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http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ Title Author(s) Editor(s
 Title
Author(s)
Balzacの<Des Artistes>と<L'Epicier>について : 「芸術家」と「
俗人」の構造
中堂, 恒朗
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
女子大文学. 外国文学篇. 1986, 38, p.75-88
1986-03-31
http://hdl.handle.net/10466/10496
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
Balzac の <Des Artistes> と
<L'Epicier> について
一一「芸術家」と「俗人」の構造←ー
中堂恒朗
<LaSilhouette>
としづ週刊新聞は,
その発刊の経緯については Roland
1829年12 月に発行されたもので,
C
h
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e
t<Balzac, J
o
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s
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e
>(1983,
特に第四章 pp. 175-220) に詳しし、が,要するに数人の識者が集り,絵と
文学 (caricat町es と文章)を調刺的にのせて(といっても polémique に
なることなく)当代の artistes の意見を出そうというものであった。当時
のジャーナリズムの王者 Emile
したけれど,
d
eGirardin
はこれには金銭上の援助を
<LeVoleur>(1828年刊)や< LaMode>(1829 年刊)のよう
に,経営者の意図が前面に出て〈ることはなかったらしい。
発刊は推進者の一人 Ratier
(
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tlithographe)
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s24
のアトリエは
にあったが,
ここが <La
Silhouette> の本拠で, Louvre 宮東側あたりのこの辺一体は,
い artistes のたむろしていた所だったようで
でもあった Charles Philipon や Henri
当時,
若
r シルエット」紙の協力者
Monnier は,彼等の中心的な
存在だった。
王政復古時代はし、わゆる gérontocratie で,若者の精力はうっ積してい
た。特にこの時代後半の政府の反動的な政策と経済的危機(特に 1827年~
1828年)は,青年たちの不満と焦燥を助長した。 mal
du siecle
は成長の
ための痛みでもあったのである。草命が迫っていた。
ところで,王政復古時代は主として propriété fonciさre
e
tfinanci色re
が支配的で,いわゆる産業人 (industriels) や産業発展を推進せんと願う
自由主義者たち(libéraux) は,不平をかこっていた。その状況は,野心
的な青年たちの置かれているのと一見似かよっている。この時期,革命的
76
中堂恒朗
イデオロギーとしてのフ。ルジョワジーは libéraux の下に結束し,ぞれが
ある種の青年たちに共感を与え,インテリと自由主義者との協同の下に七
月革命 (1830年)へと導かれてゆくのである。ただ ν ,
libéraux は急速に
保守化・安定化の方向に進み,青年たちの共和主義的な意図を裏切ってい
く。このことは Balzac も「幻滅」第二部 (1839年)の中で描いていること
だ。 Michel Chrestien の,サン・メリ街事件での死 (1832 年 6 月) 0
zac にとって七月革命は「革命」ではな<.
r 配置換え J
B
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ュ
(chassé・ croisé)
にすぎなかった。
ところで, industriels と artistes (Saint-Simon や Balzac にとっては
artistes とは広義に使われている。つまり penseurs である。インテリ青
年である)両者の社会的重要性については saint-simoniens がつとに説い
てきたところである
(saint-simonisme の流行は Saint-Simon が死んだ
1825年より始まり 1832年頃まで続く )0
の影響は濃厚である。
B
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l
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a
c <DesArtistes> にも,そ
そして, saint-simoniens はすでに警戒しており,
七月革命は彼等に何等共感を与えなかった。この点 Balzac も同様である。
ただし, Balzac は私有財産や長子相続のことでサン=シモン派から離れて
しまった。 Balzac の目は「集団性」に及ぶよりは< l
av
i
eprivée> に注
がれようとしている。「古代人」
と違って「現代人」では私生活の幸福が
大きく前面に出てくることは Benjamin Constant も指摘してきたことだ
(
<Del
al
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e
smodernes> 参照)。それに
(1830年前後
Balzac はこの時期
romancier たらんとしている。ぞれまで書きなぐってきた
通俗小説の作家とは違ったような小説家たらんとしている。ブルジョワジ
ーの勃興は,同時にまた小説というジャンルの台頭でもある。紙の製造拡
大,印制機の発達,
階級変動による新し L 、風俗 (moeurs) ,
好奇心の増大,
ジャーナリズムの異常な進展。この「現代」に romancier (artiste) はし、
かに対応すべきか。これが Balzac
の< D
es Artistes> が発表された時
期 (1830年 2 月 ~4 月)の状況ざある。 artiste はどうあるべきか,そして
とりわけ Balzac
自身は?
