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OYS001301 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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OYS001301 - 天理大学情報ライブラリーOPAC
論文
宗教問対話と平和構築
井上昭夫
要旨
1米同時多発テロが象徴するように,連続する国際的紛
1
.
1世紀の当初に勃発した 9
本論は 2
争が極度にたつした状況のなかで,紛争解決と平和構築を目的とする宗教関対話に関する基本
1年には「文化の多様性
0
0
0年を「平和の文化国際年」とし, 2
0
0
的な問題を検討した。国連は 2
に関する世界宣言」を打ち出し,
文明聞の対話」に関する国際会議を開催し,多岐に渡る問題
r
の学際的道筋をほぼ明らかにした。しかし一方,世界の科学者や宗教学者も科学と倫理の関係
性,宗教多元論や地球倫理といった世界平和に貢献する学際的研究をとおして,宗教間対話の
充実に向けて一神教側からの自己批判や地球倫理の構築に努力をつづけてきた。本論では,科
学者からはアインシュタインの倫理観,人文系からはハンス・キュング,ジョン・ヒック,ポール・
ニッターなどの神学者の思想と見解を紹介し,宗教間対話の問題点を指摘しながら,最後に平
和学の世界的権威でEあるヨハン・ガルトウングの平和学の実践的方法論が限りなく天理教の「元
の理」の真実に接近していることを指摘した。
【キーワード】宗教間対話,国際連合,アルパート闘アインシュタイン,ハンス・キュング,
ジョン・ヒック,ポール・ニッター,ヨハン・ガルトウング,元の理
1世紀は,
2
9.11の米国同時多発テロによって,あらたな「戦争とテロ」の時代の
幕開けをむかえた。人類の世界平和構築にむけては,まずこの憎悪に満ちた戦争とテ
ロ行為の連鎖を切断することが必須で、ある。ところでこの戦争本体の根本原因につい
,
て
戦争は人の心の中に生まれるものである
ユネスコ憲章」はその前文において, r
r
から,人の心の中にこそ平和の砦を築かねばならない」と謡っている。その主張の主
目的は,人類共生への「創造的平和」の理念を実現するところにあった。そのために
, 20世紀の負の遺産である他者の略奪と支配に赴く「戦争の論理」や,経済的貧困・
は
社会的差別に連なる「構造的暴力」を超えなければならないとまとめられる。ユネス
コは憲章の理念に基づいて, 2000年に「国連平和の文化国際年」を, 2001年には「文
化の多様性に関する世界宣言」を打ち出した。いずれもユネスコがそれまでに打ち出
していた「平和の文化」という新しい概念を基本としている。
対話」は「真
一方, 1998年の国連第 53回総会において,イランの M・ハタミ大統領は, r
理へ到達し,他者を理解する最良の方法」であるとして,人類全体が目指す自由と平
等への道は「文明間の対話」にあると提唱した。その格調高い構想、は満場一致で採択
- 1一
され, 2
1世紀の開幕を飾る 2
0
0
1年の「国連文明間の対話国際年」の骨子となった。
この国連決議にそって, 日本では国連大学主催の「文明聞の対話」国際会議が,次の
七つのセッションに分けて開催された。つまり,
化社会と文化変容,
遍性 vs独自性,
1
) 文明間の対話の歴史, 2
) 多文
3) 文明聞の対話一課題と機会, 4) アジアからの貢献,
6) 文明聞の対話の政治的側面,
5) 普
7) 異文明への理解一活発な文明
間の対話に向けて,といったテーマである。異文明間の相克と共生や,発展途上国と
先進諸国の対等性など, ["文明聞の対話」に至る問題は多岐にわたるが,難問解決に
向けての筋道は,理念的にほぼ明確になったと思われる。
こういった国連の平和構築に関する宣言や,それにつづく一連の関連会議の開催以
前から,世界の宗教者や神学者たちには,それぞれ独自の伝統的宗教教理の再解釈を
とおして,文化の多様性を容認しながら,異文化聞における倫理や価値観の共通項を
求める努力がみられた。たとえば,あとでふれるドイツのハンス・キュングが提唱す
る「地球倫理」や,米国のジョン・ヒックに代表される「宗教多元主義」などがその
好例である。そして,それはサムエル・ハンチントンがその著『文明の衝突と世界秩
序の再編』の第 1
2章において,諸文明の共通した特性を,普遍主義を放棄し て諸宗
教の多様性を受け入れ,共通の特徴を追求・拡大していくことによって「文明の衝突」
を避けようと主張する理論もおなじ流れにある。自文明中心主義ではなく,異文明共
