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直感、感覚、繊細さ―パスカルにおけるsentiment

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直感、感覚、繊細さ―パスカルにおけるsentiment
March 2
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0
8
―1
1
1―
直感、感覚、繊細さ*1)
―― パスカルにおける sentiment ――
山
上
浩
嗣**
パスカルにとって、sentiment2)は理性と対立的
sentiment は、視覚や聴覚など、身体器官の機能
な役割を担い、宗教において本質的な意義をもつ
と同時に、これによって魂にもたらされる「感
観念である。
「心には理性がまったく知らない理
覚」を指示する。この「感覚」は、われわれの日
由がある3)」のであり、神は「理性ではなく心に
常生活に関わる事実認識の根拠となるばかりか、
感じられる4)」。神は「心の直 感」(sentiment
du
実験や観察に立脚する経験科学において不可欠な
cœur)を通じて信仰を与えるのであり、これに
役割を担う。パスカルにおいて sentiment はさら
あずかる者のみが、
「幸福であり、正しく納得し
に、美や快など、きわめて多様で変化しやすい要
てい る」の で あ る5)。sentiment に は、神 と の 交
素からなる事象の本質を即時に把握する能力でも
感を可能にする超越的な価値が与えられている。
ある。彼はこれを「繊細の精神」または「感性」
しかし、sentiment は宗教的な認識の獲得にの
と呼んでいる。この能力は、聞き手の「心」に訴
み関連するものではなく、理性とあるいは対立
えかける「気に入られる術」というレトリックを
し、あるいは補い合いながら、世俗のさまざまな
実現すると同時に、人々の好意と尊敬を集める理
領域全般において重要な認識をもたらす判断能力
想的な社交人士の資質を形成する。
である。また、それによって得られた認識そのも
sentiment はこのように、信仰の完成形態であ
の が sentiment と 呼 ば れ る こ と も あ る。ま ず、
りながら、人間の生存の根本的条件を構成し、科
sentiment は、
「自然的直感」として、幾何学にお
学的認識の基盤となり、洗練された文化的活動を
ける「原始語」の観念や「第一原理」を認 識 す
担う。人間の生において sentiment が関係しない
る。前者は定義不可能な観念であり、後者は証明
領域はない。パスカルにとって人間は、「感じる」
不可能な命題のことである。幾何学はこれらの認
存在にほかならない。sentiment は彼において、
識 を 前 提 に し な け れ ば 成 り 立 た な い。次 に、
人間の認識、ひいては本性のありかたを特徴づけ
*
キーワード:『パンセ』
、心、「気に入られる術」
、オネットテ
関西学院大学社会学部准教授
1)筆者はかつて、「信仰と理性 ―― パスカル『キリスト教護教論』における « sentiment » の意義」と題する論文
(
『仏文研究』2
4号、1
9
9
2、京都大学フランス語フランス文学研究会、pp.9―3
4)で、パスカルのキリスト教弁
証の試みが含みうる困難と問題点を検証するために、彼が信仰において重要な価値を与えている « sentiment »
という概念に注目し、この語と「理性」とが示す複雑な対立関係を明らかにした。本論は旧論を踏まえつつも、
パスカルの思想における同じ概念の役割についてより一般的に考察するものである。
2)sentiment という語は、sentir(「感じる」
)という動詞の作用(「感じること」
)と、それによって生じたもの
(
「感じられたこと、感覚」
)を広く指示する日常語であり、つねに一定の訳語を当てはめることは不可能であ
る。そこで以下では、「直感」「感覚」「感性」など、文脈に応じて適当な訳語を選択する。総称としての観念が
問題になる際は、原語のまま記す。ちなみに、B・ノーマンは、sentiment を、なんらかの心的作用の結果生じ
たもの(produit)と、そのような心的作用そのもの(opération)とに大別した上で、その語義を次のように整
理している。1.「心的作用の結果」1)感覚器官あるいは魂における印象、2)受け取った印象に対する意見、
2.「心的作用」3)心的作用それ自体、4)この作用の機能(B. Norman, Portraits of Thought. Knowledge,
5)
。
Methods, and Styles in Pascal, Columbus, Ohio University Press,1
9
8
8, pp.1
4―1
3)S6
8
0―L4
2
3, p.4
6
7.
2
4, p.4
6
7.
4)S6
8
0―L4
1
0.
5)S1
4
2―L1
**
―1
1
2―
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4号
る 観 念 で あ る。以 下 で は、パ ス カ ル に お け る
の明確な理由を他者に対して示すことも、
sentiment を「宗教的直感」「自然的直感」「身体
他者にその正しさを説得することもできな
器官を通じた感覚」
「繊細の精神」の四つの主要
い6)。
な類型に区別し、それぞれを詳しく検討すること
によって、パスカルが人間の認識のうちに見いだ
1°、2°から、sentiment とは第一に、魂と身体
す可能性と限界について考察してみよう。いずれ
器官の相互作用によって生じるものである。3°の
の場合にも、①それがいかなる領域で働き、いか
定 義 は、「驚 き」「尊 敬」「愛」「憎 し み」な ど の
なる対象を認識するのか、②そのような認識はい
「魂の情念」が生じる原因を、「脳の中央にある小
かにして真理とみなされうるのか、③それは理性
さな腺を動かす精気[動物精気]の激動」とみな
といかなる関係をもつのか、④パスカルはそれを
すデカルトの説を取り入れたものである7)。
どのように評価しているのか、という点にとくに
注目することになるだろう。
4°は、ある主題に対するなんらかの体系性を備
えた判断の総体も、sentiment と呼ばれることが
あることを示唆している。これが「心」に帰され
考察に先立って、sentiment の一般的な語感を
る場合も「精神」に帰される場合もあるとされる
確認しておこう。1
7世紀の辞書は、この語の主な
ことから、sentiment は、主観的・情緒的な意見
定義を、以下のように整理している。
だけではなく、客観的・理性的な推論によって得
られた見解をも指示しうることが理解できる。パ
1°魂が、感覚器官(organes des sens)を通
じてさまざまな事物に対してもつ感覚
(sensation)、知覚(perception)。
2°魂が、感覚(sens)を通じてさまざまな事
物 に 対 す る 印 象 を 知 覚 す る(percevoir)
能力。
スカルは記す。
「記憶や喜びは直感(sentiments)
である。そして幾何学の命題でさえも直感とな
る。なぜなら、理性が直感を自然なものにするこ
ともあるし、自然な直感が理性によって消される
こともあるからである8)」。
5°では、たとえば「愛情」
(tendres sentiments)、
3°動物精気(esprits animaux)の動きと機能。
「敬 意」
(sentiments
4°単 独 か つ 単 数 形 で 用 い ら れ て、見 解
(sentiments de pitié)が用例として挙げられてい
(avis)、意 見(opinion)、考 え(pensée)、
ることから、ここでは他者や事物に対する愛着や
判断(jugement)を意味する。形容詞や対
共感が念頭に置かれていると考えられる。A・ラ
de
respect)、「憐 れ み」
象 と な る こ と が ら に よ っ て、心(cœur)
ランドは、sentiment の語義のうちのひとつに、
に生じるものか精神(esprit)に生じるも
「利己主義と対置され、他者への思いやりと共感
のかが決まる。
5°情 動(affections)、情 念(passions)な ど、
魂のあらゆる動き。
6°感 受 性[感 じ や す さ]
(sensibilité)。魂 を
打ち、感動させる魂の動き。
を含む感情や傾向の総体9)」を挙げている。デカ
ルトはこれらをも「動物精気」の運動の及ぼす結
果として理解しようとするが、のちに見るよう
に、パスカルはこのような仮説に対して批判的で
ある。6°は5°の特殊な例として理解されよう。
7°事物がわれわれに対して与える内的な印
7°は、ある種の sentiment ――「第一原理」の直
象。わ れ わ れ が 内 部 か ら 感 じ る 嗜 好
感や神の真理性の直感 ―― に対するパスカルの考
(goût)、確 信(persuasion)。た だ し、そ
えを簡潔に示している。彼においては、そのよう
6)A. Furetière, Dictionnaire universel, 1
6
9
0; Genève, Slatkine Reprints, 1
9
7
0, 3 vol., art. « sentiment ». 定義の番号は
便宜のために筆者が付した。
7)« la dernière et plus prochaine cause des passions de l’âme n’est autre que l’agitation dont les esprits meuvent la
petite glande qui est au milieu du cerveau »(Descartes, Passions de l’âme,Ⅱ,5
1, ALQ.Ⅲ, p.9
9
7)
.
8)S5
3
1―L6
4
6.
9
9
9,2vol., art. « sentiment ».
9)André Lalande, Vocabulaire technique et critique de la philosophie,5e éd., Paris, PUF,1
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な sentiment の明証性を他者に伝えることができ
あって、理性ではない。これこそが信仰である。
ないというジレンマがつねに意識されているから
理性ではなく、心に感じられる神12)」。
である。この意味での sentiment を、ラランドは
「心」はとりわけ、愛という機能を 担 う。
「心
「直観」(intuition)そのものとみなしている。彼
は、自分から没頭するに従って、自然に普遍的存
は sentiment のなかに次のような語義を認めてい
在 を 愛 す る の だ し、自 然 に 自 分 自 身 を 愛 す
る。「直 観[...]。即 時 的 に(immédiatement)、
る13)」。宗教的直感としての信仰は、神に対する
一般的には漠然とした仕方で与えられた認識や知
愛にほかならない。これともっとも対立的な状態
(それでも、そうした認識に対する確信は強烈に
が、自分自身への愛、すなわち自己愛である。神
もなりうる)。ただし、この印象そのものについ
はこの自己愛を放棄させ、
「みずからとらえた
ては分析もできないし、別の方法で正当化するこ
人々の魂と心を満たす14)」。「キリスト者の神は、
ともできない10)」。パスカルは intuition という語
魂に次のことを感じさせる神である。すなわち、
を著作のなかでほとんど使用していない11)が、
みずからが魂の唯一の善であること、魂の安らぎ
sentiment が intuition と同じく即時的に作用し、
のすべてが神にあること、魂の喜びは神を愛する
主体に揺るぎない確信を与えるというという点に
ことをおいてほかにはないこと[...]である」
。
ついては、彼も明確に意識している。
それと同時に神は、
「魂には自分を滅ぼす自己愛
!
!
以上から、さまざまな sentiment はおおよそ、
次の四つに分類することが可能である。①感覚器
!
!
!
!
!
の根があり、神だけが魂の病を癒してくれるのだ
!
!
!
!
!
!
!
!
と感じさせてくれる」のである15)。
官を通じて魂に生じる感覚、②心あるいは精神の
このとき、「信仰は証拠とは異なる。一方は人
もつ意見、③他者や事物に対する愛情や共感の
間的であるが、他方は神から与えられるものであ
念、④即時的に形成されるきわめて個人的な確
る。〈義人は信仰によって生きる〉と言うが、そ
信。パ ス カ ル に お け る sentiment は、こ の う ち
れは、神自身が心のなかに置く信仰によって生き
①、②、④と深く関係している。
るということであり、証拠はしばしば、そのため
の道具になるにすぎない16)」。心の直感として神
1.宗教的直感
から与えられるのでないかぎり、信仰は真のもの
とはならない。宗教の真実性に関する証拠や知識
パスカルにおいて sentiment は、なによりもま
は、そのような恩恵にあずかるための手段にはな
ず神および宗教の真理性を確証するものである。
るが、それ自体に意味はない。信仰とは徹底的に
神が心に感じられる状態を、彼は「信仰」の定義
受動的なものである。神が「心に感じられ」てい
そのものとみなしている。
「神を感じるのは心で
るとき、そう感じさせているのは神である17)。だ
1
0)Ibid.
1
1)少なくとも『パンセ』および『プロヴァンシアル』において、この語は一切見あたらない。
2
4, p.4
6
7.
1
2)S6
8
0―L4
1
3)S6
8
0―L4
2
3, p.4
6
7.
4
9, p.4
8
8.
1
4)S6
9
0―L4
1
5)S6
9
9―L4
6
0. 宗教における「心」の役割について、H. Gouhier, Blaise Pascal. Conversion et apologétique, Paris,
9を参照。
Vrin,1
9
8
6, pp.5
4―5
1
6)S4
1―L7.
! ! ! ! !
1
7)H・ミションが言うように、「心の直感」とは、みずからを人間に感じさせることを選択しうる神の自由な決断
の結果である。ただし、神が人間の心を傾けるとき、人間の「心」も同時に神を欲している。心は「感じる」
とともに「愛する」からである。理性が能動的にしか働かないのに対して、心は受動的かつ能動的な認識作用
! ! !
を担う。また、神が「隠れた」ままでいるときに、心は神を欲する(désirer)
。ミションは、この点にパスカル
の独自性を見る。ミションによれば、たいていの神秘主義者(mystiques)において、「心」あるいは「魂の内
奥」(le fond de l’âme)は神のいる場所である。その際に彼らは、人間を神の像とみなしている。このような
神と人間との類似性の思想は、パスカルには認められない。パスカルにおいて心は「溝」
(gouffre)であり「虚
無」(vide)である。これによって心は、みずからの欠如たる神を欲する。原罪は人間の本性を損なったが、神
のノスタルジー、すなわち過去の記憶を残した。「人間は同時に、神を知るに値しないものでありながら、神を
―1
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から、「素朴な人々が、論証を経ずに信じている
被造物に向けられていた愛を、神へと方向づけ
のを見ても、驚くにはあたらない。神は彼らに、
る。「回心」(conversion du cœur)とはまさにこ
神への愛と自己への嫌悪を与えるのであり、彼ら
のような事態である21)。このように理解される信
の心を信じるように傾けるのである。神が心を傾
仰の獲得に際し、理性はほとんど役に立たない。
けないかぎり、人が有効な信心すなわち信仰に
宗教的な直感は、無力な理性と正反対の役割と性
よって信じることは決してありえない」。
質をもつことによってかえって確実で持続的なも
これに続けてパスカルは言う。
「そして人は、
のとされる。
神が心を傾けるやいなや信じることになるのであ
る18)」。心の直感は、神の意志によって瞬時にか
2.自然的直感
つ有効に与えられる。
「理性はゆっくりと、かく
も多くのことがらに目を配り、かくも多くの原理
1)「第一原理」の認識
に基づいて行動する。そしてそうした原理はつね
パスカルにとって、理性による論証を経ずとも
に目の前に現れていなければならない。このため
確実で疑いえない認識が存在する。そのような認
理性は、そうした原理がすべて目の前にないと、
識の典型が「第一原理」や、「いま自分が夢を見
始 終 活 力 を 失 っ た り 迷 っ た り す る。直 感
ているわけではないこと」であり、その確実さを
(sentiment)はこのようには行動しない。それは
知るの が「心」であ る。「第 一 原 理」と は、「空
一瞬で行動し、つねに行動する用意ができてい
間、時間、運動、数」など、定義を行わずともそ
る。だから、われわれの信仰は直感のなかに置い
れが指示することがらが明白であるような観念、
ておかなければならない。そうでないと信仰はい
またはそれらが存 在 す る という命題のことであ
つもふらふらとしたままであろう19)」。直感の働
る。このような認識の真理性は、理性によって論
きは即時的であるがゆえに安定であり、持続す
証できないからといって動揺するものではない。
!
