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G・ウィギンズの「看破」学習

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G・ウィギンズの「看破」学習
日本教育方法学会紀要r教育方法学研究』第30巻(2004年)
G・ウィギンズの「看破」学習
-1980年代後半のエッセンシヤル・スクール連盟における「本質的な問い」を踏まえて-
京都大学大学院(日本学術振興会特別研究員)遠藤貴広
GrantWiggins'Theoryof“Uncoverage,,Learning
-Consideringon``EssentialQuestions,,intheCoalitionofEssentialSchoolsinthelatel980sTakahiroENDO,GraduateSchooLKyotoUniversity(JSPSResearchFellow)
本稿は,G・ウイギンズの「看破」学習に注目し,その教育方法論に込められた意図を明らかにするもの
である。「看破」学習とは,教科の中核にある「重大観念」を「本質的な問い」による探究によって暴き出
す(看破する)ことを目指した方法である。
ウイギンズが「看破」学習を公言するようになったのは,1980年代後半のことである。当時,彼は,重
要なことをすべて教えようとする「網羅」型カリキュラムと,論理的技能の指導に偏った思考技能教授に
より,「無思慮な習得」が招かれることを憂慮していた。この問題を克服するために,彼は「問い」を追求
し続けることの重要性を主張していた。例えば,当時彼が研究部長を務めていたエッセンシャル・スクー
ル連盟では,「本質的な問い」を軸にカリキュラムを編成することが試みられていた。その「本質的な問い」
は「学問の構造に迫る問い」と「性向に注目する問い」の2つに分類することができる。
ウイギンズは,適切な性向を伴った探究を要求していた。それは現在,「理解の六側面」に基づいて設定
されるパフォーマンス群によって評価されることになっており,そのようなパフォーマンスが発揮される
状況を評価課題に設定することは「真正の評価」論として提起されていた。ウイギンズの教育方法論は,
学問の樹造に迫る中で新たな性向を養成することをねらったもので,そのことは評価にまで貫かれている。
Inthispaper,IfOcusonGrantWiggins,theoryof"uncoverage',,andclarifytheintenUonembed‐
dedintheinstructionaltheory.“Uncoverage''1eamingattemptstouncover“bigideas',thatlieat
theheartofsuhjectsbyinquiringwith"essentialquestions,'・
Inthelatel980s,Wigginswasconcernedabout“thoughtlessmastery,'causedby“coverage,,
curriculathatintendedtoteachevelythingimportant,andbyteachingthmkmgskillsthattendedto
dealwithonlylogicalskills、Toovercomethatproblem,heemphasizedthatitisimportamtokeepon
exploringquestions・IntheCoalitionofEssentialSchools,fbrexample,itwasuFiedtoorganizecur‐
riculaaround``essentialquestions,,,whichincludedtwotypesofquestions:oneisthequestionthat
approachesstructuresofdiscipline,andtheolheristheonethatgivesattentiontodisposiUons・
Wigginsdemandedinquirieswithapproprialedispositions、Nowthesemquiriesaresupposedto
beassessedbytheperfbrmancesderivedhFom“SixFacetsofUnderstanding,,、InorderfOrassessment
taskstobecarriedoutinrealisticsituationsIhatwillmakestudenIsexhibitsuchperfOrmances,Wig‐
ginsproposed“authenticassessment"・
Wiggins,theoryofcurriculum&instructionconsistentlyaimstoeducatenewdispositionsin
approachingstructuresofdiscipline.
キーワード:真正の評価,逆向き設計,学問の構造,性向,UnderstandingbyDesign
-47-
Gウイギンズの「看破」学習
1.課題設定
本稿は,「真正の評価(authenticassessment)」
論の提唱者として知られる米国の教育コンサルタン
ト,グラント・ウィギンズ(GrantP、Wiggins:
1950-)、の教育方法論を検討するものである。
「真正の評価」論とは,大人が現実世界で直面す
るような課題に取り組ませる中で評価活動を行おう
を承認できる証拠を決定してから,③指導計画を立
てるというものである(図l)。結果から設計を始
めるという点,あるいは,指導計画の前に評価の構
想を行うという点が,一般に教師が行っているカリ
キュラム設計とは逆になっているため,こう呼ばれ
る。これにより,常に目標を意識したカリキュラム
設計が目指されている。
ここで目標とされるのは「深い理解Jである。そ
とするもので,1980年代後半以降,従来の「標準テ
