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ジョン・ワズワース・ストーリー
John Wadsworth Story ~ Journey to Tahiti ~ John Wadsworth Story ~ Journey to Tahiti ~ まえがき 1993 年、現代人に存在すら知られていなかった果実「ノニ(学術名・ モリンダシトリフォリア)」を世界に初めて紹介したのが、モリンダ インクであり、製品開発に尽力したのが現社長(2012 年 2 月現在) であるジョン・ワズワースです。 モリンダ は 1996 年創業以来、ノニの実はもちろんのこと、葉や種子 に至るまでその成分をさまざまな製品に取り入れ、世界規模で成長を 続けています。南太平洋の小さな島々で珍重されてきた植物ノニが、 何故、現代のわたしたちに届けられたのでしょうか? ノニの恵みを 「世界中のすべての人々に」。この想いは今も昔も変わることはありま せん。この想いに賛同し、人生を変えた方々が増え続けているのです。 このメッセージの原点となるのは、食品科学者であるジョンの特別な 体験。これまで、このストーリーは何度も語られ、その度に多くの方々 の心に刻まれてきましたが、ここで初めてジョンのストーリー 〜 Tell the Story 〜 をすべて網羅いたしました。 会員のみなさまには、よく知られている内容かもしれませんが、もう 一度、ジョンのストーリーを読んでいただくことで、みなさまの活動 の糧にしていただきたいと思います。初めてお読みになる方は、一人 の男の冒険話として、どうぞお楽しみください。 Origin & Destiny オリジン&デスティニー John Wadsworth Story ~ Journey to Tahiti ~ ジョン・ワズワース ストーリー 目次 まえがき 第一章 ノニとの出会い 8 ページ 第二章 タヒチでのノニの価値 12 ページ 第三章 供給量の確保 14 ページ 第四章 未開の地へ 17 ページ 第五章 新たな確信 21 ページ 第六章 さらなる確信へ 23 ページ 第七章 大切な出会い 26 ページ 第八章 念願の企業設立 29 ページ あとがき 黄木 信 ブライアント・ワズワース John Wadsworth Story ~ Journey to Tahiti ~ 1999 年 7 月 ジョン・J・ワズワース 著 モリンダ社 製造 ・ 国際ビジネス拡張担当副社長(当時) 第一章 ノニとの出会い スティーブン ・ ストーリーとわたしは、ブリガムヤング大学で栄養学を中 心にした食物学を専攻し、特に新製品開発について学びました。何年も前に なりますが、わたしたちはニュートリション フード 研究所という名前の会 社を創りました。この会社では、ネットワークマーケティング企業向けに新 製品を開発していました。1993 年にはユタ州セントジョージに移転し、そ こでゴルファー向けの栄養バーを開発しました。この製品はアメリカの何万 というゴルファーに売れるという自信があったため、そこに全財産をつぎ込 みました。そして約 120 日がんばりましたが、プロジェクトがうまくいっ ていないことは明らかでした。わたしたちはその製品をあきらめ、食品開発 という原点に立ち返ることにしたのです。 そんな時でした。「ノノ」 という名の果実が、フレンチポリネシアの人々 の健康維持に役立てられているということを知りました。タヒチにいる何名 かの人から、いくつかの製品サンプルを受け取ることができました。それは とても興味深いものでした。1 ガロンの広口のガラス瓶に、黒いジュースが いっぱいに入っています。よく見ると、瓶の中には小さな果実がありました。 それだけではなく、葉や小枝も混ざっていました。瓶の蓋は錆びていました し、中身が漏れないよう、瓶と蓋の間には新聞紙がはさまれていました。新 聞紙はぼろぼろになって、今にもジュースに入ってしまいそうでした。あま りにもひどいサンプルで、わたしはどうすればいいのかわかりませんでした。 とりあえずは机のすみの目立たないところに置いておきました。 何日か後、オフィスに入った時に果実のサンプルに気づきました。まだ机 のすみに置いたままでしたが、開けてみることにしました。蓋をひねると、 空気の抜ける音がしました。その音からわたしは、発酵などによってガスが John Wadsworth Story 8 Journey to Tahiti 発生したのだろうと考えました。ガスが漏れるに従って、たとえようのな い悪臭が部屋に充満しました。あまりにも臭いためオフィスから退避して、 外ににおいが漏れないようドアを閉めました。しばらくしてからオフィス に戻ると、まだにおいが残っています。そのため長い間ドアであおいで空 気を入れ換えなければなりませんでした。この臭くて粗末なサンプルをど うすればよいかわかりませんでしたが、スティーブンとわたしの置かれた 状況では検討してみるしかないだろうと感じていました。 わたしは数名の人物に話を持ちかけ、試験的にジュースを飲んでみる気 はないかと尋ねました。しかし、ジュースのにおいをかぐと、例外なく 「絶 対にいやだ」 という答えが返ってきました。そんな中、18 歳の青年に声 をかけました ( 若者は怖いもの知らずで、普通はリスクを恐れないですか ら )。彼はジュースのにおいをかぎ、こう言いました。「あなたの研究に乗っ てもいいですよ。あなたが飲むならわたしも飲みます」。