!
!
!
る。これに対して、理性の動きは緩慢であり、推
論や論証には時間がかかる。また、その結果が正
というのも、空間、時間、運動、数が存在す
しいとの判断は推論の全過程に依存しているの
るというような第一原理の認識は、われわれ
で、その過程を忘れてしまうと、判断の正当性に
の推論によって与えられるいかなる認識より
対する確信が弱まってしまう。パスカルが神の形
も堅固である。そして理性は、このような心
而上学的な証明を退けるのもそのためである。彼
と本能(instinct)による認識をよりどころ
は言う。「そんなものは、一部の人たちには役立
にしなければならないのだし、理性のすべて
つのかもしれないが、それもその連中が論証を見
の語り(discours)は、そのような基盤の上
つめている瞬間にかぎる。彼らも一時間も後に
に構築しなればならないのである。心は、空
は、だまされたのではないかと思う20)」。
間には三次元があることや、数は無限である
!
!
!
こうして、宗教的直感は、神から与えられ、た
ことを感じる。次に理性が、一方が他の二倍
だちに人の「心」を説得することで、自己および
になるような二つの平方数が存在しないとい
知りうるものであり、堕落によってそれに値しないが、その最初の本性によっては神を知りうるものだ」
(S6
9
0
―L4
4
4)(H. Michon, L’Ordre du cœur. Philosophie, théologie et mystique dans les Pensées de Pascal, Paris, H.
1
0)
。
Champion,1
9
9
6, pp.2
7
1―3
1
8)S4
1
2―L3
8
0.
1
9)S6
6
1―L8
2
1, p.4
3
7.
2
0)S2
2
2―L1
9
0. だからこそ、S5
3
1―L6
4
6(上掲)で「記憶」が「直感」の一形態であるとみなされる。
「幾何学の命
題でさえも直感となる」のは、論証の過程がすべて記憶されているかぎりにおいてである。
2
1)パスカルは、「第1
0プロヴァンシアル」で、イエズス会の神父に対して次のような言葉を投げかけている。「罪
の機会に意図的にとどまるような人間が、心から罪を憎むなどという事態を、一体どんなふうに考えればいい
のですか。それとは反対に、そのような者はむしろ、まだまだ十分に心を痛めておらず、真の回心には達して
いないことは明らかではないでしょうか。真の回心によってこそ、被造物を愛していたのと同じように神を愛
0e Prov., p.182)
するようになるのではありませんか。
」(1
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5―
!
!
!
!
うことを証明する。第一原理は感じられ、命
に対しては、われわれが宗教を推論によって
題は結論づけられるが、それぞれ異なった方
しか与えることができない。そうして神がそ
法によるとしても、すべては確実に行われ
れを彼らに、心の直感を通じて与えるのを待
る。だから、理性が心に、第一原理に合意さ
つのである。これがなければ、信仰は人間的
せたければ、その証拠を差し出せと求めるの
なものにとどまり、救いには無益なものでし
が無益でばかげているのと同様に、心が理性
かない。
に、理性が証明する命題のすべてを受け入れ
!
!
!
!
!
させたければ、それを感じさせろと要求する
のもばかげている22)。
こうして、以上に見た断章 S142―L110において
は、幾何学における直感の働きとそれがもたらす
認識の確実さが、宗教における直感の機能の重要
心と理性の権能の及ぶ領域 ――「秩序」
(ordre)
性を示す根拠になっている。だが、この二つの異
―― はたがいに独立しているのであり、双方とも
なった領域において、理性と直感の関係は同じで
他の領域で機能することはできない。両者はそれ
はない。前者においては直感が理性よりも先に働
ぞれに固有の領域において働くかぎりにおいて、
くのに対して、後者においては、理性は直感の介
正しい認識を確実に得ることができる。また、両
入に備える。前者において直感と理性は補完的に
者はその方法においても対立している。「理性」
機能するが、後者において、直感の発生以後、理
が証 明 す る(démontrer)のに対して、「心」――
性は無用のものとなるのであり、直感には理性を
上では「本能」
(instinct)と言い換えられてもい
超越した価値を付与されている。また、前者にお
!
!
!
!
!
!
!
る ―― は感じる(sentir)。それゆえ、心による認
ける直感は、主観的な認識ではなく、一部の懐疑
識は sentiment と呼ばれる。ところが、理性は領
論者を除いて、多くの人間にその確実さが承認さ
域侵犯を試みる。理性はつねに、
「すべてを判断
れている。これに対して後者の直感は、神に選ば
しようとする」のである。理性は資格を欠いた
れた者によってのみ真理として認識されるにすぎ
「圧政者」(tyran)にほかならない23)。パスカル
ず、それ以外の者には決して共有されないもので
はむしろ、
「心」が普遍的な統治者であることを
あることが示唆されている。もとより、この直感
望む。
「これとは逆に、われわれが理性など決し
は確実なものとして与えられるのであり、与えら
て必要とせず、すべてのことがらを本能と直感に
れない者にとっては、それが確実なものかどうか
よって知ることができればよかったのに!」と。
という判断がそもそも不可能である24)。
宗教はパスカルにおいて、権利上「心」の働く
ここで、次のような疑問が提起される。すなわ
領 域 で あ り、信 仰 と は sentiment に ほ か な ら な
ち、第一に、二つの領域で働く直感は、はたして
い。だが、そのような作用は神からの働きかけが
同じものかという問題。第二に、宗教的直感の確
なければ発生することはないため、それを待つ
実さの根拠となる世俗的領域における直感の真理
間、この領域における理性の侵犯を許すしかな
性は、なにによって保証されるのかという問題で
い。宗教において理性は、このような意味での消
ある。
極的な有用性しかもたない。
2)自然的直感と宗教的直感の関係
そういうわけで、神が宗教を心の直感によっ
第一の問題について検討するためにはまず、パ
て与えた者はとても幸いであり、とても正当
スカルの「理性」について見ておく必要がある。
に説得されている。だが、これをもたない者
彼は、「理性」に異なった二つの水準を認めてい
2
2)S1
4
2―L1
1
0.
8, S9
2―L5
8.
2
3)Cf. S9
1―L5
2
4)J・ラポルトは、心による認 識 の 価 値 が、こ の よ う な 宗 教 的 直 感 ―― ラ ポ ル ト の 用 語 で は「神 秘 的 直 観」
(intuition mystique)―― の「決定的な個人性」(personnalité irrémédiable)にあると論じている(J. Laporte, Le
4
1)
。
Cœur et la raison selon Pascal, Paris, Elzévir,1
9
5
0, pp.1
1
9―1
―1
1
6―
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4号
る。推論的理性と、自然的理性とでもいうべき理
疑う余地のないことがらのみを前提としている。
性である。このことを確認するために、
『幾何学
したがって、推論でなく自然が支えているので、
的精神について』の第一部「幾何学一般に関する
この秩序は完璧に真実である」。
考察」の内容を簡単に振り返っておきたい25)。
この小品のなかでパスカルは、幾何学を「すで
断章 S142―L110に即して言えば、このような原
始語の観念や、公理の真理性の認識は、直感に
に見いだされた真理を論証し、その証明が不動の
よって与えられるはずである。だが、
「幾何学一
ものとなるように真理を解明する術」であると定
般に関する考察」においてこれらは、
「理性」の
義している。幾何学はここで、数学の一分野では
領分に位置づけられている。
なく、一種の論証術、弁論術である。この術は主
に、「前もってはっきりと意味が説明されていな
以上のことからわかるように、幾何学は、対
いようなどんな術語も用いないこと」と、「既知
象を定義することも、原理を証明することも
の真理によって論証されていないようなどんな命
できない。だが、それは、これらのものがい
題も決して立てないこと」の二要素によって成り
ずれももともとこのうえない明瞭さのなかに
立つ。これを実現するためには、
「あらゆる術語
あるという唯一のそして好ましい理由によっ
を定義し、あらゆる命題を証明」しなければなら
てであって、この理由が、理性を言葉よりも
ないが、これは「絶対に不可能」である。という
強力に説得するのである。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
のも、「定義しようとする最初の術語は、その説
明に用いる先行する術語を前提としているであろ
S142―L110の「理性」が、推論という限られた
うし、同様に、証明しようとする最初の命題は、
機能だけを担い、これによって証明できない観念
それに先行する他の命題を前提としているであろ
や命題の真偽を判定できないゆえに無力なものと
うということは、明白」だからだ。しかし、定義
断じられていたのに対して、
「幾何学一般に関す
できない術語(原始語)、証明できない命題(公
る考察」における「理性」は、それら自然的認識
理)の存在は、この論証術の不完全さを示すので
の真理性に合意し、その認識を活用して新たな命
はない。原始語 ―― パスカルはその例として、
題の真偽を論証という手続きによって判断する能
「空間」「時間」
「運動」「等しさ」「多数」「減少」
力と規定されている。後者の理性は、前者の推論
「全体」を挙げている ―― とは、すべての人々に
的理性に加えて、直感の機能をも含んだ能力、い
自然によって明らかに与えられた共通の観念で
わば「自然的理性」である。
あって、これらを定義しようとすればかえって混
「幾何学」は、この自然的理性をもっとも効果
乱を招くであろう。
「それらの語に関しては、人
的に活用する論証手段にほかならない。
「幾何学
間の考案した術がわれわれの行う説明によってわ
が示すことはなんであれ、自然の光か証明によっ
れわれに得させる理解よりもずっと明瞭な理解
て完全に論証される」
。パスカルはこの術を、人
を、自然自身がわれわれに言葉を用いずに与えた
間に許された最大限の完全さを実現するものであ
のである」。同様に、たとえば「どんな運動であ
ると考えている。言い換えれば、幾何学によって
れ、どんな数、空間、時間であれ、つねにより大
認識できない真理は、人間にはそもそも知ること
きなものと、より小さなものが存在する」という
ができない。自然的理性の限界は、すなわち人間
命題は、パスカルにとって、論証せずとも明らか
の認識の限界ともなる。
「自然は、この学問が与
な真理である。「こうしたものを論証不能にして
えてくれないものをすべて提供してくれるのであ
いる理由は、それらの曖昧さではなく、逆にこの
るから、この学問の秩序は、たしかに人間を超え
うえない明白さなので、証明がないことは欠陥で
た完全性を与えてはくれないが、人間が到達でき
はなく、むしろ完全性なのだ」
。こうして、幾何
る完全性はすべてもっている」。
学の秩序は、
「自然の光によって明白にわかり、
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
幾何学が依拠する自然的理性は、自然の光と推
2
5)Réflexions sur la géométrie en général, MES.Ⅲ, pp.3
9
0―4
0
0.
March 2
0
0
8
―1
1
7―
論の及ばない認識の真偽を判断することはできな
懐疑論者たちの主要な強みは、ささいなもの
い。したがって、宗教に関することがらは、幾何
は除けば、次の点にある。すなわち、これら
学の扱う領域に含まれない。パスカルは、
『幾何
の原理が真であることについて、われわれは
学的精神について』の第二部を構成する「説得術
―― 信仰と啓示によらないかぎり ―― われわ
について」のなかで、このことを明言している。
れが自分のなかでそれらを自然に感じ取ると
「私は、ここでは神に関わる真理については語ら
いうこと以外に、いかなる確実さをも保持し
ない。[...]というのも、この真理は自然を無限
ていないという点である。ところが、この自
に超えているからだ。つまり、神だけがこの真理
然的直感(sentiment naturel)も、そうした
を魂のなかに置くことができるのであって、それ
原理が真理であるということの確たる証拠に
も、み心にかなった仕方によってである26)」。
はならない。なぜなら、人間が創造されたの
宗教の真理や神の存在は、単に「証拠」によっ
は善なる神によるのか、邪神によるのか、は
て論証できないことによって「理性」を超えてい
たまた偶然によるのかという点については、
るのではない。信仰はそもそも「自然の光」をも
信仰によらなければいかなる確実さもないの
超脱している。
「賭け」の議論は、護教論者が信
だから、これらの原理も、われわれの起源に
仰をためらう対話者に、神の存在に賭けることの
応じて、われわれに真なるものとして与えら
利得を論証することにあった。その際に護教論者
れているのか、偽なるものとして与えられて
は、「自然の光に従って」語れば、神とはなにか
いるのか、それともいずれとも決められない
ということも、神が存在するか否かも知ることは
ものとして与えられているのかが疑わしいか
できない、と説いている27)。信仰は、推論的理性
らである28)。
!
!
!
!
!
!
のみならず、自然の与える明白な認識、すなわち
「心の直感」をも含んだ能力 ―― 自然的理性 ――
と対置されるべきものである。
「これらの原理」とは「第一原理」のことを指
すであろう。われわれがこれを「自然的直感」に
このように見ると、断章 S142―L110において、
よって確実であると考えていても、そのことは
第一原理の認識手段としての直感と対立させられ
「信仰と啓示によらないかぎり」確証できない、
ている理性と、宗教的直感と対置される理性とは
という。われわれは「空間、時間、運動、数が存
同じではない。前者は推論的理性、後者は自然的
在する」ことを感じてはいるが、もしかすると、
理性である。また、第一原理の確実さを知る直感
悪い神がわれわれをあざむき、そのようにしむけ
は、自然的理性を構成する一要素である以上、こ
ているのかもしれない29)。信仰によれば、われわ
の自然的理性を超越し、神から直接与えられると
れはそのような可能性を否定し、人間が善なる神
!
!
される「心の直感」とは、まったくの別物であ
によって創造され、したがってわれわれの「自然
る。前者は自然的直感、後者は超自然的直感とで
的直感」が正しいと結論できるだろうが、そのよ
も呼ばれるべきものだ。両者はともに「理性」の
うな神からの「啓示」―― 超自然的直感 ―― は限
及ばない認識を確実に与えるという点で類比関係
られた人にしか与えられないのであり、その恩恵
にあるにすぎない。
にあずかることのできない者は、疑いをぬぐい去
3)自然的直感の確実さ
ての直感は、「自然的直感」よりも上位の水準で
ることができない。ここで、
「信仰と啓示」とし
次に、自然的直感による認識は、いかにして真
働いている。後者の確実さは前者によって根拠づ
とみなされるのだろうか。パスカルはこの問題に
けられる。このことは重要である。自然的直感の
ついて明確に意識している。
存在は、これと類比的な超自然的直感の存在を想
2
6)De l’Art de persuader, MES. Ⅲ, p.4
1
3.
2
7)S6
8
0―L4
1
8, p.4
5
9.
3
1, p.1
1
3.
