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山口 仙二さんインタビュー

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山口 仙二さんインタビュー
長崎放送局
長崎
記者
原爆
2008年
100人の証言⑤
6月
山口
27日放送
仙二さんインタビュー
ご と う
「昭和5年(1930年)10月3日に、五島で生まれたということですが、幼いころの
記憶は、ありますか?」
山口さん「うちは、8人きょうだいでね、非常に貧しい生活の中で、たくましく生きてきたという、
それが、わたしにあると思うんですよ。8人きょうだいと言ったら、田舎では大変です
もんね。で、芋といわしで育っていますから。いや、もう、貧しい家庭でしたから。だ
から、子どもの時、畑の隅っこに、ござば敷いて、そこに寝せられたりした記憶があり
ますよ」
記者
「翌昭和6年(1931年)に満州事変が起きて、日本は突入します。ちょうど、山口さ
んが子どもの時と、戦争の時代が重なっていますね」
山口さん「日本が負けたことなかったですけん、戦争で。だから、アメリカと戦争することになっ
たと聞いた時に、『いや、それ、たいへんね』とは、思いましたね。アメリカを知らな
いから、東条英機も。そういうことだったと思うんですよ。だから、『パールハーバー
<昭和16年(1941年)、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃>』って、アメリカ
人から言われますけど、私は、あんまり知らなすぎた東条英機が、日独伊3国軍事同盟
というのがあって、やっぱり、そこから出発して、間違った制度があって、大勢の人が
亡くなっている。だから、大変間違った政治をしてきているんですよ」
記者
「子どもの時には、戦争を身近に感じることはありましたか?」
山口さん「いや、なかったです、全然。飛行機も別に飛んでこんしですしね。戦争ということにつ
いて、ひしひしと感じたことないです」
記者
「真珠湾攻撃のことは、覚えていますか?」
山口さん「はい。覚えています。それは、真珠湾をやって、『勝った。勝った』と言って、日の丸
の旗ば持ってね、ずっと、町ば行進したことのあるですもん。『また勝った。また勝っ
た』で。うそばっかで。負けとっとに、そがんことば言いよったですたい。あれは、や
っぱり、国民の精神高揚じゃなかったかなと思うんです」
記者
「その当時は、どう思っていたんですか?」
山口さん「それは、もう、信用せんばね。『負けた』と言ったら、いちころ、やられるぐらい厳し
かったですから。
『勝った。勝った』で喜んで。
『見よ、東海の空明けて』という歌があ
りましたもんね。みんな、国民の精神ちゅうか、気持ちというかを、高揚させるのに使
っていったと思うんですよ」
記者
「よく昔の小国民と言うと、軍人にあこがれたということを聞きますが、山口さんは、ど
うでしたか?」
山口さん「わたしもね、身長が足りなかった、小さくて。身長が150センチしかなかったけんで
すけんね、だから、軍人になれなかったというのが、あるんですよ。もうちょっと、背
の高かったら、ひょっとしたら、応募しとったかもわからん」
記者
「五島から、長崎市に出てきて、長崎工業学校に入りますね。学生生活は、どういうもの
でしたか?」
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100人の証言⑤
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山口
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山口さん「もう、授業という授業は、ほとんどなかですもん。三菱兵器大橋工場に行って、朝から
晩まで作業というか、そういうことばっかっりしておりました。塹壕掘り。三菱兵器の
横に、平たい畑みたいなのがあって、そこに、いっぱい穴掘りをやってましたもん。一
時避難する。そういうことばっかりしておった、本当」
記者
「山口さんが、長崎工業に入ろうと思ったのは、どうしてなんですか?」
山口さん「それはね、技師になれるというのがあったですよ。機械科を出るとね、三菱兵器大橋工
場の中の技師になれると。それが、一番の魅力というか、それで、工業学校に入ってい
った。そのころの雰囲気というか空気がありましたもんね。三菱兵器の大橋工場で、技
師と言えば、もう、わたしたちの一番の、なんかな、将来性と言うかを、考えていまし
た」
記者
「将来性というのは、生活が安定することですか?」
山口さん「そうそう、それもあるし、地位的にね、技師と言えば、たいしたもんですもん」
記者
「長崎工業学校では、どんな生活でしたか?」
山口さん「私は、定時制、夜間部の1年生でした。五島が自宅で、級長の家に下宿していました。
級長の家は農業でしたから、『家に来たら、腹いっぱい食わせてやるけん』と。それの
家にお世話になっていたです。当時は、食べ物がね、あれでしたけん。私の弁当が、も
う、工場まで持って行ったら、こうこう揺すっていくとね、弁当が半分になってしまう
んです。それを見かねて、
『家の方にこい。飯ば腹いっぱい食わせてやるぞ』と言って。
それで、級長の家に行って、そこで、ずいぶんと、ごちそうに、飯食わせてもらって。
だから、腹いっぱい飯を食わせてもらっとったから、原爆でやられた時に耐えられたの
かなと」
記者
「定時制というのは、日中は、ほかの仕事をして、夜、学校に行くということですね。当
時は、三菱兵器大橋工場で日中働いていたわけですよね。夜、授業があったんですか?」
山口さん「授業もあるようになっていたのに、授業らしい授業なかったんです。それから、おもし
ろいことに、英語はね、
『敵国の言葉じゃけん、教えん』って言って。全然、英語なし。
教育そのものにも、そういったものがありましたね。わたしは、今、思えば、日本の軍
国主義の良い面もあったでしょうけども、敵も知らないでね、戦争をすること自体が、