この時点では、わ たしはまだジュースを試したことがありませんでしたし、試したいとも思っ ていませんでした。わたしは健康でしたので、ジュースを飲んでも何のメ リットもないと思っていたからです。 わたしたちは、現地の人に言われたとおり、朝は 6 時、そし て夜は 7 時に飲むことにしました。初めて製品を試し た朝のことは、今でも覚えています。月曜日 の朝でした。前日には風邪の症状で つらく、ひどい状態でした。製 品のにおいが強いので、この不 快でどうしようもないジュースを John Wadsworth Story 9 Journey to Tahiti 飲むのを躊躇しました。そのため、若い同僚も躊躇していました。わたした ちは 2 つのテーブルスプーンにジュースを注ぎ、鏡に映っているかのよう に同時に飲み込みました。口に入れた最初の印象は、においはそれほどでも ないということでした。しかし、ジュースの味は最悪で、流しに走り、コッ プに水を入れて急いで飲み干しました。 それから 4 週間、わたしたちは毎朝毎晩そのジュースを飲み続けました。 そして、被験者の青年を定期的に検査し、記録していきました。期間終了後、 データを分析しての結論は、青年の健康には何らの影響もないというもので した。しかしわたしは、このジュースが自らの健康維持に役立っていること に気づきました。それでも、青年の試験結果には何も望みがないため、再び 瓶を堅く閉ざして棚の一番上に収め、他のプロジェクトに目を向けることに したのです。 試験が終了してから何週間か後に、ある女性がオフィスにやって来て、健 康維持に役立つものが欲しいと言いました。それを聞きながら、ジュースを 飲んだときの経験を思い出していました。彼女には、もしかしたらあるかも しれないと答え、準備する間、オフィスの外で待つように伝えました。にお いをかいでほしくなかったからで す。10 日分のサンプルをとても きれいな瓶に入れて彼女に渡し、 いつ、どのように飲むのかを具体 的に伝えました。そして 8 日目 にまた来るように言い、そこで結 果を確認することにしました。 John Wadsworth Story 10 Journey to Tahiti 8 日後、彼女は言われたとお りに戻ってきて、指示どおりに 製品を試したと言いました。ど うだったかと尋ねると、健康維 持にとても効果があったと感じ ていると報告してくれました。これがわたしの興味に火をつけました。彼女 の健康にも役立ったのであればビジネスになると判断したのです。 2 度目の試験では、6 名の高齢者に会うことにしました。彼らは、短期間 の実験に参加することに意欲的でした。一人ずつ製品を手渡し、いつ、どの ように飲むのかを伝えて、ジュースを飲んでいる期間の変化について記録を 取るように頼みました。4 週間後、全員の報告書には「もっとジュースがほ しい」と書かれていました。 それで十分でした。 ジュースのにおいをかぎ、実際に飲んでみた人が「もっと欲しい」と言う のは、清涼飲料として求めているのではないことに確信がありました。とて も良い結果です。そのため今度は、同じことを別の人々にも試すべきだと考 えました。 わたしたちは、別のグループの人に接触を図りました。再びサンプルを準 備し、飲み方を伝えて渡しました。8 日後、彼は「生活や食事は何も変えて いないのに、健康維持に役立った」と言いました。とても興奮しました。そ して、このプロジェクトを継続することに決め、さらなる調査をするために、 タヒチへ旅立つ準備をしました。 John Wadsworth Story 11 Journey to Tahiti 第二章 タヒチでのノニの価値 タヒチに到着して最初にするべき仕事は、その果実の歴史をひもとくこと でした。わたしは、道行く人々に声をかけました。通訳者を見つけ、出会う 人々に尋ねたのです。「ノノ果実について、何か教えてくれませんか」。この 質問に対する人々の答えはとても興味深いものでした。質問すると、誰もが 必ずストーリーを伝えてくれたのです。 彼らのストーリーは自分自身や祖父、叔母、そして姉妹についてのもので した。これらのストーリーを通して、この果物がさまざまな用途で彼らの健 康維持に役立てられ、代々語り継がれていることがわかりました。わたしは 驚愕の思いでストーリーに耳を傾けました。あまりにも現実離れしていて、 信じるべきかどうか迷いました。 この時点では、この果物が健康維持に少なからず役に立つことは感じてい ました。実際に経験していたからです。その一方で、フランス系の人々に尋 ねたときには、その果実や植物について彼らは何一つ知らないということに 気づきました。しばらくして、フランス系の人々はこの果物を用いた原住民 の伝統的な健康維持法にはなじみがないのだとわかりました。 このことから考えたのは、代々受け継がれてきたモリンダシトリフォリア の利用法に精通した住民を数名探し出し、より詳しい話を聞いて調べてみる ことでした。これらの人々にインタビューを行い、原住民が何千年にもわたっ てこの製品を使い続けてきたことを知りました。また、何世代にもわたって 継承されてきた医学書にも目を通すことができ、何千年も前から積み上げて きた健康維持のための配合があることを知りました。 これらの書物を精査したところ、「ノノ」 という言葉がほぼすべての配合 John Wadsworth Story 12 Journey to Tahiti に記されていることに気づきました。