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見る/開く - 弘前大学学術情報リポジトリ

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見る/開く - 弘前大学学術情報リポジトリ
Hirosaki University Repository for Academic Resources
Title
港市の諸相
Author(s)
安野, 眞幸
Citation
Issue Date
URL
弘前大学教育学部教科教育研究紀要. 27, 1998, p.111
1998-03-31
http://hdl.handle.net/10129/2144
Rights
Text version
publisher
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
弘 前大学教育学部教科教育研究紀要
第2
7号 (
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港市の諸相
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8.1.
1
9受理)
要 旨 :高谷好一 は 「
汀線 はコスモポ リタン的世界で,内陸 とは全 く異質なコ ミュニ タス的世界
である」 と述べている。 しか し桜井 由窮雄の批判す るように, この 「
汀線」 は 「
港市」 に置 き
換 えるべ きであろ う。 こうして出来た言葉 を導 きの星 として, この論考 は進め られた。赤道 ア
フリカのカメルー ンやスワヒリ世界は ピジンや クレオールの世界である。 これに対 して,同 じ
赤道直下の東南 アジア海域世界は,商業語であるマ レー語の世界で,川喜 田二郎の云 う 「
重層
化」の社会である。 この違いは,それぞれの地域 の港市成立の事情 と密接 な関わ りを持 ち,東
南 アジアの港市 には外来民 に対す る原地民の強い主体性が認め られるのである。 また藤本強の
≪ポカシ≫の地帯」 とは,海上交易路の結節点で港市の存在す る海域世界である とした。
云う 「
キーワー ド :港市、コスモポ リタン、コ ミュニ タス、ピジン、クレオール、
重層化、ポカシの地帯
第 1章
高谷好一氏の議論
長い こと京都大学の東南 アジア研究セ ンターに居 られた高谷好一氏 は,世界認識のための新
たな地図を提示すべ く,「
新生態史観」 と題 して,「
世界単位」 とい う考 え方 を明 らかにされた。
氏の著述の中には 「
港市」 についての注 目すべ き記述が幾つ も含 まれている。 しか し,世界単
位の一つのあ り方 として 「
海域世界」 を想定 し,その中で港市 を論 じている関係上,私が大事
だ と思 う部分だけを,全体の コンテキス トか ら切 り離 して取 り上げることは出来 ない と思 われ
るので,先ず最初 に氏の 「
海域世界論」 を批判的に紹介 し,その後 に,港市 についての注 目す
べ き記述の部分の紹介 に入 りたい。
高谷氏の 「
海域世界論」 は,先ず最初,氏の フィール ドとしている 「
海域東南 アジア世界」
論 として展開 された。東南 アジアが熱帯の島々であることか ら, ここを 「
熱帯多雨林多島海」
と名付 け,その特徴 を,① 「
多雨林」 は,人を寄せつけない 「
各種の病原菌 に満 ちみちた療病
の地 ・緑の魔境」 とす る一方,② 「島々の汀線」のマ ングローブの林 にはエ ビが多 く, また幹
に大量のでん粉 を蓄積す るサ ゴヤ シ も良 く育つので,「
汀線」 は 「
健康 と食料 に恵 まれ」 た別
世界である とした。他方,③ 「
多雨林」 は香木 を初め とす る宝の山で もあることか ら,冒険者
を引 き付 けては殺 した 「
誘蛾灯」 とした。
* 弘前大学教育学部社 会科教室
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ここか ら氏 は議論 を 「
積み出 し港」- と進め,「
港市国家 シアク」の説明に入 って行 く。 「
誘
蛾灯」か ら 「
積 み出 し港」への議論 の進め方 には,「
生態史観」 として大 きな論理 の飛躍 はな
い。確 か に② か らは,「島々の汀線」 はアウ トリッガーや丸木船 を操 るオランラウ トな どの港
洋民の世界で,「
積み出 し港」 に も彼 らの存在 を確 かめ ることは出来 るはずである。 氏の論理
をた どる と,食料 と健康 に恵 まれた 「島々の汀線」- 「
誘蛾灯」- 「
積 み出 し港」-港 を繋 ぐ
「ネ ッ トワーク」- 「
海域世 界」-その中心 としての 「
港市 」, となるようで,港市 を海域世
界の代表者 として捉 えている。
ところで,1
8世紀後半 にスマ トラ島最強の王国であった 「
港市国家 シアク」 は,ア レキサ ン
ダーの子孫で白い血 を持つ と云 う高貴 な血筋 を誇 る外来王 と,海洋民の末商 らしい海軍大 臣 と,
現地人の首長の三者が森林物産輸出事業の共同経営者 として結合 した もの と説明 される。 外来
王 と云い,海軍大 臣 と云い,彼 らは 「
誘蛾灯」 に引 き付 け られた 「
海域世界」の人々であろう。
しか し 「
港市国家 シアク」 は, これ ら海洋民 だけで成立 した ものではな く,人口の多数 を占め
るのはシアク川の上流 に王 国を持つ山地民の ミナ ンカバ ウであ り,「
港市国家 シアク」 は海洋
民 と山地民の結合 によっているのである。
さらに 「
積み出 し港 」「
集積港」 と 「
港市 -e
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um」 との間には 「中継 ぎ港」の ような中
間項 を入 れることもで き,「
港市国家 シアク」の説明 をもってただちに 「
積 み出 し港」の説明
に代 えることは出来 ない し,「
積 み出 し港」か ら 「
港市 国家」- とす るには論理の飛躍がある
