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魚雷艇・掃海艇の歴史とZC・WZの歩み
日本の魚雷艇と掃海艇の歴史にかかわった 三菱 ZC 型ディ-ゼルエンジン と 三菱 WZ 型ディ-ゼルエンジン の歩み (生産終了後の記憶保存として) 1 (1)魚雷艇と三菱 WZ 型ディ-ゼルエンジン 日本海軍における魚雷艇に関する本格的な研究は、1922 年(大正 11 年)ごろに始まった。第一次世界 大戦中に実績のあった、イギリスのソーニクロフト社の CMB やドイツのエルツ社の魚雷艇を購入した ほか、国内の造船所に試作艇の建造を命じている。以降細々と研究が続いていたが、日中戦争中の 1937 年(昭和 12 年)に、第三艦隊旗艦であった出雲が中国海軍の魚雷艇の襲撃を受けたことで、魚雷艇へ の注目が急速に高まった。この後日本海軍は、日中戦争中に捕獲した英国製魚雷艇や、イタリアから 購入した MAS 艇、従来の研究結果を反映した実験艇を使って試験を繰り返し、1941 年(昭和 16 年)に、 排水量 20 トン級の第一号型(乙型)魚雷艇 6 隻の建造に至った。 1942 年(昭和 17 年)の秋期からソロモン諸島の戦いにおいて、米海軍の PT ボートが日本軍の輸送部隊 や舟艇隊に大きな損害を与えており、これに対抗するため魚雷艇の投入が求められた。このため同年末 から、乙型の設計を基本とした魚雷艇の大量建造が計画された。しかし、量産に適した軽量高出力の 主機が無かったため、中古の航空機用のエンジン等、入手可能な様々な主機を利用したサブタイプが 多数存在し、安定した性能(特に速力)を得られたものは多くなかった。速力が低かったため、魚雷艇 ではなく雑役艇の雷艇に分類された艇も少なからず存在する。また、敵魚雷艇の駆逐、味方船艇の援護 のために、魚雷兵装を廃して機銃を増備した隼艇という派生型がある。乙型の系列とは別にドイツの S ボートを参考にした、より大型(甲型・80 トン級)の第一〇号、第一一号型も少数建造された。 なおこれに加え、戦時中にアメリカやオランダの魚雷艇若干を捕獲し、戦利艇として利用している。 魚雷艇建造の本格化に伴い、1943 年(昭和 18 年)1 月には乗員訓練のため、海軍水雷学校に魚雷艇部 が設けられ、後には水雷学校分校として、臨時海軍魚雷艇訓練所が開設されることとなった。訓練所は 1944 年(昭和 19 年)5 月に横須賀市田浦から長崎県川棚町に移転し、魚雷艇の訓練が行われた。 横須賀から川棚へ移されたのは、横須賀港や東京湾のように船舶の往来が激しい場所では、技術の未熟 な魚雷艇学生の訓練場としては不適だと考えられたからだそうである。その訓練にふさわしい場所とし て大村湾が選ばれた。 昭和 13 年頃、三菱重工東京機器製作所では陸軍の監督の下に、国産戦車の開発を続けていたが、これ に搭載する小型軽量の高速ディ-ゼル機関の開発に全力で取り組んでいた。 当時、軽量高出力高速機関を完成するのに、2 サイクル方式を採用することの利点が取り上げられ、 米国ですでに実用化していた 2 サイクル方式の GM3-71 型を入手し、基礎的な調査を始めた。 これと殆ど時を同じくして、満鉄は蒸気機関に代わる高出力のディ-セルとして、当社に 1200PS 級の 高速ディ-ゼル機関の開発を求めてきたので、これに対し既に調査研究していた、2 サイクル方式 12 シリンダ-の ZA 機関(150φx200、1200PS/1600rpm)の計画を行った。しかしながら、支那事変に 続く太平洋戦争の影響により、研究を中断せざるを得なくなった。一方、海軍も高性能魚雷艇の開発を 始めていたが、これもまた適当なエンジンがなく、大きな困難に遭遇していた。そこで、海軍としても 追浜の海軍航空技術廠が開発中の 2 サイクルユニフロ-型航空用ディ-ゼル機関(16 シリンダ-、 140φx180 1000PS/1800rpm)を母体にして、軽量大出力機関の開発に、横須賀工廠が乗り出し、自力で 開発を行うとともに、民間にも計画立案の命令を出し、三菱重工東京機器製作所と名古屋発動機製作所 がその作業を行うこととなった。東京機器製作所は前記 GM3-71 による研究の成果や、満鉄向けの計画 概要を基礎として、ZA566 型、16 シリンダ-(150φx200、2000PS/1730rpm)機関を提示した。 これは、アルミ鋳物のクランクケ-スに排気タ-ボ過給機を装備し、重量 4000Kg でまとめるという 2 画期的なものであり、この案を実現すべく、昭和 17 年、まず、 単筒試験機関 ZB(写真)を製作し、各種試験を行った。 ZA 型機関の設計内容、製造方式についても、同時に陸軍当局 と慎重な検討を重ねたが、当時の国内事情から、アルミ、 ニッケルは極力節約せざるを得ず、やむなく ZA 型機関の 計画を変更し、新たに ZC-707 型機関 (20 シリンダ- 150φ x200, 2000PS/1600rpm)の計画が行われた。 