存を目指す世界中心主義も,これらの思想、が求める世界観に通底しているといえる。
しかし,多文明世界において自宗教の普遍性を強調せず,異宗教との共通点を追求
しながら異文化の共存にむかう「寛容」の精神が平和構築の条件であるという「世界
中心主義」は,次の段階に至らねばならないと筆者は考えている。つまり,次段階の「世
界中心主義」は,世界の多様な文化・文明の「共通点の追求」から,あらたな「共通
点の創造」にむかうという方向にむかわねばならない。その意味で,現在の段階にお
ける「新世界中心主義」の理念は,ひとつの未来論であり,ユートピア思想、といえる
かもしれない。本稿は,この問題についてはくわしく述べる段階にはないが,物理学
者であるアルパート・アインシュタインの言説が,その人類共通の倫理や価値観の創
造を可能にする規範を暗示していると思われるので,それをまず紹介したうえで,関
連する「宗教間対話」の課題に及びたい。
アインシュタインの科学と倫理
1
9
3
4年,アインシュタインはアムステノレダムの平和主義者の講演会において,当
時違法であった良心的兵役拒否を政府に対抗して積極的に支持した。くわえてアイン
シュタインは,平和実現への人類の倫理的要請にふれて,科学と倫理の相違と共通点
について次のように述べている。
-2
一
(前略)すべての科学的叙述や法則は,それらが「正しし日か「間違っている」
(正確か不正確)かのどちらかであるという一つの共通する特徴をもっている。
端的にいえば,それらに対する私たちの応答は「イエス」か「ノー」である。科
学的な考え方はさらにもう一 つの特徴をもっている。科学 がその論理的なシス
テムを構築するためにつかう諸概念は感情をあらわさない。科学者にとっては,
そこにはただ「存在」がある だけで,欲望や,評価,善悪 などはなく一簡単に
いえば,そこには目的という ものが欠落している。私たち が科学そのものの領
域にとどまるかぎり, ["汝,嘘をつくなかれ」といった類いの文章にはめったに
出くわさないのである。事実 を追求する科学者には,清教 徒的抑制にも似たな
にかがある。つまり,科学者 は自発的あるいは感情的なも のすべてを遠ざけよ
うとする。ついでに言うと, この傾向はゆっくりと発達し てきた現代の西洋的
思考の特徴的な結末である。
このようなことからは,倫理にとって論理的な思考は不適切で、あるようにみ
えるかも知れない。事実と関 係性についての科学的叙述は ,たしかに,倫理的
指示を生じさせることはでき ない。しかしながら,倫理的 規範は,経験知と論
理的思考によって,合理的か っ事実と整合性があるものと なりえるのである。
もし私たちが基本的な倫理的 命題に同意するならば,その 命題が十分な正確さ
をもって述べられているとし づ条件のもとで,それらから 他の倫理的命題をみ
ちびくことができる。このよ うな倫理的命題は,数学にお いてもちいられる公
理とおなじような役割をはたす。(以下略。訳文は筆者)
つづいて,アインシュタインは「なぜ嘘をついてはだめなのか」という問いに意味
があるのは,次のような前提が暗黙のうちに了解されているからであると述べる。つ
まり「嘘は他の人のことばの信用を失わせる。信用なくして社会的協力は不可能か少
なくともむずかししリということを意味し, <汝嘘をつく勿れ〉とし寸原則は(人類
の生命は持続されるべきである〉とか(苦痛や悲しみは出来るだけ軽減されるべきで
ある)という要求に根ざしているから意味があるのだと言う。「人を殺すな」という
倫理的原則もおなじ経験則にしたがっている。以上のような説明のもとに,アインシュ
タインは科学や数学の合理性を宗教倫理の感性の世界にもちこみ,世界平和へのあら
たな倫理的命題構築への方向を提示した。そして彼は次のようにまとめている。
純粋論理学の公理は,倫理学の原則とおなじくすべて恋意的である。しかし,
それらは決して心理的,遺伝 的視野からみれば悉意的なの ではない。それら
は苦痛と絶滅をさけるために ,私たちが生まれつきもって いた性向と近隣の人
たちの行動に対して積み重ね られてきた感情的な反応に由 来しているからであ
る
。
-3
ー
またアインシュタインは,これら膨大な数の個人が積み重ねて来た感情的諸経験は,
総合的でかつ社会的にしっかりと根付いているが故に,その倫理的原則を進化させる
のは覚醒した人類の道徳的天才の特権であると述べている。倫理的原則や道徳的格言
は科学的原理と同様に発見され検証されてきたのであり, ["真理とは経験の検証に耐
えうるものである」かぎり,科学と倫理は両立するという意味のことを述べている。
