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Page 1 Page 2 ズヴャギンツェフの 『帰還』 について 今年 ー 月東京外国
高橋清治
「ズヴヤギンツェフの『帰還』について」
『スラグ文化研究』第4号(2005年3月)、 pp. 8卜89.
ズヴヤギンツェフの『帰還』について
高 橋 清 治
今年1月東京外国語大学でズヴヤギンツェフ監督を招いてのシンポジウムが行なわれ、その午
前中には特別上映もあった。 2003年ヴェネツィア映画祭でグランプリの金獅子賞と新人監督賞
をダブル受賞した『帰還』 (<{Bo3BPalqeHHe''.邦題『父、帰る』)の噂はもちろん聞いており、上
映館に行こうとしたら急用が入ったりで、見そびれていた「遅れて来た観客」であった。夕刻の
シンポジウムは大入りで、会場からの質疑でロシア語専攻の学生、院生が積極的に発言して、盛
り上がった。レストランでの夕食会でも、学生からの質問は続き、丁寧にこたえようとする監督
の姿勢も好ましかった。夕食会の席で私も第一印象を述べた。その後に考えもし、ロシアにおけ
る議論も読んでみた。この作品についてここで少し論じてみたいと思う。
最初に、異例ながら、ロシアでの代表的な議論の一つであり、物語の大枠、基本的な映画情報
も与えうるものなので、 『コメルサント』紙のプラホフの評論「イヴァンとアンドレイの少年時
代<<HBaHOBO HAnAPeeBO meTCTBO''」の主要部分を訳出しておこう。ヴェネツィア映画祭に先だっ
こと2週間の時点での評論である。
この現象〔すでに映画界で世界的に注目を浴びはじめていること〕の謎解きは、当然、映
画の中にさがし求められるが、初めは見つからない。物語は極限までシンプルで、いつでも、
どこでも、どの国でも起こりうるように思われる。父(コンスタンチン・ラヴロネンコ)が
長年の不在の後、家族のもとに帰ってくる、二人の未成年の息子アンドレイ(ヴラジミル・
ガ-リン)とイヴァン(イヴァン・ドプロヌラヴオフ)を釣りに連れて行き、息子たちに男
のしつけを教え込もうとする。心理的な葛藤、性格の対立、屈辱-の憤りや自尊心の対立が、
悲劇的な結末をもたらす。実際これがすべてである。人寄せのたねとなりうるような、いか
なるアクチュアルな問題も、いかなる社会的あるいは民族的な背景もない。
このようなシンプルな物語は、もちろん、神話の支えなしではすまない。父が来た日に少
年たちは聖書への挿絵「アヴラハム、イサクを生費にささぐ」のページを開く。映画の出来
事は「聖書の」創造の七日間、つまり日曜日から土曜日の間に起こる。息子たちは、まるで
死せる者のように、眠りこける父を初めて目にするし、小舟で謎めいた島に息子たちを連れ
て行くときには、冥界の川〔ギリシャ神話。日本でいう三途の川にあたる〕の渡し守カロンの
ように見える。そして総じてやや粗暴で寡黙な振舞いは冥界から訪れた人を思わせる。少年
たちに厳しい軍隊的な訓練を叩き込み、整列させる、誰かに電話を何度もかけ、島でなにか
鉄の箱を掘り出す、実際かなり好感の持てないタイプである。これは筋立てではまったく埋
め合わされてはいないのだが、すべてをあわせて、犯罪ないしは軍事の世界、もちろん男性
82
的な世界で、おそらくはロシア的な世界を漠然と連想させている。
プロフェッショナルにはこの映画はほとんど非の打ちどころのないほど仕上げられてい
る。緊張は、 -カット、 -カットと高まり、何事も起こらず、ただ草がそよぎ、木がざわめ
くだけのシーンで頂点に達する。映像的な処理も音楽的な処理もすぼらしい。 「サスペンス」
