...

見る/開く - ROSEリポジトリいばらき

by user

on
Category: Documents
6

views

Report

Comments

Transcript

見る/開く - ROSEリポジトリいばらき
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
ワルデマール・ボンゼルスの作品
北垣. 篤
茨城大学文理学部紀要. 人文科学(7): 55-62
1957-04
http://hdl.handle.net/10109/10131
Rights
このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属
します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。
お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
ワルデマール・ボンぜルスの作品
北 垣 篤
ワルヂマール・ボンゼルスの名が 実吉捷郎氏の訳書「蜜蜂マナヤ」によって,わが国
に紹介されてから はや20年ちかくになる。一般の読者は この翻訳によって,ボンゼル
スの特種な世界に 驚異の眼をみはったのである。それは 読者がそれまでの小説やメー
ルヘンの きまりきった主題のくり返しにあき,嫌悪の情さえいだいていたときであった
から。その後,彼のIndienfahrtが 同じく実吉氏訳の「インド紀行」または,中岡宏
夫氏訳の「美しき印度」の題名で 読書界に姿をみせた。しかし,そのころの日本は 残
念ながら そうした作品を味読する心の余裕をうしなっていた。また「天国の民」という で
訳名で,「蜜蜂マアヤ」につぐ傑作といわれるHimmelsvdlkが青木重孝先生の対訳書
によって紹介されたのは 1940年のことであった。
ボンゼルスの生い立ちや学歴,足跡を印した旅行地について,LennartzのDie Dich一
ter unserer Zcitから引用してみる。,, Er wurde am 21.2.1881 als Sohn eines Arztes
in Ahrensburg bci Hamburg geboren, besuchte in Kiel das Gymnasium bis zur
Sekunda und ging dann als Siebzehnjahriger auf Wanderschaft. Spater bereiste er
,o
duropa, Indicn, Agypten, SUd−und Nordamerika・,,彼はStarnberg湖畔のAmbach
に居をさだめて晩年を送っていたが,1952年7月31日に死去した・
ボンゼルスは1912年にDie Biene Maja und ihre Abenteuerを発表iして,動物小説
に新生面を開き,一躍その文名を世界にはせるまでに,Ave、 vita morituri te salutant
(Das sterbende Leben, sic grUssen Dich)というラテン名の処女作のNovelleを
1905年に公けにしている。いまはこの作晶にふれることをさけるが,1909年にかかれた・
マンBlutは 種々の問題を われわれに投げかけている。きわめて重苦しい気分のなが
くつづくこの小説は 読む人によっては倦怠を覚えるにちがいない。最初のかきだしから
して アンネ・ドーレという 牧師の一人娘の部屋からながめる,夕方のHeideのもの
うい景色の描写は 読者をすでに陰うつな気分へ引きこまずにはおかないであろう。ヴェ
ンヂルという老牧師が,すでに伝道生活から引退して ミッションからもらう年金と,わ ト腎
ずかばかりの財産によって生活している。彼の妻は 病身をこの家で養っているが,主婦
としての役目をもはや果していない。彼らの娘アンネ・ドーレは 若い女性の歓心を買う
ことを心得ている背徳漢マルク・エンツハイムから巧みに誘惑され,ついに一身の破滅を
招くに至るのである。ボンゼルスは この本のなかで,一人の可憐な女性,アンネ・ドーレ
の心のなかにさかまく本能と宗教的モラルの波瀾を なまなましい色彩で描いている。彼
はここで,官能に惑溺した生活の根底に 道徳的ないし宗教的責任の欠けている,悲滲な
人間のたどった結末をえぐりだしてみせている。アンネ・ドーレは官能への誘惑をしりぞ
