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拡大EUとその境界線をめぐる地域協力――地域からなるヨーロッパ再考

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拡大EUとその境界線をめぐる地域協力――地域からなるヨーロッパ再考
歴史評論特集 20世紀中
20世紀中・
世紀中・東欧における
東欧における地域
における地域と
地域と国家1
国家1
拡大EU
拡大EUと
EUとその境界線
その境界線をめぐる
境界線をめぐる地域協力
をめぐる地域協力――
地域協力――地域
――地域からなる
地域からなるヨーロッパ
からなるヨーロッパ再考
ヨーロッパ再考――
再考――
羽場久シ尾子
1.<はじめに:問題の所在と分析枠組み>
第二次世界大戦後、冷戦の始まりと共に 1947,8 年から社会主義体制に移行した東欧に
おいて、56 年のハンガリー、68 年のチェコスロヴァキア、80 年のポーランドと続く改革
と自主独立、連帯の動きは、89 年大きなうねりとなって東欧全体に広がった。89 年 5 月
ハンガリーで欧州の東西の鉄条網が切断され、11 月ベルリンの壁が崩壊する中、12 月に
冷戦の終結が宣言されると、旧東欧の人々は「欧州への回帰」を掲げて次々と社会主義体
制を放棄していくのである。その後 1990 年 10 月に東西ドイツが統一すると、「一つの
ドイツ」を契機・象徴として、ヨーロッパは半世紀を経て、再び東と西の共存、「一つの
ヨーロッパ」の時代に入ることとなった。
そうした中で、東西ドイツを統合し、社会主義体制崩壊後の中・東欧を迎え入れる基盤
として、「地域からなるヨーロッパ」(1)が唱道されることとなった。すなわち東西ドイツ
統一を控えた西ドイツから、欧州共同体(EC)は、超国家(ヨーロッパ)、国家、地域の三層
からなる統合体であること、「地域」がその基軸にあることが提起された。おりしもヨー
ロッパ議会において「補完性原則」規定され、「地域」が欧州連合の基礎的なレベルであ
ることが確認された。(2)
他方で、冷戦の終焉と平行して旧ユーゴスラヴィアを中心として、民族・地域紛争が顕
在化することとなった。
民族・地域紛争は、当時「社会主義のタガが外れた」と説明されたが、より直接的には、
東西ドイツの統一が、戦後不変とされていた欧州の「国境線の再考と改編」を刺激し、そ
れが欧州東半分の民族問題を再燃させ、多民族国家における連邦制の解体や新たな「民族・
地域再編による国民国家形成の動き」を誘発した点を付け加えることができよう。こうし
て 91 年にはユーゴスラヴィアが解体しボスニア、コソヴォに続く民族紛争の泥沼化が引
き起こされ、同年チェコ・スロヴァキアは分裂し、8 月にはソ連保守派と軍部の最後のク
ーデタの後、
ソ連邦自体がウクライナ、
中央アジアの独立の中で解体していったのである。
(3)
(1)境界線をめぐる地域協力(Cross Border Cooperation)
このような、冷戦の終焉以降の欧州の再編と再統合の流れの中で、これまで閉じられた
空間であった境界線が、再び共同空間、共存領域として意味を持ち始める。欧州における
それぞれの境界線において、国境の意味の低下により、地域交流の活発化と国境を越えた
協力関係が展開されるようになった。それが、CBC(国境を越えた地域協力)とよばれる、
国境間関係の進展である。これは、まず西欧から始まり、その後社会主義体制崩壊後の旧
東欧に急速に広がり、国境線を巡るさまざまな「ユーロリージョン」による地域の共同関
係を生み出すようになった(4)。中でもカルパチア・ユーロリージョンは、中・東欧 5 カ国
の地域間協力で作られたユニークな試みであった。(5)これは、90 年代前半における
EC/EU から中・東欧に対する地域補助 PHARE(6)に支えられ、また CSCE(欧州安全
保障協力会議)の平和的共同活動と平行して、紛争の起こりやすい境界線地域の紛争予防と
1
しても広がっていった。
こうした地域の協力・共同関係がうまく機能するかどうかは、市場経済・民主化の遂行
と並んで、その後、同じ多民族国家でありながら、中・東欧とバルカンを二分する決定的な
要因となった。すなわち、一方は、その後 1993 年に EU 加盟のためのコペンハーゲン基
準や、政治、経済、法律面でのアキ・コミュノテールに基づき 97 年には加盟交渉を開始
し、2004 年には EU 加盟を遂げて言ったのに対して、他方は、民族・地域紛争の収拾が
つかず、99 年にはNATOのコソヴォ空爆を迎え、中・東欧に比べて 10 年以上の遅れと
荒廃を強いられることとなったのである。ここからも、「地域」の安定が民主化と発展に