昭和 19 年、ZB 型単筒試験機関は試験運転で 120PS/1600rpm の出力が確認され、海軍当局はこの成績から次のような量産 命令を発した。これには、従来の 20 シリンダ-、2000PS の 20ZC 型の他に 10 シリンダ-1000 PS の 10ZCB 型が要求され た。 (1) 東京機器製作所 ( 旧三菱重工丸子工場 のち閉鎖 ) で試作機を至急 完成 20ZC 2 台 10ZC 2 台 (2) 川崎機器製作所(旧三菱重工川崎製作所) 10ZCB 換算 月産 20 台 (3) 茨城機器製作所(後の古川工場、のち閉鎖) 10ZCB 換算 月産 10 台) 海軍としては魚雷艇用高速ディ-ゼル機関の完成は急を要したので、別途ドイツより、ベンツの MB501 型(20 シリンダ- 2000PS V 型、185φx250)を入手し、その国産化の可能性について詳細な調査を行っ たが、当時の日本の技術では不可能と判断されるに至り、海軍は ZC 機関の他にも横須賀工廠に命じ、 試験開発を強行させ、間もなく 1000PS、2000PS 級の軽量ディ-ゼル機関の試運転が始められた。 そして,国産エンジンの早期完成の為、 横須賀海軍工廠、三菱重工三菱名古屋 発動機、更に海軍航空発動機技術の関 係者が数次会合し研究内容を相互に 比較検討するなど懸命な努力が重ね られた。 この頃試作されたエンジンの要目は 右表のとおりで、それぞれ独立の立場 から試作されたものであるが、いずれ も 2 サイクルである点は共通であり、 東京製作所のユニフロ-に対し、横須 賀はユニフロ-型の他にル-プ掃気 方式も併せて開発し、名古屋はドイツ のユンカ-スの方式にならった対向 ピストン型であるなど興味深いもの がある。 3 昭和 19 年、戦局はとみに悪化し戦略的にもはや魚雷艇の価値が薄らいだので、そのエンジンの開発も 中止を命じられ他の緊急を要する研究生産に 重点が向けられるに至った。 東京機器製作所では ZC707 型(写真)を 1 台組 立て中、2 台目と 10ZCB 型の部品加工中であ ったが。昭和 20 年空襲により、組立て中の 1 台を残して焼失してしまった。そして約 90% の組み立て状態のまま終戦となった。 魚雷艇の主機に適した ZC707 型(三菱 20ZC) の開発も行われて、パワーウエイトレシオは 世界でもトップクラスであったが、残念なが ら実戦には間に合わなかった。 終戦後の 1945 年(昭和 20 年)10 月 15 日、米海軍技術調査団のロ-リマ-大佐一行が東京製作所に来所 し、ZC 型機関の開発状況を調べ、当時運転可能の状態にあった ZB 単筒機関を運転し、出力の確認を行 った。これは市販の軽油の他、米軍が持参した燃料による性能試験を行うほど念入りのものであった。 この結果を検討した調査団は、放置されていた ZC707 型を直ちに完成して試運転するよう指示され、年 末年始の休みも返上して昭和 21 年 1 月には ZC707 の運転が開始され、1500PS を出すことが出来た。 同年 2 月 13 日に、ZC707 型は勿論、ZB 単筒試験機、設計図面、関連資料等一切が米軍に接収され、 米国へと発送された。 本エンジンは、その後、メ-リランド州アナポリス米軍技術研究所で設計、材料、工作の面で徹底的な 解析、検討が加えられ、以後台上運転、分解、組立て等が約 4 年間の年月を費やして行われた。 この結果を Diesel Power 誌の 1950 年 5 月号は、その結論の一節で次のように述べている。 The most noteworthy aspect of the engine is its very low ratio of weight to horsepower. This is a very definite advantage and would appear to indicate that the Japanese, at least in this respect are very much ahead of American designers in this one category. このころ海上保安庁でも高速巡視艇の計画が行われ、 戦時中に試作した ZC 型の経験を生かし、同一形式で 6 シリンダ-の 500PS/1300rpm 機関を新たに設計す ることとなった。これは、MSA50H 型または FA 型と 称し、(右写真) )昭和 26 年 9 月に出来上がり、合計 4 台製作された。 昭和 28 年、警備隊・海上自衛隊では戦後初めて魚雷 艇を建造することとなったが、主機として 20ZC 型機 関を作ることとなり、三菱日本重工に発注された。 