けようとして,エンツハイムに別れをつげることを決意する。そのとき いばらの冠をか
56 茨城大学文理学部紀要(人文科学)第七号
ぶせられた,十字架上のキリストが 額から血の汗を流している姿を 彼女は脳裡に思い
浮ぺる。その血の汗は 彼女ひとりのために流されているように思われる。彼女は この
とき自分の苦しみを救ってくれるように 十字架上のキリストに熱心に祈る。そして町の
新任の牧師ヤコビに悩みを打ちあけ,正しい道にもどるための助言を求めようとするが,
充分に告白することもできずに,他日を約して牧師館を辞する彼女の足は 自由を与えら
れた小鳥のように軽く 森の家で待つエンツハイムのもとへと急ぐ。彼女が牧師に苦悶の
心境を 打ちあけることもできず,適切な助言も得られなかったということが すでに悪
魔の乗ずる機会をつくってしまったのである。すべて破滅に急ぐ魂は かような経過をた
どるのである。娘の道徳的破滅と肉体の終りを 目のあたりにみた父親は 習慣的なモラ
ルによってのみ 娘を善へみちびき得ると信じきっていたために,娘の悩んでいた内面生
活をのぞいてさえやらなかったことを悔いている。作者はここで,親の子にたいする真の
愛情とはなにかということを われわれに訴えている。
ボンゼルスの最大の傑作,Die Biene Maja und ihrc Abenteuerは1919年までにすで
に150版を重ねている。この本はティーンエージャの子供がよんでも,成人がよんでも,
興床津々としてつきない,全く新しい世界の物語である。うまれて聞もないミツバチのマ
一ヤは 彼女の故郷の町をとびたち,ミツバチの本来の任務を怠って,ほうぼう遍歴しな
がら,大自然の事物をつぶさに観察し,いろいろの胃険をこころみ,貴重な体験をつんで
いく。そのうちにクマバチ族の捕虜となり,牢獄につながれている闇に,彼らがマーヤの
祖国である故郷の町を 掠i奪するための作戦会議を開いているのを,ふとぬすみきいたの
で,牢獄の壁を食い破ってにげだして帰国し,女王に祖国の危急をつげる。マーヤの情報
によって戦闘準備をととのえたミツバチ軍は,ついにクマバチ軍を破る。マーヤは それ
までミツバチの任務を怠って,放浪の旅をつづけていたことを女王にわびるが,女王はマ
一ヤを罰するどころか,かえってマーヤの勇気を賞賛し,マーヤは生涯女王の側近にあっ
て,国事に参与するという光栄に浴するのである。
この物語は第10章のDie Wunder dcr Nachtあたりから いよいよ佳境にはいり,
マーヤと花の精(BlumeIlelf)とのであいも ここに描かれている。花の精がユリの花か
らうまれでて,ミツバチのマーヤと親しくなる揚面は この本の姉妹篇であるHimmels一
volkの第2章Die Ankunft des E晩nの事実と全く一致する。またマーヤは いろ
いろの体験をつんでいくうちに,人間をしりたいという欲望にかられるが,この物語のな
かで,マーヤが人間について見聞する揚面は13個所にもおよんでいる。ボンゼルスは第
大自然がつくりだした最も高等で,完全な存在である。」と定義している。ボンゼルスの
こうした汎神論的な考え方は 特にHimmelsvolkのいたるところに現われてくる。さ
らに,ミツバチが夏の間にあつめた蜜の大部分が 人間にゆずりわたされなければならぬ
事実をあげて,低次な被造物がより高次な被造物に奉仕せねばならないという,大自然の
秩序を説いている6人間という被造物のゴ本当の姿をしりたいとこいねがっていたマーヤ
は しりあいになった多くの昆虫から いろいろの知識を提供されたが,それは 人間に
ついての悪評ばかりであった。つまり人間は 昆虫にとっては,もっとも恐しい敵だと教え
られたのである。しかし,マーヤのほうでは すべての被造物のうちで,人間より強力で
●
北垣: ワルデマール・ボソゼ・しスの作品 5ツ
賢明で偉大なものは ほかにいないということを おぼろげながら感ずる。ところが,そ
れからマーヤは花の精にあい,入間のところへつれて行ってもらうことになった。という
のも,マーヤは 花の精がユリの花からうまれでて 最初にであった生物であるから。花
の精はこの地上にうまれでて最初にであった生物を 幸福にしてやる使命を負っていた。マ
一ヤは 月夜のなかで花の精と共に 愛しあっている,二人の若い人間をみて,人間のい
ちばん美しい姿は 互に愛しあっているときであることを しるのである。
この本は ミツバチばかりでなく,ほかの昆虫や動植物の生態をも かなり広範囲にわ
