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朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から - Kyushu University Library
九州大学大学院人文科学研究院 『 史 淵 』第 150 輯 抜 刷 2 0 1 3 年 3 月 発 行 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から ――「朝鮮半島の水環境とヒトの暮らし」に関する予備的考察(1)―― 森 平 雅 彦 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から ――「朝鮮半島の水環境とヒトの暮らし」に関する予備的考察(1)―― 森 平 雅 彦 1 2 4 問題の所在 4.1 通過地点 1.2 環境史の視座から 4.2 宿泊地 4.3 航行速度と季節的条件 舞台と資料 5 2.1 漢江の自然環境 船旅の技術 (以下次号) 5.1 乗船の手配 2.2 朝鮮後期の漢江舟運をめぐる人 5.2 船体と船具 文環境 5.3 操船法 2.3 『入峡記』について 3 航程の分析 1.1 漢江舟運の歴史的実像を求めて 5.4 船道の確保 船旅の概観 5.5 水産物の利用 3.1 遡航 6 3.2 下航 まとめと課題 1 問題の所在 1.1 漢江舟運の歴史的実像を求めて ハンガン 漢江(한강、the Han river)は朝鮮半島を代表する大河川の 1 つである。そ の本流は総延長 497.5㎞、太白山脈中の金臺山(標高 1418 m)北側の渓谷(江 原道太伯市蒼竹洞)に源を発し、旌善、寧越を経て丹陽、堤川、忠州、原州、 トゥムルモリ 驪州、楊平等の地を南漢江として流下し、両水頭(두물머리)において最大の 枝川である北漢江をあわせ、ソウルとその近郊を経由して、江華島の東北、留 島付近で黄海に流れこむ(1)。北漢江以外にも達川や蟾江をはじめとする大小 さまざまな枝川からなるその水系は、半島中部の広範囲にひろがり、流域面積 は約 26200㎢に達する(図 1) 。 ―1― ● 元山 金剛山 ● ● 古味呑川 ● 鉄原 津 江 漢 灘 江 水 入 川 金化 華川 抱川 内 麟 川 ● 加平 襄陽 ● 楊口 北 江 陽昭 漢 江 春川 朝宗川 ● ● 麟蹄 ● ● 漣川 開城 麟 北 川 五臺山 ● ● ● 雪嶽山 ● 平康 臨 金 剛 川 金 城 川 ● 伊川 高城 淮陽 ● 江陵 ● 曲陵川 ● 江華 ソウル 金浦 仁川 横城 楊平 炭 川 五 臺 川 洪川 広州 京 安 川 平 旌善 酒 昌 平昌 泉 江 川 ● ● ● ● ● 原州 ● 利川 福 驪州 河 漢 川 江 清美川 寧越 ● 堤川 玉洞川 ● ● ● 永春 丹陽 ● 小白山 川堤 川 清風 忠州 達 川 陰城 川 ● ● ● 漁 太白山 龍仁 骨 只 川 ● 槐山 俗離山 漢江流域圏 0 20 40 ㎞ 図 1 漢江とその主要枝川(이・김[1990]29 頁所掲図にもとづき一部補筆) ―2― 三陟 ● 蟾 江 ● ● 水原 松 川 金臺山 安 養 川 ● 黒川 ● ● ● 洪川江 中 王 浪 宿 川 川 ● 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 朝鮮史上、本川が交通・物流の動脈として明確な姿を現すのは高麗時代(918 ~ 1392)のことである。この時代、王朝政府は王都開京(現・開城市)に送 られる税穀の集積・積出港として全国 13 ヶ所に漕倉を設置したが、漢江中・ 上流部においても忠州に徳興倉、原州に興元倉がおかれ、海上水運とともに河 川水運による税穀輸送(漕運)がおこなわれた。 つづく朝鮮王朝(1392 ~ 1910)のもとでも、漢江下流部の漢城府(現・ソ ソウル ウル市)が国都とされたことで、漕運における本川の機能は継承される。そし てその後半期、17 世紀後半以降になると、都市化の進展や税制の変化等にと もなうソウルの商品市場の拡大と物流の活況をうけ、漢江舟運は民間レベルを ふくめてその最盛期をむかえる。 しかし 19 世紀末以降、近代化が進むにつれて、経済構造の変化(漕運の廃 止など)や新たな運輸技術(鉄道・自動車)の導入にともない、漢江舟運は交 通・物流における地位を次第に低下させ、最終的に大韓民国のダム建設によっ て船道を失い、その歴史的な使命を終えた。 以上の歴史的経緯をふまえつつ、本稿では、朝鮮後期の士人韓鎮 (1792 ~ 1844)が記した 1823 年(純祖 23)の漢江旅行記『入峡記』をおもな素材と して、朝鮮後期の漢江舟運における船舶運航作業の具体的様相をみていきたい。 漢川舟運に関する歴史学分野の研究では、これまで漕運に関して一定の成果 をあげてきたが(2)、もっぱら制度的な枠組みを把握するにとどまり、船舶運 航の実態は今後の課題として残されている。一方、朝鮮時代のソウルとその近 郊の漢江辺(京江)を舞台とする商業・物流に注目した研究が活発に進められ るなか、これを支える舟運については、もっぱら漢江最下流を通じてソウルに 出入りする海船に関心が集中しており(3)、ソウルから上流で活動する川船の 運航実態については、具体的な論及がきわめて少ない。 このことを積極的にとりあげているのは、むしろ歴史学以外の分野であり、 地理学者である崔永俊の仕事(4)や、慶熙大学校の国文学者グループの仕事(5) などがある。しかしこれとても、発着地、所要日数、操船法に関する概論また は一般論にとどまってきた。要するに、具体的な実例に即した形でその詳細に ―3― ふれるところが少ないのである。また一般論とは、あくまで公約数や平均値に すぎないのであるから、舟運の実像をトータルに描き出すには、個別事例にお ける “ 振れ幅 ” を把握しておかねばならない。 近年、上記の慶熙大グループや京畿道博物館より、漢江沿岸にかつて点在し た個々の河津・渡し場に関する歴史・民俗情報を整理した貴重な調査記録も刊 行されている(6)。しかしこれらは、主として個別の河津・渡し場に視点をおき、 そこでの人間活動を定点観測したものである。一方、船舶運航作業の実態を知 るには、それらの “ 点 ” と “ 点 ” をつなぐ “ 線 ” のありかた、そして “ 線 ” 上におけ るヒトの行為の具体に注目する必要がある。 このことに関して、日本の中国地方を代表する河川の 1 つ、江の川における 20 世紀前半の舟運に関する印南敏秀の研究(7)は大いに参考になる。そこでは、 船頭が出発地から到着地まで、通過する各地点の地形的特質をどのように認識 し(フチ、セ、ノロ、カワラ etc.) 、それぞれの環境のもと、時時の状況(河 況、季節、天候、積荷 etc.)に応じ、帆・櫂・棹・曳き綱をはじめとする各種 の道具を駆使していかなる作業をおこなったのか、行為の詳細を克明に復元し ている。日本の河川舟運については、このほかにも船上や河津での作業・生活 の模様を伝える調査記録が種々残されているが(8)、漢江舟運に関しても、こ うした船乗りたちの具体的な “ 手つき ” に接近したいところである。 もとより上記の日本の事例は、経験者に対する直接的な聞き取り調査の成果 であり、文献記録にたよるほかない前近代朝鮮について、同レベルの情報はあ まり期待できない。しかし、それを多少なりとも示唆してくれる情報が眼前に あらわれた際、これを見逃さぬよう、本来ふまえるべき具体的な事柄への着眼 を常時念頭においておく必要がある。 1.2 環境史の視座から 上記のような本稿のテーマは、従来の朝鮮史研究であれば、経済史、交通史、 技術史といった分野に区分されるところである。そうした分野に関わる一般的 意義自体はそれとして認めるものだが、本稿の問題意識としては、これをあえ ―4― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から て、いわゆる環境史の 1 コマに位置づけたい。自然環境とヒトの関係性を多様 な視点から歴史的に解き明かす環境史研究は、現在の環境問題にも資し得る学 術テーマとして、朝鮮史分野でもようやく注目されつつある(9)。そして筆者 がその当面の検討対象としてとりあげるのが、内水面の環境、とりわけ河川を めぐるそれにほかならない。このテーマをさしあたり優先する理由は次の 2 点 である。 第一に、ヒトの生活をとりまく自然環境のなかでも、河川は、現在にいたる 過程のなかで、ヒトとの関係性にもっとも大きな変化、端的にいえば断絶を生 じた自然環境の 1 つと考えるからである。多くの地域で、かつて、あるいはい まもなお、河川は物流、交通、漁撈、利水、治水、信仰、遊戯など、多様な形 でヒトの暮らしとむすびついてきた。朝鮮半島におけるその歴史的実像はまさ しく今後の解明課題だが、近代化の過程で内陸部の交通・物流の主軸が鉄道や 自動車にうつり、架橋が進んで渡し船の多くが姿を消し、水質悪化・河川改 修・食生活の変化等にともない内水面漁撈は衰退、土木工学の発達とともに治 水・利水事業が大規模化・高度化し、個々の地域社会における生活者の手を離 れて行政の手に回収されていったことは、初歩的な観察からも容易に窺知され るところである。 もちろん河川環境は、その流れが発源し通過する地域の陸上環境と密接に関 係しあい、またそれが流入する海洋環境に深く影響している。ヒトと河川の断 絶とは、あくまで現代人の主観的・表層的な生活感覚上の話であり、根本的な 部分においてその関係性が失われたわけではない。しかるに、交通・物流や漁 撈にくわえ、海底地下資源開発や国際政治の舞台としても注目をあびる海洋な どとくらべた場合、これまでのところ、朝鮮半島の河川環境は歴史研究の埒外 におかれてきたというほかない。 理由の第二は、現在進行中の事態に対応する緊急の必要性である。2009 年、 李明博大統領のもとで大韓民国政府は「四大河川再生事業(4 대강 살리기 사 업) 」のマスタープランを発表し、これにより環境保護と経済振興の両立(グ リーン・ニューディール)をうたった漢江、洛東江、錦江、栄山江の大規模開 ―5― 発が進められることになった(10)。これについては環境破壊を懸念する反対意 見が諸方面からよせられたが、結局、同年に着工し、2012 年 10 月 11 日の時点 で事業の 98%を終了し、完工目前までこぎつけている。 本稿は政策提言を目的とする論説ではないので、事業そのものに対する論評 はさしひかえるが、大規模な築堤と築堰、河川敷と河床の大改修をともなうこ の事業が、過去のダム建設等によりすでに多くの変化をこうむってきた河川の 姿に、いっそう劇的かつ不可逆的な変化をもたらす可能性があることは、当然 想定しておく必要がある。筆者もメンバーである文部科学省科学研究費補助金 による研究プロジェクト「朝鮮半島の「水環境」をめぐる社会・経済・文化の 歴史的諸相――漢江を中心として」 (代表:六反田豊)は、漢江を中心に、か かる事態をむかえる前の河川環境とヒトとの関係性を過去にさかのぼって検証 し、その何がどのように変化する(した)のかを見届けるという緊急の要請か ら発足したものである。本稿はその成果の一部にほかならない。 さて、このように河川環境とヒトの暮らしの関係性、もしくはヒトの暮らし をふくむ河川環境の歴史をテーマに掲げた際、ただちに問題になるのは、漁撈 であれ、治水であれ、ヒトが河川という自然環境に対して何らかのはたらきか けをおこなう際の、“ 行為 ” の具体に関する基礎データの不足である。河川に かぎらず、この種の生業活動に関わる具体的事柄に対する関心の低さは、一部 の農業技術をのぞけば、朝鮮史研究全般に通底する問題であろう。その農業に 関係することでも、たとえば民俗学者の高光敏は、朝鮮半島の伝統農業におい てきわめて重要な存在であるウシの飼育・利用の民俗について、満足な学術 データが蓄積されていない現状を嘆いている(11)。“ 現場で何がおこなわれてい たか ” を知らずして環境史的理解が深まるはずもない。 筆者が河川舟運の運航作業に注目するのも、河川環境とヒトの関係性を総合 的に把握する前提として、基礎データを蓄積する作業の一環である。印南の仕 事にたとえるならば、個別の「インフォーマント」(具体例が記された史料) に密着した「聞き取り」 (読解)をおこない、これにもとづく詳細な「聞き書 き」(事例の復元)を蓄積していくことが、調査のファースト・ステップとな ―6― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から らねばならないのである。 