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1935年の楠木正成をめぐるいくつかの出 来事 : ナショナル・ローカル・資本
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 1935年の楠木正成をめぐるいくつかの出 来事 : ナショナル・ローカル・資本 The national, the local and the capital : examining some events concerned with Japanese national hero in 1935 森, 正人 Mori, Masato 人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2008, 25, p. 115-128. http://hdl.handle.net/10076/9738 人 文 論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 年 の 楠木 正 成 を め ぐ る 1935 ナ シ - ナル ョ ロ ・ 森 A b m st r a di e II K w a r b o T h is p i d e r c it e a n y u s u n o ki h a d b e e n K u s u n o ki h a d b e e n c it y h a d s pe c l a o sa id s a st e r w t it e n c o n n t r a n s l T hi lo K c a e l s w y o s t c w a s n v r e hi t o l ti a c i c e s s a s w m e c p m e g O p o s bj s it e d l ti l s 6 00 t h n a l e m o r e is K o in c o n a i cl a rt s b m N e e w l u di n g o c a l m a l o bj y p s i al a hi ti e n e r , ti J a ie - t o o n e s e o r a n hi o i c e x p e x o in o r d t t h e o r e K i c a g b e a n i z e k a n st r e s s o H k a e r h ei t W w i h u m u r y e r e b o e kai u r a n e s s a r a st d by K s c e n i o n it y c o ld d y a o l o r f h w , W e o K n b o 1 93 5 n e n st o r t e r o p K , ifi c i a l h i o n e m h e ld i c i , b e fわr s a rt , l i ki o bli s h e r e e st m e st m s u n e st a w o u p i ri t s m d a o s a a n o d e K e f o r t hi g p s f s v e p h n a a s a s e t T h ・ v e s it h w h t e r s a r e v e n tt p a M r r o iv a n n s fo s b ol m a r c t e c t e v e n e hi t ia l 資本 ・ 人 正 o r a h t io n a t n t i a ll y e c e m a a s h e ld b y e s ln d e s o , E ・ d o n e a r y d It ・ a r g s i ti v c u s e s v e di s p l a y e v r d s u p r o d r t n d s c N ti a o c a c a l id a t p a h e l a c a o n l h r e a t e d l t e h n a e r lo o e n e n o d t it y n h ti t it t it d a o w y o a n e a d e n a it y c m e s e s t io t io , il d u b a ァ lo c o , n n a u u t a c a ll e l s l id te a t lt y n l s c e s h t b ol ym e n u d r o n it so l p la c b a p l f i n d i v id o a n i e rt n a b tO n M ・ p r o f b n a pl p r o n y g o d e e o h ei t p it h K l p th w e e , w s c a r c a d st r u c l id e s a p l id d i e n iz o s s c o n lo in d i n d a n s f a a n a w o t g n g e o n o r h o l p ・ p p t io : o r a l c a u s e c e s s n a m ti o n a e r p c a hi c h d i a p u r e o n te a n w s u ti a e r kill e d f o u e s is to y e c e fe r e o n e s l d a th t o u su N ly p i v e n i fo p か の 出 来事 つ g si n tu , l a . e o n e s e r i v n b o a r e e ial t m a m di h t io K N d a n t a As . K r e 1 l e v a in , ct : カ ル ー く い 2 008 t i ti o n a u e d a r o u g s p n o n th , l a s f K o o n a y e o c a st e u t io i s u n fr n r e s l i sla m a m id r c a p e r e n d n ti ki i o o e r l id o c a n e , e n w t lt y s a p W c a ti a h w 11 ァ a rt s e a s l p l h e d e e o it i e c k i m e pl s a n ・ n d bi g a d l i e , o c a p li e d ff e e it y c d a o e v ic l a n b o e r e It ・ il y a s K n lo ・ o r e o v L . d e e v e n d M ・ d o r , e st a z e e e l a ct iv a pit a l e ly . l e c o t io o c a m n a pl l l id d a n e n h t lay e x e e r s ti t y c a c a , p it a l h el p d e a it st c o n u ti o n o r h t e n a ti o n a l ・ C , ・ p it a l , M a s a s hi g e K u s u n o ki , J a p a n は じめ に 1 86 8 備する 年 に 発足 し た 明治政府 は 。 その 中で、 像 の 共 同体 を 支 え る 国 民 ア イ デ 的な政治 体」 シス テ ム 、 西洋近代 国民国家を モ デ ル と し て 国家 の 統 治 シ 太古 か ら連綿 と 同 一 領域 内に おい ンテ ィ テ ィ を象徴的 に 復 活さ せ た 。 て 同 一 を作 り 上 げ る た め ま た、 の に と し て 節 合 さ れ る 日 本 近 代 国家 シ ス テ ム で は , 天 皇 ィ へ の テ ィ 、 天 皇 を 中心 に 位 置 づ け 一 視し 、 、 こ れ らは 天皇 森 ( 2 0 0 7) へ の 、 19 00 忠誠が 重要 で あ っ た。 それゆえ, 創出の 重要 な手段 と なり 、 この と りわ 1 8 70 年 に 宮城前 に 銅像 が設置 さ れ る と 楠木 の 忠 誠 は可視化 さ れ 忠 誠 を 商 暮 す る た め の 重要 な 装 置 と な で は、 古典 両者 が継続 的に 「 国 け 楠 木 正 成 の 顕 彰 は 近 代 国 家 シ ス テ ム 以 前 の 状 況 と も 関 わ り な が ら 最 も重 要 視 さ れ た 。 年 に 湊川 神社 が創 建 さ れ を整 国民 が住 み続 け て き た と い う 想 国家 と 天 皇 を 同 そ れ を具 現 化 し た 歴 史 的 人 物 の 顕 彰 は 国 民 ア イ デ ン テ ス テ ム っ 銅 像 は 西 洋 の 他者 と し て 位 置 す る 日 本 の - 1 15 - 、 た ( 森 2 0 0 7) 。 ア ン ビバ レ ンス 、 す なわ ち西 人 文 論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 洋 的枠 組 み に お い 反 映さ れ て 2008 本的な る もの を表現で き な い と い う て しか 日 い た こ とを 明ら か に した そ の 後、 1 90 5 年の 日 露戦争 で の 勝利以 後に は 日本 的な 。 る も の と 近 代 の 再 定 義 が な さ れ ( 西川 2 0 0 1) 朝 の 正 統 性 が 主 張 さ れ た ( 山 崎 1 9 1 1) こ う して 。 を 紀 る 大 阪府 千 早 赤 阪 村 の 観 心 寺 で は しか し、 本事例 を は じ め と して れた ( なお 両者の 関わ り に 、 楠公六 百年祭 が 州事 変 を 引 き 起 こ し 中 国 、 フ ァ 年 19 3 5 に は楠木 展示さ れ る大 々 的な イ ベ 年 ン トが 開始 し て に 森田 、 1 9 8 7) 行わ れ た イ ベ ン トの に は、 数 。 