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デカセギと家族(15)――経済危機の影響・O一家の場合

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デカセギと家族(15)――経済危機の影響・O一家の場合
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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デカセギと家族 (15) : 経済危機の影響・O 一家の場合
稲葉, 奈々子/樋口, 直人
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 13: 173-183
2012-09
http://hdl.handle.net/10109/3307
Rights
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します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。
お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
デカセギと家族(15)
─経済危機の影響・O一家の場合─
稲葉奈々子
樋口 直人
要約
リーマン・ショックは在日南米人の大量失業をもたらしたが、それは個
人や世帯という水準でどのような影響を及ぼしたのか。そうした問題意識
にもとづき、本稿はアルゼンチン人家族であるO一家のデカセギの軌跡を
描くことを目的とする。O一家のデカセギは、日系二世の父親および次女
という2人を軸としており、次女は日本で結婚して定住の道を選択した。
そこで次女が形成した家族は、経済危機をどのように経験し、それにより
何が変化したのか。夫の解雇や自ら経営する託児所の閉鎖、その後の失業
と転職を経て、聞き取り時点では小康状態にあった。しかし、経済危機後
に世帯収入が激減したため、増大する子どもの教育費を賄えず、余暇行動
も制約されるようになった。このような生活水準の低下は、経済危機後の
南米系コミュニティの基調をなしており、相対的貧困の問題がよりリアリ
ティを持って語られる状況になったといいうる。
キーワード:アルゼンチン、日系人、移住過程、リーマン・ショック、
帰還移民
1. 問題の所在
リーマン・ショックは、在日南米系コミュニティに破壊的な影響を与えた。就労人口の大
多数が、自動車・電機といった輸出産業での非正規雇用に従事していたため、輸出減に伴う
派遣切りが南米人全体を直撃したことによる(樋口 2010b)(1)。それにより、ブラジル人登
録者数はピーク時たる2007年末の3分の2程度になってしまった(図1参照)。本稿で取り上
げるアルゼンチン人の場合、リーマン・ショックの影響で減少したのはピーク時と比較して
1割程度であり、東日本大震災でさらに1割減少した。その意味で経済危機に伴う帰国者の
比率はブラジル人より低いが、それはブラジル人より解雇を免れた者の比率が高かったから
『人文コミュニケーション学科論集』13, pp. 173-183.
© 2012 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
稲葉 奈々子/樋口 直人
174
図1 経済危機後の在日南米人登録者数の推移
出典:2007年12月時点の数値は法務省入国管理局『出入国管理統計年報』、その後の数値は『出入国管
理統計月報』による。
注:2007年12月末現在の人口を100としたときの数値を表す。
とはいえないと思われる。
では、経済危機の影響を受けつつも日本に留まった家族は、どのようにして危機状況を生
きてきたのか。経済危機以前と以後では何が変化したのか。その変化にどのように対応しよ
うとしてきたのか。これまで15回にわたって家族のデカセギの軌跡を記述してきたが、その
最後となる本稿では、上記の問いを念頭におきつつO一家の状況を描いていきたい(2)。
2. O一家について
O一家は、年老いた父親と母親、3人の子ども、そのうち日本で結婚した長女の夫と3人の
子どもからなる(図2参照)。父親は日系二世だが、6歳から19歳になるまで日本で学校教育
を受けるため沖縄にいた(3)。地上戦のあった沖縄では教育も十分受けられなかったというが、
戦後に高校を卒業して半年後、呼び寄せ移民が可能になったためアルゼンチンの父親のもと
