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家を獲得する人々 - ホーム|島根県立大学短期大学部 松江キャンパス
家を獲得する人々 ――ブラジルの住宅事情―― 小玉文子 見てきたことを報告する。 ②ファベーラと呼ばれているスラムで暮 らすケース。 ③ホームレスを支援する宗教団体や、市 などからの投資によって成り立つ収容 地球の反対側へ…… ブラジルまでは島根から丸 施設(収容期間は決まっている)で暮 ④都市インフラ未整備の土地を安く買い 二日かかった。朝、松江駅を 国際空港に到着した。一カ月 求め、自力で家を建築するケース。 らすケース。 の滞在予定だったので、家に ⑤もともと一家族用だった住宅に複数家 やくもで出発、昼過ぎに関西 ある中で一番大きいトランク 族が居住するケース(コルチッソと呼 もちろんこの限りではなく、路上生活 を担いで出発した。そして関 が約九時間。サンフランシス を余儀なくされている人もいる。ここで ばれる)。 コで待ち時間が三時間。さら は、①~③の三つのケースについて紹介 空からサンフランシスコまで に六時間かけてワシントンD する。 に、人々がどのような住居で生活してい ないだろう。私は海外に旅行に行くたび 地や家に勝手に住んでいるなんてことは ……。まさか路上生活をしたり、人の土 か。戸建て住宅、マンション、アパート あなたは今どんな所に住んでいます うした状況のなか、低所得者が向かう住 により、貧困問題が深刻化している。そ が激しく、近年失業者や低所得者の増大 口の大半は肉体労働者である。貧富の差 える南東地域への集中が著しい。就業人 やリオデジャネイロなどの大都市圏を抱 の人口は約一億八千万人で、サンパウロ き起こされていた。ブラジル いたるところで住宅問題が引 と い う 三 つ の 条 件 が 重 な り、 貧困、都市インフラの未整備 パウロ市では、急激な都市化、 まず初めに降り立ったサン む人の中には、何日かに一度しか外出し エレベーターはない。このため上階に住 た。二十二階の高層ビルにもかかわらず ビルで、大きな二十二階建てのビルだっ のは、もともとどこかの会社のテナント ルは多数あるそうだが、私が案内された き、見学した。MTCが占拠しているビ 拠したビルを現地の方に案内していただ るのだが、最初にMTCという団体の占 まうのである。複数の不法占拠団体があ すぐに占拠して、住居として利用してし はすさまじい。都心に空きビルがあると つかないと思うが、不法占拠ビルの実態 日本ではあり得ないことなので想像も 二十二階建て、エレベーターなし Cに飛び、そこからサンパウ ロ空港までが十時間。本当に るかを見聞しノートに記録している。今 宅は大きく五つのケースに分けられる。 疲れた。 回は数年前に日本の反対側ブラジルに旅 が遠くなると思った。だが、ダウンタウ ない人もいるそうだ。二十二階なんて気 して暮らすケース。 ①都心にある空きビルを団体で不法占拠 に案内してもらい、人々の暮らしぶりを 行した際に、現地に住む日系三世の友人 ■サンパウロのファベーラ。このファベーラは危険なため入れなかった。 38 ンの中心部に位置しており、立地条件は とても良い。 ビルの入り口には見張りが二人、大き な鉄の扉を背にして立っている。どこか り、 た く さ ん の 洗 濯 物 が 干 し て あ っ た。 まで上がると、屋根のない広い廊下があ とすれ違うことができる狭い階段を三階 法性を全く感じさせなかった。人がやっ た。 念も込められているのではないかと思っ 人々を追いやる金持ちや政府への反発の け大きい意味をもつのだ。郊外に貧しい にとって、都心に住むというのはそれだ 読み書きができないので、できる仕事が とリーダーに尋ねると「あっても彼らは 思 っ た。「 他 の 仕 事 は な い の で す か?」 てもたいした稼ぎにはならないだろうと 店の方が多いくらいだった。丸一日働い 限られてしまう。貧しい子どもたちは学 ことが多い。この国では、読み書きがで 校には通えず、親も読み書きができない 次に、MMCという団体のリーダーと きない人が多い」と説明してくれた。 が溜まっているのが目に付いた。 はいえず、廊下の隅や階段の途中にゴミ だが、やはり日本の住宅のように清潔と り、 設 備 も 整 い 安 全 な 住 居 だ と 感 じ た。 んと構えていた。入り口には同じく見張 ンピューターや電話もある事務所をきち で、サンパウロ都心の占拠ビル二階にコ 先のMTCと同様、空きビル占拠の団体 の 略 で、「 中 心 街 に 住 居 を 求 め CENTRO る運動」といった意味である。MMCは と建物の不法建築という二重の意味での いう。ファベーラは、①土地の不法占拠 うなバラックの密集地域をファベーラと 建 て ら れ た 低 質 な、「 家 」 と 呼 べ な い よ 土地(急勾配地や水はけの悪い土地)に 都市の周辺部の公有地や劣悪な条件の さて、次はファベーラと呼ばれるスラ MOVIMENTO DE MORADIA DO スラム街へ…… ゴミの問題などから周辺地域住民たち のほとんどは近辺の路上で露店商をして りが二十四時間体制で立っている。住人 ル語の ビ ル も 見 に 行 っ た。 M M C は ポ ル ト ガ コンタクトが取れたため、MMCの占拠 乗っ取りビル パート2 電気、水道も通っており、料金は一家族 ずつ均等に割って支払うとのこと。不法 いそうだ。 占拠でも、電力会社などは供給を断らな 階段はゴミ置き場 本当に違法なのかと疑いたくなるくら の反対運動などで追い出されてしまう 違法性、②セルフ・ビルド、③都市周辺 ム街だ。 ケースも多々あるという。だがビルが大 いるという。もちろん占拠ビルなので家 い、人々はきちんと普通の生活をしてお きく組織化されているため、警察も手を 費等はビル全体 賃はタダ、光熱 出しても、その後のビルの利用法がある 焼いているらしい。そこに住む人を追い り、老人が名簿のようなものを広げてい 分を各家族に割 そ う い え ば、 り振る。 彼らは都心のビルを占拠することをや MMCのビルに わけでもなく、やはり不潔さや治安の悪 めない。彼らが都心に住みたいと思うの 着くまでの道の いた。その数は に は、 い ろ い ろ な 事 情 が あ る。 例 え ば、 た。彼らの中の一人は、日用品一つ買う とても多く、一 の露店が並んで の に も、 郊 外 に 住 む と 大 変 で あ り、 交 見したところ買 りにはたくさん 通 費 の 問 題 も あ る と 言 っ て い た。 貧 し い物客よりも露 職場に近い、職探しもしやすい、女性の く、車などの交通手段を持たない人たち 場合には買い物が便利などの声が聞かれ 化などが地域の人々の不安材料である。 入り口の見張りと受付は、ビル内に会員 以外の出入りがないかなどを、二十四時 間体制で監視している。これらの仕事は ビルに住む若者や、団体の幹部などで行 われるという。団体の会員証のようなも の も あ り、 写 真 付 き だ っ た り と 本 格 的 だった。 ほとんどが家族で居住しており、たく さんの子どもたちが走り回ったり泣きわ めいたり、本当にアパートみたいで、違 ■占拠ビル。入り口には MMC の 旗が掲げられている。 !? た。人の出入りを記録しているのである。 ら持ってきたのか、古いカウンターがあ ■ファベーラの入り口にて。ガスボンベの向こう側が入り口。 が あ り、 ハ エ が た た便や腐った食品 にはどろどろとし 込めていて、道の脇 体的に腐敗臭が立ち 麻薬取引は行われている。私は、まだ死 は 危 険 だ。 暗 黙 の 了 解 と い っ た 感 じ で、 ている人も多いので徒歩でのパトロール 察による手入れも入らない。銃を所持し 道が狭くパトカーも入れないため、警 るらしい。メディアにも取り上げられる うに言った。 の力でここまで頑張ったのよ」と得意そ 製場にいた女性は「私たちは、自分たち 子どもたちが楽しそうに遊んでおり、縫 なっているのだ。保育園ではたくさんの りつつある。そこに住む人々は、活気に ようになり、リオの観光名所の一つにな ここは近年ファベーラ観光も行ってい 我慢した。 に た く な か っ た の で、 そ の 大 き い フ ァ う ベーラについては、丘の上からの見学で よ かっている所もあっ は た。 し か し 人 々 に お 「ボンディア」と挨 拶すると皆元気に返 いうのが現状のようだ。もちろん一般市 で、研究者たちも恐れて深入りしないと を踏み入れたがらない地域ということ ベーラ内の治安は非常に悪く、警察も足 ど、きちんとしたことはわからない。ファ ラについての資料は少なく、居住人口な 部に多い、という特徴がある。ファベー る。そして、貧しさから脱却できず、ファ けない、という現実に直面することとな 舎の物価の差や、仕事になかなかありつ ると思い移住してきたのだが、都市と田 はサンパウロという大都市には仕事があ らの手で建てたというファベーラ。