やっぱり失敗だったと思うんですよ」
記者
「三菱兵器大橋工場では、実際に、兵器を作っていたんですか?」
山口さん「ゲージというのがあって、私は、ゲージ場におったですけどね。いろんな工具類のいわ
ゆる定規を作っておったんです。こう当ててみて、0.01ミリぐらいの精密な工具類
を作らせられておったんですよ」
記者
「そういう精密なものを作る技術を、山口さんは、もう持っていたということですか?」
山口さん「はい。やすりがあって、丁寧に、こう、きちんと作らんと合格せんぐらい、そんな厳し
い工具を作らせられおったです。先輩が2人死んだですけどね、そこで。工業学校の先
輩、即死。だから、わたしは、やっぱり負けおるなという感じもあったですけどね。そ
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げんことば言ったら、いちころやられるけん、誰も言わなかったけどね」
記者
「負けるかもしれないと思ったのは、どうしてですか?」
山口さん「しょっちゅう飛行機が飛んできたら、隠れおっただけですもん。1万メートル上空って
いうかな、アメリカの飛行機が、それくらい高いところから爆弾落としてくれたりする。
だから、
『これは、たいへんね』と思ったこと、ありました。口に出して言われんけん、
言わなかっただけですけどね。みんな、そうだったと思うですよ」
記者
「つまり、日本の戦闘機が、迎え撃つこともできない」
あな こうぼうさん
山口さん「穴弘法山って、あるんですけども、あそこから、高射砲ば撃つと、途中でパン。あれ、
800メートルとか、1000メートルとか行くとかしら。途中で炸裂して、終わりで
す。向こうの飛行機には、全然、影響ないし。高いから、1万メートル上空ですけん。
だから、そういうふうで、私は、飛行機さえも撃ち落としきらんと思っていたら、大村
で、1回だけ、B29落としたことがあるらしいですよ。低空で飛んできたんじゃろう
と、思うんですけどね」
記者
「飛行機を撃ち落とすことができない。そういう中で、兵器を作るために働いているとい
うことを、その当時は、どう思っていましたか?」
山口さん「わたしは、それが、普通になってましたからね。それは、もう、軍国主義のなんちゅか
な、精神の鍛錬というか、こう、国民の気持ちを高揚させるために、しよったんじゃろ
うと思うんですね。『勝つ。勝つ』と、うそばかり言わされて」
記者
「昭和20年8月9日の朝のことは、どのように覚えていますか?」
や
ひら
山口さん「級長の家があった矢の平から、まっすぐ軍需工場ですたい。わたしたちのごと、遠かと
ころは、電車に乗ってよかと。近いところは歩けということで。わたしども、電車で通
わせてもらいよりました。ほとんど授業なかったですよ。朝から行けば、軍需工場に行
って、作業。それが、日課になっていましたから。誰も、愚痴言わないですもんね。だ
から、当時の教育というかな、軍国主義の教育というのは、ピシーと統制がとれてて、
ちゃんとしていたと思います。8時前にね、工場に入ると。7時ごろ、家を出たんじゃ
ないかな、確か。8月9日の朝だから、どうこうということはなかったですね」
記者
「工場に着いた後は、どうでしたか?」
山口さん「その後は、工場の中の作業ですたい。わたしは、その日は、当番制で、
『穴掘りに行け』
って言うて、いわゆる一時避難するための塹壕掘りにまわされた。交代で、こう塹壕掘
りやりよりましたけん。塹壕掘りが、浦上川の横に、50ぐらい掘りよったかな。いっ
ぱい、あっちからこっちからの工場の人たちが来て、穴掘りですたい」
記者
「塹壕は、どのぐらいの大きさでしたか?」
山口さん「畳一枚ぐらいよりも、ちょっと広いぐらいの面積を、人間の高さぐらいまで、深く掘っ
てね、それをとにかくアメリカの飛行機が来て、やられん程度に、機銃掃射なんかあり
ましたから、そのために隠れる穴掘りですたい。だから、まあ、あそこまで行ったら、
勝たん。戦争も何もあったもんじゃないですよ」
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「素堀りですか?」
山口さん「素堀りですよ」
記者
「上の覆いも何もないんですか?」
山口さん「なんも。なんも。掘るだけ。人間の高さまで掘って終わり。わたしども、入り口ば、掘
りましたけん、腰から下はやられずに、腰から上がやられたわけですね」
記者
「その日は、まだ掘り始めて、途中だったということですか?」
山口さん「途中ですよ。入り口は、まだ、ここの辺(腰の高さ)までしか、なかったですけん。奥
の方が、人間の高さよりもちょっと深い。手前(の入り口側)は浅い。入り口から、ず
っと掘っていったら、深くなる。そんな感じの穴ですよ。ただの穴」
記者
「階段状になっているんですか?」
山口さん「いやいや、階段でもなんでもない。ただ、するーと斜めになっている。そりゃ、人間の
命の方が安かったんですもん」
記者
「地面の真っ平らなところを、掘ってたんですか?」
山口さん「そうです。浦上川の横に、畑みたいなのがあって、そこに、相当な数のたくさんの穴を、
掘っていたと思います。そんな穴がいっぱいあったですよ。みんなで、工場から交代で
ね、穴掘りにやらされて」
記者
「工場で働いている人が、飛行機が来た時に、隠れる穴なんですか?」
山口さん「そうです。もう、僕は、なんちゅうかね、アメリカの連中は、『バカどもが』と思いな
がら、見ておったんじゃなかろうかと思うばってん。そりゃ、機銃掃射、1発でやられ
てしまいよる。だから、穴掘りたって、塹壕と言ってみたって、深さも知れた深さです
から、飛行機が飛んできて、ビャーとやれば、終わりですよ。そんな塹壕をいっぱい掘
りよりました、浦上川の横に」
記者
「塹壕掘りが半分ぐらいまで来たときに、原爆が炸裂した?」
山口さん「わたしは、腰の高さぐらいのところ、入り口でしたからね。奥は深かったですけど、入
り口ば掘りよって、やられたわけ。だから、上半身ですもん」
記者
「原爆が炸裂した瞬間を、どういうふうに覚えていますか?」
