への性癖を有する有限的意志の性格を明らかにすることを通して、義務の意識によっ て示されるカソトの本来的な道徳的自由の意味を了解することにある。 一、実践的自由の基礎としての先験的自由 ﹃第一批判﹄で最初にカントが問題にした自由は、一直接に行為に関わる自由ではなく、宇宙論的意味を帯びた 自由である。第三のアンチノミーでは、自然の原因性と区別され.る可想的な原因性すなわち﹁自由による原因性 訳窪沼一謬馨像霞9年Φぎ①一ごが矛盾なく考えられるかどうかが問われる。自由による原因性とは、継起する事物ま たは状態の系列を自ら始める能力としての﹁絶対的自発性9σωo冨8ω旭o⇒欝昌①詳簿﹂・である。カントはこれを説明す るために、椅子から立ち上がろうとする行為という単純な例を挙げているω。 カソトはこのアソチノミーの解決として、自由による原因性は自然生起と少なくとも矛盾せずに両立し得るという ことを示しているが、それによって自由の実在性とか実在可能性とかを確立しようとしたのではない。自発性の自由 は、あくまでも只〇三Φヨ緯一ω9な概念にとどまり昌oαq讐ぞな意味しか有していない。 しかし後述するように、このような自発的自由が、﹁行為の帰責可能性一巳唱ロ訂三一謬馨の本来の根拠﹂②、﹁自由の といわれているが、このような実践的自由は厳密な意味での道徳的自由の概念ではない、という点に注意したい。ζ ヘ ヘ へ ここでは、≦一一蒔臼が感性的衝動によって触発餌臨鵠興oづされながらも、なおそれに強制されないゆえに自由だ である﹂ω。 然的にするのではなく、人間には感性的衝動による強制から独立にみずから自己を決定する能力が内在しているから に碧σ母ご日ωΦ旨ω三くロ日であるが、しかしσ﹁⊆εヨではなく賦ぴ巽ロヨである。なぜなら、感性はその行為を必 ・﹁実践的意味における自由とは、≦一一鱒貯の感性の衝動による強制からの独立である。⋮⋮人間の−芝≡屏貯は確か 意志胃三巳ロヨげ旨εヨ﹂との比較における﹁自由意志震三梓二信ヨ一ぎΦ建ヨ﹂として述べられている。 さて、自由が人間の行為と意志に関係すると実践的自由として問題にされる。﹃第一批判﹄では、それが﹁動物的 実践的概念の基礎﹂③としてカント的自由の根本性格を形成することになる。 25 ヵソトに於ける意志の自由 26 のような自由はカソトが﹃第二批判﹄で﹁比較的な犀oヨO母①二く自由﹂と呼ぶものと考えられ⑤、 それは経験的に証 明される、外的刺激や内的衝動からの相対的な独立性を意味するものにすぎない㈲。 二、行為主体の自発性 実践的自由が道徳的自由として道徳哲学の主題になるのは、言うまでもなく﹃道徳形而上学の基礎づけ﹄と﹃第二 批判﹄においてである。我々はここでは、自由が道徳法則の意識を通してどのようにしてそのOoω三くな意義を得る かについての考察の前に、カントにおいて自発性が我々の行為または実践の意識といわば直接的に︵道徳法則の意識 から離れて︶結びつけられる面があることを指摘したい。 ﹃第一批判﹄・先験的分析論で、カソトは、﹁統覚︾O℃①旨①〇二〇昌﹂に自己存在と自己活動︵自発性︶の意識を結びつ けるような考え方をしている。 れているが、しかし私がそれを規定する仕方、すなわちこの存在に属する多様を私の内にいかにして定立すべきかと ﹁﹃私は考える﹄は私の存在∪餌ω9昌を規定する働きを表現している。従って私の存在はすでにそれによって与えら いう仕方はそれによってはまだ与えられていない。︵中略︶私は私の存在を或る自己活動的な存在者の存在として規定 することはできない。私はただ私の思惟の自発性、すなわち規定する働きの自発性を表象するだけであり、私の存在 は単に感性的にしか、すなわち一つの現象の存在としてしか、規定することができない。それにもかかわらず私は、 この自発性のために私を知性ぎ8岳σq①昌Nと呼ぶのである﹂ω。 また次のようにも言われている。 ﹁﹃私﹄の表象における私自身の意識は決して直観ではなく、思惟主体の自己活動の単なる知性的表象である。従っ てこの﹃私﹄は直観によるどんな述語も持たない﹂㈲。 以上は思惟における自発性に関連しているが、行為に伴う自発性の意識については次のように語られている。 ﹁先験的自由とは行為しようとする絶対的自発性である﹂⑨。 ﹁実践的自由は絶対的自己活動の意識である﹂α①。 以上の引用からも明白なように、自発性としての自由の直接的意識は思惟活動にも行為にも伴う我々の根源的な体 というのは矛盾のように思える。しかし道徳法則の定言命法の経験そのものも、決して厳密な認識論的な意味での経 らかにされるのであって、その自由を義務の意識を待たずに直接的経験または一種の行為的直観によって意識し得る と行為の両方の基礎能力とみなされる。カント哲学の本来の体系からすれば、自由は義務の意識によってはじめて明 い。カソトが意志を実践理性として規定し、自由を実践的・道徳的次元で考察する時、この自発性は理性の認識活動 さて、自発性としての自由は我々の感性においてではなく理性において直接的に意識されることは言うまでもな ものである﹂⑬。 の基礎現象は、倫理学においてとられ得る一切の立場、純粋な形式的倫理学というカソトの立場からさえも無関係な ﹁⋮⋮道徳的行為の自発性は、カソトにとって一切の道徳的な出来事の明白な基礎現象であり、そしてこの自発性 行為主体の自発性に関して、マルチン︵O・ζoHひぎ︶は以下のような存在論的解釈をなしている。 れたりさえするような、盲目的なあるものではない。行為は思惟することと同程度に知性的で理性的である﹂oo。 上のことを言っていると信ずる。行為は、思惟に、先行胃①oΦ島Φや後行ωロ06①①鳥されたり或いは伴なわ68直巳Oきく ﹁私は、カソトが次のこと、すなわち、行為において我々は我々自身を必然的に自由であると考えるということ以 行為主体の自由の直接的体験についてぺ!トソ︵︼田゜ ﹄° 勺曽けO昌︶は次のように論じている。 性の事実﹂としての道徳法則の根源体験に通ずるものであろう。 験である。カントは﹃第一批判﹄ではこの自発性を体系としては取り扱わないが、これは﹃第二批判﹄における﹁理 27 カソトに於ける意志の自由 一28 験に属するのではなく、﹁理性の事実鳴欝ε8山角く⑦3⊆津﹂としての直接的経験なのである03。