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アングリカニズムの新たな展望:東北アジアにおける宣教

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アングリカニズムの新たな展望:東北アジアにおける宣教
2006年日韓聖公会神学会
「アングリカニズムの新たな展望:東北アジアにおける宣教」
立教大学チャプレン 香山洋人
1、はじめに
2、大航海史観からの脱却
(1)教会による宣教か
(2)「神の宣教」の足跡をたずねて
3、アジアにおけるアングリカン神学とは
4、東北アジアにおける福音に仕える教会、結論に代えて
(1)東北アジアの和解と日本の民主化-巨視的課題として
(2)使信として存在する教会-われわれの日常に向けて
1、はじめに
本稿の目的は、東北アジアに生きるキリスト者であるわれわれが、アングリカン神学の伝統に
生きながら、そこから受け継ぐべき神学的生命力を吟味し、
「今・ここ」の状況におけるわれわれ
の課題、正義と平和の実現に資する宣教の課題を探ることにある。ここで前提とする「アングリ
カン神学の伝統」とは、
「受肉の神学」と「Via Media」だ。受肉の神学とは神の霊が肉体となっ
たことをモデルとする神学、すなわち理念や思想が社会的・政治的現実へと具体化されることを
規範とする神学だ。また、ここで想定している受肉の神学とは「今・ここ」の状況に忠実である
神学であり、この神学に立つ共同体は自主独立的であり、あらゆる中央集権的な政治機構から自
由であると同時に、自らも中央集権的政治形態を持たないということを意味している。またこの
ような理解に立つならば受肉の神学とは、脱権威主義的であると同時に原理主義に対抗する神学、
すなわち自らを絶対化せず現実の変革に貢献し自らも変化を遂げる神学的姿勢であるといえるだ
ろう。
一方、われわれは Via Media を「中道 centrist、中庸 moderate」とは解釈しない。Via Media
を中道、あるいは中庸と解釈することはローマ・カトリック主義とピューリタン主義との対立を
調停する、あるいは妥協するという Via Media 精神のひとつの側面の強調に過ぎない。しかし塚
田理によれば Via Media とは、
「中世教会の堕落と歪曲を取り除きつつ、その中で歴史を通じて
継承されてきた原始教会の基本的信仰とその生活を継承し、護持すること」を目指したイングラ
ンドの宗教改革の精神であり、それは「キリストの受肉の延長である真実のキリストの教会を実
現する途」であり、Via Media の教会とは「すでにこの世において現実化しているが、同時にこ
の世におけるいずれの教会も完全には実現していない」<待望の教会>であるという。したがっ
て Via Media とは「決して対立する主張の中間点を取るということではなく、新しいパラダイム
を提供することによって異なる意見を止揚し、新しい思想的枠組みの中で統合するという方法」
1
なのである1。西原廉太は、
「フッカーに始まる Via Media のダイナミズムを回復」する試みとし
て、妥協策としての「中道」という解釈を乗り越え、
「非定住、旅人の神学、非閉鎖性の神学」と
しての再解釈を試みた。すなわち西原は Via Media 精神を水平的な関係の両者の中庸を行く妥協
的精神と理解するのではなく、これを時間軸に置き換え、目的に向かう道の「途上の神学、旅路
の神学」を構築するものと解釈しなおしている2。また梁権錫は韓国社会の中で数的にも文化的に
も少数者として生きる聖公会が、韓国の宗教的文化的多様性の中に生きるエキュメニカル精神の
意味を「多様性における一致 Unity in diversity」として受け止めた上で、そのように緊張関係の
中を生きる成熟した姿こそが Via Media の精神であると指摘している3。Via Media の様々な再解
釈に我々も同意したいと思う。十七世紀の英国教会の神学においてはローマ・カトリック主義と
ピューリタン主義の対立の調停 settlement が意図されていたことは明らかであった。つまり Via
Media が置かれていた文脈には両極の ism が存在していたのであり、その解決 settlement に貢
献した Via Media の精神は ism を拒否する道の提示であったと考えていいはずだ。そうであれば
Via Media の精神とは、二つの「原理主義」に対する拒否であり、二極分解する思考に対する代
案を志向するものであったといえるだろう。したがってわれわれは、Via Media の精神が生み出
すものはローマ・カトリック主義とピューリタン主義のどちらでもない何か、いわば「正-反」
を止揚した「第三の道」の提案であったと理解してみたい4。アングリカン神学が既存の二項対立
にとらわれない「第三の神学」であるとすれば、われわれはそれを The Anglicanism ではなく、
The Anglican Way と呼ぶべきだろう5。この神学はまさに道の途上にあるばかりか道程そのもの
でもあり、常に変革の過程にある。したがってわれわれは英国教会の歴史の中にその完成した姿
を見出す必要はない。むしろ、それぞれの文脈において「いま・ここ」におけるアングリカン的
生き方があるに違いない。もちろんそれは自らをアングリカンと自認する人々の主体的な生き方
を指すはずだ。と同時にそれはアングリカンである無しにかかわらず「いま・ここ」を生きるキ
リスト者としての生き方を指す言葉でもあり、それはとりもなおさずそれぞれの場でキリストの
福音に忠実に生きることであり、
「新しい人間共同体に向けた闘いへの参与」を意味しているはず
だ6。
言うまでもなく神学の課題はこうした新しい共同体の創出、人間性の回復、解放に奉仕するこ
とにある。われわれは Via Media の精神がさまざまな状況の中で発展し深化する過程の只中に生
1
塚田理『イングランドの宗教』教文館、2004 年、4~5 頁、502 頁。
西原廉太『リチャード・フッカー -その神学と現代的意味-』聖公会出版、1995 年、143 頁。
「途上性」は塚田によれば「進行形」ということになる。塚田 6 頁。
3 Jeremiah Guen Seok Yang,`The Anglican contribution in Korea over the next decade`,
Andrew Wingate ed., ANGLICANISM: A global Communion, MOWBRAY, 1998,p409.
