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航海学と天文学
Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of 物 理 教 育 第 45 巻 第 1 号 (1997 ) 鬮 リー と ニ ハ 鬼 塚 史 ニ ー ト ュ 朗 大阪府教育 セ した恣意 的仮説 あ ,そ で あ るか ら きなか 力学 ン ト派 か ら は フ ラ ン ス の デ カル 。 され た ニ ート ン ュ 力学 っ た 確立 の ー リ の 足 跡を た ハ ど る。 りだ した 。 を 設 け ,そ た。 っ 陸地 が 見 え な く っ っ が 命を か けて 船 出 して い っ た た 。 ッ パ ー た。 しか し ヨ ロ と っ て ,海 は 東 洋 の 宝 庫 に つ づ く道 で あ っ た 。 あ ト ス ロ っ 人に 代 た が ン ブス , ポル トガル か らは デ ィ ヤ ス や デ ィ い っ た , ゴ ,ガ マ メ リゴ エ イ や が て 匱界 の 海 は イ ギ リ ス 。 ー リ や , イ ギ リス か らは ハ の マ ゼ ラ , ン を もた ら した の か 。 寄与が み え る 。 の おそ れが あ て ル ポ コ 来 る と東洋へ の ー 軍に発見 され て あわて っ ぐ ポ atar 年 航 海者 た ー ロ っ ッ た。 ア ジ ァ ち は, っ た へ パ 以 後 ポル た。 に 東洋 の 帰 の 道を さ の 1} (ア ア ゾ レス 自国 の 領 土 ール , ,そ 端 の 港町 ) す る と,そ こ で 得 た 財宝 を 資金 に で イ ア ジア ラ ム 軍 航路 の 開拓 ス かだか に勝 。 ポ ル 外 の にの 14 } がれ出た こ とはなか っ た。 , し,そ 艦 隊 を 派 遣 して 。 マ デ ィ の 地 。 ほ どの 小 さな 岬で あ る 泡 立 ち 流 れ が 変 わ る 。海 の 色 も 。 乗 っ て 』 進 む と海 の 果 て 気 温 が しだ い に 上 昇 す る 「晦 冥 の 炎 熱 地 獄 」 の 入 り 口 で あ る か ら 。 そ の こ の よ この し か し, 岬を 越 え た 者 で 生 環 した 者 は な うな 言 い 伝 え や 思 い 込 み が ,た 海 を越 え る の に 10 年 の 歳 月 を 浪 1433 年 と, そ の 後 の 南 下 は 順 調 だ に の 指揮 す る ズ に せ ま っ た が,イ ス 紅海 そ の ま ま海流 に 100 海 里 の 費 させ た 利 トロ の しか し,そ れ よ り の 南 下 は ポ ジ ャ うな気 が した の 地が もい わ れ た ス エ 岬 は 地 図 に もな い だ と い わ れ て い た。 い と 紅海 に と じ こ め られ る , 航 路 を さ ぐる 来る と海 が る よ マ カ ナ リア な ど の 諸 島を 再発 見 と した。 ド ール て フ リカ西岸 に 岬 に はば ま れ た 滝に落ち の は 。 ル と海 リカ 西北 トガ ル が こ の リ ーは ,ア 恐 しげ に 見え る。 絹 エ フ , ン が,そ こ まで っ ヘ : ヘ ラ ル ン リ ー ( トガ ル 王 航海 王 Henry the Navig − 〜 1394 1460 , ン リケ 航 海王 子 に 同 じ) は ,1415 セ ウタ っ ・カ 調査艦隊が 紅海 か らス ポ ジャ 憧 れ は ひ と きわ 強 くな 1540 年 デ た。 ラム 。 ド がア ジァか らヨ ロ っ もの に な っ た を た 。利 益 を 得 る の に 船 は 不 可 欠 だ 1 ポ ル トガ 2 。 っ エ ル の そ こ に は 航 海 学 が は た した 近 代科学 や 金 ,香 料 を 求 め て っ ニ トガ 2. 大 航 海 時 代 1295 年 マ ジ プ トの 第 らが船 出 ク ッ ク が 船 出 して い 。 バ 彼 ら を 海 に か り た て た もの は 何 か 。ま た 海 は 彼 ら に 何 へ エ 峡 を イ ス ラ ム 軍 に 封鎖 さ れ る と ア は じめ は は ,BC 2000 年 頃 ,古 出 る運 河 に 。 。 航路開拓 は歴代海洋 国 の 国 家 ロ して 河 か ら紅海 ナイ ル 航海研究 所 ス に , の コ レ 海 洋 学 者や 地 理 学 者 を 集 め た に 。 ラ ーベ た。 っ ニ リ ーは , サ グ へ ア か らは パ こ ン ヘ 12 代王 セ ウ ス レ ト 1世 に よ て 開 削 さ れ , そ の 後 ,BC 267 年 に も 拡幅工 事 が な さ れ て ,小 9 さ な 船 な ら 航 行 可 能 で あ った } ま りナ イル 河 か ら ー ・ ム レ ビ ダ ー湖 か ら ス テ ィ サ 湖 に 出て さ らに グ ト ズ に ぬ け る ル ー トが 造 ら れ て い た し か し,た と え 紅 海 ー ン ダ ブ海 に入 れ た と して もそ の 入 口 で あ る ブア ル や 航 海 暦 は高 価 で あ っ た が ,船 主 が そ の 費 用 を惜 しむ こ イス 1418 年 地 中 海 か ら 紅 海 に 出 る航 路 が 検 討 さ れ た た よ 多 くの 男 。航 海 学 は 難 解 で 船 乗 りが そ れ に ひ る む こ と は な か っ た 、ア 的事業 で あ っ ニ 。 寄 与 した に は じ め に りは 月 と 星 ,太 陽 だ けで あ ア ジア 力 と地 上 界 の 。 っ な る と 豪胆 な 水夫 も 不 安 の 色 を か く し え な か た。 ,悪 魔 の 算 術 に 依 拠 力 の 統 一に あ た わ け ン力学 は し か し , 地 球 の 半 径や 地 球 太 陽 間 距 離 の 測 定 が で 。 ニ 昔 の 海 は ,ま さ に 恐 怖 の 海 で あ っ ート ユ の 。 パ ス 1. ともなか 要諦 は 天 界 の 検証 は 困 難 を 極 め た こ れ ら の 値 の 確 定 に 航 海 学 は 大 き く寄 与 し た 。航 海 学 の 背 後 に ア の 世界 「 2 分割支配 」が み え る 航海 学 が 天 文 学 の 進 歩 を う な が し,天 文 学 の 知 見 礎 石 と な た 本稿 で は , ポ ル ト ガル と イ ス パ ア を 視座 に 航海 の 動 機 や 目的 を 議 論 し, ト ガ ル とイ ート ュ と き, 批判 大 阪 市 住 古 区 苅 田 4 − 13 −23 s558 た 当時,そ の っ ル ー − タ 観 測 的 ,実 験 的 検 証 は 不 可 欠 で あ の が 近代科学 成立 の ニ ン ー ト ン 力 学 が 創始 さ れ た ”と で る ュ はポ 航海学 と 天 文学 ン っ エ ア ネ ス が この た 。 1488 年 岬 を越 え にはデ ィ ヤ る ス 36〕 ( 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of リーと ハ ニ ート ン 航海学 ュ が 喜 望 峰 に た ど りっ い た 。 東回 りの 航 海で た。 1484 年 ジ 定法 の 確立 に 問題 急がせた ク ート ( Abraham に な っ た の が ,緯 度 の 決 定 で あ Zacuto 委員長 そ の 。 は ,緯 度 決 定 法 を 「ア ト ス に 心 ーベ ラ 象限儀 と っ 編 纂 した もの て ,夜 ニ コ ロ ン ブ ョ は北 極 星 や 巨 星 の 赤緯 り も西 回 りの 方 が を イスパ 。