実践理性も理論理 性も、°我々には認識できないとはいえ、究極的には同一の源泉を持つものにちがいない。従って義務の意識が明らか にする自由は理性の自発的活動性の自由と異なるものではないであろう。 理性の自発的な自己意識に関してぺートンは次のように論じている。 得るものと見なさねぽ な ら な い ﹂ ⑯ 。 ﹁⋮・−理性は、それ自身を、それ固有の諸原理の創始者であり、外的影響か牡独立にご、れらの原理に従って機能し 攝ォの自己意識は、カ/トにとって、何か神秘的な純粋自我の本性に対する神秘的洞察では決してない。⋮⋮そ な、従って自由な能力を有し、理論的な認識活動と実践的活動の両次元で’それ自身を意識するものと考えられる。 感官印象に直接関係することなく自然の法則と叡知的な行為の法則︵道徳法則︶の両者によって規定される自発的 し ここでぺートンが言う実践理性の自己意識に伴う原理とは道徳法則に他ならない。このように、カソト的理性は、 全な支配を及ぼすなら、必然的にそれに従うであろうような原理、であるはずである﹂鱒。 んできたもの、すな葡ち、︵普遍的な︶理性的主体としての或る理性的主体が、もし理性が感性O餌ωωぜコ”に対tて完 ぽ、実践理性の場合これらの原理とは何であるか。当の原理とは、あきらかに我々が﹃実践理性の客観的原理﹄と呼 ﹁もし理性の自己意識がそれ固有の活動性の中に示される合理的な諸原理の意識から切り離せないものであるなら 示される諸原理の合理的な理解に基礎を置いている﹂oo。 のはうな純粋自我は理性の活動性から離れて知られ得るものである。理性の自己意識はむしろ、理性の活動性の中に 「 三、、自律の自由と毛旨冒貯の自由 、e、理性必然の自由としての意志の自律 倫理学または道徳哲学においては、自由がまず行為の帰責の条件に関して問題になる。或る行為が道徳的に有意味 な行為と見なされるためには、・その行為が行為主体自身の内にある根拠から発したということ、すなわち行為主体の 意志の自由が前提されなければならないゆ意志の自由の存在は道徳的帰責の条件である。従って意志の自由の議論は うれに対して無力であるところの何らかの条件によ.って行為がひきおこされる時、その行為が右し得る﹁依存的原因性 討自由を区別レている。彼は、行為主体が有し得る可能な原因性の三種類を考える。すなわち︸e、行為主体がそ . ゾ,ッドエル︵bd°国.︾’=&o=︶は、行為の原因性の概念の分析に基づいて二つの伝統的な自由の議論からカント ・ある。 功ン雫的な道徳的自由が非決定論の自由と根本的に区別されるのは、カソトが自由を一種の原因性と規定する点で 質の庵のであることを考察するこ乏は重要である。 3救ρて猶徳の成立する基盤を備えるものと考えられている。しかしこのような自由はカント的な行為の自由とは興 志行為の少なズ之為賠干のものに無差別r.無原因の自由が認められると言う主張であり、行為の自由噛自然必然性よ 認めちれなかゆ従りてそ丸はカント的な道徳的自曲に対立する。一方非決定論はどうであろうか。これは、人間の意 わゆる決定論と非淡定論である。決定論においては、行為のすべては自然必然性の支配に服するとされるから自由は を選択して為すということである。自由な行為があり得るか否かについては伝統的な二見解の対立がある。それはい さて、カソト的意味における道徳的に自由な行為とは、我々が自ら、行為の諸可能性の中から我々の為すぺき行為 い,ては既に述べた︵第=早︶。 帰責の可能性の問いと結びついている。カソトも、先験的自由を﹁帰責可能性の本来の根拠﹂と考えていることにつ 2grヵソトに於ける意志の自由 30 伽o唱①巳o暮opρ器一一ξ﹂、⇔、或る行為が全く原因なしで起った時、その行為が有し得る﹁無原因性昌08⊆ω巴一蔓﹂、 し得る﹁独立的原因性ぎ自Φで①巳o艮8二沼洋鴇﹂の三つである。彼は最後の原因性のみがカント的自由を特徴づける ⇔、或る行為が、それに対して主体が何らかの支配を及ぼせるような条件にょってひきおこされる時、その行為が有 このような考え方は全く正当であると思われる。普通我々はカント的自由を顧慮しない時、決定論から自由を救う 真に自由な行為の原因性であると結論している⑳。 ためには、自由な行為は無原因から生ずると考え易い︵非決定論︶。非決定論の主張する自由は、﹁無差別選択の自由 一ぎ①﹃冨ωヨ匹漆⑦おロ自器﹂と呼ばれ、本質的に無原因・無動機の選択の自由である。確かに我々が経験的に意識して いる自由の中にはこのような自由があり、それが直接的な明証性を有すると主張されることもあるが、道徳的に自由 な行為をうらづける自由としては難点が少なくない。このような自由と結びついている無原因性の概念は偶然とか恣 意︵任意︶と同義であって、本質的に我々の意志と行為の関係を含むところの道徳的行為の自由の問いには適用でき ないものであろう。無原因性によって生ずる行為を、カソト自身は道徳的に無記な行為として、自由な行為というよ りむしろ自然必然性に服する不自由な行為と見なしている翰。それゆえ自由な行為を救う道は﹁独立的原因性﹂すな わち﹁自由による原因性閑9ロ鴇葎馨α霞o﹃閃﹃①ぎ①一ごを認めるか否かにかかっている。 さてカントは理性的存在者の意志を一つの原因性と見なす09。それは独立的原因性として何らかの原因的な諸条件 にあるというだけでは、未だ昌Φσq9二くな意味の自由しか有さない。それがOoω三くな自由を持つためには何らかの に働きかける能力を持つ。しかしこのような意志が自然の原因性または主体以外の原因力によって規定されない状態 契機が必要である。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ﹃プロレゴメナ﹄においてカントは、﹁自由の理念が現われるのは原因が知性的なものであり、これに対するその結 果が現象であるような関係においてだけである。﹂、と言っている⑳。これに従って、人間の行為を何らかの原因性に よってひきおこされた一つの現象と考えると、行為の現象は因果系列の二つの次元︾すなわち先行現象に対する関係 と昌〇ニヨ①銘︵本体︶に対する関係を有する。我々は現象相互間では自然の原因性淡働くことを、自然法則というそ の作用法則とともに認識することができる。二つの現象の間に因果関係の必然性を認めるにはその因果作用の法則を 知る必要がある。