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托鉢修道会――中世後期の信仰世界

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托鉢修道会――中世後期の信仰世界
西洋中世学会第7回大会シンポジウム
「托鉢修道会――中世後期の信仰世界――」
報告要旨
(6 月 14 日(日)11:00~16:30、8 号館地下 1 階・8B11 教室)
趣旨説明(11:00~11:15)
コーディネーター:赤江 雄一(慶應義塾大学)
いまを遡るちょうど 800 年前、1215 年の春から秋にかけて、第4ラテラノ公会議が教皇インノ
ケンティウス3世の元で開催されていた。この公会議は、少なくとも一年に一度、すべての俗人
が司祭に自らの罪を告白しなければならないと西方教会史上初めて定めた。これが可能になるに
は、キリスト教の教義についてすべての人が基本的な理解をもてるようにしておかねばならない。
同公会議とほぼ時期を一にして創設されたドミニコ会とフランシスコ会は、その任務にとって必
要不可欠な存在となった。彼ら、総称して托鉢修道士は、当時勃興しつつあった都市に修道院を
構え、修道院のなかに引きこもって祈りに専心する伝統的な修道生活のありかたとは異なって修
道院の外へ出ていき、俗人に対して説教と告白聴聞を行なった。大多数の教区司祭とは異なり、
清貧を掲げつつも、洗練された都市民と渡り合える知的訓練を受け、巧みな説教を行えた彼らは、
社会の上層から下層まであらゆる階層とかかわり、中世後期西ヨーロッパの都市景観において大
きな存在感をもった。本シンポジウムは、神学/哲学、美術史/建築史、音楽学、歴史学の各分
野から登壇者を迎え、後発のカルメル会、アウグスティヌス隠修士会も含めた四大托鉢修道会士
たちが、しばしば様々な階層の俗人とかかわりながらつくりだした中世後期の信仰世界を描き出
すことを目的とする。貧しさ/清貧、歴史意識、説教活動、王家と建築、俗語による準典礼音楽
などのテーマが複数のレベルで関連し合い、響き合う重層的な世界がみえてくるはずである。
第1報告(11:15~11:45)
エックハルトとアシジのフランシスコ――「ドイツ語説教 74」における所有と
放棄――
阿部 善彦(立教大学)
中世哲学史(特に盛期スコラ:13 世紀)の観点からは、ドミニコ会とフランシスコ会の二つの
托鉢修道会を対立的にとらえる傾向がある。例えば、フランシスコ会は愛・意志を重視する主意
主義、ドミニコ会は、認識・知性を重視する主知主義であるとし、
「フランシスコ会学派」と「ド
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ミニコ会学派」を対立的構図で見るような場合である。
本発表で取り上げるドミニコ会神学者マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, c.
1260-1328)の思想もまた、そうした「ドミニコ会学派」と「フランシスコ会学派」の対立的構
図の観点から研究されてきた経緯がある。実際、パリ大学神学教授としてエックハルトが、フラ
ンシスコ会の神学教授ゴンザウルスと行った神学討論があり、現在のエックハルト全集中の『パ
リ討論集』の中に収録され、主要な研究資料のひとつとなっている。
しかし、本発表では、別の視点から考察を進めてみたい。そもそも、フランシスコ会とドミニ
コ会を、こうした対立的図式だけで見てよいのだろうか。もちろん、それぞれ別の修道会である。
しかし、そもそも、対立的であると言うよりもむしろ、共通の問題意識をもち、ともに、その時
代の中で、キリストに倣い、清貧に生き、言葉と行いをもってキリストの教えを述べ伝えること
を目指した修道会である。フランシスコ伝には、フランシスコとドミニクスの二人の修道会創設
者が、互いに敬意を抱いていたことが記されている。
本発表は、そうした問題理解から、フランシスコの祝日(10 月 4 日)に行われたと推定される
エックハルトの「ドイツ語説教 74」を取り上げる。そこで、エックハルトがフランシスコの「貧」
をどのように理解し、エックハルト自身の思想と結び付けて理解しているのかを見てゆきたい。
そこには、むしろ、両者の間の深い親和性、共通の基盤を指摘できると考える。
第2報告(11:45~12:15)
托鉢修道会と「最古の」修道会則――ヒルデスハイムのヨハネス『擁護者と誹謗者