山口さん「いや、ピカッとしただけですよ。あと、もう、全然、意識なしですもん。そこで、ぶっ
倒れて、また、半分死んでおるわけですけん」
記者
「その時は、爆心地の方向を向いていたんですか?」
山口さん「それは、わからんと。爆心地の方向を向いておったのか、山手を向いておったとか?私
が、今思えば、やっぱり、山手を見ておったんじゃろうと思うんですね。というのが、
中心地やったら、右から焼けとるわけですけん。焼け方がですね。だから、いま思えば、
中心地の方を向いていて、やられたんじゃないと思うんですよ。山の方を向いていて、
やられている」
記者
「光った後、爆風が来たと思うんですが?」
山口さん「ピカッとしたというのを、瞬間的に覚えているだけで、あんまり、ようわからん。音も
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知らんとです。光で上半身やられて、気絶してしまっているんですね、やっぱり。だっ
て、3000度も4000度もあるといわれている光ですから、それだけでも気絶して、
穴の中にぶったおれていたんですけん。その時に、爆風で、壁に、穴の中の壁にね、た
たきつけられて、こっちの右肩が少し低いんですけど、だから、くわしく覚えておらん
ですよ。ピカッと光ったことだけしか知らん。長崎には、けっこう、そんなの多いです
よ」
記者
「その時は、山口さんだけじゃなくて、塹壕掘りをしていた人は、どのぐらいいたんです
か?」
山口さん「各工場から、動員でね、全部、振り分けて、30人ぐらい、穴掘りしよったじゃなかで
しょうかね。各工場から動員されて、当番のようにして、やらされてたと」
記者
「たたきつけられて気を失って、気づかれたのは、どのぐらいたってからですか?」
山口さん「しばらくたってから。気づいた時には、穴の中にぶったおれておって、ちょっと立ち上
がって見たら、みんな、山の方に逃げているわけですたい。だいぶ、山の方に逃げより
ましたけん。負傷した人たちがね。時間的には、ようわからんですけども、相当、時間、
たっておったと思いますね。そして、その人たちの後を追って、浦上川に飛び込んで、
パンツ1枚でいたけん、それで、川を泳いで。20数メートルあるんですけどね、浦上
川、それを泳いで渡って」
記者
「泳いだということですけど、大やけどしているわけですよね」
山口さん「わたしは、子どもの時から泳ぎおったけんですね。全然、頭にないです、自分がやられ
ているということを、わからんから。ピカッと光ったのは、覚えておっても、上半身や
けどしていると思うもんですか」
記者
「いっしょに塹壕掘りをした人たちは?」
山口さん「わからん。死んだんじゃら、生きたんじゃら。結局、ああいう時は、自分だけですよ。
もう人のことを、生きておっとか、死んどっとか、そんなことはあらしぇん。もう、自
分の、何て言うか、命と言うか、それだけしか、なかったんですけん。偉そうなことを、
日ごろ、言いますけどね。みんな、ああいうような状態になった時は、自分だけですよ
と、思います」
記者
「工場の様子は、覚えていますか?」
山口さん「ちょろっと、山に登ってから、もう、鉄骨が曲がっているのが、見えましたけどね、工
場の。屋根も何も無くなってしまって、吹き飛んで。それは、山から見えていました」
記者
「山の方に逃げたというのは、1人で?」
山口さん「いやいや、ぞろぞろ、逃げおりましたもん、山に向かって。その後を追って、私も、逃
げて行ったんです」
記者
「それは、全部、工場で働いていた人たちですか?」
山口さん「そうです」
記者
「同級生とか、知り合いとか、一緒に逃げたということはないですか?」
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山口さん「1級先輩がね、途中まで一緒やったですけど、それも、後で、どげんなったんじゃろ、
わからん、途中で会うて。とにかく、ああいうように、地獄というか、体験してみると、
何ですけど、よくわかりますけど、自分ですよ、自分の命だけ。ひとの命は、どう?そ
んなことないです」
記者
「原子雲は、見ましたか?」
山口さん「見ておらんです。もう、自分が山に登って隠れて、岩陰に腰掛けて見た時にも、やけど
した皮がね、ぶら下がっておるとです、黒か皮の。それば、そろっと取ったことは、覚
えているんですけどね。とにかくね、話にならんですよ、本当。残酷と言うか、地獄と
言うか。私1人じゃなかったけんですね。みんな、そんなして、命からがら、山に逃げ
て、落ち着いて座ったら、自分たちのやけどした皮がぶら下がってて、とにかく、ああ
いう地獄というのは、ちょっと説明もしにくかと言うか」
記者
「まわりの人は、みんな、そういう状況ですか?」
山口さん「多かったですね。山に逃げてきた連中は、ほとんどやけどした人でした」
記者
「山の上から、ある程度、状況が見えたと思うんですが、その時は、何が起こったと思い
ましたか?」
山口さん「いや、わからんです。工場も何も、屋根だけ残って、曲がりくねった屋根が見えてまし
たけど。『ああ、やられたとばいな』と、思うぐらいの話ですよ」
記者
「やられたと言うのは、爆弾が落ちた?」
山口さん「爆弾が落ちたと」
記者
「工場にですか?」
山口さん「そう、そう。もう、その感情が、普通じゃなかったですもんね。ああなった時は。冷静
というよりは、もう自分の命のことしかなかったですもんね。それは、みんな、そうだ
ったと思うんですよ。ああいうように、地獄の中で生き延びてきて、自分の背中、大き
な岩に、こうもたれて、座っておったんですけど、こうただれた皮がぶらさがったりし
とっとば、自分で取ったことがあるんですけども。それは、もう、普通じゃないですよ、
あれは。地獄」
記者
「皮を取ったというのは?」
山口さん「ぶら下がってくるから、こう外すわけですたい。皮を」
記者
「自分の手で?」
山口さん「そう。糸もなかけんですね。それは、地獄。本当に地獄ですよね、あれは。黒くなって、
皮がぶら下がっておったですもん」
記者
「それは、痛くないんですか?」