ブルジョワ支配の中で(革命があろうとなか
ろうと体制は不変であった)芸術家はし、かにして <vivre
d
el
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rart> を
なすべきか, Balzac の論文はこれに答えんとしたものである。
Balzac の <Des Artistes> と
く Des
<L' Epicier> について
77
A
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s
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e
s>(1芸術家たち J , d
e
sは不定冠調複数)は <Le Sihouet圃
te> 紙に無署名で三回にわたって載った。次の如し
1,
1830年 2 月 25 日
11 ,
1830 年 3 月 11 日
m,
1830年 4 月 22 日
尚,現今< D
esArtistes> は Conard 版全集 OEurres
(1 956年)の p. 135~144 にある。又,
全集 tome
XXVI (1976年)の
D
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LesB
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p
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sd
el'orignale
版
p. 107~119 にもある。筆者は両者を適宜
参照したが,以下の筆者の論文の中の Balzac の引用文とその頁数は,後
者の版を利用した。
<DesArtistes> の内容をできるだけ簡単に紹介していこう。そして適
宜,筆者は問題点を指摘したいと思う。(便宜上,
箇条書き風に書いてい
く)。
1
.
フランスでは知(l'esprit) が感情を殺してしまう。フランス人は作
品を理解する器用さを持っているが,作品を「感じなし、。」エスプリは不
安定で,せっかちだ。作品をよく理解しでも,その後はもとのもくあみだ。
それにフランス人には
I芸術家の怠惰な生活」
にふけるひまがなかった。
何しろ大革命後長いこと戦争をやってきたのだから。
ここには例えば Mme
d
eStaël
の「ドイツ論」などに見られるフラン
ス文化批判があり,また当時大流行のロマンチスムの反映が見られる。芸
術家の不覇独立の気慨はロマン主義的精神と密接に結びついている。フラ
ンス的サロンでは originalitる(一風変っていること)は排除される傾向が
あるのだ。ぞれからもう一つ筆者が触れておきたいのは,革命や革命戦争
(ナポレオン戦争を含む)には確かにロマンチスムと通じるところがあるが,
しかしそれは精神としてであって,現実はブルジョワジーの支配を招来し
たのが大筋のところであった。 Balzac の< D
es Artistes> はそうした大
筋の中で,芸術家がいかに自らを処すべきかが問題になっているのだ。
2
.
Balzac にとって artistes は penseurs である。アルチストをこう
いう風に広義に解するのは,
前にも少し触れたように,
サン=シモニスム
7
8
中堂恒朗
の影響による。サン=シモニヤンにとっては artiste=poète=prêtre であり,
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g
e(宗教的指導者)である。この考えは同時代の
Victor
Hugo
にも影響を与えている。尚又l'art が文学一般の意味にも用いられるの
もこの頃のことである。
(penseur)
これについては後述する。
Balzac
は
artiste
はかつては時代全体を支配したものだと言う。あるいは時代を
指導し,事物の様相を作りかえることさえしたと言う。思想の力だ。デカ
ルト,ヴォルテール,ラファエル等々……。 artiste は souverain であった。
3
.
しかるに今(十九世紀前半) ,こんなにも啓蒙されているはずのこの
世紀に,なぜに artistes はかくも軽蔑されているのか。その <d剖ain>
ばどこから来るのか。列記しよう。
イ.
