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1 歴史文化学 日本史 天間貴志 調庸輸送に関する一考察 武田郁也 戦国

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1 歴史文化学 日本史 天間貴志 調庸輸送に関する一考察 武田郁也 戦国
歴史文化学 日本史 天間貴志 調庸輸送に関する一考察 武田郁也 戦国期甲斐国における文書発給―武田氏の書札礼と権力― 山下未紗 戦国期遠江における地域と権力―中間層宛て文書を中心に― 菅沼裕実 近世新潟町における芸能・芝居興行について 加藤大輔 軍縮以後における「軍都」村松 瀬藤瑞穂 戦後新潟県における生活改善―生活改善普及事業と農村女性― 高橋みのり 戦時期新潟における社会と映画 新飯田巧 関東大震災における「朝鮮人暴動」の流言―新潟県内での報じられ方とその影響― 平松和樹 高度成長期の都市開発と防災 ―戦後新潟市における都市開発の展開と新潟地震による影響について― アジア史 熊林 優 満鉄調査部について 髙橋 駿太 旅行記に見る植民地期台湾 中島健太郎 後藤新平と植民地台湾 西洋史 小山貴大 クフ王の舟(所謂「太陽の舟」
)の存在意義をめぐって 手塚未来 古代ローマ世界における街道の利用 堀 智貴 ローマ人のアイデンティティとキリスト教 後藤真穂 中世イベリア半島におけるムデハル認識 飯田 葵 グレゴリウス改革期の教会と結婚 佐藤 翔 中世フランスにおける聖母マリア信仰―12、13 世紀を中心に― 三村友紀奈 中世ケルンの救貧 加藤綾乃 フランチェスコ会とマグダラのマリア 丸山紗也加 聖母マリアの「無原罪」の表現研究 山口美咲 ジャン=シメオン・シャルダンの風俗画 野澤 誠 近代ドイツのツンフト制度 鎌田 栞 フランス革命期における初等教育と子ども、家族 川田陽介 パリ都市改造と歴史的意義 牧野広樹 世紀転換期ドイツにおける青年運動と音楽―„Volkslied“ 受容を中心として― 鈴木貴洋 ナチス・ドイツにおける反ユダヤ主義と民衆 1 調庸輸送に関する一考察
天間貴志
本稿の目的は、律令制下における調庸輸送の在り方を検討し、律令国家が調庸輸送体制
をどのように維持しようとしたのかを明らかにすることである。調庸制に関する研究は、
その起こりや貢納の意義を中心に行われてきた。そのため律令調庸制については、調庸輸
送体制をいかに維持させていくかが重要であるが、先行研究では交通史や財政史の視点か
ら共同体内の閉鎖性の打破や運脚への路粮負担といった側面に注目されており、これまで
運脚制度の維持を包括的に論じた研究はなかった。そこで本稿では、調庸輸送体制の維持
について運脚夫の動向を中心に検討した。
第一章では、日唐の賦役令を比較検討して日本における調庸輸送の概念を検討した。唐
の調庸輸送は、必要に応じて中央や地方にも分配されていた。また調庸物は農民が距離に
応じて脚銭を支払うことによって運搬されていたことに日本と差異があった。そのことは
日本令の調庸輸送の特質として在地首長制を背景とした中央と地方間の服属貢納の意味合
いが残っていたことを指摘した。それゆえにすでに物資の輸送に関わる運送業や海上輸送
の存在はあったものの、調庸輸送にあたってはそれほど一般化しなかったことを論じた。
第二章では、主に八世紀段階の調庸輸送の変遷を考察した。八世紀には運脚夫問題とそ
れに対する国家の救済策に関する史料を挙げ、運脚の維持が調庸輸送における重大な案件
であったことを指摘した。その中でも銭貨が運脚維持のために重要な役割を果たしていた
と考え、律令国家による経済政策の面に注目した。そして八世紀中葉の常平倉を画期とす
る国家主導の流通政策機関の設置には、流通経済圏の拡大とそれに伴う銭貨の浸透があっ
たことを明らかにした。また八世紀後半に見られる運脚夫への造都事業の駆使には、労働
力を必要とする国家と諸国、帰郷のための功賃を求める脚夫たちとの思惑の一致があった
ことを指摘した。
第三章では、九世紀以降の調庸輸送の変遷を検討した。九世紀に入ると律令国家の運脚
夫政策として、行路政策がとられるようになる。しかしすでに運脚制度は困難であり、そ
の最大の要因として調庸違反の増加があること、律令制の解体とともに国家は運脚の維持
から国郡司への処罰によって調庸輸送を維持するようになったことを論じた。また一章で
検討した律令調庸輸送原則と対比して、未進放棄や調庸物の代銭納が見られる承和年間に
はすでに調庸制は本来の意義を失していたことを明らかにした。
以上の検討から、調庸輸送は本来財政確保とともに服属貢納という意味合いがあったこ
とを述べた。そのために運脚の維持が律令国家にとって重要な問題であり、律令国家は銭
貨を媒介とする流通政策によって運脚の維持を図った。しかしながら律令解体期、運脚の
維持が困難になると、調庸輸送体制は依然として継続される一方で、その服属貢納という
本来の意義は失われることを明らかにした。
戦国期甲斐国における文書発給
―武田氏の書札礼と権力―
新 潟 大 学 人 文 学 部 歴 史 文 化 学 主 専 攻 プ ロ グ ラ ム 武 田 郁 也 本稿の目的は、戦国期甲斐武田氏の発給した文書の書札礼に注目し、その変化が何に起
因するのかを明らかにすることである。
書札礼とは書札様文書を作成する際に守るべき書体・文言・形式などに関する心得であ
るが、書札様文書の中でも判物や朱印状といった領国支配の為に発給された文書の書札礼
は、その権力の実力や安定性などを示し、書札礼が変化する際には政治体制を大きく一新
させる志向が読み取れるとされている。また書札礼が薄礼になることは、強力な権力の確
立や当主自身の権力・権限の拡大を示すものであるという。本稿ではこれを踏まえ、武田
信虎・晴信を対象として検討を行う。この両者を対象としたのは、いまだ両者間の相違の
有無について一定の見解を得ていないからである。
第 1 章第 1 節では武田信虎・晴信の判物や朱印状といった領国支配のために発給された
文書を分析対象とし、統計処理を行った。その結果信虎の方が圧倒的に薄礼な書札礼で文
書を発給していたことが明らかになった。第 2 節では、両者の発給した受益者、様式が同
じ文書を比較した。その結果判物、朱印状、制札等検討したすべての文書でやはり信虎の
方が薄礼であったことが確認できた。
第 2 章第 1 節ではこのような事例が他権力においても見られるのか、またそれがどのよ
うな意味を持つのかについて検討を行った。上杉氏・今川氏・後北条氏を検討した結果、
政治体制が変化しない期間においては書札礼に変化は見られないが、政治体制が変化する
と書札礼も変化することを指摘した。第 2 節ではこのことを踏まえ、武田氏の政治体制に
ついて検討を行った。晴信期の甲斐国の政治体制は、小山田氏・穴山氏という独立した「戦
国領主」が権力中枢に加わることで成り立っていることは既に明らかにされている。これ
を踏まえて信虎と小山田氏・穴山氏との関係を検討した結果、穴山氏は「戦国領主」と規
定できるが、小山田氏は信虎期においては判物や朱印状を発給していないこと、小山田氏
の領域である郡内にも信虎は朱印状を発給していること、信虎が小山田氏に対して経済的
制裁を行っていることから、小山田氏は信虎に従属する存在であったことを指摘した。こ
のことは信虎・晴信間で政治体制が変化している事を示しており、これが書札礼の変化の
要因であると論じた。
しかしながら薄礼な書札礼で文書を発給していた信虎期には、大規模な奉行や国人領主
の反発が起こっており、このことは薄礼な書札礼で文書を発給する権力は、強大で安定的
なものであるという従来の研究と齟齬が生じていると指摘した。書札礼は政治体制の変化
と共に変化するものではあるが、必ずしもその権力の実力や安定性といったものを反映す
るものではないと結論付けた。
戦国期遠江における地域と権力―中間層宛て文書を中心に―
山下未紗 本稿の目的は、今川氏領国に存在する中間層について、中間層宛ての今川氏発給文書を
検討することにより、彼らがどのような存在なのか明らかにすることである。中間層の研
究では、特に有徳人の研究がある。有徳人の研究は記録史料に残されている交通ルートや
流通に関する文書の検討を通して個々の有徳人の動向が明らかにされてきたが、文書の様
式などの内容以外の部分に着目した研究はされていない。有徳人の身分的位置を考察する
際に有徳人宛て文書の様式の検討は有用であり、有徳人研究ではその視点が欠けているこ
とが問題点として挙げられる。そこで本稿では、今川氏領国における有徳人を対象とし、
有徳人宛て文書の様式から読み取れる今川氏と有徳人層の関わりについて検討を行った。
第一章では、今川氏領国の中間層のうち、遠江国宇布見で水運業を営んだ中村氏を対象
とし、特に今川氏発給の中村氏宛て文書に着目し検討を行った。先行研究では、中村氏は
今川氏の下で浜名湖水運を支えた在地勢力であること、今川氏にとっても宇布見郷にとっ
ても重要な存在であったことが明らかになっている。しかし中村氏宛て文書の様式につい
て言及はない。第一節では、中村氏宛て文書の宛所に着目し、その特徴を明らかにした。
今川氏及び今川家臣から中村氏に発給された文書は七通あり、そのうち今川氏真から発給
されたものは三通ある。三通の宛所を比較すると、始めの二通では宛所に敬称がなく、そ
の後の一通では「とのへ」という敬称がつけられている。この変化から、①中村氏はもと
もと敬称をつけられない存在であったこと、②その後「とのへ」の敬称がつけられるよう
になり丁寧に扱われるようになったこと、の二点が明らかになった。第二節では敬称の変
化の背景について言及した。敬称がつけられた文書の内容は、領主中安氏の増分摘発に関
する文書であり、中村氏は今川氏直轄領の代官に任命されている。このことから、今川氏
はこの文書において中村氏を、新たに経済力を持った者として認識したことがわかり、敬
称がついた宛所にはその認識の変化が表れていることが明らかになった。
第二章では、駿遠地方の中間層にも中村氏と同じような特徴がみられるか、有徳人・商
人・職人の三つに分け宛所を検討した。結果、すべてで敬称のない宛所の文書を確認する
