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社会関係とLての闘争
社会関係 と し ての闘争 iジンメルの闘争理論をめぐってー 久保田 雄 概念の確立と充実は研究作業におけるほんの第一歩に過ぎない。しかし、もしもこの仕事に大きな手抜きがあれば、経 験的事実にかんする知識がどんなに積まれても、それは現実の或る一局面だけに照明を当てるか、或る特定の価値観に立 つ処方策を提唱するのにとどまるだろう。社会学において﹁闘争﹂や﹁紛争﹂という概念は未だ十分に確立・充実されて いないものの一つであるようだ。この用語は或る物的対象を示すのでなく人間的事象の一つを示そうとするものであるか ら、使用する人によって多種多様の意味内容︵例えば役割の相剋、心理的葛藤、人間同志の不和や戦い、利害の衝突、敵 意・攻撃性の噴出、逸脱行動、組織暴力など︶に分れて行くのもやむを得ないのかもしれない。本論文は、国家間の戦争 から内戦、人種闘争、労使闘争、学園紛争などに至る多種多様の社会闘争を﹁社会関係﹂の一つとして概念化しようと試 みるものである。社会闘争へのアプローチについてみれば、社会学的闘争理論に限って検討しても、その観点は未だ統一 されていない。この論文が次のような観点に立つものでないことを前以ってことわって置こう。 (641) 175 正 社会関係としての闘争 普遍的原理としての闘争 粋齦驍W︶、発明の三概念を提示した。そして闘争は最も野蛮な戦争︵訂αqロ①轟①︶から競争を経て、最も理性的な論争に進 ︵1︶ G・タルドは宇宙一般を貫く原理として、反復、対立、適応の三つを挙げ、これを人間社会に適用して、模倣、闘争 1 ツ︷oHΦ甑ω言⇒8︶を解釈する学説がJ・ノヴィコフやM・ヴァッカロなどによって展開された。 化する、と論じている。またC・ダーウィンの進化論が社会理論に浸透したため、人間社会における生存競争︵昏Φ。。辞凄・ ︵2︶ 相手に転移して人格化された競争となり、それが敵対行動や攻撃行動に発展したものであることが多い。K・ヤングも闘 ロ の コ リ コ コ コ ロ コ コ コ コ 例えば、W・オグバーンとM・ニムコフによれば、闘争とは、競争が過度となったため人々め利害関心が対象から競争 皿 個人間相互行為としての闘争 理論を再編成した。 ︵3︶ ッツェンホーファーとA・W・スモールはこれらの理論を摂取綜合して個人の主体性を重視する社会進化の観点から闘争 は、闘争主体が個人でなく集団であること、闘争は社会の歴史的発展を推進する過程であることを強調している。G・ラ マルクスによる階級闘争、L・グンプロヴィッツによる人種闘争、F・オッペンハイマーによる征服国家などの理論 H 全体的社会過程としての闘争 ソq 176 (642) (一 αq 社会関係としての闘争 争︵8ほ=9︶の多くは欲求不満︵蹄ロω#⇔瓢8︶による緊張を解消する要求から生じた攻撃や抵抗であると説き、 ︵4︶ ヴェルの闘争が個々人の情緒傾向を形作って集団間の闘争を心理的に基礎づけ強化していることを論じている。 W 潜在する両立不能性︵ゼp“サム関係︶としての闘争 このレ ﹁家族的経営における労働者と資本家は当事者としては闘争も競争もしていないつもりでいるだろうが、観察者はそこ に含まれる闘争ないし競争の具体的行動を明示できるはずだ﹂。大村英昭はこの見方に立って、当事者の認知とは別に観察 老がはじめて特定化できる両立不可能性︵ゼロ・サム関係︶を潜在的闘争と呼び、顕在次元では闘争にならない搾取を維 ︵5︶ 持するメカニズムを突き破ることが闘争理論の意味である、と論じている。 この論文は、これらのアプローチとは別の観点から闘争を社会関係の一形式として考察するため、G・ジンメルの闘争 理論を取り上げる。すでにL・A・コーザーはジソメルの闘争理論を綿密に検討して社会闘争がもつ積極的諸機能を明ら かにし、阿閑吉男も﹃ジンメル社会学の方法﹄︵御茶の水書房、昭和五四年︶の第四章でジソメル学説を詳しく検討したが、 ︵ 6 ︶ 私は闘争という社会関係が持つ本質的特微を明らかにし、さらに闘争そのものに内在する自己否定的契機についても言及 しようと思う。﹁平和を欲せば戦いに備えよ﹂というローマ時代の箴言は、真の意味する所は別として余りにも実践的に 述べられているので、しばしば軍備強化や戦争挑発の口実として用いられた。リデル・ハート︵中国゜い置儀①一r寓母計H。。OH ︵7︶ 77 ∼μOざ︶は軍事学の立場からこの箴言を﹁平和を欲する者は戦争を理解せよ﹂と言い換えるのがよい、と提唱したが、社 − (643) 社会関係としての闘争 会学の立場からいえば、﹁平和を欲する者は闘争関係を理解せよ﹂ということになるかも知れない。 ︵2︶ 旨.乞o<一8ぎト亀晦ミミミミ防題暦、ミ§織ミミ亀蕊誉謙9H°。逡 ︵1︶ Ω’↓胃鎚ρ卜$ご身8qき、塁㍉H。。O。。°風早八十二訳﹃タルドの社会学原理﹄岩波書店、大正十二年。 。h”﹀・ooo目。振ジO§譜§鳩ミ蟄こ⑦。ミoご讐らミ↓ミミ帖“♂国。も2やbd3浄9。。弘りN°。騙署゜H°。ω∼ω刈b。° ]≦・<①8臼P卜黛Nミミ辱ミ﹄.霧龍、§器偽簑ミ§ミミN、、隷ミ§蟄ミ、3Ho。o。①゜ ︵3︶﹀°≦°ω§芦o§ミミ曾6ミ。讐、9冨σ・。﹂8ρ℃℃﹂°。G。∼ω刈①゜ Uo昌ζ。。同二巳巴p↓ミ≧ミ讐、恥黛註犠§鷺恥ミ⑦o亀ミo讐6貸h↓ミミ鳶3図区押竈①ど唱喝しO°。∼H①9 ︵4︶≦○σqゴヨやζ゜男z冒ぎ搾⑦ミ。ご尊悟閃ス℃°μ8°。匂b°δo° 区即日冨=嘱08σQ”建§§o寒o、⑦oミミ、遷きミo讐b殉閑℃りH逡9娼O°①δ∼①δ゜ ︵5︶ 大村英昭﹁闘争理論の学際的検討﹂﹃社会学﹄吉田民人編著、日本評論社、昭和五五年、一〇〇1一〇二ページ。 ︵6︶ピ゜﹀°O。ωΦ﹃㌔§ミ§切ミ⑦象ミO§ミ鼻甲①Φ宰。ωω﹂り窃9 ︵7︶ リデル凹ハート﹃戦略論﹄︵下︶、森沢亀鶴訳、原書房、昭和五三年、三九四ページ。 ミ会関係における競争と闘争の位置 178 るが、実際問題としては、相互行為の持続をどこで区切るのかの標識を確かめ難いために、社会関係を広義に解して相互 行為の概念に包摂する見方も多い。自らの社会学を関係学︵ud①N圃Φゲ§σQ。。﹃年①︶と称したヴィーゼ︵い。o℃o匡く8霜冨ω①︶ においても社会過程︵ω。N一巴興牢o器。。。・︶と社会関係︵ω。N一巴①しdΦ臥Φプ§σq︶の概念的区別はそれほど明確でなく、社会形 ︵8︶ 象︵°・o陪β。﹁①。。○①げ一己①︶の概念の方がむしろ社会関係の一層定型化した状態に当てはまるようである。ここではマック ス・ウェーバー、新明正道、黒川純一の所説を参照しつつ、社会関係の特質を次のように規定する。 ︵9︶ (644) 基礎概念としては社会的相互行為︵ωOO一①一 一昌酔①HPO什一〇]P︶と社会関係︵ωoα巴H凪o臨o⇒︶とは区別されるべきだと考えられ 一、 社会関係としての闘争 ④ 役割期待による相互行為の方向づけ 行為者は単に一人の個人ではなく特定の地位を占めこれに伴い特定の役割 ︵同08︶を期待される主体であって、行為が生きた人間によって行われるのは勿論であるが、この主体の行為とは、役割期 待︵H9ρΦ巻①。$江oづ︶に沿って方向づけられた集団か多数者の行動を例示するものでなければならぬ。例えば蒲生正男は 婚姻を一つの社会関係であると規定するが、その理由は、婚姻が性的に結合する二人の男女の相互行為にとどまるもので なく、親族成員を補充するものであり、また夫と妻の間だけでなく夫の親族と妻の親族との間に成立するものであるこ とにある。社会関係においては多数者の間に繰返される相互行為に或る種の規範か定型が生じ、これによって相手の行為 ︵10︶ が一応予測できるようになる。但し、この規範や定型を支えるものが合意であることもあるし強制であることもある。 ㈲ 相互行為の持続と潜在的態度 社会関係が成立するためには相互行為の規範的方向づけと共にその持続が必要であ る。ところで相互行為の持続というのは、それが間断なく連続することではなく、途中で顕在的作用が休止・中断しなが らも同じ相互行為が繰返して行われる、ということを指す。顕在的作用が休止している間でも次の機会を待って同様の作 用を行う用意が相互の心の中に根ざしているのであって、この潜在的態度が伴わなければ相互行為の持続は不可能である。 双方が潜在的態度を堅持している限り、顕在的相互行為がたとえ長期にわたって中断を余儀なくされても、或る種の社会 関係が根強く存続することがある。 の 主観的意味の対応 双方の行為者が潜在的態度を堅持するための必要条件は、彼らが主観的に抱く意味内容が互に 対応しているということである。相互行為をする人々は必ずしも同じ意味や動機を理解し合って意識的作用を交換すると は限らない。Aが親切や好意に動機づけられて働きかけても相手のBはこれを干渉や強要と理解することもあるし、Aが (645) 179 社会関係としての闘争 別にBのことを意識せず、またBには無関係だと考える行為を行ったことに対し、Bがこれを重大な侮辱か挑戦として受 けとる場合もある。マックス・ウェーバーが云うように完全な相互的意味対応に基づく社会関係は現実では極限の場合で あるにすぎないにしても、行為者相互の意味対応が成立するチャンスが全く失われるとすれば、これまでの社会関係は事 実上解体消失するだろう。現実の社会関係︵例えば君臣・主従の支配服従関係、師弟間や親子間の上下関係、労使間の契 ︵11︶ 約的雇傭関係など︶は、多かれ少なかれ流動的でありその安定性も相対的なものにすぎない。 その具体的内容と形態についてみると社会関係はきわめて多種多様であり複雑に錯綜している。相互行為を動機づける 意味や関心の内容を視点とすれば、例えば交友関係、親族関係、職業関係などが挙げられ、また関与する行為主体の数を 視点として、二者関係、三者関係、集合関係などと分類することもあるだろう。さらに相互行為そのものの形態を視点と して、直接的と間接的、永続的と期限的、集中的と拡散的などの分類が必要なこともある。ところで社会関係とは相互行 為が行為者の潜在的態度に基づいて規範的に方向づけられる所に成立する持続的な相互関係であるから、社会関係の分類 については、関係において生ずる行為の方向を視点として基本的類型を設定するのが本筋に沿うと思われる。ジンメルが 心的相互作用を生み出す目的や関心の具体的内容と社会化の形式とを概念的に区別したうえで後者を社会学の研究対象と して重視したことは、社会関係分類の基本方針を確立したものと言ってよい。相互行為の関係的方向としては最も基本的 に、相互肯定的なもの︵互に相手の意志や立場を認めて相手に接近・協力しようとする親和的・連帯的な方向︶と、相互 否定的なもの︵感情.利害.信念などの対立により、互に相手の意志や行為を排除して自己の意図を遂行しようとする強 制的.敵対的な方向︶との、二つの類型が区別される。前者は結合関係または連帯型と呼ばれ、後者は分離関係または強 180 (646) 社会関係としての闘争 制型と呼ばれる。とくに後者の場合では行為者は明確な意識と意図のもとで互に相手の意志や行為を排除しようとしてい ︵12︶ るのであって、単なる反感や敵意を抱いているだけでは分離や反対は社会関係にまで発展しない。この意味で分離・反対 関係を特徴づけるものは敵対︵9口け⇔σqOP一ω日︶であり、これを敵対関係と呼ぶ方が一層適切であるかもしれない。ところが よく吟味すれば分離と敵対︵又は相反︶は無雑作に等置できる過程ではなく、少くとも両者の間には軽視することのでき ない差異が認められる。 戦争や内戦、人種・階級・党派などにおける対立・闘争、労働争議、法的係争、学校内の紛争などの事例は、敵対的相 互行為が同じ当事老の間で持続する状態であるが、企業間の経済的競争、定員の限られた上級学校や専門職を目指す多数 者の競争、同じ賞品を勝取ろうとする競争などは、敵対性の程度が低いことだけにとどまらず本来の敵対的相互行為とは かなり趣を異にする特質を具えている。即ち、これら競争する人々はいつれも同質の類似した賞品や利益を自分が先に獲 得しようと努めているのであって、彼らはそれぞれ自分が他より先んじて或る目標に達しようとするのであるから、他人 を排除・否定することを直接に目指しているのではない。敵対の態度はもともと間接的であってそこにはフェア・プレー をしようという心の用意や、一種の友情と尊敬のような肯定的態度さえ介在することも可能である。この意味で競争は敵 <O旨 ﹀.<一〇蒔き鼻曽Ooε障σq自。﹁け” 対の程度というよりも分離の程度がそれ程大きくない分離・反対関係であって、競争を結合関係と分離関係の混合型と規 定する見方も有力なのである。 建一醤 犠ミqミミ寒寒§、恥器こご覧魯ず①冨易αQ①σQ①ぴ①口 ︵8︶ い゜︿°芝δ゜。ρUu①N一①﹃§αqω゜。oN一〇一〇σq 8噸 6αρoo﹁①メ (647) 181 社会関係としての闘争 ↓°︾σ①一︾畠恥誉ミミ詩の09◎ご讐§Oミ§黛ミ℃9°。σqo=しd8厨しO①㎝”薯.°。刈∼°。°。. ︵9︶ ζ・芝①ぴ。5⑦器ミo讐8曹O、§“訂讐§’旨O°しd°竃。ゲび巳①①鴇ωQo・卜。一∼吋P ﹃社会学の根本概念﹄清水幾 訳、 岩太 波郎文 ヴィーゼ﹃団体学﹄黒川純一訳、森山書店、昭和八年、ニページ。 庫、昭和五一年、四ニー四六ページ。 新明正道﹃社会本質論﹄弘文堂、昭和二六年、第四章。 ︵10︶ 蒲生正男﹁婚姻と親族の基本構造﹂﹃文化人類学﹄有斐閣、昭和四四年、七九ページ。 黒川純一﹃社会学概説﹄時潮社、昭和四九年、第三章。 ︵12︶ 新明正道﹃社会本質論﹄︵前出︶二六三1二六四ページ。 ︵11︶ ζ・を①ぴ①き8・簿ごωω・N悼∼卜。ω.前出邦訳四四ページ。 聚鋭ωo門o猷p⑦o鼠ミドOミミミ犠詰織、ミ防§自§ヒ’Oo89ωρ88勺ロ三一ωゲ①Hω”巳①ρ忘.OO∼目8° ﹃社会学の基礎理論﹄鷲山丈司訳、老鶴圃新書、昭和三六年、二八五ー二九〇ページ。 闘争という社会関係の特質に迫るには、闘争と競争の特質を対比する必要がある。これにかんする諸説を概観すると大 きく二つの見方に分れている。 ㈹ 競争と闘争のいつれかを上位概念として他をこれの特殊ケースと規定するもの ㈹ 競争と闘争の両者を同位概念として両者の特徴を対比するもの 社会関係の基本的分類について、結合i分離の二分法を採るものは㈹の見方に近く、結合−混合−分離の三分法を採るも のは⑬の見方に近づいている。 ㈹について まつ闘争を上位概念とする見解はマックス・ウェー。バーに見られる。彼は闘争︵区餌ヨ風︶を以って﹁行為者が単数或い 182 (648) 社会関係としての闘争 ︵13︶ は複数の相手の抵抗を排して自分の意志を貫徹しようという意図へ向けられているような社会関係であるLと規定し、こ れには残虐な闘争から騎士の闘争、市場の秩序に従う商業上の競争から芸術上のコンクールに至るまで無数の段階がある と述べる。そして競争︵国Oづ犀β目同㊦昌N︶とは、﹁他の人々も同様に得ようとする利益に対して自己の支配権を確立しようと する平和的形式の努力﹂であり、現実の物理的暴力行為を含まない平和的闘争︵津巴﹁8ゲΦ囚鋤ヨ鷲︶の一つである、と規 定している。ウェーバーの闘争概念はかなり広いもので、二者間の敵対に限らず規制された競争まで包摂している。特に この概念が権力︵ζ90ま︶の概念に酷似していることに注目すべきであろう。即ち権力とは﹁或る社会関係の内部で抵 抗︵≦坤匹①同ω↓目Φ庁響O口︶を排してまで自己の意志を貫徹するすべてのチャンスを意味し、このチャンスが何に基づくかは問う ところでな圏と規定されるが・これで見る限り・闘争︵スpヨ風︶とは権力をめぐ・て競い合う社会関係であり・またそ れは、他からの抵抗がありしかもこの抵抗を排除しようとする強制的反対関係を意味している。そして闘争と正面から対 立するものがゲマインシャフト関係︵<①茜Φヨ①ぎω。匿︷ε畠︶であり、他方﹁ゲゼルシャフト関係︵<葭αq①器=ω警臥言昌αq︶ は相反する利害の妥協に過ぎないことが多く、この妥協によって闘争目標や闘争手段の一部分だけが排除されるものの、 ︵16︶ 利害の対立はもとより、他のチャンスの競争はそのまま存続する﹂。 こう見てくると、ウェーバーは強制的・敵対的方向 を持つ相互否定的な社会関係全般に闘争の概念を適用しているようである。マッキーヴァーをはじめ、オグバ:ンとニム コフ、ニスベットについて見ても、闘争︵。oロ田9︶は二人或はそれ以上の人々が互に他を排除することによって何かの対 象や価値を追求する行為であり、競争︵8ヨ需葺一8︶は間接的形態で行われる闘争であって当事者が直接的な妨害・阻 ︵17︶ 止の作用を相手に向けていない場合のことである。 (649) 183 社会関係としての闘争 ここで特に注目すべきはジンメルの競争概念である。ジソメルは闘争︵凶p目鼠︶本来の類型を四つ挙げた後で尚その特 殊なものとして競争︵区o昌ぎ旨①口N︶を挙げる。﹁競争の社会学的本質にとってはまつ第一に、闘争が間接的であるとい うことが決定的である﹂。間接的であるということは、相争う双方は同一の賞品を目指し平行的に努力していて互に相手 ︵18︶ を傷けるような直接の敵対行為が行われていないからである。これに対し本来の闘争では金銭や名声などの対象物は第三 者でなく敵対者のものであって、敵対者に勝つということは、ただ対象物を入手するだけのことでなく、実に勝つこと ︵1 9 ︶ が即ち対象物︵賞品︶となっているのである。ところが競争となると、そこには本来の闘争と異る次の二点が認められ る。 ω 競争では闘争の決着それ自体は未だその目的を達成するものでない。時間的にみて競争相手に対する勝利はまつ必 要であるがそれだけでは無意味であって、その闘争自体から全く独立している或る価値が実現してはじめて活動の目 標が達成されるのである。例えば商人が自分の競争相手の信用を公衆の前で首尾よく失墜させたとしても、もし公衆 の欲望が何か別の商品に転じたとすれば、その勝利は何の意味も持たなくなる。 ② それぞれの競争者は自分ひとりで目標に向って努力するが競争相手に向って力を用いることはしないであろう。例 えば自分の速さだけで競う走老、自分の商品の価格だけで競う商人、自分の教理の内的説得力だけで活躍する伝道者 などがこれに該当する。ここで人々は、場合によっては、競争相手と向い合ったり触れ合ったりすることなく、互に 争っているのである。 ジンメルの競争概念についてみれば、それは言葉の上では闘争の下位概念であるが、その内容をよく吟味するとき競争は 184 (650) 社会関係としての闘争 本来の闘争と対比されていて、むしろ㈲の見方に近づいていると思われる。 ㈹について て努力する諸主体間の社会的関係であって、結合や共存の要素が分離や敵対の原理と混合しているため分離の程度は比較 係において同位のものと規定し、両者の間に対立を設定していることに注目すべきであろう。競争とは同一の目標に向っ 大に従って、a競争、b対立、c闘争の三段階に分けられている。いつれにせよ、ヴィーゼが競争と闘争の両者を分離関 争を挙げている。ところで﹁関係社会学﹂︵フィーアカント編﹃社会学辞典﹄一九三一年︶においては、B過程は分離程度の増 ︵23︶ ゜ ︵22︶ ・ ・ 離過程を準備し、闘争は第三者によっても知覚し得る分離である﹂。そしてヴィーゼはAとBの混合過程の一例として競 ︵21︶ ° り、BaはBbよりも対立︵○署oω団臨oロ︶の程度が小さく、BcはBdよりも闘争︵訳o島節件︶の度が少ない。対立は分 れ、BaとBbが対立︵国三αqΦσqΦ霧↓Φ一一§σq︶、BcとBdが闘争︵閑o昌臣ζ︶となる。﹁基準となるものは分離の程度であ ︵ピo。犀臼目σq︶、b排斥︵﹀げゲ①げ琶σq︶、c断交︵いαω§αq︶、d相互離反への到達︵国旨①ぱゲ§σq山臼○ぎΦ冒巴醇︶ に分か 別され、ヴィーゼは前者をA過程、後老をB過程と呼ぶ。B過程はさらに分離の程度が進むのに応じ順次に、 a疎隔 まつ﹃一般社会学体系﹄︵一九二九年︶によれば、基本的社会過程は結合︵N器ぎ9ロ匹臼︶と分離︵﹀霧①ぎβ。民臼︶ に類 っていることが多いが、ヴィーゼはこれらの所説を採り入れて独自の競争概念を提示した。 社会過程における二つの基本過程であると考えている。これらの社会過程論では競争と闘争の両者は対等の同位概念とな 応化︵⇔80日o匿鉱8︶などの諸過程に対して同等の重要性を認め、とくに協力と闘争︵又は対立︶が社会的相互作用又は 第二次大戦前のアメリヵ社会学は、協力︵OOO℃①Hゆ↓μO口︶、競争︵8ヨ需け三8︶、闘争︵。・霞βσqσqδ︶、適応︵巴ぞ$臨8︶、 (651) 185 社会関係としての闘争 ︵24︶ ° ° 的に少ない。これに対し闘争は第三者からも明白に認められる敵対︵○Φσq魯①ぎβ。民臼︶の社会関係であって、相手に何ら かの損害を加えようとする性向や意図を必然的に伴っている。加害の程度は、親友間のからかいから、殺し合いに至るま ︵25︶ で多くの段階に分かれ、したがって闘争関係は、喧嘩、戦い、暴行、公訴など、多種の敵対的努力として成立する。 ヴィーゼによる競争関係と闘争関係の対比は﹁分離の程度﹂という原理のみを基準とする所に問題があるが、説明内容 ︵26︶ についてみれば、両者の結社形式に本質的差異を指摘するジソメルの分析に一つの輪廓を与えたものであるといえよう。 ヴィーゼの見解に接近したものとして、デーヴィス︵閑ぎσQ巴①団U碧芭による相互行為形式の三分法を挙げることができ る。これによれば具体的な多くの社会関係︵ω09巴円巴⇔酔δ5。。窪甥︶は社会的相互作用が凝集して形作られるのであるが、 ≦°○σQ窪ヨ節]≦°男ヨヨざ鉾8.葺゜︵心︶冨﹂O。。∼HOP ︵17︶ 力L≦°竃帥畠く①﹃俸ρ国゜℃oσq①”⑦o竃ミ8羅口。ζ一一一。P目サ り2 器層 . ︵16︶ ま箆ω.ω↑邦訳六八ページ。 ︵15︶ 一窪負ω゜蔭P邦訳八六ページ。 ︵13︶︵14︶ ζ・ミ・げ90や。搾︵り︶ω・。。H°前出邦訳六二ページ。 れは和らげられた形のω#口σqσq♂である。 ︵28︶ 。8臣9と対照的に、競争は、或る種の相互に望ましい目標に到達すべく相手に先んずることを目指すだけであって、そ している。どんなに調和が優勢であっても闘争の種を宿さない協力関係はなく、どんなに激しくとも妥協の可能性を持た ︵27︶ ない闘争関係はない。またどんな競争も一層大きな協力の契機になり得ないものはない。相手を破壊打倒しようとする これらの相互行為は、闘争︵8甑目o酔︶、競争︵8ヨ℃①け一出8︶、協力︵80℃Φ鵠臨oロ︶から成り、 これら三形式は互に依存 186 (652) 社会関係としての闘争 ︵18︶ ρω一88。㌍⑦9“ミo覧♪U目。訂同卿踏ロ日三〇﹂H8G。”ω曾悼HG。’ 即︸宕ωぴ①け節押ρ℃・三p↓隷鳴⑦。織ミヒ◎§3卜⊃巳①魯゜ま﹃&︸国ま℃hしO§℃,①゜。∼$ (653) i・Ooミ閾ごき貫ξ客寡≦O一い閃器。勺話吻ω藁89や㎝メ ﹃闘争の社会学﹄堀喜望・居安正訳、法律文化社、昭和四四 ︵19︶、即窪負ω・卜。H♪一α達︵国ロσq・︶”や窃。。.前出邦訳六一ページ。 年、五九ページ。 ︵20︶ ︾・O信く崔冨がさ§ミミ§的090ご鷺♪這㎝ρ.﹃社会学﹄野口隆訳、三一書房、昭和三九年、七一−八〇ページ。 Oゲoワ<H一H讐H×° 即国・守蒔①巳国・妻・bd目αQ①ω・。”§壁ミ§職§ミ、ミの竃§ミミ⑦ミミ。讐噸↓冨q三く①邑曙゜h9冨σq°中゜ωρHり録 ︵22︶ 子達”ω゜嵩Q。曾 ︵21︶いき≦凶・ωρξ恥鳶§織ミ軽、鷺§鳴§§のミミo讐斜∪巨。犀臼麟出ロヨ三。けし8ρω。H蚕 ︵23︶ いく°≦冨ωρoやo津︵o。︶噂ω゜置゜ ︵25︶ ま剛辞ω゜bゆ◎。H° ︵24︶ いく°≦δ゜・ρo掌9け︵卜⊃H︶”ω゜ω8. ︵26︶新明正道﹃形式社会学論﹄巌松堂、昭和三年、二四六ー二五一ページ。 ︵27︶ 凶・U磐飼歳ミミ蟄遷の象暗竜L≦o。]≦出﹃Pμ漣Q。噸灯゜δN ︵28︶ 帥窪倉やδ卜⊇° A闘争関係の二元性と闘争の主体 し相互に量・を恐頭とす・意図を持・て行う相互行為である・という規定である・かかる敵対意識と加害意図という餅 これまで検討した諸説は闘争についてほぼ共通の見解を持っている。即ち、闘争とは、当事者双方が互に敵炬愉を意識 一一 社会関係としての闘争 側面をもつとつき詰めて行くと、闘争関係における相互行為方向づけの型が浮び上って来る。即ち敵対視と加害作用は原 則上二元対立︵畠ロ巴一ω日︶に方向づけられている。もしも当事者双方が闘争欲か攻撃性向︵こういう本能か衝動があると仮 定して︶だけから敵対行動に訴え、相手を徹底的に傷つけるか殺鐵することのみを目指す場合は、ここに生起する特殊の 相互行為は決して社会関係にはならない。闘争が社会関係として成立するためには、双方の当事者は主体としての資格を 具えていなければならぬ。即ち闘争する者は、単なる本能・衝動に駆られる人間個体である以上に、認識・評価・決定と いう一連の精神作用を行う者であり、外部世界の特定部分を制御する目的・目標の達成を目指して、特定の行為を選択し ︵29︶ 実行する者でなければならぬ。国家や団体、または特定の役割に応じた地位を占める個人がこのような闘争主体として登 場する。 さておよそ敵対行為に出る者がこのような主体である以上、彼は敵を一者に限定するか、一つの束にまとめなければな らぬ。けだし敵対行動の目的は敵の殺傷それ自体であるよりもむしろ敵を屈服して自己の意志を彼に強制することである から、敵に打撃を与える際に自分の損傷は最小限にとどめた方が良いにきまっている。この点からみれば、闘争において 同時に二つ以上の敵を持つことは、彼我の打撃力に絶大な懸隔が存しない限り極めて不利である。そして一方が信じられ ない過誤を犯さぬ限り、打撃力の絶大な懸隔のもとでは闘争は回避されるのが普通である。集中と各個撃破、二正面作戦 の回避が戦術の原則であり、かくて闘争主体の一方が敵を一つに限ろうとするように、敵も当然そのように企てるのであ るから、ここに二元対立が成立する。この二元性の意味する所は、闘争主体が二個に限られるということではない。もし 三個以上の主体が闘争関係に入る場合、これらは同盟・協商・提携・結托などによって二つの陳営に分れて行く、という 188 (654) 社会関係としての闘争 ことである。例えば、A、B、Cの三主体が文字通り三つ巴に鼎立する状態は闘争というよりも対立か競争の関係であっ て、彼らが闘争関係に突入する場合には、三者のうち一者︵例えばC︶は中立や傍観の立場をとるか、A、Bのいずれか と結托して、例、兄ばA.C対Bという二元対立が成立するだろう。競争関係と闘争関係の差異を単に分離・敵対の程度の みに求めるのは不十分であり、社会学的観点に立てば二元対立と相互加害こそ闘争関係の基本的特質である。 競争関係と闘争関係の特質が純粋に形式化されたものを、われわれは競技やゲームに見ることできる。三人以上のプレ ーヤーによって行われるゲームは競争原理に基づいて作られている。いつれが一番先にゴールに達するか、いつれが最大 の得点を稼ぐかが争われるのである。この行程のなかで、さまざまに複合錯綜した技の行使と幸運の計測至難な賭とが混 清して、プΨーヤーに一層多くの興趣を添える。双六、八々花札、麻雀、ツー・テン・ジャヅク、ページ・ワソなどは大 体競争ゲームであり、スポーツでも個人競技の多くはほぼこれに属すると思われる。 