さらに調べていくと、この製品は千年 以上にわたって利用されているだけではなく、原住民の健康を守るため、さ まざまなことに使われていることがわかりました。 これらの情報から、人々がその果実をどのように使っているのかもわかり ました。もっと情報を探そうと、図書館で 「ノノ」 の歴史に関する本を何冊 か読みましたが、限られた情報しか得られませんでした。しかし、島の植物 を専門にしている政府の職員とも会合を持ち、専門家から聞いた情報が真実 であったことのさらなる裏付けが取れました。 アメリカでは、1940 年代に 「ノノ」 を食品として認可していることを知 りました。第二次世界大戦中、軍はボラボラ島に基地を作りました。その時 に、現地の果実や植物について調査し、飢饉の時に原住民が 「ノノ」 を食べ ることがわかりました。そのため、現地の果実や野菜と同時に 「ノノ」 を食 品として認可したのです。タヒチへの初めての旅で手に入れた発見や成果は、 これ以上ないほど興味深いものでした。そしてそれは、アメリカで行った実 験結果を裏付けるものでもありました。 John Wadsworth Story 13 Journey to Tahiti 第三章 供給量の確保 その後、さらなる発見を求めてすぐにタヒチに戻りました。会社が大きく なっても十分対応できる量の果実を見つけるためでもありました。そしてこ の調査で、「ノノ」 の木がきわめて特異であることがわかりました。太平洋 全域に存在し、土壌が酸性でもアルカリ性でも生育するのです。また季節性 はなく、1 本の木に、年間を通してさまざまな成熟度の果実をつけるのです。 わたしは、ソシエテ諸島と呼ばれる島をたずねました。一般にはタヒチ島、 モーレア島、タハア島、フアヒネ島、ライアテア島、マウピティ島、ボラボ ラ島などで知られています。これらの島を巡り、すべての島で果実を見つけ ることはできましたが、その量は大きな会社を支えるには十分ではないと思 いました。また、果実が地面に落ちると悪臭を放つことから、現地の人々は においに対処するために枝打ちをして木の成長を抑制していることもわかり ました。おもしろいことに、果実を収穫して市場に出すというわたしの思い を人々に伝えると、ほとんどが相手にされないか、一笑に付されるかのどち らかでした。 原住民は果実から絞ったジュースを健康維持に利用していたにもかかわら ず、においや味があまりにもひどいため、ジュースにお金を払う人など誰も いないと考えていました。十分な量の果実を見つけられないのではないかと、 次第に不安になってきました。そんな中でわたしは、多量の果実を見つける ために、マルケサス諸島に行ってみてはどうかと言う声を何度となく耳にし たのです。 フレンチポリネシアの一部であるマルケサス諸島は、タヒチ島の北方 1,000 マイル ( 約 1,600km) に位置し、5 つか 6 つの島があります。そこを 訪れる準備をしているときにわかったのは、多額の旅費がかかるということ John Wadsworth Story 14 Journey to Tahiti でした。タヒチからマルケサス諸島への航空運賃は、ロサンゼルスからタヒ チまでの 3 倍なのです。 スティーブンとわたしが始めたゴルフのビジネスが失敗に終わったため、 手元には資金がありませんでした。そのため、マルケサス諸島へ行くための 旅費を出すことはひどく心配でした。さらに、2 名の通訳者が必要であるこ とがわかりました。一人はマルケサスの方言とタヒチ語を解する人、そして もう一人はタヒチ語と英語のわかる人です。旅費が大きくふくらんできたの で、事前に電話をして 「ノノ」 がたくさんあることを確認してほしいと通訳 者に頼みました。安定的に供給できるだけの量があることをあらかじめ確認 し、意義のある旅にしたかったのです。彼は、マルケサスの人々が 「ノノ」 は多いと言っている、わたしたちが来ることを心待ちにしていて、「ノノ」 を集めて箱に詰め、持ち帰ることができるようにしておくと言っている、と わたしに伝えてくれました。奇妙な答えだと思ったので、もう一度確かめる ように頼みました。しかし、答えはいつも同じです。3 回続けて同じ回答だっ たので、仕方がない、行くしかないだろう、と考えました。 わたしは、通訳のトムに事前にヌクヒバ島のホテルと交通手段の手配をし ておくように言い、わたし自身は航空券を手配しました。わたしたちが飛び 立った日はとても天気の良い日だったことを覚えています。 ヌクヒバ島行きの飛行機に乗るため、空港には朝早く到着しました。搭乗 案内の放送が聞こえてきたとき、この新しい冒険に夢が広がっていました。 わたしたちの飛行機はとても小さく、両翼にプロペラのある古いタイプのも のでした。座席は 20 席ほどです。タヒチ島を離陸し、マルケサス諸島へと 北上しました。 John Wadsworth Story 15 Journey to Tahiti 飛行機の騒音はひどく、揺れも強烈でした。低空を飛行しましたが、おそ らく飛行機が高度を上げられなかったのは、機内の気圧を保てないからだっ たのでしょう。騒音と揺れのため、非常に疲れる旅でした。ヒバオア島を経 由してヌクヒバ島に到着するまで、およそ 5 時間かかりました。 John Wadsworth Story 16 Journey to Tahiti 第四章 未開の地へ ヌクヒバ島に到着し、飛行機から降りても、プロペラの音が耳の中で反響 し、長時間ひどく揺れながらシートに腰掛けていたのでまだ身体が揺れてい たのを覚えています。 