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リプライ - 千葉大学

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リプライ - 千葉大学
特集2/コミュニタリアニズムの可能性
リプライ
千葉大学公共研究センター特別研究員
中野 剛充
ありがとうございます。すばらしい解説をしていただいて大変驚いています。
非常に鋭い質問もいただきまして、誠にありがとうございます。順番に関して
は、少し混乱しているところもあるかと思いますが、それは後ほど辻先生に訂
正いただければと思います。
1.テイラーをめぐる「誤解」と「難問」について
「リベラル・コミュニタリアン論争」をめぐって
まず一つ目の、色々な問題提起をこの本でしているのだが、本質的である問
題提起と、単に誤解に過ぎないものをくどくどと「これはそうでない」という
ふうに言っているところがあるという問題に関してです。それをきちんと分け
た方が良い。特に、リベラル・コミュニタリアン論争というものはどうなのか
ということなのですが、これは最後の最後まで、本質的な問題に行くところも
あるし、そうでないところもあるという中途半端な部分もあるのです。
まず、それを説明させていただくと、一つは表面的にはリベラル・コミュニ
タリアン論争というのはそんなに大した論争でないと私は思っているのです。
と申しますのは、小林先生のゼミで、スティーブン・ムルホールとアダム・ス
ウィフトの『リベラル=コミュニタリアン論争』
(頸草書房、2007 年)という
本を読んだのです。そこでは面白い議論もされていますが、具体的な問題とし
て一番大きな問題は「政府の中立性」までなのです。そこではアメリカ特有の
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図1
(出所)筆者作成。
アファーマティブ・アクションといった問題があるので、政府の中立性という
ものが大きな問題としてでてくるのです。しかし、それ以外の問題は主観主義
の立場をとるかどうかだとか、自己(self)の問題の解釈であったり、つまり
全般的にコミュニタリアンのロールズ批判が正しいかどうかという問題のレベ
ルで議論が紹介され、展開していくのです。コミュニタリアニズムのロールズ
批判というものは意味はあったと思うのですが、それはつまり、コミュニタリ
アンにとって必ずしも大きな問題であるとはいえないと思うのです。
その、ムルホール=スウィフトの本においても、テイラーやマッキンタイア
にとって大きな問題というのは、西洋近代そのものであって、ロールズという
のはそのごくごく一部に過ぎないと解説しておりまして、それは真っ当な評価
だと思います。そういう意味で、
ロールズ批判云々を巡ってのリベラル・コミュ
ニタリアン論争はあまり意味がないというのが一つのお答えです。
ただ、もう一方で、意味がある論点もあると思います。ここで 4 つの象限
に分けてみます(図1)
。原子論(atomism)と全体論(holism)、それから
個人主義(individualism)と集合主義(collectivism)です。これは何かとい
うと、それぞれ違うように議論されなくてはいけない。つまり、
サンデルがロー
ルズを批判するのは、ロールズの議論が個人主義だからといって批判したので
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はないです。ロールズの議論が、オントロギー(ontology)
、存在論における
アトミズムの立場をロールズがとっているので、それは哲学的な理解としてよ
くないというふうに批判したのであります。アドボカシーというのは、もちろ
ん日本語にもなっていますが、政治体制のような形に近いでテイラーは使って
いるのですが、サンデルは、政治体制としてインディビジュアリズムをロール
ズがとっていることをほとんど批判してはいないのです。
先ほどから、菊地先生の議論を聞いていても、菊地先生は、基本的にコミュ
ニタリアニズムというものが、一つには、現代のアトミスティックな人間認識
というものを批判している点を強調されておられると思います。それから、た
だ政治体制において、個人の尊厳を尊重するものをとるのか、それとも集合
的なものを大事にするのかは別であると。テイラーは自分のことを、ホーリス
ティック・インディビジュアリズム(全体論的個人主義)、つまり存在論にお
いてはホーリズムだけれども、政治体制としては個人に大きく依拠するホーリ
スティック・インディビジュアリズムの立場をとるのだと言うわけです。それ