このことは科学が進歩するかぎりにおいて,倫理や道徳も進歩するということを示唆
しているのではなし、かと思われる。アインシュタインの考え方には,科学的な合理的
手法をもちいて,世界平和実現に宗教的倫理の経験則を生かす方法がかくされている
と思われる。
「宗教間対話」の問題点
1
9
9
3年 8月,シカゴで万国宗教会議百周年を記念する会議が開催された。ここでは,
ハンス・キュングが中心となって起草した『地球倫理宣言』が採択された。宣言文は「人
間の尊厳」に立脚した「殺さない・盗まない・嘘をつかない」といったどの宗教にも
共通する倫理的原則が中心となっており,この思想はその後開催された人権や人間の
責任に関する国際会議におおきな影響をあたえているといわれる。キリスト教の相対
化にくみしたとみられたハンス・キュングは,カソリック教団の神父職から追放され
た。キュングのような宗教者の覚悟も真の「宗教間対話」においては求められるだろう。
いま述べたように「地球倫理」は,主として世界宗教の倫理や道徳の共通点を見いだ
すことからはじまる。しかし, ["親切」という徳目一つをとってみても,その表現さ
れるかたちは文化によって同一で、はない。したがって, 日本人が親切と思って実行し
たことが,不親切と誤解されことはいくらでもある。「誠」といった徳目も同様で、ある。
辞書的ことばの翻訳の背後にある意味をし、かにつむぎ、だ、していくかが「地球倫理」の
思想的主題となる。この翻訳用語の意味論がほりおこす矛盾については,拙著『世界
宗教への道一異文化伝道入門』において検討しているので,ここではくりかえさない。
国際的諸宗教間対話に多分わが国ではもっとも数おおくかかわり,そのむなしさを
つぶさに体験してきた金光教の三宅義信師の象徴的な宗教間対話への印象を紹介して
おきたい。三宅は,世界宗教に共通する「神」や「平和 J
, ["愛」といった概念がもっ
言語空間は文化によって意味するところが異なっているから, ["ゴッド・イズ・ラブ・
アンド・ピース」などと言って,異なる宗教の指導者がいつまでもお互いに分かり合
えたような気になるのはおおきな問題であると憂う。なぜならこの文章の言語のなか
で普遍性をもつのは「イズ」と「アンド」だけでなないかと皮肉っている。おなじよ
うな視点を筆者もまえからもっていた。拙著のなかで宗教間対話には「ラブ」イコ)
ル「愛」ではなく, ["親心」イコーノレ [
"
P
a
r
e
n
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a
lL
o
v
e
J ではないという認識が大切であ
-4
一
るとして,宗教間対話には,類似的な宗教用語の言語空間のちがいについての議論が
前提としてあるべきだという意味のことを主張したことがあった。三宅は,一歩進め
て,対話を実のあるものにするには,これら諸宗教の規範をなす教語をまとめて,いっ
たん置き換える共通の概念言語,ないしはコードを創出す べきだと提案する
神道
W
(
5 日号)。つまり,経済の世界における「マネー」がそう
フォーラムJl 2006年 7月 1
であるように,いったんすべての商品を「マネー」というコードに置換してから取引
するように。人間だけが智慧と文字の仕込みによってものや概念になまえをつけるこ
とができる。その神からあたえられた能力を,共通概念をはこぶ文字コードをつくる
努力にむけることによって,曲がり角にきた国際宗教間対話の転換をはかろうとする
主張は一見奇抜な発想にみえる。しかし,異文化が歩み寄るための共通コードはたと
え創出できなくても,そこに到達しようとする議論のプロセスが対話者の精神を変革
改善し,ないしは深化させることになる。
ジョン・ヒックの宗教多元主義
一方,ジョン・ヒックは,天文学のアナロジーをつかって,世界宗教の平和的共存
をめざすために,キリスト教における宗教の神学の「コベノレニクス的転回」という考
え方を提示した。つまり,究極的実在である神が太陽のように惑星の中心にあり,キ
リスト教も含めた諸宗教はその回りを惑星のように回転し,奉仕しているという考え
方である。それによって排他的,包括的であると批判されるキリスト教徒は,他の宗
教信者と平和共存が可能となると示唆した。ヒックは聖書に書いてあること,たとえ
ば創造論などは文字通り信ずることができないといって物議をかもしだし,米国のプ
リンストン神学校を追放されたが,後ほどさまざまな経験を経て「宗教多元主義」の
概念構築に至る。彼を諸宗教間対話へと引き込んだのは,新しい思想というよりも,
むしろさまざまな世界宗教との出合いで、あったと告白している。 1987年,天理の国