戦時中に ZC 型を製造担当した東京製作所は当時米 軍の管理下にあったので、とりあえず、昭和 28 年度分 12 台の製造分だけは横浜造船所で行われたが、 その後、東京製作所の米軍管理が解除されたため、29 年度分の 6 台(下右写真)とそれ以降の ZC 機関関 係の作業は全て東京製作所で行われた。 結局、昭和 28・29 年度計画で魚雷艇(PT4)(下左写真)8 隻を整備し、20ZC 機関(下右図)は合計 18 台が 製造された。 4 これらは丙型駆潜艇(下左図)として、甲・乙型駆潜艇(PC)とともに沿岸防備の一翼を担ったものの、主 機関の技術的な問題と、対潜戦も考慮するという海上自衛隊独自のドクトリンゆえに性格的に中途半端 であったこともあり、戦力というよりは試作的意味合いの強いものであった。 昭和 29 年度計画では技術導入を狙ってイギリスからダーク型高速哨戒艇 1 隻を購入して魚雷艇 9 号と して配備したほか、第 1 次防衛力整備計画中の昭和 35 年度計画では量産型魚雷艇のプロトタイプとし て魚雷艇 10 号が建造されていた。 20ZC 型を搭載した魚雷艇が就航した頃、更に性能の高い魚雷艇の建造が企画され、その主機について も技術的検討が行われたが、馬力当たりの重量が機関本体で約 2Kg、出力 3000PS のものが必要である ということになり、これに対応するエンジンとして、三菱日本重工・東京製作所はディ-ゼル機関とし ては前例のない W 型にシリンダ-を配置した 24 気筒機関で解決するという案を提案した。 偶々、中型掃海艇のエンジンでも出力アップの 計画があり、代替案の一つとして、W 型 12 気筒で 従来よりも一段と非磁性度の高いものを試作する 案が出ていて、まず 900PS 無過給 12 気筒の 12WZ10MA 型(右写真)を試作することとなり 昭和 33 年 10 月より製造図面の製作を始めた。 本機関は昭和 34 年 11 月 4 日組立て完了、 直ちに慣らし運転に入り、12 月 13 日には予定の 900PS/1500rpm を確認した。翌 35 年 1 月 20 日、 21 日には防衛庁始め、 関係官庁、 民間造船関係者、 報道関係等に対し公開運転を行い、7 月には逆転 クラッチを装備して、舶用主機として 900PS/1500rpm で 100 時間の連続耐久運転を完了 し、非磁性 W 型機関の性能を十分に披露した。 5 防衛庁としても、この結果から、3000PS 高速機関の試作に踏み切ることとなったので、この 12 気筒エ ンジンをタ-ボ過給により 1500PS まで出力アップする試験を 24 気筒 3000PS 機関の予備試験として行 うこととした。 間もなく昭和 35 年 3 月に 24WZ 型機関 1 基の試作が正式に決定した。その後、この 12 気筒機関では、 排気タ-ボ、インタ-ク-ラ付 12WZ30MA 型の試験が開始され、昭和 35 年 11 月に 1500PS/1600rpm の 性能が確認された。 このエンジンは、シリンダ-を W 型に配置するというユニ-クな構造のため、クランクケ-スや、コネクティ ングロットの構造には特に工夫が盛り込まれている。 このエンジンは後の昭和 36 年に、三菱重工下関造船所で計画されていた 30 トン級水中翼船(左写真)の 主機として、その軽量、小型、高出力の性能が認められ て採用されることとなった。 運輸省の型式認定試験は昭和 36 年 10 月施行され、出力 1350PS/1500rpm で 100 時間連続、10%過負荷 1485PS/ 1550rpm で 2 時間、20%過負荷 1620PS/1600rpm で 30 分 の運転により合格した。その後、この 12WZ 機関は水中 翼船用として 8 台製作された。 他方、魚雷艇用 24 気筒機関 24WZ30MC 機関 (右写真)は昭和 36 年 9 月組立て完了、直ち に調整運転に入り、9 月 21 日 3000PS/1600rpm の性能を確認し、その後、過給条件を変えた 試験、契約に基づく 500 時間耐久運転を実施 したあと、解放検査、確認運転を終えて昭和 37 年 2 月防衛庁へ引き渡された。 これは従来の魚雷艇で採用されてきた V 型 20 気筒の YV20ZC(出力 2,000 馬力/回転数 1,600rpm)をもとに、将来の 40 ノット級魚 雷艇への搭載を視野に入れた 3,000 馬力級軽量高速ディーゼルエンジンで、YV20ZC と同じボア、ストロ ークのシリンダーを W 型に配置した 24 気筒機であった。 6 出力 3,000 馬力、回転数 1,600rpm、重量 7.1 トンで、馬力あたり重量は 2.4kg/PS と、YV20ZC の 6.6kg/PS と比して大幅に改善していた。