との対話』を中心に――
鈴木 喜晴(早稲田大学本庄高等学院(非常勤))
托鉢修道会が制度として成熟した 14 世紀半ば頃、13 世紀の托鉢運動勃興期あるいはそれ以前
を遡行的に回顧するかたちで、会の出自と性質を論じる叙述が西欧各地で多く書かれるようにな
った。これらの叙述は先行するフランシスコ会、ドミニコ会の聖人伝、創立記録といった文書群
の影響を受けつつも、特に後発のアウグスティヌス隠修士会、カルメル会においては、狭義の過
去と会にまつわる伝承、神学・法学的考察が混淆した独自の形式へと発展を遂げることになる。
本報告はカルメル会士ヒルデスハイムのヨハネス(?-1375)の『擁護者と誹謗者との対話』
Dialogus inter Directorem et Detractorem の分析を中心に、これらの文書の性質を、托鉢運動が
もたらした宗教文化の変容という観点から検討していく。ヨハネスの著作は、おそらく当時カル
メル会とドミニコ会との間に具体的に存在した軋轢を反映したものであるが、単に論争的文書で
あるにとどまらず、個々の主張を提示していく中で、修道会とは何か、修道会を成立させている
前提条件たる「会則」
(レグラ)とは何か、という問題に対して自覚的に論点を拡大しているとい
う点で興味深い。
托鉢運動は、都市空間を中心として俗人層を巻き込んだ大規模な布教、教化活動を行いながら、
なおかつ使徒的生活を志向する教会内の共同性として自らを規定していったが、それは同時に、
運動以前において聖職者と修道士という身分の職能的分化・対応関係としておおまかに把握され
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ていた活動的生と観想的生という古典的・中世的な問題意識が、なぜ「聖なる共同体」は人間社
会の中で歴史的に生起し継承されてきたのか、そしていかにすればその聖性を共有しうるのか、
という近世的問題意識へと新たに、決定的に変容していく歴史的過程でもある。この観点に従い
つつ 14 世紀における一連の修道会系文書群を再評価することが本報告の意図するところである。
第3報告(13:30~14:00)
中世末期の説教実践――無名フランシスコ会説教師の日誌――
木村 容子(大阪市立大学研究員)
13 世紀に登場したフランシスコ会やドミニコ会といった托鉢修道会は、説教を俗人に対する司
牧の中心に据えた。その結果、専門教育を受けた托鉢修道会士たちが中世後期のヨーロッパ各地
で、組織的・定期的に説教を実施することとなった。彼らは何をどのように語ったのか。説教の
形式と内容を明らかにするために、大別すると3種類の史料がこれまで利用されてきた。経験豊
かな説教師が他の説教師用のモデルとして執筆した「範例説教(集)
」、説教師が説教を準備する
際に「範例説教(集)」に加えて参照した「説教著述支援ジャンル」(教訓説話集、聖書語釈集、
説教術書)、そして説教の聞き手が説教師の語りを書き留めた「筆録説教」である。
本報告では、「範例」・「説教支援」・「筆録」のいずれにも当てはまらない、ある説教師の「日誌」を主た
る考察対象として、中世末期の説教実践を捉えなおしたい(Foligno, Biblioteca Comunale, Ms. C.
85)。日誌に著者の名は記されていないが記述内容から判断する限り、中世末期のイタリアを遍歴説教し
たフランシスコ会士であると考えられる。この無名説教師は遍歴説教に日誌を携帯し、日々の説教後に説
教の構成や所要時間、聞き手の反応を記録し続けた。遍歴説教の備忘録として日誌を使用したのは、お
そらく彼だけではなかっただろう。しかし、この種の史料が残されているのは稀有なことであり、西欧中世
説教の研究において他の事例はいまだ報告されていない。
上述した従来の説教史料と異なる「日誌」の特徴は、説教の作成段階から現場までカバーして
いる点である。「範例」と「説教支援」は説教作成の環境に、「筆録」は説教の現場により密接に
関わっている。それに対して「日誌」は、説教作成時に使用した「範例」や「説教支援」への参
照指示が書込まれる一方、いわば「自己筆録」として説教現場に関わる情報をも含んでいる。し
たがって、無名説教師がおよそ四半世紀にわたって説教の経験を綴った「日誌」の記述からは、説教作
成と説教現場の双方を行き来しながら説教師として成長していく彼の姿が浮かび上がってくるだろう。
第4報告(14:00~14:30)
アンジュー家のナポリとフランシスコ会の美術
谷古宇 尚(北海道大学)
