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失読症の研究 - 東京女子大学

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失読症の研究 - 東京女子大学
東京女子大学言語文化研究(
)24(2015)pp.82-103
失読症の研究
―英語圏と非英語圏の諸言語にみる表層性失読―
奈須野
ひかり
はじめに
私たちは、意識せずとも日常的に「ことば」を話したり聞いたりしている。「ことば」
は、自分自身の思考や他者とのコミュニケーションの手段としての役割を担っている。
しかしながら、その「ことば」も、障害を受けることがある。大脳に存在する言語中枢
が損傷を受けると、失語症ということばの病気があらわれる。失語症とは、聞く、読む、
話す、書く、などの言語機能がいくつかにまたがって低下した状態をいうが、その中で
も、読みに関わる言語機能、すなわち音読や読解に限定した障害がみられる場合がある。
この障害、失読症には、発達性失読症と後天性失読症の二種類があり、前者は使用言語
によって発症率が異なることが現在の研究によって明らかにされている(辰巳 2009)
。
この発症率の違いは、
それぞれの言語間における文字体系の違いから生じているようだ。
具体的には、音韻単位や、文字と読みの対応関係の一貫性の違いが要因に挙げられる(辰
巳 2009)。
一方、人間は皆、不慮の事故や病気によって、使用言語に関わりなく後天性失読症を
患う可能性を持っている。本稿では、後天性失読症に関して、言語による発生傾向やそ
の症状の違いを明らかにし、また、それを引き起こす要因について考察する。実際に調
査した後天性失読症の症例は、非英語圏の
つの言語(フランス語、スペイン語、日本
語、ヘブライ語)におけるものである。これらを英語圏に対する研究と比較しながら、
症状の顕在化のしやすさや、障害の特徴など、言語特性から予想される病態像について
言語横断的に考察する。
1
読語過程モデルと後天性失読
1.1
文字の情報処理ルート(二重経路モデル)
私たちが文字を音読する時、脳内では一体どのような処理が行われているのだろうか。
Whitworth ら(2005 pp.59-62)は、Patterson ら(1987)の読語過程の二重経路モデル
― 82 ―
を も と に 次 の よ う に 説 明 し て い る。ま ず、
つ の 文 字 情 報 処 理 機 構(1.Visual
orthography analysis 視覚的分析機構、2.Orthographic input lexicon 語彙入力辞書、
3.Semantic system 意 味 シ ス テ ム、4.Phonological output lexicon 音 韻 出 力 辞 書、
5.Phonological assembly 音韻組立機構)から成る二重経路モデルが仮定され、文字情報
は
種類の経路―語彙経路(Lexicon route)と非語彙経路(Sub-lexical route)―によっ
て処理される。語彙経路は、さらに意味的語彙経路(Semantic lexicon route)と非意味
的語彙経路(Direct lexical route)の
つに分けられる(次ページ図
を参照)。
これらの経路はそれぞれに特徴的な情報処理過程を持つ。まず、意味的語彙経路は、
つの機構を全て通り、一文字一文字の音韻に依存することなく先に単語の語彙性を分
析し、意味が介在した後に音韻が回収される。したがって、この経路では実在語や馴染
みのある単語のみを処理できる。次に、非意味的語彙経路は、意味システムを通らずに、
語彙入力辞書から音韻出力辞書に直接アクセスする経路である。実在語の中でも、特に
親密度の高い既知の単語を処理できる。具体的な意味を介さずに音韻を回収するという
点で意味的語彙経路とは異なっており、単語の音読は可能だが意味が分からないという
ことが起こる。最後に、非語彙経路は、文字を一つ一つ音韻に変換することで、語彙性
を分析しないまま音読に至る経路である。したがって、非語や馴染みのない単語を処理
する際に必要とされる。非意味的語彙経路が単語レベルの直接音韻変換であるのに対
し、この経路は文字レベルの変換である(伏見 2005)。また、読解の際には、文字の視
覚的分析機構から意味システムまでのアクセスが必要不可欠とされる。
読語過程に関するモデルは、他に、伏見(2005)などで詳述されているトライアング
ルモデルなどがある。また、二重経路モデルに関して、
つの機構間における情報の流
れは一方的ではなく双方的である、という考えを採用したモデルが Coltheart ら(1993)
で提案されている。この考えでは、語全体の音韻を介した後に意味表象を回収すること
が可能となる。
本稿では、多様な言語における読みのメカニズムを考える上で、Coltheart ら(1993)の
考えに基づき、Patterson ら(1987)のモデルに機構間の双方向性を加えた二重経路モデ
ル(図
1.2
)を提案する。
後天性失読の分類
1.1で述べたそれぞれの経路は、脳損傷によって障害を受けることがある。障害を受
ける位置(機構)によって、ひとつの経路が単独で障害される場合と、語彙経路と非語
― 83 ―
1
ᢥሼࠍ⷗ࠆ
1
2
ⷞⷡ⊛ಽᨆᯏ᭴
3
2
⺆ᒵ౉ജㄉᦠ
4
3
( ᢥሼ߆ࠄ㖸㖿
ᗧ๧ࠪࠬ࠹ࡓ
5
߳ߩ⋥ធᄌ឵ )
4
ᗧ๧⊛⺆ᒵ⚻〝 1→2→3ψ4→5
㕖ᗧ๧⊛⺆ᒵ⚻〝 1→2→4→5
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5
㖸㖿⚵┙ᯏ᭴
㕖⺆ᒵ⚻〝 1→5
⊒⹤ߔࠆ
図
二重経路モデル(whitworth らの図より 図
作成)
双方向性が示された二重経路
モデル
彙経路の両方が障害される場合がある。Whitworth ら(2005 pp.64-65)は、いずれの場
合にも特徴的な読み障害があることを明らかにした上で、主となる失読パターンを(a)
表層性失読、(b)深層性失読、(c)音韻性失読の三種類に分類している。それぞれのパ
ターンが持つ諸特徴は、以下のようにまとめられる。
(a)表層性失読
語彙経路が単独で障害を受けることによって生じる失読症である。非語彙経路は比較
的保たれていることから、書記素と音素の一対一の変換機能は障害されていない。その