ことができ、宛所に敬称がつけられないということは、今川氏領国における中間層宛て文
書の特徴であることを指摘した。さらに商人松木氏の事例では、中村氏と同じような敬称
の変化が確認できた。このような宛所変化の背景として、①強力化した中間層が重要視さ
れ、権力に取り込みたいと領主層が認識するようになったこと、②今川政権末期において
は有力者を自らの領国に引き留めようとする意思がはたらいたこと、の二点を指摘した。 本稿では、中間層宛て文書の宛所に着目した結果、中間層宛て文書の宛所には敬称がつ
けられないという特徴があることが明らかになった。さらに今川氏の中間層に対する認識
が変化する理由と、その認識が宛所に表れる事例を指摘することができた。よって、中間
層研究において、文書の様式に着目することは、中間層の実態と彼らに対する支配や認識
を明らかにする上で有用な方法である。
近世新潟町における芸能・芝居興行について
菅沼裕実
本稿は、十八世紀から十九世紀中頃を対象に、新潟町における芸能・芝居興行の実態に
ついて検討することを目的とした。守屋毅氏は近世期における芸能を「商品」と位置づけ
ており、これを受け吉田伸之氏・神田由築氏は「商品」としての芸能を「生産・流通・消
費」の三つの側面から検討している。また、個別地域の芸能・芝居興行における研究は数
多くなされているが、新潟町に関するものは非常に少なく概説的な段階に留まっている。
そこで本稿では、新潟町における「生産・流通・消費」の側面がどのような構造であった
のか、その一端を明らかにするため、興行の概要の再検討を行い、また従来触れられてい
なかった興行のメカニズムについて論じた。
第一章では、十八世紀と十九世紀~十九世紀中頃の二つに区分し、概要の再検討を行っ
た。第一節では、祭礼芝居の始まりについて簡単に述べるとともに、十八世紀を中心に検
討した。新潟町では主に祭礼時の芝居や興行が中心とされ、十八世紀中頃には三社・権現
社(後に弁天社も)における祭礼芝居、また三社における奉加芝居を除き一切の芝居は禁
止されたことを述べた。一方第二節では、十九世紀初めにこのような状況は変化の兆しを
見せ始め、少なくとも十九世紀中頃には三社以外の寺社において奉加芝居・勧進興行が行
われていたことを明らかにした。以上のことから、新潟町における興行は祭礼時の興行だ
けでなく、寺社修復のための奉加芝居・勧進興行の主に二つであったことを指摘した。
第二章では、興行の成立過程や運営、それに携わる人々、また空間的構造の観点から興
行のメカニズムについて検討を行った。第一節では、興行を願い出た願書を基に、新潟町
以外の者が興行を行う場合、芸能者自身が新潟町での逗留許可を求める願書と興行師によ
る興行の許可を求める願書の二つが必要であったこと、また興行の願書について特別な提
出の流れはなく町民が訴願事項などを提出する際の流れと同様であったことを明らかにし
た。第二節では、まず祭礼時の興行における運営状況を検討した。「神社祭礼触書留」から
運営主体は町役人であったことを指摘し、町役人は祭礼開始前に興行を執行する上での
様々な取り決めを行い、また祭礼中は町の見廻りや寺社境内などで番人を行っていたこと
を述べた。次に、興行を運営する上で必要不可欠となる芸能者集団について考察した。「筆
満可勢」から、新潟町を訪れていた役者の多くは江戸から来ており、三座の有名役者も興
行を行っていたことや、新潟町を拠点とする役者・近くの地域を廻る巡業役者がいたこと
を明らかにした。第三節では、白山社祭礼における桟敷の構造をふまえながら、空間的構
造の把握を行った。芝居の桟敷には高桟敷と下桟敷があり、さらに下桟敷には役人用の桟
敷と鬮桟敷に分かれ四つの空間が存在していた。また文化十三年の桟敷絵図から、舞台へ
続く花道などもあり、江戸の芝居小屋を意識した作りであったことを述べた。 以上のことから、新潟町における芸能・芝居興行は、興行場となった寺社や興行に携わ
る町役人・興行師・芸能者によって「生産」され、また江戸の役者が新潟町を訪れ興行を
行うなど芸能興行が「流通」していた側面も見受けられる。そしてそれらを「消費」する
のは新潟町の町民であり、また江戸歌舞伎が「流通」していた点をふまえると、新潟町全
体が江戸歌舞伎の「消費地」の一つであったと結論付けた。
軍縮以後における「軍都」村松
加藤 大輔 本稿は、近年多くの個別事例が蓄積されている「軍隊と地域」研究の中で、全国におけ
る衛戍地の一つであった村松町を取り扱い、新たな軍都の一類型を提示することを目的と
したものである。これまで「軍隊と地域」研究では、全国各地の衛戍地を題材に、様々な
視角を用いた研究が個別事例的に数多く出されてきた。特に新潟県内の衛戍地を取り扱っ
た研究は多く、日本海側の衛戍地における太平洋側のそれとは異なる特徴を踏まえた軍都
像が提示されている。しかしながら、新潟県の一衛戍地であった村松については、高田や
新発田と比較してそれほど研究がなされていない。また、村松は高田や新発田とは異なり、
連隊から大隊分屯と部隊縮小の規模が大きく、それにより村松の社会や経済、住民の「軍
都」意識がどのように変化したのかという疑問が浮かび上がる。以上から、軍縮が実施さ
れた大正末期から昭和初期までの村松町の実態や人々の意識を検討した。
第一章では、連隊移転時の状況から村松が軍隊に依存していることを確認し、移転に至
るまでの存置運動の経過を詳しく見た。その結果、これまで述べられてこなかった村松町
料理組合の運動への主体性など、複数の新聞の立場を踏まえたうえで新聞記事を検討した
ことで、単一の新聞を見ただけではわからない運動の主体を発見するに至った。そこから
言えることとしては、各新聞の報道はそれぞれの支持勢力に大きく影響しており、どれか
一つの新聞に頼るのみでは正確な歴史像は描けないということである。
第二章では、連隊移転後の村松町の社会や経済および「軍都」としての変化を見た。連
隊移転後の村松町の経済は大きく衰退し、それまで軍隊に関係していた様々な業界が痛手
を被ったが、中には村松町から近隣の自治体へ移り住む商業者がいたことなども確認でき
た。町当局や実業家層は軍隊に依存しない発展を余儀なくされたが、一部産業では軍隊へ
の依存から脱却しようとする思い切った投資が工場従事者等の収入の上昇につながるとい
う例も見られた。「軍都」としての変化を見ると、軍隊側は村松が大隊分屯となったにもか
かわらず度重なる演習を挙行し、来るべき総力戦に備え村松に「軍都」であり続けるよう
にはたらきかけた。住民側も、演習の際の熱心な見学や将兵への手厚い配慮から、「軍都」
の一員としての自覚を持ち続けたといえるだろう。軍縮によって経済的には大きく衰退し
ながらも、「軍都」としての役割や人々の意識はそれまでとは変わらなかったか、むしろ強
まったのである。この点は、高田や新発田の事例では見られない村松の特徴と言える。
戦後新潟県における生活改善―生活改善普及事業と農村女性―
瀬藤 瑞穂
本稿では戦後全国で取り組まれた生活改善普及事業について、これまで明らかにされて
こなかった新潟県での事例を検討することを目的とした。その際、実際に農村を指導した
県の生活改良普及員や、家庭生活の担い手である女性の動向に注目し考察を進めた。
第一章第一節では、新潟県において協同農業普及事業を主導した農業改良課の概要と変
遷を示した。新潟県では 1948(昭和 23)年 11 月 1 日に県の普及事業を担う農業改良課が
新設され、1949(昭和 24)年から活動が開始、その後必要に応じて係の改変等が行われた。
第二節では事業開始から 1960 年代前半までの県の生活改善普及事業をその活動内容から
検討し、事業開始から 1950 年代前半頃までを第一期、
「かまど改善」が流行した 1950 年代
前半頃から 1950 年代半ば頃までを第二期、
「考える農民」の育成が目指された 1950 年代半
ば以降を第三期として区分できることを示した。
第二章では、第一章第二節で行った時期区分に沿って、生活改善に関わる女性たちの動
向や意識の展開について検討した。生活改善普及事業の目的には女性の地位向上が含まれ、
また県の生活改良普及員は、農村女性が家事や育児に専念するため、農業経営や生活の合
理化による労働負担の軽減を理想としていた。第一期において生活改善の普及は難航した
が、第二期になるとかまど改善が開始され、普及員は存在価値を示した。しかし技術面で
の生活改善に満足感を表した農民に対し、普及員は精神面にも改善の必要性を感じており、
両者には差異があった。第三期になると第二期の反省から、自主性のある農村女性の育成
が目指され、女性たちは家庭生活に対する責任感や自負を得た。しかし高度経済成長とそ
れに伴う農業兼業化の進行により、女性たちは農業労働、就業労働にも取り組む道を選び、
生活改善普及事業の当初の目的は果たされなかった。
最後にこの原因について、生活改善普及事業が「女性は夫や家に従事する者」という認
識を打ち破ることができず、また、家庭生活の責任者を女性に規定する側面を持っていた
ことから、生活改善普及事業が女性の地位向上や過重労働解消を達成するということ自体、
はじめから限界を抱えていた可能性を指摘した。しかしながら、農民たちに合理的生活の
有意性を示し、また農村の女性に、封建制に屈しない、明るい生活に対する意欲と、家庭
の責任者としての自覚を芽生えさせた点で、生活改善普及事業は意義があったと結論付け
た。
戦時期新潟における社会と映画
高橋 みのり
戦時期における映画史研究は、映画作品の分析が中心的に行われてきたことから、映画
は映画統制により衰退していったとされているが、高岡裕之氏や古川隆久氏などによる近
年の研究では必ずしもそうではなかった例もあった事がうかがえる。しかしその場合、地
方を対象とした研究は行われておらず、興行者や消費者にも焦点を当てた研究はほとんど
ない。よって、映画興行者や地域住民などにも注目しつつ、高岡氏が示している社会と映
画の段階的変化を参考にし、新潟と比較しながら検討する。そして新潟における映画興行
の実態を明らかにし、大都市でみられたような変化が新潟でも見られるのか、そしてその