当 時 イ ダ 戦 に 勝 利 し,イ ラ ム の 勢力 を イ ス ス パ ア = した もの の , そ の 戦 費 返 済 に 苦慮 し て い た 。 そ の 打開策 を コ ロ 1492 年, コ の 途 にっ い たが 着 した 。 こ 問題 に な が,コ ロ はイ ザ ベ の こ った , で コ 嵐に あ ン ロ 一時 は 。 ラ に対 して リカ ス ポル の ブ ン ロ トガ ル の リス ボ トガ ル コ ロ し た。 カ こ の 会議は イ ,後 世 こ れ ,西 て 領 とな る ア の こ の デ諸 島 ロ ン ブス は,イ ス 西 岸沿 い に カ ナ の パ リア 諸 島 高度 を 28 度 に保 ロ ン 1492 年 9 月 13 日ア ゾ そ の 頃,地球 が 丸 い れ て い た。コ イ イ著 ; ト こ に は ロ っ ジャ イ カ マ 島 弩跣 ー島 キュ ・ ラ マ デ ィ カ刋 ウ タ ポジ・ ド ラ踏島 鴛 読 勺 、デ 毳 島 。 コ ロ ン 1410 刊 )」 に は ,地球 1度の長 て い た。 こ の ) さ ロ ・ダ ル エ は 地 球 儀 に 表 さ れ, そ い た S)e 緯 度 や 経 度 が 書 き込 ま れ て 経度長 そ の 7ア ,56 . は ラ ビア ミ リヤ 値 を 用 い る と赤 道 長 は 40259km 監 1 ’’ ’ 卩 ヤ ス ル セ りた ち に は よ く知 ら 「世 界 の 姿 (ピ ーリ 、 「 鴨 鱠r雪_−9 f ナ D す ら西 進 し た ン ・ 麁 ソ ー岬 エ ズ バ ーア プ ル マ ンダブ海峡 福 山 ζ ラ ン コ岬 殉 脚 赤 道 , ,船 乗 分 割 線 パ その 。 に あ る と聞か さ れ て い た ブ ス の 愛読書 ン (赤 道 上 で の 経 度 とな こ とは 割 シ 南 ドし た リ ブ ス は ,磁 針 が 北 東 か ら北 西 に 変 化 す る の を 見 て 驚 い た 。 ア フ ト リデ て ひた っ フ 諸 島 の 東 を航 行 中 の レ ス 分 {=〉 ゾ レス諸 島 》 リス ボ ニ ブ ス は, こ の 航 海 で 磁 石 の 偏 角 を 発 見 した 。 コ の ア イ ス パ 船出 し,ア ス を ロ N30 ° ( )ま で 東 _ パ ア の ニ の 諺 本は ブス の 航 海 コ 囗 ン 酋 日 領 に 属 した 。 ル トガ ル 香料 諸島 は ポ 。 領 ,東 トガ ル ポ ル なみ に を 「ト リデ 条約 は 本は 日 う な 航 法 を 「緯 度 航 法 」 と い う。ち 世界 に ニ カ 諸 島) が 30 度 の 地 , W25 ° 23 ’ ( )か ら西 こ と に した。 ーボ ・ヴ ェル ス パ ッ この よ 領 の 領海 侵犯が 身柄と引 き換 え の で ひ らか れ た の で ス 条約 」 と呼ぶ 西端の ブス ン ル た。 そ れ は , 日 本が 北 緯 死刑 まで 検討 され た ス の 諸 島 (モ っ か らで あ る 。 漂 に ン ない 「東 の 分 割線 」 は 口 本 の 福 山 を 通 る 。 ちなみに っ 後 は北 極 星 ラは, ブ ス の 新 大 陸 発 見 を感 じ と っ た ポ ル トガ ル 王 ン ー リヤ ーリヤ カ ド諸 島に 到 達 し , 帰 国 ン て ポル っ ブス コ イザ 法王 い 。 コ 航海 に 求 あ た。 の ブ ス は西イ ン 2 分割支配 を 提案 リデ シ シ ロ ブス ン マ 1 地 球 の 形 状 と大 き さ 3. ら一除 ベ ー し か し経 度 決 定 法 が 確 立 し て 3. は,グ ラ ナ 半島か リア ロ て い た )は , 東回 り よ ベ とを こ 両 国 は ど ち ら も そ の 地 が 自国 領 に 属 す もの と考 え した が 近道 と考 え ,こ の 航 海計画 の へ こんだ もち ァ に ニ ア ジ ア こ の あ る。 ア Christopher Columbus ( そ して 。 に は 日 本 と 香料 ア と海 ニ ス 領 と定 め た ァ ニ 東 の 分 割線付近 か ら緯度 が 求 め ら れ た 。 2 イ スパ 2. ’ 「東 の 分 割 線 当 時, そ れ ら の 分 割線 が ど こ に く る か は 分か ら な か 規則 の ス パ に も 認 め さ せ た B) e : 14〕 で (= Quadrente 1509 頃)」 。ヴ ィ シ が中 ま とめ た 。こ の 航海 便覧 は,ヨ セ ブ と な をイ の が ザ 「万 年 暦 は °37 ’ ) 」 °23 El33 」 ( ) 「西 の 分 割 線 ( W46 )の 地 に を 引 い て ,旧 世 界側 半球 を ポ ル ト ガ ル 領 ,新世界側半 球 ) 」 を編 纂 し,同 委 員 会 ロ Regimente do Estrolabio do ( られ た じ 。彼 )で あ る 赤緯表 : Almanach Perpetu且 m 任 に レグァ ( 2000km を 引 き,また ア ジ ア の 東端 に っ II世 は 委 員 会 を も うけ て ,緯 度 決 ァ ン ョ 370 と天 文 学 一 o セ ン トヘ セ ン レナ島 トヘ ゴ河 口 6 コ ン ハ ワイ o 忍 ’ o 4 パ タヴィ モ ルツ カ , 薗 r卩 ・ 含。 ア ℃ ジ ャ ワ タ ヒチ 、 o レナ湾 ノ 喜望 峰 ケル ゲ 図 レ ン諸 馬 , ど・ 矯 1 大 航 海 時 代 の 世 界 (37) 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of 物 理 40000km ( 実際は ラ ビ ア ア km )と計算で きた 1. 974km ( ミ リヤ )を 混 同 し て い た て い た。 した が 本 はカ ナ リア )の 地 に あ る と 確信 と な た 30000 km 赤道長を , ン ロ 文学者 1. 478 ( 3 コ 3。 と考え 諸 島 の 西 方 750 考 え た。 この 誤 レ レ 算 が航 コ ヨ ロ ギオ ン モ , せ る 航海器 具製作 者 ノ ー 船上で 月が 発見 した 地磁気 bert 1544 〜1603 )に よ : De Magnete ( て っ 磁石に な バ )の ード ( William Gil・ Corporibus ; ,地 球 が 一 これ は ク ニ ス の 1600 } 」 1504 年 島 で窮地 初 め は ンブ ス と ロ コ ロ 地動説 立 た さ れた に 安物 の ガ ャ マ ,多 量 に 島民 も ,そ の こ の ときコ ブ ス が 思 い っ い た の が 「月 食 の 奇 策 」 で ある 。 申 コ しわ た 頃に ロ ン ン ブス は ロ した 交換 を拒 む よ うにな ,近 在 の 部 族 長 を 集 め て “ 。 は コ ロ ブス ン 1 は じめ る と ,島 民 た ち は 多 くの 食 料 を抱 え て の もと コ ロ ン ブ 1476 刊 」 ス コ ロ ン に は , 1476 「 ギ オ モ レ 〜1530 年 航海暦 タヌ ス ン : (ド イ ッ 時) が 記 載 さ れ て い た 。そ 1504 年 2 月 29 日 が 皆 既 月 食 に あ た る と記 さ る。 こ した が っ の ン た とえ ば, ドイ ° 島の ° W77 経度 ( た だ し本初子午 線 。 1884 年 の こ とで し か し,月 食 は ひ ん ぱ ん に 起 き る現 象で は な い 方 法 は 実用 的 で 開発 さ れ た ス )が 測 定 さ れ た ジ の 上 に 置か れ た の は )が グ リニ お よび 「 月 と恒 星 」 ス ン ブス 頃 ,船 上 の ,そ の こ 。 れが は なか っ た。 の 「月距法」 で あ る 。 ギ オモ ン ニ 1923 運行表 は は ,毎 日 。 