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和解 - Doors

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和解 - Doors
和解
和解
Reconciliation
マルチン・ライナー
Martin Leiner
中野 泰治
訳
Translation: Yasuharu Nakano
キーワード
和解、贖罪、救済、平和、キリスト教神学、政治学、心理療法、文化人類学、学際的
研究、フリードリヒ・ヘルダーリン
KEY WORDS
Reconciliation, Redemption, Salvation, Peace, Christian Theology, Political Science,
Psychotherapy, Cultural Anthropology, Interdisciplinary Study, Friedrich Hölderlin
要旨
本稿は、2011年10月5日(水)に、同志社大学神学部・神学研究科主催により、神
学館礼拝堂で行われた公開講演「和解」の英語原稿の日本語訳である。講演者である
マルチン・ライナー氏は、ドイツのイェーナ(フリードリヒ・シラー)大学神学部教
授(組織神学担当)で、ご専門は「人間の尊厳」と「平和」を中心としたキリスト教
倫理学である。この講演では、キリスト教における「和解」の元来の意義を再確認
し、そして「和解」を巡る政治学や心理学、文化人類学といった他の学問分野の成果
を概観し、それらの学問領域とキリスト教神学との相互交流の可能性を、「和解」概
念についてより広域的な視点から考察することで明らかにすることを目指している。
SUMMARY
This is the Japanese translation of the English text of Prof. Martin Leiner s public
lecture entitled Reconciliation, which was originally given in German at Doshisha
University on October 5, 2011. Prof. Leiner teaches systematic theology at
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基督教研究 第74巻 第1号
Friedrich-Schiller-Universität in Jena, Germany. His specialty is Christian ethics,
particularly related to human dignity and peace. The lecture aims to broaden and
refine the concept of reconciliation at a cross-disciplinary level, first by looking at
the original meaning of the concept in Christianity and then by examining the
possible interactions between Christian theology and other academic fields such as
politics, psychotherapy and cultural anthropology.
はじめに
「和解」
(ラテン語 reconciliatio、ギリシア語 katalagè)という概念ほど、今日の政
治状況に対して大きな影響を持つキリスト教の概念はありません。世界の至る所で、
例えばチリやオーストラリア、南アフリカや北アイルランド、旧東ドイツ地域やルワ
ンダといった場所で、50以上もの調停作業が進められております。南アフリカ共和国
では真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)と呼ばれておりますが、
これらの調停作業は、それと類似の名称を持つ組織によって進められております。こ
うした和解のための委員会は、モロッコのような非キリスト教国でも同様の働きをし
ております。モロッコでは、公義和解委員会(Instance Équité et Réconciliation)が、
2004年以来、現モロッコ国王であるムハンマド六世の父、ハサン二世の統治時代に起
きた反体制・民主化運動に対する弾圧を巡って、調停作業を行ってきました。和解の
政治的な重要性を示す最近の事例を挙げれば、2011年9月1日、新生リビアの支援のた
めに開かれた第一回会議の席上で、仏大統領ニコラ・サルコジはリビア暫定国民評議
会(National Transitional Council)に向けて、
「赦しに基づいた和解がないならば、
リビアには未来はない」1と語りました。
我々はキリスト教神学者として「和解」というこのキリスト教の基本概念が多宗教
的で、世俗的な世界に影響力を持つことをうれしく感じますし、少し誇りにも感じま
す。冷戦後、世界の人々がより平和的で、より調和した世界を構築する道を歩みはじ
めたことも良いことだと思います。ネルソン・マンデラのようなキリスト教信仰に導
かれた政治的指導者のみならず、トニー・ブレアやサルコジといった政治家も、和解
を彼らの政治の最重要項目の一つに位置づけております。1992年、国際事務総長ブト
ロス・ブトロス=ガリも、和解を平和構築の重要な要素として「平和への課題」
(Agenda for Peace)の中に組み入れました。サルコジ大統領のスピーチから鑑みま
すと、ここ数年間の平和構築活動で得られた教訓は、和解が決定的に重要であるとい
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和解
うことです。旧ユーゴスラビアやアフガニスタン、そしてイラクで平和構築が失敗し
た理由の一部は、これらの国で和解が十分に達成されなかったという点から説明でき
るかも知れません。
こうしたことから、和解は政治学、社会心理学、法学、歴史、また哲学といった研
究分野でも非常に重要なテーマになってきました。文化人類学や経済学といった分野
でも、和解に関する興味深い論文が生み出されております。これらすべての分野は、
和解に関する学際的研究に多くの貢献をなしております。
しかし、これまで順調な道を進んできた和解に関する様々な研究も隘路に陥ってい
ます。つまり、和解という言葉のキリスト教的な意義、そしてこの言葉のキリスト教
的由来が忘れ去られ、またその語義の明晰さが失われつつあるのです。ロシア、エス
トニアで活動した文化記号論学者ユーリー・ロットマンの言葉を借りれば2、和解と
いう概念はもはや「破裂」してしまったのです。この「破裂(explosion)」が意味す
るのは、和解概念があまりに漠然としたものとなってしまったため、例えば、和解と
いう語がイスラーム社会の文脈で用いられたり、経済学的なモデルにおいて使用され
る場合など、もはやこの語がどういった変化を蒙り、そして本来の意味からどれほど
隔たっているかが吟味できなくなっているということです。和解に関する各々の学問
分野の視野の狭さが克服され、和解概念の持つ意味がより明確化されることが求めら
れておりますが、それはキリスト教神学が和解の本来の意味を再確認することで、ま
た和解の研究に携わる様々な研究分野とキリスト教神学の相互交流を通して可能とな
るでしょう3。この講演では、政治学、心理学、そして文化人類学といった学問領域
と、キリスト教神学との相互影響を概観することで、和解をより広く捉え、より明確
なものとしていくプロセスに少しでも貢献できればと思っております。第一節では、
キリスト教の和解概念の特徴を明らかにし、第二節、第三節では、諸学の垣根を越え
て、政治学や心理学的といった学問領域における和解について取り扱います。最後
に、私の研究に大いなる示唆を与えてくれたドイツの詩人であるフリードリヒ・ヘル
ダーリンの詩をご紹介して、結びに代えたいと思います。
Ⅰ.和解のキリスト教的起源
和解に関する聖書的な考えが見いだせるのは、主として第二コリント5章18節 -21節
です。
「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたち
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を御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けに
なりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の