要因は何であったかを明らかにしていく。
第一章では、第一節で日中戦争開戦前における映画興行について新潟と東京・大阪を比
較しながら検討し、新潟市では映画は大都市にも劣らぬほど多く見られており、絶大な人
気を誇っていたことを明らかにした。第二節では、高岡氏が述べていた日中戦争開戦後の
映画の不健全現象が、新潟市内でも見られるかを検討した。そして、新潟市では日中戦争
開戦後の不健全現象は見られず、映画に関するさまざまな活動が行われていたことを明ら
かにした。第三節では、大都市では見られない 1938 年の新潟における映画観覧者数減少に
ついて、その要因を探った。そして、当時は全国的に景気がよかったものの時局柄統制が
叫ばれており、新潟市内ではある程度統制が利いている状況にあったため、観覧者の減少
が起きたことを明らかにした。
第二章では第一節で、1939 年の映画観客数増加の原因について、映画館の動向に注目し
ながら検討を行った。その結果、新潟市内では東宝進出による映画館同士の競争が起きて
おり、それにより観覧者数の増加が起きたことを明らかにした。第二節では、1940 年の映
画観客数激増についての原因について検討を行った。そして、それは映画館の競争が収束
に向かい、社会状況の変化により他の娯楽が衰退し、映画に娯楽が集中したことによるも
のであることを明らかにした。また、1940 年に新潟で結成された「シネマリーグ」の映画
合評会の内容から、当時の人々にとって映画がどのように見られていたのかを検討し、新
潟市内の映画愛好家であっても、映画に関して基本的に娯楽性を重視していたことを明ら
かにした。
以上の検討から、従来の研究では映画は映画統制により衰退していったとされているが、
新潟市ではそのような兆候は見られず、戦時期においても映画は大変人気のある娯楽であ
ったことが明らかになった。また、映画人口増大の要因についても、東宝の進出やそれに
よる映画館同士の競争などといった高岡氏などの研究で言及されていたこととは異なる要
因を見つけることができた。
関東大震災における「朝鮮人暴動」の流言 ―新潟県内での報じられ方とその影響― 新飯田 巧 関東大震災時の流言とその影響について、従来の研究はほぼその対象を関東地方におい
ている。その一方で、新潟県内を対象とした研究も見られ、これにより、高田地域を中心
とした流言による影響の存在や、流言報道を通して軍隊と「地元メディア」の間に対立が
生じたことなどが明らかにされている。しかし、この研究では新潟県内広域での流言によ
る影響や、当時、県内に複数存在した「地元メディア」の流言に対する報道姿勢が明らか
になっていない。このような問題意識から、本論文では、関東大震災時に発生した「朝鮮
人暴動」の流言や流言報道が新潟県内広域に与えた影響を明らかにし、その要因について
分析すると共に、流言報道を行った「地元メディア」各紙の報道姿勢についても明らかに
することをその目的とし、検討を行った。 まず第 1 章では、『高田日報』、『新潟新聞』、『新潟毎日新聞』、『北越新報』の「4 紙」に
ついて、各紙の基礎情報をおさえると共に、県内外の流言報道の内容やその報道姿勢につ
いて確認した。また、各紙の県外に関する流言報道の記事を分析することで、県内との関
連で流言報道がなされるような状況が早期に生まれていたことを指摘した。 次に第 2 章では、
「4 紙」から県内の上・中・下越地域での影響を確認した。その中でも、
広範囲かつ複数の影響が見られた上・中越地域について、震災発生前年に起こった「中津
川朝鮮人労働者虐待・虐殺事件」に着目し、それを踏まえて、影響拡大の要因について検
討した。そしてその要因として、上・中越地域はこの事件の発生地と地域的に近く、また
朝鮮人がこれらの地域に、交通機関によって移動可能な状態があったことが挙げられる、
ということを指摘した。加えて、震災発生前の事例から『高田日報』の報道姿勢について
も分析した。 最後に第 3 章では、『新潟新聞』を除いた 3 紙が、県当局が行った「新聞記事取締」に対
して「反発」を行った事例を取り上げ、それぞれの「反発」の立場を検討した。特に、『新
潟毎日新聞』は県当局、『高田日報』は師団側に対する批判に重点を置いているということ
を指摘した。さらに、『高田日報』の報道姿勢について、この「反発」及び新聞記事から、
震災発生後における同紙の報道姿勢について分析した。これと第 2 章での分析により、同
紙は震災発生前後において、主に「独自の主張を積極的に展開していくような報道姿勢」
を有している様子が見受けられた。そして同紙は、震災発生前からの報道姿勢を貫き、震
災発生後、流言報道や「新聞記事取締」に対する「反発」を行っていった、と論じた。 以上の検討から、震災発生後、上・中・下越地域という県内の広域で流言や流言報道に
よる影響が存在しており、特に上・中越地域では中津川での事件がその要因となり得るこ
と、そして県内の「地元メディア」の報道姿勢は一様ではなかったことを述べ、本論文の
結論とした。 高度成長期の都市開発と防災
―戦後新潟市における都市開発の展開と新潟地震による影響について―
平松 和樹
1964(昭和 39)年の新潟地震は歴史学の領域では長らく研究の対象とされておらず、政
策や都市計画の内容に踏み込み、災害が都市計画に与えた影響を国土開発の諸動向を背景
に分析する作業が不十分であった。そこで本稿では、都市開発や災害に関する新聞史料お
よび新潟地震前後における都市開発計画を用いて、新潟市(新潟地区)における都市開発
の推移と諸災害との関係性を論じた。
新潟地区は 1964 年 2 月、全国総合開発計画に伴い新産業都市に指定されたが、同年 6 月
に新潟地区は新潟地震に見舞われた。石油タンクの爆発火災や津波による浸水被害に加え、
地盤沈下や液状化現象などの複合的な被害が生じたこの地震は、それまで指摘されていた
新潟の都市開発をめぐる問題が表面化した災害であった。
第 1 章では、地震以前の都市開発について、新聞史料等を用いて戦前の都市開発のほか
新潟大火や地盤沈下といった災害にも焦点をあて検討した。第 1 節では、石油タンク火災
の被害拡大の主要因となった住宅と工場の混在について、その端緒は早ければ 1920 年代の
都市計画につかむことができること、そして 1955 年の新潟大火を事例として、開発が進む
都市に防災が追い付いていなかったことを示し、高度成長期に全国的に見られた防災への
対応の遅れは、新潟の場合新潟地震以前からその傾向を確認できることを指摘した。第 2
節では、戦後の新潟の売りであった天然ガスをめぐる動向に着目し、行政や企業による利
益の対立の過程で防災が軽視されていたことを指摘した。
第 2 章では、第 1 節で石油タンク火災など新潟地震における「人災」的側面について論
点を整理した上で、第 2 節では 1962 年の「新潟県総合開発計画」と 1964 年の「新潟地震
災害復興計画」を比較し、その内容の変遷を①防災緑地造成、②住宅と工場の分離、③地
盤沈下対策(天然ガスの扱い)の 3 点について分析した。①と②に関しては地震を経て内
容が大きく変化し、事業を積極的に推進する旨の内容となったが、③については地震後の
地盤調査の結果が判明していなかったこともあって暫定的な内容に終始した。ただし全体
的に見れば、地震前にほとんど記述が無かった「防災」という言葉自体や関係する計画が
「防災モデル都市」建設を掲げる復興計画に多数盛り込まれたことから、①②の変容も踏
まえて新潟地震は新潟の都市開発計画に一定の影響を与えたと結論付けた。また 1962 年か
ら 1965 年にかけての新産業都市建設に関する史料の内容変遷にも注目し、第一に「防災モ
デル都市」の建設が本来工場を誘致することを主な目的とする新産都計画の中に盛り込ま
れ、災害からの復興をプラスイメージとする文脈になったこと、第二に地震後の新産都計
画では前述の比較と同様に①や②に関しては具体的な方針が明記された一方、③について
はほとんど記述が見られなくなるという、前述の比較とは異なる傾向を指摘した。本稿で
は③について記述が見られなくなった要因を断定するまでには至らなかったが、工場誘致
の継続のため、あるいは新産都計画における天然ガスのイメージダウン防止のためという 2
つの意図があった可能性を示した。
「満鉄調査部について」
熊林 優
満州に存在した南満州鉄道株式会社の一
1938 年 4 月の「調査部」設立からは関東軍
部であった満鉄調査部は、種々累々の調査
の意に沿わない活動を展開したことで関東
を行い、満州研究において欠かすことので
軍との緊張を高めており、満鉄全体の構図
きない存在である。本論文は、この満鉄調
にはない活動をしていたと考察した。
査部を、同じく満州において重要な存在で
第 2 章では、
「北辺振興計画」に関して考
あった関東軍と関連付けて考察し、満鉄調
察した。
「北辺振興計画」は軍備強化、交通
査部の活動に関東軍がどのように関与して
整備、現地産業の振興などを目的としてお
いたのかを考察した。
り、政策が実施された背景には 1930 年代半
満鉄調査部が残した史料は膨大な数があ
ばから関係が悪化したソ連の脅威があった
り、それら 1 つ 1 つを詳細に検討すること
ことを考察した。次いで「北辺振興計画」
は、これまでの研究を以てしても完全に行
の立案過程について考察し、満鉄調査部は
われたとは言い難い。本論文では 1939 年 6
関東軍の要請により「北辺振興計画」の原
月に満州国総務庁から発表された「北辺振
案作成に取り組み、政策調整の会議では作
興計画」の立案過程を対象として考察した。
成した原案に関する関東軍の意見を受け入
「北辺振興計画」は、ソ連戦に関する準
れ、原案の修正を行っていたことを明らか
備を行うための政策であり、1939 年の満州
にした上で、満鉄調査部は関東軍に従順と
国で「三大国策」と呼ばれるほど重要な政
も言える姿勢で活動していたと考察した。
策であった。満鉄調査部と関東軍もこの政
1930 年代末は、満鉄調査部と関東軍が緊張
策立案に大きく関わったと推測できる。し
を高めていたと考えられているが、