同様にもし昌oロヨo葛と現象の関係において昌oロヨ①富的な法則が確認されなければ、昌oロヨo昌臼 的な原因性は空虚な概念となる。﹁自由による原因性﹂が必然的な概念となるためにはそれに法則の概念が含まれな いると考えられる的。 に対立する両概念の根源的な結合が見られるが、この結合は我々が既に論じた行為主体の自発性の概念に支えられて 由であり、実践理性の根源的な自己同一性の意識を表現するものである。ここには明らかに、自由と必然というまさ 自由は理性の自発的な、自己活動と自己規定の能力と緊密に結びついている。自律の自由はその意味で理性必然の自 う意志とは同一である﹂23と述べている。ところで自由は行為主体たる意志︵実践理性︶の自由であるから、自律の えられる。カントは、﹁自由の理念に自律の概念は不可分離に結びついている﹂㈲とし、﹁自由な意志と道徳法則に従 いう意味で自由とも不自由とも言えないが、道徳法則に規定されてはじめて真の自由の名に値する自由を得る、と考 は、その自由が否定されることもあり得る︵1何故ならその原因性には必然的な規定根拠が欠落しているから︶と 則に従うことは意志の他律出9興80目δである。意志は、単にそれが他の原因力かち独立しているというだけで 意志の自律︾暮80日δとは、意志が自分自身に課した法則に従うことである。意志があらかじめ与えられた法 よって見出した道徳法則こそ昌oロ8Φ舜と現象間の原因性を規定する客観的な法則に他ならない。 感性界における結果を生ぜしめた理性の原因性は自由であると言えよう﹂、と言う㈲。カントが道徳意識の分析の道に くてはならない。カントは、﹁それ自身が理念であるような客観的︵規定︶根拠が理性を規定すると見なされる限り、 31 カソトに於ける意志の自由 32・ ,さてY我々ばこれまでに、カントにおいて、意志が自分自身の法則に従う時に真の自由を有するということを見て ◎、零≡謀噌の叡知的性格 はここで≦ δと’≦一一涛母について考察したい。 来たが、・果してこの自律の自由の他に意志の自由はないのかという問題に直面する。この問いに答えるために、我々 ≦讐Φと妻竃脚貯はともに同一の意志の構成要素であるが、それらが﹃第一批判﹄・﹃第二批判﹄および﹃基礎づ け﹄ におい.ては必ず七も明確に使い分けられて“ないことは多くの論者の証明するところである。しかしカン︸自 身介それが成功して駆るか老うかは別として、﹃道徳形而上学﹄の序論で泊覚的に両彊念を区別している。 ,それによれば介≦已Φとは、﹁その内的規定根拠が従って任意性伯体が主体の理性の中に見出されるような欲求能 、刀﹂であり、キニ貯ξ毛は、﹁客体を産出する行為の能力の意識に結びついズいる限りでの欲求能力﹂惑ある㈲。 更に︵・﹁≦葺o醤︵≦一﹁涛欝のように︶行為との関係において考察慮地た欲求能力であゐ之溌うよゆは、むしろ 憲催蓉﹁を行為へと規定する根捉之の関係において考察された欲求能力である﹂㈲。﹁純粋理性によって規定され得る .を甚百弓は自由な圏≦一一=︵盲と呼ぼれる﹂㈲。﹁妻崔犀貯の自由とは感性的衝動による規淀からの独立性であり、これ ﹂は自由の消極的概念である﹂鈴。 同書の序論の終りいでは以下のようにも述べられている。﹁≦配一①から法則が生じ、≦崖吋ρ﹁から格率が生じる。こ .とも呼び得ない。⋮⋮≦旨吋費のみが自由であると呼び得る。≦一一涛母の自由はしかしながら、法則に従って行為 ワの昌−を崔匿貯は人間においては自由な≦凶一貯貯である。法則以外の何ものにも関係しない芝∈Φは自由とも不自由 したりまたは逆っで行為したりする選択の能力︵一一σ①﹁一鋤ω 一嵩畠一諏Φ﹁O昌梓一㊤①︶によっては定義し得ない﹂㈲。﹁理性の内的 立法に関する自由は本来ただそれのみが能力であ.って、これに違反する可能性は無能力である﹂30。 以上の引用からわかるように、カントが意志の自由を一義的に考えていないことは確実である。カントは意志を立 33 カソトに於ける意志の自由 法的機能︵芝帥=①︶と実行的機能﹂,︵博三蔦﹁︶との二面から把えるの、で、意、志び自由も毛已o︵正確には譜3巽 芝三〇︶の自由と≦≡臣﹁の自由に二分される。 、 , ・. ︸ ベック︵︼U°<﹃°bd①O犀︶は、同書の考察を中心に二つの意志と二つ.の自由を統一,すぺく次のよヶ、に論じている。 まずペヅクの解釈に従えぽ、厳密な意味の≦Eズ貯は、﹁格率そのものによって不完全に規定されたままである対 象を選択する能力であり、法則とともに行為への動機も持つ﹂鋤。一方芝三Φは、﹁行為の直接的な規定者ではなく の自由は自然の中で因果系列を始める能力としての自発性であり、≦已⑦の自由は自律である㈲。 て︽行為を規定するであろう格率に対七ての法則の授与者﹂¢オであゆ、行為への動機は持たないつそして、≦竃閃ξ このようにベックは意志と自由を二分するが、それぞれの関係に?いての,論述はきわめて複雑である。,﹁我々は、 ≦≡oが活動しないという理由で、≦≡Φの活動は伯由であるとは言い得ない。⋮⋮しかしそれは、その命令がそれ 固有の本性から生ずるという点で自由である﹂eφ。すなわち、ベックは、≦≡①の自由が、行為主体が単に新しい因果 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 系列を始めるという意味の自発性を有し得るということから導かれるのではなく、新しい因果系列の開始の中で主体 が従う法則の源泉に関わる自己規定的な自発性を有し得るということから導かれる、と考えるρ彼はこのことを次の .’﹂人間のうちにある﹂つの能力と考えられる意志︵≦已譲﹁︶が自発的な活動性という消極的な意味で自由であり得 ようにも表現している。 るのとちょうど同じように、実践理性︵目芝一一一①筆者注︶は見知らぬ法則に自分自身を従わせるかわりに︵自分自身の︶ 法則を与えるという意味で自発的である﹂㈲。 以上が、≦崔①が自律の自由を有するといヶ意味であるが、厳密には≦一﹁﹁④の自由とは自発的i自律的自由であ る。一、方.≦≡犀貯はこのような積極的な自律的自由は持たず、、消極的を自発性を持つにすぎない。し.かし㎝それが ≦紳嵩oた関わる時はそうではない。