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Page 1 蝶が結ぶ縁 宇都宮市 中村 和夫 関東の一隅で虫を調べ、壇家

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Page 1 蝶が結ぶ縁 宇都宮市 中村 和夫 関東の一隅で虫を調べ、壇家
蝶 が 結 ぶ 縁
宇 都宮 市 中 村 和 央
関 東 の 一 隅 で 虫 を 調 べ 、 檀 家 で も な い私 で す が 、 西 蓮
才様 と 不 思 議 な ご 縁 を 持 つ こ と が 出 来 ま し た 。 今 か ら 十
九年 近 く 前 の こ と で す 。
地元 の栃木 県 で 初 めて見 つか った 小 さな 蝶 の故 事を
追 っ て いま し た 。 シ ル ビ ア シ ジ ミ と いう 蝶 の 名 が 、 ガ ン
学 者 ・ 中 原 和 郎 ︵わ ろ う ︶ 先 生 に 因 む と 知 り 。 先 生 の こ
と を 求 め て イ ン タ ーネ ッ ト を 探 索 し 、 た だ 一 つ 橋 津 藩 倉
HP内 に天野屋 の記事を見出しました。
二 〇 〇 二 年 十 一月 H P 所 管 の佐 々木 靖 彦 様 に ご 連 絡 し 、
西 蓮 寺 内 に中 原 先 生 の 関 連 資 料 が多 数 保 存 さ れ るこ と が
判りまし た。
中 原青年 は 一八九六年 橋 津 に生 ま れ、東 京 で育ち、
一 九 一五 年 米 国 ニ ュ ー ヨ ー ク 州 イ サ カ 市 のコ ー ネ ル 大 学
に 留 学 し ま し た。学 部 長 秘 書 ド ロ シ ー 嬢 と 結 ば れ
﹂九 一 九 年 娘 シ ル ビ ア を 授 か り ま す が 、 残 念 乍 ら 半 年 ほ
ど で 喪 いま す 。 昆 虫 学 者 で あ った 先 生 は 娘 の死 を 悼 ん で 、
学 名 に そ の 名 を 冠 し た 蝶 Zizera syl
vi
aを 記 載 し ま し た 。
﹂九 二 二 年 の こ と で す 。
や が て 夫 妻 は 一 九 二 五 年 日 本 に戻 り ま し た 。 ガン研 究
を 天 職 と し た 中 原 先 生 は 理 研 ・ 伝 研 、 や が て ガ ン研 で研
究 を 深 め ま し た 。 後 に は 新 設 の 国 立 ガン 研 ・初代 総長 と
し て 日 本 の ガ ン 研 究 を 指 導 す る 立場 に 立 ち ま し た。 橋 津
再 訪 の機 会 は な いまま 一九七 六年 他界しまし た。
二 〇 〇 三 年 秋 か ら 三 度 、 私 は西 蓮 寺 様 へ伺 いま し た 。
和 郎 先 生 の 父 上 ・ 中 原 孝 太 様 の﹁ 自 傅 ﹂及 び﹁ 中 原 家 史 ﹂
な ど の 貸 料 に 接 し ま し た 。 ま た 中 原 家 を 継 ぐ 姪 ・中 原
︵栗 原 ︶ 孝 子 様 の 話 を お 聴 き し 、 戸 籍 謄 本 も 拝 見 で き ま
し た 。 斯 く し て 従 来 の文 献 に は 現 れ な い多 く の 貴 重 な 諸
情 報 に 接 す る 幸 運 を 得 、﹁ 中 原 伝 ﹂ を 豊 か に で き ま し た 。
一 方 一 八 七 三 ︵明 治 六 ︶ 年 、 昆 虫 を 求 め 極 東 日 本 を 訪
れ た 英 国 青 年 ?口 にぷ ぽ 呂 氏 は 、 以 後 八 年 に 亘 る 在 日 中 、
東 日 本 ・北 海 道 の各 地 を 踏 破 し ま し た 。 全 て 徒 歩 の 旅 で
す 。 一八 七 七 ︵明 治 十 ︶ 年 に は 栃 木 県 さ く ら市 上 阿 久 津
で 初 め て こ の 蝶 を 採 取 し 、﹂
ycaena al
opeと 学 名 を 付 け
ま し た 。奥 州 街 道 を 北 上 す る 旅 の 途 次 、鬼 怒 川 を 越 す 渡
船 場 河 畔 で の出 会 いで し た 。
シ ル ビ ア シ ジ ミ は 鬼 怒 川 に 治 っ て 生 息 し て いま す 。 本
来 日 本 の 各 地 に 住 む 蝶 な の で す が 、 現 在 多 く の地 で は 絶
滅 危 惧 の 状 態 に 陥 って い ま す 。
そ の 理 由 は こ の 蝶 の 幼 虫 が、 河 川 砂 傑 地 に 特 有 の 植
物 ・ ミ ヤ コ グサ を 食 草 と し て 必 要 と す る た め で す 。 昨 今 、
I 仏 冲 九 く の人 神 川 で も 兄 つ か って いま す 。