は菊地先生も、そうおっしゃると思うのです。
ただ、やはりコミュニタリアニズムというと多くの方は、このコレクティビ
ズムを連想されざるを得ない。しかもそれがやはり、色々な議論においてこの
論点から逃れることが難しい。実は、辻先生の詳細な議論の一番最後のところ
だけ先にお答えさせていただこうかと思うのです。最後の議論も、そういう
粗野な議論ではないのですが、辻先生もおっしゃったように政治体制において、
その制度がうまくいくかどうかという議論はここの議論になります。もちろん、
ここの議論は非常に価値があるし、そこの議論をしないと政治理論というもの
は意味がないわけですが、そこで例えば本当にリベラルな中立性をとった方が
うまくいくのか。しかし、一つには、うまくいったからとしてアトミズムが正
当化されるわけではない、と思うのです。そして、リベラルな中立性ではなく
て、テイラー的な対話のモデル成功を収めれば、コレクティビズムが正当化さ
れるわけでもない。ホーリズムが正当化されるということともまた違うわけで
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す。これとこれは分けて考えなくてはいけなくて、ただ分けて考えた中でホー
リスティック・インディビジュアリズムというものが可能であると思うのです。
単に人間存在が、共同的なものであるという考え方と、ホーリスティック・
インディビジュアリズムは分けて考えなければいけないと。リベラル・コミュ
ニタリアン論争において、現在もまだ、これを引きずっているという意味では、
リベラル・コミュニタリアン論争の亡霊から逃れられていないというのが私の
お答えです。少し戻します。
ハーバーマス・ロールズ・ポストモダニズムの批判をめぐって
深刻な批判というのが、ハーバーマス、ロールズ、ポストモダニズムについ
ていただいたわけです。ハーバーマスというのが、これが非常に厳しいところ
ですが。私が、ハーバーマスとテイラーの差異で、ロールズにおいてもそうで
あるし、ポストモダニズムにおいてもそうです、少し論点をずらす形でお答え
させていただこうと思うのですが、もっとも大きな差異として考えるのは、こ
れは小林先生の立場と近い線であると理解されるかもしれませんが、哲学の地
位というものをどう捉えるかというところにあると考えています。ハーバーマ
スは、
非常にポスト形而上学というものを強調し、
そこでは哲学はある種のルー
ル設定係りに限定されてしまう。それに対して、テイラーは人間の生の意味の
全体性というものを回復するというレベルにまで、哲学の使命というものをま
だ考えている。そこに私は一番の大きな差異があって、テイラーの面白さと危
険性というのはそこから出てくると思います。
そこで、ただハーバーマスのルール設定の中でも、そういった見方がどこか
で反映されていて、パブリックな領域において善とか美とか、それからそうい
う多文化主義的なものであっても、マイノリティ文化であったとしても、そう
いったものが公共の領域に出てくるのはよくないというような立場と、テイ
ラーの立場とどちらが正しいかというのは哲学的にも、まさに辻先生がおっ
しゃっていた政策的な視点でも、実際に判断するのは非常に難しいのです。
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同様のことがロールズにも言えると思います。例えば善の構想から離れて、
基礎付けというものが可能なのかということは、ポスト・ロールズ派のリベラ
ルの方がパブリック・リーズン(公共的理性)という概念を中心に積極的に仕
事をしておられるようです。しかし、テイラーに言わせれば、個人の権利とい
うもの自体がすでにある種の善の構想というものを反映しているというように
なるわけです。私の観点からみればそれは正当な議論であると思うのです。権
利という概念自体が、善の構想を孕んでいるといしたら、その他の善の構想と
いうものも、権利と同等ではないにせよ、権利のライバルとして一つとして考
えられる可能性もあるということも視野に入れなければいけないというところ
がテイラーの視点であって、そこにロールズとは異なるテイラーの面白さであ
ると思っております。
第三のポストモダニズム、フーコーについての議論ですが、それも本当に立
場の違いというもので片付けられてしまってはいけない問題なのです。フー
コーなどでは、善はすべてパワー(権力)によって押し付けられたものという
考え方に対して、テイラーはむしろなにかに押し付けられているという観念自
体がすでに自己の自律性(autonomy)という善を前提としているのだという