責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですか
ら、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者
の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させてい
ただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさ
いました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
この聖書の言葉が明確に語るのは、キリスト者は和解の使者とならねばならないと
いうことです。キリスト者はキリストによって和解させられており、彼らはキリスト
に代わって、他の人びとのために「神と和解させていただきなさい」と祈るつとめを
委ねられています。神は和解という現実の基、また和解が人びとにもたらされる基で
あり、キリストはその和解の仲介者であり、和解の根拠だというのです。
歴史上、和解の使者としての任務をその信奉者すべてに授ける宗教は、キリスト教
をおいて他ありません。レビ記16章にあるように、ヨム・キプール(Jom Kippur)で
は償い(atonement)の祭儀が行われますので、ユダヤ教にも贖罪(和解)という概
念が存在したことは確かですし、新約聖書の救済論とこのユダヤ教の祭儀とに関連性
があることは疑いありません。このことは、特にローマの信徒への手紙3章にある
hilasterion(「罪を償う供え物」、「恵みの場所」)という言葉からも分かることです。
というのは、この hilasterion は、レビ記16章にある kapporeth(「贖いの座」)という
語の七十人訳聖書でのギリシア語訳だからです。ローマの信徒への手紙3章25節には
次のようにあります。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために
罪を償う供え物(ギリシア語で hilasterion、つまり七十人訳聖書での kapporeth の訳
語)となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しにな
るためです。」
ところでここ数十年、ドイツの新約学者は、特に上で引用された第二コリント5章
18-21節を巡って、旧約の和解概念と新約の和解がどの程度関連性を持つかについて
多くの議論を交わしてきました。彼らの議論を少し概観しますと、ベルリン大学で教
鞭を執る南アフリカ出身の新約学者シリエルス・ブライテンバッハは4、第二コリン
ト5章に見られる「和解」
(katalagè)は、単なるヘレニズム的な政治的概念にすぎな
いと論じます。つまり、この箇所で用いられる「和解」は、使者の働きを通して二つ
の党派間に再び平和的な良き関係がもたらされた状態を表す政治的用語だというので
す。またブライテンバッハによれば、「和解」とは、第一コリント7章にあるように、
夫と妻の良き関係を意味する言葉だとも言います。他方で、チュービンゲンのオトフ
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和解
リート・ホフィウスなど、別の新約学者たちは5、第二コリントの最後の部分、つま
り「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わた
したちはその方によって神の義を得ることができたのです」という箇所に注目し、ユ
ダヤ教の祭儀との関連性を強調します。つまり、この箇所はユダヤ教のヨム・キプー
ルの祭儀に関する短い説明の言葉と考えられるのです。更に第二コリント5章には、
この世界が神にもたらされ、神と和解させられるという宇宙論的なプロセスが示され
ていることも、私は強調しておきたいと思います。この宇宙論的なプロセスは、旧約
聖書の考えというよりもむしろ、中期プラトン主義哲学(おそらくアレクサンドリア
のフィロン)に由来するものだと思われます。
要は、プラトン主義的な哲学的意味合いとともに、和解(katalagè)のヘレニズム
的な政治的意義がヨム・キプールの祭儀という旧約的枠組みに付加され、第二コリン
ト5章が成立したわけです。
旧約聖書の遺産としての和解概念というホフィウスの議論にもう少し沿うとすれ
ば、別の問題について考察する必要があるでしょう。ヨム・キプールの贖罪の祭儀
は、一般的な供え物の儀式とどういった違いがあるのでしょうか。多かれ少なかれ独
自の性格を持つものであると、チュービンゲン大学の旧約学者ハルトムート・ゲーゼ
とベルント・ヤノウスキーは論じます。ホフィウスも、彼らの見解を取り入れていま
す6。これらの学者、いわゆるチュービンゲンの釈義学者(the exegetes of Tübingen)
によれば、ヨム・キプールの贖罪の祭儀は、神と人間との間で行われる等価交換とし
ての儀式とは全く違うものだと言います。つまり、「私は神に羊を犠牲として捧げま
した。だから神は私の罪を赦してくれるでしょう」という論理を保証するような儀式
ではないのです。彼らは、ヨム・キプールの祭儀は等価交換とは全く関係がなく、む
しろ雄山羊の犠牲が「聖なるものに含み込まれる」
(incorporated into the Sacred)と
いう論理を示すものだと見ています。レビ記16章が示すように、捧げ物の血は契約の
箱の前まで運ばれますが、荒れ野に追いやられるもう一匹の雄山羊の犠牲はただアザ
ゼルのためのものであり、ヤハウェのためではないのです。ここでの雄山羊の犠牲の
話は、いずれにせよ中心的なものではないのです。レビ記16章5節 -16節を見てみま
しょう。
「…次に、イスラエルの人々の共同体から贖罪の献げ物として雄山羊二匹、焼き
尽くす献げ物として雄羊一匹を受け取る。
アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のため
に贖いの儀式を行う。次いで、雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主
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の御前に引いて来る。
アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼ
ルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に
用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留め
ておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとす
る。
アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために
贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にあ
る祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて
垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の
箱の上の贖いの座(筆者注:kapporeth =七十人訳での hilasterion(訳注:太文
字による強調は著者。以下同)
)を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、
雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖
いの座の前方に七度振りまく。
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、
さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうし
て彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のた
めに贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさら
されている臨在の幕屋のためにも同じようにする。」
レビ記16章には三つの贖罪の献げ物があります。最初に祭司(アロン自身)のため
の雄牛の献げ物、次にイスラエルの民のための贖いの雄山羊の献げ物、最後に犠牲の
ための別の雄山羊(これはおそらく荒れ野の悪霊であるアザゼルのため)です。この
最後の雄山羊が荒れ野に追いやられます。中心となる献げ物は、最初のイスラエル