たって,興味ぶかく描いているが,伺じく昆虫のうちのチョウの生態についてかいたもの
にFriedrich Schnack(1888− )のDas五cben der Schmetterlingc(1928年)が
ある。これは”Die Biene Maja”とは全くことなったジャンルに属しているように思わ
れる。”Die Biene Maja”のほうは ミツバチ・マーヤを物語の主人公に仕立てて・一マ
一ヤとほかの動物や花の精との聞に起った・マンを 中心的なテーマとしている・これに
反して,Das Leben der Schmettcrlingeは そのなかのZwcites BuchのFalterlegen一
dcnを除いては,みなチョウチョウに関する生物学的な・冷静な観察の記録である・それ
に,その観察も 単に平凡な昆虫採集などによるものではなく チョウの広範な世界的分
布状態と移動の状況を 正確な歴史的記録にもとずいておこなつている点は 特に学問的
価値がある。そのうえ,この本は 単に無味乾燥な生物学の文献ではなくて,Schnack
ρ’ T 」
ニ得の宗教的雰囲気をただよわせ,詩的な美文をもってつづられてある点に 文学的作品
としての価値がある。
Die Biene Maja und ihre Abenteuerと同じジャンルに属するHir疵melsvolkは
1913年にかきあげられたのであるが,初版がでたのは それから2年後にあたる。この本
には,Ein Marchen von Blumcn, Tieren und Gottという説明がついているように・
入里はなれた森の草原に住む,種々の被造物の間に起ったいろいろの事件を通じて 彼ら
が太陽を神のように愛し,あがめ,慕いこがれていることを描写し・その間に妖精を介在
させながら 妖精の語ることばによって,すべての被造物よりもすぐれた人間を創造した
神を賛美しているのが,この本の主題ではなかろうか。
高度に鞘達した,現代の物質文明のめまぐるしさと,そのたえまない,強烈な刺戟につ
かれはてた人間は 彼のふるさとである,素朴で恵みぶかい大自然のふところへ はげし
い憧れを感じ,逃避を試みようという衝動におそわれる。ボンゼルスの,この「天国の民」
とは,人間の社会から遠くはなれた,森の草原に生活する四つ足の動物,昆虫,花や草
木,彼らに光を公平にまきふらし,熱を与えるところの太陽,いこいとやすらぎを与える
月の光,涼しさをもたらし,植励たちの望みをかなえてくれる風や小川などを指すのであ
ろう。ボンゼルスの動物小説は 一面からいえば,人間杜会から,こういう「天国の民」
の住む大自然への逃避とみなされないこともない。というのは彼には こういう傾向を著
しく表面におしだした作品として,Mario und die Tiereがあるほどであるから・しか
しながら,ボンゼルスの人間社会から大自然への逃避が,かならずしも人間愛の欠如や冷
却を意味していないことは このHimmelsvolkや,披の他の作晶をも あわせよめば・
たやすく理解していただけると思う。
作者はHimmelsvolkのなかで,動物や植物,それらの被造物の間の媒介をつとめる妖
一
58 茨城大学文理学部紀要(人文科学)第七号
精などに 人間の言語を移しで彼らの世界を一層人間のそれに近ずけようと試みてい
る。それによって・われわれが 大自然の真の姿にすこしでも触れ,それを理解するよう
に説きすすめている。ボンゼルスがここで用いた手法は いわば一種の擬人法で,妖精が
ミツバチといっしょに人間のところへとんで行って,ミツバチに人間の愛を説いたり,妖精
がコガネムシを前にして 入間の行為や思想感情を辮護したり,神を糺拝することのでき
る人聞の優越性を論じたりしている揚面は 滑稽な感じがしないでもない。だが,なぜ作
者は人間の言語を彼らの世界にまでひろげて,これを克明に描写しようとしたのだろう
か。もちろんこれは 彼が大自然の生活に情熱的な興味をいだき,彼らに人間にたいする
と同様iの愛を感じ・大きな関心をよせたからにほかならないのである。いわば大自然を人
間と同じGemeinschaftと感じたためではなかろうか。ここに,彼らを人聞と同じ神の被
造物とみなす考え方が根ざしており,ボンゼルスの人聞性の謙虚さと温かさがあるように
思われる。
このHimmclsvolkのなかで,主導的な役割を果している被造物は妖精である。ここで