わたしたちは島の乾燥地帯側に到着しました。目的地とは反対側です。こ の乾燥地帯に見えるのは、空港の右手にあるあばら屋だけです。そのあばら 屋に向かいながら、車はどこにあるのかとトムに尋ねました。トムにホテル と交通手段の手配を頼んでいましたが、わたしはこの時までヒルトンホテル と胴長のリムジンを想像していました。トムはあばら屋の脇に行き、何人か と言葉を交わしています。数分後、彼が戻り言いました。「ジョンさん、車 は表にあるそうです」。 表に回ると、驚いたことに年季の入った、屋根のない、錆びだらけのジー プしかありません。わたしの目には、どうにかして第二次世界大戦を生き延 びたようにしか見えない車です。ジープに近づくと、後部座席にはクッショ ンがまったくないことに気づきました。そのため、前の席に座りたいと思っ ていましたが、トムも同じように考えていました。彼はこう言ってわたしを 説き伏せました。「わたしはドライバーの言葉がわかるので、話ができます。 だからわたしが前に座る方がいいですよ」。一緒に連れてきたもう一人の通 訳は友人に乗せてもらうことができたので、わたしだけが後部座席に腰掛け、 目的地へと向かうことになりました。 ヌクヒバ島には雨がたくさん降ります。この美しい島には海に突き出した 山があり、海抜 10,000 フィート ( 約 3,000m) を超えます。島の外周には道 路がありません。島の裏側に行くには山を越えるしかないのです。道は舗装 されておらず、雨が多いためにくぼみやジグザグの道など、障害がたくさん John Wadsworth Story 17 Journey to Tahiti 横たわっています。言うまでもなく、非常につらいドライブでした。振動の 激しい飛行機から、でこぼこ道を行くジープのクッションがない座席に乗り 換え、空港から町まで 4 時間揺られ続けました。 ようやく目的地にたどり着いたときには疲労困憊していました。わたした ちが滞在する予定になっていた家はとても小さく、1 部屋しかない小屋でし た。その部屋の真ん中にはシーツがかけられていました。そのシーツのこち ら側にわたしたちが寝て、あちら側には家族です。非常に暑く、虫がブンブ ン飛んでいます。とても疲れてイライラしました。 到着してから、トムが家の主人たちと話しています。絶え間ない会話の中 に、なじみのある 「ノノ」 という言葉が聞こえます。何となく聞いたことが あるような 「ノニ」 という言葉も聞き取れましたが、意味はよく知りません でした。 何分か話してから、トムがこちらに来て言いました。「ジョンさん、問題 があります」。わたしは「ここに来る飛行機やジープ以上に大きな問題なん てあるはずがない。どのような問題であろうと、今日、これまでに体験した ことに耐えてきた強いわたしにとっては何でもない」と思い、言いました。 「トム、何が問題なんだい。何でも来いさ」。 トムは答えました。「事前に何度か電話をして『ノノ』が多いかと尋ねた ところ、『たくさん』と答えをもらいました。ジョンさん、ここにはたくさ んの『ノノ』が存在します。でも、マルケサスの言葉で『ノノ』というのは、 蚊のような人を刺す小さな虫のことなのだそうです。何度も刺されると病気 になります。彼らはわたしたちがここに来て、厄介者の『ノノ』を全部持ち帰っ John Wadsworth Story 18 Journey to Tahiti てくれることにとても興奮しています。果 実を意味するのは『ノニ』という単語です。 そんなことでちょっとした行き違いがあっ たようです。タヒチでは『ノノ』が果実の ? ことで、 『ノニ』は虫のことです。マルケサスではまったく逆だったのですが、 わたしも気づきませんでした」。 このニュースは致命的でした。このニュースを聞いてから、わたしは失意 のどん底へと落ちていきました。そしてトムにこう言ったのです。「トム、 わたしは虫になんて興味はない。たくさんのお金を使ってここに来た。 『ノノ』 に関する調査はもう終わりだ。すぐにでも帰りたい。自分がもっとよく知っ ている分野のプロジェクトを始めようと思う。みんなが知っていて受け入れ やすい製品を作る。もう帰ろう」。 彼の答えはさらにわたしを落ち込ませました。「それも問題なんです。タ ヒチに帰る飛行機は、3 日後にしか戻ってきません」。この答えを聞いた時に、 どうしたらいいのかわかりませんでしたが、3 日間、とにかくノニを探すこ とにしました。この時、わたしはパニックになりかけていました。地の果て のような島に来るのに多額のお金を費やし、しかもこの島では、たくさんの ノニを見つけられないのではないかと考え始めたからです。 まず取りかかったのは、安定供給のためにノニの木を栽培してもらえるよ うに地域の農家の人たちを説得するタウンミーティングの準備でした(時間 の都合により、ミーティングの詳細は省略します。このミーティングに関す る非常に興味深い事実については、またの機会にお伝えします)。ミーティ ングには 80 名が参加し、1 時間半ほど果実の栽培について説得を続けまし John Wadsworth Story 19 Journey to Tahiti たが、基本的には笑われるだけで相手にされませんでした。このような反応 に、わたしはさらに暗澹とした気持ちになるばかりでした。 2 日半の間、ノニを探して島中を車で走り回りました。探索の結果には満 足していませんでしたし、マルケサス諸島には以前に訪問したソシエテ諸島 と同じぐらいのノニしかないだろうと感じていました。