「北辺振
かし、
「北辺振興計画」に関する先行研究は
興計画」立案過程からはそのような傾向は
少なく、
「北辺振興計画」の立案過程に関す
見られず、一概に両者が緊張状態にあった
る満鉄調査部と関東軍の関係についても検
とは言えないと考察した。
討の余地は残されている。
以上、本論文は満鉄調査部と関東軍の関
第 1 章では、満鉄の設立と 1930 年代を
係の整理を行った上で「北辺振興計画」の
対象として、満鉄調査部と関東軍の関係の
立案過程を検討し、1930 年代末の満鉄調査
整理を行った。満鉄調査部は、1931 年の満
部と関東軍が緊張関係にあったと言う従来
州事変に協力するなど、1930 年代のはじめ
の見方の再検討を行ったものである。本論
は関東軍と協力関係にあった。しかし、関
文で扱ったのは「北辺振興計画」の一部で
東軍が満州における権力を強めたことで、
あることから、他の部門に関しても考察を
満鉄は関東軍の監督下に置かれ、1930 年代
行い、
「北辺振興計画」立案における満鉄調
後半には、満鉄は関東軍の意向に左右され
査部と関東軍の関係の全体像を明らかにす
るようになったと考察した。満鉄調査部も
る必要があるだろう。
この構図に当てはめることが出来るが、
旅行記に見る植民地期台湾
髙橋 駿太
日本人による台湾旅行は、台湾割譲直後
湾が旅行地として整備途上にあり、不快や
から出版されてきた日本国内の旅行案内書
不便を感じるものと認識され、現実的には
によって提起され、船舶の大型化をはじめ
実施は難しいものであったことを明らかに
とする「内台航路」の拡充を経て、1910 年
した。1908 年に台湾において縦貫線が開通
代に政治家や実業家、ジャーナリストらを
し、台湾島内の交通がある程度確立し、翌
中心に実施された。本稿では、まず台湾旅
年には「内台航路」に 6,000 トン級の大型
行が誕生するまでの経緯について、台湾に
船舶が導入されることによって、1910 年代
おける日本の植民地統治の基盤整備、
「内台
にようやく台湾旅行が実施されはじめた。
航路」の拡充、台湾への旅行を促す日本国
第三章では、1913 年 7 月に台湾旅行を実
内の旅行案内書に見る台湾旅行の現実性の
施した東京帝国大学国文学教授、芳賀矢一
三点から考察した。そして、1910 年代に台
の旅行記「台湾の十日」(『筆のまにまに』
湾へ旅行した日本人の旅行記をとりあげ、
富山房、1915 年、所収)及び、1916 年 4
日本人旅行者の台湾観や台湾旅行が持つ意
月に台湾・南洋旅行を実施した代議士兼、
味について検討した。
肥料商人の村山金平の『南洋紀行』
(三共社、
第一章では、当時において日本から台湾
1917 年)をとりあげた。芳賀矢一の台湾旅
への唯一の渡航手段であった船舶が、1909
行は、1908 年に著した自身の著書『国民性
年以降に絶えず大型化し、その船内設備も
十論』に基づく思想観が根底にあり、近代
また拡充されていったことを示した。とり
日本の国民性を有する日本人としての自己
わけ船舶の大型化が航海の安全性をもたら
意識を形成していくものであったことを明
し、台湾への日本人の渡航を促したことを
らかにした。また村山金平の台湾及び南洋
明らかにした。その一方、それら船舶が旅
方面への旅行について、当時の日本国内の
客数に比して大規模なものであり、その恩
肥料界で軍需並びに化学工業用としての肥
恵を受けたのは主に資産家を中心とした一
料原料の需要が高まり、1916 年 3 月以降に
等船客の乗客であったことを指摘した。
南洋方面への輸出の販路がひらかれたこと
第二章では、1908 年に日本統治下の台湾
により、村山の関心が台湾より南洋方面に
で初の旅行案内書である台湾総督府鉄道部
向けられていたことを指摘した。それゆえ
編『台湾鉄道名所案内』が出版される以前
村山金平は、台湾では在台日本人とりわけ
に、日本国内で出版されていた旅行案内書
同郷出身者との交流に偏重し、台湾総督府
の台湾旅行に関する記述をとりあげ、台湾
の事業の視察を中心としており、人脈形成
旅行が日本人に対してどのように示されて
及び実際的研究という目的を台湾旅行に見
いたかを検討した。1895 年から 1905 年ま
出していったことを明らかにした。 での間に出版された日本国内の旅行案内書
に見る台湾旅行は、危険な航海を伴い、台
後藤新平と植民地台湾
中島 健太郎
1895 年の日清講和条約により台湾島及
湾事業公債によってまかなわれた。また地
びその附属島嶼は清朝から日本に割譲され、
方行政制度は清朝の行政区画をほぼ継承す
その後 50 年間にわたって日本による統治
る形で開始され、1898 年度から地方税と総
が実施された。その歴史を見る上で、特に
督府会計からの補充金により運営されるも
初期の台湾統治で取り上げられるのが後藤
のとなっている。この中の衛生予算として
新平という人物であり、後藤が台湾総督府
は台湾総督府会計によって主に医療分野が
民政長官であった 1898 年から 1906 年まで
負担され、地方税によって保健分野が負担
の時期に日本による台湾統治が軌道に乗っ
されている。
たとされる。
第 2 章では公共衛生費の具体的内容につ
後藤時期に行われた衛生政策を見ていく
いて検討した。公共衛生費は 1900 年に民政
にあたって、筆者は「公共衛生費」に視点
長官後藤の依命通達という形で開始され、
を置いた。公共衛生費とは「時の民政長官
台湾総督府が不衛生と認識した魚菜市場と
後藤新平氏の創意に依り」創設され、各種
屠畜場に公的な規制をかける形で収入源と
衛生政策の実施に際して、通常の会計とは
して組み込んでいった。その後 1904 年には
別にその費用の一部を補足する目的で作ら
「公共衛生費整理規則」が制定され、地方
れた制度であり、またその費用そのものの
行政長官が公共衛生費を運用する制度が法
ことである。植民地台湾については多くの
的な裏付けを持つようになり 1920 年まで
研究が見られるものの、その中で衛生予算
続けられた。この間に公共衛生費の額は増
として公共衛生費を扱った研究は見られず、
加を続け、1913 年度の収支を例にとると正
本稿ではこの性質を明らかにすることを目
規の衛生予算に対して 8 割程度の規模にま
的とした。
で膨れ上がっていた。
第 1 章では、公共衛生費について述べる
以上のように本稿では公共衛生費の性質
前提として、日本の台湾統治における財政
について検討を行った。公共衛生費は台湾
制度についての整理を行った。日本は清朝
の衛生政策を行う上で、財政的な裏付けと
から割譲された台湾で、従来徴収されてい
して不可欠な制度であったと考えられる。
た租税の把握に努める一方、統治を行う上
しかし今回自分が行ったのは台湾総督府に
では当時イギリス植民地に見られたような、
よる制度制定過程や、予算の全島的な把握
本国と植民地を財政制度上切り離した構造
と言った大枠にとどまるものであり、地方
を志向しており、台湾の財政は台湾におけ
での実際の運用や個別事例をとりあげた具
る租税と官業収入によって負担するものと
体例を示していない。この点を含め、台湾
した。日本は 1897 年度から台湾総督府特別
における衛生政策について新たな研究が求
会計制度を開始し、初期の財政赤字は日本
められる。
からの補充金と、殖産事業を目的とした台
クフ王の舟(所謂「太陽の舟」
)の存在意義をめぐって
小山
貴大
クフ王は第 4 王朝第 1 代スネフェル王と王妃ヘテプヘレスの間に生まれた。彼の時代に
は、父王の時代に確立していた強大な中央集権国家体制の恩恵を受け、安定した統治体制
が敶かれていた。最大規模を誇るクフの大ピラミッドの脇には東側に 2 つ、单側に 2 つの
船を収める竪穴がある。1954 年に单側の 2 つからは解体された状態でクフ王の舟(「太陽
の舟」
)が納められて発見された。舟の存在意義については、太陽神ラーが天空を航海する
ための舟とするものや、天の海の 4 隅にまで王の魂を運ぶ 4 隻の舟のうちの 1 隻であると
いう死後の世界に関する説と、王の葬儀の際に、メンフィスの王宮からナイルの谷の葬祭
神殿まで、故王の遺体を運んだ舟であるという王の地上における航海に関係する説の二つ
に大きく分けられる。そこで、クフ王の舟が一体何を目的として作られ、解体された状態
で埋葬されていたのかについて、文献に見られる舟の記述や描写を史料として、当時の生
活や神話も参考に考察を行った。
はじめに文献史料における舟の記述から当時の舟の用途やその形体について分析を行っ
た。主に『死者の書』
『ピラミッド・テキスト』また、物語における舟の描写を史料とした。
結果、古代エジプトにおける舟の用途として、葬祭船、太陽舟、遠征用の大型の舟などが
あることが判明し、クフ王の舟は太陽舟の 1 つであるウイア船と形状が酷似していること
が明らかになった。
次に古代エジプト人の生活や死生観に注目して実際に船がどのような使われ方をしてい
たのか、船の大きさはどのようなものであったのかという点をクフ王の舟と比較した。ク
フ王の舟は、喫水がほとんどないことが先行研究より判明していたため、石造建築に関わ
る石材運搬用の舟や、遠征用に使われた舟と比較した結果、クフ王の舟はそういった用途
に使用されたものではなく、葬祭船もしくは、太陽舟である可能性が再確認できた。
次に神話に見られる舟の描写をもとに分析を進めた。主に「ホルスとセトの争い」にお
ける競漕の場面から分析を行った。結果、クフ王の舟はホルスが作った舟と同じく建材が
スギであることなどから、地上における王位継承権の正統性に関わる可能性を見出し、神
話中のセトの口述から太陽舟は 1 つではなく複数あることが推察できた。
また、解体埋葬における理由として、死後の世界を信じ遺体をミイラ加工して来世にお
ける永生を得ようとしたことに関連付け、舟も解体という加工を経ることによって、死後
の世界でも死者に使われる道具としての役割を果たすようになったのだと考察した。
以上考察の結果から、クフ王の舟は地上においては王を乗せて自らのピラミッドへと向
かう葬祭船の役割を果たしたものであり、解体という加工を経ることによって死後の世界