ように反論するわけです。それは、私はテイラー的な見方のほうがより正しい
と思っています。現代思想において、そうした道徳的、というと変なのですが、
エシカル(倫理的)な概念抜きに議論を進める際に、議論全体が非常に怪しい
ものになっているということを感じることがあります。と言いますのも、テイ
ラーが言うには、善がすべてパワーによって押し付けられたものとなってしま
うと、すべてが連帯か連帯しないかの問題になってしまう。そうなってしまう
と、哲学や思想のいる場所がなくなってしまう。そうなると極端に言ってしま
えば、学者などいらなくなってしまう。
そのことは逆説的に、学者だけではなく、市民の方でも非常に深い思考をし
て、哲学をし、学者よりもずっと深い道徳的な判断にもとづいて行動されてい
る、そういった側面というものが見えなくなってしまうのではないか。それは
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むしろテイラー的な視点によって見えてくるのではないかというように考えて
います。
2.多元性の擁護の問題について
善の多元性
それから第二番目の、テイラーの多元性の擁護の問題ですが、私がテイラー
の多元性概念を六種類ほどアーティキュレート(分節化)していると指摘して
いただいて非常に感動したのですが、どれが本質的な問題かということではな
いかと思います。ただやはり、善の観念が多元的であるという一番目の議論が
中核的であると思います。それが、現代社会とのかかわりで大きな問題、非常
に重要になってくるのは第六番目で出されたオーセンティシティの問題だと思
います。テイラーより、アイザイア・バーリンの方が綺麗に議論するのですが、
他者が自己と違うものである、自分が自分らしくあることに真に意義があると
いう善のあり方がでてきたのが、西洋近代的なものであるという、しかもロマ
ン主義以降に出現したものであるという議論をバーリンとテイラーはするわけ
です。
そこに至る過程を、細かく描き出したのがまさにテイラーの主著であって、
我々が自明のものと思っている、自分が自分らしくありたいとか、善が多元的
であることや、自己や他者が多元的であることに価値があるということ自体が
善の分節化の歴史的な作用においてのみ生まれてきた観念なのだという説明を
テイラーはするわけです。これだけでは説明不足かもしれませんが。それが非
常に本質的に、テイラーの多元性においては、善の多元性として多元性が現れ
てくるというところとして一番重要だと思います。
「多元性 vs 共通善の政治」と「リベラルな中立性」
三番目になると思うのですが、多元性対共通善の政治というのですが、テイ
ラーの多元性の擁護のアクチュアリティが失われているとおっしゃったところ
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があると思うのですが。修正されたリベラリズムにおいて、二つぐらい議論を
分けなくてはいけないと思います。一つは、先ほど言った政治制度においてど
うか。政治制度において修正されたリベラリズムのモデルというのが、ある種
の多元性というものを取り込んでいる。例えば、本当にキムリッカのモデルと
テイラーのモデルでケベック民族が滅ぶか滅ばないかの差異がでてくるかと
いうと、そういうわけでは決してない。ただ、それが存在論の次元で、きちん
と承認というものをされていないと本当に少数民族なりコミュニティの真の価
値というものが得られないという議論が例えば可能だと思うのです。そういっ
た意味において、テイラーがサンデルに対しては批判的であると辻先生はおっ
しゃった訳ですが、私はそこまでテイラーが、サンデルを突き放しているよう
には思えないわけです。ただ、その辺はまだ、多元性の擁護というのがなぜア
クチュアリティがあるかというと、それは多分、菊地先生の議論で出てきた中
でよく分かることではないかと思うのです。
コミュニタリアニズムというとき、非常に多元性というものを抑圧している
という誤解を、菊地先生は徹底して反論なさってきた訳です。しかし、それが
なかなか日本においては成功していないという現実が一つ、こうした例として
あげてしまい申し訳ないのですが。それが私は多元性の擁護というものが、コ
ミュニタリアニズムの批判に対する応答というのみならず、コミュニティとい
うものと多元性の関係性という中の関係というのは永遠の問題だと思っていま
すので、それに関する考察は継続していかなければいけないと考えています。
四番目のモデルに関しては、先ほど簡単に申し上げたように、リベラル・モ
デルとテイラー・モデルのどちらが経験的に正しいかというのは難しいと思い
ます。
3.