に は 30 分 に b ッ 正 した っ 一 「 定 め られ 。 らを セ の こ とはなか た が ,「1 分 計 」 や 「30 秒 計 」 も併 用 さ れ た 船に し た もの が 幾 組 か 用 意 さ れ ,船 長 ,航 8) 。当直 は , 時計の 上 部 を手 暖 め て 砂 の 落 下 を速 め ,当 直 時 間 の 短 縮 を企 ん だ 。古 っ た もの は ,時 間 が 早 く経 過 した 。砂 の か わ りに 卵 殻 を砕 い イ マ るな どの 用い て 式 の 壊中時計 に と っ 改良 もな さ れ た が ,や が 替 わ られ た て て ゼ 。 ガマ の 航海 ル トガル は へ 条 約 に お い て 自 ら が 定 め た 自 国 の 領 海 を航 行 す る もの で あ っ た か らで あ る。 王 マ ヌ ロ ル ェ ブ ス が ア メ リカ か ら 帰 る と , は ン コ ロ ン ブ ス で 路開 拓 の , まで ダ ・ 天 こ に と を決定 し た 。 の 方位決定 法 古 代 の 航 海 で っ そ の た こ と ン ド航 4 隻の 艦を ア ジ ア に 司令官 に 下ガ トガ 会議 は ,航 路 を あ く こ の 。 :以 ポ ル 会議 を招 集 し て イ る こ と を前提に , Vasco da Gama ( 1 ガ マ 4 , ヒ ン J能性 を 検討 さ せ た 東回 り に求め ガ マ 計 画を 採択 し な か の ・ 向か わ せ る タヌ Johnnes Regiomontanus )と は, ( ド イ ッ ,ケ ー ベ ル グ (レ ギ オ モ ン タ ヌ ス は, こ の ラ テ ン 読 み ) の の 時刻 (地 方 時 ) の を 悔 や み ,1496 年 リ ス ボ , レ ン 1866〜1938)の も の ( ラ ウ ン あ 「月 と 惑 星 」 そ こで ン セ ス ル 相 対 位 置 か ら経 度 を 求 め る 方 法 が の ハ くる い が む や み に 大 き くな る 1493 年 コ 。 ° ベ , ア ジ ア の 航 路 を 終 始 東 回 り (ア フ リ カ 回 り) に 求 め た 。そ れ は ,そ の 航 路 の 開 拓 が ポ ル ト ガ 一世紀 を か け た 大 継 続 事業 で あ り, ト リデ シ ーリ ヤ ル の っ こ の て っ ポ 2 時 に は じ ま る と 推 算 さ れ る 月 食 が ,船 上 で 午 後 8 時 に は じま た と す る と ,そ の 時 差 は 6 時 間 で あ る の で , ・15x6 )と な る こ の よ う に し て ジ ャ マ 経 度 差 は 90 (= る。 ロ 4. E13 )で 午 前 ( ッ た。 っ がれた。 て 船上 で の 時刻 との 時間差 か らそ の 船位 ( 経 度 ) が 推 算 で き る 。こ ° コ くな 地 方時) を砂 時計で 測定 す れ ば,暦 表 に 示 さ れ る 時刻 ( れ を 「月食法 」 と い う。 精度 に あ ー ド (1649 〜1719 ) ラー( 1705 〜83〕 ク レ ール (1707 〜83 > ハ 。 た。 月食 は 世界各地 で 同時 に 起 0 ( ン で か けて 起 こ る 月 食 の に 時差か ら イ イ は こ れ 暦表 に は イカ ー(1723〜62 ) オ ー (1713 〜65) ダ ラ ン ( 1795〜 1874)等 々 て い ブス して そ の れて テ 砂 時 計 時 」 と い う。 こ の 時 間 は 普 通 月 が欠 け 。 日 付 と 時刻 い ス 海士,当直 な どで 管理 した 携 行 した の ム ラ の た 。砂 が 落 ち は じ め て か ら 落 ち 終 わ る ま で の 時 間 を 8 じた 〕 。 馳せ 参 フ て い れば , っ 運 行表 の 作成 に は 多 くの 学者 の イ が お ごそ か に ” は天 罰が下 るで あろ う ! 明 凵の 月をみ よ へ の 1 分変 化 さ 午 (太 陽 の 南 中 時 ) を 基 準 に 砂 時 計 で 測 定 さ れ た 。 食料 提供 を しぶ る 者 に の へ て い た っ ,そ 位 置 に くる 時刻 を 求め て そ の ロ い た して 4 地 方 時 (砂 時 計 の 操 作 ) 3. 。 食 材 を提供 して の て い た% 推算値 も 示 さ れ の 月 の 位置が 分 か の イヤ ひ きっ イ カ 船 は 破 損 し,食料 もっ き か け た 。 玉 と交換 ラ ス 標準 時で て っ 年頃 まで 使 用 され , ブ 4 航海 の 途 上 , ジ は ,月位置 マ ン セ 月 食 (月 食 法 ) ブ ス は ,第 ン が が と り くん だ 。 を支持 す る初 め て の 概 念で あ っ た。 2 コ 3. 。した 以 後 ,月 距 法 の 研 究 と 月 い の大 きな つ コ ペ ル っ 月距法 は 実 用 化 さ れ 暦表 に ヌ ス の 経 度 が 算 定 で き る 。問題 は 暦 表 と観 測 「 磁 石 および磁性体に て る とす る考 え で , い て Robert Norman ( ル Magneticisque と い う書 に ま と め ら れ た 。 っ ン 伏 角 は ,ギ の とで あ る 。 こ 2 分 間 に そ の 位 置 を角度 に 空の 月 は ブ ス の 発 見 し た 地 磁 気 の 偏 角 と ,1581 年 に イ ギ リス の タ ン {1997) て い た。 11 〕 マ ー(MOIIar)の ブ ス の 頃に は, コ ン ラ ュ 1号 第 ブスの 月距法 ン ロ の ロ ・ミ ン ハ 海成功 へ っ 45 巻 第 ブス は, ミ リヤ )と イ タ リ ア の で て 日 っ グ ア (=2000km しか し コ 。 教 育 マ は ヴァ ス コ ・ と い う )を 任 じ た 。 ( 羅 針儀 の 活 用 ) も,方 位 は 比 較 的 容易 に 知 る こ と が で き 38) ( 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of ーと リ ハ ニ た 。 夜 は 北 極 星 ,昼 は 太 陽 位 置 か ら 概定 し た 。 羅 針 儀 は そ れ を さ ら に 容易 に し た ー ト ン ー一航 海 学 ュ 17 しか し, ヨ を 書 ー ロ パ ッ の 書 が シ ル プ ロ ヴァ 伝え られ た。 に ク ードを経 ロ の ギ ン ス ーは ョ こ 4. 5 度移 て とに れ 木綿針 を磁 石に こす りっ け て 磁 化 し, さ して 水 に 浮 か べ る と方 位 が 分 か っ トロ ス た。 ガ の マ き っ 。 動 した な る。 頃 に は磁 モ ン ル ベ ル グ (ド イ ,こ の って 月 と火星 航海暦 タ ヌ ス の 地 と ッ に い た ル 装置」が す で 緯 度決定 の 1497 年 7 月 ラ ン ス コ 2G 日 頃 の あ る夕 方,ア 岬 沖 を 航 海す る ガ − 5 等星 ) が見え ( 1 . と測定 された。シ リウ ス か 7 ら δ =− 16 . ° の マ 船か 赤位 は ,ザ の 面 積 48万 52. 1度 人口 (塒 ) 970万 人 ー ト の 航海 便 覧 王 ( 妊) そ の 南 中高度 h は た。 と求 め ら れ た 。 ブ ラ ク ン 岬 コ ュール 。 マ え て い く。 大熊座 ( 北斗七 星 ) ま で トヘ リカ マ 南端 の はその セ ン トヘ レ 湾に上 陸 し ア メ リゴ )の て い た イス 。 