知識の拡散(光の分散)。これによって人間精神は豊かになったが,
<ph駭om鈩es> (珍らしい現象)が稀になった。つまり百科全書的啓
蒙が「芸術家」の存在を神秘的なものにしなくなった。
ロ,.立憲政体」に因がある。つまり英国風議会制度。議員たち (400 人
の財産家)は「芸術家」を理解できるか。
かつては例えば Frangois
Ier が Raphaël を保護したようなことは今ではない。代議士が 10 万
フランを「芸術家」に注ぎこむなんてとんでもない。
mécénat
の崩
壊だ。
ハ
économistes (経済専門家)のせいか。万人にパンをと彼等は言う。
蒸気は「色彩」よりも大切なのだと言う。下部構造重視は,芸術を無
用のものとする。
ニ,.芸術家」自身の風俗習慣,性格の中に因がないか。 la
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ュ
Denis の帽子屋(匂icier だ! )のように「芸術家」は振舞わない。
商人はまじめで正直で,きちんとした計算家でなければなるまい。し
かし芸術は一国民の風俗を表現せるものなのだ。どちらがどちらを非
難すべきか。どちらが間違っているか。
2 月 25 日に出た論文(つまり1)はここで終っている。次回は,以上論じ
てきた因を更に詳説し,芸術家の状況に新しし、考察を示そうという。(筆
者は便宜上,通し番号を続ける)。
4
.
,.芸術家」は精神の中の何やら神秘的で気まぐれなものに支配され
Balzac の <Des Artistes> と <L' Epicier> について
7
9
て動く。その力に翻弄されている。彼(l'artiste) は彼自身に所属していな
いのだ (11
nes
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)(
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.110)。こういうのは俗人(le v
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)
には分らぬ。筆を持つのは「芸術家」自身でなしそれは他人なのだ。う
り二つの分身 (Sosie) なのだ。作品を産み出すときの苦しみ。内面の宝が
湧き出てくるときの悦惚。沈黙と孤独の中。不可能はない。このとき「芸
術家」は自由であるか。何かが乗りうつって狂気で興奮している姿はむし
ろ「奴隷」ではないか。「神」の如ししかし「屍」にすぎぬ。「芸術家」
の絶えざるアンティテーズ。
(p. 110)... ・ H ・..こんな非常識は俗人の良識と
対立せざるをえぬ。
5
.
俗人から見ると「芸術家」は支離滅裂だ。< u
nhommedes
u
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e
>
でない。つまり首尾一貫しておらぬ。それに富への欲望がなし、。金銭を欲
しがるのは必要の瞬間のみ。貧欲は天才の死だという。それにどういうわ
けか庶民出が多い。金持ちゃ貴族の子はとてもこんな貧乏生活には耐えら
れまし、。更に「芸術家」は怠惰である。働かね。怠けもので,赤貧に甘ん
じているとは,何たる悪徳。実に奇怪だ
(bizarreries)
(
p
. 112)。ところ
が「芸術家」にとっては,怠惰に見えるときこそ仕事の時間なのであれ
立場がはっきりせず卑怯に見えるときは実は彼の「無私無欲J (d白intéres司
sement)
の姿なのだ
(p.
112)。これらは「思考の呉常な行使からくる必
然的な結果」である (p. 112) 。
6
.
r 芸術家」の魂は鏡 (miroir) だ (p. 112)。世界が映る。人間・風
俗・情熱が次々に映し出される。この魂には堅固さがない。しっかりした
「性格J
1
1
2
)
0
(caractère) が欠けている。「芸術家」は娼婦 (catin) の如レ (p.
...・ H ・-・ここでは反映論的レアリスム(スタンダールにもある。後代
は反映論を批判するだろう)と
者になろうとすること。創造が
altérité
(作家が identité
prostítutíon
を放棄して他
だとしたのは後代のボード
レールである)とがセットになって語られている。後になって反映論が批
判されたのは,作家がく catín> であることを忘れたためではなし、か?…
7
.
r芸術家」は人間の両面を見るという力強い能力を持つ。そんな判
断力は偽りだと俗人は言うだろう。安定維持が大事だ。しかし「芸術家」
は上へ下へと舞う。足を地につけていると思うと,頭は天の中にある。子
8
0
中堂恒朗
供にして超人。地上の détails と天上の観念。…...・ H ・.,この両国を見ると
いう能力についての言及は,芸術家全般の問題であるだけでなく,とりわ
け言及者 Balzac 自身の問題として重要である。この「芸術家たち」の彼
の論文にしてからが,両面の視線がたえず放たれている。このことについ
ては後述する。
8
.