(の民全体)のための贖いの献げ物です。契約の箱(掟の箱)に置かれた kapporeth
(贖いの座)の上で、この雄山羊の血が振りまかれます。契約の箱はヤハウェが臨在
する場所であり死を招く危険な場所です。イスラエルの民の罪と同一視される雄山羊
は神にもたらされ、そこに場を見出すのです。和解とはそれゆえに本質的に、荒れ野
に連れられる別の雄山羊に罪を背負わせることではなく、それは聖なるものに献げる
こと、それに含み込まれること(incorporated into the Sacred)なのです。同じく、
キリストは神に結びつけられましたが(incorporated into God)、これこそがイスラエ
ルで行われた犠牲の意味なのです。それは等価交換の論理ではありません。
しかし、旧約と新約の和解にも違いは存在します。特に二つの違いが重要です。第
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和解
一のものは、和解の主体は誰かという問題を巡る相違です。旧約聖書では、イスラエ
ルの民が神からの和解を得ようとしますが、新約聖書では、神が和解をもたらす主体
です。この世を和解へもたらすために、神が到来されたのです。第二の相違は、新約
聖書の和解はその概念的起源から考えて、旧約とは異なり、儀式的なものではないと
いうことです。つまり、我々の罪を雄山羊に担わせ、この雄山羊を追い払って、視界
から見えなくすることを目的としたものではありません。キリストの死は、神殿で執
行されるこうした意味での犠牲ではなく、現実の生と歴史において起こった事柄なの
です。旧約聖書で示される贖罪のための儀式は、このキリストの現実の歴史を解釈す
るための視点を提供するものであり、パウロやヘブライ人への手紙の著者にとって
は、儀式的な贖罪という旧約的概念は、彼らが神の歴史を解釈する上での枠組みとし
て重要な役割を果たしました。この枠組みによって、人間が長らく行ってきた犠牲の
記憶がキリスト教信仰に結びつけられ、旧約で展開された捧げ物の物語はあらゆる点
で変容されました。犠牲が聖なるものに含み込まれる(incorporated into the Sacred)
という見方は、またキリスト理解に関しても重要な役割を果たしております。和解の
本質は、我々の罪を犠牲の雄山羊に負わせ、雄山羊と共に罪を追い払うという点にあ
るのではなく、ユダヤ教的にもキリスト教的にも、和解はどんな例外もなくすべての
民が神に与るということを意味します。神ご自身が和解をもたらされたのです。この
視点からすれば、キリスト教は和解をすべての人びとに伝達される普遍的な出来事と
して提示した最初の宗教だったと言えるでしょう。
では、この和解概念はキリスト教の他の教義とどのような関係にあるのでしょう
か。私が第一に強調したい点は、和解(reconciliation)、贖罪・解放(redemption)、
そして救済(salvation)、この三つの概念は、それぞれ区別されるべきですが、同時
に関連し合うものです。パウロの観点、またキリスト教の伝統の大部分から見れば、
これら三つの概念は、人類を回復し、彼らを再び神のもとへと連れ戻すために、キリ
ストがこの世にもたらされた事柄の中心点を示しています7。和解、贖罪、救済がキ
リスト教の救済論を構成する三つの要素なのです。これらの要素は分かつことのでき
ないものですが、それぞれは区別される必要があります。
第二の要素である贖罪は、悪からの解放、我々人類を神から引き離し、真実の命か
ら引き離すすべての悪しき事柄から解放することを意味します。主の祈りには次のよ
うな言葉があります。「御国を来らせたまえ。我らを…悪より救い出したまえ。」贖罪
はまた否定的な事柄を打ち消し、悪に打ち勝ち、もしくは少なくとも何か物事の否定
的な側面を克服することを意味します。主の祈りに見られるように、この贖罪の概念
は神の国と関連があります。神の国という言葉は、聖書的な贖罪概念が「現在、臨
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基督教研究 第74巻 第1号
在」(presence)よりも、未来(future)と希望(hope)に関わることを示しており
ます。我々がすでにそこから解放された否定的な事柄は存在しますが、そこにはいつ
の日かすべての否定的な事柄が神によって克服されるということが語られているので
す。
しかしながら、和解は主として過去(past)に、つまりキリストがすでになされた
事柄に関係があることは強調しておくべきでしょう。再度第二コリント5章を取り上
げますが、そこには God Was in Christ, reconciling the world unto himself (神はキ
リストによって世を御自分と和解させられた。訳注:太文字強調は筆者)とありま
す。これは、普遍的な和解、すなわちこの世界の和解がすでに完遂されたということ
を意味します。我々がなすべきことは、この神の和解の証しをなし、人びとが和解の
現実を受け入れるように祈ることなのです。
キリスト教の和解の第三の要素は救済です。救済とは、人間が死と滅びから助け出
されることです。救済は、キリスト教の救済論において関係を保持する役割を果たす
要素(the conserving element)です。つまり、救済という概念は現在の次元を未来
へと結びつけるのです8。この三つの要素に関してまとめれば、和解が根本の土台部
分にあり、神の国への推移において、贖罪は否定的な役割(the destructing element)
を果たし、救済は関係保持の役割(the conserving element)を果たすのです。
次に、これら三つの要素からなる和解の特徴とは何かについて問われねばならない
でしょう。新約聖書に従えば、少なくとも五つの観点を挙げることができます。
1.和解とは同一化です。和解は、神から最も離反するもの、罪人や罪でさえも神と
を結び合わせる働きです。第二コリント5章21節には、
「罪と何のかかわりもない方
(筆者注:キリスト)を、神はわたしたちのために罪となさいました」とあります
が、罪人のための死という場所が、十字架の働きによって神の場所へ変質させられる
のです。ガラテヤの信徒への手紙3章13節は次のように語ります。「キリストは、わた
したちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいまし
た。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」引用内の括弧部
分は申命記21章23節から取られた言葉ですが、ガラテヤの信徒への手紙が暗示するの
は、神殿の垂れ幕が裂けた時、もはや汚れた場と区別される聖所というものは存在せ
ず、この世は神の世界となったということです。
2.和解は心情に関わるものです。和解とは、苦難にある人びとと同じ思いを持つこ
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和解
とであり、彼らに深く感情を移入することです。神は我々人間の孤独を知っておら
れ、我々の痛み、我々の苦しみを知っておられます。神は我々を憐れんでくださいま
す。自らについてどれほど惨めな思いをし、どれほど無力であると感じていようと
も、我々は神によって愛され、そして神から理解を示されます。苦難にある人びとに
対する共感は、そして困難にあるすべての人びとに対する共感は、キリストの心情で
あるように私には思われます。それはまた、私たちの心情でもあるべきでしょう。
個人的な例を挙げさせてもらえれば、私は子供の時、よく母と一緒にテレビで映画
を見ていました。私の母は非常に愛情あふれるキリスト教信仰に生きる女性です。映
画の中ではしばしば、最終の場面で悪人が処罰を受けたり、処刑されたり、もしくは
叩かれたりしていましたが、母はいつも苦しみを受けるこれらの哀れな悪人たちに同
情を示し、この話はこんな結末で終わるべきじゃないと言っておりました。私が母に
感謝するのは、悪人が処刑されたり、処罰される時に満足を覚えるというモデルを示
さなかったことです。私は、こうした共感はキリストがすべての苦難の中にある人び
とに示された心であると思いますし、また歴史に記された殺人者、大量殺戮者に対す
るキリストの心情でもあると思います。キリスト教の和解は普遍的なものであり、決
してヒットラーやスターリンのような人びとも和解の名簿に記載されることに抵抗を
感じるべきではありません。第二コリント5章の言葉を真剣に受け止めるならば、和
解はすべての人びとに対するものであり、どのような例外もないものなのです。
和解の普遍性に関して、ドイツの政治に関わる例をもう一つ挙げたいと思います。
前ドイツ連邦大統領グスタフ・ハイネマンは、カール・バルトから影響を受けたキリ