4 西原はこの点に関して注意深く「止揚」という表現を使いながらも、むしろ「統合」というオ
ルチン Allchin の言葉に同意しているようだ。筆者が提起する「第三の道」とは「新しいパラダ
イム」における代案 alternative の提示であり、積極的な変容をも許容する可能性を考えている。
5 The Anglican Way という表現はすでに英語圏で散見される表現だが、
漢字文化圏において「道」
という言葉についての歴史的洞察があることに注意を喚起したい。したがって本稿が想定する
The Anglican Way とは単なる方法論ではなく多くの道が合流してくるひとつの「場」のイメージ
として、価値観とその社会的具現化に関する総合的な世界観としてとらえておきたいと思う。
6 梁権錫にとって韓国において真性のアングリカンであることは「神に忠実であると同時に韓国
の人々に対して責任的であること」を意味している。それこそがアングリカンコミュニオンの一
員として果たすべき責任であると語っている。Yang 前掲論文。
2
2
きており、より具体的に言えばわれわれはアジアの文脈において Via Media の精神に基づく新た
な神学の創出を自らの課題として引き受けたいのである。
2、大航海史観からの脱却
われわれは、自らが東北アジアのアングリカンであることを意識すると同時に、東北アジアの
キリスト者であることを自覚している。それはわれわれの求める「第三の神学」の基盤となるア
ジア的歴史認識の確立が急務であることを意味している。それは「大航海史観」7からの脱却だ。
日本におけるキリスト教の開始は 1549 年といわれている。フランシスコ・ザビエル(Franciscus
de Xabier、1506~1552 年)はイグナチオ・ロヨラらとともにイエズス会を創立した後、ローマ・
カトリック教会の公認のもと、ポルトガル国王ジョアン二世の要請を受け、1541 年にリスボンを
出航しアフリカを経てインドに到達し、ゴアを拠点として活動を行った。1547 年、ザビエルはそ
こで出会った日本人弥次郎から日本についての情報を得て日本宣教を決意、1549 年、仲間と共に
鹿児島に上陸した。イングランド教会でクランマーの序文による「祈祷書」が作られたその年に、
戦国時代末期の日本にはローマ・カトリックの宣教師が到着しキリスト教の布教を開始したので
あった。
しかしザビエルらの日本上陸以前、日本にはキリスト教に関する情報が皆無だったと考える必
要はない。635 年、中国(唐)にはネストリウス派(「景教」)が伝来したという記録がある。そ
の後東アジアでは景教は大きな力を持たなかったといわれているが、中央アジアにおいてネスト
リウス派は重要な役割を果たし、ついには十三世紀末、フビライ・カーンの要請によってローマ
教皇ニコラウス四世がフランシスコ会のモンテ・コルヴィノ Giovanni di Monte Corvino (ca. 1247
~1328 年)を中央アジアに派遣するに至るのである8。このことは七世紀以降少なくとも十四世紀
初頭まで中央アジアおよび東アジアの一部においてネストリウス派キリスト教が直接、また間接
的に影響を及ぼしていたことを意味している。
そうであるならば、当時中国と公的な交流があった朝鮮半島や日本列島がそこから何らかの影
響を受けていたと推測することは決して不可能ではない9。しかしわれわれがここで取り組んでい
ここでは大航海時代(あるいは the great voyage era)を、欧州キリスト教中心主義を象徴する
時代と理解し、そうした時代精神を「大航海史観」と表現する。
8 呉利明が「景教は道教信者の皇帝武宗によって仏教と共に弾圧されて、十世紀ごろには中国か
ら完全に消滅してしまった」、また「蒙古族が支配した元代になると、再び景教が中国に入った」、
「しかし唐代の場合と同じく中国における景教はおおむね外国人のものであり、大きく見て中国
人の間にはなんら重要な感化を及ぼさなかったようである」
(『アジアキリスト教史1』教文館、
1981 年、17 頁)と言っているが、これは漢族に関することがらであり中央アジアや漢族以外の人々
の事情は無視されている。しかし後にネストリウス派の総主教マール・デンハから「巡錫総監司
教」に任ぜられるバール・サウマ Bar Sauma は元の大都、つまり今の北京の出身であり、十三
世紀中ごろに北京でネストリウス派の聖職として知られた人物であった。大カーン(チンギス・
カーン)の娘の嫁ぎ先であるオングド王族はネストリウス教徒として知られており、王ゲオルギ
スはモンテ・コルヴィノによってカトリックに改宗している(1290 年台)
。江上波夫『モンゴル
帝国とキリスト教』サンパウロ、2000 年。
9 景教と日本との関係は俗説のように扱われることが多く、また両者の関係について書かれた日
本語の著作も学術的な水準を維持しているものはごくまれだ。景教が日本仏教に影響を与えたと
いう呉允台の指摘を澤正彦は「これは大胆な一つの仮説に過ぎない」とみなして考慮しない姿勢
7
3
る作業は、ザビエル以前にキリスト教が日本にあったことを証明することではない。われわれが
注意を喚起したいのは、ヨーロッパの宣教師による宣教という思考の枠組み、われわれの中に厳
然と存在する「大航海史観」を払拭するためにはこれまで「キリスト教史」の枠組みから除外さ
れる傾向にあった中央アジア、特にモンゴル帝国におけるキリスト教の展開を再認識する必要が
あるのではないかという点に他ならない。
(1)教会による宣教か
われわれが取り組む「大航海史観」の再検討は、宣教の主体とは誰かという問いを含んでいる。
そしてわれわれは、キリスト教史を「神の宣教」と「民衆史」の中に再構築することで新たな答