2
8)S1
6
4―L1
2
9)Cf. Descartes, Méditations métaphysiques,Ⅰ, ALQ.Ⅱ, p.4
1
2.
―1
1
8―
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0
4号
像させ、それにあずかることを希求させはする
とはできない、ということである32)」。真理の認
が、その確実性の根拠となるわけではない。逆
識に際しては、
「善意」や「誠実さ」という、あ
に、超自然的直感が、これを与えられた者に自然
る種の心構えを要する。自然的直感の確実さに、
的直感の真理性を確証させるのである30)。
形而上学的な根拠を与えることはできない。だか
パスカルは、超自然的直感を前提としないかぎ
らといってこれによって与えられる認識がただち
りにおいて、このような懐疑論者からの想定され
に偽と判断されるべきでもない。なぜなら、懐疑
る主張の妥当性を認めているようだ31)。彼は続け
論者たちも、そのような認識を心底から疑ってい
て、S142―L110で言及された「いま自分が夢を見
るわけではないからだ。
ているわけではないこと」という命題の確実さに
ついて検討する。「また、だれも ―― 信仰によら
人間はすべてを疑うのだろうか。自分が目ざ
なければ ―― 、自分が目ざめているのか眠って
めていること、つねられていること、焼かれ
いるのかということについては確証できない。人
ていることを疑うのだろうか。自分が疑って
は眠っている間でも、われわれがいまそう信じて
いること、存在していることをも疑うのだろ
いるのと同じようにはっきりと、目がさめている
うか。ここにまで至ることはできない。私は
ものと信じているのだから。目ざめているときと
断言するが、いまだかつて実際に完全な懐疑
同じように、空間、形、運動を見ていると信じ、
論者など存在したことはない。自然が無力な
時が流れているのを感じ、それを計り、行動する
理性を支え、ここまではめをはずすのを妨げ
のである。」そうである以上、「われわれには真理
てくれるのである33)。
の観念が一切ない。
」われわれには覚醒の状態と
眠りの状態との区別がつかないのであり、眠って
本来疑うことのできない「自然的諸原理」を
いる間に「われわれが感じること(sentiments)
疑ってみせる人々は、懐疑論者を気取っているに
はすべて幻想」だからである。したがって、人間
すぎない。本物の懐疑論者など存在しなかった
が自然的直感を通じて知ることがらの真理性に、
し、存在しえない。その意味で彼らは、本心を
絶対的な根拠はない。われわれはそれらを真理で
あるとみなしているにすぎない。
偽っている。したがって、ここで の「善 意」や
「誠実さ」とは、自己の本心に対する忠実さのこ
このような懐疑論に対し、パスカルは独断論
とである。思い上がりや虚勢を排し、虚心に自己
者の立場から反論できると考えている。彼は言
の心を見つめれば、自明な真理を疑うことなどで
う。「独断論者たち の 唯 一 の 砦 に 注 目 し よ う。
それは、善意をもって(de bonne foi)、誠実に
(以下
きないはずだ。『ポール = ロワヤル論理学』
『論理学』と略記)は、次のように述べる。
(sincèrement)語れば、自然的な諸原理を疑うこ
3
0)Cf. J. Laporte, op. cit., pp.1
3
5―1
3
9.
3
1)パスカルは、この立場をモンテーニュのものとし、サシ氏に対して次のように語る:
「彼(モンテーニュ)は尋
ねます。[...]公理(axiomes)あるいは、だれでもがもっているところから共通知見(notions communes)と
呼んでわれわれが信じている原理は、本質的な真理と一致しているのかどうか、と。そして、完全に善なる存
在が、真理を知るべくわれわれを創造することによって、われわれにこれらのものを真なるものとして与えた
ということをわれわれが知るのは、ただ信仰によってのみであるからには、こうした光がなければ、だれが次
のことを知りえようか、とも尋ねます。つまり、いきあたりばったりにつくり上げられたこれらのものが不確
実なものではないのかどうかということ、あるいは、われわれをあざむくべく、人をあざむく悪しき存在に
よってつくり上げられたこれらのものを、この存在はわれわれにまちがったものとして与えなかったかどうか
ということです。こうして、神と真理とは不可分であるということと、神が存在するかしないかによって、こ
れが確実か疑わしいかによって、真理についても同様の結果になる、ということが示されるのです。したがっ
て、われわれが真理の判定者とみなしている共通感覚(sens commun)が、その創造者からその存在を受けて
いるのかどうかは、だれにも知りえないのではないでしょうか」(Entretien avec M. de Sacy, éd. P. Mengotti et
J. Mesnard, Paris, Desclée de Brouwer, coll. « Les Carnets »,1
9
9
4, pp.1
0
4,1
0
7―1
0
8)
。
3
1, pp.1
1
4―1
1
5.
3
2)S1
6
4―L1
1
6.
3
3)Ibid., pp.1
1
5―1
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0
8
―1
1
9―
真の理性は、すべてのことがらを、それらに
拠を借り、人間の理性の無力さを訴える際には懐
応じた地位に位置づける。疑わしいものを疑
疑論者の立場に与する。パスカルは叫ぶ。
「自然
わせ、誤りを拒否させ、明証的なものを善意
は懐疑論者たちを困惑させ、理性は独断論者たち
をもって(de bonne foi)認めさせるのであ
を困惑させる。自分の自然的な理性によって自分
り、懐疑論者の空しい理屈になどとらわれる
の真の状態を知ろうと求めている人々よ、あなた
ことがない。懐疑論者は、確実なことがらに
がたはどうなってしまうのか。両派のいずれから
対して人がもつ理性的な確証を ―― そうした
も逃れることはできず、かといっていずれか一方
理屈を提示する者たちの精神においてさえ
にとどまることもできない35)」。いかに懐疑を徹
―― 破壊することはない。[...]かくて、懐
底させても疑えない認識が存在する。しかしその
疑主義は、自分の語ることを確信する人々の
ような認識を真理であると証明することは、理性
一派ではなく、嘘つきの一派である。だから
には不可能である36)。
!
!
!
!
!
!
彼らは、本心が自分の言葉に合致しないまま
自分の意見を語ることによって、しばしば自
己矛盾に陥るのである34)。
もっとも、パスカルはこれによって、自然的直
パスカルは別の断章で、独断論者の置かれた苦
しい立場を次のように描き出す。
良識(Le bon sens)。
感による認識の確実さについては認めるものの、
彼ら[独断論者たち]は、こう言わざるをえ
独断論者の立場そのものを擁護しているわけでは
ない。「あなたがた[懐疑論者たち]は善意
ない。彼にとって、独断論者は人間の理性によっ
によって(de bonne foi)行動していない。
て真理にたどり着くことができると信じる人々で
われわれはいま眠ってなどいない」などと。
ある。上にも見たように、パスカルはこのような
この思い上がった理性[独断論者の理性]
考えを明確に否定している。したがって、断章 S
が、いやしめられ、哀願しているのを見るの
164―L131の目的は二重である。それは第一に、人
は、なんと楽しいことか。なぜならこれは、
間には例外なく「自然」によって確実な真理が与
自分の権利が脅かされ、それを手に武器と力
えられているとの独断論者の主張によって懐疑論
をもって防衛している人間の言葉ではないか
者の不誠実を暴き、第二に、われわれの認識はす
ら だ。そ ん な 人 な ら ば、相 手 が 善 意 か ら
べて幻想であり、人間には真理を保持する力はな
(de bonne foi)行動していないなどと言っ
いとする懐疑論者の主張によって、独断論者の傲
て楽しむのではなく、そのような不誠実を力
慢を挫くことである。直感を介して得られる自然
で罰するものである37)。
的認識の確実さを認めるに際しては独断論者の論
3
4)Logique, pp.1
8―1
9. ここで『論理学』は、「明証的な」ことがらを真理であると認める機能を、
「真の理性」(la
vraie raison)に帰している。これは、パスカルにおいては、第一原理の認識を担う sentiment と、その認識の
正しさを前提に推論を行う理性の両者を含む「自然的理性」に相当するものであると言える。
3
5)S1
6
4―L1
3
1, pp.1
1
6―1
1
7.
3
6)Cf. : « Instinct, raison. !Nous avons une impuissance de prouver invincible à tout le dogmatisme. !Nous avons
une idée de la vérité invincible à tout le pyrrhonisme. »(S2
5―L4
0
6)
2.この断章の表題が示しているように、パスカルは「善意」と「良識」
(bon sens)とをほとんど同義
3
7)S8
5―L5
語とみなしている。彼にとっては、死後自分がどうなるかという人生で最大の問題に無関心な人々は、「良識」
を欠いている:「もし彼らがこのことをまじめに考えたなら、彼らは、このような態度[未来の永遠の状態につ
いてなんの確信もないままに、ふんわりと死に身をゆだねようとする態度]があまりにも誤っていて、あまり
! !
にも良識にもとり、あまりにも誠実さ(honnêteté)に反し、彼らの求めている〈しゃれた調子〉(le bon air)
なるものからもあまりにもかけ離れているので、多少なりとも彼らに従おうと思いかけていた者たちをさえ、
堕落させるよりはむしろ矯正させることになるということを悟るであろう」
(S6
8
1―L4
2
7, p.4
7
5; 「しゃれた調
子」については後述)
。彼はまた、「良識」を「常識」(sens commun)や「自然の感覚」(sentiments de la
nature)とも言い換えて、次のようにも述べている。「彼らのあらゆる錯乱のうち、これこそ疑いなく、彼らの
! !
愚かさと盲目ぶりとを彼らにもっともよく納得させるものであり、常識のちょっとした検証によっても、
―1
2
0―
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彼 は、「善 意」な ど と い う あ いま い な 根 拠 に
い。「理性の最後の手続きは、みずからを超える
よってしか懐疑論者に対抗することのできない独
ことがらが無限にあることを認めることである。
断論者のふがいなさを告発し、独断論者の理性の
これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆
思い上がりを攻撃する懐疑論者の姿勢を評価して
弱なものにすぎない38)」。
いる。しかし、善意によって行動すればわれわれ
理性の道徳は、自然的直感の領域と、超自然的
がいま目ざめていることは確実だと認められるは
直感の領域における二段階の服従にある。正しい
ずだとの独断論者の考えそれ自体は承認している
信仰の状態にある者は、このことの必要性を意識
ようだ。パスカルは、懐疑論者の「不誠実を力で
せずとも認識し、自然に実践している。それ以外
罰する」べきであるとし、疑いえない自然の認識
の者は、よりたやすい第一段階の服従から始め、
の存在をもっと強力に主張する必要性を説く。そ
第二段階に備えなければならない。超自然的直感
の方法については明言されないが、もちろんパス
が自然的直感の確実さを保証するのであるが、自
カルが念頭に置いているのは、
「信仰と啓示」で
然的直感による認識の存在は、超自然的直感の存
あろう。この方法を用いることができるのは、神
在とその確実さを類推させる。S142―L110が示唆
をおいてほかにはいない。
するのはこのことである。第二段階に到達した者
自然的直感は、超自然的直感が神から与えられ
は、自然的直感の正しさを「自然の光」のみなら
てはじめて絶対的に確実であると判明する。この
ず、超自然の恩寵によって確信できるだろう。だ
瞬間を待つ間、自然的諸原理に対する信頼は、
が、これを欠いた者も、自然的直感を疑うことの
「善意」なる薄弱な根拠によらないかぎり正当化
愚かさは理解できるはずである。このように S
できない。とはいえこのような誠実さをもたない
164―L131は説いている。S164―L131は、S142―L110
懐疑論者は、理性の万能を信じる独断論者と同じ
の論述を補うものとして位置づけられる。
程度に愚かである。自然的理性は、推論的理性の
「善意」なる心理学的根拠と、信仰と啓示とい
限界を超えて働く自然的直感の認識を「善意」を
う事後的に与えられる神秘的根拠を除けば、自然
もって尊重する。自然的理性は、推論的理性を正
的直感の正当性を確証する手段は、人間にはいっ
当に服従させる仕方を知っている。独断論者は、
さい備わっていない。そのかぎりで、第一原理や
このような自然的理性の正しさを知るという点で
原始語の観念といった自然的諸原理は、デカルト
誤ってはいない。だが、自然的理性にも判断でき
のコギトのような形而上学的な真理ではなく、暫
ないことがらがある。宗教と神の認識である。独
「真実
定的真理 ―― A・マッケンナの言葉では、
断論者は、このような自然的理性の限界を知ら
らしさ」
(vraisemblance)―― とでも呼ぶべき も
ず、あらゆることがらが理性の支配下にあると考
のである。人間が独力で認識できる真理には、つ
えている点で誤っている。推論的理性と自然的直
ねにこのような限界が刻み込まれている。パスカ
感がたがいの秩序を守って機能するのが正しいよ
ルは、このような事態の原因を、精神と身体から
うに、自然的理性は超自然的直感 ―― すなわち
なる人間の存在論的条件に見ている。
「信仰」―― の秩序を侵犯しようとしてはならな
! ! ! ! !
自然な感情に基づいても、もっとも容易に彼らを混乱させることができるのである。というのも、この世で生
きる時間は一瞬にすぎず、死の状態は、それがどんな性質のものであったとしても、永遠に続くものであるこ
と、したがって、この永遠の状態がどうであるかによって、われわれのすべての行動と思考はまったく異なっ
た道を取らなければならないのであって、われわれの究極の目的であるはずのこの点を考慮してわれわれの行
く末を律しないかぎり、良識と分別とをもって(avec sens et jugement)一歩を踏み出すことは不可能である
ということは、疑いのないことだからだ」(S6
8
2―L4
2
8, p.4
7
7)
。パスカルにとって、真理を認めるための最低
限の資質が「誠実さ」「良識」「常識」なのであるが、これらは人間において共通にそなわっているわけではな
い。この認識は、アルノー = ニコルも共有している。彼らは『論理学』冒頭で嘆く。「常識(le sens commun)
は、人が考えるほどありふれた資質ではない」(Logique, p.1
7)
。『プロヴァンシアル』においてもパスカルは、
再三にわたって、論敵たちの詭弁が、彼らの「良識」と「常識」の欠如に基づくものであると指摘している
4
9; 1
4e Prov., p.256; 16e Prov., p.298, p.313et al.)。
(8e Prov., p.1
8
8.