わたしは落ち込みま した。大きな会社に供給するのに必要だと見積もった量の果実が見つからな かったからです。 John Wadsworth Story 20 Journey to Tahiti 第五章 新たな確信 滞在最後の晩、ノニを探し歩いた長い一日を終えて、町へ帰ろうとして いました。途中、ある尾根の頂上で休憩をとりました。ジープから降りて 眺めると、水平線に美しい夕暮れが広がり、心を奪われました。太陽が西 の山々に隠れようとしていたのです。 その日の太陽をみなさんも直接見ることができたらと思います。そして、 そこに宿る命を感じることができたらと思います。空はオレンジや赤など、 柔らかな色で美しく染まっていました。とても美しい光景に引き寄せられ、 わたしは道路の反対側まで歩き、渓谷の端に立ちました。美しい景色に感 動していました。 太陽の光を目で追い、眼下に広がる渓谷を見やると、雲間から漏れた光 が何本かの木の枝を照らしているのがわかりました。このような美しい景 色の中に見える、それらの木の枝がノニとして知られているものだという ことにすぐに気づきました。ノニの木に気づくと同時に、その木が渓谷を 埋め尽くしていることもわかりました。美しさに打たれながら、わたしの 心には強烈な思いが押し寄せてきたのです。この思いは真実であり、今で も健在です。それは、非常にシンプルです。 「この果実はずっと世界から守られてきた が、今こそ世界に解き放つ時なのだ。何 百万という人々の生活に恵みをもたらし、 タヒチの人々の生活にも祝福をもたらす」 。 この思いが力と確信を持って心に迫っ てきました。そして、わたしは心の目で、 人々がこのジュースを飲んでいる姿を見 John Wadsworth Story 21 Journey to Tahiti ることができました。わたしが見た人々は、肌の色や目の形もさまざまで した。つまり、そこにはあらゆる国の人々がいたのです。 この思いについて考えるときはいつも、沈む夕日を眺めながら山の端に 立って感じていた時と同じように体が震えます。この強烈な力を得たのは、 人生でどん底にいた時のことでした。それは間違いなく、わたしのキャリ アでも最悪の時でした。わたしは投げ出そうとしていました。もっと容易 なことに目を向けたいと思っていました。人々に笑われることに嫌気がさ し、できやしないと言われることに傷ついていました。しかし、それまで は仕事として取り組んでいたものが、この思いが刻まれてからはわたしの 一部になりました。笑われても中傷されても決してあきらめることができ なくなったのです。このビジョンが現実のものとなるまでは、決してあき らめることはできませんし、いつまでもあきらめません。 その時には、この果実が守られてきたということに対する思いの重大性に ついて、本当の意味で理解してはいませんでした。ノニは隠されてきた訳で はありません。現地の人々 はこの植物について何千年 も前から知っていましたし、 尋ねられれば喜んで教えて きました。しかし、世界で このことを知っている人は いないのです。この経験が、 わたしに継続する力をあた えてくれました。 John Wadsworth Story 22 Journey to Tahiti 第六章 さらなる確信へ 帰国の途中、わたしはハワイ大学に立ち寄り、さらに調査を行いました。 そこでは、この植物と、その価値について研究したラルフ ・ ハイニキー博士 やアン ・ ヒラズミ博士らが著した文献を見つけました。ノニの研究に出会い、 わたしはとても興奮しました。わたしたちの手の中には良い製品があり、そ れが人々の助けになることはわかっていましたが、どのような仕組みで健康 維持に役立っているのかまでは知らなかったからです。特にラルフ ・ ハイニ キー博士の研究文献は、このような疑問に対して答えをあたえてくれました。 その後も何度かタヒチを訪れました。現地の人々が処方したときと同じだ けの効果を確保しながらも、このジュースを市販できるレベルで提供するプ ロセスを構築するためです。その時にわたしたちが作ったプロセスは、今で も変わっていません。それは、現地の人々が何千年もの間受け継いできたの と同じようにジュースを生産できるプロセスです。独占的で、独自のプロセ スであり、モリンダが所有権を有しています。大切な活性成分が損なわれず、 適切な機能を発揮できるようにしてあります。このプロセスを確立するまで、 何ヵ月にもわたって試行錯誤を繰り返し、高品質の製品を保証する手法に磨 きをかけていきました。 ノニ発見の旅の途上で、十分な量の果実があるかどうかを調べるために太 平洋の島々を巡りました。その旅で、最良の果実はフレンチポリネシアにあ ることがわかりました。フレンチポリネシアの島々は未開発で、住民もほと んどいません。澄んだ水が流れ、空気は清らかです。そこに生育する果実や 木、葉は他よりも大きく、より多くの果実を実らせます。この発見の重要性を、 ラルフ ・ ハイニキー博士の次の言葉を耳にした今になって噛みしめています。 「タヒチアンノニ TM ジュースは、今日の世界でもっとも優れたプロゼロニン の供給源であると考えられる」。 John Wadsworth Story 23 Journey to Tahiti タヒチへの旅を繰り返して開発プロセスを改善しながら、わたしは製品を 周囲の人に配り続けました。さまざまな問題に対して、タヒチの人々から聞 いたものと似たような反応があるかどうかを見るためです。