思考には「反自然 J
(
c
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r
enature)
なところがあると Balzac は
言う (p. 113) 。芸術は思考の乱用であり,芸術には何かしら超自然なとこ
ろがあると言う。原始時代の人々は全く「外的 j
(extérieur) であった。
文明の発達は内面を膨脹させ,思考を発達させた。芸術は文明の墜落と結
びついている。…………ここには明らかに Jean-Jacques Rousseau の考
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n<Balzac, d
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eJ
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J
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sRousseau>(Droz, 1983) に詳しい。で,
え方の影響がある。これについては Raymond
czρle
とのあたりの文をよく読むと, Balzac では art の方に重きがある。
Rousseau では当然 nature の方に重きがある。「熟考の状態は自然に反
する状態であって,
思考する人聞は堕落した動物である」とは
r不平等
起源論J (1753年)の第一章の中にある有名な文句だ。 Rousseau は文明を
批判していて,思考(芸術)の汚染なき自然には不平等は無かったのである。
Balzac にとっては思考の乱用は寿命を縮め,
浪費や消耗なしでは創造できなし、。
不健康ではあるけれども,
r思考は人間の必然性である。
それは
人聞の生活条件である」とも Balzac は「社会綱領」の中で言っている。
芸術が反自然であるのはやむをえねのである。
密教的な素振りさえ見せている。
然」は,
原始的平等の否定,
Balzac は超自然的などと
ついでに触れておくと, Balzac の「自
生来の善良さの否定となって Rousseau か
ら離れ,戦争状態そのものである。自然=社会となる。これは Hobbes に
近い。
9
.
r 芸術家」には使命がある。
こうし、うところ,
saint-simonisme の
影響が見られる。 artiste=mage の考え方。しかし使命の内容について Bal­
zac はどういうか。「極めて相離れているものの関係をつかむこと。世俗
的な二つのものを近づけて驚嘆すべき見事ま効果を産み出すこと」という
(
p
.114)。
これは余り伝道的でない使命だ。関係の把握とし、うのは重要な
8
1
Balzac の <Des Artistes> と <L' Epicier> について
発言である。先にも触れたあの「鏡」は漫然とものを映すのではないのだ。
ものとものの聞に水平やら垂直やらの連絡線が複雑に走っているらしし、。
それは目に見えないが
I芸術家」はそれを察知する。それを表現する。
そしてしばしばその表現は,公衆の良識から見ると理屈に合わず,たわご
とのように聞える。公衆が赤を見る所に
I芸術家」は青を見ることもあ
る。「芸術家」は不幸に喝采を送ったり美を呪ったり欠点を褒めたり犯罪
を弁護したりもする。かくれた原因と親交があるらしい。俗人から見ると,
「芸術家」は狂気の兆候を持ち,馬鹿 (niais) の如し。店の使い走りをや
らせるしか役に立つまい。妻はとうとうこの夫(芸術家)を愚か者と思いこ
む。…・……・このあたり, Balzac 特有の現実主義 (r白lisme) 的な考えと,
不遇なる天才の礼賛というロマン主義的な考えとが混在しているようにも
思えるのだが……。
以上が 3 月 11 日げ発表された論文の内容紹介である。つまり立。ついで
E に移るが,
これは今まで書いてきたことの résumé であり,
また結論
でもある。とはし、つでも新しい観点も附け加わっているので,筆者は依然
として通し番号をつけて書いでし、く。
1
0
.
