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肺血栓塞栓症の予防 …PDFファイル
はじめに 血栓症はこれまで本邦では比較的まれとされていまし たが,生活習慣の欧米化などに伴い近年急速に増加して います。臨床的に問題となるのは,深部静脈血栓症(deep vein thrombosis:DVT)と そ れ に 起 因 す る 肺 血 栓 塞 栓 症 (pulmonary thromboembolism:PTE)です。近年,本邦に おける周術期の PTE は,いわゆるエコノミークラス症候 群の 100 倍以上の頻度で発生していることが判明し,今ま さに予防対策が急務といえます。今回は,PTE / DVT に 対する当科の取り組みと 2004 年 2 月に発刊された「肺血 栓塞栓症 / 深部静脈血栓症予防ガイドライン」から予防対 策を中心にご紹介いたします。 エコノミークラス症候群(旅行者血栓症) 長時間椅子に座っていることが PTE の危険因子になるこ とは,第二次世界大戦の防空壕内で椅子での睡眠によりPTE が発生したことで初めて報告されました。現在では,飛行機 による移動だけでなく,長距離バス,新幹線利用,長時間 の車の運転での発生も知られています。エコノミークラス症 候群は飛行距離が長いほど発生頻度が増加していきますが (図 1) ,膝窩静脈が椅子で圧迫され,静脈のうっ滞が起こり やすいためと考えられています。また,2004 年 10 月 23 日 に発生した新潟県中越地震では多くの PTE が発症し,エコ ノミークラス症候群として報道されたことは記憶に新しいと ころです。これは自家用車内で座ったまま睡眠をとり,水や 食料不足で飲水制限したことが原因と分析されています。 図 1 飛行距離による肺血栓塞栓症の頻度 周術期に発症しやすい PTE 本邦でも術後に患者さんが突然の呼吸困難,あるいは重 症化した心肺停止状態で発見されるケースが報告されるよ うになり,PTE の原因が徐々に解明されてきました。 とくに手術はそれ自体が生体を血栓形成傾向にする危険 因子であるばかりでなく,悪性腫瘍などの原疾患や手術時 間,麻酔法,体位や肢位,臥床期間などの要因がさらに危 険因子として加わり PTE の原因となります。では,周術期 のどの時期に PTE は発症しやすいのかを示したのが図 2 で すが,70%以上が術後に集中しています。つまり多くの場合, 手術侵襲が引き金になり,形成された血栓がサイレント・キ ラーとなって術後に PTE を引き起こしていることになりま す。PTE をひとたび発症すれば死亡率は約 15%,ショック を伴う重症例では 30%以上になるといわれています。 当科の PTE / DVT に対する取り組み この重篤な病態を鑑み,当科では約 5 年前より他科に先 立って,全麻症例に対し弾性ストッキングの装着と間歇的 空気圧迫装置を用いた PTE の予防を開始しました(図 3) 。 しかし,これらの予防にも拘らず重症の PTE 症例を経験し, さらなる詳細な危険因子の見直しが迫られました。当時はま だガイドラインもなかったため,ACCP(American College of Chest Physicians)の PTE ガイドライン等をもとに,当科独 。 自のリスクレベルを設定し術前評価を行ってきました(表 1) 現在では緊急例も含め,全麻症例には原則として弾性ストッ キングと間歇的空気圧迫装置を装着し手術を行っています。 しかし,間歇的空気圧迫装置は全ての患者に無条件に装着 すればいいわけではなく,すでに DVT が潜在する場合は逆 図 2 周術期 PTE の発症時期 表 1 当科で作成したリスクレベルに基づく予防法 Grade 1 Grade 2 □肥満(BMI 25∼27) □年齢(40∼59) □長期臥床(3 日以上) □手術時間(1 ∼ 3 時間) □手術体位 (超截石位,Jack Knife,側臥位) □ IVH 長期(30 日以上) □肥満(BMI 27 以上) □年齢(60 以上) □心疾患(うっ血,Af)の既往 □手術時間(3 時間以上) □腹腔鏡手術 □骨盤内腫瘍手術 □腸骨静脈,下大静脈を圧排する疾患 □ Grade 2 が 4 項目以上 Grade 3 □ DVT あり □ DVT 手術既往あり □ PE 既往あり □妊婦 □エストロゲン療法中 □経口避妊薬内服中 □凝固系が亢進する血液疾患 Grade 4(特殊因子) □弾性ストッキング □弾性ストッキング □ A-V インパルスシステム □弾性ストッキング □ A-V インパルスシステム □抗凝固療法(未分画ヘパリン, 低分子ヘパリン,ワーファリン) □心臓血管外科受診 ※各科専門医の指示に従う □弾性ストッキング □ A-V インパルスシステム □抗凝固療法(未分画ヘパリン, 低分子ヘパリン,ワーファリン) □ IVC フィルター に血栓が飛んで PTE を誘発する可能性が高く,まさに上記 の重症例は予防が逆効果だった例でした。したがって現在 では,下肢静脈瘤を有する例(あるいは静脈瘤術後),抗凝 固剤使用例は,心臓血管外科に間歇的空気圧迫装置の装着 の是非につき術前に診察を依頼しています。 