製品を配ったと きに起きたさまざまな出来事はどれも非常に興味深く、調査で得られた回答 は、大変素晴らしいものでした。 製品の品質を高めるプロセスを構築してから、わたしたちは成功している ネットワークマーケティング企業にこの製品を持って行きました。新たに会 社を興すことは考えていませんでした。大きなネットワークマーケティング 企業に紹介して、原材料を提供する契約を結ぶことしか頭になかったのです。 先に述べたとおり、わたしたちは多くのネットワークマーケティング企業に 製品を提供していましたので、彼らに接触して業界でもっとも成功している 企業を選択するのは容易なことでした。 わたしたちはこの製品を最大限に生かしてくれると思われる企業を 5 つ に絞りました。しかし、製品を紹介したそれぞれの企業の反応は非常にショッ キングなものでした。どの企業も、太平洋の真ん中で取れる臭い食品を販売 することに対して先入観をぬぐいきれず、拒否したのです。製品がどれほど 強力であるかを知っていただけに、非常にショックでした。彼らが冷静に判 断できるよう、十分な情報を提供しましたが、それでも反応はありませんで した。おもしろいと思うのは、今、この時の会社がこぞってわたしたちの製 品の模倣品を作ろうとしていることです。何年か前であれば、独占的に販売 できたものを。 わたしたちの歴史の中で、この頃はまだノニジュースに味付けをしていま John Wadsworth Story 24 Journey to Tahiti せんでした。何千年もの間、原住民に飲まれてきたのとできる限り同じ状態 でジュースを提供することにこだわっていたからです。製品に手を加えるの は賢明ではないと感じていました。手堅いと考えていた 5 社に断られた後、 わたしたちは資金を調達して会社を興すことに決めました。 John Wadsworth Story 25 Journey to Tahiti 第七章 大切な出会い この時、わたしたちは資金を使い果たしており、自分たちの生命保険を担 保にお金を借りてプロジェクトを何とか続けているような状態でした。そこ でわたしたちはビジネスプランを作成し、新会社に投資してくれる人を探し 始めました。 スティーブンとわたしは、ケリー ・ オルセンと親しくしていました。この 時、ケリーは他のネットワークマーケティング企業に、マーケティング担当 副社長として雇われていました。わたしたちは親しかったため、彼がマーケ ティングプランを作成し推進していくことができる経験と、人並み外れた才 能を持った人物であることを知っていました。そのため、新しいビジネスに はケリーが必要だと考えました。何度か彼に接触し、仲間になってくれるよ うに誘いました。ある時のミーティングで、わたしたちは完全に自然のまま で、味付けしていないノニジュースをケリーに渡しました。においをかぎ、 味見をしてから彼は言いました。「味を付けるべきだ。そうすればもっと成 功できる」 。とにかく彼を説得したかったわたしたちは、彼が以前働いてい た会社は、同じようなにおいと味の製品で年間 2.6 億ドルを売り上げたこと を彼に話しました。しかし彼は、「もし、もっとおいしかったら、どれだけ の売り上げになったと思う?」 と答えました。この言葉をきっかけに、ス ティーブンとわたしは製品に味を付けることを決意しました。 わたしたちは懸命に働き、いくつもの味の組み合わ せを試しました。そして、ベリー類と相性が良いと いう点で意見が一致しました。この味の組み合わせ は社外秘で企業秘密であり、モリンダが所有権を持っ ています。最近になって初めて、このベリー類の組 み合わせが相乗効果を起こし、ジュースの恵みを促 進することがわかってきました。 John Wadsworth Story 26 Journey to Tahiti 必要な資本を提供してくれる可能性のある投資家を何名か見つけることが できましたが、彼らと契約することにはあまり乗り気ではありませんでした。 ケリー ・ オルセンが協力してくれるかどうかが不透明で、わたしたちだけで はマーケティング分野での経験が不足していたからです。できるだけ時間を 稼ぎましたが、財務的な重圧が大きかったため、やむなく契約書にサインを し、パートナーシップを結ぶことに決めました。 同じ時期に、ケリー・エイシーとキム・エイシーの紹介を受けました。わ たしたちはユタ州プロボのオリーブガーデンというレストランで顔を合わせ ました。彼らの背景について、多少は知っていました。わたしたちはネイ チャーズ サンシャイン社に製品を提供したことがありますが、ケリーはネ イチャーズ サンシャイン社の元社長で、キムはマーケティング担当副社長 でした。ケリーは成功した事業家で、わたしたちと出会う 6 年前にネイチャー ズ サンシャイン社を辞めていました。彼が現役だったときに手にした株式 のために、大変な資産家でした。 ミーティングはとても興味深いものでした。まず、ケリーに機密保持契約 書にサインをするよう頼みました。続いてポリネシアの人々のストーリーと、 ノニが何千年も彼らを助けてきたこと、また、歴史的にノニがどのように利 用されてきたのかを話しました。そして、ラルフ ・ ハイニキー博士やアン ・ ヒラズミ博士の発見も含め、わたしたちが過去に調べた多くの調査結果を伝 えました。ミーティングは短時間でしたが、 大きな手応えがありました。ケリー は、ミーティングの中でポリネシアの人々のストーリーやノニという言葉を 聞いた時に心が震えたと言っています。