えを見出そうと思う。たとえば朝鮮のキリスト教において、われわれは三つの画期を想定するこ
とが可能だろう。第一は 1592 年に始まる豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄の役=壬申倭乱)に端を発す
る朝鮮人たちの受洗であり10、第二は 1784 年、北京における李承薫(イ・スンフン)の受洗とそ
れに端を発するカトリック教会の出発であり、第三は 1885 年、長老派のアンダーウッド
Underwood とメソジストのアッペンゼラーAppenzeller 夫妻の到着に端を発するプロテスタント
教会の出発である。
第一の画期については、すべての教会史家の賛同を得ることはできないかもしれない。しかし、
この出来事の背景はイエズス会による日本宣教という「教会の宣教」ではあるとしても当時のイ
エズス会は「高麗」を対象にしてはおらず、宣教師は小西軍に伴って結果的に朝鮮に渡り、また
捕虜として連行されてきた朝鮮人たちと出会っていった。この事件によって歴史上記録に残され
たものとしては、おそらく初めて朝鮮人の信仰共同体が生まれ、朝鮮人信徒の群れは名実共に賞
賛に値する信仰的振る舞いを行っていた11。第二の事件、李承薫の入信も明らかに「教会による宣
教」ではなく、西学を学ぼうとする一派から組織的に派遣され、自ら宣教師を訪ねて教えを請い
受洗したのだった。その後、朝鮮人信徒たちの要請によって中国人神父が朝鮮入りしたのは 1795
年、フランス人神父が到着したのは 1831 年、李承薫の受洗から 47 年後のことだった12。第三の出
を示している(沢正彦『日本キリスト教史』金纓訳、草風館、2004 年、31 頁)。
10 侵略軍の総大将はキリシタン大名小西行長であり将兵の多くはキリシタンだった。この時戦場
で難民となった幼い朝鮮人に対して小西軍の武将によって「幼児洗礼」が授けられた。これを朝
鮮キリスト教史の第一幕と考えることも可能だ。ルイス・デ・メディナ『遥かなる高麗』近藤出
版社、1988 年。
11 天草のイエズス会レジデンス院長であり、京都で女性信徒の指導に当たっていたペドロ・モレ
ホンは、日本国内の「高麗人」信徒たちとも深いつながりを持ち、ローマにあてた手紙で高麗出
身の有力信徒大田ジュリアの手紙を伝え、合わせて次のように述べている。
「いかに感嘆してもし尽くすことのない著しい驚異の一つは、日本の主・太閤様が、高麗に対
して始めた戦いにおける彼の傲慢な野心を手段として、神がいにしえより救うように定められ
た数多くの人々を彼の国から選び出し、あるものは優れたキリスト教徒に、あるものは名高い
殉教者に為したことである(中略)
。そこの人々は大きな能力と才知に恵まれ、温和で美しい性
格を持っている(中略)
。戦いで捕虜として日本へ連れてこられたものは、おびただしい数であ
るが、そのほとんど全部あるいは大部分が、キリスト教徒になった」
(ルイス・デ・メディナ『イ
エズス会士とキリシタン布教』岩田書店、2003 年、187 頁)
。
「ほとんど全部、あるいは大部分」はおそらく誇張だが、日本各地のキリシタン殉教者のリスト
に多くの「高麗人」が含まれているのは事実だ。
12 沢正彦『未完朝鮮キリスト教史』日本基督教団出版局、1991 年。
4
来事についてはどうだろうか。実はこれも「教会による宣教」とは断定できないことがらに端を
発している。1882 年、「開化派」の一員として日本に渡った李樹延(イ・スジョン)は日本でキ
リスト教に触れて入信、その後韓国人留学生を中心とした韓人教会を設立する。帰国できない立
場であった彼は祖国への伝道のために日本にいた米国長老教会派遣の宣教師ノックス Knox やル
ーミス Loomis に働きかけ、また自ら米国長老教会に書簡を送り韓国への宣教師派遣を訴えた。
李樹延は日本で聖書の韓国語訳を進め、米国人宣教師たちにそれを託すと同時に韓国語の教育や
韓国文化に関するオリエンテーションを行った。間接的とはいえ、これも韓国人による自主的伝
道の一類型といっても過言ではないだろう13。
これらは、公の教会、宣教会などの組織によって始められたのではなく、戦乱と捕虜としての
連行に始まる入信であったり、学問的あるいは政治的な意図を背景とした入信であったり、祖国
愛に燃えたキリスト者個人の情熱によるものであったりと、様々な要因によって引き起こされた
まさに「事件」であって、その主体は決して組織体としての教会ではないことが明らかだろう。
われわれは日本においても同様の問題を検討する必要がある。つまり、1587 年の「伴天連追放
令」後の教会組織は、徐々に信徒の共同体へと移行しており、1614 年の「排吉利支丹文」以降日
本に残ったのは事実上聖職者の指導を受けない信徒による信仰共同体であった14。十七世紀初頭の
信者数は当時の人口比の3%といわれているが、当時ごくわずかの聖職者(宣教師)しかいなか
った事情を考えれば、その重要な働きを信徒たちが担っていたことは明らかだろう。
「禁教令」発
布によって厳しい迫害が始まってからも彼らはそれに耐え、多くの殉教者を出しながら地下教会
となり、親から子へ、そして孫へと密かに信仰を継承していった。こうした「潜伏キリシタン」
を「教会」と呼ぶことには躊躇があるだろう。しかし、彼らは教会ではない独自の組織と運動に
よって独自の信仰と文化を生み出し、それを継承していったのだった15。
十九世紀に入って再びローマ・カトリック教会が日本に宣教師を派遣したとき、彼らは250
年間潜伏し続けた「信者」が存在することを知るに至る。1865 年、プティジャン神父 B.T. Petitjean