スト者でしたが、彼は議会で次のように述べたことがあります。「キリストはマルク
スに敵対されない。
」キリスト教民主同盟(CDU)は大声で反対しましたが、大統領
は言葉を続けて、「でも、キリストは彼のためにも死なれたのです」と語りました。
もし罪を犯した者には地獄しかなく、天国でヒトラーやオサマ・ビン・ラディンと
いった人びとと会うとすれば、そこはもはや天国ではないと、キリスト者が論じると
すれば、彼らは正しくないのです。フリードリヒ・シュライアマハーは、人間は相互
に非常に密接に繋がり合う存在なので、もし一人でも天国の幸福から排除されるとす
れば、その幸福は消え去ってしまうだろうとの言葉を述べましたが9、彼はその点で
正しいわけです。
3.和解は道徳的な良心にも関わるものです。和解は赦しを意味します。特にルカに
よる福音書23章34節が示すように、キリストは十字架上で悪しき人びとへの赦しの言
葉を述べましたが、和解は、我々の罪に対する神の赦しを伝えるものでもあります。
神の赦しは、過去、現在、未来のすべての人びとに対する赦しなのです。
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4.和解は悪人に対する怨恨(ルサンチマン)にも関わります。この悪人というカテ
ゴリーには、我々を傷つけた人びとのみならず、我々自身も、罪人である全人類も含
まれますが、和解は、悪人に苦しみを与える代わりに、また法的、心理的に悪人に対
して処罰を求める代わりに、キリストご自身がその苦しみを引き受けられたというこ
とを意味します。つまり、キリストが自らに悪人の罪を引き受けられたのです。和解
は atonement(埋め合わせ、弁償、賠償)を意味していますが、その真義はそれぞれ
の語の組み合わせ at one man (ひとりにおいて)から理解できるでしょう。人類の
すべての罪は、ただ一人の人によって担われました。我々はもはや他の人びとや、自
分たち自身に対してさえも、罪を取り除くために罰を与える必要はないのです。罪を
犯した者でさえも、単に懲らしめるために罰するべきではないですが、もちろん彼ら
の行ったことは間違っているということ、彼らは生き方を変えねばならないこと、そ
して多くの場合、人びとは彼らの犯罪から身を守る権利があることははっきりさせて
おくべきでしょう。「あなたは人を殺したのだから、あなたの命も滅ぼされねばなら
ない」という応報の論理は、キリスト教から見て、相応しくないものです。
こうした和解はさらに、人類への残虐行為が行われてしまった後になされるべき和
解のプロセスをも意味します。犠牲となった人びとの怨恨はしばしば非常に強烈なも
のです。怨恨は犯罪者への報復を求めます。例えば、ジャン・アメリー(実名は、ハ
ンス・メイヤー)という作家がおりましたが、彼はベルギーの収容所でゲシュタポ
(ナチスの秘密国家警察)からひどい拷問を受けました。彼の興味深い諸作品は、第
二次大戦後ドイツで、彼が抱いた感情とその変化を鮮やかに描いています。彼は拷問
の記憶にあまりに苦しみ、自殺する決心をしたほどでしたが、大戦から数ヶ月後、彼
を苦しめた人物が処刑されるのを目撃した際、怨恨の感情が劇的に解消したというの
です。アメリーによれば、彼を拷問にかけた人物が自分と同じように苦しみ、死んだ
ことを確認した瞬間、彼に対するあらゆる憎悪が消え去ったのです。アメリーはその
時、憎しみから解放されたわけです。
キリストによる贖いという観点から言えば、すべての怨恨はキリストによってすで
に解消されたのであり、我々は自らが抱く憎悪から解放されるために報復を行った
り、残酷な事柄を繰り返すことをやめるべきです。もちろんこうしたことは、犠牲と
なった人にとっては精神的に非常に困難な作業であることは確かです。
5.和解は正義にも関わります。和解は、義認(義とされること)として理解されま
す。このテーマは、プロテスタント神学の伝統において深く追求されたものですの
で、ここでは手短に述べるにとどめたいと思います。ルターの言葉を借りるならば、
義認では「晴々とした変化」
(独 fröhlicher Wechsel)が生じます。人間はその罪にも
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和解
かかわらず、その功績に関係なく、ただひたすら神の恩恵によって神の義に与りま
す。キリストが人間の罪を引き受けられたのです。神は義認において能動的に働きか
ける方であり、人間はそれを受ける受動的存在です。神は人間を無条件に引き受ける
のです。
これまで述べてきた五つの観点が和解の主たる特徴を構成するものですが、キリス
トによる和解に関する伝統的神学、および現代の神学的考察にも言及するとすれば、
少なくともあと三点付け加えた方が良いでしょう。
6.ユルゲン・モルトマンの著作『イエス・キリストの道』(1989年)によれば、和解
はまた、人類が神に対して抱く怨恨の解消としても理解できます。何故神はこの世に
あらゆる悪と不正義が生じるのを良しとされるのかと嘆く人びとに対して、モルトマ
ンの第一の応答は、神は私たちと共に苦しまれているということです。彼が言わんと
するのは、神が我々人類を苦しめるのではなく、神は自ら苦しむことで人類を引き受
け、人類を救おうとしておられるということです。神の苦しみと救いという出来事に
は、神と人間との間で経験される他者との出会いという相互的なプロセス、そしてま
た神の赦しによって人間の不正が克服され、
「神は正しくないかもしれない」という
人間中心的な考えが克服されるプロセスがあります。それは、我々人類に対するキリ
ストの共感によって始められたものです。
7.もし和解を正義を求める単なる実効的措置として考えるならば、和解は十分なも
のとは言えません。犯罪者に関しては、キリストが我々人類の罪のために死なれたと
いう事実を受け入れることができますが、犠牲者にとっての正義はどこにあるのかを
考える必要があります。犠牲者が被った損失は、多くの場合、完全には回復できない
ものです。殺された我が子、地雷で失ってしまった脚、強制キャンプに収容され無駄
にされた年月、これらのものはどんなに言葉を尽くしても、どんなにお金をかけても
完全に回復されることはありません。だからこそ、この世における和解は、この実在
の 世 界 を 超 え た と こ ろ で 埋 め 合 わ せ ら れ る と い う、 修 復 的 な 正 義(restorative
justice)に対する希望を必要とするのです。修復的な正義とは、不正によって失われ
たものが犠牲者に完全に補償されることを意味します。この修復的正義に、救済と贖
罪という概念が関連しています。つまり、完全な修復的正義への希望は、この世にお
ける我々の限られた存在のあり方からの解放に対する希望、そして死からの救い、ま
た放ったらかされ、忘却されてしまう恐れからの救いに対する希望を伴います。
キリストは、和解という普遍的な事実を伝えられ、この世において和解を実現する
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基督教研究 第74巻 第1号
ように我々を勇気づけられています。和解は、自然の法則に逆らって起きるような奇
跡的出来事ではありません。原理的に言えば、和解の可能性はキリストの到来以前か
ら存在しており、すべての人びとに対して、またキリスト教を信奉しない人びとに対
しても開かれています。普遍的な和解が我々の人生全体において証すべき事柄の中心
にあるということをキリストは示されたのであり、キリストはこの和解の可能性が社
会的、神学的な現実となるようにと伝えられたのです。和解は我々と神との関係を規
定する原理であり、我々と他者との関係、そして我々と我々自身との関係を規定する
原理なのです。
和解に関する教義で、カール・バルトは次のように書いています。
「そのことがわ
れわれにとって、主観的に何を意味しようと、また意味しまいと―また、そのことが
われわれの意識の中にどのように反映しようと、和解が啓示であり、イエス・キリス
トが預言者としても生きまた働き給うことによって、われわれが彼から遠く離れてい
るということは、客観的にありえないことであり、われわれは彼に対して私的な場所
を持つことはなく、むしろ彼の場所の中に(彼において起こることの中に)包含さ
れ」10ているのである。
和解は神からもたらされた点を強調しておくのはもちろん重要ですが、和解はすべ
ての被造物の間で実現されるべきものでもあります。普遍的な和解という神からすで
に与えられた現実は、すべての人に伝えられ、すべての生きとし生けるもの、すべて
の事物にも伝えられるべきです。すべてのものは和解されるべく存在します。和解
は、神によってすでにもたらされた現実ですが、それは当然のこととして他者に対す