彼ら めるまでの仮住まいとして都心近くに自 を求めて移住してきた人々が、仕事を始 もともとは、仕事 山の斜面を裂く 起伏の激しい カーニバルで有名である。 は か な り 違 っ た 地 形 の 都 市 だ。 リ オ の 案内してもらった。リオはサンパウロと ラだった。現地の女の子に半日がかりで ではないかというくらい大きなファベー る。徒歩で全部回ったら丸一日かかるの オデジャネイロで見たファベーラであ 風変わった雰囲気を持っていたのは、リ さて、サンパウロのファベーラとは一 住宅だ。それでもなお、家は建つ。 に何人もの命が奪われている。命がけの まうファベーラはたくさんあり、その度 や台風などの自然災害により崩壊してし ただ、やはり立地条件は悪いので、大雨 満ちあふれ、生きることに努力していた。 民も近寄らず、得体が知れないままどん ベーラに居住し続けることになるのだと ようにしてファ リオのファベーラ観光 どんと拡張してきたようである。 いう。当初ファベーラは、市外から移住 ベーラは広がっ してくれた。 このファベーラ内の見学はとても危険 はサンパウロ出身の人が半分以上の割合 してきた人が多かったが、最近の調査で どが提供する収容施設である。サンパウ 最後に紹介するのは、宗教団体や市な 初めてのATM 機器など一切の持ち物の持ち込みを控え なため、バッグやカメラ、ビデオ、録音 こには学校や商 ていた。不法占 サンパウロでも最大規模と言われる 性だけが働ける 店、保育園、女 を占めているという。ブラジルの貧困化 はギャングが支配しており、先日も麻薬 ファベーラを見に行った。しかし、そこ 縫製場などがあ る よ う に 言 わ れ た。 サ ン パ ウ ロ 市 内 の ておらず悪臭がした。 取引や殺人があったそうで、住民の知り る。つまり、ス 拠地なのに、そ 悪臭の中を 合いでもいなければ、中に踏み込まない ラムの中だけで が進んでいる証拠だろう。 初めに行ったファベーラでは、そこを 方がいいと注意された。大きいファベー 生活が成り立つ ファベーラの道は、車などはとても通れ 管理している管理人と一緒に歩いて回っ という。 ラのほとんどはギャングの支配下にある ないほどの狭さで、もちろん舗装もされ た。水はけの悪い急勾配地にたくさんの ようなつくりに バラックのような家が密集していた。全 40 ■自力で家を建築する人々。 ■ファベーラ内の通路。 いうが、その中で最も設備が充実してい ロ市にはこういった施設が数多くあると 設 が 嬉 し く て、 楽 し ん で 預 け る と い う。 ため口座が開設できず、初めての口座開 という。誰も、それまで住所不定などの だ。更正施設のように厳しい規則がある 施設内で職業訓練も受けられるそう は、小さな個室が特別に与えられる。 す。子どもが三人もいて、養っていくた トを作るお金を下さい! 僕は頑張りま 働きに行きたい。一年でもいい。パスポー 用ガエルの養殖をやります! 以前テレ るというキリスト教系の施設へ足を運ん リフォームしてこのプロジェクトに使用 たんです。僕に投資してください!」 ビでカエルの養殖をして成功した人を見 めに日本へ行って働いてお金を貯めたい ゴミを拾ったり、リサイクルペーパー とが人々のつながりや、市から来た職員 しているため広大な敷地にあり、そのこ わけではなく、自由な雰囲気だった。し を作ったりしながら、自分の生き方を見 それが、結果としてこのATMの利用率 で四十分もかかり、立地的にはやはり郊 つめなおしている。どうして貧しくなっ この施設の住人たちはやる気はあるの だ。 シ ス タ ー が 入 り 口 で 迎 え て く れ た。 外に近いといえる。入り口に銀行のAT とのコミュケーションを取りづらくさせ だ。チャンスを摑もうと、一生懸命生活 んです。そしてブラジルに帰ったら、食 M が あ り、 エ ン ト ラ ン ス に な っ て い た。 てしまったのか、どうしたら今後の生活 ているという問題もあるという。確かに している。だが、何年もこの施設に入っ かし、もともとそこにあった古い倉庫を 貧しい人々が暮らす施設のはずなのにな をより良いものにできるか。市から派遣 施設内を見学しているだけでも足がとて を引き上げているという。 ぜ な の か、 不 思 議 に 思 っ て い た ら、 ま されてくるスタッフなどとの会話や共同 ていられるわけではない。最長で二年だ 宿泊している市内のホテルからタクシー あ、とりあえず見てくださいと中に通さ も疲れるくらい広かった。 そうだ。その後、また路上生活やファベー 生活の中で失ってしまった自尊心を取り 戻せるよう、向上できるよう、日々考え れた。 ラに戻ってしまう人も少なくない。シス 次にシスターは体育館に案内してくれ カエルの養殖がしたい! 施 設 内 は、 老 人 用 ベ ッ ド や エ レ ベ ー た。体育館ではたくさんの人がパフォー ながら生活している。 階くらいあるというリサイクルの初めの タ ー な ど、 福 祉 面 の 設 備 も 充 実 し て い マンスの練習をしていた。次の施設内の てに驚いた。住宅の不法占拠やファベー 初めてブラジルへ行き、見るものすべ 施設内にあるリサイクル場に集め、三段 一段階まで加工し、古紙を作る業者など た。食事は施設内の食堂で日本円で一食 はお年寄りと子どもたちが展示用の絵を 大道芸大会で発表するらしい。隅の方で ターはそう言って小さなため息をつい に引き取ってもらい生活している。その 孤独な人々は犬 約二十円で食べられる。その他、貧しく ていることが多 と路上生活をし たら、一人の男性が興味深そうに笑顔で カメラやビデオで撮影しながら回ってい に絵を見せてくれた。施設内をデジタル 描いており、近くに行くと恥ずかしそう ベーラなどで危険な目にあうこともなく てあり、出発前は少し不安だったが、ファ ジでは、渡航の是非を検討せよ、と書い と出くわし驚いた。外務省のホームペー ラなど、日本ではあり得ないことに次々 た。 収入を、皆競うようにATMに預金する いため、無料の 語りかけてきた。 上心が高かった。貧しいのにもかかわら ファベーラなどに住む人々は、明るく向 無事に帰国した。今回の旅行で出会った 犬小屋を設置し 「 い い え、 違 い ま す よ。 た だ の 見 学 で 自分はテレビに出られるのか?」 「 こ れ は 今、 ビ デ オ を 回 し て い る が、 てあった。超大 型ランドリーや 映画館などの設 備も備えてい 元気をもらった気がする。日本は豊かだ ず、顔は明るかった。そんな人々に私は 通訳の友人にこう言ってもらったのに が、本当の豊かさとはなにか……と考え すよ。そんなテレビだなんて……」 きい倉庫のよう もかかわらず、彼は陽気にカメラの前で た。ベッドは大 な空間にたくさ (こだま・あやこ/文化資源学系二年生) させられた。 「日本で僕らがメディアに取り上げら 喋りまくった。 るが、小さな子 れるならこう言ってくれ! 僕は日本に ん並べられてい ども連れの人に のんびり雲|第2号| 2008 41 施設の住民たちは、街で拾ったゴミを ■宗教団体が提供する収容施設。 外観は工場か倉庫のよう。 再生 の春 のもうひとりの研究パートナーと三人 で、明日の事前準備と旅行行程について 打ち合わせをおこなったのち、宿に戻っ て機器の調整をおこなう。翌五月一日も 穏やかな晴れ。午後から、一週間分の食 糧を準備するために市内の大型スーパー に入り、買い物を終えて出てくると、冷 たい風が吹きはじめ、少し雲が出てきた。 翌五月二日は、ウランバートルから東に 内に仲間を求めないことにこだわってい 待ち合わせることとした。 で、なければ野営と決め、明日朝八時に ―― は、日本からグループを引き連れてやっ るから、ひとりで荷物を担ぐことになる モンゴルでの現地調査から ―― 三百キロ進んでウンドゥルハーンという 四 月 二 十 九 日、 浜 田 駅 前 の バ ス 停 で、 てくるが、わたしの場合、目的国の空港 のだろうかと、これまでのこだわりをう 井上 治 町に入り、そこから北に転じて行ける所 広島行きのバスの中に大きな荷物をおさ までの行程はたいてい一人で、現地でグ まで進み、そこにホテルがあればホテル める。今回は、福岡空港から北京を経由 らめしく思い出した。 などを詰めた大型のアタックザックを一 を入れたザックと、衣服とキャンプ用具 がり、取材のための精密機器や研究資料 るこの日、気温は二十五度近くにまで上 桜の季節も終わり、まもなく五月にな するのかを認識したいという考えが、最 は組まない。自分がどれだけ外国で通用 る。日本人の仲間や日本にいる外国人と る。最悪でも、現地の研究者と仲間を作 とをあからさまにしているように感じ を研究する者として自立できていないこ り込むのは、その中にいる自分が、地域 日本から研究旅団をつくって他国に乗 の 高 地 に あ り、 札 幌 よ り も 北 に 位 置 し、 ウランバートルは富士山の五合目程度 へ向かう。 準備しておいた車でウランバートル市内 ゴ ル の 研 究 パ ー ト ナ ー と 挨 拶 を 交 わ し、 ンバートルに到着。迎えに来ていたモン のフライトで昼前にモンゴルの首都ウラ 到着し、定宿で一泊。