スト(standardizedtests)」に依存する姿勢を批判
して,それを実現させるために「看破(uncoverage)」
する中で模索された(澤田,1997など)。日本では,
「総合的な学習の時間」の導入を契機に,各教科で
れは,従来よく見られた教科書を「網羅(coverage)」
支配的であった筆記テスト主導の評価観を疑問視す
る動きがより強まる中で,「真正の評価」論に衆目
が集まった。これを具体化するものとして,ポート
フォリオ評価法,パフォーマンス評価,ループリッ
ク(rubrics:評価指標,評価基準表)などの開発
が日本でも急速に進められているが,その理論的基
盤としてウィギンズの評価論が紹介されている(例
えば,西岡,2003a)。
1998年以降,ウィギンズはマクタイ(JayMcTighe)
と共に,UnderstandingbyDesign(以下,UbDと
略記)と呼ばれるカリキュラム設計の枠組みの提案
者としても知られるようになった。UbDは,文字通
り,理解(under5tanding)を意図的に(bydesign)
実現するために考案されたもので,教科書網羅にも
活動一辺倒にも陥ることなくカリキュラムに一貫性
を与えられる(詳しくは後述)という期待から,世
界最大の民間教育団体ASC、(AssociationfOrSu‐
pervisionandCurriculumDevelopment)の看板
プログラムの一つとなっている2)。
UbDでまず注目されるのは,「逆向き設計(back‐
warddesign)」と呼ばれるカリキュラム設計論で
ある。カリキュラムの「逆向き設計」とは,①求め
ている結果を明確にし,②その結果が得られたこと
と呼ばれる学習スタイルが大きく調われている。そ
するタイプの授業に対時する原理として提起されて
いる。UbDでは,その単元で深く理解するに値す
るものが「重大観念(bigideas)」として最初に設
定される。しかし,それを授業で単に説明すること
はしない。重大観念に迫る「本質的な問い(essential
questions)」を設定し,その問いによる探究の中で
その重大観念を暴き出す(看破する)ことを目指す
のである。本稿では,このような学習スタイルを
「看破」学習と呼ぶことにし,以下でその方法原理
を検討する。
先行研究で,ウイギンズの「看破」学習に触れた
ものはいくつか見られる(遠藤,2005;石井・田中,
2003;西岡,2003b)。ただ,それらはいずれも,
「逆向き設計」論を説明する中で,学習の基本スタ
イルとして「本質的な問い」による探究が目指され
ているということを指摘するのみで,「看破」学習
が元々どのような問題意識からどう取り組まれてき
たかということについては検討されていない。この
点の検討なしに,「看破」学習の真意は問えないだ
ろう。そこで,本稿では,ウィギンズがいかなる問
題意識で「看破」学習を主張し,実際それをどう実
践していたか検討することで,ウィギンズの教育方
法論に込められた意図を明らかにすることを課題と
する。
ウィギンズの所論を編年的に追うと,彼が「本質
的な問い」という言葉を用いて「看破」学習を公に主
張するようになったのは1987年のことである(遠藤,
求めている結果
を明砿にする
2004)。当時,すでに,「無思慮な習得(thoughtless
承開できる証
拠を決定する
学習経験や指導
の計画を立てる
図1「逆向き設計」の過程
mastery)」を生み出す「網羅」型カリキュラムを
批判し,「本質的な問い」を軸にカリキュラムを編
成することが推奨されていた(Wiggins,l987a)。
この事実を踏まえて,本稿ではまず,1980年代後
-48-
半の所論に焦点を当て,当時ウィギンズがいかなる
問題意識のもとで,どのような取り組みを行ってい
けの「流れ作業」になってしまう。そこでは,膨大
な量の「重要」情報と多様な技能の習得という名目
たのかを検討する。そして,それが1990年代以降の
で,生徒の判断の利用は永久に延期される。これら
ウイギンズの教育方法論にどう継承されているかを
の情報や技能は絶えずテストされ繰り返されるもの
明らかにする。
の,意義ある取り組みに応用されることはほとんど
本稿により,日本でポートフォリオ評価法やパ
ない。しかし,判断は,使わないと萎縮してしま
フォーマンス評価を実践する上での教育方法論上の
う。「仮説を提示し,他の主張を探究し,ある観念
の長所について考察することを我々に推し進める教
課題が明らかとなるだろう。
育がないと,事実の習得は無思慮なものになってし
2.「無思慮な習得」の憂慮
まう」というのである(Wiggins,l987a,Pll)。
(1)「網羅」型カリキュラム
べて教えようとする「網羅」型のカリキュラムが
このように,当時ウィギンズは,重要なことをす
1987年,ハーシユ(E,DHirsch,Jr.)の『文化的
リテラシー(Cmtum7JLjtemcy)」が刊行され,米
「無思慮な習得」を招くことを憂慮していたのであ
る。
国でベストセラーとなっていた。そこでは,すべて
のアメリカ人が知っていなければならない言葉が
(2)思考技能教授
「国民的共通語藁(nationalcommonvocabulary)」
としてリストに整理され,それを共通知識として習
1980年代の米国教育界においては,ハーシュの
「文化的リテラシー」論に対時するものとして,批
得することが目指されていた。このように,1980年
判的思考教授論が存在していた4)。「無思慮な習得」
代後半の米国では,重要事項を精選し,それを完全
を招くというウィギンズの批判は,実は,当時実践
に習得させようとする動きが起こっていた。
しかし,ウィギンズはその動きを次のように椰楡
されていた批判的思考教授にも向けられていた。
ウイギンズが1987年にハーバード大学に提出した
する。「「本質的な内容』という大岩は,大昔をたて
博士論文『教育目的としての思慮深さ(77uoUgh加卜
て(増大する)知識の丘を転がり落ちていくことし