や「サウンドトラック」ではなく、これらの古い用語を用いたい、なぜなら本物の芸術につ
いて語っているのだから。そして、この映画のほとんどすべての制作スタッフが、これがデ
ビューか、あるいは映画に最初の-、二歩(テレビの連続ものは数に入れないで)をしるし
たばかりであることに、あらためて驚かされる。監督アンドレイ・ズヴヤギンツェフ本人は
言うまでもなく、脚本のヴラジミル・モイセエンコとアレクサンドル・ノヴオトッキイから、
撮影のミハイル・クリチマンと音楽のアンドレイ・ヂェルガチョフまで。大きな映画へのデ
ビューにこの『帰還』がなったのは、 「レン・フイルム」プロデューサーのドミトリイ・レ
スネフスキイにとっても、この若い映画会社にとってもである。
名作が誕生したと断言はすまい。良質の芸術的な作品、自覚的にせよそうでないにせよ、
映画のコンテクストに正しく書き加えられた作品について語っているのだ。 『帰還』には、
疑いもなく、アンドレイ・タルコフスキイの影響の跡が顕著である。永くわれわれは、ジャ
ンル的ないしは社会的な偶像崇拝に夢中になってきたロシアのスクリーンでは、このような
湿潤な雨、このように生い茂った緑の葉、このように魔力的な魅惑をたたえた湖を見なかっ
た。そしてこれは、月並みな「ロシア的広大さ」ではなく、神秘的で、ほとんど宗教的な自
然認識なのであり、それはタルコフスキイとともにわれわれの文化からほとんど消え去って
いたものである。だが、アンドレイ・ズヴヤギンツェフは現代の監督であり、 1960年代の
ような個性派監督風の映画は作っていない。彼の映画は、ところどころスリラーを思わせる
し、まったくリアリスティックな映像が、突然に、監督による強調もいっさいなしに、神話
あるいは寓話に移行するとき、よりいっそうアメリカのハイパーリアリズム(初期のスコセ
ツシやガス・ヴァン・サント風の)を思い出させる。
40年前ヴェネツィアで初めてロシア映画が勝利した-それはタルコフスキイの『イヴ
ァンの少年時代』 〔《HBaHOBO JleTCTBO》. 1962年。邦題『僕の村は戦場だった』〕であった。ズ
ヴヤギンツェフの作品、これはイヴァンとアンドレイの少年時代HBaHOBOHAH叩eeBO
JIeTCTBOであり、戦争はないが、いわく言いがたい不安と重苦しい予感に満ちた世界におけ
る少年時代である。そこではいずれにせよ、成長し、生き、誤りをおかし、それを償う、そ
れ以外には出口のない世界である。あまりにも遅れて帰ってきた父が償っているように。
『帰還』はヴェネツィアで賞を獲得するであろうか、その答は風のみぞ知る。しかしこれに
はそれに値するチャンスがたしかに存在する。
題名そのものが雄弁に主張するように、この評論はズヴヤギンツェフとタルコフスキイを重ね
合わせて論ずるもので、その基本的枠組を簡潔なかたちで出している。ヴェネツィア映画祭に向
けた応援歌でもあるが、おそらくそういう評価の初期においてよいものであろう。
受賞後には繰返し指摘されるように、 40年を隔てた二人の若いロシア人監督のグランプリ獲
得(そのとき、タルコフスキイ30歳、ズヴヤギンツェフ39歳)、ともに少年時代をテーマとし
たその作品、そして主人公の名前イヴァンとアンドレイ(両監督の名前でもある)にいたるまで、
その符合は運命的なものさえ感じさせる。
ズヴヤギンツェフのr帰還』について 83
ロシアの自然の描写や、湖、雨などの水の初源的イメージ、その点でのタルコフスキイとの近
さ-これには同感であり、あらためて繰返すことはしない。
神話的、キリスト教的なモチーフの多用、しかも私の見るところ、隠嘘的ではなく、過剰なま
での明示もこの作品の特徴である。