翌三十日は朝八時 福岡から予定通りのフライトで北京に る「白樺」である。 ルドワークの目的は森林地帯に生えてい 徴が帯状に分布している。今回のフィー 地帯と、比較的はっきりとした地理的特 に森林地帯、中部に草原地帯、南に沙漠 の「森林」である。モンゴル国では、北 的に目指す地点は、ロシアとの国境方面 は今回の調査旅行の目的ではない。最終 牧」が思い浮かぶが、「草原」と「遊牧」 モンゴルといえばすぐに「草原」と「遊 ■白樺樹皮の研究 ループがそろうということが多い。 人で担いで動けば、さすがに汗ばんでく 近までのわたしの地域研究者としてのこ 典型的な内陸性気候のところなので、寒 ゴルでフィールドワークをおこなうのは してモンゴルに向かう。この時期にモン る。こういうときに限って、島根がフィー だわりとしてあったことも事実だ。 初めてだ。 ルドならどんなに楽かと思う。 同で、モンゴル語が書き付けられた十七 世紀頃の白樺の樹皮(「白樺文書」)を研 ここ数年、モンゴル・中国の知人と共 も寒くはなかったが、吐く息はまだ白い。 究 し て い る。 モ ン ゴ ル 国 の 西 部 と 中 部、 汗は一滴もでてこない。思っていたより あ っ た が、 今 は ち ょ っ と 無 理 だ と 思 い、 そもそも降水量の少ないところだが、春 中国新疆ウイグル自治区北部から出土し 冷で乾燥が激しい。日本でかいたような 島根に来てから、メールやチャットや 去年は四十キロに荷を調整したが辛かっ はとくに降水が少ない。走っている道の 中国辺境を三カ月ほど歩き回ったことが We bカメラで仕事ができる環境が整っ た。 も う だ め だ、 と 限 界 を 知 っ た の で、 たものなので、いったんクリーニングと 昔はひとりで八十キロの荷物を担いで たことも手伝って、中国、モンゴル、ロ 左右の草は黄色っぽくなっている。 ■数十キロの荷を担いで シアなど外国の仲間と共同研究やら共同 今回は三十キロにおさえて軽くしたつも 修復・復元をしなければならず、文字を りだったが、それでも汗が噴き出た。国 アパートに荷を下ろして、モンゴル側 執筆する機会が多くなった。友人の多く 42 陸性気候のところであり、乾燥 の 水 分 は あ っ と い う 間 に 乾 く。 疆ウイグル自治区北部で現地調査を行っ 新疆北部では、文書出土地点のかなり 折からの強風によって、乾いた 読むまでに大変な思いをした。だいたい 字が書き付けられている白樺の樹皮につ 北方に居住するトゥバやウリャンハイと 地表面から軽い土が舞いあげら が激しい。ちょっとの雨雪程度 いて調べることにした。さっそく、ウラ いう少数民族が白樺の樹皮で器物を製作 れて砂嵐となる。 た。 ンバートルで事前の調査を行ってみた。 し使用していることがわかったが、三カ の解読のめどがたった一昨年からは、文 判明したのは、モンゴルでは白樺樹皮 る が、 自 然 発 火 の 場 合 も あ る。 人間の不注意でおこる野火もあ 言 え ば 山 火 事 と い う と こ ろ か。 野火がおこっている。日本風に こ ち か ら 白 い 煙 が 立 っ て い る。 方向に目をやると、地面のあち いるのではないようだ。風上の がわれわれの視界をさえぎって しかし、どうも砂嵐の砂だけ 所の出土地点その場所では、白樺樹皮の こで次回の調査は、今も樹皮を利用して 生活利用そのものがなくなっていた。そ ゴル国の北東部に住むブリヤートと呼ば いる可能性がきわめて高いブリヤートの がほとんどなくなってきているが、モン れるモンゴル系民族のところではまだ用 二カ月ほどモンゴルの仲間と連絡を取 住むモンゴル国北部の森林地帯を目指す たが、手順としては、いま研究している り合い、白樺樹皮を用いるブリヤートは いられているということであった。すぐ 白樺文書が出土した地点での白樺の状態 モンゴル国の北東部に位置するドルノド ことにしたのである。 や 利 用 状 況 を 調 べ る の が 先 で あ る の で、 風にあおられた砂塵が、乾燥し きった地表面やそこにまばら生 える水気のない草に勢いよく当 も大学を休む機会がなく、おそらく 結果、四月の末にならないと双方と 勘 で ま ち が い な く 晴 れ る と 断 言 す る し、 だ横殴りの状態だった。運転手は長年の 降りは少しおさまったが、それでもま 火は大規模になれば甚大な自然災害をも たことがわかった。この吹雪と砂嵐、野 いくつかの丘や森がすでに焼けてしまっ に 発 展 す る の だ。 車 か ら 見 た 限 り で も、 それを強風があおり乾燥が助けて、火事 た る。 こ の と き の 摩 擦 が 原 因 で 発 火 し、 樹皮剝ぎの時機を逸することだろう 時間を無駄にして途中で野営するより たらすが、モンゴルの春の風物詩のよう も、少しでも目的地に接近しておこうと いうことになった。走り出した車内はか とになり、今回の調査になったので あった。 につくと凍る。寒さに耐えきれず、防寒 なものだ。珍しい自然現象ではない。 ■吹雪・砂嵐・野火 がほとんどない。吹雪だ。気温はま い。窓を見ると、外は真っ白。視界 ま っ た く 開 け ず、 あ た り は 黄 色 っ ぽ く、 んだ。だが風は相変わらず強く、視界は しかし運転手の予言は的中し、雪はや なく砂が入ってくる。走ってレストラン 入ろうと車を出たが、目、鼻、口に容赦 嵐はおさまらない。近くのレストランに 昼にウンドゥルハーンに着いたが、砂 着を重ね着する。 ちがいなく零下だ。防寒着を取り出 そしてすこし薄暗くなった。砂嵐の中に に逃げ込み、食事をしている間に、砂嵐 出発の朝、六時に起床。かなり寒 しやすいところに移したり、機器類 入り込んだようだ。モンゴルは厳しい内 ■モンゴルの四季 なり冷え込んできて、吐く息が白く、窓 が、とにかく行ってみようというこ ことがわかった。日程調整を試みた 皮を剝ぐのは春の四月下旬だという ダル村というところにいること、樹 県のバヤンオール村とヘンティー県のダ にでもブリヤートの所へ行くべきであっ で器などを製作して生活に利用すること いるうちに出発の時間になった。 ■吹雪がやみ、砂嵐が起こりはじめた。 のパッキングを厳重にするなどして のんびり雲|第2号| 2008 43 昨年はモンゴル国の西部と中部、中国新 ■出発直前の横殴りの雪。ちょうど小やみになったところ。 や 畜 舎 の 冬 支 度 の た め に、 牧民は、冬のあいだの飼料 で下がる。八月くらいから、 十二月には零下三十度にま 気 温 が 零 下 に な り は じ め、 月くらいから降雪があり 牧畜を営む牧民たちにとっても、そして ンゴル人、とくに荒々しい自然のなかで ろっていく。一方、モンゴルの春は、モ い。徐々に陽光が強くなり、深緑へと移 を引きずりながらも何とはなしに心が軽 新緑が次第に濃くなっていく。冬の疲れ 日に日に暖かさが増し、やがて桜が咲き、 家畜にとっても、一番つらい時期かもし 草をせっせと刈り備える。 モ ン ゴ ル 人 が 飼 う ウ マ、 保存〟されている秋の草も りはじめた雪の下で〝冷凍 も食べるが、秋のうちに降 ギは、冬は黄色くなった草 大きさの雹になるときもある。あるいは、 れば吹雪になる。野球のボールくらいの る。これが時に雪になり、強風と合わさ 雪解けにつれて水分が大気に提供され 昇気流が発生して風が吹きはじめ、春の 天候が不安定なのだ。三月中旬から上 れない。 自分の蹄で掘り出して食べ 強風が乾いた地表面の砂を巻き上げて砂 ウシ、ラクダ、ヒツジ、ヤ ることができる。刈った草 嵐になる。しかも草原は乾き、場合によっ 境方面を目指して進めるところまで進む こから道を北北東に転じ、ロシアとの国 がおさまった。暖かくなりはじめた。こ 会話が印象的だった。 一枚だ。暑いらしい。その時に交わした 寒い。運転手は相変わらず半袖Tシャツ だが、トイレ休憩のために車外に出ると に手を伸ばす。気温だけなら日本の初夏 合 に 有 効 に は た ら く。 い う ま で も な く、 充しなければならない事情が発生した場 など、何らかの事情で人為的に飼料を補 放って自然の草を食わせるのが危険な時 が荒れているため家畜を畜舎から草原に 雪をかいて草を食べられない時や、天気 る人と家畜に、ある時には吹雪や雹、砂 としている。モンゴルの春は、疲れてい 厳冬期を過ごした家畜の全てが体力を落 りの子家畜に限らず、貧弱な草でもって は子家畜の世話で忙しい。生まれたばか 春は家畜の出産シーズンであり、牧民 ひづめ ももちろん通常の冬の飼料 予定である。 運転手「モンゴルの春には四季が全部あ こうした事情がよく発生するから草を刈 嵐を、冬の寒さと夏の暑さを容赦なく見 ひょう だが、大雪のために家畜が 車内の温度が上昇をはじめる。着込んで るって、ちょっと前にいっしょに旅行 り貯めるのである。モンゴルの冬は、少 ては野火に見舞われる。 いた防寒着を一枚一枚脱いで、日本の春 した日本の学者が言ってたが、たしか ようやく視界が開けてきた。と同時に、 に身につける程度の服装になっても、ま 舞うのである。この厳しい春を乗り切っ る。 