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津市図書館稲垣文庫蔵﹁東砂葛記﹂について 明

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津市図書館稲垣文庫蔵﹁東砂葛記﹂について 明
国文研究
第五十九号
︵平路 ・5
︶
本県立大 学日本語日本文時 一ナム一品
明
芳を
ノマ
津市図書館稲垣文庫蔵﹁東砂葛記﹂について
ー志筑忠雄訳﹁阿羅祭亜来歴﹂の 一転写本|
島
熊
大
芯
t
1
i
%
己
Z
図 1 津市図書館本の外観。外題と「従雑堂裁」朱印が見える
紹介のみに留めておく。
7、津市図書館︵稲垣文庫︶
形態:写本、一 冊
0×二ハ ・七糎
法量・・二四 ・
紙数 ・二ハ丁
外題・東砂葛署記 ︵墨書打付︶
表記・・漢字カタカナ交じり文
大槻政文の年記 ・署名・なし
﹁従雑堂菰﹂︵朱・陽︶
- 2ー
内題・東砂葛記
︵志筑︶政文の年記・署名・・発亥十月 通詞志筑忠次郎諜
蔵書印記・
叫リこは一一丁表1 一六丁裏︵一 O
備考 ・
﹁羅祭亜来歴︵ MM
・
4
丁裏に﹁羅祭主来歴﹂を紹介した前文がある ︶
・﹁従雑堂﹂は稲垣定穀の号
古賀伺庵の奥舎は不在
・
・・朱入れあり
、
事
~
,
)
.
図 2 「阿羅祭亜来歴」該当部分の冒頭
8、台湾大学図書館︵長沢文庫︶
九×一人 ・
法量・二六 ・
二糎
形態・写本 、 一冊
紙数・・一四丁 ︵
表紙を除く︶
表記・漢字平仮名交じり文
亜園横文和解傍稼
文 化 甲子魯西亜園王呈和文之上書
外題 ・
内題・不明
大槻政文の年記 ・署名・・奨丑十月録
︵志筑︶ 政文の年記・署名・・寛政七卯口月日
蔵書印記 ・
−なし
より
題目録﹄5
文化甲子魯西
志筑忠雄語
備考・未見。﹃ 国 立 台 湾 大 学 図 書 館 典 蔵 ﹁ 長 沢 文 庫 ﹂ 解
・・前半は﹁阿羅祭亜来歴﹂、後半は文化元年
八O四︶に ロ シ ア か ら 奉 ら れ た 日 本 語 審 状 の
一
︵
写し
・・巻末に識語﹁天保六乙未年[一八三五]五月廿八
7
日 令 写 畢 / 同 七 月 廿 八 日 一 校 畢 / 長 浮 伴 雄 6﹂
朱︶あり
︵
本資料は二蹴文系統に位置づけられる
・
・
・戦災焼失した機 川文庫旧蔵﹁魯西亜国王皇国文之
上書﹂と内容を同じくする資料か
3
志筑︶政文の年記・署名を有
通詞志筑忠次郎語﹂との ︵
することなどから、早稲田大学本 ︵書誌6︶の系統に属す
して﹁阿羅祭亜来歴﹂が所収されていること、当該部分の
題名が﹁羅祭亜来歴﹂であること、﹁美亥[一人O三]十月
以上のように、津市図書館本は、﹁東砂葛記﹂の一部と
・年記 ・署名は無いものの、書誌6と同じ﹁羅祭亜
・﹁編惰地志備用典籍﹂は昌平坂学問所の印
・前野良沢﹁東砂葛記﹂︵一七九一成︶の一部として
備考・題集に書された外題に続いて、表紙に直接﹁全﹂
M M﹂
F は一一丁表 j 一
七丁裏︶
均
リ﹂に対する古賀伺庵の奥書あり
来歴閥
所収 ︵
﹁
羅
祭亜来歴
と墨書打付されている
る資料と目される 。
以下、参考のため既に発表した六点の書誌を掲げてお