これまで書いてきたことのモラルはく Un
黎
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ね」あるいは
れる。
とにかく
高な美徳、なり。
である。
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d homme d
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となるかもしれぬ。「偉大な人は不幸であらねばなら
I~ 不幸であるに相違な~ 'J 。このどちらの訳にも原文はと
「芸術家」は現世に光栄を求めるべきでなく,
諦めが崇
死して「神」とならん。「芸術家」は真理の使徒 (apôtre)
愚かなる大衆の迫害に遭うであろう。…… Balzac の大言壮語ぶ
りが少し気になる。
ところが,
1830年とし、うこの時期,
芸術家は俗衆と
堂々と張りあうべきか,それとも俗衆を避けて象牙の塔にこもるべきか
の境い目ともいうべきこの時期,
Balzac はあくまでも前者の態度でのぞ
もうとしているところ注目すべきである。(後者の態度としては,
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eVigny<C
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n>(1834)
や Théophile
例えば
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r<Cam
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1
1e
Maupin> 及びその有名な序文 (1835) を見よ)。というよりは, Balzac 自
身の中に,前進するブルジョワ精神が力強くあったと言うべきか。
1
1
.
ところが俗人(阿呆の集団 ζBalzac は書いている)から見ると,
8
2
中堂恒朗
「芸術家」は皆互いに帳何深<.喧嘩ばかりしている。自惚が極端に強\,
相互に理解しあうことがない。そんな連中の言うことに耳を傾けることな
どできるものか。
公衆は羊の如く与論に従うもの。均質性,画一性 (uni­
formité) を望むものなり。「民の声 J (vox ρoρuli) を聴け (p. 116)。
1
2
.
r芸術家」が世間との間に障害をつくるのは,彼の欠点や資質によ
るのみではなし、。実は,
芸術そのものが,
彼に反抗することがある。特
に芸術を信仰していると,信仰が彼を追放することがある。すぐれた「芸
術」には日〈言い難い何物かがその奥にひそんでいる。その「定義しがた
いもの J
(ind組nissable) を栢手に理解させるのは至難である。
かくデリケートなニュアンス J
この「細
(
c
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sn
u
a
n
c
e
sf
i
n
e
se
t délicates)
が分か
つてもらえるなどとどうして期待できるか (p. 118)。しかもたくさんある
作品が皆互いに似ていず,それぞれが別個に勝手気ままに芸術の目標に達
してきた,あるいは達しているらしいのだが,俗人にはそんなこと信じら
れぬし,あちこちにあるらしい秘教の場を訪れる暇もない。万人に通じる
ように分かりやすく言ってくれ。………このあたり Balzac はロマン派の
ひとりよがりを批判しているようでもあるし,あるい凡庸政治制度下の画
一性を閉弄しているようでもある。
1
3
.
結論的な言辞が出る。「芸術家」は,
を芸術そのものとして培う J
(
c
u
l
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iv
e
rl
'art
創造力を有する者は
ρour
r芸術
l
'a
r
tlui-méme) ことを
忘れてはならないだろう。沈黙と孤独の中で注ぐ喜びとそこで得られる宝
以外のものを要求しではならないだろう。世間に出かけて行っても自分の
優越を外に置いて,決して自己弁護をせぬこと。「生産と戦 L 、 J
.