々 行わ れ た の ントに よ っ いう ス ケ て 市 、 ・ 区 ・ しな が ら ナ ル とロ ナ シ 、 ナル なア イデ ンテ ョ 、 楠公六百 年祭そ た 神戸観光博覧会 と神戸新 2 ィ 、 テ ィ いた の そ 。 そ れ ら に 関わ る 事物 が 、 、 い た。 で に ジ ー ェ 本稿 で 紹介す る よ う に ン トの イ ベ ン トが ルで の ー た。 こ う した エ 実 践が 喚起 さ れ どの よう に ロ へ っ 平行 して 、 そ れ た と考 え た い 。 っ 紹介 さ れ て き た と ス ラ イ ド して い この イベ ン ト 、 神戸 市 は い た。 ジ ー ェ ン トの イ ベ を通 して ィ テ ィ もの の 分析 は ひ とま ず 横 に 置き 、 国家と を呼び 覚ま た の か と い う 問題は っ 、 湊 川神社に よ る 国家 カル なアイ デ ンテ ー 展覧会 お よ び銅像設置運動 に 注 目す る 聞社の ( 森 2 0 0 5) 、 ナ シ 研 究 会 2 0 0 3) ョ 0 そ れ に 平行 して 行わ れ 資料 と して 。 、 観光博 報 告 書 と 『神 戸 新 聞』 の 記事 を用 い る 。 日 霧 戦 争 三 ○ 周 年 と い う 契機 年は 19 35 勝利が 勝 利を収 め た 日 露戦争 か ら ち 、 、 都合 で 全国 的な イ 19 0 5 年 う ど三 ○周年 に あ た る 。 ょ 日 本 に 西 洋 と は 異 な る 近代 化 の 想 像 を可 能 に し た 。 、 を経験 して お らず 5 月 27 式典 は こ の この 戦争 で そ して こ の 戦争以降 非 常 時 を 迎 え た 日 本 は 栄 光 の 戦 争 の 記 憶 の 風 化 と も対 峠 し て ベ ン トの 詳述 は避 け る が 日 か ら ち ょ う ど 30 幸 し祝賀の 式典 が執 り行わ れ の 示されて カ ル の 節 合 を 問 う い く つ か の 近 年 の 試 み に 共 鳴 し て い る ( 「 郷 土」 ー そ こ で 本稿 で は 覧会の エ 町 とい う地理的 ス ケ 的 な 祭 紀 と 平 行 し て 行 わ れ た イ ベ ン トが 日本 の 文 、 湊川神社 の 外側 で 商 業的な 目的を含み な が ら執り 、 た複数の っ て っ 年に満 年 に は 弘法大師 が 日 本文 湊川神社史 と い う 視点 で す 、 ル で の ア イ デ ン テ ィ テ ィ が作り あ げ られ て い ー に 本に と 19 3 1 。 と して 橿原神 宮を改修す る計 画を 立 て 神戸新 聞社は展覧会 と銅像の 設 置を 行 、 て い る。 ま た 、 19 40 年 の 皇紀 二 千六 百年 を目指 し、 で あ る。 あ まり紹介さ れて い な い 。 神戸市や 神戸新聞社 と い 同年 に 観光博覧会 の 日 1 93 4 。 展覧会を通 じて そ れ が 人 々 、 しかしそ こで は は、 楠公 、 っ 。 「 非 常 時」 い た 方策 と して 機能 した 背 景 で 開 催 さ れ た 楠 公六 百 年 祭 は 19 39 実際 、 月 に 六 百 年 祭 式 典 を執 り 行 5 全国に 趣意書を配り賛成者 の 記名調印を 19 35 年か ら求め て ( 藤巻 年で あり 重要 な意 味が あ る と考 え た い 日 本 青 年 館 に 事 務 所 を 置 く 建 国 祭本 部 で は 、 「 神 域」 こ う した が、 1 9 35 年 に 開催 つ 一 19 34 年 に は 聖 徳 太 子 が 同様 に 取 り 上 げ ら れ 19 36 、 1 931 こ と に は、 シズム の 化の 創始者 と し て 日本 と節合 され 、 そ の 重要 な 契機 の 別稿 を用 意 す る 予 定 で あ る) 侵略を 徐 々 の へ 化的象徴 の 強 化 は柔 ら か な して 足先 の 一 時期 に 行 われ た こ の た。 っ 継続的 な実践 を通 して 、 大 阪朝 日 新 聞 社 や 大 阪 府 内 で の 式 典 の 多 く は 1 9 3 5 年 に 行 わ いて は つ 絶対化さ れ た楠木 は 本来 な ら楠木正 成没後 六 百年 は た。 っ 年か らの 南朝正 閏論争 で は楠木 が 属 した 南 1 91 0 、 国家と の 関係 を 常 に 確認 し強化す る必要が あ さ れ た 楠公六 百年記 念祭 だ 当 時 の 日 本 が お か れ た 矛盾 が 、 時期 の 日 本 に と 年後 例 え ば 日 本 帝 国海 軍 が 、 の 19 35 年 5 月 27 日 に は 、 パ 東京 ル チ の っ て とりわ け重要 な意義 を持 1 1 16 - っ た。 奇跡的 な 日本 は戦争 、 いた 。 紙幅 の ク 艦 隊を倒 し た 芝 公園 に は 天皇が 行 ま た 各地 で も 同様 の 式 典 が 開催 さ れ る な ど 、 ッ の 、 日露戦争三 ○周年 正人 森 神戸市 で は そ れ 年 の 楠木正 成をめ ぐる い く つ か の 出来事- ナ シ 1935 の お よそ2 月半前 の ヶ 月10 日に 3 講演会が 開催 さ れ た上 に 、 万 二 千名の 一 ロ ・ カル ー 資本一 ・ 早 朝 か ら 市 内 八 区 の 各校 で お よ そ 六 万 、 人 の 男女学童 が 日 の 丸の 小旗を打 ち振りな が ら街頭行進を 行 い で ナル ョ 歴戦者 に 対 夜 に は市 内の 、 し記念の いが 手拭 い く つ か の 場所 贈呈 され た 。 ま た神戸 新 聞 社 は 3 月 9 日 よ り そ ご う 百 貨 店 地 階 で 百 余 点 の 写真 を も と に 日 露 戦 役 懐 古 写 真 展 覧 会 を 開 き 翌日 、 に は兵庫大 開小 学 校 で 日 露 戦争 の 戦 況 を 講 演 す る 懐 古 講 演 会 の 他 百 名 に よ る 自転 車 隊 ラ 二 「 第 二 国民」 ッ の ア イデ ンテ ィ テ ィ しか も当時、 年 月 強 化 に も役 だ た し っ わ れ た 五 百五 十年祭式典 に は 3 後述す る よ う 。 に こ う した の 評 価を得て い た 陸軍 第 四 師 団が 神 前 軍楽 の 奉納 を 行 、 若年 層 の 巻 き 込み は した が 。 そ の 関わ り を積極 的 に 人 々 に 示 した 。 、 楠公六 青年祭奉書会長 で あ る勝 田神戸市長 が に は 神戸市連合少年 団 、 た。 っ 楠木正 成 は戦 術に 優れ た軍人 と して 年 祭 は 軍 隊 と の 関 わ り を持 19 35 行進 を挙行 し た パ て っ 実際 、 、 楠公六 百 1 88 3 年に行 た。 っ 「 海 軍 を代 表 し て 参 拝 さ れ る 、 声 は 国民 精 神 作 興 の 上 に 最 も意 義 あ り ま た 祭 典 当 日 の 神 戸 港 に 軍 艦 碇 泊海 軍 思 想 の 普 及 に 効 果」 (『神 戸 新 聞』 年 19 3 5 月 3 よ う呉鎮守府 に 送達 し 5 日) もあ る と い う 先方 より 、 3 ことで 祭り の 当日 帝国軍艦 の 神戸港派遣 す る 、 月 24 日 か ら 2 8 日 ま で 神戸港 へ 整 備 戦 隊 旗 艦 「 天 龍」 を 派 遣す る と い う 回答を得て い る。 ま た、 日 露 戦 役 三 十 周年 と 大 橋 公 殉 節 六 百 年 祭 を 記 念 し た 兵 庫 県 の 郷土 軍篠山連隊 三有 名が 3 月 日 と 1 7 日 に 「 日露戦 役三 十周年大桶公六 百年祭記念連 、 16 と して 空軍 陸軍の 連合 演習を 行 合 演 習」 た 。 1 6 日 に は 宝 塚 市 で 雨 中 に 野 外 演 習 を行 い っ 丹 町 に 移 動 し て 国 防 婦 人 会 員 や 小 学 児 童 ら の 歓 迎 を受 け な が ら 小 学 校 に 入 り 昼 食 を 取 川辺 武庫 、 、 西宮 育訓生 の 一 千名 と合流 し 東軍と西軍 に 分 か れ て 、 翌 日 に も神 戸 市 の 会 下 山 で 合 同演 習 を 再 度 行 い 問 を受 け な が ら 家 族 と の 面 会 を 行 こ れ は家族 と の し 、 市立 第 成の 天皇 へ た。 軽巡洋 艦天龍 の 神戸 港 に 入港 し 「 朝来在郷軍人 、 青年団 そ こ で は の 責任が確認 され た の 般拝観 一 繋留 停 泊 し て お り 、 、 、 学生 25 、 日に 大 砲 や 魚 雷 の 操縦 方 法 の と 顔 を 見 合 せ て 感 嘆 し た」 ( 1) 天龍 は 2 4 日 新 聞記事 に よ る と 。 と 押 し寄 せ 艦 上 は 大 賑 ひ」 だ っ 国防費の 必要性 が説 か れ た だ け で な く 、 「 見学 、 々 。 の 婦 人連 「 水道 の 、 水も粗末 に 出来ま と記事 に は書か れ て い る。 楠 公 六 百 年 条 記 念 神 戸 観 光 博JE 会 と い う 3 般 は 如何 が 許 さ れ た 一 ほか 戦 艦 内 の 生 活 に お け る 生 活 水 の 貴 重 さ も強 調 さ れ せんな!」 こ と で あ る。 で あ る。 報道 を 通 し て も伝 え ら れ た やそ れの 生徒 らを始め多数 の 人々 が続 、 講 演で は楠木正 た 戦争中に は銃後 を守 る人 々 の 積極 的な支援 も求め られ た 。 っ 非 常 時 に お け る 「 国 民」 、 この 。 般人 の 観覧が 許さ れ た 一 、 、 銃後の 心 得 は 、 。 連 合 演習 に は 地 元 の 青 少年 が 参 加 し 国防婦人 や小学生 と い 国防婦人会員の 慰 、 そ の 後 神 戸 市 中 を行 進 し て 湊 川 神 社 に 参 拝 忠誠 と犠 牲の 尊 さが 語 られ た こ う して た と い う。 っ 高 で 神商 大附属将校池 田大佐が 湊川合戦の 状況 を講演 した この た。 っ 篠 山 連 隊 か ら の 三 有 名 は 神 戸 市 出身 者 が 選 ば れ た が 面会 の 機会 を与 え るた め で あ しか も に 昼 食 を取 り の 、 た 後、 再度 連 合 演 習 を 行 、 二 重要な の は 、 た。 