第一印象として監督にも述べたのは、母とイヴァンの科白にかかわっている。
長く家を出ていた兄も知らぬ父が不意にやって来る。しかも、翌朝から兄弟と一緒に小旅行に
出るという。その夜、兄弟はベッドで興奮して、あれこれ推測する。弟のイヴァンにとっては、
どこから突然現われたのか、がまず最初に知りたい点だ。早く寝るようにたしなめに来た母にも
尋ねる。
「いったいどこからOTKyJIaOHB3mCE?」 (この動詞は、物であれば、どこから「ふってわいた」
のニュアンス)。しかし、母はたった一言「来たのよnpHeXaJI.」としか言わない。
翌朝、父と二人の子供は車で旅に出る。いくつかのエピソードを重ねて、イヴァンはこの父に
次第に疑念と憤りをつのらせていく。そして数日後、ついに怒りをこめて、
「なんで来たんだ3atleMTbIIIPHeXa乃?、お母さんとおばあちゃんとでうまくやっていたんだ、な
んで」となじる。
いずれも「来たnpHeXanJという動詞が使われている。 『帰還《Bo3BPalqeHHe》』なのに、誰もこ
の映画で「帰るBO3BPaTHTbC月, BePHyTbC兄」という動詞を使っていないのである。実はこの映画に
とっての「BO3BPalqeHHe帰還、回帰」の意味も多義的、重層的なのであるが、ひとまずは邦題の
ように「父、帰る」に限ってみても、 「帰った」とは母も子も一度も言っていない。それは、 「不
意にやって来た」が、いずれ、おそらく間もなく、 「去るyexaTb」のではないか、と漠然と感じ
ていたからであろう。 「実際に、もちろん映画上の実際だが、父は不意に来たりて、不意に水中
に没したHeoxHJIaHHO IIPHeXaJIH HeOX耶aHHO yTOHym.」と、監督に述べたのである。
監督とのやりとりは、後に触れるとして、あらためて考えてみると、物語として、父が家に帰
った話ではない、すぐに出かけるのである。父と子供たち、三人の旅が物語のほとんどを占める。
車で走る出だしでは、ロード・ムーヴィー風の展開になるのかとも思わせるが、途上での人との
新たな出会いはない、三人の関係がすべてである。
「来るnpHeXaTh」、 「(水に)沈むyTOHyTb」というわれわれの関心にしぼって、それがどんな旅
なのか、映画の冒頭から重要なシーンを見ていこう。
タイトルの後、水底に沈み藻もからまった小舟ともやい綱。
日曜日。水中に飛び込んでくる子供の足、長い防波堤の先端の灯台とおぼしき遠景。それは章
の子の天辺、側面も板張りのやわな造りの櫓であり、数人の子供たちが「跳べない奴は、グズで
弱虫だ」と櫓の上から水面めがけて跳んでいる、兄のアンドレイはすぐに跳ぶが、弟のイヴァン
は高所恐怖で「跳ぶrIPhlrHyTh」ことができず、置き去りにされる。夕闇迫る湖面の遠景、 「ヴァ
一二ヤ」と母が救いに駆けつけ、梯子を上る。うずくまり、ふるえるイヴァン。 「今度はできる
わよ」と涙声のイヴァンを抱きしめる母。
月曜日。櫓の件で子供たちにのけ者にされるイヴァン、兄弟喧嘩になり、全力で走る二人。家
84
の入口でタバコをくゆらす母。 「静かに、お父さんが寝ているのよ」 「誰が」 「お父さんよ」。
兄弟はベッドで眠りこける父を初めて目にする。アンドレア・マンテ一二ヤ〔15世紀イタリア
の画家〕の「死せるキリスト」の構図であり、ヴェネツィアでイタリア人観客から「マンテ一二
ヤ!」というささやきの声があがったといわれる。
二人は父の顔すら知らない。急いで屋根裏の片隅の長持を開けて、分厚い挿絵付きの聖書物語
のページをめくる。そこに挟まれた昔の家族写真、父と母と乳幼児の二人。兄「たしかにあの人
だ」。旧約聖書の父が子を生費にする挿絵は先のプラホフが指摘している。ここで「聖書を秘蔵