為、主な特徴として、GPC(grapheme-to-phoneme correspondences)規則(書記素と音
素の対応関係の規則性を表す)に基づいている読みは保持されていることが挙げられる。
つまり、書記素と音素の対応規則に沿った読みをする規則語の音読は比較的良好である
が、沿っていない不規則語の音読には困難を示す。他には、文字と音のルール(letterto-sound rules)―例えば、語末の e は発音されない(
― 84 ―
→/reɪdʒ/)というルール―を
正しく適用できないことや、非語の音読は比較的保たれることが特徴とされる。
(b)深層性失読
深層性失読は、語彙経路と非語彙経路の両方が障害をうけた場合にみられる。最大の
特徴は、単語を処理する際に意味的な錯読をおこすことである。錯読とは、読みの際に
別の語として処理してしまう誤りのことをいう。例えば、
「猿人類」を
「サ
ル」とする誤りが生じる。他には、非語の読みに困難がみられることや、抽象語よりも
具体語の読みが良好なこと、機能語よりも内容語の読みが良好なことが挙げられる。
(c)音韻性失読
非語彙経路が単独で障害されることによって起こる失読症である。最大の特徴は、非
語の音読ができないことである。非語の他に、馴染みのない単語に関しても音読が困難
となる。非語は、視覚的に似た実在語として読み誤ることが多い。規則語の音読に関し
ては、比較的良好である。他には、抽象語よりも具体語の読みが良好なことや、機能語
よりも内容語の読みが良好なことが挙げられる。深層性失読とは、純粋な意味的誤りは
起こらないという点で異なる。
これらの失読症から観察できる具体的な症状は、Whitworth ら(2005)によって、さ
らに次の
つに分類されている。
つ目は、意味性の錯読である。意味に関連性がある
が視覚的には関連性がみられないような、純粋な意味の誤りを指す(
「星」
)
。
「月」→
つ目は、視覚性及び音韻性、または一方における錯読である。スペルと発音
の両方、あるいはどちらかが類似していることから生じる(
命」
)。
「ドア」→
「運
つ目は、視覚性及び意味性の錯読である。視覚的にも意味的にも関連性がみら
れる誤りとされる(
「ネズミ」→
「猫」)。
つ目には、語形態的な誤りが挙げられ
る。語根の読みは保たれているが、活用や接辞などの処理に困難を生じる(
)。
(
→
つ 目 は、視 覚 性 の 錯 読 に よ っ て 引 き 起 こ さ れ る、意 味 性 の 錯 読 で あ る
/sɪmpəɵi/「思いやり」→
/sɪmfəni/「シンフォニー」→
/ɔːkɪstrə/「オーケストラ」)。最後は、音韻性の読み誤りである。意味は成さないが音的
にはもっともらしく聞こえる読み誤りを指す(
/spɪə/→/spɛə/)。ほとんどは、不
規則な読みのものを規則化して読んでしまう規則化錯読(regularization errors)として
現れる。
1.3
言語特性と失読症状の関係性
前項までを通して、二重経路モデルにおける経路のうち、いずれの経路が障害されて
― 85 ―
いるかを知ることは、実際に現れる具体的な症状を予想する上で、ひとつのヒントにな
りうることが明らかにされた。加えて御領(1987)は、各言語における正書法の特性も
また、失読症状の出現と深く関係があると述べている。例えば、スペイン語やイタリア
語などの、言語透明性(文字と音の一対一対応の規則性)がきわめて高いとされている
言語には、不規則語が存在しない(Masterson 1985)
。不規則語がないということは、す
なわち、語彙経路に障害を受けたとしても、表層性失読の最大の特徴である規則化錯読
が顕在化しないことを予測させる。その場合、英語やフランス語などの、言語透明性が
低いとされている言語とは異なった障害の傾向を示すことが考えられる。前節で紹介し
た各失読パターンの諸特徴(Whitworth ら 2005)は、英語圏で行われた研究がもとになっ
ている。したがって、それぞれの言語が持つ固有の特性が失読症の諸症状に何らかの影
響を与えると考えるならば、非英語圏における失読症の特徴を説明するには不十分だと
考えられる。
次節からは、先述した
種類の失読パターンのうち、表層性失読に焦点を当て、この
失読パターンの概念の発端となった英語圏における研究と、これまでに非英語圏で報告
された実際の症例を比較検討する。そして、各言語が持つ固有の特性が表層性失読の症
状にもたらす影響について考察しながら、読み障害の言語に依存する特殊的側面を探る。
2
英語圏における表層性失読
2.1
英語圏における表層性失読の諸特徴
失読症の研究は、その発症率の高さから、英語圏を中心に発展してきた。英語は、文
字と音の対応関係が一対一ではなく、言語透明性が低い言語である(Masterson 1985)。
そのため、文字と音との関係が GPC 規則に沿っているとみなされる規則語と、その関係
の間に規則性が認められない不規則語の両方が存在する(御領 1987)
。表記文字には、
表音文字である26個のラテン文字が用いられており、音の最小単位は音素である。また、
アクセントはストレス・アクセントであるが、ストレスが付加される位置について、完
全な規則は存在しない。以上が、英語の持つ特性である。次に、Coltheart ら(1983)に報
告されている、英語圏における表層性失読の諸特徴と、その発生メカニズムについて述
べる。
英語圏における表層性失読の諸特徴の中で最も重要とされているのは、規則語に比べ
て不規則語の読みが特に困難になることである。例えば、
/geɪdʒ/における
は、
/o/ではなく、/eɪ/という特殊な読み方になる。この不規則語を正しく発音するには、語
― 86 ―
彙経路を介して、
が持つ固有の情報へ特別にアクセスする必要がある。しかし表
層性失読症患者の場合は、語彙経路が障害を受けていることから、この情報の流れが障
害されているため、正しい音にたどり着くことができない。一方、規則語である
は、→‘g’/g/、
‘au’→/o/、
‘n’→/n/、
‘t’→/t/という一般的な読みの情報を使え
ば、非語彙経路を通って正しい読みまで辿り着くことができる。この場合は
につ
いての特別な情報は必要がない。Coltheart ら(1983)に報告されている被験者 A. B. は、