なお、この WZ 機関は上記経過により、2 サイクル高速ディ-ゼル機関 として、シリンダ-を W 型に配置し、排気タ-ボ過給器により高過給して軽量高出力機関としてまとめ たことが高く評価され、昭和 37 年 12 月 21 日、毎日工業技術賞を、昭和 38 年 4 月 1 日に日本機械学会 賞を受賞した。 防衛庁に納入した 24WZ30MC 機関は、その後、 昭和 40 年度計画で、新しい船型とディーゼル 主機を搭載した高速救難艇( ASH )(右上図) として高速 6 号の建造が計画され、主機として 採用された。 これは航空機救難のためと魚雷艇建造に関する 技術資料を得る目的も持っていた。 これらの実績を踏まえて、任務を対水上邀撃に絞った新世代の海上自衛隊魚雷艇として計画されたのが 11 号型魚雷艇(右下図)である。 全長 35.0 メートル (114.8 ft) 全幅 9.2 メートル (30 ft)吃水 吃水 1.2 メートル (3.9 ft) 機関 CODAG 方式 ・三菱 24WZ-31MC ディーゼル×2 基 ・IHI IM-300 ガスタービン×2 基 ・スクリュープロペラ×3 軸 出力 10,500-11,000 馬力 まず第 3 次防衛力整備計画中の昭和 44 年度計画から昭和 46 年度において、当初 5 隻が検討されたもの の、結局は各年 1 隻ずつ計 3 隻が計上された。続く第 4 次防衛力整備計画では、昭和 28 年度計画艇を 更新するための 2 隻に加えて純増分 4 隻の計 6 隻が計画されたが、この純増分のうち 3 隻は、主兵装を 魚雷から艦対艦ミサイルに切り替えたミサイル艇とされる予定であった。 しかし 1973 年(昭和 48 年)の第四次中東戦争に伴う石油輸出国機構 (OPEC) 各国の原油価格値上げ に端を発した第一次オイルショック(第一次石油危機)による物価高騰の直撃を受け、防衛予算の枠内 で予定隻数を達成することは不可能となった。この情勢を受けてミサイル艇を含めた純増分の建造は断 念され、老朽更新用の 2 隻のみが建造されることとなった。 設計にあたっては、従来の魚雷艇をもとに高速 6 号の実績が加味されている。例えば船型としては、従 来の魚雷艇が旧海軍のハードチャインを改良した V 型の一種であるオメガプレーン型としていたのに対 し、本型では、荒天時の性能を重視して、高速 6 号で試みられたディープ V 型が採用された。艦橋は高 速航行時の衝撃が最も少ない船体のやや後ろ側に配置された。居住区は船体前部に科員居住区が、中部 右舷側に士官室があり、船体が小型なだけあっていずれも寝室と食堂を兼ねる。建造にあたっては、構 造の簡易化と強度増加のため、日本で初めて軽合金の押出型材を多用し、接合には突合せ溶接が用いら れた。ただし歪みと工作上の問題を再検討した結果、12 号以降ではこの構造を見直し、溶接範囲の縮小 とリベットによる接合部の拡大がおこなわれている。 推進方式としては、海自魚雷艇としては初となる CODAG 方式が採用された。スクリュープロペラは 7 3 軸式であり、ディーゼルエンジン 2 基は左右の推進器に直結されており、ガスタービンエンジン 2 基 は減速機を介して中央の推進器を駆動する方式であった。18 ノットまでは両舷のディーゼルエンジンで 航行し、中央軸は遊転させておくが、19 ノット以上の高速航行時は中央軸のガスタービンエンジンも 駆動することで 40 ノットの最高速度を発揮した。ディーゼルエンジンとしては、高速 6 号と同じ 24WZ-30MC 型が搭載された。 また 12 号以降では、さらに出力 3,300 馬力(回転数 1,750rpm)に強化した 24WZ-31MC 型に更新された。 一方、ガスタービンエンジンとしては 1968 年より魚雷艇 7 号で運用試験が行われていた IM-300 が搭載 された。これは P-2J や PS-1 にも採用された航空機用のゼネラル・エレクトリック T64 ターボプロッ プエンジンをもとに石川島播磨重工業が開発した舶用版であった。なお 14 号と 15 号は機関監視装置に データ・ロガーを採用したことで省力化され、乗員が 2 名減少している。 センサとしては、従来の魚雷艇が対水上捜索用のレーダーと対潜哨戒用のソナーを搭載していたのに 対して、本型では対水上捜索レーダーのみとされた。これは対潜戦任務を省いたためであるが、特に 28 年度計画艇では、ソナードームの造波抵抗のために高速力発揮が妨げられていたことから、これを 撤去したことは性能の安定につながった。 兵装面では、おおむね魚雷艇 10 号のものが踏襲された。主兵装の魚雷発射管は、発射口前方に滑走座 を有する試製 54 式 53 センチ単装水上発射管 HO-101B であるが、ここから運用する魚雷としては、 従来の魚雷艇が対潜攻撃も考慮して誘導式の 54 式魚雷を搭載していたのに対し、本型では直進式の 72 式 I 型とされた。 高角機銃は、10 号と同じくボフォース 40mm 機関砲を単装の Mk.3 砲架に配して艦橋前後に 1 門ずつ 搭載した。