いう妖精は・花の精(der Blumenelf)である。妖精は西洋文学の上では きわめて興珠あ
る,重要な役割を演じているが,妖精のことをとり扱った作晶は かなり多い。ごく卑近
な例に照してみても・C・&MLamb“Amidsummer night’s dream”の物語にも
毎iryというのがでてくる。 fairyは辞書にsmall supernatural being with magica1
powersという説明があるから,魔力をそなえた存在であることは あきらかである。こ
の物語では 妖精を指すのにspritcまたはspiritという別の語も使っているが,これら
はelfまたはfairyと同義である。妖精は ドイツ語では辞書の見出しにElfbnという
複数形をあげているが・正しくはElben(Sing. die Elbe)だとしている。 E晩nは 文
学的には もともとゲルマン神話に端を発しているが,大地や水や大気のなかに住み,人
間と神々との中間的存在で,天使のような姿をそなえている。そして常に集団的な生活を
している。だから・Lamb 4)Amidsumrロer night’s dreamなかのfairyも王国を形 5
つくっていて・fairy kingと飴iry queen.が六きな活躍をみせている。シェクスピアの
Amidsummerrnight’s dreamの劇を邦訳した土居光知先生は その解説のなかで,こ
の飴iry kingについて 興味ぶかい説明をしている。「この劇に出てくる仙界の王オゥ
べ゜ンは 中世フランスの伝奇物語によく出現するAuberonで,更にその源をたどると
独逸の神話のEI飴richである・しかしこの神仙課は 独逸でも仏蘭西でも殆んで忘れら
れてゐたやうである。」妖精には元来ふたつの種類がある。人間やその他の被造物に親切
な,美しい姿をした光の妖精と,小さくて邪悪な,みにくい恰好をした闇の妖精がいる。
LambのAmldsummer night’s dreamなかの妖精の王も女王も 人間の恋をとりも
つことには親切心を示すが,王Oberonのお気に入りの家来Puckなどは 人間によぐ
いたずらをしたり,他の動物の所有物を平然と掠奪する邪悪な妖精である。
妖精に関する神話が発生する以前の,妖精の起源について’久保栄氏はその「新ファウス
ト考」の講義のなかで 次のようにのべている。「原始入が死という生理現象を考えはじ
め・そのことから肉体一K6rper’と霊魂一Gdstの分離の観念が生じた。……この霊魂
の概念は やがて人間ばかりでなく1動物にも植物にも鉱物にもあるというように,それ
それの対象と人間の生活的利害との交流のうちに,自然界へ範囲をひろめて考えられてき
北垣:ワルデマール・ボソゼルスの作品 56月
た。」
このようにして生じた妖精の概念が次第に変化して 現在われわれが文学作晶のなかに
みるような,ひとつの存在としての形態をとるに至ったものと考えられる。Himmclsvolk
にでてくる妖精も あきらかにひとつの被造物である。彼の顔は子供の顔のような恰好を
していて 白く,肩の上に二枚のつばさがついているから,天使のようでもある。この花
の精は 動物や植物に幸福を与えるために 花のなかからうまれでて,まだ太陽のあがら
ないう:ちに,朝つゆのなかにとけて死んでしまう運命を持っていたが,さし昇る太陽の真
赤な火の玉を ふとみてしまったために,妖精の国へ帰れなくなつて,この地上に束縛さ
れてしまうのである。そして 花の精はしばらくこの地上にとどまつている間に,地上の
被造物と同じ思想感情を持つようになる。しかし,花の精の顔には ある種のうれいがた
だよっている。これは 妖精の心がheimatlosだからと著者は説明する。つまり・妖精
の顔に現われたうれいとは 妖精の国へのかぎりない郷愁であり,地上の束縛の宿命から
解き放たれたい憐みなのである。妖精が妖精の国へのはげしい郷愁を感じ,地上の束縛か
らの解放に騎んでいる姿はちょうど入祖が天主の命にそむいて罪を犯したために,楽園を
追放され,この地上をさまよう宿命を負わされた思想に似かよっている。Himmelsvolk
「
フ花の精も 不思議な力をそなえた存在で,植物と植物または植物と動物との伸介の役
割をつとめるが,人間とこれらの被造物との間をとりもつことはしない。花が放つている
芳しい香を花の精が吸うと,彼は花め心の奥底にひそむ望みを直観して 昆虫を花のほう
へ招きよせる。しかし,人間の子の死んでいくあわれな姿をみるに忍びなかったフク・ウ