。
形態・写本、一 冊
法量・・二七・二×一人・一糎
形態・写本、一冊
法量− −
二二・二×二ハ・八糎
2、洲本市立洲本図書館
・﹁秘閣園書之章﹂は紅葉山文庫旧蔵本、若しくは
明治新収本であることを示している
紙数・・一八丁
紙数・九丁
、
︽
ノ
表記・・漢字カタカナ交じり文
ー、国立公文書館︵内閣文庫
︶
外題・東砂葛記︵題袋、墨書︶
内題・阿羅祭亜来歴阿且震直ハ英斯帯比亜ナリ
表記・ ・漢字平仮名交じり文
外題 ・・阿羅祭亜来歴︵朱書打付︶
内題・・東砂葛記
通詞志筑忠次郎語
志筑政文の年記・署名・ ・
寛政七卯二月日 志筑忠雄誇
︵志筑︶ 敏文の年記・署名・ ・
美亥十月
大槻政文の年記 ・署名・・なし
大槻肱文の年記・署名 ・
・美丑十月録
朱 ・陽
荘之寓巻楼﹂ ︵
︶
・﹁柴邦彦圃害後蹄阿波園文庫別戴子江戸雀林
蔵書印記・・﹁柴氏家裁園舎﹂ ︵
朱・
陽︶
蔵書印記 ・ ﹁編修地志備用典籍﹂︵朱・陽︶
﹁秘閣固書之章﹂︵朱 ・陽
︶
表紙、患嘗︶
貼紙・・﹁土﹂ ︵
原 O三百六十二函﹂︵表紙、朱 、
・﹁
﹁ 0﹂のみ墨書︶
- 4一
一八五この印。 ロシア 漂流で著名な大黒屋光太
表記・漢字平仮名交じり文
紙数・・三七丁
形態:写本、一冊
法量・二五・八× 一七・九糎
外題・・魯西亜志附録 ︵墨書打付︶
表記・漢字平仮名交じり文
紙数・一四丁
形態:写本、一冊
4、山口県文書館︵徳山毛利家文庫︶
0×二0 ・五糎
法量・・二九 ・
志筑忠雄語
一
︵の後、改行して﹁阿羅祭亜来歴阿豊海大禁罪比重
内題
ナ
リ﹂とあり
1 一八二人︶の息子
七五 一
貼紙﹁心﹂ ︵
表紙、墨書︶
七三六1 一八O七︶
夫
学者柴野栗山
備考・・蔵書印者は、寛政の 三博士として周知される朱子
一
︵ 七九 三
奨丑 は寛政五年
︶
一
︵
外題・ 舘韓関︵題袋、墨書︶
内題・ 魯 西 亜 志 附 録
3、静嘉堂文庫
内題・・魯西亜志附録
大槻政文の年記 ・署名・・奨丑十月録
・内題の後、改行して﹁阿羅祭亜来歴阿櫨祭亜ハモスコヒヤ
ナリ﹂とあり
た
備考・明らかに近代以降に後付されたと考えられる表
紙、裏表紙ならびに遊紙 二枚は除いて審誌を記し
貼紙・なし
志筑政文の年記・署名・寛政七卯二月日
志筑政文の年記 ・署 名 寛 政 七 卯 二月日 志筑忠雄誇
。
。
大槻敏文の年記・署名・奨丑十月録
蔵書印記・−なし
・﹁梅陰書屋﹂ ︵朱・陽︶
七七八成︶と合綴 ︵
﹁
魯
蔵書印記・・﹁大槻文庫﹂ ︵
朱
・ 陽︶
貼紙・なし
備考 ・
・吉雄幸作﹁魯使北京紀行﹂
一
︵裏︶
西亙志附録﹂は一丁表1 一四
丁
・﹁大槻文庫﹂は 、仙台藩校養賢堂で学頭を務めた
漢学者大槻磐渓︵一八O 一
1一
八 七八 ︶の印
﹁梅陰書屋﹂は、朱子学者大黒梅陰︵一七九七1
- 5一
5、横浜市立大学学術情報 センター ︵鮎潔文庫︶
四×一人 ・
二糎
法量・二五 ・
形態 ・写本、一冊
・六丁
紙数 ・
表記・漢字平仮名交じり文
外題 ・魯西亜志附録︵昼瞥打付︶
内題 ‘
.魯西亜附録
・寛政七卯二月日志筑忠雄語
志筑政文の年記 ・署名 ・
大槻政文の年記 ・署名・美丑十月録
蔵書印記・ ・﹁鮎津信太郎蔵書﹂︵朱・陽︶