音読テストの際、規則語は39個中30個が正しく読めたのに対して、不規則語で正しい読
みまでたどりつけたのは、39個中18個のみであった(p.482)。この特徴は、すべての表
層性失読症患者の症例においてみられ、英語圏の表層性失読の診断において必要十分な
症状だとされている。
実際の読み誤りの種類としては、不規則語を規則的に発音してしまう規則化錯読が最
も多く認められる(
/kʌm/→/koɷm/)。加えて、文字と音のルールを正しく適応で
きないことによる読み誤りも生じる。例えば、
/ʃeɪk/のように、語末の e は発音さ
れないというルールを伴う読みに困難を示す。また、多音節語を読む際にストレスの位
置を誤って発音してしまう誤反応も認められる。これも、不規則語の発音に困難が生じ
る場合と同様に、語に固有の情報へのアクセスが障害されることから引き起こされる。
読解に関しては、まず、音が意味よりも先に介在しやすくなることが明らかにされて
いる。Coltheart ら(1983) には、
/beə/「熊」を
/bɪə/「ビール」と音読し、そ
の定義も「お酒」とするような錯読の例が報告されている。これは、誤った音韻を介し
た上で、意味がとられていることが原因と考えられる。次に、異形同音異義語の読解の
際に意味の混乱が現れることも特徴のひとつとされる(
/ruːt/「道」→
/ruːt/
「根」
)
。この混乱に関しても、単語固有の意味情報が欠落し、音に依存した状態で意味
処理されることが要因となる。読解における特徴としては、以上の
つが主なものとさ
れる。
他には、単純な音韻性の読み誤りとして分類できないものが
つ報告されている。そ
れは、文字レベルでの省略、付加、置換、並びの入れ替えである。Whitworth ら(2005)
のように、これらの誤りを視覚的な混乱から生じるものとする意見もある。しかし Coltheart ら(1983)は、置換に関しては特別な視覚性の読み誤りの可能性があるとしてい
るものの、それを含めても
つの誤反応の要因を正確に分類することは困難であると述
べている(p.477)。
― 87 ―
ここまでで述べた様々な症状は、Whitworth ら(2005)にも同様に報告されている。
これらに共通する特徴をまとめると、次のようになる。
(
)
音読では、規則語は比較的正しく読めるが、不規則語には深刻な障害がみられる
(
)
不規則語における主な読み障害の種類は、規則化錯読をはじめとする音韻的誤り
(
)
音読において、文字と音のルールの適用能力が低下する
(
)
多音節単語の発音では、ストレスの位置を誤る
(
)
読解において、異形同音異義語の混乱がみられる
(
)
文字レベルの誤りとして、省略、付加、置換、並びの入れ替えがみられる
2.2
英語の特性と失読症状の関係性
本項では、引き続き Coltheart ら(1983)による報告を参照しながら、英語の特性と失
読症状の諸特徴との間に認められる関係性について現在どのような見解がなされている
かを確認する。
まず、英語の書記素と音素の透明性の低さは、非語彙経路だけでは正しく処理できな
い、多くの不規則語を生み出す原因となっている。英語圏における表層性失読の最大の
特徴として、規則語よりも不規則語の音読が困難になることが挙げられたように、その
存在が表層性失読症患者の正しい読みを妨げる大きな要因になっていることは明らかで
ある。また、読解の際、異形同音異義語の理解に混乱がみられることには、英語の音素
と書記素の対応(phoneme-to-grapheme correspondences)関係の複雑さが関係してい
る。英語は書記素から音素への対応が不透明な言語であるということは前述したとおり
だが、その逆、すなわち音素から書記素への変換規則も同様に複雑であるとされる。そ
れによって多くの異形同音異義語が生まれ、表層性失読症患者に特徴づけられる音に依
存した処理では、正しい意味までたどり着くことが困難になる。
次に、不規則語を読む際に頻発する規則化錯読の発生メカニズムとして、Coltheart
(1983)は
つの可能性を提案している。
たケースを例にとると、
/brɔːd/の読みが/broɷd/に規則化され
つ目は書記素と音素の一対一対応システム、つまり非語彙経
路(GPC 規則)の使用( 、 、 、 、 )によるもの、 つ目は書記素よりも大きな文字
ユニット( 、
)の使用によるもの、 つ目はそれより大きな形態素(
よるもの、そして最後はスペルが類似している単語(
、
、
)の使用に
)の使用によるも
のである(pp.470-471)。また、Sasanuma(1985)は、英語圏の表層性失読症患者によ
る規則化錯読は、障害を受けた語彙経路の代替ルートとして、非語彙経路の使用を選択
― 88 ―
した結果によって生じるものだと述べている。これは、先に述べた
つのうち、
つ目
の可能性を支持するものである。さらに、彼女はその要因として、英語が、表音文字の
ラテン文字で表記される言語であることを挙げている。ここでは、文字表記体系が漢字
に代表されるような表意文字であれば、異なる処理方法が優先される可能性があること
が示唆されている。
以上のように、英語の持つ言語特性が症状の発生傾向に影響を与えていることは、既
に明らかにされている。次節からは、実際の被験者による症例をもとに、非英語圏の諸
言語において認められる各言語の特性と失読症状の関係性について探る。
3
非英語圏の諸言語における表層性失読
3.1
フランス語
フランス語は、英語と同じように言語透明性が低く、書記素と音素の対応関係が複雑
な言語である(Masterson 1985)。例えば、この言語における
複数の発音を持つ。
という文字の連なりは
「小鹿」の中ではその発音を/ɑ~/とするが、
「オオカミ」
の中では/aɔ~/という発音になる(Goldblum 1985)。また、文字と音のルールも多く存在
し、
/frɑ~nsɛ/「フランス」のように、単語の最後にくる e と子音は発音されな
い。ただし、このルールは全ての子音に適応されるわけではなく、c、f、r、l は、語末で
も発音されることがある(林田 1976)。他にも、h は多くの場合で無音化する(アリエー
ル 1992)ことなどが挙げられる。このように、フランス語における GPC 規則は、文字