あたかも誰かが彼の胸を開き、心臓を 鷲づかみにしてマッサージをしてくれているようだったということです。 John Wadsworth Story 27 Journey to Tahiti ケリーとキムは、長い間、参加すべきプロジェクトを探し求めていました。 導きを求めて祈り、たくさんのプロジェクトについて検討してきました。彼 らは、このプロジェクトが他とは異なることを確信しました。最初のミーティ ングからの帰途、ケリーとキムはお互いの気持ちについて話し合い、これこ そが探し求めていたものであるということを二人とも感じていたのだと、後 にケリーが教えてくれました。彼らがそのように話していたことを、スティー ブンとわたしは知る由もありません。もしも知っていれば、ミーティングで のわたしたちの姿勢はもっと違うものになっていたでしょう。 (上段左から)スティーブン・ストーリー、ケリー・オルセン、ケリー・エイシー (下段左から)キム・エイシー、ジョン・ワズワース John Wadsworth Story 28 Journey to Tahiti 第八章 念願の企業設立 契約の細部を詰め、1995 年 11 月、ユタ州の一企業としてモリンダ社を 創立しました。予定では 1996 年 2 月に市場に参入するつもりでしたが、パ ズルの 1 ピースが足りません。ケリー ・ オルセンです。彼を全力で説得し ましたが、断られるばかりでした。彼の存在がどれほどチームに大きな意味 をもたらすかを理解していたので、いつも彼につきまとい説得を続けた末、 ついに彼は陥落しました。1996 年 5 月のことでした。 ケリーが合流したとき、倉庫には製品が山積みになっていました。わたし の記憶では、13 万本のタヒチアンノニ ジュースです。約 1 ヵ月半という短 期間に、わたしたちはマーケティングプランを作り、1996 年 7 月 14 日、 満を持して市場に参入したのです。 わたしたちはノニジュースを世に出した、世界で初めての会社です。市 場に参入してからは、驚くべき成功を収めています。1999 年 7 月にはタヒ チアンノニ ジュースの売り上げが 2,700 万ドルに到達しました。現在では、 アメリカ、カナダ、コスタリカ、ジャマイカ、プエルトリコ、ベネズエラ、 タヒチ、マレーシア、オーストラリア、日本、台湾、フィリピン、ノルウェー、 スウェーデン、オランダ、フィンランドの 16 ヵ国で営業を行っています。 今年の最後の四半期には香港とメキシコでもオープンします。継続的な成長 をめざしています。わたしたちの成長の要因は、製品に効果があり、人々が それを必要としていることです。※ このプロジェクトはわたしたちの器以上のものです。神さまの贈り物であ り、人々に恵みをもたらすためにこの地上にもたらされたものであると信じ ています。わたしたちは、この成功のすべてが自分たちのおかげだとは考え ていません。わたしたちの器以上のことが起きていると信じているからです。 John Wadsworth Story 29 Journey to Tahiti あの日、なぜ自分があのヌクヒバの山に立ち、あのような経験をしたのか はわかりません。しかし、努力を続けることに責任を感じているのは、あの 日あのような経験をしたからです。ケリー・エイシーとキム・エイシー、ス ティーブン・ストーリー、そしてケリー ・ オルセンも、わたしたちが手がけ ているこの事業の重大性に対して深い理解を得る経験をしていることを知っ ています。彼らも責任感を持ち、この使命の重要性を感じているのです。 この旅路において、数々の奇跡が成功を後押ししています。タヒチアンノ ニ ジュース自体が奇跡であり、プロセスや味の配合もそうです。わたした ちのマーケティングプランも奇跡だと思います。また、5 人の創設者と呼ば れる人々も奇跡ですし、数え上げればきりがありません。わたしたちは優秀 なのかもしれませんが、それだけでこれらすべての要素を備えたこの会社を 創ることができるとは思いません。わたしたちは自分たち以上の力に導かれ ています。モリンダは奇跡なのです。 ※ 2012 年 2 月現在、世界約 30 の国と地域に営業拠点を構え、 70 以上の国と地域に製品が流通して います。 John Wadsworth Story 30 Journey to Tahiti John Wadsworth Story 31 Journey to Tahiti あとがき 一般的に企業は、創業 10 年で 9 割、30 年でほとんどがなくなると言 われており、経営困難に至る原因の一つとして「経営理念やビジョン の共有」ができなかったことが挙げられます。確固たるビジョンがな ければ企業は成長することはありません。その起源となるストーリー のメッセージ性が強ければ強い程、それに共感を示す人が多くいるこ とも確かでしょう。そして、それは企業の存続へとつながるのです。 本書は 1999 年 7 月にジョン・ワズワースが記した英文を日本語に 翻訳したものです。 このストーリーはわたしたちのビジョンとして強いメッセージ性をも ち、これまでも会員のみなさまやモリンダ スタッフに愛されてきまし た。ジョンの特別な経験を通して、モリンダ にかかわるすべての人の 心が、同じ方向を向いていると言っても過言ではありません。あなた がふと立ち止まったとき、モリンダはいつでも変わらず、ともにいる ことを感じていただければ幸いです。 最後に、ジョンを支える、兄であるブライアント・ワズワース、心の 兄弟である、黄木 信から、ジョンについてのメッセージで締めくく りたいと思います。 