による「日本キリシタンの発見」である。カトリック宣教師たちは「キリシタン」たちが「カト
リック」であるかどうかを判断する必要があったが、彼らのほとんどは長年の潜伏信仰のために
13
李萬烈『韓国基督教受容史研究』トゥレ時代、1998 年、95~141 頁。李萬烈は李樹延を「韓国
のマケドニア人」
(使徒言行録 16 章 9 節参照)と評しているが(105 頁)
、李樹延の役割は単なる
取次ぎではなかった。李樹延の師でもある津田仙は「韓国伝道は時期尚早」と判断していたにせ
よ当時日本のキリスト教界には韓国伝道の機運が起こりつつあった。しかし李樹延は既知の日本
教会にではなくアメリカ人宣教師に韓国伝道を託したのであり、これはキリスト教の宣教のみな
らず韓国近代化の過程全体を見渡した上での判断であった。
14 従来のキリシタン研究において信徒共同体(confraria)の働きが潜伏キリシタンの特徴である
といわれてきたが(たとえば海老沢有道など)、川村は十三世紀にイタリアで発達した「コンフラ
テルニタ」
(confraternita 信徒信心会)に関する分析を通し、それを中世ヨーロッパにおけるに
「キリスト教の民衆化」の産物と位置づけた上で、日本は「民衆化したキリスト教」を受け入れ
それをさらに日本的なもの「こんふらりや」へと変容していったと指摘した。キリシタン信徒集
団の組織化の背後には「イタリア都市国家の中の民主的な民間信心組織作りのノウハウ」があっ
たという。川村信三『キリシタン心と組織の誕生と変容』教文館、2003 年。
15 潜伏キリシタンを民衆史の視点で再評価しようとする大橋は、キリシタン宗団の持つ社会的特
性に着目しつつ、
「キリシタン民衆」が幕藩制国家の解体へと進む民衆史の中で重要な役割を演じ
たと指摘する。キリシタンを「近世の日本列島に花開いた日本文化の一つ」と理解する大橋の視
点は重要だ。大橋幸泰『キリシタン民衆史の研究』東京堂出版、2001 年。
5
宣教師が伝えた教理や礼拝をそのまま保持してはいなかった。小説家三原誠は、
『汝等キリシタン
に非ズ』の中でこの問題を扱った16。三原は長年にわたって「隠れ信仰」を守り抜いたキリシタン
民衆とフランス人神父との出会い、そこから派生して「筑後今村」においても同様に「キリシタ
ンの復活」が起こったという史実を背景にしながら、日本における民衆と宗教、ことにキリスト
教と民衆の関係における実に重要な課題を提出している17。
(2)「神の宣教」の足跡をたずねて
ザビエル以前に日本にキリスト教の痕跡が記されていたことを立証することは容易ではない。
しかし「教会による宣教、宣教師による宣教」から出発する前にわれわれはいくつかのことがら
を検討しておく必要がある。
第一に、われわれがこれまで学んできたキリスト教の伝播、あるいは世界宣教の物語はあくま
でもヨーロッパキリスト教会の物語であり、それは大航海史観とでも言うべき一つの歴史観を背
景にしている18。確かにリスボンの港から信仰と勇気に溢れる男たちが聖書を片手に大洋を渡って
いったという物語は感動的な英雄伝ではあるが、こうした物語はヨーロッパの教会の発展あるい
は拡張にとって意味を持つ物語であって、アジアの側からそれがどのような意味を付与されるか
は別問題である。
「キリスト教を伝えた」という働き自体は賞賛に値するかもしれないが、伝えた
方法やそこで行われた事柄について、受け手の側から何らかの評価がなされる必要がある19。
我々が再認識しなければならないのは、海路ではなく陸路によるキリスト教のアジアへの伝播
だ。実にアジアと欧州は地続きであり、キリスト生誕の地と東北アジアは陸路で結ばれていた。
聖トマスの伝説にあるように初代教会はインドを視野に入れていた。いわゆる大航海時代を迎え
16 『汝等きりしたんニ非ズ』‐筑後今村キリシタン覚書-、勁草出版サービスセンター、1987
年。
三原は「邪宗門一件口書帳」(久留米郷土研究会誌第六号別冊)、「今村教会百年の歩み」(今村カ
トリック教会)などの一次史料をもとにしながら文学者としての想像力を駆使してこの作品を書
いている。小説の中で日本の農民たちがフランス人神父から「キリシタンに非ズ」と判断された
理由は洗礼を授けるときの言葉が不完全であったことだった。いつの間にか彼らの伝承には「我
汝に」に該当するラテン語「ego te」が欠落していたのである。
17 実際、
今も続く「隠れキリシタン」の信仰はもはやキリスト教とは無関係の先祖崇拝的仏教系、
あるいは神道系の民間信仰だが、宗教の民衆的土着化と変容の事例として大変興味深い(この点
については宮崎賢太郎『カクレキリシタンの信仰世界』東京大学出版会、1996 年を参照のこと)
。
こうした「変容」の事例は「隠れキリシタン」の他にもあり、この点についてはマーク・マリン
ズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』高崎恵訳、トランスビュー、2005 年、を参照のこと。
18 日本で流布される「世界史」の多くはこの西欧キリスト教史観に潤色されている。ヨーロッパ
の大航海に先立って八世紀のイスラムによる大航海、十世紀の中国による大航海によってすでに
航路が開発されていたとの見解もある(宮崎正勝『ジパング伝説』中央公論新社、2000 年)。西
欧キリスト教の視点から語られる様々な物語が一つのイデオロギー装置としてわれわれに大きな
影響を与えていることを自覚しておく必要がある。
19 これらの検証は本稿の課題ではない。しかし、たとえば豊臣秀吉のキリシタン弾圧の原因のき
っかけがイエズス会の長崎領有にあったことは注目に値する。日本の為政者がこれをイエズス会