3
8)S2
2
0―L1
March 2
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0
8
―1
2
1―
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
われわれの魂は、身 体 の な か に 投 げ 込 ま れ
の理性の認識の限界を示している。その意味で第
て、そこで数、時間、次元を見いだす。魂は
一原理は、暫定的な真理、人間的な真理でしかな
そこから推論し、それを自然、必然と呼び、
い。真の「第一原理」は、われわれには知ること
ほかのものを信じることができない39)。
ができない。
「わ れ わ れ の も っ て い る 存 在(Ce
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
que nous avons d’être)が、第一原理の認識をわ
マッケンナが言うように、デカルトにおいて
41)。このように言うと
れわれからそらせている」
は、コギトの純粋な思考が無限で必然的な存在を
き、パスカルが念頭に置いているのは、身体と一
確証する。彼の「方法」は、精神を感覚から離脱
体化した人間の精神のありかたにほかならない。
させ、明証的直観(intuition évidente)へと上昇
させることによって成立する。これに対して、
3.身体を起源とする「感覚」
「心の 直 感」を「本 能」―― 身 体 的・動 物 的 原 理
―― と同一視するパスカルは、決して純粋な思考
上で検討した宗教的直感と自然的直感は、「心」
が身体を離れて行使されるとは考えない。
「心の
において生じる認識、あるいはそれを可能とする
直感」にゆだねられる自然的諸原理の認識は、身
機能や能力を指示していたが、先に見た通り、
体との合一によって純粋な判断を妨げられた精神
sentiment は、外的事物が感覚器官(les
のもつ限界を示している40)。
des sens, les sens)を通じて魂に及ぼす印象や、
organes
パスカルにとって、
「あまりにもあからさまな
そのような印象を知覚する能力を指示することが
真理はわれわれを驚かせる」のだし、とりわけ、
ある。すなわち、身体を起源とする知覚や感覚で
「第一原理はわれわれにとってあまりに明白すぎ
あ る。こ の 意 味 で の sentiment は、し ば し ば
る」。本来幾何学には、「無限の上にも無限の数の
(les)sens(複数形)という語で置き換えられる。
命題」があり、それらはまた、多様で繊細な諸原
sens という語は、①感覚器官そのものを指すだ
理から成り立っている。こうして、人が「最後の
けでなく、②感覚器官のもつ能力、さらには③そ
ものとして提示する原理」―― つまり「第一原理」
れによって生じた印象をも意味するのであり、②
―― は、真に最後のものとはなりえない。これら
と③の場合は sentiment とほとんど同義になるか
は他の原理によって支えられているはずだから
らだ。パスカルは、明確に③が問題になっている
だ。したがって、
「われわれは理性に対して、最
ときは sentiment を用いているが、②を指すと思
後のものとして現れるものに対して、物質的なも
われる場合と、ことさら②と③を区別しない場合
のについてするのと同じことをしている。すなわ
―― もとよりこの区別は困難である ―― には、
ち、物質的なものについては、その性質上無限に
sens の語を多用している。以下では、以上の点
分割できるにもかかわらず、われわれの感覚がそ
を考慮しながら、必要に応じてパスカルの sens
れ以上なにものも認められない点のことを不可分
の用例にも注目してみよう。
の点と呼んでいるのである」
。感覚の限界が人間
の認識の限界を画しているように、「第一原理」
の存在は、推論的理性と自然的直感からなる人間
1)感覚における魂の役割
まず、身体器官の反応はどのように魂に伝えら
3
9)S6
8
0―L4
1
8, p.4
5
7.
4
0)マッケンナは、このようなパスカルの考えに、ガッサンディからの影響を認めている。ガッサンディにとって、
「悟性のなかにあるもので、あらかじめ感覚のなかに置かれないものはない。
」ある事物を定義するためには、
われわれはその事物と他の事物との見かけの差異を語るしかない。よって定義とは、事物の関係にすぎないの
であって、アリストテレス的な意味での定義は人間には不可能である。こうして人間の学とは、見かけの学に
すぎない。もっとも、ガッサンディは、このことに積極的な意義を認めている。彼にとってそのような見かけ
の学は、人間に十分な確実性を提供しうるのである。ガッサンディの悟性も、パスカルの直観も、デカルトの
明証的直観への抵抗の意味をもっている(Antony McKenna, Entre Descartes et Gassendi. La première édition des
Pensées de Pascal, Paris, Universitas ; Oxford, Voltaire Foundation,1
9
9
3, pp.3
0―4
0)
。
9
9, pp.1
6
4―1
6
6.
4
1)S2
3
0―L1
―1
2
2―
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4号
れるのか。あるいは、感覚の発生において、身体
にとって、触覚の発生原因については比較的理解
と魂とはどのような関係にあるのか。デカルトと
しやすい。これは対象と人間の身体との直接の接
は異なり、パスカルはこの問題にほとんど立ち入
触を前提とするからだ。けれども、離れていても
らない。デカルトはこれを、動物精気という微細
火を「熱い」と感じるのはなぜか。音や光といっ
な物質の運動によって説明した。これが神経を介
た非物質的なものが、
「石がぶつかったように」
して脳内の「松果腺」なる器官へと移動し、それ
―― つまりあたかも直接ものが身体に触れたのと
が魂のなんらかの反応を引き起こすという。この
同じように ―― 強烈な刺激を与えるのはなぜか。
反応 ――「魂の受動」(passions de l’âme)―― が
デカルトは、
「熱さ」を「触覚」の一種であると
すなわち「情念」(passions)という名の感覚で
主張し て い る。彼 に よ れ ば、熱 さ(la chaleur)
ある。これに対してパスカルは言う。
は、「地上にある物質の微細な部分の躍動」であ
り、その躍動が「われわれの手の神経を十分に強
「熱さはいくつかの小球体の運動にすぎず、
く動かすことによって感じられる」ものである。
光はわれわれが感じる〈遠心力〉にすぎな
というのも、「熱さという呼び名は、触覚に関連
い」などと聞くと、驚いてしまう。なに、快
44)。パスカルにとって、このよ
しているからだ」
感とは精気の舞踏にほかならないだと? わ
うな説明は不十分である。仮にデカルトが言うよ
れわれはそれらについて、あれほど異なった
うに、微細な物質が毛穴から入って神経を動かす
考えを抱いていたというのに。しかも、その
のだとしても、神経は手でもなく足でもないのだ
ような感覚(sentiments)は、それらと比較
から、これによって熱さがなぜ身体に触れたのと
して同じ名で呼ばれはするものの、また別の
同じように感じられるのかは、依然として理解で
感覚と、あれほどかけはなれたものに思われ
きないからだ。
るのに。火の感覚、つまり、触覚とはまった
パスカルはここで、感覚を少なくとも二つのカ
く別のしかたでわれわれに影響を及ぼす熱
テゴリーに区別している。触覚という身体と事物
さ、音と光の感受。これらはすべて、われわ
との直接的な接触によって生じる感覚と、それ以
れには神秘的なものに思える。それでいてそ
外の感覚である。後者の発生について彼は、おそ
れらは、石がぶつかったときのように強烈な
らく身体的要素とは異なった原因の介入を認めて
ものだ。毛穴に入る微細な精気は、たしかに
いる。彼はとくに「快感」について、次のように
別の神経に触れるわけだが、それでも触れら
書いている。「われわれのなかで快感を感じるの
れるのは神経であることに変わりはない42)。
はなんだろうか。手であろうか、腕であろうか、
肉体であろうか、それとも血であろうか。これは
「熱さはいくつかの小球体の運動にすぎない」
なにか非物質的なものでなければならないことが
「光はわれわれが感じる〈遠心力〉にすぎない」
わかるようになるだろう45)」。パスカルにとっ
という主張は、デカルト『哲学原理』のなかに認
て、ある種の原始的な感覚は純粋に身体の反応と
「熱 さ」や
め ら れ る43)。と り わ け パ ス カ ル は、
して理解されるのに対して、それ以外の多くの感
「光」の感覚、さらには「快感」(plaisir)と、そ
覚は、あたかも身体のそれとして感じられるにも
れとは「あれほどかけはなれたものに思われる」
「別の感覚」とを同一視し、それらすべての原因
かかわらず、その発生に際して「非物質的な」要
素が関与している。
を動物精気なる物質の運動に帰する態度に違和感
デカルトからすれば、パスカルの反論は不本意
を覚えているようだ。ここでパスカルが「別の感
であろう。デカルトにとって、身体との接触の有
覚」と呼ぶものの具体例は、「触覚」である。彼
無が感覚の発生過程の差異の原因とはならない。
4
2)S5
6
5―L6
8
6.
4
3)Voir Pensées, éd. Ferreyrolles, p.3
7
5, n.1; p.3
7
6, n.1.
4
4)Principes, Ⅳ,2
9.
0
8.
4
5)S1
4
0―L1
March 2
0
0
8
―1
2
3―
いずれの場合も「感覚」(あるいは「情念」)は、
にほかならない49)。
動物精気の運動が魂に影響を与えることによって
身体器官によってもたらされる「感覚」は第二
生じるのであり、触覚だけを特別視する理由はな
に、人間の認識において重要な役割を果たしてい
い。感覚の発生に関して、神経への刺激という原
る。
『論理学』は、
「感覚」
(sens または sentiment)
因が納得できないのなら、手足への接触という原
という語の多義性について、次のように述べる。
因も同様に不可解であるはずだ。むしろデカルト
は、いかなる感覚の発生も精神的な要素の介入を
sens と sentiments という語のなかに は、多
一切認めずに説明することができないがゆえに、
くの曖昧さが含まれている。このことは、こ
神経を心身間の連絡に重要な役割を果たすものと
れ ら の 語 を、五 つ の 身 体 的 感 覚 器 官(les
して位置づけたのである。
cinq sens corporels)のいずれかを指すため
しかしパスカルは、デカルト説のうちで、感覚
にのみ用いる場合ですら該当する。というの
が心身の相関作用によって発生するとの考え自体
も、われわれがみずからの感覚(sens)を用
を否定しているわけではない。パスカルは、その
いる際、たとえばわれわれがなにかを見ると
ような作用が純粋に物質と身体の諸器官の動きに
きであるが、われわれのなかで、たいてい三
よって解明できるとする態度を批判している。身
つのことがらが生じている。第一に、目や脳
体と精神という存在論的に異質な実質の結びつき
といった身体器官のなかでなんらかの運動が
そのものを不可解であるとする彼にとって46)、両
生じる。第二に、こうした運動がわれわれの
者の協働によって生じる感覚は、端的に「神秘
魂に、なにかを知覚する(concevoir)きっ
的」であるほかはない。
かけを与える。たとえば、太陽にさらされた
雨水の滴のなかで光が反射することによって
2)感覚:欲望と認識の原理
われわれの目のなかで生じる運動に続いて、
人間の感覚器官(les sens)は第一に、欲望の
魂は赤、青、橙の観念を得るわけ だ。第 三
源泉である。「三つの邪欲」を構成する「肉の欲」
に、われわれが目にしていることに対してわ
「目の欲」「生の傲り」のうち、「肉の欲」とは正
れわれが行う判断がある。たとえば、虹に対
確に、身体器官に発する欲望、すなわち「感覚
する判断である。われわれは虹のなかに上の
sentiendi)を意味する47)。しかし、す
ような色彩を認め、それについてなんらかの
べての邪欲の根源は感覚にある。原罪をきっかけ
大きさ、なんらかの形、なんらかの距離を知
に、「感覚が理性から独立し、しばしば理性の主
覚する(concevoir)のである。これら三つ
人となることで、人間を快楽の追求に駆り立て
のことがらのうち、第一のものはわれわれの
た」。以後、「すべての被造物が人間を、あるいは
身体においてのみ生じる。あとの二つは、わ
苦しめ、あるいは誘惑しているのだし、あるいは
れわれの身体で生じることが原因であるとし
力で服従させることによって、あるいは優しさに
ても、純粋にわれわれの魂のなかで生じるこ
よって魅惑することによって、人間を支配してい
とである。にもかかわらず、われわれは、こ
る」。こうして人間たちは、「みずからの盲目と、
れらまったく異なる三つのことがらのすべて
今や彼らの第二の本性となった邪欲のなかに沈み
を、視覚、聴 覚 な ど の sens や sentiments と
48)。邪欲とは、感覚による理性の支
込んでいる」
いう名のもとに包含させている50)。
欲」(libido
配、身体の秩序の精神の秩序への領域侵犯の結果
4
6)Voir S2
3
0―L1
9
9, p.1
7
0.
4
5, pp.3
2
4―3
2
5.
4
7)S4
6
0―L5
4
8)S1
8
2―L1
4
9, p.1
3
8.
4
9)感覚器官は、「快楽」(plaisirs)とともに、「苦しみ」(douleurs)をも感じる。パスカルにおいて、病のときに
感じるこの苦しみが、「魂の病」(les maux de l’âme)たる邪欲を告げる「象徴」となる(Cf. 拙論「パスカルに
4
4)
。
おける病と身体」
、『年報地域文化研究』1号、1
9
9
7、東京大学大学院総合文化研究科、pp.2
2
5―2
5
0)Logique, p.8
4.
―1
2
4―
社 会 学 部 紀 要 第1
0
4号
「感覚」という語が指示する事態には、A.純粋
の決定をするのに適しているでしょう。そし
な身体的反応、B.対象の外的性質の知覚、C.対
て、最後に事実問題ならば、われわれは感覚
象に対する判断、という異なった三つの段階があ
を信じることになりましょう。事実を知るこ
る。このうち B と C は、身体で生じたことを原
とは当然感覚の権限に属するからです52)。
因として、魂のなかでのみ発生するものである、
という。この考えは、パスカルが S565―L686で示
ここで「事実問題」とは、正確には教会が断罪
唆する考えよりも、洗練され、よく整理されてい
する五命題がジャンセニウスの著書に含まれてい
る51)。パスカルは「感覚」を、事物と身体との直
るかどうかという問題のことである。このような
接の接触の有無によって大きく二分しているにす
問題の真偽については、個々人の視覚による判断
ぎないが、『論理学』は、感覚のひとつの下位区
に任せるしかないのであり、
「信仰箇条」(points
分を示す語 ―― たとえば「視覚」―― のなかに、
de la foi)の決定において絶対的な力をもつ教皇
異なった三つの指示対象を認めている。しかし、
の権威ですら、なんの役にも立たない。それどこ
「感覚」のなか
パスカルもアルノー = ニコルも、
ろか、
「感覚」の領域に「信」が介入するのは、
に精神の関与が認められる場合と、そうでない場
秩序の不当な侵犯、すなわち「圧政」である。
合があると考えている点で一致している。われわ
「感覚」はまた、科学の領域においても不可欠
れが虹を目にする場合、虹が目に入る段階が A
な働きを担う。
『真空論序言』においてパスカル
であり、虹の色彩などの外的な形象を知覚する段
は、学問の総体を、「権威」に基づく学問と、「感
階が B であり、そのような直接的な知覚をもと
覚と推論のもとにある」学問とに二分し、前者に
に、 魂がなんらかの判断を行う段階が C である。
は神学、歴史、地理学、法律学、言語が、後者に
したがって、「感覚」に認識論的な価値を認める
は幾何学、算数、音楽、自然学、医学、建築など
場合、それは C の意味で用いられている。
があてはまると言う。彼によれば、神学の原理は
こうして、
「感覚」は魂による判断をともなう
「自然と理性」を超えていて、人間の精神は自力
限りにおいて、認識の機能を担う。このような観
ではそのような高い認識に到達することはできな
点は、パスカルにも共有されている。
「第18プロ
い。ここにおいては、
「書物がわれわれに教える
ヴ ァ ン シ ア ル」に お い て パ ス カ ル は、「感 覚」
こと」―― これが「権威」の意味である ―― 以外
(les sens)を、「信」や「理性」とな ら ぶ ひ と つ
に、なにも付け加えることができない。しかし、
の認識原理であると主張している。これら三つは
それぞれ固有の領域をもち、その範囲を逸脱しな
感覚あるいは推論のもとにあることがらにつ
いかぎりにおいて正当な判断を行う。
「感覚」は
いては、これと同じではない。そこにおいて
事実に関することがらに責任をもつ。
権威は無用であり、理性のみがこれを知るこ
とができる。権威と理性は、それぞれ別個の
どんな命題を検討するにあたっても、われわ
権限をもっている。ある場合には、権威が断
れはまず第一に、その命題が先の三つの原理
然優位であったが、ここでは理性が代わって
のどれと関連づけられるかを見るために、そ
支配する。しかもこの種のことがらは、精神
の性質をよく知らねばなりません。超自然的
の能力に釣り合っているので、ここでは精神
なことがらならば、感覚や理性にはよらず、
は完全に自由に広がり、その尽きることのな
聖書と教会の諸決定によって判断しなければ
い豊かさは、たえまなく生み出し、その創意
なりません。啓示された命題ではなく、自然
は終わることも途絶えることもありえないの
的な理性にかなったものであれば、理性がそ
である53)。
5
1)ただし『論理学』は、パスカルとは異なって、C の意味での感覚発生のメカニズムをデカルト説に基づいて説
明している(Voir Logique, p.7
3)
。
5
2)1
8e Prov., p.375.