が 花の精に助力を乞うが,花の精は 自分には人聞の死を左右する力もないし,また人
間に話しかけることも禁じられていると答える。人聞は花の精を目でみることができな
い。花の精は人間の夢のなかにだけ現われるものだと花の精は説明する。それはちょうど
天使の存在を信じている入だけが 天使の姿をみることができるのと同じであるというの
である。地上をさまよいながらも 被造物たちに善をほどこしていた花の精のところに
妖精の国から,ついに迎えの使者が到着したので,花の精は小川に沐浴して 地上の衣
をぬぎすて,天上の衣に着かえて妖精の国へと帰っていく。花の精は森の草原に生活する
「天国の民」に 各自が創造された真の意義をやさしく教えさとすことによって 彼の使
命を終えて帰郷するのである。それはちょうど 人類にその生存の目的を教えて昇天した
救世主の使命に似ている。
Werner Mahrholzは彼の著書Deutsche Literatur der Gegenwartのなかで ボ
ンゼルスについてかなり詳細にわたってかいているが,彼の作風の特色を次のようにのべ
ている。,,Alle Romantik sucht Fcrne und Fremde. Auch der neuromantischcn
Bcwegung ist dieser Zug ins Exotische nicht verschlossen.雛e sch∼》eift gern und
viel nicht nur in die historische Vergangenheit, sondern auch in fヒemde Kulturen
der Gegenwart oder auch in das verborgcnδ1.eben der Tiere, das eihe Wclt fUr
sich bedeutet. Niemand ist iUr dlese doppelte Tendenz der Neuromantik zu㎞
り
した特色を充分に現わしている作晶にIndien伍hrtがある・こめ本は1912年にかかれたの
だから,独立前のインドの国情を描いている。これは 西欧人である著者が はるかな,
60 茨城大学文理学部紀要(人文科学)第七号
未知の国インドに旅して,学究者をのぞいてはほとんどしられていない,しかも神秘的な
ものの本源をつきとめようと試みた,種々の体験の記録である。だから,単にインドとい
う 西欧文化よりも十数世紀も古い歴史を持つ,東洋の一植民地の特殊な風土やそこに棲
息する珍奇な動植物の生態だとか, 熱帯の太陽によつて褐色に日やけした住民のエキゾ
チヅクな風俗,習慣,宗教などの描写だけを めざしたものではないだろう。
18畦紀の後半に及んで,英国の軍隊は 仏軍と結んだBengal国とOudhの軍をPla一
ssey(1757年)とBuxar(1764年)の戦で破つてから 英国のインド領有は 事実上はじ
まったのである。その後につづいた,英国の海外貿易会社の政策の成功は イyドを完全
に英国の植民地となしたのであった。ところが 大部分の英国人にとっては インドという
国は 遠くはなれた,夢幻的な,近ずき難い国であることは,なお変りがなかった。だから
英国人が東洋の日光に浴した,褐色の何百万というインド入が どんな生活を送っている
かを想像することさえ容易ではなかったろう。そうした国土ヘ ドイツ人である著者が
異国の未知なものにたいする情熱的な憧憬と綿密な探究心とをいだいて 足をふみいれた
のである。ボンゼルスが この国で経験し,見聞したことは ことごとく西欧入がおどろ
き怪しみ,自分の耳を疑う事実ばかりであった。一世紀半の長きにわたって 他国の支配
下にあった,この被征服民族は 西欧人をみれば すぐに英国入とみなしがちな,卑屈な
一種の国民性をおのずからつくりあげていた。たとえば,ボンゼルスが 三年間の契約で
インド人から家を借りた際に,一文も値切らずに 貸主の要求どおり承諾したことにたい
して 貸主がはげしく怒りだしたというような,奇妙なできごとは 彼を非常におどろか
、 せたことなど・その好例である。またこのような国土に ながく伝わっている迷信,彼ら
にとっては一種の宗教といったものが 彼らの生活にふかく根をおろしているのである。
著者がガラス箱のなかにコブラを飼っているのを発見した召使が 彼をひどく恐れたとか
いている。彼らは コブラを神として崇めおそれているからである。猛毒を持つコブラを