っ 蓮 池小 学 校 、 で っ 伊 、 エ ー ジ ェ ン ト 集め られ る物品 楠 木 正 成 を 国民 的 英 雄 と し て ル な行政単位 で も行わ れ て い い た。 く実践 は その 一 つ 、 国家的な行事 だ け に 見 られ る の が 神戸市を 中心 と して 行 わ れ た 「 楠 公 六 百 年 祭 記 念 神 戸 観 光 博 覧 会」 - で あ 11 7 - っ た。 、 で はな く ロ 、 ー カ 大楠公六 百年祭 に 並行 して こ れ は 19 35 年4 月 1 日か ら5 月 30 人 文 論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 2 00 8 そ の 目的 に は 「 日 の 合 計 5 0 日 間行 わ れ 、 を 企 図せ ん」 ( 神 戸 観 光 博 覧 会 1 9 3 5 こ の 博覧会 に 向け て 年 11 月 19 34 日 本 市 臨時 観 光 施 設調 査 委 員 会 に よ 、 日 で あ り、 19 同年 12 月 は じ め と す る 県 関係 者 や 、 歴 史館 、 い る。 一 は以 て 産業の 交流 つ っ 博 覧会協会 が承認 さ れ た の が て 発起集会 が 行 わ れ た 発起 人 に は兵 庫県知事 を 。 大 阪商 船 神 戸 支 店 長 市 臨 時観 光 施 設 調 査 委 、 神戸市長勝 田銀次 郎が 博覧会長 を 努め た そ して 、 六 甲 山 会場 物 産館 、 福厳寺会場の 三 、 余興館を含 ん だ 、 第 。 一 会場 つ 、 湊 川 公 園会 場 は 観 光 館 が設 け られ 、 湊川公園会場 は 楠木 正 成の 古戦場 で 、 の 赤 色 大 文字 を 掲 げ た 入 り 口 正 面 に は 神 戸 の 名 所 と さ れ る 布 引 の 滝 の 高 さ を 三 分 の 分 の 一 に した ミ そ の 向か ニ 円を か け て 新た 決定 さ れ た 課 ス ・ ー に ッ ア が 作 られ た。 夜 間に は五 第 二 観光館 を設 け 鉄道省 の 出品 に 対応 し 、 、 山梨県景勝地協会 赤穂鉄道 、 、 南海電鉄や 、 洲本 町 山 陽電 鉄 、 姫路市 赤坂城の 戦 、 、 千早城 の 戦 正 行の 出陣、 噴水前の 歴史館 は 「 大桶公 の 没後 、 聖駕奉迎 っ て 、 史料 は 二 に かか わる で 、 脇坂家 つ に 大別 さ れ る 。 。 第 一 そ れ に は 資料 的 2 0 0 筆 、 パ 霧山城祉実測図 、 マ 、 ノ ラ マ で 内で も 東御所実測 図 日 本史編纂記録 な どが見 る 、 べ 。 第二 は ホテ ル ジオ ラ 、 ト 、 ー 模型 で 提示 し マ 。 こ れ ら の 展示 、 正 行 が 母 の 訓 戒 を受 展示 され た 。 それに よ で あ る。 、 感化 を与 へ たか 全 国 か ら 集 め た 貴 重 な 資料 、 で 、 30 写真 、 点が 含 ま れ る 碑 域 拡 張 等) 、 。 。 、 。 神戸 と 「 大 桶 公 関 係 及 大 桶 公 祭 典 年 譜」 、 大桶公五 百年祭 具体 的 に は 楠 木 横 山大 観 を は じ め 神戸市内小学校の 図画 の 教員 が 描 い た 楠木 に 因む 湊川上流絵巻 、 、 月 6 日) 物 品 が 収 集 さ れ た 4 南蛮鉄製 兜や 、 絵画 20 点 さ ら に 豊 臣秀 吉 の 検 地 の 史 料 、 こ う し た文献資料 の 神有電鉄 ー ェ は 古 代 か ら 現 代 に い た る ま で の 「 郷 土 資料」 とす る六 十人の 大家 の 筆 に よ る楠公讃迎画、 、 観光館 で は長崎 数 千 百 の 楠 木 に 因 む 史 料 も 年 代 順 に 陳列 さ れ た さ らに 、 史料 ( 吉 田 松 陰 や 旅 人 の 参 拝 、 洋画 と 日本画 プウ 大 桶 公 思想 が 日 本 国民 に 如 何 な る 影 響 、 市 初等教育研 究会手工 部 に 委嘱 して 作成さ れた 称 さ れ た もの 一 各市の 観光協会や 観光 ー 楠公 父子の 別れ 示さ れ る と考 え られた の が所蔵す る大桶公愛用の 湊 川神 社 の 宝 物 も展 示 さ れ た こ れ らの 第 後醍醐天皇か ら始 め て 召 さ れ を 如 実 に 知 ら せ よ う - と の 方 針 の も と に」 (『神 戸新 聞』 1 9 3 5 年 国法 建設費 二 千五 百 、 、 四 条畷の 戦 の 十場面 が 、 楠公父子の 忠誠が 視覚的効果を伴 瀧野の た。 六 甲ロ 、 正 成幼時 の 修学、 、 正 成公の 瓜生野 の 戦 、 ま る で 日 本 を 観光 し て い る よ う で あ る と さ れ た 。 湊 川 大 合戦 、 幅を 十 観光館 に は 。 摂 陽商 船 な ど の 交 通 会 社 、 、 プ さ れ た。 先 述 の 通 り 鉄 道 省 観 光 局 と 国 際観 光 局 の 出 陳 品 が 並 べ ら れ た 滝の 右手 に は楠公館が 置か れ こ こ に は、 っ た 各県、 ク 商 会 な ど が 各 地 の 風 景 や 沿線 な ど の 名 所 な ど を パ ノ ラ 日 本 の 景 勝 地 を館 内 で 味 わ う こ と が で き 、 、 っ 阪神急行 , 阪 神電 鉄 、 , は、 り ッ 一 ま た特設 館が 設 け られ る こ とが 、 兵庫県観光協会 と い 、 ま た 第 二 は、 け る 場面、 ラ イ トア 木像掘立平屋造 の 漆喰塗仕上 げの 観光館 が置 か れ た 、 た。 た 正 成、 色の 照明灯 で とく に 鉄道省観光局か ら の 出品の 申込が 殺到 し て い た の で 日 本郵船 、 ブル ク ュ 新 た な 観 光 館 の 半 分 は 売店 と し て 用 い ら れ る こ と に な 。 南洋郵船 摩耶 ケ マ 、 北陸都市連盟 、 チ 左手 に は て っ 各 自治 体 や 団 体 、 、 立 地 や 背景 と な る 六 甲 山 の 色合 い を 考 慮 し て 選 ば れ た 。 「 楠 公 六 百 年 祭 記 念 観 光 博 覧 会」 あり、 市 予算 は 1 0 。 。 会場 は湊 川公園会場、 楠公館 22 日 に 日 本郵 船 神 戸 支 店 長、 員 な ど 57 名 が名 を連 ね て 万 円と さ れ た は 国民 精 神 の 作 興 を 図 り とさ れ た。 1) , つ 一 、 さ らに 全国各地 の 楠公社写 真な どが 含ま れ る。 会下山絵巻 、 大桶公画像 楠公史蹟図文禄三 年片桐市正 検地、 きもの と し て 新聞紙上で 紹介 さ れ た 正 成公所用の 矢筒、 秀吉朱印状 一 。 、 、 南狩録 見 して 分か る よう に 木 に 関 連 し な い 豊 臣秀 吉 関連 の 文書 ( 大 地 震 の 復 興 等 で 神 戸 の 発 展 に 尽 力 し た と の 理 由) - 1 18 - 、 大 、 楠 まで 正 人 森 陳列 され 人 の 々 て い るが 遡り得 に 注意す 、 き べ 年 の 楠 木正 成 を め ぐ る い く つ か の 出 来 事 - ナ 1935 も の」 き事 は べ で ある 、 「 今日 全日 本 に 溢 る 史 資料 が そう す る こ と で 模型 は ・ ロ カル ー 資本一 ・ 、 す ぐれ て 日 本 の 、 楠木は 日 本 の 単線 的な歴史 の 日本各地 の 名所、 、 旧跡、 風俗 と り わ け 「 産 業 の 日 本」 。 大工場 な どに あ わ せ て 、 た。 本 の 産 業 の 「 躍 進 状 態 や 観 光地 等 が 会 得 出来 る」 ( 神 戸 観 光 博 覧 会 1 9 3 5 漫画風 とさ れ た の で あ る。 の ほか 全国の 工 場数 、 器装置で 示 した も 認識 さ れ て い た さらに、 。 に は、 甲宵 京都南禅寺 、 庭 隅の 地蔵 堂で 各地 この 、 産物や 工 芸品等 が陳列 さ れ 1 3) 、 西日 本 に あ る各市役所 か ら 模 型 を統 計 的 に 示 し た 「 産 業 日 本 の 現 状」 も 工 業別や 主要港別 に 点滅す る電 海 外 か ら の 来 訪者 に 対 し て 日 本 の 工 業 力 を 示 す も の と し て こ こ で は神戸市の 土 ー 産物 と し て 磯 馴味噌 、 餅や 楠木 に 因ん だ忠孝 菓子 、 、 甲南漬 、 漆器 陶器 、 菊 水 鰻 頑 も販 売 さ れ た 拡 張 し た 余 興 館 を 建設 し 、 に 舞台 . で の イ ベ ン トに そ 対 第三 会場 ま た、 。 同寺 が あ る 兵 庫 区 内 の 小 学 校 児童 が 共 作 し た 二 十 四 場 面 の 楠 木 、 太 山 寺 か ら 出 陳 さ れ た 国宝 の 法 華経 三 十 二 巻 「 後 醍 醐 天 皇 臨 幸 録」 の 楠公関係の 、 兵庫区 の 青年達が 隠 し芸を披露 した 、 参考館 で は 博物学 、 の 珍 参考品 しい 、 例え ば ム 氏 の 遺 品な どが 並 べ られ た 外 、 国宝 佐 々 木 四 郎 の 十 八軸 が 展示 さ れ た ラ マ が 参考 館 、 動植物 、 二 。 こ こ で も 置か れ 、 ま た広場 に 設 け ら 山岳館 余興館 が建設 さ れ 。 六 甲 山 会 場 は 六 甲山 の 植 物 園 内 に 設 け ら れ 、 は 六 甲 山 や 日 本 各 地 の 山 岳 の 山 岳 写 真 数 百 枚 の 他、 ー 書画 後醍醐天皇 が楠木正 成を 召 した場面 の ジオ 、 れ た余興場 で は ブル の 土 工 産 額 及 び 対 外 貿 易額 を 、 常設音楽堂 を臨時 福厳寺会場 で は 、 絵巻 が展 示さ れ た た。 ス に は 。 第二 会場 の ー に は東京市を の ぞ い て は ま た、 。 新 しく発案 され た六 甲ス キ 、 応 した 、 職工 数、 こ う し た物産 は、 。 他会場 中央東側 の 「 産 業 の 日 本」 こ の 企業か ら工 業 品が送 ら れ た 、 設置さ れ の ほ か 展示 し、 と名 そ れ ら の 生 産 品、 つ に 模型前の ケ 、 土 産品等を 動的か こ れ に より 日 国史 一 。 