ェ 確立 を 企 図 し , ア メ リ ゴの ス プ ッ ニ 経度 決定法 宣言 した い と 考 え て い た ln トガ が そ の 第 たポ ル の の 分割 線」 を 確 定 要請 を うけ て 2航海に トガル 東嚇 1 日, ガ 33 度 と 測 定 した の 厂 束 。 ちなみに そ の第 い た。 3 航海 領 (ブ ラ 東 日本 ( 福山以 東 ) 西 日本 ( 福山以 西 ) 西イ 主な 領 土 ・ 北ア メ ド諸 島 ン ブラ ジル 1ア ジ ア ・ ア フ リカ ’ ・ スト イ ン ド 才一 ラリ ァ リカ ア メ リカ マゼラ蠍 麗 } 東 回 り( 西回 り( 喜望 關 り) 航 海 暦 レ干 才モンタヌス( 搬齪) ,第 2 はポ :ぺ 蝟} 地 の 経 度 を概 定 した 発見 し , ェ の り 自 へ 1500ブラジの ゴ( その ・ 躰との臨 。 1499 年 8 月 23 日 ,午 後 7 時 30 分 ,東 ) 5°) i デイアス(1488 ガマ( 1498:インド) 面 アメリ 喜望蜂S36 ) 輔 デイ ゴ(1482:ザイール融 v した 。 メ リカ を N ) :蹴 醇 ゴメス(1469 : ア ) ; , 「西 の 分 割 線 」 付 近 に 発 見 し ジ ル の 一部 ) を確 認 す る こ と と , 航海 で 南 ザ ク ー ト( 飜 1497〜1500) 瓰 〔ア) iii マゼラン( 1519−22 } iii ディアス{1444 研 ヤ ソリ ス( 1514ラプラ 15° ポ ル ト ガ ル は ,ア メ リ ゴ メ リゴ に託 一部 の 航 路 1 月 距 法 に よ る 経 度 決 定 5 . メ リゴ は 旧世 界 お い て 西 回 りの 航 路 の 発 見 を ア ア 新世 界 西 の攤 して 日 本 や 香料諸島 の 領有 を } 1445・ 95 )・ マ ヌエ ル 1世 ( i斑 1469−1521) ° 分割線」 お の ン ソ エ 開 拓 と経 度 決 定 法 の 確立か ら 1394 航海 者 ( 航 1 コロンブス(第1−4 騰 i ァネス(1443:ポジャドール 1492〜1515) 澣、 到翻 岬瓰 8 ) − メ ゴ iけ リ ( 第1 2 備 1 iilリスタン(1443:プランコ岬 要請 を う け ア の ニ ヘ : 。 航海 スパ ル ナ ェ ン リ ー( 慨 − 1460)・ ア フ ォ 香料 諸島 ア フ (Amerigo Vespucci: 以 下 チ の ル 一気 に めて 11 月 9 ナ 湾 に 南下 し た 。 よ び 「酋 ル 島を か す 第 1〜2 航 海 は , イ ア は ,西 方 航 路 パ 領 土 南 5. ・ヴ ナ そ の 地 を 南緯 , ア メ リゴ レ 150万人 ・ : が海に沈んで船乗り は ,ベ ン 2 9万 され し か し ,緯度航 法 に 精 通 し た ガ マ デ 岬 か らセ ポル トガ ル 喝 8)など オ ス た ちを不安が らせ た 。 ル , ) 地 の 経度 ョ 南 半 球 に 入 る と,見 慣 れ た 星 が っ ぎ っ ぎ に 消 e ( この ン ド( 1452−1516 ) V 世 (アフリ妊 1432・81 ・ カ ル ロ ス 1世( 1500 )・ ジ ア ン II世 ( 完鉦 = 14) ン ベ 2 イザ ベ ラ (1451〜 1504) ・ フ 緯 度 は次 の 。 て い る ブ 南天 に 輝 く シ リウ ら, 21. 2 と算 定 さ れ た ⊃ − 一 7 =21 . 2 (N ) φ 90 h δ 90 − 52 ユ 十 16. 緯 度 航 法 は ,古 くか ら知 ら れ て い た プ ト レ イ (127 〜160 頃 ) の 「地 球学集成 」 に は す で に 紹 介 ; ニ イス パ ニ ア 国 J 力 西端 の ] ブ ° 式 か ら北緯 は い た の 表 1 世界 を 2 分 した 国 家 聖 そ の 航 海 に 携行 した % 2 ガ マ 4 . 地 35 木 の 木 綿 針 を しか し, ガ マ は 天 然 石 の 磁 石 と 。 開 発 され て に て こ の 一 = ・’ ・ =12 − 6 . 5 )と ( °よ ル グ Ell 5 時間 時 差 は 5. ドイ ッ との た こ 時刻を の ) で 午 前 0 時 と推 算 さ れ て 5 度 西 方 に あ る 。こ の よ う に し て り 82 . ベ 1度動い 見 る と, こ の 時 刻 は = 磁 針を 水平 に 保 っ ン 4. 5 時間 に 「合」 こ の な る 。し た が 「ジ 5 東方 5. の 「合 」 は , 午 後 6 時 の 針 を 自 由 に 回 転 で き る よ う に し た も の や ,船 が 傾 い て も っ 火星 が 明 る く輝 時に火星 ま り 月 は 火星 に 対 し て じて い た と 逆 算 さ れ る。 ギオ で に と に な る か ら,1 時 間 に こ レ ン つ 。 した が 30 分 に 生 翻 訳 して 紹 介 した 。 ーに や が て 月は動 い て 午前 0 度 の と こ ろ に来た 「夜 間 航 海 に お け る 羅 針 儀 の 有 効 性 ( 1205)」 と い う に 月 が 出 た 。月 の 東 方 1 度 の 位 置 の い て い た 。 1044 年 中 国 の 曽 公 亮 が 指 南 魚 (初 期 の 羅 針 儀 ) を 「武 経 総 要 」 に 紹 介 し, そ と天文学一 : 1592) ・ 通 商開始 ( 通商 ( 長崎 ; 157ω 1624) ・ 通 商破棄 ( 通商 破棄 (1639 } 空に月齢 39 > ( 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of 物 理 71 . 5 度 (=82 . 5 − 11 )と 測 定 さ は ,西 経 ネズ ベ ュラ ラの キ エ ー島付近 ソ れ た 。こ 教 育 の地 は N12 ° っ ,現 在 の 値 に て 640Gkm は ほぼ 等 しい 。 とな 線と西 の 分割線決定 の 根拠 イス ニ , パ ス ロ こ とに あ た っ こ の 日付 1 日少 な も くな 270 人 の 証拠 と な の な らな か が 。 デ ル トガ ル ポ っ ュ 有 か らイ ス ニ ,そ ア して オ ラ ン ダ か が れ た 海 上 覇 権 は ,や が て イ ギ リ ス の も の に な 船 位 決 定 法 が 確 立 して ぐ海 難 に 悩 ん で い た 。 1675 年 にグ リ ニ チ ャ 2 代 台長 ちな み に 第 は : そ して 両 者を基礎 っ , ハ 一は 20 歳 の 頃 か ら東 , て 大 西 洋 を 航 行 した の 星約 300 。セ を 観測 して 大 西 洋 の 航 海 か ら帰 要性 を ニ ュー ト 7. 2 フ ラ ム ニ トヘ こ た。 ュ ートン ン に っ ド会 ン て レ たハ ス テ ィ ードが完 成 進言 した の た 3〕 し ー リ は ,船 位 決 定 法 確 立 の 焼 て ラム フ っ ね ば た。 ス これ Britannica : 星 表 (Historia Coelestis あ る ラ B〕 。 物理 学者 ガ ス の ン ッ ン サ リで 水星 : の い な い た。 ッ サ ン デ ィ は 奥 行 き 10m , 直 径 IOcm の ぼ け た 黒 い 点が ゆ ィ は, 部 屋 自体 を 針 穴 写 真 の ーン て ス ク リ っ に した。 くり通 過 して っ い っ 「黒 点 」 か ら水 星 の 視 直 径 を この ー ス ク リ 赤 い 太 陽 が 写 り,そ の な か を 直 径 の た。 ガ ” 20 1 ッ (実 と測 定 した 。 