かできない」と3)。それは,「重要なことをすべて
刀eSSaSa7BEUUaZtjO〃qZAim)』は,「無思慮な習
得」が蔓延する学校教育で追求すべき「思慮深さ
教えようとすることの虚しさ」を説くものであった
(thoughtfUlness)」を探究したものである。この中
(Wiggins,l989b,p、44)。
で,ウィギンズは,次のようなことを主張してい
ウィギンズは,重要なことをすべて教えようとす
る「網羅」型カリキュラムにより,本質的な知識の
る。「「批判的思考」への伝統的なアプローチに伴う
問題は,原因と結果の反転であると分析される。す
探究が雑学クイズゲームに倭小化されてしまってい
なわち,批判的技能は,習熟の要因になるのではな
ることを批判する。そこでは,扱われる内容や事実
く,習慣や態度の発達を中心にする教育の結果であ
には無批判で,些細な事実が「本質的なもの」と同
じくらい重要なものとして扱われてしまう。多くの
場合,教師が重要だと言っているという理由だけ
で,それが重要なものとなってしまっており,生徒
ると思われる」(Wiggins,1987b,Abstract)と。
言い換えると,優れた批判的思考者は,良い思考技
能を身に付けていたからそうなったのではなく,普
段から批判的に考える態度や習慣を重視する教育を
は,それがなぜ重要なのか,その理由を理解できな
受ける中で批判的思考能力を高めていったのではな
いばかりか,その理由について考えもしなくなって
いか,ということである。ここには,ウイギンズの
しまうという(Wiggins,l989b,p45)。
次のような現状認識があった。すなわち,批判的思
考は,本来,適切に思考する態度を第一に必要とす
このようなカリキュラムにおいては,自分が何を
学び,それをどのように学ぶか,ということを生徒
は自分で統制できない。彼らは事実や公式をメモし
て応用することしか教えられておらず,例えば,数
学の授業は,提示された方程式に数値を代入するだ
るものだったにもかかわらず,実際に行われている
思考教授プログラムは,論理的技能の指導に偏った
ものばかりだった,という認識である(Wiggins,
l987b,p36)5)。
-49-
0.ウイギンズの「看破」学習
ウイギンズは,批判的思考が単なる技能(skills)
として教授されることで,それが無思慮に学ばれて
いる当時の状況を憂いていた。そこで起こるのは,
身に付けた論理的技能を振りかざして何にでも非難
してしまう,という問題状況である。そこに欠けて
す高いスタンダードを生徒に育み,そして,④重要
な知識の探索を楽しむことを学べるくらい徹底的に
生徒を重要な問いに引き込む」ものでなければなら
ない(Wiggins,l989b,p、57)。それは,「問い
(questions)」を軸にカリキュラムを編成すること
いるのは,「いつ批判して,いつ共感するべきか」
を主張するものであった。
という道徳的な側面である(Wiggins,1987b,p38)。
「重要な観念をすべて思慮深く学ぶ」という幻想
を払拭するために,ウィギンズは,「我々の目標は,
生徒に,探究への渇望をもたらし,無思慮で表面的
で見かけ倒しの空疎な取り組みに対する嫌気を起こ
させることでなければならない」と主張している。
それは,「すべての賢者が知っていること,すなわ
ち,多くを学べば学ぶほど,自分の無知により多く
気づくようになる」という感覚を生徒に育むことで
批判的思考技能を何に用いるか,ということを常に
問うことを必要としていたのである。
これは,批判的思考に関わってどういう態度をと
るべきか,という問題に関わってくる。なぜなら,
いくら多くの論理的技能を持ち合わせていたとして
も,それを適切に用いる態度や習慣がなければうま
く機能しないからである。そこで,ウィギンズは,
思考教授に関しては,態度や習慣の形成を支える
「性向(dispositions)」6)の育成を重視しようとした
のである(Wiggins,l987b,P39-46)。
このように,ウイギンズは1980年代,批判的思考
に関しては,性向の育成を重視する中で,論理的技
能の指導に偏った思考技能教授を批判していたので
ある7)。
あった(Wiggins,l989b,p、46)。
これを実現させるために,ウィギンズはまた,知
識観の転換を要求した。それは,「すべての『知識』
を,与えられ,完成した物で,無から生み出された
物としてではなく,探究の結果として扱う」という
もので,「知識は,論争にならないもの,あるいは,
自明のものである」という旧来のカリキュラムでよ
く見られた知識観を払拭しようとするものであっ
3.「本質的な問い」による探究
た。そこで,ウィギンズが現代カリキュラムに求め
たのは,「知識がどのように問いから生み出され,
前節で,ウイギンズが1980年代に何を問題視して
いたかを明らかにした。それは,「無思慮な習得」
問いを解決し,問いを生み出すか」ということを生
徒自身が追認できるようにすることであった
を憂慮したもので,特に,重要なことをすべて教え
(Wiggins,l989b,P46)。
ようとする「網羅」型カリキュラムと,論理的技能
の指導に偏った思考技能教授を批判していた。本節
く問いをカリキュラムの編成単位に位置づける。そ
このような発想から,ウィギンズは,内容ではな
では,この問題を克服するために,つまり,「思慮
こで生徒に求められたのは,「問いがどのように知
深い教育」に向けて,ウィギンズがどのような取り
識を生み出し,知識を超えたところに向かっていく
組みを行っていたのか見てみたい。
かを見る能力」であり,「知識や議論を扱えるよう
に整理することによって本質的な問いを自由に駆使
(1)問いの追求
する力を深め広げる能力」である。そして,このよ
「思慮深い教育」の実現に向けて,ウィギンズは,
うな問いの力を学ぶために,「重要な『事実』がか
次のように述べている。「カリキュラムは,人の無
つては神話であり,論争であり,問いであった,と