しなければならなかった時代の話なのか」と意外感を抱いたロシアの観客も少なからずいたであ
ろう(ただし、時代を限定するものは、この後なにも出てこない)。
食卓の場面、ずっと家にいたかのように仕切る父、黙々と従う母と祖母。子供たちにもワイン
をつがせて、 371PaBCTByilTeと言う。 「久しぶり」としか言わない父という映画評があったが、日
本語字幕にひきずられたもので、ロシア語は一番普通に使われる「こんにちわ」の挨拶。ワイン
を飲む前に一瞬間をおいてであること、本来の動詞の意味も考慮すれば、 「じゃあ元気でやろう」
くらいのところか。いずれにせよ、時間的長さを意味するものはいっさいない。食卓で父は翌朝
に子供を連れて小旅行に出ると告げる、母も承知とのこと、釣りもしようとイヴァン。この後の
子供のベッドの場面は先に触れた。
火曜日。出発、車中で「イヴァン」 「なに」 「なに、パパ、と言うんだ」。必ず「パパ」と言う
ように、イヴァンに説教する父。しかし食堂でのエピソード、食事に手をつけず、車で待つと席
を立つイヴァン、その腕を掴んで、座って食べろと命ずる父。 「はい」 「はい、パパだ」、しばし
呪み合い、 「はい」。とまどいながらも父を受け入れ、 「パパ」 「パパ」と従うアンドレイと、反擬
を強めるイヴァン。
ところで映画の宣伝で「12年ぶりに帰る」は普及しているのだが、実は映画でこれが出るの
は、一つの場面でだけである。
しきりに電話をかける父、テンビラのエピソードの後、父は「重要な用件」ができたから、バ
スで帰れ、と兄弟に言う。不満をもらす兄に、父は「今度連れて行くから」と言う。そこでたっ
た13歳のイヴァンが「今度来る時って、また12年後なのかい」と言い放つのである。きわめて
神話的な話である。なお、 13歳の根拠は映画の最後のショット「赤ん坊を抱く父」 (昔の家族写
真の一枚)であり、子役も撮影時その年齢であった。兄のほうの子役は15歳、映画のその一つ
前のショットでアンドレイもその年齢であろうと推定しうる。場面に戻ると、バスに座った兄弟
を父が再び呼びに来る。父は、用件の場所に行くには「3日」かかる、旅の日数を増やすことに
すると言う。 「明日の朝戻るのを待ってるよ」と母を心配するイヴァンに、父が「もう12年待つ
ほうがいいのか」と言い返す。
この「12年」については、映画完成の2003年がソ連崩壊から12年後であったところから、政
治的寓意を見る議論(後述)が盛んである。しかし、上記のように、周期的に循環する時間、回
帰する時間であり、干支の十二支が影響を与えていると私は思う。
唐突に聞こえるかもしれないが、実は監督は俳句と芭蕉への言及というかたちで東洋への関心
をシンポジウムでも明らかにしている。ディテールをそぎ落とし、そぎ落として、きわめてシン
プルな物語空間を生み出しているという、この作品全体の評価に関連して、自分の手法は俳句と
ズヴヤギンツェフのF帰還』について 85
同じだと説明しているのである。監督はまず「脚本から余分なものを取り除く作業」を重ねたと
語っているが、撮影風景をおさめたcDによれば、実際に撮影されながら結局落とされたエピソ
ードもいくつかあったことが知られる。
イヴァンは疑念と憤りをつのらせていく。火曜日、夜のテント、弟「いったい何者なのかもわ
かりゃしない。どうして父さんだとわかるんだ」、兄「母さんが、父さんだと言ったじゃないか。
馬鹿だな」、すすり泣くイヴァン。
水曜日。早朝から水面に突き出た木にまたがり釣りを楽しむイヴァン。しかしテントをたたん
で、また出発。車中、不満をぶつけるイヴァン。急停車し、 「ほら、釣りをしな」とイヴァンを