氷点下になる野外でのキャンプにならず がホテルがある。正直なところ、朝晩は ととした。ありがたいことにオンボロだ 手前のノロブリンという村で宿泊するこ この日は目的地には到達できず、その てこそ迎えられる夏ということでもあ が 春 だ。 日 本 で な ら ば、 春 一 番 が 吹 き、 そのような冬が終わってやってくるの ■厳しい春 る。 る知恵があってはじめて、人畜そろって しでも寒さや雪を避けて自然災害に備え ろでした?」 運転手「さっきの砂嵐の時くらいだ」 わたし「たしかに、砂嵐にあうとモンゴ 無事に乗り切れる。そういう厳しさがあ にそうだ。今の暑さは夏だ」 入ってくるので、開けない方がいい。隣 の運転手はもう半袖Tシャツ一枚になっ ている。 温度計を見ると二十八度になってい して冬への移り変わりがかなり早い。九 モンゴルでは、夏の終わりから秋、そ ルの春という感じがしますね」 のせいで喉が渇く。ミネラルウォーター ない。汗もかかない。しかし暑さと乾燥 る。乾燥しているから蒸し暑いわけでは わたし「運転手さんの今日の春はいつご だ 暑 く 感 じ る。 車 窓 を 開 け る と 砂 埃 が ■ ( 上段 ) バヤンオール村の 「森の老人」が白樺樹皮の器を作って くれた。( 下段)バヤンオール村の白樺の森。右から2番目が器の 作者、右端が筆者。 44 に一同ほっとしたが、夜はとても冷え込 見ていた製作の手順を思い出して作りは ば草原に花が咲き乱れる。青い空、 しいところである。夏が近くなれ せた。娘らによく聞いてみると、何でも 作ることには全く興味はない、と説き伏 しか得ていなかった樹皮からの薬 なかった。しかし、断片的な情報 程はやはり時期が早く、実見でき ここでも樹皮剝離と用材加工の過 統 的 技 法 を 確 実 に 継 承 し て い た。 代を生きようとする若い職人が伝 的木工技術をもって市場経済の時 が白樺樹皮のことを記憶し、伝統 として高位の官僚を歴任した老人 て知られた老人や地元のエリート ここでは、国内屈指の狩人とし 入ってくるはずだ。 雲、鏡のような湖が視界に一気に 緑の草原、色とりどりの花、白い じめたのだという。 んできた。老人の技術を盗み取ろうとし と、老人の娘二人が血相を変えて飛び込 製作過程を写真やビデオに収めている んだ。冬山用のシュラフザックを準備し てきてよかった。 ■樹皮の器を作る老人 か と は 思 え な い と こ ろ だ。 わ れ わ れ は、 ウランバートルから商売人が来て、モン ているのではないか、これ以上の取材は 事前に調べておいた老人を訪ね、こちら ゴルの自然素材でできた器としてパテン 翌日は午前中にドルノド県のバヤン の 用 向 き を 伝 え る と 快 く 応 対 し て く れ、 トの取得を持ちかけたのだそうだ。今の やめろ、とすごい剣幕だ。こちらは、白 物置から樹皮をもってきて、さっそく作 樺樹皮の加工技術の研究が目的で、器を 成に取りかかった。老人はもともとはエ と こ ろ は 受 注 生 産 対 応 だ が、 こ の ブ リ の特徴もない寒村という感じのする、豊 ンジニアであって、樹皮で器物製作をは ヤートの寒村では、老人だけが持つ技術 オール村に入った。ことばは悪いが、何 じめたのはごく最近とのことであり、昔 は現金収入源として貴重らしく、いま娘 てすでに十年を過ぎた。かつてモンゴル モンゴルが民主化し市場経済に移行し いらしい。雪解けが遅れているというの こと。しかし、今はまだその時期ではな ぷり吸い込んでいる春の数日に限るとの 最盛期に向かっての「再生」としての春 た。毎年必ずやってくる夏という自然の の一週間、常に「再生」を意識させられ 白樺を求めて旅したモンゴル北部の春 で作られた器を入手することができた。 品 採 取 を 実 演 し て も ら う こ と が で き た。 人が生活に利用した白樺樹皮の器は、モ だ。老人はのこぎりを白樺の幹にあてて 物や紙代わりのものの原料として加工す ンゴル北部の「森の古老」が作ったその みたが、樹皮は剝がせるような状態では たちが父親に樹皮器物の製法を学んでい こと自体がモンゴルの草原と森林を反映 を経験したこともさることながら、社会 また、バヤンオール村の古老とは異なる する民族文化資本となり、器は豊かな生 ない。あと数日ここにいるようにいわれ 主義体制の計画経済から自由主義体制の 方法で加工され柔軟性を高めた白樺樹皮 活の実態から切り離されたところに生じ たが、先の予定が詰まっているので、次 市場経済への移行の中で、樹皮利用文化 るかを見ることであった。白樺の樹皮を たもうひとつの価値体系に所属するとい の目的地ヘンティー県のダダル村に向 剝がすのは、白樺が幹に雪解け水をたっ う逆転現象の中にその自己の存在を規定 が、伝統的な民族の物質文化という価値 をこえ、自然の形象そのものと化すこと かった。 後継者が現れたことはよいことだ。 五百円)で買い取り、老人とともに白樺 いわれるところである。草原と森林が入 ダダル村はチンギス・ハーンの生地と ア地域研究センター長) ( い の う え・ お さ む / 島 根 県 立 大 学 北 東 ア ジ て「再生」しつつあることを実感した。 で価値を生じる新たな民族文化資本とし 林 に 入 っ た。 今 回 の 旅 の 最 大 の 目 的 は、 り組み、ところどころに湖がある大変美 ■「再生」の実感 するのである。動機はともかく、技術の る。 ■春の草原。緑がうっすらと「再生」しつつある。 白樺樹皮をどのように剝離し、それを器 のんびり雲|第2号| 2008 45 老人が作った器を五千トゥグリク(約 ■森と湖、空が美しいダダル村。草原はまだ茶色い。 イギリスでみつけた 小さな 出雲 小泉 凡 たが、車内販売の飲み物が清涼感を演出 オックスフォードへ向う三両編成の通 す る。 多 く の 通 勤 客 が 黄 金 色 の ラ ガ ー ド航空)へと乗り継ぎ、ダブリンへ向う ヒースロー・エクスプレスでパディン ビールや琥珀色のエールを楽しみながら 約一年ぶりに、ヒースロー空港に降り トン駅に着いた頃にはあたりはだいぶ 家路に向う。こんな贅沢な風景に感心し 勤列車は、夕方のラッシュアワーにさし 薄 暗 く な っ て い た。 目 的 地 の オ ッ ク ス ていたら、私の席の少し手前でカートが のだが、今回の目的はアイルランド行き フォードには明日の午後に立つ。この旅 空っぽになってしまった。残念ながら味 立った。二〇〇六年六月六日。曇り空だ りだった。いつもなら、パスポートコン の目的は、オックスフォードで小さな「出 覚まで享受することはできなかった。一 かかる時間帯で混雑しており蒸し暑かっ トロールを済ませ、そのまま通路を右奥 雲」に出会うことだ。もっと具体的にい ではない。 へたどり、エア・リンガス(アイルラン えば、ラフカディオ・ハーン(一八五〇 約していた街中の小さなB&Bのうなぎ 時間ほどでオックスフォードに到着。予 一 ―九〇四)が松江滞在中に収集し、オッ クスフォード大学のピット・リヴァーズ の寝床のような細長い部屋に荷物を置い にそなえて早目に床に着いた。 * に入ることにした。 るバラを楽しんでからオックスフォード ガーデン(王立植物園)で見ごろを迎え 十五分ほど。それにしても大学のキャン 町外れにある博物館までは宿から歩いて 図を入手してから、博物館に向う。やや 年で一番よい季節かもしれない。キュー・ 翌朝、書店でオックスフォードの市街 ヨーロッパではこの六月が日も長く、一 翌日は晴れて暑くなった。梅雨がない ふだ 博物館に寄贈した百十五年前の出雲地方 て、パブで軽い食事を済ませてから明日 がうっすらと陽がさすロンドンの昼下が ■オックスフォード大学のキャンパス。 の寺社のお札を調べることにある。 ■ピット・リヴァーズ博物館。 46 はない。館内に入ると、単独の展示ケー ので、展示スペース自体はさして巨大で 建物だが、自然史博物館と共有している ピット・リヴァーズ博物館は、大きな だ。 にある彩りのコントラストが実に鮮やか と花の調和、というよりむしろ緊張関係 パスと住宅街の緑は実に美しい。その緑 されていた。 を伝える四月五日付け手紙が博物館に残 ンが友人のチェンバレンに送付した経緯 一八九一年三月三十一日で、それをハー る。 こ の 火 鑽 が 西 田 宅 に 到 着 し た の が 介し宮司の許可を得て送付したものであ が島根県尋常中学校の西田千太郎教頭を の古伝新嘗祭に使われたもので、ハーン には、感動の余り胸 ている火鑽を見た時 立つ場所に展示され ズ)博物館の最も目 ( ピ ッ ト・ リ ヴ ァ ー もオックスフォード ンの言葉通り、現在 確かにチェンバレ 「建具屋があなたの火鑽のための素敵 があつくなった。 スに出雲大社の古伝新嘗祭・国造火継式 な小箱を作ってくれましたので、それは 一九三五)とは当時 レ ン( 一 八 五 〇 ― さ て、 チ ェ ン バ の時に使う火鑽臼と火鑽杵があるのがす 赤坂台町に速達で送られるでしょう」 帝国大学で言語学を ぐに目にとまった。