もとより素材と紙幅が限られるなか、一編の論考ですべての問題に満足な答 えを出すことはできない。本稿は、今後個々の事物・局面に対して微視的なレ ベルで本格的分析を進めていく前提として、論点の所在を把握し、これに初歩 的な検討をくわえる予備的考察を目的とするものであるむね、あらかじめ諒解 いただきたい。 2 舞台と資料 2.1 漢江の自然環境 ここでは漢江の自然環境のうち、舟運の規定条件となる要素をみていこう。 くりかえしになるが、漢江本流の総延長は 497.5㎞、南漢江と北漢江に関し てはそれぞれ 394.25㎞、325.5㎞になる(12)。日本列島では信濃川が 367㎞、利 根川が 322㎞であるから(13)、これら日本を代表する大河川よりも 100㎞以上長 いことになる。 流域面積については 26200㎢強の数値をあげるのが一般的だが、これは最下流 で合流する臨津江を枝川に含めない場合であり、これを含めると 34400㎢近く になる(14)。これに対して前述の利根川は 16840㎢、信濃川は 11900㎢であり(15)、 漢江には大きくおよばない。 河況係数とは河川の最大流量と最小流量の比(前者を後者で除した数値)で ある。計測地点や計測期間による違い、特にダムの影響も考慮されるが、ひと まず現代の状況についてみると、漢江に関しては 393 または 462 という数値が あげられている(16)。一方、前述の信濃川は 39、利根川は 74 である(17)。日本 の河川にはこの数値が漢江を超えるものも多いが、世界的にみて漢江をはじめ とする朝鮮半島の河川は河況係数が大きい部類である。流量変化が大きいこと は舟運の阻害要因ともなるが、それでも洛東江の 633、錦江の 1128、栄山江の 2665 という数値(18)に比べると、漢江は低いほうであり、相対的な好条件を備 えている。 次に月別の流出量変化をみると表 1 のとおりである。これは温暖期に降水が ―7― 多く、寒冷期に少なくなる朝鮮半島の気候パターンと密接に関係している。す なわち梅雨の最盛期をむかえる 7 月に平均流出量が最大になり、8 月、9 月の暑 熱期に比較的高い水準を維持するが、10 ~ 12 月に入ると大きく低下し、1 月 と 2 月に最小となる。これは降水量の減少のみならず、厳寒期における結氷― ―20 世紀初頭の一般的傾向としては 12 月中旬~ 3 月上旬(19)――にも関係する とみられる。それが 3 月になると増加傾向に転じるが、4 月に小さなピークを むかえるのは、融雪の影響と考えられる。 (計測地:八堂,期間:1917 ~ 40 年) 1月 2月 3月 4月 (単位 mm) 5月 6月 7月 8月 9月 10 月 11 月 12 月 平 均 15 14 30 46 41 31 227 145 90 21 23 20 最 大 30 29 86 103 92 88 800 542 262 65 36 45 最 小 4 4 9 11 18 7 28 18 14 9 8 6 比 率 8 7 10 9 5 13 28 30 19 7 5 7 (出典:서울特別市史編纂委員会[1985]110 頁) 表1 漢江の月別流出量の変化 さらに沿岸各地の水位変化をみると、表 2 のとおりである。低水時ではほと んどが 1 尺を下回り、平均水位でも 1 ~ 2 尺程度ときわめて浅いことがわかる。 しかもそれでいて高水時にはその 10 ~ 20 倍程度に達する。このことは、結氷 期の存在も含めて、舟運に季節的な制約がともなうことを意味する。 (単位 尺) 地点 平均水位 低水位 高水位 高水時期 旌善 1.33 0.83 10.67 7月 寧越 0.81 0.56 8.63 8月 丹陽 1.18 0.41 15.20 8月 忠州 1.30 0.63 11.48 8月 牧渓 0.96 0.52 10.74 8月 驪州 1.88 1.22 10.82 8月 纛苫 0.89 0.20 12.95 8月 (出典:최영준[1997]113 頁) 表2 漢江沿岸の水位(植民地期の 10 年平均) ―8― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から つづいて河床傾斜度(河床勾配)とは、河川の流れる方向の河床(川底)の 傾き具合であり、河床が a m高くなるのに要する距離 b mにより a/b とあらわ す(通常は分子を 1 にそろえて比較する) 。当然ながら、この数値が大きいほ ど急流となり、船舶の遡航は困難になる。漢江をはじめとする朝鮮半島の主要 河川のデータを表 3 としてあげよう。 上流 中流 下流 全体 鴨緑江 1/164 1/588 1/1429 1/357 豆満江 1/135 1/714 1/2000 1/323 大同江 1/167 1/2500 1/10000 1/455 漢江 1/294 1/1111 1/5000 1/667 錦江 1/417 1/2500 1/5000 1/1000 洛東江 1/217 1/3333 1/10000 1/588 (出典:臨時土地調査局[1919]81 ~ 91 頁) ※出典では分母を 1 万にそろえた数値を提示するので,分子を 1 とす る数値に換算した。分母の小数点以下は四捨五入。 表3 朝鮮半島の主要河川の河床勾配 全体としてみると、漢江は錦江についで勾配が緩やかだが、舟運の主要な舞 台となる中・下流部に関してみると、大同江や洛東江よりも急傾斜ということ になる(20)。 図 2 は韓国 4 大河川(漢江、洛東江、錦江、栄山江)の縦断面曲線である。 図 3 に示す日本列島の河川や世界の大河川と比較した場合、漢江は河口から約 300㎞の中流部まではおおむねフランスのローヌ川に近い曲線を描く。上流部 をのぞき、また全体としては、河床勾配 1/500 以上を基準とする急流河川に該 当しないが、漢江は傾斜度が高い部類である。 これを日本列島の河川とくらべた場合、河口から 200㎞地点あたりまでは利 根川に類する。しかし利根川がその上流で急激な上昇カーブを描くのに対し て、漢江はなお緩やかさを保ち、河口から 300㎞強の地点(江原道寧越郡付近) でようやく標高 200 mに達する。これは、漢江舟運の遡航限界が上記の寧越で あり、可航距離が利根川水運に対して 100㎞ほど長いことの背景ともなる(21)。 ―9― 1400 1200 洛東江 漢江 1000 標 高 ︵m ︶ 錦江 800 600 400 200 栄山江 0 100 200 300 400 500 600 河口からの距離(㎞) (出典:安守漢[1995]551 頁) 図2 韓国 4 大河川の縦断面曲線 ロアール川 常願寺川 デュランス川 1000 600 富士川 木曽川 吉野川 標 高 ︵m ︶ 800 400 200 0 コロラド川 ガロンヌ川 ナイル川 ミシシッピ川 セーヌ川 信濃川 アマゾン川 ローヌ川 メコン川 最上川 利根川 200 400 600 800 1000 1200 1400 河口からの距離(㎞) (出典:阪口・高橋・大森[1986]220 頁) 図3 日本と世界の河川の縦断面曲線 ― 10 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 日本列島の河川との比較においては、洛東江や大同江など水運のさかんだった 朝鮮半島の河川は、いずれも漢江と共通した地形的特徴を有する(22)。 日本列島の河川では、多くの場合、水深が浅く流速のある瀬(riffle)と、 水深が深く流れの緩やかな淵(pool)が反復して出現するが、漢江も同様な地 形パターンを示す。1894 年にソウルから永春まで漢江を遡航した英国人イザ ベラ・バードは、そのことを次のように強調している。 わたしの考えでは、その最も注目される特徴は、……その浅瀬と非常な深 みの珍しいくりかえしである。喫水わずか 3 インチのわたしの船を牽引し て、船を浮かべるにはあまりにも浅い水面を通らねばならなかったかとお もえば、その〔早瀬が立てる〕さざなみの先で、広くおだやかで湖のよう な緑色の広がりが 20 フィートの深さで 1、2 マイルにわたって連続するの に出くわすことは、ありふれた出来事であった。(23) 日本や朝鮮では一般的な河川地形も、ヨーロッパ出身の彼女には必ずしもあ たりまえではなかったのである。 図 3 にもみられるように、日本列島の河川の特徴を説明する際には、ナイル 川・メコン川・ミシシッピ川といった大陸の巨大河川がよくひきあいに出され る。朝鮮半島の河川を説明する際にも同様な傾向がある。しかし河川それ自体 の比較としてはともかく、河川環境に対するヒトの適応の地域的特徴を比較す る手段としては、長さ、川幅、水位、流量、河床勾配など、そうした巨大河川 とのスケールの違いはあまりに大きく、必ずしも参考になるとはいえない。前 提となるステージに根本的な違いがある以上、そこでの人間活動に質的な差が 生じるのは当然である。むしろそれよりは、多少の違いはあるものの相対的に 近似した環境を呈する朝鮮半島と日本列島の河川における人間活動の相互比較 が、その地域的、民族的な特質を浮き彫りにするためには有効であろう。 ヨウル 朝鮮では瀬のことを固有語で여 울といい、漢字語では灘とあらわすことが 多い。瀬は船舶航行の障碍となるが、崔永俊の調査によると、漢江本流では、 ― 11 ― 北漢江との合流点~蟾江合流点の間に 13 ヶ所、蟾江合流点~忠州間に 12 ヶ 所、忠州~寧越間に 80 ヶ所もの瀬があり、それぞれ名称がついている(24)。一 ソ 方、淵のことは漢字語により소(沼)というが、文献では淵、潭と記すことも ホ ある。このほか호(湖)という呼称もあり、淵と同義のように説明されること もある(25)。ただ実際に「○○湖」とよばれる場所をみると、単に水深がある だけではなく、川幅が特に大きく広がった場所を指しているようにおもわれる。 以上のように漢江は、舟運にとって必ずしも良好な条件ばかりを備えていた わけではない。人々はそうした制約を克服しつつ舟運を実現していたのである。 2.2 朝鮮後期の漢江舟運をめぐる人文環境 ここでは舟運に関わる朝鮮後期の漢江沿岸社会の状況について、先行研究(26) を参考にしつつポイントをまとめておくことにしよう。 17 世紀後半以降、いわゆる壬辰・丁酉倭乱、丁卯・丙子胡乱の痛手からた ソウル ちなおった朝鮮王朝の国都漢城府では、人口が増加し、都市空間が都城周辺に 拡大していった。また新税制(大同法)の導入により、多くの官庁必要物資が 契約納入業者(貢人)を介して調達されるようになり、その代価(貢価)の原 資として徴収された大同米が従来の税穀にくわえてソウルに輸送されるように なった。これにより国家財政とソウルの都市生活を支える基盤として商業・物 流の重要性がますます高まり、その主要な拠点としてソウル近郊の漢江辺(京 江)に河津が発達してゆく。当初は主要なエリアとして漢江、龍山江、西江の 「三江」を数えたが、のちに「五江」 、 「八江」と増加していった。 その京江における商業・物流の主軸を担ったのが、いわゆる京江商人である。 朝鮮後期には、京江を拠点に活動する船商・船人が全国の物流網のなかで優位 を占めるようになった。彼らは公的な税穀輸送システムである漕運にも関与す るかたわら、最大の物品集散・消費市場であるソウルと地方の間の商品流通 を支えた。また京江においては、そうした商船・商人を相手に仲買・卸業、倉 庫業、運送業、宿泊業、金融業などを営む客主(旅客主人、旅閣)が成長して、 ソウル一帯の商品流通におけるシェアを高め、朝鮮建国以来維持されてきた市 ― 12 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 廛(物種ごとに王都での独占取扱権を公認された特権商業者)を頂点とする商 業システムを動揺させるにいたった。 商船経営の構成員は、おおよそ物主(資本主) 、船主(船舶保有者)、沙工 (船頭) 、格軍(水夫)に区分されるが、物主と船主が同一人であるケース、船 主が沙工を兼ねるケース、船舶を貸借して運用するケースなど、実態は多様で ある。17 世紀後半~ 18 世紀前半の事例を分析した高東煥によると、物主が船 主以下と区別される場合の物主は士族・官吏層、船主は良人や私奴であること が多く、沙工・格軍については、良人または私奴などの賤民が多いが、後者の 比重が高いという(27)。ただし沙工・格軍の身分に関する議論は、事例数の少 なさから統計的有意性に疑問もあり、本稿では主として良人や賤民だったとい う程度にとらえておきたい。 