と音のルールと必ずしも一致しないことが多い。さらに、Goldblum(1985)によると、
音素から書記素への変換においても一対一の対応関係がなく、ひとつの音に複数の文字
が当てはまる場合があるため、異形同音異義語が多く存在する。以下は、Goldblum
(1985)に報告されているフランス人表層性失読症患者 B. F. に関する症例である。
B. F. は、32歳の時に脳血管の障害によって、左脳の側頭頭頂後頭部を含む部分に障害
を受けた。自発語は流暢であるにも関わらず、錯語によって発話が妨げられることが
あった。錯語の種類としては、音的に類似している単語に置き換えるなど、音韻性のも
のが多くみられた。また、聴覚的理解は比較的保たれていた。その一方で、読み書きに
関しては明らかな障害が認められた。音読テストの結果、B. F. は、規則語に関しては比
較的正しく読むことができた(正答率86%)。しかし、不規則的な文字と音の対応関係を
― 89 ―
含 む 語 に 関 し て は、そ の 読 み に 困 難 を 示 し た(正 答 率 63%)
。例 え ば、
/
kretjɛ~te/「キリスト」を/kretjɑ~te/と読んでしまう誤りがみられた。これは、
の、下線部
に対して、
/ɛ~pɒsjɑ~te/「忍耐」の中におけるそれと同じ読みが
当てはめられてしまった例である。また、不規則語の音読において、
/stɛk/「ステー
キ」を/steɑk/と発音するなどの規則化錯読をいくつか起こした。B. F. の音読における
誤反応は、
「ウナギ」を
「針」とするような文字レベルの置換を伴うも
のや、/r/と/l/、/i/と/y/の間などに生じる GPC 規則の混乱によるものも確かに認めら
れたが、Goldblum ら(1985)には、ほとんどが文字と音のルールの複雑さから生じる混
乱によるものであったと報告されている。また、非語の音読の能力をみるため、GPC 規
則に沿った規則的な音から成るものと、ルールに沿っていない不規則的な音から成るも
のの二種類が用意された。B. F. の正答率は、前者が66%、後者が38%であった。実在語
の音読の成績と比較すると、両者共に正答率が下がっていることから、単語の語彙性も
また、彼女の音読に影響を与えたことが分かる。一方で、単語の抽象度や頻出度は、特
に影響を与えなかった。
次に、読解のテストが行われると、B. F. は様々な反応を示した。音読テストで正しく
読むことができなかった不規則語の、今度は意味理解を確かめるために、再び同じ語(30
個)
を用いてテストが行われた際、音読と意味理解の正答率はそれぞれ60%と80%であっ
た。30個のうちの14個に関しては読みと理解の両方が保たれていた。10個は理解のみ、
個は読みのみが正しく行われ、読みも理解も誤ってしまったものは
個であった。
上記の B. F. の症状の特徴をまとめると、次のようになる。
(
)
音読では、規則語は比較的正しく読めるが、不規則語には障害がみられる
(
)
不規則語における主な読み障害の種類は、規則化錯読を含む音韻的な誤り
(
)
不規則語における読み誤りは、文字と音のルールの混乱から生じるものが多い
(
)
文字レベルの誤りとして、省略、付加、置換、並びの入れ替えがみられる
(
)
読解における意味理解は、比較的、音読よりも保持されている
3.2
スペイン語
スペイン語は、音読の際、書記素と音素の完全な対応規則を持つ言語である(Patterson 1987)。その言語透明性の高さゆえ、読みにおける不規則語は存在せず、Aldo
(2005)は、スペイン語はアルファベットを並べて表すための理想的な言語であると評
― 90 ―
価している。その一方で、音素から書記素への変換規則は完全とは言えず、ひとつの音
に複数の文字があてはまる場合がある(Alfredo 1998)。例えば、/s/の音は、e や i の前
にくる場合は c で表記され、それ以外は s または z として表される。また、語頭の h は
発音上無音とされるが、表記の際には必要とする語が多く存在する。このような音とス
ペルの対応規則によって、表記に多様性が生じるため、書き取りにおいては、読みと比
べて透明性が低くなる。さらに、同様の理由から、異形同音異義語の存在が認められる
(
/baso/「グラス」、
/baso/「不機嫌」)。また、音韻単位は音節であり、CV 型
(子音+母音)の単語が、スペイン語の過半数(51%)を占めているという報告がある
(出口 1997)
。アクセントは、ストレス・アクセントである。ストレスが生じる位置に
関しては、一定の規則性が認められる(岡本 2005)。Aldo(2005)は、このような言語特
性を持つスペイン語における表層性失読症患者の症例を、次のように報告した。
M. M. は、53歳の時に頭蓋の外傷によって、左側頭頭頂に障害を受け、ウェルニッケ
失語と診断された。読み書きの際には、書かれた文字が理解できないことや、多くの単
語のスペルを覚えていないこと、そして非語の音読が良好であることから、語彙経路が
損傷されている状態、つまり表層性失読に該当するとみなされた。M. M. の単語の音読
能力は、ゆっくりではあるが比較的良好であった。彼は、実在語は98%、非語は91%を
正しく音読することができた。実在語の読み誤りには、ストレスを適切ではない位置に
付けてしまったものがひとつだけみられ(
みに関しては、文字レベルの誤り(
/pe΄licano/→/peli΄kano/)
、非語の読
/trixude/→/tribude/)が最も多かった。そ
れから、ひとつの文字に対する音を求められた際、 /ñ/→/ñe/ のように、母音を足し
て発音してしまう傾向がみられた。単語の抽象度や頻出度、音節の複雑さなどは、特に
影響を与えなかった。また、スペイン語に特有のアクセント規則は比較的保持されてお
り、非語にアクセントを付加する課題が与えられると、80%以上の確率で規則に沿った
反応が得られた。以上が、M. M. の音読における特徴である。
次に、読解のテストが行われると、異形同音異義語の理解に混乱がみられた。M. M.
は、与えられた28個の同音異義語のペアのうち、12個は正しく意味を識別することがで
きたが、その正答率は43%であり、半分を下回る成績であった。
以上に述べた症状は、F. E.(Masterson 1985)にも同じように報告されている。M. M.