汀線 には大昔か らコスモポ リタン的な世界が広がってお り,
と思われる。 ところが高谷氏 は 「
汀線 は内陸 とは断絶 し,内陸 とは全 く異質な世界であった」 として, こうして出来た 「
海域世
界」論 をイン ド洋世界 に も, さらには地中海世界 にも, 日本 を含 む東 アジア世界 にも当てはめ
てい くのである。
高谷氏の この議論 は, ブローデルの 『
地中海』 の議論 とも呼応 してお り,今多 くの人々の賛
同を集めている と思われる。 しか し高谷氏の議論 に対 して,同 じく東南 アジア研究セ ンターで
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um)が正 しく捉 え ら
かつて氏 と同僚 であった桜井 由窮雄氏 か ら,氏 の議論で は港市 (
れない との批判が寄せ られている。 それゆえ次 に桜井氏の議論 を紹介 しよう。 桜井氏 もまた生
態学的な見地 に立 ちなが らも,高谷氏 の ように東南 アジアの海 を 「
海域東南 アジア世界」 とし
て一元的に捉 えるのではな く,東南 アジアの海 と陸 を幾つ もの地域 に区分することを通 じて,
その歴史的な世界 を措 こうとす る。
桜井氏 は先ず最初, この東南 アジアの海 を 「
ベ ンガル湾海区」, 「イン ドネシア海海区」, 「
南
シナ海海区」 と大 きく三分 した後,問題 となるイ ン ドネシア海海区をさらに,ムラユ人の海で
ある 「マ ラッカ海峡」, ジャワ人の海である 「ジャワ海」, ブギス人の海である 「
マカ ッサル海
東 イ ン ドネシア」, 「タ
峡 ・ス ラウエ シ海 ・ス-ルー海」, さらにマ レー人の世界か ら離 れた 「
イ湾」の五つの亜海区に細分す る。 その理由は,東南 アジアその ものをイン ドと中国 とい う二
大 「
文明」世界の交 り,ベ ンガル湾 -マ ラッカ海峡一南 シナ海 とい う巨大 な海路 を中心 とした
国際的な交易 の場 と捉 えているか らである。
この国際貿易路線 を中軸 とし, これに上述 した四つの亜海 区が支線 として繋が り,複雑 な国
際貿易網 -ネ ッ トワーク ・システムを作 り出す。それゆえ東南 アジアの諸地域 は,中軸海路 と
それに繋が る支線海路か らなる 「中心域」 と,河筋 を通 じてこの海路-接近す る 「
周辺域」 を
持 ち,河筋 はそれぞれ大河 に沿 った 「
亜 中心域」 と,支流 を通 じてこの大河 に接近す る 「
亜周
辺部」 をもつ
。
さらにこのシステムは末端で細分化 される, と定式化 され,港市 は, この中心
港市 の諸 相
3
域 に出来 る もの と定義 される。 「
誘蛾灯」 か ら 「
積み出 し港」-ではな く,本来港市 には国際
的な交易路が前提 とされていると云 うのである。
それゆえ高谷氏の港市 についての捉 え方 についての批判が許 されるとすれば,港市 をネ ッ ト
ワークの中心 をなす港 として 「
海域世界論」の中に解消するのではな く,先ず最初 に国際交易
の存在 を捉 えるべ きであ り,港市の構成員 は海洋民のみではな く,山地民 ・内陸民 も視野 に入
れるべ きであるとなろう。 ところで,高谷氏の議論 に対する批判 はここまでに して, ここで改
めて氏の港市 についての議論 を紹介 したい。それは, Ⅰ・農村が 「
内世界」であるのに対 して,
-祝祭空間)
港市 は 「
外文明」の洪水で,国際的 ・混住的な世界であ り, Ⅱ ・コミュニ タス (
的な世界であるとしていることである。
Ⅰの 「国際的 ・混住的な世界」 とは 「
港市国家 シアク」の実例か らも確 かめることが出来 る
し,石井米雄氏の明 らかにされた 「
港市 アユ タヤ」の事例 をこれに付 け加 えることもで きる。
外来の海洋民たちが,集団毎 に居留地区を形成 していることにその特徴 を見出す ことが出来 よ
東方諸国記』 によると,マラッカでは八〇余の外国語が飛 び交っていた と
う。 トメ ・ピレス 『
い う。 ところで氏 はこの 「国際的 ・混住 的な世 界」 の こ とを,別 な本 では,港 の人口構成が
「
外来的で混交的」であると言い換 え, また,東南 アジアの港が出来るプロセスを次の ように
概念化 して説明 している。
「は じめ河 口に,首長 に率い られた現地の人達の小 さな集落があった。そ こに外部か ら商人
がやって きて,首長に森林物産積み出 し事業 を共同でや らないか, と持 ちかける。 首長が配下
の住民 を用いて森か ら搬出 して くれるな ら, 自分は販路 を持 っているか ら,それ を積み出そ う,
儲 けは折半 とい う。 この話 しが まとまると,たちまち積出 し港が開かれる。 港が開かれるとバ
ザールが作 られ,モスクが建 て られる。護衛 のための水軍基地 も作 られる。 バザールの商人 も
モスクの聖職者 も水兵 もすべ て他国者である。 新 しく出来た港 はこうして,元の集落 と全 く異
なった人口構成の ものになってい く。
」
Ⅱの コ ミュニ タス (
-祝祭空間) 的な世界 について も次 の ように述べ ている。 「
港文化の中
には船乗 り気質に代表 される気風 の よさがある。 悲 しみ も憎 しみ もお祭 り騒 ぎの中に吹 き飛 ば
し,危険 を物 ともせず外 に飛 び出 し,新 しい もの をいち早 く吸収 して来 る。 こうい う性格 はウ
港が 《国際的 ・混住的な世界≫ であ
エ ッ トで伝統蓄積 的な内陸の人達の性格 とは全 く違 う。」 「
ることか ら,互いに見知 らぬ人に取 り巻かれている世界 となる。 しか し自分 とは全 く違 った文
化的背景 を持 った人達 と交渉 を しなければな らない ことか ら,市 日に見 られるお祭 り騒 ぎ的な
状況がむ しろ 日常である世界 となる。
」
世界 と云 うもの を岩石 の構造 になぞ らえて,己 自身の
また次の ように も言い換 えている。 「
結晶形 をきっち りと持 っている 《自形≫ と, 自形結晶の間を埋める充填部 となる 《
他形≫ と云