山口さん「痛くなかですよ。想像できないですよ、やっぱりね。普通じゃないということですよ、
早う言えば」
記者
「その時、原爆・新型爆弾ということは、全然、頭にないんですね」
山口さん「ない。ないです。それは、わたしに限らず、みんなね、だろうと思うんですよ。やられ
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たことは言わない、軍部がね。そこだと、思うんですよ。だから、広島がどれだけ被害
があったのか?それも、はっきり教えてないからですね、当時は」
記者
「山に逃げて、その後は、どうされたんですか?」
山口さん「山に隠れておって、大分たってから、夕方と思うんです。
『みんな、下りろ』と言って、
兵隊が来てね。それで、ずっと山を下って、救援列車と言うか、大村の海軍病院に、そ
の負傷者を運んでくれたんですけどね。(三菱兵器大橋工場の)山手の方にあるお寺の
ところに、汽車が停まって、そこから、みんな乗っていったですよ。わたしも乗ろうと
思って、一生懸命になって、線路から上るところまで。体もこまかかったけんですね、
やっと手すりば握って、上に上ろうとしたら、『軽傷者は後から乗らんか』と、怒られ
たですよ。軽傷者ですよ、そのころ。上半身、やけただれておっとにね。それは、しょ
うがないにしても、わたしは、とにかく、無理やりして、乗ったんですよ。ここ(胸)
をこすりながらね、あのステップで。乗ったらですね、ほとんどの人が、床に転がって
おったですもんね、列車の中の床に。半分は、死んだような人が多かったじゃろと思う
んですよ。やっと、汽車に乗ったと、安堵というかね、そこで死ぬとか、それは、あっ
たと思うんですよ。わたしも、そこに乗って、軽傷者と言われたけども、しょうがない
から、無理やり乗ったんですけど、諫早で半分以上降りましたかね。あそこも、海軍病
院があったんですよ。わたしが大村まで行ったのは、姉が佐世保の海軍病院の看護婦し
ておったですけど、あそこまで行こうかねと思って。大村に着いた時に、『みんな降り
なさい』と言われて。降りて、そして、なかなか、救急車が来んとですたい。それで、
コンクリートの上に、腹ばいになって、寝とりました。それは、真夏のことですけん、
まだ、コンクリートというのが、ザラザラしたコンクリ。暑かったですもんね。そこに
腹ばいになって寝とって、救急車が来た時、起きようと思ったら、皮、ひっついておる
わけですよ、コンクリートに、あの駅のね、コンクリートに。それで、ピリーと皮がは
げて、それは痛かった。本当言って、痛かった。それで、まあ、救急車が来て、大村の
海軍病院に運んでもらったんですよ。そうしたら、看護婦さんたちが、よう治療してく
れた。洗ろうてくれて、汚れておったけんですね。大きなタライのごとっとで、洗って
くれて。それで、ベッドの一番手前に、40人部屋でしたね、大部屋の。それは、覚え
とっとですけど。それで、『そこに寝ろ』と言われて、そこに寝とった。そしたら、お
らんごとなったとですよ、わたしが。看護婦さんから後から聞いた話で。炊事場に行っ
て、水を飲もうとしとったんじゃろうと思うんですね。それで、炊事場の水のところに
座っておったと。そんな話を聞いたりしたですけど、あのころ、思えば、何ちゅうかね、
みんな、のども渇いたろうし、と思うんですけどね。とにかく地獄ですよ、ああいうね。
それは、本当に大変だったと思う、わたしに限らずね。だから、みんなが、水を求めて、
のどの渇くけん、炊事場に行ってみたりして、途中で死んだのもおったと思うんですけ
どね。わからんけん。40人部屋の一番手前のベッドに、寝せていただいた。それ、覚
えているんですけどね。後は、ほとんど、もう、意識がなくて、寝とったですたい。気
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が付いたときにね、やっぱ、家族だろうと思うんですね。肉親と言うか。『ワイワイワ
イワイ』泣いたりすると、『ああ、また死んだ。また、死んだ』と思うぐらいですよ。
毎日、死によったけんですね。40人の大部屋で、毎日のように、家族が来て,泣きよ
っとば、『また、死んだとばいな』と思うぐらいです。別に、大きなショックじゃなか
とですたい。
『また死んだ。また死んだ』と思うぐらいでね」
記者
「大村海軍病院には、いつまで入院していたんですか?」
山口さん「8か月。<翌昭和21年(1946年)の>3月まで入院しておったです」
記者
「いつごろから、記憶があるんですか?」
山口さん「記憶は、そうですね、連れて行っていただいた時の記憶。途中がなかですたい、あんま
り。しばらくしてから、大村の海軍病院だというのが、わかって、看護婦さんたちが一
生懸命してくれた。それは、記憶があるんですけどね。大きなタライで洗ってくれた。
それも覚えておっとですよ」
記者
「お父さんが、最初、病院に駆けつけたんですね」
山口さん「父が来て、その後、佐世保の海軍病院の看護婦をしておった姉が来て、交代したんです
けどね。親父が、『早う、仙二ば、死んでくれれば良かとに』と言ったというのは、痛
かけんですよ、泣きよる、『もう、殺せ、殺せ』と言って。治療がひどいから、もう上
半身やけただれた治療ですけん。リバノールという緑色の液の薬ね、ガーゼに付けて、
それを、上半身、ベタベタはってくれるんですよ。目、鼻、口、開け、切り抜いたのを。
そうしたらね、それば、はぐときは、もう、しみこむ、中に、こう、めり込むわけです
ね、ガーゼが。それば、看護婦さんが、さっ、さっ、はぐわけですたい。もう3枚はが
れたら、意識がのうなってしまうぐらい、痛かったです。『殺してくれ。殺してくれ』。
親父が、じいさんが、『仙二が、早う、死んでくれれば』と言ったというのは、後で聞
いた話ですけど。それは、もう、ひどいですよ。はいだら、2枚ぐらい、はいだら、も
うダラダラ血が出るとかね、それは、もう、ひどい話ですたい」
記者
「原爆の被害の大きさを知って、どう思いましたか?」
山口さん「別に、感情がどうこうじゃなくて、『また死んだ。また死んだ』というのが、記憶にあ