「どういう社会制度が望ましいか」について
最後に、辻先生が分類された四番目の「どういう社会制度が望ましいか」と
いう議論についてです。これは、第三番目の「現代社会の診断」という問題と
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重なってくると思うのです。どういう社会や制度が望ましいかということにつ
いてはテイラーはそれほどクリアに出しているわけではない。ただ、やはり私
が面白いのは、現代社会についての診断の面でのテイラーの議論で、そこから
でてくる結果として四番目のどういう制度が望ましいかというのがリベラル・
モデルと対比される形で出てくるわけです。
しかし、そこはテイラーの仕事においてそれほど大きな位置を占めているわ
けではないので、確かにリベラル・モデルとの経験的な比較というのは難しい
というのは辻先生のおっしゃるとおりだと思いますが、それは逆に言えばリベ
ラル・モデルに対しても言えると思うのです。辻先生が、北大の紀要にお書き
になった「市民社会と小集団」という論文を読ませていただきました。ロバー
ト・パットナムという人のソーシャル・キャピタル論についてお書きになって
いる論文なのですが、そこで辻先生は、ソーシャル・キャピタルを導入すれば
社会がよくなる、といった単純な見解には極めて懐疑的な議論を展開されてお
ります。補論で少しそういうことを仰っていたと思うのですが、他方で、共同
体への参加というものを、アーレントやトックヴィルのような人は重視します。
それは、彼・彼女らは、人間存在にとって共同体への参加が本質的な契機であ
るとみなすからです。しかし、共同体への参加そのものに、人間の生活の豊か
さを創出することにはならない可能性がある、と辻先生は示唆なさるというわ
けです。
この問題も非常に経験的な問題でありまして、そういう議論をオントロジカ
ルな視点で考察するのが私の義務であって、それこそ辻先生が最初にテイラー
の超越論的議論というのはこういうものだとなさった議論が部分的に重なって
きている議論であります。人間存在における善やナラティブ(物語)
、言語の
問題、他者との承認関係によってコミュニティを創っていく、そういう契機が
どういう政治的な意味を持つかということを存在論的に考えていくことは、経
験的にコミュニティへの参加が本当に人間にとってプラスになるのかマイナス
になるのかという論点とは別の視点で考えられなくてはいけない問題ではない
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かと思っています。
水俣のコミュニティ
最後に一つだけ申し上げたいのですが、私の本ではなくて菊池先生の本でお
話ししたいのですが。例えば、先ほど私が話したオントロジーとアドボカシー
に問題とも関係するのですが、菊地先生は例えば『現代コミュニタリアニズム
と第三の道』の 279 ページなどで水俣のコミュニティというものの問題を出
されています。私はここを非常に本質的な問題を見出します。水俣病になった
人を村八分にするような、伝統的な共同体の残酷な面もありつつ、やはりその
水俣のコミュニティというものがあったからこそ公害運動というのが成立した
という側面もあるのです。やはり、そういう両側面を見ていかないと、経験的
次元に入ると一方だけを見て、一方だけを見ないというのは非常に大きな問題
がでてくるのではないでしょうか。ただ、それは経験的な次元の問題であって、
そうではなく、哲学的、存在論的な思考をするとなれば、また別のやり方、方
法が出てくるのであって、私はむしろそちらの道を選んで議論したということ
です。長くなりましたが以上です。
■質疑応答
科学哲学、およびアマルティア・センとの関連について
武蔵武彦(千葉大学)
:このご本を読ませていただきまして、いくつかお伺い
したいと思います。私は経済学を専門にしておりまして、科学哲学と申します
か、認識なのですよね。リバタリアンは新古典派ということで、方法論的個人
主義をとっている。そこから、こういう条件でこういう場合はこういうふうな
現象がありますというような形式、ある意味トートロジー的な、非常に頑強な