際シンポジウムに参加したヒックは,その基調講演で神学のコベノレニクス的転回論を
軸として,キリスト教,仏教,そして儒教などにおける宗教的・人格的成人像 (human
) の表現的相違はあっても,根本においては矛盾せず,
y
t
i
旬r
ma
黄金率」は共通して
r
いるという議論を展開している。成人像の文化的表現は異なっているが,それぞれの
道徳的理念は事実上同一で、あると述べているのである。いずれも世界中心主義の段階
に位置して,諸宗教の相違点よりも,共通点を探求していこうとする考え方であろう。
海外伝道が独善的,排他的にならないように,それぞれの文化的多様性のなかで,地
域の諸宗教の共通点に眼差しをむけることが大切である。相違への極端な意識は,独
自性を突出させることによって,人間関係の中で対立・抗争をもたらす原因となる。
また逆に,普遍的要素ばかりに気をうばわれると,天理教の独自性が失われるから,
一
-5
両者のバランスを「グローカノレ」にたもつ智慧と決断が伝道者には求められるのであ
る
。
しかし考え方によれば,ひとつの文化に発生した宗教の異文化における真の土着化
は,その異文化の土壌である苗代の底まで掘り出してしまわなければならないのでは
なし、かと思われるほどである。たとえば,インドネシアの最大民族であるジャワ人は,
伝統的な言い伝えを重んじる傾向が強いとされ,土着の神秘主義の影響を受けて,イ
スラムの信仰でさえ,超自然的要素を含んだ独自のものに変化しているといわれる。
たとえば「プリンボン」は,独特のジャワ暦にもとづく吉凶を記した暦占いのような
もので、あるが,一般民衆が日々の生活で参考にするのはさておいても,政府の高官で
さえそれを重要な決定的瞬間において参考にする人がいるらしい。軍人も例外ではな
く,東ティモールで国際部隊を率いるジャワ人指揮官が突然予定の作戦行動を中止し
たとき,その理由をたずねた部下にむかつて指揮官は,“プリンボンによると,
日が
悪い"と答えたという。またインドネシアでは地震や津波の被害があいついでいる。
あまりひどいので,これらの天災はインドネシアへの自然からの警告かという風潮が
流れ,先の世論調査では“天災はユドヨノ政権に対する怒りだ"という人が 52・5%
に上ったという。 1980年代後半,インドネシアが武力併合していた東ティモーノレで「プ
リンボン」をひもといた指揮官は,将校時代のジャワ人ユドヨノ大統領のことだとい
われる(~毎日新聞~ 2
006年 7月 24日朝刊付)。
グローパリゼーションと「宗教間対話」
グローパリゼーションは,コンビュータと最先端通信技術が連動して,近代化によっ
て創られてきた時空間の領域を圧縮し,その領域をあたらしく組み替え,解体させよ
うとしている。組み替えられる領域は,政治や経済のレベルに止まらず,文化,学問
の分野においてもおおきな意識変化を招来させている。宗教思想においても,それは
例外ではない。キリスト教神学の世界でも,多元主義が生まれ,強固な一神教文明が
内からその思想を再構築しつつある。
世界には普遍思想があり,それを学ぶのが学問と考える時代は終わったのではない
か。地域・風土,さまざまな異質な環境とともに,思想はもともとローカルで、多元的
であるという当然の事実が,グローパリゼーションがもたらすアイデンティティ・ク
ライシスを実感,予則し,突き進む西欧主導のグローパル化の流れに反抗する知識人
たちによってあらたに見直されてきている。しかし,また現実には,国境を突き破っ
て浸透するさらなる地域へのグローパリゼーションが,私たちの日常生活における衣
食住や教育といったさまざまな文化の在り方を画一化しようとしているのも否定でき
ない事実である。人間の多様な個別性,価値観の多元性,文化の異質性のなかの豊か
-6
一
さが,グローパル化の影響のもとに失われることは,人間性の根源が失われることに
ほかならない。こういった普遍と個性のせめぎあう時代のうねりの中で,宗教者に問
われているものは何であるかを,それぞれの帰依する信心の原点にかえってあらため
て考え,グローパリゼーションの過程や国際化が提起する問題に鋭敏に対応できる思
想、を,新しく構築しなければならない。
このような世紀末における急激な時代変革の延長線にある 2
1世紀を共に生き延び
るために,宗教者にはグローパリゼーションの負の力に押し切られない磨かれたロー
カノレな知性と,強靭かつ柔軟な個性,そして自然環境と調和共生のできるライフスタ
イル,感性豊かな新しい美意識が求められる。くわえて,これからの宗教は個人レベ
ルの救済にとどまらず,環境と開発問題,遺伝子工学,人口爆発,民族紛争,貧困層