これに対し二人か二組の対抗によって争おれるゲームは殆ど闘争を模したものである。この場合、双方は同一の賞品を 目指して並行的に争うのでなく、むしろ直接に相手の打倒を目指す勝負そのものを争っているのである。囲碁、将棋、チ ェスなどのルールは相手の石や駒を包囲するか磯滅するか動けなくするかの技術を基にして作られたものであるし、ホィ スト、オークション・ブリッジなどのカードゲームは、計算や勘によって双方がカードを張りその争奪の累積で勝負を決 めるのであって、単純に得点の多寡を争うものではない。また紅白、源平に分れる対抗ゲームや集団的対抗競技には闘争 ︵30︶ 原理が露骨に現われている。なお、二人で争うポーカーや花札、サイコロ賭博などは、本来の競争ゲームが着レの勝負に 転用されたものと思われる。 (655) 189 社会関係としての闘争 ︵29︶ 公文俊平﹃社会システム論﹄日本経済新聞社、昭和五三年、四一ー五二ページ。 ︵30︶ 増川宏一﹃盤上遊戯﹄法政大学出版局、昭和五三年一一〇1一五八ページ。 相互行為としての闘争について考えれば、その主体は個人の場合もあれば集団の場合もある。このことは競争や協力と いう相互行為の場合と原則的に変らないだろう。こうして闘争又は紛争︵8昌臣o酔︶という相互行為は、戦争、革命、内 戦から労働争議、訴訟、派閥争いなどを経て、仲間同志の喧嘩や家族内の葛藤に至るまで極めて多種多様の種類を含むこ とになる。英語文献についてみれば、かつて広く用いられた。。葺信σqσq♂に代って8昌臣9という用語が多くなってきたの は、人間の社会生活に広く生起するこれら多くの相互行為に何かの共通原理を見出せないだろうか、という考え方を現わ しているように思われる。 ︵31︶ ところが社会関係としての闘争については事情が違ってくるのである。手掛りとして競争という社会関係を考えてみよ う。この場合、集団間の競争ばかりでなく個人間の競争も一つの社会関係として成立することがよく見受けられる。例え ば、司法修習生、公務員、教員などの採用が競争試験によって行われる場合、受験者は個人であり、殆ど互に識り合うこ とのない彼らが一つの社会関係のなかに置かれていることは確かである。さて闘争関係についてはどうであろうか。大部 分の個人間闘争︵夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、友人間や教師生徒間の暴力沙汰や攻撃・反抗など︶は社会関係にまで結晶するに 至らない相互行為である。既に述べたように闘争関係とはまつ二者の間の敵対であり、ここで人々は﹁自分の味方でない 者はすべて敵﹂という状態に置かれ、二つの敵対する組に属することになる。敵味方の概念は、戦う者が一人対一人でな く二つの陣営に分れていることをすでに含んでいる。つまりこの状態は﹁自分以外の者はすべて敵﹂という多数者間の無 190 (656) 社会関係としての闘争 差別な戦いのことではないのであって、たとえば﹁生存闘争゜・霞昌σqσq♂︷自①臨。・8昌8﹂や﹁万人の万人に対する戦い﹂と いう表現は闘争関係の概念には適切でないと言わねばならぬ。各個人が自分の社会的地位を上昇させる努力に対して法的 社会的制限が殆ど無いような競争的社会では、階級的集団の組織はそれほど強固でなくその輪廓も際立っていないだろ う。競争が自由・公正に行われる所では、人々は集団としてよりも個人として健闘し栄冠を得ようと努力するだろう。闘 争行為を遂行するものは確かに一人一人の生きた個人であり個々の兵士や指揮官であるが、このことから闘争の主体が個 人であると結論することはできない。例えば野球やラグビーの試合で勝負を争う主体は、あくまで双方のチームであって、 個々の選手でないことは明らかである。戦争、内乱、労働争議などで対決する主体は、政府・軍・警察当局、企業、労働 組合などの団体なのであって、これを個々の高官、将官、兵士、社員、組合員などに還元することは、社会学的には余り 意味がないと思われる。およそ闘争関係とは、人々が敵と味方に分れて相互に何らかの損害を与えて相手の抵抗を排し自 己の意志を貫徹しようとする社会関係であるから、各人の闘争行為は一つの組織された集団行動の一環として遂行されな ければならぬ。一つの社会関係として続けられる闘争は集団を行為主体として行われる種類のものであり、この概念を現 わすものとして集団闘争︵σqδ巷8島§︶という言葉が適していると思われる。例えばマルクスが囚冨ωω①h臼臨島器子ωδ と呼ぶものは、闘争を通じてみつからの共同利害を自覚しこれに基づいて団結した所の政治的闘争集団である。資本に対 して共通の立場に置かれ共同の利害を持っている賃金労働者や俸給生活者の大衆は、これだけでは固器。。Φきのぎゲの状 態にとどまっている。もし彼らが、資本家階級との敵対においてみつからの立場を十分に意識し、組織のもとに団結して ︵23︶ 闘争を辞さないようになったとき、それ自身のためのプロレタリアートが形成される。階級闘争の基盤は、プロレタリア (657) 191 社会関係としての闘争 が階級に、それとともに政党に組織されて行く過程のなかで整えられるのである。﹁あれこれのプロレタリア或は全プロ ︵33︶ レタリアが一時的に目的として何を考えるかが問題なのではない。現実に在るもの、この現実に適応して歴史的に何を為 ︵34︶ すべく強要されているか、が問題なのである﹂というやや哲学的な言葉は、階級闘争の現実的主体が政治的集団であるこ とを示したものであるといえよう。 ︵31︶ 公文俊平、前出書、︵29︶、八八−八九ページ。 ︵32︶ マルクス﹃哲学の貧困﹄山村喬訳、マルクス・エンゲルス全集︵改造社︶皿、昭和四年、五九八−五九九ページ。 ︵33︶ マルクス、エンゲルス﹃共産党宣言﹄大内兵衛、向坂逸郎訳、岩波文庫、昭和四〇年、五ニページ。 ︵34︶ マルクス、エンゲルス﹃神聖家族﹄河野密訳、全集︵改造社︶1、昭和三年、五五三ページ。 闘争と集団との関連にかんするマルクスの認識は階級闘争に限らず広く社会闘争についても当てはまる。即ちそれは、 或る集団の結束は他集団との闘争を通じて強化され、また闘争はこれまで存在しなかった新しい集団︵連盟や結社︶を形 成することもある、という原則である。 闘争による集団強化 すでにスペソサー︵エ興げ。添ω冒①昌8H︶は軍事型社会にかんする長い論述のなかで次のように述べている。﹁他の条件が 等しければ、或る社会の持つ戦闘力は、戦闘に参加できない者がこれに参加できる者を専ら支援するためにのみ労働する 所で、最大に発揮されるだろう。⋮⋮直接又は間接に戦争に利用されるすべての人々の努力は、それらが最高度に結合さ 192 (658) 1 社会関係としての闘争 れた時に最も効果を持つだろう。そして戦闘員間の団結に加えて非戦闘員と戦闘員の間にも、十分にまた直ちに利用でき る援助を行えるような結合がなければならない。これらの必要を充たすためには、各個人の生命、活動、財産はいつで ︵35︶ も社会のために用立てるように整えられていなければならぬ。﹂戦時下の社会で政府権力の集中と強制的協働が促進され ることは、認めざるを得ない歴史的事実である。サムナー︵ぐ5霞oヨO鑓ゲ四ヨω坦Bロ臼︶は他集団と闘争する集団が自分 の内部で友愛と結束を強化する原則を定式化した。﹁われわれ集団︵内集団︶における友愛と平和、他集団︵外集団︶に 向う敵意と戦い、この両者は互に相関的である。集団への忠誠とそのための献身、外の老に対する憎しみと軽侮、内での ︵36︶ 友愛と外への好戦、これらはすべて同一の状況から一緒になって成長するのである。﹂ジソメルは、戦争、労働争議、学 級間の喧嘩を例にとって、これらに共通する原理を定式化しようと試みる。即ち、闘争は集団形式の集中的尖鋭化を必要 とし、また集中化によって強められたエネルギーは他集団との闘争を求め易い、という命題がこれである。﹁平和状態の 集団は内部の敵対する成員が未解決の状況のまま一緒に生きてゆくことを許容する。しかし闘争の状態では成員たちはき わめて強く結束し一つの均質的衝動に動かされるので彼らは完全に協調するか、そうでなければ完全に反機し合わねばな ︵37︶ らない。﹂集団間の闘争が集団内の結束を強化するという原則は非同調者の排除という事実と矛盾しない。闘争に直面す る集団が団結を強めようとするとき、集団の闘争力を妨げるような非同調的成員を除名したり抑圧したりする例はしばし ぼ見られる所である。 豆 闘争による集団形成 (659) 193 社会関係としての闘争 グソプロヴィッツ ︵ピロ自鼠σqOロヨ旦o鼠。N︶はマルクスとは別の観点から集団闘争を論じている。これによれば、およ そ社会過程とは闘争の過程であって、それは本来個人と個人の間に生起する事柄でなく、集団︵ホルド、家族など︶と集団 の間の相互接触から生起する。人類の原始的集団はホルドであり、ホルド間の戦争は強者による弱者の奴隷化をもたらし て、一方では家族が分化する反面、これらは部族さらに人種に発展する。そして人種闘争︵菊o°。ω①ロパ帥日艮︶の結果、一方 では階級が分化し他方では征服によって国家が形成される。国家形成以後闘争は二種類に分岐し、一方の国家間の戦争は 和解を許さな嬢緩倉発展し、他方国家内部では新た繕級闘争︵壽゜・①景昼︶が発生す華人類の将来に対す る悲観的見通しは別として、人種、階級、国家などを闘争主体として考察した所にグンプロヴィッツ学説の意義があると い、兄よう。闘争集団の形成にかんする一般的観点からの考察はやはりジンメルがこれを試みている。この事例は統一国家 と統一身分の形成である。一五世紀後半から進展したフラソスの中央集権化と国家統一はイギリスとの百年戦争に因るも のであり、アラゴン、カスティラ両国の併合によるスペイン王国の成立は、ムーア人に対するリコンキスタの成果であ る。﹁合衆国はその独立戦争を必要とし、スイスはオーストリアに対する戦いを、オランダはスペインに対する反乱を、 アカイア同盟はマケドニアに対する戦いを必要とした。新しいドイッ帝国の建設もこれらすべての事例と同様の例を与え ている。﹂またロシアでブルジョワジーの広汎な発展がみられない理由は、封鎖的身分としての強力な貴族が存在しない ため都市のブルジョワがみつからを一つの身分に結集しようとする闘争的な刺激が無かったためである、とジンメルは論 じている。﹁闘争はまた、これがなければ互に全く無縁であった人々や諸集団を結びつける﹂という事例には、結社︵霧ωo− ︵ 3 9 ︶ 。醇凶8︶や連盟︵OO恥一一叶一〇鵠︶が最もよく当てはまるだろう。ジンメルの説明は現代の利害集団 ︵一鼻Φ器簿鴨oq℃︶にも通 194 (660) 社会関係としての闘争 用すると思われる。例えば、コンビナート誘致による地元の経済発展という一つの共同関心︵⇔ OO︼︺P旨PO口 μ昌↓①N①ω↓︶をめ ぐって或る範囲の人々が結集すれば、彼らは自然環境保護という別の関心を犠牲にしてまでもこの利益を支持促進しよう とするだろう。人々が一つの利益を中心に団結すれば、以前まではただ漠然と意識されていた対立が尖鋭となり、全体の 連帯を犠牲にしてまでも部分的連帯が強化されてくる。大きな国民社会は遠くから見ればどんなに一枚岩のようにみえて も、近寄ってみれば、それは、それぞれ異なった、そして両立不能ですらあるさまざまの利害をめぐる諸部分から成る、 多元的複合体である。国民社会は人と人との競争の場であるだけでなく、職業団体、政党、宗派、地方自治体、社会階級 間の、不断の闘争の場でもある。 ︵35︶ =°ω℃窪8が、識ミ骨、塁ミ象。ごご題噂﹀署一①け8。。−目o。8M℃°8ド゜ ︵37︶ O°ω弓目①ro戸。犀︵H。。yωω゜卜。ωα∼卜。。。ρ戸りP 前出邦訳、一〇六ページ。 ︵36︶ 芝゜O°Qo口き器が肉o寒ミミ30一弓帥Oo日冨ミ﹂8N署匿①Oけ ︵39︶ Ω゜Qo弓ヨ①一”o℃’。律︵HQ。ソooω.卜。。。O∼卜。心鮮℃O°りO∼二ど前出邦訳、 一一五ー一一七ページ。 ︵38︶ 炉O信ヨ巳o註βOミミミ肋ミ⑦8こご讐Ma°9Hピ.=o﹃o鼠。N“2①≦bdH巨ω乱。ぎHり。。ρ署.G。戯∼歳゜。° ところで社会集団のすべてがそのまま闘争集団に転化するわけではない。例えば個々の家族、学校、病院、クラブなど がそのままで社会闘争の主体となることはまつないだろう。一つの私立大学それ自体が闘争集団に転化するようなことも 恐らく起らない。しかしこの大学が、私学に対する国庫助成の強化を文教当局に働きかけるため他の私学と共に一つの連 盟を結成したとするなら、この私学連盟は一個の利害集団であり、さらに運動方針によっては闘争集団に転化する可能性 を持っている。ダーレンドルフ︵勾巴二︶⇔冨①巳o臨︶はこの意味で、利害集団 ︵げ審お。。什αq層oロ唱︶が集団闘争の現実の主 (661) 195 社会関係としての闘争 体である、と述べたものと思われる。利害集団を形成する諸個人や諸集団は既に同一の潜在的利害を共有する社会的立場 ︵40︶ に置かれている。ダーレソドルフはこの集合状態をギンスバーグの用語に従って準集団 ︵ρq⇔。。一−σQNoロ℃︶ と呼び闘争集団 形成の理論的条件であると考える。社会機構上の共通した立場に置かれる人々は、或る種の経験や生活環境、或るタイブ の主体性と誠実性を共有し、執酬や評価についても同等の社会的格差の下に置かれている。類似した環境や状況の下にあ る人々は、これらの諸条件によって、特有の社会化形式、集団体験、コミュニケーション、政治感覚などを分ち合い、こ うした独自の集団的利害関心が育成される。