7
9.
5
3)Préface sur le Traité du vide, MES.Ⅱ, pp.7
7
8―7
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―1
2
5―
権威の学問が後世による付加も変更もありえな
を、偽りの見かけによってあざむく。感覚が
いのに対して、感覚と推論の学問は、絶えざる進
精神(l’âme55))にぺてんをもたらすわけだ
展が可能である。後者において権威を遵守し、古
が、これと同じものを、今度は感覚が理性か
代の見解のみを真理とみなすのは不当である、と
ら受け取る。理性が感覚にやり返すのだ。精
いう。ここにもパスカルの「秩序」と「圧政」の
神の情念(les passions de l’âme)が感覚を
思想は色濃く表れている。ここで彼は、
「感覚あ
混乱させ、感覚に偽りの印象を植えつける。
るいは推論」をまとめて「理性」という語に置き
両者ともに嘘をつき、たがいをわれ勝ちにだ
換えている。このことは第一に、感覚は、推論と
まし合っている56)。
いう狭義の理性(推論的理性)と対立するのでは
なく、両者が協調して働くことによって正しい認
人間の誤謬は、感覚と理性とのだまし合いに
識を導くことができるということ、第二に、広義
よって生じる。ここで感覚が理性をあざむくとい
の理性(自然的理性)は、感覚 ―― すなわち身体
う事態は、『論理学』が挙げる事例に則して言え
を介した魂の判断 ―― の働きを含んでいる、とい
ば、水のなかでまっすぐな棒が曲がっているよう
うことを示唆する。感覚と理性とのこのような協
に見えたり、太陽の直径が二ピエしかないように
調関係は、「第17プロヴァンシアル」の次の一節
思われたりするときに、実際にそうであると判断
からもうかがえる。
することを指すであろう57)。一方、理性が感覚を
あざむくという事態は、はじめから感覚器官に
そういうわけで、信仰箇条の決定において
よって得られた知覚による判断は当てにならない
は、神が、不可謬である自身の精神の助力に
という経験ないしは教育による知識に基づいて、
よって教会を導くのに対して、事実に関する
いたずらにそのような判断を退ける態度に由来す
ことがらにおいては、神は教会に、感覚と理
る。パスカルにとってはたとえば、
「自然は真空
性の行使を許すのです。この場合は、当然そ
を嫌悪する」と主張するスコラ学派の影響で、ガ
れらが審判となるのですから54)。
ラス管に液体を入れて倒立させたときにできる空
間を真空ではないと判断するような場合がこれに
しかし、両者はこのような平和的な関係にはな
当たるであろう58)。つまり感覚と理性の相互欺瞞
い。それどころか、パスカルは両者の間に「戦
とはすなわち、両者がたがいに相手を不当に服従
争」状態を見いだしている。
させている状態である。双方が正しく自己の領分
を守っているかぎり誤謬は生じない。だが、人間
(それにしても、人間の誤謬のなかでもっと
もおかしな原因は、感覚と理性との間にある
戦争である。)
には多くの場合、そのような領域の正当な区別が
不可能である。
認識原理としての感覚はまた、われわれの身体
人間は、恩寵なしでは、生来の、消し去るこ
的諸条件によっておのずと限界づけられている。
とのできない誤謬に満ちた存在(sujet)にほ
まず、そもそも五感を司る器官の能力は、狭い範
かならない。人間に真理を見せるものなどな
囲の刺激にしか感応しない(だからマイク、眼
にもない。なにもかもが人間をあざむく。
鏡、望遠鏡などが必要となる)。「われわれの感覚
[...]理性と感覚という二つの真理の原理は、
は、極端なことをなにも知覚できない。大きすぎ
いずれも誠実さを欠いているばかりでなく、
る音はわれわれを聞こえなくさせるし、強すぎる
たがいにあざむき合っている。感覚は理性
光は目をくらませる。遠すぎても近すぎても目に
5
4)1
7e Prov., p.343.
5
5)ここでは「理性」(la raison)のことを指していると考えられる。
5
6)S7
8―L4
4!
4
5, p.7
3. 括弧内は原稿でパスカルによって抹消された部分。
5
7)Logique, p.8
5.
4, pp.7
1―7
2.
5
8)Voir S7
8―L4
―1
2
6―
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4号
見えない。」われわれに快を与える原因には適正
うのも、こちらの原理はきわめて微妙できわ
な量がある。「あまりの快楽は不快にさせるし、
めて数が多いので、それを見逃さないのはほ
音楽では和音が多すぎると好ましくない。過剰な
とんど不可能だからだ。原理をひとつでも見
親切にはいらいらさせられる。
」また、過剰な刺
落とせば、誤りに導かれる。よって、あらゆ
激は、われわれの身体の健康を脅かす。
「われわ
る原理を見つめるために、よく澄んだ目をも
れは極端な熱さも極端な冷たさも感じない。極端
たねばならないし、さらに、よく知られた原
な性質は、われわれには敵であるし、感じること
理に基づいて推論を誤らないために、正しい
ができない。われわれはそれらをもはや感じるの
精神をもたねばならない。
ではなく、それによって苦しむ。
」そして、われ
われの感覚は、身体や環境の条件の変化によって
幾何学の精神と繊細の精神の違いは、まずはそ
衰弱する。「若すぎても老けすぎても精神が働か
れぞれの判断の出発点となる「原理」の違いに
ないし、教育がありすぎてもなさすぎても同様で
よって説明される。前者の原理は「手でさわれる
59)。
「感覚」による認識の機能は、理性との
ある」
ように明らかであるが、通常の使用からは離れて
相互干渉という外在的な要因によってのみなら
いる」のに対して、後者のそれは、
「ふだんに使
ず、感覚そのもののもつ内在的な脆弱さによっ
用されていて」「目の前にある」が、「きわめて微
て、きわめて限定的なものとならざるをえない。
妙できわめて数が多い」
。幾何学の原理は、そこ
に目を向けさえすれば、あとの推論が容易である
4.繊細の精神
のに対して、繊細さの原理には、わざわざ注意を
向ける必要はないが、それらをひとつも見落とさ
1)幾何学の精神と繊細の精神
ないために「よい目」をもつ必要がある。よっ
パスカルは、よく知られた断章60)で、精神を典
て、「すべての幾何学者は、もしよい目をもって
型的な二つの型に分類し、それらの違いについて
いたら繊細になれただろう」。また、「繊細な精神
述べる。
の人々は、慣れない幾何学の原理のほうに目をや
ることができたら、幾何学者になれただろう」。
幾何学の精神と繊細の精神の違い。
二つの精神の差異は、判断にいたる手続きにも
前者においては、原理は手でさわれるように
ある。幾何学の精神は、
「推論」(raisonnement)
明らかであるが、通常の使用からは離れてい
によって特徴づけられる。すなわち、「定義か
る。だからそこには顔を向けにくい。慣れて
ら、ついで原理からはじめる」こと、あるいは
いないからである。しかし少しでもそこに顔
「順序に基づいて論証する」ことである。これに
を向ければ、原理はくまなく見える。また、
対して、繊細の精神は、原理を「見るというより
その原理は見逃しようもないほど粗いので、
はむしろ感じる」ことによって、
「一挙に」、「一
よほどゆがんだ精神でもないかぎり、それに
目で」判断する。つまり繊細さは、ひとつの「直
基づいた推論を誤ることはない。
感」(sentiment)で あ る。パ ス カ ル は こ れ を、
一方、繊細の精神においては、原理はふだん
「感 性」(sens[単 数 形])と 言 い 換 え て も い る
に使用されており、みなの目の前にある。顔
(「それらのことがらはあまりにも微妙であり、多
を向けるまでもないし、無理をする必要もな
数なので、それらを感じ、その直感に従って正し
い。問題はよい目をもつことだけである。た
く公平に判断するためには、とても微妙かつ明晰
だし、本当によい目をもつ必要がある。とい
61)。
な感性(un sens)が必要である」)
!
!
5
9)S2
3
0―L1
9
9, pp.1
6
6―1
6
7.
1
2.
6
0)S6
7
0―L5
6
1)S6
6
9―L5
1
1でパスカルは、「正しい感覚」(sens droit)の例として、
「わずかな原理」から「鋭く深く結果を見抜
く」「正確の精神」(esprit de justesse)と、「多数の原理を混合することなく理解する」「幾何学の精神」(esprit
de géométrie)とを挙げ、前者を「強くて狭い」精神、後者を「広くて弱い」精神とみなしている。両者は多
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「幾何学者が繊細であることも、繊細な人々が
ここで、
「判断」が直感と関連づけられている
幾何学者であることもまれである」ことからし
よ う に、「精 神」(esprit)は 推 論 を 担 う で あ ろ
て、二つの精神は両立が困難である。また、一方
う。前者は「規則などない」のに対して、後者は
から他方への移行も容易ではない。
「繊細なこと
定義、原理、論証という手続きによって規則が明
がら(les choses de finesse)を自分で感じない
確に定められている。こうして「判断の道徳」と
人々に感じさせるには、限りない苦労が必要」な
「精神の道徳」はそれぞれ、繊細の精神と幾何学
のだし、繊細な人々は、幾何学者の「命題」
「定
の精神の産物である。このうち前者が「真の道
義」「原理」を目にすると、「おじけづき、嫌悪感
徳」であり、後者はいわば偽の道徳である。道徳
を抱く」。つまり、幾何学の精神と繊細の精神、
は繊細の精神の領域であり、幾何学の精神は無力
推論と直感は、異なった「秩序」に属するのであ
だからだ。幾何学者が道徳を語る場合、それは不
り、両者とも相手の領域で正しく機能することが
当な領域侵犯、すなわち「圧政」となる。雄弁と
できない。二つの精神のうち、とくに繊細さは、
哲学も同様に、繊細さと直感の支配下にある。幾
少数の人にのみ属する、おそらく生得的な才能で
何学者の雄弁は「真の雄弁」ではなく、推論によ
ある(「[繊細なことがらに対する]直感は、わず
る哲学は「真に哲学すること」ではない。
かな人にしか備わっていない」
)。幾何学の精神
しかし、真の道徳、真の哲学、真の雄弁はたが
は、繊細さに比べれば多くの人のなかに認められ
いに別のものではない。パスカルにおいて、真の
るばかりでなく、これに恵まれない人でも、訓練
道徳とはキリスト教の道徳のことである。彼に
次第で習得できる可能性がある62)。ただし両者
とってこれは、神を愛することと自己を憎むこ
は、価値の上で同等である。秩序を守るかぎりに
と、言い換えれば、自己が神を全体とする手足で
おいて、双 方 と も に 正 し い 精 神 と な る か ら だ
あるという自覚のもとに、自己への愛よりも全体
(「ゆがんだ精神は、決して繊細でも、幾何学者で
への愛を優先させること、をおいてほかにはな
もない」)。
い64)。このような愛に関する義務の探究は、幾何
学の精神によってはなしえない。
「人は、愛され
しかし、特定の領域においては、一方が正当
で、他方が不当な精神となる。
るべきであるということを、愛(amour)の原因
を順序に則って提示することによって証明しな
い。そんなことはばかげている65)」。
幾何学!繊細さ。
一方、パスカルにおいて、幾何学の精神による
真の雄弁は雄弁を軽蔑する。真の道徳は道徳
哲学、たとえばデカルトの哲学は、
「真の哲学」
を軽蔑する。つまり、規則などない判断の道
とはなりえない。彼はデカルトを念頭に置いてこ
徳は、精神の道徳を軽蔑する。
というのも、学問が精神に属しているよう
う批判する。
「大ざっぱにこう言うべきである。
『これは形と運動からなっている』と。なぜなら、
に、直感は判断に属しているからである。
これは事実だからだ。だが、それがどういう形や
哲学を軽蔑することこそ、真に哲学すること
運動であるかを語り、機械を構成してみせるのは
である63)。
滑稽である。そんなことは無益であり、不確実で
くの点で、S6
7
0―L5
1
2における「繊細の精神」と「幾何学の精神」の定義と重なるが、異なる点もある。S6
7
0―L
5
1
2において、「繊細の精神」と「幾何学の精神」を区別しているのは、それぞれの原理の数であるよりはむし
ろ質である。また、「正確の精神」の原理が少数であるのに対して、「繊細の精神」のそれはきわめて多数であ
る。
6
2)拙論 « La ‘coutume’ dans la vie profane chez Pascal »(
『関西学院大学社会学部紀要』9
0号、2
0
0
1)を参照のこ
と(pp.1
0
9―1
1
1)
。
1
3.
6
3)S6
7
1―L5
6
4)Voir le chapitre ⅩⅩⅦ des Pensées, éd. Ferreyrolles, pp.2
4
7―2
5
4. 拙論「パスカル『パンセ』における〈愛〉
」
0
0
7、pp.1
1
1―1
3
7)をも参照。
(
『愛を考える ―― キリスト教の視点から』平林孝裕ほか編、関西学院大学出版会、2
9
8.