に戻っている。それゆえ、父親の母語は日本語であり、アルゼンチンに戻ってからはスペイ
ン語がわからなくて困ったという。当時のアルゼンチンでは、イタリア系やドイツ系でも故
国で教育を受け父親と同じくスペイン語ができない者がいたため、そうした若者の再教育が
軍隊でなされていた。父親も、兵役時に軍内部のスペイン語学校で学んだ。それからさらに、
夜間の小学校に1年だけ通っている。
アルゼンチンでは父親の野菜栽培を手伝い、それから土地の一部を借りて花卉栽培農家と
して独立し、営農資金はタノモシで得た。結婚後も花卉栽培を続けており、2世でありなが
ら日本語が母語という以外は、アルゼンチン日系人の典型的なキャリアを歩んできたといえ
デカセギと家族(15)
175
図2 O一家の家系図
注:枠の点線はデカセギ経験者、太字は調査時点で日本在住を示す。
る。父親は、1989∼91年と1996∼2005年の2回デカセギを経験した。子どもは3人おり、そ
のうち次女だけが日本へのデカセギ経験者で、現在も日本に住んでいる。一家に対しては、
2009年8月に父親に対して聞き取りを行い、2010年5月に日本の次女宅を訪問して聞き取り
した。
3. 父親のデカセギ
父親は、50代後半だった1989年に最初のデカセギに出ている。この時は、アルゼンチン
でのインフレ率が最高潮に達しており、父親に限らず多くの日系人が日本で就労する道を選
んだ。同じ地区出身の知り合いに派遣会社を紹介してもらい、大和市の自動車部品工場で働
いている。この時は、単身で2年間だけのデカセギであり、91年にはアルゼンチンへの帰途
についた。それから花卉栽培の仕事に復帰したが、花が売れなくなったためイチゴ栽培に転
じている。イチゴも3年間は売れたものの、それ以後は供給過剰でうまくいかなくなったた
め、野菜栽培に切り替えた。しかし、これもうまくいかずデカセギの貯金を使い果たしてし
まい、借金すらするようになった。そのため、96年に再度のデカセギに出ることとなる。こ
の時は、夫婦一緒にデカセギに行くという案も出たが、長男が大学生だったため妻はアルゼ
ンチンに残った。
2度目のデカセギに際して、父親は日本にいた次女の家に直行し、昔働いていた工場に戻
ろうとしたが、60代になっていたため断られている。次女がいた藤沢市湘南台の近くに住
みたかったが、仕事がすぐには見つからなかったため、アルゼンチン系の派遣会社に頼んで
2ヶ月だけ御殿場市の電気塗装の工場で働いた。その後、最初のデカセギ時に仕事を紹介し
てくれたアルゼンチンの友人から、神奈川県愛川町の弁当工場の仕事を紹介してもらい、以
後9年間その工場で働くこととなった。弁当工場では時給1000円と、自動車や電機部品の工
場より数百円安かったが、高齢の父親にはそれしか仕事がなかったからである。
単身高齢で働く父親は、賃金が安くても毎月平均600ドル程度を仕送りしていたという。
176
稲葉 奈々子/樋口 直人
アルゼンチンで留守を預かる母親も、畑を小作に出すほか観葉植物を栽培したり、日曜日に
露店を出すなどして稼いだ。が、3年契約で収穫量の4割をもらうはずの小作はうまくいかず、
生活費の一部を賄う程度の収入にしかならなかった。そのため、母親にも日本に来て働かな
いかと父親は誘いかけたが、結局母親は一度も渡日していない。
アルゼンチンは、2001年末にデフォルトになってペソが3分の1に下落するまで、1ドル=
1ペソの固定相場制をとっていたため、物価は南米でも屈指の高さだった。とはいえ、持ち
家で多少の収入もある家族にとって、600ドルの仕送りは余剰が出る額である。だが、大学
で工業デザインを専攻していた長男の学費と模型作成にかかる費用がかさんだため、送金分
はすべて学費と生活費で消えてしまった。2005年に長男が大学を卒業したため、仕送りの
必要がないからといわれて父親はアルゼンチンに戻ったが、70歳を過ぎてからも工場で働い
ていたことになる。アルゼンチンでは、畑を隣家に賃貸に出すほか、夫婦で800ペソの年金、
父親の日系社会関連の仕事、母親の編み物により、子どもに頼らず生活できている。
4. 次女夫婦の日本定住
次女は、1980年代にアルゼンチンで中学(日本の高校相当)を卒業してから、最初は親
族の営む薬局で、その後はブエノスアイレスの宝石店で働いていた。父親から日本の話を聞
いていたため、自分も1度は見に行きたいと、95年4月に1年有効の航空券を購入して渡日し
た。日本では相模原市にいる従姉妹を頼り、アパートに同居した。最初の1ヶ月は近所の電