ハレブスキー︵ω帥巳oHエ巴①びωξ︶は共同の潜在的利害関心を成立させる構 ︵41︶ 造的状況として次のものを指摘している。 ω生産関係における共通の立場 ②権力関係における共通の立場 ㈹階層序列上の位置 圏人種・言語など文化的特質 の共有 ㈲価値.信念の共有に基づく統合 ㈲宗教信仰の共有に基づく統合 働地域的諸利害に基づく統合 これらの社会集合態は、そこから闘争集団が形成される補給地であり、場合によって大衆運動や攻撃的集合行動が組織さ れる後背地である。 さて共同の潜在的利害は闘争集団や利害集団の前提条件であるにとどまり、これら集団が形成されるにはさらに組織化 の条件が充たされねばならない。或る共通の構造的立場に在る人々が。oヨ目ouぎ↓臼①゜。叶を自覚するということは、換言 すれば、未組織の個々の行動はこのぎけ臼8侍を実現できないことを彼らが認識するに至ったということである。ところ がこのことは直ちに、彼らが共同目標を達成し共同利益を促進するために各自の私的な時間や資金・労力の一部を進んで 犠牲に供する、ということを意味するであろうか。例えばオルソン︵ζ碧。嘆O﹃8︶は、たとえ8日ヨo昌言8器簿が 196 (662) 社会関係としての闘争 自覚されていても自発的個人行動がそのまま組織的集団行動に結集するものでなく、組織というものは或種の制裁か強制 ︵42︶ の方式を工夫しなければみつからを維持することができない、と論じている。8ヨ88ぎ富器。・けの自覚がそのまま組織 化であるとはいえない。組織が私的利益に奉仕することもよく見られるが、組織本来の機能は集団の。o日ヨo昌言8冨。。汁 を充足・促進することにある。そしてこのことは、何らかの共同目標の達成によってもたらされる恩恵や利益がこれに参 与するいかなる人にも除外されない、ということである。例えば、賃金の増額や労働条件の改善は労働組合員のすべてに 恩恵を与えるものであり、福祉・治安・公衆衛生などのサービスは、これらを必要とする場合に国民の誰をも除外するも のであってはならない。もし誰かがこれらのサービスや恩恵に預るのなら、これらが必要なときに誰もがこれらを利用で きなければならない。成員に対し一つの不可分で普遍的な恩恵を提供することが、組織にとって不可欠の基本的機能であ る。そして8ヨヨo口ぎ8器。■けとは、決して主観的興味や関心のことでなく客観的利害状況であり、公共財又は集合財と して実現されるものであって、これは個人的・私的な利益や関心を合計したものではない。オルソンは典形的大組織の個 々の成員の立場を、競争市場における個別企業の立場や国家内の納税者の立場に比較している。たとえ個々の成員が組織 のために目立った働きをしなくても、彼は他の人々の努力によって得られた財と利益を享受することができる。したがっ て利害集団の組織化は諸個人・諸集団からの資金・労役の自発的提供のみにとって達成されるものでなく、そこには何ら かの制裁や強制の装置が必要であることが分る。 ナルソソの所説は闘争集団組織化の理論的前提について述べたものであるが、ダーレソドルフは組織化の技術的条件と ︵43︶ して、指導者人員の存在とイデオロギーの確立という二点を指摘している。即ち、すべての成員に対する何らかの報酬・ (663) 197 社会関係としての闘争 恩典.制裁.強制の装置を整えるためには、組織化を自分たちの仕事と考えそれを実行して指導者となるような人々が存 在しなければならない。このことは、闘争集団が少数指導者の専制によって活動するという意味でなく、組織による統制 の下に置かれなければおよそ有効で持続的な闘争行動は成り立たないという事実を現わしている。或る種のギャングや徒 党のようなものを除いて、組織とは身体的及び物質的な二種の統制手段のみで維持できるものではない。組織はこれら二 つの他に象徴的手段を用いる。これは肉体的脅迫や物質的報酬よりも高次の規範として成員を納得させる力である。人々 ム が8日ヨoロぎ8同Φ雪を自覚するならこれは明確に体系づけられた観念即ちイデオロギーとして理解されるだろう。象徴 による統制はこのイデオロギーによる裏付けを必要とする。 の卒業を以て終了するし、子供に対する親の養育義務も子供の成人年令を基準として限定されているだろう。ところが友 或る種の社会関係は、その持続期間が限定され、その終結も制度的に予定されている。学校での制度的師弟関係は学生 三、闘争の持続 ︵44︶ ア、、・タイ.エツィオー二﹃現代組織論﹄渡瀬浩訳、至誠堂、昭和四二年、九〇1九ニページ。 ︵43︶ 幻゜U聾器ao鼻8.。詳︵心Oソ灼o°H。。N∼一。。P前出邦訳、二四九−二五六ページ。 ︵42︶ ζ・9ωoP↓ミトo鷺oo、Oミ、鳴ミ賊竃︾ら誌§b国胃く屋乱q巳く①H。・津︽零oωω曽Hり謡℃O℃°HO∼δ. ︵41︶ QQ・冨巴①げ..犀ざさ鈎恥ミ爵嘗⇔遮職、ミミ馬ミO§渇詩ひ09・§冨こαq①⊂巳く⑩﹁°・一嘗℃器゜・°・層μO刈9℃℃°逡∼HO9 社、昭和四四年、二四六ページ。 ︵40︶ 因。∪學器ao井Oミ器黛§“6貯旨G§渇詩、ミ蟄蕊、蕊織黛肋㌣皆、恥o鼠ミざ園宍抑目霧り”7一。Qρ富永健一訳、ダイヤモンド 198 (664) 社会関係としての闘争 情や恋愛、義兄弟や主従などの関係にはその終点が確定されていない。闘争についていえば、その持続の問題はもっと複 雑である。 まつ闘争の概念はそれ自身のうちに闘争終結の契機を含んでいる。闘争が自己の意志を貫徹するため相手の抵抗を排除 してこれを屈服しようとする相互加害行為であるなら、その当面の目的は相手を打倒して以後大した抵抗を為し得ないよ うにすることであろう。このことは既に闘争の終結を意味している。﹁勝負﹂という日常語は、闘争そのものと闘争の決 着という二つの事柄を同時に言い現わしているようだ。闘争というものの究極の姿は二者間の決闘であって、これは友情 や恋愛のような結合作用と異なり、勝負という決着を伴うものである。﹁生存のための戦い。・茸偉σqαqげ︷自。臥。。8馨①﹂とか ﹁人生の戦い﹂などという決着を特定しない闘争観念は、闘争概念とは別の﹁努力、活動﹂の原理を象微したものであり、 例えば帝釈と阿修羅の永遠の戦いという神話は、勝負のつかない闘争状態の継続というよりも、永遠に更新される善の勝 利という思想を象徴するものといえよう。 しかるに勝負という決着を伴う闘争とは、一方的に高揚された純粋概念であるか、遊戯化された闘争原理であることが 多く、闘争の現実態はこの原理を多様に修正しているのである。クラウゼヴィッツ︵O⇔匡くoβQ窪ω⑦鼠蔚︶は戦争を考 察するに当りその純粋概念から出発して暴力の無限界的発揮としての絶対戦争という論理的規定を示し、この理念はつぎ の三条件が充たされる場合にのみ現実化するものだ、と述べている。 ω戦争が全く孤立的行為であること ②戦争が唯一回もしくは同時に行われる数個の決戦︵Qoo三po犀︶の一系列によって成立するものであること (665) 199 社会関係としての闘争 ㈹戦争の終結がそれ自身において完成されたものであること これら三条件が充されない以上、現実の戦争は概念の無限界性と絶対性に厳密に従うものでなく、政治目的に従属して多 ︵45︶ 種多様の形態をとるに至る。クラウゼヴィヅツのアプローチは社会闘争の場合にも妥当する所が多いと思われる。即ち、 現実の闘争は一回か数回の決戦の勝敗だけで決着に至るとは限らず、また抽象的主体や戦士によって戦われるものでもな い。闘争終結の方法についても、それには勝負のほかに妥協、和解などがあって決して単純ではない。かくて現実の闘争 は、それ自身のなかに終結の契機を持つと同時に、独自の仕方で持続する傾向を具えている。しかし闘争の持続とは、闘 争行為が相互に間断なく繰返されることではない。もし持続が間断ない繰返しであるとすれば、事の本性上、少くとも一 方の当事者が早晩艶れてしまうだろう。あたかも現実の戦争がしばしば中断される多くの軍事行動によって持続するよう に、現実の社会闘争も相当の休止期間を挾んで行われる幾多の闘争行為から成り立っている。この観点に立つとき、まつ 闘争と戦闘、つぎに闘争と対立を概念的に区別する方がよいのではないか、と私は考える。 まつ闘争︵囚o⇒距聾︶と戦闘︵囚⇔白窯︶とを区別し後者を前者の下位概念として規定したのはヴィーゼ ︵囲︸<°≦冨ω①︶ である。相互加害ないし相互妨害的行為である闘争は実に多種多様の方法で遂行され、凶餌ヨ嘗はそのなかで重要ではあ るが一つの方法であるにすぎない。闘争する双方の力に大きな懸隔があって、しかも両老がこれを認識しているなら、 囚o⇒由ぎは例えば、謀略、告発、脅迫などの方法で行われ、囚卸ヨ風は滅多に生起しない。社会闘争における実力行使 には、公然たる暴力から、封鎖、坐り込み、示威、ストライキなど多くの種類があるが、これらは囚o昌臣簿の一亜種で あって闘争のすべてではないのである。ヴィーゼによれば閑帥ヨ風とは相互加害的行為が最も顕在化して行われる形態で 200 (666) 社会関係としての闘争 ハなね あって、闘争方法として閑¢ヨ風を採用するか否かは人間の意志による事柄であり、組織による計画の問題である。戦 争のみならず社会闘争についてみても、ここで顕在的実力行使だけが連続することは現実にはまつ起らないだろう。現実 の社会闘争は決して闘技ではない。闘争の主体となりこれに従う者は、昔の遊放種族やヴァイキングの戦士のように全生 命を戦闘に賭ける者でなく、また全員が必ずしも闘争専従者ではない。もし闘争を専従者だけに任せてしまうなら、それ はもはや社会闘争の態をなさないだろう。闘争当事者の多くは同時に日常の業務に従事する人々である。そして闘争と業 務は機能的に相容れない。即ち、前者はエネルギーの消費と破壊であり、後者はエネルギーの産出と提供である。かくて 現実的闘争の指導者は、例えばプロ棋士のようには、闘争の純粋形式に没入することを許されていない。彼は﹁現実﹂と いう重大な危険と責任を背負っているのである。また双方の指導者が彼我の実状を正確に把握していることも滅多にない。 これらの要因が重って現実の社会闘争においては、ちょうど戦争がそうであるように、顕在的実力行使は双方の不決断と 不安のためしばしば中断され、これに代って謀略、宣伝、告発などの活動が登場するのである。 闘争は戦闘の休止・再興という闘争方法の交替・転換として持続するばかりでなく、更にこれより一層広い局面にわた ってそれ自身の顕在化と潜在化を交替させるものである。例えば労働老対使用者の集団闘争にせよ、いわゆる大学紛争に せよ、階級闘争や社会闘争という言葉の慣用は、多様な形態の闘争行為だけが長期にわたって顕在化する状態を示すより も、むしろ闘争状態が或る時期に激化し、また或る時期に鈍化・沈静して協力や協調の状態にもどって生産機能が回復し、 また新たなきっかけから闘争が再び表面化する、という状態を示している。こういう状態を把握するためには対立︵O勺− ℃o匂・一臨o⇒︶ の概念を確定するのがよいと私は考える。対立はしばしば敵対や闘争と等置されるが、対立を社会関係として (667) 201 社会関係としての闘争 考察する限り、これと闘争状態との差異に注目すべきであろう。すでにジンメルは、対立が社会関係における内的平衡を 作り出す機能を持つことを洞察していた。彼によれば、対立は闘争の潜在的形式であって、そこには相互に嫌悪か疎遠・ 拒否の感情が多く持たれているが、それは、当事者双方に内的な力の充実感を与えることにより、社会関係を保持する役 目を果している。もしも或る人々が横暴に振舞う人々に対して反対する力も権利も持たないとすれば、どんな形にせよ闘 ︵47︶ 争は形成されないが、彼らは絶望に追いやられ従来の社会関係は解体してしまうだろう。対立関係は全くの消極的要因で はなく、むしろ普通では我慢できない人々との条件付協調を保たせるための要因であることが多いのである。ジソメルを 手掛りとして社会闘争を広く論じたコーザー︵い。鼠。。︾°Oo。。臼︶も対立と闘争との区別を説き、もし相手の力が事前に測 定できるなら、対立する諸個人や諸集団は顕在的闘争に突入することなく、調停や仲裁が成功する機会が多くなるだろう、 と述べている。とくに資本主義社会における労働者側と経営者側との利害は社会構造的に対立している。そして対立する 両者が何時でも必ず争議行為に訴えるわけではない。しかし実際には、対立する双方が事前に相手の力を正しく測定する ことが難しく、力の強さはそれが実際に行使されてみて始めてわかることが多いため、和解は闘争が始まった後でやっと 成立する。この側面からみれば、対立関係は闘争の単なる潜在状態であるだけでなく、むしろ闘争にはみられない不安と ︵48︶ 緊張に満ちた独自の状態である。 ヴィーゼはこの観点からO娼℃oω三〇昌を囚05臣算から区別して、その特質を次のように示している。競争に比べ対立 では敵対が友好を圧倒しているが、これは双方の﹁賢明、狡猜、臆病、屈辱の記憶、先見による考量などによって、激し い囚pヨ風の勃発が抑制されている﹂状態である。そして対立を闘争から区別する標識は、対立においてはつぎの事柄に ︵49︶ 202 (668) 社会関係としての闘争 ついて双方の認識が不確定状態にある、ということにあ輸四 ω対立の原因 ②協力の可能性.効用・価値 ㈹闘争開始の可否 鰯敵対の許容限度 ㈲敵対の表明方法。 対立が顕在的闘争に移行するとこの不確定状態は殆ど消えて、双方の敵対行為は一層合理的・意図的・計量的となる。現 実の闘争が闘技通りに行われることはなく、そこに非合理的・無意識的動機が働いたりさまざまの過誤も犯されるであろ うが、闘争する当事老は彼我の実力差を確認し、目的達成の見通しについて一層確実な認識に達するだろう。かくて闘争 は解決の方向に向い、全面的.