物 産 展 は 日 本 全 国 の 特 産 品 を 模 型 や 漫 画 を 応 用 し て 陳列 し た づ け られ た ナ ル ョ 大橋 公精神発揚 の 源 泉 は遠く之等 、 大 日 本 史編 纂 記 録 と い う 、 を 顕示す る書物 と併置 さ れ て い る こ と で あ る。 中 に 位置 づ け られ る シ に の 、 、 標 本が 陳列さ れ た 。 ま た 山岳 館 で 明治 初 め に 六 甲 山 を開 い た と 言 わ れ る 。 ( 2) 具 体 的 な 過 程 年 19 35 月 1 日 の 神 戸新聞記事 に は 3 され て い る。 観光博覧会 を間近 に 控 え た 協会 の 状況 が 詳 しく紹 介 、 そ れ に よ る と 、 19 35 年 3 月 の 時点 で 、 勧業館か ら水族館 に わ た る土 地を四 角 に 区切 協会 は縦 四尺 て は、 して い た 。 フ レ ラ 、 莱の 他 、 。 こ の ア ドバ ル ン、 ー をま き散 らす 実際 に は 、 2 他 、 ネ こ とまで 月 よ りポ 市 ス 、 板塀 の 工 事 に 着手 して 一 万 枚 印刷 し 、 っ て さらに、 いた くる と 姫路 、 、 岡山 、 述 べ られ て ス タ ー 、 京都市電等 に 貼 ら れ た ニ 広告活動 に 関 し 。 ロ フ ァ ン製 の 宣伝紙 大 阪 な ど近 畿 地 方 の 都 市 に 大 ア 帯 に は飛行機 を用 い て ー ー 空 か ら官伝 ビ い る。 万 枚 が 全 国関 係 各 方 面 に 送 ら れ 交 通機 関等 に 貼 付 さ れ た 。 一 、 全 国 の 自 治 体 や 諸 団体 に 送 付 神戸市電 の 車両 内に は セ ト サ イ ン を 設 備 し 、 特 に 阪神 間 枚 が市 内や 近郊の 街頭 お よ び バ て 神戸市内の 三 十余りの 寺 の 史蹟 や伝説地 の 詳細な 解説 を加 え た リ 博 覧会が 迫 ッ っ 色刷りの ビ ラ を ト を配 布 す る 準 備 を 整 え て い た 。 ッ を貼付 した チ、 ま た、 横三 尺の 三 会場の 湊川公 園で は 設備 の 設計 が 終わ り 岡 山市 が 、 神戸駅前 に は宣伝看板 が 置か れた。 、 吹田市 そ の 他、 - 1 19 、 セ ロ フ ァ ンの ポス タ 中吊ポ 神崎市 に 野立看板 が 宣伝 - ま た、 。 、 マ ッ スタ 、 ー ー 五千 三 千 枚 も市 電 、 市 内各 所 に 街 頭 看 板 チ が 二 十万箱 作 られ 市 内や近郊 に 配 人 文 論 叢 ( 三 重大 学) られ 駅弁 の 、 大倉 山 第2 5 号 も 広 告 が 印刷 さ れ て ビラ に 相生 橋ガ 三 角公園 、 、 博 の 雰 囲気 を 盛 り 上 げ て 4 月 日から三 1 13 日の つ い た て い た っ ( 神戸観光博覧 会 1 9 3 5) 、 赤 、 紫 、 黄 、 緑の 総計五 千個 の 電球が 設置 さ れ始 め 、 第二 会場の 福厳寺の 周辺 で は 。 観光博覧会 、 周 辺 の 寺 院 は そ れ ら が 持 つ 宝 物 の 展 示 を行 い 。 馬上 の 大桶公や 菊水の 、 紋 様 を描 を つ る し 入場券 の 前売り券 は 協賛の 、 は 当日券 よ り十 銭安 い 20 銭、 給 は七 五 円 、 百年記念祭 に 多くの 瓦せ ん 受けて べ コ 他 い の 月 3 、 ヒ ー 小人 は五 銭安 い 杯が ー ー 意を表 した の で ある 。 月 8 日 か ら神戸市各区長 を通 して 販売 さ れ 始 め た 3 、 観光客の 五 銭で あ - 9 日 に土 銭で あ 10 た。 っ 訪 問 が 予想 さ れ た 神 戸 市 セ は 産 品協 会 が 発 足 し ちなみに た ( 週 刊 朝 日 1 9 8 7) っ 新た な 土 産物 を開発す る に 、 向けて独自 に ま た 周 辺 の 切 戸 南逆 、 瀬 の 商店街 や 御崎八 幡薬仙寺附近に 至 る商店街 は揃 い の 提灯 で 電飾 し い た旗 さ ら に 神戸市 内で は 。 。 観光博会場 に 自 の い る 神 戸 取 引 所 前 の 主 要 場 所 に 華 麗 な 宣 伝 塔 が 姿 を 現 し観 光 ド下 、 ー 完成 に と もな い 点灯さ れ た 取 り 組 み も行 の 2008 、 また、 。 こ と が神戸市観光課 と商工 当時の 公務員の 初任 観 光 博 覧会 と 大 桶 公 六 それまで の 土 、 前売り券 の 大人 。 産物で あ た 牛肉 と っ 課で 議論 され た 博覧会 の 物産陳列館 を新 し い 土 産物 で 飾る 、 。 これ こと を 及 、 び 将 来 協 会 経 営 の 土 産 物 陳 列 館 を 元 町通 り の 繁 華 街 に 設 け る こ と 等 を 申 し 合 わ せ た 。 会場建設 の た め の 地鏡祭 は られ た。 神戸商工 会議所 会頭 披露 さ れ た りの垂れ カ 問 も多 か 月 4 テ ン ー をっ た たようで っ て の っ 近畿 、 一 七百名 4 月 の あ る 日本 入場者 に 中の 2 5 、 観光博覧会 に 、 た が 大き な 問題 は な く終了 した。 っ 神有 、 観 心 寺 を訪 れ ー た の か 明 らか で は な い 。 、 後 村 上 天 皇 御 陵 も参 拝 し て 同所 に 、 泊 一 が始 まり 日の 日 万人 だ っ 神戸 、 行 われ た。 、 日 間で 曜日 た。 に 一 、 られ 1 作 最高 、 湊 川 公 園 会場 で 、 の 神戸市 の 観光博 マ 神戸新聞 の 記事 もこ れ に ッ チ 泊 っ た 観光 に ゆ か り っ 併せ て 袋の 贈呈 ー ン プの で 、 23 、 25 日に は 日に は同 押 捺が 行 わ れ た 観光 博が 始 ま 入場者数 は 18 万 人 に な 日 平 均 の 入 場者 数 は 七千 人 と な る 。 万 6 千 1 21 人 だ っ た 方 一 、 。 こ れ っ たの で 1 20 - 、 た 4 月 11 日 か ら 5 て い る こ と を紹介 す る っ また っ 、 、 2 5 65 , どれ だ け の 収益 、 も 入 場 者 数 の 最 高記 録 は 最 小 記録 は 雨 天 だ 入場料売 り 上 は 4 月 1 4 日 に 達 成 さ れ - い で 会期に どれ ほ どの 人が 訪 れ この 会 期 後半 は 楠 公 六 百 年 祭 に 近 づ く 状 況 だ 一 た。 っ の 彼女 紡績高砂工 場 の 女工 千 6 日 に 名古屋 と 、 夜は 観光映画 の 上 映と記 念 ス タ 、 訪 た。 っ 横浜 、 月 5 日 は 同様 方 法 で 24 、 京都 、 の 日 に 吉 野 山 と 小 橋公 達 蹟 を巡 30 団 体入 場 者 の 最 高 記 録 は しか し 団体で 山陽そ の 他の 郊外電車沿線か らが 最 も 、 当所 で さ ら に 記録文書や 神戸新聞か らは そ れ に よる と 月 こ 日 は 1 万 人 以 上 の 来訪 者 が あ の の が あ る。 1 346 こ う した 25 日の の 26 5 。 、 月6 日まで 5 、 天井や 壁代 わ た 津名郡女子青年 団が 観光 博覧会 を訪 れ て い る 。 っ 大阪河内の で イ ベ ン トが 都市 組の 贈呈 一 に あ わせ て 24 っ 神 戸 市 会 議長 、 ま た鉄道大 臣と 台湾総督府長官か らの 祝電 も 、 たが っ 対 し先着 順 に より土 産 品の 贈呈 様 で 絵 葉書 が あ 円か らもあ 日 か ら は 国 際観 光 デ 23 兵庫県知事 、 日 に 神戸若松 小学校生徒二 千名 が来場 し た と き だ 7 、 文部大 臣 、 雨漏 り が起 畝 傍 を参 拝 し て 神戸発汽船 で 帰宅 した て 内務 大 臣 、 た が 空席が な い ほ ど に 多く っ 日 に は 歴史館西側入り 口 の 古代 の 歴史 に 関す る 陳列場 で 、 14 翌 日 は橿原神宮 、 式で は た 。 4 月 28 日 に は淡路 島に あ っ 日 の 開会式 に 向け て 突貫工 事が 進 め 11 開会 式 当 日 は 雨 天 で あ 、 出 品 人 総 代 が 挨拶 を行 い 、 ら は観光博覧会 を訪れ た 後、 し い る。 月 4 、 。 開催直 後 の 多か 日 に 行わ れ 20 開会 式 に は 九 有 名 強 が 招 待 さ れ 人が 詰 めか けた と言わ れ て の 月 2 円3 0 っ 銭 た4 月 11 日で で あ っ た。 入 場者 は尻上 が り に 増加 した。 とく 入場 料 正人 森 金の ほか に 算さ れ 郊外電車 年 の 楠 木正 成 を め ぐ る い く つ か の 出 来 事 - ナ 1 93 5 バ ス 、 な ど の 連 絡 券 か ら の 収 入 を加 味 す る と 、 さ ら に 観艦式記念 港漕博覧会 か ら の 補助金 二 万 円が あ 、 る と い ふ 結 論 に 達 す る」 (『神 戸 新 聞』 1 9 3 5 年 5 月 7 日) 4 エ ( 1) ジ ー 公の イ 関与 し た の が ス マ た とえ ば、 タイ ヘ イ レコ コ 童 謡 「 楠 公 さ ま」 藤山 枚 一 販売 した 。 ・ 資本一 「 、 博覧会 は儲か この とさ れ た 。 また 放送局 に よ 年の を フ ォ ン れた。 ケ ロ シ ー に 円 で 売り出 した 一 公に 関す る コ レ ン 。 月21 22 、 シス テ ム に よ ・ 2 2 日午 、 5 前十 日午 前十 一 19 月 部 より湊川神社 、 音だけで な く た。 っ 、 楠 公 会 推 薦 国 民 歌 の 「 大 楠 公」 、 ト ッ っ は子供 を タ - 枚で 一 、 円 五 十 銭) 一 を ー ン地 で あ た。 っ 実際 23 日の 、 楠公 、 大 々 的な イ ベ テ イチクは 。 た。 活字 を 通 し 楠公 一 に ン トを 新 開 地 を 中心 関 す る ラ ジ オ 番 組 も 大 阪 中央 イク マ ロ と い ふ 番 組 が 実 況 中継 で 放 送 さ が そ こ か ら放送 さ れ た 。 2 3 日 は と三 上 参次が講 演を行 い 、 一 に よる 臨 地講 演 が 放 送 さ れ た 。 舞 台 劇 「 正 成 の 死」 、 の 。 、 千 ま た 叶太 夫 の 義 太夫 が 放 と 中村 孝 が放送 さ れ た。 