う,全 く異質な二つの部分か ら出来ている と仮定する と,汀線社会 はまさにこの ≪
他形≫ の社
会であ り,《
多様 な文化的背景 を持 った人たちがお互いの 自己主張 を止めて共存 している≫社
会である。
」
次 に Ⅰの 「国際的 ・混住的な世界」が言葉 に与 える影響 について考 えてみたい。
第 2章
「ピジンとク レオール」
林正寛氏 は 『
移動 と交流』 の中で 「ピジンとクレオール」 を論 じている。 氏 は先ず最初,互
いに母語 を異 にす る人が顔 を合わせ る とどうなるか, と云 う間 を立てて,次の三つのあ り方 を
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野
貴
幸
想定 している。 ①沈黙 を通す。② ことばを口にせず,身振 り手振 りで用 を足す。③ ピジンを用
いる。 ここで云 うピジンとは複数言語の言語接触の結果で きる もので,その特徴 としては,イ
不規則動詞の消滅 ・名詞の単複同形化 ・格変化や助詞の省略 などの 「
主導言語の単純化 ・簡略
化」,口 「
発音面では従言語の型の残留」,ハ 「
主要単語 ・文法 は主導言語か ら」 などを挙 げる
ことが出来 よう。
中で もピジンをよく耳 にす るのは,家族や部族社会 などの ような伝統的な閉 じられた世界で
はな く,多 くの人々 と接触 を持つ ことので きる公の世界である。 二つ以上の言語が実際 に接触
を持つ開かれた世界 とは, よ り具体的に述べれば,マーケ ッ トであ り,バスの停留場や貨物 自
橋渡 しの言葉 ・
動車 の溜 り場,飲 み屋,売春宿 な どだ と林氏 は云 う。 つ ま り, ピジンとは 「
オーラルな言葉」 なのであ り,結論 を云えば,高谷氏が Ⅰで云われるように港市が 「国際的 ・
混住的な世界」で,その人口構成が 「
外来的で混交的」である とすれば,港市 とは 「ピジンの
語 られる ところ」 となろう。
事実,林氏 は Chal
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manの研究 を引用 して, ヨーロ ッパ による植民地化 をこうむる以前
に, ヨーロ ッパ と大規模 な交易のあった地域 に しか ピジンは生 まれない として,カメルー ンで
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hが先ず最初 に登場 したのは,交易 のため様々な地域 か らやって きた人々によっ
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て形成 された,交易都市 -港市のneo-Af
葉の通 じ合わない人たちが,互いの意志疎通のために採用 したのが,当時 ヨーロッパ人の下で
召使や妾 にな り,人々の憧れの対象 となっていた成功 したアフリカ人の言葉-英語の変種 -ど
ジンだ と云 うのである。
氏 は正統 な言葉か らは 「
妾の子 ・合いの子の語 」 「インチキ語」 な どの悪 口が浴 びせ られて
いるピジンとクレオールを次の ように定義 している。 「
新たに生 じた橋渡 しの必要 に迫 られて,
手近の言葉の一つ を叩 き台 に して,それに手 を加 え,その新 たな社会の伝達手段 として,橋渡
しの役割 を担 わせ るようになったのが ピジンであ り,単 なる橋渡 しの域 を越 え,その社会のか
けがえのない表現手段 として,その母語 となった ものが クレオールである。
」前述 した 《自形≫
と ≪
他形≫ の喰 えを借 りて云 えば,母語 は己 自身の結晶形 をきっち りと持 った 《自形≫ だが,
ピジンは各結晶間を埋める充填部の 《
他形≫ となろう。
朝鮮戟争後のプサ ンで韓国語 ・英語 ・日本語の接触 によって生 まれたバ ンプ一 ・イングリッ
シュな どの ように,立 ち消 えになった ピジ.
ンは数知れずある と云 う。言葉 とは必要がな くなれ
ば死ぬ ものであるか らである。 一方,母語の方は人々のアイデ ンテ ィテ ィにかかわ り,人々が
生 きて行 く限 りな くなることはない。それゆえ, ピジンを語 る人は同時 に母語 を持 っているは
ずだ となろう。 ところが, カリブ世界に連れて来 られた黒人奴隷 たちの ように母語 を奪われた
人たちもいるのである。彼 らは互いの コ ミュニケー ションのために,橋渡 しの言葉 をかけが え
のない表現手段 -クレオール としたのである。
ギニア湾 に面 した赤道 アフリカのカメルー ンとは正反対の東 アフリカのスワヒリ社会の共通
語であるスワヒリ語 もまた, アラビア語 とバ ン トウ-諸語 との混交 によるクレオールであると
いう。 ここで家島彦-氏の研究 によ りスワヒリ社会の形成史 をた どって見たい。 ソマ リア半島
のガルダフ イ岬か らジュバ川の河 口付近 までは砂漠が海 まで広が り,海岸線 は直線 だが,それ
以南のケニア ・タンザニアの海岸線 は複雑で,大陸に接 して小島が多 く分布す るようになる。
ここでは外洋 に面 した海岸線 には珊瑚礁が発達 しているが,大陸 と島 との間にはマ ングローブ
の森が発達 している。
港市の諸相
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東南 アジアの熱帯多雨林 における 「
緑 の魔境」 と 「
汀線」 の関係が, ここで は 「
大 陸」 と
「
健康 に恵 まれた小 島」 の関係 になる。 一方,ペルシャ湾沿岸や南 アラ ビア半島 とこの世 界 と
はモ ンスー ンを利用す る海路 (
南北軸 ネ ッ トワー ク)で結 ばれていた。 そ こで アラ ビアやペ ル
シャの商人たちはこの 「
小 島」 にや って きては,二週 間か ら七 カ月のあいだ滞在 した。 この外
来商人のために現地の商人たちが 「
小 島」 とその対岸 に集 まる と,彼 らは 「島」 に宿屋や倉庫
を作 り仲介業 を営 んだ。 また対岸の世界 と大陸の奥地 とは長距離のキャラバ ン ・ルー トで結 ば