すなわち、﹁主体どしてではなく原理として命ずる⋮⋮≦三①への服従によって、 34 ≦一一涛葺は、それの消極的自由に、純粋に理性的な意志としてのそれ固有の理想化された本性への服従から生ずる積 極的自由を備える﹂鈴。それゆえ、﹁≦ま評母は、その活動がそれの立法的機能である純粋実践理性によって与えられ る規則に支配される時にだけ完全に自発的である﹂働。 更に、ベックによれぽ≦帥一涛貯は反法則的な原理をも立て得るという点でも自由である。しかし悪しき≦一一貯葺 とは、その自由を行使すること、または消極的意味で自由であるというその可能性を実現することに失敗し、感性の は、それが善である時、自由な、すなわち自律的な乏籠①、またはそれに法則を与える純粋実践理性によって規定さ 傾向性に道を譲り名ばかりの意志︵動物的意志︶となった≦一一涛茸である鈴。﹁自由な、すなわち自発的な芝≡尻母 れる﹂翰。純粋実践理性は自由であり自律的であることに失敗しない。しかしそれは≦已屏貯を支配することにおい てほとんど効果的でなくなることもあり得る。一方、芝筥ズ貯はどんなに腐敗したとしても、それは依然として﹃天 来の声﹄を聞きとる﹂ら①。 以上のようにペックは、妻陣一貯貯の消極的な自発的自由が﹁①ぎ頸芝已Φの自律的自由を共有する時真に本来的な 自由を実現する、と観ている。そして、﹁積極的な意味における自由は消極的な意味における自由ほど問題ではな い﹂㈹と考える。 さて、このようなベックの自由の=兀化、あるいは、自律意志・善意志・理性意志の自由への方向づけは、それ自 体がカントの真意ではないとは言い切れないが、我々が問題としたいのは、≦葺犀母または未だ純粋ならざる≦≡Φ しているわけではないが、悪の意義についての論議は附随的にしかなされていないように思われる。 が人間存在において有する別の側面、すなわち道徳的悪への自由である。無論ベック自身もこの問題を全く等閑に付 ベックは、悪しき意志に自律性を認めている。彼は、人間の意志は自発的であることなしに自律的ではあり得ない ということを論ずる注釈で、﹁悪意志でさえも、道徳的悪を行う人間が或る動機を彼の格率の中に連合させ、その動 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 35 カントに於ける意志の自由 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 機︵本質的には動機でないもの︶を、それに従って彼が彼自身で行為するであろゲような一つの規則とする、という 意味において、自律的であるL、と言っている働。彼の解釈の主眼からすれば、悪しき意志の自律を持ち出すことはあ きらかに不当である。 実際、カソトの自由論の解釈に伴う困難は、自由が道徳的自由として善悪の概念ど密接に結びついていることにあ る。我々が問題にしようとするのは、善意志の自律的自由ではなく、まさにベックの言う悪意志の自律的な側面、す ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ なわち芝三吋貯または純粋ならざる芝罠①に直接由来すると見なされるような何らかの道徳的意義を有する善意志 に対立する積極的自由である。 ヘ へ も ヘ へ 端的に善なる意志とは、カントに従えば、道徳法則に.一致した自律意志である。道徳法則に一致しない意志は他律 意志であり悪しき意志である。しかし単純に自律ー他律という図式だけで善悪が規定される時には、他律的な意志は 善でないだけでなく自然必然性に支配された不自由な意志︵ベヅクの言葉によれば自由であることに失敗した動物的 意志︶ということになり道徳的帰責が不可能になってしまう。カントが意志の自由を容認しようとした根本契機は帰 責可能性の根拠を求めたことに他ならない。それゆえ、自律−他律という図式の他に、悪の根拠を基礎づけ悪の行為 に見出されるのである⑩ 主体に帰責をなし得るような道徳的自由の概念がどうしても要求される。そしてそのような自由が≦一一涛葺の自由 ヵントは﹃道徳形而上学﹄において、確かに芝竃胃貯の自由に感性的衝動による規定からの独立という消極的自 発性しか与えないような言い方もしている。ベックは、このような≦罠評萄が本来の意味におけるまたは完全な自 発性を得るのは、それがNo言費≦農⑦となった時である、と言うが、非本来的で不完全な消極的な自発性に果して 悪の帰責を成り立たぜる条件が備わ?ているであろうか。自由であるご,とに失敗して感性に道を譲るような芝崖脚母 は、そもそも自発性を有していない︵相対的・比較的な自由しか有さない︶経験意志ではないだろううか。悪の帰責 36 を真に可能にするためには、実際に九ソL自身が﹃宗教論﹄で自覚的に行ったよ鉱に¥道徳法則に従っていない ≦=涛貯にも、悪がまさしくそこから選択され生起させられ得るような根源としての積極的自由が前提されなけれ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ぬ ヘ ヘ ヘ ぽならない。 カソトは﹃判断力批判﹄第八七節の注釈で、﹁道徳法則のもとにある人間]≦Φ昌ωoげロ暮臼日o﹁巴凶ωoげ90Φω①訂o昌﹂ と﹁道徳法則に従う人間.竃o昌ωoゴ葛魯ヨo田房oげ窪OoωΦ臼①昌﹂とを分けて考えている㈹。前者は、一道徳法則を意 ヘ へ ぬ ヘ ヘ ヘ へ 識して臆いるものの必ずしもそれに常には従っていない人間を意味する。後者は、道徳法則に常に従っている人間で あり、先に引用した﹃基礎つげ﹄,の中の、自由意志と同﹂・視される、①ぎ芝崔①口昌8﹃珍島oげ90Φω⑦訂⑦口︵道徳法 則に従う意志︶を持つ人間を意味する。道徳法則のもとにある人間の意志とは、単に自然の原因的諸力の強制だけか らではなく、自己の純粋実践理性の必然的強制からも独立しているような、自由な≦一一涛母であると考えられる。 そして理性必然としての自律の要求から独立し得る芝=涛O﹁の自発性は決して消極的な自発性ではだいであろう。 ・ヤスパース︵区.富ω唱①諺︶ は,芝ま評O﹁の特性を以下のように論じている。 ﹁やはり恣意はいかなる認識によっても概念的に把握され溶ものではなく︵前提されてい﹂獄よゲな能動性である。 航⋮..一切の恣意的決定のうちには、自発性としての私の自我存在に一致するものが働いている。