とって要となったことが明らかであろう。
(2)EU とロシアの境界線:カリーニングラード問題
上に見た中・東欧とバルカンの「地域・民族再編」をめぐる差異化の問題に加え、今ひ
とつの大きな問題として、EU 諸国と(当面 EU に加盟できない)旧ソ連・CIS 諸国の間にお
ける、「境界線をめぐる対立関係」がある。
その象徴が、カリーニングラード問題であろう(7)。バルト三国の独立によって、ロシア
の飛び地、カリーニングラード(第 2 次世界大戦まではドイツ・ケニヒスベルク)がポーラン
ドとリトアニアの間に残され、また NATO・EU の拡大により新たな境界線がロシアの西
の境界にまで及び新しい分断を生み出すとして、ロシアが警戒心を高めたのである。(8)
ロシアの動きに対して、周辺国ポーランド、リトアニアも緊張を高めた。こうした中で、
2002 年 11 月、境界線を巡る 2 国間関係では問題は解決しないとして開かれたのが、ロ
シア・プーチンと EU 委員長プローディのトップ会談であった。その結果、カリーニング
ラードとロシア本土の輸送・移動問題については、EU とロシア、具体的にはリトアニアと
ロシアの間で「簡易トランジット・ドキュメント(Facilitated Transit Document)」と
呼ばれる、ビザに変わる資料を作成して提出することが決定された。(9)
またこれらを踏まえ、境界線を緊張の場にしてはならないという配慮から、EUで打ち
出されたのが、2003 年秋の「ワイダー・ヨーロッパ(広域欧州圏)」の構想である。(10)
これにより、EUは、東はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァ、南は中東 10
カ国という二つの境界線に対して、ヨーロッパの統合と拡大の境界線が、「域外」を差別
し除外する緊張と対立の領域ではなく、経済的・文化的な共存の領域となるべく、理論化・
政策化していくこととなる。
(3)コンフリクト・ゾーンからコンタクト・ゾーンへ
同様に、紛争と抗争の民族・地域境界線を、出会いと共存の場へと「転換」しようとす
る学術的試みが、2004 年 8 月、EU 加盟国となった中・東欧の 1 国ハンガリーで開催され
た周辺地域マイノリティの国際会議で、表明された。
ここでは、冷戦終結後の 15 年間、抗争と殺戮の象徴となっていた旧ユーゴスラヴィア
のセルビア、クロアチア、スロヴェニアの研究者、また格差と貧困の象徴でもあるカルパ
チア・ウクライナや、チェコのロマなど、幾多の問題を抱えている最前線の地域の研究者か
ら、境界線は、抗争地域(コンフリクト・ゾーン)ではなく、「出会いの場(コンタクト・
ゾーン)」であることが、アンソロポロジーの領域で、次々に明らかにされていったので
ある。(11)
コンフリクト・ゾーンから、コンタクト・ゾーンへ。これは、東と南へ拡大しつつあるE
2
Uの境界線をめぐって、加盟の是非を問わず、民族・地域の問題をより歴史的な長いスパン
で捕らえ、解決の新たな糸口と方向性を見出してゆく、新しい地域協力・共存研究の動きと
見なすことができよう。
本稿では、以下、1)多民族地域たる中・東欧における 19-20 世紀の初頭における地域・
民族の共存の動きの歴史的概観、2)冷戦終焉後のヨーロッパにおける中欧地域協力とユ
ーロリージョンの動き、3)拡大EUとロシア、カリーニングラード問題、4)コンフリ
クト・ゾーンからコンタクト・ゾーンへ、
という枠組みで拡大EUと地域の問題を分析する。
1. 中・東欧の地域協力関係。歴史的背景。
地理的にロシアとドイツに国境を挟まれた中・東欧の民族と地域、「はざまの領域
(Region Between)」の最大の問題点は、「民族意識が形成されたとき、独自の国境線
を持たなかった」ことである、とシュガーは『東欧のナショナリズム』で述べている。ち
ょうど民族意識が形成される 18 世紀末から 19 世紀にかけては、
ロスチャイルドやシュガ
ーが言うように、東欧の民族のほとんどが、4 大帝国の支配下にあった。であるからこそ、
彼らは「既存の(大国の)国家」に対抗して、自民族の境界線にしたがって、国境線を引き
なおそうとしたのである。(12)
1848 年革命の際、ハプスブルグ帝国内部のパン・スラヴ主義者(シュトゥール)やオー
ストロ・スラヴ主義者が、
スラヴ諸民族の共存と発展を訴えながら統合がならず挫折した経
緯を踏まえ、1848 年革命の失敗以降、ハプスブルグ帝国を連邦制ないし国家連合に改変
する構想が数多く出された。中でもハンガリー革命の指導者、小貴族コシュートは周辺諸
民族と連携しながらドナウ連合構想を打ち出し、「連合がなければ二流、三流の国家であ