いうことを自分で見る」ことが生徒に必要となるこ
知について認識し探究する生涯に必要となる精神の
習慣(habitsofmind)を生徒に育むものでなけれ
ばならない」。そして,現代カリキュラムは「①注
とをウイギンズは説いたのである(Wiggins,l989b,
p、46)。
意深い問いを通して自分の表面の知識を進展させる
ウィギンズはさらに,「我々が価値あるものだと
能力を生徒に授け,②その問いを保証された組織的
分かっていることすべてを教えることは不可能なの
な知識に変換し,③自分がどの程度『知っている』
で,我々は生徒に問い続ける能力を授けなければな
かということに関わらず,自分の作業での熟練を示
らない」と主張する。そこで,問いに答えて終わる
-50-
こと(「問い→答え」)ではなく,そこから新たな問
いが生み出される「問い→答え→問い」というサイ
ともに,最終発表に向けての計画を立てる中で,自
分が何を学んでいるか書くようになり,研究や調査
クルを重視する。また,扱おうとする観念の価値に
の技能を向上させるという(Chion-Kenney’1987,
ついて,「それは十分に生徒の経験を照らし,新たな
p25)。
思考を喚起するものであるか」と問い,そこに当て
はまらない観念はそのカリキュラムの中核から外す
という提案を行っていたのである(Wiggins,l989b,
p048)。
このようなカリキュラムにおいては,教科書やリ
このような「問い」は,同連盟において「本質的
な問い(EssentialQuestions)」と呼ばれ,当時
ウィギンズにより,次のようにその特徴が示されて
いた(Wiggins,1987a,Pl2)。
・学問の中心に進む.。それは,次のような歴史
るようなものは,「問いの敵」とされた。そして,口
的に最も重要な(そして論議を呼ぶ)問題や
トピックの中で見出すことができる。何が歴
先だけの「答え」を受け取らされることを,生徒は
史上の出来事を「引き起こす」のか。光は粒
「不本意(unwillingness)」に思う必要があるとさ
子なのか,それとも波なのか。「セールスマ
ストに載っているというだけで「習得」を強要され
れた。さらに,生徒は「問うことへの熱情をもって,
ンの死」'0)は「悲劇」なのか。「良い」翻訳と
馬鹿と見られることを恐れず,事実をどこでどのよ
は何か。「適切な」言語の使用とは何か。幾
うに見つけることができるかということを学ぶため
何学の教科書でその公準の利用を正当化する
の知識をもって卒業しなければならない」というこ
ものは何か。数学的概念は発明なのか,それ
とも発見なのか。それぞれの探究フィールド
とが主張されたのである(Wiggins,l989b,P57)。
で何が適切な「証拠」となるのか。
このように,ウィギンズは,「無思慮な習得」を
憂慮する中で,問いの重要性を見出し,それをカリ
●
1つの明確な「正しい」答えと坐うものはな
当当然,ほとんどの教科書やシラパスに
キュラム編成にも貫こうとしていたのである。
沿って考察されたり調べられる命題や仮説で
(2)2種類の「本質的な問い」
もっともらしいものが他にもある。そこで,
1980年代後半,ウイギンズは,エツセンシヤル・
スクール連盟(CoalitionofEssentialSchools・以
生徒は,ある特定の見方が秀でるようになっ
た理由について,自分自身で理解できるよう
下,CESと略記)帥の研究部長を務めていたことで
になる。
も知られていた。ウィギンズの教育方法論はCES
●
プルーム(BeniaminSBloom)の意味で
の実践に影響を与え,逆にウィギンズもCESでの
実践を契機に大きな理論的発展を遂げた9)。そこで,
高次である。つまり,分析,総合,評価的判
断ということ。それで生徒はいつも,主要な課
以下,CESでの取り組みを例に,上で明らかにし
題とテストで,ブルーナー(JeromeSBmner)
たウィギンズの理念が実際どう実践されていたか見
の言う「与えられた情報を越える」'1)ことを
てみよう。
求められる。
i)学問の構造に迫る問い
●
..興味
せる
本質的な問いは,
より様式化された答えやアプローチのための
CESでは,問いを軸にカリキュラムを編成するこ
機会を提供する。そして,何かをしたり,そ
とが,カリキュラム改革の重要な柱となっていた。
例えば米国史の授業では,「米国は誰の国か」とい
の問いが習得されたことを立証したりする1
う問いが設定され,生徒は学年末にこの問いに答え
つだけの方法というのものはない。生徒は問
ることになる。その途中,生徒は,「誰が,いつ,
いに取り組むことにより創造的で積極的にな
どうして,ここ[米国]に来たのか,そして,彼ら
ることができ,それでプロの活動をまねるよ
はここに着いたとき何を見つけ,自分が交わった社
うになるので,より大きな学習動機を持つこ
会にどう影響を与えたのか」ということを見極める
とができる。
ために,移民の波について調べる。これにより,生
しかしながら,このような「本質的な問い」を突
徒は,米国の歴史,政治,労働社会について学ぶと
然提示しただけでは,生徒の興味・関心を喚起する
-51-
G・ウイギンズの「看破」学習
ことはできない。そこで,生徒の興味を喚起する問
題への導入が「エントリー・ポイント」という名の
もとに工夫された。例えば,米国史の授業で民主主
義が扱われる場合,導入で「誰が,なぜ,標準時間
帯(timezone)を発明したのか」という簡単な問
題が出され,生徒はそれを推測してから調べる。生
徒は,それが鉄道会社によって列車の運行計画を容
易にするために開発された,ということを知り驚く
ことになるのだが,そこから「法律や政策は,歴史
上,ビジネスの利害に左右されてきたのではない
か」という最初の仮説が生み出され,それが「本質
的な問い」につながる。そして,そこから生徒は次
のような新たな問いに直面する。「この最初の命題
は,南北戦争,独立宣言や憲法の立案といった歴史
上重要な出来事すべてを説明するものなのか。独占
禁止法や公民権法はどうか。米国史の他の動向に合