最 時 か ら 湊川 神社 と 福厳寺 か ら六 百 一 ち な み に 26 日 に は、 実 演が 放送 さ れ た の さらに、 音 は 電 波 と 音 波 を通 し て 、 情報 を 積 極 的 に 伝 え た の が で て 毎夜 6 時 か ら 国 史 物 語 「 大 桶 公 三 部 曲」 「 菊 神 戸新聞社 を経 て 栄町通 を行進 した っ は 流行歌手 さ ら に 、 22 日か ら の 四 日 間 は新形式 の と 長 唄 「 大 桶 公」 宮地直 、 トに した ッ 以 前 か ら 引続 い 、 ま た 宮 川 松 安 の 浪 花 節 「 大 桶 公 と 杉 本 左 兵 衛」 、 ー い た。 「 大 橋 公 史蹟 巡 り」 て 、 ゲ ー ビクタ 円 一 。 日 に は 神 戸 市 連 合 青 年 団音 楽 隊 が 奉 賛 の 音 楽 を 演 奏 し な が ら 、 観 光 博 会 場 で も演 奏 を 行 新聞社だ 、 楠 公六 百年祭 の 当 日 で もあ る 2 5 日 は午前十 、 5 、 他 ニ 東 候 村 楠 姐 庵 よ り 大 仏 次 郎 が 「 家 庭 の 大 楠 公」 、 河 内観 心 寺 で 六 青 年 祭 大 法 要 が あ り 他 。 、 時 か ら 大 阪 女 専 教 授 の 魚 澄 惣 五 郎 が 楠 公 誕 生 地 で 講 演 を行 一 時か らは 年 記 念 祭 典 実 況 を 行 う と 同時 に こ の ンペ ャ 連 続物語が 行わ れ た の 也 が 「 楠 公 夫 人」 を 講 演 し 終日 で あ り この ド は 楠公 に 因ん だ 場 所 の 中 で も、 ー 早城 祉 の 上 空 機 上 よ り 楠 公 研 究 家 藤 田 精 24 テイチクは 。 筑前 琵 琶 、 中野 忠 晴 を表 看 板 に 「 大 桶 公 の 戦」 と 新 、 大 々 的 な 宣伝 活 動 を 展 開 し て 、 ま た 山本 旭 錦 師 の 「 鳴 呼 正 成 公」 。 ン ビア は こ れ に は詩吟 教 育 劇 な ど子 供 向 け の もの も 含 ま れ て 、 月 に 行 わ れ た六 百年 祭に 際 して は 5 ョ 具体 的 に は 送された 童 謡 舞踊 、 四 家 文 子 独 唱 「 青 葉 茂 れ る」 ( 放送 さ れ た て っ 水 の 旗」 「 七 生 報 国」 ・ コ ロ 都市部 の 神戸市 が 重要な キ 1 9 35 、 唱歌 、 ド を 出版 し た 。 ー 金 の 鈴 子 供 会 の 合 唱 「 青 葉 茂 れ る」 を 表 裏 こ う した楠 て いた の ほか と して 百 二 十件 の 特約店 を持 ち 、 カル ー さ ら に 楠木 に 対す る 感情の 形成 に 大き く 、 コ 円五 十 銭 で 売 出 し た 一 郎 の 「 大 桶 公 の 歌」 一 ド は 楠公 を 讃 え る レ ー や 琵 琶 歌 「 大 桶 公 の 至 誠」 い ロ た。 っ ドだ け で な い 。 ー り」 を つ ィ ア だ 舞踊 新 小 唄 、 イ レ ヘ 「 楠ま 民謡の っ たか ら っ ・ 合 計 は 9 万 円強 に な る と 試 神 戸新 聞社 を 中 心 ー 実行 と そ の 情報の 流布 ベ ン トの メデ ・ タイ 映画説 明 、 い た。 行 メデ ィ ア ・ ナル ョ 楠公 の 書 こ う した楠 朗踊 ン トと し て の マ ス ェ シ 三 宮大丸 の 屋上 以下 で は 神戸新聞社の 活動 に 注目 して み よ う 生 田神社 、 演 じ られ た の で あ る。 1 89 8 、 、 永津町 の 本 年 に 神 戸市 に 作 ら れ た 神戸 。 (2 ) 楠 公 史 跡 巡 り と 臨 地 講 演 会 19 35 等には 年 2 月 20 円 、 に は楠 二 木 の 誠 忠を 頚得す る詩歌 ( 漢詩 等に は 1 0 円 、 三等に は5 円 和歌 、 俳 句) の 募集 が 行 わ れ た 佳作 に は メ ダル が贈 呈 さ れ た 、 - 、 1 2l - 。 短歌 、 。 俳句 各 、 一 漠 人 文 論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 詩とも 大 分県 一 、 2 00 8 等 は神戸市在住者が 獲得し たが 二 、 等 三 等 は 大 阪市 、 京都市 な どの 近畿 、 香 川 県 な ど の 在 住 者 も獲 得 し て い る (『神 戸 新 聞』 5 月 1 0 日) 神 戸 市 に あ る 広 厳 寺 ( 楠 寺) で す で に 募集 し て あ 、 っ また 。 5 、 一 月 円の 18 ほ か 、 日 には た 数 千 句 か ら 厳 選 し た 入 選 句 を俳 画 の 名 手 で あ る 松 井 長 平 画 伯 の 揮 竜 に よ る 冠句 画 百 号 あ ま り の 陳 列 展 観 を行 う 「 大 桶 公 冠 吟 画 展」 が 開催 さ れ た 。 神戸新 聞社 はま た 阪神電鉄 、 阪 急電 鉄 、 大 阪 本 鉄 道 を用 い 、 る 河 内 の 楠 公 史 跡 を 訪 れ る 「 楠 公 史跡 巡 り」 た は神戸上 筒井阪急終点 と梅 田、 八十六 銭 が さら に、 演の 同社 た こ と が述 べ 大桶 公は す ま た 山陽 、 4 日 に は 福 厳寺 、 く つ か の 内容 が 紙 上 い ら 観 た 湊 川 合戦」 掲載さ れ た に と い う 講 演 で は、 バ ペ 例えば 。 の 精神が わ が 国 の も つ とも偉大な る誇 りで あ り 且 、 命令な 、 全く自 己の 利害 を か 、 武 人の 第 一 山公 園 と 広 厳 寺 で 講 演 会 を 行 い へ ら火の 中 り見ず 、 、 水の ま づ第 一 べ 清戦争 、 っ き もの で あ りま す の 一 へ 、 て をる こ 、 上 司の 命 に 生命 とす る と こ ろ 何 等 の 不 平 も云 は ず に 誠 心 誠 意 命 令 を 実 行 す る と い ふ 此 の 精 神 が 19 3 5 年5 月 12 日) そ う し た 日 本人 の 精 神 を持 、 日露戦争、 上海 事 変 、 満 州 事 変 を 乗 り 越 え て き た と す ぐ後 に 語 そ して こ う し た犠牲精神 に 基 づ く日本人精神 に よ い る。 で あ は 日 本人だ け にあ るも ふ 精神 は武人 の 唯 い 日本人の 精神 が戦地 に赴く楠木の 心 持ち に す で に 現れ て お り 、 の に 決死 と い ふ こ とを考 ま た名 誉 とす つ 中 で も飛 込 む と 義 で な け れ ば な ら な い ( 『神 戸新 聞』 て い たか らこそ日 その 講 、 さらに、 。 決 死の 覚悟 と い ふ こ の 、 ( 中 略) 、 円 。 楠 木 の 戦 略 が 今 日 の 軍事 的見 地 か ら し て も優 れ た も の で 外国人 に は こ の 精神 が な い の で あ り ます 一 陸軍歩兵大佐池 田 賢十郎 に よ る 「 戦術上 か 、 て の 戦 ひ に 芥 子 の 覚悟 で 出 陣せ ら れ た い 神戸滝道阪神終点ま 、 往 復 券 も割 引 さ れ た ス の 5 日 に は会下 の で 新 聞読 者 に は 。 ら れ て い る (『神 戸新 聞』 1 9 3 5 年 5 月 1 0 日) は 絶対そ む か な と 月 は 5 神戸 市 と楠公の 生誕地で あ 、 そ し て 大 阪 阿倍 野 橋 大 鉄 終 点 と 河 内長 野 間 の 乗 車 賃 普 通 円三 十銭 に 割 引され 一 を企 画 し た て て こそ っ っ っ て 現今の 非常 時が乗り切 られ る の で あ る。 ( 3) 大 橋 公 展J E 会 こ う した 大柿公 の 精 神を物質的に 提示 した の が 展覧会 で あ 磨 遊 園地 内 の 人 形 館 で 神 戸 新 聞社 後 援 に よ 年祭 に 因ん だ イ 展 覧 会」 開催 さ れ た が主 催を神戸新聞社、 場料 は無料 だ この ベ ントが 展覧会 っ たが、 。 っ また、 後援を海軍省 て は 出 陳者 を ま と め た も の で あ る 。 方 か ら の 出品も見 られ る 。 っ こ こ か ら は、 一 月 きないが 、 16 日 か ら 須 、 こ こ で は大桶公六 百 日 より 3 0 日 ま で 三 越六 階で 「 大桶公 23 兵庫 県 神戸市 と して 催行 さ れ た 。 入 た寺社 や個 人が 所有す る事物 が展示 さ れ た。 表 、 、 神戸市 か ら の 出品が 多 い もの の 近 畿 地 方 は 楠 公 生誕 の 地 で あ る 河 内 地 方 か ら が 多 い こ こ で は紹介 で 真価 あ り神戸 に は未 だ 。 3 寄 付 金 を集 め る 章 銭 箱 が 設 置 さ れ た 。 民 間人 が 所 有 す る 事 物 の 方 が 寺 社 の そ れ よ り も 多 い 紙 幅 の 関係 で 月 文部省 後述す る銅像建設の た め の に は絵画 や彫刻 や文献な どと い 3 年 19 35 霧 島人 形 展 が 開 催 さ れ た 同年 、 た。 っ こと も分か る 。 、 。 近畿 、 中 国地 全体 と し て は 具体 的に 陳列さ れ た事物 は 例 え ば 楠 本 家 か ら の 出 品 は 「 天 下 の 逸 品 で 国 宝以 上 の 度 も出 陳 さ れ た 事 な く 今 回 初 め て 」 (『神 戸 新 聞』 1 9 3 5 年 3 月 19 日) と紹介 さ れ て い る。 展覧 会 の オ ー プ ンに 向けて 、 会場 に は次 々 と事物 が搬 入 さ れ て - 12 2 - い っ た 。 1 9 日 に は吉野神 宮 森 正人 年 の 楠 木 正 成 を め ぐ る い く つ か の 出来 事 - ナ 1 93 5 か ら 「 楠 家 世 譜」 「 楠 正 成 公 の 手 紙」 「 正 成 公 の 書」 「 正 成 公 祈 願 文」 点 の 四 表 展JE 会 へ シ ョ ナル ・ ロ カル ー ・ 資本 - 出品者 とそ の 出身地 の 同 、 じく 青 野 山 吉 水 神 社 か ら 「 大 塔 宮 御 所 用 御 湯 呑」 「 楠 正 成 公 所 用 矢 筒」 「 後 醍 醐 天 皇 玉 座 御 写 真」 「 吉 水 全 集」 等 葛 木 神 社 よ り 「 大 桶 公 画 像」 金剛山 、 四 条畷神 、 社 か ら 「 小 楯 公 啄 懐 詩」 が 搬 入 さ れ た ま た、 特 に 学生 や 児童の 教育効果の 向上 を 目指 し て 、 パ 湊 川 合戦の 面が 設置 さ れ た 十 ノ ラ マ 一 。 