るが、連合により一気にヨーロッパの大国に成長」することを目指した。「ドナウ連合
(Dunai Konfederacio)」は、一八六二年の時点で、既に防衛、外交、通商、度量衡、
通貨を共通とする国家連合を構想していた(13)。これは、現実には、ハンガリーのデアー
クにより、周辺民族とでなくハプスブルグ帝国と国家連合化を行い、オーストリア=ハン
ガリー2重王国とするという歴史的「妥協(アウスグライヒ)」に向うこととなる。が、19世紀に
既に中・東欧でも、
革命の教訓を踏まえて諸民族による地域意連合が試みられていたことは
重要であろう。その後ハプスブルグ帝国末期には、帝国再編構想としてポポヴィッチの「大
オーストリア合衆国」、ヤーシの「東のスイス」構想(14)、帝国崩壊後戦間期は、クーデ
ンホーフ・カレルギーによる『パン・ヨーロッパ』計画、ブリアンによるヨーロッパ統合計
画があり、また戦後はチトーの「ヨーロッパ合衆国」、ディミトロフの「バルカン連邦」、
チェコとポーランドの連邦構想へのソ連の反対と挫折を経て、シューマンの石炭鉄鋼共同
体、ジャン・モネの欧州共同体の創設につながっていく。19 世紀後半から 20 世紀にかけ
欧州東半分でも、多民族の対立を共存に変える多様な連合、連邦、地域統合構想が摸索さ
れていたのである。
第二次世界大戦後の社会主義時代は、むしろ地域の連帯と共存を恐れたソ連により、ソ
連との2国間関係を基軸とした機構となり、中・東欧域内の相互協力関係は分断された。そ
れでも社会主義時代の 40 数年間は、ソ連を除きビザが不要であったこともあり、中・東欧
における「地域間交流」は政治・機構レベルでは監視されていたものの、物資の欠乏を補
うような日常的モノ・人の移動レベルにおいて、
底流において継続し続けていたといえる。
3
2.冷戦後の中欧地域協力とユーロリージョンの動き。
1989年の冷戦の終焉と、ハンガリー・オーストリア間の鉄条網の解放、鉄のカーテ
ンの撤去とベルリンの壁の崩壊により、
またその後ソ連軍の中・東欧からの撤退に伴い、
中・
東欧の地域間交流は飛躍的に高まっていった。
その後、すでに西欧では30近くに広がっていた、国境周辺の紛争・対立地域における,
地域協力関係、「ユーロリージョン Euroregion」(15)が、急速に中・東欧でも広がる。
中・東欧では、ドイツとポーランド、チェコとポーランドなどの先進境界線地域でのユ
ーロリージョン、またスロヴァキアとハンガリー、ルーマニアとハンガリー、ユーゴスラ
ヴィアとハンガリーのようにマイノリティを抱える地域でのユーロリージョン、
さらに中・
東欧 5 カ国が境界線を接する地政学的な重要地域としてのカルパチア・ユーロリージョン
などが、つぎつぎと立ち上げられ、経済発展と相互交流を目指して活動が行われた(16)。
これと並行する形で、国家レベルでも中欧の協力関係が進んだ。1991 年 2 月、ハンガ
リーの旧首都ヴィシェグラードにポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーの大統領
(ワレサ、ハヴェル、ゲンツ)が集まり、「ヴィシェグラード地域協力」として今後経済、
政治、EC,NATO 加盟に向けて協力し合うことを誓った。(17)ヴィシェグラード中欧地域
協力は、もともとは国家連合形成を目指す構想もあったのであるが、3 カ国で国家連合を
組むよりは協力して EC,NATO に加盟する方がより現実的であると認識された。加えて、
この 3 カ国を核に、CEFTA(中欧自由貿易協定)も締結され、経済市場化と発展を統合的に
推し進めてゆくこととなった。これらが結果的に功を奏した。90 年代、中・東欧の多くは、
旧ユーゴスラヴィアとは異なり、国民国家形成で分裂し、民族・地域紛争の泥沼化に陥る
ことなく、史上最初の試みである「社会主義」から「資本主義」への移行(Transition)
を乗り切り、共同で行動し共に成功して 2004 年の EU・NATO加盟を迎えたのである。
3.EU 境界線とロシア、カリーニングラード問題
こうした中で、丁度 20 世紀から 21 世紀への世紀転換期に新たな問題が起こってきた。
それは、EU の拡大に伴い、その境界線上で、そこに入れない国々、とりわけ東のロシア、
南の中東、アフリカとの間の交流の分断の問題として浮上したのである。
より直接には、1999 年3月の中欧三国(ハンガリー、ポーランド、チェコ)のNATO加
盟によりNATO軍がロシアの境界線まで接近したことに加え、NATOのコソヴォ空爆
と同年 4 月のNATO創設 50 周年の首脳会議で、新戦略概念の導入と共に、MAP9(加盟
のための行動計画)として、ユーゴを除く中・東欧全土をNATO加盟の対象国としたこと
から、ロシアが孤立感と脅威感を極度に高めたのである。