貼紙・なし
備考 ・蔵書印者は、横浜市立大学教授などを務めた地理
学者鮎浮信太郎︵一九O八1 一九六四︶
ハモスコヒヤ
・
・内題の後、改行して﹁阿羅祭亜来歴阿豊重
リ﹂とあり
ナ
6、早稲田大学図書館
0×二一・七糎
二0 ・
・
法量 ・
形態・写本、一冊
紙数・八八丁
表記・漢字カタカナ交じり文
外題・俄羅斯紀聞︵墨書打付︶
内題・・東砂葛記
︵志筑︶蹴文の年記 ・署名・・突亥十月 通詞志筑忠次郎誇
大槻蹴文の年記 ・署名・なし
陰︶
朱・
蔵書印記・﹁川田氏蔵書﹂ ︵
貼紙・−なし
備考・・本警は古賀伺庵﹁俄羅斯紀聞﹂第 一集第九 冊
幸
・本冊には﹁泰西国説﹂巻之十二、﹁漂流紀事﹂ 、﹁
底本ママ︼
︻
大夫口語筆受被﹂、﹁北楼署聞﹂、﹁東砂葛記﹂、﹁加
模西葛社加園風説考﹂の六作品が収録されてお
り、その中の﹁東砂葛記﹂の一部として﹁阿羅祭
亜来歴﹂に相当する部分が確認できる ︵﹁緩祭亜来
歴銭戸﹂は六六丁裳i七二丁表︶
・﹁東砂葛記﹂には、﹁羅祭亜来歴鵠戸﹂に対する
古賀伺庵の奥書とその年記 ・署名﹁文 化壬申冬
十一月冬至窮完伺庵支離子識﹂あり
a
S
[R
・﹁俄羅斯紀聞﹂第一集第九冊には﹁泰西国説﹂巻
之十二、﹁漂流紀事﹂、﹁幸大夫口語筆受被﹂、﹁北
・mvZ
桂署聞﹂、﹁東砂葛記﹂、﹁加模西葛杜加園風説考﹂
の六作品が収録されており、その中の﹁東砂葛記﹂
の一部として﹁阿羅祭亜来歴﹂に相当する部分が
﹁緩祭並来歴鋭戸﹂は六六丁裏1七二丁
確認できる ︵
︶
表
-6-
・蔵書印者は東京帝国大学教授などを務めた漢学者
な志筑忠雄の翻訳態度は 、注を付しながら原文に即して丁
に特に必要の無い部分での改変が見られるものの 、基本的
兵乙と記された段落を起
ιuODE
s
ODZEE ’
2gaps−
−
、そこから計十八段落を訳出している 。
点としてロ
︶ の中の 、欄外 注 5 3
55︶に﹁北方に東イン
zoDEET
同
一
ドへの新しい道が、陸路で発見される﹂ ︵
開
g2255開ER
具体的には、第一巻の第二編第三章︵2nan
号
刊
∞g F O
を施している 。それに加えて﹁鎖国論﹂の本文や志筑注には、
違いない 。
八O 一成︶
志筑忠雄は 、六年後に訳出する﹁鎖国論﹂
︵
一
でもキリス ト教関連の記述に対し、その色を薄める仕掛け
かかる志筑忠
と原文から離れた内容に改変されている
ほ
。
雄の営為は、幕府に対する政治的配慮によるものと見て間
NES ︵イエズス会神父たち ︶については、﹁通事 二人日﹂
な
これらのイエズス会士たち︶という語を含んだ従属節の訳
︵
が脱落している山。 その直後に続いて出てくるoog
母お
れたロシアと清の会談をめぐるくだりでは、 ︻
四E5ロ
﹄
民
町
同
一六八九年七月 ご二 日にネルチンスク 9で行わ
スト教に関わる記述については訳出を意図的に回避してい
る。
寧に訳していく姿勢を貫いていた 。ただし、例外的にキリ
剛︶
川田聾江 ︵
二、志筑忠雄訳﹁阿緩祭斑来歴﹂の概要
新 旧東インド
﹁阿羅祭亜来歴﹂は、フアレンテイン ﹃
込S
︵司BEAU広
﹄
叶円
凶
田 吋
町
一g々
国
︿