イギリスで出会った と 火 鑽 を 提 供 す る 熊 野 大 社 と の 関 係 を、 そ の 手 紙 に は、 杵 築 大 社( 出 雲 大 社 ) ひきりきね 最初の「出雲」だ。これは、檜の板にう ひきりうす つぎの棒で摩擦を起こし発火させるもの 日無事届きました。あなたに 「 貴 重 な 火 起 し 錐 は、 一 昨 から礼状が届く。 月二三日付けでチェンバレン とに火鑽は無事届けられ、四 こうしてチェンバレンのも へ と 依 頼 さ れ た 経 緯 が あ る。 し た が っ チェンバレン、チェンバレンからハーン や護符の収集については、タイラーから タイラー(一八三二 一 ―九一七)とも親 しい間柄だったので、出雲地方の宗教具 館長だった、人類学者のエドワード・B・ レンは、当時、ピット・リヴァーズ博物 交流した人物のひとりである。チェンバ いる。 なお、現在の収蔵品数は百万点に達して 贈 し た こ と に よ っ て 基 盤 が つ く ら れ た。 一八八四年にオックスフォード大学に寄 (一八二七 ― 一 九 〇 〇 ) が、 私 蔵 し て い た世界の人類学的資料一万七千五百点を 古 学 者 で も あ っ た ピ ッ ト・ リ ヴ ァ ー ズ また、この博物館の経緯は、軍人で考 最も古いお札コレクションである。 チェンバレンコレクションはその中でも 講じていたイギリス 心から感謝いたしますととも て、この博物館にある一三二四点の日本 * 今日、神魂神社に行って調べてきたなど に、この感謝の気持ちをどう 学芸員のゼナ・マックグリーヴィさん で、現在でも熊野大社や出雲大社の神事 か、ご親切にもこれを寄贈く の宗教用具のコレクションは「チェンバ の待つ事務所を訪ね、あらかじめ取り出 人の日本学者で、ハーンとは最も親しく ださった方にお伝えいただき レンコレクション」と呼ばれ、そのうち しておいてもらったハーンや出雲地方に という興味深い内容も記されている。 たく思います。この聖なる道 三四九点を護符が占めている。今、世界 ゆかりの深い護符を見せてもらうことに で使用されている。展示品は一八七八年 具は心からなる尊敬をもって は、このほかにジュネーヴの民族学博物 で三大お札コレクションと呼ばれるの え く だ さ い。」(『 ラ フ カ デ ィ すこと、併せて先方様にお伝 心の注意をもって送り届けま フ ラ ン ク に よ る コ レ ク シ ョ ン を 指 す が、 ス日本高等学研究所にあるベルナール・ よるものとパリのコレジュ・ド・フラン 館にあるアンドレ=ルロア・グーランに トアウトしてもらうという作業手順で半 資料をデータベースから検索し、プリン がら撮影を行い、同時にゼナさんに該当 した。白手袋をはめ、一点ずつ確認しな ふだ 博物館の栄えある場所へと細 オ・ハーン著作集』第十四巻) のんびり雲|第2号| 2008 47 取り扱い、オックスフォード ■出雲大社の火鑽臼と火鑽杵。 ■城山稲荷神社の護符。 字 も 図 柄 も み ん な 木 版 刷 り で あ る。「 城 護符も見受けられた。もちろん、護符の 箱玉串という板を紙で包んだ厚みのある し て 現 在 の 護 符 よ り 大 型 の も の が 多 く、 に取りながら、感動が微笑に変わる。概 と出てくる百十五年前の出雲のお札を手 日かけて大方の資料撮影を終えた。次々 の葉に諸国から来訪し 神在祭の期間はご神木 は な い と い う。 た だ、 神木の葉を入れること 与したが、現在ではご 神在祭の期間のみに授 と、このお札はかつて 朝山宮司にうかがう その習俗があったのだろう。博物館に収 風がみられるが、当時は八重垣神社にも めてチェンバレンに送付した際に同封し さらに、ハーンが出雲地方の護符を集 と豊穣を祈る呪物で、当時、多くの山陰 社に参詣し、授与してもらう農耕の安全 だ。関札とは田植えの終了時期に美保神 とある。いわゆる関札を送付しているの 神社、須衛都久神社、賣布神社、安楽寺 は出雲の護符が雑然と入っていた。春日 もりだったが、まだまだ引き出しの中に 要なものはほぼ昨日、別室で撮影したつ ある大きな引き出しを見せてもらう。主 翌日は、博物館の展示ケースの下部に * は翌日に回すことにした。 リスの流儀にのっとって遣り残した撮影 なければならない。当然、こちらもイギ であっても、五時前には仕事を切り上げ るということはない。いくら作業の途中 て日本のように学芸員が日常的に残業す ありがたいサービスである。でも、決し で「リサーチ・ヴィジター」に提供される。 のコピーも、イギリスでは基本的に無料 データベースのプリントアウトも資料 雲地方の民間伝承の記録でもある。 められた五通の手紙は明治二十年代の出 山稲荷神社」は「城内稲荷神社」と書か の「八百萬大神御玉串」と書かれた逆三 た資料解説的内容の知られざる書簡が五 地方の人々はこれを矢に取り付けて畦に た神々が宿るので、そ 角形のお札にはご神木の杉の葉が入って 通 見 つ か り、 ゼ ナ さ ん が す べ て コ ピ ー れていたり、美保神社や佐太神社の「牛 いた。一般に、逆三角形で中に榊や米な を と っ て く れ た。 帰 国 後 に 訳 し て み る の重みで垂れ下がると どの呪物を入れた護符は江戸時代のもの たてた。美保神社の講員も十万人いたと 馬安全守護」の護符があったり、現在と 招くという信仰をもっているからです」 に多いようだ。お札の起源説には「固有 と、いずれもハーンの出雲の文化資源へ いう。入手に困難を伴ったことは人々の いう伝承のみが残って 信仰」「道教の霊印」「平安時代の仏教行 の暖かく好奇心に満ちたまなざしを感じ ナイーヴで厚い信仰を物語る。 いるそうだ。 事」説などがあるが、この佐太神社の護 るものだった。たとえば、一八九一年九 また、一八九一年四月五日付けの長大 は神社の名称や祈願内容も違っているこ 符は固有信仰にもとづくきわめて古い形 月二七日付けの書簡には「私は汚れた紙 せきふだ 式のものだといえよう。帰国後に同社の ……、おもに松江市内の神社の護符が見 いったもので満ちて 雲の地はどこもそう し ょ う。( 中 略 ) 出 あなたは祈願の ―― 矢だと認知されるで 神社には竹筒を奉納する習慣はみられな たことが明らかになった。現在の八重垣 入手し護符とともにチェンバレンに送っ ハーンは八重垣神社に奉納された竹筒を ぬ 日 本 の 面 影 』 所 収 )」 と 照 合 す る と、 そ の 内 容 を 作 品「 八 重 垣 神 社(『 知 ら れ は、帰国後数ヶ月もしてからのことだっ つる「津田明神」のことだとわかったの つかった。安楽寺のお札には「西津田村」 いますが、それを得 法要に際し、海水を竹筒に汲み、ホンダ て お 送 り し ま し た。 ( 武 内 神 社・ 真 名 井 神 社・ 六 所 神 社・ 神 るのは難しい仕事で ワラという海草とともに神社に奉納する の護符類は以下の通りである。 結局、今回の調査旅行で確認できた出雲 いては、八割方は見つけたつもりである。 去る時が来た。しかし、出雲の護符につ チしかできぬままにオックスフォードを 瞬く間に時間がたち、不完全なリサー た。 した。 ―― 農民たち は田畑からそれを持 いが、佐太神社などでは、現在でも年忌 ち去ることは悪運を と書いてあったが、これが鬼子母神をま な書簡では八重垣神社や意宇郡の神社 とが新鮮に感じられた。中でも佐太神社 ■八重垣神社の護符。 魂 神 社 ) を 訪 ね た 印 象 を 記 し て い る が、 と竹の棒を小包にし ■佐太神社の護符。 48 寺社別の内訳は、安楽寺(松江市/1) ・ 出 雲 大 社( 出 雲 市 /5)・ 一 畑 薬 師( 出 雲市/3)・佐太神社(松江市/5)・城 内( 城 山 ) 稲 荷 神 社( 松 江 市 /7)・ 須 衛都久神社(松江市/1) ・武内神社(松 江 市 /1)・ 玉 若 酢 神 社( 隠 岐 の 島 町 / 社( 松 江 市 /1)・ 美 保 神 社( 松 江 市 / 2)・日御碕神社(出雲市/2)・賣布神 の歩みの第一号となった」 の寺社を巡って護符を収集し、日本の民 以後、フランクはみずから、二千以上 中 国 の 護 符 も、 研究者によって 間信仰と仏教教義との融合について研究 おもに西洋人の 明らかにされて し、「お札博士」と呼ばれるようになった。 ひととおりの目的を終えた三日目の夕 きたという経緯 呪物であるゆえ 方、博物館に別れを告げた。夕方といえ オックスフォードの小さな「出雲」は、 に客観化しにくかったという理由ではな どもまだまだ日差しがきつい。街中の古 があり、それは いかといわれている。 日本では看過される傾向の強かった護符 け入れていること、アニミズム(精霊信 じ っ さ い、 ハ ー ン の お 札 収 集 は、 ベ 研究の限りない可能性を孕む卵なのかも 仰)に関心があったこと、また自分と同 日本人や中国人 在地と点数)である。データベースに記 じようにカリブ海での強烈な異文化体験 にとって護符は 載されていない資料として「春日神社御 ル ナ ー ル・ フ ラ ン ク( 一 九 二 七 しれない。 