神聖視している一・種の宗教は 人間の生命を威嚇し,支配する者への恐怖に根ざす原始宗
教の一形態であろう。この入間的心理は 旧約時代の人がエホバにたいしていだいていた
宗教感情と一脈あい通ずるものがあるように思われる。また 熱帯の暑気と生活の単調か
ら,はなはだしい疲労を覚えた作者が 自分の飼っているサルと ウィスキーを飲みかわし
ながら むつかしい哲学上の問答をやりとりする揚面が描かれている。これは 著者が熱
帯の温気にうなされてみた夢物語であって,着想としてはおもしろいが,入間とサルとの
フモールを欠いた・この哲単的論争はIndienfahrtという本の標題から 旅の楽しさと
未知の国土のエキゾシズムとを期待している読者に 嫌悪の気分を起させずにはおかな
い。単にここばかりでなく,この紀行文のほかの個所においても,ボンゼルスは 彼特有
の哲学論を 実に根気よく展開させている。このIndien伍hrtのなかにのべられている
彼の哲学論は まだわかり易いほうの部類に属しているが,Menschenwege(1918年)の
なかには 登揚人物の会話∼きわめて平明であるべきはずの会話が きわめて難解な哲
学的論争にみちみちている個所が いたるところにでてくる。Die Biene Maja und
ihrc AbenteuerやHimmelsvolkを発表した頃のボンゼルスが 大自然の素朴な美し
さや動植物のこまやかな感晴や単純ですなおな彼の神観を 流麗な筆で描いたのとくらべ
ると・IndienfahrtやMenschenwegeなどは著者の哲学的思索がかなりふかまって
北 垣: ワルデマール・ボソゼルスの作品 61
きた作晶ともいえるが,紀行文や小説としての魅力は はなはだしく失われている。
ボンゼルスは その他に,ジャングルのなかに生活する原住民やある町での可憐な少女
との不思議なであい,著者自身が熱病におそわれて生死の境をさまよったこと,ぎらぎら
輝く熱帯の太陽岩壁の上に支配者としての偉容をほこる猛獣ヒョウの姿などを 彼一流
の得意な筆で描いている。しかし,彼がこの紀行文のなかで心から表現しようと努力した
思想は 第}3章の,,Das lctzte Feuer uhd der alte Geist”において端的にのぺられて
いる。著者は バラモン教の僧侶で英国的な教養を身につけた知識人Mangesche Rao
と 人間の生死の問題を論じあい,インドのバラモン教と西欧のキリスト教の根本概念の
差異をあきらかにしている。最後の童では作者はインド独立運動の先駆者Mangesche
Raoと彼自身との親交にふれ, Raoが同胞の誤解によって悲惨な最期をとげる劇的な揚
面を描き,著者が一切の持ちものを従僕に与え,祖国ドイツへ向けて帰ってくるところで
筆をおいている。動物小説家ボンゼルスが 政治についてかように多く論じている作品は
おそらくこのIndienfahrtをおいてはほかにないだろう。
ボンゼルスには 人間と森の動物との愛情を描いた作品として,Mario und die Ti6re
(1927年)がある。これはMario und Gisela(1930年),Marios Heimkehr(1934年)
のふたつの作品と共に三部作をなしている。母の死後,ひとりとり残されたマリオという
少年は 近所の大人たちが 身よりのないマリオを孤児院へおくろうと相談しているのを
ふと耳にし,人間の社会をのがれて森のなかへ走る。森は少年にとって自由の天地であっ
た。マリオは父の生きていた頃,よく父といっしょに森を歩きまわったので,森を愛し,森
をよくしっていたから。それからマリオは 森の奥で大自然を相手に・薬草などの採集に
よって,生活の糧をえているドンメルファイという老婆に拾われ,森の生活をはじめること
になる。マリオは 森のなかを歩きまわって,木のそよぎや小鳥の歌に耳をかたむけ・珍
しい森の動物や植物にかぎりない興味をおぼえ,森の生活をますます愛するようになる。
小さな猟師は はじめのうちは森の動物を弓で射殺すことに関心をよせるが,ドンメル
ファイの,永年の体験による教訓をきいてからは次第に森の動物たちを愛するようになる。
平和そのものだった,こういう人里はなれた奥ふかい森のなかへも 戦争のひどい打撃が
ひびいてきたことが 山林官が老婆に訴えたことばを通して語られている。敗戦による物
価騰貴,国土や森の荒廃,人心の頽廃による追いはぎや密猟の横行などによって 山林官