れ,象牙や金が集め られた。
この 「島」 と 「
対岸」 の世界 に,先ず ピジンとしてのス ワヒリ語が成立 し, クレオール化た。
その後ス ワヒリ語 は共通語 としてキャラバ ン ・ルー トを通 じて奥地 に広が り,現在 ではケニア,
タンザニア, ウガンダのほぼ全域, ルワンダ, ブル ンジ,ザ イール東部では各部族語 と共 に広
く話 されてお り,話 し手の人口は二千万人 を越 え, ブラ ック ・アフリカでは重要 な言語の一つ
とい う。スワ ヒリ社会 は,人種 的 にはアフロ .アジア混血民で,社会 ・文化面では多部族共生
社会で,都市的な生活 を送 り, イス ラム教 を信奉 し,交易活動が盛 んで, スワヒリ語 を共通言
語 とす るな ど共通す る要素 を持つ と云 う。
ところで,私 の手近 にあ る 『
新英和 中辞典』 (
研究社) の "
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の項 には 「
英語
に中国語 ・ポル トガル語 ・マ ライ語 な どを混合 した中国の通商英語 ;中国人が外 国人 と取引す
るの に用 い られた」 との説明が あ り, また 「pi
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sの な ま り」 ともあ る。 ピジ
ンが 「
通商」 や 「
取 引」や "
bus
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s
s
" と本来密接 に関わっていた点 は しっか りと押 さえてお
くべ きだ と思 う。 なぜ な ら,互い に母語 を異 にす る異人同士が顔 を合 わせ た場合,一番起 りう
るのは,① の 「
沈黙」 とも関係す るが,相手 に対す る 「
忌避」や 「
敵対」 で,次 にまれに見 ら
れるのが 「
異人歓待」 だか らである。
つ ま り, 「
通商」「
取 引」"
bus
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" と云 う 「会話 の意志 を持 った人々」 が港市 で出合 うか
外 国人同士がある言語 を
らこそ, ピジ ンが語 られるのである。 しか しなが らピジンに対す る 「
混成語」 と云 う説明 には, この ピジ ンの対極 には,
簡略 に して意志疎通 に用 い る補助言語 」 「
正統 な言語 ・純粋 な言語 としての "
Ki
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h" な どの存在が前提 とされているのである。
ここか ら,植民地時代 に入 る とむ しろ正統 な言葉 の強制が行 われ, ピジ ンは抑圧 された との出
来事が説明 され よう。 これ と同 じことはアラビア人の政治支配 とスワヒリ語 との間に も成 り立
つ ようである。
一般的 に云 えば,言語接触 の際 に主導言語の地位 を獲得 したのは,その言葉 を語 る人々が高
い文化 を持 つ とか とい う社会 的 な強者 として,人々の憧 れの対象 となっていたか らで, クレ
オールが生 まれ るのは文明社会 と未 開社会 との接 点である場合が多い と思 われ る。 (
この点 に
ついては次章で改めて考 えたい。
)一方,主導言語 を語 る人々か らなる ≪自形≫社会の側では,
当然 自己のアイデ ンテ ィテ ィやオー ソリテ ィー を重視 す ることか ら,《
他形≫社会である港市
を 「
粗製 ・まがい もの ・雑然 さ」 な どの性格 を持 つ もの として悪 口の対象 とし, ここを 「
文化
果つ る ところ」 と見倣す ことになろ う。
この ことは港市長崎や 日本のキ リシタンの文化 を考 え直す上で,大変示唆的である。 なぜ な
ら, 日本 における信仰が, ローマカ トリックの正統 的なあ り方か らみる と大変外 れてい ること
が,天草四郎 に率い られた島原の乱 について も, また隠れキ リシタンの信仰 について も語 られ
ているか らである。
6
安
第 3章
野
英
幸
「
外文明 と内世界」 または 「
重層化」
「
外文明 と内世界」 と云 う言葉は,矢野暢氏 をは じめ とす る京都大学の東南 アジア研究セ ン
ターの人々が,東南 アジアを一つの世界 として理解するためのキーワー ドとして考 え出 された
ものである。 農村が 自給 自足 的な 「内世界」であるのに対 して,国際交易 と密接 な関係 にある
都市, とくに港市は 「
外文明」の洪水 である。東南 アジア世界には古 くはイン ド文明の仏教や
ヒンズー教が,次いでイスラム文明 ・中国文明が及 び,最近ではヨーロッパ文明の強い影響下
文明」 は常 に外 か ら
にあるが,「内世 界」 としてはあ ま り大 きな変動 もな く存続 している。 「
やって来 るが,「内世界」 は昔の ままと云 う捉 え方である。
一方の 「
重層化」 は川喜 田二郎氏が 『
素朴 と文明』 で展開 された議論である。 黄河文明, イ
ンダス文明,エ ジプ ト文明, メソポ タミア文明など,いわゆる四大文明の歴史 をた どって行 く
と, (
エ ジプ トは どうや ら例外 らしいのだが)世界帝国に至 る前提 として, どこで もほぼ共通
亜文明」 と名付 け, ローマ帝国や
して都市国家の時代 にたどり着 く。 この都市 国家の時代 を 「
秦 ・漠帝国,ペルシャ帝国やマウルヤ王朝 な どの世界帝国の時代 を 「
文明」 と再定義 し,文明
以前 の未 開社会 を価値 的 にニュー トラルな 「
素朴」 と名付 ける と,人類 の歴史 は 「
素朴」「
亜文明」- 「
文明」 となる と云 う。
この三段階に対 して, もう一つ別の コースがある,それが 「
素朴」- 「
重層化」- 「
文明」
重層化」 について,氏 は次の ように説明 し
であると云 うのが,川喜 田氏の主張である。 この 「
--多 くの素朴文化 はこの文明に解
てい る。「
文明は周辺の素朴文化 に絶大 な衝撃 を与 える。 ・