うもので私たちが立てたいと思う命題は他にある
か」(Wiggins,l987a,Pl4)。
れる。そして,この「本質的なもの」として重視さ
れるのが「学問の構造(structuresofdiscipline)」
である。それは,その教科が依拠する学問固有の基
本的概念や一般的原理であり,また,それを成り立
たせている科学的探究・認識の方法原理である。
上の米国史の授業でその探究が目指されているの
は,民主主義という米国史上の重要概念である。ま
た,そこで採用されている探究方法は,ある歴史的
事実から仮説を立て,その仮説が他の歴史的事実で
も成り立つものなのかを検証するというもので,そ
れは,実際の歴史学でも採用されている方法であ
る。ここで,子どもたちは,米国史の基本的概念だ
けでなく,それを成り立たせている学問の探究方法
の原理も学んでいくのである。このような概念や原
理は,ブルーナーらが「学問の構造」と呼んでいた
ものと共通する。そこで,上で示した「本質的な問
い」を,以下,「学問の構造に迫る問い」と呼ぶこ
とにする。
ここで,「生徒は,一旦1つの問題の意味を把握す
ると……逆説的なことに,自分が新たな問題に直面
していることに気づくようになる」という(Wiggins,
l987a,p、14)。明らかだと思っていたことが,それ
ほど明らかでなくなってしまうからである。それ
は,我々に物事を改めて考えるよう刺激するもので
あり,それゆえ,生徒はそれをさらに探る新たな理
ii)性向に注目する問い
ところで,同じ「本質的な問い」と呼ばれるもの
でも,先の「学問の構造に迫る問い」とは異なるも
のがCESでは取り組まれていた。それは次のよう
な「本質的な問い」である(Cushman,1989)。
・私達は,誰の視点から,見たり,読んだり,
聞いたりしているのか。どのような角度ある
いは視点からか。
由を見出すことになる。このようなことは,そこで
扱われる観念が本質的であればあるほど起こりやす
く,したがって,生徒は,そこで扱われる同一の本
質的な観念に何度も様々な方法で挑むことになる。
・自分がいつ知ったかということを私達はどう
やって知るのか。その証拠は何か。それはど
のくらい信頼できるものか。
それは,これまで多くの研究者がその重要性を認め
・物事や出来事や人々は互いにどうつながって
ていながら,なかなか全うされることのなかった
いるのか。その要因は何で,その結果どうな
「螺旋型カリキュラム(spiralcurriculum)」を実
るか。それらはどのようにまとまっているか。
・何が新しくて,何が古いのか。私達は今まで
この観念に出くわしたことはないか。
現しようとするものであった。
螺旋型カリキュラムの提唱者として知られる人物
にブルーナーがいる'2)。プルーナーにとって「カリ
.それでどうなのか。なぜそれが問題となるの
キュラムは,社会の成員がいつも関心を持つ価値が
か。それは一体どういう意味なのか。
あると考えられる重要な問題,原理,価値を中心に
して編成されなければならない」(Bruner,1960,
p52=邦訳,67頁)ものである。そこで,「大人と
して知るだけの価値のあるもの」あるいは「子ども
のときそれを知ることでより良い大人になれるもの」
(p、52=邦訳,66頁)という条件を満たすものだけ
が「本質的なもの」としてカリキュラムの中で扱わ
これは,連盟の中核実践枝であるセントラル・
パーク・イースト中等学校(CPESS:CentralPark
EastSecondarySchool)で用いられていたもので,
「精神の習慣(habitsofmind)」に注目するために
考案されたものである'3)。ウイギンズによれば,
「精神の習慣」とは次のようなものであるという
(Wiggins,l989b,p、48)。
-52-
「本質的な問い」は「学問の構造に迫る問い」と
・人が知らないことを知っている誰かの話を聞
「性向に注目する問い」の2つに分類できることを
く方法を知る。
.ある観念の意味や価値を明確にするための問
指摘した。ただ,実際にはこの2つは別々に実践さ
いについて考える。
れるわけではなく,「性向に注目する問い」に答え
.新しく奇妙な観念を,注視するに値すると思
る中で「学問の構造に迫る問い」が生み出される形
えるくらい開放的で敬っている。
となっていた。つまり,「性向に注目する問い」を
・仮定や混乱が隠れている,型にはまった言明
土台に「学問の構造に迫る問い」が成り立ってい
について問う傾向を持つ。
た,ということである。
つまり,他人の意見に耳を傾け,概念を明確に
し,未知なるものを受け入れる態勢を整え,記述さ
まで,同じ「本質的な問い」による探究といって
れているものの裏に潜むものを看破しようとする習
も,どちらか一方に終始してしまう危険性は十分
慣のことである。
あった。
とはいえ,当時この2つは理論的には未分化なま
ここで重要なのは,ウィギンズが,脱文脈化した
現在,UbDで「本質的な問い」として実践され
技能の指導では批判的思考教授としての意味をなさ
ているものは専ら「学問の構造に迫る問い」で,単
元設計もこの「学問の構造に迫る問い」を軸に行わ
れる形となっている。したがって,「性向に注目す
ないという批判から,このような「習慣」に注目して
いた,ということである(例えば,Wiggins,l987a,
P、16)。それは,思考教授において性向の育成を重
視するウィギンズの姿勢を反映したものである。
「精神の習慣」として示されていたものは,ウィギ
ンズが育成を目指していた性向だったのである。そ
こで,上で示した「精神の習慣」に関わる「本質的
る問い」にあたるものは「本質的な問い」という言
葉では実践されなくなっている。では,性向への注
目はどうなったのか。
UbDで「逆向き設計」論とともに注目されるもの
に「理解の六側面(SixFacetsofUnderstanding)」
な問い」を,以下,「性向に注目する問い」と呼ぶ
がある。性向への注目については,この「理解の六
ことにしたい。