い た パ ノ ラ マ は 見る 、 者 と背景 の 間に 事物 を配置す る こ とで 展 示 に 動 的 な 効 果 を与 え る 装 置 だ 会場 ノラ マ が で は、 入 り口を入 設置 さ れ て お り 、 っ て 正 ま た、 パ 面に の 場面 は 史実 に 基 づ 兜や い た れ た。 名前 は 異 な る も の 園地 内 の イ ベ ン トで も パ そ こ で の 人び ノ ラ マ で た 正 成公及 び家 臣の 鎧、 、 た。 っ との 経験を方向付 け て い く こ とに な と思 わ れ る 。 場 当時の 展示 に お い て 積 極的 に 用 い ら れ て この 。 、 っ た 用い ら れ それぞれ もの だ と紹介 さ 、 先述 の 須磨遊 「 楠 公 婦 人」 「 桜 井 駅 訣 別」 「 小 楠 公 と 排 の 内侍」 「 菅 原 伝 授 鑑 車 曳」 、 「 酒 呑 童 子 大 江 山」 「 源 平 扇 屋 熊 谷」 「 地 震 加 藤」 「 鶴越 逆 落 し」 「 源 平 戯 曲の ほか の 、 「 弘 法 大 師 波 切 不 動」 「 親 鷲 上 人 石 枕」 「 日 蓮 上 人 龍 さ ら に は 「 日 露 召 集 令」 「 日 本 海 海 戦 の 三 笠 艦上」 、 設置 され た 展覧会 な され 、 に もデ 谷 合 戦」 等 の 歴 史 物 法 難」 、 な ど信仰 に 関す る も ラ マ が 千早城 を想起 させ る デ コ ョ 。 戻れば 会場が あ る六 階 、 それに よ レ ノ 等の 戦争 に 関す る もの 等の ジオ の 階段中途か ら 、 シ ー ョ た め の 装置 で あ レ シ ー 来 訪 者 に 建 武 中興 や 楠 木 が 活躍 し た 時 代 を感 じ さ せ よ う と し た て っ へ 場 の 正 面 に は 河 内 の 楠 批 庵 に あ る 大 桶 公 と 婦 人 の 御像 を 稚 コ 口 - ン も 来 訪 者 の 会 場 で の 経験 を っ た。 別言す れ ば 、 で きる 、 来 訪者 、 の 経験 は た 木 造 の 祭 壇 を据 え た 。 っ パ ノ ラ マ 限り 主 催 者 側 の 意 図 し た 方 向 へ と 導 く こ う し た事物 の 、 。 ンが ま た会 配置に よ っ て 方向付 け ら れ よう と した の で あ る。 展示会 の 模 様 は 、 新聞 の 報 道 に 依 る しか 知り得な い 来 の 降 雨 に もか か わ ら ず 続 々 と 観 衆 が 会場 に 蛸 集 し 、 とい う 。 3 月 2 5 日 に は学校 休暇 中の 学生、 う。 入 口 に 設 置 さ れ た 祭 壇 や 湊 川 合戦 大 パ く に 会場内の 事物 で は 、 生徒 そ れ に よ る と、 2 日 目の 24 日 に は朝 。 午後 に は前 日 に 数 倍の 教職員 , ノ ラマ に 、 祈願文 、 楠木家の 世譜 う。 り 「 場 内 に 楠 氏 誠 忠 に は 対 す る 敬 度 の 気」 ( 『神 戸 新 聞』 紹介 さ れ た 入り い を見せ た 歴史研 究家 の 増 加が 見 ら れた と言 人 び と は 「 敬 度 と 感 嘆 の 気 分」 ま た、 、 ぎわ を感 じ 、 と 天 野 山 金 剛寺 か ら 出品 さ れ た 楠 公 父 子決 別 に 関 わ る 「 銀 鞘 龍 文 の 短 刀」 吉野神 宮が 出品 した 楠木正 成 の 画 幅 口の 、 に 祭壇 、 、 楠木 の 手鏡 が 混雑 して 会 場 中央 の 大 桶 公 木 像 と 正 季 以 下 十 六 士 。 - 1 23 - 19 3 5 年 3 の 霊牌 月 26 い た と言 に は礼拝する 日) が漂 っ 、 姿が あ て い た と 人 文 論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 翌26 日 された。 さ れ る。 に はさらに ま た、 20 08 人出が 増 し 本 当な の か と思 日 より こ の 26 終日 、 会場 は動 き が取 れ な , て しま う が っ 場 内で は タイ 、 ヘ 毎 日 の よ う に 会場 、 イ レ コ 公」 琵 琶 「 大 楠 公」 教 育 劇 「 の よ う な音楽 に より 「 来場 者 に た と報道 っ 足を 運ぶ 熱心 な人 もい た と に り」 つ 新流行 映画 物 語 「 正 行 公 と 耕 の 内侍」 詩 吟 「 大 楠 巻」 浪 曲 「 大 楠 公」 層潤ひ 多い 気分を豊か 一 混雑 ぶ り だ ドが 出版 し た新小 唄 「 楠公 ま ー 歌 「 輝 く 忠 誠」 童 謡 「 楠 公 を どり」 唱 歌 「 大 楠 公」 大 桶公 観 心 寺 の い ほ どの の レコ に し て ゐ る」 ドが か け ら れ た 。 ー が こ 「 場 内多数の 陳列 出 、 品 か ら 来 る 敬 度 な 感 情 は 旺 溢 し て 今 更 に 楠 公 の 偉 業誠 忠 を 思 は す も の 多 く 満 堂 尽 忠 偉 烈 護 国 の 精神教育 の 史料 の 充実を 語 っ 見る こ との 必要性 と そ れ を 通し て の 、 ナ ルな アイ デ ンテ ィ テ ィ 業 三越というデ 、 パ 止 ま ぬ 」 (『神 戸 新 聞』 1 9 3 5 年 て 滴養 に トが ー エ 重要 性 が は ジ ェ ン トと して 月 3 っ 神 戸 新 聞 社 の 出 版 資本 主 義 、 ー 国民教育の きり と語 られ タイ 、 と 2 7 日) ヘ 展 示 物 を丁 寧 に 、 もい た て ョ イ を は じ め とす る音楽産 あ る い はそ れ らの 総体 と して の 、 ナ シ 。 エ ジ ー ンシ ェ ー が 関係 して い た の で あ る。 ( 4) 銅 像 設 置 展覧会 は会期が 過 ぎ れ ば 撤収さ れ る 行う た め に は 恒 久的 な装 置が 有効で あ る 、 成の 銅像が 建立 さ れ た が の 『神 戸 新 聞』 に 神戸 で の 。 この ために 年 に 宮城の 1 90 0 そ の 他に 楠木 の 銅像 は建て られ て い な か 、 っ ギ 二 ー 神戸市 内の 、 置さ れ て い た と思 わ れ る。 いく つ か の とい うの は 、 い た ら し い こ と が分 か る 学校の 校庭 に はす 19 3 5 年 月 5 と あ り、 20 日 に で に こ の 、 神戸市 楠公 に 関係 した絵画 や書道の 作品を貼付 し た灯篭 で 飾 り つ け 、 児 童 が 整 列 し て 「 大 楠 公 奉 賛 歌」 を合 唱 し 楠公六 百年 祭 に 際 して て 設置 さ れ た 。 19 35 、 企画 は この は翌 6 月 下旬 に 神戸新 聞社を訪れ 新聞社側が それ ら に 満足 す る 銅像が イ メ ー ジ さ れ た。 戦 っ た 迫力を表現 し ( 4) 、 、 、 楠公 の 武装立 像 、 、 ( 1) 国民精神 滴養普及 を企 景観は 国家イ デオ ロ ギ ー の 大桶公精神を形態 された。 る」 装置と して 神戸新聞社 に よ る と 奮戦 時の の上 に 種 を 提 示 し た もの 、 の っ これ 。 。 斎藤 、 神戸 次 の よう な 要求を満た す 表現 し ( 2) 、 湊川で 戦死す る 、 も っ 楠公精神 の 宣揚 を図り 、 そ れ に より 「 公の た。 皇室を中心 とす る 、 と さ れ た の で あ る ( 『神 戸 新 聞』 5 月 2 2 日 付) の 期待 を担 二 っ たの で あ る。 この イメ ー 。 まり この 、 ジ作り に は、 、 二 関保 条 門前 の 銅 像 と は 全 く 別 の も の だ と 主 張 重橋 前 楠 公 像 が 元 弘 の 聖 駕 奉 迎 時 の 姿 で あ る の の だ と言 う。 つ 。 条 件 を兼 ね 備 え る 湊 川 公 園 の 銅 像 は 川公園の もの は湊川 二 を芸 術 的 に 表 現 す る こ と で あ 之 助 が 斯 道 考 証 の 見 地 か ら ア ド バ イ ス を与 え た こ の よう な 。 ( 3) 三 万 余 騎 に 対 し て 七 百 余 騎 の 小 隊 で 少 し も負 け る こ と な く こ う した条件 つ 武装乗馬 の , 両者 は検討を重ね た結果 、 誠 忠 に 対 す る 追 慕 崇 敬 の 念 を 新 た に す る と 同時 に の そ の 前 に 全校 銅像原型の 製作が 構造社 の 斎藤素 厳 に 委嘱さ れ た こ と が なく すなわち 直前の 緊迫 し た状況 を反 映 し 楠木 に 関す る 映画会 を開い た 、 年 5 月 の 湊 川 神社例祭前 後 に 社 内会議 で 決 定さ れ た を受 けて 社内 に 建設委員 が 設立 さ れ 、 校庭内の 楠公銅像前 を 各学年の 書い た 「 非理 年 に 湊川神社 の 近く に あ る湊 川 公 園に 銅像 が 神戸新 聞に よ 19 34 、 、 、 。 蓮池尋常小学校 で は 法 権 天」 こ こ で は 楠木の 死地 時点で は 楠木の 銅像が 設 の て い る か らで ある。 旗印 呼び か け を 条 門前 に 楠木正 銅像祭りが 行 われ の の た。 1 93 5 年 5 月 10 日 付 遺 憾 と し て そ の 建 設 実 現 を 常 に 念 願 し て ゐ た」 の を 銅像 の 設 置が あ る人 々 か ら は求め ら れ て 詳細 は不明 だが 、 ロ 掲 載 さ れ た 湊 川 新 開地 周 辺 の あ る 店 主 の 言 に よ る と 「 自分 は 大 桶 公戦 死 の 地 神戸 に 公の 銅像 の な い で ある 日常的 に 大桶公精神 と い う イ デ オ 。 当初 は 銅 像 設 置 場 所 と し て 一 1 24 - 、 に 湊川 神社 対して 、 、 湊 会下山公 正人 森 園 な ど も考 え ら れ て 年 の 楠 木 正 成 を め ぐ る い く つ か の 出来 事 - ナ 1935 い た。 