モデルを作っています。それで、郵政民営化のような政策を作るわけで、効率
的にやればこうなりますと。アメリカで成功したら、日本でもやりますという
話になる。それに対して、一方ではマルクス経済学の伝統がありまして、根源
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的に存在が意識を規定する。どういう形で、どういう力を持っているのか、究
極的にはこういう影響を及ぼすというような考え方をとっています。要は構造
機能主義的な考え方が一般的ですね。人類学も構造主義というのが基本だと思
うのですが。この本を読ませていただいて、構造そのものも変化する、そのメ
タ、超越論的な議論を取り入れて、全体的な把握をしなくてはならないという
考え方に近いのかなと。テイラーという人が、そういう考え方なのか、それと
も解釈された中野さんがそういう考え方なのかよく分からないのですが、私が
受け取った感覚で外れていないかどうかというのをお聞きしたいというのが第
一点です。つまり、方法論、科学哲学としての認識というのがそのような理解
でよいのかというのが一つです。
もう一つは、ロールズの A Theory of Justice をずいぶん前に読みまして、
そこで格差原理の中で、一番恵まれてない人のためにその能力を活かすため
の配分が許される、本当に困っている人の声を最大にしよう、公正な分配が正
義の本質だ、という議論があったと思います。問題は、そういう議論に対して、
施しを受ける人たちの立場はどうなるのだ、うれしいのか、という。そこから、
最近、ノーベル経済学賞をもらったアマルティア・センのケーパビリティとい
うものに注目するわけで、そのネットワークにアクセスしうるのであれば能力
を発揮できるのではないか。潜在能力をいかに発揮するかという政策こそ望ま
しい。社会の構成員の中でそういう一つの尺度からいえばハンディキャップを
持っている。しかし、そういうハンディキャップをはずせば、ものすごい力を
発揮するかもしれない。今、たまたま能力がないという人も教育すれば違って
くるかもしれないという議論です。こういう考え方と、コミュニタリアニズム
と、リバタリアニズムの論争というような話はどういうふうな形でかみ合うの
かというのが二点目の質問です。
4 象限での分析の意義について
森田明彦(東京工業大学)
:森田でございます。政治思想学会全体の中でテイ
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ラーがどう捉えられているかがよく分かって大変勉強になりました。それで、
私の質問ですが、今回の話の発端になっている、あと中野さんのご本でも発端
になっている、リベラル=コミュニタリアン論争に関するテイラーの論文で
すが、そこに対する評価のことで、中野さんはどういうお立場なのか分から
なかったので、そこを確認したいと思ったのです。たぶん、ここのところに
individualism があって、ここに collectivism があって、4 つに分かれるとい
うことがあると思うのです。ですから、存在論的には原子論的な立場をとるけ
れども、政治的な信条や価値観においては個人が一番大切であるという立場も
取りうるというロジックですね。個人が一番大切ということですけれども、存
在論的な個人というものと holism であると。ちょっと忘れてしまいましたが、
このあたりがマルクスでしたでしょうか。今の話ですと、結局議論の立て方で、
中野さんは存在論の議論と政治的な価値の議論は分けて考えている。分けて考
えて、存在論的な議論を進めるということに意味があると。そういう意味でテ
イラーの立論の仕方というのは依然有効だという立場なのかどうかということ
をお聞きしたい。なぜこの質問をしているかというと、ここでテイラーによる
ロールズへの批判というのは存在論的なものであったのに、アドボカシーのレ
ベルと混同されたからすれ違いに終わったということですよね。だからそうい
う議論を立てたけれども、あの論文全体を見たところで、彼が言わんとしてい
るのは、彼は冒頭で言っていたと思うのですが、この二つというのはそれぞれ
の立場として独立でありうるけれども、実は関係しているということを言って