路上に置き去りにする父。どしゃぶりの雨、ぬれねずみでしゃがみこむイヴァン。車が戻ってき
て、乗り込む。先述したイヴァンが「なんで来たんだ」となじる場面。 「なんで僕らを一緒に連
れてきたんだ、母さんが言ったって、じゃあ自分はどうなんだ」、悔し涙があふれる。
その後に、雨の中、ぬかるみにはまった車をめぐるエピソード。
木曜日。湖岸に着くが、父は島に渡るのだと言う。小舟を準備し、モーター(途中の小さな港
で買った)を装着。湖面を快走する小舟、初めて楽しげにまわりを見回す兄弟。しかしエンジン
トラブルと暗雲。激しい風雨、ガスでけむる荒れた湖面を、父の号令のもと、必死に権を漕ぐ兄
弟。かくして、三人の物語はいよいよ大詰め、謎めいた異次元の空間へ突入していく。
ようやくのこと島に到着。焚火のそばで、子供に風邪薬がわりにウオッカを飲ませる父。権で
手を傷め、この強制にも反擬を深めるイヴァン。テントで「殺す」と口にする。
金曜日。晴天の湖岸に座る兄弟、イヴァンは父のテントからナイフを持ち出している。戻って
きて、島を見せようと言う父。いったん断るが、しぶしぶ後ろからついていくイヴァン。途中の
草むらに横たわるかもめの死骸(チェーホフだ)。
丘の上にそそり立つ四角柱の高い櫓、側面にまばらに板を張っただけのいかにもやわな造りの
櫓。それが神話空間の主舞台であることが明白に示される。冒頭のあの櫓の場面につらなってお
り、そうであれば、キーワードは「跳ぶrIPhlrHyTh」以外ではありえない。
櫓に上る父とアンドレイ、絶景に見とれるアンドレイ、上れずに地面から見上げるイヴァン。
この場は、突然の雨で三人が急いで駆け戻っておさまる。
食事の後、食器洗いを命じられたイヴァン。きっと背後を見てから、父の食器を湖に投げすて
る○戻ってきた父に「食器が沈んじゃったよ」 「沈んだのか」。 「(水に)沈むyTOHyTb」という言
葉がこの映画で初めて使われる。
父は一人で草原の廃屋に向かう。地中の箱を掘り出し、箱の中の小箱を取り出す。そして小舟
の舶先のボックスに密かに積み込む。なお、この箱の中味はいったい何なのか、という質問がイ
ンタヴューなどで監督に殺到したといわれるが、それは問わぬが良い。途中で何度もかけた電話
とともに、いわくありげな、父だけが結びついた外部世界の記号に過ぎない。
兄弟は同じ廃屋でようやくミミズを見つけ、釣りに小舟を出そうとする。父は腕時計を兄に渡
し、釣りに「1時間やろう」、必ず「3時半」には戻るよう念をおす。釣りの場面、場所をかえて
釣りを続けようと言うイヴァン、時間を気にしたアンドレイも、まあいいか、ということで、係
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留された廃船に向かう。釣りではイヴァンのほうがリーダーである。戻る小舟、釣り上げた大き
な魚、 「この魚を釣ったんだ」と言えばいいよとイヴァン。
岸にあがる兄弟、父「時計で何時だ」、アンドレイ「7時」。往復びんたを浴びせる父、僕のせ
いなんだと止めに入るイヴァンを突き飛ばす。父におとなしく従ってきたアンドレイがここでつ
いにきれる、 「殺せ、嫌いだ」、 「殺せだと」、父の手には斧がある。ナイフを握りしめ、叫ぶイヴ
ァン、 「やめろ、お前を殺す、お前は赤の他人だ」。父「誤解だ」。
ナイフを投げすて、走るイヴァン、追う父、それを追うアンドレイ。櫓の梯子を上るイヴァン、
追う父、イヴァンは櫓の天辺への蓋を閉じてしまう。 「いなくなれ、いかないなら、僕は跳ぶぞ
5IITPblrHy、僕は跳べるぞ、なんでもできるぞ」。脇からよじ登ろうと木枠に手をかける父、 「ヴァ
一二ヤ、息子よ」、朽ちた木枠が折れる。