事が 法規上不可能 で あ る しか し も地 理 的 に 遠 い と い う こ と、 こ とで 湊川神社 へ 、 設置 は 同 の 社 内に 一 シ ナル ョ 神を の つ 一 ロ ・ 会 下 山 公 園 は 湊川 公 園 と 同様 に 古 戦 場 で あ る が 斉藤の 、 来神に 踏査が なさ れ た結 果 際し て カル ー 二 つ の 資本一 ・ 形で 稚 る 湊川 公園 よ り 、 湊川 公園 に 決定さ れ 、 た。 神戸新聞社 は え て い く。 計画 を 1 9 34 年 8 月 この 例え ば 紙上 で 発表 し に 新春 の 読 者奉仕と して 福引 き を行 、 三 等 は楠公 史蹟 の 図 、 た 際、 っ 四 等 は 楠公父 子桜井駅訣 別図で あ が 行わ れ た。 神戸新 聞社の 計上 し た予算 は ん そ れ で は 十分 で は な か の へ た。 っ 収益か ら こ の 万 5 千 円で 2 そ こ で とす る湊川神社 周辺の 店舗か ら だ け で なく、 こ と が分 か る。 い しか も姫路の 場合 た 工 場 や 機 関庫 と い っ か ら も職 員 や 生 徒 の そ れ を見る と さ らに、 に あ 風水害 の 被害 校 か ら の 寄付金が 紹介さ れ て っ い る と り わ け 家 島内 の 坊 勢 で は 壕金の 必要 が ほ の め か さ れ て 二 の 2 い る。 この ほか 銅像 建立 の ため の 地鎮祭が 後東京 で 構 造杜 と い う 会社 に よ 日に 巣 鴨駅 に 搬 出さ れ 付けられた 。 、 、 風水 害で 漁船が 全部大破 、 の 尊 い 純情 的美挙 に は 、 銅像 桶公六 百 年祭直前 に 仕上 げ ら れ た の 訪れ 、 台座 の 取 り付 け に 立 ち会 行わ れ た 。 式 で は林 陸相 、 っ ク に よ ッ で あ る。 た。 大角海相 、 より 般 層の 一 。 て 10 月 4 、 30 そ 。 日 に 鋳工 を 終え 、 5 月 日朝 に 湊川 公 園 に 到着 し 11 、 設置 は 1 93 4 年 12 月 20 日 ま で で あ の 、 湊川 神 社 宮 司 を斎 主 と し て 執 行 さ れ た 、 っ と あり 一 先 述 し た 「 大 橋 公展 覧 会」 会 場 に 、 製作が 続 け られ た銅 像は て っ 鉄道 と ト ラ 当初 の 予 定 で は 学校 、 百戸 強 か ら 1 5 円 の 寄 付 金 が 集 め ら れ た 。 備 え付 け られ た 章銭箱 に 集 め ら れ た金銭 が寄 附され た 、 また 軍是 と 。 寄 付 金 の 収 集 に 対 し て 「 さ う し た 中 か ら も楠 公 に 捧 ぐ る こ 年3 月20 日 、 例え ば 4 月 1 0 日付 県 民 も 自 ら 心 を 打 た れ る も の が あ ら う」 (『神 戸 新 聞』 1 9 3 5 年 4 月 2 7 日) 1 93 5 い るし た飾磨 郡家島に お い て も、 「 大忠 臣の 銅 像建設 に 漏 れ て は な ら あ る い は流 出す る被害 を 受 け た に もか か わ ら ず、 の 月 か ら は銅像 3 滑川 商店 を は じめ 、 姫路会議所か ら議員 や職員 か ら 醸金さ れ て 、 と銅像建設 の 寄付 金が 拠出さ れ た。 町 を挙 げ て 。 もち ろ 、 姫路 や 城 崎 郡 や 豊 岡群 な ど か ら も寄 附 が な さ れ た 児 童か ら お 金を 集め て 寄付金と して 送付 さ れ て お り ・ 30 こ う した 千 円を支 出し た が 1 寄付金の 供出が 求 め ら れ た 。 。 た 職 場 で 集 め ら れ た 金銭 も寄 付 金 と し て 送 ら れ て い る 。 っ 新 聞 紙 上 に は 城 崎郡 の ぬ」 ま た 、 1 9 35 年 3 月 に は湊川 新 銅像 の 建設費が 寄 附さ れ た 公表さ れ始 め た で 、 日 ま で の 1 5 日 間、 「 大楠公銅 像 30 神 戸 新 聞社 か ら は 、 市民か らの 寄 付 者 の 氏 名 と 金 額 が 神 戸 新 聞紙 上 、 等 と 二 等 は 大 桶 公 銅 像模 型 一 た。 っ 開地北部本通 り の 商店街 を 中心 とす る湊川 公栄連合会 で は 建 設 協 賛 大 福 引 き 売 出 し」 年 よ りそ れ を積極 的に 読者 に 伝 1 9 35 、 たが、 っ 日 に 据え 遅延 して 大 銅像 の 原型 製作者 と鋳造 担当者 も1 1 日 に 神戸 を そ して 1 93 5 、 松 田文相 年 月 5 22 日午前 10 時 湯 津知 事 ら が 祝 辞 を 伝 え 、 銅像 の 除幕式 が 、 て い る。 式の様子と して 午 前 正 十 時 湊 川 公 園 入 口 正 面 に 吃 立 す る 銅 像 前 祭壇 を 中心 に 紅白の そ の 南方及 び 西方に 設 、 諒 幕 あ ざ や か な る 所 定 の 場 所 に 藤巻 斎 主 以 下 祭 員並 に 参 列諸 員 着 席 る 修献 あ り 、 次い で へ た る 大 天幕 、 先づ 国家君が 代 の 荘重 な 、 恭 々 し く 進 み 出 た 祭主 進 藤 本 部 長 の 手 で 花 尚岩 十 七 尺 台 座 城 、 白布 に覆 は れ た る 銅 像 は す る す る と 除 幕 さ れ ( 以 下 略) と あ る (『神 戸 新 聞』( 夕刊) 川 商 店 が 中心 と な っ て 1 93 5 年 5 月 2 2 日) 模 擬 店 を 開き 、 酒 、 ビ - ー 除幕式当 日 の 。 ル 1 25 、 - サイ ダ ー 、 日 に は 22 コ ー ヒ ー 、 湊川神社 周辺 か ら関東煮、 焼鳥 の 、 滑 す 人 文論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 2 0 08 鰻 頑 等 を 楠 水 会 席 部 仲 居十 五 名 し、 赤飯、 同階上食堂女給十人 の ほ か て 提供 し た (5 ) ロ 神 戸 観 光博 覧 会 湊川神社 に よ っ 神 戸 新 聞社 や レ コ 参画 して 喚起 し レ コ ロ 。 ー ド販 売 合 戦 ー きな が ら行わ れ た つ て いた レ コ っ ドを 制作 ー 銅像 設 置 、 っ 楠木 をめ ぐる た、 っ 、 連の イ 一 兵庫 県や 神戸市の ロ ベ ント カル ー 。 神戸市や 河 内と い う 局所で 行わ れ た イ し か もそ の レ コ o 、 販売 さ れ た 。 資本 ベ ント ドは神 戸市を中心 的な 舞台 に して 販 ー そ の 商 品 は 国家 的 な レ ベ ル の ア イ デ ン テ カ ル な イ ベ ン トを 資 本化 し 集中的に とい ま た本稿 で は 紹介 して い な い が 、 湊川 神社 と い う 宗教 ド会 社 は 、 ー 販売 した ・ しか もそ れ は局所 で 、 レ コ 、 ド会 社 と い う 資本 、 ー 全 国的に 販売網 を持 売された 、 ナ ル ョ 同年 に 行 わ れ た 「 大 桶 公 六 百 年 祭」 て な 行政 が緊密 に 結 び に 会 席部 仲 居 十 五 人 ナ ヤ 。 こ う し た、 は、 - 、 共立 検 芸 妓 三 十 余 名 を併 せ て 総 員 八 十 名 と 多 数 の 男性 店 員 に よ 、 カ ル を / が作る ナ シ ー 同階 上 食 堂 部 女 給 十 人 、 ロ 、 カル ー 、 ナ シ ョ ナ ルの ィ テ ィ を 複雑 な関係 が そ こ に は う か が え る。 神 戸市が イ ま た、 新 聞社 が 入 っ 越 で 展 覧会を行 願 出た と こ ろ い 22 日 付) り て お ニ シ ア チ ブ を取 て 催行 し た 神 戸 観 光 博 覧 会 の 発 起 人 の メ そ の 博覧会の 進行状況を逐 、 銅像設置 て い る。 っ っ に お い て は、 新 聞紙 上 一 、 に 、 水垢離を して 臨 ん だ と い う ナ シ 、 こう したロ ー ンテ ィ テ ィ ロ ギ ー ョ カ ルな エ して を持 つ よ う に な る ロ ー 外 柵 を設 置 し た で 。 さ ら に 銅像 の 台 22 日の ジ へ カル な ー 作り上 げた の ン トの ェ ロ 共同が す ぐに 積極的 に そ こ に て い るように っ 。 思わ れ る 『神 戸 新 聞』 に は、 年 ー 3 月 カル 、 それ に 賛 同す る 国民を 作り上 げ 、 こ う した ロ 参与す る事 で 、 ー カ ルなイ ベ ン トに 国民 と して の アイデ す で に 紹介 した よう に 、 楠公銅像 に 際 金 銭 的 な 問題 も あ ろ う が 、 。 こ れ は神戸新聞社の 愛 着 心 を 育 もう と い う 意 図 も あ の とい う ロ で あ る。 カ ル な 日常を 送る 人 々 は 、 政 府 と 神 戸 新 聞社 1 9 35 、 そ れ は 国家 か ら の 大 々 的 な 呼 び か け と と も に あ る の だ ろ う が 、 。 般か ら の 寄付金 が募 られ た して 人 び との 銅像 月 ー 的な 呼び か け に 応 え そ れ と は 少 し 異 な る 回路 を 持 一 神戸市 とい う 。 ナ ル なイ ベ ン トを る こ と に 繋が る わ け で は な い 。 お け るイ デ オ て三 勝 田 神 戸 市 長 自 ら が 現地 を 実査 し場 所 を 指 定 し た (『神 戸 新 聞』 1 9 3 5 年 5 月 な 資本が 共同 して しか し、 に は神戸 博覧会 に 合 わせ 座 表 面 に 飲 入 し た 『大 桶 公 像』 と い う 文 字 の 揮 毒 を勝 田 市 長 に 依 頼 し た と こ ろ 半ば ー 新 聞社 が 銅 像 の 建 設 場 所 の 使 用 等 を 神 戸 市 に 神 戸 市 は 設 置 さ れ た 銅 像 の 周辺 に 植 樹 を し た 上 。 伝え た し で ンバ 社内会議 に お い っ た。 