いる。存在論から政策論に架橋しようというのが、たぶんテイラーの一つのモ
チベーションと言えると思うのです。そのあたりに、あの論文の意味があるの
ではないかという気がしているのです。ですから、もしここを完全に分けて考
えるということに価値があるということであれば、それはどういう価値がある
ということなのかもう少しお聞きしたいのです。
小林:今日はコミュニタリアンに関する論客が私の意図せぬ密度で集まってお
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ります。辻先生はロックの研究から始められて、コミュニティなどについても
論文を書いておられますが、カナダに留学されて、テイラーの下で指導を受け
られました。日本において、テイラーについて最も、face to face の関係も含
めてお詳しい一人です。森田先生はチャールズ・テイラーの名前を冠した著作
(『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』藤原書店、2005 年)を
書かれています。私の知る限りテイラーの名前を冠した著作は 2 冊だけでは
ないかと思います。そういう意味でも密度の高い、非常に本質的な議論が展開
されていると思います。
科学哲学、およびアマルティア・センとの関連に対する回答
中野剛充:両先生ご質問どうもありがとうございました。私は科学哲学につい
てはあまり知識がないのですが、構造構成主義の議論とテイラーの議論という
ものの共通点というものを武蔵先生が見出されているとすれば、それは非常に
面白いと思いました。一つに、テイラーの議論というのは意外と科学哲学に近
いような人たちにも影響を与えていると思います。トマス・クーンといった人
もテイラーの解釈学的な議論を非常に高く評価します。やはり、
「解釈」とい
うもの積極的になにか新しい意味を生み出していくのだという議論で共通する
ところがあるのだと思います。そのあたりで、そのあと、ヒューバート・ドレ
イファスとか、クーンのあとに続くような人たちと共に、テイラーはある種の
粗野な方法論的個人主義、もしくは社会科学全体を自然科学化していく流れを
批判するという動きの力になりました。
経済学の次元では、まだ自然科学化の流れというのがずっと続いているので
はないかと推測するのですが、やはり、社会学や哲学の領域においては、そう
した自然科学化の流れというのは止まったのではないか、止まったというのは
言いすぎですが、ある程度ブレーキがかかったというところに、テイラーの一
つの功績を見いだせるのではないかと思います。
それから、センとの関係なのですが、これは非常に微妙な問題なのですが、
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リプライ
セン自身はコミュニタリアニズムに批判的です。
しかし、
センのケーパビリティ
というものが、コミュニティを前提にしていないかというと、私は前提にして
いると思うのです。センは、そこから多様な議論を展開するわけですけれども、
根っこの部分でコミュニタリアニズムとどこかでつながっているのではないか
と思われるのです。そこは、リバタリアニズムと比べると大きな違いがある。
ロールズの議論も含めて森田先生のご質問と関係するところですが、社会の構
造の設定としてどこまで違うかというと、リバタリアニズムよりも、存在論的
にも社会的にも近いところはあるように思うのです。もちろんその先のところ
で議論が分かれており、そこでは詳細な検討が必要となるとは考えています。
辻康夫:武蔵先生のお話ですが、経済学が想定しているような、我々は一次元
的(one-dimensional)という言葉をよく使うのですが、人間の動機が非常に
限定されていて、合理性の尺度も一元的であると。このようなタイプの議論と
いうのは、政治学をやる方には場合にはそれほど有効ではない。合理的選択理
論(rational choice theory)という形で現在、ディシプリンとしてかなりの
隆盛を誇っているのですが、それは今、中野さんが言われたように政治学全体
を説明する能力は持っておらず、限定されていると考えられます。いわゆる社