99 年の中欧のNATO加盟に加え、EU 加盟の日程が近づいたことは、将来の「シェン
ゲン協定」の枠組みと共に、境界線の外の国々にビザ制度の導入、司法・内務協力に基づく
国境警備の強化(違法労働者、マフィア、武器・弾薬や NBC 兵器導入への厳しい警戒)と絡
んで、世紀転換期のロシアに、「西側からの分断」を強く意識させる結果となった。
その一つの象徴がカリーニングラード問題であった。
カリーニングラード(ケニヒスベルク)は、もと東プロイセンの首都、ポーランドとリト
アニアにはさまれたロシアの飛び地で、1946 年のポツダム会議の結果、ドイツからソ連
4
に移譲された地域である。名は当時の共産党幹部カリーニンの名をとってつけられた。
カリーニングラード問題とは、EU が拡大することによって EU 領域の中に入ったロシ
アの飛び地をどう処遇するか、という問題である。第二次世界大戦後にソ連に組み入れら
れた領土であるが、日本の北方領土問題とは違ってドイツは返還を要求しておらず、EU
もこの地がロシアの主権の下にあることは疑問の余地がないと確認している(18)。
この地は、ロシアにとって冷戦期は重要な最西端の軍事的拠点(かつてバルチック艦隊
20 万が駐屯)であった。現在軍人は 1,6-3 万に減少したがその地政学的重要性は衰えては
いない。一方西欧・北欧にとっては経済的投資地域、自由経済ゾーンであり、ロシアはこの
地を、「バルトの香港」「ロシア・東欧学会と西のゲートウェイ」としても重視してきた。
(現実には未だ十分な経済成長は達成できていない。)(19)また司法・治安面ではブラックマ
ーケットやマフィアの溜まり場である。ロシアとしては、地政学的利点を生かし、軍事拠
点は維持しながら西との経済交流地とすることに吝かではないが西からの干渉は避けたい。
問題は拡大EUにより EU 領内に取り込まれてしまったことによる、
ビザの導入である。
人の移動、それ以上に資源、軍事物資の移動に、EU 基準によるリトアニアのチェック、
なかんずくNATOや EU のチェックが入ることに、ロシアは強い警戒を示し、「なぜ国
内の一地域に行くのにビザやチェックが必要か。」とクレームを呈したのである。
その結果、2002 年 11 月、ロシアと EU との話し合いにより、カリーニングラードと
ロシア本土の通行の問題は、翌年 7 月より FTD(Facilitated Transit Document)および
FTD-RW(Facilitated Travel Document for Railways)が導入され,ロシア市民はパスポー
トデータを持ってこれらを記入すれば、ロシア本土とカリーニングラード間を往復できる
こととなった。しかし 2005 年からは、外国パスポートがなければこれを利用することが
できず、カリーニングラードは実質的にロシアにとって外国の領土となることとなる。
これを基礎に、ロシアと EU との間のパートナーシップ関係が強化され、カリーニング
ラードを基点に、経済関係を強化し、バルト地域の安全と発展、しいてはヨーロッパとロ
シアの関係の発展に貢献する。ロシアはこうしてプーチン大統領第 2 期には、ヨーロッパ
との強い協力関係を打ち出すこととなった。(ロシアはさらにバルト海のロシア艦隊の自
由航行、リトアニアをノンストップで通る封印列車を要求したが、これについてはいまだ
許可は得られていない。)
こうした中で、2003 年の秋に EU 欧州委員会によって打ち出されたのが、「ワイダー・
ヨーロッパ:東と西の近隣諸国との新しい関係(Wider Europe:広域欧州圏)」である。(20)
ここでは、EU を取り巻く東と南の近隣諸国が、3 億 85 百万の人口を持ち、市民の安全
保障、安定、持続的発展にとって欠くことのできない相互依存関係にある領域であること
が述べられる。それにしたがって、自由貿易協定を結んでいる南地中海諸国とバルセロナ・
プロセスを締結している10か国(チュニジア、イスラエル、モロッコ、パレスチナ、ヨ
ルダン、リビア、エジプト、レバノン、アルジェリア、シリア)、および東の 4 カ国(ロシ
ア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァ)と、隣接、貧困の解消、繁栄に関して、EU が
積極的関与を行うこと、とりわけこれらの地域の多くが GDP2000 ユーロ/年以下で生活
していることから、それらへの支援と発展が緊急の課題であると位置づけたのである。
EU は、まず貿易と投資など、経済面での関係強化を重視し、輸送、エネルギー、情報
ネットワークや投資の促進、
とりわけロシアや近隣国との経済協力関係を強化すると共に、
5