の領土的野心と受け止め、こうした行動をとったキリシタンに対し厳しい対応を引き出したこと
は当然の結果であった。信長や秀吉にとって、一揆によって自治区を形成した武装仏教集団「一
向宗」は国内最大の危険要因であり、イエズス会の長崎領有に同様の危険性を感じ取ったことは
容易に想像できる。しかし当時のイエズス会は「長崎領」問題を軽く受け止めていたかのようだ
(川村前掲書、103 頁)
。秀吉の「排切支丹文」は、宣教師たちが日本支配の野望を持っていると
断じている。たとえそれが誤解であったとしても原因は宣教師の側にあったことは否定できない。
6
る前に中東とアジアはシルクロードによって結ばれていたし、遅くとも6世紀には、シルクロー
ドの東端は中国でも朝鮮でもなく日本であった。中央アジアを統一しヨーロッパにまで覇権を及
ぼしたモンゴル帝国は「景教」を受け入れ、バチカンとも交渉を持っていた。モンゴル帝国が日
本に覇権を及ぼそうとしていたのは周知の事実である。たしかに地中海で結ばれたパレスチナと
欧州大陸は交通の便からいって遠隔地ではない。その意味で初期キリスト教時代、ローマは地政
学的に特別な意味を持っていたに違いない。しかしわれわれはキリスト教の歴史を検討する際、
ヨーロッパ発の大航海史観だけではなく、陸路を中心とした「ユーラシア史観」の可能性をも検
討する必要があるに違いない20。
第二に、教会による宣教、あるいは宣教師による宣教、すなわち教会組織による公的な宣教は
キリスト教伝播の一つの経路ではあっても唯一のものではない。すべてをローマ教皇の裁可に基
づいて行うローマ・カトリック教会のみならず、おそらくすべての教会は、それが宣教団体であ
れ、教会によって設立された事業であれ、宣教の働きを教会の枠組みでとらえることに慣れてき
たために、教会の設立や組織化、教会の拡張の物語を中心にキリスト教の歴史をとらえ、そして
おそらくいま現在のキリスト教の働きについても教会の働きにのみ着目しているといえるだろう。
しかし、キリストの教え、あるいは聖書の物語や価値観、キリスト者のライフスタイルが伝わり、
それが受容される経路は実に多用だと考えておく必要がある。それは必ずしも教会や公的な制度
を媒介としないこともあるはずだ。むしろ歴史の偶然や政治的策動、個人の情熱など様々な出来
事が重なり合った事件として出現する「宣教」がある。われわれがそれを「神の宣教」と呼ぶこ
とをためらう必要はないはずだ。
ACCが確認した「世界聖公会における宣教の五つの指標」とは、第一「神の国の喜ばしい知
らせを宣言する」、第二「新しい信者たちを教え、洗礼を授け、養育する」、第三「愛の奉仕をも
って人々の必要に応える」、第四「社会の不正な構造を変革するよう努める」、第五「被造物の本
来の姿を保護するように努め、地球の命を支え新たにすること」である21。この中で教会によらな
ければ遂行不可能と思われる要素は第二番目の「新しい信者たちを教え、洗礼を授け、養育する」
だけだろう。しかし厳密には新しく信者となろうとする人々は社会に生まれ、社会に生き、神と
出会い、決断へと導かれるのであって、教会はその中で役割の一翼を担うことはあってもすべて
を独占しているわけではない。そして洗礼によって教会に迎え入れられた人々の信仰的成長を促
すのは常に教会であるとは限らない。われわれはACCの示した指標を、こうした「神の宣教」
の働きの中に教会は重要な責任を持って参加すべきだと注意を喚起するものと受け止め、これら
を教会のみの役割として排他的にとらえているわけではないはずだと理解したい。
宣教とは何かという定義を幾たび繰り返してもそれ自体によって宣教が前進することはない。
しかし現時点で我々が確認しておくべきことは、われわれの視点はこの地上における神ご自身の
宣教であり、もちろん教会はそのための働き手として真っ先に召されていることを自覚しつつも、
決して他の働き手を排除するものではなく、むしろわれわれの同志となりうるすべての働きと連
帯し、謙虚に学び、必要な自己変革を遂げながら歩んでいく必要があるという点である。従って
20
ユーラシア大陸の重要性、特に世界史におけるモンゴル帝国の重要性を強調しているのは杉山
正明だ。『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004 年、などを参照のこと。
21 『壊れた世界での宣教』日本聖公会管区事務所、1991 年、112~113 頁。
7
本稿が「宣教」と語る際の関心事の中心は福音であり、それが教会だけでなくあらゆる現実の中
に現存しうるのだという点に注目したい。その場合われわれが注目するのは「民衆」である。な
ぜなら神ご自身による宣教の現場は常に民衆の現場であり、イエスは民衆の只中に到来した神の
国を告知されたのだという聖書の物語こそがわれわれの立脚点であるからだ。
もちろん教会組織による公的な宣教も常に民衆の物語との呼応の中で語られなければならない。
そしてわれわれは福音という言葉を、民衆の解放と無関係な内容として語ることはできないだろ
う。われわれはキリスト教の歴史を「大航海史観」から解放し、福音のメッセージを教会自身の
一人語りとしてではなくアジアにおける「神の宣教」と「民衆史」の中に位置づけることで生ま
れる新たな物語としてのアジアの神学を待望しているのである。
3、アジアにおけるアングリカン神学とは
アングリカン神学を特徴づける Via Media の精神が、アジアにおいて「第三の神学」として具
体化される可能性を含んでいると考えるならば、われわれはアジアの状況から生み出される神学、
われわれが模索しようとしている神学を「アジアにおけるアングリカン神学」と位置づけてもか
まわないだろう。