会科学全体に及んだ行動主義(behaviorism)の傾向がありましたが、あれは
いわば経済学に似せて、仮説検証モデルを広げようとしたのですけれども、そ
れに対してテイラーが一連の先ほどのような議論をしたということだと思いま
す。ただし、それではテイラーの方向に政治学が転換したのかというと、必ず
しもそうではなくて、それはたぶん、
もういくつかいろいろなファクターがあっ
て、1980 年代以降政治学、社会科学全体の細分化(fragmentation)が進んだ。
あの時期まで、たとえばロバート・ダールの民主主義論が大きな政治学者のコ
モンセンスだったわけです。ところが、ダールは保守的だという人と、ダール
はラディカル過ぎるという人の間が架橋しがたいくらいになって分裂が非常に
進んでいる。ですから、存在論のレベルでは合理的選択理論というのは、ほぼ
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完全に否定されていて、その中でテイラーを論駁しようという人はいない。け
れども、制度としてはある程度、修正を加えられつつも、合理的選択理論は健
在で、ものすごい数の学者がいてプラクティスが行われているというのが現状
ではないでしょうか。
経済学に関して言いますと、マルクス主義は逆に構成主義に繋がっていると
いうのはおっしゃる通りです。しかし、マルクス主義もある意味では下部構造
による規定を想定する点で、文化的な多様性の意義が限定されます。またマル
クス主義の立場からみると、福祉国家が成り立ったというのが妥協の産物とし
て説明されます。しかし、例えばポラニーやシュンペーターを読んでみると、
全く違う彼の政治経済学的な経済理論が行われているわけです。
今日、経済学の中でもポラニーやシュンペーターへの関心が高まっている。
そうすると我々が経済学で、新古典派モデルかマルクス主義かと考えてきたそ
れ自体をもう少し柔軟化して、実は政治的なコンセンサスづくりの話と経済
制度の設計の話というのはもっといろんな道が、少なくとも 19 世紀末から 20
世紀初頭にあったのではないかと、少し政治学と経済学の垣根を越えて議論を
してみたらたぶんより生産的であろうし、テイラーの政治学にかなっているの
だろうと思います。
4 象限での分析の意義についての回答
中野:森田先生のお話にお答えいたします。こういうように図式化して分ける
ということにどういう意味があるかということなのですけれども、テイラーは
二段階で議論されていると思うのです。
第一段階として、
「コミュニティ」
と言っ
たからといって、即全体主義だと言われるという現実があるので、それに対し、
存在論的に人間にとってコミュニティが大事だという議論と、コミュニティが
政治のすべてを支配すべきという議論はまったく違うのだということを、まず
哲学的な存在論の議論とアドボカシーの議論において分ける必要性がある。単
純にそういった批判が多いので、そこは区別すべきだということです。
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ただ第二段階目には森田先生がおっしゃっているように、やはりそこにどこ
かに架橋が必要だというところはテイラーも否定しないどころか賛同すると思
うのです。コミュニティというものが人間存在において根源的なものとするな
らば、それが例えば崩壊するとするならば、それをどのように保護するかとい
うような政策はいかにした可能かというものやコミュニティを中心にした政策
というものがどのように可能であるかという議論もまた発展させていかなけれ
ばいけない。
私があえて分けたのは、辻先生が最後の論点としておっしゃった、コミュニ
ティを重視する政策が経験的に成功するのかどうかという問題は、これからの
課題としてまだ残っていると考えているからです。そこが成功するかどうかに
おいてすべてを判断するのはまだ早いと思っています。ですから今の段階では
分けて考えることが必要であると暫定的に述べさせていただいたわけです。
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