るんです。家族が、泣くからですね。『ああ、また死んだとばい』って。40人の大部
屋でしたけん。だから、
『また死んだとばいな』
。そのくらいですよ。別にかわいそうに
とか、そんな思わない。だから、『また死んだ』と思うぐらい、ひどかったということ
です。逆に言えばですね」
記者
「日本が戦争に負けたことも、大村海軍病院で知ったわけですね」
山口さん「それは、看護婦さんたちが、泣いて。負けたときの話ですよ。だから、騒ぎよったです
もんね。
『あー、負けたとばいな』と思うぐらいで、特別、そんななかったですもんね。
感情がどうこうというのは、なかったです。『負けたとばいな』と思う程度。アメリカ
の軍医かな、来たとですよ、一番最初は。それは、記憶があります。アメリカの軍医た
ちが、釘のごたるっとば、胸に差し込むわけですよ。放射能の検査の1つかと思うんで
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すけど、そぎゃんこともしよりました。痛かったですよ。『こんちくしょう』と思って
みたって、もうしょうがなかけん」
記者
「その当時の山口さんを撮影した写真が、残ってますよね」
山口さん「あれは、軍医。アメリカの兵隊たちが撮った写真ですよ」
記者
「その時のことを覚えていますか?」
山口さん「うん、そうですね、薄々、覚えてますよ。その、あれたちが来て、写真ば撮った。それ
は、薄々、覚えておっとです」
記者
「釘みたいなものを刺されたり、写真を撮られたり、どう思いましたか?」
山口さん「『こんちくしょう』と思うぐらいで、特別な感情なかったですもん。『こんちきしょう』
と思いましたけどね。それは、あの、日本人の医者が付いてきておったですもん。で、
説明しよりました。大村海軍病院の日本のお医者さんは、英語が達者でした。ベラベラ、
英語でやりおりました」
記者
「退院されたのは、やけどが治ったからですか?」
山口さん「退院させられるんですよ。(救護所になった)新興善(国民学校)にいっぱいおったけ
んね、長崎の新興善に、やけどした連中が、けがしたのがおったから、入れ替えんば、
いかんでしょう。それで、ある程度、直ったら、退院させよりました。それは、しょう
がないですけどね」
記者
「五島に、いったん帰られるんですよね。当時の体調は、どうだったんですか?」
山口さん「あんまり上等じゃなかったですよ。(原爆)ぶらぶら病じゃないけども。1つには、体
がだるくて、どうしようもないというのがあって。兄貴は兄貴で、わたしが寝巻きば着
ておけば、あんまり、こう、何て言うかな、弱々しく見えたんでしょうかね。それで、
『洋服ば着れ』って、私に言いよりましたけど」
記者
「体調が少しは良くなったので、長崎工業に戻ったんでしょうか?」
山口さん「そうです。姉も、『やっぱり、学校に行った方がよかばい』と。それで、復学させても
ろうて。親父もね、復学は賛成してくれたとです。でも、復学した時に、やっぱり、あ
の、わたしだけでしたものね。同級生、ほとんど死んでおるですけん。200人ぐらい、
工業学校の生徒が死んでおるですけんね。やっぱり、学校に戻った時に、先生というの
が、機械科の科長やったとばってん、この先生も、『山口君、頑張れ』と言って、励ま
してくれたりしてね、それは、もう、私ぐらいのもんですもん、生きて、学校に復学し
たというのは。ほとんど死んどるですけん。寄宿舎に入ったですよね。寄宿舎に入って、
当時は、食料が、芋でしたけんね、芋ば半分切ったのが、食事でした。そういう生活を
続けて、面白い話があっとですよ。舎監というか、寄宿舎のね、一番偉い人がおられて、
この人は、県にうその報告をしてね、余計、食料を入れておるわけですよ、子どもがか
わいいから。夜になると、寄宿舎の生徒が、芋を取りに行くとさ、畑にかっぱらいに。
それも、見て見らん振りをしておったですもんね、やっぱり。それくらい、食料がね。
だから、当時の先生も、大変だったと思うんですよ」
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「そうやって苦労して勉強し、三菱重工業長崎造船所の就職試験を受けたけれども、就職
できなかったんですね」
山口さん「学科は通ったです。学科は通ったけども、体格検査で。3人か4人おったです、試験官
が。
『山口君、首ば曲げてみろ』とかね、
『腕ば伸ばしてみろ』とか。そういうことがあ
って、まあ、曲がるもんですか、やられておるとにね。それでも、しょうがなかけん、
言われるままにしておったけん。結局は、不合格になったですけどね。三菱造船所、学
科だけは通った。いろいろあった。本当にね」
記者
「皮膚の移植手術は、いつ行ったんですか?」
しらべ
らいすけ
山口さん「 調 来助という偉い先生がおって、植皮の手術をね、責任者のようにしてやってくれた。
ここに、まだ残っているですよ、いっぱい、皮をはいだところが。これをはいで、くっ
つけていくわけです。ケロイドだから、焼けた跡が盛り上がってくる。それを硝酸銀で
焼いてくれて。残酷と言えば残酷ですけどね、植皮手術を何回もしてもらったです。く
っつかんですたい。足の皮膚と、顔の皮膚が違うと言って。『くっつかんね』と言いな
がら、腐るとですよ。はいだのを、顔にくっつければ。それは、もう、しょうがなかな
と思いながら。だいぶたってから、やっとくっつくようになってきたとです。こう削り
とってね。そんなこともあったですね」
記者
「何回、手術を受けたんですか?」
山口さん「何回かね。7,8回ぐらい。調来助先生がしてくれた」
記者
「ケロイドで生活していくのが、大変だったためですか?」
山口さん「そうですね。それは、お医者さんの方の、優しい気持ちというか、だったと思うんです
よ。首のケロイドを削って、ひっつけてくれて、首の回るごとねしてやろうと。それは、
お医者さんたちの、調先生たちのね。調先生も、2人息子が死んでおるんですけん、原
爆でね。だから、わかるわけですたい。わたしと同じ年齢の子どもを亡くしているわけ