もっとも上記のような商人・商船の通説的イメージは、もっぱら全国レベル において物流の大宗をなした海船の事例を通じて帰納されたものであり、それ を特に意識することもなく川船にも演繹して議論しているのが現状である。漢 江中・上流部の商業・物流に関わる舟運が、どのような主体によってどのよう に経営されていたのか、個別の実例にもとづく具体的な状況把握は、今後の課 題であろう。 漢江の沿岸要所には河津が発達した。本稿で直接の検討対象とするソウル~ 驪州地方の状況については後述するが、それより上流の地域について主なもの をあげると、牧渓(現・忠清北道忠州市厳政面牧渓里)、金遷(現・忠清北道 忠州市利柳面倉洞里) 、黄江(現・忠清北道堤川市寒水面黄江里)、清風(現・ 忠清北道堤川市清風面) 、丹陽(現・忠清北道丹陽郡丹城面)、永春(現・忠清 北道丹陽郡永春面)などがある。これらは瀬越し前後の待機・休息、停泊・荷 役の便といった舟運の技術的条件、後背地の生産・消費市場、さらに陸上交通 とのアクセスといった諸条件の兼ね合いのなかで成立したものである。 下流部からの上り荷としては、塩や塩辛類・塩乾魚などの海産物が代表的で あり、近代になると砂糖、石油、セメントなどの新商品、特に輸入品がくわわ る。中・上流部からの下り荷としては米、大豆、煙草、薪炭などの農産物・森 ― 13 ― テンモク 林資源が代表的であり、最上流部からは流し筏(뗏목)によって木材が都市部 に供給された。 こうした中・上流部との往来には、京江のなかでも主として上流寄りの纛苫 (纛島) 、漢江鎮、龍山などがターミナルの役割をはたし、海船のターミナル だった河口寄りの西江・麻浦エリアと対をなす。 また漢江本流やその枝川には数多くの渡し場が存在した。19 世紀半ば過ぎ に編まれた金正浩の『大東地志』では、本流の沿岸各邑に少なくとも 1 ヶ所、 多ければ 7、8 ヶ所もの渡し場を記録しており、特にソウル~忠州間の分布は 稠密である。民俗調査を通じて知られる近代以降の渡し場(28)には、前近代の 地誌にほとんど現れないものも多い。しかし後述のように、『入峡記』にはそ の一部が登場するとみられる。すべてとは限らないにせよ、その多くが朝鮮後 期までに成立したのではなかろうか。 これら近代以降に利用されていた渡し場には、河津機能をあわせもつものと 渡し専用のものとがあり、こうした違いは朝鮮時代にも存在したであろう。ま た河川をまたいで道路と道路をつなぐものと、近隣住民がもっぱら農作業や薪 採りなどで中洲や対岸に渡るために使用するものといった違いもあった。後者 については、村落住民の日常的な行動範囲、および農地使用と山林・中洲の利 用が、漢江という大河川をまたぐ形ではどのように展開していたのか、前近代 と近代の間の相違にも注意する必要がある。 朝鮮前期の漢江における漕運では、漕倉のほかにも沿岸の複数個所に水站が 組織された(29)。統轄者として水站転運判官がおかれ、水夫と水站奴が站船を 用いて輸送にあたった。朝鮮後期にも水站制度は維持されており、ひきつづき 漕運を担当した。しかし海路を利用した漕運では、時期や地域による違いもあ るが、16 世紀以降、民間船(京江船、地土船)が動員され、あるいはそれら (30) が営利目的で参入するようになった(雇立制、賃船制) 。漢江における漕運 も同様な状況にあったようだが(31)、より詳細な実態解明がまたれる。 ― 14 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 2.3 『入峡記』について 本稿で検討素材とする『入峡記』については、李民樹による朝鮮語訳と原 本影印をおさめた書籍が 1993 年に『島潭行程記――入峡記 上・下』(一潮閣) として刊行されている。その「解題」や付録資料にもとづき、本書の著述・伝 来の経緯を確認しておきたい。 撰者の韓鎮 は、生没年が 1792 ~ 1844 年、本貫は清州、字は大逌、号は陶 村である。 『東国地理誌』の撰者として名高い久菴韓百謙(1552 ~ 1615)の弟 浚謙の後孫(西平府院君派)として生まれるが、後に系子(養子)として百 謙の後孫(久菴公派)の系譜に入る。本書に記された旅行ののち、純祖 23 年 (1823)9 月に科挙(文科)に及第し(32)、その後、官職は工曹参判にいたって いる(33)。 『入峡記』冒頭の記載によると、彼が漢江上流部への旅をおこなったきっか けは次のようなものであった。純祖 23 年(1823)4 月、慶科(国の慶事を記念 して臨時に実施される科挙)のためソウルの彼の邸宅に「上流の諸名士」が集 まったが、結局みな落第してしまい、彼らはむなしく帰路につくことになった。 また外舅の丁義準が六品に昇進したものの実職が得られないため、やはり帰郷 することになった。そこで韓鎮 は、この機会を利用して素願であった漢江上 流部の景勝地への旅を決意、上記の丁義準のほか、進士の丁恵教(字は稚順)、 その従弟丁秀教(字は士選) 、清風の李哲儒(字は成汝)、金永殷(字は声用)、 権来叜、丁大啓(字は而沃)らが同道し、給役の童子として梁天突が随行した。 この後、具体的にみるように、一行はソウルより漢江にそって上流の丹陽 (現・忠清北道丹陽郡)へとむかうが、船便を利用したのは驪州の白巌村(現・ フンバウィ 驪州郡驪州邑欣岩里흔바위)までである。そこから丹陽までは、渡河や遊覧に 際して船を利用する以外、陸路をたどった。帰路は陸路で丹陽から堤川(現・ 忠清北道堤川市) 、忠州(現・忠清北道忠州市)を経て原州(現・江原道原州 チャンマル 市)にいたり、興元倉(現・江原道原州市富論面興湖里창말)から船便でソウ ルにもどった。 『入峡記』は以上の旅程を記録したものである。散文形式の旅日記にくわえ、 ― 15 ― 途上で詠んだ漢詩や、見聞した事物(地理、魚名、川船 etc.)に関する考証を 付載し、当時の知識人の地理認識、博物学的関心を示すものとしても興味深い。 が、何より本稿にとって本書が貴重であるのは、前近代の漢江舟運について逐 日の航程を記録し、かつそこに運航作業に関する具体的情報を比較的豊富に含 む点にある。 前近代の川旅に関する記録は、このほかにも高麗・朝鮮時代の文人の著述に よくみられるが、旅程の一部だけをとりあげた紀行詩がほとんどである。逐日 の記録としては、正祖 6 年(1782)にソウルから驪州まで旅した尹行恁(1762 ~ 1801)の「東征記」 ( 『碩斎稿』巻 12)や、仁祖 14 年(1636)に日本に派遣 された金世濂(1593 ~ 1646)の「海槎録」中の漢江遡航記録(『東溟先生集』 巻 9)など、ほかにもいくつかあり、本稿でも必要に応じて参照するが、航程 に関する記述は相対的に淡泊で、特に運航作業に関する描写が弱い。このよう な点で『入峡記』はまことに稀有な史料である。 『入峡記』の原本は、 はじめ韓国の著名な古書肆である通文館の李謙魯(1909 ~ 2006)によって見出されたという。筆者は上記の一潮閣の影印を利用した。 ところで、朝鮮半島における川旅のイメージを喚起してくれる史料としては、 ほかにも、1894 年における前述のイザベラ・バードの記録がある。一般的な 知名度は、むしろこちらのほうが上であろう。しかし逐日記録の形はとらず、 船舶の航行状況については概括的な記述にとどまる。また朝鮮の社会・文化に 必ずしも通じておらず、しばしばこれに主観的な嫌悪感を示すこともある彼女 の記録に描かれた内容をうのみにすることはできない。特に雇用した船乗りの 仕事ぶりに対する彼女の不満・不信感は強いものがあった。 もちろん現代のわれわれが、当該の船乗りの人物像を客観的に検証すること など、とうてい不可能である。しかし少なくとも、その仕事の “ 結果 ” が、漢江 舟運の実像に照らしていかなる位置にあるのかを評価することはできる。本稿 では、 『入峡記』の記録と対比することで、バードが伝える遡航状況を再評価し、 それによって漢江舟運の実像をより明瞭にイメージできるようにしてみたい。 ― 16 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 3 船旅の概観 本節より『入峡記』の分析を進めていくが、まずはその記載内容を要約する 形で韓鎮 による漢江の船旅を概観し、経路に関する歴史地理的な比定をおこ なう。煩雑をさけ、各地点に関して必要な考証は文末註に記した(34)。位置に ついては図 4 各図を適宜参照されたい。 3.1 遡航 ○ 4 月 12 日(航行距離 40 里=約 16㎞) 都城より纛苫(現・ソウル市城東区聖水洞)におもむき、津吏に「分付」 (指示)して乗船を確保。強すぎるほどの便風を得て出航。昼過ぎに逆風とな り帆走できず。曳き綱で岸沿いに船を曳き、三田渡(現・ソウル市松坡区三 田洞)と松坡鎮(現・ソウル市松坡区松坡洞)を通過、さらに 10 里を進んで 広津渡(現・ソウル市広津区広壮洞)にいたる。そこから 10 里もせずに亀山、 一名巌寺(現・ソウル市江東区岩寺洞)の前を通過。日が暮れて風が静まる。 岸に沿って進み、渼陰渡(現・南楊州市水石洞外渼陰)を通過。月明かりのな かを平邱駅(現・南楊州市三牌洞平邱)に進み、尹氏家に投宿。 ○ 4 月 13 日(航行距離 40 里=約 16㎞) 辰刻(7・8 時台)に発船。5 里の行程を緩行、餅潭(現・南楊州市瓦阜邑徳 (35) 沼里) に停泊して朝食をとる。船を曳いて進むが、昼前に逆風となり遡航に 苦しむ。八堂灘(現・南楊州市瓦阜邑八堂里付近の瀬)を通過。当精苫(旧・ (36) 広州郡東部面堂亭里) がある。斗尾峡(37)に入り昼食をとる。昼過ぎに多少 の便風がふき、帆をあげる。斗尾峡の終端で下船し、馬峴(現・南楊州市烏 安面陵内里馬峴)にある丁若鏞(1762 ~ 1836)の邸宅を訪問。その後、船に (38) もどり、并灘(南漢江・北漢江の合流点) を通過。急流のため遡航に苦しみ、 夕刻近くに簇尺島(簇子島)を通過して夕食をとる。下船して月明かりのなか トゥムルモリ (39) に到着、南氏家に 汀を進み、二水頭村(現・楊平郡楊西面両水里두물머리) 投宿。 ― 17 ― ←ソウル 纛苫 奉恩寺 舞童島 三田渡 広津 松坡 岩寺 渼陰 0 1 図 4 - 1 纛苫~平邱(陸地測量部 5 万分 1 地形図「纛嶋」(1926)、「広州」(1918)にもとづき作成) 2㎞ 平邱 ― 18 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 渼陰 平邱 徳沼 堂亭 八堂 斗尾峡 馬峴 牛川 トゥムルモリ 并灘 北漢江 簇子島 0 月渓遷 1 2㎞ 図 4 - 2 平邱~トゥムルモリ(陸地測量部 5 万分1 地形図「纛嶋」 (1926)、「磨石隅里」 (1927)、「広州」「楊平」 (1918)にもとづき作成) ― 19 ― 馬峴 牛川 トゥムルモリ 并灘 北漢江 簇子島 月渓遷 大灘 上心 蹄灘 タルレギ トックシル 0 1 2㎞ 楊平 図 4 - 3 トゥムルモリ~トックシル(陸地測量部 5 万分 1 地形図「磨石隈里」(1927)、「楊平」(1918)にもとづき作成) ― 20 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から トックシル 楊平 この間に長灘、盤 渦灘、洗心灘あり 洗心 仰徳 九尾浦 下紫浦 上紫浦 婆娑山城 梨浦 甫通 チャヌムル 0 1 2㎞ 楊花 図 4 - 4 トックシル~仰徳~甫通(陸地測量部 5 万分 1 地形図「磨石隅里」(1927)、 「楊平」「龍頭」「梨浦」(1918)にもとづき作成) ― 21 ― 甫通 楊花 サビ 孝宗陵 世宗陵 神勒寺 驪州 プラウ 又晩 フンバウィ 0 1 2㎞ 図 4 - 5 甫通~サビ~プラウ(陸地測量部 5 万分 1 地形図「驪州」「梨浦」(1918)にも とづき作成) ― 22 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 驪州 プラウ 又晩 フンバウィ 康川 ペトゴリ 古陽沼 興原倉 法泉 蟾江 魯林 0 1 2㎞ 図 4 - 6 プラウ~フンバウィ~古陽沼(陸地測量部 5 万分 1 地形図「驪州」「文幕」(1918)にもとづき作成) ― 23 ― ○ 4 月 14 日(航行距離 20 里=約 8㎞) 早朝に起床、船にもどり朝食をとる。船員の所用のため午始(11 時台)に出 発。10 里で月渓遷(現・楊平郡楊西面新院里月渓一帯の峡谷)に達する。その 上流には沙灘(40)がある。ほどなく大灘(現・楊平郡楊西面大心里大灘または 付近の瀬)について昼食。名高い難所だが、便風を得て帆走、昼過ぎに上潯里 (現・楊平郡楊西面大心里上心)(41)に到着。