体 ・吸収 されて しまう。
」 しか し 「なか には, このインパ ク トを主体的に受 け止め,みずか ら
の文化的伝統の 自己同一性 を失わないで, しか もその外来文明 を吸収 同化 し,両文化 を折衷 ・
融合 して,文化の新 たな有機性 を再編す るのに成功するものが現 われる。 -- これこそが重層
文化」である。
川喜 田氏の云 う前半部分 「
素朴文化 は文明に解体 ・吸収 される」の考 え方は,20世紀最大の
文明」 とは全世界 に貢献 しうる
歴史家 と云 われた A. トインビーの文明の見方 とも共通 し,「
普遍的な精神文化,つ ま り 「
世界宗教」 を持つ もの との前提 に立 っている。 それゆえ例 えば 日
本 は,白村江の戟い以後 「
重層化」社会 とな り,江戸時代 になって 「
文明」への道 を歩んだが,
精神文化革命 を流産 させ,「
文明」 に達す ることに失敗 した となる。 この ような見方か らすれ
ば,東南 アジア世界 もまた 「
文明」 は外か ら次 々 とやって来るが,みずか らは普遍的な精神文
化 を形成することのない 「
素朴」の ま ゝの世界 となろう。
ここか ら東南 アジア世界はいずれ外 の文明によって 「
解体 ・吸収 される」べ きもので,それ
自身に特別の意味 を持 たない もの となろう。 東南 アジア研究セ ンターの共通理解 は, この よう
な見方 に対す る不満 ・反発か ら,東南 アジアの地域研究 を 「
外側」か らではな く 「内側」の視
点 に立 って出発 させ ることであった と思われる。 それゆえ東南 アジア世界の独 自の意義 を,中
国文明 ・イン ド文明 ・イスラム文明 ・ヨーロッパ文明等々の ようにみずか ら普遍的精神文化 を
作 りだ したか否か,ではない もっと別 なところに見出そ うとしたのである。 そ こで考 え出 され
たコンセプ トが 「
外文明 と内世界」 なのである。
それゆえ,普遍的な精神文化の面では独 自性 を持 たないが,なん らかの点で独 自な意義 を持
文明」観 に
つ と云 う東南 アジア世界像 は, 日本文明の似姿で もある。 ともあれ トインビーの 「
南」の世界の
は西欧文明の世界支配 とい う20世紀的前半 までの世界状況が影 を落 してお り,「
植民地か らの独立, とくにアセアン諸国の経済発展や これ らの地域 における市民社会の形成,
港市の諸相
7
西欧中心主義的な世界史認識の訂正等々はここ最近の出来事 なのであろう。 しか しなが ら, ト
インビーや川喜田氏の見地に立てば,前章で述べ たクレオールなどは 「
文明に解体 ・吸収 され
た」素朴文化の姿 となるのではあるまいか。
カメルーンの場合 もスワヒリ社会の場合 も,西欧文明やイスラム文明に接触 したのが共にバ
ン トウ一系部族社会 とい う共通性がある。 もちろん,クレオールと云 う捉 え方 自身に,一旦 は
「
解体 ・吸収 された」旧社会の混血児の子孫たちの新 たな社会形成 ・新 しい自己主張 と云 う側
面があ り,一旦は 「
解体 ・吸収 された」 と見えた として も,人々はなお活 き続けてお り,やが
ては歴史の主体へ と成長 して行 くダイナ ミズムは本来否定出来 ないのである。それゆえクレ
オール社会 もまた,「
素朴」か ら 「
文明」 に至 る 3段 階 2コース制か らは外れているが, もう
一つ別の 「
文明」への道 と云 う主張が理原的には可能 となろう。
一方,家島氏 も述べているように 「イン ド西南海岸のマラバール地方や東南 アジアのマライ
世界では,東アフリカの海岸地域 とほぼ同 じような地理的 ・文化的特質をもち,同 じような歴
史過程 をたどって きた」 にもかかわらず,「
東 アフリカ地域 にだけスワヒリ文化 ・社会圏 とし
ての独 自な形成 と展開が見 られた」のである。逆に云えば,マ レー語 を共通語 とするマライ世
界では,人々はイスラム教 に改宗 し,マ レー語 をアラビア文字で表現することはあって も, ア
ラビア語 を基 に したクレオール化は起 らず,マ レー語の世界 として存続 したのである。 これは
もともとマ レー語が商業語だったか らであろうか。
ともあれ,東南 アジアの中で もマライ世界は 「
みずか らの文化的伝統の自己同一性 を失わな
いで, しか もその外来文明を吸収同化 し,両文化 を折衷 ・融合 して,文化の新 たな有機性 を再
編するのに成功」 した 「
重層化」の社会の一つ と考 えることがで きよう。 家島氏が概念化 した
スワヒリ社会での港市の出来方 と高谷氏の概念化 した東南 アジアのそれ とを比較 した場合,両
者の間の大 きな違いには 「
首長」の登場の有無がある。今後の事例研究の深化 に侯たなければ
ならないのだが, ここに現地人の主体性の強弱が現われてお り,それが 「
重層化」 につながっ
ていると考えることが許 され よう。
次 に川喜 田氏 の考 えた 「
重層化」 を紹介 したい。「
素朴」社 会 とは f
a
c
et
of
a
c
eの 「
/
」
、
集
団」の社会で,「
文明」社会 とはこの小集団を無数に統合 した大組織である。「
文明」社会の維
持 のため には 「システム」 「
小集団」 「
個 人」 の三 レベルの問題がある。 「
亜文明」 の時代 に
「システム」にかかわる技術革命 ・産業革命 ・社会革命か らなる文化大革命が成立 し,この文
化大革命の最後には 「
個人の魂」の問題 を解決すべ く精神文化革命 も起 ると云 う。 一方 「
重層
化」 とは 「
素朴」のままの 「
小集団」が隣接する 「
文明」社会か ら 「システム」 と 「
個人」の
レベルの文化だけを吸収 ・同化,折衷 ・融合 して形成 されると云 う。
川喜 田氏 は 「
重層化」の概念 を, ヒマ ラヤの奥地 ネパールの ヒマ ラヤ ンの社会 についての
フィール ド調査か ら導 き出 し,「
重層化」の見 られる世界をヒマラヤンの世界 と日本 としたが,
の 「
重層
マライ世界 もまたこれに加えてよいであろう。 ところで 日本理解 に非常 に示唆的なこ.