根本的解決が得られれば対立関係までが解消し、部分的・一時的解決しか得られなければ 双方は再び対立関係に立戻って次の戦いに備えるだろう。長期的にみた闘争関係は、対立と闘争の二つの局面が繰返され ている状態である。ヴィーゼが指摘した不確定状態という対立の特質については、古くから孫子が別の観点から論じてい ると思われる。例えば有名な次の言句は、闘争に比べ、対立にあって合理的計量を間違いなく行うことがいかに困難であ るかを言い現わしていると云えよう。 夫未γ戦而廟算勝者。得レ算多也。未レ戦而廟算不レ勝者。得〆算少也。多算勝。少算不レ勝 而況於レ無レ算乎。 吾以〆此観レ之。勝負見 。︵計篇第一︶ 知レ彼知レ己。百戦不ノ殆。不レ知レ彼而知レ己。一勝一負。不レ知γ彼不レ知レ己。毎レ戦必殆。︵謀攻篇第三︶ 是故勝兵先勝而後求レ戦。敗兵先戦而後求レ勝︵形篇第四︶ いやしくも戦いに入ろうとするなら、確信が得られぬままに決してこれに踏み切ってはならず、事前に万全の勝算を得て からはじめて決心すべきである、というのが右の論旨であろう。しかるに実際の闘争とくに戦争はこの万全主義に沿って (669) 203 社会関係としての闘争 行われるとは限らず、十分の勝算が得られぬまま、︼国の開戦決意に﹁ヂリ貧を避ける﹂という動機が介入することもあ る。対立を特徴づける不確定状態が却って当事者に不安と緊張や希望的観測すらもたらして闘争生起の誘因となるわけで ある。第二次大戦以後米ソ両大国は次第に旧来の動員戦略に代えて抑止戦略を採用するようになったが、ここに現われる 抑止︵山①冨賛Φ口8︶の観念は、孫子の思想と符合する所があるのではないかと思われる。 抑止とは、もともと潜在的な敵をして彼自身の利益に基づいて或る種の行動︵例えば侵略︶を回避・自制させるよう に、我方の潜在的実力を活用することを意味し、抑止理論は要するに軍事力の巧みな不使用についての理論であって、軍 事技術よりも視野の広い考察を必要とする、とシェーリング︵↓げo日器O°ω。げΦ霞昌σq︶は説いている。この用語の語源通 り抑止の基本が威嚇であるとしても、この威嚇が例えぽ核兵器による大量報復を呼号するだけならば、それはいわゆる ﹁張子の虎﹂となって抑止力として殆ど無効となる︵朝鮮戦争の事例︶。即ちこのような威嚇︵昏器簿︶には信愚性︵。器− ︵51︶ 象げ農¢︶が殆ど確立されていないからである。例えば一方の戦略がいかなる地域に対するいかなる規模の侵攻に対しても 全面報復を加えるという硬直したものであるとすれば、相手が局地的侵攻を実行した場合、全面報復に踏み切るか、無為 に坐視するか、の二者択一を迫られることになる。そして相手の侵攻が全面報復発動に値しないものである限り、この選 択は無為の方になり易く、かくて威嚇の信愚性は極端に低下することになるだろう。こういう認識に基づいて近年の抑止 戦略はクレディビリティー確立のための諸条件を重要視している。即ち、報復力の十全性を持続させるため、軍事小国は 十分な軍事力保有国と集団防衛条約を結んでこれに基地その他の便宜を提供し、軍隊や家族ないし軍事施設などを自国に 存在させて報復発動の保証とすること、また予測される侵略規模の具体的多様性に対応して報復を段階的に行い得るよう 204 (670) 社会関係としての闘争 ︵52︶ に制裁戦力を段階的に発動する体制を整備することなどがこれである。 抑止理論における信愚性︵。器岳窪ξ︶ という観念は、対立関係のなかで確定的成算を持てない相手方に対し、かえっ てこちらからこの不確定性を除くための情報を与えることによって、闘争行為を自制させることができる、という考え方 である。闘争の抑止とは、敵対する当事者とは別の権威筋か実力者が勢力を行使するか仲裁や調停に乗り出すことによっ て、敵対者双方をして闘争行為発動を控えさせることではない。親や教師が子供の喧嘩を止めさせたり警察当局がギャソ ︵50︶ 幽窪拝ω゜b。8° ︵49︶ ピ゜︿°<諏窃ρoマo言︵b∂目︶℃ω゜悼o。ド ージ。 ︵48︶ ﹃︾°Oo器斜物ミ§識§o、⑦象ζNG§為詩き↓ぴ①宰①①勺器。。の”目O㎝ρ ワ目も。9 新睦人訳、新曜社、昭和五三年、一八九ぺ ︵47︶ 9ω巨日①roo°。詳︵H。。ソoDo。°H。。O∼HOO°℃勺゜Hり∼卜。ρ 前出邦訳、八ー九ページ。 ︵46︶ い゜︿°≦一$ρoΨo謬︵卜⊃H︶”ω゜bo◎。どω゜bOOω. ー四四ページ。 ︵45︶ Ω碧ω①鼠ドぎミ肉、暗晦魯閃①﹃“Uニヨ巨興ω<臼ξσq”Hり。。9 0DQQ°H旨∼b。Oど篠原英雄訳、岩波文庫︵上︶昭和五六年、二八 り、闘争の防止というよりは、むしろ広義における闘争の持続状態の一局面である。 ︵53︶ 相互制御行為︵け層鋤d﹁ω騨O仲一〇H[︶である。社会学的にみれば、闘争の抑止は顕在的破壊作用の応酬に代る相互制御行為であ 選択に或る種の影響を及ぼし、かくして我方の行動を相手に期待させこれにかんする確証を相手側に与えようとする所の る。抑止は敵対当事者自身が採用する戦略︵ω↓冨酔①尊︶であり、闘争を単純に回避しようというのでなく、相手側による グの私闘を取締ったりすることや、中労委が労働争議の調停に乗り出すことは、社会統制︵ooOO一9一 〇〇︼P辞同O一︶ の事例であ (671) 205 社会関係としての闘争 近藤三千男﹃抑止戦略﹄原書房、昭和五四年、三−一四ページ。 ︵51︶ 目゜ρω。ゲ亀ぎσQい↓ミ憩§妹馬讐o、O§鳥賊3出費く費負HO。。ρ電゜①∼り. ︵52︶ 公文俊平、前出書八一ー八六ページ。 ︵53︶ ↓°O°ω。冨ヨ品”8.。陣け︵蟄y℃’お゜ 四、闘争における相互認知 人類の歴史をみれば部族間・種族間の戦争がいつれか一方の殆ど完全な嶺滅に終った例は少くないし、征服者が土着の 住民と文化を根こそぎに壊滅させてしまった事もある。しかし戦争を含めた社会闘争の多くは、かかる職滅戦にまで進む ことなく、一つの社会関係として一定期間持続してから一応の終結に向うものである。既に論じたように、闘争の持続と はただ時問にかかわるだけでなく、それが社会関係を形成していることを指している。そこでこの闘争関係において当事 者双方の間に成立する意味の対応性について考察せねばならぬ。 すでにジソメルは、職滅や暗殺のような極限状態を除き闘争には社会化の契機ないし共同性︵OΦ目P⑦一口ω①︻P犀①一梓︶の要因 が織り込まれている、と指摘した。﹁もちろん、例えば盗賊や無法老とその犠牲者たちとの間のように、他方の契機をす べて排除するようにみえる闘争も存在する。そのような闘争がまったく繊滅のみに終るとすれば、それが暗殺のような極 限状態に近づくことは云うまでもない。ここでは統一的要因という附加物は殆どゼロに等しいものである。これに対して 何らかの配慮即ち暴力の限界が認められるや否や、すでにそこには社会化の契機が、たとえ単に暴力を手控えるというだ 206 (672) 社会関係としての闘争 けのものにすぎないとしても、現われているのである。L普通の場合闘争の勃発は闘争にまで訴えるべき或る共通の目的 ︵54︶ が存在することを意味しているのであって、二つの主体にとって或る目的に共通の関心を持てないなら争うべき事柄がな 方で働くことは云うまでもない。例えば国家間の戦争は人類交通上の一行為であり、流血によって終結する所の重大な利 ところで闘争においていかに本質的結合が認められるといっても、これが通常の結合関係や協力関係の場合とは別の仕 させなければ成立できないものである。 属するように見える決闘︵∪器与にしても実際には社会的規制を受けていることが多く、双方が互に主観的意味を対応 いわゆる﹁喰うか喰われるか﹂の自然的闘争の原則はそのまま社会的闘争には当てはまらない。一見した所自然的闘争に 能にするだけでなく、優越と軽蔑を最も強く表明することにもなる。 ずることのなかには、相手を戦うに値する人だと認める行為が含まれている。相手を完全に無視することは闘争を不可 ②敵を認知すること。攻撃される者が攻撃に対し若しも阿呆のように振舞ったとしたら闘争は成立し得ない。挑戦に応 対し明確に応ずる場合、はじめて当事者は相手への加害意図を達成することができる。 ω応戦の事実。闘争は社会的行為の一つであってその本質からして一方的に成立することはできない。相手方が挑戦に れば、人間の闘争は極端な例外を除き、動物間の生死を賭けた苛借ない自然的闘争と異り、社会の本質的結合を排除する ︵55︶、 ものでなく、この意味で社会的闘争である。フィーアカントはつぎの二点からこの本質的結合を確認している。 ω。ゴβ。h島。ゲ①囚帥ヨ嘗︶において一種の本質的結合 ︵≦①ω①昌ゲ僧津Φ<醇びq昌畠①ロゲ①δがみられることを論じている。これによ いので社会闘争は起り得ないのである。フィーアカント ︵﹀一hNOユ ノN一ΦH犀㊤P自叶︶はこの点を強調し、社会的闘争︵σqoωo一一・ (673) 207 社会関係としての闘争 害の闘争︵国o口ぬ涛↓︶である、と言ってもよい。こうしてクラウゼヴィッツによれば、戦争に最も接近する技術とは政治 と貿易である、貿易は人類の利害と活動の函o昌臣葬であり政治は一種の大規模な貿易とみなすことができる、戦争の特 微はもともと政治のなかに存在しているのである。また国際政治学的観点から論じられる現在の危機戦略理論では、国際 ︵56︶ 的危機を政治的駈引き︵げ碧αq鉱巳昌αq︶の過程とみる見解が有力となっている。そしてこの分野にはゲーム理論も影響を及 ぼし、﹁殆どの闘争状況は本質的にバーゲニングの状況である﹂というT・C・シェーリングの研究が大きく評価されて いる。ドイッチュ︵ζOH什O昌 一︶⑦β↓ωOず︶は、バーゲニングが行われるためには当事者双方の間につぎのような相互認知が ︵57︶ 必要である、と説く。 ω 一つの協定が得られる可能性 ② 協定が得られる場合、事態は改善されるか、少くとも悪化しない、という見込み 国 協定内容は一つだけとは限らない ゆ どんな協定内容が好ましいかについて双方の立場が対立していること これらの前提は、価格をめぐる買手対売手の掛合いから、労働組合と経営者の団体交渉、対向し合うドライ。バーたちの駈 ︵58︶ 引き、軍縮交渉に至る、広範囲のバーゲニングに適用される。 これらのバーゲニングはもともと敵対する両当事者が相手の意志を押えてできる限り自分に有利な協定を作ろうとする 相互行為であるから、ここでは結合協力する者同志の間にみられるような十分に行届いたコ、ミュニケーショソを期待する ことは無理である。即ち一方の言質や公約︵OOヨヨ一件H口Oづけ︶の真意が相手方に明瞭に伝わるとは限らず、表面されたコミ 208 (674) 社会関係としての闘争 ットメントを裏付ける証拠の一部だけが直接に伝えられ、他は不確実な情報や行動によって示されたりする。こうして場 合によっては双方のコミットメントが同時に衝突することによって相互的侵害行動が再発・激化する惧れが生じ、このた め当事者はコ・、ットメソトの表明を控えてしまうことにもなりかねない。われわれの記憶にある例としては、日本政府が ポツダム宣言を受諾するまでの十九日間︵七月二七日から八月一四日まで︶、天皇をはじめ政府・軍当局者の多くが一方で はさまざまの試行錯誤を繰返し、他方では声明や行動を採択するのにいかに苦心を払・たか・ということであろ犠また 第二次大戦後の幾多の国際危機で戦争が回避された場合でも、コミュニケーションが不完全となり、コミットメン士や脅 迫がしばしば間接的に、時として象徴的に表明されている。例えば、空輪、船団護衛、海上哨戒、臨検など、軍事力に裏 付けられた措置が厳しい制限と細心の注意の下に小出しに実行され、当事国政府は、このような実力行使に象徴される相 ︵60︶ 手側の意図を読み取ることによって、互に戦争の危機を回避したのである。 全面的職滅戦争でない限り、軍事行動や準軍事行動はコミットメントの間接的表明という機能を持つ。これに比べると 国内的な社会闘争や学園紛争などでは時として非合理的な暴力沙汰が発生し、これは少くとも一方からする主観的憎悪の 発散であり、もっぽら攻撃衝動によって生ずることが多いように思われる。しかし、あらゆる暴力をすべて憎悪の発散、 緊張の解消という病理的逸脱行動のカテゴリーに入れることは、社会学的説明としては適切でない。暴動、打壊し、校内 暴力などが具体的現実的要求を伴っている例はかなり見られるし、かかる要求とは、新しく形成された集団からの発言機 会の保証であることが多いのである。当局側がこの要求に有効な対応をなし得ない場合にその集団は暴力行為に訴えよう とするが、この場合の暴力は、特定目的達成のため選択された一手段という側面を多く具えていて、これを単に攻撃衝動 (675) 209 社会関係としての闘争 や憎悪の発散として説明するのは正しくないと思われる。コーザーはイングランドのラッダイト運動とロスアンゼルスの ㎜ 黒人暴動︵一九六五年八月一日︶の例を挙げて、暴力沙汰は無意味非合理の行為であるよりも、発言チャソネルが閉され O。Qo巨ヨ鼻o㌘鼻︵戸。。ソ60.お♪客゜卜。q∼﹄9前出邦訳、一八−一九ページ。 ている・とによる変則的コミ・ニケ←・ンである・と論じてい躯 ( ( ( ( ( ( ) ) ) ) ) ) ) ) ︵62︶ 闘争が始めからもっぱら攻撃衝動や闘争本能によってひき起され、相手の絶滅に至るまで貫徹される事例は減多に見られ しているのは、その闘争が完全な相互否定のために戦われているのでないことを表わしている。人間にせよ動物にせよ、 平和裡のバーゲニングから激しい暴力行使に至る多種多様な社会闘争において当事者間に相互認知や意味の対応が成立 五、闘争の限界と終結 い・︾60ω。び9ミ§ミミリ§鴨ミ⑦ミ魯。