内実がないから恣意 はまだ自由ではないが、しかし恣意なしにはどんな自由もない﹂網゜, また、門脇氏は、、∪器冨匹澤巴しdOωΦσ虫閑9コ↓脚お①ρじd8昌−”において、意志の自由がハ.消極﹂印意味之積極的意 味の間で採り得る形式的な可能性について次のように論じている。 ﹁人は自由を二つの観点から、すなわち消極的意味および積極的意味における自由という観点から考え得る。前者 ぽ理論的意味における指由であっで富然の原因性からの狭立を意昧すみ。後者は実践的意味の自由すなわち叡知的原 因性である。もし人が自由を消極的に規定するなら、自由の積極的規定の三つの可能性、すなわち第一に善への自由 としての自由、第二に悪への自由としての自由、第三に善悪に対する無関心としての自由が生ずるL㈲。, ここで注目すべきことは、氏の指摘に従えば、自然の原因性から独立している妻≡蓉憎の自由が実践的領域で悪 への自由としての或る積極的規定を受け得る可能性である。それは≦一一一冨﹁がそれ偵体のうちに唱。唱ヨ。旨9とルて、 の自発性を有するということであり、別言すれば、≦≡評臼は感性的性格をだけでなく叡知的性格も有するといゐこ とである。小倉︵貞秀︶氏も、≦已閃貯を経験的意志の意味に解するコーヘソ︵O。ず①旨︶に反対して、﹁芝三。・と 棄一一涛貯の区別を純粋意志と経験意志の区別にのみ求めることは誤解庵甚だしいであろう﹂と述ぺ㈲、芝三さ﹃が経 ・以上のように、我々はこの章において、≦田犀貯の自由が単に消極的な自発性としてだけでなく、叡知的性格を有 験的・叡知的二重性格を持つことを指摘している。 する積極的な自発性としても理解されるべきであることを論じて来た。このことは、カントの自由論における﹃宗教 で、もう一つのカント的自由の深みがそこで初めてあらわになるような概念だからである。 論﹄の根源悪の意味を解明することにつながる。何故なら、根源悪は、自律の自由とは異ったそれと対照的な次元 ⇔、宅帥=詳貯に根差す悪の原理 してでなく実在的対立として規定される。善︵11a︶に論理的に対立するのは善の根拠の単なる欠如の結果たる非善 ヘ へ カソトは、人間は善か悪かのいずれか一方であるとして道徳的中間物を許容しない㈱。そして善悪は論理的対立と 法則から結果する不自由な行為と規定して道徳的自由から排除す竜司 ている㈹。このような行為の根底に存する善も悪も為さない自由は倫理学に無縁の自由であり、カソトはこれを自然 立てない行為は道徳飽意味をな惑ない。カツ守ば善悪に無関心﹁訟行為を﹁道徳的無記鋤α壁℃ゴo﹁o昌日o﹁巴①﹂乏考、兄 人間は動物と違って必ず何らかの原則に従って行為すを。それが純粋実践理性の法則であるか否かは別にして原則を ﹃宗教論﹄においては、妻≡閃貯の自由が格率採用または格率選択の自由乏して特徴づけられる。理性的存在たる 37 カソトに於ける意志の自由 38 へ ︵110︶であるが、善に実在的に対立するのは善の反対の積極的根拠すなわち≦卍犀母の反抗の結果たる悪︵ロつ︶ である㈲。﹁もし法則が或る人の芝崔ズ母をその法則に関係する行為に関して規定していない時には、この法則に対 立する或る動機がその人の毛≡犀貯に影響を及ぼしているのでなければならない﹂60から、善でも悪でもない中立 状態はあり得ない。 ところでカソトの有名な定言命法の方式に、﹁汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るよ うに行為せよ。閏9昌臼①ω9山器゜。巳①]≦帥×一ヨΦαoぎoω芝一一一①コω器山興NΦ詳N自σq一⑦一〇ず巴ω℃二昌o一〇〇ぎo﹃巴一瞬ΦヨΦぎΦ昌 O①ω①訂oqΦげロ昌σqαqo胃窪δ弓①゜﹂与Pがある。ここでの汝は道徳法則のもとにある人間であり、その意志とは行為の原 へ 則を立てつつある妻難犀母である。そして定言命法のωo幕⇒によって命令されている芝崔國貯は、﹃宗教論﹄の カソトの前提に従えぽ、道徳法則を格率に採用しない限り、反立法的な格率を採用しているということを意味する。 このことは、決して、芝≡貯母が傾向性とか衝動という感性の原因的な諸勢力に直接道を譲って不自由または無能力 になったということではない。それは、或る非理性的な意志がいわば自発的・自律的に反立法的な格率を採用した、 ということを意味する。カントは悪を悪のために意志する悪魔的な意志を認めないが、このように考えると、反立法 的な悪の規定根拠は或る理性原理の中に存すると言えるだろう。 ﹃宗教論﹄における芝≡犀貯には、性癖︵閏きσq︶という、生来的にそれ自身を善か悪に向わせる非経験的な主観 的根拠が内在する砂。悪への性癖は、人間に天賦のものとされる善への根源的素質とは異り、人間にその責任が帰せ られる自然となった悪への傾きであり、時間の中で獲得されたものでなく、無時間的な≦凶=犀母の本性的な働きそ のものの中で生じたものである。ヤスパースはこれを、﹁我々の経験的な本性の素質ではなく、我々の可想的本門性の 素質であって、我々の理性性︵<o∋巷h二ひq冨罫︶それ自身、我々の自由に属する﹂鰯、と解釈している。 悪の積極的規定は、理性原理の中に、すなわち、それ自体は道徳的に無記である感性や自然傾向性の中にではな <、反法則的な格率を立てる悪への性癖の中に、求められなけれぽならない。そうすると、悪は感性的動機を道徳法 則への尊敬の動機に従属させよという実践理性の命令する道徳的秩序の原理的な転倒の中に見出されるこ之にな る㈱。カソトによれば、この転倒へあ性癖は、﹁あらゆる格率の根拠を腐敗させ﹂、﹁自然的性癖として人間の力によっ ては根絶できない﹂がゆえに、鑓α涛巴である69。 ところで、シュヴァイツァー︵﹀° ωOげ≦①一NO﹃︶は、﹃宗教論﹄で言及される芝卍評貯の自由を﹁より高次の問い における自由﹂と考え、﹃宗教論﹄の自由の問い方が独自のものであることを指摘し、特に格率探究の無限遡及とい う事態に注目している鉛。カントは、格率採用は芝≡犀貯の本性的な自由によってなされるから、或る格率採用の 根拠として他の格率を求めれば更にそれに︵時間的にでなく︶先行する格率を挙げなくてはならないというように、 格率探究が無限に進行してついにその最初の根拠を洞察し得ない、と考えている勧。このように、格率の転倒をひき 起すところの悪の根源は時間的にも理性的にも洞察不能である厨。 