る愛、そして敵への愛をも求めます。
8.更には、和解はキリストの晩餐(聖餐)において象徴的な形で行われるもので
す。悔悛や告白はしばしば「和解のサクラメント」と呼ばれますが、聖餐も「和解の
サクラメント」の内に数えられます。聖餐は、キリストの賜物、キリストの生と死を
思い起こすこと、参加者のパンの分与(分かち合い)、そして平和の挨拶といった要
素を含んでいます。聖餐ではまた、罪の告白と赦しが行われ、聖餐に立ち会う人びと
に平安が伝えられます。これに対して、教会で行われるもう一つのサクラメントであ
る洗礼は、救済論の他の二つの要素、つまり死からの救い、悪からの解放という面を
表現するものです。洗礼は贖罪と救済のサクラメントです。
以上、キリスト教の和解理解に関して簡単に述べてきましたが、次に和解を巡る学
際的研究というテーマに移りたいと思います。まず、キリスト教の和解理解がどのよ
うにして政治学的な理解をより広いものとし、厳密化していく助けとなりうるかを示
38
和解
したいと思います。
Ⅱ.和解を巡る政治学と神学
政治学では、和解は長らく研究の対象となってきませんでした。和解と言えば、ド
イツやオーストリア、日本といった少数の国で理想に燃える人びとが、第二次世界大
戦での残虐行為やホロコーストの後で実現を求めるステップと考えられるだけでし
た。そうした状況に変化が見られたのは、1992年のことです。先に見たように、ガリ
国連事務総長が、和解を「平和への課題」の重要項目に位置づけ、国連の平和戦略の
一環に組み入れたのです。この平和戦略が具体的に提案した事柄は、紛争後に残され
た遺恨を、教育レベルで歴史認識を変えることによって、そしてかつて敵対していた
者同士が向き合い、協力することを通して克服することが必要だということでした。
これまでのところ、平和構築の作業はますます政治的手段に依拠したものとなって
きております。これらの作業は、和平のための法案によるものであったり、和解委員
会によって担われています。にもかかわらず、政治学では和解そのものよりもむし
ろ、争い事を終わらせることを重要視していたため、政治学では和解は依然として非
常に制限されたテーマであるにすぎません。キリスト教的な和解理解を政治学に活用
していくには、少なくとも三つの乗り越えられるべき学問的な制限があります。
1.第一の制限は、政治学が和解を紛争後に達成しうる段階としてのみ考察すること
です。政治学は、武力による制圧が成功した後、もしくは交渉のような和平手段が成
功した後にのみ、和解の役割があると考えていました。もちろん和解が目指される以
前の段階で、国連軍による平和維持活動がすでにある程度成功している必要はありま
すが、キリスト教的な観点から言えば、和解は普遍的で根本的な現実です。紛争が勃
発する以前から、和解の契機は存在していますし、紛争のまっただ中においてさえ
も、和解の要素は存在します。具体的な例を挙げれば、エルサレムにあるアル・ク
ドゥス大学のムハンマド・ダジャーニ教授は、彼の著作『ワサティア(中道を行く)』
の中で、何故 PLO(パレスチナ解放機構)の闘士から平和活動家に転向したのかに
ついて述懐しておりますが、それは彼の父が癌を患った時、また彼の母が心臓発作に
襲われた時、イスラエルの医師たちが普通の医者と同じく彼らに治療を施したこと、
そして彼らを敵として取り扱わなかったという体験をしたからでした。PLO の活動
家であった彼にとって、この瞬間、敵対者との和解が生じたのです。紛争の沈静化に
とって重要であるこうした側面が、これまで政治学者によって見落とされてきたこと
は残念なことです。
39
基督教研究 第74巻 第1号
紛争のただ中にも和解があるということを示すもう一つの例を挙げますと、グァテ
マラの和平合意のために行われた会談で、ルター派の牧師が話し合いの場を設けた時
のことです。反乱軍と最初の対話を行った際、彼は反乱軍に参加した人びとがいかに
民主主義に対して熱烈な想いを抱いていたかを知って、深い感銘を受けました。その
時、紛争のただ中においても、彼らの間に平和と理解と共感の感情が生まれ、ある程
度ですが、和解も達成されたのでした。
これらの経験から言えることは、「平和は争いのさなかにある」ということです。
私の大学があるイェーナの地では、こうした見方は「ヘルダーリンの展望」と呼ばれ
ていますが、ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンの有名な作品『ヒューペリオ
ン』の最後に同じ言葉があるからです。我々は、争いのさなかにも平和の瞬間がある
ということをもっと強調しなければなりません。また紛争を最後まで戦い抜くことこ
そより重要であり、紛争が終結して初めて、和解の可能性があると論じる人びとを
もっと批判していかねばなりません。米国の軍事専門家エドワード・ルトワックは、
1999年の有力な論文の中で、「早まった平和構築を目指すのではなく、小さな紛争は
成り行きにまかせよ」
(訳注:国連などの組織による早期介入がかえって地域の不安
定要素の維持につながり、紛争を長期化させ、拡大させるとの理由から)との議論を
「紛争が生じる以
展開していますが11、そうではなく、我々は次のように言いたい。
前から、そして紛争のさなかにも和解はあるのです。和解にチャンスを与えよう。世
論を変えるべく、メディアを通して和解を求める声を出そう。」こうした和解を実現
にするためにも、政治学の理論は、和解概念をもっと広く捉え、紛争に関する見方を
もっと洗練されたものにするべきでしょう。紛争は常に部分的なもので、普遍的な現
実などではありません。紛争は少なくすることはできますし、経済や学問やスポーツ
などでの協力関係を維持しながらも、対立を局部的なものに限定することもできま
す。そして紛争のさなかにも平和の要素が存在するという事実に目を向けることがで
きるのです。
2.第二の、そして重大な制限は、政治理論が和解を若者同士の交流や歴史の教科書
の修正といった一連の政策によって多かれ少なかれ計画可能なものであり、構築可能
なものと見ていることです。キリスト教はこれとは全く異なる見方をします。キリス
ト教は、他の人びとのために「神と和解させていただき」、普遍的な和解の現実の中
に入れるようにと祈ります。それ故、キリスト者にとっては、和解とはよく準備され
た計画の結果として実現するようなものではなく、それぞれ自由な人間による参与か
ら、いや人間の自由意志以上のものからもたらされるものなのです。和解が可能とな
る時、そこには常に恵みがあります。赦そうとしても赦せないということを我々は経
40
和解
験するからです。神の恵みは、我々が和解されるのに必要なものは神の恵みであり、
国際連合によって計画された政策でも、我々自身の意志による決定でもないのです。
3.和解を巡る第三の制限は、時に政治学者が和解の必要な紛争と不必要な紛争を区
別しようとすることです。こうした区別の一例は、ヤーコブ・バルシマン・トーブが
編集した中東問題に関する著作『紛争解決から和解へ』
(オックスフォード大学出版
局、2004年)に見られます12。ダニエル・バー・タールやダン・バー・オンなど、政
治学や社会心理学の重要な理論家たちが寄稿していますが、この本は政治学の転換点
を示すものです。つまり、紛争解決には協力関係だけで十分であるという見方から、
他の社会集団に対する怨恨や恐れという社会心理学的な要素までが深く考慮されるよ
うになった変化を示しています。この講演の最初にニコラ・サルコジ仏大統領の言葉
を引用しましたが、一般的に政治学者は、持続可能な平和構築のためにはふつう和解
が前提条件となるという点に関して見解の一致を見ています。「(平和構築の)結果と
しての和解とプロセスとしての和解の性質」という寄稿論文の中で、ダニエル・
バー・タールとジェンマ・ベニックは「和解の試みが必要となるのは、紛争にかか
わった社会集団が、紛争の当初の目的に固執する信念や態度、動機や心情を生み出
し、それを社会全体に広め、紛争を更に継続し、敵対者の側を不法と定め、そうする
ことで平和的解決の可能性を認めず、平和的関係の構築を妨げる時である」と論じて
います。これらの著者(トーブやバー・タールなど)の見解では、イスラエルとパレ
スチナ人の間の争いは和解が必要なタイプとされます。他方、ホロコースト後のドイ
ツ人とユダヤ人の間の争いは、これまでも決して解決されたわけではありませんが、
和解を必要としないタイプと考えられます。というのは、彼らの争いには敵対意識を
煽るような背景的心情は見られませんし、ドイツとイスラエルは地理的に離れている
ので、協力にしろ、対立にしろ、彼らの関係は非常に限定的なものだからです13。
しかしながら、キリスト教的な視点では、残虐な行為が行われ、人びとの尊厳が傷
つけられたところでは、和解は常に必要なものです。敵対する小さな社会集団間や、