乗船はここが終点なので、清風郡 (42) の荷船に乗り換える。夕刻近くに蹏灘(現・楊平郡楊西面福浦里蹄灘) を通 トックシル (43) に停泊し、元 過。日が暮れて物秣禿村(現・楊平郡楊平邑梧濱里덕구실か) 氏の酒店に投宿。 ○ 4 月 15 日(航行距離 20 里=約 8㎞) 早朝に船にもどり、数里を進んで朝食をとり、楊根郡治(現・楊平郡中心 部)を通過する。長灘(44)を通過、盤渦灘(45)で昼食をとる。便風がなく遡航 (46) に苦しむ。西心灘(一名西灔灘。現・驪州郡山北面洗月里洗心付近の瀬) で 夕食をとり、仰徳村(現・楊平郡介軍面仰徳里仰徳)に停泊、趙氏家に投宿。 ○ 4 月 16 日(航行距離 20 里=約 8㎞) 巳刻(9・10 時台)に船にもどり朝食をとる。船員が隣船を曳いて西心灘を 遡上しているため、すぐには出発できない。瀬が多く、便風もなく、遡航に (47) 苦しむ。子真浦(現・楊平郡介軍面上紫浦里・下紫浦里一帯) で昼食をとる。 その後、西風を得て帆走するが風力が弱く、速度が遅い。昼過ぎに婆娑山城 下を通過(48)。夕方に紫灘(未詳)に停泊して夕食をとり、日が暮れて白厓村 (49) (一名棃湖。現・驪州郡金沙面梨浦里川陽) を通過。日没後、甫通村(現・ 驪州郡大神面甫通里甫通)に到着。水深が浅いため川のなかに船を泊め、漁船 を呼んで上陸し、楊氏家に投宿。 ○ 4 月 17 日(10 里余=約 4㎞余り) 巳刻(9・10 時台) 、村前に来泊した船にもどって朝食をとる。出発後、ほ どなく盗灘(未詳)を通過し、昼食をとる。やや便風を得て帆走、日が暮れて サ ビ (50) 碑石村(現・驪州郡大神面川南里사비) に停泊して夕食をとり、李氏の旅店 に投宿。 ― 24 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から ○ 4 月 18 日(航行距離 20 里=約 8㎞) 早朝に軽食をとり、辰刻(7・8 時台)に船にもどり朝食をとる。10 里もい かずに英陵(朝鮮世宗陵)と寧陵(朝鮮孝宗陵)の前を通過。午刻(11・12 時台) 、驪州治(現・驪州郡中心部)を望む。5 里もいかずに神勒寺を過ぎ、 プ ラ ウ (51) 昼食をとる。夕刻、仏阿村(現・驪州郡驪州邑丹峴里부라우) に停泊して夕 食、扈氏家に投宿。 ○ 4 月 19 日(移動距離 35 里=約 14㎞。ただし陸路を含む) 辰刻(7・8 時台)に船にもどり出発。棗木湾(現・驪州郡驪州邑又晩里 フンバウィ (52) (53) で朝食をとり、昼前に白巌村(現・驪州郡驪州邑欣岩里흔 바위) 前 か) (54) にて河 に到着。船を下り、陸路を進んで江天村(現・驪州郡康川面康川里) (55) を渡り、また楊樹阿渡(現・驪州郡占東面三合里古陽沼) で河を渡る。法泉 村(現・原州市富論面法泉里)にいたって昼食をとる。その後、魯林(現・原 州市富論面魯林里)の旧庄に到着。 3.2 下航 ○ 5 月 10 日(航行距離 50 里=約 20㎞) 昼過ぎに魯林を出発して興元倉(朝鮮時代に漕倉の興原倉がおかれた現・原 チャンマル (56) 州市富論面興湖里창말) より乗船。蟾江口を通過。夜、神勒寺を通過、さら に 15 里を進んで碑石村に到着し、崔氏家に投宿。 ○ 5 月 11 日(航行距離 90 里=約 36㎞) 船にもどり朝食後に出発。西心灘にいたって昼食をとり、日が暮れて並灘 (57) (前出の并灘に同じ) を下る。夜に馬峴に到着、再び丁若鏞を訪ねた後、江 辺の村家に投宿。 ○ 5 月 12 日(航行距離 60 里=約 24㎞) 船にもどり朝食後に出発。雨のため、すみやかに進めず。広津にいたって昼 食をとる。昼過ぎにも雨がやまず前進と停止をくりかえす。日が暮れて (舞童島。楮子島ともいう(58))に停泊し、梁氏家に投宿。 ― 25 ― 島 ○ 5 月 13 日 朝食後、5 里の移動で纛苫に到着、船を下りる。 4 航程の分析 4.1 通過地点 ここでは韓鎮 が船旅のなかで通過地点として記載した場所の性格について 解説する。ただし宿泊地については後ほど別途に検討する。 4 月 12 日に一行が出航した纛苫は、前述のごとくソウルと漢江中・上流部を 結ぶ水運のターミナル港の 1 つである。イザベラ・バードは漢江鎮より出航し、 前述の尹行恁も同様だったとみられるが、これもまた同様な機能をもつ主要河 津であった。 三田渡、松坡鎮、広津渡(写真 1) 、渼陰渡(写真 2)は、いずれもソウル東 郊の漢江辺における主要な津渡である。特に松坡鎮は、当時ソウル郊外の商品 集散市場として発展し、都城内の商業・物流にも大きな影響をあたえるほどに なっていた(59)。広津~纛苫間において、本来漢江は南北に分岐して西流して おり、南の松坡側が主要な流路だった。しかし 1970 年代前半にこれを閉めきり、 北側の流路を拡張したことで、現在は陸地化し、石村湖に名残をとどめるのみ である。 4 月 13 日に朝食のため一時停船した餅潭、すなわち徳沼(写真 3)は、近代 以降において河津の 1 つとして知られているが(60)、尹行恁「東征記」壬寅 9 月 丁未でも、 「徳潭」 (徳沼)で酒店に宿泊したとしている。朝鮮末期の楊根分院 (宮廷御用器皿の生産地)の貢人だった池圭植の『荷斎日記』(61)にも、壬辰年 (1892)閏 6 月 20 日に漢江を下航中、徳沼で船を泊めて船員たちが「岸上一酒 楼」で飲酒し、甲午年(1894)4 月 3 日にも漢江を下航中、徳沼に一時停泊し て昼食を購入したことが記されている。朝鮮後期にはすでに河津として機能し ていたようであり、場市も成立している(62)。 八堂灘(写真 4)を経て斗尾峡(写真 5)の狭窄した渓谷を通過すると、一行 マジェ は当時馬峴(訓により마재ともいう)に住んでいた丁若鏞を訪ねるため一時下 ― 26 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 写真 1 対岸からみた広津(2010.9.11) 写真 2 対岸からみた渼陰(2010.9.11) 写真 3 上流からみた徳沼(2010.9.12) 写真 4 八堂付近(八堂大橋)の漢江 (2010.9.12) 写真 5 増水した斗尾峡(2010.9.12) 写真 6 丁若鏞墓からみた馬峴の風景 (2010.9.12) ― 27 ― 船する(写真 6) 。少なくとも 20 世紀前半にはここと広州側の牛川(旧・広州郡 南終面牛川里/現在は八堂ダムに水没)とを連絡する渡しがあり(63)、朝鮮後期 にもそうだった蓋然性は高い。しかし牛川が近代以降に主要な河津の 1 つとし て知られ(64)、朝鮮後期の漢詩にもそこでの船の出入りが数多く詠まれているの に対し(65)、馬峴側にはそのような機能が特に知られていない(66)。船員の側に も寄泊する何らかの理由(風待ち・小休止・船荷の積み下ろし etc.)があった のかもしれないが、乗客の要望に応じて立ち寄っただけである可能性もある。 4 月 14 日にまず通過した月渓遷(写真 7)は斗尾峡と同様に狭窄した渓谷で ある。ついで大灘(写真 8)にいたるが、ここは近代以降において河津・渡し 場の 1 つとして機能している(67)。朝鮮後期には漕運のために水站がおかれ(68)、 日本使行の途上にあった金世濂もここで宿泊しようとしている(ただし疫病の (69) ため中止) 。また李徳寿(1673 ~ 1744)は、乙卯年(1735)に荘陵(朝鮮 端宗陵)の「改莎」 (芝草交換)のため寧越に出張した際、帰路は漢江を船で 下り、大灘で宿泊した(70)。丁若鏞の「順風が得られず大灘に泊まる(滞風宿 大灘) 」と題する詩(71)も、楊根の大灘で風待ちのため宿泊したことを詠った ものである。こうした状況からみて、朝鮮後期にも大灘は舟運の中継地として 機能していたとおもわれる。ただし『入峡記』でも言及するように、ここは河 中に危険な岩盤が存在するため、漢江最大級の難所として名高い。そのため朝 鮮政府は岩盤を掘削して船道を拡張する工事を繰り返し試みたのだが、それに ついては後述する。 ついで通過した上潯里、すなわち上心里(写真 9)は、近代以降において河 津・渡し場の 1 つとして知られている(72)。朝鮮後期の地誌にも津渡や場市の 所在が記載され(73)、ソウルに薪炭を運んだ韓鎮 の乗船の最終到着地だった ことからも、荷船の河津だったことがわかる。尹行恁「東征記」壬寅 9 月己酉 サンシム 」で宿泊したと伝えている。 でも「桑潯(쌍심) 蹏灘、すなわち蹄灘については河津・渡し場等の機能が知られていないが、 タ ル レ ギ ナ ル 少なくとも近代以降には村はずれに다루레기 나루という渡し場が存在した(74)。 4 月 15 日に通過する楊根邑治には、漢江に面して葛山という丘陵があり、そ ― 28 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 写真 7 月渓遷(2010.9.12) 写真 8 水位が高くなった大灘(2011.9.18) 写真 9 上心里の船着場(2010.9.12) 写真 10 楊平の船着場(2010.9.13) 写真 11 下紫浦の船着場(2010.9.13) 写真 12 上紫浦の船着場(2010.9.13) ― 29 ― (75) の麓が近代以降において主要な河津の 1 つとして知られている(写真 10) 。 朝鮮後期の地誌にも津渡として登場し(76)、すでに同様な機能をはたしていた ようだ。1894 年に the Yang-kun magistracy(楊根郡)を通過したイザベラ・ バードは、ソウルに送る地域の物産がここでサンパン sampan(小型船)に積 みこまれ、また多数のジャンク junk(大型船)が塩を荷下ろししていたと伝 えている(77)。 4 月 16 日にはまず子真浦、すなわち上・下紫浦里(写真 11・12)を通過す るが、ここも近代以降において河津・渡し場の 1 つとして知られ(78)、朝鮮後 ク ミ 期にも津渡として「紫浦津」の名がみえる(79)。そのすぐ下流の九尾浦(구미 ポ 포)(写真 13)には朝鮮時代より渡し場があったが(80)、『入峡記』では言及さ れない。韓鎮 は乗船が子真浦まで遡航する手前で瀬に苦しめられたと記して コブン ヨウル いるが、あるいは、九尾浦と下紫浦里の間にある고분 여울という瀬(81)に相 当するかもしれない。 白厓村、すなわち梨浦(写真 14)は、朝鮮後期から近代以降を通じて漢江 中流部を代表する河津・渡し場であった(82)。朝鮮初期には漕運の水站もおか れている(83)。 4 月 17 日の航程では短距離の移動にとどまったこともあり、未詳の瀬に関す る言及以外、経由地に関する記述はない。ただし『入峡記』には言及されない ものの、区間内の楊花里には津渡があり(84)、近代以降にも河津・渡し場とし て継承されている(85)(写真 15) 。 4 月 18 日には驪州邑治を通過するが、北側の漢江辺は近代以降において主要 な河津の 1 つに数えられる(86)。朝鮮後期の地誌にも津渡の 1 つとして記載され (87) ている(写真 16) 。 4 月 19 日に通過する棗木湾、推定又晩里(写真 17)は、 『世宗実録』地理誌・ 忠清道に驪興(驪州)の東方 10 里にある田税積出港として記された「亏音安 浦」に相当する。15 世紀後半の記録にも「宇万倉」とみえる(88)。朝鮮後期に は津渡の 1 つとして「又晩津」が確認され(89)、近代以降にも有力な河津・渡 し場として機能している(90)。 ― 30 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 写真 13 九尾浦の船着場(2010.9.13) 写真 14 梨浦の船着場(2010.9.13) 写真 15 楊花里の船着場(2010.9.13) 写真 16 驪州の船着場(2010.9.14) 写真 17 又晩里の船着場(2012.3.20) 写真 18 フンバウィの船着場 (2010.9.14) ― 31 ― 白巌村、すなわちフンバウィ(写真 18)は朝鮮後期にも津渡として登場し(91)、 近代以降にもひきつづき有力な渡し場、および河津として機能していた(92)。 韓鎮 は白巌村で上陸して陸路を魯林へと進むなか、江天村、すなわち康 川里、および楊樹阿渡、すなわち古陽沼の 2 ヶ所で渡河する(93)。少なくと も近代以降においては康川と対岸の道里を結ぶ渡し場があり(94)、道里側は ペ ト ゴ リ 배 터거리(写真 19)という河津でもあった(95)。