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フランス出身のアンジュー家の下で王国の新しい首都となったナポリでは、他のイタリアの諸
都市と同様、托鉢修道会が市内と市壁沿いに修道院と聖堂を建立し、現在まで続く都市景観の基
礎を作り上げた。中でもフランシスコ会のサン・ロレンツォ修道院は、古代ローマ時代にフォル
ムと市場のあった中心的な場所に位置し、サンタ・キアーラ修道院は主要な南側のデクマヌスに
面している。それらは、狭い通りとは不釣り合いな聖堂正面部と鐘楼を備えており、聖堂内部の
広大さとともに、フランシスコ会の貧しさの理想とは矛盾したものを感じさせる。実際これら王
家の寄進による修道院は、王家の墓所としての役割を果たしており、壁面は豪華に絵画で装飾さ
れていた。同じくナポリにあるフランシスコ会の女子修道院サンタ・マリア・ドンナレジーナに
は、当時のローマを代表する画家であるピエトロ・カヴァリーニの工房によるフレスコ画が大規
模に残されている。
都市の中の修道院の存在は、対比的に俗人の入ることのできない修道院内の禁域(クラウスー
ラ)の存在を際立たせる。特に女子修道院の場合、その規則は厳格に守られるべきであった。し
かしながら、例えばドンナレジーナ聖堂やサンタ・キアーラ聖堂の修道女席に描かれる絵画図像
を分析してみると、悔悛と慈善、あるいはキリストの体が強調されていることがわかる。すなわ
ち、説教を通じて俗人の個人的な信心に介入し、新しい時代の社会生活における霊的救済を目指
した托鉢修道会の理念が、より特徴的に禁域の図像に現れているのである。
使徒的な貧しさと壮麗な建築、私的な信仰生活と公的な説教活動といった相反する側面をもち
ながら、それをダイナミズムとして托鉢修道会は中世後期において社会を刷新する役割を果たし
た。アンジュー家のナポリは、王権や教会ヒエラルキーとかかわりをもつ美術を通して、その様
相をより複合的な形で示してくれるのである。
第5報告(14:30~15:00)
ラウダとラウデージの世界――俗語による準典礼音楽と歌い手たち――
杉本 ゆり(聖グレゴリオの家/宗教音楽研究所)
ラウダとは、ラテン語ではなく俗語(イタリア語)で歌われた中世の単旋律の霊的賛歌。おそ
らく 10 世紀ころからあったであろうと思われ、西洋音楽の歴史のなかで最も長い口頭伝承の歴史
をもつ。13 世紀、フィレンツェの年代記作者が平信徒のグループについて言及しはじめる。
『彼
らは一日の労働の終わりに聖母マリアの像の前に集い、マリアに歌と祈りを捧げている。彼らが
うたうのはほめ歌であるのでそのグループは laudesi と呼ばれ、彼らの歌はラウダと呼ばれるよ
うになった』と。ラウダは一貫して平信徒(信徒会=laudesi,disciplinati と呼ばれる人々と結ば
れていた。そこにフランシスコという音楽的な偉大な聖人が現れたことによって刺激を受け、内
容的、霊的にも充実したラウダのレパートリーが形成され、結果として写本が残されたと推察す
る。私が考察の対象としているのはコルトナのフランチェスコ教会に属する Santa Maria della
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Lauda という信徒会が編纂した Cortona Ms.91 という写本に残された音楽とそのテキストである。
民衆の教化という使命を帯びた托鉢修道会は歌を巧みに用いて福音宣教をした。ラウダ写本の
全テキストは「マリア」、
「イエスの生涯(降誕~聖霊降臨~三位一体まで)
」、
「聖人たち」、に大き
く分類され、その他は説教的な部分として仮に「説教的ラウダ」とここでは呼ぶことにする。マ
リア賛歌は同時代のスペインの「聖母マリア頌歌集」とは異なり、マリアの奇跡など、土俗的な
信心はいっさい入っておらず、極めて神学的、キリスト中心主義である。そして全体はキリスト
教の信仰教育に必要な一切が含まれており、歌による信仰教育が行われたことが推察できる。人々
がよく知っている世俗的な旋律に俗語でわかりやすく霊的な言葉を乗せて歌にしていくやり方は
大きく実を結び、ラウダはイタリア各地に伝承されていく。
ここでは、具体的にどのような言葉がどのような旋律と共に、そしてどのような環境のもとで
歌われたのか、ということを通して、13 世紀の信仰世界の一つとして紹介したい。
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