の症状の特徴をまとめると、以下のようになる。
― 91 ―
(
)
音読において、ほとんど全ての単語を正しく読むことができる
(
)
ひとつの文字を発音する際、同時に母音を付加してしまう
(
)
読解において、異形同音異義語の混乱がみられる
(
)
アクセントの付加位置に関する規則は保たれている
(
)
文字レベルの誤りとして、省略、付加、置換、並びの入れ替えがみられる
3.3
日本語
日本語は、二つの文字表記体系―仮名文字と漢字―を持つ言語である。御領(1987)
は、この言語について次のように説明している。まず、仮名文字は、ひらがなとカタカ
ナから成る表音文字である。文字と音との対応関係が相互的に一対一であるため、言語
透明性は非常に高い。そのため、異形同音異義語の存在も認められない。一方で、漢字
は、ひとつひとつの文字が意味を持っている表意文字である。また、音読みと訓読みの
区別があるなど、ひとつの漢字に複数の音があてはまることが多く、言語透明性は低い。
したがって、
漢字においては異形同音異義語が多く存在する。以上の二つの文字体系は、
組み合わされて使用されている。Sasanuma(1985)には、表層性失読の診断を下された
日本人被験者 S. U. の症例が次のように報告されている。
S. U. は46歳の男性であり、脳血管障害によって左半球の側頭―頭頂葉領域への損傷
が生じた。発話は流暢だが錯文が多く、ウェルニッケ失語と診断された。仮名の音読と
読解は比較的良好であったが、それに対して漢字の音読、読解には顕著な読み誤りを示
した。音読のテストが行われると、仮名文字では視覚性のものと思われる読み誤り(置
換)をひとつだけ起こした(‘あるいは’/aruiwa/→‘あるいた’/aruita/)が、ほぼ100%
の語を正しく読むことができ、漢字語は20%程度しか正しく読むことができなかった。
さらに、仮名は、非語であっても問題なく読むことができた。また、漢字語の音読に限っ
ては、具体名詞の読みが比較的良好(正答率55%)であった。一方で、モーラの数や、
単語自体の長さなどは、影響を与えなかった。
S. U. が漢字語を音読した際に現れた誤反応の中で最も多かったものは、提示された
語と全く関連性のない語での代用であり、全体の44%を占めた。次に多かったものは、
21%を占めた迂言である。迂言は、単語の発音が分からなくとも、その意味にはたどり
着くことができている場合、遠回しに語を説明する形で現れる(笹沼 1987)
。例えば、S.
U. は、
‘裁判官’という語に対して、単語自体を発音することはできなかったが、その代
― 92 ―
わりに「悪人を罰する人」という意味の説明を行った。迂言は、特に抽象語で低頻度の
漢字単語においてよくみられた。続いて、意味性の錯読に分類される誤反応も報告され
ている。例えば、S. U. が示した誤りとして、
‘門’は‘入口’
、
‘強い’は‘固い’
、そし
て‘聴診’に至っては‘病院’と読まれた。全体の誤反応のうち15%は、この意味性の
錯読であった。また、新造語も、意味性の錯読とほぼ同じ割合を占めた。新造語は、
‘乗
り物’を‘けんも’と読むなど、音読の際に全くの新しい語を生み出してしまう誤反応
である(笹沼 1987)
。新造語の中には、他に音読みと訓読みの混乱から生じるものがあ
り、その場合は、ひとつひとつの文字レベルでは正しい読みがなされた。例えば、
‘洗う’
を‘せんう’とする読み誤りを起こした。この種類の誤反応は、特に漢字と仮名が結び
ついている形容詞と動詞に限定してみられた。
読解の際にも、いくつかの特徴的な誤反応を示す傾向がみられた。仮名単語と漢字単
語の読解テストが行われた結果、S. U. の仮名単語における読みと理解は、両方ともほと
んど100%保持されていた。一方、漢字単語においては、読みと理解がどちらも正しく行
われたのは全体の10%程度であり、読むことはできないが理解はしているというケース
が70%近くを占める結果になった。また、理解していない単語は、決して読むことがで
きなかった。
上記の様々な症状は、Sasanuma(1987)に報告されている K. K. や M. U. の症例の中
でも同様に確認することができる。S. U. の症状の特徴をまとめると以下のようになる。
(
)
音読では、仮名単語は比較的正しく読めるが、漢字単語には深刻な障害がみられ
る
(
)
仮名における音韻性の読み誤りはみられない
(
)
漢字における主な読み誤りの種類は、意味性の錯読や迂言等の、語彙的なもの
(
)
漢字の音読において、具体名詞は比較的正しく読むことができた
(
)
漢字の音読において、音読みと訓読みの混乱がみられる
(
)
漢字において、読解は音読や書き取りよりも保持されている
3.4
ヘブライ語
ヘブライ語は、表音文字である22個のアルフベートから成っている。佐藤(1993)に
よると、アルフベートは全て子音であり、その発音を表すために、母音記号(ニクダー)
が組み合わされて使用される。全て合わせると、13種類の母音記号が存在する。実際の
― 93 ―
ヘブライ語圏では、母音記号がついていない文で書かれていることが多いため、アレフ
ベートのみを頼りに、勘を働かせて発音することになる。Rachel(2013)は、この二つ
の文字体系をはっきりと区別した上で、それぞれを「Vowelized script」と「Unvowelized script」と呼び、次のように説明している。Vowelized script は、子音と母音が組み
合わさった、明確な音の情報を持っている文字体系であり、その為、言語透明性は非常
に高い。一方で Unvowelized script は、母音に関する情報が欠落しているために、書記
素と音素の対応関係は極めて不規則であり、透明性の低い文字体系である。例えば、
‘‫’ס פ ר‬は、S と F と R の三つの子音から成っている。この‘SFR’という単語は、母
音記号を付加することで、
‘SeFeR’
「本」、
‘SaFeR’
「数えた」、
‘SaPaR’
「美容師」、
‘SFaR’
「境界域」のいずれにも当てはまる可能性がある(大文字は子音、小文字は母音を表し
ている)。したがって、同じ形で異なる音と意味を表す同形異音異義語が多く存在する。
さらに、Vowelized script と Unvowelized script のどちらに関しても、音素から書記素
へ変換する際の規則性は低いため、異形同音異義語の存在も認められる。例えば、/v/
の音には、
‘‫ב‬
ּ ’と‘‫’ו‬の二つの文字があてはまる。アクセントは、ストレス・アクセン
トであり、その
割が最後の音節に置かれる。以上が、ヘブライ語の概要である。この
言語を使用する
人の表層性失読患者 A、B、C、D の症例が、Smadar(1995)の中で次
のように報告されている。
人の被験者達は、全員が脳血管障害や車の事故によって左脳に障害を受けたことで、
文字の読み書きに困難を表した。彼らの非語に対する音読能力は、完全であるとは言え
ないが比較的保たれていたことから、表層性失読との診断が下された。また、音読の際
に
人全員に共通してみられ、最も頻繁に起こった読み誤りは、母音に対する誤反応で
ある。子音であるアルフベートの読みは保たれているにも関わらず、誤った母音を伴っ
て発音してしまうことで、多くの新造語が生じた。例えば、 人の被験者達は、
‘TiPouL’