6
5)S3
2
9―L2
―1
2
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あり、骨が折れるからだ。それに、たとえそれが
が新しいのだ。
[...]同じ言葉でも、配置が異な
事実であったとしても、われわれは、哲学全体が
れば違う思想を形づくるのである71)」。そうであ
一時間の労にすら値するとは思わない66)」。ここ
れば、「真の道徳」「真の哲学」は、幾何学的な推
でパスカルのデカルト批判は二段階からなる。第
論とは異なったなんらかの表現形式を要請する。
一に、デカルトの論述は細かすぎて、かえって事
パスカルにとって、これが「真の雄弁」と呼ぶに
実と有効性を損なっている。もっと簡潔に語るほ
値するものである。単なる雄弁 ―― または偽の雄
うが事実に忠実だし、読者の理解も容易である。
弁 ―― は、幾何学者の推論に基づいて、なんらか
ここからはパスカルの説得術と文章観に関わる考
の真理を発見し、またそれを相手に説得するかも
えがうかがえるが、これについては後に述べる。
しれない。だが、そのように明かされる真理は、
パスカルは第二に、仮にデカルトが事実を語って
人生にとってなんらの重要性をももたない。真の
いたとしても、彼の探究などまったくの無駄であ
雄弁は、繊細の精神によってなされるものであ
ると考えている。そもそもデカルトは扱うべき主
る。真の雄弁における語の配置は、真理 ―― 神と
題を間違えている、というわけだ。これはひとえ
宗教に関わる真理 ―― を順序に則ってではなく、
に、デカルトの哲学が、神を不要のものとしてい
直感によって一挙に知らしめる。
るからにほかならない。姪のマルグリット・ペリ
エの証言によれば、パスカルはよく次のように
語っていたという。
「私はデカルトを許せない。
このような語の配置のことを、パスカルは「心
の秩序」「愛の秩序」と呼んでいる。
彼はその全哲学のなかで、できることなら神なし
ですませたいものだと、きっと思っただろう。し
心には固有の秩序があり、精神には、原理と
かし彼は、世界を動き出させるために、神にひと
証明とによる固有の秩序がある。心にはそれ
つつまはじきをさせずにはいかなかった。それか
とは別の秩序があるのだ。[...]
らさき は、も う 神 に 用 が な い の だ67)」。神 の 探
イ エ ス・キ リ ス ト や 聖 パ ウ ロ は、愛
究、宗教の真理性の検証を行わないかぎり、哲学
(charité)の秩序をもっている。精神の秩序
は時間の浪費、気晴らし以上のなにものでもな
ではない。彼らは熱を与えようとしたので
い68)。ここで神とは、キリスト者の神、すなわち
あって、教えようとしたのではないからだ。
「愛と慰めの神」のことである69)。デカルトの語
聖アウグスティヌスも同様である。その秩序
る神は、哲学者の神、すなわち幾何学者の神にす
は、最終目的と関係のある個々の点で逸脱を
「真 の 哲 学」と
ぎ な い70)。パ ス カ ル に と っ て、
行うことにある。それは、その最終目的をつ
は、宗教に基づいた神の探究につながる実践のこ
ねに示すためである72)。
とである。こうして、「真の哲学」の目的は、「真
の道徳」と同じである。
また、パスカルにおいて、言語表現と独立した
「心」は、「逸脱」を許容するが、これは精神の
秩序に基づかないことを意味するのであり、逸脱
思考は存在しない。言語表現が思考を作り出すの
もまたひとつの秩序である。これは、「真の道徳」
だし、思考なき者に言語表現は不可能である。彼
したがって「真の雄弁」に、幾何学におけるよう
は言う。「私がなにも新しいこ と を 言 わ な か っ
な「規則がない」のと同様である。繊細の精神
た、などとは言わないでもらいたい。素材の配置
が、「一目で」多数の原理を把握するように、心
6
6)S1
1
8―L8
4. 原稿ではパスカルによって抹消されている。
6
7)Marguerite Périer, Mémoire sur Pascal et sa famille, MES .Ⅰ, p.1
1
0
5.
6
8)Cf. S1
8
3―L1
5
0.
6
9)S6
9
0―L4
4
9, p.4
8
8.
1
3.
7
0)Cf. « Le mémorial », S7
4
2―L9
7
1)S5
7
5―L6
9
6. Cf. S6
4
5―L7
8
4, p.4
1
8: « Les mots diversement rangés font un divers sens. Et les sens diversement
rangés font différents effets. »
9
8.
7
2)S3
2
9―S2
March 2
0
0
8
―1
2
9―
の秩序 は、固 有 の 論 理 ――「心 の 理 由73)」―― に
べきものである」。それは、この術が立脚する
よ っ て、そ の 最 終 的 な 到 達 点 ――「神 へ の 愛」
「快の原理(les principes du plaisir)が、はっき
(charité)―― を「つ ね に」示 す。ま た、こ れ に
りと確立していない」ことによる。パスカルによ
よって心の秩序は、そのような真理を論証する
れば、この原理は「ひとによってまちまちである
(「教える」)のではなく、相手にそれを探究する
し、ひとりの人物においてもさまざまに変化しう
74)。
「真の雄弁」とは
ことを促す(「熱を与える」)
る」。なぜなら、「ひとはだれでも、その時々にお
このように、「繊細の精神」と「心の秩序」に基
いて、他人と異なる以上に自分自身とも異なって
づいたレトリックのことである。パスカルはこれ
いる」からである。このような原理を把握するの
をどのように実践するのか。
は、繊細の精神である。彼はこれをふまえて、自
分には「気に入られる術」について論じる「能力
2)「快の原理」と「快のモデル」
がない」と告白する75)。
幾何学の精神と繊細の精神は、レトリックにお
しかし、パスカルは、
『パンセ』においてこの
いてそれぞれ固有の働きをもつ。パスカルは、
「快の原理」を探究し、その手がかりを見いだし
『説得術について』のなかで、このことを示唆し
ているようだ。彼は下で、
「快と美のモデル」の
ている。
存在を主張する。
彼によれば、
「説得しようと望むことがなんで
あれ、説得する相手のことを考慮しなければなら
快と美についてはあるモデルが存在するので
ない」。そのためには、「その人の精神と心とを知
あって、それは、弱いにせよ強いにせよ、あ
らなければならず、精神が認めている原理がなに
るがままのわれわれの本性(自然)と、われ
か、心が愛していることがらはなにかを知る必要
われの気に入るものとの間にあるなんらかの
がある」。こう し て「説 得 術 は、納 得 さ せ る 術
関係によって成り立っている。
(l’art de convaincre)と同じくらい、気に入られ
――
る術(l’art d’agréer)からも成り立っている」。す
このモデルに基づいてつくられたものはすべ
なわち、前者が「精神」を、後者が「心」を、そ
てわれわれの気に入る。家、歌、文章、詩、
れぞれ説得する術である。
散文、女、鳥、川、木、部屋、衣服などがそ
この二つの術のうち彼が扱うのは、もっぱら
「納得させる術」のほうである。その上でパスカ
うだ。
――
ルは、「私が説得術とよぶ」ものを、「本来完全で
このモデルに基づいていないものはすべて、
方法的な証明を行うことにほかならない術」であ
よい趣味をもつ人々の気に入らない。
るとし、これを「術語を定義すること」、「明白な
――
原理または公理を提示すること」
、「論証に際し
このよきモデルに基づいてつくられた歌と家
て、つねに心のなかで、定義されたものではなく
の間には、ひとつの完全な関係がある。この
定義そのものを思い浮かべること」の三つの主要
歌と家とは、それぞれがそれ自身の部類のあ
なことがらによって成り立つと主張する。これは
りかたに従ってであるが、この唯一のモデル
まさに幾何学の精神がなしうる推論である。一
に似ているからである。だから同様に、悪い
方、「気に入られる術」は、「くらべようもなく
モデルに従ってつくられたもの同士の間にも
ずっと難しく、とらえにくく、有用であり、驚く
完全な関係がある。悪いモデルがひとつしか
7
3)« les raisons du cœur », S6
8
0―L4
2
3, p.4
6
7.
7
4)H・ミションは、「心の秩序」のレトリックの特徴を、以下の三点に認めている。1)いくつかの議論を中心点
に従って配置し、そこへと収斂させる。2)多様性のなかに一貫性を、不連続性のなかに連続性を発見させる。
3)sentiment によって喚起されることがらを理性的に再構成させる。他者によって説得されたのではなく、自
0
3)
。
分の力で納得したと思わせる(H. Michon, op. cit., pp.2
9
2―3
1
7.
7
5)De l’Art de persuader, MES.Ⅲ, pp.4
1
6―4
―1
3
0―
社 会 学 部 紀 要 第1
0
4号
ないというのではない。それは無限にある。
モデルに準拠しているという事実を理解するのは
だがたとえば、下手なソネットは、いかなる
比較的容易である。そのためには、同じモデルに
偽のモデルに基づいてつくられていても、そ
基づいてできた別の「部類」
(genre)の事物を想
れと同じモデルにそって着飾った女と完全に
像してみればよい。これが快と感じられなけれ
似ているのである。
ば、最初の事物は真のモデルとはいかなる関係も
――
ないことになる。偽のモデルを共有する事物間に
偽のソネットがいかに滑稽かを理解させるた
も類似関係が存在するからだ。このような判断を
めには、その性質とそのモデルとを考慮し、
くり返して「無限にある」偽のモデルをひとつひ
ついでその同じモデルに基づいてつくられた
とつ排除していけば、徐々に真のモデルの把握へ
女や家のことを想像してみるにこしたことは
と近づいていくことが可能である(繊細の精神の
ない76)。
持ち主 は、こ の よ う な 煩 瑣 な 作 業 を 免 れ て い
る)。
われわれが快や美を感じるさまざまな事物の間
この作業において比較の対象となる特別な事物
には、な ん ら か の「関 係」が あ る。こ こ で「関
として、「女」と「家」がある。真のモデルは人
係」とは、類似性の意味である。パスカルはその
間の本性によって根拠づけられている以上、その
理由を、これらの事物が唯一の「モデル」に基づ
認識はすべての人間に共有されているはずのもの
いて成り立っているからだとする。
「モデル」と
である。女性や家などの一般になじみの深い対象
は、なにかをつくる際に模倣の対象となるもので
に関しては、ある程度多くの人々において快不快
ある。このような考えは、プラトンのイデア論に
の判断が一致する。ということは、これらの事物
淵源をもつ。プラトンはイデアを、あらゆる個物
においては、多くの人々が知らず知らず快のモデ
が共通に分有するなんらかの形態と考えた。
「気
ルを参照しているということになる。
に入られる術」を知るためにはまず、この快のモ
以上にうかがえるパスカルの考えの要点は、次
デルを把握する必要がある。プラトンのイデア
の三つである。第一に、多種多様で変化しやすい
が、あくまでも純粋知性によって認識される抽象
「快の原理」にも内在的な一貫性の存在を認めて
的な実質であるのに対し、パスカルの「モデル」
いる点。第二に、そのような一貫性を保証する
はむしろ、感性によってとらえられる。モデルを
「快のモデル」は、われわれの本性になんらかの
モデルとして成立させている原因は「われわれの
根拠をもち、それゆえに元来はすべての人間に共
本性」、つまり人間に内在的に 備 わ る 資 質 で あ
有されるはずのものであるとする点。そして第三
り、イデアのように自然を超越したなにかではな
に、「快のモデル」の認識は、繊細の精神という
い。また、モデルは美や快といった観念ではな
すぐれて生得的な才能に依存しつつも、訓練や教
く、それ自体がすでに表象であり、イメージであ
育によってある程度まで習得が可能であるとする
る。よって、モデルはそれを共有する諸事物に対
点、である。
してなんらかの特権性をもちつつも、それら諸事
物と存在論的に区別されるものではない。
とはいえ、モデルを認識するには、「よい趣味」
では、「快のモデル」とはいかなるものか。次
の一節にひとつの手がかりがある。
―― すなわち繊細の精神 ―― が必要である。これ
を備えていない者には、
「偽のモデル」によって
詩の目的である快がなににあるのかというこ
つくられた事物が美しく見えてしまうことがあ
とは知られていない。模倣すべき自然のモデ
る。彼らは偽のモデルを真のモデルと取り違えて
ル(modèle naturel)とはなにかということ
いる。だが、彼らのように真のモデルを一挙に把
を、人は知らないのだ。このことを知らない
握できない人々も、彼らが好む個々の事物が偽の
ばかりに、人はいくつかの奇妙な用語をつ
7
6)S4
8
6―L5
8
5, p.3
3
9.
March 2
0
0
8
―1
3
1―
くった。「黄金の世紀」「現代の驚異」「運命
ここでパスカルは、文体における誇張、女性の
的な」などなどである。そしてこのような隠
身なりにおける過剰を不快であると判断してい
語が、詩的な美と呼ばれているのだ。
る。彼において、偽のモデルを成り立たせる主要
しかし、この場合のモデルは、小さなことを
な要素のうちのひとつは、形式と内容、見かけと
大げさな言葉で言うことによって成り立って
現実との乖離にある。ゆえに、真のモデルに適っ
いるわけだが、このモデルに則った女のこと
た表現は、なによりもまず両者の均衡を保つこ
を想像してみれば、それは鏡や鎖で全身を
と、より正確には、後者に合致するように前者を
飾った美女になることがわかり、笑ってしま
簡素化することによって得られるだろう。彼に
うだろう。というのも人は、詩の快とはなに
とって快のモデルは、簡素さ、修飾のなさ、つま
かというよりも、女の快とはなにかというこ
り自然さにある。上で快のモデルが、
「自然のモ
とのほうが、よく知っているからである77)。
デル」と言い換えられているのは偶然ではない。
真のモデルは「自然」であるからこそ普遍的であ
一般に人は、詩における快よりも女における快
り、人々に共有される。
のほうをよく知っている。感じがよい女性のタイ
彼は言う。
「自然はみずからを模倣する。よい
プについては、ある程度意見が一致するからだ。
土地にまかれた種は実を結ぶ。よい精神にまかれ
ここで「詩」とは広く言語表現の技法のことと理
た原理は実を結ぶ。[...]すべては同一の 主 に
解される。また、「女の快」といっても、女性の
よってなされ、導かれる。根、枝、果実、原理、
身体的・性格的な特徴ではなく、女性の化粧や服
結果78)」。自然はひとつの力であり、世界の統治
装のあり方についての快を意味する。そこで、あ
(nature)もこれに
者である79)。人間の「本性」
る表現が快のモデルに適っているかどうかを知る
従っていて、よって本来はこれを好む。だがわれ
ためには、その表現が準拠するモデルを、女性の
われは、このような理想のモデルを見失ってい
着飾り方に適用してみればよい。たとえば当世は
る。「よいものほどどこにでもあるものはない。
やりの宣伝文句は、「小さなこ と を 大 げ さ な 言
それを識別することこそが大事なのだ。よいもの
葉で」表現しているが、これは女性で言えば、分
はすべて自然で、われわれの手の届くところにあ
不相応に過剰な装身具に覆われた少女に該当す
り、すべての人に知られてさえいることは確か
る。この少女が滑稽であることからすれば、先の
だ。だが、それらを識別できないのだ80)」。
表現は偽のモデルに基づいていることが理解され
る。
こうして、説得術としての「気に入られる術」
は、「自然」すなわち簡潔さに基づいたレトリッ
7
7)S4
8
6―L5
8
6, p.3
4
0.