リーは , ガ ハ , もっ て ッ 待機 し た が , ヨ ーロ 観測 で き なか サ ン デ ィ の 測 定 を 追 試 し, の の ケプ ラ ーの 教 科書 に 準 た もの で 里 程単位 は なか R3 第 3 法則 ( 。以 じて い る っ しか し こ た。 の 通過 は 夜 に あた ・cT2 : っ 記 号 は 高校 下 同 じ) は ,ニ 公 転半 径 R は ート ュ ン (km 位 の 換算は , 天 文単位 で 表 さ れ , , 以 下 同 じ ) で 表 さ れ た もの で 一性 を し か し ,天 界 の 力 と 地 上 界 の 力 の 同 主 張 し, そ の 統 一を 意 図 す る 緊 要 不 可欠 で あ Descartes )派 か ら は 「 ( そ で の F =GMm /R2 )を 指導原 理 と して 証 明 万 有 引力 の 法則 ( 重 ー ドの 北 天 星 表 は,ハ リーの 進 言 で 航 海 用 星 表 の 重 要 性 を パ (1 天 文 単 の 決 定 ) 太陽 面通 過 さ れ た。 ス テ ィ ッ た。 っ 。 。 認 識 し,そ の 完 成 を 自 ら の 手 で 行 う こ と を 決 意 し た 。 に 物理 ちな 。 っ , 島 に も滞 在 し,南 天 ナ そ の 発 刊 を 待っ こ と は な か カ ニ 4 金 星 7. 1687 年 社 の 船 に 便乗 し 「南 天 星 表 」 を完 成 した 「北 天 星 表 」 は , フ ラ ム みに ン イ っ 学位 を得 た % な お こ の 年 に は , 金 星 の 太 陽 面 通 過 も予 告 さ れ て い た 。ガ ッ サ ン デ ィ は 2 日 前 か ら そ の 部 屋 に 1 ハ リーの 南 天 星 表 7. 1J と もの し,恒 星 に は そ れ が な い こ と を ガ リ レ オ が 指 摘 して 際は 1677 年 フ ラム ス . した 月距 法 の 確 立 に あ に 表 改竄 が加 ータ に 再 検 討 を 加 え デ の Pierre Gassendi 1592〜正655)は ,パ ( ” 。 つ ーの 300 部 を 私 費 で 買 い すべ て ll ) ジ の 主 務 は,月 の 運 動 理 論 確 立 と恒 星 位 置 の 測 定 , グリ ニ リ や が て 星 表 は 完成 し た が , た。 っ ー ドの 寿命 が サ ン デ 1646〜1719)が f壬 じ ら れ た と め た 以 後 1 世紀 一が 1丿 ハ 初代台長 に は ィ mm っ II世 は , 船 位 決 定 法 の 確 立 を 目 的 ズ ジ 天 文 台 を 建 設 した 。 ー ド (John Flamsteed テ ィ ン た。 っ ハ この 星 。 ード は ,こ れ を 不備 な テ ィ られ た 機 に し,壁 に 白紙 を張 た。 っ い なか た 当 時,航 海 に は ,っ ね に 座 礁 の 危 機 が っ き ま と ール で ある そ の 後 ,彼 は 星 表 完 成 に 全勢 力 を 傾 注 した 。 「ブ リ タ ガ とひ き へ し か し,海 洋 国 家 へ の 道 に の り だ し た イ ギ リ ス は ,あ い つ 。 た . しか し,水 星 は 小 さす ぎて 大 き さ が 確 認 で き て 。 パ ラ ム ス 太 陽 面 通 過 を観 測 し た 。惑 星 は 望 遠 鏡 の 視 野 で 大 き さ を ロ ュ ニ ィ ム ス 1631 年 11 月 15 日, フ : フ 3 水星 の 太 陽面 通 過 7 . 。 ニ ハ 1725 )と 「星 表 〔 Atlas Coelestis: 1729 ) 」で この Halley 1656 〜1742)は , ン ド ン 1703 年 か らオ ク ス フ ォ ー ドの 教授 を つ と に 生 まれ た ー ト ン を 助 け て プ リ ン キ ピ ア (Prin− め た 彼 は, ー ト ン 力学 の 樹 立 に 貢献 し た cipia )を 刊 行 し, ハ た。フ ラ い リ ーの 改 竄 で が, 航 た ード コ ハ テ っ ィ ィ 却処分 した ル リ ー の 航海 7. ハ リーに 命 じ て , は Historia Coelestia: 1712 )」 編星 表 ( 乗 員 は ,3 し か し, テ ス た 。 両 者 の 間 に は 感 情 の もっ れ っ ン っ 航海は の て い た。 っ て い た。 っ ュ と して 書 店 に 並 べ 18 人 に な と は地球 が 丸い こ との な に よ り Edmund リー ( じ た ラム ー ド は ,観 測 未 了 を 理 由 到 る 航路 を発 見 す る ジ ァ に 年後 の 帰国時 に は, 1 隻 の 艦 と 海 日誌 。 ート テ ィ は 不 完 全 で あ る ば か り で な く,各 所 に そ の 目的 は ポ ル ト ガ 船 出し た 5 隻の 艦 と e 値 か ら地 球 の 半 径 を 船 出 した 。 そ い た。 要 請 を うけ て 領海 を通過 す る こ とな くア の こ とわ ニ ム ス フ 。 ゼ ラ ン の 航海 マ ゼ ラ ン は ア の と た。 っ 申 し出 を え られ て 6. パ 40500km 生 しか し フ ラ 。 ジ天文 台長の リニ 1997) ( ー ド が 彼 の 友 人 に 手 渡 し て い た 手 書 き デ ータ の ー ピ そ こに を入 手 さ せ , こ れ を 資 料 に 星 表 を 刊 行 し た ー ドの 名 は な か た これが 「 王 立 協会 は フ ラム ス テ ィ テ こ の 。 が 経度長 の 決 定 は,東 の 分割 と求 め られ た 1519 年 マ 途 の い る と 赤道 長 は 値を用 の S8 〜 上 ,赤 道 海 域 ( 75 海 里 ( 75x1 . 5 km ) ° , 経度 長 を )を 数度 往 復 し て と決 定 した 。 こ な に その 第 2 航海 リ ゴ は そ の メ 求めた に 2 経 度長 の 決定 5. ア ータ を グ して そ の デ と考 え ら れ て い る 。 45 巻 第 1 号 第 ニ ニ っ ュー ト ン フ ラン ス の デカ ル ト た。 ュー ト に と っ て ,両 単 力学 は 悪魔 ン の 算術 に 40) 〔 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of リーと ハ 依 拠 した恣 意 的仮 説 で あ る」 と批判 さ れ て 1710 年 頃 過 の 観測 か ら き ま っ て く る。 自転 速 度 は緯 度 に よ そ の 通過時間 は緯 度 に よ っ 変 わ る。 したが て 通 過 時 間 の 測 定 か ら太 陽視 差 地 太 陽か ( 視 半径 ) が 求 ま る と 考 え ら れ た リ ーの 理 論 で ハ て 地球 。 の る の で あ る。 リ ーは し ,観 測 の 重 要 性 を 力 説 し た これを ニ ート ン ュ ゥ ,地 球 れ た。 解 と して て っ 重力 た。 っ 単 振 り子 連 動方程式 , しか し地 上 物 体 の の 加速度 は 9. 8m =− mg 周期か ら の θ/dt2 mld2 ( / 求 め ら れ た こ の 値 が デ カ ル ト派 を 説得 た。 っ 重 力 の 加 速 度 は あ くま で 自 由落 下 George Atwood 1746〜1807)に ( ; よ こ れ はア っ て ト 求め ら ち な み に こ の と き用 い ら れ た 地 球 の 半 径 ( 6357 )は , フ ラ 天文学者 ス の ン ピカ ール ( Jean Picard : 1620〜82 ) が 子 午 線 長 か ら求 め た もの で あ る 。 ちな み ー に ピカ ル は 1678 年航 海用 の 「大 象便 覧」 も 刊 行 し 説明 。 