ミ見事、。。 を
ミ
地内
定
。
︼田
[
ロ
O
旬
干
↓
。
・
−
。。﹃今回nZ
設
附
∞
=ι
O同ロロ骨相︿田口∞﹃白血ヨ ・↓n﹀ヨ回同町三ωヨ 一∞可。四﹃創﹃ι。
L
M
白
﹃
。
N ︶の一部を抄訳した作品である
5ιgu二日品’ 白
内容は、一五九六または九七年から一七二二年にかけて、
凹
年次を追ってロシアが東方に進出した来歴を揃いたくだり
H
る。
七九五成︶の段階において、価値基準
﹁阿羅祭亜来歴﹂
︵
変が確認できないことは留意すべきであ
から発せられた改一
嫌悪 ︶から発せられた改変や発 言 が認められるものの 目、
植民地活動やキリスト教に対する反感・
時折自身の価値基準 ︵
色何﹁
ま
であり、途中、シベ リアを併有した経緯や、ロシアと清朝
が国境を画定したことで周知されるネルチンスクでの会談
の経過も記されている 。
﹃
新旧東インド誌﹄と﹁阿羅祭亜来歴﹂を突き合わせるか
ぎり、時折日付の詳細を訳さなかったり、何度も登場する
ロシア皇帝名の重複部分の訳出を行わなか ったりと 、文脈
-7-
ず
三、津市図書館本の資料的位置づけ
ヨリ以東大縫組又東方北方ノ 登頭大東洋ニ至ルマテ悉
早大本︼
︻
大槻茂質按ルニ[ 止白里ハ昔、ン畷漠ノ縫組トノミ
、]伯多珠帝ノ時ニ至テ[、]阿比河
]
称シタル地ナリ[、
ク併呑セ リト 本国ニ服属セシヨリ総称シテ魯西亜ト云
フ[、]叫オ引川刑制調剖刻刻到叫川ニ詳ナリ[、]桂
先述したように、津市図書館本の特徴として、まず志筑
忠雄訳﹁阿羅祭亜来歴﹂が前野良沢﹁東砂葛記﹂の一部と
して所収されていること、次に当該部分の題名が﹁羅祭亜
来歴﹂であること 、そして ﹁奨亥[ 一八O三] 十 月 通 詞
志筑︶肱文の年記・署名を有する
志筑忠次郎誇日﹂との ︵
宜ク倒剖熟見スへシ げ
両者の記述に大きな相違点は無いが、津市図書館本では
外国の固有名詞に鈎括弧ならびにルピが付されている点が
桂川氏嘗 ァテ其諜文アリ[、]魯西亜ト名クルトナリ[、]
倒 ヒ熟見スベシ
宜ク
併呑セ リト 本国ニ服属セシヨリ線抑制シテ魯西亜 ト云フ
[、]寸削升引川叫刑制剤寸凶刻刻到凶川叶一一 詳ナ リ [、]
称 ンタル地ナリ[、]佐少 酌帝ノ時ニ至 テ [、]町ル舟
ヨリ以東大韓E又東方北方ノ壷頭大東洋ニ至 ルマテ悉ク
津市図書館本︼
︻
rE ハ昔 γ臓漠ノ縫組トノミ
大槻茂質按ルニ[、]止ι
]魯西亜ト名クル トナリ[、]
川氏嘗ツテ其詩文アリ[ 、
ことに加え、さらには大槻玄沢政文の年記と署名が不在で
あることが挙げられ、これは古賀伺庵自筆本である早大本
書誌 6︶の特徴と一致する 。
︵
嘗誌 2︶では、漢字平仮名
また、洲本市立洲本図書館 ︵
交じり文で表記された本文が一続きに普かれているのに対
し、早大本の本文は、漢字カタカナ交じり文で表記され、
なおかつ段落が作られている 。津市図書館本の本文は早大
本と同様の表記および書式であるが、さらに段落の官頭が
台頭の形式で示されている ぜ 津市図書館本におけるロシ
アの通貨単位ル ーブルに付されている注も津市図書館本早
大本と一致し、洲本本とは大きく異なっている 。