【プロフィール】 黄木 信 モリンダ インク 日本地域統括ゼネラルマネジャー モリンダ ジャパン 合同会社 社長 1999 年よりモリンダ の通訳 / 翻訳業務に携わり会社 の「情熱 」に共感。2007 年 4 月モリンダ ワールドワ イド インク 日本支社長に就任。その後分社化に伴い、 2009 年 12 月モリンダ ジャパン 合同会社社長に就 任。現在に至る。 わたしは 1998 年秋のプレオープニング以来、通訳としてこの会社とか かわってきましたが、ジョンが自分の体験を話すのを聞くたびに涙が止ま りませんでした。人の話を聞いて受ける感動というものは、時間の経過と ともに薄れていくのが普通です。でも、このジョンの体験だけは違うので す。イベントでわたしの通訳を聞いてくださっている IPC の方々から「黄 木さん、鼻をすすっていないでちゃんと通訳してくださいよ」とよく言わ れます。 ある時、わたしはジョンにこう言いました。 「あなたのヌクヒバでの体 験を通訳していると、涙が出て止まらないんですよ」。するとジョンがこ う答えました。 「それは当然です。あなたとわたしは、生まれてくる前か ら兄弟だったんですから」 。その言葉を聞いて、また涙が出ました。 以来わたしは、そのことを IPC のみなさまに自慢しています。 「世界広 しといえども、ジョン社長と生まれてくる前から兄弟だったのはわたしだ けだから」と。そして、肉親の兄弟であるブライアントと、またジョンと モリンダをこよなく愛してくださる IPC のみなさまと協力して、ジョンが 発見して世界に広めてくれたノニの素晴らしさを、全力でお伝えしていき たいと思っています。 食品科学者ジョン・ワズワース自身が綴るアドベンチャーストーリーか ら、すべての出来事が数千年の時を超えて一筋の糸でつながれていたこと を感じていただければ幸いです。 【プロフィール】 ブライアント・ワズワース 初代日本支店社長 米国ユタ州出身。農業経済学博士。1972 年在日アメ リカ大使農務補佐官、85 年米国大使館農務担当公使、 92 年在ベルギーアメリカ欧州連合代表部農務担当公 使、95 年米国食肉輸出連合会副会長などを歴任。米 政府から数々の特別功労章、大統領賞などを受賞。初 代モリンダ インターナショナル インク 日本支社長(当 時)。ジョン・ワズワースの 14 歳上の兄である。現在 (2012 年 2 月)はアメリカ本社において日本市場の 調整役として活躍中。 ジョンはフランクリン・ワズワースとシルビア・ワズワースの間に生まれ た 11 人の子どもの 9 番目でした。米国ネバダ州南部、人口約 500 人の小 さな町パナカで生まれ育ったジョンの生い立ちは波乱に満ちたものでした。 ジョンは歩くより「走る」ことを先に覚え、転んで鼻をぶつけてあざが絶 えませんでした。転んでもすぐ走り出すその忍耐力と運動能力は、後に大学 の花形ランナーとして開花します。 ジョンが 9 歳のときに両親は世を去りました。母親は癌で 49 歳に他界。 その 1 年 4 ヵ月後に、父親が脳溢血で。その頃、まだ 5 人の子どもが義務 教育中で、年長の 3 人の兄弟たちは結婚をして子どももいました。父親の 葬式の後、残された 11 人の子どもたちは、キッチンのテーブルを囲み、家 族会議を開きました。そして、小さな子どもたちはパナカの家で生活を続け ること、家に残った年上の兄が家長役をすることが決まりました。 兄弟同士協力しあい、仲良く力を合わせて試練を切り抜けました。今でも お互いによく助け合っています。兄弟のうちのほとんどが大学を卒業するこ とができ、ジョンは陸上競技で奨学金を受け、大学で食品栄養学を専攻して 卒業します。後にジョンは経済的リスクを担いながら可能性を模索し、企業 家としての才能を開花させました。リスクを嫌うわたしには到底できないこ とです。 ジョンのモリンダに対する意気込みは、設立当初から誰にも負けてい ません。投資家は資金でサポートをしてくれましたが、ジョンは昼夜を問 わず働きました。その努力が報われ、ビジネスは素晴らしいスタートを切 りました。今では、最高の「経営陣」とともに企業を成長させています。 モリンダの歴史はまだ始まったばかりです。将来的には、今の数倍の大きさ の企業へと成長するでしょう。その理由は明確です。揺るぎない信念と、誠 実で正直な、そして方向を誤ることのないリーダーシップを持つジョンがい るからです。 昭和天皇の通訳として同行するブライアント・ワズワース(写真中央)。 幼少時代のジョンとその手をひくブライアント。 ワズワース家族(上段右から 2 人目:ブライアント、下段右から 3人目:ジョン)。 JOHN WADSWORTH STORY ~ JOURNEY TO TAHITI ~ 2011年12月 3 日 初版発行 2012年 6 月 1 日 第2版発行 著者 ジョン・J・ワズワース 発行・発売元 モリンダ ジャパン 合同会社 〒 160-0023 東京都新宿区西新宿 3-2-2 モリンダ ビルディング TEL:03-4330-8500(代表) http://morinda.com ※モリンダ インク、 モリンダ ワールドワイド インク、モリンダ ジャパン 合同会社を総称してモリンダあるいはモリンダ ジャパンと表記して います。 ※落丁・乱丁本はお取り替えいたします。 ©2012 Morinda, Inc. Printed in Hongkong. All rights reserved. 120201