機工場で働いたが、従姉妹が藤沢市の工場の仕事を探して一緒に転職し、住居も藤沢に移し
た。日本に着いてから、藤沢にある外国人女性のための施設に通って1ヶ月2万円の学費を払
い、日本語を勉強した。
このように、次女の滞在は仕事をしつつ日本で少し研修もといった性格が強かったが、従
姉妹の紹介で2世のアルゼンチン人男性と会ってから人生に転機が訪れた。それが現在の夫
であり、2人は日本で結婚することに決め、当時アルゼンチンにいた両親に挨拶するため、
95年12月に2人でいったんアルゼンチンに戻って3ヶ月滞在して再び渡日した。
次女の夫は、アルゼンチンで兵役を終えてから親族訪問のため、1978年に沖縄に行った。
沖縄にいる間、叔父の営む建設会社で働いていたという。母親など家族のほとんどはアルゼ
ンチンにいたが、彼の父親は離婚して日本に引き揚げており、移民していない姉とは会った
こともなかった。当時は日本語がまったくできなかったが、沖縄で父の親に身を寄せ、初め
て姉と対面した。しかし、沖縄にいた家族のなかで諍いがあって裁判にまでなったため、狭
い村ではいづらくなり、5ヶ月間沖縄に住んでから名古屋に渡り、7ヶ月間期間工として働い
ている(4)。
1年たってアルゼンチンに帰国した後、実家が営むクリーニング店を手伝い、日系人の営
デカセギと家族(15)
177
む企業で働いてから、国会の職員となっている(5)。しかし、混乱が続く80年代後半のアル
ゼンチンでは、議員など国会で会う人たちは「悪い人ばかり」で絶望し、もうアルゼンチン
を捨てる気になったという。アルゼンチンでデカセギの斡旋を受けるが、日本に永住するつ
もりで奈良の工場に配属された。それから甥の紹介で藤沢市湘南台の派遣会社に入り、以後
10回以上転職するもののずっと湘南台に住んできた(6)。調査時点で住んでいた賃貸マンショ
ンには2001年に入居しているから、仕事は不安定だが居住自体は安定していたといってよい。
2人は96年に日本で結婚したが、家族もいないので結婚式も挙げなかったという。それか
らほどなくして父親がアルゼンチンからデカセギに来て、毎週末には愛川町から湘南台まで
通って一緒に過ごしていた。次女は再渡航してから半年ほど工場で働いたが、出産を契機に
仕事をやめ、子どもが相次いで3人(97 、99 、01年に)生まれたため、96年から2003年まで
は専業主婦だった。2003年になって、子育てしながら収入を得るため自宅で託児所を始め、
最大8人くらいを終日預かって日本語とスペイン語を教えていた(7) 。
5. 経済危機の影響
夫はフルタイムの派遣労働、妻は家計補助的な労働をしつつ子育てというパターンは、ア
ルゼンチンからのデカセギにおいて典型的なものであった。託児所や保育園に預けるといっ
ても、残業も引き受けるフルタイムの労働に妻がついていた例には、我々は遭遇していない。
その意味で、世帯収入は夫の派遣+妻のパートで年間500万円には到底届かず、子ども3人
がいる家庭で貯金をするのは難しい。その結果、アルゼンチン側でのサポートが期待できる、
たまたま夫が残業の多い職場で働き高収入に恵まれるといった場合を除いて、子どもを連れ
てアルゼンチンに戻るのが現実的ではなくなっていく。O一家の場合、次女の夫は日本に永
住するつもりでいるから、前段のような条件を考慮することなく日本での居住を前提として
いた。だが、そうした将来設計に大きな影響を及ぼしたのが経済危機であり、派遣労働の不
安定性をこれ以上ない形で見せつけたのであった。
夫は、大手電機メーカーの工場の派遣として2008年初頭から働いていた。この職場は、
夫が望んでいた長期的な安定雇用というふれこみであったが、リーマン・ショックでそれが
反故にされた。2009年3月に解雇され、同年8月まで失業保険をもらって生活していた。再
度の就職は、妻が預かっていたペルー人の子どもの父親からもたらされている。失業中、コ
ンビニエンスストアで偶然このペルー人に出会い、仕事はないかと聞いたところ見付かった
ら電話すると言われた。彼は、ラインのリーダーとなってから社員として採用されていたた
め、他の南米人よりも状況は恵まれていた。実際、彼は1ヵ月後に次女の夫に電話をかけ、
自分の職場で仕事があるからと紹介してくれたため働けるようになった。それから9ヶ月間、
直接雇用のアルバイトとしてではあるが、毎日仕事はあるという。
178
稲葉 奈々子/樋口 直人
次女のほうは、経済危機になって託児していた母親たちが解雇されたため、託児自体が必