の増加などによってもたらされる,人類全体の存続に関わる緊急の課題に対応できる,
新しい総合的人間哲学をも提示しなければならないだろう。こころある宗教者や神学
者,そして未来学者が世界倫理・地球倫理を模索しているのは,こういった問題を正
しく認識し,人類の未来に危機感を感じているからにほかならない。
人聞が古来からもっ基本的な問題は不変であるにしても,現実は人類がいままでに
体験したことのないレベルにまで激変しつつあるから,従来の宗教における伝統的教
理解釈だけでは,私たちはその現実世界の未挑戦の諸問題に効果的に肉迫できない。
目の前に突きつけられた問いに真塾に答えようとするためには,宗教者は本気で、宗教
者自身の「意識改革」から始めねばならないだろう。宗教間「対話」とは,教義の相
互理解や,本来的には秘儀であるべき聖なる儀式や祈りの交流パーフォーマンスに止
まるのではなく,それらを踏まえた「対話者」自身の信心の深まりと拡がりがその営
みによってもたらされねばならない。その意味で「対話者」にとってあらたな行為を
呼び込まない「対話」は不毛であり,自己の意識改革をもたらさない「対話」はいま
や無意味であるといわねばならない。「対話」に要請されるのは,知識の平面的ひろ
がりでも,直線的「進イじ」でもなく,精神の垂直的「深化」である。その過程におい
て体験される世界の多様な宗教者の個的心象風景は, ["深化の場」こそちがえ,私た
ちを普遍的な底辺に潜む人間としての共通精神世界へと導いてくれるであろう。
西洋の一神教から発信された「宗教多元主義」がもたらそうとしている宗教のコベ
ルニクス的転回といわれる思想は,大きな歴史的「意識変革」のーっとして歴史的に
評価できるが,それが現代の政治,経済,文化をはげしく揺さぶる先端科学の情報技
術と物質界の「グローパリゼーション」の浸透のなかで,新しい世紀の問題解決に寄
与することが出来るかどうかは,いまのところいまだ、私たちの視野に入ってこない。
こういった次第で,いわゆる宗教間「対話」が, i
宗教多元主義」と「グローパリゼー
ション」の方向づけに,いかにしてその影響力を及ぼすことが出来るかどうかは,そ
7-
こにコミットする「対話者」の「対話」自身の意味の再確認と,激動する現代世界に
対する正しい認識がまずもって必要と思われる。そして,その思考の順序を経たあと
で,身の回りにも蔓延するエゴイズムの諸相と不条理のなかにあって,自らの精神の
不可知論的状況を突き破る勇断が求められる。「宗教問対話」は世界平和が目的であ
ると言っても,問題が複雑な国家主義や民族主義に,国際政治的にからみとられてい
るから,そのもつれをほどくのは容易なことではない。その現実にたちかえれば,対
話から得られるであろう相互の体験的,求道的,教育的成果の副産物にこそその評価
の目が向けられるべきだろう。
プロセス神学の大家として知られるジョン・ B・カブは,対話を超えるためには対
話を通過しなければならず,対話を超えて横たわっているものは,相互変革の志であ
ると規定している.そして彼はその著『対話を超えてーキリスト教と仏教の相互変革
の展望』の中で次のように閉し、かけている。
ひとはある宗教の代表者,代 弁者の役割を演じると同時に ,また対話を通じ
て他の宗教よって意味深い変 革を遂げることをみずからに 許すことができるか
どうか,にかんする鋭い問いかけがある。対話に関与した個々人に起こる変革は,
かれらがもともと代表代弁し ている同信の者達の聞では, 厳しい疑いをかけら
れるきっかけになるかもしれ ない。しかし指導者たちのあ いだでの変化は,も
しもかれらが真実指導者であ るならば,かれらが指導する 信仰共同体に影響を
及ぼす事が出来るし,また時には事実及ぼすのである。
と「対話」への希望を述べたあと,反ユダヤ主義への良心的反省の展望について,キ
リスト教徒の真の対話にかんして期待される神学的議論を展開している。
しかし,各宗教の代表者はたとえそうであっても,自宗教の絶対性のなかで,この
方面の成果については公言できにくい立場にいる。その意味で,個々の布教師によっ
てすすめられる異文化伝道は,草の根レベルにおいて日常的に「宗教間対話」を実践
しているのであるから,それは異文化間対話のなまの「実験室」ともいえよう。いわ
ゆる宗教間対話の中味が抽象的言説でまとめられがちなのは,対話が実験室の外で衣
をまとった公式会議としておこなわれるからであろう。宗教間対話はカトリックの世
界戦略であるいう,宗教学者山折哲雄の主張を紹介しながら,金子昭は富岡幸一郎と
の対談のなかで本音をもらしている。つまり,本気でやる宗教間対話は,本来は他流
試合のようなものであり,たとえばプロレスと武道の他流試合に必ずみられる,場外