守」と「松江紙屋町延壽院、隠岐國峯山 によって、人類学者の道を歩み始めたこ あまりに身近な 地 蔵 院 」 と 記 さ れ た 護 符 が み つ か っ た。 となど、共感する生き方があったからだ 一九九六 と ) いうフランス人の仏教学者 に大きな影響を与えた。フランクは、「ラ 3) ・八重垣神社(松江市/9) ・不明(3) さらに、もう二十点ほどの出雲地方の護 ろう。事実、ハーンは「タイラー博士の フカディオ・ハーンを通じて私は日 め て チ ェ ン バ レ ン( オ ッ ク ス フ ォ ー な ぜ、 ハ ー ン は こ れ だ け の 資 料 を 集 をもっているのではないか。お札は国の 類は出雲の文化資源としての一定の価値 さて、ハーンが出雲地方で集めた護符 * の護符収集を行った。一九五四年五 羅 』) と 述 べ、 自 ら も 来 日 し て 寺 社 そのままの、生きた宗教をみること 着いて実際に信心、実践されていた 出雲やその他の地方で、神道と結び あったにもかかわらず、その時代に (計四三点、以上五十音順、( )内は所 符が未発掘の引き出しに見受けられたの お役に立てれば光栄だ」と認めた手紙を 本を知った時、神仏分離政策の後で 自 身 が 護 符 の「 熱 心 な 収 集 家( devout 文化財になるような資料ではないが、民 衆のもっとも身近な呪物として生活慣行 ド ) に 送 っ た の か。 そ れ は 第 一 に 自 分 の中に息づいてきた文化資源である。毎 月の来日早々に、上野清水寺ではじ あ る『 原 始 文 化 』( 一 八 七 一 年 初 版 ) の も増えているため、護符は小型化・薄型 与、また神社からお札を郵送するケース の弟子を任ずる私は勇んでそれを求 してそこにはお札があって、ハーン に 上 野 清 水 寺 が あ っ た。( 中 略 ) そ 「 …… 対 岸 の 丘 の 階 段 を 登 っ た 所 (こいずみ・ぼん/民俗学) ― エールを、再訪を願って味わった。 風なパブであまり冷えていない地元の で、全体で約六十数点~七十点の護符を 松江からチェンバレンに送っている。 )」 を 自 認 し て い た こ と、 そ し collector て護符を大切なフォークロアだと認識し 年更新するものなので、発行者である神 めて護符を求めた時のことを同書で したた ハーンが松江時代に収集したものとみら ていたからだろう。また、もうひとつの 社側も一般に保存することはない。そし 次のように述懐している。 一 八 九 一 年 版 を 愛 蔵 し、 精 読 し て い た。 化が進み、形態も祈願内容もかなり変化 めた。それが私の長いコレクション れる。 理由は、当時のピット・リヴァーズ博物 の増加、奉整業者(護符作製業者)の関 て、近年、神棚の小型化や神棚のない家 タイラーがハーンの傾倒するハーバー しているからだ。そもそも日本の護符も ■ピット・リヴァーズ博物館の館内。 を学んだのである」(『日本仏教曼荼 と だ。 ハ ー ン は、 タ イ ラ ー の 代 表 作 で 館長のタイラーをとても敬愛していたこ ト・スペンサーの社会進化の考え方を受 のんびり雲|第2号| 2008 49 ■安楽寺(津田明神)の護符。 ASEAN の仲間たち 「東南アジア青年の船」体験レポート 白岩朋子 間程度、船内で共同生活をしながら、A SEAN加盟国五カ国を船に乗って訪問 します。 ◆青年の船にあこがれて 帰国報告会でした。今でもそのときに受 船との出会いは、高校三年生のときの けた衝撃は忘れられません。話を聞いて いる間、鼓動は高鳴り、その日以来、し ばらくそのことばかりを考えていまし た。あれは、まさに恋をした瞬間のよう ネ ッ ト ワ ー ク と い う サ ー ク ル に 所 属 し、 そ れ か ら 短 大 に 入 学 し、 多 文 化 共 生 て、グループで行動します。試験内容は、 者は、四~六人程度の少人数に分けられ ります。場所は東京で行われます。受験 でした。 リーダーとなって国際交流活動に参加し 面接、グループディスカッション、英会 話です。みんながライバルのはずなのに、 筆 記( 一 般 常 識・ 世 界 情 勢・ 小 論 文 )、 が今まで興味を持っていた多文化共生の お互い助け合ったり、励ましあったりと ていくうちに、船への想いはさらに募っ 現実と可能性を直接見て、肌で感じ、考 ていきました。東南アジアの国々で、私 刊準備号で「マイ・オージー体験記」を 二次試験を突破した約四十人の青年は 和気あいあいとした雰囲気でした。今考 よ く、「 ど う や っ た ら( 船 に ) 参 加 で 選考試験の最終段階、一週間の事前研修 えたいと思うようになり、また、参加青 きるの?」と聞かれます。船に参加する に参加します。この最終日にめでたく参 執 筆 さ せ て も ら い ま し た 白 岩 朋 子 で す。 た め に は、 い く つ か の 試 験 を 受 け ま す。 加青年として国から認めていただきま えると、この頃からみんな協調性に富ん ここで大切なのは、自分の気持ちを素直 要はありません。まず、一次試験は都道 府県別に行われます。内容は都道府県に よって異なりますが、私が受けた高知県 では、作文などを提出し、試験当日は面 接と英会話試験を受けました。 一次試験を通ると、次は二次試験とな た。私が目標の一つとしていた多文化共 と、そこはまさに多文化共生の縮図でし 各国の参加青年と出会って、船に乗る 二〇〇七年十月二十三日~十二月十二日 ―― ◆イザッ! 出港! す。 年とのディスカッションにも魅力を感 二〇〇七年にここの短大を卒業して、現 在は高知大学四回生です。今回は、私が 高校生の時から参加を熱望してきた「東 南アジア青年の船」の体験をレポートさ せていただきます。 「東南アジア青年の船」と聞いて皆さ んは、どういったものをイメージします か? よく「ピースボート?」と聞かれ るのですが、違います。これは、内閣府 の青年国際交流事業の一環として行われ ているプログラムです。日本青年約四十 人とASEAN十カ国の青年約三百人の 合計約三百四十人の青年たちが、五十日 に伝えること。なので、難しく考える必 でいたように感じます。 みなさん、こんにちは! そして、お ■デッキで行った運動会 “SSEAYP リンピック"。 じ、応募を決意しました。 久 し ぶ り で す。 私 は、『 の ん び り 雲 』 創 ■青年の船『にっぽん丸』。 50 スカッション、各国事情の紹介、クラブ ばかりでした。船内では英語によるディ て宗教……すべてが新鮮で興味深いもの ました。民族、文化、言語、習慣、そし 生を肌で感じることは、すぐに実現され はこのように多くのことを学びました。 ことを学びました。食事からでさえ、私 多文化共生には必要なことなのだという や ら れ て い ま し た。 こ う い っ た 配 慮 も、 の人々に配慮して、人気のない所に追い してありました。特に豚肉はイスラム教 残ったマレーシア 滞在中最も印象に た。ここでは特に、 貴重な経験でし てかけがえのない 一日が、私にとっ 在したのは四日間 マレーシアに滞 ます。 紹介しようと思い でのエピソードを 活動、スポーツ交流などを行い、訪問国 さて、このビュッフェ形式のごはん 参加青年からも評判が高く、知らない間 では、その国の青年たちとの交流、ホー ムステイ、ボランティア活動、各種施設 に体重が数キロ増加なんてこともよく聞 かれました。腕利きのシェフが作るごは の訪問などを行います。 船では、みんなが同じ屋根の下、同じ んは本当に美味しかった~☆ テイ家族と初めて でした。ホームス 釜の飯を食べます。しかし、全ての食事 加」というテーマのもと、八つのグルー 面会する式で、か デ ィ ス カ ッ シ ョ ン は、「 青 年 の 社 会 参 プ に 分 か れ て 行 い ま し た。 教 育、 環 境、 わいい子ども達が私たちの所に走り寄っ ステイ中は彼らに、美術館やお寺、歴 はビュッフェ形式です。なぜならば、日 異文化理解などのうち、私は「伝統文化」 てきて、手を取ってお父さんの所まで連 史的な建造物などに連れて行ってもらい 本や東南アジアの国々には多くの宗教が 存在しており、それぞれ食べてはいけな についてディスカッションしました。最 れ て 行 っ て く れ ま し た。 私 が お 世 話 に を学びました。 い物が違うからなのです。よくメニュー 初は、英語がよく聞き取れず、言い のそばには などの表示が BEEF や PORK 今の私たちにできることは何なのか の現状を話し合い、共に悩み、考え、 取り入れて息抜きもしながら、各国 には、各国の伝統的な子ども遊びを で、乗り越えられたと思います。時 努力したり、理解しようとすること た。しかし、お互いに、伝えようと ただただ悔しい思いをしていまし た い こ と も う ま く 伝 え き れ な く て、 国から来た私を三日間、大きな笑顔で包 らったわけではありません。しかし、異 たれました。決して贅沢なことをしても 心がこもった温かいもてなしに、心を打 せんでした。しかし、私はファミリーの 語が理解できず、ほとんど言葉が通じま ませんでした。