要なくなった。最大8名いた子どもが、最後には1人になって結局2009年3月に託児所を閉鎖
した。そのため、同年4月からは2人とも収入を得られる仕事がなかったことになる。だが、
女性のほうが時給が安いため需要が多く、仕事を探すのは容易であり、次女は同年6月に自
力で弁当工場の仕事を得ている。さらに1ヵ月後には、労働条件がよい自動車工場の仕事を
ペルー人の友人が紹介してくれたため転職し、それから9ヶ月間そこで働いている。
こうして、リーマン・ショックにより一家の生活基盤はいったん解体されたが、そこから
の立て直しは比較的速かった。すなわち次女夫婦の場合、収入が断たれてから次の仕事につ
くまでの時間は、それほど長期間かかったわけではない。失業保険をもらえない(雇用主が
雇用保険に入っていなかった)者も一定程度いるなかで、夫は失業保険でしのぐことができ
たし、それが切れる前に次の仕事が見つかった。この時期、仕事があっても1ヶ月や3ヶ月の
短期契約であることが多いが、聞き取り時点までずっと仕事を継続できている。貯金がなかっ
たため、失業中の生活は厳しかっただろうが、他の南米人より状況は良いほうに属していた
と考えられる。2人とも日本語での会話に不自由しないこともあり、仕事を見つけやすかっ
たのだろう。
だが、経済危機の後の仕事では残業が多くあるわけでもなく、世帯収入は激減した。住ん
でいるマンションは、湘南台の駅からそれほど遠くないし、一家5人で住める程度の広さで
老朽化が進んでいるわけでもないから、家賃は安くない。子どもが中学校に入れば、制服代
その他必要な費用が以前より増えていく。こうした事態に直面して、日本に永住するつもり
だった夫婦も、日本での生活に不安を抱くようになる。子ども達は、日本で毎週会っていた
祖父(つまりO一家の父親)に会いたいというし、いつかはアルゼンチンに戻る必要がある
かと思うようになったという。とはいえ、アルゼンチンに持ち帰る貯金があるわけでもなく、
帰国後の生活の見通しが立たなければ帰国の決断も難しい。そうしたジレンマを抱える家庭
が、経済危機後も日本に残って定着しているかにみえる人々のなかで着実に増加しているよ
うに思われる。
さらに、収入の減少とライフサイクル上の支出の増大という事態に直面して、子どもの教
育費の捻出もままならなくなっている。次女夫婦は教育熱心で、できる限りの教育を受けさ
せたいと思っており、自らができる範囲内ではスペイン語を家で教えていた。日本生まれの
子どものほとんどは、スペイン語を実質上解さないが、この一家の子どもは読み書きも含め
てある程度はできるという。
だが、日本語で教育を受けたことのない次女夫婦にとって、日本の学校の学習内容を教え
ることはできない。そのため、子ども達には外国人向けの無料の補習教室に週1回通わせて
いた。しかし、週1回2時間通うだけでは十分な補習になっていないという。中学生になった
長男の成績が低いのを夫婦は気に病んでいるが、塾に通わせるような余裕はない。そのため
国際交流協会に相談し、近所の大学にボランティア家庭教師を求める貼り紙を出した。筆者
デカセギと家族(15)
179
も、現在通っている以外に近所で外国人向きの補習教室はないか、熱心に尋ねられた。
経済危機で変化したものとして、帰国が相次いだことや親が学費を払えないことによるブ
ラジル・ペルー人学校の閉鎖がある。これは、全体の傾向が劇的に可視化したものと考えた
ほうがよい。ブラジル・ペルー人学校に通わせていなかった家でも、実際には目に見える変
化があった。中学受験させるような余裕がある家庭は、我々の調査した範囲では一件もなかっ
たが、塾(公文も含む)や習い事(スイミング、武道、スポーツ、そろばんなど)に通わせ
る家は一定数存在した。だが、多くの家庭で塾に通わせる余裕が失われており、そのことが
体現するように生活水準が全般的に低下している。それまで5月の連休や夏休みには遊びに
行く余裕があった家族が、それもかなわず家で終日過ごすようになる。それ自体は、別の楽
しみを見つけられれば良いことともいえる。だが、問題はこのような生活水準の低下が南米
人に集中的に現れることであり、そのことと相対的貧困の問題の距離はそう遠くない(樋口
2011b)。貧困対策という観点からの政策的アプローチが必要なゆえんである。
6. 結語に代えて
経済危機以降、南米系コミュニティ全体が影響を受けたと冒頭で述べたが、その度合いは
属性や就労業種によって異なる。データが相対的に整備されているブラジル人についてみる
と、表1が示すように若年層(15∼29歳)の日本からの流出が目立っており、年齢が上がる