という単語の読みを求められた際、二つ目の母音を正しく処理できず、意味を成さない
‘TiPal’という語を生み出した。この類の誤りは、表記の形が Vowelized script である
か Unvowelized script であるかに関係なく、その後も頻発した。他には、単語の活用の
誤りや、子音の省略、付加、順番の入れ替えなどの文字レベルでの読み誤りが認められ
た。
また、Unvowelized script にのみ存在し得る、同形異音異義語に対する処理能力を確
認するテストが行われると、興味深い結果が得られた。はじめに、Unvowelized script
― 94 ―
で書かれた単語が用意され、被験者達がどのような母音記号を選択した上で発音するか
がみられた。その結果、彼らは、その単語が最も一般的かつ頻繁に使用される意味にな
るように母音記号を選ぶ傾向にあることが分かった。次に、被験者達が文章の中でそれ
らの単語を音読する際に、最も一般的な読み方をするか、文脈にあった正しい読み方を
するか、どちらの読みを選択するのかが調べられた。その結果、単純な文章であったに
も関わらず、何人かは正しい意味を伴って読むことに困難を示した。多くの場合、最も
頻繁に使用される語が、文章の中で意味や統語情報が無視された状態であてはめられる
誤りが起こった。例えば、
‘SFR’のみが提示された時には、使用頻度が比較的高いこと
から、
「本」を意味する単語として発音された。しかし、同じ語が文中において「数えた」
という動詞の意味を担うものとして現れた際にも、被験者達は「本」の発音を適応して
しまった(
→
)。
加えて、異形同音異義語に対する読解能力の低下を示す傾向も認められた。Smadar
(1995)らによって、異形同音異義語同士とされる単語の差し替えが行われたことで全
体の意味が通らなくなった Vowelized script の文章が16個用意されたが、被験者達は読
解の際にその差し替えにほとんど気付くことができなかったのだ。実際に表記されてい
る単語の意味にしたがって文章を読解することができたのは、A と C は12.5%、B と D
に関しては
%であった。
ここまでで述べた
(
)
(
) (
(
)
人の被験者の症状の特徴をまとめると、次のようになる。
音読の際に最も多くみられる読み障害の種類は、母音に関する誤り
)は、Vowelized script と Unvowelized script の両方において認められる
音読において、同形異音異義語は、意味情報や統語情報が無視された状態で、最
も頻繁に使用される語として処理される
(
)
読解において、異形同音異義語の認知能力が低下する
(
)
文字レベルの誤りとして、省略、付加、置換、並びの入れ替えがみられる
4 考察
4.1
言語特性によって予想される表層性失読の病態像について
本論で調査した
つの言語において、症状の現れ方には確かな差異が認められた。こ
こで挙げられる要因として、主に
つの言語特性の影響―文字と音の透明性の度合い、
アルファベットや漢字などの文字表記システムの種類、母音情報を表記する習慣の有無
― 95 ―
―に焦点を当てて考えたい。本節では、これまでに取り上げた資料及び症例から読み取
れるいくつかの言語依存的症状を確認しながら、前述した
つの要因によって予想され
る表層性失読の発生傾向について、二重経路モデルに基づいた考察を試みる。
4.1.1
文字と音の透明性の高低差
文字と音の透明性は、
同じ文字体系を持つ言語の間でも、高低差がみられた。アルファ
ベット圏では、英語とフランス語は透明性が低く、スペイン語とヘブライ語は比較的高
い言語であることが分かった。また、日本語の仮名は透明性が高く、漢字は低いとされ
ることから、
つの言語の中でも、その文字体系によって透明性に高低差が生じた。
透明性の高さは、表層性失読に特徴付けられる諸症状のいくつかを顕在化しづらくす
る原因になっていることが考えられる。透明性が高いスペイン語、ヘブライ語、日本語
の仮名においては、はじめから不規則的な読みをする単語が存在しないため、非語彙経
路への依存度自体に差はなくとも、規則化錯読のような読み誤りとしては現れていない
ことが症例からも読み取れる。つまり、英語やフランス語においては最も重要な表層性
失読の診断基準として位置付けられる規則化錯読も、GPC 規則を適用しさえすれば全て
の語を正しく読むことができる言語においては、ほとんど顕在化することのない特徴と
なる。その場合は、音読における読み誤りが目立って現れないことから、読解の際に現
れる意味理解の障害などが、語彙経路の障害や、それに伴う非語彙経路への過度の依存
に起因するものとして、表層性失読の診断要素のひとつとされると予想できる。スペイ
ン語の症例における被験者 M. M. の、音読と読解能力の保持度に大きな差が認められた
ことも、以上のことと矛盾しないだろう。
日本語は、先述の通り、透明性の異なる文字体系を合わせ持っている言語であるが、
仮名文字にはほとんど表層性失読の症状が現れないことが分かる。これは、仮名文字が、
非語彙経路を使用すれば全ての単語を読める文字体系であることを裏付ける結果となっ
た。また、漢字語に対して認められた読み誤りも、英語圏における表層性失読の特徴と
ほとんど一致していないことが明らかになった。これは透明性の問題だけではなく、表
記文字そのものが持つ特性と、強く関連していると思われる。表記文字の特性が失読症
状に与える影響については次の項で詳しく述べる。
また、イタリア語は、日本語における仮名文字と同様に、書記素と音素の間に例外の
ない一対一対応が相互的に存在し、透明性が極めて高い言語であることが知られている。
そのため、Patterson(1987)は、イタリア語には規則化錯読はもちろん、読解における
― 96 ―
異形同音異義語の混乱さえも現れないと説明している。彼は、この言語において、語彙
経路が機能しなくなったことで表層性失読にあたる読み障害が生じた場合、その障害は、
ストレスの付加位置の誤りによって明らかにされると説明している。このように、言語
の透明性が高ければ高いほど、表層性失読の症状は、外から確認されづらくなるものと
思われる。
加えて、1.2で述べたように、文字と音のルールの複雑さも、表層性失読症患者が正し
い読みまでたどり着くことを妨げる要因のひとつとされたが、これは、特にフランス語
における被験者 B. F.(Goldblum 1985)の症例に突出して確認された。単語の音読の際、
語彙経路を使った読みが困難になり、一文字一文字を音に変換する非語彙経路に依存し
た読みをすることで、本来なら無音化する語末の e や子音までを発音してしまったこと
がひとつの可能性として考えられる。あるいは、語彙経路を介して、語全体の音韻情報
を先に回収したのち、意味システムに至る段階で、語に固有とされる情報へのアクセス
が妨げられてしまったことに起因していることも考えられる。フランス語には、文字と
音のルールが比較的多く存在するため、規則化錯読と同様に、この言語における表層性
失読の診断基準になる症状として考えることができるだろう。以上のように、言語の文
字と音の透明性の高低差と表層性失読の症状の間に存在する関係性が明らかになった。
4.1.2
表記文字の特性
言葉を表記するために使われる文字は、言語ごとに異なっている。それぞれの言語で
使用される表記文字が持つ特性から、二重経路モデルにおける語彙経路と非語彙経路の