7
8)S5
7
7―L6
9
8.
7
9)H・ミションは、このような自然の「均一性」の思想に、パスカルとネオプラトニスムの伝統との関連を認め
ている。ミションによれば、パスカルにおいて、世界、自然は、不可分な部分からなるひとつの全体である。
ただしこの均一性は、「創造」という神の行為に由来するものではない。パスカルは創世記のなかの神と人間の
本源的な類似性(imago dei)に言及しないからだ。彼は、人間と神との不同性(dissemblance)を相似性の喪
失ではなく、人間の内在的な有限性に帰着させている。彼は人間と神との間に「不均衡」(disproportion)を見
いだすが、ここには神学的な基盤はない。このような自然における「創造なき均一性」の思想は、プロティノ
スらのネオプラトニスムの伝統につながる。ネオプラトニスムにおいても創造は不在であり、すべては一者か
ら発する。このとき、有限と無限との間に根本的な差異はない。しかし一方、パスカルは「自然」のなかで人
間を中心的な地位から脱落させている点で、ルネサンスの思想とは対照的な立場を取る(S2
0
3―L1
9
9において、
人間は「二つの無限」からなる自然と「不均衡」な存在だとされる)
。こうして、「自然の均一性」と「人間の
と自然との不均衡」の間で、パスカルは動揺している(H. Michon, op. cit., pp.6
1―7
7)
。
8
0)De l’Art de persuader, MES.Ⅲ, p.4
2
7. Cf.「それがどんな種類のものであれ、すぐれたものが見いだされるのは、
異常な、常軌を逸したもののなかにおいてではない。そこにたどり着くのに背伸びをするが、かえってそこか
ら遠ざかってしまう。たいていの場合、身を低くしなければならない。最良の書物は、読む人が自分も書けた
かもしれないと思える書物である。自然だけがよいものであって、大変親しみやすく、どこにでもある」
(Ibid.)
。
―1
3
2―
社 会 学 部 紀 要 第1
0
4号
ク81)、見かけと現実とを可能なかぎり一致させる
たとは知らなかった真実である。そうして人
レトリックのことである。パスカルはいくつかの
は、そのような真実を感じさせてくれる相手
断章で、文章表現における美辞や畳語の使用、同
を愛するようになる。なぜならその人は、自
内容の反復を批判している82)。「長々と続く雄弁
分自身の美質を見せつけたのではなく、われ
「シャロンの分類」の
は疲れさせる83)」のであり、
われにとっての善を見せてくれたからであ
ように不必要に複雑な分類は「つらくさせるし、
る。このようにして、われわれと語り手との
飽きさせる84)」。彼において、文章におけるこのよ
間の知的な共同性によって、われわれの心が
うな「自然」―― 過剰さの排除、簡潔さ ―― への
相手を愛するように必然的に傾けられるだけ
志向性は、真理への志向性と結びついている。真
ではなく、この恩恵が相手を好ましく思わせ
の雄弁において、快は真理と別物ではない。真理
るのである87)。
の表現を可能にする文章がそもそも快なのだ85)。
ここで「自然な文章」は、幾何学者の推論のよ
雄弁。
うに、有無をいわせずに相手に真理を教え込むの
快さと真実なものとが必要である。だがこの
ではなく、相手に自分で真理を発見させるように
快さとはそれ自体、真なるものから取ってき
導く。つまり相手の精神ではなく、
「心」に訴え
たものでなければならない86)。
かける。自然な文章は「心の秩序」に則った文章
にほかならない。相手の心はみずから真理を「感
自然な文章は真理を語るからこそ気に入られ
じる」ようになる。
「人はたいてい、他人から精
る。そしてその真理は、聞き手に語り手に対する
神のなかにやってきた理由によるよりも、自分自
愛を喚起する。
身で見つけた理由によるほうが、よりよく納得す
るものである88)」。このとき受け手は文章それ自
自然な文章がある情念や現象を描くとき、人
体を快と感じるのみならず、語り手に好意を抱い
は自分が聞いていることの真実を自分自身の
ている89)。自然な文体は、平易で簡潔でありふれ
なかに見つける。それは、自分のなかにあっ
た表現の背後に、傲慢や気取りを排したひとりの
8
1)Cf. S5
0
3―L6
1
1, p.3
5
0: « Beautés d’omission, de jugement. »
7
8, S4
8
3―L5
8
1, S4
8
5―L5
8
3, S5
2
8―L6
3
6, S5
2
9―L6
3
7.
8
2)Voir S4
8
1―L5
7
1.
8
3)S6
3
6―L7
8
4)S6
4
4―L7
8
0.
8
5)以上のようなパスカルの「快」あるいは「美」についての考えは、ニコル『真の美とその影』
(1
6
5
9)に見られ
る思想と、多くの点で共通している。ニコルはまず、「美の真に正統的な観念」は、「自然」にあるという。こ
こで「自然」とは同時に、「事物それ自体の自然」すなわち対象の自然と、「われわれの自然」すなわち人間の
本性という二つの異なった要素を含んでいる(彼は後者を、「われわれの感覚(nos sens)とわれわれの魂の傾
向」とも言い換えている)
。彼にとって、どれほど醜いものでもだれにも好まれないものはないし、どれほど美
しいものでもだれにも嫌われないものはない。したがって、快の原理は多様である。しかし、真の美は「不変
で永遠」であり、「すべての世紀に好まれる」ものである。ニコルにおいても、真の美はすべての人間において
唯一かつ普遍的なものとして理解されている。彼はまた、思考の美は真実にあり、虚偽は事物の自然と人間の
自然の双方に反していると述べている。ニコルはさらに、さまざまな寸鉄詩を例に、美しい言語表現のあり方
について考察し、詩作上のさまざまな注意を具体的に記している。彼はなかでも、
「言葉と事物を一致させるこ
と」(偉大なことがらには偉大な語を用い、普通のことがらには普通の語を用いること)
、「時代遅れの語、汚い
語、不適切な語を避けること」
、「隠喩や誇張表現などの文彩の使用はなるべく慎むこと」
、「低俗な主題、醜い
主題、不快な主題」を避けること、「饒舌と反復」や「言葉遊び」を排除すること、などを挙げている(P.
Nicole, La Vraie beauté et son fantôme, et autres textes d’esthétique, édition critique et traduction de B. Guion,
Paris, H. Champion,1
9
9
6, pp.5
1―1
3
7)
。
8
6)S5
4
7―L6
6
7.
5
2.
8
7)S5
3
6―L6
8
8)S6
1
7―L7
3
7, p.4
0
1.
8
9)パスカルの文章における対話者の「快」への配慮について、次を参照のこと:Gilberte Périer, Vie de Pascal, 2e
version, MES.Ⅰ, p.6
1
6.
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0
8
―1
3
3―
真率な人間の存在を感じさせるのである。
「自然
ている。
「彼は数学者であるとか、説教家である
な文体を見ると、人はとても驚いて、うれしくな
とか、雄弁家であるとか言われるのではなく、彼
る。著者が見えるだろうと思っていたのに、ひと
はオネットムであると言われるようでなければな
りの人間を見つけるのだから90)」。
らない。こ の 普 遍 的 な 性 質 だ け が 私 の 気 に 入
る91)」。「人は普遍的ではありえない、つまりすべ
3)繊細の精神の危険性
てのことについて知りうるすべてを知ることがで
「快の原理」は、唯一の「快のモデル」の多様
きない以上は、すべてのことについて少しずつ知
な現れである。このモデルは、だれもが日常的に
らなければならない。なぜなら、すべてのことに
親しんでいる「自然」によって成り立っているた
ついてなにかを知るのは、ひとつのことがらにつ
めに、普遍的な力をもつ。繊細の精神とは要する
いてすべてを知るよりもずっと美しいからであ
に、このような「自然」を見いだす才能であり、
る。こ の よ う な 普 遍 性 こ そ、も っ と も 美 し
「気に入 ら れ る 術」と は、自 然 に 基 づ い た レ ト
い92)」。
リックである。雄弁は自然であるときに最大の効
だが、この「美しさ」は、世俗や社会の一般的
果を発揮する。このとき受け手は「心」を動かさ
な価値判断に基づくものであって、宗教の尊重す
れ、みずから真理を発見するように促されるから
る道徳からは独立している。そもそもオネットテ
だ。自然な表現は、快であるがゆえにまた真理と
(honnêteté)とは、他者に対する上品さ、思いや
も結びつくのである。繊細の精神は、快の根本原
り、礼節を意味する93)のであり、なによりも社交
因を直感するだけでなく、「自然」を文章におい
上の美徳である。パスカルはこれを無条件で尊重
て再現することで、「真の雄弁」を可能にする。
することはない。彼は言う。
「人間を同時に愛 す
!
!
!
!
!
!
!
しかし、この万能の精神も、使い方を誤ればた
べきでありかつ幸福なものとするのは、キリスト
ちまち罪に陥る。快のモデルを知ることは、あく
教だけである。オネットテにおいて人は、同時に
までも相手に「真の道徳」―― 宗教と神に関する
愛すべきであり幸福なものとはなりえない94)」。
真理 ―― の探究への熱情を与える説得術の実践を
オネットムは、他人に愛されるかもしれない。
目的としている。繊細さは、この目的を離れたと
「人間は欲求でいっぱいで、それをみな満たして
き、世俗的な美徳のひとつに堕してしまう。パス
くれる人たちしか好きではない95)」からだ。しか
カルはこのような逸脱した繊細さを、彼の友人で
し彼らは、真の意味で幸福ではありえない。邪欲
あったメレやミトンのようなオネットムと、モン
の最たるものである傲慢、すなわち自己愛に囚わ
テーニュに認めている。
れ、神を愛することから遠く離れてしまっている
幾何学の精神に長けた者が推論に基づいた一部
からだ。
「人はオネットムになることは教えられ
の学問の専門家にとどまるのに対して、繊細な精
ないで、それ以外のことはすべて教えられる。そ
神の持ち主は、美や快の原理とその具体的な形態
して人々は、それ以外のことについてなにかを
を知ることで、服飾、芸術、詩作、建築など、さ
知っていることについては、オネットムであるこ
まざまな分野において練達する可能性をもつ。こ
とについて得意がるほどには得意がらない96)」。
のような普遍的な才能を備えた人物のことを、パ
オネットテは幾何学という限定的な領域に対する
スカルはオネットム(honnête homme)と呼び、
能力の対立項として評価される も の で は あ る
人間の望ましいひとつのありかたであると評価し
が97)、宗教の説く最終的な善からすれば、むしろ
9
0)S5
5
4―L6
7
5.
9
1)S5
3
2―L6
4
7.
9
5. 原稿では横線によって抹消されている。
9
2)S2
2
8―L1
9
3)« Civilité, politesse où entre de l’affabilité, de l’obligeance. »(Dictionnaire le Petit Robert, art. « honnêteté »)
.
9
4)S6
8
0―L4
2
6, p.4
6
7. 強調は原文。
9
5)S5
0
2―L6
0
5.
7
8.
9
6)S6
4
3―L7
9
7)パスカルは、数学者のフェルマへの手紙のなかで、次のように記している。
「私はあなたをヨーロッパ第一の幾
―1
3
4―
社 会 学 部 紀 要 第1
0
4号
危険な資質ともなる。
また、パスカルにとってモンテーニュは、繊細
ここで「直線的方法」とは、原理と証明に基づ
いた幾何学的な推論、したがって「精神の秩序」
の人のひとつの典型である。パスカルによれば、
のことであろう。これを忌避し、論理の飛躍を辞
モンテーニュの文章は、エピクテートスやサロモ
さないモンテーニュは、一見「心の秩序」に従っ
ン・ド・テュルティ ――『キリスト教護教論』の
ている。しかし、パスカルから見ればモンテー
作者すなわちパスカルの偽名 ―― のそれとならん
ニュは、これによって「しゃれた調子」を与えよ
で、「生の日常的な営みから生じた思想によって
うとしているという。
「しゃれた調子」とは、社
のみ成り立っている」がゆえに、
「もっともよく
交界で好ましいとされた身だしなみや言動につい
用いられ、もっともよく記憶に残り、もっともよ
てよく用いられた表現である。パスカルがこれに
く引用される98)」。つまりそれは、自然のモデル
価値を見いだしていなかったことは明らかであ
に従って、「気に入られる術」をわきまえた文章
る。したがって、彼にとってモンテーニュの「混
である。パスカルによるモンテーニュの書きぶり
乱」は、繊細の精神を備えながら、それを正しく
に対するこのような評価は、彼が『説得術につい
利用しなかったことにある。繊細さは快のモデル
て』のなかで、モンテーニュを「比類のない著
に則った自然な語りを可能にし、これによって相
者」と形容している99)ことや、同じ小品のなかで
手の好意を喚起する。だが、モンテーニュが読者
彼が、論理学者の難解な用語の使用や幾何学者の
に好意を抱かせるさまは、いわばオネットムが該
複雑な推論を批判し、自然や日常に基づいた文章
博な知識と洗練された言辞によって人々を惹きつ
をよしとする姿勢を、まさに『エセー』から受け
けている状態と変わりはない。「真の雄弁」が相
継いでいることからもうかがえる100)。
手に与える快は、相手がみずから真理の探究へと
しかしながら、一方でパスカルは、モンテー
促されたと感じることに対する感謝の念にある。
ニュの文章術について次のようにも記している。
モンテーニュは、宗教の教えに反することがらを
得意げに語ることで、読者に虚偽を植え付けてい
モンテーニュの混乱について。彼は直線的方
る103)。繊細の精神は、一歩まちがえば詭弁を信
法の欠陥をよくわきまえていて101)、主題か
じ込ませてしまうこともある。
ら主題へと飛躍することで、それを避けてい
そもそも、相手に「気に入られる」とは、宗教
た。彼はしゃれた調子(le bon air)を求め
の観点からすればきわめて危険な事態である。パ
ていたのである102)。
スカルにおいて、いかなる動機に基づいてであろ
うと、「人に自分を愛させても、私が人を自分に
何学者と考えておりますが、私があなたに惹きつけられたのは、そのことによるものではありません。そうで
はなくて、あなたのお話のなかに知性とオネットテが満ちあふれていると思われたがゆえに、あなたのご助力
を求めているのです。といいますのは、幾何学について率直に申しますと、私はこれを精神の最高の訓練とは
考えておりますが、また同時に、それがきわめて無益なものだということを承知しておりますので、単ある幾
何学者にすぎない人と、器用な職人との間に、ほとんど違いが認められないのです。それゆえ私は幾何学をこ
の世でもっともすばらしい職業(métier)とは呼びますが、つまるところそれはひとつの職業にすぎません。
またしばしば申し上げましたように、それは私たちの力を試すのには適していますが、それを傾注するに足る
ものではありません。
」(Pascal à Fermat, le1
0août1
6
6
0, MES. Ⅳ, p.9
2
3)
9
8)S6
1
8―L7
4
5.