でも王に使われる舟、つまり太陽舟としての役割を持つようになったものであるといえる
だろう。
古代ローマ世界における街道の利用
手塚 未来
古代ローマ世界は非常に発達した道路網を誇っていたことで知られているが、これまで
の研究では政治的・軍事的な意義が重視され語られてきた。しかし、その一方でその道を
観光や旅行目的で利用してきた人々について語られることが尐なかった。そこで卒業論文
では先行研究でなされてきた街道の軍事的・政治的な側面への評価に加え、観光や旅行者
にどのように貢献してきたのか考察することで古代ローマ世界における街道について再評
価を行うことを試みた。
第一章では、軍事的・政治的な役割を担った街道、つまり支配の道としての街道につい
て先行研究を踏まえて検討を行った。かつて本国ローマと前哨基地とを結ぶ軍用道路とし
て登場したローマ街道は有機的な道路網として機能し駅伝制度の舞台となったこともあり
植民市・属州の統治に貢献していた。またグラックス兄弟の例から民衆の人気を得るため
に街道建設が政治闘争の道具として使われていたことを明らかにした。
第二章では、旅の手段として利用された街道について検討を行った。ホラーティウスの
「ブルンディシウム旅日記」に記された当時の旅の日程や移動方法、食事や宿泊施設につ
いて検討することで街道を旅行していた人々がどのように旅をしていたのかを考察し、ロ
ーマ世界を描いた旅行地図「ポイティンガー図」の存在から街道を利用して巡礼地や温泉
地へ私的な旅を行った人々の存在について確認した。
第三章では、古代ローマ世界における旅の目的地の一つとして国際競技会に着目し考察
を行った。紀元前 8 世紀に再興されたオリュンピア競技会に代表される国際競技会は回を
重ねるごとに競技種目を増やし、広範な地域から多くの人を集めるようになった。また暴
君として知られるローマの第 5 代皇帝ネロも競技会に魅了された一人で、自身の名前を冠
したギリシア風の競技会である「ネロ祭」を主催したことやネロ帝自ら 1 年間かけてギリ
シアまで旅行を行い競技会へ参加していたことなどから競技会が当時非常に魅力的な催し
であったと言える。
古代ローマ世界における街道は、軍事的な目的で敶設がなされ道路網として有機的に機
能することで植民市・属州の統治に貢献してきただけでなく、そこには旅をする人々の存
在が確認でき、古代ローマ世界に様々な形で恩恵をもたらしたものであったといえるだろ
う。
ローマ人のアイデンティティとキリスト教
堀
智貴
1970 年代から北アメリカを中心として発展した「古代末期」研究や、従来の古代史研究
の動向から、今日の学界における問題として浮上しているのが、蛮族問題をどのようにし
て捉えるのか、という点である。このような研究動向を鑑み、ローマ人のアイデンティテ
ィと蛮族意識について考察する必要があると筆者は考えている。
筆者は、ローマ帝国の変化や衰亡は、外因性・内因性の要素の両方の影響を受けて生じ
たのだと考えている。そこで本稿では、内因性の要素としてローマ人のアイデンティティ
の変化を取り上げ、それに対してキリスト教が与えた影響を考察する。また外因性の要素
として蛮族の侵入に注目し、ローマ人のアイデンティティと蛮族意識がどのように変化し
たのか考察する。
第 1 章では、ローマ帝国の都市に注目し、都市参事会員の変化とキリスト教徒の増加に
ついて検討した。それによって、都市の自治機能を担っていた都市参事会員は「3 世紀の
危機」の影響を受けて没落し、彼らは自らの負担を軽減させようと試みたが、それらはコ
ンスタンティヌスによる立法によって阻まれることになり、これはローマ帝国の特徴であ
った社会的流動性を阻害するものとなったことが分かった。キリスト教徒は、コンスタン
ティヌスによって保護・優遇されたことがきっかけとなって、社会的流動性が失われた社
会の間隙に入り込む形となって拡大した。
第 2 章では、コンスタンティヌスの宗教観について、様々な面から考察を行った。彼は
一般に指摘されているような「シンクレティズム(諸教混同主義)
」ではなく、また、キリ
スト教にイデオロギーを見出したために改宗したのではなかった。彼は宗教の自由に対す
る考えをもっており、これは彼の「統一」を目指す思想にも繋がっていた。以上より、キ
リスト教が保護されたのは、彼の宗教観や政治思想によるものが大きいと筆者は考える。
第 3 章では、ローマ人のアイデンティティと蛮族意識について考察した。ローマ人は成
立当初から異民族や異文化に対して寛容的であったことが指摘されているが、ローマ人は
異国の神々に対しても、異民族に対しても、一度自らと同化させてから受け入れており、
ガーンジィ氏の「寛容」の定義に基づくと、本当の意味で「寛容」ではなかったと言える。
一方、本当の意味での「寛容」はキリスト教護教論の中で見られたが、コンスタンティヌ
スによってニケーア公会議で「正統」と「異端」がはっきりと示されたことで、キリスト
教は次第に「不寛容」になっていった。さらに、アドリアノープルの戦い以降、ローマ人
のアイデンティティは、その拠りどころを過去の栄光に見出すほどの危機に陥っていた。
これらを踏まえ、ローマ人はもともと「不寛容」であり、ローマ人が「寛容」であった
のは、自らに同化しようという意志を示した者にだけであったこと。またこれが出来るの
は自らに余裕があるときだけであり、キリスト教の拡大、蛮族の侵入によって余裕がなく
なり、ローマ人が元来持っていた「不寛容」の側面が際立つ結果になった、と結論付けた。
中世イベリア半島におけるムデハル認識
後藤 真穂
中世イベリア半島は約 800 年に及ぶレコンキスタによって、キリスト教、ユダヤ教、イ
スラム教といった異なる宗教が併存した多元的世界であった。その中でも、キリスト教徒
の再征服後アンダルスから移住することなく残留し、その支配に服したイスラム教徒をム
デハル(mudejares)とよぶ。このようなキリスト教諸国における他者認識、特にムデハ
ル認識に関して研究者の間で様々な見解が存在しており、一つの結論には至っていないの
が現状である。そこで卒業論文では、ムデハルの残した遺産の代表例であるムデハル建築
とムデハルに関する文書史料の二点を用いて、ムデハル認識に関して再検討することを目
的とした。
第一章では、半島情勢とムデハル出現の時期・境遇について述べた。レコンキスタは 800
年間にも及んだが、実際に運動が活発化したのは 11 世紀以降であることを示した。その
中でもカスティーリャ王国のアルフォンソ十世、アラゴン連合王国のハイメ一世は、キリ
スト教国を文化的政治的にも大きく発展させたとして、両王の治世について述べた。また
ムデハルがいつ出現し、どのような境遇で存在していたかについても同様に両国に注目し
た。
第二章では、建築からムデハル認識について考察を行った。ムデハル建築はムデハルに
よって建てられたキリスト教とイスラム教との複合様式のことを指す。そのムデハル建築
の代表例として、アルハンブラ宮殿とアルカサルに注目した。特に宗教的要素に着目し、
それらを現在に至るまで維持しているという点で、この時代のキリスト教徒が尐なくとも
ムデハルの文化・建築に関して大変寛容な姿勢であったのではないかと推察した。
第三章では、文書史料からムデハル認識について考察した。ここでは先に述べたアルフ
ォンソ 10 世の編纂した
『七部法典 Las Siete Partidas』と、
『ハイメ一世業績録 Llibre dels
fets del rei en Jaume』を用いた。両者に共通して、キリスト教徒はムデハルが信仰を保
持することに関しては認めていた。しかし両者の関係性は決して対等とは言えなかった。
あくまでキリスト教徒側の優位性を維持する姿勢が随所に見られ、信仰の許可もムデハル
の反乱を防ぐ意味があったことが判明した。
中世イベリア半島において、キリスト教徒とムデハルは完全な「対立」関係にあったわ
けではなかった。キリスト教徒はムデハルの残した遺産を尊重し、多大なる影響を受けて
おり、文化的には対等な面もあったといえる。しかし文書史料を通してみると、実際には
差異があった。ムデハルは信仰を許されてはいたものの、そこにはキリスト教徒の優位性
が垣間見えたのである。つまり中世イベリア半島におけるムデハル認識は、文化面で対等
な部分があったにせよ、もともと脆い関係性であり、時代を経て最終的に悪化の一途を辿
っていったと言えよう。
グレゴリウス改革期の教会と結婚
飯田 葵
中世キリスト教会と王侯貴族をはじめとした世俗人たちは、長く、結婚をめぐって熾烈
な争いを続けてきた。しかしその背景には、一丸となった教会人の統一的な結婚観が存在
した訳ではない。世俗人と教会人による一騎討ちという図は存在しなかった。なぜなら、
聖職者たち自身も結婚していたからである。10、11 世紀の西欧において、聖職者たちの道
徳倫理は世俗支配のもとに荒廃し、その様な世俗的生活に埋没した状態を浄化しようと志
したのが、グレゴリウス改革である。この改革により聖職者倫理の刷新が行われ、聖職者
の妻帯は禁止されるに至った。まず第 1 章では、グレゴリウス改革の原因たる当時の教会
の危機的状況と、
改革以前のニコライティズムに対する動きを確認した。
続く第 2 章では、
聖職者妻帯は本来、妻帯聖職者とその妻との間に貞潔が守られる限りにおいて教会法で許
されていたものであり、聖職者の妻帯とは、すなわち俗人と同様の生活が彼らに許された
ことを意味していなかった点を明らかにした。
そして改革以前の聖職者独身制というのは、
变品時に生涯独身の誓約をした者あるいは妻を娶ることを宣誓しなかった者に課せられる
制度であった。しかし倫理的に荒廃した 10、11 世紀の聖職者たちは、貞潔義務を放棄し
て性的放埓のうちにあり、
教会腐敗の象徴あるいは原因となっていた。その様な状況の中、
聖職者の妻帯禁止は改革当初から中心的問題として捉えられた。第 3 章では、主だった改
革教皇たちの活動から、改革以前とは異なる「新しい独身制」を導き出す。グレゴリウス
改革の基本理念には、社会の秩序づけとして全ての俗人の上に全ての聖職者を配置するこ