e
tcombattre)
(
p
r
o
d
u
i
r
e
は二つの人間生活だが,どの人間もこの二つの運命 (desti­
nées) を共に成就することができるほど強くはないのだ。つまり「芸術家」
は生産に専念すべきだ。世間と戦うことは諦めるべきだ。・・……「生産」
とか「戦 L 、」とか又もや空想社会主義風の言葉だが,
Balzac はそれらの
語を用いて,まるで自分に言い聞かせるように結論付けている。 1830年頃
より Balzac の「生産活動」は猛烈な熱を帯びてゆくことなる。その前触
れのごとくにひびく。
それからもう一つ。「芸術を芸術そのものとして培う」
という表現につ
Balzac の <Des Artistes> と <L' Epicier> について
いて。これはむろんの Gautier
画しているが(なぜなら
ら),
8
3
などの芸術至上主義的な考えとは一線を
Balzac は芸術に使命を排除してはし、ないのだか
I
'a
r
tp
o
u
rI'art とし、う表現が曲りなりにも出てきたことに注目した
L 、。I' a
r
tp
o
u
rI
'art の考えは,
来たとされ,
もともと
Benjamin C
o
n
s
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a
n
t (1 804)
Zweckm葹igkeit ohne Zweck
Kant の「判断力批判」から
や Victor
C
o
u
s
i
n (1818)
が
の説明に使ったと言われる。しかし 1830
年頃でこの種の表現としては Balzac のこの文句は記憶されるべきだろう。
I
'a
r
tp
o
u
rI'art を「芸術のための芸術」と今では訳されているが,芸術
そのものとしては芸術を J
p
o
u
r
'芸術といえば芸術」の訳も考慮すべきと思う。
という前置詞の左右に同じ語が位置している,よくあるフランス語
の慣用句を踏まえている。それから,前にも触れたように Balzac の場合
には俗人と張り合う気慨が残っていることに再度注目した L 、。 Bernard
Guyon はそれを Balzac の< e
sth騁ismesocial> とし、う。俗人から(あ
るいはイデオロギーから)逃避する七月革命以後の芸術家の消極的態度は
Balzac
のものではなく,そのときははっきりと「芸術のための芸術」に
となってしまうのである。
1
4
.
最後に Balzac は「芸術家J(' すぐれた人々 J
hommess
u
p
駻
i
e
u
r
s
とも書かれている)は,野生人 (sauvages) の聞においては,保護され尊
敬されることを指摘している。「千里眼」
を持った特権的な存在と見なさ
れるからだ。(これとよく似たことは Baudelaire も
<E-A. Poe> 論の
中で述べることになろう)。ここでは Balzac 特有の神秘主義が顔をのぞ
かせている。「野生人」の中では「芸術家」は超自然的存在であり,
しか
も「反自然」的な存在ではないのである。しかるに文明人の闘では,超自
然的存在は「反自然」になるというのか。文明人は光がぱっと輝くと,つ
まり
「芸術家」
という異様な現象が出て来ると,人々はその光を消しに
かかる。火事が起ったと思うからだ J
(
p
. 119) ,
これがこの論文の最後の
文章だ。文明社会では「芸術家」は「反自然」どころか,反良識」なの
である。
以上が 4 月 22 日に掲載された論文の内容である。この論文は百パーセン
ト芸術家擁護で色どられているのだろうか。反フールジョワジーの証言とし
中堂恒朗
84
でこれを読む人もあるが,筆者は必ずしもそうは忠わなし、。「芸術家」対
「ブルジョワ」というふうにマニケイスム的に読むのは少くとも
B
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l
z
a
c
の場合警戒すべき態度である。そのことはすでにこの論文の中にも読まれ
たことでもあった (7. を参照せよ)。それで次には,
<Des A
r
t
i
s
t
e
s
>
と
は反対の面から書かれた<L'企picier> について触れねばならない。
Epicier は主として商店主をいうが,広くフ寺ルジョワの蔑称に使われだ。
俗人(le vulgaire) と呼ぶに等しい。 <L' 企picier> と題する Balzac の
この論文は,
<La Si1houette>
紙に 1830年 4 月 22 日に< g
a
l
e
r
i
ep
h
y
ュ
siologique> になる総題の第一回分として無署名で発表された(第二回分
は 5 月 6 日で< L
e Charlatan> r 山師」で,この二回で終っている)。
4 月 22 日という日付は< D
esArtistes> のE の部分が発表された日付と
同じで, Balzac の二つの論文が同時に掲載されたようだ。尚, <L' 企pi・
cier> という論文は,後に 1839 年 (Les
B
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b
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i
1e
sd
el'originale
版の
全集では, L
'ノ
p
i
c
i
e
r (1840) としている) <Les Fran軋is p
e
i
n
t
sp
a
r
eux・mêmes> なる冊子の一部として Balzac とし、う署名入りで発表され
るが,その文章の多くは 1830年のもの骨子そのまま使っている。ただし 1839
年のものには添加された部分があって,そこを読むと約 10年の聞でブルジ
ョワが若干変化してきたことが分かる。このことについては後述する。筆
者は両<L'企picier> とも, L
e
sB
i
b
l
i
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p
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i
l
e
sd
e l'originale 版 tome
XXVI を参照した。
は,
1830年のものは,
p
.125~129,
1839(1840) 年のもの
p
.1
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<L
'Épicier> が定冠詞で始まっていることに注意したい。 <Des A
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tistes>
の不定冠詞複数と対照的である。こう二つ並べると,匂icier
の
単数冠詞は圧倒的に強<, artistes の不定冠詞複数は一定地域の集団(la
faune か)の如くに見える。
<L
'E
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>(1830)
を読んでいこう。こんども便宜上,番号を符して
進めてし、く。
1
.