また古陽沼にも対岸の興湖 チャンナム ナ ル 里・法泉里方面と結ぶ渡し場として창남나루(写真 20)があり(96)、19 世紀後 (97) (98) 、 「楊沼津」 などと現れる。19 世紀前半に 半の地誌や地図にも「陽沼津」 もこれらの地点に渡し場があったのであろう。 帰路、5月10日に船を出した興元倉は、漕倉の興原倉がおかれた興湖里である (写真21) 。韓鎮 以外にも、船旅において同倉の地に寄港したこと、あるいは そこから船出したことが朝鮮前期より詩に詠われており(99)、漕運以外の舟運に おける機能がうかがえる。近代以降においては主要な河津・渡し場の1つとして 知られている(100)。 以上のほかにも韓鎮 の船旅における通過点としては、船上からみえる山城、 書院など沿岸の人工物も登場するが、大半は瀬や渓谷などの自然地形、もしく は上記の地名が占めている。それらの地名のほとんどは、近代以降における河 津・渡し場であり、朝鮮後期にも同様な機能をはたしていたことが確認ないし 推察された。いいかえると、沿岸に点在するこれらの舟運拠点をランドマーク としながら、船が進められたのである。 4.2 宿泊地 ここでは韓鎮 が宿泊した場所の性格について検討する。 4 月 12 日に宿泊した平邱駅(写真 22)は、ソウルから春川・原州など江原 道南部地域へ抜ける幹線路上の駅である。韓鎮 によると、集落は凋落してい たが、商客をもてなす「酒店」 (酒幕)が存在したという。ただ平邱駅は漢江 辺からやや内陸に入った位置にあり、河津としての機能はこれまで特に知られ ていない。 ― 32 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 写真 19 ペトゴリから康川を望む (2012.3.19) 写真 20 チャンナム・ナル(2010.9.14) 写真 21 興湖里前の漢江。右端は蟾江河口 (2012.3.19) 写真 23 トゥムルモリの船着場 (2010.9.11) 写真 22 平邱から漢江方向を望む (2010.9.11) 写真 24 トックシル前の漢江(2010.9.13) ― 33 ― しかし李晩栄(1604 ~ 72)の詩に、 「平丘より船に乗り広津に下る(自平丘 乗船、下広津) 」と題するものがある(101)。また前出の李徳寿は、1735 年の寧 越出張から漢江を下ってソウルにもどる際に、 「平邱」で下船して宿泊した(102)。 憲宗 2 年(1836)にまだ幼かった崔益鉉(1833 ~ 1906)の一家が丹陽に移住 した際には、 「平丘」から乗船し、 「木渓」 (現・忠州市厳政面牧渓里)まで遡 航したという(103)。また前出の貢人池圭植も、辛卯年(1891)8 月 6 日と己亥年 (1899)4 月 11 日の二度、牛川より纛苫まで漢江を下っていく途中、 「平邱」で 一時下船し、食事を購入している(104)。 こうした状況からみて、朝鮮後期、平邱の江辺に船が出入りしていたことは 確実であり、韓鎮 と同様に水路をたどってきた旅人たちも同駅を利用したこ とがうかがわれる。 4 月 13 日に宿泊した二水頭村、すなわちトゥムルモリ(写真 23)は、漢江 本流と北漢江の合流点に位置する交通の要衝である(105)。韓鎮 は「江原道と の間を往来する商人・旅客が集まる場所(関東商旅都会処) 」と表現している。 尹行恁の「東征記」でも 9 月丁未にここで宿泊したことを記しているが、前出 の池圭植は、辛卯年(1891)6 月 10 日に「明叔の炭運搬船が江を下って両水頭 (=トゥムルモリ)に到着した(明叔炭船 下江至両水頭) 」と記している(106)。 また丙申年(1896)2 月 11 日に「二水頭の渡し場を渡(渡二水頭渡頭) 」り、 戊戌年(1898)9 月 15 日にも「あわただしく両水頭に着き、船を呼んで川を渡 (怱怱至両水頭 呼船渡水) 」っている(107)。韓鎮 の時代にも二水頭村が渡し場 や舟運の中継地として機能していたとみてよいだろう。 4 月 14 日に宿泊した物秣禿村が、筆者の推定どおりトックシル(写真 24)に 対応するとすれば、近代以降に河津・渡し場として知られるこの地が(註 43 参照) 、すでに朝鮮後期よりその機能をはたしていたことを示す傍証となる。 これはいまのところ他の史料からは得られない情報である。 4 月 15 日に宿泊した仰徳(写真 25)は、近代以降において渡し場・河津と して機能していた(108)。 『輿地図書』驪州・津渡や 19 世紀末の地誌(109) にも 「仰徳津」とみえる。1636 年、日本にむかう金世濂が漢江を遡航した際には、 ― 34 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 写真 25 対岸からみた仰徳(2010.9.13) 写真 26 甫通(2010.9.13) 写真 27 チャヌムルの船着場(2010.9.13) 写真 28 チョンナム・ナル(2010.9.13) 写真 29 プラウの船着場(2010.9.14) 写真 30 炭川河口。左岸がかつての 舞童島(2012.9.18) ― 35 ― 彼自身ではないが「上使」の乗船が「仰徳村」に停泊したらしい(110)。粛宗 2 年(1676)に清風府使に任じられた任相元(1638 ~ 97)も、赴任途上で「仰 徳山村」に「船を泊」めている(111)。朴長遠(1612 ~ 71)の漢江紀行詩集「舟 行録」(112)にも「宿仰徳里」と題する詩をおさめる。以上の事例から、仰徳村 は朝鮮後期においても舟運の中継地として機能していたことがうかがわれる。 『入峡記』では 4 月16日に宿泊した甫通(写真26)について、水深が浅く、乗 船をじかに接岸できなかったと記す。良好な舶船地ではなかったらしい。ただ チャヌムル 少なくとも近代以降には対岸の찬우물(驪州郡興川面上白里)とこの方面をむ すぶ渡しが存在し(写真27) 、チャヌムル側は河津としても利用されていた(113)。 また韓鎮 は、同道している李哲儒(成汝)が科挙受験のため上京する際にも 甫通村で同じ楊氏宅に宿泊したと記している。舟運における機能はこれまで特 に知られてこなかったが、朝鮮後期、甫通側にも必要に応じて船舶が寄港した のかもしれない。 4 月 17 日と帰路の 5 月 10 日に宿泊した碑石村、すなわちサビには、少なくと チョンナム ナ ル も近代以降には천남나루(写真 28)という河津・渡し場が存在した。荷船や 流し筏が停泊し、これらを相手とする酒幕もあったという(114)。韓鎮 は、碑 石村が横城・洪川など江原道の物産をソウルに船で運ぶための集積地だと説明 している。少なくとも 19 世紀初めの段階でサビが地域の物流の有力なハブだっ たことは、他の史料からは得られない情報である。 4 月 18 日に宿泊した仏阿村、すなわちプラウ(写真 29)は、近代以降にお いて河津・渡し場の 1 つとして機能していたが(115)、朝鮮後期の地誌でも津渡 の 1 つとして「丹岩(巌)津」を記載している(116)。 帰路の 5 月 11 日に宿泊した馬峴については、前述のごとく河津としてのめ だった機能が知られていない。一行が宿泊したのも、丁若鏞を再訪する都合か らの部分が大きいようだ。 5 月 12 日に宿泊した 島、すなわち舞童島(楮子島)(写真 30)について は、舟運における機能がこれまで特に知られていない。しかし尹行恁の「東征 記」では、ソウルを出発する際、いったん「奉恩寺」に宿泊した後、その東 ― 36 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から の「舞島」 (舞童島)から出航している(9 月丙午・丁未)。前述した朴長遠の 漢江紀行詩集「舟行録」の第 1 首も「宿楮子島」である。黄胤錫(1729 ~ 91) の場合は逆に「渼上」 (渼陰付近か)より「京城」に船でむかう途中、「舞童島 東」で浅瀬のため進めなくなり、ここで船を下りて「奉恩寺」に投宿したと いう(117)。このほかにも黄景源(1709 ~ 87)の詩に「泊楮子島」(118)、申聖夏 4 4 4 4 4 (生没年未詳/朝鮮後期)の詩に「船還舞童島。誦柳州漁父詩、仍用其韻」(119) などとあることをはじめ、同島への船舶来泊について詠んだ朝鮮後期の詩文は 数多い。船着場があったことは確実であり、漢江を遡航ないし下航する船舶も そこに来泊したのである。上記の申聖夏はまた「舞童島。又用前韻」と題する 詩のなかで「汲江商女」と「酒家」の情景を詠っている(120)。舞童島には旅人 に寝食を提供する施設も存在したのであろう。 以上のように韓鎮 らの宿泊地は、馬峴を除き、いずれも河津か、少なくと もこれに準ずる舟運の中継地として機能する場所だったとみられる。 各地の宿泊先について、 「酒店」 「旅店」と呼ばれる宿泊施設だったことを明 示するのは、物秣禿村の元氏宅と碑石村の李氏宅のみである。逆にいうと、こ れら以外の宿泊先は、必ずしも旅館業を営んでいたわけではないのかもしれな い。少なくとも平邱駅での宿泊先の主人尹氏は「中軍」(駅の将校)であった (ただし副業を営んでいた可能性はある) 。 しかし甫通村の楊氏宅が繰り返し旅客を宿泊させていたことからすると、専 門業者というほどではなくとも、河津の住民は、旅客の求めに応じて寝場所を 間貸ししていたのかもしれない(121)。仏阿村の場合、在地有力者の閔氏が亭舎 の普請のため大勢の「土木之匠」を村内に呼び寄せていたため、他の旅客が宿 泊先を確保しにくくなっていたという。 一方、馬峴の場合、唯一例外的に宿泊先の主人の姓を記さず、単に「江辺村 家」としている。あるいはこのあたりの違いも、日常的に旅客を宿泊させてい た河津集落と、そうではない集落との違いが関係しているのかもしれない。 ところでイザベラ・バードは、船頭に対する不満として次のようなことも述べ ている。 ― 37 ― それから船を繋留する場所をめぐる口論が毎日のように続いた。当然キム は、たっぷり煙草をのみ雑談ができる集落や大型船のそばを望んだ。一方、 わたしの希望は、人里離れて静かで、河床が丸小石のところであり、たい てい、わたしはミラー氏の助けで自分の主張を通した。(122) しかし河川における船舶の繋留可否は、水流、水深、河岸・河床の地形・地 質などの諸条件によって左右され、どこでも自由に選べるわけではない。当然、 河津・渡し場などの船着場は、そうした一定の条件を具備しているからこそ成 立したものである。船頭キムが停泊しようとした河辺の集落や大型船の停泊地 は、まさにそうした船着場であった可能性が高い。その意味において、船頭キ ムの要望も、単なる娯楽目的ではなく、技術的な要因が関係していた可能性が ある。またその娯楽にしても、肉体の酷使と精神の緊張を強いられる船乗りに とっては、不可欠な休養の一環といえる。彼らが寝食・娯楽などの休養を得る 場の存在は、舟運を支えるインフラストラクチャーにほかならない。そしてそ れが立地する場所こそ、河津や渡し場なのである。船頭キムの要望は、必ずし も不当とは限るまい。 4.3 航行速度と季節的条件 韓鎮 は毎日の移動距離を記している。もとより大雑把な見当であろうが、 実情にも比較的近い。ただし 4 月 14 日の 20 里(約 8㎞)に関しては、この日出 発したトゥムルモリから推定到着地であるトックシルまで少なくとも 15㎞程 度はあり、確実に通過した蹄灘まででも 13㎞程度にはなるので、場合によっ て 2 倍近い誤差があることになる。 全般的傾向としては、上流に進むほど 1 日の航行距離が落ちる。特に現在の 楊平中心部(旧楊根邑治)あたりを境として、ペースが半分程度ないしそれ以 下に落ちている。帆走に利用する風の条件に関して下流部と中流部で決定的な 違いがあった様子はうかがえないので、これは河川そのものの状況に起因する ― 38 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 可能性が高い。 イザベラ・バードはその乗船の遡航速度の遅さにいらだちを隠していない。 しかし私がいい得る最悪なこととして、次のことを指摘し記しておく。彼 らは 1 日に決して 10 マイル以上進まなかったし、7 マイルに満たないこと もしばしばで……(123) 〔船頭〕キムの怠惰と早瀬の頻繁な出現のため、10 マイルも進めば 1 日の 旅程として良いとおもうようになった!(124) しかし 10 マイル(約 16㎞)は約 40 里、7 マイル(約 11㎞)は約 28 里であり、 韓鎮 一行の航行速度と同等である。バードは 4 月 14 日にソウルを出発し、4 月 16 日に北漢江合流点を通過し、4 月 19 日に驪州に到着した(日付は太陽暦)。 