、恥。職ミO§ミ3↓冨甲。①牢㊦・ωLO①メ薯.8∼H8° 近藤三千男、前出︵57︶第二部、第一章∼第三章。 ﹃終戦史録﹄外務省編、新聞月鑑社、昭和二七年、第三六篇−第五四篇。 峯U①暮.■。ダ↓譜肉翁ミミ馬§ミO§幡帖鼻団巴Φq巳く①邑受牢①゜。。・弘Oお℃℃°卜。H9 近藤三千男﹃危機戦略﹄原書房、昭和五三年、二一ー二四ページ。 Ω碧。・①≦一貫o℃°。津︵降αソOo°悼Oρ前出邦訳、一八九ページ。 ︾°≦臼冨巳ρO禽乳㌃o隷亀喬切貯ミ魯ωε詳σQ醇計Hり吋⑳ωQQ°ωミ∼ωO釣 6160 ない。社会闘争の場合、戦う当事者は自分の意図を実現するためまつ相手の抵抗を排除して彼を屈服させなければならな (676) 59 58 57 56 55 54 ( ( 社会関係としての闘争 い。ここに﹁敵の屈服﹂という直接の闘争目的が確認される。しかるに敵の屈服とは本来の闘争目的を実現するための前 提であるにすぎず、たとえ多大の犠牲を払って敵の抵抗を打破っても本来の目的が達成されなければ、このような闘争は 無益なものとなってしまう。戦争を含む社会闘争の目的はこういう二重性を具えているのであって、このことから闘争そ のものが二重性を帯びざるを得なくなってくるのである。 例えばクラウゼヴィッツは、目的の二重性という観点から戦争を複眼的に概念分析することによって相矛盾する二つの 命題を定立し、両者間の二律背反的関係において戦争の本質を把握しようとする。まつ戦争は要素としての二者間の決闘 ︵N≦①涛pヨ風︶が拡大したものに他ならず、﹁戦争とは敵を屈服せしめて自分の意志を実現せんがために用いられる暴力 行為である﹂と規定される。暴力︵OΦ堵巴件︶は手段であって敵に我方の意志を強制することが目的であるが、この目的に ︵63︶ 確実に到達するためには暴力を行使して敵を打倒しその抵抗力を喪失させなければならぬ。このように戦争を戦闘の側面 から分析すれば、戦争における暴力の行使には概念上の限界が認められず、戦争の本質は暴力が無限界的に行使される一 ︵64︶ 種の絶対的なものとなる。 ところで戦争する双方が擬制的主体でなく具体的な国家や政府である以上、戦争は絶対戦争の理念に合致するよりも、 双方の当事者が彼我の設備・状況・実力などに基づいて相手のとるべき行動を察知し自分がとるべき行動を決定するとい う、現実的な相互行為となってくる。このように戦争を現実の側面から全体的に分析すれば、戦争本来の動機たる政治目 的に対応して、軍事行動の目標とこれに要する物的・精神的暴力の行使には一定の限度が与えられていることが認められ る。暴力の無限界的行使という純概念を離れて社会的利害関係から現実的に考察するならば、戦争は常に真面目な目的に (677) 211 社会関係としての闘争 対する真面目な手段であり、一つの政治的行為である。こうして政治は全軍事行動に絶えず影響を及ぼしている。この観 点から﹁戦争は他の手段を伴う政治の継続であり実行であるに外ならな瞳という命題が立てられる・ クラウゼヴィッツによる第一の命題は軍事目的と軍軍行動の概念を純化させた絶対戦争乃至熾滅戦争を定義し、第二の 命題は政治目的から理知的に指導される手段としての戦争を定義している。ジンメルも闘争目的二重化の原理に基づいて ﹁手段としての闘争﹂と﹁目的それ自体としての闘争﹂とを区別している。もともと闘争とは、闘争そのものとは別の特 定目的があって、これを達成する手段として選択される相互行為である。従って敵を打倒屈服することは目的達成のため の手段なのであって始めから目的そのものとなっているのではない。賃金改定や労働条件改善などの要求をめぐって行わ れる労使闘争の多くはかかる﹁手段としての闘争﹂の適例であろう。こういう闘争は産業社会の経済体制及び政治体制内 における労使間の利害対立と敵対的立場に基づいて起るものであるから、彼らは、彼我の勢力関係や世論の動向などを勘 案してそうすることが適切であると判断した場合、争議行為を中止することもあるだろう。﹁闘争はそれ自身の外にある 一つの目的をめぐって行われるのであるから、あらゆる目的は一つ以上の手段によって達成できるという事実がこの闘争 を原則的に条件づけているのである。闘争︵国㊤ヨ風︶がく何ものかに至る目的酔臼巨ロ話践ρ器日Vによって規定され た単なる手段にすぎない場合、同じ成功を約束する他の手段がこれに代り得るなら、闘争を制限したり回避してならない という理由はどこにもない﹂。社会闘争の場合双方の主体は集団であるから、指導者層はこの闘争本来の目的を見失うこ ︵66︶ となく一般成員の闘争行動を指導し自分に有利な収拾の機会を窺うのが普通であり、戦闘に敗北して目的達成の見込みが 失われたときは、やむを得ず抗戦を断念すべく決断することもあるだろう。 212 (678) 社会関係としての闘争 しかし現実の社会闘争がすべてこういう型通りに終束するとは限らない。一方の当事者は、本来の目的を達成するため に、とにかく相手の抵抗を打破って彼を屈服させなければならぬ。闘争行為を直接遂行する一般成員にとってはまつ戦に 勝つこと即ち敵を打倒することが闘争目的であり、勝つためには敵よりも真剣かつ巧妙に全精力を集中して闘争行為を遂 行しなければならぬ。ここに闘争本来の目的に代って勝利という派生目的が現われるが、戦闘員の役割を担う一般成員は 脇目もふらずこの派生目的に慕進することを要求される。戦闘員はあらゆる瞬間に自分の気力を充実させ敵に立向わねば ならない。客観的利害対立から闘争が惹起し、当事者双方の間にもともと何の憎悪も敵意も無かったとしても、戦闘を遂 行する人々の間には敵に対する人格的憎悪と憤激が不可避的に生じて来るし、またこれを心に抱くことすら要求されるで あろう。﹁なぜならば、この感情が闘争の精神力を育成し高揚させるからである。結ばれていて仲良くやって行かねば ︵67︶ ならない人を愛するのが好都合であるように、何らかの理由で戦っている人を憎むことは好都合なのである。﹂社会的行 為は、たとえ外的目的に合理的に志向している場合でもそれが人間の行動である以上、内的主観的な動機を伴っている。 闘争という状況下に置かれ戦闘に直接従事せねばならない人々は、みつからの行動に内的に適応した感情を強化すること によって心理的葛藤を解消させることが多い。かくして彼らにとって闘争の目的とは敵に勝っということだけになり、こ れがもともと派生的なものであるという原則は余計なこととなってしまう。指導者層が闘争行為の制限や中止を意図して も、熾烈な敵慨心と憎悪に燃える︸般成員に対して自分の統制力を振えないような事態になれば、闘争の合理的終結は不 可能となり、闘争は社会関係の一つであることを止め、全くの相互否定かゲリラ戦に似たものに転化する。ジソメルのい う﹁目的それ自体としての闘争﹂とはこういう事態を指すと思われる。﹁闘争がもっぱら主観的なくそれ自体としての目 (679) 213 社会関係としての闘争 的↓興ヨぎ信ω⇔ρ口o>によって規定されている場合、即ちただ戦闘そのものによってのみ満足させることのできる内的エ ネルギーが存在する場合、このときは闘争を他のものによって置換えることは不可能である。というのは闘争がそれ自身 ︵68︶ の目的と内容であり、したがって他の関係形式との混合とは完全に無縁だからである。﹂ コーザーは闘争二類型の区別にかんするジンメルの所説をつぎのように一般化しようと試みる。﹁手段としての闘争﹂ とは、人々の相互関係内において特定の要求が阻害されていることから、また関与者が或る利益を見積ることから生じる 闘争であり、これは相手が妨害していると推定される対象に向けられている。この意味でこの種の闘争は現実主義的 ︵お巴δ臨o︶であって、ここでは手段にかんする機能的択一︵評昌。臨8巴巴8導讐一く窃霧8日留霧︶が存在する。これに 対し﹁目的それ自体としての闘争﹂とは、彼らのうち少くとも一方からする緊張発散への欲求によって惹き起された闘争 であり、ここでは攻撃性が現実目的と直接結び付いていないため、それは現実主義的闘争の場合に比べ一層たやすく別の 捌けロへ導かれる。つまり当初の目的達成が不可能とわかっても攻撃性は別の仕方で表明されるだろう。この種の非現実 主義的︵]口O]口o同①ゆ一一〇〇↓凶O︶な闘争にあっては、対象にかんする機能的択一 ︵h琶。まロ巴螢ぽヨ⇔↓一く①ω器δoぼΦ葺ω︶がある だけである。 ︵69︶ 社会闘争を考察するとき闘争類型の区別は基本的に重要である。闘争というものを秩序・安定の反対、逸脱、緊張など の一種の病理学的概念に置換えようとする見解や、闘争を頭から罪悪視する観念的平和主義は、闘争類型の区別に無頓着 であるようだ。社会闘争が闘争のための闘争という第二の種類でしかないのならば、戦う双方の問に社会化の契機も和 解や協力の可能性も全く期待できず、そこにはテロや暗殺、はては職滅のような極限状態が現われる惧れすら生じるだろ 214 (680) 社会関係としての闘争 う。確かにこういう闘争は社会関係そのものの否定であり一種の病理現象であって、人間にとって起らないに越したこと はない。治安当局や管理当局は当面の措置として闘争行為そのものを制圧せねばならず、長期的対策としては、欲求不満 や価値剥奪︵山.喝村一く、臨。昌︶ の根源を除くことや、攻撃衝動を別の回路に導いて発散させることを工夫せねばならぬだろ う。 しかし多くの場合、社会闘争には手段としての闘争という第一の類型が有力なのであって、これらの闘争を第二の類型 の観点から取扱っても殆ど成果は期待できないだろう。賃金引上げや労働条件改善をめぐって労働者が使用者に対しスト ライキなどの争議行為に訴、兄る場合、欲求阻害や緊張発散の観点だけからこの闘争状況を説明しようとするのは間違って いる。この闘争は、闘争そのものとは別の現実目的を達成するための手段として遂行されるものだからである。また国際 紛争や戦争についていえば、第二類型の闘争にかんする知識は、せいぜい周囲の情勢、国民感情、指導者の心理状態を解 明するにとどまるだろう。国際的敵対関係はもともと権力や利害に客観的に裏付けられた現実主義的なものであって、国 民的敵意や憎悪は戦争の原因であるよりも、むしろ闘争が昂進した後に強められるものであり、戦争の結果であることの 方が多いようである。以上と比べ、かつての大学紛争や最近話題にのぼる校内暴力などには、臣的をか断伽どレで㊨闘争 の要因の方が強いように考えられる。例えば学生側の組織がストライキや封鎖を呼びかけた際の要求やスローガンは、手 段的.現実的であるというよりは表出的.象微的なものであったし、学校当局や教授会がその理論的根拠の弱さや要求方 法の不備を指摘したり、或はこれらの要求に対応して現実主義的なバーゲニングを試みても、殆ど無駄であった。大学紛 争を鎮静の方向へ向わせた有力な要因は、直接には警察力の導入による実力行使と、根本的には、学生大衆をして闘争行 (681) 215 社会関係としての闘争 動に同調せしめた一般的不満に大学側が気付いて教学体制の改善に着手したことである、と考えられる。 ︵62︶ マックニール︵国一δコ切゜ζ。Z①臨︶﹁攻撃の本質﹂、﹃紛争の科学﹄ マックニール編、千葉正士編訳、創元新社、昭和四五年、 ︵63︶ Ω帥ロω①芝冨”o℃°o律︵直㎝︶噂ω゜Hり封前出邦訳、二八ページ。 第二章。 ︵65︶ 一げ一辞6∩° 卜 。 H ρ 前 出 邦 訳 、 五 八 ペ ー ジ 。 ︵64︶ 皆旦ωQo°Hりb⊇∼日㊤9前出邦訳、二八ー三五ページ。 ︵66︶ O・Gり一日ヨΦroO・。障︵H。。yω゜Hりα゜サ吋メ前出邦訳、二一ページ。 ︵67︶ ひ己”Qo°HOPやQQ♪邦訳、三〇ページ。 ︵69︶ ピ・﹀・Oo。・・炉079け︵心G。ソ冒℃°お∼切ρ前出邦訳、五五−五七ページ。 ︵68︶ま達︾ω゜HOμO°吋○。”邦訳、二一ページ。 闘争二類型の区別は実際の社会闘争をいつれか一方のカテゴリーに機械的にふり分けることではない。現実にはどの闘 争にも二つの傾向が複雑に絡み合っている。例えば労使間の闘争は本来第一類型︵手段としての闘争︶に属しているが、 労使関係の実態如何によっては第二類型︵目的それ自体としての闘争︶の傾向を強めるだろう。中山伊知郎が階級闘争型 と呼ぶ労使関係はフラソスに多くみられるもので、組合側は使用者側を労働階級の敵と考え、これに対応して使用者側も 組合をはじめから敵性を持つ反抗機関とみなす傾向が強い。ここで賃金引上げを目的とする現実主義的闘争が始まって も、この闘争は徹頭徹尾相手を力つくで屈服しようとする全面的闘争に発展することが多い、といわれる。尾高邦雄は労 ︵76︶ 使関係の型を識別するため、①癒着的→←対立的 ②独裁的→←民主的 ③破壊的→←建設的 ④実力行使的→←問題解 決的、という座標軸を設定しこれに準拠して、近代的な意味での安定した労使関係とは、﹁労使双方が元来対立的なもの 216 (682) 社会関係としての闘争 であることを十分自覚しながら、しかも対等の立場に立って相互に理解し批判し主張し要求し合うとともに、闘争遂行と 実力行使の用意をもちながら、しかも破局的な闘争におちいることなく、労使双方が協力して法定のルールに従いつつ、 共通の問題点の解決に全力を尽くすような労使関係である﹂と規定している。この規定は、安定的労使関係が労使闘争を 排除するものでなく、そこでは労使闘争が第一類型に限定されることによってかえって敵対者双方に或る種の相互認知を ︵71︶ 与え、対立状態で抱かれていた疑惑や不信を解消させて新たな協力を用意さぜる機能を持つ、ということを述べている。 