の平和な生活がおびやかされていることをマリオはしり,ますます人間の社会を嫌うよう
になる。マリオは森で生けどりにした野猪の子やキツネの子を家族の一員に迎えて,彼ら
を愛するようになる。森の動物を捕え,飼うことを覚えたマリオは 時日がたつにつれ
て,森の動物に近ずくには 忍耐が絶対に必要であることをさとるようになる。この教訓
は 最近「高安犬物語」で有名になった戸川幸夫氏の「山の動物たち」という動物の生態
を描写した本のなかでも くりかえし力説されている。マリオは夜に大きな湖を泳いでわ
たる冒険を試みる。ここの救述があまりにも詳細にわたっているところをみると,この湖
は著者が晩年に至るまですごしたAmbach附近のStarnberg湖ではあるまいかと想像
される。またボンゼルスは この物語のなかで「人間が大自然の森を支配しはじめると,
生命のある森は 不安を感じ,衰微し,やがて崩壊するに至る」とかいている。,これは
入間が森を愛し,森の生活に順応すぺきことを説いている。老婆ドンメルファイがマリオ
● ■
62 茨城大学文理学部紀要(人文科学)第七号
に向って「人間は大自然の賢明な計画を,ただ愛によってのみ支配する。」と語ったことばは
作者の自然観を伝えている。マリオはドンメルファイに拾われてから 約一年の聞;森の生
活を老婆と共に楽しんだ。ちょうどその頃,森のなかでふとあった城の女主人に招かれ,
城の住人になる。これまで生活を共にしてきたドンメルファイとの別れの揚面は 切々た
る愛情にあふれている。しかし大自然を友として生きてきた老婆の心には,人為的な無理
がなレ}。彼女は少年の望む所へ行かせる。「マリオと動物たち」は「ミツバチ・マーヤ」
や「天国の民」とくらべてすこしも遜色がなく,ボンゼルスの動物小説家としての本領が
あますところなく発揮されている。以上ボンゼルスの5冊の作品について大体の紹介と幼
稚な批評を試みたが,ここに忌揮のない御批判をたまわりたい。なおドイツ語によるボン幽
ゼルスの研究書はK母rl Rheinfurt, W. Bonsels 1919(3, Aul£1923)しか見当らない
が,残念ながらこれは入手できなかった。最後に 本文を書くに当って参考にした書物を
あげておく。
Blut. Eine Erzahlung von Waldemar Bonsels(Schuster&Loeffler in Berlin)
Die 3iene Ma5a und ihre Aben蜘eL Ein Roman fUr Kinder(Schuster und Loeffler,
Berlin und Leipzig)
Himmelsvolk. Ein M互rchen von Blu遡n, Tieren und Gott(Deutsche Verlags亭Anstalt Stutt.
gart Berhn und Leipzig)
1nd量enf紬rt.(Literarische Anstalt RUtten&Loening Frankfurt am Main)
Ma㎡σund d量e Tie爺e.(Deutsche VerlagsコAnstalt Stuttgart Berlin)
孔[M・蹴b・盤w・g・・A・・d・nN・ti・e・・i…V・g・b・nd・nφ・・t・ch・V・・1・g・=A・・tall St。ttg。,t)
Da・L・b・n d・・S・hm・t士・士1童ng・・F・i・d・i・h S・h…k(1・・el−V・・1・g・u L・ip・ig)
Die Dichter unserer Zeit・Fraηz Lennartz(Alfred Krδner Verlag Stuttgart)
1)eutsche L五tera加r der Gege皿wa鷲t. Werner Mahrholz
Tales f蜜om Sbakespeare. C.&M・Lamb
夏の夜の夢・シニクスピア作・土居光知訳(岩波文庫) r
天国の民・W・ボソゼルス 青木重孝訳註(大学書林)
Bonsels Himmelsvolk・岡田幸一編(大学書林)
The outHne of history. H. G. Wells(Garden City Publi寧hing Co.)
Der Grosse Brockhaus.
豊Lき印度・ポソゼルス・中岡宏夫訳(大日本出版株式会社)
蜜蜂マアヤ・ボソゼルス・実吉捷郎訳(岩波文庫)
新劇の書・久保 栄著亡新潮文庫)
1956.10φ31
@ A
@ F
@ F辱
,
@ .
X
Fly UP