ほど日本に定着している状況がうかがえる。また、子ども世代では10∼14歳だけが際立っ
て低い減少率であり、帰国に伴う再適応のコストの高さが日本での居住を選択させていると
解釈しうる。
これは、O一家の状況を考えるうえでも示唆的である。まず、高齢層の減少率が低いのは、
労働市場からすでに退出しているという要因がある。それに加えて、O一家の父親がそうで
あったように輸出産業では雇用されず、食品関連や清掃など国内市場向けの仕事をしていた
ため打撃が少なかったという側面もあるだろう。次に、10∼14歳の子どもを持つようにな
る35歳より上の年代において減少率が低くなるという現実は、O一家の行方を示唆するもの
でもある。O一家も、帰国の可能性を考え始めてはいるが、日本でどうにか生活していける
ような状況では一家5人の旅費の捻出にも一定の時間を要する(8)。また、アルゼンチンでの
生活再建の見通しが立たない以上、帰国に伴うリスクと日本に留まるリスクを吟味すること
になり、前者が後者より低いとはいえないだろう。その結果、次女の家族は表1が示すよう
に日本に残る可能性がほかの家族よりは高くなる。
O一家の父親の場合、経済危機まで働き続けたとしても、弁当工場に勤めていたがゆえに
解雇される可能性は相対的に低かった(高齢ゆえ解雇される可能性はあるが)。だが、彼は
解雇されても帰国して生活する目処は立っていた。子育てはすでに終わっており、住宅も所
稲葉 奈々子/樋口 直人
180
表1 ブラジル人登録者の年代別人口の推移
2008
総数
0∼4歳
5∼9歳
10∼14歳
15∼19歳
20∼24歳
25∼29歳
30∼34歳
35∼39歳
40∼44歳
45∼49歳
50∼54歳
55∼59歳
60∼64歳
65歳以上
2009
2010
登録者数
前年比
増加率
(%)
2007年比
登録者数
前年比
増加率
(%)
2007年比
-1.4
267,456
-14.4
-15.6
230,552
-13.8
-27.3
170,197
-1.7
145,292
142,385
-1.0
122,164
-14.6
-16.1
125,291
-13.8
-27.7
-14.2
-15.0
105,261
-13.8
-26.8
男
9,545
-0.6
女
8,927
0.6
7,590
-20.5
-20.9
6,663
-12.2
-30.6
7,140
-20.0
-19.5
6,222
-12.9
-29.9
男
9,836
1.0
8,372
-14.9
-14.0
7,295
-12.9
-25.1
女
男
9,081
-1.7
7,658
-15.7
-17.1
6,698
-12.5
-27.5
8,226
10.2
7,575
-7.9
1.5
6,865
-9.4
-8.0
女
男
7,787
10.8
7,188
-7.7
2.3
6,572
-8.6
-6.4
7,648
-11.8
6,109
-20.1
-29.6
5,367
-12.1
-38.1
登録者数
前年比
増加率
(%)
全体
312,582
男
女
増加率
増加率
女
7,009
-8.7
5,681
-18.9
-26.0
4,959
-12.7
-35.4
男
16,670
-10.0
12,843
-23.0
-30.7
9,994
-22.2
-46.1
女
14,504
-9.5
11,087
-23.6
-30.9
8,771
-20.9
-45.3
男
22,110
-5.0
17,562
-20.6
-24.5
14,514
-17.4
-37.6
女
18,978
-4.5
15,071
-20.6
-24.2
12,287
-18.5
-38.2
男
21,533
-2.7
18,230
-15.3
-17.6
15,463
-15.2
-30.1
女
17,315
-0.8
14,765
-14.7
-15.4
12,552
-15.0
-28.1
男
18,649
-1.4
16,812
-9.9
-11.2
14,542
-13.5
-23.2
女
14,816
-1.1
13,303
-10.2
-11.2
11,385
-14.4
-24.0
男
16,447
-1.0
14,479
-12.0
-12.9
12,727
-12.1
-23.4
女
13,050
-0.1
11,817
-9.4
-9.6
10,187
-13.8
-22.0
男
13,626
1.3
12,501
-8.3
-7.0