9
9)De l’Art de persuader, MES .Ⅲ, p.4
2
3.
1
0
0)モンテーニュはこう記していた。「学問は、ことがらを、あまりに細かく、人為的で、どこにでもある自然な方
法とは異なった方法で扱っている。[...]私は、アリストテレスのうちに、私の日常の行動の大部分を認められ
ない。それらは、学校で使うための別の衣服を上に着せられている。
[...]私が専門家であれば、彼らが自然を
学問化しているのと同じくらい、私は学問を自然化するところだが」
(Essais, éd. P. Villey, réimprimés sous la
direction de V. ―L. Saulnier, Paris, PUF,2e éd.,1
9
9
2,3vol. ; Ⅲ,5, p.8
7
4)
。
1
0
1)L・ティルアンの解釈に従う(note3de Ferreyrolles, p.4
1
5)
。
1
0
2)S6
4
4―L7
8
0.
8
0.
1
0
3)Cf. S5
5
9―L6
March 2
0
0
8
―1
3
5―
執 着 を も つ よ う に し む け て も、私 の 罪 に な
覚、繊細の精神という、主として四つの異なった
る104)」。なぜならこれは、他者に対して自分を優
形態を取る。
位に立たせる自己愛のなせるわざにほかならない
宗教的直感は、神からの直接的な恩恵として与
からだ。自己愛は、主体がまったく意識しない場
えられるものであり、これを授けられた者のみが
合でも、その行動を導くのである。パスカルはま
正しい信仰をもつ。真の意味での回心は、これに
さにオネットテのなかに、自分を他人に対して好
よってはじめて可能である。
ましく見せることによって満足を得ようとする自
自然的直感は、第一原理や原始語の観念など、
己愛の偽善を見いだしている105)。また、人に私
すべての人間にそなわる共通の認識を与えるとい
を愛させることによって、相手は神を愛すること
う点で、人間の「本能」を構成している。精神と
を妨げられるかもしれない。こうしてこのとき私
身体、魂と物質という異質な実質の混成からなる
は、二重に罪を犯していることになる106)。
人間においては、精神の純粋な働きが妨げられて
「真の雄弁」も、たしかに話者に対する相手の
いる以上、これらの認識は確実な基盤をもつもの
好意を喚起する。しかしこれは、
「神への愛」と
ではないが、
「善意」をもってすればその真理性
いう唯一の掟に帰着する宗教の真理を伝えるため
は疑うことができない。このような暫定的な真理
の手段にすぎない107)。パスカルによれば、人間
はしかし、神から与えられる超自然的な直感に
の魂は、「きわめて賢明な精神がどれほど抵抗し
よって、やがて絶対的なものと判明するだろう。
ても、恥ずべき横暴な選択を行って、腐敗した意
感覚は身体が魂に対してなんらかのかたちで影
志が望むことに従ってしまう108)」。よって、「わ
響を及ぼすことによって発生する。この過程に関
れわれは、われわれの快楽と鋭く対立するキリス
するデカルトの科学的な説明は妥当性を欠く。人
ト教の真理を承認するところから遠くへだたって
間における魂と身体の結びつきが不可解である以
いる109)」。このような受け入れがたい真理を認め
上、パスカルにとって感覚の発生は端的に「神
させるためには、相手の気に入られることがいや
秘」である。身体に起源をもつ感覚は、邪欲の源
おうなしに必要になるのである。手段は目的に
泉であると同時に、理性と並んで事実に関する真
よってしか正当化されない。モンテーニュとオ
偽の判断を担う。しかし、感覚と理性はたがいに
ネットムは、このことを知らず、繊細の精神を悪
独立して機能することが事実上不可能であり、こ
用しているのである。
の相互作用によって人間はしばしば判断を誤る。
もとより感覚が機能する環境はきわめて限定的で
***
ある。
繊細の精神は、即時的に真理を把握しうる直感
以 上 の よ う に、パ ス カ ル に お け る sentiment
的な認識能力である。しかし、一部の人間の生得
は、宗教的直感、自然的直感、身体を通じた感
的な才能であり、多様で複雑な原理からなんらか
1
0
4)S1
5―L3
9
6.
1
0
5)ただし、この考えは当時にあってやや極端な立場であったと言える。たとえばフランソワ・ド・サルにとって
は、他者の好みや必要に応じる社会的奉仕活動と、邪欲への傾きを戒める教義への服従をいかに両立させるか
が大きな関心事であった(Cf. Dictionnaire du Grand siècle, sous la direction de F. Bluche, nouvelle édition,
Paris, Fayard, 2
0
0
5, art. « Honnête homme »)
。また、シュヴァリエ・ド・メレは、『真のオネットテについて』
(De la vraie honnêteté)のなかで、「信心とオネットテは、ほとんど同じ道を歩むものだ」と語っている(Ibid.,
art. « Méré, Antoine Gombaud, chevalier de »)
。
1
0
6)前掲拙論「パスカル『パンセ』における〈愛〉
」pp.1
3
0―1
3
4を参照。
1
0
7)したがって、「真の雄弁」は結局のところ、堕落した意志の「回心」を目的とする。本来からすればこれは神の
みがなしうるわざである。パスカルは『護教論』で、このような不可能な試みを企てている。この点について、
以下の論が参考になる:塩川徹也『パスカル考』岩波書店、2
0
0
3、Ⅱ,3「説得と回心」
、同Ⅱ,4「主題として
の〈私〉と語り手としての〈私〉
」および、塩川徹也「パスカルにとって〈パンセ〉とは何であったか」
、『フラ
5。
ンス哲学・思想研究』1
2号、2
0
0
7、pp.3―1
1
0
8)De l’Art de persuader, MES.Ⅲ, p.4
1
6.
1
0
9)Ibid., p.4
1
4.
―1
3
6―
社 会 学 部 紀 要 第1
0
4号
の帰結を導き出す点で、自然的直感とは異なって
役割を尊重し、他方の「秩序」を侵犯しないかぎ
いる。繊細の精神は、とりわけ人間に共通な快や
りにおいて、正しい認識の手段となる。しかしし
美のモデルを認識し、これに基づいて相手に「気
ばしば、両者は覇権を争うことにより、人間に
に入られる」レトリックを実現する。相手に真理
誤った判断をもたらす。宗教に関することがらと
を探究する熱意を与えるこの術は、神への愛を説
第一原理の認識において、理性は完全に無力であ
く場合に「真の雄弁」となる。だが繊細の精神
るにもかかわらず、それらが論証不可能であると
は、オネットテや「しゃれた調子」など、世俗で
して虚偽であると結論づける。また、理性は「幾
好まれる価値の実現にとどまる可能性もある。
何学の精神」として、道徳や哲学をも語ろうとす
るが、その場合その論述は「偽の雄弁」となる。
このように、パスカルにおいて sentiment の働
一方、錯覚や先入観は、感覚が理性をあざむくこ
く領域はきわめて広範囲に及んでおり、その価値
とによって生じる誤謬である。ただしその理性
も一義的ではない。
は、そのような感覚の介入がなければつねに正し
第 一 に、存 在 論 的 な 観 点 か ら す れ ば、
い判断を下すというわけでもない。われわれは真
sentiment は、心、精神、身体の三つの秩序のす
理の認識において八方ふさがりの状態にある。こ
べてに関連し、人間存在の全領域を覆っている。
の事態をパスカルは、次のように表現している。
まず、「心」は sentiment がもっとも中心的に関
わる領域である。宗教的直感は心を神のほうへと
われわれのあらゆる推論は、結局のところ感
傾け、自然的直感は心において働き、第一原理を
覚へと譲る。
認識する。繊細の精神は、「逸脱」や「飛躍」に
しかし幻想は感覚に似ていて、しかも対立す
よって特徴づけられる「心の秩序」に則って語を
るものである。だから人はこれら正反対のも
配置する。次に、sentiment は「精神の秩序」と
のを見わけることができない。ある人は自分
も無関係ではない。自然的直感による認識は、推
の感覚は幻想だと言うが、ある人は自分の幻
論的理性ないしは幾何学的精神が行う論証の出発
想は感覚だと言う。そこで基準が必要とな
点 ――「原理」―― であり、自然科学の体系の構築
る。理性が名乗りを上げるが、その理性はど
に不可欠な役割を担っている。身体的器官を通じ
んな方向にも枉げられてしまう。
た感覚、とりわけ視覚や聴覚の証言はまた、実験
こ う し て、基 準 な ど ま っ た く な い の で あ
や観察を主要な方法とする経験科学の基盤とな
る110)。
る。sentiment はさらに、「身体」に起源をもち、
それによって限界を定められている。自然的直感
そ し て 第 三 に、道 徳 的 見 地 か ら す れ ば、
による認識は、純粋精神ではなく、身体をもつ人
sentiment が実現する人間の生には、異なった価
間にとっての所与であり「自然」である。感覚は
値をもつ複数の段階が認められる。sentiment は
魂に感じられるものではあるが、定義上身体がな
まず、人間が生存していくために不可欠な認識を
ければ発生しない。また、繊細の精神は、自然に
提供し、いわば動物的生の前提となる。感覚は、
基づいた「快のモデル」を発見するが、その過程
身体の置かれた外的な状況を把握するとともに、
には感覚器官の働きが必然的に介入する。快は具
不快を遠ざけ、欠如を満たす欲望の源泉となるこ
体的な事物への現れとしてしか感じられないから
とで、身体を健康な状態に保つ。自然的直感がな
だ。
ければ、自己の存在や自己が目ざめていることす
!
!
!
!
!
第二に、sentiment の認識論的価値も両義的で
らも知ることができない。sentiment は次に、文
ある。sentiment と理性との関係に注目しよう。
化的生の実現を担っている。自然的直感は、推論
両者は原理的には直感と推論という、正反対の方
的理性とともに働いて学問研究の基盤となる。繊
法によって特徴づけられている。両者はたがいの
細の精神は、洗練された趣味によって芸術に対す
1
1
0)S4
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3
0.
!
!
!
March 2
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3
7―
る正しい鑑識眼となり、場合によっては優れた作
の手段である。sentiment は、人間の不完全さを
品の創造をも可能にするだろう。同じ精神はま
示すと同時に、その不完全さを克服するための手
た、社交生活において尊重される礼儀やオネット
段ともなる。人間は sentiment によって人間であ
テという資質へと発展しうる。そして sentiment
り、sentiment によって「人間は人間を無限に超
は、宗教的生の条件となる。繊細の精神は、心の
える111)」のである112)。
!
!
!
!
秩序に即した弁論によって聞き手に神への愛を希
求させる。このように準備が整った心に対して、
引用凡例:
神は超自然的直感を授けるのである。
「三つの秩
Pascal, Pensées, présentation et notes par G .
Ferreyrolles, texte établi par Ph. Sellier d’après la
copie de référence de Gilberte Pascal, Paris,
Librairie Générale Française, coll. « Le Livre de
Poche », 2
0
0
0[断章番号を略号 S によって記すが、
ラフュマ版(éd. L. Lafuma, Paris, Luxembourg,
1
9
5
2)による断章番号を略号 L とともに付記する。
長い断章からの引用に際しては、フェレロル版に
おける頁番号をも記す]
.
Pascal, Œuvres complètes, éd. J. Mesnard, tomes Ⅰ―Ⅳ,
序」をなす身体、精神、愛(charité)と同様に、
これら三つの生は厳格な階層秩序をなしている。
動物的生を送る者はみずからの本能的な欲望の探
究にのみ執着し、他人の幸福をかえりみることは
ない。文化的生の段階にある者は、他者の善の実
現に努力するが、それはあくまでも彼らに愛され
ることを求めるからである。そして宗教的生に従
事する者は、神だけを求めることで、自己を憎
み、他者から気に入られることをもみずからに禁
じる。動物的生は孤独であり、文化的生は友との
共同体によって営まれ、宗教的生は神とともにあ
る。これら三つの生は、共存不可能であるばかり
か、上位の生は下位の生の超越、ないしは否定を
通してしか成立しない。sentiment はこのように、
たがいに矛盾する価値のすべての生産に関与す
る。
Paris, Desclée de Brouwer,1
9
6
4―1
9
9
2[略号 MES.]
.
Pascal, Provinciales, éd. L. Cognet et G. Ferreyrolles,
Paris, Bordas, coll. « Classiques Garnier », 1
9
9
2[略
号 Prov.]
.
Descartes, Œuvres philosophiques, éd. F. Alquié, Paris,
Bordas, coll. « Classiques Garnier », 1
9
8
8―1
9
8
9, 3
vol.[略号 ALQ .]
.
Antoine Arnauld et Pierre Nicole, La Logique ou l’art de
penser(La Logique de Port―Royal)
, éd. P. Clair et
F. Girbal, Paris, Vrin,1
9
8
1[略号 Logique]
.
こうして sentiment は、人間のもつさまざまな
矛盾の根源を示している。sentiment は、人間に
内在的で本源的な認識能力であると同時に、神と
なお、引用文中における傍点による強調は、断りの
ないかぎり引用者による。
いう外在的で超越的な対象を知覚するための唯一
1
1
1)S1
6
4―L1
3
1, p.1
1
7.
1
1
2)本論のフランス語版 « Pascal et le ‘sentiment’ » は、本誌第1
0
5号(2
0
0
8年3月刊)に掲載されている。
―1
3
8―
社 会 学 部 紀 要 第1
0
4号
Pascal et le « sentiment »
RÉSUMÉ
Notre réflexion nous a amené à reconnaître la diversité ―― plutôt que la cohérence
―― des fonctions et des valeurs du « sentiment » pascalien, dans lequel on peut discerner
quatre formes principales. Le sentiment religieux, grâce fortuite, incline le cœur de
l’homme, le convainc immédiatement de la vérité de Dieu. Le sentiment naturel, fournissant
à tous les êtres humains les connaissances communes ―― comme les premiers principes et
les notions des mots primitifs ―― , constitue l’« instinct » de l’homme. Les sentiments
originaires des sens corporels se trouvent être d’une part la cause de la concupiscence, et
d’autre part le critère de la vérité des questions de fait. Et l’esprit de finesse devine le
modèle de beauté, et pratique l’« art d’agréer », rhétorique permettant à l’auteur d’être
aimé du lecteur. Ainsi, le sentiment est la source des multiples activités humaines dont les
valeurs morales présentent une stricte hiérarchie : la vie animale, la vie culturelle et la vie
dévote. Le « sentiment » chez Pascal est à la fois la faculté de connaissance inhérente à
l’homme et le seul moyen pour accéder à l’être qui lui est transcendant.
Mots-clefs : Pensées, cœur, art d’agréer, honnêteté.
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