側面」が重要な役割を果たすと考えられる。
「理解の六側面」とは,文字通り,理解を捉える
側面を6つに整理したものである(表l)。それは,
理解は見る角度によって見え方が様々という立場か
ら,理解を見るレンズの役割を果たすものとして考
このように,ウイギンズは1980年代後半,「本質
的な問い」を軸にカリキュラムを編成することを主
張していたが,その「本質的な問い」は「学問の構
造に迫る問い」と「性向に注目する問い」の2つに
分類できるのである。そして,重要なことをすべて
教えようとする「網羅」型カリキュラムによって起
案されたものである】4)。そして,それぞれの側面に
ついてどのようなパフォーマンスに注目するかが設
こる問題を「学問の構造に迫る問い」が,また,論
理的技能の習得に偏った思考技能教授によって引き
定される。例えば,「電気」を扱った単元では,次
起こされる問題を「性向に注目する問い」が,それ
ぞれ克服する形となっていたのである。
&Wiggins,2004,p、165)。
【説明】電池がどうやって電球を光らせるか,
のようなパフォーマンスが設定される(McTighe
クラスの生徒に説明する。
【解釈】図式を解釈し,結果を予想する。
【応用】特定の課題を成し遂げるための電気回
4.UnderstandingbyDesignへの継承
以上で,ウイギンズが1980年代後半,いかなる問
題意識のもとで,どのような取り組みを行っていた
路を設計する。欠陥のある電気回路を修理す
のかを明らかにした。本節では,それが,1990年代
以降の理論にどう継承されたか,明らかにする。
【衡観】アメリカ合衆国が直流電流ではなく交
流電流を用いるのはなぜか。各様式の長所は
る。
何か。
(1)「理解の六側面」の役割
前節で,1980年代後半にCESで実践されていた
-53-
【共感】単流を通過する時の電子の体験を記述
する。
Gウィギンズの「看破」学習
表1「理解の六側面」
【側面1:脱明(explanation)】
【側面2:解釈(inteIpretation)】
出来事や活動や観念について聡明で正当 意味を与える語り,翻訳,メタファー,
な答弁を提供する洗練された適切な説明 イメージ,芸術的技巧。それはどういう
と理論。なぜそうなるか?そのような 意味か?なぜそれが問題になるか?そ
出来事を説明するものは何か?そのよ れは人間の経験において何を説明・解明
うな活動はどう説明されるか?我々は したのか?それは私とどう関わってい
どうやってそれを証明できるか?これ ろか?何が意味をなしているのか?
は何につながっているか?これはどう
【側面3:応用(application)】
新しい状況や多様な文脈で効果的に知識
を用いる能力。我々はこの知識や技能や
プロセスをどこでどうやって用いるか?
この特定の状況の要求に応じるために私
の思考と活jIM1をどう修正すべきか?
機能しているか?
【側面4:衡観(perspective)】
批判的で洞察のある視点。それは誰の視
【側面5:共感(empathy)】
他の人の感覚や世界観を「内側に」取り
点からか?どちらの観点からか?思い 込む能力。それはあなたにとってどのよ
込んでいるもの,あるいは,暗黙となっ うに思えるものか?私が見ていないも
ているもので,明確にし考慰しなければ ので彼らが見ているものは何か?もし
ならないものは何か?何が正当とされ 理解しなければならないなら,私は何を
ているか?適当な証拠はあるか?それ 経験する必要があるか?私に感じ分か
は道理に適ったものか?その観念の長 らせるために,作家や芸術家や役者は何
所と短所は何か?それはもっともらし を感じ,見て,努力していたのか?
いものか?その限界は何か?これを見
ろ新奇な方法は何か?
【側面6:自己翌職(selトknowledge)】
人の無知を知り,そして,人の思考・活
動パターンがどのように理解に偏見を持
たせるだけでなく活気を与えてくれるか
知る知恵。私は何者かということが,私
の見方をどう形成しているか?私の理
解の限界は何か?私の盲点は何か?偏
見や習慣や様式のせいで私は何を誤解し
ているか?私はどうやったら一番良く
学べるか?私に機能するのはどのよう
な方略か?
出典:McTighe&Wiggms,2004,P23を参照
【自己認識】共通の誤概念を査定する予備テス
らっているということに他ならない。
トと事後テスト(例えば,力学概念調査)を
行い,生徒に,自分の理解の深まりを振り返
このように,UbDでは,「性向に注目する問い」は
「本質的な問い」としては実践されなくなっている
らせる。
ものの,「理解の六側面」から引き出されるパフォー
UbDでは,学習や評価の課題設定にあたって,
マンス群によって性向に注目する必要性が示唆され
このような複数のパフォーマンスがバランス良く盛
ているのである。したがって,UbDにおいて「本
質的な問い」は学問の構造に迫ることに役割が限定
り込まれることが求められている。
人間は特定の性向に傾いているもので,自分の得
意とする側面に偏りがちになる。しかし,ウイギン
ズは,1つの側面だけ過剰に発達してしまうことに
される一方で,性向に注目する役割は「理解の六側
面」が担う,という形で役割分化が図られている,
と見ることができるのである。
は強い危機感を抱いている(Wiggins&McTighe,
1998,p・'68)。それは,例えば,「説明」という側
(2)「真正の評価」論提唱の真意
面にしか注目できなかった場合,とにかく自分の説
明を「合理的」に組み立てようとするあまり,自分
ウィギンズの教育方法論においては,「学問の構
造に迫る問い」による探究によって重大観念を看破
の間違いを認めたり,他人の視点を受け入れたりす
する中で新たな性向を養成していくことが,学習の
ることができなくなってしまう,という危機的状況
基本スタイルとなっている。そこで,適切な性向で
である。
探究を続けた結果はどのようなパフォーマンスと
しかしながら,六側面すべてを用いることが容易
でないということについてもウィギンズは自覚的で