アジアの神学の提唱者は少なくないが、われわれは韓国の民衆神学を参考にしたい。「脱神学、
反神学」としての民衆神学の構想は安炳茂にも徐南同にも共通するものであった。われわれがこ
こで民衆神学を取り上げる意味は、この神学が机上の神学ではなく現場の神学であり事件の神学
であるからだ。貧しい人々の現実、不正義に苦しむ人々の現実、人間の価値を否定するあらゆる
悪の現実とそれらに無関心な教会、こうした現実との衝突によって生まれた神学が民衆神学であ
った。徐南同は明らかに、カトリックでもプロテスタントでもない「第三の神学」を構想してい
た。これは彼にとって左右という水平軸からの「第三」であると同時に、カトリック時代、プロ
テスタント時代に継ぐ第三の時代という時間軸における新しい神学でもあった。徐南同は民衆神
学以前にそうした動きが常に存在していたことを指摘しているのだが、彼によればそれらは「キ
リスト教批判」という枠組みを共有する点に特徴があったという。
脱キリスト教 post Christianity は世俗化神学の課題であり、脱キリスト教世界における宣教こ
そ神の宣教の神学 missio dei theology に他ならない。徐南同は脱神学の条件として次の諸点を示
している。第一に、われわれはコンスタンティヌス的歴史観からの脱却を果たさなければならな
い(これはわれわれの脱大航海史観の作業と呼応する)
。第二に、われわれは文字と頭の神学を脱
却し民衆の現場を下部構造とする「物語の神学」を構築しなければならない。それは「超越的・
演繹的」である伝統的神学に対する、
「帰納的神学」を意味しており、これは「民衆のハンの祭司」
という別の主題としても語られていることだ。第三に、われわれの神学はカトリックとプロテス
タントという対立を克服した「第三の神学」
、世俗の神学とならなければならない22。
大航海史観を克服し、ヨーローパ教会拡張の物語としてではなくアジアの民衆と福音との出会
いの物語、アジアの民衆が語る福音を証する出来事としてのアジアの神学こそ、われわれにとっ
ての「第三の神学」だ。こうした神学を模索することはアジアのキリスト者としての使命である
22
徐南同『民衆神学の探求』金忠一訳、新教出版社、1989 年参照。
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と同時に、アジアのアングリカンとしてアングリカン共同体全体に対して果たすべき責任の一つ
だとわれわれは信じている。
アジアにおける神学を論じる中で特徴として確認されなければならないのは、アジアには「多
くの貧しい人々と多くの宗教がある」というピエリス Aloysius Pieris の指摘だ。ここでいう「貧
しさ」を、われわれは経済的、政治的、文化的、宗教的な疎外状況、抑圧や搾取、差別などの言
葉をおぎなった上で理解しようと思う。それゆえビョン・ソンファンは、これからの韓国神学の
モデルとして諸宗教の神学と民衆神学、そして解放の神学などが合流した「多元主義パラダイム
に基づく多元主義宗教解放神学」をあげたのだった23。これは、われわれの文脈において「福音」
とは何か、という根源的な問いと直結した課題だ。われわれにとって神学の課題とは、なぜイエ
ス・キリストがアジアの福音であるのか、という問いへの応答だが、われわれはその前にアジアに
おけるキリスト教自身の位置を再確認する必要があるだろう。
われわれが「多くの貧しい人々と多くの宗教がある」という現実に立脚しなければならないの
は、アジアの「貧しさ」にキリスト教は責任を感じているからだ。アジアの「貧しさ」はキリス
ト教ヨーロッパの拡張主義の発露としての「大航海時代」の産物であり、欧米諸国とそれに追随
する日本による植民地主義の産物であり、植民地主義の申し子ともいうべき独裁的政治がさらに
貧しさを再生産し、そしていまやアメリカや日本などの中心国による経済搾取を可能とするグロ
ーバリゼーションがアジアに、そして世界に「貧しさ」を強いている。われわれは、ヨーロッパ
がアジア諸地域に対して植民地主義的侵略を開始したその尖兵の中にキリスト教宣教師がいたこ
とを否定することはできない。またわれわれは、アジア諸地域で発生した独裁政権の多くが親米
的であり親キリスト教的であり、アジアにおいてキリスト教が「反共イデオロギー」として移植
され育成されていたことを否定することはできないはずだ24。そしてアジアにおける経済侵略が
同時に文化侵略であって、そこで流布される経済支配の文化的側面としてのアメリカ大衆文化の
中に、アジアを蔑視し、イスラムやヒンドゥーを嫌悪するキリスト教的偏見が満ち溢れているこ
とは周知のことだ。遠まわしに言っても、アジアにおける「貧しさ」にはアメリカやヨーロッパ
のキリスト教、そしてこの地域に移植された欧米的キリスト教が深く関わっていることは明らか
だろう。もちろんアジアの「貧しさ」にキリスト教以外の宗教的要素があることを無視すること
はできない。しかし、結局それらは資本や権力と癒着した既成宗教の姿であって、アジアにおけ
る民衆的宗教性の持つ解放的要素を否定する必要はなく、むしろそれらは反民衆的宗教に対する
総合的な批判の視点から検討すべき課題であるに違いない。
ピエリスはアジアの神学における新しいパラダイムとして、1)貧しい人々の権威、2)解放
志向性、3)人間的基礎共同体、の三点をあげ、これこそが、学問的権威、司牧的権威に次ぐ第
三の権威の次元、
「貧しい人々の権威」に他ならないと指摘した25。われわれの神学、そして教会
23
拙論「パラダイム転換としての民衆神学」『公共性の倫理と平和』韓国神学研究所、2005 年、
参照。
24 第二次大戦終結後、連合国軍最高司令官兼米極東軍最高司令官として東北アジアに絶大な影響