乱闘というのが付き物である。宗教問対話は見せ物ではないが,そういうこともなく,
ただ他宗教を知ることによって,自分の信仰が深まるから,それが世界平和に貢献す
ると考えているとすれば,本当に真剣にやっているのかなあと疑いたくなるという意
味のことをもらしている。気がついたら,老猪なカトリックに取り込まれていたとい
-8
ー
うことにならないかと杷憂もしているが,ヒンズーやイスラムもおなじような傾向に
あるから,この心配は日本の国際化に不慣れなおしとよし教団群にむけられているの
であろう。
2006年の 8月
, 36年ぶりに京都市で聞かれた 2006年の第 8回世界宗教者平和会議
C
W
C
R
P
) は,世界 1
0
0の国・地域から 2000人という過去最多の宗教者を集めた。テー
マには「紛争解決」があったが,対話が期待された研究部会や,中東やアフリカなど
の地域別会合はほとんどが「密室会議」で多くの不満がのこった。宗教聞の他流試合
は密室という場外でおこなわれ,それは非公開で、あったから乱闘があったかどうかは
まったく知らされていない。「行動する宗教者」との立場が鮮明に打ち出されていた
が,密室会議が「外に漏れれば出席者の身に危険が及ぶ」という理由でうやむやにさ
れた印象である。金子の心配は半分は的を射ていたのである。大会では平和をおびや
かす「暴力」を貧困や飢餓,環境破壊までも含むと強調していた。現実の紛争と暴力
にひろくむきあう姿勢は評価されるが,世界の宗教代表者が一堂に会して平和が訪れ
るのなら苦労はない。
皮肉といおうか,宗教者平和会議のすぐあとに,ローマ法王ベネディクト 1
6世が,
母国ドイツでおこなった講義で,ジハード(聖戦)にふれて「ムハンマドが新たにも
たらしたものは,邪悪で冷酷なものだけだ」という 1
4世紀のビザンチン皇帝の言葉
を引用した。そのイスラム圏での反応は,対テロ戦を中世の「十字軍」の戦いになぞ
らえたブッシュ米大統領への反発に匹敵するほどで、あった。新聞各紙は一斉にこの事
件をおおきくとりあげていた。講演の趣旨は,信仰は理性によってひろめるべきで,
暴力や脅迫によってひろめるべきではないという点にあったが,予言者ムハンマドを
誤解・誹諒されたという理由で世界中のイスラム教徒から強し、反発を呼んだ。法王は
逆に「誤解された」とくり返すだけで,報復を呼びかけるイスラム過激派もあり,バ
チカンは前代未聞の危機に立たされているという。半世紀まえに第二バチカン公会議
で発足した,法王庁の諸宗教対話評議会の流れをくむ WCRPの宗教者平和会議の関係
者は,この法王発言で、バチカンの「キリスト教至上主義」がもたらした問題に,一神
教との宗教間対話のむずかしさをあらためて思い知らされたであろう。とくに現法王
にとっては,諸宗教との「対話」は,単なる異文化交流にすぎないと批判されている
むきもある。それだけに, 日本の宗教者は,これからも一神教との「対話」には,そ
の背景にある異宗教にたいする排他・独善的伝統の歴史の重みを認識しておくことが
必要である。
ポール・ニッターの「宗教間対話」
世界諸宗教が自らの信仰の絶対性を強調するあまり,宗教聞の相違が際立つような
一
一9-
こころみは宗教間対話ではさけ,共通的な教理に眼差しをむけ,そしてその教理の独
自の実践活動体験にもとづいた真実を情報交換することによって,宗教者が相互に己
の信仰の深化を志すのが理想的な「宗教間対話」であろう。しかし,現実の対話にお
ける教義をめぐる議論は知性にとどまり,サロン的で自己完結してしまっている。対
話が一般社会から断絶しているから,そのビジョンは絵空事と批判されても返すこと
ばがないし,感動のダイナミズムは期待できない。そこで「教理は分裂させ,奉仕は
一致させる」とし、う伝統的な言いまわしをもって,まがりかどにきている「宗教間対話」
に教理の実践をとおして,自己批判・自己変革をおこない相手の立場の理解と自己理
解をもとに,諸宗教の倫理的共同体をつくろうという動きがでてきた。とくに一神論
のもつ信仰の絶対 性は「排他主義」をまねき,従来の「宗教間対話」をむずかしくし
d
てきた。そこでカール・ラーナーという神学者が,キリストを知ることなく,じつは
キリストによって救われているという異教徒に「匿名のクリスチャン」などという地
位を割当て問題を解消しようとした。この立場はキリスト教を中心的規範の立場にお
いている意味でキリスト教的「包括主義」といえよう。一方,ヒックは彼の「宗教多
元主義」によってこの包摂主義を超えようとしたのであるが,彼もさまざまに批判さ
れてきた。その批判に関係する他宗教へのキリスト教のさまざまな立場のながれを総
.