射撃指揮装置(FCS)は一切装備しておらず、照準は砲側で行なうが、開放式の砲架なので、 砲手は波風に晒されながら操作する必要がある。 従来、魚雷艇はいずれも本州の配備とされていたが、本型のネームシップは、北海道への配備を想定し て建造された最初の魚雷艇となった。 これを受けて、従来横須賀地方隊に所属していた第 1 魚雷艇隊は、 魚雷艇 11 号の竣工にあわせて、1971 年 3 月 27 日より大湊地方隊に、7 月 15 日にはさらにそのなかで 余市防備隊へと配属替えになった。 当初は他にも陸上基地の構想があり、魚雷艇による沿岸防備の増強が計画されていたが、上記の経緯に より本型の建造計画が縮小されたことから、これは実現しなかった。 海上自衛隊初の量産魚雷艇となった本級だが、ミサイル技術の発達もあって、本級をもって海上自衛隊 の魚雷艇の系譜は途絶えることになった。後継のないまま延命措置がとられたものの、1990 年より除籍 が開始された。魚雷艇 14 号の除籍にあわせて 1993 年 3 月 22 日には第 1 魚雷艇隊も解隊され、これと 交代するかたちで、同日、1 号型ミサイル艇 2 隻が引き渡されて、第 1 ミサイル艇隊が誕生した。 残った魚雷艇 15 号は余市防備隊の直轄艇として 1 年間活動したのち、1994 年 10 月 14 日に除籍されて 運用を終了した。除籍になった 24 WZ 型機関の一台は、相模原製作所研修センタ-玄関入口前に 記念として飾られた。合計生産台数は 13 台であった。 三菱 2 サイクル高速 WZ 型エンジンについての開発経緯については、国際的なディ-ゼルエン ジンの学会である CIMAC ( THE INTERNATIONAL COUNCIL ON COMBUSTION ENGINES ) の 1973 年 5 月に米国ワシントンで開催された CIMAC World Congress に論文を発表した。 その論文「RECENT DEVELOPMENT OF THE MITSUBISHI WZ HIGH SPEED ENGINE」を本文末で紹介する。 8 建造された魚雷艇は下記の通りである。 同型艇一覧 # PT-811 PT-812 PT-813 PT-814 PT-815 艦名 建造所 魚雷艇 11 号 魚雷艇 12 号 魚雷艇 13 号 魚雷艇 14 号 魚雷艇 15 号 三菱造船 下関造船所 起工 竣工 配属 除籍 1970 年 1971 年 1990 年 (昭和 45 年) (昭和 46 年) (平成 2 年) 3 月 17 日 3 月 27 日 第 1 魚雷艇隊 1971 年 1972 年 (余市防備隊) (昭和 46 年) (昭和 47 年) 4 月 22 日 3 月 28 日 1972 年 1972 年 (昭和 47 年) (昭和 47 年) 3 月 28 日 12 月 16 日 1973 年 1974 年 (昭和 48 年) (昭和 49 年) 第 2 魚雷艇隊 (平成 5 年) 3 月 27 日 2 月 15 日 (舞鶴地方隊) 3 月 22 日 1974 年 1975 年 →第 1 魚雷艇隊 1994 年 (昭和 49 年) (昭和 50 年) 4 月 23 日 7 月 10 日 11 月 28 日 1991 年 (平成 3 年) 10 月 4 日 第 2 魚雷艇隊 (舞鶴地方隊) 1993 年 (余市防備隊) (平成 6 年) 10 月 14 日 一方、WZ 型機関の民需転用を図った 12WZ30MA は、下関造船所で建造された水中翼船に搭載され 賢島を中心とした志摩観光汽船、三原港を起点とした瀬戸内海汽船に引き渡されて運行を開始した。 当時、日立造船製の水中翼船と競合し、伊勢志摩戦争とまで過熱報道されたこともあった。 日立造船の水中翼船はベンツ製のエンジンを搭載、傾斜したエンジンにプロペラシャフトを直結する インクラインドシャフト式を採用し、航走時に船の後部が水面に接しているのに対し、下関造船所の 水中翼船は T ドライブ方式を採用、エンジンからの出力軸を傘歯車で T 字型に下におろして、完全に 船が水面から浮き上がるようにしたことで、乗り心地がすぐれているのが特徴であった。 この T ドライブ装置は東京製作所で設計、製作した。しかし、このため、船の重量が増加し、船が浮き 上がる時のいわゆるテイクオフ時の負荷が予想より大きくなり、エンジンが高速回転に至る前の低速で の出力不足に悩まされた。このため、浮き上がるために、燃焼室内に十分空気が供給されない低回転時 に燃料スロットルを全開させることとなり、燃焼室まわりのトラブルに悩まされた。吸入空気圧が低い 時には燃料噴射を制限する「ブ-ストコントロ-ル」という装置を付ける羽目になった。 結局、この水中翼船用エンジンは 8 台で幕を閉じた。 