とがあった。その実現のためには、聖職者と俗人との違いをこれまで以上に明確にする必
要があり、よって全聖職者たちに修道士的貞潔が強要されるに至った。レオ 9 世の関心は
主にシモニア問題に向けられ、彼の時代に聖職者妻帯禁止への革新的な取り組みは成され
なかった。レオに引き続くヴィクトル 2 世とステファヌス 9 世も、聖職者妻帯問題へ取り
組んでいたことは確認できるが、4 世紀以来の独身制を繰り返すにとどまっており、彼ら
の活動期に聖職者独身制の新しさは見られない。
「新しい独身制」はニコラウス 2 世によ
って打ち出された。妻帯聖職者とその妻との同居禁止と、一般信徒への不貞聖職者による
ミサの聴聞禁止という彼の決議は、
アレクサンデル 2 世やグレゴリウス 9 世に受け継がれ、
一層聖職者妻帯の根絶が目指された。また、グレゴリウスは経済的諸問題についてより詳
細で明確な教令を出すことで、俗人たちには教会財産とその収入の返還を命じ、聖職者に
はその保全を厳命することで、経済的側面からも聖職者の倫理的改革を進めた。
しかし 12 世紀前半までは、事実上聖職者の結婚は不法とされながらも、依然としてそ
の拘束力を失わなかった。改革教皇たちの決議・教令に対して、各地の聖職者たちは荒々
しい反発を見せ、実際に聖職者妻帯が法的に拘束力を失うには第 1 回、第 2 回ラテラノ公
会議における決議を待たねばならなかった。
中世フランスにおける聖母マリア信仰―12、13 世紀を中心に―
佐藤 翔
12 世紀から 13 世紀にかけての中世では、聖母マリアに対する信仰が爆発的な広まりを
みせていた。特にフランスでは聖母に捧げられた聖堂が各地に建立されるなど、その動き
は顕著に見られた。そこで本稿では、12 世紀から 13 世紀のフランスに焦点を当て、なぜ
この時代に民衆は聖母マリアへの信仰を高めていったのかを明らかにすることを目的とし
て考察した。
第 1 章では、当代における聖母マリア信仰高揚の要因について大地母神との関連から考
察した。11 世紀半ばから始まる大開墾運動を契機とした急速な都市化現象により、互いに
疎遠で一体感のない群れの中に投じられた民衆の間で救済願望が高まっていたことが影響
していたことを明らかにした。彼らはそれぞれ固有の大地母神を崇敬してきたが、互いに
それを強調し出すと、信仰する対象の差異によって断絶が深まる。ゆえに民衆はそれまで
崇敬していた大地母神に代わる新たな信仰の対象を求めたことで、大地母神との関連がみ
られる聖母マリアに信仰の対象を移していったのだと考えられる。
第 2 章では、聖母像の変遷について分析した。ロマネスク芸術では、聖母はキリストの
生涯の場面に登場することが多く、そこに描かれる聖母には荘厳なイメージが与えられて
いた。一方ゴシックでは(1)聖母子像の「マギの礼拝」図からの独立、(2)聖書外典偽
典に基づく新しい彫刻群の創造、
(3)聖母子座像から聖母子立像への変化が見られた。そ
れぞれ分析した結果、キリストよりもマリアに焦点が当てられるようになるとともに、時
代が下るにつれて従来の威厳ある姿から優しさや親しみやすさといった人間的側面が強調
される傾向が明らかになった。聖母の人間的な部分を強調することによって、聖母への執
り成しを求める民衆に対し、より親密さを感じ取らせるような表現へと移っていったのだ
と考えられる。
第 3 章では、12 世紀から 13 世紀の聖母マリアのイメージに多大なる影響を与えていた
と考えられる聖ベルナルドの説教と聖母マリアに関する民間伝承の記述を取り上げ、それ
らが同時代の民衆にどのような聖母マリアのイメージをもたらしていたのか考察した。
12 世紀から 13 世紀のフランスで聖母マリア信仰の高揚が見られた背景には、民衆の中
で聖母マリアに対する救済願望が高まってきたことが関係していることが明らかとなった。
しかし、民衆の中で救済願望が高まっていただけではなく、聖ベルナルドが構築した神学
論の中で仲介者としてのイメージが確立していたことや、民間伝承の中で語られるマリア
が救済の象徴として描かれていたことも影響していたものと推察される。当時の社会状況
も考慮すると、執り成しを希う人々がより近づきやすいようゴシック以降の聖母像は人間
化の傾向を強めていったのだと結論付けた。
中世ケルンの救貧
三村 友紀奈
中世ドイツ最大といわれる人口規模を誇ったケルンは、ライン都市同盟解体後から領邦
君主たる大司教と市民の対立関係が激化し、13 世紀末頃から市民たちが都市の自由を大き
く獲得するに至った。以降も対立関係は続くが、ケルンが目指したのは主に領邦君主とし
ての大司教からの自由と独立であり、市民の宗教活動や信仰生活の排除ではなかったこと
が、ケルンにおける都市側と教会側の関係性を複雑にしている。そのなかで市民、特に貧
者はどのように生活し、都市側と教会側によってどのようにあつかわれていたのか。本稿
では、都市側と教会側の立場からそれぞれ救貧について考えることで、中世、特に 15,16
世紀ケルンにおける、都市側と教会側の関係性の一端を明らかにしようとした。
第 1 章では、15,16 世紀のケルンの支配構造、救貧行為の担い手や貧者の定義について
概観した。13 世紀以降、都市の自由を獲得したケルンだが、教会側の影響力も依然として
強く、都市側と教会側は世俗の権利や救貧機能をめぐって対立していた。ケルンの貧民救
済は、教会施設だけでなく都市側によっても行われた。教会側と都市側は救うべき貧者の
定義が異なり、教会側は巡礼者や市外から流れてきた貧者を含めたアウトサイダーをも救
貧行為の対象としたが、都市側は彼らを市内の良き貧者と区別して拒んだ。第 2 章では、
都市側による救貧について論じた。都市参事会は余所者の貧者の浮浪行為を取り締まるた
め浮浪規制を出した。余所者を排除することで都市側にとって不当な物乞いを減らし、元
来市内にある救貧機能を市内の貧者のために使おうとしていたと考えられる。また、都市
側による救貧として貧者の食卓と聖霊の家を取り上げ、これらが完全に教会側と関係を絶
ったものとは言い切れないとした。そして、16 世紀後期の参事会員ヘルマン・ワインスベ
ルクの回想録から、参事会員として取り組むべき責務と、彼個人の救貧への意識に差異が
あることを考察した。第 3 章では、教会側による救貧について論じた。ルカ福音書、司牧、
兄弟会から、キリスト教における救うべき貧者、救貧への意識をみた。ケルンには多くの
教会施設があり、
市内の良き貧者だけでなく、アウトサイダーをも救う義務を負っていた。
貧者や病人だけでなく巡礼者の世話もした病院や施療院、喜捨の対象となった托鉢修道会、
市民の扶助に預かっていたベギン会から、教会側の救貧行為について考察した。結論の前
に、都市側と教会側の双方に共通する救霊のための喜捨について確認した。市民だけでな
く、参事会員の多くが、教会への喜捨を通して自らの魂の救霊を祈った。参事会は経済活
動や救貧機能において教会側と争ったが、彼ら個々人の宗教活動や信仰の面では、教会を
救霊のための仲介者として頼っていた。ケルンの自治権の強さと宗教的な都市としての性
格は、完全に対立しているようで、実際には瞭然と二分されるものではない。中世ケルン
における都市側と教会側は、ことに救貧機能において、一部ではそれを奪い合い、一部で
はそれを補完し合っている。このことから、同時代のケルンにおける都市側と教会側の関
係性が、救貧機能と同様に、対立と互いの補完の両側面を持ち得ていたと結論づけた。
フランチェスコ会とマグダラのマリア
加藤 綾乃
マグダラのマリアは福音書に登場し、キリスト教世界では、聖母マリア、エヴァと並ん
で最もポピュラーな聖女の 1 人であり、図像化された例も数えきれない。彼女のイメージ
はイエスにつき従う者、娼婦、苦行者といったものだけに留まらず、多様な側面を組み合
わせて形作られている。それ故に彼女が図像化される際には描かれた時代や場所によって
人々の心性が反映され、役割が選択されて与えられている。卒業論文では、マグダラのマ
リアに与えられた役割をより具体的に考察したいと思い、フランチェスコ会に焦点を当て
る。フランチェスコ会におけるマグダラのマリアは、先行研究では、この修道会の中心的
教義を彼女自身がそのモデルとなって観者に伝えるという「模範」的な存在であったこと
が明確となっている。本稿ではマグダラのマリアがなぜこのフランチェスコ会で模範とさ
れるほどの高い地位を得たのか、そしてそれは図像において、どのように描かれ表現され
たのかを問題として設定する。また女性にとってのマグダラのマリアはどのように描かれ
ていたのかにも言及する。
第 1 章では、マグダラのマリア像の形成過程を福音書から『黄金伝説』にわたって述べ、
そこで出来上がっていく彼女のイメージとフランチェスコ会との関係を探る。彼女の償い、
観想、苦行とった側面がこの修道会と通ずることを示唆した。
第 2 章では、フランチェスコ会においてマグダラのマリアはどのように描かれていたの
かを磔刑図、マッダレーナ礼拝堂壁画から分析した。彼女のイエスに対する感情的な振る
舞いを、観者となる会士や信者たちの模範として重視しながら、フランチェスコにその振
る舞いを託すという、より効果的な表現で描かれていることを指摘した。
第 3 章ではフランチェスコ会の女性が見ていたと考えられる図像から、女性にとっての
マグダラのマリア像を考察した。描かれる場所、観者によって、女性たちの望まれる姿と
してのマグダラのマリア像が意図して描かれていることを述べた。
以上のことからフランチェスコ会は償い、観想、感情の共有を信仰の上で重要視してお
り、
その 3 つすべてにおいてマグダラのマリアは優れた模範を提供するエピソードを持ち、
従って高い地位を与えられていたと結論づけた。図像表現においてはマグダラのマリアは
模範でありながら、描かれる場所、観者によってより効果的な表現が選択され、描かれて
いた。女性が見るマグダラのマリア像は、作者の意図が強く感じられ、感情の共有の模範
という性格よりは、行いの理想が全面的に描かれていると考えた。
聖母マリアの「無原罪」の表現研究
丸山 紗也加
「無原罪の御宿り」とは、聖母マリアはその母アンナの胎内に宿ったときから原罪から