なって表れるか,ということが重要な論点となる。
そのようなパフォーマンスもまた,「理解の六側面」
ある(Wiggins&McTighe,1998,p,171)。なぜな
から引き出されるわけだが,ここでは,この論点が
ら,自分に不慣れな側面を発達させようと思うと,
評価の状況設定にも影響してくるということに注目
それまで培ってきた性向を変革することが必要とな
したい。なぜなら,適切な性向で探究を続けられた
るからである。6つもの側面に注目させようとする
かどうかは,現実の複雑な状況で発揮されるパ
ということは,意識的に性向を変革させることをね
フォーマンスの中でしか見られないからである。
-54-
本稿冒頭で述べた通り,ウィギンズは「真正の評
5.結論
価」論の提唱者として知られている。そして,評価
に真正のパフォーマンス課題を求める立場はUbD
本稿では,ウィギンズが提唱する「看破」学習の
においても変わらない。さらに,ウィギンズが「真
原型が1987年には確立していたという事実から,ま
正の評価」論を提唱するようになったのは,「本質
ず1980年代後半のウイギンズの所論に焦点を当て
的な問い」による「看破」学習を公言した(1987
た。当時ウィギンズは,重要なことをすべて教えよ
年)直後の1989年である。したがって,「学問の構
うとする「網羅」型カリキュラムと,論理的技能の
造に迫る問い」による探究が適切な性向を伴って実
指導に偏った思考技能教授により,「無思慮な習得」
施されたかどうかを見るために,真正のパフォーマ
が招かれることを憂慮していた。
次に,この問題を克服するために,当時ウィギン
ンス課題が必要とされたのであり,ここに,現実的
な文脈を評価課題に要求する理由がある。
ズがどのような取り組みを行っていたのかを明らか
ウィギンズが「真正の評価」論を提唱したのは,
にした。ウィギンズは,「思慰深い教育」に向けて
単に標準テストやそれを擁護する精神測定学
「問い」を追求し続けることの重要性を主張してい
(psychometrics)を批判するためではなく,円熟
した「精神の習慣」を母胎に「よい判断(good
judgement)」を生み出す「思慮深い理解」を授業
では,「本質的な問い」を軸にカリキュラムを編成
に実現するためだったということが先行研究で指摘
は「学問の構造に迫る問い」と「性向に注目する問
されている(遠藤,2003)。そして,この「思慮深
い」の2つに分類できるものだった。そして,重要
い理解」という言葉には,「問題や複雑な状況に,
なことをすべて教えようとする「網羅」型カリキュ
効果的なこと,変化力のあること,あるいは斬新な
ラムによって起こる問題を「学問の構造に迫る問
た。例えば,当時彼が研究部長を務めていたCES
することが試みられていた。その「本質的な問い」
ことができる」という意味が込められていた
い」が,また,論理的技能の習得に偏った思考技能
(Wiggins,l989a,p、705)。それは,性向を変革しう
教授によって引き起こされる問題を「性向に注目す
るほどの深い探究を続けている者にしか実現し得な
る問い」が,それぞれ克服する形となっていた。
いものである。つまり,提出される探究の成果が適
さらに,ウィギンズのこのような取り組みが,そ
切な性向を伴ったものであるかどうかを見るため
の後どう継承されたかということも明らかにした。
に,「真正の評価」論が提唱されていたということ
ウィギンズの教育方法論においては,単に学問の構
である。
造を看破するだけでなく,そこに適切な性向を伴っ
「逆向き設計」論においては,指導計画を立てる
前に評価の構想が行われるため,授業で重視するも
伴った探究の成果を評価するためのパフォーマンス
ていることが求められた。そこで,適切な性向を
のが評価課題に盛り込まれていることが特に重要で
を設定するために,UbDでは「理解の六側面」が
ある。したがって,もし適切な性向を伴った探究を
重要な役割を果たしていた。また,適切な性向で探
重視するなら,そのことが生徒をはじめとする評価
究が続けられたかどうかは,現実的な状況で発揮さ
関係者(stakeholders)に分かる評価課題が構想さ
れる(真正の)パフォーマンスの中でしか見られな
れていなければならない。「真正の評価」という名
いため,評価課題に真正の文脈が要求されていた。
で構想されていたのは,適切な性向を伴った探究を
このように,ウィギンズの教育方法論は,学問の
重視しているということを評価関係者に表明した評
構造に迫る中で新たな性向を養成することをねらっ
価課題だったのである。
たものであり,そのことは評価にまで貫かれている
このように,適切な性向を伴った探究の成果は,
のである。
「理解の六側面」に基づいて設定されたパフォーマ
1980年代後半のCESでは,学問の構造に迫る役
ンス群によって評価されるのであり,そのようなパ
割も,性向に注目する役割も,両方「本質的な問
フォーマンスが発揮される状況を評価課題に設定す
い」が担うことになっており,理論的には未分化
ることは「真正の評価」論として提起されていたの
だった。それが,現在のUbDにおいては,学問の
である。
構造に迫る役割は「本質的な問い」が,性向に注目
-55-
G・ウイギンズの「看破」学習
する役割は「理解の六側面」が担うという形で,理
論的に整理されている点が重要である。これによ
り,「学問の構造に迫る中で」「新たな性向を養成す
る」という視点がより明確になるからである。こう
して,「看破」学習は,ウイギンズが1980年代に憂
慮した「無思慮な習得」という問題をより確実に克
服する手だてとなるのである。
た刑嗣は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが,
やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り,
まっさかさまに転がり落ちてしまう」(カミュ箸・清水
徹訳rシーシユポスの神話』新潮文庫,1969年)。