ある絶対的自発性に存するのである。絶対的自発性は原因性を有する自由として規定され、これだけが道徳的帰責の ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ いだろう。しかし帰責の根拠は、≦=涛二﹁の自由な働きそのもののうちに存するのではなく、芝一﹁蒔¢﹁の根抵に れば、またあったにせよ選択の最初の根拠が人間には把握不能であれば、善悪とも帰責不能であると言わねばならな かれている善悪未定の非倫理的状態にあると言える。善も悪もこの自由から選択され、それ以上の根拠がないのであ 芝葺吋母の動かの面にのみ注意すると、その本性的な自由の働きはまず決定されていない意欲として一切の責任を免 事態の中にカソトの自由論の一つの矛盾を指摘するが、その批判は必ずしも正しくないと考えられる。確かに、 の根拠は人間に知られないままであり、神の知の評価の中に移されることになろう。シュヴァイツァ!はこのような を求めたかどうかである。もし悪の根拠が芝崔犀畔の本性的な自由に存するならば、今述べた無限遡及に照らしそ ただここで問題になるのは、本性から︵<O鵠 2”け口H︶自由である芝崔ズ費の自由そのものにカソトが帰責の根拠 39 カントに於ける意志の自由 40 真の根拠となり得るものである。普通考えられているように≦臣犀ξが悪の帰責を可能にするというのは、その無 原因の選択という側面ではなく、その根抵にある自発性としての原因的な選択という側面である69。だからカソト は、﹁を三巨﹁の自由の概念は我々のうちにある道徳法則の意識に先行するのではなく、我々の妻卍貯貯が無条件 的命令としてのこの法則によって規定され得ることからのみ推論される﹂として、≦崔評貯の自由を法則すなわち行 為の根拠の意識に結びつけ、﹁自由は行為の偶然性︵行為が決して諸根拠によって決定されていない亡と︶のうちに、 すなわち非決定論⋮⋮のうちに成立するのではなく、絶対的自発性のうちに成立する﹂、と言うのである60。 れたことは、カソト倫理学にとって大きな意義を有する問題である。この悪の原理は、善の原理とされてきた純粋実 さてしかし、﹃宗教論﹄において悪行為の帰責をめぐって、道徳的秩序の転倒への性癖之しての悪の原理が自覚さ 践理性の自律の原理といかなる関係に置かれるのであろうか。今まで論じて来たように、人間の芝崔互﹁がその本 性的な自由によって善か悪かいずれか一方の格率を選択するとすれぽ、善悪は実在的次元という同一の基盤で絶対的 に対立するのでなけれぽならない。芝筥冒母がその叡知的自由によって一たび道徳的秩序を逆転したのであれば、同 時にそこに自律または実践理性の自己同一性としての善の原理が働くことはできない。’そうなると、悪の原理に正確 に対立する善の原理は自律の原理とは違った何らかの基盤の上に立てられなけれぽならない。善悪の原理が新たに立 の本来的な道徳的自由である自律の自由が、﹃宗教論bにおける妻=涛口週の叡知的自由の把握の深化とそれに伴う善 てられるその基盤は、人間存在の有限性の解明に関わる存在論的な基盤である。これを自由に関して言えば、カント 悪の対立の尖鋭化によって根抵から危機に直面した、ということである。そしてこの事態は我々に道徳的自由の二元 的理解を余儀なくさせるものである。 この点についてヤスパースは、﹁全くそれ自身だけの上に立脚しようとする純粋理性の不十分さは根源悪において 最も深く感知される﹂、と言っている鋤。‘また、カント倫理学の根本性格を﹁葛藤的性格閑僧ヨ嘗o冨鎚算⑦月﹂と規定 する門脇氏は以下のように論じている。 ﹁⋮⋮悪の原理は、格率の中で善の原理の固有性を根抵から絶滅さす悪への性癖が我々の格率の中に存在するとい うことから生じる。それゆえに人は、善と悪の対立億意志の限界を超える存在論的根拠沙ら生じる、と雪口い得る。庚 践理性の自己里性の轟に立・て、善の原理に・・て悪の原理嘉澤蓬吃深縄蕩冷診詠礎蓬 うに、もし善悪が客観的に、実在的にかつ原理的に対立するならば、善の原理におけると同様悪の原理においても或る な存在構造を有する人間の意志ということになる。自由は感性的意志そのものにも、純粋に叡知的な意志にも適用し 原因が時間または現象の中にその結果を生ぜしめるような活動性であるならば、自由が現われる場は叡知的−感性的 ゆえに、それに自由を帰すことはできない働。このように、形而上学的意味における自発性が、無時間的で知性的な ︵時間的な︶宇宙創造に自由は問題となり得ても、神の活動そのものは神の本性たる永遠の理性によって規定される が時間系列の中にある場合には自由は語り得ないから、物質に自由を帰すこと、はできない。また神については神の て生じた結果が時間系列の中に見出さ九る場合にだけ、我々が自由について語り得るということである。原因の原因 の結果が現象であるような関係においてだけである﹂翰、と言っている。これは、或る無時間的で知性的な活動によっ カソトは﹃プロレゴメナ﹄において、﹁自由の理念が現われるのは、原因が知性的なものであり、これに対するそ ヘ ヘ へ も へ あ 四、聖意志の自由と有限存在者の自由意識 象であるというカントの説明は十分ではない。何故ならそれは一つの心理学的説明にすぎないからである﹂鋤。 ①NON︶﹄と言っている。この両原理の鋭い対立に対しては、善は欲求能力の必然的対象であり悪は嫌忌能力の必然的対 しtも考察され得る・・∪餌ω9・・d毫・§書α’・§募§罠藝島・巴一響・・昏9け..︵爵×<日望鐸。①h. 臣み跡↓愉が浄袖小かゆ熟加かか齢加か加い。私が既に引用したように、カソトは﹃悪の根源存在は無限の実在性と 41 カソトに於ける意志の自由 42 得るものではない。カソトが純粋意志は自由とも不自由とも言えない、と言う時は、この見地に立脚していると考え られる。自由が言及され得る唯一の次元はまさしく人間の意志の叡知的−感性的性格である。 今述べたことを必然性と自由との関係で考察すると、神的必然性が自己規定を行う神的活動においても、自然必然 性が支配する自然の活動においても自由はなく、道徳法則の必然性と感性的衝動の必然性の間に存立する叡知的ー感 れるのであろうか。 性的な有限意志だけに自由が現われ得るということになろう。