キーワードの「跳ぶrIPblrHyTh」は墜落のかたちで完結する。
ずっと名前のまま「イヴァン」と呼んできた父が、この瞬間だけ愛称形の「ヴァ一二ヤBaHE」
と叫ぶ。 「息子よchIHOK」もそうである。この場面が冒頭の母の「ヴァ一二ヤ」の場面と相応し
ていることは言うまでもない。
これを境にアンドレイの顔つきまでが変わる、決然としてイヴァンに指示を与える。兄弟はへ
とへとになりながら、湖岸の小舟まで父を運ぶ。このくだりは、科白や道具立てにいたるまで、
ぬかるみにはまった車のエピソードとパラレルになっている。
土曜日。朝、戻る準備、アンドレイの腕に父の時計が光る。小舟はモーター(釣りを待つ間に
父が修理)で湖面を走る、しかしなにかにぶつかる。一昨日出発した湖岸までたどりつき、荷物
を車に積み込んで、へたりこむ。突然、アンドレイの「パパ」という叫び。小舟は岸から流され
て、水没しようとしていた(衝突で舟底に穴)。湖に駆けこむイヴァンの「パパ」という悲痛な
叫び。
ロシアの評論のなかには、イヴァンがここで「パパ、パーポチカnarIOtIKa」と叫んだと論じて
いるものさえある。映画では実際には愛称形の「パーポチカ」は使われていない。しかし、同じ
「パパ」でも、その言い方だけで、充分に、父への愛情の悲痛なほとばしりは伝わるのである。
小舟が沈み、父は水中に没するyTOHyJI。
沈んでいくもやい綱のシーン。小舟ともやい綱は、映画冒頭の水底のシーンにつながってい
る。
車に乗り込むイヴァンの膝にものが落ち、サンヴァイザ一に挟まれたものに気づく、顔を見合
わせ、アンドレイにも見せる。そこに挟まれていたのは、二つ折りの昔の家族写真。聖書物語に
挟まれたあの家族写真と同じ日に、父が自ら撮った母と乳幼児の二人の写真。
兄が運転して車は去る。轍の残る湖岸の風景。それはイヴァンとアンドレイのこの旅からの
「帰還」を示している。
画面にはモノクロ写真、旅のショットから12年前のあの日の家族写真へさかのぼる、水音と
哀愁をおびた民謡が流れ、最後の一枚は「赤ん坊を抱いた父」。 (完)
さて、先述のように、その日、監督に「父は不意に来たりて、不意に水中に没した」と述べた。
「来たrIPHeXaJIJと同様、 「水中に没したyTOHynJことの意味もきわめて重要な問題である。
ズヴヤギンツェフの『帰還』について 87
私の話を聞いて、監督は「コメンタリーへのコメントをしてみたい。そういう指摘を受けたの
は初めてです」と語りだした。はじめは、 「来る」 「帰る」のいくつかの動詞に触れ、 「一時的に
来るの意味なら3aeXaTh」があるという、周知の、しかし私の指摘とはピント外れの応答をした。
しかし、その後に「結局は、神が現われ、そして去るという作品のテーマにかかわる問題です」
と答えた。
「死せるキリスト」の構図で現われ、再びその構図で小舟に横たわり水中に没する。そこに明
示されているように、 「父-神」という宗教的な大きな枠組なのであるが、しかしその現われ方、
個別的な「父」の像が同時に問題とならざるをえない。
監督は、父の「ヴァ一二ヤ」という最後の呼びかけに込めた意味を強調する。 「息子をヴァ一
二ヤと呼ぶときの父はそれまでとまったく違う人物ということになります。キリスト教的に言う
と「愛は自己犠牲である」ということです」。
「水中に没した」ことについて、監督は「限りある肉体がいったん水の中に沈み、その後で新
しい生命として復活する」という宗教的なモチーフが存在するのだと語る。
先にわれわれの注目した冒頭と末尾の小舟ともやい綱は、この神話的な永遠の回帰を象徴する
ものなのである。
墜落について、別の切り口からの議論もありうる。当然ながらある筈と思いながら、ロシアで