r 崇高な存在!
不可解な存在.
おだやかさと生の源,
源,諦めの模範! J こういう文から始まる
光と喜びの
(p. 125)。諦め (résignation)
Balzac の <Des Artistes>
と
<L' Epicier> について
8
5
という語は「芸術家」の場合にも使つであった。あの場合は俗人から理解
されることを諦めよという「芸術家」の自惚と絶望の混ったものであった。
この場合はどうか。生活が安定しさえすれば文句は言わぬという自己満足
からくる諦めであろうか。そしてこの諦めの調和を乱すもの,芸術家たち
よ。
2
.
芸術家は,
<Vous黎esd
e
s句iciers !>と言って,
しきりと軽蔑
の辞を弄するが,なぜエピシエはそんな軽蔑されねばならないのか。働く
からだろうか。不幸な人々よ!
できれば野生人になってのんびりできれ
ばいいのだが,文明は仕事 (LE
TRA
VAIL)
の上に乗っかっているのだ
(
p
. 125-126)。…… ...Balzac はし、たるところで, travail の重要性を述べ
ている。詩人の「夢想」が不毛に堕することを強調する。「生産する」こ
と,これは< D
esArtistes> の結論の部分にも触れられていたが,ここ
にはたしかに Balzac
れざる傑作 J
のフe ルジョワ的精神がなかったとは L 、えぬ。「知ら
(1831 年)の中の Porbus 先生はこれを体現している。尤も夢
想家 Frenhofer 先生を Balzac は全面的に批判しているわけではない。
思考による破滅や堕落は Balzac には捨てがたい魅力がある。
Balzac の
ambivalence! それは Niolas Poussin の苦悩の中によく表われている。
3
.
r エピシエは,我々の日常のすべての必要品とまんべんなく結びつ
いており,人間生活のあらゆる詳細事と否応なく密接に関係している。ぞ
れはちょうど,
記憶がすべての芸術の本質であるのと同様だ J (
p
. 127)。
生活における商品と芸術における記憶とが対比されている。金銭という抽
象的なものが商品を流通させているのなら,言葉という抽象的なものが記
憶を表現へと流しこんでいる。これらの構造は実によく似ている。引用文
中にある「我々」とは誰なのか。エピシエ側か芸術家側か。どちらでもよ
いのだ。芸術家側には筆があるし紙があるし印刷機があるしカンパスがあ
るレ…・・。エピシエ側には?
そう,
Balzac も含めて多くの作家たちは
町民出身ではないのか。実にフ会ルジョワはし、たる所 lこし、る。その定冠詞的
遍在性は,空気の如くにその存在を忘れさせるほどである。エピシエとか
芸術家とか,何やらどこかで境界の線引きをやっているのは,あるいはや
らせているのは,何かの陰謀のようにも思えてくる。群棲動物の割拠的習
8
6
中堂恒朗
性によるものか。
4
.
r 諸君は,
エピシエの全能に頼ることなくして,
一旦も歩けぬし,
犯罪をやめることもできぬし,善行を施すこともできぬし,食事も芸術作
品も宴会もできぬし,恋人も作れなし、 J
(
p
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2
8
)
0 civilisation
とはもとも
と「市民化する」という行為の意味であった。エピシエの活発な動きは漫
画的動物的に見え
r文明」的でないようであるにしろ,それは文明的行為
そのものである。……「私は王の保護よりはエピシエの保護の方を好む。」
(p.128)。ここには地主階級と結びついている当時の支配者への当てこすり
もある。それから mécénat 崩壊に伴う作家の独立への気慨も感じられる。
5
.