また他者に対する敵対意識を抱く社会の諸個人にとってさえも、和解の重要性は同じ
です。社会は一人の人間のように統一のとれた存在ではありません。旧ユーゴスラビ
アや北アイルランドの例から分かるように、社会の平和は小さな組織によってさえ脅
かされるものなのです。またドイツに対する英国の態度が示すように、第二次大戦直
後には和解が必要な関係と見なされなかったにもかかわらず、50年以上という時を経
て、敵対感情が増加し続けるということもあります14。
このようにキリスト教神学は、政治学における和解概念の枠組みを広げ、それを洗
41
基督教研究 第74巻 第1号
練されたものにするのに役立ちます。神学は重要な貢献をこの分野になしえるでしょ
う。こうした貢献の可能性にはあまり目が向けられませんが、それは人びとが神学的
な和解というものがうまく機能するには、まず各々がキリスト者でなければならない
と信じこんでいるからです。しかし第二コリント5章を注意深く読むならば、和解は
すでに全世界に対して成し遂げられたのだと分かります。だとすれば、キリスト教徒
でない人びとにも和解の可能性は開かれているのです。たとえキリスト者以外の人び
とがまず神と和解したいなどとは思わないとしても、彼らは敵対者と和解されること
で神による和解のネットワークに入るように招かれるわけです。
政治学との交流によって、キリスト教神学もまた自らの偏狭さを乗り越え、和解理
解をより明確なものとし、洗練されたものとすることができるでしょう。神学に対す
る他の学問からの影響については、次節で心理学、文化人類学と神学との関わりを見
ていきたいと思います。
Ⅲ.心理学、および文化人類学と神学との関わり
アメリカ合衆国で最も影響力のある実践神学者であるドン・ブラウニングは、1966
年に最初の著作『贖罪と心理療法』
(Atonement and Psychotherapy)を出しました。
この本の中で、彼は心理療法とキリスト教の和解との比較研究を行っています。心理
療法については、ブラウニングはカール・ロジャーズによる研究を出発点としていま
すが、ロジャーズは、人と人との交わりによる癒し、またエンカウンターグループで
の癒しにおいて、特に(訳注:治療者にとって)重要である三つの要素を発見しまし
た。
真正性・本当らしさ(Authenticity):人と人との出会いは、真の意味で「我と汝の
出会い」( I-Thou encounter)であるべきです。心理療法では、単に職務的で表面的
な交わりではいけません。つまり、治療を受ける人と治療者の関係において重要な部
分を隠そうとしてはなりません。治療者が癒しを行う際には、治療者がクライアント
の心を映し出す鏡の役割を果たすことで、現実と自己像の一致が促されるべきです。
治療者は、クライアントとの出会いの中で気づいた点を一貫して伝えていく態度を持
つ必要があります。
感情移入・共感(Empathy):治療者は、クライアントの視点を共有する必要があり
ます。治療者はクライアントを精神的に問題のある人物と見なして、観察者のように
振る舞ってはなりません。クライアントと治療者はパートナーなのであり、治療者は
42
和解
彼らに寄り添う者なのです。ロジャーズは、治療を受ける人のことを「クライアント
(来談者)」と呼び、自らの治療法を「クライアント中心療法」と呼びました。
受容(Acceptance):治療者は、クライアントをできる限り受容し、彼らに価値があ
ることを伝えるべきです。可能であれば、治療者はクライアントが無条件に価値を持
つことを表明する必要がありますし、たとえクライアントが治療者に対して憎悪や怒
りの感情を剥き出しにする場合でもそうです。治療者は、クライアントのこうした感
情をすべて「尊重」し、「無条件の肯定的な配慮」15を示すべきであり、クライアント
を言葉で窘めようとしたり、彼らの態度を変えようと試みてはなりません。というの
は、治療者に対する攻撃的な感情こそが、癒しに必要な要素だからです。
「治療者が
…クライアント自身が抑圧しようとする経験を感じ取り、それを映し出そうとするが
16
、クライアントは治療者に対して怒りの感情を抱くのです。こうした抑圧さ
故に」
れた部分を受容するように促されることで、クライアントの人格はより充実した内実
を持つようになります。これが癒しの鍵となる点です。
ドン・ブラウニングは、彼の著作の中で、カール・ロジャーズのこうした発見がキ
リスト教的な和解を理解する上で役立つと論じています。この点に絡んで、さらにブ
ラウニングは、スウェーデンのルンド学派の指導的神学者グスターフ・アウレンに
よってなされた和解(訳注:アウレンの日本語版著作では「贖罪」という言葉が用い
られている)に関する有名な三つの区分を用います17。勝利者キリストという古典的
理解、ラテン的理解、そして道徳的・近代的理解です。
1.「勝利者キリスト」
(Christos victor)という古典的なキリスト理解は、キリストが
人間の状況に参与し、悪霊に対する、また罪や悪魔、また地獄に対する勝利の戦いを
なしたのは、和解のためであったというものです。アウレンによれば、和解に関する
このタイプの教理は、初期教会や東方教会で有力なものでした。
2.和解のラテン的モデルは、カンタベリーのアンセルムスによって提示されたもの
で、彼の著作『なぜ神は人となったか』の中に見出されます。アンセルムスによれ
ば、人間は神の戒めに反し、神の栄光を傷つけました。人間自身は罪の償いとして神
に何も行うことはできませんので、その不従順によって人間は時間的にも、時間とい
う次元を越えても、永遠に死すべきもの、地獄に定められた者となりました。しかし
恵み深い神は人間の姿をとり、キリストは自らの人間的な性質において(ここが重要
な点ですが)
、我々が神の法に対する従順においてなすべきものを代わりになされ、
43
基督教研究 第74巻 第1号
人間の不正に対する対価を支払われました。従順なキリストは、本来死すべき方では
ありませんでしたが、我々の身代わりとなって死を引き受けられました。それは、人
間が単に神によって裁かれるのではなく、神の正義が貫徹されたままで、人間が神と
共に生きることができるようになるためでした。このラテン的モデルは、主としてカ
トリック教会と宗教改革に基づく神学に影響を与えました。もっともアウレンはル
ターを古典的モデルの主張者に分類していますが、その分類はしばしば不適切なもの
として批判されています。
3.人間の模範としてのキリストというモデルは、近代自由主義的なタイプですが、
そのモデルによれば、キリストとは真の人間性を示す方です。キリストの模範は、キ
リストに従おうと決心するすべての人のあり方を変革するものだと言います。
グスターフ・アウレンとドン・ブラウニングは第一のタイプ、すなわち勝利者キリ
ストという古典的なタイプを支持しており、このタイプこそが他の理解よりも聖書的
な根拠を持つと主張しています。ブラウニングはまた、心理学は古典的タイプに補足
説明を与えるものと見ています。
「心理療法で生じる変化において共感や体験が果た
す役割に関するロジャーズとジェンドリン(ロジャーズの弟子の一人)の見解はま
た、和解の古典的モデルの持つ力について更なる見識を与えるものである。」18もちろ
んブラウニングは、心理学はどの和解理解が妥当なものか決定できないということを
はっきり述べていますが、人間的状況を理解する際に共感が果たしうる役割に関し
て、キリスト教神学の和解の教理を変化させ、より洗練したものとすることができる
と言います。ブラウニングによれば、キリストが示された共感が持つ和解的な働きは
ラテン的モデルやリベラル的理解には見られず、この点がこの二つのモデルの弱みで
す。キリスト教の和解に関する議論はこれからも続けられていくでしょうが、心理療
法はこうした神学的議論に何かしらの貢献をなしうるでしょう。
40年以上経過した後、2010年になってドン・ブラウニングは『キリスト教的ヒュー
マニズムの再興』という著作で当時の彼の研究について振り返りました。ブラウニン
グは、先の立場を変わらず保持していますが、和解の古典的モデルを支持するのに
もっと相応しい論拠として、
「深い共感」
(deep empathy)と彼自身が呼ぶものを付
け加えています。「ロジャーズの定義によれば、
『感情移入とは、他人の苦しみや喜び
をその人が感じているように感じ、その原因についても、その人が知覚しているよう
に感じとることである。しかも、その時、あたかも自分が苦しんだり、喜んだりして
いるかのようであるという認識を決して失うことがない状態である。
』」19しかし「深
い共感」は、(訳注: as if 「あたかも∼のように」という個人主義的隔たりを保持
44
和解
しようとする)西洋文化の癒しに類似するものではなく、シャーマン的文化にしばし