括し,あたらしい宗教共同体の倫理的モデ、ルを提示したキリスト教神学者にポール F
ニッターがいる。彼の著書のタイトルは「他に名前は」を 意味する NoOtherName?
で,その副題は「世界宗教へのキリスト教的態度に関する批判的概論」を意味する A
sとある。主題はあきらか
n
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ける「裏守護」と類似した理念が見受けられると思うので,最終章でまとめられてい
暗唱る箇所「知るまえにすること一宗教間対話の挑戦 J- DOINGBEFOREKNO¥¥
THECHALLENGEOFINTERRELIGIOIUSDIALOGUEのさわりを簡単に紹介してお
きたい。
ニッターは,用心深くまだ仮説であるとことわったうえで,宗教間対話や伝道活動
においてキリスト教徒が他の宗教信者に接するとき,神の天啓は規範的にイエスに限
定されるということを主張する必要はないと述べている。そのニッターの仮説は次の
ようにまとめられるであろう。まず彼は,イエスの天啓の絶対性を主張することより
も,対話者の信仰告白的アプローチがより好ましいとしている。つまり,他宗教との
出合いにあっては,キリスト教徒は自宗教の天啓が他の宗教の天啓を超越していると
か,包摂しているとかを議論するのではなく,自らの信仰体験の実証と告白をおこな
い,キリストが最後の救済者であることについては未解決の問題として保留しておけ
-10-
というわけだ。このような告発的アプローチはどのようにすれば可能かについて次の
ように述べている。第一に対話というものを,
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知ることのまえに実践する J (Doing
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るより以上に理論を啓発する。なぜなら実践によって啓発された理論それ自体が,一
方その実践をあらかじめ方向づけているからである。「教理」の「実践」告白をとお
して,諸宗教の共通性が見いだせる。第二に,このように対話がもっ機能を理解すると,
これまでとはちがう真理のモデ、ルがみえてくると述べている。それは真理を知るため
には実践が必須であるとする解放神学の基本的原理の応用によって可能である。した
がって,宗教間対話は,個人的宗教体験とそこからもたらされた確固たる真理の主張
にもとづくべきというわけである。そしてさらに対話というものは,すべての宗教に
真理があるという可能性を,共通の目的としてもっていることに立脚していなければ
ならないとする。そのためには,お互いに相手の信仰体験を真剣に聴くということの
重要性と,そのむずかしさに注意をうながしている。そして宗教的「絶対的真理」の
あたらしいモデルとして,
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他者を関係づける能力 J (
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) を宗教
の「絶対性の定義」に追加するように提案している。一宗教の主張する「絶対性」が,
いままでは他宗教への排他性や他宗教を包括する方向に向いていたことが対話を困難
にしていたというわけだ。
このニッターの「宗教間対話」に必要とされるあたらしい宗教のもつ「絶対性」の
再定義は,かぎりなく「元の理」の「裏守護」の理念にちかい方向性がみられる。だ
めの教えは「最後の教え」と 表記されているが,親神の「 裏守護」のはたらきは未
来にもつづき,時空を超越している。天理教の他宗教にたいするアプローチは,一れ
っきょうだいの人間平等論にもとづいている。「元の理」の人間世界創造の到着点は,
智慧と文字の仕込みでおわっている。人間はその仕込まれた智慧と文字をあやつるこ
とによって,多様な文化や文明をうみだしてきた。宗教は人聞が神からあたえられた
こころがつくった文化のかたちであるから,その表現は多様で特殊で、あるのが当然で
ある。しかし,文化・文明の独自性や宗教の排他性は,争いをよびこむ危険性をつね
に内包している。ことなる世界における人類の共存をねがって,独自性が排他性をよ
びこまない智慧を「宗教間対話」においても,また海外布教活動をとおしても,私た
ちはいま求められているということを再度ここで強調しておきたい。異文化伝道も,
個人的なレベルにおけるローカルな布教師の日常の「宗教間対話」の現実的世界にあ
る。そこにはグローパルな「宗教間対話」に共通する問題点がよこたわっている。と
いうより,異文化伝道者の方が数年に一回の頻度で開催される国際「宗教間対話」者
より,その異文化折衝のはざまで魂の救済という行動経験において,さらに充実した
現実の具体的「宗教間対話」をつねにおこなっているとみられる。問題はその貴重な