ド ッ km フ ラ ン ス の 物理 学者 ド NicQlas Dolisle : 1688 〜1768 )は , ( Joseph リ ール 物体 が 1 秒 間 に 落 ドす の か ら求 め られ る べ き もの で あ った の で あ る。 半径 は, に い たが て っ に よ ン ス ヘ す る こ と は なか ら天 文単 位 が 測 定 で き る , と す るの が ハ ホ イ ま sin θ)の その , 求 se と ら地 球 を 見 た と き 太 陽地球間 距離 と太陽 視 差 と の 積 で 表 され 半 径 と 太陽 視差 か 1673 年 /s ) 目転速 度 か っ 4. 9m )と,地 上 距離 ( 落 下 は 速 す ぎて 測定 で き なか て 変 わる の で , っ る る距離 ( 4. 9 m )は 等 しい は ず で あ る 。 太 陽面通 の ら天 文 単 位 の 測 定 が 可 能 で あ る と 主 張 した 。 と地 球 の 公 転 速 度 ( 30 km /s) , お よ び地 球 の 球の 航 海 学 と犬 文 学 落下 す 太 陽面通過 時間 は, 金星の 公転速度 ( 38km 金 星 の の ート ン ュ い た。 リ ーは 論文 を 発 表 し, 金 星 ハ , ニ , た ハ 15) 。 リ ー論 文 を高 く評 価 し,そ の 観 測 意義 を 世 界 に 言 伝 し た 。 = を ユ ロ ート ン とハ リ ーは ド リ ール に 感謝 し, ン ド ン に招 い て 1761 年 の 手厚 くもて な した が 世界各 国に 編 成 さ れ ,赤 道 付近 の 海 か ァ 奥 地 に ま で 派遣 さ れ た ー号 も タ 星 太陽面通 過 が よ の っ ヒ キ 6月3 日 1716 年 に 予 告 さ れ た て 年 の 観測 に 度の プテ ャ チ に 派遣 さ れ た 。 と 1874 年 ま で な 緯 。 ちなみに ッ 。 で きず 失敗 る こ と は リ デ の全 1761 ちな みに 19 ) した 。 コ 3 隊 そ の 他 の 国 数 隊 と い 威信 を か う もの で っ あ イ っ この ン た 6 ハ リー彗 星 7 . 各 ハ リ ーは ,1337 a> 。 とき も の デ 5 7. ニ ニ ー ト ン 以後 の ュ ケ ン 75 〜76 年 で あ ュ ート ン の 業績 の ユー ト リ ーで ァ ン の ニ 根 城 とな っ た っ 。 あ の 距 eeD km 。 の 当時 すで は求ま 関係 がある 力に関する こ っ て い た。 「逆 2 乗 則 」 が 正 し い した が っ , 月 が 60 な ら たが, 出現 は こ の ハ リ ーの 名 を不滅 に し, ら した 。 周期 よ り 行 わ れ た。 の ロ 周 期) で 1697 て , 年 リ ーは ,古 ハ 月が 加速 され シ ア 秒 間に い た。 時代 よ りハ これを リ 月の 代 の て い る こ とを 起 い る。 日食が こ る (地 球 上 て い た。 っ 冂食 観 測 っ 「書 経 ( BC 中 国の 記録が残されて ス の ど こ か で ) こ と は ,古来 よ り 分 か ,重 て っ リ ーは こ 再 出現 時 に ハ の ,地 球 の 半 径 R と 地 球 か ら 月 ま で て い て ,両 者 に は D ;60R =38 万 とが 分 か なか サ ( に っ い に そ っ 。 世に と 予 告 した 。 18 年 11 日 の っ った る と 結 論 し た 。そ し て , こ の 彗 星 は , 日食観測 は古代 2138 ) 」 に は,す で ュ っ 3 彗 星 (1531 , 1607 , し, そ の うち の ハ ー ト ン 力 学 の 要 諦 は あ くま で 天 界 の あ た 力 と 地 上 界の 力 の 統 一 に あ た わ け で あ る か ら ,そ の 実 一 が 験 的 ,観 測 的 立 証 は不 可 欠 で あ た そ の 方 法の 「月 の 落 下 」 と 「 地 上 物 体 の 落 下 」 の 同 一性 の 立 証 で ニ 年 に 観 測 さ れ た 24 個 の 彗 星 ニ そ の 主 導者がハ 。 ( 絵 : 今村史子) ュー ト ン 力 学 に 勝 利 宣 言 を も た 7 リ ーと 月 の 公 転周 期 7 . を 正 し く理 解 し,高 く評 価 し て 広 く啓 蒙 す る 者 た ち,つ ま り= ー タ を整 理 〜1698 1758 年 に 再来 す る ブ リ ッ ジ は ,ニ は西へ 。 ー トン カ 学 ュ ス 1682 )が きわ め て 類似 した 軌道 を有 す る こ と に 気付 い た 一星 で あ り,そ の 公 転 周 期 は , そ して こ の 3 彗 星 は 同 っ た の が 天文観測員 の 確保 で あ っ た。 各国 ーと リ ブ ン 7 隊, は 航海士 を 数 年が か りで 訓 練 し て 観 測 員 に あ て た 。 ハ ロ ラ ン ス フ け て 観 測 費 を 工 面 し た 。 艦 ,望 遠 鏡 天 文時計 な ど に 莫 大 な 費 用 が 投 じ られ た 。 と も問題 に な ン リ ーに ハ , 国は国 エ 1769 年 1769)の 内 訳 は ,イ ギ リ ス 67 隊 150 隊 ( 35 隊 ス ェーデ ン 15 隊, ロ シ ァ 13 隊 , ス ペ の ベ クの シ イ ギ リス は喜望 峰に 観測隊 を派 遣 したが , は, 測定 が正 確 に ドイ ッ 150 隊 し か も そ の 機会 を の が す こ と も付言さ れ た。 い は ら早 春 の ・ク ン 生 じ に 彼 , 。 120 隊 ,69 年 の 観 測 に 観 測で は ヴァ 1724 年 2) の デ ータ を 整 理 き とめ た。 っ ま りギ リ ーの 時代 の 月 の 公 転 周 期 は 短 くな 「長 年 加 速 」 と い う しか し,そ の っ 。 し て 原 41 ) ( 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of 物 因 は ,地 球の 自転 が し だ い 道 の 離 心率 の 減 少 1787 年 ラ によ ある に よ る もの で 伴 う摂 動 に くこ と と,地 球 軌 い こ とが PierreSimon Laplace: 1749〜1827 ) ( プ ラ ス 明 らか に て っ 遅 れて に 教 理 クの 航海 ッ James Cook 探 検家で 航海者で あ る 太平洋を 3 回に わ た ク の 名 で 親 し まれ て 19 世 紀 まで 時法 が あ れ た っ 。 求め プテ ャ ド洋 か ン ン ・ク を合 わ せ る必 要 が あ ら せれば よい。 ッ に 標 準 時 法 は 「標 準 時計 運 搬 法 」 と も呼 ば こ とを ジ) で (グ リ ニ 合 わ せ た 時計 を 船 に あ る 。太 陽 や 星 の 南 中 時刻 を 標準 で 値 と の 時差 か ら経度 を算 た 。 「月 距 法 」 が あ る (前 述 ) る に は正確 な時 刻が 必要 で あ っ た。 互583 年 年 頃ホ 時計 は イ ガ 1丿 レ オ ン ス ヘ 波 , が 振 り子 た。 やが て フ ッ が 振 り子 時 計 を 発 明 し た 。 に揺れ る船上で は こ れ は, し, イ ギ リス の リソ ハ が れ て ひ きっ 使 え なか 〜1703 )が ク ( Robert Hooke : 1635 1776 )に しか し, こ の ン 航海用 っ ゼ ン イ時計 を 発明 マ ( John Harrison 1693〜 ノ メ ー 精 密 時 計 (ク : の 天 文学者 ロ 在 )は ,標 準 時 計 の 較 正 に 木 星 衛星 提案 した 木星 る の で 第 の 1衛 3〕 。 