その他、早大本系統の特徴として、志筑忠雄および大槻
玄沢の 二 つの蹴文が、﹁大槻玄浮兄追趣﹂として 一つに圧
縮されている 。 この部分を比較してみよう。
表記上の留意すべき差異として挙げられる 。さらに注目
すべきは、最初の下線部﹁ヒプ子ルガ地誌ゼオガラヒ l﹂
-8-
ヒュ lブナl ︵
︶の ことで、﹁ゼオガ
OZEZZZ
﹄
コω︸
R52・
ラヒ l﹂とはヒユ |ブナlの著書 ﹁一般地理学﹄ の蘭語訳
という記述である 。﹁ヒブ子ル﹂とはドイツの地理学者
凶 剰 樹 制 パ 刈 ぺ 叶 対 ] l東方ノ地方ヲ侵掠セシ来歴ナ
下原氏ノ如クナレハ魯西亜ノ本園ノ濫筋ノ来歴ノヨウ
ニ
開 ュルナレトモ[、]本編ノ醗誇スル所ハ劇到斗司副
︻
津市図書館本︼
pas
−E︶を指す。
版玄宥言室内
として津市図書館本では﹁セ﹂と﹁ヒ﹂は明確に書き分け
くなく、﹁。
g
m﹃曲芸お﹂ の音とは程遠い﹁ピオガラピ l﹂
という表記に疑問を抱かなかったのだろう。もちろん前提
冬至寓完伺庵支離子識﹂が不在であることが大きな相違
大本︶が有する伺庵奥書の年記・署名﹁文化壬申冬十一月
弧が付されている 。加えて、津市図書館本には 、自筆本 ︵
早
ここでもやはり津市図書館本では外国の固有名詞に鈎括
津市図書館本の書写者はおそらく原典お綴り︶に明る
られているが 、最後の下線部﹁併セ﹂についても﹁併 ヒ﹂
大きく次の二つの可能性が考えられる 。すなわち︵ l︶︵
国
間違いないものの、その位置づけを考えるにあたっては、
以上のように、津市図書館本が伺庵系統に属することは
点である 。
と改変されており、津市図書館本の転写者が ﹁セ﹂と﹁ヒ﹂
を誤写したのか、それとも底本がそもそも誤記していたの
かは定かではない 。それ以外にも、津市図書館本ではしば
しば漢字や送り仮名の明らかな誤りが確認できる 。
また、津市図書館本には古賀伺庵系統本のみ有する﹁下
立公文書館本を経由するかどうかは別にして ︶津市図書館本が
早大本に遡る場合、︵2︶津市図書館本が早大本に遡らず、
別の原本がある場合 ︵
既にかかる特徴を有する原本があって、
原氏﹂で始まる伺庵の奥書が備わっている 。
︷
早大本︼
そこから津市図書館本と早大本が別々の道筋で写された場合
がどの時点で漢字ひらがな交じり文から漢字カタカナ交じ
︶
本文
いずれの可能性も否定できないが、︵2︶の場合、。
下原氏ノ知クナレハ魯西亜ノ本園ノ濫鰐ノ来歴ノヨウ
ニ聞ユルナレトモ[、]本編ノ醗語スル所ハ劇同司年
凶剰樹細川刈ぺ叶対東方ノ地方ヲ侵掠セシ来歴ナリ
り文に変更され、 また、 二政文が一つに圧縮されたのか 、
という問題が浮上する 。加えて、﹁判岡国﹂で始まる奥書
- 9-
の当該部分は﹁リ閥剖﹂の誤写であるが 目、かかる誤りも
どの時点で生じたのか 。
ここで二つの問題を考えたい 。まず、どの時点で外国の
固有名詞に鈎括弧が付されたのか 。次に、早大本に脱落し
ている重要な一文が、津市図書館本にはなぜ備わっている
瞥
まず最初の課題であるが、早大本、国立国会図書館本 ︵
のか。
距離が離れ、やや後世に成立したと目される静嘉堂文庫本
-10一
誌l︶ならびに洲本本には外国の固有名詞に鈎括弧は付さ