化」の概念が当てはまるのはどの くらいの範囲なのか,この概念の有効性 をここで考 えてお き
たい。結論か ら先 に述べれば,川喜田氏の云 う通 り 「
素朴」か ら 「
文明」への道が人類史にお
いて二 コース しかない とすれば, 日本の 「
重層化」の道はかな り一般的 となるわけだが,果た
してそ うか, と云 うことである。
柄谷行人氏が 「日本精神分析再考」の中で次の ように述べていることは,川喜田氏のこの考
えを明確 に否定す るものである。 「どの地域で も,キ リス ト教 ・イス ラム教 ・仏教 といった
8
安
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真
幸
≪
世界宗教≫ に ≪
去勢≫ されることによって ≪自己≫が形成 される。 その ような地域で,外来
的な世界宗教 を自己にとって外来的であると考えることがあ りえないのは, 自己その ものがそ
れによって形成 されたか らである。
」一方 日本 においては 「
仏教 による去勢 を排 除 したがゆえ
に,≪自己≫ が形成 されなかった。それは仏教がただちにいか なる抵抗 もな く ≪
根づいた≫ こ
とと矛盾 しない。何 もか も受 け入れることは,・
--ある種の排除の形態 なのである。
」
川喜 田氏の場合, 日本 と中国の直接的な比較か ら 「
亜文明」 と 「
重層化」の議論 を組み立て
ているのだが,柄谷氏 は 日本 ・朝鮮 ・中国 とい う地政的な関係か ら比較 はなされなければなら
ない と主張 している。 既 に古代史家が明 らかに したように, 日本の古代国家 は 「みずか らの文
化的伝統の 自己同一性」 は失 うことな く,中国律令法 を採 り入れて 日本の法 としたのだが, こ
れは日本が中国を中心 とした冊封体制の外 に立 っていたか らで,逆 に新羅 は冊封体制 に入 って
いた関係上,中国王朝の間接的な支配 を受け,律令法の制定 は出来なかった と云 う。
日本 においては儒教 はむ しろ 「
儒学」の ように学問 としては受容 されて も,中国的な 「
礼」
の秩序の面ではあ らか じめ排除 されていた。 しか し朝鮮社会においては,同姓不始や 「
族譜」
の作成の ように中国的な 「
礼」の秩序は強 く及 び,中国文明が強 く及ぶ ことによって 「みずか
らの文化的伝統の 自己同一性」 は失われていったのである。 柄谷氏 はラカンの言葉 を借 りて朝
思想の雑居性 ・正
鮮社会 は ≪
去勢≫ された としている。 日本の特徴が丸山真男が云 うように 「
統思想 の欠如」 にある とすれば,朝鮮 にはむ しろ中国 よ りさらに中国的 な 「
思想 の リゴリズ
ム」があるとして朱子学 をその例 に挙 げている。
柄谷氏の明 らかに した 日本 と朝鮮 の対比の中で, 日本の 「
重層化」 を考 え直す と,「
重層化」
とは 「 ≪
去勢》の排 除」 となろ う。 柄谷氏 は この去勢 の排 除が 日本 のエ クリチュール (
書記
法) と密接 な関係がある として文字文化の話 しに入 ってい く。 日本 ・朝鮮 の両国はどちらも中
国の漢字 ・漢文の強い影響下 に文字文化 を作 りだ したのだが,朝鮮 においては,「
訓読み」の
試みは 日本 よ り早 く始 まった らしいのだが定着せず,ハ ングルが考案 された時点で,漢字 は一
昔のみで読 まれるようになった。 さらに最近 に至 り南北朝鮮共 に漢字 を廃止 してハ ングルのみ
のエ クリチ ュール となった。
これに対 して 日本 は,漢字の 「
真名」 と 「
平仮名 ・片仮名」の合 わせて三種 の文字が早い時
期 に作 り出された。「
真名」の発音 には 「
音読み」 と 「
訓読み」の二種類があ り,「
音読み」は
呉音」であるように,輸入 された文
さらに 「
呉音」 と 「
漢音」の二種類がある。 仏教関係が 「
化 と音が対応 しているのである。 朝鮮 では 「
-音読み」のみであるのに対 して, 日本では 「
訓
読み」 と 「多音読み」の併用であ り,「
音読み」 される漢字 はヤマ ト言葉ではない外来語で,
パ ソコン」の ようにカタカナ
本来外来的で抽象的な もの とされる。 また最近の 「テ レビ」や 「
で表記 された ものは, ピジン化 された外来語で,それ自身外来性が保存 される。
つ ま り漢字や カタカナで表記 された ものは,内面化 され,内的な核心 に及ぶ こともな く,そ
れゆえそれに対する闘い もな く,脇 に片づけ られなが ら,ただ雑居 していると云 う形で受 け入
れ られるのである。 だか ら外来的な ものは何であれ, 自らのアイデ ンテ ィテ ィに関わる母語か
らは排除 された上で,何の抵抗 もな しに受 け入れ られることになるのである。 この ような 日本
のエ クリチュールのあ り方が丸山真男の云 う 「日本 においてはすべ ての外来思想が受容 され,
空間的に雑居す る。 そこには原理的な対決が ないため,発展 も蓄積 もない」 とい うことを生み
出 した と柄谷氏 は云 うのである。
ところで,高谷氏が Ⅱで云 うように港市が コ ミニユタス的な空間で,そ こでは 「
外来の文明
港市の諸相
9