南に対しては人の移動、共通の安全保障の脅威の除去、人権、文化協力、相互理解の強化
など「人間の安全保障」と予防外交に努めようとしている。(21)
EU にとって周辺諸国の不安定は否定要因であり、周囲の安定と繁栄こそが EU の発展
にとっても望ましいととらえている。こうした考えに則り、EU は、ユーゴ紛争でも回復
に 200 億ユーロを投入し、ロシア・ウクライナ、トルコとの経済関係を強化していくので
ある。(22)
4.コンフリクトゾーンからコンタクトゾーンへ
拡大EUの境界線領域で「ワイダー・ヨーロッパ」の新しい試みが始まる中、理念のレ
ベルでも、
「境界線」というものを新たな形で捕らえ返そうとする動きが現れる。それが、
「コンタクト・ゾーン」という境界線をめぐる概念である。
これは、EU 域内で、特に EU の拡大後の内部および外部の「異質者」との共存に関し
て、ハンチントンの言うような「文明の衝突」としてのフォルトライン(分断境界線)認識
から、「出会いの場」としての境界線認識の変容でもある。これが出てきた背景には、25
ヵ国欧州の実現により生み出された従来にない「多様性」に対していかに対処するか、と
いう問いかけがあろう。
25ヵ国拡大EUが提起することになった「東西欧州の統合」の問題は以下の点にある。
1.互いに必ずしも同質でない、とりわけ西に対してネガティヴな「歴史的記憶」を持つ、
中・東欧の国々を統合して、25-27カ国(07 年のルーマニアとブルガリアの加盟)によ
る統合をいかにうまく機能させるか。とりわけ、EU拡大により大きく東に移動した境界
線の緊張と共存にどのように対処していけばよいのか。
2.多国共存的(マルチラテラルな)国家連合による統合体の実現と、大国の主導による
スーパーパワーの夢は両立するか。仏独英は、中・東欧の合意の下に、EU のリーダーシッ
プを取ることができるのか。EU 内の小国は、EUにおける三大国のリーダーシップをど
のようにとらえるのか。
これらに対するより長期的な、歴史的記憶も踏まえた現実社会からの解決の方向性が、
「コンタクト・ゾーン」なのである。
1)EU の拡大とマイノリティの「境界線」認識の変容
2004年8月25-27日、ハンガリー、ブダペシュト近郊のアソードで、コンタク
ト・ゾーンをテーマに掲げたマイノリティの国際会議が開かれた。
ここには、ハンガリー・科学アカデミーのマイノリティ研究所および民俗学研究所、ア
ソード民族博物館の共催により、スロヴァキア、ルーマニア、セルビア・モンテネグロ、
クロアチア、スロヴェニア、オーストリア、ウクライナのマイノリティ研究者が参加し、
各地域のマイノリティ研究の動向と、最後にラウンド・テーブルでのコンタクト・ゾーン
をめぐる議論が交わされた(23)。日本からの参加者は筆者のみであった。
その機軸は、現在の民族問題があまりにも政治的に扱われてきたことを反省しつつ、そ
れをより長期的な時間軸と共存の流れの中で捉え返そうとする、アンソロポロジー研究で
あった。
民族問題研究者は、実は紛争地域こそより長期的には「歴史的共存」を行っていた地域
であること、紛争はその時々の国内・国際情勢や政治指導者の思惑により旧来の共存関係
6
の奥にある対立関係があおられ、それが表面化させられたに過ぎないことを語る。紛争地
域は、実は歴史的な流れで見た場合は、平和的共存地域のモデルでもあるのである。
3日間のそれぞれの地域からの報告の中で、9-10世紀におけるキリスト教の受容、
15世紀における新教(カルビン派、ルター派)の受容、正教会の習慣が提示され、有史
以来のカルパチア盆地の諸民族共存において、変わっていくもの、変わらないもの、共存
する風習、社会、宗教生活が明らかにされた。それは、長期的な文化人類学的考察や生活
面で納得できる、目の覚めるような新たな発見でもあった。
これらの中で強調された、キーワードが、「コンタクト・ゾーン」である。
それは、異なる民族や文化、習慣の「境界線」は存在するが、その境界線は、異なるも
の同士を区切り対立させる「分断線」ではなく、様々の異なる文化や風習、人々が出会い、
交わり、新たに融合し、許容し、共存する場としての「境界領域」の再認識であった。そ
の際、旧来はそれぞれのマジョリティ、マイノリティの民族性が強調されたが、この「出
会いの場」としてのコンタクト・ゾーンでは、異民族間結婚(vegyes hazasag)による諸
習慣の融合と共存の意義が強調されたのである。
1)一つは、宗教からのまなざしである。ルーマニアでは、ルーマニア正教会、カトリッ
ク、新教が実は同居していた。異民族間あるいは異宗教間結婚の場合、夫婦連れ立って、
まずカトリック教会へ、次いで正教の教会へ(あるいは逆の順序で)、双方の教会へ出か
けることが容認された。また、ジメシ・チャーンゴー(というハンガリーの境界線から遠く