この (イ 星 と地球 木星 , 方法 は デ オ ン て こ の 較正 が 可能 に もな っ 食周 期 を 使 う ーマ ー レ が れ っ 。 769 ,1. ) の 公転周期 は 199 日 で あ ( 最 接 近 ) 位 置 か ら合 衝 が その は 1622 113 回 公 転 す る 公転 の し 113 て っ 21 時 間 47 分 57 秒 日 ( 最 。 とな る 補正 す る 必要 が あ で よ う な 時 刻 を 表 に し て 携 行 す れ ば , 標準 時計 用化 され な か ロ 合わ : 1644〜1710)に ひ き : は ずで あ る ( 正 し くは地 球 の Rooke 衝 に お け る衛 星 の 子 午 線 通 過 時 か ら 測 回 目の 子 午 線通 過 る )。 の ーク 学 者 マ 離 反 ) 位 置 に く る まで に , 衛星 は っ 時報 時計 に 。 Lawrence ク ( ッ 研 究 と観 測 が っ つ け られ た たが 等 時 性 を 発 見 し,1657 の な ら ラ ジオ の ま り標準点 (グ リ ニ ジ ) と海 上 か ら同 時 Ole Christensen R6mer ( ,「月食 に は ず れ の 方法 も正 確 な経 度 を い っ 。現 た っ 観 測 で き る よ うな 現象 が 求 め ら れ た イギ リス これ に対 して,地方時法 。 闇にイ リス る。 時計で 測 定 して 暦表 に 示 さ れ 法」 と ,イギ )は 調 査 し た 。キ て い 積ん で 使 用す る もの 定 した よ うに 標 準 時 計 の くる い は 航 海 日数 と と も に 大 の 経 度 決 定 法 に は , 標準 時法 と 地 方 。 子 午 線通 過 を観 測 し メ デ)の ニ 島に 停 泊 チ ヒ 。 前 述 の 1728 〜1779 1768〜79 の : っ ,標 準 点 る もの で 第 3 衛 星 (ガ の ク は タ ッ IT〕 〜1662 の e き く な る の で ,長 期 の 航 海 で は ,な ん らか の 方 法 で ク ( ッ 1997 ) ( 2〕 1771 年 ll 月 26 日 ( 水 ),ク た ク 第 1号 2 木 星 の 衛 星 観 測 ( 時 計 合わ せ ) 8 . し木 星 1 経 度 決 定 法 8. ク づ けて い る さ れ た。 8. 45 巻 第 育 っ な る と考 え られ た 。 しか し こ の 方法 は実 16 分 30 秒 に た 。そ れ は ,そ の 誤 差 が た か らで あ る 。ち な み に レ ー ーは ,こ マ 値が 単 の タ ー) と して 完 成 し た 。 し か し標 準 時 計 の くる い は ,地 な る 観 測 誤 差 で は な く,光 が 地 球 の 公 転 軌 道 を 横 切 る の 方 時時計 と ち が て しだ い に 大 き くな て い く。赤 道 付 以 上 もの 誤 差 に な 近 の 航海 で は 1 秒 の く る い は 400m に か か る 時間で あ る と考 え て っ るの で っ ジ ブ ラ ル タル か ら帰途 に は,イ ギ リス 南 西端の ラ 艦と っ 艦隊 座 礁 し,4 隻 そ の 原 因 は経 度決 た。 15) た とい わ れ て い る e っ I714 年 , イ ギ リス 海用時 計 を募 集 し た 諸 島 を 往 復 し,そ )以 内 」 た イ ギ リス い っ ズ エ ン ド岬沖で ン 100 名 以 上 の 乗 員 を失 定 法の 不 備 に あ 56km ( と太 陽間 そ れ が 多 く の 座 礁 事 故 を ひ きお こ した 。 , 1707 年 の は, ン ド) っ きで 「イ ギ リ ス か ら船 出 し て 西 イ 。 ン 航 ド 間 の 経 度 誤 差 が 角度 に し て 30 分 の と い うの が 応 募条件 だ 。航 海 が 日の 誤差 は リソ ハ ン 100 この た。 っ 条件 を の ク っ ロ ノ メ ハ リ ソ ン ドの の 賞金は ,そ ハ た。 ータ ー第 1 号 は くる い は の リソ ン 1735 年 に 完 成 , ロ ン の 第 4 号時計 54 秒 に と ど ま の もの に な 第 1 号 時計 は 現在 も の 値 が 現在 の 値 距離 が 正 確 に 求 ま ,地 球 よ り小 さ い の は て い なか っ っ た た め で あ る。 8, 3 ク ッ ク の 金 星 太 陽 面 通 過 観 測 1769 年 6 月 3 日 ( 土 ), ク ッ °ISt S17 ( クはタ ヒチ ° ’ ” 29 ” ,W149 32 30 )に お い て 金 星 の 太 陽 面 通 過 を 観 測 した 金 星 は , 午前 9 時 25 分 04 秒 に 太 陽 に 接 触 ( 外 い た し 3 14 08 秒 に 離 れ て ( 外 触 ) 。 触 ) ,午 後 時 分 ’ 6 こ の観 っ ま り金 星 は 6 時 間 ほ ど で 太 陽 面 を 通 過 し た て 行 測 は 世 界 各 地 に 派 遣 さ れ た 150 隊 の 観 測 隊 に よ あ わ れ た そ の 結 果 は や が て ま と ら れ ,太 陽 視 差 は 8. 43 〜8 . 80 秒 (角 ) と 算 出 さ れ た 地 球太 陽間距離 (1 49 〜1. 56 × 108km と 測 定 さ れ た 3 な 天 文 単 位 ) は,1. こ の デ ータ 処 理 は 誤 差 論 確 立 に 大 き く貢 献 し た お っ ) 。 っ 。 。 , 。 。 , 1761 年完 成 つ け られ た。 は , 156 日 の 航 海 で ン 及 ぶ こ と を 考 え る と,1 1 秒 以 内に す る必要 が あ っ し以 後 改 良 が 2 万ポ 日以 上 に の 。 2万ポ 懸賞 ( 満 た す に は 時 計 の く る い は 120 秒 以 内 に お さ え ね ば な らな い s 」 と求 め た 。 こ 2 × IOSm / 「2. ,光速値 を っ た。 っ 4 ク ッ ク の 水 星 太 陽 面 通過 観 測 8. 1769 年 11 月 15 た。 ラ ドに 。 ク は この っ ッ クはタ 船 をす す め , 「北 島 」 過 を 観 測 した ちなみ に ド ン で 時 を刻 み ン 日,ク の ヒ チ か らニ ュ ージ ー 北 端 で 水 星 の 太陽面通 観 測 は晴天 に め ぐまれ て 地 を 「水 星 湾 」 と 命 名 し ,イ ギ 成功 した リス 領と 。 ク ッ して 領 42) 〔 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Physics Eduoation Physios Education Society Sooiety of Japan Japan of リーと ハ ニ ート ン ー ュ 土 宣 言 し た 6) 間距離が 測 定 さ れ や が て キ ャ ベ ン デ ィ ッ シ に よ て C )の 値 が 測 定 さ れ て ,地 球 や 太 陽 の 質 暈 万 有引力 定 数 ( 。 5 ク 8 . 1776 年 8 月 5 諸 島サ 。こ 測定 した ン ・ボ する デ ・ク タ ン 凵, ク ル ス リソ と を確 認 し ,そ こ ート ル 地 を 「S48 地 は ,そ の 宣言 に は ,そ の 地 の あ た ク は, ’ 45 度 に しク ッ の へ た っ 。 光 学 が 科 学 の 基 礎 を築 い 全 面 支援 を 約 束 し た 。 だ 落雷 に み のバ タ ヴィ ヤで た オ ラ まわ れ た。 