や思想 ・宗教 などの自己主張は抑 えられ,他 と共存することが強い られていた」 とす ると, こ
のことと,港市国家 シアクやアユ タヤの外国人居留区において,外国人は国王 によって小集団
ごとに保護 され, 自由に雑居 していたこととは同 じ原理 によっていると考 えられ よう。 さらに
これは柄谷氏の云 う 「
去勢の排除」 と関わ りがあるのではあるまいか。東南 アジア世界 には仏
教や ヒンズー教,イスラム教 などの外文明が次々にやって きて も,土着の呪術信仰が存続 して
いるとい うことは, 日本 と同 じ 「
去勢の排除」 を示 している。
以上の考察か ら,川喜田氏の云 う 「
重層化」 された 日本や丸山氏の云 う 「日本の思想」の特
徴は高谷氏が Ⅱで云 う港市の特徴である 「コ ミニユタス的な空間」 に基づ く 「
去勢の排除」 に
よっている とな り,港市原理が 日本 を作 り上 げた と云 うことになるのであろうか。稿 を改めて
論ず ることになるが, この 「
去勢の排 除」 という問題 と、ザ ビエルを始め とするイユズス全土
たちが,初めて 日本人 と接 した際 「日本人は理解力があ り, よく道理 に従 う民族だ」 としたこ
ととの間には密接 な関係があろう。
第 4章
藤本強氏の 「
ポカシの地帯」 について
考古学の藤本強氏 は 『もう二つの 日本文化』の中で, 日本列島の文化 を本州 ・四国 ・九州の
「中の文化」の他,北海道の 「北の文化」 と南島の 「
南の文化」の三つに区分で きるとして,
「
縄文文化」が この三者 に共通す ることを指摘 した後,「
北」では 「
続縄文文化」- 「
擦文文
南」では 「
貝塚時代後期文化」- 「グスク時代」 と
化 ・オホーツク文化」- 「アイヌ文化 」,「
い う考古学的な時代区分 を明 らかにされた。 この 「
北の文化」 と 「
南の文化」が 「もう二つの
日本文化」 と云 うわけである。今 ここで私が取 り上げたいのは,それぞれの 「
文化」の接点に
《ポカシ≫の地帯」のことである。
挙げている 「
これを氏 は 「
北では東北地方北部か ら渡島半島にかけての地域であ り,南では九州南部か ら
薩南諸島にかけての地域である」 と説明 している。 生態学的な立場か ら日本列島を三つに区分
した とき, この辺 りに境界が来 ることは,動物地理 区において,津軽海峡 を 「ブラキス トン
線」が,黒潮 によって分断 されている屋久島 と奄美大島の間を 「
渡瀬線」がそれぞれ横切 って
いることか らも確かめることがで きよう。 また三つの地域の特徴 を述べ るためには,それぞれ
《ポカシ≫
の地域の中心の文化 に注 目しなければならないので,その結果逆に,境界 ・接点が 「
の地帯」 と見えて来るのである。
《自形≫ と 《
他形》 とい う比倫 をここで も使 わせて貰 うな らば,三つの地域 はそれぞれアイ
デ ンテ ィテ ィやオーソリテ ィーを持 った 《自形》社会で,結晶がハ ツキ リとしているのに対 し
て,三者の境 に位置す る境 界 ・接点の地帯 とは,結晶相互 を充填する ≪
他形≫社会 となろう。
ここにはハ ツキ リとした結晶が見つか らない以上 「
《ポカシ≫ の地帯」 と云 わざるを得 ないの
である。 しか し, これは島や陸地に視点 を置いた見方である。 境界の世界その ものに目を凝 ら
して眺める と, どうなるのだろうか,陸地ではな く 「
海」 を中心 に眺めた場合, どう見 えて来
るのだろうか,それを次 に考 えて見たい。
「
東北地方北部か ら渡島半島にかけての地域」 とは,「
津軽海峡」 を挟 んだ 「
海域世 界」で
海域世界」 として一体性 を持つ時
ある。 この海峡が考古学上の境 界であった時代 もあるが,「
代 も決 して少な くないことが考古学者の間では確認 されている。 人々は海峡 を自由に行 き来 し,
海 を生活の舞台 に していた ことの方がむ しろ多かった と云 うのである。 ここは,対馬海流 に
沿って山陰 ・北陸 ・出羽 を北上する 「
南の道」 と,親潮 に沿 ってカムチ ャツカ ・千島 ・北海道
1
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の太平洋側 を南下する 「
東の道」, リマ ン海流 に沿 ってサハ リン ・北海道の 日本海側 を南下す
る 「北の道」の交点に当たっている。
「
南の道」 を稲が北上 し,弥生前期 に津軽で稲作が行われたことは有名で,江戸時代の 「
北
前船」 に至 るまで,「
南の道」 は本州 と北海道の交易路であった。 また 「北の道」の延長線上
にはアムール河があ り,縄文文化が この道 を通 ってシベ リアか ら日本へ と云 う文化の流れの中
にあることや,オホーツク文化がアムールラン ドの強い影響下にあったこと,アイヌが この道
による山丹貿易 を通 じて 「
蝦夷錦」 を入手 していたことなどは有名である。 これに三陸海岸 に
沿った太平洋の海路 「
三陸の道」や,陸奥湾-馬淵川-北上川 と云 う 「
内陸路」 をつけ加 える
ことも出来 よう。
東の道」 「
三陸の道」 「
内
以上か ら, この海域世界 は 「
南の道」 と 「北の道」 を主軸 とし,「