エピシエは社会機構の必要不可欠の歯車である。エピシエはなぜ愚
鈍の典型(le
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a bêtise)
のように思われるのか。芸術家たちよ,
いつまで有益なものを軽蔑するのだろうか。いつまで暇なもの,
くさった
もの,無益なものをたたえるのだろうか。といった文章が最後の方に占め
られている (p. 128)。むろんここにはたっぷりと皮肉があることは確かで
ある。 Balzac
はエピシエ礼賛をやっているわけではむろんない。すると,
<DesArtistes>
にもたっぷりと皮肉があったというふうにも読めるわ
けで,あそこで Balzac は芸術家礼賛の一辺倒でなかったことを一応確認
しておいた方がよかろう。………「……しかしこの歎き谷の中に完全なも
のがあるだろうか J
(
p
.129)。これが末尾の文である。
尚, 1839年の< L
' Épicier> について簡単に触れておきたい。ここで
添加された文章の中で最も百立つのは,
<maintenir> という語である。
「……エピシエの大軍は一切を保持した。多分この大軍は共和制であれ帝
政であれ,正統王朝であれ新王朝[七月王政…筆者注]であれ,何でも保持
するであろう。たしかにこの大軍は保持するであろう!
これがこの大軍の標語である J
保持すること,
(
p
.132)。七月革命後完全に覇権を物にし
たフ守ルジョワジーは,今後は自らの安定を保持することに汲々とするであ
ろう。七月革命直前に書かれた論文と徴妙に違っているところ注意すべき
だ。 1839年では前進する革命フ苧ルジョワジーは消滅しかかっている。 1827
年に一且解散させられた国民軍は,七月革命後再び組織され,ブルジョワ
ジーは危険分子に対して武装することになる。ここで「大軍」と言ってい
Balzac の <Des Artistes>
と <L' Epicier> について
8
7
るのはその含みがあることに注意しよう。
この< L
'Épicier> は次のような文で終ってし、る。「…・・・しかし人聞の
いろいろの種類を診察してみたまえ。彼等の奇癖を研究してみたまえ。そ
してこの歎ぎの谷の中に完全なものがあるかどうか自問してみたまえ。エ
ピシエたちに寛容であろう! J (
p
. 139)。
1830 年の論文に見られた Balzac 特有のいわば複眼的装置が,ここにも
あることはたしかである。しかしここでは強力なブルジョワ体制に,
Balzac
はやや距離を置いてやに下った感じがする。といっても彼は「芸
術のための芸術」へと逃避しなかった。
また人道主義にも加担しなかっ
た。 Balzac は七月王政の< J
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u>を批判していたが,当時彰持
たる romantisme social には同調しなかった。特にその博愛主義的傾向
(philanthropie)
にはうさん臭ささをかぎつけていた。その正義の verve
に「腹話術的」冷淡さがあるのである。すでに< D
esArtistes> で見た
ように, Balzac
く complice
にとっては
e
tvictime>
I 芸術家」は, Barbéris
の表現を借りると
なのであった。博愛主義者にはそういう複眼が
欠けているのである。しかし Balzac の認識は結局 savant
のやにさが
りに留まりはしないか。行動には folie が必要なのではないか。 1833年の
<Th駮ried
el
ad釦mrche>
は fou
e
tsavant
の弁証法的な考えを述
べた論文であったが,それは Balzac 自身の苦悩の表現でもあった。「狂」
と「知」の対立はもはや「芸術家」
と「ェピ、ンエ」の対立ではない。「詩
人」と「学者」の対立と L 、うべきではあるまいか。あるし、は,熱狂と抑制
の弁証法というべきか。エピシエは?
である。
エピシエはそんなことには無関心
8
8
中堂恒朗
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