ば見られるものであると、ブラウニングは言います。文化人類学者コス−チョイノス
によって行われたプエルトリコの癒し文化に関する研究や、また神経科学のいくつか
の発見を参照しながら20、深い共感こそが勝利者キリストという古典的モデルにより
相応しい議論の土台を提供するものだと、彼は主張します。朝鮮のシャーマン的癒し
にはプエルトリコの癒しと似た現象が見られますので、こちらを取り上げてみましょ
う。朝鮮のクッ祭儀(kut)では、ムーダン(mudang)と呼ばれる女性のシャーマン
が病気を患う人に成り代わり、またノクッ(nockkut)という祭儀では死者の振りさ
えします。ムーダンは病人や死者の役割を担い、彼らの存在を引き受け、彼らの願望
や感情を身をもって体験します21。ブラウニングによれば、キリストは我々の前に
座って治療を施す西洋的な精神療法士のような存在ではなく、朝鮮のクッ祭儀のムー
ダンに似て、我々の存在を引き受け、我々の感情に深く参与される方なのだと言いま
す。このキリストの参与こそが「深い共感」と呼ばれるものです。「聖書の言葉は、
イエスの宣教活動を悪魔や悪霊に、また人間を拘束する悪の力にかかわり、それらと
戦い、そして打ち勝つものとして証言することが多い。」22「共感」について論じるに
しろ、「深い共感」について論じるにしろ、いずれにせよ心理学は、和解のプロセス
において共感が果たす重要な役割についてキリスト教神学が明確化していく手助けを
提供することができるでしょう。
こうした心理学の神学に対する貢献の可能性は強調してもし過ぎることはありませ
ん。しかしキリスト教神学は、1930年に提示されたアウレンの類型的議論からもっ
と 先 に 進 ん で い る こ と も 確 か で す。 ア ウ レ ン は、 償 い(atonement)、 和 解
(reconciliation)、贖罪・解放(redemption)、救い(salvation)というそれぞれの要
素を明確には区別していません。この点については、彼の英語版の著作のサブタイト
ルには「贖い・償い」(atonement)という語が用いられ(訳注:文末注17を参照)
、
ドイツ語版では「和解」
(独 Versöhnung、英 reconciliation)という語が使用されて
いることからも分かるでしょう。またアウレンが主張する勝利者キリストという理解
は、キリスト教神学が明確に区別して用いる解放(redemption)という概念の枠を超
えるものではありません。アウレンの理解によれば、キリストと我々人間は悪魔、悪
しき力、そして否定的な要素すべてから自由にされ、解放されています。しかし、キ
リスト教的な和解理解に目を向けるならば、ラテン的タイプの中にも重要な要素、例
えば義認のような大切な要素を見いだすことでしょう。神と人との間の不和はキリス
トという頭によって取り除かれたのです。模範としてのキリストという自由主義神学
的理解にも同じことが言えます。罪人や敵対者に対するキリストの愛という模範は、
45
基督教研究 第74巻 第1号
和解にとって重要なものです。
私は、アウレンによって提示された三つの和解理解のうちどれを選ぶべきかについ
てもはや考える必要はないと考えています。これらすべての理解が聖書の中に見られ
る三つの和解理解、つまり和解、解放、救いに結びつけられることが必要でしょう
し、また神学が優先されるべきという我々の前提さえも考え直す必要があるかもしれ
ません。
また勝利者キリストというモデルを強調しすぎることには危険な面もあります。今
日では人びとは、和解よりも解放や救い(救出)の方に目を向けがちです。人びとは
自分たちの生活の否定的な要素を早急に除去したいと願います。例えば、職場や会社
で何らかの問題が生じた時、経営者や上司は問題を起こした当該の人物を排除しよう
としますし、結婚生活に問題が生じた時には、夫婦は離婚(つまり解き放たれるこ
と)を選びがちです。私はこうした解決方法に必ずしも反対というわけではありませ
んし、また他に選択肢がないということもあるでしょう。また和解を試みること自体
が危険を伴うこともあるでしょう。
しかしながら、本来のキリスト教的な視点は、今ここにある状況を活かすために和
解の努力がなされるべきということです。我々はどのみち悪からの解放を完全に達成
することはできません。我々人間は悪の担い手であり、我々は悪を引き離されること
はないからです。それにもかかわらず、我々は神と和解させられた被造物であり、こ
の世の現実というよりも、むしろ希望としての解放を望み見るのです。第二コリント
5章の言葉に従えば、我々キリスト者がなすべきことは、他の人びとのために「神と
和解させていただきなさい」と祈ることであり、また我々には神からそうしたつとめ
が授けられているのです。
Ⅳ.フリードリヒ・ヘルダーリンと結び
フリードリヒ・ヘルダーリンは、彼の詩『平和の祝い』の冒頭部に次のように書い
ています。
宥和するものよ、かつて信じられたことがなく、
しかもいま、不滅のものよ、 やさしい友の姿をとって
現前したおんみ。だがわたしは
気づかずにはいられないのだ、わたしの
膝をくずおれさせる その高貴さを。
そしてほとんど盲者のようにわたしは、
46
和解
気高いものよ、おんみにたずねずにはいられない、何ゆえに そして
どこからおんみは来たのかと。至高の平和よ。
だがわたしはこの一つのことを知っている、おんみは滅びのさだめを担ったもの
でないことを。
賢者や 真摯に凝視する
友らのうちには さまざまなことを解明しうる者もあろう、しかし
神なるものが現われるとき 空と地と海は
いっさいを更新する輝きに光被されるのだ。
(
「宥和するものよ…… 第一稿」
、
『ヘルダーリン全集─2(
「詩 II(1800-1843)
」
)
』
、
手塚富雄、浅井真男訳、河出書房新社、昭和42年、160頁)
この詩が表現するのは、神ご自身が和解を申し出ておられること、そして神の和解
が天と地のすべての事柄に関する我々の見方を変えるということだと、私は信じま
す。イエスがこの世で行われたことは、この外的世界からの解放やこの世界の根本的
な変革というよりも、神の和解をはっきりと伝えられたことです。和解された世界と
いう現実はすでに存在するのであり、その和解に入ることが重要なのです。
もちろん死からの解放や救いがなければ、和解された人びとは打ち砕かれた存在の
ままでしょう。彼らは自らの罪に苦しむ者であり、犠牲となった者であり、恐れと感
情を抱く者です。しかし神からこの世にすでに光がもたらされています。万華鏡のた
とえを用いて、この講演を締めくくりたいと思います。万華鏡の中には、色とりどり
の砕かれたガラスの破片が入っています。砕かれたガラスを通して、砕かれたガラス
から輝き放つ光、そしてガラスの中できらめく光の中に、美が生じます。打ち砕かれ
た状態がキリスト者の生において最も重要な現実なのではなく、癒しが和解を通して
すでにもたらされたという事実こそが最も大切なのです。
*この訳は、2011年10月に同志社大学で行われたイェーナ大学マルチン・ライナー教授による公開講演会
の英語原稿に基づくものである。訳出にあたっては、ドイツ語原稿(および同志社大学神学部水谷誠教授
が作成した邦語訳)を適宜参照し、読者の理解に有益であると判断した部分は、ドイツ語原稿からの情報
も付加した。本文、および文末注内の引用に関しては、既存の邦語訳が存在する場合、参照可能な範囲で
そちらを優先した。聖書からの引用はすべて新共同訳に基づく(原文では King James Version が用いられ
ているが、内容を把握する上で大きな相違はないと判断した)。訳出の作業の中で、様々な方に専門用語な
どの細かな点について相談させて頂いた。紙面上ではあるが、それらの方々に厚くお礼申し上げる。ライ
ナー教授と何度か電子メールで相談しながら、訳文を作成したが、文意に不明瞭な点があれば、その最終
責任は中野にある。
47
基督教研究 第74巻 第1号
注
1
「仏大統領ニコラ・サルコジは、リビア暫定国民評議会の代表者に対して、赦しに基づいた和解を進
めるように促した。大統領は、カダフィ体制後のリビアの将来について語るために集まった60以上も
の国の代表者からなる長時間の国際会議の最後にスピーチを行ったが、彼は「赦しと和解」なくして
は リ ビ ア に は 未 来 が な い と 語 っ た。」(http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-14755666, last time
consulted October 13th 2011)
2
Juri M.Lotman, Kul’tura i vzryv. Sankt Petersburg 2000(Eng. Culture and Explosion, Berlin 2009).