それでは有限意志にはどのような意味の自由が意識さ うな自由であろう。非決定論における、神だけが有するとされる無差別の自由にこのような性格づけがなされること もし絶対的自由というものがあるとしたら、それは一切の必然性との対立を克服し必然性から全く超越しているよ もあるが、カソトは神的自由をそのようには解していない。神の自由は自己の永遠の理性によって規定されている自 由であり、先に述べた理由でそれはもはや自由ではない。自由の意識は、道徳的行為という、原因的な無時間的なも のが時間内にある現象的なものへと生起してゆく過程の中で必然性の強制に対立する何らかの自発的な意識として、 理性的−感性的性格を持つ我々の≦崔巨﹃においてだけ現われるものである。芝一一涛費は叡知的ー感性的または理 性的−有限的行為主体の意志の現実性を表わす概念である。それは、道徳法則のもとに置かれた意志として、感性衝 動から影響され干渉されながらもその固有の自発性によって独立性を意識するのみならず、自己の真の本質たる道徳 法則の必然性の強制からも解放されている。このような、自然必然と道徳必然との間隙に存立する芝籠吋母の自由 こそ、神的存在とも動物存在とも区別される人間存在に固有な自由意識の性格を規定する。 ところで、道徳法則のもとにありかつ悪への性癖を持つ有限存在に対して道徳法則はいかなる関係に立つであろう か。カントは、意志の格率が必然的に自律の法則と一致するような意志を聖意志または絶対に善なる意志と呼んでい る69。聖意志は義務のために決して活動しないし悪に誘惑されることもない。それは、ぺートンの言葉に従えば善に 対する純粋な愛から自発的かつ必然的に活動する㈹。そしてもし我々が叡知界にのみ属する存在者であるならば、我 々の芝o一冨コは必然的に道徳法則に一致し決してωo=Φコとはならないであろう勧。しかし人間の意志は、聖意志と は異なり、さまざまな欲望や傾向性による妨害・抵抗・衝撃を受けるので、そこにおいて理性の自律が必ずしも実現 されるとは限らない。従ってそれは欲望や傾向性と戦いながら義務のために活動する有限意志であり不完全な意志で あるσ ここでおのずから聖意志の自律と有限意志の自律とは本質的に異った概念であるこどが明らかになる。カソト的自 由の根本性格を自律の自由と規定する者は、それ自体不完全である有限意志の自律とそれの理想としてのそれ自体は 道徳的必然と常に同一である聖意志の自律とを混同しがちである。その混同は、カント倫理において本質的である悪 の意義と有限意志の叡知的ー感性的性格を十分に考慮しないことから生まれてくる。 我々ひとりひとりの根源において実現される自律、すなわち道徳必然性と自由の同一性の意識は、絶対的自由や完 全な善の意識ではない。それは、有限意志に固有な道徳必然の意識であり、㍉徳目ロσqΦ⇒畠﹂と呼ばれる悪の克服の過 程においてのみ実現される善性である。その意味で、道徳法則と格率の一致としての﹁善意志﹂の概念も、絶対的な ヤ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 自律意志としてでなく、有限意志における善意志として解さなくてはならないだろう。ペートンは人間の善意志を有 徳意志と考え、﹁人間の条件のもとでの善意志︵9αqoo像乱一一ロ昌α興けロヨp昌08巳二〇霧︶とは義務のために働く意 志である﹂、と述べて い る 繍 。 ヘ ヘ ヘ ヘ ﹁人間は単に誘惑によって悪に堕ちたものとして、従って根抵から︵善への最初の素質に関してさえも︶腐敗して ヘ ヘ ヘ へ か有さない霊とを比較して、人間の悪から善への復帰の可能性を次のように説明している。 徳的意志として決して消滅しないものであると考えている。彼は、叡知的−感性的性格を有する人間と叡知的性格し カソトは、この有徳意志としての善意志は、悪への性癖による道徳的秩序の転倒にもかかわらず、人間に固有な道 43 カントに於ける意志の自由 必 いるのではなく、誘惑する霊、すなわち、肉の試みがそのものの罪責の緩和に考慮され得ないような存在者と違っ て、まだ改善の能力を有するものとして表象される。かくして腐敗した心情を持ちながらもなお依然どレで善愈志を 持つ人澗には、彼が背き出た善へ復帰する希望が残される﹂69。 次のようにも述べている。 更にカントは、妻芭さ憎の自由に基礎づけられたこの善意志が堕落した人間においても不断に活動し続けることを ﹁さていかにして本性的に悪しき人間が自らを善き人間になし得るかは我々の一切の理解を超越する。⋮⋮しかし それにもかかわらず、u⋮:善から悪への堕落は︵悪が自由から生ずることをよく考えれぽ︶悪から善への復帰より一 層理解し難いからこの後老の可能性は否定され得ない。何故ならかの転落にもかかわらず、我々がより善き人間に加 るべきであるという命令は減少することなく我々の魂のうちに鳴り響くからである﹂㈹。 ヘ ヘ ヘ ヘ へ の意志が自由を損っていないことを示す。もし人間が必然的に道徳法則に従っているとすれば、決して自由の意識は このように道徳法則は理性的ー有限的存在が悪に陥った場合ですらもなお為すべきことを命令し、それによってそ 生じないであろう。自由意識は、道徳法則の必然性によって命ぜられる主体が、それに対立するだけでなくそれを根 抵から覆すかも知れないような他の自然所与性としての感性の必然性と戦ヶ過程において、現前する。カントが道徳 法則は我々の自由を意識させると言う時、その意味は、人間存在の叡知的1感性的な二重構造と根源悪の正当な理解 なくして十分に了解することはできないものである。 ② .へ圏︵°﹁°︿°、、ω゜︵﹀︶劇らGo ・ω ..閑韓涛画雪話ぎ①ロ<o∋鐸昌津遭︵以下、区・﹁°︿°と略称︶ω゜︵﹀︶ホO︵︵﹀︶は初版を示す。︶ 注 カソトに於ける意志の自由 45 ㈲ 義閑゜﹁°.︿°智ω゜︵ ﹀ ︶ 頓 ω ω ↑ ω.、閑゜﹁°︿°、.ω゜︵ ﹀ ︶ ㎝ ω ω ー q ω 心 ⑥義閑﹄°≦隷ω゜︵﹀︶◎。ON ㈲ .、訳葺節血巽o冨写一ω島窪く。∋琶津ご︵以下、閑.﹁°<°︶哲学文庫版、oo‘一一ω ㈲、.ス゜﹁6︿㌧ψ︵ヒd︶N刈◎o噂﹀昌ヨ・ ω、.内゜吋゜.︿。達ω゜︵ 切 ︶ 一 ㎝ Q o 噛 ﹀ 昌 ヨ ・ @象図Φ自Φ邑Oコ、.OOOO ⑨..幻島Φ邑oコ篭8謡 ⑳ ..