れておらず、それらの資料より﹁阿羅祭亜来歴﹂原本から
、横
徳山毛利家文庫︶本 ︵書誌 4︶
、山口県文書館 ︵
︵瞥誌3︶
鮎浮文庫︶本 ︵書誌 5︶には
浜市立大学学術情報センタ ー ︵
時折鈎括弧が認められるが、津市図書館本のように徹底し
て付したものではない 。
外国の固有名詞に鈎括弧を付した文章を底本として、転
写した本で鈎括弧が不在になることは考え難いので、後か
ら鈎括弧を付記したものと見るべきであろう。
さてこ点目の課題であるが、先に触れた志筑忠雄による
Eg ︵イエズス会神父た
重大な改変箇所の一つ 02
a号﹃こ伺N
ち︶をめぐる記述であるが、早大本お よび国立公文書館本
ではこの訳文が脱落している一方、洲本本は﹁其本陣に引
制刷[、︺通詞二人事の敗れんとするを見て﹂と備えている 。
図 3 左業 2行目最下方、津市図書館本では「各空シク」の後、先に引用した「其
本陣ニ[…]」の文章を経て、「其使者ニ」へと展開する
伺庵 転写時かそれ以前に
(
国立公文書館本
図 4 新たに生じた伺庵系統本における転写関係の可能性
一
列 キ組主 [、]通詞二
津市図書館本においては、﹁其本陣 −
文章「通詞二人∼」の脱落)
人事ノ敗レントスルヲ見テ﹂と、僅かに下線部のような差
資料が乏しい状態の中から性急に結論は出せないが、少
古賀{同庵 自君主本(早大本)
異が認められるものの、この箇所を備えている 。
なくとも津市図書館本の存在は、伺庵自筆本をさらに遡る
段階で、既に桐庵系統本の特徴が備わっていた本が存在し
ていた可能性を示唆している 。その場合、伺庵奥書と呼ん
でいた﹁下原氏﹂に始まる文章は、別人の奥書ということ
になろう。伺庵の年記 ・署名と﹁下原氏﹂に始まる文章の
-11一
聞に一行分の空白が存在するのは、そのことを示す断絶な
のかもしれない 。
ただし、繰り返しになるが、津市図書館本がこの文章を
徴が備わっていた本が存在していたかについての判断は、
校訂して付加したのか、それともそもそも伺庵系統本の特
今後の資料発掘に侠ちたい 。
おわりに
津市図書館︵稲垣文庫︶本﹁阿羅祭亜来歴﹂は 、前野良沢﹁東
の拙稿を除いてこれまで﹁阿羅祭亜来歴﹂研究が進展を見
砂葛記﹂の一部として所収されていること、ならびに先行
なか ったこと、そのため﹁東砂葛記﹂に所収された形態で
﹁阿羅祭亜来歴﹂が存在していることが認知を得ていなかっ
イ悶庵本の特徴を有する本
た こ と な ど か ら 問、 そ の 存 在 が看 過 さ れ て き た 智
本稿によって、津市図書館本はその構成要素が古賀伺庵
系 統 本 と 一 致 し 、 伺 庵 自 筆 本 ︵早大本︶お よ び 国 立 公 文 書
内閣文庫︶本 に 属 す る も の と 位 置 づ け る こ と が で き た 。
館 ︵
ただしその一方で、伺庵系統本の転写経路を検討するにあ
たって、より複雑な要素を驚す皮肉な結果ともなった 。
津市図書館本が策した最も重大な事実は、志筑忠雄によ
る重大な改変箇所の一つ り
3anzrE5ロ ︵イエズス会神父
たち︶を め ぐ る 記 述 の 訳 文 が 、 早 大 本 お よ び 国 立 公 文 書 館