ですけん。当時の医者は、自分の家族も原爆で死んでおる。だから、必死ですよ、患者
のためにね。そういう時代でした」
記者
「長崎原爆青年会の発足も、病院から始まったんですね」
山口さん「そうです。そうです。入院患者の中でね、いっぱい、おったですもんね、年齢的に同じ
ような者。だから、そこで、
『患者の会ば、作った方がよかかわからんぞ』って言うて、
原爆青年会をね、発足させて、お医者さんたちとの話もして。お医者さんも、そういう
会を作るのに協力しくれたけんですね、自分の息子も死んでおるとですけん。お医者さ
んも患者も、当時は、被害者でしたからね。だから、ようしてくれたと思いますよ」
記者
「長崎原爆青年会を作ろうと思ったのは、どういう理由からなんですか?」
山口さん「それはね、やっぱり、団体交渉と言うか、1人1人でね、色々言うよりも、よかろうと
いうのが、わたしの気持ちでしたから。そしたら、結構、たくさん、おったですもん。
『一緒に会を作って、やろうか』と言うのがね」
記者
「最初は、どんな活動をしたんですか?」
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長崎
原爆
2008年
100人の証言⑤
6月
山口
27日放送
仙二さんインタビュー
山口さん「最初のころはね、別に、政府に、どうこうと言うことじゃなくて、先生たちとの話し合
い、コミュニケーションちゅうか、話し合いをするための原爆青年会だと思うんです。
みんな、よう加勢してくれた」
記者
「昭和29年(1954年)7月、最初に、山口さんが、国会陳情に行ったということで
すね」
山口さん「無銭旅行でね。国がね、ちゃんと被爆者対策をしろということですよ。わたしは、それ
を、きちっと、自分の心の中、決めておったですけんね。国がちゃんとすべきだと。だ
から、国に文句言いに行かんばいかんというので、無銭旅行をしたと。だって、大変で
すよ。眠られんやとけん。第1管区、第2管区、第3管区、3回ぐらい、来っとですも
んね、駅員の人が調べに。車内ば、回って来とっとですたい」
記者
「無銭乗車を最初から考えていたんですか?」
山口さん「いや、だから、金、持たんけん、国に文句言いに行くのには、そがんする以外なかった
わけですたい」
記者
「前から計画していたんですか?」
山口さん「いや、計画も何もないですよ。とにかく、無謀と言えば、無謀ですよ。わたしのやり方
というのはね」
記者
「いきなり、列車に乗ってしまったということなんですか?」
山口さん「そうそう。とにかく、国にちゃんとしてもらおうというのは、きちっと思ってましたか
ら、自分で。そういうような信念があって、無銭旅行しておるわけです。ひっつかまっ
たら、ひっつかまってよかと思っとったら、いいかげん、便所に隠れたりどうたりしな
がら、東京に行ったですけどね。今、思えば、丸の内とかいう発車所に行って、聞いて、
行ったんです。国会議員、中川とか言う人を、広島の人ですけどね、訪ねていこうと。
むちゃくちゃじゃもんね、やりかたが。別にコンタクトばとって、行ったわけではない」
記者
「行って、どうなったんですか?」
山口さん「結局、先生がおらずに、秘書が、『選挙の応援か何かに行っておりますよ』と言って。
そこの秘書というか、女の子というかが、いろいろ話をして。『便せんばくれんね』っ
て言って、便せんにいっぱい書いて、それで渡して、警視庁に行ったとです。警視庁に、
銭もらいに、帰りの。むちゃくちゃじゃけん、わたしのやりかたというのは。そしたら、
『ここ、あんたの来るところじゃなかとばい』って言って、
『東京都庁に行け』と。
『民
生部というのがあるから、そこに行ってね、相談してごらん』って言ってくれて、あん
まり怒らんやったとですよ、その人たちも。それで、民生部に行って、そこで、旅費ば
もろて、長崎に帰ってきたとばってん。
『返せよ』と言われて、
『はい、返します』って。
返すもんですか。2百何十円か借りたことあった」
記者
「国会議員に、何を話そうと思ったんですか?」
山口さん「それは、やっぱり、国の責任というのが、わたしにあったけんですね。国が、ちゃんと
してくれねばいかんというのが、きちんとあったから、国に文句を言いに行ったという
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原爆
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6月
山口
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ことなんです。だって、ほったらかしておったけんね、国が、被爆者たちを。10年た
って、あんた、なんもせんで」
記者
「その後、長崎原爆青年乙女の会に発展しますね」
わたなべ ち
え
こ
山口さん「渡辺千恵子さん、亡くなりましたけどね、彼女たちが、乙女の会を作っていったと。わ
たしは、青年会を作らせてもらって、それで、後で合流して、名前も1つになっていっ
た経過があるんですけど。歴史というか、そういうのは、多くの人に支えられてきてま
すよ」
記者
「それが、昭和31年(1956年)の第2回原水爆禁止世界大会の長崎での開催、それ
から、被災者・長崎原爆被災者協議会、被団協・日本原水爆被害者団体協議会の発足に
つながっていくんですね」
山口さん「ビキニ事件<1954年に、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で、漁船「第5福
竜丸が死の灰を浴びた事件>とか、いろいろありましたからね。これは、どうしたって、
世界的にも、反核運動をちゃんとしなければいかんなと思いましたもんね。そういうの
が、背景にあったように思います。日本の反核運動体は、思想はなかったですもんね、
当時は。いまどうか知らんですけど。思想なしで、反原爆の運動をね、国民的な運動を
展開していったというのがあるんです。だから、時代の流れというのが、そういうふう