陸の道」 を支線 とする交易路の決節点,交通の要衝 にあた り,港市の存在が予測 されるのであ
る。 江戸時代交易か らの運上のみをもって知行 とした松前藩においては,その城下の松前の町
自身が港市であった。中世の十三湊や戦国期 の道南十二舘 も港市 と考 えて よい し,中世 には
「
海の武士団」安藤氏の存在 も見過 ごす ことは出来ない。古 く縄文時代の円筒式土器の時代 に
一千五百年 にわた り,常 に五百人以上の人口を保 っていた 「
三内丸 山」 にも,港市 の性格が
あったのではあるまいか。
一方,「
九州南部か ら薩南諸島にかけての地域」 をここでは 「
隼人世界」 と名付 けたい。 こ
の 「
隼人世界」 は黒潮の流れの分岐点に当たっている。黒潮 はフィリピン ・台湾の東側 を廻 り,
先島諸島 ・沖縄諸島 ・奄美諸島の西側 を北上 してこの地 に至 り,本流はここか ら日本列島の南
の岸 を洗い,房総半島の沖か ら太平洋 に至 る。 一方支流の対馬海流 は,九州の西海岸の沖 を北
上 し,対馬海峡か ら日本海 に至 るのである。 「
隼人世界」 に通 じる海の道 を黒潮の流れに沿っ
て命名すれば,西南諸島に沿 った 「
西南の道」 と九州の西海岸 を北上する 「北の道」, 日本列
島の南岸 を進む 「
東北の道」 となる。
弥生時代か ら古墳時代 にかけて,沖縄の深海で採れるゴウボラ貝やイモガイが この 「
西南の
月の道」 と
道」 と 「北の道」 を通って 日本各地に運ばれたことは有名で, ここか らこの道 は 「
云われ,「
隼人世界」 には貝の第一次加工場があるなど,貝の交易セ ンターがあった。 さらに
「
西南の道」の先 には東 シナ海 を横断 して華南 「
越」の世界が,「
北の道」の先 には朝鮮半島
があるので,「
隼人世界」 は国際的な交易の中心地であった。例 えば 『
新唐音」
】東夷伝 日本の
部 には次の ようにある。 「
其東海喚中,又有邪古 ・波邪 ・多尼三小王。北距新羅,西北百済,
西南直越州。有錬架怪珍云。
」
「
邪古」 は屋久島,「
多尼」 は種子島,「
波邪」は隼人のこととされている。 とすると, この
「
≡小王」 はいずれ も 「
隼人世界」の 「
小王」 とな り, 日本の律令国家成立の直前 において,
隼人世界が朝鮮半島の 「
新羅 ・百済」や中国の 「
越州」と密接 な関係 にあ り, 自由な交易活動
をしていたことが確かめ られる。 この 「
三小王」 には 「
明」の時代 に 「
交易国家」 として繁栄
した 「
琉球王国」の姿 を重ね合わせ ることが出来 よう。 一方律令国家の下 においては,物資の
流れは総て中央集権的に再編成 され,「
隼人世界」 を中心 とするネ ッ トワークは否定 され,隼
人か ら自由な交易活動が奪われた。
このことの結果,隼人は北の蝦夷 と共 に化外の民 「
夷秋」 とされたのであろう。 日本列島に
おける中央集権的な力が弱 まり,ネ ッ トワークに基づ く自由な交易活動が再び盛 んになると,
隼人世界 は再び交易セ ンター として蘇 ってい く。 薩摩半島西南部の リアス式海岸の中に,中世
l
l
港市 の諸相
には 「
三津」の一つ に数えられた国際貿易港の 「
坊津」があることはよ く知 られている。 また
「
隼人世界」の港 はいずれ も中世後期 においては倭寅の根拠地 とな り,鉄砲伝来 をは じめ,ザ
ビエルが最初 にた どり着いたのが この世界であることも,隼人世界が交易のセ ンターである地
政的位置関係 を示 している。
坊津の北,吹上浜の南 には万之瀬川が流れている。 ここは古 くは阿多の隼人の根拠地であっ
た ところであ る。 この河 口か ら 4キロ遡 った ところにあ る 「
持鉢松遺跡」か ら中国製陶磁器
1世紀後半か ら1
5
世
(
龍泉窯系 ・同安窯系 を中心 とし,1
2世紀 中葉か ら1
3世紀前半 をピークに1
紀前半 にかけて) の他,東播系須恵器 (
1
3世紀後半),常滑焼 (
1
3世紀後半か ら1
4世紀後半)
も出土 し, この地が 「
交易の拠点 として陸揚げ地的な性格 を有 し,薩摩半島の交易の玄関口 と
しての役割の一端 を担 っていた」 とされるに至 った。おそ らく坊津開港以前の交易の拠点 は万
之瀬川川口のラグー ンにあったのであろう。
「
東北の道」 と名付 けた黒潮の道か ら日本列島の各地 には,① 「
豊後水道」- 「
瀬戸内海」
ルー ト,② 「
紀伊水 道」- 「
大阪湾」 ルー ト,③熊野灘- 「
伊勢湾」 ルー ト,④伊豆半 島「
東京湾」 ルー ト等 々幾つ もの道が枝分かれ していた。「
坊津」が栄 えていたころ, ここ 「
坊
津」 と② を結ぶ 「
南海路」が,大内氏の支配 した瀬戸内-博多- 中国 と結ぶ 「中国路」 と対抗
した細川氏の経営する勘合貿易のルー トであ り, また 「
堺」の商人が琉球 に赴 く際のルー トで
もあった。 また 「
持鉢松遺跡」の出土品か らは,「
西南 の道」 を通って中国製陶磁器が,① を
通って東播系須恵器が, また③ を通 って常滑焼が この地 にもた らされた と考 えられる。
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