4)ハーシュが1980年代の批判的思考教授を批判する中
で「文化的リテラシー」論を提唱したことについては,
樋口(2002)を参照。現在,ハーシュの「文化的リテ
ラシー」論に対しては,ジルー(H・SGiloux)らの
これまで日本では,標準化された筆記テストで測
「批判的リテラシー(criticalliteracy)」論が位置付け
られる学力は非常に限られたものでしかないという
られることが多い。ただ,「批判的リテラシー」論が,
反省から,その代替としてポートフォリオ評価法や
現場実践の教育方法にまで影響するほど台頭してくる
パフォーマンス評価が求められていた。しかし,本
のは,1990年代に入ってからである。したがって,こ
こでのウィギンズの議論は,「批判的リテラシー」論
以前のものとして理解する必要があるだろう。なお,
「文化的リテラシー」論と「批判的リテラシー」論の
教育方法面での対立の論点については,谷川(2001)
稿で明らかにしたように,それらが依拠していた
「真正の評価」論の背後には,学問の構造に迫る中
で新たな性向を養成することを意図した教育方法論
があった。したがって,「看破」学習のような教育
方法論や,それを最終評価にまで貫く「逆向き設
計」論のようなカリキュラム設計の枠組みが組み合
わされていないと,ポートフォリオ評価法やパ
フォーマンス評価の真価は発揮されないのである。
最後に,残された課題を一つ指摘しておく。それ
は,ウィギンズの教育方法論をデューイの探究論と
の比較で読み解く作業である。ウイギンズの「看破」
学習は,「知識が(問いや競合理論から)どうやっ
を参照のこと。
5)実際,最近の批判的思考教授研究も,1980年代の米
国で思考を技能として教授することが強調されていた
ことを指摘していろ(樋口,2002)。
6)ここで「性向」とは,不測の事態でもすぐに対応で
きるよう維持された心の構えのことで,それに向けて
意図的に習慣を変えていくことが目指されている
(Wiggins,l987b,p、41を参照)。
7)批判的思考研究において,論理的技能に重きを置く
立場を「論理主義(logicism)」,論理主義以降の批判
て知識となっていったのか,という知識生成過程の
的思考概念を「第二波(secondwave)」と呼ぶこと
がある(Walters,1994)。ウイギンズの主張は明らか
注意深い再現が,生徒に本物の理解を育む鍵とな
る」という考えの上に成り立つものである(Wiggins,
1998,p、210)。それは,デューイの「発生的方法
に論理主義的な批判的思考教授を批判したもので,
「第二波」の系譜に属するものと言えよう。なお,こ
(geneticmethod)」'5)と共通する考え方である。ま
た,本稿で触れたウィギンズの「性向」概念の理論
的基盤には,デューイの探究論(特にDewey,1933)
の分類に従って批判的思考概念を整理したものに道田
(2003)がある。
8)CESは,ハーバード大学の元教育学部長セオドア・
サイザー(TheodoreRSizer)が1984年にブラウン
が据えられている。ただ,本稿では,これらを相対
大学に創設した中等教育改革支援組織で,ウィギンズ
は1986~87年,連盟の研究部長として,サイザーの教
育理念(Sizer,1984など)を具体的なカリキュラムに
化して検討することはできなかった。今後の課題と
したい。
翻案する役割を担っていた。なお,エッセンシャル・
スクール連盟の取り組みについては,安藤(1997)や
註
l)2005年1月現在,教育NGO,AuthenUcEduca‐
tionの会長。民間の教育コンサルタントとして活動
を続けているが,これまで州規模の教育評価改革も
多数主導している。httpWwww、grantwiggms、org/
2)httpWwww、ascd・org
3)これは,「シーシュポス(Sisyphus)の神話」にな
ぞらえてのものである。「神々がシーシュポスに科し
後藤(2002)を参照。
9)例えば,1986~90年におけるCES加盟枝の実践を
調査報告したMcQuillan&Muncey(1994)も,当
時CESで取り組まれた教育方法論がウィギンズの著
作の中で議論されていたことを指摘している(p、266,
276)。
10)「アーサー・ミラー全集1(改訂版)」倉橋健訳,
-56-
早川書房,1988年。
11)これは,プルーナーの著作(Bruner,1973)のタイ
UniversityPress.=鈴木祥蔵・佐藤三郎〔訳〕(1963)
『教育の過程』岩波雷店。
トルとなっているものである。
12)ただし,ウィギンズは,この「螺旋」メタファーが
デューイの『経験と教育(E工perie7Tce(mdEuucα‐
tjo〃)」にすでにあったとし,デューイの教材論に依
拠した論も展開している(Wiggins,I987b,ppl37l39)。
13)このような「習慣」への注目はエッセンシャル・ス
クール連盟全体で見られるものであるが,連盟の創設
者であるサイザーは,この点についてはウイギンズと
マイヤー(DeborahMeier:当時のCPESS校長)か
ら多くの示唆を得ていることを伝えている(Sizer,
1992,p235)。
14)「理解の六側面」は,プルームらが考案した「教育
目標の分類学(タキソノミー)」に類似しているが,
両者の構造的な違いについては図2に示した通りであ
る。プルームらの「教育目標の分類学」は,階層構造
をなしていて,最初「知識」に目が向けられるため,
「応用」「分析」「総合」「評価」といった高次の思考が
後回しにされやすかった。そこで,ウィギンズらは,
最初から高次の思考を複数の側面で見ていこうとする
のである(McTighe&Wiggins,2004,p、208を参照)。
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-58-
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