うち、どちらによる処理が最も適合する傾向にあるかを考えることで、予想される症状
が変わることが明らかになった。ここでは、音読の面(4.1.2.1)と、読解の面(4.1.2.2)
から考察する。
4.1.2.1
文字の音韻的符号化と意味的符号化の適合性
表音文字であるラテン文字またはアルフベートを使用する英語、フランス語、スペイ
ン語、ヘブライ語における被験者と、表意文字の漢字を含む言語体系を持つ、日本語に
おける被験者の間には、音読の際に示した錯読の種類に違いがみられた。アルファベッ
ト圏の言語に関しては、規則化錯読や文字レベルの誤りのような、音韻性または視覚性
の錯読が主であった。しかし、日本語の漢字単語では意味性の錯読が多くみられたこと
が、前節で明らかにされている。意味性の錯読は、第
― 97 ―
節の中で、深層性失読に特徴付
けられる症状とされたものである。また、他の言語の症例からは確認されなかった迂言
や新造語などの誤反応が、日本人被験者 S. U.(Sasanuma 1985)や K. K.(Sasanuma 1987)
には報告されている。さらに、S. U. は、漢字語に限って、抽象名詞よりも具体名詞の読
みに高い正答率を示したが、他の言語における症例では、単語の抽象度が被験者の読み
に与える影響はみられなかった。このような、日本語の漢字語の読みに特異的とされる
症状は、その表記文字が持つ性質から引き起こされたものだと考えられる。
斉藤(1981)によると、表音文字は、読みの際の音韻的処理に適している。音韻的処
理に適している文字体系であるということは、非語彙経路における処理に適している文
字体系であると言い換えることができよう。2.2の中で、英語圏においては、不規則語を
処理する際の語彙経路の代替ルートとして、非語彙経路の使用が選択されやすい傾向に
ある(笹沼 1987)とされたが、その理由をここに見出すことができる。その結果、規則
化錯読などの音韻性の誤反応が多く引き起こされる。
しかし、漢字は、音を介在させずとも文字そのものが既に意味情報を持っている。そ
のため、読みにおいて、音韻情報よりも意味情報に依存した処理が行われやすく(梅村
1981)、音韻的符号化よりも意味的符号化に適合している文字体系だとされる(斉藤
1981)。つまり、私たちが漢字語を読む際には、その保持度合に関わらず、積極的に語彙
経路が使用され続けやすい傾向にあると考えられる。そして、正しく機能しない語彙経
路を使用して漢字語を処理しようとすると、意味システムにアクセスする段階やその前
後で意味の混乱が生じ、結果的に、S. U. に報告されたような意味性の錯読となって現れ
ることが予想できる。とはいえ、漢字単語が、非語彙経路によって処理されることによ
り、音韻的な誤りが引き起こされることも考えられる。例えば、日本語の漢字単語が持
つ、
‘七夕’や‘海老’などの熟字訓を無理矢理に非語彙経路で読もうとすると、‘しち
ゆう’や‘かいろう’といった、当て字読みを思わせるような誤りが現れるだろう。熟
字訓は、語彙経路を介して単語の固有の情報にアクセスしない限りは正しい音まで辿り
着けないため、表層性失読症患者にとっては、特にその読みが困難となる。
また、単語の具体性が高ければ、漢字そのものが表す意味表象は、より掴みやすいも
のになる。このことは、S. U. の、文字の意味情報を利用した読みを手助けすることにな
り、漢字語に限って具体語の読みの成績が比較的良い、という結果に繋がったことが予
想される。逆に、抽象度が高い漢字語ほど、迂言が現れやすくなったことも、その裏に
ある理由から説明できる。以上のように、漢字が持つ、意味的及び語彙的処理に適合し
た特性は、その症状に独特な傾向を生み出すことが分かった。
― 98 ―
4.1.2.2
読解における音処理の先行と意味処理の先行
アルファベット圏の言語は、音読の際、音韻的符号化に最も適合しているとされたが、
読解においても同様のことが当てはまると予想される。読解の際には、語彙経路におけ
る意味システムを介する処理が必要である。その中でも、アルファベット圏の言語は、
意味的語彙経路より非意味的語彙経路での処理を選択することで、意味システム(意味
情報)よりも先に音韻出力辞書(音韻情報)にアクセスしやすい傾向があると考えられ
る。被験者による異形同音異義語の混乱が認められた言語は、英語とスペイン語、そし
てヘブライ語の
つであり、これらは全て、使用される表記文字がアルファベット圏に
属している言語という点で共通している。
つの言語における被験者達は、読解の際、
非意味的語彙経路を介して、音韻出力辞書における音韻的符号化が先行したのちに、得
られた音に頼って意味システムへアクセスし、語の理解まで辿り着こうとしたことが予
想される。その結果、異形同音異義語同士の間で意味の混乱を起こしてしまったのであ
る。また、同じアルファベット圏であるフランス語の症例から読みとれた読解の傾向に
ついても同様に考察すべきであるが、障害機構の位置に関する問題が関わっていること
から、本稿では扱わずに次の機会に触れたい。
一方で漢字語は、音読において意味的符号化が特に行われやすい傾向にあることが明
らかにされたが、読解の場合にも、意味的語彙経路における処理を選択することで、音
より文字から得られる意味表象の介在が先行しやすいことが考えられる。その場合、た
とえ多くの異形同音異義語に溢れている言語であるとしても、意味の識別に混乱が生じ
る可能性は少ないだろう。日本人被験者 S. U. や K. K. の、読解テストにおける意味理解
の成績が他の言語の症例に比べて良好であったという事実も、以上のことから説明する
ことができる。
このように、表記文字が音韻的符号化と意味的符号化のどちらに適合しているかに
よって、読解メカニズムの傾向が大きく二つに分類されることが明らかになった。
4.1.3
母音情報に関する表記の有無
本稿で扱った言語のうち、ヘブライ語は母音情報を表記する習慣がない点で、他の言
語と異なる特徴を持っていることが分かった。ヘブライ語における
人の被験者 A、B、
C、D の症例(Smadar 1995)からは、この言語特性の影響によって生じたと考えられる
言語特異的症状が確認された。それは、母音に関する読み誤りである。先述したように、
ヘブライ語には母音記号を伴った Vowelized script と、伴わない Unvowelized script の
― 99 ―
二つの文字体系があるが、母音に関する誤りは、どちらの文字体系においても同様に確
認された。
Unvowelized script で表記された文章を読む際には、意味が幾通りにもなり得る子音
の連なりに、適切な意味を与えるため、母音記号を付加する必要がある。この一連の処
理を、非語彙経路のみで行うことは不可能であることが予想され、母音情報のない単語
を適切に処理するためには、意味システムを介する語彙経路の使用が必要だと考えられ
る。語彙経路が障害されたことで単語全体の意味表象が得られないままだと、同形異音
異義語に対する語彙決定能力が低下し、意味情報や統語情報が無視されるような母音選
択が行われることで、結果的に誤った読みにつながる。このように、被験者達が Unvowelized script における母音の誤りを示したことは、表層性失読症患者にとって困難
とされる、単語全体の語彙(意味)情報に関わるような特別な処理が求められた結果だ
と説明できる。