一方、韓鎮 たちは 4 月 12 日にソウルを出発、4 月 14 日に北漢江合流点に到 達、驪州を通過したのは 4 月 18 日だった。北漢江合流点まではバードと同等だ が、驪州までは 1 日ほど余分にかかったことになる。近代以降の漢江舟運に関 しては、沿岸住民に対する聞き取りから、一般にソウルから楊根まで 3 日、梨 浦まで 4 日、驪州まで 5 日を要するとのデータがある(125)。これをみると、バー ドの航行ペースは標準に近く、むしろ韓鎮 のほうが遅れ気味だったことがわ かる。 韓鎮 の航行時期は、太陽暦に換算すると 5 月下旬であり、バードよりも 1 ヶ月ほど遅い。1823 年と 1894 年の各時点における水量等の河川状況は不明 であり、厳密な相互比較はできないが、前述した平均的な水量変化からいうと、 ともに冬季の渇水から夏季の増水にいたる狭間の時期であり、大きな差はない。 むしろ融雪の影響により、バードが旅した 4 月のほうが、平均水量は相対的に 多い。 またバードが使用したのは全長 28 フィート(約 8.4 m)のサンパン(ボート) だった(126)。一方、韓鎮 の乗船は、途中で一度乗り換えたが、いずれも積荷 ― 39 ― と船員のほかに韓鎮 ら計 9 名の乗客を搭載できる荷船であり、ずっと大型 だったはずである。このようにみてくると、一見、バードの乗船のほうが漢江 の遡航に好都合だったようにおもわれるかもしれない。 しかしバードの旅行記録やその収載写真からうかがわれるところ、韓鎮 の ケースとは異なり、彼女の乗船には条件さえ整えば最も効果的な推進具である 帆がなかった。また瀬越しなどで協力し合うための同行船もなかった(漢江船 の船体と運航法については後述) 。韓鎮 の乗船よりもバードのほうが遡航に 有利だったとは、簡単にはいえないのである。 いずれにせよ、船乗りたちの働きぶりに対するバードの批判はともかく、少 なくとも彼らが結果としてはたした仕事内容は、漢江中・下流部における一般 的な船舶運航状況と比較して、特に遜色のないものだった。 次に、ソウルから驪州までの遡航について、尹行恁・金世濂の事例とあわせ て宿泊地の相互の距離関係に関するイメージを図示する。これによって、驪州 まで 5 日間とされる標準的な航程における逐日のペースを推定してみよう(127)。 図5 漢江遡航の逐日ペースの比較 韓鎮 の場合、前述のごとく 4 日目以降に遅滞をきたしたことが標準ペース より遅れた原因とみられる。とりわけ仰徳あたりからのペース・ダウンが主因 であろう。尹行恁に関しては、3 日目の距離が多少短いが、全体として安定し た航行状況であり、標準日数で驪州に到着している。一方、金世濂の場合、政 府派遣の使節団として労働力も潤沢だったと推測されるうえ、夜間にも進むこ とが多かったせいだろう、標準ペースよりも大幅に速い。 以上のような各事例の個別事情を勘案しつつ相互につきあわせると、ソウル から 5 日分の標準的な進行ペースは、おおよそ次のように復元されよう。 ― 40 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 第 1 日:徳沼あたりまで 第 2 日:両水(トゥムルモリ)あたりまで 第 3 日:楊平中心部(旧楊根)あたりまで 第 4 日:梨浦あたりまで 第 5 日:驪州あたりまで 3 日目以降の各日の移動距離はおおむね同等になり、1 日目・2 日目と比較し ても若干短縮する程度である。悪条件さえなければ、こうした運航が可能だっ たのであろう。この日程は、前述した中流各地までの遡航所要日数に関する一 般論とも符合する。 一方、下航日数に関しては、近代以降の状況に関して一般に驪州から 2 日、 楊根から 1 日という聞き取り調査がある(128)。韓鎮 のケースでは碑石村(サ ビ)を発った 5 月 11 日からの航程が驪州発の距離とほぼ同等である。纛苫まで は 3 日間を要したが、到着前日に停泊した 島、すなわち舞童島は、ほぼそ の対岸に位置する。しかもその当日は雨のために進航が妨げられていた。した がって、実質的な所要日数は 2 日間であり、標準に近い航程だったといえる。 漢江舟運の季節的な動静について、結氷期には運航休止という以外、客観的 なデータにもとづく詳細状況はいまのところ不明である。ただ西江・麻浦の前 パムソム 面に浮かぶ栗島(밤섬)出身の船大工に関する 1980 年のルポタージュに、典 拠は不明ながら次のような記述もある。 ヌルペ この늘배(=漢江舟運の主力船――後述)は、西江や麻浦から塩を積みこ み、丹陽や永春を経て、寧越までかよった。積み荷の塩を下ろした船頭た ちはたいてい、“ 雪が解け出す頃 ” になって塩を売り尽くした後にも、す ぐには〔河を〕下らず、のんびりと休み、梅雨に入る頃にようやく豆を ぎっしり積んで下った。(129) この文章だけをみると、漢江船は雪解け前に上り荷をもって上流方面へと遡 ― 41 ― 航し、梅雨時になってから下り荷をもってソウルにむかうのが一般的だったと いうことになる。この場合、上り荷は梅雨以降ということになるが、渇水期や 結氷期に入ると遡航が困難になるので、晩秋までには運航を完了したことにな ろう。 しかし韓鎮 やイザベラ・バードの描く状況からは、雪解け後、梅雨前の低 水期においても、漢江を遡航する荷船が多数あったことがわかる。上記のルポ タージュに信憑性があるとすれば、おそらくこれはあくまで丹陽・永春・寧越 など上流部まで往来する船に関する説明なのであろう。20 世紀初めの『治水 及水利踏査書』でも、清風より下流では常時航行の便があり、それより上流で は高水時にのみ航行の便があるとしている(130)(ただしこの “ 常時 ” とは、正確 には “ 冬季の結氷期を除き ” という意味にとるべきである)。確かに韓鎮 らが 遡航の旅の前半で利用したのは上心里どまりの船であり、後半で便乗したのも 清風郡の荷船だった。 丹陽をめざす韓鎮 は、驪州通過後に船を下り、陸路にきりかえたが、その 後も可興村(現・忠州市可金面可興里) 、黄江、清風など漢江沿いの地点を通 過している。船便を利用しなかったのは、増水期前で上流部への通船状況が悪 かったことが関係するのかもしれない。イザベラ・バードが、 われわれは、5 月初めに永春まで進むという大変な偉業をやってのけた。 それより上流に船はなく、長い距離を旅したため、私のサンパンは浮いて いるとかろうじていえる状態だった。(131) と語ったのは、永春までの遡航が、そうした季節的制約のなかであえて実施さ れたことを示すものであろう。 ただし一方では上記の文言から、その時期、上流部でも永春から下流では船 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 が皆無だったわけではないことも示唆される。近代以降に関する民俗調査によ ポムチャンマ ると、春の菜種梅雨(봄장마)を利用して寧越まで上がり、1、2 ヶ月かけて 穀類や豆類を集荷して下航することもあったという(132)。 ― 42 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 引用・参照文献(本号利用分のみ。全体目録は次号に掲載) 【日文】 安宇植(編訳)[1988]『続・アリラン峠の旅人たち――聞き書き朝鮮職人の世界』平凡社 稲城市教育委員会(編)[1991]『稲城市の民俗(四)――多摩川中流域の川船』稲城市教育 委員会 印南敏秀[2002]『水の生活誌』八坂書房 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(Mrs. Bishop)[1970]Korea and Her Neighbours, Yonsei University Press (Reprinted. First Edition 1897). 註 (1) 漢江本流の水源と河口の位置に関する見方については、이・김[1990]60 ~ 62・70 ~ 71 頁、参照。歴史的には五臺山中の于筒水が水源とみなされ、河口については臨津 江合流点、または江華島北端とする見方もあった。 (2) 서울特別市史編纂委員会[1985]、六反田[1991]、李相培[2000]など。 (3) 近年のまとまった成果としては、高東煥[1998]参照。 (4) 최영준[1997]。 (5) 이・김・배・이[2007]。 (6) 京畿道博物館[2002]、이・김・배・이[2007]。 (7) 印南[2002]。 (8) たとえば前沢[1965]、湯浅[1966]、広島市郷土資料館[1986]、渡辺[1990]、稲城 市教育委員会[1991]など。 (9) 朝鮮史分野において「環境史」に関わる議論は農業、気候、疾病などをめぐって過去 にもおこなわれてきたが、韓国の歴史学界では近年、東洋史・西洋史分野から、独立 した研究テーマとしての「環境史」が本格的に紹介されるにいたった(김기봉[1999]、 また『東洋史学研究』99(2007 年)と『西洋史論』100(2009 年)における「環境史」 特集。『西洋史論』の特集では特に김기봉[2009]と이종찬[2009]が理論的問題を あつかっている)。そして「環境史」という術語こそ用いていないが、金東珍[2009] は、ヒトと自然の関係性を朝鮮史研究のテーマとして明示的に設定した単著である。 ― 44 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から (10) 事業内容については韓国建設技術研究院[2009]、4 대강살리기추진본부ホームペー ジ(http://www.4rivers.go.kr/)、韓国水資源公社ホームページ(http://www.kwater. or.kr/)参照。4 대강살리기추진본부のホームページでは事業推進状況も確認できる (2013 年 1 月 30 日現在、同 URL は閉鎖され、「4 대강이용도우미」のページに移行して いる――筆者補)。 (11) 高光敏[2006]157 頁。 (12) 이・김[1990]63 ~ 64 頁。 (13) 小倉・島谷・谷田[2010]40・60 頁。 (14) 이・김[1990]69 頁。 (15) 小倉・島谷・谷田[2010]40・60 頁。 (16) それぞれ최영준[1997]112 頁、安守漢[1995]47 頁。なお前者では、その典拠が建 設部[1981]202 頁であるかのように註を付すが、実際には漢江の比較対象として列 挙された大陸の諸河川の河況係数の典拠である。 (17) 阪口・高橋・大森[1986]225 頁。 (18) 安守漢[1995]47 頁。 (19) 朝鮮総督官房土木課[1920]342 ~ 343 頁。 (20) 崔永俊も同じ数値データ(分母を 1 万とする数値のまま)を提示するが(최영준 [1997]111 頁)、典拠として提示された朝鮮総督府[1923]にはかかるデータが収録 されていない。 (21) 近世利根川水運の上流終着点は、河口から約 200㎞上流に位置する支流烏川の倉賀野 河岸(群馬県高崎市倉賀野町)であった。もとよりここに河岸がひらかれたのは、舟 運の技術的制約のみならず、中山道との接続という別の要件も関係している。前沢 [1965]参照。 (22) 臨時土地調査局[1919]第 26 表。 (23) “Its most marked features, to my thinking, are……its singular alternations of shallow with very deep water. It was a common occurrence to have to drag my boat, drawing only 3 inches, through water too shallow to float her, and at the top of the ripple to come upon a broad, still, lake-like, deep, green expanse, 20 feet deep, continuing for a mile or two.”(Bird[1970]75 頁) なお訳出に際しては時岡敬子の日本語訳(バード[1998])も参考(以下同じ)。 (24) 최영준[1997]113 ~ 117 頁。 (25) 최영준[1997]123 頁。 (26) 姜[1973]、서울特別市史編纂委員会[1985]第 2 篇第 3 章第 2 節・第 3 節、劉[1987]、 崔完基[1989]、呉[1997]、高東煥[1997]、최영준[1997]、高東煥[1998]、이・ 김・배・이[2007]。 (27) 高東煥[1998]148 ~ 150 頁。 (28) 京畿道博物館[2002]、이・김・배・이[2007]。 ― 45 ― (29) 六反田[1991]。 (30) 崔完基[1989]、高東煥[1998]第 3 章第 2 節。 (31) 崔完基[1989]。 (32) 純祖 23 年(1823)9 月の登第である(『日省録』純祖 23 年 9 月 17 日壬午、 『承政院日記』 純祖 23 年 9 月 25 日庚寅)。 (33)『承政院日記』によると、憲宗 4 年(1838)10 月 23 日辛卯の受任である。 (34) 分析にあたっては朝鮮末期の楊根・驪州地域の地誌をそれぞれ数種類にわたって参照 した。煩雑をさけるため、以下では次のような略称を使用する。 「楊根A」:1842 ~ 43 年;『京畿誌』第 4 冊・楊根(韓国学文献研究所編『邑誌 10 ―― 京畿道篇①』(亜細亜文化社、1985 年)所収) 「楊根B」:1871 年;『京畿邑誌』楊根(同上書所収) 「楊根C」:1894 ~ 95 年;『畿甸邑誌』楊根郡(同上書所収) 「楊根D」:1899 年 5 月;『楊根郡邑誌輿地図成冊』(『京畿道邑誌』2(서울大学校奎章 「楊根E」:1899 年 11 月;『楊根郡邑誌』(韓国学中央研究院所蔵) 「驪州A」:1842 ~ 43 年;『京畿誌』第 1 冊・驪州(韓国学文献研究所編『邑誌 10 ―― 「驪州B」:1871 年;『京畿邑誌』驪州邑誌(同上書所収) 「驪州C」:1899 年頃; 『驪州邑誌』 ( 『京畿道邑誌』3(서울大学校奎章閣、1998 年)所 閣、1998 年)所収) 京畿道篇①』(前掲)所収) 収) 「驪州D」:年代未詳;『驪州牧邑誌』(同上書所収) 「驪州E」:1899 年以降;『驪州邑誌』(韓国学中央研究院所蔵) ピョン トク トク (35) 餅(병 )の訓は떡 であり、徳(덕 )に対応する。潭は淵のことで、前述のごとく沼 ソ (소)に対応する。平邱から 5 里(約 2㎞)という立地にも符合する。尹行恁の「東征 記」では壬寅 9 月丁未に「徳潭」と記される。 タンジョン (36) 当精と堂亭の朝鮮漢字音はともに당 정である。かつては集落も存在する大きな中洲 だった。尹行恁の「東征記」では壬寅 9 月戊申に「唐汀」と記される。 (37)『新増東国輿地勝覧』(以下『勝覧』と略称)巻 6・京畿・広州牧・山川では「渡迷津」 「渡迷遷」、『大東輿地図』では「斗迷」などと記す。 (38)『勝覧』巻 8・京畿・楊根郡・山川・并灘に「郡の西 45 里にある。驪江水と龍津水がこ こで合流する。ゆえに并灘という(在郡西四十五里。驪江水与龍津水合流於此。故云 并灘)」とあり、『輿地図書』京畿道・楊根郡・山川・并灘にも同文が載る。驪江水と は驪州を通過して流れる南漢江、龍津水とは龍津渡(北漢江最下流の渡し場)を通過 して流れる北漢江のことである。『入峡記』でもその名称由来について、「南江(=南 漢江)と北江(=北漢江)がここで合流するので名づけられた(以南江・北江到此合 流故名)」と記す。 トゥ ムル モ リ (39) 二の訓は두、水の訓は물、頭の訓は머리であり、二水頭は두물머리の漢字表記である。 ― 46 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から (40) 韓鎮 は「輿地勝覧」にみえる「没乃灘」にあたると記すが、『勝覧』巻 8・京畿・楊 根郡・山川にみえるのは「波乃灘」である。その位置を『勝覧』では「郡の南 28 里、 大灘の下流にある(在郡南二十八里、大灘下流)」と記すが、後述のように朝鮮後期 の地図・地誌ではいずれも大灘(後述)の上流とし、『入峡記』にもこれに相当する 瀬(盤渦灘)が別に登場する(後述)。沙灘を「波乃灘」に比定するのは、『勝覧』に モルレ モ レ おける「波乃灘」の用字を誤認し(そこで没乃(몰내)を沙の訓である모래に通じる と解したのであろう)、かつその誤った位置記載にひきつけられた結果生じた誤認で あろう。一方、「楊根B」「楊根C」「楊根D」「楊根E」の付図、および 19 世紀後半の 「楊根郡地図」(『朝鮮後期地方地図――京畿道編』(서울大学校奎章閣、1997 年)所収) では、月渓遷のすぐ上流に「青灘」を表示し、さらに「大灘」、「蹄灘」(後述)をさ かのぼって楊根邑治にいたる手前に「沙灘」を表示する。しかしこの「沙灘」の位置 を韓鎮 がここまで大きく誤認したとも考えにくい。沙灘と呼ばれる瀬、もしくは単 に普通名詞としての沙灘(土砂が堆積して形成された瀬)が、月渓遷のすぐ上流にも 存在したのであろう。あるいは上記の「青灘」に相当するのかもしれない。 サンシム (41) 上潯と上心の朝鮮漢字音はともに상심である。 チェ (42) 蹏と蹄の朝鮮漢字音はともに제である。なおこれは付近の瀬に由来する地名だが、韓 鎮 は政府高官の別墅所在地と説明しており、陸上の地名としての使用と判断される。 (43) 物秣禿村には船を泊めることができ、また「酒店」(酒幕)があったことからみて、 河津や渡し場だった可能性が高い。蹄灘と、韓鎮 がこの翌朝に通過する楊根(現・ 楊平郡中心部)との間に存在する河津・渡し場として、少なくとも近代以降には トックシル ナ ル オビン ナ ル 덕 구실 나 루(一名、梧濱(오 빈)나 루)1 ヶ所が確認され、酒幕などもたっていた (京畿道博物館[2002]423 ~ 425 頁、이・김・배・이[2007]82 頁)。陸地測量部 5 万分 1 地形図「磨石隅里」(1927 年)では当該地点を「徳谷里」と表示するが、朝鮮総 督府の『治水及水利踏査書』では、楊平と「北上心里」との間にある河津として、こ ムルマルドク の「徳谷里」をあげている(朝鮮総督官房土木課[1920]373 頁)。物秣禿(물말독) トッコンニ の禿が、덕구실や徳谷里(덕 곡리)の덕、またはその隣村である瓮岩(訓により トクバウィ 독바위ともいう)の독に対応する可能性があるが、それ以外に名称の相互関連性は不 明である。 (44)「楊根B」「楊根C」「楊根D」の付図および「楊根郡地図」(前掲)では、楊根邑治付 近の上流に「長灘」、さらにその上流に「波乃灘」、「洗心〔灘〕」(後述)の順に表示 する。 (45)「楊根B」「楊根C」「楊根D」の付図および「楊根郡地図」(前掲)では、「長灘」と その上流の「洗心〔灘〕」(西心灘、西灔灘――後述)の間に「波乃灘」を表示し、 『輿 地図書』京畿道・楊根郡・山川でも、波乃灘について「西心灘下流」、大灘について 「波乃灘下流」と記す。「楊根A」「楊根E」の付図でも楊根邑治と「西灔灘/洗心灘」 の間に「波乃灘」を表示する。柳馨遠の『東国輿地志』巻 2・京畿・楊根郡・山川・ 西心灘に「その下に波乃灘もある(其下又有波乃灘)」とあるのも同様な地理認識で ― 47 ― パヌァ あろう。こうした波乃灘の位置は、『入峡記』の盤渦灘と合致し、盤渦(반와 ban-wa) パ ネ は連音で波乃(파내 p’a-ne)の音価にも類似する。それぞれ同一の瀬であろう。戊申 年(1688)に漢江上流部へ旅した金昌翕(1653 ~ 1722)の記録「丹丘日記」(『三淵 パンネ 集』拾遺巻 27)に、楊根~仰徳間の行程(3 月 1 日)で言及される「盤乃」(반내)と いう瀬も同じものに違いない。なお前述のごとく、『勝覧』巻 8・京畿・楊根郡・山 川・波乃灘に大灘の下流と記すのは誤りと判断される。 (46)『世宗実録』地理誌・京畿・楊根郡では「西深灘」と記す。19 世紀の地誌・地図での 表示は前述のとおりだが、『輿地図書』京畿道・楊根郡の付図でも同じ位置に「西心 セシム ソシム 灘」を表示する。洗心の朝鮮語音は세 심で、西心・西深の音서 심に近い。現地では シムビョル ヨ ウ ル シ ム バ ラ ヨウル シムビョル ヨウル 쉼별 여울(이・김・배・이[2007]83 頁)、심바라 여울、심벼루 여울(京畿道博物 館[2002]421 頁)と呼ぶ。なお『勝覧』巻 8・京畿・楊根郡・山川・西心灘に「大灘 下流」と記すのは誤り。 ウィッ チャジンゲ アレッ チャジンゲ (47) 上紫浦里は「윗(=上)자진개」、下紫浦里は「아랫(=下)자진개」とも呼ばれ(京 畿道博物館[2002]416・419 頁、이・김・배・이[2007]85 頁)、子真浦(子真の漢 チャジン ケ 字音は자진、浦の訓は개)と同音になる。前述の金世濂「海槎録」崇禎 9 年 8 月 14 日 には、仰徳の瀬をさかのぼったその乗船が婆娑城に到達する前に「紫津」を通過した チャジン ことが記されているが、「紫津(자진)」は意味の上から紫浦に、音価の上から子真に つながる。 (48)『入峡記』では婆娑山城に関する記事を紫灘に関する記事の直後におさめるが、これ は時系列に反しているとみられる。紫灘の位置は不明だが、韓鎮 は子真浦での昼食 4 4 4 4 後、「晩」(夕刻)に紫灘に停船して夕食をとったことを記し、ついで「午後」に婆娑 城を「過」ぎたと記す。そしてその後のくだりで、“ 日が暮れたので「船に帰」り白 厓にむかった ” と記している。婆娑城を “ 通過 ” して白厓にむかったのであれば、“ 日が 暮れたので「船に帰」り ” という脈絡がかみあわない。「午後」に婆娑城を通過し、夕 刻に紫灘で停船し、食事をすませた後、日が暮れてきたので船にもどって白厓に進ん だという流れであれば、ごく自然であり、それぞれの時間帯の表示にも符合する。 イ ポ ペ ゲ (49) 梨浦の朝鮮漢字音は이포だが、배개(bae-gae)とも呼ばれる(京畿道博物館[2002] ペ 413 ~ 415 頁、이・김・배・이[2007]103 ~ 104 頁)。梨の訓が배(bae)、浦の訓が ケ 개(gae)であることによる。一方、白厓の朝鮮漢字音は백애(baek-ae)であり、連 音では배개と同音になる。李重煥(1690 ~?)の『択里志』八道総論・京畿道および 卜居総論・生利でも「白涯(백애)村」と表記している。 (50) 陸地測量部 5 万分 1 地形図「驪州」(1918 年)ではサビの地が「碑浦」と記載されてお り、「碑石」という地名に通じる。次にみるように、翌日碑石村を出発して 10 里(約 4㎞)もせずに英陵(朝鮮世宗陵)・寧陵(朝鮮孝宗陵)を通過したという記載にも符 合する。なお宋秉璿(1836 ~ 1905)は、『淵斎先生文集』巻 20・東遊記・自驪州至春 川記において、驪州の清心楼を観覧してから漢江を渡って砥平(現・楊平郡砥堤面) にむかう途中、婆娑城にいたる前に「碑石街」を通過したことを記している。この ― 48 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 「碑石街」も碑浦、すなわちサビのことであろう。 (51) 仏阿の朝鮮漢字音は불아(bur-a)、すなわち連音では bura であり、プラウに通じる。 プルグン バウィ プラウ自体は河津のすぐ上流で河中に突出している “ 赤い岩 ”(붉은 바위)に由来す るその訛音であり、丹岩・丹巌という漢字表記もある(여주군향토사료관[2010] 170 ~ 171 頁)。 フンバウィ (52) プラウと、次に述べる白巌村(現・驪州郡驪州邑欣岩里흔바위)の間にある集落とし ては、又晩里とその対岸の驪州郡康川面赤今里があり、後述のように泊船地としては ウ マ ニ ソ マ ニ 前者が著名である。우만이、소만이ともいう(여주군향토사료관[2010]172 頁)。湾 チョモク テチュ ナ ム と晩の朝鮮漢字音が同じだが、棗木(조목。訓は대추 나무)とのつながりは不明。 (53) 欣岩は흔바위の漢字表記だが、別名を白岩ともいう(朝鮮総督官房土木課[1920] フィン バ ウ ィ 388 頁)。集落にあった “ 白い岩 ”(흰 바위)にちなむもので、흔바위はその転訛であ る(여주군향토사료관[2010]177 頁)。 カンチョン (54) 江天と康川はともに同音で강천である。 ヤ ン ス ア ヤンソ (55) 楊樹阿(양수아)と古陽沼の陽沼(양소)の音が近似する。 (56)『大東輿地図』では興原倉を蟾江合流点すぐ上流の漢江右岸に表示し、これを標記の 地点(なお창말は倉村の謂)に比定するのが定説である(たとえば국립해양문화재연 구소[2009]参照)。『入峡記』でも蟾江は「興元倉」にいたって漢江に合流するとし ているほか(5 月 10 日)、成海応(1760 ~ 1839)の『研経斎全集』巻 50・山水記・興 元倉にも、「橫城の衆谷の水は原州にいたり蟾江となる。北方からあふれ流れ〔興原〕 倉の北の岩盤に集まる。