め忖 今 入社⋮
よ 念 物 と し て 保 護 し 、 環 境 保 全 に 努 め て いま
力柚 物 ヤ 栃 物 の 棲 息 が脅 か さ れ て いま す 。 さ く ら巾 は こ
阿 川 今 に ド什 うよ 施 策 で 本 末 の 河 原 環 境 が 変 貌 し 、 囚 有
い ま す 。図 ら ず も こ の 蝶 が 遠 く 離 れ た 橋 津 と 阿 久 津 の両
の名 前 ︵和 名 ︶ に は 娘 に 因 む シ ル ビ ア が今 日 で も 活 き て
が 有 効 と な りsl
viaの 学 名 は 消 え ま し た 。 し か し 日 本 語
念 、同 種 で し た 。 同 じ 種 に付 いた 学 名 は 、 よ り 古 い名前
地 を結 びつけま し た。
こ の 度 の 西 蓮 寺 報 ・ 七 十 九 で 今 春 中 原 孝 子 様 が亡 く な
り 、 境 内 に あ る代 々 の 墓 所 に 葬 ら れ た と 知 り ま し た 。 ま
た 先 年 拝見 し た 広 壮 な天 野 屋 の 建 物 も 今 は 無 い、 と 伺 っ
て いま す 。 時 は 移 り 、人 や 物 は 何 時 か は 喪 わ れ ま す 。
二 〇 一 六 年 十 月 中 旬 、 思 わ ぬ 幸 運 に 恵 ま れ、 米 国
ニュ ー ヨ ーク州 近 郊を訪 れま し た。 事前 のネ ット調 査 で 、
シルビア嬢 が一 九一九 年 十月三 十日 生 一九二 〇 年 六月
十 八 日 没 で あ るこ と 、同 州 イ サ カ市 ﹂
ak
eview 墓 地 に 眠
るこ と 、を 知 り まし た 。
居所 から 長 駆 訪 れ た 広 いこ の墓 地 に管 理 人 の伝 手 も な
く 、 家 人 三 人 で 探 す こ と 小 一 時 間 、 断 念 寸 前 、[s Y L
v I A N A K A H A R A ] 銘 の 小 さ な 墓 標 ︵ 左 図 ︶ を
く の小 石 を 拾 いま し た 、
今 は 橋津 にあ る祖父 母 、父 母 の墓 前 に届 け よ う と 、近
さ な 美 し い蝶 の 名 と し て 生 き て い ま す 。
そり と 佇 んで いまし た 。 そ の 名 は 父 の 郷里 ・日 本で 、小
墓 標︵ 右 図 ︶の 傍 ら で 祖 父 母 達 に 添 わ れ 、 薄 倖 の 碑 は ひ っ
宛地 地 ・卜 阿 久 津 は 江 戸 時 代 か ら 、 関 東 ・ 東 北 の各 地
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二万へ で 、夭 折 し た愛 嬢 の名 を 与え た の で す が 残
T 輿 ご乱目年 か ら四 十 五 年 、 橋 津 出 身 の 中 原 先 生 が 名
愉地点と 。
りり意 味 で 、 両 地 は 類 似 性 を 持 ち ま す 。
部を持ら 、広く 各地と の人 ・物 資 の結 び つき を 果 たす 重
て 。啜 衝 の 地 で し た 。 橋 津 と 同 様 、 水 路 と 陸 路双 方 に 開 口
見 出 し ま し た 。 母 方 の 姓 ︻w A T E R M A N ︼ 家 の 大 型
(撮影: 松田 喬氏)
と 汪 バ を 鬼 怒 川 水 運 で 結 ぶ河 岸 ︵ 諸 産 物 の 集 積 場 ︶ と し
ミヤコグサ花上のシルビアシジミ
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小 型 碑 はSylvia嬢
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た 長 い年 月 を 生 き 続 け る で し ょ う 。 イ ン タ ー ネ ッ ト が 各
種 の結 びつきを強 め得 る時代 を迎え 、そ の助け も 借り つ
つ 、 人 と 人 と の 縁 は 人 が 結 び つ け る も の と 思 いま す 。
[2016 X 26]
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大 型 碑 は Waterman家
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時 空 を 隔 て て 起 こ った 出 来 事 も 正 し く 結 び つ け ば 、 ま
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