一方で、被験者達による母音の誤りは、透明性が高く、はっきりと音の情報が記号と
して提示されている Vowelized script の単語や文の読みにおいても、同様に報告されて
いる。子音は保持されているにも関わらず、母音のみが選択的に障害され、多くの新造
語が生み出されたのである。英語や日本語における表層性失読の症例からも新造語の報
告は確認できるが、母音情報に限った誤りを起こすという点で、ヘブライ語の新造語が
生じるメカニズムは、英語や日本語のそれとは異なることが予想される。Smadar(1995)
は、
人の被験者達が、語彙経路の中でも視覚的分析機構や語彙入力辞書に障害を受け
ていた可能性があるとし、アレフベートと比べて、より複雑な形態を含む母音記号に対
する限定的な視覚的処理の困難を伴っていたことが、ひとつの要因として考えられると
説明している。
また、異なる角度からこの事実を説明するために、二重経路モデルと照らし合わせた
分析を試みた。しかしながら、表層性失読においては非語彙経路が比較的保持されてい
ることを前提にすると、既存モデルに基づく限り、Vowelized script の読みの際にこの
症状が現れるメカニズムを論理的に説明することは難しいという結論に至った。そこ
で、ヘブライ語の読みに対応した、新たな読語過程モデルを提案する必要があると考え
られる。その際、ヘブライ語の読語過程において、非語彙経路にあたる処理経路が存在
するか否かについても、
再度検討する必要があるだろう。既存モデルの非語彙経路では、
音と文字の一対一対応規則に沿っている限り、全ての単語の正しい読みが可能とされる。
しかし、Vowelized script は透明性が極めて高い文字体系であるにも関わらず、正しい
― 100 ―
読みが行われなかったことから、もとより非語彙経路という概念が成り立たないことが
考えられる。あるいは、母音記号自体が持つ音韻情報に限っては、意味システムへその
情報が送られない限り不確かな音の候補としてしか認知されていない可能性もある。こ
の場合、ヘブライ語における母音記号は私たちが持っている「母音」の概念とはまった
く異なったものになる。以上のことは、ひとつの推測を通した問題提起に他ならない。
しかし、言語に固有の特性から生じたと考えられる症状を通して、
「読み」のメカニズム
を予測し、自由な視点から読語過程の仮説を立てることは、これからも挑戦する価値の
ある試みであり、今度の課題とされる。
結論
各言語における症例から見出された読み障害の傾向を比較した結果、個々の言語が独
自に持つ表記文字や音韻体系のしくみが、人間が読語を行う過程の違いを生み、それに
より、失読症においても異なった症状として現れるということが明らかにされた。ここ
に、本稿の冒頭で述べた疑問に対する答えを見出すことができる。また、ヘブライ語に
代表される母音情報を表記する習慣のない言語に関しては、二重経路モデルでは完全に
対応できず、新しい読語過程モデルの提案が今後の課題として残される。
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Abstract
Dyslexia is a speech defect in reading. It occurs as difficulty in reading words and sentences
aloud with accuracy, and the symptoms include a deficit of reading comprehension. Acquired
dyslexia is classified into surface dyslexia, deep dyslexia, and phonological dyslexia. Most
researchers explain the characteristic symptoms that each type of acquired dyslexia has, based
on the dual-route model of the reading process. The dual-route model of reading assumes that
readers use two strategies to read words: lexical route and non-lexical route.
This study is based on the dual-route model, and investigates the specific symptoms of
acquired surface dyslexia in languages of the English-speaking world and non-English-speaking
world. The purpose of this report is to reveal the relationship between the characteristic of each
language and acquired surface dyslexia symptoms. The languages of this survey are English,
French, Hebrew, Japanese, and Spanish, from which I could obtain a case report.
As a result of the analysis, through the comparison of documents and case reports about
acquired surface dyslexia in the five languages, two main conclusions are obtained. First, the
difference of transparency and the kind of writing system of each language causes differences in
the mechanisms of reading and appearances of symptoms of acquired surface dyslexia. Second,
in regard to the languages without the custom of writing vowel sound information, the new
model of the reading process is necessary because the classification of the dyslexia pattern
based on the dual-route model was not appropriate. Through this report it was found that
language properties affect the outbreak mechanism of dyslexia symptom; and some insight into
the complex mechanisms of reading in various languages was obtained.
― 103 ―
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