離れたハンガリー語が話せないハンガリー人マイノリティ)においては、正教会の場合、
説教はルーマニア語で、聖歌はハンガリー語で歌われることもあった。
2)二つ目は、生活習慣、結婚、葬式などに見る共存である。
葬式の場合、夫婦が異なる場合は、それぞれの風習それぞれの宗教で行われ、共に墓に
入る。女性が死んだら、男はひげを伸ばし、女性は黒い衣装を着て嘆き悲しむ。それら
は習慣の混合であり共存であり、日常生活においては互いを慈しむが故の行為であった。
3)三つ目は、都市と地域に住むロマの集団や、境界線地域(ウクライナ)のマイノリテ
ィの変容であり、同一民族の中でもひとつの空間の中に縦の階層差が現れ、異なる民族で
もさまざまな文化と民族が融合して地域文化となることが明らかにされる。(24)
2)同化・移民流出から、コンタクト・ゾーンへ
こうした研究において共通するのは、ここ2,3年で中・東欧のマイノリティ研究に大き
な研究動向の変化が現れつつある、ということである。むしろ政治状況において、民族主
義が強化されてきた 99 年から世紀転換期の時期であるからこそ、逆にNATOのコソヴ
ォ空爆などを踏まえ、多民族共存地域がどう生きていくべきなのかがより長期的なスパン
で問い直されようとしているといえるのかもしれない。
冷戦終焉後、
90 年代における中・東欧の国民国家再編過程と紛争の高まりの研究の中で、
常に警告された課題は、国民国家へのマイノリティの同化の危機感であった。
これまでのマイノリティ研究では、多民族地域における同化政策が批判され、マジョリ
ティの国家主義的政策が批判・攻撃され、
マイノリティの独自性を維持する運動が鼓舞され
てきた。異民族間結婚や、同化していく人々はむしろ「裏切り者」「出世主義者」として
否定的に認識され、たとえ遠くであってもマイノリティの小学校に子供を通わせることが
7
「民族保持」として評価されてきた。
それが、近年は、複数ないし3つ以上の文化の共存、コンタクト・ゾーンの認識へと向
かい、二つの文化が交わる場としての共存の研究に進みつつある。もちろん、19世紀に
も20世紀にも、共存を目指す研究はないわけではなかったし、それらを唱導する運動家
や研究者も繰り返し出てきた。しかし今回のアンソロポロジー研究は、「あるべき」もの
の理論化ではなく、中世、近代、現代を通じて、「あたりまえ」な日常生活の知恵として、
共存、融合しつつ、マイノリティ文化を守ってきた一般の人々の実態を明らかにしたもの
として、大きな意義を持っているといえよう。
ルーマニアで、チャウシェスク政権末期、ハンガリー人マイノリティへの最も激しい対
立があった 1980 年代でさえ、国家や政党は互いに民族的に対立しあっていたものの、当
時民族運動にかかわっていたマイノリティの研究者が、「それでも外出するときには、同
士のハンガリー人ではなく、隣のルーマニア人に鍵を預ける。われわれは日常生活では政
治的に行動していない。」と述べたのが印象的であった。かれらは紛争のさなかでさえ、
現実には「共存」してきたのである。
質疑の中で、筆者は次のように問うた。「これまでのマイノリティ研究は、同化を批判
し、移民流出と過疎化を憂うものであった。しかし現在は、境界線領域の共存と融合を(説
くのではなく)「発見」し、評価しようとしている。これは、グローバリゼーションとE
U拡大により、民主化や市民化が進んだからなのか。EU加盟の中で、もはや少数民族を
かたくなに守り通す必要がなくなったからなのか。マイノリティ社会が、こうした国際関
係の変容を契機として、現実の中で、自由に様々の文化を認め合いながら共存していたこ
とを明らかにすることができるようになったのか。」
これに対し、オーストリアのブルゲンラントの研究者やロマの研究者から、民主化やE
U拡大による環境の変化は共存を見直す上で大きい。しかしいかなる抑圧の中でも、地域
的出会いの場としての境界線、様々の文化の融合としての混住都市は存在してきた、とい
う意見を得た。また他方で、自分はずっと西側にいたが、自由社会の中で、自分がハンガ
リー人であるというアイデンティティは忘れたことがなかった、自分はどのような社会状
況にあっても逆にハンガリー人という枠組みから自由になることは考えられない、という
老ジャーナリストの見解もあった。
拡大EUに加盟した後、境界線の意味の低下の中で、多民族地域、境界線地域をどの
ように捉えるか、中世から近代の多民族地域社会の中からマイノリティの 21 世紀を展望
するという点でも、コンフリクト・ゾーンからコンタクト・ゾーンへの「転換」は大きな
意味を持つものと思われる。
現在、拡大EUの境界線をめぐる地域協力のあり方として、1.ユーロリージョン、2.