になるなと思うのは、長崎市の善光寺の偉いお坊さんとか、そういう人たちがいっぱい
来ましたからね、第2回世界大会に。だから、国民運動としては成功したと思います」
記者
「その一方で、山口さんは、職業を転々としなければいけなかったり、自殺を図ったこと
もあったということですね。順調に被爆者の運動が広がっていったように見えるんです
が、その中で、山口さん個人の生活は違ったんですか?」
山口さん「表は、元気良くがんばっているようでもね、個人的には相当つらい思いをしてきている
と思うんですよ、当時。生きとっても、これは大変なことばいと思ったことも、何べん
もあるしですね、1人の生涯というか、色々あるですよ、そういう意味ではね。わたし
は、みんなが協力してくれたというのがあって、助かってきたと、思います。」
記者
「一番つらかったのは?」
山口さん「障害ですよ。それは、肝臓も悪かったし。肝臓がはれたり、色々したことありますから。
『こりゃ、直るとやろか』と思うのも、あるとですたい。不安はあったですもんね。そ
ういう中で、反核運動というのだけは、ちゃんとせんばいかんばいと思うのは、ヨーロ
ッパの人たちのね、運動。スウェーデンとか、あちこち回らせてもらってきたですけど。
アメリカにも、7,8回行かしてもらったですけど、あそこも、けっこう、協力者がお
りましたよ」
記者
「昔のNHKの番組に、山口さんが、昭和61年(1986年)に、アメリカの核兵器実
験場の近くに行った時に、地元の女性が来て、
『パールハーバー、真珠湾はどうなんだ』
と言って、山口さんが謝る場面が映っていました。山口さんは、戦闘に加わったわけで
もなんでもないのに、どうして謝ったんですか?」
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山口さん「それは、その女性がね、『わたしの息子は、パールハーバーで日本人に殺された』と、
わたしに食ってかかってきた。私がアメリカの原爆投下について話せば、戻ってくるの
は、そういうことなんですよ。わかるような気がするんですね。息子が日本人から殺さ
れた。だから、それは、それで、謝って、きちっと謝ってね、話し合いを戻さんと、こ
れはダメばいと、思ったですけど。なかなか難しいことですよ」
記者
「アメリカ人に原爆の投下について言うためには、そういうことも必要だということなん
ですか?」
山口さん「そうそう。こっちの悪いことも、きちんと謝らんばいかん。話が通じないけんですね。
だから、それは、自分たちにしてみると、息子が日本人から殺されたと思っていますか
ら。それは謝ってね、きちっとする。しかし、そこいらが難しいなと思いました」
記者
「やはり、アメリカ人に話すのが、一番難しいですか?」
山口さん「難しいです。それは、パールハーバーもありますけど、本当のことを国民に教えていな
いというのが、一番の問題なんです、アメリカは」
記者
「本当のことというのは?」
山口さん「日本をどのように攻撃したか、それは教えていないと思うんです。大部分は、自分の国
の都合のよいことを言ってきてるんですよ。それは、どこの国も変わらんかもわからん」
記者
「山口さんが体験した被爆の事実を伝えるだけでは、足りないということですか?」
山口さん「難しいんです。理解していただくには、本当に難しいなと思いました、アメリカに行っ
て。それは、日本が、やっぱり、パールハーバーの問題などなどありますから、
『最初、
宣戦布告もせずにね、奇襲攻撃をしたじゃないか』とか、いろいろ言うのがおるんです
よ、アメリカに行ってもね。それは、その通りですから、だから、東条英機の問題もあ
って、日独伊3国軍事同盟などもあって、そんなこと、ちょろちょろと言ってみたって
ね、なかなか理解してもらいにくいですね。真実を、きちっと、向こうにも言う。こっ
ちも聞く。それが一番大事ですよ。それ以外、解決の方法、なかですもんね。だから、
事実関係をはっきりさせると、そこだと思います」
記者
「2001年に起きた9.11の同時多発テロ以降、アメリカでは、『こういうテロが起
こるんだから、われわれは武装を強めなければいけない』という考え方になっているよ
うに思います。そう考えている人たちに、核兵器廃絶の思いは、伝わるでしょうか?」
山口さん「わたしは、どっちかと言ったら、アメリカは大国主義のね、『俺が世界を支配する』と
いう、そういうのがあるもんだから、なかなか、普通の日本人が考えているような国じ
ゃないんですよ。だから、とにかく、世界を支配しているんだと。それが強いですよ。
だから、いま、8か国ぐらい核兵器持ってますけど、核兵器を無くすということは、僕
ら、『無くせ』と言うけども、それは簡単じゃないです。それは、もう、伝家の宝刀で
すから。核兵器を捨てることはないですよ、将来も。それで、均衡を保っていると思わ
ないと、しょうがない。インドも含めてね」
記者
「今のお話を聞くと、山口仙二さんも、核兵器廃絶をあきらめたと、聞こえるんですが?」
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山口さん「聞こえるでしょう。核兵器廃絶というのは、核戦争をさせずに、今日まで来たというの
が、基本にあるんですよ。それは、広島・長崎の体験から出てきたことだと思んです。
だから、わたしは、なかなか、『核兵器を無くせ』と言ってみたって、無くならないの
は、伝家の宝刀だから、無くさない。しかし、核戦争をどうかと言えば、それは簡単に
できない状況が、世界中にあるわけさ。8か国ぐらい持ってますからね。撃ったら、や
られるというのが、どこの国でも持っていると思うんですよ。だから、核戦争になるこ
とはないと、私は信じているんですよ」
記者
「今の状況でも良いという考えですか?」
山口さん「均衡がとれているという以外にないと思うんです。諸外国が核兵器を無くした時に、本
当に、世界の平和が、均衡がとれながら、ずっと行くのかというのが、一方であると思
います。それをどうするか?ここをどういうふうにしながら、話し合いを進めていくか、