を与えたマッカーサーはこのことを象徴する人物の一人といえるだろう。
25 ピエリスが指摘する「貧しい人々の権威」には 7 つの特徴がある。第一は「この世的霊性」で
あり、これは貧しい人々の生活の必要によって特徴付けられる。第二は「生活の神への帰依」、第
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の目標は、
「貧しい人々の権威を受け入れた解放的な基礎共同体」構築への貢献であるというべき
ではないだろうか。
4、東北アジアにおける福音に仕える教会、結論に代えて
われわれは東北アジアにおける福音の課題として、キリスト教ヨーロッパの拡張主義、欧米と日
本による植民地主義、独裁的政治、アメリカおよび多国籍企業を世界基準とするグローバリゼー
ションを念頭に置いている。
「アジアの貧しさ」とはこれらの複合的な結果であり、アジア人はこ
れらの複合的な被害者であり同時に加害者であるはずだ。
(1)東北アジアの和解と日本の民主化-巨視的課題として
植民地主義を脱し、アメリカに依存しないアジア全域の安定を構築するためには「東北アジア
の和解」が緊急の課題となる。巨視的には、これこそがアジア全域にとって喜ばしい知らせであ
り、福音である。そのために必要な条件の第一は、日本による植民地支配の歴史に対する清算へ
の取り組みである。日本の植民地支配はもとより、十九世紀末から今日に至るまで東北アジアに
おいて「和解」という名の働きを必要とする課題は枚挙に暇がない。しかし最低限ここで確認し
ておく必要があるのは、日本政府が被侵略国に対して過去の罪を認め、必要な補償を行い、未来
に対して責任ある姿勢(たとえば歴史教育の再検討、平和憲法と非武装原則の維持など)をとる
ことである26。
われわれはこれを外交の問題ではなく国内問題、すなわち「日本の民主化」の課題としてとら
える必要がある。日本の聖公会が「神に忠実であると同時に自国の人々に対して責任的である」
という姿勢に立つとき、われわれは日本全体に責任をもつ教会とならざるを得ない27。つまり日本
の聖公会は日本社会の福音化によって東北アジア全体に対する責任を果たすように召されている
のであり、その第一の課題とは日本社会の民主主義的成熟に他ならない。アジアの「貧しさ」は
日本の非民主的政治の結果としての外交、経済、教育政策によって再生産されている。自民党が
画策するように平和憲法が改定され日本がさらに軍備を拡大するならばアジア全域はますます不
安定になり、その結果アメリカの世界戦略はさらに強化され、日本や韓国はさらに強固にその版
図に組み込まれるだろう。
三は「生活の神への正義の叫び」であり、これは形而上学的な神概念ではなく「現世に関わる神」
という概念に基づいている。第四は貧しい人々が帰依する宇宙的「生活の神」である。第五は女
性性である。第六はエコロジカルな霊性である。第七はアジアの貧しい人々の宗教伝統的話法と
しての物語である。拙論「パラダイム転換としての民衆神学」参照。
26 この点について筆者は「東北アジア共同の家」構想を念頭に 2005 年の「第11回外キ協国際
シンポジウム」の主題講演「戦後=解放後60年、日韓国交から 40 年-21 世紀東アジアの和解
と共生」で述べた。
27 本稿註6参照。塚田は国教会 State Church は「国家が公的・政治的に国民の教会として認め
た」ものであり、国民教会 National Church は「国家とは関係なく国別もしくは民族別などの自
立的教会」であり「現地住民の教会」という意味だと説明する。塚田前掲書 607 頁、13 章註 11。
アングリカンが近代国民国家を克服した教会として立つために、ここで重要なのは「国民」とい
う国家の単位ではなく「現地」という地域性でなければならない。その意味でわれわれは日本と
いう地域の住民を念頭に置いている。
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しかし、弱小教団である日本聖公会が日本の民主化を通してアジアの和解に対して責任を負う
という命題はあまりに非現実的な大言壮語かもしれない。もちろんこれは現実政治的な戦略とし
ては愚かなものだろう。しかしわれわれが依拠する救いの歴史は「滅び行く一アラム人」から始
まり、神の業は「家作りの捨てた石」による新しい神殿の創建である。われわれは「メシア的政
治」を待望するのではなく「政治的メシアニズム」に立つのであり、その原点は「貧しさ」、すな
わちピエリスが指摘する真の福音的権威の座としての民衆であるはずだ28。歴史上、そして今現在、
社会において多数派と化した宗教が堕落する姿をわれわれはよく知っている。
「弱く小さい」こと
はキリストの福音においては祝福の基礎であるはずだ。
巨視的にいえば、日本社会がアジア全体に対して、特にアジアの民衆に対してより害の少ない
政治姿勢をとるために貢献する勢力は「福音化」の役務者であり、逆にそのことに貢献できない
のであれば、たとえそれが教会組織であったとしても「福音」を担うことはできないと考える必
要がある。われわれの仕事は日本社会の民主化と市民性の成熟に仕えることであり、われわれが
民衆的共同体を再発見、あるいは再創造するために、自らの内的充実に努力する必要があるにち
がいない。
(2)存在が使信である教会をめざして
われわれは非キリスト教社会において、英国国教会風の「教区と地域教会」というモデルに固
執する必要はない。われわれは自らの教会モデルを自ら創出する責任があるはずだ。筆者が示し
うるのは単なるイメージに過ぎないが、それは民衆宗教としてのキリスト教の再生だ。論理的で