○°H≦°ω・、漫Qり・.鼻O⇔ 幟・.冒達.ω゜Q◎幽㎝. ⑳ 、.℃3δひqoヨΦコo、.︵アカデミr版カソト全集、署︶も∩“ω瞳山心q ⑲ ミO凄翫臼①σq§αQN自寓簿四讐誘一評.O臼QQ葺①肱、︵以下、.O°竃。φと略称︶︵アカデ、ミー版カソト全集一く︶ω.念O ⑯ ハ.国①=貸qδ昌、.︵以下、.国と略称︶.哲学文庫版、..¢b。b。占ρ﹀昌ヨ゜. ¢昌一く①円ω津鴫℃﹁①ωω︶O面O①1悼O刈 .㈲ω゜即︾°=&巴㌦・内碧ごO昌昏①明8巳国二§ohヨo冨一津団lo目巳①∋ぐo﹁。。一。”。h窪①O﹁ロ5巳①σqニコぴq..︵δ刈ρ一昌黛”ロ。 ⑯﹂び達‘ ・ .㈲ミO°一゜ご、℃°N卜◎O 働罠ρ.一’逡℃°N一◎o ⑬・駿開の唱゜<°、、ω゜ω 0 門脇訳、﹃カソトー存在論および科学論﹄︵岩波書店、這㊦b。︶二四九ページ ⑫○.冨母二P..一ヨ∋Qpロo一区90三と“︵溶O一コ゜ μ㊤㎝一︶・ψおQo占㊤O ⑳ 国﹂.℃讐o登、・↓冨O暮。ゆqo﹁一B=ヨ冨轟け冒①、.’︵目Oら刈℃ ︼UOコ血Oコ︶︵以下、.、ρ一・、、と略称︶Ψb。一〇 α窃 46. 法則に従う意志﹂と訳し得る。この点については後述する。 ⑬ 殖窪9ψ武刈なお、ここでのo一目≦≡①巨8﹁ω葺一甘ず①づO①の①蒔①昌という表現には、問題があるが、文脈から見て﹁道徳 ⑳ 非決定論における自由は、外的拘束に対立する意味での一凶び霞霞ω食。88けδ器︵強制からの自由︶ではなく、厳密には、一切 z≦°ω゜とoo°卜δ悼刈 凶玄Ω・ΨNOOづ9ρお、引用文の傍点筆者。 凶σ剛阜℃°一◎◎O ぎこ゜PδQo 一げ置゜層゜一㊤Qo 一ぴ置’”9トっOω ぴ置゜℃幽一〇〇〇 Pσ乙゜P一QoO 一げ達.やδ①﹂一り 刈 剛げご曾P一QoO 一三90°卜。8−h。O黛他。 岡σ三゜層゜ミ◎ρ r≦切8ぎ.、>8ヨヨ9富蔓8閑碧け.ω99器o胤胃餌&。9﹁$。・8智︵↓冨聲三く。邑qohO三。ロひ窺o宮oω゜・し08y,旨゜。 噛、 .︵7臼ω6、噂、OQ°boboO .暇一≦乳ψ、、ω゜bの一ωlN一劇 凶げ剛α゜ 一げ乙噛 、.竃①δoξ。・幹α臼ω葺o馬︵以下、竃゜¢、と略称︶︵アカデミー版カント全集、≦︶ρ謹ω の必然性に対立する喜o腎器9器8ω。・一98︵必然からの自由︶である。 @オ @1)臼① ξ39 Bg Bの B〔コ BS B41 B3}BZ B]) B〔導 2S 29 ⑫の ⑫㊧ ¢∼尋 ヵソトに於ける意志の自由 47 ⑱ ,因﹁一二閃ユ魯¢暮亀ωζ駄一、、︵アカデミー版カソト全集く陰︶㏄゜念G。ー禽¢﹀昌B・ ㈲ 門脇卓爾、.、upω冨ユ涛巴ま。。①びo一図雪け.、︵冨8脚ぎロ昌︶︵﹁学習院大学文学部研究年報9﹂、ω゜一㊤ 働界富呂①﹁ω讐..勺三ざω8三ρ国.国×凶ωけ①昌No島①昌§oq、.︵o。嘗ぎぴq①7<①﹁﹃σq噂野﹁嵩ロ゜這お︶¢旨アミG。 .へ図゜、、ω噸NN ㈹ 小倉貞秀、﹁カント倫理学研究﹂︵一⑩O㎝、理想社︶、二九五ページ。 @ の 幽、.国㌧ω゜舘 O 、.図゜毫Q丙9Nω ㈲﹂、即遭o自﹂卜o目 馬、幻.越ω.bo?N㊤ 毒 ミ国㌔覧oD°ωcρ 劔界冨ω℃o﹁の噂、.∪器﹃p⊃畠算匿.田ωoげ臨隅碧ρ櫓︵即09gωo冨津⊆a>ロの話ざr冨望ソω・8 お 2 鋤..匿も゜<°ζω゜ω① 6 夙り .馬国㌔ω゜N軒i 謡 . 鱒 ﹀・誓ず≦o凶訂①﹁・.、幻o嵩σqδ昌ω讐ぎω8三①閑餌昌冴ご︵閃﹁O一げ⊆﹁ぴq、 昌QoOO︶斉藤・上田共訳﹁カソトの宗教哲学﹂︵白水社︶ ㈲.、幻\ω゜ω¢ 6 @非決定論の無差別︵選択︶の自由が帰責根拠になり得ないことを論じたものとして次の二書参照。冨・曽7一凶6ぎ.、宰9。伊qo昌O①﹁ やむ $ 舞切゜、噂Uo°軽① 5 綱 門脇卓爾..U霧一,pα葵巴しむαω①σ鉱訳雪件..on°おー。。O傍点は筆者。 ㈹区.冒o。O①﹁ω゜.、∪器冨巳犀巴切αω①9一内ロ昌鷹ω゜=一 ㈹.胤”°ごGo°α餅1αq>昌日゜ ぐ9σq窪、、︵ち培︶島田訳、玉川大出版部﹁倫理学の根本問題﹂、三一五∼三七五ページ。 卑甑7.、︵♂く一①鵠゜ 一ΦωO︶城戸訳、亜紀書房﹁科学としての倫理学﹂、一二二∼ニニ五ページ゜↓・[弓℃ρ.へ∪δ簿三ωo冨ロO養巳, 69 48 ..て﹁巳①σqO∋①昌曽..ψも◎心劇ーQQ戯O 費O°︼≦°ω’象−ω躯ωO δ達゜ 凌︵甲゜冨゜ω゜ζQo°戯劇㊤ ℃9θOP..O°一㌔唱゜㎝心の 剛餌けOP.、ρ一゜篭P膳① M㌔ω・ミ・傍点は筆者。 く 参考文献︵注外︶ 一げ一Ω。Qo。心?躰㊤ ㌔. ・矢島羊吉著、福村出版、﹁倫理学の根本問題巨. ・矢島羊吉著、福村出版、﹁増補カソトの自由の概念﹂ .Z・国Pニヨ碧矯゜.、Zo器≦oσqoα嘆O簿90σq凶Φ、.熊谷訳、協同出版、﹁存在論の新し.い道︺ ・即︾島o冨ρ..函9馨、§偶.山器、∪膨σqρ。二松筈、.赤松訳㍗法政大出版局、﹁カントと物自体﹂ .・竃・9碧ω8p染局冨巴。∋1︾Z。≦﹀コ巴誘一ω達小松訳、岩波書店、﹁自由﹂ .℃°竃窪器﹃㌦.国ぎΦ<〇二①ωロづぴq閑雪房ま①﹁卑三犀、、小西・永野共訳、三修社、﹁カソトの倫理学講義﹂ ・oo・閤α3費:..誘帥馨、、野本訳、みすず書房、﹁カント﹂ σ句゜閑9巳げ8貫な囲ヨ∋雪器一閑雪件..井上訳、理想社、﹁イマヌエル・カソト﹂ ・閉゜冒ω℃興ρ.、閑P暑︵ぎ巳oσq﹁o句㊦ロ℃7躍oωo喜①p︶起重田訳、理想社、﹁カソト﹂ ・竃゜田①賦①αqσq①5.、訳雪けβ昌αα器男3三①ヨα嘆護①3嘗携涛.、木場訳、理想社、﹁カソトと形而上学の問題﹂ ・目’ρ≦、已冨3ρ.、↓708暑o艮ohgos8﹃qo﹁冒巴圃ヨOo鑓ユ︿o旨︵O×ho拭簿3①Ω母①口負o昌℃﹃oωω嘘お①go︶ ・鵠9一:剛象09駐↓70ヨo﹁巴貯≦ξ︵国¢9三昌のo昌己乱く゜躍ぴ﹁⇔﹁ざ一㊤①ρピo口山o旨︶ a(D 69 68 6n 6a 6s 646Si 4σ カソトに於ける意志の自由 ・岩崎武雄著、存斐盟、﹁倫理学﹂ ・浜田義文著、勤草書房、﹁若きカソトの思想形成﹂ ・高桑純夫著、岩波書店、﹁人間の自由について﹂ 。その他 ・楠正弘著、未来社、﹁理性と信仰﹂ ※なお、 引用文中の傍点は断りのない限り原著者のものである。 ︵一九八〇年六月︶