の議論を検討していくと、専門誌『映画芸術』の特集でスチショヴァが「象徴的な面からすれば、
『帰還』が父殺しoTqey6HiicTBOの映画であることはまったく明らかだ」と、 「父殺し」の観点を
出している。
彼女は、エディプス・コンプレックスや、ドストエフスキイの父殺しのテーマにも触れながら、
「イヴァン(タルコフスキイだけではなく、ドストエフスキイにとっても記号的な名前)は、父
の権力を拒絶して、自分は強い、すべてができる、と意識した。高所恐怖、つまり自らのコンプ
レックスを、高所から父が墜落するという犠牲をはらって、彼は克服したのだ」と述べる。 〔私
の見るところ、これではラストの意味をあまりにも狭くとらえ過ぎている。〕 「それでもまだ「ロ
シア的な問題」は残る」として、タルコフスキイやゲルマン監督にとっての「父と子」の問題に
も言及した後、 「ズヴヤギンツェフは、その映画のなかに、新たな実存主義的な経験、ロシアが
生きてきたし、生き続けている、家父長的世界の崩壊の経験を集約した」、 「同じ古い伝説によれ
ば、父殺しの息子たちの悔恨の後に(すなわち、自らの行為を省みて評価する能力を得た後に)、
文化も始まったのだ」とこの「父殺し」を論じたくだりを結んでいる0
「父の自己犠牲」と「父殺し」とは、まったく正反対の方向への途と見えよう。しかし、それ
ぞれの「永遠の回帰」と「子の悔恨、文化」をたどっていけば、思いもよらぬところであいまみ
えることさえありそうである。
なお、夕食会の席で、亀山郁夫氏が「好きなドストエフスキイ作品は」と質問して、監督が
「『カラマーゾフの兄弟』」と答えたこともエピソードとして紹介しておこう。 「父殺し」なら、こ
の問いにこの答しかありえない。
ちなみに、この『映画芸術』 2004年第1号の特集には評論三本が掲載されている。スチショ
ヴァ論文は、この作品が「デジャヴ- (既視感)のゾーン」を生み出しているとして、タルコフ
スキイとの重なり合いを積極的に評価し、 「タルコフスキイ的な価値世界への回帰」についても
88
語っている。ロシア文化、ロシア映画の伝統への回帰としての『帰還』という議論である。スル
コヴァ論文は、引用、紋切り型の多用について、この話で芸術的必要性があるのか、と問い、効
果もあげていない、と作品に否定的評価を下している。プラホフの論文は、残念ながら、冒頭に
訳出した受賞前の短い評論のほうが、はるかに良い。
監督はシンポジウムで「制作にあたって、政治はまったく意識していなかった。念頭にあった
のは宗教的テーマのみ」と強調していた。この作品を見て、その言を疑う理由はない。
ロシアでは「12年」をソ連崩壊12年と読んで、政治的寓意を見る議論がある。
この作品自体からは出てこないのだが、ロシア社会にそういう議論が起こることのほうに私は
興味がある。 (なお、制作スタッフはテレビ・ドラマの事件ものなども手がけてきたのであり、
企画段階でそちらの「12年」も一つの要素でありえたことを、私は否定していない。)
ただ、その場合も、ラストの理解をめぐって、対極的な議論がありうる。
ソ連解体後、 12年を経て、秩序、規律が問題となっている、古き良き権威への「回帰」が必
要なのだ。いやそうではなくて、父(スターリン、スターリニズム)の家父長的な圧制と、それ
をはね返しての子の自立の物語だ。いや、それは過去形ではなく、そういうものの復活-の警鐘
なのだ。
プーチン大統領の賛辞も知られる(なにかというと受賞者と記念写真をとりたがる首相がわが
国にもいるが)。しかし、たとえばプーチン権力と政治的寓意が構造的にどういう関係になるか
は、微妙なところがある。