労使闘争の現実が常にこのような類型の枠内にとどまる保証はなく、労使協力を全面的に否定する﹁闘争のための闘争﹂ に転化する可能性がかなり大きいのであって、尾高邦雄はこのような状態をとくに労使紛争と呼び、日本の労使闘争がこ ︵72︶ うなり易い有力な要因の一つとして、企業一家的雇用関係に密着する労使幹部間の馴れ合い傾向を指摘している。コーザ ーが論ずるように、社会関係において闘争が存在しないということはその関係が安定していることの指標ではなく、ここ で敵対する当事者は闘争を限定することに習熟していないため、ひとたび闘争が始まるとそれは拡散して泥沼の様相を呈 することの方が多いのである。 ︵73︶ たとえ特定の現実目的のための手段としてであれ、闘争が一旦始まった以上、それは当初見込まれた限界を越えて果て しない戦いに発展し、一つの社会関係として持続することを止め全面的な相互否定という極限状態に近づく可能性を内蔵 している。およそ闘争や戦争はすまじきものであるという平和主義者の主張は、この危険性を特に強く訴えているのであ ろう。﹁兵者國之大事。死生之地。存亡之道。不レ可レ不察也。﹂︵計篇第一︶という孫子冒頭の言葉もこの危険性を警告し たものである、と私は考える。闘争が無限界的なものに移行する公算はつぎの場合に特に大きいと思われる。 (683) 217 社会関係としての闘争 1 双方かいつれか一方の闘争目的が自集団の団結維持・強化である場合。 豆 双方または一方の主体における動機づけが高度に信条化されている場合。 1の 場 合 外集団との闘争が自集団の結束や団結を強化する機能を持つことはサムナーやジンメルが論じた所であるが、或る状況 下の集団は、みつからの凝集性を維持・強化する方法として、進んで他集団を敵視し闘争を挑発することがある。ジンメ ルは、とくに少数派集団がこの状況におち入り易いことを述べている。少数派は、多数派に対して﹁抗議する﹂ことを本 質的争点として、結成されることが多いので、仮に多数派が大幅に譲歩したとすれば、少数派は自身の内的統一のエネル ギーを失うことにもなりかねない。﹁迫害のなかにあって闘争している集団、とくに少数派は、他派からの接近や寛容を 拒絶することが多い。なぜなら、それなしには彼らが戦い続けることのできない所の対抗の封鎖性がこれの受入れによ って曖昧になってしまうからである。﹂多数派は必ずしもこういう断乎たる態度を固執する必要を持たないだろう。動揺 ︵74︶ する条件付きの構成員は多数派にとってそれほど危険ではない。なぜならこういう周辺的な動揺は大勢を動かすには至ら ないからである。しかし集団の規模が小さく周辺と中心とがごく接近している場合では、構成員の一部が少しでも動揺す ればそれは中心部を脅かし全体の団結を乱してしまう。﹁他派からの譲歩は結局は部分的にすぎないものであるから、そ れは成員の一体化した抵抗を崩し、団結の統一性を脅かすものである。戦う少数派は妥協を一切排除して自分の統一を固 執しなければならない。﹂信仰の純粋性と信条の厳格性を身上とする少数派教団︵例えば不受不施派のような︶が為政者 ︵75︶ からの懐柔や歓待を頑なに斥けたり、徹底的革命闘争を掲げる急進派が与党や体制側からのどんな妥協にも応じようとし 218 (684) 社会関係としての闘争 ︵76︶ ない理由は、信念や良心そのものであるよりも、例えばコーザーが﹁敵の探索﹂と呼ぶ、一つの政治的知恵であるといえ よう。 ∬の場合 個人的利害関心を超越した信条や大義のための闘争が、直接個人的利害に基づく闘争よりも一層激しい容赦ないものに なることが多い、とジンメルは論じている。自分はただ自分個人などは問題にならない悠久の大義のために戦っているの だと当事者が確信しているとすれば、彼は自分に対して何の考慮も払わないのでこの理念の大義のためには相手に対して も何の勘酌も要らないと考えるだろう。日常生活では平和主義者であり没我的・理想主義的な心情の人は、自分をも顧み ない大義のためには、これに反するような他人をすべて屠るのに十分な正当性があると信じ、人格の一切の力を投入して 戦う。そのため闘争は高貴でしかも無慈悲という誠に奇妙なものとなる。﹁全人格の力を以って戦われ、勝利が大義だけ のためであるような闘争は高貴な性格を持つ。ひとたび闘争が客観化されると、当然の帰結として、それはもはや制限さ れることはできなくなる。なぜならこの制限は客観的大義の冒漬となるからである。当事者双方がただ立場とその正当性 だけを擁護しすべての個人的・利己的なものを放棄するという彼らの同意にもとついて、闘争はもはや主観的要因によっ ︵77︶ て激化されることも緩和されることもなく、ただ自分の内在的論理に従って最後まで鋭く戦い抜かれるだろう。﹂一九世紀 以降とくに二〇世紀に入ってから、労使闘争と社会主義運動、さらに戦争もこういう傾向を帯びて来た。即ち、これらの 社会闘争は、個々の資本家や経営者に対する個人的憎悪や特定の具体的・現実的要求だけのためにでなく、全般的な信条 体系や価値体系を擁護したり強要したりするために戦われることが多くなったのである。こういう信条や大義は例えば (685) 219 社会関係としての闘争 ﹁真理の探究﹂という途方もない目標にまで高まる可能性も含んでいる。﹁ここでは、あらゆる譲歩や、敵への無慈悲な 攻撃を礼儀正しく断念すること、完全な決定的勝利に先立って講和を締結することは、いつれもまさにそのために、戦い ︵87︶ から個人的性格が除かれた所の大義への裏切りとなるだろう。﹂ 以上に述べた二つの場合のうち第二のものは、闘争指導︵戦争指導を含む︶にとって特に重要視さるべきである。第二 の傾向こそ、民主主義、ナショナリズム、さらに共産主義の理念化と盾の両面をなすものだからである。フランス革命が 生んだ一七九三年の徴兵制は、軍事上の要請に応えたものであるが、万民平等の理念に心酔していた国民公会︵Oo昌く①ロ・ ︵79︶ ぎづ︶がこれに熱狂して賛成したことは銘記さるべきであろう。革命戦争とナポレオソ戦争では、絶対王制下の職業的傭 兵に代り、民主主義とナショナリズムの精神を内的に信条化した国民軍が、苛借ない生か死かの戦闘を遂行することとな った。民衆指導者は、人間に具わる憎悪心をイデオロギーにまで高揚させるため、大衆に対する精神的動員を徹底させた。 ︵︸七九二年におけるラ・マルセイエーズ、チュイルリー襲撃、九月虐殺などの出来事は、この端初となった瞠目すべき 象徴であろう。︶ウィーソ体制による束の間の平和の後、戦争は歩一歩と無制限化の一途を辿り、遂に第二次世界大戦に みられるように、全国民を巻き込む総力戦にまでエスカレートし、無皐の民の大量殺鐵が戦略目的と解される位になって しまった。フラー︵冒ゴロ孚巴巴゜犀O匿ユ゜ω閃色①H︶はこの恐るべき無制限戦争の濫膓をフラソス革命の狂熱に求め、 次のように述べる。﹁目的は一地方の征服や領有でなく、まつもって哲学的観念の擁護や普及のため、次いで国家の独立 と統一の原則、各種の非物質的利益の擁護や普及のためであった。また兵士各個の欲望、感情、熱情など、従来顧みられ 220 (686) 社会関係としての闘争 ︵80︶ ていなかった所の力の要素をよく用いたのである。﹂ クラウゼヴィッツは戦闘の用法を条件づける諸要素のうち精神的諸力︵日o墨房鼻。OHαωω窪︶の価値を重視し、これを将 帥の才能、軍の武徳、軍における国民精神︵<o貯ωσq色ω酔︶という三つの面から綿密に論じている。軍における国民精神と は、情熱、熱狂的興奮、信仰、世論から構成されるが、この力は山岳戦において最も強く現われる。なぜなら山地におい ︵81︶ ては兵卒に至るまで一切の行動が各人の自由裁量に委ねられているからである。ここに近代戦に具わる一つの無気味な様 相、即ちゲリラ戦という形態の国民抵抗が生れ、陸上戦闘はこれ迄の点と線によって行われる艦隊戦闘に似たものから面 を加えたものに拡大し、戦争全体も正規軍同志による諸会戦の勝敗とは別に国民武装︵<o蒔。・げ①≦臨昌暮σ。︶によるゲリラ ︵82︶ 戦を伴って最後まで戦い抜かれる傾向を示すに至った。マルクス、エンゲルス、レーニソが開拓した革命戦略には、クラ ウゼヴィッツの戦争論に啓発された点が多い。ここでは革命とは戦争と同様に本質的には政治現象であり、持続する闘争 関係として把握され、結果に対する充分な準備を整えたうえでの、政治行動における暴力の無限界的発揮こそ、革命を成 ︵84︶ 功させる必須条件である、と説かれている。そしてプロレタリア軍事科学に準拠して世界革命を志向する現代の革命戦略 は、国内だけでなく他国の民衆とも連帯して、イデオロギーに支えられた全面的ゲリラ闘争を戦い抜こうという、きわめ ︵85︶ て攻撃的な特微を示している。クラウゼヴィッツによる絶対的戦争と現実的戦争という二律背反的で柔軟な概念は、誠に ︵86︶ 警くべき思考によって有機的に統合されてしまったといえよう。 ︵70︶ 尾高邦雄﹃産業社会学講義﹄岩波書店、昭和五六年、四五〇ー四五一ページ。 ︵71︶ 同右、四六一ー四六四ページ。 (687) 221 社会関係としての闘争 ︵73︶ 炉﹀’Oo。・Φが8°。津︵幽。。ソ℃℃°。。H∼。。ρ前出邦訳、一〇四−一〇九ページ。 ︵72︶ 同右、四六五ページ、四五八−四五九ページ。 ︵47︶︵符︶ ︵轡Oo一ヨヨ①一”o℃°o淳 ︵HQQソ OQ°bΩω◎Q㌧ ℃°リメ 茜則出邦訳、 一 一ニーー一一二。へージ。 ︵76︶ い願﹀°Ooi■o♪o℃°o津︵心。。︶MΨHO♪前出邦訳、一四〇ページ。 ︵77︶︵78︶ O°ωぎ日Φr8°9︵同。。ソω゜卜。O。。噂b°ωρ前出邦訳、三七ページ。 ︵79︶,﹀°護σQ器計ミ設。遷ミき鳴、、§忠肉§ミミご§08﹁σq⑦切巴やω。昌゜・弘゜。09署﹄卜⊃蔭∼89 マチエ﹃フランス大革命﹄ねづまさし、市原豊太訳、岩波文庫昭和三四年、五五−七〇ページ。 ︵81︶ O一帥ロm①≦詳辞o℃°o搾︵ら切︶”ωω゜GQα①∼QQ①9 払剛出邦訳、 一一七一−一一八一一ページ。 ︵80︶ フラー﹃制限戦争指導論﹄中村好寿訳、原書房、昭和五〇年、三八ページ。 ︵82︶ 一露9Q。ω゜心這∼島ω゜前出邦訳、三三九⊥二四〇ページ。 ︵83︶ 一窪9ωQo.刈Oり∼。。09前出岩波文庫︵下︶六六−七六ページ。 ︵84︶ シグモンド・ノイマン﹁社会革命の軍事的概念﹂、﹃新戦略の創始者︵上︶﹄エドワード・ミード・アール編著、山田積昭、 石塚 栄、伊藤博邦共訳、原書房、昭稲五四年、一四六i一六ニページ。 ︵85︶ 浅野祐吾﹃軍事思想史入門﹄原書房、昭和五五年、一四一−一四ニページ。 ︵86︶ レイモン・アロン︵勾農。矯ヨo巴︾8口︶﹃戦争を考える﹄佐藤毅夫・中村雄訳、政治広報センター、昭和五三年、第五章。 現代の世界は、核戦争の可能性に脅かされる一方、他方では、﹁核の手詰り﹂の間隙を衝くゲリラ戦という、昔の宗教 戦争にみられた無限界的絶対闘争の悪夢にうなされている。およそ闘争がかかる繊滅的絶対闘争として終るなら、それは 何の意味を持たないどころか人間存在そのものの否定となってしまう。とくに第二次世界大戦は絶対戦争の性質をかなり ︵87︶ 大きく帯び、国民武装によるゲリラ戦も無思慮に奨励されたため、戦後に遺した間接的な道徳的悪影響は甚大であり、旧 交戦諸国は誤まった戦争指導による深刻な後遺症に悩んだと思われる。社会闘争が特定の現実目的のための一手段として 222 (688) 社会関係としての闘争 戦われる以上、闘争の限定と収拾は指導者にとってきわめて重大な問題である。 指導者にとって、闘争の収拾は闘争の開始よりも遙かに困難な仕事であり、これには、無私の大局観、高度の識見、強 靱な意志、断乎たる指導力を要するのである。ジンメルは、闘争終結︵ω霞①ま①①口凸σq§σq︶が闘争︵国。ヨ嘗︶の範疇にも 平和︵閏臨巴①口︶の籐にも属さない特別の屡的な仕事である・と述べてい粥絶対闘争以外のすべての闘争について みれぽ、その終結は一つの相互的な活動によって成功するものであり、闘争の終結とは勝者の意志を一方的に敗者に押付 けることだ、と理解するのは正しくない。勝者と敗者の双方は共に闘争終結のために重要な貢献をしているのであって、戦 いを推進するものは勝者であっても和を結ぶものは敗者である。敗者が降伏しない限り戦いは終らない。降伏を宣するこ とによって敗者は自己の意志に基づき主体としての最後の力を示すことができる。ジンメルが云うように、敗者は降伏す ︵89︶ ることによって勝者に何かを贈ったことになる。言葉を裏返せば勝利とは敗者の降伏のことであろう。この見地からみる とき、闘争終結のため和約を取決めるためには勝者の方も常に敗者の側に立って考えることが必要である。コーザーは日 露戦争と米西戦争における講和成立の例を引いて、闘争収拾の成功度は当事者双方の闘争目的と密接に関連している、と 論じている。事実上の勝者が相手側から要求する犠牲が小さけれぽ小さい程、また彼の闘争目的が限定されていればいる 程、事実上の敗者が戦いを諦める公算は大きくなるに違いない。勝者からの要求が彼にとって絶対に忍び得ない程に途方 ︵90︶ もないものでなければ、敗者は闘争の継続よりも和平を選択する決断に導かれるだろう。絶対戦争に終る惧れが強かった 太平洋戦争も最終局面では辛うじて僅かながら有条件降伏の形が残された。一九四五年八月一〇日、日本政府は連合国に 対し天皇の統治大権留保の条件付でポッダム宣言受諾を中入れたが、バーソズ国務長官が起草した回答文は敗者︵日本︶ (689) 223 社会関係としての闘争 の立場も理解した巧みな︵5P四ω仲①同hq﹁︶文書だったといわれる。 ︵91︶ しかしながら勝者が闘争の早期終結を望んだとしても降伏の決断は敗者がするものである。しからば敗者は自分が本当 に負けたことをいかにして認めるのであろうか。