国連を含めてね、そこいらだと思うんですが。核戦争をするということは、ほら、もう
できないと、わたしは、そんなふうに思いこんでいるんです。それは、核戦争をしたら、
自分の国がダメになってしまうと、みんな核兵器を持っている国は、思っていますから。
もう、最近の核兵器の技術というのは、宇宙から来るんですけんね、中国を含めて、そ
うです。だから、核戦争は無いですよ。わたしは、そのように信じています」
記者
「それは、原爆の被害の実相を世界に伝え、核兵器廃絶を訴えてきた成果なのか、それと
も、昔からの勢力均衡によるものなのか、どっちだと考えていますか?」
山口さん「私は、やっぱり、均衡と思います。というのが、撃ったら撃たれる。それはすごいです
よ」
記者
「そうすると、これから、核兵器廃絶を訴えていく意味は、あんまり無いということでし
ょうか?」
山口さん「核戦争を阻止するための1つの手段ですよ。世論をね、国連の中でも、世論というのは、
きちんと定着してますから。難しいかなと思いますけどね、核兵器を使えない国際状況
をね、広げていく、根づかせていく。それが、世界中の課題かなと思います」
記者
「そのためには、被爆の実相を伝えていくことが、引き続き重要ということなんでしょう
か?」
山口さん「それは、大事なことなんです。ただ、日本の場合は、広島・長崎を訴えますけどね、じ
ゃ、世界中がどうなのかとなってくると、これは、また、非常に難しいですよ。本当に
難しい。そのほかの国も、いろんな問題を抱えていますからね。ここを、みんなが、ど
う理解しながら、国連の中で、きちんとした世界平和を維持していけるのかどうかがあ
ると、思います」
記者
「勢力均衡と言うと、北朝鮮が核実験したのだから、日本も核兵器を持つべきだという意
見もあります。核兵器の拡散に歯止めがかからなくなるのではないでしょうか?」
山口さん「ここがね、拡大解釈していけば、きりがないと思うんですよ。それよりも、日本という
国は、憲法9条もありますから、それをどう大切にしながらね、今後、政治をしていく
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のかと、そこにあると思いますね。日本は、やっぱ、北朝鮮なんかと違って、憲法9条
というのを、国民と一緒になってね、広げていく。それが、日本の政治の一番大事なと
こだと思うんです。広島・長崎の実相から言えば、核兵器を実際に使ったら、どうなる
のかということを、もう少しね、日本の政治家は、世界にアピールしていく必要がある
と思うんです。そこが欠けているんですよ、日本の政治家たちは。いっぱい右翼がおり
ますから、日本もね。難しいなと思います」
記者
「アメリカによる原爆投下を、今から振り返って、どう位置づけていますか?」
山口さん「そん辺は、アメリカに言わせれば、原爆を投下したために、アメリカの兵隊の何百万人
もの命を救ったと、いろいろ、あの人たちの理屈がありますけども。これは、原爆を落
としたから、アメリカの兵隊が死なずに済んだというわけじゃないわけです。それは、
歴史が、ちゃんと証明してくれるわけですから。そうやなしに、アメリカ自体が、もう
少し考えてやってもらいたいと思いますよ。そうせんと、1番強い国だって、自分たち
の変な意識がね、はびこりすぎていると思うんです」
記者
「アメリカは、変わると思いますか?」
山口さん「変わらん。それは、アメリカという国は、合衆国で、色々ありますけど、簡単に変わら
んじゃないですかね。一番強い国と思ってますから。そういう教育をしてきているんで
すよね。簡単に変わらんなというふうに思います」
記者
「被爆から63年、被爆者運動の先頭に立ってきて、今は、十分満足されているのか?そ
れとも、実現できなかったことが多いと、思っていらっしゃるのか?」
山口さん「まだまだね、本当は、世界の大きい課題を、いっぱい持っていると思うんですよ。それ
を、どう、みんなで成果をあげていくかとなると、これは、非常に難しいなと思うのは、
インド・パキスタンもそうですけども、国によっては、どうしたって、核保有国になっ
ておきたいと、北朝鮮も一緒ですけど、それはやっぱりありますから。これをどうする
のかということになると、国連といえども、それを押さえることはできずにおる。それ
が、現実かなと思います。だから、わたしたちは、核戦争をさせないという1点に絞っ
て、頑張っていかんばいかんなと思います。難しいことですけどね、それをやらんこと
には、どがんしようもなかねと思います」
記者
「戦後、核戦争はなかったわけですから、山口さんが目指してきたものは、63年間は、
実現できたということではないでしょうか?」
山口さん「それも、考え様と思うんですよ。核戦争をさせなかったこと自体、それは世界の世論だ
と思います。これは、ずっと、みんなで守っていくと、日本の憲法9条もあるんですけ
ど、そういうことで言えば、まだまだ、今から、国民にアピールしていかんと。北朝鮮
が持っておるけん、どうのこうのじゃない問題なんです。日本は憲法9条を持っている
国としてね、ちゃんとした運動、世論を大きくしていく政治家の責任があると、思いま
すね」
記者
「もう、山口さんが、やり残したことはないですか?」
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山口さん「体自体も、もう、しゃんとなっておらんけんですね。やり残しばかりですたい、全部が。
わたしは、自分でも思っていますよ。別に、たくさんのことをしてきたように思えない。
見えても、本当はやってきていない。難しいからですね。世界的に見れば、長崎の原爆
被害というのを、アメリカが妨害しているという事実があるわけですけど、ここをどう
やってアピールしていくのか?とにかく国連の中で、長崎の原爆被害をどれだけアピー
ルしていけるのか、そこだと思います」
2008年4月22日
長崎県雲仙市のケアホームで
インタビュー担当
NHK長崎放送局
記者
畠山博幸
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