……〔興原〕倉から南を望むと大江(=漢江)が奔流し、河 岸をめぐって西にむかい蟾江と合流する(橫城衆谷之水、至原州為蟾江。由北而橫流、 匯于倉北之巌。……由倉而南望、大江奔流。環江岸而西、与蟾江会)」とある。イザ ベラ・バードは漢江の主要な枝川に言及して、原州 Wan ju まで遡航できる川(蟾江) が「the village of Hu-nan Chang」で漢江に合流するとしている(Bird[1970]94 頁)。 フンウォンチャン Hu-nan Chang は興原倉(흥원창)にほかなるまい。ただし朝鮮前期の同倉は、蟾江 沿岸の別の位置にあったとの見解もある(六反田[1987]127 ~ 128 頁)。 (57)「楊根A」山川。 (58) 洪敬模『重訂南漢誌』巻 1・山川・楮子島。ソウル市江南区三成洞に位置するが、現 在は陸地化しており、奉恩寺の東隣、炭川河口左岸のエリアに相当する。 (59) 高東煥[1998]82 ~ 86 頁。 (60) 朝鮮総督官房土木課[1920]376 頁、京畿道博物館[2002]441 ~ 443 頁。 (61) 近年学界に紹介された『荷斎日記』に関しては、『国訳荷斎日記』1 ~ 8(서울特別市 史編纂委員会、2005 ~ 2009 年)所収の原文影印と翻刻を参照した。 (62)『京畿邑誌』楊州牧邑誌・場市・徳沼場(韓国学文献研究所編『邑誌 10 ―― 京畿道篇 ①』(前掲)所収)。 (63) 陸地測量部 5 万分 1 地図「磨石隅里」(1927 年)。 (64) 朝鮮総督官房土木課[1920]376・384・390 頁、京畿道博物館[2002]437 ~ 438 頁。 ― 49 ― (65) 前述した『荷斎日記』の記録からは、ソウルと結ぶ舟運拠点としての牛川の様子が具 体的にうかがわれる。 (66) 管見では、種々の研究書・調査書と歴史文献を通じて、崔永俊のみが漢江本流の河津 として馬峴に言及しているが(최영준[1997]116・132 頁)、その根拠は不明である。 (67) 京畿道博物館[2002]429 ~ 433 頁、이・김・배・이[2007]78 ~ 80 頁。 (68)『度支志』外篇巻 7・版籍司・漕転部・水站。なお六反田[1991]83 ~ 86 頁、参照。 (69)「海槎録」崇禎 9 年 8 月 13 日甲申。 (70) 李徳寿『西堂私載』巻 4・赴役記。 (71) 丁若鏞『与猶堂全書』第 1 集・第 3 巻。 (72) 朝鮮総督官房土木課[1920]373 頁、京畿道博物館[2002]428 ~ 429 頁、이・김・ 배・이[2007]80 頁。 (73)「楊根A」津渡・上心津、同・場市・上心場、『大東地志』巻 4・楊根・津渡・上心里津、 「楊根B」津渡・上心津、同・場市・上心場、「楊根C」津渡・湘心津、同・場市・上 心場、「楊根D」津渡・上心津、同・場市・上心場、「楊根E」津渡・上心津。 (74) 京畿道博物館[2002]425 ~ 427 頁、이・김・배・이[2007]81 ~ 82 頁。 (75) 朝鮮総督官房土木課[1920]373・384・389 ~ 390 頁、京畿道博物館[2002]422 ~ 423 頁、이・김・배・이[2007]82 頁。 (76)「楊根A」津渡・葛山津、『大東地志』巻 4・楊根・津渡・葛山津、「楊根B」津渡・葛 山津、「楊根C」津渡・葛山津、「楊根D」津渡・葛山津、「楊根E」津渡・葛山津。 (77) Bird[1970]83 頁。バードは朝鮮の大型船の呼称として、一般に中国の伝統帆船をさ すジャンクを使用する。一方、サンパン(삼판/三板)は朝鮮語でもボートのような 小型船を意味するが、バードは中国の用語を借用する形で使っているのであろう。 (78) 朝鮮総督官房土木課[1920]373・384・389 頁、京畿道博物館[2002]416 ~ 420 頁、 이・김・배・이[2007]85 ~ 86 頁。ただし上紫浦里は渡し専用だった模様である。 (79)「驪州B」津渡・紫浦津、「驪州C」津渡・紫浦津。 (80) 京畿道博物館[2002]420 ~ 421 頁、이・김・배・이[2007]84 頁、『輿地図書』驪 州・津渡・亀尾浦津、「驪州A」津渡・亀尾浦津、『大東地志』驪州・津渡・亀尾浦津、 「驪州B」津渡・亀浦津、「驪州D」津渡・亀尾浦津。 (81) 이・김・배・이[2007]85 頁。 (82) 朝鮮総督官房土木課[1920]373・384・389 頁、京畿道博物館[2002]413 ~ 415 頁、 이・김・배・이[2007]103 ~ 107 頁、『東国輿地志』巻 2・京畿・驪州牧・関梁・鎮 江渡、『択里志』八道総論・京畿道および卜居総論・生利、『輿地図書』驪州・津渡・ 梨浦津、「驪州A」津渡・梨浦津、『大東地志』驪州・津渡・梨浦津、「驪州B」津渡・ 梨浦津、「驪州C」津渡・梨浦津、「驪州D」津渡・梨浦津。 (83) 六反田[1991]83 ~ 84 頁。 (84)『輿地図書』驪州・津渡・楊花津、「驪州A」津渡・楊花津、『大東地志』巻 4・驪州・ 津渡・楊花津、「驪州B」津渡・楊花津、「驪州C」津渡・楊花津、「驪州D」津渡・ ― 50 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から 楊花津。 (85) 朝鮮総督官房土木課[1920]373 頁、京畿道博物館[2002]410 ~ 412 頁、이・김・ 배・이[2007]101 ~ 102 頁。 (86) 朝鮮総督官房土木課[1920]373・384・389 頁、京畿道博物館[2002]408 ~ 409 頁、 이・김・배・이[2007]94 ~ 95 頁。 (87)『東国輿地志』巻 2・京畿・驪州牧・関梁・驪江渡、『輿地図書』驪州・津渡・官津、 「驪州A」津渡・官津、『大東地志』巻 4・驪州・津渡・州内津、「驪州B」津渡・官津、 「驪州C」津渡・驪江津、「驪州D」津渡・官津、「驪州E」山川・州内津渡。 (88)『成宗実録』巻 7・元年(1470)9 月丙子。 (89)「驪州C」津渡・又晩津。 (90) 朝鮮総督官房土木課[1920]373・384・388 ~ 389 頁、京畿道博物館[2002]401 ~ 403 頁、이・김・배・이[2007]93 ~ 94 頁。 (91)『輿地図書』驪州・津渡・欣巌津、「驪州A」津渡・欣岩津、「驪州B」津渡・欣岩津、 「驪州C」津渡・欣巌津、「驪州 D」津渡・欣巌津。 (92) 朝鮮総督官房土木課[1920]373・385・388 頁、京畿道博物館[2002]400 ~ 401 頁、 이・김・배・이[2007]90 ~ 92 頁。 (93) ただし康川里まで陸路で進むにはフンバウィから対岸のほうに渡らなくてはならない。 明示されていないが、フンバウィから渡し船を利用したか、もしくはフンバウィまで 遡航してきた際、はじめからその対岸側で下船したと考えられる。特に韓鎮 が「白 4 巌村前」に到着したと記すあたりは、後者の可能性を示唆するものかもしれない。 (94) 陸地測量部 5 万分 1 地形図「驪州」(1918 年)、韓国・国土地理情報院 5 万分 1 地形図 「長湖院」(2008 年)。 (95) 이・김・배・이[2007]89 ~ 90 頁。 (96) 京畿道博物館[2002]398 ~ 399 頁、이・김・배・이[2007]87 ~ 89 頁。 (97)「驪州C」津渡。 (98)「驪州牧地図」(『朝鮮後期地方地図――京畿道編』(前掲)所収)。 (99) 周世鵬(1495 ~ 1554)『武陵雑稿』巻 4「舟次興元倉。次鄭湖陰南江韻」、丁範祖 (1723 ~ 1801)『海左先生文集』巻 6「偕李上舎元老、舟発興湖(=興原倉)、到甓寺。 遇金正言致鳴、沿途唱酬」、朴允黙(1771 ~ 1849)『存斎集』巻 1「天雨道不通。自興 元倉前津、乗舟作行」。ただし前述のごとく朝鮮前期の興原倉は蟾江沿岸の別地点だっ た可能性もある。 (100)朝鮮総督官房土木課[1920]373・385・388 頁、이・김・배・이[2007]108 ~ 109 頁。 (101)李晩栄『雪海遺稿』巻 1。 (102)李徳寿『西堂私載』巻 4・赴役記。 (103)崔益鉉『勉菴先生文集』付録巻 1・年譜。 (104)池圭植『荷斎日記』辛卯年 8 月 6 日、己亥年 4 月 11 日。 (105)朝鮮総督官房土木課[1920]373 頁、京畿道博物館[2002]433 ~ 435 頁、이・김・ ― 51 ― 배・이[2007]77 ~ 78 頁。 (106)池圭植『荷斎日記』辛卯年 6 月 10 日 (107)池圭植『荷斎日記』丙申年 2 月 11 日、戊戌年 9 月 15 日 (108)朝鮮総督官房土木課[1920]373 頁、京畿道博物館[2002]421 ~ 422 頁、이・김・ 배・이[2007]83 ~ 84 頁。 (109)「驪州C」津渡。 (110)「海槎録」崇禎 9 年 8 月 13 日。 (111)任相元『恬軒集』巻 4・宿仰徳山村。 (112)朴長遠『久堂先生集』巻 1。 (113)京畿道博物館[2002]413 頁、이・김・배・이[2007]103 頁。 (114)京畿道博物館[2002]409 ~ 410 頁、이・김・배・이[2007]99 ~ 100 頁。 (115)京畿道博物館[2002]403 ~ 406 頁、이・김・배・이[2007]92 ~ 93 頁 (116)『輿地図書』驪州・津渡・丹岩津、「驪州A」津渡・丹岩津、『大東地志』巻 4・驪州・ 津渡・丹岩津、「驪州B」津渡・丹岩津、「驪州C」津渡・丹岩津、「驪州D」津渡・ 丹巌津。 (117)黄胤錫『頤斎遺藁』巻 4・憶音二絶并序。 (118)黄景源『江漢集』巻 1。 (119)申聖夏『和菴集』巻 2。 (120)申聖夏『和菴集』巻 2。 (121)近代以降の事例だが、トックシルには正式営業ではないが筏師たちの求めに応じて寝 食を提供する家があったという(京畿道博物館[2002]425 頁)。 (122)“Then followed the daily wrangle about the place to tie up, Kim naturally desiring a village and the proximity of junks, with much nocturnal smoking and gossip, while my wish was for solitude, quiet, and a peblly river bottom, and with Mr. Miller’s aid I usually carried my point.”(Bird[1970]82 頁) (123)“But I have said the worst I can say when I write that they never made more than 10 miles in a day, and often not more than 7, …”(Bird[1970]70 頁) (124)“Between Kim’s laziness and the frequent occurrence of rapids, 10 miles came to be considered a good day’s journey!”(Bird[1970]82 頁) (125)최영준[1997]125 頁。 (126)Bird[1970]69 頁。 (127)なお金世濂における鄭徳余庄の所在地は大灘~楊根間とみられるが、正確には不明。 (128)최영준[1997]125 頁。 (129)허[1979]128 頁。なお日本語訳にあたっては安宇植[1988]所収の翻訳(218 頁)も 参考にした。「永春」と訳出した個所の原文は영천であり、音が異なるが、明らかな 誤記である。安宇植はこれを慶尚道の永川と訳出するが、当然ながら漢江舟運におい てはあり得ない。 ― 52 ― 朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から (130)朝鮮総督官房土木課[1920]345 頁。 (131)“We had performed a great feat in getting up to Yöng-chhun in early May. There were no boats on the higher waters, and for much of the distance my sampan could hardly be said to be afloat.”(Bird[1970]102 ~ 103 頁) (132)京畿道博物館[2002]432 頁。 ― 53 ―