Chain> を 設 置 し て Electrical ( なか っ ン た。 この ク ッ す る重 要 な 報告 で あ た ク を 1 ) 青 木 一夫 : pp はジ 人で あ たか らで あ る% の 5) 言 は じま 単位 で っ 物理量 へ た 。 の あ り, 測定 は定量 化 の 基礎 定 式 化 ,数 理 化 と ,科 学 は じ ょ じ ょ て い つ っ た 。 い て は, 大 距離 の しか し 時 間 に っ い て は ワ ャ て 無視 ア メ リカ っ 測定 」, 重 さ に の っ あ に その る て い た 。 っ い て ル マ ロ り, ニ これが 。 も, 地 球 や 太 陽 の よ とが ュー ト ン 力 学確 立 の 東方見聞録 ( 校 倉書 房,1996 ), ヴ : 林家永吉 1 コ ァ ス コ ャ プ テ ロ ン ・ダ ・ガ ・ク ン ッ , 215 . ,1993 ),pp . 1992 . ( 原書房, ), pp 352 . 1983 ( 岩波書店, ),pp . (原 書 房 マ ク ブ ス 航 海 日誌 297 , ミ シ ェ ル ル パ ン : コ : ニ ン ロ セ エ ロ ッ ン コ : コ ロ ン ス ン モ さ に うな ィ ロ : へ : ン ン ッ ン : エ ロ ス : 定量 化, 。 こ って 文 献 ・ポ ー コ コ 完成度 を ま し 。この したが 測定 か ら の 「精 密 測 定 」,長 問題がっ きま とっ た 2 乗 則」 検証 の 隘路 と な 増 田義 郎 ョ 地 球 半 径 や 地 球 太 陽 間距 離 と い う よ うな 「長 「超 重 量 測 定 」 因と な で も命 も失 わ せ た 。 。 ケ ーヌ 著 ,大 貫 良 夫 監 修 ブ ス (創 元 202 . 社 ,1992),pp . ・ ド ー著 ,弓削 喜 治 訳 ス ズーレ 9> ジ プスの 395 . 運 河 (フ ジ 出版 ,S62 ),PP . 10 > 萩 内勝 之 ,篠 田有 史 : ブ ス の 夢 (新 潮社 ,1992 ), 119. PP . 111 ズ ヴ イ ・ド ル ネ ー著 ,樺 山 紘 一監 修 : ブス ( NHK , 1992 , 201 L . 235 . ) , pp ( ); pp (ド) 12) 笈 川 博 一 ブ は何 を 発見 したか ( 講 談 社 .1992 ), 202. PP , 13) 色 摩力 夫 ア メ リ ゴ ・ブ ェ プ チ (中 公 新書 ,1993 ), 228. pp , ーズ 著 ,荒 尾 克 巳 訳 大 航 海 時 代 (筑 摩 書 14) ボ イ ス ・ 415 . 房, 1985 ), pp . 15) 茂 在 寅 男 : 航 海 術 (中 公 新 書 ,1993),pp . 194. 16 } 松 田 智 雄 世界 の 歴 史 7 一近 代 の 序 曲 一 ( 中 公新 書, 155 . s56 ), p . ・ク ク 最 後 17) ハ ド ・ イ ネ ス 著, 池央耿訳 キ プテ 283 . の 航海 ( 東 京 創 元 社 ,1986),pp . 282 . 18) 青木康征 ブ (中公 新 書 ,1989 ),pp . 19 } ヌ ・ ミ ト著 , テ タイ 増 田 義 郎 訳 :太 平 洋 探 検 史 210 . (創 元 社,1993),pp , 20 ) 中 山 茂 : 天 文 学 人 名 辞典 ( 恒 星 社 ,s50 ) ,pp .207 , 8) (質 量 ) の 単 位 は ,基 本 さ らゆ る こ と に 精 . 334 , ペ 認 識 は, 「度 ,量 ,衡 」 船長 は あ 。 : 時 間,長 さ ,重 その ,船 誤 りは 6) 増 田義郎 :キ 9. 航 海 学 と 物 理 学 て ,造 船 , . 363 . 3 ) 広 瀬 秀 雄 : 望 遠 鏡 (中 央公 論 社 自然 選 書 ,s50 ), pp . 193 . 276 . 4 ) 増 田 義郎 : マ ゼ ラ ン (原書房11993 ) pp . 艦 に 被害 は ク リン が ン る よ うに ,か っ て い 2 ) 広 瀬 秀 雄 :天 文 学 の 試 み ( 誠 文 堂 新 光 社 ,1981 ). pp 支援す る ー号 クの 。 参考 , し か し避 雷 用 鎖 ッ 。理 論 の 。 た が ,半 世 紀 以 上 に わ た そ れ は ,そ の 発 明 者 の フ ラ かつ た 近代 科学 確立 に 寄与 した 報告 は ,避 雷 針 の 有 効性 を 立 証 クの っ ァ に 17) と な りに 停泊 し て い たク い さ れ た。 っ デ ヴ ダ艦 は 大 き な 被 害 を う け た 。 ン っ エ 。 そ こ に は 正 しい 理 論 と 精 密 な 観 測 が 要 求 され た た だ し領 圭 「科学 に 国境 な し」 クの 力学 と 。 通 し て い た 。陸 が 見 え な くな る と,頼 り は 航 海 学 だ け ッ ッ た 操 船 ,食 料 ,戦闘 ,法 律等 々 7) 8. 6 ク クの 避雷針 1770 年 10 月 10 日 ク 位 を 確立 の地 は 船 が 科 学 の 粋 を 集 め て い た 。 天 測 ,気 象 ,地 理 に生 まれ た。 空 間, 物質の 基 , 論 と して 現 在 の 航 空 機が 科学 の 粋 を集 め て ア メ リカ の フ ラ ン ク ッ い理 10 . お わ り ク 航 海 の 学 術的 意 義を 理 解 ッ 時間 , 速 度 の 測 定 を も た ら し,光 学 の 確 立 に 寄 与 した と と も に イ ギ リ ス と 敵対 関 係 に ン ス た め の 通 達 を 各地 に 送達 した 。 こ 陸 い た ア メ リカ は リン ( B .Franklin: 1706〜1790 )は , ク 葉はこ パ ,新 発 見 の 計算 に 明 け 暮れ 日そ の し か し, 両 国 は ク ク ’ 力学 は っ 木 星 衛 星 の 公 転 周 期 や 恒 星 の 光 行差 の 測 定 は ,光 。 時計 正 確 な 緯 度 と 経 度 を 布 告 す る必 要 が [ ;官 た ち は 連 た。 ° は した く るい の お け る 秒 振 り子 の 長 さ を 当時 の 航 海で に ュー ト ン ニ 。 本的関係 を記 述す る ゆ る ぎな プ テ 26 ,E64 57 ( ダ は, フ ラ ン ス 革命 ° 艦 を 派 遣 した国 の 領 土 とな そ れ を 支援 す る フ ラ っ ボ ル ダの ータ ーに そ の 頃 イ ギ リス か らの 独立 を求 めて あ ャ も確 定 し た ン 法 の 制 定 に 尽 力 し, ま た 自 ら考 案 し た ボ ル ダ 精 密 測 定 し た 17}。 ち な み 。 ッ ノ メ ちなみ に ボル 振 り子 を 用 い て 緯 度 っ 。ク 型 クロ ン の リ基 準 ) 」 と定 め た。 の ゲレ : くれ た して 自艦 の ハ に て ら して 後メ 物 理学 者 キ に は フ ラ ン ス の ータ を 種 々 提 供 ない ド洋 の ケ ル ン 島 に 停 泊 し, こ の 地 の 緯 度 と 経 度 を 泊地 の 南イ ク は ッ ル ダ Jean Charles Bordat 1733 〜1799 )の 座 乗 ( ー ト艦 ブ ソ ール が 停 泊 して い て ,天 測 で 得 た リゲ フ ュ , ク とポ ル ダ ッ 航海学 と天文学一 コ ロ ン ャ ン ッ ス ユ ッ 「逆 (1996 年 10 月 17 阻害 目受 理 ) し か し航海学 か ら 地 球 半 径 や 地 球 太 陽 43} { 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library