免れていたというカトリック教会における考え方である。この抽象的な教義を図像化する
際にはさまざまな表現方法が生まれた。卒業論文では、
「無原罪の御宿り」を主題とした 15
~16 世紀の図像には「原罪」のモチーフを描き込んでいるものがあることに着目し、
「原罪」
が描かれているかどうかによって作品を分類して考察を行い、画面に「原罪」のモチーフ
を描き込むことにはどのような意義があったのかを探った。
第 1 章では、
「無原罪の御宿り」の図像が描かれた背景には、どのような思想や社会的事
象があったのかを概観した。13~14 世紀の神学者であるドゥンス・スコトゥスの論証によ
ってカトリック世界で広く受け入れられるようになった「無原罪の御宿り」は、マリア信
仰をより強固なものにしてプロテスタントに対抗するために用いられたと考えられる。そ
の際に、図像を使用して「無原罪の御宿り」を信徒に理解させることは効果的であり、そ
の図像をわかりやすく描くことが重要であったという可能性を指摘した。
第 2 章では、
「無原罪の御宿り」の図像を「原罪」のモチーフが描かれている作品と描か
れていない作品に分類し、それぞれの作品がどのように「無原罪」を表現しようとしてい
るのかを考察した。
「原罪」のモチーフが描かれていない作品では、銘文やシンボルによっ
て「無原罪」を表現しようとする図像が多く見られた。
「原罪」のモチーフが描かれている
作品では、
「原罪」をあらわすアダムやエヴァの上にマリアを描いてマリアが罪を超えた存
在であることを主張し、
「無原罪」を表現しようとしていた。
第 3 章では、第 2 章での考察をもとにして、それぞれの作品の教化的効果について考察
を行った。
「原罪」のモチーフが描かれていない図像では「無原罪」を表現するためにラテ
ン語の銘文を用い、マリアの純潔をあらわすシンボルを多く画面に配するなど、信徒には
わかりづらいものになっていただろう。それに対し「原罪」のモチーフが描かれた図像は、
アダムとエヴァは「原罪」をもたらした存在であるという普遍的なイメージを用いて「無
原罪」を表現しようとしている。またこのような図像では、マリアをアダムとエヴァより
も上に描くことによって、視覚的な上下関係から「無原罪の御宿り」の理解を深めること
ができると考えられる。
したがって、
「無原罪の御宿り」の図像において「原罪」のモチーフを画面に描き込むこ
とは、信徒が「無原罪の御宿り」という考え方を理解しようとする際に、その理解を促進
させる教化的効果があったと結論付けた。
ジャン=シメオン・シャルダンの風俗画
山口 美咲
画家ジャン=シメオン・シャルダン(1699-1779)の風俗画をめぐっては、研究者たちの
間でその作品解釈や制作意図について意見が分かれている。そのうちの主な論点が作品に
おける寓意の有無と、女性や子どもを好んで描いた理由である。これらの問題は、どちら
も背後に 17 世紀ネーデルラント絵画との密接な関係があり、互いに無関係ではない。そこ
で本稿では、シャルダンの作品を分析しこの 2 つの論点について結論を出すことを目的と
した。第 1 章では、17 世紀後半~18 世紀のフランス美術の動向について考察した。シャル
ダンが聖ルカ・アカデミーを退会して王立絵画彫刻アカデミーに入会することとなった経
緯、大きな影響力をもった絵画の位階論、18 世紀におこったネーデルラント絵画の流行に
ついて述べた。第 2 章では、寓意があるとしばしば指摘される「カードのお城」を主題と
したシャルダンの 4 点の作品を取り上げ、構図やモティーフの分析を行い、そこに寓意を
読み取ることが可能かどうか考察した。
16、
17 世紀のネーデルラントおよびフランスでは、
カードはヴァニタス画のなかのモティーフあるいはいかさまや戯れの恋などの象徴として
描かれていた。その伝統を受け継ぎ、18 世紀に入り人気の主題となったカードのお城遊び
を描いた絵画も、人生や努力のむなしさ、はかなさを象徴するものと受けとめられ、シャ
ルダンの同主題の作品にも版画化の際にはそのような内容を記した銘文が付けられた。し
かし、同時代の画家たちにみられるような明らかに崩壊をイメージさせる表現はなく、一
般には風俗画と分類されるものの、親しい友人の息子をモデルとした肖像画でもあるロン
ドン作品とほか 3 作品とでは、その構図において多くの共通点がみられた。したがって、
むなしさやはかなさといった寓意よりも、遊びに没頭する子どもの仕草や表情を描くこと
が画家の真の意図だったのではないか。加えて、ラケット遊びや独楽回しといった子ども
の遊びを描いた作品の分析も行ったが、寓意があると断定できるような表現はみられなか
った。第 3 章では、シャルダンの作品に登場する人物の多くが女性と子どもである理由に
ついて、画家の結婚に起因するという説、女性に期待された教育者としての役割が体現さ
れているとする説に関して検討した。その結果、シャルダンの風俗画には彼の妻との結婚
生活をうかがわせる人物やモティーフがしばしば描かれ、教育者としての女性の役割の重
要性が認識されつつあった当時のフランスの社会状況に呼応して、注文主もそのような教
育的場面を描いた作品を求めていたことが明らかになった。さらに、シャルダンが風俗画
を手がけ始めた頃熱心に描いていた家事をする女性に注目し、その図像伝統について考察
すると、17 世紀ネーデルラントで同主題の作品が盛んに描かれており、それらとシャルダ
ンの作品との間には構図やモティーフに関連性がみられることがわかった。この事実と、
シャルダンが風俗画に取り組み始めた 1730 年代にはフランスでネーデルラント絵画がブー
ムとなっていた状況から、美術市場の需要に応えるため、17 世紀ネーデルラントで流行し
た主題の制作に取り組んだと考えられる。
近代ドイツのツンフト制度
野澤 誠
ドイツでは職人になるための教育制度が整い、さらに職人の技術を守り、国の産業を育て
ていくためにマイスターという資格を与えるマイスター制度が存在する。シュルツは 11 世
紀ころを起源に始まったツンフト制度が現代国家の共同組合の自己責任や共同決定、さら
に規則や職業教育、社会福祉事業にも大きく影響を与えていると主張している。この手工
業の歴史をたどると 20 世紀の初頭に、カール・ビューヒャーが手工業者は名誉ある人物で
あるとしていたように、
「名誉(Ehrlichkeit)」の問題にたどり着く。本稿は 1731 年の帝国
手工業法を中心に考察することで「悪弊」とされた手工業者の習慣と表裏一体の関係であ
ったと考えられる、手工業者の「名誉」を明らかにすることを目的とした。また、同法の
制定をきっかけにこれまであったツンフト制度は、権利を次第に失うなどして 19 世紀を中
心に変化を遂げていくことになった。
第一章ではツンフトの持つ特権としての「独占権」「強制権」「物件的営業権」について述
べた。また、マイスターになるまでの手工業の出自をニュルンベルクのパン職人などを例
にとり、確認することで、次章以降の理解を深めようとした。
第二章では帝国手工業法を史料として、当時「悪弊」とされ禁止された手工業の習慣につ
いて明らかにした。非嫡出子や賤業手工業をツンフトや職人仲間に入れないといった習慣、
マイスターの息子が優遇され本来行うべき修行を免除された習慣、マイスターになる際に
作られた親方作品の審査や手続きが厳しかったことなどは禁止された。そのうえでこのよ
うな「悪弊」の裏にあったであろう手工業者の「名誉」について考察を加え、ツンフトの
規約と倫理規範に忠実な団体行動様式を守ること、技術を得て賞賛を得ることの 2 つに手
工業者の「名誉」を分類した。
第三章ではこういった法律をきっかけに「職人と親方」の対立から「職人と帝国・都市」
の対立構図に変わっていった近代、とりわけ大きく変化を遂げた 19 世紀の営業政策などを
取り上げ、その情勢の中でのツンフトの立ち位置などを考察した。プロイセンでは「営業
の自由」が導入され、ツンフトの権利は大きく抑制されたがツンフトの持っていた職業教
育的な面は評価されていた。またバイエルンでは中間的な政策をとりつつも、営業協会の
成立で事実上のツンフト廃止になった。いずれの場合にせよ、19 世紀のドイツでは「新し
い手工業のあり方」が模索されていた。
近代はツンフトの衰退期ともいえるような時代ではあるが、1945 年の敗戦後、機械や原
材料が失われていた中で、真っ先に経済の復帰に反応したのが、熟練の技術や協働のもと
製品を生み出す手工業であったこと、現代において教育的な面を残していることは、近代
まで育まれた「名誉」を含むツンフトの精神が生き続けていた産物であるといえよう。
フランス革命期における初等教育と子ども、家族
鎌田 栞
フランス革命は、現在のフランスを形成するにあたって大きな影響をおよぼした事件で
あった。そのため、革命について論じた研究は多く、着眼点や研究系統も様々である。本
論文では、
「家族と教育」という分野に焦点を当て、アンシャン=レジーム期から革命期に
おけるブキエ法の制定までの期間の教育を考察した。
第一章では、アンシャン=レジーム期を取り上げ、「子どもの発見」から、子どもや教育
への関心が高まっていく過程を概観した。また、プロテスタントやカトリックによって、
布教を目的とした初等学校が設立されたことを確認し、それらの学校のフランス国内にお
ける普及状況や教育方針について考察した。アンシャン=レジーム期の初等学校は、数と
質の両方において決して均一なものではなく、男女別の教育が推奨されるなど、まだ前近
代的な側面が見られた。
第二章では、フランス革命勃発直後の教育体制に着目し、国家が公教育の整備に取り組
むようになる過程を追った。また、1791 年憲法により保障された、初等階梯の教育の無償
性を踏まえて提案された公教育案である「タレイラン案」、「コンドルセ案」を取り上げ、
両案の特徴を分析し、比較、検討を行った。両案は教育内容や「義務教育」を否定したこ
となど共通点が多く見られたが、女子教育に関する考え方に違いが見られた。「タレイラン
案」では女子が公教育から排除されたのに対して、