しかし、この問題解決のための多くの研究と対策は、魚雷艇用 24WZ-30MC 型に反映されて、10%出力ア ップの原動力になり、出力 3,300 馬力(回転数 1,750rpm)に強化した 24WZ-31MC 型の誕生に生かされ ることとなった。ここに、ユニ-クな W 型にシリンダ-を配置したディ-ゼルエンジンは姿を消すこと になったが、その開発の中で生かされた色々な技術は、これ以降の各種エンジンや、エンジンの色々な コンポ-ネントに引き継がれているものと思われる。 9 昭和 40 年に、ZC や WZ の技術を生かして一般産業用として 1000PS 12ZV 型機関 、1500PS 12ZD 型機関 (下図)を製作し、性能運転を行い、好結果を得た。これらは同程度の中速機関に比べ、著しく小型軽量 となっていたが、諸般の事情で試作のみに終わった。 また、色々なエンジンコンポ-ネントの中でも、その一つとして、出力アップの手段として貢献した高 速ディ-ゼルエンジンのタ-ボ過給機は、その後更に小型化の進歩をして自動車用エンジンの出力向上 と排気対策として大きく貢献し発展することとなった。 (2)掃海艇と三菱 ZC 型ディ-ゼルエンジン 日本の掃海の歴史は日露戦争の時まで遡るが、本格的な専門の掃海艇が建造されたのは大正年 間の第一号型掃海艇が最初である。その後大日本帝国海軍のもとで多数の掃海艇が造られたが、 その多くは太平洋戦争で失われた。 1945 年(昭和 20 年)の降伏に伴い、ポツダム宣言にもとづいて日本は非軍事化され、海軍も 解体されることになった。しかし終戦の時点で、日本近海には、日本海軍の係維機雷 55,347 個、連合軍の感応機雷 6,546 個が残存しており、占領にあたって大きな障害となることが予想 されたことから、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示に基づいて 9 月 18 日には海軍 省軍務局に掃海部が設置され、さらに 10 月 10 日には 6 個地方掃海部と 17 個地方掃海支部が 設置されて、掃海組織の再興が図られた。終戦処理に伴って、海軍省は順次に縮小解体されて いったが、掃海部隊は、田村久三大佐の指揮下に、復員庁総務部掃海課、掃海監部と変遷し、 10 復員庁閉庁後は運輸省海運総局の掃海管船部掃海課へと移行した。また一方では、日本海軍の 消滅に伴う洋上治安の悪化が深刻化したことから、1946 年には、これら旧海軍由来の掃海部隊 も取り込む形で、運輸省傘下の法執行機関として海上保安庁が設置された。海上保安庁におい ては、まず保安局掃海課、ついで 1950 年(昭和 25 年)6 月には航路啓開本部が設置されて体 制強化が図られた。 また同年 10 月には、朝鮮戦争において、国連軍の対機雷戦戦力の不足を補うため、アメリカ 極東海軍から運輸大臣への命令に基づき、航路啓開本部からの抽出によって日本特別掃海隊が 組織されて派遣されている。これらの活動はおおむね順調に遂行され、米側より非常に好評で あった[2]。しかし元山上陸作戦に伴う同地での掃海活動では、第 2 掃海隊の MS14 号艇が掃海 中に触雷・爆沈し、乗組員 1 人が殉職、18 名が重軽傷を負う被害を出した。その後、海保側指 揮官が掃海活動の方針変更を具申したのに対し、米軍側指揮官がこれを恫喝的な態度で拒絶し、 帰国か作業続行かを要求したことから、第 2 掃海隊の残り 3 隻がただちに帰国するという事態 になっている。 そして 1952 年(昭和 27 年)8 月 1 日、従来は海上保安庁内でそれぞれ別個に存在していた海上 警備隊(警備船部隊)と航路啓開本部(掃海部隊)は、警備隊として統合されるとともに海上 保安庁から独立し、総理府の外局たる保安庁(警察予備隊本部を増強改編して発足)の傘下に 入ることになった。これに伴い、海上警備隊は第二幕僚監部に、航路啓開本部はその傘下の航 路啓開部に移行した。そして警備隊が海上自衛隊に改編されると、その掃海隊群とされた。こ うして掃海部隊は、旧帝国海軍と海上自衛隊をつなぐ重要な役割を果たしており、旧帝国海軍 の伝統を海上自衛隊に伝える文化的な橋渡しをしている。また掃海部隊の技術も 100 年以上の 時間、途切れさせずに来ているのである。 しかし、これまでは、古い艦艇やアメリカ海軍より貸与された艦艇などを使用して作業を 行っていた。 昭和 28 年度魚雷艇の建造とほぼ同時に、防衛庁は戦時中に敷設された磁気機雷の掃海を行う ための中型掃海艇を建造することとなり、エンジンは軽量高出力で且つ、その部品を極力非磁 性材とすることとした。 偶々、魚雷艇用として 20ZC 型機関を製造することとなっていたので、掃海艇用はそのシリン ダ-数を半分に減じ、且つ、非磁性化するために定格出力を下げて製作使用することが計画 され、10ZCⅠ型 600PS 機関として新たに三菱重工東京製作所で製作を開始することとなった。 