滞在中、彼らはあまり英 る仕草一つひとつが可愛くて仕方あり くれていて、そのホスピタリティあふれ は、私たちの到着を心から楽しみにして かな家庭。両親をはじめ、特に子ども達 なった家庭は、両親と子ども四人の賑や を象徴しているようでした。 合 し、 マ レ ー シ ア の「 多 文 化 共 生 社 会 」 の建物は何の違和感も衝突もなく町に融 ことに驚きを隠せませんでした。それら 争いの原因になることなく存在している 起きているのに、そこでは様々な宗教が いました。世界では宗教が原因の戦争が お寺やインドのお寺が並んで軒を連ねて そこには、イスラム教のモスク、中国の モニーストリート」と呼ばれる場所です。 ました。中でも印象的だったのは「ハー しました。各国で国賓レベルの歓迎 マレーシア、タイ、ベトナムに寄港 なし」とは、贅を尽くすことではなく、「笑 いっぱいです。本当の、豊かな「おもて んでくれたファミリーに感謝の気持ちで ちがよく口にしていたのは「大切なのは、 全部で五十三日間でした。しかし、私た 船のプログラムは事後研修を合わせて 真剣に話し合いました。 てからシンガポール、インドネシア、 を受け、表敬訪問やホームステイを 顔」で受け入れることなんだということ ◆船を降りても活動は続く 経験しました。そのどれもが、一日 のんびり雲|第2号| 2008 ■マレーシアでお世話になったホストファミリーの子 どもたち。後ろ 2 人が参加青年(カンボジア、日本)。 51 !! 私の参加した年は、横浜を出港し ■キャビンメイト――インドネシア、ミャンマーの参加青年と。 きました。 会場でも大盛況のうちに終えることがで に助けられ、仲間とも励ましあい、どの このような活動を「楽しんで」やってい の大きな魅力だと思います。これからも す。信じられないことですが、これも船 動するさまざまな機会を与えられていま す! たち既参加青年が全力でサポートしま がり」を担う仲間になりませんか? 私 けません。あなたも、この豊かな「つな は、もう「世界」と無関係には生きてい 事後活動は報告会だけではありませ きます! ん。なんと、こんな私に講演依頼まで来 プレゼンテーションした思い出は宝物で ポイントを使い、緊張しながら一生懸命 向けに講演を依頼されたのです。パワー りた今でも、まだまだ続いています。私 で書いてきたように、私の活動は船を下 組織)のキャッチフレーズです。ここま 右のタイトルは、IYEO(事後活動 ◆あなたも「世界」を語る「仲間」 になりませんか? くださったすべての方々に感謝の気持ち めに、繋がり続けていくのです。支えて でつながった日本 ― 東南アジアの青年 は、これからも、各国の懸け橋となるた 鳥 取 と 大 阪 で も 行 い ま し た。 も ち ろ ん、 ながり」を通してこのように精力的に活 んでした。しかし参加後には、船での「つ 執筆を依頼されるようなことはありませ 一瞬が、かけがえのない思い出です。船 は本当に夢のような時空間でした。一瞬 す。なんとこれだけではなく、取材依頼 を忘れずに、この経験をもっと多くの方 もう一度ここで船を振り返ると、あれ や執筆依頼もありました。「高知大学キャ だ け で な く、 多 く の 既 参 加 青 年 た ち が、 に伝えつづけていきたいと思います。 の時間に、既参加青年として、新一回生 ンパスニュース」の取材を受けただけで ずっとずっと、日本と東南アジアの「つ て し ま い ま し た。 高 知 大 学 の「 大 学 学 」 はなく、この『のんびり雲』の執筆依頼 度の東南アジア青年の船の地方プログラ ( し ら い わ・ と も こ / 二 〇 〇 七 年 英 文 専 攻 卒 ム受け入れスタッフとして活動していま な が り 」 を 維 持 し、 新 た な「 つ な が り 」 私たちは、船で貴重な経験をさせてもら す。 高 知 事 後 活 動 組 織( 高 知I Y E O ) も頂きました。 いました。ここで学んだことや、ここで において、事務局長として、そして受け 業、現在高知大学人文学部国際社会コミュニ 得た「つながり」を自分たちだけのもの 入れスタッフとして、参加青年をサポー ケーション学科四年生) にせず、終わりにせず、社会の多くの人々 ト し て い ま す。 去 年 の プ ロ グ ラ ム 中 は、 を 求 め な が ら 活 動 を 続 け て い ま す。 グ に伝えていきたいという思いが膨らんで ローバル化が進む社会を生きる私たち いきました。私も含め多くの既参加青年 多くの方々が私たちをサポートしてくれ う仕事もあります。私は今、平成二十年 は、プログラムが終わった後でも精力的 たからこそ、大成功のうちに終えること 事後活動には、受け入れスタッフとい に「事後活動」を行っています。ここで ができました。そのときの感謝の気持ち が私の今の目標です。 力になっていきたいと思うのです。それ を忘れずに、今度はサポート側の立場で は、私の活動の紹介をしていきたいと思 います。 まずは帰国報告会! 事業の一環とし て行われる帰国報告会はもちろん、それ 企画から運営まで全てオリジナル! 分 と は 別 に、 仲 間 た ち と 一 緒 に 自 主 的 に、 船に参加するまでの私は、講演や取材、 からないことだらけでしたが、先輩たち ■(上段)クラブ活動の時間に茶道を紹介。(下段)お別れ。 出港の際にホストファミリーにテープを投げます。毎回、涙 で前が見えません。 船 を お り て か ら!」 と い う こ と で し た。 ■ベトナムでお世話になったホストファミリー(左 3 人)と、 右から日本(私)、マレーシア、シンガポールの参加青年。 52 松江市内。地下に埋まった箱の中で響 く 轟 音。 ぎ ゅ う ぎ ゅ う に 詰 ま っ た フ ァ ンたちの前でパフォーマンスをするの は、 Sup e 。 一 九 九 五 年 に 結 成 し、 二〇〇三年に現在のメンバーでの活動を 松江市出身である。 バー五人のうち三人 Ta ke s h ―― i 、Ry o Z、Toru ―― は、島根県 今回は、Ta kes hi さんとRy o Zさんの二人に話を聞いた。 宇山愛花 始めた。彼らの普段の活動の場はアメリ メ リ カ。「 英 語 の 歌 詞 で パ フ ォ ー マ ン ス をするのだから、アメリカでやるのが普 通だろう」というのが彼らの考えである。 日本にもロックバンドはたくさん存在す る。しかし、英語の響きがカッコイイか らという理由だけでやっていたり、文法 がめちゃくちゃな歌詞のバンドも多いの だそうだ。「カッコよさプラス、メッセー の伝わる場所 Sup e の 活 動 の 場 は 主 に ア メ リ カ。 何故、日本ではなくアメリカでの活動な う。 ジを伝えたい」ならばアメリカ ―― 言葉 でやってみるべきだろ ―― のだろうか? Supe リ カ で の 二 週 間 の ツ ア ー に 参 加 し、「 ア 高校生の頃からの憧れでもあったアメ メリカでロックを」という思いは更に強 くなった。アメリカでのライブは、日本 のそれとは違い、生活と一体となってい る。日本人なら「仕事帰りに一杯」とい に行き、また、午後のひと時にプラスア う感覚で、アメリカ人はライブスペース ル フ ァ で 音 楽 が 入 る。 ラ イ ブ の ス ペ ー ス が あ る レ ス ト ラ ン や カ フ ェ 等 も 多 く、 ロックに限らずアーティストの表現の場 がたくさんある。また、ロックを楽しむ 年齢層も幅広く、年配の方も一緒に楽し んでいる。七十代くらいの方に褒められ た と き に は「 純 粋 に 感 動 」 し た と い う。 いろいろな人に褒められ、評価されるこ とで、自信がつき、まわりに育てられて いることが実感できるのだそうだ。 アメリカは……とにかく「でかい」 「 日 本 と ア メ リ カ の ギ ャ ッ プ は?」 と 尋 ね れ ば、「 で か い 」 の 一 言。 国 も 人 も のんびり雲|第2号| 2008 53 「きっかけ」と「答え」が同じ場所 にあった 松江のエネルギー を世界へ まず第一に、ロックの本場はやはりア ▪松江出身 3/5 ロックバンド カ。 一 台 の 車 で 寝 泊 り し な が ら 移 動 し、 あちこちでライブをしている。そのメン ■ 2008 年 4 月 20 日、 松江でのライブ。 ティー(出演料)がもらえ、また日本の くても、アマチュアバンドでもギャラン ハングリー精神が旺盛である。有名でな ある。皆がプライドを持っていて、また 動するような、タフなバンドがたくさん 思うと高いため、巻き寿司を作って振る ともある。アメリカで寿司を食べようと なく、お返しに日本食を作ってあげるこ いことだ。食事は、ご馳走になるだけで 入らせてもらえるというのはとても嬉し が、 十 個 で 一 ド ル だ と い う ア メ リ カ の ラーメンはよく買い置きをするそうだ パーでよく買い物をする。インスタント スーパーが各地にあり、そういったスー しているため、それぞれの民族に合った あちこちでそうやって声をかけてもら 価格が高いのだそうだ。