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【教員寄稿】 私の「ファド=運命」とポルトガル語圏の国々との出会い 内藤
【教員寄稿】 私の「ファド=運命」とポルトガル語圏の国々との出会い 内藤理佳 皆さんは、ポルトガルの伝統歌謡であるファド(fado)を知っていますか?首都リスボンの ファドはおもに女性ファディスタ(ファド歌手)によって、運命に翻弄されて失った愛や想い 出を切々と語る感情、サウダーデ(saudade)をこめて歌われます。いっぽう、中部の大学都市 コインブラのファドは正装の黒マントをまとった男子学生による切ない恋心がメインテーマ になります。ファド(fado)の語源は、 「運命」を「宿命」を意味していると言われます。ポル トガル人にとってファドとは、単なる歌ではなく、それぞれの運命と人生を語る物語でもあ るのかもしれません。 前置きが長くなりました。私とポルトガル語圏の国々との関わりは、つねに偶然の連続で した。しかし今振り返ってみると、それは偶然でなくすべてが「ファド」、すなわち私の運命 であり、宿命であったのではないかと思うのです。 私の「ファド」の始まりは、自信がなく内向的なのになぜかみんなと同じことをしたくな い、そんなあまのじゃくな性格の自分が高校時代に体験することになった一年間のポルトガ ル留学でした。世界各地に支部を持つ留学機関に応募した私は、当時、日本からはアメリカ への派遣が大多数を占める中で、わざわざ「アメリカではない国に行きたい」と希望し、そ の結果、二百名近い同期生の中でたったひとり、予想もしなかったポルトガルへの派遣通知 を受け取ったのでした。同じポルトガル語圏のブラジルに叔父が移住していたこともあり、 家族は全く未知の国ポルトガルへの渡航を許してくれました。しかし、言葉もわからないま ま始まった異文化での生活は、苦闘に次ぐ苦闘の毎日でした。忍耐強く優しかったホストフ ァミリーのおかげで素晴らしい体験を得ることができ、最終的に日常生活に支障がない程度 の語学力を得ることはできましたが、正直、決して「心から楽しかった」と言える一年では ありませんでした。もっと自由にポルトガル語でコミュニケーションをとれるようになりた いという気持ちが募り、帰国後迷わず上智大のポルトガル語学科の扉を叩き入学しました。 学科に入ってまず驚いたのが、ブラジルのポルトガル語の発音との大きな違いでした。最 初の会話の授業で先生が教えてくださった “Bom dia” (おはようございます)という挨拶 をブラジル式の「ボン・ジーア」でなくポルトガル式の「ボン・ディーア」と発音してクラ スメート全員に一斉に振り向かれた光景を今でも思い出します。当初はかたくなにポルトガ ルにこだわっていた私でしたが、学科の授業や先生方との出会いを通してブラジルにも興味 を持つようになり、一年生の夏休み、サンパウロの叔父宅を拠点として同級生と二人でブラ ジル主要都市をほぼ周遊する旅行を敢行しました。現在よりも過去を重視する旧い歴史を感 じさせるポルトガルとは全く対照的な、今そして明日を生きようとする壮大なエネルギーに あふれるブラジルに大いに触発され、興奮して帰国した私は、二度目の留学先をどちらにす るか悩みましたが、結局、提携校のポルトガル・アヴェイロ大学を選び、三年生の夏から十 か月を過ごしました。 しかし、ステップアップするつもりで臨んだ二度目の留学は、自分が期待していたような 結果を残すことができないまま終わってしまいました。実は出発前、私は学業と私生活の両 方で悩みを抱えており、目的を失っていました。純粋に留学したいという前向きな気持ちで なく、今ここではない場所に行けば何か特別なことが待ってくれているのではないか、言葉 さえできるようになればポルトガルでみんなから温かく迎えられるのではないか・・・そん な後ろ向きで過剰な期待を持っていた私に、現実は冷たいものでした。 今から思えば当たり前の結果ではあったのですが、勝手にポルトガルが自分を受け入れて くれなかった、と感じてしまった私は、学部を卒業するに当たり、ポルトガル語とはまった く関連のない道を選びました。当時はいわゆるバブル時代で、同級生たちが軒並み一流企業 に入社を果たす中、相変わらずあまのじゃくな私は中堅のTV番組制作会社にアシスタン ト・ディレクターとして就職しました。しかし独特な業界の厳しさに耐えられずわずか一年 半で退社、その後、外資系銀行秘書や旅行ツアーコンダクターなど、さまざまな業種を経験 したのち、在日ポルトガル大使館文化部に職を得ました。最終的に十年近く勤務することと なった大使館では音楽・美術・映画などを通して日本にポルトガル文化を紹介する仕事にか かわり、アーティストや文化人などさまざまなジャンルの方々と出会う機会に恵まれました。 中でも忘れられない思い出が二つあります。 ひとつは、アフリカの旧ポルトガル植民地カーボ・ヴェルデ出身のアーティスト、セザリ ア・エヴォラのジャパンツアーで随行通訳を務めたことです。ステージで裸足で歌うことか ら「裸足のディーヴァ」と呼ばれたセザリアと私の会話はポルトガル語でしたが、彼女とツ アーメンバーの会話やステージで披露する伝統歌謡モルナの歌詞はカーボ・ヴェルデのクレ オール語で、最初はちんぷんかんぷんでした。しかし数日間生活を共にしたのち、急に生放 送のラジオ番組のインタビュー収録が入り、必死に通訳してなんとか無事に終わったとき、 「リンダ(私のニックネーム)、今、ポルトガル語じゃなくてクレオール語で喋ったんだけど、 大丈夫だったみたいね」とお茶目な笑顔で褒められた(?)のが印象に残っています。別れ 際、 「カーボ・ヴェルデにおいで」と誘っていただいたのに、結局機会がないままセザリアは 2011 年に他界されてしまったのが残念です。 もうひとつは、1999 年まで約四世紀半にわたってポルトガルが統治していたマカオから訪 日したマカオ市長とその補佐官との出会いです。彼らは本国ポルトガルから為政者として送 られたポルトガル人と、おもに現地の中国人との間に生まれた「マカエンセ」と呼ばれる混 血の人々でした。西洋と東洋双方の面影を持ち、美しいポルトガル語を話し、 「現地生まれの ポルトガル人」であることを心から誇りに思っているマカエンセという人々の存在を初めて 知ったことが、のちに進学した大学院で彼らのエスニック・アイデンティティに関する研究 を始めるきっかけとなり、それが今、私のライフワークとなっています。 順風満帆とは言えなかった学生時代とそれに続く波瀾万丈の年月は、私がふたたびポルト ガルと深く関わり、そしてマカオ地域研究というテーマへ導かれるために歌われた一曲の「フ ァド」の旋律だったのかもしれません。こうした人生体験を経て、数年前より母校のポルト ガル語学科の教壇に立たせていただいていることに大きな感謝と喜びを感じています。ポル トガル語学科に入学された皆さん、そして在学生の皆さんが、四年間の学生生活を謳歌し、 学びや出会いを通じて未来へとつながる礎石を築き、自分だけの「ファド」を奏でていくお 手伝いをしていきたいと思っています。皆さんを心から応援しています!