このような経緯から、材料はアルミ合金、銅合金、ステンレス合金、不鋳銅を極力使用し、 全体の重量は若干増しても鉄の使用量を減らすように配慮された。 エンジン本体の全重量に対し、非磁性材の占める割合は、第 1 号機では約 50%であったが、 逐次非磁性率を向上させ、最新のものは約 90% にまで高めている。 この「中型掃海艇」には、掃海艇主機用 10ZC Ⅰ型 2 台(右図)と同時に、船内電源用主発電 機 2 台と掃海用発電機 2 台を必要とし、これら もまた非磁性度の高いものでなければならず、 特に、掃海用発電機は出力も 600~700PS が必 要なことから、原動機としては同じく 10ZCⅡ 型(次頁右写真)を使用することとなった。 11 そして、28 年度掃海艇「いつき」 「やしろ」に搭載 されて戦後の一歩を踏み出した。 10ZC 機関は、掃海艇の主機として実稼働する中で、 色々な問題を経験し、都度、懸命な改善努力が なされた。 その一つに「カム軸の折損」という問題があった。 V 型 10 気筒は、その構造上、エンジンの振動バラ ンスが悪く発生する上下方向の力を消すために カム軸にバランスウェイトを付けている。このためカム軸自体にねじり振動が発生し、折損に至った。 この解決のためには、カム軸に取り付けられているバランスウェイトをバネ構造で浮かすという工夫が 施された。 一方、エンジンの非磁性度も年々向上させる努力をし続け、「いつき」「やしろ」時代には非磁性率が 主機で 52.4%、掃発で 77.9%程度であったものを最終段階では、それぞれ 87.6%、96.0%にまで向上 させることに成功した。非磁性材料の研究を進 めた結果、エンジンの主要部分であるシリンダ ヘット、ピストン、ライナ-、コネクティン グロットはもちろん、付属の補機類に至るま で非磁性化を進めることが出来た。 このような色々な改善努力をしながら、 1958 年(昭和 33 年)からの「かさど型掃海艇」 (右図)の建造へと繋がっていった。 10ZC 型機関は第二次防衛計画の終わる昭和 41 年度までに約 100 台製作し、その後も引き続き 製作しているが、主機は 12ZCⅠ機関に代わることとなった。 昭和 42 年の第三次防衛計画以降は中型掃海艇の装備を充実させ、船が大型になるため、主機 も従来の 10ZCⅠ型機関では出力不足となることが判った。このため、従来の 10ZC のシリンダ -数を 10 から 12 に増加した 12ZCⅠ型機関(下右図)を計画し、要求性能にこたえることとし た。この 12ZCⅠ型機関は、従来の 10ZCⅠ型機関を色々な点で改良を加えたものであり、設計 するに当たっては下記の特徴を盛り込んだ。 1. 横幅を従来の 10ZCⅠ型と同じにするた め、60°V 型配置とした。 2. 主機は左右のプロペラの回転を逆にす るため、従来は右回り機関と左回り機関 の二種類を製作し、予備機も二種類用意 する必要があったが、これを一種類のエ ンジンで済ませるように、カム軸を初め 必要な部品は、全てその部品を組み換え だけで両回転のエンジンに変更出来る ようにした。 3. 部品供給の便を考えて、主要部品は出来るだけ 10ZCⅠ型と同じ部品を使うようにした。 12 4. 減速機の減速比を自由に二種類に変更できる二種減速機を採用した。 これは、掃海艇の任務である掃海時には重い掃海具を曳航するため、機関の低速での出力 が要求されるので、機関の出力を有効に使用するためには減速比を上げて機関を高い回転 で使うことが有効である。このために、減速比を 1/2.66 と 1/3.12 の二種類を場合により 自由に使い分け出来るようにしたのがこの二種減速機である。 舶用減速機としては画期的な装置であった。 この 12ZCⅠ機関は、昭和 41 年 4 月に設計を開始し、昭和 43 年 2 月 3 日にその一号機の組立 てを完了、直ちに各種性能試験を実施し、十分なる性能を確認した。 そして、12ZC 機関は昭和 42 年度以降の「たかみ型中型掃海艇」(下左図)主機として搭載され、 昭和 61 年 3 月の生産完了までに 86 台製作された。この間、43 年度には機関の防振支持、や高 弾性継手の採用、51 年度には「はつしま型中型掃海艇」(下右図)として、減速比を下げてプロ ペラ回転を落とすなど、水中放射音の低減のための対策が行われ、成果を上げた。 また、信頼性、耐久性や、取扱い整備性も多くの改善がなされた。 各年度別の掃海艇の主要改善点は下記の通り。 