PTE / DVT 予防ガイドライン 2004 年に本邦でも PTE / DVT ガイドラインが初めて作 成され,同年の診療報酬改定において「肺血栓塞栓症予防 管理料」が新設されました。これにより PTE / DVT の予防 を目的として,弾性ストッキングまたは間歇的空気圧迫装置 を用いた場合,入院中 1 回に限り 305 点が算定できるよう になりました。以下,ガイドラインの骨子を概説します。 1.ガイドラインの解釈に関する留意事項 エビデンスに基づいたガイドラインであっても,個々の症 例では複数の危険因子が重複してその評価は複雑となり,画 一的な PTE / DVT の予防は容易ではありません。したがっ て,主治医はいかなる手術・治療においても PTE / DVT を 発症する可能性が十分にあること,適切な予防法でも完全 な発症予防は困難であることを予め患者・家族に説明し納 得していただくことが大事です。 2.PTE / DVT は予防が第一である PTE / DVT の予防を行う根拠には,本症は前ぶれなく突 然発症し早期診断が困難であること,発症した場合はいか なる治療を行っても死亡率が高いことなどがあげられます。 本邦の PTE222 例の予後をみると,ショック状態で発見さ れるケースが 50%以上に及び,死亡例の 40%以上は発症 1 時間以内に死亡していていることから,診断率の向上より も発症予防に最も重点を置く必要があります。 3.手術部位別にみた発症頻度 図 4 は手術部位別の発症頻度ですが,開腹手術(腹腔鏡下 手術を含む)と股関節・四肢の手術に圧倒的に多くみられま す。これを手術件数で補正した PTE 発症率に換算すると, 開腹手術は 1 万例当り 5.65 例なのに対し,食道癌手術に代 表される開胸・開腹手術になると 7.55 例とさらに高率に発 症することがわかります。 4.年齢別発症頻度 年齢区分別にみると,PTE は 66 ∼ 85 歳の高齢者層に最 も多く発症しています。しかし手術件数で補正した発症率で みると,最も多いのは 85 歳以上の超高齢者層で,18 歳以 下では極めて稀といえます。すなわち,85 歳以上では潜在 的な PTE / DVT を術前から有していると考えられ,手術 の侵襲度に関わらず細心の注意が必要です。実際,欧米の 報告では,年齢が 10 歳増加するごとに VTE のリスクは 1.9 倍増加することが示されています。 5.PTE / DVT リスクの階層化と推奨される予防法 本ガイドラインでは ACCP ガイドラインのリスクの階層化 を踏襲して,PTE / DVT のリスクを低リスクから最高リス クの 4 段階に分類しています。そして各々のリスクレベルに 応じて推奨される予防法が提案されています(表 2)。推奨 される予防法は医療従事者に義務づけられたものではあり ませんが,本ガイドラインを基本にして各施設の実情に応 じた独自のマニュアルを作成し実践することが理想と結ん でいます。しかし,予防の第一歩は詳細な病歴(血栓症の 既往,下肢静脈瘤,心不全,妊娠,エストロゲン服用,先 天性血栓性素因,抗リン脂質抗体症候群など) の聴取にあり, 術後管理の基本である早期離床が最も重要であることを明 記しておきます。 おわりに 個々の患者のリスク評価や予防法は,本ガイドラインを 参考にしつつも最終的には主治医がその責任において決定 しなければなりません。患者・家族に対して十分で真摯な 説明を行い理解を求めることは,仮に PTE / DVT が発症 した際に起こりうる説明のボタンの掛け違いを予防し,医 療訴訟の提起の可能性を少しでも低くするためにも非常に 重要なポイントとなるでしょう。 【参考文献】 1.予防ガイドライン作成委員会:肺血栓塞栓症 / 深部静脈 血栓症予防ガイドライン,メディカル フロント インター ナショナル リミテッド,東京,2004 2.小林隆夫編:静脈血栓塞栓症ガイドブック,中外医学社, 東京,2006 (文責:塩澤俊一) 表 2 一般外科手術におけるリスク分類と予防法 リスクレベル 図 3 弾性ストッキングと間歇的空気圧迫装置 一般外科手術 予防法 低リスク 60 歳未満の非大手術 40 歳未満の大手術 早期離床および積極的な運動 中リスク 60 歳以上 , あるいは危 険因子がある非大手術 40 歳以上 , あるいは危 険因子がある大手術 弾性ストッキングあるいは間歇的 空気圧迫法 高リスク 40 歳以上の癌の大手術 間歇的空気圧迫法あるいは低用量 未分画ヘパリン 最高リスク (静脈血栓塞栓症の既往 (低用量未分画ヘパリンと間歇的空 あるいは血栓性素因)の 気圧迫法の併用)あるいは(低用量 ある大手術 未分画ヘパリンと弾性ストッキン グの併用) 図 4 手術部位別の周術期 PET 発症頻度 (低用量未分画ヘパリンと間歇的空気圧迫法の併用)や(低用量未分画ヘパ リンと弾性ストッキングの併用)の代わりに,用量調節未分画ヘパリンや 用量調節ワルファリンを選択してもよい。 血栓性素因:先天性素因としてアンチトロンビン欠損症,プロテイン C 欠損 症,プロテイン S 欠損症など,後天性素因として抗リン脂質抗体症候群など。 大手術:厳密な定義はないが,すべての腹部手術あるいはその他の 45 分以 上要する手術を大手術の基本とし,麻酔法,出血量,輸血量,手術時間など を参考として総合的に評価する。