-11一
経験が,彼らがエリート神学者や教団の代表者でないという理由から「宗教間対話」
において発表の機会があたえられていないというだけにすぎない。現代の「宗教間対
話」が曲がり角にきているといわれる原因はここにもみられるのである。
ガルトウングの平和学と「元の理」平和論
陽気ぐらしをめざした人類の究極的平和は,異種文明の調和的共存の世界にあり,
その地平にむかう天理教学の平和論は,教祖が口述された「こふき」話の「裏守護」
を支える多元的で且つ「グローカノレ」な筋道に立つことが大切で、ある。その試論は拙
著
Fこふき」のひろめ」において述べた。そこでは,平和の対極ある戦争や紛争と
いう地域や国家の社会事情を緩和・解決・予防するためには, I
元の理」からみちび
きだされる個人の病や事情の諭し・悟りを,社会に延長して応用する天理教学研究の
あらたな展開が求められるとした。この意味で「元の理」に接近している平和学者と
して,世界の平和学者の第一人者であり,平和運動のリーダーとしても精力的な活動
を展開してきたヨハン・ガルトウングがいる。彼の平和論の特徴は,平和と戦争が個
人の健康と病気の相似関係にあるという点に注目しているところにある。彼は「平和
,あるいは医学や
のための条件を探求する」平和学を,身近な存在である「健康学 J
薬学の比輸をつかって,戦争の病の因果関係や予防・治療等の問題を分析・展開して
いる。天理教学が「元の理」の平和論構築をこころみるにあたっては,ガノレトウング
の平和論やその実践としての平和活動からまなぶことがおおいと思われる。くわえて,
ここ数年来,多分に東洋的な視点をとりこんだ人間の幸福とは何かを考える「学際的」
な「安心・安全学」とし寸研究がさかんになりつつある。いずれも「元の理」平和論
を考えるにあたって援用できる思想であろう。このことは拙著
Fこふき」のひろめ』
のあとがきでもふれた。本稿の結論においても,将来の研究課題としておなじ趣旨を
ふりかえった次第である。
しかしながら所詮こういったことは,思想の世界のはなしである。筆者が海外伝道
を語るにあたってつねに念頭におくのは,思想、や教理よりも実践がみちびきだす真実
の世界である。実存的信仰検証のない海外伝道論や天理教学は空虚である。真剣なひ
とりの海外布教師が,海外「伝道」活動を謙虚に異文化「求道」と位置づけ,教祖の
ひながたの教理に示された普遍的真理を,多様なローカノレの特殊世界において日常検
証する努力をつみかさねることこそが,天理教者が質において世界に幸福と平和をも
たらすもっとも手堅い道であると信じている。そのためにも海外布教伝道に直接,間
接に関わる私たちは,明確に提起されている問題点を正しく把握し, I
思案」の祈り
の深化をとおして,あらたな行動への覚悟が要請されるのである。
-12一
註
(1)サムエル・ハンチントン『文明の衝突と世界秩序の再編』集英社新書,鈴木主税訳, 2
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8,参照。
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(4) 星川啓慈他『現代世界と宗教の課題一宗教関対話と公共哲学』蒼天社, 2
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0
5,1
0
3頁,参照。
(5) 井上昭夫「原典翻訳論考J~世界宗教への道一異文化伝道入門』日本地域社会研究所, 1
9
8
2,272-316
頁,参照。
(6)井上昭夫「愛,慈悲,親心 J
, 前 掲 (5),239-241頁,参照。
(7) 間接啓允他編『宗教多元主義の探求ージョン・ヒック考』大明堂, 1
9
9
5, 4頁,参照。
(8) J
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1,参照。
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(9)ジョン・ B・カブ『対話を超えてーキリスト教と仏教の相互変革の展望』行路社,延原時行訳, 1
9
8
5,
9
7頁,参照。
(
1
0
) 金子昭・富岡幸一郎『宗教原理主義を超えて』白馬社, 2
0
0
4,1
8
1
9頁,参照。
(
1
1
) 岸根敏幸『宗教多元主義とは何かー宗教理解への探求』晃洋書房, 2
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) ヨハン・ガルトウング+藤田明史編著『ガノレトウング平和学入門』法律文化社, 2
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3。
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