30 年度~41 年度 ・音圧低減 掃発 防振支持 42 年度~50 年度 51 年度~59 年度 ・推進効率アップ ・曳航出力向上 42~44 年度 二種減速機 減速比下げる(0.260) 45 年度~可変ピッチプロペラ ・音圧低減 ・非磁性率向上 主機防振支持 ・非磁性率向 ・非磁性率向上 主機 52.4%→87.6% 主機 52.4%→87.6% 主機 88.7%%→89.0% 掃発 77.9%→96.0% 掃発 96.0%→95.9% 掃発 13 95.9% また、第 3 次防衛計画から 4 次防衛計画にかけて、中型掃海艇の他に小型掃海艇を再建するこ とが決まり、その主機、掃海発電機エンジンとして、新しい非磁性エンジンが必要となり、こ れに対応すべく、従来製作しているエンジとして、新しい非磁性エンジンが必要となり、 これに対応すべく、従来製作しているエンジンとの部品の互換性を考えて、WZ 型エンジン の主要部分(シリンダヘット、ピストン、ライナ-、コネクティングロット等)を使用して、60° V 型 4 気筒エンジンとして 4ZV 型機関(下右図)を製作することとした。 小型掃海艇は 50 トンの木製艇(下左図)で巾 5.2m、深さ 2.5m、全長 23m の船である。一隻に主 機 2 台、掃海発電機 1 台を搭載し、46 年度から 48 年度まで計 6 隻、4ZV は 18 台製作された。 昭和 60 年度以降の掃海艇は更に大型化し、ZC 型機関に代わり、主機は 6NMU-TA 型、掃海発 電機は 6NMU-TK 型、主発電機は S4Y-NM を採用することとなり、ZC 機関はここに、その役目 を終了した。 以降、掃海艇のエンジンは、常に新しい技術の研究を続け、世界最高レベルの掃海部隊として 維持されてきている。ペルシャ湾の掃海任務にも派遣されて世界的にも注目されることとなっ た。 14 <参考 1> <参考 2> 15 <参考 3> ZC 機関と WZ 機関 の経歴年表 1938 年 昭和 13 年 国産戦車用のエンジンとして GM3-71 2 サイクルエンジンを入手して 2 サイクルエンジンの研究、調査を開始。 1940 年 昭和 15 年 満鉄のディ-ゼル機関車用エンジンとして 12 気筒 ZA 型機関の計画 をする。(1200PS/1700rpm) 中断。 1941 年 昭和 16 年 海軍魚雷艇用エンジンとして 16 気筒 ZA566 型機関を計画。(2000PS/1600rpm) 1942 年 昭和 17 年 上記エンジン開発のため、単筒試験機関 ZB 機関を製作。 1943 年 昭和 18 年 ZA 型機関の計画を変更し、ZC707 型機関を計画。 20ZC の原型。(2000PS/1600rpm) 1944 年 昭和 19 年 海軍から 20ZC 及び 10ZCB 型機関の量産指令が出る。 1945 年 昭和 20 年 組立て中の ZC707 型機関を残し焼失。 1946 年 昭和 21 年 米軍の指令により、ZC07 機関を運転、その後接収され米国に運ばれる。 1951 年 昭和 26 年 海上保安庁巡視艇用として 6 気筒機関 MSA50H 機関または FA 機関を製作。 1953 年 昭和 28 年 防衛庁魚雷艇エンジンとして 20ZC 機関と 10ZC 機関を製作。 28 年度 12 台 29 年度 8 台 1958 年 昭和 33 年 W 型 12 気筒試作計画。 1959 年 昭和 34 年 12WZ 機関 1 号機完成。 1960 年 昭和 35 年 防衛庁より W 型 24 気筒エンジンの試作を受注。 12WZ 機関にて 1500PS/1600rpm を確認。 1961 年 昭和 36 年 12WZ 機関の水中翼船への採用決定。 1963 年 昭和 38 年 12WZ 機関は 8 号機をもって生産終了。 1965 年 昭和 40 年 12ZV、12ZD 機関完成。 1966 年 昭和 41 年 24WZ 機関 1 号機、防衛庁高速救命艇に搭載。 1967 年 昭和 42 年 防衛庁中型掃海艇用として 12ZC 機関の計画開始。 1968 年 昭和 43 年 12ZC 機関試作機完成。 1969 年 昭和 44 年 防衛庁魚雷艇用エンジンとして 24WZ 機関受注。 1970 年 昭和 45 年 24WZ 機関の出力増加試験を単筒エンジンにて開始。 1971 年 昭和 46 年 4ZV 機関の計画開始。 1972 年 昭和 47 年 防衛庁小型掃海艇用エンジンとして 4ZV 機関受注。 1974 年 昭和 49 年 4ZV 機関 8 号機で生産終了。 1975 年 昭和 50 年 魚雷艇 15 号用の 13 号機を以て 24WZ の生産は終了。 1985 年 昭和 60 年 掃海艇の大型化で 12ZC、10ZC の生産は終了。 1994 年 平成 6 年 魚雷艇 15 号の除籍をもって 24WZ の稼働は終了。 16 <付録> CIMAC World Congress 論文 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 9 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41