11,401
-8.8
-15.2
女
10,957
2.4
10,049
-8.3
-6.1
9,146
-9.0
-14.5
男
10,734
1.3
9,574
-10.8
-9.6
8,526
-10.9
-19.5
女
8,481
3.9
7,545
-11.0
-7.5
6,829
-9.5
-16.3
男
7,807
2.6
6,885
-11.8
-9.5
6,222
-9.6
-18.2
女
5,837
5.1
5,379
-7.8
-3.2
4,880
-9.3
-12.2
男
5,027
7.0
4,332
-13.8
-7.8
3,683
-15.0
-21.6
女
3,449
4.1
3,216
-6.8
-2.9
2,843
-11.6
-14.2
男
2,339
21.1
2,428
3.8
25.7
2,029
-16.4
5.1
女
2,194
22.1
2,265
3.2
26.0
1,930
-14.8
7.4
出典:『在留外国人統計』各年次版
注:グレーは全体より5ポイント以上減少幅が低かったもの、網掛けは高かったものを指す。
デカセギと家族(15)
181
有しているため生活費が多くかかるわけではない。2人合わせても最低賃金に達しない額と
はいえ、年金という現金収入もある。畑を賃貸に出せば最低限の生活はできるため、父親が
帰国後に日系団体で働く必要は必ずしもなかった。デカセギの成功は、貯金の額のみならず、
父親のように生活基盤をアルゼンチンに残しているか否かでかなりの程度決定される。基盤
がなければ、アルゼンチンに戻っても家賃を払うところから始めなければならない。
これまで15回に渡り、デカセギの軌跡を規定する要因を念頭において家族単位でのデカ
セギ経験を描いてきたが、大きくいえば本稿で提示したものも含めアルゼンチンと日本にま
たがる資本が影響している。すなわち、アルゼンチンと日本のどちらでも使える経済的資本
(貯蓄)、どちらかまたは両方で使える人的資本、住居や仕事や子どもの教育を提供してくれ
る親族のような社会関係資本の量と分布をみることで、デカセギの軌跡を分析できる。今後
は、そうした観点から理論化を進めて記述から分析へと歩を進めていきたい。
【注】
(1)自動車・電機に加えて弁当工場が、南米人の就労する三大業種とされてきたが、2000年の国勢調
査結果をみると、弁当工場での就労比率はそれほど高くない。ほとんどが弁当工場を指すと思わ
れる「その他の食料品製造」の従事比率は、ブラジル人で5%、ペルー人で4%程度であった(大
曲ほか 2011)。国内市場に特化している弁当工場は、リーマン・ショックの影響を受ける度合いが
自動車・電機よりはるかに小さかった。が、もともとの雇用が多くなかったため、大量失業の歯
止めとしての効果は限定的だったと考えられる。
(2)本稿は、筆者らが2005年から行っているアルゼンチンと日本の間の人の移動の研究の一部であ
る。これまでの成果として、以下を参照(樋口 2005, 2007, 2008, 2009a, 2009b, 2010a, 2010b, 2011a,
2011b, 2011c, 2012; 樋口・稲葉 2008a, 2008b, 2009a, 2009b, 2009c, 2010a, 2010b, 2010c, 2010d, 2011a,
2011b, 2012; 稲葉・樋口 2008, 2009, 2010a, 2010b, 2010c, 2011, 2012)。
(3)こうしたケースは、当時の南米移民としてはそれほど珍しいものではなかった。いずれ日本に戻
ることを考えて、子どもを日本で学校に行かせたわけだが、第二次大戦後の荒廃した沖縄に戻る
選択肢が現実的でなくなったため、南米に留まったのである。
(4)当時、名古屋で半年働けば沖縄で2年働くだけの賃金を得られたという。
(5)この間、25歳で結婚し、28歳で離婚している。
(6)藤沢市にある小田急・相鉄・横浜市営地下鉄湘南台駅周辺は、アルゼンチン人が日本でもっとも
多く住む地域である。ここにはアルゼンチン系の派遣会社が4社あり、バーやピザ宅配などアルゼ
ンチン系移民によるエスニック・ビジネスも存在する。
(7)南米系コミュニティで、こうした託児所は珍しくないが、ほとんどはブラジル人によるものであり、
アルゼンチン人による託児所については調査中この1件しか話を聞かなかった。
(8)東日本大震災の時には、貯金のない家族が南米の親族に送金してもらい帰国した例もある。だが、