EU の包摂地としてのロシア・カリーニングラード、3.コンタクト・ゾーンという文化
人類学的概念の捉え返しなど、まさに「国民国家」を超えた新しい試みが境界線上で進み
つつある。境界線領域から生み出される新しい動向をさらに客観的に注視・分析していく
必要があろう。
注
( 1 ) 自 治 体 国 際 化 協 会 「 ド イ ツ 地 方 行 政 の 概 要 」 March 13, 2000.
8
( http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/html/cr193/)では、「地域からなるヨー
ロッパ」を次のように規定している。「東西再統一直前の 1990 年 6 月に開催された、旧西ドイ
ツ州首相会議において、各州は『諸地域からなるヨーロッパ』という提言を採択した。この提言に基
づき、再統一直前の同年11 月、連邦参議院は、超国家(ヨーロッパ)レベル、国家レベル及び地域レベ
ルの3 層構造による連邦制からなるヨーロッパ連合の形成を求めるに至った。」
(2)「1990 年11 月、ヨーロッパ議会は、補完性の原理を以下のように規定し、これをEC の諸条約
に加えるように提案した。『EC は諸条約によって委任された課題の実現を目指し、また条約で定めら
れた目的を実現するために活動する。この目的のために、EC に一定の権限が独占的または十分に付与
されていない場合、その目的達成に際して、EC はその関与が必要な限りにおいて活動する。』さらに
ヨーロッパ議会は、地域がヨーロッパ連合における最も基礎的なレベルであり、それらは自治権を持
ち 、 EC の 意 思 決 定 過 程 に 参 加 す る 資 格 を 持 つ も の と し た 。 」 ( 同 、 P. 4 6 )
( http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/html/cr193/)
(3)中井、林、柴宜弘『連邦国家の解体:ソ連、チェコ、ユーゴスラヴィア』多賀出版、
1998 年。なお民族・地域紛争と国境線の再編の問題については、羽場久シ尾子『統合ヨー
ロッパの民族問題』講談社現代新書、1994(2004)、pp.4-5 を参照。
(4)CBC Program は、1994 年に欧州委員会で策定され、98 年に中・東欧への EU 拡
大を前提としたにおけるより広範な PHARE 地域援助と結んだ計画として発展した。
http://europa.eu.int/scadplus/leg/en/lvb/e50001.htm
( 5) Carpathian Foundation, Fund for the Development of the Carpathian
Euroregion, Report 1995-97, Hungary, Poland, Romania, Slovakia, Ukraine,
Budapest, 1998.
(6)もともとは、PHARE は、Poland と Hungary の移行経済の援助を行うために設
立された組織であるが、その後、中・東欧加盟候補国全体の支援を行う組織:Community
assistance programme for the Central European Candidate countries となった。
EU ホ ー ム ペ イ ジ 、 http://europa.eu.int/comm/enlargement/pas/phare/ 、
http://europa.eu.int/comm/enlargement/pas/phare/working_with_phares.htm
を参照。
(7)カリーニングラード問題についての文献としては、Richard J. Krickus, The
Kaliningrad Question, Oxford, 2002, Kaliningrad Region of Russia and the EU
Enlargement, Issues of the Pan European Integration, Analytic report, Russia and
Europe; Past, Present and Future, Kaliningrad, 2003, Support to Transforming
the Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian-EU Cooperation, East-West
Institute, Kaliningrad, 2003, The EU & Kaliningrad; Kaliningrad and the Impact of
EU Enlargement, ed. by James Baxendale, Stephen Dewar and David Gowan,
Printed in the EU, 2000.などを参照。
(8) ロシアの警戒については、2002 年に開かれたモスクワでの MGIMO(国際関係研究所)
主催の RISA(ロシア国際関係学会)がその緊張を端的にあらわしている。大会は、「ヨーロ
ッパにおける分断の再燃:Managing the (Re)creation of Divisions in Europe」と題し、
EU 拡大と共に、新しい「周辺」の形成、民族紛争、境界線、カリーニングラードやウクラ
イナ問題が論じられた。3rd Convention of CEEISA, NISA, RISA, Managing the
9
(Re)creation of Divisions in Europe, 20-22 June 2002.
(9) Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan
European Integration, Analytic report, Kaliningrad, 2003. p.5.