寄付金を通 除幕 式の 模様 を 伝 え る 19 35 年 5 て 現 下 の 非 常 時 局 に 処 し て 適 々 六 百 年 祭 に 相 当 し 楠 公 精 神 の 再 認 識 を 全 国民 に 求 め て 之 を 宣 揚 す る こ と が 主要 の 目的な るが 故 に 士 より集 め 全兵庫県民 が 、 、 少数の 人士 の 財 に よ る事 は適 当な らず こ の 銅 像 を 仰 ぎ見 る 毎 に 、 彼 等の 、 極 め て 零砕の 資金 をより多く の 人 拠出せ る少額 資金の 集積 に よ りて完成 し た る も の な る こ と を痛 感 せ し め 是 に よ り て 恒 に 楠 公 精 神 宣 揚 に 関 心 を繋 が し む る に あ ら ざ れ ば 意 味 を な さ ず と の 結 論 に 達 し ( 以 下 略) と議論 さ れ た と あ る 。 実際 、 と し て の 銅 像 と い う 表 現 が 何 度 も用 い ら れ て い る 。 新 聞 紙 上 で は 県 民 や 市 民 の 「 総 意」 それ ら は、 例 え ば 次の 通り で あ る 。 - 12 6 - 森 正人 年 の 楠木正 成をめ ぐる い く つ か 1935 れ こ そ 兵庫県民の 総意 は こ こ 赤誠 こ 、 に 見事 な 結 晶 と な も る 零細 な 浄金が 積 り構 っ て 出来上 (『神 戸 新 聞』( 夕 刊) 現 はれ た て っ 出来 事 - ナ の た そ の 偉大 な 刀 っ 僕 らの 、 角釆た の に薄す ぼ ん や り し て皆目や (『神 戸 新 聞』 市民 、 年 19 3 5 手 の 月 5 り 、 、 カル ー 資本- ・ 俺 ら が五 十 銭 県民の 、 てゐ る へ で な ん と か 出来 ん か な - 」 、 銭 一 二 銭 が 横 り積 て 出来 た ん だ っ ん」 / 夜 の 銅 像 下 に 訪 れ た 髭 の 濃 い こ は さ う な 紳 士 「 折 へ と相手の 男 に語 らな さう に話 しか け た 建 設 さ れ た 銅 像 だ か ら 市 の 電 気 局 が 大 照 明灯 ぐ ら ゐ 建 て 、 も よ い ぞ」 、 日) 22 後 者 は 湊 川 公 園 の 銅 像 付 近 の 様 子 を 「 描 写」 も 「『こ ん な 銅 像 が 神 戸 に そ こ で 銭 一 ロ ・ 年 5 月 2 2 日) 1935 せ」 「 ほ ん ま に な ア お 金 は 粗 末 に 出 来 し ま その 男 「 さうだナ ナル ョ 楠公銅像 は金 の 尊 さ をも教 、 金 に糸 目の な い 旦那衆相手 の 芸 妓二 人の 話 「 あ の 立派な 銅像が そ れ つ シ で し たもの だ。 き た なん て ! 僕か 同日 新 聞 に は 別 の 「 描写」 の 十銭 寄附 し て て この 銅 像 を憶 があ たん へ だ』 / 少 年 た ち が 十 銭 の 浄 財 を 出 し た こ と に よ っ て こ の 銅像 を 仰 ぐ た び に 楠 公 精 神 が 少 年達 の 頑 に 波打 たの だ、 っ を 通 し た 「 地 域」 これ 以 上 の 有効 且 適 切 な 実 際 教育 が 他 に あ ら う か」 つ の ア イ デ ン テ ィ テ ィ が示さ れ て い るの だ が へ 銅像 に 対 して 挙手す る海軍士 官 の 様子 の 描写が 置か れ て 木 に シ ョ 対す る 、 軍部の ナル なア イデ ンテ もち ろ ん ロ 、 の 献金 を 行 ィ て い る。 それ は お そ らく、 間に お け る葡 金の 論理が 働 い デ ンテ ィ テ ィ は も構 成 さ れ そして、 替 え ら れる 日 、 々 まり テ ィ は他の ィ 飾磨郡家 島で は風水害 に 遭 い 、 っ つ い る。 こ れ は軍神 と して こ こで は ロ この ロ 別の 漁船 に 深 刻 な 打 撃 を 受 け な が ら も 、 て い た の で はな い か と思 わ れ る。 神戸新聞紙上 に い ず れ に せ よ、 掲 載 さ れ る 寄付 金 の 情 報 ( 氏 名 住所 、 ロ 、 ロ カ ル ー の ア イ デ ンテ ィ テ ィ は、 へ ナ シ 合 せ て 国 民 精 神 を作 興 す る 所 以 で あ る」 上 に 益 す る」 談話 の 「 郷 土 徳 化」 ョ が あ る (19 35 と 「 国 体 の 明 敏」 ナ ル なそれ へ の 年 月 5 ョ ナ ル 楠公だ 、 「 誰 か」 或 を言 ひ に を 介 して 同日 の 紙上 、 2 3 日) と あ る。 読 み替 え は 、 も 「 我 等」 へ と読 み 之 が吾 等の 期す る楠 公 、 に も東 久 遠 附事 で 国民 精 神 作 ま た 兵庫県知 事 の 談話 に も こ れ こ う した ロ ー カル へ の ア イデ ンテ ィ き わ め て 両義 的 で 暖 味 な 言 葉 を 通 し て 行 わ れ て 例え ば 、 「 誰 か が 『こ れ を 見 て ほ ん と う と い ふ 気 が す る』 と つ ぶ や く」 (『神 戸 新 聞』 1 9 3 5 年 5 月 2 7 日) も誰 な の か が 明 示 さ れ る は た ま た 国民 で も あ り得 る 。 5 カル なア イ ー の アイ デ ンテ ィ テ ィ へ とある し が 併置さ れ て い る。 そ れ は 先 に 見 た よ う に 併 置 さ れ る だ け で な く、 の に カル な空 ー 金 額) 、 先 。 な お 銅像 、 地域と の 競合 的な 意識 と と もに 務 官 池 田 亀 雄 「 今 後 永 久 に 独 り 本 県 市 民 の み な ら ず 全 国 民 親 し く そ の 威 容 を仰 い テ ィ の ナ シ テ ィ とナ 地域 と の 競 合 を 通 し て 獲 得 さ れ も す る 『神 戸 新 聞』 社 説 に は 「 兵 庫 県民 有 志 の 協 力 。 、 に よる ィ あ る い は強化 され た と言え るだ ろう。 、 精 神 を宣 揚 し 興の 崇め ら れ る 楠 カル なア イデ ンテ ー 、 テ ィ が併置 され て い るの で あ る。 カル なア イデ ンテ ー 紹介 し た よ う に へ 畏敬 念 を示 し て い る 。 の や は り銅像 、 少年た ち の 描写 の 前 に は この 、 とあり こ と なく、 した が っ に 我等 と い う 言葉か ら は、 て そ れ は市民 で そ れ ら 自 身 が 担 う 意 味 は状 況 依 存 的 で 、 い る。 も県民 で も 限りなく軽く 、 、 かつ 重い。 おわ りに 本稿 で は 1 9 35 聞社 に よ る 一 年 に 行 わ れ た大桶 公六百年祭 に 平行 して 行 わ れ た 連の イ ベ ン トに 注目 した 。 神戸観光博覧会 で は 一 127 - 、 、 神 戸観光博覧 会 と神戸新 国家 政 策 と 結 び つ き な が ら 日 本 人 文論 叢 ( 三 重 大 学) 第2 5 号 の 2008 歴 史や 産業を 示す 物 的な展示 が行わ れ た しか も 。 カ ル な レ ベ ル で の 同様 の 物 品 と 並 置 さ れ て い た 。 が並 置さ れ る こ と で に は観 地元 の 共鳴 しな が ら の イ ベ ン トに しかも 。 れ」 の へ 誇り と し て 銅像設置 に お い 、 節 化さ れ た の と吸収 し て い く。 の ね に 神戸市 と い う カ ル な もの と ナ シ ェ っ た。 ま た銅像設置 に お い て は 。 て は ロ ー もの ナ ル な い た の で あ る。 展覧会 の 展示様式 神戸市 と の 緊密 な 、 そ れ ら は地 が 反復さ れ シ ョ 元の ア イ デ ン テ ィ テ ィ りロ ナ ル で あ を呼 び 覚 ま し 、 カ ル で もあ る 「 わ れ わ ー 実践 的 に 国家的 な ア イ デ 、 に おけ ンテ ィ テ ィ が 分 で あ る。 シ ナ ル なイ ベ ン ト に参画 す る こ と に より ョ 済 的な 利益 もえ て い た は ず で あ る, 販 売合戦を 繰 り広 げ て い た。 ある い は レ 関す る レ コ 国 家 的 な る もの と 資 本 的 な る も の と の 複 雑 な 結 び つ コ ー ド会 社 も 読 者 の 関心 を 引 き 、 楠木 、 に ー 経 、 ドの 激 し い きがあ っ たの 。 も ち ろん 、 湊川 神社 で 行わ れ た大桶公六 百年祭で も り 広げ られ た。 それに つ い て は 別稿 、 で ロ 、 カル とナ シ ー ョ ナ ル の 検討 した い。 参考文献 週 刊 朝 日 編 ( 1 9 8 7 ) 『値 段 の 明 治 大 正 昭和 風 俗 史』 朝 日 新 聞 社 。 「 郷 土」 ョ 地 元 の 商 店 街 や 兵 庫 県 内 の 「 地 域」 、 銅像設置後も ナ 銅像 と い う ク リ シ 神戸新聞社 は こ う し た ナ で ある ー 展覧会 と銅像設 置を 行 、 る積極 的な奉仕活動 や献金活動が認 め られ た。 国民 と い う 主 体 ロ 、 つ 商 店 街 も 同調 し た 活 動 を繰 り 広 げ て い た 。 光博覧会 の そ れ と の 類似性が 認め ら れ た 連携 が認 め られ た まり つ 物 品は 局所 的な事象と 国家的な事象 の 連続性 が ほ の め か さ れ て 、 そ して こ の イ ベ ン ト に は、 神 戸新 聞 社 は こ それ らの 、 研 究 会 編 (2 0 神 戸観光博覧会編 ・ 03 ) 『郷 土 一表 象 と 実 践 - 』 嵯 峨 野 書 院 。 西 川 長 男 ( 2 0 0 1 ) 『[ 増 補] 国 境 の 越 え 方』 平 凡 社 。 森 正 人 ( 2 0 0 5 ) 「 節 合 さ れ る 日 本 文 化 と 弘法 大 師」 森 正 人 ( 2 0 0 7 ) 「 国家 の イ デ オ 山 崎 藤 吉 他 編 (1 9 。 発 行 ( 1 9 3 5 ) 『楠 公 六 百 年 祭 記 念 観 光 博 覧 会 誌』 1 1) ロ ギ ー 地 理 学 評 論 7 8- 1 、 装 置 と 国民 的 偉 人」 人 文 論 叢 2 4 『南 北 朝 正 閏 論纂』 。 - 12 8 - 1 、 - 27 165 頁 - 。 177 頁 。 節 合 実践 は 繰