一
一
一
一
一
一
頁。なお、
﹁稲垣文庫仮目録﹂︵津市図書館、二O O一年︶、
目録上の資料名は﹁東砂葛異記﹂であるものの、後述するよう
に内題が﹁東砂葛記﹂であることから、これを当該資料名とし
て採用した 。その際、原文のアラビア数字は渓数字に改めた 。
2 拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭亜来歴﹂の訳出とその書誌﹂ 雅俗﹄
﹃
︵
とする
第一二号、二O 二二年︶で は、古賀伺庵系統本をはじめ
六点の 資料を対象として、初めて﹁阿緩祭亜来歴﹂の嘗誌系統
および資料的位置づけについて解明した 。なお、 全 ての﹁東砂
葛記﹂に﹁阿羅祭亜来歴﹂が備わっているわけではない 。
3 書誌の採録項目は、前掲拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭亜来歴﹂の
訳出とそ の書誌﹂に従った 。
4 二O 一一年一一 月の津市図書館報に掲載されている中川豊
﹁稲垣定穀の名称と別号﹂によれば 、
﹁従雑堂裁﹂の印記は転写
本や購入本に多く見られ、稲垣︷疋穀は寛政一 O年、或いは一一
年を境に雅号を﹁止々軒﹂から﹁従雑堂﹂に変更した 。
5 高橋昌彦主編︵ 国立台湾大学図書館、 二O 一
三 年︶
、六六1
六七頁。なお、 書名 の繁体字は常用漢字 に改めた 。
6 []内の記述は筆者による 。以下、全ての引用文で向。
7 前掲拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭斑来歴﹂の訳出とその 書誌﹂第
三章第一節を参照。
8 以下 、前掲拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭亜来歴﹂の訳出とその書
誌﹂第一章より 0
・
9 原 文 で は Z号5 2と記されている00
ミ
一
雪
ヨE 宅02﹃・を込2・
新旧東インド誌﹂ の底本は、初版を復刻
ι ・なお、 ﹃
O
一
﹁
司
−Z
︿
-12一
本では脱落しているものの、洲本本と同様に、津市図書館
さらに遡る段階で、既に伺庵系統本の特徴が備わっていた
本では備わっている点である 。 このことは、伺庵自筆本を
本が存在していた可能性を示唆している 。 この点のさらな
る解明は、今後の資料発掘に侠ちたい 。
いずれにせよ、七点目の﹁阿羅祭亜来歴﹂の発見は、そ
の 転 写 経 路 に 新 た な 可 能 性 を 粛 す こ と に な っ た 。 つまり津
市図書館本の出現は、写本転写の複雑さと実態解明の困難
事
を示し、歴史家があくまで限定的な史資料に基づいて ︿
実﹀を構築しているにすぎないことを改めて突きつける事
例となった 。
注
の信想性も疑われる 。前掲拙稿﹁志筑忠雄﹁阿緩祭亜来歴﹂の
訳出とその舎誌﹂第三章第二節を参照。
性誌1︶ でも段落の冒頭が台頭している 。
同国立公文笹館本 ︵
げ 傍 線 は 錐 者 に よ る 。また、現在通用しない異体字については
現行のものに改めた 。以下、 全 ての引用文で同。