買い物は、それ は、やはり日本のそれとは違 maruchan う。韓国のものは美味しくて口に合うが、 い、各地に友人ができ、 また「家族がいっ ぞれのポケットマネーを使用し、出演料 舞うと喜ばれるのだそうだ。 捌くこともしないため、それぞれのバン ぱい」いるようだという。そうやって誘っ や物販での売り上げ等は使わない。 味 料 は 日 本 か ら 持 っ て 行 く も の も あ る。 買い物は現地のスーパーでするが、調 とが大きな一歩になる。褒めてくれてい う。アメリカ人と同じ食生活では、身体 ても、やはり日本人の体には日本食が合 文化の違い。どれだけ長くアメリカにい では、会話ができない。まずは、“ Pardon ”( も う 一 度 言 っ て く だ さ い ) と、 小さいストレスから徹底的に排除 me? 相手の言葉を聞こうとするようになるこ アメリカでの生活で一番困ったのは食 言う。Ta ke Ry o Zさんは 「シェフ」だと s hi さんは 作 る Ta ke 分する。例外的に、カレーやシチューな 飯は共同で炊くが、それもきっちり五等 から調理まで各自がそれぞれで行う。ご また、食事によ る」こともある。 バー相手に「売 らの料理をメン けでなく、それ 大体十八時~二十二時程度であるのに対 ライブを行っている時間も、日本では 予定が無ければ、布団と枕を抱えてお邪 と誘われることもよくあるそうだ。次の れ る。 そ れ だ け で な く、「 う ち に 来 い 」 れるほど多種多様な民族が混在して暮ら 魔する。車で生活している彼らにとって、 アメリカは人種のサラダボウルと言わ あるそうだ。 いて湯を沸かしたり、調理をすることも が無いときなどは、車のバッテリーを用 をしっかり摂る ないため、野菜 わなければなら も自分たちで行 る体調管理など 54 ■アメリカでの移動はこの車で。 バンドのように、自分たちでチケットを ドがプロ意識を持って活動している。 てもらったときに遠慮をしていては自分 たちが損をする。甘えられるところは甘 コトバは大きな壁だった え、そのぶん自分たちは、他の何かで返 調味料にはTa kes hiさんが一番こ 初めはなかなかコミュニケーションがと すのだ。その「何か」が、彼らの場合は だわっているそうだ。自ら持参した調味 会話は五年で困らなくなった。しかし、 音楽だった。 る相手の言葉がわからない、相手の「よ がおかしくなってしまうのだそうだ。そ 自分で食べるだ s h i さ ん は、 料で酢豚や、肉じゃが、豚の角煮、マー かったよ」という言葉を聞きたい、聞い のため、炊飯器を持ち歩き、一日に一食 れ な か っ た そ う だ。“ I donʼt know ”わ ( かりません と ) いう言葉で逃げてばかり 建物も、とにかくでかいのだそうだ。ま て、「 あ り が と う 」 と 応 え た い 思 い で、 は必ずご飯を食べる。食事は、食材調達 どはバンドのお金で購入し全員分まとめ ボー豆腐なども た、 日 本 で ラ イ ブ を す る 際 に は 設 備 が “ I donʼt know ”から “ Pardon me? ”に変 わった。 アメリカでの活動を通して、たくさん て作ることもあるそうだ。泊まるところ が、アメリカではライブハウスに機材が の出会いがあったそうだ。ライブを終え 無かったり、準備、セッティングから自 が無くても、悪くても、環境に関係なく ると、よかったよかったと、声をかけら してアメリカでは二十時~二時頃と、夜 家の中で寝られるだけでなく、風呂にも のである。 分たちで行ったりするのだそうだ。設備 楽しめる。人々が楽しみ方を知っている 次のライブ会場まで十七時間もかけて移 中 ま で 行 っ て い る。 ラ イ ブ が 終 わ る と、 ひとつひとつがステキな出会い 整っているのが当たり前になっている ■取材中の Takeshi さん(左)と RyoZ さん(右)。 前は、自分たちで車を買い、壊れたら修 イトをしている間の方が、ストレスを感 恐怖体験は、フリーウェイを走っていた 荒らしも頻繁にあるのだそうだ。一番の 声が当たり前のように聞こえたり、車上 アメリカは銃社会。場所によっては銃 間~十日ほど滞在する。 る。テキサスを中心に一カ所あたり一週 ション。交代で睡眠をとりながら移動す 保 で き る。 移 動 の 際 の 運 転 は ロ ー テ ー うじてメンバーが横になるスペースが確 車の中は私物と機材でパンパン。かろ 買ってもらうことができたのだそうだ。 で 後 援 会 を 作 っ て も ら い、 新 し い 車 を て 扱 っ て く れ た こ と も あ る の だ そ う だ。 て「トリ」を務めるアーティスト)とし ストが合同で行うコンサートなどにおい p e をヘッドライナー(複数のアーティ してくれる。日本人のバンドであるSu キサスの人々は人柄がよく、特に親切に スが一番馴染める場所なのだそうだ。テ ジではなく、今まで行った中ではテキサ う。北の方はあまりロックを好むイメー で い る 人 の 人 種 が 違 い、 好 む 音 楽 も 違 数が多いのはテキサス。州によって住ん 行ったことがある。その中でも、行く回 ア ー を 行 い、 こ れ ま で に 十 三、四 の 州 に Sup e は ア メ リ カ 南 部 を 中 心 に ツ 幻想的で、嫁ヶ島は神秘的。城があるっ くちゃきれい」と、まず一言。宍道湖は 尋ねれば、 Ta kes hiさんは「めちゃ ンドのようなもの。松江をどう思うかと 彼ら五人にとっては松江がホームグラウ い た。 残 り の 三 人 は 松 江 の 出 身 で あ り、 ドネシア、シンガポールなどに在住して Ki hiro は、アメリカやタイ、イン Sup e のメンバーのうち、ARIと と速くなるだろう。 たいことが見えているこれからは、もっ てからは、時間が過ぎるのが速く、やり あっという間に過ぎる。アメリカに行っ とかする」ものなのだそうだ。 おしまいであり、風邪は「ひく前になん 金銭面もきっちりしておかなければケン カ の 種 に な る。「 仲 間 」 で あ る と 同 時 に 個々の個人なのだから、共同生活をして い れ ば 衝 突 も 起 こ る。「 長 く 付 き 合 う の だから、くだらないことでケンカはした 松江のエネルギー る こ と が 明 白 だ か ら 楽 し く、 三 カ 月 が ときのこと。誤ってトラックの検査レー このことは、Sup e にとってのひとつ てすごいな、城下町ってすてきだな…… じるという。ツアーに出ている間は、や ン(トラックの荷物検査をするところで、 の大きな出来事であり、ステータスとな テキサスのこと トラック以外は進入禁止)に入ってしま る 出 来 事 だ。「 あ れ 嬉 し か っ た な ー」 と 理しながら活動していた。しかし、日本 い、車を止められ、降りたところで「手 な ど と 松 江 の イ メ ー ジ を 挙 げ、「 島 根 に ことにも気をつけるようにしている。身 食事の面でご飯をきっちり五等分する を 上 げ ろ 」「 後 ろ を 向 け 」 と 銃 を 向 け ら 感慨深げに言うRy o Zさんは、本当に は、 土 地 が 持 っ て る エ ネ ル ギ ー が あ る 」 体が資本である彼らは、病気になったら ほか、お金の貸し借りも基本的にしない。 れたときには本当に恐かったそうだ。 嬉しそうだった。 く な い 」。 そ の た め に は、 小 さ な ス ト レ 息抜きにはどんなことをするのかと尋 という。 スから徹底的に排除するべきなのだ。 の家に泊めてもらう。……そんな話のあ 三人は実家に、他の二人はそれぞれ友人 が そ れ に 近 い の か も し れ な い が、 ア メ と、しめくくりに二人は、 松江に帰って来た際には、松江出身の リ カ で は 息 抜 き は 無 い と い う。 け れ ど、 「助けられてるからねー」 ね て み る と、「 無 い ん じ ゃ な い?」 と い 六月に渡米」といったふうに、資金は日 ショーをして出演料をもらってはいる んじゃない?」 「ここまで助けられてるバンドもいない 「ほんと、厚かましいかぎりだよな」 が、仕事という感覚ではないため、常に で、いわばライブ自体が息抜きなのだそ (うやま・あいか/文化資源学系二年生) と、笑顔で話してくれた。 ることはなく、今、日本にいること、バ アメリカではほとんどストレスを感じ うだ。 好きなことをやっているというイメージ う答え。ショーが終わったあとの飲み会 ■サイン会で子どもたちと。 「二~三月に日本でアルバイトをして、 本でアルバイトをして貯めていた。しか し、デビューが決まり、バンドも軌道に 乗 っ て き た の で 状 況 も 変 わ り つ つ あ り、 これから先どうなっていくのかはわから ない。 車の中は私物と機材でパンパン 彼らのアメリカでの移動手段は車。い ま乗っているのは三代目なのだそう。以 のんびり雲|第2号| 2008 55 ■泊めてもらった家の人たちと。