3
各 学 問 領 域 で の 和 解 概 念 の 内 容 に つ い て は、Don S. Browning, Broadening psychology, refining
theology , in Reviving Christian Humanism: The New Conversation on Spirituality, Theology, and
Psychology. Minneapolis: Fortress Press 2010, pp. 27-54を参照。
4
Cilliers Breytenbach, Versöhnung: Eine Studie zur paulinischen Soteriologie. Neukirchen-Vluyn:
Neukirchener Verlagshaus 1986.
5
Otfried Hofius, Paulusstudien. Tübingen: Mohr & Siebeck 1989; esp., Erwägungen zur Gestalt und
Herkunft des paulinischen Versöhnungsgedankens , pp. 1-14, pp. 15-49. See also Adrian Schenker,
Otfried Hofius, Dietrich Korsch, and Hans-Martin Reuter, Versöhnung , in TRE 35(2005): 16-43.
6
Breytenbach, op. cit.( ゲ ー ゼ の 議 論 は こ ち ら で 確 認 で き る ). See also Bernd Janowski, Sühne als
Heilsgeschehen. Neukirchen-Vluyn: Neukirchener Verlag 1986.
7
マタイ福音書の「法」、ヨハネ福音書の「平和」や「命」、各共観福音書に見られる「御国」という新
たな現実は、「和解」、「解放」、「救い」というこれら三つの関係性に位置づけることできる。
8
例 え ば、Jens Herzer, Petrus oder Paulus?: Studien über das Verhältnis der Verkündigung des ersten
Petrusbriefes zur paulinischen Theologie. Tübingen: Mohr&Siebeck 1998. 135頁には次のようにある。
Die Versöhnung ist der jetzt schon verwirklichte Aspekt des Heils, das Gerettetwerden der zukünftige,
der noch aussteht und sich erst in der Zukunft erweisen wird.(
「和解は、救済の成し遂げられた面であ
る。贖罪は未だ実現されない、救済の未来の面であり、贖罪は未来においてのみそれ自体を示す。」)
9
Friedrich D. E. Schleiermacher, Der christliche Glaube. Teilband 2, herausgegeben von Rolf Schäfer,
Berlin: Walter de Gruyter, 2003, pp. 490-493.
10
Karl Barth, Church Dogmatics. Vol. IV. part. 3-1. Edinburgh: T & T Clark 1961, p. 182. カール・バルト
「和解論 Ⅲ/2」、『真の証人イエス・キリスト 上/2』、井上良雄訳、新教出版社、1985年、33頁。
11
Edward N. Luttwak, Give War a Chance , Foreign Affairs. Vol. 78-4. July/August 1999: 36-44.
12
Yaacov Bar-Siman-Tov(ed.), From Conflict Resolution to Reconciliation. Oxford: Oxford University Press
2004.
13
もう一つの、おそらくより説得力を持つ事例は、第二次大戦後の日米関係、および独米関係である。
両国の市民に対する爆撃行為があったにもかかわらず、米国人に対する敵対的な感情はこれまであま
り見られなかった。
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和解
14
Peter Watson, The German Genius: Europe’s Third Renaissance, Second Scientific Revolution and the
Twentieth Century. Harper-Collins e-books 2010(Printed version 2011). この本のイントロダクションに
は、英国におけるドイツ像が近年ますますヒットラーのイメージによって彩られてきたことが具体的
なデータとともに示されている。少し引用すれば、「1977年の調査では、ナチズムやナチス的なもの
が再びドイツで勢力を得る可能性があるかという質問に対して、イギリス人の23パーセントが yes、
61パーセントが no と答えたが、1992年までには、全く逆の様相を呈するようになった。つまり、イ
ギリス人の53パーセントが yes、31パーセントが no と答えたのである。
」反ドイツ的な国民感情を示
す最近の例としては、2005年7月、ドイツ人枢機卿ラッツィンガーがローマ教皇(ベネディクト十六
世)に就任した際、英タブロイド紙サンが、 From Hitler youth to Papa Ratzi 「ヒトラーユーゲント
から教皇(パパ)ラッチィへ」という見出しを掲げた。
15
Carl Rogers, Theory of Therapy, Personality and Interpersonal Relationships , in Sigmund Koch(ed.),
Psychology: A Study of a Science. Vol. 3. p. 208s. See also p. 198. カール・ロージァズ『パースナリティ理
論』、ロージァズ全集第八巻、伊東博編訳、岩崎学術出版社、1967年、203頁他。
16
Browning, op.cit., p. 36.
17
Gustav Aulén, Christus Victor: An Historical Study of the Three Main Types of the Idea of the Atonement.
London: SPCK 1931. Aulén, Die drei Haupttypen des christlichen Versöhnungsgedanken , Zeitschrift für
Systematische Theologie 8(1931): 501-538(訳注:こちらはドイツ語の要約版). グスターフ・アウレ
ン『勝利者キリスト─贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究─』
、佐藤敏夫、内海革訳、教文館、
1982年
18
Browning, op. cit., p. 36.
19
Browning, op. cit., p.35.
引 用 部 は、Rogers, Theory of Therapy, Personality, and Interpersonal
Relationships , p. 210.〔ロージァズ、207頁〕
。
20
Joan D. Koss-Chioino, Spiritual Transformation and Radical Empathy in Ritual Healing and Therapeutic
Relationships , in Koss-Chioino and Philipp Hefner(eds.), Spiritual Transformation and Healing:
Anthropological,Theological, Neuroscientific and Clinical Perspectives. Lanham, Md.: Rowman and Littlefield
2006. 神経科学との関連については、同書に収められた Michael L. Spezio による論文 Narrative in
Holistic Healing: Empathy, Sympathy, and Simulation Theory を参照。
21
Shin-Yong Chun(ed.), Kultur des koreanischen Schamanismus. München 2001, p. 59.
22
Browning, op. cit., p. 37.
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