自律的なプロテスタンティズムに代表されるみ言葉の宗教としてではなく、伝統と強大な組織を
背景としたカトリシズムに代表される権威主義的宗教としてではなく、存在そのものが使信とな
る教会の姿を模索してみたい。これはかつてハーヴィー・コックスが語った「民衆宗教」と通低
するイメージだが、われわれの作業は、カトリック文化に根ざしたニューメキシコの物語をその
まま翻訳して移植することではない。むしろ筆者は、三百年前に言語と習慣の壁を越えて九州の
一地方から全国の民衆の中に浸透していった「キリシタン信仰」の姿を思い浮かべている。特に
迫害期のおよそ二百五十年間、彼らは信仰を秘儀として受け継ぎ、ただ家族の中だけで密かに伝
承することで異教徒には一切明かすことをしなかった。これは「伝道」と正反対の概念に他なら
ない。ただ彼らはひたすら実直であり、その生き方は民衆共同体の存立の核となるまでに浸透し
ていった。迫害下の信仰とはすなわち殉教を意味している。殉教志願者だけが入信し、彼らによ
ってのみ秘儀は伝承されていったのである。こうして外的な圧力によって「日本的変容」を遂げ
たキリスト教は、一方では「良民」の倫理として徳川幕藩体制を強固なものとして支える下部構
造の一翼を担いながら、他方その存在は権力者たちにとって常に恐怖の対象であり続けるような
潜在的民衆組織でもあった。彼らは中世イタリアの信徒組織に習って慈悲の行いに専心し、死者
を手厚く弔った。この道を信じるものはたとえ身分の高い領主ですら行き倒れや貧農の弔いに馳
せ参じるというその姿に、周囲の人々は封建的身分秩序を突き抜ける解放性を読み取り、キリシ
Aloysius Pieris. Interreligious Dialogue and Theology of Religions: an Asian Paradigm, in ;
Horizons 20/1(1993), pp106-114. (「神学ダイジェスト 81」上智大学神学会、1996、42~51 頁)
、
拙論「パラダイム転換としての民衆神学」参照。
28
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タンは民衆の中に浸透していったのだった29。
初代教会が生きた文脈はユダヤ教世界であり、異邦人伝道もユダヤ教ネットワークに依拠して
いたことは否めない。したがって共通の宗教世界を背景とした活動としての原始教団のパラダイ
ムは、多くの既存宗教の中で、しかも脱宗教的世界観の中を生きているわれわれの現実とは大き
く異なっているかもしれない。われわれは日本社会においては明らかに異質な少数者として生き
ていかなければならない。われわれが学ぶべき初代教会の伝統は使徒的権威主義や異邦人共同体
への勢力拡大ではなく、むしろ迫害下の諸文書に見られる黙示思想や神秘主義、心霊主義
spiritualism などかもしれない。民衆の宗教性は多分に神秘主義的であり心霊主義的であるから
だ30。
日本における聖公会の課題は、他の宗教や運動体と共に和解と民主化、人権と正義の実現を担
い、少なくとも存在そのものが使信となるよう旗色を鮮明にすることだ31。その上で、小さな集団
として弱者の保護と死者の弔いに勤しみ、理性や制度のみに依拠しない民衆的霊性を重んじなが
ら民衆の知としての新しい神学を生きること、そしてまだ見ぬ新たな共同体の幻を示すことでは
ないだろうか32。
旗色を鮮明にすることはすなわち「世間」に抗することを意味している。もしわれわれが、共
同体も社会も知らず、排他的で自己利益追及的な「世間」に属して生きている現状を受け止める
なら33、教会は、少数者たちと連帯することで集団エゴ的な抑圧装置としての「世間」への対抗命
題として存立する意義がある。
「異質な少数者」としての自らの姿を明確にした上で、新しい共同
体体験を自ら生きて示すこと、成熟した民主主義、高い市民性の実践を教会自らが生きて示すこ
とこそが、存在そのものが使信となる共同体の姿といえるだろう34。
29
これらの特徴は初期キリシタンのものであって潜伏後の「隠れ信仰」が実際には先祖崇拝の一
類型としてまったく解放性を持たない場合がほとんどであることを承知している。しかし、きわ
めて大雑把な課題設定ではあるが、日本の民衆史、そしてキリスト教史において「民衆宗教とし
てのキリシタン」の意味を再発見することは有意義であるに違いない。
30 キュンクは初期教会のパラダイムを「黙示文学的パラダイム」と分類している。ボッシュ『宣
教におけるパラダイム転換 上』新教出版社、1999 年、182 頁参照。
31 靖国神社国家護持反対、君が代日の丸強制反対、平和憲法護持、外国人住民基本法推進などの
明瞭な政治スローガンを堅持することは、聖公会という教団の使信を明らかにする助けとなるは
ずだ。
32 コックスは「未来の神学は一種の遊びであるべきだ」と語り、神学が科学としての昇格を目指
してきた経緯を批判した(コックス『民衆宗教の時代』野村・武訳、新教出版社、1978 年、449
頁以下)。コックスの言う「遊び」とは科学主義への批判だが、筆者の言い換えによれば資本主義
の教義である「生産ナショナリズム」に対する批判とも言えるだろう。昨今の「環境の思想」は
まさにこのことを主題としている。第一世代の民衆神学はこれを「脱神学」のテーマとして示そ
うとした。
33 この点については阿部謹也の一連の著作を参照のこと。
34 南米におけるキリスト教基礎共同体 BCC、ピエリスの語る人間的基礎共同体 BHC、韓国の分
かち合いの家運動などがこのイメージを支えてくれる。
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