「コンドルセ案」では、男子とは区別さ
れるなど積極的であったとは言い難いが、女子にも公教育が認められていた。
第三章では、王権の停止から国民公会期の家族関係や教育制度に着目した。国王処刑が
行われ共和政が施行されると、フランス国内にあった家父長的な観念の崩壊と共に父親の
権威が低下し、子どもや女性の存在が家族内で確立されていくようになった。この傾向が
示された「ブキエ法」を取り上げ、
「タレイラン案」や「コンドルセ案」と比較、検討を行
った。
「ブキエ法」は男女間の公教育に差異を設けなかったが、義務教育を謳った統制色の
強い法令であった。この法令は革命開始後初めて実際に施行されるに至ったのだが、まだ
全国に均等に普及することはなかった。
以上の考察から、教会に掌握されてきた公教育が、革命によって国家の手で管理される
ようになり、多くの政治家によって公教育案が提案され、議論されてきたことがわかった。
一応の結論を出したブキエ法までの教育案を見ていくと、公教育案はその時々の革命の情
勢と深く絡み合っていたことが明らかとなった。それぞれの法案の述べる内容には違いが
あったが、根本的な目的や目標は共通であり、どの法案も、フランスという国家を何らか
の形で統一的なものにし続けるべく、練られていた。フランスの統治体制は時代と共に変
化したが、その変化に対応し、未来を築いていく子どもを育てる機関を制定するべく、初
等教育法案は多くの政治家や革命家の議論の対象となり続けたのであった。
パリ都市改造と歴史的意義
川田 陽介
第二帝政期(1853-1870)に、フランス第二帝政の皇帝ナポレオン 3 世(1808 - 1873)
とセーヌ県知事ジョルジュ=ユジェーヌ・オスマン(1809 - 1891)によって行われたパリ
都市改造は、多岐にわたる事業内容であり、様々な立場から判断することが可能であるた
めに一概に甲乙を付けることは困難である。本稿では、都市改造が当時の民衆の生活や慣
習に与えた影響を考察し、二人の主導者の都市改造構想や改造後の都市構造が現代までど
のような意味をもたらしているのかを明らかにした。
第 1 章では、第二帝政期以前のパリの状況を様々な観点から分析した。当時のパリは、
急激な人口増加が発端となって、住宅不足問題や不衛生問題が発生した。また、産業化に
対して、街の機能が追い付いていけない事態が起きていた。さらに、改造計画の実行者で
ある二人の主導者のそれぞれの改造計画の構想の特徴を变述した。
第 2 章では、改造内容を事業ごとに分けて考察した。薄暗く細い路地裏が多くみられて
いた街路は、各地区を結ぶ卖純かつ大胆な大通りとして造り変えられ、スムーズな移動が
可能となった。また、エトワール広場にみられる 12 本の放射状に延びる街路を代表するよ
うに、街の景観に「美観」をもたらした。景観をなすもう一つの要素として住宅が挙げら
れる。オスマンは街路とそこに立ち並ぶ建物を一卖位として考えており、都市の枠組みに
一定のバランスを設定し、均質さを保とうとした。この都市改造は、公共的設備の整備に
も力を入れたことも重要な事業である。後れを取っていた上下水道整備はのちにヨーロッ
パ諸国をリードするまでになった。また、街の至る所に公園と緑地といった人工的な自然
をもたらした。急速な産業化を遂げていたパリに住む人々に、心の安らぎを与えていった
ことは注目すべき点である。
第 3 章では、この都市改造の評価や社会的影響、
「都市改造」という概念への影響を考察
した。この都市改造は複合的な目的を持った全体性を重視したものであるために、様々な
視点からの賛否が対立している。しかし、この改造がフランスの首都としてのパリ、観光
都市としてのパリへと導いていったことは間違いない。また、この都市改造は、
(1)ブル
ジョワジーの都市、
(2)美観、(3)都市の構造化、という要素を持った都市計画、いわ
ゆる「オスマニザシオン」として、その後の近代都市計画のモデルとなった。
ナポレオン 3 世のフランスにとらわれない国際的な要素とオスマンによって都市改造に
美観をもたらしたことで、改造が断片的なものではなく全体性を持った都市計画としての
改造が実行され、現代のパリへと導いていったといえるだろう。また、「都市改造」の概念
を近代的にしたことも重大な影響をもたらしたといえる。
世紀転換期ドイツにおける青年運動と音楽―„Volkslied“ 受容を中心として―
牧野 広樹
本論文は、20 世紀前半のドイツ青年運動研究においてこれまでほとんど扱われてこなか
フォルクスリート
フォルクスリート
った音楽、特に 民 謡 を主題とし、 民 謡 が青年運動においてどのような文脈で受容さ
れ、またそのなかに何が見出され、託されたのかを明らかにするものである。
第一章では、主に本稿で取り扱う 1896 年から 1913 年ごろまでの青年運動を概観した。
第二章では、青年運動における音楽活動についての先行研究を確認し、その問題と課題
を提示した。その結果、戦間期ドイツにおける青年音楽運動についてはある程度研究の蓄
積があり、その端緒としての世紀転換期ドイツにおけるワンダーフォーゲル期の音楽活動
については、なお研究の余地があることが分かった。
フォルクスリート
第三章では、ドイツ青年運動と 民 謡 について、第一次世界大戦前夜を中心に考察した。
世紀転換期ドイツにおける青年運動のなかで主に扱われる民謡集『ギター弾きのハンス』
の第一、四、七、九、十版に向けた序文とブロイアー(Hans Breuer, 1883-1918)の 1910
フォルクスリート
年の論考『ワンダーフォーゲルと 民 謡 』、1912 年のリッティングハウス(Friedrich
フォルクスリート
Wilhelm Rittinghaus, ?-1915)の論考、
『 民 謡 と新しい音楽家』の分析から、第一次世
フォルクスリート
界大戦前夜の青年運動における 民 謡 は、≪ドイツ的なもの≫を表す概念としての
„Volkslied“=„Volk“<民族>の„Lied“<歌>と、≪普遍的なもの≫を体現する概念としての
„Volkslied“=„Volk“<人々>の„Lied“<歌>という二つの側面を併せ持っていることが明
らかとなった。
フォルクスリート
第四章では、 民 謡 に表象される≪普遍的なもの≫が、露骨な自民族中心主義を隠蔽す
るような「建前」
、あるいは実現されることのない「理想」でしかありえなかったのではな
いかという、言説と実践の間の齟齬や乖離の可能性を考え、それについて 1913 年のホーエ・
マイスナーにおける自由ドイツ青年大会に関するいくつかの考察によって補完を試みた。
第五章では、まとめとして、世紀転換期ドイツにおける青年運動と音楽について、第一
次世界大戦を念頭に置きつつ最終的な考察を試みた。青年運動に参加した人々は、ドイツ
民族のために」≪ドイツ的なもの≫を称揚したのではなく、
「全人類のための」≪ドイツ的
なもの≫を称揚した。つまり、≪普遍的なもの≫のためには≪ドイツ的なもの≫に参画す
べきであるという論理構造が彼らを戦争参加へと導いたと考えられる。しかし彼らはそれ
フ
ェ
ル
キッシュ
ゆえに、容易に、極めて民族至上主義に近い立場へと転向してしまえる可能性を孕んでい
フォルクスリート
たことは留意しておかねばならない。概念装置としての 民 謡 には、このような論理構造
フォルクスリート
が託されていたのであり、また反対に、 民 謡 という表象が<神話>として社会にアクチ
フォルクスリート
ュアルに作用していたとするならば、 民 謡 はこのような論理構造を支え、また象徴する
ものとしてあったと言えよう。
ナチス・ドイツにおける反ユダヤ主義と民衆
鈴木 貴洋
大規模なユダヤ人の迫害が行われたナチス統治下のドイツにおいて、反ユダヤ主義は重
要な理念の一つであった。従来の先行研究においてその思想は強い影響力を持っていたと
されていたが、近年発達した日常史研究では民衆の無関心が指摘され、スローガンとして
は軽視される傾向にある。本稿では、イデオロギーという観点から見た時、反ユダヤ主義
はどのような意味合いを持ち、また民衆とはどのような関係にあったのか考察した。
第 1 章では、人種論の展開の歴史的経緯と、ナチスが敶いた反ユダヤ主義政策の実態を
分析した。人種論における特定の人種の優位性の主張は、社会的支配層の正当化の根拠と
され、優秀な「アーリア人種」という神話が作り上げられた。それと同時に、ユダヤ人に
対し血の劣化と人種的腐敗をもたらす敵としてのイメージが形成された。ナチ政府の反ユ
ダヤ主義政策によって、彼らは社会的・経済的な迫害を受けた。
第 2 章ではまず、ナチスが政権を獲得する際のドイツ国内の状況と、政権獲得後の経済
政策を検証した。失業、貧困、社会的地位の危機にあった中産階級を中心とする民衆が、
経済の回復を期待し反ユダヤ主義に傾倒したが、政府や大企業中心の経済政策を受けて離
れていった、という過程を論じた。次に、過激化する迫害に対する民衆の反応を分析し、
それが意味する心理状態を考察した。人々は、無関心、ときには拒絶や憤激といった態度
を示しており、当時の反ユダヤ的感情は決して強くはなかった。
第 3 章では、イデオロギーとしての反ユダヤ主義の意義や、宗教的・伝統的反ユダヤ主
義と人種論的反ユダヤ主義との関連を考察した。また、ナチスの権力構造が明らかになる
につれて起こった、ユダヤ人問題の最終的解決に関する「意図派」と「構造派」の論争に
ついても概観した。
ナチスの反ユダヤ主義は、第一次世界大戦の敗北やインフレ、世界恐慌などでドイツ国
家が社会的・経済的に疲弊していた状況を利用することで、中産階級を中心とする幅広い
階層から注目を集めた。しかし、ナチ政府が彼らの期待に添うほどの成果を上げることが
できなかった結果、次第に支持を失っていったことから、人々の思想に根強く定着するこ
とはなかったといえる。本質的には民衆を動員するほどの影響力を有していなかったこと
は確かだが、ナチ党が支持を集める上での一つのきっかけとして、反ユダヤ主義には重要
な意義があったと考えられる。
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