(10)ワイダー・ヨーロッパの文書は、EUのホームペイジ、
http://europa.eu.int/comm/world/enp/pdf/com03_104_en.pdf で読むことがで
きる。COMMISSION OF THE EUROPEAN COMMUNITIES, Brussels, 11.3.2003,
COM(2003) 104 final, COMMUNICATION FROM THE COMMISSION TO THE COUNCIL
AND THE EUROPEAN PARLIAMENT, Wider Europe— Neighborhood: A New Framework for
Relations with our Eastern and Southern Neighbors., pp.1-26. および、EPCの報告書、Fraser
Cameron, The Wider Europe, EPC Issue Paper No. 1., 10.6.2003.を参照。
(11) Etnikai Kontaktzonak a Karpat-medenceben a 20. szazad masodik feleben,
Nemzetkozi tudomanyos konferencia(20世紀後半のカルパチア盆地における民族のコンタクト・
ゾーン、国際会議), Aszod, 2004. augusztus 26-28.
(12)
Joseph Rothschild, Return to Diversity: A Political History of East Central
Europe since World War II(『現代東欧史―多様性への回帰』羽場久シ尾子・水谷驍訳、
共同通信社、1999年) New York, Oxford, 1989、pp。3-5.. シュガー=レデラー、『東
欧のナショナリズム』刀水書房、pp。
(13) コシューとのドナウ連邦構想の全文は、Kossuth Lajos iratai, Hatodik kotet, Tortenelmi Tanulmanyok,
Elso resz, 1863-1866 vegig, sajto ala rendezte Kossuth Ferencz, Budapest, 1868, 9-12. 羽場久シ尾子「ハプスブ
ルグ帝国末期のハンガリーにおける民族と国家―『ドナウ連邦』構想による中・東欧再編の試みー」
『史
学雑誌』、1984年、93編、11号。羽場久シ尾子「ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題」『社会労働
研究』32-2、1986年1月、pp.62-65. 羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社現代新書、
1994(2004.7刷)、p。77-85.
(14)ポポヴィッチ、ヤーシの連邦構想については、Aurel Popovic, Die Vereinigten Staaten von
Gross-Osterreich, Jaszi Oszkar, Magyarorszag jovoje es a Dunai egyesult Allamok, Budapest, 1918. 羽場久シ尾
子、前傾論文、pp。72-76.、羽場久シ尾子、前掲書、pp。92-100.
(15) ユーロ・リージョンとは、「2カ国以上にまたがり国境を越えて自発的な商業と文
化の交流を行うための地域的結合を目指す」、「民族間の隔たりを埋める手段、政府国家
間の友好を促進する」ものとして、組織された。最初のリージョン(Regio)として、仏
のアルザス、独のバーデン=ヴルテンベルク、スイスのバーゼル間の地域交流を目指した
協力関係がある。以後、EC・EUに強く支持されて発展した。ヤン・B・デヴェイデンター
ル/訳 篠崎誠一「ポーランドとユーロリージョン」『QUOソ連・東欧はどこへ』No.8。
「特集:ユーロリージョン:国境を越えて」1993.Summer, p.62-63.)
(16) Carpathian Foundation, Fund for the Development of the Carpathian
Euroregion, Report, 1995-97, Budapest, 1998. Gergely Attila, Integracio,
Globalizacio, Regionalis Fejlodes—A Karpatok es Duna-Koros-Maros-Tisza
euroregiok, macro-politikai osszefugesek, Budapest, 2001. 吉田康寿「ユーロリージ
ョンの役割と展望―カルパチア山脈周辺を事例としてー」『外務省調査月報』2003.no.4.
(17) 羽場久シ尾子前掲書, pp.161-163.
(18) Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan
10
European Integration, Analytic Report, p.7.
(19) The EU & Kaliningrad:Kaliningrad and the Impact of EU Enlargement, Ed. by
James Baxendale, Stephen Dewar and David Gowan, Printed in the EU,2000,p.11.
(20) Communication from the Commission to the Council and the European
Parliament, Wider Europe , Brussels, 11.3. 2003.
(21) Ibid, pp.6-9.
(22) Fraser Cameron, The Wider Europe, EPC Issue Paper, No.1, 10.6.2003. p.6.
(23) Etnikai kontaktzonak a Karpat-medenceben a 20 szazad masodik feleben,
Aszod, 2004. augusztus 26-28,
(24) Kisebbseg es kultura, Antropologiai Tanulmanyok 1(少数民族と文化、アンソロ
ポロジー研究), Szerkesztette: A Gergely Andras- Papp Richard, MTA Etnikainemzeti Kisebbsegkutato Intezet(ハンガリー科学アカデミー少数民族研究所,
Budapest, 2004. ここでは、ハンガリーから遠くはなれた地のハンガリー民族の一つに
数えられるチャーンゴー研究、農民とロマの研究、正教徒とカトリック教徒の共存・融合
の日常が描かれている。
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