そうした緊急時以外に南米の親族を頼ることは、あまり現実的な選択肢とはならないだろう。
稲葉 奈々子/樋口 直人
182
文献
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「岐路に立つ運動と政策 ラテンアメリカ人労働者の現状に寄せて」『Migrant’sネッ
ト』141号.
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者と貧困』現代人文社.
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「ラティーノと創価学会」『Migrant’sネット』143号.
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学社会科学研究』22号.
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「デカセギと家族(5) 一家離散と再結合の過程・E一家の場合」『茨城大学地域総
合研究所年報』42号.
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「アルゼンチンからデカセギ研究・序説 デカセギの概要と仮説提示の試み」『茨
城大学地域総合研究所年報』42号.
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「デカセギと家族(8) 兄弟の成功物語・H一家の場合」『徳島大学社会科学研究』
23号.
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「デカセギと家族(9) ライフコース上のそれぞれの帰結・I一家の場合」『茨城大
学地域総合研究所年報』43号.
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「移民自営業者によるニッチ形成と産業構造 横浜市鶴見区における南米系電設
業者の進出を事例として」『村田学術振興財団2010年報告書』村田学術振興財団.
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「前史でないデカセギ前史 南米から沖縄への帰還移民をめぐって」『アジア太平
洋レビュー』8号.
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「デカセギと家族(14) 派遣業の代替わり・N一家の場合」『茨城大学地域総合研究
所年報』45号.
稲葉奈々子・樋口直人,2008 ,
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文学部紀要(社会科学科論集)』46号.
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「デカセギと家族(6) ミドルクラスのハビトゥスと周辺的労働力という現実の間・
F一家の場合」『茨城大学人文コミュニケーション学科論集』7号.
デカセギと家族(15)
183
,2010a ,
「デカセギと家族(7) 独立への2つの道・G一家の場合」『茨城大学人文コミュニ
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「デカセギと家族(10) ポスト花卉栽培の生業をめぐる苦悩・J一家の場合」『茨城
大学人文コミュニケーション学科論集』9号.
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『日系人労働者は非正規就労からいかにして脱出できるのか その条件と帰結に
関する研究』全労済協会委託研究報告書.
,2011 ,
「デカセギと家族(12) 沖縄に戻った家族・L一家の場合」『茨城大学人文コミュニ
ケーション学科論集』11号.
,2012 ,
「デカセギと家族(13) 沖縄に戻って成功したローストチキン・M一家の場合」『茨
城大学人文コミュニケーション学科論集』12号.
大曲由起子・髙谷幸・鍛治致・稲葉奈々子・樋口直人,2011 ,
「在日外国人の仕事 2000年国勢調査
データの分析から」『茨城大学地域総合研究所年報』44号.
(付記)本稿のもととなった調査に際しては科学研究費を使用している。O一家の皆さんの厚情と併せて、
記して感謝したい。
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