いずれにせよ、政治的寓意をめぐる議論が映しだしているのは、この作品ではなく、ロシア社
会が直面する今日的な問題状況のほうである。
父と子の葛藤と対立、それがもらたす悲劇的結末、しかしその瞬間に父と子の結びつきが生ま
れ、父の犠牲を乗り越えて、子が成長していく、素直に読めば、そういう物語と読める。
監督はシンポジウムで「人間の魂の、母から父への、形而上学的な旅についての映画」だとも
語っている。彼の発言のうちでは、もっともその受け止め方と近しい。
もとより、 「父と子」の問題のモチーフと、宗教的モチーフとは、あれかこれかの選択を迫る
ものではない。これまで検討してきたように、いずれにもいくつかの層があり、それらが幾重に
も重なり合っている。ただ、シンポジウム、夕食会で話が進めば進むほど、監督自身にとっては
宗教的モチーフのほうが主たるものであるとの印象を深くした。
以上、いささか科白、言葉にこだわって考察してきた。それは、とかく映像美のほうが話題の
中心となりがちであるが、この作品が基本的に科白劇の性格を有しており、ギリシャ古典悲劇の
ような、父と子、三人の科白のぶつかり合いから、後戻りできぬ結末へ突き進んでいくという、
私の作品理解による。そして、映画における科白の位置(その舞台劇を連想させる発声の仕方も
含めて)が、タルコフスキイの諸作品とこの作品をわかつ重要な相違点であると私は思う。
ズヴヤギンツェフのr帰還j について 89
註
・{Bo3BPalqeIIHe,, (Pe)KHCCeP:AnJIPe免3BSlrHHIleB), RENやH瓜M, 2003.
アンドレイ・ズヴヤギンツェフ AnJIpe血neTPOBHtI3B兄rHHqeB 1964年ノヴオシビルスク生れ。 84年
ノヴオシビルスク演劇学校俳優科卒、 86年モスクワへ、 90年国立ルナチヤルスキイ演劇大学俳優学
部卒。俳優としての活動の後、 2000年テレビ・ドラマの監督としてデビュー、 2003年長編映画の第
一作が『帰還』。
レンTV(RENTV) 1991年テレビ番組制作会社として発足、 97年テレビ・ネットワークを立ち上げ
る。
レン・フイルム(REN-OHnhM)テレビ・ドラマなどを手がけてきたが、初めて取り組んだ長編映画が
『帰還』。
A・ nnaxoB・ HBaHOBO H AHJIPeeBO JleTCTBO・ <.KoMMePCaHT・も,,, 22・08・2003 r・
REN TVのサイト(http://W.ren-tv.com/)の『帰還<{Bo3BPa叫eHHe》』特集
2005年1月中旬に映画評論などの関連資料ページを集中的に読んだのだが、 3月中旬に確認したと
ころそれらはすでに閉じられた。
専門誌『映画芸術』のインターネット版(http://W.kinoart.ru/magazine/)
E・ CTHInOBa・ Ha rJIy6HHe・ <・HcKyCCTBO KI4H0,,, 2004, NQl.
A. rhaxoB. tIHCTa月MHCTHKa. TaM Xe.
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日本の『父、帰る』のサイト(http‥//chichi-kaeru.com/)
・Bo3BPalqeHIte・ ◎HJIhM 0 4)mhMe,,, REN TV, 2004.
シンポジウム「虚空への帰還。タルコフスキイとズヴヤギンツェフの世界」
A.ズヴヤギンツェフ監督とパネリスト:西谷修、沼野充義、司会:亀山郁夫、 2005年1月13日、
東京外国語大学
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