目前掲拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭亜来歴﹂の訳出とその書誌﹂、
阿
二O O二i 二O O四年刊︶版を用いた 。﹁
した ︿
g 愛吉g ︵
緩祭亜来歴﹂では原文に基づいて﹁子プチョウ﹂と表記してい
︵p
E︶
n
u
る。 この Z弓εozは、ネルチンスクの中国語﹁尼布楚﹂ z
に基づいていると考えられる 。
もし
ω
全
吉
は
文
落
脱
ι
g
7
5
自
由
﹄
民
町
向
者呂
向
師
w
S
2
E
田 ︵
0
0
2
﹃
四
田
ミ 2ミE 宅
これらのイエズス会士たちがいなかったならば︶ 00
h
s
。 s
wミ・︿O一﹁司ご品・
一 1四二頁。
四
ゆその他、﹁阿緩祭亜来歴﹂には﹁魯西亜志附録﹂という異名
もあり、前者が原題で、後者が後世の改変であることは、前掲
拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭亜来歴﹂の訳出とその害誌﹂で論証した o
−
−
︵ 研究課題番
C︶
付記 ︼本稿は科 学研究費補助 金基 盤研究 ︵
︻
︶ の成果の一部である 。
号・包 mMo ω
︵花書院、 二O 二二 年
研究﹂
︶
。
舎﹂や﹁天文要解﹂とのみ付され、その発見に困難を極めたよ
うな事例も報告されている 。平岡隆 二﹃南蛮系宇宙論の原典的
m 歴史テキス トを捜索する際、しばしば同様の現象に遭遇する。
一例を挙げると、キリシタン系の宇宙論﹁南蛮運気論﹂写本を
追跡した結果、内容はそのものでありながら、題名には﹁天文
千
﹄
本市立洲本図書館本︵書誌2︶より。また、早大本ではこ
洲
日
。
句
こをめぐる一行分の記述が脱落している 。
−
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∼句
o Y司 ニ ム
九
明
、西洋の司、植民地活動やキリス ト教に対する志
、
に,
日﹁鎖国論﹂中。
筑忠雄の反感が見られることについては、鳥井裕美子が詳細に
鎖
論じている 。﹁ケンペルから志筑へ|日本賛美論から排外的 ﹃
国論﹄ への変容|﹂ 季 刊 日 本 思 想 史﹂第四七号、 一九九六
︵
忠雄訳
筑
志
う
い
と
﹂
国
﹁鎖﹃
・
著
ル
ペ
ン
ケ
|
年所収 拙著 ﹃
説
言
︶﹄ の受容史|﹄
。
、八八
、 二O O九年︶
房
鎖国論
﹃
︵ ミネルヴア舎 一
1九一頁。
凶以上、本章は前掲拙稿﹁志筑忠雄﹁阿羅祭更来歴﹂の訳出と
その書誌﹂第二章に基づいて記した 。
日[]内の記述は筆者による 。以下、 全 ての引用文で向。また、
︶ まで稽古通詞を務
志筑忠雄は少なくとも天明二年 ︵一七八 二
最長でも天明六年 ︵一七八六 ︶
めていたことが確認されており 、
五月までの可能性がある 。 つまり 、 一八O三年の時点で志筑忠
雄は﹁通詞﹂では鉱山 。したが って、この年記 ・署名は志筑で
はない他者による後付であることは明らかである 。よ って年記
-13一
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