一九四五年五月三十一日と八月九日の閣議における阿南陸相対米内海相 ︵92︶ の激論や八月十三日夜における陸海両総長対東郷外相の押問答が象徴するように、客観的状況だけでなくその状況に対す る判断が決定的に重要である。状況判断によって当事者ははじめて敗北を認めるからである。しかも客観情勢の緊急度と 降伏によって払うべき犠牲の価値とについての判断は、人によって異なり、いつでも合理的計算のみに依存するとは限ら ない。指導者が敗北を認めても一部の一般成員はこの認定を大義への裏切りだとみなすかもしれない。指導者は、敗北と いう状況判断を一般成員に認めさせるため、彼らに闘争開始を訴えたのとは比べ者にならない大きな努力を払わなければ ならぬだろう。即ち、敗北の承認が指導層や支配層だけの特殊利益でなく体制全体の立場からみて正当であり得であるこ とを一般成員に納得させるのに成功しなければならぬ。指導者が揃って劣等であるような事態は別として、指導者は一般 成員よりも大局的判断に勝れているし、一層広い情報を得ているので、事態の成行きや利害損得をヨリ合理的に判断する ことができるだろう。一般成員が未だ認識するに至らない敗北を指導者が予見したとき、指導者はこの敗北を一般成員に 認識させることに闘争指導の方向を定めなければならない。敗北の承認が一般成員に与える衝撃を和げるため、例えば太 平洋戦争末期に日本の政府指導者が試みたように、﹁国体護持﹂のような一種の象徴体系を操作することによって一般成 員の状況判断を指導する必要も生じるだろう。コーザーが云うように、このことは労使闘争にも当てはまる。例えばスト ライキの場合、指導者は好機を捉えていかにストライキを終らせるかについての状況判断をせねばならないが、もし彼が 224 (690) 社会関係としての闘争 自分の状況判断を組合員に伝達する能力を持たなければ彼の状況判断は殆ど役に立たないだろう。部分的勝利を喧伝して 組合員の目を部分的敗北から外らす方策が使われるが、更に進んで大局的敗北を少くとも部分的勝利だと彼らに解釈させ る努力が払われることもあるだろう。一九四五年四月七日の組閣以後鈴木貫太郎首相は、面目を保つ講和さえ得られれば ︵93︶ それが大国と戦っている小国日本の勝利であるという見解を一部の閣僚に表明し、六月九日の臨時議会での施政方針演説 ︵94︶ では﹁日米両国が戦えば共に天罰を受くべし﹂という言辞を灰めかしている。 闘争の収拾は勝敗の決着を待たねばならぬとは限らない。そして闘争がたとえば妥協で終結する場合では、いつれの側 が相対的に得点を稼いだかを判定するのが難しいことが、しばしばあるだろう。闘争目的実現の不可能を覚るか、これに 要する甚大な犠牲を欲しない理由で、戦う双方が勝利を諦めて和平の成立を望んでも、このことは、彼らが甘んじて敗北 を認めていることにはならない。かかる状況において当事者双方は妥協の機会を探るのである。ジソメルは、事物の交換 がすべて一種の妥協であると云い、妥協成立の基礎は闘争当事者双方が目的とする対象の価値を対象から客観化する所に ある、と説明する。或る対象に含まれる価値量が他の対象によっても保存される可能性が認められれば、一方が或る種の 対象を譲歩し他方が別の他の価値によって相手に補償することが起り得る。﹁交換はその特殊事例であるが、代替可能性 による妥協は、たとえ部分的にしか実現されないとしても、主体の力だけが闘争に決着をつけるより先にこの闘争を避け ︵95︶ たりこれを終らせたりする原則的な可能性を意味している。﹂価値の客観化過程が進行して数多くのギヴ・アソド・テイ クについて一つの共通尺度が承認されるようになれば、妥協は成立し易くなる。経済闘争や経済対立では双方の拮抗する 要求は貨幣という量的次元に還元されることが多い。ところが政治的、社会的価値となると、これらは金銭上の得失のう (691) 225 社会関係としての闘争 な単一の指標に客観化される.﹂とができないので、とくに政治闘争において妥協は経済闘争におけるよりも難しくなる・ 経済的価値の評価に対して貨幣が持つのと同等の客観的尺度によそ戦闘能力を算定できる交媛体を考案することは全 不可能であ・、と・ス・、ル︵国・窪Pい・⋮邑は指摘してい馨それはともかく・全面簸軽の思想を信奉しな い限り、勝敗の決着よりも妥協による闘争終結の方が一層望ましいものであることは言うまでもなかろう。闘争本来の目 的は、敵の打倒でなく集団や国家の生存を守ることに帰するからであり、これは今の敵対者がいつれは協力・共存の関係 に入ることも立目心味するからである。フラーはこの意味で、戦争は平和を目的とした制限戦争︵財目津巴ぞ母︶として指導さ 。べきであ,、婆できない約束や決定によって決して轟・れてはならず行動は常に状況に適合させられ・べきであ る、と論じている。 フラーと同じく制限的戦争指導と抑止戦略の立場をとるリデルーハートは﹃戦略論﹄︵一九五四年︶において八力条から なる戦略.戦術の経験的原則を要約したが.はじめのニカ条はそのまま社会闘争にも適用できるものであり、特に妥協に ホ よる闘争収拾を図る際の参考となるだろう。 ①目的を手段に適合させること。 闘争目的を決定するに当っては明確な見通しと冷静な計算を重視せねばならない。実効ある手段を伴わない目的を掲げ ることは、この目的を理念化または信条化することになり、大衆行動を動員するのに役立っても、組織的闘争行動を指導 するう、兄では有害無益である。﹁消化能力以上の貧食は愚であり、軍事的英智は何が可能かを第一義とする。﹂闘争当事者 が勝利という屡気楼を追うことを止めて一つの妥協を取り決める道を選ぶか否かは、当事者による正確な状況判断に懸っ 226 (692) 社会関係としての闘争 ていて、この判断は、彼らが誠実に事実、即ち戦いにおける彼我の形勢を、直視することから生じるものである。当事者 ︵99︶ 双方が共通の状況判断に達する象微的勝敗観を共有することが多いほど、彼らは妥協を交渉することができるのである。 ②常に目的を銘記すること 闘争行動の計画と組織は状況に適合したものでなければならないが、この場合指導者は常に本来の闘争目的を銘記し、 敵の打倒という闘争目標をこれと混同するようなことがあってはならない。およそ闘争が、制度化された通常の相互行為 や社会関係の枠から外れたものである以上、そこでの状況は常に極度に流動的であり、勝敗の決着だけが本来の目的を達 成するための手段であるとは限らない。刻々に変転する状況に適合して妥協の好機をつかむためには、彼が常に当初の目 的を銘記してこれを一般成員にも周知徹底させて置く必要があるだろう。指導者というものは、一般成員には許されない 地点に立って大局を展望しているので、彼がつかもうとする妥協が一般成員から裏切行為と断定されることがしばしば起 るのである。苦境に当り集団の結束を保持するため、或る種の犠牲を払ってでも、集団内の緊張を管理することが指導者 同上、第二五篇、第五三篇。 ﹃終戦史録﹄︵59︶、第四八篇。 い゜︾°Oo°。90℃°o算︵①H︶”弓゜録∼心゜ 一ぴ一9Qo°卜o心り”燭゜HH食 一一二六−一一二七ページ。 O・ω一ヨヨoro℃・。犀︵H。。ソψb。幽N娼゜目9前出一三一ページ。 リデル”ハート前出書︵7︶、四〇〇ー四〇四ページ。 ︵ao1︶ の役割である、とコーザーは説いている。 A A A A A A 9291 90 89 88 87 (693) 227 ) ) ) ) ) ) ( ( ( ( ) ) ) ) ﹃終戦史録﹄︵59︶、第二五篇、第二八篇。 財﹀・08①さo℃°。算︵①目︶矯署゜“○。∼お゜ O・Q。巨ヨ①一︾8・。蹄︵H。。ソQり゜卜。㎝ど7=◎前出一四〇ページ。 を導き出すことにある。千葉正士は紛争の正確な概念規定とその類型化を試み、紛争を﹁一定範囲の社会的主体相互間の 事者たちいつれにも何らかの利得をもたらし、当事者に失望や喪失感よりも或る種の充足感を抱かせるような、紛争解決 や労使紛争に至る、きわめて広範囲に及ぶものである。そして彼の研究が目指す所は、これらのコンフリクトの結果が当 は、いい加減に諦めて縁談に応ずるか、それともオールド・ミスを覚悟するか、といった心内の葛藤から、夫婦間の不和 と、二つ以上の、囲個人間、㈲集団間、㈲国民間という、六つの局面にわたって生ずるものであり、これらは、具体的に ている。また社会心理学者のドイッチュ︵]≦〇二〇昌一︶①信↓ω爵︶が取扱うコンフリクトは、ω個人内、②集団内、③国民内 織内膿闇にみられる対立的競争さらには少数派や非薯などによる逸脱︵血・<凶・・量・い・た華象組み込・れ が提案したコンフリクト分類表には、家庭対仕事や職業対組合のような役割葛藤︵3一甲。o島一9︶、教室内の男女間や大組 を示すことが多く、この訳語として﹁抗争﹂、﹁葛藤﹂とならんで﹁紛争﹂が次第に有力となりつつある。ダーレソドルフ 6。口臣。辞という用語は、社会闘争よりも一層広く、個人にも集団にも国際社会にもみられる人間的事象としての﹁争い﹂ 上に述べ た ﹁闘争の終結﹂は、いわゆる﹁紛争の解決﹂と同じものではない。英語文献で近年急速に普及するに至った ︵99︶︵ ㎜︶ い・︾Ooω①58.。詳︵曾ソ窓゜お∼㎝ρ リデル”ハ.ート、前出書︵7︶、三六七ページ。 フラー、前出書︵80︶、四ページ。 戸o・ぴ⇔・n・な薯①F.、o。ξ・§冨..”言穿§§ミ貯ミ恥象賊ミ浄§§ち山゜ξ゜。①冨σq欝p<°FヨHり撃 ( ( ) ) ︵201︶ 228 (694) 96 95 94 93 9897 社会関係としての闘争 均衡関係の喪失状態﹂と規定し、紛争の三形態として、対争、競争、混争という用語を提示した。そしてこれまでの紛争 するものでなく、むしろ盾の両面をなすものであ・て・古い表現による動聾簿に近いのではなかろう構ダーレソド 平和のための諸条件が生れて来るのである。紛争の反対は秩序であるが、この両者は、闘争と平和のように連続的に交替 ︵401︶ ° ° ° ° 係のなかにこそ将来の闘争のための諸条件が作り出され、また闘争が限定されている限り、どんな闘争のなかにも将来の 両者は現実には重り合って連続しながらも、顕在的敵対行動の有無によって一線を画されている。即ち、平和時の協力関 へ ロ も 社会関係としてみるなら闘争は紛争と等置できない特質を具えている。闘争の反対は平和であり、ジソメルによれば、 化した無原則の紛争かゲリラ戦に移行する虞れが多くなるだろう。人間行動としてみるなら闘争は紛争の一局面であって ることにはならない。それでも闘争の終結が得られなければ、闘争は当事者いつれか一方の蛾滅に終るか、長期化・複雑 紛争の解決ではないし、また、中労委の調停や仲裁で労働争議が終結したからといって、これで労使紛争がすべて解決す とではない。例えば朝鮮戦争や中東戦争にみられるように、軍事的手詰りによる妥協は戦争の終結であっても当事国間の 移行するか、或はもっと好転して新しい協力関係に転換することをいう。しかしこれは必ずしも紛争の解決を保証するこ 加害の顕在的行動が中止されることによって、これまでの闘争関係が対立関係や競争関係を軸とする穏やかな紛争蜘態に きないので﹁闘争﹂という言葉を用いた。闘争の終結とは、闘争関係が終結することであって、敵対的な相互妨害・相互 本論文が扱ったものは、顕在化した敵対行動を伴う二元対立的社会関係としての闘争であり、上述の﹁紛争﹂と同視で 造を論じている。 ︵50ー︶ 解決︵8艮一凶9器。。o﹁三δ昌︶とは別に紛争処理︵8三一一9ヨ四冨σq①日Φ導︶の必要性を強調し、この観点から紛争の基本構 (695) 229 ルフ、ホロヴィッツ、レックスはそれぞれ、社会体系にかんする統合モデルと均衡モデルに強い不満を表わし、コンフリ クトを秩序の枠の外側に置いてこれを社会均衡の破壊とみなしコンセンサスを無雑作に社会均衡や秩序と同視する見解に ︵601︶ ° ° 対して、根本的な疑問を投げかけている。ジンメルがとくにω霞①詳と呼ぶものはこの意味の紛争に該当する。﹁人格や社 会という統一体の現実は決して一方的な調和と一体化ではなくて、むしろ矛盾とω霞①津がこの統一に先立つだけでなく、 生のあらゆる瞬間において統一のなかに働いている﹂と彼は述べている。社会秩序とは、多様な形態のもとに常に生起す ︵0︶ る数多くの紛争を規制し解決する所に成立する、相対的な均衡・安定・持続の状態であり、これらの紛争が集団を主体と ロ し二元対立の関係において行われるとき、これは社会闘争と呼ばれるべきであろう。 ︵201︶ ζ゜U①三。。o貫8°o詳︵㎝c。︶”署。HO∼H。。° ︵101︶ エンジェル︵即oげ①腎O°﹀コσQΦ一一︶﹁紛争の社会学﹂、 ﹃紛争の科学﹄前出︵62︶、九二ー九三ページ。 ︵401︶ O・ω一ヨ日①一”o娼・o一け︵HoQソ ω゜卜⊃軽①℃℃°HOP 品削出一一二〇ページ。 ︵301︶ 千葉正士﹃法と紛争﹄三省堂、昭和五年、四三−六六ページ。 ︵501︶ 千葉正士は﹁秩序と紛争の連続性﹂理論を提唱している。﹃法と紛争﹄前出、八四−九四ページ。 ︵601︶ ヵ゜U山年①巳o昼肉い器遂帖蕊妹ミ↓討§還ミ⑦09ミ8ω捗簿甑o乙d巳く臼゜・芽牢霧︻−”H8。。°竈﹂卜。①∼お。。° ︵∬︶ O・ω冒ヨ鼻o℃・。貫Qo°H。。¶”℃藁ρ前出、三−四ページ。 ℃℃°α8∼巳α゜ 冒﹃嵩幻①メ、雨o妻908宙。計く巴器゜・帥巳O訂品ρ、.ぎ§亀ミ蕊⑦ミこご讐ヒ巴゜ξ℃’≦胃゜。冨ざ勺窪σq口ぎbdoo訂”目ミ。。噂 睾ユ渕゜﹀°勺08屋o炉目ケΦ閃﹁①①℃話ωρ巳①メ℃℃.卜⊃①O∼b⊃胡゜ H署冒αQ炉出03註貫.、Ooロ。・窪遷ρO呂簑g。巳Ooo窟屋江8.、”冒9恥鷺葺Gぎ遷鷺蟄§織Oo§、ミさ巴゜9Uoヨ臼讐 230 (696)